書写のお山へと東坂参道を上り、広い境内を巡り、今回は西坂参道下山ルートをメモする。下山の参道にも丁石が立ち、特段のメモすることもないところは上りと同じく、「山を下りながら こうかんがえた」妄想を付け加える。
本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
■東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
■圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
■西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口
東坂・西坂の分岐点の「一丁」標石
摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石を右に折れ西坂参道に入る。道の左手には元金輪院塔頭であった。常のことながら成り行き任せ。当初の予定では上りも下りもロープウエイで利用予定であったのだが、上りの東坂も、下りの西坂参道も成り行きで出合い、急遽予定を変更したもの。
下る前は坂の状態もわからず痛めた膝の優しい参道であれかしと、とりあえず道を先に進んだ。
妙光院
ほどなく道の右手に妙光院。「安養院跡地に建立されたのが今のものであるが、壽量院の北側に元あったものである。創建は不詳で、明応四年(1495)鎮永が再興するまでは妙光坊と称していた。
享和年中(1801~1804)祖渓が再修したが、明治の末年に至って修理の見込みがたたないので、ついに本尊を他に移し建物を取りたたんだ。その後「妙光院」の名称だけが残っていたのを現地に再建し、本尊を安置した」と案内にある。
二丁;13時33分
妙光院の先で道はふたつに分かれる。左に折れるとロープウエイ山頂駅へと向かう。往路で仁王門へと西国三十三観音道へと折れた慈悲の鐘(こころの鐘)鐘の立つ分岐点である。 西坂参道は右というか、道なりに進む。分岐点には二丁標石が立つ。
■和泉式部の絵巻風パネル
ここから先、六丁標石辺りまでは単調な道を下り、時に丁石を見るくらいであり、特段メモすることもない。ということで、書写の山に性空上人を訪ねて上った多くの貴人、聖を差し置いて、パネル解説されていた和泉式部についての解説を、折角のことでもあるので載せておく(1から3までは掲載済みであり、4から)。
■「(パネル番号」4 和泉式部の生涯のあらましを、お話ししましょう。幼名は許丸(おもとまる)。名だたる儒家の大江家に生まれました。父は大江雅致(まさむね)。一家は学問のほかに、母の妙子(昌子(しょうし)内親王のおん乳母)とともに、昌子内親王様のお守役をつとめました。
昌子内親王さまは冷泉天皇の皇后(御父は朱雀亭)です。和泉式部は、そうした教養溢れる雰囲気の中で、歌才に恵まれた美少女して、おほらかに育ちます」。
■「5 幼い日の和泉式部(お許丸)の毎日は、内親王さまがお育てになっている幼いご兄弟の皇子さまと、仲よく遊ぶことでした。皇子の御名は、兄宮さまは為尊(ためたか)親王さま、弟宮さまは敦道(あつみち)親王さま。そして別邸には、その上の二人の兄宮さま(のちの花山天皇と三条天皇)がお暮らしでした。
お許丸のお相手は、こうしたご身分のかたばかりでした。このご縁が、彼女の生涯のコースをのちのちまで定めてゆきます」。
■「6 やがて三人は成人してゆきます、兄宮さまは弾正ノ宮(だんじょうのみや)(司法官)に、弟宮の敦道親王は帥ノ宮(そちのみや)(行政官)になられます。お許丸も彩色秀でた新進歌人・和泉式部として名をあげてゆきます。
その頃、三人が幼い時からお慕いしてきた昌子内親王様が、ご病気療養のために和泉の大江邸に滞在して、その家で薨去なさいます。
その時、兄宮さまは淡い恋心を和泉に抱かれますが、翌年に早逝されます。そして弟宮敦道親王と和泉の"大きな恋"が始まります」
三丁;13時35分
道を進むと「西坂参道 日吉神社・姫路工大へ」の案内。どこに下りるのか地図をチェックする。麓に姫路県立大がある。姫路工業大学など県立三大学が統合されて姫路県立大学となったようである。
その直ぐ先に、小さな石造五輪塔や数基の石仏と共に「三丁」の標石が立つ。
■「7 弟宮の敦道親王は和泉にぴったりの多感な貴公子でした。容姿端麗、立居もきわ立っていました。和泉は言います。「敦道親王こそ、幼い日から わたしが夢みてきた最高の男性像です」。初めての添寝の翌朝、和泉は、心身の深い満足度をこう歌います。
世のつねの ことともさらに思(おも)ほえず はじめて物を思う朝(あした)は 教養を突き破って自分の感動を歌いあげる大胆さ。この"歌魂"(かこん)こそ、彼女の歌の特性であり、目のさめる近代性でした」。
■「8 敦道親王は自邸の南院に和泉を住まわせました。翌春の加茂大祭(かものたいさい)には、二人が相乗りした牛車が、御簾を揚げて都大路へ出ました。
そうした相愛の歌を、彼女は「和泉式部日記」の中に、たくさん遺します。親王の御子石蔵宮(いしくらのみや)も生まれ、生涯を賭けた大恋愛でした。
しかし、二年後、この最愛の敦道親王も二十七歳で亡くなりました。その魂祭の夜、和泉は涙を涸らしてうたいます。 亡き人の 来る夜と聞けど君もなし わが住む里や魂(たま)なきの里」。
■「9 弟宮を亡くしてやつれ果てる和泉の姿を心配して、関白道長は肩をたたいて、「中宮の彰子は わしの娘だが、中宮御所へいって、歌でも教えてやってくれないか」と気分転換をすすめます。
道長は器の大きい人でした。彰子も利発で教養高い美妃でした。中宮御所には、紫式部、伊勢大輔(いせのたいふ)、赤染衛門(あかぞめえもん)など超一流の女性メンバーが揃った文学サロンがあります。彰子は「お美しいお子さんの小式部の内侍(こしきぶのないし)も ご一緒にどうぞ」と温かく和泉を迎えてくれました」。
■「10 小学生にも人気の高い軽快な「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」の百人一首の歌は、小式部十二才頃の御所での即興作です。「さすが母似(ははに)よ」と公卿たちは騒ぎました。
一方、和泉式部と紫式部は、お互いにライバル意識がありました。が、やがて、「歌は和泉式部、小説は紫式部」と、しぜんと定まってゆきました。文芸サロンでは、和泉と中宮彰子は互いに親しみ、敬し合う仲となりました。
四丁;13時38分
数分で四丁標石。ここまで歩いて、上った東坂参道に比して、この西坂参道は道がきれいに整備され車でも登れそうである。「参道」といった趣には少し乏しいが、痛めている膝には優しい。
■「11 中宮彰子は年若く、信心の篤い人でした。性空上人の教えを受けたくて、遥々と書写山を訪ねます。権勢を好まない性格の上人は、居留守を使って中宮との面会を避けました。中宮はひどく失望して下山し始めます。傍にいた和泉式部は、自作の歌を上人へ届けます。
冥きより 冥き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
和泉の歌の、格調の高さと宗教性の深さに、上人は非常に感動して、すぐ中宮を呼び戻して、中宮のためにみ佛の道を説きました」
上述の如く和泉式部が中宮彰子に仕えたのは1008年から1011年頃までと言う。性空上人は1007年に没しており、この逸話には無理があるとも言う。
五丁;13時39分
直ぐに五丁標石。
■「12 あらざらむこの世の外(ほか)の思い出に 今ひと度(たび)の逢ふこともがな 白露も夢もこの世もまぼろしも たとえて言えば久しかりけり
和泉はこうした名歌を生涯かけて生みつづけます。勅撰(ちょくせん)歌集もおさめられた歌の数は、日本の女流歌人の首位となりました
「天才のみが、よく天才を知る」と申しますが、本邦第一級の天才、能楽創始者の世阿弥(ぜあみ)は、和泉をテーマに、幽玄能の傑作「東北」(とうほく)を創作して、和泉の地位を永遠化しました」。
■「13 お能「東北」のあらすじ。 ある早春、京へ上った東北の僧が、洛東・東北院(中宮彰子の持寺)の庭に咲く梅に見とれていると、「和泉式部ゆかりの軒場の梅です」と教えられました。その夜、僧がその梅の前で法華経を唱えると、女の霊が現れ「私はここの方丈に住む和泉式部の霊です。御佛のお陰で今は極楽で歌舞菩薩にして頂いて毎日幸福です」と語って、序の舞を舞いながら方丈へ消えました。
僧は「あの霊は観音様の化身かも知れない」と合掌しました。(終)」
パネルはこれで終わる。何となく落ち着かない終わりかたとも思えるが、あまりよく知らなかった和泉式部のあれこれが少しわかったことをもって良しとしよう。
六丁;13時42分
道脇に「左一丁 蜜厳院墓地」の標石(13時41分)を見遣り六丁の標石。その先に石に彫り込まれ並び立つ石仏が2基並ぶ。2体並ぶ石造は道祖伸では男女像としてたまに見ることがあるのだが、石仏では初めて見た。はっきりとはわからないが、どうも双石仏、双体石仏、地蔵双体仏などと呼ぶようだ。
●双石仏、双体石仏、地蔵双体仏
刻まれた石仏の姿を見ると、左手の像は錫杖を肩に架けたその姿は地蔵尊のように見える。また右の像は阿弥陀如来の姿のようにも見える。あれこれチェックすると、阿弥陀地蔵双仏石と呼ばれる石像もあるようだ。現世に現れて衆生を済度する地蔵尊と、来世を阿弥陀浄土で迎えてくれる阿弥陀仏の2体を1つの石に彫り、現世と来世のご利益を同時に願うためのもの、といった記事もあった。地蔵尊と阿弥陀如来のコンビネーション?といった妄想もあながち的外れでもなさそうに思える。
七丁;13時44分
七丁標石のところにはお堂が建ち、案内には文殊堂跡とある。「康保三年(966)紫雲のたなびくのを瑞兆と感じた性空上人は、この西坂を登ってきたとされる。入山の途中、文殊菩薩の化身と云われる白髪の老人に逢い、この山の由来を伝えられた。その伝えられた場所がこの地であるといわれている。
文殊堂はもと正面三間、側面三間、入母屋造りで。文殊菩薩を本尊とする堂であったが、昭和62年(1987)10月に焼失した。現在の文殊堂はその後の再建」との案内。
●お山の由来
文殊菩薩の化身に伝えられたこの山の由来とは?この山に登るものは菩提心をおこし、峰にすむものは六根を清められるという文殊菩薩のお告げがあり、摩尼殿上の白山で六根清浄の悟りを得たと伝えられる、といった記事が多く見受けられる。
『一遍聖絵』にある「大聖文殊異僧に化現して性空上人に誘へて云く、「山名書写 鷲頭分土 峰号一乗、鶏足送雲 踏此山者、発菩提心、攀此峰者 清六情根、云々」などを踏まえてのことかと思える。
八丁;13時46分
尾根筋を少し巻き気味に下り、標高250m等高線を少し下ったあたりに八丁の標石が立つ。
●文殊菩薩と性空
性空上人の逸話には文殊菩薩がこのシーン以外にも登場する。幼き頃より仏心篤き上人の出家の願いがかなえられたのも、母の夢枕に現れた文殊菩薩のお告げによる、とも伝わる。 それはそれとして、幼名・小太郎、橘善行と呼ばれていた上人が性空と名乗り仏に仕えることとなったと伝わるが、Wikipediaに拠れば、上人が天台の高僧慈恵大師に師事し出家したのは36歳の頃という。名門橘家に生まれた上人の36歳までの足跡が少し気になるが、詳しいことはよくわからない。
九丁;13時48分
●性空の由来
ところで、性空ってどういう意味?性空上人の「性空」についての解説は見当たらなかったが、『摩訶般若波羅蜜経問乗品第十八』には「内空。外空。内外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空」といった十八の空が挙げられる。その中にある「性空」について、コトバンクには「十八空の一。一切のものは因縁和合によって生じたもので、万有の本性は空であるということ」とある。この性空に由来するのだろうか。
また,Wikipediaに拠れば文殊菩薩は釈迦に代わって般若の「空」を説いたとある。上述性空上人と文殊菩薩との関りを考えれば十八空に由来との妄想も、当たらずとも遠からずのように思えてきた。
十丁;13時49分
●普賢菩薩と性空上人
文殊菩薩もさることながら、性空上人と普賢菩薩に関わる話も見受けられる。生を受けたとき、普賢菩薩の生まれ変わりとされたこと、また鎌倉時代の説話集である『十訓抄』には上人が普賢菩薩に出合えた話が載る;普賢菩薩との感得を願う上人に「生身の普賢菩薩に出合いたければ神崎(江口の里とも。ともに色里)に赴き、そこの遊女を見なさい」との夢のお告げ。お告げに従いその地に出向く。遊宴乱舞の中、閑に信仰・恭敬する上人に、彼女が普賢菩薩となって白象にのって消えてゆくところが見えた、と。
十一丁;13時51分
●『十訓抄』に描かれる性空上人
上人が遊女に普賢菩薩の姿を見たくだり。私でもなんとなく理解できる。以下掲載。
「上人閑所に居て、信仰、恭敬して、横目もつかはず、まもりゐ給へり。この時に、たちまちに普賢菩薩の形に現じ、六牙の白象に乗りて、眉間の光を放ちて、道俗、貴賤、男女を照らす。すなはち微妙の音声を出して、実相、無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども随縁真如の波の立たぬ時なしと。
感涙おさへがたくして、眼を開きて見れば、またもとのごとく、女人の姿となりて、周防室積の詞を出す(私注;遊女の歌う歌のこと、だろう)
眼を閉づる時は、また菩薩の形と現じて、法門を演べ給ふ。
かくのごとくたびたび敬礼して、泣く泣く帰り給ふ時、長者(私注;遊女の、だろう)、にはかに座を立ちて、閑道より上人のもとへ来りて、 「このこと口外に及ぶべからず」といひて、すなはちにはかに死す。異香、空に満ちて、はなはだ香ばし。
長者の頓滅のあひだ、遊宴興さめて、悲涙することかぎりなし。上人、ますます悲涙におぼれて、帰路にまどひけりとなむ
かの長者、女人、好色のたぐひなれば、たれかはこれを権者の化作とは知らむ。仏菩薩の悲願、衆生化度の方便に形をさまざまに分ちて、示し給ふ道までも、賤しきにはよらざること、かやうのためしにて心得べし」
十二丁;12時52分
直ぐ十二丁。その先で道は簡易舗装となる。性空上人がはじめて上ったお山への道も古き面影は消え去っている。車で荷物を寺に運ぶ車道としても使っているように思える道である
●『十訓抄』に描かれる性空上人
性空は普賢菩薩を大変、尊敬していたようだ。六牙の白象が登場するのは、 『法華経』 「普賢菩薩勧発品」にある 「此の経を読誦せば、我、爾の時、六牙の白象王に乗り、大菩薩衆と倶に其の所に詣りて、而も自ら身を現し、供養し守護して、其の心を安んじ慰めん」に拠る。実際、普賢菩薩像は白象に乗る。
また、普賢菩薩の語る「実相、無漏の大海に五塵・六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ時なし」は苦しみに沈む衆生に対しひとときも休むことなく救いの手を差し伸べる、といったこと。
性空上人と普賢菩薩の因縁話は、性空上人が普賢菩薩に深く帰依し、己が菩薩行(他者の救済>人すべて仏となる、といった法華経の教え)を表しているのであろうか
十三丁;14時1分
いままですべて道の左手、谷側にあった標石であるが、この十四丁の標石は道の右手、弥m側に立っていた。見逃し十四丁まで進み、あれ?となり少し戻って見つけることができた。
●釈迦三尊
文殊菩薩、普賢菩薩のことをメモしながら、釈迦三尊像のことを思い起こした。いくつかバリエーションがあるものの、多くは釈迦如来の左右に両脇侍として左脇侍(向かって右)に文殊菩薩、右脇侍に普賢菩薩が配される。釈迦三尊像がこれである。文殊菩薩は釈迦の知恵、普賢菩薩は釈迦如来の慈悲を表す、とか。
如来は知恵と慈悲を兼ね備え、知恵と慈悲で衆生を済度する、と。文殊菩薩と普賢菩薩って結構重要な存在であったわけだ。
で、ここで言いたいのは、釈迦如来と一心同体といった、そんな重要な文殊菩薩と普賢菩薩との深い関りが伝えられる性空上人って、当時の人にとって、それほど重要な存在であったということがわかる、というか、わからそうと縁起譚を創り上げた上人に対する強い崇敬の念を感じる。
十四丁;14時3分
●如来と菩薩
釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩と書いて、如来と菩薩の違いをちょっと整理。上にちょっとメモしたが、Wikipediaには「広い意味での「仏」は、その由来や性格に応じ、「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つのグループに分けるのが普通である。「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。(中略)「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。
如来、菩薩は挙げるまでもないだろう。明王は不動明王が代表的。天部の諸仏は梵天、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)など。金剛力士が寺の仁王門に立つ所以である。
なお、菩薩に関しては如来としての「力量」はあるものの、衆生済度のために敢えて「菩薩」ステータスに留まるものもあるようだ。
十五丁;14時5分
十三丁、十四丁標石辺りで一度途切れ再び現れた簡易舗装の道を下ると十五丁標石。
●如来の誕生
如来・仏陀には阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など、また釈迦の代わりにはるか未来に仏陀となることを約束されている弥勒如来(菩薩)などが代表的なもの。
常行堂のところでちょっとメモしたが、「如来」って紀元前5世紀に生きた歴史的実在者としての釈迦を永遠の存在として絶対化にするための「装置」のように思える。
釈迦の死後、原始仏教の時代、自己の悟りに重きを置く小乗仏教の時代を経て、紀元1世紀頃に衆生すべて仏といった大乗仏教の時代を迎える。ここで重きをなすのが菩薩行。自己の解脱より他者の救済、利他行に重きをおく動きである。
ここで、救済者・仏陀である釈迦を歴史的存在者として留めることなく、仏陀は釈迦の遥か昔から、またはるかかなたの未来にも存在するとした。所謂「過去仏」であり「未来仏」である。 『相応部経典』の第6章「梵天相応」には、「過去に悟ったブッダたち、未来に悟るブッダたち、現在において多くの人々の憂いを取り除くブッダ、これらブッダはすべて正しい教えを重んじて、過去にも現在にも未来にもいるのである。これがブッダと言われる方々の法則である」とする(『仏陀たちの仏教:並川孝儀(中公新書)』)。
釈迦を含めた過去七仏が構想された。未来仏として弥勒仏が構想された。大乗仏教に『法華経』や『華厳経』が生まれる紀元4世紀から5世紀にかけては華厳の巨大な廬舎那仏が構想され、それが密教の影響もあり大日如来として世界の中心に君臨する普遍的存在とした。世界の中心だけではなく各方面にも仏陀が必要だろうと西方極楽浄土の阿弥陀如来、東方瑠璃光浄土の薬師如来も登場することになったわけである。こうして歴史的存在者であった釈迦は永遠の絶対的存在者である仏陀のメンバーとして「止揚」されたわけである。
十六丁;14時7分
再び簡易舗装が切れたところに十六丁標石。書写山を貫く山陽自動車道書写山第二トンネルの真上あたり。ほぼ山を下りてきた。
●釈迦・仏陀・釈迦如来
本来、釈迦を永遠の絶対的存在とするために考えられたであろう「如来」であるが、どうもその構想があまりに巨大化し、元々の主人公であったお釈迦さまが大構想の中に埋没したように感じる。実際、このメモをするまで釈迦如来ってお釈迦さんと関係あるのかなあ、といった為体であった。
また、仏・仏陀とお釈迦さんの関係もよくわかっていなかった。仏・仏陀とは悟りをひらいたもの、ということであり、お釈迦さまもその巨大な構想力の中の一人であった。 性空上人のあれこれにフックがかかり、多分に素人の妄想ではあるが、それなりに結構納得し、空白スペースを埋めるメモを終える。
十七丁;14時8分
十七丁まで下ると山裾の街並みが木立の間から垣間見える。少し下ると赤い鳥居が立つ。宗天稲荷大明神とある。「宗天」って、あまり聞いたことがない。あれこれチェックしたが、その由来を見つけることはできなかった。
下山口;14時10分
宗天稲荷大明神にお参りし、安養寺・日吉神社を見遣り兵庫県立大学姫路工学キャンパスを南に下り、広い車道に出た少し西にあるバス停に到着。本日の散歩を終える。
本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
■東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
■圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
■西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口
西坂参道
東坂・西坂の分岐点の「一丁」標石
摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石を右に折れ西坂参道に入る。道の左手には元金輪院塔頭であった。常のことながら成り行き任せ。当初の予定では上りも下りもロープウエイで利用予定であったのだが、上りの東坂も、下りの西坂参道も成り行きで出合い、急遽予定を変更したもの。
下る前は坂の状態もわからず痛めた膝の優しい参道であれかしと、とりあえず道を先に進んだ。
妙光院
ほどなく道の右手に妙光院。「安養院跡地に建立されたのが今のものであるが、壽量院の北側に元あったものである。創建は不詳で、明応四年(1495)鎮永が再興するまでは妙光坊と称していた。
享和年中(1801~1804)祖渓が再修したが、明治の末年に至って修理の見込みがたたないので、ついに本尊を他に移し建物を取りたたんだ。その後「妙光院」の名称だけが残っていたのを現地に再建し、本尊を安置した」と案内にある。
二丁;13時33分
妙光院の先で道はふたつに分かれる。左に折れるとロープウエイ山頂駅へと向かう。往路で仁王門へと西国三十三観音道へと折れた慈悲の鐘(こころの鐘)鐘の立つ分岐点である。 西坂参道は右というか、道なりに進む。分岐点には二丁標石が立つ。
■和泉式部の絵巻風パネル
ここから先、六丁標石辺りまでは単調な道を下り、時に丁石を見るくらいであり、特段メモすることもない。ということで、書写の山に性空上人を訪ねて上った多くの貴人、聖を差し置いて、パネル解説されていた和泉式部についての解説を、折角のことでもあるので載せておく(1から3までは掲載済みであり、4から)。
■「(パネル番号」4 和泉式部の生涯のあらましを、お話ししましょう。幼名は許丸(おもとまる)。名だたる儒家の大江家に生まれました。父は大江雅致(まさむね)。一家は学問のほかに、母の妙子(昌子(しょうし)内親王のおん乳母)とともに、昌子内親王様のお守役をつとめました。
昌子内親王さまは冷泉天皇の皇后(御父は朱雀亭)です。和泉式部は、そうした教養溢れる雰囲気の中で、歌才に恵まれた美少女して、おほらかに育ちます」。
■「5 幼い日の和泉式部(お許丸)の毎日は、内親王さまがお育てになっている幼いご兄弟の皇子さまと、仲よく遊ぶことでした。皇子の御名は、兄宮さまは為尊(ためたか)親王さま、弟宮さまは敦道(あつみち)親王さま。そして別邸には、その上の二人の兄宮さま(のちの花山天皇と三条天皇)がお暮らしでした。
お許丸のお相手は、こうしたご身分のかたばかりでした。このご縁が、彼女の生涯のコースをのちのちまで定めてゆきます」。
■「6 やがて三人は成人してゆきます、兄宮さまは弾正ノ宮(だんじょうのみや)(司法官)に、弟宮の敦道親王は帥ノ宮(そちのみや)(行政官)になられます。お許丸も彩色秀でた新進歌人・和泉式部として名をあげてゆきます。
その頃、三人が幼い時からお慕いしてきた昌子内親王様が、ご病気療養のために和泉の大江邸に滞在して、その家で薨去なさいます。
その時、兄宮さまは淡い恋心を和泉に抱かれますが、翌年に早逝されます。そして弟宮敦道親王と和泉の"大きな恋"が始まります」
三丁;13時35分
道を進むと「西坂参道 日吉神社・姫路工大へ」の案内。どこに下りるのか地図をチェックする。麓に姫路県立大がある。姫路工業大学など県立三大学が統合されて姫路県立大学となったようである。
その直ぐ先に、小さな石造五輪塔や数基の石仏と共に「三丁」の標石が立つ。
■「7 弟宮の敦道親王は和泉にぴったりの多感な貴公子でした。容姿端麗、立居もきわ立っていました。和泉は言います。「敦道親王こそ、幼い日から わたしが夢みてきた最高の男性像です」。初めての添寝の翌朝、和泉は、心身の深い満足度をこう歌います。
世のつねの ことともさらに思(おも)ほえず はじめて物を思う朝(あした)は 教養を突き破って自分の感動を歌いあげる大胆さ。この"歌魂"(かこん)こそ、彼女の歌の特性であり、目のさめる近代性でした」。
■「8 敦道親王は自邸の南院に和泉を住まわせました。翌春の加茂大祭(かものたいさい)には、二人が相乗りした牛車が、御簾を揚げて都大路へ出ました。
そうした相愛の歌を、彼女は「和泉式部日記」の中に、たくさん遺します。親王の御子石蔵宮(いしくらのみや)も生まれ、生涯を賭けた大恋愛でした。
しかし、二年後、この最愛の敦道親王も二十七歳で亡くなりました。その魂祭の夜、和泉は涙を涸らしてうたいます。 亡き人の 来る夜と聞けど君もなし わが住む里や魂(たま)なきの里」。
■「9 弟宮を亡くしてやつれ果てる和泉の姿を心配して、関白道長は肩をたたいて、「中宮の彰子は わしの娘だが、中宮御所へいって、歌でも教えてやってくれないか」と気分転換をすすめます。
道長は器の大きい人でした。彰子も利発で教養高い美妃でした。中宮御所には、紫式部、伊勢大輔(いせのたいふ)、赤染衛門(あかぞめえもん)など超一流の女性メンバーが揃った文学サロンがあります。彰子は「お美しいお子さんの小式部の内侍(こしきぶのないし)も ご一緒にどうぞ」と温かく和泉を迎えてくれました」。
■「10 小学生にも人気の高い軽快な「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」の百人一首の歌は、小式部十二才頃の御所での即興作です。「さすが母似(ははに)よ」と公卿たちは騒ぎました。
一方、和泉式部と紫式部は、お互いにライバル意識がありました。が、やがて、「歌は和泉式部、小説は紫式部」と、しぜんと定まってゆきました。文芸サロンでは、和泉と中宮彰子は互いに親しみ、敬し合う仲となりました。
四丁;13時38分
数分で四丁標石。ここまで歩いて、上った東坂参道に比して、この西坂参道は道がきれいに整備され車でも登れそうである。「参道」といった趣には少し乏しいが、痛めている膝には優しい。
■「11 中宮彰子は年若く、信心の篤い人でした。性空上人の教えを受けたくて、遥々と書写山を訪ねます。権勢を好まない性格の上人は、居留守を使って中宮との面会を避けました。中宮はひどく失望して下山し始めます。傍にいた和泉式部は、自作の歌を上人へ届けます。
冥きより 冥き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
和泉の歌の、格調の高さと宗教性の深さに、上人は非常に感動して、すぐ中宮を呼び戻して、中宮のためにみ佛の道を説きました」
上述の如く和泉式部が中宮彰子に仕えたのは1008年から1011年頃までと言う。性空上人は1007年に没しており、この逸話には無理があるとも言う。
五丁;13時39分
直ぐに五丁標石。
■「12 あらざらむこの世の外(ほか)の思い出に 今ひと度(たび)の逢ふこともがな 白露も夢もこの世もまぼろしも たとえて言えば久しかりけり
和泉はこうした名歌を生涯かけて生みつづけます。勅撰(ちょくせん)歌集もおさめられた歌の数は、日本の女流歌人の首位となりました
「天才のみが、よく天才を知る」と申しますが、本邦第一級の天才、能楽創始者の世阿弥(ぜあみ)は、和泉をテーマに、幽玄能の傑作「東北」(とうほく)を創作して、和泉の地位を永遠化しました」。
■「13 お能「東北」のあらすじ。 ある早春、京へ上った東北の僧が、洛東・東北院(中宮彰子の持寺)の庭に咲く梅に見とれていると、「和泉式部ゆかりの軒場の梅です」と教えられました。その夜、僧がその梅の前で法華経を唱えると、女の霊が現れ「私はここの方丈に住む和泉式部の霊です。御佛のお陰で今は極楽で歌舞菩薩にして頂いて毎日幸福です」と語って、序の舞を舞いながら方丈へ消えました。
僧は「あの霊は観音様の化身かも知れない」と合掌しました。(終)」
パネルはこれで終わる。何となく落ち着かない終わりかたとも思えるが、あまりよく知らなかった和泉式部のあれこれが少しわかったことをもって良しとしよう。
六丁;13時42分
道脇に「左一丁 蜜厳院墓地」の標石(13時41分)を見遣り六丁の標石。その先に石に彫り込まれ並び立つ石仏が2基並ぶ。2体並ぶ石造は道祖伸では男女像としてたまに見ることがあるのだが、石仏では初めて見た。はっきりとはわからないが、どうも双石仏、双体石仏、地蔵双体仏などと呼ぶようだ。
●双石仏、双体石仏、地蔵双体仏
刻まれた石仏の姿を見ると、左手の像は錫杖を肩に架けたその姿は地蔵尊のように見える。また右の像は阿弥陀如来の姿のようにも見える。あれこれチェックすると、阿弥陀地蔵双仏石と呼ばれる石像もあるようだ。現世に現れて衆生を済度する地蔵尊と、来世を阿弥陀浄土で迎えてくれる阿弥陀仏の2体を1つの石に彫り、現世と来世のご利益を同時に願うためのもの、といった記事もあった。地蔵尊と阿弥陀如来のコンビネーション?といった妄想もあながち的外れでもなさそうに思える。
七丁;13時44分
七丁標石のところにはお堂が建ち、案内には文殊堂跡とある。「康保三年(966)紫雲のたなびくのを瑞兆と感じた性空上人は、この西坂を登ってきたとされる。入山の途中、文殊菩薩の化身と云われる白髪の老人に逢い、この山の由来を伝えられた。その伝えられた場所がこの地であるといわれている。
文殊堂はもと正面三間、側面三間、入母屋造りで。文殊菩薩を本尊とする堂であったが、昭和62年(1987)10月に焼失した。現在の文殊堂はその後の再建」との案内。
●お山の由来
文殊菩薩の化身に伝えられたこの山の由来とは?この山に登るものは菩提心をおこし、峰にすむものは六根を清められるという文殊菩薩のお告げがあり、摩尼殿上の白山で六根清浄の悟りを得たと伝えられる、といった記事が多く見受けられる。
『一遍聖絵』にある「大聖文殊異僧に化現して性空上人に誘へて云く、「山名書写 鷲頭分土 峰号一乗、鶏足送雲 踏此山者、発菩提心、攀此峰者 清六情根、云々」などを踏まえてのことかと思える。
八丁;13時46分
尾根筋を少し巻き気味に下り、標高250m等高線を少し下ったあたりに八丁の標石が立つ。
●文殊菩薩と性空
性空上人の逸話には文殊菩薩がこのシーン以外にも登場する。幼き頃より仏心篤き上人の出家の願いがかなえられたのも、母の夢枕に現れた文殊菩薩のお告げによる、とも伝わる。 それはそれとして、幼名・小太郎、橘善行と呼ばれていた上人が性空と名乗り仏に仕えることとなったと伝わるが、Wikipediaに拠れば、上人が天台の高僧慈恵大師に師事し出家したのは36歳の頃という。名門橘家に生まれた上人の36歳までの足跡が少し気になるが、詳しいことはよくわからない。
九丁;13時48分
●性空の由来
ところで、性空ってどういう意味?性空上人の「性空」についての解説は見当たらなかったが、『摩訶般若波羅蜜経問乗品第十八』には「内空。外空。内外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空」といった十八の空が挙げられる。その中にある「性空」について、コトバンクには「十八空の一。一切のものは因縁和合によって生じたもので、万有の本性は空であるということ」とある。この性空に由来するのだろうか。
また,Wikipediaに拠れば文殊菩薩は釈迦に代わって般若の「空」を説いたとある。上述性空上人と文殊菩薩との関りを考えれば十八空に由来との妄想も、当たらずとも遠からずのように思えてきた。
十丁;13時49分
●普賢菩薩と性空上人
文殊菩薩もさることながら、性空上人と普賢菩薩に関わる話も見受けられる。生を受けたとき、普賢菩薩の生まれ変わりとされたこと、また鎌倉時代の説話集である『十訓抄』には上人が普賢菩薩に出合えた話が載る;普賢菩薩との感得を願う上人に「生身の普賢菩薩に出合いたければ神崎(江口の里とも。ともに色里)に赴き、そこの遊女を見なさい」との夢のお告げ。お告げに従いその地に出向く。遊宴乱舞の中、閑に信仰・恭敬する上人に、彼女が普賢菩薩となって白象にのって消えてゆくところが見えた、と。
十一丁;13時51分
●『十訓抄』に描かれる性空上人
上人が遊女に普賢菩薩の姿を見たくだり。私でもなんとなく理解できる。以下掲載。
「上人閑所に居て、信仰、恭敬して、横目もつかはず、まもりゐ給へり。この時に、たちまちに普賢菩薩の形に現じ、六牙の白象に乗りて、眉間の光を放ちて、道俗、貴賤、男女を照らす。すなはち微妙の音声を出して、実相、無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども随縁真如の波の立たぬ時なしと。
感涙おさへがたくして、眼を開きて見れば、またもとのごとく、女人の姿となりて、周防室積の詞を出す(私注;遊女の歌う歌のこと、だろう)
眼を閉づる時は、また菩薩の形と現じて、法門を演べ給ふ。
かくのごとくたびたび敬礼して、泣く泣く帰り給ふ時、長者(私注;遊女の、だろう)、にはかに座を立ちて、閑道より上人のもとへ来りて、 「このこと口外に及ぶべからず」といひて、すなはちにはかに死す。異香、空に満ちて、はなはだ香ばし。
長者の頓滅のあひだ、遊宴興さめて、悲涙することかぎりなし。上人、ますます悲涙におぼれて、帰路にまどひけりとなむ
かの長者、女人、好色のたぐひなれば、たれかはこれを権者の化作とは知らむ。仏菩薩の悲願、衆生化度の方便に形をさまざまに分ちて、示し給ふ道までも、賤しきにはよらざること、かやうのためしにて心得べし」
十二丁;12時52分
直ぐ十二丁。その先で道は簡易舗装となる。性空上人がはじめて上ったお山への道も古き面影は消え去っている。車で荷物を寺に運ぶ車道としても使っているように思える道である
●『十訓抄』に描かれる性空上人
性空は普賢菩薩を大変、尊敬していたようだ。六牙の白象が登場するのは、 『法華経』 「普賢菩薩勧発品」にある 「此の経を読誦せば、我、爾の時、六牙の白象王に乗り、大菩薩衆と倶に其の所に詣りて、而も自ら身を現し、供養し守護して、其の心を安んじ慰めん」に拠る。実際、普賢菩薩像は白象に乗る。
また、普賢菩薩の語る「実相、無漏の大海に五塵・六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ時なし」は苦しみに沈む衆生に対しひとときも休むことなく救いの手を差し伸べる、といったこと。
性空上人と普賢菩薩の因縁話は、性空上人が普賢菩薩に深く帰依し、己が菩薩行(他者の救済>人すべて仏となる、といった法華経の教え)を表しているのであろうか
十三丁;14時1分
いままですべて道の左手、谷側にあった標石であるが、この十四丁の標石は道の右手、弥m側に立っていた。見逃し十四丁まで進み、あれ?となり少し戻って見つけることができた。
●釈迦三尊
文殊菩薩、普賢菩薩のことをメモしながら、釈迦三尊像のことを思い起こした。いくつかバリエーションがあるものの、多くは釈迦如来の左右に両脇侍として左脇侍(向かって右)に文殊菩薩、右脇侍に普賢菩薩が配される。釈迦三尊像がこれである。文殊菩薩は釈迦の知恵、普賢菩薩は釈迦如来の慈悲を表す、とか。
如来は知恵と慈悲を兼ね備え、知恵と慈悲で衆生を済度する、と。文殊菩薩と普賢菩薩って結構重要な存在であったわけだ。
で、ここで言いたいのは、釈迦如来と一心同体といった、そんな重要な文殊菩薩と普賢菩薩との深い関りが伝えられる性空上人って、当時の人にとって、それほど重要な存在であったということがわかる、というか、わからそうと縁起譚を創り上げた上人に対する強い崇敬の念を感じる。
十四丁;14時3分
●如来と菩薩
釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩と書いて、如来と菩薩の違いをちょっと整理。上にちょっとメモしたが、Wikipediaには「広い意味での「仏」は、その由来や性格に応じ、「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つのグループに分けるのが普通である。「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。(中略)「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。
如来、菩薩は挙げるまでもないだろう。明王は不動明王が代表的。天部の諸仏は梵天、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)など。金剛力士が寺の仁王門に立つ所以である。
なお、菩薩に関しては如来としての「力量」はあるものの、衆生済度のために敢えて「菩薩」ステータスに留まるものもあるようだ。
十五丁;14時5分
十三丁、十四丁標石辺りで一度途切れ再び現れた簡易舗装の道を下ると十五丁標石。
●如来の誕生
如来・仏陀には阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など、また釈迦の代わりにはるか未来に仏陀となることを約束されている弥勒如来(菩薩)などが代表的なもの。
常行堂のところでちょっとメモしたが、「如来」って紀元前5世紀に生きた歴史的実在者としての釈迦を永遠の存在として絶対化にするための「装置」のように思える。
釈迦の死後、原始仏教の時代、自己の悟りに重きを置く小乗仏教の時代を経て、紀元1世紀頃に衆生すべて仏といった大乗仏教の時代を迎える。ここで重きをなすのが菩薩行。自己の解脱より他者の救済、利他行に重きをおく動きである。
ここで、救済者・仏陀である釈迦を歴史的存在者として留めることなく、仏陀は釈迦の遥か昔から、またはるかかなたの未来にも存在するとした。所謂「過去仏」であり「未来仏」である。 『相応部経典』の第6章「梵天相応」には、「過去に悟ったブッダたち、未来に悟るブッダたち、現在において多くの人々の憂いを取り除くブッダ、これらブッダはすべて正しい教えを重んじて、過去にも現在にも未来にもいるのである。これがブッダと言われる方々の法則である」とする(『仏陀たちの仏教:並川孝儀(中公新書)』)。
釈迦を含めた過去七仏が構想された。未来仏として弥勒仏が構想された。大乗仏教に『法華経』や『華厳経』が生まれる紀元4世紀から5世紀にかけては華厳の巨大な廬舎那仏が構想され、それが密教の影響もあり大日如来として世界の中心に君臨する普遍的存在とした。世界の中心だけではなく各方面にも仏陀が必要だろうと西方極楽浄土の阿弥陀如来、東方瑠璃光浄土の薬師如来も登場することになったわけである。こうして歴史的存在者であった釈迦は永遠の絶対的存在者である仏陀のメンバーとして「止揚」されたわけである。
十六丁;14時7分
再び簡易舗装が切れたところに十六丁標石。書写山を貫く山陽自動車道書写山第二トンネルの真上あたり。ほぼ山を下りてきた。
●釈迦・仏陀・釈迦如来
本来、釈迦を永遠の絶対的存在とするために考えられたであろう「如来」であるが、どうもその構想があまりに巨大化し、元々の主人公であったお釈迦さまが大構想の中に埋没したように感じる。実際、このメモをするまで釈迦如来ってお釈迦さんと関係あるのかなあ、といった為体であった。
また、仏・仏陀とお釈迦さんの関係もよくわかっていなかった。仏・仏陀とは悟りをひらいたもの、ということであり、お釈迦さまもその巨大な構想力の中の一人であった。 性空上人のあれこれにフックがかかり、多分に素人の妄想ではあるが、それなりに結構納得し、空白スペースを埋めるメモを終える。
十七丁;14時8分
十七丁まで下ると山裾の街並みが木立の間から垣間見える。少し下ると赤い鳥居が立つ。宗天稲荷大明神とある。「宗天」って、あまり聞いたことがない。あれこれチェックしたが、その由来を見つけることはできなかった。
下山口;14時10分
宗天稲荷大明神にお参りし、安養寺・日吉神社を見遣り兵庫県立大学姫路工学キャンパスを南に下り、広い車道に出た少し西にあるバス停に到着。本日の散歩を終える。