2018年3月アーカイブ

六十三番札所・吉祥寺を離れ六十四番札所・前神寺までの遍路道をメモする。この道筋には秀吉の四国征伐に抗し土佐の長宗我部氏に与した伊予の軍勢と秀吉方の毛利・小早川勢との戦いである天正の陣の旧跡、また四国遍路の札所ではないのだが、明治の神仏分離令に伴い、札所六十番・横峰寺そして札所六十四番・前神寺と浅からぬ因縁のもと設立された石鎚神社、更にはこれまた四国遍路道ではないのだけれど、札所六十番・横峰寺と札所六十四番・前神寺と言えば石鎚のお山信仰でありその登拝道など、本筋の遍路道以外でもあれこれ気になるトピックが登場する。
天正の陣の旧跡を辿るのも面白そうだが、遍路道メモのコンテキストからいえば、石鎚のお山信仰の巡礼道である石鎚山登拝道が親和性・関係性がより深く・高いだろう。いつだったか、石鎚登拝道として知られる石鎚三十六王子社登拝道(, )を黒瀬峠の第一王子社から始め、河口から今宮道を第二十稚児宮鈴之巫子王子社のある成就社まで上り、そこから横峰寺からの登拝礼道である黒川道を河口まで下ったことがある。今は通る人とて無く、今宮道はまだしも黒川道は荒れてはいたが、それでも巡礼道としては趣の残るお勧めの道である。歩き遍路もいいのだが、時間に余裕があれば、石鎚のお山へと上ってみては如何と石鎚のお山への登拝道も案内する。



本日のルート;
吉祥寺から前神寺へ
柴の井のお加持水>金比羅街道合流点の道標>新御堂児童公園の前の道標>大久保四郎兵衛の祠>野々市原古戦場跡・千人塚跡>阿弥陀寺>丹民部神社>石鎚神社>六十四番札所・前神寺



六十三番札所・吉祥寺から六十四番札所・前神寺へ

柴の井のお加持水
吉祥寺の境内にあったお寺様の案内の中に、「ここから南に約200mのところに「柴の井のお加持水」と呼ばれる泉があり、昔弘法大師が持っていた杖で加持すると、そこから清水が湧き出たと言われ、今なお湧水をたたえています」との記述があった。湧水フリークとしては、即寄り道決定。
地図でチェックし、国道11号の南の「柴の井大師堂」に。路地といった通りの新しく建てられたような大師堂の下に、水が湧き出ていた。
「えひめの記憶」には「『四国?礼霊場記』を見ると「柴井と号し名泉あり。大師加持し玉ひ清華沸溢(わきあふ)る。とあり、『四国遍礼名所図会』(寛政12年〔1800〕にも「柴井水大師加持の名水也」とある。この泉には、遠い所から苦労して運んできた水を与えてくれた老婆(ろうば)に報いるために弘法大師が清水を湧き出させたという、典型的な弘法清水伝説が伝わっている。そして現在でも、「大師のお加持(かじ)水」あるいは「長寿水」と呼ばれて地元の人々によって世話されている」とある。
弘法大師のお加持水の伝説は全国各地にあるが、雨の少ない瀬戸内に面する土地柄か、先般出合った「御来迎臼井(ごらいごううすい)水」など各地にお加持水伝説の泉が残る。
●加持
仏教用語で、本来の意味は仏あるいは菩薩が不可思議な力によって衆生を護ることを指す(Wikipedia)

金比羅街道合流点の道標
次いで、お加持水から少し北に戻った金比羅街道沿いに円柱の道標が立つ。手印と共に「逆へんろ」「左 へんろ道」と刻まれる。「逆へんろ」は吉祥寺方向 を指しているのだろう。上で「柴の井のお加持水」にちょっと立ち寄りとメモしたが、吉祥寺からの遍路道は「柴の井のお加持水」方向へと進み、この地で国道11号の南を進んできた金比羅道に合わさるわけで、結果的にオンコースであった。ここで金比羅道と合流した遍路道は、四国中央市の「遍路わかれ」まで金比羅道を進むことになる。

新御堂児童公園前の道標
金比羅道を東に進み猪狩川の手前、道の左手に道標がある。「右 へんろ道」「左 西條道」と刻まれる。猪狩川の左岸を北東に進む道を西條道と称したのだろうか。西條道とは徳川御三家のひとつ、紀州松平家の城下町西條への道。

大久保四郎兵衛の祠
道脇に小祠があり「大久保四郎兵衛は、天正の陣の際、この地の防衛に当たったが、敵の軍勢を防ぎ切れず、高尾城まで後退した。城では石や材木を集めて攻め登る敵に投げ落とし、少数の兵で大軍を防いだ知勇の将である」。たごり(咳)の神さまとして地元の信仰を集めている」との案内がある。
高尾城
野々市の西、黒瀬峠に通じる県道142号を南に進み、松山自動車道を越えた城之谷ダムの南、標高240mの山にある。





野々市原古戦場跡・千人塚跡
道を東に進むと、右手に「史跡 千人塚入り口」の案内。遍路道を離れ右に折れ、道なりに南西方向に向かと道脇に千人塚史跡公園、野々市原古戦場の石柱がある。
野々市原古戦場は、天正13年(1585)小早川隆景の率いる豊臣方の四国征伐軍と新居浜市の金子城主・金子元宅率いる長宗我部方の軍勢が激戦を繰り広げた古戦場。
2万とも3万とも言われる四国征討軍に対し伊予の軍勢は2千余。主将金子元宅は高峠城に、弟金子元春は金子城、高橋美濃守が高尾城に入り守りを固めるが、衆寡敵せず金子城、高尾城が落城するにおよび、この野々市原で両軍が戦うことになる。
金子元宅はじめ、名だたる伊予方の武将は討死。小早川隆景は首実験し、これを弔ったのが千人塚である。
高峠城
高峠城は野々市の東、松山自動車道が加茂川を渡る手前、松山自動車道の北、標高230mの高峠に築かれた。天正の陣以前にも、四国を手中にせんとする讃岐の細川氏、また信長の天下布武より前、事実上の天下人となった三好長慶の伊予侵攻を防ぐ伊予・河野勢の拠点としても登場する城である。
金子城
新居浜市の滝宮公園のある丘陵・金子山に城がある。いつだったか東青梅からはじめ霞丘陵、金子丘陵へと歩いたことがある。この地が武蔵金子氏の本貫地。伊予金子氏も、この地から移ってきたのかと思うと感慨深い。

阿弥陀寺
金比羅道・遍路道に戻り、野々市地区を越え西泉地区にはいると、道の右手にお堂がある。阿弥陀寺とある。境内西端、金比羅道脇に「こんぴら大門予十九里」と刻まれた金比羅標石が立つ。
境内には「阿弥陀堂ののだふじ」と刻まれた石柱が立つ。天然記念物とある。また「新西国廿五番清水寺」の案内もあった。この場合の「新西国(札所)」とは西国霊場の写し霊場であるこの地方のミニ霊場、この場合は西條新西国霊場のことだろう。観音水で知られる西条市喜多川の禎祥寺が西条新四国観音霊場31番札所であることからの推測ではある。
西国霊場廿五番は、播州清水寺であり、西条新四国霊場ではこの阿弥陀寺が播州清水寺に相当する、ということだろうか。

丹民部神社
東に少し進むと、道の右手に小さな神社がある。丹民部神社である。「足の神様・吃音(きつおん)の神様」として信仰されている。境内には昭和31年(1956)に建てられた丹民部の墓がある。
神社境内にある石碑に書かれた内容をまとめると、「丹氏は河野家より出る。四十三代の頃、土佐一条氏より丹姓を賜り、以降丹姓を名乗る。代々久万郷笠松城主であった。丹民部守は天正の陣において、高尾・高峠城に味方し、楢木に土居館を構え、手兵三百余を率いて出陣。天正13年7月14日に敵将穴吹六郎と差し違えで戦死した」とある。主将金子元宅を支える副将であった、との記事も目にした。
で、「足の神様・吃音(きつおん)の神様」との絡みであるが、足の神様との関わりは不明。吃音に関しては、敵将・穴吹六郎を組み伏せた時、「殿は上下どちら」との家来の誰何に吃音故に応えることができず、穴吹六郎が「下」と応えたため、家来に誤って槍で刺し殺されてしまった。といった話が残る。この悲運の武将を祀ったとのことである。
笠松城
久万高原町東明神、久万カントリークラブの北東、標高850m辺りに築かれる。長曽我部氏の伊予侵攻に備えた河野氏の防衛拠点であった。

石鎚神社
道なりに進むと、金比羅道の左手に石鎚神社の鳥居が見える。鳥居を潜り参道を進むと、これも重厚な随身門。かつては仁王門であっただろう随身門には仁王様にかわり随身像が立つ。








参道を進み石鎚神社本社にお参り。瀬戸の眺めを楽しむ。傍に「石鎚前神社」と刻まれた石柱が立つ。神仏分離令以前は、この神社の敷地は六十四番札所・前神寺であったわけで、その関わりではあろうと思うが、それにしても「前神社」の表記は見慣れない。





石鎚神社会館を越え、祖霊殿に。ここはかつて前神寺の本堂であった。祖霊殿を離れ湧き出る神水を巡り、下って元の禊ぎ場に。そこには役行者の像が祀られていた。



石鎚神社
石鎚神社は現在、石鎚山頂(弥山)の頂上社(奥之宮)、石鎚山中腹の成就社(中之宮)、里の本社(口之宮)の三社をもって石土毘古神(石鎚大神)を祀る。が、石鎚神社が誕生したの、それほど昔ではない。明治3年(1870)、明治新政府の神仏分離令により、石鉄神社(後に石鎚神社に改称)が誕生して以来のことである。
それまでの石鎚山信仰の経緯であるが、『山と信仰 石鎚山;森正史(佼成出版社)』には「役小角の開山と伝えられ、以来、前神寺・横峯寺を別当寺とし、石鎚大神を石鎚蔵王大権現と称して、1300年あまりにわたって神仏習合の信仰(石鎚修験道)を伝えてきたが、明治3年(1870)、神仏分離によって権現号を廃し、石鉄神社(のちに石鎚神社)と改めて、新たな出発をすることになった。
明治6年(1873)、別当の横峯寺を廃して西遥拝所と改め、明治8年(1875)には別当前神寺を廃して東遥拝所とするとともに、前神寺所管の土地建物など一切を神社の所有とした。さらにその後、明治41年(1908)には東遥拝所を改めて石鎚口之宮(本社)とし、西遥拝所を口之宮に合併して神社の新たな基盤を確立した」とある。
明治2年(1869)に始まった神仏分離の取り調べに関しては横峯寺のある小松藩からは、石鎚山に祀られる像(蔵王大権現のことだろう)を「神」と復名、前神寺のある西条藩からは「仏体」であるとして譲ることなく主張するなどの経緯はあったようだが、結局は1300年にわたって石鎚山信仰の中心であった別当寺・前神寺は廃され、その地は石鎚神社の本社となり、石鎚中腹にあり信仰の重要拠点でもあった「常住・奥前神寺」も前神寺から石鎚神社に移され、名も「成就」と改められ、成就社となり、また、横峯寺は西遥拝所横峯社となった。
石鎚神社は、前神寺の講中(後述する)を引継ぎ、それと同時に新たな講中を組織し昭和21年(1946)には「石鎚教教派総本山」を設立、昭和24年(1949)には、「石鎚本教」と改称し、神社本庁属し神仏習合の伝統に基づく教化活動を行っている。昭和61年(1986)のデータでは、先達は、約7万人、信者は約399万人にのぼると言われる。
前神寺・横峯寺のその後
寺領をすべて没収された前神寺は一時廃寺となるも、その処分を不服とし訴訟を起こすといったことを経て、のちに前上寺として現在地に再興され、明治21年(1889)には旧称前神寺に復した。同じく横峯寺も明治42年(1909)、再び横峰寺として旧に復した。明治新政府の性急なる神仏分離令への反省の状況も踏まえての処置ではあろうか。
石鎚登拝道
祖霊殿の鳥居から石鎚信仰の人たちが登った石鎚登拝道がある。少々荒れてはいるが、黒瀬峠近くの二並山へと尾根道を上ることになるとのこと。いつだったか、黒瀬峠から始まる石鎚三十六王子社登拝道()を河口を経て今宮道を第二十稚児宮鈴之巫子王子社のある成就社まで上り、横峰寺からの登拝礼道である黒川道を河口まで下ったことがある。
二十一王子社から石鎚山頂の三十六王子社までは季節が冬となり、未だ歩き残してはいるが、石鎚といえばお山信仰であり、その登拝道は欠かせないであろうし、なにより個人的にこの参詣道が好き、ということもあり、遍路道からはちょっと逸れるが、三十六王子社を辿ったときのメモをコピー&ペーストしておく。

石鎚登拝道●

『山と信仰 石鎚(森正史)』に拠れば、江戸時代のお山への巡拝道は石鎚三十六王子登拝道だけでなく、いくつもある。石鎚の北、瀬戸内側からの表参道、南からの裏参道、脇参道などに分かれるが、表参道だけをみても、 ■小松起点のルートとして
◇小松>岡村>綱付山>横峰寺>郷>モエ坂>虎杖橋>(黒川道)>成就社>頂上
◇小松>大頭>大郷>湯浪>古坊>横峰寺>(黒川道)>成就社>頂上
◇小松>大頭>大郷>途中之川>横峰寺>(黒川道)>成就社>頂上


西条の氷見起点として;
◇中国地方から舟で西条市氷見の新兵衛埠頭>小松>岡村>おこや>横峰寺>(黒川道)>成就社
◇氷見>長谷>黒瀬峠>上の原>上山>大檜>堅原>土居>細野>河口>(今宮道)>成就社>山頂
◇西条>加茂川沿い>兔之山>黒瀬山>大保木>河口>(今宮道)>成就社>山頂
などがある。
また、『石鎚 旧跡三十六社』では、昭和36年(1961)の王子社調査隊は、里の本社(口之宮)から直接峰入りし、尾根道登り、遥拝所としての二並山(標高418m)を経て黒瀬峠へとトラバースするルートをお山信仰の古道として踏査している。これが祖霊殿から黒瀬峠までの登拝礼道だろう。
表参道だけとっても結構なバリエーションルートがあるが、大雑把に言ってどのルートを取ろうとも、最終的には河口集落へと収斂し、そこからは西条藩領である尾根を登る今宮道・三十六王子社道(前神寺・極楽寺信徒)、そして小松藩領である黒川の谷筋を登る黒川道(横峰寺信徒)を辿り常住(現在の成就社)に向かったようである。



講中・先達の制度
『山と信仰 石鎚(森正史)』によれば、頂上を目指した「お山講」・「石鎚講」を指導したと先達は修験道から出た言葉で、霊山の登拝にあたり、同行者の先頭に立って案内・指導する、修行を積んだ経験豊かな修験者のことであり、石鎚の先達制度は前神寺によって創設されたとされる。
江戸時代中期、前神寺は道前・道後の真言寺院を先達所に指名し、先達(先達所の寺僧は大先達)と講頭(民間有力者)を中心に講中を制度化していった。明和6年(1769)に幕府に提出した資料には道前、道後の60の寺院・堂庵が記されている(明確なものは39寺院)。39のうち道前が7寺、道後が32と道後が多い。道後平野を主要拠点としている。
前神寺は文化10年(1813)から登拝の許可証といった先達会符の発行はじめる。先達と一般信徒(後達、平山)を識別し、先達に権威を与えるものである、この先達会符は現在でも形を変えて石鎚神社に踏襲されている。

以上のようにお山には多くの登拝道がある。また登拝者の数は、講中を組織した別当寺・前神寺より、もうひとつの別当寺である横峰寺経由の道のほうが多いようだ。『石鎚信仰の歩み』には、「安政の頃の参詣人は10,250人、慶応2年は9,249人、これらの人が別当寺である東の前神寺、西の横峯寺を経て登山していたとあり、また、西登山口の大頭に立つ寛政4年(1792)建立の常夜灯などからして、昔は西の横峰寺を経ての登山者が相当多かったと思われる」とある。

今宮道を上る前神寺・極楽寺信徒の参詣人も、成就社までは三十六王子参詣道とほぼ同じであるが、成就社から先は比高差1000mほどを再び谷筋まで下り第二十一王子社から第三十四王子社まで行ったり来たりのルートをお山に向かって登り返すことになる。このルートは、修験者ならまだしも、庶民の参詣者には少々辛いものではないかと思える。
三十六王子社参詣道に惹かれる我が身ではあるが、「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」の唱えことばをかけながら三十六王子社参詣道のお山巡拝したのは、登拝者全体の一部と考えたほうがよさそうに思えてきた。

六十四番札所・前神寺
参道の鳥居まで戻り、金比羅道を東に緩やかに下って行くと六十四番札所・前神寺西口山門がある。
西口山門傍の道標
山門脇に「是ヨリ次ノ六十五番三角寺迄汽車ノ便アリ 石鎚山駅ヨリ三島駅行使利」と刻まれた昭和8年(1933)建立の道標がある。「えひめの記憶」に拠れば、「石鎚神社と前神寺への参拝者の便を図って、石鎚山のお山開きの期間中のみ石鎚山駅が仮設されたのは昭和4年のことであり、地元の要望もあって昭和7年からは常設駅となった。道標の建立はその翌年で、訪れる遍路たちに広く石鎚山駅からの鉄道利用を勧めるために建てられたのだろう」とある。
修行大師
山門を進み薬師谷川を渡ると左手に鐘楼、庫裏、納経所。右に折れると左手に大師堂、右手に金毘羅堂と修行大師像。大師像は日野駒吉が蓮華講員に呼びかけ、寺に寄進したものと言う。


お滝不動
浄土橋を渡り「お滝不動」にお参りしながら石段を上り薬師堂、護摩堂の奥に本堂。両翼を備えた入母屋造りとなっている。








石鉄権現堂
本堂手前に鳥居があり、石段を上ると「石鉄山大権現」を祀る石鉄権現堂が建つ。








東門の道標
「えひめの記憶」には「境内東側の駐車場の隅に徳右衛門道標、前神寺東入り口には中務茂兵衛の道標が立っている。そのほか境内には3基の地蔵丁石が散在しているが、これら地蔵丁石と徳右衛門道標は、いずれも現在の石鎚神社本社の敷地及びその周辺から移設されたものと考えられる」とある。
いまひとつ「境内東側の駐車場」の場所がよくわからない。本殿社務所で東側駐車場の場所をお聞きすると、本殿社務所から東に抜ける道を進み、庫裏の東側を進めば東側の駐車場、東口に出る、と。昔は西口に駐車場はなく、東口がメーンの入り口であったようだが、西口に広い駐車場が出来たため、人の流れが西口に移ったと教えて頂いた。
徳右衛門道標と地蔵丁石
落ち着いた道を下り、こじんまりした駐車場傍の道脇に「是よ里 三角寺迄十里」と刻まれた徳右衛門道標があり、その右手に坐像と台石が同じ石に彫られ、一体となった地蔵丁石がある。「五丁」の文字が読める。頭部が欠けているのは、廃物稀釈の余波を受けてのものだろう。



茂兵衛道標と地蔵丁石
さらに下り、東門を入ったところに「左 札所」「三角寺十里 吉祥寺二十丁」「前上寺伽藍」と刻まれた明治37年(1904)建立の茂兵衛道標が立つ。明治21年(1888)には既に前神寺と復しているのだが、旧称の前上寺となっている。 また、茂兵衛道標の左手には3体の石仏が並ぶが、そのうちの1体、茂兵衛道標側にあるのが地蔵丁石。徳右衛門道標脇の丁石と同じく、像と台石が同じ石に彫られ、「弐丁」の文字が読める。頭部が欠けているのも同じである。丁石と寺までの距離が合わないので、旧前神寺参道にあったものを移したのだろう。 地蔵潮丁石は3体とのことだが、徳右衛門道標の少し上に舟形地蔵丁石はあったものの、3基の丁石は同形との記事もあり違うようだ。1体は見つけることができなかった。
前神寺
六十四番札所・前神寺の御詠歌は「前は神 後ろは仏 極楽の よろずの罪をくだく 石鎚」。神仏習合のお寺さまの性格をよく表している。前神寺については明治の神仏分離に伴う石鎚神社の設立もあり、説明の関係上石鎚神社のところでメモしたのだが、「えひめの記憶」にある記述を再掲する。

「前神寺は、江戸時代には石鎚山上に蔵王権現を祀り、石鎚山の別当寺として石鎚信仰の中心的役割を担ってきた。かつての寺地は現在の石鎚神社本社の場所にあたり、奥の院である奥前神寺も石鎚登山ロープウェイ山頂駅上の現在地ではなく、成就社の建つ場所にあった。ところが明治時代の神仏分離の進展の中で、政府の神祇官によって仏体である蔵王権現が否定され、明治8年(1875)の教部省指令に基づく県の通達によって寺は廃寺と決定されたのである。
その後、明治12年(1879)に檀家(だんか)などが県に出した復旧願いによって、末寺の医王院があった現在地にようやく前上寺の名称で再建が認められ、後年、前神寺の名称に復帰できたという歴史を経てきた。現在では前神寺は再び石鎚山修験道の中心地となり、南北に長い境内地の中に多くの伽藍(がらん)が建ち並んでいる。そして、前神寺・石鎚神社ともに、毎年、夏のお山開きの時期には大勢の信者・参拝者でにぎわいを見せている(「えひめの記憶)」。
明治22年(1889)「前神寺」に復して以降、石鎚信仰のかつての講中の組織再編の熱心に取り組み、昭和28年(1953)には、真言宗御室派からも分離独立し、真言宗石鉄派・石鉄山修験道の総本山として活動し、昭和61年のデータでは、寺院・教会89、教師340人、信者30万人をかかえ、石鎚神社とともに石鎚信仰の大きな役割を担っている。
山号石鉄山
前神寺は「石鉄山 金色院 前神寺」と言う。六十番札所・横峰寺も現在では「石鉄山 福地院 横峰寺」と言う。石鎚信仰の正当性を表すとされるこの山号「石鉄山」を巡って、共に別当寺であった前神寺と横峰寺との間での紛争が起きている。石鎚のお山信仰について、修験者だけのときであれば特に紛争が起こるとも思わないが、一般庶民がお山に登拝するようになる江戸の頃,お山に鎮座する別当寺の前神寺と横峰寺での争いが起こったようだ。『石鎚信仰の歩み』に拠れば、「基本は「石鉄山」という山号と、それにともなう「石鉄山」の別当寺の正当性を巡る争いのように思える。
その経緯は以下の通り;享保14年(1729)横峰寺が「石鉄山横峯寺」の札を発行したことに前神寺が抗議し、京都の御室御所(仁和寺門跡)に訴える。その結果、「石鉄山之神社は領地が入り組んでいるが、新居郡石鉄山、西条領であり、前神寺が別当である、とし
予州新居郡氷見村 石鉄山 前神寺
予州周布郡千足村 仏光山 横峯寺」
との裁定がでた。
横峯寺は仏光山に限るべし。仏光山石鉄社別当横峯寺とせよ、ということであるが、この調停を不服とした横峰寺は享和元年(1801)御所の調停を離れ、江戸表・寺社奉行に「石鉄山別当職」を出願する。結果は,別当は前神寺として却下される。
お山では小松藩領・千足山村の者による奥前神寺打ちこわし事件が起こっている。現在石鎚神社中宮・成就社のあるこの地は小松藩と西条藩の境界であり、千足山村の言い分は、常住(奥前神寺)は小松領であるとして打ちこわしを行ったようだ。これにより、別当争いに境界争い、小松藩と西条藩の境界論争が加わることになる。
文政8年(1825)に出た幕府の裁定では、成就社の地所は千足村、別当職は前神寺となったが、幕府からどのように言われようと、横峰寺は「石鉄の文字と別当の肩書」に執着している。なにがしかの「伝統」が根底にあったのだろう、と同書は記す。
明和5年(1768)の「道後先達通告書」には、「石鉄山別当は前神寺に限る。先達初参者に御守授与のこと。石鉄山号は女人結界の地以外へは通ぜざること。横峯山号は仏光山にして石鉄山にあらざること。先達寺院権現を勧請祭祀せるは古来よりのことなり、その故をもって石鉄山号を唱うることなし。石鉄山参詣東西両道勝手たること」とある。
石鉄山別当は前神寺。横峯寺は仏光山の別当であり、石鉄山にあらず。参詣道については特段の規制はなし、ということであろう。このような石鉄山の別当としての正当性は前神寺優位ではあるが、前述の如く参詣者は横峰寺経由のほうが多かったというのは、誠に面白い。

なお、「石鉄山 福地院 横峰寺」と復したのは、明治の神仏分離令により、廃寺となった横峰寺が明治42年(1909)、再び横峰寺と復した頃だろうか。

石鎚神社、前神寺、横峰寺の入り繰り、石鎚信仰の核となる石鎚神社、前神寺、横峰寺故の石鎚登拝道など、あれこれ寄り道し、メモがちょっと長くなった。 今回はここまでとし、前神寺から六十五番札所・三角寺へのメモは次回に廻す。


周桑平野の生木道を辿り、小松の大頭から湯浪に向かい六十番札所・横峰寺への登山口を繋ぐ順打ちの遍路道、また、同じく周桑平野の香園寺道を辿り六十一番香札所・香園寺から岡村を経て六十番札所・横峰寺へと上る登山口までの逆打ち遍路道をメモした。

順打ち、逆打ちとは言うものの、湯浪からの順路道を横峰に上り、復路を岡村に下れば、逆打ちルートは順打ちルートの一部となり、また、香園寺からの逆打ちルートから横峰に上り、復路を湯浪に下れば、順打ちルートは逆打ちルートの一部になるのだが、それはそれとして、この散歩を以て、いつだったか六十一番香園寺奥の院から逆打ちで六十番札所・横峰寺に上り、湯浪へと下りた遍路道と繋いだ。

今回から、六十一番札所・香園寺から四国中央市、法皇山脈の山腹にある六十五番三角寺までの辺遍道を数回に分けて繋ぐことにする。通過する行政区は西条市、新居浜市、四国中央市。新居浜市は生まれ故郷である。気まぐれに歩いた、愛媛のいくつかの峠越えの遍路道を、ついでのことながらと一気通貫につなごうと南予の予土国境からはじめた遍路歩きも、やっとホームグラウンドに戻ってきた。
当然のことながら、この香園寺から三角寺への道筋は土地勘があり過ぎ、知らないところを歩いてみたい、という散歩の醍醐味は少々薄れるため、いまひとつ散歩のメモをするモチベーションには欠けるのだが、ともあれ散歩のメモをはじめる。
第一回は六十一番札所・香園寺からはじめ、六十二番札所・宝寿寺を打ち六十三番札所・吉祥寺まで。実際は六十四番札所・前神寺までカバーしたのだが、小松の町のあれこれにメモが長くなったため、吉祥寺から前神寺までのメモは次回に廻す。



本日のルート;
香園寺から宝寿寺へ
六十一番札所・香園寺参道前の3基の道標>三嶋神社>三嶋神社東に茂兵衛道標>藤木橋
陣屋経由の道
遍路道分岐箇所の茂兵衛道標>西町地蔵>かぎ型箇所の道標>屈曲させた金毘羅道の道標>駅前通りとの交差箇所
寄り道
●近藤篤山旧邸●本善寺●中央公民館入口左手に道標●養生館●小松陣屋跡

宝寿寺へのその他の遍路道
●藤木橋から直進する遍路道●陣屋経由のバリエーションルート

陣屋経由の道を宝寿寺へ
JR四国・小松駅前の道標>六十二番札所・宝寿寺

宝寿寺から吉祥寺へ
小松駅東踏切に利平道標>御大典記念の道標>常夜灯>茂兵衛道標>北門の徳右衛門道標>六十三番札所吉祥寺


六十一番札所・香園寺から六十二番札所・宝寿寺へ


六十一番札所・香園寺参道前の3基の道標
香園寺から六十一番札所・宝寿寺に向かう。香園寺の参道を北東に進み先般歩いた五差路に出る。車道の北側には3基の道標が立つ。手印と共に清楽寺への道を示した円柱の利平道標、「右へんろ」と刻まれた小さな道標、手印と共に「六十一番香園寺 六十二番寶壽寺」が刻まれた面と、矢印のようなマークと共に「六十番横峯寺」と刻まれた道標が、「61番香園寺 0,2km」「62番宝寿寺1.2km」と書かれた「四国のみち」の木標脇に並ぶ。

「えひめの記憶」には、かつての遍路道は「清楽寺から三嶋神社前の三差路を経て、三嶋神社左手の田んぼの小道を通って、香園寺へと進んでいたようであるが、現在その道は残っていない」とある。
その道は残っていないようではあるが、三嶋神社の鎮座する丘陵を越えて国道11号線手前まで辿るルートも遍路道、といった記事をどこかで見たような気もするので、確たる根拠もないのだが、とりあえず神社のある独立丘陵に進むことにした。


三嶋神社境内社・花陵神社
道標脇の注連縄の張られた鳥居を潜り、三嶋神社の鎮座する独立丘陵に上ってゆく。丘陵に上ると左手に小さな社がある。花陵神社である。嘉永7年(1854)、三嶋神社を新宮原(清楽寺の東辺り)からこの丘陵に遷座した時、武器や勾玉、須恵器などが発掘され、この丘陵が古墳であることがわかったようだ。後年のことではあろうが、この地の古墳は20基から成る古墳時代後期の群集古墳であるとされ、花陵神社は開掘の際に多数出土した石棺の人骨、副葬品を奉斎し、その霊を神として祀っている、とある。
三嶋神社の境内である丘陵西部の群集古墳地帯、といっても、これといってそれらしき古墳を目にするわけでもないのだが、ともあれ、丘陵西部から東部に向かうと三嶋神社の社殿に出る。

三嶋神社東に茂兵衛道標
三嶋神社のあれこれは、過日のメモに任せるとして、石段を下り参道鳥居の右手に立つ円柱の利兵衛道標、角柱の金比羅道標を見遣り、三嶋神社の道を隔てた東側に立つ茂兵衛道標脇の金比羅道に向かう。
茂兵衛道標には、正面には「六十一番 香園寺」左面には「六十二番一の宮宝寿寺」とともに、「旅う禮し 太だ一寿じ尓 法の道」と刻まれる(旅うれし ただひたすらに法の道)。
●金比羅道
いつだったか松山から桜三里を越えて、金比羅街道が中山川を渡る史跡 釜之口井堰へと辿ったことがある。大雑把に言って、そこから中山川を渡り国道11号の南や北、また国道11号と合わさった旧道を進むのが金比羅街道である。

藤木橋
茂兵衛道標脇の道を東に進むと小松川に架かる藤木橋に出る。現在の橋は昭和43年(1968)に架設されたものであるが、ひとつ上流に架かる大正モダンの香りを残す小松橋が大正15年(1926)に完成する以前は、遍路道でもある金比羅街道に架かるこの藤木橋が陣屋町である小松の往来の中心であったようだ。




陣屋経由の道


遍路道分岐箇所の茂兵衛道標
橋を渡ると道は二つにわかれる。右の道は、小松藩時代の陣屋町を通る遍路道(金比羅街道)、直進の道は現在多くの歩き遍路に利用されている道である。分岐点辺りの道の北、ガードレールの外に茂兵衛道標が立つ。「四國第六十二番一之宮道」と刻まれる。一之宮とは六十二番札所・宝寿寺のことである。一之宮の別当寺であった故の表記であろう。
道標は直進する遍路道を案内するが、右に折れ小松陣屋町を抜ける金比羅街道の遍路道を辿る。

西町地蔵
分岐を右に入ると西町。ほどなく道の右手に西町地蔵尊を祀るお堂。三代藩主頼徳の頃、享保8年(1723)天然痘退散を願い東西南北に設けられた地蔵尊のひとつ、とのことである。町の東西南北に地蔵尊が祀られる。







かぎ型箇所の道標
東進し、小松小学校の角で右折。立派なお屋敷である山本邸に沿って進む。途中に道標。「右遍んろ道」と刻まれる。弘化4年(1847)に立てられたもの、という。
右折する道筋は、小松陣屋建設にあたり、古くからの官道(金比羅街道)の東西二箇所を屈曲させ、防備体制を整えたもの。ここはその西の屈曲部。往昔の金比羅街道は現在の道筋とは異なり、ここを右折することなく直進していた、ということだ。

「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」には、「小松藩の町づくりは、初代藩主直頼の命を受けた小松藩家老喜多川与次右衛門を責任者として進められ、三代藩主頼徳(よりのり)の時代に町としての体裁が整えられたと言われている。 彼らは道路を建設する際、陣屋町を防御するために角(かど)と突き当たりを各所につくり、見通しを悪くした。この名残は金毘羅街道にも見られ、東西の端がかぎ型に曲折している。
主な町筋は西から東西方向に、小松川を渡って西町、中町、本町と続き、常磐(ときわ)神社前で南北に曲がって横町、さらに東西に曲がって東町と続き、東町地蔵の前を通って氷見に向かう。大正13年(1924年)に常磐神社と小松町役場(当時は西町にあった)を移し、その跡地に道路ができるまでこの通りが小松市街地のメインストリートであった」とある。

屈曲させた金毘羅道の道標
右折した遍路道は、すぐ南で左折。小松橋から続く道筋を東に進むことになる。西町・中町を進むこの道筋は、陣屋建設に際し屈曲させた金比羅道である。少し東に進むと白壁の土蔵の手前に道標が立つ。「六十番 大峯寺」と刻まれる。
大峯寺
ここにある大峰寺とは六十番札所・横峰寺が明治4年(1971)の神仏分離令により廃寺となり、明治42年(1909)に元に復すまで一時期称した寺名である。経緯は明治4年(1871)、神仏分離令への対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺、そして明治42年(1909)に横峰寺に復す。

六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。
ということは、この道標は明治18年(1885)から明治42年(1909)の間に立てられたものということになる。只、手印は東を指しているのだが、横峰寺に向かうには南に進むことになる。どこから移されたものだろう。

駅前通りとの交差箇所
道標から200mほど東に進むと、駅前通りと交差する。遍路道は、ここを左折し、駅前通りを北に進み、国道11号を横切り、小松駅前を左折し六十二番札所・宝寿寺に至るのだが、ここでちょっと寄り道し陣屋町を歩くことにする。







寄り道

近藤篤山旧邸
駅前通りとの交差箇所に近藤篤山邸がある。
「県指定文化財 史跡 近藤篤山旧邸
近藤篤山旧邸は小松藩(一万石・藩主は一柳家)の藩校(養生館)の儒官・金堂篤山先生が、文化三年(1806年)から弘化三年(1846)、八十一歳で亡くなるまでの四十年間を過ごした屋敷跡です。
篤山先生は優れて高邁な人柄から、「伊予聖人」と尊称され、江戸後期の教育・文化・精神に多大の功績を残しました。
この先生の業績を称えて、当地は昭和二十四年九月に愛媛県文化財に指定され、屋敷は復元整備され公開されています 西条市教育委員会」と案内にある。
本善寺
篤山旧邸の道を隔てた西側に小松藩の藩寺である本善寺。案内をまとめると「山号を聞名山(もんみょう)、院号を得生院とする法然宗祖の浄土宗の総本山、知恩院の直末寺。
寛永十三年(1636)、小松藩初代藩主・一柳直頼が、病没した父直盛の遺領を継いで小松に入封した際、付従った家臣荒木重勝によって創建された小松藩士の菩提寺。
本尊は平安末期から鎌倉初期の作と言われる阿弥陀如来像。荒木重勝が奉じたものとされ、制作当時の美しい姿を残す。
山門の額「聞名山」は当代随一の能書家として知られる三代藩主一柳直卿(頼徳とも)の書になるもので、阿弥陀如来像とともに市の指定文化財となっている」とする。
中央公民館入口左手の道標
本善寺の道筋を少し西に進むと中央公民館。入口左手に道標が置かれる。下半分が土に埋もれており、手印と共に「六十三番」までが読める。昭和54年(1979)の公民館開館とともに移設されたというが、詳細は不明(「えひめの記憶」)。



養生館
本善寺から更に一筋南、先回の散歩で訪れた仏心寺から東に延びる道筋と駅前通りが交差するところに大きな石碑が立つ。養生館跡である。案内をまとめると、「養生館とは小松藩の藩校。七代藩主・一柳頼親公は、享和二年(1802)、藩校である「培達校」を開校。翌享和三年(1803)、近藤篤山先生を賓師の礼をもって招く。
近藤篤山先生は藩の参政でもあった竹鼻正脩と相談し、藩校を「養生館」と改め、江戸の昌平黌の制度も取り入れ、施設の拡充と教育内容の充実に努め、藩士の子弟に主として漢学や習字などの指導を行った」とある。
養生館は後に庶民にも入学が許可されるようになった、とのことである。因みに、「培達」とは古代朝鮮王朝の雅号でもある。藩校との関連は不詳。
小松陣屋跡
養生館跡北側の道を東へと進むと民家脇に「小松陣屋跡」の石碑と陣屋見取図があった。見取図によると太鼓櫓のあった辺り。右手に櫓門(やぐらもん)が見える。そこが正面入口のようだ。
小松陣屋は西条藩に移封された一柳監物直盛の急死を受け、遺領のうち周敷郡11か村と新居郡4ケ村、計1万石を領した三男直頼が立藩。寛永14年(1637)に陣屋建設の地を西条藩の氷見村と接する新屋敷村のこの地に決め、地名も小松と改める。小松が生えていたのだろう。陣屋建設は翌年より東西五十間、南北六十間、坪数317坪の縄張りで始められた、とのことである。
因みに柳監物直盛の遺領のうち、長男の直重が西条藩3万石を相続して2代藩主となる。また二男直家は播磨国(兵庫県)加東郡及び伊予宇摩郡・周布郡に2万8600石を領し、川之江に陣屋を構えた。
ということは、小松以東の伊予はすべて一柳家の領地であり、陣屋の備えも、西に対する防御を重視したという。とはいうものの、長男が領した西條藩は直重の子直興の代に勤仕怠慢の理由により除封され松平氏が入り、また、二男直家も但馬国出石城主小出吉親の次男直次を養子として幕府に届け出たが、許可がおりる前に寛永19年(1642年)に病没。末期養子が認められず直次は播磨国小野に一万石で移され、伊予の地は幕府直轄領として陣屋跡に代官所が設けられた。結局幕末まで伊予に留まった一柳氏はこの小松藩のみ、ということだろうか。


宝寿寺へのその他の遍路道


藤木橋から直進する遍路道
藤木橋の東で右に折れず直進する道は、現在多くの歩き遍路に利用されている道である。道を直進し、小松郵便局の東150mほどのところにある四つ角を左折し、国道11号を越えて宝寿寺に向かう。小松駅前通りの一筋西のこの四つ角には、かつては昭和6年(1931)建立の道標が立っていたが、その道標は現在宝寿寺の境内に移されている。

陣屋経由のバリエーションルート
陣屋経由の道は、前述の如く駅前通りを左折し宝寿寺へと向かうが、ここを左折することなく、金比羅道を少し東に進み、常盤神社角を左折し宝寿寺へと向かう遍路道もあった。
金比羅道・遍路道分岐点の道標
一筋北の隅に道標があり、東方向を示す手印と共に「右こんぴ」、摩耗し読みづらいが、北を示す手印と共に「一ノ宮」と刻まれた道標がある。北に進むと遍路道、東に向かうのが金毘羅道となる。





◆東町地蔵
なお、常盤神社から鉤型に曲がる金比羅道は、陣屋建設時に東西で屈曲された金比羅道の東部であり(当時の常盤神社は敷地が北に延び、現在の神社北側を抜ける道路は無かった)、上述の金比羅道標に従いを東に進むと、道の左手に右膝を崩した地蔵がある。これは東西南北に天然痘除けに祀られた東町地蔵のようだ。







◆金比羅常夜灯と境界石
更に東に進むと車道と交差する四つ角に金比羅常夜灯、そして「従是東 西條領」と刻まれた境界石が稲荷の社の傍に立っている。










陣屋経由の道を宝寿寺へ


あれこれ寄り道したが、近藤篤山旧邸角を左に折れ、駅前通りを小松駅へと向かう遍路道のメモに戻る。

JR四国・小松駅前の道標
駅前通りを北に進み国道11号を越え、JR四国・小松駅前に進むと、駅前を東西に走る道の西角に道標が立つ。手印と共に、「四国六十二番宝寿寺 四国六十三番吉祥寺」と刻まれる。手印に従い、西に道を向かうと六十二番札所・宝寿寺に至る。

六十二番札所・宝寿寺
境内手前右手には「一國一宮 別當 寶壽寺」と刻まれた石柱と、その裏手に道標1基、左には4基の道標が並ぶ。境内に入ると正面に本堂、右に大師堂。小振りではあるが落ち着いたお寺さまである。創建、開基は聖武天皇云々、本尊は弘法大師が彫った十一面観音云々との縁起があるが、縁起は所詮縁起としておく。
「愛媛の記憶」には、「六十二番宝寿寺は一之宮神社の別当寺であり、開創以来たびたび移転してきた寺である。古くは中山川の北側にあったという。延宝7年(1679)に小松町一本松、現在一之宮神社がある一ノ宮の地に移され、明治維新後、神仏分離令により一時香園寺に合併されたが、明治10年(1877)あるいは明治11年ともいうが旧に復した。大正12年(1923)の省線讃予線の開通で境内を線路が通ることとなったため、寺は一之宮神社の境内から線路南側の現在地(宝来町)に移った」とある。
「一國一宮別當 寶壽寺
境内手前右手立つ、「一國一宮 寶壽寺」は一之宮神社の別当寺であったことに由来するのだろう。ところで、この「一國一宮」であるが、伊予国の一宮は大三島の大山祇神社であるわけで、この地の一宮神社ではないだろうし、どういう意味?
気になりチェックする。と、この一國とは伊予の国ということでもないようである。『愛媛の面影』に、「三島明神を一州の一宮と祟めたるよし豫陽盛衰記にみえたり。されば外に一宮のあるべきよしなし。『小松邑志』に云う。一国ノ一宮アリ、一郡ノ一宮アリ、一郷ノ一宮アリ、必シモ当国ノ一宮ヲ云ウニアラズ。必一郡一郷ノ一宮ヲ誤伝タルナルベシ、といへり」とある。
生れ故郷の新居浜市にも一宮神社があるが、そこは郡一宮とされている。この一國一宮は、郡か郷の一宮といったもののようである。
5基の道標
「一國一宮別當 寶壽寺」の裏手に立つ道標は、前述藤木橋から直進する遍路道から移されたもの。手印と共に「六十一番香園寺 六十三番吉祥寺」「横峰寺」「宝寿寺」と刻まれる。
境内手前の左手に立つ4基の道標は鉄路、国道建設に伴い移されたもの。一番外側の道標は明治28年(1895)の道標である。「逆香園寺へ八丁 順吉祥寺へ七丁」と刻まれる。
二つ目は円柱の利平道標である。地震で倒れた鳥居の再利用とも言われるこの道標には、手印と共に「香園寺 吉祥寺」の文字が刻まれる。明治14年(1881)建立の道標である。
三つ目は「六十番横峰寺 六十一番香園寺」「六十二番宝寿寺」「六十三番吉祥寺」の文字が刻まれる。
一番境内寄りの4つ目の道標は徳右衛門道標。「右これより吉祥寺迄七丁」の文字が刻まれている。
なお、宝寿寺境内のソテツの前に、「右一の宮」と刻まれた真念道標があったが、現在は宇和町(現、西予市宇和町卯之町)にある愛媛県歴史文化博物館に保管展示されている、とのことである。

一宮神社
JRの線路によって泣き別れとなっている、一宮神社を訪ねる。まことにささやかな社が鎮守の森に鎮座していた。宝寿寺から一宮神社に向かう道、宝寿寺北の一本松踏切手前に、上に地蔵が乗った円柱の茂兵衛道標があった。往昔、現在地より北に宝寿寺があったことを示している。


余談
六十一番札所香園寺を訪れたとき、境内に「六十二番札所 納経所」の案内があった。その時はこの宝寿寺が工事中なのだろうか、などと思っていたのだが、特に工事中でもないため、なんのことだろうとチェック。と、札所寺院でつくる『四国八十八ヶ所霊場会』とこの宝寿寺との間で裁判沙汰になっているとの記事があり、高松地裁が宝寿寺の『四国八十八ヶ所霊場会』からの脱退を認めたとのこと。香園寺にあった「六十二番札所 納経所」の案内の背景には、六十二番札所の納経所が十分に機能していない、といった『四国八十八ヶ所霊場会』の主張を踏まえての事情のようであった。事の真偽は不明である。


六十二番札所・宝寿寺から六十三番札所・吉祥寺へ


小松駅東踏切に利平道標
六十二番札所・宝寿寺を離れ、六十三番札所・吉祥寺に向かう。宝寿寺の境内からJR伊予小松駅まで打ち返す。遍路道は駅前にある道標に従い右折し、国道11号を左折し東に向かうルート、駅前をそのまま直進し小松駅東踏切を右折し国道に出るルートとふたつある。小松駅東踏切には、線路沿いの金網の内側に利平道標が立つ。


御大典記念の道標
国道に沿って進むと歩道橋手前に「御大典記念道」「吉祥寺一丁、一之宮七丁」「昭和三年」と刻まれた道標がある。一丁は109mほどであり、六十二番から六十三番札所までの距離はおおよそ900mということになる。
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」には、「平成12年年末の歩道橋改修工事の際に上端から50cmくらいのところで折れ、現在は倒れている」とあったが、折れてもないし、倒れてもおらず、国道脇に立っている。道標も昭和三年とは思えないような新しい見栄えであり、素人目にはレプリカのようにも見える。
御大典
天皇の即位儀礼は、前天皇の死後ただちに後継者が即位する「践祚(せんそ)」、天皇即位を国の内外に宣言する「即位式」、新天皇がその年の新穀を神と共食する「大嘗祭(だいじょうさい)」の3つの儀礼からなるが、明治42年(1909)の登極令の制定により、即位式と大嘗祭は、前天皇の喪が明けた年の秋冬の間に行われることに決められ、このふたつの儀礼をまとめて「御大典」と称す。昭和天皇の御大典は、昭和3年(1928)の11月にふたつの儀式が実施された。

常夜灯
御大典記念の道標から東に150mほど進むと国道脇に常夜灯が立つ。遍路道はこの常夜灯を左折し国道11号を離れる。
国道脇の茂兵衛道標
かつては、御大典記念道標の西、100mほどのところに茂兵衛道標があったが、宝寿寺の真念道標と同じく、現在は宇和町(現、西予市宇和町卯之町)にある愛媛県歴史文化博物館に保管展示されている。この道標には「うまれ来天残るものとて石は加り わが身は消え天昔那り計梨(うまれきて のこるものとて いしばかり わがみはきえて むかしなりけり)」の添歌が刻まれるという。 元の歌は観音寺の県道脇の建立年代も氏名も不明な道標に、ほぼ同じ(最後が「むかし成ら無(なるらむ」と異なるだけ)の添歌が刻まれている、という。茂兵衛もこの道標の添歌を目にし、幾多の石に刻まれる己が名を見るにつけ、同様の心境になった故の添歌だろう。

茂兵衛道標
常夜灯を左に折れ、径を少し進むと右を示す茂兵衛道標が立つ。手印と共に大師像が彫られた面には「吉祥寺」の文字と、「先祖代々 當病平癒 家内安全 海上安全 施主 越後國 新潟市上大川前通 片桐寅吉」の文字、また別の面には手印と共に「寶壽寺 願主 中務茂兵衛義教」と刻まれる。



北門に徳右衛門道標
茂兵衛道標に従い道を右に折れ、東に60mほど進むと吉祥寺の北門前に出る。かつてはここが正門であったようだが、現在は閉じられている。そこに徳右衛門が立つ。正面には梵字、大師坐像が彫られ、その下が硯彫りとなっており、そこに「前神寺廿丁」と刻まれる文字は後世に改刻されたもの、とも言われる。

六十三番札所吉祥寺
ぐるりと塀に沿って進み、東の山門より境内に入る。境内に入ると正面に本堂、左手に大師堂がある。本尊は毘沙門天。仏法を守護する四天王である持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)のうち、多聞天のこと。通常毘沙門天と称する場合は、四天王のリーダー的ニュアンスをもつようだ。
本尊が毘沙門天とするお寺さまは四国遍路ではここだけ。更には毘沙門天が属する天部という、仏教の尊像において、如来・菩薩・明王・天という四区分の四番目のカテゴリーの尊像を本尊とするのも、ここだけとのこと。寺名は脇仏の吉祥天より。吉祥天は毘沙門天の妻。旦那ではなく妻が寺の名となるもの面白い。
「えひめの記憶」には「この寺は、もとは南東の坂元川谷間の山中にあったが、天正13年(1585)の豊臣秀吉による四国平定の際に兵火にかかって焼失し、それ以後、西条市氷見(ひみ)の現在地に移されたという。
寂本の『四国?礼霊場記』(元禄2年〔1689〕)には、「当寺むかしは今の地より東南にあたり十五町許をさりて山中にあり。(中略)毛利氏当所高尾城を攻るの時、軍士此寺に濫入し火を放ち(中略)仏具典籍一物を存せず燬撤す。それより今の地に本尊を移し奉る。とあり、西条藩の地誌である『西條誌』(天保13年〔1842〕)にも同様の記述が見える。かつて吉祥寺があったとされる場所は、現在では「吉祥寺藪(やぶ)」あるいは「大藪」と呼ばれ、山の斜面一帯に竹林が広がっている」とある。往時は21坊を有する大寺院であったようだ。
成就石
境内に右下に穴の開いた丸い自然石があり「成就石」と呼ばれる。目隠をして、石をめがけて歩いていき、金剛杖をこの穴に通すことができれば願い事がかなうという伝承があるようだ。
元は石鎚山麓の滝壺にあったものを万治年間、というから17世紀の中頃、吉祥寺に移された。積年の滝の水により穴が穿たれたわけだが、何事も一心に成さば、この石のように初志貫徹する故に成就石と称される。金剛杖云々は江戸時代の後半になっておこなわれはじめたようである。
道標
東門の左手に道標1基。「四國第六十三番吉祥寺」と読める。吉祥寺山門前に吉祥寺の道標があるのも異なものであり、国道建設などで移されたものだろう。 「えひめの記憶」には境内南口に3基の道標がある、とのことだが、2基しか見当たらない。あれこれ見て回ると庫裏傍に1基の道標が立っていた。



南口の2基の道標は、1基は円柱であり、「吉祥寺 宝寿寺」と刻まれ、もう1基は「石土神社 へんろ」の文字が読める。共に利平道標とされ、手印からして、どこからか移されたものだろう。
庫裏近くの道標は結構大きい。「右へんろ道」と刻まれる。庫裏の門の中にあり、立ち入りことはできず、その他の面は読めなかった。
石土神社
ここにある「石土神社」って何処のことだろう。生木道を経て、小松の大頭から六十番札所・横峰寺へと辿る順路の遍路道に「石土神社」があった。が、場所からして、ここからでは逆打ちとなるため、「逆へんろ 石土神社」となっていれば大頭の石土神社の可能性もあるが、そうではないため候補から外す。 とすれば、ここから東に進んだところにある石鎚神社?とは言うものの、この神社は明治の神仏分離令により六十四番札所・前神寺の敷地を以て設けられた社であり、札所ではないため候補としては少々弱い。
それでは、石土神社は?前神寺の寺伝に、役行者が石鎚山の山上で修行し、蔵王権現を感得しその尊像を祀り、その後上仙道人が山頂への道を開き、そこに祀った社を上古、「石土(いわつち)」の社、後に石鉄権現としたとのことであるので、この「石土神社」とはその別当寺である六十四番札所・前神寺のことではないかと推測する。

当日は更に東、六十四番札所・前神寺へと進んだのだが、生まれ故郷に近い割には余り知らなかった小松のあれこれが気になり、思いの他メモが長くなった。メモはここまでとし、六十三番札所・吉祥寺を打ち、六十四番札所・前神寺に至るメモは次回に廻す。

2回に分けて、生木道・香園寺道分岐点から、右に折れて進む生木道を進み、生木地蔵にお参りし、中山川を越えて小松の大頭から湯浪の横峰寺登山口に向かう、順路の遍路道をメモした。
今回は生木道・香園寺道分岐点から香園寺道を進み、中山川を越え、第六十一番札所香園寺を打ち、第六十番札所横峰寺に向かう逆打ちルートをメモする。 逆打ち遍路道ではあるが、順打ちで湯浪から横峰寺に上ったお遍路さんの復路でもある。黒瀬湖近くまで下る平野林道を歩くか、シャトルバスを利用するか、ともあれ黒瀬湖近くの横峰登山口バス停まで下り、そこからバスを利用するお遍路さんも多いと思うが、歩き遍路で第六十一番札所横峰寺から第六十一番札所香園寺に向かう復路でもある。
いつだったか第六十一番札所香園寺から第六十一番札所横峰寺に逆打ちで辿ったのだが、そのルートは香園寺奥の院経由の、通称奥の院道と称される道であった。今回香園寺から横峰寺への遍路道をチェックすると、奥の院道は昭和になって開かれた道であり、香園寺から小松川に沿って岡村から横峰寺登山口に進む遍路道があることを知った。この遍路道が往昔の逆打ち遍路道のようにも思え、今回は香園寺からは岡村を経由して横峰寺に上る遍路道をトレースする。

順打ちで湯浪から横峰寺に上り、復路も同じルートを戻るもよし、奥の院道、または岡村経由で六十一番札所香園寺に下るもよし、また、逆打ちのふたつの遍路道のどちらかで横峰寺に上り、逆打ちルートを戻るもよし、順打ちルートを逆に下るもよし、と幾つもの選択しからルートを選び歩き遍路旅を続けることができるかと思う。



本日のルート;
生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川まで
生木道・香園道分岐点の茂兵衛道標>喜多台の道標>円海寺橋>壬生川公民館の道標>貝田の道祖神>闇岡神社傍の道標>石田の道標
生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川から香園寺まで
中山川右岸の道標>清楽寺>JR予讃線新宮踏切南側の道標>国道11号線脇の道標>三嶋神社前の道標2基>三嶋神社東に茂兵衛道標>三嶋神社>香園寺参道入り口に3基の道標>六十一番札所香園寺
生木道・香園道分岐点から香園道を進む:香園寺から横峰寺登山口まで
香園寺参道南東の茂兵衛道標>小松橋東の茂兵衛道標>仏心寺>T字路の道標>T字路の茂兵衛道標>地蔵堂南・二差路の道標>車道を右折し三差路に>砕石場手前の2基の道標>採石場の先で舗装が切れる>横峰寺への登山口



生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川まで

生木道・香園道分岐点
大明神橋川南詰、生木道・香園道分岐点に立つ道標から、左に道を取り、香園道を進む。
県道159号を進むこの道は、通常、六十一番札所香園寺に向かい、逆打ちで六十番札所横峰寺を目指すルートである。
県道159号はかつての旧街道(西条道)。旧街道は、その後東予市内の壬生川(にゅうがわ)の街中・三津屋・北条を経て小松町、西条市へと至る。


喜多台の道標
今治自動車道の高架下を進み、藤森荒魂神社を越えた先で遍路道は県道159号から分かれ右折する。「えひめの記憶」には、かつてこの角に道標や摂待所があったとのこと。
右折し喜多台の公園を越えた先、T字路に道標が立つ。古い道標がいつのまにか無くなってしまったため、昭和30年代に地元の方が元の場所に道標を立てたとのことである(「えひめの記憶」)。南を指す手印と共に「右 へんろ道」と刻まれる。

円海寺橋
遍路道は新川に架かる円海寺橋を渡る。「えひめの記憶」には「円海寺橋から北東に約800m離れた壬生川公民館(壬生川200)には道標がある。小松藩の両替商和田屋利平の建てたものだが、刻字から推察すると東予市円海寺あたりの遍路道上にあったものと思われる」とある。ちょっと立ち寄り。建物脇の植え込みの中にある道標を確認し元に戻る。




壬生川公民館の道標
「えひめの記憶」には「円海寺橋から北東に約800m離れた壬生川公民館(壬生川200)には道標(72)がある。小松藩の両替商和田屋利平の建てたものだが、刻字から推察すると東予市円海寺あたりの遍路道上にあったものと思われる」とある。遍路道からは少し外れるがちょっと寄り道。植え込みの中に道標があった。










貝田の道祖神
「えひめの記憶」には「県道壬生川丹原線(48号)を越えて南東に300mほど進み、下貝田244-1の四つ角に至る。そこには壬生川公民館にあったものと全く同じ刻字の和田屋利平の道標がある」とあるが、見つけることはできなかった。
更に「そこから南東に進み向口川を越えると、すぐ右手に一つの石に彫られた2体の地蔵があり」とする。その場所には貝田の道祖神との石碑があった。




闇岡(くらみ)神社傍の道標
Google Street Viewで作成

道祖神から500mほど進むと、右に少し細くなった道が分かれる。遍路道はこの右に入る道を進む。途中、地蔵堂などを見遣りながら進むと{闇岡(くらみ)神社前(石田本郷601-2)の道路沿いに道標がある(えひめの記憶)」とする。当日は、どうしたことか見つけることができなかったのだが、Google Street Viewには民家ブロック塀の前に道標が立っている。どうして見つけられなかったのか、ちょっと混乱。
闇岡(くらみ)神社
闇岡(くらみ)の名称が気になりチェックするが、見つからない。 音からすれば、水の神である闇淤加美神(くらおかみのかみ)に近く、音の転化か何か、両社に関係ありそうにも思うのだが、エビデンスはない。

石田の道標
闇岡(くらみ)神社から100mほど進んだ四つ角に道標がある。摩耗し文字は読めない。「えひめの記憶」には「遍路道は、ここからさらに進んで中山川に至り、現在のJR予讃線の中山川鉄橋の少し上手(西側)で川を渡っていたというが、この間の道は定かでない」とある。





□バリエーションルート□
「えひめの記憶」には「香園寺道と大分離れたところにある東予市周布公民館のすぐ北西の酒店前(周布本郷1290)に、道標がある。この道標は、『東予市誌』によると、生木道の途中、東予市桑村または同新町で左折をし、丹原町願連寺を経て東予市周布を通り、同吉田辺りから中山川に出る別の遍路道沿いにあったもののようである」とする。
生木道でメモした新町あたりで左折し、今治道路丹原ICあたりの連願寺を経て、この周布から吉田をぬけたようだ。県道44号が中山川を渡る橋が吉田橋と呼ばれるので、その辺りにでたのだろうか。目安は道標ひとつであり、詳細は不明である。


生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川から香園寺まで

中山川右岸の道標
中山川を越えた遍路道は清楽寺を目指す。JR予讃線の中山川鉄橋の少し上手(西側)で川を渡っていた、と言われる遍路道は、「田んぼのあぜ道を400mほど南東方向に進む。このあぜ道が北西から進んできた丹原町に至る道と交差する地点に、清楽寺・香園寺・大峰寺への道を示した道標が立っている(えひめの記憶)」と記される。



とりあえずはこの道標を見つけ、道を繋げようとおもうのだが、なにせ情報不足。遍路道が通るであろう清楽寺から逆トレースすると、予讃線の少し東に道が中山川へと続く。この道筋だろうと推測し道を進むと、道が予讃線とクロスする踏切の少し手前に道標があった。
「四国第六十番前札所清楽寺 大峰寺 第六十一番香園寺」「明治三十三年」 また、北向きの手印には「西山」らしき文字も読める。

清楽寺
道標の指示に従い田園の中を南東方向に進み、JR新宮踏切手前約100mの四つ角を左折。四つ角には祠に坐る地蔵、また六地蔵の他、石碑らしきものも見える。当初、この石碑のひとつが上述道標かと思っていた。道なりに進み清楽寺に。






遥拝石と円柱道標
「えひめの記憶」には「清楽寺境内には、明治前半期の横峰寺との関係をしのばせる「横峯遥拝石」と「四國六十番札所大峰寺道 四國六十番前札清楽寺道 仝(どう)寺ヨリ六十一番ヱ四丁 仝寺ヨリ六十二番ヱ八丁 ホカ二六十番前札ナシ」と刻まれた円柱道標がある。(中略)この道標は30年ほど前までは、国道11号大頭交差点に立っていたようで、「ホ力二六十番前札ナシ」と特にことわっているのは、大頭にある妙雲寺との関係を意識したものであるとのことである」とある。
境内の西隅に「横峯遥拝石」が立つ。また、円柱道標は明治廿年と刻まれているようである。
「ホ力二六十番前札ナシ」とは
「「ホ力二六十番前札ナシ」と特にことわっているのは、大頭にある妙雲寺との関係を意識したものである」とするが、この意味合いは清楽寺の他には六十番前札所はない、とかつて六十番前札所であった大頭の妙雲寺のことを意識しての記述である。
なんどかメモしたが、この間の経緯を再掲する;

経緯は明治4年(1871)、神仏分離令により廃寺となった六十番札所・横峰寺はその対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺、そして明治42年(1909)に横峰寺に復す。 六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。
ここに六十番前札所極楽山妙雲寺であった登場する。本来であれば六十番前札所となった清楽寺とともに、妙雲寺も前札所として続いたのだろうが、明治17年(1844)火災により焼失。明治28年(1895)妙雲寺は近くにあった鶴来山大儀寺を移し、60番前札旧跡として再興。 戦後、昭和32年(1957)再び石鉄山妙雲寺と称することになる。

JR予讃線新宮踏切南側の道標
JR予讃線新宮踏切南側に2基の石碑が並ぶ。その左側の石碑には正面に「左へんろ道」、右に「南無大師遍照金剛」と刻まれる。「えひめの記憶」には踏切北側とあったが、南にもうひとつの石碑とともに移したのだろうか。「この道標は、このあたりの農道が主な清楽寺への道であったことを示しているが、ルートの確定は困難である(えひめの記憶)」ともあった。





国道11号線脇の道標
清楽寺から予讃線の高架を潜り、11号線に。新宮踏切からの道筋が合流する箇所に円柱の道標。手印と共に「四国六十番前札所 清楽寺」と清楽寺を案内する。










三嶋神社前の道標2基
参道鳥居の右手に2基の道標が並ぶ。円柱の道標は利平道標。左を示す手印と「こうおんじ」、「今治街道 こくぶんじ」、「文久四年」といった文字が読める。もう一方の角柱には「こんぴら大門」と刻まれ、金比羅街道であることを示す。
金比羅道
いつだったか松山から桜三里を越えて、金比羅街道が中山川を渡る史跡 釜之口井堰へと辿ったことがある。大雑把に言って、そこから中山川を渡り国道11号の旧道を進むのが金比羅街道である。

三嶋神社東に茂兵衛道標
三嶋神社の道を隔てた東側に茂兵衛道標が立つ。正面には「六十一番 香園寺」左面には「六十二番一の宮宝寿寺」とともに、「旅う禮し 太だ一寿じ尓 法の道」と刻まれる(旅うれし ただひたすらに法の道)。




三嶋神社
三嶋神社にお参り。県道11号を松山方面から桜三里の山地を抜け、周桑平野を東に進むとき、四国山地から平野部に突き出した尾根筋が眼前に現れ、しばらくその尾根筋を右に見ながら走ることになる。
この尾根筋は、平野のどこに落ちるのだろうと結構気になっていたのだが、それがこの三嶋神社のある丘陵であった。正確には、その手前で尾根筋は切れ、三嶋神社のある丘陵は独立丘陵となっているのだが、ともあれ丘陵が周桑の平野に落ちる突端部に三嶋神社がある。
石段に上り拝殿にお参り。拝殿左手に一柳直徳と刻まれ、注連縄も張られた奉納石柱があり、小松藩の殿さまの奉納かとも思ったのだが、一柳系譜には見当たらなかった。ご子孫の奉納だろうか。
三嶋神社由緒
三嶋神社由緒には、「元明天皇の和銅5年(712 年)8 月23 日、勅詔によって国司河野伊予守越智宿禰玉興、玉澄が井出郷の総鎮守として大山祇神社より勧請された古社で(一書に曰く聖武天皇の御宇天平年中河野益雄御勧請とも云)国司領主の崇敬厚く、河野家より境内八町四面の永代赦免状と寄附状の朱印があった。
後に井河神を開発の守護神として合祀し、その後、寛永15 年(1638年)小松藩主一柳直頼公が入封して本殿再建し、歴代の藩主も社殿修覆、領内主席神社として、参勤交代の節は道中安全祈願を行った。嘉永7年(1854年)にこの船山に遷座され、頂上に祀られし船山八幡宮を本社に合祀し、明治5年村社となり、明治28年1月31日郷社に列格した。
花陵神社は嘉永7年に本社をこの船山の地に遷宮の時、古墳を開掘して石棺の人骨、副葬品を多数に出土し、一部を帝室博物館に、残りを花陵神社に奉斎しその霊を神として祀っている。この当時の様は舟山騒動の芝居の起因として世に知られている。
10月17日の秋祭には、だんじり10数台が、五穀豊穣と家内安全の祈りを込めて、境内で絢爛豪華な練りが奉納されている」とある。
花陵神社は神社境内社のひとつである。また、遷座は新宮原から移されたとされるが、その場所は清楽寺の東辺りかと思われる。
指定文化財
三嶋神社由緒の案内の脇にある平成二十五年 西条市教育委員会作成の指定文化財の案内には。
○「愛媛県指定 史跡 船山古墳群 昭和37年指定」
県指定史跡 船山古墳群は、小松川の西岸に位置する東西三百メートル、南北百メートル、高さ十五メートルの偏平な丘陵に築造された古墳時代後期の群集古墳である。丘陵は中央部がくびれ、形が舟に似ていることから舟山の名がある。
丘陵東部には三嶋神社が鎮座しており、西部の古墳群全体がその境内地となっている。嘉永七年(1854)、三嶋神社が遷座した際、武器や勾玉、須恵器などが発掘されたことが、『小松邑誌』に記録されている。かつて古墳は二十基ほどあったとされるが、現在確認できるのは十基ほどである。
○「西条市指定 工芸品 一柳直卿の扁額「三島宮」一柳直卿石碑
「三島新宮」の案内には、三嶋神社は、歴代の小松藩主一柳家(越智氏)の産土神として庇護を受けてきた神社であり、船山に遷座したのは八代藩主一柳頼紹(よりつぐ)の時である。また、神社には能書家として知られる三代目一柳直卿(なおあきら)が寄進した「三嶋新宮」の石碑や「三島宮」の扁額も残されており、両方とも市の指定文化財となっている」とあった。一柳直卿石碑「三島新宮」は石段手前左手にある。







香園寺参道入り口に3基の道標
三嶋神社東の道路を南西に進み、最初の大きな四つ角を右折すると香園寺参道入り口に至る。「えひめの記憶」には、かつての遍路道は「清楽寺から三嶋神社前の三差路を経て、三嶋神社左手の田んぼの小道を通って、香園寺へと進んでいたようであるが、現在その道は残っていない」とある。
参道へと左折するT字路、東西に走る道路の北側左手に3基の道標が並ぶ。手印と共に清楽寺への道を示した円柱の利平道標、「右へんろ」と刻まれた小さな道標、手印と共に「六十一番香園寺 六十二番寶壽寺」が刻まれた面と、矢印のようなマークと共に「六十番横峯寺」と刻まれた道標が、「61番香園寺 0,2km」「62番宝寿寺1.2km」と書書かれた「四国のみち」の木標脇に並ぶ。

六十一番札所香園寺
参道を進み六十一番札所香園寺に。このお寺さまは「子安大師」として知られ、我が家の子供たちも、そのおかげをもって健やかに育ってくれた。境内には近代的な大聖堂。2階が本堂と大師堂を兼ねる。
Wikipediaをもとにまとめると:香園寺(こうおんじ)は、真言宗系の単立寺院(元御室派の寺院)。山号は栴檀山(せんだんさん)。院号は教王院(きょうおういん)。本尊は大日如来。
寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立し、天皇からは教王院の勅号を賜ったとされる。天平年間(729年 - 749年)には行基が巡錫。大同年間には、空海が巡錫中、当寺の門前で身重で苦しむ婦人に、栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると元気な男の子が無事に出産。また、栴檀の香を焚いて、安産・子育て・身代り・女人成仏を祈る四誓願の護摩修法をした。以来、安産・子育ての信仰の寺となったと。
天正年間(1573年 - 1592年)兵火に遭って焼失したが、江戸時代に入り小松藩主一柳氏の帰依を得て寛永年間(1624年 - 1644年)に再興されている。また古くは、高鴨神社の別当寺であったとされる。
1903年(明治36年)住職になった山岡瑞園大和尚により、1914年(大正3年)に本堂を再興、大正7年に「子安講」を創始し、全国はおろか海外にまで講員を拡大し隆盛に尽力した。 1976年(昭和51年)本堂は妙雲寺に移築され、その跡地に、高さ16m座席数620余の鉄筋コンクリート造りの大聖堂が建立された。
2階本堂には金色に輝く大日如来と大師像。この大日如来像は前立本尊でり、本尊は秘仏として後ろの厨子におわす、とのことである。境内の子安大師堂にお参りし、孫の健やかな成長を願う。因みに、子安講は往時10万人を越えたと言う。








山頭火・紫苑荘の歌碑
境内を大聖堂に進む途中、左手に2基の山頭火の歌碑があった。自由律の俳句で知られる旅に生きた歌人。「南無観世音おん手したたる水の一すぢ」、「秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり」と刻まれる。
この句は山頭火の2回目の四国遍路の途中、この地で詠んだもの。1回目の四国遍路は昭和2年から3年にかけてのもので、中国・四国・九州と七年に及ぶ旅のひとこまであったが、2回目は昭和14年10月5日に松山を出て、10月8日香園寺に着き、10月14日に出立した。旅は11月16日に「行乞は辛い」と中断し、松山に戻り「一草庵」に住まうことになる。
また、森 紫苑荘の川柳、「偉い子はいぬがどのこも親思い」と刻まれた歌碑もあった。刑務官として全国を転勤した方とのことだが、香園寺との関わりはわからない。

境内入り口右手の道標2基
矢印と共に「六十二番 へんろ」と刻まれた幅広の道標の横に徳右衛門道標。地蔵像が刻まれた面には「是より 一ノ宮*八丁」とあるが、手印は奥の院方面を示しているように思える。文字は潰れて読めない。
香園寺奥の院への道
逆打ちで香園寺奥の院から横峰寺へと辿ったときは、直接香園寺奥の院に向かい横峰へと向かったのだが、香園寺から奥の院までの道筋の概略をメモする。 香園寺からは、神仏分離令以前は香園寺が別当寺となっていた高鴨神社へと上り、丘陵を越えて大谷池の東の舗装道に出る。そこからは大谷池の東を道なりに進み、松山道の高架下を抜け、南へと進めば奥の院に至る。「えひめの記憶」には「横峰寺から続いていた舟形地蔵丁石がおこやから岡村への道に続いていることや、香園寺奥の院白滝が昭和8年(1933)に香園寺住職山岡瑞圓によって新たに作られたということなどを考慮すると、おこやから岡村を経て香園寺に至る道よりは新しい遍路道であると思われる」とあった。


生木道・香園道分岐点から香園道を進む:香園寺から横峯寺登山口まで

いつだったか、香園寺奥の院から横峯へ逆打ちで上り、先回生木道でメモした湯浪に下りたのだが、上述の如く奥の院からの道は昭和に入ってからの遍路道のようであり、今回は香園寺から岡村を抜けて横峯への登山口までという、オーソドックスなルートを繋ごうと思う。

香園寺参道南東の茂兵衛道標
上述徳右衛門道標のある反対側、境内と駐車場の間を南に進み、境内を離れるあたりでT字路を左に折れ、集落の中の小川に架かる橋を渡りT字路を左折して少し先に進むと、道端に徳右衛門道標がある。えひめの記憶」には植え込みに中と記されていたが、現在は植え込みはなくなり、道端にポツンと立つ。 正面進行方向は「六十二番 寶寿寺」、右折方向の面には向い合せの手印と共に「六十一番 香園寺 六十番 大峰寺」と刻まれる。
進行方向を真っ直ぐに進めば香園寺参道入口の3基の道標の所に出るが、横峰を目指す遍路道は、ここを右に折れ、田圃の畦道を進むことになる。

小松橋東の茂兵衛道標
畦道を進み、松山自動車道のサービスエリア「石鎚山ハイウェイオアシス」に至る広い道を横切り、民家の軒先の狭い道を進み、前述香園寺の山岡瑞園大和尚がつくった学校がその前進と言う小松高校への通学路の道を横切り、先に進むと小松川にあたる。
道を左折し、小松橋を渡ると、直ぐ右に分岐する路地の角に茂兵衛道標が立つ。右折方向の面には「大峯寺」、小松橋に向かう方向には「香園寺」と刻まれる。

仏心寺
小松川に沿って南東に道を進み、四つ角に出る。遍路道は更に直進するが、右折し小松川左岸にある仏心寺にちょっと立ち寄り。
小松川を渡り山門に向かう。なんとなく武家屋敷の趣が残る。山門前にある案内によると「仏心寺は、小松藩の二代藩主の一柳直冶(ナオハル)により、その父、初代藩主の直頼(ナオヨリ)の七回忌にあたる慶安3年(1650)に一柳家代々の菩提寺として、臨済宗妙心寺派の南明禅師を開山に迎え建立されました。 江戸時代(1596~1867)を通じ境内の拡充が図られ、明治以降も、小松藩ゆかりの建物が移築され、現在に至っています。
山門(東向き)・御霊屋門(ミタマヤモン;南向き)・桜門(境内西)・庫裏(クリ)などが代表的なもので、珍しい遺構として、鐘楼東側に、供待(トモマチ;お供の家臣の待機場所)が残されており、藩主菩提寺の格式を示しています。 仏心寺は、藩主や小松藩にとって重要なお寺でしたから、藩政時代の古記録や古文書、歴代藩主の書跡、住職の墨跡など貴重な資料も多く残され、小松文化の宝庫と云われています。なかでも大名屈指の書の達人と云われた、三代藩主の直卿(ナオアキラ)の書と扁額は西条市文化財に指定されています。
また、天然記念物として、中国原産の広葉杉(コウヨウザン;中庭 藩主寄進と伝わる)と明石連(北庭、紅色の椿)があり、特に椿は、数百種と数多く、椿寺としても知られています。 西条市教育委員会」とある。
山門
山門を潜り境内に。山門の案内は「藩政時代の建造物、二軒(二重)繁垂木、切妻造り、本瓦葺きで堂々たる四脚門です。四脚門は主柱の前後に二本ずつの控柱左右合わせて四本の柱を立ててある門です。需要文化財として残る日本の門の建築様式に多い門で格式の高い門とされています。
山門正面の『圓覚山』の扁額は、一柳直卿公(なおあきら;頼徳)御真筆の奉納額です。西条市の文化財(工芸品)の指定を受けています」とある。
本堂の右手に鐘楼と供待がある。それぞれの案内は
鐘楼
「この近辺で最も古く、よい音を出す鐘といわれています。江戸時代の作で宝暦8年(1758)戌寅二年吉日の銘があります。藤原政治の作です。平瓦葺、一軒(一重)疎垂木、入母屋造りの屋根です。この鐘は西山興隆寺・長福寺の鐘と共に供出を免れた郡内の三鐘のひとつです」



供待(ともまち)
「供待は大名家の菩提寺にある独特のもので、藩主が参拝・法事を勤める間、供の者たちが待っている待合所です。供待が現在残っているものは大変少なく珍しいものです」

本堂にお参りし、左手の御霊屋門(みたまやもん)に



御霊屋門(みたまやもん)
「元藩主墓所へ通ずる参道(御霊屋道)の山にかかるあたり(御霊屋口)に建てられていたのが、明治になって佛心寺へ移されました。一軒(一重)疎垂木の切妻造りの屋根をかけています。用側に袖がなく支柱で支えられています。 鴨居には小松藩主の御紋「丸之中二十釘抜紋」がはめ込まれており、屋根の両端にはちいさいながらも鯱瓦がすつられています」との案内があった。
一柳家と小松陣屋
Wikipediaには「『寛政重修諸家譜』が記すところによれば、河野通直(弾正少弼)の子宣高が美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市)に移り、土岐氏の家臣になって一柳氏を称したという。「一柳」の家名は、土岐氏が宣高を招いた蹴鞠の場で鞠庭の柳がひときわ鮮やかであったことが由来とされる。しかしながら、系譜上の世代数の不自然さなどから、河野通直の子孫であることには疑問が呈されている。
宣高の孫の一柳直末・一柳直盛兄弟が豊臣秀吉に仕え、兄の直末は美濃国の軽海西城主となったが天正18年(1590年)小田原征伐のときに、緒戦の山中城攻めで戦死した。弟の直盛は尾張国(今の愛知県西部)黒田城3万石の領主となり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢国(三重県)神戸藩5万石に加増転封された。更に寛永13年(1636年)には伊予国西条藩6万8600石に移転したが同年死没した。彼の遺領は直重・直家・直頼の3人の息子たちによって分割された。
長男の直重が西条藩3万石を相続して2代藩主となったが、その子直興の代に勤仕怠慢の理由により除封された。
次男直家は播磨国(兵庫県)加東郡及び伊予宇摩郡・周布郡に2万8600石を領し、小野藩初代藩主となった。しかし直家の死後は末期養子が認められず1万石に減封され、幕末に至った。歴代藩主は対馬守や土佐守などに叙任され、明治17年(1884年)一柳末徳が子爵となった。

3男直頼は伊予国周布郡・新居郡に1万石を領し、小松藩初代藩主となりそのまま幕末に至った。歴代藩主は兵部少輔や美濃守などに叙任され、明治17年(1884年)に一柳紹念が子爵となった」とあった。
小松藩の陣屋は、仏心寺から東へ抜ける道を少し進んだところにあった。

T字路の道標
遍路道に戻り、民家の間を南に進むとT字路に。正面の民家ブロック塀の前に道標がある。手印は北を指すが、文字は摩耗して読めない。




T字路の茂兵衛道標
T字路を左折するとすぐ南に折れるT字路があり、その角の駐車場脇に道標がある。「えひめの記憶」には、「仏心寺を西に見ながら直進し、約200m進んで三差路を左折するとすぐ、(なんか)公民館西の三差路に至り、三差路東の民家のブロック塀に隣接して、大峯寺と香園寺への道を示した茂兵衛道標がある。このあたりが岡村の北端である」とある。公民館もブロック塀も無いようだが、この駐車場脇の道標が記事にある茂兵衛道標かと思う。摩耗し文字は読めないが、手印と共に「大峯寺」と「香園寺」の文字が刻まれる、と。

地蔵堂南・二差路の道標
茂兵衛道標から南に進むと、小松川の支流手前に地蔵堂があり、小川を渡った先の石垣で道が左右に分かれる。その石垣下の分岐点にほとんどアスファルトに埋もれた状態で正面に手印、右側に「文政四」(1821)と刻まれた道標がある。

車道を右折し三差路に
遍路道は左手。田圃の中の道をしばらく歩くと舗装された大きな道にでる。
車道に出た遍路道は、右に折れ車道を進み松山道の高架下を抜けしばらく進むと三差路に出る。右に曲がると、地蔵堂南・二差路の道標に戻り、直進すると石鎚山サービスエリア南、小松オアシス道の駅。遍路道は左に折れて山に向う。 「えひめの記憶」には、「この付近には道標もなく、高速自動車道路工事により新道ができており、遍路道の特定は困難である」とある。

砕石場手前の2基の道標
道を進むと採石場手前の建物(地図には石鎚総合研究所とある。自然食品販売の会社のようだ)の入り口、生垣に埋もれた2基の道標がある。
「えひめの記憶」には「右は「世話人西條寿し駒事日野駒吉」と刻まれた板状の道標であり、左は「六十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石である。(中略)湯浪地区では昔から、横峰寺への登り道の舟形地蔵丁石のほとんどは、「寿し駒」によって建てられたと語り伝えられてきたという。




「寿し駒」本名日野駒吉(1873~1951) (写真3-3-9)は、「西條人物列伝」(『西條史談』)によると、周桑郡玉之江(東予市)に生まれ、西條吉原(西条市吉原東)ですし屋を営むかたわら大師信仰に生涯をかけたことで知られる人物である。
先達として本四国50回・小豆島島四国100回・石鎚登山100回という行者信仰の旅を重ねるとともに、大師蓮華講(れんげこう)を組織したといわれる。西条市の六十四番前神寺境内には、大正5年(1916)、日野駒吉が蓮華講員に呼びかけ、寺に寄進した弘法大師修行の石像が立っている。
その右には、大正15年(1926)に建立された五輪塔の日野駒吉頌徳碑(しょうとくひ)が立っている」とある。
「寿し駒」の道標には「横峰寺六十丁 西條市大師蓮花講 信者一同世話人日野駒吉」といった文字が読める。左手の地蔵丁石は下半分が土に埋もれていた。

採石場の先で舗装が切れる
採石場のトラックの出入り口の右手の道に遍路道の案内がある。採石場の方が、敷地内に入らないようにと案内したものだろう。
右の道を、左手に削り取られた採石場の山肌を見遣りながら進むとほどなく舗装が切れ、簡易舗装となり、それも切れると割と広い林道(本谷林道)を進む。「えひめの記憶」には舗装された道、と記されているが、簡易舗装も土砂で荒れたのか、小石の多い林道となってちる。

横峰寺への登山口
本谷林道をしばらく進むと沢を越えて南東に曲がる辺りに、直進する道がある。この分岐点が「おこや」を経て横峰寺に向かう登山口である。予定では、とりあえず、逆打で横峰寺から湯浪に下りた道に合流する「おこや」までは行ってみようかと思ってはいたのだが、当日、直進方向の沢沿いの道は完全に崩壊していた。時間も夕暮れが近づいていたこともあり、今回はここで終了とする。

3回に分けてメモした五十九番札所から六十番札所横峰寺を繋ぐ遍路道では、今治の国分寺から西条市に入り大明神川を越えた先の生木道と香園道の分岐まで、そこから生木道を経て小松の大頭から湯浪から横峰に上る順打ちのルート、また香園道を経て六十一番札所・香園寺から岡村を抜けて横峰に上る逆打ちルートをメモした。
最近では県道12号を黒瀬湖近くの横峰登山口までバスを利用し、そこから平野林道を横峰に向かうシャトルバスに乗り換えてお参りすることもできる。
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何回かにわけて、第五十九番札所国分寺から六十番札所横峰寺を繋ぐふたつの遍路道、生木道を経由して湯浪の登山口から横峰寺に上る順打ちの遍路道、香園寺道を経由して第六十一番札所香寺を打ち、岡村から横峰寺登山口を上る逆打ち遍路道をメモした。
登山口から先の横峰寺への遍路道は、いつだったか辿った香園寺奥の院から横峰寺を逆打ちで辿り、湯浪へと下った遍路歩きのメモを参考にしていただければと思う。


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