2017年12月アーカイブ

南予の遍路道を辿る1泊二日の旅の二日目。宇和郡愛南町柏から宇和島市津島町上畑地に抜ける柏坂を越える。
初日は高知の宿毛にある39番札所・延光寺からはじめ、予土国境の松尾峠を越え愛媛の宇和郡愛南町小山まで下りた。本来なら、そのまま遍路道を進み、愛南町御荘平城にある40番札所・観自在寺へと進むのだろうが、今回も常の如くまずは峠越え・山越えの道を「潰し」、そのあと平場を辿り、遍路道を繋ぐ、といった段取り。松尾峠の次に待つ山越えが柏坂である。
柏坂は片道12キロほどありそうだ。ピストン往復では8時間もかかることになる。ちょっと難儀。ピストンを避ける手段を想うに、柏坂の上り口、下り口が国道56号に面している。宇和島市から宿毛まで鉄路もないわけで、国道であればさすがにバスが走っているのではとチェックすると、柏坂への上り口の柏、下り口の大門にはバス停があり、午前7時代からバスが走る。 ということで、柏坂越えは当初覚悟してきたピストンを避け、下り口の大門バス停近くに車をデポし、バスで柏まで移動。柏で下車し柏坂越に向かうことにした。

本日のルート;
大門バス停>柏バス停>柏橋脇の道標>山崎橋脇の道標>柏坂取り付き口>野口雨情の詩〈歌?〉>柳水大師堂>林道と交差>牛止めの石組>清水大師堂>コメン木戸>接待松>つわな奥>猪のヌタ場>女兵さん 思案の石>思案坂>狸の尾曲がり>鼻欠けオウマの墓>クメヒチ屋敷>林道と交差>馬の背駄馬>道標>茶堂休憩所>茶堂集落の農家に>二本松大橋>小祝橋脇の道標>芳原川に合流>三島橋>大門バス停>大門の薬師堂>車デポ地

大門バス停;午前7時18分
宿泊地の宿を出て津島町上畑地、国道56号にある大門バス停に。ゆったりとスペースをとった立派なバス停である。かつては「魔の横断歩道」とも称された危険極まりないバス停であったようだが、平成3年(1991)に交通事故予防のため現状の姿に造り変えられたようである。
で、車のデポ地を探すに、なかなか適当なところが見つからない。遍路道でもある大門バス停から芳原(ほはら)川左岸の道脇に一旦車をデポするも、民家が近く、なんとなく落ち着かない。結局右岸の国道手前の空地を見付け車をデポし、バス停に。
定時にバスが到着。国道を進み嵐坂隧道を抜け、宇和海に沿って走り、西に長く飛び出した由良半島の首根っこの鳥越隧道を通り、右手に宇和海を眺めながら灘を経て内海隧道を抜け柏のバス停に。
国道56号
今でこそ快適な国道56号ではあるが、整備されたのはそれほど昔のことではないようだ。宇和島から宿毛を結ぶ道路が県道から二級国道を経て、一級国道に指定されたのが昭和38年(1963)。昭和37年(1962)の舗装率は14%といった記録もある。
国道となり本格的に改修工事が行われたのは昭和40年(1965)から。昭和47年(1972)には改修工事は完了。隧道21カ所(7315m)、橋梁37カ所を造り、宇和島と宿毛を繋いだ。
国道指定前の道
藩政時代の道筋は別途メモするとして、明治以降の国道56号の道筋の概略をメモする。
車馬の往来や物資の輸送といった、「道路」と呼ばれる道の改修は明治から。宇和島から宿毛に至る「宿毛線」は当初県道三等であったが、明治?年(1879)里道に降格。この状況を改めるべく、明治26年(1893)には県会において「宿毛線」の県道編入の建議が可決されるも、翌27年(1894)には県会で否決され明治末までその状態が続いたようである。
このような状況のもと、明治41年(1908)から43年(1910)にかけて難所である松尾坂越えの道が竣工し、一車線の砂利道ではあるが、宇和島市街から津島町岩松をつなぐ道は、明治末までにはできていたようだ。
が、この大門のある畑地もそうだが、岩松以南、下灘に繋がる道の整備はずっと遅れた、と。その因は、往来は船便に頼っていた故、とのことである。 一方、南の御荘側からの道の整備は、県会での県道編入の否決を受け、南宇和郡7ヶ村の代表が県道編入の請願をおこない、明治29年(1896)、御荘村貝塚より一本松村境に至る区高知県境に至る里道が改修されるに至る。明治32年(1899)には城辺より一本松を経て高知県境に至る道が「仮定県道」に編入。この改修工事が明治44年(1911)には内海村まで行われ、明治44年(1911)には初めて御荘村から平山(現在の御荘港の北)までの区間が改修され、翌明治45年(1912)には菊川を経て柏に達した。
平城から柏までの改修が終わると、道路改修は中断。柏から北に更に改修工事を延ばすべく、大正2年(1913)には、「いくつかの候補路線の中から、海岸線の路線(現在の国道筋)改修を陳情し、大正4年(1915)には柏崎まで開通。大正8年(1919)には鳥越隧道も完成し、北の畑地と南の御荘が繋がったようだ。
とはいうものの、大門から直ぐ南の嵐坂隧道が抜けたのは昭和18年(1943)、柏から柏崎の半島を迂回せず大浜に抜ける内海隧道が開通したのは昭和45年(1970)のこと。
道の整備は「ぼちぼち」といったペースであり、本格的な整備は一級国道昇格の昭和38年(1963)を待つことにはなるが、昭和25年(1950)の愛媛を走る自動車保有台数は4,932台、昭和39年(1964)でも68、690台というから、道路整備のペースもこの数字を見れば、あまり違和感がない。
明治の道路規定
「内海町史」には、「明治6年(1873)、「河港道路修築規定」が制定され、全国的幹線道は一等、脇往還・枝道は二等、その他の地方道は三等に規定される。明治9年(1876)には「太政官達第六十号」で国道、県道、里道に分類される。 宇和島から宿毛に至る「宿毛線」は当初県道三等であったが、明治?年(1879)里道に降格。
明治17年(1884)の「南宇和郡柏村里道等取調牒控」によれば、北宇和郡上畑地村境字フタマタより南宇和郡菊川村境字ヌメリバエ」に至るいわゆる「柏坂越え」の道は、里程一里十八丁で平均幅一間の里道一等と記されている」とある。
里道をめぐる道路制度上の変遷も面白いのだが、それよりなりより、山道に対し里道と、適当に使っていた「里道」が、制度としての役割を知ってしまった以上、今までの様には気楽に使いにくくなった。

柏バス停;7時34分
大門バス停から16分ほどで柏バス停に到着。由良半島の首根っこの鳥越隧道を境に、宇和島市津島から南宇和郡愛南町柏に入る。
柏バス停のある柏は、現在は愛南町であるが、平成16年(2004)、御荘町・城辺町・一本松町・西海町と合併し愛南町となるまでは、南宇和郡内海村の役場のある村の中心地であったようだ。
旧内海村
内海の地名の由来は、由良半島の南半分、御荘港を囲み西に延びる半島の北部までを村域(後年、南内海村として分離)とし、内海湾を囲んでいたから、とか。
モータリゼーションの視点から、陸の孤島とも呼ばれて久しかった当地の歴史は古く、寛治四年(1090)の「加茂社古代荘園御厨」に「伊予国内海」とあり、当時の内海一帯は京都の賀茂社の御厨(神領。神社の「荘園」と言ったもの)として下賀茂神社に海の恵を寄進していた、と。
移動手段を舟の視点から見れば、山に囲まれ、また海岸まで山が迫るこの地域も、舟で生計を立てる村人にとっては、それほどの「障害」ではなかったことかとも思える。

柏橋脇の道標:7時37分
国道から柏川の北詰にある「柏坂休憩地2.5㎞」の道標に従い、柏川右岸を進む。ほどなく柏橋に。橋の袂の商店の角に2基の道標が立つ。小さい道標は御荘の「平城 二里**」と刻まれる里程石。もう一基は茂兵衛道標。柏坂方面の石面には「龍光寺」と刻まれ、柏橋を左岸に渡る方向を示す面には愛南町御荘平城にある「観自在寺」と刻まれる。この道筋が旧道であり、遍路道ではあろう。
旧道とはいいながら、柏のすぐ北にある国道56号・内海隧道が開通したのは昭和45年(1970)であるから、ほんの最近まで、この道を柏崎に向けて進み半島を迂回して大浜へと出ていたのだろう。
茂兵衛道標にはその旧道に沿って「左 舟のりば」と刻まれる。柏坂越えを嫌って柏から舟を利用した遍路もいた、という。

山崎橋脇の道標;7時47分
道を進むと山崎橋の袂に自然石の道標がある。「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」によると「山崎橋の袂に柏坂越えの里程を示した自然石の道標があり、「坂上二十一丁 よこ八丁 下り三十六丁」と刻まれている。
この道標は昭和61年(1986)まで田んぼの傍らに放置されていたものを「柏を育てる会」の人たちが現在地に移転、修復したという。
津島町上畑地小祝(こいわい)までの全道程65丁(約7 km)はさほどの距離ではないが、多くの旅人や遍路が苦労したのは坂上21丁の急坂、標高450mの峠に登る急勾配の上り坂である。
この柏坂は、戦後間もないころまで地域の生活道路として利用され、向こう側の津島町畑地や上槇地区とは頻繁(ひんぱん)に行き来があったという。海岸部を通る現在の国道が整備されるにつれ、柏坂を通る人は減少し、道は荒廃していたが、内海村や「柏を育てる会」の人たちの懸命な奉仕作業で生き返った。道端に桜の苗木を植え、道の補修・整備を行い、旧遍路道「柏坂」を復活させ、先人の残した歴史的遺産を守る活動を続けている。この道は現在、環境庁の「四国のみち」に指定され、自然歩道として再び光を浴びてきた。毎年、春には「へんろ路ウォーク大会」が開催され賑(にぎ)わうという」とある。

柏坂取り付き口;7時49分
山崎橋と自然石道標の間、柏川右岸にある遍路道案内の先に一件の民家が見える。民家のある角に立つ「柏坂休憩所1.7km」の「四国のみち」の案内に従い、左折し民家前を進むと土径に。民家脇が柏坂越えの取り付き口となっていた。 取り付き口には「柏坂登り口」「柳水大師堂まで2.5km つわな奥展望台まで4.4km 大門バス停まで12.2km」の案内が立つ。
「えひめの記憶」には「澄禅は「夫(それ)(観自在寺)ヨリ二里斗往テ柏ト云所ニ至、夫(柏)ヨリ上下二里ノ大坂ヲ越テハタジ(畑地)卜云所ニ至ル。」と『四国遍路日記』に記している。登り口から標高350mの柳水(やなぎみず)大師堂のある柏坂休憩所まで約1.7kmの道程である」とある。
登り口の案内と「えひめの記憶」に記された柏坂休憩所までに距離は異なっているが、とりあえず大門バス停まで12キロ強歩けばいいことだけわかれば十分な情報である。
柏坂越え(前半)
●澄禅の『四国遍路日記』 先回の散歩のメモの空性法親王の箇所で「えひめの記憶」には、「近世になって世情が安定するとのともに四国遍路は盛んになっていったが、近世以前から近世にかけてのまとまった四国遍路資料はごく限られたものしかない。そのうち、嵯峨大覚寺の空性法親王が寛永一五年(一六三八)八月より一一月にかけて四国霊場を巡行した折の記録『空性法親王四国霊場御巡行記』や、それから一六年後の承応二年(一六五三)七月から一〇月にかけて四国を巡った京都智積院の僧澄禅の『四国遍路日記』などは、もっとも初期の遍路資料として貴重なものである」としたが、この僧澄禅の『四国遍路日記』について、同じく「えひめの記憶より以下引用する;
「この日記は、現在宮城県塩釜神社に写本が残されている。筆者の澄禅は肥後国球磨郡の生まれで、新義真言宗の本山の一つ京都智積院の僧である。この遍路は澄禅四一歳の時のことであり、承応二年(一六五三)七月一八日に高野山をたち、一〇月二六日結願まで九一日間の旅であった。
柏坂越え(後半)
この旅の記は、巡拝した寺社の縁起や里程の紹介のみならず、各地の庶民生活に目をとめて、人情・風俗・言語・宗教などの細かな観察なども記しており、四国の地方史の資料として、また江戸初期の遍路の実態をよく伝える資料として価値が高い。
伊予路の部分を見ると、四二番仏木寺、四四番菅生山太宝寺などの縁起説話や、四五番岩屋寺の迫割岩の話、四六番浄土寺に詣でた折に宿った久米村武知仁兵衛など、各地の正直篤信な人たちへの感銘、五五番三島宮や六二番宝寿寺における旧知の僧との語らい、石鎚山の雪景の印象、六五番三角寺への山道の険阻と紅葉の美景への賛嘆などに筆を費している。なかでも、弘法大師練行の場と伝えられ、一遍上人再出家の幽境岩屋寺と、四国八十八か所巡りの元祖衛門三郎ゆかりの五一番石手寺の記述は詳しい。
澄禅が記す衛門三郎転生譚は、伊予国浮穴郡荏原の庄の強慾な長者として知られる衛門三郎説話とは異なり、伊予の大守河野殿の下人で石手寺の熊野一二社の掃除番であったとする珍しい説であるから、次に引いておく。
中古ヨリ石手寺ト号スル由来ハ、昔此国ノ守護河野殿トテ無隠弓取、四国中ノ幡頭ナリ。石手寺近所ノ温ノ泉ノ郡居城ヲカマエ猛威ヲ振フ。天正年中迄五十余代住ケルト也。扨、右ノ八坂寺繁昌ノ砺、河野殿ヨリモ執シ思テ衛門三郎卜云者ヲ箒除ノタメニ付置タル。
毎日本社ノ長床ニ居テ塵ヲ払フ。此男ハ天下無双ノ悪人ニテ慳貪放逸ノ者也。大師此三郎ヲ方便ヲ教化シテ真ノ道二入度思召ケルカ、或時辺路乞食ノ僧二化シテ長床二居玉フ。例ノ三郎来リ見テ、何者ナレハ見苦キ躰哉ト頻テ追出ス。翌日又昨日居玉フ所二居玉ヘハ又散々ニ云テ追出ス。
三日目二又居玉フ、今度ハ箒ノ柄ヲ以テ打擲シ奉ル。其時大師持玉ヘル鉄鉢ヲ指出シ玉ヘハ此鉢ヲ八ツニ打破ル。其時此鉢光ヲ放テ八方二飛去ル。衛門三郎少シ驚、家ニカエレハ嫡子物二狂テ云様ハ、吾ハ是空海也、誠二邪見放逸ニシテ我ヲ如此直下ニスル事慮外ノ至也、汝力生所ノ八人ノ子共ヲ一日力内二蹴死ヘケレトモ、物思ノ種ニ八日可死云テ手足ヲチゝメ息絶ヌ、其後次第~~'ニ八人ノ子共八日二死セタリ。其子ヲ遷セシ所トテ八坂ノ近所ニ八ツノ墓在リ、今ニ八墓ト云。
後悔した三郎は髪を剃り、四国中を巡行して子供の菩提を弔う。二一度の辺路行の間、大師も姿を変えて随行し、三郎の慈悲心の堅固なのを見てとると三郎の前に姿を現わして、生涯一度の望みを叶えてやると約束する。三郎が河野家の子に生まれることを望むと、大師は三郎に石を握って往生することを教える。
三郎は一二番焼山寺の麓に往生したが、やがて河野家の世継の子孫が生まれて三日目に左手を開けると三郎の名を記した石を握っていたので、この石を込めた本尊を据えて安養寺を石手寺と改めたという。衛門三郎発心譚に、空海の飛鉢説話、玉の石の後日譚を含む詳細な説話の記録として注目される。
澄禅は伊予路を過ぎるにあたって「凡与州ノ風俗万事上方メキテ田舎ノ風儀少ナシ。慈悲心薄ク貪俗厚、女ハ殊二邪見也。」と感想を記している。次の讃岐についても「凡讃岐一国ノ風儀万与州ニ似タリ」と記しており、瀬戸内側の両国の風俗・人情と、「惣テ阿波ノ風俗貴賤トモニ慈育ノ心深シ」「凡土州一国ノ風俗貴賤トモニ慈悲心深キ」と記された阿波・土佐の印象を比較することも興味深い」。

野口雨情の詩(歌?)
坂を5分ほど歩くと木標が立ち
●「沖の黒潮荒れよとままよ船は港を唄で出る 野口雨情」
とある。
「十五夜お月さん」「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「黄金虫」「シャボン玉」「あの町この町」「雨降りお月さん」「証城寺の狸囃子」と言った童謡で知られる野口雨情は、昭和12年(1937)の日中戦争勃発により戦時色が強まり童謡作家としての活躍の場は狭まることとなるが、雨情の雄渾なる書を求める人の招きに応じ全国各地へ揮毫の旅を続けたという。

愛南町のHPに拠れば、「昭和18年(1943年)、雨情は突然軽い脳出血に冒され、それまで全国を駆け歩いていた雨情はそれ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。雨情が内海村を訪れたのはこの最後の揮毫旅行においてである(私注;「えひめの記憶」には。当地を訪れたのは昭和?年(1937)とある)。
雨情が内海村に立ち寄った直接的理由は不明ではあるが、柏の長尾魁氏の書簡による招きに応じたものと思われる。各種の聞き取り調査等によって、内海村に来た雨情は柏の旅館「亀屋」及び「旭屋」で揮毫料半折十円の揮毫会を催し、時化による航路欠航のため約一週間の滞在を余儀なくされ「亀屋旅館」に投宿したものと思われる。 
内海での詩作数は14作に及ぶ(「愛南町HP)とのことであり、この詩もそのひとつ。歌は更に道端に続き
最初の歌から8分ほど歩くと
●「雨は篠つき波風荒りよと国の柱は動きやせぬ」
そこから3分歩き、「国道56号 1.4km 柏坂休憩所 1.1km」の木標の脇に
●「松はみどりに心も清く人は精神満腹に」の歌。
さらに4分で
●空は青風菜の花盛り山に木草の芽も伸びる
更に6分、右手が開ける少し手前に
●松の並木のあの柏坂幾度涙で越えたやら
10分弱歩き「国道56号 2km 柏坂休憩所 0.5km」の木標の先に
●梅の小枝でやぶ鶯は雪の降る夜の夢を見る

歌を見遣りながら道を進むと、知らず標高を200mほどあげ、等高線230mラインまで上がっていた。坂は一部等高線に垂直に近いラインを進むことはあるが、おおむね等高線を斜めや平行気味に進む、予想に反して、結構楽な上りではあった。

柳水大師堂;8時36分
取り付き口から50分弱で柳水大師堂に。標高330m程だろうか。四阿があるが、そこか柏坂休憩所のようだ。その奥に柳水大師堂が建つ。
「柳水の案内」には、「むかし柏本街道のこの地に四国遍路の弘法大師が立ち寄られ、往還の旅人の渇きをいやすため柳の杖をつき立てたところ、甘露の水が湧き出てきたので、柳水と云うようになったとのことで、そのお杖が根付いて一本の柳が代々育っています。
また柏には、大師がお顔を剃られたと伝えられている「剃りの川」の井戸と、腰をかけられた石も法性寺とその附近に現存しています」とあった。

大師堂脇の湧水が「柳水」だろう。案内にあった、「剃りの川」の井戸と、腰をかけられた石も法性寺、はここで説明されても、後の祭りではある。
なお、案内にある柏本街道とは柏坂の別名のようである。
歌休憩所のも野口雨情の歌が建つ
●遠い深山年ふる松に鶴は来て舞ひきて遊ぶ

柏坂越えの道
柳水大師堂を離れて先に向かう。取り付き口からの柏越えの道は、結構広い。歩き遍路の峠越えの道はほとんど狭い土径、踏み分け道といったところが多いのだが、よく「整備」されている。上述、地元のボランティアの方の努力の賜物ではあろうが、この道は長い間、内海村と津島を結ぶ幹線道路であったこともその一因かと思う。
上述、「内海村史」に「明治17年(1884)の「南宇和郡柏村里道等取調牒控」によれば、北宇和郡上畑地村境字フタマタより南宇和郡菊川村境字ヌメリバエ」に至るいわゆる「柏坂越え」の道は、里程一里十八丁で平均幅一間の里道一等と記されている」とあるように平均幅一間の道であったようだ。
「えひめの記憶」には「明治15年(1882)の愛媛県行政資料『土木例規』によれば、「北宇和郡上畑地村北宇和郡下畑地村境ヨリ南宇和郡柏村ニ至ル県道筋字郷ノ町ヨリ井場マデ狭キハ四合ヨリ広キハ弐間ニ至ル凡平均七合」と記され、県道といえども道幅は平均1m程しかなく極度に狭いことが分かる」とするが、これは、県道(私注;実際は「里道」?)という観点から見れば、ということではあろう。

林道と交差;8時45分
柳水大師堂から10分弱で遍路道は舗装された道と交差する。道を渡ったところに木のベンチがあり、そこに遍路道の案内が貼られていた。
案内には「伊予遍路道 龍光道 第41番札所 龍光寺まで41㎞ 伊予遍路道は、弘法大師ゆかりの地を辿る全長1400㎞にも及ぶ壮大な回遊型巡礼路のうち、第40番から65番までの26ヶ所の札所とそれらをつなぐ約573㎞の遍路道です。
伊予(愛媛県)は、迷いから解かれる「菩提の道場」と呼ばれています。 龍光道は、第40番札所観自在寺から第41番札所龍光寺へ至る遍路道です。海側の灘道、篠山を越える篠山道、幕府巡検使の通った中道と3つのルートがあります。柏坂は、江戸時代後期に最も多く利用された灘道の中で、リアス式海岸の宇和海の絶景が眺望できる山道です。 四国遍路日本遺産協議会」とあった。
灘道・中道・篠山道
「えひめの記憶」には「松尾峠から宇和島市祝森柿の木への遍路道は、ほぼ宿毛街道と重複し、中道・篠山道・灘道の三本の道筋がある。
松尾峠を越えた宿毛街道は、一本松町札掛で中道から篠山道が分かれ、さらに同町上大道(うわおうどう)で中道から灘道が分岐する。中道は、大岩道(だいがんどう)・小岩道(しょうがんどう)の峠を越え、岩淵を経て柿の木に至る。篠山道は、四十番観自在寺奥の院篠山を越え、御内(みうち)を経て大町で中道に合流する。灘道は、観自在寺を経て一部海岸沿いを進み、柿の木で再び中道と合流して宇和島城下に至る」とあり、
また「真念が貞享4年(1687)に出した『四国邊路道指南』によると、御荘町平城(ひらじょう)の観自在寺からの道筋について、「一すぢ、なだ道、のり十三里。一すぢ、中道大がんだう越、のり十三里。一すぢ、ささ山越、のり十四里半。三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」と記され、
さらに「『愛媛県歴史の道調査報告書第七集宿毛街道』には、一本松町札掛から宇和島市柿の木までの三本の遍路道のうち「遍路が多く通った道は『灘道』で、次いで『篠山道』であった。『中道』は『四国邊路道指南』に記されているように、遍路道の一つであったが、その道の急峻さ、観自在寺の所在地などからして遍路道としての使用頻度(ひんど)は高くなかった。」と記されている。近世以降の遍路は、ほとんど灘道を通ったものと思われる。時代の流れによって中道、篠山道の順で歴史から姿を消していくことになるが、現在でもわずかの遍路が柏坂の灘道を通っている」とする。
今回辿る柏坂越えは、海岸沿いの灘道ルートである。

牛止めの石組;8時59分
舗装された林道(?)脇にある「柏坂へんろ道」の木標に従い土径に入る。開けた南の山波を見遣りながら進むと野口雨情の歌
◆山は遠いし柏原はひろし水は流れる雲はやく

そのすぐ先の道脇に石垣が見える。石組の脇に「岩松村 土居儀兵築営」と刻まれた石碑が立つ。特に案内もないのだが、この後辿る「ゴメン木戸」にあった案内から妄想するに、牛止めの石垣ではないかと。怖がりの牛は1mの段差があれば下りることができない、と。
怖がりといえば、沢を渡るとき、沢に渡した木の間から沢が見えるだけで足がすくんで動けないため、木の間に隙間を空けないように土止めをした、といった記事を思い出した。

清水大師堂;9時5分
牛止めの石組(?)から先は450mから460m等高線の間に沿った平坦な道となる。柏坂越えの最高峰は標高502mの大師峰だが、遍路道はピークを巻いて進む。 5分ほど歩き「柏坂休憩地 0.7km 茶堂休憩地2.7km」の木標の下部に「清水大師堂30m」の案内。

左に折れて道を下ると小祠とその横にささやかながら崖からの湧水が。案内には「大師水 ある年の夏、一人の娘巡礼がこの地にさしかかった時、余りののどの渇きに意識を失い倒れてしまいました。するとそこへ弘法大師が現われ、娘を揺り起こしながら、傍らにあるシキミの木の根元を掘るようにと言い、姿を消しました。意識を取りもどした娘が、シキミの木の根元を掘り起こしてみると、真清水が湧き出し、娘がその水を飲むと持病の労咳がすっかり治ったという話が残っています。
また、この地において、昭和?年頃までは、毎年旧暦の7月3日になると、近郷近在の力士による奉納相撲が行われ、多くの人が集まり、市がたっていたそうです」とあった。
大師堂前は少し広く切り開かれた平坦な地となっており、奉納相撲はできそうであった。

コメン木戸;9時16分
清水大師堂で少し休み、崖道を上り返して遍路道に戻る。10分弱歩くと「ゴメン木戸」の案内。「この辺一帯は昭和?年代迄大草原で、近在農家の中の草刈り場であった。
明治の頃には放牧が行われ、津島の牛が南宇和郡内へまぎれ込むのを防ぐため、頂上(通称ヒヤガ森、502メートル)へ向け、延々と石畳が築かれていた。牛は1メートル位の高さがあれば降りないという習性(二次元動物)を利用したものる。と思われ、ここに木戸が設けられていて、人々は「ゴメンナシ」と言って通行したそうである」とある。
先ほど見た石組を牛止めの石垣では?と想像したのはこの案内の記事故である。今、この地にその放牧地の面影はない。

接待松;9時21分
平坦な尾根筋の道を5分ほど歩くと「接待松」の案内。「接待松(別称ねぜり松)跡 ある日、病気で足の不自由な人が箱車に乗り、50人程の人々によって、大綱をかけ引っ張り上げてもらっていました。
丁度この地にさしかかった時、俄に一陣のつむじ風が吹き荒れ、蛇のように曲がりくねった大松が箱車を押し潰すかのように思われ、思わず箱車から逃げ出そうとしました。そのはずみで、長年の足の病が治ったという話が残っています。
また、弘法大師ゆかりの日には、地元の人達がこの場所で、お遍路さんに茶菓子の接待をしていたといわれていますが、名物となっていた大松は、昭和30年頃に伐採され、今は朽ちた株を残すだけとなりました」とある。 「ねぜり」とは「ねじ曲がった」といった意味だろう、と思うのだけど、箱車云々との関係は、いまひとつよくわからない。








つわな奥;9時25分
接待松から5分で左手が大きく開ける。素晴らしい眺め。あいにくの雨模様ではあったが、雨に煙る由良半島もなかなか、いい。「えひめの記憶」のには「 江戸初期の俳人で、遍路としてここを訪れた大淀三千風は「柏坂の峯渡り日本無双の遠景なり九州は杖にかかり伊予高根はひじつつみにかたぶく。」と眺望のすばらしさを称え、
高群逸枝は『娘巡礼記』の中で「『海』...私は突然驚喜した。見よ右手の足元近く白銀の海が展けてゐる。まるで奇跡のやうだ。木立深い山を潜って汗臭くなった心が、此処に来て一飛びに飛んだら飛び込めさうな海の陥(おと)し穽(あな)を見る。驚喜は不安となり、不安は讃嘆となり、讃嘆は忘我となる。暫しは風に吹かれ乍ら茫然として佇立(ちょうりつ)。」と歓喜している。つわな奥展望台からは、すぐ眼下に宇和海に浮かぶ由良半島や竹ヶ島(私注;由良半島の北に浮かぶ)が手にとるように鳥瞰(ちょうかん)できる」とある。
「つわな」とは「つわぶき」とある。海沿いの草原や崖、林の縁に見られる常緑の多年草のようだ。





猪のヌタ場;9時33分(標高420m)
「つわな奥」を過ぎると再び木々の中に。5分ほど平坦な道を進むと「猪のヌタ場」の案内。「イノシシが水溜り(ここは電話線が通っていた電柱の跡)の泥の中で水浴みをし、更に傍の木に体をこすりつけ、付着している寄生虫を殺し毛づくろいをする所をヌタ場といい、この街道沿いにも数ケ所あるが道ばたにあるのはここだけである」とある。
結構いろんなところを歩いたが、さすがに「猪のヌタ場」も案内ははじめてである。「猪のヌタ場」を越えると、尾根筋に沿って下ることになる。

女兵さん 思案の石;9時37分(標高380m)
5分ほど尾根筋を下ると「女兵さん 思案の石」の案内。「食料難の時代、かつぎ屋の兵次郎(ひょうじろう)さん──女のような姿態をしていたので、人呼んで「女兵さん」──ヤミ物資をかつぎここ迄来ると、不意に雲をつくような大入道が現れ「コラッ女、こっちえ来い」「わたしゃ、男なんですよ」「ナラ証拠を見せい。わしのより立派やったら、コラエテやらい」
腰を抜かさんばかりの兵さん、やおらニッコリ、褌に手をかけました。兵さんをからかったつもりの大入道、一物をチラッと見、あわてて退散しながら「上には上があるのお、わしゃたまげた」と。

内容はともあれ、この類の笑い話も「トッポ話」のひとつだろうか。「えひめの記憶」には「トッポ話の風土」として、「トッポ話は南予の、それも潮風のあたる地域で醸し出される笑い話であるとされる。宇和海は瀬戸内海とはいくらか潮の色や動きが異なるのか、その沿岸の住民たちの気風や性格、それに行動の型も特異なものがあるようである。三崎十三里といわれる佐田岬は宇和海型の思考と瀬戸内型のそれを截然と分かつ障壁のごときものであるかもしれぬ。太平洋黒潮文化圏と呼ばれるものがあるとすれば、いくらかそれに近いように思われる。
「ここいらでは当りまえのことでも、よその人に話したら〝おかしい〟ことがようありますらい...」と南予の人はいう。獅子文六の小説『てんやわんや』に、あるいは『大番』に描かれた饅頭を底なしに食う男、ラブレターをガリ版で刷って配る男は実在したし、そのことは「なぁんちゃ、ちっとも〝おかしい〟こたぁあるかい」程度の日常茶飯事であった。風土がそもそも多少の怪奇性を帯びているとすれば、そこに生息する生きものもいささが奇矯であってもしかたがないと思うのは第三者の観方であって、当人たちはすこぶる正常なのである。
宇和海の島や沿岸には稲作に適する水田はごくわずかで、急傾斜の山肌に営々として小石を築きあげて段畑を作った。そこに麦・藷をうえて主食とし、宇和海の干し鰯を副食として生きてきた。イモとカイボシ、これほどの食文化の理想型を無意識のうちに実践してきた、あるいは実践せざるをえなかった人々は他にはあるまい。農耕型と一種味わいのちがう準海洋型の南予人の発想がトッポ話を育んできたといってもよい。とにかく、親切明朗で奇抜であり、そのくせ適当に狡猾でもあるのが南予準海洋人の性格であるとされる。
第三者からすれば突調子もないことを言ったりしたりする者はトッポサクと呼ばれ、いくぶんかの軽蔑忌避の念をもって遇されかねぬが、トッポ話はおのれを愚にして他をもてなす謙譲の技法なのである。粒々辛苦の果てに生み出した奇想天外な主題を巧みに構成して効果的に語るのがトッポ話である。それは一つの技芸であり、文学であり、かねてまた人を愛し遇する技術でもある。宇和海の潮風と太陽が生み出した人間の話術である」とする。
更に続けて「えひめの記憶」には「『えひめのトッポ話』として、「海があって山があって小さな集落があって、一般に南予と呼ばれる伊予の南部地方は、ある意味で日本のふるさとであります。人々のやさしさはこれに尽きるものはなく、自然の美しさもこれに優るものはありません。そして、ここには〝トッポ話〟があるのです。遠い昔、藩政時代の苦しさを自ら慰めるためにそれを笑い飛ばした人々の生活の知恵がありました。数限りない底抜けに明るい話が、親から子へ、それから孫へと語り継がれ、それが今しっかりと伝えられています」と、『えひめのトッポ話』のまえがきのなかで編者和田良誉は述べている。「えひめの...」と名付けられているが、内容的にはこのまえがきに明らかにされているように「南予の...」〝トッポ話〟である」とする。
「女兵さん」の話は上述説明に当てはまるか否か、少々疑問ではあるが、他にはなかなか面白い「トッポ話」もあった。獅子文六さんの名が出たが、この先津島の町で獅子文六ゆかりの地に出合うことになる。

思案坂;9時40分
女兵さんが何を思案したのか、思案の石って何?といったことはトッポ話からはよくわからないのだが、女兵さんの案内のすぐ先に「思案坂」の木標が立つ。尾根筋を下る緩やかな坂ではある。








狸の尾曲がり;9時45分
緩やかな坂を10mほど標高を下げると「狸の尾曲がり」の案内。「昭和61年秋、「四国のみち」の調査に来た、県の係官3名、この街道のはえぬき「三兄(さぶにい)」の案内にしたがい、峠から下りる途中雑草茂るこの地で、道を誤って反対側に入り、しかも逆に100メートルばかり上った。若い係官「オッチャン、さっき通った所に出たんじゃない。木の皮を削っているよ」
ハッとした三兄「アリャ古狸め、またワルサしおって」
皆さん、ここで、ご同伴が、美人やハンサムに見えなかったら「ソレワ大ごと」──気いつけなはれや」とあった。

鼻欠けオウマの墓;9時51分
更に5分ほど下ると「鼻欠けオウマの墓」の案内。「明治のはじめ、梅毒にかかり、鼻が無くなったお馬さん、女性自身をしゃもじでたたきながら、くりかえしていました。
「お前の癖がワルいから、わしゃ鼻落ちた」
若いころの面影もないオウマさんを、里人たちは大事にいたわり、死後婦人病除けに、参拝された時期があったそうです」とある。
おおらかといえばそうでもあるが、上述「えひめの記憶」に「粒々辛苦の果てに生み出した奇想天外な主題を巧みに構成して効果的に語るのがトッポ話である。それは一つの技芸であり、文学であり、かねてまた人を愛し遇する技術でもある」とするほど昇華されているとは思えないのだが。。。

クメヒチ屋敷;9時55分
数分下ると「クメヒチ屋敷」の案内。「むかし、ここにひなびた館があり、おクメさん、おヒチさんの美人姉妹が住んでいて、近在の男達が米一握り水一桶持参し、遊びに来ていました。やがて玉のような男子が生まれ、「クメヒチ」と名ずけ大切に育てられましたが、姉妹は当時流行した、悪性のオコリ(赤痢といわれている)にかかり、二人とも、アッとゆう間に亡くなりました。
成人したクメヒチさんは、ここに一庵を建て、二人の霊をまつったそうです。 現在は厠の跡らしい石組みが、うかがえる程度ですが、今にもオクメさん、オヒチさんが現れて来そうな幽玄な気のする所です」とあった。辺りに屋敷跡は特に見えなかった。

林道と交差;9時57分
ほどなく林道と交差。地図を見ると東側の芳原川の谷筋から繋がる実線ともうひとつ、延々と東に向かい観音岳の北麓を巻き、宿毛街道中道の小岩道と繋がる実線が描かれている。西は直ぐ切れていた。
なにか面白い展開は?と地図を眺めたのだが、特になにも確認できなかった。

馬の背駄馬;10時1分
林道をクロスし土径に入り少し進むと、「馬の背駄馬」の木標があり、その先のやせ尾根に「馬の背」の木標が立つ。やせ尾根が馬の背というのはよく知られた言葉だが、そこに駄馬、この場合はダメ馬というより、荷を運ぶ馬といった意味だろうが、その関係についての説明はなかった。




道標;10時15分
そこから10分強歩くと道標がある。「へんろ道」と刻まれた道標の手印は「南の第40番観自在寺方面を指す。「えひめの記憶」には「四十番いなり寺」と間違って刻字されている」とある。何が間違い?「いなり寺」とは宇和島にある第41番札所・龍光寺」。が、手印は観自在寺方向を指しているわけで、「四十番観自在寺」とするのが正しい、ということだろう。





茶堂休憩所;10時21分
道標から5分程歩くと四阿がある。茶堂休憩所についた。実のところ、道の途中から大雨となり、四阿で雨具に着替え。屋根のある四阿で気が抜けたのか、休憩所近くにある「トッポ話」の案内を見逃したようだ。
実際に目にしたわけではないのだが、チェックすると「土佐の愚か村話の名人が、津島町の茂八と、トッポ話の試合に来ました。名人が茂八を訪ねると、家の前では?歳あまりの女の子が遊んでおり、「茂八さんはおるかの」と聞くと、留守だといいます。「どこへ行ったのか」と尋ねると「父やんは裏の山がかやりよる(くずれている)いうので、線香持ってつっぱりに行ったぞなし」と答えます。土佐の名人、さすが茂八の娘と感心して「お母やんは...」と聞くと、「母やんは座敷で、のみにぽんし(ちゃんちゃんこ)を着せて遊ばしよる」といいます。名人はこれではとうてい茂八にかなわぬとばかり、ほうほうのていで逃げ帰ったとか。
津島町には、このような楽しいトッポ話(ほら吹き話)が数限りなくあります」とあったようだ。「トッポ話」っぽい「トッポ話」を見逃してしまった。ちょっと残念。

茶堂集落の農家に;10時28分
四阿で着替えを終え道を下ると、石垣があり、空が開け、一瞬里に下りたのかと思うが、すぐに前面が広がる先の景色は未だ山中。が、突然一軒の農家が現れる。遍路道は左折の案内が農家に掛る。
たまたま農家にお婆さんがひとり。雨宿りを兼ねてお話し。地図で見るに、未だ結構な山の中。時に息子さんが来てくれるので、淋しくはないなどとおしゃべりを楽しむ。
名残惜しいが、雨の中先を進むとすぐ先に廃屋があった。この山間の茶屋の注楽には一軒の農家が残るだけのようである。
「えひめの記憶」には「茶堂の地名について「茶堂は藩政時代から明治初期にかけて栄えていたところで、有名な茶ガマがあったところからその名がついたといわれる。」と『旧街道』に記されている。
また『津島町の地理』には、「茶堂は明治末年には11戸の集落であったが、その後、挙家(きょか)離村が続き、昭和37年(1962)には5戸の集落になっていた。さらに58年にはわずか2戸の寂しい寒村になってしまった。(中略)この茶堂は柏坂越えの中間にあり、明治末年の11戸のうち、5戸が遍路宿を営み、収容人員は40人ほどであったが、春のシーズンには3倍程度の宿泊客を収容した。」と記述され、時代の波に翻弄(ほんろう)された灘道沿いの様子がよくわかる」とあるが、現在は1軒のみのようである。

二本松大橋;10時56分
標高190m辺りの茶堂の集落、といっても一軒だけだが、ともあれ集落を離れ、上述廃墟の脇を抜け、「国道56号 2.9km 茶堂休憩所 1km」と書かれた木標を見遣りながら、広い間隔の等高線となる緩やかな尾根筋の道を30分ほどかけて100m強下ると、沢に小橋がかかる。橋脇には「二本松大橋」と木標にある。 小祝川の支沢に架かる橋ではあろうが、「大橋」とはさ、ギャップを感じる。とはいうものの、沢に架かる丸太の一本橋に比べれば「大橋」ではあろう。




小祝橋脇の道標;11時5分
二本松大橋から10分弱、「国道56号 1.8km 茶堂休憩所2.1km」とある木標に従い、沢に沿った道を下り小祝川に架かる小祝橋に出る。やっと里に下りてきた。橋の東詰めに道標が立つ。「えひめの記憶」には「これよりいなりへ...」と刻まれた道標がある。土に埋もれて施主(せしゅ)や願主の名は見えないが、標石の形からして願主は徳右衛門と思われる」とある、

芳原川に合流;11時26分
橋から先は舗装された道となる。民家が点在する上畑地の集落を20分ほど進むと小祝川は芳原川に合わさる。川は芳原川となって下り津島の街で宇和の海に注ぐ。



三島橋;11時47分
芳原川に沿って山裾の道を20分ほど歩くと、前方に国やっと道56号が見えてくる。民家が建ち並ぶ集落の「国道0.2km 茶堂休憩所3.7km」の木標脇にある三島橋を渡り国道に向かう。



大門バス停;11時51分
柏坂を上りはしめて4時間半、大門バス停に到着。バス路線をチェックし、ピストンは不要となったが、当初の計画通り、ピストンで柏バス停まで戻ったとすれば、午後4時を過ぎることになったかもしれない、ピストンすることなく柏越えを終え、ちょっと嬉しい。






大門の薬師堂;12時
車デポ地に戻る前、バス停にある「薬師堂」にお参り。大門バス停からの国道56号の西、山裾に沿って続く遍路道を入ったところを直ぐ山側に入ると薬師堂がある。
茅葺お堂はなかなか、いい。案内には「愛媛県指定有形文化財 禅蔵寺薬師堂一棟
この建物は方三間(間口)、5.61メートル、一重、方形造、茅葺である。創建は室町時代末期とされ、その様式を残して江戸中期に再建されている。
外部は素朴な草庵風の日本の伝統的民家様式で、構造および内部1は唐様である。特に花頭窓は禅宗様の古い形のものである。
建築年代は板札によると、天正年間(1573-91)とあるが、寺の伝説によると、天文年間(1540)ごろ、畑地鶴ケ森城の鶴御前のため、津島城主越智通考が祈願所として建立したと伝えられる。
平成2年、向背、花頭窓、内陣そのままに解体修理さいた」とあつ。

車デポ地;12時10分
車デポ地に戻る。時間は十分あるのだが、なにせ突然の大雨。天気予報では昼過ぎまで天気はもつ、とのことでもあり、雨具は念のため用意した簡易雨具のみ。とてもではないが、既にびしょ濡れであり、冬の寒さもあり体力も消耗し、これ以上歩く気力はない。本日はこれで終了とする。
次回は、予土国境の松尾峠の下り口から柏坂越えの上り口を繋ぎ、さらにこの地大門から津島の町を通り、松尾峠(予土国境に松尾峠とは別)を越えて宇和島まで進もうと思う。
11月の中旬、1泊2日の予定で南予の遍路道を歩くことにした。遍路道を歩く、とはいいながら、今回は二つの峠越え・山越えが中心である。
初日は土佐(高知県)での最後の札所である39番・延光寺からスタートし、予土国境の松尾峠を越え伊予(愛媛県)の愛南町に入る。二日目は愛南町を抜ける平坦地の遍路道をスキップし、南宇和郡愛南町の北端・柏から柏坂を越えて宇和島市津島へと抜けることにした。
愛南町の御荘には40番札所・観自在寺もあり、本来ならば予土国境を越えた後、愛南町の遍路道を辿り柏坂越えとしたいのだが、なにせ時間が足りない。今回も常の如く単独・車行であり、峠越え・山越えの後はピストンで車デポ地に戻らなければならない。倍の時間がかかる。おまけに季節柄日暮が早い。
初日の松尾峠越えは5キロ強、往復で10キロ程度ではあるが、田舎の愛媛県新居浜市から高知の39番札所・延光寺のある宿毛市まで高速を使っても3時間強の時間がかかり、松尾峠越えが精一杯だろう。平場を辿る時間の余裕はない。 2日目の柏坂越えは片道12キロほどもありそう。ピストン往復で8時間、1日がかりの山越えで、とても平場を歩く余裕はないようだ。
ということで、今回は平場歩きをスキップし、松尾峠越えと柏坂越えに計画を絞ったわけだが、初日は計画どおり。二日目は柏坂の登り口と下り口にバス停があり、ピストンは不用となり爾間の余裕はできたのだが、途中で予想外の大雨。ちゃんとした雨具を持参していなかったこともありびしょ濡れとなり、柏坂を越えて散歩続ける気力は失せた。結果的には2日目も計画通りのルーティングとなった。

今回南予の遍路道を歩くことにしたのは、思い向くまま気の向くままに辿った幾つもの愛媛の遍路道歩き・峠歩きの「間」を繋げる散歩の一環。西予市宇和町(かつての卯之町)の43番札所・明石寺からはじめた遍路道を繋げる散歩も、東予の西条市までつながった。
ここにきて、どうせのことなら西予市宇和町より南、高知県から愛媛県に入るところから道を繋げようと思ったわけだ。
南予は遠い。卯之町の明石寺まで、またいくつかの峠がある。基本は峠を「潰し」、その後に平場の遍路道を辿り43番札所・明石寺へと繋ごうと思う。あと何度か南予往復とはなりそうである。

本日のルート:
39番札所・延光寺から宿毛市街へ
39番札所・延光寺>遍路道分岐に茂兵衛道標>支尾根の丘陵を越えて国道56号に出る>県道4号を宿毛市街へ>宿毛大橋脇の遍路小屋>貝塚大橋>宿毛貝塚
宿毛から松尾峠取り付き口に
山裾の遍路道入り口に車をデポ>錦の集落に向かう>錦>小深浦>大深浦
松尾峠越え
松尾峠取り付き口;12時21分>松並木の跡>街道の石畳>茶屋跡>松尾大師堂跡>松尾峠>藤原純友城址>左手前面が開ける>林道・舗装道に出る>(松尾峠取り付き口に戻る)
松尾峠下り口から小山の集落へ
林道と繋ぐ;15時18分>小山の集落;15時30分

愛媛県新居浜市から高知県宿毛市へ
午前6時前には家を出て、高速道路の松山道(有料)に乗り、宇和島北インターから先は、一部有料区間はあったものの、そのまま宇和島自動車道(無料)を走り、宇和島市の市街を越えた津島岩松で自動車専用道を下り国道56号に入る。 国道56号に下り、右手に早朝の美しい宇和海を見遣りながら走り、愛媛県の最南端・愛南町を抜け宿毛市に入る。
札所39番・延光寺は宿毛市街を抜け、松田川を渡った先をしばらく走り国道56号から少し入った山裾にあった。おおよそ3時間強の車行であった。
自動車専用道路が無料?
結構距離の長い(18キロ弱)宇和島自動車道が無料?何故とチェックすると、松山自動車道では平成22年、松山インター以西の高速道路を無料化する社会実験が行われたとあった。その名残だろうか。

39番札所・延光寺から宿毛市街へ

39番札所・延光寺
国道56号を左に折れ、田圃の真ん中の道を、山地からの支尾根のそのまた枝尾根の間に向けて入ると延光寺がある。途中高架橋桁の工事が行われている。地図をチェックすると、丘陵支尾根を切り開いた、いかにも道路工事らしき道筋が見える。国道バイパスでも通そうとしているのだろうか。
それはともあれ、仁王堂を潜り境内に入ると左手に鐘楼、参道を右に曲がるあたりに大師堂、右に曲がった先に本堂、その間に護摩堂があった。
Wikipediaに拠れば、「延光寺(えんこうじ)は、高知県宿毛市にある真言宗智山派の寺院。赤亀山(しゃっきざん)、寺山院(じさんいん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第三十九番札所。
寺伝によれば聖武天皇の勅命によって神亀元年(724年)に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したという。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれる。
伝説によれば延喜11年(911年)赤い亀が境内にある池からいなくなったが、やがて銅の梵鐘を背負って竜宮城から戻ってきた。そこで現在の山号、寺号に改めたという」とある。
目洗い井戸
「目洗い井戸」は本堂から納経所に向かう途中にあり、「延暦十四年、弘法大師久しく当山に錫を止め再興の法を修せられるに浄水乏しきを嘆かれ、本尊に擬して地を堀り加持すれば霊水自ずから湧き出る。
大師この水を宝医水と名付け閼伽水に用う。一切衆生難苦得楽の為に八十八支の煩悩を断ぜしむ。今の眼洗井戸なり 云々」とあった。
閼伽(あか)水とは、仏前などに供養される水のこと。サンスクリット語アルギャの音写、原義は価値ある物を意味する。仏教における本尊に供養する重要な供え物のひとつで、塗香(ずこう;お香)、華鬘(けまん;飾り花輪)、焼香(しょうこう)、飯食(ぼんじき)、 灯明とともに六種供養と称される、と。


赤亀と梵鐘の像
仁王堂から境内に入った右手に庭園があり、そこにある。「亀の背負うこの梵鐘には、「延喜十一年正月...」の銘が刻まれる。総高33.6cm、口径23cmの小さな鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている」と説明にあるのだが???
梵鐘は亀の背中にくっついており、とても鐘として使えるとは思えない。チェックすると、亀が運んだと伝わる梵鐘は廃物稀釈で廃寺となった折に押収され、県議会で使われ、寺が再興なったとき戻されるも、国の重要文化財に指定となった現在は通常一般公開していないようである。要は、梵鐘を背負った亀は伝説をイメージ化して造られたものかと思える。

遍路道分岐に茂兵衛道標
延光寺を離れ遍路道を進む。寺を出ると直ぐに道脇に「40番 観自在寺 歩き遍路道」の案内があり、道は車道から逸れて土径に入る。その角に石の道標が立つ。中務茂兵衛建立の道標である。
正面には「第三十九番」、歩き遍路道側には「四十番 是ヨリ七里」と刻まれる。

支尾根の丘陵を越えて国道56号に出る
車道から分かれた遍路道はすぐに丘陵地に入る。木々に覆われた遍路道も5分程度で空が開け、10分強で丘陵を下り中山の集落に出る。
そこからは、支尾根の丘陵に囲まれた田圃の中の道を5分強進むと国道56号に出る。

県道4号を宿毛市街へ
国道36に出ると、遍路道は押ノ川、小森、と進み和田から県道4号に入り松田川に架かる宿毛大橋を渡り宿毛市街に入る。おおよそ5キロ弱。単調な車道を進むことになる。
国道56号
高知県高知市を起点とし愛媛県松山市を結ぶ一般国道。昭和28年(1953)に二級国道松山高知線として指定。昭和38年(1963)に一級国道56号となり改築事業に着手。国道筋の隧道、トンネルもおおよそ昭和45年(1970)以降に完成したものがほとんどだ。
それ以前の国道56号の道筋については、2日目の柏坂越えの箇所でその経緯をチェックしようと思うが、宿毛トンネル傍には、手掘りの宿毛隧道が昭4年(1929)には掘られていたとか、後ほど辿る松尾峠の北の国道56号・一本松隧道脇には増田川沿いに昭和10年頃には旧道が通った、といった記事もあるわけで、往昔の伊予と土佐を結ぶ主要往還である宿毛街道を、馬車道程度ではあろうが、整備していったように思える。 ◆田圃の中が分水界
山塊を穿つ宿毛街道の道筋を伊予から宿毛まで辿り、更に土佐の中村まではどうなっているのだろうと地図をチェックすると、宿毛から中村までは谷筋を進み、道を遮る山塊はない。この道筋は容易に通せたのだろうなどと地図を眺めていると、奇妙なことに気が付いた。
中村に注ぐ中筋川の源流域と、宿毛に注ぐ松田川の源流域が、延光寺から宿毛市街に向かう途中の押ノ川地区の田圃でほとんど繋がりかけている。先日、兵庫県のJR宝塚線・篠山口駅近くで見た、武庫川水系と加古川水系が田圃の中で繋がる姿を思い起こした。

宿毛大橋脇の遍路小屋
宿毛大橋を渡った橋詰に遍路小屋が見えた。遍路小屋の脇には案内図が見える。実のところ、今回の散歩では、常に遍路道指南とする「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」が予土国境・松尾峠の愛媛側からしか記事がない。県を越えての高知側の記事がないのは当然と言えば当然だが、高知県側の遍路道情報はないわけだ。
図書館で一応遍路道をチェックしたのだが、詳しいルート図は見当たらない。WEBにも感想記は多くあるのだが、肝心のルート図が見当たらない。仕方なく、地形図で大雑把な松尾峠へのアプローチを想定はしていたのだが確証はあく、現地でトライアンドエラーかと覚悟していた。
が、遍路小屋脇に遍路道案内があり、そこには宿毛市内から松尾峠までのルート図が示されていた。
図書館で見た遍路道案内には国道56号を進み、直接大深浦へと国道を離れ進むようであり、地図を見てその道筋を想定していたのだが、案内図には遍路道は宿毛市街から山裾の道に入り、錦、小深浦から大深浦へと進んでいた。
ルート確定したのは嬉しいのだが、なにせ単独・車行。山裾の道は土径であろうし、ピストン往復の距離が大幅に増えることも確定した。
へんろ小屋
この「へんろ小屋」は四国四県にあり、平成28年(2016)4月現在で55のへんろ小屋が整備されている。地元の信用金庫や篤志家、企業の寄付でできているとのことである。寝袋の宿泊とはなるだろうが、歩きお遍路さんには大きな助けとなるかと思う。

貝塚大橋
遍路道案内に拠れば、遍路小屋から松田川沿いの道を北に進み、宿毛文教センターの手前を左に折れ、宿毛郵便局前を西に進み、宿毛警察署前から右手に分岐し、その道を進み国道56との合流点を右折。与市明川に架かる与市明川橋の手前・長田交差点で左折。与市明川橋のひとつ下流に架かる貝塚大橋へと市街地を抜ける。案内の通り宿毛市街を抜けると。橋を渡った北詰めには「へんろ道 松尾峠」の案内があった。一安心。
与市明川
地名が面白い。由来をチェックすると「土佐地名往来(高知新聞夕刊連載記事)」に「与市の名田。田圃に付けた名」とある。「明」は「名」に置き換わったのだろう。与市の意味は不詳だが、名田とは?Wikipediaをもとにチェックすると大名に繋がる話が現れた。
その話とは、7世紀末から8世紀初頭にはじまった律令制度が9、10世紀になると、その基礎となる支配人民単位からの租税徴収が困難となり、租税徴収を公田(土地)単位に変わる。それに伴って国衙の経営する公田を名田、また名と呼ばれる租税収取単位へと再編された。
この名田制度は11世紀より広まった荘園にも採用され、荘園内の耕作地は名田へと再編成されていった。公的・私的を問わず、支配者は「人」単位でなく「名田=土地」単位で公事・年貢を収取するようになった、ということだろう。
で、この名田を経営する者を田堵と称していたが、田堵が力をつけ名田の永代保有権を有するに至り、その名称も名主となる。大名とはもとは大きな名田を領有するものであり、名田制度は室町時代の守護領国制のもとゆるやかに解体がはじまり、戦国時代時代には戦国大名の一円支配により完全に解体し、安土桃山時代の太閤検地により名田は完全に消滅するが、領国支配者は守護大名、戦国大名、江戸の大名とその名を遺した。

宿毛貝塚
田圃の中を通る道を進むと、ほどなく「史跡 宿毛貝塚」と刻まれた石碑が立つ。その裏一帯は平坦な草地となっている。案内には「国指定史跡 宿毛貝塚 宿毛貝塚は、縄文時代中期(約4,000年前)~後期(約3,000年前)の貝塚で、昭和32年7月27日に国の史跡に指定されています。
貝塚は、当時の人たちが廃棄したごみ箱で、貝殻が最も目につきやすいことから貝塚と呼ばれておりこの宿毛貝塚からも縄文土器及び石器、獣骨、魚骨、貝類などが出土し、人骨も発見されています。
明治後半に、郷土史家寺石正路によって初めて学術的に紹介され、それ以来四国西南部に所在する貝塚として、全国的にも有名な貝塚となり、また、昭和24年8月には、高知県教育委員会によって発掘調査が行われ、東と西の貝塚を持つ四国で最大規模の貝塚であることが確認され、東貝塚からは縄文人骨が発見されました。
東貝塚と西貝塚は約60m離れた場所にあり、住居址等はまだ未発見ですが周辺に形成されていることが考えられます。なお、指定地のうち西貝塚については昭和53年度に公有化され、昭和61年度及び62年度に、史跡保存修理工事が実施され、整備が図られました。
この貝塚は縄文時代の生活を知るうえで極めて貴重な遺構であり、私たちの祖先の歩みを理解するためにもかけがえのない文化遺産です」とあった。

宿毛から松尾峠取り付き口に

山裾の遍路道入り口に車をデポ
貝塚近くで出合った方に、山裾を進む道のことを尋ねると、車では行けない、とのこと。広い貝塚に車を置けばいい、とは言われたのだが、さすがに国指定史跡敷地に車デポするのは躊躇われ、車を先に進める。
道が狭くなった先に急勾配の坂があり、その途中の左手に空き地があった。そこに車をデポし、松尾峠へ繋がる遍路道を辿ることにする。

錦の集落に向かう
デポ地から急坂を上る。のどやかな風景だ。振り返ると、急ぎ通り抜けた宿毛の市街が見える。急坂を上り切ったあたりで舗装も切れ土径となる。 土径を5分ほど進むと道は二つに分かれる。案内に従い下道を進むと前方が開け海と島が見える。
衛星写真でチェックするに、島は松田川が宿毛湾に注ぐ広い河口部にある大島のように思える。海も遠浅だろうか、河口部は砂州状態のようだ。その先、宿毛湾の向こうに見える山並みは幡多郡の半島部分だろう。地図を見てはじめて宿毛市街は宿毛湾より少々奥まった、松田川下流域にあるのがわかった。
宿毛平野の形成と地名の由来
松田川河口に形成される宿毛平野は、宿毛貝塚の時代、縄文時代中期(約4,000年前)~後期(約3,000年前)には遠浅の海であったが、松田川の運ぶ土砂の堆積により砂州が形成され、沖積平野が形成されていった。 この宿毛平野の原型をなす沖積平野は、満潮時には湿地状態となり葦が生い茂ったようだが、枯れた葦のことを古代の人は「すくも」と称した。藻屑を「すくも」とするなど諸説あるようだが、枯れた葦を宿毛の由来とするのが主流のようだ。宿毛という文字は、「すくも」の音に後世あてはめたものである。

錦の集落
道を進むと錦の集落に。車デポ地からおおよそ20分弱といった距離。歩いているときは山間の集落かとも思ったのだが、地図で見ると松田川近くまで落ちる支尾根に挟まれ、前方が松田川河口に向かって開けたところではあった。
錦の由来
「宿毛市歴史館」のWEBの記事に拠ると、「この地に住む法華津四郎の妻は京の都の人で、織物をよくし、為に村名を「錦」とした、とある。法華津四郎の出自は不明だが、この地を領した一条氏は五摂家のひとつであり、応仁の乱を避けてこの地に中央から下向したとあり、法華津某の妻が都の出といったストーリーは真偽はともあれ違和感は、ない。
なお、一条氏、長曽我部氏に仕えた立田九郎右衛門は、村の北の新城山に居館を構えたとされるが、その出城を村の西の山麓に置き、錦城と称したようである。

小深浦の集落
錦の集落の遍路道を辿り、再び農家脇から丘陵越えの土径に入る。ちょっとした切り通しを抜け、右手に池が見えるとそこは小深浦(こぶかうら)の集落。錦から10分弱であった。
小深浦の集落の周囲は一面の田圃。地名から推測するに、往昔は深く入り込んだ入江の浦(漁村)ではあったのだろう。実際衛星写真を見ると、深浦の南は松田川の河口に出来た砂州(現在は埋め立てられている)と、それに続く大島から入り込んだ入り江となっており、船運の拠点となっている。昔は深浦の入り江から舟が行き来していたのだろう。
土佐の褐牛
小深浦の田圃の真ん中南北に貫く小川(新城山の山麓が源流)の脇に石碑があり、「土佐の褐牛 モーすぐ伊予やけん ことお(注;「お」は小文字)たら ちいと休まんかね」と刻まれる。 土佐の褐牛は明治の頃、九州より移入され、水稲二期作の盛んな土佐で使役牛として盛んに飼育されたようだ。農耕牛としての需要が無くなった現在、土佐の褐牛は食用として改良が重ねられているとのことである。
で、「ことお」って? 気になってあれこれチェックすると、「こたう ことうた」で「疲れる。身にこたえる。一日歩きまわってことうた(疲れた)」との記事があった。

大深浦の集落
小川を越えてそのまま丘陵の道を進み、5分程度で大深浦の里を走る車道にでる。ここも元々は入り江の浦(漁村)ではあったのだろう。小深浦より気持大きな「浦」に見える。
何故に山麓の道を?などとも思っていたのだが、往昔現在の海岸沿いの道は一面の湿地・海であったとすれば、至極納得の道筋ではあった。
それはともあれ、松尾峠越えはこの大深浦から取り付くことになる。山裾の道を車道と繋ぎ終え、ひとまずピストンで車デポ地に戻る。

松尾峠越え

松尾峠取り付き口;12時21分
宿毛貝塚近くの車デポ地まで戻り、山裾の道を大深浦の車道と繋いだところに戻り、遍路道でもある狭い車道を松尾峠の取り付き口まで進める。
車道は土径に入る松尾峠の取り付き口まで進めることはできたのだが、そこは民家の倉庫・車庫の前。さすがにそこに車をデポする勇気はなく、道を少し戻り、適当なスペースを見つけて車をデポし、峠への取り付き口に向かう。
松尾坂口番所
峠への取り付き口へと向かう途中に「松尾坂口番所」跡があったようだが、車で走った為か見逃した。一応案内をメモしておく「松尾坂口番所跡 松尾坂は、伊予と土佐を結ぶ重要な街道であったため、その麓にあったこの番所(関所のこと)はすでに長宗我部の戦国末期から設置されていた。
慶長6年(1601)山内氏入国後も、この番所は特別に重視され、四国遍路もここと甲浦以外の土佐への出入りは許されなかった。そのため多くの旅人でにぎわい、多い日で三百人、普通の日で二百人の旅人があったと古書に記録されている。この旅人を調べ、不法な出入国者を取り締まったのが番所で、関守は長田氏であり子孫は今もここに居住している」と。

松並木の跡;12時35分(標高130m)
峠への取り付き口には「松尾峠 1.7km」の木標。思ったより短そうだ。ゆるやかな上りの右手にはミカン畑が続く。ミカン畑は結構長く続き、5分ほど歩き、右手が大きく開ける谷筋はミカンの木で埋め尽くされていた。
少し進み今度は左手が開け、宿毛湾が少し見える辺りに「松並木の跡」の案内板。「松尾坂の街道全体に松並木があったが、戦時中軍部の指示により船の用材にするためすべての並木松が伐採され、その根は掘られて松根油の原料とされた。その掘り跡が街道の各所に残っている」とあった。

街道の石畳;12時39分(標高180m)
松並木の案内の先は竹林。その先の土径は木で土止めをした階段になっている。脆い地盤を補強しているのだろうか。と、その先に「石畳」の案内。「この道は重要な街道であったため、雨水で土の流失のおそれがある所では、ところどころこのような石畳がしかれ、路面を整備していた」とある。
石畳と言えば、それらしき名残も感じられるが、箱根の旧東海道東坂の敷き詰められた石畳を見てしまっている身には少々説得力に乏しい。

茶屋跡;12時52分(標高290m)
石畳の辺りからは尾根筋を巻き10分強歩くと左手が開け、宿毛湾が一望のもと。かつてはこの地に峠の茶屋があったようで「茶屋跡:土佐側にあった峠の茶屋跡で、旅人はここで一服し眼下の宿毛湾の絶景に疲れを癒した。昭和初期まで茶屋があり、駄菓子やだんご、わらじなどが売られていた」の案内があった。
宿毛湾
宿毛湾と言えば、日本海軍の泊地として知られる。呉の軍港から太平洋での演習に際し、豊後水道南端の広くまた水深の深いこの湾に泊まったという。演習だけでなく呉の海軍工廠で建造された軍艦の全速走行テストなども行われ、戦艦大和をはじめ今に残る白波を切って進む軍艦の写真の多くがこの宿毛湾で撮られたもの、という。こんなことを考えながら静かな湾を眺めた。

松尾大師堂跡;12時53分(標高290m)
前面が開けた茶屋跡から木立の中に入るとお堂が見える。松尾大師堂である。 「大師堂跡 ここにあった大師堂には弘法大師が祭られ昭和初期までは建物も残っており、ここを通るお遍路さんは必ず参拝して通ったものである」とあった。
「昭和初期までは建物も残っており」? 「過去形」となっているのだが、大師堂は現在も建っているのだけれど?
チェックすると、「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」には「かつての大師堂は道路開通後、地元の有志がもらい受け、一本松町広見(合併し、現在は愛媛県南宇和郡愛南町)に移築した。現在峠には新たな大師堂の再建が進み、平成13年12月に落慶法要を行った」とあった。
で、この場合の「道路開通後」とはいつ頃のことだろう。チェックすると、「えひめの記憶」に、「昭和4年(1929)に旧宿毛トンネルが完成し、さらに同10年一本松―宿毛間の道路が開通」とあるので、昭和10年頃(1935)ではないかと推測する。

松尾峠;12時54分(標高300m)
大師堂を少し先に進むと、道標や石碑、そして案内板が並ぶ。「一本松町指定文化財 松尾峠の境界石」と刻まれた新しそうな石碑もある。一本松町は愛媛県。予土国境を越えたわけだ。
それはそれとして、この石碑が指定文化財というわけではなく、峠を挟(はさ)んだ東側に建つ「従是(私注;これより)東土佐國」と刻まれた土佐藩建立のもの、西側に建つ「従是西伊豫國宇和島藩支配地」と刻まれた宇和島藩建立、このふたつの領界石が文化財ということだ。
宇和島藩の境界石は遍路道傍に建ちすぐにわかるのだが、土佐藩のものは道からほんの少し離れているため、見逃しそうになった。
松尾峠
峠にあった松尾峠に関する案内には「予土国境松尾峠:昭和4年、一本松町~宿毛間に道路が開通するまで、この峠は伊予と土佐を結ぶ街道として利用されていました。
昔は坂を下った所にそれぞれ御番所があり、不法越境者を厳しく取り締まっていたそうです。また、この峠には2軒の茶屋があり、みち行く人々の休息の場所であったといわれています。
寛永15年(1638)大覚寺門跡空性法親王は、「ひたのぼり登りてゆけば目のうちに開けて見ゆる宿毛松原」と詠み、眼下に広がる宿毛湾の絶景をたたえています」とある。
また、大師堂傍にあった同じく松尾峠の案内には、「松尾峠 伊予と土佐の国境にある標高300メートルのこの峠には南予と幡多(私注;高知県)を結ぶ街道が通り,幕府の巡見使をはじめとし,旅人や遍路の通行が盛んで,享和元年(1801)の記録に,普通の日で200人,多い日には300人が通ったと記されている。
国境の石柱は伊予側のものは貞享4年(1687)の建立で,土佐側のものはその翌年,高知で製作し,下田までは海上を船で,その後は陸上を馬車等で運んだものである。昭和4年(1929)宿毛トンネルが貫通してからはこの峠を通う者もなくなり,その頃まであった地蔵堂や茶屋も今は跡だけが残っている」とあった」とする。
境界石
「従是西伊豫國宇和島藩支配地」と刻まれた境界石について、「えひめの記憶」は「宇和島藩では領界の目印として、はじめは木柱を立てたが、貞享4年(1687)3月に石柱にしたという。そのことについて『幡多郡中工事訴諸品目録』によると「松尾坂御境目示榜示杭今度与州より御立替候処、ミかけ石長八尺幅七寸四方、文字従是西伊豫國宇和嶋領と切付漆墨入と有右之境杭立被申由(以下略)」と記されている。
現在、峠に立っている領界石とは明らかに刻字が異なる。それでは松尾峠に立つ領界石は何時のものか。確証はないが、領界石の「...宇和島藩支配地」の表記から版籍奉還後から廃藩置県に至るまで(明治2年[1869]~明治4年[1871])の間に立てられたものではないかと考えられている」とする。
「支配地」という文言の解釈ではあろうが、明治2年(1869)にかねてより、各諸侯(旧大名)から出された版籍奉還が明治政府の認めるところとなり、藩が明治政府のもとでの行政区となり、諸侯が知藩事に任ぜられる。
この結果政府直轄の府・県とともに知藩事の管轄下にある藩により全国が統治されることになるが、この体制も明治4年(1871)の廃藩置県で終りを迎えた。 子文書にある「宇和嶋領」ではなく「宇和島藩支配地」とあるのは、「知藩事の管轄下にある藩」との解釈であろうか。
遍路道の変遷
39番延光寺から宿毛へ
「普通の日で200人,多い日には300人」通ったとするこの峠道も、昭和4年(1929)一本松町~宿毛間に道路が開通。同4年の宿毛トンネルの開通により人の流れが変わった、とする。
「えひめの記憶」には、「昭和4年(1929)に旧宿毛トンネルが完成し、さらに同10年一本松―宿毛間の道路が開通し」とあり、案内と少し時期が異なるが、ともあれ荷馬車が通れるくらいの道が開かれたのだろうが、荷馬車はともあれ、この峠道はそれほど厳しくもなく、大きく北に迂回する道路に比べると、人の往来だけであれば結構便利かとも思えるのは、峠歩きフリーク故の印象だろうか。
御番所
松尾坂越え
「昔は坂を下った所にそれぞれ御番所」がありとあるが、土佐側は松尾坂番所、伊予宇和島側は峠を下りた旧小山村(一本松町小山;現愛南町)にあった。 土佐藩は遍路の取り締まりに厳しく、「江戸時代、国境松尾峠を越える遍路は、大深浦(高知県宿毛市)にあった土佐藩の松尾坂番所で通行手形である切手を役人に渡した。これは土佐の東の入り口、甲浦(かんのうら)番所で与えられたもので、土佐藩内での滞在期間や通過地を改められた後に国境の松尾峠を越えた。遍路の土佐への出入りは、この松尾坂と甲浦以外からは許されなかった(「えひめの記憶)」とある。
土佐の遍路取締り
この事例に限らず、土佐藩は遍路の取り締まりは厳しかったようである。上述滞在期間の限定、遍路の歩く道筋は霊場を結ぶ指定の道に限定の他、参拝霊場も16の霊場にみに限定、宿は遍路宿と善根宿のみで一般の農家・旅籠は禁止された。
「乞食同様の輩、老幼病人が数百人も行き掛かり、藩内で病死するのはまことに厄介千万である。それゆえ遍路については生国の発する往来手形や相応の路銭の有無を、また回国 六十六部の者であれば、所定の仏具の持参の有無をしかと改めて、不審な者は国境へ追い返すべし」といったお触れも発せられている。 四国四県のうち遍路に厳しい土佐を避け、阿波の国の最南端にある 23番札所・薬王寺や伊予の国の最南端にある40番札所観自在寺を参拝した後、土佐を向かい遙拝すれば、土佐の16の札所を参拝したとみなす 「 三国参り 」 もできたようだ。
ただ、土佐藩は遍路だけに厳しいといったものではなく、他国からの入国を嫌い、領民の旅行の制限、農民の移動の制限など一種の鎖国政策の一環として遍路にも厳しい取り締まりが実施されたようだ。根底には貧しい藩の財政がある、とも言われる。遍路への厳しい取り締まりは、明治、大正時代までも続いたようである。

大覚寺門跡空性法親王 
「えひめの記憶」には空性法親王に関し、「近世になって世情が安定するとともに四国遍路は盛んになっていったが、近世以前から近世にかけてのまとまった四国遍路資料はごく限られたものしかない。そのうち、嵯峨大覚寺の空性法親王が寛永一五年(一六三八)八月より一一月にかけて四国霊場を巡行した折の記録『空性法親王四国霊場御巡行記』や、それから一六年後の承応二年(一六五三)七月から一〇月にかけて四国を巡った京都智積院の僧澄禅の『四国遍路日記』などは、もっとも初期の遍路資料として貴重なものである。
また、これらは霊地巡行の記録であるとともに、各地の風俗人情に触れた体験的紀行文としても注目される。以後、四国遍路が一般に普及するとともに多くの文人墨客が霊地を訪れるようになり、いくつかの遍路紀行が残されている。岡西惟中の『白水郎子記行』、大淀三千風の『日本行脚文集』、十返舎一九の『方言修行金の草鞋』などはその代表的なものであろう。
◇空性法親王四国霊場御巡行記
本書は伊予史談会蔵の写本によれば、内題を「嵯峨御所大覚寺宮二品空性法親王二名州御巡行略記」という。真言宗本山の一つ洛西嵯峨大覚寺の空性法親王の四国霊場巡行に随行した太宝寺の権少僧正賢明が命によって執筆したものである。空性法親王は後陽成天皇の弟にあたり、若年にして嵯峨大覚寺門跡准后尊信に従って密教を修行され、あとを継いで大覚寺門跡となっている。四国霊場御巡行は六八歳の時のことである。
また、筆録者の賢明は跋文に太宝寺の僧であることが記されているのみで、その経歴は明らかではないが、澄禅の『四国遍路日記』によれば太宝寺は皇室との縁が深く、寂本の『四国遍礼霊場記』に「菅生山太宝寺大覚院」という院号が見えるから、大覚寺との関係が深かったことが推測される。法親王の御巡行に太宝寺の沙門が随行したことは自然なことであったのであろう。
この記録は、四四番菅生山太宝寺を起点に讃岐、阿波、土佐を経て再び太宝寺に至る、足かけ四か月の日数を費した旅の記である。八十八か所の札所のみならず、各地の有名な神社、仏閣、旧蹟などに足をとめてその歴史的記述にも意を用いている。
伊予に関する記述が全体の約半分を占めており、その中には河野・越智系図に見られる伝承をふまえ、中国の名勝に筆が及ぶなど、その該博な知識を窺わせるが、とくに南朝方の諸将と遺跡に関する記述が詳しい。法親王の巡行にふさわしい内容を持ち、七五調を基調とした流麗な詞章をつらねて格調高い紀行文の態をなしているが、一面具体的な記述に欠け、現実感に乏しいうらみがある」とある。

藤原純友城址
峠の道標に「純友城址 350m」の標識がある。往路は気分的に余裕がなく、ピストン復路で時間に余裕があったため訪れたのだが、便宜上ここでメモしておく。
道標に従い平坦な道を西に向かう。ほどなく「純友城跡 30m」「城跡展望台」の木標に従いそれと思える場所に行ったのだが木々に囲まれた、なんということもない場所であったので直ぐに引き返した。
で、メモの段になってチェックすると、結構立派な展望台がある。宿毛湾の眺めがいい、とも。そんなもの何処に?狐につままれた感がある。木標を逆にむかったのだろうか?今となっては後の祭りではあるが、それにしても???
藤原純友
藤原純友って平安中期頃、瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こした人物であり、同じ頃関東で朝廷に対し反乱を起こした平将門とともに承平天慶の乱の主人公のひとり、ってことは知っているのだが、それ以外のことはよくしらなかった。根拠地は瀬戸内の日振島ってことも知っていたが、それが宇和島沖にあるとは想像もしていなかった。
Wikipediaをもとに藤原純友の何たるかを簡単にまとめる;平安時代、栄華を極めた藤原北家の系統に生まれるも、幼くして父を亡くし中央での活躍の場もなく、縁者を頼り伊予掾として瀬戸の海賊鎮の任に当たる。
任が終わった後そのまま伊予に土着し、承平6年(936年)頃までには海賊の頭領となり宇和島沖の日振島を根城として周辺を荒し、次第に瀬戸内全域にその勢力を拡げる。
関東で平将門が乱を起こした頃、その動きに呼応するように畿内に進出、天慶3年(939)には淡路国、讃岐の国府、九州の大宰府を襲っている。 朝廷は純友追討の軍を派遣、天慶4年(941年)に博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。純友は子息の藤原重太丸と伊予国へ逃れたが、同年に討たれたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれている。 将門の乱がわずか2ヶ月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだとのことである。
松尾峠の純友城跡
この城跡は純友が伊予を逃れるとき、妻を匿った城と言う。『前太平記巻11』には、「ここに栗山将監入道定阿という者あり、これは伊予掾純友が末子重太丸が母方の祖父なり。去ぬる承平の頃、純友隠謀露顕して伊予国を出奔せし時、定阿入道も重太丸が母を具して当国を立退き、土佐国松尾坂と云所に忍びて居たりけるに、一類残らず討たれ重太丸も縲紲の辱に逢うて京都にて誅せられぬと聞しより彼母恩愛の悲歎に堪えず、慟哭のあまりにや物狂はしくなりて巫医の功を尽すと云へども更に験もなく今年(天慶4年)8月16日に思死にぞ失にけり」とある。この記述を時系列で整理すると、
○朝廷の追討軍が日振島を襲い、敗れた純友は大宰府に逃れる
○大宰府で勢力を盛り返した純友に対し追討軍が大宰府を攻め、純友軍は壊滅
○純友とその子重太丸は伊予に逃れるも捕えられ、親子共々誅される
ここから類推すると、純友の妻がこの城に隠れたのは日振島で純友が朝廷の追討軍に敗れたとき。悲しみのあまり狂ったとされるのは、大宰府での敗北後、伊予に逃れるも捕えられ誅されたとき、ということだろう。

四国のみち
峠には「四国のみち」の案内があり、「ようこそ愛媛へ  四国のみちをお歩きの皆様 お疲れ様です。ここは愛媛県ルートの始点であり、ここから川之江市の終点(徳島・香川県境)まで465キロに及び、四国のみち全体の約30%となっております。これから愛媛の風土を楽しみながらゆっくり歩を進めてください 四国のみち(自然遊歩道)路線概要図」とある。
歩き遍路や山歩きをしていると、折に触れて「四国のみち」の木標に出合う。よくよく考えると、「四国のみち」って何だろう?チェックすると、「四国のみち」とは歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、自然指向の環境省ルート(約1,600km)の総称。環境省ルートは「自然遊歩道」が正式名称であるあが、ルートは重なる道筋も多く、まとめて「四国のみち」と称されるようだ。松尾峠のこの案内には「自然遊歩道」のクレジットがあるので、環境省が整備したルートかと思える。
環境省ルートは、「四季を通じて手軽に楽しく、安全に歩くことができる自然遊歩道」として整備されたのはわかるのだが、何故建設省が?そこには道路整備だけでなく、自然派志向の世論もあり、昭和52年(1977)以降「自転車道」「歩道」の整備をも重視することになった背景があるようだ。
この建設省ルートは基本遍路道を基本としながらも、既存道路の利用という前提もあり、札所を結ぶとはいいながら遍路道との重なりは6割弱とのこと。国道、県道、市町村道、林道整備がその主眼にある故ではあろう。
上に建設省ルートが歴史・文化指向といった意味合いは、札所や遍路道の歴史的・文化的価値を見出し、モータリゼーションの発展にもない、昭和59年(1984)には15万人もの人が訪れるおとになった四国遍路を観光資源としてそれを繋ぐ道を整備していったようにも思える。

左手前面が開ける;13時9分(標高240m)
松尾峠からの愛媛側は等高線の間隔も広く緩やかな傾斜となり、崖側も木の柵で整備され快適な道となる。尾根筋を僅かに巻いた道筋を10分ほど進み、「観自在寺 15.3km 松尾峠09km」の木標のある辺りまで、標高を60mほど下げると左手前面が大きく開ける。

林道・舗装道に出る;13時17分(標高150m)
はるか下方に道路が見える。当初想定していた山道から里に下りた小山の集落までは結構あるよな、などと想いながら道を10分くらい進むと、足元に歩道が見えた。地図を確認すると小山の集落から尾根筋を抜き、東小山に抜ける道が舗装されていた。
小山の集落から結構手前ではあったが、ここまでは車で詰めることができそうであり、「道を繋いだ」ということで、ここから車デポ地にピストンで折り返す。

松尾峠取り付き口に戻る;14時40分
今来た道を折り返し、松尾峠で純友城址に廻りこみ、松尾峠の取り付き口に戻る。往復2時間半弱の松尾峠越えであった。

海を渡る遍路道●
「えひめの記憶」には、松尾峠越えを避け、城辺町深浦(現在の南宇和郡愛南町深浦;御荘の町から国道56号を東に進んだ、深く切り込んだ入り江)から海を渡る遍路道を、「深浦はリアス式海岸の良港で、藩政時代には宇和島藩の番所が置かれていた。国境の急峻な松尾峠の難所を越える代わりに、深浦―片島(宿毛)間の渡船は許されていた。
大正7年(1918)、24歳で四国遍路に出た高群(たかむれ)逸枝は、『お遍路』の中で「7月24日まだ暗いうちに観自在寺を出た。延光寺まで7里であるが、伊予と土佐の国境に松尾峠の難所があるので、遍路にもここは船でわたることがゆるされていて、雨近い天気なので、私達も深浦の港から、大和丸という巡航船に乗った。そして一時間で片島(現宿毛市)に上がった。」)と記している。
また漫画家の宮尾しげをは、昭和7年(1932)に宿毛から乗船した様子を『画と文 四國遍路』に、「海路の船賃は『普通は五十銭だが、御遍路だから四十銭に割引です』と札賣が云うて、桃色の札をよこす『御遍路殿二割引四十銭、上陸地深浦港、乗船地宿毛港、月日、大和丸』と印刷してある。船へ入ると、船員が『お遍路さん晩に乗りませんかナ、宇和島へ行きますヨ』といふ。こちらは晩までには宇和島に入る豫定である。」)と記している。陸上交通の発達が遅れたこの地方では、早くから海上交通が発達していた。深浦港が郡内第一の港として海上運輸に果たした役割は大きい」と記す。

松尾峠下り口から小山の集落へ

林道と繋ぐ;15時18分
で、まだ少々時間に余裕があったので、車を宿毛まで戻し国道56号を進み、県道299号に乗り換え、小山の集落から松尾峠から車道に繋いだ切り通しまで戻る。

小山の集落;15時30分
繋ぎ地点から少し車道を進むと、土径に入る遍路道の案内。田畑脇の遍路道を5分ほど歩くと車道(15時24分)に戻る。そこから小山の集落に戻り県道299号に。時刻は3時半を過ぎた。小山の集落にあるという小山の番所跡や道標を探しは次回に廻し、ここで本日の散歩を終え宿に向かう。

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