2020年12月アーカイブ

旧土佐中村市(現四万十市)の四万十川右岸より足摺岬突端に建つ金剛福寺までをメモする。その距離おおよそ50キロ弱だろうか。四万十市と土佐清水市を画する伊豆田峠を越えた市野瀬に真念庵がある。そこまでおおよそ12キロ。この地は足摺岬にある38番金剛福寺と土佐最後の札所、宿毛市の39番延光寺への分岐点。多くのお遍路さんは真念庵より金剛福寺を打ち、此の地まで打ち戻り宿毛の延光寺を目指すと言う。
その真念庵から先、時に「あしずり遍路道」の案内が立っていた。真念庵にあった案内には、 「真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とのみの案内があった。当日は「あしずり遍路道」の標識が旧遍路道として残る道筋の指導標とは思わず、単に金剛福寺への遍路道標識と思っていた。
「あしずり遍路道」の標識が旧遍路道への指導標とわかったのは、メモの段階で土佐清水市の「あしずり遍路道」の案内を知ったことによる。そこには、真念庵から金剛福寺までの間に、10余の遍路道名とともにマークが示されていた。国道改修工事から逃れ、現在に残された旧遍路道が約14キロ整備されているようである。
遍路名とマークだけでルートが示されていないのが少々残念ではあるが、遍路道マークの場所から推測すると、それは国道筋を逸れた山道・沢筋といったルートのようである。「あしずり遍路道」の標識は旧遍路道への出入り口指導標であった。
当日は知らず、いくつかの「あしずり遍路道」を辿ったが、ほとんどが後の祭り。 「あしずり遍路道:標識をもとにGoogle Street Viewでそのルートを推測するという為体(ていたらく)であった。 事前準備なし、ほとんど成り行き任せのお散歩をその基本としているため、思いがけない出合いの楽しみもあるが、残念!との想いも多くある。室戸岬東岸でも多くの旧遍路道を見逃したが、足摺岬東岸でも同様の想いを残すことになった。
共に土佐を代表する岬の東岸。この2地域はもう一度しっかり旧遍路道をトレースしようと思う。 ともあれ、メモを始める。



本日のルート;
■四万十川の渡しから伊豆田峠へ
四万十大橋>県道321号を南下>県道343号を南下し旧遍路道に入る>津蔵渕川左岸を国道321号に>津蔵渕集落西端で津蔵渕川を渡り国道321号に>徳右衛門道標
伊豆田峠越え
国道を右に逸れ旧道に>伊豆田峠への山道に入る>伊豆田峠>峠から林道へ>金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
真念庵からあしずり遍路道を金剛福寺へ
真念庵への標石>真念庵>真念庵より「あしずり遍路道;真念道」を進む>市野々・あしずり遍路道分岐点>国道321号に戻る>小方から旧路に逸れ下ノ加江川左岸を進む>下ノ加江大橋を渡り鍵掛へ>鍵掛(かいかけ)>久百々(くもも)>ふた浜>大岐東道>大岐浜>下港山へのあしずり遍路道>以布利>窪津分岐>県道27号と県道347号分岐点>窪津>津呂道>あしずり遍路道・赤碆東道分岐点>舟形標石>第三十八番金剛福寺


●旧土佐中村市(現四万十市)四万十川右岸より金剛福寺への遍路道●

■四万十川の渡しから伊豆田峠へ■

四万十大橋
先回の散歩では往昔の遍路道は下田の渡しへの道筋であろうと四万十川河口部の渡船場へと向かったのだが、事前の準備不足で渡船は予約制とのことで渡船できず、また、それよりなにより下田の渡しは昭和初期から開始されたとのことを知り、往昔の四万十川の渡しがあったとされる高島の渡し、現在の竹島大師堂まで辿った。
現在は高島の渡し・竹島の渡しは運行されておらず、お遍路さんは上述下田渡しを利用するか、四万十大橋を渡り四万十川右岸に移ることになるわけだが、今回の散歩は澄禅や真念も辿ったであろう竹島・山路の渡しにより近い四万十大橋を渡り、四万十川右岸に移る。
山路の渡し跡
四万十大橋の南北に、四万十川と中筋川を分ける砂洲・河川敷が続く。高島の渡し・竹島から四万十川右岸に渡る山路の渡し跡は、四万十川に沿って走る国道321号を北に進み、国道が中筋川右岸から中州・河川敷に入り、四万十川に後川が合流するあたりにあった。
この河川敷のどこかに往昔の竹島・山路の渡しの船着き場があったのだろう。
旧中村市
更に上流、四万十川・中筋川・後川により形成された沖積平野にかつての幡多郡の中心地であった旧中村市(現在四万十市)がある。
平成17年(2005)に西土佐村と合併し四万十市となる。Wikipediaには「国造が割拠した7世紀には、中村は、都佐国造ではなく波多国造の領土に属していた。律令制が敷かれると、都佐国造と波多国造が合併して土佐国となり、旧の波多国造の領土は幡多郡となった。
戦国時代には土佐一条氏の城下町となり、「土佐京都」と呼ばれるように京都をモデルとした都市造りが行われ、幡多郡の中心地へと発展した。しかし、土佐一条氏は、天正時代になると、高知を本拠地とする長宗我部氏によって倒され、長宗我部氏の領内に入れられた。
江戸時代になると、長宗我部氏から山内氏に統治者が変わり、中村は山内氏が治める土佐藩の領内に入った」とある。
土佐一条氏
一条氏の土佐下向とは、応仁の乱を避けた前関白一条教房公は京を離れ家領の中村に移り、京に模した町作りを行なった。町並みも中村御所(現一条神社)を中心に碁盤状に整備し、土佐国にありながら高い官位を有し、戦国時代の間、土佐国の主要七国人(「土佐七雄」)の盟主的地位にあった。次第に武家化し伊予国への外征も積極的に行うが、伸長した長宗我部氏の勢いに呑まれ、断絶した。

県道321号を南下
四万十川と中筋川を跨ぐ四万十大橋を渡り、橋の西詰で左折し国道321号に乗る。中州によって四万十川と分けられた中筋川の右岸に沿って実崎(さんざき)地区を南下。中州も切れ中筋川を合わせた四万十川の右岸を進むと、道の左手に「間碕の枕状溶岩」の案内。道の右手の岩盤を指す。
枕状溶岩
マグマが水中で噴出する際にできるもの。西洋枕が積み重なったように見えこの名が付く。おもに玄武岩質のマグマに寄る、と言う。



四万十川
何時だったか訪ねた四万十川源流・松場川の一滴の水は下田・初崎間では1.2キロの大河となっている。
全長196キロという四万十川には、大小合わせると70ほどの一次支流、200以上の二次支流、支流に流れ込む300以上沢があると言われる。それゆえの「四万十」とされるが、その中でも幹線となるのが、高岡郡津野町の不入山から南下し窪川に下る松葉川、四国カルストの山地から下り四万十町田野野で本流に注ぐ梼原川、愛媛の北宇和郡の山間部にその源を発し、四万十市西土佐の江川崎で本流に注ぐ広見川の三川とのこと。その三つの幹線支流を繋ぐのが「渡川」とも呼ばれる四万十川の川筋である。
現在、海から最も遠い地点ということで源流点となっている、不入山の源流点から南下してきた四万十川は窪川の辺りでその流れを西に変え、その後北西に大きく弧を描き、山間の地を、蛇行を繰り返しながら、田野野で梼原川、江川崎で広見川を合せ四万十市中村で土佐湾に注ぐ。
東流から西流へ
現在は上述の如く、窪川辺りで西に流れ、山地を大廻りする四万十川の流れではあるが、はるか昔には、松葉川も梼原川も広見川も、その流れは窪川盆地から、そのまま太平洋に注いでいた、と言う。梼原川や広見川は現在の流れとは逆に、「東流」していたことになる。その流れが西に向かうことになったのは、南海トラフの跳ね返りで、海岸線に山地が現れ(興津ドーム)、南下を阻まれた流れは西に向かうことになった、とか。
興津ドームの隆起によって太平洋に注ぐ流れを妨げられた四万十川は、何故に、このように海に背を向けて大きく弧を描く特異な流れとなったかについて『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』は「四万十川が山地の中を激しく蛇行していることから、この流域を含む一帯はむかし、海面に近い平坦な低地だった、と考えられる。そこを川は自由気ままに蛇行していたのである。
しかし、その後土地が隆起したため、川は侵食力を回復して、その流路を保ちながら谷を削り込んでいった。その結果、現在のような穿入蛇行(山地にはまりこんだ蛇行)の状態が出来上がった。但し、この隆起は全体的に一様に起こったのではなく、たまたま四万十川の流域の中央部が最も高くなるように起こった」とあった。このことは時系列で言えばV字谷>U字谷>準平原の順で地形が形成されるとするが、四万十川上流部に近い窪川辺りの谷底低地は開析最終プロセスの準平原状態となっており、下流部がU字・V字と通常の地形生成プロセスと逆転していることからもわかる。
四万十川・渡川
地図を見ると四万十川(渡川)と記される。かつては四万十川とも渡川とも呼ばれていたが、明治になり河川法が作られた際に、正式名称は「渡川」、俗称四万十川とされた。 それが「四万十川となったのは、昭和58年(1983)、NHKが放送した「土佐・四万十川~清流と魚と人と~」がきっかけ。この放送により「清流四万十川」が世に広まり、平成6年( 1994年)には法改正により四万十川を正式名称とすることにした。もっともこの四万十川は本流を指す名称であって、支流310とも言われ、またその支流に中筋川と後川いう1級河川をももつ水系のことは渡川水系と称されている。四万十川は渡川水系四万十川と言うことだ。

県道343号を南下
左手、四万十川の大きな中州を見遣りながら間碕(まさき)地区の丘陵裾を回り込むと、ほどなく県道343号が国道から南に分かれる。分岐点手前に、「初崎分岐」バス停、分岐点には「四国のみち」の指導標があり県道直進は「大文字山」、左折『初崎」とある。遍路道はここで左折し県道343号に乗り換える。


県道343号を右に逸れ旧遍路道に入る
少し南下し、道の右側の作業小屋から右に入る道がある。遍路道の案内はないが、遍路道はここを右に折れて西進する。
ここは下田の渡しで四万十川を渡り初崎から県道343号を北進してきた遍路道との合流点でもある。



初崎からの遍路道
下田渡船場から1.2キロ、四万十川河口部の初崎からの遍路道は上述、県道343号を北進するコースと、南の海岸沿いを歩く二つのコースに分かれる。海岸沿いの立石・布浦経由下ノ加江まで17キロ、澄禅や真念も歩き、今回辿る山越えの遍路道はその距離14キロである。
〇初碕
中世にさかのぼる地名で、古くは福崎村。いわば 「地域の果てとなるところの崎」河口の岬(土佐と銘往来)

津蔵渕川左岸を国道321号に
作業小屋で県道343号を右折し旧路に入る。左右草で覆われた道を進むと右手に「四万十川野鳥自然公園」。道端に立つ使途不明の石碑を見遣りながら津蔵淵川左岸を進むと国道321号とクロスする。
大文字送り火
この交差箇所から国道を北に戻り、四万十川野鳥自然公園の北西端北に見得る小丘陵に「大」の跡が残る。この丘陵で、大文字送り火が行われるとのこと。
国道脇にあった案内には 「大文字の送り火 今から五百有余年前、前関白一条教房公は京都の戦乱を避けて家領の中村に下向され、京に模した町作りを行なった。東山、鴨川、祇園など京都にちなんだ地名をはじめ町並みも中村御所(現一条神社)を中心に碁盤状に整然と整備し、当時の中村は土佐の国府として栄えた。
此の大文字山の送り火も、土佐一条家二代目の房家が祖父兼良(かねら)、父教房の精霊を送ると共に、みやびやかな京都に対する思慕の念からはじめたと、この間崎地区では云い伝えられている。現在も旧盆の十六日には間崎地区の人々の手によって五百年の伝統は受け継がれている」とある。
四国のみちの指導標には「大文字山」とあったが、十代地山と呼ばれているようである。

しかし、である。旧中村市内に館を持つ一条氏が何故に、館より結構離れたこの地を選んだのだろう?また、一条氏の威を示すにはあまりに規模が可愛らしすぎる。
あれこれチェックすると、平成2年(1990)6月13日の高知新聞に「中村市の大文字送り火 市文化財保護審が確認 一条公ゆかり説覆る 起源250年遅い享保年間」という記事があり、それによると、同審議会が確認したとする原典は、江戸後期の文化八年(一八一一年)に山之内家の家老だった深尾氏の家臣で、国学者の岡宗泰純が著した『西郊余翰』(「南路志翼四十二」に原本収容)の記述。
幡多地域一帯を見聞した泰純は同書に「間崎村西山の山腹に大文字あり」と記し、続けて「享保年中見善寺の僧侶江翁良邑京都東山に模して作りたりとそ」とし、更に「世々一条公の名残といへとも左にあらす」と一条公との関りを否定している。
見善寺は現在の間碕の薬師堂近くにあったとされる。澄禅の『四国遍路日記』にも「真碕ト云所二見善寺トテ妙心寺流ノ禅寺有リ。是二一宿ス」とあるので見善寺があったのは間違いないだろう。 尚、真念は『四国遍路道指南』に「ま崎村、薬師堂有」と記す。
僧侶江翁良邑についてははっきりしないし、そもそも原典となっている書籍が確認されていないようではある。
とはいうものの、一条公ゆかりとする文書も残らず口伝であり、なんとなく享保説のほうにリアリティを感じる。素人妄想。真偽のほど不明。
間碕
四万十川の下流右岸。南の初崎と北の実崎との間が 間崎(土佐地名往来)

津蔵渕集落西端で津蔵渕川を渡り国道321号に
国道をクロスし、津蔵渕左岸を進み津蔵渕集落西端部で橋を渡り国道321号に戻る。国道に出た山側にお堂がある。寺庵と書かれていた。




徳右衛門道標
しばらく国道を進むと、道の右手に赤いエプロンをつけた石仏と石碑。石碑は大師像より下が埋まった徳右衛門道標。徳右衛門道標に特徴的な梵字と大師像、文字は「是*足*」と言った文字が残る。





■伊豆田峠越え■


国道を右に逸れ旧道
国道をしばらく進むと右に逸れる道がある。旧国道のようである。現在の国道321号の伊豆田峠を抜ける新伊豆田トンネルが開通したのが平成6年(1994)というから、それほど遠い昔ではない。 
尚、伊豆田峠越を避け国道321号を進むと全長1650mの新伊豆田トンネルを抜け市野瀬川の谷筋に出る。トンネル手前に覇今大師が建つ。
今大師
今大師の由来には、「この「今大師堂」には弘法大師、不動尊、玉還喜伝坊の三体をお祀りしている。最初のお堂は玉還喜伝坊を祀って明治5年(1872)に建てられた。その後昭和28年(1953)に規模を広めて改築し、新たに弘法大師、不動尊もお祀りするようになった。
さて玉還喜伝坊を「今大師」と称するのは、信者達が坊の並々ならぬ人徳と霊力に敬服して「今大師」とよび、高野山もそれを認めて許していたからだと言う。
坊の出身地は信州筑摩郡瀬波村(長野県諏訪郡富士見町瀬波)である。徳川時代の文化6年(1809)この地に出生、若くして出家し、本州、四国、九州と日本全国を巡歴して50年近くも修行を重ねた。
そして明治4年(1871)四国巡礼のとき幡多郡八東村高野谷にあった植田常蔵宅に宿をとるが、滞在中に病におかされ同年旧10月9日に逝去した。享年63歳。墓碑は坊の希望した現本堂のそばに建てられた。
然し間もなくはるばる泉州堺より「六根祈念行者大菩薩」と刻まれた石塔が送られてきた。つまり坊には二つの法名があり、この法名のもと本州に多くの信者がいたことになる。この石塔は現本堂内にまつられている。
今大師の念忌は明治5年より毎年旧10月9日植田家を先達に多くの信者の協力をえて行われている。平成8年旧10月9日には第126回忌がとり行われた。平成9年3月吉日」とあった。
             
伊豆田隧道
旧国道を進むと右に逸れる道があり、遍路道案内も右への道を示す。遍路道案内を見遣り、旧 国道に残るという伊豆田隧道をちょっと見に行く。遍路道分岐点からほどなく道が突然藪に遮られ、その先に閉鎖された旧国道・伊豆田隧道の入り口が藪の中に残っていた。






伊豆田峠への山道に入る
伊豆田隧道から遍路道の案内のあった場所に戻り、林道へと右に逸れる。ほどなく道の右手に「伊豆田道」の案内。林道を逸れて山道に入る。




伊豆田峠
10分弱歩き、標高を50mほど上げると稜線鞍部に。特に案内はないが伊豆田峠であろう。文字は読めないが標石らしき自然石の石柱が立つ。「七里半」の文字がかすかに読める。足摺山との文字も刻まれているようだ。
峠には茶屋があったようで、如何にも小屋跡といった一画が残る。峠を境に四万十市から土佐清水市に変わる。共にかつての幡多郡に属した地域である。

峠から林道へ
峠からの下りは等高線に沿って少し少し険しい坂を50mほど高度を下げ、その先少し緩くなった垢を更に50mほど高度を下げた後は、緩やかな坂を50mほど高度を下げた、最後にトラバース気味に50mほど高度を下げると舗装された林道に出る。峠からおおよそ1時間弱といったところだろうか。

澄禅は『四国遍路日記』に「イツタ坂トテ大坂在、石ドモ落重タル上二大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。是ヨリ坂ヲ下リテ一ノ瀬ト云所ニ至ル」とある。大雨大嵐の後であるとは言え、歩いた感じではそれほど厳しい峠越えではなかったように思えた。地元の方の道整備の御蔭かと感謝。

剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
市野瀬川の支流に沿って山裾の林道から里道を南に進み、市ノ瀬川に架かる市ノ瀬橋北詰で県道346号に合流。その北詰に道案内などと共に6基の標石が立つ。

道案内は「県道右折は三原、左折は真念庵前(へんろ道0.2km)、38番金剛福寺29km」とある。三原は宿毛市の39番札所延光寺への途中の集落であり、多くのお遍路さんは金剛福寺を打った後、この地まで打ち戻り土佐最後の札所である延光寺へと向かうことになる。この地が金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点ということだ。
案内には「ここより三十八番札所金剛福寺(足摺岬)まで七里の遍路道には、三百五十基の丁石(道標石)が設けられていましたが、道路工事や開発等でその数が少なくなり、現在、約十四キロメートルの遍路道と道沿いには五十五基の丁石が残っております」とあった。
北詰に残る標石は左端に自然石標石。多数の文字が刻まれれるがはっきりしない。その隣、最も大きな板状標石には「あしずり三百五十丁 五社十四里 寺山へ五里 弘化二」といったも文字が読める。その横は手印だけが見える。その横の標石は形から見て真念標石のように思えるがはっきりしない。その横の標石には「左 三十八番 左足摺道七里打戻り 寺山道 昭和七年」といった文字が刻まれる。右端の自然石標石の文字は読めない。


真念庵からあしずり遍路道を金剛福寺へ■

真念庵への標石
市野瀬川を渡り県道を少し進むと、道の右手に2基の石碑。小さいほうには「日本第一霊場 真念庵 昭和十二年」、高いほうは標石。「番外霊場 真念庵一八〇米 三原村経由延光寺二五、六粁 窪津経由金剛福寺 二九、八粁」とある。
その横に真念の案内。 「真念 大阪寺島で活躍していた真念法師は、四国八十八ヶ所札所中 三十七番札所岩本寺から三十八番札所金剛福寺、三十九番札所延光寺までは距離が長く難行道程であるため三寺を結ぶ中間地(市野瀬)に、天和(一六八一から一六八三年)の頃、地蔵大師堂を建立しました。
この地蔵大師堂はいつしか真念庵と呼ばれるようになり庵の前に四国八十八ヶ所札所の本尊仏を設置し、三十八番札所足摺金剛福寺巡礼の打戻りの宿や荷物置場として利用されるようになりました。
この庵から三十八番札所金剛福寺までの七里の遍路道に、一丁間隔で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。これを「足摺遍路道三百五十丁石」と呼んでいます。
足摺の地は古くから「補陀落東門」(観音菩薩の住む山の東門)と呼ばれ、各地から多くの遍路 (巡礼者)が巡礼に来ています。地図のない時代、知らない土地で、この丁石を頼りに金剛福寺への巡礼をしたと思われます。
これらの丁石の大部分は作州(岡山県)や播州(兵庫県)摂州(大阪府)の遍路と地元の人々によって建てられています
最近、道路などの開発工事で遍路道や丁石が少なくなっていますが、真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とあった。

真念庵
真念庵の案内前の自然石でできた石段を上る。境内右側に最近建て直された風情の新しい大師像が建つ。その対面には二列になった88基の舟形石仏がミニ霊場として並ぶ。ミニ霊場右手の2基の舟形地蔵に囲まれた角柱石碑には正面梵字の下に「真念法師 中開(?)實道」の文字が読める。実道は明治初期の庵主であり、四国巡拝をおこない浄財を集め88体のミニ霊場を造ったとのことである。
舟形石仏の前に自然石の標石。「是よ里足摺山江 三百四十九丁 弘化二」の文字が読める。その右手、地蔵立像の彫られた小さいがなんとなく印象深い石仏の前に、手印と友に「此の方 あしずり道」と刻まれた標石がある。
真念は『四国遍路道指南』に、「市野瀬村、さが浦より是まで里で八里。此村に真念庵といふ大師堂、遍路にやどをかす。これよりあしずりへ七里。但さ々やまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよりもどる。月さんへかけるときハ荷物もち行。初遍路ハさ々やまへかへるといひつたふ。右両所の道あないこの庵にてくハしくたづねらるべし」と記す。
『下茅の歴史』には、「真念が、お大師さんの遺蹟を訪ねて巡錫中、成川にさしかかったところ、音瀬寺という三十三間堂を模ねたお堂が荒れ放だいになっているので、本尊の地蔵菩薩を市野瀬に移し、弘法大師の像と薬師如来の二体とともに祭り、真念がイオリを結んだ跡」と記す。寺伝には真念が高野山より等身大の大師像を背負い安置したともあるが、この地に伝わる三度栗の話、また「くわず梨」の話と同じく伝説は伝説として聞き置くべし、か。
さ々やま
さ々やまは「篠山(ささやま)神社・篠山観自在寺のこと。愛媛県南宇和郡愛南町正木の標高1065mの篠山に建つ。札所ではないが、往昔より多くのお遍路さんが巡拝した番外札所である。

真念庵より「あしずり遍路道;真念道」を進む
あしずり遍路道標識A
真念庵より先へと「あしずり遍路道」の標識がある。県道に沿った丘陵を10分ほど歩くと県道346号と国道321号が合流する辺りで遍路道は舗装道路に下りる。
石段を下り切ったところに「道標アリ あしずり遍路道」の標識(便宜的に、「あしずり遍路道標識A」とする、以下の標識も同様)があり、その横に丸い自然石がある。標石かもしれない。
メモの段階でわかったことではあるが、この箇所の「あしずり遍路道」は「真念道」と称される。 ここからしばらく国道321号を辿ることになる。

市野々・あしずり遍路道分岐点
あしずり遍路道標識B
国道を少し南下すると右に逸れる道があり、その分岐点に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識B)が立ち、「真念庵水車口(国道1,7km)-市野々分岐=長野道北口(県道約1.2km)」の案内もある。
国道を右に逸れ旧道に入る。ほどなく道の右手、民家の角に「道標あり(あしずり遍路道)」の標識と共に板状の大きな標石が立つ。文字は読めなかった。
あしずり遍路道
分岐点のあしずり遍路道の標識に「長野道北口」と記されれていた。「長野道」って何だ?チェックすると土佐清水市観光協会のページにあしずり遍路道として「出発点>真念道>長野道>鍵掛道>久百々(くもも)道>ふた浜道>大岐東道>大岐浜道北口>ジンべー道駄馬口>以布利浜道駄馬道>ホウノ谷道>窪津鯨道>下駄馬道>権現道>津呂道>つばき道>赤碆道>赤碆東道>切詰道>足摺岬道>第38番札所金剛福寺」の地図が示されていた。
真念庵の案内にあった「真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とあるのがそれだろう。
出発点は伊豆田峠を越え県道346号に合流した地点、6基ほどの標石の立っていた金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点であった。
金剛福寺まで、あしずり遍路道の区間道を頭に入れ乍ら進むことにする。

国道321号に戻る
左折分岐点(遍路タグ
分岐点から少し進むと左を指す遍路タグがある。上述標識にあった長野は未だずっと南。直進すれば上述あしずり遍路道にあった、長野道>鍵掛道と続く。直進べきか、左折すべきか躊躇。
真念の『四国遍路道指南』に「〇市のゝ村〇をがた村、しるし石有。川有、洪水の時ハ下ノかやうら舟渡り有り。此かやうら太郎左衛門其外やどかすなり。常にはをがわしるし石より右へ渡る」とある。 をがた村(小方村)は下ノ加江川左岸。とりあえず、真念の記述に従い左に折れ国道321号に戻る。

小方から旧路に逸れ下ノ加江川左岸を進む

国道321号に戻り、すぐ左に逸れ旧路に入り直ぐ国道に復帰。このあたりで市野瀬川は下ノ加江川に合わさり、下流は下ノ加川として南流する。
下ノ加江川に沿って南に進み小方から左に逸れる旧路に入る。旧道を進み左八坂神社のあるところで右折し下ノ加江大橋に向かう
下ノ加江
植物の茅に由来。燃えやすい茅の字を嫌い霜栢に変 わり、明治には下ノ加江村(土佐地名往来)
小方
下ノ加江川の河口左岸、昔は小さな入り干潟。やが て土地となり集落となる小潟が小方(土佐地名往来)

初崎より東海岸廻り遍路道との合流点
初崎より伊豆田峠を越えることなく、東海岸を歩くお遍路さんもいる。初崎・立石・布経由・下ノ加江まで17キロほど。伊豆田峠越えより3キロ長い。海岸線とはいいながら山が海岸に迫り、前線舗装ではあるが、山道といった道筋ではあるという。

下ノ加江大橋を渡り鍵掛へ
八坂神社で右折し下ノ加江大橋を渡り対岸の鍵掛へ。上述真念の『四国遍路道指南』には、市野々村から下ノ加江川を左岸の小方村に移り、下ノ加江浦で舟で鍵掛村に渡ったように読める。ゆえに、このルートを辿ったのだがなぜ市野々から長野・鍵掛と下ノ加江川右岸を進まなかったのだろう。歩けるような道がなかったのだろうか。



あしずり遍路道:長野道
あしずり遍路道標識C
メモの段階で少し気になり土佐清水市の「あしずり遍路道」を参考にGoogle Street Viewでチェックすると、左折することなく下ノ加川右岸を進むと「道標有り(あしずり遍路道)」の標識(あしずり遍路道標識C)が立っていた。傍に道標は見えなかったが、長野道はこのコースのようだ。 真念の『四国遍路道指南』にも、「 つねにはをがたしるし石より右へわたる」とある。小方から下ノ加江川を渡ればこの「道標有り(あしずり遍路道)」の辺りに出る。長野道が下ノ加江川の右岸を直進するのか、一度左岸に渡り小方村から再度川を渡り直して右岸に出たのか不明ではある。

鍵掛(かいかけ
あしずり遍路道標識Dと標石
下ノ加江大橋を渡ると、橋の西詰、四国霊場巡拝案内所 御接待の一心庵の前に標石と「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識D)。少し新しい標石には「延光寺 金剛福寺 岩本寺」の方向が示される。
この辺りが「 鍵掛道の始点かとも思う。ルートははっきりしないが、国道から逸れる旧道が通る。それが鍵掛道かもしれない。旧路から国道に戻り、左に浜を見遣りながら久万地岬を進む。
鍵掛(かいかけ)
中世以前の地名で古くはかぎかけ、かぎがけ。カケ は崩壊地名。カイは欠きから転じたもの

久百々(くもも
あしずり遍路道標識E
あしずり遍路道標識F

久万地岬を廻り込むと久百々の浜に出る。遍路道は浜を走る国道を右に逸れ山裾を進む。直ぐ久百々に架かる橋。橋の北詰に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識E)。ここが「あしずり遍路道」の久百々道の始点かとも思う。
旧道を進み再び国道に合流する手前に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識F)。そのまま国道に戻る。
あしずり遍路道・久百々道
当日はそのまま国道に出たのだが、メモの段階で標識をよく見ると山に向かって進むようにも見える。久百々道は標識から道に折れ山道に入り双浜に向かうのかとも思える(推定)。

ふた浜
あしずり遍路道標識G
当日は山道に入ることなく国道321号に戻り「ふた浜」に進む。浜の南端、小川を渡ると「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識G)。当日はそのまま蟻碕の岬へと先に進んだ。





あしずり遍路道・ふた浜道
あしずり遍路道標識H
これもメモの段階で標識を見ると、国道を進むことなく山道に入る案内ではないかと思えてきた。その根拠は、蟻碕の岬にある漁港の辺り、旧道が国道に合流する箇所に「あしずり遍路道」の標識が立っていたため(あしずり遍路道標識H)。「あしずり遍路道・ふた浜道」は山側の道を進み国道合流点の標識に出て来たのかもしれない(標識たけからの推測)



大岐東道
あしずり遍路道標識I
蟻碕に入ると国道から法面壁手前から右に逸れる道がある。入り口左側には舟形地蔵。右側には」あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識I)が立つ。遍路道はここで右に逸れ旧道に入る。

 

旧道に入ると右手に標石。さらには地蔵を祀る小祠、欠けた石造物などが目に入る。国道の山側を進む「あしずり遍路道」はほどなく国道32号に合流する。
この箇所は土佐清水市の「あしずり遍路道」にある「大岐東道」だろう。

大岐浜
国道に合流するとほどなく道の左手、海側に展望・休憩スペース。「大岐松原」の案内。「大岐松原は官有地であったが、上灘村三代目村長の十年の長きにわたる運動により終に払下に成功した。当時は今の倍位あったものが半分は開墾し畑にして部落民にわかち与え、現在残っているのは部落共有である。
松原の由来は不詳でであるが古老の言によれば江戸時代野中兼山の植林せものが樹齢三百年、三年、高さメートルの松になったものという。
天空に聳え林立して壮観なものであったが、昭和三十年頃、マツクイムシのために括れて、長さ十八メートル、節悪しの見事な木材として浜より高知市種崎の造場所に運ばれた、現在は古本は 一本もなく、海寄りの松の内、大きいものは七十年位前に大岐青団の手により植林されたものである」とある。
砂浜に沿って続く松林がそれだろう。

下港山へのあしずり遍路道
あしずり遍路道標識J
遍路道は直ぐ先、国道を右に逸れ浜垣集落に入る旧路を進んだ後国道に戻り南下、大岐浜が切れる辺り、大岐南橋を渡ると左に逸れる旧道がありそこに「あしずり遍路道 大分岐2.1km」の標識(あしずり遍路道標識J)が立つ。国道を逸れ下港山の集落へと進む。




大岐浜道北口
あしずり遍路道標識K
上述、展望・休憩所で大岐浜を見ていると、大野川と大岐川が合わさり海に注ぐ流れに橋が架かる。この橋を渡り浜を進むお遍路さんもいるようだ。どこから浜に入るの探してみる。
展望・休憩所より少し先に進むと浜に出る道があり、そこに「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識K)が立つ。「あしずり遍路道」にあった「大岐浜道北口」がこのあたりかもしれない。 大岐浜道は上述大岐南橋を渡り下港山集落に進む旧路に上がってくるのだろう。当日はその上り口を見逃した。

以布利
「四国のみち」指導標X
「四国のみち」指導標Y
下港山の旧道を進み国道に合流。その先旗陽小学校の先で遍路道は国道56号を離れ以布利の町に入る。道なりに進み、以布利港を越えると道は上りとなる。その上りはじめる道の左手に「四国のみち」の指導標。坂を上り北へと大きく蛇行する北端に「四国のみち 大岐 窪津」の指導標が立つ。その先で県道27号に合流。ここが窪津への分岐点。窪津へはこの分岐点を左に折れる
あしずり遍路道・ジンべー道駄馬口
あしずり遍路道標識L1
あしずり遍路道標識L2
土佐清水市の「あしずり遍路道・ジンべー道駄馬口」はこの道筋の辺り。メモの段階でGoogle Street Viewでチェックすると国道321号から以布利の町に左に折れる分岐の少し北に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識L1)があった。位置からすればこの辺りがジンべー道駄馬口ではあろう。
更にGoogle Street Viewでチェックすると、国道から逸れた旧道から港へと左に折れる道を進むと左に逸れる分岐点に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識L2)が立つ。
道を左に逸れ、再び旧路車道に合流し港へと向かうと、切通状の道の左手に「遍路道」の案内があった。これが「ジンべー道駄馬口」の道筋かどうか不明だが、海岸を進む遍路道ではあったのだろう。
また、当日は由布利の町を抜け、「四国のみち」の標識を見遣りながら車道を県道27号・窪津分岐へとすすんだのだが、遍路道は坂を上る手前、道の左手にあった「四国のみち 大岐 窪津」の指導標(「四国のみち」指導標X)からから車道を左に逸れ坂を上る。すぐ蛇行して上ってきた車道とクロス。そこが上述「四国のみち 大岐 窪津」の指導標(「四国のみち」指導標Y)が立つところ。そこから車道を横切り更に上り県道27号窪津分岐に数むようである。
駄馬
駄馬は河岸段丘の意味との記事があった。

窪津分岐
あしずり遍路道標識M
窪津への分岐点には舟形地蔵など3基の石造物。道を左に入り先に進むと「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識M)の標識。道は海岸側から合流している。







あしずり遍路道標識N
さらにその先、南西に切り込む沢筋を大きく迂回すると突端に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識N)と「四国のみち 以布利1km 窪津4km」の指導標、そして「金剛福寺」と刻まれた結構新しい道標が立つ。






あしずり遍路道標識O
あしずり遍路道標識P
沢を迂回し、更にもうひとつ沢を迂回するとその先、道の左右に「あしずり遍路道」の標識が立つ。 谷川の標識には「四国のみち 以布利1.5km 窪津3,7km」(あしずり遍路道標識O)とあり谷筋から上ってきている。また山側の「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識P)は車道を逸れて山側に入っている。
はてさて、これはどういうこと?あれこれチェックすると今まで辿ってきた遍路道とは異なる「あしずり遍路道」が現れた
海岸廻りの遍路道
ジンべー道駄馬口もそうだが、それ以外にもGoogle Street Viewでチェックすると以布利港の西に窪津分岐へと辿った道を左に折れ浜方面に向かう遍路道案内がある。
漁港を越え砂浜を少し歩き山道に入る。山道を上り切ったところが上述、窪津分岐の先で出合った「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識M)のところのようだ。
そこから車道を歩き、これも上述金剛福寺の石碑があったところに進むが、この石碑のあるところいが「あしずり遍路道ほうの谷道」のスタート地点(あしずり遍路道標識N)。あしずり遍路道はここから沢に下り、上り返したところが、これも上述「四国のみち 以布利1.5km 窪津3,7km」の「四国のみち」指導標(あしずり遍路道標識O)の箇所。

あしずり遍路道標識Q
ここから遍路道は車道をクロスし、山側にあった「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識P)の標識から山道に入り伊予駄馬へと向かうようだ。車道を進むと尻貝の浜の先、民家の建傍で大きく道が弧を描く道の山側に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識Q)が立っていた。伊予駄馬道の出口ではあろう。
上記「あしずり遍路道」はその標識を基にしたあくまでも推定コース。当日は「あしずり遍路道」の標石が旧路を案内するものとは思わず、ルートがオンコースである目安程度であろうとに歩いていたのだが、もう少しちゃんと調べておけば結構面白そうな遍路道を歩けたのに、と常の如く後の祭り。今回は残念な思い強し。

県道27号と県道347号分岐点
あしずり遍路道標識R
海岸沿いの鬱蒼とした樹林帯の中、道を進むと県道27号と県道347号が左右に分かれる分岐点に出る。分岐点には「四国のみち」の指導標。「窪津1.9km  以布利3,3km」とある。
遍路道は左へと県道27号に折れる。そこには「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識R)が立っていた。
当日は、遍路道オンコースの案内であろうと海岸沿いの道を進み窪津の町へと入った。
あしずり遍路道・窪津寺下道
メモの段階でチェックすると、県道分岐点の「あしずり遍路道」標識の直ぐ先から山に入るようだ。Google Street mapでチェックすると右手に山に入る道が見える。ルートははっきりしないが、窪津寺下道と称されるように、山中を進み窪津の町にある海蔵院辺りで里に出るようだ(推定)。




窪津
窪津鯨道が象徴するように、窪津は東海岸最大の漁港。藩政時代は捕鯨、と言うか、鯨の生け捕りで栄えた町とのこと。このあたりの古名は「伊佐」とのことだが、それは鯨(いさな)由来と言う。昭和初期まで伝統的捕鯨が続いたようだ。
当日は窪津を抜け海岸沿いの県道27号を津呂へと向かった。
あしずり遍路道・下駄馬道
あしずり遍路道標識S
四国のみち」の指導標と遍路道案内
窪津漁港の南端、窪津の旧道が県道に合流する箇所に「四国のみち」の指導標が立つ。その傍に遍路道案内があり、県道と逆方向を指す。この県道を右に逸れる旧道から山道に入る遍路道があるようだ。清水市観光教会の資料にある「下駄馬道」がそれだろう。地図にも窪津碕をぐるりと廻る県道をショートカットし、丘陵部を進み県道に続く実線が描かれている。その県道合流部には「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識S) が立っていた。
あしずり遍路道・権現道
あしずり遍路道標識T
あしずり遍路道標識U
下駄馬道が県道に合流するところ(推定)から更に南に進むと権現という地名がある。Google Street Viewでチェックすると松碆の辺り、道の右手に「あしずり遍路標識」(あしずり遍路道標識T) があった。更に南、柳駄馬辺りで道の左手から県道に合流する箇所に「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識U)の標識があった。
想定するに、北の標識より県道を右に逸れた遍路道は南下し県道を横切り柳駄馬にあったあしずり遍路標識のところに出るのだろう。

津呂道
あしずり遍路道標識V
県道27号を進み左に金毘羅宮を見遣り先に進むと、道の分岐点に3基の石仏が立つ。遍路道はここで県道を離れ右に逸れる道に入る。分岐点には「四国のみち」指導標、「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識V)の標識も立つ。





2基標石
道を進むと右手に「道標あり(あしずり遍路道)」の標識。傍に自然石の標石2基。大きな標石には「六十五丁」の文字、また「七ふしぎ」の文字も刻まれる。「七ふしぎ」って何だろう。 その横、誠に小さな標識には「五十六丁」と刻まれる。


3基石造物
右手の竈戸神社社の先に遍路墓。少し進むと「道標あり(あしずり遍路道)」の標識があり石造物3基。右端は「五十五丁」、その横は「五十*丁」と読める。左端は文字は読めなかった。
先に進むと石造物の並ぶ覆屋。その先で遍路道は県道27号に戻る。県道合流点には「遍路道」案内が立っていた。
この遍路道はあしずり遍路道・津呂道である。
津呂
津呂は山間で川水の淀んで波静かなところを指すトロ(瀞)の土佐での転化とも言われる。この地の津呂も自然の浦曲の状をなし、内部に侵入した海水もここでは穏やかな淀みになっていたものと考えられる、と「四万十町地名辞典」にある。

あしずり遍路道・赤碆東道分岐点
あしずり遍路道標識W
津呂道から県道に戻った遍路道は県道27号を駄馬、大谷、赤碆、赤碆東へと進み県道から左右に道が分岐する箇所に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識W)が立つ。土佐清水市のあしずり遍路道の案内と比較すると、この分岐点が「あしずり遍路道・赤碆東道」への分岐点かと推定する。
あしずり遍路道
津呂からこの赤碆東道分岐点までにもあしずり遍路道がある。津呂道を出た先、駄馬地区のあたりに「つばき道」があると言う。標識はみつからなかった。つばき道とは、この辺り河岸段丘面に強風を避けるために椿を植えたゆえではあろう。
「つばき道」の先に「赤碆道」があると言う。赤碆地区を下り、白碆と黒碆の岩礁部の間、赤碆東地区の海側に「赤碆道」のマークが示されるが、県道にはその出入口の標識は見るからなかった。

舟形標石
あしずり遍路道・赤碆東道分岐点から海岸に沿って県道27号を南下。右に伊勢宮の小さな社を過ぎると道の右手に舟形地蔵。横に消えかけた手書きの案内があり、「この石地蔵は金剛福寺への 道しるべ"として建てられたものです。県道開通以前の旧道には、足摺のお山にかかる切詰の谷から金剛福寺までの約八百八十メートルの間にこのような石地蔵が一丁(約百十メートル)ごとに八体建てられおり、ここからはお寺まで一丁あります」とある。
あしずり遍路道・切詰道と足摺岬道
この案内に拠れば、海岸沿いの県道ができる前は赤碆東道分岐点を右に折れた後、丘陵の中を抜けこの舟形地蔵のところに出て来たようだ。その遍路道が切詰道であり、足摺峠道ではあったのだろう。土佐清水市の案内にはあしずり遍路道・赤碆東道分岐点から県道を離れ右に折れると道は南下しヘアピン状で曲がる突端あたりに「切詰道」のマークがあり、道から離れた南に「足摺岬道」のマークがある。
国土地理院の地図には県道の山側に破線が描かれている。この破線に沿って遍路道は続いているのだろうか。

第三十八番金剛福寺
舟形標石の先、足摺岬を廻ると第三十八番金剛福寺に着く。 本日のメモはここまで、次回は金剛福寺から土佐最後の札所延光までの遍路道をメモする。

岩本寺を打ち終え次の札所はあし足摺岬突端に建つ金剛福寺。真念の『四国遍路道指南』には「別当岩本寺くぼ川町に居。是よりあしずり迄廿壱里」とある。単純に一里4キロで計算すると84キロとなるが、事実は少し異なる。
「みちのりは、あハととさハ(私注;阿波と土佐は)五十一丁一り、いよとさぬきは、三十六丁一り」といった記録もあり、阿波では一里48丁(5.2km)、土佐50丁(5.5km)、伊予と讃岐は36丁(4km)ともあった。現在では一里4㎞とするが、それが通用するのは伊予と讃岐だけ。理由は不詳だが、かつては国によって一里の距離が異なっていたようだ。
これをもとに計算すると 21(里) X 51(丁) X 109(m)=116,735(メートル)、つまり117キロ弱となる。昔のお遍路さんは3泊4日の遍路行であったよう。
メモは2回に分ける。今回は岩本寺から旧土佐中村市(現四万十市)の左岸、往昔渡しのあった竹島大師堂までをトレースする。距離はおおよそ50キロほどだろうか。
途中、知らずはるか昔の四万十川(古四万十川)が太平洋に注いだ伊与木川の谷筋を歩くことができた。現在四万十川は源流より東流し大きく弧を描き旧土佐中村市で太平洋に注いでいるが、それは南海トラフの地殻変動で海岸部が盛り上がり(興津ドーム)、海に落ちることができなくなり、東へと流路を求めた結果であった。
遍路歩きとは全く関係はないのだが、地形フリークのわが身には誠にありがたい出合い、セレンディユピティであった。
ともあれ、メモを始める。



本日の散歩;
■第三十七番札所 岩本寺>水車亭の標石群>国道56号を峰ノ上・片坂越え分岐点に
■片坂越え;(旧遍路道土径に>片坂第一トンネル東口上を歩き国道56号に下りる>市野瀬に下る)>市野瀬で伊与木川筋に出る
■荷稲>伊与喜>熊越坂>徳右衛門道標と地蔵堂>土佐佐賀の石地蔵群>横浜トンネル南口で国道に戻る>井の岬を廻る>松山寺跡>安政地震の碑>有井で国道に合流>王迎浜の碑>浮鞭(うきぶち)の大師堂>入野松原>県道42号を馬越分岐へ>県道20号を左折し下田の渡しへ>高島の渡し・竹島大師堂



岩本寺から片坂越えに

第三十七番札所 岩本寺
岩本寺を離れ山裾を東に向かう。すぐに土佐くろしお鉄道中村線の高架を潜り、山裾をぐるりとまわり国道56号へと向かう。
土佐くろしお鉄道中村線
土佐くろしお鉄道は高岡郡四万十町の窪川駅と四万十市の若井駅を結ぶ。途中、四万十町の若井駅から全長2134mの若井トンネルを抜けた先、川奥信号所で予土線が分岐する。土佐くろしお鉄道は川奥信号所からすぐループ式トンネルの第一川奥トンネルに(2031m)に入りグルリと円を描き50mほど高度を下げて伊与木川支流の渓谷に沿って南下する。
一方、川奥信号所で分岐した予土線はすぐ先でトンネルに入り、家地川の谷筋を北へ進み四万十川近くの家地川駅に向かい、北宇和島駅で予讃線に繋がる。予土線は北宇和島・川奥信号所までの72.7キロがその路線ではあるが、川奥信号場と若井駅 間は土佐くろしお鉄道中村線・予土線共に属する重複区間となっており、宇和島と窪川駅が直接結ばれている。

水車亭の標石群
国道56号に合流する手前、大きな水車がトレードマークの水車亭の駐車場脇に5基の標石。「八十八ヶ所道標 明治四十互年頃、近郷の有志が建立した道しるべである。その志を後世に伝えたい。合掌 平成四年」と書かれた案内も立つ。
大岩に置かれた3基は右から「順 四国三十八 二十一り 逆三十七番へ四丁 三十六番まで十三里 明治四十五年」、その横、猫脚台に乗る標石には大師座像と「右 左 四国」と言った文字が残る。左端の標石の文字は読めない。
大岩の横に2基の標石。右手の上部破損の標石には「拝みちしる志 七番 八番」といった文字、左手の自然石標石には「右ハへんろみち 左よつしわ道」といった文字が刻まれる。「よつしわ道」は与津や志和を指すのだろうか。

国道56号を峰ノ上・片坂越え分岐点に
国道56号と合流するとすぐに東から流れてくる見付川が吉見川と合流する地点に。共に窪川台地の南に連なる五在所の峰(標高658m)より流れ出す四万十川の支流。
遍路道は吉見川が開析した谷筋を南下する国道56号をその最奥部まで進み、五在所の峰から西に繋がる丘陵鞍部を上る。丘陵鞍部といっても谷筋との比高差は30mほど。それでもこの丘陵を境に水系が四万十川水系の若井川へと変わる。若井川の源流部の流れに沿って進み峰ノ上に。 遍路道はここで国道を逸れ片坂越えの道に入る。


■片坂越え■

旧遍路道土径に
国道分岐点から峰ノ上集落の中を進む。途中、溜池から若井川に注ぐ水路を横切り。右手に天満宮の鎮座する小丘陵を見遣り、さらに丘陵より若井川に注ぐ沢を越え、丘陵に切り込んだ谷の最奥部まで進む。ここまで続いた舗装も切れ土径へと入る。
行政区域も高岡郡四万十町から幡多郡黒潮町に変わる。

片坂第一トンネル東口上を歩き国道56号に下りる
土径を15分弱歩くと国道56号に抜かれた片坂第一トンネル東口上に出る。東口端のフェンスよりに片坂第二トンネル西口を見遣りながら片坂第一トンネル東口、国道南側に出る。




市野瀬に下る
片坂第一トンネル東口、国道南側に下り切ったところに遍路道案内のタグと比較的新しい標石。「南大師遍照金剛 金剛福寺七五粁」と刻まれる。




市ノ瀬の国道56号に合流
案内に従い遍路道はそのまま土径を伊与木川支流の谷に向かって下り市野瀬集落で国道56号に合流する。国道56号は片坂第一、片坂第二トンネルを抜け、ヘアピンカーブを経てこの地に至る。
市野瀬
「中世以前からの地名で一の瀬・一野瀬・市ノ瀬。川の上流の坂を下ったところ。市は一番目の瀬(桂井) (土佐地名往来)

四万十川の流路変遷
上述の如く、現在峰ノ上の丘陵を境に四万十川水系と伊与木川はその分水界を分けるが、太古の昔、不入山にその源を発した古四万十川は土佐を大きく西龍することなく峰ノ上・片坂越えで出合った若井川から伊与川へと流れ太平洋に注いでいた、という。
四万十川流路の変遷をちょっとまとめておく;
全長196キロという四万十川には、大小合わせると70ほどの一次支流、200以上の二次支流、支流に流れ込む300以上沢があると言われるが、その中でも幹線となるのが、高岡郡津野町の不入山から南下し窪川に下る松葉川(現在目にしている流路)、四国カルストの山地から下り四万十町田野野で本流に注ぐ梼原川、愛媛の北宇和郡の山間部にその源を発し、四万十市西土佐の江川崎で本流に注ぐ広見川の三川とのこと。その三つの幹線支流を繋ぐのが「渡川」とも呼ばれる四万十川の川筋である。
現在、海から最も遠い地点ということで源流点となっている、不入山の源流点から南下してきた四万十川は窪川の辺りでその流れを西に変え、その後北西に大きく弧を描き、山間の地を、蛇行を繰り返しながら、田野野で梼原川、江川崎で広見川を合せ四万十市中村で土佐湾に注ぐ。 これが現在の四万十川の流路であるが、上述の如く、太古の昔不入山にその源を発した古四万十川は土佐を大きく西龍することなく峰ノ上・片坂越えで出合った若井川から伊与川へと流れ太平洋に注いでいた、という。
いつだったか偶々図書館で見つけた『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』にあった「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり(高知県高岡郡窪川町・中土佐町)」というトピックにあった、「四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れ。。。」といった記事に惹かれ、二度に渡って訪れた散歩チェックした四万十川の流路変遷のメモ以下再掲する(「四国四万十川の後期第四系,特に形成史に関して(満塩大洸・山下修司;高知大学理学部地質学教室)」の記事を参考に作成)。
約70万年から40万年前;若井川経由で伊与木川から土佐湾に注ぐ
約70万年から40万年前、まだ南海トラフの跳ね返りによる海岸線の山地(興津ドーム)の影響を受ける前、古四万十川は与津地川から興津に落ちるものと若井川を経由して伊与木川から土佐湾に落ちるものがあった。
因みにその頃は、江川崎から現在の四万十川河口までには河川は存在していなかったか,あるいは,存在していても小規模のものであった、と。
私注:若井川経由の伊与木川とは、片坂越えで市野瀬に下った伊与木川支流の谷筋がその流路だろうか。その伊与木川支流の源頭部は片坂の尾根を境に若井川源頭部と誠に短い距離で近接している。
約40万年前から10万年前;興津ドームの影響を受け、若井川・羽立川経由で伊与木川から土佐湾に落ちる
興津ドーム隆起の影響を受け始めた約40万年前から10万年前には、古四万十川の西方への逆流が始まり、興津への出口を失いはじめた川は,窪川町付近における湖沼の時代を経て,若井川に加えて羽立川を排出口にした、とある(私注;羽立川か家地川のどちらかを経由して現在立っている伊与木川の谷筋を経て土佐湾に注いだということだろう。羽立川と家地川は後述)。 江川崎あたりから四万十川河口までの河川は, いまだ小規模であり,本格的なものではなかったようだ。
約10万年前から1万年前
この時期では,さらに興津ドームの隆起の影響を受け,古四万十川が西流をはじめたため、伊与木川にも水は流れなくなった。
いっぽう十和村付近(現在は四万十町;梼原川の合流点の少し下流)から江川崎,また,江川崎から現在の四万十川河口までの範囲が本格的に形成さしれ始めた.ただし,時期的には後者の方が前者より早く河川として成立していた。
約1万年前から現在
四万十川は現在みられるような流れとなった。

川の生成史では、流域は時間軸に従えば、V字谷>U字谷>準平原となるところ、四万十川では窪川盆地が準平原、その下流にV字谷やU字谷がある。とすれば、初期の流れは窪川辺りから南へ土佐湾に注いでいたであろうことは納得できる。 現在の「海に背を向けて流れる」四万十川の流れは、海岸線に出来た山地・興津ドームに南下を阻まれ、西流することになった「新しい」流れのようだ。「新しい」とは言え、はるか、はるか昔、10万前年から1万年の事ではある。


片坂越えから四万十川の渡しへ

市野瀬で伊与木川筋に出る
思わず知らずではあったが、はるか、遥か昔の四万十川の流路跡らしきルートを辿り市野瀬で伊与木川本流の谷筋に出る。
遍路道は国道56号を横切り伊与木川左岸の旧道を進む。しばらく歩き大前橋で国道56号をクロスし伊与木川右岸の旧道に移り、拳の川(こほ(ぶ)しのかわ)で国道56号に合流する。
伊与木の由来
「イオ、イヨ」は土佐で魚を指す。「木」は場所の意であるので、魚の豊富な場所、といった説がある。

荷稲 
国道56号をしばらく下ると荷稲。「かいな」と読む。荷稲とは「カイ(峡)は山と山の間、両方から山が迫ってくる地形。荷稲は峡野の転訛では(桂井氏)(土佐地名往来)」とある。
「稲をかうる(になう)」といった地名由来もあるが、伊与木川が形成する渓谷を「佐賀谷三里」と称し、荷稲はその中ほど。『四国遍礼名所図解』にも「是(市野瀬)より佐賀町、四里の間谷合にして家少なく用心悪し」と記されているので、「峡野の転化」が納得感が高い。
渓谷と言えば、伊与木川本流筋も渓谷ではあるが、上述川奥信号所でループして南下し土佐くろしお中村線の荷稲駅に至る谷筋も結構な渓谷である。土佐の片峠・四万十川の源流を辿る散歩の折り、この渓谷を走ったことがあるが、誠に狭隘な谷筋であった。
古四万十川の流路
この狭隘な谷筋を下り荷稲で伊与木川本流に注ぐ伊与木川支流の川奥川は、遥か、はるか昔、上述の如く古四万十川が西流することなく太平洋に注いだ流路である。
ループ線のある峠を境に北は四万十川水系の家地川と羽立川、南には伊与木川支流・川奥川の最奥部の谷筋が近接している。いまでもちょっとした近く変動が起これば、南北が繋がり四万十川の流れが伊与木の谷筋に流れ込みそうである。
この峠も片峠となっており、片峠の姿を時間すべく家地川そして羽立川の源頭部を辿り歩いたことが思い出される。

伊与喜
荷稲からしばらく国道56号を伊与川に沿って進み伊与喜の町に。伊与喜はこの辺り、伊与木郷の中心であったところ。一条教房が応仁二年(1468)に幡多中村に入国の後、文明二年(1470)に京都から堀川大炊助藤原信隆を招き、文明十年(1478)に伊与木城を築城した。藤原信隆は1200石を給され初代城主となり以来伊与木氏を名乗る。伊与木城跡は伊与木川の左岸、川に突き出た丘陵上に残る。
戸たてずの庄屋
この地の大庄屋の家に泥棒が入り込み、コメを盗んで逃げようとするも足が動かず捕まってしまった。この話が近郷に伝わり庄屋屋敷の敷居を削り持ち帰る村人が絶えなかった、と。これが前述岩本寺に伝わる大師の由来の七不思議のことだろうか。場所の比定はできなかった。
同様の話は愛媛の南予・愛南町正木にもあり、そこでは「戸たてずの庄屋」とも「戸たてずの楠」として伝わる;庄屋屋敷の楠に上り悪さをしていた天狗が家人の放った矢にあたり地に落ちる。家人は翼を返してやったところ天狗は喜び、「以降家に泥棒が入らぬようにする」と言い残し去っていった。天狗ではなく篠山権現のご加護といった話もあるが、それはともあれ、その後泥棒がこの家に入るも足が動かなくなり捉えられた。以降、近郷の村人は盗難除けに庄屋屋敷の敷居を持ち帰るようになった、と。
篠山権現
篠山(ささやま)神社・篠山観自在寺のことだろう。愛媛県南宇和郡愛南町正木の標高1065mの篠山に建つ。札所ではないが、往昔より多くのお遍路さんが巡拝した番外札所である。

熊越坂
土佐くろしお鉄道中村線・伊与喜駅を越えて少し下ると国道左に熊野神社。遍路道はここから国道56号を左に逸れ熊井の集落に入り熊越坂の旧路に入る。残念ながら散歩当日は旧路にあるトンネル先で工事通行止めのため国道56号を南下することにした(注;ルート図には熊井トンネル経由の道を記す)。
熊井トンネル
旧路にある熊井トンネルは情緒のある古いトンネルのようである。トンネル傍の案内には「熊井 トンネル 明治三十八年(一九六五)十二月に工事が完成し、長さ九十メートルあり、『トンネルというものは入口は大きいが、出口は小さいものじゃのう』と云った人があるという。
レンガは佐賀港から一個一銭の運び賃で小学生などが一~二個づつ運び、熊井側入口の石張は二人の職人が右と左に分かれ腕前を競ったといわれる。
昭和十四年(一九三九)までは県道として利用されたが、現在はわずか土地の人の通行に利用されているのみである」
熊井
上述熊野神社の由来には、「寿永年間 源平戦乱の後 弁慶の父別当田辺湛増は紀州より舟で熊野浦に上陸。文治二年末 熊居に移り 熊野三所権現を鎮座する」とある。熊居>熊井と転化したのだろう。

徳右衛門道標と地蔵堂
国道を進み上分集落で国道を左に逸れる旧道に入る。熊井トンネルを抜けた熊坂越えの遍路道との合流点に徳右衛門道標。「是より足ずり迄十六里」とある。傍には地蔵堂も。
遍路道は旧路を南下しほどなく国道に合流する。




土佐佐賀の石地蔵群
国道に合流した遍路道はほどなく国道を左に逸れる旧道に入る。丘陵裾に沿って進み道の右手に土佐佐賀駅を見遣りながら丘陵南裾に廻り込んだところに石地蔵堂。百基ほどもあるだろうか。 中に遍路墓らしき石碑も見える。

横浜トンネル南口で国道に戻る
佐賀の町を進み伊与木川に架かる佐賀橋を渡り、鹿島ヶ浦やその沖合に鹿島を見遣りながら道を進み横浜トンネル南口の先で国道56号に戻る。かつては鹿島ヶ浦と呼ばれていたようである。
土佐佐賀
伊与木川の河口に開けた町。ブリ大敷網漁業や足摺岬沖のカツオの一本釣り漁業の基地。江戸時代は捕鯨で知られた。かつての幡多郡佐賀町。現在は平成18年(2006)佐賀町の西に隣接する大方町と合併し幡多郡黒潮町佐賀となっている。
幡多郡
地図を見ていると現在幡多郡に属する町はこの黒潮町、三原町、大月町と飛び地のように離れている。かつての幡多郡はこの三町に加え、現在の宿毛市、四万十市、土佐清水市、高岡郡四万十町の一部を含む土佐最大の行政域であった。

国道56号を逸れ井の岬を廻る
遍路道は国道56号を南下する。海に落ちる山地と海岸の間を走る国道は、今でこそ整備されているが、往昔海岸線を辿る遍路道は結構大変だったことだろう。土佐白浜駅の先で山地を穿つ「井田第一トンネル」と分かれ、国道は更に南下し灘に至る。この辺りはかつての大方町。現在は佐賀町と合併し黒潮町となっている。
国道56号は灘から山地の東西幅最短部を「井の岬トンネル」で黒潮町井田に抜けるが、遍路道は国道を離れ更に南下し、井の岬を廻り井田に向かう。分岐点には「四国のみち:指導標が立つ。「土佐 入野松原へのみち」と刻まれる。
もっとも、分岐点とは記したのだが。「四国のみち」の示す方向がよくわからない。国道を直進するようも見える。その先「井の峠トンネル」があるが、その辺りはそれほどキツイ丘陵越えでもなさそう。往昔トンネル上を辿る遍路道があったのかもしれない。井の峠を廻るより結構なショートカットになる故の妄想である。


松山寺跡
岬を廻り切ったところに右に折れる道。岬を廻ってきた道と「井の岬トンネル」を出た国道56号を繋ぐこの道を右に折れたところに多くの石仏とともに松山寺跡の案内、「松山寺跡 清岸山東光院松山寺、真言宗 本尊薬師如来、並に地蔵菩薩。開山は空海と伝えられる。
往時はこの寺山に伽藍が聳え立ち、法燈は栄え、藩政時代にはお馬廻り三百石権大僧都の格式で、夕陽に映える寺山は古き頃『幡東八景』の一つでもあった。明治初年廃仏棄釈の政策により廃寺となる。
寺宝として土佐守紀貫之の『月字の額』が伝承され、古来南路志をはじめ多くの文献により京師の月郷雲客の間に喧伝され、その観賞価値は次第に高まっていった。寛政二年、中村の郡奉行尾池春水の『月字額之記』及び弘化二年、京の歌人一人一首読み人百三十七人による『月字和歌集」など原本のまま今も残り、寺跡には歌碑もある」とある。
月字額
国司館跡の「月字」
案内の後半がよくわからない。チェックする;ある年、松山寺の煤払いのとき梁上にあった扁額を無用のものと焼き棄てようとしたが、途中で思いなおし焼け残りの「月」の一文字を取り上げて残し置いた。その話を聞き及んだ尾池春水が紀貫之の真筆と相違ないと京都の日野大納言資枝に鑑定を依頼。資枝は真筆と認めた。紀貫之が土佐守として国府にで書いたものが松山寺に移されたものか、松山寺に立ち寄った折に書いたものかと伝わる。
『月字額之記』はそのままだが、それ以降の「京の歌人。。。」は、尾池春水没後30年ほどした紀貫之没後900年忌に合わせ、一橋家の執事野々山市郎左衛門包弘が,貫之の月字の搨本(とうほん;拓本)を入手・感激し,それを模刻して諸方の文筆愛好家に贈り,それらの人々から和歌を求めて一帖を作った、これが「月字和歌集」。百三十七人が皆月字の額を詠む。
参道を上ると歌碑などが残るのことだが、当日は参道口を見付けることができなかった。案内あたりからジグザグの参道があるようだ。
と、ここまでmemoした後、この話どこかでメモしたように思えて来た。そう、第二十九番札所国分寺近くの国司館跡(紀貫之邸跡)に上述と同じメモをしていた。そこには「月」の字のレリーフも造られていた。

安政地震の碑
松山寺跡から少し西に進んだ道の右手に自然石の「安政地震の碑」がある。石碑に刻まれた文字の最後に「松山寺住文瑞」の文字が読める。松山寺住職文瑞和尚の建立とのことである。





有井で国道56号に合流
遍路道は伊田川に架かる橋を渡り伊田漁港前を進み、その先で国道56号に合流する。この地には伊田第一トンネルを抜けてきた土佐くろしお鉄道中村線が近接し、すぐ西に有井川駅がある。
有井庄司
駅の北の丘に有井庄司の墓がある。有井庄司は元弘の乱(1331年)で敗れ土佐に流された尊良親王(後醍醐天皇の第一皇子)をかくまった鎌倉時代の勤王家。鎌倉幕府後滅亡後、帰京した親王が病死した有井氏を悼み送られた五輪塔と言う。
○元弘の乱
元弘の乱(げんこうのらん)は、鎌倉時代最末期、元徳3年4月29日(1331年6月5日)から元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

王迎浜の碑
有井川を渡り上川口に。蜷川(みながわ)に「王迎橋」が架かる。橋を渡った先は「王迎」地区。土佐くろしお鉄道中村線の「海の王迎駅」の南、国道脇の海岸線に、台石の上に置かれた自然石の「王迎浜の碑」が立つ。
「尊良親王御上陸地 侯爵佐佐木行忠謹書」と刻まれた石碑の脇にある手書きの案内には「王無浜 元弘二年二年・三月(1332)北條氏の専横により、後醍醐天皇第一皇子一の宮尊良親王は土佐の畑に遠流の身となられ、若宮は佐佐木判官時信らに警護され「一の宮はたゆとう波にこがれ行く、身を浮船に任かせつつ土佐の畑へ赴かせ給」(太平紀巻四)同月下旬この浜に御上陸なされた。時に奥湊川の領主大平弾正一族がお迎え申し上げ、程なく馳参じた有井庄の庄司有井三郎左衛門門尉豊高らに警護され山路踏みわけ今に残る「弾正横通り」を踏破して弾正の館にお着きになった。
以来若宮は北條方の監視厳しい中を「王野山」に「米原の里」にと移り変わる行在所で京の都を恋いつつ、二歳近い配所の日々をお過ごしになられたのである」とあった。
王無
王無浜の王無は「王待」の転化とも、有井三郎が到着したときは若宮は既に立ち去った後であったためとか諸説。また王無浜も北條氏をはばかってか「玉無浜」と称されたとの記事もあった。

いのちの泉碑
Google Street Viewに写る井戸
王迎浜の碑より国道は少し上りとなる。上り切ったあたりで遍路道は国道を左に逸れ旧道に入る。 王無の浜をぐるりと廻り国道56号を潜り東分川に架かる東分橋を渡る。
古い資料にはその先に「いのちの泉碑」があると言う。水の乏しいこの地の民は慶長の頃というから17世紀初頭に井戸を掘りあて、昭和31年(1957)に水道網が整備されるまで生活用水として使われた。それを感謝し「いのちの泉碑」を建てたとのことであるが、道の左手にコンクリートで固めらられた一画があり、台石の上のに破損した石が載る。訪れた時にはこの石碑以外に何も残っていなかったのだが、Google Sreet Viewには井戸らしき囲いとその横に標石らしき石碑が横倒しで写る。最近になって井戸跡も潰され、標石も撤去されたのだろうか。

浮鞭(うきぶち)の大師堂
その先で旧道は国道に合流。少し進むと大師堂があり、お堂の横に標石。「足摺山十二里」と刻まれれる。
浮鞭(うきぶち)
浮鞭は東の浮津と西の鞭地区の間にあり、両地名を足して二で割った地名。鞭は急に険しくなった山地、急傾斜地が崩壊してできた地といった意味のようである。

入野松原
遍路道は湊川手前で国道56号から左に逸れ入野松原に向かう。ここは元々は大きな潟の海中にできた砂洲に自然生の松が育ち松原となったもの。砂洲の内側の潟はこの地を領していた入野氏による代々の干拓事業により埋め立てられ、室町期には既に現在のような入野平野となっていたようであり、砂洲は砂浜となり砂丘の松原となっている。
入野松原は公園現在となっており、砂浜に沿った道、松林の中を通る遊歩道、キャンプ場、野球場などが整備されている。松林の中の道を歩き成り行きで砂浜に出る。長さ4キロにも及ぶという砂浜・松林が続く。
松林の起源については一般にいわれているのが、長宗我部元親の中村城代・谷忠兵衛が天正四年(1567)から四年間、防風林のために囚人を使って松を植えさせたという説である。否、全体の植林ではなく、松原の両端部である吹上川と蛎瀬川河口部を捕植したとの説もある。また、宝永四年(1707)の大地震による津波の復旧策として、住民各戸から松を六本持ちより防潮を目的として植樹させたのが始まりだという説もあるようだ。
谷中兵衛
谷忠兵衛は元は土佐神社の神職であったが、元親に仕えて重臣となった。豊臣秀吉が元親掃討の兵を起こす前、京都・伏見城で秀吉と会い、秀吉を「天下の盗人」と放言したとの話も伝わる。秀吉をして「珍しき男かな」と評価された人物であり、長宗我部が秀吉に屈した後も一國を治めることができたのは、忠兵衛の力に負うところが多かったという。
〇入野氏
応仁の乱を避けて一条家が土佐中村(現在の四万十市)に下向する以前、この入野一帯を治めていたのが入野氏(元藤原氏)と言う。公家大名として、勢力を拡大させてきた一条家により、幡多荘管理に組み込まれ、その後親子ともども殺害され滅した。


入野から四万十川の渡しへの遍路道■

往昔の遍路道は入野から現在の国道56号筋を進み、田の口から逢坂峠を経て古津賀へと進み、古津賀で国道を離れ古津賀川を下り四万十川左岸の井沢から渡し舟のあった高島へ向かったとも言う。
とはいうものの、澄禅はその著『四国遍路日記』に「入野ナド云所ヲ過テ田浦ト云浜ニ出タリ(中略)猶浜辺ヲ行キテ高島ト云所ニ出ズ爰ニ高島ノ渡迚大河在リ」と田野浦から浜辺を進み高島に進んだと記す。
また真念も「うきつ村、是より海ばたを行、ふきあげ川わたりて、塩干の時ハすぐにゆく、ミち塩の時ハ右へ行。〇入野村、かきぜ川引舟有。○たの浦、これより七八町はまを行。標石有。むかふ山はなハ下田道、こなたハ舟わたし。少まわり道○いでぐち村、此間小川・坂あり〇たかしま村、大河舟わたし、さね碕村天まというところに引舟あり」と田野浦から出口まで進み、そこから高島村に出て四万十川を渡ったとする。
澄禅は田野浦の先は「浜辺ヲ行キテ高島ト云所ニ出ズ」とありその間のルートは不詳である。また真念は田野浦から出口まで海岸線を進むとあるが、これも出口村から高島までのルートの記述はない。
因みに高島という地名は地図に無いが、四万十川沿いの井沢の南に竹島という地名があり、その地が高島では、とのことである。

澄禅、真念の歩いたルートははっきりしない。さてどうしよう。上述国道56号を辿るルート以外に出口から県道339号を進み「沢の峠」を経て上述古津賀に出た後古津賀川を下り四万十川左岸に向かうルートもある。実際このルートを歩くお遍路さんもいるようだ。
この国道56号、県道339号を抜けるふたつのルートは四万十川左岸の竹島にあった高島の渡しで四万十川を渡る遍路道としては理屈に合うが、現在高島に渡しは無い。
はてさて。あれこれチェックすると四万十川の渡しは河口の下田にあると言う。で、結局、出口から先の遍路道ははっきりしないけれども渡しのある四万十川河口の下田へと向かうことにした。

県道42号を馬越分岐へ
入野松原を抜け蛎瀬(かきせ)川に架かる蛎瀬橋を渡り、県道42号をを澄禅や真念の日記にもあった田野浦を抜け、出口の横浜。こまじり浜を左手に見遣り県道を進むと幡多郡黒潮町を離れ旧中村市域、現在の四万十市に入る。
双海を過ぎ金ヶ浜で平野への海岸線の道を分ける県道42号をそのまま進み、馬越えの分岐から山裾の道を辿り四万十川右岸の下田へ向かう。

県道20号を左折し下田の渡しへ
県道42号は四万十川左岸に建つ貴船神社角で県道20号に合流する。下田の渡しはここを左折し下田漁港をぐるりと廻る。漁港の突端辺りに「四国のみち」の指導標が立ち、「下田の渡し」の文字と共に四万十川に向かって道筋が示されている。特に待合所といった施設は無い。 改めてチェックすると、現在は予約制(202010月現在)で運行されているよう。下田の渡し保存会という有志の善意によるものである。予約もしておらず渡船叶わず。
下田の渡し
かつて四万十川には昭和の頃まで20以上の渡しがあったようだが、現在はこの下田の渡しが唯一残る、と。下田の渡しは昭和初期から運行が開始され、昭和40年頃までは個人の申し合わせで運営されその後平成17年(2005)までは旧中村市(現在の四万十市)が運営した。2005年からしばらく廃止されたが平成21年(2009)、上述の如く地元有志によって再開された、という。


高島の渡しへの旧遍路道再考
あれ?下田の渡しは昭和初期に開始された?ということは澄禅や真念の頃は下田の渡しはない。ふたりの日記に下田の渡しが記載されていないはずである。
であれば、そのルートは?更にルートをチェックすると『江戸初期の四国遍路 澄禅「四国辺路日記」の道再現;柴谷宗叔(法蔵館)』に推定ルートが載っていた。オリジナルの日記には田野浦の浜の次は高島とあるわけで、推定の域は出ないかとも思うが、そのルートは可能性として2つ示されている。
ひとつは出口のこまじり浜から丘陵部に入り高島(竹島大師堂)に向かうもの。もうひとつは出口の南、双海の集落から西の丘陵部に入り高島へと向かうもの。 真念の高島へのルートはみつからなかったが、日記に「○いでぐち村、此間小川・坂あり〇たかしま村」とあるので、上述澄禅の推定ルートをあるいたのかとも思える。そのルートは共にピタッと合う道は現在残らない。出口から丘陵を越えて竹島にある高島の渡しに向かった、といった理解で??よし、とする。



高島の渡し・竹島大師堂
予約もしておらず下田の渡しで四万十川を渡ることはできない。対岸に渡るには四万十川大橋を渡るしか術はなし。県道20号を歩きながら竹島大師堂をチェック。四万十大橋の少し北にそれはある。
ついでのことでもあるので、竹島にある往昔の高島の渡しを見ておこうと四万十大橋を越え県道20号を北進する。四万十大橋を越え丘陵部が四万十川に突き出たところまで進む。堤防の道は切れるが、少々荒れてはいるが川岸へtと下りる道があり、その先に高島大師堂があった。大師坐像が祀られる。この辺りが往昔の高島の渡しであろうと言われる。
記録には昭和51年(1976)までは竹島と対岸の山路(竹島の上流。後川が四万十川に合流する四万十川右岸に『山路の渡し」の碑がある)を結ぶ渡し「竹島・山路の渡し」があったと言う。昭和40年代までは船頭も常駐する渡し場であったようであるが、澄禅の頃は渡しとは言うものの、渡し舟も渡し守も常駐していたわけでなく、澄禅が「爰ニ高島ノ渡迚大河在リ。渡舟トテモ無シ。上下する舟ドモに合掌シテ三時斗咤言シテ舟ヲ渡シ得サセタリ」と、三時というから6時間ほど手を合わせ、咤言(大声で)お願いしてやっと渡河したとのことである。

本日のメモはここまで。次回は下田の渡しで四万十川を越えた初碕から先の遍路道をメモする。

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