2020年5月アーカイブ

先回のメモは、那賀川筋の大井から第二十一番札所太龍寺までをメモした。今回は第二十一番太龍寺から第二十二番札所平等寺までの遍路道をメモする。全行程12キロほどだろうか。
ルートは太龍寺から阿瀬比の集落に下り、その後尾尾根峠を抜けて平等寺に向かう。太龍寺から阿瀬比の集落までのルートはふたつある。ひとつは黒河道。太龍寺仁王門の東にある遍路道分岐点から加茂谷川の谷筋に下り、黒河の集落を経て県道28号に合流し南に下り阿瀬比に向かう。誠に狭いながらも太龍寺への唯一の車参道だが、標石・丁石といったものは残らなようだ。
全体ルート図(Google Earthで作成)
もうひとつは太龍寺から加茂谷川の谷筋を隔てた南の稜線部を辿り阿瀬比の集落に下りるもの。このルートは「いわや道・平等寺道」と呼ばれ、標石や舟形丁石も残ると言う。標石を目安に旧遍路道をトレースするスタンスでの遍路道歩きであり、迷うことなく「いわや道・平等寺道」ルートを採る。 太龍寺からは山稜部を巻き気味に麓の集落・阿瀬比まで続く「いわや道・平等寺道」はその距離6キロほど。比高差は350mほど。
阿瀬比の集落に下りた後は大根峠を越えて平等寺までおおよそ6キロ。大根峠は、峠といっても取り付き口からの比高差は100mもない。それほどキツクはないだろう。普通に歩けば2時間もあれば十分ではあろうが、平等寺道の下りで膝が完全にダメになり3時間ほどかかってしまった。
実のところ、当日は阿瀬比の集落で膝がアウトになった時に備え、念のため阿瀬比集落を通るバスをチェックしていた。午後に2便(2時46分、4時26分)JR牟岐線の駅に繋がるバスの便を確認していたわけだが、なんとか騙しだまし平等寺までたどり着いたといった為体(ていたらく)ではあった。
以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、特に平等寺道の急坂以降のコースタイムは実際はもっと早く進めるかと思う。 メモをはじめる。


本日のルート;
那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ
水井橋>地蔵座像と標石>中尾多七標石>10丁>11丁>12丁>休憩所>14丁>16丁>中尾多七奈標石1>17丁>中尾多七標石2> 中尾多七標石3 >遍路墓>19丁>20丁>21丁>23丁>24丁>25丁>尾根>27丁>21番太龍寺
第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る
太龍寺>1丁石>舎心嶽>石仏と丁石〈4丁?)>茂兵衛道標>角柱標石>7丁>6丁?>9丁?>破損石仏>遍路墓>笠付標石>12丁>13丁>14丁>15丁>16丁>17丁>18丁>>19丁>20丁>阿瀬比3㎞>22丁>24丁>遍路墓>25丁>いわや道・平等寺道分岐点>阿瀬比集落1.6km>急坂>39丁>標石>平等寺5km>茂兵衛道標(169度目)
阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ
中尾多七標石>標石2基>倒れた標石>大根峠>地蔵立像>角柱丁石(20丁)>休憩所>石仏群と15丁石>石仏群と11丁石>真言供養塔>岩戸橋北詰2基の標石>22番平等寺


太龍寺からいわや道・平等寺道・大根峠越え経由平等寺ルート


第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る

太龍寺を離れいわや道、平等寺道を経て阿瀬比の集落へと向かう。地形図を見ると、太龍寺の建つ山稜の南、加茂谷川を隔てた山稜の稜線部を巻き気味に進み、阿瀬比の集落へと降りてゆく。南舎心嶽あたりから始まる「いわや道」は平等寺道分岐までおおよそ3キロ、そこから阿瀬比の集落までの「平等寺道」はおおよそ2.5キロ。6キロ弱歩くことになる。

太龍寺ロープウエイ乗り場;午前10時46分
境内に立つ「舎心ヶ嶽680米」の標石の手印に従い境内を左に逸れる。ほどなく太龍寺ロープウエイ山頂駅。舎心ヶ嶽への道は山頂駅脇を太龍寺山〈618m)方向へと向かうことになる。

太龍寺ロープウエイ
by 四国ケーブル〈株)
山麓駅から那賀川を跨ぎ山頂駅まで2,775m。西日本一の長さと言う。開業は平成4年(1992)と結構新しい。上述Wikipediaに「戦後は山中の山寺ゆえに困窮の時代を迎えたが、1992年に太龍寺ロープウェイ が運行するようになったため容易に参拝できるようになり、遍路ブームの到来もあって隆盛時を迎えた」とあった。
山中の山寺ゆえロープウエイが運行されるまで、太龍寺の困窮は大変なものだったのだろう。龍の窟の地は石灰鉱山会社に売却され、取り壊されてしまったと言うし、三重塔も四国中央市の興願寺に売却されたと聞く。また車参道といってもその黒河道は狭路・難路であり、気軽に参拝できるようには思えない。ロープウエイのおかげで太龍寺参拝は身近になったようだ。 運営は四国ケーブル〈株)。八栗ケーブル、雲辺寺ロープウエイ、箸蔵山ロープウエイ(現在は分社化)も運営しているとのこと。

1丁石;午前10時50分
南舎心ヶ嶽への道に入る。道に沿って四国88箇所霊場の本尊石仏が並ぶ。結構新しい。ほどなく舟形地蔵。「一丁」と刻まれる地蔵丁石が現れる。




南舎心ヶ嶽;午前11時2分
等高線500mに沿って少し進み、30mほど高度を上げると。不動明王などの小祠と「聖跡 舎心ヶ嶽」の石碑が立つ。「聖跡 舎心ヶ嶽 弘法大師二十四歳の時著された『三教指帰』にも「阿國大滝の獄にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念す。谷響を惜まず明星来影す」と記されており、この地において見事悉地成就なされ青年時代の思想形成に重要な役割を果たしたことは疑えない事実であります。
平成五年大師入山千二百年を記念し「求聞持法御修行大師像を造立致しました。虚空蔵菩薩の化身とされる東方の明けの明星(金星)を拝されている御姿です。「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼりそわか」百万遍 建立協賛者 河内金剛講」とある。
谷側の岩上に求聞持法御修行大師像が座す。説明の如く古き仏さまではないようであり、鎖場をちょっと上ることはパスし、道から拝礼。 


石造物と丁石:午前11時5分
舎心ヶ嶽の先で、ストンと10mほど高度を落とし平場に下りる。坂の途中「IWATAMICHI 22」の案内。「22」は第22番札所平等寺を指すのだろう。
平場には石造物6基。左の3基は摩耗し文字は読めない。その横は五輪塔の宝珠部分だろうか。宝珠(?)隣に坐像石仏、右端は自然石の丁石。上部が欠け「*四丁」の文字が読める。


茂兵衛道標;午前11時7分
左手に大師坐像の刻まれた角柱石。その直ぐ先、道が太龍寺山の尾根道の左右に分かれる箇所に、多くの道案内と茂兵衛道標が立つ。
左を指す案内には「22」、「ふだらく山 中山道」、「いわや道」、そして「阿波遍路道 いわや道」。右を指す案内には「北地」とある。
茂兵衛道標には「平等寺 明治二十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。臼杵陶庵の詠む「山中で嬉しきものは道教え」の添歌も。誠にその通り。
「ふだらく山 中山道」・「北地」
「ふだらく山 中山道」ってなんだ?唐突に現れた。チェックすると中山は太龍寺山の南、中山川の谷筋の集落。中山道とはこの辺りの集落の人が太龍寺にお参りする参詣道。集落にある地福寺から支尾根稜線部を上り太龍寺山南の峠から太龍寺山頂を経由して「いわや道」に下りてきたようだ。途中には自然石の丁石が並ぶ、と言う。
太龍寺山頂上には観音堂があり。阿波秩父観音霊場十一番札所であったよう。ために太龍寺山は通称「補陀落山」と称された、と。「ふだらく道」の所以である(WEBにあった「大瀧嶽記(奈佐和彦)」を参考にさせて頂きました)。
また、「北地」は中山川が那賀川に合流する辺り、太龍寺ロープウエイ山麓駅のある辺りの地。


中山道分岐点に角柱標石:午前11時9分
いわや道へと左に折れると道の右手に立つのは遍路墓のなのだろうか。その直ぐ先、道は上下に分かれる。その角に「へんろ道」と刻まれた角柱標石。
上段の道は前述の「中山道」。遍路道は下段の道を進むことになる。中山道の案内は特になかったように思う。


舟形地蔵;午前11時15分
等高線500mに沿って少し歩くと舟形地蔵(午前11時15分)。丁石だとは思うのだが摩耗激しく文字は読めない。







丁石2基
直ぐ舟形地蔵丁石(午前11時16分)。「丁」は読めるのだが数字は読めない。更に舟形地蔵丁石 (午前11時19分)。これも「九丁」のよう読めるのだが、確信はない。




破損石仏
数分歩くと道の左手、大岩の上に石仏台座が残る(午前11時22分)、なんとなく、いい。次いで遍路墓(午前11時25分)らしき苔むした石柱が立つ。





笠付道標・12丁
等高線480m辺りをほぼ水平に通る遍路道を少し進むと笠付道標(午前11時28分)。「右 ふだらく山道」のように読めるのだが、前述「ふだらく山』の刷り込み故だろうか。自信はない。 その先に舟形地蔵丁石(午前11時30分)。「十二」の文字がはっきり読める。


13丁・14丁
「十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時33分)。傍に「よみがえった歴史の道 阿波遍路道」の案内。直ぐ先に「十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時35分)。




15丁・16丁
山側に「十五丁」の舟形地蔵丁石(午前11時38分)。次いで谷側に「十六丁」の舟形地蔵丁石(午前11時40分)。







17丁・18丁
山側に「十七丁」の舟形地蔵丁石(午前11時44分)。同じく山側に「十八丁」の舟形地蔵丁石(午前11時47分)。






19丁・20丁
山側、平たい岩の上に「十九丁」の舟形地蔵丁石(午前11時50分)。岩も仏も苔むした「二十丁」の舟形地蔵丁石(午前11時54分)。




阿瀬比3㎞の案内: 午前11時58分
「国指定史跡 阿波遍路道(阿瀬比集落まであと3km)」(午前11時58分)の案内の先、左手谷側が開ける。谷を隔てた山稜に鉄骨構造の建屋がかすかに見える。太龍寺あたりだろうか。


22丁・24丁
「二十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時59分)。次いで「廿四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時3分)。丁数の表示形式が異なる。





25丁
遍路墓らしき石造物(午後12時8分)の先に「廿五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時10分と続く。







いわや道・平等寺道分岐点;午後12時13分・標高430m
直ぐ先で道が上下に分かれる。分岐点に「左 へんろ道」の標石。標石に従えは遍路道は左、下段の道だが、通行止めのバーが道を塞ぐ。道も荒れている。
一方、上段の道には「国指定史跡 阿波遍路道「平等寺道」(阿瀬比集落まで2.5km」とある。特に案内はないのだが、ここが「いわや道」と「平等寺道」の分岐点であった。
で、当日は標石の指す遍路道って何?と少々??を感じながら、ここで平等寺道に乗り換えたのだが、メモの段階でチェックすると、この下段道は「いわや道」であった。往昔はこの道を辿り「龍の窟」へと向かったようだ。ここではじめて「いわや道」の由来がわかった。「龍の棲む岩屋」故だろう。 前述の如く、「龍の窟」の地は売却され。石灰岩の採掘によりその面影は既になく。採石場もあってか危険なため道は閉ざされているようだ。
この分岐点はほぼ中間、3キロほどを1時間、高度を40mほど下げたことになる。稜線巻道をゆるやかに高度を下げてきた。
いわや道のルート
往昔のいわや道は龍の窟を経てどちらに向かったのだろう?あれこれチェックすると、現鉱業権者であるヒロックス〈株)太龍鉱山(元の鉱業権者は住友石炭工業株式会社)へのアプローチ道が、県道28号に合流する地点に35丁の舟形地蔵丁石が立つ。丁数から考えて、ここに出たとしても違和感はない。
因みにこの丁石はあたりをつけてGoogle MapのStreet Viewでチェックし見つかった。





阿瀬比集落1.6km:午後12時29分
等高線430mに沿って稜線を巻くこと10分程、道は稜線鞍部に乗る。「阿瀬比集落1.6km」の案内を見遣り先に進む。ここから先は阿瀬の集落に向かって下ることになる。




急坂案内;午後12時40分
少し進むと「急坂」の案内。急斜面には虎ロープが張られている。那賀川筋から歩きはじめておよそ5時間。急坂を前に大休止。痛めた膝を休める。
休憩しながら地形図チェック。支尾根稜線をほぼ等高線と垂直に比高差250mを下ることになる。膝が心配。休憩を終え午後12時40分坂に向かう。


39丁;午後13時4分・標高250m
虎ロープを握り膝をかばいながら急坂を150mほど高度を避げると舟形地蔵。「三十九丁」と刻まれる。平等寺道ではじめての丁石。というか、結局平等寺道に残される丁石はこれだけであった。 ここまで150mほど高度を避げるため25分もかかっている。ふつうであればその半分程度で下れるだろう。






「平等寺5km」の案内:午後13時?分
39丁石より50mほど高度を下げると、木々の間から右手下に道路、その先に川が見えてくる。地図で確認すると中山川上流部の支流のひとつのようだ。川筋まで下りてくると「山道おつかれさまでした 阿波遍路道 平等寺まであと5km」の案内。里に下りてきた。案内の右手には廃屋が建つ。 


薬師庵;午後13時31分
里道を10分ほど歩くと、県道28号合流手前に一堂宇。「薬師庵」とあったり、WikipediaやGoogle Mapには「あせび観音堂」とあったりはっきりしない。上述「大瀧嶽記(奈佐和彦)」に「集落が近くなると成就院専念寺がある。成就院は太龍寺の七支院の一つで太龍寺の境内にあった。その後ここにうつされ、専念寺もこの地に創建された。成就院の本尊は虚空蔵菩薩で、不動明王、弘法大師を脇仏として祀っている。専念寺の本尊は薬師如来だ」とあった。薬師庵であれば納得できるが、観音堂と結びつくエビデンスは見つからない。


自然石標石;午後13時34分
遍路道は県道28号を右折。直ぐ先、県道から左に逸れる分岐角に納屋のような建屋。その道角に丸い自然石。何気にみると、手印が線彫りされており、「右 へんろ道」の文字も読める。印象的な標石だ。








中山川と加茂谷川の分水界
自然石標石あたりから周囲の景観を楽しんでいると、県道28号の東に小川が流れる。山を下るときに見た中山川上流部の支流だろうと地図をチェックする。と、この小川は北に流れ加茂谷川に合流し那賀川に注いでいる。一方、中山川支流は県道28号手前でグルリと廻り、支流を集め中山川となって西に流れ那賀川に注ぐ。県道28号が両水系の分水界となっていた。
分水界となる県道28号筋を挟んだ両水系の距離は100mも離れていない、標高差もほとんどない。両河川の最接近部からの上流部は加茂谷川筋が圧倒的に長い。加茂谷川筋が洪水などで流れを少し西に変えれば中山川の上流部は河川争奪され、中山川筋に流れることなく、加茂谷川となって北に下っただろうな、などと一時妄想にふける。




阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ

阿瀬比の集落から大根峠まで2基キロ弱、大根峠から桑野川が開いた谷筋に下り平等寺まで4キロ弱。大根峠も取り付き口からの比高差は100mもない。普通に歩けば2時間もあれば十分ではあろうが、平等寺道の下りで膝が完全にダメになり3時間ほどかかってしまった。以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、実際はもっと早く進めるかと思う。

遍路休憩所;午後13時38分
県道28号は国道195号に合流しそこが終点。遍路道は国道を横切り先に進む。国道を渡ると真新しい標石。札所の案内と共に、英語・韓国語・中国語が刻まれる。"We are rooting for you(応援してるよ;頑張って)"と。
その先に遍路休憩所。なんだか素朴な手書き遍路道案内か、いい。少し休憩。


茂兵衛道標(169度目);13時46分
遍路道は遍路休憩所を先に進み、旧国道195らしき旧道をクロスし細路に入る。その角に歩き遍路タグや「22番札所平等寺へ 歩きへんろ道」の案内と共に茂兵衛道標。「平等寺 太龍寺 鶴林寺 明治三十二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛169度目巡礼時のもの。


中尾多七標石;午後13時57分
簡易舗装された山裾の道を進むと加茂谷川支流の谷筋に入る。そこに「四国のみち」の木標と共に、上部に刻まれた両端矢印が特徴的な中尾多七標石。「へんろ道」と刻まれる。



標石2基;午後14時8分
先に進み遍路道は加茂谷川支流に架かる小橋を渡り右岸に移る。橋の手前に立つ「四国のみち」の円柱木標の脇に2基の標石。大型角柱標石には「二十二ばん 一里 二十一ばん」といった文字が刻まれる。その横の丸い自然石も標石。「へんろ道 平等寺四十丁」の文字が読める。





倒れた標石;午後14時14分
その先直ぐ右手に逸れる道。その分岐点のシキビに隠れるように倒れた標石。「右 へんろ路*」と刻まれる。
10分ほど歩くと「四国のみち」の木標、「右へんろ道」と書かれた歩き遍路タグ、近年立てられたような標石(午後14時24分)。「へんろ道 大根いやしの道を守る会」と刻まれていた。


大根峠;午後14時37分
標石の直ぐ先、遍路道は山道に入る。取り付き口に擬木。10分ちょっと擬木の敷かれた山道を上ると切通し。「大根峠・阿瀬比1km、大根峠・平等寺2.5km,大根峠・音坊山1km」の案内が立っていた峠の切通しはカラフルな五色の旗が飾られていた。
●音坊山(おとんぼ山)
遍路道とは関係ないのだが、音坊山の案内はあるけど、切通部からそれらしき道はない(なかったように思う)。どうも、峠から右手の尾根筋に上り南西に進むようだ。で、何故に案内が?
地図にも載らない山だが、山頂(333m)からの眺めがいいようだ。城跡(塁)も残るといい、往昔は丹生谷(にゅうだに;現在の国道195号筋の那賀町)を繋ぐ交通の要衝でもあったようだが、その後荒れ果てていたものを、地元の方の尽力で道を整備しといった記事があった(当然、この尾根道とは別ルートだろう)。

地蔵立像;午後14時44分
切通しを抜け下り道に。直ぐ「左 平等寺」と刻まれた標石(午後14時40分)。50mほど高度を下げた平場には石組の祠に地蔵立像。1mほどもあるだろうか。延享2年(1745)のものと言う。



角柱丁石(20丁); 午後14時51分
標高200m辺りまで下ると竹林が現れる。里が近づいた。道の右手に角柱標石(午後14時51分)。「二十二番 廿丁 大正九年」といった文字が刻まれる。
その先急坂を100mほど下り沢に架かる木橋(午後15時13分)を渡る。先に休憩所がある、との木柱が立つ。


休憩所;午後15時22分
右手に開けた里の景観を目にしながら歩くと遍路休憩所。傍にコンクリート造りの小堂が建つ。ちょっと休憩。






石仏群と15丁石:午後15時42分
遍路休憩所を離れ中山川に注ぐ小川を渡るとT字路。そこに「音坊山・へんろ道」の案内が立つ(午後14時34分)。音坊山頂まで2.3kmとある案内図には展望台、駐車場も記される。そのルートは地図にはない。大根峠でメモした、地元の方の尽力により開かれた道がこれだろうか。 T字路を左に折れ道を進むと道の右手に地神と標石。「右平等寺 十五丁 文政十五」といった文字が刻まれる。


石仏群と11丁石;午後15時49分
その先東西に通る道に合流する地点に「四国のみち」が立ち、その傍に石仏群と丁石。横長角柱には「二十二番平等寺 十一丁 右太龍寺 大正四年」といった文字が読める。
その横に並ぶ石仏群にも丁石1基。「是より平等寺へ十町 文化四」といった文字が刻まれる、と。





光明真言供養塔;午後15時59分
道が中山川に遮られ東に折れるところ、道の左手に笠付き石造物や地神小祠。笠付き石造物には「光明真言二百六十五萬遍供養塔」と刻まれる真言供養塔、その先田圃の中に少彦名碑。


岩戸橋北詰2基の標石;午後16時4分
少し東に進むと中山川に架かる岩戸橋。北詰に「四国のみち」の木標と2基の標石が立つ。左の標石には「二十一番太龍寺 二里二十四丁 二十二番平等寺六丁」「右轟神社 左へんろ道 大正十三」といったも文字が読める。
右の標石には「平等寺江六丁 天保二」といった文字が刻まれる。標石前にはお花が供えられている。この標石には地元の方の先祖戒名が刻まれており、その子孫が菩提を弔っている、と。
轟神社
轟神社って?ここらか南西、80キロほど離れたところ、徳島県海部郡海陽町に轟神社がある。 天正時代の建立。今もなお御滝を神霊の坐すところとして信仰し、阿波藩主蜂須賀家政侯が、朝鮮出兵にあたり海上安全を祈願したとも伝えられている社。
が、それにしても遠すぎる。ちょっと唐突。と、この橋を渡り桑野川右岸を少し東に向かったところに轟神社が建つ。弘仁5年(814)、奈良生駒の龍田神社を分霊したと由緒にある古社。樟の巨木で知られる、と。『延喜式』にある那賀郡の七座のひとつ、室比売神社がこの地にあった、とも伝わる。この神社を案内しいるのだろうかこの神社を案内しているのだろうか。


第二十二番札所平等寺に;午後16時21分
岩戸橋から中山川脇の道を15分ほど進むと第二十二番札所平等寺にやっと到着(午後16時21分)。

これで2回にわけた太龍寺越えから平等寺のメモを終える。メモは2回に分けたが当日は太龍寺越えから平等寺まで、おおよそ17キロをカバーした。膝を痛めてるということもあり、やっとこさ辿り着いたといった為体(ていたらく)であった。
プラニングの段階では鶴林寺道から一気に平等寺まで、おおよそ22キロをカバーしようか、などと考えていた。実際に当日、平等寺から鶴林寺を越えて勝浦川筋の生名まで歩いてる方にもお会いした。
 膝を痛めていなければどうという距離ではないのだが、もし途中の太龍寺越えで膝がアウトになった場合はどうしよう。阿瀬比の集落で撤退となるが、阿瀬比からバスはある?午後2時46分と4時26分にバスはある。これならJR牟岐線の駅に辿りつけそうだ、などとあれこれ思案してはいたのだが、結局は太龍寺越えから平等寺までを歩くことにした。 で、予想通りではあるが、後半はほぼ膝がアウト。結構キツイ1日となった。


先回は勝浦川筋の生名より鶴林寺道に取り付き、第二十番札所鶴林寺を打ち那賀川筋の大井の集落まで下った。全行程6キロほど、3時間の山越えであった。阿波の遍路道で「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称される難路ということだが、整備された山道のおかげか、6キロほどの距離ゆえか、それほどの難路・険路というほどではなかった。

全体ルート図(Google Earthで作成
今回は「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称される「大龍」、即ち難路・険路として知られる第二十一番札所太龍寺越えのアップ・ダウンの後、二十二番札所である平等寺への遍路道を辿る。全行程17キロといったところ。
ルートは那賀川筋の大井から太龍寺道を上り第二十一番札所太龍寺までおおよそ5キロ弱、標高40m弱の取り付き口から標高490mほどまで上る。比高差450mほど。太龍寺を打った後は「いわや道・平等寺道」と呼ばれる稜線部を6キロほど歩き、標高140mの阿瀬比の集落まで下る。比高差350mほど。この所謂、太龍寺越えの距離は11キロほど。
阿瀬比の集落から後は第二十二番札所平等寺までおおよそ6キロ。峠越えといっても比高差100mほどであるのでそれほど厳しくはないだろう。

このルートで全行程おおよそ17キロ。普通ならどうということのない距離だが、痛めた膝が太隆寺越えの下りでほぼアウト。阿瀬比の集落から平等寺までの6キロは普通に歩けば2時間もあれば十分だろうが3時間ほどかかってしまった。
結局全所要時間7時間半強。以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、実際はもっと早く進めるかと思う。

メモは2回に分ける。今回は那賀川の太龍寺道の取り付口から第二十一番札所太龍寺まで。次回は太龍寺から「いわや道・平等寺道・大根峠」を辿り第二十二番札所平等寺までの遍路道をメモする。


本日のルート;
那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ
水井橋>地蔵座像と標石>中尾多七標石>10丁>11丁>12丁>休憩所>14丁>16丁>中尾多七奈標石1>17丁>中尾多七標石2> 中尾多七標石3 >遍路墓>19丁>20丁>21丁>23丁>24丁>25丁>尾根>27丁>21番太龍寺
第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る
太龍寺>1丁石>舎心嶽>石仏と丁石〈4丁?)>茂兵衛道標>角柱標石>7丁>6丁?>9丁?>破損石仏>遍路墓>笠付標石>12丁>13丁>14丁>15丁>16丁>17丁>18丁>>19丁>20丁>阿瀬比3㎞>22丁>24丁>遍路墓>25丁>いわや道・平等寺道分岐点>阿瀬比集落1.6km>急坂>39丁>標石>平等寺5km>茂兵衛道標(169度目)
阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ
中尾多七標石>標石2基>倒れた標石>大根峠>地蔵立像>角柱丁石(20丁)>休憩所>石仏群と15丁石>石仏群と11丁石>真言供養塔>岩戸橋北詰2基の標石>22番平等寺

勝浦川筋大井休憩所より太龍寺へ


那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ

茂兵衛道標(100度目):午前7時43分
先回の終点である県道19号脇の大井休憩所からスタート。道の右手に「服部因幡守 源啓元」と刻まれた石柱。結構新しい。阿波細川氏の家臣団に服部因幡守の名が残るが、その他不詳。
遍路道は県道を少し東に向かい那賀川に架かる水井(すいい)橋を渡る。水井橋への左折点に茂兵衛道標。正面に手印、「太龍寺」と刻まれる。
右面には添歌「暮可希亭壱里もか礼ずあきの山」が刻まれると言う、「暮れかけて 一里も枯れず 秋の山」と刻まれる。臼杵陶庵の句。
陶庵添句
遍路歩きで茂兵衛道標に出合ったとき、時に添歌が刻まれる。チェックすると、茂兵衛道標253基のうち、37基に陶庵の和歌が刻まれる、と。臼杵陶庵。本名臼杵宗太郎。明治9年(1876)、12歳で第76番札所金蔵寺に入寺。和歌を学び、巡礼時金蔵寺で茂兵衛と出合った事を契機に和歌を添えるようになった、という。

水井橋;午前7時46分
県道を左に折れ那賀川に架かる水井橋を渡る。道は鶴峠から下ってきた県道283号。橋の全長160m、幅3m、昭和40年(1965)完成。それ以前はここに那賀川の渡しがあったと言う。この辺りの遍路道について真念は『四国遍路道指南』に「これより太龍寺までは一里半、道ハちかミちなり。大師御行跡のすじハ加茂村、其ほど弐里旧跡もあり 〇大井村 なか川舟わたし。〇わかすぎ村、家四、五軒有」と記す。
かも道
真念が、「大師御行跡のすじハ加茂村、其ほど弐里旧跡もあり」と記すように、 往昔、この地から6キロほど下流に下り、加茂の集落にある弘法大師空海の旧跡・一宿庵に詣でたあと、尾根道を5キロ上り太龍寺へ向かったお遍路さんも多かったという。この遍路道は四国遍路が広まる以前の遍路道。鶴林道と同じく南北朝の頃に開かれた四国最古の遍路道とされる。
鶴林寺にあった注意書きには、悪路・一人歩き不適とあった。現状は不詳。

地蔵座像と標石;午前7時52分
県道283号・水井橋を渡る。道は右折し、その先直ぐふたつに分かれる。県道283号はそのまま那賀川に沿って進むが、遍路道は分岐点を左折し県道282号に乗り換える。
その分岐点、切通し手前に石仏と標石。傍に「遍路道沿いの石造物群」の案内があり「弘法大師坐像、地蔵尊、舟形地蔵丁石、遍路墓」が写真と共に記される。
「「明治期の大師坐像、文化年間の地蔵尊、「是ヨリ太龍寺マデ二十八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石、遍路墓は切通の上に2基あり、また、いずれも水井渡しの船頭小屋横にあったが、水井橋の建設時(昭和40年)に移設された」といったことが説明されていた。

遍路道分岐点に中尾多七標石;午前7時57分
左折すると直ぐ「四国のみち」の木標、遍路タグ、「太龍寺 歩き遍路道」、標石などの道案内。県道を離れ右に入る。標石は中尾多七標石。

標石傍に「阿波遍路道の案内」。「国指定 阿波遍路道 太龍寺道・かも道・太龍寺境内・いわや道・平等寺道 四国八十八ヶ所霊場をめぐる遍路道は、四国4県にまたがる弘法大師ゆかりの寺院を巡る1,400kmに及ぶ壮大な巡礼道で、遍路道は古来より人々の往来や文化交流の舞台となり、丁石(札所寺院の距離を示す)・道標・遍路墓などの数多くの石造物等の文化財が残されている。
また、地元住民による「お接待」と呼ばれる心の文化も民衆が長い歴史の中で創り上げられたものである。すなわち遍路道には物心両面にわたり人びとにより今日まで受け継がれてきた数少ない巡礼に関する文化財が残されている古道として貴重である。 阿南市では平成22年8月5日に四国ではじめて「太龍寺道・いわや道」の一部が国史跡に指定、更に追加指定がなされ平成30年3月現在では「太龍寺道・かも道・いわや道・平等寺道」の一部約6.3kmが指定区間となっている。また平成29年2月9日には「太龍寺境内」が追加指定となった。
「太龍寺道」は鶴林寺から太龍寺までの区間で「遍路転がし」と呼ばれる急峻な、山道があり「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われている。「かも道」は南北朝期の丁石が残る四国最古の遍路道として、また大師行脚の道としても近年注目を浴びている。
「いわや道」は太龍寺から「龍の窟」へと向かう道で、多くの石造物のほか太龍寺建物や石段にも使用されている大理石(石灰岩)の採掘場も残されている。
「平等寺道」は「いわや道」からつづく22番札所平等寺までの通路道で、阿瀬比集落までの遍路道は近年地元住民による整備活動で復活した道である。
「龍の窟」とは弘法大師が悪龍を閉じこめたと伝説の残る石灰岩の刺激であるが、昭和49年(1974)には消滅した。 徳島県教育委員会/管理団体 阿南市教育委員会」とあった。
きちんとした地図も掲示されており誠に助かる。また、掲示横の小箱に「加茂谷へんろ道の会」作成の「あなん 遍路史跡めぐり」の小冊子が置かれていた。これも誠に有り難い。
実のところ、分岐点の石造物群のところで、「加茂谷へんろ道の会」に関係するご夫妻に出会い、石造物のお話と共に、この小箱に小冊子を置いていることをお教えいただいた。でなければ通り過ぎたかも。

10丁・11丁
法面に「若杉遺跡」との案内のある道を若杉谷川に沿って歩く。舗装された道も簡易舗装となり、20分強歩くと岩の上に舟形地蔵。「十丁」(午前8時21分)と刻まれる地蔵丁石(午前8時21分)だった。その先 にもの舟形地蔵丁石(午前8時27分)。[十一丁」のように思える。


休憩所:午前8時30分
若杉谷川の左岸を進んで来た道が右岸に渡ってすぐ、道脇に休憩所がある。そこに休憩所。傍に「国指定史跡 若杉山辰砂採掘遺跡」の案内。
「国指定史跡 若杉山辰砂採掘遺跡(所在地:徳島県阿南市水井町典田) 若杉山辰砂採掘遺跡 は、前方を流れる若杉谷川の対岸、若杉山の東斜面にあります。ここでは、弥生時代後期から古墳時代初頭(紀元前1世紀から3世紀)に水銀朱の原料となる辰砂が採掘されていました。
鮮やか赤色を発する水銀朱は、顔料として使用され、装飾として銅鐸や土器を彩ったほか、亡くなった人を埋葬する際に石室や棺に塗られました。徳島県内の弥生時代後期から古墳時代の墳墓でも葬送において水銀朱を使用した事例が見つかっています。
遺跡の発見は1953年(昭和28年)に「加茂谷村誌」の編集のために行われた、実地調査がきっかけとなりました。調査を視察した常松卓三(当時富岡西高等学校教諭)によって、遺跡の上部にある岩陰住居跡と考えられていた洞窟は、水銀朱の原料である辰砂を掘った跡であり、遺跡で採取される石杵と石臼は掘り出した辰砂を粉末にするために用いたものであると考えられました。これが、辰砂採掘遺跡として位置付けた最初の指摘となりました。
1984年(昭和159年)から1987年(昭和162年)には、徳島県博物館(徳島県立博物館の前身)によって、初めてとなる発掘調査が行われます。前方斜面の段々畑から、土器、石器、勾玉、獣骨、貝類、辰砂鉱石などが出土しました。なかでも採掘に使用された石杵と石臼があわせて400点余り出土し、採掘が大規模に行われていたことが明らかとなりました。
そして2017年(平成29年)からは徳島県教育委員会と阿南市が道跡の適切な保存と活用をはかるための発掘調査に着手しています。その結果、露天採掘によって辰砂の採掘を行った地点が特定されるとともに、遺跡の上部にある洞窟は、かつて常松氏が「辰砂を掘った跡」と指摘したとおり、辰砂をめざして掘り進んだ結果できた「採掘坑跡」であることが確かめられました。
「若杉山辰砂採掘遺跡は、弥生時代から古墳時代の辰砂の採掘方法を知ることができる全国で唯一の遺跡であり、弥生時代の社会を知るうえで重要な遺跡といえるでしょう」とあった。

地図を見ると川の対岸直ぐ近くに遺跡名が載るのだが、道案内が見当たらなかった。古代遺跡にそれほど「萌える」こともないので寄り道はパス。
一太郎pad
因みに説明文は最近お気に入りのiphoneアプリ、「一太郎pad」で作成したもの。iphoneで撮った写真を一太郎padで開き、完了を押すと写真にある文字をテキスト化してくれる。認識精度も高く、誠にありがたいアプリだ。しかも無料。今まで書き起こすことが大変だった案内、寺社の由緒のテキスト化が楽になった。

14丁・16丁
若杉川谷右岸を進む。左手に「十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時38分)。その先に「十六丁」舟形地蔵丁石(午前8時44分)。




集落跡に中尾多七奈標石
その先一瞬平地が開ける(午前8時46分)。若杉と地図にあるが、真念が「四国遍路道指南」に「わかすぎ村、家四、五軒有」と記したように、集落があったのだろうか。地図には鳥居の印もあるが現在は何も残っていない。
その先、「四国のみち」の木標脇に中尾多七標石(午前8時48分)。下半分は埋まるが、中尾多七奈標石の特徴とする両端矢印と「へんろ」の文字が見える。

登山口に中尾多七標石;午前8時53分・標高170m
数分で「十七」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時51分)。その先に「四国のみち」の木標脇で道を右に折れ山道に入る。擬木の敷かれた坂道の起点に中尾多七標石。両端矢印と「へんろ道」の文字が刻まれる。ここから太龍寺の建つお山に取り付くことになる。

標石・遍路墓
上りはじめると直ぐ標石(午前8時56分)。「太龍寺道 是より十二丁 大正十一年」といった文字が刻まれる。その先に遍路墓(午前9時1分)。戒名と共に「筑後国上妻郡柳瀬村 佐助娘ゑみ」と刻まれると言う。あまりにパーソナル。菩提を弔うべし。


19丁;午前9時3分・標高230m
直ぐ「十九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時3分)。等高線230mから250m等高線にトラバース気味に掘割り道を上る。





20丁・21丁石
等高線250m辺りに「二十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時9分)。⒛丁から先は支尾根筋に向かい等高線280m辺りで遍路道は支尾根に乗る。ここから先は基本、支尾根筋の突き出した等高線をほぼ垂直に上ることになる。
標高300m手前に「二十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時15分)。地蔵の彫が深く、台座に寄進者大京原村 中野要碩」といった文字も読める。

23丁;午前9時26分・標高360m
擬木の敷かれた急坂が続く。「阿波遍路道 太龍寺道(あと1.1km)」といった案内を見ながら高度を上げる。標高360m辺りに「二十三丁」と刻まれた舟形地蔵(午前9時26分)。


24丁;午前9時32分・標高370m
直ぐ上部が欠けた丁石(午前9時32分)。「二十四丁」と刻まれる。24丁の先、一瞬緩やかな道。






25丁を越え稜線に;9時42分
ゆるやかな上りの先に「二十五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時36分)。その先、キツイ上りを50mほど上げると先に平坦な道が見える。稜線のようだ。太龍寺参道が近づいた。


黒河道・かも道合流点;午前9時45分
稜線に上ると「右 太龍寺」の標石。少し進むと稜線上の四つ辻に出る。角に「四国のみち」の木標が立ち「鶴林寺6.1km 平等寺11.3km 太龍寺0.4km」とその方向を示す。
木標が指す「平等寺」は、ここから加茂谷川筋を黒河集落に下り、県道28号を阿瀬比に向かい、そこから大根峠を越えて平等寺へ向かう遍路道を指す。黒河道と呼ばれるようだ。

と、「四国のみち」の先に尖塔方柱形式で頭部に切り込みが入る標石が見える。これって南北朝の頃に立てられた標石の特徴をなもの。ひょっとして南北朝の頃開かれた、四国最古の遍路道のひとつ「かも道」では?標石には「左 鶴林寺」「右 太龍寺」「右 かも道 富岡道」とある。一宿庵から上ってくる「かも道」の合流点だろう。



27丁・3丁(かも道)
太龍寺へと進む。数百メートルもあるだろうか結構長い。右手に「二十七」と刻まれる舟形地蔵丁石。その先に山門が見える。山門手前石段前に頭部に切り込みが入った尖塔方柱形式の標石(尖塔部分は摩耗?)。「三丁」と刻まれてる。流れから考えれば、「かも道」に立つ南北朝期の標石の続きでは?「かも道」の標石は太龍寺までの丁数を示すようであり、遍路道合流点の東に「七丁」標石がたつとの記事もあるので、ここに「三丁」があっても違和感はない、かと。

第二十一番札所番太龍寺

「三丁」標石から石段を上ると仁王門。朱塗りの仁王は鎌倉期の作と言う。仁王門は文化3年(1806年)建立。
仁王門を潜ると長い参道。右手に逸れると「北舎心」の祠がある。参道を進むと右手に六角堂、護摩堂、本坊と続く。一切経経蔵とも呼ばれる六角堂は古き趣。安政3年(1856年)の建立。護摩堂は明治34年(1901年)、本坊は明治28年(1895年)建立と言う。護摩堂の香台は伊藤萬蔵の寄進。
本坊(持仏堂?)の庭に「竜天井」の案内。廊下天井に龍の絵がちょっと見えた。土佐出身の画家竹内松嶺氏の作。明治の頃に描かれた、と。
その先、石段の上に堂々とした門が見える。明治36年(1903年)建立の鐘楼門。更に石段を上ると本堂に。嘉永5年(1852年)建立。
本堂をぐるりと右に廻り石段を上ると文久元年(1861年)建立の多宝塔。明治10年(1877年)建立の大師堂は更にその右にあった。
Wikipediaには、「太龍寺(たいりゅうじ)は、徳島県阿南市加茂町にある高野山真言宗の寺院。舎心山(しゃしんざん)、常住院(じょうじゅういん)と号する。本尊は虚空蔵菩薩。
太竜寺山弥山(標高600.1)の山頂近くに位置し、本堂は標高505m付近で八十八箇所で6番目の高さにあり、大師堂は、御廟の橋、拝殿、御廟が並び高野山奥の院と同じ配列になっていて、その大伽藍は「西の高野」と称され、阿南室戸歴史文化道の指定、とくしま88景の選定を受けている。阿波では「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称され、へんろころがしと呼ばれる難所の一つである。
空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に...勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600m ほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。山号はその舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。
延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって阿波の国司・藤原文山が伽藍を建立、堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。
天長2年(825年)淳和天皇が寺領を寄進、嘉保2年(1095年)には白河上皇の命により東寺の長範が再興した。皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建される。
戦後は山中の山寺ゆえに困窮の時代を迎え、龍の窟を失い、さらに昭和34年(1959年)には三重塔を失ったが、1992年に太龍寺ロープウェイ が運行するようになり車利用者でも約30分坂道を歩かないと行きつけない難所であったが容易に参拝できるようになり、遍路ブームの到来もあって隆盛時を迎えた。
2011年7月の台風6号により、樹齢400年に及ぶスギの先端およそ15メートルが折れて、本堂の屋根を突き破ったが数年後に復旧した。 また、大師堂もその後の台風で損傷していたが2018年には復旧している」とある。
虚空蔵求聞持法
『弘法大師伝記集覧』には、「舎心嶽の岩上での虚空蔵求聞持法の修行も、その悉地(祈願成就)を得ることなく、ために、一命を捨て三世の仏力を加えるべく岩頭から身を投げる(捨身)も諸仏によりその身を抱きかかえられ本願を成就した」とある。
同様のお話は讃岐の72番札所出釈迦寺でも出合った。こちらは大師七歳の時のストーリー。 捨身云々はよしとして、虚空蔵求聞持法の修行のことだが、虚空蔵菩薩の真言「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」を百万遍唱えることにより、一切の教法を暗記できるとする難行苦行。大師も幾度か挫折したとある。
大師自らの『御遺告』には「名山絶瞼のところ、嵯峨たる孤岸の原、遠然として独り向い淹留(おんりゅう)して苦行す。或は阿波の大滝の嶽に上って修行し、或は土佐の室生門の崎に於て寂暫して心観すれば明星口に入り、虚空蔵光明考し来て菩薩の威を顕わし、仏法の不二を現す」とあり、大師の著『三教指帰』にも「大聖の真言を信じて(中略)阿國大滝の獄によじのぼり、土州室戸の崎に勤念す。谷響を惜まず明星来影す」とある。
虚空蔵求聞持法の修行はこの地、舎心嶽での苦行の末、土佐の室戸において大願成就したようである。大師自らの著にはさすがに「捨身」のくだりはない。
因みに「舎心」って、「捨身」の当て字?その意との記事もあるが、心を舎(とど)めるの意のようである。

今回のメモはここまで。次回は太龍寺から平等寺までをメモする。


勝浦川筋の生名より鶴林寺道に取り付き第二十番札所を打ち、太龍寺道の取り付き口である那賀川筋の大井までをメモする。上り3キロ強、下り2キロ強。標高40m弱の生名から標高「470mの鶴林寺迄上り、そして標高40m弱の大井まで下る。全行程6キロ弱を3時間で歩いた。痛めた膝を庇いながらの下山でもあり、ふつうであればこれほど時間はかからないと思う。
ルート図(Google Earthで作成)
鶴林寺道は「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つと聞いており、歩く前は結構身構えたのだが、距離がそれほど長いわけでもないためか、きちんと整備された道ゆえか、難路というほどの遍路道ではなかったように思う。
強いて言えば、那賀川筋から鶴林寺へと上る逆打ち遍路道が結構大変かもしれない。勝浦川筋の生名から鶴林寺までの距離より1キロほど短い山道を同じ比高差上るわけで、当然といえば当然かも。当日は生名の鶴林寺道取り付き口に車をデポしてのピストンであり、復路の上りが結構きつかった。

今回の散歩での思いがけない出合いは室町期の標石。四国最古の標石とのこと。特段標石に「萌える」わけではなく、単に旧遍路道をトレースする目安として標石を辿っているだけなのだが、それでもちょっとした感慨。遍路道に残る標石はほとんど江戸時代以降のものであり、遍路が世に広まる以前の標石に出合ったというだけで結構有り難く思ったわけである。
鶴林寺道のメモをはじめるが、ここで言う「鶴林寺道」は国指定史跡としての「鶴林寺道」ではなく、広義の意で使う。国指定史跡の鶴林道は、本日メモする遍路道のごく一部区間を指すが、メモでは鶴林寺へ向かう道として「鶴林寺道」を使う。


本日のルート;
鶴林寺道取り付口から第二十番札所鶴林寺に上る 
鶴林寺標・鶴林寺道取り付口>茂兵衛道標(154度目)>19丁石>標石2基(?丁)>18丁>標石2基>青石板状標石>18丁>15丁>水呑大師>標石2基(茂兵衛道標;219度目)>?丁>11丁>10丁>車道(青石板状標石)>9丁>8丁>7丁>6丁>4丁>3丁>第二十番札所鶴林寺
第二十番札所鶴林寺から那賀川筋の大井まで下る
舟形2丁>遍路墓>舟形3丁>不動石像>舟形4丁>舟形5丁>6丁>遍路墓>舟形9丁>>舟形10丁>四国千躰大師標石>舟形14丁>舟形15丁>中尾多七標石>自然石茂兵衛道標〈88度目)>地蔵堂(17丁)>大井休憩所




鶴林寺道取り付口から第二十番札所鶴林寺に上る

鶴林寺標・鶴林寺道取り付口;午前10時40分
スタート地点は勝浦町生名(いくな)。生名谷川傍に立つ4mほどの鶴林寺標が鶴林寺道の取り付口。「別格本山 四国第二十霊場鶴林寺」と刻まれる。この寺標の左手、生名谷川の左岸に沿って歩く。






茂兵衛道標(154度目):午前10時43分
生名谷川に沿って数分歩き、右手から水路が合流する橋の角に茂兵衛道標。順・逆を指す手印と共に、「二十番 十九番 明治三十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛154度目の巡礼時のもの。





自動車参道と交差;午前10時45分
数分歩くと鶴林寺への自動車参道道と交差。その交差点に「四国のみち」の木標など幾つかの標識が立つ。「四国のみち」」には「阿波遍路道 鶴林寺道 あと3.0km」の案内、真新しい角柱標石には「20 鶴林寺3㎞ 車道5㎞」と刻まれる。遍路道は車道を横切り右に進む。 「四国のみち」の木標傍に標石らしき石。風化・摩耗激しく文字は読めないが、「二十番鶴林寺へ十九丁 立江寺へ二り半」の文字が刻まれる、とか。
自動車参道
生名谷川の谷筋を標高200m辺りまで上り、そこから谷筋を離れ標高270mの鶴峠をへて鶴林寺へ向かう。

標石2基(20丁);午前10時50分
車道参道をクロスした遍路道は民家の間を抜け変則四つ辻に。コンクリート壁の前にいくつもの遍路標識。「四国のみち」の木標には「20番鶴林寺 歩きへんろ道」、「阿波遍路道 鶴林寺道 鶴林寺へあと2.8km」の案内がある。
その横に2基の標石。角柱標石には「二十ばん鶴林寺江二十丁」、横広の標石には「右観正寺道 中 鶴林道 左 里道」といった文字が刻まれる。
遍路道はここから山稜尾根筋を上ることになる。
観正寺
西に200m強のところに観正寺がある。阿波西国観音霊場。ささやかな本堂のみが残る。

18丁;午前10時52分
案内に従い右に折れ、石垣の組まれた畑に沿って道を上る。ほどなく右に逸れる道があり、その分岐点に「四国のみち」の木標と、「阿波遍路道 鶴林寺道 あと2.6km」とあり、遍路道は右に逸れる道を示す。「四国のみち」の木標の傍には標石があり、「鶴林寺是ヨリ十八丁」と刻まれる。




石造物2基
道の左手、藪の中に石造物が2基が並ぶ。1基は舟形地蔵。横に立つのは遍路墓だろか。道の先に茅葺小屋が見える。その手前、ふたつの道があわさる箇所に石造物が残る。何かよくわからない。





茅葺き遍路小屋:標高100m・午前10時59分
茅葺小屋に。伊予でみた茶屋跡といった風情。地図には「茅葺き遍路小屋」とある。この辺り標高100m。生名の鶴林寺道取り付口から20分で、60mほど高度を上げたことになる。勝浦川谷筋の遠景が美しい。


青石板状標石;午前11時2分
藁葺き遍路小屋の直ぐ上に舗装道路が走る。鶴林寺へと上る車道から別かれた道のようだ。遍路道は車道をクロスし更に支尾根筋を上ってゆく。
車道交差角に標石。青石板状の標石には「四国第二十番霊場 鶴林寺へんろ道」と刻まれる。中尾多七さんたちが建てたものと言われるが、遍路道でよく見る所謂「中尾多七標石」とはその形状は大きく異なる。
中尾多七標石
中尾多七さん達が昭和37年から昭和38年(1963)にかけて建てた標石は阿波の23番札所までに60近くにのぼると言う。特徴は「へんろ道」の文字と、その上に両端に矢印のついた線。線には直線の他、カーブしたものなどがあり、道方向を示す。 中尾多七標石は阿波だけでなく伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道にも見られる、と言う。

18丁;午前11時9分
「鶴林寺2.1km」と書かれた「四国のみち」の木標を越え、その先「鶴林寺1.8km」と書かれた「四国のみち」木標で遍路道は右に逸れる。分岐点には「国指定史跡(平成22年8月5日指定 阿波遍路道 鶴林寺道まで1.8km」とある。


15丁;午前11時14分
標高150m辺り、道の右手の石垣前に角柱の標石。「十五丁」とある。施主であろう「泉屋*」といった文字が刻まれる。セメント造りの道も狭くなってきた。






水呑大師;午前11時20分
ほどなくちょっとした平場。おおよそ標高200m。そこに岩組みの中から水が流れ出る。傍には「世の人に永久に残せし石清水 大師の慈悲を心して呑む 昭和三十八年盛夏 竹林晴浪」と刻まれた歌碑も立つ。
平場には小堂も建ち、「水呑大師」とある。全国各地にある弘法水であった。お堂脇には「十四丁」と刻まれた角柱丁石も立つ。
阿波遍路道案内
水呑大師の小堂脇に「阿波遍路道』の案内。
「国指定 阿波遍路道 鶴林寺道・太龍寺道・いわや道・平等寺道 四国八十八箇所霊場をめぐる遍路道は、四国4県にまたがる引法大師空海ゆかりの社寺を巡る全長1,400kmに及ぶ霊場巡礼道である。

勝浦町で指定を受けた遍路道は、阿波遍路道のうち第20番札所鶴林寺をつなぐ「静林寺道」と鶴林寺から第21番札所太龍寺をつなぐ「太龍寺道」の一部の範囲である。
「鶴林寺道』は現在地点である「水呑大師」(弘法大師が杖を突くと水が噴き出したという伝説がその名の由来となっている)と呼ばれている祠から鶴林境内までの道約1.27kmが指定範囲である。この区間には、約650年前の南北朝期に建てられた花崗岩の町石(丁石)が11基残されており、江戸時代以前より継承されてきた古道である。
また、六丁石を過ぎると遍路道は石畳道となり、鶴林寺境内手前の三丁石まで約300m続く。五丁石付近左奥には、鶴林寺により建てられた遍路の無料宿泊所である「通夜堂跡」(124m四方の建物)とともに便所跡・井戸跡なども残されている。
「太龍寺道」は鶴林寺本堂下から阿南市の大井集落手前の阿南市境までの約860mが指定の範囲になっている。この区間の遍路道は、急勾配の斜面階段が続く。遍路道の傍らには、船形の丁石や遍路墓、また道標も建ち、自然景観も含め往時の面影を色強く残している。
徳島県教育委員会/管理団体 勝浦町」との説明と共に、鶴林寺道と太龍寺道の地図が掲示されていた。

標石2基(茂兵衛道標;219度目);午前11時31分
呑大師から先はコンクリート簡易舗装も消え、擬木や石が敷かれた道となる。標高を30mほど上げたところに標石が2基。
1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 当山厄除け弘法大師毎夜開帳 右太龍寺へ一里半 左立江寺へ二里半 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛219度目巡礼時のもの。
もう1基は「鶴林寺道 十三丁 左仁*谷道 弘化二」といった文字が刻まれる。

12丁;午前11時35分
茂兵衛道標から数分、角柱の標石に「十二丁」と刻まれる。








11丁;午前11時39分
次いで現れた「十一丁」の丁石には上部に二本の刻みがある。はじめて見る形。これが上述、阿波遍路道案内に「約650年前の南北朝期に建てられた花崗岩の町石(丁石)が11基残されており」とあった標石のはじまりだろう。
それにしても室町期の標石?それって真念などにより四国霊場八十八ヵ所が定着する以前の時代。 ということは、この鶴林寺道は四国の遍路道でも最も古い時代の遍路道ということか。ちょっと感慨深い。
標石
遍路道標のはじまりは卒塔婆を建てて道しるべとしたようだ。鎌倉期には朽ちる木に替えて五輪塔形の標石となり、高野山に残ると言う。この南北朝の頃に立てられた丁石は、五輪塔を簡略化したもので、尖塔方柱形式で頭部に切り込みが入る。四国最古の頃の遍路標石だ。
鶴林寺道と同じ頃の室町期の標石は、鶴林寺を那賀川筋に下り太龍寺へと上る遍路道のひとつ、「かも道」にも残る。この遍路道も四国最古の遍路道と称される。

10丁;午前11時43分
擬木の敷かれた道を進み、標高300mを越える等高線の間隔も広くなり、少し緩やかとなったな坂を進むと「十丁」と刻まれた丁石。この丁石には「貞治二年四月十四日」と刻まれるとの記録もある。西暦1355年、四国最古の標石かもしれない。因みに貞治は北朝での元号。当時四国は北朝の勢力下であった、ということか。
この辺りで稜線部に上る。等高線の間隔も広く、緩やかな坂となる。



車道(青石板状標石);午前11時49分
コンクリートで一部固めたようになった道の先で、遍路道は鶴林寺車道参道に出る。遍路道は道をクロスし土径に入るが、その角に「四国のみち」の木標があり、傍に青石板状標石。麓で見た形式と同じ。中尾多七さんたちが建てた標石。「四国第二十番霊場 鶴林寺へ七百八十メートル 七丁 昭和四十年」といった文字が読める。




9丁・8丁
車道を越えるとすぐ「九丁」と刻まれた丁石(午前11時50分)。擬木の道を進み、「四国のみち」の木標が立つ傍に「八丁」(午前11時54分)。この八丁石には「貞治二年六月廿四日」の文字が刻まれると言う。11丁石に遅れること2カ月といった古い丁石である。

那賀川の遠景
ゆるやかに上る尾根道・稜線の遍路遍路道を進む。8丁石を越えると左手に那賀川の谷筋が見える。大きく湾曲した川に橋が見える。地図で確認すると水井橋のようだ。ということは橋の手前の家並は大井の集落だろう。あそこまで下りてゆくわけだ。




7丁・6丁
7丁(午前11時58分)、6丁(午後12時2分)の丁石を見遣りながら擬木の道を進むと自然石の敷かれた石段となり、そこを上ると再び車道参道に合流する。



4丁・3丁
車道をクロスすると下半分が埋まったのか、破損したのか少し小振りの「四丁」と刻まれた丁石(午後12時9分)。その先直ぐに「三丁」石(午後12時11分)。3丁石を越えると車道参道に出る。


2丁・茂兵衛道標(179度目)
車道参道を進み、車止めの先に向かうと山門がみえてくる。その山門手前に「二丁」の丁石。
先に進むと茂兵衛道標。参道側に「立江寺」、山門に面した側に「奥の院二里半」、また「明治三十三」といった文字が刻まれる。茂兵衛179度目巡礼時のもの。
立江寺を指す面の手印は今上って来た道を指すが、奥の院を指す手印は右手方向を指す。裏参道のようだ。かつて多くの遍路は20番札所奥の院慈眼寺に詣で、東棚野から裏参道を上りこの茂兵衛道標に至ったようである。
茂兵衛道標脇には享保年間に立てられた福良余兵衛標石がある。「一町」と刻まれる。裏参道にいくつか残ると言う。
20番奥の院慈眼寺
慈眼寺(じげんじ)は徳島県勝浦郡上勝町に所在する高野山真言宗の寺院。月頂山 宝珠院 慈眼寺と号し、別名「穴禅定の寺」である。四国八十八箇所霊場第二十番札所奥の院。本尊は十一面観世音菩薩。
上勝町正木の集落(標高150m付近)より山道を上った標高320m付近の車道脇から見上げると灌頂滝が臨め、さらに上がった標高550m付近に本坊・駐車場があり、そこから徒歩で約20分登った標高約700m付近の石灰岩質の山腹に本堂がある。
寺伝によれば平安時代初期の延暦年間(782年 - 805年)四国を巡錫中の空海(弘法大師)が、邪気の漂う不思議な鍾乳洞を発見した。洞窟の入口で数日間、加持祈祷を行ったところ悪龍が洞窟より出て空海を襲った。空海は法力で悪龍を洞窟の壁に封じ込めた。また、十一面観音を刻んで洞窟の前に堂宇を建立し安置した。これが慈眼寺の開創と伝えられている。



●第二十番札所鶴林寺●

仁王門を潜り境内に入る。明治42年(1909)再建。右手に六角堂。文久2年(1862)建立。堂内には大師作の六地蔵が祀られる、と。先に進むと左手に手水場。その先に宿坊がある。
手水場を右に折れ石段を上ると左手に大師堂(大正2年(1913)再建)、護摩堂(大正15年(1926)再建)、正面に本堂が建つ。

本堂は慶長9年(1604)の再建。左右には鶴が並び立つ。元の鶴は戦時に供出され、現在のものは戦後作り直されてもの。
本堂右手に三重塔。文政6年(1823)建立。大日如来、阿しゅく如来(あしゅくにょらい)、無量光壽如来(阿弥陀如来)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)からなる五知如来が祀られと言う。
その右に鐘楼。宝暦9年(1759)のもの。鐘は昭和に鋳造されたと言う。これも戦時の金属供出令のためだろうか。
三重塔と鐘楼の間を置くに進むと承応2年建立の鎮守大権現。その先には宝暦8年(1758)建立の聖天堂が建つ。

Wikipediaには「鶴林寺(かくりんじ)は、徳島県勝浦郡勝浦町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場第二十番札所。霊鷲山(りょうじゅさん)、宝珠院(ほうじゅいん)と号する。本尊は地蔵菩薩。
地元の人や遍路からは「お鶴さん」と呼ばれ親しまれているが、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つで、鶴林寺山(標高516.1m)の山頂近くにあり、本堂の位置で比較すると標高495m付近で八十八箇所中7番目、表参道は「へんろころがし」といわれる急傾斜の山道である。
寺伝によれば、延暦17年(798年)に桓武天皇の勅願によって空海(弘法大師)が開創。寺伝によれば、空海がこの山で修行中に雌雄の白鶴が杉の梢で小さな金の地蔵菩薩像を守護していた。空海はそれを見て、霊木に3尺(約90cm)の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた1寸8分の地蔵像を納めて本尊として鶴林寺の寺名を定めた。境内の雰囲気が釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることから山号にいただいたという。 平城、嵯峨、淳和の各天皇からの篤い帰依、源頼朝、義経、徳島藩祖蜂須賀家政などからの信仰も受けて大いに栄えた。

本尊の伝承として、昔、猟師が猪を追って山に入り矢を放ち、たどって行くと本堂で地蔵菩薩の胸に矢がささり血を流していた。猟師は殺生を懺悔し仏門に入ったということから矢負いの地蔵と呼ばれ、本尊にはその傷が残っていると云われている」とある。

Wikipediaには阿波の寺院によるある記述、「天正の兵火により焼失」のくだりがない。長曾我部勢による焼失を免れたようだ。当時の住職と長曾我部氏の縁ゆえ、とも聞く。




第二十番札所鶴林寺から那賀川筋の大井まで下る


徳右衛門道標・茂兵衛道標と標石;午後12時29分
鶴林寺を離れ、那賀川筋の大井へと下る。距離は2キロほどだろうか。那賀川筋への下りは手水場脇。下り口手前に徳右衛門道標と標石、その先に茂兵衛道標と標石が並ぶ。徳右衛門道標には「是より太龍寺迄 壱里半」、標石には「一丁 是より下り太龍寺道」と刻まれる。
茂兵衛道標には「国宝本尊地蔵大菩薩 当山本堂 太龍寺 立江寺 明治三十三年」といった文字が刻まれる、茂兵衛179度目巡礼時のもの。脇の標石には「太龍寺へ五十丁 船渡し阿り 昭和四年」といった文字が刻まれる。
遍路道マップ
徳右衛門道標脇に鶴林寺から太龍寺への遍路道マップがあり、那賀川筋から太龍寺へ向かうふたつの遍路道が案内されていた。ひとつは那賀川に架かる水井橋を渡り若杉谷川に沿って太龍寺道を太龍寺に向かうもの。
もうひとつは水井橋を6キロほど下流に下り、旧跡一宿庵に参拝し尾根筋を太龍寺に向かうもの。これが前述の「かも道」。室町期に開かれた四国最古の遍路道。現在路面状態が悪く歩行不適。ひとりでは歩かないでほしい、との注意書きがあった。


舟形2丁・遍路墓
徳右衛門道標脇から下り道に入る。宿坊の建屋を右手に見ながら自然石の組まれた坂を少し下ると道の右手に舟形地蔵(午後12時34分)。「二丁」と刻まれる。下山地点に立つ徳右衛門道標脇の標石に「一丁」とあったので、これから丁石が続くのだろう。
そこから数分下ると遍路墓(午後12時38分)がある。

舟形3丁・石仏
「三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時41分)を過ぎると石仏(午後12時44分)。お不動さんといった風情。





舟形4丁・石造物
更に続いて「四丁」と刻まれる舟形地蔵丁石(午後12時46分)。その直ぐ先、「伊予新居郡上嶋山村 馬作石塚」と刻まれた石造物(午後12時47分)があった。伊予新居郡とは私の田舎の旧名。上嶋山村は西条あたりにあった旧村名であった。周布郡にあった小松藩の飛び地であったようだ。「馬作石塚」って何だろう?

舟形5丁・6丁
直ぐ「五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時49分)、「六丁」舟形地蔵丁石(午後12時52分)が続く。





「四国のみち」木標
「大井休憩所0.8km」(午後13時)と書かれた「四国のみち」の木標を越えると直ぐ「九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時2分)がある。



舟形10丁・四国千躰大師標石
5分ほど下ると「十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時7分)。そこから数分下ると「四国のみち」の木標。ほぼ尾根筋を下ってきた遍路道はここで左折。角に照蓮の四国千躰大師標石(午後13時9分)が立つ。「是より太龍寺へ四十丁 文化六」といった文字が刻まれる。


県道283号と交差;午後13時15分
数分で車道が見えてくる。鶴峠から下ってきた県道283号だ。県道に下りると少し下ったとこころに遍路道分岐点。「四国のみち」の木標と共に「太龍寺 五・三粁」と刻まれた大きな標石があり、そこを左に折れる。標石傍には舟形地蔵が祀られていたが、丁石などの確認をミスした。
尾根筋を下って来た遍路道は、ここから谷筋といった地形を下ることになる。

舟形14丁;午後13時21分
車道を逸れ谷筋に。そこは谷筋最奥部。急傾斜の鉄骨階段を下り一気に谷筋に。尾根筋の遍路道と様相が異なり、暗い杉林の道を進む。谷筋と書いてはいるが特に川が流れておるわけではない。5分ほど歩くと岩の上のに頭部の欠けた地蔵。「十四丁」と刻まれていた。


舟形15丁・八幡神社
さらに数分。体の上半分が欠けた石仏(午後13時25分)。「十五丁」といった文字が読める。直ぐ八幡神社(午後13時26分)。傍に休憩所もある。小休止。



中尾多七標石; 午後13時29分
里に下る。直ぐ、道の左手に中尾多七標石(午後13時29分)。里が大きく開けて来た。
前方に見える稜線は太龍寺山だろう。




自然石茂兵衛道標〈88度目);午後13時32分
開けた里を数分歩くと道の左手に「21番札所太龍寺 歩きへんろ道」の案内。遍路道は舗装された生活道を左に逸れる。
その分岐点に自然石の標石。傍に「中尾茂兵衛建立の道標」の案内。「中務茂兵衛〈1845-1922)周防国大島郡椋野村 (現山口県周防大島町)の人。
本名は中司亀吉。21歳のとき家を出て、四国遍路を始め、生涯巡礼の旅を続け、78歳の時、280回目の結願を目前に倒れた。
道標の建立は、42歳の厄年、巡拝が88回になったのを記念に建て始め、以降四国各地に253基を建立した。
ほとんどは大型の石柱道標(平均124センチ)であるが、ここ大井町の道標は、唯一、自然石の表面に刻まれたもので、貴重な文化財である、
正面の刻字は「ちかみち 明治19年3月21日 88度目供養 行者 中司茂兵衛」とあった。 茂兵衛道標左の大樹脇に石組の祠に石仏が祀られる。いい風情だ。

六角地蔵尊堂(17丁);午後13時33分
案内に従い土径に入る。直ぐセメント造朱塗り柱の六角堂。境内、というかちょっとしたスペースに並ぶ石仏の中に舟形地蔵。「十七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石であった。


大井休憩所;午後13時39分
地蔵尊堂から集落を抜け県道19号に出る。県道を少し西に進み大井休憩所に。これで本日の散歩メモを終える。

次回はここから太龍寺道を上り21番札所太龍寺から22番札所平等寺へ向かう。




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