2020年7月アーカイブ

今回は金剛頂寺から神峯寺まで,常の如く標石を目安に旧遍路道を歩く。距離は30キロほどだろうか。行当岬に突き出た海岸段丘の上部台地面に建つ金剛頂寺から段丘崖を下り、海岸線を進み往昔材木の商いで栄えた吉良川の町を抜け、河岸段丘の段丘崖と海岸に挟まれた道を羽根岬へと進む。 羽根岬は中山越えと称される旧遍路道をトレースする。中山越えの遍路道は海岸段丘に上り、台地面を辿り段丘崖を海岸線へと下りる。
海岸線に下りた遍路道は、かつて海陸の交通の要衝、材木の商いで栄えた奈半利、田野の街を抜け海岸段丘の段丘崖と海の間の道を進み安田に入り、安田からは海岸線を離れ、神峯寺の建つお山へと向かうことになる。
今回は、羽根岬の中山越えの遍路道で遍路道案内を見逃し結構時間をロスした。なんとなく遍路道では、とは思いながらも注意することなく草に覆われた遍路道案内を見逃した、お気楽に通り過ぎたため遍路道の案内を探し台地を彷徨うことになった。 諦めかけたときに何気に見たガードレールに貼られた小さな遍路道のタグを見付け、その遍路タグをキーポイントとして何とか遍路道を繋ぐことができた。「ノイズ」を感じた時は必ずチェックを再確認した散歩ではあった。
ともあれ、メモを始める



本日のルート
金剛頂寺から国道55号の下山口へ
金剛頂寺>金剛頂寺の西門>2基の遍路墓>自然石の標石と舟形地蔵>4丁石>不動岩道との分岐点>五輪塔と5丁石>地蔵尊と6丁石>平尾の下山口
不動岩経由の遍路道
不動岩道との分岐点>法満宮>不動岩
■平尾下山口から神峰寺への遍路道■
平尾>吉良川>羽根の中山越道右折点
中山越え
取り付き口>車道をクロスし再び車道に>>車道を逸れて坂を折り返す>車道をクロスし再び土径へ>遍路案内に従い生活道に出る>遍路案内に従い生活道に出る>段丘崖を下りる>加領郷の下山口
加領郷漁港>弘法大師霊石跡>奈半利の標石>高札場跡>奈半利川東詰めに2基の巨大石碑>田野の標石>岡御殿>丈丈川>六地蔵>不動の滝>安田の茂兵衛道標>土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架を潜る
神峯道
神峯神社の鳥居前に標石2基>東谷川右岸に標石>道の右手に標石>22丁>21丁石>23丁>19丁>16丁石>遍路道分岐点>車道に出て再び土径に>9丁石>8丁石>7丁石>駐車場>第二十七番札所神峯寺




金剛頂寺から国道55号の下山口へ

金剛頂寺の西門
金剛頂寺から安芸郡安田町にある次の札所神峯寺まではおおよそ30キロ。金剛頂寺からの遍路道は大師堂の先から裏門(西門)から出て海岸沿いの集落である平尾に下りる。
西門に出ると舗装道路に当たる。遍路道はこの舗装道を西進する。




2基の遍路墓(13時12分)
舗装道は直ぐ北に折れるが、遍路道は少し狭くなった道へと直進する。舗装された道を少し進むと、道の右手に2基のへんろ墓が祀られる。共に「播州加西郡綱引村」とあり、没年月も「九月五日、八月廿八」と刻まれていた。同じ村を出て、この地で倒れるに至る、どのようなっドラマがあったのだろう。情感乏しきわが身にも少々感ずるところ有之。




自然石の標石と舟形地蔵(13時20分)
更に西に進み、南北に走る道に当たると遍路タグ。案内に従い左折。少し進むと道の右手に上部が壊れたような舟形地蔵と自然石の標石。少し大きい自然石の標石には「備後国:といった文字と共に「神峰寺六里」の文字が刻まれる。
簡易舗装された道はここまで。遍路道はここを右折し土径に入る。周囲は如何にも台地面といった風情。既述の海岸段丘の台地面を実感する。



4丁石(13時26分)
遍路タグの案内に従い、一時民家前の舗装道に出るも、直ぐに土径。遍路タグに従い進むと道の右手に舟形地蔵丁石。「四丁」と刻まれる。




不動岩道との分岐点(13時32分)
道なりに少し進むと道がふたつに分かれ、直進方向には「不動岩経由 第27番札所神峯寺」の案内。右に折れる道には「四国のみち」の指導標。共に遍路道ではあるが、直進ルートはしばらく台地面を進み段丘崖を不動岩へと下りるが、右折する遍路道は分岐点より台地面を離れ一直線に平尾の集落に下りてゆく。不動岩には惹かれるのだが、右折遍路道を選んだ。

五輪塔と5丁石(13時34分
少し進むと道の右手に五輪塔。小型ではあるが、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、(笠形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形(団形?)=空輪(くうりん)という五輪塔の形式を備え、それぞれの部位には地、水、火、風、空を表す梵字の種子が刻まれていた。 五輪塔を越えると道は急斜面の段丘崖を一直線に下ることになる。途中、道の右手に「五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(13時36分)が立っていた。

地蔵尊と6丁石(13時44分)
急斜面の遍路道を下ると右手に上部が欠けた地蔵尊らしき石造物。ほどなく「六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(13時47分)。遍路道はこの辺りから等高線をトラバース気味に緩やかな傾斜で里へと下りてゆく。


平尾の下山口(13時59分)
前面に開ける土佐の海を見ながら緩やかな里道を下ると旧国道に出る。そこが平尾の下山口。下山口の前には「道のえき キラメッセ」があった。少し道に迷ったこともあるが、金剛頂寺を出ておよそ1時間弱で台地を下りた。段丘崖の比高差は150mほどではあったが、道が荒れており、等高線の間隔も狭い急坂であった。
行政区域は金剛頂寺のあった室戸市元乙から台地途中より室戸市吉良川町丙になっていた。

金剛頂寺道


不動岩経由の遍路道

下山口から西へと次の札所に向かおうとこのルートをとったのだが、なんとなく不動岩が気になり結局少し東へ引き返し行当岬突端の不動岩に行くことにした。で、お参りした後、次いでのことではあるので、上述不動岩道分岐点からの遍路道を確認しようと、不動岩から分岐点までピストン。 不動岩経由のお遍路さんも多いという。分岐点から不動岩への順でメモする。

不動岩道との分岐点
上述平尾に下りる道へと右折することなく直進する。しばらくは海岸段丘面を20分程度のんびり歩くことになる。






法満宮
道を進むと右手に社。法満宮とある。ここが段丘面の端。ここからは段丘崖のジグザク道を行当岬突端の不動岩に向かって下りてゆく。段丘崖から不動岩のある海岸部は再び室戸市元甲に代わる。



下山口
国道55号へと斜めに下るコンクリート舗装のアプローチの先、海側に不動岩の堂宇が見える。分岐点からおよそ30分弱。段丘崖の比高差は100m強だが、ジグザグ道であり、平尾に下りる急坂に比べれば少し楽かとも思う。


不動岩
茂兵衛道標
国道55号を渡りお不動さんの境内に。国道を渡ったところに道標が立つ。お色直しされた茂兵衛道標。正面には「西寺八丁 神峰へ六里余」、側面には常の如く茂兵衛在所である「周防国大島郡椋木村 願主中務茂兵衛義教」と共に「二百七十一度目供養」の文字、裏面には「迷う身越教へ天通す法の道」の添歌と大正七年九月吉辰」の文字が刻まれていた。
添歌
現在比定されているも茂兵衛道標263基ほどの道標のうち、37基に句歌が刻まれる、と。 句歌は臼杵陶庵の作。本名臼杵宗太郎。明治9年、12歳で第七十六番札所金蔵寺に入寺。以来俳句を学び、茂兵衛とは巡礼時に金蔵寺納経所にて知己を得、後に茂兵衛建立の道標に句を添えた。
空海(弘法大師)の足跡
境内を進むと岩の横に「空海(弘法大師)の足跡」の案内。「この岩は不動堂から金剛頂寺への遍路道にあったものを移設したものです」とある。
不動堂
石段を上ると不動堂。お堂の傍に案内。「お不動さん お堂は海の安全のため波切不動がまつられ、そばにある高さ約40mの岩(砂岩)は「不動岩」あるいは「お不動さん」と呼ばれています。
今でも漁師はこの岩の沖で航海の安全を願い、お神酒をあげた後、船を旋回させる儀式を行います。
この岩の周辺は、真言宗を開いた空海が修行した場所といわれ、古くより信仰の対象であります。 第26番札所の金剛頂寺は明治時代まで女人禁制のであったので、女性はここで納経を行っていました。
補足説明;海岸に広がる左岸は、何千年も前に深海に降り積もった海底の砂です。海底は、地震をともなう海底の盛り上がりによって陸になりました(後略)」とあった。
不動岩
六地蔵が並ぶ古い小社前を通り岩場に向かう。五輪塔や舟形地蔵が並ぶ岩場を進み不動岩に。巨石には大小の窟がある。室戸岬で見た御蔵洞の小型版といったもの。大師修行の窟なのだろう。 前面に広がる海と岩礁に砕ける浪は如何にも修行の地の趣を呈す。





平尾下山口から中山越取り付き口へ

平尾から吉良川に
平尾の集落から遍路道は旧国道を進み、黒耳集落の先で国道55号に合流するが、その直ぐ先で浜側への旧道に入る。この辺りの住所は吉良川町丙から吉良川町甲となる。
黒耳
黒耳の地名由来は、「海岸に黒松などを植えて日陰をつくり魚を集めるのが魚つき林。黒松の山の緑を「黒ミ」」とある(「土佐地名往来」高知新聞より。以下「土佐地名往来」)


吉良川
国道を逸れた旧道は吉良川漁港を抜け、その先で国道を斜めに横切り東の川左岸を進み、東の川橋(昭和11年架橋)を渡る。
橋を渡ると道の両側に古き趣の民家が並ぶ。その町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようだ。
Wikipediaには「吉良川町は古来より木材や薪などの森林資源の集積地として京阪神に出荷していた。鎌倉時代の「京都石清水八幡宮文書目録」にも木材産地として吉良川の名が記されている。明治時代より近郊で産出するウバメガシから備長炭が生産されるようになった。
大正時代になると製炭技術が発達し吉良川炭は日本を代表する良質な備長炭となっていった。京阪神を中心に海路で出荷され、帰りの船で日用品を持ち帰り、その交易で明治から昭和初期にかけて繁栄した。その経済力を背景に町並みが形成された」とあった。
遍路道の両側にも往時の繁栄を伝える商家や漆喰の壁が印象的な巨大な土蔵が現れた。
吉良川町の海岸段丘
Google mapで作成
旧町並みを抜け西の川に架かる吉良川橋(昭和11年架華僑)を渡ると吉良川町乙。旧い町並みの風情は乏しくなるが、集落の裏に控える河岸段丘に惹かれる。
室戸岬近くの河岸段丘は上部面が自然のままであり、山地との違いがあまりよくわからないのだが、金剛頂寺のある行当岬に面する台地もそうだったが、吉良川町の河岸段丘も上部面が開墾されており、いかにも段丘面といった景観を呈する。




羽根の中山越道右折点
しばらく段丘崖下の旧道を歩き立石の辺りで国道55号に合流。ここからしばらくは国道を歩くことになる。
立石からしばらく歩くと室戸市羽根町甲に入る。羽根町は室戸市の西端。安芸郡奈半利町と接する。
国道を進み羽根川手前で旧路に入るが、羽根川橋手前で国道に合流。橋を渡ると室戸市羽根乙。国道を少し進んだ遍路道は尾僧の辺りで国道を右に逸れ旧道に入る。 小川をふたつ越え右手に市営住宅が見え、ぞこに入る角に遍路道右折の案内がある。ここを右折して中山越えの道に入る。
羽根の由来
古くは波禰、八禰。鳥の羽のような地形説、跳ね石由来説、根は山裾で、八つの集落説もある(「土佐地名往来」より)


中山越え

中山越えルート図


中山越え取り付き口
市営住宅の中を抜け遍路タグの案内に従い舗装された狭い道を進む。前面にはこれも河岸段丘である中山越えの台地が見える。





車道をクロスし再び車道に
道なりに進むと土径となり、40mほど高度を上げると車道に出る。車道に出た遍路道は車道をクロスし土径を進む。ヘアピンで曲がる車道をショートカットする道であった。



車道を逸れて坂を折り返す
ートで補強された傾斜法面が見える。遍路道は車道から180度方向を折り返し、この法面斜面の道を上ることになる。
斜面方面が車道にあたることろには遍路道案内があるのだが、草に覆われ見落としてしまうので注意が必要(実際私も見落とし、結構台地を彷徨うことになった)。

車道をクロスし再び土径へ(10時46分)
ターン気味に折り返して斜面を上り木々に覆われた土径を進むと再び車道に。ガードレールに小さな遍路タグが張られる。上述の180度ターン部の遍路道案内を見逃し、台地を彷徨い諦めかけたとき、このガードレールに貼られた小さな遍路タグが目に入り、中山越えをトレースし得ることになった遍路タグである。
遍路道は車道を横切り土径へと進む。遍路道の案内は木に吊るされた遍路タグ。これも注意しないと見逃しそう。

遍路案内に従い生活道に出る(10時53分)
木々に囲まれた道を進み沢の源頭部を迂回すると背丈より高い草に覆われた平坦部に出る。その先に遍路道案内、案内に従い右折すると台地上集落の生活道に出る。生活道は舗装されていた。



土径に入る(11時)
案内に従い生活道を左折し、農家庭先に祀られた小祠を見遣りながら舗装された集落の生活道を進む。道なりに進むと遍路道案内。そこから先は土径に戻る。




段丘崖を下りる(11時4分)
ほどなく台地面の端となり、その先は木々に覆われた段丘崖を下りることになる。比高差は70mほどだろうか。それほどキツイ下りではなかった。




加領郷の下山口(11時13分)
民家の塀に挟まれた道を抜け下山口に。途中道に迷い時間をロスしたため上り付き口からの時刻表示は省き、オンコース地点へのタグ地点からの時刻だけ表示するが、そこから下山口までおおよそ30分。上り取り付口からオンコース遍路タグ地点までの推定時間は30分錫。1時間弱で中山越えはできるだろう。下山口は安芸郡奈半利町となる。



             ■中山越下山口から神峯寺へ

加領郷漁港
下山口の国道55号の壁面には遍路案内があり、右を指す。案内に従い旧国道を西進する。国道を挟んで海側に加領郷漁港。遍路道は国道に合流する。
加領郷の由来は「木材を伐り出す船曳場が漁業を営む地となり加漁郷となり、土地も開墾され加領郷と転訛」と「土佐地名往来」にある。

弘法大師霊石跡
国道に合流し加領郷漁港を越えると直ぐ、国道海側に4mほどの巨石が立ち「弘法大師霊石跡」と刻まれる。国道を挟んで海側と山側にお堂。海側のお堂が大師堂。
巨岩が大師堂に食い込み、お堂の中の岩(霊石?)の窪みに大師座像が祀られる。お大師さんが修行の途次、その法衣を洗われたと伝わる「御たらい岩」の霊石がこれだろうか。お堂から40mほど離れたところにある平たい岩がそれ、との記事もあった。
山側のお堂は台風のときなどに大師像を移すためのもの、とか。

奈半利の標石
国道を進み、海岸側の貯木場を過ぎたあたりで遍路道は国道55号を離れ旧道を奈半利の町並みに入る。
右手に三光院、八幡宮を見遣り道を進み、長谷川を渡るとその先、道が分岐する角、登録有形文化財濱田家住宅」の案内のある石積みの上に2基の標石が立つ。大きい標石には「峯寺江二里 奈半利住人 蔦屋松右衛門」といった文字、小さい標石には上部に梵字と大師像、その下に「従是 寛政二」といった文字が刻まれる。
分岐点の右手、運送会社の大型トラック駐車場の先に白壁の蔵が印象的な濱田家住宅があった。
奈半利
奈半利は奈半利川の下流三角州に開けた町。養老年間(717-724)には古代官道・野根山道が開かれ陸・海交通の要衝となった。『土佐日記』にも承平5年(953)1月10日の項に、「けふはこのなはのとまりにとまりぬ」と記される。難所である室戸沖を無事航行するための風待ち港でもあったのだろう。中世には室戸岬東側の甲浦港と並ぶ廻船港として栄えたと言う。
陸路も奈半利は室戸岬東岸の甲浦に出る野根山街道の起点。土佐の藩主も難所の室戸沖航行を避け、野根山街道を甲浦に向かった。奈半利は参勤交代時の宿場町でもあった。
陸海交通の要衝に加え、先ほど国道脇に見た大きな貯木場が示すように、この地は木材の集散地としても栄えた。奈半利川の上流にある日本三大美林のひとつ、簗瀬杉がこの地から海路で各地に運ばれた。明治から昭和初期にかけてがその全盛期と言う。材木で財をなした豪商の家が残るという、先ほどみた濱田家住宅も材木商ひとり?と思ったのだが、どうも造り酒屋・質屋であったようだ。
因みに奈半利の由来は「ナは魚、ハは庭、魚のいるところ、また田の物の生るところなど諸説ある(「土佐地名往来:より)

高札場跡
標石を直進しT字路にあたると右折。道の右手に正覚寺を見遣り国道55号をクロスし、最初の少し広い通りを左折。西進すると国道493号手前に「高札場」の案内。「野根山街道はここの高札場を起点として野根山連山を尾根伝いに、東洋町野根を結ぶ延々五十キロ余で、養老二年(718)には既に利用されていた歴史と伝説に富んだ自然遊歩道である」とある。
上述の如く野根山街道は藩政時代の参勤交代の道。装束峠を越える標高900mほどの尾根道を辿る道である。この参勤交代の道は後年愛媛の川之江に出る土佐北街道に変更した(1)。参勤交代の遅延には罰則もあったようで、紀伊水道の風待ちを避け、波の穏やかな瀬戸の海を浪速へと渡るようにしたのだろう。
高札場脇に小堂があり石仏が祀られる。その先民家の間を北へと延びる少し狭い道が往昔の野根山街道ではあろう。
安芸郡
野根山街道を地図で辿り東洋町までトレースする。と、室戸岬東岸の東洋町も西岸の奈半利と同じく安芸郡域であった。安芸郡は現在東洋町、奈半利町、田野町、安田町、北川村、馬路村、芸西村からなる。明治期には現在の室戸市、安田町の西の安芸市を含めた地域が安芸郡であったようだが、その中から室戸市、安芸市が誕生し現在の安芸郡域となった。それにしても安芸市の西に芸西村が飛び地のように安芸郡として残る。安芸ではなく西の香西市との合併の話があるという。なんらかの歴史的・文化的事情故のことだろうか。
正覚寺
行基菩薩開山、本尊も行基作と伝わる聖観音、また行基作と伝わる不動明王、毘沙門天が祀られていたようだが、天正11年(1582)に火災ですべて焼失。にもかかわらず藩政時代は陸路の幕府巡検上使の宿泊所、中老格式を保った真言宗のお寺さま

奈半利川東詰めに2基の巨大石碑
国道493号をクロスし西進。奈半利川に架かる奈半利川橋東詰に2基の巨大な石碑が立つ。共に5mほどもあるだろうか。
右側の石碑の表には「土佐日記 那浪泊」、裏面には「承平六年一月十日紀之貫之朝臣帰京の際此の地に泊まる」といった文字が刻まれる。
左の石碑は表に「維新志士 贈正五位 能勢達太郎成章生誕の地」の文字が刻まれ、裏面にはこの地に生まれ、蛤御門の戦いに敗れ屠服。若干二十二歳。十七烈士と称されたといったことが記されていた。

田野の標石
奈半利川橋を渡ると安芸郡田野町に入る。遍路道は奈半利川橋西詰ですぐ国道を逸れ旧道に入る。直ぐに三叉路。その角に自然石の標石。手印と共に「へんろ道」の文字が読める。手印に従い角を右折し田野の町並みに入る。




田野
田野は、安芸郡中央部に位置し、古代は那波郷に属し、鎌倉時代初め、高田法橋が奈半利川の治水に努め、"田野郷"を開いた。藩政時代、奥地、魚梁瀬の山林資源の開発により、"田野五(七)人衆"と称される藩御用商人達が富を持ち、"田野千軒ガ浦"として繁栄した。
幕末「安芸郡奉行所」「藩校田野學舘」が設置され、安芸郡下における政治、経済、文化の中心地として栄えてきた。明治21(1888)年田野村発足。大正9(1920)年に町制を敷いて田野町に改称し、現在に至る(「田野町」の資料より)。
奈半利の歴史をチラ見しているとき、奈半利浦には天保3年(1683)、奈半利の商人が所有する八端帆以上の大型廻船42、それに対しこの浦を利用した田野の「商人の大型廻船が奈半利を上回る60隻とあった。現在の静かな町からは想像できないが、往時の繁栄をメモの段階で理解できた。

岡御殿
町並み西進した道がその先少し狭くなる角、電柱に遍路道左折の遍路タグ。指示に従い右折し南に進むとT字路にあたる。そこに遍路道右折の案内。右折西進すると道の左手に趣のあるお屋敷。「岡御殿 藩政時代末期の面影が残る貴重な建物。格式高い書院造りが特徴で土佐藩主が東部巡視の際に本陣として使用した豪商岡家の屋敷(後略)」といった案内があった。
岡徳左衛門(米屋)
田野町の資料には「田野浦五(七)人衆の筆頭豪商で、藩主山内候の参勤交代時の宿泊所(本陣)指定を受ける(岡御殿)。藩の御用金を調達し、近隣の村々の馬を集め"一文銭"を積んだ馬が明神坂を上っているのに、後尾の馬はまだ岡の門前にいたと言う"大輸送話"が伝えられている。(※田野~明神の現距離約8km)」とあった。

丈丈川
岡御殿の先、T字路を左折し南進すると丈丈川に架かる新町橋。橋の南詰めに堂々として美しい蔵が見える。造り酒屋濱川商店の酒蔵。県の指定文化財。
丈丈川(安居掘)
上述田野町の資料にある地図には、この丈丈川は安居掘とある。人工的に開削された水路のようだ。安居(あんこ)掘りについて、田野町史には「嘉永元年から万延元年(1846~1860)まで田野浦庄屋を務めた辻斧之進(弘道)はその間、新町の裏、高礼場(旧役場あたり)の所を掘り割り、浜田・新町の北の田地を水害から救った。当寺、「辻が馬場食た岡の下の堀を見よ」と村人たちが歌ったのは、安居堀敷地が郷士岡家の馬場であったからである」といったことが書かれていた。
上述田野町の資料(町のおぼえがき帳)の地図をみると、旧役場は新町橋の南詰の東、その東に「高札場」の表示がある。新町はこの辺り、浜田は新町の西の地区。

六地蔵
新町橋を渡った遍路道は次の角を右折、浜田を抜け八幡宮を右手に見遣り国道55号(国道493並走区間)に接近。遍路道はそのまま国道の南を進む。浜側は墓地が広がる。ほどなく道の右手に六地蔵尊と書かれた木の標識。台石を含め80センチほどの高さ。案内には「六地蔵 人は死後、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を歩むという。その六道で衆生を救済するのが六体の地蔵尊である。
安永四年(1775)田野浦の商家米屋と福吉屋と地元の人々がそれぞれ二基ずつ計六体の地蔵を建てたものである。元は八幡宮の馬場にあった。
米屋は上述岡屋敷の主。福吉屋は米屋を含めた蔦屋・常盤屋・虎屋などの「田野五人衆」と呼ばれた豪商のひとりである。奈半利の標石に刻まれた「蔦屋」とはこの田野5人衆にある蔦屋であろうか。
田野の由来
田野の海岸段丘(Google mapで作成)
田野は棚、つまりは段丘が原義と『土佐地名往来』にある。GoogleMapで確認すると、なるほど開墾された海岸段丘面がはっきりわかる。六地蔵は段丘崖と海に挟まれたところにある、ということだ。









不動の滝
六地蔵を越えると安芸郡安田町に入る。安田町に入ると旧道は国道55号を斜めに横切り山側を進む道となる。
道の右手に不動堂。その傍に不動明王が祀られた小堂と段丘崖を落ちる滝がある、不動の瀧と呼ばれるようだ。地形図を見ると滝の部分の等高線が北に切れ込んでいる。海岸段丘面に集められた水が地下水となりここから落ちているのだろうか。



安田の茂兵衛道標
遍路道は安田川に架かる安田川橋を渡り、右手に八幡宮、さらに誓願寺を見遣り進むと四つ辻に。その角に茂兵衛道標が立つ。正面に「神峰道 古れより三十五丁阿ま里」、左面に「左 高知」などと刻まれた茂兵衛125度目巡礼時のもの。

土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架を潜る
茂兵衛道標から旧国道を離れ、第二十七番札所の建つ山へと向かうことになる。茂兵衛道標から北西へと進み東谷川に架かる橋を渡り右折。その前に土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架が見える。
土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線
正式名勝は阿佐線。当初徳島県海部町の牟岐駅から高知県南国市の後免を結ぶ「四国循環鉄道構想」のもと計画された路線の「名残り」。阿佐線は阿波と徳島を結ぶ線といった想いではあったのだろう。
旧国鉄の再建法などにより計画は凍結。高知側は高知県が主体となり土佐くろしお鉄道が節理され、平成14年(2002)に開業に至った。阿佐西線とも呼ばれる。
一方、徳島県側の区間(阿佐東線〈あさとうせん〉)のうち、牟岐駅 - 海部駅間がJR四国牟岐線(当時は国鉄牟岐線)として昭和48年(1973)に、海部駅 - 甲浦駅間は阿佐海岸鉄道阿佐東線として平成4年(1992)にそれぞれ開業している。残る甲浦駅 - 奈半利駅間は未成線であり、高知東部交通の路線バスが結んでいる。


神峯道〇

神峯神社の鳥居前に標石2基
土佐くろしお鉄道の高架を潜ると直ぐ、東谷川の西岸傍に神峯神社の鳥居が建つ。明治四十二年一月建立と鳥居に刻まれるが、「神峯神社」の石額は新しい。
鳥居前にはいくつかの石造物が並ぶが、その中、鳥居左右に標石。左側の標石には「従是神峯三十二丁 明治十三」といった文字が刻まれる。
右側の標石には「右 従是神峯 三拾八丁 明和五」といった文字が読める。



東谷川右岸に標石
鳥居から道を隔てた東谷川傍に自然石の標石。摩耗激しく文字は読めない。東谷川右岸の道を進むと右に分岐する橋があり、その直ぐ先、ガードレールに挟まれて標石が立つ。手印と共に「へんろ道 昭和三十九年」といった文字が刻まれる。



道の右手に標石
先に進み、民家を越えてた空地の先、道の左手草叢に隠れるように石造物と並び上部の欠けた舟形地蔵が立つ。「*九丁」とある。この辺りから札所まではおおよそ3キロというから、「二十九丁」なのだろう。
遍路道はその先で東谷川にかかる「さかもと橋」を渡ると、お山への取り付口となるが、道は舗装されており車も走る。




22丁・21丁石
舗装された道を上ると道の右手に舟形地蔵丁石。「廿二丁」と読める。さらにその先に上部の欠けた舟形地蔵。「*一丁」の文字が読める。廿一丁石だろう。




23丁・19丁
更にヘアピンカーブの手前、道の左手に「廿三」と刻まれた舟形地蔵。順が違うが道路整備などでよくあること。
その先、左手から登って来た比較的広い車道との合流点にある民家からちょっと下がったあたりに「十九」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。
丸い小石の並ぶ地層
ほとんどが側面補強されてはいるが、時に残る地層面には丸い小石が列をなす。数百万年前海底が隆起した証左とのことである。
地図には山裾付近に「安田町化石体験場」といった場所もある。270万年前に隆起した海底部の地層に残る化石発掘体験ができるとのこと。上述丸石が海底から隆起した地層というエビデンス。


16丁石
車道合流部を先に進むと右手に「十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。車道は参道道としてお山に登るが、遍路道はその先で車道を離れ土径へと入る。






遍路道分岐点(14時15分)
道の左に大きな石碑。その前に「神峯寺参道」「神峯寺徒歩道」左の案内。石碑の前には「十山丁」と刻まれた舟形地蔵丁石、「従是本堂*」といった標石が並ぶ。そのほか上部の欠けた舟形地蔵丁石らしき石造物が並んでいた。車道を離れ土径を進む。

車道に出て再び土径に
ジグザクな道を10分ほど歩き高度を30mほど上げると車道に出る(14時24分)。ヘアピンのカーブを曲がるとすぐ土径に入る遍路道案内(14時26分)。遍路道は蛇行する車道を一直線に突ききるルートとなっている。上り口に舟形丁石が立つ、「*丁」と丁数は読めない。

9丁石
5分ほど歩き高度を30mほど上げると車道に出る(14時31分)。車道に出た遍路道は少し左に歩き、カーブ手前で土径に入る(14時31分)。その上り口に「九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。


8丁石
等高線を垂直に5分ほど上ると車道に出る(14時37分)。車道をクロスし土径に入るところに「神峯寺本堂790米」と刻まれた新しい標石とその傍に「八丁」と刻まれた舟形地蔵が立つ。



7丁石(14時44分)
その先、車道を2度クロスし7分ほど歩き高度を20mほど上げると車道に出る(14時44分)そこには「七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立っていた。7丁石から先は車道を歩きお寺さまに向かう。






駐車場(14時56分)
車道に入った遍路道ではあるが、この車道は比較的等高線の間隔が広くなった尾根筋を直線で登ると言った急こう配の坂。「注意 これより急坂、急カーブにつきご注意ください」と書かれた案内が立つ。駐車場までは300m。10分強坂を上り、高度を60mほど上げると駐車場に着く。休憩できるお店もあった。
駐車場脇には「神峯山観光案内図」と共に「神峯寺」の案内が立ち、「四国霊場第二十七番所「神峯寺」 竹林山と号し真言宗豊山派に属する。本尊は行基菩薩作と伝える十一面観音、開基は聖武帝の天平二年本尊を古屋谷(ふるやだに)に安置したと伝えられ、大同四年弘法大師が勅命により本尊を神峯神社に合祭して観音堂と称え、明治四年神仏分離のため廃寺、明治二十年二月住職間崎天竜師が現在地に再建竹林山地蔵院と改め、昭和十七年現在の神華寺となる。
四国八十八ヶ所のうち、当寺は屈指の難所とされていたが、自動車道が開設されて入山が安易となった」とあった。駐車場から山門まではまだ60mほど高度をあげなければならない。


第二十七番札所神第峯寺

山門
駐車場右手の坂を上ると山門前に着く。右手に神峯神社の参道口鳥居が建つ。
山門前に自然石に「第廿七番札処 神峰 法師龍円尼 安政四巳年生 時五十四才建立」と刻まれた文字の下に尼僧像が刻まれている。更にはその左に手印と明治四十三年六月」と刻まれる。 これってどういうこと? 


チェックすると山門はこの龍円尼の寄進したものとのこと。上述神峯寺の案内に、明治の神仏分離で一時廃寺となったが、明治二十年二月住職間崎天竜師が現在地に再建したとあったが、龍円尼はこのとき住職間崎天竜師と共に寺の再建に尽力したようである。 「時五十四才建立」とは、明治20年、54歳の時に山門を建立したということだろう。 で、「明治四十三年六月」は?龍円尼の徳を記念して山門の見えるこの場所に石碑を立てた日時のことではないだろうか。
そばには「四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石も立っていた。

鐘楼
山門を潜ると鐘楼。この鐘楼も龍円尼の寄進と言う。龍円尼については全国を歩き資金を集め寺の整備に努めたといった記事があったが、それ以上のことははっきりしない。

本堂・大師堂
鐘楼脇より石段を上り正面に本堂、その右手に大師堂が並ぶ。
Wikipediaには、「神峯寺(こうのみねじ)は、高知県安芸郡安田町唐浜にある真言宗豊山派の寺院。竹林山(ちくりんざん)地蔵院(じぞういん)と号し、本尊は十一面観音。
真っ縦(まったて)と呼ばれる急な山道を登った神峰山(標高569.9m)の中腹(標高430m付近)にあり四国八十八箇所で9番目の高さで高知県では一番である。「土佐の関所」また「遍路ころがし」と呼ばれる屈指の難所として知られ、江戸時代は麓の前寺で遥拝し納経をすませる遍路もいたほどであった。
寺伝によれば神功皇后が朝鮮半島進出の戦勝を祈願し天照大神を祀った神社が起源とされ、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を受けて行基が十一面観世音菩薩を刻み、本尊として神仏合祀し開創したという。その後大同4年(809年)に空海(弘法大師)が堂宇を建立し「観音堂」と名付けたとされている。

その後、堂塔が多くあったが、元和年間(1615~1624)火災によりすべて焼失、その後、本堂と大師堂と鎮守社のみ再建され、十一面観音も麓にあって廃寺になっていた別当の神峯寺から納めて復調する。しかし、険しい山中の札所ゆえ別当になっていた麓の常行禅寺や前札所の養心庵(明治の神仏分離時点でどちらも廃寺)で遥拝し納経するものも多かった。なお、江戸末期、常行禅寺での納経帳に「奉納 本尊十一面観音 土州竹林山 神峯」と記されている。
幕末、三菱財閥創始者岩崎弥太郎の母は弥太郎の開運を祈願して現在の安芸市より片道20キロメートルの道のりを素足で三七日(21日間)通い続けた逸話がある。
明治初年の神仏分離令によって神峯神社だけが残り寺院としての部分は廃寺となり、本尊と札所は金剛頂寺に預けられ、金剛頂寺で納経をしていたが、明治20年(1887年)もとの憎坊跡に堂舎を建立し本尊と札所を帰還させ再興した。大正元年には茨城県稲敷郡朝日村の真言宗地蔵院の寺格を移し、そして、昭和に入って、それまでの神峯から神峯寺と称するようになった」とあった。

境内には神峯の水、火炎を向背とした不動明王、伊藤萬蔵寄進の香台のみえる地蔵堂などもあtった。


●「真っ縦」
神峯寺への遍路道は「真っ縦」、「遍路ころがし」の難所と言う。現在は大半が車道となっており、往昔の「真っ縦」といった険しさを感ずることはなかったが、取りつき口が標高17mほど。お寺さまは標高430mほどであるので、比高差400m強上るわけで、キツイ上り遍路道には違いない。 現在大半が車道となった遍路道ではあるが、その道を開く物語がWikipediaに記されていた。簡単にまとめると;昭和50年(1975)、新住職に就いた南寛彦師が麓から寺に直接上る車道整備を発願。門徒総代を理事長とした神峯道整備事業団を結成し中心メンバ‐3名と4人作業員の7名で着手。2年後一応の完成を見るも、その後も住職が整備を続け、平成元年に神峯道は町道へと無償提供された。その後平成33年には麓から中腹まで片側1車線の広域農道が開通し神峯道とつながった、と。
広域農道とは遍路道に左から合流した広い道のことである。

神峯神社
鳥居脇に標石
標石には「県社 神峰神社 従是三丁 明治三十年」といった文字が刻まれる。
本日のメモはここまで。次回は第二十八番札所大日寺に向かう。

山門右手にあった鳥居を潜り300段以上もある石段を上ると本殿がある。Wikipediaには「 神峯山(標高569.9m)の山頂近くの標高500m付近にあり、神峯寺の約250m上った所に位置する。神峯寺の前身である観音寺との神仏習合の宗教施設であったが、明治初期の神仏分離令により仏教施設が廃され神社のみが残った。明治20年(1887年)に神峯寺が再興され、現在は神峯寺の奥の院という位置づけとなっている。
神峯神社日記によれば、神武天皇が東征の際、この山を神の峯とし石を積み神籬を立てて祀ったことが起源と伝えられている。
本殿の向かって右奥上方には燈明巌(とうみょういわ)と呼ばれる岩がある。この岩は太古から夜が更けると青白く光っていたと言われている。天変地異などの異変が起こる前兆として光ると言われており、日清戦争、日露戦争、関東大震災、太平洋戦争、南海地震の前に光ったと伝えられている;とある。
社務所から四国のみち」展望台へと向かうと。その下に大師腰掛岩がある。羽根、行当、室戸岬の 遠望が楽しめる。
室戸岬突端に立つ最御崎寺を打ち終えると、次の札所第二に十五番 津照寺は5キロほど。その次の札所第二十六番金剛頂寺は津照寺から6キロ程。今回は最御崎寺から金剛頂寺迄の11キロほどの遍路道をメモする。
最御崎寺は東寺、金剛頂寺は西寺と称される。金剛頂寺の建つ行当岬は行道からとも。若き時代の空海が最御崎寺の建つ室戸岬と、金剛頂寺の建つ行当岬を西から東、東から西へと修行にあけくれた道ゆえの行道ではあろう。
この間の遍路道で印象的であったのは、最御崎寺の建つ室戸岬の台地から海岸へと下るときに眺めた室地岬西岸部に延びる緩やかな傾斜の山地。海に向かって落ち込むような室戸岬東岸と対照的な景観を呈する。
海岸に沿って続く緩やかな山地景観、時には上部面が平坦な台地とも見えるその景観は海(生ま)岸段丘であった。地質学では結構有名な場所であったようだ。 遍路道は西に続く海岸段丘の眺めを楽しみながら室戸スカイラインを海岸線まで下り、海岸線に沿って行当岬手前まで歩き、海岸段丘が海に突き出した行当岬の上部台地面に建つ金剛頂寺へと向かった。寺への段丘崖の上りも30分ほど。それほど険しくもないルートであった。 ともあれ、メモを始める。


本日のルート;
第二十四番最御崎寺から第二十五番津照寺へ
御崎寺・室戸スカイライン側入口>室戸スカイライン>津呂の石碑と標石>室津港>徳右衛門道標と地蔵>願船寺>第二十五番札所 津照寺(しんしょうじ)
第二十五番札所津照寺から第二十六番金剛頂寺へ
奈良師橋>岩谷川傍の標石>伊藤萬蔵標石を右折>向江の自然石標石>廻国塚と川村与惣太の墓>4丁石>5丁石>六地蔵と常夜灯>七丁石>第二十六番札所 金剛頂寺



第二十四番最御崎寺から第二十五番津照寺へ

最御崎寺の次の札所は第二十五番札所 津照寺。おおよそ4キロほど。旧路は消え、室戸スカイラインを大きく蛇行しながら里に下りるしか術はない。

御崎寺・室戸スカイライン側入口
本堂左手を裏に回り石段を下りると室戸スカイラインに。「四国第廿四番霊場最御崎寺」と刻まれた寺標が立つ。その先、駐車場脇に標石。「へんろ道 大正十三年」といった文字が刻まれる。

室戸スカイライン
スカイラインを下りながら室戸岬の西海岸を眺める。海岸から急勾配でせり上がり、その上部面が平坦な台地状の景観が西に続く。切り立った海食崖からなる室戸岬東側と際立ったコントラストを呈する。
海岸(海成)段丘
国土地理院の地質図をチェックすると、海成層砂岩、砂岩泥岩互層の地層の中に、室戸岬からに西の奈半利にかけて、海岸線にそって大きな「段丘堆積物」と記された岩質の層が並ぶ。チェックすると、海岸段丘とも海成段丘とも呼ばれ、地質学では知られた地形のようである。
形成のプロセスは門外漢であるため正確なことは説明できながい、大雑把に言えば、台地上面はもともと海底にあったもの。それが室戸の沖合140kmともいわれる南海トラフの沈み込み時の「はねかえり」によって生じる地震により隆起し、その海岸部が波に浸食され平坦面が形成される。隆起した付加体の岩質が泥岩であり砂岩泥岩互層であることも浸食されやすい要因だろうか、 次いで、新たに生じた地震によって既に形成された平坦面が陸上に上位面として上がり、海岸線に新たな平坦面が形成される。素人にはわからないが、室戸岬西側には数段の海岸段丘が形成されているようだ。
「国土地理院地質図」
それはそれでいいのだが、何故に室戸岬の東岸と西岸ではかくも景観が異なるのだろうか。岩質は共にプレート沈み込み時に隆起した付加体の泥岩であり、砂岩泥岩互層が大半である。 チェックする、と、室戸岬東岸は沖合2-3キロのところで1000mも急激に落ち込む崖となっている。一方、西岸は沖合7キロほど行っても水深は100mを越えない浅い海とのこと。これに因があるのだろうか。
隆起し波に浸食され削られた岩質も海が浅ければ堆積できようが、崖となっていれば堆積することなく深い海底へと滑り落ち込むようの思える。素人の妄想。根拠はないが自分なりに腑に落ちた。




津呂の石碑と標石
スカイラインを国道55号まで下る。遍路道は国道55号と並行した山側の道を進む。ほどなく室戸漁港(津呂)に入る。深く掘り込まれた漁港。津呂の漁港は外海と狭い水路で結ばれた如何にも人工的な船泊となっている。
旧道が津呂の漁港に入ったところに大きな石碑が2基並ぶ。右の石碑には「紀貫之朝臣泊舟之処」、左のそれには「野中兼山先生開鑿之室戸港」と刻まれる。
石碑の脇の案内には「室戸岬港(津昌港) 室戸は、土佐の国司紀貫之が任満ちて京都へ帰る時、天候悪く、十日ほど滞在したところである。
津呂港は、風や波を待つ港として野中兼山が寛永十三年(一六三六)試掘、寛文元年(一六六一)一月着工し三月に竣工させた。
これに要した人夫は三十六万五千人、黄金千百九十両を要した確工事であった。それ以前にも小笠原一学(最蔵坊)が元和四年(一六一八)願い出し開削している。 この工事は、海中に土嚢で長い堤防を架き内部を池にして海水を汲み干した後、ノミと鎚(私注;ツチ)で岩を砕いて開削「する工夫で完成した港は、東西一一〇メートル、南北十二メートル、深さは満潮時二メートルあった。古くは室戸港といわれていた。 室戸市教育委員会」とあった。
石碑のへんろ標石も立つ。手印と共に「へんろ道 大正五年」といった文字が刻まれる。
土佐日記
土佐の国司として赴任していた紀貫之がその任期を終え、京への帰途の旅日記。承平4年(934 )12月21日から旅立ちの用意を整え、27日に出港。風待ち寄港を繰り返し、海賊に怖れながらの海路40日、その前後合わせ55日もの日数を重ね京に着いた。
『土佐日記』原文には1月12日室津の湊の記述はあり、風待ちの末1月21日に室津を出たとの記述があるが、津呂の記述はなかった。
津呂
津呂の湊は藩政時代、捕鯨の基地であったよう。津呂の由来は瀞(とろ)と同様の「波の穏やかなさま」と「土佐地名往来(高知新聞)。以下「土佐地名往来」と記す」にある。

室津港
津呂の漁港を抜けた旧道はその先で国道55号に合流。少し進むと国道を右に逸れて旧道に入る。右手に鈴木神社、光福寺を見遣りながら道を進むと耳碕辺りで再び国道に合流するも、遍路道はすぐ左に逸れて室津の港に入る。

徳右衛門道標と地蔵
室津の港北岸を進むと突き当りに「四国第二十五番霊場 津寺」と刻まれた津照寺の寺柱石。その傍に徳右衛門道標が立つ。「是ヨリ西寺迄一里」。次の札所金剛頂寺(西寺)を案内する。西寺は東寺(最御崎寺)に対するものである。
道標右手には天明元年の銘がある地蔵石仏。台座には「札所」の文字が刻まれる。






願船寺
津照寺は右に折れ参道に入るが、徳右衛門道標のすぐ右手、少し奥まったところに願船寺。「最蔵坊俗名小笠原一学之碑」と刻まれた石碑が建つ。案内には「本尊は阿弥陀佛で真宗東本願寺末である。慶長年間に泉州の商人が本尊佛を安置した。
慶長九年(1604)の地震、高潮の時不思議に助かり、正徳四年(1914)願船寺となった。最蔵坊(俗名小笠原一学)は寛永七年(1630)室津港の築港に当たった。その功により今の願船寺屋敷八十四坪を与えられ現在に至っている。境内には寛永古港の礎石や最蔵坊の墓がある 室戸市教育委員会」とある。
室津港は藩主山内忠義の支援を受け、東寺(最御崎寺)の最蔵坊が、それまで岩礁を利用した港の開削をはじめ、その後野中兼山に引き継がれた。
堀り込み港
呂津の港もそうだったが、この室津の港も道から7,8mも下にある。これだけの岩礁を彫り割った?チェックすると室戸岬の辺りは大地震のたびに土地が隆起しているようだ。最蔵坊の開削は1630年。室戸ジオパークの資料に拠れば、その後1707年の宝永地震で1.8m, 1854年の安政地震で1.2m, 1946年の昭和南海地震でも1.2mも陸地が隆起している。
ということは、最蔵坊開削時は陸地と海の差は3mから4mといったことろか。としても、地震の度に掘り込み、岩盤を掘り下げなければ船は海に浮かばないわけで、深く掘り込まれた港は先人の苦闘の証。港が違った風に見えてきた。


第二十五番札所 津照寺(しんしょうじ)

一の門
参道口を進み一の門を潜る。右手には「四国霊場第二十五番 万体地蔵尊奉安殿 津照寺:、左手には「御本尊楫取地蔵大菩薩」とある。







一木神社
左手に鳥居があり、境内に「一木権兵衛君遺烈碑」と刻まれた巨石碑が建つ。鳥居を潜った境内右手には木の覆屋の下に巨石が置かれている。
一木権兵衛正利は野中兼山の家臣。室津の港開削の命を受け、人夫延べ170万人、10万両を費やすも巨大な岩礁(釜礁)に阻まれ工事は難航。正利は人柱との願いをかけて自刃して果てる.。と、不思議にも岩礁が割れ築港が叶ったとのこと。人々は社を建て正利を祀った。
鳥居脇に置かれていた巨石は港を塞いでいた岩礁で、正利が一命を賭して砕いた「お釜巌」であった。
大師堂
一の鳥居を潜ると右手に大師堂。左手に金毘羅大権現。参道地蔵尊の前に伊藤萬蔵既存の香台があったようだが、見逃した。
楼門
100段近い石段を上ると竜宮門の様式の楼門がある。
本堂
更に石段を上ると本堂が建つ。本堂から室津の港が見下ろせる。本尊は延命地蔵尊。大師がこの地を訪ね、大漁と海の安全を祈り1mほどの延命地蔵を刻み、草堂に祀ったのが寺のはじまりと伝わる。
楫取地蔵
この延命地蔵は一の門の寺柱石にもあったように、「楫取地蔵」とも称される。その由来は、藩主山内一豊公が室戸の沖を航行中、俄かの暴風に見舞われあわや遭難。と、どこからともなく一人の小僧が現れ、楫を取り無事室津の港へと導き、いずくともなくかき消えた。
一豊公は神仏のご加護と津寺にお参り。と、そこには潮水をかぶり全身びしょ濡れとなったご本尊の延命地蔵が立っていた。
延命地蔵は『今昔物語』にも登場
この延命地蔵は火難にも霊験あらたか、と。平安時代末、院政時代に書かれた『今昔物語』の巻十七話第六話に「地蔵菩薩 値火難 自出堂語 第六」の項がある。私でも読めるので原文をそのまま掲載する。
「今昔、土佐の国に室戸津といふ所有り。其の所に一の草堂有り。津寺と云ふ。其の堂の檐(たる)きの木尻、皆焦(こが)れたり。其の所は海の岸にして、人里遥に去て通ひ難し。
而るに、其の津に住む年老たる人、此の堂の檐の木尻の焦れたる本縁を語りて云く、
「先年に野火出来て、山野悉く焼けるに、一人の小僧、忽に出来て、此の津の人の家毎に、走り行つつ叫て云く、『津寺、只今焼け失なむとす。速に里の人、皆出て火を消すべし』と。津辺の人、皆此れを聞て、走り集り来て、津寺を見るに、堂の四面の辺りの草木、皆焼け掃へり。堂は檐の木尻焦れたりと云へども焼けず。
而るに、堂の前の庭の中に、等身の地蔵菩薩・毘沙門天、各本の堂を出でて立給へり。但し、地蔵は蓮華座に立給はず、毘沙門は鬼形を踏給はず。其の時に、津の人、皆此れを見て、涙を流して泣き悲むで云く、『火を消つ事は天王の所為也。人を催し集むる事は地蔵の方便也』と云り。此の小僧を尋ぬるに、辺(わたり)に本より然る小僧無し。然れば、此れを見聞く人、『奇異の事也』と悲び貴ぶ事限無し。其れより後、其の津を通り過る船の人、心有る道俗男女、此の寺に詣でて、其の地蔵菩薩・毘沙門天に結縁し奉らずと云ふ事無し」。
此れを思ふに、仏菩薩の利生不思議、其の員有りと云へども、正く此れは火難に値て、堂を出て、庭に立給ひ、或は小僧と現じて、人を催して、火を消さしめむとす。此れ皆有難き事也。 人、専に地蔵菩薩に仕ふべしとなむ語り伝へたるとや」と。
全体のプロットからして、上述の 楫取地蔵霊験はこの今昔物語がベ-スにあるようにも思える。
紀貫之の風待ち
津呂でメモした如く、『土佐日記』には承平4年(934)12月27日に土佐の湊を船出し、1月12日に室津に入った記述がある。その後風待ちで待機し、1月17日に一度船を出すも悪天模様のため室津に引き返し、1月21日に再び出航したとあった。おおよそ10日室津滞在は記録上確認できた。


第二十五番札所津照寺から第二十六番金剛頂寺へ

津照寺を打ち終えると次の札所は第二十六番金剛頂寺。距離は5キロほど。室戸市室津から室戸市浮津、室戸市元甲から室戸市元乙へと市域も変わらない。

奈良師橋
津照寺門前の徳右衛門道標脇を西に進み室津川に架かる橋を渡り、道を進むと国道55号にあたる。遍路道は国道を斜めに横切り、国道山側の旧道を進む。ほどなく奈良師橋を渡る。『土佐日記』の1月12日の項に、「十二日(とをかあまりふつか)。雨降らず。(中略)奈良志津(ならしづ)より室津(むろつ)に来ぬ」とある。奈良師は金剛頂寺建立時、奈良より招いた番匠、とも。 奈良師橋を渡ると室戸氏浮津から室戸市元甲になる。

岩谷川傍の標石
岩戸川を渡り、右手に岩戸神社を見遣り岩谷川東詰に。そこに遍路道(旧国道)から海岸線を走る国道55号に通じる道があり、道の右手に巨大な標石が立つ。「従是西寺八兆丁女人結界 右寺道 左*道 貞享二」といった文字が刻まれる。
西寺(金剛頂寺)は女人禁制の寺であったため、女性遍路は西寺に上ることなく、道を東進し行当岬の不動堂を女人堂として目指した、という。
標石の立つ場所はなんだか釈然としない。どうも元は岩谷川に架かる岩谷橋東詰にあったとの記事があった。

〇金剛頂寺道〇

伊藤萬蔵標石を右折
少し進み元川に架かる元川橋を渡ると西詰に伊藤萬蔵寄進の標石が立つ。正面には「嵯峨天皇淳和天皇勅願所 第二十六番 西寺」、右側面には遍路道を示手印と共に「尾張国名古屋市塩町 伊藤萬蔵」の文字が刻まれていた。










向江の自然石標石(11時38分)
遍路道は元川に沿ってしばらく北進した後、北西に向きを変え西寺への山道取り付口のある向江の集落へ向かう。
向江の集落で右に大きく回る車道参道と分かれ、遍路道は集落の道を直進する。道の左手、ブロック塀に挟まれた自然石標石が残る。摩耗が激しく、「へんろミち **へでる」といった文字がかすかに残る。

廻国塚と川村与惣太の墓(11時55分)
集落を進み道が大きくヘアピン状に曲がる角に墓地があり、「川村与惣太の墓」の案内があり、「 『土佐一覧記』の筆者で貞佳または与三太と号し、享保五年(1720)元浦の郷氏の生まれで、儒学者の戸浦良照に学び、西寺別当職を五十二歳で辞した。
明和九年(1772)から土佐一国、東は甲浦から西は宿毛松尾坂まで巡遊し地名・故事を詠んだ三年間の行脚の記録として『土佐一覧記』を完成する。
天明七年(1787)正月十三日六十七歳で没する 室戸市教育委員会」と記される。
墓所は川村家のもののようだ。川村家は元は伯耆国の在。尼子氏の攻撃により当地に逃れ長曾我部氏に属した。与惣太は歌人でもあり、『土佐一覧記』は地名・故事を歌で綴った風土記とも称される。
墓所の端には「廻国塚」と刻まれた石碑。六部の廻国供養塔だろう。

4丁石(11時56分)・5丁石(12時1分)
川村家の墓所傍、ヘアピンカーブ左角に上部が折れた舟形地蔵丁石。「是ヨリ本堂江四丁」と刻まれる。
その先直ぐ、道の右手に舟形地蔵丁石「。「五丁」と刻まれる。



六地蔵と常夜灯(12時5分)・七丁石(12時10分)
5丁石から数分歩くと、道の左手、少し奥まったところに六基の大きな地蔵尊と常夜灯が立つ。気を付けていなければ知らず通り過ぎてしまうように思える。
六体とも個人の戒名が刻まれている。「享和二」とあるから1802に個人の菩提を弔うために建立されたものだろう。
地蔵尊像の数分先にも道の左手に七丁の舟形地蔵丁石が立っていた。



第二十六番札所 金剛頂寺

7丁石から5分ほど歩くと、金剛頂寺への車道参道に合流(12時15分)。取り付き口からおよそ30分ほどで着いた。右手は駐車場。左手には仁王門への石段が続く。金剛頂寺のある山地部は室戸市元乙地区となる。

石段下に標石(12時15分)
石段に向かう手前に丸い突き出しのある標石が立つ。手印?「施主」や「第六十三」といった文字ははっきり読めるが、「おくのみちひだり」といった文字も刻まれているようである。





仁王門
寺柱石と厄坂と刻まれた石碑の立つ石段を上ると仁王門。大正2年(1913)の再建。仁王像は昭和59年(1984)の造立。






徳右衛門道標と丁石
仁王門の左手に標石2基。1基は徳右衛門道標。「是ヨリ神峰迄六里」とある。もう1基は「八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。上部の欠けた地蔵と並ぶ。







本堂
仁王門から更に石段を上ると正面に本堂。弘法大師自作と伝わる薬師如来坐像が本尊として祀られる。本尊は自ら本堂の扉を開けて鎮座し、以来秘仏として誰の目にもふれたことがない、という。
霊宝殿
その右手に霊宝殿。霊宝殿には寺宝である六点の重要文化財や古美術が保存されている。



大師堂
大師堂は本堂参道に背を向けて建つ。その由来は『弘法大師行状絵詞』巻二「金剛定額」に描かれる。絵詞には、堂内で修行する大師と、その修行を妨げよう蠢く幾多の天狗、さらに楠の大樹に向かい筆をとる大師が描かれる。
楠に描かれた大師自画像の霊力により寺に棲みついた天狗は退散し足摺岬へと去ったとする。このくだりは『弘法大師天狗問答』として寺に伝わり、絵詞に描かれる大師修行中のお堂が大師堂の建つところ、とのこと。
『弘法大師行状絵詞』は京都の教王護国寺(東寺)に保存されているようだが、現在の大師堂、本堂参道に面した壁には『弘法大師天狗問答』のレリーフが架かる。 大師堂傍には空海が詠んだと言う「法性の室戸といえどわがすめば 有為の波風よせぬ日ぞなき」の歌碑も立つ。

一粒万倍釜
大師堂横にお釜が置かれた小堂がある。「一粒万倍釜」と称されるこのお釜は、大師がひと粒の米を入れて炊いたところ、万倍にも増え人々の飢えをみたした、と。往昔この寺を修行の場と定めた多くの僧の食事のためのお釜とも。
鐘楼と捕鯨八千頭精霊供養塔
大師堂対面に平成2年(2003)再建の鐘楼、その南北に捕鯨八千頭精霊供養塔が建つ。

護摩堂
鐘楼とは逆、信徒会館の西側の護摩堂があり、伊藤萬蔵寄進の香台があった。天皇の勅使を迎える勅使門跡も傍にある。

Wikipediaには「金剛頂寺は、高知県室戸市元乙に位置する寺院。龍頭山(りゅうずざん)、光明院(こうみょういん)と号す。宗派は真言宗豊山派。本尊は薬師如来。
寺伝によれば、空海(弘法大師)にとって最初の勅願寺の創建として、大同2年(807年)平城天皇の勅願により、本尊薬師如来を刻んで「金剛定寺」と号し、女人禁制の寺院であったという。 次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を下賜し、その寺名に改められた。
『南路志』(江戸時代の土佐の地誌)所収の寺記によれば、大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。同寺記によれば、さらに次の淳和天皇も勅願所とし、住職も10世まで勅命によって選定され、16世・覚有の頃まで寺運は栄え、多い時は180人余の修行僧がいた。
延久2年(1070年)の「金剛頂寺解案」(こんごうちょうじげあん、東寺百合文書のうち)によれば、当時の寺領は、現・室戸市のほぼ全域にわたっていた。
鎌倉時代になると無縁所となり、体制から逃れた人々をすべて受け入れ「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになり、侵すことのできない聖域として存在した。 文明11年(1479年)には堂宇を罹災したが、長宗我部元親が寺領を寄進しているほか、土佐藩主山内家の祈願所とされ、復興は早く整備された。その後、明治32年(1899年)の火災で大師堂・護摩堂以外の伽藍を焼失し、本堂ほか現存する堂宇は再建である」とある。
当寺は既述のとおり西寺と呼ばれる。室戸岬突端部にある最御崎寺を東寺と称するに対するものである。所以は青年空海が修行のため、金剛頂寺と最御崎寺を西へ東へと行道したため。金剛頂寺の建つ行当岬の地名も、行道>行当への転化とされる。 因みにこの寺の建つ台地は記述の海岸段丘である。木々に阻まれ視認はむつかしいが、衛星写真で見ると室戸岬へと続く海岸段丘が見て取れる。
本日のメモはここまで。次回は金剛頂寺から次の札所神峯寺へと向かう。

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