2017年11月アーカイブ

初日の秩父川又登山口から、コースタイム6時間を大幅に越える7時間超をかけて、なんとか雁坂小屋にたどり着いた。古い往還とはいうものの、道端に石仏や丁石といった歴史を感じるものが、それぞれ一体、一基だけ、その丁石・道標も大正時代のもの。この歴史的遺構の無さには、なにか特段の理由でもあるのだろうか。
Google Earthで作成
最近、毎月の田舎帰省を利用し、愛媛を中心に歩き遍路の峠越えを楽しんでいるのだが、その道筋には石の道標、石仏、舟形地蔵丁石などが並ぶ。遍路道が特別なのだろうか。
また、峠道といえばその領界を区切る場合、境界石なども目にするのだが、それもない。秩父往還の歴史に、江戸の頃秩父からは善光寺に、甲斐国からは秩父観音霊場札所へと、信仰・行楽を兼ねた人の往来が結構あった、というのだが、それならもう少々道標・丁石といった道標があってもいいような気がするのだが、これも「四国遍路道」の視点からの物事の見方に陥っているのかもしれない。
それはともあれ、ゆっくりと山小屋で体を休め2日目、雁坂峠から三富村広瀬へと下ることにする。


本日のルート;
初日
西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ>川又バス停>入川橋>登山口>石の道標>水の本>雁道場>突出峠>樺小屋・避難小屋>だるま坂>地蔵岩展望台>昇竜の滝>雁坂小屋
2日目
雁坂峠に向かう>雁坂峠>下山開始>沢>峠沢右岸>峠沢を左岸に>林道に出る>雁坂トンネル口>鶏冠山大橋>道の駅 みとみ>甲府市駅

2日目

雁坂小屋からの日の出;午前5時
なにせ前日は午後8時に寝ているわけで、午前4時過ぎには寝覚め。小屋の電灯が灯るともに起床。
5時少し過ぎた頃日の出を見る。山稜の名はよくわからないので、カシミールの3D描画機能カシバードで作図しチェック。唐松尾山から雲取山そして和名倉山に続く稜線の、雲取山の左手から太陽が顔を出しているように思える。
小屋の北には昨日歩いた突出尾根、そのずっと先には両神山らしき、特徴的な山容が見える。そのまた、すっと先に見えるのは雲なのか谷川連山なのか。
黒岩尾根ルート
小屋の前に左方向に向かって「天幕場 黒岩道」の案内がある。黒岩道とは国道140号・豆焼橋から1,050m等高線と1,100m等高線の間を進み黒岩尾根に入り、そこから尾根を巻いて1,828mの八丁の頭まで進み、八丁の頭の先から尾根筋を雁坂小屋へと向かう。
地図で見ると、雁坂小屋は黒岩尾根に乗っかっているようにも見える。雁坂小屋から黒岩道を少し進んだ先に小屋のお手洗いがあり、その建屋が道を覆っている。黒岩道が二級国道140号ルート、といった記事もあり、国道を跨ぐトイレとして紹介されている。
はっきりしたことはわからないが、突出峠ルート登山口にあった環境庁・埼玉県作成の秩父往還の案内には、突出峠ルートが一般国道と記されていたので、黒岩ルートは国道ではないかもしれない。とすれば、国道を跨ぐ云々は面白いが、お話に過ぎない、ということになってしまうようだ。

雁坂峠に向かう;7時20分
昨夜と同じく薪ストーブで沸かして頂いたお湯を使い朝食を済ます。ゆっくりと朝を過ごし7時過ぎに用意を済ませ小屋を出る。



雁坂峠;7時35分(標高2,082m)
比高差100m強を15分位上ると前面が開けた雁坂峠に到着。峠の南面は一面の草原となっており、昨日歩いた北斜面の針葉樹林と対照的な景観となっている。 当日は天気もよく富士山が顔を出す。カシミールの3D機能カシバードで峠から見える山稜をチェックすると、左手に水晶山(標高2,158m)。富士山は水晶山から古礼山(標高2,112m)、雁峠(標高1,780m程の鞍部)笠取山(1,953)に続く稜線脇から姿を見せているように思える。
右手前方、今から下る谷合の先に見える尾根筋は雁坂峠から西に甲武信ヶ岳(標高2,475m)を経てグルリと逆時計周りに国師ヶ岳(標高2,591m)、奥千丈岳(標高2m409m)と続き、前面には笛吹川の谷間に落ちる乾徳山(標高2,016m)の尾根筋が見える。

少々難儀したが、南アルプスの三伏峠や北アルプスの針ノ木峠と共に日本3大峠に数えられている雁坂峠をクリアした。いつだったか読んだ『今昔 甲斐路を行く 斎藤芳弘(叢文社』)の「雁坂口」の項に文学博士・金田一春彦氏が作詞した「雁坂峠」の歌が載っていた。金田一教授の先祖は武田氏の一族で、勝頼の代、武田一族が滅びたとき、甲斐から雁坂峠を越えて陸奥国、現在の盛岡に落ち延びたとのこと。
峠を下った本日の最終点、三富村の道の駅にある石碑に刻まれたその歌は、 「三富広瀬は石楠花どころ 小径登れば雁坂峠 甲斐の平野は眼下に開け 富士は大きく真ん中に 大和武尊も岩根を伝い 日には十日の雁坂峠 東国目ざす武田の勢も 繭を葛籠の商人も 旅人泣かせの八里の道も 今は昔の雁坂隧道 川浦の湯から秩父の里へ 夢の通い路小半時」とある。

三富広瀬は今から道を下りバス停のあるところ。富士の眺めは前述の通り。大和武尊のくだりは「日本書記」によれば、「景行天皇の御代(2世紀頃)、陸奥国(東北地方)・常陸国(茨城県)を平定した日本武尊が、酒折宮(甲府市酒折に比定)に泊り、この峠を越へて武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に達し、碓井峠を越えて信濃国(長野県)・越後国(新潟県)の平定に向かったと伝説を指す(『古事記』のルートは異なる)。
歌にある「日には十日の」とは日本武尊が酒折宮で詠んだ「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」に対し、供のものが詠い返した「日日並べて夜には九夜 日には十日を」の歌をひく(『今昔 甲斐路を行く』より)」。
信玄率いる大軍が雁坂峠の難路を越したとの記録はないようだが、信玄の時代には峠から10か所ほどの狼煙台を繋ぎ、関八州の軍事情勢を伝えた、という。また前述の股の沢や真の沢に拓いた金山へとこの峠を越えていった、とも。さらに峠は甲斐府中から北東の鬼門にあり、罪人を甲斐の国から追放した道でもある。
軍勢ばかりでなく民衆も峠を越えた。山間村落での養蚕が盛んであった秩父、特に大滝や栃本の人々は大正時代までは繭を背負って峠を越え、甲州の川浦や塩山の繭取引所に。繭を運んだ。秩父の大宮より甲州のほうが近かったということである。
江戸時代、庶民の生活に余裕ができると信仰・行楽を兼ねた人々が峠を越えた。秩父からは甲斐の善光寺、身延山久遠寺、伊勢参り、甲州からは三峰、秩父観音霊場への巡礼のため峠を越えた。江戸時代には月に1万人以上の人が秩父観音霊場を訪れたという。
『甲斐国志』に、「嶺頭の土中ニテ古銭ヲ掘リ得ル事アリ。昔時往来ノ人山霊ニ手向ケセシ所ト云」とあるように、中世以降は峠の神にお金を奉納したのだろう。峠の語源は「たむけ;手向け」にあるとも言う。神に手を合わせたのだろう。ともあれ、日本武尊の伝説を引き、日本最古の峠道との記述もある歴史のある峠ではある。
峠付近の植生
峠にあった、「峠付近の植生」に関する案内には、「奥秩父の山には雁のつく地名がいくつか見られる。雁道場(突出峠から少し下った処)は雁が山を越す前にひと休みする場所。雁坂峠から雁峠にかけての上空は、かつて雁の群れが山越えをしたことから名付けられたとい言われている。
山梨県側
雁坂峠の稜線一帯には山地草原が見られる。この草原は山火事などによる森林破壊後の風のあたる斜面に成立した草原で、シモツケソウ、オオバギボウシ、ミヤコザサ、オオバトラノオ、イタドリ、アキノキリンソウ、シモツケ、ミヤマヨメナ、カラマツソウ、シシウド、マルバダケブキ、グンナイフウロ、キソチドリ、などが生育している。雁峠にも同様の草原が見られる。
シモツケソウ;ばら科。茎は約60㎝で葉は多くの枝葉からできている。
オオバギボウシ;ゆり科。花の茎は60㎝?100㎝で、葉より高い、若葉は食用。
ミヤコザサ;いね科。棹高30㎝?1mで北海道から九州の太平洋岸に野生
埼玉県側
一方雁坂峠の埼玉県側の斜面には、高木層にコメツガとトウヒの優占する亜高山針葉樹林が見られる。亜高山層はシラビソ、オオシラビソ、トウヒ、低山層にはコヨウラクツツジ、サビハナナカマド、ミネカエデ、シラビソ、草木層はマイズルソウ、ミヤマカタバミ、カニコウモリ、オオバグサ、バイカオウレンなどによって構成されている。
コメツガ;まつ科。常緑針葉高木。高さ?m?20mで本州の中・北部に分布。
トウヒ:まつ科。唐檜。常緑針葉高木で高さ20m?25m。
マイズルソウ;ゆり科。茎は???㎝で本州中部~北海道に分布」との記述があった。

下山開始;7時45分
峠で少しのんびり景色を楽しんだ後、草原の斜面を下り始める。植物のことを何も知らないため、説明にあった植物が下山路を覆う植物のどれがどれかもわからないが、ともあれ前面の開けた気持ちのいい道を下る。

沢;7時57分(標高1,970m)
峠から下り始めて10分強。標高を100mほど下げると草原と樹林の境あたりにささやかな沢が道を防ぐ。山地図にも特に記述はないが、等高線の切れ込みを下に下ると峠沢にあたる。峠沢の源流部だろうか。

峠沢右岸;8時42分(標高1,720m)
次第に大きくなる乾徳山の山稜を全面に見遣りながらジグザグの道を下ると左手に大きな沢が見えてくる。地図で確認した峠沢である。
雁坂嶺には当然のことながら幾つもの切り込んだ沢筋がみえる。先ほど下山途中で見たささやかな沢筋もそのひとつであろうが、それら沢筋の水を集め、この地点では堂々とした沢となって下っている。

峠沢を左岸に;9時16分(標高1,500m)
沢は幾筋も分かれた箇所もあり美しい沢となっている。途中いくかロープが張られているところがあるが、危険なところはない。沢に沿って木々の間を抜けて進む道であり、道筋は分かりにくいが、要所にはリボンなどの目印もあり迷うことはない。
峠沢右岸を40分ほどかけ標高200m強下げると3本ほどの木を渡した木橋がある。途中、行き会った方から木橋は凍って滑るため気を付けて、とのアドバイスがあった。ちょっと木橋に乗ったのだが、滑って危なそう。水勢の弱い箇所を見付け沢を渡ることにした。木橋で転んだら大怪我だった、かも。感謝。

林道に出る;9時50分(標高1,400m)
木橋を渡り、ここから林道までは峠沢の左岸を下る。木橋を渡るとすぐ左手から結構大きな沢が合わさる。上部は美しい滑沢となっている。紅葉も残りいい雰囲気である。
30分弱で標高を100mほど落とすと左手から大きな沢が合わさる。沓切沢と呼ぶようだ。沢には沓切橋が架かる。登山道はここでおしまい。林道に出る。 橋には「亀田林業所」のプレートが架かる。この辺りは亀田林業所の私有地ということのようである。
橋の少し上で峠沢は、雁坂嶺から甲武信ヶ岳への稜線上にある破風山(2.317m)の山腹から下ってきた「ナメラ沢」と合わさり名を「久渡沢」と変える。

雁坂トンネル口:10時33分(標高1,200m)
未だ所々に紅葉が残り単調な林道歩きの慰めともなる。舗装された林道を40分ほど歩くと雁坂トンネから出た国道140号が道の右手に見えてくる。道をグルリと廻り雁坂トンネルの料金所を前面に見下ろす箇所から雁坂峠方面を見る。カシミールの3D機能カシバードを起動し描画。正面は雁坂嶺、雁坂峠は右手の水晶山から久渡沢に落ちる水晶山の稜線に隠れていた。
料金所の先、雁坂トンネルに入る道路を見乍らちょっと想う。川又から10時間以上かけて抜けた甲武国境の山塊を、トンネルを抜ければ10分程度で走り終える。それはそれでいいのだが、この便利さであり、逆に往昔の峠歩きの不便さは往々にして、現在の視点からの見方のように感じる。
モータリゼーションによる物や人の大量かつ短時間での移動が盛んとなる以前、地域を隔てる山塊の往来は峠を越えて歩くことが当たり前であった頃、身の丈にあった荷物を黙々と、かつ自然なこととして人々は物流の幹線道路として峠を越えていたのだろう。
少しニュアンスは異なるが、今昔の視点の置き方により、物の見え方が変わると感じたのは大菩薩峠超えの時。中里介山の『大菩薩』で机龍之介が何故に、わざわざ不便な山奥の大菩薩峠に立ち、不埒な所業を行ったのか疑問に思っていたのだが、大菩薩峠を歩いたとき、その道が江戸時代に開かれる以前の古い甲州街道であり、江戸の頃も甲州裏街道として人の往来があった、とのこと。 いまでいう「準幹線国道」であった、ということ。国道であれば、そこに主人公がいてもおかしくはないだろう。
また、これも少々ニュアンスが異なるが、鎌倉街道山の道を高尾から秩父まで歩いたとき、何故にこんな辺鄙なところを?などと感じたのだが、よくよくかんがえれば、当時は現在の大東京など影も形もない葦原・湿地の地。 更に昔には東山道から武蔵の国府に通じる丘陵沿いの「幹線国道」があったわけで、現在の大東京が「辺鄙な」ところであった、ということだ。
雁坂トンネル建設の経緯
それはそれとして、甲武国境を抜く道路建設は両県民の長年の願いではあった。国道とは指定されながらも甲武国境の山塊に阻まれ、長年「開かずの国道」と称されていた。
昭和29年(1953)二級国道甲府・熊谷線として指定
往昔の秩父往還は、昭和28年(1953)には二級国道甲府・熊谷線として指定されている。熊谷・甲府を結んだ理由は、国道指定には10万人以上の都市を結ぶ必要があったからである。
秩父往還と中山道の分岐点には道標(熊谷市石原)「ちゝふ(秩父)道、志まふ(四萬部[しまぶ]寺)へ十一(里)」と刻まれた道標、秩父長瀞の「宝登山道」の碑も建っていた、という(現在は移されている)。四萬部寺は秩父礼所1番である。
当初の想定は雁峠ルート
既述の如く二級国道に指定された、といっても建設が進んだわけではない。昭和29年(1954)には建設促進期成同盟が結成され、昭和32年(1957)には両県の代表が雁峠で合流し、建設促進の協力を期している。
当初のルートは、滝川と豆焼沢が合わさる豆焼沢出合から八丁坂を刳り貫き、滝川本谷左岸から釣橋小屋上を通り水晶谷~古礼沢中流部を通り雁峠~燕山~古礼山直下をトンネルで抜けるルートだったようである。隧道計画も1000m程度であったとのこと。雁坂峠直下を抜くルートに変更となったのは昭和59年(1984)。国立公園の保護、地質調査の結果を踏まえての変更、と言う。
昭和30年代から50年代は進展なし
昭和32年(1957)には両県代表が雁峠で気勢を上げたにしても、建設省の動きは鈍く昭和30年(1955)代から50年(1965)代にかけて秩父は大滝村、山梨は三富村が中心となって活動するも状況の変化はない。
昭和34年(1959)には伊勢湾台風により山梨側・三富村の一之橋、二之橋、三之橋が破壊され、秩父側も二瀬ダムの道路が寸断される。この復旧工事により道路建設が少し進む。
昭和36年(1961)には二瀬ダムが完成、昭和45年(1970)には山梨側の広瀬ダムが完成。ダム工事の道が結果として国道建設促進の一助となっている。 昭和47年(1972)には、山梨側拐取工事率は50.4キロ。全体の42.4%。 一方埼玉側101.4キロ、全体の78.6%まで進んだ。最後の難関は雁峠である。 雁峠ルートに関し、昭和40年代後半;大きな壁が立ちはだかる。それは当時起こった環境問題への高い意識からの自然保護の問題。山梨側は亀田林業所の私有地であり用地取得は比較的楽であったようだが、秩父側は東大の演習林。環境保護の観点から反対に遭い、埼玉側の用地買収が難航した。
昭和50年(1975)には過去22年間に山梨47.8キロ、埼玉76.6キロの拡張舗装が行なわれ、未舗装部分は山梨の広瀬以北6.5キロ、埼玉の雁峠登山口近くの14.8のキロとなったが、未だ雁峠トンネルの見通しが全く立たなかった。
昭和56年(1981)雁坂峠ルートが決定
昭和56年(1981)になり雁峠から雁坂峠ルートとの結論を建設省が出す。昭和58年(1983)には三富村の城山トンネル(三富村下釜口)が開通。昭和59年(1984)には建設省が来年度予算に雁坂トンネル工事費を計上。この年をもって雁坂ルート工事正式決定としているようだ。
雁坂峠は石楠花の群生地でもあり、トンネルを抜く計画を描き、昭和60年(1985)に計画概要発表。全長6.5キロ、幅7mのトンネルでありふたつの県を跨ぐため国の直轄事業となった。
昭和60年(1985)には雁坂トンネルの直ぐ南の広瀬トンネルの起工式。雁坂トンネルの前段階といったものである。昭和63年(1988)には広瀬トンネルが久渡沢を渡る鶏冠山大橋が完成、更にその先、笛吹川に架かる西沢大橋も着工となった。
平成元年(1989)着工。平成10年(1998)開通
平成元年(1989)に川浦で着工式。平成2年(1990)大滝側も工事開始(詳細は記述「大滝道路」に)。平成6年(1994)、トンネル避難坑が開通。平成10年(1998)開通した。
開通に際し、自然保護の観点から秩父側のバイパス道・大滝道路が間に合わず、旧国道を半年間使うことになったため、大渋滞を引き起こしたことは前述の通りである。
山梨側の雁坂トンネルへのアプローチ道路建設
雁坂トンネルへのアプローチ道路建設は、秩父側は従来の国道140号とは別にバイパス国道140号・大滝道路の建設をもって雁坂トンネルと繋いだ。同様に山梨側もいくつかバイパス工事をおこないトンネルと繋げている。
大滝道路と同じく「雁坂トンネルと秩父往還(山梨県道路公社)」の資料をもとにまとめておく。
広瀬バイパス
「広瀬バイパスは」は、東山梨郡三富村広瀬地内の未改良区間、交通不能期間の解消及び「雁坂トンネル」へのアプローチ道路として昭和57年度(1982)より道路改築事業に着手し、「雁坂トンネル」の開通に合わせて平成10年(1998)4月に完成した延長3,700mのバイパス。
このバイパスは急峻な山岳部と渓谷を通過するため六ヶ所のトンネルがある。「西沢大橋(橋長360m)」は、県内初の橋梁形式をもつループ橋であり、秩父多摩国立公園・西沢渓谷入口のシンボル的な橋となった。「鶏冠山大橋(橋長270m)」は、大きな渓谷を渡るため塗装の必要のない鋼材を山梨県において初めて採用した橋である、と記す。
古い地図がないため、旧国道140号がどのルートか不詳であるが、広瀬バイパスは雁坂トンネルから広瀬ダム湖の南まで強烈なルート取りをおこなっている。雁坂トンネルを抜けると石楠花橋で、久渡沢の崖を避け、すぐに広瀬トンネルに入る。トンネルを抜けると再び鶏冠山大橋で久渡沢を跨ぎ対岸の山稜を強烈なカーブのループ橋で西沢渓谷を跨ぎ、南に向かい久渡沢を渡り返し、広瀬ダムに沿って下る(同様の目的で東山梨郡牧丘町成沢と塩山市藤木間にも窪平バイパスが建設されているが、ちょっと場所が離れすぎているので省略する)。 秩父側も山梨側も雁坂トンネルへのアプローチ道路としては、旧国道を使うことなくバイパスで繋いでいた。

鶏冠山大橋;10時42分(標高1,150m)
雁坂トンネルで一度トンネルを抜けた国道140号が再び広瀬トンネルに入るところから、林道は久渡沢に沿って大きく迂回し広瀬トンネルが抜けた先、鶏冠山大橋の巨大な橋梁を潜る。
当日は、なんとなく地味色の橋であり、同行のひとりから、この橋は使われなくなった橋かなア、などとの感想も聞かれたが、上述塗装の必要のない鋼材故の「地味さ」加減であったのだろうか。
それはともあれ、橋桁したから少し進むと道標があり、道の駅は林道を離れ土径へと右に折れる。久渡沢に向かって標高を30mほど落とし、久渡沢に架かる橋手前にでる。

道の駅 みとみ;10時59分(標高1,100m)
橋を渡り国道140号に出て少し北に戻り「道の駅 みとみ」に。塩山行きのバスの時間を道の駅のスタッフに訪ねると1時過ぎまで無い、とのこと。さて2時間もどうしようと思った時、山小屋の小屋番さんが小屋を出て「道の駅 みとみ」に下りる方に、道の駅から11時半頃バスが出ると話をしているのを思い出した。チェックすると山梨市駅へと向かう山梨市営バスが11時半過ぎに「道の駅 みとみ」から出るとある。

山梨市駅
広い道の駅にもかかわらず、バス停の案内が無い。彷徨っているとささやかな市バス停留所の案内があり待つこと十分ほど。無事市バスに乗り、途中温泉に寄る仲間ふたりと分かれ山梨市駅に到着。
慣れない自動特急券・指定券の販売機に苦戦し、ぎりぎりで特急甲斐路に間に合い、一路家路に向かう。
晩秋と言うか、初冬というか、天候不順のこの頃、どちらが適切な表現がわからないのだが、ともあれ11月初旬の週末を利用して、1泊2日で秩父往還・雁坂峠を越えた。
雁坂峠を越えようと思ったのは今から5年前。友人のSさん、Tさんと共に信州から秩父に抜ける十文字峠を越えて()秩父の栃本に出た時、そこから秩父往還を南に進めば雁坂峠を越えて甲斐・山梨にでる古道があることを知った。 縄文人も通ったとされる日本最古の峠、また飛騨山脈越えの針ノ木峠(2,541m)、赤石山脈越えの三伏峠(2,580m)と共に日本三大峠のひとつとされる雁坂峠(2,080m)越えに「峠萌」としては大いにフックが掛かったのだが、その後計画した予定日が大雨とのことで中止、そんなこんなで、なんとなく日が過ぎてしまった。
今回の旅のきっかけは十文字峠を共にしたSさんからのお誘い。台風による1週延期によりTさんはご一緒できなくなったが、Sさんの友人Kさんが参加されることになり、3名での山行となった。
スケジュールは初日に秩父・川又から登山道・秩父往還に入り、直線距離11キロ・比高差1350mを上り雁坂小屋で一泊。翌日は雁坂峠に上った後、8.5キロ・比高差800mほどを下る。
十文字峠の山小屋での凍えるあの寒さはもう勘弁と完全な防寒対策、食事はないと言う雁坂小屋とのことでの自炊用意のため、46リットルのザック一杯の重さ、更には痛めている膝の痛みもあり、通常6時間という上りに7.5時間、3時間程度の下りも4時間もかかるという為体(ていたらく)。パーティの足を引っ張りながらも、なんとか長年の想いであった「雁坂峠」を越えた。

本日のルート
初日
西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ>川又バス停>入川橋>登山口>石の道標>水の本>雁道場>突出峠>樺小屋・避難小屋>だるま坂>地蔵岩展望台>昇竜の滝>雁坂小屋
2日目
雁坂峠に向かう>雁坂峠>下山開始>沢>峠沢右岸>峠沢を左岸に>林道に出る>雁坂トンネル口>鶏冠山大橋>道の駅 みとみ>甲府市駅

初日

西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ

午前8時20分西武秩父駅集合のため、西武池袋駅を午前6時50分発の「特急・秩父3号」に乗り、西武秩父駅午前8時15分着。午前8時35分発中津川行の西武バスに乗り、国道140号を進み1時間で川又バス停に着く。
国道140号
当日はいつだったか三峰神社を訪ねた時に向かった秩父湖沿いの道を二瀬ダムで分かれ、荒川沿いの国道を進んだと思っていたのだが、バスはダムの手前で巨大なループ橋を進んでいた。
秩父湖・二瀬ダムにはそれらしきループ橋はない。地図をチェックすると、国道140号は三峰口を越えた先、大滝で荒川に沿って進むルートと中津川に沿って進むルートに分かれている。共に国道140号であり、ループ橋は中津川沿いの秩父もみじ湖・滝沢ダム手前にある。当日のバスは中津川に沿って滝沢ダムを越え、中津川と荒川を分ける山塊を抜いた大峰トンネルを通る国道140号、通称大滝道路を進み荒川筋の川又バス停へと進んだようだ。
大滝道路
『雁坂トンネルと秩父往還 蘇る古道(山梨県道路公社)』をもとにまとめると、「この中津川沿いの国道140号バイパスルートは大滝での分岐箇所から雁坂トンネルまでの17キロ強を「大滝道路」と呼ぶ。
もとは、大滝村地内の未改良区間及び交通不能区間の道路改築をもとに構想されたものだが、この区間のうち、二瀬ダム付近の駒ケ滝トンネル(バイパス道が完成し現在閉鎖)から栃本を経て川又橋に至る区間は名だたる地滑り区間でもあり、既存の秩父湖沿いの国道改築は困難とされ、中津川に建設される滝沢ダム建設にともなう付け替え道路工事と国道140号の改築工事を合併しておこなうことになった。
工事は昭和37年(1962)から着手。川又橋から山梨側に工事が進められ、昭和63年(1988)には豆焼橋の手前まで完成。また昭和59年(1984)正式着工の決まった雁坂トンネルへのアプローチとして豆焼橋から雁坂大橋までの区間はトンネルの開通に合わせて平成10年(1998)4月に完成した(平成2年から工事着工)。
全線開通は平成10年(1998)10月。滝沢ダム堰堤付近から上流5キロほどの区間に絶滅危惧種クマタカの営巣が発見されこの区間の工事が一時中止されたため。雁坂トンネル開通から大滝道路全面開通までの半年間は在来国道を使用することになり、大渋滞が発生した、と言う。
国道140号の3ルート
大滝道路のチェックに合わせ地図を見ていると、秩父湖沿いの従来の国道140号も二瀬ダム堰堤の先で二つに分かれる。山沿いの栃本集落を抜けるルートが往昔の秩父往還。秩父湖沿いのルートは大正時代より電源開発及び森林開発のための軌道(林鉄)跡を利用した車道であり、昭和28年(1953)には二級国道熊谷甲府線に指定され、後年、二瀬ダム建設に合わせて整備されていった。 二瀬ダムは昭和25年(1950)に計画され、昭和36年(1961)までに建設された。昭和25年以前、2級国道熊谷甲府線にあたる道路はダム下流の二瀬まで狭い砂利道であったようだ。
上に二瀬ダム付近の駒ケ滝トンネルのことをメモしたが、隧道内分岐のこのトンネルが閉鎖されたのは平成25年(2013)。荒川沿いに新たなバイパス秩父湖大橋が竣工したことによりバイパスが完成し、この隧道は閉鎖となった。

川又バス停;午前9時35分
中津川に架かる中津川大橋を渡り、十文字峠越えのときに白泰山から栃本へと辿った尾根筋の流れ、標高1100m程度の山塊を抜いた大峰トンネルを通り抜けると、バイパス国道140号は秩父湖沿いに続く国道140号に合わさる。少し上流に進むと往昔の秩父往還道であった旧国道140号も合流。この3ルートに分かれた国道140号が川の上流へと一つに合わさる箇所に西武バス・川又バス停がある。
バス停は、川上犬で知られる信州の川上村から十文字峠を越えて秩父の栃本に至り、西武秩父に戻るべく道を下ったバス停でもあった。水場やお手洗いもあるバス停で準備を整え雁坂越えへと向かう。

入川橋:午前9時55分
国道を少し進むと道路左手に扇屋山荘と書かれた宿・食事処がある。ここが今夜お世話になる雁坂小屋オーナーの家と聞く。
扇屋山荘を越えると、国道から道が右手に分岐し「入川渓谷 十文字峠」、直進する国道方向は「滝川渓谷 雁坂峠」との案内がある。川又はこの滝川と入川の合わさる場所と言う意味だろう。「入川渓谷」という文字に惹かれつつも、道は国道筋を進む。
入川渓谷
入川渓谷を形成する入川は荒川本流とされ、その源流点の石碑が入川渓谷を遡上し、赤沢との出合にある、という。この入川渓谷のことを知ったのは信州往還・十文字峠を越え白泰山に向かう途中、尾根道に股の沢分岐の標識があり、そこに「股の沢 川又」方面という標識があった。

「沢」という文字に故なく惹かれる我が身としては如何なるルートかとチェックすると、分岐点から股の沢を下り、入川筋に入ると赤沢出合から川又の近くまで森林軌道跡(入川森林軌道跡)が残る、と言う。また、赤沢出合いから赤沢を北西に遡上し、白泰沢に向かっても森林軌道跡(赤沢上部軌道跡)が続く、とも。
この森林軌道は東京大学農学部付属秩父演習林中にあり、林道は東大が敷設するも軌道の運営は民間の会社に委託されていたよう。大正12年(1923)に入川森林軌道が着工、昭和4年(1929)には川又から竹の沢まで敷設、また昭和11年(1936)には赤沢出合いまで延伸され、昭和26年(1951)には赤沢上部軌道敷設が完成した。
この森林軌道の敷設にともない、江戸時代は「御林山」と呼ばれ徹底した山林保護政策によって護られていた奥秩父の深森は、昭和に入ると、民有林・国有林・東大演習林を問わず伐採が進むことになる。伐採は特に戦後復興期の1960年代(昭和35年から)までが激しかったようであり、1970年(昭和45年)ころにほぼ伐り尽くし、奥秩父の森林伐採は終息することになった、と。 伐採のあとは、一部にカラマツなどが植林された区域もあるようだが、多くは伐られたまま放置され、奥秩父の深い森ははげ山と化した、とか。白樺の林がキャベツ畑に変わった信州・梓山の戦場ヶ原のように、奥秩父の深い森が現在どのようになっているのか、軌道跡とともに入川の渓谷を辿ってみたいものである。

因みに森林軌道は昭和44年(1969)に全線廃止されるが、昭和57年(1982年)に赤沢出合付近の発電所取水口工事の資材運搬の為に、軌道を利用することとなり、昭和58年(1983年)に三国建設による軌道改修工事が完成。昭和59年(1984)まで運用された。現在残っている軌道は、この三国建設が運用していた頃の軌道であろう。
森林軌道と国道140号
上に東京大学農学部付属秩父演習林中の森林軌道についてメモしたが、はじまりは、大正10年(1921)関東水電が強石~落合~川又間に敷設した資材運搬用馬車軌道。その後、川又のさらに上流に広大な演習林を有する東京大学が、上述の如く材木の運び出しのためにその軌道を改良して利用するようになっていったわけだ。
軌道の所有者も二転三転しているが、とまれ昭和26年(1951)頃には赤沢上部軌道まで延びた森林軌道も、昭和20年(1945)代ごろからはじまるモータリゼーションにより、トラック運材が盛んになり始めると、森林軌道は下流側から軌道の撤去と車道の布設が始まることになる。昭和27年(1952)頃までには、下流から二瀬までは車道化していたようである。
この道も昭和25年(1950)に着工し、昭和36年(1961)に完成した二瀬ダムにより二瀬から川又間が廃され、同時に付け替え車道が川又まで建設された。これが秩父湖に沿って進む現在の国道140号の前身といえるだろう。

登山口;10時9分(標高730m)
川又バス停から15分弱国道を進むと、道の右手に「雁坂峠登山口」の木標がある。石段を上り登山道に入ると、「秩父往還の歴史」に関する案内があり、
「秩父往還の歴史 雁坂峠と秩父多摩甲斐国立公園  雁が越え、人々が歩いた日本最古の峠道
三伏峠(南アルプス・2580m)、針ノ木峠(北アルプス・2541m)、とともに日本三大峠のひとつである雁坂峠(2082m)の歴史は古く日本書記景行記に日本武尊が蝦夷の地を平定のために利用した道と記されていることから、日本最古の峠道といわれています。
また、縄文中期の遺物や中世の古銭類なども数多く出土している他、武田信玄の軍用道路・甲斐九筋のひとつとしても知られています。 更に、秩父往還とよばれたこの道は、秩父観音霊場巡拝の道として多くの人々が通り、江戸時代から大正までは秩父大滝村の繭を塩山の繭取引所に運ぶ交易の道として利用されてきました。
一般国道140号となった現在は、奥秩父を目指す山道として秩父多摩国立公園の豊かな自然とともに登山者に愛されています。 雁坂峠の名は、この辺りが雁の群れの山越えの道であった事に由来しているとも伝えられています。
雁が越え、昔人が越えた雁坂峠、ここには美しい自然と遠く長い歴史があります 環境庁・埼玉県」とある。
一般国道140号のルート
なるほど、このような歴史のある往還道か、などど思いながらも、ちょっと疑問が。この説明を読む限り、今から上る登山道が「一般国道140号」と読める。
登山道が一般国道?
国道140号の歴史をチェックすると、二級国道甲府熊谷線と指定されたのが昭和28年(1953)。川又地区-雁道場-突出峠-雁坂峠(川又雁坂峠線)がルートとなっていた。
一般国道に昇格したのが昭和40年(1965)であるが、秩父と甲斐を隔てる雁坂嶺を穿つ雁坂トンネルが平成10年(1998)するまで雁坂峠の前後区間の登山道が国道指定されていた。

ついでのことでもあるので、この案内板が造られたのは?案内の「秩父多摩甲斐国立公園」部分が修正されている。元は昭和25年(1950)秩父多摩国立公園と称されていたが、その区域に広い占有地をもつ山梨がない、ということで、平成12年(2000)「秩父多摩甲斐国立公園」と改称された。
またクレジットの環境庁(現在は環境省)が新設されたのが昭和46年(1971)であるから、この案内がつくられたのは昭和46年(1971)から平成10年(1998)までの間と推測できる。その案内に平成12年(2000)以降、「秩父多摩甲斐国立公園」の箇所が修正されたのだろう。言わんとすることは、昭和46年(1971)から平成10年(1998)まではこの登山ルート。秩父往還が一般国道140号と指定されていた、ということだ。
どうでもいいことだけど、あれこれチェックすると、それなりに面白い歴史が現れる。

石の道標;10時21分(標高792m)

登山口から10分ほど、杉林の中、等高線を緩やかに斜めに高度を50mほど上げると「川又 雁坂峠」の木標の傍に石柱があり、文字が刻まれる。「勅諭下賜四十年**」「大正十一年 大滝村**」「右ハ甲州旧道 左ハ**後ハ栃本ヲ経テ三峯山ノ**」と言った文字が読める。
勅諭下賜四十年とは明治15年(1882)に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した「軍人勅諭」から四十年、という意味だろう。大正11年(1922は明治15年(1882)から40年である。
大滝村の在郷軍人会が中心となって立てた道標のようである。秩父往還のことは「甲州旧道」と記される。
消された道筋は?
ところで、「左ハ**」と記された道筋が気になる。ちょっとチェックすると、「バラトヤ線(槇ノ沢林道)から釣橋小屋を経て雁峠への道筋を示していたようだが、現在は廃道となったため、故意に潰された、といった記事をみかけた。 現在、甲武国境を抜くトンネルは雁坂峠下を通るが、これは昭和56年(1981)に国立公園保護や地質調査の結果、決定されたもの。
昭和29年(1954)に甲武を結ぶ国道建設の建設促進期成同盟が結成された当初は雁峠を1000m のトンネルで貫く計画であったようだ。事実昭和32年(1957)には雁峠で両県代表が計画実現を期して握手をしている、といった記事もある。 当初の140号線の計画では、滝川と豆焼沢が合わさる豆焼沢出合から八丁坂を刳り貫き、滝川本谷左岸から釣橋小屋上を通り水晶谷~古礼沢中流部をから雁峠~燕山~古礼山直下をトンネルで抜けるルートだったようである。
大正7年(1918)頃の殉職森林作業員の記念碑に「秩父ノ深山一路僅ニ通シテ甲武国境ノ森林保護利用ニ便シ兼テ両国ノ連絡交通ニ資スルモノ独リ此国有歩道バラトヤ線アルノミ」と記されるように、往昔は道標から消されたルート、甲武国境を抜けるトンネルが計画されたこの道筋は結構メジャーな往還であったのだろうか。
軍人勅諭
「正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』。『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ)は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。
西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。
1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された(Wikipediaより)」
在郷軍人会
「在郷軍人会(ざいごうぐんじんかい)は、現役を離れた軍人によって構成される組織のこと。一般的な用語としては、「退役軍人会」という言葉と混用して用いられるが、在郷軍人会は予備役にある人によって構成される(Wikipediaより)」

水の本;11時6分(標高1,063m)
等高線を時に垂直に、大半は緩やかに斜めに40分強の時間をかけて標高を270mほど上げる。登山路は杉林の中に時に残る紅葉が美しい。
と、木に「水の本」の案内。案内には「水の元 一杯水とも言う。昔、秩父往還を行き来した人の為の避難小屋的建物があり、山仕事にも使われたとか。 お地蔵様には武田家の隠し財産の言い伝えがあるようです。武田家滅亡の折、金の延べ棒など甲州金を秩父往還に埋蔵し、目印として北向地蔵を建てておいたと言われています。今となっては定かなことはわかりません」とある。
地蔵
案内のある木の側に地蔵が佇む。うっかりすると見逃してしまいそうである。 少々先走ったメモとはなるが、雁坂峠越えの全行程で唯一の地蔵であった。古い往還とはいいながら、丁石、石仏類は残っていない。四国遍路で、これでもか、といった石仏・丁石に出合うことを想うに、なにか理由でもあるのだろうか、と少々考えてしまう。
水場
水の本との地名の如く、案内のすぐ近くに微かな水の流れが見て取れた。水場として重宝されていたのではあろう。

信玄焼き
で、案内にある「武田家の隠し財産云々」は、それはそれとして「触らずに」おくが、秩父と武田と言えば、秩父神社散歩の時に出合った「信玄焼き」を想い起こす。関東各地でも見られる武田勢による焼き払いのことである。
秩父と武田の関係は、古くから奥秩父、また現在の秩父市小鹿野、吉田辺りは武田氏の勢力下にあったようだ。奥秩父には股の沢、真の沢には金山があったとも言うし、それを守るべく栃本の辺りには砦もあった、と言う。
その秩父に「信玄焼き」が起きた因は、小田原・後北条氏の勢力が寄居の鉢形城(永禄7年(1564)北条氏邦入城)を核とした北関東への勢力拡大にある。天文⒖年(1546)川越夜戦に勝利し武蔵国に覇権を確立した北条氏ではあるが、武田氏は旧域を守るべく、佐久盆地から十石峠、そこから志賀坂峠を越えて小鹿野(永禄12年;1569)、土坂峠を越えて吉田(永禄13年;1570)へと数百人程度の軍勢(大軍ではないようだ)を送り、その折秩父の中心である大宮郷一帯を焼き払ったようである。
永禄12年(1569)には武田信玄の本隊2万が小田原の北条を攻めるべく碓井峠を越え、鉢形城を攻めているが、信玄焼きとはいいながら、本隊が秩父に侵攻したわけでなく別動隊の所業ではあろう。いつだったか歩いた三増合戦は武田軍が小田原攻めの帰路に起きた日本で名だたる山岳合戦のひとつである。なお、武田の軍勢が秩父往還を越えて秩父に侵攻したといった記録はないようである。

雁道場;12時3分(標高1,291m)
1時間弱の時間をかけて標高を300mほど上げると尾根筋に出る。木には「雁道場」とあり、「毎年秋に雁の群れが南に飛んでいく時に、山を越す前ひと休みした場所らしいです。雁坂峠、雁峠などこの辺りが渡り鳥のルートのようです。黒文字橋から上がってくるルートがこの先にあります」と記してあった。
雁坂峠の由来

雁坂峠の由来をこの雁が嶺を越える「タルミ」故との説がある。雁坂峠の東にも雁峠という峠もある。新拾遺集のなかに三十六歌仙のひとりである凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)が詠んだ「秋風に山飛び越えてくる雁の羽むけにゆきる峰の白雪」は雁坂峠を読んだといった記事もある。寛平6年(894)甲斐権少目として任官して、この地と縁が無いわけではないが、この歌が雁坂峠と比定されているわけではないようだ。
凡河内躬恒の歌がこの奥秩父山塊を詠ったものかどうかは不明であるが、ここから南に下った大菩薩嶺から続く南尾根には雁ケ腹摺山、牛奥雁ケ腹摺山、笹子雁ケ腹摺山といった名の山がある。奥秩父から南へと雁が山越えで飛んでいったルートを事実か否かは別にして、想像するのは楽しい。
因みに、雁坂峠の由来としては、秩父風土記に「日本武尊が草木篠ささを刈り分け通りたまえる刈り坂なり」と記されており、このことからカリサカと名付けられた、とか、この峠から罪人を駆逐したことより「駆り、カリ」と呼称されたことに由来する、といった説もあるようだ。

突出峠;13時12分(標高1,630m)
雁道場から突出峠まで、尾根筋を等高線にほぼ垂直に上ってゆく。地形図を見ると等高線の間隔も密接しており急登である。右手は開け、入川谷を隔てて十文字峠から白泰山を経て栃本に下った尾根筋が見えるのだが、息があがり、景色を楽しむ余裕がない。冬装備の46リットルのザックの重み、痛めた膝が少々キツく、思わず理由をつけて一人川又へと戻ろうと思ったほどである。気持は若いが、体がついていかないことを実感する。
1時間強の時間をかけ、標高を330mほどあげると突出(つんだし)峠の木標。 「川又 5.5㎞ 雁坂峠 雁坂小屋5.3km」とある。3時間強で半分ほど来たことになる。

突出とは言い得て妙である。峠部分の等高線の間隔が広く、突出したような尾根筋となっている。それはそれでいいのだが、ここを何故に「峠」と呼ぶのだろう。山道を登りつめてそこから下りになる場所。山脈越えの道が通る最も標高が高い地点、通常鞍部といったものが「峠」の定義ではあろうが、この峠はどれにも合わない。それともかつて、入川谷から滝川谷へとこの峠を越える道でもあったのだろうか。
突出峠から林業用モノレールが滝川谷へと下り出合いの丘(国道140号・豆焼橋近く)に続いている、といった記事があったので、今では廃道となった峠越えの道があったのかもしれない。
とは思いながらも、入川谷にも滝川谷にもそれらしき集落があるわけでもなく、誰が必要とした峠道かよくわからない。森林作業の便宜でそれほど遠い昔ではない頃に名付けられたのだろうか。峠命名の時期を知りたいと結構思う。

樺小屋・避難小屋;14時8分(標高1,784m)
突出峠で10分程度休憩し出発。道脇に案内があり、泥で汚れてちょっと読みにくいのだが、「このコースはその昔甲州武州を結ぶ唯一の街道で国越えの人や荷物の往来が盛んだったと言い伝えられています。交通機関の発達と共に現在は山を愛するハイカーのコースと変わってしまいました。
雁坂峠に上るには突出峠まで登るのが苦しいコースで。これからはゆるやかなコースになり峠まで達します」とある。地図を見ると、道は尾根筋を垂直に上るものの、等高線の間隔も割と広く、ちょっと安心。
が、突出峠までで結構体力を消耗しており、思ったほど楽ではない。結局標高を150mほど上げた避難小屋まで50分近くかかってしまった。樺避難小屋はしっかりした小屋。思わず、ここに泊まってもよかった、などとの軽口も出るほどであった。
森林植生
避難小屋の側に森林植生の案内があり、「かつて、この付近一帯はダルマ坂や地蔵岩付近にみられるようなコメツガ、シラベなどからなる鬱蒼とした亜高山針葉樹林に覆われていましたが、1959年(昭和34年9月)の伊勢湾台風によって未曽有の森林被害が発生し、景観は一変してしまいました。
現在この付近に数多く見られるダケカンバの優占する林分は風害直後に芽生えた稚樹から再生した林分です。ダケカンバ優占林の下層にはコメツガやシラベの若木が生育していますが、これらの多くも風害後に芽生えたもので、上層のダケカンバとほぼ同じ樹齢です。
コメツガに比べてダケカンバの成長速度が早いためにこのような群落状態示していますが、元のコメツガ林に近い状態に回復するには数百年かかります 環境庁・埼玉県」とあった。

いつだったか、ブナの原生林で知られる世界遺産の白神山地に行った時、二日目になって、「ところでブナ、ってどれだ?」といった程度の木々に対する知識しかない身には、イラスト付きの説明でも、どれがどれだかよくわからない。

だるま坂;15時5分(標高1.964m)
避難小屋近くにある「川又 5.6km 雁坂峠 4.5km」の木標を見遣り、比較的間隔の広い等高線をほぼ垂直に上り、標高を100mほど上げ、標高1,900m辺りになると間隔の狭い等高線を斜めに上ることになる。
少々きつい坂の途中に「だるま坂」の案内が木に架かっている。「だるま坂 ご苦労さまです。雁坂峠への道もこのだるま坂が最後登り坂です。この先300m右側に地蔵岩展望台入口を過ぎると小さな登降をくりかえす巻き道となります。 景色が開け、前方黒岩尾根の肩に雁坂小屋が見えてきます。ご安全に 1991」とあり、その下に、「と書いてからはや⒛数年。巻き道の樹林が伸びて、落葉の時期でないとなかなか雁坂小屋も見えにくくなってきました」と記されていた。

地蔵岩展望台;15時19分(標高2,000m)
だるま坂から2,018mピークを巻き15分ほどで地蔵岩展望台入口の尾根道に。案内には「地蔵岩展望台 うっそうとしたトウヒ、コメツガの原生林、巨木の中を歩く突出コースの中で、明るく周囲の山々を見渡せる所。雁坂嶺、東・西破風山、甲武信ヶ岳、三宝山と山々が続き壮観な眺めです。ここから5分もあれば岩の上に行けます。小屋へはここからは巻き道になります。 小屋へ2.5km 晴れていたら絶対おすすめです」とあるのだが、折あしく小雨とガスで展望は望めないと地蔵岩はパスする。

昇竜の滝;16時21分(標高1,979m)
地蔵岩からはおおよそ等高線2,000mに沿って尾根を巻いて進む。時に鎖場もあるが危険な箇所はない。地蔵岩辺りで降っていた雨も知らず止み、ガスも切れてくる。切れたガスの中に見えるのは滝川の谷を隔てた黒岩尾根だろうか。 それにしてもスピードが上がらない。結構痛めた膝にきている。
地蔵岩からおおよそ1.5キロ、滝川の上流、豆焼(まめやき)沢が大菩薩嶺に切り込む箇所に雄大な滝がある。何段にも分かれた瀑布が雁坂嶺から落ちてくる。
切り込まれ狭まった沢を越える。その先に案内があり、「昇竜の滝 雁坂嶺に源を発する豆焼沢。上部に見えるタンクから雁坂小屋まで10mの高低差を利用し、およそ距離1㎞をパイプで引いております。途中、パイプやバルブがありますが、命の水です。開けたりしないようお願いします。小屋まではあと少しです。がんばれ。960m 2013.10」とあった。
豆焼沢
昇竜の滝から下る豆焼沢は突山尾根と黒岩尾根に挟まれた谷筋を落ち、黒岩尾根が谷に落ちた先で、黒岩尾根と和名倉山(地図には白石山とある)から雁峠、雁坂峠へと続く尾根に囲まれた谷筋を下って来た滝川に合わさり、滝川として北に下る。
原全教の『奥秩父』には豆焼沢の紀行記"豆燒澤"に、「西の方には樹葉の間から豆燒澤の深い喰ひ込みが窺はれる。急に下ると、豆燒の溪水が最後の飛躍をなし、本流に這入らうとする優れた溪觀を垣間見る事が出來た。そこから一息に下つて流へ出た。
暫く快晴が續いたので、餘程減水したであらうとの豫想も外れて、四年前の秋來た時や、去年も梅雨期に通つたときと別段の相違も見られなかった。對岸へは巨岩から巨岩へ、三本ばかり丸太を括り合はした堅固な橋が架つて居る。あたりは澤沿ひに多少の磧もあり、流も平であるが、濶葉樹は豊富に之を覆ひ、上流は直ぐ折れ曲つて、全流の嶮惡も想像し得ない」とある。
深い谷が想像できる。なんちゃって沢上りを楽しむわが身には荷が重そうな沢のようだ。
豆焼沢の由来
その昔、ふたりの旅人がこの沢に迷い込み、拾った二粒の豆をひとりは無意味と食べず、もうひとりは焼いて食べた。で、食べたほうが生き延びた、とか。
滝川水系と沢
この滝川水系は大血川、中津川、大洞川、入川の谷と共に奥秩父北部に源を発する荒川の水源のひとつである。本流は入川とされ、原生の美は入川に譲るようであるが、和名倉山から雁峠・雁坂峠、そして突出尾根に囲まれた広大な流域に発する水量は他を凌駕する、と。
滝川水系には美しい渓谷をなす豆焼沢、滝川の上流部の曲沢、金山沢、槇の沢、八百谷、雁峠に詰めるブドウ沢、水晶山へと詰める水晶谷、古礼沢などと面白そうな沢が並ぶ。
少々手強そうだが、険しいゴルジュや広がる大釜、そして原生の趣が色濃く残る苔むした渓相など、奥多摩の沢とは違った沢景のようだ。秩父の沢にも入ってみたい。少々怖そうだが。。。

雁坂小屋;17時10分(標高1,950m)
ガスが切れ、黒岩尾根の先まで延々と続く秩父の山塊を見遣りながら雁坂嶺を巻く水平道を雁坂小屋へと急ぐ。気ははやれど体がついていかない。日も暮れてきた。昇竜の滝から雁坂小屋に通る導水パイプを目印に1キロ弱を40分以上かけて雁坂小屋に到着。小屋に到着したときは既に日が落ちていた。

小屋には10名ほどの先客がいた。小屋近くでテント泊をする方も薪ストーブの火で暖をとっていた。昇竜の滝から引かれた水を薪ストーブで沸かしてくれていたので、持参したバーナーを使うこともなく、携帯食で夕食をつくることができた。
小屋番の方の話では今年で小屋番を止める、とか。常連さんが引き留めていたので、さてどうなるのだろう。
午後8時には消灯。十文字峠の小屋での凍える寒さはもう勘弁と、冬用の寝袋を用意していたので、朝までぐっすり眠ることができた。
前回の散歩では、今治平野を横切り、高縄山地が今治平野に落ちる丘陵地帯に建つ五十七番札所・永福寺、そして五十八番札所・仙遊寺までカバーした。 今回はその丘陵地から再び平野に下り、瀬戸の燧灘近くの五十九番札所・国分寺へと向かう。
常の如く遍路道は、「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に記される遍路道標を目安に歩くことになるのだが、仙遊寺から国分寺まではふたつの遍路道があるとのこと。今治市新谷(にいや)の吉祥禅寺前を経由する道、そしてかつての越智郡朝倉村(現今治市古谷)にある竹林寺を経由する道がそれである。 どうせのことならと、今回は吉祥寺経由と竹林寺経由のふたつの遍路道をカバーする。
 本日のルート;仙遊寺・国分寺道分岐点>五郎兵衛坂>両手印の道標 >吉祥寺道と竹林寺道の分岐点
吉祥寺をへて国分寺へ
手印だけの道標>里道とのT字路に2基の道標>小堂と舟形地蔵道標>吉祥寺の道標>新谷集落の手印だけの道標>池田池前の道標>大野の道標2基>新谷の静道道標>旧県道155号交差箇所の道標>旧朝倉街道交差箇所の道標>松木の道標と舟形地蔵>県道156号合流点の道標>JAおちいまばり富田>頓田川・国分寺橋南詰の道標>国分の道標2基>国分の境界石>境界石傍の2基の道標 >境界石傍の2基の道標
竹林寺をへて国分寺へ
吉祥寺道と竹林寺道の分岐点に>険路>舗装された道に>舟形地蔵道標>土居上池の道標>八幡神社傍・三差路の道標>牛神古墳>竹林寺>旧県道155交差箇所の道標>宮ヶ崎の道標>登畑の道標>県道156号に合流>五十九番札所・国分寺


仙遊寺・国分寺道分岐点
仙遊寺の本堂や大師堂にお参りし、沢に沿って造作した参道を下り仁王門に戻る。仁王門から先は舗装された車道となるが、国分寺への分岐点は仁王門のすぐ近く。徳右衛門道標、真念道標が並び、台座に静道の句が刻まれたお地蔵さまが佇む箇所にある国分寺道へと車道を離れる。
国分寺へ向かうふたつの遍路道は丘陵を下り切る手前まで共通のルートである。



石燈籠・五郎兵衛坂
車道を離れた国分寺道は丘陵を下る細い土径となる。道傍に佇む2基の舟形地蔵を見遣りながら道を進むと一対の石灯籠が見え、その手前に「五郎兵衛坂」の案内があり、「昔々仙遊寺には伊予守から奉納された大きな太鼓が置いてありましたが、この大太鼓は音もたいへん大きく、桜井の海岸にまでそのたたく音が聞こえたそうです。
この大きな音に魚が逃げて漁ができないと、五郎兵衛という漁師が大層怒り、仙遊寺に上り、包丁でその大太鼓を破った上に、仏様に悪口雑言をあびせました。
その帰り道、この坂でころんで腰を打ち、その時の怪我がもとで亡くなったそうで、それ以来この坂を五郎兵衛坂と呼び、この坂を歩くときは、気をつけてゆっくり歩くようになったといわれています」とあった。

「えひめの記憶」では少々ストーリーが異なっており、「庖丁でその大太鼓を破ったうえ、仏様に悪口雑言をあびせた」までは同じなのだが、その後は「その帰り道、五郎兵衛はこの坂でころんで持っていた包丁が腹にささり、それがもとで亡くなった」とあった。こちらのほうが「庖丁」をキーにした因果応報という意味合いでは繋がりがいいのだが、少々強烈過ぎる。だれかが薄味にしたのだろうか。
舟形地蔵と石灯籠
五郎兵衛坂の由来はそれとして、「えひめの記憶」には「坂の途中右側に舟形地蔵の道標がある。やや下ると道の左右に一対の文化年間(1804~1814)建立の石灯ろうがある」と記す。この記事に従えば、五郎兵衛坂は舟形地蔵があったところであり、石灯籠の手前ということになる。
石灯籠から先はそれなりに傾斜のある坂だが、その手間はなんということもない坂である。五郎兵衛坂って実際はどのあたりか、ちょっとわからなくなってしまった。

両手印の道標
石灯籠を越え、山道を少し下ると結構立派な道標が立つ。この道標にはお地蔵さまが刻まれ、その両手は上下を指す。今まで多くの道標を見てきたが、お地蔵さまの全身が刻まれ、その両手で上下を指し示す姿は、はじめてである。一本道の山道故、指示自体に特に実用性はないのだが、なんとなく面白い。





吉祥寺道と竹林寺道の分岐点
道を下り、前面に丘陵下の里が大きく開ける辺りに「国分寺5.9km」の木標とともに2基の道標がある。一基は「へんろ道」と刻まれ左を指す。こちらが吉祥寺経由の遍路道。
一方、右を指す「日本三霊場 四国霊場番外 智慧文殊尊道」と刻まれた道標は竹林寺経由の遍路道である。竹林寺を地元では「智恵の文殊さん」と呼ぶ故のことである(「えひめの記憶」)。この分岐点を左に折れ、まずは「吉祥寺経由の国分寺への遍路道」を辿ることにする。


■吉祥寺をへて国分寺へ■
手印だけの道標
分岐点から少々キツイ坂を比高差40mほど下ると舟形地蔵、折れた遍路墓らしき石柱の脇に手印だけの道標がある。「えひめの記憶」に手印だけの道標とあるから、そうかと思うが、摩耗し手印もほとんどわからない状態ではあった。





里道とのT字路に2基の道標
舟形地蔵が並ぶ遍路道を下ると舗装された道に合わさる。道の右手には三島神社があり、そのT字路の遍路道の左右に道標がある。
三島神社側、仙遊寺を示す「しこくの道」の木標下には手印だけの丸石の道標、逆側は結構大きな道標であり、「遍んろ道」の文字とともに手印が刻まれる。仙遊寺方向への手印の下には「され山」らしき文字が読めた。「されやま;佐礼山」とは仙遊寺のことである。
国分寺方向を示す手印に従い道を左に折れ谷の集落へと入る。
三島神社
由緒書には「御祭神 大山積大神 上津姫 下津姫 乎致守興 大山積大神は天照大神ノ兄神 山ノ神々の親神ニアタラレ マタ和多志大神トモ云ワレテ地神・海神 兼備ノ大神霊トシテ日本ノ国全体を守護シ給ウトコロカラ古代カラ日本総鎮守と尊称サレル。
当神社ハ乎致守興 同玉澄ニヨリ神亀五年、大三島ノ大山祇神社を勧請・創建シタ後、父守興ノ霊ヲ合祀シ河野大明神トモ称サレル」とあった。

大山積大神のことは古事記と日本書記でその誕生記述が異なるなど、門外漢にはややこしくてよくわからない。御祭神に大山積大神とともに上津姫 下津姫と記されているのは、日本書記にイザナミが亡くなる因となった火の神が、大山祇神、雷神(上津姫)、高籠神(下津姫)の三神に分かれた故のことだろう。 「乎致」は「越智」のこと。玉澄は系図には河野氏初代当主とあるが、何度かメモしたように河野氏に関する記録は平安末期、頼朝に呼応し平氏打倒に挙兵した22代当主通清以前は確とした記録はない。

小堂と舟形地蔵道標
谷の集落に小さなお堂があり、その中に舟形地蔵道標がある。お地蔵さまの頭の上にはっきり刻まれた手印が見える。舟形地蔵の丁石は結構見かけたが、手印のついた道標はあまり見かけなかったように思う。

吉祥寺前の道標
谷の集落を抜け、遍路道は大きな車道と交差し、右手に池、左手に吉祥寺のある間の道を進む。寺前池の畔に石碑、舟形地蔵、地蔵菩薩が佇む。が、これがどう見ても道標とは思えない。池の辺りを右往左往すると、車道との交差点の直ぐ先に道標が見つかった。
道標には手印とともに「是より佐礼山」、また手印と「遍んろ道」文字とともに国分寺への道を指していた。道標から仙遊寺のある佐礼山を眺めると、仙遊寺の堂宇らしき建物が見えた(ように思えた)。
吉祥寺・鷹取殿
吉祥寺は臨済宗妙心寺派のお寺様。落ち着いたいい雰囲気のお寺さまであるが、それよりお寺境内にある鷹取殿と案内のある社が気になった。神仏混淆の頃は吉祥寺と共にあったであろう社であるが、「殿」という呼称にフックが掛ったわけである。
石段を上る。右手の堂宇には三島の神紋があった。更に石段を上りお堂にお参り。お堂の欄間は波形に彫られ、そこに注連縄がかかっていた。また赤ちゃんの前垂れや絵馬が多数奉納されている。チェックすると、このお堂は秀吉の四国征伐の折、このお堂のある鷹取山で小早川勢に敗れ自害した正岡氏、またその妻子を祀るお堂とのこと。
そのことと安産の関係は?さらにチェックすると、鷹取城が落ちて百年以上たった江戸の頃、吉祥寺の和尚が夢の話が登場してきた。和尚は正岡氏の奥方が夢枕に現れる。その弔いにと新しい墓石を取り寄せ、奥方の名を掘ると白い筋が現れる。いくら取り換えても白い筋が消えることがない。和尚は、その白い筋は腹帯であろうと、その石を墓として祀った、と言う。
「殿」との関連は不詳だが、なんだかおもしろい話に出合った。

新谷集落・手印だけの道標
吉祥寺前の道を道なりに少し北東に進むと、道の右手に手印だけの道標がある。「えひめの記憶」にそれと記されていなければ、道標とはわからないだろう。自然石にははっきりと手い印が刻まれていた。

池田池前の道標
県道155号を越え、さらに道なりに300mほど進むと民家ブロック塀手前に大きな道標が立つ。手印と共に「へんろみち」の文字がしっかり刻まれている。嘉永五年との年号も読めた。
「えひめの記憶」には「池田池の前」とあるのだが、道は池から離れている、というか、民家に遮られており、「池の前」の文字面をあまり気にしないほうがいいかとも思う。

大野の道標2基
新谷の集落から大野(大野も今治市新谷)の集落に入ると2基の道標がある。1基は大野の墓地の前。電柱とゴミ収集スポットの横に立つので見落とすことはないだろう。「へんろみち」の文字と共に手印が国分寺方向を指す。
また、その道標のすぐ東、生垣前に道標が立つ。「へんろみち」と共に、この道標も国分寺方向を指す手印が刻まれる。

新谷の静道道標
「えひめの記憶」には「さらに北東に約600m進むと、県道今治丹原線(155号)に出る100mほど手前左側の畑の奥隅に斜めに傾いた道標がある。この道標には、静道の「雪とけて元の山家となりにけり」という佐礼山を詠んだ句が刻まれている」とある。
ちょっと混乱。現在の県道155号は吉祥寺から池田池に向かう途中にあった。とりあえず道なりに進むと道の左手に大きな道標があった。水路脇に立つが、記事にある「畑の奥隅」とはなっていない。県道も「えひめの記憶」を作成した当時の旧県道のことだろう。周辺の景観も変わってしまったのだろう。
手印と「へんろみち」の文字は読めるが、側面に「雪」らしき文字を認めるほかは門外漢には読むこと能わず。
静道
「三好保治の研究によると、静道(1815~1872)は今治の人、尚信、のち静道尚信と称し、「金吉屋静道」「寛譽静道」「心精院静道」「静道居士」「光風亭静道」「金川堂静道」「雪霽庵静道」などの異名を持った。先祖は今治城下鍛治町に住む鍛冶職人で、屋号は金吉屋、在家仏者だと思われる。弘化2年(1845)から没年までの27年間に12種35個の石造物を今治市内外に残しているという。南光坊から五十九番国分寺に至る道筋に、連続した内容と思われる俳句が彫られた静道道標が7基ある(えひめの記憶)」と記す。

旧県道155号交差箇所の道標
静道道標から直ぐ東、旧県道と交差する手前に道標が立つ。地蔵の像と共に順路・逆路の手印。側面には「五十九番国分寺」、逆面には「五十八番」の文字が読める。



旧朝倉街道交差箇所の道標
道なりに進み松木集会所前に2基の道標がある。1基はへんろ道標。「国分寺 十八丁」と刻む。もう1基は「朝倉 不動殿 三十丁」と刻む。「えひめの記憶」には集会所傍でクロスする道筋は旧朝倉街道とある。
朝倉街道
朝倉街道の詳細は不詳だが、旧朝倉村は世田薬師から世田山城を抜け朝倉に抜けたときに出合った。北は今治平野に向かって開けるが、三方を山地で囲まれた朝倉で知らず幾多の古墳に出合った。古墳が三百以上も現存する、と。実際、地名は、斉明天皇に由来するとの説もある。斉明天皇が百済救援への出兵に際し、この地に滞在の後、九州の朝倉に兵を進めた故である。ともあれ古くから開けた地であったのだろう。
因みに「不動殿」だが、満願不動とも称される朝倉の万願寺のことだろうか。
松木と弘法大師
「えひめの記憶」には「ここ旧松木村(現今治市松木)には弘法大師にまつわる伝説が『今治夜話』に残っている。それによると、大師がけちで欲ばりな老婆を懲らしめるため井戸を金気(かなけ)水にしたという」という話が残る。全国各地に弘法大師の法力により井戸、清水などを湧出したという話が残るが、同じく、悋気の村人を懲らしめるべく清水を錆び気(金気)のある水に変えてしまったという話も多く残るようだ。この松木の伝説もそのひとつだろう。 弘法大師も有名人故に、全国各地に忙しい。いつだったか信州の千国を越えて塩の道を日本海へと抜けた山道にまで弘法水があった。

松木の道標と舟形地蔵
国道196号を越え道なりに進むと、平屋の集合住宅(松木団地)手前、道の右手に道標がある。逆路を示す手印と「へんろ」の文字は読めるが、下部は埋まっている。「えひめの記憶」に拠れば、下部は破損しているようだ。道標の道を隔てた反対側には自然石と並んでちいさな地蔵が佇む。

県道156号合流点の道標
更に道なりに進むと県道156号にT字で合わさる。その角に「国分寺道」と刻まれた比較的新しい道標がある。「えひめの記憶」には「かつて周囲が田んぼであったこの角には、今のものより大きな手印の遍路道標が立っていたそうだが、戦後松木団地造成の時にトラックに折られてしまい、その代わりに新しく今の道標が、昭和38年(1963)に建てられた。折損した道標は、その後しばらく向かいの小川に放置してあったが、いつのまにか無くなってしまったという」とあった。

JAおちいまばり富田
道標に従いT字路を右に折れ、予讃線を越えた先、道の左手にJAおちいまばり富田がある。「えひめの記憶」には「この向かい側の川上手に昭和11年(1936)建立の道標がある。この辺りから北東側(今治市上徳)にはかつて伊予の国府が、あるいは道路の南西側には南海道の越智駅があったのではないかといわれているが、明らかではない」とある。
道標を探したのだが、川筋は道路工事中。あちことさまよったのだが道標らしきものを見付けることはできなかった。
南海道・越智駅
南海道とは都と南海道諸国(紀伊国・淡路国・阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国)の国府を結ぶ古代の官道。古代官道は古代朝廷が飛鳥時代から平安時代前期にかけて計画的に整備・建設され、7世紀中期頃に全国的に整備が進んだが、8世紀末から9世紀初頭の行政改革により次第に衰退し、10世紀末から11世紀初頭に廃絶した。
で、この南海道の愛媛のルートは、讃岐からおおよそ現在の国道11号に沿っており、30里(16キロ)毎に駅馬を配した駅家としては、近井(愛媛県四国中央市土居町中村)、新居(愛媛県新居浜市中村松木)、周敷(愛媛県西条市)、越智(愛媛県)があった、とのことである。
なお、伊予の国府の所在地は諸説あり、今治市上徳、現在の富田小学校あたりとの説が有力とのことだが未だ確定していないようだ。

頓田川・国分寺橋南詰の道標
県道156号を下り頓田川に至る。頓田川手前には天保年間の文字が読めるお地蔵さまが佇む。中央の大きなお地蔵さまを幾体かの舟形地蔵が囲む。 頓田川を渡り道の右手、奥まった木々の中に立派な道標が立つ。手印と共に「遍んろ道」の文字が読める。側面に刻まれた文字は、「えひめの記憶」に拠れば静道の句とのこと。「竹に宿る雀も見えて夏の月」と言われれば、門外漢でもそうと読める。
頓田川
川名の由来は不詳だが、富田川の転化ではあろう。「えひめの記憶」によれば、「今治平野南部には五葉ヶ森に水源を発した頓田川は大きく蛇行をしながら白地を経て上朝倉に出る。上朝倉で北流する黒谷川と合流した後、大きく湾流しながら朝倉村のやや中央部を貫流した後、進路を霊仙山西方で北進して多伎川と合流して今治平野の南部を東北に流れ唐子山独立丘陵の北山麓部を巡り燧灘に注ぎ唐子浜なる砂浜海岸を形成している。
だが現在の頓田川は宝永四年(一七〇七)に河道の付替工事を行っており、幕府領である登畑村・宮崎村への許可願いが出されていることでも明らかなごとく、河川の増水によりしばしば氾濫し町谷・本郷・高井・徳森・久積は頓田川による扇状地で形成された地域と推定される。
これら扇状端部に伏流水を集め流れる竜登川及び銅川はかつては、頓田川の旧河道と見るべきであり、頓田川の開析作用で大きく自然堤防を造りだしたと見られる町谷の堤防があり、ちなみにこの自然堤防上には弥生前期から古墳時代に及ぶ文化層が確認されている。
頓田川はかつては、霊仙山の西山麓宮崎より直進して楠谷山(六八・六メートル)の東山麓をうがって流れた後、水力は衰え扇状地を形成したが、今治平野のやや中央部を流れる蒼社川の開析作用と相まって、沖積平野や扇状地形の進行とともに頓田川の流路は次第に変化縮約されて東北へと流路を取りながら、今治平野南部での堆積作用はなされたものと見られ、これらによる旧河道が、前述の銅川、竜登川である」とあった。

国分の道標2基
予讃線と並行して走る県道156号が、東に少し離れる箇所で県道と分かれ、予讃線に沿った道を100mほど進むと左に折れ、再び県道に向かう道がある。その角に道標が立つ。「左 へんろ道」と共に手印が国分寺方向を指す。側面には「従是 国分寺」らしき文字も読める。
また、この角から少し南の民家前にも少し小振りな道標が見える。「えひめの記憶」にはこの道標は真念道標とのこと。「喜代吉榮徳氏の『四国遍路 道しるベー付・茂兵衛日記』によると、この真念道標は、源五郎地川の橋げたにしていたものを昭和58年(1983)春の河川工事の際に地元の人たちが見つけ、再建したそうである。それを喜代吉氏らが今治市内の道標調査の際、全く偶然に見い出したというもの」とあった。
なんとなく立つ場所に違和感を持ったのだが、上述記事で経緯がわかり納得。こちらも「左 へんろ道」らしき文字が読める。

国分の境界石
県道156号に戻り、少し先に進むと、道の右手に境界石がある。「従是西今治領」と刻まれた結構立派な境界石である。
ここでちょっと疑問。是より西は今治領とのことだが、それでは東は?いつだったか丹原辺りを歩いているとき、松山領とあった。松山藩かとチェックすると、この地の東、越智郡桜井村、孫兵衛作村、登畑村、旦村、宮ケ崎村、朝倉下村、朝倉上之村、長沢村は松山藩預領地の幕府領であった。そういえば、上述頓田川のメモで「幕府領」と記してあった。




境界石傍の2基の道標
境界石の傍、県道右側に道標2基が並ぶ。コンクリートに下半分が埋もれている道標の手印は国分寺と逆方向を示している。また文字も1基は「へんろ」だが、もう1基は「へんど」とも読める。
「へんど」かどうか定かではないが、我々が子供の頃に「遍路;へんろ」と言った記憶はなく、「へんど」と呼んでいた。「へんど」とは「辺地・辺土」のことである。
へんど・辺土
四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故ではないだろうか。
「遍照一尊化」とは特定の宗派に統一されたものでなく、様々な信仰・聖地から成っていた四国霊場が、平安末における大師信仰の一般化にともない、弘法大師空海を核としたものとなっていったことを指す。
「へんど」から少々話が広がったが、何度かメモしたように子供時代の我々にとって「へんど」とは物乞い・乞食と同義であった。悪戯をすると「へんどにやるぞ(連れて行ってもらうぞ)」と言われると、ピタッと悪戯を止めたものである。そんな「へんど」も社会が豊かになり社会福祉が整備されるとともに姿を消したように感じる。

国分寺駐車場入口の道標
境界石から少し先に、県道より分岐し国分寺に至る道がある。その入口に道標が立ち、手印の指す道を進むと駐車場がありその前には国分寺境内への石段がある。
吉祥寺経由の国分寺までの遍路道は一応ここまでとし、もうひとつの遍路道に移る。





■竹林寺をへて国分寺へ■

仙遊寺から国分寺へと向かう遍路道のひとつ、吉祥寺経由のルートは先日国分寺まで歩いた。日を改めてもうひとつの遍路道である竹林寺経由のルートを辿る。

吉祥寺道と竹林寺道の分岐点に
吉祥寺近くに車をデポし、仙遊寺から山道を下り、前面に丘陵下の里が大きく開ける辺りにあった吉祥寺道と竹林道の分岐点に向かう。 吉祥寺から先回歩いた谷の集落を抜け、三島神社手前の2基の道標から山道に入り分岐点に。
「日本三霊場 四国霊場番外 智慧文殊尊道」と刻まれた道標に従い、竹林寺経由の遍路道へと分岐点を右に折れる。

険路
地元では「智恵の文殊さん」と呼ぶ竹林寺道は、遍路も通らないのか、結構荒れている。道の中央が深く抉られ、沢登りのステミング(蟹の横這い)状態で慎重に山道を下る。距離が短いのが救いではあった。






舗装された道に
ほどなく舗装された道に出る。道なりに進むと谷の集落から吉祥寺道の2基の道標箇所を越え、三島神社を南に進む道と合わさる。吉祥寺道と竹林道は三島神社を挟んで丘陵の南北を下ることになる。






舟形地蔵道標
三島神社からの道を左に見て道なりに進むとT字路に出る。その角に舟形地蔵の道標がある。仙遊寺を指す新しい石柱道標と並んでおり見落とすことはないだろう。ここで山道から完全に里の道となる。

土居上池の道標
舟形地蔵道標から左に折れ道を下ると今治市新谷・土居の集落に入り、土居上池に。池脇の道を右に折れるとすぐ、池畔に道標がある。「五十九番」の文字と、逆打ちを示す手印が刻まれる。






八幡神社傍・三差路の道標
道なりに進み、八幡神社の少し北のT字路、民家の塀の前に道標が立つ。「文殊尊道」の文字と共に右を指す。
T字路を右に折れ、八幡神社の前を過ぎると宮下池にあたる。





「えひめの記憶」に拠れば、ここからの遍路道は、「かつての遍路道は、この池の土手を通り、山の中の道を通ったものと思われるが、今はこの道はほとんど使用されておらず、宮下池から先の道は草木が生い茂り通れる状態ではない。
現在の遍路道は、池の手前を左折して東進し、県道今治丹原線(155号)に出て山すそを通って朝倉村古谷の竹林寺へ向かっている」とある。
地図を見ても、土手から丘陵へと実線が描かれているが、山頂手前で切れている。藪漕ぎでも、と一瞬思ったのだが、台風直後のグズグズ道に躊躇い、宮下池の先に見える丘陵を眺め、歩いた気になってお終いとした。


八幡神社
池の土手から池を隔てた丘陵に見える社を眺め、何となくお参りをしたくなった。ちょっと道を戻り、少々アプローチがわかりずらい参道を進み拝殿にお参り。案内には「保延元年(1135)、石清水八幡宮より国司河野伊予守親清によって勧請され、当時既にお祀りされていた宗像三女神を祭神とする「姫宮」を合祀し、新谷鎮座の三島神社と同様に崇敬されている」とあった。
河野通清
河野氏の系図では、四面楚歌の中、頼朝の平氏打倒に呼応し挙兵した河野通清(第22代当主)の祖父・親経が伊予守・源頼義の四男・親清を養子に迎え第21代当主としたとされる。とはいうものの。河野氏の記録に通清以前の正確なものは残っておらず、この養子説も源氏挙兵に呼応した通清と源氏との強固な関係性を正当化するためのもの、といった説もある。実際頼義に親清という子がいるという記録もないようだ。縁起は縁起として置いおくべし、ということだろう。

牛神古墳
丘陵越えの道を諦め、県道を通る道に出る。現在(2017年10月末)、宮下池の下は現在、分断されているしまなみ海道と今治小松自動車道を接続するための高速道路工事が行われている。工事の為通子止めの道もあり、とりあえず成り行きで県道に出て竹林寺へ。
県道を少し下ると道の右手に牛神古墳がある。竹林寺へは、この牛神古墳から右に分岐する道に入るようだ。
牛神古墳にちょっと立ち寄り。案内には「古墳の里 あさくら  朝倉村の古墳は5世紀から7世紀にかけて千数百年前に造られた古墳である。かつては村内に300基以上もあったと言われるが、現在では訳50が見学可能なものとして確認される。
出土物は、朝倉村ふるさと美術古墳館に展示されている」とある、その地図とともに牛神古墳、多岐宮古墳、樹之木古墳、野々瀬古墳群、野田古墳群、禰宜屋敷古墳群、清水寺古墳群などの説明があった。
古墳へのアプローチには展示館が設けられており発掘当時の写真や土器が多数展示されていた。古墳にはコンクリートの開口部が設けられており、石室内部を見ることができた。
牛神古墳
案内には「本古墳は、直径13メートル、墳丘4メートルと推定される円墳であり、墳丘内に2つの埋葬遺構を持つ一墳丘二石室の古墳である。
古墳の造営は遺構や副葬品が6世紀後半の時代と推定される。
内部主体は横穴式の石室で、全長6メートルで玄室全長4メートル、奥壁幅2メートル、天井高2.5メートルの両袖式の石室である。
1基は全長2メートル、幅1メートル~1.3メートルの竪穴式石室であった。石室の主軸方向は北35度東と北25度東をとる。副葬品としては装飾具の他に須恵器や鉄器である」とあった。

これら多数の古墳造営の要因は蒼社川や頓田川の扇状地として形成された沖積平野による稲作の発展、それに伴う富裕豪族の出現、さらには瀬戸の開運の船泊としての立地が挙げられるようだ。来島海峡といった海の難所を乗り切る寄港地として今治の桜井あたりが古代の海運要衝の地であったのだろう。

竹林寺
牛神古墳を右に入り、成り行きで竹林寺に。丘陵を背にしたお寺さまの姿はなかなか、いい。山門を潜り境内に入ると一見すると大きな農家といった建物が見える。庫裏であり大師堂である。左手には古い堂宇があり位牌堂とあった。智慧の文殊様の風情は何処に?
境内を彷徨うと右手に石段が見え、その先に堂宇が建つ。石段を上ると古き趣のお堂があった。智慧の文殊様の本堂はここだろう。お堂から眺める今治平野の眺めはなかなか、いい。
寺伝に拠れば、今から約千三百年前、天武天皇(在位672~686)の時代に、越智大領小千守興(おちもりおき)が願主となり地元出身の三論宗の僧観量大徳が御堂を建立し、毘盧遮那仏を本尊とし、真如坊と号したのがこの寺の始まり、と言う。
後の天平七年(735)、行基が巡化の際に文殊菩薩を刻み本尊として、中国の五台山に模し五台山文殊院竹林寺と改めた。
弘仁三年(812)には弘法大師が逗留し、住職の観光上人に文殊菩薩五百万遍の秘法を伝授。今日日本三大文殊霊場と称される所以である。
以後、寺は鎌倉時代を通じて次第に整備され、竹林寺7坊を管理した。戦国時代に、吉祥寺の箇所で既にメモした鷹取山城主正岡家の祈願寺となるも、秀吉の四国征伐で正岡氏が討ち死にし、寺領も没収された。
江戸時代には今治藩寺社奉行方の支配下となり、また小松藩一柳氏の厚い信仰を受け、『智慧の文殊さん』として庶民にも親しまれた。
境内には四季桜と呼ばれる、毎年10月頃から翌年の4月頃までの長期間にわたり、次々と花を咲かせるという珍しい木も立っていた。

旧県道155交差箇所の道標
竹林寺から先に進む。「えひめの記憶」には竹林寺からの順路として、「竹林寺から東へ坂道を下って行くと三差路に至る。そこにある消防車庫の脇に地蔵堂と破損した道標がある。「□□□道」としか読めないが、国分寺を示したものと思われる」とあるのだが、道標が見つからない。消防車庫らしきものも、地蔵堂も見当たらない。あちこち彷徨ったのだが、結局見つからなかった。

更に、この記事に続けて「えひめの記憶」には、「三差路を左折し、多岐川に沿った遍路道を北東へ進む。川の土手を約1km行くと、県道155号と交差する。この四つ角の北西側に道標がある」とする。

県道まで1キロ?竹林寺から下りた多岐川筋から県道155号まで200mもない。考えらえることは、この県道は新しく通されたもので「えひめの記憶」の記述は旧県道のことではないか、ということ。そう言えば、上述新谷の静道道標の箇所でも県道155号に関する混乱があった。
地図でチェックすると多岐川が頓田川に合わさる手前に南北に道が通る。この道のことでは?とあたりをつけて進むと多岐川沿いの道がT字に合わさる箇所に道標があった。道標は摩耗し、文字も手印もわからなかった。

宮ヶ崎の道標
「えひめの記憶」には、旧県道から先の順路として「この道標に従い、県道を越え頓田川へ向かって進み、頓田川に架かる栄橋を渡って四つ角を左折し、頓田川に沿った土手下の道を川下へ約200m行くと三差路に至る。その角に「五十」の刻字だけが見える道標がある。この道標から三差路を右折し、三島神社のある山に向かって約200m進んで左折すると、すぐ右側に山型鋼と針金で補修された道標がある」とする。
記事に従い頓田川に架かる栄橋を渡り、記事にある少し下流の三差路辺りを彷徨うも道標を見つけることはできなかった。
三差路を右折し、正面に三島神社の鎮座する丘陵に向かって進み田圃の中の道を左折すると道標があった。三差路の道標はみつからなかったが、この道筋が遍路道のようだ。
「えひめの記憶」に既述の如く、山型鋼と針金で補修されている。側面の文殊道の文字と手印は読めるのだが、正面は摩耗文字も手印も読めなかった。

登畑の道標
田圃の中の道を道なりに進みT字路を右折すると三叉路にあたる。その角、左手の生垣の下に隠れて道標がある。「えひめの記憶」では「二つに折れた道標がある。一方が「五」、もう一方が「番」だけの刻字である」とのことだが摩耗しよくわからなかった。

県道156号に合流
道を北東に進み、国道196号を越え先に進み、予讃線の踏切を渡ると県道156号にT字で合流する。場所は吉祥寺経由の遍路道で出合った「従是西今治領」と刻まれた境界石の傍であった。ここで吉祥寺経由の遍路道と合流する。

五十九番札所・国分寺
吉祥寺経由の道で記した境界石、その傍の2基の道標から南東に少し進み、国分寺駐車場入口の道標脇の道に入ると国分寺の石段前に出る。
石段を上り境内に。本堂、大師堂に御参り。
「えひめの記憶」には「境内には、武田徳右衛門が建てた小さな大師堂がある。これは国分寺を第一番として今治周辺の21か寺を1日で巡拝する「府中二十一ヵ所霊場」の開創と「四国八十八箇所道丁石」建立成就記念の大師像を祀(まつ)る小堂である」とあった。徳右衛門道標で知られる武田徳右衛門は旧越智郡朝倉村の生まれである。
国分寺
Wikipediaには、「天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つである。寺伝では聖武天皇の勅願により行基が開創し、後に空海(弘法大師)が長期にわたって逗留し五大明王像を残したとされる。
長宗我部元親の侵攻の際に焼き討ちにあって荒廃したが、後に再興される。焼き討ちの際に焼失を免れた多くの古文書によって律令制衰退後に国分寺の多くが荒廃していく中で同寺が伊予における仏教信仰の中心地として曲がりなりにも維持されてきたことが明らかになっている。
現在の境内は伊予国府のあった所とされ、かつての境内は東へやや離れた位置にあったとされる。寺の東方100メートルほどのところに塔の礎石が残されており、かつての国分寺東塔跡と認められている」とある。
石段上の徳右衛門道標
駐車場から石段を上り切ったところに徳右衛門道標がある。「従是横峯」の文字が読める「六里二十八丁」と刻まれている、とある。
鐘楼脇の石碑
鐘楼横には、「吉野朝忠臣 従三位脇屋刑部卿源義助公霊廟道 是ヨリ二丁」という石碑がある。脇屋刑部卿源義助とは新田義貞の弟。
脇屋義助の伊予下向の経緯はこういうことである;南北朝争乱期、伊予の河野氏は武家方に与する総領家と宮方に与する庶家の得能・土居氏など、一族が分裂。中央では、延元3年(北朝建武5年;1338)、南朝の重臣である北畠顕家、新田義貞の相次ぐ戦死により武家方が優勢になるも、九州西征府を反撃の拠点とし、そのためにも瀬戸内の制海権を支配せんとする宮方は伊予を重視。新田氏をその祖とする大館氏明氏を伊予の守護として下向させ、新田義貞と共に北陸に散った伊予の宮方である得能通綱・土居通増の後を継いだ忽那・土居氏と共に伊予を一時宮方の拠点とした。
伊予の更なる体制強化のため脇屋義助(新田義貞の弟)を伊予に送った宮方であるが、脇屋義助の病死、阿讃両国を掌握した武家方細川氏の伊予侵攻による大舘氏明の世田城での戦死などにより、伊予での宮方優勢が次第に崩れることになる。
裏参道の道標
鐘楼脇の石碑脇の道を脇屋義助公霊廟に向かう。お寺さまの横には神仏混淆の歴史を残す社がある。春日神社とある。道なりに進み古の昔、幾多の古墳があったとされる国分寺の建つ丘陵をグルリと廻り里に下りるとT字路に。
このT字路は国分寺の裏参道とのこと。T字路角に道標が立つ。「左 脇屋公御御廟處 是より二丁」、手印と共に「国分寺」と刻まれる。
脇屋義助公廟堂の跡
T字路を左に曲がり、道の左手に見える緑の小丘に向かう。石段を上がり御廟に御参り。脇にあった案内には「延元元年(1336)5月、楠木正成、新田義貞らの連合軍を摂津国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。同年6月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院統の光明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。そこで、天皇はひそかに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。ここに、尊氏が擁立した京都の北朝(光明天皇)と、吉野の南朝(後醍醐天皇)の両皇統が並び立ち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な抗争が各地で展開された。しかし、戦況は南朝方に不利に展開、新田義貞、北畠顕家などの有力武将が相次いで討死、後醍醐天皇も崩御されたので、南朝方の勢力は急速に衰えていった。そこで、後村上天皇は失った勢力を西国で回復するべく、新田義貞の弟脇屋義助を南軍の総帥として伊予にくだした。
興国3年(1342)5月、義助の一行は、塩飽水軍(佐々木信胤)の船団に護送されて、今張(今治)の浦に到着した。しかし義助は不運にもその直後に病に倒れ、国分寺に急逝した。薨年(こうねん)は38歳であった。 この報せをうけた阿波の守護細川頼春は、義助の死を好機とみて、総勢7千の大軍をひきいて伊予に侵入、南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防40有余日、南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。
現在の義助公の廟堂は寛文9年(1669)今治藩士町野政貞らが再建したものである。また、廟堂の脇には、今治藩の儒学者佐伯惟忠が建てた表忠碑があり、貝原益軒の讃文を刻んでいる」とあった。
中央での武家方・宮方の騒乱に伊予の河野一族も分裂し、敵味方に分かれに分かれる。河野総領家は武家方に与するも、四国制覇を目する同じ武家方の細川氏対策に苦慮し、宮方に帰順、さらには武家方に復帰と御家存続のための河野氏の動向は7回に分けて歩いた河野氏ゆかりの地散歩をご覧ください(そのⅠそのⅡそのⅢそのⅣそのⅤそのⅥそのⅦ
国指定 史跡 国分寺塔跡
脇屋義助公廟堂の跡から国分寺駐車場に戻る。「えひめの記憶」に「表参道を東に少し行くと伊予国分寺塔跡(国指定史跡)があり、13個の礎石が残っている」とある。成り行きで道を進むと「史跡 伊豫国分寺塔跡」と刻まれた石柱があり、平坦地に大きな石がいくつも配されている。お堂の礎石だろう。案内に拠れば、「奈良時代 聖武天皇の勅願によって、桜井国分に国分寺が建てられたが、国分はその境内の跡で金堂の他七堂伽藍の大きな堂塔が造営されていた。この花崗岩の大きな塔礎石は1.5m~2mの自然石で表面に頭大の繰方突起があり、径50cm程度の繰方座の柱受けが刻み出され、天平時代のあらうちのみのあとも鮮やかで豪壮なものである。礎石間の間隔は約3.6mで多少傾いたもののあるが整然と並んでいる。
調査の結果、いく段にもつきかためた粘土の層の上に置かれた礎石は、創建当時の姿をそのまま残しているといわれている。この上にあった七重の塔は200尺(約60m)ともいわれ、広大な国分寺の姿をしのぶ重要な遺構である」とあった。

これで西予市卯之町の四十三番札所・明石寺から五十九番札所・国分寺までをつないだ。次は、六十一番札所・香園寺から六十番札所・横峯寺へと逆打ちで歩いた遍路道との間を繋ぐため、今治市から西条市へと向かうことにする。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク