2020年2月アーカイブ

阿波の旧遍路道を辿るメモの第二回。今回は第六番の安楽寺から第十番の切幡寺へと吉野川北岸の道を歩き、そこからは吉野川を越えて南岸、第十一番札所藤井寺までをメモする。


本日のルート
第六番札所安楽寺
県道139号南の地蔵堂に茂兵衛道標(169度目)>真念道標と地蔵台座標石>十楽寺四つ辻手前の3基の標石
第七番札所十楽寺
旧街道合流点の真念再建道標>四国中千躰大師標石が続く>林観音庵に石仏群と四国千躰大師標石>御所小学校傍の標石>県道235号合流点の2基の標石>目引大師堂>延命地蔵尊に2基の標石>集会所対面に巨大供養塔>国道318号交差部に標石2基>御所神社参道鳥居前の標石>県道139号手前を右折し熊谷寺山門に
第八番札所熊谷寺
県道139号合流点に2基の標石>毘沙門堂>茂兵衛道標(167度目)>鳥居の先に2基の標石>舟形地蔵標石と四国中千躰大師標石>四つ辻に茂兵衛道標(88度目)と標石>道路標識に従い左折し法輪寺へ
第九番札所法輪寺
寺の東南角に標石>九龍宇谷川手前の茂兵衛道標(173度目)>青石自然標石>T字路角に地蔵座像と標石3基>小豆洗い大師>水田集会所手前の自然石標石と舟形地蔵標石>秋月大師堂と自然石標石>県道139号とのT字路に自然石標石>切幡寺の寺標石を右折し境内に
第十番札所切幡寺
県道237号手前と合流点の標石>地蔵堂の少し南に標石>県道12号合流点手前のへんろ休憩所>八幡小学校傍の標石2基>農協対面に標石>御所の原地蔵尊の茂平兵衛道標(137度目)と標石2基>吉野川堤防に茂兵衛道標>大野島橋>旧渡船場分岐点の標石>川島橋 >国道192号・県道240号分岐点に茂兵衛道標(157度目)>旧路分岐点に3基の標石 >旧路の自然石標石と地蔵尊>県道238号交差部に自然石標石>お屋敷前に2基の標石>旧遍路道分岐点に標石
第十一番札所藤井寺



第六番札所安楽寺

山門
コンクリート造りの山門。竜宮門形の鐘楼門となっている。左右の切妻造りの建物の仁王様が寺を護る。コンクリート造りは、このお寺様、昭和32年(1957)に大師堂と庫裏を残して全焼した故だろう。
多宝塔
境内に入ると左手に庭園がありその奥に多宝塔が見える。五智如来が祀られる。五智如来とは大日如来、阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の五大如来のこと。
本堂
正面に本堂。コンクリート造りのお堂に木に銅葺きの屋根。結構落ち着いた造り。Wikipediaには「徳島県板野郡上板町にある高野山真言宗の寺院。温泉山(おんせんざん)瑠璃光院(るりこういん)と号する。本尊は薬師如来。大師堂前から湧き出る宿坊の温泉とラジウム鉱泉入りの薬湯も有名である。
寺伝によれば弘仁6年(815年)に現在地よりおよそ2km離れた安楽寺谷に、空海(弘法大師)が堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊としたという。往時は温泉湯治の利益で、山麓から広大な寺域を誇り十二宇門甍を接し鈴鐘の響きが絶えることがなかったが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火により焼失し荒廃した。 万治年間(1658年 - 1661年)に現在地に駅路寺であった瑞運寺を併合して再建される。
承応2年(1653)巡拝した澄禅の『四国遍路日記』では「駅路山浄土院安楽寺」、貞享4年(1687)刊行の『四国辺路道指南』には「六番安楽寺又は瑞運寺とも云う」、元禄2年(1689)刊行の『四国?礼霊場記』には「瑠璃山日興院瑞運寺」、寛政12年(1800)刊行の『四国遍礼名所図会』には「六番温泉山安楽寺」と名称が変遷している。
本尊薬師如来坐像は、昭和37年(1962年)当寺の住職にすすめられて、妻の難病平癒祈願のため四国遍路を続けていた夫婦が、遍路途中に病気平癒をした報恩のために奉納したもので、43cm程の古来の本尊を胎内仏として納められている」とある。
境内にあった案内には「平安時代前期弘仁六年(815)弘法大師四国霊場御開創のみぎり、大師当地において四十二才の大厄をのがれられ(さかまつの由来)自ら薬師如来の尊像を刻み、請藍を建立、安楽寺と命名された。
山号を温泉山と号し、弘法大師が我が国に温泉湯治の利益を伝えた全国でも珍しい旧跡である。「四国遍礼霊場記」元禄二年(1689寂本著)には「相逐来て医王の神化をひとみな仰ぎ、寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し、鈴鐘のひびき耐える時なし」と記され、安楽寺谷川の滝の行場や瓦が出土する古代寺院跡、雨宝堂とよばれている庵、神社、平安時代の線刻仏等、周辺に史跡が点在し、当時の広大な寺域が想像できる。
この地は安楽寺谷川の水源と辺りの森を神とし、早くから開けた土地で「日置の荘」(引野)と呼ばれる広大な荘園であった。南北朝時代天授五年(1379)熊野新宮に寄進され、熊野の山伏(六坊)が熊野権現を祀った。近世となり、仏式の葬式等丁寧に先祖を祀る習慣が定着すると安楽寺はこの荘域に檀家を持つようになる。安土桃山時代慶長三年(1598)蜂須賀家正公の御信仰篤く、阿波の国主として入国するや、当山を駅路寺(管寺)と定め庇護された。茅葺の方丈(登録有形文化財)が当時を物語っている。
神仏分離、廃仏毀釈の歴史を経ても信徒の恩願深く四国霊場六番札所、温泉のある宿坊として現在に至っている。当寺は灌頂窟という道場を有す。願わくば参籠し、くす供養を以て先祖を廻向し自らも仏道を成ぜんことを」とあった。
大師堂
本堂の右手に大師堂。上述「さか松」の由来にある、「さか松」が傍にある。元は多宝塔前の現在庭園になっている辺りにあったようだが平成29年(2017)に枯れたよう。現在のものは何代目のものだろう。
さか松
お大師樣42才のお年に四国を巡錫され、当地に薬師如来の影現を拝して、心に薬師法を修して、国家安穏、諸人快楽を祈られました。その折り、病の父親に猪の肝を飲ませようと狩りをしていた青年が、お大師様を獲物と間違えて弓を放ってしまいました。すると、1本の松の枝が風もないのにその矢を受け、身代わりとなりました。

謝る青年に話を聞くと、お大師様は青年の父親をお加持し、私利私欲を離れて懺悔せよ、供養の心を起こし、人の為、世の為に自分を惜しむこと無く提供するよう説法されました。不思議、翌朝青年の父親は足腰が立ったのでした。ご利益を受けた一家は労力と資金を惜しみなく投じて本堂を建立しました。
お大師様は身代わりになった松の枝を青年にさかさまに植えさせ、この松が芽を出し栄えることがあれば末世の者、この地を踏むことによって悪事災難を免れると言い残されました。後にこの松は芽を出し栄え「六番のさかまつ」と言い伝えられるようになりました」と。

方丈
安楽寺方丈 - 入母屋造茅葺(一部本瓦葺)の方丈。江戸後期の建立。内部の上段の間は、藩主の座所と伝えられている。平成21年(2009年)8月25日、国登録有形文化財に指定された。
聖徳太子の駒繋石と一本木大楠不動明王の由来
方丈前に大きな岩があり、「聖徳太子の駒繋石と一本木大楠不動明王の由来」の案内。「(前略)この聖徳太子駒繋石と一本木大楠不動明王の御尊像(一本木大楠の倒木で造像された)は、聖徳太子が法隆寺へ通う道すがら、民の生活を知るためにこの一本木大楠の木かげのこの駒繋石に歩を止められた、と伝えられ、太子の宮と法隆寺の間に奉安(奈良県橿原市石原田町川本一吉氏宅)されしも、御所市早川勢津子先生のもとに、この不動明王の「お四国へ行って修行の旅をする者の道しるべとならん」というお説げが三度まであり、やっと関係者思案を重ねた末、この地に移されることとなった。(後略)」とあった。

駅路寺
案内に登場する「駅路寺」とは阿波藩独自のもの。藩主蜂須賀家政慶長3年(1598)、領地から城下町徳島を結ぶ5街道を整備し、その街道に往来の便を図るべく寺に宿坊を設けた。官用を優先しながらも、往還の旅人、遍路や出家も宿泊も利用できた、とのことである。
このお寺さまの宿坊は結構大規模。収容人数250名とあった。


第六番札所安楽寺から第七番札所十楽寺へ

安楽寺を離れ次の札所十樂寺へ。距離は1キロほどである。

県道139号南の地蔵堂に茂兵衛道標
安楽寺山門を右折。境内に沿って西に向かい、道なりに北に向か角に地蔵堂。「光明真言一億万遍 般若心経一万巻」と刻まれた供養塔傍に茂兵衛道標。手印と共に、「第六番 第七番 明治参拾弐年」といった文字が刻まれる。茂兵衛169度目巡礼時のもの。






真念道標と地蔵台座標石
遍路道はクロスする県道139号を北進し、最初の四つ辻を左折し西進。道なりに進むと四つ辻角、ブロック塀に囲まれた地蔵堂と標石がある。
地蔵堂に祀られる地蔵座像の台座に手印。標石を兼ねている。「文化七 八百七」の文字も読める。
その前に真念道標。正面に「左 遍ん路みち 願主 真念」の文字が読める。右面には「(梵字)大師遍照金剛」、左面には「為父母六親」といった真念道標の特徴となるサインがはっきり読めた。

十楽寺四つ辻手前の3基の標石
道なりに進むと板野郡上板町から阿波市土成町域に入る。手印と供に、「七番十楽寺、六番安楽寺」と書かれた石造りの「四国のみち」標石を越えると熊野神社。古き趣の社を右に見遣り西進すると、道の右手に3基の標石。
「へんろ道」の文字の上に、矢印の左右に六番、七番と刻まれた標石は前述中尾多七さん達が建立した標石だろう。手印と大師像が刻まれ半ば埋まったような標石は照蓮の四国中千躰大師標石。
この2基の標製の一段高いところに舟形地蔵。「右 十楽寺 寛政九」といった文字が刻まれた標石となっている。「右」では間尺に合わない。どこからか移されたものだろう。 標石の先の四つ辻を右折すると第七番札所十楽寺の山門前に出る。


第七番札所十楽寺

鐘楼門と中門
竜宮門型の鐘楼門を潜り石段を上ると、これも竜宮門型の中門。「遍照殿」の扁額。上層はかつて護摩堂、遍照殿、愛染堂となっていたとの記事もあるが、現在は愛染堂として愛染明王が安置されている。
本堂
正面に本堂。Wikipediaには「徳島県阿波市(もと板野郡)土成町高尾字法教田にある真言宗の寺院。光明山蓮華院と号する。本尊は阿弥陀如来坐像、脇侍は観音菩薩立像と勢至菩薩立像で3躰とも鎌倉期の作と云われている。
寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地に逗留した際に阿弥陀如来を感得し、楠にその像を刻み本尊として祀ったとされる。その際に、空海は人間の持つ八苦(生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)を離れ、極楽浄土に往生すると受けられる十の光明に輝く楽しみ(聖衆来迎楽、蓮華初会楽、身相神通楽、五妙境界楽、快楽無退楽、引接結縁楽、聖衆倶会楽、見仏聞法楽、髄心供仏楽、増進仏道楽)が得られるようにと山号・寺号を「光明山十楽寺」とした。当初は現在地よりおよそ3km離れた十楽寺谷の堂ヶ原に堂宇を建立したものと推定されている。
阿波北部でも有数の広大な七堂伽藍を有していたが、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべてが焼失、しかし、本尊・脇仏・舎利仏など大切なものは住職真然と弟子が運び出し大門ケ原に安置したが、弟子は矢に射られ死んでしまった。その後、寛永12年(1635年)に現在地で再建された」とある。
寛永12年(1635年)に現在地で再建された頃は草葺のお堂であったよう。現在の堂宇が再建されたのは明治になってからのこと。
大師堂
石段を上に大師堂が建つ。

山門左に茂兵衛道標
山門の少し西、車道の南側に茂兵衛道標が立つ。手印と供に「第六番安楽寺 第七番十楽寺 明治三十一と刻まれる茂兵衛161度目巡礼時のもの。横に「四国第七番霊場」と刻まれた寺柱も立つ。
それにしても標石、寺柱がここに立つのはちょっと違和感がある。お寺さま手前、標石3基を左に折れたあたりの道は整備中といった状態。古い道はこの茂兵衛道標のところに続いていたのか、道標などが移されたのか、どちらだろう。



第七番札所十楽寺から第八番札所熊谷寺へ

次の札所、第八番熊谷寺はここから西へ4キロほど歩くことになる。

旧街道合流点の真念再建道標
次の札所へと、山門手前で右折したところまで戻る。そこを右折すると、直ぐ道の右手に「四国七番十楽寺」と刻まれた寺柱とその横に手印と共に大師坐像、そして「八ばん」の文字が刻まれた標石が立つ。
この標石には「文化六」の文字と共に、「真念再建願主照蓮 世話人阿州徳嶋講中」の文字も刻まれる、とか。真念没後100年以上たった文化6年(1809)、願主とある照蓮が真念の標石建立を徳とし、その意思を継ぐべく四国中千躰大師標石建立を意図した、その「決意表明」と言った意味合いの文言であろう。「願主照蓮 世話人阿州徳嶋講中」のペアで四国千躰大師標石が建てられている。

四国中千躰大師標石が続く
西進し県道139号を右折。その先直ぐに県道を左折し県道235号に乗り換える。川を越えると道の右手、電柱脇に標石。手印、大師像が刻まれた照蓮の四国中千躰大師標石。
その先、道の右手、民家のブロック塀に組み込まれたような標石。これも四国千躰大師標石。



林観音庵に石仏群と四国千躰大師標石
更に西進すると道の右手にお堂があり、林観音庵とある。境内には光明真言百万遍供養塔や石仏、道傍には馬頭明王も祀られる。
この観音庵の南西端、道の右手のブロック塀端にも四国中千躰大師標石。手印は十楽寺方向を指す。今までの流れから言えば、次の熊谷寺を指すのが普通。道の反対側から移されたのだろうか。3基続いた四国中千躰大師標石はすべて文化六年と刻まれている、と言う。


御所小学校傍の標石
宮内谷川に架かる御所大橋を渡ると遍路道は一旦県道を離れて弧を描く旧道に入る。そこに自然石の標石。「是ヨリ大楽寺 十六丁 是与熊谷寺 *丁」と刻まれる。

県道235号合流点の2基の標石
弧を描く道を県道に戻ると合流点に壊れた石造物が集められそこに4基の標石が見える。 西端が「へんろ道」と刻まれその文字の上に矢印のある標石。前述中尾多七さんの標石だろう。その横に自然石の標石。手印と供に「左十楽寺 熊谷寺」の文字が刻まれる。また、その左手のふたつの自然石にも手印が刻まれていた。


目引大師堂
直ぐに四つ辻。県道235号はここから南に下るが遍路道は直進。四つ辻を越えた道の右手に目引大師堂。その前の8基の石碑。1基は光明真言百万遍供養塔だが、その他は馬頭観音など牛馬を祀る。


延命地蔵尊に2基の標石
西進すると道の右手の高い台座に延命地蔵尊が座る。天保三年の建立とある。板野十六地蔵四番札所との石柱も立つ。横には馬頭観音も祀られていた。
延命地蔵の裏表に2基の標石。表には手印と共に「四国道 七番 八番」と刻まれる。裏には大師坐像と共に「是より八ばん十八丁」と刻まれる。



集会所対面に巨大供養塔
ほどなく道の右手に集会所があり、道を隔てた対面に3mほどの供養塔。「光明真言三百万遍為二世安楽」と刻まれる。その横に自然石の石碑。「法華経*石塔」といった文字が読める。
また、集会所傍には大師像が刻まれた石碑、石灯籠も立ち、線香を手向ける台もある。弘法大師茶堂として御接待の場所であった、よう。



国道318号交差部に標石2基
西に進むと国道318号と交差。手前商店傍に「へんろ道」と刻まれた標石。中尾多七標石だろう。また、国道を渡ると道の右手に自然石の標石。手印と「*大師遍照金剛」の文字が読める。

御所神社鳥居前の標石
道の右手、御所神社の鳥居の立つところ、道の右手に2基の標石。少し土に埋もれた標石には「へんろ道」の文字と矢印が刻まれる中尾多七標石。その裏の大きな標石の側面には「是与十らく寺 三十丁」「是与久またに寺 十丁」と刻まれる。
御所神社
後鳥羽上皇を中心とした院の勢力が鎌倉幕府を倒すべく起こした承久の乱(1219-22)により、敗れた院側の土御門上皇ゆかりの地。土佐への配流後、阿波に移されこの地に行在所を設けた。ここから南東に1キロ強のところにある。土御門上皇行宮跡(土成町御所屋敷二42)。
昭和32年(1957)、この地の北にあった吹越神社に合祀され、現在ではそこが吉田の御所神社と称される。

県道139号手前を右折し熊谷寺山門に
西進すると道が県道139号にあたる手前に右折を指示する「遍路タグ」が貼られる。右折し北上すると第八番札所熊谷寺の山門に至る。










第八番札所熊谷寺
山門
四国霊場中最大の規模と称される山門。高さ13.2m、間口9m、1687年(貞享4年)建立。高さ13mの二重門。昭和46年(1971)に県の有形文化財に指定、この仁王門、かつては阿波藩主の蜂須賀公が月見の宴を張ったとか。
山門の先に車道が走る。車道をクロスし右手に弁天池を見遣り先に進む。
熊谷寺板碑
道がふたつに分かれる手前、右手に3基の石造物。その傍に熊谷寺板碑。案内には「この緑泥片岩の板碑は一般には「阿波板碑」と呼ばれているもので、次の文字が陰刻されている。 慈父慈母成等正覚 乃至法界平等利益 暦応二年八月時正
文面によると、亡父母の供養のため、その子息が建てたものと考えられる。建立年月は歴応二年(1339)秋の中日である。歴応は南北朝時代の北朝の年号で、当時北朝方の重臣細川和氏が秋月城に拠って勢力を誇っていたので、此の地方では北朝の年号が使用されていたと推定される 平成元年」とあった。
板碑は左端、2mほどの細長い石造物である。


多宝塔
左手の道を進む。四国最古の歴史をもつ二重の塔。安永三年(1774)の建立と言う。塔の中には大日如来をはじめとした五智如来が祀られる、と。
中門
石段を上ると中門。持国天と多聞天が両脇に立つ二天門であった。







鐘楼
鐘楼も落ち着いた、風情のある建物だ。
本堂
更に石段を上り本堂に。Wikipediaには「徳島県阿波市土成町土成にある高野山真言宗の寺院。普明山(ふみょうざん)真光院(しんこういん)と号する。本尊は千手観世音菩薩。 寺伝によれば、815年(弘仁6年)空海(弘法大師)がこの閼伽ヶ谷で修行をしていた際、熊野の飛瀧権現(熊野那智大社の別宮飛瀧神社の祭神)が現れて「永く衆生済度の礎とせよ」との宣託をし、1寸8分 (約5.5cm) の金の観音像を授けた。そこで堂宇を建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊としたという。
1927年(昭和2年)火災により本堂とともに空海作と伝えられていた本尊も焼失した。本堂は1940年(昭和15年)に再建が開始されたが戦争により中断、1971年(昭和46年)に全容が完成し、新造された本尊が開眼した」とある。
大師堂
本堂左側の石段を上ったところに大師堂。お堂には永享三年(1431)の作と伝わる弘法大師像が祀られる、と。


前述蜂須賀公の月見の宴の話の如く、江戸の頃は蜂須賀公の庇護を受け境内の堂宇は百を越えたという。なお、寺名の由来ともなった熊野飛瀧権現社跡は本堂と谷を挟んで右手上方の台地にある、とのこと。




第八番熊谷寺から第九番法綸寺へ

県道139号合流点に2基の標石
次の札所法綸寺は南へおおよそ3キロ。山門を出て南に下り旧遍路道まで戻る。熊谷寺への往路で右折した箇所を西進すると県道139号に合流する。
合流点の少し南、県道139号の右手に石仏と2基の標石。1基には「へんろ道」と刻まれる。文字の上には矢印らしきものも見える。中尾多七標石だろう。 その横の自然石も標石。風化が激しく文字は読めないが、「八ばん五丁 白鳥」といった文字が刻まれるようだ。



毘沙門堂
県道139号を下ると道の右手にコンクリート造りのお堂がある。お堂の中には彩色が残る毘沙門立像が祀られていた。この辺り新道整備中のようで往昔の遍路道の風情は残らない。










茂兵衛道標(167度目)
道なりに進み四つ辻の南東角に「四国のみち」の標石があり、その横に茂兵衛道標がある。手印と共に「熊谷寺 法輪寺 明治三十二」といった文字が刻まれる茂兵衛167度目巡襟時のもの。
遍路道はここを左折し県道を離れ南に下る。旧路をのみ込むように新しい車道の整備中。




鳥居の先に2基の標石
南に下ると整備された道の西側に残る旧道筋(といっても完全舗装)に鳥居が建つ。真北に若一王子神社が地図に見えるが、この道筋は参道口なのだろうか。
鳥居の先、道の右手に2基の標石。1基は「へんろ道」と矢印。中尾多七標石だろう。その横の自然石には手印が見える。





舟形地蔵標石と四国中千躰大師標石
ほどなく道の右手に舟形地蔵。「遍路道」らしき文字が刻まれ標石となっている。更に南、民家の生垣にも標石。手印や大師像、そして「千躰大師」といった文字も読める。照蓮の四国中千躰大師標石である。



四つ辻に茂兵衛道標(88度目)と標石

四国千躰大師標石から整備された道を離れて一瞬だけ旧道筋を進む。ほどなく整備された道に合流するが、その合流点先に四つ辻がありそこに2基の標石が立つ。手印と共に、「八十八度目為供養」「左 八ばん」「明治十九年」といった文字が刻まれる茂兵衛八十八度目巡礼時のもの。
また、茂兵衛道標の道を隔てた対面にも標石。上部が破損し「ろ道」の文字が読める。形状からすれば既述中尾多七標石のようにも見える。

道路標識に従い左折し法輪寺へ
茂兵衛道標の先に法綸寺左折の道路標石。指示に従い道を左に折れ道なりに進むと法綸寺に至る。
山門前に標石。手印と共に「右十ばんきりはた寺 二十五丁
左八ばんく満だに寺 十八丁 大正五年」といった文字が刻まれる。








第九番札所法輪寺

山門
白い土塀に囲まれた境内へと山門を潜る。入母屋造りの楼門である。
本堂
境内正面に本堂。Wikipediaには「徳島県阿波市土成町土成にある高野山真言宗の寺院。正覚山(しょうかくざん)菩提院(ぼだいいん)と号する。本尊は涅槃釈迦如来。
巡錫中の空海(弘法大師)が白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている。当初は現在地より4キロメートル北方の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺と号した。
天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。正保年間(1644年 - 1648年)に現在地に移転して再興され、田園の中にあるため「田中法輪寺」と呼ばれ、当時の住職が「転法林で覚りをひらいた」ことから、現在の山号と寺号に改められた。その後安政6年(1859年)に失火にて鐘楼堂を残して全焼、明治になって現在の堂宇が再建された」とある。
釈迦涅槃像を本尊とするのは四国霊場ではこのお寺さまだけ。幾多の火災にもその難を避け、現在に伝わるとのことである。
大師堂
本堂右手に大師堂。



第九番札所法輪寺から第十番札所切幡寺へ

次は吉野川北岸、十里十寺と称される四国霊場最後の霊場である第十番切幡寺。おおよそ4キロ歩くことになる。

寺の東南角に標石
山門を出ると寺の東南角に標石。手印と共に「是より第十番 二十五丁 大正三年」といった文字が刻まれる。道標を右折、西進しT字路を左折、次いで四つ辻を右折し西進する。








九龍宇谷川手前の茂兵衛道標(173度目)
道を進み九龍宇谷川手前、道の左手に四国のみちの木標と並び茂兵衛道標。手印と共に「法輪寺 切幡寺 明治三十二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛173度目巡襟時のもの。









青石自然標石
九龍宇谷川東詰めには瓦葺きのお堂が建つ。「南無大師遍照金剛」の幟がはためく川を渡るとほどなく道の右手に自然石の石碑。「是より教覚寺」と刻まれる青石(緑泥片岩)標石となっている。右に折れると教覚寺がある。






T字路角に地蔵座像と標石3基
西進するとT字路。南東角、鉄骨造りのお堂に地蔵尊が祀られる。地蔵尊前に自然石の標石。ペンキで「10thと矢印が描かれる。分かりやすいが、ちょっと乱暴かとも。横に立つ舟形地蔵も「右遍路道」と刻まれた遍路標石となっている。
また、このT字路の北東角にも自然石がある。よくみると「九番」といった文字が読める。これも標石となっている。

小豆洗い大師
T字路を左折、直ぐに遍路道案内に従い右折し西に向かう。ほどなく道の左にお堂。「小豆洗い大師」の石碑が立つ。お堂の前には湧水らしき水が溜まる。この地は水が乏しく、収穫した小豆を洗えず困っていた地元民を助けた空海の加持水と伝わる。





水田集会所手前の自然石標石と舟形地蔵標石
西進し水田集会所手前の三差路角に2基の標石。自然石の標石には手印と「十番 九番」の文字が刻まれた遍路標識。横の上部の破損した舟形地蔵にも「右遍路道」と刻まれた標石となっている。







秋月大師堂と自然石標石
右手に秋月大師堂を見遣り先に進むと道の右手に自然石の標石。左右を指す手印、中央に法号らしき文字、そして「九ばんへ 十ばんへ」といった文字が刻まれる。









県道139号とのT字路に自然石標石
遍路道はほどなく県道139号とT字路であたる。合流点正面に自然石標石。「左十番 右九番」の文字が刻まれる。左十番の文字はペンキで輪郭が描かれている。現在旧遍路道の目安として標石を追っかける私には、標石はそれなりに意味あるものの、実際にお遍路さんが目安としているとは思えない、標石にマーキングする必要があるのだろうか。
遍路道はこれからしばらく県道139号を進むことになる。



切幡寺の寺標石を右折し境内に
県道139号に合流した遍路道は左に折れ、ほどなく右に折れて再び西進する。道の右手に続く「輪蔵庵」、「秋月歴史公園」、「秋月城址」といった案内、また称念寺を見遣り西に進む。しばらく歩き道の右手に建つ切幡寺の寺標石を右折、門前町を抜け境内に至る。
輪蔵庵
足利尊氏が元寇以来の国難に準じた戦没者の霊を弔うべく安圀寺と利生塔を各国に建立。輪蔵寺はその安圀寺跡とされる。
足利尊氏の四国経営の拠点とし、この秋月庄を領した秋月城の城主である細川和氏の手により建立した補陀寺をその前身とし、夢窓国師により開山した。
秋月城
文永三年(1266)に守護小笠原直長の居城として築城。その後、建武三年(1334)上述の細川和氏が阿波守としてこの城を居城とする。三代目の細川詮春が居城を勝瑞城に移った後は、秋月氏が護った。


第十番札所切幡寺

仁王門
門前町を抜け山門である仁王門を潜り境内へ。
経木場
参道を進むと石段手前にお加持水が溢れる経木場がある。最初は手水場かと思ったのだが、幾多の供養仏の経木が加持水で潅頂されている経木場とのこと。遍路歩きではじめて出合った。湧き出るお水はお大師さんの加持水と伝わる。
伝統行事の一つとして、毎年春分の日と秋分の日に、先祖の戒名などを経木に書き清水をかけて流して供養する経木流しを行なっている、とWikipediaにあった。
本堂
三百三十四段の石段を上ると正面に本堂。Wikipediaには「徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院。得度山(とくどざん)灌頂院(かんじょういん)と号する。本尊は千手観世音菩薩。
寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち七色の光を放ち即身成仏して千手観音の姿になったという。
空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる」とある。

山号、院号、寺名ともに上述機織り娘に由来するとあるが、異説もある。元禄2〈1689〉の寂本著『四国遍礼霊場記』には「大師初じめてここに至り給うとき、天より五色の幡一流降り、山の半腹にして其幡ふたつにちぎれて、上は西の方へ飛ゆき、下は此山に落ける、怪異の事なれば、是を伝んとて、大師寺を立切幡寺と名け玉ふとなん」とあり、真念や澄禅の著にも機織娘の即身成仏の記事はなく、江戸の中期の頃には未だ機織娘の故事の話はできていなかった、との記事もある。縁起って、所詮縁起ではあるが、何時、誰が、どのような意図で創作するのか、結構気になる。
大師堂
本堂右手に大師堂。当寺は明治45年(1912)に不動堂と大塔を残し、23の堂宇は灰燼に帰したとのこと。本堂を含め、その後の再建である。

不動
本堂左より56段の石段を上ると不動堂





大塔
更に40段の石段を上ると大塔がある。二重の多宝塔。徳川家康の勧めにより豊臣秀頼が父・秀吉の菩提を弔うため慶長12年(1607年)大坂住吉大社の神宮寺である新羅寺の西塔として建立される。明治初年の廃仏毀釈により新羅寺が廃寺となったため明治6年(1874年)から明治15年(1883年)にかけて移築された(重要文化財)。国内の二重塔では、初層も二層も方形という形式で現存しているものは当塔のみである。

境内には機織の乙女が即身成仏した伝説の観音像・はたきり観音が立つ。右手にはさみを左手に布を持つ姿である。
奥の院
大塔脇に奥の院の案内。結構身構えて歩を進めたのだが、あっけなく到着。コンクリート造りのお堂が建っていた。真言宗八祖の肖像画が掲げられていて、内部には八祖の仏像が祀られている。
八祖大師とは龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう ) 一行禅師(いちぎょうぜんじ)、恵果阿闍梨、弘法大師。インドで生まれた真言密教の教えが中国をへて弘法大師に伝えられるまでに現れた偉大な阿闍梨を言う。


讃岐から阿波への遍路道
切幡寺は88番札所大窪寺を打ち終えた後、阿波の札所へと辿るふたつの主要ルートのひとつ。大窪寺の標石に「切幡寺」を指していたように、大窪寺を打ち終えた遍路は、日開川筋(現在の国道377号)に沿って西に向かい、長野集落からは流路を南に変えた日開川の谷筋を下りこの切幡寺へと至る。
因みにもうひとつのルートは、上述長野から東へと中尾峠を越え、湊川の谷筋を白鳥の社のある海辺まで進み、前述大阪峠を越えて第一番札所の霊山寺へ向かう。 昔のお遍路は第一番からスタート、といったことにこだわることなく、自由に霊場を廻っていたようである。


第十番切幡寺から第十一番札所藤井寺へ

十里十寺と吉野川北岸を辿った遍路道も、次の札所十一番藤井寺に向け??野川を渡り南岸に向かう。その距離おおよそ10キロである。

県道237号手前と合流点の標石
切幡寺門前町の家並みを抜け、クロスする県道139号を南に抜ける道が東に曲がる角に標石。手印と共に、「是ヨリ ふじ」といった文字が読める。
先に進み県道237号との合流点にも標石。手印と供に「十一ばん」の文字が刻まれる。この標石には「(梵語)南無大師遍照金剛」の名号、「父母六親」と言った真念道標の特徴を備えるため、真念道標とされる。「十一ばん」といった文字は真念道標になじまないが、後世添刻されたと言う。

地蔵堂の少し南に標石
県道237号を南に下る。ちょっと新しい五輪塔のある地蔵堂を越えると民家のブロック塀の前に標石。「へんろ道 左ふじ寺一り半 文化十」といった文字が読める。




県道12号交差部手前にへんろ小屋
道の右手に比較的新しそうな標石があり、藤井寺8.8kmとある。更に南に下ると県道12号との交差部少し手前、道の右手に一見遊園と見まごうへんろ小屋があった。木造2階建ての遍路小屋には「へんろ小屋 空海庵」とあった。


八幡小学校傍の標石2基
県道12号を越えた遍路道・県道237号は八幡小学校前で車道に斜めに合わさる。その合流点手前にお堂があり、その前にある丸い自然石に、かすかに手印と「へんろ」の文字が読める。
合流点の東北角にも標石。「へんろ道」、矢印の両端に「十番、十一番」と刻まれた典型的な中尾多七標石。

農協対面に標石
合流点を左折すると、ほどなく道の左手に阿波郡東部農業協同組合と書かれた建物の対面、理髪店脇に標石がある。手印と共に「十一ばん ふじい寺」の文字が読める。
裏に大師像も刻まれ、形状は四国中千躰大師標石のように見える。チェックすると、文化八の文字が刻まれた照連の四国中千躰大師標石との記事もあった。
既に見てきたように、四国中千躰大師標石は文化六年の銘が多く、文化八は珍しいとのこと。文化六年に始めた道標建立も余り長くは続かなかった、といった記事をどこかで見た記憶があるが、そのことと関係があるのだろうか。

御所の原地蔵尊の茂平兵衛道標(137度目)と標石2基
道は八幡神社(粟島神社)前で右折し南へ進路を変える。橋を渡ると道の右手に御所の原地蔵尊のお堂があり、その傍に3基の標石。
お堂の東には茂兵衛道標。折れた真ん中を補修しているが、裏面上部も破損している。正面に「阿波国阿波郡林村」、右面に「明治二十七年」、左面に「百三拾七度目為供養」などの文字が刻まれる茂兵衛137度目巡礼時のもの。
お堂の西に2基の自然標石。「是よりふしい寺五十五丁 天保九」、「十一ばん」といった文字が手印と共に刻まれる。

吉野川堤防に茂兵衛道標
道を南下すると吉野川の堤防にあたる。堤防に上る石段脇に茂兵衛道標のレプリカ。正面には「遍路道」、右側には「明治十九年」、左には「八十八遍目 為供養 長州大島郡椋野村 行者中務茂兵衛建立」、裏に「越中国下新川郡」と刻まれる。
常の標石には茂兵衛の出身地は長州ではなく周防圀の表示が多いようだ。裏面は施主の住所だろう。オリジナルは市場町にある歴史民俗資料館に置かれているようだ。
茂兵衛道標の傍、堤防下にはへんろ小屋もあった。

大野島橋
堤防への階段を上り、そして??野川への川床へと堤防を下りる。土手を下りた所、車道脇に「善入寺島」の案内。「ようこそ善入寺島へ 善入寺島は一級河川??野川の中流域にあり、阿波市と吉野川市を跨ぐ中州。古代、粟(あわ)が豊かに稔ったことから「粟島」とも呼ばれた。
面積は東西約6キロ、南北約1.2キロ、約500ヘクタール。周囲は真竹が取り囲み、その中に約350ヘクタールの農地が広がる日本最大の川中島。
この島の西端で最上流周辺を「剣先」と呼び、ここから??野川は南北に分かれ、北は阿波市側を市場町から??野町にかけて、もう一方は吉野川市域を流れた後、再びひとつになる。 嶋への出入りは、阿波市側からはこの「大野島橋」のほか「千田橋」「香美橋」の三つの潜水橋(増水時に川の流れを妨げないよう水面下に沈下する橋)、吉野川市からは「川島橋」「学島橋」の二カ所の潜水橋のいずれかを自由に通行する。
現在地点の「大野島橋」から「川島橋」へと続く道路は、第十番札所切幡寺から第十一番札所藤井寺を結ぶへんろ道として現在まで続く。
この島には大正4年(1915)までは506戸約3000名の住人が住み、学校や神社もあった。??野川の水で豊かな稔をもたらる反面、洪水時による島の冠水により農作物だけでなく人的被害などの惨事が繰り返されてきた。
そのため明治政府は明治40年(1907)、吉野川両岸に堤防を築き、中州を国有遊水地とする計画を施行、住民を強制退去させ大正5年(1916)3月31日までに無人島となり、名称も「善入寺島」と改められた。
島外に移住した住民は、現在の国土交通省の管轄下、その後も占有許可を受け農地として残した。平坦は台地は農地整理、土地改良、道路整備を重ね、現在ではほとんどが?アール規模に整理され、利水も約50キロ上流の池田ダムより吉野川北岸農業用水のパイプ配管による導水設備が整備され、農業地帯として成長してきた。
占用耕作者は約550戸、阿波市が約8割、吉野川市が約2割。両市の地域農業を支え、かつ関西の台所と称される野菜の一大産地となっている。カボチャ、キュウリ、ナス、ダイコン、ニンジン、ハクサイ、キャベツ、ブロコリー、水稲などを栽培する」とある。

河川敷の車道を少し進むと「大野島橋」。前述、巨大な中州・善入寺島に架かる潜水橋である。橋桁は低い。幅は3メートルほどのコンクリート造り。車はすれ違い不可能で、対向車の有無を確認しながら渡っている。

旧渡船場分岐点の標石
広い中州を進むと中程に「四国のみち」の標石と共に古い標石が立つ。手印と供に「左きりはた寺 左婦じ井寺 粟島渡場 是ヨリ東 源田濱 二条通」といった文字が刻まれる。 古い標石に従えば、遍路道は分岐点を左に入り粟島の渡で吉野川南岸に進むことになるが、現在その渡しも橋もない。「四国のみち」の「従是藤井寺 5.9粁」の指示に従い分岐点を右に進む。



川島橋
大野島橋からおよそ2キロ強を歩くと川島橋に。橋の幅は大野橋と同じく3mほどだが、こちらは橋の中程に退避スペースがあり、対向車を避けることができる。 堤防に上り吉野川の南岸に。


川島橋南の堤防下に標石
堤防を下りたところに遍路休憩所があり。その前の道分岐点に標石。「へんろ道 第十一番藤井寺三十丁 昭和十一年」といった文字が刻まれる。遍路道は手印に従い分岐点を右に入る。


粟島の渡しの標石
現在は川島橋を渡り、この標石から先に進むが、往昔の遍路道である粟島の渡し辺りに標石があるものかと、好奇心で確認に向かう。
標石から分岐点を左に進むと、県道237号と県道122号が合流する箇所に標石が立ち、「ふじゐ寺へ 廿八丁 きりはた寺へ 一里十丁 大正年間」といった文字が刻まれていた。 また、そこから東、県道122号脇にも標石。「十一番ふじゐ にしをゑ」と刻まれる。共に、善入寺島にあった分岐点を左手を進む道筋の、吉野川南岸といった場所。かつて粟島の渡しを渡ったお遍路さんは、この辺りから藤井寺に向かったのだろう。
なお、「にしをゑ」はこの辺りの旧地名である「西麻植(にしおえ)」のことだろう。


国道192号・県道240号分岐点に茂兵衛道標(157度目)
道なりに進み八坂神社前でJR徳島線の神功踏切を渡り国道192号に出る。国道を左折した遍路道は、すぐ先で右に折れ県道240号に入る。
少し進むと左から径が合わさる箇所に茂兵衛道標が立つ。「藤井寺 切幡寺 左箸蔵寺 明治三十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛157度目巡礼時のもの。
切幡寺の手印が北を指す。ということは、かつて粟島の渡しを渡ったお遍路さんは、前述堤防下の2基の標石辺りから、この地へと辿ってきたのだろう。道筋としてはほぼ直線といったものである。
なお、箸蔵寺は吉野川を上流に60キロ弱のぼったところにある金毘羅さんの奥の院。箸蔵寺へ辿る箸蔵道()の記憶が蘇る。


旧路分岐点に3基の標石

少し先に進むと四つ辻の南東角、民家の壁に張り付くように1基の舟形石仏と3基の標石。右端は舟形石仏。その横に照蓮の四国中千躰大師標石。手印と大師像、「四国千」といった文字が読める。

次いで茂兵衛道標。手印と「切幡寺 箸蔵寺 藤井寺 左徳島 百九十二度目供養」といった文字が刻まれる。明治35年、茂兵衛192度目巡礼時のもの。
左端の標石には「ん」といった文字が刻まれるが、その他は読めない。


旧路の標石と地蔵尊

標石のある四つ辻を右に折れ、一旦県道を離れる。道なりに進むと道の右手、民家ブロック塀脇に自然石の標石。「左遍んろ」と青石に刻まれる。その先、天明二年の銘のある地蔵座像を越えると遍路道は再び県道に戻る。








県道238号交差部に自然石標石
県道に戻った遍路道をしばらく歩く。県道238号交差部、北西角に標石。新しい藤井寺と刻まれた石柱の横に自然石2基。1基には「へんろ」の文字が読める。もう1基にも文字が刻まれているようだが読めない。







県道240号を南に離れる角に標石
飯尾川を渡ると、ほどなく道の右手に標石。風化が激しく文字は読めない。ここが分岐点では、と右折し県道を離れ南にすすむ。左手に立派な白壁の蔵。
その先四つ辻にお堂があり、傍に標石が残る。「是ヨリ藤井寺江六丁 文政」といった文字が刻まれているようだ。 お堂の前に藤井寺を案内する新しい標石。指示に従い左折する。

お屋敷前に2基の標石
左折するとお屋敷の塀の前に大きな石碑。3mほどもあるだろう。手印と供に「ふじ以寺道」と刻まれる。
道を進むとT字路で県道242号にあたる。その角、お屋敷の前に標石が立つ。手印と共に、「ふじい寺 志ようさん寺道 きりはた寺道 明治廿年 施主須見徳平」とあり。施主の須見氏はこの屋敷の主である。「志ようさん寺」は第十二番札所焼山寺。



標石から旧遍路道に入り藤井寺へ
南に下ると道は分岐。分岐点に標石があり「へんろ道」と刻まれる。脇の「四国のみち」の指導標に、藤井寺直進の指示。
指示に従い直進し、休憩所を越えた辺りから趣のある径を進み、藤井寺に至る。




第十一番札所 藤井寺
山門
仁王門である山門を潜り境内に。参道右手に藤井寺の寺名由来ともなっている伝空海お手植との藤棚が残る。
藤棚に沿って歩き、納経所を越えると直角に曲がる。


本堂
正面に本堂。Wikipediaには「徳島県吉野川市鴨島町飯尾にある臨済宗妙心寺派の寺院。金剛山(こんごうざん)と号する。本尊は薬師如来。なお、四国八十八箇所霊場のうち、寺号の「寺」を「じ」でなく「てら」と読むのは本寺だけである。
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地で自らの厄祓いと衆生の安寧を願い、薬師如来像を刻んで堂宇を建立、山へ2町入ったところの八畳岩に金剛不壊といわれる護摩壇を築き一七日(7日間)の修法を行ったのが開創であると伝えられる。このとき空海が堂宇の前に藤を植えたことから藤井寺と号したという。 以来、真言密教の道場として七堂伽藍を持つ寺に発展した。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失した。澄禅の『四国辺路日記』(1653年巡拝)には、「三間四面の草堂也、仏像は朽ちる堂の隅に山の如くに積置きたる・・」の状態であったが、 延宝2年(1674年)に臨済宗慈光寺の南山祖団禅師が再興し、それゆえ臨済宗に改められたが、天保3年(1832年)に再び火災によって本尊以外は全焼、その後万延元年(1860年)に再建されたのが現在の伽藍である」とある。

「寺」を「じ」でなく「てら」と読むのは本寺だけである、とある。結構珍しい。同じくこのお寺さまには院号がない。院号がないのはそれほど珍しいことではないようだが、結構遍路歩きをしてきたが、院号がない寺はあまり記憶にない。
本尊薬師如来
「薬師如来坐像(本尊) - 榧の一木造り、素地、像高86.7cm。本堂裏にある収蔵庫に収められている秘仏であり通常は公開されていない。像内部の墨書銘に、「仏師経尋、尺迦仏、久安4年(1148年)」などが読み取れ、元来釈迦如来像として造立されたことがわかる。重要文化財指定の正式名称も「木造釈迦如来坐像」である。また、膝裏の墨書きから天文18年(1549年)に現在の形に改変されたことがわかる。平安時代末期の、制作年・作者が明らかな基準作として貴重である。明治44.8.9」とある。

釈迦如来も薬師如来も左手は与願印、右手は施無印を結ぶ。与願印は「願いを与える」、施無印は「畏れを無くする」を象徴する印である。で、釈迦如来と薬師如来の違いは、与願印に「薬壷」を持つか否か、ということ。天文18年(1549年)の修理に際し、薬壷を付け加えたということかと。
大師堂
本堂右手に大師堂が建つ。
大師堂横の延命地蔵尊。
尊像自体は特段のものではないが、台石に刻まれた文面が特徴的。「寺院城砦焼討指揮謝罪 全阿波罹災僧侶民衆兵 士御霊位結集追善菩提 長曾我部軍侍大将 正木修理亮 外正木家一門 昭和五十二年」と記される。
阿波を焼土と化した土佐の侍大将の子孫がその滅罪を願い建てたもの。その惨禍は伊予、差讃岐にも及ぶが、阿波は23霊場のうち15のお寺様が焼失している。
寺は城砦としても機能したであろうから、戦の理ではあろうが、その滅罪を願う尊像を祀るのはここではじめて目にした。

次の札所十二番焼山寺へは本堂左側より入っていく。
伊予の遍路道、それも峠越えの「いい所どり」ではじめた遍路歩き、いくつかの峠越えをした後、どうせのことなら峠越えの道を繋ごう、またさらに、どうせのことなら伊予の遍路道を全部つなごうと土佐と伊予の県境からはじめた遍路歩きも伊予を終えると、これまたどうせのことなら讃岐もカバーしようと第88番、結願の札所大窪寺も打ち終えた。
となると、またまた、どうせのことなら88箇所をすべてカバーしてみようと、阿波に入り、一番札所から旧遍路道をカバーすることにした。
毎月田舎に戻ったときに歩くわけで、阿波から土佐の札所をカバーする、といっても眼目は標石を目安にした旧遍路道のトレースにあるわけだけれど、それはともあれ、阿波と土佐をカバーするのに、半年ほどの月日をみておけばいいのだろうか。
ともあれ、今回から阿波の旧遍路道をトレースしはじめる。札所第一番霊山寺から第十番切幡寺までは吉野川北岸に点在し、「十里十ヶ寺」と称される如く?里の間に10の札所が並ぶ。実際の距離は30キロほど。
今回のメモは第一番札所の霊山寺から第五番札所地蔵寺までをカバーする。


本日のルート
第一番札所霊山寺
撫養街道参道口の標石>お堂横に真念道標と標石>(坂東俘虜収容所跡>大麻比古神社)>石造冠木門と標石
第二番札所極楽寺
撫養街道合流点の地蔵と標石2基>金泉寺旧道分岐点の茂兵衛道標(88度目)
第三番札所金泉寺
撫養街道合流点に地蔵堂と道標2基>大阪越標石と標石2基>導引大師堂の標石>振袖地蔵>諏訪神社の庚申塔と標石>犬伏谷川手前のお堂に標石>大日寺旧道分岐点の茂兵衛道標と標石>山裾に2基の標石>蓮華寺>愛染院手前の標石>愛染院>愛染院仁王門前の標石>車道手前に2基の標石>標石と馬頭観音群>車道手前に標石>松谷村庚申堂の標石2基>分岐点に標石>藍染庵と標石>切通しの地蔵座像と供養石>「法乃橋」石碑>T字路の標石と舟形地蔵>車道石垣下のT字路に標石>大日寺車道合流点の標石と13丁石>14丁>15丁石
第四番札所大日寺
(15丁石>14丁石>13丁石)>11丁石>10丁石>遍照院跡>お堂と7丁石>羅漢堂東の標石と石仏群
第五番札所地蔵寺
撫養街道合流部に地蔵尊と標石2基>県道?号傍・撫養街道の標石>第二神宅橋南詰めに標石>大山寺への案内>壊れた茂兵衛道標(160度目)と石仏群>茂兵衛道標(183度目)と標石>庚申谷川を渡り安楽寺に
第六番札所安楽寺



第一番札所 霊山(りょうぜん)寺

発心門・山門
朱塗りの門を潜り参道を進む。門には「発心」「別格本山霊山寺」「四国第一番霊場」とある。四国霊場では阿波を「発心の道場」、土佐を「修行の道場」、伊予を「菩提の道場」、讃岐を「涅槃の道場」とカテゴライズする。発心>修行>菩提>涅槃は悟りに至る仏教の四段階のことのよう。その意味することはともあれ、いつ誰がこのネーミングをつけたのだろう。ちょっと気になる。
その先に山門。仁王さんが両側に立つ仁王門。入母屋造楼門形式で造られている。
多宝塔
山門を潜り境内に入ると左に「縁結び観音」。その先、鐘楼の奥に二重の多宝塔。応永年間(1394年 - 1428年)の建造。大日如来、閼伽如来、宝生如来、弥陀如来、釈迦如来の五智如来像を安置している。





十三仏堂と不動堂
多宝堂の先に十三仏堂と不動堂。十三仏は没後初七日から三十三回忌までの追善供養の諸仏であり、不動明王>釈迦如来>文殊菩薩>普賢菩薩>地蔵菩薩>弥勒菩薩>薬師如来>観音菩薩>勢至菩薩>阿弥陀如来>閼伽如来>大日如来>虚空蔵菩薩の十三仏からなるが、ここでは不動明王だけが不動堂に祀られており、十三仏堂には十二仏が並び立つ。
本堂
竺和山(じくわさん)一乗院霊山寺。本尊は釈迦如来を本尊とする。Wikipediaに拠れば、「鳴門市大麻町坂東にある高野山真言宗の寺院。寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された。
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(てんじく;インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている。また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像。

室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によってようやく再興されたが明治24年(1891年)の出火で、本堂と多宝塔以外を再び焼失したが、その後の努力で往時の姿を取り戻した」とある。
大師堂
山門を入った右手に池(放生池)があり、その先に三独松、池の奥に大師堂が建つ。
紀州接待所
山門左に並ぶ建物は紀州接待所。「紀州有田接待講が1828年(文政元年)より衰退期もあったが現在まで行われている。今は春の4日間のみ」とWikipediaにあった。

山門外側の標石
正面には「順第二番江十二丁十二間」と刻まれる。側面には「奉納四国各霊場間実測標 むや岡崎船場まで三り 大正三年」といった文字が刻まれるとのことである。
むや岡崎は鳴門市撫養(むや)町岡崎。淡路島と四国の間にある大毛島最南端の四国側対岸にある。淡路島の福良から岡崎に上陸し撫養街道を一番札所へと向かったと言う。







■第一番札所霊山寺から第二番札所極楽寺への道■

霊山寺を離れ第二番札所極楽寺へ向かう。旧道であるかつての撫養街道を歩くこと1.3キロほど、普通に歩けば16分ほどの距離である。
撫養は牟屋、牟夜、牟野とも表記されたようだが、その語源は不詳。

撫養街道参道口の標石
境内を離れ門前町の風情の残る街並みを南へ進み撫養街道に向かう。旧街道合流点手前、道の左右に霊山寺の寺標識。旧街道合流点には石柱が立ち、表面には「圀弊中社 大麻比古神社 明治十八年」、裏面には手印と共に「二ばん」の文字が刻まれる。大麻比古神社は霊山寺の真北にある。ここが撫養街道から大麻比古神社の参道口でもあるのだろう。 遍路道は手印に従い右折する。
撫養街道
江戸の頃、阿波の藩主蜂須賀家により整備された阿波五街道のひとつ。撫養町岡崎から池田町の州津渡しで伊予街道と交わる67キロほどの道のり。吉野川北岸を進むため、川北街道とも称された。8世紀初頭、大宝律令(701年)により整備された官道・南海道の一部でもある。

お堂横に真念道標と標石
撫養街道を西進すると、坂東谷川に架かる坂東橋の少し手前、道の左手にお堂があり、その横に石柱が4基並ぶ。その左右端の2基が標石。西端の少し小さな石柱が真念道標。


真念道標
正面には「右 いど寺のみち 左 里りょうぜん寺の** 願主 真念」、右面には梵字と共に「南無大師遍照金*」、左面には「為父母供養 阿州板野」といった文字が刻まれる、と。
「いど寺」は第17番札所。位置的には吉野川の南岸、この地のほぼ南にある。1番札所から10番札所までは吉野川北岸を辿り、11番所藤井寺には吉野川南岸に渡り、11番札所から12番札所焼山寺へと一旦山間部に入り、その後??野川筋の17番札所へと戻る。道標の「右 いど寺」は、直接17番へ、というのは少し唐突であり、右へと2番から17番を辿れ、という意味だろうか。よくわからない。
「里りょうぜん寺」は霊山寺のこと。
標石
「奉供養光明百万遍」と刻まれた2基の石柱を挟み、東端の、同じく「奉供養光明百萬」と刻まれた石柱には正面に印があり、「是ヨリ二ばんへ八丁 嘉永元」といった文字が刻まれる標石となっている。

坂東俘虜収容所跡
坂東谷川を渡る。地図を見ると北に坂東俘虜収容所が記される。中村彰彦さんの『二つの山河』で描かれる所長松江豊寿中佐の国際法に準じた人道的エピソードを思い出しちょっと立ち寄り。
橋の西詰を右折し北上。高速道路・徳島道の手前、県道25号の西側に坂東俘虜収容所跡が残る。といっても、給水施設を除き特段の遺構らしきものは残らず、現在は公園となっている。
坂東俘虜収容所
板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)は、第一次世界大戦期、日本の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)に開かれた俘虜収容所。ドイツの租借地であった青島で、日本軍の捕虜となったドイツ兵(日独戦ドイツ兵捕虜)4715名のうち、約1000名を大正6年(1917)から大正9年(1920)まで収容した。大正6年(1917)に建てられ、約2年10か月間使用された。収容所跡は平成30年(2018)度に国の史跡に指定された。現在はドイツ村公園として整備されている。

遍路歩きの折々に俘虜収容所に出合った。松山の俘虜収容所は日露戦争のロシア兵、丸亀の塩屋別院俘虜収容所は、第一地大戦でのドイツ兵の収容所。丸亀の収容所はこの坂東俘虜収容所が出来ると、松山・徳島の収容所の俘虜と共にこの坂東俘虜収容所に移された。 どの収容所も、国際法に準じた人道的処遇がなされており、地域住民との交流も自由に行われたようだ。松山でのロシアの将校は市内に持ち家を許された、とも。また、俘虜の使うお金により当時の松山は一種の特需景気の恩恵を受けたといった記事もあった。

大麻比古(おおあさひこ)神社
地図を見ると徳島道の北に大麻比古神社が載る。なんとなく「大麻比古」の文字に惹かれた、少し足を延ばすことに。坂東俘虜収容所から県道25号を北に2キロほど。
誠に広い境内。延喜式内社、阿波一宮。「大麻さん」として信仰を集める徳島の総鎮守。 社殿にお参り。
で、社名「大麻比古」の由来;Wikipediaには「社伝によれば、神武天皇の御代、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の御孫の天富命(あめのとみのみこと)が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、麻・楮の種を播殖してこの地を開拓、麻布木綿を生産して殖産興業と国利民福の基礎を築いたことにより祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀ったのが当社の始まりだと言う。
なんとなく「大麻比古」の名前の由来はわかった。が、ちょっと疑問
大麻比古命と阿波忌部氏
いつだったが、阿波の忌部氏を祀る忌部神社を辿ったことがある。その時のメモで「、阿波の忌部氏であるが、忌部氏の祖である天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」をその祖とする。 この「天日鷲命」、天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の岩戸開きに大きな功績を挙げた、と伝説に言う。天日鷲命の神名も天照大御神が岩戸から出てきて世に光が戻ったとき、寿ぐ琴に鷲が止まったことに由来する、とも」と書いた。
阿波忌部氏の太祖と遠祖
この流れで言えば、阿波忌部氏の太祖が「天太玉命」、遠祖が「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」ということだろう。が、一説では大麻比古命は天日鷲命の子、ともする。こうなれば、忌部氏の太祖が天日鷲命(あめのひわしのみこと)」で、遠祖が「天太玉命」ということになる。実際、Wikipediaには「明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命とした」ともあった。
天津神と国津神
とは言うものの、神話時代のことなど門外漢にはわからない。どちらが祖で、どちらが遠祖であっても構わないのだが、それよりなにより気になったのは、猿田彦大神が共に祀られている、ということ。天津神である天日鷲命や天太玉命と共に、国津神神系の猿田彦が祀られていること。
その因は、Wikipediaには「その因ははっきりしないが、大麻比古命は別名を津咋見命とも称されるように、経済の発展と共に、津=湊>交通の要衝>道の神:交通の神の性格を持つに至る。が、忌部氏の没落にともない、室町時代に民間流行した庚申信仰により、巷の神・交通の神である猿田彦大神の神性が付会されたのだろう」とあった。
天津神と国津神が並んで祀られるのはそれほど珍しくもないのだが、この社は由緒が古いだけにちょっと気になりチェックした。

石造冠木門と標石
寄り道先から県道25号を南に下り撫養街道に戻る。西に少し進むと道の右手に石造の冠木門が建つ。「四圀第二番霊場極樂寺」と刻まれ、如何にも参道口といった趣だが、門を潜った先は民家となっている。現在極楽寺への道は、この地で撫養街道と分かれ、冠木門の西端を北西へと向かう道筋を進むが、かつてはこの冠木門が参道口ではあったのだろう。
標石
冠木門東脇に小堂があり、その横に「辺路道 *寺 遍路道 極楽寺」と刻まれた標石が残る。

撫養街道を離れた遍路道は一直線に極楽寺へ向かう。遍路道が県道12号に合流する地点、県道逆側に朱塗りの極楽寺仁王門が建つ。



第二番札所極楽寺

仁王門
朱塗りの仁王門を潜り境内に。阿吽の仁王さま。右が口を開いた阿形の仁王様は那羅延金剛力士。左の口を閉じた吽形の仁王様が密迹(みつじゃく)金剛力士。






石庭と標石
境内に入ると手入れの行き届いた庭園が目に入る。その庭園には5基の標石も並ぶ。山門はいってすぐ、手印と共に「二ばん二丁 一ばん十丁」と刻まれた標石。庭園植え込みの中と白砂利の中を本堂に進む途中に2基の四国千躰大師標石。真念の意思を継ごうとした照連の標石。更に、庭の植木の先にある本坊手前には「すぐ一ばん 三ばん 明治三十四年」などの文字が刻まれた茂兵衛道標も立つ。茂兵衛186度目巡礼時のものである。
堂宇への石段手前にも標石。
長命杉
石段を上ると、左手に巨大な長命杉。空海手植えと伝えられる樹齢約1200年余りの杉。鳴門市天然記念物。
鐘楼と観音堂
石段を上がると右手に鐘楼と観音堂。観音堂は江戸中期のもの。千手観音が祀られる。







薬師堂
本堂・大師堂へと上る43段の石段左手に薬師堂。江戸末期のもの。薬師如来が祀られる。
本堂
43段の石段を上ると正面に本堂。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。本尊は阿弥陀如来。
Wikipediaには「鳴門市大麻町桧にある高野山真言宗の寺院。寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。
また、空海がその阿弥陀経を読誦した際、難産だった難波の女性が空海の加持により無事安産し、そのお礼にと木造大師像を寄進したのが大師堂の本尊である。(中略)なお、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失し、万治2年(1659年)に阿波藩主によって再建されている。」とあった。
安産子安大師
本堂右手に「安産子安大師」。Wikipediaには「明治時代に大阪住吉の女性が安産祈願をしお告げにより四国遍路に出て無事男の子を出産したお礼にと修行大師像を寄進したのが、大師堂に向かって左前に立つ安産修行大師像である。これらのことから、当寺では子授け・安産の寺として随時祈祷祈願を受け付けていて、安産お守り・腹帯を授けている」とある。 ●大師堂
本堂左手に大師堂。江戸時代初期(1659年)建立。安産大師と云われ信仰されている。





■第二番札所極楽寺から第三番札所金泉寺へ■

極楽寺を離れ第三番札所金泉寺へ向かう。距離は2.2キロほどである。

撫養街道合流点の地蔵堂と標石
遍路道は県道12号に出ることなく、仁王門を出ると直ぐ右折、駐車場脇から民家の塀に沿って右に進む。道は小高い丘に並ぶ墓地の坂道を上り、そして下ると上述の冠木門で一度分かれた撫養街道にあたる。
合流点に地蔵堂と2基の標石。傾いた標石の表面には「四国中千躰大師」と刻まれる。遍路道で時に出合う照蓮の道標。特徴的な深く彫られた手印と大師像が残る。
もう1基には「へんろ道 是より二十三番迄 中尾多七 昭和三十八」などと刻まれる。中尾多七さん達により建立された阿波二十三番までの矢印遍路標石のひとつである。ほとんどの標石は「へんろ道」の文字だけのようであり、建立者中尾多七と刻まれた標石はこレだけと言う。
照蓮
文化年間(1804~1816)の僧。真念の志を受け継ぎ、四国中に千体の道標を建てようとした(総数未確認)。徳島は出身地ということもあり56基と、江戸期の徳右衛門の20基(総数250基:現存数129基)、真念の11基(37基)を大きく上回る。道標で知られる中務茂兵衛の道標数は235基(比定数243基)だが、こちらは明治の人。
中尾多七
中尾多七さん達が昭和38年(1963)建てた標石は阿波だけでなく、伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道に見られる。また、阿波の23番札所までに60近い標石が立つと言う。

金泉寺旧道分岐点の茂兵衛道標(88度目
撫養街道を西に進むと鳴門市域を離れ板野郡板野町域に入る。板野町域に入ると右手に諏訪神社を見遣り、徳島道板野ICへのアプローチ高架を潜ると変電所施設が道の左手にある。その少し先、道の右手に茂兵衛道標が立つ。
手印と共に正面に「八十八度為供養 行者 中司茂*」、右面に「光明真言」、左面に「阿波圀撫養村齋田村」、裏面には「 明治十九年」と刻まれた茂兵衛88度目の巡礼時のもの。
第三番札所金泉寺は茂兵衛道標を右に折れ、撫養街道を離れて土径の道を進む。距離にして100m、本堂東側から第三番札所の境内に入る。



第三番札所金泉寺
仁王門
山門は朱塗の仁王門。三間一戸楼門、入母屋造。三間一戸は中央の親柱4本と前後の控柱8本(八脚)、入口が一つ(一戸)よりなる様式。八脚門ではあるが2階建て(楼門)故に楼門と。三間は間口(桁行)が三間とも、親柱4本の間が3つであるから、といった説明もあった、 入母屋造りは上部が切妻屋根のように二方へ傾斜し,下部は寄棟(よせむね)のように四方に傾斜する屋根の形式を指す。
本堂と護摩堂
境内に入ると正面に本堂と護摩堂。Wikipediaには「徳島県板野郡板野町にある高野山真言宗の寺院。亀光山(きこうざん)釈迦院と号する。本尊は釈迦如来で、脇侍に薬師如来・阿弥陀如来を安置する。
寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み、金光明寺と称したという。弘仁年間(810年 - 824年)に、空海(弘法大師)が訪れた際に、水不足解消のため井戸を掘り、黄金井の霊水が湧出したことから寺号を金泉寺としたという。 亀山法皇(天皇在位1259?1274)の信仰が厚く、京都の三十三間堂をまねた堂を建立、千躯の千手観音を祀った。また、背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めた。また、『源平盛衰記』には、元暦2年(1185年)に源義経が屋島に向かう途中本寺に立ち寄ったとの記載がある。
1582年(天正10年)には長宗我部元親による兵火にて大師堂以外の大半の建物を焼失したが、建物はその後再建され現在に至る。境内からは奈良時代の瓦が出土しており、創建は寺伝 のとおり奈良時代にさかのぼると推定される」とあった。

寺の住所は徳島県板野郡板野町大寺。大寺地名はこの寺に由来する。往時は亀山天皇の勅願道場として大寺ではあったのだろう。また、板野郡は、板東と板西に分かれていたが、その境は当寺の堂の扉板をもって境としていた、と言う。
大師堂と倶利伽羅龍王像
本堂の右手に大師堂。その傍に青銅造の倶利伽羅龍王像。不動明王の化身とされる。災厄を切り裂く利剣に倶利伽羅龍王が巻き付いた姿は不動明王の激しさ・力強さを示現する。『密教大辞典』には「はじめは不動明王を念ずる功力によりて、この龍を駆使し又はその保護を受くとの信仰より、遂にこの龍を明王の化身とし或いは三昧耶形とするに至れり」「口より氣を出す、二萬億の雷の一時に鳴るが如し、魔王外道之を聞いて邪執を捨てたりと云ふ」とある。
阿弥陀堂
倶利伽羅龍王像の先、石段を上ったところに二重の阿弥陀堂。わりと新しい堂宇。









黄金地蔵尊と閻魔堂
大師堂の南に黄金地蔵尊と閻魔堂。黄金地蔵尊と書かれたコンクリート造りのお堂には井戸がある。「黄金井の霊泉」と称されるこの霊泉が寺名の由来。かつては池であったよう。弘法大師が掘り当てた霊泉であり、底から黄金がでてきた、と。
その横には閻魔堂があり、閻魔様が祀らえる。
観音堂
黄金地蔵尊の東にある観音堂。朱塗りのお堂の地下には八十八箇所の本尊が並ぶ、とも、
長慶天皇陵
上述阿弥陀堂への石段前に大きな岩が祀られており、「長慶天皇陵」とある。明治26年(1893)、境内(寺の裏山とも)より菊の御紋と「長慶帝」などと刻まれた石が発見されたとのこと。長慶帝の御陵と伝わるものは全国各地にあり、また寂本の『四国遍霊巡礼記』には、「亀山法皇の御廟もあり」、『四国遍礼名所図会』にも「亀山法皇廟陵 本堂裏」とある。
五来重氏は「山伏は南北朝時代の遺跡を人為的につくりますから、金泉寺の場合も、山伏が長慶天皇や亀山天皇の話をつくった仕掛人ではなかったかと思う(『四国霊場の寺』)」と記すが、これがなんとなく納得感は高そう。
弁慶の力石
境内、鐘楼裏に弁慶の力石がある、と。真偽のほどはともかくとして、屋島合戦へと阿波の勝浦に上陸した義経主従がこの寺で休息をとったとの話が伝わる。この地は阿波から讃岐へと抜ける大阪越(峠)えの道筋であり、それはそれで納得感は高い。


■第三番札所金泉寺から第四番札所大日寺へ■

金泉寺を離れ次の札所、第四番大日寺に向かう。山門前の茂兵衛道標に「大日寺 一里」とあるよに、距離はおおよそ4キロ。









撫養街道合流点に地蔵堂と道標2基
茂兵衛道標の指示に従い南へ撫養街道合流点まで下る。合流点に地蔵堂と2基の道標。1基は茂兵衛道標。手印と共に「金泉伽藍 大日寺 黒谷山へ 明治三十六年」といった文字が刻まれる。茂兵衛198度目巡礼時のもの。
もう一基は照蓮の「四国中千躰大師」標石。風化が激しく文字は読めない。





大阪越標石と標石2基
お堂を右に折れ撫養街道を西進し街並みの中を進むとJR高徳線にあたる。その踏切手前右手に大きな石碑と2基の標石。大きな石碑には「右 大阪越 明治十三年」と刻まれる。その横、細長い石柱には「板野町指定史跡 郡頭(こうず) 昭和四十九年二月一日 指定」といた文字が刻まれていた。
さらにその横には2基の石碑。1基は「右 大阪」といった文字が読めるが、もう一基の文字は読めなかった。
大阪越
この地を北に向かうと大阪峠がある。阿讃国境の峠であり、屋島合戦の折、阿波に上陸した義経が越えた道。また、四国88番札所である讃岐の大窪寺から阿波の一番札所霊山寺へと辿る遍路が越えた峠でもある。
古代官道・南海道
この大阪峠越えの道は古代官道のひとつ、南海道の道筋でもある。「板野町指定史跡 郡頭(こうず)」とは南海道の置かれた駅の名前。駅馬五匹が用意されていた。
南海道のルートを大雑把にメモすると;紀州・加太の湊より淡路島の由良の湊に。そこから、淡路の国府である養宣を経て福良の湊より阿波の牟夜(現在の撫養)に上陸。そこから??野川北岸を撫養街道に沿って西進し、この地郡頭に至る。
阿波の国府へはこの地より南下し吉野川南岸へ。北進すると大阪峠を越えて讃岐国に入り、引田・田面・三谷・讃岐国府へ。そこから更に伊予国へと繋がっていた。古代、この地は交通の要衝であったのだろう。

導引大師堂の標石
遍路道は撫養街道を西進し、道の右手に岡神社の巨大な楠木を見遣り先に進むと、道の右手に導引大師堂。「右 ふし井寺」、手印と共に「四番大日寺 五十* 三番金泉寺 五*」といった文字が読める。
「ふじ井寺」は11番札所の藤井寺だろう。吉野川南岸、まだずっと西にある。この指示は何を意図したものなのだろう。文字の上は手印を削り取ったような感がある。お遍路さんに混乱を与えないために削り取ったのだろうか。よくわからない。

振袖地蔵
西進すると道の右手に小堂。案内に「振袖地蔵」とあり、「今から約四百年前、板西城(板野町古城)の城主であった赤沢信濃守の娘カヨを供養するための建てられたお地蔵さんです。
天正十五年〈1582〉、中富川の合戦で信濃守が討死したとき、幼いカヨは母親と侍女とともに逃げましたが、母親は自害しカヨと侍女はこのあたりで土佐方の兵士に斬り殺されました。
命の短かったカヨ姫を哀れに思った村人たちが、振袖姿の地蔵尊を造りまつりました。後に、「振袖地蔵」「カヨ地蔵」とも呼ばれ、子供を守るお地蔵さんとして親しまれています。 平成十七年 板野町教育委員会」とあった。
中富川の合戦
中富川の戦い(なかとみがわのたたかい)は、天正10年(1582年)、阿波国へ攻略を目指す土佐国の長宗我部元親と、これを阻もうとする勝瑞城を本陣とする十河存保以下の三好氏諸将との間で起きた戦いである。攻防戦は約20日間行われ、人的被害は阿波国史上最高のものであった、とWikipediaにある。
信長勢の先鋒として四国制覇に臨んだ三好勢であるが、主の信長は本能寺で横死。これを契機に四国制覇を目指す土佐の長曾我部の侵攻にともない起きた合戦。土佐勢2300名、阿波勢5000。土佐勢の勝利により、阿波は土佐の勢力下となった。

諏訪神社の庚申塔と標石
更に撫養街道を進むと。道の右手の一段高い所に諏訪神社。その石垣下、道に沿って石造物が立つ。
庚申塔
横の案内には「寛文の庚申 寛文十三年(1673年)の刻銘がある。約三百三十七年前に建立されたものであり、地方では例のない石造文化財である。
庚申の信仰は、平安時代の中期から蜂須賀公入国後も盛んに行われ、元禄(1688年)宝永(1703年)正徳(1711年)年間に多い。住民が集まって、夜寝ずに庚申待ちという会を催し、祈りとともに諸般の協議を行った。祭神は道祖神や猿田彦命、また仏教では青面金剛という。
三猿雌雄の鶏を添加して処世訓としてあるので、村の辻や中心に常夜灯と共に設置し、集会や交通安全にも役立てた。今夜は庚申米団子、明日は半夏のハゲ団子――――の俗諺が残っている。 平成二十二年 板野町」とある。
石造物には「寛文一三年 奉供養庚申待一座為二世安楽」といった文字が読める。
標石
社殿に上る石段下の鳥居横に標石がある。風化が激しく文字は読めないが、これも照蓮の「四国中千躰大師」とされる。

犬伏谷川手前のお堂に標石
犬伏谷川の少し手前、道の右手にお堂がある。中には大師像が深く彫られた石碑が祀られる。文字も何も見えないが、これも同じく照蓮の「四国中千躰大師」のひとつとのことである。





大日寺旧道分岐点の茂兵衛道標と標石
徳島自動車道の高架を潜ると直ぐに、撫養街道から右に入る道がある。遍路道はここを右折し、また直ぐ左折し西に向かう。その左折点の道の両側に標石がある。左側は茂兵衛道標。結構土に埋もれている。「左 三ばん 明治十九年」などの文字が刻まれた茂兵衛88度目巡礼時のもの。常の「願主」ではなく、「先達」と刻まれているようである。
右側の標石には大師像が刻まれる。「近道廿五丁 四国第四番 明治九」といった文字が刻まれる、と。
手印に従い土径を西進する。

山裾に2基の標石
水路溝を越え山裾に。木標脇に2基の標石。「へんろ道」と刻まれる角柱標石と、手印と共に「第*」などの文字が刻まれた自然石の標石がある。遍路道はここからちょっと山道風の趣となる。




蓮華寺
ほどなく道の両側に少々古びたお堂が建つ。本堂と大師堂。蓮華寺と呼ばれているようだが、無住のお寺さまである。





愛染院手前の標石
蓮華寺の本堂と大師堂の建物の間を抜け、左手に広がる里の景観を楽しみながら道を進むと標石がある。「へんろ道」と刻まれる、この「へんろ道」と刻まれた標石は上述の中尾多七氏たちが23番札所まで60基弱立てられた標石のひとつだろうか。

愛染院
ほどなく愛染院に。小振りではあるが落ち着いたお寺さま。本堂と大師堂、鐘楼も備わる。弘法大師の開基。本尊の不動明王は大師の手によると伝わる。
境内には赤沢信濃守の廟祖が建つ。赤沢信濃守は前述袖振地蔵でも出合った武将。中富川の合戦で討死した。
仁王門前の標石
立派な仁王様が護る仁王門を出る。山門でよく見る大きな草鞋が吊られる。仁王門前に標石があり、手印と共に「四国三ばんみち 四国四ばんみち 大正世年」などの文字が刻まれる。


車道手前に2基の標石
愛染院を右に折れ少し進むと車道と交差する。その手前、道の両側に2基の標石。左手の標石には指を突き合わせた手印の彫られた標石。「三番 四番 明治三十四年」といった文字と共に、正面に「四国六十六度目 宮本秀成」の文字が刻まれる。佐賀の人という。 道の右手の標石は、「へんろ道」と刻まれる。

標石と馬頭観音群
車道をクロスし、小川に沿って再び山裾に近づく。山道に入るところに15基ほどの馬頭観音像が並ぶ。その中、右端にある最も大きな馬頭観音には手印と共に、「四国第四番是ヨリ十七丁」と刻まれる。
石碑
馬頭観音群の手前に石碑。藍の種の存続に貢献した岩田ツヤ子さんを顕彰したもの。戦時の食料増産のため禁止となった藍の種を6,7年に渡り官憲の目を逃れ栽培を続けた。藍は1年草のため、一度絶えると再生は困難故のため。
この努力により、戦後早々に藍作りが再開し得ることになった、と。平成13年の日付があった、

車道手前に標石
山道を抜け農家の庭先を進むと車道にあたる。その合流点手前に標石。手印と供に「第三番」の文字が刻まれる。かすかに大師像も残る。
遍路道はここを右折ししばらく車道を進むことになる。

松谷村庚申堂の標石2基
道を少し進むと道の右手にお堂がある。松谷村庚申堂。その東に標石2基。1基は「四国中千躰大師」標石。手印と大師坐像が刻まれる。もう一基は舟形地蔵標石、と。風化が激しく文字は読めない。
遍路道は四国中千躰大師標石の手印に従い、お堂前を右に折れる。



分岐点に標石
北に進むと道が二手に分かれる分岐点に標石。「へんろ道」と刻まれる。文字そして形からみて、上述、中尾多七さんたちが建てた標石のひとつのように思える。





藍染庵と標石
少し広い車道をクロスし先に進むと、道に左手に藍染庵がある。風の建物の前には「ご本尊愛染明王」の石碑と、さきほど出合った岩田ツヤ子さん顕彰の石碑が立つ。
この庵には江戸の頃、19世紀前後に阿波の藍の栽培、製造そして子弟育成に努めた犬伏久助像が祀られる。
四国千躰大師標石
藍染庵の北東端に標石が立つ。風化して文字は読めないが手印や大師坐像の特徴から見て、これも照蓮の四国中千躰大師標石のようだ。
阿波の藍
阿波に藍がもたらされたのは17世紀初頭。蜂須賀家が旧地の播磨から藍を移した。吉野川流域は藍栽培に適し、阿波二十五万石、藍五十万石と称されるほど、阿波藍は全国に知られた。
最盛期は明治36年(1903)。その後インド藍や合成染料の輸入により明治後半に急速に衰えた。

切通しの地蔵座像と供養石
藍染庵北から一旦山道に入った遍路道は徳島自動車道下を潜ると、一旦坂を下る。そこには藍染庵からの車道が先に延びている。徳島自動車道の建設によりこの辺りの地形、遍路道も変わったのだろう。
ともあれ、一旦車道に下りた遍路道は、車道の北に見える「遍路タグ」を目安に山道に入る。竹林に囲まれた趣のある道を少し上ると切通し。道の左右に地蔵座像と供養石が祀られる。

「法乃橋」石碑
切通を抜け急坂を下ると小川があり橋が架かる。その手前、道の右手に大きな石碑が立つ。浮き彫りの僧像とその下に「法乃橋」、更にその下に「御仏に結ぶえにしの法のはし 行きかふ人は罪もきはへつつ 宣能法師」の歌が刻まれる。文化十五年に宣能法師の発願により建立された石碑と伝わる。


T字路の標石と舟形地蔵
橋を渡り道なりに進むとT字路にあたる。合流点手前、右の左手に舟形地蔵、合流点正面に標石。形から四国千躰大師標石のようにも見える。手印に従い右折し先に進む

車道石垣下のT字路に標石
道なりに進むと正面が石垣に阻まれるT字路に当たる。正面の石垣前に標石。これも四国千躰大師標石のように見える。
石垣の上は大日寺への車道。遍路道は標石に従い右折し、車道と隔てる石垣に沿って北に進む




車道合流点に標石と13丁石
遍路道が車道と合流する箇所に標石。手印と共に「すぐ 三ばん 五ばん 札所」といった文字が読める。文化五年の標石とのこと。
また、標石の傍の車道に13丁と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。この合流点から大日寺へは車道を北に進むことになる。

14丁・15丁石
車道左手に14丁、そして15丁と舟形地蔵丁石が続く。この丁石は次の札所である五番地蔵寺への距離を示す。
15丁を越えると第四番札所大日寺は直ぐそこ。黒谷川に架かる橋を渡り山門に向かう。




第四番札所大日寺


鐘楼門
黒谷川に架かる石橋は、三百年以上の昔、小豆島から運ばれてきたもの。少し反っている。その先の朱塗り山門は二層の鐘楼門となっている。平成30年(2018)に改築されたと言う。
本堂
境内に入ると正面に本堂。慶安2年(1649年)建立、寛政11年(1799年)修復されている。Wikipediaには「大日寺(だいにちじ)は徳島県板野郡板野町黒谷にある東寺真言宗の準別格本山。黒巌山(こくがんざん)遍照院(へんじょういん)と号する。本尊は大日如来。 寺伝によれば空海(弘法大師)がこの地での修行中に大日如来を感得、一刀三礼して1尺8寸(約55cm)の大日如来像を刻み、これを本尊として創建し、本尊より大日寺と号したという。山号の黒巌山は、この地が三方を山に囲まれ黒谷と呼ばれていたのが由来で、黒谷寺(くろたにでら)とも呼ばれていたという。
荒廃と再興を繰り返し、応永年間(1394年~1428年)と天和・貞享年間(1681年~1688年)に再興され、また、元禄・宝暦年間(1751年~1764年)ころには徳島藩5代藩主蜂須賀綱矩の篤い帰依を受け堂塔の大修理が行われた」とある。
本堂前に置かれた香台は伊藤萬蔵寄進のもの。伊藤萬蔵寄進の香台、石灯籠には遍路道の途次、時に目にする。記憶に残るのは57番永福寺や74番甲山寺の香台、68番神恵院の石灯籠、また大窪寺への道筋にあった巨大な標石

伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。
大師堂回廊
本堂右手に大師堂。本堂と大師堂は鍵型の回廊で結ばれる。回廊内部には弁財天女、青面金剛、そして、三十三体の西国霊場の観音菩薩像が並ぶ。後背のついた観音菩薩像は江戸時代中期の明和年間(1764年 - 1772年)、大阪塩町の藤村大師奉納と刻まれている、とのこと。



■第四番札所大日寺から第五番札所地蔵寺へ■

次の第五番札所地蔵寺までは2キロ弱。山門を出て先ほど辿った15丁石、14丁石、13丁石を標に車道を南に下る。

11丁石:10丁石
13丁石を越え先に進むと車道の左手から道が合流。大日寺へ向かう途中に出合った車道石垣下を進む道。
合流点から車道の東を進む道に入ると、道の左手に石仏群。その中の1基が11丁の舟形地蔵丁石。更にその先に2基の舟形地蔵。共に十丁と刻まれる舟形地蔵丁石であった。

遍照院跡
道はその先で車道を斜めにクロスし、車道西側に出る。橋を渡り目の前に徳島自動車道の高架が建つ手前、小高い緑の中に鋳銅製の坐像仏や石造物。遍照院跡と言う。





お堂と7丁石
徳島自動車道の高架を潜ると道は左右に分かれる。分岐点にへんろ道の案内木標が立っているのだが、これがどちらを指すのかはっきりしない。実際の所、右をしばらく進み、どうも違うな、と元に戻り左の道に入った。左折がオンコースであった。
左折し道を進むと右手にお堂。その先、道の左手に7丁の舟形地蔵丁石があった。

羅漢堂東の標石と石仏群
道なりに民家の中を南に下る。少し広い車道をクロスし更に南下。道の右手に緑が茂る場祖を過ぎるとT字路にあたる。道の右手には石造物。その中に「へんろ道」と刻まれた標石が立つ。ここを左に折れると地蔵寺の羅漢堂に入る。
また、T字路の左手、民家の塀に組み込まれた標石がある。照蓮の四国中千躰大師標石と言われる。
羅漢堂は後回しとして、道を左に折れ、すぐ先で少し大きな車道を右に折れ第五番地蔵寺に入る。


第五番札所地蔵寺

山門
山門は単層。仁王が護る仁王門
本堂と不動堂
境内に入ると左手に本堂。Wikipedaiには「徳島県板野郡板野町羅漢にある。無尽山(むじんざん)荘厳院(しょうごんいん)と号する。本尊は延命地蔵菩薩で、その胎内仏は勝軍地蔵菩薩。
寺伝によれば弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の勅願により空海(弘法大師)が一寸8分(約5.5cm)の甲冑を身にまとい馬にまたがる姿をしていると云われる勝軍地蔵菩薩を自ら刻み、本尊として開創したと伝えられる。
嵯峨・淳和・仁明の3代の天皇の帰依が篤かった。宇多天皇の頃、紀州熊野権現の導師であった浄函上人が、熊野権現の託宣によって霊木に2尺7寸(約80cm)の延命地蔵尊を刻み、大師が刻んだ地蔵菩薩を胎内に納めたという。
本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚くかった。当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国で300あまりの末寺を持ったという。しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏の庇護を受け、歴代住職や信者の尽力により再興された」とある。

本堂に不動堂が並ぶ。不動明王立像、両脇に如意輪観音(阿波西国24番)と八臂弁財天。左側には如意輪観音堂と恵比寿堂が並ぶ。
大師堂と淡島堂
文久3年(1863年)9月建立。本尊は弘法大師、脇仏は弥勒菩薩坐像と不動明王坐像。大師堂横に淡島堂が建つ。







羅漢堂
本堂裏の西側を北に歩くと羅漢堂が建つ。正面に釈迦堂、左右に弥勒堂と大師堂がコの字形に回廊で結ばれる。釈迦堂には釈迦如来、弥勒堂には弥勒菩薩、大師堂には弘法大師、その間の回廊には五百羅漢が並ぶ。大正4年(1915)に堂宇焼失。現在の羅漢像はその後再興されたものである。
五百羅漢とは、「仏陀に常に付き添った500人の弟子、または仏滅後の第1回の結集(けつじゅう、仏典編集)に集まった弟子を五百羅漢と称して尊崇・敬愛することも盛んにおこなわれてきた」とWikipediaにある。



■第五番札所地蔵寺から第六番札所安楽寺へ■

地蔵寺を離れ次の札所安楽寺へはおおよそ4キロ。境内を離れ石畳風の参道を南に下り、大きな石造寺柱の間を抜け撫養街道へと下る。

撫養街道合流部に地蔵尊と標石2基
撫養街道合流点に地蔵尊坐像。北向地蔵尊の台座には「五番地蔵寺」と刻まれる。その横に標石2基。茂兵衛道標と四国中千躰大師標石が並ぶ。
茂兵衛道標は197度目巡礼時のもの。手印と共に「地蔵寺 安楽寺 明治三十六年」といった文字が刻まれる。四国中千躰大師標石は風化激しい。手印と「文化六」といった文字が刻まれると言う。
青石板碑
地蔵座像の後ろに青石板碑が立つ。「板野町指定 史跡 観応の板碑」とある。観応と言えば14世紀中頃、南北朝時代のものである。
板碑には梵語で書かれた種子(しゅじ)が見える。種子とは密教で仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。「ア」「バン」と読める。共に「大日如来」を象徴する。
阿波は青石(緑泥片岩)の産地として知られ、板碑は数千基も建つと言う。板碑は供養塔(石造の卒塔婆)。この高さ1.6m強の板碑には「右造立意趣者相迎先考幽儀沙弥道阿敬白  第三年追善為頓証仏果故也」の銘文が刻まれ、沙弥(しゃみ)道阿なる者が、幽儀の第三回忌にあたる観応3年に、追善供養を営み、その功徳による仏果を願い建立したようである。

県道12号傍・撫養街道の標石
地蔵尊を右に折れ撫養街道を西に進む。道の右手に大きな石柱。書道関係の遺跡への案内石碑と言う。更に先に進むと県道12号に接近。県道は一段下を走る。
撫養街道の右手に標石。「へんろ道」と刻まれ、その文字の上に矢印と両サイドに五番、六番の文字が見える。前述中尾多七さん達が建てた標石だろう。

第二神宅橋南詰めに標石
右手に雨乞いで知られる古社・八坂神社(瀧の宮)を見遣り、たきのみや橋、神宅橋を渡ると次いで第二神宅橋の南詰めに標石。手印と共に「遍路みち 大山道 一本松道 嘉永元年」と言った文字が刻まれる。

大山道、一本松道はこの地の北、阿讃国境にある大山越、一本松越の峠を経て讃岐に向かう道を案内したもの。

大山寺への案内
しばらく西進すると道が左右に分岐する箇所に小祠の祀られる水場があり、そこに「大山寺」の案内。大山寺は上述、大山越えの手前、この地よりおおよそ北に7キロ、標高450mの阿讃山地にある古刹。
寺伝によれば6世紀前後、武烈天皇・継体天皇の時代に西範僧都(せいはんぞうず)が開基した阿波国最初の仏法道場であると伝えられている。往時は、阿波の麓からの参拝者ばかりでなく、讃岐側からは山を越え参拝した。その数は参詣者の半数を占めた、と言う。

壊れた茂兵衛道標と石仏群
しばらく進むと道の左手に社殿があり、その境内西北端、道の右手に石碑や石造物が並ぶ一画があり、その対面には壊れた標石がある。茂兵衛道標とのこと。
茂兵衛道標には手印と共に、「六番 五番 左藤井寺 明治三十一年」と刻まれる、と。茂兵衛160度目巡礼時のもの。藤井寺は第十一番札所。吉野川南岸で「左」には違いないが、まだまだ西である。意図は何だろう。吉野川北岸を辿る遍路道には、はるか離れたところにある吉野川南岸の札所案内が目につく。

この石造物が並ぶ一角には、往時お堂があったよう。現在はその名残りはないが、石仏や青面金剛の刻まれた庚申塔も残る。その中に自然石の大山寺の碑。「是より北二十八丁 準別格本山大山寺」と刻まれる。
これによれば大山寺まで3キロほどだが、傍にあった新しい大山寺の案内には「四国別格二十霊場 四国三十六不動霊場 大山寺 入口 是より約6キロ」とある。こちらのほうが正しそう。
葦稲葉神社・殿宮
道の左手の社は葦稲葉(あしいなば)神社と殿宮神社。境内には本殿として二棟が並ぶ。Google mapには「鹿江比売(かえひめ)神社」とある。なんだろう?時代も事情も不明であるが延喜式内小社と伝わる鹿江比売神社が葦稲葉神社に合祀されたとあった(Wikipedia)。 葦稲葉神社の創祀時期は不詳であるが、9世紀中頃の文書にその名がある古社のようだ。鹿江比売神社の祭神である鹿江比売神は阿波忌部一族の神であり、上述大朝比古神社にもその小祠があるようだあ。

茂兵衛道標(183度目)と標石
宮川内谷川に架かる泉谷橋を渡ると遍路小屋。道を南西に道を進むと県道12号とクロス。遍路道は県道を横切り右手に宝蔵寺を見遣り上板町の街並みに入る。
南北に走る少し広い道との五差路で遍路道は進路を西に変える。五差路を右折、すぐ左折し松島神社前を抜け西進すると川の手前に2基の標石。1基は茂兵衛道標。手印と共に「安楽寺 地蔵寺 明治三十四年」と刻まれる茂兵衛183度目巡礼時のもの。 もう1基には「へんろ道 文政球」といった文字が刻まれる。

庚申谷川を渡り安楽寺に
川を渡り県道12号とクロス。そのまま直進し県道139号となった道を西進すると庚申谷川に架かる竹重橋。遍路道はこの竹重橋東詰から斜めに川を渡る脇に入り道なりに進むと第六番札所安楽寺山門脇の標石に至る

今回のメモはここまで。次回は第六番札所安楽寺から第十一番札所藤井寺までをカバーする。



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