2019年1月アーカイブ

平成30年(2018)の5月、愛媛県四国中央市にある六十五番札所から香川県と徳島県の境を画する阿讃山脈の山中、標高910mの高所にある六十六番札所雲辺寺まで歩いた。平成29年(2017)の冬、予土国境からはじめた伊予の歩き遍路の締めくくりとして、三角寺から雲辺寺への三つの遍路道()を辿り伊予の遍路道繋ぎの旅の大団円としたわけである。

これをもって当初予定していた愛媛の遍路道、それも道標を目安にできるだけ旧遍路道を辿る散歩を終え、それでよし、と思っていたのだが、今となって雲辺寺から先、讃岐の遍路道を辿ってみたくなった。
ほぼ半年ぶりに歩き遍路を再開する。今回のルートは雲辺寺から阿讃山脈を下り四国遍路の「涅槃の里」、讃岐平野にある六十七番札所 大興寺大興寺まで、おおよそ10キロ弱の遍路道である。


本日のルート;六十六番札所 雲辺寺>雲辺寺山無線基地局>下山口>萩原寺分岐>「みき邊路道」標石>遍路墓(阿讃縦走路分岐点)>六十六部供養塔>二丁石>六丁石>七丁石>九丁石>丁石(拾丁目)>十一丁石>十二丁石>十三丁石>十五丁石>十六丁石>十九丁石>「四国のみち」木標(大興寺まで6.4km)>「一升水」案内>「四国のみち」木標(大興寺まで5.7km)>林道交差>広域幹線林道・五郷財田線と交差>旧遍路道

雲辺寺ロープウエイ
先回歩き終えた雲辺寺へと向かう。阿讃山脈の山中、標高910m地点に位置する雲辺寺までは観音寺市の大野原から雲辺寺まで上るロープウエイを利用する。高松道を大野原インターで下り、途中、香川用水散歩の時に出合った萩原寺を経てナビのガイドで雲辺寺ロープウエイ乗り場に。
常の如く単独車行。雲辺寺から山道を下った後は、この車デポ地まで一度戻ることになる。4キロほど車回収に歩くことになるが、仕方なし。

ロープウエイ片道チケットを購入。ゴンドラにはスキーやスノボー姿の人が。雲辺寺山にスノーパーク雲辺寺が地図に載っていた。昭和64年(1989)開業、全長2594m、標高差652mを上るゴンドラは山稜遥か高所を進む。高所恐怖症には少々辛い。

六十六番札所 雲辺寺
ロープウエイを下り雲辺寺へ向かう。道はすぐに香川県境を越え徳島県に入る。香川県最初の札所雲辺寺の本堂は徳島県にある。その理由ははっきりしないが、江戸の頃には阿波藩領にある雲辺寺が既に讃岐の関所寺とみなされていたようである。あれこれの顛末は、先回散歩のメモをご覧いただくこととして先に進む




五百羅漢
本堂への道の両側に幾多の五百羅漢像が並ぶ。仏陀に寄り添った500人の弟子・最高の修行者とも称されるとすれば、五百の石造があるのだろう。中国の福建省で造られたとか、空海が修行した福建省の五百羅漢院の羅漢像を模したものとか言われる。先代住職の発願により、平成10年(1998)より七年の歳月をかけ造られた、とのことである。
そのためだろうか、涅槃像傍には、いかにも中国風の石塔も立つ。

山門脇の茂兵衛道標
本堂にお参りし、先回見落とした山門傍の茂兵衛道標を確認。道標とともに「旅うれし只ひとすじ尓法の道(たびうれし ただひとすじに ほうのみち)との添歌が刻まれる。
山門は本堂傍、愛媛からの遍路道に続く参道にあったものを建て替えたようで、結構新しい。山門前から雲に覆われた徳島側、吉野川の谷筋を覆う雲を眺める。香川県側は雲ひとつなかったのだが、阿讃山脈を境に全く異なった景観を呈していた。
大師乳銀杏
「四国のみち」の案内と思しき「大興寺 9.2粁(キロ)」の標石に従い大興寺への下山道に向かうとすぐ、大師乳銀杏の案内。「巨大な木を乳銀杏と言う。乳のでない人のため弘法大師が銀杏の苗を植え、乳がでるように念じた。と、木の幹を削り煎じて飲むと乳がでるようになった」とある。
推定樹齢1200年の古木。初代は株だけ。子孫の三本の銀杏がそれを囲む。幹から垂れる気根が乳に似ている故の命名とも。

雲辺寺山無線基地局:9時49分
ロープウエイ山頂駅からお寺さまへのアプローチ道だけでなく、下山口に向かう道の両側にも幾多の五百羅漢。通常五百羅漢は山域の広い範囲に建つことがおおいのだが、ここには途方もない数の羅漢像が集中している。どうも山崩れを避け、引っ越ししたようである。
それはともあれ、道を進むと雲辺寺山無線基地局。NTT、KDDなどの無線中継基地のようである。里から見える雲辺寺のパラボラアンテナなどがこれであろう。雲辺寺本堂からおおよそ10分のところにある。

下山口;9時53分
無線基地局から4分程進むと四国の道の木標、石柱などが立つ。歩き遍路道左の案内がある分岐箇所の左側に石の道標。「小松尾寺へ七十二丁」と刻まれる。明治44年(1911)に立てられたもの。小松尾寺は67番・大興寺のこと。小松尾の地にあるが故である。遍路道は左に入る土径となる。

萩原寺分岐;9時59分
6分ほど進むと道の左手に木柱があり、手前の板札には「萩原寺 ロープウエイ」との手書き文字。ここから左、ロープウエイ下の沢筋に下りロープウエイ山麓駅を経て荻原寺へと行くのだろう。山地図にはルートが描かれていないが歩いた方のブログもあった。
その木柱の右手に2基の道標。手印とともに「小松尾道 大正十四年」と刻まれた道標と「一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。

「みき邊路道」標石:10時6分
5分ほど進むと、道の左手に「みき邊路道」と刻まれた小さな標石がある。

遍路墓(阿讃縦走路分岐点);10時16分
更に10分ほど進むと右手が開ける。左手に県境尾根筋が続くようだ。六地蔵越えに続く阿讃縦走ルートではあろうが、特に案内はない。分岐箇所、木の脇に遍路墓があった。備前の遍路が眠るという。
不動明王が彫られた舟形地蔵と三丁石もあるといった記事もあったが、見当たらなかった。

六十六部供養塔:10時21分
5分ほど下ると木の傍に六部供養塔。「奉納六十六部中供養 明和元年」とともに、「右へんろ 左*き原 道」の文字も刻まれる。標石ともなっていた。
「*き原」?大野原字萩原(はぎわら)だろうか。とすれば、先の萩原分岐と同様、この辺りからも萩原へと下る道があった(ある)のだろうか。標石上部にくっきりと浮き出た仏坐像が印象的。
六十六部
六十六部とは、全国六十六箇所の霊場に大乗妙典を奉納する目的でおこなわれた巡礼、もしくは巡礼者を指す。日本廻国とも称され、巡礼者を六部とも略した。文字に刻まれた「中供養」とは、廻国途中になんらかの機縁が生じ建立したものを意味するようだ。

二丁石:10時30分
次いで「二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。距離からすれば一丁石から離れすぎている。どこからか移されたものだろう。この下山ルートは昭和61年(1986)頃、「四国のみち」として整備され、それ以前の山道とは様相が変わったようである。移転はその際のことだろうか。
四国のみち
歩き遍路や山歩きをしていると、折に触れて「四国のみち」の木標に出合う。よくよく考えると、「四国のみち」って何だろう?チェックすると、「四国のみち」とは歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1,300km)と、自然指向の環境省ルート(約1,600km)の総称。環境省ルートは「自然遊歩道」が正式名称であるが、ルートは重なる道筋も多く、まとめて「四国のみち」と称されるようだ。
環境省ルートは、「四季を通じて手軽に楽しく、安全に歩くことができる自然遊歩道」として整備されたのはわかるのだが、何故建設省が?そこには道路整備だけでなく、自然派志向の世論もあり、昭和52年(1977)以降「自転車道」「歩道」の整備をも重視することになった背景があるようだ。
この建設省ルートは基本遍路道を基本としながらも、既存道路の利用という前提もあり、札所を結ぶとはいいながら遍路道との重なりは6割弱とのこと。国道、県道、市町村道、林道整備がその主眼にある故ではあろう。
上に建設省ルートが歴史・文化指向といった意味合いは、札所や遍路道の歴史的・文化的価値を見出し、モータリゼーションの発展にもない、昭和59年(1984)には15万人もの人が訪れるおとになった四国遍路を観光資源としてそれを繋ぐ道を整備していったようにも思える。

六丁石;10時35分
「雲辺寺1.5km 大興寺8.1km」と書かれた「四国のみち」の木標の傍に立つ。









七丁石;10時39分
「七丁」と「念仏供養」の文字がはっきり読める。そもそも幾多の仏の中で、何故に地蔵菩薩が丁石として登場するのだろう。
地蔵菩薩の菩薩とは、仏の位で言えば、如来>菩薩>明王>天部にあり、もう少々徳を積めば最高位の如来になれるポジション。人を救うといった誓願をたて現世に留まり徳を積んでいる仏であるが故に、最もポピュラーな仏さま。その故だろうか。そのうちに調べてみたい。

九丁石:10時46分
この丁石には錫杖を抱いた地蔵菩薩が彫られる。錫杖をもつもの、持たないもの、錫杖も右肩・左肩(右手は錫杖、左手は如意宝珠)など舟形(光背)地蔵もその姿は様々だ。
地蔵菩薩、野辺に佇むお地蔵さんとして身近な存在であるが、もともとは結構有り難い仏さま。仏陀が寂した後、次の仏陀(弥勒菩薩)が現れるまでの間、現世に留まり六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅・人道・天道)を輪廻する衆生を救済してくださる。
地はサンスクリットの「大地」、蔵は「胎内」から。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる(wiki)。

丁石(拾丁目):10時54分
上部が破損。ふたつに分かれた舟形地蔵丁石の上部に「拾丁目」と刻まれ、下部には「享保五年庚子七月廿四日」、そして「片桐市**」といった文字が刻まれる。「目」があったり、日付があったり、奉納者らしき人名があったりと、この丁石は他のものと少し異なっている。

十一丁石:11時
傍に「雲辺寺2.1km 大興寺7.5km」と書かれた「四国の道」の木標がある。







十二丁石:11時9分
「へんろみち」の説明ボードの傍にある。木のベンチもある。








十三丁石:11時14分
この辺りが雲辺寺から里に下りるまでのおおよそ半分。標高は600mほど。おおよそ300m下ってきたことになる。









十五丁石:11時25分
「雲辺寺2.7km 大興寺8.9km」と書かれた「四国の道」の木標傍にある。「大興寺 8.9km」としか読めないのだが、距離が増えるのはおかしい。6.9kmであれば理屈に合うのだが。







十六丁石:11時30分
左手が開け、木のベンチがある傍に立つ。








十九丁石:11時41分
木のベンチ手前に立つ。丁石はここから里に下りるところまで見つけることができなかった。まったくないのは不自然。「四国のみち」整備の際にでもどこかにまとめられたのだろうか。または、この辺りから旧遍路道は「四国のみち」とは別ルートであったのだろうか(これは妄想)。


「四国のみち」木標(大興寺まで6.4km)
19丁石から2分程下ると「四国のみち」の木柱。「雲辺寺3.2km 大興寺6.4km」とある。先ほどの「大興寺8.9km」は何だったのだろう。見間違い?



「一升水」の標識:1154分
空は更に開け、「へんろみち」の説明ボード(11時47分)を越えた辺りからは里が全面に開ける。地形図を見ると鞍部になっていた。
鞍部の先、449mピークの手前で軽く右に折れ、数分歩くと「四国のみち」の木標がある。「雲辺寺3.5km 大興寺6km」と記された木標傍の木柱に「一升水」と記される。
特に案内はないのだが、地図を見ると先ほどに鞍部に向けて沢が切り込んでいる。このあたりに滾々と湧き出る湧水でもあったのだろう。

辺りは木のベンチも整備された休憩所となっており、鰻淵の案内ボードもあった。鰻淵は遍路道の東側の谷で、林道から少し入ったところにある、と記される。林道は東の谷・沢筋が注ぐ粟井ダム湖縁に見える林道のことだろうか。不明である。
なお、この地には「坂瀬山林区財産境界」と記された石も立つ。坂瀬山林区が入会権をもつ山林という事だろうか。財産はこの場合、山林を指す。
一升水
散歩の折々で一升水に出合う。四国中央市の土佐北街道・横峰越え、香川の箸蔵道などで出合った一升水が記憶に残るが、共に弘法大師空海ゆかりのものであったが、この地の一升水は?

「四国のみち」木標(大興寺まで5.7km):12時6分
道端に「第125号」と書かれた石柱(11時57分)。何だろう?少し下ると「四国のみち」の木標。大興寺まで5.7kmとある。更に下ると石柱(12時10分)。摩耗が激しく手掛かりがない。これまた何だろう。
はっきりはわからないのだが、この辺りには陸軍用地の標石が残ると言う。大野原内野々一帯には陸軍第11師団の広大な雲辺寺陸軍演習場があったようであり、形からすれば各地に残る陸軍用地境界石と似ているようだ。「第**号」も陸軍境界石に記されるパターンではあるが、共に不明である。

林道交差;12時34分
陸軍境界石らしき石柱から20分ほど下ると舗装された道に交差する。粟井ダム方面を結ぶ林道だろう。林道を隔てた北側に「四国のみち」の木標が立つ。
「大興寺5.1km 雲辺寺」4.5km」と書かれた木標傍に遍路道直進との矢印がある。地図を見ると、一筋北に東西に走る林道がある。道を横切り先に進む

広域幹線林道・五郷財田線と交差;12時40分
前に広がる里の景色を見ながら数分下ると舗装された道に出る。ここが雲辺寺への登山口だと思う。雲辺寺から5キロ弱の山道をおおよそ3時間で下ってきたことになる。
遍路道が林道との交差する箇所に「四国のみち」の木標が立ち、「雲辺寺4.6km」, 「大興寺5km 雲辺寺3.3km 五郷ダム4.8km」と記される。何故唐突に「五郷ダム」?
どうもこの林道は広域幹線林道・五郷財田線のようだ。三豊郡財田町灰倉からこの地を越えて雲辺寺ロープウエイ山麓駅前を経て五郷ダム方面へと進む(林道起点はこちら側)故の「五郷ダム」の案内だろう。
この交差箇所に旧遍路道の案内もある。手書きの案内は消えかけており。うっかりすると見逃してしまいそうな案内ではあるが、指示に従い左折する。

旧遍路道;12時49分
林道を10分弱西に進み、池を越えたあたりに旧遍路道右折の案内がある。遍路道は右に折れ里に下るが、ここで遍路道歩きは一時中断。単独車行の原則としている、山道を下り車道に出たところで車デポ地へ戻るというルールに従い、車デポ地である雲辺寺ロープウエイ山麓駅まで4キロ弱を戻る。

散歩のメモも今回はここでお終い。里道を大興寺まで辿る遍路道メモは次回に廻す。雲辺寺から里までの遍路道は、「四国のみち」として整備されていたこともあり、至極快適な下りではあった。
利根川東遷事業により瀬替えされた元の利根川本流(古利根川)を辿る散歩も、その東遷事業の嚆矢となる羽生市の会の川締め切り跡(異説もある)からはじめ、東遷事業により源頭部を失った元の利根川(古利根川)の廃川跡、といってもその廃川跡はその後の新田開発のため葛西用水、また葛西用水の送水路として大落古利根川となって整備されているのだが、ともあれ、その廃川跡を春日部まで下り、春日部で大落古利根川を離れ古利根川筋である古隅田川に。古隅田川筋を辿り大落古利根川筋から元荒川筋に移り、越谷を抜け元荒川が中川に合流する吉川市へと下って来た。

で、今回から下る中川であるが、この川は昔からあった自然の川ではない。利根川東遷事業により取り残された河川を利水のために繋いだ人工の川である。大雑把に言って、上流部は利根川東遷事業によって取り残された島川や庄内古川と言った幾つかの河川、下流部は東遷事業以前に江戸に流れ込んでいた利根川本流である古利根川筋を繋いで整備されたものである。
上流部では廃川となっていた権現堂川の河道を整備し島川と繋ぎ、権現堂川筋から庄内古川は新たに6キロほど開削し両河川を繋いだと言う。
下流部では元荒川が中川に合流する吉川の少し上流で、庄内古川と大落古利根川を繋いだ。元は江戸川に落としていた庄内古川の水を、その水捌けの悪さ故に落とし先を大落古利根川に変え、松伏の大川戸から下赤岩までの4キロ弱を開削し両川を繋いだわけである。
これらの工事は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて実施されたようであり、中川の誕生はそんなに昔のことではないようだ。
因みに、かつての利根川の主流は春日部から古利隅田川筋に流れていたようであり、古隅田川以南の大落古利根川は支川といったもの、といった記事をどこかで目にしたことがある。ということは、古隅田川との分岐点以南の大落古利根川も庄内古川との繋ぎ分岐点まで、上記工事期間中に開削・整備工事がなされたということであろうか。
それはともあれ、現在では中川となっている古利根川筋を吉川から八潮に向けて下ることにする。

本日のルート:武蔵野線・吉川駅>新中川水管橋>東京電力送電線・小松川線鉄塔>道庭緑地>二郷半領用水>彦糸公民館の庚申塔>七芳弁天社>内田排水樋管>中堰排水樋管(排水機場)>ガス導管専用橋>八潮排水機場傍の石塔>八潮排水機場>中川合流点の綾瀬川放水路・八潮水門>久伊豆神社>八条用水>葛西用水(南部葛西用水)と合流>ふれあい桜橋>葛西第一水門>小溜井引入水門>成田エクスプレス・八潮駅

武蔵野線・吉川駅
先回散歩の最終地点である武蔵野線・吉川駅に。南口に降り、成り行きで中川筋に向かう。
吉川は葦川(あしかわ)から。葦の生い茂る川。あし>悪し、と語呂が悪いからと、よし(良し)かわ>吉川に。するめ>あたりめ、亀無し>亀梨(なし)>亀有と転化したものと同じ命名パターン。
ついでのことながら、本日の目的地である八潮は八条・八幡村と潮止村とが合併し、両者痛み分けの八潮に。この命名法も市町村合併時によくあるパターンである。
八潮は海抜2m。潮止村は東京湾の潮がここまで遡上してきた故の村名。潮止橋の名が残る、と言う。
武蔵野線
横浜市鶴見区の鶴見駅と千葉県船橋市の西船橋駅を結ぶ。鶴見駅と府中本町間(武蔵野南線)は臨時列車を除き基本貨物専用線、府中本町と西船橋間は貨物・旅客兼用路線となっている。なお、西船橋から京葉線と繋がり東京まで結ばれている。
この路線は元々山手貨物線(現在の湘南新宿ラインが走っている線路)の迂回路線として戦前に企画されたが、戦争で計画は凍結。戦後になり昭和39年(1964)着工、昭和48年(1973)に府中本町・新松戸間が貨物・旅客兼用として開通。昭和51年(1976)には府中本町・鶴見間が貨物専用線として開通。昭和53年(1978)には新松戸・西船橋間が旅客専用線として開通した。
当初の府中本町・新松戸間は貨物線がメーンとしてスタートしたが、貨物輸送の減少・近隣地域の人口の増加に伴い、現在では旅客輸送が増便されている。 一方、府中本町・鶴見間の通称武蔵野南線は基本的に貨物専用である。昭和42年(1967)新宿駅構内でジェット戦闘機用燃料を積んだ貨物列車の脱線・炎上事故が起きた。当時、立川にある米空軍基地のジェット戦闘機用燃料は山手貨物線を経て輸送されていたわけだが、都心での爆発事故の教訓から郊外を走る武蔵野貨物線の完成が急がれたようである。現在では米軍のジェット戦闘機用燃料は武蔵野南線・南武線を経由し拝島から横田基地へ送られているようである。

新中川水管橋
木売地区を進み中川の堤に出る。木売地区から高富地区に下る。上流は武蔵野線の鉄橋、下流には4連続アーチの橋が見える。近づくと橋の両側に水管が見える。水管橋であった。
新中川水管橋と称されるこの橋は、新三郷浄水場から県南東部へ水を送る。左岸吉川市から右岸越谷市側へと水を送るこの水管橋は、人が渡れる人道橋ともなっていた。
地盤沈下を避けるため江戸川より取水した新三郷浄水場の水は、三郷市、吉川市、草加市、越谷市、川口市、八潮市の約110万人に水道水を供する。
木売(きうり)
「地名のおこりは明らかではないが、古利根川沿いの自然堤防にあって早くより開けていたと思われ、一時的な領土の境界が近くにあって、その境としての柵(キ)とか城(キ)があり、ウリを浦(ウラ)と解せば、河や水の引いてあるところ、柵浦(キウラ)とすれば川が境界とするところと解釈ができ、その後に木売の字を用いた説と、舟着き場として木材の集散地として起こった説があるが、両方の説も明らかではない(吉川市のHP)」

東京電力送電線・小松川線鉄塔
高久、中曽根、道庭(どうにわ)と下る。道庭地区の南端、地図に中川に繋がるような水路跡がある。が、その地に至るも中川に排水口とか取水口といったものは見えない。また、水路も見えず柵に囲まれた緑地となっており、そこには一直線に東に延びる送電線鉄塔が並ぶ。逆の中川右岸には、遮るものとてない平野に送電線鉄塔が連なる。
送電線はどこからどこへ続くのだろう。何となく気になりチェックする。東京電力送電線・小松川線鉄塔と呼ばれるようだ。東京電力送電線・小松川線は北葛飾変電所から小松川変電所まで130の送電線鉄塔で電気を送る。??川市にある北葛飾変電所からスタートし、吉川市>三郷市>??川市>(中川を跨ぎ)>草加市>(綾瀬川を跨ぎ)>八潮市>(中川を跨ぎ)>三郷市>東京都葛飾区>(江戸川を跨ぎ)>千葉県松戸市>(江戸川を跨ぎ)>東京都葛飾区>東京都江戸川区>小松川変電所へと続く、とのことである。
小松川変電所のある東京都江戸川区を結ぶには真すぐ南に進めばいいものを、あっちこっちと進むのは、途中の変電所や他線への分岐などがその要因だろうか。
北葛飾
北葛飾変電所の由来は、往昔の北葛飾郡からの命名だろう。古代の下総国北葛飾郡が江戸の頃、利根川東遷事業により利根川の西となり、武蔵国に編入される。さらに明治の頃、その北部の埼玉県域を北葛飾郡、東京府域を南葛飾郡とした、と。
高久(たかひさ)
「地名のおこりは明らかではないが、高久の久を(ク)と呼ぶことによって、潰れる、切れるという意味があるようで、これらを引用すると古利根川の荒れるがままに、たびたび堤防が切れたりすることがあり、久しく高い所であってほしいという語をもって前の地名を高久の字をもって変えたことがあったのではないかと思われるが、前の地名が残されていない現在では地名を想像するしかない(吉川市のHP)」
中曽根
「中曽根のソネの意味には岬の意味があるところからすれば、古くは東京湾がこの近辺まで入り込んでいたころには小さな美しい岬を、あるいは古利根川の流域の変遷による河川の分岐点としての一つの岬をなしていたのではないかと思われる(吉川市のHP)」

道庭緑地
水路は見えず、代わりに送電線鉄塔が並ぶ緑地が気になりちょっと立ち寄る。地図で見れば水路は二郷半領用水と繋がっているように見える。送電線鉄塔が水路上に建つとも思えないが、緑地がどこで切れているのだろう?との好奇心から。 桜並木となっている緑地を進むが、水路が現れる気配はなく、結局二郷半領用水にあたるところまで水路が開くことはなかった。
地理院地図にある水路は?
この緑地は道庭緑地と呼ばれ、吉川市と三郷市の境となっている。それはそれでいいのだが、地理院地図に記されている水路は?地図では二郷半領用水と繋がっているように見えるが、中川に吐口はなかったように思う。
二郷半領用水の支川ではなく、中川堤防側から二郷半領用水に水が流れていたのだろうか?が、明治中期に作成された関東平野迅速図にも水路の記載はない。 地理院の治水地形分類図を見ると、この水路(?)の中頃の南北は自然堤防に囲まれた氾濫原として示されている。氾濫原に溜まる水の吐口・悪水落としの水路だったのだろうか?まったくわからない。
ついでのことながら、送電線鉄塔用敷地としての整備がいつ頃実施されたか定かではないが、地理院の「空中写真〈1984〉」にはそれらしき敷地が見える。
道庭(どうにわ)
「古くはドバと呼んだのを後世に道庭の文字をあてたものと思われる。ドバの意味には平らな地形という意があり、おそらくは古利根川沿いの砂地で流域の変化によってできた自然堤防上の平地をなしていただろうことが推測される(吉川市のHP)」

二郷半領用水
送電線鉄塔敷地は県道67号で途切れるが、その先も武蔵野線辺りまで続く。武蔵野線を越えた送電線鉄塔はその先で北に折れ大場川手前の北葛飾変電所へと続く。
それはともあれ、県道67号と合わさる送電線鉄塔敷地の北に二郷半両用水が見える。用水は緑道となっており、県道を越え緩やかな弧を描き南へ下る。弧を描く理由は?地理院の治水地形分類図には氾濫原と自然堤防の境が弧を描く。用水路はその境に沿って下る。分水を容易にするため、少しでも標高いところを選んだ流路となっているのだろうか。
緑道に「二郷半緑道」の案内。「由来 吉川市や三郷市の二郷半領用水路一帯は、かつて「二郷半領」と呼ばれ、三輪野江地区にある定勝寺にある銅鐘(寛文9年〈1669〉制作)の銘文中に、「吉川、彦成ノ二郷アリ諸邑戸コレニ属ス。而シテ彦成以南ヲ下半郷ト称ス。故ニ二郷半ノ名」とあり、二郷半領の由来が刻まれています。
経緯 この地域は江戸幕府の直轄領であり、早稲米の産地として栄え、収穫したコメを江戸に運ぶため、中川を利用した舟運で大いに賑わいました。
しかし、中川・江戸川に挟まれた低地であるため、度々水害に悩まされていました。このため、幾多の灌漑排水事業を行ったことにより、豊かな穀倉地帯となりました。
この二郷半緑道は、国営利根中央農業利水事業の水路整備に伴い、余剰地を有効に活用し、憩い安らげる場所として整備された緑道です」とあった。
●二郷半領用水の取水口
現在の主取水口は松伏町大川戸の二郷半領揚水機場(平成15年(2003)から)。水源を利根大堰に求め、用水は埼玉用水路、葛西用水路を経由して一旦大落古利根川に注水する。これを大落古利根川に新設した二郷半領用水機場で取水し吉川市、三郷市へと進み、三郷放水路を越え、第二大場川と合流した先で大場川と合流する閘門橋(猿又閘門)へと下る。
寛永年間(1624~43)に開削された当時の二郷半領用水の取水口は、現在の野田橋辺りの江戸川右岸にあった。この地で自然取水されていた用水も、昭和14年(1939)頃から江戸川の水位の低下により取水が困難となり、昭和21年(1946)から26年(1951)にかけて県営かんがい排水事業により中川に渇水時用の機場を設けることになる。
その後、この中川の機場も老朽化のため取水に支障をきたし、昭和42年(1967)に県営事業により、江戸川の取水口の改修をおこない、また揚水機4台を新設し再び江戸川から取水することになった。
しかし、その後も江戸川の河床低下は続き、水位低下により不足する水量は中川の機場を暫定的に使用して補ったようであるが、江戸川から取水する揚水機場の老朽化・施設の廃止もあり、安定的な水源確保のため新たにその水源を利根大堰に求め、現在に至る。
二郷半と三郷
二郷半とは、かつてのふたつの郷(郷はいくつかの村を合わせたもの)と、郷とするには少々戸数の少ない故の半郷を合わせたものとのことであった。
で、二郷半領と三郷、けっこう近い。二郷半領と三郷の関係は?まったく関係なし。昭和31年(1956)に三つの村が合併するに際し、三村からの「三」と、二郷半領であった故の「郷」を合わせて三郷村とした、と。
三郷団地
ゆるやかにカーブする二郷半領用水の東、自然堤防上に三郷団地(現在はみさと団地)が並ぶ。昭和48年(1973)より入居が開始された日本有数のマンモス団地である。ピーク時には2万3千余りの入居者がいた、とのこと。
それはそれでいいのだが、通勤の足。上の武蔵野線のメモで、昭和48年(1973)に府中本町・新松戸間が貨物・旅客兼用として開通したと記した。が、この当時現在の新三郷駅はなく、貨物の武蔵野操車場があった。通勤の足は武蔵野線・三郷駅へのバスであったようである。
駅ができたのは昭和60年(1985)。貨物操車場を廃止したためだが、開業当時の駅は、広大な操車場の南北に分かれ、上下線のプラットフォームは300mも離れていたようだ。世界一離れたプラットフォームとして平成6年(1994)にはギネスに登録されている。上下線がひとつにまとまった駅(北側に合わせる)となったのは平成11年(1999)のことである。現在操車場敷地跡には商業施設が建っている。

彦糸公民館の庚申塔
二郷半領用水で折り返し中川筋に戻る。成り行きで中川筋への道を進むと、途中「実相院・東福寺」と記された建物があった。敷地内にはお堂や石仏が並ぶが寺はない。廃寺となり現在三郷市彦糸公民館となっていた。敷地東には七芳弁天社があり、東福寺は七芳弁天社の別当寺とのこと。敷地は東福寺の跡地とも言われる。
境内の観音堂、地蔵堂にお参り。並ぶ石仏の中に青面金剛が刻まれた庚申塔があった。憤怒の形相の青面金剛が多いが、この像は穏やかな顔である。台座に刻まれた三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)がはっきり見える。何故に庚申塔に三猿?またそもそも何故に庚申塔に青面金剛?
庚申塔と三猿
庚申塔と三猿の関係は?庚申(かのえさる)からとも、また庚申の夜、天帝に宿主の罪を告げ口する三尸(さんし)の虫に己が罪を見なかった、聞かなかった、そして告げ口しないで、との願いから、とも。
道教では人には魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)という三つの霊が宿る、と言う。宿主が亡くなると魂(コン)は天に、魄(ハク)は地下に戻る。幽霊の決まり文句「恨めしや~、コンパクこの世にとどまりて恨みはらさずおくものか~」のコンパクがそれ。
三尸は宿主が亡くなると自由になれるとされる。自由になりたいがため、宿主がむなしくなることを待ち望むわけだ。この三尸、旧暦の60日ほどで一回というから、年に6,7回巡りくる庚申(かのえさる)の日、人が眠りにつくと宿主の体を抜け出す。天帝に宿主の罪を告げるためだが、そのレポートにより天帝は宿主の寿命を決める、とか。
宿主をむなしくし、はやく自由になりたい三尸に、あることないこと告げ口されたらかなわんと、人は寝ないで朝を迎えた。これが庚申待ち。眠らなければ三尸は体を抜けだすことができないためである。
庚申塔と青面金剛
で、庚申塔と青面金剛の関係は? 道教の天帝を仏教では帝釈天とみなすようであり、青面金剛がその帝釈天の使者であるが故と。また三尸の語呂合わせでもないだろうが、伝尸病(でんし;結核)に霊験あらたかとされるのが青面金剛であった故、とも。

七芳弁天社
彦糸公民館の西隣に七芳弁天社が祀られる。付近には三郷七福神巡りの幟が並んでおり、小振りではあるがこの七芳弁天社がそのひとつであろうかと思ったのだが、どうもそうではないようだ。そこから少し北東、道庭緑地に面した安養寺に弁天社が祀られる。
三郷七福神は3つの地区に分かれており、ここはそのひとつである「彦成巡り」のコースであった。
彦糸
この地区は「彦糸」、七福神巡りは「彦成巡り」。三郷には「彦」がつく地名が多い。地図を見ると彦糸、彦音、彦成、彦名、彦川戸、彦倉、彦沢、彦江などが目につく。おおよそ中川に沿って連なる。
由来は、引く>連なるにあるようだ。中川(元の利根川)と江戸川にはさまれた低地である三郷は、流路定まらぬ河川の氾濫により自然堤防や後背湿地が発達し連なっている。このような連なる自然堤防・後背湿地よりなる〈成る〉という地形から彦成村が出来、その大字として彦を冠した地名がつくられたようである。
自然堤防が連なるところは、この三郷以外にも数多くあるのだが、こういった命名パターンははじめて。何故にこの地だけに?わからない。

内田排水樋管
中川筋に戻り堤防を少し下ると内田排水樋管のプレートがある水門がある。堤防に向かって住宅の間を排水路が通っている。上述の道庭緑地の箇所には吐口がなかったが、ひょっとしてここに落としている?
あれこれチェックすると、埼玉県の作成した「川の国 埼玉はつらつプロジェクト「二郷半領用水地区」」の地図には水路と繋がる内田川という小川が記されている。そこから繋がっているのだろうか。そうであれば、上述の道庭緑地に記された「消えた」水路は、東の二郷半領用水へ水を落とすのではなく、二郷半領用水から分水された水が西へと流れこの地で中川に落とされることになる。
真偽のほどは別にして、あれこれと妄想を巡らすのは結構楽しい。

中堰排水樋管(排水機場)
彦音、彦成と下り県道29号八条橋の手前に中堰排水樋管の水門がある。堤防内部には中堰排水機場も見える。三郷市に限ったことではないのだが、低地部の治水施設はどうなっているのだろう?チェックすると三郷市には47の排水樋管、排水機場、調整池があった。
埼玉県南東部の中川・綾瀬川流域は、利根川、江戸川、荒川 に囲まれ、水がたまりやすい『お皿』 のような地形となっている。そのうちこの三郷市は東側に江戸川、西側には中川が流れ、市内を北から南に大場川さらに第二大場川が流れる。東側を流れる江戸川(の水位)が高く、そこから西側の地形は低いため、中川などの河川が増水した場合、水はけを行うことが難しく、たびたび氾濫が発生していた、とのこと。その治水対策として47もの施設が整備されている、ということだろう。

ガス導管専用橋
県道29号八条橋を渡り中川右岸に。市域は八潮市となる。中川に沿った土径に入り成り行きで進む。釣り人を見遣りながら外環道中川橋梁、それに並走する国道298号潮郷橋を潜り更に先に進むが、ブッシュが激しく撤退。ブッシュの向こうに見える水管橋らしき橋辺りまで行こうとしたのだが、諦めて右岸堤防に上がり県道102号に入ることにした。
メモの段階でチェックすると、ブッシュの先に見えたのは水管橋ではなくガス導管橋とのこと。東京ガスの工場から都市ガスを送る。首都圏には約640キロに渡る幹線が整備されているとのことだが、ガス管が地上に現れるのは結構珍しいのではないだろうか。

八潮排水機場傍の石塔
県道102号を南に下ると綾瀬川放水路にあたる。その手前、八潮排水機場の傍に4基の石塔が並ぶ。左端に青面金剛の彫られた庚申塔、その横に「庚申」と文字だけが刻まれた庚申塔がある。この文字庚申塔は道標ともなっており、側面に「江戸道」、右側面に「野道」と刻まれる。
下妻街道がすぐ傍を通るわけで、とすれば綾瀬川放水路工事の折に、他の2基の石碑と共にここに移されたのだろう。
下妻街道は、千住宿で水戸街道と日光街道と分かれ、荒川、中川、江戸川、利根川、鬼怒川を渡って下妻(茨城県下妻市)に通じる。

八潮排水機場
綾瀬川放水路手前に八潮排水機場。案内には「八潮排水機場は、人工的に開削した綾瀬川放水路と中川の合流点に位置しています。古くより大きな洪水を被っている綾瀬川流域一帯の被害を軽減するため、洪水流の一部を中川に排水等することを目的に建設されました」とあり、続けて「中川流域は、かつて利根川、荒川が、洪水のたびに流路を変え、昔から洪水被害に悩まされてきました。地形的にも利根川、江戸川、荒川の大河川に囲まれ、水がたまりやすい皿のような地形になっています。さらに、河川の勾配が緩やかで水が流れにくい特徴があり、ひとたび大雨に見舞われるとすぐには水位が下がらず、危険な状態が続いていました」との説明が中川・綾瀬川の地形断面図、草加市の洪水被害の写真と共にあった。
この断面図は八潮のあたりではあろうし、その比高差は異なるとは思うが、江戸川の水位は大落古利根川より高い。かつて江戸川に落としていた庄内古川(中川)の水を、水位の低い大落古利根川に落とすべく、現在の中川・大落古利根川合流点まで人工的に開削し中川を造ったということが、この断面図により少々のリアリティをもって感じることができた。




中川合流点の綾瀬川放水路・八潮水門
綾瀬川穂水路を渡り中川合流点へと川筋に向かい、八潮水門・八潮排水樋管を見る。
綾瀬川放水路は草加市の綾瀬川から八潮市の中川を結ぶ。八潮排水機場にもあったが、昭和57年(1982)、61年(1986)に綾瀬川が溢れ水に浸かった草加市域など綾瀬川流域一帯の治水対策事業の一環であろう。
放水路開削は東京外環道の工事に合わせ実施され、外環道の完成した平成4年〈1992〉に外環道に沿って北側水路、平成8年(1996)に南側水路が完成。八潮水門は平成10年(1998)に完成した。

久伊豆神社
綾瀬川放水路から先は中川筋を離れ、八条用水へと向かう。大落古利根川の松伏溜井から逆川を経て元荒川筋に入った葛西用水は、越谷の瓦曽根溜井で南部葛西用水と八条用水に分かれて取水される。南部葛西用水は南下し八潮で垳川(がけかわ)に注ぐが、八条用水は地図上で水路が消え去り、余水吐けがどこに繋がっているのかよくわからない(注:一旦水路が消えるが、メモの段階でよく見ると下流部に水路が描かれていた)。
であれば八条用水の末端部を確認してみようと八条用水に向かう。県道102号を少し南に進むと、道は南西方向に進路を変えるが、直進すると久伊豆神社が ある。どうせのことならと立ち寄り。八潮市の鶴ケ曽根地区に久あるふたつの伊豆神社が一つであった。
何度か久伊豆神社についてメモしたが、再掲。
祭祀圏マップ
鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』に、古き利根の流れの東は香取の社、西は氷川の社とその祭祀圏がくっきりと分かれ、その間、元荒川流域だけに80ほどの久伊豆神社が鎮座するマップがあった。 香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、久伊豆神社の由来はよくわからないと書かれていた。
未だによくわからないのだけれど、また誰が言っているわけでもないのだけれど、ちょっと妄想。
久伊豆神社は出雲の土師連ゆかりの社のようで、土師連の祖先神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命、と言う。天穂日命って、アマテラスの子供(「連」とは天孫系の氏族を意味する姓)。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった神さまである。
天孫・天津神系(大和朝廷)の香取と、国造・国津神(出雲族)の氷川の間に、天孫系(大和朝廷)でありながらも国津神(出雲族)の神・大国主と仲良くなった神を祖先神とする部族がいた、ということ、か。なんだか、なんだかおもしろい。

八条用水
県道102号に戻る。八條小学校前交差点で南下する県道102号から県道327号に乗り換え鶴ケ曽根地区から小作田地区へと進む。
吉川市のHPには、曽根(そね)は「岬」とあった。『角川地名大辞典』には曽根は自然堤防とある。川によって運ばれた砂礫の多い荒れ地を古語では「埇(そね)」という字をあてている。そこからの転化だろう。岬も自然堤防の一形状であろう。
小作田は湿地の間にある小さな水田という。国土地理院の治水地形地図を見ると、鶴ケ曽根は自然堤防、小作田は後背湿地となっている。地形を表した地名となっている。
暗渠に
南に下るとほどなく用水は暗渠となる。地図で水路が消えているのはこのあたりだろう。緑町一丁目・二丁目の辺りで暗渠は左に分かれる道筋に沿って進む。 少し下った中央一丁目西交差点で用水は先ほど分かれた県道102号に合わさり、交差点で南に折れる県道の道筋に沿って用水も南に下る。
県道102号が県道54号と交差する中央交番前交差点で用水は県道102号と分かれ、民家の間の狭い路地を下る。
開渠に
民家の軒先を進む。どこに連れていかれるのか、用水の落としを何処で、どうやって処理するのか、ちょっとワクワクしたのだが暗渠は直ぐに開渠となって、開けた道筋を下ることになる。
八条用水の流路をチェックしたとき、地図にあるこの開渠部を見落とし、今回の八條用水末端部探索とはなったわけである。

葛西用水(南部葛西用水)と合流
開渠に沿って下り首都高速6号線の高架を潜ると用水は葛西用水(南部葛西用水)に合流する。散歩当日は地図上で開渠になっていることを見逃しており、八条用水は結構大きく、この余水吐をどこで・どう処理するのかと、末端部へと辿ったのだが、ちょっとあっけない、というか至極まっとうな始末ではあった。

ふれあい桜橋へ
葛西用水に沿って下り新葛西橋に。その先につくばエクスプレスの線路高架があるが、右岸も左岸も用水に沿っては進めない。左岸のふれあい桜橋へと向かう道路に沿って南に進む。
道路と葛西用水の間には、如何にも後背湿地といった箇所が残されていた。一帯は宅地分譲されていたが、分譲地の案内に記された調整池の多さが宅地造成される以前の後背湿地の名残を伝える。国土地理院の治水地形分類図にも、この辺り一帯は中川の自然堤防と綾瀬川・毛長川の自然堤防に囲まれた後背湿地・氾濫原と示されていた。

葛西用水が垳川に合流
橋の北詰にある「ふれあい桜橋」交差点を少し西に進み葛西用水に架かる橋に。右岸も左岸も葛西用水に沿って進めない。橋から葛西用水が垳川(がけかわ)に合流する箇所を確認し交差点に戻りふれあい桜橋に。
この橋は八潮市と東京都足立区の境となっている。古利根川散歩も羽生市から下りやっと東京都。はるばる来たぜ、と小声で叫ぶ(呟く)。



葛西第一水門
ふれあい桜橋を渡り、南詰めから垳川に沿った径・遊歩道に入り垳川の南側から葛西用水の合流部を確認。遊歩道を進むと水路があり水門が設けられている。水門は葛西第一水門という。往昔垳川を越え南に下った葛西用水の水門である。
この水門、現在は洪水時の水量調整以外は基本閉じられており、用水には南の花畑運河の水を流しているようだ。浄化のためだろう。花見で知られる目黒川の水が落合浄水場から送られる浄化された下水であることを想い起こした。玉川上水もそう。小川監視所より下流は昭島市の多摩川上流水再生センターで高度浄化処理された水を、玉川上水の浄化のために流している。散歩をするとあちこちで高度処理された下水で浄化がおこなわれる河川・用水に出合う。 それはともあれ、葛西用水を浄化するという花畑運河から送られた水がどこで用水に落とされるのか、次回の散歩で確認しようと思う。

小溜井引入水門
葛西第一水門のすぐ傍、葛西用水が垳川に合流する地点のすぐ上流に小溜井引入水門がある。これってどういうこと?葛西用水への導水溜井用であったとすれば(現在水門は閉じられているが)合流地点より下流でなければならないわけで、理屈に合わない。
チェックすると、元は綾瀬川の本流であった垳川筋ではあるが、江戸の頃には既に垳川筋が綾瀬川本流と切り離されている。洪水対策のため垳川との接続部下流が直線化工事を施され、綾瀬川は南に下る。
綾瀬川との接続部は閉じられた。その後、これも江戸時代に中川との接続部も閉じられ、垳川は川ではなく葛西用水の「溜め」となっていたようである。往昔綾瀬川接続部からこの水門までの「溜め」を小溜井と称した。
で、件(くだん)の水門であるが、現在は基本開けっ放しで水門の機能を果たしていない、とか。それはそれでいいのだが、その名称の小溜井引入水門の「引入」ってどういうこと?
左;葛西第一水門、中央;小溜井引入水門、右;葛西用水
さらにチェックすると、用水合流点の少し下流、ふれあい桜橋が架かる辺りにかつて葛西第二水門があった、とか。ここで用水を堰き止めれば、小溜井に必要に応じて水を引きいれることができるわけで、「引入」の疑問氷塊。
○旧小溜井排水機場・垳川排水機場
垳川の両端、綾瀬川との接続部に旧小溜井排水機場(平成7年(1995)に閉鎖された)、中川との接続部に垳川排水機場がある。排水機場と言う以上、垳川の水を両河川に排水していたことになる。これってどういうこと?
チェックすると垳川では葛西用水の合流点あたりが最も標高が高かったとのこと。垳川の水は排水機場を通して両河川に排水されていたようだ。
が、平成7年(1995)に旧小溜井排水機場閉鎖された。葛西用水合流部が最も水位が高いとすれば、東に流れる垳川の水は垳川排水機場のポンプ、また排水機場近くの稲荷下樋管の自然流下により中川に排水されるだろうからいいものの。葛西用水合流部から西、旧小溜井排水機場までの間は水が滞留し水質が悪くなる。実際その滞留環境の溜井には生活排水などが流れ込み水質が悪化したようだ。
その対策として平成20年(2008)より水質改善の実験的取り組みが行われ、潮の干満による水位差を利用して綾瀬川から垳川に通水、浚渫などが実施された。平成26年度(2014)からの本格的運用に際しては、通水量の問題、またそもそもの綾瀬川の水質の問題などが取り上げられているようである。
垳川
「がけかわ」と読むこの名の由来は?垳地区を流れるからであろうが、そもそも「垳」の意味は。この漢字は本来中国からもたらされた漢字ではなく、峠などと同じく日本で造られた国字とのこと。
「土」+「行(く)」>土が行く>土が崩れる>水がカケ(捌け)る様子が起源となり、水が流れるとき「土」が流されて「行」く、といった意味があるようだ。 現在、所謂「がけ」には崖という感じがあてられるが、江戸時代中期までは一定でなく、「崖」の他、「峪」、「岨」、「?」などの漢字があてられたという。が 「垳」もそのひとつであったよう。「崖」と言えば切り立った斜面のイメージがあるが、土が削り取られた結果としての形と思えばそんなに違和感はない。 垳という字は、垳川と垳という地名以外に使われることはないようだ。
「垳」がこの地に残る故、当用漢字として残されているが、「青葉」という地名に変わる可能性もあるとのこと。暴れ川の綾瀬川によって土が流された、といった地形のニュアンスを伝える地名が消え去るとすれば、ちょっと残念ではある。

本日の散歩はこれでお終いとし、最寄りの成田エクスプレス・八潮駅に向かう。次回の散歩で、既に歩き終えている足立区・葛飾区の境を流れる古隅田川まで歩き、古利根川筋繋ぎの旅の大団円としたいものである。

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