2020年10月アーカイブ

今回は清瀧寺から青龍寺への遍路道をメモする。距離はおおよそ14キロほどだろう。このルートは地形の観点からみると少々バリエーションに富んだルートとなっている。虚空蔵山地の清滝山麓に建つ清瀧山からはじめ、仁淀川により形成された氾濫平野・谷底平野を進み、横瀬山山地を越える。横瀬山山地の南は地震沈降によるリアス式海岸の様相を呈する浦の内湾。かつては渡船、現在は湾口部に架かる宇佐大橋を歩き浦の内湾を渡り、対岸の横波半島に東西に連なる横波山地東端麓に建つ青龍寺へと進む。氾濫平野とリアス式海岸により三条に分かれた山地を北から順に辿ることになる。
Google Earthで作成

地層もバリエーションに富んでいる。虚空蔵山地を東西に走る仏像構造線の南は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期の地層よりなる四万十帯に属するが、清瀧寺の建つ辺りは中生代後期白亜紀の海成層砂岸(黄色)に中生代前期白亜紀の砂岸泥岩互層(黄緑)が割り込み、中央の高岡平野は仁淀川により形成された新生代の氾濫低地、その南の横瀬山地北側は中生代の海成層砂岸層と砂岸泥岩互層が幾条も並行して東西に走り、浦の内湾を挟んで横瀬山山地南側と横波半島の横波山地北側は中生代海成層の泥岩(薄い青)で造られている。

これらの地層はプレートが沈み込むときに海底に溜まっていた砂岩や泥岩が沈み込み部に取り残された「付加体」とされるが、大雑把に言えば日本列島って「付加体」でできているようなもの。どのような地殻変動でこのような地層が形成されたのか門外漢にはコメントできないが、それにしても面白い地層の並びである(右の国土地理院・地質図を参照ください)。
それはともあれ、遍路道に話を戻すと、お寺さまを繋ぐ遍路道も地形、地質・地層同様バリエーションに富んでいる、横瀬山山地には青龍寺道として国の史跡に指定されている塚地峠越え、横波山地の竜坂越えといった「軽い」峠越えあり、氾濫原の高岡平野では野中兼山開削水路跡など、峠越え・水路フリークには結構楽しいルートとなっている。もっとも峠越えはともあれ、水路フリークはお遍路さんにそれほどいらっしゃるとも思えないが、とまれ散歩のメモを始める。






本日のルート;35番清瀧寺>清瀧寺・青龍寺道分岐点>茂兵衛道標>波介(はげ)川の弥九郎橋>県道39号を南下>塚地休憩所>青龍寺道(遍路墓>供養塔と標石>峠手前に標石>塚地峠>標石>展望所>「遍路道 塚地峠あと600m」の標識(摩崖丁石)>大師の泉>舗装道路に出る(摩崖仏)>安政地震・津波の碑>常夜灯>伊気神社の茂兵衛道標>茂兵衛道標>県道23号合流点に標石>宇佐大橋を渡り横波半島に>竜坂越えの遍路道(旧遍路道の案内丹生神社の茂兵衛道標>井尻大師堂>峠>2基の石仏と遍路墓>9丁・8丁>竜の集落に下りる)>六地蔵>標石>36番青龍寺

清瀧寺から清瀧寺・青龍寺道分岐点まで打ち戻り

清瀧寺(きよたきじ)から高岡市内の清瀧寺・青龍寺(しょうりゅうじ)道分岐点まで打ち戻り。往路と同じ遍路道を戻ることになる。澄禅が『四国遍路日記』が「此宿ニ荷俵ヲ置テ札斗持テ清滝寺エ上ル也」、真念も『四国遍路道指南』に「荷物を高おか町にをき、札所へゆきてよし」荷を高岡に置くと書く所以である。メモは清瀧寺・青龍寺道分岐点より始める。

清瀧寺・青龍寺への遍路道分岐点に標石
清瀧寺から清瀧寺・青龍寺への遍路道分岐点へと打ち戻る。分岐点には「35寺 清龍寺」は北方向、「36寺青龍寺」は南方向を指す案内と、その下におおきな標石。「右清瀧寺道 左青龍寺道 文化五」とある。
青龍寺への遍路道は案内に従い、南下する。

茂兵衛道標(259度目)
道の左手を流れる用水路に沿って南下。東西に走る県道39号を渡り更に南下,用水路が鋳鉄の「たたら」をその語源とする「高殿」(「土佐地名往来)あたりで、北から下って来た用水路を「水路橋」で渡る辺りで用水路と共に道もその方向を東に変えしばらく進む。
ほどなく道の左手を流れていた用水路が右側に変わる。その少し先で道と用水路がペアで南東へと下り南へと下って来た県道39号とクロス。 その西南角に「清滝寺4.8km」「塚地峠2.5km」の「四国のみち」標識と茂兵衛道標がある。手印と共に「清瀧寺一里 青龍寺一里半余 大正四年」といった文字が刻まれる」。茂兵衛259度目巡礼時のもの。遍路道はこの四つ辻を右折し南下する。
鎌田井筋
清瀧寺・青龍寺道分岐点から遍路道に沿って続く用水路は。鎌田井筋として紹介されている写真と同じ風情であり、どうも往昔鎌田井堰で取水し、松尾八幡の東辺りで三つの流れに分かれた鎌田井筋のひとつのように思える。
八田堰の工事を完成した野中兼山は、八田堰の上流2.5km、仁淀川に架かる土讃線の鉄橋西側下辺りに取水口(鎌田井堰)を設けることとして、承応3(1654)年鎌田堰築造に着工。2年の歳月で長さ545m(300間)、幅18.1m(10間)、高さ12.7m(7間)の堰を完成。およそ23キロにも及ぶ鎌田井筋を開削し、土佐市のある高岡平野を潤した。
鎌田井堰は下流の八田堰まで舟筏を通す必要があったためか、「水越」を設けられ、「鎌田堰の筏越し」として知られたようである。

国土交通省の資料
広谷喜十郎:野中兼山と春野
この鎌田井堰も昭和12(1937)年、高岡郡日高村下分に水門を設け、トンネルを掘り抜き、新たな水路を開いた。ために、約300年近く利用されてきた「鎌田堰」は、昭和17(1942)年をもって取り除かれ、現在鎌田井堰跡には石碑が残るのみ、と。
鎌田井筋の水路図(国土交通省の資料と「広谷喜十郎:野中兼山と春野、高知市広報「あかるいまち」2007 年 12 月号」)などと現在の用水路を比較すると上流部の高知自動車道のすぐ南の松尾神社辺りまではそれらしき流路が比定できるのだが、その先で分岐した流れがどれもピタッと一致しない。一致しないのだが、土佐市の写真に鎌田井筋として紹介されている用水路とは同じ風情であり、往昔の鎌田井筋がベースとなった幹線用水路であろうと思い込む。

波介(はげ)川の弥九郎橋を渡る
路傍の地蔵尊を見遣り道を南下。波介川の弥九郎橋を渡る。弥九郎の由来は?そして何故に波介を「はげ」と読み、またその由来はなども気になる。
あれこれチェックするが「弥九郎」の由来は不明。長曾我部元親の異母弟に島弥九郎がいる。元親の阿波侵攻のきっかけとなった徳島南部、那佐湾での島弥九郎事件の当事者であるが、これといって橋名との関連を示す資料はなかった。
また、何故に波介を「はげ」と読む?『土佐地名往来』に「波介川の氾濫と、小野の樋台から逆流するサカウド(逆水)で、田面がホゲ通しのムラだった。ヒキ(蛙)の小便で早やツカル(浸水)ともいわれた。動詞ホグレルの名詞形ホゲに原意があったと考えられる。ホゲルは、方言でハゲルだった」とある。
波介川の氾濫水と、小野の樋台から逆流する仁淀川かの水がぶつかり合って土地が「はげる」場所と言うことだろう。「介」には間に挟まるって意味がある。波と波がぶつかり合うところどいうことで、「波の介(あいだ)」の文字をあてたのだろう。
往昔波介川は仁淀川に合流していた。「小野の樋台から逆流」とあるが、波介川が仁淀川に接近する辺り、波介川を渡る県道282号に「小野橋」が架かる。小野橋の下流、現在波介川水門のある辺りで波介川が仁淀川に合流していたのだろう。
仁淀川の水位は波介川の水位より高く、洪水時には仁淀川からの逆流が波介川を遡り、土佐市内は幾たびも洪水に見舞われた、という。仁淀川の逆流に加え、波介川が上流に行くほど地盤が低い低奥型の地形であることも大きな因ではあろう。
波介川の治水対策事業
昭和50年(1975)、土佐市は未曽有の洪水被害に見舞われた。洪水対策として仁淀川からの逆流を防ぐため波介川水門が設けられた。が、この水門により仁淀川の逆流は防げるが、低奥性の地形である波介川自体の洪水帯水を避けることができなかった。
その対策として両河川の合流点を現在の波介川樋門辺りまで下げたが、それでも洪水被害を避けることはできず、結局波介川筋を河口まで抜く波介川河口導流路工事に平成19年(2007)度に着手し平成24年(2014)5月に運用を開始した。
これにより、平時は波介川からの水を仁淀川に流すため、波介川と導流路を十文字堰で仕切り、波介川樋門は全開。波介川潮止堰は全閉し、河口から導流路内への塩水遡上を防止した。 洪水時は、波介川の水はけをよくするため、波介川潮止堰を全開し、十文字堰を倒伏しその後、波介川樋門を全閉して仁淀川と波介川を分断し、波介川の洪水を導流路から海域へ流すことで、土佐市街地を含む波介川流域の浸水被害を極力減らすことを目したようである。

県道39号を南下
弥九郎橋を渡ると前面に横瀬山山地が東西に連なる。山地は山脚を分岐し、山脚には発達した浸食谷が見られる。遍路道は塚地川の開析した谷筋を通る県道39号を南下する。
浸食谷を南下する県道最奥部に塚地坂トンネルがある。873mのこのトンネルは平成10年(1998)3月竣工、翌年年開通とあるので県道39号はそれに合わせて整備されたのだろう。
古い資料には県道開通前の旧路に道標などが残るとあるが、県道脇に時に旧路の面影を残す橋などが残るも、その先は既に藪となっており、とても踏み入る気にはなれない。仕方なく県道39号を南に進み、塚地休憩所に。
県道はその先で塚地坂トンネルを抜け宇佐の町に入るが、遍路道は塚地休憩所から塚地峠越えの山道を上ることになる。
塚地
『土佐地名往来』に、「古くは津賀地。集落にある猿喰古墳が由来。蓋石がいまも残り穴神様として祀る」とある。古墳の塚のある土地が由来ではあろうか。塚地川右岸に猿喰の地名は残るが、猿喰古墳は検索でヒットしなかった。
義盛山
猿喰をチェックしていると、塚地川谷筋の東側に義盛山(標高144m)が目にとまった。義盛で想起できるのは和田義盛。鎌倉御家人。頼朝を助け鎌倉幕府の重責を担うが、北条氏と不和となり、所謂、和田合戦により一族は滅亡した。
そんな和田義盛と土佐に何か関係が?あれこれチェックしていると、四国の水瓶・早明浦ダムの南西に和田の地名があり、また695.4m三角点に和田城山があるようだ。
一族滅亡とされる和田合戦の際、義盛の四男若狭守義直は一族を引き連れ、四国まで逃れ、讃岐和田浜にをへて、山奥の地・和田に来て城を築き神社を建てて再挙の時を待ったとのこと。
とはいえ、Wikipediaには建暦3年(1213年)に討ち死との記事もある。なんだか四国に多い平家の落人物語の様相を呈してきた。上述弥九郎同様、単なる妄想ではある。

塚地休憩所
塚地坂トンネルに向かう県道39号と源頭部から下る塚地川の沢筋の分岐点に塚地休憩所がある。 四阿(あずまや)や「大師の泉」と刻まれた石碑傍には水車などが添えられている。名称は大師の泉とあるが、特段お大師さんゆかりのものではなく、施設名といったものだろう。
この塚地休憩所には多くの案内パネルがあった。写真に写る文字をテキストに変換してくれる優れもの無料ソフト「一太郎pad」を活用し、案内をテキスト化する。
遍路道 巡礼の往還
まずは遍路道の案内。説明文とともに、摩崖仏と遍路塚とか大師の泉といった塚地峠越えの旧跡などの地図があるのだが、地図が大雑把すぎて場所の目安がつかない。成り行き任せとなるようだ。 遍路道の案内には「遍路道 巡礼の往還 塚地峠(宇佐坂)越えは、道のり二キロ、標高百九十メートル、四国霊場八十八ヶ所の第三十五番札所清滝寺から、横波半島の竜・第三十六番札所青龍寺へ向かう最短距離の遍路道である。
清滝寺は、奈良時代の僧・行基が、養老七年(七二三)、薬師如来像を作って寺を開き、さらに平安時代になって弘法大師・空海が再興したと伝えられる。また青能寺は空海が中国で修行中に秘法を授かり、手にした独鈷杵(仏具の一種)を海に投げた。それが竜の浜に流れついたという。空海は、ここを霊場と定め、延歴二十三年(八〇四)に開山したと伝えられる。
いずれも真言宗豊山派の寺で八十八ヶ所の札所の中で、山を越え海を渡って半島を結ぶ霊場はここだけである。交通が発達した今でも、白装束の遍路が鈴を鳴らして峠に向かう。
時には団体を組んだ遍路の列も見受けられる」とある。
また、遍路道の地図上に示された旧跡としては
峠の茶屋
「ふもとの手差し石(道しるべ)に従って一キロほど登ると峠に出る。この峠には昭和二十年代まで茶店があり、ここを通る遍路や商人たちの憩いの場であった。
峠からは、東に室戸岬、西に足摺岬を眺望し、横浪半島の竜・青龍寺の山々がパノラマのように見える」。
大師の泉
「峠から南に下りるとすぐ楢の林にはいる。その中に「大師の泉」という湧水がある。峠を越えてゆく者にとってこの水はお大師様の恵みと感謝して、のどを潤していったであろう」。
磨崖仏と遍路塚
「下りの道半ばを過ぎると、道より上に大岩が傾きほこら状になっている。その斜面を見ると このあたりでは珍しい磨崖仏が線刻で描かれている。
さらに下りたところに、その昔 各地から遍路巡拝の旅を続けるうちこの辺りで命尽きた人々の遍路墓が塚地側登り口と同様、多く見られる」。
水車小屋の跡
「宇佐側のふもと近くまで下ると、一軒の廃屋がある。この谷川の水を利用して、精米、製粉を営んでいた水車小屋跡である。戦後昭和二十年代まで老夫がすんでいたという。古き良き時代の 一 水車の名残をとどめている」。
〇安政大地震の津波の碑
「峠をおりきると、路傍右側に、南無阿弥陀仏の名号を彫った筒型の碑が建っている。これは、安政元年(一八五四)十一月五日の大地震と津波のことを記したもので、碑文には、人家流失し残る家僅か六、七十軒、溺死者七十余人など当時の状況が記され「先ず逃げよ、物欲にとらわれるな」と教えている。
安政四年に建立されたもので宝永・安政の二度の津波による死者の供養塔である」。 地図は大雑把なイラストであり、場所の特定はできそうもない。結構注意して歩いたのだが、大師の泉(多分そうだろう)と安政大地震の津波の碑以外は見つけることはできなかった。
「くらしの道 みちの移り変わり」の案内
「この塚地越えは、往事の商業の道でもあり、また、漁村を結ぶ産業文化の道でもあった。遠い昔、宇佐で作られた塩は、この峠を越えて穀物と交換され、郷と浦の人々を結ぶ生活道でもあった。
近時の車が発達するまでは、通勤の道でもあり、宇佐方面に勤める人たちはよくこの道を越えていった。特に、竜の不動祭や大相撲、潮干狩、海釣りなど高岡と宇佐を結ぶ最短の要路であった。 明治時代の終わりに中島から新居を経由して宇佐に通ずる郡道が開通し、主要交通路として確立するに従って、塚地峠を行き交う人の数はだんだんと減っていった。戦後、自動車交通が普及すると、この道はお遍路やハイキングの人たちの道となった。
その一方で、昭和三十三年の土佐市設置の際には塚地トンネルの建設構想が挙げられるなど、人々の心からこの塚地越えの道が忘れられることはなかった。
平成の時代になって、現在の科学技術の力により、この道はトンネルという形で再び私達の前に帰ってきた。全長八三七、五メートルのトンネルの開通により、峠をわずか二分で越える(通り抜ける)ことができるようになった」とある。
塚地峠越えから横瀬山地が仁淀川に落ちる東裾を走る県道282号、そして塚地坂トンネルの開通によって横瀬山地を県道38号によって一直線に結ばれることになった高岡と宇佐の「往還」変化の経緯が解説されていた。
「かつおと石」の案内
「夜売りの道 「宇佐の鰹」。これはその昔から多くの人に新鮮な魚としてよく知られてきた。塚地の峠に山つつじが咲く頃は、ことに初鰹で港は賑わった。早朝 港を出た船が次々に帰ってると、いきのいい鰹が砂浜に上げられ競りにかけられる。
待ち構えていた行商人たちは、鰹を入れた荷籠に檜の葉っぱをかぶせて一斉に商いに出る。氷が自由でない時代は、先を争って新鮮な鰹を食卓に届けようと 高知市や高岡の町を日指して算駄天のように 日暮の塚地峠を越えた。
漁師と町の人々とを結んだコースが「夜売りの道」である。塚地峠の他にも高知方面には新居坂を越えて十文字の渡しを通り 西畑から弘岡に出るコースや仁淀川河口を渡り仁ノから秋山をするコースがあった」。
「石工の里 塚地の里は、高岡町の南に位置し三方が山に囲まれた田園地帯である。波介川に架かる弥九郎橋を渡ると、東には義盛山があり その頂上には塚地城址がある。すぐ近くの猿喰地区は、初代衆議院議長の中島信行の生誕地でもある
塚地は古くから石工の里であった。江戸時代より石工が多く、一時期は、四十軒ばかりの石材加工を生業とした家があり、石工も六十余人がいたといわれる。
その石材は、塚地の峠を越え、須崎市浦ノ内の灰方山で採れる「土佐の青石が選ばれてきた。 石塔の外に、名前を刻んだ石灯籠や狛犬、石像など、塚地の石工は県下でも最高の技術を誇っていたらしく優れた作品が残されている。今でも五~六軒の石材店がその伝統を受け継いでいる」とある。

これらの解説の他、「塚地坂」周辺は、幻の鳥といわれる高知県の県鳥、「八色鳥(やいろちょう)」の生息地でもあるといった解説や、西隣りの須崎市との境にある「虚空蔵山」から、「横瀬山」へと続く「横瀬山山系」のハイキングコースなどの案内も公園にあった。


青龍寺道


塚地休憩所を離れ横瀬山地を越える青龍寺道に入る。全長およそ1.6km、標高およそ200mの遍路道で、平成28年(2016)秋、国の史跡に指定されている。「文化遺産オンライン」に拠れば、「(土佐遍路道のうち)塚地坂(つかじざか)を越える部分に旧状をとどめている。(中略)塚地坂を南に下って沢と合流する付近の岩塊には丁石としての文字が刻まれ,それに尊像が添え彫りされている。また,坂を下りきった宇佐側の沿道には磨崖仏が存在し,その一部には高岡郡域の中世期の石仏の特徴が見出される。青龍寺境内に慶長6年(1601)の接待供養塔が存在することをふまえると,遍路が一般化する時期以前から信仰の道として利用されていたことが推測される。遺存状況が良好であり,土佐における遍路道の実態を考える上で重要である」ということが指定の因であろうか。
とはいえ、肝心な処はすべて見逃した為体(ていたらく)ではあるが、ともあれ青龍寺道をメモする。

遍路道 塚地起点;14時3分
「遍路道 塚地起点 標高45.0m 塚地峠まで840m 標高差140m」の木標のあるところからスタート。道端に置いてある遍路杖をお借りして進むと、道の左手に「四国のみち」の概要図。沢に沿って数分進み、沢筋を離れる。






遍路墓
沢筋を離れ尾根筋に入るあたりにいくつもの遍路墓が並ぶ。尾根筋に入り、標高を100mほど上げる。道筋には「遍路道 塚地峠あと600m」、「遍路道 塚地峠あと500m」といった案内が立つ。 道は横木の敷いた階段状、石畳状などと整備されている。



供養塔と標石
「遍路道 塚地峠あと300m」の案内を越えると2基の石柱。1mほどの自然石には「南無阿弥陀仏」の文字がかすかに見える。供養塔のようだ。小さな石柱は「下 へんろ」といった文字が読める。標石だろう。






峠手前に標石
「遍路道 塚地峠あと200m」「遍路道 塚地峠あと100m」といったあたりには竹林に囲まれる、その先、峠鞍部への小さな切通がある手前に自然石の標石。手印と共に「下 へんろ道」と刻まれる。 






塚地峠:14時30分
上り口からおおよそ30分弱で峠に到着。峠には「へんろ道 塚地峠 標高185m」の標識の他多くの道案内の「標識が立つ。「宇佐」「高石(私注;弥九郎橋を渡った北側の地)」、「弥九郎橋」「大峠展望所」、またハイキングコースの案内もあり西の「大峠展望所」や「茶臼山」「波介山公園」への概要図があった。




標石
大峠展望所へのハイキングコースへの道との分岐点に標石が立つ、手印と共に「へん路道 嘉永」といった文字が刻まれる。宇佐への遍路道は標石の左の道を下ることになる。 ●手やり石
道を下るとすぐ、「手やり石」の案内。「手やり石は青龍寺までの道しるべとして路傍に建てられたもので、多くの人々が利用した」とある。が、肝心の手やり石らしきものが見当たらない。「手やり石」で検索すると、手印のついた標石のことを「手やり石」とする土佐の散歩記事が目についた。手印上述手印付きの標石のことを指すのだろうか。


展望所
道を進むと「遍路道 塚地峠あと100m」の案内。宇佐から上ってきた人のためのよう。その先、全面が開け、宇佐の町と内海が見える。
塚地休憩所にあった「茶屋跡」の案内は特になかった。






「遍路道 塚地峠あと600m」の標識
「遍路道 塚地峠あと200m」,「あと300m」、「あと400m」と続く。上りと異なり土径がほとんど。たまに石が敷かれる。「あと400m」のところには石垣が組まれれいた。その先に「遍路道 塚地峠あと600m」の標識。




摩崖丁石
以下、後付けのメモではあるが、青龍寺道を辿るも塚地休憩所にあった「摩崖仏」を目にすることはなかった。で、メモの段階であれこれチェックすると、春野公麻呂さんの書かれた、「土佐の摩崖仏三景」という記事の「萩谷磨崖仏(宇佐萩谷)」の項(私注;萩谷とはこのあたりの地名)に、塚地峠越えの道筋に2か所の摩崖史跡が紹介されていた。
そのひとつが、この「遍路道 塚地峠あと600m」の標識の少し先にあるという摩崖仏ならぬ「摩崖丁石」。上述の文化遺跡オンラインにあった「塚地坂を南に下って沢と合流する付近の岩塊には丁石としての文字が刻まれ,それに尊像が添え彫りされている」とあるのがこの史跡だろう。 自然の大岩に「是より青龍寺へ 四十九丁半」と刻まれる、と。これは前もって場所がわかり、その気になってじっくり岩を眺めなければとてもわからないだろう。
興味を持たれた方は、「遍路道 塚地峠あと600m」の標識から先辺りを注意しながら歩きいてみてください(もうひとつの摩崖史跡である摩崖仏は後述)。

大師の泉
何となく沢筋を感じ始めた辺りに「萩谷」と書かれた木の標識。その先に「遍路道 塚地峠あと700m」の標識を見遣り更に進むと砂防ダムが現れる。
砂防ダムを越えると「遍路道 塚地峠あと600m」の標識がありその先に水場。塚地休憩所にあった大師の泉の案内では、「峠から南に下りるとすぐ楢の林にはいる。その中に」大師の泉があるとする。「すぐ」が「大師の泉」に架かると思い峠近くで大師の泉を探したがみあたらなかったのだが、「すぐ」がかかるのが「楢の林」であり、そのそこから続く林の中に大師の泉がある、と解釈すれば、ここが案内にある大師の泉とも思える。特段の案内はなかった。

舗装道路に出る;15時34分
水場を過ぎるとほどなく舗装された道に出る。そこで小休止。少々荒れてはいるが簡易舗装の道を進み、「あと900m「あと1100m」、「へんろ道 青龍寺7000m 塚地峠1200m」の標識の先で沢に架かる橋を渡り、「塚地峠1.3km 青龍寺5.3km(私注;7キロから5.3キロに急に減っている)」の傍にある「金剛杖の返却箇所で上り口でお借りした杖を戻す。その間、上部の欠けた石仏、遍路墓、舟形地蔵などが道脇に立っていた。 上りはじめてから1時間半。膝を痛めているとはいえ、ちょっと時間がかかりすぎ。
舗装された道に出て、沢を左手、右手そして左手に見ることろで里にでる。
摩崖仏
上述、摩崖丁石のところで見落とした摩崖仏のチェックで、春野公麻呂さんの書かれた、「土佐の摩崖仏三景」という記事の「萩谷磨崖仏(宇佐萩谷)」の項(私注;萩谷とはこのあたりの地名)に、塚地峠越えの道筋に2か所の摩崖史跡が紹介されていた、とメモした。
記事に拠れば萩谷の登山口(四国のみちの道標あり)から徒歩10分ほどの地点にあるとのこと。他の方の記事を見ると摩崖仏は舗装道に出た辺りにあるようだ。
以下、春野さんの記事と写真を引用させていただく:「大小二つの岩に沢山の仏像等が彫られているが、地震か豪雨で岩が斜面から滑り落ちており、斜めに傾いている。

〇かなり沢山のものが彫られており、仏像以外のものもあるが、何か分からないものが多い。







〇「大きい岩の方の正面上部、一つの胴体に頭が三つあるカラス天狗が刻まれており、その下には弘法大師の座像。この頭が三つあるカラス天狗像は珍しくなく、高知市内の寺にも石像がある。

〇「大岩の東側側面の顔が薄肉彫りの像は、錫杖を持っていることから山伏か役小角。他にもエジプトの王のような仏像等、数体の他、三味線や独鈷のように見えるものもある。




〇「小岩の方には、円形に連なった小太鼓を持っている雷様のような像に、烏帽子を被った神職のような像も描かれている。

当日歩いた時にこの大岩と前に立つ石仏は見た覚えはあるのだが、その大岩に線彫りの摩崖仏像が刻まれているなど思いもよらず、仏に頭をちょっと下げて素通りした。摩崖仏の説明文を見たときに、大分臼杵の石仏いった崖に彫られた巨大仏と思い込み、見逃してしまった。 そういえば、讃岐の弥谷寺や同じく讃岐の曼荼羅寺奥の院でみた摩崖五輪塔にしても、ちょっと大きめの岩に線彫りで描かれており、その気になって見ないことには摩崖塔であるとはとてもわからなかったことを思い出した。

安政地震・津波の碑
開けた萩谷の里の舗装された道を左手に水路(萩谷川)を見ながら進むと、道の右手に「安政地震・津波の碑」と書かれた解説文と石碑と標石らしきものが並ぶ。
「安政地震・津波の碑」は塚地休憩所の案内にあったものだろう。解説文には「この碑は、宝永四年(一七〇七)に発生した地震及び安政元年(一八五四)に発生した安政地震に伴う津波による犠牲者の追善と被害の教訓を後世に伝えるために安政五年(一八五八)に地元の衆議により潮先に近いこの地に建立されたもので、碑の前面には当時の状況が詳細に刻まれている。
後年発生した南海地震の際に、この教訓が生かされ、津波による死者は僅か二名のみであり、今後も津波への備えを語り続ける貴重な史跡である。 平成九年十一月十日指定 土佐市教育委員会」とあった。
円柱の石碑表面には当時の被害状況が刻まれており、「八、九度にわたって襲来した津波により、多くの人家は流され、残った家は六、七十軒。溺死七十余人。山手に逃げた人は助かったが、船で逃げようとした人は亡くなった。御蔵米の供出により飢えることはなかった。衣服等を拾い用いた人は伝染病で亡くなった・・」といった当時の状況を伝える。
安政の大地震・津波の碑は土佐の遍路道の途次、何度か出合った。安政の地震・津波の碑の傍に2基の標石。手印がかすかに見える。

常夜灯
水路(萩谷川)沿いの道を東進、そして南下すると水路が南と西方向に分かれる。その角に3mほどもある常夜灯。現在の遍路道はここを南に進み海岸線に出て宇佐大橋へと向かうが、宇佐大橋が架橋されたのは昭和48年(1973)。今回は架橋以前、お遍路さんが利用した渡船場への遍路道をトレースすることにする。
往昔の遍路道はこの角を右折し、萩谷川に架かる灯明1号橋を渡り西進する。

伊気神社の茂兵衛道標
萩谷川に沿ってしばらく西進し、川筋南に縦長い境内をもつ伊気神社のある箇所を左折し南に進む。境内に茂兵衛道標。常と異なり小ぶりな標石。
正面には「周防国云々」と常の如くの在所名と施主中務茂兵衛」、右面には「明治二十七年」と言った文字が刻まれるが、巡礼度数の表示がない。
伊気神社
地元の人々は「おいげさん」と呼ぶ。 「いげ」というのは、稲毛・池など水田稲作に由来する言葉のようで、豊穣の神。高知県では「神母神社」、「畝丘樹下神社」とも表記し、共に「(お)いげ神社」 と読むようだ。
泣沢売命(ナキサワメを祭神とする社もあった。泣沢売命はイザナミを失い悲しむイザナギの涙から生まれた神とされ、Wikipediaには「江戸期の国学者、本居宣長は『古事記伝』にて「水神」「人命を祈る神」、平田篤胤は「命乞いの神」と称するなど、水の神、延命の神として古代より信仰を集めている。
太古の日本には、巫女が涙を流し死者を弔う儀式が存在し、そのような巫女の事を泣き女という。この儀式は死者を弔うだけではなく魂振りの呪術でもあった。泣き女は神と人間との間を繋ぐ巫女だった。ナキサワメは泣き女の役割が神格化したものとも言われており、出産、延命長寿など生命の再生に関わる信仰を集めている。また、雨は天地の涙とする説があり降雨の神様としても知られている」とあった。

茂兵衛道標(88度目)
伊神社の角を右折し西進し萩谷川筋に合流、そのまま西進し海にほど近い潮止水門が見える辺りで成り行きで左折し宇佐の町中を進むと四つ辻、南西角のにほとんど壊れた標石らしきものが鉄脇で補強され電柱根元に置かれていた。
標石?、などと思いながらもチェックすると茂兵衛道標であった。かつての写真では三つに折れた標石が電柱脇に積まれている。よく見ると3段に積み重ねられていた。「*十八」といった文字も読めた。茂兵衛88度目巡礼時のものであったよう。

県道23号合流点に標石
かつての横波半島・井尻への渡し場があっただろう海岸へと西進し、成り行きで次の角を左折すると県道23号に合流。角に上部の欠けた標石があり、「是より青龍寺へ一里十丁 *知へ約六里 昭和三年」といった文字が刻まれるようだ。往昔の渡し場はこの先の海岸辺りにあったようだ。現在宇佐大橋西側の海岸近くに「青龍寺へんろ道 渡し場の跡」の碑が立つ。

宇佐大橋を渡り横波半島に

宇佐の町を歩き宇佐大橋に向かう。宇佐はかつて漁業で栄えた町。鰹節の加工地として知られた。海部郷とも海辺村とも称されたと言うが、九州の宇佐八幡を勧請して以降、宇佐の浦と称した。その後宇佐村、高岡郡宇佐町となり、昭和33年(1958)高岡町などと合併し現在は高岡市宇佐町となっている。
対岸の半島を隔てる浦の内湾は別名横波三里と称される。太平洋の波が湾口で横ざまに波紋を広げるのがその所以と言う。
湾口に架かる宇佐大橋に到着。全長645m。かつての渡しは既になくこの橋を渡り青龍寺へ向かう。橋を通る道は県道47号となっていた。

竜坂越えの遍路道


宇佐大橋を渡る。現在多くのお遍路さんは県道47号が走る海岸線をそのまま進み青龍寺へと向かうが、渡し舟で渡っていた時代には宇佐から対岸井ノ尻に渡った遍路の多くは山越えして背竜寺へ詣でたようである。海岸沿いの道が整備されているとも思えず、山越えの道が安全であったのかとも思える。実際横波スカイラインともよばれる県道47号は宇佐大橋の竣工(昭和48年;1973)に合わせて整備されたという。

竜坂越えについて、真念の『四国遍路道指南」には「○宇佐村、是よりかち道を行時は、此村西に荷物を置育竜寺へ行。但舟にて行ハ、いのしりへ荷物持行。ふくしま浦、此間に入海、渡し有。舟賃四銭。〇いしり村、此所に荷物を置札所へ行。此間りう坂。○りう村」とあり、また、『四国遍礼名所図会』では「宇佐村[此所にて支度]是より浜辺出、猪の尻川 [入海也、渡し舟四もん宛]、猪之尻村[此所に荷物預ケ行]、竜坂[峠より海辺津呂ノ御崎見ゆる]、竜村「是より寺へ三丁也]と記す。

旧遍路道の案内
宇佐大橋を渡り切ると横波山地が土佐湾に落ちる北端部、道の右手に「旧遍路道」の案内。「旧へんろ道 坂道ですが約30分です 旧道へ450m」とある。ここが竜坂越えのアプローチ地点。案内に従い右に折れ井尻の集落に入る。



丹生神社の茂兵衛道標
右に折れるとすぐ道の左手に丹生神社。社には上部破損の茂兵衛道標が立つとのことだが見逃した。茂兵衛188度目巡礼時のものと言う。鳥居横とも、境内文化銘の手水場そばの鳥居傍ともいうが、実際に見ていないのでどちらか不詳。
丹生神社
「にう神社」と読むのかと思ったのだが、「たんじょう神社」と読むようだ。祭神は罔象女命(ミヅハノメ)。水の神。弥都波は、水早、水走の意味で、耕地の灌漑の用水の意味、といった記事もあった。
罔象女水の神。弥都波は、水早、水走の意味で、耕地の灌漑の用水の意味か。

井尻大師堂
井尻の集落を抜け、湾と山裾の間の道を進むと右手にマリーナ、左手に井尻大師堂。竜坂越えの道は大師堂前とマリーナの間の細い道を入っていく。入り口には「旧へんろ道 上り口」の案内も立つ。

上り口から1分ほどで「廿一丁」と刻まれた丁石。木漏れ日の中、土径を10分ほど歩き、標高を100m弱挙げて峠に着く。
特段の峠表示はないのだが、「へんろ道 峠標高100m 井ノ尻529m 竜680m」の標識がある。峠に着いたのだろう。
見通しもよくなく、先に進むと手書きの「竜の一本松跡」の案内。「土地の人々は竜の一本松は桧か杉かと言い続けてきた。松の木としては巨木で中学生が両手で繋いで計るると6人分もあったよう。台風で折れた枝も巨木であったよう。現在は特段の跡は残っていない。

2基の石仏と遍路墓
峠からは100m等高線に沿って少し進む。時に前が開け土佐湾が見下ろせる。峠から5分ほど歩くと路傍に2基の石仏と遍路墓。「日向国 天明四年」といった文字が刻まれるようだ。


9丁・8丁
石仏を越えるあたりから下りとなる。標高を50mほど下げると「九丁」と刻まれた丁石。更に30mほど下げると「八丁」と刻まれた丁石がある。



竜の集落に下りる
8丁石を越えるとほどなく里の舗装路に下りる。井尻大師堂からおおよそ30分ほとであった。少し進むと四つ辻。道に石柱。神社の幡を立てる石柱かとおもったのだが、青龍寺の寺柱とのことである。竜坂越えが往昔の遍路メーンルートであったエビデンスでもある。

海岸通り遍路道との合流点

「青龍寺」直進の案内に従い先に進むと次の四つ辻で現在「多くのお遍路さんが歩く東海岸の県道からの遍路道と合流する。四つ辻左角には辻地蔵の小祠がある。
東海岸からの遍路道の四つ辻には「36番青龍寺」直進の案内。案内に従い竜の集落を抜ける。


六地蔵
道を進むと2つめの寺柱。道の左手に明徳義塾中学・高等学校 竜キャンパス、右手に横波山地の支尾根が張り出す箇所。山側に六地蔵が立つ。ここから先、道の右手、山側に阿波の札所1番からの四国88霊場の石仏が並ぶ。石仏は青龍寺境内まで続く。
竜の池
道の左手、明徳義塾竜キャンパスの南に大きな池がある。周辺の湿地帯を含めてベッコウトンボの生息地として有名。この地は、今から約五千年前には内湾であったが、二千五百年前 頃、弥生時代の小海退期に湾口が土砂で塞がれてできたもの。昆虫類の生息環境としてすぐれ、種類、数も豊富のようである。
伝説
この池は昔、青龍寺が出来た時に、八人の天女が天降り一夜で掘ったとも。七葉(七枚)掘った時夜が明けたため、この池の名を七葉の池とも云う。
また池の主が畳四畳半とも六畳とも言われる大きな蟹であり、それゆえの蟹ヶ池の名ともいう。 まだいくつか伝説があるが、伝説によくある今の我々には何を言いたいのかわからない話でもあるので割愛する。
八葉
上述伝説の「八葉」になんらかの意味がありそう。チェックすると、胎蔵界曼荼羅に蓮華の中央に大日如来が位置し、その周囲に四如来、四菩薩が八連弁に座す。この八弁を八葉とするのだろうか。

標石
右手に四国霊場の石仏に頭をさげながら進む。途中石仏の中に「二丁石」も立つようだが、わからなかった。道を進み青龍寺への最後の曲がり角に四国霊場の石仏と標石が立つ。「従是五社迄十三里 文化」の文字が刻まれる。
五社とは次の札所岩本寺の元の札所であった五社神社・高岡神社のことである。

三十六番札所 青龍寺 山裾のカーブを曲がると正面に青龍寺。やっと到着。
あれこれと気になることも多く、距離のわりにメモが長くなった。今回はここまで。




種間寺を離れ35番札所清瀧寺へ向かう。種間寺のある仁淀川東岸の高知市春野町から、仁淀川を渡り仁淀側西岸の土佐市高岡町にある35番札所清瀧寺までの距離はおおそ10キロ弱。地形でルートを見ると、土佐湾に面した高森山山地の山裾近く建つ種間寺からスタートし、仁淀川の流れにより形成された沖積平野・吾南平野を辿り、仁淀川を西岸に渡り、これも仁淀川が形成した沖積平野・高岡平野を斜めに横切り、高岡平野の北に東西に続く虚空蔵山地の清滝山山麓に建つ清滝山の山麓,標高160mほどのところにに建つ清瀧寺へと辿ることになる。
遍路道の途次、先回の遍路道と同様、野中兼山の治水・利水史跡に折に触れて出合った。東岸は仁淀川の八田堰で取水し弘岡井筋より分水される南川井筋、新川川筋を見ることができた。西岸は鎌田井堰からの水路ではあろう用水路が高岡の街を縦横に流れるが、往昔の水路図にある水路に出合うことはなかった。
地形にしても開削水路にしても、特段遍路歩きと関係はないのだが、個人的興味ゆえのこと。とまれ、散歩のメモを始める。


本日のルート;第三十四番札所 種間寺>県道279号を西進>茂兵衛道標(160度目)>茂兵衛道標(256度目)>新川町の涼月橋>仁淀川堤下に標石>仁淀川堤の新川大師堂>仁淀川大橋>柴の常夜灯>水路が縦横に高岡の町を巡る>清瀧寺・青龍寺への遍路道分岐点に標石> 三島神社一の鳥居手前の標石>三島神社北東端に標石>田圃の中の遍路道を歩き高知自動車道高架を潜る>第三十五番札所 清瀧寺参道>歩き遍路道に入る>第三十五番札所 清瀧寺


第三十四番札所 種間寺


寺には山門はなく、境内に入ると右手に鐘楼。石積みも高く鐘楼全体の高さも7,8mくらいあるだろうか。
境内右側に本坊・庫裏、大師堂、左側に水子地蔵・子安観音、そして一番奥が本堂が建つ。 本堂は鉄筋コンクリート造り、昭和45年(1970)の台風で甚大な被害を受け昭和50年(1975)再建された。
茂兵衛道標
境内に茂兵衛道標。「種間寺へ三丁 雪蹊寺へ一里余 大正三年」といった文字が刻まれる。茂兵衛252度目巡礼時のもの。文言からすれば、どこかから移されたものだろう。

本堂右手前に置かれている一抱え程の石の手水鉢には、「延宝五年(一六七七)」の銘。水溜め部が六角形に彫られている。あまり目にしない。県指定の有形文化財。
大師堂も、昭和45年(1970)の台風で土砂に埋まるも修復でき木造造りの姿を残す。子安観音堂は昭和52年(1977)の建立。


Wikipediaには「種間寺(たねまじ)は、高知県高知市にある寺院。山号は本尾山(もとおざん)。院号は朱雀院(すざくいん)と号する。宗旨は真言宗豊山派。
寺伝によれば用明天皇在位(585年 ? 587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。
その後、弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したといい、その際に唐から持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたことから寺号が定められたという。
天暦年間(947年 ? 957年)には村上天皇が藤原信家を勅使にして「種間」の勅額を下賜。土佐藩主からの信仰も得ていた。神仏分離令で廃寺となるが、明治13年(1880年)に再興される」とある。
寺名の種間寺は百済仏師の造仏譚に由来する。寺伝に「もとをの山の頂上に一宇の伽藍をたて尊形を安置せしめ、わが古里に帰らんとねがわしむ。其の志二六十二(にろくじゅうに)の神力にこたへたるにや、天上り両鶴飛来衆人を羽にのせ漢地の旧里にいたれりと。これ則ち造像の善根を植えし故なればとて、因の功を残さんために種間寺の称号をつく」と記す。 また、弘のt法大師が唐から持ち帰られた五穀の種子をこの付近に播か由来するものだとの説もある。
秋山・本尾山
秋山は種間寺の東隣の地区。秋山に漂着ということは、往昔は海がこの辺りまで入り込んでいたのだろうか。本尾山はどこなのかはっきりしない。が、甲殿川が土佐湾に注ぐ少し西に種間寺の奥の院がある。通称本尾山とも称されるようであり、奥の院の近くに高森山地の108mピーク、126mピークがある。どちらかが本尾山なのだろか。はっきりしない。

百済仏師の造仏
Wikipediaに、四天王寺の造仏のため百済の仏師が来日したとある。日本に仏教が伝来したのは、飲天皇七年(五三八)という。『書紀』は、欽明天皇の十五年(五四六)、僧恵ら九人の来朝、敏達天皇の六年(五七七)、百済の威徳王が日本からの使者大別王らに託し経論若干と「律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工」の六人を送ったとあり、「難波の大別王の寺」に住したという。
その間も崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部氏の政争が続き、用明天皇を経て崇仏派馬子の勝利に終わる。次の崇峻天皇のあと推古天皇が皇位を継ぎ、天皇は甥にあたる厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として國政をまかせた。翌二年(五九四)には仏教興隆の詔も出す。こうした経緯を踏まえ私寺として四天王寺(五九三年)は聖徳太子の私寺として建立された。
種間寺の薬師如来像仏の仏師が上述敏達天皇の六年(五七七)に送られてきた仏師かどうか不明だが、いずれにしても当時は仏教伝来からそれほど時も経ておらず、造寺、造仏、さらには僧侶も百済からの渡来人、帰化人なしでは成し得なかったであろうかと思う。
本尊は薬師如来
とはいいながら、寺の本尊である薬師如来は仏師・定朝の作。帰化人・渡来人ではないようだ。またその様式も平安時代前期の大陸の影響を強く受けた唐朝仏の模刻から抜け出した和洋仏像彫刻様式。平安後期のヒノキの寄木造り座像は、像高一三八センチ。着衣の衣文の彫り出しは浅く平行線を多用し、平明優雅で瞑想的な表情をその特徴とするようだ。土佐には少ないこの定朝様式の像は重要文化財に指定されている。
藤原信家
上述藤原信家は勅使として「種間」の勅額を下賜したと記した。これには後日談があるようで、種間寺を訪れた信家は本尊の薬師如来に「大般若経六百巻の写経奉納」を誓う。が、都に戻ると自ら写経することなく旅僧に託し、三年三か月後、写経し終えた六百巻を種間寺に奉納。が、一天にわかに掻き曇り、突風吹き荒れ奉納した経典を天高く舞い上げる。
ほどなく嵐も止み、お経が本堂に落ち戻る。が、そのお経からは写経文字が消え、白紙の中にただ、五言四句(ごごんしく)の偈(げ)が、白字で記されていた。
師有信力故文字納霊山
願主不信故料紙還本土
信に反した奉納ゆえに受け取らず、といった意味だろう。この白紙となった般若経を「白紙(びゃくし)大般若経」といい、冷泉院の御代、宮中に納めることとなり、宮中からはかわりに大般若経六百巻と十六善神の一軸を賜った、とか
竜の池
寺の少し南に周囲200mほどの池があり、「竜の池」と称される。池には竜が棲み、毎月本尊如来さまの御縁日には夜中に竜王が燈をささげて堂内に来たり、本尊の光明を増したと云う。
この池は遠く仁淀川の天渦(あまうど)と通じていると言われ、池の主はその間を往来している、と。 また、この池には龍王の化身である「お竜」さんの話が残る。子のない老夫婦が祈願のすえ一女を授かる。お竜と名付けられ、長ずるに絶世の美女となる。言い寄る若衆あまた。「池に投げ入れた玉を拾ったものの妻になる」と告げる。皆、探すも見つからず。
ある夜、想いをよせる男に、池の中で光る石を指し示し、男は水に潜るも、そのまま浮かびあがることもなく、お竜も池の中に隠れてしまった、と。
例によって、何を言いたいのかよくわからない。伝説には、こういった我々の「理屈」では解釈できないお話が本当に多い。
天渦(あまうど)
種間の南の高森山地西麓、仁淀川沿いに春野町西原がある。天渦(あまうど)はその地にあったよう。そこは仁淀川の曲がり角になったところで、川水が岩に突き当って大きな渦を巻き、物凄い渕となっている、ということである。


三十四番 種間寺より第三十五番 清瀧寺へ

県道279号を西進
種間寺境内を出て県道279号を左折し35番清瀧寺へ向かう。道を歩きながらふと道の左手に続く水路が気になった。地図をチェックすると、新川川(甲殿川)に架かる新川川橋を渡り種間寺へと辿った県道279号左傍をずっと続いている。新川川橋の南も県道279号に沿って南東に続いている。『春野町史』の弘岡井筋水系図と見比べると「南川井筋」のように思える。


南川井筋
『春野町史』より
仁淀川の八田堰で取水し、開削水路・弘岡井筋を南下、小田井流で諸木井を西に分け、さらに南下し新川川を西に分ける。
井岡井筋は更に南東に下り、高森山山地が仁淀川にあたる最西端の山裾を更に南に下る弘岡井筋から分かれ、高森山山北裾を東進し県道279号に接近し、以東は県道279号に沿って東進・南進し新川川(甲殿川)に注ぐ(現在の地図は新川川に注いでいるが、上述資料は途中で切れている(Google Mapの推定水路を参考にしてください)。

茂兵衛道標(160度目)
西進(正確には西北)した県道279号が南の高森山山地に向かって弧を描くように入り込み、再び西進する箇所、道の右手の木立の前に標石2基。1基は茂兵衛道標。手印と「明治三十二年」の文字が見える。茂兵衛160度目巡礼時のもの。
もう一基は自然石道標。草叢に倒れている。「右、邊路道」とあり、手印は線彫りで、指がすべて開いている、と。
用水路
前述、南川井筋は茂兵衛道標の立つこの地の少し東で県道を離れ、高森山地山裾に向かい、山裾を西進することになる。
また、茂兵衛道標から北西へと水路が続くが、昔の広岡井筋の水系図には記載されていない。後世の用水路だろう。

茂兵衛道標(256度目)
県道279号を西進。城山神社の鎮座する標高23mほどの独立小丘陵を右手に見遣り森山下、森山中、森山上へと進む。南には高森山山地が迫り、北には遠く烏帽子山山地が見える。遍路道は南北の山地に挟まれた仁淀川が形成した沖積層からなる中央低地(氾濫平野・谷底平野)を進む。
森山上の四つ辻に茂兵衛道標。手印と共に「清瀧寺 種間寺 大正三年」といった文字が刻まれる。茂兵衛266度目巡礼時のもの。県道を斜めに横切る水路は『春野町史』の水路図と見比べると北川井筋のようにも思える。
北川井筋
『春野町史』の水系図をみると、南川井筋の少し北、新川川筋との間で弘岡井筋から分流され北西に向かい、新川川に合流している。この地で出合った水路は弘岡井筋の新川川筋と南川井筋の間で分水され北東に流れているが、新川川に合流することなく新川川に沿って南東に下っている。北川井筋とは思うのだけれど。。。

春野の地形
Google mapで作成
国土地理院・地質図V2
北部の烏帽子山地。吉良ヶ峰(245m)、柏尾山(323m)、烏帽子山(359m)へと東に連なる。山地中央部には仏像構造線が走り、その北側は秩父帯、南側は四万十帯。秩父帯は中生代中頃(中生代ジュラ紀)、四万十帯は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期)の地層とのこと。はるかはるか昔の頃であり、とりあえず秩父層は四万十層より古い時代の地層というくらいの理解で門外漢には十分。
国土地理院の地質図を見ると、山地中央部から南、仏像構造線の南には中生代後期白亜紀の 海成層砂岩の地層(地質図薄緑の帯)と中世第前期白亜期の砂岩泥岩互層(地質図黄色の帯)が幾条もの帯となって東西に続き、仁淀川の形成した沖積層からなる中央低地(新生代の氾濫平野・谷底平野)を挟んで再び中生代後期白亜紀の 海成層砂岩(地質図薄緑の帯)の地層と中世第前期白亜期の砂岩泥岩互層(地質図黄色の帯)が幾条もの帯よりなる高森山山地が東西に連なる。
基本仏像構造線より南は四万十帯に属し、山地は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期の地層よりなるが、中央低地は気の遠くなるような時間をかけ侵食、あるいは陥没、沈降を受け、相当の谷が発達し、場合によっては海水の侵入による入り江、湾を形成。そこに仁淀川、およびその分流、さらに周囲山地からの渓流によって押し流された砂礫により埋められ沖積層である中央低地が形成されたのだろう。 中央低地が地質図に新生代の氾濫平野・谷底平野とあるのはこういった経緯ゆえのことかと思う(門外漢の妄想)。
北部の山地を衛星写真でみると山地が左右に分かれているような箇所が見える。仏像構造線が東西に走るため、これに沿って鞍部をもつ通谷が発達し山地を二条に分け、山地を奥深く侵食し中央低地に注ぐ渓谷を造っているとのことである。
また、どのような地殻変動が起きれば、幾条もの帯状地層ができるのか興味深いのだが、その因の深堀りは門外漢には力不足と、思考停止とする。

新川町の涼月橋
茂兵衛道標の四つ辻を直進し、北西に向かい新川川に架かる新川橋南詰め手前で左折し、新川川の右岸を進み、Y字路を右折し恵比寿神社前を進み新川川橋に架かる涼月橋を渡る。 橋の北詰に角柱石が立つ。傍に案内があり、「承応元年(1648)土佐藩主忠義公の執政野中兼山先生(春野神社祭神)により、新川川、新川町がつくられた。
当初これにかかる橋は木造であり、現在の橋の片側に残っている純石造橋は明治30年(1897)頃の造りといわれ、この碑は当時の橋名柱の一部である。その工法のすぐれた形からメガネ橋と呼ばれ広く親しまれた」とある。
元は2mに見たない人道仕様の橋。それを車の通れる道とするため下流側が拡張されたようだ。橋の上流部側端には石造部が見える。そこが明治の頃の純石造橋の名残だろうか。また四連のメガネ橋の中央の2連には石造りアーチも見える。橋名柱には「里屋う*津はし」と読める(?)文字が刻まれていた。
新川の落とし
橋の下流部に水路段差が見える。新川川の「新川の落とし」の名残りだろう。仁淀川から取水した広岡井筋と新川川(仁淀川の分流路を浚渫整備した現在の新川川本流のことだろう)の高低差が3mほどあるため、その高低差を活用しこの地から新川川本流に向けて人工開削した「新川川」への木材の「落とし」を容易にするため造られた、との記事が目につく。涼月橋の上流側に水門を造り水を溜め、水門を開き一挙に「落とし」たとする。
これはその通りとは思うのだけど、水位差が3mもあれば木材は問題なく下流へと流れるわけで、敢えてこの地に「落とし」を造る理由がなんとなくしっくりこない。
以下は妄想であるが、「落とし」は舟溜を造るためのものではないだろか。急激な落としを造ることにより、「落とし」の最下流部に傾斜の緩やかな溜ができる。そこに新川川開削にともないこの新川町に移り住んだ商人の舟溜りを造ったのではないだろうか。
その理由は、上流から来た川舟や筏(いかだ)は町の水門までしか運航は認められておらず。この地から浦戸湾口長浜間の往来は新川町商人の特権として、彼らの所有する九十三艘(そう)のひらだ舟に限られていた。上流からの林産物は一旦、この新川の落としの船溜で新川町の商人の舟に移され城下町に運ばれ、また逆に城下町の物資や水産物などは、上流方面に運送されるようになった。この地に流れの溜まる船溜が必要な所以である。メガネ橋から見て右手、現在公園となっている辺りが舟溜があったとされる。
春野神社
水路段差のある川の左岸に春野神社がある。野中兼山を祀った神社。兼山は土佐藩執政として多大な業績を挙げたが、一方ではその強引とも言える手法に民衆の不満も大きく、また政敵も多く、執政として仕えた二代藩主忠義が隠居すると三代藩主忠豊の時に弾劾を受け失脚、宿毛に幽閉され49歳で失意のうちにその人生を終えた。兼山の血統は絶えたが、民衆は密かに小祠を建てて神として崇め、後に幕府の許可を得て「春野明神」と称した。
兼山を祀る社が何故春野明神なのだろう。地名の春野町は昭和31年(1956)に誕生し、その町名は春野明神に由来すると言うし、あれこれチェックしていると、元は「墾野神社」と呼ばれたようだ。これは『土佐地名往来』にある「墾る野。野中兼山への敬愛は、兼山を祭る春野神社 となり、昭和32年の合併では春野町」とも一致する。とはいえ「神社」という名称は明治以降のことのようであり、「墾野明神」とでも呼ばれていたのかもしれない。
人工水路・新川川
新川川は野中兼山によって開削された人工水路。仁淀川の八田堰から取水し、弘岡井(ひろおかゆ)、新川川、新川川本流を繋ぎ一帯を灌漑した後、再び本流から分かれ唐音の切抜を経て長尾川(新川川)と繋ぎ浦戸湾と結ばれた。
仁淀川の八田堰からの流路を見ると人工的に開削された水路と仁淀川の自然分流の川筋を繋ぎ合わせ浦戸湾に続けているようだ。特に南北に流れる新川川本流(甲殿川)などは人工的に開削した人工水路(新川川)を落とした自然水路のように思える。人工水路と自然水路を組み合わせた治水・利水事業はよく見る。利根川の東遷事業で源頭部を失い廃川となった古利根川の流路を改修し葛西用水の流路として活用した大落古利根川などが記憶に残る。
この新川川は灌漑、仁淀川と浦戸を結ぶ舟運〈木材)のほか洪水対策として排水の機能も備えるようだ。地図に人工開削水路新川川の流れを落とした新川川本流(甲殿川)が土佐湾に注ぐ手前で大きく西に向き変える箇所があるが、そのためもあってかこの甲殿川の河口が土砂で埋まり諸木地区が洪水に見舞われたようだ。そのため、甲殿川が西に向きを変える地点(西戸原)から人工的に水路を開削し、唐音の丘陵(後述)を切り抜き、長浜川と繋ぎ浦戸に水を流した。開削された新川川筋が唐音へと河口付近で不自然に東進、さらに北進し唐戸の切抜に繋がりるのは排水・洪水対策でもあったわけだ。

仁淀川堤下に標石
春野神社を離れ遍路道に戻る。道は県道279号。遍路道は涼月橋を渡り県道279号を仁淀川の堤に向かう。道筋にはかつての町人町の面影を伝える蔵構えの民家などが残る。木材舟運の特権などにより町は栄え、江戸時代中期には、町の家数が六十余戸だったものが、幕末になると百八十余戸となり、三倍も増加したようである。
堤に向かうと左手水路に橋が架かる。弘岡井筋から開削水路・新川川に分水する水路のようだ。県道から離れ左折し橋を渡ると南詰に標石。手印と共に「従是種巻寺へ四十丁」「従是清瀧寺へ五十丁 明治十三」といった文字が刻まれる。
標石を右折し仁淀川の堤下に向かうと、橋の上流には南流する弘岡井筋と新川川への分水堰が見える。橋の下流に見える水路は新川川分水を越え更に南下する弘岡井筋。上述南川井筋に養水する。

仁淀川堤の新川大師堂

仁淀川の堤の上にお堂が見える。地蔵堂とも新川大師堂とも称されるようだ。大師堂前は石垣が組まれており、石垣手前に自然石の石碑が立つ。「文政」といった文字が読めるが詳細不詳。
大師堂への石段上り口の石垣に何か不自然な縦長の石が嵌め込まれている。チェックすると、標石のようで、手印と共に「左清瀧寺 へんろ 幸屋通」と刻まれる、と。
大師堂裏手には遍路墓7基、舟形石仏、地蔵座像、大師堂の少し北には常夜灯が立つ。かつてはこの辺りから仁淀川「を渡る渡しがあったようだ。堤から広い河川敷を見ると田畑が広がる。
仁淀川の渡し
澄禅の『四国遍路日記(承応二年;1653)』には「(種間寺)・・・。扨(私注:さて、ところで)、西ヘ一里斗往テ新居戸ノ渡リトテ河在リ、是モ渡舟在テ自由ニ渡ル也。五日以前ノ洪水ニ、多人数込乗テ舟ヲフミ反シテ男女四人死ス。此新居戸ノ宿ヨリ清滝寺へ一里ナリ。又跡エ還ル程ニ、此宿ニ荷俵ヲ置テ札斗持テ清滝寺エ上ル也。種間ヨリ清滝寺迄二里ナリ」とある。
同じく、真念は『四国遍路道指南(貞享四年;1687)』に「(種間寺)是よりきよたきへ二里。○もりやま村〇ひろおか村、此間二淀川といふ大河有。舟わたし、わたしば川上に有時ハ、荷物をかけきよたきへ行。わたしば大道筋川しもに有時ハ、荷物を高おか町にをき、札所へゆきてよし」と、この地に渡しがあったことを記す。
なお、真念の記事に拠れば、渡しは2箇所あったようで、この地の渡しは「大道筋川下」にあると記す渡しであり、川上に有るとする渡しは後述、仁淀川右岸の常夜灯の辺りにあったようである。 また、澄禅も真念も清瀧寺に向かう遍路は荷を高岡(後述)などの宿に起き、清瀧寺へと北に向かい、そいこから打ち戻り荷を取て南の青龍寺に向かったと記す。高岡の街中に北へ清瀧寺道、南へ青龍寺道の分岐点がある。

仁淀川大橋
堤下を流れる弘岡井筋を見遣りながら仁淀川左岸の堤を進み仁淀川大橋を渡る。仁淀川を境に西は土佐市高岡町に変わる。
仁淀川
仁淀川(によどがわ)は、愛媛県・高知県を流れる一級河川で、愛媛県内では面河川(おもごがわ)と呼ばれる。流路延長124km。吉野川・四万十川に次ぐ四国第三の河川。
四国の最高峰である石鎚山に源を発する面河川と、分水嶺である三坂峠から流れる久万川が、御三戸(愛媛県久万高原町)で合流して形成される。四国山地に深いV字谷を刻みこみながら南下し、高知県高知市/土佐市付近で太平洋へと注ぎ込む。三坂峠から御三戸を経て高知県越知町までの区間では、松山と高知を結ぶ国道33号が並行する。 2019年(平31年・令和元年)、国土交通省の「水質が最も良好な17の河川のひとつに選ばれている。
〇弘岡井筋
仁淀川大橋で開削水路・弘岡井筋と分かれるが、上流部を地図でちょっと確認。
八田堰
仁淀川の上流、幹線水路から支線への取水口を意味する井流(ゆる)の地に八田堰。兼山構築当時は堰の長さは 415m、高さは 3m、幅は15m とされている。昭和6年にコンクリート化され、その後同 40 年に改修し一部が可動堰となっている。平成7年にさらに可動部他改修がなされた。現在の堰の長さは 320m、高さは平均 1.8m、幅は平均 20m。長さが往時のほうが長いのは、水勢対策で曲線斜め堰であったためのよう。
行当の切抜
先回の記事でメモした唐音の切抜と共に水路開削当時の難所のひとつ。切抜の規模は「長二十間、巾九尺、高六間」。現在は道路下に隧道(トンネル)を通して、用水路を流している。昭和初期には隧道を通していたようだ。
小田井流(おだゆる)
弘岡井筋から東へ諸木井筋を分岐する地点。現在広岡井筋分岐公園が整備されている。流路は分岐点より東東進し久万で県道278号と交差。水路はここで流路を南に向きを変え、県道278号に沿って下り、新川川の水を合わせた甲殿川と北山川が合流する辺りで東に向きを変え、大用川に架かる中筋橋を水路橋で渡り、中筋地区の先で丘陵部を切抜で通し丘陵西側山裾を県道278号に沿ってて進み、東諸木の丘陵南裾を進み禰宜谷(「地検帳にもネキカ谷・ネキヤシキ。禰宜=神官に給 された田が由来。禰宜の原意は「祈ぐ・労ぐ (ネ)」で労う(土佐地名往来)」)で新川川に合流し、浦戸に向かうようである。
井流(ゆる)とは上述幹線である弘岡井筋と支流との接点につくられた取水口。現在はコンクリート製であるが、昔は大石と巨木を方形に組んでの大工事であったと『春野町史』にある。

柴の常夜灯
仁淀川大橋を渡り、右岸上の道を進む、。途中道の右手に台石に法界萬霊と刻まれた石仏が立つ。
ほどなく右岸堤から左へと堤を下りる道が別れる。その右手に常夜灯が立つ。柴の常夜灯のようで、この辺りが真念が川上にあったと記す渡し場があったようだ。常夜灯の前には松田神社の石柱。ささやかな石の祠が松田神社であろうか。
法界萬霊
法界萬霊供養塔は、三界万霊とも十方法界萬霊とも四生六道法界萬霊とも言われ、あらゆる精霊を合祀して供養をするために建てられた塔。
萬霊とはありとあらゆる精霊のこと。三界とは欲界(食欲・物欲・性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界。十方とは四方八方に上下を合わせ、全ての世界ということ。
四生とは卵生(卵から生まれるもの)、胎生(母胎から生まれるもの)、湿生(湿気の中から生まれるもの)、化生(過去の業力により忽然と生まれたもの)という生まれ方。六道は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六つ世界のこと。

水路が縦横に高岡の町を巡る
堤を下り、道なりに西進。堤下から道の右手に水路が現れる。国道56号土佐市バイパス少し手前で北から下ってきた水路と繋がっていた。南下してきた用水が仁淀川にながされているのだらろうか。
国道56号土佐市バイパス交差点を越えると道の左手に暗渠が続き、ほどなく開渠となって南へ下って行く。更にその先に開渠となって南流する水路が現れる。現在は宅地化されているが往昔は田畑を潤す用水路であったのだろう。
仁淀川の東岸の高知県春野町に野中兼山の開削水路があったわけで、当然のこととして仁淀川の西岸の土佐市も兼山の治水・利水事業があったのだろうとチェック。鎌田井筋と称される開削水路があった。
鎌田井筋〈鎌田溝筋)
国土交通省の資料
「広谷喜十郎:野中兼山と春野」より
八田堰の工事を完成した兼山は、八田堰の上流2.5km、仁淀川に架かる土讃線の鉄橋西側下辺りに取水口(鎌田井堰)を設けることとして、承応3(1654)年鎌田堰築造に着工。2年の歳月で 長さ545m(300間)、幅18.1m(10間)、高さ12.7m(7間)の堰を完成させ、およそ23キロにも及ぶ鎌田井筋を開削し、土佐市のある高岡平野を潤した。
鎌田井堰は下流の八田堰まで舟筏を通す必要があったためか、「水越」を設けられ、「鎌田堰の筏越し」として知られた。

この鎌田井堰も昭和12(1937)年、高岡郡日高村下分に水門を設け、トンネルを掘り抜き、新たな水路を開いた、ために、約300年近く利用されてきた「鎌田堰」は、昭和17(1942)年をもって取り除かれ、現在鎌田井堰跡には石碑が残るのみ、と。
井筋をチェックしようと、鎌田井筋の水路図(国土交通省の資料と「広谷喜十郎:野中兼山と春野、高知市広報「あかるいまち」2007 年 12 月号」)などと現在の用水路を比較し、井筋を比定しようとしてはみたのだが、上流部の高知自動車道のすぐ南の松尾神社辺りまではそれらしき流路が比定できるのだが、その先で分岐した流れが以降の改修ゆえか資料流路とピタッと一致するものははっきりしない。とりあえず、市内を流れれる用水路が鎌田井筋がベースになった用水路であろうと思い込むことにする。

清瀧寺・青龍寺への遍路道分岐点に標石
西進すると直ぐ四つ角。ここも北から南に開渠用水路が流れる。その四つ角の西南角に、「35寺 清龍寺」は北方向、「36寺青龍寺」は南方向を指す案内と、その下におおきな標石。「右清瀧寺道 左青龍寺道 文化五」とある。
お遍路さんはこの四つ辻を右折し北に向かい清瀧寺を打ち、そこからこの四つ辻まで「打ち戻り」、青龍寺へ南下する。
土佐市高岡町
仁淀川を越え高岡町を東から西へと歩いてきたが、この高岡が土佐市の中心のようだ。土佐市というから、土佐国の中心でもあったのかと思ったが土佐市は昭和34年(1959)近隣の町村を合併してできた高岡町が市制施行し土佐市と改称したとのこと。古くより高岡の地は周辺農村地帯の物資交流の中心地であったようである。

三島神社一の鳥居手前の標石
遍路道分岐点の四つ辻を右折し北進、高岡市第一小学校南の道を左折し西進。ほどなくブロック塀に手書きで「青龍寺」と書かれた矢印に従い右折し北進する。
道を進むと三島神社の鳥居が見える。その少し手前、道の右手の水路脇に標石が立つ。手印と共に「右清瀧寺道 天保二年」といった文字が刻まれる。手印は清瀧寺を指すが、「右」って逆戻り方向?
とりあえず先に進むと鳥居までに右が左右に分かれる。標石の「右」って、ここを右手に、ってことかと三島の社と天理教の巨大施設の間の道を進む。

三島神社境内傍と北東端に標石
道を進むと神社石段に向かう境内入り口の右手、道脇に標石があった。手印と共に「右」の文字が読める。下半分が折れているように見える。
三島神社の東を進むと北東端に四つ辻。その角、石垣下に、「四国のみち」の指導標、上部が壊れた常夜灯と共に標石。南を指す手印と共に、「四国巡拝八十八回目為供養」と刻まれる。八十八度も巡拝されたお遍路さんて誰だろう。チェックすると栗田修三氏の標石。ここに限らず伊予の岩屋寺への遍路道、これから歩く青龍寺道にも栗田修三さんの立てた標石があるようだ。栗田氏に関するデータは不詳。

田圃の中の遍路道を歩き高知自動車道高架を潜る
三島神社の直ぐ北に国道56号が走る。遍路標石が見当たらず、取り敢えず国道を渡り北に向かうと東西に走る比較的大きな車道に合流する。
車道を北に渡ると、合流点の一筋西に木の「四国のみち」の指導標。「清滝寺2.2 km 青龍寺12.1km」の案内。
指導標に従い右折し田圃の中の道を北進、ほどなく再び「四国のみち」の木標。「清瀧寺1.3km 土佐市街へ1km」とある。道なりに進み高知自動車道の高架を潜り虚空蔵山地、大平峰(標高387m)から連なる清滝山(標高378m)の山裾に向かう。

第三十五番札所 清瀧寺参道口
山裾の道に並ぶ東谷集落の道を少し進むと、道がふたつに分かれる。分岐点に案内があり、「三十五番札所清瀧寺」は左の道を指す。
道を進むとすぐ「四国第三十五番醫王山清瀧寺」と刻まれた寺柱石。清瀧寺は清滝山の標高160m辺りに建つ。おおよそ1キロ上ることになる。
寺柱石のすぐ先、道の両側に常夜灯、その先、道の左手に石仏が並ぶ。更にその先、道の右手に石仏が並ぶ。次いで、道の左右に墓地。中には遍路墓も。

歩き遍路道に入る
断続的に続く墓地を抜けると民家が建つ。その先、道が左手にカーブするところ、道の右手に遍路墓らしき石造物が並ぶ。カーブを曲がると道が二つに分かれ、歩き遍路道は左手を指す。右手は車参道でお寺様まで続くのだろう。
歩き遍路道に入るとすぐ、道の左手に標石が残る。「四国巡拝八十八回目為 昭和五年 栗田修三密厳」と刻まれる。栗田氏の標石は上述三島神社で出合った。

土径を山門へ
木々に覆われた土径を進む。道脇に虚空蔵菩薩などの石仏が並ぶ。参道口から13分、歩き遍路分岐から5分ほど、比高差50mほど上げると前方に清滝寺も山門が見えてくる。







第三十五番札所 清瀧寺

山門
土径を進むと二十二段ほどの石段の先に山門が見える。石段を上り山門に。山門天井に龍が描かれる。
天井絵
案内には「清瀧寺楼門天井画 有形文化財(市) 明治33年(1900)清瀧寺の楼門建立に際し、地下の画家久保南窓の、揮毫した天井画「蛟竜図」「天女図」の二組が奉納された。竜は中央二面に続き、天女はその左右二面に描かれ、墨痕鮮やかで流易闊達な筆致に極彩色が施されており、近郷天井画の白眉である。
久保南窓(柳太郎) (1848~1917)は、高岡村走寄に生れ、生家は米穀商を営んでいたが生れつき画才に富み、弘瀬洞意(絵金)に学び、また青木南溟に私淑し、南画をもよくし地方画家として名声を博した。
近郷の社寺に得意の絵馬絵の佳作を多く残している。のち高知市に転住し、中央の画展にも出品して度々賞を受けた。大正6年没。墓所は高知市小高坂にある」とあった。

徳右衛門道標
山門を潜り、97段の石段を上ると境内左手に徳右衛門道標。「是より青龍寺迄弐里半」と刻まれる。

厄除大師堂
境内に高さ?mほどの厄除薬師像、その左に修行大師像が立つ。

その先、10段ほどの石段上、正面に本堂。本堂右手には子安地蔵尊、琴平社祠、裏手には瀧と池があり水子地蔵尊が祀られている。


本堂左の回廊続きに大師堂があり、その左に地蔵堂、観音堂が並ぶ。
本坊あたりか
ら眼下に広がる高岡平野の眺めが楽しめる。

Wikipediaには「寺伝によれば養老7年(723年)行基が本尊薬師如来を刻み、寺を開創し、景山密院繹木寺(けいさんみついんたくもくじ)と称したという。その後空海(弘法大師)が巡錫、五穀豊穣を祈願して山中で一七日(7日間)の修法を行い、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池になったことから醫王山鏡池院清瀧寺と改めたという。
平城天皇の第3皇子である高岳親王は薬子の変に連座したことから仏門に入り空海の弟子となり真如と名乗った。貞観3年(861年)に本寺に来錫し逆修塔(生前墓)を建てた。
江戸時代は繁栄したが、明治4年(1871)廃寺となり、同13年(1880)再興された」とあった。
入らずの山
境内左側の茂みは「入らずの山」と呼ばれる。柵で囲まれ入ることはできない。石碑に「高岳親王塔」と刻まれる。寂本はその著『四国遍礼霊場記』に「真如親王の墓というあり。五輪塔長五尺許なるを立つ」とあるが、それは上述逆修塔(生前墓)のことだろう。
弘法大師の十大弟子ともされる高岳親王こと真如上人は、仏理をきわめるべく入唐を決意、唐でも願い成就できない場合は天竺(インド)までも渡ろうとの想いを抱く。時に貞観三年(八六一)のことと言う。同年、入唐を前に、大師の旧蹟を訪ね此の寺に来錫。一年あまり留まり修行を重ね、天竺に渡らることになったと。
出立にあたり「われ天竺(印度)に身を果すとも、幽魂はこの五輪塔下に帰り、永生当寺を守護し、 末世衆生を済度し、十方の幽魂を一心法界本有荘厳(しょうごん)の浄土に引導して、無上菩薩に廻向(えこう)せん」と念じられ、上述の五輪の逆修塔を刻まれて永生の菩提所に定められたと伝わる。
この翌年、貞観四年(862)、九州の太宰府から船出し、入唐したと伝わる。上人六十一歳の時と言う。その後の消息は不詳であるが、寂本の『四国遍礼霊場記』には、「上表して入唐、西域にゆかんとして流沙を過、逆旅に遷化し玉ふ。」とある。天竺への途次にむなしくなった、ということだろうか。
どこまでが事実か不詳だが、事実とすれば天皇の子として生まれ、一時は皇太子の地位にありがら天竺を目指すなど日本版三蔵法師として波乱の人生を送った人物である。
この寺の他にも、四国には真如上人の足跡を伝える寺は多いと言う。
因みに、マレーシアのジョホール・バル日本人墓地に真如上人の墓がある、と。広州から船出し天竺を目指すもこの地に流れ着き病でむなしくなった、と伝わる。1970年に供養塔が建てられた。寂本の西域行とは異なるが、どちらにしても壮大な物語である。
鏡池
由来にある鏡池ってどこ?本堂右手奥には滝があるが池らしきものは見あたらない。チェックすると、本堂の北三丁の山中に岩場があり、空海はその地に壇を築き修行。満願の日に壇の前の岩場を金剛杖で突くと清水が湧き出し滝となり、その下に鏡のような池ができた、とのこと。その水は今でも湧き出し清流となって麓の田畑を潤し、土佐和紙の原料である三椏(ミツマタ)を晒す水として土佐手すき和紙のふるさとをつくった、と。
地図で見ると、お寺様の東に尾根筋から下る沢筋が描かれ里に下る。地図に清滝とも記されている。この沢筋のどこかに鏡池があるのだろうか。

今回のメモはここまで。次回は三十六番札所青龍寺へ向かう。

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