2021年5月アーカイブ

伊予の松山から土佐の高知へと抜ける土佐街道・土州道、土佐からみれば松山街道と称されるのだが、その土佐街道・松山街道歩くことにした。過日、土佐の高知から伊予の川之江に抜ける土佐藩参勤交代道、土佐北街道を辿り終えたのだが、どうせのことなら、伊予と土佐を繋ぐもうひとつの主要往還である土佐街道・松山街道をもカバーしてみようと思ったわけである。
ルートをチェックすると松山の城下を出た街道は三坂峠を上り上浮穴郡久万高原町に至る。久万高原町の町並みを抜けた街道は越ノ峠から峠道へと入り面河川の谷筋の久万高原町七鳥に。そこからルートは仁淀川水系土居川筋の池川(高知県吾川郡仁淀川町)までふたつに分かれる。
ひとつは現在の国道494号筋を辿るもの。仁淀川水系面河川支流の東川に沿って東進し源頭部まで上りサレノ峠で予土国境を越え土佐に入り、瓜生野、桧谷、舟形、出丸、用居の集落を経て池川(高知県吾川郡仁淀川町)に至るもの。このルートは幕末動乱期、幕府方の松山藩征伐のため土佐藩が進軍したルートと言う。 もうひとつのルートは七鳥から面河川を渡り山稜に取り付き尾根筋を東進し、猿楽岩を経て黒滝峠で予土国境を越える。土佐に入った街道は雑誌山の北を東西に走る尾根筋を辿り水ノ峠へと抜け、そこから寄居、坂本を経て池川に至るもの。予州高山通とも称される。
池川で合さったふたつのルートは仁淀川水系狩山川の谷筋の集落、見ノ越または丸岩から山稜に取り付き鈴ヶ峠、峯岩戸を経て横畠を経て今成(高知県高尾郡越知町)で仁淀川筋に下りる。
仁淀川を渡った街道は越知の町並み抜け赤土峠を越えて佐川の町に入り日下、佐川を経て高知の城下に入る。
ルート概要はわかった。さて、どこからはじめようか。ルートを見るに、久万高原町の越ノ峠から予土国境をを越えて仁淀川の谷筋にある越知の町までが山あり谷ありの険路部のようである。膝にトラブルを抱える身ではあるが、峠越えフリークとしてはまず最初にこの山間部をクリアし、その後平地部をトレースすることにした。

越ノ峠から七鳥へ;Google earthで作成
さて、越ノ峠からスタートするとして初回はどこまで。常の如く越ノ峠に車をデポし峠を越えて車道に出るまで進み、そこから車デポ地までピストン?バスの便でもないだろうか?バス停の記載のある地図マピオンでチェック。と、面河川谷筋の七鳥の少し東に岩屋寺口バス停がある。ここから久万高原町まで伊予鉄南予バスが走っているようだ。時刻を問い合わせると岩屋寺口発は午後は17時45分(夏の時期)一便のみ。このバスに間に合うように歩けばピストンをしなくてもよさそう。 ルートをちょっと詳しくチェック。ネットを検索すると久万高原遊山会の調査した記録がヒットした。トラックログもダウンロードできGPSギアにプロットしルートは確保。ルート沿いには標識も立てて頂いているようだ。
ダウンロードしたトラックログをもとに七鳥までのルートをチェック。越ノ峠から山入りした街道は南に山稜を150mほど上げ、標高700mの「はじかみ峠」に進み、そこから東に270mほど高度を下げて仁淀川水系久万川支流有枝川筋に下り、そこからに西に2キロ、高度を250mほど上げ「色の峠(標高650m)」に達する。 色の峠からは、東に100mほど高度を下げて仁淀川水系面河川支流・程野川の谷筋に下り、谷筋を南東に下り、途中七鳥はしがみ峠に取り付き面河川に面する七鳥に出る。
距離はおおよそ9キロ弱だろうか。痛めた膝で下りのスピードが出ないにしても4,5時間もみておけばいいだろう。越ノ峠を午前中に出発すれば十分バスに間に合いそう。ということで、車デポ・ピストンを取りやめ、バス利用とすることにした。

越ノ峠から七鳥へ

で当日、実際には7時間ほどかかってしまった。トラックログはあったのだが、藪が激しく、また標識を見落としたのか無くなってしまったのか道に迷い、それでもその後見つけた標識を手掛かりに、久万高原遊山会のトラックログを全部つなげようと道迷い地点まで引き返すなどしたため結構時間がかかったのかと思う。 越ノ峠を午前9時に出発し、七鳥に下り岩屋寺口バス停についたのが午後4時過ぎ。膝の痛みに倒れ込む。あまりに身も世もない(語用が間違ってる?)姿であったのか、パトロール中のパトカーのお巡りさんが心配してか、声をかけられてしまった。
それはともあれ、建屋もないバス停で1時間半ほどバスを待ち久万高原町の久万営業所終点まで戻る。当初の予定ではバス停から車デポ地の越ノ峠まで3.3キロほどを歩くつもりではいたのだが、そんな気力はどこにもなく、久万郷源町のタクシーを利用し越ノ峠まで送ってもらい、長い一日を終えた。 こんな為体(ていたらく)で、七鳥から先、延々と続く山越えができるのかちょっと不安であるが、膝と相談しながらぼちぼち土佐街道を辿って行こうと考えている。
とりあえずメモを始める。



本日のルート; 
はじかみ峠越え 
越ノ峠>八里石>林道を離れ山道に>林道に出る>標識1より林道を左に逸れ山道に入る>はじかみ峠>標識3>大きな林道に出る>標識4から林道を左に逸れて再び山道に>標識が続く>枝尾根の間の杉林に標識6>杉林を進む>林道に出る>林道に標識7>標識8で林道を左に逸れ再び山道に入る>標識(A標識2)>石仏>標識が続く>標識10>県道209号手前に標識(A標識4 
色ノ峠越え 
県道209号右手、沢の手前に標識11>道の右手に標識12>林道支線分岐点に標識13>標識14より林道を左に逸れ山道に>標識(A標識5)>九里石>杉林の中を進む>色ノ峠>標識が続く>四つ辻に標識15>標識(A標識9)>農家の傍に標識16 
七鳥かしが峠越え 
標識17>標識18>標識19より舗装道を左に逸れ山道に>標識(A標識10)>七鳥かしが;峠標識20>標識21>標識22>県道212号に下りる>土佐街道の案内>岩屋寺口バス停



■はじかみ峠越え■



越ノ峠;午前9時(標高555m)
家のある愛媛県新居浜市を出て松山道を川内インターで下り、県道23号、国道33号を走り久万高原町に。越ノ峠は久万高原町の中心部から南に3.3キロほど離れてたところ、宮の前で国道33号を左に折れ、有枝川の谷筋の菅生の集落へと向かう県道153号の峠道を上ったところである。
越ノ峠(コシノトウ)は過日四国遍路歩きの折、岩屋寺へのバリエーションルートとして有枝川支流の集落・槇谷から八丁坂上の茶屋跡に上る途地、一度通ったことがある。その折、県道脇に残る旧道に「土佐街道」の標識を見付け、いつか歩いてみたいと思っていたところである。
きれいに整備された県道153号の越ノ峠に車をデポ。当初は峠から南に入る道らしきものがあり、そこが土佐街道かと思っていたのだが、GPSギアにプロットしたルート図では峠から少し西に戻り気味に進む。峠から西を見ると県道153号に沿って緩やかに上るガードレールのついた舗装道が続く。そのを進みガードレールが切れるあたりで舗装も切れ山入り道となる。

八里石;午前9時8分(標高565m)
山入りして数分、道がふたつに分かれる。分岐点には「林道 宮の前・落合線 起点」とあった。その左手、分岐点を林道に入らず直進する道の脇に「八里塚」の案内ともに、「松山札辻より八里」と刻まれた石柱が立つ。横の案内に「旧土佐街道里程標石」と記される里塚石である。土佐街道はこの八里塚の前を直進する。
里程石
里程石は松山市内本町三丁目の電停辺り、かつて「札の辻」と称されていた松山藩の高札場から土佐街道を進む目安として立てられた里程標である。予土国境まで一里ごとに12里までの里程標が建てられたとのこと。
古くから伊予と土佐を結ぶ主要往還ではあるが、往来を盛んに行き来するようになったのは藩政時代に入ってから。従来木で造られていた里程標も、寛保元年(1741)3月に石に改めた。文字は松山藩祐筆の水谷半蔵らに書かせたとある。これが今に残る里塚石である。
尚、現存するのは森松の二里標石と六里から十二里まで。また、レプリカではあろうが、三坂峠を下り47番札所の手前に「三里塚」が立っていた。

林道を離れ山道に;午前9時21分(標高600m)
右端に踏み込まれた土径がある
右端に踏み込まれた土径
道を進むと林道はヘアピン状に大きく右に曲がる。土佐街道はこのヘアピンカーブの突端部で林道から逸れ枝尾根の間へと直進する。久万高原遊山会のデータではこの地に「土佐街道」の標識が立つとのことだが、見落としたのか無くなったのか、ともあれ標識は見つけることができなかった。
小さな枝尾根の間には、それらしき踏み跡もみつけることができす、取敢えず藪の中に足を踏みいれる。先に進むが藪が激しい。勘弁してほしいと左右を見ると、右手に踏み跡らしき筋が見えた。藪を右に廻り込むと結構踏み込まれた土径に出た。 念のため道を林道まで下りアプローチ口を確認。アプローチ口はヘアピン突端部の東端、時節から入り口も土径も草に覆われりにくいが、よく見れば他とはことなる踏み込まれた風の土径がある。アプロ―チはここから入ること。
注意
到着時間は21分となっているが、これはヘアピン部を通り過ぎ、途中での気が付き戻ったため、余文の時間がかかっている。実際は八里石から5分程度でこのアプローチ部に着くかと思う。

林道に出る;午前9時48分(標高670m)
林道に出る
藪から出て草に覆われてはいるが踏み込まれた道を進むと林道に出る。アプローチ口から20分以上かかっているが、これは藪漕ぎ、アプローチ点確認のためヘアピン部まで引き返し道を繋いだ、といったことが要因。本来のアプローチ部からオンコースを歩けば10分程度で林道に出るのかと思う。

標識1より林道を左に逸れ山道に入る;午前9時58分(標高680m)
「土佐街道」の標識標識1)
林道から左に逸れる箇所
林道は先ほど分かれたヘアピン部から続いている。林道を10分ほど歩くと道の左手に「土佐街道」の標識(以下便宜上「土佐街道」の標識に連番を振る。ここは標識1)。アプローチ部はちょっとわかりにくいが久万高原遊山会のトラックログによれば標識1から林道から逸れるようである。トラックログをGPSギアにプロットしておいたため、草に覆われた中へと足を踏み入れたが、そうでなければ林道をそのまま進んでいたように思う。トラックログをダウンロードできるようにしていただいた配慮に感謝。

はじかみ峠;午前10時9分(標高709m)
はじかみ峠と手前の「土佐街道」(標識2)
激しい藪の中を進む。参考トラックログがなければ進むことは躊躇われるが、トラックログを頼りに、「踏み込まれた」と見えなくもない道を進む。
10分ほど進むと道の左手に「土佐街道」の標識(標識2;午前10時8分)。一安心。その先に鞍部が見える。そこが「はじかみ峠」であろうと進む。
はじかみ峠と標識(A標識0
はじかみ峠右手に木材伐採作業道
峠に到着。「はじかみ峠」の広い鞍部は木材が伐採され、「はじかみ」の由来と言われる「山椒」の茂る峠の面影は無い。
峠の右手には伐採用の作業道が開かれており下に続いていた。峠には久万高原遊山会とは別のグループが立てた「旧土佐道」の標識も立っていた(A標識0)。峠には石仏が祀られるとのことだが見つけることはできなかった。
便宜上「旧土佐道」の標識はA標識に連番をつけることにする。この「旧土佐道」は「A標識0)

越ノ峠からはじかみ峠へと標高を上げた土佐街道は、ここから有枝川の谷筋に向かって高度を270mほど下げることになる。

標識3;午前10時34分(標識677m)
「土佐街道」の標識(標識3
道迷い箇所;左の伐採作業道に出た
峠で小休止の後、道を探す。伐採で一帯が荒れており道筋ははっきりしない。が、伐採用の作業道ではないだろうと、作業道の左の草叢に入り込む。何となく踏み込まれたような気もする。10分ほど歩くと左手に「土佐街道」の標識(標識3)があり。一安心。

林道に踏み込まれた道が合流する
伐採作業道を下る
標識の直ぐ先で右手を下る伐採用作業道が最接近する。直進するのか作業道に出るのかちょっと迷う。上述「土佐街道」標識は何となく作業道の方向を示しているようでもあり、また、土径の先は藪が激しく、しかも段差もあるように思え、その時は作業道に出て道を下り、その先で大きな林道に合流。左に折れる。
林道を左に折れた直ぐ先、踏み込まれた道が大きな林道に合流している。ひょっとして先ほど伐採作業道に出たところに繋がるのではと、取敢えず上り返してみることにした(午前10時45分;標高645m)。

道迷い箇所から伐採作業道左の土径を歩き直す
道迷い箇所から伐採作業左の土径を進む
土径から林道に出る
道を戻ると作業道に出た箇所に繋がった。標識から先も伐採作業道に出ることなく、作業道を右手に見ながら草に覆われた土径を下れば大きな林道に出る。久万高原雄山会の資料では作業道に出るのが土佐街道のようにも思えるのだが、この箇所ははっきりしない。

標識4から林道を左に逸れて再び山道に;午前11時5分(標高633m) 
「土佐街道」標識(標識4)
「土佐街道」の標識(標識5)

道迷い地点へのピストンに時間がかかり、上記時間とのギャップが大きいのは、土径と大きな林道が合流する箇所から先に進んだのが午前11時を過ぎたため。 歩きはじめて数分で林道から少し奥まったところに「土佐街道」の標識(標識4)が見える。ここで林道から左に逸れ山道に入る。
標識箇所で林道を逸れ数分、「土佐街道」の標識(標識5;午前11時7分;標識630m)。

「旧土佐道」の標識(A標識1)の先、道は枝尾根の間に入って行く
「旧土佐道」の標識(A標識1)
「土佐街道」の標識(標識5)の直ぐ先、「旧土佐道」の標識(A標識1)。上述の如く「旧土佐道」の標識はA標識に連番をつけることにした。この「旧土佐道」は「A標識1)道は西に切れ込んだ枝尾根の間へと下ってゆく。

枝尾根の間の杉林に標識6
「土佐街道」の標識(標識6)
枝尾根の間へと進むと小さな沢が現れる(11時14分)。枝尾根の間の杉林を中を進む。その先に「土佐街道」の標識(標識6;午前11時19分;標高603m)。




杉林を進む
標識を越えると、杉林の先が開けてくる。枝尾根の間から抜けることになるのだろう。
再び小さな沢筋(午前11時21分)を越えたあたりから道は倒れた木々、落ちた枝葉で覆われはっきりしない。取敢えず開けた方向に向かって杉林を進む。

林道に出る
作業道に出る
作業道・林道に合流点
枝尾根の間から抜け出た道は一旦作業道(午前11時35分)に出た後、その先で林道に合流する(午前11時39分;標高525m)。林道は先ほど山道に逸れた林道であった。
久万高原遊山会の資料にはこの間、2つ標識があるとのことだが、見つけることはできなかった。

林道に標識7
「土佐街道」標識(標識7)
林道を少し下ると道の左手に「土佐街道」の標識が立つ(標識7;午前11時44分)。林道は結構広い。「林道 有枝線」。このまま下れば有枝川の谷筋、県道209号まで下りる。




補足;標識を見のが県道209号迄下り、県道脇の標識箇所から
「見逃し標識(標識8)まで折り返す

「旧土佐道」の標識(A標識4)
県道209号に合流
当日は次にメモする標識を見落とし、結局この林道有枝線を進むことになった。GPSギアにプロットした参考トラックログからどんどん離れていく。どこかにプロットしたトラックログへのアプローチはないかと注意しながら歩くも道はなく、結局県道209号まで下ることになった。
県道209号に出た後は参考トラックログが県道とクロスするところまで北に進み、土佐街道の標識などないものかと辺りを探すと、道の左手ガードレールの内側に「旧土佐道」の標識があった(後述するがA標識4)。
ここからルートを逆に辿り道を繋ぐべしと、トラックログに従い、林道を左に逸れ標識見落とし箇所まで戻り、道を繋いだ。「土佐街道」案内標識(以下に記すが、「標識8」)が林道より一段低いところ、しかも文字面が林道に背を向けていたため見逃したようだ。

以下、その「標識8」見落とし箇所からオンコースのルートをメモするが、標識8を見落とし林道を下りはじめたのが午前11時45分。そこから県道209号を経由して林道を逸れる見落とし標識8の立つ箇所に戻り道を繋いだのが午後12時37分。おおよそ1時間ほどかかってしまった。以下の時刻が直前の標識7と1時間弱のギャップがあるのはそのためである。以下の時刻表示はそのことを考慮して読み直して頂ければと思う。

標識8で林道を左に逸れ再び山道に入る;午後12時37分(標高515m)
「土佐街道」の標識(標識8)
「土佐街道」の標識(標識8)
林道に出た土佐街道はその直ぐ先、道が東に向かい大きく曲がる先端部から林道を逸れ山道に入る。繰り返しになるが、上にメモしたように土佐街道の標識8は林道より一段低いところに「土佐街道」の案内面を背にして立っており見逃しやすいので注意が必要。

標識(A標識2);午後12時47分(標高494m)
「旧土佐道」標識(A標識2
分岐は下道へ
 
山道を10分ほど歩くと道の左手に「旧土佐道」の標識(A標識2)。「土佐街道」の標識は久万高原遊山会の文字が木標に記されるが、「旧土佐道」の標識は複数のグループ名が記されていた。この間に久万高原遊山会の立てた標識があるようだが、目につくことはなかった。
道はその先分岐が現れるが、基本下り方向へと進めばいい。 


石仏;午後12時50分(標高474m)
「旧土佐道」の標識(A標識2)から数分、沢に近く谷側が石組で補強された岩場の下に石仏が祀られていた。
大岩の下ところ仏を祀るには風情のあるロケーションだが、結構危なっかしい箇所。そんなところに祀られる因は?あれこれ妄想は拡がる。

標識が続く
「土佐街道」の標識(標識9)
「旧土佐道」の標識(A標識3)
石仏から数分、「土佐街道」の標識(標識9;午後12時52分)。更に5分ほど下ると今度は「旧土佐道」の標識(A標識3:午後12時57分;標高448m)。この辺りまで下ると前方が少し開け里が近くになったと感じる。


標識10;午後13時3分(標高427m)
「土佐街道」の標識(標識⒑)
道を下ると右手に民家の屋根がみえてくる。結構大きな建屋である。「標識8」を見落とし県道迄下ったとき、正面からその家屋をみたのだが、現在はトタン屋根ではあるが、昔は如何にも茅葺であったであろう風情であった。
道はその民家の裏、山裾を下り里に下りる。そこには「土佐街道」と記された標識が立っていた(標識10)。

県道209号手前に標識(A標識4);午後13時5分
「旧土佐道」の標識(A標識4)
里に下り草に覆われた土径を進み仁淀川水系久万川支流有枝川に架かる橋を渡る。前面、一段高いとこりにに県道209号のガードレールが見える。ガードレール下を道なりに曲がり県道209号手前に「旧土佐道」の標識(A標識4)がある。ここが前述標識見落とし箇所へと戻ったところではある。

これで最初の峠越え、「はじかみ峠」越えは終えた。距離は3キロ強ほどではないかと思う。時間は4時間ほどかかってしまった。道を繋ぐための往ったり来たりが3度あり、1時間半ほど余分に時間がかかってしまっており、オンコースで進めば実質2時間興といったところだろうか。上り150m、下り270mほどであり、峠越えそのものはどうということはないのだが、ほとんど人が歩いている気配がなく藪が激しくちょっと難儀した峠越えとなった。



色ノ峠越え


久万高原町から「はじかみ峠」を越えて仁淀川水系久万川支流の有枝川の谷筋まで下り、本日最初の峠越えはクリア。次は有枝川の谷筋から高度を250m上げ「色の峠」を越え、仁淀川水系面河川支流の程野川の谷へと100mほど下る、本日2度目の峠越えとなる。距離は2キロ強といったところだろうか。

県道209号右手、沢の手前に標識11;午後13時6分
「土佐街道」の標識(標識11
左岸の道はすぐ行き止まりになる
ガードレールが切れる「旧土佐道」の標識(A標識4)の立つところから県道209号に出る。すぐ先に有枝川に注ぐ支流というか沢がある。
その沢を渡る手前、道の右手に「土佐街道」の標識(標識11)。標識泊りはなんとなく橋を渡らず沢の左岸を進む方向を示しているように見える。
左岸を少し進むが行き止まり。その先は崖となって川に落ち込んでいる。行き止まり箇所の沢の両岸になんとなく石組みらしきものが残る。橋があったのかもしれない。プロットしたトラックログは沢を渡っている。ロープでもあれば沢に下りれないこともないがロープは持ってきていない。取敢えず県道まで戻り橋を渡り右岸に移ることにする。

道の右手に標識12;午後13時14分
「土佐街道」の標識(標識12
対岸に左岸行き止まり箇所が見える
県道209号に架かる橋を渡り、沢の右岸を走る林道に入る。「林道 イロノトウ線」とある。舗装された林道に入ると直ぐ、道の右手に「土佐街道」の標識(標識12)。標識は沢方向を指す。対岸は先ほど左岸を進み行き止まりになった辺り。往昔はここを対岸に渡っていたのだろう。近くに馬頭観音が祀られるとのことだが、見つけることができなかった。

林道支線分岐点に標識13;午後13時26分(標高497m)
「土佐街道」標識(標識13)
林道を10分強進むと左に折れる道がある。案内には。「林道 イロノトウ線」の支線とある。その角に「土佐街道」と書かれた標識が立つ(標識13)




標識14より林道を左に逸れ山道に;午後13時41分(標高544m)
「土佐街道」の標識(標識14)
林道支線分岐点から沢に沿っておおよそ20分弱歩くと、林道より一段高いところに「土佐街道」の標識が立つ(標識14)。林道をそのまま進むのか、山入りするのか少し分かり難いが、林道一段高いところにある以上、それなりの理由があってのことだろうと標識のところに上がる。なんとなく踏み込まれた道のようにも思える。取敢えず先に進むことにする。

標識(A標識5);午後13時45分(標高589m)
「旧土佐道」の標識(A標識5)
林道を逸れて土径を5分ほど歩くと道が上下に分かれる。その分岐点に「旧土佐道」の標識(A標識5)。標識は下を進む道脇に立っている。下側の道を進む。 道は東に切れ込んだ有枝川支流(沢)の源頭部の近くまで進んで来た。

九里石;午後13時52分(標高615m)
「旧土佐街道」の標識から7分ほど歩くと「松山札辻より九里」と刻まれた里程石が立つ。標石や石碑は場所を移されることが結構多いが、この里程石は越ノ峠のスタート地点近くで見た八里石もそうだが、元の位置に立つとのこと。こんな山奥、道路整備もないだろうから移される必要もないだろう、かと。
九里石の先は杉の林。

杉林の中を進む
杉の林は落ちた枝葉で踏み跡は全くわからない。ほとんど成り行き、というか前方を塞ぐ山稜に一箇所見える鞍部(というほど広くはないのだが)が目指す色ノ峠であろうと、その凹部に向かって這い上がる。

色ノ峠;午後14時(標高660m)
[土佐街道」の標識
這い上がった鞍部、というか切通しといった凹部に[土佐街道」の標識。特に峠名の案内はないが、ここが色ノ峠であろう。読みは「イロノトウ」。面白い地名とチェックするが、その由来に関する記事はヒットしなかった。ここで小休止。

標識が続く
「旧土佐道」標識(A標識6)
「旧土佐道」標識(A標識6)
小休止の後、峠を程野の谷筋に向かって下る。峠への上りは杉の落ちた枝葉でまったく踏み跡がわからなかったが、下りはしっかりと踏み込まれた道筋となっている。
10分ほど下ると「旧土佐道」と書かれた標識(A標識6;午後14時13分;標高628m)、さらにそこから5分ほど下ると再び「旧土佐道」の標識が立つ(A標識7;午後14時19分;標高590m)。

四つ辻に標識15;午後14時22分(標高560m)
「土佐街道」の標識(標識15)
「土佐街道」の標識(標識15)
「旧土佐道」の標識(A標識7)を越えると竹林が現れ、里に近づいた予兆。その先、ほどなく道に合流。角に「土佐街道」の標識(標識15)があり、道をクロスし直進方向を指す。よくみれば踏み込まれた道が先に続いている。 。このクロスポイントは四つ辻と称されるようだ。

標識が続く;午後14時26分(標高550m)
「旧土佐道」の標識(A標識8)
「旧土佐道」の標識(A標識9)
道をクロスすると左手に「旧土佐道」の標識(A標識8)も立つ。四つ辻を直進し数分歩くと「旧土佐道」の標識(A標識9)が立つ。その先数分で農家の屋根が見えてくる。




農家の傍に標識16;午後14時28分(標高540m)
「土佐街道」の標識(標識16)
道は農家の裏手を廻り里道に合流する。合流点角に「土佐街道」の標識(標識16)。標識に従い右に折れ、花柴の畑を見遣りながら道なりに進む。




程野川を渡り舗装道に合流;午後14時33分
道は程野川を渡り、その先で舗装道に合流する。これで本日2度目の峠越えを終える。仁淀川水系久万川支流・有枝川の谷筋から高度を250m上げ「色の峠」を越え、仁淀川水系面河川支流の程野川の谷へと100mほど下った。距離は2キロ経強。特段の迷い道などもなかったのだが膝の痛みがちょっときつく、おおよそ1時間強かかってしまった。普通に歩けばこんなに時間はかからないと思う。



七鳥かしが峠越え



本日最後の峠越え。谷筋の集落、程野から程野川に沿って2,2キロほど歩き、「七鳥かしが峠」への山道に入る。程野川の谷筋から七鳥かしが峠への比高差は50mといったもので、峠越え、と言うより丘陵をショートカットするといったもの。距離も峠への取り付き口から七鳥の集落に下りるまでおおよそ1キロほどだろうか。

面河川に面した七鳥が本日の最終目的地だが、そこから直瀬川が面河川に合流する地点にある岩屋寺口バス停までは1キロほど。合計4キロ強ほど歩くことになる。

標識17;午後14時46分(標高508m)
「土佐街道」の標識(標識17)
仁淀川水系面河川支流の程野川の谷筋を面河川への合流点に向かって谷筋を下ってゆく。20分弱歩くと道の左手に「土佐街道」の標識(標識17)が立つ。



標識18;午後15時2分(標高474m)
「土佐街道」の標識(標識18
更に20分弱進むと、同じく道の左手に「土佐街道」の標識(標識18)。膝の痛みが激しく立ち止まり屈伸の繰り返しでスピードが出ない。結構時間がかかっているが、普通に歩けばこんなに時間はかからないだろう。

標識19より舗装道を左に逸れ山道に;15時21分(標高465m)
「土佐街道」の標識(標識19)
20分ほど歩き、南東へと下っていた程野川が南に流れを変える箇所、「林道イイノタニ線」が左へと上る湾曲部を越えてほどなく道より一段高い所に「土佐街道」の標識が立つ(標識19)。そこから舗装道を逸れ山入りする。
舗装道をそのまま直進すれば面河川に合流し、面河川に沿って走る県道212号に出るが、面河川は大きく湾曲しているため大廻りして七鳥に向かうことになる。この峠道は迂回・大廻りのショートカットルートとなっているようだ。

標識(A標識10);15時35分(標高487)
「旧土佐道」の標識(A標識10)
等高線をゆっくりと斜めに横切るといったルートを丘陵鞍部に向かって進む。道は踏み込まれており迷うことはない。林道を逸れ15分弱進むと「旧土佐道」の標識が立つ(A標識10)。




七鳥かしが峠(標識20);午後15時36分(標高494m)
「旧土佐道」の標識の直ぐ先に鞍部が見える。「七鳥かしが峠」であろう。久万の峠はどこも峠名の標識はない。鞍部には「土佐街道」の標識が立つ(標識20)。 
かしが峠の由来は不明。「返峠」とも表記すると「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」にある。道は鞍部を境に「切り返し」て面河川に面した丘陵地を下ってゆく。「切り返し」ゆえの「かしが(返)峠」だろうか。
峠に石仏が祀られるとの記事もあったが、見つけることができなかった。

標識21;15時53分(標高427m)
「土佐街道」の標識(標識21)
面河川に面した丘陵地を七鳥の集落に向かって下ってゆく。峠から15分ほど歩くと道の左手に「土佐街道」の標識が立っていた(標識21)。
山裾の道を辿る。振り返る都と七鳥の集落が見える。


標識22;15時58分(標高422m)
「土佐街道」の標識(標識22)
七鳥の集落の集落をみやりながら更に5分ほど歩くと左手に「土佐街道」の標識(標識22)。その先で県道へ降りる道と山裾を進む道のふたつに分かれる。標識はないが、取敢えず山裾の道を進む。道は舗装されている。


県道212号に下りる;16時5分(標高404m)
標識もなく成り行きで舗装された道を進み、その舗装された道が県道212号に下りるに任せ、県道212号に下りる。
県道212号に下り本日の3本の峠越を終える。県道を岩屋寺口に向かって歩くと東光寺参道の石碑。東光寺の手前には十里石が残るとのこと。県道筋には十里石を見ることはなかった。成り行きで県道に下ったが、更に山裾を進む道があり、そこに十里石があるのかもしれない。

土佐街道の案内;16時10分(標高402m)
十里石、そして東光寺へのルートハンティングは次回のお楽しみとして岩屋寺口バス停に向かうと県道の右手、川添いのガードレールが切れるところに土佐街道の案内があった。
案内には「近世土佐街道(三坂越え)
名称 土佐街道というのは、伊予国から土佐国へ向かう街道のことである。時代によって地域によっていろいろな街道がある。この土佐街道は、近世つまり江戸時代のもので、三坂越えと呼ばれている地域のものである。
成立 一六〇三(慶長八)年戸幕府開始ととも日本橋を起点に諸街道に一里塚を築かせ始めていることにより、松山藩も、かなり早い時期に街道整備を始めたものと思われる。一七四〇(元文五)年から一七四一(寛保元)年にかけて一里塚を木製から石製に作り替えた記録が残っている。
路程 松山札の辻を起点に森松・荏原を経て、三坂峠から久万町・七鳥・二箆(私注;ふたつの)に至るコースである。久万高原町内の里塚石は次のようになっている。
六里 東明神、七里久万町村
、 八里 菅生村、九里 有枝村、
十里 七烏村、十一里 東川村、
十二里 蓿川村 以上すべて現存する。
特色と利用
①松山藩の久万山支配の道である。
(松山藩士等人馬の往来の便を図ったもの。中世城館の配列に沿っている。) ②人の往来の開けたところである。
(駄賃持ちたちの馬による物流の道でもあった。)
③百姓一揆の道である。
(一七八七年土佐用居・池川の百姓、一八四二年土佐名野川の百姓いずれも大宝寺に逃散)」と記される。

GPSギアにプロットしたトラックログは、東光寺から県道を越えこの案内板のあるガードレールの切れ目から面河川へと下り、山入りしていた。次回はここを左に逸れて面河川を渡るのだろう。

岩屋寺口バス停
膝の痛みを騙しだまししながら、なんとか午後16時半前に岩屋寺バス停に到着。午後17時45分到着のバスを待ち、30分弱バスに乗り久万の町に戻り、車デポ地までタクシーで向かい、本日の行程はすべて終了。午後19時前家に向かう。
次回は県道212号に下りたあたりから土佐街道を探し、十里石を見つけた後東光寺の先で面河川を渡り山入り道を歩いてみようと思う。
4キロはどで650mほど高度を上げ、尾根道は予土国境黒道峠まで6キロ強。ピストン20キロはちょっとキツイ。尾根道までのピストンがせいぜい、といったところだろうか。ともあれ、膝と相談しながらぼちぼち土佐街道をカバーしていこうと思う。



過日、土佐北街道を辿った折、長岡郡本山町で知らず野中兼山の利水事績である上井(うわゆ)、下井(しもゆ)に出合った。水路歩歩きフリークとしては水路を辿りたいと思えども当日は時間の余裕もなく,後日再訪し上井と下井を取水堰から吉野川への落とし口まで辿り終えた。
その折、偶々のこと、本山の町を流れる吉野川を少し下った行川筋にも兼山の利水事績である井筋(ゆすじ)が流れることを知った。これは歩かねば、とあれこれチェックするが、井筋がありウォーキングイベントなどが行われているといった案内以外に資料がまったく見当たらない。そういえば本山町の上井、下井の流路に関する資料も全くなく、これら井筋は地元の方にとっては特段の事績ではなく、日々の生活に根付いたごく当たり前の用水路としてみなされているのだろう。
はてさて、どうしたものか。とりあえず衛星写真で行川の谷筋をチェックするりすと耕地は行川左岸に多く見られる。利水井筋であるとすれば耕地に養水するのだろから、水路は行川左岸を流れているのだろうと推測。それも耕地に広範に水を落とすのであれば川筋から離れた比較的高い所を進むのであろうと、衛星写真とGoogle Street Viewで水路らしきポイントをチェック。いくつか水路らしき箇所をを見つけ出した。で、まずはその井筋に向かい、それが如何にも兼山の井筋と感じ取れば取敢えず水路を辿り、途次地元の方にその水路が兼山の井筋かどうかお聞きし、オンコースであればそれでよし、でなければ歩き直しも如かずとの方針で行川に出かけた。
当日は高知道大豊インターで下り、国道439号を本山方面に向かい本山東大橋で吉野川左岸に移り、土佐北街道歩きのとき辿った県道262号を東に向かい上関地区を抜け、行川に架かる橋の西詰を左折、最初の橋を渡り行川左岸に移り予測を付けた水路筋まで少し上る。
水路は上流から蛇行しながら続いているようでもあり、取敢えず落とし口まで辿ることにした。水路は行川筋の山裾の少し高台を進み、吉野川に面した丘陵をぐるりと東に曲がり県道262号に沿って高台を進み、土佐北街道散歩の折出合った山下家の少し先で沢に落ち、県道262号を潜り吉野川に落ちていた。
途次、地元の方に合うこともなく結局落し口まで来てしまったが、落とし口の辺りで地元の方にお聞きし、歩いてきた水路が兼山の造った井筋であることが確認できた。途中崩壊箇所と隧道があるとのこともお聞きした。井筋の長さも4キロ程とのことである。
当日は吉野川への落とし口から折り返し、水路を追っかけ取水堰まで辿った。4キロを歩き60mほど高度を上げるという、誠に緩やかな上りであった。崩壊箇所も1カ所であり、それほど険しいこともなかった。また、大岩を抜いた隧道も迂回路が整備されており念のために用意したロープの出番もなかった。結構快適な水路歩きではあった。

さてと、落とし口からはじまるメモを書き始めたのだがない、どうも書きにくい。流れに逆らう描写に慣れていないためだろう。ということで、メモは「逆回し」、取水口から落とし口へと辿るといった「編集」をおこない記すことにする。写真は上流へと追っかけ時に撮ったものであり、方向が逆になっていることをご容赦願いたい。



本日のルート;取水堰>水門>沢と分水門>分水門>車道をクロス>上轟>隧道>合茶集落の生活道をクロス>分水門>水路の段差>獣侵入防止高電圧鉄線>沢に水を落とす>沢から井筋に分水>沢に分水門>崩壊箇所>水路を跨ぐ古い橋の先、急傾斜で流れ落ちる>>沢に分水門>集落に出る>沢に分水門>沢に分水門>丘陵先端部に分水門>集落の生活道をクロス>丘陵先端部に分水門>本村集落の生活道とクロス>小さな分水>>旧山下家前で水路は右に折れる>水路は石垣に沿って東進>民家の中を抜ける>井筋落とし口

取水堰
取水堰は地図に上轟と記される名勝の地の北、遅越橋を行川左岸に渡った先、車道をクロスし行川左岸に沿って少し上流に進んだところにある。
取水堰はコンクリートで石組を固めた堰の左岸端から導水路で水を流していた。 堰の上側は下流の岩場と異なり、堰によって留められた砂と澄んだ水が美しいコンビネーションを呈する。なんだか、いい。標高は292mほどだろうか。

 水門と余水吐け
導水路の先には井筋水門とその前に余水吐けの水門。堰で取水された水が余水吐けの水門から大量に川に戻されていた。






沢と分水門
直ぐ先、小沢とクロスする箇所に分水門。大水時などに水門を開けて川に水を落としているのだろうか。水路は行川に沿って進む。





分水門
また、すぐ分水門。先に進むと左手に車道が見えてくる。道は行川に沿って谷筋を進み、地図には蛇野(はがめの)辺りまで記されている。蛇野とは面白い地名。「土佐地名往来」には「本山白髪山の小字。蛇は古来神霊の化身。毒をもっ た蛇を方言で「はめ」」と記されていた。


車道とクロス
ほどなく水路は車道をクロスする。車道は上下二本走り、ひとつは行川に沿って上流へと進み、もうひとつは山へと入る。行川沿いの車道を潜った水路は、続いて山に向かう車道下を走り二つの車道をを横切って下流へ向かう。山に向かう道を潜る水路蓋のグレーチング上はメンテナンスのためか、水路を覆う道路のグレーチングとの間はすっぽりと抜けていた。
遅越橋
二つの車道が分かれる直ぐ南に遅越橋がある。橋を渡った行川右岸に遅越地区の文字が地図に記載される。行川筋の最奥の集落のようだ。面白い地名。チェックするが、この地の地名由来はヒットしない。土佐にある別の遅越の由来として「遅い時刻に越えた峠道。「オソ」はうと(空)に通じる言葉から切り通しの峠道」といった説明が四万十地名辞典に記されていた。

上轟(かみとどろ)
車道をクロスし再び土径に入る。水路右手に木々の間から行川の清流が見える。仁淀ブルーではなく吉野ブルーとでも呼びたほど美しい。ゆっくりと弧を描く水路の姿もなかなか、いい。
メモでは堰から下ってはいるが、実の所、当日は兼山井筋の落とし口から取水堰まで辿った後、行川に架かる遅越橋を渡り車デポ地まで戻ったわけだが、その途次、「上轟」の標識を見かけ𠮷野ブルーを堪能した。誠に美しい色であった。
下轟(しもとどろ)
水路の対岸、上轟から少し車道を下ったところに下轟の標識がある。上轟ほどのインパクトはなかったが、車道から川へと下りる石段が整備されていた。紅葉の頃はまた違った景観を呈するのかもしれない。


隧道
水路に沿って5分ほど進むと前方に大岩が見える。水路は大岩の下を穿ち抜けてゆく。隧道があることは地元に方にお聞きしていたのだが、隧道出口へのアプローチを聞いておらず高巻などしなければいけないのか、などと思っていたのだが、大岩の谷側に沿って迂回路が整備されており、すべて杞憂に終わった。
隧道入り口手前には分水門。時に応じて行川に水を落としているようだ。隧道内部のメンテナンス時など、隧道内部の水を抜くためのものだろうか。
それにしても隧道は誠に狭い。人ひとり寝っ転がって体を入れるのが精一杯。大岩を抜くのは大変だったかと思う。


迂回路を進むと、大岩には石仏なのか双体道祖神なのか2体の像が彫られた石仏、そして小祠が大岩の窪みに祀られていた。
大岩を迂回し隧道出口のところに進む。


行川森林鉄道隧道
水路隧道の谷側に堰森林鉄道の隧道が残っていると地元の方のお話し。水路からのアプローチはできない。これも当日、取水堰まで水路を追っかけ、上轟、下轟を見遣りながら車道を下り、その先にあった橋を渡り水路隧道の谷側へと成り行きで歩く。途地、人の声に誘われ知らず「ふれあいの里なめかわ」の敷地に入る。
そこは私有地であり、本来は叱られるところ、この施設を経営するご夫妻のご厚意で「ふれあいの里なめかわ」から森林鉄道の隧道まで案内して頂いた。 「ふれあいの里なめかわ」の平地から少し上ると、線路跡筋。下流から続く軌道跡は草で覆われていた。この草道を辿れば「ふれあいの里なめかわ」の私有地を取らなくても隧道に行けるのかもしれない。
それはともあれ、線路跡を先に進むと隧道がある。素掘りの隧道を抜けた先は橋が落ちており行き止まり。県道262号、行川に架かる橋の東詰めを少し上ったところに:行川森林鉄道跡の標識があったので、そのあたりからこの隧道を経て更に上流へと伐採木材を運搬する鉄道が敷設されていたようである。「ふれあいの里なめかわ」の御主人のお話によれば、線路は戦中の鉄需要のため取り外されたとのことであった。

合茶集落の生活道をクロス
隧道を過ぎると行川に沿った水路は樹林帯を出て合茶の集落に入る。集落の舗装された生活道を越えると、地形に抗わず流れる水路の下には耕作地が広がる。 この集落は「会茶」とある。面白い地名でありその由来をチェックするが検索にはヒットしなかった。


分水門
水路は東に切れ込んだ沢筋を廻り込むが、その沢筋との合流点に分水門がある。ここまで土径であった水路脇の道は、簡易舗装の道となる。




水路の段差
簡易舗装の道も集落を離れると再び土径に戻る。沢の分水門から5分ほど歩いたところで水路が段差となっている。何故に段差となっているのだろう?兼山当時のものか、コンクリート補強工事の折に造られたものか不明ではあるが、段差を設ける理由のひとつとして考えられることは傾斜を一定にするため段差で調整することが考えられる(素人考え)。流れが速くなることでなにか不都合なことでもあったのだろうか。

獣侵入防止高電圧鉄線
水路が西に突き出た丘陵部先端を廻りこむ辺りに、水路脇の道を塞ぐように低い鉄線が張られ、「高電圧」「危険」「さわるな」の看板。その先は水路に沿って高電圧鉄線が張られている。獣侵入防止の柵なのだろうが、高電圧とは言え、このような低い鉄線で獣の侵入を防ぐことができるのだろうか。

沢に水を落とす
電気が通っているかどうかわからないが、鉄線に触れないように慎重に水路脇を進む。と、突然水路U字壁が切れ、その先で水が沢に流れ落ちる。水路歩きでよく出合う光景だ。
沢に水を落とし、沢の水も加え、沢の下流で取水し水路は更に下流に続くことになる。水路と沢の比高差が大きく、沢に水門を設け取水することができなかったのだろう。
先ほど出合った水路の段差による水流の速さの調整も、この沢の落としに関係あるのだろうか。

沢から井筋に分水
水路壁が切れた沢の手前で成り行きで下ると沢に分水門があった。この沢より分水された水路が兼山の井筋である。井筋を少し進むと、再び「高電圧」「危険」「さわるな」の看板の掛る鉄線。その先で鉄線が消える。合茶集落の耕作田を獣被害から防ぐ高圧鉄線はその役目を終えたということだろう。

分水門が続く
水路は合茶の集落を離れ丘陵部へと入って行く。
ほどなく沢に分水門。合茶南端部の耕作田に沢を介して水を落とすのだろうか。それとも単なる余水吐け?

行川に向かって突き出た丘陵先端部手前の沢に分水門。下に作田はなく行川への余水吐けの分水門かもしれない。

崩壊箇所
その直ぐ先で水路のすぐ右手、行川の谷側は大きく崩壊している。地元の方が一箇所崩壊しているところがある、とおっしゃっていたところだろう。水路部分まで大きく抉られており、水路はGoogle Lensでチェックすると「SP官ともダブル管」とも言う、ポリエチレン樹脂の管で補強されていた。

水路を跨ぐ古い橋の先、急傾斜で流れ落ちる
崩壊箇所の先、ゆるやかな傾斜の水路を少し進むと行川に突き出た丘陵突端部で水路は急傾斜で流れ、流路もグイッと右に曲げる。その先、水路を跨ぐ古い橋を越えた水路はなお急傾斜で流れ落ちる。
斜面を流れる水路はコンクリート補強されたU字溝ではあるが、その姿はなかなか、いい。

沢に分水門

その先、再び緩やかな流れとなった水路を進み、切通しっぽい大岩の間を抜けると沢に分水門。このあたりは未だ丘陵部。行川への余水吐け調整用の水門だろうか。

集落に出る
分水門を越えると水路は丘陵部を抜け集落に出る。集落に出た水路は民家の納屋の中を抜け、地形に抗うことなく東に切り込んだ沢筋へと進む。水路下には耕作田が広がる。
この集落の名前はわからない。行川の対岸は佐賀野、集落の南、丘陵を隔てた吉野川筋は本村とある。本村の集落なのだろうか。

沢に分水門
等高線に沿って東へと弧を描き進むと水路は沢にあたり、そこには常の如く分水門がある。集落の耕作田へ水を落とすのだろう。
分水門から少し進むと舗装された集落の生活道にあたる。ここが衛星写真で当たりをつけ最初に訪れた水路地点。上流を見ると沢筋の先に如何にも流路らしき「筋」が田圃の上に続いている。ということで、この水路が兼山n井筋であろうと「思い込み」取敢えず落とし口へと下った箇所である。
水路歩きの際、衛星写真とGoogle Street Mapの合わせ技でポイントを推定することが多いのだが、今回もなんとかうまくった。

丘陵先端部に分水門
水路は集落を離れ行川へと突き出た丘陵地に向かう。丘陵先端部に分水門。衛星写真を見ると行川との間に耕作田がある。そこへ水を落としているのだろう。



行川森林鉄道跡標識
丘陵先端部と行川の間を走る道脇に「行川森林鉄道跡」の標識が立つ。既にメモした合茶集落の隧道を抜け、行川左岸を更に上流へと進み、既述蛇野の東、新頃の辺り(標高430m)で東から合流する行川支流を迂回し、更に上流に進み標高600m辺りで(兼山井筋取水堰の標高が292mほどであるので、相当上流である)行川を右岸に渡り上関の蛇野(はがめの)で木材を搬出していたようである。全長11キロほどと言う。
上関と下関
この森林鉄道、上関林用軌道とも称したとの記事をどこかで見た。行川の左岸が下関、右岸が上関。左岸の下関を走る森林鉄道が何故に「上関森用軌道」と称するのか疑問に思っていたのだが、軌道の終点、というか始点が上関の蛇野にあることがわかり納得。

集落の生活道をクロス
分水門を越えると水路は舗装された集落の生活道をクロス。その先、生活道の下の樹林帯に入り、吉野川へと南に突き出た丘陵先端部に向かう。




丘陵先端部に分水門
丘陵杉が罰先された箇所に分水門。その先、草の生い茂った水路脇の道を進む。丘陵先端部を回り込んだ後は、行川筋から離れ吉野川を左手に見ることになる。
当初は落とし口は行川筋ではないかと予測していたのだが、行川筋は越えてしまった。吉野川とはまだまだ比高差があり、沢に落とすのであればそこが落とし口ではあろうが、でなければどこまで吉野川に沿って歩くことになるのか予測がつかなくなった。

本村集落の生活道とクロス
丘陵南端部を回り込み水路は東進。ほどなく舗装された生活道にあわさる。地図を 見ると先ほどクロスした生活道の続きであった。




小さな分水
生活道を越えるとほどなく誠に小さな分水箇所。水路脇の土径は草に覆われている。のんびりゆったり先に進む。とは言え、それは既にこの道を歩いたゆえのこと。最初は先がどうなることやら、どこまで吉野川筋を引っ張られるのだろうか、とは言え本集落の東には耕作田など何もないよな、であればもうすぐ落ち口があるのだろう、などととあれこれ考えながら歩いたのが本当にとことである。

旧山下家前で水路は右に折れる
草叢の土径を進むと左手に立派な石垣。どっかで見たことがあると思いながら進むと水路は石垣のお屋敷前で右に折れ、下に下る。このお屋敷は土佐北街道散歩の折訪れた旧山下家であった。

旧山下家
このお屋敷は参勤交代の折の藩主の休憩所。石垣と医薬門が往昔の名残を留める。薬医門は2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門であり、社寺だけでなく城郭や邸宅など門の形式としてよくみるもの。薬医の由来は門扉の隣に出入りが簡単な戸を設け患者の出入りを楽にした故とも、敵の矢の攻撃を食い止める「矢食い」からとも所説ある。



水路は石垣に沿って東進
吉野川に向かって右折した水路、これでお終いかと思ったのだが、水路は直ぐ左に折れ、石垣下を県道262号、土佐北街道の少し上を進する。



民家の中を抜ける
その先、水路は民家の裏手に入り込む。さすがに敷地に入ることは躊躇われ、一度県道下りて再び民家を抜けた水路へ戻る。
水路は県道262号の一段上の石垣に沿って進む。


井筋落とし口
石垣に沿って進む水路は直ぐ先、民家手前で右に折れ、県道を潜り沢に落ちる。その先は吉野川。ここが兼山井筋の落とし口だろう。近くにいらっしゃった地元の方に確認すると、この沢でもあり直ぐ東の太陽光発電パネルの辺り、とも。陽光発電パネルの辺りを彷徨ったが水気を感じることができず、取敢えず、沢が落とし口と思い込み、本日の散歩を終える。

行川の井筋は全長4キロほど、取水堰と落とし口付近の比高差は60mほどだろうか。斜度は0.85度。一度にも満たない緩やかな勾配角度であった。 これで土佐北山街道散歩の折に出合った、本山町の野中兼山の利水事績である本山町の上井と下井、行川筋の井筋を辿り終えた。さて、次はどこを歩こうか。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク