2018年1月アーカイブ

南予の山越え・峠越えの遍路道、松尾峠と柏坂の間を繋ぎ、柏坂を下りた里から宇和島へと向かう遍路歩きの2日目。
初日は予土国境・松尾峠を越えて下りた里、小山の集落から愛媛県愛南町を進み40番札所・観自在寺を打ち終えて柏坂上り口までを繋いだ。二日目は柏坂を下りた里である宇和島市津島町上畑地から宇和島市街へと進む。津島町から宇和島市街の間には松尾峠(予土国境の松尾峠と同名)があり、常の如く単独・車行のため峠ピストンに時間がかかり、結局、宇和島市街入り口で時間切れとなった。



本日のルート
大門から岩松へ
大門バス停>薬師堂>内田の観音堂>オサカの鼻の地蔵堂>芳原の延命地蔵・芳原庵寺
岩松の町
臨江寺>旧小西家跡>獅子文六記念碑
岩松から上谷へ
岩松橋>保木から熱田に>下谷から松尾峠取り付口に>遍路道案内
松尾峠越え
松尾峠への取り付き口から松尾峠□
遍路小屋;午前9時4分>旧道との交差箇所の道標:9時20分>峠の切通し;9時31分
□松尾峠から旧国道との合流点に
清掃センター脇に出る;9時46分>旧国道と合流;9時56分
旧国道合流点から柿ノ木の庚申堂まで□
旧国道から土径の遍路道に>県道46号に出る>柴折堂>県道46号から土径の遍路道に入る>柿ノ木の庚申堂
デポ地へのピストン折り返し
松尾隧道>旧道分岐点>車デポ地に
柿ノ木から佐伯番所跡へ
柿ノ木庚申堂から千歳橋へ
旧国道と国道56号の合流点へ>国道56号・千歳橋へ
千歳橋から普達橋へ□
薬師川手前に3体の石仏
薬師川から佐伯番所まで
赤土鼻の茂平道標>並松街道>馬目木大師堂>佐伯の町番所跡


大門から岩松へ

「えひめの記憶」には、「灘道は、津島町上畑地(かみはたじ)の大門で再び国道56号を横切り、旧上畑地村の旧庄屋屋敷や禅蔵寺薬師堂を左に見て、高岡橋から山沿いに芳原川左岸を北上する。小祝から芳原にかけては「梅三里」といわれ、かつて梅の並木があったというが今はその面影はない。
鴨田橋より山沿いを西に進み、下畑地(しもはたじ)内田の観音堂の右側を通り、芳原川に架かる金剛橋に至る。ここから道は、国道を横切り山裾(すそ)を北上しオサカの鼻の地蔵堂を経て、再び東の山際(ぎわ)を芳原庵寺や延命地蔵の芳原に向かい、さらに北進して岩松に至る」とある。

大門バス停
先般の柏越えの車デポ地であり、また旧内海町柏から柏越えをして戻ってきた上畑地の大門バス停が今回のスタート地点。国道56号の西、山裾の遍路道を進む。

薬師堂
大門バス停からの国道56号の西、山裾に沿って続く遍路道を入ったところを直ぐ山側に入ると薬師堂がある。このお堂は先回の散歩の締めにお参りしたのだが、便宜上再掲;
茅葺お堂の案内には「愛媛県指定有形文化財 禅蔵寺薬師堂一棟
この建物は方三間(間口)、5.61メートル、一重、方形造、茅葺である。創建は室町時代末期とされ、その様式を残して江戸中期に再建されている。
外部は素朴な草庵風の日本の伝統的民家様式で、構造および内部1は唐様である。特に花頭窓は禅宗様の古い形のものである。
建築年代は板札によると、天正年間(1573-91)とあるが、寺の伝説によると、天文年間(1540)ごろ、畑地鶴ケ森城の鶴御前のため、津島城主越智通考が祈願所として建立したと伝えられる。
平成2年、向背、花頭窓、内陣そのままに解体修理された」とあった。

内田の観音堂
高岡橋を右に見遣り、芳原川左岸の山裾の道を進む。途中、芳原川は保場川を合せ北へと下る。道は鴨田橋の西詰で山裾に沿って西に向かい内田の観音堂下に出る。
大瀧山観音寺。曹洞宗のお寺さま。観音堂と記されていたので小祠かと思っていたのだが、新しい本堂が建っていた。特に案内はなく、資料もみつからないのだが、本尊は観音様なのだろう、か。

オサカの鼻の地蔵堂
内田の観音堂を離れ道なりに進み芳原川に架かる金剛橋を渡る。「えひめの記憶」には「国道を横切り山裾(すそ)を北上しオサカの鼻の地蔵堂を経て」とあるが、ちょっと混乱。「オサカの鼻」の言葉に惹かれ、記事通りに進んでも地蔵堂は見当たらない。「鼻」とあるので、「突き出た」ところであろうと、金剛橋のひとつ下流の於泥橋の辺りの国道56号傍を探すが、みつからない。
で、国道左手を見ると小山がある。根拠はないのだが、国道建設時に開削された丘陵先端部?とも想い、国道を左に折れ於泥橋の東詰めに進むと、丘陵突端部に小祠がありお地蔵様が祀られていた。
ルートは正確には、金剛橋を渡り、国道を進まず、芳原川右岸に沿って進み、於泥橋東詰めから丘陵先端部を廻りこみ国道56号に進む、ということだろう。 於泥とは文字通り「泥沼」。「オサカ」の由来は不明。



芳原の延命地蔵・芳原庵寺
オサカの鼻の地蔵堂から国道56号に戻り、芳原川右岸の山裾の道を進む。芳原の集落に入ると道脇に延命地蔵。
芳原の芳原庵寺は延命地蔵のある四差路を右に折れた芳原集会所の傍にあり、小さな石仏群の右端に地蔵堂の小祠が建っていた。
耳神さま
延命地蔵に戻り、山裾の道を進み、道沿い山側に建つ耳神さまの小祠にお参りし道を進むと岩松に入る。

金剛橋から岩松への別ルート
「えひめの記憶」には、「このほかに金剛橋の手前を芳原川左岸の土手沿いに進み、オサカの鼻の地蔵堂の左側を通り、岩松へ入る道もあったという。いずれにせよ遍路道は、後背湿地の沼沢地を避け、山際や土手などの微高地を通っていた」とある。於泥の地名が示す通り、一帯は湿地帯であったのだろう。


岩松の町

「えひめの記憶」には「道は岩松代官所跡前を通って街道沿いに密集した町並みの商店街を北に進み、臨江寺の手前で左折し、旧小西家の蔵通りを北西に進み(後略)」とある。

臨江寺
記事に従い、道なりに進み、芳原川が北から下る岩松川に合わさり、北灘湾に注ぐ地にある旧津島町の中心地である岩松に入る。
記事にある岩松代官所跡はチェックしても不明のため、古き趣の町並みが残る道筋を進むと、道の右手に少し趣の異なるお寺の山門が見える。臨江寺山門である。
道脇に案内があり「江戸時代に林光寺から臨光寺に変わったといわれます。小西家の菩提寺。本堂は大正2年、山門は昭和14年の建立。山門中央上部の櫓窓が大正ロマンのつくりになっていてとても珍しいものです。
どちらも総ケヤキ造り」と。
元はは黄檗宗であったが、享保2年(1717)、臨済宗妙心寺派となったようだ。後述する本小西家及び東小西家が大檀那となり、欅普請8間4面の大本堂を建立。本尊薬師如来を安置。山門及び庫裡、位牌堂も建立された、とある、

本堂と境内の地蔵堂にお参り。池に宝船が浮かぶのは大旦那小西家が商いに使った千石船のイメージだろうか。
山門の地蔵堂と閻魔堂・大師堂
山門に戻ると、2階は鐘楼、左は延命地蔵堂、右は閻魔堂と大師堂となっていた。
案内には「えんま様と十王佛様 閻魔大王ははもとは、ヒンドゥー教の神様で、死後の世界の王様で、地蔵菩薩の化身とされています。
閻魔大王の眼は、太陽のように眩しくその声は、幾千もの雷が鳴り響くような恐ろしい声です。たいがいの死者は、閻魔大王に会うなりその恐ろしい姿に気を失うのだそうです。
その閻魔大王は、前世での生き様が記されている閻魔帳を開き恐ろしい声で、死者にその罪を読み上げていきます。
閻魔様が唐の時代の役人の服装をしているのは、仏教が中国を経由するとき、道教の影響を受けた為だと言われています。
。 また十王佛とは道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う裁判官です。 この思想によれば、人間を初めとするすべての衆生は、
没して後、七日ごとにそれぞれ
・秦広王(初七日忌、不動明王)・初江王(十四日忌、釈迦如来)
・宋帝王(三七日忌、文殊菩薩)・五官王(四七日忌、普賢菩薩)
・閻魔王(五七日忌、地蔵菩薩)・変成王(六七日忌、弥勒菩薩)
・泰山王(四十九日忌、薬師如来)追加の審理で、平等王(百ヶ日忌、観音菩薩) ・都市王(一周忌・勢至菩薩)・五道転輪王(三回忌、阿弥陀如来)となる。
この後、中国から伝わった十王信仰に江戸時代以降、日本独自の解釈で更に三仏を加えたものを「十三仏信仰」と呼び、蓮上王(七回忌、阿?如来)・抜苦王(十三回忌、大日如来)・慈恩王(三十三回忌、虚空蔵菩薩)となる。この三仏は生前の罪を裁く裁判官というよりも迷える死者を救い導く仏としての側面が強いとされる。
仏師曰く、ここに鎮座されている 左 閻魔大王と十王佛  右 弘法大師の仏像は、今から700年前の鎌倉時代(1185-1333)頃に造られた物だと考えられる。平成29年(2017)修復」とある。

説明の文の繋がりにちょっと変なところがあるが、それはともあれ、すべての衆生は没後、七日おきに七回審判を受けるとされるが、各ステップで問題なしとされると中抜けでき転生するとのこと。また通常5回目の閻魔大王が最終審判者として引導を渡すようである。
もっとも、中には7回の審判でも決まらない厄介な者もあるようだが、その場合でも7回目の審判で、とりあえず六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)のいずれかに配され、8回目から10回目は救済処置の審判として、地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちた者を救済し、修羅道・人道・天道に配された者には更なる徳をつむ処置がなされるとのことである。
我々が七日ごとに法事をおこなうのは、大王の審判に際し、生前の罪を減じる嘆願であり、また、供養の態度も審判の対象となるが故、という。

閻魔堂の閻魔様や十王佛、大師堂は新しく修復されたようで、少々可愛すぎる像となっている。但し、亡き人の経帷子をはぎ取る奪衣婆像は修復されず、古き趣の像として閻魔様の前に坐っていた。

なお、山門の左右に地蔵と閻魔が分かれて配置されているのは、閻魔さまの本地仏が地蔵菩薩であり、お地蔵さまと閻魔さまがペアとなって山門に建つのが通例故とのことである。

旧小西家跡
旧小西家の蔵通りを辿る。記事にある臨江寺手前を左折し進むが、蔵はあるが更地が多く蔵通りといった雰囲気は残っていない。岩松川まで進み、少し下流に進むと大畑旅館があり、その傍に「大畑旅館 元東小西邸。東小西時代にも、一時期「松風荘」という料理屋を経営していました。獅子文禄が小説『てんやわんや』を書いた部屋があることでも有名です。大正期の建物です」とある。 建物は新しく、最近建て変えられたように見える。
小西家
「えひめの記憶」には「第二次大戦前の岩松に君臨し、その繁栄をほしいままにしたのは、小西家であった。小西家は貞享元年(一六八四)宇和島から岩松に移住してきた酒造商であり、三代目の当主は藩主村候より苗字帯刀を許され、以後小西と名乗るようになった。寛政一〇年(一七九八)御荘村に新田開発をしたのを契機に、以後幕末に至るまで僧都川の河口と岩松川の河口に長崎新田や胼ノ江新田を相次いで開いた。また幕末には近家塩田を経営し、蝋座頭取役にも任ぜられ、宇和島藩では最も家格の高い庄屋であった。
小西家には本家小西家と、その分家の東小西家があり、岩松の町の中心部に居宅を構えていた。本家小西家は大地主であると共に酒造と製蝋を経営していた。酒造は明治中期に、製蝋も同年代ころには廃止する。
昭和初期の小作料は約六〇〇〇俵であったので、その所有地は水田二四〇町歩程度であったと推定されている。水田は津島町内のみならず、遠く南宇和郡の御荘・城辺町にも及んだ。水田以外に畑、山林、借家も多く所有し、山林は約二〇〇町歩、借家は町内に約一二〇軒所有していたという。
東小西家も大地主であると共に、明治末年まで醤油・生蝋の生産を営んでいた。明治二八年の所有地は水田四三町歩、畑五町歩、借家は三三軒、小作料は四〇〇石であった。また金融業も営み、明治以降その所有地を拡大する。昭和初期の小作料は四〇〇〇~五〇〇〇俵程度であったので、その所有地は水田一六〇~二〇〇町歩程度であったと推定される。山林は三〇〇~三五〇町歩程度、借家は一三〇軒程度所有していたという。
本家小西家と東小西家は第二次大戦後急速に没落する。その契機になったのは農地改革による小作地の解放であったが、それ以前に山林を売却したこと、東小西家では昭和二〇年、本家小西家では同二三年相次いで当主が死亡し、その相続税や財産税が多く賦課されたことも、両家の没落を早めた。本家小西家と東小西家は町の中心部に、河岸から旧国道までの間に、共に一五〇〇坪の宅地を持っていた。
国道ぞいに本宅があり、その裏に米倉や宝物倉があり、岩松川にのぞんで離れ座敷が配置されている構造は両家に共通していた。現在は共に数一〇軒の家に分割所有されているが、両小西家の本宅の大屋根、離れ座敷、東小西家の本座敷や宝物倉、醤油倉や庭園などは今日に残り、往時の繁栄の跡をしのぼせてくれる。また町内には棟割長屋式の家屋が多数残存しているが、これらはいずれも両小西家の借家の名残をとどめるものである」とある。

岩松の近世・近代
「えひめの記憶」をもとにまとめる:山地に阻まれ、物資輸送として陸上交通が機能しない時代、岩松川の河口左岸に延びる岩松は津島郷(旧津島村)の物資の集散地であり、藩政時代より船運により物資の積み出しが盛んな湊町として栄える。
藩政時代の最も重要な集散物は櫨(ハゼ;木蝋の原料)であり、明治から大正にかけては山間部で生産された木炭や杭木であり、木炭は大阪に、坑木は北九種の炭田へと海路送られた。
明治末期から昭和の初期にかけては、北灘・下灘などの宇和海沿岸の段畑地帯で養蚕業が盛んになり、そこで生産された繭の集散地となり、この地に製糸工場も誕生し、最盛期の昭和初期には4つの工場で働く女工さんの数が400名から500名にも達した。明治の末年から昭和の初期にかけてが、岩松の繁栄はその頂点に達していたとのことである。
岩松川の上流からの土砂の堆積により、大正初期には岩松の湊に大型船が停泊できなくなり、大正年間には岩松から少し西に離れた近家に港を移すなどするも、岩松は陸上交通が整備されるまでの明治・大正年間・昭和初期に至るまでは海運物資の集散地として栄えた。
この状況に変化が起きるのは、明治末年以降はじまる道路網の整備。松尾峠により隔てられていた宇和島との交通も、明治43年(1910)松尾峠に馬車道が開通、大正8年には津島郷と南宇和郡の間に鳥越トンネルが開通。大正8年(1919)には宇和島と御荘の間にバス路線も開通する。
この結果、津島郷の物資の集散地は次第に宇和島に移り、岩松の衰退がはじまることになる。
陸上での物資輸送の進展につれて、海運の町である岩松の町は次第に物資の集散地としての役割を終えることになる。
昭和30年()、近隣の6町村が合併し北宇和郡津島町が誕生し、この岩松が行政の中心地となるが、岩松の旧市街は山地と岩松川に挟まれ市街地拡張はできない。ために昭和30年以降岩松川右岸の水田を埋め立て、更には昭和38年(1963)に津島大橋が架橋されるに際し、右岸に国道バイパスが通るに至り、現在の市街地が形成されるに至る。平成17年(2005)、市町村合併で宇和島市となり。現在に至る。

獅子文六記念碑
蔵跡と共に更地も目立つ町並みを見遣りながら東小西邸跡から少し下流に下ると「てんやわんや」の案内。「てんやわんや 岩松は「てんやわんやのまち」といわれています。作家 獅子文六は、昭和二十年十二月から約二年滞在しました。
彼は小説『てんやわんや』で岩松を「相生町」と紹介し、ここに暮らす人々をおもしろおかしく描いています。

「えひめの記憶」には新橋近くの岩松川に沿う国道脇に、文六の「思いきや伊予の涯にて初硯(すずり)」の句碑が立っ、という。ちょっと寄り道。新橋を渡ると、橋の少し下流、国道と岩松川に挟まれて歌碑があった。
歌碑の脇に平成9年(1997)の銘がある石碑に説明文がある。簡単にまとめると「ペーソス溢れるユーモア小説の第一人者である獅子文六氏は、夫人の縁で戦後の2年間、当地の東小西家に寄寓。その間に見聞したことをいくつかの作品にまとめた。作品には「てんやわんや」「大番」「娘と私」、他短編、随筆などがあり、岩松の名は小説の舞台として全国的に知られることとなった。 こうした当地に対する貢献に報いるため、獅子文六氏より寄せられた句の中から選び建立した」とあった。
夫人の縁とは、最初のフランス人の妻と別れた後再婚した静子夫人が、この岩田の出身であったとのこと(碑文では見えない箇所があり、文字通りでは「たまご夫人」と読めるのだが、そんなわけはないだろうし。。。)
文六餅
ついでのことながら、臨江寺への旧岩松の町並みを進んでいると、文六餅の店があり、その店頭に「名物にうまい物あり"文六"餅」の経緯などが懸れている。興味があれば写真をご覧頂くこととして、フックが掛かったのはその横にある「我が小説 娘と私 ウソを書くもの」との赤く描かれた大文字とともに、長文の説明文。
この赤字の三題話に惹かれ説明文を読むと、小説とはウソを書くもの、ツクリゴトを書くものを身上とする文六氏が、ふとした心の迷いで『娘と私』を書き、申し訳なく、その罰は十分おもい知らされた、と。今度でつくづく懲りた。我と我がプライバシーを侵害したのだから訴訟もできない」とある。
『娘と私』は最初の婦人との間に出来た娘との日常を描いた私小説に近いものであり、ツクリゴトとは真逆のものであったわけである。このお餅屋さんが、店頭にこの文章を選んだ心持は?ともあれ三題話の謎解きが楽しめた。

岩松から上谷へ

「えひめの記憶」には、臨江寺手前で左折し旧小西家の蔵通りを北西に進んだ遍路道は、「田んぼの中(現国道56号が通っているところ)を旧高田村の保木に出て、慶応2年(1866)に付け替えられる前の岩松川を飛び石伝いに渡っていた。 伊達家の『岩松川絵図面』によると、岩松川は山麓の保木から南下して岩松小学校、JAえひめ南農協津島支所の所を大きく迂(う)回しながら海に流れ込んでいたようで、現在よりかなり西方の山際を流れていたらしい。明治44年(1911)、町の北端に岩松大橋が完成し通行は容易になった。
遍路道は岩松川を渡り、高田の保木から熱田へ進み、国道を横切り津島高校の裏側から山裾(すそ)を北へ進む。下谷を過ぎ再び国道を渡って上谷に入ると2体の石仏がある」とする。

 地図を見ると、岩松川右岸の山裾に沿って水路が走り、岩松小学校、JAえひめの山側を抜けて新橋の少し下で岩松川に注ぐ。この水路が付け替え前の岩松川の本流であったのだろうか。遍路道は湿地を避けて山裾を進んだと思うが、記事に「明治44年(1911)、町の北端に岩松大橋が完成し通行は容易になった」とある岩松大橋に向かう。

岩松橋
臨江寺から旧町並みを抜けると遍路道の案内があり、その先に岩松橋がある。平成22年(2010)竣工とある。記事にある岩松大橋とイメージが異なる。少し手前に戻り遍路道の道標手前の岩松川沿いに、「岩松大橋」の案内と「岩松橋」と記z間れた橋跡がガードレールに挟まれて残る。対岸には橋跡らしい姿も残している。
案内には「岩松大橋 大正10年頃の建築。側面にキーストン(要石)やキャピタル(柱頭)の模様があります。建設当時は欄干も鋳鉄で装飾され、中央部にはガス灯が設置してあったが、大戦中に鉄の没収により今の形となりました」とあった。新しい橋の完成とともに取り壊された。「今の形となりました」とあるので、この案内は平成22年(2010)以前のものだろう。
「えひめの記憶」には岩松大橋の完成は明治44年(1911)とあるが、はてさて。

旧市街から新しい岩松橋に出る手前に道案内がある。「松尾坂(へんろみち)」は国道筋を進むよう左折し橋を渡るが、右折方向に同じく「野井坂(へんろみち)」とある。野井坂は、満願寺で篠山道が合流した中道が、野井坂峠を越えて柿の木の庚申堂で灘道と合流する道筋である。

保木から熱田に
今回は、国道筋ではなく、かつての遍路道ではなかろうかと推測する山裾の水路に沿った道を進むことにする。遍路案内は特にないが、水路が岩松川に注ぐ辺りからJAえひめ、岩松小学校の裏手を進む。汐入という如何にも河口らしき地名を越え、保木から熱田へと抜ける。


下谷から松尾峠取り付口に
「えひめの記憶」には、熱田を越えると、国道を横切り津島高校の裏手の山裾を北に進む、とあるので、成り行きで国道56号に戻り、遠近川を渡り津島高校脇に出る。
遠近川左岸の山裾の道はほどなく国道に戻り、少々国道を進むと右に分岐し下谷の集落へと入る。下谷の集落を抜けると道は国道と交差し、遍路道は国道を越えて上谷の集落に入る。
当日は見逃したが、国道を交差し道を少し進み、Y字路を右の細路に入ると、遠近川の支流の少し手前に2体の石仏があるとのことである。地図を見ると遍路道はその支流に沿って松尾峠方面へと向かっているように見える。

遍路道案内
下谷から遍路道が国道をクロスし上谷の集落に入る道の左、ガードレールに「遍路道 このまま国道を600メートル トンネル左側に登り口あります」の案内。この案内が左に入ることなく国道を進み、上谷の2体の石仏を見逃した因でもあるのだが、「えひめの記憶」では、いまひとつ分からなかった松尾峠越えのアプローチ点がはっきりし、一安心。


松尾峠越え

国道を進み、旧国道の三差路を越え、しばらく国道に沿って歩くと新松尾トンネルがあり、その手前左手に「遍路道 宇和島松尾峠案内図」とその先に取り付き口が見えた。

松尾峠への取り付き口から松尾峠
「えひめの記憶」には、「道は旧国道(市道祝森線)松尾峠への三差路を越え、国道56号を横断し、人家付近から昭和53年(1978)に完成した新松尾トンネル(1710m)上の急峻な山道を登る」とある。「旧国道三差路を越え、国道56号を横断し、人家付近から山道を登る」との説明の「国道56号を横断し」が今ひとつよくわからないが、取り付き口に来る途中で、国道から右に分岐し松尾峠へと続く道がある。
偶々ピストンでの戻る最後の最後で、道を間違え、トンネル右手を下る道に入り込んだ。途中から戻りはしたのだが、その道は下に続いており、上述分岐点からの道とつながっているのかもしれない。
「愛媛の記憶」がいつの記事か不明だが、現在ではこの記述と異なり、トンネル左手から上ることになる。もっとも、トンネル左右からの道は直ぐにひとつになる。

遍路小屋;午前9時4分
峠への取り付き口手前の広いスペースに車をデポし松尾峠越えに。上ると直ぐに遍路小屋。落書きなのか、意図した励ましのメッセージなのか、外観は少々煩いが、中はマットレスっぽいものが敷かれ、屋根だけ、壁無しの遍路小屋に比べれば、快適な夜が過ごせそうではあった。

旧道との交差箇所の道標:9時20分
土径に入り、遠近川に注ぐ沢を越え15分ほどで高度を150mほど上げると東西に走る道に出る。「えひめの記憶」に「やがて明治41年(1908)から3年かけて完成した旧道に出るが、現在は荒れるにまかせ昔の面影はない」と記された道ではないかと思う。
旧国道の松尾隧道の竣工が昭和26年(1991)と言うから、明治44年から昭和26年までは、この旧道を往来していたのだろう。 どうでもいいことだけど、記述にある国道、旧国道、旧道、とくに旧国道と旧道が頭の中で混乱し、実際にこの「旧道」と交差するまで、遍路道は旧国道と交差するものと思い込んでいた。
それはともあれ、旧道と交差した遍路道の脇に道標と筒に入ったお地蔵さんがある。道標には、岩松、四十番札所(観自在寺)、四十番札所奥の院(篠山神社)への里程が刻まれていた。
「えひめの記憶」には「旧道と遍路道が交差する草むらの中に、昭和8年(1933)に建てられた道標がある」とするが、草は冬枯れの季節か、整備のおかげか、きれいに取り除かれていた。
道標横には、洒落っ気なのか遊び心なのか、円筒にお地蔵様が佇む。結構惹かれる。

峠の切通し;9時31分
旧道から10分、ほぼ等高線に沿った広く緩やか道を進むと切り通しに出る。こここが松尾峠。旧津島町と宇和島市の境となっている。
切通しを越えると四阿があり、休憩できる。嘗ての茶屋跡とのこと。峠の真下に松尾隧道が抜ける。

松尾峠から旧国道との合流点に
「えひめの記憶」には、「茶屋跡から左に折れてまた旧道に入り、木々の間から農免道路を左下に見ながら下る。緩やかな斜面をしばらく下って旧国道と交差し、間もなく小川沿いにひっそりと立つ柴折堂に至る。お堂のすぐ前を県道宇和島城辺線(46号)が通り、山裾(すそ)の道を約500m東進すると柿の木の庚申堂に至る。天和元年(1681)建立という古い庚申堂は、松尾坂越えの灘道と野井坂越えの中道の合流点である」と柿の木の庚申堂までの案内がある。

記事は柿の木の庚申堂まで結構あっさり書いているが、道筋は旧国道に下りた後、土径に入ったり、県道46号に入ったり、またそこから分かれて土径に入ったたりと、結構複雑。最もわかりにくかったのは、芝折堂が県道46号筋にあったことである。右往左往した結果のルートを以下メモする。

清掃センター脇に出る;9時46分
茶屋跡から路傍に立つ遍路道案内に従い左に折れる。右に進む道もあり、うっかりすると右へと行きそうではあるので気を付けて。
遍路道は竹林、掘り割りの道、杉林、名は知らないが植林ではない自然な木々の中を下る。
記事に農免道路を左下に見ながらとある。地図で確認するに、松尾隧道手前で右に折れ半島部へと向かう道に農免道路と記載されている。
15分ほどで高度を150mほど下げると、右手に宇和島市の清掃センターが見え、道は山際清掃センターの間を進む。
農免道路
正式には「農林漁業用揮発油税財源身替農道」。農業用の機械に使われた分のガソリン税を財源に、農業のために必要な道路(農道)を整備したのが農免道路である。

旧国道と合流;9時56分
右手に清掃センター、左手に採石場・工場と遍路道には似合わない景観の中を10分ほど進むと舗装道路に出る。松尾隧道を抜けてきた旧国道である。

当日は、車デポ地へのピストンの基本通り、ここから折り返し新松尾トンネル前の車デポ地に戻ったのだが、ルート説明の便宜上、柿の木の庚申堂までメモを続ける。時刻は省略し、所要時間だけを記す。

旧国道合流点から柿ノ木の庚申堂まで
「えひめの記憶」には「緩やかな斜面をしばらく下って旧国道と交差し、間もなく小川沿いにひっそりと立つ柴折堂に至る。お堂のすぐ前を県道宇和島城辺線(46号)が通り、山裾(すそ)の道を約500m東進すると柿の木の庚申堂に至る。天和元年(1681)建立という古い庚申堂は、松尾坂越えの灘道と野井坂越えの中道の合流点である」と記される

旧国道から土径の遍路道に
左手に巨大な砕石場を見ながら国道を少し下ると、道路右手に遍路道の木標があり、右手に入る指示がある。来村川に注ぐ支流の沢にかかる小橋を渡り土径に入る。

県道46号に出る
沢を見遣り、崖上に通る県道46号を見上げながら沢の右岸を5分ほど下ると県道46号に出る。崖上を進む県道46号は強烈なヘアピンカーブで曲がり、遍路道との合流点に下ってくる。

柴折堂
GPSツールがあるので、県道46号に下りたのは分かったのだが、柴折堂は?「えひめの記憶」には「旧国道と交差し、間もなく小川沿いにひっそりと立つ柴折堂に至る」とあるだけ。旧国道と交差しははっきりしないが、「小川沿い」を頼りにGPSで地図をチェックすると、県道46号を少し旧国道との合流点に向かったところに、右岸を下っていきた沢がある。
確証はないのだが、とりあえず沢まで道を戻ると、橋が架かり「柴折橋」とある。小川に沿ってとあるのでこの辺り?橋の南詰に少し広い場所があり、その奥に小祠が見える。特に表記はないが、ここが柴折堂だろう。遍路道が県道46号に出る地点からほんの少しの場所にあった。

県道46号から土径の遍路道に入る
柴折堂から県道46号を山側に5分弱戻ると、道の左手に案内があり、左手に下る土径がある。案内には、「庚申堂への遍路道 松尾峠から宇和島市中心部に向かうこの遍路道は、昔の伊予と土佐を結ぶ宿毛街道の灘道で、人や物資の行き交う交通の要路でした。
宿毛街道には伊予に入ると、一番西寄り海岸沿いのこの「灘道」、宇和島藩の官道であった「中道」、一番東寄りで篠山(1065m)を越える「篠山道」の三ルートに分かれ、遍路もこのいずれかを辿りました。中道と篠山道は宇和島市津島町の満願寺で合流し、さらに野井坂を越えて来て、この先(約三百m)の庚申堂で灘道と合流します。
明治以降、車両通行にため道路整備が進みルートが変わったところが少なくありませんが、歩いてだけ利用できるこの庚申堂への遍路道は昔をしのばせる貴重な歴史遺産です。宇和島市教育委員会」とある。中道と合流する柿の木の庚申堂への遍路道である。

柿ノ木の庚申堂
左・中道 右・灘道






木々の間から左手の旧国道や畑地を見遣りながら6分ほど歩くと柿ノ木の庚申堂に出る。






お堂の下にある案内には、「この庚申堂のある地点(宇和島市祝森柿ノ木)は、かつての宿毛街道中道と灘道が合流する交通の要地でした。
伊予宇和島と土佐宿毛を結ぶ宿毛街道には、西寄り海沿いの「灘道」、真ん中の「中道」、東寄りで篠山(1065m)を越える「篠山道」の三ルートがあり、遍路道もほぼこれに重なっていました。江戸時代初期にはここから南方の岩淵(宇和島市津島町岩淵)で分岐(合流)していたのですが、江戸時代中期に北宇和郡岩松が経済発展するにつれ、灘道は松尾峠を経て宇和島城下と直結するようになり、この庚申堂前で中道と分岐するようになりました。
庚申堂は、古くは中国道教に由来すると言われますが、六十日毎に巡ってくるい庚申の日に徹夜をして神仏を祀り災厄を避けるという民間信仰に基づくものです。柿ノ木庚申堂では弘法大師の伝承による青面金剛が本尊とされており、猿がその使いとされます。
当地(宇和島市祝森清水)に明治時代まであった表具所では、遍路土産に木版仏絵を販売していたとのことで、その中のひとつとして、庚申の絵柄のものもあり、青面金剛と猿を刻した木版が現在も個人蔵で伝わっています 宇和島市教育委員会」とある。

灘道と中道のルートを説明の通り解釈すると、江戸初期には岩淵で分岐していた、とあるので宿毛街道は満願寺のある岩淵に3ルートが集まり、野井坂峠を越えて、この柿ノ木に出ていたことになる。現在の灘道・松尾峠越えは無かったということだ。また、上述岩松の繁栄も江戸中期からということを意味する。 「えひめの記憶」には、「岩松から岩淵の満願寺への道は、かつて灘道を通り宇和島城下に行く旅人や遍路は必ず通った道である。しかし、岩松から高田を経て松尾峠越えの道が開かれた明治以降は極度に人通りが減少し、満願寺もかつての賑(にぎ)わいが見られない」とある。最初、この記述が何を意味するのかよく分からなかったのだが、上記庚申堂にあった案内と組み合わせて、やっとわかった。また、松尾峠越えの灘道は江戸中期から開かれたが、荷馬車の往来なども可能となった明治44年の旧道開通により人や物の流れが松尾峠ルートの灘道に変わった、ということだろう。
お堂の東側、宇和島道路との間を庚申堂に下る中道をしばらく眺め、灘道と中道の合流点を実感する。
庚申堂の由来
「昔、柿木部落に孝行な兄弟がおりました。兄は地蔵菩薩を信じ、弟は青面金剛を崇拝していました。
そこえ弘法大師が巡ってこられ、兄弟に感心され、それぞれ仏像を刻んで下さいました。それから兄弟の子孫は代々長命を保ち栄えたので、松ケ鼻に地蔵堂を、松尾坂の麓に青面金剛のお堂を造っておりましたが、乱世となり子孫は四散し、堂は壊れ像は土中深く埋没してしまいました。
時は移り、天和元年(1681)北宇和郡深田(広見町)の庄屋河野勘兵衛道行が祝森で余生を送っていたとき霊夢のお告げと一匹の猿の導きで松尾坂の麓で蒼面金剛を掘り出しお堂を建て安置した歴史のある建物で明治三十三年(1900)に再建せられ柿木祝川住民の心のより所として大切に保存をしております。平成十四年 柿木庚申堂保存会」


■デポ地へのピストン折り返し

当日は松尾峠を下り、清掃センター脇の旧国道と繋いだ時点で車をデポした新松尾トンネルの南口までピストンで折り返した。ピストンルートは、松尾峠下の松尾隧道を見ておきたい、ということもあり、旧国道を戻ることにした。

農免道路
旧国道の松尾隧道手前に標識があり、大きな文字で「農免道路」と書かれた下に道方向が「下波 三浦」 直進方向が「津島」とある。この標識では、どちらの道も農免道路と読めるのだが、地図には右の三浦隧道を抜け下波・三浦に向かう道を農免道路としている。津島方向へ進む旧国道が農免道路ということはないと思うが、標識だけではよくわらない。農免道路標識まで、遍路道と旧国道合流点からおおよそ15分程度だった。

松尾隧道
昭和26年(1991)開削された松尾隧道に入る。遍路案内などの写真では結構古い趣の隧道と見えるが、現在では改修工事がなされたのか、ふつうのトンネルと変わることがない。
先ほどの農免道路の標識、その支柱に「農耕車優先」といったプレートを想えば、旧国道も農免道路として財源確保され改修されたのか、清掃センター設置に伴う津島からの利便性確保のため改修されてものか、根拠もないのに、あれこれ妄想が膨らむ。

旧道分岐点
松尾隧道を見たいがために、お気楽に旧国道を戻りはしたのだが、地図をみると車デポ地点へは結構大廻りとなる。地図を見ると松尾隧道上の松尾峠に戻り、往路の遍路道を下るのが最短距離。
旧国道松尾隧道出口から松尾峠へと続く「実線」はあるのだが、途中で道が切れ藪となる。藪漕ぎは勘弁と、旧国道に戻り少し先にす進むと、簡易舗装の道が旧国道から分岐する。
どこに進むかよくわからないが、とりあえず道を進むと見たような景色。道脇は道標と円筒に座るお地蔵さまもある。遍路道が「旧道」と交差する箇所だった。この道が、松尾隧道が開かれる以前の「旧道」であることが、そこではじめてわかった。往路のルートメモの旧道云々はこれを踏まえてのことである。松尾隧道を抜けておおよそ20分で遍路道に戻った。

車デポ地に
旧道からは往路の折り返し。最後の最後で前述の如く道を誤り、新松尾トンネルのデポ地逆側に進んでしまった。結果的には、この道筋が「えひめの記憶」から解釈さえる道筋と思えるのが「成果」ではあったのだが、この道から国道56号に途中から下りようにも、国道との間に沢があり、沢が切れる上部は法面が高く、国道に下りることはでない。結局道を戻り、車デポ地側への踏み分け遍路道に入り、車デポ地に戻った。旧道交差地点からおおよそ25分程度であった。


■柿ノ木から佐伯番所跡へ

□柿ノ木庚申堂から千歳橋
旧国道と国道56号の合流点へ 庚申堂から旧国道と合流した県道46号を進み、宇和島道路の高架を潜り国道56号との合流点に。「えひめの記憶」には「遍路道は柿の木から宇和島城下までは中道(宿毛街道の主道)をたどる。新旧国道の分岐点から旧国道(現県道宇和島城辺線)に寄った崖下に7体の石仏が祀(まつ)られている。右端の地蔵の台座に里程を刻んだ道標がある」と記すが、辺りを結構探したがそれらしき石仏を見付けることができなかった。

国道56号・千歳橋へ
新旧国道の合流点付近から先は、「ここから中道は国道56号の西側を北へ向かって進む。清水の山腹にある小さなお堂前を通り、現在の旧国道より少し高い所を通っていた。しばらく進んで常夜灯や子安地蔵を過ぎ、また国道に出て千歳橋を渡る」と「えひめの記憶」にある、国道56号の西側の山裾を進む道に入る。
清水の山腹にある小さなお堂の前を通り、現在の旧国道より少し高い所を通っていた、とするが、清水の集落の一部に山側に一瞬入る道の他に、旧国道より高い所を通る道筋は見つからない。一瞬山側に入る道に小さなお堂があったのかもしれないが、見逃した。
来村川に沿って道なりに旧国道を進み、道が国道56号に出た所には常夜灯とその裏手に子安地蔵堂があった。
常夜灯で一瞬国道56号をかすめるが、すぐに左、山裾を進む道があるので、特に根拠はないのだが、旧国道だろうか、などと思いながら道を進み、千歳橋で国道56号を渡る。

千歳橋から普達橋へ
千歳橋を渡ると、松が鼻で右に入る道がある、とりあえず道に入るが、すぐに国道に出る。その先で再び右に入る道がある。「えひめの記憶」のには、「再び国道から分かれて狭い保田(やすだ)の旧国道に入って間もなく、左手の居林邸(保田甲483)の入口に「岩松へ三里一丁」と刻まれた道標がある。これは宇和島藩村明細帳を集成した『大成郡録(たいせいぐんろく)』の里程から考察して、どこからかここに移設されたものと思われる」とある。住所から見て、この道筋だとは思うのだが、それらしき道標を見付けることはできなかった。
この道筋もほどなく国道に出るが、保田のバス停がある辺りから、またまた右に入る道がある。旧国道?と思うほどの細い道だが、これもほどなく国道56号に出た。「えひめの記憶」の記憶には、「旧国道(中道)より一段高い山寄りに遍路道が通っていた。山寄りの道筋に小さな大師堂があり、享保8年(1723)と刻まれている小さな大師像と道祖神が祀られている」とある。この細い道より更に右に入り込むと大師堂と道祖神があったようだ。

薬師川手前に3体の石仏
「えひめの記憶」には、この先の遍路道について、「遍路道はさらに進んで薬師谷川左岸に至る。国道に架かる普達橋からやや上流、薬師谷川の左岸の渡河地点に3体の石仏があり、真中の地蔵の台座に「此道御城下迄三十一丁」と刻まれた道標がある。ここから川幅約15mの薬師谷川を飛び石伝いに右岸に渡り、寄松・並松(なんまつ)を経て宇和島城下を目指して進む」とある。 記事に従い進むと薬師川で行き止まりとなる。民家脇を山際に廻り込み道を進むと、薬師川を背に岩の上に3体の石仏・石碑があった。右手の石碑は遍路墓と言う。

薬師川から佐伯番所まで

赤土鼻の茂平道標
国道56号にかかる普達橋を渡り、丘陵が西に突き出た下保田で国道56号のバイパスといった宇和島道路と分かれた国道56号は、丘陵に沿って右に折れ北東へと進む。
寄松を進み並松2丁目辺り、丘陵が西に突き出た辺りで旧国道は国道56号から分岐する。分岐箇所辺りを赤土鼻と呼び、小高い丘になっていたようだが、国道開削時に削られたようである。
道の分岐点には茂兵衛道標が立つ。手印が左右に分かれ「観自在寺十里 和霊神社四十一番 四十番奥の院へ廿丁余」「明治四十四年」といった文字が読める。 四十番札所の奥の院とされるJR宇和島駅傍の丘に立つ龍光院まで廿丁余(2キロ強)ということだろうか。
「えひめの記憶」には「国道56号から並松に入る三差路西側の水野邸(中沢町2-4-11)横に茂兵衛道標がある。ここは昔、湿地帯でこの道標は田んぼの畦(あぜ)道に建てられていたという」とある。

並松街道
この分岐から先は「並松街道」と呼ばれていたようである。「えひめの記憶」には、「赤土鼻から国道と分かれて並松の旧国道「並松街道」に入る。並松は道のり約6丁を「並松街道」と呼び、街道沿いの松並木が多くの旅人や遍路を慰めたという。真念は『四国邊路道指南』の中で「これより宇和島城下迄なミ(並)松、よき道也。」と記し、英仙本明は『南海四州紀行』の中で「道悪ク並松曲疲タリ。」と記している。約120年の時差があるが、道路の表記は大きく異なる」とする。また「明治15年(1882)当時の並松の道幅をみると「狭キハ壱間半ヨリ広キ八三間二至ル凡平均弐間」56)と記され、街道の道幅は城下に次いで広い。道の両側は古い民家や商店が建ち並び典型的な街村をなす」ともある。

馬目木大師堂
山際から元結掛(もとゆいき)を進み、神田川(じんでん)手前、三差路の右手山際に馬目木大師堂がある。お堂の前に巨大な立派な常夜灯、石仏の小祠、寺の裏手には五輪塔や石碑が並ぶ。お堂前の銀杏の巨木が古き趣を増していた。

境内にあった案内には「弘法大師が開かれたという、九島鯨谷の願成寺は、四国霊場四十番の札所観自在寺(御荘平城)の奥の院であったが、離れ島にあるため巡拝に不便であったので、寛永8年(1631年)に結掛の大師堂に移し、元結掛願成寺といった。この寺は明治になってからさらに国鉄宇和島駅の近くの龍光院に合併せられ
た。
この大師堂を馬目木大師堂といういわれは、弘法大師は九島の願成寺を造られたものの、海を渡って九島までお札を納めに行くのは大層不便なので、宇和島の海岸にあった渡し場に遥拝所をた。そしてこれに札を掛けよと、馬目木(ウバメガシ)の枝を立てていたものが、いつしか根づいて葉が茂るようになったという。
元結掛の地名については、いつの頃かここで信仰心のあつい人が頭をそって仏道に入り、その髪を元結(まげをしばるひも)でこの馬目木に掛けておいたから「もとゆい木」といわれるようになったとも、またこの土地は海岸通りで、通行人の元結がこの馬目木の枝にひっかかるので名付けたともいわれている。 現在もお堂と馬目木が残り、土地の人の深い信仰心の対象となっている」 とあった。
地図で見ると現在、九島は橋で宇和島と結ばれていた。

佐伯の町番所跡
神田川を少し下流に戻り佐伯橋を渡る。橋には「佐伯橋 富田信高が城主の時代、佐伯権之助の家老屋敷があったのが名前の由来です。
明治4年、須藤頼明がこの橋の上で泥酔した農夫にからまれ無礼討ちしました。禁止令が出る直前で最後の無礼討ちと言われています」と共に、「佐伯町御番所跡 南部から城下町に入る際の御番所。手形改めの後通行人はここにあった井戸で往来の汚れを洗い流したそうです」とあった。
橋の北詰はカラオケ店となっていた。
富田信高
富田 信高(とみた のぶたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。伊勢安濃津城主。津藩第2代藩主。関ヶ原の戦いの功績によって、伊予宇和島藩初代藩主に転じたが、改易された(wiki)。
どうでもいいことだろうが、改易の理由をチェックすると、信高の夫人と、その弟、そしてその甥の間のトラブルに巻き込まれてのトバッチリを受けたといったもの。こんなことで改易になるのかと、Wikipediaをもとに、ちょっとメモする;事のはじまりは、夫人の甥である宇喜多左門が、夫人の弟である石見津和野藩主坂崎直盛の婢(小童とも)と密通。怒った直盛が左門を討たんと送った家臣が返り討ち。左門は信高のもとに逃れる。直盛は引き渡しを求めるが果たせなかった。
その間、信高は伊予板島城に転封となり、これが宇和島藩となる。転封にともない、左門は日向延岡藩主のもとに身を隠す。
事が動いたのは、信高の夫人が、左門の援助にと米とともに送った手紙が直盛の手に入り、直盛が将軍家に訴え出たこと。結果、夫人の罪が咎められ、信高は改易され、岩城平藩で蟄居、左門は死罪に処される。
但し、これは表向きの理由で、実際は大久保長安事件に連座したのが真相とも言われる。
これで本日の散歩は終了。後は城下を抜け、窓峠、歯長峠を越えて旧卯之町の明石寺を繋ごうと思う。明石寺を繋げば、予土国境から今治までの遍路道がやっと繋がる。



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先回二日をかけて南予の山越え・峠越えの遍路道、松尾峠と柏坂を越えた。今回は1泊二日の予定で松尾峠と柏坂の間を繋ぎ、柏坂を下りた里から宇和島へと向かうことにする。
初日は予土国境・松尾峠を越えて下りた里、小山の集落から愛媛県愛南町を進み40番札所・観自在寺を打ち終えて柏坂上り口まで。二日目は柏坂を下りた里である宇和島市津島町上畑地から宇和島市街へと進む。 津島町から宇和島市街の間には松尾峠(予土国境の松尾峠と同名)があり、常の如く単独・車行のため峠ピストンに時間がかかり、結局、宇和島市街入り口で時間切れとなった。
遍路道を繋げる散歩をはじめた西予市宇和町(卯之町)の明石寺までは、宇和島市街を抜け、窓峠や歯長峠を越えなければならない。うまくいけばあと一回、少なくとも一泊二日で動けば、なんとか卯之町まで繋がりそうだ。先は見えてきたが、やはり南予は遠い。

今回スタートする小山から先、土佐の宿毛と宇和島を結んだ宿毛街道には篠山道・中道・灘道の3ルートがある。今回の散歩は海岸沿いの灘道を辿る旅。小山の集落から愛媛県愛南町を進み、まずは篠山道と分かれ、その先で中道と分かれ、海岸沿いの灘道を辿り40番札所・観自在寺を打ち終え、柏坂上り口までを繋ぐことにする。



本日のルート;
松尾峠と柏坂の間を繋ぐ;小山から40番札所「観自在寺へ
小山から豊田へ
小山集落の石祠と3基の標石>小山の番所跡>道端の小さな地蔵と地蔵台座>春日神社>松尾大師堂>広見の道標>札掛の篠山神社・一の鳥居;篠山道分岐 >県道299号と交差>惣川への土径に>旧赤坂街道の案内>県道299号に上る >上大道の集落に>大宮神社傍の休憩所>上大道の徳右衛門道標;灘道と中道分岐>県道299号を離れ土径に進む>南廻り(?)県道299号との交差箇所に道標>南廻り(?)県道299号に合流>豊田の徳右門道標と自然石の手印道標 >釈迦駄馬の供養塔広場
□豊田から僧都川沿いに観自在寺へ□
僧都川の堤防上の道を進む>御荘焼豊田窯跡>城辺橋脇の道標>40番札所・観自在寺
■松尾峠と柏坂の間を繋ぐ 観自在寺から柏坂へ■
長崎から笹子谷へ>日の平から国道56号に>八百坂切り通し手前から猫田に入る>猫田から国道56号へ>厳島神社の道標3基>菊川から梶屋集落へ>梶屋から室手へ>室手から柏へ

■松尾峠と柏坂の間を繋ぐ■

小山から豊田へ
先回越えた二つの峠の間を繋ぐ散歩は、松尾峠を下り、車道と繋いだ小山の集落からはじめる。

小山集落の石祠と3基の標石
先回は松尾峠を越え、舗装された道に下り、一瞬舗装道を離れ土径を進み、ふたつの小川が合わさる先、山裾に沿って道が西に廻りこむ辺りの小山の集落まで進んだ。今回スタート地点はこの回り込み箇所立つ、小さな自然石の祠と3基の標石から。
徳右衛門道標
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター(以下略)」によると、「標石群の右端には「くわんじざいじへ三り」と刻まれた武田徳右衛門の道標がある。土地の人の話では、以前は松尾峠の登り口にあったという。
境界石
ふたつの境界石について、「えひめの記憶」は、「中央には「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれた領界石と遍路道標を兼ねた道標があり、さらに左端には道標とは字体は異なるが、「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれた高さ2.7m (9尺)の立派な領界石が並ぶ。
一本松町教育委員会の説明によると、この2本の領界石は、平成3年、橋の工事の際橋げたとして使用されているのが発見された。いずれも二つに折れていたものを修復し、番所跡近くのこの場所に移築したという。前述した貞享4年に建立したという史料に合致する領界石は、長さ2.4m(8尺)の遍路道標に併用されている中央の標石であると思われる。

この標石の正面に刻まれている遍路道の案内は、明治13年(1880)とあり、領界石を後世に遍路道標として再利用したものである。
さらに天保5年(1834)の『伊達宗紀公御歴代事記』に、「10月17日、土州境小山村土州御境へ榜示ノ立石迴着」とあり、榜示立石を船で運んだことや土州方の立会いを打診したことなどが記されている。標石群の左端の標石は、この時建てられたものではないかと考えられている。

説明にある「前述した貞享4年に建立したという史料に合致する領界石」とは、松尾峠に立つ境界石のところで「えひめの記憶」から引用した、「宇和島藩では領界の目印として、はじめは木柱を立てたが、貞享4年(1687)3月に石柱にしたという。そのことについて『幡多郡中工事訴諸品目録』によると「松尾坂御境目示榜示杭今度与州より御立替候処、ミかけ石長八尺幅七寸四方、文字従是西伊豫國宇和嶋領と切付漆墨入と有右之境杭立被申由(以下略)」)と記されている」境界石のことである。この中央の境界石は、元々は松尾峠に立っていたもの、ということだろう。
左端の境界石の説明にある「土州境小山村土州御境へ榜示ノ立石」の場所はこの説明だけでは不詳である。

小山の番所跡
標石群から少し進んだ民家の傍に「小山御番所」の案内があり、「愛南町指定文化財 史跡 小山御番所井戸 小山御番所は、藩政時代に宇和島藩が国境の出入りを取り締まるため、土佐との要衝である松尾坂の伊予側に設けた番所であり、宇和島藩の中でも特に重視され、能吏が常駐していた。
明治五年の学制発布後、建物は、明治八年より心導学校として使用された。現在、建物は残っていないが、その当時使用していた井戸のみが残っている」とあった。
井戸は道から少し奥まった民家の庭に見える。道端から写真だけ撮らせてもらった。学制における「心導学校」とは如何なるものか、不詳。

道端の小さな地蔵と地蔵台座
小山の番所跡の直ぐ西、T字路に「観自在寺 13.7km」の木標があり、遍路道は右へと折れる。木標の対面角に誠に小さな石仏と舟形地蔵、それに石仏の台座らしきものがあった。道を北に進むと県道299号にあたる。
因みに、観自在寺まで13,7kmとすれば、観自在寺まで3里(⒓キロ)とする前述徳右衛門道標は松尾峠の入り口とするのは、土佐側ではなく伊予側、すなわち小山の近くでなければ間尺に合わなくなってしまう。

春日神社
南北を囲む丘陵の間を抜ける県道299号を越え、北の丘陵裾に沿って少し西に進むと春日神社がある。鳥居も狛犬も石塔も、なんとなく印象に残る「風化」具合である。使っている石の加減なのだろうか。狛犬は江戸の年号、鳥居は明治の年号が刻まれる。この春日神社の直ぐ西に遍路休憩所があった。

松尾大師堂
山裾の道を西に進み、県道299号に合流。県道を少し進むと、南側の丘陵に沿って進む道の分岐点がある。その傍に松尾峠と書かれた道標が立つのだが、どう見ても、南側の道を進む方向を示しているように思える。
「えひめの記憶」には「かつての遍路道は、峠を下りたところから県道299号を左にそれて下ったようである」といった記述がある。この道筋だろうか。それにしても、順路と逆路で異なる道筋を木標で案内しており、ちょっと混乱しそう。
それはともあれ、分岐点から先に進み、南北の丘陵が迫る鞍部を越えると、道は下り坂となる。坂の途中、道の左手に松尾大師堂が建つ。
松尾峠にあった松尾大師堂のところで、「「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」には「かつての大師堂は道路開通後、地元の有志がもらい受け、一本松町広見(合併し、現在は愛媛県南宇和郡愛南町)に移築した。現在峠には新たな大師堂の再建が進み、平成13年12月に落慶法要を行った」とメモしたが、この大師堂がかつての一本松町広見に移された松尾大師堂だろうか。 かつての一本松町は増田、正木、広見、小山から成ったとされるが、増田と正樹は北東の山間の地、小山は南の地域、とすればこの辺りから盆地一帯が広見であったと推測される。

広見の道標
坂を下り、盆地を走る国道56号を横切り、250mほど進むと神社の幟立にくっついて道標が立つ。摩耗し刻まれた文字を読むことはできなかったが、「観自在寺までの里程を刻む(「えひめの記憶」)」との記述がある。




札掛の篠山神社・一の鳥居;篠山道分岐
県道299号を進み、札掛で遍路道は県道から右に分かれる。分岐点には「遍路道」の案内もあり迷うことはない。準平原状の台地を道なりに少し進むと「篠山神社」と刻まれた鳥居と小祠がある。
「えひめの記憶」には、「ここは中道と篠山道(篠山往還)との分岐点である。遍路は必ずこの札掛を通り、初めての遍路は札所ではないが、必ず篠山(おささ)か土佐の月山(おつき)を参詣するならわしになっていた。
おささとおつきの関係をみると、「辺路札打申に月崎を打候へば篠山を不打、篠山を打候へば月崎を打不申候」(『淡輪記』))とあり、またこの篠山については、『四国邊路道指南』に「初遍路ハさヽやまへかへるといひつたふ。(中略)ひろミ村、さヽへかけるときハ荷物をこの所におく。」)と記している。
篠山権現は、標高1065mの高所にあり、そこへ至るのは難路であったことから、札掛で篠山権現のお札を置いて遙拝すれば篠山を打つことになるとされるようになった。札掛という地名の由来であるという。
土地の人は、「札掛には田中家のようにお札や遍路地図などのお土産を売った家や遍路宿もあり、昔は大変賑(にぎ)わった。お遍路さんのお接待で、地区のお大師講(こう)の者はてんてこ舞いしたと聞いている。今はバス路線(県道299号)からはずれた札掛の前神様は見向きもされない。」と嘆く」と記される。
灘道・中道・篠山道
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「えひめの記憶」には「松尾峠から宇和島市祝森柿の木への遍路道は、ほぼ宿毛街道と重複し、中道・篠山道・灘道の三本の道筋がある。
松尾峠を越えた宿毛街道は、一本松町札掛で中道から篠山道が分かれ、さらに同町上大道(うわおうどう)で中道から灘道が分岐する。中道は、大岩道(だいがんどう)・小岩道(しょうがんどう)の峠を越え、岩淵を経て柿の木に至る。篠山道は、四十番観自在寺奥の院篠山を越え、御内(みうち)を経て大町で中道に合流する。灘道は、観自在寺を経て一部海岸沿いを進み、柿の木で再び中道と合流して宇和島城下に至る」とあり、
また「真念が貞享4年(1687)に出した『四国邊路道指南』によると、御荘町平城(ひらじょう)の観自在寺からの道筋について、「一すぢ、なだ道、のり十三里。一すぢ、中道大がんだう越、のり十三里。一すぢ、ささ山越、のり十四里半。三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」と記され、
さらに「『愛媛県歴史の道調査報告書第七集宿毛街道』には、一本松町札掛から宇和島市柿の木までの三本の遍路道のうち「遍路が多く通った道は『灘道』で、次いで『篠山道』であった。『中道』は『四国邊路道指南』に記されているように、遍路道の一つであったが、その道の急峻さ、観自在寺の所在地などからして遍路道としての使用頻度(ひんど)は高くなかった。」と記されている。近世以降の遍路は、ほとんど灘道を通ったものと思われる。時代の流れによって中道、篠山道の順で歴史から姿を消していくことになるが、現在でもわずかの遍路が柏坂の灘道を通っている」とする。
今回辿る柏坂越えは、海岸沿いの灘道ルートである。なお、『四国邊路道指南』に「三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」とあるのは、江戸の中頃まで旧津島町岩松から柿ノ木に抜ける松尾峠越えの道は開かれておらず、灘道も岩淵にある満願寺から野井坂峠を越えて柿ノ木に下っていたようである。
月山神社
月山(つきやま)は、高知県大月町にある神社(私注;足摺半島の最南端部)であり、現在は月山神社であるが、明治の神仏分離以前は神仏習合の番外霊場「月山」であった。
白鳳時代、役の行者(役小角)が山中で三日月の霊石を発見し月夜見命、倉稲魂命を奉斎したことに始まる。その後、空海(弘法大師)が巡錫し、霊石の前で二十三夜月待の密供を行ったと伝えられている。明治の神仏分離以前は「守月山月光院南照寺」と号する勢至菩薩を本尊とする寺であったが、それ以降は月山神社と改称された。高知県幡多郡大月町月ヶ丘1443(Wikipedia)

県道299号と交差
篠山神社・一の鳥居を離れ、道なりに進むと「へんろみち」と書かれた木の標識があり、右に折れショートカット気味に坂を下ると山裾を大きく廻っていた県道299号に出る。道の北には産業廃棄物処理センターがあった。




惣川への土径に
遍路道は県道を少し戻り、産業廃棄物処理センターの建物の西から土径に入る。ここにも「へんろみち」の案内があり迷うことはない。遍路道は惣川が浸食した赤坂の谷へと下りてゆく。惣川を越え左手に田圃を見遣りながら遍路道を進む。

旧赤坂街道の案内
遍路道はほどなく県道299号から分岐した、舗装された道にあたる。舗装道に上る手前のガードレールに「旧赤坂街道(昔の遍路道) 地道ですが歩けます」と書かれた案内がある。案内に従い舗装道を少し進み、直ぐに土径に入り段丘崖を上る。
実のところ、この辺りの道筋は、「えひめの記憶」を読んでも、ルーティングが思い描けず、出たとこ勝負ではあったのだが、ちゃんとした案内があり、何とか昔の遍路道を辿ることができた。

県道299号に上る
案内に従い河岸段丘を40mほど上る。道は県道299号の下段丘崖を緩やかな坂道で上り、ほどなく県道299号に出る。竹林や木々に覆われた道は「癒しの道」との案内があった。

上大道の集落に
県道299号から少し上ると上大道の集落に出る。集落に出たのはいいのだが、いままで要所要所にあった、遍路道の案内が切れる。「えひめの記憶」には「札掛からの遍路道は、惣川が浸食した急傾斜の赤坂の谷を越え上満倉(かみみちくら)に至る。上大道(うわおおどう)のバス停を過ぎ大宮神社や満倉(みちくら)小学校前を少し進む」とある。上大道のバス停は分からないが、地図で確認すると、大宮神社が県道を西に進んだところにある。集落の中の道を成り行きで進み県道に出て大宮神社を目安に進む。

大宮神社傍の休憩所
記事にあった満倉小学校は見当たらなかったが、大宮神社は県道脇にあり、その傍に遍路休憩所がある。そこに惣川からこの先にある僧都川に沿って御荘の町までの遍路道案内があり、この先のルーティングに役立った。

上大道の徳右衛門道標;灘道と中道分岐
休憩所を越えた先の道の分岐点に道標と小さな地蔵が並び立つ。道標は徳右衛門道標。「これより左りくわんじざいへ壱里半」と刻まれる。
「えひめの記憶」には「ここで道は、西へ下り城辺町太場(だいば)から豊田を経て観自在寺へ至る灘道と、北へ向かって緑の代官所を経て宇和島に通ずる中道の二手に分かれる。江戸後期まで観自在寺への遍路道は、灘道と分岐する峰地(御荘町)まで、この中道を通っていたと思われる」とある。
ここが江戸の後期以降、山中を抜ける中道わかれた海岸を進む灘道の分岐点とのいうことだ。

県道299号を離れ土径に進む


今回進むのは灘道。休憩所にあった旧遍路道案内の通り、県道299号を少し進むと左に折れ、柿畑やミカン畑を見遣りながら先に進むと、簡易舗装も切れ、畑脇を進む土径となる。


南廻り(?)県道299号との交差箇所に道標

土径に入ると道は僧都川に向かって緩やかに下る。坂の途中に小さな祠があり、松尾様とある。由来は不明。社にお参りし坂を下ると舗装された道に当たる。 遍路道は道をクロスし先に進むが、その入り口に小さな道標があった。
ところで、「えひめの記憶」には、この道を県道299号としているが、地図では県道299号は、上述大宮神社先の徳右衛門道標から右に分かれた宿毛街道中道筋となっている。あれこれチェックすると、地図には記載されていないが、ふたつに分かれたこの道筋も一本松城辺線として県道299号となっていた。仮に「南回り県道299号(旧県道)」としておく。

南廻り(?)県道299号に合流
山裾を曲がりくねる旧県道から土径に入り、ショートカットで進むと石仏を祀る小祠があり、更に道なりに進むと県道に戻る。合流箇所には「松尾峠 11.9km 観自在寺 4.km」と書かれた木標があった。

◆ところで、「えひめの記憶」には、「灘道は、一本松町上大道(うわおおどう)で中道と分岐する。町境を越えて城辺町太場(だいば)に入って間もなく、県道一本松城辺線(299号)を右折して尾根を下る。この道は江戸後期に拓かれたという遍路道である」が、県道との位置関係がどうしても合わない。最初は、県道に合流し、右に折れて進む上記ショートカットルートかとも思ったのだが、「えひめの記憶」には、上記説明に続けて「豊田の入口に手印のついた自然石の道標がある。ここで県道299号と再び合流する」とあるので、この合流箇所より前ということになるのだが、そうなると、県道を「右折」ではなく「左折」しなければ間尺が合わない。はてさて?

豊田の徳右門道標と自然石の手印道標
県道299号を進み、僧都川手前で左折し、川の左岸を進む曲がり角手前の小橋の脇に、徳右衛門道標と自然石の手印道標がある。徳右衛門道標には「これよりくわんじざいへ一り」と刻まれる。また、「えひめの記憶」には「道標の手印は向きが逆になっており、のちに移動してここに建てたものと思われる」とあるが、自然石の手印道標は順路を示しており、とすれば徳右門道標の手印のことかとも思えるが、摩耗して手印は見えなかった。

釈迦駄馬の供養塔広場
徳右衛門道標と手印道標の間の小橋を渡ると広場となっており、「豊田窯跡(有形民俗文化財) 富岡喜内(久治兵衛)が、妹の子、稲田峰三郎と共に開いた窯で、シャカダバ窯ともいう。金彩の色絵も焼き、大切に荷造りして馬につけて運び、深浦港から積み出したという」と共に幾つかの石仏・石塔が建つ。
「えひめの記憶」には「小さな橋を渡ると地蔵や石塔が集められた釈迦駄馬の供養塔広場がある。この広場はサネモリ(実盛)様を祀(まつ)り、ここで篠山大権現の神火を受けて、近在の村々へ火送りがなされた。ここからこの地方の虫送りの行事が始まったという」とあった。

サネモリ(実盛)様
サネモリ(実盛)様とは諸説あるが、一説には平家の名将・斎藤実盛に拠るとも言われる。斎藤実盛は相模を本拠とする源氏の棟梁・源義朝重臣として仕えるも、上野国に勢を増した義朝の弟・義賢と義朝との争いに際し、敗れた義賢の子、後の木曾義仲の命を救った武将として知られる。
義朝亡きあと平氏に仕え、頼朝挙兵後も平氏への恩顧を忘れず平家方として奮戦。老いを隠すため白髪頭を黒く染め、平家方の義仲追討軍の将として北陸に転戦するも討死。命の恩人を打ち取った義仲が嘆悔やんだ話は有名である。 で、何故に虫送りに斉藤実盛が、ということであるが、戦いの折、乗っていた馬が稲の切株に躓き、ために討ち取られた、と言う。稲の切株憎しと、稲を食い荒らす(稲虫・ウンカ)となった、という。
虫送りとは、稲の虫を集め、ムラの外へ送ることで、稲などの虫害を防ごうとすることである。虫送りの唱え文言は徳島では、
「実盛虫はどこへ行った 西のはてまで 後さらえ ドーンドン」とか、
「斉藤実盛様のお通りじゃ、飛べるムシャ飛んで来い、這えるムシャ這って来い」、
「サイトコ ベットコ ウッテントン イネノムシャー トサヘイケー」、

兵庫では
「おくった おくった
稲虫おくった
実盛さんは ごしょろくじゃ
よろずの虫 ついてこい
ようさらぁ いなむし
こんがり こんがり こんがった

ブントンカカァ、トンカカヤ
実盛様のお通りじゃ」
などと地域によって異なる。
また、社寺に集い神事や法要をおこなった後、たいまつの火を焚きながら、カネ、太鼓を叩き大声で文言を唱えながら、幟(のぼり)や札を掲げ行列を組んで水田をめぐり、虫を集め村の境界まで送り出す、「サネモリサマ」という藁(わら)の人形を用い、担いだり馬に乗せたりして運ぶ、あるいは船に乗せて送り出すなど行事様式も地域によってことなるようである。
因みに、虫送りが特に西日本で盛んな理由は、西日本ではウンカによる稲の被害が大きかったためであるといわれる。

斉藤実盛由来の説の他、「稲の実(サネ)を守る 」、田植え完了の共同祝日である「サナブリ」「サノボリ」の転化説などもあるようだ。

◆釈迦駄馬
広場にある地蔵や石塔の右端の石塔は、元禄7年(1694)に建てられた「四如来碑」と呼ばれるようだ。正面に「本師釈迦牟尼如来」、右側に「南無薬師如来」、左側に「南無阿弥陀仏」、裏面に「南無大日如来」と刻まれる故。豊田の集落がかって「釈迦駄馬」と称され由来とも。豊田となったのは、庄屋の先祖が山口県の豊田郷を領する豊田氏であった故、との記事を見た。
それでは「駄馬」は? チェックすると、丹波とか多摩と同義と言う。「崩れた>山間渓谷の平坦地」との意味だが、この地がそれほどの山間の僻地とも思えない。更にチェックすると、花とり踊りの「踊り駄場」、闘牛の「突き合い駄場」というように、村人が集い行事を起きなうな所を「駄場」と称し、その場がある地域を「駄馬」と称した、といった記事があった。納得。


豊田から僧都川沿いに観自在寺へ

僧都川の堤防上の道を進む
サネモリ様の広場から直ぐ先で道は左に折れ、古き町並みを残す豊田を進む。ほどなく「観自在寺 3.6km」の木標に従い道は右に折れ、僧都川の堤防に。遍路道は堤防上の遊歩道を進むことになる。
僧都川
なにやら、雅な名称でありチェックすると、僧都の元は「左右水」とある。水源が2箇所とも、水車の古名である「左右水」に由来するといった説明があった。

御荘焼豊田窯跡
堤防上を進むと、休憩所の手前に「御荘焼豊田窯跡」の案内。「御荘焼豊田窯 御荘焼」は 久治兵衛が今から約150年前に始めた焼物で、かつては砥部焼とともに有名でした。ここから北へ約300mのことろに「御荘焼」の代表的な窯の一つ豊田窯の窯跡があります。豊田窯はその後、富岡喜内と改名した久治兵衛が甥の稲田峰三郎と共に明治初期に開いた磁器の窯で、別名「シャカダバ窯」とも呼ばれ、高級品のほか、日用雑記も多量に焼いていたとも伝えらています」とある。先ほど出合った「サネモリ様」の広場にあった窯元跡のことだろう。

城辺橋脇の道標
堤防の道を西に進み、左手に常盤城があった旧城辺町の独立丘陵を見遣りながら城辺橋に。橋の脇に道標がある。「平城へ二十二丁」「大正十年」と刻まれたこの赤茶けた道標は、移設されたものと言う(「えひめの記憶」)。道標の直ぐ脇の木標に「観自在寺 1.4km」とあるが、二十二丁は2.4キロ(1丁は約109m)であるので、なるほど1キロほど誤差がある。
「えひめの記憶」には「遍路道はこの付近から飛び石伝いに僧都川を渡り、平城の観自在寺に向かって進む」とある。橋の掛かっていない頃、遍路はこの辺りで渡河していたのだろう。
現在の遍路道は橋脇の木標の案内に従い、僧都川に沿って更に西に進む。
常盤城
現在諏訪神社が鎮座する独立丘陵は、戦国期にこの地を領した御荘氏の拠点となったところ。その歴史を簡単にまとめると、鎌倉時代に南宇和郡は比叡山延暦寺末寺蓮華院の荘園となるが、建武2年(1336)、叡山諸門跡が統合され青蓮院となると、坊官(僧侶の代官)が下向し後に御荘氏(前御荘氏)を名乗る。室町期に御荘氏は土佐中村の一条氏と豊後の大友氏により追われ、一条氏の家臣である勧修寺氏の一族が治めることとなり、御荘(後御荘氏)を名乗る。
戦国期に土佐の長曽我部氏により落城した、と言う。
御荘の地名の由来は観自在寺荘の尊称である観自在寺御荘に拠る。

豊田から観自在寺への別ルート
左谷へ
豊田から観自在寺への遍路道について、「えひめの記憶」には、「遍路道は街村の町並みをなす豊田の中ほどで右に折れ、川幅が広く水量の多い僧都(そうず)川を飛び石伝いに渡り、左谷(さこく)に出る。(中略)城辺町緑の左谷に出てた遍路道は鞍部(あんぶ)を越え、峰地から二手に分かれる。
西へ直行すれば観自在寺への灘道、北へ進めば前述した大岩道越えの中道である。この峰地の台地から御荘町役場に出て、旧国道と合流して西進すると観自在寺山門下に至る(中略)時を経て、この渡河地点は利用されなくなり、遍路道は僧都川左岸を通って城辺の町に入り、常盤城址や佛眼寺を左に見ながら通過した。」とある。

峰地
とりあえず、道筋を辿ってみる。僧都川の右岸に渡り、僧都川を渡ってきた県道299号と、僧都川に沿って進む44号の交差点を左折。県道299号を進み、左右を丘陵に挟まれた左谷の集落に入り、緩やかな坂道を上り、長月川が開削した谷筋に下りる。県道299号と県道295号の交差点が峰地。
この峰地までの道筋は上大道で分かれた中道の道筋である。上大道で灘道と分岐した中道は、柏床で僧都川を渡り、左谷を抜けて峰地へ。ここから観自在寺を打ち、再びこの地に戻り、中道を宇和島へと向かうことになる。

また、「えひめの記憶」には「豊田集落の人口にある道標より南へ直進して山際を通り、城辺の町に出る遍路道もあったという」とする。地図を見ても、上述 「南廻り(?)県道299号との交差箇所の道標」から城辺の町に繋がる道筋の記載は見当たらなかった。

40番札所・観自在寺
更に西に進み観栄橋を渡り観自在寺に。小高い段丘上に建つ境内に入り、本堂、大師堂に御参り。
境内にあった「八体仏十二支守り本尊」に惹かれる。千手観音菩薩(子年守り本尊)、虚空蔵菩薩(丑年・寅年)、文殊菩薩(卯年)、普賢菩薩(辰年・巳年)、勢至菩薩(午年)、大日如来(未年・申年)、不動明王(酉年)、阿弥陀如来(戌年・亥年)からなる石仏に手を合わせる外国人の歩き遍路さんが印象に残る。 境内には江戸時代、この地の俳人である岡村呉天が建てた芭蕉の句碑があった。 「春能夜や籠人遊可し堂の隅」と刻まれる、と。「はるのよや こもりどゆかし どうのすみ」と読む。
観自在寺

「寺伝によれば平安時代初期の大同2年(807年)平城天皇の勅願によって、空海(弘法大師)は、一本の霊木から本尊の薬師如来、脇持の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩を刻み安置して開創したと伝えられている。このとき残った霊木に庶民の病根を除く祈願をし「南無阿弥陀仏」と彫ったと云われる。なお、その版木により押印された手ぬぐいを購入することができる。
また、平城天皇は勅額「平城山」を下賜し、当地に行幸されたと云われ、一切経と大般若経を奉納を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修したとされている。
江戸時代初期の寛永15年(1638年)に京都の空性法親王が巡拝、薬師院の号を受けた。その後、宇和島藩主伊達宗利の勅願所になったという歴史をもつ。一時は七堂伽藍を持ち四十の末寺を有したが、火災で消失。延宝6年(1678年)に再建されたが、昭和34年(1959年)に失火で本堂を焼失、現在の本堂はその後に建立された(Wikipedia)」
方角盤
「えひめの記憶」に「山門の天井には直径1mほどの珍しい方角盤がある。干支(えと)の絵で方角を示した巡拝者用の案内板と思われる。干支の絵は色あせているが中央に亀が描かれ、西の酉(とり)の方向を向いている」とある。 山門下から上を眺める。「干支の絵は色あせているが」とあったが、色は鮮やか。修復されたのだろうか。

道標
「えひめの記憶」には「観自在寺参道沿いに墓所があり、その右側の石柱に「これよりいなりへ十四里半」と刻まれた道標がある。「いなり」とは三間(みま)町にある次の札所四十一番稲荷山龍光寺のことである」とある。
民家に囲まれた狭い参道の境内向かって右手に小さな墓所があり、その右の石柱に「是*いなり***」といった文字が読める。この石柱が道標だろう。
三つの遍路道
駐車場に「伊予遍路道の入り口 観自在寺」と書かれた案内があり、「伊予遍路道の入り口 観自在寺 四国霊場第40番札所観自在寺は、伊予最初の札所で、第1番札所霊山寺から最も遠く、四国遍路の裏関所とも言われています。
観自在寺から第41番札所龍光寺に向かう道筋は、灘道・中道・篠山道の3ルートに分かれます。江戸時代初期、四国遍路の庶民化に大変貢献した真念が1687年に刊行した"四国邊路道指南(しるべ)"には、観自在寺からの道筋として、
「一すぢ、なだ道、のり十三里。一すぢ、中道大がんだう越、のり十三里。 一すぢ、ささ山越、のり十四里半。三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」と記されています。
しかし、江戸時代後期、宇和島藩は遍路の増加に伴って統制を強め、1769年の触書では、遍路の通行を灘道と篠山道に限り、そのため中道を遍路が通行することは厳しく禁じられました。

霊山としてあがめられる篠山(標高1065m)を越える篠山道を通る道路もありましたが、人家の多い灘道の利用がその当時から一番多く、明治以降の近代的道路整備も、灘道を中心に進められ、県道(現国道56号)等が整備されました。 戦後も自動車交通の発展に伴い自動車道の整備(新設、拡幅、舗装、トンネル化等)が進められました。
近代的整備がされなかった区間の遍路道は土の道として残され、通行が途絶えることもありましたが、逆に昔の風情をとどめ、歴史的文化的価値は少なくありません(以下省略)」の説明。
それよりなにより、説明とともに灘道・中道・篠山道の詳しいルートが示されている。「えひめの記憶」をもとに、大体の3ルートの道筋を推定はしていたのだが、この地図は誠に有難い。中道と篠山道散歩も、春の頃歩くのも、いいかと思い始める。

松尾峠と柏坂の間を繋ぐ 観自在寺から柏坂へ

観自在寺から先の遍路道について、「えひめの記憶」は「灘道は、観自在寺隣の平城小学校前から西進し、南宇和地区広域農道を横切り、八幡神社北側の道を進み、右手の興禅寺や来迎寺の下を過ぎると、かつて平城の港として栄えた貝塚港に至る。『旧街道』によると、「札所から西に行くと貝塚があり、間もなく僧都川口の長崎に着く。
国道56号は長崎から海岸沿いについているが、国道ができるまでは平山まで渡し舟があり、約500mの海上を1日何回か旅人を運んでいた。」という。かつての沼沢地や遠浅の海岸は、愛媛県が昭和56年(1981)までに埋め立て、ホテル・遊技場・プールなどのレジャー施設を整備し、「南レク御荘公園」として開園したとある。
灘道は、この港から北の笹子谷へ向かって上り、山越えで長洲(ながす)へ下る。庄屋屋敷を経て日ノ平から川沿いに下って海辺に出る」とある。

衛星写真でチェックすると山裾を進んでいる。かつては山裾まで海が迫っていたのだろう。実際、前述常盤城のあった独立丘陵の辺りまで海が入り込んでいたということであり、また、現在国道の通る「南レク御荘公園」の周囲も、如何にも湿地といった趣を今に伝える。
観自在寺にある灘道も、「えひめの記憶」にある灘道も、現在の国道に沿った道筋となっているが、上述説明にあるように、長崎から笹子谷への道を進むことにする。

長崎から笹子谷へ
特に遍路道の案内もないのだが、山裾の道を成り行きで進み笹子谷から日の平に抜ける道に向かう。道が笹子谷へと向かう道に当たるところに「右 へんろみち」の石柱が立つ。結構新しい。道を進み緩やかな上り、そして下りで日の平の集落に出た。

日の平から国道56号に
丘陵に挟まれた日の平集落から南西に進み再び国道56号に。この丘陵地を迂回するルートを進んだということは、現在御荘港がある一帯は、かつては海であったということだろう。

国道56号に出た先の灘道について、「えひめの記憶」は、「ここからほぼ国道に沿い、ゆるい坂道を上り平山の集落に入る。八百(はっひゃく)坂の切通しの手前を右折し、山あいの猫田に向かう。このあたりは「ミショウ柑」の産地で傾斜地一面を柑橘(かんきつ)園が覆(おお)っている。
猫田より西に大きく迂回して坂を下ると八百坂である。ここで再び国道と出会い、菊川の厳島(いつくしま)神社の方向に進むと神社横の国道沿いに、里程を示す3基の道標が並んで立っている。これらは最近ここに移設・建立されたと思われる」とある。

八百坂切り通し手前から猫田に入る
現在の遍路道は国道を進んでいるが、「えひめの記憶」の記述に従い、八百坂切通し手前で国道56号と分かれ猫田に入る。猫田までは等高線に沿って進む。


猫田から国道56号へ
猫田の集落からは標高を50mほど下げながら西へとる。舗装はされている道ではあるが、狭く木々に覆われた道を下ると国道に出た。切り通しがいつの頃できたのか不明であるが、切通しが出来る前の道筋としては、この道筋が「自然」かな、などと衛星写真を見ながら想う。

厳島神社の道標3基
国道56号を進むと、左手に如何にも社の杜。国道脇に3基の道標が立っていた。 左端の道標には「平城へ一里二十三町」「明治四十五(1912)年五月祭誕」とあり、中央の道標には「きくかわはし」、右端の道標には「柏へ一里十五丁半」と刻まれる。左端の道標には上部に穴が開いている。神社の幟用ではあろう。

菊川から梶屋集落へ
「えひめの記憶」には、この先の遍路道に関し「遍路道は八百坂のバス停で国道と分かれ、右手の川沿いをさかのぼり、菊川小学校の傍(そば)を通り梶屋に向かう。道は梶屋集落の段丘崖下を再び国道まで上ると、途中の段丘崖に8体の地蔵が祀られ、薄暗い木陰の道は昔の遍路道の雰囲気を醸(かも)し出す」とある。
記事に従い国道56号を少し戻り、国道から右に入る道へ。その分岐には遍路道の案内があり、その標識は国道を直進とある。少々迷うが、分岐角に立つ「四国みち」は分岐道方向を示していることもあり、結局「えひめの記憶」にある道筋へと分岐道を進むことに。
梶田の地蔵
菊川左岸の山裾の道を進み、梶屋の集落で川を右岸に渡り、上を走る国道との比高差20mほどある河岸段丘下の道を進む。記事にある段丘崖の地蔵はどこにあるのかわからない。
偶々犬の散歩をしていた地元の方に尋ねるが、よくわからないが、先に進み国道に上る荒れた土径入り口にそれらしきものを見たような気もする、と。
地元の方の案内で、梶屋集落を過ぎた先の国道へと上る土径への分岐箇所に。 その角に「へんろみち」といった消えかかった文字の木標がある。その角上の叢に地蔵と思えば地蔵とも見える石仏が一基。他の地蔵はその横の段丘崖を上る土径にあるのかと上り始める。案内して頂いた地元の方も、こんな荒れた通を通る人などいないよ、と。
確かに荒れた道。地蔵だけを楽しみに上るが、何もないまま国道56号に出てしまった。地蔵は何処に?道を引き返し地元の方に尋ねるが、それらしきものを見たことはないとのとこであり、結局諦めて国道を先に進むことにした。

梶屋から室手へ
「えひめの記憶」には「現在の国道は切通しで室手(もろで)の峠を越えているが、灘道は国道より高い山腹沿いを通り、室手の峠を経て内海村の柏へ入っていた。国道の改修で灘道沿いにあった「右へん」と刻字された小さな道標は内室手の藤田邸の入口に移設された。過去2回にわたる峠の開鑿(かいさく)でかなり掘り下げられた切通しを越えると目の前が突如開ける。室手からの眺望はすばらしい。現在、波静かで澄んだ海面に真珠養殖のフロートが点在し漁船が行き交う」とある。

地図を見ても、室手(もろで)峠の切り通しの右手、山腹を峠へと抜ける道は見当たらない。仕方なく国道56号を進み、国道脇にある道標を見遣りながら、室手の切り通しを抜ける。
切通しを抜けた先に広がる宇和海の眺めは誠に美しかった。宇和海の眺めも素晴らしいのだが、国道下の狭い入り江に見える室手の集の景観に惹かれた。

室手から柏へ
「室手海岸沖の三ツ畑田島や鹿島を遠望しながら進むと内海村の中心地柏に至る(「えひめの記憶)」とあるように、宇和海に浮かぶ三ツ畑田島や鹿島(角島?)といった岩礁小島を見遣りながら国道56号を進み、旧内海村の中心地である柏に入る。遍路道は町の入り口で国道から右に折れ、柏川に架かる柏橋脇の2基の道標にあたる。
1基は平城への里程石であり、観自在寺への案内、もう1基は中務茂兵衛の道標であり、刻字の中に「舟のりば」と案内されており、柏坂越えを避け、柏から舟を利用した遍路もいたのでは、とは先回メモの通りである。

ここで先回歩いた「柏坂越え」のルートと繋がった。本日はこれで終了。明日は、柏坂を下りた大門から宇和島の市街へと向かう。


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