2019年2月アーカイブ

六十七番札所 大興寺を打ち、次の札所である六十八番札所 神恵院 六十九番札所 観音寺へ向かう。現在六十八番札所 神恵院は六十九番札所 観音寺境内にある。四国遍路の中でも一寺二札所はここだけである。
その因は明治の神仏分離令にある。もとの六十八番札所は琴弾八幡宮。それが神仏分離令により本尊が観音寺境内にある西金堂に移され、琴弾神社別当寺であった神恵院(じんねいん)が六十八番札所・神恵院本堂となった。
神恵院が六十九番札所観音寺境内に移されたのは、琴弾八幡宮と観音寺の深いつながり故。寺伝によれば観音寺は空海が開基した、と言う。大同2年(708)琴弾八幡の別当寺であった法相宗弥勒帰敬寺に第7代住職として止宿。阿弥陀如来尊像を描き本尊とし琴平山神恵寺と名付けた。
空海は続けて、八幡宮に祀られる神功皇后が聖観音菩薩の生まれ変わりとし、自らの手で聖観音菩薩を刻み、この地に七宝山観音寺を開創した。平城天皇の勅願によるものと、言う。
かつて観音寺は琴弾八幡宮の神宮寺・別当寺として琴弾八幡宮の納経をおこなっていた。それが、観音寺も六十九番札所となったため、琴弾八幡宮は神恵院の院号で納経をおこなうことになったわけだが、神仏分離のためその琴弾八幡の本尊が引っ越すことになる。この折、観音寺境内のお堂を提供し六十八番札所神恵院(じんねいん)とたわけだが、上記歴史的繋がりからみれば、なんら違和感はない。

大興寺から神恵院・観音寺のある琴弾山までおおよそ7キロ。里道を観音寺市内へと向かうことにする。

本日のルート;一丁標石(?) > 二丁標石>三丁・四丁標石 / 五丁標石>六丁標石 / 自然石標石>茂兵衛道標と八丁地蔵標石>九丁標石>茂兵衛道標と大師坐像 >十三丁・十四丁標石>六十八番道標石>真念道標>お堂脇に標石>二十三丁標石/二十一標石>県道6号角に茂兵衛道標>池之尻交差点の道標>三十一丁標石 / 三十二丁標石>三十三・三十四丁標石>三十五・三十六丁標石>三十七 ・三十八丁標石>四国中千躰大師>旧伊予街道との交差箇所に茂兵衛道標と真念道標>柏木神社手前の舟形地蔵>植田天満宮>加茂神社の道標>県道237号にあたる>予讃線余茂田踏切>市谷川左岸を県道6号・明治橋へ>地神様に2基の道標>光明寺の道標>殿町交差点に2基の道標>三架橋>琴弾八幡宮>琴弾八幡から神恵院・観音寺へと琴弾山を下る>本殿裏の石段下り口に丁石>「椿説弓張月」の案内>象ケ鼻展望台>六十八番札所・神恵院 / 六十九番札所・観音寺
■天空の鳥居・高屋神社

一丁標石(?) / 二丁標石
大興寺を離れ、極楽橋の架かる水路に沿って北に進む。舗装された農道といった道である。道が水路の左岸に渡る手前のT字路角に舟形地蔵丁石が立つ。摩耗が激しく文字は読めない。
左岸に渡った道を進むと、右手のガードレールの外に丁石。二丁とあるので、手前の丁石は一丁の地蔵標石だろう。

三丁・四丁標石 / 五丁標石
道なりに左に折れ溜池の土手下の草叢に3基の標石。三丁の標石2基と四丁標石。1基はすぐにわかるのだが、その他の2基は草に隠れて、見逃しやすい。
五丁標石は道を進んだ左手、民家の石垣とブロック塀の間に立つ。

六丁標石 / 自然石標石
溜池北西端の三界万霊塔を見遣り進むと、道の右手に六丁標石。はるか北には観音寺市と三豊市の海岸に連なる山並みが見える。結構いい景色だ。
遍路道が比較的大きな車道に合流する角に自然石の標石がある。手印と共に「左 へんろ 嘉永三戌 上河内中」と刻まれる。

茂兵衛道標と八丁地蔵標石
車道に出るとすぐに左に入る遍路標識がある。名称不詳のお堂脇の坂を下ると国道377号に出る。遍路道は左に折れ国道に沿って東に進む。

●遍路道の案内を左に入らず直進すると国道に合わさる箇所に2基の道標が立つ。 大きいのが茂兵衛道標。手印とともに「神恵院 小松尾寺 明治二十九年」と刻まれる。茂兵衛149度目の巡礼時のもの。
その横の舟形地蔵丁石には「是ヨリ小松尾寺江八丁」と読める。逆打ち遍路の標石となっている。手には錫杖をもつ。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。
国道377号
国道377号は、大野原白坂あたりから、三豊市と仲多度郡まんのう町の境にある伊予見峠を越え牛屋口に至る金毘羅道筋とほぼ重なる。ために金毘羅街道とも称される。
金毘羅街道
伊予・土佐からの金毘羅道(伊予・土佐街道)は、伊予の川之江で土佐街道を合わせ、余木埼で伊予から讃岐に入り箕浦に。豊浜からはおおむね国道377号に沿って伊予見峠を越え、牛屋口から金毘羅宮に向かう。

九丁標石
国道を少し東に進むと、道の左手に九丁地蔵標石が立つ。阿讃山脈を借景になかなかいい眺めだ。標石には「九丁 明香四丁辛」と刻まれる、と。手には錫杖を持つ。
干支(えと)
明香は明和のことのようだ。10の干と12の支の組み合わせからなる60干支のうちの24番目。西暦を60で割って27余る年が丁亥(ひのとい)となる。明和四年は西暦1767。29 x 60 +27=1767とぴったりと合う。
因みに日本での干支は10の干(かん)と12の支(し)からなる干支の、12の支だけを取り出して「干支」とする。Wikipediaによれば、「日本では「干支」を「えと」と呼んで、ね、うし、とら、う、たつ...の十二支のみを指すことが多いが、「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す語であり、「えと」は十干において「きのえ(甲)」「きのと(乙)」「ひのえ(丙)」「ひのと(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来するので、厳密には二重に誤りである」とある。
因みに、上述車道合流部の自然石に刻まれた「嘉永三戌」であるが、嘉永3年は西暦1850年。干支でいえば康戌(かのえいぬ)となる。「康」が消えているのだろうか。

茂兵衛道標と大師坐像
国道を少し東に進むと三豊市域から観音寺市域に入る。そのすぐ先で遍路道は国道377から離れ、左へと分岐する旧国道へと進む。
茂兵衛道標
少し小高くなった道を進むと右手の民家の間に道標と大師坐像がある。道標は茂兵衛道標。正面に「左いよ道 小松尾道」、裏面に「左 小松尾道」、側面に手印と「壱百度目供養」などの文字が刻まれる。遍路道は側面の手印に従い、旧国道から右に折れ民家の間を抜ける細路に入る。
大師坐像
茂兵衛道標の横に大師坐像。台座に手印と「十方施主 光明真言十万遍「天保八年」と刻まれる。
〇十方施主
仏教では東・西・南・北を四方。上・下を二方、東西南北の間の四維(東南・西南・西北・東北)を加えたものを十方と言う。十方世界とは全ての世界、ということ。十方施主とはこの世のすべての人の勧請により建てられた、ということを意味する。
光明真言
Wikipediaには「光明真言とは密教の真言(真実の言葉)。神秘性を保つため梵語で唱える。
「om amogha vairocanaオーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ オン アボキャ ベイロシャノウ
  maha-mudra mani padma偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ マカボダラ マニ ハンドマ
jvala pravarttaya hum 光明を 放ち給え フーン (聖音)ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
光明真言は大師堂に掲げていることも多いので目にすることも多いだろう。
光明真言の功徳としてWikipediaには:
「過去の一切十悪五逆四重諸罪や、一切の罪障を除滅する。 十悪五逆四重諸罪によって、地獄・餓鬼・修羅に生まれ変わった死者に対し、光明を及ぼして諸罪を除き、西方極楽国土に往かせる。先世の業の報いによる病人に対し、宿業と病障を除滅する」とある。

十三丁・十四丁標石
民家の間の細路を犬に吼えられながら進むと国道377号に出る。遍路道は国道を突き切り、畑の畦道といった土径を進む。遍路標識も何もない。偶々地元の方が畑作業をしており、お話をすると国道建設に際し標石が移された、と。
細路より国道を渡ったところから、農地の間を成り行きで進むと溜池の南西角に十三丁・十四丁標石が立つ。

六十八番道標石
先に進むと墓地に入る。特に道筋はないようだが、とりあえず墓地を抜け車道に出る。そこを少し北に進むと建材置き場の脇に標石が立つ。丁石ではなく、「六十八番道 大正十三年」と刻まれる。六十八番札所神恵院への道標だ。

真念道標
道の左手に金神神社の社叢。道が金神神社へと左折する角、民家の生垣に2基の石柱。その小さなほうが真念道標。手印と共に「へん路みち 願主真念」と刻まれる。
金神神社
社名は「三寶大荒神 金神神社」とある。香川県神社誌に「辻村郷社菅生神社境外末社」、西讃府誌に「金神祠 荒神祠 原にあり 二祠相殿金神は往昔鋳物師此地にありし時祭ると云」、神社考に「金神宮村社在 原村 所祭金山彦命傳云昔鋳工多居 千此因所 祭也 今移居 辻村」と見ゆ」、とある。
当地に住みついた鋳工がお祀りしたのだろう。
また、「三寶大荒神」は日本で生まれた仏神のようだ。神道、密教、山岳信仰などさまざまな信仰が混淆し生まれた、と。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離する。古来日本では台所や竈が最も清浄なる場所とされたため、民間信仰として火や竈の神として祀られるようになった(Wikipedia)。

お堂脇に標石
金神神社前の道を西に進むと豊田小学校、右手に大通寺。大通寺は筒井順慶の後裔ゆかりの寺と言う。境内には酒樽を利用した茶室があった。水琴窟もあるとのことだが、わからなかった。
大通寺西の四つ角を越え少し西に進むとお堂があり、山界万霊碑が祀られる。そのお堂脇に標石が立つ。「観音寺五十丁 小松尾寺二十丁 大正八年」とある。正面は修繕され文字は見やすくなっている。

二十三丁標石/二十一標石
道なりに進む。左手に二十三丁の標石。更に進み仁池手前の心光院の道路に面した石垣上に3基の舟形地蔵が並ぶ。左端には「二十一丁」の文字が読める。どこからか移されたものだろう。
ここには二十五丁の標石があるようだが、中央の地蔵は上半分が欠けており、右端は摩耗が激しく文字は読めなかった。

県道6号角に茂兵衛道標
道が県道6号(24号併用)に当たる合流点に茂兵衛道標が立つ。手印と共に小松尾寺 左金毘羅道」「明治二十八年」と刻まれる。280回に及ぶ四国遍路の百四十三度目のものである。
金毘羅道
ここにも金毘羅道の案内がある。上述の国道377号の金毘羅道と結構離れている。金毘羅道といっても一本というわけではなく、鎌倉街道と同じく金毘羅さんに向かう道はすべからく金毘羅道というわけで、この金毘羅道は上述伊予見越えのルートができる以前の、高瀬から金蔵寺を経て金毘羅宮に向かう「金毘羅古道」ともいうルートではなかろうかと思う。古道というだけで、なんとなくトレースしてみたくなった。そのうちに。

池之尻交差点の道標
道を左に折れ県道6号を進むと池之尻交差点。その西南角、低いコンクリートでブロックされた一角に道標が立つ。「くあんおんじ道四十丁 小松尾道三十丁」と刻まれる。かつてはこのブロック内に金毘羅道標など石塔が集められていたとのことだが、今はすべて撤去されていた。




三十一丁標石 / 三十二丁標石
県道6号は池之尻交差点を道なりに直進するが、交差点を右に折れる民家間の径を少し入ったところ、電柱の前に三十一丁の標石がある。
また、池之尻交差点から県道6号を少し進むと、道の右手の生垣に三十二丁の標石があった。

三十三・三十四丁標石
高松自動車道を潜る県道6号を少し進むと道の右手に2基の舟形地蔵。上半分が書けている地蔵標石は「三十四丁」、少し大きめの地蔵標石には「三十三丁」と刻まれた丁数がはっきり読める。




三十五・三十六丁標石
高松自動車道を越えるとすぐ、道の右手に「お遍路さんの休憩所」がある。椅子と休憩ベンチの簡易なものだ。
遍路休憩所はバス停でもあるようで、バス停の案内ポールが立つ傍、電柱の前に2基の標石がある。三十五、三十六丁の標石だ。高松道建設時に移されたのかとも思ったのだが、三十三・三十四丁標石も含め、それ以前の記録に既にまとめられている。
県道6号の始まりは昭和34年(1959)に認定された徳島県道・香川県道込野観音寺線。昭和47年(1972)には徳島県道・香川県道110号込野観音寺線として再認定。さらに平成5年(1993)に主要地方道として指定され、平成6年(1994)島県道・香川県道6号込野観音寺に認定されている。道路変遷の過程での移設だろうか。

三十七 ・三十八丁標石
赤土池の畔、道の右手のガードレールの間に三十七 と三十八丁の2基の舟形地蔵標石が立つ。
ところで、舟形地蔵のお姿であるが、舟形は後光を表すものだろう。お地蔵さまも錫杖を持つもの、持たないもの、宝珠を持つものなどがあるようだ。いままであまり気にしていなかったのだが、今回あるきはじめた大興寺からの舟形地蔵丁石では、八丁と九丁の標石だけが錫杖をもち、その他の地蔵丁石は合掌するお姿であった。

四国中千躰大師
標石の反対側、池の畔の赤土池改修碑の横に角柱石碑が建つ。上部に大師座像が刻まれるこの角柱は「四国中千躰大師」「文化六** 真念再建願主照蓮 世話人徳嶋講中」とあるようだ。
この大師坐像(手印付)は真念の道標建立の志を受け継ぎ、四国中に千躰の大師像(手印付き)を立てようとした阿波の人・照蓮が建てた大師像。現在阿波に50基、土佐六基、讃岐三基が確認されている。伊予にないのは、文化六年(1809)から十二年(1815)にかけて標石を建立した照蓮に先立ち、標石建立をなした武田徳右衛門が伊予出身であるため、と。徳右衛門建立の標石百十四基の半数以上が伊予に立っている。
千躰建立はならなかったものの、その構想は壮大。江戸の頃、真念から徳右衛門、照蓮と続き、明治に至り中務茂兵衛へと続く遍路道標建立の流れの一翼を担う人物である。照蓮の詳細は不詳とされる。

旧伊予街道との交差箇所に茂兵衛道標と真念道標
県道6号を進み国道11号との植田交差点を越えると、国道の一筋北に旧伊予街道が通る。県道が旧伊予街道と交差する西角に茂兵衛道標と真念道標が立つ。「しこくの道」の石柱も横に並び落とすことはないだろう。
茂兵衛道標は風化が激しく「百*い*度目為供養」といった文字が微かによめる、と。真念道標には「南無大師遍照** これよりくわんおんじ」といった文字が刻まれる。
旧伊予街道
この道は古代の南海道太政官道筋と言われる。讃岐の国府と伊予・土佐の国府を結ぶ古代に官道である。7世紀の中頃、大化の改新により中央集権が強化され、中央と地方の連絡のため国府を結ぶ官道を整備し駅伝の制度をつくった。
讃岐国には大川郡から三豊郡まで、刈田・松本・三谿(みたに)・河内・甕井(みかい)・柞田(くにた)駅の6駅がおよそ20キロ毎に設けられた。柞田(くにた)駅は国道 11号を南に下った柞田川を渡った先にその跡が残る。

柏木神社手前の舟形地蔵
旧伊予街道と県道6号の交差箇所を少し西に戻り若宮神社にお参り。遍路道は国道6号直進するルートと、旧伊予街道を右に折れ菅原道真ゆかりの植田天満宮を経由するルートのふたつに分かれる。とりあえず旧伊予街道>植田天満宮ルートを歩く。
道を少し進むと柏木神社手前の四つ角、民家の塀に埋め込まれたような舟形地蔵が立つ。錫杖を右肩に乗せたお姿である。遍路道はこの辻を左に折れる。

植田天満宮
水路に沿って少し進むと道の右手に植田天満宮。菅原道真お手植えの松で知られる。道真は仁和2年(886)、讃岐守(讃岐国司)を拝任し下向し、寛平2年(890)帰京する。
お手植え松は枯れ、その巨大な株だけが社殿左手にある覆屋下に保存されていた。 株の左右に2基の道標が残される。
右手の道標には正面に「従是下植田」、側面に「丸亀江五里半 金毘羅江四里半 川之江四里 琴弾山迄廿五丁 観音寺町口迄十五丁 すしかへはか道 弘化三丙午年九月建立」と刻まれる。 「すしかへはか道」は何だろう?
左手の道標には「右 うゑ田松 松より観音寺すくみちあり 寛政十年戌午七月」などと記される。
年号(元号)と干支
弘化3年は1846。丙午(ひのえうま)。西暦を60で割って46余る年が丙午(60Ⅹ30 +46=1846)。寛政十年戌午(1798)60で割って58余る年(60 x 29 + 58=1798)。 ところで、どうして年号と干支を併記するのだろう?ふつうに考えればころころと変わる年号より、60年周期ではあるが一貫性のある年数を計算できる干支のほうが便利ためかとも思う。年利計算をしようにも、年号では通算何年かすぐわからないだろうし。


加茂神社の道標
植田天満宮前の道を進み、道なりに左にカーブすると加茂神社に当たる。その玉垣角の間に挟まれるように大きな常夜灯と道標が立つ。
道標には手印と共に「へんろ道 加茂神社」と刻まれる。また、常夜灯の竿の部分に「道観音寺 嘉永六癸丑(みずのとうし)六月吉祥日」と刻まれる。



県道237号にあたる
加茂神社にお参りし、道標に従い右に折れ、玉垣にそってぐるっと加茂神社を周り、道なりに進んだ最初の四つ角を右に折れる。道なりにしばらく進むと道の左手に観音寺キリスト協会がある。協会がオンコースの目安。
さらに道を進むと左手に回転寿司チェーン店があり、そこで県道237号に当たる。




予讃線余茂田踏切
遍路道は県道を横切り、細い道に進む。細い道もすぐ終わり、舗装された道を成り行きで進むと予讃線・余茂田踏切に出る。





市谷川左岸を県道6号・明治橋へ
この先の遍路道ははっきりしない。余茂田踏切を渡った先にある市谷川の左岸を下り、県道6号まで進み明治橋を渡り、市谷川右岸に出たようである。とろあえず市谷川左岸を明治橋まで進む。





旧伊予街道からのもうひとつの遍路道
植田天満宮を経由しないもうひとつの遍路道は、県道6号をそのまま直進し市谷川に架かる明治橋に進むもの。ふたつの遍路道は明治橋で合流する。
この道筋には特段の道標などはないが、途中道の右手に薬師庵がある。元禄時代に建てられたもの。薬師堂と観音堂は釣り屋(渡り廊下)でつながれているが、老朽化が激しく崩れてしまいそうになっていた。


地神様に2基の道標
明治橋を渡るとすぐ、道は左右に分かれるが、左へ進む道の左手に汐入地蔵尊を祀るお堂がある。遍路道はこのお堂の前を進むことになる。
道を進み比較的大きな道と交差する手前、道の左手に地神の石祠があり、そこに2基の道標が置かれている。
1基は手印と共に「琴弾神社 小松尾寺 明治丗二年」、もう1基には「右 へん*」と刻まれる。

光明寺の道標
道を渡ると左手に仏証寺。遍路道は仏証寺の道を隔てた逆側から右に入る。道を進むと光明寺があり、遍路道は光明寺を越えて左に折れる。その角に立派な道標が立つ。「左へん路道」と流麗な筆で太く刻まれる。

殿町交差点に2基の道標
光明寺の道標を左に折れ、殿町交差点に。仏証寺から右に折れて光明寺に向かうことなく、直進すればこの交差点にあたる。
交差点の北東角に2基の道標。1基は「右小松尾道」とはっきり読めるが、もうひとつは手印らしきものが見えるだけではあった。


三架橋
遍路道は交差点を超えて道なりに進み、県道21号・大和町交差点を右折し財田川にかかる三架橋を渡る。対岸には琴弾八幡の鎮座する琴弾山が現れる。
Wikipediaには「三架橋(さんかばし)は、香川県観音寺市にある鉄骨コンクリート製の橋である。財田川の下流にかかっており、海から数えて三番目の橋。日本百名橋にも選ばれた観音寺市を代表する名橋。三連のアーチを描く欄干が特徴。
三架橋の歴史は古く、「金比羅参詣名所図会」(1848年(嘉永元年))に「三架橋は、琴弾山麓の染川にあり、3橋つづいて架かるゆえに号したという。川原で染物をなし、その橋詰は観音寺の町で商家、蔵が建ち3つの太鼓橋が架かっている」と記されています。また、これとは別に、三架橋の名は、琴弾八幡宮の参賀橋であることに由来するとも言われている。江戸時代には、三連の太鼓橋であった。明治18年に平面の木橋に改められ、1935年(昭和10年)に現在の橋に替えられた」とある。
旧遍路道
光明寺から三架橋までの旧遍路道もはっきりしない。光明寺を左折せず直進すると現在「ひがし児童公園」となっている辺りに観音寺城1跡が残る。旧遍路道は今歩いた道の少し北を進んだとも言われる。

琴弾八幡宮
三架橋を渡ると正面に琴弾山(58.3m)。山頂に明治の神仏分離令まで六十八番札所であった琴弾八幡宮が鎮座する。現在の六十八番札所・神恵院、六十九番札所・観音寺は琴弾山裾の東縁を進むことになるが、今回は琴弾山に上り琴弾八幡宮にお参りし、本殿から琴弾山を札所へと下ることにする。
山裾の境内も広い。駐車場を兼た境内には参集殿、神幸殿や摂社、忠魂碑、源氏との深いつながりを示す源平屋島合戦の案内などもあった。

一夜庵道しるべ
境内入口に建つ巨大な銅製の鳥居の右、財田川に注ぐ小川左岸に自然石の碑がある。案内に「一夜庵道しるべ 北三丁 下下の宿あり一夜庵  ここから北約三百米興昌寺境内に俳祖山崎宗鑑の遺跡 一夜庵があります」とある。
一夜庵は宗鑑が享禄元年(1528)結んだ数寄屋造りの庵で、日本最古の俳蹟と言われる。一夜庵は、一夜以上の滞在を許さなかったことに由来する、と。で、句にある「下下の宿あり一夜庵」ってどういう意味?宗鑑の句に「上は立ち 中は日ぐらし 下は夜まで 一夜泊まりは下々の下の客」がある。庵を訪ねる客のうち、上客はすぐに退去する人、ほどほどの(中)客は日暮れまでいる人、よくない客は夜までいる人、一晩泊まるのは最悪の客」と。
この句はどうも逆説的な言い方のようで、下下と言われようが、堂々と泊まっていく俳人を期待したようだ。一茶クラスになるとは「下下も下下下下の下国の涼しさよ」と詠む。
三架橋の南詰の西側にある専念寺境内には小林一茶の句碑が建つ。「 元日や さらに旅宿と おもほえず」。年が明けたが、ここが旅の宿とは思えない、と。一茶はこの地に四年間滞在したとある。

早苗塚
広い境内を散策し、琴弾山へと石段参道を進むことに。承応2年〈1653〉丸亀城主山崎虎之助寄進の高さ7.2mの一之鳥居手前右手に早苗塚。「早苗塚 松尾芭蕉が奥の細道の途次、福島で詠んだ句
"早苗とる手もとやむかし しのぶ摺" この直筆短冊を小西帯河が所蔵していたが二六庵竹阿(一茶の師)の指導で句碑建立した。安永四年(1775年)。その後天保十年(1839)再建す」とある。 小西帯河は地元の俳人。「しのぶ摺」はいくつか解釈があるようでここでは思考停止。

船霊大神
隋神門を潜り、本殿へと続く381段の石段を上る。ほどなく右手に「船霊大神」の社。縁起に拠れば,大宝3年(703)、西方の空鳴動し太陽も月も光を失う。この地に草庵を結びし日証が浜に出ると船があり、琴を弾く者あり。「吾は八幡大菩薩。宇佐より来る。この地の風光去りがたし」と。日証驚き山上に上げ鎮守として祀る」と。
昔はここにお舟があった、とも、元禄二年(1689)に書かれた寂本の『四国遍礼霊場記』には「お琴ならびにお舟は、今にいたるまで殿内に崇め奉られている」と記す。

木之鳥居
二之鳥居を越えるとその先に木の鳥居。鉄パイプ、屋根で覆われたこの鳥居は源義経の寄進による。案内には「木之鳥居 古来八幡信仰の篤い源氏方は元暦2年(1185)、義経が屋島の合戦勝利し、更に平氏追討の成功を祈願して当社に名馬「望月」とこの木之鳥居を奉納した」とある。
鳥居を支える石の台座には「琴弾宮 三之鳥居 宝暦十一年辛巳」と刻まれる。

妙見道の道標
左右に並ぶ立派な玉垣の右手、少し切れ目がある玉垣の柱に「妙見道」と刻まれる。参道から右手に折れる道筋を示しているようだ。その直ぐ先に「是より二丁 寛政七乙卯」と刻まれた丁石も立つ。
妙見道とは?はるか離れた宅間の地に妙見山に妙見宮が鎮座するが、そこではないだろう。かつて、琴弾八幡の参道途中から観音寺へと抜ける道があったようであり、その途中の産巣日(むすび)神社・妙見社でもあったのだろか。標石の記す二丁は観音寺までの距離かもしれない。妙見道へと少し入ったが進めそうもなく元に戻った。

真念道標
参道石段を上り詰め、参道が右に折れる箇所の正面角に真念道標。「左 へん路みち」と刻まれる。






本殿前の道標
真念道標を左に折れ平坦な参道を少し進む。右に折れ本堂に上る石段手前に道標が立つ。「左下向道」と刻まれる。





本殿
鳥居を潜り石段を上ると正面に拝殿・本殿、右手に絵馬堂がある。お参りをすませ絵馬堂からの眺めを楽しむ。
歴史
社の歴史は古く、上述の大宝3年(703)、日証上人が八幡大菩薩をこの山中に祀ったことにはじまる。このとき社の神宮寺として後に六十八番札所となる観音寺の前身・神宮寺宝光院を建立。
大同2年(807)空海が八幡神の本地仏である阿弥陀如来を描き安置。このときより神仏習合の社となる。その後、室町の頃には札所六十八番となり、観音寺がその別当寺として納経を行う。
中世期は八幡宮の主祭神・応神天皇をその祖先神とする源氏の信仰厚く社殿の造営、寄進を受ける。
明治になり、神仏分離令により本地・阿弥陀如来画像(絹本著色琴弾八幡本地仏像)は観音寺境内の西金堂に移され、琴引神社と改名。第二次世界大戦後ことひき八幡宮と改称された。
祭神
祭神は神功皇后、応神天皇、玉依姫の三神。八幡神は応神天皇と同一視される故ではあろう。神宮皇后はその母。この社は八幡神の姫神とも母神とのされる玉依姫を祀るが、八幡三神としては玉依姫に替わり、比売神(ひめがみ)を祀ることも多い。
Wikipediaに拠れば、比売神とは「アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている」とある。

琴弾八幡から神恵院・観音寺へと琴弾山を下る
琴弾八幡から神恵院・観音寺には、本殿裏手にある石段を下りて進むことにする。特に道案内はないのだが、あってしかるべきとの判断故。本殿左手の社務所、展望台を過ごし本殿裏手まで進むと石段があった。
本殿裏の石段下り口に丁石
石段の下り口に丁石。「二丁」の文字が刻まれる。札所までの丁石ではあろうと、石段を下りる。






「椿説弓張月」の案内
石段を下りたその先、注連縄を潜り境内を出ると琴弾山頂の平坦部に出る。麓からの自動車道が通る。その左手、木々の茂みの中に「「弓張月」いわれ」の案内。
「江戸時代の読本作家、滝沢馬琴の書いた「椿説弓張月」のなかに源為朝の妻白縫が観音寺、琴弾の宮で夫の仇討ちをしたという話があります。為朝が京の戦いで敗れたとき、鎮西太宰府の舘(やかた)を守っていた白縫は召し使い八人とともに讃岐観音寺、琴弾の宮に落ち、神仏に夫の無事を祈っていました。 一方京では、敗れ傷ついた為朝は家来の武藤太の家に身をひそめました。その時武藤太は「為朝を捕えた者には過分のほうびをとらす」という敵方のおふれに目がくらんで密告したため為朝は捕われて八丈島に流されました。
主君を敵方に売った武藤太は"痴(し)れ者"として非難され居たたまらなくなって手下二人と西国に落ちました。
流れついたのが讃岐の国室本の港(観音寺市室本町)でした。港にあがった武藤太は武運に縁の深い琴弾の宮の近いのを知って参拝しました。祈る言葉は悪人らしく、為朝密告の恩賞の少なかったうらみごとだったのです。白縫は拝殿に祈る男の言葉からその男が夫の仇と知ったのです。「これこそ神の導き」と白縫は、ある月の夜酒宴と美女の琴で武藤太を誘い出し、みごと夫の仇を討ったのです。
いまも観音寺市琴弾八幡宮の境内には、この仇討ちを伝える史跡が保存され観光客が絶えません」とあった。

椿説とは珍説・異説。といった意味。椿説弓張月の読みは「ちんぜい ゆみはりつき」と思っていたのだが、「ちんせつ」が元の読み方のようだ。主人公は鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろう ためとも)故に「ちんぜい ゆきはりづき」とも読むよう。
なお、案内はあったが、「椿説 弓張月」の碑は見当たらなかった。

象ケ鼻展望台
弓張月の案内から少し先に進むと「象ケ鼻展望台」。観音寺といえば、というほど有名な銭形の見晴らしポイントだ。砂でつくった寛永通宝で知られる銭形は知ってはいたが、見るのははじめて。銭形を見下ろすビューポイントがどこかも知らなかったのだが、また成り行きで進んだところが最高の見晴らしポイントであった。
案内には「寛永十年(1633年)時の将軍家光公から讃岐巡遣使を派遣するとの知らせを受けて丸亀藩主生駒高俊公が領内巡視の際このことを聞いた地元の古老たちがなにか領主歓迎のためにと銭形の砂絵を一夜のうちに作りあげたとつたえられています。
この山頂から眺めると円く見えますが実際は東西132メートル南北90メートルの楕円形となっています 以来砂上の一大芸術として長く保存されています。 この銭形を見た人は健康で長生きできて金に不自由しなくなるといわれています」とあった。
とはいうものの、寛永通宝がえきたのは寛永十三年(1636)であるから、少々タイムラグがある。お話はお話としておくべきか。


六十八番札所・神恵院 / 六十九番札所・観音寺
象ケ鼻展望台より車道を道なりに下る。しばし進むと道の右手に「神恵院・観音寺」の案内がある。

西国33観音霊場
遍路道は車道を離れ六十八番札所・神恵院 / 六十九番札所・観音寺の境内に向かう。道に沿って観音石像が立つ。西国三十三観音霊場を表す観音さまである。


薬師堂
道なりに進むと薬師堂に出る。ここが神恵院(じんねいん)本堂であった観音寺西金堂。明治の神仏分離令の折、琴弾八幡宮より本地・阿弥陀如来画像(絹本著色琴弾八幡本地仏像)を移し琴弾八幡遇に替わり六十八番札所・神恵院(じんねいん)となった。
現在、神恵院はこの薬師堂から別の場所に移されているのだが、古い資料を頼りに歩いていた為、薬師堂には六十八番札所本堂の案内もなく、その右手にあるという六十八番大師堂も見当たらず、そのうえ左手にはコンクリート造りの多宝塔・心経殿があり混乱の極み。あちこちと結構彷徨うことになった。

六十九番札所・観音寺本堂
薬師堂から石段を下り、石段に向かって右手に観音寺本堂がある。真言宗大覚寺派。本尊は聖観音。室町初期の建物で重要文化財に指定されている。
寺伝によれば観音寺は空海が開基した、と言う。大同2年(708)琴弾八幡の別当寺であった法相宗弥勒帰敬寺に第7代住職として止宿。上述阿弥陀如来尊像を描き本尊とし琴平山神恵寺と名付けた。空海は続けて、八幡宮に祀られる神功皇后が聖観音菩薩の生まれ変わりとし、自らの手で聖観音菩薩を刻み、この地に七宝山観音寺を開創した。平城天皇の勅願によるものとのこと。
伽藍は奈良の興福寺の東西金堂、中本堂の制にならい建立。中本堂は現在六十九番札所本堂となっているこの建物。聖観音と四天王を祀る。西金堂は現在の薬師堂に薬師如来と十二神将を祀り、東金堂(現在の開山堂)には弥勒菩薩を祀った、と。 前述の如く神仏分離令時に琴弾八幡・別当寺であった神恵院を観音寺の西金堂に迎え、一寺二札所ということになったのは、このような歴史的経緯を踏まえてのことであった。

開山堂
本堂右手を置奥に入るとコンクリート造りの開山堂がある。かつての東金堂。その先で琴弾山から観音寺へと下る道の上り口があり、そこに標石。「左 さいこく道 天保十三庚子」とある。境内に立つ観音像(西国三十三観音霊場)への道を指す。

六十九番観音寺大師堂
観音寺本堂の反対側、境内左手に大師堂。

六十八番神恵院の本堂
観音寺大師堂の手前にコンクリート造りの建物がある。その建物を潜った先に本堂。平成14年〈2002〉に新築され、西金堂から移された。西金堂は現在薬師堂となっているのは既に述べた。


六十八番神恵院の大師堂
元の大師堂は台風で失われ、現在は神恵院本堂手前、十王堂の右半分が大師堂となっている。

伊藤萬蔵寄進の石灯籠
石段を下り、表参道を山門へと進む。参道途中、左右に大きな石灯籠が建つ。正面に向かって右手の灯籠は伊藤萬蔵寄進のもの。愛媛の57番札所永福寺では万蔵寄進の線香立てを見た。石造りの立派なものであった。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。

仁王前の道標2基
参道を進むと仁王門。仁王門の前、石段の下り口に2基の標石。1基は徳右衛門道標。「これ与本山寺一里」と刻まれる。本山寺は次の札所。もうひとつには「すぐ辺路道 文政十二己丑(つちのとうし)」と刻まれる。




仁王
仏は如来、菩薩、明王、天部の四カテゴリーに分かれる。Wikipediaに拠れば、「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。

以上3つのグループの諸尊に対して、「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。天部に属する尊像としては仁王(金剛力士)、鬼子母神、吉祥天などである。
仁王さまとも称される金剛力士は、仏敵を打ちすえる金剛杖を持つが故の呼称。仁王ももとは二王であったのが仁王となった、とか。

これで本日の散歩はお終い。次は七十番札所本山寺から七十一番弥谷寺あたりまで進もうと思う。

天空の鳥居・高屋神社
で、遍路には関係ないのだが、地図を見ていると天空の鳥居が目に入った。それほど離れてもいないのでちょっと立ち寄り。標高400mほどの稲積山頂にある高屋神まで麓から1時間弱歩く。頂上まで自動車道もある。天空の鳥居はなかなか良かった。

雲辺寺から「四国のみち」として整備された遍路道を麓に下り、麓から阿讃山脈に切り込んだ粟井川の谷筋を3キロほど歩き里に出る。そこからは山裾を2キロほど東に歩けば67番札所・大興寺に着く。
粟井川の谷筋に沿った遍路道には30有余の丁石が並ぶ。山中の遍路道ならともかく、里道にこれほどの舟形地蔵丁石が並ぶところがあっただろうか。ちょっと思い起こせない。地元の方が大切に残して頂いたのだろう。
また粟井川の谷筋の遍路道を歩きながら、どこかで見たことがあるような景色に出合った。それはいつだったか辿った香川用水の水路筋であった。遍路道が香川用水の水路筋とクロスしていたのだ。こんなところまで水路を追っかけて来ていたようだ。

ともあれ、涅槃の道場と称される香川・讃岐の23か所の最初の札所・大興寺に向けて進むことにする。
本日のルート;旧遍路道標識>徳右衛門道標と三十二丁標石>遍路墓>二丁標石>角柱標石(36丁)>四丁標石>六丁標石>「南無阿弥陀仏」碑>七丁標石>八丁標石>九丁標石>十丁標石と自然石標石>十一丁標石>十二丁標石/十三丁標石>十四丁標石 / 十五丁標石>十六丁標石 / 十七丁標石>金毘羅常夜灯と十八丁標石>六部供養塔と十九丁標石>廿丁標石と六部供養塔・舟形地蔵>二十二丁標石 / 二十三丁標石>二十四丁標石>二十五丁標石 / 二十六丁標石>二十七丁標石と三界万霊>二十八丁標石が2基>土佛観音堂前の真念道標>県道240号と遍路道の分岐路に道標>三十丁標石と手印だけの自然石>三十一丁標石と道標>三十二丁標石>標石>四つ角に標石>七丁標石>六丁標石と石造群>四つ辻に2基の標石>五丁標石>四丁標石 / 三丁標石>二丁標石と石仏群>大興寺裏参道前の四辻の標石>六十七番札所 大興寺

旧遍路道標識
スタート地点は先回散歩の終点、小池の西端、旧遍路道標識の立つところ。雲辺寺から山道を麓に下りた広域幹線林道・五郷財田線の雲辺寺登山口を少し西に戻ったところだ。標識に従い右に折れ粟井川の谷筋へと向かう。

徳右衛門道標と三十二丁標石
旧遍路道を右に折れると直ぐ、道の右側の生垣模様の木立の中に道標が2基並ぶ。ひとつは「是より小松尾寺へ一里」と刻まれた徳右衛門道標。もう一基は三十二丁と刻まれた舟形地蔵丁石である。麓に下る遍路道の途中、十九丁石で途切れた舟形地蔵丁石はこの地で三十二丁石として現れる。
この地は白藤大師堂の旧地。現在は集落の中に移されていた(次回のメモに記す)。
●徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。
因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。

遍路墓
白藤大師堂にも関係あるのか、道の反対側の一段高いところにはいくつもの遍路墓が祀られていた。基本お墓の写真を撮るのは憚られるのだが、このときは地元の方がきれいにお掃除されていたので、思わずシャッターを押した。





二丁標石
少し下ると二丁石。三十二丁まで続いた雲辺寺からの距離を示す舟形地蔵丁石に代わり、ここからは旧白藤大師堂から大興寺に向かう遍路道の距離を示す舟形地蔵丁石が並ぶことになる(旧白藤大師堂までの距離といったほうが正確、かも)。
三十二丁石のすべては文政十三年庚寅年七月の建立とのこと。小さな木の覆屋に収まるこの丁石には「先祖代々」の文字が刻まれる、という。

角柱道標
少し下ると道の左手、覆う草に埋もれる石垣にもたれかかるように角柱道標がある。「小松尾寺へ三十六丁 明治四十四年五月実測」と刻まれる。地蔵丁石と異なり、小松尾の地にある札所・大興寺までの距離を示す。一丁はおおよそ109mというから、4キロ弱となる。

四丁標石
如何にも旧遍路道といった趣の道を少し進むと、道の左手、竹林を背にして四丁の地蔵丁石がある。この丁石も小さな木の覆屋の中に立つ。








六丁標石
道の右手に覆屋に立つ六丁と刻まれた地蔵丁石。元の遍路道は道路を右に入った丘の上を進んだようだが、現在は荒れたブッシュとなり踏み分け道すら残らず、とても歩くことはできなかった。
六丁石も丘の上の旧遍路道にあったのだろうが、現在は簡易舗装された道端に移されていた。

「南無阿弥陀仏」碑
簡易舗装を少し進むと、道の左、ガードレールの外に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が立つ。







七丁標石
その碑の傍、小さな丘から簡易舗装道に下る坂の途中に、これも木の覆屋の中に、少し大きめの地蔵丁石が立つ。七丁の標石だ。「七丁 左雲へん寺道」と刻まれる、と。 実のところ、この丁石を探して、六丁石から丘の上に続いたという旧遍路道に入り込み、ブッシュに阻まれながら、あちらこちらと彷徨った挙句、諦めて道に戻るとこの丁石に出合った。思うに、この丁石も六丁標石と共にブッシュに覆われた旧遍路道から移されたものかと思う。

八丁標石
七丁標石辺りまで下ると粟井川の谷筋に集落が見えてくる。左手には大きな溜池・新池もある。
七丁標石の先で車道は左に折れ新池の畔へと進むもの、右に折れ集落に下りるものと二つに分かれる。が、旧遍路道はその間、養鶏場の敷地のようなところを下る土径を進むことになる。坂の途中、養鶏場の右手の道端に「八丁」の標石が立つ。

九丁標石
養鶏場を越え、粟井川を渡る手前に九丁標石。これも同様に舟形地蔵丁石。 舟形地蔵丁石とは、舟形の光背を背にした地蔵菩薩に丁数を刻んた標石のこと。光背は後光のこと。舟形(舟御光)の形状以外には不動明王の火焔光、円光、宝珠光などがある。




十丁標石と自然石標石
粟井川に架かる橋を渡り右岸に移る。右岸橋詰めに覆屋に立つ十丁の標石と自然石の標石が並んで立つ。自然石標石には手印とともに、「右 うんぺんじ 左 こまつをじ」「明治三十九年 施主 福岡県備前郡**長野寅太郎」と刻まれるという。




十一丁標石
粟井川右岸を進む車道は県道240号。少し進むと石碑の並ぶお堂の道端に十一丁の標石がある。覆屋はない。
お堂には「四国八十八カ所 番外白藤大師堂」とある。上述、広域幹線林道・五郷財田線から旧遍路道に折れてところ、徳右衛門道標と三十二丁標石のところにあったものが、この地に移されたのだろう。現在は奥谷自治会館となっている。
入口の石碑には明和年間に出羽の和尚の開基。壮麗を極めたが明治になり、第十一師団の陸軍演習場として買収されこの地に移った、といったことが刻まれている。
●第十一師団陸軍演習場
明治30年(1897)、善通寺に第十一師団司令部が設置され、『雲邊寺原演習場要図』に示される山麓一帯が演習場となった。地図によれば、なるほど新池の南はすべて演習場となっている。






十二丁標石/十三丁標石
道の右毛に上部が欠けた十二丁の標石が立つ。「へん路道」と刻まれるようだ。 十三丁標石も道の右側、小さな木の覆屋の中に立つ。








十四丁標石 / 十五丁標石
道の右手に十四丁、十五丁と続く。十五丁標石は石仏が2基縦に並ぶ。後ろの石仏は摩耗が激しく、上部が縦に割れている。前の舟形地蔵に「十五」の文字が読める。



十六丁標石 / 十七丁標石
十六丁石は道の左側、ガードレールの切れ目に立つ。272mピークを借景に美しい絵柄となっている。十七丁石は少し大振りな姿で道の右手に立つ。




金毘羅常夜灯と十八丁標石
粟井川に架かる橋を超えると道の右手に金毘羅宮の石碑、金毘羅常夜灯などが並ぶ。その先、道路法面の前にちょこんと十八丁の標石が置かれる。




六部供養塔と十九丁標石
道の右手に木の覆屋に地蔵様。台座に「六十六部 越前圀」の文字が刻まれる。その先、道の右手に十九丁の標石。
●六十六部
六十六部とは、かつての日本を成していた六十六の国毎の霊場に、法華教を納めるべく廻国巡礼すること、またはその人。
ではその霊場は?チェックすると、中世のころは六十六の霊場を巡ったようだが、特に霊場が固定することなく、近世中後期には数年から10年ほどかけて数百の巡礼地を巡ることも少なくなかったようである。
六十六部における巡礼は聖地というよりは、鎌倉期以降に登場する「神国思想」「国土即仏土論」といった思想を背景とし、国全体を「聖地」と見立て巡礼する、といったことに重きを置くとの論もあった(「六十六部廻国とその巡礼地 小嶋博己)。

廿丁標石と六部供養塔・舟形地蔵
道の右手、民家の前に立つ廿丁の標石。その先には六十六部供養塔と古い舟形地蔵が並ぶ。舟形地蔵は摩耗が激しく丁数など読めないが、六部供養塔には、「遍路 六部札供養 享保九年」と刻まれる、と。






二十二丁標石 / 二十三丁標石
道の右側、覆屋に座るお地蔵様の少し先に二十二丁、二十三丁の標石が続く。
●お地蔵さま
お地蔵さまといえば野辺の地蔵を思い起こす。誠に身近な存在である。とはいえ、お地蔵さんって、地蔵菩薩と称される如く広い意味での仏様のランクでいえば、如来>菩薩>明王>天部という上位ランクにあり、お釈迦様が入寂後、次の弥勒菩薩が現れるまでの気の遠くなるような仏様不在の現世にあって、六道(地獄道・餓鬼道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救済する誠にありがたい菩薩である。
日本においてお地蔵様がこれほど身近な存在となった理由について、Wikipediaには「日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。
姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた」とある。このあたりにその因があるのだろう。

二十四丁標石
岩鍋池の手前、県道右側の法面前に二十四丁の標石が立つ。
●香川用水
池の南端あたりを香川用水の西部幹線が走る。ここがどこかで見たことのある景色の地であった。いつだったかその流路を探して彷徨ったわけである。 その時は流路の手がかりを見つけることができなかったのだが、今回のメモの段階で昭和49年(1974)にこの池の水源として香川用水から直接できるようになった、との記述を見付けた。
であれば、どこかにその施設があるはず。と、池の南端にコンクリートの建屋があり、そこから池に水が注いでいた。場所的にも香川用水流路でもあるので、用水はその施設の東西を流れているのかと思う。
岩鍋池
岩鍋池は、雲辺寺山の谷筋からの水を平野開口部で堰き止めた溜池。築造は室町時代後半の大永 7 年(1527年)と伝えられる。築造当時の堤防は、現在の位置より少し上流であったようだが、江戸時代初期の寛永7年(1630年)に西嶋八兵 衛により現在の地に増改築された。

二十五丁標石 / 二十六丁標石
岩鍋池に沿って通る県道240号東側に二十五丁標石と二十六丁標石が並んで立つ。前面の岩鍋池は冬枯れで水はない。





二十七丁標石と三界万霊
すぐ先、道の東側に二十七丁標石とその横に三界万霊。三界万霊とは欲界・色界・無色界の三界すべての霊をこの石塔に宿らせ供養する。





二十八丁標石が2基
池の北端近くに二十八丁と刻まれた標石と、自然石に仏像と二十七丁と刻まれた道標が並ぶ。自然石は明治五年のもとと言う。
池の北端、県道240号から岩鍋池堤防への道が分かれる箇所に「四国のみち」の標石。「雲辺寺7.2km 大興寺1.9km」と刻まれる。


土佛観音堂前の真念道標
「四国のみち」の標石の前面、県道から堤防の道が分かれる箇所に集会所といった建物が見える。近づくと「土佛観音堂」とある。その観音堂の境内というか庭に真念道標が立つ。電柱やガードレールで少々窮屈そうである。正面には「左 遍ん路みち」と刻まれる。
●真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。

県道240号と遍路道の分岐路に道標
遍路道は土佛観音堂の先で県道から別れ右の径に入る。その分岐点に割と大きい道標が立つ。手印と共に、「右 こまつおじ すぐこんぴら 左くぁんおんじ」と刻まれる。文政四年(1821)のもの。

三十丁標石と手印だけの自然石
集落への生活道として舗装された道を進むと右手に三十丁標石と手印だけの自然石が立つ。標石の対面には地元の方がつくられた遍路休憩所があった。
このあたりも香川用水西側幹線水路を辿り彷徨ったところ。標石手前あたりから南に分岐する道に進むと、原隧道を抜け岩鍋池への城谷隧道に入る城谷開水路が遍路道の少し南を走る。

三十一丁標石と道標
集落に入る手前、道の右手に覆屋に建つ三十一丁の地蔵標石と「へんろミチ」と刻まれた道標が立つ。






三十二丁標石
道の右手にこれも覆屋に三十二丁標石がある。雲辺寺からの山道を下り、広域幹線林道・五郷財田線から右に折れる旧遍路道の二丁からはじまった文政十三年建立の地蔵丁石はこの三十二丁でおしまいとなる。

「是より小松山道」の標石
道の右手に「是より小松山道」と刻まれる標石。











四つ角に「こまつを寺」標石
遍路道はほどなく南北に通る比較的大きな道と交差。四辻角に「四国のみち」の標石と並び、手印と共に「こまつを寺」と刻まれた標石が立つ。遍路道は直進する。


七丁標石
遍路道を進むと七丁標石。今までの文政十三年の舟形地蔵丁石が旧白藤大師堂からの距離を示すのではなく、ここから小松尾寺(大興寺)までの距離を示す標石となる。
つらつら思うに、またなんの根拠もないのだけれと、旧白藤大師堂からの三十二丁までの標石は、その主たる対象が大興寺ではなく、白藤大師堂であったのではないだろうか。白藤大師堂の石碑には、高僧が法灯を継ぎ堂塔の伽藍の結構は壮麗を極めた、とあった。今では想像もできないほどの有難いお寺さまに向かう地元の人たちへの道案内ではなかったのではないだろうか。

六丁標石と石造群
大原自治会館の道を隔てた道の南側に元治元年の自然石常夜灯などの石造物の中に六丁標石も立つ。
横には地元のご夫妻の古い時代と思しき写真とともに仏像を納めた祠が建っていた。


四つ辻に2基の標石
その先、四辻に2基の標石。左手には自然石に「すぐへんろ」、「兵庫」といった文字が読める。裏には「迷者タメニ**建立ス 明治二十二年」が刻まれる、と。
四つ辻右手の標石は、一段高い畑の畦端に立つ。見た目に比較的新しい角柱標石であり、「小松尾寺 昭和五十七年十二月」と刻まれる。

五丁標石
2基の標石のある四つ辻を道なりに直進し、小高い丘の坂を上りきった墓地のところに五丁の舟形地蔵標石が立つ。このあたりが観音寺市と三豊市(旧三豊郡山本町)の境となっている。
三豊市
律令制の頃、讃岐国の三野郡と豊田郡に属す。明治32年(1899)町村制施行時に三豊郡となる。行政合併時の常の如く、三野の「三」と豊田の「豊」の合わせ技の命名だろう。その後、昭和30年(1955)、三豊郡の西部が観音寺市となり、平成18年(2006)に山本町など三豊郡の七町が合併し三豊市となる。

四丁標石 / 三丁標石
三豊市域に入った坂を下り切った道の左手、T字路ガードレール脇に四丁の地蔵標石。そこから少し進んだ道の右手に舟形地蔵が立つ。文字は読めないが三丁標石のようだ。



二丁標石と石仏群
小高い独立丘陵に上る坂の手前に石造物が集まる。その中に二丁標石。三界萬霊碑と並ぶ。






大興寺裏参道前の四辻の標石
坂を上り切った角に「四国のみち」の角柱とその傍に自然石の標石があり、「へんろ」の文字が読める。
直進すれば大興寺の裏参道ではあるが、現在は裏参道からの参拝は歓迎されていないようで、丘陵東にある表参道へと廻ることになる。
四つ辻を右折、さらに道なりに左折し丘陵を下り表参道側に出る。駐車場も整備されている。


六十七番札所 大興寺

石造地蔵道標と2基の茂兵衛道標
駐車場から丘陵の東に沿って流れる水路を渡り大興寺表参道に向かう。水路を渡ると道の右手に石造の大きなお地蔵さまと2基の道標が立つ。
石造地蔵尊の台座には「へんろミち 弘化四」と刻まれ、道標にもなっている。その横に並ぶ2基の道標は共に茂兵衛道標。
手印と共に「雲邊寺 明治三十三年」と刻まれる道標は茂兵衛179度目のもの。「右小松尾寺 明治廿壱年」と刻まれるものは百度目のもの。
門前で「右小松尾寺」というもの異なものであり、どこからか移されたものだろう。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。


仁王門
水路に架かる石造りの極楽橋を渡ると仁王門がある。金網で覆われた仁王様が多いなか、このお寺さまは直接拝顔できる。伝運慶作とのこと。
裏側には大草鞋。旅の安全を祈るとも、撫で仏ならぬ撫で草鞋で患部を撫でて傷を癒すとも、お寺さまでそれぞれであるが、このお寺様はどうだろう。
仁王門手前には「四国霊場六十七番 小松尾寺道 明治四十七年」と刻まれた角柱標石が立つ。

仁王さまと吉三郎
仁王門に建つ、鎌倉期の作ともされる阿吽二体の仁王様のうち、口を開いた阿形の仁王様は江戸の頃に修理された、と。
その修理に際し、八百屋お七の恋人吉三郎が登場する話が伝わる。吉さん恋しと放火し、江戸の町を焼き、火炙りの刑に処せられお七の供養に四国遍路に出た吉三郎。この寺で傷んだ仁王様の首を見て、その修理勧進を申し出て四国遍路を続けた、と。お話はお話としてそっとしておこう。


カヤの大木
仁王門を潜り本堂への石段右手に巨大な樹木。案内には「県指定自然記念物 胸高幹周4.1m 樹高20m 樹齢1200年余り 形状 自然形 イチイ科の常緑針葉樹。弘法大師四国修行の砌りイチイの種子を植えたと伝えられている」とあった。






楠の大木
石段を上った踊り場脇に、これも巨大な楠木が聳える。子供の頃、愛媛の家の周りにも誠に巨大な楠が聳えていたのだが、今はすべて切り倒されており、この木を見るにつけ、少し残念な気持ちになった。






本堂
寺伝によれば、天平14年(742)熊野三社権現鎮護のため建立。弘仁13年(822)嵯峨天皇の勅命により弘法大師が開基した。讃岐国の熊野信仰の拠点とされたようである。本尊の秘仏薬師如来は弘法大師の自刻とされる。 尚、熊野三社権現は現在大興寺奥の院として本堂南西に祀られる。
堂宇は天正年間、というから16世紀後半、長曾我部軍の兵火により本堂を残して消失。現在の堂宇は江戸の頃、慶長年間(1596?1614)の再建による。

熊野三社権現
権現とは「権(仮)の姿で現れる」ということ。熊野本宮・新宮・那智の熊野三山に祀られていたそれぞれの神は,元々は別個の信仰により成立したものだが、平安の頃になるとそれぞれの神を合祀し三山と総称されるようになる。 その神々が仏教の影響のもと本地垂迹説での解釈により阿弥陀如来(本宮)、薬師如来(新宮)、千手観音(那智社)が神という仮の姿で現れたとするのが熊野三社権現。

熊野の神々が宿る熊野は、隈野(くまの;辺鄙な地)故、奈良時代から山林修行の地として知られ、役の行者(えんのぎょうじゃ)を始まりとする修験者が修行の地としてこの地に入ったと伝えられる。
奈良時代、特に後期以降には世俗的な寺から離れ、熊野・大峰の山中で修行・修験道に励んでいた園城寺の修験僧の影響もあり、熊野の修験道が個人の修験道レベルから中央の寺社勢力に組み込まれていくことになる。当然、熊野信仰に仏教の色彩・影響が色濃くでることになり、その結果としての本地垂迹説での本地仏の登場であり、熊野三社権現ではあろう。
大師堂
本堂右側に大師堂。弘法大師空海を祀る。








大天台師堂
本堂右側に天台大師堂。天台大師智顗(ちぎ)禅師 を祀る。隋の時代の中国の高僧。知者大師とも称される。大師はインドからもたらされた経典の中の法華経を重視し、法華教を核とした天台教学を打ち立てる。その教えをまとめた法華三大部〈法華玄義(ほっけげんぎ)、法華文句(ほっけもんぐ)、摩訶止観(まかしかん)〉は鑑真によって日本にもたらされた。
最澄はその教えを深く学ぶべく唐に渡り天台山で修行を重ねた末に日本に戻り、天台宗を開いた。その故をもって、天台宗では宗祖は伝教大師最澄、高祖は天台大師知者とする。

天台と真言、ふたつの大師堂
このお寺様は真言宗善通寺派。そこに天台大師堂がある?そもそもが四国遍路って、真言宗の祖・弘法大師空海を慕っての巡礼なのでは?
なにゆえに真言と天台の大師堂が?ということだが、四国遍路の成り立ちを思うに、それほど奇異なことではないようだ。四国の霊場を巡る四国遍路が弘法大師空海信仰と深く結びつくようになった(大師一尊化)のは室町以降のこととされ、それ以前の四国の霊場は多様な信仰が重なり合った霊場からなっていたようである。

「えひめの記憶」によれば、「四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
とはいうものの、四国遍路が辿る四国八十八カ所霊場は霊地信仰であって熊野信仰といった特定の信仰で統一されたものではないようだ。自然信仰、道教の影響を受けた土俗信仰、仏教の影響による観音信仰、地蔵信仰などさまざまな信仰が重なり合いながら四国の各地に霊場が形成されていった。
高野山系と叡山系の念仏聖、本山派(天台宗聖護院派)や当山派(真言宗醍醐派)の修験者なども、それぞれ修行の霊場を作りあげていったのだろう。
それが、四国各地の霊場に宗派に関係なく弘法大師を祀る大師堂が建てられ、遍路はその大師堂にお参りする大師信仰(遍照一尊化)が大きく浮上してきたのは室町の頃、と言われる。そこには弘法大師の人気と共に、真言宗醍醐派の修験僧、遊行の僧である高野聖の影響が考えられるとのことである。
以上のことを踏まえれば、ある時期、修験道のメッカ熊野三社権現の霊刹として開基された大興寺に真言、天台両系統の聖、修験者が集い、その祖を祀っていたことはそれほど不思議なことではないかと思う。
辺地から遍路
因みに「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地(へじ)を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故の「遍」の借用のようである。
四国八十八か所
ついでのことではあるが、この霊地巡礼が八十八箇所となった起源ははっきりしない。平安末期、遊行の聖の霊地巡礼からはじまった四国の霊地巡礼であるが、数ある四国の山間や海辺の霊地は長く流動的であり、それがほぼ固定化されたのは室町時代末期と言われる。高知県土佐郡本川村にある地蔵堂の鰐口には「文明3年(1471)に「村所八十八ヶ所」が存在した事が書かれている。 ということはこの時以前に四国霊場八十八ヶ所が成立していた、ということだろう。遍照一尊化も室町末期のことであり、四国遍路の成立が室町末期と言われる所以である。
貞亭4年(1687)に真念よって書かれた四国遍路のガイドブックである「四国邊路道指南」も室町期にほぼ固まっていた88か所がそのベースにある、という。
〇四国八十八霊場の宗派
様々な信仰が重なり合って成立し、大師一尊化により真言宗の祖・空海と同一視されてもいる四国八十八ヶ所の霊場であるが、現在でも天台宗が4ヵ寺、臨済宗が2ヵ寺、曹洞宗が1ヵ寺、時宗が1ヵ寺もある。
大師一尊化が進む以前は四十番観自在寺がかつては天台宗であり、四十九番の浄土寺はその名の示すが如く浄土宗であり、五十一番の石手寺ももとは法相宗。また四つの国に1ヵ寺ずつある国分寺は華厳宗であったように、大師一尊化以前はさらに真言宗以外の霊場が多かったものと思われる。
さらに神仏習合の時代は、愛媛の五十五番札所が大山祇神社であったり、香川の六十八番札所が琴彈八幡宮であったりと、10ほどの神社が札所ともなっている。霊場がさまざまな信仰が重層的に発展して形成された所以である。

境内の標石
表参道の石段を上がり切った右側に「六十八番 くわんおん寺 二里」と刻まれた標石。
境内左手に手印と共に「小松尾寺」」と刻まれた標石がある。これもどこかららか移されたものだろう。


また、境内右手,庫裡の敷地に2基の道標がある。門は閉じられ中に入ることはできないが、板塀の間から道標は確認できた。
ひとつは真念道標。「左 へん路みち 願主真念 為父母六親 施主讃岐」と刻まれる。もう一基には「左 へん路ミち」と刻まれる、「という。

二回に分けてメモした六十六番札所 雲辺寺から六十七番札所 大興寺への歩き遍路もこれでおしまい。次回は六十八番札所 観音寺に向かう。



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