2020年4月アーカイブ

18番札所恩山寺から19番札所立江寺を打ち、20番札所への取り付口までをメモする。立江寺までおおよそ5キロ、立江寺から鶴林寺道取り付口までおおよそ10キロ、全行程15キロ程度の遍路道。
ルートをGoogle の衛星写真で俯瞰する。徳島から勝浦川水系のつくった扇状地、デルタ三角地を抜け四国山地の最東端といったところに恩山寺が建つ。立江寺はそこから那賀川水系の開いた大扇状地、デルタ三角地に向かう。
立江寺にお参りした後、那賀川水系立江川に沿って、勝浦川・那賀川水系の分水界をなす田野山地の山裾を立江川源流域まで上り、そこから丘陵地を抜けて勝浦川筋に戻り、勝浦川に沿って鶴林寺道の取り付口である生名(いくな)に向かう。
途中思いもかけず「真念へんろ道」に出合ったり、その真念遍路道を衛星写真でチェックしていると、櫛の歯のように突き出たいくつもの田野山地の支尾根を「発見」したり、三つの山地・丘陵が境を画する川筋跡といった風情の「空白地・低地」に出合ったりと地形大好き人間には結構楽しい遍路道であった。 櫛の歯のように突き出た支尾根ゆえの地名とも言う櫛淵を進む「真念へんろ道」は、その前半部は歩いたのだが、残り半分は遍路タグを見落としたのか真念遍路道ではなく旧遍路道を歩くことになった。実際に歩いたわけではないので正確ではないが、後半部の真念遍路道も、その概略ルートを参考のため掲載しておく。

本日のルート;
18番恩山寺から19番立江寺へ
恩山寺>立江道分岐>弦巻坂に標石>舗装堂に>釈迦庵>分岐点の標石>四国千躰大師標石>標石>県道136号合流点に2基標石>般若心経碑>剣山大権現碑>標石>お京塚>真念遍路道案内>不動明王石仏>立江寺右折点に2基標石>19番札所立江寺
19番立江寺から鶴林寺道取り付き口へ
立江寺>立江寺奥の院清水寺碑>標石>真念遍路道分岐点に四国千躰大師標石>真念道標>茂兵衛道標(118度目)>県道22号T字路に標石2基>茂兵衛道標>茂兵衛道標>県道16号T字路の茂兵衛道標>東林庵の標石>鶴林寺道登山口の寺標



第十八番札所恩山寺から第十九番札所立江寺へ


恩山寺を離れ、次の札所・立江寺に向かう。距離は5キロ弱といったところ。恩山寺からは阿波遍路道(立江寺道)に入ると言う。境内には特段、立江寺道の案内はない。旧参道途中、石段前にあった照蓮の四国千躰大師標石よりその手印が指す左へ、との古い記事があったが、現在は法面補強のためか道路との比高差があり、とても左に抜けることはできそうもない。 とりあえず車道参道を下ることにした。

立江道分岐
車道参道を下ると、養豚場への車道分岐点に「恩山寺右へ」の標石があり、その傍に「立江寺へ 歩きへんろ道」と書かれた案内があった。指示に従い車道を右に折れ、養豚場傍の道を進む。


弦巻坂に標石
その直ぐ先、竹林手前に「四国のみち」や遍路タグと共に「立江寺へ 歩きへんろ道」と書かれた案内が再び。
竹林の中を進むとほどなく「弦巻坂」と書かれた案内と地蔵尊・丁石が並ぶ。丁石には「三丁」と刻まれる。地蔵尊は花折地蔵と称されるが、その由来は不詳。
弦巻坂の案内
義経軍は釈迦庵から恩山寺に登る坂の向こうに敵兵がいないことを探知して、弓の弦を巻くことにしたのが坂名の由来とあった。

標石
ほどなく「立江寺へ 歩きへんろ道」案内と立江寺と刻まれた標石。案内に従い右に折れると三差路。そこには逆打ち遍路さんへの「恩山寺へ へんろ道」の案内と「四国のみち」の標石が立つ。道なりに舗装された道を進む。
義経ドリームロード
小松島市の資料には「義経が屋島に向かって進軍した進路は、現在「義経街道」と呼ばれ、義経が大阪より風雨の中を押してたどり着き、軍船を集めたとされる「勢合」を起点として、小松島市内の義経ゆかりの地を結ぶ約10キロメートルを「義経ドリームロード」として案内板や道標が設置され、史跡やロマンを求める人々に親しまれています。
義経が小松島の海岸に上陸してから屋島に攻め入るまで、わずか1日の出来事でありながら、弦張坂、弦巻坂、旗山、くらかけの岩、天馬岩、弁慶の岩屋など、義経にまつわる伝説の場所が多く残されており、人々の義経にかける思いの深さが感じられます」とあった。

立江道を進む
車道を進むと、すぐ「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内。案内に従い車道を離れ右に折れ。竹林の土径を進むが直ぐに車道に合流。大廻りする車道をショートカットしただけであった。 その先、竹林を抜け丘陵裾を蛇行する舗装道をゆっくり下ってゆく。 上述小松島市の資料に拠れば、弦巻坂へと上る道を「弦張坂」と呼ぶようだが、特段の案内は無かったように思う。

釈迦庵
恩山寺車道傍の立江寺道の入口から歩きはじめて20分弱、道の右手、藪の中に堂宇がひとつ建つ。そこが釈迦庵。道傍に「弘法大師おむつき堂」ともある。
寂本の『四国遍礼巡礼記』に、「大師御誕生のときのむつきを此藪おさむといひ伝うとなり」にある。「むつき」は産着のこと。
かつては「むつき堂」もあったようだが、現在は朽ち果てている、と。であれば、境内のお堂は釈迦庵だろう。その風情からして建て替えられたもののようだ。恩山寺の寺僧の隠居寺であったと言う。 荒れはてた境内には仏足石の案内。保護プレートの下に1m四角、幅15㎝ほどの石があった。
には、「釈迦庵の仏足石 銘文 右 三国伝来仏足石跡之図南 左都薬師寺所珍蔵之者也 古式の信仰として、我が国に仏足石が唐より伝来したのが天平勝宝5年(西暦753年)頃といわれ奈良薬師寺にある。ここ釈迦庵の仏足石は、江戸初期に造られたものといわれ、銘文によると、奈良薬師寺の仏足石を写したといわれている。その大きさは奈良薬師寺の仏足石とほぼ同じである。仏足石は全国的にも非常に少なく本県においても釈迦庵の他にはみあたらない」とあった。


分岐点の標石
釈迦庵を離れるとその先に里が広がる。T字路を左に折れ、道なりに進むと、道の右手に「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内、「四国のみち」の標石。案内に従い車道を離れ、右折し畑の畦道といった土径に入る。


四国千躰大師標石
直ぐ、照蓮の四国千躰大師標石と「四国のみち 十九番立江寺」の標石。手印に従い水路脇の細い土径を進む。いい趣の道。「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内も立つ。




標石
少し進むと「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内と標石。「四国のみち」の標石と共に、「へんろ道」と刻まれた標石が立つ。標石脇には五輪塔に似た小さな石造物もあった。
案内に従い右に折れ水路を渡る。道端に石造物が並ぶ






県道136号合流点に2基標石
民家脇の細路を進むと県道136号に合流。そこに笠石をつけた標石と茂兵衛道標。笠石丁石には「是より恩山寺七丁 是より立江寺へ十八丁 文化六」といった文字が刻まれる。
茂兵衛道標には「徳島 立江寺 恩山寺 明治三十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛165度目巡礼時のもの。
県道136号分岐点の標石
この2基の標石が並ぶ県道136号合流地点の少し北、県道136号の分岐点に小堂と標石が並ぶ。左端は中尾多七標石、その右は風化激しく文字は読めない。小堂にも標石1基。照蓮の四国千躰大師標石の上部だけのよう。
ここに立つ標石は、恩山寺から弦巻坂を通らず、県道136号・土佐街道を辿る遍路道。茂兵衛道標の箇所で両ルートは合流する。

般若心経碑・剣山大権現碑
南東に下る県道136号が南に向きを変える角に小堂。横に「奉読誦般若心経」の碑。「読誦(どくじゅ)」とは、お経を称えること。「読誦般若心経百万遍」といった石碑が各地に残るが、この碑も祈願した般若心経を唱え終えた記念碑だろうか。
この先で道は丘陵に入る。小松島の赤石の海辺に向かって突き出した細長い丘陵部。道の右手に剣山大権現碑が立つ。

19丁石・お京塚
丘陵部の低いピークを抜け、立江川筋に向かって緩やかに坂を下る。坂の途中、丘陵部から平地に出る手前、道の左手のコンクリート壁面上に標石。「十九番立江寺」と刻まれる。
道を進み、県道136号が立江川に沿って進んできた県道28号と合流する手前に「お京塚」と刻まれた大きな石碑。その傍には遍路休憩所が建っていた。
お京塚
お京という女性が前非を悔い、庵を結んだところ。
お京は石州浜田(島根県浜田市)の在。16歳で大阪へ芸者に売られるも、22歳で要助と足抜けし故郷の浜田に戻る。夫婦となった二人だがお京は長蔵と密通。要助を無きものにし、故郷を逃れた二人は四国の丸亀に上陸し、四国巡礼の姿での逃避行。
阿波の国(現在の徳島県)にある19番札所立江寺に詣で本尊の地蔵尊を拝するに、忽ち、お京の黒髪が逆立ち鐘の緒に巻きつく。
お京至心に懺悔すると、不思議にも、お京の黒髪は肉とともにはがれ、辛うじて命は助かった。 その後ふたりはこの地に庵を結び、一心に地蔵尊を念じ生涯を終えた、と。
立江寺は阿波の関所寺と聞く。この勧善懲悪の説教話は、お大師さまの審判を受け邪悪な遍路は通さじとする関所寺所以のお話であろうか。
因みに土佐の関所寺は27番神峰寺、伊予は60番横峰寺、讃岐は66番雲辺寺。

「真念へんろ道」の案内
県道136号は立江川手前で県道28号と交差する。県道136号は立江川を渡るが遍路道はここで県道28号に乗り換える。その交差点角に、「真念へんろ道 小松島へんろみち保存協会」の案内。立江川左岸を進む県道28号方向を指す。
この案内の意味するところは後程わかるのだが、その時は「この道筋が真念遍路道?」と県道28号を先に進む。道の右手に不動明王石仏が祀られる。

立江寺右折点に2基標石
ほどなく道の左手に標石2基。1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 立江寺 大龍寺 明治三十二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛171度目巡礼時のもの。もう1基は風化が激しいが照蓮の四国千躰大師標石のようである。
立江寺はここを左折し立江川にかかる朱塗りの白鷺橋を渡れば直ぐそこ。
白鷺橋
橋柱に案内。「行基上人が立江寺草創の時、一羽の白鷺がこの橋に舞い降りる。橋の名は白鷺橋とも九つ橋とも称された。「九つ橋」の由来は、九界の地位を表す標であって、積悪邪険の者はこの橋で眼がくらみ足がすくみ、一歩も歩くことができず、そのときは必ず一羽の白鷺が橋に舞い降りると。無時渡れた人は善男善女でありとする」といったことが書かれていた。上述、お京の説教話同様、関所寺としての立江寺のイメージを高める。
九界
「九界の地位を表す標」って何?「九界とは仏語。十界のうち、仏界以外の世界。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅(あしゅら)・人間・天上・声聞(しょうもん)・縁覚・菩薩(ぼさつ)の九界(コトバンク)」にある。 九界を渡り終えることにより、仏界に至るとの象徴だろうか。実際見たわけではないのだが、橋桁も八つあり、九のスペース(九界)をつくっている、とか。


第十九番札所立江寺(たつえじ)

白鷺橋を渡り直進するとT字路。角に寺標石が建つ。如何にも門前町といった雰囲気。その角を右折し、寺の境内を囲う塀に沿って進むと堂々とした山門がある。入母屋造楼門。

境内に入ると左に鐘楼、右に二重塔(多宝塔)。その裏手に白杉大明神。空海入唐時の守護神とあった。少し進んで右手に阿波七福神毘沙門天堂。
本堂はその先左手。本堂の左右に観音堂と護摩堂。大師堂は本堂に相対するように右手に建つ。その左右に神変堂と黒髪堂が建つ。 Wikipediaには「立江寺(たつえじ)は、徳島県小松島市立江町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場第十九番札所で「四国の総関所」、また「阿波の関所」として知られる。橋池山(きょうちさん)、摩尼院(まにいん)と号する。本尊は延命地蔵菩薩。


寺伝によれば、聖武天皇の勅願寺として、行基が光明皇后の安産を祈願し一寸八分 (5.5cm) の金の子安の地蔵菩薩を刻み「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊として開基したとされる。空海(弘法大師)が訪れた際、小さい本尊は失われる恐れがあるとして、一刀三礼して等身大の地蔵菩薩を刻み、本尊を胎内に収めたといい、このときに寺名が立江寺と改められたと伝えられている。当時は現在地から400mほど西の奥谷山清水寺のある場所であったという。

天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火により全焼したが、幸い本尊は難を逃れた。その後徳島藩藩祖蜂須賀家政によって現在の地で復興された。昭和49年(1974年)に火災が発生、本堂が焼けたが本尊は無事で昭和52年(1977年)に再建された」とあった。
黒髪堂
お京塚でメモしたお京の黒髪が残ると言う。上述説教話を刻んだ石碑があり、その最後に「肉付き鐘の緒を当山に納め置くは享和三年(1803)の春のことなり」とあった。
ということはお堂に、お京の神それも肉付き鐘の緒がある?とても見る気になれず。




第十九番札所立江寺から鶴林寺道取り付き口へ


立江寺を離れ次の札所20番鶴林寺への取り付口に向かう。その距離おおよそ10キロ。中川水系立江川に沿って丘陵裾を進み、その源流部の先で那賀川水系と勝浦川水系を隔てる丘陵地を北に抜け、勝浦川筋に移り勝浦町生名の取り付口に向かうことになる。
遍路道は立江寺境内を離れ、白鷺橋を渡り茂兵衛道標まで戻り、そこを左折し県道28号を歩く。

立江寺奥の院清水寺碑
道を進むとほどなく大きな石碑。「立江寺奥の院 新四国八十八ヵ所」とある。ここを右に上ると立江寺奥の院清水寺がある。
立江寺奥の院清水寺
県道から200mほど奥まったところに本堂のみが建つ。立江寺でみた寺の旧地がここ。長宗我部元親の兵火により全焼したが、幸い本尊は難を逃れた。その後徳島藩藩祖蜂須賀家政によって現在の地で復興された、は前述の通り。

取星寺道標石
先に進むと、少しあたらしい標石。「右へんろ道」とくっきり刻まれる。最近のものかと通り過ぎようとしたのだが、昭和十一年と刻まれる。お化粧直し?と、側面に「左 十九番奥院 取星寺道」とあり、大阪や日本橋といった寄進者の在も刻まれる。
清水寺の山号か院号が「取星」と軽い気持ちでチェック。と、立江寺奥の院取星寺がヒットした。場所は阿南市羽の浦。立江川の谷筋から向山山地を越えた那賀川筋の山麓にある。指示する方向は合っている。これってどういうこと?
立江寺の奥の院
チェックすると、立江寺の奥の院は取星寺の他、勝浦町星谷にある「岩屋山星谷寺(星の岩屋)」も立江寺の奥の院とあった。
その因は不詳だが、歴史的経緯の中で生まれたものだろう。特に明治維新での神仏分離令の頃、あれこれの混乱が起きている。
奥の院のケースではないが、明治の神仏分離令による札所・前札所の混乱に伊予で出合った。伊予の60番札所横峰寺には、その前札所清楽寺、妙雲寺があった。神仏分離令で廃寺となった伊予の60番札所横峰寺に替わり、その前札所であった妙雲寺が60番前札所となる。 一時期石鎚神社の遥拝所となっていた横峰寺がその後寺に復帰すると、あれこれの混乱はあったものの、現在横峰寺は60番札所、妙雲寺は60番前札所になっている。前札所であった妙雲寺は火災に遭い、現在は前札旧跡となったいた。
また、讃岐で出合ったケースでは、68番神恵院と69番観音寺がそれ。同じ境内にふたつの札所が建っている。これは神仏習合を廃することによる神宮寺の廃寺にその因がある。立江寺奥の院のケースもこういった混乱期に起きたことではと妄想する。根拠はない。
取星寺
取星寺(しゅしょうじ)は徳島県阿南市羽ノ浦町岩脇に所在する寺院。山号は妙見山。宗派は高野山真言宗。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八箇所第十九番立江寺奥の院
寺伝によれば、平安時代初期の延暦11年(792年)に空海(弘法大師)が太龍の峰(現・太龍寺)で修法中に、地上に厄災を及ぼす妖星が現れた。空海が秘法を用いると妖星が地上に落ち松の木に引っかかった。空海がその星を拾い、妙見菩薩と虚空蔵菩薩を刻んでこの地に納めたと伝わる。
南北朝時代の至徳元年(1384年)、増吽上人が鹿島大明神・香取大明神を勧進し妙見宮を建立したと言われる。明治時代の神仏分離令により取星寺と明現神社とに分離された。
星谷寺
星谷寺(しょうこくじ)は、徳島県勝浦郡勝浦町星谷にある、高野山真言宗の寺院。本尊は十一面観音。四国八十八箇所第19番札所立江寺の奥の院である。別名星の岩屋。現在は無住の寺院で鶴林寺が管理している。
その昔、人々に災禍をなしていた悪星を空海(弘法大師)が法力で地上に引き下ろしてこの岩屋に封じこめたところ、悪星が石と化したため、この石を祀ったといわれている。 境内には星の落下にまつわる伝説がある岩屋の中から見る「裏見の滝(不動の滝)」があり、その岩の外壁には「瀧之不動尊」と呼ばれる不動明王が刻まれている。樹齢約450年の朽ちかけた樟の木の巨木には「樟ノ木不動尊」や、最近、岩屋禅学堂から約30mほど上がった裏山の岩場に「定ヶ窟不動尊(天井の不動)」が刻まれ、また、道路脇の小さい滝の横には「先心之滝不動尊」石仏がある。

真念遍路道分岐点に四国千躰大師標石
ほどなく道の右手に照蓮の四国千躰大師標石。手印は県道28号を指すのだが、県道から右に逸れる道筋に「真念へんろ道」との案内がある。これが立江寺近くの県道28号交差箇所にあった「真念へんろ道」であったよう。
標石に従えば県道筋も遍路道であるが、「真念」のネームに惹かれ県道を離れ山裾の道に入る。

真念遍路道を進む
道は県道筋から次第に離れてゆく。山裾の道を進むと切通しといった丘陵鞍部を抜けると眼前に池。その向こうにトンネルが見える。池の東には高架橋桁だけがいくつか建てられている、いかにも工事現場といった風情。
池手前の工事用道路といったところに出ると、遍路タグがあり、右へと続く集落の生活道を山側に進む。
四国横断自動車道路
トンネルとか高架橋桁は何だろう。Google mapの衛星写真を見ると遍路道の北、天王谷でも工事が進んでいる、また更にその北、山稜を越えた勝浦川筋でも工事が進められていた。 四国横断道路の小松島・阿南の工事区間のようであった。

真念道標
道を山側に進み小堂を見遣りながら道なりに進み、池の西でピークを越えると遍路道は田野山地から突き出た支尾根丘陵の間を南に下る。
道を下り、県道合流点の少し手前、道の右手に標石が立ち、「真念道標」の案内があった。「右立江* 左*」といった文字が見える(?)。ここでやっと「真念へんろ道」と称される所以がわかった。地域の方の尽力により遍路道が整備されたようだ。傍に天満神社が建つ。

県道28号に真念道標
山裾を進んだ「真念へんろ道」は旧遍路道筋である県道28号に戻る。その先道が南西に少しカーブするところ、民家のブロック塀に囲まれるように2基の標石があった。1基はその形状から真念標石である。これもこの道筋を「真念へんろ道」と称する所以だろう。「右遍ん路み*』「左五丁ゆき くわんおん」「為父母六親」といった文字が刻まれる。
もう1基には「二十番鶴林寺 明治三十四年」といった文字が刻まれる。
真念へんろ道
これはメモの段階でわかったのだが、「真念へんろ道」はこの標石から再び県道を逸れ、西へと幾つかの丘陵を抜ける生活道を進み勝浦川手前の沼江で県道22号に出て、旧遍路道に合流するようだ。なんとなくよさげな道筋。分岐点に案内がなかった?見落とした?ともあれちょっと残念。因みに、県道分岐点から西に進む遍路道にも真念道標が立つと言う。道筋に3基の真念道標が立つゆえの「真念へんろ道」のネーミングを再確認。遍路道整備に尽力された地元の櫛淵を冠し「櫛淵真念へんろ道」とも称する。

茂兵衛道標(118度目)
を進み法泉寺の近く、県道左手に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「鶴林寺 立江寺 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛118度目の巡礼時のもの。







櫛淵
Google Street Viewで作成
この辺り櫛淵の地形は面白い。田野山地から突き出た幾つもの支尾根が平地を囲んでいる。この形をもって「櫛」とするのだろう。が、「淵」は?湿地帯。チェックするとWikipediaに櫛淵は「三方を丘陵に囲まれたくさび型の平地が東部に向かって展開している。隆起や沈降によりおぼれ谷(陸上にあった谷が、その地形を保ったまま何らかの理由で水面下に没してできた地形を指す用語)状にできた入江が櫛目状に連なり、櫛目形の谷が山麓を東西に走る」とあった。妄想も当たらずといえども遠からず、といったところ。
また、この辺りの平地も元は後背湿地とも潟湖であったとの記事もあった。往昔の那賀川は現在より北へと、立江川の方に流れていたともあるから、那賀川の自然堤防によってつくられた後背湿地帯であったのだろうか。これも妄想。

県道22号T字路に標石2基
この標石のある辺りは立江川が平地に流れ出すところ。ここからは北の田野山地、南の向山山地に囲まれた谷筋に入る。緩やかな坂の右手、立江川の源流点近くに池がある。立江川の上流部を「中の坪川」と呼ぶようだが、丘陵に囲まれた池は、何となく「中の坪」といった雰囲気。
坂を上り詰めた辺りは切り通しの風情。向山山地の西端部を彫り抜いて道を通しているように思える。
切通しを越えるとT字路。県道22号と合わさる。ここで那賀川筋へと左へと向かう県道28号と離れ勝浦川筋へと抜ける県道22号に乗り換え。T字路を右折する。
T字路に2基の標石。1基はT字路正面。「第二十番鶴林寺 第二十一番大龍寺 第十九番立江寺 弘法大師生誕千二百年記念 昭和四十年」といった文字が刻まれる。朱に塗られた文字、大龍寺は左折し那賀川筋への方向を示す。昭和48年(1973)に立てられたものであるとすれば、車参拝者への案内であろうか。もう1基はT字路右角。「右立江地蔵字 左鶴林寺」と刻まれる。 遍路道は標石に従いここを右に折れ、県道22号を進む。ここからは小松島市を離れ勝浦郡勝浦町域に入る。
T字路周辺の地形
Google Street Viewで作成
切通を抜けてT字路に出たとき、一瞬そこは川筋のように思えた。地形図で見ると特に川は流れれていないのだが、北の田野山地、南の向山山地、西から突き出た四国山地の支尾根の境を画しており、南の那賀川と北の勝浦川の間が「平地」で繋がれていた。何となく面白い地形だ。






茂兵衛道標(177度目)
県道を進み勝浦町の沼江に入ると、県道から右に逸れる道がある。県道整備前の旧路ではないだろうかと右に折れて道を進む。と、グルリと弧を描き県道へと戻る道の左手に茂兵衛道標があった。巡・逆打ちを示す手印と共に「立江寺 鶴林寺 明治三十三年」といった文字が刻まれる。茂兵衛177度目巡礼時のもの。



茂兵衛道標(149度目)
道は県道22号に戻る。先に進むと再び県道から離れる分岐点がある。これも旧路ではあろうと県道を離れ直進すると直ぐ、四つ辻の右手民家塀角に茂兵衛道標があった。
側面jは「十九番立江寺」とあるのだが、正面は塀側に面している。その正面には左折方向を示し、二十番鶴林寺」とある。 左折した県道22号には胎蔵寺があり、境内には大師堂もあると言う。ここを左折しても違和感はない。茂兵衛道標が立った頃は民家もなかったところ、と思えば理屈には合う。
真念へんろ道
県道から逸れる少し手前に北から県道に合わさる道がある。どうもそこが上述、県道28号から分かれ、いくつもの丘陵を抜けて西に向かう「真念へんろ道」が県道22号に合わさる箇所のようである。

県道16号T字路に茂兵衛道標(177度目
茂兵衛道標(149度目)から先の遍路道は、茂兵衛道標が指すように県道に戻り胎蔵寺に参拝し県道筋を進むのか、直進し集落の中の旧路を進むのかはっきりしない。とりあえず道標の指す県道筋に戻り先に進み、勝浦川手前でT字路・県道16号にあたる。
そのT字路角、沼江不動バス停傍に2基の標石。1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 立江寺 左とくしま道 明治三十三年」といった文字が刻まれる。茂兵衛177度目巡礼時のもの。もう1基は角柱正面に不動明王が彫られ、その側面に「左遍路道 明治廿二年」といった文字が刻まれた標石となっている。
中央に阿波勝浦沼江不動と刻まれた石柱。不動明王の刻まれた石仏が沼江不動尊だろう。

東林庵薬師堂の標石
県道22号はこのT字路が終点。県道16号に乗り換えてT字路を左折し、勝浦川に沿って進む。 「道のえき ひなの里かつうら」の手前、勝浦川に注ぐ生名谷川からの流れの手前で遍路道は県道16号を逸れ左に入る。
生名(いくな)に入った道筋の右手に東林庵薬師堂。お堂脇に大きな石碑。「鶴林寺 右お久のいん八十五丁 左二十一丁」と刻まれる。
右お久のいんは、前述の徳島県勝浦郡勝浦町星谷にある立江寺奥の院星谷寺。別名星の岩屋のこと。「二十一丁」は鶴林寺までの丁数だろう。また境内の立像石仏の台石も苔・摩耗のためはっきりしないが標石となっているようである。
お堂にあった縁起には「弘法大師、19歳のとき大龍寺へ修行の地を求めてこの地に来たり、一草庵であった東林庵に滞在し薬師如来を祀った」とあった。

鶴林寺道登山口の寺標
東林庵の直ぐ先、生名谷川傍に4mほどの石碑が立つ。「別格本山 四国第二十霊場鶴林寺」と刻まれる。ここが鶴林寺への取り付口。この寺標石を左に入り第二十番札所鶴林寺へ向かう。

今回のメモはここまで。次回は鶴林道を上り鶴林寺を打ち、那賀川筋の大井までの遍路道を標石を目安に歩くことにする。






今回のメモは徳島市郊外の17番札所井戸寺から徳島市街を抜け、小松島市の恩山寺までの遍路道。歩いて印象に残ったのは徳島市街にほとんど標石が残らないこと。井戸寺から徳島市街に入る田宮川・藪ノ木橋まではそれなりに標石は残る(記録に残るも含め)のだが、市街地でみつけたのは眉山東北端部、臨江寺傍に1基のみ。その先も市街地、かつての城下町を離れ、園瀬川を越えるまで標石はひとつも見付けることができなかった。
これって何だろう?徳島藩の遍路政策が厳しかったため?これはあたらないようである。むしろ遍路に対しては寛大で、町役人がその方針に困惑しているほどである。
徳島藩の遍路政策
「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター)」には永宝5年(1708)の資料にそのエビデンスがある。井戸寺から恩山寺への遍路が徳島城下を通過する場合の処置に対する二軒屋(徳島城下の南端、城下と郷村の境)の町役人の問い合わせに対する藩の回答がそれである。遍路手形をもつ遍路には民家を善根宿として提供すべし、とある。遍路に厳しかった土佐藩とは趣が大きく異なる。
徳島城下の地形
では、標石が残らない因は地形?徳島大学の資料を参考に地形で考えてみる;徳島市は天正15年(1587)、徳島藩初代藩主蜂須賀家政がこの地に城を築いたことに始まる。この地が選ばれたのは、吉野川地域(当時の𠮷野川は徳島市に流れていない。広義の吉野川筋)の、いわゆる「北方(きたがた)」地方と、勝浦川・那賀川流域の「南方(みなみがた)」地方の接点にあたり、 海上交通の便にも優れていたためと考えられている。
城下町は助任川や新町川、寺島川(現在はJR線敷設のため埋め立てられている)などの吉野川の分流をそのまま水濠として利用した「島普請」であり、城は標高約60mの渭ノ山に築かれ、中州であった徳島・福島・寺島・出来島・常三島などに侍屋敷が置かれた。氾濫原に造られた城下町と言えるだろう。
氾濫原であれば洪水被害も多いだろう。築城当時現在の𠮷野川は第十堰(名西郡石井町藍畑)から北に流れており、大きな川は城下に流れてはいなかったようだが、築城に際しお濠の水を求めて開削された人工水路(別宮川)が次第に大きな流れになって変わっていった。始まりは幅11mほどであった水路は、その傾斜もあり元の𠮷野川の水を奪い、明治の頃には河口部では幅1kmほどの別宮川(吉野川と名を変えるのは昭和になってから)として地図に見える。
次第に大きくなる流れになる川筋は藩の政策のより「無堤」であったよう。徳島藩の財政を潤す阿波藍の畑を、洪水による自然客土で肥やすため、といった説もあるようだが、土手がなければ洪水被害も多かったであろう。
地蔵越の遍路道
洪水で標石は流された?何の目安もない野道ではなく、そもそも城下であれば標石が無くても成り行きで進めるのでは?などと、あれこれ妄想だけを膨らませ、そのエビデンスはないものかと、井戸寺から恩山寺への遍路の記事をみていると、多くの方が地蔵越えという遍路道を歩いている。徳島市街に入ることなく、眉山(標高290m)の峠(地蔵越)を越えて恩山寺へ向かっている。
その遍路道をチェックすると、眉山を越え園瀬川筋に出た遍路道は、南に下り「あずり越」を経て地蔵寺駅の西を勝浦川に向かうもの、また、園瀬川筋を県道136号、往昔の土佐街道筋あたりまで下り、県道136号を県道209号分岐点まで南下(この区間は今回歩いた遍路道と重なる)、そこで県道136号・土佐街道を離れそのまま県道209号を南下し地蔵寺駅西から勝浦川へと向かうものなど、いくつかバリエーションがあるようだ。
記事の多さからすれば、この地蔵越えが井戸寺から恩山寺へのメーンルートであったのかもしれない。であれば、徳島市街の標石の無さの一因はこの遍路道にあるのではと、真偽のほどは別にして自分なりに少し納得。
小松島の港からの遍路道
標石の件はそれでよしとして、その遍路道を眺めながら新たな疑問。今回歩いたルートは 遍路道資料でみた、「城下を抜け徳島市の地蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」遍路道である。
地蔵橋駅近くで県道136号・土佐街道(県道136号が土佐街道の道筋であることはメモの段階でわかったのだが)を直進することなく、何故に東へ大きく廻るのだろう。道筋に特段大師ゆかりのお寺もなかった。普通に考えれば県道136号・土佐街道筋を進むのだろうが、土佐街道から分かれ、勝浦川を江田の渡しから中田駅方面へと東へと大廻りしている。
これもあれこれチェックすると、これはどうも旧小松島港で四国に渡ったお遍路さんが徳島の城下へと向かう遍路道筋であったようだ。因みに、小松島港から恩山寺へ向かう遍路道もあった。
土佐街道
ここでまたまた疑問。地蔵橋駅近くで県道136号・土佐街道筋を東に江田の渡しに向かうことなく何故土佐街道筋を進まないのだろう。勝浦川を渡る渡しがなかった?チェックすると現在の勝浦川橋の少し、県道136号・土佐街道筋には前原の渡しがあった。??
それではと眉山の地蔵越えで歩かれた方のルートを見ると、園瀬川を東に向かった遍路道は県道136号・土佐街道に入り南下、その先で県道136号・土佐街道から離れ県道209号を南に下る。これが遍路道なのか、途中にある日本一低い標高(62m)の弁天山に寄るためのものか不詳であるが、この道筋は「あずり越え」を下った後のルートでもあり遍路道のひとつではあったのだろう。
そして眉山の地蔵越えの方のルートは、県道209号を南下し勝浦川を勝浦橋で渡った後(昔は勝浦橋の少し西、前原の渡で川を越えた)、県道136号・土佐街道に入り国道55号傍、小松川中学の南に立つ標石で、今回私が辿った遍路道に合流。その後県道136号・土佐街道を恩山寺に向かっている。結局、県道136号・土佐街道を下り前原の渡しで勝浦川を越えた遍路道のエビデンスはみつからなかったが、普通に考えればこのルートもあったのでは、と妄想する。
なんだか長々とメモしたが、これは自分の妄想の履歴。が、自分なりに実際歩いたルートと地蔵越のルートなど、井戸寺から恩山寺までの遍路道の全体像が何となく繋がった。
今回のメモは徳島市街地を抜ける遍路道を辿るが、地蔵越えルートも峠越フリークには魅力的である。ルート図だけ掲載しておく。実際自分で歩き、標石を目安とした旧遍路道トレースではないので、あくまで参考ルートではある。



本日のルート;17番札所井戸寺>標石2基>地蔵尊座像>鮎喰川左岸手前にお堂と標石>鮎喰川右岸土手に7丁石>庚申堂と大師堂>田宮川・藪ノ木橋>佐古橋北詰に遍路休憩所>臨江寺東の標石>忌部神社>県道209・136号分岐点傍の標石>県道136号から分岐>地蔵橋東詰めの地蔵と標石>勝浦川(江田の渡し)への分岐点>勝浦川左岸手前に石仏>四国千躰大師標石>県道120号右折直ぐお堂>青石板状標石>藤樹寺参道手前に標石>小松川中学南:県道136号(土佐街道)合流点の標石>お杖の水>茂兵衛道標と石仏群>青石自然石標石>千羽ヶ嶽>義経上陸の碑>寺標石>参道口の茂兵衛道標>18番札所恩山寺


第十七番札所 井戸寺から第十八番札所 恩山寺へ

恩山寺の標石
井戸寺を離れ徳島市街を抜け、小松島市の恩山寺に向かう。距離はおおよそ20キロ弱である。山門前に立つ青石自然石標石「四国十七番井戸寺霊場 これよりおんざんじ」の手印に従い東に向かう。

井戸寺の東に標石2基
ほどなく四つ辻。その北東角に2基の標石。1基は舟形地蔵標石。「右五ひゃくらかん道 廿五丁」、もう1基の標石には大師座像の上に「第百六十四番 右おんざんじ」の文字が読める。
五百羅漢と言えば第5番札所地蔵寺の羅漢堂を思い起すが、そこまでは11キロもあり25丁では距離が合わない。それに指の指す方向も違う。舟形丁石の指す、ここから3キロほどのところにある五百羅漢ゆかりの地はどこだろう。
地蔵越えルート?
と、当日は思ったのだが、メモの段階で17番井戸寺から18番恩山寺に向かう遍路道には徳島市街を抜けるルートと、眉山の地蔵越えを経て恩山寺へ向かうルートがあることを知った。その地蔵越えのルートがこの角を右に曲がるとする記事もある。
実際に辿ったわけではないため確証はないが、眉山地蔵越えルートの目安なのだろうか。とはいえ、五百羅漢にまつわるお寺さまは眉山山裾の地蔵院まで、その距離5キロ弱の区間に特に見当たらなかった。

地蔵尊座像
東に少し進むと道の左手に大きな地蔵尊座像。台座には「宝暦三 念仏講」といった文字が刻まれていた。舟形地蔵や標石らしき石柱もあるが、特にそれらしき文字は刻まれえていなかった。





鮎喰川左岸手前にお堂と標石
ほどなく道は交差する県道30号を横切り、更に東へと向かい鮎喰川左岸に達する。土手手前にお堂があり、常夜灯と4mほどの板状青石供養塔。「奉供養光明真言五億一百万遍」と刻まれる。
お堂の道を隔てた向かい側に石仏や石碑が並ぶ。左橋は照蓮の四国千躰大師標石。大師像と共に、「四国中千* 文化六 真念再建」といった文字が刻まれる。
その横に並ぶ6基の石仏のうち、1基は遍路墓、それ以外の5基は舟形地蔵丁石。「十丁、十*丁、十二丁、十七丁」といった文字が刻まれるようである。
真念再建
四国千躰大師標石に刻まれた「真念再建」とは真念道標や、日本最初の遍路ガイドブック『四国遍路道指南』を著した真念の威徳を継がんとした照蓮の意を示したもの。
四国中千躰とは四国遍路道に千躰の標石なのか、多くのと言う意味での「千」なのか不詳だが、ともあれ真念に心酔した照蓮が真念道標の後を継ぐべく道標建立を発願したわけだ。が、文化六年(1809)からはじめ数年で挫折した、と言う。
なお真念が立てた標石は200基を越えるとされるが、現存するのは20数基。照蓮の立てた標石は70基ほどと言われるが、ほとんどが阿波であり確認されたものとして50基残る。その他は土佐6基、讃岐3基で伊予は未だ発見されていない。
照蓮に先立つ道標建立の先駆者として武田徳右衛門がいるが、その出身は伊予の今治。武田徳右衛門道標は確認された110基ほどの大半が伊予に立つ。照蓮標石が伊予にないのはそれ故か、また照蓮は徳島講中をパートナーとして建立した故か薄学のわが身には不詳である。

鮎喰川右岸土手に7丁石
往昔の遍路道は土手に上り、鮎喰川に架けられた潜水橋を渡り対岸に出たようだ。鮎喰川の中流から下は雨の少ない時期は伏流水になっていたようで、当日も水はなく渡河できそうでもあるが、とりあえず少し上流に架かる中鮎喰橋を渡り、遍路道の対岸辺りに向かう。そその土手には舟形地蔵が立つ。七丁石のようだ。

庚申堂と大師堂
舟形地蔵のある土手を下りると秋葉神社がある。いかにも昔の道筋といった趣の街並み。道を東に進むとお堂がふたつ並ぶ。右には真言が書かれた木札。大師堂だろう。左のお堂には「庚申」の木札。庚申塔を祀るお堂。
庚申堂の左に大きな板状青石碑。「大峰山上四十五度 伊勢六神宮三十 石鎚山剣山四国霊場」といった文字が読めた。周りには石仏なども並ぶ。



田宮川に架かる藪ノ木橋の北詰めに進む
道なりに東に進む。道筋には丁石が残る、といった記事もあったが見ることはなかった。県道1号の交差点を直進、更に東に向かう。道は緩やかに南東に曲がりその先で県道30号を横切る。
県道30号を横切った道の右手に地蔵堂が建つ。この間も古い資料にある丁石を見ることはできなかった。
その先、遍路道は田宮川に架かる藪ノ木橋の北詰めの交差点に出る。
この辺りまでの遍路道は丁石や大師堂などによりほぼ確定しているようだが、この先徳島市街を進む遍路道は、眉山の東北端に建つ臨江寺傍まで標石もなく道筋ははっきりしない。成り行きで臨江寺辺りまで進むことにする。





徳島市街に

臨江寺の東に標石
藪ノ木橋を渡り成り行きで徳島市街を蔵元元町、蔵元を通り佐古八番から南佐古七番、南佐古五番、南佐古三番を抜け、諏訪神社を見遣り運河のごとき佐古川に沿って佐古三番、佐古二番、佐古一番へと眉山北側の山裾を進む。

眉山東北端近くに標石の目安となる臨江寺がある。寺は道筋から少し奥まりちょっと分かり難いが、その直ぐ東、眉山の東側に廻り込む道の左手に標石が立っていた。
正面に「いどじミち」の文字が読める。手印も井戸寺方向を指す。逆打ち遍路さんへの標石だが、往昔のお遍路は特段札巡に拘っていなかったようである。また側面には「おんざんじ道」と刻まれる。文化十三年の銘もある。
田宮川に架かる藪ノ木橋からこの地までは標石もなく旧遍路道は特定できないが、少なくともこの標石の地には続いていたのだろう。
佐古橋北詰に遍路休憩所
標石の北、佐古橋の北詰に「遍路休憩所」があった。そこに石碑があり「笹山とおれば笹ばかり 大谷とおれば石ばかり いのしし豆喰うて ホーイホイホイ 一丁目の橋まで行かんか来いこい」とある。これは何?
「アーラ偉い奴ちゃ エライヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ 踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らにゃ 損々」に続く阿波踊りの踊りばやしのようだ。「一丁目の橋」とは佐古橋のこと。
佐古川
運河のような水路に佐古川とある。川というにはちょっと不自然。チェックする;Wikipediaには「徳島県徳島市の市街地西部に水源があり、東へ流れ、徳島市中心街を流れる新町川中流部に合流する。
佐古と南佐古の境を流れており、水源は佐古と南佐古の西端にある。ただしさらに西の南蔵本町や蔵本町にはかつての佐古川上流部である水路が散見され、地下で佐古川とつながっている。
下流部は大谷(諏訪神社付近の眉山山麓)で切り出された青石の石垣で護岸が整備されているが、諏訪神社付近より上流ではコンクリートの護岸が増える。
新町川合流点近くでは、佐古と西新町・西船場町の境を流れる。合流点には水門があり新町川と区切られている。
元は鮎喰川の最も南寄りの流路であり、中世まではしばしば鮎喰川が流れ込んでいた。しかし蜂須賀家政が徳島城下町を建設するとき、徳島城築城時に鮎喰川右岸(南東岸)に築堤され、鮎喰川が流れてくることはなくなった。
江戸時代の佐古は布屋や染色業者など新興商人が軒を並べており、その中心は佐古川の堤防沿いの道である通称「往環」と呼ばれる伊予街道だった。商人たちは佐古川に物資を運ぶための船が通る川にするべく徳島藩に河川の整備をするように要請した。
明治時代から大正時代にかけて佐古が繁栄した頃に造られた青石の石積み護岸が現在でも所々に残っている」とあった。
築堤云々は前述徳島藩の無堤政策と矛盾するが、この地の商人の「力」故だろうか。それはともあれ、運河といった人工的な造作の所以がわかった。またこの地に阿波踊りの碑が立つのは、かつて栄えた佐古の町で阿波踊りも盛んに行われたといことだろう。
踊りばやし
石碑にあった、大谷はWikipediaにあるように諏訪神社山麓であることはわかった。では笹山って?どうもこれは南佐古三番町にあった佐古山のようだ。佐古山には笹が茂っていた、と。
ではでは「いのしし豆喰うて」って何?どうも豊作を祈る農耕儀礼である「猪追い」の囃子ことばのよう。つまりは、この踊りばやしは南佐古の農耕儀礼の囃ことばが由来のようである。藩政時代、この佐古が阿波踊りの盛んな地であったとのエビデンスと言えるだろう。
臨江寺のお松大明神
標石を探して臨江寺辺りを彷徨っていると、「お松大明神」の小社があった。由来に「狸合戦で有名なお松さんは、南佐古一番町臨江寺境内に祀ってある。椿さんの長女で庚申新八の女房であるお竹さんの姉に当たり、津田の六右衛門の娘小芝姫の乳母であったが、狸合戦では金長方に味方して義弟の新八と力を合わせて奮闘した。
明治の始め頃、佐古の大安寺に住んでいた幸兵衛と言ふ人か、夜中に富田の方から帰るとき、丁度お松さんの祠の前を通りかかると、橋下で狸が頭から藻をかぶって美人に化けているので、幸兵衛さんはお松の奴今時分美人に化けて何をするのかと暫く見ていると、美人に化けたお松ほトボトボと近所の家へ入ったので、その跡をつけて行って、戸の隙間から家の中を覗いていると、背後から「モシモシあなたは妙な格好をして一体何をしているのですか」と背中を叩かれて、気がつくと化かされていたので、戸の隙間と思って、一生懸命に石垣の穴をのぞいていたという」とある。
狸合戦って何?Wikipediaにある説明をもとにまとめる;
阿波狸合戦(あわたぬきがっせん)は、江戸時代末期に阿波国(後の徳島県)で起きたというタヌキたちの大戦争の伝説。
物語の成立時期は江戸末期と見られており、文献としての記録は1910年(明治43年)に刊行された『四国奇談実説古狸合戦』が初出とされる。明治時代から戦中にかけては講談で、昭和初期には映画化されて人気を博す。
そのお話は;天保年間(1830年から1844年まで)、小松島の日開野(後の小松島市日開野町)で大和屋(やまとや)という染物屋を営む茂右衛門(もえもん)が助けた狸から物語がはじまる。
狸を助けた善行故か、大和屋の商売が繁盛。やがて、その狸は店の万吉に憑き、「自分は金長という狸。この付近の頭株で歳は206歳」と素性を語る。その後も万吉に憑いた金長は、店を訪れる人々の病気を治したり易を見たりと大活躍し、大評判となった。
しばらく後、まだタヌキとしての位を持たない金長は、津田(後の名東郡斎津村津田浦、現・徳島市津田町)にいるタヌキの総大将「六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出た。金長は修行で抜群の成績を収め、念願の正一位を得る寸前まで至った。
六右衛門は金長を手放すことを惜しみ、娘の婿養子として手元に留めようとした。しかし金長は茂右衛門への義理に加え、残虐な性格の六右衛門を嫌い、これを拒んだ。
これにより六右衛門は、金長がいずれ自分の敵になると考え、金長に夜襲を加えた。金長は一旦日開野へ逃れるも、その後反撃に転じ六右衛門たちとの戦いが繰り広げられた。この戦いは金長軍が勝り、六右衛門は金長に食い殺された。しかし金長も戦いで傷を負い、まもなく命を落とした。
茂右衛門は正一位を得る前に命を落とした金長を憐み、自ら京都の吉田神祇管領所へ出向き、正一位を授かって来たという。

これがおおまかなお話。とはいうものの、何を言いたいの?よくわからない。Wikipediaをもとに、もう少し深堀り;「天保年間には、大和屋に助けられたタヌキが恩返しをしたという動物報恩譚があり、これを由来とする説がある」、と。だがこれだけでは狸合戦という物語全体からみて説得力に欠ける。
続いて、「この合戦における争い、悲恋、葛藤などは人間社会でも珍しくなかったため、阿波狸合戦の実態は、人間社会での出来事をタヌキに置き換えたものとも考えられている」とする。物語としてはこの説は説得力があるが、何か足りない。
更に続けて「徳島の修験道の霊山では別派同士の争いがあったこと、伝説を綴った古書『古狸金長義勇珍説席』で投石の場面があり、投石は中世以来の戦闘手段であったことから、太竜寺山と剣山との間で生じた修験道の争いがタヌキの伝説に仕立て上げられたのではないか、という説もある。この説においては、太龍寺の修験者が金長、剣山の修験者が六右衛門のモデルになったと考えられ、太竜寺山から北上しようとする勢力と剣山から南下しようとする勢力が衝突し、流派や拠点の異なる者同士の紛争に繋がった可能性が示唆されている」とする。
また、「徳島県では藍染めが盛んであり、その工程で砂を用いる。そして津田浦で採れる砂は藍染めに最適であった。よって、勝浦川の両岸地域で砂を巡る争いが起き、これが狸合戦の題材になったという説」がある。
さらに、「津田地区と小松島の間の漁業権の争いがモデルになったとの説もある。これらのように人間をモデルとする説が事実なら、どこか憎めないタヌキたちの姿は、実は愚かな人間たちの振る舞いの投影ということになる」とする。
そして最後に「なおタヌキの話の真偽はともかく、茂右衛門は実在の人物であり、映画『阿波狸合戦』も、講談本とともに茂右衛門の直系の子孫の家の口承をもとに制作されている。また万吉にタヌキが憑いた事件は、狸合戦とは別に実際に起きた事実であり、後の講談師がこの万吉の事件と狸合戦を結び付け、「阿波狸合戦」を創作したとする説もある」とWikipediaは締める。何となく由来の背景がわかった。

臨江寺東の標石で、遍路道トレースの本筋から離れたトピックで結構メモが多くなった。先に進む

寺町を進む
眉山東麓に廻ると寺が並ぶ寺町。Wikipediaには「蜂須賀家政は徳島城の建設に際し、寺院を勝瑞(現板野郡藍住町勝瑞)や旧地の尾張から移し、最初は寺島に集め、後に眉山山麓の当地に移転させた。その移転年代は不詳」とある。寺島は現在の徳島駅前辺り。徳島城は徳島駅の裏にある。
標高62mの徳島城の前面にあたる寺島から現在地寺町に移したのは、眉山が敵の手に落ちた場合に備えたもの、と言う。標高280mの眉山の山裾の寺に集結し防衛拠点とするとともに、攻撃の拠点ともしたのだろう。
このあたりも遍路道の目安となる標石は残らない。

大道
山裾を成り行きで南に進む。眉山ロープウエイ乗り場前を過ぎ、大道を進む。徳島市つくった遍路道の記事に、佐古から大道を進むとあるので、この辺りを遍路は抜けて行ったのだろう。
大道の地名は昭和15年(1940)になって出来たもの。戦前は徳島市内と神山方面を結ぶ大きな街道があったのが地名の由来だろうが、大道の地名は江戸の頃にも既にあったようだ。 現在も徳島市内から大道を抜け神山町に至る国道438号が走る。
大道の眉山寄りに伊賀町。伊賀者ゆかりの地であろうと推測。徳島市の資料には、出雲の堀尾家に仕えるもお家断絶、更に頼った讃岐の生駒家も改易、ために徳島藩に仕官を求めた伊賀者に由来すると。徒歩侍からはじめ、士分取り立てられ藩主のSPとしての御役目にもついた伊賀士の屋敷が置かれた地であった。元は伊賀士丁と呼ばれたが、昭和15年(1940)伊賀町となった。

忌部神社
大道・伊賀町を南に進むと眉山最東端、標高109mの勢見山に当たる。そこに忌部神社が建つ。
阿波の遍路歩きの道すがら忌部神社や忌部族にまつわる話に幾度か出合った。阿波の国が開かれるはるか昔にその歴史を遡る忌部神社。とは言うものの、この徳島市内にある忌部神社は明治の頃に建てられたもの。
何時だったか阿波の忌部市ゆかりの社を辿ったのだが、この徳島市内の忌部神社はパスした。その理由は、江戸から明治にかけて阿波の忌部神社の本家争いがあり、その妥協の産物として明治の頃、この地に忌部神社を建てたとの経緯故。
明治の頃に建てたものであれば往昔お遍路さんが訪ねたとも思えないが、とりあえず立ち寄ることに。長い石段を上り社殿にお参り。
忌部氏と忌部神社
遍路道を歩くと阿波の忌部氏ゆかりの地に出合う。頭の整理も兼ね、以下阿波忌部ゆかりの社を巡ったときのメモを再掲;忌部氏は天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」をその祖とする。
天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始したと伝わる。で、何故に、穀木(かじ)麻を植えることが製紙・製麻・紡織の諸業を創始であるのか?チェックすると、麻や穀(楮)は、木綿(もめん)が日本に伝わる以前の糸・布・紙の原料。そこからつくられた原料のことを「木綿(ゆう)」と呼ばれ、布を織り、神事の幣帛や紙垂などに使われたようである。
この「天日鷲命」、天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の岩戸開きに大きな功績を挙げた、と伝わる。天日鷲命の神名も天照大御神が岩戸から出てきて世に光が戻ったとき、寿ぐ琴に鷲が止まったことに由来する、とも。
斯くの如き、当時の民の世界においてもその生活基盤技術の創始者であり、また神々の世界にあっても赫々たる実績を挙げた神故か、阿波の忌部氏の祖神である天日鷲命は、上述の如く天太玉命の率いる五柱のうちの第一の随神に挙げられる。そしてまた、その「第一に挙げられる神」の子孫故のことであろうか、阿波の麻殖(植)郡(おえ)郡に拠点を置く忌部氏については、単に地方の有力氏族というだけでなく、古代世界におけるその位置づけについて、諸説あるようだ。
通説では、忌部氏の本宮は奈良県樫原町忌部町にある天太玉神社(あめのふとたま)とされ、そこから各地方へ忌部氏が下って行ったとされる。それに対し、中央・地方の忌部は阿波忌部がその母体となっており、阿波忌部の全国進出とあわせて技術と文化の伝播をもたらした。つまりはヤマト王権も阿波忌部がその成立を支えた。こうした阿波忌部の起点となるのは麻植郡であるとするから、いうなれば麻植郡は日本そのものの発祥の地である、といったものである。
『古語拾遺』には、下総の地の名前の由来について「天富命、さらに沃壌を求め、阿波の斎部(いつきべ)を分かち。東国に率い行き、麻穀を播殖す。好麻の生ずるところ、故にこれを総国という。穀木(かじき;ゆうのき)の生ずるところ、故にこれを結城郡という。故語に麻を総というなり、今の上総下総の二国これなり」と言う。これをもって忌部氏の全国進出の一例とする。
阿波忌部氏が大和から下った一派なのか、阿波忌部氏がヤマトを支え日本をつくりあげた氏族なのか私のような門外漢にはわからない
斯くの如き論争はさておき、古代日本で重要な役割を果たした阿波忌部氏が祀る社が如何なるものかと社をチェック。と、徳島市内と吉野川市、そして美馬郡つるぎ町にそれらしき社が見つかった。
名称は忌部神社であったり、種穂神社であったり、御所(五所)神社であったりと、さまざまだがこれらの社の内、徳島市内の社は除外することにした。その理由は、明治になり、忌部神社の本家本元(延喜式内社)を巡る争いが激しく、その妥協の産物として造られた社が徳島市内の社である、ということから。ということで、阿波の忌部神社は吉野川市にある忌部神社(山川町忌部山)と種穂神社山川町川田忌部山)の2社と美馬郡つるぎ町の忌部(御所)神社の合計3社を辿ることにした。
これら3社、明治に本家本元(延喜式内社)を争った社と言うだけでなく、江戸の頃にも結構激しい本家本元争いを展開している。その主因は由緒正しきと言った正当性だけでなく、その正当性故に明治は国家から「補助金」を、江戸は藩から「社地」を得られるといった経済的メリットもあった、と言う。

意図したわけではないのだけれど、行かず仕舞いであった忌部神社にも偶々出合い、かつての城下町を後にして二軒屋を南に下る。

二軒屋の国道438・県道136号重複区間を南に下る
忌部神社から先は国道438・県道136号重複区間となっている二軒屋を進む。ほどなく国道438号は眉山の南側にと分かれ、園瀬川に沿って神山町へと向かう。
遍路道はそのまま県道136号を南下する。この県道136号は往昔の土佐街道筋であることを、メモの段階で知った。
二軒屋
本メモのイントロのところで、二軒屋を徳島城下の南端、城下と郷村の境とメモした。徳島市の資料に拠れば、「城下町徳島の南の玄関口にあったのが二軒屋町。阿波五街道と呼ばれた官道の一つ、土佐街道沿いに、江戸時代中期に成立した新興の町人地だ。
江戸時代中期以降、城下町は拡大の一途を辿り、そこで生まれたのが、「郷町」と呼ばれた新興の町人地。郷町(ごうまち)とは、郡(こおり)町とも呼ばれ、城下の本町(ほんまち)に対して郡奉行(のち郡代)管轄下で店舗を構え商業を許され町を形成した場所だった。
二軒屋町の町名は、その名のとおり、古くは人家が2軒しかなかったからという。しかし、江戸時代前期こそ人家が少なかったが、時代が下るにつれて家数が飛躍的に増え、江戸時代後期には230軒ほどになった。
町場化の進展に伴い、元禄6年(1693)には町方に編入され町奉行支配となっている。堂々たる町になっていた二軒屋は、元禄10年には再び村方に戻されるも、その後も順調に発展を遂げ、内町や新町、福島町、助任町、佐古町といった本町を衰微させるほどであったという。そして寛政元年(1789)以降は町奉行支配下に置かれることになる。
とはいえ、郷町は本町とは異なり、もとは村であったので、土地は郡代支配で依然として「村」、家屋と住民は町奉行支配の「町」となっている。如何にも城下町と郷村の境、その名も両者を足して二で割った「郷町」という二軒屋の歴史が面白く、遍路トレースの本筋からは離れるがメモを残した。
因みに「郷町」は城下町徳島近辺では、二軒屋の他、淡路街道沿いの助任郷町、伊予街道沿いの佐古郷町、福島築地(徳島城の東に福島の名がある)にできた福島郷町があったとのことである。

県道136・209号分岐点に標石
忌部神社から先は県道136号を進む。冷田(つめた)川に架かる冷田橋、園瀬川に架かる法花大橋を渡るとその先で県道136号・土佐街道はふたつに分かれ、直進は県道206号となるが遍路道は県道136号に沿って南東に方向を変える。
この県道の分岐点の直ぐ南、県道209号から県道136号に抜ける道角に標石が立つ。手印と共に「扁ん路道 森神社」と刻まれる。扁ん路道は県道136号・土佐街道方向を指す。

森神社
この分岐点から南西、徳島市方上町森谷にある。Wikipediaには「平安時代、覚鑁が創建したものと思われる。江戸時代に勧進され、明治年間に太発行して「方上の権現さん」と親しまれ、その名は県内はもちろん紀州にまで轟いたという。
境内には名水と評価される湧水があり、とくしま市民遺産に選定されている」とあった。

県道136号からの分岐点にお堂と標石
南東に向かう県道136号・土佐街道筋は犬山踏切で牟岐線を越え、西須賀で南に向きを変える。その先、牟岐線地蔵橋駅の東で遍路道は県道136号・土佐街道を離れ勝浦川方向へ向かう。
その分岐点角に小さなお堂と標石。標石は照蓮の四国千躰大師標石だ。大師坐像と「四国中千躰大師」の文字が読める。
土佐街道から離れる
今回歩いた遍路道は、ここで県道136号・土佐街道筋を離れ、徳島市の遍路資料にある「蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」ルートに入る。
散歩当日は県道136号が往昔の土佐街道であったことも知らなかったため、何も考えず土佐街道からわかれたのだが、土佐街道を進み、勝浦川を前原の渡し(これもメモの段階でわかったこと)で越え、その先も県道136号・土佐街道を恩山寺に進む遍路道もあったのだろうか。
分岐点の標石が照蓮の四国千躰大師標石であり、遍路道の方向を示すことがないため、ちょっとモヤモヤが残る。

地蔵橋東詰めにお堂と標石
その先、多々羅川(大松川?)に架かる地蔵橋の東詰めにふたつの祠。お堂傍に「三圀伝来阿弥陀」と刻まれる石碑。右の石造りの祠には坐像仏。左手、橋側のセメント造りの祠には「右 遍路道」と刻まれた舟形地蔵丁石が祀られる。
またその道の反対側にも3基の標石。下半分が埋まった照蓮の四国千躰大師標石、青石の自然石の標石、上部が破損した比較的大きな標石がある。崩し文字は読めない。 分岐点の土佐街道分岐点の遍路道云々は別にして、このルートが往昔の遍路道であったことはこれら標石をそのエビデンスとする。

勝浦川左岸手前に石仏
道なりに進み国道55号を交差し、更に南東に歩くと比較的大きな車道に合流。右折し車道を少し南に進むと左に分岐する道があり、その分岐点に小さなお堂が建つ。遍路道は左に分岐する道であろうと、南東へと進むと勝浦川の土手にあたる。
勝浦川土手の手前、道の右手にコンクリートブロック造りの祠があり、そこに2基の石仏と舟形地蔵が並ぶ。
小松島市江田町
この土手手前の左岸一帯は徳島市を離れ小松島市江田町になっている。基本小松島市は勝浦川右岸であり、その右岸にも江田町がある。町域が勝浦川によって分断されている。
なんとなく不自然。通常行政域は川など自然の地形で区切られる。チェックする;勝浦川の西を流れる大松川、多々羅川はかつての勝浦川の流路とも言う。自由蛇行した勝浦川はこの辺り一帯に大きな三角州を形成し湿地帯となっていたようだ。であるとすれば、護岸整備が実施される以前の勝浦川旧流路による行政区分の名残だろうか。単なる妄想。根拠なし。 因みに前述地蔵橋が架かる川が大松川か多々羅川か流路だけでははっきりしなかった。実際多々羅川と大松川は合流、分流を重ねているようだ。

潜水橋で勝浦川を渡る
土手に上り勝浦川を見る。と、土手下から対岸に潜水橋(江田橋)がある。かつて「江田の渡し」を遍路が渡ったとするが、お遍路さんはこの辺りで勝浦川を渡ったのだろう。






四国千躰大師標石
勝浦川右岸の江田町を進む。道の右手、民家前に標石。大師坐像と「四国中千躰大師」の文字が読める。照蓮の四国千躰大師標石。この道筋が遍路道であったことを確認。 道なりに進み県道120号に出る。合流点は道路整備のためか五差路となり少々ややこしいが、遍路道は県道120号を進む。



県道120号を右折し南下
県道120号を進み、道が東へと向かって程なく、牟岐線中田駅の一筋東の道を右折し南に下る。遍路道との確証はないのだが、「江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」とあるため、成り行きで右折した。 直ぐ水路があり、左手に小さなお堂。その先道の左手に自然石の青石板状標石。手印と共に「十八番是ヨリ三十丁」と刻まれる。このルートが遍路道のオンコースであった。

「江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」遍路道
これもメモの段階で気づいたことだが、何故に地蔵橋の傍で県道136号・土佐街道筋を離れ、東へと大きく廻り込むのだろう。チェックすると、この中田から江田の渡しへと続く遍路道は、小松島の湊で四国に上陸したお遍路さんが徳島城下へと辿る遍路道であったよう。何故土佐街道を南下しなかったのか依然不明だが、遍路道を歩いたことは間違いなかった。

藤樹寺参道口に標石
南に進み長手踏切で牟岐線を渡る。その先に神田瀬川。この小さな流れも往昔の勝浦川の流路跡とのこと。勝浦川の形成する三角州の低地に水路が見え、源流点は芝生川(後述)と同じく田浦の清浄ヶ淵とあるが、なんとなく勝浦川伏流水の湧水地といったところにある。如何にも乱流した川の流路跡といった趣の川である。
この乱流の川筋を見るにつけ、県道136号・土佐街道筋のほうが地形としては安定しているように思えるのだが、土佐街道の西にはかつての勝浦川の流路であった多々羅川、大松川が流れているわけで、どうしたところでこの辺りは勝浦川水系のデルタ、低湿地ではあったのだろうから、その時その時の状況に応じ、お遍路さんもルートを変えて歩いたということかもしれない。

神田瀬川を越え先に進むと、道の左手に倒れた標石。「左*」といった文字が読める。 遍路道は先に進むが、ここを右折すると藤樹寺参道。参道といっても普通の野道だが、何気なく右に折れちょっと立ち寄り。
藤樹寺
古き趣のある山門を潜り境内に。本堂にお参り。本堂横に「大鷹、小鷹、熊鷹大明神」と書かれたお堂。案内には「藤樹寺境内にいづれも鎮座している。大鷹狸は金長狸の身代わりとなって戦死し、小鷹狸は阿波の狸合戦で晴れて父の仇を討ち二代目金長狸となり小松島浦に善政を施したという。
農家魚家を守護し、交通安全厄除に霊験あらたかといわれている 阿波狸奉賛会」とあった。 当日は何のことやらと思いながら呼んだのだが、メモに段階で上述臨江寺のお松大明神で阿波狸合戦のことを整理したので、理解できた。
説明にはない「熊鷹」は大鷹の子、といった記事もあるが、既に訪れた井戸寺にも「熊鷹大明神」が祀られていた。そのメモには、熊鷹大明神は伏見稲荷などにも祀られ、稲荷信仰のコンテキストの中に見られる。この熊鷹が狸の子か、狐を眷属とする稲荷社との関連なのか不詳である、とメモしたが、それ以上の深堀は未だできない。
この辺り小松島市日開野。上述阿波狸合戦の舞台であった。




小松川中学南・県道136号合流点の標石
左手に小松島中学校を見て先に進むと、右手から県道136号・土佐街道が合わさる。その角に少し横広の標石。「四国第十八番 是ヨリ十三丁 大正十三年」といった文字が刻まれる。
土佐街道との合流点
ここが土佐街道との合流点であることはメモの段階で分かったこと。県道136号が往昔の意土佐街道であることがわかったため、上述イントロ部でのあれこれの疑問が起きた地でもある。

茂兵衛道標(215度目)と石造物群
県道136号が国道55号と交差する少し手前に大きな石造物。「大乗妙典」と刻まれる。その前に茂兵衛道標。「井戸寺 恩山寺 小松島 明治四十年」などの文字が刻まれた茂兵衛215度目の巡礼時のものである。
その茂兵衛道標脇に案内があり、「宝剣塔 ここは昔の接待場 藤のお薬師」の「文字と矢印で弘法大師お杖の水」とあった。
「宝剣塔 ここは昔の接待場 藤のお薬師」とはこの場のことだろう。小松島市の遍路資料にある「加々ませの接待所」ではないだろうか。「加々ませ」はこの辺りの地名。由来は不詳。
弘法大師お杖の水は北を指す。ちょっと立ち寄る。
弘法大師お杖の水
少し道を少し引き返し、東への道に折れるとほどなくお杖の水。弘法大師御杖の水と刻まれた大師像が祀られる。横にあった案内には、お大師さんが塩気の多い水に地元人の難渋を想い御杖をもって真水の湧き出る泉源を開かれた、と。続けて、この地を「接待場」と呼びお遍路さんの乾きを潤した、といったことが刻まれていた。
大師像の裏手には如何にもポンプ施設といったものがある。現在はポップアップしているのだろうか。
小松島の湊から恩山寺への遍路道
これもメモの段階でわかったことだが、四国遍路へと小松島の湊に上陸し恩山寺に向かう遍路道はこの地で県道136号・土佐街道筋に合流したようである。
地蔵越の遍路道
眉山の地蔵越からの遍路道は、あずり越・県道209号ルートや園瀬川・県道136・県道209号経由ルートなどバリエーションはあるものの、勝浦川を前原の渡し(現在は勝浦川橋)越えた後は県道136号・土佐街道を下り、この地で今回私が辿った江田・中田経由の遍路道に合流し県道136号・土佐街道を進むことになる。これもメモの段階でわかったこと。

県道136号・土佐街道に青石自然石標石
国道55号を斜めに横切った県道136号・土佐街道は直ぐ芝生川(しぼうかわ)を渡る。県道をしばらく進むと道の右手に青石の自然石標石。
手印と共に、「四国第十八番恩山寺江八丁 明治十」といった文字が読める。
芝生川
芝生川も上述神田瀬川と同じく勝浦川の旧流路。源流も神田瀬川と同じく田浦の清浄ヶ淵と言う。

千羽ヶ嶽
県道135号・土佐街道は山裾に向かう。バス道ではあるが結構狭い。山裾に沿って進むと道の右手の岩壁に「千羽ヶ嶽のお豊とお君の墓」とある。崖の下部の窪みにお供えの花の番台、その傍に石仏が並ぶ。お豊とお君を供養するものだろうか。

お豊とお君
お豊とお君って?チェックする;お豊六歳、お君三歳。貧しい家の母はお豊の継母。生活苦のため母親はお豊をこの岩壁から落とし亡きなきものとせんと図る。が、ひとりだけでは不自然と、実子のお君は布団にくるんで助かるようにして落とすことに。
お豊を突き落とすが崖の途中に引っかかり一命をとりとめる。一方、お君を落とすことを躊躇する。と、鬼のようなものが現れ、母親からお君を奪い取り崖から落とす。打ちどころが悪くお君は亡くなる。
非を悔いた母はその後お豊かを大切に育てたが、そのお豊も他界。ふたりをあわれんだ村人が、お豊が引っ掛かった崖の途中に地蔵を祀り、ふたりを供養した。
いつものことだが言い伝えは、考えれば考えるほど、何を言いたいことは分かり難い。それとも肝心なところが抜けているのだろうか。

「義経上陸の地」碑
千羽ヶ嶽と呼ばれる岸壁の直ぐ先、崖面前に「義経上陸の地」の碑。碑文には「源平合戦の元暦二年(1185)二月十八日、義経の軍勢は讃岐(香川)の屋島に逃れた平家を討つため、折からの暴風雨に乗じて摂津(大阪)の渡辺の浦より船を進めこの地に上陸した」とある。 『平家物語』には、「十六日、渡辺、福島を出でて、十七日に阿波の勝浦に着きにけり」とある。上陸地や進軍路にはあれこれあるようだ。



恩山寺標石と参道口の茂兵衛道標(181度目)
義経上陸の地の碑の直ぐ先に古い「恩山寺」の寺標石が立つ。その直ぐ先が恩山寺の車道参道。参道口に茂兵衛道標。「井戸寺 恩山寺 徳島 すぐ立江 明治三十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛181度目巡礼時のもの。





第十八番札所恩山寺

旧参道を山門へ
舗装された参道を進むと右に逸れる道がある。旧参道はこちら。土径の道を進み第十八番札所恩山寺の山門に至る。古い趣の山門。結構、いい。




恩山寺山門
山門左手には車道参道が走る。山門を潜ると車道参道の右手に法面上を進む土径がある。石仏も見える。そこが元の参道であろうと土径に入る。




寺標石
不動明王像や舟形石仏を見遣りながら歩く。舟形石仏に刻まれる像も不動明王のように思える。ほどなく石段。その前に「本堂江二丁 嘉永」の文字が刻まれる標石。



お堂と標石
石段を上ると右手にお堂と標石。お堂右手に立つ標石には「二丁 文政」といった文字が刻まれる。道の右手に標石。円形の窪みに大師坐像。「四国十八番恩山寺 向江立江寺道 従是三十一丁 左井戸寺道 是ヨリ五里 寛政十二」といった文字が読める。

石仏群の中に丁石・四国千躰大師標石
その先、右手に石造仏群。中に「一丁」と刻まれる丁石も立つ。
更に照蓮の四国千躰大師標石。手印は左を指す。立江寺道方向を指すのかと思うが、左手は高い法面。左に進む道はない。場所が移された?標石の直ぐ先で堂宇前の広いスペースに出る。そこに「弘法大師御母公 玉依御前ゆかりの寺」の石碑が立っていた。


石段を上ると正面に本堂。本堂前には伊藤萬蔵寄進の香台があった。左手に大師堂。大師堂横に御母公堂。「大師御母公剃髪所」の石碑が立つ。境内には釈迦の十大弟子像、地蔵菩薩坐像と千体地蔵立像が祀られる地蔵堂も建っていた。
Wikipediaには「徳島県小松島市田野町にある高野山真言宗の寺院。母養山(ぼようざん)宝樹院(ほうじゅいん)と号する。本尊は薬師如来。
寺伝によれば聖武天皇の勅願により行基が開基し、当初は「大日山福生院密厳寺」と号する女人禁制の道場で、「花折り坂」より上は女性の立ち入りが許されなかった。
弘仁5年(814年)、空海(弘法大師)が本寺で修行していた際、訪問してきた母(玉依御前)のために、仁王門の辺りに護摩壇を築き17日間の修法を行い女人解禁を成就し、母を迎え入れた。玉依御前は本寺で出家・剃髪しその髪を奉納したことから、「玉依御前の剃髪所」と云われていて空海が自身の像を刻み現在の寺名に改めたとされる(母養山 恩山寺)」。 「弘法大師御母公 玉依御前ゆかりの寺」の石碑、御母公堂の建つ所以はこういうことであった。
「天正年間(1573年‐1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失したが、江戸時代に入って徳島藩主蜂須賀氏の支援を受けて復興、文政年間(1804年‐1830年)に現在の諸堂が建立された」とある。

これで今回の遍路道のメモを終える。




小松島市の遍路道ページに「恩山寺道は、17番井戸寺(徳島県国府町)から18番恩山寺(小松島市田野町)を結ぶ遍路道です。総距離は18km。井戸寺から八幡街道、伊予街道を通り、徳島城下町経由で土佐街道に入るルートと眉山を左手に見ながら地蔵越えやあずり越えなどの峠を経由するルートに分かれていました。徳島市の地蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由するルートも存在するなど、その時代や条件に応じて遍路道として利用されていたようです」とある。
今回のルートは「井戸寺から八幡街道、伊予街道を通り、徳島城下町経由で土佐街道に入り」、「徳島市の地蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由するルートを辿ったようだ。 イントロの如く「眉山を左手に見ながら地蔵越えやあずり越えなどの峠を経由する」ルート はメモの段階ではじめてわかった。歩く前にわかっておれば峠道大好きな我が身は迷うことなく地蔵越・あずり越を辿ったであろうが、今となっては後の祭り。いつかこのルートを居歩いてみたいとの思いもあり地蔵越・あずり越のルートも掲載する。実際に辿ったわけではないので確証はないが、参考にして頂ければと思う。




13番大日寺から17番井戸寺までの遍路道を、標石を目安にトレースする。地図を見ると山間部を流れてきた鮎喰川が平地に流れ出る辺りに建つ大日寺から、鮎喰川によって形成された扇状地に建つ四つの寺を辿って行くようにも見える。
この辺り、15番札所国分寺があることからもわかるように古くから開けた地。それもあってか、13番札所から17番札所までおおよそ8キロ弱の距離に5つの札所が並ぶ。「歩く五ヶ寺詣り」といった言葉もあるようだ。
鳴門市にある第一番札所霊山寺からはじめ第十番切幡寺まで、??野川北岸を進んだ遍路道は十一番札所藤井寺へと??野川南岸に渡り、そこから山深い第十二番焼山寺へと進み、焼山寺を打ち終えた後、鮎喰川の谷筋を戻り鮎喰川の扇状地に建つ徳島の札所に入って来たわけだ。
遍路歩きとしては17番井戸寺を打ち終えた後、次の札所18番恩山寺までをカバーするかと思うが、今回のメモは「歩く五ヶ寺詣り」までとする。


本日のルート;
13番札所大日寺から14番札所常楽寺
大日寺>石仏群>青石板碑と地蔵>分岐点に石仏と標石>茂兵衛道標(127度目)>一宮橋>百万遍供養塔>供養塔>常楽園分岐点の>第十四番札所常楽寺 常楽寺>四国千躰大師像標石>常楽寺奥の院>常楽寺奥の院>奥の院参道口の>道脇の自然石標石
14番札所常楽寺から15番札所国分寺
岩船地蔵>民家庭に茂兵衛道標>興禅寺>国分寺
15番札所国分寺から16番札所観音寺■
国分寺>国分寺北の四国千躰大師標石>石造物と標石4基>道の左右に標石>地蔵と茂兵衛道標>16番札所観音寺
16番札所観音寺から17番札所井戸寺■
観音寺>大御和神社角の標石>石仏と四国千躰大師標石>標石2基と石仏>四国千躰大師標石>石造物群>井戸寺標石>地蔵尊と標石>庚申塔と石造物>17番札所井戸寺



13番札所大日寺から14番札所常楽寺

13番札所大日寺を離れ次の札所常楽寺へ向かう。距離はおおよそ3キロ弱。遍路道は大日寺境内東端、県道21号から逸れて鮎喰川の土手へと向かう。
古い資料には県道21号から逸れる角に茂兵衛道標があったようだが、現在は見当たらなかった。

石仏群・青石板碑
鮎喰川の土手に向かって遍路道を進む。道の左手に石仏群。「南阿弥陀仏」碑、台座に「回国供養」と刻まれた地蔵座像、宝篋印塔らしき石造物、遍路墓などが集められている。かつての河川敷といったところを通るこの舗装道を整備するときにでもまとめられたのだろうか。
直ぐ先、道の左に2基の石造物。1基は青石板碑のようだ。横の石造物は摩耗が激しくよくわからない。

分岐点に石仏と標石
直ぐ先で道は二つに分かれる。その分岐点に石造物群。台座に座る地蔵は弘化四年の銘。地蔵座像の前にある2基の石像物は標石。右のものにはうっすら手印が見える。左を差す。半分埋まったものは手印と共に大師座像、そして「百」の文字が読める。照蓮が立てた四国千躰大師標石だろう。四国千躰大師標石にはよく見る「四国中千躰大師」と刻まれたものと、「百**番」といった番号を刻むものがあると言う。



茂兵衛道標(127度目)
標石の指示に従い道を左にとり、土手へと向かう。土手少し手前、倉庫の角に茂兵衛道標。正面に「丹波国多紀郡」「阿波国麻植郡」の文字とその下に村名や人名が刻まれる。寄進者なのだろう。
右面には「周防国」の茂兵衛の在所が刻まれる。左面には「明治二十七年」。茂兵衛127度目巡礼時のもの。かつてはこの辺りから渡しがあったようだが、現在は県道207号・一宮橋を渡る。



一宮橋を渡り「常楽寺」案内箇所に
鮎喰川に架かる一宮橋をわたると、現在の遍路道は橋を渡ると右に折れ、最初のT字路を左に折れて坂を上り「常楽寺」案内標識で右に折れて進む。が、かつての遍路道は渡しで鮎喰川を渡り、現在の一宮橋の少し西から進んだようだ。
道筋ははっきりしないが、なんらかその名残でもなかろうかと成り行きで民家の間の道筋に入る。北西に進むと上述、現在の遍路道にある「常楽寺」案内のところに出る。

百万遍供養塔
その先、道なりに進み池の東に沿って進むと、道の右手の少し小高いところに4mほどの自然石の石碑。「光明真言百万遍供養塔 天保十二」とある。
その傍に地蔵座像と「四国 西国 秩父 坂東」と刻まれた供養塔も立っていた。遍路道の風情を残す。


供養塔
道なりに進むと墓地の前に石碑。「四国十遍供養二世安楽」と刻まれる。その先の道脇に「瑜伽(ゆが)大権現」の石碑。「常楽寺世話人会」とある。常楽寺に何らかの関係があるものだろうか?台座に「三界萬霊」と刻まれた地蔵座像から少し奥まったところに小祠があるが、情報はなし。横に日枝神社がある。阿波一宮でもあった神山町上一宮神社・神宮寺にも瑜伽(ゆが)大権現が祀られる、と。神仏習合時代の名残り?
瑜伽(ゆが)大権現
Wikipediaには「瑜伽大権現(ゆがだいごんげん)は備前国瑜伽山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、阿弥陀如来・薬師如来を本地仏とする。明治初期、神仏分離令が発せられたときは「相応大菩薩」と名称を変え対応していたが、現在は瑜伽大権現に名称を戻し瑜伽山蓮台寺で祀られている。
「此の山は無双の霊地にして、梵刹を開き、三密瑜伽の行を行い、我を瑜伽大権現として祀るべし」と夢のお告げを受けた行基が、天平5年(734)に開山したとの伝承である。行基が阿弥陀如来・薬師如来の二尊を祀ったのが瑜伽大権現信仰の始まりと伝わる」とあり、 また、瑜伽は「サンスクリット「yoga」の音写語。原義は「結びつくこと」「結びつけること」の意で、感覚器官が自らに結びつくことによって心を制御する精神集中法や、自己を絶対者に結びつけることによって瞑想的合一をはかる修行法をさし、最近の心身の健康増進法としての「ヨガ」もこれに由来する」とあった。

常楽園分岐点に四国千躰大師標石
その先、「四国のみち」の石標があり、「十四番常楽寺0.2km」左折の案内。その傍に照蓮の 四国千躰大師標石。「四国中千躰大師 文化六」といった文字が刻まれる。
左に折れると常楽園。常楽寺が経営する児童養護施設。昭和30年(1955)に戦災孤児のための社会福祉施設として設立され、現在1歳から18歳までの子供たちを支援している。何だかなあ、といった施設を経営するお寺を多く目にするにつけ、少しほっとする。
施設東端を回り込むと常楽寺は直ぐそこ。


第十四番札所常楽寺


四国千躰大師標石
常楽園から池端の道を進み常楽寺へ。池の放水路に架かる盛寿橋を渡り石段を上ると照蓮の四国千躰大師標石。大師像と共に、「四国中千躰大師」「世話人阿州徳島講 願主照蓮」の文字が読める。文化七年建立と言う。





流水岩の庭
石段を上って境内に。水の引いた巨岩川底といった風情の境内。流水岩の庭とある。正面に本堂、右側に大師堂、地蔵堂が並ぶ。
あららぎ大師
本堂右手にアララギ(イチイ)の巨木。木の股に「あららぎ大師」が祀られる。大師巡錫の折、病に苦しむ老婆に持参の霊木を削り飲ませたところ、病は癒える。地に挿した霊木がこの巨木と伝わる。



徳右衛門道標
本堂左手の手水場の脇に徳右衛門道標。「十四番常楽寺 従是国分寺 八丁」の文字の上には通常刻まれる大師座像ではなく、弥勒菩薩。常楽寺の本尊である。ちょっと珍しい。

高野山真言宗。盛寿山延命院。Wikipediaには「寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地で修行をしていた際に、弥勒菩薩が多くの菩薩を連れた姿を感得した。そこで霊木に弥勒菩薩を刻み堂宇を建立して本尊として安置したという。空海の甥に当る真然僧正が金堂を建立、祈親上人が講堂、三重塔などを建立し七堂伽藍の大寺院となったと伝える。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失。万治2年(1659年)に徳島藩主蜂須賀光隆によって、現在地より下った谷間に再興された。文化12年(1815年)に元の山上への建て替えを願い出て、3年後、低地の谷間から石段を50段ほど上った現在地に移転した」とある。
四国霊場で本尊が弥勒菩薩はこのお寺さまだけのようだ。また、延命院の院号故か、この辺りの地名は徳島県国分寺町延命である。




奥の院慈眼寺へ

常楽寺奥の院は直ぐお隣。境内入口の照蓮・四国千躰大師標石まで戻り、標石の手印に従い左折し先に進む。
八幡神社傍に四国千躰大師標石
ほどなく八幡神社前に出る。鳥居を左に見遣り進むと道の右手に照蓮の四国千躰大師標石。この標石も大師座像の下に通常よく見る「四国中千躰大師」の文字の代わりに「百五十一番」と刻まれる。上述、鮎喰川の土手道手前の分岐点で見たものと同じタイプだ(以下番号タイプとする)。



奥の院慈眼寺
標石手印に従い先に進むと慈眼寺に。本堂は十一面観音。境内には大師堂と大師堂、そして生木地蔵堂が建つ。








生木地蔵
生木地蔵堂には、ヒノキに刻まれた地蔵が祀られる。かつて刻まれていたヒノキが枯れたため幹を切り取りお堂に祀ったとのことである。境内を一夜の宿とした越中の遍路に修行大師の夢のお告げがあり、お告げに従いヒノキに地蔵を刻んだとの縁起が残る。
生木に彫られた仏像といえば、八栗寺からの下り道で出合った生木観音が記憶に残る。






四国千躰大師標石

本堂から東に下る参道があり、その下り口に照蓮の四国千躰大師標石。この標石には通常よく見る「四国中千躰大師」と刻まれるが、手印がちょっと異なっている。手印が線彫り状になっている。これもちょっと珍しい。後世手直しされたもの、とも言われる。




道脇に自然石標石
参道道は常楽寺の境内に見た流れ岩。足元に注意し下ると道の合流点に自然石の標石が立つ。手印と共に「へんろ道」の文字が読める。手印に従い次の札所国分寺に向かう。









14番札所常楽寺から15番札所国分寺

岩船地蔵
次の札所である国分寺までは700mほど山裾の舗装道を進むと道の左手に極彩色のお堂。「岩船地蔵尊」「八祖大師」と書かれた札が見える。お堂に祀られる八体の像が八祖大師であり、その奥の厨子に祀られるのが地蔵尊? お堂前に自然石・青石の石碑。「御圀四十九薬師第三拾三番 是より興禅寺江二丁 安政六 八祖大師庵」と刻まれる。


六地蔵と庚申塔
道を進むと左手、道の側に石仏群。六地蔵と庚申塔や石仏が並ぶ。なんだか、いい。









民家の庭に標石2基
その先、道がふたつに分かれる。その分岐点、民家の庭に2基の標石。1基は茂兵衛道標。127度目巡礼時のもの。もうひとつは大きな自然石標石。「左十五番国分寺」と刻まれる。 標石に従い左の道に入る。





興禅寺前の六地蔵板碑
道の左手に六地蔵と庚申塔。その先興禅寺。臨済宗妙心寺派のお寺さま。質実簡素といった趣の山門が、いい。
興禅寺前にお堂。その傍に六地蔵板碑。一枚の青石に六体の地蔵が彫られる。案内には「板碑は青石の供養塔で、鎌倉時代から戦国時代にかけて建立されたものである。六地蔵を線彫し、下に宮谷講中の二十数名の氏名を記す。
本板碑は上部の二線のうち、一つは輪郭となり省略され、全体的に板状というより舟型に近いなど様式的にくずれている。天正十二年(1584)の紀年銘は本板碑が本県で最も新しいことを示すものである」とあった。
興禅寺の塗塀に沿って進むと右折国分寺の案内。正面に山門が見える。



第十五番札所国分寺

山門
「聖武天皇勅願所 四国第十五番 曹洞宗国分寺」と刻まれた寺標石が立つ山門を潜り境内に。正面の本堂は国指定名勝である庭園と共に2020年3月31日完成予定での修理工事中。その間、本堂右の烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)堂が仮本堂となっている。
烏枢沙摩明王堂

烏枢沙摩明王を祀るお堂。烏枢沙摩明王は密教における明王の一尊である。真言宗・天台宗・禅宗・日蓮宗などの諸宗派で信仰される。台密では明王のなかでも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊である。
烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれた。 烈火をもって不浄を浄化する明王として知られ、寺院の便所に祀られることが多い。また、この明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されてきた。
このお堂は土佐の長曾我部勢による天正の兵火の際も、大師堂と共に焼失せず残り、本堂再建まで本尊が安置されていたと言う。
天正の兵火により灰燼に帰した寺は、徳島藩主蜂須賀公の命令により寛保元年(1741年)に再建されるが、このお堂はそれ以前に建てられていて、国分寺にある建物ではいちばん古いものとされる。
鎮守堂
烏枢沙摩明王の右に鎮守堂。瑜伽(ゆが)大権現、秋葉大権現、白山大権現、大聖歓喜天が祀られる。瑜伽(ゆが)大権現が四国霊場に祀られることは珍しいのだが、先の札所常楽寺への手前の道筋に石碑があった。何らかの関係があるのだろうか。
大師堂
鎮守堂右手に大師堂。結構新しい。平成8年(1996年)に火災で全焼し、平成26年(2014年)に再建された、と。その間烏枢沙摩明王堂が仮大師堂となっていた、と言う。
七重塔の礎石
本堂左手、鐘楼の手前に大岩。かつて国分寺に建っていた七重塔の礎石。前述の興禅寺前の田んぼから見つかったもの。
礎石の傍に案内があったが、そこにかつての国分寺の境内推定図もあった。現在は比較的ささやかな境内ではあるが、往昔は現在の境内の四倍ほどの広大な境内であったようだ。

徳右衛門道標
境内、大師堂の右手に徳右衛門道標。常の様式とは異なり、大師坐像の横に「十五番 国分寺」と刻まれる。

薬王山金色院。宗派は曹洞宗。本尊は薬師如来。Wikipediaには「天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔により諸国に建てられた国分寺の一つ。寺伝では行基が自ら薬師如来を刻んで開基し、聖武天皇から釈迦如来像と大般若経、光明皇后の位牌厨子が納められたと伝わっている。当初は法相宗の寺院として七堂伽藍を有する大寺院であった。弘仁年間(810 - 824年)に空海(弘法大師)が巡錫した際に真言宗に改宗したとされる。 史実としては、正確な成立過程は不明であるが、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、聖武天皇の周忌に際し、阿波国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、遅くともこの頃には完成していたことがわかる。
天正年間(1573 - 1592年)土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失。長らく荒廃していたが、寛保元年(1741年)に徳島藩主蜂須賀家の命により郡奉行速水角五郎が復興にかかり、丈六寺の吼山養師和尚が再建したことから宗派も現在の曹洞宗となった。





15番札所国分寺から16番札所観音寺

国分寺北の四国千躰大師標石
国分寺を出て次の札所観音寺に向かう。この間の距離も短く2キロ弱。大師堂裏の東口から出て少し北に歩くと、道の左手、ブロック塀の前に少し傾いた標石。市正面の下部は破損し、大師座像の下は「四国」の文字だけしか読めない。「四国中千躰大師」と刻まれた照蓮の四国千躰大師標石だ。




石造物と標石4基
更に北に進むとT字路にあたる。その角に地蔵尊や石造物。その両端にそれぞれ2基標石が並ぶ。標石はどれも風化し文字は読めないが、右側には如何にも茂兵衛道標といった風情の標石と、左にはこれまた如何にも照蓮の四国千躰大師標石。
茂兵衛道標には手印と共に「国分寺 観音寺 明治三十年」と刻まれる茂兵衛157度目の巡礼時のもの。茂兵衛道標の右手の標石には「国分寺道 観音寺道明和二年」、照蓮標石右手の標石には「くわんおんじ道 こくぶんじ道」といった文字が刻まれるようだ。
八倉比売神社
遍路道はここを右に折れるが、地図を見ると逆側、左に折れて西に向かうと八倉比売神社がある。何となく名前に惹かれ社に向かう。
社は標高212m気延山の南尾根南麓尾根、標高112mの杉尾山に鎮座する。杉尾山自体を神として祀る。この山麓は阿波史跡公園として整備されているように、古墳や埋蔵物が発掘され古代から開かれた地。国分寺が近くにあることからも納得。
で、気になった八倉比売神社であるが、正式には天石門別八倉比売神社。天石門別(あまのいわとわけ)神と八倉比売神(やくらひめのかみ)を祀る。天石門別神は天孫降臨に随伴する神々の一柱で、天照大神が隠れた天岩戸神話に登場する。八倉比売神は、「八倉=多くの倉」を意味し、国府のあるこの古代の中心地でとれた作物を保管し護る神とも言われる。 これではいまひとつわからない。
もう少し深堀りする;阿波一宮・天石門別八倉比売神社には論社(いくつか候補があり、比定されていない社)があり、この社もそのひとつ。論社には神山町の上一宮大栗神社、一宮町の一宮神社、鳴門市の大麻比古神社などが挙げられるが、上一宮大栗神社の祭神は大宜都比売命またの名を天石門別八倉比売命あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)、一宮神社も同じ。大麻比古神社の祭神は大麻比古神(おおあさひこ)、またの名を天太玉命(あまのふとだまのみこと)とする。
天石門別は天太玉命の子とされるので、これら神々の源は天太玉命(あめのふとだまのみこと)ということになる。天太玉命は阿波忌部氏の祖先神の一柱とされる。天太玉命が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」を阿波忌部氏の祖先神とするゆえの「祖先神の一柱」との表現だろうか。
とすれば、天石門別八倉比売の神名は、阿波忌部氏が祖霊にあたる天石門別神(祖先神の一柱である天太玉命の子)を祀り、阿波の中心地である国府周辺からの穀物を収めた、多くの倉の守り神という意味であろうと妄想する。
本当のところはよくわからないが、何となく気になった八倉比売神社の由来は自分なりに納得。

道の左右に標石
T字路を右に折れ国道192号手前、北に向かう道の角、左右に標石が並ぶ。道の右手は四国千躰大師標石。大師座像の下に「百五十四番」と刻まれる照蓮の「番号」タイプの四国千躰大師標石。
道の左手の標石には「とく志ま くわんおんじ道 こくぶんじ道」といった文字が刻まれる。 遍路道はここを左に折れ北に向かう。



地蔵と茂兵衛道標
北に向かった道は国道192号で一旦分断され、その先更に北に延びる。国道を渡り、道を北に進むと県道123号にあたる。その角に茂兵衛道標と地蔵尊立像。茂兵衛道標は161度目のもの。「国分寺 明治三拾一」といった文字が刻まれる。2mほどもある地蔵尊立像も標石となっており、台座には「左こくぶん寺 右藤井寺 享保十三年」といった文字が刻まれるようだ。
ここを右に折れるとほどなく16番札所観音寺に着く。
遍路道
昔の遍路はそれほど札順に拘ってはいないようだ。『四国辺路日記』で知られる澄禅が承久二年(1653)に辿った遍路道は、高野山から和歌山を経て徳島に入り、一番霊山寺からでなく、17番井土寺(十七番井戸寺)から打ち始め、十三番大日寺まで逆打ち、十一番藤井寺、十二番焼山寺と打って、十八番恩山寺に飛び、十九番立江寺以降は順打ちで回り、一番から十番までは讃岐(香川県)の八十八番大窪寺を打ち終えて最後に回っている。
であるとすれば、この地に11番札所藤井寺を案内する標石があっても違和感はない。



16番札所観音寺

堂々とした山門を潜り境内に。正面に本堂、右手に大師堂が建つ。本堂と大師堂にお参り。 Wikipediaには「高野山真言宗、光耀山(こうようざん)、千手院(せんじゅいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。
寺伝によれば、聖武天皇が国分寺建立の勅命を出した際に行基に命じて勅願道場として本寺を建立、弘仁7年(816年)に空海が巡錫した際に本尊として千手観音像、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで安置、現在の寺名に改めたとされる。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火に焼かれるが、万治2年(1659年)阿波藩主蜂須賀光隆の支援を受け宥応法師が再建した」とある。
八幡大神宮・惣社大御神
小じんまりとした境内に建つ本堂の横に「八幡大神宮・惣社大御神」と刻まれた鳥居があり、そこに小ぶりな社が祀られる。
八幡総社両神社の由緒には「阿波国の総社とし、阿波国府の所在地に設けられた神社。国司の重要な仕事の一つに、管内の官社及び国司の崇敬する神社を祭祀することがあり奈良時代、国司はこれらの神社に幣を奉りこれに詣するを例としたが、平安時代中期以降、中央政治の乱れにより、地方行政も弛緩し、祭祀も規定通り行われなくなり、従来、国司の祭祀してきた管内諸神社の神霊を国府 (国司庁)に近いところに勧請し、参拝の便をはかったのび総社の起源である。当社はその総社と、近在の八幡神社を合祀したもので、安政三年(一八五六年)再建の棟礼を存する。
「寛保改神社帳」には「観音寺村惣社大明神」「観音寺村 八幡宮」とある。なお、南方500メートルほどはなれた所に、面積約三十坪に及ぶと言われる当社の旧社地があったとされ、「総社が原」の呼称が現在に伝わっている。
主祭神(八幡神社) 応神天皇(総社)阿波国式内社五十座
阿波国の式内社は大麻比古神社を始め五十座四六社あり、国府町内では大御和神社(府中 の宮)、八倉比売神社などが式内社である」とあった。

〇本題とは全然関係ないのだけど、上記由緒はiphoneの無料アプリ「一太郎pad」を使い、撮った写真をテキスト化した。アプリを開き、写真を選択しシャッターを押し、完了で画像内の文字をテキスト化してくれる。それをメールで転送しPC上の本テキストにコピー&ペーストした。認識の精度が高く、ほぼ完全に読み込んでくれる。 散歩のメモで少々かなわんなあ、と思っていた由来や縁起は最近このアプリを使い結構楽している。ありがたいアプリだ。




16番札所観音寺から17番札所井戸寺

大御和神社角の標石
観音寺の次の札所は第17番井戸寺。距離は3キロ弱である。井戸寺を離れ門前を走る県道123号を東に。少し歩くと広い境内、大きな社叢をもつ社。大御和神社である。遍路道はT字路となった社の東南角を左に折れ、北へと向かう。この角に「四国のみち」の石標と共に両端矢印の線彫と「へんろ道」と刻まれた標石が立つ。 中尾多七標石の様式ではあるが、あまりに新しい風情。レプリカ?
また社境内に横倒しとなった標石があった。「十七番 いどじ道 大正三年四月吉日」と読めた。
大御和(おおみわ)神社
Wikipediaには「創祀年代は不詳である。一説に大和国三輪神社から勧請されたと伝わる。『延喜式神名帳』に記載された式内社である。
往古は印鑰(いんやく)大明神と称し、阿波国総社であったとも言われ、一般に「府中宮(こうのみや)」と呼ばれる」とある。

印鑰(いんやく)とは国のハンコと国庫の鍵のこと。印鑰と総社は直接関係しないようだが、その故もあり阿波国総社とも称されるのだろう。
由緒には「延喜式内小社で府中の宮と親しまれている。王朝時代国司政庁が此の地におかれ阿波国古代 の祭政の中枢となったが、その国府の鎮守として、 国分寺と共に、累代国司の崇敬が厚かった社である。
創立の事情はよくわからないが、おそらくは国司 が大和の大神神社の分霊を祀ったものであろう。本社はまた国璽の印及び国庫の鑰を守護せられし神徳により印鑰大明神と称したと伝えられる」とある。
阿波国の総社は先ほど訪れた札所観音寺の境内にもあり、その旧地は南500mのところにあったと由緒に記されていた。総社にしろ、一宮にしろ、その所在地は所説あり、定まることなし。

地蔵標石と四国千躰大師標石
北に進み国道192号の一筋手前、四つ角東北角に地蔵座像と標石。地蔵座像の八角形台座正面に「右井戸寺」、右側面に「左観音寺」と刻まれた標石となっている。地蔵前の標石は摩耗し文字は読めないが、その形からして照蓮の四国千躰大師標石だ。
標石の直ぐ傍に「四国のみち」の石標もあり、井戸寺は北を指す。








標石2基と石仏
北に進むと直ぐ国道192号に出る。国道を渡るとポールに「四国のみち」と書かれた小さな鉄板が架かる。が、どちらの方向に進めばいいのか指示はない。ここで右に折れ少し東に歩き、大きな交差点を左に折れて県道29号を北に向かうと徳島線府中駅へのY字分岐点。 そこを右に折れ、しばらく東へと歩き、北に折れる。北に進めば徳島線の踏切を越える。 その左折角に3基の石造物。そのうち2基は標石。左端は摩耗し文字は読めないが。形からして照蓮の四国千躰大師標石。番号タイプのもので「第百六十一番 文化六」といった文字が刻まれるようだ。中央の石造物も標石。「左* 右*寺」がうっすら読める。
右端の石造物の正面には「南大師遍照金剛」の文字が読めた。
遍路道
偶然に標石に出合ったが国道192号からこの標石までの遍路道はよくわからない。実は方向指示のない「四国のみち」鉄板を北に進むと「四国のみち 十七番」の石標が立っていた。その直ぐ先にも「四国のみち 十七番」の石標があり、北を指す。
その先、小さな社の手前の角にも「四国のみち」の石標。ここから先で手がかりを失い、仕方なく国道筋へと引き換えし、上述道筋を辿ったわけだが、もう少し根気よく探せば別の遍路道がみつかったかもしれない。

四国千躰大師標石
徳島線の踏切を渡り県道29号を北に進む。しばらく歩くと県道は右斜めにカーブする。その分岐点に「17井戸寺600m」の石柱と「17井戸寺300m」と書かれた手書きの木札。??その脇には照蓮の四国千躰大師標石も立っていた。

石造物群
斜めにカーブした県道29号が北に向きを変える手前、県道の右手、蔵の前に石造物が3基並ぶ。右端は庚申塔。青面金剛立像刻まれる。中央は台座に「三界萬霊」と刻まれた地蔵座像、左端は「奉誦光明真言一億万万遍」と刻まれた供養塔。百万遍はよく見るが、一億万遍は初めて見た。


標石
石像物の直ぐ傍、県道29号が北に向きを変えるところ、道の右手に標石。「左井戸寺道 道観音寺道 明治十三」といった文字が刻まれる。

地蔵尊と標石
少し北に進むと道の右手に「四国のみち」の石標。右井戸寺0.3km」とある。その横に2基の石仏。1基は地蔵尊、もう1基は三界萬霊供養塔。笠型が目を惹く。「文化十三 井戸村講中」といった文字が台座に刻まれていた。



庚申塔と石造物
指示に従い右に折れると四つ辻手前に庚申塔。その角を左折れ北に向かう。道の右手に庚申塔や五輪塔などの石仏を見遣り北に進むと井戸寺の山門前に着く。









第十七番札所井戸寺

山門
朱塗の山門を潜り境内に。何となく武家風の造り。元は徳島第十二代藩主蜂須賀重喜公の別邸の門を移築したもの。平成元年(1989)に新しい山門建設が行われたとのこと。屋根瓦や梁は新しそうだが、柱には古き趣が残る。

境内正面に本堂。右手に大師堂。左に日限大師堂が建つ。Wikipediaには「徳島県徳島市国府町井戸にある真言宗善通寺派の寺院。四国八十八箇所第17番札所。本尊は七仏薬師如来(伝聖徳太子作)。
寺伝によれば、阿波の国司に隣接し天武天皇が勅願道場として673年に創建し、七堂伽藍、末寺12坊を誇る壮大な寺院となり「妙照寺」と称していた。本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来で聖徳太子作、また、日光菩薩、月光菩薩は行基作と伝えられる。
伝承ではその後、弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩を刻んで安置したという。また、その際に土地の人々が水不足で困っていることを知り、錫杖で一夜にして井戸を掘った。そこでこの地を井戸村と呼ぶようにし、寺号も「井戸寺」と改めたという。
貞治元年(1362年)、細川頼之の兵火(細川清氏の反乱)で堂宇を焼失し、後に頼之の弟・細川詮春によって再建されたが、天正10年(1582年)に十河存保と長宗我部元親の戦い(第一次十河城の戦い)により再び堂宇を焼失、慶長年間(1596年 - 1615年)に徳島藩主蜂須賀氏によって再興に着手され、万治4年(1661年、藩主は蜂須賀光隆)にようやく本堂が再建となる。
大正5年(1916)正式名称を井戸寺にする。それまでは、納経には妙照寺が使われていたという。 その後、昭和43年(1968年)失火によりまたも本堂が主尊の中央本尊を残して焼失し、3年後に再建された」とある。
本尊
「昭和43年(1968年)失火により本堂が主尊の中央本尊を残して焼失し」とある。「本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来」ともある。七仏薬師とは薬師瑠璃光如来を主体とした7体の仏からなるようだ。
で、主尊の中央本尊を残して焼失とあるので、薬師瑠璃光如来を残して焼失した、ということだろうか。
が、ここで疑問。何故聖徳太子作と伝わるこの焼失を免れた仏さまが重要文化財に指定されていないのだろう?チェックすると、焼失する以前、七薬師像胎内から元禄期に京都で造られた、といった古文書が見つかったといった記事もあった。それ故だろうか。因みに現在の七薬師は主尊の他は火災の後造られたブロンズ像と聞く。
本尊を祀る本堂は焼失後再建の鉄筋コンクリート造り。美しく造られそれとは見えないが、屋根中央に立つ避雷針が今風ではある。
十一面観音菩薩
山門左手に六角堂(大悲殿)と呼ばれる観音堂がある。そこに国の重要文化財に指定された十一面観音菩薩が祀られる。この十一面観音像は上述本堂の火災から免れたもの。このお堂はその保護を目的に建てられたものと言う。
実際目にしたわけではないのだが、写真をチェックすると脇に2基の仏さまが従う。Wikipediaにあった「日光・月光菩薩立像:上記の十一面観音の脇仏、昭和33.7.18指定」と徳島県の有形文化財に指定されている日光・月光菩薩立像だろうか。


日限大師
本堂左手に日限大師を祀る堂宇。そこに井戸寺の由来ともなった井戸がある。弘法水のひとつ。「面影の井戸」とも呼ばれる由来は、お堂前の案内に「当寺御詠歌を「おもかげを うつしてみれば 井戸の水、むすべば むねの あかやおちなむ」と大師自ら井戸におもかげをうつされた。日を限って心願をかけると直にご利益を蒙るという、依って世に日限大師といわれ霊験あらたかである」にあった。お堂に祀られるお大師さんが日限大師である。 因みにこの井戸寺、鮎喰川が形成した広い扇状地に建つ。鮎喰川の伏流水がこの地に涌くのではあろう。
熊鷹大明神
六角堂脇に熊鷹大明神。名前に惹かれる。伏見稲荷にも祀られ、その他の地でも稲荷信仰との関連で登場することが多いようだ。
少し先走るが、次回散歩メモで阿波狸合戦ゆかりの地に出合い、そこに狸合戦に登場する狸である大鷹、小鷹と並び熊鷹大明神として祀られていた。熊鷹は大鷹の子とされる。
ここで祀られる熊鷹大明神が稲荷社との関連だろうか、阿波の狸合戦との関連だろうか? 狸合戦の関連でいえば、熊鷹だけが登場するのも唐突だしなあ、であれば稲荷信仰との関係?妄想は膨らむがすべて不詳ではある。

今回のメモはここまで。次回は徳島市の井戸寺から小松島市の恩山寺への遍路道をメモする。


先回のメモでは焼山寺を下った岩鍋集落よりはじめ、玉ヶ峠経由で20号線に下り、広野で21号に乗り換え大日寺へと歩いた。その道すがら、広野に「奥の院」を案内する標石があり、チェックするとそれは広野で県道21号を離れ、標高495mの西龍王山麓にある大日寺奥の院・建治寺を経由して大日寺に向かう遍路道であった。
かつては多くのお遍路さんが辿った巡礼道とも言う。ルートはあまりはっきりしないのだが、建治寺からの下りには鎖場や建治の瀧といった、ちょっと惹かれるワードもある。いかにも修験のお山といった趣ではあるが、その雰囲気が如何なるものか歩いてみることにした。
広野が標高60mほど。建治寺の標高が300mほどであるので、250mほど高度を上げればいい。広野の県道21号・建治道分岐点の伊藤萬蔵寄進の標石には「奥の院18丁」とあったが、実際の建治寺までの距離は18丁=1,962mを大きく上回る4キロ弱あった。 昔の遍路道筋とは異なる?とは思えど、基本標石を辿っての上りであり昔道の距離ではあったかと思う。 標石との距離の違いはともあれ、この4キロほどの上りに2時間。そこから荒れた沢筋を下り県道21号に戻るまで3キロ弱。ここで1時間半。全行程8キロほどのところを3時間半ほどかけて歩いたことになる。
足を踏み入れる前は、人里離れた山道をはっきりとしたルート図もなく歩くのはかなわん、などと思っていはいたのだが、上りの道筋の半分近くは山麓の集落を抜ける道であり気持ちも楽に歩けた。下りの鎖場は多くの記事にあるような「難所」といったものでもなく、危険と感じるところも特に無かった。只、下りは荒れた沢筋の道であり、沢筋に立つ四国霊場本尊石仏を目安に下る箇所もいくつかあったが、ルーティングにそれほど困ることもないかと思う。

建治寺道を歩くことなく、県道21号を建治寺分岐点から下りの県道21号合流点まで距離は5キロ強。時間も1時間強で歩けるだろう。建治道は県道21号ルートより距離は3キロ、時間は2時間半ほど余分にかかることになる。長旅で歩き疲れたお遍路さんに、さてどうだろう。単調な県道歩きの気分転換オプションとして、以下メモする。


本日のルート;
■上り;広野の建治寺道分岐点>伊藤万蔵標石>庚申塔と168丁石>2基の標石(169丁)>169丁石>中尾多七標石と163丁石>170丁石>中尾多七標石>中尾多七標石と172丁石>173丁石>舗装路に出る>177丁石>四国千躰大師標石>179丁石と石造物>西明寺寺道分岐点>>182丁石>大師堂>舗装道を離れる>石垣に標石>石仏と176丁石>山道に入る>車道に出る>祠に標石>車道に出る;中尾多七標石>171丁石>自然石標石>中尾多七標石>8丁石>7丁石>6丁石>5丁・4丁石と地蔵標石>建治寺
下り;山門>鎖場への分岐点>3丁石>建治の瀧>木の鳥居>権現道標石>奥の院標石>奥の院標石>県道21号の億の院標石


建治寺道

■上り■

広野の建治寺道分岐点
広野小学校の県道21号の反対側に「四国十三番奥の院 十八丁」と刻まれた標石が立つ(午前7時53分)。十三番札所大日寺の奥の院である建治寺を経由する遍路道は伊藤萬蔵寄進のこの標石より県道20号と分かれ山麓へと向かう。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。

庚申塔と168丁石
舗装された坂道を20mほど上ると道の左手、石垣の前に4基の石造物(午前7時53分)。1基は庚申塔。1m強はありそうだ。右端の舟形地蔵は「百六十八丁と刻まれる丁石。焼山寺からの丁数である。





2基の標石
更に10m、3基の石像物(午前7時55分)。左端の角柱石は「十三番奥ノ院近道 建治寺」、中央の舟形地蔵には「百六十八丁」と刻まれるようだ。
左に鮎喰川の谷が開けた眺めを楽しみながら緩やかな坂を上る。と、突然遍路道脇にあった民家の2階から「お遍路さん、建治寺への道は荒れて危険。通れませんよ。県道を歩きなさい」との声。 今までも遍路道を歩いていると、地元の方に「荒れて危険、通れない」と幾度かアドバイス頂いたのだけれど、藪漕ぎとはなったが、通れないところはなかったので、「どの程度か確認し危なそうであれば戻ります」と応え先に進むことにした。

169丁石・中尾多七標石と丁石
道の右手に「百六十九丁」の舟形地蔵(午前7時59分)。直ぐ先に2基の標石(午前8時1分)。「へんろ道」の文字と両端矢印の線が特徴的な中尾多七標石と舟形地蔵丁石。丁数ははっきりしない。

中尾多七標石
中尾多七さん達が昭和37年から昭和38年(1963)にかけて建てた標石は阿波の23番札所までに60近くにのぼると言う。特徴は「へんろ道」の文字と、その上に両端に矢印のついた線。線には直線の他、カーブしたものなどがあり、道方向を示す。 中尾多七標石は阿波だけでなく伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道にも見られる、と。

170丁石・中尾多七標石
舗装された道は続く。道の左手に「百七十丁」の舟形地蔵丁石(午前8時3分)。鮎喰川の谷を背景にいい雰囲気。そこから数分、道の左手に中尾多七標石(午前8時6分)と続く。



2基の標石の先で舗装路から離れ山道に入る
道に2基の標石(午前8時9分)。1基は中尾多七標石。もう1基は「百七十二丁」の舟形地蔵丁石。その先数分で遍路道案内らしきタグが左の土径を指す(午前8時13分)。舗装路を離れ山道に入る。


173丁石の先は藪漕ぎ
地元の方がおっしゃっていた荒れ具合がどのようなものか気にしながら歩を進める。1分ほど歩くと「百七十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時14分)。この辺りまではどうということはなかったのだけれど、その先は猛烈な藪。藪漕ぎに慣れていない方はちょっと大変かもしれない。

舗装道に出る
藪を漕ぎ、小枝を折り先に進む。路肩の不安定なところもあったがそれほど危険というほどではない。怖がりの私でもなんとか行けそうだ。しかし、こんな道がずっと続くのであれば勘弁、と思った頃、舗装された道に出た(午前8時33分)。おおよそ20分の悪路ではあった。建治寺道はここだけがちょっと厄介な個所ではある。



177丁石の先に民家
舗装された道を進む。地図で見ると南馬喰草の辺りで鮎喰川に突き出た支尾根を避け、大きく弧を描く辺りから車道らしきものがここに続く。車道合流点から数分歩くと道の左手に舟形地蔵丁石(午前8時36分)。「百七十七丁」と刻まれる。
その先に民家が見える。民家は全く想像していなかったので、結構気が楽になった。

四国中千躰大師標石・石造物と179丁石
舗装路を進むと石垣に「四国中千躰大師 文化七年」と刻まれた照連の四国千躰大師標石(午前8時39分)。その先数分で眼前が開ける。そこに石造物と舟形地蔵(午前8時43分)。「百七十九丁:と刻まれる。
ここから見る眼下に広がる遠景もいいのだが、山麓を通る舗装路に沿って民家が点在するのを見て、気持ちが楽になった。当初人気のない山道が続くのだろうと思っていただけにその安心感は、今はやりのフレーズで言えば、「半端ねえ」といったところ。
四国中千躰大師標石
文化年間(1804~1816)の僧・照蓮により建てられた標石。真念の志を受け継ぎ、四国中に千体の道標を建てようとした(総数未確認)。徳島は出身地ということもあり56基残る、と。

西明寺道分岐点
山麓を走る舗装道を鮎喰川の谷筋を見やりながらのんびり歩く。5分ほど進むと道の分岐点。その角に2基の標石が立つ(午前8時49分)。比較的新しい1基には、「金玉山 西明寺道」、古い標石には「成田山御分*不動尊道 十三番うちぬけ 是より三丁」とあるようだ。
地図を見ると県道近くまで下りていかなければならない。当日は、「まあいいか」と寄り道をパスしたのだが、メモの段階でチェックすると、往昔お遍路さんが足を向けたお寺さまであった。
道筋には標石も立ち、寺の前には徳右衛門道標も立つとのことであり、行けばよかったと、今となっては後の祭りではある。

182丁石・大師堂
道の右手に「百八十二丁」の舟形地蔵丁石(午前8時53分)。その先に風雪に耐えた趣の大師堂。常夜灯も立つ。





遍路道分岐点に3基の石柱
大師堂の直ぐ先、道の右手に3基の石造物(午前8時57分)。左端の自然石には、手印と共に、「右へんろ道」の文字が読める。その他の石造物は風化が激しく文字は読めない。 そこに遍路道右折の遍路タグがある。水路溝に沿って舗装された狭い坂が上っている。建治寺へはここを右に折れる。


集落の車道を逸れ遍路道に
集落の車道を離れ右に折れ狭い道を数分上ると集落を走る広い車道に出る(午前9時)。車道を歩くと右手石垣前に「十*丁」といった文字が読める(午前9時1分)。その先で遍路道は集落を走る車道を離れ右に折れる(午前9時4分)。
分岐点には遍路タグもあり、その先に鳥居が立つ。

常夜灯と16丁石
コンクリート壁前の舗装された狭い道を上ると大きな常夜灯と座像石仏があり、その傍に舟形地蔵(午前9時6分)。「右 十六丁」と読める。ここからは建治寺までの丁数表示となるようだ。
とすれば、先ほど集落の石垣前に立っていた丁石も建治寺への丁数を示すものではあったのだろう。



車道を上る
16丁石の先で車道に出る(午前9時8分)。土径との分岐があり、「徒歩近道」は土径とあるが、遍路道タグは右の車道方向を示す。ちょっとわかりにくいが、遍路タグに従い車道を進む。
車道地図で見るとこの車道はギザギザと曲がりながらこの先で神山森林公園へと続く車道に合流している。




山道に入る
車道を数分歩くと道の左手に遍路タグがあり、車道を逸れた土径方向を示す(午前9時12分)。竹林の中の土径を進む。




車道に出る
土径を5分ほど歩くと舗装道に出る(午前9時18分)。先ほど分かれた集落から上る車道である。
車道を進むと道の右手に石の祠。建治寺を案内する石祠の中に不動明王像と並び舟形地蔵丁石。「十二丁」のようにも読める。石祠前には両端矢印の線と共に「へんろ道」と刻まれた中尾多七標石も立っていた。

森林候公園への車道をクロスし山道に
数分歩くとアスファルト舗装の車道に出る(午前9時21分)。徳島県立神山森林公園へと上る車道のようだ。
遍路道は車道をクロスし山道へと入る。車道を越えたところには「建治寺本堂 1,150米」の真新しい標石があり、その傍に中尾多七標石が立つ。
ここから尾根筋まで、比高差100mほど上ることになる。

11丁石と自然石標石
車道クロス部では舗装された道も直ぐ土径となる。数分で石垣前に舟形地蔵丁石。「右十一丁」と刻まれる(午前9時24分)。その先数分で自然石標石。摩耗が激しく文字は読めない(午前9時26分)。



10丁石と中尾多七標石・8丁石
数分歩くと遍路道タグと共に、2基の標石(午前9時28分)。1基は「*十丁」と刻まれる舟形地蔵丁石。もう1基は中尾多七標石。
5分ほど歩くと舟形地蔵丁石(午前9時34分)。「八丁」と刻まれる。


7丁・6丁石
数分で「七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時28分)。更に数分で「六丁」の舟形地蔵丁石(午前9時41分)。木々の間に空が見える。尾根筋は近い。




5丁・4丁石と地蔵標石先で建治寺への車道に合流
数分で尾根筋に上る。そこには地蔵や舟形地蔵が立つ(午前9時44分)。その先には車道が走る。
舟形地蔵は2基。「五丁」「四丁」と刻まれる。舟形地蔵丁石に挟まれるように地蔵座像。そこには「左焼山道 右北*道」と刻まれる。「*」の部分ははっきり見えるのだけれど、何という字か読めない。教養の無さが悔やまれる。
これらの標石の右にも標石がある。手印だけがうっすら見える。
山道はここで建治寺へと続く車道に出る。森林公園に上る車道から山道に入り20分強で参道車道に出た。

建治寺車道を建治寺へ
車道を進む。道は尾根筋を少し東に廻り込み、300m等高線辺りを進むことになる。5分強歩くと寺の駐車場(午前9時52分)。駐車場から尾根の東側の遠景、お寺さまにお参りした後に下る遍路道ではあろう谷筋、その先の鮎喰川の遠景を楽しむ。





参道に1丁石
駐車場の端に寺標石。その先に、広すぎもせず狭すぎもしない、ほどよい幅の参道が続く。 直ぐ参道右手に「一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時55分)。
上りにおおよそ2時間かかったことになる。






第十三番大日寺奥の院建治寺

駐車場の右手、小高い場所に常夜灯。往昔、津田の湊(徳島市の南部)の漁師たちの灯台の火でもあったようで、毎年津田の漁師より油の寄進を受けたとある。玉姫大明神の小社も祀られる。玉姫稲荷さんがここに祀られる所以は不詳。

参道を進むと右手に宿坊。左手に厄除大師堂。正面に東面した本堂と続く。本堂には「四国三十六不動霊場」の幡が立ち並ぶ。当寺は第十二番霊場とのこと。
本堂にお参り。東寺真言宗。山号は大滝山。本尊は金剛蔵王大権現。脇仏として阿弥陀如来が祀られる。
建治龍門窟
大師堂の右手に「建治龍門窟」と書かれた石柱。先に進むと狭い洞窟が続き、最奥部には不動明王が祀られる。
建治寺縁起
境内にあった建治寺縁起には、「当山は白鳳時代天智天皇(661~671)の頃、役行者(神変大菩薩)の開基にして金剛蔵王大権現を本尊として祀る。
その昔、役行者が大峯山にて、かかる末世の衆生を救済すべく濁世降魔の尊をと祈念すれば、一天にわかに曇り大地鳴動して出現されたのが金剛蔵王大権現である。
弘仁年間(810~824)、弘法大師四国巡錫の折、当山に登り霊験あらたかなその聖地に感じ入り、修行場所として最適な霊地と逗留されることとなった。
大師修行中、ある夜、本尊金剛蔵王大権現を感得し、斎戒沐浴して御尊像を彫刻、深く岩窟の奥に安置し祀られた。
本尊金剛蔵王大権現は、右手に三鈷杵をいただき、左手は刀印を結び腰に安んじて、右足は虚空を蹴り、左足は強く大地を踏みしめる。
御身の青黒なるは大慈悲をあらわし、右手の三鈷杵は魔障を避け、左手の刀印は降魔の利剣。 右足は天魔を蹴散らし、左足は地下の悪魔を踏み砕く。
御身青黒色にして恐髪逆立ち、裂けんばかりの口には阿字を含み、睨みすえる眼はまさに忿怒の形相で、心悪しき物には恐怖と戦慄を覚える御姿である。
時代は下って、天正十三年(1585)蜂須賀家政が阿波藩主として入国後、豊臣秀吉の征朝郡に従い出陣することとなったが、戦況不利となり苦戦をしいられていたある晩、夢枕に白髪の翁が現われて勝利に導く霊示をされた。
半信半疑不思議に思いはしたものの、お告げの通り軍を進めたところ大勝を博する結果となり、大いに喜ばれた。
凱旋後、その仙人の風貌をした白髪の老翁こそ、建治寺の本尊金剛蔵王大権現の化身であったことが判り、藩公深く畏敬して城の守り本尊となすべく城下(眉山麓)に一寺を建立し、金剛蔵王大権現並びに薬師如来を勧請して寺号と共に移したのである。
これが現在の大滝山薬師であり持明院である。
然るにそれ以後というもの、寺に奇異なる現象が頻発し、藩公大いに恐れて高僧に伺いをたてさせたところ、本尊が元の建治寺に帰山を望まれていることがわかった。
しかし、藩公は御本尊を手放したくないため、仏師に建治寺より持ち帰った御尊像に似せて、もう一体の金剛蔵王大権現を作らせた。
礼を篤くしてそれを当山に祀り安置したものの、寺における変異は続き、困り果てた末、遂に薬師如来を残して弘法大師御作の御本尊を返されることになった。
故に、阿吽二体の金剛蔵王大権現像(弘法大師作は阿形、蜂須賀公の彫らせたものは吽形)が建治寺の岩屋奥に祀られ、今に到っている。
役行者が金剛蔵王大権現を勧請することによって始まった輝かしい建治寺の歴史は、弘法大師の威徳によって不滅の金字塔が打ち立てられた (四国霊場第十三番奥の院修験根本道 場として発展)
霊験あらたかな聖地を守り続ける心は絶えることなく受け継がれ、近年では(安政時代) 貞阿上人の業績にと、今なお脈々と命打っているのである」とあった。

〇貞阿上人 貞阿上人って?チェックすると「徳島 建縁起復活公演 小屋掛け人形浄瑠璃バスツアー」というページがあり、そこに貞阿上人の記事があった。
貞阿上人:貞阿上人は、文化二年(1805)3 月 12 日、 加賀国連華村(現石川県金沢市)の井口権三の三男と して生まれた。俗名を花寺貞信といい、安政 2 年 (1855)4月28日阿波国入田村の観正寺で得度した。 遍路として四国霊場を巡り、観正寺に足をとどめ、当 時、観正寺末であった金剛菩薩堂(現建治寺)で修行 した。以後、寺の復興と布教に努め、多くの信者をえ た。実際、上人建立の写し霊場、八十八の石塔の中に は、徳島城内の奥女中衆の寄進もあり、上人が広い階 層の信者の帰依を得ていたことが知られる。明治 8 年 (1875)2 月 18 日、補訓導を拝命したと記録にあり、 当時、観正寺に置かれた小学校で教鞭をふるったと考 えられる。明治 18 年旧 7 月 3 日に没した。享年 81 歳。墓碑銘に「白蓮舎照道貞阿上人」とある。

またそこには人形浄瑠璃「実録 建治山御法之花、貞阿上人滝行場之段 」のストーリーが書かれおり、「忠蔵と左代の兄妹が、仇敵を追って敵討ちの 旅に出たのが三年前。長い旅路のはてに弘法大師のお告げを聞き、阿波の霊場十三番札所大日寺奥ノ院建冶寺にやってくる。そして、建冶寺の滝で滝行する宿敵石川藤斎は人々に崇め慕われている貞阿上人その人であった。仇討ち装束に身を固めた兄妹は、滝行をする無心の上人に後ろから斬りかかろうとする。 目に入る「正道頓悟居士」と彫られた背中の入れ墨。 それは亡き父の戒名であった。そのとき、天にわかにかき曇り落雷響く雲の彼方から、建冶寺の本尊蔵王大 権現と亡くなった父正作が現れる。父は兄妹に、藤斎のこれまでの所行を語って聞かせる。故意に殺めたのではないこと、返り討ちにしてくれとの書置きはお家再興を奮起させるためのものであったこと、正作の戒名を入れ墨にまでして菩薩を弔っていたこと、大勢の人々に功徳を施し幼かった兄妹のことはかたときも れなかったこと、再任官をさせるため無抵抗で打たれる覚悟をしていること等々である。真実を知らされ た兄妹は、仇敵藤斎憎しの考えを改めて、藤斎の功徳に感謝すると共に、悲願であるお家再興を胸に秘め、 心静かに国元へ帰っていく」とあり、続けて
「この作品は幕末から明治初 年にかけて、建冶寺の中興の祖と讃えられた貞阿という人物から取材して創作されたものである。貞阿は四国巡礼中、観正寺に杖をとどめ、建冶寺で荒行を重ね、 観正寺から僧籍をゆるされ、後、建治寺の住職となった。貞阿は篤行の人として人望も厚く、信者も四方から集まり寺は栄えた。しかし上人の過去における経歴には不明なことが多く様々な伝説が生まれた」とあった。
この外題がつくられたのは明治末か大正の頃。地元の方がストーリーを徳島出身の文楽関係者が三味線と語りを受けもちつくられた、数少ない阿波オリジナルの浄瑠璃とあった。 少し長くなったが、物語、伝説がつくられるプロセスとして興味を覚え全文引用させて頂いた。


建治寺から県道21号に下る■

建治瀧ルートに下る;午前10時9分
境内を離れ大日寺へと、下りの遍路道に向かう。「十三番瀧行場へ(階段下る) 下の道場山門より下ってください 途中瀧行場を通過して大日寺に行けます」の案内、遍路タグに従い石段を下りて下の広場に。
広場(道場)では修験儀式といった準備が行われていた。柴燈護摩の広場とあるので、柴燈護摩の準備なのだろうか。
柴燈護摩
Wikipediaには「大柴燈護摩供(だいさいとうごまく)とは、野外で行う大規模な護摩法要のことである。柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)と呼ぶ場合もある。
伝統的な柴燈護摩は真言宗を開いた空海の孫弟子に当たる聖宝理源大師が初めて行ったといわれており、醍醐寺をはじめとする真言宗の当山派修験道の法流を継承する寺院で行われる事が多い。すなわち、日本特有の仏教行事である。
伝統的な真言宗系当山派の柴燈護摩に柴の字が当てられているのは、山中修行で正式な密具の荘厳もままならず、柴や薪で檀を築いたことによる。なお、天台宗系本山派が行う野外の護摩供養は、「採燈護摩」というが、真言宗系当山派の柴燈護摩から「採取」した火により行われたので、その字が当てられるようになった。また、真言宗醍醐派の正当法流を汲む真如苑宗(真如三昧耶流)では、斉の字を当てて「斉燈護摩」と呼称している」とあった。

山門を出て滝行場へ;午前10時9分
柴燈護摩の広場の北端にささやかな山門が建つ。下山の遍路道は上述案内の通り、この山門を潜り滝行場へと向かう。
山門を潜ると荒れた沢筋。そこには四国八十八霊場の本尊石仏が並ぶ。大師座像とペアで並んでいる。


鎖場分岐点;午前10時17分
八十八霊場の石仏を目安に岩場の沢筋を下る。ほどなく遍路道は沢筋から離れる。石の祠に祀られる六十七番札所小松尾寺(大興寺)の本尊薬師如来の先に中尾多七標石(午前10時17分)。その直ぐ先で道はふたつに分かれる。
分岐点には「直進 鎖坂道 すべり注意」「左道 迂回路(安全)」とある。とりあえず直進し鎖場へ。

鎖場;午前10時21分
62番宝寿寺の十一面観音、60番横峰寺の大日如来などに一礼しながら道を進むと鎖場に。それほど危なそうではない。鎖をしっかり握り、足場を確保し鎖場を下りる。岩場には石仏が立つ。はっきりとは見なかったのだが、四国霊場本尊石像ではないようだ。




鎖場下に3丁石;午前10時29分
鎖場を下り切ったところに「三丁」の丁石。そこに遍路道は右とある。ここは要注意。この案内は鎖場迂回路の案内。当日は案内に従い右に進んだのだが、鎖場分岐点まで引っ張られ、 元に戻ることになった。





岩場の行場;午前10時29分
三丁石まで戻り、沢筋に向かうと梯子のかかった岩場に出る(午前10時29分)、梯子の上に岩壁を穿った溝といったものが見える。オーバーハング気味のルートを進むと岩場の行場があるようだ。高所恐怖症のわが身はご勘弁と梯子上りは避ける。
梯子の右手、岩場下にも石仏が並ぶ。ここも注意が必要。石仏が並ぶならそれが遍路道かと右に向かい大岩を上るが、その先はなんとなく遍路道っぽくない。
梯子の岩場に戻りルートを探すと沢方向への道案内があった。

建治の瀧;午前10時33分
沢筋へと下ると数分で右手に瀧。30m弱といったところだろうか。水はほとんど落ちていない。地形図を見ても、滝の上流部の区間も短く、大雨の後以外に水は流れようもない、滝の傍のお堂には不動明王と共に上述、貞阿上人も祀られている、と。






木の鳥居;午前10時46分
金治谷川の沢に架かる橋を渡り遍路道を下る。道は荒れている。遍路タグや四国88霊場の本尊石仏を目安に沢の右岸を下ると木の鳥居があった。





ごんげん道標石;午前10時49分
倒木を潜り、53番札所圓明寺の本尊阿弥陀如来石仏に一礼し成り行きで下ると、手印と共に「ごんげん道」と刻まれた標石があった。建治寺の本尊である蔵王権現を指すのだろう。


廃屋に;午前11時9分
四国霊場の本尊石仏を目安に進む。48番札所西林寺の本尊十一面観音を越えた辺りで遍路道は沢の左岸に移る。道に沿って続く四国霊場の本尊石仏に頭を下げながら歩くと、沢筋の道は平坦な道へと変わる(午前11時3分)。そこから5分強、廃屋が見えてくる。

「左おくの院」標石;午前11時13分
道を進み38番札所金剛福寺の本尊千手観音石像を越えたあたりで遍路道は車道にでる。建治寺よりおおよそ1時間で下りてきた。
車道合流点に「左おくの院」と刻まれた標石。その傍にルート図と共に、建治寺まで車道1700m,遍路道1200mの案内があった。
車道は県道21号より、南谷川(金治谷川)の谷筋を上り建治寺へと向かうルートのようだ。

「おくのいん」標石;午前11時24分
車道を進む。里は開け民家も現れる。四国霊場18番札所恩山寺の本尊薬師如来の立つ少し先、上述「おくの院」標石から10分ほど歩くと南谷川徒金治谷川の合流地点にT字路。その角に2基の標石。「おくおいんみち 文久三」「名勝建治乃瀧 右上」と刻まれる。 遍路道はここを左折し県道21号に向かう

橋傍に石仏群;午前11時34分
10分ほど歩くと遍路道は橋を渡り川の右岸に。橋傍に6基の石仏。四国霊場の本尊石仏だろう。大師像とのペアであるので3霊場だろうが、左端の石仏に「六番」と読める以外、摩耗が激しく札番号はわからなかった。
石仏群の向かいにもペアの石仏。「五番」のように読めた。

県道21号の奥の院碑石;午前11時43分
数分あるくと道は3つにわかれる。その真ん中の道、すぐ先にペアの石仏が並ぶ(午前11時38分)。札番号は読めなかったが、流れからすれば四国霊場本尊座像ペアであろうとその道筋を進む。建治寺から続いた四国88霊場の本尊石仏の一番がどこから始まるのか確認したかったのだが、結局わからずに終わってしまった。
そこから道なりに数分、県道21号の合流点、「四国十三番奥院建治瀧 登山道是より 大正五年建立」とかかれた標石が立つところで出た。


建治寺道散歩はこれでお終い。建治寺までの上り2時間、建治寺から県道21号奥の院標石までおおよそ1時間半弱。お寺の参拝も含めおおよそ4時間の散歩となった。

先回は十一番札所藤井寺から焼山寺道を十二番札所焼山寺まで歩き、散歩の段取り上、焼山寺バス停のある焼山寺山の山裾・岩鍋集落まで下った。

今回は岩鍋集落からメモを始める。おおよそのルートは岩鍋集落を走る県道43号から直ぐに道を逸れ、玉ヶ峠に向かう。峠の標高は450mほどだが、岩鍋の集落の標高は230mほどではあるので、おおよそ200m強の比高差を上ることになる。距離はおおよそ2キロ。
玉ヶ峠からは緩やかな下り道をおおよそ6キロほど歩き県道20号に下り、そこから鮎喰川左岸に沿って4キロ強歩き、広野で鮎喰川右岸に渡り県道21号に乗り換える。そこから県道21号にそって十三番札所までおよそ7.5キロ歩くことになる。
玉ヶ峠道が少し険しいが、その後は特段にキツイところはない。おおよその距離は20キロといったところである。焼山寺から歩くとしてもおおよそ25キロほどといったところだろう。
途中、広野で大日寺奥の院・建治寺経由の遍路道があった。このメモは次回に廻し、今回は広野から鮎喰川右岸を進む県道21号ルートをメモする。


本日のルート;
玉ヶ峠道
玉ヶ峠への遍路道分岐に標石>21丁石>中尾多七標石>23丁石>24丁石>里道に合流>玉ヶ峠への取りつき口>中尾多七標石>31丁石>32丁石と中尾多七標石>遍路墓>35丁石>車道に合流>玉ヶ峠
玉ヶ峠から県道20号へ
宮分集落の遍路小屋>宮分集落の舟形地蔵1>宮分集落の舟形地蔵2基>長代集落の70丁石>鏡石>阿弥陀堂>県道20号合流点に82丁石
県道20号合流点から県道21号・建治寺道分岐点へ
阿川橋>禅定寺>福原橋>駒坂峠>128丁石>潜水橋>県道20号に戻る>長瀬集落の2基標石>156丁石>阿野橋>建治寺道分岐点に標石
県道21号・建治寺道分岐点から県道21号を13番大日寺まで 標石2基
森林公園への道手前に標石2基>192丁石>196丁石>202丁石>大師茶屋と204丁石>船盡神社に2基標石>213丁石>お堂と標石>220丁石>エミの古木と標石>224丁石と奥の院標石>小堂内に標石>府中殿遺跡と232丁石>234丁石>半分埋まった標石>安都真橋手前のお堂に丁石2基>13番大日寺


玉ヶ峠道


玉ヶ峠道

 先回の散歩では十二番札所・焼山寺から下り、焼山寺バス停のある岩鍋集落まで歩いた。今回はその焼山寺バス停からメモを始める。
お遍路さんの中にはこの焼山寺バス停から県道43号を南に下り、神山町の家並みのところで国道438号に合流。少し東に進んだ後鮎喰川に沿って走る県道20号に乗り換えて大日寺を目指す方も多いと聞く。
今回のメモではこのルートをとらず、往昔の遍路道と言われる玉ヶ峠経由の道を歩く。両ルートの合流点である鮎喰川と広石谷川の合流する阿川橋あたりまでは、県道43・国道438・県道20号ルートでおおよそ11キロ。玉ヶ峠越えルートで10キロ弱。
玉ヶ峠ルートは歩く距離は少し短いが玉ヶ峠越えをしなければいけない。多くの記事では玉ヶ峠越えを「難所」と記すものも多いが、実際歩くとそれほどでもない。取り付き口から峠までは比高差150m、おおよそ30分の上り。ちょっとツライかもしれないが、玉ヶ峠への上りの後、「天空の遍路道」などといった記事もある玉ヶ峠経由の遍路道も、体力に少し余裕があればいいかとも思う。

玉ヶ峠への遍路道分岐点に3基の標石;午前8時29分
岩鍋集落の焼山寺バス停から県道43号を50mほど南に歩く。道の右手に3基の標石が立つ。そこが玉ヶ峠ルートへの遍路道分岐点。
右端の標石には「「右十三ばん江 四里十五丁 明治三十六」、真ん中の標石は「す久 へんろみち 明治三十七」、左端の標石には「へんろ道」と刻まれる。左端の標石は昭和37年かから中尾多七氏、高田金二氏達によって立てられたもの。ここでは以下、便宜的に「中尾多七標石」と呼ぶことにする。
3基の標石のあるところから県道43号を左にそれ、沢に架けた鉄板を渡り山道に入る。
中尾多七標石
中尾多七さん達が昭和37年から昭和38年(1963)にかけて建てた標石は阿波の23番札所までに60近くにのぼると言う。特徴は「へんろ道」の文字と、その上に両端に矢印のついた線。線には直線の他、カーブしたものなどがあり、道方向を示す。 中尾多七標石は阿波だけでなく伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道にも見られる、と。

21丁石・中尾多七標石
数分歩くと「二十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時32分)がある。
そこから5分、今度は「へんろ道」と共に、両端矢印の線が刻まれた「中尾多七標石」。文字や線の部分が色付けされている。見やすくなってはいるが、実用性としての存在価値が大きくはない現在、はてさて。

23丁石・24丁石
数分歩くと「二十三丁」、更に数分で上部が欠けた舟形地蔵。「二十三丁」と刻まれる。この丁数は焼山寺からの距離を示しているようだ。



里と丁
過日佐野から雲辺寺への遍路道を上ったとき、上り口には雲辺寺4kmとあり、その先の丁石には48丁とあった。1丁は109mであり、計算するとおおよそ5.5kmとなる。4㎞では間尺が合わない。
あれこれチェックすると、「みちのりは、あハととさ八(私注;阿波と土佐は)五十一丁一り、いよとさぬきは、三十六丁一り」といった記録もあり、阿波では一里48丁(5.2km)、土佐50丁(5.5km)、伊予と讃岐は36丁(4km)ともあった。現在では一里4㎞とするが、それが通用するのは伊予と讃岐だけ。理由は不詳だが、かつては国によって一里の距離が異なっていたようだ。

里道に合流:午前8時44分
遍路道分岐から15分ほど歩くと道は開け、一旦里に出る。民家が点在する。舗装された道は県道から続いていた。
舗装された道を数分進み道が左右に分かれるところで右の道をとる(午前8時46分)。舗装された道が続く。


玉ヶ峠への取り付き口;午前8時55分
10分弱進むと、道の右手に標石があり「上方の車道まで六百米、建治寺経由大日寺まで19.7粁」と刻まれる。遍路道はここで舗装道を逸れ右へと山道に入る。ここから玉ヶ峠まで比高差150mほどを上ることになる。






中尾多七標石・31丁石
登り始めて10分、中尾多七標石が立つ(午前9時5分)。さらに5分で「三十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時10分)。





中尾多七標石と32丁石・遍路墓
その先、数分で2基の標石。1基は両端矢印と「へんろ道」の文字が刻まれる中尾多七標石(午前9時13分)。もう一基は「三十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。
更に数分歩くと遍路墓。天保十三年の銘がある(午前9時16分)。



車道に出る:午前9時25分
5分ほど歩くと、遍路道の右手、少し奥まったところに35丁石(午前9時21分)。そこから5分弱で車道に出る。玉ヶ峠取り付き口からおおよそ30分であった。
車道は県道43号から右に分かれ、玉ヶ峠から府中、宮分などの山麓の集落を結び、そこから南の鮎喰川筋、北の広石谷筋へと降りている

玉ヶ峠;午前9時29分(標高450m強)
車道を右に進むとほどなく切通しにあたる。切通しに「中尾多七標石」が立つ。ここが玉ヶ峠。切通し故に「堀切峠」とも呼ばれる。
切通しを抜けると、右手にお堂。一宿庵との記事も見かけた。
お堂と切通しの間に徳右衛門道標。「是より一の宮迄四里」と刻まれる。徳右衛門道標の特徴である梵字と大師座像は風雪に晒され摩耗していた。
お堂の対面には石造物群。左端は木の覆屋に弥勒菩薩。青石板を屋根にした石の祠には大師座像が祀られる。石仏群左手に並ぶ3基の座像石仏の前に標石があるが摩耗激しく文字は読めない。

里数
上で国によって一里の距離数が異なっていたとメモした。試しにチェック。玉ヶ峠から一宮、大日寺までは19キロほどある。上述徳右衛門道標に「一の宮迄四里」とあるが、一里4キロでは16キロと少々短い。往昔阿波の1里5.2キロで計算すれば20.8キロ。一里5.2km とか5.5kmとも言われる阿波の里数距離の当否は別にしても、1里4キロは少し短すぎるようにも思える。

玉ヶ峠から県道20号へ


玉ヶ峠から先に進む。ルートははっきりしないのだが、地図をチェックすると山麓の宮分集落に遍路小屋があり、その先代集落に鏡石が記される。この2点を目安に進み、鮎喰川と広石谷川が合わさる辺りで県道43号に下りることにする。距離はおおよそ6キロ強。

府中集落
玉ヶ峠を離れ、道の右手に常夜灯を見ると府中の集落に出る。点在する民家を見遣り道なりに進む。途中いくか分岐があるが、基本「東に向かって下って行く」ことにした。府中の集落の道脇に舟形丁石があるとの記事もあるが、見つけることはできなかった。
遍路道からの眺めは、いい。

宮分集落の遍路小屋
舗装された道を進む。鮎喰川の谷筋の遠景がなかなか、いい。谷筋との比高差は200mほどなのだが、連なる山々に囲まれた谷筋故か、実際より深い谷筋のように思える。「天空の遍路道」といった記事も見かけた。同様の景観は伊予最後の札所、65番三角寺の奥の院からの復路が記憶に残る。
緩やかに高度を200m弱下げた宮分集落に遍路小屋があった。遠景を楽しみながら少し休憩。

宮分集落の丁石2基
遍路小屋を離れ少し進むと道の右手に上部が破損した舟形地蔵。その直ぐ先にも舟形地蔵が続く。共に摩耗が激しく丁数は読めない。





長代集落の70丁石
ゆるゆると高度を下げ長代の集落に向かう。西に広がる遠景、谷筋と幾重にも連なる深い山並みが美しい。しばらく進むと道の左手に舟形地蔵。「七十丁」らしき文字が刻ま



鏡石
70丁石から少し進むと道脇に「鏡石」ときざまれた石柱。辺りにはそれらしきものは見当たらない。と、車道から逸れて谷筋へと下る道がある。特段の案内はないのだけれど、道を50mほど下りるお堂が見えた。

お堂には石造大師座像。鏡大師と称されるよう。台座に文化七年と刻まれる。で、鏡石って何処?と、お堂傍の杉の巨木下に岩があり、2基の舟形地蔵なども祀られる。これが鏡石らしい。2基の舟形地蔵は丁石であり、それぞれ「七十四丁」「七十互丁」と刻まれる。
かつての遍路道はこの先に続くのだろうか?谷筋に沿って走る県道20号との比高差も50mほどだし、迷ってもそえほど危険ではなさそうでありここから直接先に進もうとしたが、通行止めの案内もあり断念。車道に戻る。

県道20号合流点に82丁石
鮎喰川に沿って進む県道20号にむかってゆっくりと高度を50mほど下げ、鮎喰川に広石谷川が合わる手前で遍路道は県道43号に合流する。その合流点に「八十二丁」と刻まれた舟形地蔵が立つ。
橋の手前の県道右手には地神さま、左手の法面上に阿弥陀堂がある。
鮎喰川
なんとなく名前に惹かれる。文字通りに読めば、「鮎を食べる>鮎の多い川」ではあろうが、そのような川はいくらでもあるわけで、由来は?鮎をたくさん産した故との解説もあるが、鮎喰は脚咋(あしくい)とも書かれ「日本書紀」に鷲住王、のちの脚咋別の居住地であったことにもよる。といった記事もあった。
なんだか面白そう。チェックする。『阿波誌』には「鮎喰川 源名西郡上山村普戸野に出づ又北渓北より入り左右渓南より入る阿川、広野、入田及本郡一宮、名東、岩延等を経高崎に至り芳野河に入る長さ7里評り或いは曰く郡に鮎喰祠あり因って名づくと」あり、鮎喰川の由来は鮎喰祠から、とする。
で、その鮎喰祠は「鮎喰祠 亦荘村に在り」とある。荘村は現在の庄町。その庄町に接して鮎喰町もある。鮎喰祠があったのは徳島線鮎喰駅の南の徳島市鮎喰町にあったのだろう。 その鮎喰祠が祀るのが鷲住王(わしすみのおおきみ)。で、鷲住王は脚咋別(あしくいわけ;あくいわけ)・讃岐国造の始祖とされる、とする。鮎喰の地が阿波の国府の近くにあるのも、それらしくて、いい。
何だか三題噺のようでもあるが、鮎喰が脚咋に由来するとの説もストーリーとしては違和感がない。どちらが正しいのか門外漢にはわからないが、脚咋>鮎喰のほうが面白そう。 因みに「別」とは朝廷から地方豪族に賜る称号。主に皇系のものが多いようだ。また、讃岐国造の件(くだり)だが、讃岐を歩いていたとき讃岐国造の祖として神櫛王がしばしば登場した。神櫛王と鷲住王の関係は?あれこれの解説があるようだが、本題から離れてしまいそうであり、思考停止。


県道20号合流点から県道21号・建治寺道分岐点へ

阿川橋を渡る
広石谷川に架かる阿川橋を渡る。県道を少し進むと禅定寺があり、その道筋には標石が残る。このルートも遍路道だが、橋を渡ると直ぐ鮎喰川に架かる福原橋を渡るのがショートカットルート。橋もない昔にそれほどお遍路さんが歩いたとも思えないが、途中ちょっとした峠もあるようだ。今回は禅定寺にちょっと立ち寄り、あたりの標石を確認した後、福原橋を渡るショートカットルートを歩く。

禅定寺
寺柱に「真言宗御室派 善光寺阿波出張所」とある。阿波善光寺とも称されるようだ。寺柱の横に徳右衛門道標。「是より一ノ宮迄三里」とある。朱塗りの仁王様が並ぶ仁王門手前に「百六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。
「天神山」の山号の見える仁王門を潜り本堂にお参り。
縁起によれば、「慶安元年(1648)」に中興す。真言を修む。京都仁和寺末、本尊阿弥陀如来は行基の作なり。現今、信濃國善光寺如来の出張所たり」と記されています。 真言宗御室派に属し、弘法大師の教えと共に、善光寺との深い繋がりのある古刹で、「阿波善光寺」として信仰され、親しまれています」、といった記事もあった。
で、出張所って何?チェックすると「録所」とある。「録所」とは僧侶の登録・住持の任免と言った人事を統括するところといった記述があった。








県道20号・井ノ谷集落に標石
福原橋を渡ることなく県道20号を進むと、禅定寺を越えて少し、井ノ谷集落の県道より少し奥まったところに舟形地蔵があった。摩耗して文字は読めないが、井ノ谷集落に107、109丁石があるとの記録がある。そのどちらかなのだろう。






福原橋
禅定寺から県道を少し戻り鮎喰川に架かる福原橋を渡り福原の集落に入る。この遍路道は大きく蛇行した鮎喰川を直線にショートカットする遍路道。







駒坂峠
道を進むと鮎喰川蛇行部に突き出した支尾根が行く手を阻む。比高差50mほどの上りとなる。上り切ったところに「駒坂峠」と記された木標があった。




潜水橋を渡り県道20号に戻る
峠からはジグザグの下り道。途中に「焼山寺ヨリ百廿八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。坂を下り切ると川にコンクリートの潜水橋。橋を渡り県道20号に戻る。



長瀬集落に117・118丁石が並ぶ
長瀬集落まで進むと民家の前に2基の舟形地蔵と自然石。舟形地蔵は百十七丁」「百十八丁」と刻まれる、と言う。自然石もなんらか「意味」ありげではあるが、よくわからない。 丁数117、118丁とメモしたが、この数字では間尺に合わない。歩き終えた駒坂峠道に既に128丁石があったわけであり、どこからか移されたものだろう。

広野五反地バス停対面の丁石(156丁)
少し進み、広野五反地バス停の対面、石垣に四角いコンクリート枠に舟形地蔵がある。「百五十六丁」と刻まれている。




阿野橋
その直ぐ先で遍路道は阿野橋を渡り、鮎喰橋右岸に廻る。記録には阿野橋傍に破損した徳右衛門道標があるとのことだが見当たらない。橋をよく見ると新しく付け替えられており、その脇に古い橋が中央部だけ切り取られて両岸に残る。道標はこの新しい橋の建設に際し取り除かれたのだろうか。
県道20号は橋を渡ることなく鮎喰川左岸を進むが、遍路道は橋を渡り県道21号となった道を進むことになる。

建治寺道分岐
県道21号を少し進み、左手に広野小学校がある。その道の反対側に「四国十三番奥の院 十八丁」と刻まれた標石が立つ。伊藤萬蔵寄進のこの標石は十三番札所大日寺の奥の院である建治寺道への遍路道。
何となく惹かれる遍路道。この遍路道は翌日に廻し本日は県道21号を十三番札所大日寺へ向かうことにする。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。


県道21号・建治寺道分岐点から県道21号を13番大日寺まで

森林公園に上る道の手前に丁石2基
蛇行する鮎喰川に沿って県道21号を進む。南馬喰草、白嶽の集落を越え森林公園に上る道の手前、方子口の集落に2基の標石。1基には「百九十一丁」と刻まれる。もうひとつには「百*丁」といった文字が読める
青石板碑
広野小学校辺りから鮎喰川に架かる吊り橋「広野橋」を渡ったところに青石板碑がある。石造供養塔である板碑は徳島県には1500から2000基残るとのこと。その数も埼玉。東京、宮城、群馬、大分に次いで全国第六位。分布も吉野川流域の石井町、鮎喰川流域お神山町に多く残るとのことである。
青石とは緑泥片岩のこと。徳島には石井町など良質の青石産地があると言う。



192丁石
その先直ぐ、行者野橋の手前、道の右手、5mほどある法面上に舟形地蔵丁石があった。県道整備の際にでも移されたのだろう。




196・202丁石

行者野橋を越えると舟形地蔵丁石。真ん中から折れている。「百九十六丁石のようだ。その先、道の右手に「二百二丁」の地蔵丁石があった。
行者野
行者野の地名の由来は?十二番札所焼山寺が修験の霊地であったため、この地で禊をして入山したから、との記事がある。ちょっと距離が遠すぎる。焼山寺まで行かなくても、十三番札所大寺の奥の院の建治寺も修験の寺のよう。次回メモするが、建治寺を訪れたとき、修験の儀式らしきものを行っていた。
また、この地の対岸、標高350mの稜線上に行者堂が地図に見える。これだ、と思ったのだが、住所は吉野川市鴨島町であり、分水界を別にしており、ちょっと違和感。この辺りに行者野という地名もあるわけで、建治寺との関連で捉えたほうがわかりやすいと思うのだが、さてどうだろう。

大師茶屋と204丁石
先に進むと県道の左手に2mほどの岩と地蔵が見える。青石には「大師茶屋」と刻まれている。遍路茶屋でもあったのだろうか。その青石台座右端に舟形地蔵が立つ。「二百四丁」と刻まれた丁石であった。
青石左手には2基の石仏が並ぶ。県道を背にしているのは県道改修前の遍路道はもっと川寄りであったということだろうか。それとも暴れ川を鎮めるため?石仏は比較的新しいが台座には「寛延三」といった文字が刻まれているとのこと。

船盡神社に2基標石
ほどなく道の左手に大樹とこじんまりした鳥居が見える。鳥居には「船盡比売神社(ふなはてひめじんじゃ)」とある。ムクの巨木の根元に2基の舟形地蔵。そのうち2基が標石。「二百五丁」「焼山寺 是ヨリ一宮江一里」といった文字が刻まれる。笠形の庚申塔も立つ。
ささやかな社の脇に由緒。「主祭神は船盡比売命。式外社の古社で、「日本三代実録」では872年(貞観14年)に正六位上の船盡比売命に従五位下を加えたと記されている。俗に歯の辻神社と称えられ、歯痛を治す神として箸を納める風習がある。
近代の神仏分離に際し、対岸の歯の辻や高瀬下の神社統合があったが、二本木や行者野は南岸のため台風や川の増水時には渡ることができず参拝できず、遥拝所として残した」といった案内があった。
岐(ふなと)信仰
門外漢にはなんのことかさっぱりわからない。チェックする。鮎喰川の対岸に歯の辻神社が地図にある。この社は対岸の歯の辻神社の遥拝所であるという説明はわかった。 歯の辻神社ももとは羽の辻明神と称されたようであり、歯の霊験故に羽>歯と転化したようだ。
それはともあれ、歯の辻神社と船盡神社の関係は?歯の辻神社は船盡神社とも称される、とある。船盡神社って何?案内に「「日本三代実録」では872年(貞観14年)に正六位上の船盡比売命に従五位下を加えた」とあったが、これは京の都で天変地異が起こったため、それを鎮めるべく丹後と阿波の社に祀られる神を格上げしたということのようだ。その阿波の神が船盡比売命でありその神を祀るのが船盡神社であったよう。

何故丹後と阿波の神が選定されたかは不明だが、妄想を逞しくする。船盡神社は「おふなとさん」と称される。これは阿波に多く残る「岐(ふなと)信仰」から来るとの記事がある。その岐信仰は「来名戸(くなと)信仰」からの転化。「来名戸」は「来名戸祖先神(くなとさえの神)がそのベース。「くなと」は戸(家)に来るのを拒否する、の意。さえの神とは塞(さえ)の神。塞神とは疫病などが村々に侵入するのを防ぐ道祖伸。とすれば、疫病や天変地異から村々を護る船盡比売命を都を護る神として格上げした、ということか。単なる妄想。根拠なし。
因みに岐神を祀る祠はこの神山町だけでも700を越えるようであり、道祖伸としての岐神は阿波を特徴付けるものとされる。

213・215丁石
東西へと進路を変えた県道を東に進むとコンクリート壁面に四角に切り込みがあり、その中に舟形地蔵。「二百十三丁」と刻まれる。その先、道の右手にコンクリート造りの小堂があり、お堂の外に「*十五丁」と読める舟形地蔵。「二百十五丁」だろう。

天の原バス停の石仏群と標石
徳島刑務所への道を越えると、セメント設置台上に「二百二十丁」。その先、「天の原バス停」。道の北側にエノミの古木が3本。その傍に寛文十二年銘の庚申塔などの石造物があり、そこに標石2基。「二百十八丁」「二百二十一丁」。
ここには「建治寺新道 右折」の案内もある。地図を見ると、「天の原バス停」少し西から建治寺へと上る車道が見えるが、この地を右折するとその車道に合流する。

奥の院碑石
道の右手、「二百廿四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石の先に、大きな石碑。「四国十三番奥院建治瀧 登山道是より 大正五年建立」とある。建治寺経由の遍路道はここに下りてくることになるのだろう。
道を少し入ったところにお堂があり、その傍には笠形庚申塔や石仏が集まる。中には225、226丁石もあるようだが、文字を読むことはできなかった。



府中殿遺跡碑と標石
奥の院碑石から直ぐ、道から入田小学乞校の校庭方向に少し入ったところに小堂があり、そこに地蔵が祀られる。一石に彫られた六地蔵は珍しい。その横に舟形地蔵。丁石のようだが文字は読めない。
道を少し進むと右手に「府中殿遺跡」と刻まれた石柱と石造物。「二百三十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石と舟形庚申塔、そして地神さまらしき石祠もある。 「府中殿遺跡」はあれこれチェックするもヒットせず。

234丁石・角柱標石
道の左手、民家の生垣前に「二百三十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。その直ぐ先、同じく道の左手には半分埋まった角柱標石。手印と共に「是より一* 文政」といった文字が刻まれる。一宮を案内しているのだろう。



安都真橋手前の地蔵堂に丁石

南谷川に架かる安都真橋手前、道の右手に地蔵堂があり、その中に丁石2基。「二百三十六丁」「二百三十八丁」と刻まれる。
ここから県道20号を道なりに進み第十三番札所大日寺に着く。







第十三番札所大日寺

県道20号より10段ほどの石段を上り境内に。左手に本堂、右手に大師堂が向かい合う。 大栗山(おおぐりざん)、花蔵院(けぞういん)。真言宗大覚寺派、本尊は十一面観音。 大日寺の本尊が大日如来ではなく十一面観音?
Wikipediaには「寺伝によれば、弘仁6年(815年)に空海がこの付近にある「大師が森」で護摩修行をしていると大日如来が現れてこの地が霊地であるから一寺を建立せよと告げた。そこでその大日如来の姿を刻み、堂宇を建立して本尊として安置し「大日寺」と称したという。
その後、伝承では平安時代末期に、阿波一宮が神山町の上一宮大粟神社にあるのでは不便ということで当地に分詞され阿波一宮神社が造られると当寺はその別当寺となったが、南北朝時代に、当神社の東の144.3mの山の頂近くに一宮城が造られ、その城主であった一宮氏が当神社を深く崇敬し大宮司を兼ねる関係であったため、その後の天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって一帯がすべて焼失し一宮氏は没落したが、江戸時代初期、徳島藩3代藩主になった蜂須賀光隆も当神社を崇敬し、当神社と当寺を再建した。

また、いつの頃か、当神社が札所になると当寺は納経所として、「本尊大日如来 一宮大明神 大栗山大日寺」と記帳するようになり、一宮寺とも呼ばれるようになっていた。
明治初期の神仏分離によって、当神社の本地仏であった行基作といわれる十一面観音を当寺の本堂に本尊として移され、それまでの本尊大日如来は向かって右の厨子に秘仏の脇仏とされ、当寺は神社の別当ではなくなった」とある。
要は、大日寺は往昔の札所であった一宮神社の納経所として大日如来を祀ってはいたが、神仏分離で一宮神社と分かれた際、神社の本尊であった十一面観音を当寺に移し本尊とした、ということのようである。
なお、上述上一宮大栗神社は鮎喰川上流、国道438号から県道20号が分かれる神山町の行政中心地近くにある。12番札所からおおよそ10キロほどのところである。
一宮神社
県道を隔てて一宮神社。境内は大日寺より大きい。かつての札所と納経所の関係を表すようにも思える。
朱塗りの鳥居を潜り本殿にお参り。祭神は大宣都比売命(おおげつひめのみこと)。大宣都比売命は、Wikipediaに「『古事記』に、まず伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みにおいて、一身四面の神である伊予之二名島(四国)の中の阿波国の別名として「大宜都比売」の名前が表れる」とある、日本神話に登場する女神である。

これで今回のメモを終える。次回は道の途中で見かけた大日寺の奥の院である建治寺経由の遍路道をメモする。


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