2017年10月アーカイブ

先回は五十四番札所・延命寺からはじめ、今治市街にある五十五番札所・南光坊を打ち、市街を離れ五十六番札所・泰山寺へと辿った。今回は泰山寺からはじめ高縄山地が今治平野へと落ちる丘陵地に建つ五十七番札所・永福寺、五十八番札所・仙遊寺へと向かう。
丘陵越えとはいいながら永福寺への道は標高90mほど、仙遊寺も標高280mほどである。残暑とはいいながら、酷暑を過ぎた季節となった。のんびり丘陵への遍路道を辿ることにする。



本日のルート;
五十六番札所・泰山寺から蒼社川へ
小泉七丁目四つ辻の道標>酒蔵隅の道標2基>蒼社川へ
蒼社川から五十七番札所・永福寺へのふたつの遍路道
石清水八幡経由の遍路道
四村の道標>五十嵐の道標>石清水八幡表参道口>石清水八幡拝殿>五十七番札所・永福寺への下り道
玉川回りの道
お旅所橋傍の道標>八幡集落の道標>八幡神社参道裏口に>五十七番札所・永福寺
五十七番札所・永福寺から五十八番札所・仙遊寺へ
舟形地蔵丁石>「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑>犬塚池の道標>大塚池土手手前の舟形地蔵>犬塚池から車道との交差点に>土径を進み再び車道に>静道道標と丁石、遍路墓>五十九番札所・国分寺への分岐点>十八番札所・仙遊寺

泰山寺から蒼社川へ

えひめの記憶 泰山寺から蒼社川へ
「栄福寺への遍路道は、泰山寺下の駐車場から100mほど南西へ向かい、奥の院から下りてきた道と交差する。その交差する所にある友澤邸(小泉7-36)北角の四つ辻に天保15年(1844)建立の道標がある。
道標に従って左折し、まっすぐに南東へ向かう。まもなく田畑の中の狭い田んぼ道を行く。400m余り進むと、矢野邸(小泉4-10-8)横の四つ辻に出る。その道に面した古い酒蔵の隅を切り込んだ所に、2mを越す静道道標が立ち、手印が刻まれた地蔵道標が安置されている。さらに南東に進む道は、家並みの中に入って舗装はされていても、昔ながらの細い道であり、国道317号も横切ってそのまま蒼社川(そうじゃがわ)へと向かう」

小泉七丁目四つ辻の道標
奥の院からの道を戻り、泰山寺駐車場前を通る道との四つ角に道標が立つ。お地蔵様と手印、そして「遍ろ道」と刻まれた順路を示す面、「天保十五年辰九月建立」と文字が刻まれた面、「當村上所中」と刻まれた面を持つ道標が民家の塀の前に立つ。




酒蔵隅の道標2基
遍路道は南東に一直線に進む。国道317号の一筋西の道と交差する箇所、道の東側に茶色の木造倉庫といった建物の角が切り取られ、そこに道標と小祠が祀られる。
大きい道標が静道道標。「右 和霊大明神 三十丁 奈良原本社 五里」と南東を指し、南西へと直進する面には手印とともに「へんろ道」と刻まれている。2mほどのあるかと思われる立派な道標である。
和霊神社
南西に進んだ今治市玉川町法界寺に和霊神社が見える。そこだろうか。そこであるとすれば、当初法界寺村の庄屋の屋敷神として宇和島の和霊神社から勧請し祀られたものが、人々が崇敬すること篤く、今治藩主により現在の地に社殿が建てられた、とのこと。
祭神は神話に登場する神ではなく、宇和島にある本社と同じく宇和島藩家老の山家清兵衛公頼公。藩政に殉じた公の徳を多とし、宇和島藩の枠を越え、遠くは広島までの百姓・漁民・町人といった大衆の守護神として信仰を集めたようである。
奈良原神社
かつて今治市玉川町の標高1041m、楢原山にあったが現在は別宮大山祇神社の境内社として遷座しているようだ。
開山は役小角とされ、鎌倉時代以降山岳修験の霊山として多くの行者が常住した、とのこと。西条市丹原にある西山興隆寺から高縄山地に取りつき、東三方ヶ森へと尾根道を進み楢原山へと向かう修験の道もあった、と言う。
社への崇敬は昭和30年(1955)代にも400を超す講中があったと言うが、氏子の今治市内への移転、社の崩落もあり、別宮大山祇神社に遷座したとのことである。昭和9年(1934)には国宝「伊予国奈良原山経塚出土品」が楢原山頂で発見されている。

道標にあったふたつの社をチェックすると、共になんとなく気になる社であった。機会を見て歩いて見ようと思う。予期せざる贈り物を得た心持である。

蒼社川へ
遍路墓
酒蔵隅の道標の先は細路となる。細路を抜け国道を横切った先の車の通れない狭い道を南西に一直線に進み、道なりに少し広くなった道に出る。その道を進むと前方に特別養護老人ホーム日高荘の白い建物が見えてくる。遍路墓は建物北側に並んで立っていた。

「えひめの記憶」には「蒼社川の土手沿いに老人ホーム日高荘があり、同じ敷地内の遍路道沿いに遍路墓が15基ほど整理されて並び、「四国遍路無縁墓地」の立て札が添えられている。歩き遍路がふと手を合わせながら通り過ぎると聞く。泰山寺からこの堤までおよそ1kmである。日高荘前の土手を上がると、幅100m余の蒼社川である」と記す。

蒼社川左岸の道標
「土手沿いに走る道のガードレールの川側に、道標などの石造物を整理して並べている。1基は嘉永3年(1850)のもので、「遠山に眼のとどきけり秋の月」の俳句も刻まれた静道道標である。道標の手印は川を渡る方向を指している。その脇に4基の舟形地蔵、左端の地蔵は6角形の台石の上にある。少し離れて左にもう1基道標がある(えひめの記憶)」と記される道標に向かう。

日高荘脇の土手に上る道を上り切った川傍のガードレールの中にいくつもの石碑・石仏が立っていた。

静道道標
静道道標は南を指す。かつては橋もなく、渡河していたようである。「えひめのい記憶」にも、「『四国遍礼名所図会』には「惣?川常に河原をとぶる。大水の節ハ渡船す」とある。古老の話では、この辺り戦前は、水枯れのころ、川の流れが幾筋かになって中洲ができて、流の両側に石を組み、その上に3枚ほどの板を置いて仮の板橋として渡っていた。ところが大雨になると大河となり板橋も流れ、板とともに流れた遍路もいたという。(中略)昭和5年(1930)刊の『札所と名所 四国遍路』には「折柄天気つゞきの秋の半ば、ほんのちょろちょろ水が一筋、河原を流れ、板橋がそれを渡ってゐる。春夏の豪雨には一たまりもあるまい。いや、そのときは十四、五町上流になってゐる熊橋と言ふのを越すのださうな」と記されている」と渡河の情景が記されている。
角形道標
舟形地蔵から下流にほんの少し離れたとことに道標がある。文字などは摩耗して門外漢には読むことができなかった。








対岸の道標
「対岸に回ると徳重と中寺の境、そこにも道標が川を挟んで道標(私注;静道道標と角形道標)と向き合うように立っている。栄福寺への道と泰山寺への道をそれぞれ示した大正11年(1922)建立のものである。1.5m四方に2段のぐり石で囲い、その中に道標と舟形石仏や遍路墓が7基まとめられている(えひめの記憶)」とある対岸のい道標に向かう。

川沿いの道を上流に向かい山手橋を渡り、蒼社川の南を流れ山手橋の少し下流で蒼社川に注ぐ谷山川に沿って道を左折、しばらく歩くと道標の立つ箇所に着く。
道標には川に向かって北を示す手印とともに泰山寺、西に向かっては永福寺と文字が刻まれていた。道標を囲む石碑、石仏は「えひめのい記憶」に記される舟形石仏や遍路墓であろう。
蒼社川
Wikipediaに拠れば、「高縄半島のほぼ中央、松山市、東温市との境の白潰(しろつえ)の北壁に源流を発し、北流し、鈍川渓谷を形成。支流を集めつつ、今治市法界寺付近で今治平野に流れ込み、北東に流れを変え、やがて燧灘に注ぎ込む。上流は県立自然公園に指定されている。
高縄半島の上流域の大きく花崗岩質でもろく風化しやすいため、過去、藩政期から幾度か洪水の記録があり、川床の掘削を行った。幾度か上流に植林が試みられたが、決定打にはならなかった。
一方、「恵み」の部分として、洪積平野として今治平野を形成したほか、今治に水資源を供給し、タオル製造業や染色業の発達を促した。1971年(昭和46年)には上流に玉川ダムが整備され、旧・今治市とその周辺の自治体に農業用水、工業用水及び上水を供給している。
古くは「総社川」と記した。なお、今治市蒼社町は1976年(昭和51年)の住所表示によって作られた町名である」とある。

タオル製造業や染色業の発達を促した、蒼社川の水質が高度成分の低い軟水であり、この軟水を用いて晒しを行うことで繊細で柔らかな風合い、鮮やかな色が表現できることにあるようだ。
白潰は上述東三方ヶ森の西にあり、水源はこの東三方ヶ森とされる。また、今治平野に出る法界寺地区にはこれも上述和霊神社がある。蒼社川の源流点にも行ってみたくなった。

蒼社川から永福寺へのふたつの遍路道

「えひめの記憶」には「蒼社川を渡ってから栄福寺への道は二通りある。一つは四村(よむら)、五十嵐(いかなし)を通って、石清水八幡へ北東側から上り南西側の中腹にある栄福寺へ下る道、もう一つは谷山川沿いに玉川町に入り、石清水八幡の南西側に回って栄福寺へ上る道である」とある。

石清水八幡経由の遍路道
どうせのことならふたつの遍路道をカバーする。まずは石清水八幡の建つ丘陵を越えの道を辿る。

えひめの記憶 蒼社川右岸から四村(よむら)・五十嵐を経て
石清水八幡表参道へ
「先ず四村、五十嵐を通る道だが、天保7年(1836)の記録『四国遍路道中雑誌』には「惣蛇川越而よ村少し行きていがなし村二致〔到〕る」とあり、今も四村、五十嵐に道標が残っている。(中略)この四村を抜けて五十嵐へ続くかつての遍路道を明確にすることはできない。そこで現在の道で道標をたどることにする。 蒼社川を渡った徳重から谷山川沿いに500mほど進む。そこで山手橋を渡ってきた県道今治丹原線に合流する。左折して300mほど南東に進み、県道から分岐して八幡山に向かって右折する。
田んぼの中を100mほど進むと、秋山邸(四村173)北隅の四つ辻に、頭部が折損した道標が立っている。
そのまま集落の中を100mほど直進すると三差路があり、左折して佛城寺前を過ぎ、次の四つ角を右折して八幡山に向かって直進すると山の麓を回る道に突き当たる。桧垣邸(五十嵐444)前に道標があり、左に150m足らず行くと石清水八幡神社参道表口である。

四村の道標
記事に従い、蒼社川に沿って流れる谷山川脇の道を西に進み、山手橋を南北に走る県道155号まで戻り左折。南東に進み、佛城寺に至る道を目安に右折すると、運よく最初の四つ角、民家の塀前に道標があった。摩耗し文字も手印もわからなかった。



「えひめの記憶」には「四村については、遍路にかかわる次のような伝説が残っている」とし、「与州越智郡今治の内、余村といふ所に治右衛門といふものあり。遍礼も数度して、遍礼の事を殊勝におもひ、遍礼人に宿をかしいたはれり。我家の前に数畝の畠あり、土地あしくして、なにをうへてもそだたず、打捨置しが、遍礼にあたへんとて、芋をうへて見しに、事々敷肥さかえ、よろこび遍礼人に心まかせにすヽめけり。これを遍礼人にあらざる人くへるにあじなくしてくはれず、ミな人ふしぎといひあへり」と記す。
要は作物の育たない土地に、遍路の接待にと育てた芋が実る。遍路は美味しく食べるのだが、そうでない人にはなんの味もしない芋であった、と。

五十嵐の道標
道を進み佛城寺に道があたる箇所を左折、次の角を右折し八幡山前を通る道にあたるT字路の山側に、草で覆われ、少々傾いた道標があった。手印と「へんろ」の文字はかろうじて読めた。






えひめの記憶 石清水八幡表参道から八幡山を越えて永福寺に
 「石橋を渡ると、すぐ右に「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口」と彫られた万延元年(1860)銘のある碑が立ち、左側の草叢(むら)の中には道標(私注;2基)がわずかに頭を出している。
また、『四国遍礼名所図会』に「石鳥井有り。是より弐町坂也」。とあるが、正面には延享2年(1745)建立の古びた石の鳥居があり、道はそこから左右にくねりながら勾配のきつい石段が200m余り続いて山頂の八幡神社に至る。樹々に囲まれた深閑とした上り道である。
八幡山の山頂からの眺めを『四国遍路日記』では、「此山ヨリ見バ今治三万石ヲ目ノ下二見ナリ。誠二碁盤ノ面ノ様ニテ田地斗也。真中二河在、北ハ海手向ヒハ芸州ナリ」と記している。今でも今治市内から瀬戸内まで一望下にすることができる風光の地であるが、今は茂った木々が眺めをさえぎっている山頂からは滑り降りるような道や石段が南西に下り、150mほどで栄福寺に至る」

石清水八幡表参道口
五十嵐の道標のあるT字路を左折すると、ほどなく石清水八幡の表参道口に。 正面に石灯籠を左右に配した鳥居が見える。その手前右手に「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口」と刻まれた石碑が立つ。
表参道口の道標2基
参道口左手、社前の道に面した草むらに2基の道標があった。ひとつは半分に折れた(埋もれているとは思えない)ように見える。もうひとつには手印や「へんろ」の文字は読めるが、手印はあらぬ方向を示している。どこからか集められた2基がここに置かれたものだろうか。



石清水八幡拝殿
石の鳥居を潜り二度屈曲する石段を上る。標高90m、比高差60mほどではあるので、それほどきつい石段でもない。上り切ったところは大きく開かれた境内となっている。拝殿にお参りし、境内端に。「えひめの記憶」には木々に遮られるとあるが、現在は伐採されたのか、から今治市街はもとより、瀬戸の海、しまなみ海道までの眺めが楽しめる。
石清水八幡宮
参道表口の石柱に「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口」と刻まれていたように、神仏混淆の頃は、この社が五十七番札所であった。現在の札所・永福寺は別当寺であった。五十五番札所である南光坊と別宮大山祇神社との関係と同じである。
貞観元年(859)河野深躬により勝岡に勧請され、勝岡八幡宮と称された。永承年間(1746~53)源頼義が、山城国の男山によく似た現社地に、石清水八幡宮に倣って社殿を造営し、石清水八幡宮と改称した。伊予国の一国一社八幡宮(国府の近くに創建された八幡宮)である。
河野深躬
河野深躬は河野氏の祖とされる河野玉澄から数えて4代目当主とされるが、鎌倉以前の河野氏については、国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は善応寺の一帯。伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている。歴史に登場するのは第21代当主・河野通清からである。
源頼義
先日、松山市内を横切る歩き遍路で桑原八幡に出合ったとき、「松山の八社八幡の二番社。源頼義が伊予の国の鎮護として八社八幡を定めたとき、二番社とされたと伝わる。平安から鎌倉にかけて源頼義が下向して八幡宮を勧請・造営したという伝承の陰には、地方武士の協力があったといわれる」との案内があった。

「えひめの記憶」には、「『予州記』には「伊予入道頼義、当国の国司として在国あり、親経(私注;河野親経。河野通清の母の親、ということは通清の祖父ということか)と同志にて、国中に四十九処之地蔵堂、八ヶ所の八幡宮建立せらる」とあり河野家代々の崇敬を受けていたとみられる」とある。
源頼義は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。初代誠和源氏の4代目棟梁(頼朝は9代)。伊予守に任じられたのは事実としても、下向するとは思えない。「えひめの記憶」によれば、「任地に赴かない遙任であったろうし、源頼義が命じたものかは不明であるが、実際は河野氏(親経)によって勧請されたものであろう。そこに源頼義が登場するのは、頼義前代の頼信のころから始まっているとされる清和源氏と八幡宮の関係故のことではあろう。

永福寺への下り道
境内の南に永福寺への下り口(裏参道からの道)がある。「えひめの記憶」に「山頂からは滑り降りるような道や石段が南西に下り、150mほどで栄福寺に至る」とある道を下る。鬱蒼とした木々に覆われた階段状に整備された土径を下ると五十七番札所・永福寺の境内に至る。



玉川回りの道
蒼社川から永福寺へのもうひとつの遍路道をメモする。

えひめの記憶 蒼社川からお旅所橋へ
「玉川回りの道は、蒼社川を渡って徳重から谷山川沿いに進み、今度は県道今治丹原線を横切って、さらに谷山川沿いを上流に向かう。左前方に八幡山がみえ、川の両側には田んぼが広がっている。八幡山の尾根筋が今治市と玉川町の境界である。
600mほど進むと左に八幡山の山裾(すそ)を回る細道があり、右側には谷山川に架かった「お旅所橋」がある。その細道の入り口に3基の道標がある。百度目の茂兵衛道標と小形の道標、それに上部折損の添句もある静道道標である」

お旅所橋傍の道標
何故に「玉川回りの道」と言うのだろうとちょっと疑問。玉川町は現在今治市に合併しているが、かつては越智郡玉川町と、行政区が異なった故の命名だろうと思う。
それはともあれ、「玉川回り」の記事に従い、谷山川に沿って山手橋の南を南西に進むと、谷山川が八幡山北端最接近するところに「お旅所橋」が架かる。橋の道を隔てたところには鳥居が建つ。そこがお旅所であろうか。 お旅所の側から谷山川に沿った車道から細路が分岐する箇所に3基の道標が立つ。
茂兵衛道標
順路を示す手印の面には文字が刻まれるが摩耗して門外漢には読めないが「百度目為供養 願主 中務茂兵ヱ義教」と書かれているようだ。車道に面した面には「明治二十一年五月吉日」とあるが、その逆面には「右 榮福寺」と読める。文字通りであれば、車道を進めということだが、手印方向とちょっと異なる。







静道道標
上部が書けたのだろう「一廿丁」らしき文字が読める。
道標
「左 へんろ道」と刻まれる。










えひめの記憶 お旅所橋から八幡神社参道裏口に
「この山裾(すそ)を回る遍路道は山沿いの幅1mほどの小川に沿い、右側は田畑が広がる細い道である。400mほどで八幡(やわた)集落に入り、左折する細道との三差路に道標がある。
右側の道をさらに50mほど行くと八幡神社参道裏口に至る。左側に表口と同じ万延元年(1860)の銘が彫られている「伊豫一国一社石清水八幡宮江三丁/四国五十七番霊場」の碑が立っている。右側には仙遊寺と栄福寺を指示した茂兵衛道標もある。

八幡集落の道標
丘陵裾の土径を道なりに進み集落に入ってふたつめの三差路に道標がある。この三差路で左に進めとの遍路道案内があった。この道を進むと直ぐに参道に出た。「近道」のようである。







八幡神社参道裏口に
「近道」を戻り三叉路右手の道を進み、次の角を左折すると八幡神社参道裏口に出る。
八幡神社石柱
正面に「伊豫一国一社石清水八幡宮江三丁」、参道面に「四国五十七番霊場」と刻まれた石柱が立つ。万延元年(1860)建立とあるから、神仏混淆の時代、八幡様が札所であったことを示す。






茂兵衛道標
参道側には「榮福寺」、参道前を南に進む車道側には手印と「願主 中務茂兵衛義教」などの文字と共に「佐禮」の文字が読める。「佐禮」は次の札所である「佐礼山仙遊寺」のことである。






五十七番札所・永福寺
参道を100mほど上り栄福寺に。本堂、大師堂にお参り。「えひめの記憶」には「大師堂前には「施主伊藤萬蔵」「周旋人中務茂兵衛」と二人の名が並んで彫られた香台がある。伊藤萬蔵は、四国雪場の各所に石造物を寄進している名古屋の人である。また、本堂のぬれ縁には今も古び九松葉杖を何本も乗せた箱車が奉納されているが、西端さかえは「本堂に『高知県沖ノ島宮本武正十五歳男、イザリガタチマシタ、奉納』と書いた古い貼紙があった。」と記し、梅村武氏によると昭和8年(1933)奉納の日付があるという」

大師堂左前の香台には記事がなければわからなかったであろう「施主伊藤」「周旋人 中務」の文字が確認できた。箱車は残念ながら見逃した。

永福寺
「現在五十七番札所は八幡山の中腹にある栄福寺であるが、もとの札所は八幡山の山頂にある「石清水八幡宮」であった。澄禅や真念の遍路記には、栄福寺の名はなく「八幡宮」とのみ記している。栄福寺は長福寺、大乗寺、乗泉寺と幾度か寺名が変わったようで、栄福寺となったのは寛政4年(1792)であるという。
また長福寺は貞享年問(1684~88)ころに八幡宮の別当寺となっており、栄福寺がこれを継いだのである。四国遍礼名所図会には、「八幡社別当栄福寺」と記され、栄福寺を別当寺としている。その栄福寺は、明治維新の神仏分離によって石清水八幡神社と分かれ、独立して札所となった(「えひめの記憶」)」

永福寺の道標
「えひめの記憶」には「途中の左脇道に高さ40cmほどの自然石の道標がある。この脇道は道標(73)の三差路からの細い近道である。栄福寺入り口には「是よ里佐禮山まで二十丁」の徳右衛門道標があり、その後に下部が折損した道標が石垣に持たせかけてある」と記す。
近道の自然石道標
道標は、上述の八幡集落の道標から「近道」を進み参道のあたる手前の草に覆われた石垣前にあった。文字などは摩耗して読めなかった。




永福寺入口の道標2基
1基は徳右衛門道標には「是よ里佐礼山まで二十丁」と刻まれる、と。次の札所・仙遊寺の文字が刻まれるが、方向は仙遊寺を示してはいない。また、石垣に立てかけられている道標には手印と「四国五十七番札所」の文字「所」で折れているように見えた。




五十七番札所・永福寺から五十八番札所・仙遊寺へ

えひめの記憶 永福寺から犬塚池へ
「栄福寺の参道を下って、参道入口を左折し、八幡山の山裾を回る小川沿いの遍路道を南東に進む。
八幡集落を出るとすぐ右に田んぼが開け、小川沿いの細道の正面は高さ10mもある池の堤である。この間500mほどであるが、川を隔てた山裾に作礼山(佐礼山)への舟形地蔵の丁石が4基立っている。(中略)池の堤の下、左側の上り口に「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑が立っている。
そこから堤の下の道を右に進むと池への上り口の所に道標がある。堤に上がると犬塚池が拡がる。途中に13丁の地蔵丁石がある。池は文化14年(1817)に完成した周囲約4kmほどの溜(ため)池である」

舟形地蔵丁石
参道裏口まで戻り、四つ角を左折。舗装された道を山裾を小川に沿って進む。八幡集落の南端の民家が数軒建つ辺り、水路脇の山裾に舟形地蔵丁石がある。道なりに進むと民家が切れるあたりにももうひとつ舟形丁石が立っていた。 「えひめの記憶」には「丁石中央の地蔵菩薩像の右に「是より○丁 施主○○」と彫られているものが多いが、彫られた願主はすべて「覚心」である。


覚心についてはよくわからないが、栄福寺大師堂前の石垣沿いの、「是より八幡宮二丁願主覚心/善関良財童子」と刻まれた舟形地蔵については、覚心が子供の供養のために建てたものであろうという。またそれと並んだ舟形地蔵には、「是より佐礼山十八丁.../享保十五年六月十八日願主覚心」とある。 施主の居住範囲や地蔵への刻字などからみると、覚心は、享保年間(1716~36)ころの、八幡を中心とするこの地域の人で、亡き子の供養もこめて地蔵丁石建立を発願したのであろうか。

ともあれ覚心による丁石は作礼山まで遍路道脇に点々と立っている。 18基のうち4基(3・4・6・17丁)は確認できず、1丁と2丁、12丁と13丁の丁石の順番がそれぞれ逆の位置に立っている」とある。

「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑
舗装された道を進むと、土砂採取場のあたりで道は分岐し、遍路道は左に進む。その角に舟形地蔵丁石(?)が立つ。
舗装の切れた道を犬塚池の土手に向かって進むと池の水の吐口があり、その先に「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑が立つ。碑の手前に犬塚の碑と舟形地蔵丁石があった。


犬塚
「えひめの記憶」には「栄福寺と仙遊寺の間の使い役をしていた犬にまつわる次のような伝説が残っている。犬塚池 作禮山の麓に在り。堤下に犬塚有り、因りて名づくと云ふ。(中略)昔義犬あり、仙遊寺と八幡山栄福寺と両寺に愛せしに、仙遊寺の鐘鳴る時は佐(作)礼山に来り、栄福寺の鐘鳴る時は八幡山に登る。或時両寺の鐘一時に鳴りければ南北に狂ひ走り、遂に此堤下に斃れて死にけり。仍って此処に塚を築く、犬塚是なり」とある。
伝説は永福寺と仙遊寺の住職を兼ねていた僧が可愛がっていた犬といった記事もあった。それはそれとして「名勝八幡山犬塚池作礼山」の名勝って何を指すのだろう。八幡山・犬塚池・佐礼山一帯のことだろうか。池の堤に上り周囲の景観を眺める。「名勝」と言われれば、そのようにも思える。

犬塚池土手下の道標
池の堤下の土径を進み、土手下を流れる水路を渡る手前に道標があった。順路を示す「佐礼山」は読める。他の面にも文字が刻まれているのだが、「八」の他は薄学の身には詠むこと叶わず。








大塚池土手手前の舟形地蔵
水路を渡り土手に上る道の左手に舟形地蔵が立つ。これも覚心建てた丁石だろうか。八幡の民家辺りにあった2基、犬塚池に分岐する道角の1基、犬塚池土手下の1基とこの1基。文字は読めないが形は同じように見える。
覚心の建てた丁石は18基。確認されているものは14基。そのうちの5基かもしれない。



えひめの記憶 犬塚池から仙遊寺への車道へ
「道幅50cmほどの池沿いの道を300mほど行くと池から離れ、やがて木立に囲まれた道が、急坂の擬本のコンクリート階段となる。この間に丁石(私注;2基)が道端や目の高さくらいの山肌に立っている。また昭和57年(1982)ころには、池と分かれる辺りに「(手印)をされみち」の道標が立っていたそうだが、今は見えない。
階段を上がった所で、山の中腹を横切る2車線の道と交差するが、それを横切り、細い坂道を登る。100mほどでまた車が通行できる道に出る。その手前に覚心の丁石とともに6基ほどの遍路墓がまとめられている」

犬塚池から車道との交差点に
犬塚池の土手脇にある首をくっつけたようなお地蔵様から先は、鬱蒼とした木立の中を歩くことになる。土径を辿ると2基の舟形地蔵もあった。5分ほど歩くと前が開け、階段を上ると車道に出る。
この車道は里に出る道であり、仙遊寺への車道はこの交差箇所の少し西で分岐する。



土径を進み再び車道に
遍路道は車道をクロスし、遍路案内に従い再び土径に入る。道の左手に舟形地蔵、その先にも舟形地蔵が立つ。土径をほんの数分歩くと、前が開け車道に出る。その手前に舟形地蔵と遍路墓が。この舟形地蔵には「九丁」の文字が読めた。記事にある覚心の舟形道標であろう。

えひめの記憶 車道を国分寺道分岐点へ
「昭和20年(1945)以前のここから寺までの遍路道は明らかではない。現在の道は作礼山(標高281m)の山頂近くにある仙遊寺まで車で上れるように拡幅整備されたアスファルトの道である。今までの遍路道に比べると随分緩やかである。600mほど進むと左側に静道道標が立ち、その横に覚心の5丁石とともに10基余の墓石が整理されて並んでいる。この道標は昭和57(1982)年には道の右側に立っていたという。
この遍路墓群から100mほど上ると、右は仙遊寺の上り道、左は仙遊寺から打戻って五十九番国分寺へ向かう分岐点に至る。ここには、真念、徳右衛門、静堂の標石が残されている

静道道標と丁石、遍路墓
「車道をしばらく上る。途中、ヘアピンカーブで曲がる箇所では今治を一望でき、遠くしまなみ海道、瀬戸の海をも見える。ペアピンカーブから少し進むと、道の左手に大きな石柱があり、周囲には石灯籠や幾多の石造物が見える。記事にある静道道標、地蔵丁石、そして遍路墓である。

静道道標には「嘉永七年」といった年号が刻まれる。静道道標右手には舟形丁石も見える。その右手、石灯籠の先には幾多の遍路墓が並ぶ。
「えひめの記憶」には、「整理された遍路墓の中には、阿州・駿州・出羽等からの遍路に混じって「内海源助」と記されたものがある。9丁の丁石(私注;前述の車道に出る手前の遍路墓と共にあった船形地蔵丁石)の所にも「内海源助墓」の墓石がある。
この地に2基の墓標が残されている内海源助は天明3年(1783)に南部藩八戸に生まれた。天明の大飢饉(ききん)では人肉まで食べなければ生きてゆけなかったという。彼もまたそうして育てられた。その事を後に知った彼は、「人を犠牲にして生きる腐れ身に未練はあらじ、せめて大師の救いを求め懺悔をなし、悪しさ宿命に泣いた人々の菩提を弔い浄土へお送りすべし」と陸奥の国を出発し、途中出羽国横田で知人の戸籍を借り、約10年後にこの地にたどり着いて命を果てた」とある。

五十九番札所・国分寺への分岐点
この遍路墓群から先に進み次の札所・国分寺への分岐点に。分岐点の木標には「国分寺6.7km 仙遊寺0.1km 窓の峠1.0km」とある。仙遊寺を打った後は、ここまで戻り、五十九番札所・国分寺へと下ることになる。
この分岐点には徳右衛門道標、真念道標、静道道標があると記事にあったが、「真念と徳右衛門の道標が並んで立つのは珍しい。また真念道標隣に地蔵像があり、その台石に静道居士の「よきとこへこころしづめてはなのやま」の句が、さらにその下の台石に「本堂江三丁」と刻まれている(えひめの記憶)」と記される。

お地蔵様の像とともに「是より国分寺一里」が読める道標は徳道衛門道標ではあろうが、その横に、少し小振りな道標がある。それが真念道標だろう。また、これら道標手前には静道の句が刻まれるというお地蔵様もあった。
窓の峠
窓の峠は仙遊寺の南にある。方向は仙遊寺の逆方向を指しているのだが、どのようなルートで進むのだろう。逆方向であれば仙遊寺の丘を一度下り、谷山川の谷筋を上るのがそれらしき道かと思うのだが。
それはともあれ、この箇所に「窓の峠」の案内がある、という意味合いは「四国の道」のコース案内ということだろう。


永福寺から仙遊寺へのもうひとつの遍路道 別所回りの道

「えひめの記憶」には、「栄福寺から南西400mほどにある別所集落から仙遊寺へ登る道も古くからあったが、その道は戦後幾たびかの改修で道幅4mほどの道に変わったと近在の人は言う。現在は犬塚池のそばを通る前述した旧遍路道よりも車で行ける別所回りの道を仙遊寺へ向かう遍路がほとんどである。この道にも道標が残されている。
栄福寺より南西に進むと別所の大山積神社の所で玉川別所橋より上ってきた道に合流する。そこに「四国の道」の標識があるが、その根元に上部折損の小さな道標があり、100mほど進むと左側に風化して判読しにくい道標が横倒しになっている。(中略)この道はやがて前記の犬塚の池沿いの道と合流して仙遊寺へと通じている」とある。

玉川別所橋から三島神社を経て進む道は舗装された車道となっており、車でのお遍路はこちらが便利だろう。記事にある「四国の道」の木標の辺りには道標は見つからなかった。またその先にあるという道標も訪問時(2017年8月)には道路工事で封鎖中のため確認することはできなかった。

えひめの記憶 五十八番札所・仙遊寺;仁王門から参道を本堂に

仁王門
「国分寺への分岐か「さらに道を登ると左手に仁王門があり、手前の道沿い左側に、数基の地蔵の中に覚心の「是より壱丁」と刻まれた舟形丁石がある(えひめの記憶)」
堂々とした仁王門。「補陀落山」と書かれた額がある。山号は「佐礼山」とあるのだが、どういう所以なのだろう。補陀落山は観音菩薩のホームタウン。このお寺さまの本尊は千手観音とあるので、その故なのだろうか。
千手観音といえば、お寺の案内に「この寺の本尊は、天智天皇の守護菩薩であった千手観音です。観告さまの像は、海から竜登川を登ってきた女の竜が一刀刻むごとに三度礼拝して作り上げたといわれ、「竜女一刀三礼の作」ともいわれています。
また、阿坊仙人と称する僧がここで40年間仙人のような生活をした後、雲のごとく姿を消してしまったといわれており、このことから仙遊寺という寺号が付いたといわれています」とあった。仙人云々の伝説からの寺名由来は雲と遊ぶが如く卒然として姿を消したということだろうし、三礼が佐礼に転化し山号となったのだろうことは推測できる。
仁王門左前のお地蔵様群の中に舟形地蔵丁石があるとするが、どれが地蔵丁石だろう。いままで道端で見てきた地蔵丁石と似た丁石はない。形からすれば結構大きな船形地蔵があるのだが、それだろうか。それはともあれ、地蔵群の中にあったミニチュア地蔵群はなかなかよかった。

覚心の丁石
「車道は仁王門の右を通り境内へと続くが、昔ながらの遍路道は仁王門を通り抜け、手すりの付いた石段を登る。途中右側に、覚心の「是より二丁」と刻まれた舟形丁石が立っている。この丁石は、先の丁石と入れ替わっているようである(えひめの記憶)」

仁王門を潜ると、沢をうまく利用した石段の参道となっている。地図をみると本堂までおおよそ60メートルほどの比高差。石段の中央には鉄パイプの手摺があり、上り下りのお遍路の便宜に供している。
記事にある覚心の丁石は、それらしき舟形地蔵はあるのだが、文字の確認ができずどれが丁石か確定できなかった。

弘法師御加持水 
「さらに登ると左側には、小屋に覆われた「弘法師御加持水」と石柱が立てられ、水口から清潔な水が流れ出ている。この泉には弘法大師が錫丈(しゃくじょう)で清水を掘り出したという杖立伝説が伝えられている。また、このあたりの里人が日照りと疫病に悩んでいたので霊泉を大師が教えたとも、大師がこの水を加持して病人に施すと、たちまち病気がなおったとも伝えられている(えひめの記憶)」

「弘法師御加持水」と刻まれた石柱の脇にある小祠の下はコンクリートで作られた水槽のようにも見える。ここに御加持水が溜まり、沢に落ちているということだろう。ちなみに「御加持水」とは仏の霊験により衆生を守る水。加護に近い。

西国三十三ヶ所観世音石像
「参道途中には西国三十三ヶ所観世音石像が一番から三十三番まで立ち並んでいる。石段を登りつめると仙遊寺に至る(えひめの記憶)」

沢に沿って石段参道を上ると、参道脇に観音様が並ぶ。西国三十三観音霊場の札所一番は熊野・那智山の青岸渡寺。熊野古道・中辺路を歩いたことを思い起こした。
仁王門の扁額「補陀落山」が観音様のホームタウンであったこととともに、このお寺さまの本尊である千手観音へと観音様を収斂させていく。

本堂
仙遊寺は地元の人々には、「おされさん」と呼ばれ親しまれている。境内には二層の屋根のある本堂、大師堂、鐘楼、最近(平成12年)建てられた宿坊などがある(えひめの記憶)」
Wikipediaの記述を簡単にまとめると「仙遊寺(せんゆうじ)は、愛媛県今治市玉川町にある高野山真言宗の寺院。作礼山(されいざん)、千光院(せんこういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。
天智天皇の勅願によって伊予の大守越智守興が堂宇を建立した。空海(弘法大師)が本寺に逗留して修法を行った折には、伽藍を復興し井戸を掘ったとされる。江戸時代に荒廃してしまったが、明治初期に宥蓮上人が再興した」とのことである。

静道道標
鐘楼の北西に心精院静道の「龍燈桜 国分寺へ五十丁」の道標がある。この道標には静道の「入相のかね惜しまるる桜かな」という句が刻まれている。龍燈桜については『今治夜話』に7月17日の夜、湊黒磯より龍灯が出現し、海から龍灯川をさかのぼってこの樹にかけられたとの伝説が記されている(えひめの記憶)」

鐘楼の北西、というより、境内北の崖端手前に道標が立つ。正面の文字は大きくしっかり刻まれているのだが、門外漢には読むことはできなかった。側面には「當城下 丁字屋」らしき文字が刻まれていた。 当然のことながら、記事にある「入相のかね惜しまるる桜かな」は読むこと能わず。「入相(いりあい)の鐘」とは日暮に寺でつく鐘。
記事にある龍燈とは主に海から生じる「怪火」。佐礼の由来として、龍女(龍宮に住む仙女)が千手観音を刻む度に三礼したとメモしたが、その龍女は龍灯川(今治市東鳥生町で瀬戸内に注ぐ)を遡りこの寺にて観音様を彫上げたわけだが、その後も龍燈(怪火)が龍灯川を遡りこのお寺さまの桜の木にかかった、とのことである。

これで五十六番札所・泰山寺から五十七番札所・永福寺を打ち、五十八番札所・仙遊寺へと辿った。次回は仙遊寺の丘陵を下り五十九番札所・国分寺へと向かう。


遍路道を繋ぐ散歩も、西予市宇和町卯之町にある四十三番札所・明石寺からはじめ、上浮穴郡久万町を経て三坂峠を下り、松山市街を抜けて、先回は五十二番札所・太山寺から五十三番札所・円明寺を打ち松山を離れ、今治市にある五十四番札所・延命寺まで繋いだ。

今回からは、逆打ちで辿った六十一番札所・香園寺から六十番札所・横峰寺への遍路道を繋ぐため今治市から西条市に向かうことにする。まずは五十四番札所・延命寺からはじめ五十五番札所・南光坊を打ち五十七番札所・泰山寺へと辿る。


本日のルート:
延命寺から南光坊へ
大谷越えの道
五十四番札所・延命寺>阿弥陀堂前の曲がり角の道標>三差路の道標>延命寺への逆打ち案内道標>阿方公民館横の道標>角柱道標と自然石道標>地蔵と道標>手形だけの道標>角柱道標と自然石の道標>瀬戸内しまなみ海道高架下の道標>地蔵道標>別宮(べっく)札所案内の舟形石仏>大谷越え(大谷墓園)>山方公民館傍の自然石道標>茶堂橋傍の静堂道標
山路経由の道□
JAおちいまばり乃万支店前の里程石>県道38号・県道156号分岐点の道標 >海禅寺の茂兵衛道標
○大谷越えと山路経由の遍路道が合流○
五十五番札所・南光坊と別宮大山祇神社

南光坊から泰山寺へ
南光坊の南東側に接した道
静道道標>遍路道の合流点へ
高野山別院の南東側に接した道
 片山町一丁目三差路の道標>片山町一丁目四つ辻の道標
遍路道が合流
小泉二丁目の道標3基>五十六番札所・泰山寺>おくのゐん道標>奥の院標石と道標>泰山寺奥の院

延命寺から南光坊へ

五十四番札所・延命寺からスタート
延命寺から五十五番札所・南光坊に向かう。「えひめの記憶」には「延命寺から南光坊への遍路道は二通りある。一つは延命寺裏山の墓地を抜け、阿方(あがた)集落を経て大谷墓園墓地を越え、山方町の茶堂に出る大谷越えの道である。 もう一つは山路経由の県道今治波方港線(38号)を進む道である。現在では県道の利用者の方が多く、大谷越えをする遍路は少ないようだが、大谷越えの方が古くからの遍路道である。2本の道は茶堂橋の所で合流して今治市街地に入る」とある。とりあえず「大谷越えの道」をからはじめる。件(くだん)の如く、「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」の遍路道標を目安に遍路道を辿ることにする。

大谷越えの遍路道

「えひめの記憶」 延命寺から阿方公民館
「えひめの記憶」には延命寺からのスタート地点の道筋を「大谷越えの遍路道には、脇道が幾筋もあるが、道標が多く残されており、迷うことはない。延命寺裏山の墓地から北東へ向かう下り道、阿弥陀堂前の曲がり角に道標があり、さらに下って50mほどの三差路で右折すると左側道沿いに道標がある。田畑の中の道を100m足らず行くと、四つ辻の手前右側に延命寺への逆打ち案内道標がある。さらに100m足らず行くと、右側の阿方公民館横に阿方貝塚の発見者である越智熊太郎の顕彰碑が立っているが、顕彰碑と道を隔てた小川の横、道沿いの植え込みの中に手印だけを刻んだ小さな道標がある」とある。

阿弥陀堂前の曲がり角の道標
「延命寺裏山の墓地から北東へ向かう下り道、阿弥陀堂前の曲がり角に道標があり(「えひえの記憶」)」と記されるルートを探る。Googleの航空写真でチェックすると、お寺の東側に墓地が見える。墓地を抜ける道は見えるが、「北東へ向かう下り道」はよくわからない。とりあえず、取り付き口を探す。
境内の真念道標の東側、境内から墓地に続く道がある。道なりに進むと墓地の真ん中を抜け丘陵東端に進み、南東に道が下る。幾多の石仏が佇む坂を下り切ったところに古めいたお堂・阿弥陀堂があり、そこで道はヘアピンカーブとなって曲がる。曲がり角に道標があった。「北東へ向かう下り道(えひめの記憶)」は「南東に下る」のほうが分かりやすい、かも。文字は摩耗して読めない。

三差路の道標
「さらに下って50mほどの三差路で右折すると左側道沿いに道標がある(「えひめの記憶)」と記される道標は、ヘアピンカーブから北東に進んだ最初の三差路・T字路にあった。手印とともに「ほりえ 大阪北」の文字が読める。「ほりえ 大阪北」は何処を・何を示すのだろう?




延命寺への逆打ち案内道標
「田畑の中の道を100m足らず行くと、四つ辻の手前右側に延命寺への逆打ち案内道標がある(えひめの記憶)」の道標は、三差路の道標を右折した最初の四つ角にある。手印とともに延命寺の文字が刻まれていた。






阿方集会所横の道標
「さらに100m足らず行くと、右側の阿方公民館横(中略)道を隔てた小川の横、道沿いの植え込みの中に手印だけを刻んだ小さな道標がある(えひめの記憶)」と記される道標の手印は、これも延命寺方向を示していた。

阿方集会所横の顕彰碑には阿方貝塚の発見者である越智熊太郎三渓翁とともに越智孫兵衛通勝翁の文字が刻まれていた。石碑に刻まれた内容を簡単にまとめておく。
越智熊太郎
明治11年野間郡縣村の十三代庄屋の息として生まれる。教師・校長と教職に従事。その後、義務教育における優秀な指導者養成の必要性を感じ、越智郡亀岡村に伊予教員養成所を設立し人材の育成に努める。
一方、郷土文化を愛し明治初年に発見されるも放置されていた貝塚を、昭和16年まで四回に渡り発掘調査を行い弥生前期の遺跡と確認。出土品は阿方式土器として考古学界に重視されるに至り、昭和23年阿方貝塚として愛媛県史跡に指定された。
また、延命寺の梵鐘の所でメモした如く、第二次世界大戦に際し軍当局より梵鐘供出を命ぜられるも拒否した。後年は村役場に奉職し地元に尽くした。
越智孫兵衛通勝
寛文年間(17世紀中頃)の野間郷縣(あがた)村の初代庄屋。七公三民といった年貢に苦しむ村民の苦境を、一揆・直訴ではなく智慧をもって一人の死者をだすこともなく救った。松山藩の池普請に際し、竹の筒に昼飯として麦粥を入れるように指示。他村が柳行李で食するのと比して苦境を訴えるアイデアである。普請奉行も感じ入り城主久松公より、六公四民に免下げの沙汰。後年全国的な享保の大飢饉にも翁の努力により犠牲者を出すことなく乗り切った。このことは『伊予義人伝』にも記されている、と。翁は終生村民のために意を注いだ。

「えひめの記憶」阿方公民館から阿片地区を進む
阿方公民館から先の遍路道について、「えひめの記憶」は「遍路道をさらに50mほど進むと、三差路の電柱の根元に角柱道標と高さ30cmほどの自然石の道標が並んでいる。ここからはゆるやかに右カーブしながら、100m足らずのなだらかな上りとなる。
上り切った道の右側に地蔵があり、地蔵の左側には道標が、また右側には舟形地蔵道標が並んでいる。道を隔てた反対側には茂兵衛道標がある」とある。



角柱道標と自然石道標
「遍路道をさらに50mほど進むと、三差路の電柱の根元に角柱道標と高さ30cmほどの自然石の道標が並んでいる(えひめの記憶)」と記す道標は、ゆるやかな坂の右手、電柱に隠れるように立っていた。自然石の道標は手印だけのものであった。





地蔵と道標
次いで「ゆるやかに右カーブしながら、100m足らずのなだらかな上りとなる。上り切った道の右側に地蔵があり、地蔵の左側には道標が、また右側には舟形地蔵道標が並んでいる。道を隔てた反対側には茂兵衛道標がある(えひめの記憶)」とあるお地蔵様と道標に。
道なりに進むとお地蔵様を真ん中に、左手に順路を指す手印と「へん路道」と刻まれた道標、右手には舟形地蔵が見える。舟形地蔵が道標かどうか摩耗して文字などは読めなかった。
また、道を隔てた法面には、法面に埋もれたような茂兵衛道標がある。正面には順路・逆路の手印と「南光寺 延命寺」が刻まれていた。



○「えひめの記憶」阿方地区を進む
「地蔵から100m余東方へ下ると、変則の四つ辻があり、東方に向かう遍路道の右側に手形だけの道標が立つ。さらに100m足らず行くと、右側の塀の前に角柱道標と自然石の道標が並んでいる。この道標は高さ30~50cmほどの小さな自然石に手形だけを彫ったもので、いかにも素朴な彫りである。

手形だけの道標
「地蔵から100m余東方へ下ると、変則の四つ辻があり、東方に向かう遍路道の右側に手形だけの道標が立つ(えひめの記憶)」とある変則の四つ辻、というか五つ辻、「55番南光坊」の案内板の下にあった。手印はほとんど摩耗しているように見えた。





角柱道標と自然石の道標
「さらに100m足らず行くと、右側の塀の前に角柱道標と自然石の道標が並んでいる(えひめの記憶)」とある道標は、角柱には手印と「へんろ道」の文字がはっきり見えるが、自然石の道標は、「道標」と言われなけばそうとは思えない自然の石のようであった。


「えひめの記憶」阿方地区の東端に
「そこから300mほど東へ進むと、田園風景の中に西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)が通っている。ここから南方200mほどの所に阿方貝塚跡が整備されている。遍路道は瀬戸内しまなみ海道の高架下を直進する。ここからは今治市山路(やまじ)である。
高架の下をくぐると、すぐ右側に角柱道標がある。そこからなだらかな上りを40mほど進むと、左側のコンクリートブロツク壁の高さ1mほどの位置にコンクリートの棚が取り付けられ、その棚に3基の舟形石仏が立つ。その中央が地蔵道標である」

瀬戸内しまなみ海道高架下の道標
前方に瀬戸内しまなみ海道の高架を見遣りながら田圃の中を進み、高速道路の高架を潜ったすぐ先に道標がある。手印だけが見える。下半分が無くなったのだろうか。






舟形地蔵丁石と舟形地蔵
高架下の道標からゆるやかな坂を上る途中に3基の舟形石仏が立つ。その中央が地蔵道標とのこと。地蔵道標には「へんろ」の文字が読める。
「えひめの記憶」には「近くの人の話によると、昭和50年(1975)ころから行った墓地整備に合わせて道路を掘り下げ拡張した際、現在地より30mほど東の大谷墓地寄りの峠にあったのを移したという。それまでの道は峠越えの急な細道たったが、切り開かれてなだらかな道になったという」とあった。

えひめの記憶 大谷越え;大谷墓園の丘陵を上る
しまなみ海道に続く高速高架下から上るゆるやかな坂の途中にある地蔵道標から「50mほどの坂を上って下りた右側に別宮(べっく)札所案内の舟形石仏がぽつんと立っている。そこから200m余進むと、今は市営大谷墓地を行く、いわゆる大谷越えにさしかかる。
市の中心街からは裏側の西方向より上る。地元の古老の話では、もともとの遍路道は、墓地西側の下池あたりから、直線的に大谷越えをして斎場横の道に下りていたが、墓地拡張のため消滅したという。今の道は西側の下池から頂上まで曲がりくねりながら上る300mほどの坂道である」

別宮(べっく)札所案内の舟形石仏
大谷墓園の丘陵を望む道端に舟形石仏が佇む。別宮札所案内といった文字は門外漢には読めない。ちなみに「別宮札所」とは今から訪れる五十五番札所・南光坊のこと。というか、正確には神仏混淆の時代、南光坊が別当寺をつとめた別宮大山祇神社のこと。大三島にある大山祇神社を勧請した故の「別宮」の呼称ではある。







大谷越え
墓園拡張のため消滅した遍路道は、現在では「西側の下池から頂上まで曲がりくねりながら上る300mほどの坂道である」とある。下池を右手見遣りながら南に突き出た丘陵端の舗装された道を上り、上り切った先で墓園の中を真っすぐ北に続く道を進み、T字路に。T字路から東に下る道がある。 「えひめの記憶」には「頂上の広場には、古い墓石がまとめて山のように積まれている。下りに入る直前の左奥に7・8区の墓園があり、8区C部の一番下の区画外に2基の新しく造り直された道標が並んで立っている。この2基のもとの道標は、少なくとも昭和61年(1986)までは今治駅裏近くにあったというが、たびたび車に当てられ破損したので、新しく造り替えた。その後JR線の高架工事にともない大谷墓地8区に仮安置しているという」とある。

T字路の箇所に墓園の区画案内があり、それによると8区C部はT字路から下る道のすぐ北とある。整備も進んだのか、古い墓石はT字路辺りにはなく、もっと北にまとめて積まれている。また、区画図にある8区Cの辺りを結構あちこちと彷徨うも、「えひめの記憶」にある道標を見付けることはできなかった。

えひめの記憶 大谷越え;大谷墓園の丘陵を下り浅川に
「下りは、墓園の中の広いアスファルト道を200mほど進んで左折し、斎場横を過ぎ桜並木のトンネルの中を進む。忠霊塔まで下り、左折して浅川西側の集落の中を1km足らず行くと、城の形をした城山ハイツ前の浅川にかかる茶堂橋に至る。
茶堂橋の手前、山方公民館への三差路の角に自然石の道標がある。茶堂橋を渡ると、県道今治波方港線(38号)を進んできた遍路道へ合流する」

山方公民館傍の自然石道標
T字路から一直線に東に下る道を進み、記事に従い忠魂塔を左折、さらに突き当りを右折し道なりに進むと、今治を走る度に気になっていたお城のような建物〈マンション?〉の手前三叉路に自然石の道標があった。「へんろ」の文字が読める。
三差路の先に浅川が見え、茶堂橋が架かる。「えひめの記憶」には「ただ現在は、浅川西側に道が出来たことや県道に出ると車両の通行が多いためであろうか、茶堂橋を渡らずにそのまま進み、200mほど下った朱塗りの弥栄(いやさか)橋を渡って県道に出る遍路もいるようである」ともあった。

茶堂橋傍の静堂道標
浅川に架かる茶堂橋を渡り県道38号に出る。橋の下流袂に立派な道標が立つ。 「えひめの記憶」には「茶堂橋の東たもと、県道38号の左側に、地蔵と並んで「延命寺」の部分を彫り直した静道道標がある。これも昭和62年には、地蔵の立つ傍らに横倒しで埋もれかけていたが、平成元年8月には浅川整備工事で陽の目を見たという」とある。
正面には「遍んろ」の文字、西面には硯の形の枠の中に延命寺と刻まれる。「圓明寺」を彫り直したということだろうか。この地で大谷越えと山路経由の遍路道が合流する。
静道
「三好保治の研究によると、静道(1815~1872)は今治の人、尚信、のち静道尚信と称し、「金吉屋静道」「寛譽静道」「心精院静道」「静道居士」「光風亭静道」「金川堂静道」「雪霽庵静道」などの異名を持った。先祖は今治城下鍛治町に住む鍛冶職人で、屋号は金吉屋、在家仏者だと思われる。弘化2年(1845)から没年までの27年間に12種35個の石造物を今治市内外に残しているという。南光坊から五十九番国分寺に至る道筋に、連続した内容と思われる俳句が彫られた静道道標が7基ある(えひめの記憶)」と記す。

山路経由の道
ついでのことでもあるので、茶屋橋南詰で大谷越えの遍路道と合流する、延命寺から山路経由の遍路道もトレースしておく。

えひめの記憶 延命寺から県道38号を進む
「山路(やまじ)経由の道は県道38号を東へ進む。この道はかつての今治街道でもある。延命寺参道入口から200m余進むとJA越智今治乃万支所がある。この駐車場に、昭和55年(1980)に建てた「松山札の辻より十里の地 野間郷脈村一本松」銘の標石が立っている」

JAおちいまばり乃万支店前の里程石
JAおちいまばり乃万支店の駐車場、県道38号傍に大きな里程石が立っていた。傍にあった案内には、「阿方の十里石 松山藩主加藤明公が藩里程標石を定め、此の地に一本の松の木を植えられ、その後寛保元年(1741)に「松山札ノ辻より十里」と書いた立石が建てられた。
以降村人や旅行者から一本松の十里石と大変親しまれていたが、戦後道路拡張等により破損紛失(一部現存)したものを(中略)復元したものである。 松山札の辻(現在の松山西堀端北角)から十里(約40キロ)のところであります」とあった。

えひめの記憶 県道38号・県道156号分岐点に
「この標石(私注;上述の里程石)から東方へ800mほど進んで瀬戸内しまなみ海道の高架下をくぐり、さらに200m余東に行くと山路の分岐点に至る。左は県道38号、右は今治街道で現在の県道桜井山路線(156号)である。このあたりは藩政時代の今治藩と松山藩の境界にあたり、領界石や道標が建てられていた。 今治藩の領界石は東700mほどの三島神社境内へ、松山藩のものは北約300mの厳島神社入口石段前に移されている。また茂兵衛の道標と延喜観音や乃万神社を案内した静道建立の道標は、この分岐点に残っている」

県道38号・県道156号分岐点の道標
県道38号と県道156号の分岐点に茂兵衛道標と静道道標が立つ。静道道標には北に向かい「乃万神社一廿丁」「えんぎ観音廿三丁」といった文字が読める。茂兵衛道標には順逆の手印とともに南光坊と延命寺の文字、茂兵衛の文字が刻まれた面には「右 金ぴら」らしき文字が読める。



三島神社
県道38号を浅川に沿って少し進み、浅川に支流が合わさる手前を南に下った今治市馬越町にある。横に鯨山古墳との石柱の建つお堂・安養寺がある。里程石には「従是南 今治領」と刻まれていた。






厳島神社
三差路から県道38号を東に少し進み、北に折れた今治市山路にある。神社参道石段前に「従是西 松山領」と刻まれた里程石があった。



乃万神社
県道156号を南に下ると今治市神宮に野間神社がある。その社だろうか
延喜観音
先回の散歩でメモした延喜点交差点を北に上った乗禅寺のことだろう。

えひめの記憶 県道38号を浅川に沿って進む
「遍路道は前記分岐点(私注;県道38号と県道156号分岐点)から左側の道、県道38号を浅川沿いに行く。800mほどで海地橋を渡り浅川の東側を進む。海地橋は昭和63年(1988)にできたもので、それまでは100m余先にある海禅寺橋(昭和61年には海路橋となっている)まで川の西側を通り、ここで橋を渡るのが元の道で、海禅寺の本堂左前にある大師像横の茂兵衛道標もこの海禅寺橋の辺りにあったものと思われる」

海禅寺の茂兵衛道標
県道38号を浅川に沿って左岸を進み、支流が合流する先で海路橋を渡り右岸に移る。海路橋から次の橋である海禅寺橋を渡り北に向かい海禅寺の茂兵衛道標を訪ねる。
年を経た仁王さまが見守る仁王門を潜り境内に。本堂前の大師像の横に上下を繋ぎ合わさせた痕跡の残る道標があった。「五十四番 延命寺」「五十五番 南光坊」といった文字が読める。
「えひめの記憶」には「この茂兵衛道標は下から三分の一ほどで折れたのをコンクリートで補修している。この道標は昭和62年には、海禅寺参道口浅川西縁の地蔵の横に折損したまま放置されていたが、平成3年1月には境内に移されたという」とあった。

えひめの記憶 大谷越えと山路経由の遍路道が合流
現在の海地橋を渡る遍路道は海禅寺下の浅川東岸の県道を300m余進み、茶堂橋のたもとで大谷越えの遍路道を吸収する。茶堂橋の東たもと、県道38号の左側に、地蔵と並んで「延命寺」の部分を彫り直した静道道標がある。

大谷越えと山路経由の遍路道が合流
茶堂橋傍の静道道標は、大谷越えの遍路道でメモした。ここで延命寺からのふたつの遍路道はひとつになり、南光坊へと進む。

えひめの記憶 遍路道合流点から南光坊へ
「茶道橋から100mほど進むと市道宮脇片山線に合流する。この道は県道38号と重なった道である。合流した道は、今治北高等学校を左に見て、浅川東岸から離れ北東に進む。
JR線の高架下をくぐって別宮町へ直進し、「別宮(べっく)さん」の呼び名で親しまれている大山祇(おおやまずみ)神社の社叢を見て右折すると南光坊に至る。この間およそ500m、今では道が整備されここへ至るには、JR線高架下をくぐる地点を過ぎてからすぐ右折するなど幾筋もの道がある」

五十五番札所・南光坊と別宮大山祇神社
県道38号を浅川に沿って東に進み、今治北高を北に見る辺りから道は浅川から離れるが、遍路道は道なりに進み、予讃線の高架を潜り国道317号との交差点を右折。国道の西に沿って建つ南光坊の仁王門を潜る。
仁王門を潜ると直ぐ右手に大師堂、正面に本堂、左手に護摩堂、金比羅堂が建つ。御参りをすませ、南光坊に隣接する別宮大山祇神社に向かう。その昔、神仏習合の時代、南光坊は別宮大山祇神社の別当寺であり、寺社は一体のものであった。
大山祇神社
南光坊には特に案内らしきものはなかったが、社には「日本総鎮守 三島地御前 別宮大山祇神社 祭神は大山積大神。天照大神の兄で山の神々の親神であるとともに、日本民族の祖神として地神、海神兼備の大霊神とされる。日本総鎮守たる所以である。
創建は和銅5年(712)越智玉澄公により大山祇(大三島町 元国幣大社)の地御前として勧請創建され、伊予国一の宮の別宮として崇敬されている」 檜皮葺の拝殿は落ち着いて美しい。天正三年(1575)村上通総により再建された、と。当地方唯一の純和様神社建築とのこと。純和様とは寺院の場合、鎌倉時代に中国から伝わった建築様式以前の建築様式のことを意味する(Wikipedia),とのこと。神社も同じコンテキストで考えればいいのだろうか。

「えひめの記憶」には「現在の五十五番札所は別宮山南光坊であるが、もとの札所は今治より海上七里にある大三島の大山祗神社(三島ノ宮)であった。その大三島町宮浦には「別宮迄七里」の徳右衛門道標が立っている。
今治市にある「別宮大山祇神社」は、この大三島の大山祇神社を勧請し建立したもので、通称「別宮さん」と呼ばれている。この本社と別宮に関して、『四国遍路日記』には「此宮ヲ別宮卜云ハ、爰ヨリ北、海上七里往テ大三島トテ島在リ、此神大明神ノ本社在リ。今此宮ハ別宮トテカリニ御座ス所ナリ。本式ハ辺路ナレバ其島へ渡。爰二札ヲ納ルハ略義ナリ。」とあり、『四国邊路道指南』には、「是はミしまの宮のまへ札所也。三島までハ海上七里有、故に是よりおがむ」とある。
また南光坊は、もと大三島大山祇神社の属坊として宮浦に建てられた24坊の一つであるが、正治年間(1199~1201)に別宮大山祇神社の別当寺としてこの地に移された8坊の一つで、明治維新の神仏分離によって別宮神社と分離し、独立して五十五番札所となったという。現在、南光坊は別宮大山祇神社と道路を挟んで隣接し、八十八ヶ所の中で「坊」の名で呼ばれるのはこの南光坊だけである。
南光坊では、大師堂と護摩堂以外は戦災で焼失し、本堂などは再建されたものである。大師堂の梁(はり)から柱、軒裏と至る所に古い板札から新しい紙札まで多くの納札が貼られている」と記される。
境内の道標
「えひめの記憶」に「北東側の県道から仁王門に入る手前の石橋の右に、延命寺案内の静道道標がある。中央部で折れたものを補修して継いであるが、元は宮脇通り南光坊北入口町角に建立されていたという。
右手の護摩堂前に、泰山寺・延命寺を案内した道標がある。また境内を挟んで納経所寄りには、「(大師坐像)従是泰山寺十八丁...」の道標がある。南光坊から泰山寺までは直線距離でも3km近くある。この道標は泰山寺から18丁の辺りにあったものが移されたのであろう」と道標について記す。
仁王門の静道道標
仁王堂右手に「遍ろ道 延命寺」「世話人 静道尚信」と刻まれた立派な道標が立つ










金比羅堂前の道標
「えひめの記憶」には護摩堂とあったが、護摩堂隣の金比羅堂の前に道標があった。手印とともに五十六番札所・泰山寺と五十四番札所・延命寺の順逆遍路道が示されるが、手印とお寺様の文字に手を加えているようで、少々違和感を抱いた細工ではあった。






納経所近くの道標
道標には「従是泰山寺 十八丁」と寄進者の名が刻まれるが、文字の部分に白い塗装のようなものが施され、見やすくはあるが、少々味気ない。








納経所前から境内を出た角の道標
「えひめの記憶」には、「納経所横を南東側に出た所に大正13年(1924)に建てられた道標がある。道標の手印は南東を指し、その下に「高野山別院・五十六番札所」と刻字している」とある。
記事に従い納経所と駐車場の間の道を境内を出ると、境内に沿った道の四つ角に道標があった。手印とともに、「五十六番札所 高野山別院」の文字が刻まれる。
文字を読んだときは、高野山別院が五十六番札所?と混乱したのだが、五十六番札所(泰山寺)と高野山別院を併記したものだろうと納得。


南光坊から泰山寺へ

えひめの記憶 南光坊から今治市片山町への二つの遍路道
「ここから泰山寺への道は二通りある。2本の道は100mほどの間隔で、ほぼ平行に南西に延びた道である。一つは南光坊の南東側に接した道である。もう一つは道標の手印に従って高野山別院まで進み、その別院の南東側に接した道である」とある。

南光坊の南東側に接した道

えひめの記憶 南光坊の南東側に接した道
「現在の遍路道は南光坊の南東側をすぐ右折して南西に向かっている。この道を150mほど行くと今治小学校北西角に田坂邸(南大門3-1-10)があり、その庭に静道道標がある。昭和46年に邸前の道路拡張工事で倒されたものを、道標の施主が先祖であった田坂家が供養のためと邸内に安置したとのことである。
南西にまっすぐに延びた道は、平成2年に高架になったJR線の下をくぐり、明徳高等学校の北西側を通ってさらに南西に直線的に進み、国道196号の手前150mほどで左折して、この道の南東側をまっすぐ南西に延びてきているもう1本の道へ合流して泰山寺に向かう。

静道道標
南光坊の境内に沿った道を南西に進むと今治小学校北西角の対面に御屋敷がある。そこが田坂邸。邸内とあるので道標は見れないだろうと思っていたのだが、道標は門の近くにあり、少々失礼とは思いながらも、道路から写真だけは撮ることができた。

遍路道の合流点へ
南西に延びる一直線の道を進み、JRの高架を潜り、浅川の支流を越え、先ほど立ち寄った、里程石のある三島神社の南の馬越町を越え、片山町1丁目のT字路に。そこを左折すると次の角で、下に記すもうひとつの遍路道と合流する。

高野山別院の南東側に接した道

○えひめの記憶 高野山別院の南東側に接した道
「高野山別院の南東側を南西に向かう道については、昭和9年(1934)刊の『同行二人四国遍路たより』に、泰山寺への順路として「高野山別院の門を出て右へ線路を越えて参ります」とある。別院の門は南東側にあり、「右へ」は南西方向を指している。
この道は今治駅舎の辺りを越えて今治西高等学校の北西側を通る道に続いている。明治31年(1898)測図の地形図によると南光坊(別宮山)の南東側を一直線に南西に向かう道があるが、昭和3年(1928)測図の地形図では、この道は高野山別院の南東側を進む道で、JR線で分断され、迂回して駅裏まで進むようになっている。
これらは共に「今治中学」(現今治西高等学校)の北西側で接する道となる。また、両地形図ともに、先述したもう一本の道よりこの道の方が道幅広く描かれており、主要道路であったことを推測させる。『今治街道』では、この道が旧街道であり「遍路道と一致している」と記している
遍路道は今治駅裏から今治西高等学校前を通って南西に直進する。1.5kmほどで出合う県道桜井山路線を横切り100mほど進んだ三差路に願主小川の道標がある。さらに100mほど南西進した四つ辻の電柱の横にも、同形で同じ願主の道標がある。ここで北西側から来た前述の道を吸収して、さらに200m足らず南西に進むと国道196号に至る」

片山町一丁目三差路の道標
前述の遍路道と平行に南西に一直線に進み、県道156号を越えてほどなく片山町一丁目の三差路角に小振りな道標があった。順路を示す手印面には「小川」、南側の面には「へんろ」の文字が読める。






片山町一丁目四つ辻の道標
三差路を脇道に入ることなく道なりに進むとほどなく四つ角があり、角に立つ電柱の裏に道標がある。三差路の道標と同じく手印面には「小川」、道に面した側には「へんろ道」の文字が読める。手印は四つ角を右折と指すが、この地点が南光坊からのふたつの遍路道の合流点であり、道はここから南西に続くことになるので、手印方向は間尺に合わない。逆打ちを指しているのだろうか。

えひめの記憶 片山町から五十六番札所・泰山寺へ
「国道を横切り100mあまり南西に進むと、右側に手形のみを刻む小さな自然石の道標と角柱道標の2基が並び、向かい合うように道の左側にも手形のみの道標がある。国道からわずかに入ったところで、この辺りの道の両側には田畑が残り、西側の山一帯は「市民の森」、それに隣接するのが瀬戸内しまなみ海道の起点今治インターチェンジである。3基の道標から200mほど進むと左側に駐車場があり、道を横切って右側の細い道を50m余進んで石段を上がると泰山寺に至る」

小泉二丁目の道標3基
合流したふたつの遍路道はひとつになって南西に進み国道196号を横切り、更に南西に100mほど進んだ小泉町2丁目の道路右手の水路脇、ガードレールの前に手印だけの自然石の道標、その横に角柱い手印と「へんろ道」と刻まれた道標、その道の左手にも手印だけの自然石道標があった。3基も同じところにある?どこからか移されたのだろうか。

五十六番札所・泰山寺
3基の道標から道なりに進むと泰山寺の駐車場前に着く。狭い参道を進み、石段を上り漆喰塀に囲まれた境内に。本堂、その隣の大師堂に御参り。
寺には特に由緒案内は見当たらなかったので、Wikipediaによると「泰山寺(たいさんじ)は、愛媛県今治市小泉にある真言宗醍醐派の寺院。金輪山(きんりんざん)勅王院(ちょくおういん)と号す。本尊は地蔵菩薩。
寺伝によれば弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が梅雨期に当地を訪れた際に、蒼社川が氾濫していたが、村に伝えられる悪霊の祟りと考えられていた。空海は村人に堤防を築かせ、完成後に河原で土砂加持の秘法を行った。そのとき満願日に空中に延命地蔵菩薩が現われた。そこで空海は地蔵菩薩像を刻み、堂宇を建て本尊として安置したという。泰山寺の名は延命地蔵経中の「女人泰産」からとったものである。一説には道教の五岳の一つである東岳泰山からの引用ともいわれる。
天長元年(824年)には淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備え10坊を持つ規模となったものの数度の兵火により衰退し、金輪山の山上より麓の現在の場所へ移築された」とあった。
泰山寺の道標
「えひめの記憶」には「今治市小泉にある泰山寺には弘法大師ゆかりの松といわれる不坊松(私注)があった。昭和53年(1978)の松くい虫被害で枯れたものだが、目通り2.2m、枝張り15mの大樹で4代目であったという。泰山寺入り口の石段下には、平成2年までは奥の院への道標があり、さらに境内左側には先記(注;伊藤萬蔵の建てた道標)の道標と徳右衛門道標が並んで立っていたという。
平成13年現在、寺は改装中のため、奥の院への道標は不明、徳右衛門道標は新しい駐車場のほうへ移され、刻字を下に寝かされている。この徳右衛門道標は亡き子6人の戒名が彫られた供養碑でもあり、徳右衛門が道標を建立する機縁を示す貴重な道標でもある」
伊藤萬蔵の道標
記事にある境内、と言うか、狭い参道入ロにある馬頭観音前に道標が立つ。正面には「四国五十六番 泰山寺」、参道側には手印とともに、「伊藤萬蔵」の文字が刻まれていた。










徳右衛門道標
徳右衛門道標は、駐車場の道路に沿ったフェンス前に横倒しで置かれていた。上面には地蔵と手印が見える。脇に書かれている文字は読めなかった。 ◇奥の院への道標
上記記事に寺は改装中のため不明とあった奥の院への道標は後述する。


えひめの記憶 泰山寺奥の院へ
「泰山寺から奥の院までは200m余である。寺の正面の石段を下りて右折し家並みの中を進む。途中、道の左側の塀沿いに道標がある。さらに30mほど進むと「泰山寺奥之院龍泉寺」の案内標石もある」

おくのゐん道標
境内に沿って南西へと、地図で確認した奥の院への道を進む。当初予測した曲がり角には道標が無く、諦めかけていたのだが、四つ角を右折し奥の院へと北東に進む道の左手、塀沿いに道標があった。「おくのゐん」との文字が読めた。






奥の院標石と道標
道を進み右手に折れると奥の院に向かう三差路にふたつの石柱が見える。左手には記事にある「泰山寺奥之院龍泉寺」と刻まれた案内標石。右手の道標には「四圀五十六番奥之院道 約一丁」と刻まれる。この道標は「えひめの記憶」に寺改装中のため不明とあった奥の院への道標だろう。


泰山寺奥の院
土径を上り、一宇からなる奥の院に。お堂の正面にてお参りをし、上を見上げると魅力的な円形の菩薩画が架っている。横にある説明によると鏝(こて)絵とあり、「鏝絵は左官職人が道具の鏝を用いて福を招き災いを防ぐ七福神や亀・鶴・龍に虎等を白壁に漆喰を塗り上げ、浮き彫様に仕上げたもので、高度な技術を要し、江戸時代末期から明治・大正時代にかけて各地で盛んに造られたといわれています」との説明があった。

今回の散歩で今治市街を抜けた。次回の遍路道は高縄山地が今治平野に落ちる丘陵地帯を辿る遍路道となる。
思いつくまま、気の向くままに歩いた伊予の峠越えの遍路道を、どうせのことなら繋いでしまおうと、卯之町の四十三番房所からはじめた「歩き遍路」も松山市街を越え五十二番札所・太山寺に至った。
この先は松山市内最後の札所である五十三番・円明寺を打ち、その先は今治市の五十四番札所・延命寺となる。円明寺から延命寺までは35キロの長丁場ではあるが、北条から菊間にかけての20キロほどの遍路道は「粟井坂越えの花遍路道(そのⅠそのⅡ)」「窓坂峠越え」といったキーフレーズに惹かれ、すでに数回に分けて歩いている。
今回の五十三番・円明寺から五十四番札所・延命寺を繋ぐ歩き遍路は、五十三番・円明寺から粟井坂越えの花遍路道まで辿り、その先は窓坂峠越えの最終地点である菊間の太陽石油精油所前の道標からはじめ、五十四番札所・延命寺までを繋ぐことにする。
粟井坂越えの花遍路道やその先の窓坂峠越えを歩いたのは2015年と2016年年。その時は、峠越えの遍路道を歩きながら、なにを好き好んでトラックの排ガスを吸い込みながらの国道歩きをと思っていたのだが、遍路道を繋ぐためには致し方なし、ということである。ともあれ、散歩を始める。


本日のルート;
五十二番札所・太山寺から五十三番札所・円明寺へ
五十二番札所・太山寺>県道183号・円明寺道の道標>和気小学校西門脇に舟形地蔵道標(?)>五十三番札所・円明寺
五十三番札所・円明寺から五十四番札所・延命寺へ
五十三番札所・円明寺から「花遍路の道・粟井坂」を繋ぐ
馬木の道標>大川・遍路橋東詰の道標>自然石の道標>郷谷川・前川橋北詰の十字路角の道標>堀江の里程石>堀江の茂兵衛道標>予讃線・堀江駅>大谷口バス停
粟井坂から花遍路の里を辿り鴻之坂の峠を越え浅海に
北条の浅海から窓坂峠を越え菊間まで
菊間から延命寺へと辿る
太陽石油精油所正門前の茂兵衛道標>青木地蔵堂>亀岡小学校校庭の里程石と道標>佐方川の舟形石仏>佐方の茂兵衛道標>高城の茂兵衛道標>大山八幡神社>碇掛天満宮>大西町脇地区の茂兵衛道標>宮脇川傍の里程石と徳右衛門道標・舟形道標>井手家屋敷>大西町新町三叉路の道標>安養寺の道標>品部川>乗禅寺>五十四番札所・延命寺



五十二番札所・太山寺から五十三番札所・円明寺へ

五十二番札所・太山寺
思いがけず堂々とした国宝の本堂に出合った太山寺を離れ次の札所・五十三番円明寺へと向かう。スタート地点は一の門。先回辿った遍路道を戻り、建て替えられたためだろうか、「えひめの記憶」にある道標すべてが見つからなかった鵜久森邸まで戻る。太山道と円明道が合わさる場所である。

県道183号・円明寺道の道標
鵜久森邸西南角から道を北に折れ、県道183号に合わさる箇所に円明寺を指す道標がある(「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」)、と。自然石にわずかに「へんろ」らしき文字が読める。また手印は西を向いてようにも見える。現在はそのまま北に道が続くが、その昔の遍路道はもう少し西から大廻りしていたのだろか。

和気小学校西門脇に舟形地蔵道標(?)
県道183号を北に越え、道なりに久万川に架かる橋に向かう。「えひめの記憶」には「遍路道が久万川に架かる学橋(もとは遍路橋という)を渡ってすぐの松山市立和気小学校西門脇に舟形地蔵道標がある。これは昭和35年(1960)ころ、学橋改修の際、川から拾い上げられて橋のたもとに置かれ、同59年の橋の再改修で現在地に立てられたという」とあるが、それらしきものは見つからなかった。

五十三番札所・円明寺
「遍路道は小学校の北側を迂回して進み、やがて県道に合流する。400mほど進み和気の町中に入った県道183号は、県道松山港内宮線(39号)と交差し(中略)交差点で県道39号に振り替わった遍路道は、交差点を直進し120m余で円明寺に至る(「えひえの記憶」)」の記事を目安に円明寺に。

八脚門造りの仁王門をくぐり、境内に。左手に大師堂。参道を進むと鐘楼門となっている中門があり、正面に本堂。本堂右上の鴨居には左甚五郎の作という高さ1m、幅4mほどの龍の彫り物があったようだが、見逃した。
由来
本堂にお参り。案内に拠れば、「四国八十八か所の五十三番札所である。須賀山正智院と号し、本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、天平年間(729~749年)、僧行基の創建で、聖武天皇の祈願所であったという。
この寺は元は、ここから西方の和気西山の海岸にあり海岸山圓明密寺と言われていた。五重塔もあり、立派な本堂など豪壮な七堂伽藍をそなえた寺院であったというが、いくたびかの戦禍により一山のほとんどを焼失し、寛永10(1633)年、須賀重久(私注;詳細不詳)が現在の地に再建したので須賀山円明寺といわれるようになった。寛永13年(1636)には仁和寺の直末に加えられ、正智院と号するようになったと伝えられている。
観音堂に安置されている十一面観音像は、慶長5(1600)年、河野家再興をはかった遺臣たちが、戦死者の菩提を弔うために奉納したといわれている」とあった。また、「えひめの記憶」には「慶安3年(1650)の銘文を持つ貴重な銅板製の納札が保存されていることでも知られる」との記事もあった。

円明寺の旧地については、「えひめの記憶」に「『予陽郡郷俚諺集』には、「元は西山の尾崎勝岡にありしを、中古今の地に移したり」とあって、円明寺の旧地が松山市勝岡町に奥の院として残っているところから、奥の院経由の円明寺への遍路道が一部で案内されている」とある。勝岡町は円明寺の西、五十二番札所・太山寺のある海岸線の独立丘陵地の瀬戸内側にその地名が見える。
切支丹灯ろう
本堂左手の塀際に切支丹灯ろう。「十字架形の灯ろう」。高差40cm 合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ、隠れキリシタンの信仰に使われたと説もある」との案内があった。
円明寺八脚門
「円明寺は、真言宗智山派、四国八十八か所53番札所である。寺伝によれば、天平年間(729年~749年)に、僧行基によって近くの勝岡の地に七堂伽藍が創建されたという。その後兵火により荒廃し、寛永10年(1633年)にこの地に居住していた須賀専斎重久によって現在地に再興されたという。
八脚門の建物は、三間一戸、一重、入母屋造、一軒疎垂木(ひとのきまばらだるき)本瓦葺である。基礎は切り石を据え、柱は円柱で柱頭にのみ粽(ちまき)を付け、頭貫・台輪を通してその上に組物で軒を支え、柱間の中備には間斗束(正面のみ蓑束)を置く。室町時代の作とみられ、頭貫先端の木鼻の彫刻文様や組物の造りには古式が見られるが、その後再興時に改修の手が加えられ、創建時とは変容したことが推定される」との案内があった。
駐車場端の道標
「えひめの記憶」には、「門前の駐車場北西角に道標がある。指示が合っておらず、もとは近くの十字路にあったという」とある。電柱脇にある一見すると道端の石のような道標に刻まれた文字は「右 へんろ」「左 松山 道後」と読める。記事にあるように方向が合っていなかった。










南西角の道標
駐車場脇の対面、お寺さまの塀の外の南西角に立派な道標が立つ。「右 へんろ道」「「左 宮嶋道 是ヨリ船場へ五町 問屋関家好直(私注:町と直は見えないため「えひめの記憶」に拠る)」と刻まれる。
「えひめの記憶」に拠れば、この道標は「宮島(広島県宮島町の厳島(いつくしま)神社)への船乗り場(距離から見て和気浜港と思われる)と船問屋を案内している。

(中略)『明治十六年 四國道中記』と題する講中の定宿名簿があって、その中に、「同所(円明寺裏門)二宮島行 毎日出船あり 船問屋関家好直迄九丁)」との案内が掲載されている。年代も船問屋の名前も道標と同じで、ここからの道のりは船場が手前で、問屋がその先にあったようである。

昔は円明寺を打ち終えた後に宮島へ立ち寄る遍路がいたようで、こうした碑文や名簿の存在は、藩政時代にはこの辺からの出船は堀江浦と定められていたが、明治になって和気浜からの出船も可能になったことを示している」とあった。


■五十三番札所・円明寺から五十四番札所・延命寺へ■

◇五十三番札所・円明寺から「花遍路の道・粟井坂」を繋ぐ◇

五十三番札所の次は今治市の延命寺まで35キロほどの長丁場となるのだが、その間松山市北条から菊間にかけての20キロほどの遍路道は、「花遍路 粟井坂越え」「窓坂峠越え」」といったキーワードに惹かれ既に歩いている。
ということで、今回の歩き遍路道を繋ぐ散歩は、まず「花遍路道」を辿った出発点の粟井坂まで繋ぎ、ついで、窓坂峠越えの最終地である菊間の太陽石油精油所からはじめ延命寺までの遍路道を繋ぐことにする。

「えひめの記憶」に拠ると、「円明寺を打ち終えると、次の札所は道標(私注:前述の円明寺南西角の道標)によると「九里八丁」の長丁場をたどる今治市阿方(あがた)の五十四番延命寺である。同じ読みの札所が続くので紛らわしい。それで札所番号を付けるか、「和気の円明寺」、「阿方の延命寺」などと呼んでいる。長丁場を嫌ってか、あるいは利用してか、このルートを遍路たちは様々な方法で通っている。
沿岸諸港から出る船便による海路の利用もその一つである。また、昭和2年(1927)に省線讃予線が松山まで延伸されると、円明寺近くの伊予和気駅から汽車に乗り、五十四番札所・遍照院のある菊間駅あるいは延命寺近くの大井駅(現大西駅)で下車する鉄道利用が案内され、利用者には便利になった。この方法は、昭和初期の遍路紀行物でしばしば取り上げられている」とある。

遍路歩きの動機は様々。癒し、非日常体験、信仰心故とあれこれあろう。最近の「お遍路ブーム」で、お大師さん(弘法大師空海)の修行の道を辿ろうと、歩き遍路に重きを置く方も多いと聞く。歩くしか術はない時代はいざ知らず、昔のお遍路さんは船を使ったり、汽車を利用したり、結構自由に「お四国さん」廻っていたようである。さてと、遍路道を繋ぐ散歩へと円明寺を離れる。

馬木の道標
「円明寺を出て、遍路道は県道松山港内宮線(39号)と一部重複しながら東へ向かう。松山市馬木町に入り、JR予讃線の踏切を渡って100mほど行くと県道との分かれ道に文久3年(1863)の重厚な道標が立つ。銘文「あかた圓明寺」は今治市の「あがた延命寺」のことである(「えひめの記憶」)」と記事にある馬木の道標に。
「へんろ道」「あかた圓明寺 九里八町」といった文字が読める。圓明寺とは「延命寺」のことである。


大川・遍路橋東詰の道標
「道は東進しやがて左折北進して県道を越え、大きく北方に迂回して回り込み、大川に架かる遍路橋の西たもとに出て再び県道と合流する。遍路橋を渡ると、南東たもとに字形・字配り・彫りのどれをとっても立派な順路と逆路を示す道標が立っている。道はここで、松山市鴨川から北上してきたいわゆる今治街道(以下「旧街道」と記す)に再び合流する(「えひめの記憶」)」との記述従い、大川に架かる遍路橋傍の道標に。

順路は「遍路道」、逆路は「へんろ道」と刻まれていた。ところで遍路橋の架かる大川。道後温泉から五十二番太山寺に向かって松山市街を横切る途中、城北の御幸寺山裾で出合い、志津川池までその流路に沿って遍路道を辿った。こんなこところで再び会うとは。どうでもいいことだけれども、結構嬉しい。

内宮町の自然石の道標
「旧街道を行く遍路道は北上する。50mほど進むと東側に脇道があって三差路となり、その東南角に自然石の道標がある。4、5年前までこの角の少し先、北東の空き地(旧福角(ふくずみ)村)にあったものを刻字の「大内平田村」に当たる現地に移したという。全体に造りは古風に見えるが、今まで報告記録されていないものである(「えひめの記憶」)」と記される道標に向かう。
説明では少しわかりにくく、あれこれ彷徨ったのだが、結論としては遍路橋から大川を少し下流に下り、土手道とわかれる(ここが三叉路のことだろうか?)道を北に進み、最初の角(T字路)を右折するところに自然石の道標があった。「へんろ」の文字がかすかに読める。














郷谷川・前川橋北詰の十字路角の道標へ
「やがて松山市堀江町に入り明神川を渡ったところで道は、JR予讃線の線路によって90mほど消滅している。東側を並行する国道196号は跨線(こせん)橋で鉄道線路を越えている。線路の向こう側には旧街道を行く遍路道がずっと続いており、鉄道と国道との間を北上、権現川を渡り、家並みのある通りを抜けて郷谷川に架かる前川橋を渡る。
橋の北の十字路北東角にアスファルトに埋もれた道標がある。水害のたびに堤防がかさ上げされ、路面が高くなって埋もれたのだという。標石の二面は塀と電柱に接しているため刻字は読めない(「えひめの記憶」)」の記事を目安に郷谷川に架かる前川橋を目指す。

お旅所
国道196号と予讃線が交差する少し手前に明神川の水路がある。記事に拠ればそこから先は、旧街道は消滅しているとのことであり、国道を跨線橋で渡り、右手に見える如何にも旧街道といった道筋に下りる。道を南に少し戻り旧街道南端を確認。国道と予讃線の土手に囲まれた旧街道南端部には「お旅所」の石碑があった。
「お旅所」は神社祭礼の際、神輿にのった神様が休憩・宿泊する場所。近くに「内宮」などと如何にもといった地名がある。この地名は神功皇后の三韓征伐といった神話において、この地に戦勝祈願のため内宮(ないぐう)を建てたことに由来し、その社は現在内外神社として福角町にある。その内外神社なのか、また同じく福角町にある正八幡神社のものか、ちょっとチェックしただけではわかのらなかった。
郷谷川・前川橋北詰の道標
道を折り返し、権現川を渡り三叉路を右に道をとり郷谷川に架かる前川橋を渡ると、正面十字路角に、あらぬ方向を指す手印とともに、遍の字だけが読める、道に埋まった道標があった。








堀江の里程石
「ここからはしばらく遍路道は旧街道の面影を残している家並みを行く。北進して三差路を右折して東へ進む。この右折した東南角地を占める門屋邸(堀江町1526)内庭には、松山藩の里程石「松山札辻より弐里」が保存されている。
この松山藩の里程石とは、松山城堀の西北角の「札の辻」を起点にして今治街道及び波止浜街道に一里ごとに設けられたもので、はじめ標木であったが寛保元年(1741)に標石を建立したという(「えひめの記憶」)」の記事を頼りに先に進む。門屋邸内庭にあるという里程標はさすがに見ることはできないだろうと思っていたのだが、お屋敷の門が空いており、道路から里程標を見ることができた。




光明寺
「遍路道の行く方向とは逆に三差路を左折すると、すぐ突き当たりが光明寺で、門前には享保大飢饉の供養碑が立っている(「えひめの記憶」)という光明寺にちょっと立ち寄り。山門手前、右手のお堂の前に石碑が建つ。
「享保の飢饉の供養塔と追遠の碑 供養塔には「南無阿弥陀仏」が、1881年に建てられた追遠の碑には飢饉の惨状や村人の思いが刻まれている。
1732年(江戸時代中期)に起きた飢饉は、天候不順、ウンカ、メイチュウ、イナゴの大量発生で作物が食い荒らされたことによる。

人々は草の根や木の皮などを食料にしたが、飢え死にする者が多く松山藩では5700名余り、堀江村では人口800人余りの半数以上が餓死した。人々に分ける麦ぬかを積んだ船が堀江港に着くと、大勢の人が集まってきたが、途中で野垂れ死にする人も多かった。
堀江村の人々は野ざらしになっていた死体を光明寺前に集めた手厚く埋葬した」とあった。

堀江の茂兵衛道標
光明寺から旧街道を行く遍路道に戻り、「東へ150mほど行くと三差路があって、その東南の角に明治19年(1886)建立の茂兵衛「八十八度目為供養」の彫りが深くて重厚な道標(52)が立っている。順路と逆路と二つの遍路道のほか、「みやしま(宮島)出舟所」と堀江の港を案内している。旧街道を行く遍路道は指示通り直進である(「えひめの記憶」)」とある茂兵衛道標に。
手印とともに、「右 遍路道」「左 逆遍路道」、さらに北方向に手印とともに「みやしま*舟*」と刻まれた文字が読める。
堀江港
堀江港へちょっと立ち寄り。道を北に進み県道347号・堀江港交差点を渡り更に北に直進すると港に着く。
「えひめの記憶」には「港へは道標(私注;三叉路の茂兵衛道標)の指示に従って左折北進し、国道196号(私注;現在は県道347号)を越えさらに進むと約400mで堀江港に至る。堀江は古くからの港で知られる。江戸時代には松山藩領内十三浦の一つで、領内の旅人が船出する所といわれ、本州方面への舟の発着場所として賑(にぎ)わっていた。
とくに円明寺を打った後、安芸の宮島へ立ち寄る遍路が相当数あったらしく、『伊予道後温泉略案内』の中にも、「みやじま (中略)へんろはほりえよりかいしやう(海上)かた道十九り えんめいじ下ニつく」などとある。すなわち、宮島等の参詣を組み入れた遍路行が、江戸後期から明治初期までしばしば行われたようである。三津と堀江の港がよく利用されていた(中略)。彼らは参詣後再び四国へ戻り、佐方(菊間町)、大井新町(大西町)などに上陸して延命寺へ向かった。結果的には、長丁場である「九里八丁」の陸路を舟で迂回して省略し、道中旅の楽しさを味わっているともいえる。
また、明治16年(1883)出版の『四国霊場略縁起 道中記大成』では、「是より安芸の宮嶋参詣の人は、五十二番五十三番(に)札(を)おさめ、それより十八丁行(き)、堀江町に宮嶋行(き)の早舟あり。上り所大井の町にて約束すべし61)」と案内している。明治の初めころまでは、宮島行きは堀江からの早舟が便利であったのであろうか。また、荷物の積み下ろしは堀江、客は三津浜という時代が帆前船から汽船に変わるまで続いたともいう」とある。

予讃線・堀江駅
「再び旧街道を行く遍路道に戻り、道標(私注:三叉路の茂兵衛道標)の指示に従って直進する。道はゆるやかに右カーブしつつJR堀江駅前に至る。この間の家並みには格子戸のある家が多く、かつては高橋屋・朝日屋などの遍路宿が営まれ、昔の旅龍屋(はたごや)の面影を残しているものもある。
JR堀江駅前の広場左角には毘沙門(びしゃもん)堂がある。駅前から道は放射線状になっている。左折し北西へ行く道は県道堀江港堀江停車場線で堀江港へ向かう。右側の道が旧街道を行く遍路道である。約200m進むと小川があり、その先は開発された住宅地になり道は消滅している。かつての道は小川を越えて200mほど北へ直進し、今は国道196号(私注;現在県道347号)となっている旧街道を行く遍路道につながっていた。今は小川に出たところで左折し、少し行って国道196号(私注;現在県道347号)に合流して進む(えひめの記憶」)」の記事に従い遍路道を進む。
堀江駅前で毘沙門堂を見遣り、道なりに進み県道347号に戻る。旧国道196号は現在松山北条バイパスとなり県道347号の東側を走っている。

大谷口バス停
「国道はJR線路に並行して、山が迫った海岸線を走る。約1km北に進むと大谷ロバス停留所があり、旧街道を行く遍路道はここで国道と分かれて右折しJR線路を越え、左折して線路沿いに北上し山道に入る。これからが粟井坂の難所であった。
現在この道は300mほどしか進むことができず、山中で行き止まりである。近年、この道の山側には国道196号松山北条バイパスが走り、すぐトンネルに入るようになっている。
かつて粟井坂越えの道はこのトンネルの近くから山に上り、上り下りしながら海岸寄りに峠を越えて北条市側に降りていたようである。旧街道としてあるいは遍路道としての機能を失ってから久しく、荒廃してその姿を今日たどることはできない。ただ、坂の頂上には、反対側の北条市方面からは登ることができる(「えひめの記憶」)」の記事にある、粟井坂西口にあたる大谷口バス停に。 海岸線に突き出た丘陵地を抜いた国道196号が顔を出し、再び粟井坂トンネルへと入る箇所である。
粟井坂は西から辿ることはできない。先般の「花遍路の道散歩で、粟井坂の東口から坂の頂上までは辿っているので、ここで一応「道を繋いだ」とみなす。




◇粟井坂から花遍路の里を辿り鴻之坂の峠を越え浅海に◇

粟井坂から松山市の東端、今治市との境をなす浅海地区までは、先般歩いた「花遍路の里を歩く;粟井坂から花遍路の里を辿り鴻之坂の峠を越え浅海にそのⅠそのⅡ)」の記事に任す。
このルートを歩いたきっかけは、図書館でたまたま目にした「鴻之坂の峠越へ」の記事。旧北条市(現在松山市)の東、市街を離れた下難波地区から腰折山の鞍部を抜け、今治市との境を接する浅海(あさなみ)地区に抜ける昔の遍路道とのことではあるが、如何せん距離が4~5キロ程度で余りに短すぎる。
で、その前後をルートに加えようと「えひめの記憶(愛媛県生涯教育センター)」の遍路道をチェックすると、松山の堀江から旧北条の小川の間に粟井坂があり、そこは旧和気郡と旧風早(かざはや)郡との郡境とのこと。鴻之坂の先にある窓峠は旧風早郡と旧野間郡の境でもあり、散歩の区切りとしてもよさそうである。 さらにこのふたつの坂の間の北条は、昔NHKのテレビドラマにあった「花へんろの里」と言う。もとより「花へんろ」は脚本家であり、北条出身の早坂暁氏の造語であり、今の北条市街にドラマにあった風情が残るとも思われないが、坂、と言うか小さな峠に囲まれた「花へんろの里」を歩くって、結構「収まりがいい」し、距離も12~13キロ程度で丁度いいと、辿った遍路道である。

◇北条の浅海から窓坂峠を越え菊間まで◇

先回の散歩、結果的には知らず四国八十八箇所の歩き遍路とはなっていたのだが、旧和気郡と旧風早郡の境にある粟井坂を越え、花遍路の里を辿り、鴻之坂の峠を越えて北条市の浅海(あさなみ)の地蔵堂まで歩いた。
と、浅海の先の遍路道として「窓坂」とか「ひろいあげ坂」という地名が登場する。峠越えフリークとしては、この言葉に惹かれ、浅海から「窓坂」とか「ひろいあげ坂」を経て菊間まで進むことにした(「四国 あるき遍路;北条の浅海から窓坂峠を越え菊間まで」の記事に託す)。
道は海岸線に突き出た丘陵部に張り付くように進む現在の国道196号とは異なり、浅海から窓峠に上り、丘陵に南北を囲まれた道を菊間へと抜けることになる。土木建設の技術が発達する以前には海岸線を通る道は危険極まりなかったということではあろう。

◇菊間から延命寺へと辿る◇

円明寺から延命寺を繋ぐ遍路道散歩、途中の北条から菊間までの20キロほどのメモは上述リンク先の記事に任せ、今回の散歩は浅海から菊間へと抜ける窓峠越えの最終地とした太陽石油精油所手前にある道標から散歩を再開する。

太陽石油精油所正門前の茂兵衛道標
国道196から離れ、高田(こうだ)集落を進み太陽石油精油所正門手前200mほどのところにあった茂兵衛道標からスタート。

青木地蔵堂
国道に戻り、「えひめの記憶」に、「たちは坂の100mほど手前を右へ下ると、遍路道と国道との間に、青木地蔵堂があり、本堂から一段下がった所に覆屋(おおいや)のある井戸がある。この井戸は弘法大師が杖で場所を示し掘らせたものと伝えられ、覆屋の壁板の部分には、大師像を浮彫りにした直径1.5mほどの丸石が立ててあり、その前庭には「弘法大師加持水」と刻まれた石柱が立っている。 また本堂前の通夜堂の軒下には古い松葉杖やギブスなどがうずたかく積まれている。この通夜堂は畳も敷かれていて、今も遍路が無料で泊まれるお堂である」とある青木地蔵堂に向かう。

国道から左に折れ、青木地蔵堂に。記事にある如く通夜堂で歩き遍路の方がゆっくりくつろいでいた。地蔵堂・通夜堂より一段下の広場にある覆屋には大師像が浮き彫りにされた丸石、その前に石で囲まれた井戸水が見える。全国各地に伝わる「弘法大師杖の水」のひとつだろう。覆屋には幾多の石仏も並んでいた。
青木地蔵堂の道標
「青木地蔵堂への下り道の右側斜面の草叢(むら)に、下部が埋もれた「(右手印)ぎゃく邊」と刻まれた道標が立っている(「えひめの記憶」)」と記される道標を探す。文字通りを解釈すれば、国道から青木地蔵堂へと下る坂道右側の草叢(むら)と読めるのだが、いくら探しても見つからない。

あきらめて、青木地蔵堂を離れ地蔵堂前旧道の坂を上り切ったところ。道の左手の草叢の中に道標が立っていた。これが上述道標のことであろう。なんらかの都合でここに移されたのだろうか。文字は読めないが、手印は逆打方向を示していた。


亀岡小学校校庭の里程石と道標
「地蔵堂を過ぎると遍路道は国道と合流し、そこから500m余り下ると三差路に至る。ここから遍路道は国道と分かれて右に入り種川を渡って、種の集落を北東へ進む。しばらく行くと右手にJR伊予亀岡駅、左手に亀岡小学校がある。 校門を入るとすぐ右側に「今治へ」と「菊間へ一里一丁三十一間」と刻む道標があり、左側植え込みの中にある池の奥に、「松山札辻より八里」の里程石が立っている。この里程石は、ここから1.2kmばかり北東にある高城の変電所付近にあったものという(「えひめの記憶」)」の記事を頼りに亀岡小学校の里程石と道標に向かう。

校庭内とは敷居が高い、と思っていたのだが、道標は正門内のすぐ右手、里程石は正門に接した庭に立っている。学校関係者にお断りを入れるのも仰々しいかと、構内に入らせてもあらう。道標を見た後、池の飛び石伝いに近づき里程石もゆっくりみることができた。道標には「菊間 一里」「今治」といった文字が読める。里程石には「松山札之辻」といった文字が読めた。

佐方川の舟形石仏
「遍路道は北東に進んで佐方川に至る。橋の西南詰の台石に2基の舟形石仏が乗っている。うち1基は道標を兼ねたものである(「えひめの記憶)」とある舟形石仏に向かう。
旧道を進み佐片川に。2基の舟形石仏のうち一基にはお地蔵さまとともに遍路道を示す手印が刻まれていた。






佐方の茂兵衛道標
「一筋に続く道を行くと佐方集落のはずれの三差路に茂兵衛道標が立っている。「左 新道...」と刻まれた大正2年(1913)建立のもので、明治43年(1910)にできた新道も案内している。
旧の遍路道はまっすぐにミカン畑の中を上り、左にカーブしながら家並みの中を下って国道を横切って高城に入る。道標(私注:茂兵衛道標)の「左 新道」に従って進むとすぐ国道に合流し、400mほどで、まっすぐ進んだ旧の遍路道と高城に入る地点で出合う(えひめの記憶)」との記事にある茂兵衛道標の立つ三叉路に。

「左 新道」と刻まれた道標南面には手印で延命寺と、同じく手印とともに円明寺が刻まれる。巡打ち、逆打ち双方を示す道標となっていた。 遍路道は延命寺を示す手印に従い東に向かい、予讃線を通すため切り開かれたような丘陵の間を抜け、佐方集落東端の田圃を見遣りながら国道196号に出る。そこが茂兵衛道標を左に新道を辿ったルートとの合流点である。

高城の茂兵衛道標
「国道から集落に入って50mほど進んだ左側の高城集会所前に茂兵衛道標がある。(中略)徳右衛門道標を改刻したと思われるもので、右面には「世話人朝倉村徳右衛門」の刻名が残されている(「えひめの記憶」)」とある高城集会所前に向かう。

高城集会所前には茂兵衛道標は見つからない。あちこち彷徨うと、国道196号から左に折れ、旧街道を高城に入る角に道標が立っていた。集会所前から移されたのだろうか。
道標には巡打ち、逆打ちの案内だろうか、延命寺と円明寺の文字と左右を示す手印が見える。また、「右 新道」とも刻まれていた。建立は大正5年(1916)とあるので、明治43年(1910)に完成した「新道」を案内していた。「えひめの記憶」に記す「世話人朝倉村徳右衛門」の文字は分からなかった。

大山八幡神社
「えひめの記憶」には、「遍路道は高城を約400m進むと再び国道に合流する。ここまでが菊間町(私注;今治市菊間町佐方)で、これからは越智郡大西町(私注;現在は今治市大西町別府)となる。大西町に入った遍路道は国道を北東に進む。1kmほど進み、国道と分かれた山側の遍路道は、別府の原集落に入る。

現在は国道筋だけになったこの1kmほどの道について、『今治街道』では、大西町に入った旧街道(遍路道)は、すぐ現在の国道と分かれて右手に入り400mほど進んで、また国道を横切り北側に出て大山八幡神社の東麓でカーブしながら、再び国道を横切って原集落へ続いたと推測しているが、「現在の道路からは確認できない」とも記している」とある。

要は、旧街道は辿れないということだ。実際、それらしき名残を感じるような道筋も全く残っていない。であれば、往昔の道筋であった大山八幡神社だけでも訪ねてみようと、今治市大西町別府を走る国道から左に折れ八幡様に。 鳥居を潜り、参道にある珍しい屋根付き注連石を越えて拝殿に。
案内には「祭神 高淤加美神・誉田別命・帯仲津彦命・息長帯姫命・雷神 境内神社 諏訪神社・得居神社・加代之宮社・小祭神社(龍神社等八社) 天明天皇の和銅五年(712)雷神、高淤加美神を勧請、清和天皇の貞観元年(859) 奈良大安寺の僧 行教が宇佐八幡宮より勧請した。また、宇多天皇の弘安五年 (1282)国守河野通有が筑前の宮崎八幡宮より勧請したとも伝えられている。 境内にある諏訪神社・得居神社は安産の神として崇拝され、妊婦は境内の砂を 一握り持ち帰り、無事出産すると、お礼として浜の砂を倍にしてお返しした」とあった。
別府(べふ)の地名由来が、この地に昔怒麻の国造の別館があったので、別府という地名が起こった、との説もあるように古い歴史のある地ではあろうが、神社縁起のレイヤーが重なり、どれが本命かよくわからない。この地の沖合にある怪島(けしま)は河野氏の将が砦を築き斎灘を護っていたとのことなので、河野氏ゆかりの縁起は、それなりに納得感はある。
メモをしながらちょっと気になることが。大山八幡神社って?大山祇神社と八幡神社を足して二で割ったような社名である。祭神もふたつの社に関係する(後付けではあろうが)。大山祇をまつる大三島の人々がこの地に移り社を建て、その後に勢力を増した八幡様も合わせ祀ったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

碇掛天満宮
次いで、「えひめの記憶」には「原を通る一直線の遍路道を1kmほど進むと、海寄りにカーブしてきた国道と再び合流する。合流点右側には菅原道真伝説が残る「碇掛(いかりかけ)天満宮」がある」と記す。 「碇掛」という名前に惹かれてちょっと立ち寄り。「合流点右側には」と軽く記されていたが、参道は国道に突き出た丘陵をぐるりと廻り、急な坂をのぼることになる。
菅原道真伝説
仁和四年(888)菅原道真公が讃岐守のとき、父是善公が伊予権守をしていた伊予の国を訪ねたと言う。その帰途、三津の湊を船出し、北条の沖合に来た時、急に嵐となり、この地まで船が押し流される。碇を下して上陸し、暫くの間、苫屋に休まれた、とか。これが官公の伝説であり、碇掛天満宮の由来とか。 瀬戸内には道真公の暴風故の、あわや遭難といった船旅にまつわる伝説がいくつか伝わる。大宰府左遷の折とその前の讃岐守の時代のものカテゴリーに分かれ、西条市壬生川には大宰府左遷の下り、暴風に合い上陸し、網を敷いてもてなしてもらう、といった網敷の伝説など、バリエーションも多い。 難破>上陸>苫屋での休憩と天神さまを祀る関係がいまひとつ弱いが、この社は菅公が讃岐守の折の伝説のひとつだろう。
五郎兵衛大師
国道196号から碇掛天満宮に向かう分岐点に小祠がある。「五郎兵衛大師」とあった。案内には「悪病、悪霊の侵入を防ぐお大師さんとして信仰されている」と記される。詳しいことはわからなかった。








大西町脇地区の茂兵衛道標
碇掛天満宮から国道に戻ると、「まもなく左手に星の浦海浜公園が見えるが、遍路道はその手前で国道と分かれ右手の山側に入る。
遍路道はJR線沿いの県道大西波止浜港線(15号)を行く。JR線と共に大西跨線橋の下をくぐり、JR線と分かれて大西町新開の集落に入る。 200mほど進んで遍路道が脇川と出合う左手の角に、自然石の一字一石塔と並んで茂兵衛134度目の道標が立っている(「えひめの記憶」)」の記事にある脇川傍の茂兵衛道標に。

「穪讃浄土三部妙典一字一石塔」と刻まれた自然石の横に茂兵衛道標があった。道標の正面は遍路道を指す手印と施主名、その他の面には「明治二十七年」、「願主中務茂兵衛 周防・・四國一三四度目為供養」と刻まれる。 中務茂兵衛は一生を巡礼に捧げ、四国霊場巡礼の回数は280回に及ぶ、とか。この道標はその半分ほどの頃のもの。道標を立て始めたのは42歳、巡礼88度目からとのことである。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。
一字一石塔
「コトバンク」には「経典を小石に1字ずつ書写したもの。追善,供養などのために地中に埋め,その上に年月日,目的などを記した石塔の類を建てることが多い。江戸時代に盛行した」とある。
この一字一石塔には浄土三部妙典とある。浄土三部経の経典を書写しているのだろうか。
◇「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」
「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」とは、『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の三経典をあわせた総称である。法然を宗祖とする浄土宗や親鸞を宗祖とする浄土真宗においては浄土三部経を根本経典としている。ただし時宗は『阿弥陀経』を重んじる(Wikipedia)」とある。

宮脇川傍の里程石と徳右衛門道標・舟形道標
「ここから道は東へ400mほど進んで山之内川を越え、大西小学校を左に見てさらにJR線を横切ると宮脇川にかかる。その手前に「松山札辻より九里」の里程石と並んで延命寺を案内した徳右衛門道標がある。このほか数基の舟形石仏もあり、中の1基は道標にもなっている(「えひめの記憶」)」の記事に従い旧街道の遍路道を東に進む。
宮脇川西詰、木立の中に「松山札辻より九里」と読める里程石、その脇に茂兵衛道標、里程石と茂兵衛道標を囲むようにいくつかの舟形石仏が並ぶ。徳右衛門道標には正面にはお地蔵さまの像とともに「是より延命寺迄一里」と刻まれているようだが、摩耗してよくわからなかった。舟形石仏の道標も中央の石仏に手印らしきものがかろうじて見えた(ように感じた)。
一里塚
里程石脇にあった一里塚の案内には「一里塚 一里塚は道行く人に距離がわかるように立てた道しるべである。松山の札の辻(現在の松山城西堀北端地点で、もとここに松山藩の札場=制札を提示する場所があった)を起点として、一里(約4㎞)ごとに立てられたものである。
この付近の一里塚は
○菊間町佐方に 八里
○今治市(野間農協の所の四つ辻)に 十里
○波方町の樋口(沢の大池の所)に 十里
○波方小学校の所に 十一里
の一里塚が立っていたが、今では紛失して見られないところもある。この一里塚は当初は木の柱であったが、寛保元年(1741)祐筆水谷半蔵が達筆をふるい、石柱になったという記録がある」とあった。
菊間町佐方の八里の里程石は、亀岡小学校校庭で見た里程石である。十里の里程石のある野間農協とは現在の「JAおちいまばり乃万(今治市阿片波方)。波方のふたつの里程石は波止浜街道にある(あった)のだろうが未確認。

井手家屋敷
宮脇川を越え、「遍路道はさらに北東に600mほど進んで右折し、左に曲がるとJR大西駅前通りの新町に至る。新町は一直線に400~500mほど続く町並みで、大きな瓶(かめ)を二つ、天水桶として屋根に乗せた旧大庄屋井手家屋敷も残り、格子や土塀などのある旧家も多い。この井手家の前にも「左へんろ道」の道標があったが現在行方不明である(「えひめの記憶」)」との記事にある井出家屋敷に。

堂々としたお屋敷の塀にあった案内には、「天水瓶のある大庄屋井手家 江戸の初期、徳川家に味方した大庄屋井出家は、その功績により「なんでも望みをかなえてやる」とのお達しで、わらぶき屋根を瓦に変え、防火用に天瓶を置くことを許された。
その後、松山藩主の参勤交代の時には本陣(定宿)となっていた。昭和9年(1934)大井村が譲り受け、同18年内部や窓を大改造し役場として使用し昭和50年(1975)まで続いた。その後、農協や漁協にも利用されたことがある」とあった。
松山藩主の参勤交代のルートは三津の湊から海路をとり、北条沖を進み大三島の東の岩城島に泊まり、鞆・下津井と瀬戸の海を渡るといった記事を読んだことがある。参勤交代でこの地を通ることもあったのだろうか。

大西町新町三叉路の道標
井手家前の遍路道を進むと、「突き当たりの三差路に道標がある。今治街道と波止浜街道の分岐点である。この地は大井新町札場と呼ばれ、藩政時代の大制札場(藩の掟(おきて)・条目・禁令などを書いた板札を立てた場所)であったという(「えひめの記憶」)」三叉路に。
三差路には四国の道の石碑とともに、道標には手印とともにへんろ道と刻まれていた。

安養寺の道標
「遍路道は、道標(私注;上述大西町新町三叉路の道標)の指示に従って右折して、紺原を通り国道に合流し、品部川へと向かう。ここで遍路道を少し離れるが、1kmほど南東山麓の紺原中之谷に安養寺がある。その山門前のブロック塀の中に、「紺原地蔵」と共に遍路道標が立っている。戒名を刻んでおり、遍路墓を兼ねた道標は珍しい。
この道標は、もと新町から国道に出る三差路の手前10mmほどの所にある紺原集会所の辺りに、紺原地蔵と共にあったが、大正4~6年の耕地整理で共に現在地に移されたものという(「えひめの記憶」)」とある安養寺にちょっと立ち寄り。遍路墓を兼ねた道標がどういったものか、との想い。

旧街道から国道196号に合流し、ほどなく右折し成り行きで山裾にある安養寺に向かう。細い坂道を登り切ったところ、質素でいい雰囲気のお寺様。本堂、境内の小祠にお参り、お寺様の前の道脇にあるブロック塀で囲まれた一角に戻る。そこにはお地蔵さまとともに戒名が刻まれた道標があった(戒名は不敬にあたるかと思い記載せず)。延命寺という文字ははっきり読める。
一方、2基あるお地蔵さまには「紺原地蔵」と銘したものはなく台座に「ひとくろだけ地蔵」と銘したお地蔵さまがある。ブロック塀のあった案内には; 「お地蔵さん 江戸時代に建立されもとは旧道の紺原集会所付近にあった。その辺りで沢山のキリスト信者が処刑されたと言われ、これら受難者の霊を弔うため建てられたと伝えられる。四国遍路の道標もある」とあるが、この説明と紺原地蔵、そして「ひとくろだけ地蔵」の繋がりがよくわからない。
あれこれチェックすると、「ひとくろだけ地蔵」がキリシタン地蔵のことであり、ここからは推察だが、紺原集会所前にあったが故にこのキリシタン地蔵を「紺原地蔵」と称したのではないだろうか。「ひとくろだか」の意味は不明。 五十三番札所・円明寺にもキリシタン灯籠があった。愛媛のキリシタンについてちょっと調べてみようかとも思い始める。
安養寺
創建は享保2年(1529)。その後荒廃していた時期をへて、豊後の久留島より来島の櫓を貰い受け堂宇を一新した。また、17世紀後半の延宝年間には先ほど出合った大庄屋・井手家の檀家寺としての知遇を受け、紺原の祈祷寺として今日にいたる、といった案内があった。

品部川
安養寺から国道に戻り品部川に架かる吉田橋を渡る。「品部」川ってなんとなく気になる。川の国道下流に「品部」という地名が見える。川名の由来は品部地区を下ることにあるのだろうが、その「品部」ってなんとなく大和政権における部民(べのたみ)に関りがあるように思える。特に根拠があるわけではない、妄想の類ではある。

部民とは大和政権において職業や技術をもって王に仕える集団のことであり、この品々(=様々な)部民の総称として「品部」が用いられたようである。 で、この地域の「品部」が部民制の「品部」に関係があるかどうか不詳ではある。

乗禅寺
品部川を越え700mほど国道を進むと三差路となり、国道は新・旧196号に分かれる。左の旧国道に入り800mほど進むと延喜店交差点に。番札所五十四番札所・延命寺は旧国道を東に進むが、ここで交差点を北に折れ、乗禅寺にちょっと立ち寄り。「えひめの記憶」に記される国の重要文化財に指定されている11基の石塔を訪ねることにする。
北に600mほど進み、成り行きで左に折れ山裾の乗禅寺に。いい感じのお寺さま。石段を上り山門を潜り本堂にお参り。境内には西国三十三観音霊場も見られた。本尊は後醍醐天皇ゆかりの観音様とのことである。
国指定重要文化財の石塔11基
境内に石塔の写真のある案内がある。案内には「村上海賊の物語 戦国時代、宣教師ルイス・フロイスをして"日本最大の海賊"と言わしめた村上海賊。理不尽に船を襲い、金品を強奪する海賊(パイレーツ)とは対照的に、村上海賊は掟に従って航海の安全を保障し、瀬戸内海の交易・流通の秩序を支える海上活動を生業とした。
その本拠地「芸予諸島」には、活動拠点として築いた「海城」群など、海賊たちの記憶が色濃く残っている。尾道・今治をつなぐ芸予諸島をゆけば、急流が渦巻くこの地の利を活かし、中世の瀬戸内海航路を支配した村上海賊の生きた姿を現代において体感できる」との説明とともに芸予諸島に築かれた村上海賊の拠点地図と、また、「乃万地区の石塔群 村上海賊が台頭する前後の、鎌倉時代末期から南北朝時代に隆盛する石造文化を代表する宝篋印塔・五輪塔などの石造群。かつて「乃万」と呼ばれた延喜・野間・神宮などに多く見られる。その意匠に芸予諸島を介した職人の移動の証をみることができる。村上海賊の時代に発展を遂げる南北交流の礎となった」との説明があった。
案内のクレジットは「村上海賊魅力推進協議会」となっており、石塔群には村上海賊衆の存在が関与大いにあった、ということだろう。実際、来島村上氏ゆかりの地を訪ねるきっかけともなった来島は道を北に進んだ波止浜の少し沖合にある。

それはともあれ、肝心の石塔群の場所の案内がない。案内の写真をもとに神仏混淆の名残を伝える延喜天王社の裏手に廻り込むと、塗塀に囲われた一角に石造群(宝篋印塔5基、五輪塔4基、宝塔2基)が並んでいた。
乗禅寺
このお寺さんは「延喜の観音さん」と称される。平安時代の延喜年間、後醍醐天皇の夢枕にこのお寺様の本尊の観音様が現れる。この故に後醍醐天皇の祈願所となり隆盛を極めた、と。後醍醐天皇からの祈祷申込書や足利尊氏の祈祷申込指令所も寺には原形のまま保存される、とのことである。 また、この地が延喜と呼ばれる所以は、上述延喜年間の後醍醐天皇の縁起に関わるものではあろう。
延喜天王社
境内にあった、神仏混淆の名残を残す社の名は「延喜天王社」とある。あまり聞いたこともない社名であり、この社名になった経緯など知りたいのだが、チェックしてもヒットしなかった。単に「延喜」の地にあるだけのことだろうか。

五十四番札所・延命寺
乗禅寺から延喜点交差点まで戻り、現在県道34号となった旧国道196号を東に向かう。交差点から500mほど進むと県道の左側に「四國霊場五十四番延命寺参道」とある大きな石柱がある。ここを左折するのが延命寺参道となるのだが、「えひめの記憶」には「この石柱から150m足らず手前の県道筋、歯科医院横の路地に入って北方へ進むと、突き当たりの三差路の山際に2基の道標が台石の上に並んでいる。この道もまた延命寺への遍路道であったと思われる。その三差路を右に100m余進むと前述の参道と合流する」とある。
道標2基
記事に従い細路を進むと、かすかに手印が読める道標と舟形地蔵がある。舟形地蔵は摩耗し文字を読むことはできなかった。道標箇所から道なりに右に進むと上述参道との道に合わさる。







駐車場入口の茂兵衛道標

「合流してすぐの所にある延命寺駐車場入口の左山際に茂兵衛道標がある。刻字の「是迄打もどり大便利」とは、延命寺巡拝後に、荷物をここに預け、次の札所南光坊を参拝して、この地まで逆戻りして、ここから泰山寺へ向かうのが便利であるとの意である(「えひめの記憶」)」とある茂兵衛道標に。 正面に延命寺を示す手印、その他の面には「右 五十・・願主中務茂兵衛」「五十・・南光坊」「大正四年」といった文字が読める。

「南光坊云々」の面には上記解説の文字が刻まれているのだろうが、摩耗して素人には読めない。また、この道標に五十三番圓明寺への逆打ち案内もきざまれているとのこと。「右 五十・・:」がその文字を刻んでいるのだろうか。大正四年は茂兵衛71歳、258回目の巡礼のときを示す。78歳で大往生するまで、生涯280回の遍路歩きの晩年の頃である。
なお、現在この駐車場は大型バスなどの駐車スペースとなっており、普通乗用車は参道を進んだ先にある。
仁王門手前の道標2基
「えひめの記憶」に「仁王門の前には、「ぎゃく」の「ぎ」の一部が欠けて「さゃく 遍照院江三里十二丁」となった道標ともう1基の道標がある。また重藤久勝による明治35年(1902)巡拝10度目供養の4mほどの石柱もある。 この道標(私注:上述「もう1基の道標」は「延命寺」の部分だけが硯(すずり)の縁のような枠取りの中に彫り直されている。既述の安養寺の道標もそうであるが、今治市内には、このように「圓明寺」の部分だけを削り取って「延命寺」と彫り直したと思われる道標が何基かある」とある仁王門前の道標に。

仁王門前というより参道途中、大賀ハスで知られる池近くに大小2基の道標が立つ。ちいさいほうには「きゃく 遍照院(私注;今治市菊間にある)」といった文字が読める。大きな道標には「五十四番」の文字とともに、記事の如く「硯(すずり)の縁のような枠取りの中」に延命寺と刻まれていた。
二の門前の徳右衛門道標 
かつて今治城の城門であったとの二の門の左手に徳右衛門道標がある。「是ヨリ別宮迄一里」と読める。 別宮とは五十五番札所・南光坊に隣接する別宮大山祇神社のこと。大三島にある大山祇神社を勧請し建立したもの。本宮と区別するため別宮と称す。
南光坊は、元は大三島の大山祇神社の属坊のひとつであったが、別宮を移すときその別当寺として現在地に移った。 往昔、神仏混淆の時代は通称「別宮さん」と称される別宮大山祇神社と南光坊は一体のものであったが故の「別宮迄」の表記ではあろう。

 ●鐘楼

二の門の左手に梵鐘がある。案内には「梵鐘(近見二郎) この鐘は四面に当山の歴史が刻まれてあるので、当山のみならず郷土史上にもかけがえのない文化財である。 去る大戦中、軍当局よりこの鐘を軍用に供出せよとの厳命を受けたが、故越智熊太郎先生の絶大なご尽力でからくも供出を免除され現存されているものである」とある。
延命寺の鐘には代々「近見山」から愛称がつけられ、永元年(1704)に造られたと伝わるこの梵鐘が近見二郎と記される所以である。もっとも、このお寺さまの山号が「近見山」であるのだが。どうでもいいことではあるが、近見山からの見下ろす瀬戸の景観は誠に素晴らしい。 

●真念道標
二の門を潜り、本堂・大師堂にお参りし、「えひめの記憶」に「二の門を入ると大杉の右側に、真念道標がある。その左に凝然国師供養塔や県(あがた)村庄屋越智孫兵衛の供養塔、道標(私注;真念道標と並ぶ)の右には、21度四国遍路をした自覚法師の供養碑などが建てられている。
これらは平成4年に整備されたもので、真念道標は大杉の根元の植え込みの中、道標(私注;仁王門前の大きい道標)も境内植え込みの中に倒れていたものを立て直したものという。ただ『乃万村郷土誌』には、真念道標については、(高三尺 幅四寸 花岡岩 阿方延命寺門前ニアリ。四百半前ノモノナリト35)」と記されている)とある真念道標に。 
本堂に向かって右手に「「真念法師建立の標石」があり「真念法師の出自は不詳であるが、元禄四年六月二十三日(1691)四国巡拝の途上寂となっている。五十余年の間に二十数回巡拝され、巡拝者のために数々の慈善事業をされている 道しるべ標石・札所間の里程・善根宿・四国遍礼霊場記、更に四国遍路功徳記(1690年記)等がそれである。 この標石は四国に24基建立された標石のひとつであり、次の文字が記されている。 為父母六親 菩提澄吟 別島也」とある。 案内下にある「左 遍ろ道」と読める道標がそれだろう。
◆真念
「えひめの記憶」をもとに真念についてまとめておく。「四国遍路が一般庶民の間に広まったのは江戸時代になってからといわれる。その功労者の一人に真念がいる。その真念の出自や活動については、ほとんど皆目といってよいほど明らかでない。
真念の著作(『四国邊路道指南(みちしるべ)』・『四国?礼功徳記(へんろくどくき)』)や、真念たちが資料を提供して寂本が著した『四国礼霊場記』の叙(序文)や跋(ばつ)(後書き)に拠れば、『霊場記』の叙に、著者寂本は、「茲に真念といふ者有り。抖?の桑門也。四国遍路すること、十数回」と讃え、また『功徳記』の践辞でも木峰中宜なる人物が、「真念はもとより頭陀の身なり。麻の衣やうやく肩をかくして余長なく、一鉢しばしば空しく、たゝ大師につかへ奉らんとふかく誓ひ、遍礼(へんろ)せる事二十余度に及べり」と記している。 あるいはまた『功徳記』の下巻で「某もとより人により人にはむ、抖?の身」とみずから書くように、真念は頭陀行を専らとする僧であり、なかでも弘法大師に帰依するところきわめて深く、四国八十八ヶ所の大師の霊跡を十数回ないしは二十数回も回るほどの篤信の遊行僧だった。あるいは高野山の学僧寂本や奥の院護摩堂の本樹軒洪卓らとのつながりから推して高野聖の一人だったと解してもよいだろう」とある。
ところで、現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。 
供養塔
真念の案内に続けて「頓圓自覚法師碑」と記され「縣村の人、鴨狩りの名人半生に渡る、数々の殺生にある日ふとしたことからその愚行と世の無常を悟り、心機一転自ら自覚と号し、四国霊場21回を始め全国霊場を順次巡拝して自ら犯した罪を償った。1735年日本廻国供養碑を阿方村笠坊に建立。 1754年1月12日寂 阿方・川端・小沢家の人」とある。 真念道標と並ぶ道標の本堂側に大きな角柱石碑が立ち「南無大師遍照金剛 四国二十一度供」と読めるので、この石柱が自覚法師碑であろう。本堂側に並ぶ石碑は「えひめの記憶」にある供養塔であろう。
延命寺縁起 
寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)に行基が不動明王を刻み堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年?824年)に空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅命によって再興し、不動院圓明寺と名付けたという。 かつては現在地の北の近見山にあって、谷々に百坊を有し信仰と学問の中心であった。しかし、再三戦火に焼かれて境内を移転し、享保12年(1727年)に現在の地に移転した。 鎌倉時代には著書の多きこと日本一で学問は内外に通じ、深く後宇多天皇の尊崇を受け、生前に国師の号を賜ったほどの大学僧示観国師凝然がこの寺の西谷の坊で八宗綱要を著したことは有名である。明治の頃、五十三番札所の須賀山圓明寺との混同を避けるため、通称の延命寺を寺号とした(「えひめの記憶」) 

圓明寺から延命寺
「この延命寺がかつて「圓明寺」と記されていたことは、鎌倉時代末期の僧凝然がこの寺で書いた『八宗綱要』の跋文に「文永五年(1268)戊辰正月二十九日於豫州圓明寺西谷記之(中略)凝然生年廿九)」と記していることや、境内に残る宝永元年(1704)鋳造の梵鐘(ぼんしょう)に「圓明寺」の文字が刻まれていることなどからも明らかである。その「圓明寺」から今日の「延命寺」へ寺名を変更したことについては、「この寺はもと円明寺(えんみょうじ)と称し、(中略)明治初年になって、第五十三番札所円明寺と同字同音なのを区別するため延命寺になった)」と記す書もある。
あるいは「明治初期まで五十三、五十四番が同じ『円明寺』となっているものが多く、『延命寺』という寺名も存在していたが、遍路宛の郵便、その他の混乱を防ぐため明治初期に五十四番は「延命寺」に統一、これを機に道標も五十四番『円明寺』は、『延命寺』に改刻された」ともいう。現在松山市馬木町には文久3年(1863)銘の「是よりあかた圓明寺九里六丁」と五十四番札所を「圓明寺」と記した道標(私注;上述「馬木の道標」)がある。
一方波止浜(今治市)にある文政13年(1830)銘のある道標には「延命寺へ一里」、文化11年(1814)に亡くなった武田徳右衛門が建てた、大西町にある道標にも「延命寺工一里」とあるように、江戸時代後期に「延命寺」と刻まれた道標も残っており、いつ「延命寺」になったかについては明らかではない(「えひめの記憶」)。

これで五十二番札所・太山寺から五十三番札所・円明寺を打ち松山を離れ、今治市にある五十四番札所・延命寺を繋いだ。次は逆打ちで辿った六十一番札所・香園寺から六十番札所・横峰寺への遍路道を繋ぐため今治市から西条市に向かうことにする。

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