2020年6月アーカイブ

伊予の遍路道にある,よさげな峠越えの遍路道が,歩き遍路のそもそもの発端であった。で、どうせのことなら歩き終えた峠と峠の間の遍路道を繋いでみよう。それならば、どうせのことなら伊予の旧遍路道をすべてカバーしてみようかと思いたち、古き標石を目安に土佐と伊予の国境からはじめた旧遍路道トレース伊予で終えるはずが、どうせのことなら讃岐もカバーしてみよう。讃岐を歩き終えると、阿波まで進んでみようか。阿波まできたのであれば土佐もカバーして四国の遍路道をすべて繋いでみようかと、今、土佐に入った。
今回から土佐の遍路道を歩く。本日のルートは甲浦から室戸岬突端部にある第二十四番札所最御崎寺まで、その距離おおよそ30キロというところだろうか。
現在は山地が海に落ち込むような海岸線を国道が走る。江戸の頃、道もなく波しぶきを浴びながら、荒磯の岩を飛び跳ねて進んだであろう難路の名残は既になく、単調ではあるが雄大な大洋を見遣りながらの快適な遍路道であった。
遍路道には標石がほとんど見当たらない。道がないわけであるから、当然といえば当然であるが、そもそも山地と海に挟まれた荒磯・浜を進むわけで、標石の必要もないだろう。というわけで今回は標石を目安の旧遍路道トレースの要はない。その替わりといってはなんだが、山地が海にストンと落ち込むような室戸岬東海岸や室戸岬の乱礁部の地形・地質の成り立ちにフックが掛る。とはいうものの、この領域は全くの門外漢。好奇心旺盛のリタイア・ビジネスマンの戯言メモとお許しいただければと思う。


本日のルート;甲浦>東俣番所跡> 熊野神社 >江藤新平の遭厄記念碑>甲浦坂トンネル>野根大師〈明徳寺)>白小石の六部堂と里神社>野根の標石>国道493号に合流>地蔵堂(庚申堂)>伏越の鼻>ゴロゴロ休憩所>法海上人堂>飛び石地蔵(水尻仏海標石)>入木(いるき)の仏海庵>佐喜浜>鹿岡(かぶか)鼻の夫婦岩>椎名>日沖の大礁・大碆(おおばえ)>厄除弘法大師坐像〈中務茂兵衛建立)>三津漁港>青年大師像>御蔵洞>乱礁遊歩道>(ビシャゴ岩>弘法大師行水の池>エボシ岩>土佐日記御崎の泊碑>弘法大師目洗いの池)>国道55号に戻る>最御崎寺への旧遍路道>大師一夜建立の岩屋>捻岩>最御崎寺・室戸スカイライン分岐>第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)


甲浦
宍喰の町より海に突き出た半島丘陵部を抜けてきた県道309号は、丘陵部を穿つ水床トンネルを抜けて来た国道合流と合流。その直ぐ先が徳島と高知の県境となる。
遍路道は県境から右に逸れる道に入り甲浦の町へと進む。
丘陵部を抜けると甲浦の内港。内港はふたつにわかれ、北に入り込んだ内港を東俣と呼ぶ。藩政時代は土佐藩の船蔵や船大工小屋があったようだ。東俣を跨ぐ橋を渡り、港の最奥部に東俣番所跡があるとのこと、ちょっと立ち寄り。
東俣番所跡
民家が密集する漁港の堤防前に番所跡の石碑が立つ。「甲浦東股番所跡」と刻まれる。前回の散歩でメモした宍喰の古目番所から宍喰峠で阿波と土佐の国境を越えた土佐街道はこの地に下りて来た(ルートは後述元越番所の掲載図参照ください)。

熊野神社
東俣より湾に沿って南に下り湾の南端の岩場に建つ熊野神社手前で道は右に曲がる。この西に入り込んだ椀を西股と称する。この神社には鳥居がない。結構珍しい。鳥居を建てても直ぐ倒れる。それが繰り返されたことにより、鳥居をたてないことが神意であろうと、その後建てられることはなかった、と。その替わりこの社には鐘楼が建っている。これも珍しい。
甲浦の由来
この社の森は沖からの目安となったのか、「甲ヶ山」と呼ばれる。甲ヶ山のある浦ゆえだろうか、この地は昔より甲ヶ浦(かぶとがうら)と呼ばれていたようだ。甲のカタチに似た甲貝が採れた浦との設もある。
「かぶとがうら」が「こうのうら」となったのは、甲ヶ浦(かぶとがうら)>甲の浦(こうのうら)>甲浦(かんのうら)と転化した説、熊野神社に那智の熊野権現十二社のひとつが飛来したとの縁起より、「神が来た浦」>かみのうら>かんのうら、となったとの説などあるようだ。
西股
西に入り込んだ西股の北に沿って道は進む。西股の南岸に御殿跡と地図にある。土佐藩初代藩主山内一豊公が土佐に最初に上陸した地であり、参勤交代の折の御殿や船蔵があったようだ。御殿は宝暦の大地震の後は現在の甲浦小学校のある地に移った。
西股南の丘陵には藩政以前、この地に割拠した豪族の城跡が残るとのことである。甲浦の湊口には葛島、二子島、竹ヶ島(徳島県)が並び、沖の波浪を遮り、古くからの天然の良港。土佐と上方を結ぶ船運の要衝の地であったようだ。
参勤交代の道
藩政時代、土佐藩の参勤交代の道は土佐湾に面する奈半利から室戸岬への海岸沿いの野根に抜ける35㎞の野根山街道を進み甲浦から海路を利用した。が、そのルートは海任せ・天候任せ。順調に進めば20日ほどで江戸に着いたというが、潮待ちなどにより50日ほどかかることもあった、と言う。
江戸到着予定日の遅参は「一大事」であり、遅参により改易の沙汰もあり得るといったものであり、遅参の怖れある場合は逐次幕府に報告をしなければならない。そんな面倒なことをやってられない、と思ったのか、海路の安定した瀬戸内の湊への道が拓かれた。その道は土佐北街道と呼ばれる。
高知の南国市から愛媛県の四国中央市に抜ける山越えの道である。享保3年(1718)の頃、古代の官道である南海道跡を基本に整備された道その道を5回に分けて歩いた()。そういえば、一部抜けている箇所があることを想いだした。そのうちに歩かなけらば。

江藤新平の遭厄記念碑
西股最奥部を左折し南に進む。甲浦小学校の対面の平和塔敷地内に大きな石碑が立つ。傍の案内には「江藤新平・甲浦遭厄の標 東洋町民は、この標を建立し偉大な功績を顕彰する 平成21年3月31日」とあり「明治5年司法郷や参議に就任。明治6年政変後に参議を辞し野に下る。明治7年、板垣退助・後藤象二郎らと民撰議院設立運動を起こす。これが後に自由民権運動となる。新平は、日本の近代的政治制度づくりに参画し、司法制度の確立、民権的法律の整備に貢献した。娼妓制度廃止など国民の基本的人権の礎を築いた。
佐賀の乱(明治7年)により政敵とみなされ、高知県に入り逃避行を続けたが、明治7年3月29日ここ甲浦の地で捕縛された。大正6年、「江藤新平君遭厄之地」石碑が甲浦青年団により建立されている」と記される。

明治政府に対する不平士族の乱に与し逆賊となった江藤新平であるが、大正5年(1916)には西郷隆盛らとともに名誉が回復され、正四位が贈位されている。記念碑建立はその状況を踏まえてのものだろう。江藤新平のあれこれは司馬遼太郎さんの『歳月』に詳しい。

元越番所跡

町を抜けた遍路道は小池川橋を渡り左に折れて河内川を渡り国道55号に合流するが、地図に牟岐線の甲浦駅の北に元越番所跡が記される、ちょっと立ち寄り。
国道と逆方向、小池川橋を渡り右折し甲浦駅の高架を抜け三差路を右に。元越番所跡は耕地が広がるだけで特に案内もない。その先、道が山裾に当たるところに「元越番所跡」の碑が立っていた。




宍喰の馳馬(はせば)から元越を越え阿波から土佐に入る道に立つ番所であった。
番所跡とその記念碑が異なる場所に立つ理由は不明。

土佐藩の遍路政策
藩政時代、土佐藩の遍路政策は他国に比して厳しいものであったよう。遍路はこの甲浦で土佐に入り宿毛で土佐を出るか、その逆だけが入出国箇所として認められた。更に在所で発行された往来手形(身分証明書)は必携MUST。入国に際しては甲浦〈宿毛)で添手形(通行許可書)を受け取り、出国の際に返却する必要があった。
真念も『四国遍路路道指南』に、「かんの浦 これより土佐領。入口に番所有、土佐一こくの御かきかえ出る」と記し、宿毛の番所のある大ふか原村で「大ふか原村 番所有、土佐通路の切手ハこれへわたす」と書く。
この通行許可書の発行には厳しい制限があり、往来手形と共に、渡船証、所持金が求められ、老人や子供は入国を許されなかった。
通行証明書が発行されても、多くの制限があり、定められた遍路道だけを歩くこと、遅滞なく歩くこと、脇道に入り込む者を取り締まるといった政策がとられていたようである。

甲浦坂トンネル
国道55号を下ると甲浦トンネル。長さ150m、昭和43年(1968)完成。旧道はトンネル手前の道を右に逸れ、大阪と呼ばれた坂を上り、トンネルの上辺りから道を左に逸れて細い土径を進みトンネル南口辺りに下りるといった古い記事がある。真念さんも「四国遍路道指南」に「甲浦坂:という大阪を越え生見へと坂を下ったと書く。
記事に従い坂を上る。特段の遍路道案内もなく、トンネル真上辺りのミカン畑の境を少し下ってみたのだが行き止まり。国道へと下る土径が見つからず、結局甲浦トンネルを抜けて生見に入る。

野根大師〈明徳寺
遍路道は国道55号を下り、生見を抜け、相間トンネルは手前から国道を逸れる旧道を辿り、相間川を渡り野根に入る。野根への遍路道は国道55号を逸れて旧道に入る。右手に野根八幡を見遣り進むと、そのお隣に野根の大師(明徳寺)が建つ。

山門を上がると正面に本堂、横に通夜堂。本堂右横を抜けると「弘法の滝」がある。こじんまりとしたお寺さまである。
Wikipediaには、「明徳寺(みょうとくじ)は高知県安芸郡東洋町に所在する真言宗豊山派の寺院。山号は金剛山。本尊は弘法大師。別名、東洋大師。四国八十八箇所霊場番外札所。

寺伝によれば、平安時代前期に空海(弘法大師)が42歳の時に四国を巡錫中にこの地に立ち寄った。その際、この地の住人より水が涸れて大変困っていると訴えた。すると空海は谷を登った所に錫杖を突き立てて祈祷を行った。すると水が湧き出て滝となり、以来、涸れずに流れているという。この滝の前に寺院が建立されたのが始まりと伝えられている。
この寺院には通夜堂があり巡礼者は宿泊が可能である。今では寺院の前を国道55号が室戸岬まで延びている。しかし、国道が開通するまでは道なき海岸を通って室戸に向かうしかなかった。そこで、満潮時はこの寺院で一休みして室戸へと向かったといわれる。このため、この寺院で休憩することを「野根の昼寝」と呼んだ」とあった。

東洋町のWEBには野根大師について、「江戸時代、ここには観音寺があったが、明治維新の廃仏毀釈で退転し、跡地に弘法大師堂が建立された。昭和南海地震のあと、真言宗明徳寺が中村からこの地へ移転し、同居している。古くは「野根大師」いまは「東洋大師」と呼ばれ四国遍路の番外札所となっている。背後の山にはミニ八十八カ所がある」とする。

貞享4年(1687)の真念の『四国遍路道指南』には「のねうら 入口宮立有 并大師堂」(野根浦の入り口宮(野根八幡)が建ち、大師堂が並び合わさる(并)、とある。寛永18年(1641年)には既に番外札所としてあったとの記録もあり、その頃にはお遍路さんが立ち寄ったお寺となっていたのだろう。ということは観音寺が大師堂とみなされていた、ということか。
東洋大師
因みに、野根への国道に「東洋大師」の案内がいくつも立っていた。看板を見ながら、「なんのこと?」と思いながら道を辿ったのだが、この案内でやっとわかった。昭和34年(1959)甲t浦町と野根町が合併してできたのが東洋町ということであり、「東洋」という名には歴史的意味はなく、対等合併ゆえの妥協の産物であるとすれば、「東洋大師」と称するようになったのは、それ以降ということだろう。

白小石の六部堂と里神社
野根大師を南に、参道口に進む。道とT字に合わさる角に寺標があり、「高野山大師教会高知支教区野根支部」と刻まれる。
その斜め前、道の左手に六部堂があった。興味を惹かれあれこれチェックすると、この六部堂は白小石の六部堂と称される。
寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会(九皋主人写 河内屋武兵衛蔵本)』には「観音寺(松原に有) 六十六部廻国修行者石塔(武州深川人宝暦十年此所二て病死 観音寺の前 松原二有 人々此墓に願望をかけれバ成就致スといゝ 日々参詣不絶」とある。

それはそれでいいのだが、白小石は「城恋し」から、と東洋町の記事にあった。 「天正3年7月、長宗我部兵の野根城館奇襲により野根一族は阿波国へ落ちのびていった。その途中、野根国長は燃上する城を振り返って「ああ、城恋し」と嘆いたという。それで白小石(城恋し>白小石)という地名になった」と。ブロック塀に囲まれた六部堂の左の広場奥に誠に小さな祠が祀られる。里神社というこの小祠は「野根氏や安芸氏をはじめ、安芸郡下惟宗一族の始祖とされる曽我赤兄を祭っている(東洋町の記事)」と。

野根の標石
野根の街並みを進む。昔は豪商が軒を連ねる繁華街で、四国霊場二十三番札所日和佐薬王寺と二十四番札所室戸最御崎寺の真ん中に位置するため遍路宿も多かった。戦国時代のカギ曲がり道路桝型(ますがた=カギ曲がり)道路、、高札場(こうさつば)跡、送番所跡、ぶっちょう造り民家もある。カギ曲がり道路は戦国時代に野根領主が京都へ出兵して見聞した戦略道路を野根浦の町づくりに採用したらしい。上町(うわまち)のカギ曲がり道路に対し、下町(したまち)は直線道路。ほかに寺町、中町広小路(なかまちひろこうじ)、廐屋(うまなや参勤交代の馬)、船場(せんば)などの歴史的な地名もある」と東洋町の記事にある。道の右手に標石。「是ヨリ新四 明治三十一年 左遍路」と刻まれる。
野根
野根は戦国時代、天正3年(1575)長宗我部元親に滅ぼされるまで野根・甲浦を支配した野根氏の本貫地。元は野根川を少し上った内田の地に城郭を築いたが、天文年間に野根川下流域の中村地に「野根城館」を築き、そこを本拠とした。上述「城恋し」は長宗我部元親軍の奇襲攻撃をうけ戦わずして甲浦へ逃げ、さらに阿波国へと落ちのびていった野根一族が野根城館を想ってのことではあろう。

国道493号に合流
遍路道は野根の街を出て野根川手前で国道493号に合流する。この国道493号の道筋は往昔の野根山街道。土佐湾の奈半利から野根山連山を尾根伝いに進み、この野根に至る。上述土佐北街道が開かれるまでは土佐藩主参勤交代の道であった。
遍路道は直進し野根川に架かる「みなとくぼ橋」を渡る。昭和6年(1931)建設の橋は現在人道橋となっている。
野根山街道
Wikipediaには「野根山街道は奈良時代養老年間に整備された官道で、奈良と土佐国府を結ぶ街道「南海道」の一部である。高知県安芸郡奈半利町と東洋町野根を尾根伝いに結ぶ行程約36 km、高低差約1,000 m の街道で、古くは『土佐日記』の著者紀貫之の入国の道として、また、藩政時代には参勤交代の通行路として使用された。現在は「四国のみち」環境省ルートとして整備されている」とあった。

地蔵堂(庚申堂)

橋を渡ると正面に地蔵堂(庚申堂とも)が建ち、中に木食仏海上人が刻んだと伝わる舟形地蔵が祀られる。この地蔵は標石を兼ねており、「左へんろうみち さきのはまへ四り 願主木食仏海」と刻まれる。
仏海上人
伊予北条の生まれ。全国の霊場を巡り木食の境地に入る。四国霊場巡礼二十四度。三千体の地蔵尊を刻したと伝わる。
渡し場
野根浦の船場跡
往昔、野根川に架かる橋はなく、この地に渡しがあった。メモの段階でわかったことだが、東洋町の記事に「野根浦の船場(せんば)は、渡し舟の渡し場だった。昔の旅人は野根山街道が正規の旅行ルートだが、四国遍路はここから渡し舟で野根川を渡り、室戸岬の東寺へ向かった。現在船場に[武田徳右衛門標石]、旧野根川橋西岸の庚申堂に木食仏海作の石仏があり、いずれも「東寺へ何里」と刻まれた遍路石である。木食仏海作の遍路石は地蔵ケ鼻や仏ケ崎にもある」とあった。
徳右衛門道標
徳右衛門道標?今となっては再度のことながら後の祭りではあるが、チェック。東洋町の写真にも、徳右衛門道標の一覧表にも確かに徳右衛門道標が掲載されているのだが、GOOGLE Street VIEWで渡し場後をチェックしてもあるはずの道標が写っていない。どこかに移されたのだろか。

伏越の鼻
地蔵堂から国道55号を進み野根漁港を越えると上り坂となり、伏越(ふしごえ)の鼻に。国道海側に歌碑が立つ。「産みに寄す 伏越ゆ 行かましものを まもらふに うち濡らさえぬ 波数まずして」と刻まれる。万葉集1387番の和歌で、万葉仮名では「伏超従 去益物乎 間守尓 所打沾 浪不數為而」となっている。
意味は文字通り読めば「伏越を通って行けばよかったのだけど(行かましものを)、様子を窺っているうちに、波の間合いが計れず(まもらふ)濡らされてしまった」ということだが、恋の告白との意とする記事もあった。磯に打ち寄せる波が激しければ激しいほど浪への畏れはいや増す。それはちょうど自分の恋人に対する恋しさと恐れとの混じり合った心と同じであり、『恋の告白をためらっているいる間に周囲の事情が悪くなり、結局はその恋に破れてしまった嘆きを全体として表している』とする(私の万葉集ノート NO7 著名人それぞれの万葉集談義(日本の名随筆、万葉二より))。 石碑の裏には東洋町が万葉集に詠われることを誇りとする、とも刻まれるが、この伏越が東洋町のこの地と比定はされていないようではあるが、文字通りの解釈からすればこの先に待ち受ける道なき荒磯の難所を想起させ、此の地にぴったりの歌のようには思える。
伏越番所跡
歌碑の国道を隔てた山側、すぐ上に伏越番所があったようだ。東洋町の記事には「伏越ノ鼻、国道のすぐ上にある。江戸時代、甲浦東股番所で旅人は通行手形(自国発行の身分証明書)の確認を受け、土佐一国の通行許可証を発行してもらい、土佐路に入る。野根からは、一般の旅人は野根山街道を通るが、四国遍路は海岸線を通り、24番札所室戸最御崎寺をめざす。このとき伏越番所で通行許可証に裏書きをしてもらう。淀ケ磯はまともな道路もなく、波が荒いと通れない。そんな時、この番所役人が門を閉じて旅人の通行を禁止する」とある。
真念は『四国遍路道指南』に「こゝにてかんの浦切手は裏書いつる。ふしごえ坂、是より一里よは、とびいしとて、なん所海辺也」と書く。
あれこれチェックしたが伏越番所の写真は確認できなかった。
伏越
「フシ」は柴の古語であり、柴山(フシヤマ)・伏原(フシハラ)といわれるように、柴は山野に生える雑木の総称である(民俗地名語彙辞典)。ここ野根は紀州、日向とともに日本三大備長炭の産地である。土佐備長炭の原木はウバメガシであることから、柴山はまさにウバメガシの生い茂る山と云えよう。  「フシ」は「伏」でなく「柴(フシ=ウバメガシ)」と理解したい;との記事があった。

ゴロゴロ休憩所
伏越を過ぎると次の集落のある「入木」までおよそ12キロ。山地がそのまま海に落ち込むといった断崖と荒磯の間を国道が走る。しばらく進むと道の右手に「ゴロゴロ休憩所」。
多用させて頂く東洋町の記事には「ゴロゴロの浜(とび石はね石ごろごろ石) 丸い石ばかりのゴロゴロ浜は「土佐の音100選」の一つ。波が打ち寄せ引き返すたびに丸石が転がってゴロゴロと鳴る。四国遍路がゴロゴロ石を懐に入れると弘法大師のご利益を受けるとされる。淀ケ磯は俗に「とび石はね石ごろごろ石」という。岩から岩へ飛び移り、石から石へ跳ねながら、ゴロゴロ石で転ばぬよう、荒波よせる遍路道を通ったのであった」とある。

室戸岬東岸の地質
国土地理院・地質図
甲浦辺りからの地質を国土地理院の地質図でチェックすると、付加体・砂岩泥岩互層(地質図の薄緑部)と付加体・海成層砂岩(地質図の黄色部)の地層が相互に現れ、時に堆積岩・海岸平野堆積物物の岩質が見える。この構成はこの先、佐喜浜辺りから、付加体・砂岩泥岩互層に替わり付加体・海成層の泥岩質層(地質図の薄青部)が現れ、その構成が高岡辺りまで続く、その間、 大碆の辺りには付加体・玄武岩 海成岩質の帯が東西に走り、三津漁港の手前には海成岩・玄武岩貫入岩の層(後述;地質図の紫部)が見える。
高岡漁港から室戸岬にかけては付加体・砂岩泥岩互層(後述;地質図の薄緑部)、火成岩斑レイ岩(後述;地質図の赤紫部)、付加体・砂岩泥岩互層(後述;地質図の薄緑部)となっている。
基本的には海底に堆積した砂岩・泥岩がプレートの沈み込み時などに生じた地震活動によって隆起した砂岩・泥岩層にマグマ貫入により生じた斑レイ岩や玄武岩によって海岸線が構成されているようだ。
山地が崖となって海に落ちる
で、何故に山がすとんと海に落ち込むような姿になっているのだろう?以下は地質についての素養がないため妄想。通常大地が形成されるときは地震などにより隆起と沈降を繰り返す。東海岸は海底活断層が海岸に沿って延びており、この断層の運動によって陸側が隆起し、断層崖が形成されている、とする。
それはそれでいいのだけれど、河岸段丘ではないけれど、隆起した大地には海成段丘が形成されることも多い。室戸岬西岸の土佐湾側は東岸と一変した発達した海成段丘が見られる。 この違いって?室戸ジオパークの記事に「室戸岬東海岸には沖合2,3キロのところに1000mまで落ち込む崖がある。一方、西海岸の土佐湾では沖合7キロまで100mより浅い海が続く」とあった。 浅い海であれば隆起した大地が台地として残る余地はあるけれど、一気に1000mまで落ち込むような崖に台地ができる余地はないように思える。隆起が繰り返されたとしても、台地ができることなく海底崖にスベリ落ちてしまうように思う。再度繰り返すが、まったくの妄想。なんら根拠なし。

法海上人堂
しばらく道を進むと道の右手に地蔵堂と「法海」と書かれた木標。その奥、すこし上ったところにお堂が見える。お堂の中には 宝筐印塔が祀られていた。お堂横に手水場。その右手に沢が切れ込んでいる。庄屋谷と呼ぶようだ。
「淀ケ磯橋と御崎(オンサキ)との真中あたり、昔ここに木賃宿があった。この木賃宿に法海上人という廻国行者が泊まった。ちょうどその夜は野根の神祭りで、宿の家族達は野根へ招かれて法海だけが宿に残った。翌朝、家族が帰ると米ビツの中がカラッポになっていた。疑いは法海にかかったが、彼は知らぬ存ぜぬで水掛け論になった。ついに法海は「無実の証しに亭に入る」と言って裏山に穴を掘り、生きながら墓に入り即身仏になってしまった。
法海さんは大漁の神様で、昔は室戸岬、佐喜浜、野根方面の漁師や漁協がお参りにきて、たまにはブリ一本が奉納される時もあったという。法海上人のような廻国行者を六部様とか六十六部とも言う。それで、ここの浜を「六部の浜」と呼んでいる(「東洋町の記事」より)」」 とある。
お堂の宝篋印塔は法海上人の墓石とのこと。

堂内は一坪ほどの広さで畳敷き、線香やローソクもあり。お通夜(私注;宿泊)も出来そう。その昔、遍路の避難場、休憩場所でもあったのだろう。お堂は昭和31年(1956)に佐紀浜、平成6年(1994)から7年にかけ年には野根の篤志家の手により再建、平成10年(1998)には台風の被害を受け、愛媛のお遍路さんの尽力で修復されたという。そのお遍路さんは高野山より僧籍を授与され、この庄谷法海上人堂にて得度式をあげられたとのことである。

飛び石地蔵(水尻仏海標石)
国道を進み、室戸市に入ると巨岩が屹立する地蔵ヶ鼻がある。そこに舟形地蔵。仏海上人の「飛び石地蔵」と呼ばれ、「是よりさきのはまへ一り のねへ二り半 願主木食仏海」と刻まれた丁石を兼ねる。
国道はその先で少し開けてた平地となっている入木に入る。





江戸期の遍路道
現在は快適な海沿いの道を遍路するが、道路整備される以前の遍路道は道なき荒磯を辿る難路であったよう。波打ち際を荒磯の岩伝いに歩く危険な難路であった。『梁塵秘抄』には「衣は何時となし潮垂れて、四国の辺道をぞ常に踏む」とある。
伏越ノ鼻より入木までの四里を「淀ヶ磯」と呼ぶが、その間の遍路道を「ゴロゴロ休憩所」とあったように、「ゴロゴ石」と波打つ岩音を行きながら岩を飛び、跳ねて先に進む遍路第一の難所とする。「飛び石、跳ね石」の中を進む四国第一の難所としている。
淀ヶ磯;伏越ノ鼻より入木までの四里はかつての難所(Google Mapで作成)
此の難所について、真念は『四国遍路道指南』に「ふしごえ坂、これより一里よハとびいしとてなん所、海辺也」とのみ記すが、承応二年(一六五三)四国を遍路した澄禅はその『四国遍路日記』に、「六日早天宿ヲ立テ、彼ノ音ニ聞土州飛石・ハネ石ト云所ニ掛ル。此道ハ難所ニテ三里カ間ニハ宿モ無シ。陸ヨリ南エ七八里サシ出タル室戸ノ崎へ行道ナリ。先東ハ海上湯々タリ、西ハ大山也。京大坂辺ニテ薪ニ成ル車木ト云材木ノ出ル山也。其木ヲ切ル斧ノ音ノ幽ニ聞ユル斗也。其海岸ニ広サ八九間十間斗ニ川原ノ様ニ鞠ノ勢程成石トモ布キナラベタル山ヲ飛越ハネ越行也。前々通リシ人跡少見ユル様ナルヲ知ベニシテ行也。或ハ又上ノ山ヨリ大石トモ落重テ幾丈トモ不知所在リ。ケ様ノ所ハ岩角ニトリ付、足ヲ爪立テ過行。誠二人間ノ可通道ニテハ無シ。此難所ヲ三里斗往テ仏崎トテ奇襲妙石ヲ積重タル所在リ 爰二札ヲ納」と書く。
因みに、「仏崎トテ奇襲妙石ヲ積重タル所在リ 爰二札ヲ納」と「奇岩積み重なる仏碕。ここに(爰)札を納める」とするのは上述地蔵ヶ鼻の飛び石地蔵のことと思う。
伊能忠敬も、『伊能測量隊旅中日記』の文化5年4月21日に「一今六時頃過出立野根海辺より測量始。海岸即四国八十八ヶ所遍路道に而飛石筑(跳)石ころころ石といふ岩石上を歩行道あり。夫より佐喜浜浦に至る」と「ころころ石」を飛び跳ねながらの測量を伝える。

入木(いるき)の仏海庵
山地が海に落ち込んだ断崖と荒磯の間の一本道を辿った遍路道は、入木川の河口に開けた入木の集落に入ると国道55号を右に逸れ旧道に入る。少し進むと道の右手に仏海庵があった。お堂の右手には「仏海上人百五十年法会頌徳碑 大正七年」と刻まれた石柱、左手には「是より東寺迄五里」と刻まれた徳右衛門道標が立つ。
庵に入ると祭壇、そのまま庵を裏に抜けると宝篋印塔。即身成仏した仏海を弔う。
お堂の前にあった手書きの案内には、「仏海庵 仏海は伊予北条市の生まれ。宝暦一〇年(一七六○)この地に駐錫し仏海庵を起こして淀ヶ磯難渋の遍路を救い、衆生教化に尽した。宝篋印塔を建て、明和六年(一七六九)旧十一月一日、塔下暗室で即身成仏した、七十歳。
生前全国霊場を巡り修行して木食の境界に入り、四国八十八ヶ所巡拝二十四回に及び、地蔵尊像彫刻三〇〇〇躰に達したという」とあった。

徳右衛門道標を立てた武田徳衛門も伊予今治の朝倉村の生まれ。仏海の生まれた伊予北条猿川村とそれほど遠くない。遠く離れた土佐の地に同郷のふたりの事績が並ぶ。

佐喜浜
仏海庵からの旧道を進み国道55号に出る。少し国道を進み佐喜浜の町に入る手前で国道を左に逸れ旧道に入る。佐喜浜八幡、浜宮神社を見遣り佐喜浜川に架かる佐喜浜橋(昭和4年架橋)に。通行止めのため一度国道に迂回し旧道に戻り、佐喜浜の町を抜け佐喜浜漁港の先で旧道は国道に出。佐喜浜は崎浜とも書く。
「佐喜浜城主大野家源内奮戦跡」の石碑
国道に出る手前に大きな石碑。「佐喜浜城主大野家(私注;おおやけ)源内奮戦跡」の石碑。碑には「往古天正の戦雲にあたり此の地に奮戦せし豪将勇士の冥福を祈り明治三十一年生七十三歳の同士槍掛松跡に碑を立つ」と刻まれる。
石碑の脇に「源内槍掛けの松」の案内。「佐喜浜城主の大野家源内左衛門貞義が長宗我部元親の阿波侵攻の道を開くのをはばむため戦った佐喜浜合戦は有名である。寄手300人、佐喜浜方200人がこの戦で討死したと言われる。
源内は縦横無尽に戦い、えびす堂前、本陣の前の松の木に槍を打ち掛け、一息入れ寄せ手の沢田太郎右衛門と対決したが源内左衛門は突き伏せられ、佐喜浜勢は総崩れとなり、老人、子供までも殺されて、生き残りは20~24人であったと言われる。 松は昭和6年(1931年)3月20日に倒れて今は無い」とあった。

鹿岡(かぶか)鼻の夫婦岩
佐喜浜の集落を離れ国道55号に戻る。尾崎川が開いた尾崎の集落は国道を右に逸れ、直ぐ国道に戻り立岩を過ぎると道の先、屹立する4つの岩が見える。近づくと、山側の二つは道路工事で開削された切通であった。海側が旧道開削時のもの。山側の切通が現国道の切通し。真念も「かぶか坂」とその著『四国遍路道指南』に記す。
夫婦岩は岩礁部に並ぶふたつの大岩。波触・風蝕により蜂の巣構造と風紋の表面が見える。 夫婦岩碑には、「南路志に云う往古より大晦日の晩夫婦岩の間鵜の碆に「竜燈」がともるとこの神火を地元では「かしょうさま」と云い立岩の峯々を超えて大滝の上に舞い上がり四方山麓の家々に請じ入れられて六年を迎える浄火となったと云う」とある。
鵜の碆の「碆」はやじりの石の意と言うが、海水により見え隠れする岩の意とする記事もあった。「波」と「岩」の組み合わせでできる文字。言い得て妙である。

椎名
鹿岡、清水の集落を越え椎名の湊に。椎名はかつて捕鯨で栄えた漁港と言う。椎名に漁がはじまったのは藩政期。室戸岬西岸の室津、呂津に野中兼山により港が開かれてから。この椎名で鯨漁がはじまるのは、寛永初年(1624)津呂で突取捕鯨が始まり次いで津呂、室津両港が修築され捕鯨が始まり、漁労技術がこの地に伝えられたようである。
室戸には津呂組と、浮津組の二つの鯨組があり、江戸時代のはじめから明治の終わり頃まで網と銛で鯨を捕ってた。椎名は津呂組捕鯨が進出して冬漁の基地となった。
漁法は土佐古式捕鯨と称されるもの。鯨船には勢子船、網船、もっそう船があり全部で30そうの船で漁師達が力を合わせて鯨を捕り、鯨網に追い込んで何本もの銛を打って弱らせ、船にくくりつけてから剣でとどめをさしたという。
椎名捕鯨山見跡
椎名には捕鯨山見跡があり、明治末期の古式捕鯨終焉まで営々とその役割を果たしてきた、とのことである。





日沖の大礁・大碆(おおばえ)
捕鯨山見跡の先、国道を逸れ旧道に入り椎名川開いた椎名の集落を抜け国道に復帰。少し進むと岩礁部に「大碆」と地図にある。地図には日沖・丸山海岸とある。
その岩礁部に巨大な岩が重なる。これってなんだろう?「日沖の大礁」という記事がみつかった。「三津の岩屋から日沖港北にかけて、いわゆる日沖海岸は海底火山の活動を示す溶岩や、玄武岩質集塊岩がある。枕状溶岩は、海底火山の噴出物が水によって急激に冷却され、枕状に水中で形成されたものである。上部は丸く膨らみ下部は凹んで固まるものであるから、この大礁は上下が反転している。これは陸上部の岩が転がり落ち反転したものと考えられる」とある。

国土地理院・地質図
上述の如く国土地理院の地質図を見ると、大碆の西に聳える四十寺山辺りはすべて砂岩(地質図の黄色部)か泥岩(地質図の薄青部)の付加体であるが、この大碆に続く一筋の地層だけが付加体・玄武岩(地質図の濃緑部)と表示されていた。「四十寺山層は砂岸から成るが、その基盤は玄武岩類で、大碆などに有る柱状溶岩も四十寺山層の玄武岩分布域から海岸にもたらされた巨大な転石である」と言った記事もあった。
因みに、地質図の下部の紫部は玄武岩貫入岩ではあるが付加体ではなくマグマが冷え固まってできた火成層とある。














志賀丸遭難者慰霊碑
大碆の国道を隔てた山側に「志賀丸遭難者慰霊碑」案内が立つ。「昭和十九年五月三十日、この沖合約千五百米を高知より大阪に向けて航行中の貨客船、滋賀丸約九百トンは、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け瞬時にして沈没した。
当時は報道を禁止され、詳細は不明のまま三十年が過ぎた。室戸ライオンズクラブはこの痛ましい霊を慰めるべく、極力調査の結果、幼児を含む三十七名の遭難者を確認、その御霊を祭って昭和四十九年五月三十日、眼下の波打ち際に慰霊の碑を建立した。以来毎年この命日には遺族と共に慰霊祭を行っている。平成十四年五月三十日  室戸ライオンズクラブ」とあった。
石碑は案内板の国道を隔てた岩礁部に立つ。


厄除弘法大師坐像〈中務茂兵衛建立)
一本道の国道を進むと、山側の巨岩の下の窪みに、隠れるように石造が佇む。台座を含め1.5mほどもあるだろうか。台座には「厄除弘法大師」の文字と共に「為二百二十四度目供養 中務茂兵衛 明治四十一年」といった文字が茂兵衛の在所住所と共に刻まれていた。
海の美しさに気をとられていると見過してしまいそうな場所である。


三津漁港
山地が直接海に落ちたような地形の地を進んで来た国道が、山地と岩礁の間に少し平地が開けたところに三津の漁港がある。この漁港も藩政期享保3年(1718)港の改修が行われてから捕鯨漁が行われた。漁場は日沖の大礁から室戸岬一帯の海域であった、とのことである。
国土地理院の地質図を見ると、周囲が玄武岩・貫入岩、付加体・海成層泥岩であるが、この三津の辺りが東西に付加体・海成層砂岩とある。山地と海の間に開けた平地と関係あるのだろうか。

青年大師像
高岡漁港を越えると道の右手に巨大な大師像。「室戸青年大師像」とある。昭和59年(1984)開眼。高さ21mとのこと。弘法大師生誕千百五十年を記念してのもの。











御蔵洞
少し南、山側の岩壁の下に波の侵食作用でできた洞窟がjふたつある。標識には「みくろどう」 「御厨人窟と神明窟」とある。
御厨人窟と神明窟をあわせて「みくろどう」と称するようだ。左の洞窟が大師が修行された御厨人窟。「西の窟(くつ)」とも称されるようだ。洞窟は奥行6メートルくらいだろうか、広々としたスペースの奥に御所神社が祀られている。右側は神明窟。「東の窟」と呼ばれ祭神は大日愛貴(オホヒメノムチ=天照皇大神の別名を祀る。
洞窟の入口には海蝕による落石を防ぐため鉄製の防護屋根が設置されていた。

大師の虚空蔵求聞持法の修行成就の地
大師はこの洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をおこない、幾度も挫折したその大願を成就したと言う。大師自ら著された『三教指帰』に、「爰(私注;ここ)に一沙門有り余(私注;われ)に虚空蔵求聞持の法を呈す」とあり、その修行について「阿國大滝岳にのぼり(私;注原文旧字)攀(私注;よ)ぢ、土州室戸崎に勤念す、谷響を惜まず、明星来影す。」とある。十九歳の大師は此の御厨人窟(御蔵洞)にこもって修行され、阿國大滝岳(私注;第二十一番札所太龍寺)でも得られなかった「求聞持の法」を苦行のすえ成就した。
虚空蔵求聞持法の修行
『弘法大師伝記集覧』には、「太龍寺舎心嶽の岩上での虚空蔵求聞持法の修行も、その悉地(祈願成就)を得ることなく、ために、一命を捨て三世の仏力を加えるべく岩頭から身を投げる(捨身)も諸仏によりその身を抱きかかえられ本願を成就した」とある。
虚空蔵求聞持法の修行のことだが、虚空蔵菩薩の真言「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」を百万遍唱えることにより、一切の教法を暗記できるとする難行苦行。大師も幾度か挫折したとある。
大師自らの『御遺告』には「名山絶瞼のところ、嵯峨たる孤岸の原、遠然として独り向い淹留(おんりゅう)して苦行す。或は阿波の大滝の嶽に上って修行し、或は土佐の室生門の崎に於て寂暫して心観すれば明星口に入り、虚空蔵光明考し来て菩薩の威を顕わし、仏法の不二を現す」とあり、 虚空蔵求聞持法の修行は太龍寺、舎心嶽での苦行の末、土佐の室戸において大願成就したようである。

空海の名
青年真魚が大学を中退し入唐までの足跡は不明なことが多い。優婆塞としての修行の時代というが定説はないようだ。名も「無空」。「教海」、「如空」と改名し、空海と改名したのはこの室戸の海と空に接したこの洞窟修行での大願成就との説もあるが、延暦23年(804)、東大寺戒壇院での得度受戒の時との説が有力視されている。31歳のときである。
「法性の室戸といえど われすめば 有為のなみかぜ たたぬ日ぞなし」。勅撰和歌集に載る弘法大師作として唯一残る和歌に室戸を詠んでいる。

海蝕崖
Wikipediaにはこの洞窟を「隆起海蝕洞である。洞窟前の駐車スペースとなっている場所は波食台であり洞窟上部の崖は海食崖である」とする。室戸ジオパークの記事には「御厨人窟」と「神明窟」は、共に約1500万年前~700万年前、マグマが地下の深いところで冷えて固まった「斑れい岩」が、プレートテクトニクスによる隆起運動によって地上に持ち上げられ、太平洋の荒波に曝された断崖に発生した「海蝕洞」である。
斑れい岩そのものは緻密であるが、隆起運動による複雑な営力を受けた結果、亀裂には数多くの亀裂が発達している。その結果、岩壁はもろくなっており、随所に岩盤崩壊の跡を見ることができる。
看板の左にある三角形の岩塊は、ひょっとするとすぐ左にある垂直の壁が剥がれたものかもしれないが、周囲に堆積している土砂の様子から、かなり古いもののようである(地質的年代では新しいかもしれない」とあった。
看板の左にある三角形の岩塊とは天狗岩のことだろうか。言われてよく見ると、天狗に見えて来た。

乱礁遊歩道
御蔵洞(みくろどう)に眼前に広がる岩礁部の見どころ案内があった。地形には興味あるものの、地質は門外漢には少々荷が重く、さてどうしたものかと思いながらも、歩けば奇岩・巨岩が並ぶ岩礁の成り立ちなどに少しはフックがかかるものかと、ちょっと立ち寄ることに。

ビシャゴ岩
御蔵洞の少し北の岩礁部に屹立する大岩・ビシャゴ岩へと向かう。国道を少し北に戻ると、海岸に乱礁遊歩道へのアプローチ。国道を逸れて遊歩道をビシャゴ岩へと向かう。
「ビシャゴ岩は斑レイ岩からできている。約1400万年前、マグマが地層に貫入(入り込むこと)して固まったとされる岩で、水平に貫入したものが、その後の地殻変動により、ほぼ垂直に回転したものである。左から順に駒細かい粒ー粗い粒とマグマが冷やされたマグマの時間の長さにより模様が変わる。この岩には「おさご」という絶世の美女にまつわる伝説がある」との案内があった。



国土地理院・地質図
国土地理院の地質図を見ると、このビシャゴ岩の北と室戸岬突端部の少し手前辺りは付加体・砂岩泥岩(地質図の薄緑部)の岩質とあり、それに囲まれるようにビシャゴ岩から後述烏帽子岩あたりまで火成岩・斑レイ岩の岩質の帯(地質図の赤紫部)が室戸岬西岸に帯となって斜めに延びていた。
室戸岬は、南海トラフからユーラシアプレートの下に沈み込むフィリピンプレート帯の沿って起こる巨大地震によって引き起こされた大地の隆起により形成されたとするが、上述 「約1400万年前、マグマが地層に貫入して固まった」とは海底下で起きた活動であり、その後隆起により眼前の姿を呈したということだろう。
なおまた、「地殻変動により垂直に反転した」とはビシャゴ岩のことであり、岩礁部の斑レイ岩層は反転することもなく、「水平」なままの姿を呈している、ということかと「読む」。
おさごの伝説
津呂の町におさごという漁師がいました。おさごは、このあたり一体で、比べもののない美人だったそうですその美しさはめっそうな評判になり、毎日あっちの村、こっちの村から若衆たちがおしかけてきたそうな。
おさご見物にあんまりたくさんの人たちがやってくるので、おさごは何をするにしても人の目を意識せずにはおられなかった。それでとうとう身も心も疲れ果ててしまった。(こんなに私がつらい目にあうのもみんな美しく生まれたせいだから、そうだ汚くしよう)
 こう思いついたおさごは、顔になべずみをぬり、わざと縞目もわからぬようなぼろの着物を身にまとうた。でも、こうしたおさごの苦心の変身も、おさごの美しさに魅せられた若衆達の心をそらす事はできなかった。あまりのうとましさに、おさごは、ある夜こっそり家をぬけだし岬へむかった。ここにはたくさんの大きな岩が海に向かってそそりたっているが、その一つ「びしゃご礁にあがると「これからは、私のように、つらい娘ができませんように」こう祈ると海の中に身をなげて死んだということである。(室戸市史 下巻より)

弘法大師行水の池

ここには隆起したノッチ(波食窪)。 波食窪は海水面近くで形成されるものだが、行水の池は標高6mほど。室戸岬は現在でも1000年に1,2m隆起していると言うから、3000年頃前には海水近くにあった、ということだろう。空海修行の頃は現在より1、2メートル程低いわけであろうから、ほとんど波しぶきのかかる辺りであったのだろう。
室戸岬の山頭火
夫山頭火はその日記に、「室戸岬の突端に立ったのは三時頃であったろう、室戸岬は真に大観である、限りなき大空、果しなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽かない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる、......ここにも大師の行水池、苦行窟などがある、草刈婆さんがわざわざ亀の池まで連れて行ってくれたが亀はあらわれなかった、婆さん御苦労さま有難う」と書く。 
行水池はこの地、苦行窟は御蔵窟。亀の池はどこだろう。 「波音しぐれて晴れた」、「かくれたりあらはれたり岩と波と岩とのあそび」、「海鳴そぞろ別れて遠い人をおもふ」などを詠む。

ウバメガシ・アコウ
遊歩道覆う高さ2,3mの常緑樹はウバメガシ。本来は真っすぐにのびる幹だが、強風のため屈曲している。土佐備長炭の原料ともなる。アコウの巨木は岩を抱えるように根をのばす。









エボシ岩
遠くから見ると「烏帽子」のように見えることから名付けられた。この岩も斑レイ岩。花崗岩に似ているが、黒い結晶の割合が多い。










火成岩・斑レイ岩の岩質帯から付加体・砂岩泥岩の岩質層に
烏帽子岩から南は付加体・砂岩泥岩の岩質層(上掲載地質図の薄緑部)となる。縦に縞模様が刻まれる奇岩があり、タービダイトとある。タービダイトとは乱泥流堆積物のこと。砂や泥が海水と混ざった流れによって海底に降り積もってできたシマシマの地層のことです。奇岩の縦じまは水平に堆積した後、回転して立ち上がったため縦向きの縞模様になったようだ。
タービダイト層が折れ曲がり、一部バラバラになっているのは、大陸プレートに押し付けられた際に変形したた、と言う。
タービダイト
「川によって運ばれる砂粒や泥は、河口から海に流れ出て近海の海底に堆積します。厚さが増すと自重の圧力により水分が抜けて堆積岩へと変化していきますが、海底の急斜面などに降り積もった不安定な堆積物は、地震などが引き金となって、一気に深海へと崩れ落ちて行くことがあります。砂や泥などが混ざりながら一気に落ちて行きますが、その粒子の大きさにより落下速度が異なるため(砂粒の方が早く落ちる)、砂と泥がわかれて深海底に堆積します。これを「砂泥互層」、または「タービダイト」と呼びます。室戸岬の白黒ストライブの岩礁は、四国沖の南海トラフの水深4000mの海底にたまったタービダイトだったのです(「室戸ジオパーク」の記事より)。
付加体
深海に降り積もったタービダイト層は、どのようにして地上に現れるのでしょう。 日本列島に沿うように走る海溝やトラフは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所にあたります。海洋プレートの上には、プランクトンやサンゴの死骸、大気中を漂う塵や火山灰などが堆積しています。さらにそこにタービダイト層が加わります。これら堆積物は、海洋プレートと一緒に大陸の下に潜ることはできず、リンゴの皮を剥くように、大陸のヘリによって海洋プレートからはがされてしまいます。
行き場のないこの堆積物は、そのまま大陸のヘリに次々と押し付けられていき、新たな陸地へと生まれ変わります。これを「付加体」と呼んでいます。海洋プレートが沈み込む場所にだけ見られる陸地化の現象です(「室戸ジオパーク」の記事より)。
ホルンフェルス
砂岩泥岩層と火成岩・斑レイ岩層の接するあたりに「ホルンフェルス」堆積岩層に斑レイ岩をつくった高温のマグマが貫入し、その溶岩によって堆積岩が焼かれて変成し固くなった変成岩である。
班レイ岩(一部は玄武岩)とホルンフェルスの境界には、泥が溶けて固まった花崗岩が見られる、と。






土佐日記御崎の泊碑
海食台の上に立つ碑に「土佐日記御崎の泊」と刻まれる。この石碑の建っている場所が少し、平らな岩になっているが、これは、『波食台』。
土佐日記には室津の港を出た船は、雲行き怪しきため引き返したが、その港が室津との説とこの浜との説があるようだ。
この辺りの浜は岩礁がなく、土佐日記の掛れた頃はもっと土地と海が近く、自然の港のようになっていたのでは、と言う。
「都にて やまのはに見し 月なれど なみより出でて なみにこそ入れ」と紀貫之が詠った句に月が海から出るとあるが、それは室戸の東側でなけらば見えないでしょうと、此の地に泊まったことのエビデンスとする説もあるようだ。
なお、この場所では南海地震によって土地が隆起した跡が見られる。

弘法大師目洗いの池
目洗いの池は、空海がこの水を使って、諸人の眼病を癒したと伝えられています。どんな晴天にも干上がることがなく、水位が一定だという伝説がある、と。








国道55号に戻る
この辺りで乱礁遊歩道から国道55号に戻り、少し南の中岡慎太郎の像を見遣り、国道を戻り最御崎寺への旧遍路道取り付き口に向かう。
中岡慎太郎象
中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士。慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命。この時慎太郎は30才。 この像は昭和10年安芸郡青年団が主体となって建てられた。








最御崎寺への旧遍路道

旧遍路道取り付口
国道山側に逸れる舗装された坂道。入り口にはいくつもの最御崎寺(ほつみさき)への案内が立つ。4mほどの石柱には「四国第廿四番霊場東寺最御崎寺」と刻まれる。「室戸岬灯台徒歩20分」、木標で「捻岩」、その他多くの歩き遍路タグが貼られる。その入り口の少し先に標石。手印と供に「へんろみち 大正五年」といった文字が刻まれる。


大師一夜建立の岩屋
坂を上ると直ぐ広場。岩場に洞窟が見える。洞窟入り口「第廿四番奥の院」の石碑が立ち、七観音と大師像が並ぶ。間口が幅1.2m,高さ2.3m,奥行き9mの洞内には小さ祠が祀られていた。
案内には「空海(弘法大師)が一夜で建立したと伝えられる岩屋で、現在、最御崎寺の奥の院。
寺伝では、空海が唐からお持ち帰りになった石像が安置されていた場所。
明治初年までは、女性の納経所はここにあって、本堂には登らず女道を通って25番行ったところです」とある。
空海が唐からお持ち帰りになったと伝わる石像は如意輪観音。江戸時代に発見されたと言う、地元の漁師が大量祈願で石を欠きとり一部破損しているようだが、平安時代作の大理石像は珍しく、重要文化財に指定され現在は最御崎寺の宝物殿に保管されているようだ。
最御崎寺は明治初年まで女人禁制であり、ここで札を納め室戸の岬を廻り次の札所に向かった。 尚、この地に求聞持堂があるとの記事が多いが、現在はお堂はなくかっていた。
寂本は「四国遍礼霊場記」 に「山下の岩窟口の広さ六七尺、奥へ入事六七間、内に如意輪観音の石像長二尺ばかり也。竜宮よりあがり玉ふとも云。人間のわざとは見えず、あやしむべしとなり。巨石にて厨子あり、内に二金剛を置。両とびらに天人あり、皆うけぼりにしたり。心目をまじゆるにあらずば、言語ののぶる所をもて察すべきに非ときこゆ。
東の大窟、奥へ入事十七八間、高さ1丈或は二丈三丈の所もあり。広さ二間三間或は五間十間の所もあり。太守巨石を以、五社を建立せられ、愛満権現と号す。是はむかし此窟中に毒竜ありて人民を傷害しけるを大師駆逐して、其迹に此神を鎮祠し玉ふとなり。
又其東に窟あり、天照大神の社あり、坂半に聞持堂あり。坂より上は女人禁制なり」と記す。

捻岩
広場の洞窟対面には忠魂碑。昭和40年建立。日清戦争以降の戦没者の霊を祀る。最御崎寺への遍路道はこの忠魂碑脇、ブロック塀の脇の道に入る。入り口には「最御崎寺 本堂 六九六米」と刻まれた標石が立つ。
コンクリートで固められた石段を数分のぼると「捻石」の案内。大師の母である玉依御前が、修行中の大師の身を案じてここを訪れた際ににわかに暴風雨となったため、大師がこの岩を捻じってその中に避難させた と伝えられる。

最御崎寺・室戸スカイライン分岐
山道途中に休憩もあるのだが、木々が邪魔して展望は効かなかった。捻岩から20分弱、コンクリート石段も切れ、石の敷かれてた山道を上り、高度を100m弱上げると最御崎寺と室戸スカイライン分岐の木標が立つ。その木標を最御崎寺方向に向かい数分、室戸岬への分岐点を越えて最御崎寺山門前に出る。



第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)

山門
山門は仁王門。4mほどの仁王像。寛永十年の作と伝わる。
岩見重太郎・薄田隼人の塚
山門右手に小堂。「岩見重太郎・薄田隼人の塚」とあり、「生没年 慶長20年5月6日 豊臣秀吉に馬廻衆として仕えたと伝わる。秀頼には三千石で仕えていた。剣の道を極めるため、諸国を武者修行の旅に出たが、天橋立での仇討の助っ人をした話や信州松本の吉田村で狒々退治をした話など著名。大阪冬の陣と言われる慶長19年11月には大いに戦って有名をとどろかし、さらに翌元和元年五月の夏の陣では、ついに惜しくも戦死したと伝えられる」とあった。 豪傑岩見重太郎の狒々(ひひ)退治伝説は、全国各地に残る。団塊の時代の我々世代はよく知る名前である。
薄田隼人は講談で名高い岩見重太郎のモデルと言わる武将。豊臣秀頼に仕え大阪冬・夏の陣に参戦した。岩見重太郎は薄田隼人をモデルに、各地に残る狒々や大蛇退治といって豪傑伝説を取り入れ、講談家の手により創り上げられた人物のようである。
お堂の中には宝篋印塔の石を活用した五輪塔が祀られている。

本堂・大師堂
仁王門を入ると右手に幾多の石仏が並ぶ。その先に袴腰造の鐘楼堂。慶安元年(1648)建立。次いで虚空蔵菩薩石像、多宝塔などが建る。
左に大師堂。大師堂右側に徳右衛門道標が立つ。「是ヨリ津寺迄一里」と刻まれる。この先左手に手水場、納経所があり正面に本堂が建つ。

本堂裏には霊宝殿、聖天堂、護摩堂などが並び、最奥の宿坊である遍路センターの建物内には遍路休憩所がある。

Wikipediaには「最御崎寺(ほつみさきじ)は、高知県室戸市室戸岬町にある真言宗豊山派の寺院。室戸山(むろとざん)、明星院(みょうじょういん)と号す。本尊は虚空蔵菩薩。土佐で最初の札所である。
室戸岬では東西に対峙している第二十六番札所の金剛頂寺を西寺(にしでら)と呼ぶのに対し、東寺(ひがしでら)と呼ばれる。寺号は「火つ岬」(火の岬)の意。
空海は都での学問に飽き足りず、19歳の延暦11年(792年)頃からの約5年間、山林修行を続けた。空海の『三教指帰』には「土州室戸崎に勤念す」(原文は漢文)とあり、室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。
寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。当初は奥の院四十寺のある四十寺山頂にあり、現在地に移ったのは寛徳年間(1044年 - 1055年)頃といわれている。
嵯峨天皇以降歴代天皇の信仰が篤かった。延久2年(1070年)の『金剛頂寺解案』(こんごうちょうじげ あん)によれば、現・室戸市域の大部分が金剛頂寺(西寺)の寺領となっており、最御崎寺(東寺)は金剛頂寺の支配下にあったことが窺われる。鎌倉時代末期から室町時代初期にかけては、金剛頂寺の住持が最御崎寺を兼帯していた。正安4年(1302年)には後宇多上皇から寺領を寄進されているが、これは京都槇尾西明寺住持で東寺・西寺の住持を兼帯していた我宝の尽力によるものであった。
暦応4年(1341年)、足利尊氏によって土佐の安国寺とされる。その後火災により焼失したが、元和年間(1615年 - 1624年)には土佐藩主山内忠義の援助を受け僧の最勝が再興する。堂塔を建立、七堂伽藍を有したという。明治に入って神仏分離令によって荒廃するが、大正3年(1914年)には再建された。また、女人禁制の寺で岬からの登山口脇にあった女人堂から拝んでいたが、明治5年に解禁された。阿南室戸歴史文化道の指定を受けている」とあった。
〇ほつみさき
Wikipediaに「寺号は「火つ岬」(火の岬)の意」とある。「火つ岬」>ほつみさき>最御崎ということだろうが、「ほつ」に「最」をあてる?あれこれチェックするが「最」を「ほつ」と読むのは「最手:ほて、ほって(優れた腕・技;横綱)」の一例しか見つからなかった。それも、何故「ほて、ほって」と読むかわからない。何故だろう。

クワズイモ畑
本堂すぐ横には空海の七不思議のひとつ「くわずいも」の伝説にちなんだクワズイモ畑がある。昔、土地のものが芋を洗っているところに弘法大師が通りがかり、その芋を乞うたところ「これは食えない芋だ」といって与えなかった。それ以来ほんとうに食べられなくなったと伝えられる。現在は胃腸の薬として利用される。


鏡岩
本堂参道左手に鏡岩。サヌカイトの石塊。握りこぶしほどの丸石で叩くと、その音は冥途まで届くと言う。
空海の七不思議
空海の七不思議としてつたわるのは上、くわずいも、 鐘石。既述の観音窟、行水の池、目洗いの池、 ねじれ岩。そして 明星石。
明星石には出合っていない。寂本の「四国遍礼霊場記」には、「大師修行の時、来影せる明星はき出し玉へば五色の石となり、いまにあり、今明星石といふ是也とかや。山下に光明石と云有、大師勧修の時竜
鬼障碍をなしける時、呪伏して涕唾し給ふに、傍の石に付て光明ありしかばいふとなん」と、星のように光を放ち、毒龍の妨げを防いだという伝説の石と記す。
あれこれチェックすると、特定の石ではなく、室戸岬に分布する斑レイ岩のことのようだ。別名は明星石と呼ばれるが、これは、空海が金星(明星)を見ながら修行をしたことと、斑レイ岩がキラキラと光って星のようだからということから名付けられた、と室戸ジオパークの記事にあった。

室戸岬灯台
仁王門まで戻り、少し坂をくだると岬突端に室戸岬灯台が立つ。眼前に広がる太平洋の眺めは、いい。案内には「室戸岬灯台 日本一の一等レンズ 四国の南東端に位置する室戸岬灯台は、明治32年(1899年)4月1日に完成した。その後、昭和9年(1934年)の室戸台風と戦災、昭和21年(1946年)の南海地震で灯台のレンズが破損し、修理を行いました。
鉄造りの灯塔はほとんど被害はなく、建設当時の姿を残しています。光源は、最初石油を使用しておりましたが、大正6年(1917年)12月に電化されました」とあり、光の届く距離は約49キロメートルで日本一の光達距離。日本一第1等レンズの「日本一」はこの光達距離を指すのだろう。
一等レンズ
第1等レンズとはレンズ直径 259 cm、焦点距離 92 cmのことを指す。を使用した灯台で、第1等レンズをもつ灯台を第1等灯台と呼び、日本では、現在5ヶ所しかない。
レンズの大きさには第一等から第六等まで(第三等は大・小二種)の計7種類に分けられる。

今回のメモはこれでお終い。次回は最御崎寺から室戸岬西海岸の土佐湾に面した札所を辿る。

阿波最後の札所・薬王寺の次は土佐の最御崎寺(ほつみさき)。薬王寺のある日和佐から最御崎寺のある室戸岬突端部まではその距離おおよそ80キロ。今回のメモは日和佐の薬王寺から阿波と土佐の国境まで、おおよそ50キロの遍路道をメモする。当日、実際にこの距離を歩いたということではない。メモの区切りとして国境という響きがよかろうというだけの理由である。
ルートは薬王寺を離れ、日和佐川に沿って県道36号を進む奥の院泰仙寺道を選んだ。薬王寺門前の自然石標石が「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」と刻み、茂平道標が「東寺へ二十一里」と北を指すその道筋が奥の院道である。
茂兵衛道標の手印に従い国道55号を少し北に戻り、日和佐川手前で県道36号に乗り換え、西河内集落を越え奥の院泰仙寺との道を分ける落合に。奥の院道を選びながら、時間の都合もあり奥の院泰仙寺をパスするという為体(ていたらく)ではあったが、落合から南に下り、日和佐川支流の山河内谷川を上流へと進み、山河内集落で国道55号筋に合流。
山河内からは国道55号に沿って山河内谷川の源流域まで詰め寒葉峠を越える。峠は分水界となっており、峠を越えると牟岐川水系の橘川に沿って国道55号を進み、川又で牟岐川に合流。海岸部に開けた牟岐の町へと牟岐川を下る。
牟岐から浅川までの12キロほどは、「土佐街道」の標識を目安に国道55号と「土佐街道」を出入りしながら進む。この区間はその昔、八坂八浜と称され八つの丘陵と浜を上り下りした遍路泣かせの難路であったとのことだが、それは今は昔のお話。いくつかはそれらしき風情の土径旧道が残るものの、現在は道路整備されており、どこが難所の八坂八浜かメモの段階で特定するのに苦労したほどではあった。
それはともあれ、浅川からは丘陵を越えて海部に入り、那佐、宍喰を経て甲浦手前の阿波と土佐の国境に着いた。

常のことながら、メモの段階でわかったことだが、今回も「後の祭り」が多くあった。薬王寺からの山河内集落に出る遍路道も、今回歩いた奥の院道のほか、現在の国道55号筋を進む「横子峠」越、丹前峠越のふたつのルートがあった。
また山河内から牟岐に出る遍路道も、丘陵を越えて海岸の集落である水落に下り、海岸線を牟岐に向かうルートもあった。『四国遍路日記』の澄禅の辿ったルートとも推定されている。
海部から宍喰への遍路道も今回歩いたルート以外に、馬路越、居敷越といった峠越えのルートがあった。
宍喰から土佐の甲浦への道も今回歩いた岬寄の道の他、宍喰峠越えのルートもあった。

歩く前は、今回は国道沿いの遍路道で少々味気ないなあ、なとど思っていたのだが、ちょっと調べれば「峠萌え」にはフックのかかるルートがいくつもあった。阿波の南東部は四国遍路を一巡した後、「後の祭り」フォローアップに出かけてもよさそう、なとど思っている。 ともあれ、メモを始める。

本日のルート;23番薬王寺>落合橋南に標石>国道55号交差箇所に茂兵衛道標(210度目)>打越寺>辺川集落の標石2基>小松大師>東川又地蔵堂の標石>山頭火歌碑>牟岐>大坂峠取り付き口( 八坂八浜:最初の坂 )>大坂峠>標石>草履大師>内妻の浜(八坂八浜:最初の浜)>内妻トンネル手前左に逸れ松坂峠取り付き口に(松坂;八坂八浜2番目の坂)>松坂峠>古江浜(八坂八浜;2番目の浜)>福良坂(八坂八浜;3番目の坂)>福良浜(八坂八浜;3番目の浜)>鯖江坂(八坂八浜;4番目の坂)>鯖大師>鯖瀬浜(八坂八浜;4番目の浜)>萩坂(八坂八浜;5番目の坂)>大綱浜( 八坂八浜;5番目の浜 )>鍛冶屋坂( 八坂八浜;6番目の坂 )>鍛冶屋浜( 八坂八浜;6番目の浜)>栗浦坂( 八坂八浜;7番目の坂 ) >栗ノ浜( 八坂八浜;7番目の浜 ) >仮戸坂( 八坂八浜;8番目の坂 ) >三浦浜(八坂八浜:8番目の浜 )>大郷の標石>海部の町に入る>那佐湾>宍喰(ししくい)>古目大師>宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)>金目番所跡


●第二十三番札所・薬王寺●

門前町である桜町通りを直進し、国道55号の交差点を渡ると正面に第二十三番札所薬王寺の山門が見える。
茂兵衛道標・自然石標石
山門手前、短い厄除橋の右側に茂兵衛道標。主面に「東寺へ二十一里 伊予国三角寺奥の院」、左面に「平等寺 五里余」 、右面には「明治山十六年」のも文字と共に添歌「鶯や法 ゝ 希経の乃りの聲」(うぐいすや ほうほけきょの 乃りのこえ)が刻まれる。
東寺とは次の24番札所最御碕寺のこと。26番札所金剛頂寺を西寺と呼ばれることと対をなす。手印は東寺へと北を指す。それはそれでいいのだが、ここに伊予の最後の札所三角寺奥の院()の案内がある理由はなんだろう?

厄除橋の左側には自然石の標石。「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」とある。玉厨子山とは薬王寺奥の院泰仙寺のことである。
山門
厄除橋を渡り石段を上ると山門。山門を潜り順路は左に折れ厄坂の石段を上る。最初は三十三段の女厄坂。
石段を上ると屋根のついた拝殿。中に臼と杵が置かれる。抹香臼、厄除杵と称される。臼の中には抹香が入っており、厄除杵で厄年の数だけ搗き厄を落としたとの話が残る。

本堂・大師堂
男厄坂四十二段を上ると境内。正面に本堂。本堂左に大師堂。大師堂から鍵型に曲がって繋がる地蔵堂、そして十王堂。十王堂には冥土で亡者の罪を判断する裁判官といった十王が祀られる。


十王
秦広王(初七日 不動明王)、初江王(二七日 釈迦如来)、宋帝王(三七日 文殊菩薩)、五官王 (四七日 普賢菩薩)、閻魔王(五七日 地蔵菩薩)、 変成王(六七日 弥勒菩薩)、泰山王(七七日 薬師如来)、平等王(百 ヶ日 観世音菩薩)、都市王(一周忌 勢至菩薩)、五道転輪王(三回忌 阿弥陀如来)。十尊に対応する不動明王などは、十尊の本地仏とするが、それは鎌倉時代に考えだされたもの。
生前に十王を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰ゆえの十王堂であろう。

肺大師
と大師堂の間には鎮守堂と肺大師の小祠。肺大師に祀られる弘法大師石像台座からは瑠璃の水と称される霊水が湧き出す。ラジウムを含んだ水であり、肺疾患に霊験あらたかと伝わる。そういえば、国道55号脇の薬王寺駐車場横に薬師の湯という温泉施設があった。このお山一帯からラジウム含有の水が涌くとのことである。
瑜祇塔
本堂右手、男女坂と称される厄坂であり61段の石段を上ると瑜祇塔。昭和39年(1964)の建立。弘法大師四国八十八ヶ所の霊場を開創1150年、また、翌40年(1965)は高野山開創1150年に当たることからこれを記念して建立されたもの、とあった。
瑜祇塔は高野山以外に例を見ないと言う。屋根の中央と四隅に立つ相輪を瑜祇五峰と称し、五智の象徴として金剛智を示し、周囲8柱が胎蔵の理論を表すようだ。そして屋根の下の円筒形と四角の一重の塔をして金剛・胎蔵両部不二を象徴すると、する。ふたつの相対するものが一つになることを建物で示している。門外漢にはよくわからないが、この両部不二という、真言密教の経典である瑜祇経を建物の姿で象徴しているの、かも。

瑜祇塔は正式名、「金剛峰楼閣瑜祇塔」。高野山の寺名金剛峰寺の由来となるものであり、弘法大師が重要視した瑜祇経を後世お堂の形で建立されたもののようである。






23番札所薬王寺から奥の院道を辿る

山門を出て次の札所へのルートを想う。薬王寺の門前の自然石標石が「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」と刻み、茂平道標が「東寺へ二十一里」と北を指す。
当日はこの薬王寺奥の院道を歩くことにした。薬王寺から奥の院泰仙寺を経て東寺(第24番最御崎寺へと向かう遍路道は、門前より国道55号を北に向かい日和佐川手前で左折し。日和佐川に沿って県道36号を進み、西河内の集落を経て山河内谷川合流点から県道を離れ、山河内集落に出る。
このルートは澄禅が辿った道と言う。薬王寺から先の記述は「右ノ道ヲ一里斗往テ貧シキ在家二宿ス」とあるだけであるが、この短文から泊まったのは日和佐川筋の西河内集落と推定してのことと言う。
その他の遍路道
当日は迷うことなく奥の院道を辿ったのだが、メモの段階で地図を見ていると、山河内集落への往還としては、どう見ても現在の国道55号筋が自然では?チェックするとそのルートは往昔の土佐街道・横子越えの往還であった。奥の院泰仙寺参詣を目することがなければ当然のこととしてこのルートを辿ったお遍路もいただろう。


横子峠越え・土佐街道の遍路道
現在の国道55号に沿って奥潟川の谷筋を進み、日和佐トンネル(昭和45年;1970年開通)を抜け山河内谷川筋に下ると山河内集落に出る。日和佐トンネルが出来る前は日和佐トンネル傍の横子峠を抜けていた。峠には弘法大師像とへんろ標石があtったようであり、へんろ道として利用されていた。標石には「是より東寺迄」と刻まれる、と。昭和7、8年(1932、1933)ごろまで横子越えの土佐街道は利用されていたようである。
昭和7、8年以降利用されなかった理由は?日和佐川に沿って西河内、山河内へと繋がる道路が整備されたということだろうか。単なる妄想。根拠なし。
奥潟川筋の真念道標
この道が遍路道であるとのエビデンスはないかとチェック。薬王寺から国道55号を南に進み、JR牟岐線と交差する傍の旧路に真念道標が立つ。真念が歩いた遍路道ということかと推測できる。
土佐街道・丹前峠越
チェックの過程で更にもうひとつの遍路道・土佐街道が見つかった。藩政時代の土佐街道は薬王寺から日和佐川を上り、丹前から山入りし丹前峠を越えて山河内谷側筋の府内におりてきたようである。上述横子越えの土佐街道が開かれる前の土佐街道である。
奥潟川筋ではなく尾根筋を進む道に街道が開かれた理由は不詳であるが、思うに往昔の街道道の定石を踏まえたものであろうか。土木建設技術が確立する以前の街道は、土砂崩れ・崖崩れの多い谷筋を避けて道の安定した尾根を通るのを基本とするケースが多い。
丹前峠の道筋には特段遍路標石は残らないようだが、土佐街道を歩いたお遍路もいたのでは、と選択肢に入れる。

落合橋南に標石
北河内谷川と日和佐川が合わさる辺りで国道55号を左に折れ、県道36号を日和佐川に沿って上流に向かう。左手に上述藩政時代の土佐街道への取り付口である丹前、澄禅が一夜の宿を借りたとされる西河内の集落と蛇行する川筋に沿って進む。
西河内からほどなく日和佐川と山河内谷川が合流する少し南に落合橋。落合橋を渡り県道を進むと薬王寺の奥の院。遍路道は山河内谷川にそって南に進む。
奥の院を訪ねようかどうしようかと思案。奥の院道を辿りながら奥の院にお参りしないって、それはないよな、などと少々悩みながらも、どうしても段取り上時間が足りず今回はパスする。

落合橋を少し南に進むと集落。道端、道路開通の石碑の横に2基の標石。1基は自然石の標石。手印だけが刻まれる。その横の標石には「二十三番薬王寺  玉厨子山 泰仙寺」と刻まれていた。
奥の院泰仙寺
本尊は如意輪観世音菩薩である。玉厨子山(標高540m)の中腹にあり、1188年薬王寺が焼失したとき本尊の薬師如来が飛び出し、この地にとどまり輝いたという。さらに約50mほど上ると大岩があり小さい祠が祀られていて、ここの奥之院がある。駐車場はあるが寺まで徒歩で約40分かかる(Wikipedia)。

国道55号交差箇所に茂兵衛道標(210度目)
山河内谷川上流に向かって南に進む。途中、藩政時代の丹前峠越えの土佐街道が下りてきたであろう府内の集落を越え、道は国道55号とクロスする。その角、南側に2基の標石。上述横子峠越えの遍路道はこの辺りに出てきたのだろう。
1基は茂兵衛道標。「薬王寺 左 東でら 左新道 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛210度目巡礼時のもの。道標の手印の指す方向は間尺に合わない。手印と札所を合わすとすれば、180度回転させなければならない。道路建設に際し、どこかから移されたものだろう。それに合わせて道標にある「新道」の方向は傍の国道に抜いたトンネル方向を示す。グルリと丘陵を迂回する旧道をショートカットする道でもあったのだろうか。「東でら」は最御崎寺のこと。
もう1基は「是ヨリ三十丁 明和二年 左奥之院玉厨*」といった文字が刻まれる。

打越寺
国道トンネル南ををグルリと廻る旧道を進む。牟岐線山河内駅の傍、道の右手に「駅路山打越寺」の寺標石。三十段の石段を上ると庫裏というか、民家といった風情の建屋。境内(?)を歩くのはちょっと躊躇われ、すぐに石段を下りる。なんとなく狐につままれたように思いながらも、当日は旧道を進み打越寺の裏山を抜けるトンネル西口に出た。
打越寺大師堂
メモの段階で地図を眺めていると、国道55号傍に立派なお寺が建ち、打越寺とある。広い境内には堂宇が建つ。案内には「当山縁起 当山は約四百年の昔、慶長三年(1598)初代藩主蜂須賀家政公が藩内の重要な街道に沿った真言宗の八ヶ寺を当時困難を極めた遍路・旅人を助けることを願して、専ら慈悲を肝要とする駅路寺を制定され、それより駅路山打越寺を号しました、
当山では同行二人のご誓願を具現すべく弘法大師をご本尊としておまつりしています。
此所は、日和佐川上流、山河内字なかに所在し、川をはさんで山が両岸に迫り、左岸に一条の土佐街道が通じており、寺は街道を見下ろす高台に位置し交通の要衝関所でありました(江戸初期の澄禅遍路日記より)。
現在は土佐街道も国道55号線となり、寺の裏山を通ることになり、ここに駅路寺開創四百年を記念し檀信徒の協力を得て、大師の誓願、蜂須賀公の遺願に元く大師堂を建立、脇侍に不動・愛染の二大明王をまつり興王利生とこの街道を往来する人々の心身の安穏を日々護摩法を修し祈願するものであります(後略)」とあった。
堂宇は国道建設に伴い新築された大師堂のようである。当日訪れた民家風の建屋は本堂とのことではあるが、なんとなく駅路寺打越寺旧跡といった「立ち位置」のように思える。
澄禅
案内に澄禅の日記に打越寺の記述がある、とするが澄禅の『四国遍路日記』には打越寺の記述は全くない。真念の『四国遍路道指南』には「ここにうちこし寺、真言道場 遍路いたはりとして国主より御建立」とある。また、『四国遍礼名所図絵』には「打越寺(往還の右の山ノ側有 遍路人為大守様御建立)」とある。記載内容からすれば『四国遍礼名所図絵』の記事が最も近い。

辺川集落の標石2基
遍路道は国道55号を西に進む。山河内谷川の上流部に沿って国道を時に旧道に逸れながら源流部に。その先に寒葉坂。この坂は日和佐川水系と牟岐川水系の分水界となっており、坂を越えると牟岐川水系の支流・橋川が西に下る。峠は海部郡日和佐町と海部郡牟岐町の境となる。 遍路道は牟岐線返川駅の手前で国道55号から右に逸れ、段丘下の平地に下りる。その分岐点の傍に標石2基。右手の標石には「右 二十四」と読める。方角が真逆であり、道路工事の際にでも移されたものだろう。左手の標石らしき石柱の文字は読めなかった。
国道を逸れ段丘崖下の耕作地を進む、橋川に架かる返川橋を渡り道を進むと、民家石垣にも標石があった。

小松大師
段丘崖下の道が国道55号に合流する手前、右手の一段高いところに小松大師がある。小松はこの辺りの地名である。
境内にお堂。大師坐像が祀られる、と。縁起では、17世紀中頃大阪難波の石工が三尺の大師坐像の注文を受ける。と、夢枕に弘法大師が現れ、阿波の小松の里に送るようにと伝えた、とのこと。 境内には自然石、地蔵尊像が刻まれた六部供養碑。「六十六部回国供養塚 慶応二」といった文字が刻まれていた。

東川又地蔵堂の標石
国道55号を進み、橋川が牟岐川に合流する地点、現国道に架かる牟岐橋手前から左に逸れる旧道があり牟岐川に橋が架かる。人道橋であるその橋の手前にコンクリート造の祠。2基の地蔵が祀られたこの東川俣地蔵堂傍に標石。「右四国二十四番 東* 左牟岐町」と刻まれる。「東」は何度か登場した東寺と称される24番最御崎寺のこと。

山頭火歌碑
人道橋を渡り国道55号を進む。牟岐町川長関に入ると道の右手に石碑があり、「山頭火 宿泊の宿長尾屋」とある。石碑には、「山頭火 宿泊の宿長尾屋 「しぐれてぬれてまつかな柿もろた」 途中、すこし行乞、いそいだけれど牟岐へ辿り着いたのは夕方だった。よい宿が見つかってうれしかった、おじいさんは好々爺、おばあさんはしんせつでこまめで、好きな人柄で、夜具も賄もよかった、部屋は古びてむさくるしかったが、風呂に入れて貰ったのもうれしかった、三日ぶりのつかれを流すことが出来た。
御飯前、一杯ひっかけずにはいられないので、数町も遠い酒店まで出かけた、酒好き酒飲みの心裡は酒好き酒飲みでないと、とうてい解るまい、 昭和十四年十一月三日山頭火日記抄」と刻まれていた。
山頭火は自由律の俳句で知られる旅に生きた歌人。山頭火は2度四国遍路の旅に出ているが、この句は2度目のもの。歌碑に彫られた句は当日の日記にある16の句のひとつ。宿の夫婦の何気ない心配りが、いい。
山頭火2度目の遍路
昭和14年(1939)10月5日に松山を出て遍路するも、旅は11月16日に「行乞は辛い」と中断。松山に戻り松山在住の句人高橋一洵の奔走でみつけた「一草庵」を終の住処とした。「落ち着いて死ねさうな草枯れる」は一草庵で詠んだもの。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」などの句が、情感乏しきわが身にさえ、なんだか刺さる。

牟岐
国道55号を進み、牟岐線牟岐駅を越えた先で右にカーブする国道と分かれ直進し牟岐の町に入る。牟岐中央商店街とかかれた道筋が遍路道。時に往時の商家の風情を残す建屋を見遣りながら道を直進し、牟岐浦神社で右折し瀬戸川に架かる八坂橋を渡り、牟岐の街を出る。
牟岐川の左岸である牟岐浦は古くからの漁港・港町、一方牟岐川右岸の中村を中心とした地区は商業の町と性格を異にした。中世には牟岐川筋の木材を集めた積出港として賑わい、藩政期には公用船への水や薪を供給したり、加子役(船をこぐ者)を勤める、労役を課された浦、「加子浦」に指定され、藩営の水揚場が設けらえるなど、往時の陸海交通の要衝であったよう。

水落廻りの遍路道
メモの段階で澄禅の遍路日記を見ていると、澄禅は打越寺のある山河内から先は、今回歩いた寒葉峠越えの道ではなく海岸ルートをとったと推測する記事があった。ルートは山河内から南へ白沢(はくざわ)川筋を遡上し、白沢集落から山入。標高400mピークを越え海岸線に出て、海岸沿いの水落の集落を経て牟岐に向かったとする。「山河内から海にかかる」といった記述からの推定ルートではある。参考の為推定ルートを載せておく。



八坂八浜

大坂峠取り付き口(八坂八浜:最初の坂)
橋を渡った遍路道はそのまま直進し、右手下に国道55号を見遣りながら丘陵の坂を上る。ほどなく道の右手に「旧へんろ道 八坂八浜の大阪峠 草履大師へ」の案内と大阪峠から草鞋大師へのルート図があった。
傍にあった案内には「八坂八浜とへんろ道(旧土佐街道):牟岐町から浅川(海陽町)に至る「八坂八浜(やさかやはま)は、12kmの間に、八つの坂と八つの浜があり、駄馬も通れない「親不知子不知(おやしらずこしらず)」と言われ、波の荒い時は、道を洗い交通不便な難所であった。「草鞋大師」から内妻の浜に下る小道が昔の土佐街道である」といった記述があった。
八坂八浜(やさかやはま)
散歩当日はこの大坂での案内の他、時に現れる旧土佐街道の峠越えの標識を見る以外、特段八坂八浜と明記した標識はなかったように思う。地図には、後程訪ねる鯖江の手前の浜に「八坂八浜」と記されており、その辺りが八坂八浜かとも思いながら道を歩いたわけで、道路整備ゆえか難路・険路の風情は消え、当日は知らず八坂八浜を歩いていた。で、メモの段階で改めて八坂八浜って何処?とチェックした。
真念
真念は『四国遍路道指南』に「右、八坂々中、八浜々中の次第。○逢(大)坂。○うちすま(内妻)。○松坂。○古江。○しだ坂。○福良村。○福良坂。○鯖瀬村。○はぎの坂。○坂中大砂という浜。○かぢや坂。○粟ノ浦坂過ぎ、天神宮有り。伊勢田川、潮満ち来れば、河上へ廻りて良し。○伊勢田村。○浅川浦、大道より左に町有り。○いな村観音堂あり。この村市兵衛、宿を施す。○からうと坂。これまで八坂々中八浜々中」と書く。
高群逸枝
詩人で女性史学の創設者として知られ、大正7年(1918)に遍路に出た高群逸枝は、その著 『お遍路』に、「北から順に坂は、大坂、松坂、福良(ふくら)坂、 鯖瀬(さばせ)坂、萩(はぎ)坂、 鍛冶屋(かじや)坂、栗浦(くりうら)坂、 借戸(かりと)坂、であり、浜は、内妻(うちづま)浜、古江(ふるえ)浜、 福良浜、鯖瀬浜、大網(おおあみ)浜、鍛冶屋浜、 走(はしり)浜、三浦浜である」とする。 〇司馬遼太郎 また、司馬遼太郎は『空海の風景』に、「牟岐からむこうで、頻繁に小入江が連続している。海浜の崖や山をよじ登っては、小さな入江に すべり落ちてゆく。坂の名と浜の名とを挙げると、大坂を降りると内妻(うちづま) の浜である。松坂を降りれば古江の浜であり、歯朶(しだ)坂の急峻をおりれば 丸島の浜である。福良坂をおりれば福良浜があり、萩坂をおりればしろぼの浜になる。 鍛冶屋坂につづくのが苧綱(おつな)浜であり、楠坂のつぎが桶島浜、 借戸坂のつぎが三浦浜である。この連鎖してゆく小さな入り江ごとに何人かの人間が住んでいたかもしれないが、 しかしこんにちでも浜におりるとなお無人にちかい。この入り江群の沖はすでに外洋であり、その風濤の たけだけしさが、人の住まうことを拒絶しているのであろう。空海はときに無人の浜に出て海藻や貝を ひろったにちがいない」と書く。
Wikipedia
Wikipediaは、「牟岐浦から南へ、大坂・松坂・福良坂・鯖瀬坂・萩坂・鍛冶屋坂・粟浦坂・借戸坂の8つの坂と、内妻浜・古江浜・福良浜・鯖瀬浜・大綱浜・鍛冶屋浜・栗ノ浜・三浦浜の8つの浜からなる」とする。
それぞれ微妙に地名が異なるが、これらの地名を頭に入れ、少々後付けの感は否めないが、以下知らず当日歩いた道を八坂八浜と合わせながらメモすることにする。

大坂峠
取り付き口から道を上る。尾根筋に乗った辺りで左手に浜が見えてくる。上り始めて20分強で大坂峠に。案内に、「大坂峠は、八坂八浜の最初の峠で、街道がそのまま残っている。峠の高さは97mで、そこには内妻の一里松があり草鞋地蔵尊が祀られていたが、一里松は枯れ地蔵尊は移設されてしまった。峠から旧国道への下り坂は急で、さらに土地造成で急になっている」といったことが書かれていた。

標石
峠からほどなく「九拾」と刻まれた標石らしき石柱。その先で今から下る内妻浜が見える。八坂八浜で第一の坂である大坂に続く第一の浜である。「九拾」の指すことは不詳だが、九拾丁であれば牟岐の町なら距離が合う。妄想。
内妻の浜が近づいてくる。

草履大師
峠から下ること7分ほどで旧街道は大坂峠取り付き口で分かれた車道とクロスする。その角に草履大師。大坂峠にあった案内に拠れば、峠よりこの地に移したものである。台座には「草履供養」と刻まれる。これから始まる難路・険路を控えての草履供養であろうか。またこのお大師さんは盲目の相を呈する。眼疾に霊験あると伝わる。
道路をクロスした遍路道は草履大師脇の急坂を下る。坂はすぐ内妻の浜に続く舗装道に下りる。

内妻の浜(八坂八浜最初の浜)
道なりに進み浜の堤防に出る。堤防に沿って成り行きで先に進むと行き止まり。それらしき旧道は無いかと探す。少し離れた旧国道に松阪隧道が地図にあるが、そこに続く道は見当たらない。で、結局、行き止まり地点にある鉄製のステップを上り国道55号に出る。


内妻トンネル手前左に逸れ松坂峠取り付き口に(松坂;八坂八浜2番目の坂)
どうしたものかと思いながら国道を進むと内妻トンネル手前、左手に逸れる道。左折すると直ぐ「旧へんろ道 松2阪峠入口」の案内。メモの段階でわかったことがが、ここが八坂八浜2番目の坂ということだ。
取り付き口にはルート図と案内。松坂峠への峠道は約500メートル、標高は60mほどだろうか。頂上に「地蔵尊(」かずら地蔵)が祀られていたが、大正十一年、旧・国道の完成によりこの峠を通る人も耐え、旧国道松坂トンネル東口に移された。

松坂峠
案内から右に取り着き、上り口から7分ほど、比高差60m上ると峠。「松坂峠 これより古江浜」の案内がある。
峠からは切通し、ちょっとした急坂を10分ほど下り砂浜に出る。古江浜だ。八坂八浜第二の浜に出る。








古江浜(八坂八浜2番目の浜)
砂浜や海に突き出た丘陵突端、波を受ける岩礁を越えて先に進む。成り行きで進むと浜辺に道路下を潜る水路があり、その坂に遍路タグがあり、国道に戻る。
明治の頃に県道が整備され、昭和43年(1968)に国道55号に編入される以前、満潮時には海に入らないと通行できないといった八坂八浜の難所の一端を垣間見た。

岩礁部の遍路タグ
「歩く四国八十八カ所」より
当日は見落としたのだが、メモの段階で丘陵が海に突き出た突端の岩礁部に、岩場を上れ、といった遍路案内があるとの記事を見た。現在の古江トンネルの辺りだろうとは思うのだが、司馬遼太郎が『空海の風景』に言う「歯朶(しだ)坂」であり、急峻をおりたところ、古江トンネル東の浜が「丸島の浜」であったのだろうか。「 松坂を降りれば古江の浜であり、歯朶(しだ)坂の急峻をおりれば 丸島の浜である。福良坂をおりれば福良浜があり」との記述からすれば、ここしか既述に該当する丘陵地が見当たらない。




福良坂(八坂八浜3番目の坂)
国道を進むと、道の右手に「鯖大師本坊800m先右折」の大看板。そこに国道55号を逸れて右に逸れる舗装道がある。曲がり具合からして国道整備以前の旧道のよう。それほど急な坂でもないが、道は海岸線に突き出た丘陵部を越えた入り江の辺りで国道55号に合流する。この海に突き出た丘陵部に福良坂があったのだろうか。

福良浜(八坂八浜3番目の浜)
国道からちょっと浜に下りる。特に遍路道らしきものもなく、国道に戻る。
地図にはこの浜と岬を越えた南の浜に八坂八浜と載る。入り江の南北を囲む丘陵部が海に海に落ちるところがいくつもの入り江となり、その岩礁部に白浪が立つ。幾つもの尾根が海に沈み岬(坂)となり、谷が入り江(浜)となった、「沈水性」地形を呈す。
散歩当日は、これらの岩礁部をもって八坂八浜と称するのだろうと思っていた。特段の標識はないが、位置関係からしてこの浜が八坂八浜の福良浜であろう。



鯖江坂(八坂八浜第4番目の坂)
国道を進み福良トンネルの手前、道の右手に標識が見える。「いやしの古道 土佐浜街道 鯖大師から鯖瀬浜に至る」とある。道の左手、福良トンネルの海側を走るのが旧国道。道を右に逸れ土佐街道に入る。
牟岐線のトンネル入口を見遣り先に進むと道の途中に案内があり、「土佐浜街道〈馬ひき坂」とあった。幾度か引用させて頂いた奈佐和彦さんの「かいふのほそみち」の「馬曳坂」には、その由来として「弘法大師が鯖瀬に来たとき、馬子が馬の背に乗せてあった鯖を所望した。馬子はこれを断り、大師は歌を詠んだ。
大坂や八坂坂中 鯖一つ 大師にくれで 馬の腹痛む。
やがて坂道にさしかかると馬は急に腹痛を起こした。馬子はあの僧が大師と気づき、詫びて一尾の鯖を差し上げた。大師は
大坂や 八坂坂中 鯖一つ 大師にくれて馬の腹止むと詠むと馬は元気になった。
馬が腹痛を引き起こした坂は、今も「馬曳き坂」と呼んでいる(『海南町史』)とあった。
峠は海部郡牟岐町と海部郡海陽町の境。坂を下ると鯖大師に出る。




鯖大師
「四国霊場別格札所 鯖大師本坊」の寺柱から境内に入る。正面に本堂。鯖を右手にさげた大師立像が本尊。左手大師堂にも石造の鯖。絵馬に開運、子宝成就、病気平癒などの願い事を書いて奉納し3年間鯖を口にしないことを誓う、鯖断ちの祈願を行うと願いが成就すると伝わる。
Wikipediaには「八坂寺(やさかでら)は徳島県海部郡海陽町に所在する高野山真言宗の寺院。山号は八坂山。本尊は弘法大師。通称は鯖大師本坊または鯖大師。
空海の鯖伝説
鯖大師と呼ばれる由縁は、この地を訪れた空海(弘法大師)の伝説によるとする。その霊験は上述馬曳坂でメモしたとおりであるが、そのエピソードに続き、「空海が法生島(ほけじま)で先ほどの塩鯖に加持祈祷を行い、海に放ったところ塩鯖は生き返り泳いで行った。これに感服した馬子は空海の弟子となり、この地に小堂を建て行基の像を祀り「行基庵」と名付けた。また「鯖瀬庵」とも呼ばれた。空海が加持祈祷を行った海岸は鯖瀬(さばせ)と呼ばれている」とある。
行基の鯖伝説
大師堂
更にそれに続けて「行基にまつわる鯖伝説も残されている。これは、江戸時代前期の貞享4年(1687年)に真念という僧によって書かれた四国遍路の現存する最古のガイドブックである『四国遍路道指南』(しこくへんろみちしるべ)に記載されている伝説である。
これに拠れば、行基が四国を巡錫している時にこの地を訪れた際、鯖を馬に背負わせた馬追が通りがかった。行基が鯖を所望したところ、馬追はこれを断った。行基はこれに対し「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれで馬の腹や(病)む」と歌を詠んだ。すると、馬は急に腹痛で動かなくなった。困った馬追は行基に鯖を差し出した。行基は今度は「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれて馬の腹や(止)む」と、「くれで」を「くれて」と1文字変えて詠むだけで、馬の苦しみは治まった。 この行基の話は、江戸時代初期の寛永18年(1638年)賢明によって書かれた四国巡拝の記録誌『空性法親王四国霊場御巡行記』にも記載が見られる。また、江戸時代後期の寛政12年(1800年)に作製された四国巡礼ガイドブック『四国遍礼名所図会』にも記載がある。
行基が詠んだとされる歌は、弘法大師伝説では空海が「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれで馬の腹や(病)む」、「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれて馬の腹や(止)む」と詠んだとされている」とある。
行基から空海伝説へ
八角の護摩堂
なんだか縁起成立のプロセスが垣間見えて面白い。真念さんたちの記述に拠れば、行基菩薩と鯖の伝説は江戸初期には成立していた、ということである。元は行基庵と呼ばれていた、とも言う。 行基伝説が弘法大師伝説に変わったのは何時、何がきっかけであったのだろう。
江戸の頃、この寺は海部郡にある真言宗誓願寺の末であった。それが同じく海部郡の曹洞宗正福寺の末に変わる。それが昭和16年(1941)になって「鯖大師協会」に改めたという。
最後にWikipediaは「鯖伝説について 民俗学者の五来重は鯖大師伝説について、山姥が牛方や馬方の塩鯖を求めるという民話との関連を指摘している。これは山中や峠にさまよう荒ぶる祖霊に供物を捧げて道中の無事を祈る風習に基づくものと解釈し、またサバは仏教語で鬼神等への供物を意味する「生飯(さば・さんばん)」が同音である鯖へと変化したものではないかと考察している。 鯖大師伝説もこのような祖霊信仰が行基伝説へと変化し、大師信仰の隆盛と共に旅の僧が行基から弘法大師へと移り変わったものと指摘している」として締める。
本坊から八角の護摩堂にお参りし境内を離れる。

鯖瀬浜(八坂八浜;4番目の浜)
鯖瀬浜;Google mapで作成
境内を離れ、鯖瀬川に架かる鯖瀬大師橋を渡り先に進む。牟岐線の高架を潜り国道55号に。その前の浜が鯖瀬浜ということだろうか。










萩坂(八坂八浜5番目の坂)
萩坂;google mapで作成
浜を離れ丘陵部に上る。鯖江トンネルの手前に左手、海側に逸れる道がある。この旧道が萩坂のようだ。道は整備された故か険路・難路の名残はない。土佐街道の案内もないため、成り行きで道を進む。








大綱浜( 八坂八浜5番目の浜 )
放生島

道は鯖江トンネル出口で国道にあたる。理由は不明だが合流点は車止めとなっている。左手には大浜海岸が広がる。大砂は大綱の転化と言う。
大浜海岸の南端の岩礁部に立つ大岩は、鯖江大師でメモした塩鯖縁起の放生島ではないだろうか。


鍛冶屋坂( 八坂八浜6番目の坂 )
鍛冶屋坂・鍛冶屋浜;GoogleMapで作成
大浜海岸が切れる辺りから国道は、海に突き出た丘陵部突端を切り開き進む。この辺りが往昔の鍛冶屋ではないだろうか。地図にこの丘陵部越えた浜に「鍛冶屋」とあったことだけが、ここを鍛冶屋坂と推定した唯一の理由ではある。







鍛冶屋浜( 八坂八浜6番目の浜)
丘陵を抜けた所、海辺に「鍛冶屋」の地名が地図にある。往昔の八坂八浜の鍛冶屋浜と推定ではあろうが、現在は如 まpde何にも埋め立られた風情を呈す。
その浜の先に加島城跡が地図に載る。案内には「加島城跡 加島の山上に築城された浅川城は別名加島城ともいう。築上されたのは元亀の頃で今から約四百年前のことである。風雲急をつげる戦国の世においては自分の土地を外敵から守るために最大のエネルギーがつかわれた浅川においても加島の豪族浅川兵庫頭が城主となり加島のとりでを守った。しかし天正三年(一五七五年)土佐の長曾我部の大軍が侵入衆寡敵せずに落城した。
藩政時代に至り、加島の山に遠見番所がおかれた、これは異国船を監視するところで。今もなお遠見の松が昔の面影をとどめている。また山上に石火矢床という地名があるがこれは黒船来襲に備え砲台所が設けられていたところである。
城下の御屋敷の一角に現住している吉田利夫氏は加島の豪族の子孫でありこの家の墓地には戦国時代の五輪塔が数基みられる。
加島城(浅川城)は鞆城 海部城と共に大海を背景に築造された海部の名城であった」とある。

栗浦坂( 八坂八浜;7番目の坂 ) 
栗浦坂・栗ノ浜(Google mapで作
鍛冶屋浜の先で国道は丘陵切通しを抜ける。切通の先の集落が栗の浦とあるので、この辺りが栗浦坂があった丘陵越えの地ではないだろうか。

 栗ノ浜( 八坂八浜;7番目の浜
川が海に注ぎ、少し開けてた平地となっている栗ノ浦の集落の前の海岸が栗の浜ではないだろうか。栗之浦神社も建つ。





仮戸坂( 八坂八浜;8番目の坂 )
弥勒像脇の切通し
国道を進み伊勢田川を渡り、天神社を越すと山裾に弥勒菩薩など多くの石仏が並ぶ。台座には「弘法大師千季供養」。天保五年(1834)、地元の庄屋と淡路、堺、大阪、兵庫の商人、僧侶の寄進により立てられた。御影石の石仏の高さは3m強。県下最大の弥勒石仏」といった説明と共にこの石仏が「浅川湾に臨む三浦浜に造立された、との文字が読めた。
ということは、この石仏群の建つ丘陵がかつての「仮戸坂」があったこころだろうと推測できる。国道55号から分かれた丘陵部を切通して抜いた県道196号辺りを往昔の仮戸坂がくだってきたのだろうか。

三浦浜(八坂八浜;8番目の浜 )
借戸坂切通と三浦浜(Google map)
三浦浜浜は現在埋め立てられ、浜の名残はなにもない。

これで八坂八浜を全てカバーした。といっても、土佐街道の案内などしっかりした案内にあるところ以外は、浜と坂の順、その間の地名を勘案しての全くの推定ではある。 で、歩いた結論として、往昔の八坂八浜の風情を楽しめるのは、第一の大阪峠から第一の内妻の浜に下り、第二の松坂を越え第二の古江浜に下りて国道に戻るまでと、第四の坂である鯖江坂から鯖大師への旧遍路道だろう。そのほかの坂と浜は美しい景観は楽しめるが、道路整備のため往昔の難路・険路の名残はない。


大里の標石
浅川漁港に入る県道196号を進む。ほどなく分岐。漁港堤防を進む県道から分かれ右に逸れる道を進む。直ぐ先に遍路道案内があり、右折の指示。そのまま進むと国道55号に出てしまった。 なんとなく県道196号筋が旧道ではと、成り行きで県道196号に戻り、浅川橋を渡り丘陵を上る。 県道196号は浅川港で切れるため、この坂道のこと正式に何と呼ぶのか不明だが通称、スベリ坂とも称するようだ。が、整備され滑る余地はない。
分水界となる丘陵ピークを越え、南阿波ピクニック公園への分岐点、道の右手に標石が残る。正面に「左ともうら 右おくうら 不つ 天保十二」といった文字が刻まれる、と。 奥浦、鞆甫共に南の海部の町に見えるが、標石の指す「右」は道の左手の丘陵部を指す。道があるとも思えない。どこかから移されたのではあろう。

海部
丘陵をくだり大里を抜け善蔵川を渡る。川の手前、右手に大里古墳。5世紀から6世紀の頃、古代豪族海部氏の建造の横穴古墳とのことだが、いまひとつ「古墳萌え」感が乏しくパス。
道は県道299号に合流し左折し海部川に架かる海部川橋を渡り旧海部町域に入る。橋を渡った本町商店街は旧土佐街道。土佐街道は商店街を南進し、突き当りの江川橋の手前を右折し国道55号に出る。
海部城
南北を川に挟まれ、東に鞆奥漁港を臨む標高50mの独立丘陵に建つ。元亀2年(1571)海部友光の築城。天正5年(1577)土佐の長曾我部元親の侵攻により落城。長曾我部氏の四国制覇のはじまり、という。
天正13年(1585)羽柴秀吉の四国攻めにより元親が降伏。阿波は秀吉家臣の蜂須賀家政の所領となり、家政重臣の益田氏を城番とするもその子の分藩の動きの科ににより廃城となり、陣屋が置かれることとなる。
その後は国境警備を主目的に半形人と鉄砲衆が配置され、文化四年(1807)に郡代役所が日和佐に移されるまでは海部郡の中心地として栄えた。城跡には虎口、曲輪、主郭跡、石垣などが残る。
〇半形人
半形人とは阿波水軍の大将、森村春の家臣。朝鮮の役、大阪の陣にも出陣している。 陣屋には36名の半形人が配置された。

那佐湾
海部の街を離れ国道55号を進む。と、眼前に深い湾入の姿を見せる那佐湾が目に入る。何だか印象的な湾だ。どのようにして形成されたのかチェックすると断層破砕帯に沿って形成された、とある。
地質図を見ると東西に那佐断層破砕帯が走る。断層破砕帯はずれの生じた断層面に沿ってできた岩石破砕部のことのようで、 破砕帯は一般に軟弱で,浸食,崩壊が速く進む、とある。門外漢のためよくはわからないが、東西に長く延びる断層面が侵食・崩壊によりこの形を成した、ということであろうか。海に突き出た岬には国土交通省が「地すべり防止区域」と指定している。
それはともあれ、この那佐湾は古くからの天然の良港として知られ、伝説では三韓征伐の折り、神功皇后が風待ちでこの湊にはいったとの伝説、また『播磨風土記』には履中天皇が、和那散(わなさ;当時この那佐湾一帯を「和那佐」と称した)でシジミを食したとの記述もある。
藩政時代は塩の製造をこの湾でおこなっていたようである。
乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡
国道55号が那佐湾に入ってほどなく、道の左手に「乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡」の案内。その対面、切通で残された海側の小丘に沿って国道から左に逸れる道がある。そこを進むと。「乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡」の案内がある。
「乳の崎狼煙台 今から200年前、江戸時代後期になると、異国船が日本近海に出没するようになり、また異国船の漂流もあって徳島藩は主に海上警備のため県南海岸に10ヶ丘の狼煙台を設置した。竹ヶ島煙台を起点にこの乳ノ崎煙台に継がれ、次に牟岐大島へと順次狼煙をあげ、御城下へとつたえられた。この乳ノ崎煙台は那佐湾の対岸山頂にありほぼ全景が残っている。 海陽町教育委員会」
「島弥九郎事件跡 元亀二年(1571)春、長曽我部元親の末弟島弥九郎は、病気治療に有馬に出かける途中、風浪を避けて那佐湾に停泊していたが海部城主越前守の率いる軍勢の急襲を受け、土佐勢の奮戦も空しく弥九郎は家臣三名(三島小島)に上り自害して果てた。このことは元親阿波侵攻の口火となった。弥九郎の非業の最後を哀れみ、村人は島の上に小塚を建てて霊を弔った。後年、元親もこの地に三島神社を建立して、弥九郎の霊を祭った」

乳ノ崎煙台はさすがに遠すぎる。パス。島弥九郎事件は前述海部城のところでメモした。ここにある三島小島は湾に浮かぶ二子島?三島神社は那佐湾の少し西、地図には那佐神社ときされている、那佐三島神社がそれ。

馬路越・居敷越
那佐湾についてチェックしていると、馬路越の記事に出合った(何度も引用させて頂いている、奈佐和彦さんの「かいふのほそみち」)。それによると。「中世の初期から発達し始めた四国霊場巡拝の遍路道として馬路越土佐本道が開発されて海部郷-那佐-宍喰」が結ばれた、とあった。
さらに古い時代には、馬路越道より西の丘陵を跨ぐ居敷越の道があったよう。馬路越えのルートでなくこの居敷ルートが造られたのは単に道を開く技術上の問題なのか、経済的理由も含め単に那佐湾辺りに下りる強い理由がなかったためか、結構面白そうなトピックではあるが、あまりに本題からはなれてしまいそうであり、思考停止とする。
土佐街道
居敷下り口辺りをGoogle Streeet Viewでチェックしていると、下り口(推定)から少し西に進んだ道の左手に「古道旧土佐街道」の案内があった。あれこれチェックすると、結構危険なルートのようだ。特にルート案内もないようだ。
道を入ると直ぐに浜に出るが、ルートは浜の手前で右折する。牟岐線高架を潜る辺りまでは荒れてはいるが、なんとなく踏み跡らしきものもあるようだが、そこで行き止まり。あとは道なき道や崖を力任せで進むようだ。浜に出て進む方もいたが、こちらも結構危険なルート。
国道55号への出口は国道が海岸線に出る辺りに這い出る記事がほとんどだった。ともあれ、このルートには足を踏み入れないほうがいい、との記事が大半だった。

宍喰(ししくい)
国道55号を進み宍喰(ししくい)の街に入ると、遍路道は国道を右に折れ県道301号に入る。徳島最南端の町。現在は海部郡2町(海部町・海南町)と合併し海陽町となっている。
県道は藩政時代の土佐街道往還筋。阿波と土佐の国境の宿場として発展したと言う。
往還筋には藩政時代、慶長三年(1598)阿波藩主蜂須賀家政に駅路寺として指定された円頓寺があったようだが、現在は往還筋右の大日時に合併されている。寺町の往還筋左には願行寺も建つ。
今は静かな町ではあるその歴史は古い。Wikipediaの記事をまとめると「古墳時代の5世紀には大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)が脚咋(あしくい)に派遣され近隣を治めたと伝わる。中世期には脚咋の地はを宍喰庄、海部郷に別れ、宍喰庄は1135年以降は鳥羽院の御領をへて1216年に高野山の蓮華乗院に寄進され寺領荘園になる。 本土への年貢や堺地方への木材の出荷を通じて、貨幣経済が発展した。また、海部刀などの刀鍛冶が発展していき、鎌倉時代には宋及び高麗との交易を行った。
戦国時代になると国司や郡司、荘園を治める荘官やその下で名田を治める名主が勢力を強めるが、宍喰地方においも鷲住王を祖とし、藤原姓を名乗る一族が宍喰城・愛宕山城・祇園山城などを築き、この地方を治めた。また、近隣の牟岐城・浅川城・野根城主とは同族で、高知県の安芸氏とも姻戚関係を結んで地盤を固めていた。 1578年土佐国を平定した長宗我部氏に侵攻され、城はことごとく落城する。秀吉の四国征伐後は、部将である蜂須賀氏が阿波国を治めるようになりその統治下に入る。
徳島藩政下では日和佐、後に海部に郡代官所が置かれ、宍喰では各村の庄屋と役人が年貢の徴収や政に当たった。 本町は土佐国との国境にあるため、国境警備目的の関所や鉄砲役を置いた鉄砲小屋、狼煙台、街道沿いの治安維持と旅人の宿泊施設として駅路地が置かれた。
「宍喰」の由来
「宍喰」の由来として、「宍喰(ししくい)は脚咋(あしくい)の転訛とされる。脚咋は「葦(イネ化の植物)をつくって主食とした住民」。履中天皇の時代に大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)がこの地に遣わされ、宍喰川下流の平野部を利用した農耕が近隣地域に先立って発達した事による。時代とともに狩猟に纏わる宍(カン、しし、にく)が使われるようになり、鎌倉時代以降は宍喰と呼ばれるようになった」とあった。


古目大師
宍喰川を渡ると山際に古目大師堂。県道はここを左に折れ海に突き出た半島部を上り阿波と土佐の国境へと向かう。
古目番所跡
古目大師のある古目の地は藩政時代、国境の関所(古目番所)のあったところと言われる。阿波から土佐の甲浦への山越えの道の上り口。古目の由来も「古い目付」との説もある。番所後は古目大師堂から直ぐ先の四つ辻を右折し、少し南に進んだ先の三差路を右に折れた道の左手に標識だけが立っていた。

宍喰越の土佐街道
メモの段階でわかたことだが、古目から土佐の甲浦に抜ける山越えの土佐街道があった。あれこれチェックすると、古目番所跡から少し西に峠への取り付き口があるとのこと。Google Street Viewでチェックすると、道の左手に木標が立ち「旧土佐街道 へんろ道 古道」と書かれていた。「へんろ道」ともあるので、わかっておれば峠を越えて土佐に入ったのだが、今となっては後の祭りである。






























宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)
県道を進むと直ぐ道の左に案内ボード。「宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)」とある。案内はふたつあり、「約4500年頃前、この地域は深海にあった。地震などが発生したときに、土砂が一気に海底に引き込まれ、海底の表面に凹凸の模様を作って土砂がたまり、それが積み重なり地層となった。
その後、隆起して陸地となり、今のような状態になった。規模も大きく、わかりやすい状態で残されていることから学術上貴重である」とあり、もうひとつの案内には「宍喰浦の化石漣痕」は、約4500万年前、新世代第三紀の始新世中期に生成にされた水流漣痕で、露頭面積も広く、彫刻も深く、かつ数種の異型のものが別々の層をなしている。地層は四万十帯、室戸半島層群の奈半利川層に属し、泥岩と互層する細粒砂岩層に上面には、水流漣痕を見ることができます。
代表的なものは、波長数10cmの舌状漣痕です。水流漣痕は、断面の形態が非対称で、一定方向の流れによって形成され、当時の水流が海溝軸に沿って、東北東から西南西に向かっていたことが伺われます。下面には底生生物に生痕化石が見られ、日本海溝の水深4000mを超える陸側斜面で見られる生物の這い跡に比類されます。当時の海溝に至る陸側斜面深部の海底の様子を物語るものです 地層面は東西に延び、北側に高角度で傾いており、海洋プレートの大陸下への沈み込み伴い、大陸側に傾きながら押し上げられた付加運動によるものです」とあった。
いまひとつ「萌える」こともなく、説明と共にあった写真の粒粒の岩(土砂の固まり)が並ぶ地層がそれなのだろうと即場所を離れる。

金目番所跡を越え阿波・土佐国境へ
県道309号を進み半島を抜け入り江へと出る辺りに左の竹ヶ島方面へと向かう道が分かれる角に「金目番所跡」と刻まれた石柱が立つ。この番所は主に船の航行の警戒と海上警備の任にあった番所とのことである。
この先、県道は水床トンネルを出て来た国道55号に合流。そこが阿波と土佐の国境である。

 今回のメモはここまで。次回は阿波と土佐の国境から室戸岬突端に建つ第二十四番札所最御崎寺までをメモする。
四国遍路の難路と世に言う第に十番札所鶴林寺道、第二十一番札所太龍寺道をクリアし第二十二番 平等寺まで進んだ。
今回は平等寺からはじめ、阿波の最後の札所である第二十三番札所薬王寺へと向かう。 平等寺のある阿南市新野から薬王寺のある海部郡美波町奥河内までの距離はおおよそ25キロほどだろうか。那賀川水系の桑野川支流を上流部まで進み東西に延びる丘陵部に取り付く。桑野川水系の分水界となる標高80mほどの丘陵部ピーク越え福井川筋に。
福井川筋に下った往昔の遍路道は洪水対策のために建設された福井ダム底に沈む。ために、ダム湖に沿った国道を南に進み、ダム湖を越えて福井川上流部へと進み、由岐山地に入る。由岐山地、と言ってもそのピーク由岐峠は標高130mであり、ちょっとした丘陵といったものだが、峠を越えると海岸線にちょっと開けた由岐の街に出る。
由岐の町からは田井川により開かれた田井、苫越の岬、木岐の町を抜け山座峠(標高115m)を越えて日和佐の町に建つ第二十三番札所薬王寺に着いた。
メモの段階でわかったことだが、日和佐に抜けるには由岐峠経由ではなく、貝谷・松坂峠越えのほうがよさげ、であった。旧遍路道として整備もされているようだ。
常の如く後の祭り。ちょっと残念ではあった。アスファルト舗装の由岐峠ではなく貝谷・松坂峠道を歩くのもいいかと思う。
ともあれ、阿波最後の札所への遍路道メモを始める。



本日のルート;平等寺>茂兵衛道標〈159度目)>広重口の標石>月夜橋北詰の破損標石>手印標石>池手前に標石>月夜御水大師>破損標石>鉦打坂薬師堂>弥谷観音>茂兵衛道標〈153度目)>由岐坂峠(郡界標)>由岐町の「四国のみち」指導標>田井浜の遍路休憩所>木岐>白浜の安政地震津波石灯籠>山座越入り口のお堂と丁石>山座峠>えびす洞>24番薬王寺


●第二十三番札所平等寺●

石段を上ると山門。境内の左手に鐘楼、閻魔堂、大師堂と並ぶ。正面にふたつに分かれた石段。下段十三段の石段は女性の三十三歳、上段四十一段の石段は男性四十二歳の厄除坂と呼ばれる。歳数に足らない分は足踏みを歳数とみなし数を合わせていたようだ。
石段左手に御加持水。白水の井戸。弘法の霊水とも開運鏡の井戸とも呼ばれ、この水は万病に効くと伝わる。
石段を上ると本堂。本堂の左手に不動堂が建つ。本堂前の生垣に新聞記事のコピー。本堂の壇から遠くを見ると大師が寝ているような風景が見られる、と。言われてみれば、前面の丘陵がそのようにも見える。
本堂左手に「女厄除坂」。こちらは三十三段と歳と厄歳と合う。後年、平成3年(199)頃には既にできてたようで、さすがに足踏みでの調整は如何なものかと新しく造作されたのだろうか。
Wikipediaには「平等寺(びょうどうじ)は、徳島県阿南市新野町にある高野山真言宗の寺院。白水山(はくすいざん)、医王院(いおういん)と号する。本尊は薬師如来。
寺伝によれば、空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。さらに、その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置したのに始まるという。
寺名は、この霊水により、人々の平等な幸せを願い、また、一切の衆生を平等に救済する祈りを込めて「平等寺」と称されたという。
七堂伽藍や12の末寺を持つまでに栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火で焼失した。享保年間(1716年 ? 1736年)になって照俊阿闍梨によって再興される」とある。 山号は御加持水である「白水」からのものであった。
茂兵衛道標
境内にちょっと唐突に標石が立つ。文字を読むと「平等寺  右立江寺 徳島 明治三十一年」といった文字と共に周防大島といった中努茂兵衛の在所が刻まれる。茂兵衛道標であった。施主は伊藤萬蔵。
この道標、茂兵衛道標の記録に見当たらない。チェックすると、阿南市福井町の鉦打トンネル付近の国道三差路に立っていたもの。昭和45年(1970)頃、道路整備の際に撤去され、近くの喫茶店に保管されていたものを譲り受け、この地に移設したとのこと。
平成27年(2015)8月16日付けの徳島新聞の記事にあるので、その頃に移されたのだろう。







第二十二番 平等寺から第二十三番札所薬王寺へ

平等寺から薬王寺までおおよそ20キロ。大洋に面した日和佐へと向かう。

平等寺新橋南詰に茂兵衛道標〈159度目)
門前、石段の左手に「これより薬王寺迄 五り」の標石。山門前より南に向かう道に入り桑野川に架かる平等寺新橋を渡る。
橋の南詰めに道標と石碑。左手のものは茂兵衛道標。「弐拾三番薬王寺へ五里 平等寺 明治三十一」と刻まれる茂兵衛159度目の巡礼時のもの。右手の大きな石碑は摩耗が激しく文字は読めなかった。



広重口バス停傍の標石
丘陵に挟まれた平地を進む。道は県道284号山口鉦打線。丘陵裾を進み桑野川支流が開く生谷を抜け、次いで現れる丘陵裾に入ると東から道が合流。「広重口」バス停のあるこの道の合流点の少し北、台座に三界萬霊と刻まれた片足を下した地蔵坐像の左手に標石。「左日和佐薬王寺 四 廣重」といった文字が読める。
新野の地形
平等寺からのルートを衛星写真でみていると、平等寺のある新野(あらたの)を取り巻く地域の奇妙な地形が気になった。桑野川本流が流れる平等寺辺りは谷底平野、というか山間盆地といった風情であるのはいいのだが、その周辺の丘陵が複雑に刻まれ、その間に谷底平野といった地が挟まれる。
Google Mapで作成
以前、櫛淵の地でみた三方を丘陵で囲まれたくさび型の平地、 櫛目状に連なった地形も見える。海岸近くの陸地には、はるか昔、隆起や沈降によりおぼれ谷状にできた入江とも思えるギザギザに入り込んだ多くの丘陵が見える。陸上にあった谷が、その地形を保ったまま何らかの理由で水面下に没し、またなんらかの事情陸地化して残った地形だろうか。
国土地理院の地質図には平地は堆積岩。形成時代は新世代。岩質は谷底平野・山間盆地・河川・海岸平野堆積物。丘陵地は付加体。形成時代は中生代。岩質は海成層、砂岩泥岩互層、とある。何となく惹かれる地形である。参考にGoogle Earthで作成した写真を掲載しておく。
付加体
付加体とは海洋プレートが海溝で大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの上の物がはぎ取られ、陸側に付加したもの。平地・平野部の堆積岩は付加体・砂岩泥岩曹が川の開析・風化・侵食などにより礫・砂・泥として堆積したものかと思う。門外漢のため素人推量。


月夜橋北詰の破損標石
丘陵の間を流れる南川に沿って県道284号を進み、丘陵裾を抜け、西から流れてきた南川が北へと向きを変える辺りに架かる月夜橋を渡る。橋の北詰に上部の破損した標石。「*んろ道」と読める。








月夜御水大師傍、県道脇に手印標石
南川が流れる小振りの山間盆地といった平地の南には東西に連なる丘陵があり行く手を阻む。県道284号が丘陵に辺り、左に折れて丘陵越えの道となる箇所では大規模な道路工事が行われていた。丘陵を南北に切り開こうとしている。丘陵取り付き口部の県道が細く蛇行しており、その箇所の直線化工事なのだろうか。
で、その道路工事始点に遍路道の案内。歩き遍路は直進とあるのだが、どこをどう進めばいいのかよくわからない。結局、県道を進むことにした。
左に折れ大きく曲がった先に思いがけなく手印だけの標石に出合った。


池手前に標石
道を進むと右手の崖下に小堂が見える。チェックすると月夜御水大師とあった。お堂へと下る道を探しながら進むと池があり、県道から池に逸れる道の分岐点に、真ん中から折れた標石。「右」といった文字が読める。







月夜御水大師
その対面に一箇所ガードレールの切れ目。そこから大師堂に下る道がある。 坂を下ると月夜御水庵 (月夜のお水大師)。1間四方の古いお堂。境内には樹齢1000年と伝わる杉の巨木。
伝わるところに拠ると、この地で泊まった空海(弘法大師)が、水がない衆生の不便を感じて加持し清水を湧かせた。と、水底に光を放つ石。その石で仏をつくり祈願をこめると闇夜に光明現れ月夜となった。その光で薬師如来と地蔵菩薩石仏を刻み薬師如来を祀った一宇の庵が月夜御水大師と言う。道から見えた小堂は伝説にある加持水のお堂であった。
今回は道路工事のため、歩き遍路の道がはっきりせず県道を上り、結果お堂の裏側からお参りすることになったが、表からお堂に向かう道がどこかにあったのだろう。


桑野川と福井川の分水界丘陵を越える
月夜御水大師から先の県道284号は、東西に延びる丘陵を越える。地図で見るとこの丘陵は北の桑野川水系と南の福井川水系の分水界となっている。曲がりくねった道を進み丘陵を下りて福井川筋に下りる。


月夜坂
月夜坂取り付口
県道建設以前の往昔のこの丘陵越えは「月夜坂」越と呼ばれていたようだ。ルートは池の南西端あたりに法面を上るステップがあり、そこから南の尾根筋を通り現在の福井ダム手前の谷、その名も裂股と呼ばれるとろこに出てきたよう。道筋には遍路墓や標石も残ると言うが、道は荒れ通行はできないようである。






鉦打橋を渡り県道55号に
福井川に架かる鉦打橋を渡ると右折。国道55号と並行して少し西に進むと県道284号は左に折れて国道55号に合流する。
遍路道はそのまま西に進み法面とガードレールに挟まれた道を進み、右に折れて水路を渡り耕地の中の道を進み、竹林を上ると県道55号東鉦打橋の西詰に出る。橋の下にささやかな水路はあるが、橋と言うより丘陵と丘陵の間の平地を跨ぐための高架橋のようにも思える。


福井川の河川争奪
地図を見ていると牟岐線新野駅から阿波福井駅へと通る平地がなんとなく気になった。桑野川水系の支流上流域と福井川支流の上流域が平地で接近している。地形からみて河川争奪が起こりそうな風情。チェックすると往昔、福井川はこの牟岐線の走る平地を桑野川へと流れていたよう。福井川は桑野川の上流域であった、ということだ。
その後この流れは動々原(牟岐線阿波福井駅の北東)辺りで福井川に争奪され現在の流れとなったようである。動々原辺りに福井川に注ぐ支流が残るが、これは往昔の川筋跡でろうか。

鉦打坂薬師堂
遍路道は東鉦打橋の西詰で国道55号に出る。国道対面にお堂。右側の覆屋には3基の石仏。左はコンクリート造りのお堂。その間に案内があり、『 鉦打坂 薬師堂由来』とあり、「右側に安置する薬師堂は新国道北側の旧土佐街道沿いに鎮座されていたもので、平成二年福井治水ダム建設工事により裂股に仮安置し、平成七年三月十七日現在地に遷座されたものであります。
お堂の裏の山道は過去の歴史に名高い「土佐街道」で、街道随一の難所鉦打坂が延々と続いており、その昔これを越える旅人(特に四国八十八ヶ所巡礼)が険しい山道に行き暮れて病に倒れるもの少なからず、里人講中の人々甚しく哀れに思い、相計って養生所を建て手当をつくし、不幸病没後はねんごろに弔い供養塔を建立、のち享保四年(一七一七)、衆生の病苦を救い無明の病疾を癒すという「薬師瑠璃光如来」を灌頂祈願したのがはじまりと伝えられております。
宿借ら ん 行方も見えず久方の 天の河原の 行き暮れの空
時は移り明治となって新しい国道が敷設され、嘗ての土佐街道は通行人も絶え、従って講中以外の参詣者もなく寂しい佇まいとなっておりましたが、霊験灼かな如来の衆生済度の念の然らしめるものか、この度参詣至便、而も往時の由緒深き現在地に遷座、再び衆生の前に御影を現わし給う。 「願わくば無辺の慈悲により、除病厄難を消除し、息災延命の御加護を成し給え」
「オンコロコロセンダリマトオギソワカ」 平成七年三月吉日 鉦打講中」とあり。

鉦打大師堂
鉦打坂薬師堂の左手には鉦打 大師堂。「『鉦打 大師堂 由来』 には「左側に安置する大師堂は、宗祖弘法大師を祀る「鉦打坂のお大師さん」と諸人に親しまれ衆生の篤い信仰を集めていたもので、福井治水ダム建設工事により裂股に仮安置し、平成七年三月十七日現在地に遷座されたものであります。
大師が四国霊場開創遍歴のみぎり、第二十二番平等寺より月夜坂を越え土佐街道の現在地付近を通り、姥目崖を下り渓流を渡って七分蛇、怪猫の住むという弥谷渓谷に足を留められ、ここを奥の院修験の場と定め厳しい修行の末、霊験受得・三界万霊・森羅万象全ての自然界と自分の身と心が一体と感じ念ずる即身成仏を唱え、如意輪穴観音、七不思議の霊跡を遺す。傍らの碑に示すとおり
一、不二地蔵 二、ゆるぎ石 三、笠地蔵 四、御硯り石 五、四寸通し 六、日天月天 七、胎内くぐり、
その他種々多様の石仏を祀るのが秘境弥谷観音で、同行二人の誓願をたて八十八の遺跡によせて利益を成し給う内の一つである。
後世に至り里人斉しく大師の偉大な御遺徳を偲び御跡を崇め弘化二年(一八四五)堂を建てて弥谷観音の前堂として灌頂し、その御徳を礼賛し奉ったのが起源と伝えております。
「願わくば無明長夜の闇路を照し、二仏中間の我等を導き給え」
「南無大師遍照金剛」「平成七年三月吉日 鉦打講中」とあった。
土佐街道
案内にある土佐街道は、薬師堂・大師堂のあるところから南に進む道を少し進み、現在の福井トンエルの先で国道55号筋に出たようである。現在は藪で荒れており歩けそうにない、とのこと。「裂股」は旧遍路道である月夜坂を越え福井川筋に下りる谷間を含めた、福井川左岸の丘陵部を福井町裂股と呼ぶ。

福井ダム
県道55号を進むと鉦打トンネル。このトンネルは福井ダム建設に伴う国道の付け替え工事で掘られたもの。竣工昭和63年(1988)、開通平成11年(1999)。301mのトンネルを抜けると福井川を堰止めた福井ダムとダム湖が右手に広がる。
平成7年(1995年)に完成。高さ42.5メートルの重力式コンクリートダムで、洪水調節・不特定利水を目的とする、徳島県営の治水ダムである。福井町は日本第二の降水量を記録したこともあるようで、徳島県の資料に「この地域は,徳島県においても多雨地域であり,台風期以外でも他地域に類を見ない豪雨があり,急峻な山地からの水の流出は早く,鉄砲水となります。特に,昭和20年代の度重なる大雨により被害が発生し,昭和27年3月22日には時間雨量162mmという集中豪雨により,死者6名,被害家屋360戸,浸水農地111haという大きな被害が発生しています。
また,本川沿いの耕地は,かんがい用水を福井川に依存しており,しばしば用水不足を来しています」とある。これが洪水・多目的利水ダムの所以だろう。

名月橋
福井ダム湖の左岸に22番平等寺奥の院弥谷観音があると言う。上述鉦打大師堂での由来にあるように由緒あるお堂。ダム建設後の姿は如何なものかとちょっと立ち寄り。
国道55号を左折しダム湖に架かる名月橋を渡る。橋の西詰に案内。「名月橋という名について ここ弥谷(いやだに)の-自然石の岩肌に線刻手法彫りこまれた「弥谷七不思議」のひとつ......。日輪と月輪の天体像を日天月天さんと呼んできました......。古代の民俗信仰の神秘性と深い謎につつまれたまま永遠にダムの湖底に沈むことになりました。
その日天月天の淡い月影が湖面に映えて明るく、まさに「明」めいの文字どおり仲良く並んで、渡れるようにとの意味ですが、はるかなる幻想と歴史的イメージから「明月橋」と美称したものでありました」とあった。
上述、鉦打薬師堂に弥谷観音の七不思議とあった「日天月天」に由来するとのことだ。


遊歩道に笠地蔵と日天月天
遊歩道入り口

福井ダム湖左岸の道を進むと、道の左手に「弥谷観音堂 右へ200m」の案内と共に、「弥谷観音 夫婦地蔵 笠地蔵 日天月天」は左へ、の案内。


車道を逸れ遊歩道といった土径の道を進むと夫婦地蔵、笠地蔵、日天月天の石造物が道端に立っていた。
道を進み擬木を上ると弥谷観音堂の少し手前の車道に出る。


弥谷観音堂
ゆるぎ石
お堂は車道より一段高いところに建つ。「弘法大師様ゆかりの 阿波坂東観音霊場第壱番 弥谷観音 御本尊如意輪観音」と刻まれた寺標石を見遣りお堂へと上る。擬木の敷かれた坂の周囲には幾多の石仏が並ぶ。
上り切った平場に大岩。「ゆるぎ石」とある。前述弥谷観音七不思議のひとつ。「第二十二番平等寺奥の院」と書かれた木札の掛る堂宇は観音堂とあった。本尊は防犯のためか祀られていなかった。
弥谷観音堂旧地
かつての弥谷観音堂は、福井川の渓谷にあった。現在の弥谷観音はダム建設に伴い移設されたもので、旧地は現在ダム湖の底に沈む。
前述『鉦打大師堂』の由来に「姥目崖を下り渓流を渡って七分蛇、怪猫の住むという弥谷渓谷に足を留められ、ここを奥の院修験の場と定め(中略)如意輪穴観音、七不思議の霊跡を遺す」とあるように、渓谷の岩窟を修行の場と定め、岩場に如意輪観音を刻み、絶壁には大日如来を祀り「行場とした、と言う。上述七不思議の笠地蔵、日天月天、ゆるぎ石も渓谷に沿った道筋にあったものを遊歩道や現在の弥谷観音堂に移したものである。
旧遍路道
福井トンネル傍、旧土佐街道出口(推定)
福井ダムが建設される以前の遍路道は福井川に沿って弥谷の渓谷に入り、弥谷観音に詣でた後、 福井川右岸に渡り上述「姥目崖」を上り、現在の弥谷観音堂の対岸にある福井トンネルを迂回する旧国道筋に出たようである。上述土佐街道は福井トンネルの先で下りてきたとのことであるので、遍路道は土佐街道に合流したのであろう。
因みに平等寺で見た茂兵衛道標は「鉦打トンネル」付近の国道三差路に立っていた」とあったが、 場所の特定はできなかった。



由岐分岐
名月橋まで戻り、国道55号を右に折れ福井トンネルを抜ける。抜けた先で右手からトンネルを迂回する旧国道が合流する。また、左手から下りてくる藪道は鉦打薬師堂・大師堂の辺りから越えてきた土佐街道・鉦打坂の下口だろうか。
道を進むとほどなく右に逸れる右。ガードレールに「右薬王寺」との案内がある。右に逸れ県道200号に乗り換える。





小野集落の茂兵衛道標〈153度目)
県道200号を進むと橋を渡る。逆瀬橋と呼ばれダム上流部の福井川を跨ぐ。この地で北に大きく蛇行した福井川が、一瞬、逆流しているよう見える故の命名だろうか。
その先、国道55号を潜った県道200号はほどなく左に折れて進む。遍路道はそのまま直進し小野の集落に入る。三叉路に茂兵衛道標。「是ヨリ三里半 薬王寺二十三番 平等寺 徳島 明治三十年」茂兵衛153度目巡礼時のもの。

由岐坂峠(郡界標)
茂兵衛道標の三差路を左に折れ、福井川に沿って進む。道は県道20号となる。ほどなく国道55号バイパスの高架を潜る。この辺り東西、南北に流れてきた福井川の支流が合流する地点。右に曲がれば貝谷の谷筋、左に進むと辺川の谷筋。
地図を見ると辺川の谷筋を進む県道20号筋に遍路休憩所がある。とりあえず左に折れ、遍路休憩所を見遣りながら谷筋を進むと県道は丘陵を越えるべく右に折れ峠に向かう。
二車線の立派な県道を上り峠につくと右手に「阿南市」、左手に「美波(由岐)」の看板が立つ。阿南市と海部郡美波町の行政域のここが境。
峠の左手には郡界標が残る。「郡界標 北那賀郡 南海部郡 距徳島県庁十一里二十* 距海部郡役 三里三十一丁 大正十年」といった文字が刻まれる。
峠には特に峠名の表記はないが、地図には由岐坂峠とあった。峠を下り田井に下りる。

土佐街道・貝谷峠・松阪峠越え遍路道
メモの段階でわかったことなのだが、往昔の遍路道は由岐坂越えではなく、貝谷峠・松阪峠を越えて田井に出たようである。ルートは、福井川の支流が合流する地点で今回歩いた逆、右に曲がり貝谷の谷筋に入り、そこから貝谷峠・松阪峠を経て、現在の55号線バイパスのトンネル出口辺りに出たあと、里道に下ったようである。
道も地元の方の尽力で整備されているとのこと。このルートは往昔の土佐街道であり、『四国遍礼日記』を著した澄禅もこのルートを歩いたと記事にあった。
土佐街道・星越峠越え遍路道
上述、小野集落の茂兵衛道標〈153度目)を右に折れ、現在国道55号が通る道筋も藩政時代の遍路道。星越トンネルのある辺り、星越峠には地蔵尊があり、「「薬王寺 二里余 弘化二巳年(1845)七月二四日建」と刻まれていたようだ。
由岐町経由の貝谷峠・松阪峠越え土佐街道が星越峠ルートに変更になったのは明治34年(1901)。阿南市小野と日和佐町大戸を結ぶルートに変わり、峠越えのバスも走った、とか。星越トンネルが開通したのは昭和43年(1968)のことである。

由岐の町
Google mapで作成
峠道の途中に遍路休憩所を見遣り、牟岐線の手前を右折し、牟岐線由岐駅の山側の道を進む。駅の海側に由岐の街並み。リアス式海岸の入り江に港。かつては土佐や九州との海上交通の中継地点として栄えたとのことである。
『太平記』には「阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。」とある。
太山の如なる潮漲来てとは、正平16年/康安元年(1361年)の正平・康安地震による津波のことであるが、この津波で1700余の家屋が津波に呑み込まれたとある。ここにある「雪の湊」は由岐の湊のことであっるが、当時既に1700戸の家が建つ大きな港であった、ということである。
『平家物語』には「権亮三位中将維盛は、(中略)忍びつつ屋島のたちを出で、阿波国雪の浦より鳴戸の沖をこぎ渡り、和歌の浦、吹あげの浜、玉津島明神、日前、国懸の御前を過ぎて、紀伊ぢの由良の湊といふ所に着給へり」とある。「雪の浦」とは由岐の湊のことであるが、船運中継地としての 性格を示す記述である。
海部郡由岐町は平成18年(2006)、日和佐町と合併し現在は海部郡美波町となっている。

苫越
県道を進みかつての由岐町の名残を残す美波町西由岐(対岸にも東由岐の地名がの残る)を越え、牟岐線田井の浜駅の山側を進む。ほどなく牟岐線の踏切を渡り海岸側に。そこは田井の浜。名の由来は、「定説を欠くが、「たい」は「田結い」からの語で農作業上の手間がえを意味し、漁村では共同で地引網を引く意であることから名付けられたという説がある」とWikipediaは言う。
田井の浜休憩所z8お遍路休憩所)を見遣り海岸に沿った県道を少し進むと、遍路道は木岐トンネルに向かう県道を右に逸れ、ほどなく県道高架下を潜った後、木岐トンネルの海側を迂回する旧道に入る。
道を上ると直ぐ、山側に「土佐街道」の標識。当日は、土佐街道を辿る散歩でもないしなあ、などと通り過ぎ木岐トンネル南口で県道25号と合流し次の入り江の町、木岐へと下る。
土佐街道苫越ルート
ちょっと考えれば、県道などの道路整備される以前の遍路道は土佐街道を利用したのだろう、といったことはわかるのだが、当日は先に進むことに気が急き苫越岬の上り口にあった「土佐街道」の標識を軽く往なした。
で、メモの段階で標識の写真をじっくり見ると」「土佐街道苫越登り口 一里松跡と薬王寺 二里の道しるべ(この上五十〈米))」とあた。チェックすると「道しるべ」とは徳右衛門道標のことのようだ。「従是薬王寺二里 本願主豫州 徳右ヱ門 施主 那賀郡答島郷 新浜善蔵」と刻まれrとある。峠への上り下りの道は荒れ果て現在は廃道となっているようだが、徳右衛門道標があるとわかっておれば、藪漕ぎで進んだではあろうが、今となっては後の祭りである。

苫とは歴史民俗用語で、「菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用いる」とある。昔地震による大津波のとき、苫がこの峠まで打ち上げられたところからつけられたとも伝わる。

木岐の四国千躰大師標石
苫越の県道を下り、木岐に(美波町木岐)。県道を道なりに進むと木岐駅の少し北、牟岐線の高架手前に照蓮の四国千躰大師標石が立つ。左を指す手印に従い道なりに進み、牟岐線木岐駅前をぐるりと左に廻り木岐の港に沿って進む。

この木岐(きき)を含め海部郡の海岸線には志和岐、木岐、由岐、牟岐など「岐」のつく町が目につく。地名の由来、特にこの場合の「岐」は何を意味するのだろう。
あれこチェックするが、それらしき記事がヒットしない。で、妄想を逞しくすると、最初に思いつくのは過日12番札所焼山寺から13番札所大日寺への道すがら出合った、船盡(ふなと)神社での「妄想」。
そこでは、船盡(ふなと)神社のベースには、阿波に多く残る「岐(ふなと)信仰」にあるのでは、メモした。その岐信仰は「来名戸(くなと)信仰」からの転化。「来名戸」は「来名戸祖先神(くなとさえの神)がそのベース。「くなと」は戸(家)に来るのを拒否する、の意。さえの神とは塞(さえ)の神。塞神とは疫病などが村々に侵入するのを防ぐ道祖伸である。
この岐神信仰に由来する?この海部郡にも岐神信仰由来の伝承があるとは言え、焼山寺を下った神山町に七百以上もあると言う岐神さまを祀る祠がの辺りに多数あるとの記録もない。岐信仰と結びつくエビデンスが見つからない。
別の説としては、古代豪族紀氏の傘下に組み入れらた海人由来のものといった記事もあった。紀>岐の転化ということだろう。
ともあれ、「岐」の由来は不明。少し寝かせて置く。

白浜の安政地震津波石灯籠
木岐漁港に突き出た丘陵裾を抜ける県道25号を進むと白浜の海岸に。ほどなく海岸沿いに遍路休憩所。遍路道はここで県道を逸れ海岸堤防に沿って進む。
少し進むと右手に木岐王子神社。ちょっとお参り。さっぱりとした境内に「木岐王子神社石灯籠 奉一燈 嘉永七年(1854)11月5日快晴の午後4時ごろ大地震が発生し、1時間ほどの間に津波が三度押し寄せ、家が流された。波の高さは12m以上にもなった。王子神社も流され翌年に移転した。大地震の節は油断なきようあらかた記しおく」の説明と、灯籠に刻まれた「嘉永七寅十一月五日清天七ツ時大地震、半時之内大汐三度込入軒家流失凡四丈余上リ、當宮流失明卯八月遷宮、大地震之節油断無之事荒方記置」の写しが掲載されていた。
地震の規模は現代風に言えばマグニチュード8.4。房総から九州まで被害を及ぼした大地震であるが、この木岐浦においても被害は甚大で230戸のうち190戸が津波で流失した、という。

山座峠越入り口のお堂と丁石
王子神社の先、遍路道は木岐浜から恵比須浜に抜ける山座峠越の道に入る。海岸際の取り付口にセメント造りのお堂と地蔵座像、お堂の左手に下半分が埋まった標石があり、手印と共に大師像が見える。照連の四国千躰大師標石だ。お堂の中に祀られる舟形地蔵も丁石を兼ねており、台座に「辺路道 薬王寺 七十五丁」と刻まれる、と。
如何にも海辺の樹林といった風情のウバメガシ(?)の木々の中をしばらく進むと、白浜で分かれた県道25号に合流する。比高差は70mほどだろうか。1キロ弱を緩やかに上る道であった。
土佐街道・殿さま道
往昔の土佐街道・殿さま道は、遍路道とは異なり、上述王子神社辺りから丘陵に取り付き、山座(さんざ)峠の西へと下りていたようだ。現在は廃道となり藪漕ぎMUSTの荒れたルートとなっているようだ。

山座峠
県道25号に合流点には「四国のみち」の木標。「山座峠1.0km」とある。県道とはいえ、ほとんど車が通ることはない。大型地震による津波浸水想定地帯を走る県道25号の代替ルートとして建設された国道55号バイパスを利用しているのだろう。

しばらく歩くと山座峠。峠といった風情はない。そこに山座休憩所(遍路休憩所)。ルート図があり、山座峠から県道を離れ恵比須浜に下りる道が示される。浜に下りた後は海岸に沿って日和佐の町へと向かうようにと示されていた。
擬木の敷かれたアプローチから下り、100mほど高度を下げると田井の集落に下りる。途中舟形地蔵丁石。「遍ろう道 是より五十丁 左日和佐浦 天明元」といった文字が刻まれる、と。
しばらく歩き、潟湖堤防前に遍路道は下りる。


田井の一石三体の石塔
Googke mapで作成
田井の集落に下り、田井湾に沿って道を進む。巾着の口のように締めた地形の田井の浦の地形は結構面白い。砂(礫)洲・砂(礫)堆によって造られた潟湖を活用した浦であろうし、外洋と結ばれた細い水路は砂(礫)洲・砂(礫)堆を掘りぬいたものではないだろうか。砂(礫)洲・砂(礫)堆は20mほど、その下にも6mほどのシルト層(沈泥)が堆積していると国土地理院の資料にあった。
県道が恵比須浜へと右に折れる角に一石三体の石塔。上部に役小角、右に不動明王、左に地蔵菩薩が刻まれる。


恵比須洞の岬上り口に四国千躰大師標石
田井の浦を過ぎ、恵比須浜に沿って南に突き出た岬に進む。岬への上り口、海側に標石が見える。 正面に大師坐像、側面には「真念再建願主」といった文字が刻まれた照蓮の四国千躰大師標石。
岬の突端に「恵比寿洞」の案内。「美波町周辺の海岸は、打ち寄せる太平洋の荒波に浸食されて、いたる所に大小の海蝕洞が見られる。中でもこの恵比須洞は標高52mの岩山に、内部が32m、高さ31mの半円状に貫通しており、県内では最大のものである。
荒波が押し寄せると洞窟の中で轟音を発し出口から噴出する様は実に壮観である。山上には展望台があり、傍らに夫婦和合の神として、恵比須洞神社が祭られている。洞穴には町指定天然記念物である「イワツバメ」が棲息している」とあった。

日和佐
ウミガメの産卵地で知られる大浜海岸北端辺りまで海岸線を走った県道25号は、日和佐八幡神社北側の道へと進み、三差路を西に向かう。道の右手に弘法寺、観音寺と続く。観音寺の道を隔てた北側には美波町役場。その前に日和佐御陣屋跡が立つ。
美波町役場の先はT字路。県道25号は左折し、北河内谷内川に架かる厄除橋を渡り、直ぐ桜町通を右折。門前町の桜町通りを直進すれは第二十三番札所薬王寺に至る。
弘法寺
弘法寺は法印さんで知られるようだ。法印さんは江戸末期の、日和佐で生まれた行者。栄寿法印と称し、荒行の末小松島での化け物退治なといくつもの霊験譚が伝わる。本尊は弘法大師坐像。境内には法印堂も建つ、と言う。
観音寺
観音寺には「二見千軒と寺屋敷」の話が残る。「日和佐町の西南端に小さい円い湾があって、そこを二見といっている。湾の周囲は険しい山であるが、その山の中腹に、一町四方程の平地があり、ここを寺屋敷といっている。この地が「二見千軒」と言う伝説のところであって、大昔、二見には千軒ほどの家があったが、陥没してなくなり、寺屋敷にあった寺も日和佐に移った。今の観音寺がその寺で、山号も二見というと伝えられている。
観音寺の縁起には「弘法大師が二見に来られた時、霊木得て十一面観音を造り、補陀落山観音寺を創立せられた。その後、440余年を経て正嘉二年(1258)八月、台風雨洪水大波のため、山下の町八百余家が一時に海となったので住居しがたく、檀家の人びとと共に現在の所に移って来て、村を開いた」と書かれている。
日和佐御陣屋跡
阿波藩は、地方行政の役所として明和6年(1769)郡奉行と代官の名を改め郡代と唱え、阿波国内を6区とした。那賀・海部が一区となり、3人の郡代はそこに常駐したが、時々管轄地を巡見するのが通例であった。
寛政11年(1799)海部郡鞆浦に、海部郡代所が新築されて新御陣屋と呼ばれた。海部郡は徳島より遠く、交通不便で異国船の警備や、国境に近い重要地などの関係で設置されたものと思われる。
更に文化4年(1807)御陣屋は日和佐のこの地に普請をして移転された。この日和佐御陣屋が最後の郡代役所となった。以来明治初年に至る約60年間、郡代役所の機能を十分に生かし、上は藩庁の指揮に随順し、また管轄6箇町・木頭4箇村の協力を得て、多事多難であった行政に有終の美を発揮したのである。今日も尚、遺跡は町役場・日和佐小学校として行政と文教の歴史を織りなしている。
いま、御陣屋の遺構として残っているのは、北西隅の土塀の一部と、遺物としては、ここにある蜂須賀氏の卍紋のついた瓦と的石である。
この役場庁舎の玄関横にある的石は、御陣屋の西北隅の射場に南面して立っていた矢見立岩である。日和佐小学校改築の際に移転してから、三度の移転を経て、平成9年現在地に設置したものである。
地上部は、高さ1.8メートル、巾2.0メートル、厚さが0.5メートルで、岩質は堆積岩(礫岩)で、日和佐町の宝木橋付近に産する珍しい石で出来ている。矢見立岩の名のとおり、この岩陰で、的を射とめたかどうか判定するのに使用したものである。
日和佐の町
日和佐の町についての記事を探していると、「美波町日和佐地区散歩絵地図」にわかりやすい説明があった。「門前町と港町 門前町である「寺前・桜町」と、古来より港町として発達した港町(川口町)として発達して来た日和佐浦(港町周辺の総称)よりなり、門前町は参詣者や陸上交通の発達で栄えた比較的新しい町。日和佐浦は江戸中期より台頭してきた廻船商人の活躍や、"御陣屋"(後の郡役所)が置かれた事もあり、明治に至るまで、海部郡の政治・経済・文化の中心として栄えてきました。とくに"谷屋" に代表される廻船(交易)によってもたらされた様々な文化が、この町の構成や人々の営みに多大な影響を与えていたことは、日和佐浦の古い町並みなどからも見てとることができます」とある。
桜町は上述の通り。日和佐浦は弘法寺や御陣屋跡があった、、北河内谷内川北側の地区。北河内谷川に架かる厄除橋も、元の橋は廻船業で財を成した谷甚助が総引受人となり、人々の浄財をもとに完成した。と言う。引船渡、木橋を経て石橋を架けた。
日和佐の由来
日和佐を中心とした上灘一円はその昔「和射(わさ)」郷と称していた。明治13年(1880)徳島県が調査した「阿波国村誌」には「古老伝に、往古、和佐(和射)と言いけるが、空海はじめてこの地へ着船、陸に上りし時、旭登れるに所の名を問う。土民「和佐」と答えけるが、朝日を受けて良き地なりとして「日和佐」と言しよし」と記される、と。

土佐街道・小田坂峠越
今回の散歩は田井の恵比寿浜から海岸に沿って大浜海岸を経て日和佐に入った。メモの段階で危険な海岸沿いの道ではなく山越えの道があるのではとチェック。と、田井から日和佐に抜ける土佐街道・小田坂峠越の道があった。
Wikipediaには「北河内側から登る際には、小田坂といい、田井側からはソロバン坂とも言われる。この峠は北河内田井から北河内札場へと抜ける、かつての土佐街道の本線で、阿波藩藩主である蜂須賀氏も通ったと伝わる。かつて道幅は6尺(1.8メートル)ほどあったが、昭和期には、3尺(90センチメートル) ほどになっており、現在は通行困難となっている」とあり、「峠には一本松があり、峠から200mほどの日和佐側には花折地蔵が祀られる」と記されていた。
北河内の真念道標
Wikipediaには現在通行困難とのことだが、WEBをチェックすると結構多くの方が歩いている。それはそれでいいのだが、この道が遍路道であった(当然そうだろうが)エビデンスはないものかと更にチェック。と、牟岐線北河内駅の少し北に真念の道標が残る。「右 大く巳んみち   左 やく巳う寺みち 十丁余」と刻まれると言う。
「大く巳んみち」って何だろう。これが小田坂峠越えとの関連があるのであれば、小田坂峠越えの遍路路のエビデンスになるのだが?そういえば徳島の十番札所の傍にあった真念道標にも「大くわん道」と刻まれていた。以下妄想。観音寺(かんのんじ)のことを真道標には「くわんおんじ」とあった。とすれば、大く巳んみち>大かんみち>おおかんみち>往還道?土佐街道・小田坂峠のことを指しているのだろうか?単なる妄想。根拠なし。

○日和佐浦の旧遍路道
小田坂峠越遍路道のエビデンスとなる標石をチェックしていると、上述「美波町日和佐地区散歩絵地図」に和佐八幡神社の西、通りを少し奥まったところに、遍路道標の記事。Google Street Viiewでチェックすると「日和佐町日和佐浦 旧険路道しるべ」と書かれた標識とその傍に舟形地蔵と角型石柱があった。
上述北河内谷に出る遍路道とも、澄禅が辿ったとする海岸沿いの遍路道ともルートが外れる。あれこれチェックすると、ここから奇岩・大岩から小田坂峠を経て田井に抜ける道があったようだ。この道標はその道を辿ったお遍路さんのために立てられたのではないだろうか。
尚、この記事作成に際しては、いわや道・平等寺道をメモする際、中山道の記事を参考にさせて頂いた「大瀧嶽記(奈佐和彦)」のお世話になった。地元の方の記事は、誠にありがたい。
今回のメモはこれでお終い。次回は第二十三番薬王寺から始める。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク