2018年5月アーカイブ

雲辺寺への三つの遍路道;徳島・佐野の雲辺寺口ルート(佐野道)、愛媛・七田からのルート(曼陀道)、愛媛・徳島県境の境目峠ルート(境目道)を辿る

先回の三角寺から雲辺寺までの遍路道散歩は、法皇山脈山麓の平山を経て、愛媛と徳島の県境・境目峠を越え徳島県の三好市池田町佐野の雲辺寺登山口までをメモした。
当日は雲辺寺口から阿讃山脈に入り雲辺寺へと続く尾根道まで歩いたのだが、その雲辺寺口からの阿讃山脈への「山入り」も含め、今回のメモで雲辺寺遍路道の山入り3ルートをまとめようと思う。
雲辺寺遍路道の「山入り3ルート」とは、自分が勝手に名付けたものであるが、その3つの遍路道は、上記佐野の雲辺寺口から阿讃山脈に入るルートが第一。これが最も古い遍路道と言う。佐野道とする。
第二の山入りは愛媛県と徳島県の県境である境目峠の少し西、愛媛県四国中央市川滝町下山七田から山稜に取り付き、尾根道を進み曼陀峠を経て阿讃山脈の尾根道を雲辺寺へと向かうもの。このルートは雲辺寺口ルートの後に開かれたものと言う。曼陀道とする。
そして第三の山入りルートは、先回の散歩の折に偶々遍路道案内標識に出合ったものであり、遍路道としての記録は見当たらないが、愛媛県と徳島県の県境である境目峠から林道を曼陀峠に進み、七田から来る第二の遍路道(曼陀道)に合流し阿讃山脈の尾根道を進むもの。境目道とする。
この曼陀峠(曼陀トンネル(隧道)真上の鞍部。実際にこの峠名があるのかどうかわからないが、説明の都合上「曼陀峠」とする。正式な曼陀峠は旧曼陀峠とする)で合流した第二(曼陀道)、第三の遍路道(境目道)は、旧曼陀峠を経て阿讃山脈の尾根道を進み、佐野の雲辺寺口から上ってきた第一の遍路道(佐野道)と合流し、それから先はひとつとなって尾根道を進み雲辺寺へと向かうことになる。
メモの順序としては、最初に第一のルート・佐野道を尾根道合流点から雲辺寺までメモする。次いで第二のルート・曼陀道を、曼陀峠を経て佐野道との合流点まで。最後に第三のルート・境目道を曼陀峠までカバーすることにする。

本日のルート;
佐野道
佐野の雲辺寺口>48丁石と道標>47丁石>遍路墓>遍路供養塔>43丁石>道標と39丁石>41丁石・37丁石>38丁石・ 40丁石>上部の欠けた丁石>石碑と舟形地蔵>車道(阿讃県境山稜のみち)と合流>3基の舟形石仏>道標>雲辺寺1.3km地点に丁石>12丁石・11丁石>六地蔵峠からの道の交点に道標>土径に入る>車道合流点先に道標と2基の舟形地蔵>土径を経て車道を境内に>六十五番札所・雲辺寺
曼陀道
七田集落から山稜に入る>簡易舗装の道に出る>尾根に上る舗装道・「四国のみち」に出る>簡易舗装の道となる>雲辺寺8.6kmの指導標>境目峠分岐点>境目>徳島・香川県境の尾根道(阿讃県境山稜のみち)>左手が開ける>曼陀峠(仮称)>旧曼陀峠>平家の隠れ里・有木の案内>雲辺寺2.7lmの指導標>佐野道と合流
境目道
境目峠の徳島側で左折>民家が切れ土径に>民家が切れ土径に>遍路タグ>右手が開ける>再び右手が開ける>曼陀道と合流



佐野道
佐野の雲辺寺口;13時7分
七田の集落を離れ、「是より雲辺寺迄一里」と刻まれた徳右衛門道標を左に見ながら道を進む。道の右手に分岐する上り坂があり、そこに地元ロータリークラブが建てた道標があり、「雲辺寺 4km」と刻まれる。その手前には自然石の道標があり、摩耗してはっきりしないが、「右 へんろ道」といった文字が読める。 承応年間、高野山の澄禅も三角寺・奥の院経由で歩いたと言うこの遍路道を上ることにする。
澄禅
「えひめの記憶」をもとに簡単にまとめると、「京都智積院の学僧。承応2年(1653)、90日余にわたる四国巡拝の旅をし、遍路紀行『四国遍路日記』を著す。真念以前の四国八十八ヶ所霊場の巡拝記としては、今のところ、寛永15年(1638) 8月から11月にわたる『空性法親王四国霊場御巡行記』を初見とするが、澄禅の『四国遍路日記』はその15年後に書かれたもので、四国の風物・人情、札所の由来や伝説、遍路の実態等について筆のおもむくままに詳しく記した、きわめてすぐれた紀行とされる」とある。

48丁石と道標;13時28分
簡易舗装の道を上るとすぐに遍路道案内があり、左の細い径に入る。その角には道標と舟形地蔵丁石。道標には手印とともに「へんろ道」の文字。上部が破損した舟形地蔵丁石には「四十八丁」の文字が刻まれる。
4km・48丁
先ほど遍路道上り口には雲辺寺4kmとあった。ここには48丁とある。1丁は109mであり、計算するとおおよそ5.5kmとなる。登山口にあった4㎞と間尺が合わない。
あれこれチェックすると、「みちのりは、あハととさ八(私注;阿波と土佐は)五十一丁一り、いよとさぬきは、三十六丁一り」といった記録もあり、阿波では一里48丁(5.2km)、土佐50丁(5.5km)、伊予と讃岐は36丁(4km)ともあった。現在では一里4㎞とするが、それが通用するのは伊予と讃岐だけ。理由は不詳だが、かつては国によって一里の距離が異なっていたようだ。
これで佐野の集落にあった徳右衛門道標の示す一里と、この丁石の示す48丁は合ったのだが、登山口の4kmとは間尺が合わないままではある。

47丁石;13時34分(標高300m)
狭い径を進み徳島自動車道を潜り、一度舗装された道に出る。その左手にロータリークラブの立てた「雲辺寺3.5㎞」の標識があり、そこから舗装道を離れ遍路道を上る。上った直ぐ先で道は右に折れるが、その角に47丁と刻まれた船形地蔵丁石がある。ここから遍路道は山に入る。

遍路墓;(標高400m)
等高線を斜めに、高度を100mほど上げたところ、道の右手に文久三と刻まれた石碑がある。源助倅源次郎と戒名が刻まれる。遍路墓だろう。



遍路供養塔;13時47分(標高420m)
掘割状になった道を進み、高度を20mほど上げたところ、道の右手に石碑があり、「遍路法界聖霊 文九四年」と刻まれる遍路供養塔が立つ。行き倒れた遍路を供養するもの。
この雲辺寺へと上る道は、伊予の60番札所・横峰寺、阿波の19番札所・立江寺、土佐の27番札所。神峰寺への道と共に遍路の関所とも呼ばれる。悪事を働いた者は無事通ることができないとされるようであり(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)、それ故の行き倒れ?少々考え過ぎ。

43丁石;13時52分(標高440m)
遍路供養塔を過ぎた辺りから、遍路道は等高線をほぼ垂直に進む、少し険しい上り道となる。高度を15mほど上げた所に地蔵丁石があるが、摩耗し文字を読むことはできない。そこから更に10mほど高度を上げたところに「□□三丁」と読める舟形地蔵丁石がある。「四十三丁」の丁石だろう。

道標と39丁石;13時54分(標高450m)
43丁石から直ぐ、道の右手に傾いた道標と地蔵丁石が立つ。道標には「是与へんろ道」、地蔵丁石には「卅九丁」と刻まれる。「卅」は「十」を三つ合わせた形で30のこと。
舟形地蔵丁石の前に倒れた石碑が見える。丁石のようではあるがはっきりしない。

41丁石・37丁石;13時59分(標高470m)
道標から高度を20mほど上げると「四十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(13時59分;標高470m)。日当たりのいい場所故か、苔むした丁石が多い中、白く光る。
等高線に沿って僅かに進むと、道の右手、杉の木の前に顔が削り取られたような舟形地蔵丁石(13時57分;標高470m)。「三十七」と刻まれる。

38丁石・ 40丁石
等高線を垂直に20mほど高度を上げると「卅九丁」と刻まれた地蔵丁石(14時1分;標高500m)。仏さまのもつ数珠がはっきりと浮かぶ。
そのすぐ先に「四十丁」と刻まれる舟形地蔵丁石。この仏様は数珠も持たず、手は印を結んでいるようにも見える。よく見ればそれぞれのお地蔵様の表情も姿も異なる。

標高440mの摩耗した丁石からここ標高500m地点まで、実際の距離、順序に関係なく丁石が集まっていたように思う。遍路道整備の折り、適当に場所を移されたのだろうか。その経緯は不明である。

上部の欠けた丁石;14時16分(標高610m)
標高500m地点から等高線を斜めに15分ほど歩き、標高600mまで高度を上げる。そこに上部の欠けた丁石。この丁石は今までの丁石と趣を異にし、「□□十 丁」と共に「石川」の文字と戒名らしきものが刻まれている。個人の供養塔と丁石を兼ねているようだ。この辺りまで上ると、空が開けてくる。ほぼ尾根筋に近づいた。

石碑と舟形地蔵;14時22分(標高630m)
支尾根を巻くように6分程歩き、高度を20mほど上げると石碑と舟形地蔵が佇む。石碑には「南無大師遍照金剛」とあり、側面には「享保五(中略)僧弁有宥四州巡礼□□霊泉速治病患依之立此標石(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)」と刻まれる、と。この標石を建てる因となった、霊泉は傍の地蔵の前に水溜り状であったようだが、今はない。



車道(阿讃県境山稜のみち)と合流;14時29分(標高660m)
支を巻き、阿讃山脈の尾根道に向かう。ほぼ平坦に近い道を7分ほど歩き、高度を20mほど上げると前面が開け、阿讃岐山脈の尾根筋を曼陀峠から雲辺寺へと進む車道に出る。阿讃県境山稜の道と呼ばれる「四国のみち」のひとつだ。上りはじめて車道までほぼ1時間。比高差400m弱を上ったことになる。
車道には「雲辺寺2.5km」の木標。東に雲辺寺のある雲辺寺山(標高927m)が見える。

3基の舟形石仏;佐野から約1時間10分(標高690m)
阿讃の県境を走る車道を進む。500mほど進むと次第に木々に覆われるようになり、車道が県境から右に逸れる手前、「雲辺寺2km」の木標の立つ対面、道の左手に3基の舟形石仏が並ぶ。そのうち1基は地蔵丁石、1基は舟形遍路墓のようである。
道は佐野道からの合流地点から知らず30mほど高度を上げ、標高700m弱。雲辺寺の標高はおおよそ930m。ここから230mほど高度を上げることになる。 丁石の先で一瞬空が開け、左手に分岐する道がある。雲辺寺を案内する「四国のみち」は車道示すが、地図を見ると分岐道方向に県境に沿って実線・破線が雲辺寺まで続いており、この道が遍路道?と思い、しばし坂を上るが、遍路道案内の標識もタグもないため車道に引き返す。

道標;佐野から約1時間25分(標高770m)
遍路道かどうか少々不安に思いながら、車道を5分ほど進むと遍路タグが木の枝に吊られており(標高730m)、一安心。そこから4分程進み標高を40mほど上げると右手に道標が立つ。手印とと共に、「これより三かく寺道」と刻まれる。
手印が雲辺寺方向を示しているのがちょっと?ではあるが、道標があることで古き遍路道筋を進んでいることが確認でき、大いに安心。

雲辺寺1.3km地点に丁石;標高770m
道標から2分、760m等高線に沿って東に少し切れ込んだ最奥部に「雲辺寺1.3km」を案内する「四国のみち」の木標。その手前、道の左手に舟形地蔵丁石が立つ。「十丁」らしき文字が見えるが、摩耗ではっきりしない。 この丁石の右手谷側が不自然というか、唐突に開け、左手山側はちょっと荒れている。東に切れ込んだ、谷筋といえば谷筋ではあるので、大雨による土砂崩れでもあったのだろうか。

12丁石・11丁石;標高790m
「雲辺寺1.3km」木標から3分、770m等高線から780mへと少し高度を上げると、左手に「十二丁」と刻まれた船形地蔵丁石がある。そこから2分、右手が一瞬開き、阿波の山地を見遣る辺りに「十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石がある。

六地蔵峠からの道の交点に道標;佐野から約1時間35分(標高800m)
11丁石から3分ほど歩き高度を20mほど上げると、県道268から折れた広い車道に出合う。その合流点の手前に舟形石仏が立つ。丁石のようだが、摩耗が激しく文字は読めない。
県道268号
香川県から阿讃山脈の六地蔵峠を越える県道6号は峠を越えると鮎苦谷(あいくるしだに)川を下り、箸蔵道散歩()で出合った土讃線・坪尻駅の北で国道32号に合流する、雲辺寺への道は途中、野呂内で県道268号・野呂内三縄停車場線に折れ、鮎苦谷川の上流域に向かい、更にこの土讃線・三縄駅へと向かう県道から別れ、この地へ繋がる。
鮎苦谷
下流部に早瀬があり鮎が遡上するの苦しむ、といった渓相故の命名と言う。

土径に入る
車道との交点の先では、「四国のみち」の木標に従い車道を離れ土径に入る。開ける右手に徳島の山地を見遣りながら3分ほど歩き、高度を20mほど上げると車道に出る。土径に入る傍に「四国のみち」の案内がある。
「四国のみち」の案内
佐野道
阿讃県境山稜の道(雲辺寺-愛媛県境7.3km) 案内を簡単にまとめると、「四国のみちは、四国を歩いて一周する自然歩道。雲辺寺から川之江の三角寺までには旧へんろ道があり、このうち雲辺寺から愛媛県境までが阿讃県境山稜の道。コースの途中には大野原町の高冷地野菜団地がありキャベツが栽培されており、北は三豊平野と瀬戸の海、南は徳島の山並みが見渡せる。
ここから愛媛県境まで約2時間、川之江市七田までは10.3kmで3時間。国道を経由して三角寺かでは22.4kmで約7時間(後略)」とある。
阿讃山脈県境の尾根を走る車道は「阿讃県境山稜の道」と呼ばれるようだ。また、曼陀峠経由の遍路道(曼陀道と境目道)の時間と距離の目安がわかり、段取りつくりに役にたった。
四国のみち
歩き遍路や山歩きをしていると、折に触れて「四国のみち」の指導標に出合う。よくよく考えると、「四国のみち」って何だろう?チェックすると、「四国のみち」とは歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、自然指向の環境省ルート(約1,600km)の総称。環境省ルートは「自然遊歩道」が正式名称であるが、ルートは重なる道筋も多く、まとめて「四国のみち」と称されるようだ。 環境省ルートは、「四季を通じて手軽に楽しく、安全に歩くことができる自然遊歩道」として整備されたのはわかるのだが、何故建設省が?そこには道路整備だけでなく、自然派志向の世論もあり、昭和52年(1977)以降「自転車道」「歩道」の整備をも重視することになった背景があるようだ。
この建設省ルートは基本遍路道を基本としながらも、既存道路の利用という前提もあり、札所を結ぶとはいいながら遍路道との重なりは6割弱とのこと。国道、県道、市町村道、林道整備がその主眼にある故ではあろう。
上に建設省ルートが歴史・文化指向といった意味合いは、札所や遍路道の歴史的・文化的価値を見出し、モータリゼーションの発展にもない、昭和59年(1984)には15万人もの人が訪れるおとになった四国遍路を観光資源としてそれを繋ぐ道を整備していったようにも思える。

車道合流点先に道標と2基の舟形地蔵;標高840m
土径から車道に合流したところに「雲辺寺0.8km」の木標。すぐ先に「四国霊場巡り」の案内があり、その傍に標石と2基の舟形地蔵が立つ。正面に「無縁法界供養塔」と刻まれた標石の左右面には、「左はしくら三り 右三かく寺五り」と刻まれる。どこからか移されたものだろう。慶応の年号の刻まれる標石の裏面には「山とりのほろほろとなくこえきけハ・・・」と言った和歌が刻まれる。 標石の左右には舟形地蔵があり、左手の地蔵は摩耗し文字が読めないが、右手の地蔵には「十三丁」の文字が刻まれる。これまた、どこからか移されたものだろう。
「四国霊場巡り」
「四国霊場巡り」には、「札所の番号の順に参るのが順打ち、その逆に参るのが逆打ち。四国霊場を七周すれば白の納経札が赤札、二十回で銀札、五十回以上が金札となる。四回に分けて回るの一国参りや十か所参りなど参拝の仕方もいろいろ 香川県」とある。
一つの県を国として参るの一国参りはよく聞くが、十か所参りは不詳。チェックしても検索にヒットしない。納経札が回数によって異なるとは知らなかった。 また、案内のクレジットに香川県とあるが、ここは未だ徳島県。そもそもが、雲辺寺は徳島県にあるのだが?チェックする。
阿波の雲辺寺が讃岐の札所?
徳島県立博物館研究報告のレポート、「四国遍路札所寺院の本末論争関係資料について;雲辺寺所蔵文書の紹介と復刻(松永友和)」の中に、「「阿波国三好郡の雲辺寺は江戸時代の初期には地蔵院(萩原寺)の末寺であった.慶長二十年には多数の聖教を地蔵院へ寄進するなどその関係は密であった.その後,寛文年間に観音寺と同じく地蔵院末からの離脱を図ったが,幕府寺社奉行の裁許を受けるのは元禄年間であった.この時の裁許状は,本紙・写とも享保二十年の火災で焼失したため,その詳細は不明である新修大野原町誌編さん委員会編(2005)」といった記述があった。
萩原寺は香川県観音寺市大野原町萩原にあり、その寺の末寺であれば何となく讃岐の寺と見做してもいいようにも思えるのだが、事はそう簡単でもなく元禄期には既に本末の関係がはっきりしていない。上記研究レポートが示すように、萩原寺が雲辺寺をその末として徳島藩に訴えたことに対し、雲辺寺は反論しているわけで、両寺の本末関係は不明である。
とはいうものの、真念の『四国遍路道指南』には雲辺寺について、「右此(の)寺ハ阿州・与州・讃州三国の境なり、阿州領主より造営し給ふ、しかれども、讃州札所の数に入(る)」とあり、通例では讃岐の札所に入れて数えるようである。また、澄禅も『四国遍路日記』に「山ハ阿州ノ内、札ハ讃州ノ最初ナリ」と記す。
萩原寺が先ず訴え出た先が徳島藩であったことが示すように、寺は阿波にあったわけだが、江戸の頃には雲辺寺は既に讃岐の関所寺とみなされていたようである。阿讃県境山稜の道もおおむね徳島県域を進むのだが、香川県のクレジットとなっているのは、讃岐の札所と見做される雲辺寺へと続く故のことだろか。

2基の舟形地蔵丁石;標高840m
車道を進むと道の右手、杉の根元に2基の舟形地蔵丁石が並ぶ。「八丁」、「七丁」と刻まれる。車道を進み、ヘアピンカーブの突端から車道を離れ、土径に入る。


土径を経て車道を境内に;標高890m
車道をショートカットする道を進み車道に出ると、「雲辺寺0.5km」の木標。道の左手にある祠、中に石仏が2基。何故かは知らねども、祠に鎖が懸り施錠されている。有難い仏さんなのだろうか、などと思いながら雲辺寺の境内へと向かう。

六十五番札所・雲辺寺;佐野から2時間弱(標高910m)
亀山院櫻岡之陵
山門に向かう途中、左手に上る石段があり、上り口に「亀山院櫻岡之陵」とある。亀山院は元寇の頃と言うから北条時宗の時代の天皇であり、時宗は武、亀山天皇は調伏祈願をもって国難に対処した、と。父である後嵯峨天皇に寵愛され、兄の後深草天皇の譲位により即位したが、このことが後に亀山天皇の大覚寺統と後深草統の分裂・両統更立の端緒となり南北朝分裂の伏線となる。私生活の放逸さは『とはずかたり』に描かれる。
で、この陵だが、亀山院は雲辺寺に帰依深く、崩御後その遺髪をこの地に埋めた場所。香川の善通寺にも後嵯峨天皇(父)、後宇多天皇天皇(子)の爪と髪を納めた三帝廟がある。讃岐は後嵯峨天皇一統の院分国であり、それゆえの繋がりだろう。因みに亀山院は京都の南禅寺の開基でもある。
ところで、「亀山院櫻岡之陵」と刻まれる石柱の対柱に「第二十五代豊田萬平建之」と刻まれる。豊田萬平さんとは愛媛・八幡浜の人でこの廟を整備した方。占で病治癒には亀山院のお墓に祈るべしとの御託宣。病回復のお礼にこの廟を整備したと(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)。
2丁石と夫婦杉
本堂に向かう参詣道脇に船形地蔵丁石。「二丁」」と刻まれる。その先に巨大な杉がある。「雲辺寺 夫婦杉」との石碑があった。
本堂・大師堂
本坊の石垣に沿って歩く。歩いてきた道には山門が見当たらない。何となく、しっくりこないまま本堂への道を上る。本堂は建て直されたのか新しい、本堂にお参りし右手に移り大師堂に。
雲辺寺は真言宗御室派のお寺さま。巨鼇山(きょごうざん)千手院(せんじゅいん)と号し、本尊は千手観世音菩薩である。巨鼇山は前述の本末論争の萩原寺もこの山号をもつ。

所在地は徳島県(阿波)であるが、四国八十八箇所霊場としては讃岐の札所として扱われ第六十六番で、八十八箇所中で最も標高が高い札所である。 寺伝によれば、年延暦8年(789)に佐伯真魚(後の空海・弘法大師)が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山と感得し堂宇を建立したことを起源とする、とある。空海はまた、大同2年(807)には秘密灌頂の修法を行い、さらに弘仁9年(818)に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻んで、七仏供養を行うなど、この寺を三度訪れた、と言う。
堂宇建立の際、熊野・金峰・山王・白山・石鎚の五所権現を勧請し護法神とし、修験・優婆塞・聖といった山岳修行者の寺でもあったようだ。 貞観年間(857年から877年)には清和天皇の勅願寺ともり、鎌倉時代は阿波守護の佐々木経高(経蓮)の庇護を受け、七堂伽藍を誇り、境内には12坊、末寺8ヶ寺を有する大寺であり、そこには四国坊が建っていた。「四国高野」と呼ばれる所以である。
天正5年(1577)に土佐を統一し、四国制覇を狙う土佐の戦国大名・長宗我部元親が雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語ったという。一説にはその野望を諌められた、とも。ともあれ讃岐・阿波・伊予を見下ろす立地故の逸話ではあろう。その山岳寺院も昭和62年(1987)には香川県観音寺市側の山麓と雲辺寺ロープウェイによって結ばれた。
仁王門
大師堂から成り行きで歩くと石段があり、そこに仁王門(山門)が見える。石段の下り口には徳右衛門道標。「是より小松尾寺迄二里半」と刻まれる。石段を下り仁王門を見る。結構新しい。で、ちょっと疑問。何でこの位置に?
参道を歩きながら、参道に山門がないのを不思議に思ったのは上でメモした。何となく気になりチェック。昔の写真には参道に古き趣の山門が建つ。その位置が変わっている。雲辺寺ロープウェイができ、人の流れが変わったことに対応したのだろうか。
それはともあれ、仁王門から少し本坊方面へと戻ったところにある信徒会館脇から眺めた徳島の山並みは美しかった。





これで佐野道のメモは終了。七田からの曼陀道のメモに移る。


曼陀道

愛媛県四国中央市川滝町下山七田から、愛媛と香川の県境をなす讃岐山地から愛媛に突き出した山稜尾根に取り付き、尾根道を進み愛媛と徳島の県境へ。七田から県境までの4㎞の道は「雲辺寺へのみち」と呼ばれる愛媛県域の「四国のみち」さらに愛媛・徳島・香川3県の県境近くを抜け曼陀峠を経て香川と徳島の境をなす阿讃山脈の尾根道を雲辺寺へと向かう遍路道をメモする。愛媛県境から雲辺寺までの7.3kmの道は、前述の如く阿讃県境山稜の道と呼ばれる「四国のみち」となっている。

七田集落から山稜に入る;標高240m
愛媛県四国中央市川滝町下山七田の七田集会所手前の倉庫脇に立つ金比羅道標を左に折れる。すぐ先に「うんへんじ道」と刻まれた道標があり、その前の土径を山稜へと上る。



簡易舗装の道に出る;七田集落から10分(標高340m)
遍路標識に従いジグザグな土径を10分ほどかけて高度を100mほど上げると、簡易舗装の道に出る。
地図には描かれていないのだが、境目峠の手前、旧国道のヘアピン箇所から別れ尾根へと上る道の支道のようだ。案内に従い、右手に折れ、直ぐに「小道を登ってください 雲辺寺」のタグより簡易舗装の道を離れ左手の土径を上る。

尾根に上る舗装道・「四国のみち」に出る;七田集落から13分(標高350m)
3分ほどで舗装された道に出る。上記、境目峠手前で旧国道から別れ尾根に進む道である。「四国のみち」の標識、「日向2.4km 七田1.3km」の案内がある。 地図でチェックしても「日向」の地名が見つからない。遍路道指南の「えひめの記憶」には「段々畑の間をぬって上がり、「四国のみち」に合流するとあるので、オンコースであるとは思うのだが、あまりに簡単に「四国のみち」に出てしまい、今一つ遍路道との確証はもてないのだが、とりあえず先に進む。
◆メモの段階でわかったのだが、境目峠手前で旧国道から別れ尾根に進むこの道筋が「雲辺寺へのみち」と呼ばれる「四国のみち」であった。

簡易舗装の道となる;七田集落から18分(標高420m)
5分ほど進み高度を70mほど上げると道は簡易舗装に変わる。地図をチェックすると、愛媛県と香川県境に連なる讃岐山脈から、愛媛県へと突き出るいくつかの尾根筋のひとつに乗ったようである。誠にあっけない尾根入りだった。 3分ほど歩くと「四国のみち」の指導標が立つが、遍路標識もなく少々心もとないが、GPS で確認するに、尾根筋を曼陀峠(正確には曼陀トンネル真上の鞍部)へと向かう実線上を進んでおり、オンコースであろうと歩を進める。

雲辺寺8.6kmの指導標;七田集落から約33分(標高490m)
等高線の間隔が広く、緩やかな尾根筋の道を15分弱進み、高度を80mほど上げたところに、「雲辺寺8.6km 三角寺14.8km」と示す四国のみちの標識がある。遍路道の標識はないが、「雲辺寺」との案内が出ていた。予想に反し、簡易舗装された道ではあるが、この道が遍路道であろう。
少し進んだ山稜の下を松山自動車道の新境目トンネルが抜ける。

境目峠分岐点;七田集落から約50分(標高540m)
木立に覆われた尾根筋の道を歩く。簡易舗装の道が続く。「雲辺寺8.6km」の木標から17分ほど歩くと境目峠に抜ける道の分岐点。自然遊歩道と記された木の標識に「七田3.7km 境目2.9km」の案内がある。境目とは境目峠のことを砂州のだろう。傍には「三角寺15.8km 雲辺寺7.6km」と記された「四国のみち」の指導標も立つ。
遍路道はここで境目峠へと向かう道と別れ、手印と共に「雲辺寺」を示す土径に入る。簡易舗装からわかれ、やっと土径に入る。

境目;七田集落から約55分(標高570m)
土径を5分程歩き、標高を40mほど上げると「境目」に到着。「境目 ここが四国のみち愛媛県ルートの終点で、徳島県との県境です。県境のまち川之江市は愛媛県最東端の町で、香川徳島両県と接しており、地元の人々は香川県との境界を「県境」、徳島県との境界を境目峠という地名から「境目」と呼んで区別しています。
ここから更に北東へ、香川・徳島の県境を約8㎞行った徳島県側に、香川県の打ち始め「66番札所雲辺寺」があります」との案内がある。
案内傍には左右を示す道標と丁石らしき舟形石仏がある。摩耗し文字は読めない。
四国のみちの愛媛県域・始点と終点
過日、予土国境の松尾峠を越えたとき、「四国のみち」の始点に出合った。ここで愛媛県域の終点に出合う。何ということはないのだが、また「四国のみち」をトレースしたわけでもないのだが、故なき達成感がある。

徳島・香川県境の尾根道(阿讃県境山稜のみち);標高550m
境目で愛媛県域の「四国のみち;雲辺寺へのみち」を離れ、「四国のみち;阿讃県境山稜のみち」に入る。愛媛・香川・徳島県の3県の接点となる曼陀峰(標高594.7m)を等高線570mに沿って巻き、「雲辺寺6.9km」の指導標が立つことろで徳島・香川の県境尾根に入る。
讃岐山脈と阿讃山脈
阿讃山脈は徳島と香川の境を南北に、香川と愛媛の境を東西に連なる山脈。正式には讃岐山脈と呼ばれるが、伊予と讃岐を隔てる地政上のインパクトはそれほどなく、実質的には阿波(徳島)と讃岐(香川)の境となる故に阿讃山脈と呼ばれるのだろう。

尾根筋を歩きながら、尾根筋山頂部に平坦地が目立つことが気になった。チェックすると、讃岐山脈は早壮年期の山地地形を示すとある。一部の山頂部に幼年期の準平原の名残としての平坦部を残すようである。地形は幼年期>早壮年山地>満壮年山地(山稜は鋭くの鋸歯状山形)>晩壮年山地(山頂は風化が進み円みを帯びる)と「輪廻」する。

左手が開ける;七田集落から約1時間10分(標高540m)
緩やかな尾根道を少し進み、高度を10mほど下げると「雲辺寺6.7km」の指導標。ここで右手が一瞬開ける。そこから再び木々に覆われた尾根道を進むと舟形地蔵丁石がある。摩耗し文字は読めない。

曼陀峠(仮称);曼陀トンネル真上の車道に出る;七田集落から約1時間20分(標高530m)
船形地蔵丁石から直ぐに車道に出る。曼陀トンネル出口で県道8号と別れ、比高差100mほどある曼陀トンネル真上のこの地を繋ぐため、北に突き出た尾根筋を大きく迂回し強烈なヘアピンカーブで進んでくる。
説明の都合上、この地を曼陀峠と呼ぶが、ここから雲辺寺まではこの車道を進む。Google Street Viewでチェックすると道は完全舗装されている。曼陀トンネル出口からこの車道を使えば、雲辺寺まで車で進めそうだ。阿讃山脈の山登りを楽しむ人の車が数台駐車していた。
曼陀峠(仮称)には「四国のみち」の案内があり、前述の如く「雲辺寺から愛媛県境までの7,3kmを阿讃県境山稜のみちと呼ぶこと、ここから愛媛県境まで0.9kmゆっくり歩いて15分、川之江市七田まで4.9km約1時間半、雲辺寺まで6.4kmゆっくり歩いて約2時間の道のり。とあった。
カーブを曲がり切った車道右手には手印と共に「へんろ」「明治三十四」と刻まれた道標が雲辺寺を指す。
境目峠からの遍路道(境目道)合流点
車道が雲辺寺へと向きを変えるコーナー部には南に向けて、大きく切り通し状に開かれた道がある。ここが境目峠から進んできた境目道が曼陀道に合流する箇所。
地図にはここから境目峠へ向けて実線が描かれているのだが、切通し部に立つ指導標の案内は何もない。地図にはこの実線部に「四国のみち」と描かれているが、四国のみちは今辿ってきた尾根道であり、少々紛らわしい。

旧曼陀峠;七田集落から約1時間40分(標高550m)
曼陀峠からおおよそ1㎞東に進むと道の左手に「曼陀峠」の案内。四国中央市七田からの曼陀道と境目峠からの境目道の土径が車道と合わさる箇所を説明の都合上曼陀峠とした関係上、ここを旧曼陀峠とする。
案内には「昔栄えた曼陀峠。ここは標高約600メートルの曼陀峠です。阿波と讃岐を結ぶ生活の道が、この峠を越えて南北に通じていました。また東は四国霊場六十六番札所雲辺寺、西は六十五番札所三角寺に通じるへんろ道もちょうどこの峠を通っていました。
曼陀峠の曼陀は、曼陀羅の転訛したもので、屋島の合戦後平家一門がこの地に落ち延び、一族の供養のための法要、曼陀羅供(まんだらく)を営んだところから名付けられたものだと思われます。
江戸時代は巡検道として使われ、また第二次世界大戦前までは、農耕用の牛を阿波から借り、農作業が終われば米や賃金を払って牛を阿波に帰す、いわゆる仮耕牛の道として夏、秋に賑わったところです。昭和六十二年 香川県」とある。
クレジットは香川県とあるように、「四国のみち」もこのルートは香川県のルートとなっていた。
案内には「阿波と讃岐を結ぶ生活の道が、この峠を越えて南北に通じていた」とある。地図には北の香川県観音寺市大野原町海老済(えびすくい)方面からはそれらしき実線・破線が旧曼陀峠まで描かれているが、峠から南には道を示す線は無い。すぐ南の竹藪に入り、沢に沿って佐野へと下ってゆくのだろうが、道は消え藪漕ぎをしなければならないようだ。ちょっと残念。
借耕牛の話は過日箸蔵道()を辿った時に出合った。古くは11ほどあったという阿讃山脈にある主要な峠道を仮耕牛が往来したのだろう。
海老済(えびすくい)
「えびすく」ともいい「西讃府志」によれば丹波ともいった。地名の由来は古代中国の制度による都から500里(約300m)以上離れた未開の土地を意味する荒服(えびすふく)が転訛したものか。また、夷人(えびす)を籠め置いたの意「エビスクイ」が転訛したものともいう(『角川日本地名大辞典』)。
巡検使
巡見使(じゅんけんし)とは、江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使があった(Wikipedia)

平家の隠れ里・有木の案内;七田集落から約2時間20分
旧曼陀峠から3キロ弱、県境山稜の道を進む。空は開けるが左右の見通しはよくない車道を30分ほどあるくと「落人の里 有木と阿弥陀如来像」の案内。 「落人の里 有木と阿弥陀如来像
香川県側の山裾には、かつて栄えた五郷渓温泉と町指定の文化財である阿弥陀如来座像を祀る阿弥陀堂があります。また、斜面を利用して香味の良い五郷茶が栽培されています。
寿永四年(1185年)早春の屋島で繰り広げられた源平合戦のおり、小松少将「平有盛」は夜陰にまぎれて曼陀峠に落ち延び、「有盛」は有木谷へ、家臣の「真鍋次郎清房」は、愛媛県の川之江市切山の奥深く隠れ住んだといわれています。 その時、「有盛」が持参したと伝えられる桧材寄木造り彩色漆箔の阿弥陀如来座像(52.5cm)は、藤原時代(十二世紀)の都作りとして有名です。
また、「有盛」が身につけていた名剣 "小烏丸(こがらすまる)" は盗難にあい、陣太鼓は、有木 "三部神社" に祀られています。 昭和62年(1987年)3月 香川県」とあった。
曼陀道と境目道
最初は阿弥陀堂が道脇にでもあるのか?などと思ったのだが、山裾にあると言う。何となく唐突な案内ではあるが、四国に多い平氏隠れ里のことを言わんとしているのだろうかとチェック。
Wikipediaには平有盛について、「平 有盛(たいら の ありもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の四男。母は正室の藤原経子。
異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄の行盛と三名で手を取り合い、海中に身を投じた。享年22。
伝説;奄美群島には資盛、行盛、有盛が落ち延びたという平家の落人伝説がある。行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られ、特に平安文化が融合した諸鈍シバヤは重要無形民俗文化財に指定されている。
また、香川県観音寺市大野原町五郷有木に、平有盛が有木と名を変えて暮らしていた平家落人村があったことが、生駒記「新編丸亀市史4資料編:平成六年刊行」に記載されており、太刀や木造阿弥陀如来座像も残されている」とあった。
『山と通婚圏;瀬川清子(民俗学研究)』には、古老の話として五郷村有木には、「平家のアリモリさんというオヤ神さん(氏神)が有木部落の山が浅い 、といって阿波の祖谷に行かれた」という言い伝えもあるとする。
平家の落人伝説もさることながら、峠を介した讃岐と阿波の交流、生活圏の結びつきに惹かれる。上述『山と通婚圏』には、有木集落の「昔の第一の仕事は観音寺から海老済の荷屋にきた魚を竹の丸籠に入れて村の男らが天秤でかついで漫陀峠を越へて阿波の佐野、川口、池田町、祖谷方面に運ぶことであった(オクリの肴)。また、阿波の川口の井川の酒屋へ3里半の道を米をになうて行った」とある。実際、有木集落では讃岐より阿波や伊予との結婚が多かったようである。
唐突な案内ではあったが、チェックすると興味深いトピックが登場した。また、曼陀峠は平家一門の供養故の地名でもあり、とすれば有木の案内はそれほど唐突でもないように思えてきた。平を冠した姓も多く、上屋敷、中屋敷、下屋敷など山村に不釣り合いな地名も残り、現在でも「ありもりさん」と呼ばれる三部神社を祀る平家の隠れ里・有木の集落を訪れてみたくなった。

雲辺寺2.7lmの指導標;七田集落から約2時間30分
少し進むと送電線鉄塔が立つ。傍の「四国のみち」の指導標には「雲辺寺2.7km」とある。その対面には「曼陀高冷地野菜団地」の案内
「昭和四十五年度、四十六年度による自立経営農家を育成する目的で造成された畑です。雲辺寺山頂付近から曼陀峠に傾斜した、東西四キロメートル南北〇・三キロメートルの尾根沿いに開かれており、総面積は三二・一ヘクタールです。 現在、曼陀高冷地野菜生産組合が組織され、毎年四月から十月頃にかけて、キャベツの二作取りを中心に栽培がおこなわれています。
平均標高六〇〇メートルの高冷地で栽培されるため病害虫の被害が少なく、高品質のキャベツが生産されています」とあるのだが、周囲はススキの原であり、それらしき高原野菜の生産地が見当たらない。少し手前にはちょっと開けた耕地らしきものも見かけたのだが、人の気配もなく「団地」といった雰囲気からは程遠い。案内は四半世紀前のものであり、状況が変わってしまったのだろうか。

佐野道と合流;七田集落から約2時間40分
200mほど歩き佐野道との合流点に到着。ここから先、雲辺寺まで2.5kmのメモは上述「佐野道」のメモに譲る。









境目道

3つ目の遍路道、境目峠から進み、曼陀峠で曼陀道に合流する境目道メモする。

境目峠の徳島側で左折
愛媛県と徳島県の境をなす境目峠を越え、少し進むと遍路標識があり、直進と左折を共に遍路道と示す。直進すれば、佐野から阿讃山脈に山入りする佐野道。境目道は左折する。

民家が切れ土径に;旧国道分岐点から15分
馬路川を右手に見ながら愛媛と徳島の県境に沿って北東に続く道を進む。途中境谷の集落で馬路川支流に沿って進む道を分け、左の道をとり山入りの道へと進む。境目峠先の旧国道分岐点から15分ほど歩くと簡易舗装も切れ、林道といった道になる

分岐点;旧国道分点から18分
旧国道分岐から18分で道がふたつに分かれる。遍路道のタグは右手を示す。左に折れる道も曼陀道に続くが、場所は曼陀峠の手前、七田からの簡易舗装の道が切れ境目へと土径を上る地点。曼荼道のメモで「境目峠分岐点」としたところである。

遍路タグ;旧国道分岐点から約40分
標高410mから緩やかな傾斜の曲がりくねった林道を進む。見晴らしも何もない。道標も石仏も何もない。前日降った雨で泥濘となった未舗装の林道をただ歩くのみ。
分岐点から歩くこと18分、高度を60mほど上げ尾根筋が東に突き出したところに遍路道を示すタグがあった。この遍路道で遍路に関係する唯一のものであった。



右手が開ける;旧国道分岐点から約55分
単調な林道を遍路タグから15分弱ほど進み標高を50mほど上げたところで、一瞬右手が開ける。徳島の山並みが広がる。







再び右手が開ける;旧国道分岐点から約60分
西へと切り込んだ沢筋を大きく迂回し標高を20mほど上げたところで、再び右手が開ける。






曼陀道と合流;旧国道分岐点から約65分
右手が開けたところから数分で切通しを抜け曼陀道と合流する。標高400mから標高530mまで比高差130mを1時間強で歩いた。
ここから先は曼陀道のメモと同じ。

この遍路道は何があるわけでもなく、木々に覆われた林道を進むのみ。3コースのうち一番楽ちんではあるが、あまり楽しいルートではなかった。

佐野道・曼陀道・境目道の比較

これで雲辺寺までの3つのルートのメモを終える。歩いた感想。
●時間的にはどのルートもそれほど大きく変わらない
●どのルートも道迷いの心配はない
●一番きついのは佐野道、一番楽なのは境目道
●一番趣があるのは佐野道、一番味気ないのは境目道
●それほどきつくもないが、それほど趣もないのが曼陀道
●体力・気力が残っていれば佐野道、そこそこ景観も楽しみながらというのであれば曼陀道、とりあえず雲辺寺へ急ぎたい場合は曼陀道、というとことだろうか。
法皇山麓・平山を経て伊予と阿波の国境・境目峠を越え,徳島県池田町佐野の雲辺寺口へ

先回の散歩で旧三島市(現、四国中央市)の遍路わかれから三角寺を繋いだ。三角寺から奥の院・仙龍寺経由の遍路道は、法皇山脈を越えて銅山川の谷筋まで下り、奥の院を打った後、遍路道を堀切峠近くの峰の地蔵へと上り直し、土佐北街道に合流し旧川之江市の平山まで辿ることになる。
この遍路道は、三角寺から奥の院への散歩で峰の地蔵まで上り返し、そこから三角寺へと戻った散歩()、また土佐北街道・横峰越えの際、知らず奥の院からの遍路道に出合い、平山から峰の地蔵までトレースしたことがあり、合わせ技ではあるが奥の院経由の遍路道を平山まで踏み歩いている。
平山は三角寺から直接であろうと奥の院経由であろうと、次の札所である讃岐の雲辺寺に向かう遍路道が経由する遍路道の「要衝」の地である。三角寺から佐礼を経由して平山へ向かう山麓の遍路道幾度となく通っているのだが、道標なども残らない単調な車道であり、メモするのもなんだかなあとこれで伊予の遍路道を繋ぐ散歩は完結と思っていた。

が、今となっては何となく収まりがよくない。その因は、今回三角寺へと辿る遍路道をチェックする過程で、遍路道指南である「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」に、三角寺から平山への遍路道は、「北東へと谷筋を標高150m付近の西金川、東金川へ一度下り、そこから東に平山まで上り返す道」との記述である。
三角寺から平山への遍路道が佐礼を経由する山麓の道以外に登場した。それも、その道の方が「本筋」のようにも思える。少々思惑が違ってしまった。

画龍点睛を欠く、というわけでもないのだが、伊予の遍路道をつなぐとした以上、最後の詰めをしておこうと三角寺から金山を経由し平山までの遍路道をチェック。また、どうせのことなら少し足を延ばし予讃国境までカバーしようとルートを見ると、遍路道は境目峠(香川ではなく徳島県)という峠越えフリークには少々惹かれ名前の峠を越えて雲辺寺に向かう。
ついでのことながらと雲辺寺までのルートをチェックする。と、そのルートも境目峠の手前から山に入り曼陀峠という、これも少々惹かれる名前の峠を経て尾根筋を雲辺寺に向かう道、境目峠から曼陀峠へと尾根筋を進む道、さらには徳島の佐野の雲辺寺口から阿讃の山に入り、尾根筋に上り雲辺寺へと向かう道がある、と言う。何となく面白そう。

ということで、三角寺までを繋ぐことで大団円としようとした当初の予定を変更し、伊予と阿波の国境・境目峠を越え雲辺寺までの遍路道辿ることにした。 ルートは徳島県池田町佐野の雲辺寺口まで進み多くの地蔵丁石も残り、如何にも遍路道の風情を感じる雲辺寺口から雲辺寺へ辿ることで良し、としたのだが、途中その標識と出合った七田からの山入りルート、境目峠から曼陀峠を経て雲辺寺に向かうルートも気になり、結局はをすべてのルートを辿ることになった。 ともあれ、今回はは伊予と阿波の国境・境目峠を越え、佐野の雲辺寺口から阿讃の尾根に上り雲辺寺に向かう遍路道をメモする。
本日のルート;
三角寺から平山へ□
谷筋の旧遍路道◆
遍路標識を左折>竹藪を左折>道と交差>道との交差箇所に道標>車道に合流
西金川・東金川から平山へ
西金川三差路の道標>三角寺口バス停>東金川バス停傍の道標>大西神社南の道標>東金川集会所西の道標>新土佐北街道分岐点の道標>土佐北街道が県道5号に合流>県道5号から土佐北街道を嶋屋跡へ>土佐北街道と遍路道分岐点
平山から椿堂へ
横川川の谷筋に下りる>横川の常夜灯>高知自動車道を越えて領家に>椿堂
椿堂から境目峠へ
三差路に茂兵衛道標>金生川に沿って国道192号を東に進む>七田で遍路道はふたつに分かれる>阿波街道の遍路道を境目峠へと向かう>境目峠旧道上り口の道標>道標の先で土径に入る>旧国道に出る>境目峠:切通しに境界石
境目峠から佐野の雲辺寺口へ
遍路道がふたつに分かれる>中津山道の道標>国道192号に合流し佐野へ >雲辺寺口


三角寺から平山へ□
谷筋の旧遍路道◆
三角寺の奥の院・仙龍寺を打つことなく、三角寺から金田を経由して平山へ向かう道について「えひめの記憶」には、「三角寺門前の商店(旧遍路宿)左脇の小道を下りた後、三角寺川の谷と並行して北に向かって下って行く。雨水の流路となっているようで道は深くえぐられ、山石が転がり小さな雑木が覆いかぶさって歩きにくい」とある。
記事にある商店(駐車場のオーナー)の下手に右に折れる道がある。商店前で駐車場の管理もかねて座ってらっしゃるおばーさんに、谷筋を下りる遍路道はありますか?と尋ねる。嫁に来て70年になるが、そんな道は歩いたこともない、と。

遍路標識を左折
初っ端から少々戸惑ったが、取りあえず様子を見に道を下る。坂を下り集落が切れるあたりに遍路標識。案内に従い左に折れるが、竹で通行止めの表示。どの程度の荒れ具合か確認のため先に進む。道端に猪捕獲用の罠が置かれている。

竹藪を左折
少し進むと左手に竹藪がある。わかりにくいのだが、竹藪の中へと左折の遍路シールが竹に貼ってある。見逃しやすい。実際、当日はこの案内を見逃し、直進し藪に入り込む。遍路道を示すシールも見当たらず、あれこれ彷徨った末に、突然遍路シールが無くなるのも不自然であり、シールを見逃したに違いないと藪から撤退。気を付けて戻る途中に竹に張り付けられた遍路シールを見付けたわけである。


道と交差
少し下り沢を左岸に渡る。沢といっても、「えひめの記憶」にあるように雨水の流路といったものである。遍路道は要所に遍路道案内シールがあり迷うことはない。
竹藪の左折点から5分ほどで比較的広い土径に出る。舗装はされていない。交差箇所の東側には家畜サイロだろう建屋が建っている。地図にはないが、このサイロに続く道が作業道から続いているのだろう。

道との交差箇所に道標
作業道を越え沢に沿って下る。道は結構荒れてくるが、遍路道案内シールがあり安心。水に深くえぐられた道を5分ほど下ると水路が脇を流れる舗装された道にあたる。交差箇所に立派な道標が立つ。「此方 遍んろ道」と読める。 谷筋の沢も、このあたりから三角寺川として地図に水路が描かれている。

車道に合流
道標箇所から先、比較的歩きやすくなった道を進み、用水タンクのような水槽あたりから舗装された道を下ると車道に出る。道標箇所から7分ほど。旧遍路道案内のある、通行止め地点からおおよそ30分強といった旧遍路道下りであった。

西金川・東金川から平山へ
西金川三差路の道標
谷筋を離れ前面が開ける道を下り、西金川集落の三差路少し手前に道標が立つ。摩耗も激しく、下部が埋もれている。
金川
金川の由来は近くの淵から金の仏像が彫り出された故とのこと。もっとも、この辺り、後程出合う金生川とか銅山川筋の金砂とか、金を冠する地名が多いが、これら川筋で砂金が採れた故との話はよく聞く。この川から金の仏像云々も、砂金故?といった妄想も膨らむ。

三角寺口バス停
三角寺川左岸を下り三角寺口バス停に。「えひめの記憶」には「バス停留所のある三角寺橋のたもとは、かつては春の季節になるとさかんに団子や白米の接待が行われた場所である。遍路宿が1軒あったほか、弘法大師の命日には善根宿を行う家もあったという」とある。遍路道オンコースを進んでいるようだ。

東金川バス停傍の道標
三角寺川を東金川バス停まで下ると、東金川橋へと右折する角に道標がある。大正の銘が刻まれる道標は「左 奥の院 「右 立川街道」と読める。遍路道はここを右折する。
立川(たじかわ)街道
立川街道とは土佐北街道の別名。土佐北街道のルート上、高知県長岡郡大豊町立川下名に立川口番所がある。藩政時代は土佐藩主参勤交代の際の本陣であり、遥か古代に遡れば古代官道の立川駅のあった地でもある。土佐北街道を立川街道とも称する所以である。

大西神社南の道標
東金川橋を渡り、大西神社の鎮座する小高い丘の裾を進む。白石川に神社の丘が突き出た東南端、車道右手に道標がある。文久(1861-1864)と記された道標には「右 金毘羅道 此方 へんろ道」の文字が刻まれる。
「此方」の面の手印は南を示す。「右 金毘羅道」は境目峠をトンネルで抜け徳島に向かう国道192号沿いの金比羅さんの奥の院である箸蔵寺への道を指すのかもしれない。
尚「えひめの記憶」には、江戸時代の遍路道は上述の東金川橋袂の道標までは行かず、三角寺川の北傍にある正善寺を過ぎたあたりで三角寺川・白石川を渡って現在の大西神社南麓に出て、北から来る土佐街道(笹ケ峰越えルート)と合流していたようである。その合流地点のあたりに道標が立っている、とする。この道標が江戸時代の遍路道との合流地点ということだろう。

東金川集会所西の道標2基
遍路道はここからしばらく土佐街道(土佐北街道・立川街道)を進む。東金川集会所の200mほど西に道標がある。天保(1831‐1845)と記された道標には、手印と共に「遍んろみち」と刻まれる。
更に道標がもうひとつ。東金川集会所の直ぐ西のT字路に茂兵衛道標が立つ。南に向かう面には「奥の院 土佐高知」の文字が刻まれる。


新土佐街道
「えひめの記憶」には「茂兵衛道標から右折すると、いわゆる新土佐街道である。新土佐街道は、主として四国山地の楮(こうぞ)・三椏(みつまた)などの運搬道として明治時代を中心に使われた道である。遍路が利用することもあったらしく、街道沿いにあたる西方(さいほう)のバス停留所前にも道標が立てられているが、現在はその大部分が廃道の状態である」とする。新土佐街道のルート詳細は不詳。

土佐北街道分岐点
東金川集会所から先、平山までの遍路道について「えひめの記憶」は、「茂兵衛道標の前を右折せずにまっすぐ通り過ぎた遍路道は、徐々に法皇山脈を上っていったん県道川之江大豊線と合流した後、すぐ県道と分岐して平山に向かって上がる。(中略)その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だったが、現在その跡地は畑になっている。遍路道と土佐街道は嶋屋の跡地前で分岐する。ここを過ぎてそのまま東に向かうのが遍路道であり、土佐街道はここで南に方向を変え、急峻な平山坂を上って水ヶ峰に達し、さらに新宮村を経て土佐へ達する」とする。

少々漠とし、ルートがはっきりしない。道なりに進み県道5号と合流しても、すぐに分岐し平山に向かう道は地図にない。さてどうしたものか。で、唯一の手掛かりは嶋屋跡。ここは土佐北街道・横峰越えの際に特定しており、そこを平山集落への遍路道の目安として、基本成り行きで進むことにした。 東金川集落から平山へと上り返す。東へと進み急坂を20mほど上り切った等高線突端部に「土佐北街道」右折の案内。小さく「遍路道」の案内もある。地図をチェックすると南東に破線が描かれている。

土佐北街道が県道5号に合流
右折するとしばらくは簡易舗装。進むにつれ土径となる。少し荒れているが、どうとうことはない。杉林の中を進むと前方にトンネルが見える。県道下を抜いている。県道5号筋の改修工事の折、道が付け替えれらたのだろう。トンネルを潜り右折し県道5号に出る。合流点には次の目標となる椿堂への案内木標があった。
実のところこの土佐北街道をに入る前にGoogle Street Viewで破線の県道合流点をチェックしたのだが、道の西側はガードレールがあり出口らしき箇所が見つからず、果たして県道に合流できるのだろうか、「土佐北街道」と道案内がある以上、突然道が切れることはないよな、などと少々気にしながら歩いたのだが、トンネルで逆側に出るとは予想できなかった。

県道5号から土佐北街道を嶋屋跡へ
県道5号に出て地図をチェック。少し県道を進むと嶋屋跡のある場所へと破線が描かれている。道の右手を注意しながら進むと、民家右手に「土佐北街道」の案内石碑が立つ。民家脇の径を数分上ると嶋屋跡の石碑がある箇所に出た。眼下一望の場所である。
比較的新しい石碑南面には「お小屋倉跡」、西面には「旅籠屋・嶋屋跡」の案内が刻まれる。
お小屋倉跡
「土佐の国主が参勤交代の時、休み場が此処より1400米登ったところにあり、お茶屋と呼ばれここで休息される時、倉に格納してある組立式の材料を運びあげて臨時の休息所とされた」と書かれていた。
土佐街道横峰越えの折、このお小屋倉跡を訪ねたことがある。その場所の案内には「この場所に泉があり土佐藩主山内公の参勤交代中の休み場であった。延べ50余mの石垣で三方を囲み、上段に70平方メートル余りの屋敷を構えた。先触があると1400メートル下の平山のお小屋倉から組立式の材料を運び上げて休息所を建てた」とあり、その傍ブッシュの中の泉の跡には「お茶屋跡」との案内があり、「一般に「お茶屋」と呼ばれたこの地には、泉があり、すぐそばに大きな松の木があった。そのため、古くから旅人たちの休み場となっていた」とあった。
旅籠屋・嶋屋跡
案内には「薦田の家譜で約5アール(150坪余)の土地に広壮な建物があり、街道は屋敷の東(現在の谷)を下り隅で西に曲がり石垣の下を通っていた。石垣は土佐の石工が宿賃の代わりに積んだと言われ、兼山の鼠面積(長い石を奥行き深く使い太平洋の荒波にも強い)として有名である」とある。
兼山とは港湾整備など土木工事の実績で名高い土佐藩家老の野中兼山のこと。手結港や津呂港などの普請で知られるが、これも太平洋の荒波に耐える鼠面積で造られたのだろうか。
で、その石垣は何処に、と周辺を下り探したのだが、特に案内もなく、それらしき石垣も見当たらない。実際は、今は無いとのこと。石碑下の今は畑となっている北側に石垣があったようで、往昔の土佐街道・遍路道はその石垣下を廻り上ってきたようだ。なお、嶋屋に土佐のお殿様は泊まることはなく、川之江の本陣に滞在したとのことである。
平山
「えひめの記憶」には、「この集落は法皇山脈の標高200mを超す山腹に形成され、交通の要所として、かつては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた。その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だったが、現在その跡地は畑になっている」とある。

土佐北街道と遍路道分岐点
嶋屋跡石碑から僅かに東、道脇に土佐街道の石碑、それと並んで地蔵丁石と茂兵衛道標がある。ここで雲辺寺への遍路道は南に向かう土佐北街道と分かれ東に向かうことになる。
土佐街道
石碑には「是より 南 水ケ峰 新宮村を経て高知に至る  北 川之江に至る」と刻まれている。石碑脇の南に向かう坂を上り法皇山脈を越える。
茂兵衛道標と地蔵丁石
地蔵丁石には「奥の院まで四十八丁」と刻まれ、茂兵衛道標は手印で雲辺寺を示す
三角寺奥の院・仙龍寺からの遍路道
これら道標が示すのは、この地が三角寺奥の院から平山に出る遍路道ということである。三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越えて、銅山川の谷筋に下り奥の院・仙龍寺を打ち終え、一部往路を戻った後、北東へと法皇山脈を上る。峰の地蔵尊で法皇山脈の尾根を越えた遍路道は北東に少し下った後、土佐北街道に合流し、平山のこの地へと下りてくる。


三角寺からの遍路道と奥の院からの遍路道の合流点
今回は三角寺から奥の院を打つことなく直接雲辺寺へと向かう道をトレースしているが、既述の如く一度金川地区まで下り平山へと上り返す遍路道も、三角寺から佐礼を経て山麓の車道を平山まで緩やかに下る道も、奥の院からの遍路道もこの地で合流し雲辺寺へとっ住むことになる。









平山から椿堂へ
平山で合流した三角寺から直接、また奥の院・仙龍寺からの遍路道は、雲辺寺への次にランドマークである椿堂へと、金生川支流の横川川の谷筋に沿って東北に下る。道が金生川に突き当たるところに椿堂がある。

横川川の谷筋に下りる
嶋屋跡から県道5号の平山バス停に下り、バス停東側の道を下りT字路を左折、少し東に進むと遍路休憩所がある。傍の地図には「椿堂 常福寺3㎞ 雲辺寺 29㎞」とある。
その前の車道を進むと金生川支流・横川川が刻む谷筋の崖端に出る。車道はその崖面を大きく迂回し、ヘアピン状に下るが、遍路道は崖端から右に折れて崖を下り、横川川に沿ってショートカットし車道に合流する。崖上端から前面に開ける谷筋の眺めは、いい。
なお、車道とショートカット土径の合流点に小さな道標があるとの記事があるが、それらしき道標は見当たらなかった。

横川の金毘羅常夜灯
道を進むと横川の集落に金毘羅常夜灯が立つ。この常夜灯には手印と「へんろ道」の文字が刻まれる。「えひめの記憶」には、横川地区に道標があと1基あるとするが。見つけることはできなかった。
横川川
横川川は横川の地名からのものだろう。この「川川」については四万十川散歩の折り、その道すがら上八川川、枝川川、小川川、北川川、四万川川など「川川」と重なる川名が目についた。今まで結構川筋を歩いているのだが、このようなケースに出合ったことがない。
この辺り特有の命名法なのだろうか。なんとなく気になりチェックすると、特に高知に限ったものではなく、5万分の一の地図で見るだけでも全国に100ほどある、という(「地名を解く6;今井欣一」)。
その記事に拠れば、この場合の「小川」とか「北川」は、川の名前ではなく、地名とのこと。地名に偶々「川」があり、そこを流れる川故の「川」の重複と見えているようだ。また、「小川」など「川」がつく地名も、もともとは「岡端・岡側」であった「端・側」に川の字をあてたものが多いとある。岡の端の崖下には「川」が流れているから、「川」をあてたのでは、と。
なんの根拠もないが、横川も横端・横側であったのかもしれない。関係ないけど、ナイル川やガンジス川も、ナイルもガンジスも川の意であり、「川川」ではある

高知自動車道を越えて領家に
高知自動車道の高架下をくぐって川滝町領家(りょうけ)に入る。「えひめの記憶」には、「土地の古老の話によると、領家の古下田(こげた)から原中にかけての集落には何軒かの遍路宿があり、戦前までは、地元の青年たちによって白米などの接待も盛んに行われていたという。またこのあたりの農家では、内職で作った草鞋(わらじ)を軒先に吊り下げて遍路に売っていたこともあり、結構よい小遣い稼ぎになったということである」とある。
古下田には2基の道標がある(「えひめの記憶」)とするが、見つけることはできなかった。
領家の由来
Wikipediaには「領家(りょうけ)は、日本の荘園制において、荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)から寄進を受けた荘園領主である。中央の有力貴族や有力寺社が荘園寄進を受けて領家となっていた」とあり、続けて「寄進は開発領主が開発田地の支配権・管理権を確実なものとするためのものである。また、所有権を更に確実なものとするため、領家は皇族や摂関家といった最上位の荘園領主(本家)に寄進することもあった。これら領家・本家のうち、荘園の実質的支配権をもつものを「本所」と称し、本所が荘園権利の一部を付与した貴族も領家と称する」とする。転じて領家の所有する土地のことも「領家」と称したようだ。

椿堂
横川川は山裾に沿って進む遍路道とは結構な比高差となって金生川に合流する。その横川川の流れを左手に見遣りながら進み椿堂秋葉神社を越えると椿堂に。 別格13番札所 邦治山常福寺。案内によれば、「其の昔、大同2年(807)邦治居士(ほうじきょし)なる人この地に庵を結び、地蔵尊を祀る。弘仁6年(815)?月?日未明巡錫中の弘法大師がこの庵を訪れ、当時この地に熱病流行し住民の苦しめるのを知り、住民をこの庵に集めて手にせる杖を土にさして祈祷し、病を杖とともに土に封じて去る。後にこの杖より逆さなるも椿が芽を出し成長す。住民はこの椿大師お杖椿として信仰しこの庵を「椿堂」と呼び当地の地名ともなる」と。
茂兵衛道標
傾斜地の山側に大師堂、谷川に本堂と納経所。境内入口には下半分が埋もれた徳右衛門道標が残る。納経所前に寺名の由来ともなった椿の木。頃は開花の時期。美しく咲いていた。見逃したが境内には正岡子規など著名な俳人の句碑が数多く並んでいる、とのことである。
阿波街道・通り抜け道標
本堂と大師堂の間を国道192号から上る坂道は阿波街道。遍路道はこの地で阿波街道と合流する。坂道の上り際、国道192号脇には「椿堂遍んろ道通りぬけ」の道標が立つ。
椿堂を離れる前に、椿堂地区を彷徨う。「えひめの記憶」には、「川滝町下山の椿(つばき)堂地区まで進んで道が庄田川に突き当たる所にも2基の道標を見ることができる」とあるのだが、それらしきものは見あたらなかった。
また、そもそが「庄田川」を地元の方に尋ねてもご存じないよう。それらしき川には斧折川とある。結局、川も道標も見つけることができなかった。




椿堂から境目峠へ
椿堂を離れ雲辺寺への次のランドマークである伊予と阿波の国境である境目峠に向かう。

三差路に茂兵衛道標
椿棟から北にゆるやかにカーブする坂道を下ると、国道192号の一筋手前、国道に沿って通る道筋にあたる。このT字路角に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「雲邊寺 箸蔵寺」、また別面には「奥の院」と言った文字が読める。
「雲邊寺 箸蔵寺」の文字の下に刻まれる文字が気になってチェックすると、「三つの角うれしき毛乃者道越しへ(みつのかど うれしきものは みちおしえ)」と和歌が刻まれているようだ。誠にその通り。

金生川に沿って国道192号を東に進む
金生川の谷筋を抜ける国道192号を境目峠へと進む。「えひめの記憶」には「この道は阿波に向かう古くからの主要道であり、明治30年代以降、何度も大規模な改修が加えられてきた。一般国道の指定を受けた後の昭和47年(1972)には、全長850mの境目トンネルが開通して距離が短縮された」とある。国道から時に分岐する道が旧国道跡だろう。
国道192号
国道192号は愛媛県西条市と徳島県徳島市を結ぶ。通称伊予街道と称される。椿堂で遍路道は阿波街道と合流するとメモしたが、伊予街道は徳島側からの呼び名。伊予側からは通常、阿波街道と呼ばれることになる。
この道は「明治30年代以降、何度も大規模な改修が加えられてきた」とあるが、その歴史をチェック。伊予街道(阿波街道)は阿波五街道のひとつ。徳島城下から伊予国境に延びる。明治6年(1837)、伊予街道は二等道路に指定。明治35年(1902)、車道への改修工事開始。大正9年(1920)、徳島県道池田川之江線。昭和28年(1953)、二級国道西条徳島線、昭和40年(1965)、一般国道192号。境目峠にトンネルを抜いたのは昭和47年(1972)。子供の頃、トンネルが抜ける前の九十九折りの道を走った記憶がある。
金生川
金生川はこれから訪れる伊予と阿波の国境、境目峠辺りを源流点とし、旧川之江市(現四国中央市)川滝・金田・上分と下分の境(上分は左岸・下分は右岸 )・金生を抜けて瀬戸の海に注ぐ。川之江は金生川とその支流の流れによる堆積作用により形成された沖積平野にあり、(金生)川の畔故の地名である。室町の頃から「かわのえ」と呼ばれたようだ。
金生川は暴れ川で洪水被害に見舞われ、河川改修が行われているが、その暴れ川故、地味が豊かであり古代より開け、本川・支川流域には有力豪族の古墳が点在する。
その古墳石室に使用される巨石は、金生川の流れを利用して運ばれた、とされる。流域には金川、金生などの地名が残るが、これは、かつて流域で砂金が採れたことに由来する、とも。7世紀初め、渡来人である金集史挨麻呂(かねあつめのふひとやからま ろ)の存在も認められ、古来より砂金等が採取されていたようである。

七田で遍路道はふたつに分かれる
道の左手に常夜灯を見遣り、時に現れる旧道を辿りながら金生川の谷筋を上り七田の集落へと旧道に入る。
金毘羅道の道標
七田集会所手前の倉庫脇に道標が立ち、「奥院箸蔵 金毘羅道」の手印が境目峠方面を示す。側面に「奥院箸蔵ヨリ雲辺寺江行クノガ坂ナシ順路」とある。箸蔵寺が金毘羅さんの奥の院であるから金毘羅道とあるのだろうが、側面に刻まれた文字の意図するところがよくわからない。
いそもそもが雲辺寺から箸蔵寺まで14キロほども離れているし、箸蔵寺は一度歩いたことがあるのだが()結構な坂道を登らなければならなかった。箸蔵寺を打った後、雲辺寺へというお遍路さんがいることはわかるのだが、「(急)坂」無しで済むとは思えないのだが。どういう意味だろう?
うんへんじ道の道標・曼陀道
金毘羅道の道標脇に山に入る道があり、そこに道標が見える。「うんへんじ道」と読める。天保十四年(1843)の銘と共に「左 山道」と刻まれている、という。ここが七田から直接尾根に上り曼陀峠を経て雲辺寺を目指す遍路みち(曼陀道)。遍路道がふたつに分かれる分岐点である。

本日の予定は、阿波街道(伊予街道)を進み、伊予と阿波の国境である境目峠を越えて徳島県池田町佐野にある雲辺寺口から尾根に上る予定。このまま道標に従い尾根道に入りたい気持ちを抑え先に進む。

阿波街道の遍路道を境目峠へと向かう
七田の集落を進む。「えひめの記憶」には、七田は「道はここから急峻な山地に入って行くため、交通の要地として往時は何軒もの宿屋が建ち並んでいた。現在でも、道沿いの家々は昔の面影をよく残している」とある。 道端に下半分が埋もれた道標を見遣りながら旧道を抜け、国道192号に出る。





境目峠旧道上り口
国道の対面に補修された痕跡の残る道標が立ち、「箸蔵寺 弐百十丁 雲邊寺 弐里七丁」「三角寺 弐三十丁 奥之院 三里」と刻まれる。遍路案内に沿って遍路道に入る。
この道標の直ぐ先から旧国道道が九十九折りで境目峠へと上っている。遍路道はショートカットルートでもある。旧道を進む五分の一程度の距離に見える。

道標の先で土径に入る
廃屋の残る舗装された道を上って行くと道標が立ち、手印と共に「右 うんへんじ はしくら」の文字が刻まれる。道標から先に進むと遍路案内があり、ヘアピンで土径に入る。


旧国道に出る
10分ほどかけて標高を50mほど上げると遍路道は旧国道に出る。結構なショートカットルート。国道に出ると、遍路案内に従い愛媛県最東端の集落である泉中尾に入る。



境目峠:切通しに境界石
集落の先に切通が見える。その中程に境界石が建つ。「従是東 徳島縣三好郡 至愛媛懸川之江町四里 三好郡役所三里三拾丁」「大正六年」といった文字が刻まれる。境界石の脇にも半ば埋もれた境界石。「愛媛縣境」と読める。伊予と阿波の国境である。
境目
境目には荘園の境界と言った意味もあるようだ。この地の境目がいつの頃から使われたのか不明だが、原義は阿波と伊予の境目といった意味以上のものがあるのかもしれない。因みに境目を「境」に石垣の石組み、道の舗装も異なっているように思える。

境目峠から佐野の雲辺寺口へ
境目峠を越え、馬路川の谷筋を雲辺寺への遍路道のある徳島県三好郡佐野の雲辺寺口へと向かう

遍路道がふたつに分かれる
阿波に入ってすぐ、道の右手に道標がある。手印と共に「左 へんろ」と刻まれる。「左」? と、その先に遍路案内があり、左と直進の二つの遍路道の案内。左方向は「雲辺寺」、直進は「佐野経由雲辺寺」とある。
境目峠から曼陀峠を経て雲辺寺に向かう遍路道・境目道
地図をチェックすると、境目峠から実線で曼陀トンネル方向へ向かうルートが描かれている。境目峠から曼陀峠へと進み、阿讃の尾根道に入り雲辺寺へと向かう遍路道のようである。この道は曼陀峠辺りで、先ほど出合った七田から尾根に上る遍路道(曼陀道)と合流し雲辺寺へと向かうようである。
尚、上述曼陀峠は正式な地名ではなく、説明の都合上曼陀トンネル真上の鞍部を曼陀峠とした。また正式な曼陀峠は旧曼陀峠とする。

中津山道の道標
馬路川の谷筋を緩やかに下って行くと、道の右手に自然石の道標があり、「中津山道」と刻まれる。中津山?なんとなく気になりチェック。かずら橋で知られる祖谷渓の東に海抜1446mの中津山がある。お山は中津富士と称される霊山のようだ。この山には中世以前から土佐街道も抜けている、とか。
お山には真言宗の光明寺があり、この山岳修験のお寺さまには、かつて阿波だけでなく伊予、讃岐、中国地方からも信者が夏の祭礼に集まった、とのこと。確証はないが、このお山への案内なのだろう。
馬路
馬路(まじ)という地名はここだけではないが、その地形の特徴は狭隘な地を示す。馬路はこの「せまじ」「間地(まじ)」に由来するようだ。

国道192号に合流し佐野へ
旧国道を下り国道192号に合流。国道を進み、香川の観音寺へと抜ける県道8号手前で国道から左に折れ、旧道を進む。
因みに、県道8号を進み曼陀トンネル(隧道)の上辺りで七田からの遍路道(曼陀道)、境目峠からの遍路道(境目道)が合わさり、阿讃山脈の尾根道を進み、途中で佐野の雲辺寺口から上った遍路道(佐野道)と合わさり雲辺寺へと向かうようだ。

雲辺寺口
旧道を馬路川の左岸に沿って進み、県道8号を越えてほどなく、遍路道案内があり、遍路道は左に折れる。少し先に徳右衛門道標が立ち、「是より雲辺寺迄一里」と刻まれる。
徳右衛門道標から少し先、徳島自動車道の高架手前に雲辺寺登山口がある、ここが佐野の雲辺寺口。遍路道(佐野道)はここから阿讃山脈の尾根道に上り、雲辺寺を目指すことになる。この道は承応の頃、高野山の澄禅も三角寺の奥の院経由で雲辺寺へと辿った遍路道である。
当日はこの雲辺寺口から阿讃山脈の尾根道へと遍路道を辿り雲辺寺へと向かったのだが、今回のメモはここまでとし、次回、この遍路道の途中で出合った七田集落から山入りし曼陀峠をへて雲辺寺に向かう遍路道(曼陀道)、境目峠から曼陀峠を経て雲辺寺に向かう遍路道(境目道)と合わせてメモすることにする。

旧三島市、現在は四国中央市中之庄町にある金比羅道と遍路道の分岐点、通称「遍路わかれ」」より法皇山脈の中腹、標高350m付近にある六十五番札所・三角寺を目指す。距離はおおよそ7キロといったとことだろうか。 三角寺には既に訪れている。訪れているのだが、それは峠越えを目的に、三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越えて、同寺の奥の院である金光山仙龍寺を訪ねた()ものであり、三角寺までは車行であり、遍路道を辿ったわけではない。 南予の予土国境からはじめた「伊予の遍路道を繋ぐ散歩」も、この三角寺までを辿れば、後は抜けている宇和島市街から卯之町を繋ぐだけ。今回も常の如く「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」の記事を頼りに、遍路道標を探し、それを以て、遍路道を繋いでいこうと思う。



本日のルート;遍路わかれ>県道126号との分岐箇所に道標2基>不老谷川・延命橋>茂兵衛道標と道標1基>印象的な手印道標>11号バイパス沿いに道標>コンビニ駐車場端に道標>ブロック塀に囲まれた茂兵衛道標>3基の道標;箸蔵道分岐点>廻国供養塔>中田井の道標>小川手前の道標>T字路に道標>民家敷地内に道標と地蔵>道標と遍路石案内>真念道標>茂兵衛道標>集落の中に道標>茂兵衛道標と標石>銅山川疏水公園の道標>山上集会所>常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」>道標>鰻谷川の谷筋手前に道標>鰻川谷右岸の道標>山道に>おかげの地蔵と道標>丁石(天十丁)>丁石(天九丁)と傾いた道標>道標2基と地蔵丁石>道標と休憩ベンチ>車道に合流>車道右手に道標>六十五番札所・三角寺

遍路わかれ
西條市の六十三番札所・吉祥寺から40キロ近く、金比羅道を辿った遍路道は、旧三島市の国道11号・川之江三島バイパス・中之庄交差点で金比羅道と別れる。 金比羅道は交差点に立つ「箸蔵道」への道標手前から北へと逸れるが、遍路道はそのまま、県道126号を直進することになる。


県道126号
地図を見るまでわからなかったのだが、金比羅道は寒川の樋の尾谷川手前で南から来た県道126号に合わさり、そこから東の金比羅道は県道125号となっていた。
また、この愛媛県道126号上猿田三島線を地図でチェックすると上猿田は法皇山脈の南、銅山川の谷筋にある富郷ダムの南、高知県の本山町に繋がる白髭隧道あたりに見える。
法皇山脈の北、新長谷寺脇の谷筋から法皇山脈に入り、林道といった様で法皇山脈を越えるようだが、一部道が切れているようにも見える。


県道126号との分岐箇所に道標2基
県道126号を少し東に進むと、紙工会社の倉庫手前に県道から分かれ右に折れる道があり、その角に道標2基が立つ。共に「右 へんろ道」と刻まれる。明治と江戸期天保時代(1831年‐1845)建立の道標と言う。その横にはコンクリート覆屋の中に地蔵が佇む。





石床大師堂
右に折れた遍路道はカーブを描き少し東に向かう。四つ角に石床大師堂がある。小振りな境内に常夜灯や地蔵物、石碑が並び、堂宇には「ひよけ大師」とある。「ひよけ」の由来は不詳だが、火伏・火防の神である秋葉神社を「火除の神」と称されるため、火伏・火防に由来するお大師さんかもしれない。単なる妄想。根拠なし。





徳右衛門道標
境内に並ぶ石碑・石仏のうち、道路側の道標は徳右衛門道標。破損された上部に補修の跡が見える道標には「□より□寺一里」と刻まれる。その右横の地蔵が座る台座には「三界萬霊」と刻まれる。「えひめの記憶」には台座が丁石となっているとするが、文字は読めなかった。





茂兵衛道標
また、境内端の道路脇には茂兵衛道標が立ち、両方向を示す手印と共に「三角寺 金光山仙龍寺 前神寺」の文字が刻まれる。
三界萬霊
欲界・色界・無色界の三界の霊を供養すること。欲界は文字通り、色界は欲界からは離れるも、未だ形あるもの(色)に囚われている世界、無色界は欲からも形あるものからも離れた精神世界。






不老谷川・延命橋
石床川の下石床橋を渡り、石床地区を進むと不老谷(ふろうたに)川に架かる延命橋に。親柱が古い石のままで残されている。その先で国道319号を越える。







茂兵衛道標と道標1基
国道319号を越えると道の右手に道標が2基並ぶ。大きい方が茂兵衛道標。手印と共に「三角寺 前神寺」の文字が刻まれる。もうひとつの道標には「へんろ道」とある。
ところで、この茂兵衛道標だが、Google Mapに「遍路道 茂兵衛道標」とマークされている。幾多の茂兵衛道標が立つ中で、何故この道標が地図にマークさえるのだろう。この道標は百六十度目のものであり、二百八十回にも及ぶ四国遍路巡礼の中ではそれほどの意味も持たないようにも思うのだが、ともあれ、このマークがあるため、ここが遍路わかれの地であろうと少々混乱した。

印象的な手印道標
一筋先の四辻右手に、折れてしまったのか、道標上部の手印、「左 へんろ三」らしき文字だけが路面から顔を出す道標がある。この標石の手印は石柱の幅からはみ出している。印象に残る道標であった。

遍路道を推定
ここから先、三角寺に上る山裾までの遍路道について「えひめの記憶」には、「ここから先の遍路道沿いには遍路道標が多く、上秋則地区に至るまでに8基の道標がある。(中略)上秋則地区で道は左右に分かれ、右が三角寺への遍路道、左が徳島県の箸蔵(はしくら)寺に向かう箸蔵道だが、近年の区画整理と宅地開発によって、この分岐点周辺は様変わりしてわかりにくくなった。
コールタールがかかった痛々しい状態の茂兵衛道標、並んで立つ3基の道標、そのすぐ南の地蔵の台石の道標など、このあたりの道標群はいずれも付近から移設されたものと考えられる。
さらにここから中田井地区にかけては、江戸時代後期に中曽根村(現伊予三島市中曽根町)の人々によって建立された5基の道標が続く。横地山山麓まで進むと、その墓地下には真念の道標が立っている」とある。 が、これだけではルートを特定するのは少々難しい。で、いつだったか銅山川疏水散歩の折、松山自動車道の南、赤之井川右岸に「戸川公園(疏水公園)」があり、そこに三角寺へ向かう標識があるのを思い出し、そこからルートを「逆算」することにした。
手懸りは「横地山山麓まで進むと、その墓地下には真念の道標が立っている」の記事。地図で疏水公園の西にある横地山の山裾を見ていると、「遍路石」のマークがある。遍路標識の手印もある。Google Street Viewで少し東をチェックすると真念道標らしき道標も立つ。
ここが山裾の遍路道。これが確定できれば、そこから逆算し、中田井、秋則地区を通る、いかにも昔道といった「自然な」カーブで進む道をトレースし、Google Street Viewで幾つかの遍路道標を確認。上記印象的な手印道標から山裾までのルートを推定することができた。Google Street Viewのお蔭である。

11号バイパス沿いに道標
推定した遍路道を進む。手印道標から少し進むと道の左手に石仏が2体並ぶ。大きいほうの微笑む仏様の石仏には「三界萬霊 天保六」、その台座には「六塚中」と刻まれる。六塚はこの地の地名。天保年間は1831年から1845まで。
その石仏の反対側、道の右手には国道11号バイパスに沿って道標と案内がある。道標には「此の方 へんろ」の文字が読める。案内には「若連中建立の遍路石 この石柱に刻まれた天明八年(1788)は近隣の遍路標石中古い方に属する年号で、中曽根村が三角寺道をつけた時期につながる。天明年間は1781年から1789年まで。
当村には古くから別れ路等に地蔵尊があった。この年から集落毎に若者や女性達仲間がへんろさんの為に道標を立て始めた。これが近隣に広がる。さらに宇摩郡や全国の篤志家も、三角寺や奥の院への道筋に案内石を建てた。 その上古い奥の院詣での丁石などを加えると八十八カ所中、遍路石の数は大変大きくなったと言える。 平成十三年 伊予三島市教育委員会 11号バイパス開通により移動設置する。 (へんろみちは歩道橋を渡って東進してください)」とあった。
連中とは講を組んで寺社にお参りするグループのことだろうか。であれば上記「六塚中」は六塚連中となる。

コンビニ駐車場端に道標
案内に従い溝又交差点の歩道橋を渡り、如何にも昔道といったゆるやかな曲線で進む道に向かう。国道11号バイパスの一筋南の道に交差する箇所、コンビニ駐車場端に道標が立っていた。
「三角寺 四 へんろ道 文化」といった文字が読める。四は距離から考えて四十丁が摩耗したものだろう。文化年間は江戸期、1804年から1818年まで。
どうでもいいことではあるが、Google Street Viewでチェックした時は、民家の庭端に道標が立っていたが、現在はコンビニとなっていた。

ブロック塀に囲まれた茂兵衛道標
宮川に架かる豊年橋を渡り少し進むと、民家のブロック塀に囲まれた茂兵衛道標がある。「三角寺一里 前神寺九里余 大正六年」といった文字が刻まれる。







3基の道標;箸蔵道分岐点
東に進み、下秋則交差点から続く道の一筋東を右折する。Google Street Viewで幾つかの道標をチェックした道筋である。ここがかつての「えひめの記憶」にある三角寺への遍路道と箸蔵道が分かれるところだろうか。
箸蔵道は記述の如く徳島県三好氏池田町にある金毘羅宮の奥の院・箸蔵寺への参詣道。大雑把に言って、昔の伊予街道(阿波街道)、現在の国道192号の道筋を進むことになる。
箸蔵道分岐点であろう箇所から道を南に少し進むと3基の道標が立つ。左から背の高い順に並び、左端は「右 三角 左 寺 明治十五年」、真ん中は「右 へんろ道 文化」、右端は「左 三角寺道 三十」といった文字が刻まれる。右端の道標は移動したものだろう。文化年間は1804年から1818年まで。

廻国供養塔
直進すると八幡神社参詣口の鳥居に向かうところで遍路道は左に折れる。その左角に「大乗妙典日本廻国供養塔」と地蔵堂がある。「廻国供養塔」は天保三年と刻まれる。地蔵堂の台座石には「三界萬霊」と刻まれる。天保年間は1831年から1845年まで。
廻国供養塔は六十六部廻国供養塔だろうか。六十六部(または六部)と呼ばれる諸国を遍歴する行者とのなんらなかの結縁にて建立された供養塔。六十六部の所以は、法華経を書写し全国六十六カ国の霊場に一部ずつ納経し満願結縁とする巡礼行。行者は六部とも称される。

中田井の道標
如何にも昔道といった自然なカーブを描く道を100mほど進むと、道の右手に立派な道標が立つ。「左 へんろ道 三角寺江三十四 文化五」といった文字が刻まれる。文化年間は江戸期、1804年から1818年まで。






小川手前の道標
更に100mほど道を進むと小川に架かる橋の手前に遍路道標がある。「此方 へんろミち 三角寺 文政」といった文字が刻まれる。





T字路に道標
中田井集会所を越えT字路を右折。角に道標があり「此方 遍路道 三角寺迄三十二丁 文化」といった文字が刻まれる。文化年間は1804年から1818年。T字路として遍路道を右に向ける邸宅は、製紙会社の町である旧伊予三島市の中核となる大王製紙オーナー家という。

民家敷地内に道標と地蔵
T字路を右に折れ、南へと進路を変えた遍路道を進むとほどなく民家敷地内に立つ道標と地蔵に出合う。「此方 へんろみち 三角寺三十一丁 文政」といった文字が刻まれる。文政年間は1818から1831。
道標横には台座に「三界萬霊」と刻まれるお地蔵さまが座す。慶長七年の銘のある戒名が刻まれる。慶長年間は徳川幕府の開幕の頃。結構古い。

道標と遍路石案内
次いで、Google Mapに「遍路石」とマークされ、この山裾までの遍路道を推定する基準点ともなった遍路石へと向かう。南に進み松山自動車道を潜るとT字の突き当たりに笠のついた道標と案内がある。

笠と道標本体の質感が異なる。笠は後から取り付けられらものだろう。道標には「遍んろ道 三角寺三十丁 奥之院八十八丁」「是ヨリ前神寺九里廿丁」「安政三」といった文字が刻まれる。また、道標に刻まれた石仏は観音菩薩のようである。安政3年は1856年。
案内には 「へんろ道と道しるべ 市内にはこのような道しるべが、約50基ある。そのうち38基が「遍路道」や「三角寺道」で四国八十八か所めぐりをするひとのためにつくられたものです。
中之庄からは1丁(109m)ごとにたてられています。これらは、約200年程前からつくられています。なかでも中努茂兵衛(山口県)が建てたものが8基もあります。茂兵衛さんは八十八か所を生涯に280回もめぐった大先達でたいへん尊敬されていた人です。
このほか香川県の琴平に通ずる「金比羅道」や徳島県の箸蔵寺へ通じる「はしくら道」の道標もあります。
案内と共に描かれた絵には遍路道や道標が見える。辿った道筋の道標はカバーしているようである。また、先ほど出合った大王製紙オーナー家、井川邸は「今藩 大庄屋 今村庄屋跡」とある。先回出合った西条藩境界石の図を照らし合わすと、この辺りの中曽根・上柏辺地域は今治藩となっている。絵にある「今」とは「今治藩」ということではなかろうか。
また、「はしくら道」」は道標「三角寺三十五丁」の箇所から分岐している。遍路道に山十五丁の道標は認めなかったが、中田井(仮称)の道標が三角寺まで三十四丁とあったわけで、であれば、前述の予測の通り3基の道標があった辺りが遍路道とはしくら道の分岐であったように思える。

真念道標
案内図によれば、遍路道は少し東進した後、南東に折れて山裾を進む。東進すると、真念道標と案内があり、「真念法師は、今から300年前、元禄前後の人で、四国八十八カ所巡りの中興の祖である。「四国遍路道指南(みちしるべ);〈1678年発行〉」「四国遍礼功徳記(こうとくき);(1690年発行)」の著書がある。 また、大阪などの信者から喜捨を募り、遍路する人のために案内石を建立している。このような真念ゆかりの道標は、今のところ三十三基確認されている。 現在の位置は墓地造成のため移動。元の遍路道は左上がり東進 平成14年 伊予三島市教育委員会」と記される。
道標には「右 へん路みち」 「大坂寺嶋 阿波屋」といった文字が刻まれる。大坂寺嶋は真念の生まれたところ、阿波屋は施主の銘である。
真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。

茂兵衛道標
道を山裾に向かってすすみ、少しの間遍路道といった雰囲気に浸るが、すぐに柏配水池の施設脇を進むことになり、そこを抜けると上柏町の集落に入る。集落入口に茂兵衛道標が立つ。文字は摩耗してはっきりしない。

集落の中に道標
集落を進み、T字路を左に折れ緩やかな坂が下りる手前の民家生垣に道標。「此方 へんろ道 三角寺廿二丁 右前神寺九里 元治」といった文字が刻まれる。 元治年間は1864年から1865年まで。



茂兵衛道標と標石
カーブを描く緩やかな坂を下ると銅山川発電所前に出る。銅山川疏水散歩の手始めとして、法皇山脈を穿ち、吉野川水・銅山川の水を引き、この発電所に落とす導水管始点へと辿ったことを思い出す。
それはともあれ、坂道を下り切った発電所前のT字路を少し左に折れたところに2基の道標がある。1期は茂兵衛道標。「六十四番前神寺 右 三角寺」と刻まれる。もう1基には「右 熊白大権現 昭和四年」とある。熊白大権現は不詳。

この道標は今まで辿った遍路道とは別の遍路道といった説もあるようだ。実際遍路石の案内図には遍路道から分かれた「はしくら道」を少し東進した後、南に折れてこの地に向かう道が「さんかく寺道」として描かれていた。途中に三角寺三十五丁の道標があるが、この道標には帰途、偶然出会って確認している。



銅山川発電所
発電所前の案内には「銅山川発電所は、𠮷野川総合開発事業により、𠮷野川水系銅山川に建設された冨郷・柳瀬・新宮ダムの3つのダムに貯えた水を利用して発電する水力発電所です。
また、3つのダムに貯えた水は、法皇山脈に造った導水トンネルにより愛媛県側に導水され、発電および宇摩地区のかんがい用水並びに、水道用水・工業用水に利用されています」とある。


銅山川疏水公園(戸川公園)
発電所から道なりに進むとT字路に。そこには銅山川疏水公園(戸川公園) がある。昭和28年(1953)の柳瀬ダム・銅山川疎水の完成を記念して整備された公園と言う。もう何年も前のことになるが、銅山川疏水を辿る散歩の始点としてこの公園を訪れた。
銅山川疏水のあれこれは、数回にわけて歩いた銅山川疏水散歩に譲るとして、公園に残る遍路標石をチェックすると道標、供養塔が立っていた。
道標はT字路の道端、公園の石垣・生垣に囲まれてある。正面には「へんろみち」、側面には「光明真言宗二百万遍」と刻まれる。天保12年から弘化4年(1841‐1847)の7年に光明真言を二百万遍唱えたということだから、一日平均千回以上唱えることになる。
また園内には横死した遍路を弔う「大乗妙典一石一字塔」、「秩父坂東 中国西国 廻国供養塔」と刻まれた石碑が立つ。
光明真言
「オン アボキャ ベイロシャノウ(オーン(聖なる呪文) 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ)
マカボダラ マニ ハンドマ(偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ) ジンバラ ハラバリタヤ ウン光明を 放ち給え フーン (聖音);Wikipedia」
「疏水記念公園;戸川公園」の案内
「4年に1度大干害に苦しめられてきた農民にとって、銅山川からの疏水は百年前からの夢であった。疏水実現のため努力を重ねた松柏村村長森実盛遠氏をはじめ多くの人の願いがみのり、昭和⒓年よりトンネル工事が始まり、昭和28年柳瀬ダムが完成し、多年の夢であった銅山川の水が戸川に絶え間なく流れ落ちてきた。
この水は電力をはじめ農業用水、工業用水や飲料水として広く利用せられ、郷土の産業発展と市民生活の向上に多大の恩恵をもたらした。時の村長村上栄作氏は、ながく先人の偉業を伝えるため、この地に頌徳碑を建立し桜を植えこの疏水記念公園を設置された。
園内には、四国遍路者を供養した文化5年の一石一字塔や光明真言宗二百万篇を記念した弘化4年の道しるべ、四国西国供養塔、水害で殉職された福田武太郎氏や松柏発展に尽力された村上栄作氏の銅像があり、市民いこいの地となっている」。

山上集会所
戸川公園を越えると遍路道は山裾から山麓への三角寺へと上る坂道となる。舗装された車道を進み赤之井川と城川の合流点を越えると、一瞬ショートカットの細道となるが、それもすぐに車道に合流し、高度を上げて城川を渡り道なりに進むと山上集会所前に至る。
車で三角寺に進むには、この山上集会所角を右折するが、歩き遍路は道を直進することになる。
「えひめの記憶」に拠れば、「集会所敷地内には2基の道標が移設・保存されている。ここにはかつては観音堂があったといわれ、小林一茶が三角寺に詣(もう)でた際にここで休息したという「一茶の腰掛石」が残り、その傍らには一茶の句碑も建立されている」とのこと。
一茶の句碑と腰掛石は道沿いフェンスの中にあったが、道標についてはそれらしきものが1基のみ目についた。

常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」
道を進むと常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」が道の左手に立つ。縦長の灯籠に入母屋屋根が乗る。石碑には「明治3年(1870年)、すぐ近くに位置する北岡山古墳群(宇頭乃御燈の少し北。7世紀頃の横穴式石室をもつ2基の古墳が残る)に鎮座していた若宮神社に奉納されたものが、明治42年に社が滝神社(松山自動車道の北、中田井浄水場の東にある)に合祀される際に、横尾東部の三角寺道に滝神社のお旅所として移された。その後昭和初期にこの地に移され、常夜灯として地域の人々やお遍路さんの足下を照らした」といった案内があった。

道標
常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」から道なりに少し進むと道標があり、手印と共に「此方 へんろ道」、側面には「おくの院迄七十六丁」らしき文字も読める。手印に従い先に進む。


鰻谷川の谷筋手前に道標
道を進むと左手が開ける。ほどなく鰻谷川が刻む谷筋に。道が二手に分かれる角に道標が立ち、「此方 へんろ道」と右に折れる簡易舗装道を示す。舗装道は急坂を谷筋へと下るが、遍路道は右に折れ崖線に沿って緩やかに鰻谷川筋へと下ってゆく。
道標脇に遍路道の案内地図があったのだが、今一つ位置関係がよくわからない地図ではあった。

鰻川谷右岸の道標
鰻谷川に架かる橋を渡ると上柏平木地区に入る。川に沿った簡易舗装の道を進み一筋上流に架かる橋の東岸をそのまま直進すると立派な道標が立つ。手印と共に三角寺や奥の院、前神寺への里程を示すこの道標箇所で遍路道は鰻谷川筋を離れ東へと山向かうことになる。

山道に
緩やかに簡易舗装の坂を上り、160m等高線に沿って山裾と畑地の境を進む。開けた左手の景色を楽しみながら進むと木々に覆われた道は更に細くなり山道へと入って行く。簡易舗装はまだ続く。



おかげの地蔵と道標;12時49分
少し進むと祠がある。「えひめの記憶」には「おかげの地蔵」とある。弘法大師の霊験譚に由来するとのことだが、内容は不詳。祠にはおかげ地蔵と小さなお地蔵さま。祠の周りには常夜灯、そして横死した遍路を供養する遍路墓が祀られていた。
祠の直ぐ上には道標も立つ。「左 へんろみち」と刻まれる。

丁石(天十丁)
北に少し張り出した200m等高線に沿っておかげの地蔵から2分ほど上ると、簡易舗装も切れ更に細い山道にはいる。200mから220m等高線へと斜めに道を3分ほど上ると丁石があり「天十丁」と刻まれる。「天」の意味は不詳。


丁石(天九丁)と傾いた道標
さらに4分歩くと道端に丁石。「天九丁」と刻まれる。そこからすく先に傾いた道標があり「右 三角寺 左 村松大師堂」と刻まれる。村松大師は伊予三島市下柏町村松にある大師堂であり、のどや腹に飲み込んだ異物を除去してくれる「のぎよけ大師」として知られている、と「えひめの記憶」にある。

道標2基と地蔵丁石
等高線をに沿って、または緩やかに等高線を斜めに横切りながら上ってきた遍路道は、傾いた道標から先は、南に切り込んだ等高線に垂直に上ることになる。等高線の間隔は比較的広く、それほど厳しい上りではなり。道は旧伊予三島市と旧川之江市の市境を進むようである。
5分ほど歩き標高を50mほどあげ、標高300m辺り、道の両側に道標が立つ。共に三角寺を指す。すぐ上にも「左 三角寺」と刻まれた地蔵丁石も立つ。

道標
2分ほどの上りで道標に出合う。「左 三角寺」と刻まれる。傍には休憩ベンチもあった。切り込んだ等高線の上りもここでお終い。おかげの地蔵からおおよそ30分、比高差120mほどの上りではあった。


車道に合流
休憩所から標高を10mほど上げた後、右手の車道に沿って緩やかな上り道を進むと車道に合流する。休憩所からおおよそ5分程度である。




車道右手に道標
遍路道が車道に合流した箇所のすぐ先、車道右手に立派な道標が立つ。「三角寺道 是ヨリ四丁 左前神寺道 是与十里 文政七」といった文字が刻まれる。文政7年は1824年。



六十五番札所・三角寺
道標にある四丁、おおよそ500m弱歩くと三角寺に到着する。








三角寺への旧遍路道の地図
上述、三角寺までの山道の地図を参考までに載せておく。











三角寺から奥の院を経て平山への遍路道
これで六十一番札所・香園寺から六十五番札所・三角寺への遍路道を繋いだ。 三角寺またその奥院である仙龍寺については、二度に分けてメモした記事を差の参考にしてほしい()。歩き遍路で疲れた身体ではあると思うのだが、奥の院道は結構歩いた遍路道の中でもおすすめのルートである。
で、三角寺から次の札所である讃岐の六十六番札所・雲辺寺への遍路道であるが、奥の院経由であろうと、三角寺経由であろうと四国中央市の山麓にある平山の集落を経由し、東へと進み金生川筋に向かうことになる。
三角寺から直接平山に向かう道は車道でありそれほど風情がある道筋でもないので省略するが、奥の院経由の道の地図は参考につけておく。
三角寺から奥の院を打ち法皇山脈の堀切峠近くの峰の地蔵を越えて三角寺に戻った時は、それほど遍路道に興味があったわけでもなく、峰の地蔵から平山に下ることなく三角寺へと戻った。峰の地蔵から平山を繋ぐ遍路道は、まったく別テーマである土佐北街道横峰越えの際、偶々遍路道標に出合い、好奇心だけでその道筋に寄り道し結果の賜物である。奥の院からの復路道は、このまったく別テーマ散歩の合わせ技である。あれこれ歩くと、いろんなものが繋がってくる。

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