2019年9月アーカイブ

書写のお山へと東坂参道を上り、広い境内を巡り、今回は西坂参道下山ルートをメモする。下山の参道にも丁石が立ち、特段のメモすることもないところは上りと同じく、「山を下りながら こうかんがえた」妄想を付け加える。


本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口


西坂参道

東坂・西坂の分岐点の「一丁」標石
摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石を右に折れ西坂参道に入る。道の左手には元金輪院塔頭であった。常のことながら成り行き任せ。当初の予定では上りも下りもロープウエイで利用予定であったのだが、上りの東坂も、下りの西坂参道も成り行きで出合い、急遽予定を変更したもの。
下る前は坂の状態もわからず痛めた膝の優しい参道であれかしと、とりあえず道を先に進んだ。



妙光院
ほどなく道の右手に妙光院。「安養院跡地に建立されたのが今のものであるが、壽量院の北側に元あったものである。創建は不詳で、明応四年(1495)鎮永が再興するまでは妙光坊と称していた。
享和年中(1801~1804)祖渓が再修したが、明治の末年に至って修理の見込みがたたないので、ついに本尊を他に移し建物を取りたたんだ。その後「妙光院」の名称だけが残っていたのを現地に再建し、本尊を安置した」と案内にある。



二丁;13時33分
妙光院の先で道はふたつに分かれる。左に折れるとロープウエイ山頂駅へと向かう。往路で仁王門へと西国三十三観音道へと折れた慈悲の鐘(こころの鐘)鐘の立つ分岐点である。 西坂参道は右というか、道なりに進む。分岐点には二丁標石が立つ。




和泉式部の絵巻風パネル
ここから先、六丁標石辺りまでは単調な道を下り、時に丁石を見るくらいであり、特段メモすることもない。ということで、書写の山に性空上人を訪ねて上った多くの貴人、聖を差し置いて、パネル解説されていた和泉式部についての解説を、折角のことでもあるので載せておく(1から3までは掲載済みであり、4から)。

■「(パネル番号」4 和泉式部の生涯のあらましを、お話ししましょう。幼名は許丸(おもとまる)。名だたる儒家の大江家に生まれました。父は大江雅致(まさむね)。一家は学問のほかに、母の妙子(昌子(しょうし)内親王のおん乳母)とともに、昌子内親王様のお守役をつとめました。
昌子内親王さまは冷泉天皇の皇后(御父は朱雀亭)です。和泉式部は、そうした教養溢れる雰囲気の中で、歌才に恵まれた美少女して、おほらかに育ちます」。
■「 幼い日の和泉式部(お許丸)の毎日は、内親王さまがお育てになっている幼いご兄弟の皇子さまと、仲よく遊ぶことでした。皇子の御名は、兄宮さまは為尊(ためたか)親王さま、弟宮さまは敦道(あつみち)親王さま。そして別邸には、その上の二人の兄宮さま(のちの花山天皇と三条天皇)がお暮らしでした。
お許丸のお相手は、こうしたご身分のかたばかりでした。このご縁が、彼女の生涯のコースをのちのちまで定めてゆきます」。

■「 やがて三人は成人してゆきます、兄宮さまは弾正ノ宮(だんじょうのみや)(司法官)に、弟宮の敦道親王は帥ノ宮(そちのみや)(行政官)になられます。お許丸も彩色秀でた新進歌人・和泉式部として名をあげてゆきます。
その頃、三人が幼い時からお慕いしてきた昌子内親王様が、ご病気療養のために和泉の大江邸に滞在して、その家で薨去なさいます。
その時、兄宮さまは淡い恋心を和泉に抱かれますが、翌年に早逝されます。そして弟宮敦道親王と和泉の"大きな恋"が始まります」

三丁;13時35分
道を進むと「西坂参道 日吉神社・姫路工大へ」の案内。どこに下りるのか地図をチェックする。麓に姫路県立大がある。姫路工業大学など県立三大学が統合されて姫路県立大学となったようである。
その直ぐ先に、小さな石造五輪塔や数基の石仏と共に「三丁」の標石が立つ。

■「 弟宮の敦道親王は和泉にぴったりの多感な貴公子でした。容姿端麗、立居もきわ立っていました。和泉は言います。「敦道親王こそ、幼い日から わたしが夢みてきた最高の男性像です」。初めての添寝の翌朝、和泉は、心身の深い満足度をこう歌います。
世のつねの ことともさらに思(おも)ほえず はじめて物を思う朝(あした)は 教養を突き破って自分の感動を歌いあげる大胆さ。この"歌魂"(かこん)こそ、彼女の歌の特性であり、目のさめる近代性でした」。

■「 敦道親王は自邸の南院に和泉を住まわせました。翌春の加茂大祭(かものたいさい)には、二人が相乗りした牛車が、御簾を揚げて都大路へ出ました。
そうした相愛の歌を、彼女は「和泉式部日記」の中に、たくさん遺します。親王の御子石蔵宮(いしくらのみや)も生まれ、生涯を賭けた大恋愛でした。

しかし、二年後、この最愛の敦道親王も二十七歳で亡くなりました。その魂祭の夜、和泉は涙を涸らしてうたいます。 亡き人の 来る夜と聞けど君もなし わが住む里や魂(たま)なきの里」。

■「 弟宮を亡くしてやつれ果てる和泉の姿を心配して、関白道長は肩をたたいて、「中宮の彰子は わしの娘だが、中宮御所へいって、歌でも教えてやってくれないか」と気分転換をすすめます。
道長は器の大きい人でした。彰子も利発で教養高い美妃でした。中宮御所には、紫式部、伊勢大輔(いせのたいふ)、赤染衛門(あかぞめえもん)など超一流の女性メンバーが揃った文学サロンがあります。彰子は「お美しいお子さんの小式部の内侍(こしきぶのないし)も ご一緒にどうぞ」と温かく和泉を迎えてくれました」。

■「10 小学生にも人気の高い軽快な「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」の百人一首の歌は、小式部十二才頃の御所での即興作です。「さすが母似(ははに)よ」と公卿たちは騒ぎました。
一方、和泉式部と紫式部は、お互いにライバル意識がありました。が、やがて、「歌は和泉式部、小説は紫式部」と、しぜんと定まってゆきました。文芸サロンでは、和泉と中宮彰子は互いに親しみ、敬し合う仲となりました。

四丁;13時38分
数分で四丁標石。ここまで歩いて、上った東坂参道に比して、この西坂参道は道がきれいに整備され車でも登れそうである。「参道」といった趣には少し乏しいが、痛めている膝には優しい。

■「11 中宮彰子は年若く、信心の篤い人でした。性空上人の教えを受けたくて、遥々と書写山を訪ねます。権勢を好まない性格の上人は、居留守を使って中宮との面会を避けました。中宮はひどく失望して下山し始めます。傍にいた和泉式部は、自作の歌を上人へ届けます。
冥きより 冥き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
和泉の歌の、格調の高さと宗教性の深さに、上人は非常に感動して、すぐ中宮を呼び戻して、中宮のためにみ佛の道を説きました」
上述の如く和泉式部が中宮彰子に仕えたのは1008年から1011年頃までと言う。性空上人は1007年に没しており、この逸話には無理があるとも言う。

五丁;13時39分
直ぐに五丁標石。
■「12 あらざらむこの世の外(ほか)の思い出に 今ひと度(たび)の逢ふこともがな 白露も夢もこの世もまぼろしも たとえて言えば久しかりけり
和泉はこうした名歌を生涯かけて生みつづけます。勅撰(ちょくせん)歌集もおさめられた歌の数は、日本の女流歌人の首位となりました
「天才のみが、よく天才を知る」と申しますが、本邦第一級の天才、能楽創始者の世阿弥(ぜあみ)は、和泉をテーマに、幽玄能の傑作「東北」(とうほく)を創作して、和泉の地位を永遠化しました」。

■「13 お能「東北」のあらすじ。 ある早春、京へ上った東北の僧が、洛東・東北院(中宮彰子の持寺)の庭に咲く梅に見とれていると、「和泉式部ゆかりの軒場の梅です」と教えられました。その夜、僧がその梅の前で法華経を唱えると、女の霊が現れ「私はここの方丈に住む和泉式部の霊です。御佛のお陰で今は極楽で歌舞菩薩にして頂いて毎日幸福です」と語って、序の舞を舞いながら方丈へ消えました。
僧は「あの霊は観音様の化身かも知れない」と合掌しました。(終)」

パネルはこれで終わる。何となく落ち着かない終わりかたとも思えるが、あまりよく知らなかった和泉式部のあれこれが少しわかったことをもって良しとしよう。

六丁;13時42分
道脇に「左一丁 蜜厳院墓地」の標石(13時41分)を見遣り六丁の標石。その先に石に彫り込まれ並び立つ石仏が2基並ぶ。2体並ぶ石造は道祖伸では男女像としてたまに見ることがあるのだが、石仏では初めて見た。はっきりとはわからないが、どうも双石仏、双体石仏、地蔵双体仏などと呼ぶようだ。



双石仏、双体石仏、地蔵双体仏
刻まれた石仏の姿を見ると、左手の像は錫杖を肩に架けたその姿は地蔵尊のように見える。また右の像は阿弥陀如来の姿のようにも見える。あれこれチェックすると、阿弥陀地蔵双仏石と呼ばれる石像もあるようだ。現世に現れて衆生を済度する地蔵尊と、来世を阿弥陀浄土で迎えてくれる阿弥陀仏の2体を1つの石に彫り、現世と来世のご利益を同時に願うためのもの、といった記事もあった。地蔵尊と阿弥陀如来のコンビネーション?といった妄想もあながち的外れでもなさそうに思える。

七丁;13時44分
七丁標石のところにはお堂が建ち、案内には文殊堂跡とある。「康保三年(966)紫雲のたなびくのを瑞兆と感じた性空上人は、この西坂を登ってきたとされる。入山の途中、文殊菩薩の化身と云われる白髪の老人に逢い、この山の由来を伝えられた。その伝えられた場所がこの地であるといわれている。
文殊堂はもと正面三間、側面三間、入母屋造りで。文殊菩薩を本尊とする堂であったが、昭和62年(1987)10月に焼失した。現在の文殊堂はその後の再建」との案内。
お山の由来
文殊菩薩の化身に伝えられたこの山の由来とは?この山に登るものは菩提心をおこし、峰にすむものは六根を清められるという文殊菩薩のお告げがあり、摩尼殿上の白山で六根清浄の悟りを得たと伝えられる、といった記事が多く見受けられる。
『一遍聖絵』にある「大聖文殊異僧に化現して性空上人に誘へて云く、「山名書写 鷲頭分土 峰号一乗、鶏足送雲 踏此山者、発菩提心、攀此峰者 清六情根、云々」などを踏まえてのことかと思える。

八丁;13時46分
尾根筋を少し巻き気味に下り、標高250m等高線を少し下ったあたりに八丁の標石が立つ。
文殊菩薩と性空
性空上人の逸話には文殊菩薩がこのシーン以外にも登場する。幼き頃より仏心篤き上人の出家の願いがかなえられたのも、母の夢枕に現れた文殊菩薩のお告げによる、とも伝わる。 それはそれとして、幼名・小太郎、橘善行と呼ばれていた上人が性空と名乗り仏に仕えることとなったと伝わるが、Wikipediaに拠れば、上人が天台の高僧慈恵大師に師事し出家したのは36歳の頃という。名門橘家に生まれた上人の36歳までの足跡が少し気になるが、詳しいことはよくわからない。

九丁;13時48分
性空の由来
ところで、性空ってどういう意味?性空上人の「性空」についての解説は見当たらなかったが、『摩訶般若波羅蜜経問乗品第十八』には「内空。外空。内外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空」といった十八の空が挙げられる。その中にある「性空」について、コトバンクには「十八空の一。一切のものは因縁和合によって生じたもので、万有の本性は空であるということ」とある。この性空に由来するのだろうか。
また,Wikipediaに拠れば文殊菩薩は釈迦に代わって般若の「空」を説いたとある。上述性空上人と文殊菩薩との関りを考えれば十八空に由来との妄想も、当たらずとも遠からずのように思えてきた。

十丁;13時49分
普賢菩薩と性空上人
文殊菩薩もさることながら、性空上人と普賢菩薩に関わる話も見受けられる。生を受けたとき、普賢菩薩の生まれ変わりとされたこと、また鎌倉時代の説話集である『十訓抄』には上人が普賢菩薩に出合えた話が載る;普賢菩薩との感得を願う上人に「生身の普賢菩薩に出合いたければ神崎(江口の里とも。ともに色里)に赴き、そこの遊女を見なさい」との夢のお告げ。お告げに従いその地に出向く。遊宴乱舞の中、閑に信仰・恭敬する上人に、彼女が普賢菩薩となって白象にのって消えてゆくところが見えた、と。

十一丁;13時51分
『十訓抄』に描かれる性空上人
上人が遊女に普賢菩薩の姿を見たくだり。私でもなんとなく理解できる。以下掲載。
「上人閑所に居て、信仰、恭敬して、横目もつかはず、まもりゐ給へり。この時に、たちまちに普賢菩薩の形に現じ、六牙の白象に乗りて、眉間の光を放ちて、道俗、貴賤、男女を照らす。すなはち微妙の音声を出して、実相、無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども随縁真如の波の立たぬ時なしと。
感涙おさへがたくして、眼を開きて見れば、またもとのごとく、女人の姿となりて、周防室積の詞を出す(私注;遊女の歌う歌のこと、だろう)
眼を閉づる時は、また菩薩の形と現じて、法門を演べ給ふ。
かくのごとくたびたび敬礼して、泣く泣く帰り給ふ時、長者(私注;遊女の、だろう)、にはかに座を立ちて、閑道より上人のもとへ来りて、 「このこと口外に及ぶべからず」といひて、すなはちにはかに死す。異香、空に満ちて、はなはだ香ばし。
長者の頓滅のあひだ、遊宴興さめて、悲涙することかぎりなし。上人、ますます悲涙におぼれて、帰路にまどひけりとなむ
かの長者、女人、好色のたぐひなれば、たれかはこれを権者の化作とは知らむ。仏菩薩の悲願、衆生化度の方便に形をさまざまに分ちて、示し給ふ道までも、賤しきにはよらざること、かやうのためしにて心得べし」

十二丁;12時52分
直ぐ十二丁。その先で道は簡易舗装となる。性空上人がはじめて上ったお山への道も古き面影は消え去っている。車で荷物を寺に運ぶ車道としても使っているように思える道である
『十訓抄』に描かれる性空上人
性空は普賢菩薩を大変、尊敬していたようだ。六牙の白象が登場するのは、 『法華経』 「普賢菩薩勧発品」にある 「此の経を読誦せば、我、爾の時、六牙の白象王に乗り、大菩薩衆と倶に其の所に詣りて、而も自ら身を現し、供養し守護して、其の心を安んじ慰めん」に拠る。実際、普賢菩薩像は白象に乗る。
また、普賢菩薩の語る「実相、無漏の大海に五塵・六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ時なし」は苦しみに沈む衆生に対しひとときも休むことなく救いの手を差し伸べる、といったこと。
性空上人と普賢菩薩の因縁話は、性空上人が普賢菩薩に深く帰依し、己が菩薩行(他者の救済>人すべて仏となる、といった法華経の教え)を表しているのであろうか

十三丁;14時1分
いままですべて道の左手、谷側にあった標石であるが、この十四丁の標石は道の右手、弥m側に立っていた。見逃し十四丁まで進み、あれ?となり少し戻って見つけることができた。
釈迦三尊
文殊菩薩、普賢菩薩のことをメモしながら、釈迦三尊像のことを思い起こした。いくつかバリエーションがあるものの、多くは釈迦如来の左右に両脇侍として左脇侍(向かって右)に文殊菩薩、右脇侍に普賢菩薩が配される。釈迦三尊像がこれである。文殊菩薩は釈迦の知恵、普賢菩薩は釈迦如来の慈悲を表す、とか。
如来は知恵と慈悲を兼ね備え、知恵と慈悲で衆生を済度する、と。文殊菩薩と普賢菩薩って結構重要な存在であったわけだ。
で、ここで言いたいのは、釈迦如来と一心同体といった、そんな重要な文殊菩薩と普賢菩薩との深い関りが伝えられる性空上人って、当時の人にとって、それほど重要な存在であったということがわかる、というか、わからそうと縁起譚を創り上げた上人に対する強い崇敬の念を感じる。

十四丁;14時3分
如来と菩薩
釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩と書いて、如来と菩薩の違いをちょっと整理。上にちょっとメモしたが、Wikipediaには「広い意味での「仏」は、その由来や性格に応じ、「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つのグループに分けるのが普通である。「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。(中略)「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。
如来、菩薩は挙げるまでもないだろう。明王は不動明王が代表的。天部の諸仏は梵天、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)など。金剛力士が寺の仁王門に立つ所以である。
なお、菩薩に関しては如来としての「力量」はあるものの、衆生済度のために敢えて「菩薩」ステータスに留まるものもあるようだ。

十五丁;14時5分
十三丁、十四丁標石辺りで一度途切れ再び現れた簡易舗装の道を下ると十五丁標石。
如来の誕生
如来・仏陀には阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など、また釈迦の代わりにはるか未来に仏陀となることを約束されている弥勒如来(菩薩)などが代表的なもの。
常行堂のところでちょっとメモしたが、「如来」って紀元前5世紀に生きた歴史的実在者としての釈迦を永遠の存在として絶対化にするための「装置」のように思える。
釈迦の死後、原始仏教の時代、自己の悟りに重きを置く小乗仏教の時代を経て、紀元1世紀頃に衆生すべて仏といった大乗仏教の時代を迎える。ここで重きをなすのが菩薩行。自己の解脱より他者の救済、利他行に重きをおく動きである。
ここで、救済者・仏陀である釈迦を歴史的存在者として留めることなく、仏陀は釈迦の遥か昔から、またはるかかなたの未来にも存在するとした。所謂「過去仏」であり「未来仏」である。 『相応部経典』の第6章「梵天相応」には、「過去に悟ったブッダたち、未来に悟るブッダたち、現在において多くの人々の憂いを取り除くブッダ、これらブッダはすべて正しい教えを重んじて、過去にも現在にも未来にもいるのである。これがブッダと言われる方々の法則である」とする(『仏陀たちの仏教:並川孝儀(中公新書)』)。
釈迦を含めた過去七仏が構想された。未来仏として弥勒仏が構想された。大乗仏教に『法華経』や『華厳経』が生まれる紀元4世紀から5世紀にかけては華厳の巨大な廬舎那仏が構想され、それが密教の影響もあり大日如来として世界の中心に君臨する普遍的存在とした。世界の中心だけではなく各方面にも仏陀が必要だろうと西方極楽浄土の阿弥陀如来、東方瑠璃光浄土の薬師如来も登場することになったわけである。こうして歴史的存在者であった釈迦は永遠の絶対的存在者である仏陀のメンバーとして「止揚」されたわけである。

十六丁;14時7分
再び簡易舗装が切れたところに十六丁標石。書写山を貫く山陽自動車道書写山第二トンネルの真上あたり。ほぼ山を下りてきた。
釈迦・仏陀・釈迦如来
本来、釈迦を永遠の絶対的存在とするために考えられたであろう「如来」であるが、どうもその構想があまりに巨大化し、元々の主人公であったお釈迦さまが大構想の中に埋没したように感じる。実際、このメモをするまで釈迦如来ってお釈迦さんと関係あるのかなあ、といった為体であった。
また、仏・仏陀とお釈迦さんの関係もよくわかっていなかった。仏・仏陀とは悟りをひらいたもの、ということであり、お釈迦さまもその巨大な構想力の中の一人であった。 性空上人のあれこれにフックがかかり、多分に素人の妄想ではあるが、それなりに結構納得し、空白スペースを埋めるメモを終える。

十七丁;14時8分
十七丁まで下ると山裾の街並みが木立の間から垣間見える。少し下ると赤い鳥居が立つ。宗天稲荷大明神とある。「宗天」って、あまり聞いたことがない。あれこれチェックしたが、その由来を見つけることはできなかった。



下山口;14時10分
宗天稲荷大明神にお参りし、安養寺・日吉神社を見遣り兵庫県立大学姫路工学キャンパスを南に下り、広い車道に出た少し西にあるバス停に到着。本日の散歩を終える。







性空上人ゆかりの書写の山。思うだに大変そうと、長年寝かせておいた上人と観音霊場巡礼の縁、その観音霊場巡礼のはじまり、またそもそも巡礼って?といったテーマや、メモをしながら気になってきた上人が何故に世に知られるようになったのだろう、などといった新しい疑問を、多分に妄想ではあるのだが、自分に納得できるストーリーとしてまとめるのに少々スペースを使ってしまいメモが長くなってしまった。
書写のお山と性空上人に関するメモの2回目は、圓教寺の仁王門からはじめ境内を辿り、奥の院までをカバーする。当初のメモの予定では境内を巡る途中で出合った西坂を麓まで下りるところまでカバーしようと思っていたのだが、さすが広い境内に建つ幾多の堂宇。メモに少々スペースをとってしまった。西坂参道下山のメモは次回に廻す。

本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口


圓教寺境内

壽量院;12時47分
仁王門を潜り境内を進むと参道右手に壽量院。「圓教寺の塔頭の一つ。承安四年(1174)に後白河法皇が参籠したという記録が残されており、山内で最も格式の高い塔頭寺院として知られている。
建物の構成は、仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、台所を設けた庫裡とに区分され、唐破風の玄関を構えて両者をつないでいる。当時の塔頭寺院としては極めて珍しい構成で、圓教寺型ともいえる塔頭の典型である」の説明がある。
●五重塔跡
壽量院傍に五重塔跡の案内。「「書寫山圓教寺参詣図」「播州書寫山縁起絵巻」「播磨書寫山伽藍之図」に壽量院のあたりに五重塔が描かれ、その礎石と思われるものが確認されている。
それ等には大講堂横の五重塔は描かれておらず、この塔は元徳三年(1331)三月五日落雷により焼失、大講堂・食堂・堂行堂の全焼という大火災になった。
壽量院横から大講堂まで延焼してゆくことは考えにくい。そういうことから壽量院横と大講堂横との東西二つの五重塔があり、西の塔が金剛界五仏であることから、この東の塔は胎蔵界五仏を安置していたのであろうか」とある。

東坂・西坂分岐点の標石;12時50分
道の左手、T字路分岐点に標石。「すぐほんどう 右西坂 左東坂」「一丁」の文字が刻まれる。下りはロープウエイで、などと思っていたのだが、標石を見てしまった以上、帰りも参道をとの思いが強まる。







十妙院
分岐点の先に白い塗塀の美しい建物。十妙院との案内があり、「天正七年(1579)正親町天皇により「岡松院」(こうしょういん)の勅号を賜った。これは、赤松満祐がわずか十六歳で亡くなった女の冥福を祈るために建てたものとされる。
圓教寺第百六世 長吏實祐(ちょうりじつゆう)の住坊となり、實祐を中興第一世とする。その後同じく正親町帝より「十妙院」の勅号を賜った。塔頭壽量院とは左右逆であるが、ほとんど同じ平面構成をもつ圓教寺独特の塔頭形式である」と書かれる。
赤松満祐(あかまつ みつすけ)
室町時代中期の武将で守護大名。播磨・備前・美作守護。室町幕府六代将軍足利義教を暗殺したことで知られる。

護法石(別名/弁慶のお手玉石);12時54分
道の右手に護法石の案内。「昔、この石の上に乙天、若天の二人の童子がこの石に降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っている。また別名「弁慶のお手玉石」と呼ばれ、この大きな護法石を、弁慶はお手玉にしたといわれている」とあった。
乙天、若天童子とは、性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子のことで、乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助けた山の守護神、と後述する護法堂の案内にあった。
また、乙天、若天童子これも後述する性空上人が九州の背振山での修行時に現れたと伝わる。

書写山圓教寺縁起
境内 by 圓教寺
傍に石に刻まれた円教寺縁起があった;「開基は康保三年(西暦966年)、性空上人による。上人は敏達天皇の御末、橘善根卿の御子として生まれ、十歳にして妙法蓮華経に親しみ、読誦の行を積み、三十六才にして九州霧島に至り、母を礼して剃頭し、二十年にわたり、九州各地に聖地を求めて修行される。
後、瑞雲の導きに従って当山に入り、草庵を結び、法華経読誦の行を修め、六根清浄を得悟され、世に高徳の宝と仰がれる。
寛弘四年三月十日九十八歳にして入寂されたが、御徳、世に広まり大衆の帰依も悠々厚く、花山法王は特に尊崇され二度も御来駕。後白河法王も七日間、御参籠される。御醍醐天皇は隠岐より帰京の途次御参詣、大講堂に一泊される。亦、平清盛、源頼朝をはじめ、武将の信仰も厚く、寺領を寄せ、諸堂を建立する。  昭和五十九甲子年一月吉日 (1984年1月吉日)」とあった。

湯屋橋;12時55分
少し弧を描いた石橋を渡る。湯屋橋とある。案内には「湯屋橋の擬宝珠は昭和十九年に戦時供出され、昭和三十年に旧刻銘「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」を刻銘した擬宝珠が寄進された。
本多忠政は元和三年(1617)に池田光政転封のあと姫路城主となり、元和六年(1620)書写山に参詣してその荒廃に驚き、一門・家臣・城下で寄進を募り復興に尽力し、湯屋橋もこの時再興された。書写山の荒廃は天正六年(1578)三木城の別所長治離反に対し羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによる。
湯屋橋の名はこの辺りに湯屋(沐浴所)があったことにちなむといい、「播磨国飾磨郡円教寺縁起事」によると、釜一口・湯船一隻・湯笥一・水船一口を備える四間板葺、西庇一面の湯屋を記し、特に釜は性空上人から依頼された出雲守則俊朝臣が鉄を集めて鋳造し人夫を整えて運搬した」ととある。
●出雲守則俊朝臣
出雲守則俊朝臣って誰?少々唐突な登場だが、出雲の国司に則俊の名がある。朝臣は古代、皇族に次ぐ高い地位を示す姓(かばね)であるのはわかるが、人物不詳。ともあれ、たたら製鉄で知られる出雲で造られたものだろう。

三十三所堂;12時56分
橋を渡ると空が大きく開け、広場に出る。右手には「はづき茶屋」があり、休憩をとる参拝者で賑わう。はづき茶屋の対面に三十三所堂。「西国三十三観音をまつる堂である。西国三十三所観音巡礼が広く庶民の間で行われるようになったのは、江戸時代である。社会情勢や交通の不便な時代にあって、誰でも三十三観音にであえるように、各地に「うつし霊場」ができた。
有名なものは坂東、秩父霊場であり、播磨にも「播磨西国霊場」がある。他にも全国各地にこのような霊場があり、このような「うつし霊場」を更にミニチュア化したものが、この三十三諸堂の発生であると考えられる」とある。このお堂をお参りするだけで、西国三十三観音霊場巡礼と同じ滅罪の功徳が得られるということか

魔仁殿;12時59分
三十三所堂をお参りし、石段を上り摩尼殿に。堂々たる構えのお堂。靴を脱いでお堂に入る。お堂を囲む回廊から書写の山の緑を眺める。案内には「摩尼殿(如意輪堂)書写山の中心を成す圓教寺の本堂。天禄元年(970)創建と伝え、西国三十三所観音霊場の第二十七番札所。桜の霊樹に天人が礼拝するのを見た性空上人が、その生木に如意輪観音を刻み、これを本尊とする堂を築いたのが始まりと伝わる。
幾度か火災に見舞われており、現本堂は大正十年(1921)に焼失した前身建物の残存遺構や資料をもとに、ほぼ前身を踏襲した形で昭和八年(1933)に再建。近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請負った。懸造り建築の好例で、伝統的な様式を踏襲しながらも木鼻・蟇股などの彫刻等に近代和風の息吹が感じられる。本尊は六臂如意輪観世音菩薩(兵庫県指定文化財)で、四天王立像(国指定重要文化財)も安置されている」とある。
摩尼
摩尼とはサンスクリット語の「マニ;宝珠」から。「意のままに願いを叶える(サンスクリット語の「チンター」)宝珠(マニ)」とされる。如意輪観音をサンスクリット語で「チンターマニチャクラ」と称するようであり、本尊として祀られる如意輪観音ゆえの「摩尼殿」ではあろう。因みに「チャクラ(法輪)」は「元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという(Wikipedia)」にあった。



岩場の参詣道
摩尼殿の右手から大講堂に抜ける道案内。矢印と共に「重要文化財 大講堂・常行堂・食堂 金剛堂 鐘楼順路  大講堂(釈迦三尊)常行堂(阿弥陀如来)食堂2階(宝物展示) 薬師堂(播州薬師霊場第16番・食堂の納経所で) 奥之院(性空上人 左甚五郎作力士像)姫路城主本多・榊原・松平家三廟所 三の堂(大講堂・常行堂・食堂)へ徒歩5分 三の堂より奥之院へ徒歩1分 金剛堂へは2分」と記される。
摩尼堂の庇(ひさし)の下、山崖の間の通路を抜けると岩肌を進む道となる。道脇には小堂、石仏が並び、なかなかいい雰囲気

姫路城主・本多家の墓所
山道を抜けると三之堂。その手前に姫路城主・本多家の墓所。案内には「5棟の堂は、本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓です。本多家は江戸時代、初期と中期の二度、姫路城主になりました。忠政・政朝・忠国の3人が姫路城主です。
忠政は、池田家のあとをうけて元和三年(1617)、桑名より姫路へ移り、城を整備したり船場川の舟運を開いた城主です。政朝は忠政の二男で、あとをつぎました。忠国は、二度目の本多家の姫路城主で、天和二年(1682)に福島より入封しました。
忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕え徳川四天王の一人。政長は政朝の子で、大和郡山城主となりました。
堂の無い大きな二基の五輪塔は、忠政の子・忠刻(ただとき)と孫・幸千代の墓です。忠刻は大阪落城後の千姫と結婚し、姫路で暮らしましたが、幸千代が3歳で死去。忠刻も31歳で没し、ここに葬られました。
五棟の堂は、江戸時代の廟建築の推移を知るのに重要な建物で昭和四十五年に兵庫県指定文化財となっています」とある。
寶蔵跡
廟所傍に寶蔵跡の案内。「明治三十一年(1898)五月二十八日焼失本多廟との位置関係は不明だが西面に門を設けた土塀を巡らし、西妻に御拝庇ありと記されている。寛政二年(1790)の「堂社図式下帳」にはその記載がないが、本多廟建立【慶長十五年(1610)最古】以前より存在したことが古版木「播磨國書寫山伽藍之図」によってあきらかである。安政五年(1858)春の「霊仏霊宝目録」に収蔵されていたと思われる品々が明記されている。「性空聖人御真影」「源頼朝公奉納の太刀」「和泉式部の色紙」等七十八点をあげているがそのうちほとんどが焼失した」とあった。

三之堂;13時8分
眼前の広場の先堂々としたお堂がコの字に並び建つ。右手が大講堂、中央が食堂、左手が常行堂である。ハリウッド映画、「ラストサムライ」やNHK大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」の撮影にも使われたと言う。
大講堂
「大講堂は食堂、常行堂とともに「三之堂(みつのどう)」と称され、修行道場としての円教寺の中心である。建物をコの字型に配置した独特の空間構成で、かつては北東の高台に五重塔も建てられていた。
大講堂は、円教寺の本堂にあたる堂で、「三之堂」の中心として、お経の講義や議論などを行う学問と修行の場であった。永延元年(987)の創建以来、度重なる災禍に見舞われたが、現大講堂は、下層を永享12年(1440)、上層を寛正3年(1462)に建立したものである。雄大な構造で、和洋を基調とした折衷様式に、内陣を土間とした天台宗の伝統的な本堂形式になっている。 極めて古典的で正式な様式を駆使しながら、一部に書写の大工特有の斬新な技法を用いており、創建以来の伝統を残しながら、時代の要請を取り入れて存続してきた貴重な建造物である。 内陣には木造釈迦如来及両脇侍像(平安時代・国指定重要文化財)が安置されている」と案内にあった。
食堂
案内が見当たらなかったため、姫路市のWebサイトから引用:「本来は、修行僧の寝食のための建物。承安四年(1174)の創建。本尊は、僧形文殊菩薩で後白河法皇の勅願で創建。二階建築も珍しく長さ約40メートル(別名長堂)においても他に類を見ないものである。
未完成のまま、数百年放置されたものを昭和38年の解体修理で完成の形にされた。 現在1階に写経道場、2階が寺宝の展示館となっています。国指定重要文化財」
常行堂
「常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行)をするための道場。 建物の構成は、方五間の大規模な東向きの常行堂。
北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とからなり立っている。 内部は、中央に二間四方の瑠璃壇を設け本尊丈六阿弥陀如来坐像が安置されている。
舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのもの。国指定重要文化財。(姫路市Webサイト拠り)
天台宗と阿弥陀如来
天台宗の僧の多くは「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀を頼みとした、と言う。大乗経典とは大雑把に言って般若経から法華経を経て浄土三部経に及ぶものであるから、それほど違和感はない。性空も胸に阿弥陀仏の刺青をしていたとも言うし、上述の浄土経の祖とされる恵心僧都源信との交誼からも阿弥陀仏への信仰が見てとれる。源信は天台宗に学ぶも名利の道を捨て、極楽往生するには、一心に念仏を唱えるべしとし、浄土教の基礎を築いたとされる。
阿弥陀如来
西方極楽浄土に臨する如来。如来とは悟りをひらいたもの、とされる。最初の如来は釈迦如来。生身の釈迦を永遠の存在とするための「装置」として誰かが創り出したのだろう。何世紀にもわたる釈迦の教え、または釈迦になる教えをまとめ上げる経典整備の過程において、如来が釈迦ひとりってことはなかろうと、いろいろな如来が誕生した。阿弥陀如来誕生は西域からの影響が強いと聞く。
三之堂から奥之院へ

三之堂を離れ奥の之院に向かう。成り行きで常行堂の左手を廻り先に進む。

鐘楼
「袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。 寺伝によれば、鐘楼は元弘二年(1332)に再建、鐘は元亨四年(1324)に再鋳とされる。いずれも確証はないが、形や手法から十四世紀前半のものと推定されている。 鎌倉時代後期の様式を遺す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。銅鐘は、兵庫県指定文化財(昭和二十五年八月二十九日指定)で、市内では最古のつり鐘である。








十地院
「もとは開山堂西の広大な敷地にあったが、妙光院と同じく名称のみが残っていたのを、勧請殿跡地に建立したものである。庭越しに瀬戸内海を眺望することのできる唯一の塔頭である」とある。










法華堂
「法華三昧堂といい、創建は寛和三年(985)播磨国司藤原季孝によって建立された。もとは桧皮葺であった。現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。










薬師堂
「根本道とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりと伝わる。寺記によると延慶元年(1308)に焼失し、現在の建物は元応元年(1319)に再建された。幾度か改修されており、当初の形は明らかではないが、もと方一間の堂に一間の礼堂(外陣)を付設したようである。挿肘木など大仏様の手法が見られ、組物や虹梁に当時の特色が残る。本尊(薬師如来)等は、現在食堂に安置されている。
なお、昭和五十三年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土しており、この地には圓教寺創建以前、既に何らかの宗教施設があったと推定されている。


姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所
「松平直基は、徳川家康の孫にあたります(家康二男、秀康の第五子)。もと出羽国の山形城にいましたが、慶安元年(1648)西国探第職として播磨国の姫路城主を命じられました。 しかし、山形から姫路へ移封の途中、江戸で発病し姫路城に入らず亡くなり、遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
のちになって、直基の子・直矩が姫路城主になってから寛文十年(1670)に分骨し、ここ書写山に墓所をつくりました」と。




姫路城主・榊原家の墓所
「榊原家は、江戸時代初期と中期の2回にわたって姫路城主となりました。前期、榊原忠次・政房 慶安2年(1649)~寛文7年(1667)
後期、榊原政邦・政祐(すけ)・政岑(みね)・政永 宝永元年(1704)~寛保元年(1741) ここの墓所には、上の城主のうち、政房と政祐の二人の墓碑が並んでいます。政房は寛文5年(1665)父忠次のあとをつぎましたが、わずか2年後に27歳で亡くなりました。墓碑には故刑部大輔従四位下源朝臣と刻んであります。
両墓碑とも政祐の養子政岑が享保十九年(1734)に建てました。忠次・政邦の墓所は姫路市内の増位山にあります。

金剛堂;13時15分
開けた展望公園を経て金剛堂へ。
「三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂であった。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。
性空上人は、この地において金剛薩?にお会いになり、密教の印を授けられたという。普賢院は永観二年(984)の創建で上人の居所であったと伝えられているが、明治四十年明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却された(戦災で焼失)。本尊の金剛薩?像は、現在、食堂に安置されている」


鯰尾(ねんび)坂参道
金剛堂の先、杉木立に「書写山参道 鯰尾坂」の案内が括りつけられている。書写のお山への参道は南へと上り下りする東坂、西坂以外にもあるようだ。チェックする;
鯰尾(ねんび)坂参道
お山の北西、新在家からの参道。距離はおよそ3キロ。かつての裏参道。登山口にある地蔵堂には、「かつて利用した人 数知れず」とあるようだ。国土地理院の地形図にはルート表示がない
刀出(かたなで)坂参道
お山へ西からの参道。新在家の南、刀出栄立町から奥の院までおよそ2.4キロ。近畿自然歩道といなっており、地形図にもルート表示がある。刀出の由来は、15世紀に古墳から刀が出土したとも伝わるが、定説とはなっていないようだ。
六角坂参道
これも西からの参道。刀出坂参道の登山口である、刀出栄立の少し南、六角地区から摩尼殿へとお山を上る。沢筋が六角から摩尼殿まで続いている。地形図に六角から沢筋途中まで破線が描かれている。
置塩坂参道
東からお山に上る参道。夢前町書写から摩尼殿へと上る。夢前川を北に登ったところに赤松氏の 居城であった置塩(おきしお・おじお)城跡があるという。孫見たさの姫時途中下車の折り、そすべての参道、そして置塩城跡を訪ねたものである。

不動堂;13時19分
「延宝年中(1673~1681年)に堂を造り明王院の乙天護法童子の本地仏不動明王を祀る。元禄10年(1697年)に堂を修理し、荒廃していた大経所を合わせて不動堂としている。俗に赤堂と呼ばれていた。
乙天童子の本地仏であるが、若天童子のそれはない。一説には若天はその姿があまりに怪異なため、人々が怖れたので姿を人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したともいわれている」との案内。



護法堂(乙天社と若天社)
案内に「性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子をまつる祠である。乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助け、上人の没後はこの山の守護神として祀られている。同寸同形の春日造で、小規模ながら細部の手法にすぐれ、室町末期の神社建築の特色をよく表している。向かって右が乙天社、左が若天社」とある。
乙天と若天は上人が九州、福岡県福岡市早良区と佐賀県神崎市の境に位置する背振山で法華経三昧の修行の折より生涯上人に仕えたとされる仏教の守護神、とか。

護法堂拝殿(弁慶の学問所)
「奥の院の広場をはさんで護法堂と向かい合っている。このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのは珍しい。今の建物は、天正十七年(1589)に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿である。
この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、七歳から十年間、この山で修業したことから、弁慶の学問所と呼ばれている。今もその勉強机が残っている。(食堂に展示中)」との案内。



開山堂(奥の院):13時21分
「圓教寺開山の性空上人をまつったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められている。寛弘四年(1007)上人の没年に高弟延照が創建、弘安九年(1286)消失。現存のものは江戸期寛文十一年(1671)に造り替えられたもの。
軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻があるが、四力士のうち北西隅の一人は、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある」との案内。




和泉式部歌塚塔
開山堂脇の奥まったところにあるという和泉式部の歌碑を訪ねる。お堂右手に廻りこんだ山肌に歌塚塔が見える。案内には「高さ二〇三cmの凝灰岩製の宝篋印塔で、塔身各面に胎蔵界の種子(梵字)を刻み、天福元年(1233〔786 年前〕)の銘がある。
県下最古の石造品であり、和泉式部の和歌「暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端(は)の月」にちなむ和泉式部歌塚と伝えられる。
この歌は長保四年(1002)~寛弘二年(1005)に詠まれ「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)」をもとに悟りへの導きを願い性空上人に結縁を求めた釈教歌と呼ばれるもので、勅撰「拾遺和歌集」に収録されている。
性空上人は「日は入りて月まだ出ぬたそがれに掲げて照らす法(のり)の燈(ともしび)」の返歌をしたといい、また建久七年(1196)~建仁二年(1202)に成立した「無名草子」には和泉式部が性空上人からこの歌の返しに贈られた袈裟を身に付けて往生を遂げたという逸話を載せている。 平成二七年二月 姫路市教育委員会」とある。
●「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)」
「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)をもとに」とは「法華経の巻第三化城喩品第七の「衆生常苦悩、盲冥無導師、不識苦尽道、不知求解脱、長夜益悪趣、減損諸天衆、従冥入於冥、永不聞仏名」、世に導きの師なく人は苦しみ、長い夜に悪道は増し神々さえも堕ちてしまい、人は冥がりを出ては冥に入るだけであり、長く仏の名を聞くこともない、にある「従冥入於冥」を踏まえたもの、という。
人に会うこと避けていた上人も、法華持教者故だろうか、その教養に感じ入り面会を許したという。それにしても、拾遺和歌集の成立は1006年頃とされるわけで、和泉式部の生まれは978年とされるので(Wikipedia), 「性空上人のもとに、よみてつかわしける」と題されたこの歌が詠まれたのは和泉式部が30歳前のこと。如何に法華経が宮廷貴族の間で広く読誦された時代背景であったとは言え、煩悩ゆえに苦界を転々輪廻しそこから脱することのできない衆生の生きざまを表す「冥」を、本当にわかるのだろうか。
和泉式部がもっと歳を重ねて、とは思っても、性空上人の没年は1007年と言うし、習い覚えた言葉をその才気に任せて詠んだようにも思える。が、そうとすればそれに性空上人が感じ入ることもないだろうし、ということは、返歌は創作?などと不敬な妄想がふくらむ。
因みに、上述の「書写山と和泉式部」には、和泉式部は中宮彰子のお伴で圓教寺を訪れたともあるが、和泉式部が中宮彰子に仕えるようになったのは1008~1011年頃の頃というから、性空上人は既に没している。
和泉式部と阿弥陀如来
それはともあれ、上人と和泉式部の問答が伝わるが、そこに興味を惹く一節があった。浄土往生を問う式部に対して上人は阿弥陀如来にすがるべし、と。上に天台僧は「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀にすがった、とメモしたが、法華三昧の上人ではあるが、胸に阿弥陀仏の刺青を彫っていたとも伝わる上人の阿弥陀信仰のほどを、逸話の真偽のほどは定かでなないが、その信仰を強める話となっている
因みに、式部は京都誓願寺の阿弥陀如来に帰依し出家、誠心院専意法尼と名を改め生涯を終えたとされる。万寿2年(1025年)、と言うから47歳までの生存は記録に残るが没年は不詳。

弁慶鏡井戸;13時24分
奥の院より三之堂に戻る。往路の北を成り行きで進むと弁慶井戸があり、「書写山には武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や勉強机が今に伝えられている。
昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円(しなのぼうかいえん)がいたずら書きし、小法師二、三十人を呼んで大声で笑った。目を覚ました弁慶は、皆がなぜ笑っているのか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し、喧嘩となる。その喧嘩がもとで大講堂を始め山内の建物を焼き尽くしてしまったといわれている」とある。
『義経記』には、性空上人を慕って比叡山を下り書写の山に修行に訪れたとも書かれる。

灌頂水の小祠
弁慶鏡の井戸の傍に小さな覆屋。仏事の際の灌頂水を汲む井戸。
灌頂
「灌頂(かんじょう)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のこと(Wikipediaより」」。
仏・仏陀
「菩薩が仏になる時」って、ちょっとわかり難い。ここで言う仏とは仏陀ということだろう。仏陀とは悟りをひらいたもの。菩薩は悟りをひらくための行をおこなっているもの。
仏陀も元々は釈迦ひとりであったものが、時代を経るにつれ東方極楽浄土、西方瑠璃光浄土などが構想され、そこに阿弥陀仏や薬師如来などの仏陀が存在するとした経典が現れてくる。仏陀とは所謂如来と言い換えてもいいかもしれない。既述の如く、この如来・仏陀とは生身の釈迦を永遠の存在とするための「装置」のような気もする。

灌頂水の覆屋を先に進むと大講堂と食堂の間を抜け、三之堂の広場に戻った。

西坂分岐点に戻る
復路も参道を下ることにして、摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石へと向かう。 三之堂から摩尼堂へは往路辿った道の下側にもうひとつ、大黒堂や瑞光院経由の道がある。三之堂からゆるやかな坂を「下り、左手に大黒堂、右手に瑞光院を見遣り標石に戻る。
瑞光院は一般公開はしていないようで、切妻、本瓦葺の門は閉じられていた。長く古さびた土塀が印象的な落ち着いた塔頭であった。塔頭は講中の宿坊として供することが多いが、ここは網干観音講の宿坊との記事を見かけた。
道を進み摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石へと戻る。

今回のメモはここまで。分岐点から先の西坂参道下山メモは次回に廻す。

娘の旦那が姫路に転勤。愛媛の田舎から東京に戻る途中、孫の顔見たさに姫路に途中下車。その折に、姫路と言えば姫路城でしょうを差し置いて、姫路市街の北にある書写山圓教寺を歩いてきた。
圓教寺は前々から気になっていたお寺さまである。気になっていたのはお寺さまそのものより、その創建者である性空上人。性空上人は、10年ほど前に秩父三十四観音霊場を歩いたとき、その開創縁起に登場した高僧であるのだが、何故に西国・播磨の上人が東国・秩父に「出張って」くるのか、その物語伝承が気になっていた。
もとより、性空上人は西国三十三観音霊場の開創縁起にも登場しており、そのコンテキストの延長線上での秩父観音霊場縁起への登場であろうことは妄想できるのだが、そもそも何故に西国観音霊場開創縁起に登場するのか、またそもそも観音霊場巡礼はどうしてはじまったのか、またまた、そもそも参詣と巡礼とは何が違うの、といった疑問が次々と頭を過り、これは手に負えないと思考停止し、しばらく「寝かせる」ことにしていた。
今回、その性空上人の本拠地である圓教寺を歩く。秩父を歩いたのは2009年であるので、その間は10年。少々「寝かせすぎ」のきらいはあるのだが、圓教寺を歩くその過程で性空上人へのリアリティを感じることができるだろうし、そうすれば「寝た子を起こす」きかっけになろうかとお寺さまのある書写山に出かけた。

本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口

JR姫路駅
姫路駅前の神姫バス乗り場で「書写ロープウエイ行」バスに乗る。
姫路
姫路って、何となく姫を連想する。が、この地方を「姫路」と呼ぶようになったのは室町以降とする。それ以前は「日女路(ひめじ)」と呼ばれたようである。奈良時代に編纂された『播磨風土記』には、神世の昔、この辺り一帯が未だ海であった頃、大己貴(おおなむち:大国主命)命がその子の火明(ほあかり)命があまりに乱暴者であるが故に、この地の島に置き去りにした。が、その仕置きに怒り狂った火明命が嵐を起こし大己貴命の乗る船が難破。船の積み荷の蚕子(ひめこ;かいこ)が流れついた場所を「日女道丘」としたのがその名の由来とする。 蚕子(かいこ)を「ひめこ」と呼ぶ?蚕のうち、眼状紋のある種類を形蚕(かいこ)、ないものを姫蚕(ひめこ)と呼ぶようであり、さらに古語では「ひめじ」とも呼んでいたとも言う。 神話由来とは別の有力な説としては、この地方は養蚕が盛んであったため、蚕子(ひめこ)の古語である「ひめじ」由来するものもある。どちらにしても蚕子がコアにあるようだ。

ちなみに姫路には14ほどの独立丘陵が散らばるが、それぞれの山、というか往時の島には上述難破し漂着した船荷由来の地名が残る。日女道丘もそのひとつであり、それは現在姫路城の建つ姫山である。

書写山ロープウエイ乗り場
バスを30分ほど乗ると書写山ロープウエイ乗り場に到着。実の所、当日東京に戻る予定であり、圓教寺にはロープウエイを利用しようと思っていたのだが、ひょっとして、と乗り場の方に登山道を尋ねると、ロープウエイ乗り場近くに登山口があると言う。
国土地理院の地図でチェックすると、登山道と思しき実線がふたつ描かれている。ひとつはロープウエイ乗り場の近くから圓教寺まで。もうひとつはもう少し西に描かれている。標高もそれほど高くない(標高371m)。ということで、急遽予定を変更し登山道を上ることにした。

東坂露天満宮
ロープウエイ乗り場手前を左に折れ、山陽自動車道の高架を潜る。高架下に「書写山登山口 250m先右折」の案内があった。
高架を越え道なりに進むと露天満宮の案内。ルートからは少しはずれるのだが、「露天満宮」名という、あまり耳にしない天神様に惹かれてちょっと立ち寄り。
道を右に折れ、山陽自動車道が書写山のトンネルに入る少し西に露天満宮があった。社殿は比較的新しい。山陽自動車道の建設に伴い移転したとも言う。
境内にあった案内には「東坂露天満宮」とあり、「創建不詳。慶長六(1601)、『池田輝政公御検地明細地図』と付箋のある絵図に、天満宮が書写山東麓に描かれている。明治四(1871)年四月の記録には、東坂本村氏神と記されている。
祭神は学問の神様と言われている菅原道真。露天満宮は県下ではこの一社のみで、崇敬な天満宮と伝えられている。
由来は道真が都を離れ大宰府で、「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを想ひいずれば」と呼んだ歌によるとされる。境内には露泉がある 平成二十年」とあった。

露天神と言えば、近松門左衛門の「曾根崎心中」で知られる大阪市にある通称「お初天神」が知られる。
その社名由来も上述「露と散る・・・」の歌にあるとされ、こちらは大宰府配流の途次、その社で詠ったとされる。もっとも由来には近くに露の森があったため、とか、露の時期に神社の前の井戸から水が湧き出たといったものもある。
その伝からいえば、この社にも露泉があるというから。それが社名の由来とするほうが、なんとなくしっくりくる。単なる妄想。根拠なし。境内には露泉と案内のある、覆屋に囲まれれた湧水らしき、ささやかな泉があった。

東坂参道上り口;11時37分
天神さんから道に戻り、山裾の民家の間を進むと四つ辻に標石らしき石と、登山道は右折の案内がある。右折し北に向かうと近畿自然歩道の木標に「東坂参道」と書かれた案内が取り付けられていた。ここにきてはじめて東坂とは圓教寺に上る参道であったことがわかった。
東坂参道の案内の傍には「紫雲堂跡展望広場」の案内もある。紫雲堂跡が有り難いのか、展望広場が有り難いのか、どちらに重点を置いた案内か不明だが、ともあれ東坂参道の案内に従い左折し山道に入る。

壱丁;11時41分
参道口の石碑を見遣りながら山道に入るとほどなく「壱丁」と刻まれた丁石が立つ。

■性空上人
ここからしばらく標石を辿りながらの登山であり、特段メモすることもない。漱石の『草枕』の有名な書き出し、「山に登りながら、こうかんがえた」ではないけれど、書写のお山に上りながら、性空上人と観音霊場巡礼のあれこれについてメモしようと思う。
メモするにあたっては、WEBで目にした『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題;舩田淳一(2012年度大会シンポジウム』、『書写山の一遍上人;竹村牧夫(東洋学論叢)』、松岡正剛氏のWEB書評である『千夜千冊』の法華経や大乗仏教に関するページなどを参考にさせてもらった。

秩父観音霊場縁起と性空上人
まずは、そもそもこの書写の山に来てみようと思ったきっかけとなった秩父札所縁起。そこに書写山圓教寺開山の性空上人が登場する;
縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。 また、「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめたと伝わる長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなどが登場する。

二丁;11時45分
数分で二丁標石。舟形地蔵も祀られる。

西国観音霊場縁起
上述秩父観音霊場縁起の元になったのは西国三十三観音霊場縁起。観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と伝わる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れ、曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。
冥途より蘇った上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印の意味合いだが、三十三箇所を廻ったことを証するもの。
今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇とされる。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。寛和2年(986)の頃と言う。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。
出家後、比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。霊夢により西国観音霊場巡礼を再興することになったとされる。ここには聖徳太子の墓所を護る石川寺の仏眼上人(熊野権現の化身とも称される)が中山寺の宝印を掘り出し先達として霊場を巡ったとか、『西国霊場縁起』には徳道上人の冥途・蘇生譚に続き、書写山の性空上人が法華経十万部の書写の導師として閻魔大王に召され、西国観音霊場巡礼を勧められ、聖徳太子開山の中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡ったとかいくつかのバリエーションがあるようだ。

三丁;11時49分
二丁と同じく舟形地蔵と三丁の標石

●冥途・蘇生譚と罪滅信仰
縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺(三井寺)の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後院政期天台宗寺門派の高僧、長谷上人とも称される園城寺(三井寺)の覚忠が応保元年〈1161〉那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。そして、この覚忠に関して、醍醐寺の『枝葉抄』には、「覚忠頓滅して閻魔王宮に参ず。炎王問いて云う。日本国中に生身観音三十三ヶ所これ有。知るや否や。。」といった記述がある。
ここに秩父霊場巡礼縁起、西国巡礼縁起といった「縁起」だけでなく、その元となった実際の巡礼の記録にも共通するプロットというかモチーフが浮かび上がってくる。冥途・蘇生譚、そして在滅信仰としての観音巡礼がそれである。冥途に行くも閻魔大王より地獄に墜ちる衆生を済度すべしと蘇り、現世での衆生の罪を滅すべく霊場を巡るという物語である(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題;舩田淳一(2012年度大会シンポジウム』より)。

宝池;11時51分
三丁標石から直ぐ、道脇に「宝池 日本一小さい池」とある。

法華持経者の冥途・蘇生譚と罪滅信仰
西国巡礼の先駆者とされる行尊・覚忠は共に天台宗寺門派の山岳修行者・法華持経者として知られる。覚忠の記録に冥途・蘇生譚と罪滅信仰としての観音巡礼が見られたが、これは覚忠に限ったことではなく、法華経持経者として山岳に修行する天台宗の行者の伝記集成である『法華霊験記(1043年頃)』には同様のモチーフが数多くみられるとする(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題』)。
天台宗は法華経を根本経典とし天台法華宗とも呼ばれるわけで、上述基本モチーフ、そして中でも興味関心のトピックである滅罪信仰としての観音霊場巡礼は法華経にその源を求めなければならないように思えてきた。

四丁;11時52分
四丁は標石だけ。

法華経と菩薩・菩薩行
法華経のことは何も知らない。今回メモするにあたり駆け足で法華経をスキミング&スキャニング。と、法華経は「人はだれも平等に成仏できる」とする。これが、自己の解脱を目指す小乗仏教と異なる大乗仏教の根本思想と言う。
が、その根本思想の実現はそれほど簡単ではない。そこで登場するのが「菩薩」であり、「菩薩行」というプロット。「法華経の第? 従地湧出品」には幾萬もの菩薩が地を割り現れ、「利他行」者として仏陀の教えである衆生済度をアシストすることになる。上述山岳で修行する法華持経者とは、自己の解脱修行者というだけではなく、仏陀の根本思想である利他行・菩薩行を実践するものであった、ということだろう。

五丁;11時54分
数体の舟地蔵の先に五丁標石。

法華持経者と観音菩薩
それでは菩薩行者としての法華持経者の冥途・蘇生そして罪滅信仰としての巡礼に、幾多の菩薩を差し置いて何故に観音菩薩が登場するのだろう。
法華経をスキミング&スキャニングする過程で観音巡礼の深い関係が見えて来た。観音信仰のもとになる観音教は28品(章?)からなる法華経の第25 「観世音菩薩普門品」とあり、法華経の中に含まれるものであった。
冥途で閻魔大王に会うというストーリーは、閻魔大王が衆生の現世での罪を秤にかけ、地獄に墜ちるか否かを審判する故のことであろうが、蘇生する所以は現世での菩薩行を重ね、地獄に墜ちる衆生を減じるべし。そのためには観音菩薩がベストプラクティスとする。
観音菩薩がチョイスされたのは当時の時代風潮も影響したのかもしれない。来世での往生もさることながら、現世利益も欲しいよね、といった要望に、基本は現世利益の菩薩である観音さまが最適であったのかもしれない。観音さまは、その字義の如く、離れた来世で衆生の発する音(苦悩?)を聞き、はるばるこの世(現世)に来たりて救いの手を差し伸べるという菩薩行を担ってくれるわけである。
「(三十三所を)一度参詣の輩は縦い十悪五逆を造ると雖も、速に消滅し永遠く悪趣を離れん」、とか「観音の霊地、その庭に一度も参詣を遂げる輩は、無量劫の罪消滅、現世安穏なれば後生又善所に生を遂げて。。(「三十三所巡礼縁起之文」)」に観音様の現世功徳の程が見て取れる(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題』)。
法華持経者が罪滅の菩薩行として観音菩薩を選んだのは自然の流れであったように思えてきた。なお、三十三箇所というのは、衆生済度のため、観音菩薩が三十三変化することに由来するとされる。

五丁古道;11時56分
大日如来の石像を越えた先に「五丁古道」の案内。整備された登山道を離れ木々に覆われた道に入る。1分ほど歩き、再び整備された登山道に戻る。

法華持経者としての性空上人
それでは何故に性空上人が西国観音巡礼縁起に登場したのか、ということだが、Wikipediaには、「性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。
980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった」とある。




六丁;11時59分
すぐに六丁休堂跡の石碑。傍に石仏も立つ。その先に六丁標石。

性空上人と観音巡礼縁起への登場
性空上人は高名な法華持教者であった。であれば法華持教者の菩薩行により誕生した冥途・蘇生、そして現世における滅罪信仰としての観音霊場巡礼に登場するのは何の違和感もない。
ただ、性空上人が実際に冥途・蘇生譚の当事者であったかどうかは別問題である。上述の如く、『西国霊場縁起』には「書写山の性空上人が法華経十万部の書写の導師として閻魔大王に召され、西国観音霊場巡礼を勧められ。。(1536)」といったくだりがあるが、これと似た話が13世紀の中頃編纂された『古今著聞集』に載る。曰く、性空上人があまりに熱心に法華経の写経をするため、地獄に堕ちる者が著しく減った。ために、もうこれ以上写経をするのをやめてほしいと閻魔大王の使者にお願いされた、って話である。が、これは北摂津一帯に広く伝わる清澄寺の尊恵上人の冥途・蘇生譚をその固有名詞を性空上人に置き換えただけとも言う(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題』より)。
そう言い出したら、観音巡礼をはじめたとされる徳道上人など7世紀とも8世紀ともいわれる頃の伝説の僧侶であり、観音巡礼に出たといった記録はないようで、11世紀から12世紀の頃、行尊や覚忠によりはじまり、室町期に盛んとなった三十三観音霊場巡礼の源を、時代をずっと遡らせるためだけに登場させているようにも思える。
また花山法皇もそうである。観音信仰・浄土信仰の聖地として知られる熊野は天台宗寺門派である園城寺(三井寺)の修験僧が奈良時代の後期、世俗的な寺から離れ開いたところである。修験道は平安時代に霊山で修行した法華持経者などを淵源としたわけで、「菩薩の勇猛精進深山に入りて仏道を思惟するを見る」とする法華経を依経とする天台宗と密接に関わって成立展開した。で、西国巡礼の先駆者とされる天台宗寺門派の山岳修行者行尊・覚忠に替え、観音信仰の有難みを出すべく、熊野信仰で知られる花山法皇をキャスティングしたように思える。
要は、この観音霊場の縁起で必要なのは冥途・蘇生譚、そして在滅信仰としての観音巡礼というストーリーであって、極端に言えば登場人物は誰でもいい。であれば、世にわかりやすい人物を適宜配置しておこう、といったところかもしれない。弘法大師伝説、行基伝説など高名な人物によくあるパターンである。
では世にわかりやすい人物として登場した性空上人って、どれほど高名であったのだろう。

七丁;12時
直ぐ七丁標石。

慕われる性空上人
上述Wikipediaの性空上人の説明には「花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた」とある。後述するが清少納言との関りも深い。上人存命中は叶わなかったが、後白河上皇、一遍上人なども上人を慕ってお山に登っている。後白河法皇の梁塵秘抄にも謡われている。御醍醐天皇は隠岐より帰京の途次御参詣している。また、平清盛、源頼朝をはじめ、武将の信仰も厚く、寺領を寄(よ)せ、諸堂を建立する。14世紀中頃の『徒然草』にもその名が出る。性空上人は高徳・高名な僧であったことはまぎれもない。
以下、上記登場人物と性空上人との関りを簡単にメモする。
〇花山法皇
花山法皇は寛和2年(986)と長保4年(1002)の二度、書写山を訪れている。性空と結縁ののち比叡山や熊野に参籠修行し、西国三十三所巡礼を、性空らとともに再興したとされるのは上述のとおり。

恵心僧都源信
『往生要集』の作者、浄土教の祖として知られる恵心僧都源信は、性空上人と密な交流を重ね、上人を尊敬し「此の聖ほめ申させ給へ」と言う。また、晩年に性空上人は源信を書写山に招き、所蔵の書物供養の後、源信帰途の途中で性空上人はむなしくなる。
〇慶滋保胤)(よししげのやすたね)
『日本往生極楽記』の作者として知られる寂心(俗名は、慶滋保胤。1002年寂)も書写山にしばしば上り、性空と親しく交わったと言う。
性空上人存命のころ上人と縁とあった清少納言は後述。

八丁;12時2分
八丁標石と続く。

慕われる性空上人
以下は性空上人没後に上人を慕い書写のお山に登った人物。

後白河法皇
後白河法皇は承安4年(1174)、厳島神社参詣の帰途、七日の間参籠し書写山の本尊である如意輪観音を拝んだとのこと。また後白河法皇は『梁塵秘抄』の選者としても知られるが、そこには、「聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる、書写の山、出雲の鰐渕や日の御崎、 南は熊野の那智とかや」と「聖の住所は何処何処ぞ、大峰・葛城・石の槌、箕面よ勝尾よ、播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮」といった今様2首が載る。法皇の上人を敬する気持ちの表れでもあろうか。

九丁;12時5分
八丁を越えると空が開け、里の遠望も。その先に九丁標石。

慕われる性空上人
一遍上人
一遍は弘安10年(1287)春、書写山に登った。一遍は性空を尊敬し、上人手彫りと伝わる圓教寺の本尊を拝みたいと住僧に願うが、「久修練行の常住僧のほか余人すべてこれを拝したてまつることなし」とし、余人では後白河法皇のみが拝んだだけと拒絶される。
と、一遍は次の四匂の偈と和歌一首を作る。
書写即是解脱山  書写は即ちこれ解脱の山
八葉妙法心蓮故  八葉妙法は心蓮の故に
性空即是涅槃聖  性空は即ちこれ涅槃の聖
六字宝号無生故  六字の宝号無生の故に
かきうつすやまはたかねの空に消えて ふでもおよばぬ月ぞすみける
これをみた住僧は「この聖の事は他に異なり、所望黙止しがたし」と述べ、一遍が本尊を拝むことを許した。
一遍は内陣に入り、本尊を拝んで落涙。曰く、「本尊等を拝したてまつり、落涙していで給けり。人みなおくゆかしくぞ思ひ侍りける。聖のたまひけるは、「上人(性空)の仏法修行の霊徳、ことばもをよびがたし。諸国遊行の思いでたゞ当山巡礼にあり」と。長い聖遊行の旅もこのお山にすべてあり、といったところだろうか。
一遍は、「一夜行法して、あくれば御山をいで給けるに、春の雪おもしろくふり侍りければ、 世にふればやがてきへゆくあはゆきの 身にしられたる春のそらかな』と詠んだと言う(『書写山の一遍上人;竹村牧夫(東洋学論叢)』)。

十丁;12時7分
九丁の辺りから山肌が岩場の趣き。十丁標石の辺りでは尾根筋が一面に岩場となる。

慕われる性空上人
『徒然草』
鎌倉時代末期、14世紀の前半に吉田兼好により書かれた『徒然草』にも上人が以下の如く描かれる;「書写の上人は、法華読誦の功積りて、六根浄にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるゝ豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるゝはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。
法華の教えを体現し、眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)でという煩悩の根源である六根を清浄した上人が、豆の殻で火を焚きぶつぶと音をたてて煮られる豆を見たときのエピソード;「まんざら知らない間柄でもない豆の殻よ、なんの恨みで私を煮て熱く辛い思いをさせるのだ」、と豆がぶつぶつと言うの対し、豆の殻も「好き好んでやってるるわけじゃない。火で焼かれる自分たちも耐え難いのだけど、どうすることもできないのだ」と言っているように聞こえた、と。
なんだか意味深いエピソードにも思えるのだが、凡俗のわが身に解釈すること能わず。六根清浄なるがゆえに豆と豆柄の話も上人には聞こえた、といった辺りでメモを止めておく。

十一丁石あたりから、あれこれメモすることが現れた。性空上人に関するメモはちょっと中断する。

十一丁;12時10分
上下に続く岩場を見遣り十一丁に。「砥石坂」の案内がある。説明はない。東坂参道のことを「砥石坂」と呼ぶ、また、7歳から10年間に渡りこの書写山で修行した弁慶が長刀を研いだ故に「砥石坂」といった記事がWEBにあった。
その先に「岩の中の小石」の案内。「足元の岩場の中に見える小石は火山の爆発で吹き飛ばされた流紋岩などの破片で、火山灰の中に閉じ込められ岩となったもの。このような火山性の岩を角礫凝灰岩と呼ぶ。風化によって閉じ込められた岩が表面に現れて現在の岩肌を見せる」といったことが書かれていた。
「今からおよそ1億年前の白亜紀にこの辺り一帯で大規模な火砕流が起き、書写山にはその火砕流でできた広峰層が分布する。スレートやチャートなどの基盤の岩石をレキとして多く含む溶結凝灰岩が主な岩層である」といった記事をWebで見かけた。ということは帯となって尾根を覆う岩場は溶結凝灰岩で、その中に見える小石が流紋岩や安山岩からなる角礫凝灰岩、ということであろうか。



紫雲堂分岐;12時13分
数分上ると木標。「ロープウエイ山頂駅0.2km 円教寺0.7km 」「紫雲堂跡展望広場を経て圓教寺へ」と言った案内がある。、紫雲堂が如何なるものか知らないが、取り敢えず紫雲堂跡へと登山道を右に折れる。






紫雲堂跡;12時15分
数分で開けたところに。地形図で見ると東に張り出た210m等高線に囲まれた平坦部となっている。南面だけが開け、東西は木々に覆われ見通しはそれほどよくない。
案内には「創建は不詳。東坂上ノ休堂として、参詣者の湯茶の接待所としても長く愛されてきたお堂であった。昭和30年代半ば老朽化したので、建物を取りたたんだ。
その建物は元和9年(1623)に再建されたものと伝えられる。その由来は、康保3年(966)御開山性空上人が九州背振山より東上の折、紫雲がたなびく「素盞の杣(すさのそま)」に稀にみる霊性を感じ、終生の道場として入山、寺を開基された。その紫色の雲がたなびいていたのがこのあたりと伝えられ、阿弥陀如来を安置し紫雲堂が建てられた」とあった。堂跡を示すのだろうか、円形の造作物が置かれていた。
●素盞ノ杣
素盞ノ杣は元々、素盞嗚命が山頂に降り立ち、一夜の宿としたとの故事に拠る。往昔よりこの地には「素戔嗚命」の祠が祀られていたとも。圓教寺の山号の由来はこの「素盞(すさ)」からとの説もある。書写山一帯は昔、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、その「曽左(そさ)」も素盞(すさ)を由来とする、と。
『西国霊場縁起』に「書写山の性空上人が法華経十万部の書写の導師として閻魔大王に召され」といったように、性空上人のエピソードに、法華経の書写があちらこちらで登場する。書写の由来は、てっきりこの法華教書写からと思っていたのだが。。。
ちなみに寺号である、「圓教寺」の「圓」は円の形(園輪)は欠けたところがない境地、諸仏・諸法の一切の功徳を欠けることなく具足した「圓輪具足」であり、サンスクリットの曼陀羅の意。最高の悟りの境地を教える寺、といった意味だろうか。

十二丁;12時17分
紫雲堂跡を離れ、道脇に立つ石仏を見遣りながら進むと十二丁の標石が立つ。

性空上人はなぜ世に知られたのだろう
再び標石だけでスペースが空いたので、性空上人に関わるメモ再開。

性空上人を慕って多くの人がお山を登ったのは前述のとおり。あれこれの奇瑞譚、観音霊場開山縁起の冥途・蘇生譚、善光寺には渡唐譚もあるというが、それはすべて高徳・高名の僧となってからのこと。それでは世に名を知られるようになったのきかっけは?
何となくではあるが書写の山に登るころには、既に世に知られるようになっているように思える。とすれは、上人が世に知られるようになったのは、それ以前、どの解説にも、さらっと書かれている「霧島・背振山での修行」の時期のように思える。
「大日本国法華経験記」には性空上人の修行の様子を伝えるが、「人跡途絶えた深山幽谷に住み、暮らしぶりは日々の糧を求めることもなく、ひたすらに行を積む」とある。ひとり山に籠っての法華持教者の修行がその名を世に知らしめることになるとは思えない?

あれこれチェックすると、霧島では霧島六所権現を核とした霧島山信仰を創り上げたとされる。霧島山を天台の山として、観音霊山の骨格をつくりあげた、ともいう。
また、背振山に至っては、そこは深山幽谷での修験といったイメージとは異なり、8世紀開基の大寺院での修行であった。比叡山・高野山・英彦山と並び称される山岳仏教の聖地であった。『背振千坊・嶽万坊(たけまんぼう)』と称された大寺には伝教・弘法・慈覚・智証の諸大師や栄西といった数々の名僧智識が入山修行している。その大寺で性空は天暦元年(947)から康保3年(966)までの19年修行し、多くの堂坊を再建し法華経読誦に励み、お山を霧島山と共に一大山岳修行の霊山となしたようである。
深山にひとり籠っての修行三昧といったイメージとはまるで異なる上人像が現れてきた。であれば背振山を後にし、書写のお山に登ったときに上人の名が都まで届いていたというのは納得できる。

十三丁;12時20分
コンクリートで固められたステップを進むとロープウエイの山上駅。その道脇に十三丁の標石。

再び秩父観音巡礼縁起に戻る
秩父観音霊場開基縁起で登場した性空上人。あれこれ疑問があったのだが、テーマがややこしそうで、ずっと寝かせておいたのだが、圓教寺へと上りながらメモをまとめた。ついでのことでもあるので、秩父観音霊場を歩いたときにメモしたことをコピー&ペーストする。上記メモを踏まえて読むと、なんとなく以前とは違った風景がみえてきた;
「(秩父観音霊場は」修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず」と。
当たらずとも遠からずといった秩父巡礼散歩時のメモではあるが、今回の上述メモで、その行間を埋めることが少しできたようにも思える。
「寝た子を起こした」ためちょっと頭の整理が大変だったが、それなりのリターンを得たようにも思える。

和泉式部の案内;12時23分
先に進むと入山ゲート(志納所)。拝観料を払い入山。ゲートの辺りには「書写山と和泉式部」と題された案内に続いて、10枚の絵巻を切り取ったようなパネルに和泉式部の人となりが書かれていた。
「書写山と和泉式部」の案内には、西の叡山と呼ばれた書写山圓教寺の説明、性空上人の開山縁起、和泉式部と性空上人との関りが書かれる;「1.西の叡山と呼ばれて 書写山圓教寺は平安中期、西暦966年に性空上人が開いた天台宗の寺。この時期は平安女流文学が花開いた時期でもある。人々は当時の大寺を数え上げ、長谷山、石山、比叡山、書写の山と歌った。以来千年、圓教寺は西の比叡山と呼ばれ現在に法灯を伝える。上人は敏達天皇の末、橘姓
2.白雲に導かれて書写山へ 上人は幼いころから仏心篤く、出家して九州の霧島山で法華経による修行を重ね、新しい霊地を求めて旅に出る。白雲に導かれ播磨に至り、書写山に紫の瑞雲が漂うのを見て、この地に庵を結び、「六根清浄」の悟りを開き、崖の桜の木に観音像を刻み礼拝の日々となす。
3.恩賜の寺号と和泉式部の名歌がシンボル 上人が悟った報せは、直ちに京に届き、花山法皇は書写山に行幸し、大講堂を寄進し「圓教寺」の寺号を賜る。さらに上人のすすめで西国三十三観音巡礼を中興する。
一方、和泉式部は平安女流歌人の第一人者として 「冥(くら)きより 冥きみちにぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月」の名歌を上人に献じる。恩賜の寺号と和泉式部の絶唱の名歌は圓教寺の象徴となっている」といったことが書いてあった。

十七丁:12時40分
ふたつに分かれる道の分岐点に慈悲の鐘。「こころの鐘」と読むようだ。比較的新しいよう。平成4年(1992)建立とのこと。和泉式部の絵巻風パネルの近くにあった「和泉式部歌塚案内図」にあった境内の地図に拠れば、左に折れると円教寺会館、妙光院、そして西坂参道へと進むよう。右に折れ、仁王門への参道へと歩を進める。
参道に「西国三十三観音道」の案内。「摩尼殿(本堂)まで約15分。摩尼殿から諸堂まで6分。文化財諸堂から奥の院・和泉式部歌塚まで2分」とある。参道に立つ銅製の西国三十三観音像を見やりながら進む。
十九番行願寺の千手観音立像を超えた辺りで右手が開け、展望台。播磨の里を見る。
先に進むと道脇に十七丁の標石が立つ。十四丁から十六丁の標石もあったのだろうか。

仁王門;12時42分
十七丁標石から数分で仁王門。「圓教寺の正門。東坂の終点にあたり、これより中は聖域とされる。
門は、両側に仁王像を安置し、中央が通路となっており、日本の伝統的な門の形を受け継いだ「三間一戸の八脚門」である。天井には前後に二つの棟をつくり、外の屋根と合わせて「三つ棟造り」となっている」との案内がある。
ここから境内にはいっていくのだが、「寝た子を起こした」ためのメモがちょっと長くなってしまった。取り敢えずここでメモは中断。仁王門から先のメモは次回に回す。

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