雲辺寺への三つの遍路道;徳島・佐野の雲辺寺口ルート(佐野道)、愛媛・七田からのルート(曼陀道)、愛媛・徳島県境の境目峠ルート(境目道)を辿る
先回の三角寺から雲辺寺までの遍路道散歩は、法皇山脈山麓の平山を経て、愛媛と徳島の県境・境目峠を越え徳島県の三好市池田町佐野の雲辺寺登山口までをメモした。
当日は雲辺寺口から阿讃山脈に入り雲辺寺へと続く尾根道まで歩いたのだが、その雲辺寺口からの阿讃山脈への「山入り」も含め、今回のメモで雲辺寺遍路道の山入り3ルートをまとめようと思う。
雲辺寺遍路道の「山入り3ルート」とは、自分が勝手に名付けたものであるが、その3つの遍路道は、上記佐野の雲辺寺口から阿讃山脈に入るルートが第一。これが最も古い遍路道と言う。佐野道とする。
第二の山入りは愛媛県と徳島県の県境である境目峠の少し西、愛媛県四国中央市川滝町下山七田から山稜に取り付き、尾根道を進み曼陀峠を経て阿讃山脈の尾根道を雲辺寺へと向かうもの。このルートは雲辺寺口ルートの後に開かれたものと言う。曼陀道とする。
そして第三の山入りルートは、先回の散歩の折に偶々遍路道案内標識に出合ったものであり、遍路道としての記録は見当たらないが、愛媛県と徳島県の県境である境目峠から林道を曼陀峠に進み、七田から来る第二の遍路道(曼陀道)に合流し阿讃山脈の尾根道を進むもの。境目道とする。
この曼陀峠(曼陀トンネル(隧道)真上の鞍部。実際にこの峠名があるのかどうかわからないが、説明の都合上「曼陀峠」とする。正式な曼陀峠は旧曼陀峠とする)で合流した第二(曼陀道)、第三の遍路道(境目道)は、旧曼陀峠を経て阿讃山脈の尾根道を進み、佐野の雲辺寺口から上ってきた第一の遍路道(佐野道)と合流し、それから先はひとつとなって尾根道を進み雲辺寺へと向かうことになる。
メモの順序としては、最初に第一のルート・佐野道を尾根道合流点から雲辺寺までメモする。次いで第二のルート・曼陀道を、曼陀峠を経て佐野道との合流点まで。最後に第三のルート・境目道を曼陀峠までカバーすることにする。
本日のルート;
■佐野道■
佐野の雲辺寺口>48丁石と道標>47丁石>遍路墓>遍路供養塔>43丁石>道標と39丁石>41丁石・37丁石>38丁石・ 40丁石>上部の欠けた丁石>石碑と舟形地蔵>車道(阿讃県境山稜のみち)と合流>3基の舟形石仏>道標>雲辺寺1.3km地点に丁石>12丁石・11丁石>六地蔵峠からの道の交点に道標>土径に入る>車道合流点先に道標と2基の舟形地蔵>土径を経て車道を境内に>六十五番札所・雲辺寺
■曼陀道■
七田集落から山稜に入る>簡易舗装の道に出る>尾根に上る舗装道・「四国のみち」に出る>簡易舗装の道となる>雲辺寺8.6kmの指導標>境目峠分岐点>境目>徳島・香川県境の尾根道(阿讃県境山稜のみち)>左手が開ける>曼陀峠(仮称)>旧曼陀峠>平家の隠れ里・有木の案内>雲辺寺2.7lmの指導標>佐野道と合流
■境目道■
境目峠の徳島側で左折>民家が切れ土径に>民家が切れ土径に>遍路タグ>右手が開ける>再び右手が開ける>曼陀道と合流
七田の集落を離れ、「是より雲辺寺迄一里」と刻まれた徳右衛門道標を左に見ながら道を進む。道の右手に分岐する上り坂があり、そこに地元ロータリークラブが建てた道標があり、「雲辺寺 4km」と刻まれる。その手前には自然石の道標があり、摩耗してはっきりしないが、「右 へんろ道」といった文字が読める。 承応年間、高野山の澄禅も三角寺・奥の院経由で歩いたと言うこの遍路道を上ることにする。
●澄禅
「えひめの記憶」をもとに簡単にまとめると、「京都智積院の学僧。承応2年(1653)、90日余にわたる四国巡拝の旅をし、遍路紀行『四国遍路日記』を著す。真念以前の四国八十八ヶ所霊場の巡拝記としては、今のところ、寛永15年(1638) 8月から11月にわたる『空性法親王四国霊場御巡行記』を初見とするが、澄禅の『四国遍路日記』はその15年後に書かれたもので、四国の風物・人情、札所の由来や伝説、遍路の実態等について筆のおもむくままに詳しく記した、きわめてすぐれた紀行とされる」とある。
48丁石と道標;13時28分
簡易舗装の道を上るとすぐに遍路道案内があり、左の細い径に入る。その角には道標と舟形地蔵丁石。道標には手印とともに「へんろ道」の文字。上部が破損した舟形地蔵丁石には「四十八丁」の文字が刻まれる。
●4km・48丁?
先ほど遍路道上り口には雲辺寺4kmとあった。ここには48丁とある。1丁は109mであり、計算するとおおよそ5.5kmとなる。登山口にあった4㎞と間尺が合わない。
あれこれチェックすると、「みちのりは、あハととさ八(私注;阿波と土佐は)五十一丁一り、いよとさぬきは、三十六丁一り」といった記録もあり、阿波では一里48丁(5.2km)、土佐50丁(5.5km)、伊予と讃岐は36丁(4km)ともあった。現在では一里4㎞とするが、それが通用するのは伊予と讃岐だけ。理由は不詳だが、かつては国によって一里の距離が異なっていたようだ。
これで佐野の集落にあった徳右衛門道標の示す一里と、この丁石の示す48丁は合ったのだが、登山口の4kmとは間尺が合わないままではある。
47丁石;13時34分(標高300m)
狭い径を進み徳島自動車道を潜り、一度舗装された道に出る。その左手にロータリークラブの立てた「雲辺寺3.5㎞」の標識があり、そこから舗装道を離れ遍路道を上る。上った直ぐ先で道は右に折れるが、その角に47丁と刻まれた船形地蔵丁石がある。ここから遍路道は山に入る。
遍路墓;(標高400m)
等高線を斜めに、高度を100mほど上げたところ、道の右手に文久三と刻まれた石碑がある。源助倅源次郎と戒名が刻まれる。遍路墓だろう。
遍路供養塔;13時47分(標高420m)
掘割状になった道を進み、高度を20mほど上げたところ、道の右手に石碑があり、「遍路法界聖霊 文九四年」と刻まれる遍路供養塔が立つ。行き倒れた遍路を供養するもの。
この雲辺寺へと上る道は、伊予の60番札所・横峰寺、阿波の19番札所・立江寺、土佐の27番札所。神峰寺への道と共に遍路の関所とも呼ばれる。悪事を働いた者は無事通ることができないとされるようであり(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)、それ故の行き倒れ?少々考え過ぎ。
43丁石;13時52分(標高440m)
遍路供養塔を過ぎた辺りから、遍路道は等高線をほぼ垂直に進む、少し険しい上り道となる。高度を15mほど上げた所に地蔵丁石があるが、摩耗し文字を読むことはできない。そこから更に10mほど高度を上げたところに「□□三丁」と読める舟形地蔵丁石がある。「四十三丁」の丁石だろう。
道標と39丁石;13時54分(標高450m)
43丁石から直ぐ、道の右手に傾いた道標と地蔵丁石が立つ。道標には「是与へんろ道」、地蔵丁石には「卅九丁」と刻まれる。「卅」は「十」を三つ合わせた形で30のこと。
舟形地蔵丁石の前に倒れた石碑が見える。丁石のようではあるがはっきりしない。
41丁石・37丁石;13時59分(標高470m)
道標から高度を20mほど上げると「四十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(13時59分;標高470m)。日当たりのいい場所故か、苔むした丁石が多い中、白く光る。
等高線に沿って僅かに進むと、道の右手、杉の木の前に顔が削り取られたような舟形地蔵丁石(13時57分;標高470m)。「三十七」と刻まれる。
38丁石・ 40丁石
等高線を垂直に20mほど高度を上げると「卅九丁」と刻まれた地蔵丁石(14時1分;標高500m)。仏さまのもつ数珠がはっきりと浮かぶ。
そのすぐ先に「四十丁」と刻まれる舟形地蔵丁石。この仏様は数珠も持たず、手は印を結んでいるようにも見える。よく見ればそれぞれのお地蔵様の表情も姿も異なる。
標高440mの摩耗した丁石からここ標高500m地点まで、実際の距離、順序に関係なく丁石が集まっていたように思う。遍路道整備の折り、適当に場所を移されたのだろうか。その経緯は不明である。
上部の欠けた丁石;14時16分(標高610m)
標高500m地点から等高線を斜めに15分ほど歩き、標高600mまで高度を上げる。そこに上部の欠けた丁石。この丁石は今までの丁石と趣を異にし、「□□十 丁」と共に「石川」の文字と戒名らしきものが刻まれている。個人の供養塔と丁石を兼ねているようだ。この辺りまで上ると、空が開けてくる。ほぼ尾根筋に近づいた。
石碑と舟形地蔵;14時22分(標高630m)
支尾根を巻くように6分程歩き、高度を20mほど上げると石碑と舟形地蔵が佇む。石碑には「南無大師遍照金剛」とあり、側面には「享保五(中略)僧弁有宥四州巡礼□□霊泉速治病患依之立此標石(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)」と刻まれる、と。この標石を建てる因となった、霊泉は傍の地蔵の前に水溜り状であったようだが、今はない。
車道(阿讃県境山稜のみち)と合流;14時29分(標高660m)
支を巻き、阿讃山脈の尾根道に向かう。ほぼ平坦に近い道を7分ほど歩き、高度を20mほど上げると前面が開け、阿讃岐山脈の尾根筋を曼陀峠から雲辺寺へと進む車道に出る。阿讃県境山稜の道と呼ばれる「四国のみち」のひとつだ。上りはじめて車道までほぼ1時間。比高差400m弱を上ったことになる。
車道には「雲辺寺2.5km」の木標。東に雲辺寺のある雲辺寺山(標高927m)が見える。
3基の舟形石仏;佐野から約1時間10分(標高690m)
阿讃の県境を走る車道を進む。500mほど進むと次第に木々に覆われるようになり、車道が県境から右に逸れる手前、「雲辺寺2km」の木標の立つ対面、道の左手に3基の舟形石仏が並ぶ。そのうち1基は地蔵丁石、1基は舟形遍路墓のようである。
道は佐野道からの合流地点から知らず30mほど高度を上げ、標高700m弱。雲辺寺の標高はおおよそ930m。ここから230mほど高度を上げることになる。 丁石の先で一瞬空が開け、左手に分岐する道がある。雲辺寺を案内する「四国のみち」は車道示すが、地図を見ると分岐道方向に県境に沿って実線・破線が雲辺寺まで続いており、この道が遍路道?と思い、しばし坂を上るが、遍路道案内の標識もタグもないため車道に引き返す。
道標;佐野から約1時間25分(標高770m)
遍路道かどうか少々不安に思いながら、車道を5分ほど進むと遍路タグが木の枝に吊られており(標高730m)、一安心。そこから4分程進み標高を40mほど上げると右手に道標が立つ。手印とと共に、「これより三かく寺道」と刻まれる。
手印が雲辺寺方向を示しているのがちょっと?ではあるが、道標があることで古き遍路道筋を進んでいることが確認でき、大いに安心。
雲辺寺1.3km地点に丁石;標高770m
道標から2分、760m等高線に沿って東に少し切れ込んだ最奥部に「雲辺寺1.3km」を案内する「四国のみち」の木標。その手前、道の左手に舟形地蔵丁石が立つ。「十丁」らしき文字が見えるが、摩耗ではっきりしない。 この丁石の右手谷側が不自然というか、唐突に開け、左手山側はちょっと荒れている。東に切れ込んだ、谷筋といえば谷筋ではあるので、大雨による土砂崩れでもあったのだろうか。
12丁石・11丁石;標高790m
「雲辺寺1.3km」木標から3分、770m等高線から780mへと少し高度を上げると、左手に「十二丁」と刻まれた船形地蔵丁石がある。そこから2分、右手が一瞬開き、阿波の山地を見遣る辺りに「十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石がある。
六地蔵峠からの道の交点に道標;佐野から約1時間35分(標高800m)
11丁石から3分ほど歩き高度を20mほど上げると、県道268から折れた広い車道に出合う。その合流点の手前に舟形石仏が立つ。丁石のようだが、摩耗が激しく文字は読めない。
●県道268号
香川県から阿讃山脈の六地蔵峠を越える県道6号は峠を越えると鮎苦谷(あいくるしだに)川を下り、箸蔵道散歩(Ⅰ、Ⅱ)で出合った土讃線・坪尻駅の北で国道32号に合流する、雲辺寺への道は途中、野呂内で県道268号・野呂内三縄停車場線に折れ、鮎苦谷川の上流域に向かい、更にこの土讃線・三縄駅へと向かう県道から別れ、この地へ繋がる。
◆鮎苦谷
下流部に早瀬があり鮎が遡上するの苦しむ、といった渓相故の命名と言う。
土径に入る
車道との交点の先では、「四国のみち」の木標に従い車道を離れ土径に入る。開ける右手に徳島の山地を見遣りながら3分ほど歩き、高度を20mほど上げると車道に出る。土径に入る傍に「四国のみち」の案内がある。
●「四国のみち」の案内
阿讃県境山稜の道(雲辺寺-愛媛県境7.3km)
案内を簡単にまとめると、「四国のみちは、四国を歩いて一周する自然歩道。雲辺寺から川之江の三角寺までには旧へんろ道があり、このうち雲辺寺から愛媛県境までが阿讃県境山稜の道。コースの途中には大野原町の高冷地野菜団地がありキャベツが栽培されており、北は三豊平野と瀬戸の海、南は徳島の山並みが見渡せる。
ここから愛媛県境まで約2時間、川之江市七田までは10.3kmで3時間。国道を経由して三角寺かでは22.4kmで約7時間(後略)」とある。
阿讃山脈県境の尾根を走る車道は「阿讃県境山稜の道」と呼ばれるようだ。また、曼陀峠経由の遍路道(曼陀道と境目道)の時間と距離の目安がわかり、段取りつくりに役にたった。
◆四国のみち
歩き遍路や山歩きをしていると、折に触れて「四国のみち」の指導標に出合う。よくよく考えると、「四国のみち」って何だろう?チェックすると、「四国のみち」とは歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、自然指向の環境省ルート(約1,600km)の総称。環境省ルートは「自然遊歩道」が正式名称であるが、ルートは重なる道筋も多く、まとめて「四国のみち」と称されるようだ。 環境省ルートは、「四季を通じて手軽に楽しく、安全に歩くことができる自然遊歩道」として整備されたのはわかるのだが、何故建設省が?そこには道路整備だけでなく、自然派志向の世論もあり、昭和52年(1977)以降「自転車道」「歩道」の整備をも重視することになった背景があるようだ。
この建設省ルートは基本遍路道を基本としながらも、既存道路の利用という前提もあり、札所を結ぶとはいいながら遍路道との重なりは6割弱とのこと。国道、県道、市町村道、林道整備がその主眼にある故ではあろう。
上に建設省ルートが歴史・文化指向といった意味合いは、札所や遍路道の歴史的・文化的価値を見出し、モータリゼーションの発展にもない、昭和59年(1984)には15万人もの人が訪れるおとになった四国遍路を観光資源としてそれを繋ぐ道を整備していったようにも思える。
車道合流点先に道標と2基の舟形地蔵;標高840m
土径から車道に合流したところに「雲辺寺0.8km」の木標。すぐ先に「四国霊場巡り」の案内があり、その傍に標石と2基の舟形地蔵が立つ。正面に「無縁法界供養塔」と刻まれた標石の左右面には、「左はしくら三り 右三かく寺五り」と刻まれる。どこからか移されたものだろう。慶応の年号の刻まれる標石の裏面には「山とりのほろほろとなくこえきけハ・・・」と言った和歌が刻まれる。 標石の左右には舟形地蔵があり、左手の地蔵は摩耗し文字が読めないが、右手の地蔵には「十三丁」の文字が刻まれる。これまた、どこからか移されたものだろう。
●「四国霊場巡り」
「四国霊場巡り」には、「札所の番号の順に参るのが順打ち、その逆に参るのが逆打ち。四国霊場を七周すれば白の納経札が赤札、二十回で銀札、五十回以上が金札となる。四回に分けて回るの一国参りや十か所参りなど参拝の仕方もいろいろ 香川県」とある。
一つの県を国として参るの一国参りはよく聞くが、十か所参りは不詳。チェックしても検索にヒットしない。納経札が回数によって異なるとは知らなかった。 また、案内のクレジットに香川県とあるが、ここは未だ徳島県。そもそもが、雲辺寺は徳島県にあるのだが?チェックする。
●阿波の雲辺寺が讃岐の札所?
徳島県立博物館研究報告のレポート、「四国遍路札所寺院の本末論争関係資料について;雲辺寺所蔵文書の紹介と復刻(松永友和)」の中に、「「阿波国三好郡の雲辺寺は江戸時代の初期には地蔵院(萩原寺)の末寺であった.慶長二十年には多数の聖教を地蔵院へ寄進するなどその関係は密であった.その後,寛文年間に観音寺と同じく地蔵院末からの離脱を図ったが,幕府寺社奉行の裁許を受けるのは元禄年間であった.この時の裁許状は,本紙・写とも享保二十年の火災で焼失したため,その詳細は不明である新修大野原町誌編さん委員会編(2005)」といった記述があった。
萩原寺は香川県観音寺市大野原町萩原にあり、その寺の末寺であれば何となく讃岐の寺と見做してもいいようにも思えるのだが、事はそう簡単でもなく元禄期には既に本末の関係がはっきりしていない。上記研究レポートが示すように、萩原寺が雲辺寺をその末として徳島藩に訴えたことに対し、雲辺寺は反論しているわけで、両寺の本末関係は不明である。
とはいうものの、真念の『四国遍路道指南』には雲辺寺について、「右此(の)寺ハ阿州・与州・讃州三国の境なり、阿州領主より造営し給ふ、しかれども、讃州札所の数に入(る)」とあり、通例では讃岐の札所に入れて数えるようである。また、澄禅も『四国遍路日記』に「山ハ阿州ノ内、札ハ讃州ノ最初ナリ」と記す。
萩原寺が先ず訴え出た先が徳島藩であったことが示すように、寺は阿波にあったわけだが、江戸の頃には雲辺寺は既に讃岐の関所寺とみなされていたようである。阿讃県境山稜の道もおおむね徳島県域を進むのだが、香川県のクレジットとなっているのは、讃岐の札所と見做される雲辺寺へと続く故のことだろか。
2基の舟形地蔵丁石;標高840m
車道を進むと道の右手、杉の根元に2基の舟形地蔵丁石が並ぶ。「八丁」、「七丁」と刻まれる。車道を進み、ヘアピンカーブの突端から車道を離れ、土径に入る。
土径を経て車道を境内に;標高890m
車道をショートカットする道を進み車道に出ると、「雲辺寺0.5km」の木標。道の左手にある祠、中に石仏が2基。何故かは知らねども、祠に鎖が懸り施錠されている。有難い仏さんなのだろうか、などと思いながら雲辺寺の境内へと向かう。
六十五番札所・雲辺寺;佐野から2時間弱(標高910m)
●亀山院櫻岡之陵
山門に向かう途中、左手に上る石段があり、上り口に「亀山院櫻岡之陵」とある。亀山院は元寇の頃と言うから北条時宗の時代の天皇であり、時宗は武、亀山天皇は調伏祈願をもって国難に対処した、と。父である後嵯峨天皇に寵愛され、兄の後深草天皇の譲位により即位したが、このことが後に亀山天皇の大覚寺統と後深草統の分裂・両統更立の端緒となり南北朝分裂の伏線となる。私生活の放逸さは『とはずかたり』に描かれる。
で、この陵だが、亀山院は雲辺寺に帰依深く、崩御後その遺髪をこの地に埋めた場所。香川の善通寺にも後嵯峨天皇(父)、後宇多天皇天皇(子)の爪と髪を納めた三帝廟がある。讃岐は後嵯峨天皇一統の院分国であり、それゆえの繋がりだろう。因みに亀山院は京都の南禅寺の開基でもある。
ところで、「亀山院櫻岡之陵」と刻まれる石柱の対柱に「第二十五代豊田萬平建之」と刻まれる。豊田萬平さんとは愛媛・八幡浜の人でこの廟を整備した方。占で病治癒には亀山院のお墓に祈るべしとの御託宣。病回復のお礼にこの廟を整備したと(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)。
●2丁石と夫婦杉
本堂に向かう参詣道脇に船形地蔵丁石。「二丁」」と刻まれる。その先に巨大な杉がある。「雲辺寺 夫婦杉」との石碑があった。
●本堂・大師堂
本坊の石垣に沿って歩く。歩いてきた道には山門が見当たらない。何となく、しっくりこないまま本堂への道を上る。本堂は建て直されたのか新しい、本堂にお参りし右手に移り大師堂に。
雲辺寺は真言宗御室派のお寺さま。巨鼇山(きょごうざん)千手院(せんじゅいん)と号し、本尊は千手観世音菩薩である。巨鼇山は前述の本末論争の萩原寺もこの山号をもつ。
所在地は徳島県(阿波)であるが、四国八十八箇所霊場としては讃岐の札所として扱われ第六十六番で、八十八箇所中で最も標高が高い札所である。 寺伝によれば、年延暦8年(789)に佐伯真魚(後の空海・弘法大師)が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山と感得し堂宇を建立したことを起源とする、とある。空海はまた、大同2年(807)には秘密灌頂の修法を行い、さらに弘仁9年(818)に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻んで、七仏供養を行うなど、この寺を三度訪れた、と言う。
堂宇建立の際、熊野・金峰・山王・白山・石鎚の五所権現を勧請し護法神とし、修験・優婆塞・聖といった山岳修行者の寺でもあったようだ。 貞観年間(857年から877年)には清和天皇の勅願寺ともり、鎌倉時代は阿波守護の佐々木経高(経蓮)の庇護を受け、七堂伽藍を誇り、境内には12坊、末寺8ヶ寺を有する大寺であり、そこには四国坊が建っていた。「四国高野」と呼ばれる所以である。
天正5年(1577)に土佐を統一し、四国制覇を狙う土佐の戦国大名・長宗我部元親が雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語ったという。一説にはその野望を諌められた、とも。ともあれ讃岐・阿波・伊予を見下ろす立地故の逸話ではあろう。その山岳寺院も昭和62年(1987)には香川県観音寺市側の山麓と雲辺寺ロープウェイによって結ばれた。
●仁王門
大師堂から成り行きで歩くと石段があり、そこに仁王門(山門)が見える。石段の下り口には徳右衛門道標。「是より小松尾寺迄二里半」と刻まれる。石段を下り仁王門を見る。結構新しい。で、ちょっと疑問。何でこの位置に?
参道を歩きながら、参道に山門がないのを不思議に思ったのは上でメモした。何となく気になりチェック。昔の写真には参道に古き趣の山門が建つ。その位置が変わっている。雲辺寺ロープウェイができ、人の流れが変わったことに対応したのだろうか。
それはともあれ、仁王門から少し本坊方面へと戻ったところにある信徒会館脇から眺めた徳島の山並みは美しかった。
これで佐野道のメモは終了。七田からの曼陀道のメモに移る。
愛媛県四国中央市川滝町下山七田から、愛媛と香川の県境をなす讃岐山地から愛媛に突き出した山稜尾根に取り付き、尾根道を進み愛媛と徳島の県境へ。七田から県境までの4㎞の道は「雲辺寺へのみち」と呼ばれる愛媛県域の「四国のみち」さらに愛媛・徳島・香川3県の県境近くを抜け曼陀峠を経て香川と徳島の境をなす阿讃山脈の尾根道を雲辺寺へと向かう遍路道をメモする。愛媛県境から雲辺寺までの7.3kmの道は、前述の如く阿讃県境山稜の道と呼ばれる「四国のみち」となっている。
七田集落から山稜に入る;標高240m
愛媛県四国中央市川滝町下山七田の七田集会所手前の倉庫脇に立つ金比羅道標を左に折れる。すぐ先に「うんへんじ道」と刻まれた道標があり、その前の土径を山稜へと上る。
簡易舗装の道に出る;七田集落から10分(標高340m)
遍路標識に従いジグザグな土径を10分ほどかけて高度を100mほど上げると、簡易舗装の道に出る。
地図には描かれていないのだが、境目峠の手前、旧国道のヘアピン箇所から別れ尾根へと上る道の支道のようだ。案内に従い、右手に折れ、直ぐに「小道を登ってください 雲辺寺」のタグより簡易舗装の道を離れ左手の土径を上る。
尾根に上る舗装道・「四国のみち」に出る;七田集落から13分(標高350m)
3分ほどで舗装された道に出る。上記、境目峠手前で旧国道から別れ尾根に進む道である。「四国のみち」の標識、「日向2.4km 七田1.3km」の案内がある。 地図でチェックしても「日向」の地名が見つからない。遍路道指南の「えひめの記憶」には「段々畑の間をぬって上がり、「四国のみち」に合流するとあるので、オンコースであるとは思うのだが、あまりに簡単に「四国のみち」に出てしまい、今一つ遍路道との確証はもてないのだが、とりあえず先に進む。
◆メモの段階でわかったのだが、境目峠手前で旧国道から別れ尾根に進むこの道筋が「雲辺寺へのみち」と呼ばれる「四国のみち」であった。
簡易舗装の道となる;七田集落から18分(標高420m)
5分ほど進み高度を70mほど上げると道は簡易舗装に変わる。地図をチェックすると、愛媛県と香川県境に連なる讃岐山脈から、愛媛県へと突き出るいくつかの尾根筋のひとつに乗ったようである。誠にあっけない尾根入りだった。 3分ほど歩くと「四国のみち」の指導標が立つが、遍路標識もなく少々心もとないが、GPS で確認するに、尾根筋を曼陀峠(正確には曼陀トンネル真上の鞍部)へと向かう実線上を進んでおり、オンコースであろうと歩を進める。
雲辺寺8.6kmの指導標;七田集落から約33分(標高490m)
等高線の間隔が広く、緩やかな尾根筋の道を15分弱進み、高度を80mほど上げたところに、「雲辺寺8.6km 三角寺14.8km」と示す四国のみちの標識がある。遍路道の標識はないが、「雲辺寺」との案内が出ていた。予想に反し、簡易舗装された道ではあるが、この道が遍路道であろう。
少し進んだ山稜の下を松山自動車道の新境目トンネルが抜ける。
境目峠分岐点;七田集落から約50分(標高540m)
木立に覆われた尾根筋の道を歩く。簡易舗装の道が続く。「雲辺寺8.6km」の木標から17分ほど歩くと境目峠に抜ける道の分岐点。自然遊歩道と記された木の標識に「七田3.7km 境目2.9km」の案内がある。境目とは境目峠のことを砂州のだろう。傍には「三角寺15.8km 雲辺寺7.6km」と記された「四国のみち」の指導標も立つ。
遍路道はここで境目峠へと向かう道と別れ、手印と共に「雲辺寺」を示す土径に入る。簡易舗装からわかれ、やっと土径に入る。
境目;七田集落から約55分(標高570m)
土径を5分程歩き、標高を40mほど上げると「境目」に到着。「境目 ここが四国のみち愛媛県ルートの終点で、徳島県との県境です。県境のまち川之江市は愛媛県最東端の町で、香川徳島両県と接しており、地元の人々は香川県との境界を「県境」、徳島県との境界を境目峠という地名から「境目」と呼んで区別しています。
ここから更に北東へ、香川・徳島の県境を約8㎞行った徳島県側に、香川県の打ち始め「66番札所雲辺寺」があります」との案内がある。
案内傍には左右を示す道標と丁石らしき舟形石仏がある。摩耗し文字は読めない。
●四国のみちの愛媛県域・始点と終点
過日、予土国境の松尾峠を越えたとき、「四国のみち」の始点に出合った。ここで愛媛県域の終点に出合う。何ということはないのだが、また「四国のみち」をトレースしたわけでもないのだが、故なき達成感がある。
徳島・香川県境の尾根道(阿讃県境山稜のみち);標高550m
境目で愛媛県域の「四国のみち;雲辺寺へのみち」を離れ、「四国のみち;阿讃県境山稜のみち」に入る。愛媛・香川・徳島県の3県の接点となる曼陀峰(標高594.7m)を等高線570mに沿って巻き、「雲辺寺6.9km」の指導標が立つことろで徳島・香川の県境尾根に入る。
●讃岐山脈と阿讃山脈
阿讃山脈は徳島と香川の境を南北に、香川と愛媛の境を東西に連なる山脈。正式には讃岐山脈と呼ばれるが、伊予と讃岐を隔てる地政上のインパクトはそれほどなく、実質的には阿波(徳島)と讃岐(香川)の境となる故に阿讃山脈と呼ばれるのだろう。
尾根筋を歩きながら、尾根筋山頂部に平坦地が目立つことが気になった。チェックすると、讃岐山脈は早壮年期の山地地形を示すとある。一部の山頂部に幼年期の準平原の名残としての平坦部を残すようである。地形は幼年期>早壮年山地>満壮年山地(山稜は鋭くの鋸歯状山形)>晩壮年山地(山頂は風化が進み円みを帯びる)と「輪廻」する。
左手が開ける;七田集落から約1時間10分(標高540m)
緩やかな尾根道を少し進み、高度を10mほど下げると「雲辺寺6.7km」の指導標。ここで右手が一瞬開ける。そこから再び木々に覆われた尾根道を進むと舟形地蔵丁石がある。摩耗し文字は読めない。
曼陀峠(仮称);曼陀トンネル真上の車道に出る;七田集落から約1時間20分(標高530m)
船形地蔵丁石から直ぐに車道に出る。曼陀トンネル出口で県道8号と別れ、比高差100mほどある曼陀トンネル真上のこの地を繋ぐため、北に突き出た尾根筋を大きく迂回し強烈なヘアピンカーブで進んでくる。
説明の都合上、この地を曼陀峠と呼ぶが、ここから雲辺寺まではこの車道を進む。Google Street Viewでチェックすると道は完全舗装されている。曼陀トンネル出口からこの車道を使えば、雲辺寺まで車で進めそうだ。阿讃山脈の山登りを楽しむ人の車が数台駐車していた。
曼陀峠(仮称)には「四国のみち」の案内があり、前述の如く「雲辺寺から愛媛県境までの7,3kmを阿讃県境山稜のみちと呼ぶこと、ここから愛媛県境まで0.9kmゆっくり歩いて15分、川之江市七田まで4.9km約1時間半、雲辺寺まで6.4kmゆっくり歩いて約2時間の道のり。とあった。
カーブを曲がり切った車道右手には手印と共に「へんろ」「明治三十四」と刻まれた道標が雲辺寺を指す。
●境目峠からの遍路道(境目道)合流点
車道が雲辺寺へと向きを変えるコーナー部には南に向けて、大きく切り通し状に開かれた道がある。ここが境目峠から進んできた境目道が曼陀道に合流する箇所。
地図にはここから境目峠へ向けて実線が描かれているのだが、切通し部に立つ指導標の案内は何もない。地図にはこの実線部に「四国のみち」と描かれているが、四国のみちは今辿ってきた尾根道であり、少々紛らわしい。
旧曼陀峠;七田集落から約1時間40分(標高550m)
曼陀峠からおおよそ1㎞東に進むと道の左手に「曼陀峠」の案内。四国中央市七田からの曼陀道と境目峠からの境目道の土径が車道と合わさる箇所を説明の都合上曼陀峠とした関係上、ここを旧曼陀峠とする。
案内には「昔栄えた曼陀峠。ここは標高約600メートルの曼陀峠です。阿波と讃岐を結ぶ生活の道が、この峠を越えて南北に通じていました。また東は四国霊場六十六番札所雲辺寺、西は六十五番札所三角寺に通じるへんろ道もちょうどこの峠を通っていました。
曼陀峠の曼陀は、曼陀羅の転訛したもので、屋島の合戦後平家一門がこの地に落ち延び、一族の供養のための法要、曼陀羅供(まんだらく)を営んだところから名付けられたものだと思われます。
江戸時代は巡検道として使われ、また第二次世界大戦前までは、農耕用の牛を阿波から借り、農作業が終われば米や賃金を払って牛を阿波に帰す、いわゆる仮耕牛の道として夏、秋に賑わったところです。昭和六十二年 香川県」とある。
クレジットは香川県とあるように、「四国のみち」もこのルートは香川県のルートとなっていた。
案内には「阿波と讃岐を結ぶ生活の道が、この峠を越えて南北に通じていた」とある。地図には北の香川県観音寺市大野原町海老済(えびすくい)方面からはそれらしき実線・破線が旧曼陀峠まで描かれているが、峠から南には道を示す線は無い。すぐ南の竹藪に入り、沢に沿って佐野へと下ってゆくのだろうが、道は消え藪漕ぎをしなければならないようだ。ちょっと残念。
借耕牛の話は過日箸蔵道(Ⅰ、Ⅱ)を辿った時に出合った。古くは11ほどあったという阿讃山脈にある主要な峠道を仮耕牛が往来したのだろう。
●海老済(えびすくい)
「えびすく」ともいい「西讃府志」によれば丹波ともいった。地名の由来は古代中国の制度による都から500里(約300m)以上離れた未開の土地を意味する荒服(えびすふく)が転訛したものか。また、夷人(えびす)を籠め置いたの意「エビスクイ」が転訛したものともいう(『角川日本地名大辞典』)。
●巡検使
巡見使(じゅんけんし)とは、江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使があった(Wikipedia)
平家の隠れ里・有木の案内;七田集落から約2時間20分
旧曼陀峠から3キロ弱、県境山稜の道を進む。空は開けるが左右の見通しはよくない車道を30分ほどあるくと「落人の里 有木と阿弥陀如来像」の案内。 「落人の里 有木と阿弥陀如来像
香川県側の山裾には、かつて栄えた五郷渓温泉と町指定の文化財である阿弥陀如来座像を祀る阿弥陀堂があります。また、斜面を利用して香味の良い五郷茶が栽培されています。
寿永四年(1185年)早春の屋島で繰り広げられた源平合戦のおり、小松少将「平有盛」は夜陰にまぎれて曼陀峠に落ち延び、「有盛」は有木谷へ、家臣の「真鍋次郎清房」は、愛媛県の川之江市切山の奥深く隠れ住んだといわれています。 その時、「有盛」が持参したと伝えられる桧材寄木造り彩色漆箔の阿弥陀如来座像(52.5cm)は、藤原時代(十二世紀)の都作りとして有名です。
また、「有盛」が身につけていた名剣 "小烏丸(こがらすまる)" は盗難にあい、陣太鼓は、有木 "三部神社" に祀られています。 昭和62年(1987年)3月 香川県」とあった。
最初は阿弥陀堂が道脇にでもあるのか?などと思ったのだが、山裾にあると言う。何となく唐突な案内ではあるが、四国に多い平氏隠れ里のことを言わんとしているのだろうかとチェック。
Wikipediaには平有盛について、「平 有盛(たいら の ありもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の四男。母は正室の藤原経子。
異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄の行盛と三名で手を取り合い、海中に身を投じた。享年22。
伝説;奄美群島には資盛、行盛、有盛が落ち延びたという平家の落人伝説がある。行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られ、特に平安文化が融合した諸鈍シバヤは重要無形民俗文化財に指定されている。
また、香川県観音寺市大野原町五郷有木に、平有盛が有木と名を変えて暮らしていた平家落人村があったことが、生駒記「新編丸亀市史4資料編:平成六年刊行」に記載されており、太刀や木造阿弥陀如来座像も残されている」とあった。
『山と通婚圏;瀬川清子(民俗学研究)』には、古老の話として五郷村有木には、「平家のアリモリさんというオヤ神さん(氏神)が有木部落の山が浅い 、といって阿波の祖谷に行かれた」という言い伝えもあるとする。
平家の落人伝説もさることながら、峠を介した讃岐と阿波の交流、生活圏の結びつきに惹かれる。上述『山と通婚圏』には、有木集落の「昔の第一の仕事は観音寺から海老済の荷屋にきた魚を竹の丸籠に入れて村の男らが天秤でかついで漫陀峠を越へて阿波の佐野、川口、池田町、祖谷方面に運ぶことであった(オクリの肴)。また、阿波の川口の井川の酒屋へ3里半の道を米をになうて行った」とある。実際、有木集落では讃岐より阿波や伊予との結婚が多かったようである。
唐突な案内ではあったが、チェックすると興味深いトピックが登場した。また、曼陀峠は平家一門の供養故の地名でもあり、とすれば有木の案内はそれほど唐突でもないように思えてきた。平を冠した姓も多く、上屋敷、中屋敷、下屋敷など山村に不釣り合いな地名も残り、現在でも「ありもりさん」と呼ばれる三部神社を祀る平家の隠れ里・有木の集落を訪れてみたくなった。
雲辺寺2.7lmの指導標;七田集落から約2時間30分
少し進むと送電線鉄塔が立つ。傍の「四国のみち」の指導標には「雲辺寺2.7km」とある。その対面には「曼陀高冷地野菜団地」の案内
「昭和四十五年度、四十六年度による自立経営農家を育成する目的で造成された畑です。雲辺寺山頂付近から曼陀峠に傾斜した、東西四キロメートル南北〇・三キロメートルの尾根沿いに開かれており、総面積は三二・一ヘクタールです。 現在、曼陀高冷地野菜生産組合が組織され、毎年四月から十月頃にかけて、キャベツの二作取りを中心に栽培がおこなわれています。
平均標高六〇〇メートルの高冷地で栽培されるため病害虫の被害が少なく、高品質のキャベツが生産されています」とあるのだが、周囲はススキの原であり、それらしき高原野菜の生産地が見当たらない。少し手前にはちょっと開けた耕地らしきものも見かけたのだが、人の気配もなく「団地」といった雰囲気からは程遠い。案内は四半世紀前のものであり、状況が変わってしまったのだろうか。
佐野道と合流;七田集落から約2時間40分
200mほど歩き佐野道との合流点に到着。ここから先、雲辺寺まで2.5kmのメモは上述「佐野道」のメモに譲る。
3つ目の遍路道、境目峠から進み、曼陀峠で曼陀道に合流する境目道メモする。
境目峠の徳島側で左折
愛媛県と徳島県の境をなす境目峠を越え、少し進むと遍路標識があり、直進と左折を共に遍路道と示す。直進すれば、佐野から阿讃山脈に山入りする佐野道。境目道は左折する。
民家が切れ土径に;旧国道分岐点から15分
馬路川を右手に見ながら愛媛と徳島の県境に沿って北東に続く道を進む。途中境谷の集落で馬路川支流に沿って進む道を分け、左の道をとり山入りの道へと進む。境目峠先の旧国道分岐点から15分ほど歩くと簡易舗装も切れ、林道といった道になる
分岐点;旧国道分点から18分
旧国道分岐から18分で道がふたつに分かれる。遍路道のタグは右手を示す。左に折れる道も曼陀道に続くが、場所は曼陀峠の手前、七田からの簡易舗装の道が切れ境目へと土径を上る地点。曼荼道のメモで「境目峠分岐点」としたところである。
遍路タグ;旧国道分岐点から約40分
標高410mから緩やかな傾斜の曲がりくねった林道を進む。見晴らしも何もない。道標も石仏も何もない。前日降った雨で泥濘となった未舗装の林道をただ歩くのみ。
分岐点から歩くこと18分、高度を60mほど上げ尾根筋が東に突き出したところに遍路道を示すタグがあった。この遍路道で遍路に関係する唯一のものであった。
右手が開ける;旧国道分岐点から約55分
単調な林道を遍路タグから15分弱ほど進み標高を50mほど上げたところで、一瞬右手が開ける。徳島の山並みが広がる。
再び右手が開ける;旧国道分岐点から約60分
西へと切り込んだ沢筋を大きく迂回し標高を20mほど上げたところで、再び右手が開ける。
曼陀道と合流;旧国道分岐点から約65分
右手が開けたところから数分で切通しを抜け曼陀道と合流する。標高400mから標高530mまで比高差130mを1時間強で歩いた。
ここから先は曼陀道のメモと同じ。
この遍路道は何があるわけでもなく、木々に覆われた林道を進むのみ。3コースのうち一番楽ちんではあるが、あまり楽しいルートではなかった。
これで雲辺寺までの3つのルートのメモを終える。歩いた感想。
●時間的にはどのルートもそれほど大きく変わらない
●どのルートも道迷いの心配はない
●一番きついのは佐野道、一番楽なのは境目道
●一番趣があるのは佐野道、一番味気ないのは境目道
●それほどきつくもないが、それほど趣もないのが曼陀道
●体力・気力が残っていれば佐野道、そこそこ景観も楽しみながらというのであれば曼陀道、とりあえず雲辺寺へ急ぎたい場合は曼陀道、というとことだろうか。
先回の三角寺から雲辺寺までの遍路道散歩は、法皇山脈山麓の平山を経て、愛媛と徳島の県境・境目峠を越え徳島県の三好市池田町佐野の雲辺寺登山口までをメモした。
当日は雲辺寺口から阿讃山脈に入り雲辺寺へと続く尾根道まで歩いたのだが、その雲辺寺口からの阿讃山脈への「山入り」も含め、今回のメモで雲辺寺遍路道の山入り3ルートをまとめようと思う。
雲辺寺遍路道の「山入り3ルート」とは、自分が勝手に名付けたものであるが、その3つの遍路道は、上記佐野の雲辺寺口から阿讃山脈に入るルートが第一。これが最も古い遍路道と言う。佐野道とする。
第二の山入りは愛媛県と徳島県の県境である境目峠の少し西、愛媛県四国中央市川滝町下山七田から山稜に取り付き、尾根道を進み曼陀峠を経て阿讃山脈の尾根道を雲辺寺へと向かうもの。このルートは雲辺寺口ルートの後に開かれたものと言う。曼陀道とする。
そして第三の山入りルートは、先回の散歩の折に偶々遍路道案内標識に出合ったものであり、遍路道としての記録は見当たらないが、愛媛県と徳島県の県境である境目峠から林道を曼陀峠に進み、七田から来る第二の遍路道(曼陀道)に合流し阿讃山脈の尾根道を進むもの。境目道とする。
この曼陀峠(曼陀トンネル(隧道)真上の鞍部。実際にこの峠名があるのかどうかわからないが、説明の都合上「曼陀峠」とする。正式な曼陀峠は旧曼陀峠とする)で合流した第二(曼陀道)、第三の遍路道(境目道)は、旧曼陀峠を経て阿讃山脈の尾根道を進み、佐野の雲辺寺口から上ってきた第一の遍路道(佐野道)と合流し、それから先はひとつとなって尾根道を進み雲辺寺へと向かうことになる。
メモの順序としては、最初に第一のルート・佐野道を尾根道合流点から雲辺寺までメモする。次いで第二のルート・曼陀道を、曼陀峠を経て佐野道との合流点まで。最後に第三のルート・境目道を曼陀峠までカバーすることにする。
本日のルート;
■佐野道■
佐野の雲辺寺口>48丁石と道標>47丁石>遍路墓>遍路供養塔>43丁石>道標と39丁石>41丁石・37丁石>38丁石・ 40丁石>上部の欠けた丁石>石碑と舟形地蔵>車道(阿讃県境山稜のみち)と合流>3基の舟形石仏>道標>雲辺寺1.3km地点に丁石>12丁石・11丁石>六地蔵峠からの道の交点に道標>土径に入る>車道合流点先に道標と2基の舟形地蔵>土径を経て車道を境内に>六十五番札所・雲辺寺
■曼陀道■
七田集落から山稜に入る>簡易舗装の道に出る>尾根に上る舗装道・「四国のみち」に出る>簡易舗装の道となる>雲辺寺8.6kmの指導標>境目峠分岐点>境目>徳島・香川県境の尾根道(阿讃県境山稜のみち)>左手が開ける>曼陀峠(仮称)>旧曼陀峠>平家の隠れ里・有木の案内>雲辺寺2.7lmの指導標>佐野道と合流
■境目道■
境目峠の徳島側で左折>民家が切れ土径に>民家が切れ土径に>遍路タグ>右手が開ける>再び右手が開ける>曼陀道と合流
■佐野道■
佐野の雲辺寺口;13時7分七田の集落を離れ、「是より雲辺寺迄一里」と刻まれた徳右衛門道標を左に見ながら道を進む。道の右手に分岐する上り坂があり、そこに地元ロータリークラブが建てた道標があり、「雲辺寺 4km」と刻まれる。その手前には自然石の道標があり、摩耗してはっきりしないが、「右 へんろ道」といった文字が読める。 承応年間、高野山の澄禅も三角寺・奥の院経由で歩いたと言うこの遍路道を上ることにする。
●澄禅
「えひめの記憶」をもとに簡単にまとめると、「京都智積院の学僧。承応2年(1653)、90日余にわたる四国巡拝の旅をし、遍路紀行『四国遍路日記』を著す。真念以前の四国八十八ヶ所霊場の巡拝記としては、今のところ、寛永15年(1638) 8月から11月にわたる『空性法親王四国霊場御巡行記』を初見とするが、澄禅の『四国遍路日記』はその15年後に書かれたもので、四国の風物・人情、札所の由来や伝説、遍路の実態等について筆のおもむくままに詳しく記した、きわめてすぐれた紀行とされる」とある。
48丁石と道標;13時28分
簡易舗装の道を上るとすぐに遍路道案内があり、左の細い径に入る。その角には道標と舟形地蔵丁石。道標には手印とともに「へんろ道」の文字。上部が破損した舟形地蔵丁石には「四十八丁」の文字が刻まれる。
●4km・48丁?
先ほど遍路道上り口には雲辺寺4kmとあった。ここには48丁とある。1丁は109mであり、計算するとおおよそ5.5kmとなる。登山口にあった4㎞と間尺が合わない。
あれこれチェックすると、「みちのりは、あハととさ八(私注;阿波と土佐は)五十一丁一り、いよとさぬきは、三十六丁一り」といった記録もあり、阿波では一里48丁(5.2km)、土佐50丁(5.5km)、伊予と讃岐は36丁(4km)ともあった。現在では一里4㎞とするが、それが通用するのは伊予と讃岐だけ。理由は不詳だが、かつては国によって一里の距離が異なっていたようだ。
これで佐野の集落にあった徳右衛門道標の示す一里と、この丁石の示す48丁は合ったのだが、登山口の4kmとは間尺が合わないままではある。
47丁石;13時34分(標高300m)
狭い径を進み徳島自動車道を潜り、一度舗装された道に出る。その左手にロータリークラブの立てた「雲辺寺3.5㎞」の標識があり、そこから舗装道を離れ遍路道を上る。上った直ぐ先で道は右に折れるが、その角に47丁と刻まれた船形地蔵丁石がある。ここから遍路道は山に入る。
遍路墓;(標高400m)
等高線を斜めに、高度を100mほど上げたところ、道の右手に文久三と刻まれた石碑がある。源助倅源次郎と戒名が刻まれる。遍路墓だろう。
遍路供養塔;13時47分(標高420m)
掘割状になった道を進み、高度を20mほど上げたところ、道の右手に石碑があり、「遍路法界聖霊 文九四年」と刻まれる遍路供養塔が立つ。行き倒れた遍路を供養するもの。
この雲辺寺へと上る道は、伊予の60番札所・横峰寺、阿波の19番札所・立江寺、土佐の27番札所。神峰寺への道と共に遍路の関所とも呼ばれる。悪事を働いた者は無事通ることができないとされるようであり(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)、それ故の行き倒れ?少々考え過ぎ。
43丁石;13時52分(標高440m)
遍路供養塔を過ぎた辺りから、遍路道は等高線をほぼ垂直に進む、少し険しい上り道となる。高度を15mほど上げた所に地蔵丁石があるが、摩耗し文字を読むことはできない。そこから更に10mほど高度を上げたところに「□□三丁」と読める舟形地蔵丁石がある。「四十三丁」の丁石だろう。
道標と39丁石;13時54分(標高450m)
43丁石から直ぐ、道の右手に傾いた道標と地蔵丁石が立つ。道標には「是与へんろ道」、地蔵丁石には「卅九丁」と刻まれる。「卅」は「十」を三つ合わせた形で30のこと。
舟形地蔵丁石の前に倒れた石碑が見える。丁石のようではあるがはっきりしない。
41丁石・37丁石;13時59分(標高470m)
道標から高度を20mほど上げると「四十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(13時59分;標高470m)。日当たりのいい場所故か、苔むした丁石が多い中、白く光る。
等高線に沿って僅かに進むと、道の右手、杉の木の前に顔が削り取られたような舟形地蔵丁石(13時57分;標高470m)。「三十七」と刻まれる。
38丁石・ 40丁石
等高線を垂直に20mほど高度を上げると「卅九丁」と刻まれた地蔵丁石(14時1分;標高500m)。仏さまのもつ数珠がはっきりと浮かぶ。
そのすぐ先に「四十丁」と刻まれる舟形地蔵丁石。この仏様は数珠も持たず、手は印を結んでいるようにも見える。よく見ればそれぞれのお地蔵様の表情も姿も異なる。
標高440mの摩耗した丁石からここ標高500m地点まで、実際の距離、順序に関係なく丁石が集まっていたように思う。遍路道整備の折り、適当に場所を移されたのだろうか。その経緯は不明である。
上部の欠けた丁石;14時16分(標高610m)
標高500m地点から等高線を斜めに15分ほど歩き、標高600mまで高度を上げる。そこに上部の欠けた丁石。この丁石は今までの丁石と趣を異にし、「□□十 丁」と共に「石川」の文字と戒名らしきものが刻まれている。個人の供養塔と丁石を兼ねているようだ。この辺りまで上ると、空が開けてくる。ほぼ尾根筋に近づいた。
石碑と舟形地蔵;14時22分(標高630m)
支尾根を巻くように6分程歩き、高度を20mほど上げると石碑と舟形地蔵が佇む。石碑には「南無大師遍照金剛」とあり、側面には「享保五(中略)僧弁有宥四州巡礼□□霊泉速治病患依之立此標石(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)」と刻まれる、と。この標石を建てる因となった、霊泉は傍の地蔵の前に水溜り状であったようだが、今はない。
車道(阿讃県境山稜のみち)と合流;14時29分(標高660m)
支を巻き、阿讃山脈の尾根道に向かう。ほぼ平坦に近い道を7分ほど歩き、高度を20mほど上げると前面が開け、阿讃岐山脈の尾根筋を曼陀峠から雲辺寺へと進む車道に出る。阿讃県境山稜の道と呼ばれる「四国のみち」のひとつだ。上りはじめて車道までほぼ1時間。比高差400m弱を上ったことになる。
車道には「雲辺寺2.5km」の木標。東に雲辺寺のある雲辺寺山(標高927m)が見える。
3基の舟形石仏;佐野から約1時間10分(標高690m)
阿讃の県境を走る車道を進む。500mほど進むと次第に木々に覆われるようになり、車道が県境から右に逸れる手前、「雲辺寺2km」の木標の立つ対面、道の左手に3基の舟形石仏が並ぶ。そのうち1基は地蔵丁石、1基は舟形遍路墓のようである。
道は佐野道からの合流地点から知らず30mほど高度を上げ、標高700m弱。雲辺寺の標高はおおよそ930m。ここから230mほど高度を上げることになる。 丁石の先で一瞬空が開け、左手に分岐する道がある。雲辺寺を案内する「四国のみち」は車道示すが、地図を見ると分岐道方向に県境に沿って実線・破線が雲辺寺まで続いており、この道が遍路道?と思い、しばし坂を上るが、遍路道案内の標識もタグもないため車道に引き返す。
道標;佐野から約1時間25分(標高770m)
遍路道かどうか少々不安に思いながら、車道を5分ほど進むと遍路タグが木の枝に吊られており(標高730m)、一安心。そこから4分程進み標高を40mほど上げると右手に道標が立つ。手印とと共に、「これより三かく寺道」と刻まれる。
手印が雲辺寺方向を示しているのがちょっと?ではあるが、道標があることで古き遍路道筋を進んでいることが確認でき、大いに安心。
雲辺寺1.3km地点に丁石;標高770m
道標から2分、760m等高線に沿って東に少し切れ込んだ最奥部に「雲辺寺1.3km」を案内する「四国のみち」の木標。その手前、道の左手に舟形地蔵丁石が立つ。「十丁」らしき文字が見えるが、摩耗ではっきりしない。 この丁石の右手谷側が不自然というか、唐突に開け、左手山側はちょっと荒れている。東に切れ込んだ、谷筋といえば谷筋ではあるので、大雨による土砂崩れでもあったのだろうか。
12丁石・11丁石;標高790m
「雲辺寺1.3km」木標から3分、770m等高線から780mへと少し高度を上げると、左手に「十二丁」と刻まれた船形地蔵丁石がある。そこから2分、右手が一瞬開き、阿波の山地を見遣る辺りに「十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石がある。
六地蔵峠からの道の交点に道標;佐野から約1時間35分(標高800m)
11丁石から3分ほど歩き高度を20mほど上げると、県道268から折れた広い車道に出合う。その合流点の手前に舟形石仏が立つ。丁石のようだが、摩耗が激しく文字は読めない。
●県道268号
香川県から阿讃山脈の六地蔵峠を越える県道6号は峠を越えると鮎苦谷(あいくるしだに)川を下り、箸蔵道散歩(Ⅰ、Ⅱ)で出合った土讃線・坪尻駅の北で国道32号に合流する、雲辺寺への道は途中、野呂内で県道268号・野呂内三縄停車場線に折れ、鮎苦谷川の上流域に向かい、更にこの土讃線・三縄駅へと向かう県道から別れ、この地へ繋がる。
◆鮎苦谷
下流部に早瀬があり鮎が遡上するの苦しむ、といった渓相故の命名と言う。
土径に入る
車道との交点の先では、「四国のみち」の木標に従い車道を離れ土径に入る。開ける右手に徳島の山地を見遣りながら3分ほど歩き、高度を20mほど上げると車道に出る。土径に入る傍に「四国のみち」の案内がある。
●「四国のみち」の案内
佐野道 |
ここから愛媛県境まで約2時間、川之江市七田までは10.3kmで3時間。国道を経由して三角寺かでは22.4kmで約7時間(後略)」とある。
阿讃山脈県境の尾根を走る車道は「阿讃県境山稜の道」と呼ばれるようだ。また、曼陀峠経由の遍路道(曼陀道と境目道)の時間と距離の目安がわかり、段取りつくりに役にたった。
◆四国のみち
歩き遍路や山歩きをしていると、折に触れて「四国のみち」の指導標に出合う。よくよく考えると、「四国のみち」って何だろう?チェックすると、「四国のみち」とは歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、自然指向の環境省ルート(約1,600km)の総称。環境省ルートは「自然遊歩道」が正式名称であるが、ルートは重なる道筋も多く、まとめて「四国のみち」と称されるようだ。 環境省ルートは、「四季を通じて手軽に楽しく、安全に歩くことができる自然遊歩道」として整備されたのはわかるのだが、何故建設省が?そこには道路整備だけでなく、自然派志向の世論もあり、昭和52年(1977)以降「自転車道」「歩道」の整備をも重視することになった背景があるようだ。
この建設省ルートは基本遍路道を基本としながらも、既存道路の利用という前提もあり、札所を結ぶとはいいながら遍路道との重なりは6割弱とのこと。国道、県道、市町村道、林道整備がその主眼にある故ではあろう。
上に建設省ルートが歴史・文化指向といった意味合いは、札所や遍路道の歴史的・文化的価値を見出し、モータリゼーションの発展にもない、昭和59年(1984)には15万人もの人が訪れるおとになった四国遍路を観光資源としてそれを繋ぐ道を整備していったようにも思える。
車道合流点先に道標と2基の舟形地蔵;標高840m
土径から車道に合流したところに「雲辺寺0.8km」の木標。すぐ先に「四国霊場巡り」の案内があり、その傍に標石と2基の舟形地蔵が立つ。正面に「無縁法界供養塔」と刻まれた標石の左右面には、「左はしくら三り 右三かく寺五り」と刻まれる。どこからか移されたものだろう。慶応の年号の刻まれる標石の裏面には「山とりのほろほろとなくこえきけハ・・・」と言った和歌が刻まれる。 標石の左右には舟形地蔵があり、左手の地蔵は摩耗し文字が読めないが、右手の地蔵には「十三丁」の文字が刻まれる。これまた、どこからか移されたものだろう。
●「四国霊場巡り」
「四国霊場巡り」には、「札所の番号の順に参るのが順打ち、その逆に参るのが逆打ち。四国霊場を七周すれば白の納経札が赤札、二十回で銀札、五十回以上が金札となる。四回に分けて回るの一国参りや十か所参りなど参拝の仕方もいろいろ 香川県」とある。
一つの県を国として参るの一国参りはよく聞くが、十か所参りは不詳。チェックしても検索にヒットしない。納経札が回数によって異なるとは知らなかった。 また、案内のクレジットに香川県とあるが、ここは未だ徳島県。そもそもが、雲辺寺は徳島県にあるのだが?チェックする。
●阿波の雲辺寺が讃岐の札所?
徳島県立博物館研究報告のレポート、「四国遍路札所寺院の本末論争関係資料について;雲辺寺所蔵文書の紹介と復刻(松永友和)」の中に、「「阿波国三好郡の雲辺寺は江戸時代の初期には地蔵院(萩原寺)の末寺であった.慶長二十年には多数の聖教を地蔵院へ寄進するなどその関係は密であった.その後,寛文年間に観音寺と同じく地蔵院末からの離脱を図ったが,幕府寺社奉行の裁許を受けるのは元禄年間であった.この時の裁許状は,本紙・写とも享保二十年の火災で焼失したため,その詳細は不明である新修大野原町誌編さん委員会編(2005)」といった記述があった。
萩原寺は香川県観音寺市大野原町萩原にあり、その寺の末寺であれば何となく讃岐の寺と見做してもいいようにも思えるのだが、事はそう簡単でもなく元禄期には既に本末の関係がはっきりしていない。上記研究レポートが示すように、萩原寺が雲辺寺をその末として徳島藩に訴えたことに対し、雲辺寺は反論しているわけで、両寺の本末関係は不明である。
とはいうものの、真念の『四国遍路道指南』には雲辺寺について、「右此(の)寺ハ阿州・与州・讃州三国の境なり、阿州領主より造営し給ふ、しかれども、讃州札所の数に入(る)」とあり、通例では讃岐の札所に入れて数えるようである。また、澄禅も『四国遍路日記』に「山ハ阿州ノ内、札ハ讃州ノ最初ナリ」と記す。
萩原寺が先ず訴え出た先が徳島藩であったことが示すように、寺は阿波にあったわけだが、江戸の頃には雲辺寺は既に讃岐の関所寺とみなされていたようである。阿讃県境山稜の道もおおむね徳島県域を進むのだが、香川県のクレジットとなっているのは、讃岐の札所と見做される雲辺寺へと続く故のことだろか。
2基の舟形地蔵丁石;標高840m
車道を進むと道の右手、杉の根元に2基の舟形地蔵丁石が並ぶ。「八丁」、「七丁」と刻まれる。車道を進み、ヘアピンカーブの突端から車道を離れ、土径に入る。
土径を経て車道を境内に;標高890m
車道をショートカットする道を進み車道に出ると、「雲辺寺0.5km」の木標。道の左手にある祠、中に石仏が2基。何故かは知らねども、祠に鎖が懸り施錠されている。有難い仏さんなのだろうか、などと思いながら雲辺寺の境内へと向かう。
六十五番札所・雲辺寺;佐野から2時間弱(標高910m)
●亀山院櫻岡之陵
山門に向かう途中、左手に上る石段があり、上り口に「亀山院櫻岡之陵」とある。亀山院は元寇の頃と言うから北条時宗の時代の天皇であり、時宗は武、亀山天皇は調伏祈願をもって国難に対処した、と。父である後嵯峨天皇に寵愛され、兄の後深草天皇の譲位により即位したが、このことが後に亀山天皇の大覚寺統と後深草統の分裂・両統更立の端緒となり南北朝分裂の伏線となる。私生活の放逸さは『とはずかたり』に描かれる。
で、この陵だが、亀山院は雲辺寺に帰依深く、崩御後その遺髪をこの地に埋めた場所。香川の善通寺にも後嵯峨天皇(父)、後宇多天皇天皇(子)の爪と髪を納めた三帝廟がある。讃岐は後嵯峨天皇一統の院分国であり、それゆえの繋がりだろう。因みに亀山院は京都の南禅寺の開基でもある。
ところで、「亀山院櫻岡之陵」と刻まれる石柱の対柱に「第二十五代豊田萬平建之」と刻まれる。豊田萬平さんとは愛媛・八幡浜の人でこの廟を整備した方。占で病治癒には亀山院のお墓に祈るべしとの御託宣。病回復のお礼にこの廟を整備したと(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)。
●2丁石と夫婦杉
本堂に向かう参詣道脇に船形地蔵丁石。「二丁」」と刻まれる。その先に巨大な杉がある。「雲辺寺 夫婦杉」との石碑があった。
●本堂・大師堂
本坊の石垣に沿って歩く。歩いてきた道には山門が見当たらない。何となく、しっくりこないまま本堂への道を上る。本堂は建て直されたのか新しい、本堂にお参りし右手に移り大師堂に。
雲辺寺は真言宗御室派のお寺さま。巨鼇山(きょごうざん)千手院(せんじゅいん)と号し、本尊は千手観世音菩薩である。巨鼇山は前述の本末論争の萩原寺もこの山号をもつ。
所在地は徳島県(阿波)であるが、四国八十八箇所霊場としては讃岐の札所として扱われ第六十六番で、八十八箇所中で最も標高が高い札所である。 寺伝によれば、年延暦8年(789)に佐伯真魚(後の空海・弘法大師)が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山と感得し堂宇を建立したことを起源とする、とある。空海はまた、大同2年(807)には秘密灌頂の修法を行い、さらに弘仁9年(818)に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻んで、七仏供養を行うなど、この寺を三度訪れた、と言う。
堂宇建立の際、熊野・金峰・山王・白山・石鎚の五所権現を勧請し護法神とし、修験・優婆塞・聖といった山岳修行者の寺でもあったようだ。 貞観年間(857年から877年)には清和天皇の勅願寺ともり、鎌倉時代は阿波守護の佐々木経高(経蓮)の庇護を受け、七堂伽藍を誇り、境内には12坊、末寺8ヶ寺を有する大寺であり、そこには四国坊が建っていた。「四国高野」と呼ばれる所以である。
天正5年(1577)に土佐を統一し、四国制覇を狙う土佐の戦国大名・長宗我部元親が雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語ったという。一説にはその野望を諌められた、とも。ともあれ讃岐・阿波・伊予を見下ろす立地故の逸話ではあろう。その山岳寺院も昭和62年(1987)には香川県観音寺市側の山麓と雲辺寺ロープウェイによって結ばれた。
●仁王門
大師堂から成り行きで歩くと石段があり、そこに仁王門(山門)が見える。石段の下り口には徳右衛門道標。「是より小松尾寺迄二里半」と刻まれる。石段を下り仁王門を見る。結構新しい。で、ちょっと疑問。何でこの位置に?
参道を歩きながら、参道に山門がないのを不思議に思ったのは上でメモした。何となく気になりチェック。昔の写真には参道に古き趣の山門が建つ。その位置が変わっている。雲辺寺ロープウェイができ、人の流れが変わったことに対応したのだろうか。
それはともあれ、仁王門から少し本坊方面へと戻ったところにある信徒会館脇から眺めた徳島の山並みは美しかった。
これで佐野道のメモは終了。七田からの曼陀道のメモに移る。
■曼陀道■
七田集落から山稜に入る;標高240m
愛媛県四国中央市川滝町下山七田の七田集会所手前の倉庫脇に立つ金比羅道標を左に折れる。すぐ先に「うんへんじ道」と刻まれた道標があり、その前の土径を山稜へと上る。
簡易舗装の道に出る;七田集落から10分(標高340m)
遍路標識に従いジグザグな土径を10分ほどかけて高度を100mほど上げると、簡易舗装の道に出る。
地図には描かれていないのだが、境目峠の手前、旧国道のヘアピン箇所から別れ尾根へと上る道の支道のようだ。案内に従い、右手に折れ、直ぐに「小道を登ってください 雲辺寺」のタグより簡易舗装の道を離れ左手の土径を上る。
尾根に上る舗装道・「四国のみち」に出る;七田集落から13分(標高350m)
3分ほどで舗装された道に出る。上記、境目峠手前で旧国道から別れ尾根に進む道である。「四国のみち」の標識、「日向2.4km 七田1.3km」の案内がある。 地図でチェックしても「日向」の地名が見つからない。遍路道指南の「えひめの記憶」には「段々畑の間をぬって上がり、「四国のみち」に合流するとあるので、オンコースであるとは思うのだが、あまりに簡単に「四国のみち」に出てしまい、今一つ遍路道との確証はもてないのだが、とりあえず先に進む。
◆メモの段階でわかったのだが、境目峠手前で旧国道から別れ尾根に進むこの道筋が「雲辺寺へのみち」と呼ばれる「四国のみち」であった。
簡易舗装の道となる;七田集落から18分(標高420m)
5分ほど進み高度を70mほど上げると道は簡易舗装に変わる。地図をチェックすると、愛媛県と香川県境に連なる讃岐山脈から、愛媛県へと突き出るいくつかの尾根筋のひとつに乗ったようである。誠にあっけない尾根入りだった。 3分ほど歩くと「四国のみち」の指導標が立つが、遍路標識もなく少々心もとないが、GPS で確認するに、尾根筋を曼陀峠(正確には曼陀トンネル真上の鞍部)へと向かう実線上を進んでおり、オンコースであろうと歩を進める。
雲辺寺8.6kmの指導標;七田集落から約33分(標高490m)
等高線の間隔が広く、緩やかな尾根筋の道を15分弱進み、高度を80mほど上げたところに、「雲辺寺8.6km 三角寺14.8km」と示す四国のみちの標識がある。遍路道の標識はないが、「雲辺寺」との案内が出ていた。予想に反し、簡易舗装された道ではあるが、この道が遍路道であろう。
少し進んだ山稜の下を松山自動車道の新境目トンネルが抜ける。
境目峠分岐点;七田集落から約50分(標高540m)
木立に覆われた尾根筋の道を歩く。簡易舗装の道が続く。「雲辺寺8.6km」の木標から17分ほど歩くと境目峠に抜ける道の分岐点。自然遊歩道と記された木の標識に「七田3.7km 境目2.9km」の案内がある。境目とは境目峠のことを砂州のだろう。傍には「三角寺15.8km 雲辺寺7.6km」と記された「四国のみち」の指導標も立つ。
遍路道はここで境目峠へと向かう道と別れ、手印と共に「雲辺寺」を示す土径に入る。簡易舗装からわかれ、やっと土径に入る。
境目;七田集落から約55分(標高570m)
土径を5分程歩き、標高を40mほど上げると「境目」に到着。「境目 ここが四国のみち愛媛県ルートの終点で、徳島県との県境です。県境のまち川之江市は愛媛県最東端の町で、香川徳島両県と接しており、地元の人々は香川県との境界を「県境」、徳島県との境界を境目峠という地名から「境目」と呼んで区別しています。
ここから更に北東へ、香川・徳島の県境を約8㎞行った徳島県側に、香川県の打ち始め「66番札所雲辺寺」があります」との案内がある。
案内傍には左右を示す道標と丁石らしき舟形石仏がある。摩耗し文字は読めない。
●四国のみちの愛媛県域・始点と終点
過日、予土国境の松尾峠を越えたとき、「四国のみち」の始点に出合った。ここで愛媛県域の終点に出合う。何ということはないのだが、また「四国のみち」をトレースしたわけでもないのだが、故なき達成感がある。
徳島・香川県境の尾根道(阿讃県境山稜のみち);標高550m
境目で愛媛県域の「四国のみち;雲辺寺へのみち」を離れ、「四国のみち;阿讃県境山稜のみち」に入る。愛媛・香川・徳島県の3県の接点となる曼陀峰(標高594.7m)を等高線570mに沿って巻き、「雲辺寺6.9km」の指導標が立つことろで徳島・香川の県境尾根に入る。
●讃岐山脈と阿讃山脈
阿讃山脈は徳島と香川の境を南北に、香川と愛媛の境を東西に連なる山脈。正式には讃岐山脈と呼ばれるが、伊予と讃岐を隔てる地政上のインパクトはそれほどなく、実質的には阿波(徳島)と讃岐(香川)の境となる故に阿讃山脈と呼ばれるのだろう。
尾根筋を歩きながら、尾根筋山頂部に平坦地が目立つことが気になった。チェックすると、讃岐山脈は早壮年期の山地地形を示すとある。一部の山頂部に幼年期の準平原の名残としての平坦部を残すようである。地形は幼年期>早壮年山地>満壮年山地(山稜は鋭くの鋸歯状山形)>晩壮年山地(山頂は風化が進み円みを帯びる)と「輪廻」する。
左手が開ける;七田集落から約1時間10分(標高540m)
緩やかな尾根道を少し進み、高度を10mほど下げると「雲辺寺6.7km」の指導標。ここで右手が一瞬開ける。そこから再び木々に覆われた尾根道を進むと舟形地蔵丁石がある。摩耗し文字は読めない。
曼陀峠(仮称);曼陀トンネル真上の車道に出る;七田集落から約1時間20分(標高530m)
船形地蔵丁石から直ぐに車道に出る。曼陀トンネル出口で県道8号と別れ、比高差100mほどある曼陀トンネル真上のこの地を繋ぐため、北に突き出た尾根筋を大きく迂回し強烈なヘアピンカーブで進んでくる。
説明の都合上、この地を曼陀峠と呼ぶが、ここから雲辺寺まではこの車道を進む。Google Street Viewでチェックすると道は完全舗装されている。曼陀トンネル出口からこの車道を使えば、雲辺寺まで車で進めそうだ。阿讃山脈の山登りを楽しむ人の車が数台駐車していた。
曼陀峠(仮称)には「四国のみち」の案内があり、前述の如く「雲辺寺から愛媛県境までの7,3kmを阿讃県境山稜のみちと呼ぶこと、ここから愛媛県境まで0.9kmゆっくり歩いて15分、川之江市七田まで4.9km約1時間半、雲辺寺まで6.4kmゆっくり歩いて約2時間の道のり。とあった。
カーブを曲がり切った車道右手には手印と共に「へんろ」「明治三十四」と刻まれた道標が雲辺寺を指す。
●境目峠からの遍路道(境目道)合流点
車道が雲辺寺へと向きを変えるコーナー部には南に向けて、大きく切り通し状に開かれた道がある。ここが境目峠から進んできた境目道が曼陀道に合流する箇所。
地図にはここから境目峠へ向けて実線が描かれているのだが、切通し部に立つ指導標の案内は何もない。地図にはこの実線部に「四国のみち」と描かれているが、四国のみちは今辿ってきた尾根道であり、少々紛らわしい。
旧曼陀峠;七田集落から約1時間40分(標高550m)
曼陀峠からおおよそ1㎞東に進むと道の左手に「曼陀峠」の案内。四国中央市七田からの曼陀道と境目峠からの境目道の土径が車道と合わさる箇所を説明の都合上曼陀峠とした関係上、ここを旧曼陀峠とする。
案内には「昔栄えた曼陀峠。ここは標高約600メートルの曼陀峠です。阿波と讃岐を結ぶ生活の道が、この峠を越えて南北に通じていました。また東は四国霊場六十六番札所雲辺寺、西は六十五番札所三角寺に通じるへんろ道もちょうどこの峠を通っていました。
曼陀峠の曼陀は、曼陀羅の転訛したもので、屋島の合戦後平家一門がこの地に落ち延び、一族の供養のための法要、曼陀羅供(まんだらく)を営んだところから名付けられたものだと思われます。
江戸時代は巡検道として使われ、また第二次世界大戦前までは、農耕用の牛を阿波から借り、農作業が終われば米や賃金を払って牛を阿波に帰す、いわゆる仮耕牛の道として夏、秋に賑わったところです。昭和六十二年 香川県」とある。
クレジットは香川県とあるように、「四国のみち」もこのルートは香川県のルートとなっていた。
案内には「阿波と讃岐を結ぶ生活の道が、この峠を越えて南北に通じていた」とある。地図には北の香川県観音寺市大野原町海老済(えびすくい)方面からはそれらしき実線・破線が旧曼陀峠まで描かれているが、峠から南には道を示す線は無い。すぐ南の竹藪に入り、沢に沿って佐野へと下ってゆくのだろうが、道は消え藪漕ぎをしなければならないようだ。ちょっと残念。
借耕牛の話は過日箸蔵道(Ⅰ、Ⅱ)を辿った時に出合った。古くは11ほどあったという阿讃山脈にある主要な峠道を仮耕牛が往来したのだろう。
●海老済(えびすくい)
「えびすく」ともいい「西讃府志」によれば丹波ともいった。地名の由来は古代中国の制度による都から500里(約300m)以上離れた未開の土地を意味する荒服(えびすふく)が転訛したものか。また、夷人(えびす)を籠め置いたの意「エビスクイ」が転訛したものともいう(『角川日本地名大辞典』)。
●巡検使
巡見使(じゅんけんし)とは、江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使があった(Wikipedia)
平家の隠れ里・有木の案内;七田集落から約2時間20分
旧曼陀峠から3キロ弱、県境山稜の道を進む。空は開けるが左右の見通しはよくない車道を30分ほどあるくと「落人の里 有木と阿弥陀如来像」の案内。 「落人の里 有木と阿弥陀如来像
香川県側の山裾には、かつて栄えた五郷渓温泉と町指定の文化財である阿弥陀如来座像を祀る阿弥陀堂があります。また、斜面を利用して香味の良い五郷茶が栽培されています。
寿永四年(1185年)早春の屋島で繰り広げられた源平合戦のおり、小松少将「平有盛」は夜陰にまぎれて曼陀峠に落ち延び、「有盛」は有木谷へ、家臣の「真鍋次郎清房」は、愛媛県の川之江市切山の奥深く隠れ住んだといわれています。 その時、「有盛」が持参したと伝えられる桧材寄木造り彩色漆箔の阿弥陀如来座像(52.5cm)は、藤原時代(十二世紀)の都作りとして有名です。
また、「有盛」が身につけていた名剣 "小烏丸(こがらすまる)" は盗難にあい、陣太鼓は、有木 "三部神社" に祀られています。 昭和62年(1987年)3月 香川県」とあった。
曼陀道と境目道 |
Wikipediaには平有盛について、「平 有盛(たいら の ありもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の四男。母は正室の藤原経子。
異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄の行盛と三名で手を取り合い、海中に身を投じた。享年22。
伝説;奄美群島には資盛、行盛、有盛が落ち延びたという平家の落人伝説がある。行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られ、特に平安文化が融合した諸鈍シバヤは重要無形民俗文化財に指定されている。
また、香川県観音寺市大野原町五郷有木に、平有盛が有木と名を変えて暮らしていた平家落人村があったことが、生駒記「新編丸亀市史4資料編:平成六年刊行」に記載されており、太刀や木造阿弥陀如来座像も残されている」とあった。
『山と通婚圏;瀬川清子(民俗学研究)』には、古老の話として五郷村有木には、「平家のアリモリさんというオヤ神さん(氏神)が有木部落の山が浅い 、といって阿波の祖谷に行かれた」という言い伝えもあるとする。
平家の落人伝説もさることながら、峠を介した讃岐と阿波の交流、生活圏の結びつきに惹かれる。上述『山と通婚圏』には、有木集落の「昔の第一の仕事は観音寺から海老済の荷屋にきた魚を竹の丸籠に入れて村の男らが天秤でかついで漫陀峠を越へて阿波の佐野、川口、池田町、祖谷方面に運ぶことであった(オクリの肴)。また、阿波の川口の井川の酒屋へ3里半の道を米をになうて行った」とある。実際、有木集落では讃岐より阿波や伊予との結婚が多かったようである。
唐突な案内ではあったが、チェックすると興味深いトピックが登場した。また、曼陀峠は平家一門の供養故の地名でもあり、とすれば有木の案内はそれほど唐突でもないように思えてきた。平を冠した姓も多く、上屋敷、中屋敷、下屋敷など山村に不釣り合いな地名も残り、現在でも「ありもりさん」と呼ばれる三部神社を祀る平家の隠れ里・有木の集落を訪れてみたくなった。
雲辺寺2.7lmの指導標;七田集落から約2時間30分
少し進むと送電線鉄塔が立つ。傍の「四国のみち」の指導標には「雲辺寺2.7km」とある。その対面には「曼陀高冷地野菜団地」の案内
「昭和四十五年度、四十六年度による自立経営農家を育成する目的で造成された畑です。雲辺寺山頂付近から曼陀峠に傾斜した、東西四キロメートル南北〇・三キロメートルの尾根沿いに開かれており、総面積は三二・一ヘクタールです。 現在、曼陀高冷地野菜生産組合が組織され、毎年四月から十月頃にかけて、キャベツの二作取りを中心に栽培がおこなわれています。
平均標高六〇〇メートルの高冷地で栽培されるため病害虫の被害が少なく、高品質のキャベツが生産されています」とあるのだが、周囲はススキの原であり、それらしき高原野菜の生産地が見当たらない。少し手前にはちょっと開けた耕地らしきものも見かけたのだが、人の気配もなく「団地」といった雰囲気からは程遠い。案内は四半世紀前のものであり、状況が変わってしまったのだろうか。
佐野道と合流;七田集落から約2時間40分
200mほど歩き佐野道との合流点に到着。ここから先、雲辺寺まで2.5kmのメモは上述「佐野道」のメモに譲る。
■境目道■
3つ目の遍路道、境目峠から進み、曼陀峠で曼陀道に合流する境目道メモする。
境目峠の徳島側で左折
愛媛県と徳島県の境をなす境目峠を越え、少し進むと遍路標識があり、直進と左折を共に遍路道と示す。直進すれば、佐野から阿讃山脈に山入りする佐野道。境目道は左折する。
民家が切れ土径に;旧国道分岐点から15分
馬路川を右手に見ながら愛媛と徳島の県境に沿って北東に続く道を進む。途中境谷の集落で馬路川支流に沿って進む道を分け、左の道をとり山入りの道へと進む。境目峠先の旧国道分岐点から15分ほど歩くと簡易舗装も切れ、林道といった道になる
分岐点;旧国道分点から18分
旧国道分岐から18分で道がふたつに分かれる。遍路道のタグは右手を示す。左に折れる道も曼陀道に続くが、場所は曼陀峠の手前、七田からの簡易舗装の道が切れ境目へと土径を上る地点。曼荼道のメモで「境目峠分岐点」としたところである。
遍路タグ;旧国道分岐点から約40分
標高410mから緩やかな傾斜の曲がりくねった林道を進む。見晴らしも何もない。道標も石仏も何もない。前日降った雨で泥濘となった未舗装の林道をただ歩くのみ。
分岐点から歩くこと18分、高度を60mほど上げ尾根筋が東に突き出したところに遍路道を示すタグがあった。この遍路道で遍路に関係する唯一のものであった。
右手が開ける;旧国道分岐点から約55分
単調な林道を遍路タグから15分弱ほど進み標高を50mほど上げたところで、一瞬右手が開ける。徳島の山並みが広がる。
再び右手が開ける;旧国道分岐点から約60分
西へと切り込んだ沢筋を大きく迂回し標高を20mほど上げたところで、再び右手が開ける。
曼陀道と合流;旧国道分岐点から約65分
右手が開けたところから数分で切通しを抜け曼陀道と合流する。標高400mから標高530mまで比高差130mを1時間強で歩いた。
ここから先は曼陀道のメモと同じ。
この遍路道は何があるわけでもなく、木々に覆われた林道を進むのみ。3コースのうち一番楽ちんではあるが、あまり楽しいルートではなかった。
■佐野道・曼陀道・境目道の比較■
●時間的にはどのルートもそれほど大きく変わらない
●どのルートも道迷いの心配はない
●一番きついのは佐野道、一番楽なのは境目道
●一番趣があるのは佐野道、一番味気ないのは境目道
●それほどきつくもないが、それほど趣もないのが曼陀道
●体力・気力が残っていれば佐野道、そこそこ景観も楽しみながらというのであれば曼陀道、とりあえず雲辺寺へ急ぎたい場合は曼陀道、というとことだろうか。