2019年3月アーカイブ

弥谷寺を打ち終え次の札所七十二番 曼陀羅寺へと向かう。曼陀羅寺への旧遍路道は二つある。ひとつは弥谷寺から南西に直接曼荼羅寺を目指す道。もう一つは一旦曼荼羅寺と真逆の方向、瀬戸の海に面した空海生誕の地に建つ海岸寺にお参りし、そこから曼荼羅寺へと折り返す道である。
直接曼荼羅寺を目指すルートは、弥谷寺仁王門前の石段右手に立つ茂兵衛道標から右に折れ、おおよそ3キロ強の曼荼羅道を歩く。海岸寺経由の遍路道は、弥谷寺護摩堂から本堂の逆方向、天霧山への尾根道を進み、弥谷山と天霧山の間の鞍部から山道を里に下り、予讃線海岸寺駅近くにある海岸寺へと北に向かう。その距離おおよそ5キロほど。そこから5キロほど南へと折り返し曼荼羅寺を目指す道である。
曼荼羅道は弥谷山西麓の土径を進むもの。海岸寺道は荒れているではあろう山道を下るもの。どちらにも惹かれる。ということで、曼荼羅寺への遍路道はふたつともカバーすることにした。最初は海岸寺道経由、次いで曼荼羅道を辿り曼荼羅寺への遍路道をメモする。

本日のルート;
海岸寺を経由して曼荼羅寺へ向かう遍路道
弥谷寺護摩堂を左に>48番西林寺の石仏>52番太山寺の石仏>泰山寺の石仏>番道の合流点に石仏2基>白方遍路道分岐点>(天霧城跡へ)>犬返し・犬走り道分岐点>犬走り道から二の丸跡に>天霧城跡>犬返しの険>白方遍路道への分岐点に戻る>岩屋霊場>砂防ダム>車道に出る>虚空蔵寺>畠の中に標石>観音堂川傍分岐点の標石>民家脇の標石>白方小学校傍の標石>県道21号合流点手前に2基の標石>海岸寺>海岸寺奥の院>県道21号右角の標石>仏母院>熊手八幡宮>JR予讃線踏切>遍路道はふたつに分かれる>東西神社参道口に標石>県道48号の茂兵衛道標>曼陀羅寺手前の茂兵衛道標>曼陀羅寺


海岸寺を経由して曼荼羅寺へ向かう遍路道

弥谷寺から海岸寺へ

弥谷寺護摩堂を左に:9時38分 
海岸寺経由の道は弥谷寺の護摩堂から本堂とは逆、天霧山への尾根道を進むことになる。護摩堂前の標石には正面に「七十一番当寺本堂道 明治四十三年」といった文字が刻まれ、その右側面には「海岸寺道」と刻まれる。また、「天霧城跡」と書かれた木の標識も立つ。案内に従い護摩堂を右に折れる。



四十八番札所西林寺の本尊石仏;9時40分
簡易コンクリートの道を進むとすぐに「天霧城跡へ 白方へ(へんろみち)」と書かれた標識が立つ。白方は明治23年)1890年の町村制施行時に西白方、東白方、奥白方村が合併してできた、かつての多度郡白方村のこと。海岸寺のある旧地名。現在海岸寺のある辺りは那珂郡と合併し仲多度郡多度津町西白方となっている。
そのすぐ先、道の右手に石仏が立つ。台座に「四拾八番 西林寺」と刻まれる。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもった姿。本尊の十一面観音だろう。松山市の札所。
多度郡・那珂郡
多度郡も那珂郡、古代律令制度下の郡名。地名の由来もすぐわかるかと思ったのだが、当該行政域にその説明は見当たらない。あれこれチェックすると、多度の「度」は得度からとの記事もあった。官の得度を得た僧、私度僧(官許を得ないで得度した僧尼;沙弥・優婆夷・優婆塞)、自度僧(師につくことなく自ら剃髪・出家)など、多くの僧尼の住まう郡、ということだろうか。
また、那珂は全国各地にある地名。海部族に関わる地名のことのよう。「なか」の「な」は「灘」の「な>海、海岸線」、「か」は格助詞「の」の連体修飾語、「学校の友達」の「の」の意とも言う。「なか」は「海の(ある)郡」といった由来だろうか。単なる妄想ではある。

第五十二番 太山寺の本尊石仏;9時45分
簡易舗装も切れ、土径の尾根道となった遍路道を5分ほど進むと左手に石仏。「第五拾二番太山寺」と台座にある。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもった姿は前述西林寺に同じ。本尊十一面観音かと。松山市の札所。

五十六番札所 泰山寺の本尊石仏:9時50分
更に遍路道を10分ほど歩くと、道の左手の木立の中に石仏が立つ。台座には「第五拾六番 泰山寺」と刻まれる。右手に錫杖、左手に如意宝珠をもつ本尊地蔵菩薩像だろう。今治市の札所。





 道の合流点に石仏2基;9時52分
その先、右手から道が合わさる。地図に天霧山南麓からの道が描かれる。その道だろう。合流箇所の角に石仏が2基並ぶ。その内、大きめの舟形地蔵の下部には手印が刻まれ道標ともなっている。

この先遍路道に四国霊場の本尊石仏は見当たらない。五十六番札所で切れるのも、ちょっと中途半端。見つけられなかったのだろうか。
それにしても弥谷寺の石仏の並びはどのようになっているのだろう。先回の散歩で仁王門手前、弥谷寺入り口ともいえるところに第二十九番札所国分寺の本尊・千手観音、十二番札所焼山寺の舟形地蔵(右手に宝剣、左手に宝珠をもつ本尊の虚空蔵菩薩とはお姿が異なる)が置かれていた。場所柄、とってつけた、というか唐突な印象を受けた。元々はどのような配置で石造が並んでいたのだろう。

白方(海岸寺)遍路道分岐点:9時59分
10分弱歩くと道の左手に2基の石仏。大日如来、釈迦像と刻まれる。大日如来は宝冠をかぶり智拳印(左手をこぶしで握り立てた人差し指を右手で握る)を結ぶ。右手は仏、左手は衆生。煩悩の衆生を包み込むということか。通常、如来は装身具を身に着けない薄衣だけの姿であるが、大日如来は王者の如く宝冠などの装飾を見に纏う。釈迦如来は見慣れたお釈迦さまの姿。
2基の石仏の先に「白方へ へんろみち」左の木標と、「天霧城本丸」への木標が立つ。弥谷寺に来るまでは天霧城のことは何も知らなかったのだが、寺入り口の案内にあった「国指定史跡」の文字に惹かれ、ちょっと立ち寄ることに。

犬返し・犬走り道分岐点;10時14分
遍路道分岐点に立つ舟形地蔵にお参りし、尾根道を進む。5分ほど歩くと隠砦跡の標識。城への道を土塁で隠している、といった記事もあるが、門外漢には土塁と自然地形の区別がつくわけもなく、先に進む。
それから更に5分、犬返し・犬走り道分岐点に。右手の上りが犬返し道、左手の尾根を巻く道が犬走り道。犬も通りたくないような険路は勘弁と、迷うことなく犬走り道を選ぶ。犬走り道は「空堀/古井戸」と続くとの案内もあった。

犬走り道から二の丸跡に這い上がる;10時25分
始めはよかったのだが、犬走り道は次第に踏み跡も消えてゆく。犬走り道には「井戸」にも出合えるとの案内もあり、すこし我慢し道なき道を進んだのだが、踏み跡が全く消えてしまった。峠越えは萌えるも、古城にそれほど萌えるわけでもないため、これ以上は勘弁と犬走り道を離れ尾根道に這い上がることにする。
GPSを頼りに結な構傾斜を30mほど尾根に向かって這い上がる。とそこ天霧城二の丸跡とあった。もう少々犬走り道を我慢すれば古井戸があり、そこから本丸に上れるようであった。

天霧城跡
弥谷寺入り口にあった天霧城跡の縄張り図の写真で位置を確認。二の丸の西にある本丸跡に一旦戻り、そこから二の丸の東にある三の丸、空堀、方形郭と進み、北東端の方形郭に。
北東端の方形郭の標識には「東西神社へは降りることができません」と書かれている。天霧山の南麓が採石場として山肌が大きく削られている。それが通行止めの因だろうか。
途中空堀への案内はあるのだが、いかにも空堀跡といった崖と平坦部コントラストを感じるところに肝心の空堀の標識は無く、ちょっと戸惑ったりはしたが一応天霧城跡をカバー。遺構らしき遺構を見分ける力があるわけでもなく、城跡からの遠景を楽しみ遍路道分岐点に下り返す。
天霧城
弥谷寺入口にあった案内を掲載する;
「国指定史跡 天霧城は、山の地形などを利用した天然の要塞(砦)を造り出した山城です。古代から鎌倉時代にかけて造られた城はそのほとんどが山城で、柵をめぐらし、要所に門や櫓(やぐら)を設ける程度の簡単なものでした。室町時代に入り戦乱が長期化するようになり、戦闘の規模が大きくなると城郭の規模も次第に大きくなっていきました。中世の城郭は有事に対しての構えを持った在地の武将の居館跡等も含めると、その数は香川県下だけでも四百ヶ所近くが確認されています。その中で天霧城跡はその自然地形を巧みに利用した規模の雄大さといい、実践的な確かな縄張り(構造形式)といい、いかにも要害堅固であり、陸海との方向の動向にも十分に対応ができるという、地理的な好条件も備えた四国屈指の山城といえます。
香川氏は、相模国香川荘出身の鎌倉権五郎の末裔といわれており、14世紀後半に讃岐の守護細川氏に従って入部しました。そして、西讃岐の要衝である多度津・本台山(現在の桃陵公園付近)に常の居館を構えました。
その後、西讃岐守護代の地位を得た香川氏が、有事に備えた詰めの城が天霧城です。本台山から天霧城までは直線で3km程、また、中世山城の基本的構造である『守るに易く攻めるに難い』という理想的な山城でした。
香川氏が天霧城を築城した天霧山は、善通寺市・三豊市・多度津町と境を接し、瀬戸内海に臨む弥谷山系の北東部に一段高まる山塊です。弥谷山(標高382m)から天霧山(381m)にかけての山頂部には、数か所に高まりがあります。また、山の周囲は急崖急坂の斜面で、全山が自然の要害地形を形成しています。
天霧城跡の縄張り造作の形式は、戦国時代末期頃(16世紀後半頃)に該当しますが、東方尾根の調査では、出土遺物等から15~16世紀に築造されていたことが判明しています。これは短期(一時期)の築造ではなく、必要に応じて徐々に拡張・増強されたことを示しています」。

この城は土佐の長曾我部氏の四国制覇の折に降伏し臣下の礼をとる。その後秀吉の四国攻めの折には城を棄て長曾我部氏のもとに逃げ廃城となったようである。 なお、この城は大化の改新の時、東讃の屋島軍団(牟礼軍団)、中讃の城山軍団(阿野軍団)とともに、西讃の多度郡三井郷に天霧軍団(白方軍団)が置かれたとき、その居城をこの城に求めたとも言われるが、定かではない。

犬返しの険;10時52分 
往路は結構急な斜面を下る。虎ロープが延々とはられる。犬返しの険と称される所以である。「犬返しの険」の木標の少し先で犬走り・犬返し分岐点に戻る。
尾根道を隠砦へと向かう途中、送電線鉄塔のある辺りから天霧山から瀬戸の海の遠景を楽しみ遍路道分岐点に戻る。





白方遍路道への分岐点に戻る;11時18分
十一面観音(三十三番谷汲山華厳寺
天霧山と遍路道の分岐点に戻る。分岐点から遍路道を下りはじめる道の右手に石仏が立つ。「三十三番 谷汲山」とある。西国三十三観音霊場三十三番谷汲山華厳寺の本尊十一面観音である。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもつ。







遍路道に立つ西国観音霊場の本尊石仏
聖観音(三十一番姨綺耶山 長命寺)
千手観音(二十番西山善峯寺)
遍路道を下ると路傍に石仏が立つ。縁者の供養の石仏、中には石祠に祀られるものもあるが、西国三十三観音霊場の本尊石仏が並ぶ。出だしは三十二番繖山観音正寺の本尊千手観音、三十一番姨綺耶山 長命寺の本尊聖観音と続く、すべて揃っているわけではないが結構揃っている。
実のところ、遍路分岐点にあった三十三番も含め、遍路道に並ぶ番号付きの石仏は里に下るまで四国霊場の札所と思い込んでいた。これが西国三十三観音霊場の本尊石仏では?と思ったのは、山道を下り切った里の虚空蔵寺にあった石仏に「一番 那智山」とあったため。
馬頭観音(二十九番青葉山 松尾寺)
さすがに那智山といえば青岸渡寺でしょう、それならいままでの石仏も四国霊場ではなく西国三十三観音霊場ではと思い直し、ピストン往路では注意しながら石仏をみるとすべて観音さまであり、観音霊場のお寺さまであった。ピストン往復ならではの「成果」ではある。
観音菩薩
Wikipediaをもとに簡単にまとめる;観音菩薩は大慈大悲を本誓とする菩薩。ために、あまねく衆生を救済すべくさまざまな姿に変えて現れる。基本となる一面二臂(ひとつの顔とふたつの腕)からなる聖観音(しょうかんのん)のほか、千手観音、十一面観音など、変化観音と呼ばれる様々な形で現れる。あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂(多くの顔と多くの腕)の超人間的な姿に表されたわけである。
六観音
真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっている。
なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされているが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像や葛井寺の乾漆千手観音坐像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表す像が多い。
この山道に並ぶ観音像には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音があった。准胝観音(十一番深雪山醍醐寺の本尊)もあったように思う(?)のだが、写真を撮り忘れた。

岩屋霊場;11時44分
西国観音霊場の本尊石仏に一礼しながら遍路道を下る。途中少々わかりにくい箇所もあるが、木に張られた赤いリボンを目安に30分ほど下りると岩壁前にお堂が建つ。お堂前には西国観音霊場十五番 新那智山観音寺の本尊である十一面観音の石仏。 石段を上りお堂に。お堂の左に「天霧八王山奥之院 本尊薬師如来」、右には「弘法大師御修行之御遺跡 涅槃岩屋霊場 愛染明王、弘法大師之尊像安置」と書かれた木札があった。
「天霧八王山奥之院」とは、これから下る里にある虚空蔵寺の奥の院とのこと。お堂内部の石窟は幅・高さは4m、奥行き2m弱といったものであった。ここで空海が修行した、とのである。

砂防ダム:11時59分
不空羂索観音(九番興福寺)
荒れた沢筋の遍路道を下る。途中沢に架けられた簡易橋(11時55分)で沢の右岸に渡りそこから数分歩くと道の右手に西国観音霊場九番 興福寺の本尊である不空羂索観音が立つ。その辺りになると空も開け、里が近づいた実感。大きな砂防ダム脇にでる。

不空羂索観音
Wikipediaには、「「不空」とは「むなしからず」、「羂索」は鳥獣等を捕らえる縄のこと。従って、不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」を意味する」とある。

車道に出る;12時5分
砂防ダム脇の急な階段を下りる。砂防ダムから数分、道の右手に西国観音霊場四番 槇尾山 施福寺の本尊千手観音(12時4分)、その先に車道が見える、車道の沢に架かる橋袂に西国観音霊場三番 風猛山 粉河寺の本尊千手観音石仏が立つ。 尾根道の遍路道分岐点からおおよそ50分で里に下りてきた。

西国観音霊場二番 紀三井寺 護国院の本尊十一面観音石仏;12時5分 
車道を下ると道の右手に西国観音霊場二番 紀三井寺 護国院の本尊十一面観音石仏。遍路道を下りはじめた頃は特段意識することなく、何気なく写真を撮っていたのだが、霊場番号が少なくなるにつれ、この西国観音霊場石仏は、里のどこからはじまるのだろうとの好奇心から、結構真剣に追っかけることになった。 ここが二番ということはすぐ先にある虚空蔵寺から始まるのでは、との予感。
天霧城の案内
石仏対面には天霧城跡案内。おおよそは前掲の弥谷入り口にあった説明と同じだが、最後に「多度津町奥白方から天霧城に登るルートは、古くから弥谷寺への巡礼ルートとなっており、また海岸寺を起点とする七ヶ所まいりのルートとも重なっています。道道には三十三観音霊場としての石仏が並ぶなどの信仰の道としても現在も利用されています」と付け加えられていた。
七ヶ所まいり
Wikipediaには「七ヶ所まいり(しちかしょまいり・ななかしょまいり)とは、四国八十八箇所霊場のうち、香川県にある第71番札所弥谷寺から第77番道隆寺までを遍路する参拝方法の総称。江戸時代後期の寛政12年(1800年)に書かれた『四国八十八番寺社名勝』には「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあり、古来1日で巡礼できる遍路として利用されていたことが窺える。
また、71番より遍路を始める風習は、弥谷寺ふもとの多度津湾が金刀比羅宮に参拝するための海の玄関口として栄えていたこと。1770年以降より旅籠屋で配られた道中案内記によれば、善通寺(私注;第75番)を誕生の地、弥谷寺を入学の地、海岸寺を産湯の地として金比羅山とあわせて紹介しており、四国八十八箇所遍路の大衆化以前より、弘法大師ゆかりの三箇所と金比羅山の参詣がすでに一般化していたことなどが理由とされている。
「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあるように、足弱きが故に四国八十八箇所を巡ることができない人も、この七ヶ所、七里を巡ることにより四国遍路巡礼と同じ功徳を得ることができる、ということだろう。なお、Wikipediaに産湯の地海岸寺とあることから、この七か所まいりは、今から訪れる海岸寺から始めるように思える。

虚空蔵寺;12時7分
道なりに虚空蔵寺の裏側から境内に入る。境内には石仏、石塔が多い。お寺様はお堂といった風情。弘法大師開基とのこと。本尊も大師の守本尊とされる虚空蔵菩薩とのことである。
虚空蔵菩薩
「虚空蔵」はアーカーシャガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(Wikipedia)。

空海が弥谷寺の大師堂獅子窟で虚空求聞持法を修したとあった。室戸岬の洞窟・御厨人窟に籠り虚空求聞持法を修したとは知られる話ではあるが、あちらこちらに同様のお話が伝わる。
西国観音霊場一番那智山青岸渡寺の本尊如意輪観音
如意輪観音(一番 青岸渡寺)
境内で西国観音霊場の一番那智山青岸渡寺の本尊如意輪観音の石仏を探す。お堂の前、水場の近くの緑に隠れ気味の本尊石仏があった。
如意輪観音
Wikipediaには、「如意輪観音は基本、座像または半跏。片膝を立てる六臂が多いが、これとはまったく像容の異なる二臂の半跏像もある。手には尊名の由来である如意宝珠と法輪をもつ」とあるが、この石仏は方膝を立てた二臂の座像。手には如意宝珠と法輪をもっていた。遍路道にあった西国観音霊場の本尊石仏は確かにこの虚空蔵寺からスタートしていた。




境内の標石
境内を表口に進む左手に標石があり、「従是 弥谷寺** 屏風白方海岸寺十四丁 文化六巳**」と刻まれた標石がある。小石を固めたような礫岩の標石はあまり見たことがない。
また、表参道口の右手、車道のガードレール脇に「是ヨリ十八丁 右彌谷寺道 左山道」と刻まれた標石が立つ。







畠の中に標石
車道を進む。ブドウ棚が目につく。少し里に下りたところ、道の右手の畠の中に標石が立つ。虚空蔵寺で見た礫岩の小石を固めたもの。風化が激しい。「左屏風浦白方**道 右彌谷寺道」と刻まれるようだ。






観音堂川傍の標石
道を進み観音堂川の右岸に出る。観音堂川は山道を下ってきた遍路道谷筋の沢からの流れである。その左岸から来る道に架かる橋を左に見やり、少し進むと道は二つに分かれる。その分岐点に標石が立つ。「左屏風浦白方海岸寺奥院・たと津・丸可め 道」と刻まれる。






民家脇の標石
標石の指示に従い左手の道を観音堂川に沿って進む。ほどなく道の左手、民家脇の細路角に標石が立つ。「右たとつ 丸かめ道 左屏風浦白方海岸寺」と刻まれる。
この標石、よく見ると「右」と「屏風浦白方海岸寺」の部分が硯彫りとなって窪んでいる。伊予の札所散歩の折、同名であった円明寺という寺名での混乱を避けるため、延命寺と改名した寺名を硯彫りで刻み直していたが、「右」と書き直す前は「左」と言うことになる。とすれば元の場所は道の反対側、その場合、「左」方向は「弥谷寺」と書かれていたのであれば辻褄が合うのだが、はてさて。

白方小学校傍の標石
民家の間の細路を進むと小丘に上ることになる。坂道を上り切り、白方小学校前の車道に出る合流点手前に標石が立つ。手印と共に「屏風浦道 いやたに道」と刻まれる。








県道21号合流点手前に2基の標石
白方小学校の西側の坂道を下ると道は予讃線海岸寺駅に当たる。往昔の道は先に続いていたのだろうが、現在は駅と線路に阻まれ迂回することに。
駅の西の踏切を渡り、一旦駅前まで戻り、一応道をつなぎ県道21号へと進む。県道合流点手前の左右に標石が立つ。
右側の標石には「屏風ケ浦 左屏風ケ浦 右まんたら寺道」、左側は「弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁 昭和十二年春」と刻まれる。道を渡ると前に海岸寺がある。





海岸寺

正面に二王堂。常の金剛力士ではなくここには地元出身の相撲の力士が左右に立つ。元大関琴ケ濱と元関脇大豪の等身大の彫刻である。
案内を簡単にまとめると、「二王門(二力士門) 正式には金剛力士といい、仁王という。正し、昔朝鮮に王(ワン)という兄弟があり、佛門の警護に当たったことに因み二王とも。当寺はその故事による。
貧寺として後世に残る像を造る資力なく、郷土出身の力士の顕彰を兼ねて造立。地元の彫刻家の手による」とある。

境内に入ると本堂。真言宗醍醐派。納経山迦毘羅衛院(かびらえいん)海岸寺と称す。寺伝によればこの地は空海の母である玉依御前の出身地であり、空海はこの寺の奥の院のある地で生まれたとも言う。奈良時代後期、宝亀5年(774)のことである。
迦毘羅城はネパールで生まれた釈尊の地。当寺の院号を迦毘羅衛院(かびらえいん)とするのは、釈尊と対比しての日本の聖地・空海誕生の寺ということを示すのだろう。
大同2年(807)大師34歳のとき弥勒菩薩を刻み堂宇に祀ったのが当寺の開創とされ、往時七堂伽藍を建立し四十九坊を数える大寺であったそうだが、現在は境内には鐘楼と一つの堂宇が残るだけ。境内裏手は海岸に続く公園となっていた。道脇に十三佛が並ぶ。
十三佛
十三佛とは、先日弥谷寺でみた十王堂に祀られる十王、地獄において亡者の審判をおこなう十尊をもとに、江戸時代に日本でつくられた十三の仏。
十王は平安末期、末法思想と共に深く日本に浸透し、初七日、四十九日といった十の節目に、地獄に送るか否かといった審判を行う閻魔王を代表とする十の諸王であるが、鎌倉時代となって十王それぞれに本地としての仏と相対させるようになった。それが十三佛である。
閻魔王の本地仏は地蔵菩薩。閻魔王以外はそれほど知名度がないため省略する。




海岸寺奥の院

大師生誕の産屋旧跡は海岸寺奥のにある。海岸寺から県道を少し西に戻り、予讃線を渡ったところ。森の上に奥の院の二重塔が見える。田舎帰省の折、車窓から見える印象的な塔として記憶に残るが、奥の院の大塔・多宝塔であっ。 鐘楼を兼ねた山門を潜り境内に。山門は仁王様ではなく四天王が護る。
山門前に標石
山門前に手印と共に、「タドツ十八丁 右弥谷寺三十丁 明治二十四年」と刻まれた標石がある。










産井
境内右手、赤く塗られた覆屋は大師誕生のときの「産井(井戸)」。産湯に使う水を汲んだ、と。
湯手掛の松
産井の対面の、これも赤く塗られた覆屋は湯手掛の松。産婆が手拭を掛けた松、とか。今は枯れて切株だけとなっている。
産屋も湯手掛の松も平安末期に大師信仰故に造られた、とも。


大師堂
境内正面に大師堂。大師童形の像が祀られる、と。
大塔
薬師如来の祀られる大塔。これが帰省の旅に車窓から眺めていた二重の塔。








文殊堂
納経山に造られたミニ四国霊場の石仏を見遣りながら丘を上ると文殊堂。瀬戸の眺めを楽しむ。
烏瑟沙摩(うすさま)堂
ミニ四国霊場を上り切ったところに烏瑟沙摩堂がある。烏瑟沙摩明王を祀る。 Wikipediaによれば、烏瑟沙摩明王とは「人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊(中略)心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。」とある。
「不浄を浄化するとして、密教や禅宗等の寺院では便所に祀られることが多い」ともあった。

これで弥谷寺から海岸寺までのメモは終了。ここから第七十二番札所曼陀羅寺に折り返す。




海岸寺から曼陀羅寺へ

遍路道を曼陀羅寺へと向かう前に、近くにあるもうひとつの大師ゆかりの寺を訪ねる。仏母院がそれである。
海岸寺二王門前、弥谷寺からの遍路道が県道21号にあわさる箇所にあった標石、「弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁 昭和十二年春」に従い、大師の母の生まれた地に建つ仏母院に向かう。

県道21号右の標石
県道を東に進み、広田川を渡ってしばらく歩くと県道右手に標石2基が立つ。大きく平たい石の前には仏母院の看板が立ち少し見づらいが、「弘法大師御えな塚 南一丁 御母公旧跡 仏母院」、脇の角柱の標石には「弘法大師御母公旧跡 屏風ヶ浦 仏母院」と刻まれる。
標石に向かって西の広田川方面から道が続く。県道整備以前の遍路道は県道21号の南を進むこの径であったかもしれない。県道を右に折れ仏母院に進む。



仏母院
2014年(Google street view)
2019年現在
南に少し進むと仏母院。道の左手が本堂、右手は比較的新しい建物が立っている。御母公堂・位牌堂とある。Google Street View(2014年)にはお堂が写っている。それがもとの御母公堂だろう。?16年老朽化のために建て替えられたようだ。建物正面に「御母公 不動明王 弘法大師」とある。元の御母公堂に祀られていた尊像名が昔の名残を留めるのみ。

本堂
山門を潜り、道の左手の本堂境内に。真言醍醐派。「八幡山仏母(ぶつも)院三角(みすみ)寺と称す。こじんまりとした本堂。玉依御前がこの地の産土神熊手八幡宮の八幡神に祈りここで空海を出産したと伝わる。
唐から帰国した空海が寺院を整備し三角寺と名付けた、と。熊手八幡宮の別当寺院となり山号を八幡山とした。
戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)に戦乱により荒廃したが、その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も大善坊と称したが、江戸時代前期の寛永15年(1638年)嵯峨御所より「仏母院」の院号を下賜され、寺院名が大善坊から仏母院に改められた。

「仏母院」は、仏とも仰がれる大師の母公の御屋敷の地であったことから、一切仏を生み出す胎蔵界曼陀羅仏母院(遍智印)よりのアナロジーにより「仏母院」、三角寺は、胎蔵界曼陀羅仏母院の中央にあり、すべての如来の知恵を象徴する燃え盛る三角の印(三角智印)に由来するようだ。
虚空蔵のお堂
山門の左手に虚空蔵のお堂。大善坊の祈願仏であった虚空蔵菩薩を現在荒魂神社のある八幡山(仏母院のすぐ東の山)の御堂より昭和2年(1927)に移した、と。修験者大善坊は大師が虚空蔵持聞法を修したと伝わる八幡山の御堂で修行の日々であった、とか。



御住(みすみ)屋敷跡
本堂の道を隔てた逆側は、御母公堂・位牌堂から北の駐車場を底辺とした三角形となっており、三角(みすみ)地と称する。三角寺、大師母公の御住(みすみ)と、「みすみ」で揃える。三角の地形故か、御住の故か、はたまた曼陀羅由来の三角寺名の故か、なんらかの強い「意図」を感じる。
大師産湯の井
三角地の北端、駐車場の道端に大師産湯の井。覆屋で囲まれるが少々殺風景。
施入八幡銘石碑
駐車場と御母公堂・位牌堂の境、道に平行に3基の石塔が並ぶ。「施入」とは寺社に物や財を奉納すること。八幡様に奉納するということだろうから、八幡神社の別当寺当時の名残を示すものかと思う。


甑(こしき)灯籠
施入八幡名石碑に垂直に3基の石造物が並ぶ。飯を蒸す甑に密閉された仏さまが石灯籠の内に安置される、と。古代からの保食神(うけもちの神;財宝の神)への信仰。10世紀初頭の建立、と。
えな塚
御母公堂・位牌堂の南端を建物裏手に廻り込み、耕地の端の細道をちょっと進むと笹に囲まれた小さな祠。「大師胞衣(えな)塚」。五輪塔と石造物があり、大師の「へその緒」が祀られると伝わる。大師産湯の井戸は各所にあるが、胞衣はここだけだろう。


道標2基
御母公堂・位牌堂前に2基の道標。1基は「左 弘法大師胞衣塚 御母公旧蹟」と刻まれる。もう一基には、手印と共に「北三丁 弘法大師えな塚 御母公仏母院」と刻まれる。300mほど南から移されたものだろう。









熊手八幡宮
仏母院の縁起にあった大師ゆかりの熊手八幡にもちょっと立ち寄り。県道21号に戻り少し東に進み左手の道に入る。ほどなく熊手八幡。
随身門には神馬と共に高麗犬が社を護る。木製彩色の古風を残す。町有形文化財。社殿にお参り。境内に残る、古の社であろう石の小祠群に惹かれる。
熊手の由来は、神功皇后征韓の折りに用いた御旗、長鉤(熊手)がご神体の故と。凱旋の時、屏風浦に至り蔵を造りてこれを蔵め、とある。
なお、熊手八幡の先、県道合流点に荒魂神社がありお参りしたが、仏母院の縁起にある荒魂神社は八幡山にある荒魂神社ではあった。ちょっとはやとちり。 ともあれ、これで海岸寺周辺の大師ゆかりの地を廻り終えた。ここから第七十二番札所 曼陀羅寺へ向けて遍路道を進む。

JR予讃線踏切
熊手八幡より仏母院に戻り、道なりに南に進み広田川に架かる橋を渡る。橋を渡ると県道217号にあたる。県道を左に折れるとJR予讃線踏切。
この踏切手前の田んぼの端に「北三丁 弘法大師えな塚 御母公仏母院」標石があった、という。現在は見当たらない。と、そういえば先ほど仏母院の御母公堂・位牌堂前前に、同じ文字の刻まれた標石があった。この地から移されたものであった。

遍路道はふたつに分かれる
踏切を超えると遍路道はふたつにわかれたようだ、ひとつはそのまま県道217号を進む。もう一つは天霧山の東裾を東西神社に向けて進むもの。大きく整備された県道を避け、山裾を進む道をとる。
線路を渡ったところで大きく右に折れ民家の間の道を進む。

東西神社参道口に標石
山裾の道を進むと東西神社に出る。東西神社の名前の由来は?境内にあった案内にも特に記されていない。古くは善通寺の鎮守である五社明神のひとつ塔立明神と称されたが、天霧城の東麓、伊豫街道に接する要路にあったため中世の戦乱災禍により衰退。天正年間天霧城主香川之景(信景)が再興し後世東西大明神と称された、といった記事も見かけたが、これも何故東西神社となったかは不明である。
それはともあれ、神社参道口の伊予街道(旧太政官道)と交差する箇所に標石があり、「従是まんたらしへ十四丁」と刻まれる。

七人同志碑
標石左手に「七人同志の碑」が立ち、「森甚右衛門」の略伝が示される。先回の散歩で出会った七義士神社に祀られる七万人にも及び農民一揆を指揮したひとりである。



県道48号の茂兵衛道標
国道11号、高松自動車道を越え県道48号に当たる。曼荼羅寺へはここを右に曲がるが、左折し茂兵衛道標を確認に向かう。
この茂兵衛道標は予讃線の踏切でふたつに分かれた県道217号を進む道筋。県道は高松道まで続き、そこで左に折れるが、遍路道はそのまま直進し県道48号に合流。その角に茂兵衛道標が立つ。
手印と共に「曼荼羅寺 出釈迦寺 弥谷寺 明治四十四年」と刻まれる。茂兵衛241度目の巡礼時の道標である。


茂兵衛道標
元に戻り少し西に進んだところで県道を左折し曼荼羅寺に向かう。道の右側に「右甲山寺 明治十九年」と刻まれた茂兵衛88度目巡礼時の道標である。
この道標から民家の間を道なりに進むと、ほどなく七十二番札所曼荼羅寺に着く。
これで弥谷寺から海岸寺を経由する曼荼羅寺へのメモはおしまい。次回は弥谷寺から直接曼荼羅寺に向かう曼荼羅道の歩き遍路ルートをメモする。
六十七番札所・雲辺寺からはじめた讃岐遍路歩きも阿讃山脈の山道を下り、讃岐の里道を辿り六十九番札所・観音寺まで進んだ。
今回は観音寺からはじめ、七十番札所 本山寺、七十一番 弥谷寺へと向かう。観音寺から本山寺まではおおよそ5キロ、本山寺から弥谷寺まではおおよそ11キロ。17キロはどの長丁場となる。
観音寺から本山寺までの遍路道は、本山寺近くに行くまで標石が乏しく、特に観音寺市街にはほとんどと言っていいほど標石が見当たらない。特段の標石マニアではないのだが、旧遍路道の目安としている標石がないのは、旧遍路道を歩いているといった実感に乏しくちょっと残念。一方、本山寺から弥谷寺までは標石も多く、遍路道の周辺にもあれこれ興味を引く名前の社などがあり、ちょっと立ち寄りも多くなってしまった

雲辺寺からはじめた讃岐の遍路歩きは、まだはじまったばかりではあるが、何となく伊予の札所と趣が異なるように感じる。特段の理由が有るわけでもなく、何となくである。もう少し歩けば、その因がもう少し見えてくるものがあるかもしれない。ともあれ、今回は観音寺市からお隣の三豊市に入り、その先の善通寺市の手前まで讃岐の里の遍路道をメモする。


本日の散歩;六十九番札所 観音寺>旧市街を抜け県道5号に>県道5号を県道49号・村黒町交差点に>立専寺>加麻良神社>六地蔵と標石>本山寺橋南詰めの標石>七十番札所 本山寺
七十番札所 本山寺>三差路の標石>四国の道の標識と標石>茂兵衛道標(100度目)>妙音寺>忌部神社石標>>忌部神社>茂兵衛道標(157度目)>大津池西南隅の茂兵衛道標(164度目)と標石>宇賀神社>七義士神社>東角屋池傍の徳右衛門道標>>異形十三重塔>加茂高津神社>茂兵衛道標(150度目)>県道221号と国道11号合流点手前に標石>標石を兼ねる石造群>常夜灯と標石>落合の標石>落合大師堂>地蔵尊傍の標石>手印のみの標石>弥谷寺の寺名石>八丁目大師堂>第七十一番札所・弥谷寺

六十九番札所 観音寺
六十九番札所 観音寺から次の札所への遍路道は、財田川の北を辿るものと南を辿るものがあったようだ。しかし、現在そのルートは共にはっきりしていない。今回はちょっと気になる標石が残るという財田川の南側、旧市街を進むことにした。

旧市街を抜け県道5号に
琴弾山東麓に沿って琴弾八幡の大鳥居まで戻り三架橋を渡る。旧遍路道南側に渡ると成り行きで旧市街の細路に入る。しばらく北東へ歩き、道の左手に白藤稲荷(茂西自治会館傍)。ささやかな稲荷の社ではあるが、かつては近郷近在だけでなく、伊予の川の江からも参詣に訪れたという。小祠の先で県道5号に出る。

県道5号を県道49号・村黒町交差点に
県道5号の右手に観音寺第一高等学校、左手に荒魂神社。社にお参りし先に進むと県道49号・村黒町交差点にあたる。その手前100mの辺りに左に分岐する旧道があり、その角に標石があったとのこと。この標石が前述の「」ちょっと気になる標石であったのため、結構探したのだが見当たらなかった。
添歌付標石
標石には「生連来て残る毛能こそ石者はかり 我が身ハ消えしむかし成ら無(生まれ来て残るものこそ石ばかり 我が身は消えし 昔なるらむ)」と刻まれていた、とのこと。観音寺の商人三崎屋亦八の立てたものではないかとも言われる。
これは伊予の遍路道、西条市(旧小松町)の六十二番札所・宝寿寺から六十三番・吉祥寺に向かう途次に立っていたという茂兵衛道標(東宇和郡宇和町卯之町の愛媛県歴史文化博物館に保存)の添え歌「うま禮来天能古留茂の登天石はか里 我身ハ消へし無可能志な里希り」の元歌では、との記事もあった。
旧道角は更地となっていた。更地にする時にどこかに移されたのだろうか。ちょっと楽しみにしていただけに少々残念であった。

立専寺
右手に高木神社を見遣り県道5号を進むと、道の左手に加麻良神社の名が地図にある。名前に惹かれちょっと立ち寄ることに。社傍に西連寺、立専寺の名も見える。そのお寺様経由の道を進む。西連寺、立専寺にお参り。
立専寺の鐘楼の撞木は滑車付き。こんな撞木初めて目にした。この鐘楼は明治の神仏分離の折、琴弾八幡宮より移されたもの、と言う。


加麻良神社
道なりに進み独立丘陵に鎮座する加麻良神社に。

三ッ鳥居
本殿参道を進むと、参道脇に注連縄のはられた鳥居が建つ。特に社殿はない。横にあった案内には、この社は讃岐で最も古い社で、延喜式内社として記される以前より鎮座する。またこの丘陵そのものが神体山・御神室山(橘亀山)である、とする。
鳥居は三ッ鳥居(三輪鳥居)様式。明神鳥居の両脇に小さな鳥居が並ぶ。神体山そのものを祀るものとして平成十二年(2000)に建てられた、とあった。加麻良は神室からの転化である。
本殿
讃岐にある24の延喜式内社が並ぶ参道を進み本殿にお参り。本殿境内に木の鳥居。橿原神宮遥拝所とあった。
社伝には、この社は大己貴神(おおなむち;)と少彦名神(すくなひこな)の2神による四国経営の御霊蹟と。ここから四国の開発がはじまった、という。鎮座地の流岡は、三豊市高瀬にある大水上神社に(香川用水散歩の折に訪れた)来た少彦名神が毎夜泣き叫ぶため、大水上神は桝に乗せて流したところ、当地に流れ着いたとの故事による。周囲一面が海であった頃の話、とか。

延喜式内社
延長5年(927)の『延喜式』に記載された全国の神社一覧。「官社」として認められた社ということである。

六地蔵と標石
予讃線を潜り県道5号を先に進むと道の左に六地蔵。石の小祠の中にある。常の六地蔵は六体並び立つが、この六地蔵は一石に二躰づつ、三段に分かれて彫られた坐像となっている。こんな六地蔵を見たのは初めて。
六地蔵脇に県道から分岐した細路があるが、石祠の傍に標石。「左本山寺四丁 右又右金毘羅四里 願主 上市浦観音寺 三崎屋亦八」と刻まれる。前述の県道49号手前にあったとされる添歌標石の寄進者とされる商人である。三崎屋亦八の詳細不詳。
「右又右」は右折を二回しろ、ということ。伊予見峠を越えて金毘羅さんに向かう金毘羅道の案内だろう。

本山寺橋南詰めの標石
標石に従い細路を進む。観音寺市と三豊市の市境なっている細路を進むと財田川の土手に出る。
土手を進むと財田川に架かる本山寺橋の南詰に標石。「右いよ 左小松尾寺 明治廿二年」と刻まれる。川の真ん中で観音寺市から三豊市に入る。
いよ街道
「いよ」は旧伊予街道のこと。律令時代の南海道太政官道である。先回の散歩で茂兵衛道標と真念道標の立つ旧伊予街道と出合ったが、そこから道を辿ると、如何にも太政官道の名残を伝える「大道」といった地区を抜け、この地に繋がる。
旧伊予街道の道筋でもある本山寺橋を渡る。対岸には本山寺の堂宇、五重塔が見える。結構大きなお寺さまのようだ。


七十番札所 本山寺

橋を渡ると、旧伊予街道に面して七十番札所 本山寺の山門。大草鞋が左右に架かる

山門手前の標石2基
山門左の標石には「右遍路道 左うら門与寺門入納経所あり 寛政九丁巳」と刻まれる。丁巳は「ひのとみ」。
右の標石には「七十一番彌谷寺程三里 六十八番九番観音寺里程一里 昭和二年 市出商人連中」と刻まれる、と言う。市出とはこの地で市を出した商人達のよう。
寺前を通る伊予街道を讃岐と伊予の商人が、阿波の野呂内からは六地蔵越え辺り(野呂内越え)を越えて下って来た阿波の商人達が、この地にて市を開く交通の要衝であったとのことである。


本堂
境内正面に本堂。本尊は馬頭観音。四国霊場で馬頭観音を本尊とするのはこのお寺様だけである。建物は香川唯一国宝に指定されている。伊予と讃岐、また阿波からの往還の要衝の地故に、牛馬を大切にしたことだろう。







大師堂
平成26年(2014)に大師像が開帳され、毎月21日に開帳されている、と言う。折から参拝に訪れたバスでの団体参詣の方々がお大師さまにお参りしていた。









五重塔重塔
本堂裏手に大正二年(1923)に再建された五重塔。












十王堂
本堂左手に十王堂。十王とは閻魔王を含めた10尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ置送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰より、このお堂にお参りするのだろう。







鎮守堂
十王堂の左に社のような建物。神社によく見る注連縄がはられる。室町末期の様式を残す小さな社は鎮守堂。檜皮葺き屋根が素朴でいい。
この社には善女龍王像を祀る。請雨秘宝の霊神とされる龍王の一尊。弘法大師が京都神泉苑にて雨請の修法をおこなった時にその勧請により姿を現したとされる。





仁王門
境内南端に仁王門。室町中期の建物とされ重要文化財に指定されている。正面三間、奥行き二間一戸。正面柱間三つの内の真ん中の一間が通路となっている。








北端冠木門の茂兵衛道標
境内北端にある庫裏の旧伊予街道側に冠木門。その外に茂兵衛道標。摩耗が激しく手印が見えるのみ。茂兵衛127度目巡礼の際のものである。

寺伝によれば、この寺は弘法大師一夜建立の寺とされる。大師自ら阿波の国から木材を伐採した、と。前述伊予・讃岐・阿波からの交通の要衝と記した如く、阿讃山脈を越えた交流が古よりあった、ということか。
四国の寺は長曾我部四国攻略の折に灰燼に帰したものが多いが、このお寺さまは本堂、仁王堂が焼失を免れている。阿弥陀如来が住職の身代わりとなり寺を救ったとのお話が残る。
また、このお寺は農民一揆の集結地としても知られる。いつだったか香川用水散歩の折、七義士神社に出合ったが、この社に祀られる七名の有力農民に率いられ当時の三野郡、豊田郡、多度郡、那珂郡を巻き込む大規模な農民一揆であったよう。
なおこのお寺さまは京都の石清水八幡神を祀る。嘉禎2年(1236)京都石清水八幡宮の末社別当寺として二千石が給され祈祷所と定められたという。二千石の寺領をもち、七堂伽藍、二十四坊を有する四国有数の大寺院であった、とのことである。

三差路の標石
本山寺を離れ、寺家と言う如何にも門前町の名残を示す地名の街並みを少し進むと北西から合わさる道との三差路。その角に標石が立つ。手印と共に、「彌谷寺」の名が刻まれる。








四国の道の標識と標石
さらに道を進むと、南からの道と合わさる三差路角に「四国のみち」の標識と木の遍路標識があり、その傍に標石が立つ。手印と共に「是ヨリ東二丁 世話人藤田 本田」「平城天皇勅願所四国霊場第七十番 大同弐年九月下旬弘法大師一夜建立 本堂乾角落旧跡地蔵堂」「昭和十年」などといった文字が読める。




茂兵衛道標(100度目)
この標石から少し先、道の右手の民家敷地の角に茂兵衛道標が立つ。「右琴平宮 壱百度目為供養 周防圀大島郡 中務茂兵衛」、手印と共に「弥谷寺 是ヨリ二里三十二丁余」「明治廿一年」と言った文字が刻まれる。また、この道標には「法の花咲く道道の匂い希り」の添え歌も刻まれているとのことである。
琴平宮への案内は伊予見峠に至る金毘羅街道には右折、ということだろう。


妙音寺
遍路道は国道11号に合流。ここからはしばらく国道を歩くことになる。予讃線本山駅への六の坪交差点を越え、少し進むと道の右に妙音寺がある。本山寺奥の院であり、古代寺院のひとつと言われるお寺様へちょっと立ち寄り。
国道左にある五十鈴神社手前を右折、神社境内端の坂を左折し妙音寺へ。古き趣の山門への道筋に「建石? うちもど里」と刻まれた石柱がある。「?」は「迄」。建石まで打ち戻り、と言う意味だろうか。とはいうものの建石は地名?不詳である。







土塀の参道を進み本堂に。Wikipediaによれば、「寺伝によれば、飛鳥時代天武天皇治世の白鳳5年(665年または676年)に創建されたと言われ、讃岐国最古の寺院の一つと伝えられる。平安時代初期の弘仁年間(810年- 824年)嵯峨天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)によって現在の寺号となったと伝えられている。
戦国時代に入り天正2年(1574年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭った。この時、本尊の阿弥陀如来は自ら雨を降らせて難を逃れたと伝わっている。 天正の戦火で寺院は荒廃した。その後、江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1716年)旭応阿闍梨によって復興された。また、寛政年間(1789年 - 1801年)に清雅恵洞和尚が伽藍を整備した。
当寺院に祀られている不動明王は霊験不動尊と言われ、祈念すると夢の中でお告げがあると言われることから、別名「夢見不動」とも呼ばれている」とあった。本尊の阿弥陀如来は国の重要文化財指定となっている。

忌部神社石標
国道11号に戻り先に進む。高松道の「さぬき豊中IC」への出入口少し手前で遍路道は国道から右に入る。池端の道を進むと「高松道さぬき豊中IC」へのアプロ―チ道にブロックされ現在は直進できない。アプローチ道に沿って右に折れ、アプローチ道下を抜けるトンネルを通り国道側へと戻る。
ブロックされた遍路道の反対側まで戻り北に進むと「忌部神社」と刻まれた大きな石標が立つ。いつだったか阿波の忌部神社を辿ったこともあり、ここらへもちょっと立ち寄り。




忌部神社
遍路道から左に折れ忌部神社に。境内に特に由緒などの案内はない。阿波の忌部神社はあれこれチェックしたのだが、讃岐と忌部神社、忌部氏の関係は?
讃岐忌部
讃岐忌部(さぬきいんべ)氏は、日本各地に分布する忌部氏の一族のひとつ。手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖神とする。阿波忌部は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、紀伊忌部は彦狭知命(ひこさしりのみこと)、出雲忌部は櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)をその祖先神とするが、すべて天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に随従した五柱(五部の神)である。
出雲の忌部氏の祖先神櫛明玉命は「玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事した」とあるように、攻玉技術をもって勾玉などの調製にあたっていた。
阿波の忌部氏の祖先神である天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始したと伝わる。麻や穀(楮)は、木綿(もめん)が日本に伝わる以前の糸・布・紙の原料であり、そこからつくられた原料のことを「木綿(ゆう)」と呼ばれ、布を織り、神事の幣帛や紙垂などに使われたようである。 そしてこの讃岐の忌部氏の祖である手置帆負命。「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る」とあるように、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していたとされる。讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発したようである(Wikipedia)」とある。
讃岐は竿を貢ぐ国ということから、竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるようだ(Wikipedia)。

Wikipediaにはまた、「善通寺市大麻町の式内社・大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことが伺える。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている」といった記事もある。讃岐忌部氏の讃岐開発の事績と共に古来より讃岐と阿波の交流が盛んであったことがわかる。
忌部氏
忌部氏って結構興味深い氏族である。通説では、忌部氏の本宮は奈良県樫原町忌部町にある天太玉神社(あめのふとたま)とされ、そこから各地方へ忌部氏が下って行ったとされる。
それに対し、中央・地方の忌部は阿波忌部がその母体となっており、阿波忌部の全国進出とあわせて技術と文化の伝播をもたらした。つまりはヤマト王権も阿波忌部がその成立を支えた。こうした阿波忌部の起点となるのは麻植郡であるとするから、いうなれば麻植郡は日本そのものの発祥の地である、といったものである
下総の地の名前の由来について忌部氏との関りを示す記事もある。『古語拾遺』には、「天富命、さらに沃壌を求め、阿波の斎部(いつきべ)を分かち。東国に率い行き、麻穀を播殖す。好麻の生ずるところ、故にこれを総国という。穀木(かじき;ゆうのき)の生ずるところ、故にこれを結城郡という。故語に麻を総というなり、今の上総下総の二国これなり」と言う。下総が阿波の忌部氏によって開かれたようにも読める。門外漢故に真偽のほどは不明だが、なんとなく忌部氏って面白い。
なお、『古語拾遺』は忌部氏の後裔である斎部広成が著したものであり、斎部とは忌部と同義、天富命とは天太玉命の孫と伝わる。

茂兵衛道標(157度目)
遍路道に戻り北に進むと新屋敷の集落、道の右手に茂兵衛道標がある。手印と共に「本山寺 弥谷寺」と刻まれるが、手印があらぬ方向を示している。理屈の上では道の左手の何処かにあったものを移したのではないだろうか。明治丗年、茂兵衛157度目の巡礼道標である。






大津池西南隅の茂兵衛道標(164度目)と標石
さらに少し進むと大津池に出る。その西南隅、民家のブロック塀の前に「四国のみち」の標識、自然石の標石、そして茂兵衛道標が立つ。
自然石には手印と共に「本山二十五丁 彌谷八十五丁」、茂兵衛道標には手印と共に「本山寺 箸蔵寺 明治丗一年」と刻まれる。この手印もあらぬ方向を向いている。本山寺との位置関係でいえば、遍路道の右側のどこかに立っていたものを移したのだろう。茂兵衛164度目の巡礼の折の道標である。
金毘羅さんの奥の院と称される箸蔵寺はいつだったか箸蔵寺から土讃線財田駅へと続く箸蔵道を歩いたことがある。この地からの道筋は不詳だが、金毘羅街道を越え、財田川に沿って歩いていけば土讃線財田駅近くに出る。この地から箸蔵寺へのルートも興味を覚える。

屏風浦へんろ道の標石
茂兵衛道標などの標石がある角の道を隔てた反対側、一段低いところに石碑がいくつか並ぶが、そのひとつ、平べったい石に手印と共に「屏風浦へんろ道」と刻まれる。予讃線海岸寺駅近くにある弘法大師生誕の地に建つ海岸寺のことを屏風浦と称するようである。海岸寺に迫る天霧山、弥谷山の山容が海から見ると屏風を広げたように見える故、と。
七十一番弥谷寺を打ち七十二番曼荼羅寺に向かうお遍路さんの中には、直接曼荼羅寺へ向かうことなく、一旦曼荼羅寺とは真逆の海岸寺へと向かい、そこから曼荼羅寺へと折り返す者もいたとのことである。とまれ、大師生誕のお寺さまへの道標である。

宇賀神社
標石前の大津池の東に宇賀神社がある。「どぶろく祭り」で知られる、と。ここにもちょっと立ち寄り。
この社、古くは岡神社と称し、手置帆負命に随従してこの地に住み笠を縫い給うたその子孫がこの里に住み祖神笠縫神を祀った。またこの里を笠縫の里といい、笠岡村とよんだ、とする。現在でもこの辺りは豊中市笠田笠岡と呼ばれるようである。手置帆負命は前述讃岐忌部氏の祖先神である。
境内には酒蔵のような蔵が建つ。明治33年には濁酒醸造の許可を受け、祭りには一般参賀者に振る舞っているようである。

社殿裏手には玉垣に護られ注連縄の張られた球状巨石が鎮座する。巨石信仰?ここからは単なる妄想。讃岐忌部氏の祖・手置帆負命は天照が天岩戸に隠れたときに御殿を建てた神と言う。また阿波忌部氏の祖先神 ・天日鷲命 は天岩戸開きに大きな功績をあげた神とも言う。どちらも天岩戸に関りが深い。で、天岩戸って巨石を想起する。
神社前の池を隔てた彼方に見える七宝山を眺め、遍路道に戻る。

七義士神社
道上、大道といった如何にも古代太政官官道・南海道の名残を残す地区を越えると、道は国道11号に合流する。その合流地点に何だか見たことのある社と池。 いつだったか香川用水東部幹線を辿ったときに出合った社であった。
その時のメモを再掲;権兵衛神社(七義士神社)と称されるこの社は、江戸時代中期、9代将軍家重のときに勃発した讃岐最大の一揆の首謀者として処刑された、七人の義民(義人)を祀る神社。
寛延年間(1748-1750)、数年来の風水害に加え役人の横暴な振る舞いにより、丸亀・多度津両藩の百姓は疲弊に貧していた。徳政などの願い効なく、一揆を計画。首謀者は丸亀藩の5名、多度津藩の2名の百姓。その中での指導者が丸亀藩笠岡村の大西権兵衛であった。
寛延3年(1750)年1月20日には、一揆の呼びかけに応じた多度郡・三野郡・豊田郡の百姓は財田川の本山河原に集結。22日には鳥坂峠を越えて那珂・多度郡勢と善通寺で合流。このときの一揆の総勢は6万人余に達したと言う。
この動きに対し藩側は23日に一揆勢と会合をもち、嘆願をほぼ認め、一揆勢は解散し帰村する。しかし、その後状況は一変。全国で勃発する一揆に危機感を抱いた幕府が、20日には百姓の強訴・徒党の禁令を発令していたことを知った丸亀・多度津両藩は妥協案を完全に反故にし、一揆首謀者を捕縛。7月28日には大西権兵衛他7名をい金倉河畔において打首・獄門の刑に処せられた。
鳥居右手の「此の世をば泡と見て来しわが心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」と刻まれた大きな碑は、そのときの権兵大西権兵衛の辞世の句と言われる。 村人はこの七人を義士として密かに弔い続けたが、明治の御一新になり、七義士の威徳を偲び権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られた。
先ほど訪れた宇賀神社は、境内梵鐘を合図に一揆が立ち上がり、本山寺は一揆が集合した場所であった。歩けばあれこれつながってくる。

東角屋池傍の徳右衛門道標
七義士神社から国道11号を池に沿って少し進むと直ぐ、遍路道は池端から左に分岐すする道に入る。この辺りを「六ッ松」と呼ぶ。現在からは想像もできないが、かつては木々が生い茂り昼なお暗い一帯であった、とか。夜は暮れ六ッから明け六ッまではひとりで通るには怖すぎ、連れを待っていたとのこと。六ッ待つ>六ッ松と転化した。
溜池の間を縫うように進むと東角屋池。その傍、セメント造りの小祠に徳右衛門道標が建つ。献花筒には花も供される。道標に大師座像が刻まれているためのようだ。「是より弥谷寺迄壱里十八丁 寛政八丙辰三月」と刻まれる。丙辰は「ひのえたつ」。この小祠を一里松地蔵堂とするのは、かつてこのあたりに一里塚があった故だろう。
暮れ六ッ・明け六ッ
朝、薄明が始まった時を明け六つとし、夕方、薄明が終わった時を暮れ六つとして、時刻の基準とした。江戸時代までの時刻法の一つ。
午前0時;九ッ(子ノ刻)>午前2時;八ッ(丑ノ刻)>午前4時;七ッ(寅ノ刻)>午前6時;明け六ッ(卯ノ刻)>午前8時;五ッ(辰ノ刻)>午前10時;四ッ(巳ノ刻)>午後0時; 九ッ(午ノ刻)>午後2時; 八ッ(未ノ刻)>午後4時 ;七ッ(申ノ刻)>午後6時;六ッ(酉ノ刻)>午後8時l 五ッ(戌ノ刻)>午後10時;四ッ(亥ノ刻)

草木も眠る丑三ッ時というけど、丑は八ッでは?干支の刻は2時間。それを四等分してそれぞれ、一ッ、二ッ、三ッ、四ッとしたようだ。で、午前2時からはじまる丑の刻の丑三ッとは、午前3時から3時半ということになる。

異形十三重塔
徳右衛門道標が祀られる小祠を超えると右手に松葉碕池。池を超えると遍路道は国道11号から分かれる道と交差。遍路道はそのまま先に進むが、国道11号傍に見える大きな石の塔にちょっと立ち寄り。
交差箇所を右に折れ、国道11号の少し東に立つ石の塔に向かう。国道から右に入る道を進むと石の塔に。
威徳院勝造寺層塔とある。案内には「案内には「香川県指定有形文化財 昭和38年4月9日指定 この層塔は永和4年3月6日(1378年)に建立されたもので、通称「石ノ塔」と呼ばれている。総高7,1m、塔身は凝灰岩の切り石を十三層に積み重ねたもので他に類例がなく、異形十三重塔とも呼称される。
300年後(1678年)丸亀藩主京極高豊公が散失した塔?を集め、且つその欠けたところを補い修復した。更に300年たち損傷が甚だしいく倒壊の危機に瀕したので、香川県・旧高瀬町(現三豊市)・地元住民が一体となって、昭和52年(1977年)3月6日に解体修理に着手し同年5月14日に完成した」とある。
伝わるところでは、この塔は若狭国の八百比丘尼(やおびくに)によって建てられたとする。八百比丘尼の伝説は各地に残る。Wikipediaには「八百比丘尼(やおびくに、)は、人魚など特別なものを食べたことで長寿になった比丘尼である。福井県小浜市と福島県会津地方では「はっぴゃくびくに」、栃木県西方町真名子では「おびくに」、その他の地域では「やおびくに」と呼ばれる。(中略)その伝説は全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に及ぶ(とくに石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)[33]。白比丘尼(しらびくに)とも呼ばれる。800歳まで生きたが、その姿は17~18歳の様に若々しかったといわれている[34]。地方により伝説の細かな部分は異なるが大筋では以下の通りである。
八百比丘尼の伝説
ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる。

とはいえ依然この塔が建てられた目的は不明。塔には大日如来を示すような梵語がかすかに見える。なお、威徳院勝造寺はこの塔の少し南東にあるお寺さま。

加茂高津神社
遍路道に戻り北に進む。道の左手に加茂高津神社。香川県神社誌には、「傳ふるところによれば、此の地は皇子屋鋪とて妙法院二品尊澄法親王(私注;宗良親王)の御遺跡にして當社は親王を祀れり。元弘二年(私注;1332)三月後醍醐天皇(私注;宗良親王の父)隠岐に移らせ給ひ、親王は本郡詫間浦に移らせ給ひたるも、詫間の気候御身に適し給はずじて當地遷らせらる。
依って此の地を皇子屋鋪といひ、又親王の遺跡を記念せむ為祠を建てて王子権現と稱し親王を奉齋すといへり。
(中略)或いは云ふ。皇子屋鋪の地に古く賀茂神を奉齋しありしが、天正年間兵火に罹り寛文年間社殿を再建して王子権現といひ、明治十五年摂津難波に倣ひ今の社號に改む」とある。
宗良親王故に王子権現と称されたのは分かった。が高津神社となった所以は「摂津難波に倣ひ」とあるだけではっきりしない。チェックすると、江戸の頃、王子を応神と取り違えたとの記事がある。摂津難波に仁徳天皇、その父の応神天皇を祭神とする高津神社がある。それに倣ったということだろうか。単なる妄想ではある。

茂兵衛道標(150度目)
予讃線高瀬駅への道との交差点を直進すると高瀬川の手前、民家にもたれかかるように茂兵衛道標が立つ。摩耗が激しく「右金毘羅」、手印と共に「本山寺」、「弥谷寺」が刻まれる。明治二十九年、茂兵衛150度目の巡礼時のもの、と言う。




県道221号と国道11号合流点手前に標石
遍路道は高瀬川の土手に阻まれ左折し、高瀬川橋の西詰で県道221号に乗り換える。道を進み県道が国道に合流する手前にY字の分岐点。その分岐点に「四国のみち」の標識とともに、平べったい標石があり、手印と共に「これよりいやたに寺三十九丁 打越へ?風ケ浦六十九丁」と刻まれる。
屏風ケ浦は予讃線海岸寺駅の近く、空海誕生の地海岸寺のあたりを海から見た姿。海岸に迫る天霧、弥谷山が屏風を広げたように見えるから。「打越」は? 遍路用語に「打戻り」といったものがある。打越しもそういった用語だろうか、地名だろうか。不明である。



標石を兼ねる石造群
分岐点の標石に従い左手の道に入ると、標石脇に高い柱碑、大師座像、壊れた屋根石下の石造物がある。墓石らしにものも見える。
「光明真言一億万遍」「文政」などの文字が読める柱碑の台座には手印が刻まれる。またその隣の大師座像の台石にも「左へんろみち 是ヨリいやたに三十九丁 是ヨリもとやまへ** 寛政十二」といった文字が刻まれ、共に遍路標石となっている。




常夜灯と標石
分岐点を境に三豊市高瀬町から同じく三豊市三野町に入る。大道>道免>鳥坂へとほぼ国道11号筋を進むかつての太政官道・旧伊予街道と先ほどの分岐点で別れた遍路道は、弥谷山に向かって一直線に進むことになる。原>出井>落合>弥谷と続く道筋の出井の辺りに大きな常夜灯があり、その傍に標石がある。手印と共に、「是より弥谷寺」と刻まれる。





落合の標石
常夜灯の先で北西に緩やかにカーブする道が、北東へと抜ける道と交差する角に標石がある。手印と共に「もとやま寺* いやだに寺道」「明治三十九年」と刻まれる。遍路道は標石の手印に従い道を右折する。







落合大師堂
右折し民家の間の狭い道を進むとすぐ落合大師堂がある。常夜灯や多くの古い石造物の中に標石が1基ある、と。大師像が彫られた石碑がそれらしき、とは思うのだが摩耗が激しくよくわからなかった。








地蔵尊傍の標石
更に道を少し進むと民家軒下といったところに、地蔵尊、金毘羅常夜灯、地神の祠があり、地蔵尊傍に標石がある。手印と共に「右丸かめ 左いや谷 道」と刻まれる。また、足をたらした地蔵尊の台石にも手印、そして「右丸か免道 左へんろふ*」「文政五」といった文字が刻まれ、標石となっていた。







手印のみの標石
水路を越え少し進むと、道の左手の電柱脇に標石。手印もほとんど摩耗しそれと言われなければわからない。










弥谷寺の寺名石
しばらく道を進み、東西に走る車道を超えると道の両側に「四国第七十一番弥谷寺」と刻まれた寺名石が建つ。ここが弥谷寺の参道口。寺名柱の手前、車道と交差する角に標石があり、手印と共に「本山寺 弥谷寺」が刻まれる。


八丁目大師堂
参道口を進み県道48号を渡り、北に進む。一筋北の車道に「四国のみち」の標識があり、ゆるやかなカーブの道を進むと弥谷山に向かう大きな車道に出る。弥谷寺への車道でもある。
車道を少し進み「弥谷寺車道」と刻まれた石柱で遍路道は左に入る。そこに八丁目大師堂。「弥谷寺本堂へ1,000米 大師堂納経所700米 仁王門400米」と書かれた案内がある。一丁は約109m、八丁は約872mである。
大師堂少し手前の一段高いところに標石があり、「従是本山寺江百*丁 従是本堂江八丁」と刻まれる。里を眺めると讃岐特有のお椀を伏せたような山が見える。貴峰山(とみねやま;標高228m)ではないだろうか。


第七十一番札所・弥谷寺


八丁目大師堂から土径を進む。道に沿って舟形地蔵などの石仏が並ぶ。道なりに進むと八丁目大師堂で別れた車道にあたる。車道を超えると弥谷寺の駐車場。バスでのお遍路さんが多い。


天霧城跡の案内
駐車場を上がり、参詣のシャトルバス乗り場のある広場に出る。山腹の本堂まで640段余の石段があるようで、途中までシャトルを利用される団体お遍路さんが目についた。
境内案内などのある反対の谷側に大師座像、第二十九番札所国分寺の本尊・千手観音、十二番札所焼山寺の舟形地蔵(右手に宝剣、左手に宝珠をもつ本尊の虚空蔵菩薩とはお姿が異なる)の横に国指定史跡天霧城跡の案内。縄張りや由来が記されている(この城跡には次回訪れる)。



茂兵衛道標
灌頂川に架かる橋を渡ると石段。25段の石段を上ったところに茂兵衛道標が立つ。「左本堂 右本山寺」、手印と共に「善通寺 金毘羅道 明治廿一年」と刻まれる。茂兵衛100度目の巡礼標石である。
○曼陀羅道
茂兵衛道標の前にも新しい石標が立ち「曼荼羅寺3.1粁 出釈迦寺3.3粁」と書かれる。ここを左に進むのが次の札所曼七十二番荼羅寺、七十三番出釈迦寺への遍路道のようである。曼陀羅道と呼ばれるようだ。



徳右衛門道標
次の石段右手に徳右衛門道標。「従是曼荼羅寺迄廿五丁」と刻まれる。通常の徳右衛門道標にある梵字、大師像もなく、高さも高く、一見しては徳右衛門道標とはわからなかった。











俳句茶屋
二段目の石段二十段を上ると俳句茶屋。休業中なのか取り壊されているのか、ともあれ現在は利用できる状態ではなかった。俳句好きの先代主人の好みで参拝客の俳句が張られているとのことである。


仁王門
俳句茶屋より五十四段の石段を上ると仁王門。正面に阿吽二体の仁王像、裏手には大草鞋が吊るされている。大草鞋は巡礼旅の安全、草履を撫で患部を治癒する撫で仏といったものなど、お寺さまで様々。
仁王門を潜った右手に四国霊場八十八番大窪寺石造。右手に薬壺らしきものをもっているようにも見える。本尊の薬師如来だろうか。

石仏
寺域には数多くの石仏が並ぶのだが、四国遍路札所にしても順がバラバラ。二十九番の横に二十二番、そしてここには八十八番。何らかの事情で移されたのだろうか。

灌頂川に架かる法雲橋傍の摩崖五輪塔
仁王門を越え小刻みに現れる石段を上り灌頂川に沿って進む。この辺りを賽の河原と称するよう。参道脇の小さな石積みの塔を見やり、大岩の間を抜けると法雲橋。橋の右手の岩には2基の五輪塔が刻まれる。







金剛拳菩薩
橋を渡ると広場に出る。シャトルバスもこの辺りまで来ているように思える。広場正面に6m余の巨大な鋳銅製仏像。金剛拳菩薩とのこと。元禄年間に造られたもの。
金剛界曼荼羅を構成する九つのパーツ(九会)の内、中央部(成会)での中尊となる金剛界大日如来を囲む阿閃・宝生・阿弥陀・不空成就の四仏の四方(東西南北)にあらわれる四親近菩薩、計十六菩薩の一つ。
堅固なる拳で衆生の貪・瞋・痴(三毒)の緊縛を破る菩薩のようだ。弥谷寺のHPの説明には、「衆生が煩悩による苦しみに縛られるのを解放する仏様といわれます。また、修行の完成を意味し十六大菩薩の最後の一尊にあたり、如来になる直前のお姿ともいえる菩薩様です」とあった。
仏様のランクは如来>菩薩>明王>天部の順になる。菩薩最終ランクであり、仏様になる直前というから結構有難い菩薩さまであった。



大師堂
四国中央市の大王製紙社主である井川氏寄進の鉄製の階段、煩悩を消す108段階段を上りきると正面に大師堂。岩壁に食い込むように建てられている。石段を上り下足し大師堂に入る。左納経所、右大師御影堂。御影堂をぐるりと
回りこむと獅子窟。大師修行の場。暗くてはっきりとは見えない獅子窟をお参りし、大師堂を出る。


大師堂手前の標石
大師堂への石段を上り切る手前右手に標石がある。「右札所道 左大師堂道 元治元」といった文字が刻まれる。
大師堂岩壁の行者像
岩壁に行者姿の石像。雨乞いの祈祷するも、その霊験無きを恥じ焼身往生をした行者様と言う。








十王堂
大師堂から右に進み、左手一段高い岩場にある多宝塔を見やり進むと広場にでる。正面に香川氏の墓、右手に鐘楼と観音堂、正面一段高いところに十王堂がある。
十王とは閻魔王を含めた十尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ置送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰より、このお堂にお参りするのだろう。 この寺は「亡くなった人の霊のゆく寺」とも言われる。地元には身寄りを亡くした人が、その霊を背負うよう背中に手を回しこの寺に上り、霊を下した後は一切振り向くことなく里へと戻るといった習慣もあったようだ。十王堂の横に観音堂があるのは、地獄に行くことなく浄土へとの想いもあるのだろうか。先ほど歩いた参道を賽の河原と呼ぶ所以である。

護摩堂・海岸寺道分岐点
観音堂から石段を上り詰めたところに護摩堂。岩に掘り込まれた洞窟となっている。
護摩堂右手に標石と道案内。「本堂、水場は左、天霧城は右の案内」、また標石には、「海岸寺道」、手印と共に「第七十一番当寺本堂道 明治四十三年」と刻まれる。
〇海岸寺道
海岸寺道とは予讃線海岸寺駅近くにある弘法大師生誕の地と言われる海岸寺への道。七十一番弥谷寺から七十二番曼荼羅寺へと直接進まず、一旦真逆の瀬戸の海方向へと向かい海岸寺をお参りした後、曼荼羅寺を打つ遍路道である。 天霧山への尾根道を進み、弥谷山と天霧山の鞍部から里に下り、北へと瀬戸の海岸に向かうようである。

水場
護摩堂から左に向かうと岩場に出る。岩場には大きな石仏が祀られた水場がある。弥谷山からの地下水が枯れることなく湧き出るよう。








摩崖仏阿弥陀三尊像
水場からは上り下り、ふたつの石段が本堂に上る。石仏、五輪塔の立ち並ぶ石段に沿った凝灰岩の岩壁には摩崖仏が見える。阿弥陀三尊像とのこと。鎌倉時代に地元の匠の手によるもの。雨風に晒され、もろい凝灰岩の崩壊から像を護るようにセメントの庇が取り付けられていた。凝灰岩の窪みには小さな仏さまも祀られていた。



本堂
剣五山千手院弥谷寺。真言宗善通寺派。本尊は千手観音。自伝によれば、行基開山。聖武天皇の庇護を受け、蓮華山八国寺(やこくじ)と称した。 その後空海がこの地、獅子窟で修行。求聞持の秘法を修するや天から五柄の剣が舞い降る。これにより山号を五剣山と改め、寺名も弥谷寺とした、とある。 天正年間、長曾我部氏の四国征服の折り、この寺と峰続きの天霧城に籠る香川氏を攻め、寺は灰燼に帰す。後に讃岐の領主生駒一生、江戸期には丸亀藩主京極氏の庇護を受け堂宇が再建され現在に至る、とのことである。
〇虚空蔵求聞持法
「虚空蔵」はアーカーシャガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(Wikipedia)。

本堂前から讃岐の里の遠景を楽しみ、本日の散歩を終える。次回は七十一番弥谷寺から七十二番曼荼羅寺へ向かう。

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