偶々歩いた足立・葛飾区境の古隅田川(そのⅠ、そのⅡ)が、東遷事業により現在は銚子に下る利根川の旧流路であったことがきっかけ手始めた旧利根川筋散歩も、その主流のひとつである会の川筋を3回(その①、その②、その③)に分けて歩いてから、ちょっと日が経ってしまった。
いくらなんでも、もうそろそろと、会の川筋とともに旧利根川の主流をなしていた浅間川筋を歩くことにした。思うに、利根川東遷事業に伴う浅間川の締め切り箇所が駅から遠く離れており、スタート地点に行くまで結構時間がかかるのが、腰を重くした利流でもあるが、今回改めて最寄り駅の栗橋から利根川に架かる埼玉大橋の少し上流にある浅間川締め切り口までの地図を見ると、縦横に用水路・排水路が走っている。
利根川東遷事業の目的のひとつが、源頭部を失い廃川となった旧利根川の川筋を活用した新田開発であったことを思い起こし、それでは、浅間川の締め切り口までは、新田開発に供したであろう用水路・排水路を見遣りながら進むべしと、モチベーションを上げ、浅間川締め切り口に向かった。 用水・排水路を辿り加須市外野の現利根川堤防傍にある浅間川締め切り口に向かうには結構時間がかかったのだが、結果的には辿った用水・排水路が、浅間川筋であったことなど、それなりのリターンを得て浅間川跡を辿る散歩を終えた。
本日の散歩;
■浅間川締切跡に向かう■
栗橋駅>旗井排水路>稲荷木落>沼尻排水路>元和川用水路>十王堀排水路>県道84号・開平橋>十王堀排水路と元和川用水が接近>新元和川用水が十王堀排水路を伏越で交差する>三尺用水路が十王堀排水路を伏越で交差>十王堀排水路に乗り換え>県道60号線・十王堀排水路起点付近>元和川用水・東川用水分水堰>川辺領用水路を西に>新元和川用水路分水堰>佐波分水堰;島中領用水路と川辺領用水路を分ける>古利根用水・道かん橋>古利根分水>古利根用水竣工記念碑>川圦神社
■浅間川跡を下る■
旧利根川堰堤跡の碑>佐波分水堰を南に島中領幹線用水路を下る>加須・大利根工業団地>上悪土用水機場>県道84号・新利根二丁目交差点>杓子木揚水機場>阿佐間揚水機場>琴寄揚水機場>島中領幹線用水と高柳分水路が分かれる>島中領幹線用水路が十王堀排水路を伏越で渡る>十王橋を渡り十王堀排水路を下る>善定寺池>島中領幹線用水が稲荷木落を伏越で渡る>栗橋駅
栗橋駅
栗橋駅に最初の下りたのは何年前のことだろう。利根川東遷事業に興味をもち、その手はじめにと、その名前に惹かれた権現堂川跡に向かうため、この駅に降り立った。
その時は駅の東側に下りたのだが、今回は駅の西側。車のパーキングが全面に広がる。その間を成り行きで西に進むと平成の大合併(平成22年;2010年)で久喜市となった旧栗橋町を越え加須市域に入る。
旗井排水路
市境を越えるとほどなく開渠の水路が道に沿って続く。メモの段階であれこれチェックすると加須市の「管理水路図」が見つかり、その図によると「旗井排水路」のようである。
水路は栗橋駅のほうに暗渠で進んでいるのかと思ったのだが、始点は開渠地点から北に延びる道を進み、東武日光線と交差する手前で東に曲がり、旗井神社へと向かう道筋がその排水路跡のようだ。そこから南へ暗渠で下り、この地から栗橋と逆の東へと向かう。開渠は見えない。
東川用水路
旗井排水路には結構水量が多い。何故? と、旗井排水路が開く少し西に、北から下る開渠が見える。加須市の「管理水路図」をもとに水路跡を辿ると、どうも東川用水路のようである。
東川用水路は後程分流始点に出合うことになるが、ちょっと先走ってメモすると、利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水と葛西用水、後述する稲子用水と古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部分である古利根用水の分流。旧利根川、即ちこの場合、浅間川と言い換えてもいいのだが、古利根用水を佐波分水堰で左岸へと分けた川辺領用水路の一派として、利根川に沿って東に流れ、旗井の北で流路を南に変えてこの地に下る。
稲荷木落
開渠の水路に沿って進むと、道の左手に水路が見えてくる。地図でチェックすると稲荷木落とある。先ほど出合った旗井排水路、東川用水の水路はこの稲荷木落に合わさる。ちょっと目には稲荷木落の分水のように見えるが、理屈からすれば稲荷木落に余水を落としているのだろう。
水路に沿って西に進むと最初の橋。橋に名前はついていない。古い趣の橋の脇には新しい人道橋が併設されていた。右岸には「野菊の小径」と書かれた遊歩道が整備されている。
そのすぐ西に、北から水路が合わさるが、加須市の「管理水路図」には「開二九排水路」とある。
水路に沿って進むと新しい橋が架かる。「いりやはし」「稲荷木落」とある。この橋からそのまま、真っすぐ進めば浅間川締切跡への最短距離ではあるが、南に流れるいくつかの水路が気になり、橋を左折し南に下る。
●稲荷木落
「とうかきおおとし」「いなりぎおとし」などと書かれている。起点もはっきりしない。当初、「いりやはし」から西に続く水路がそれと思っていたのだが、稲荷木落の管理起点は、この橋の先、北から下る水路と合わさる地点に架かる三尺橋とも言われる。
三尺橋から西は三尺用水路とのことである。また、北から合わさる水路には東西に走る香林寺落排水路と交差する箇所までは新堀排水路、その北の利根川堤辺りまで続く水路は「導水渠」と書かれており、東武日光線の北では上述東川用水路と交差している。
ともあれ三尺橋を管理起点にした稲荷木落は、旧大利根町(現加須市)からはじまり加須市、久喜市(絵旧栗橋町、旧鷲宮町)を下り久喜市島川と新井の間で中川に合流する。
稲荷木落の歴史は古く、19世紀中頃、河辺領(旧n根町:現在の加須市)の農業用悪水(排水)落として開削された。流路は旧渡良瀬川(近世以前)の廃川跡を活用した、とのこと。
当初悪水は後述する十王排水路を経て、現在の県道125号に架かる古門樋橋辺りで島川(現在の中川)に落とされていたが、昭和10年(1935)頃の中川の改修(旧.島川、権現堂川、庄内古川)に併せて、島中領(現.栗橋町周辺)の排水も流せるようにと、県営事業による大規模な改修工事がおこなわれ、落口が元の落し口の下流である現在の地に変わったのだろうか。
また、平成に入り、三尺排水路、後述する沼尻排水路と合わせ大規模な河川改修が行われたようである。久喜市松永の辺りは旧浅間川の堤防が残る、と言う。浅間川の自然堤防に盛土し築堤したとのことだが、その自然堤防は往昔の鎌倉古道とも言われる。
◆香林寺落排水路
加須市の「管理水路図」によると、起点は後程訪れる古利根川・浅間川締め切り口付近、現在の埼玉用水の川辺領用水箇所が、これも後述する元和川用水路と東川用水路と分岐する少し南辺りが起点らしく、東に進み南に折れる。南に折れた箇所が上述「開二九排水路」と書かれている。
沼尻排水路
「いりやはし」を南に折れ道を進むと自然堤防の趣を残す水路と交差。加須市の「管理水路図」に拠れば「沼尻排水路」のようである。「管理水路図」に拠れば、三尺用水路が元和川用水路と交差する地点の南西あたりを起点とし、東に流れ西瓜橋上流の稲荷木落に悪水を落とす。
元和川用水路
更に南に下ると元和川用水路にあたる。用水路とあり、悪水落の排水路とは少し趣を異にし、38号分水工といった用水設備が見える。加須市の「管理水路図」に拠れば、埼玉用水の下流部となる古利根用水(古利根川・浅間川の廃川あとの悪水落を灌漑用水路と改良工事をしたもの)が、古利根川浅間川締め切り跡近くの佐波分水堰で、南に下る島中領幹線用水路と分かれ、東に流れる川辺領用水が元和川用水と東川用水に分かれる分水堰を起点とし、弧を描いて加須市を下り、この地を経て西瓜橋の下流で稲荷木落に余水を吐きだす。
十王堀排水路
元和川用水を辿ってもいいかな、とも思いながらも県道84号の南にも水路が見える。とりあえずそこまで下る。道に架かる十王橋の左右に流れるその水路は、自然の趣を色濃く残している。加須市の「管理水路図」には、この交差地点の下流は十王堀排水路、上流は「自然排水路」と記されている。
大正初期の川辺領耕地整理の際に開削されたと言われる「自然排水路」の起点は前述、香林落排水路の起点近く、川辺領用水路が東川用水路と元和川用水路に分かれる分水点の南東付近のようだ。下流の大王堀排水路はおよそ、2.5kmほど下り中川に合流する。善定寺池より下流は旧浅間川の川筋とのことである。
この十王堀排水路は、古利根悪水路として使われ、大正初期の頃までは川辺領、羽生領、また稲荷木落でメモしたように、島中領(旧栗橋町)の悪水落にも使われていたようだ。
古利根悪水路の一部は現在も残るとのことだが、加須市の「管理水路図」にある古利根排水路がそれに相当するのではないだろうか。古利根排水路は善定寺池の少し下流で十王堀排水路に余水を吐く。
県道84号・開平橋
特に理由はなかったのだが、十王堀排水路の上流部である「自然排水路」を上流に辿ることにする。自然排水路に沿って進み、右手にある若宮八幡にお参りし更に先に進む。
次第に踏み跡消え、ブッシュを掻き分け乍ら進むことになる。県道84号に向かって直角に曲がるあたりは右手で枝を掴みながら、自然の堤から排水路に落ちないように注意しながら進まなければならなくなった。
やっとのことで県道84号手前の陸橋脇に道に這い上がる。排水路に架かる橋は「開平橋」、そして拝水路(悪水落)は「十王堀」とあった。
自然排水路(十王堀排水路)と元和川用水が接近
県道84号を越えると、排水路に沿って道が現れる。北下新井辺りまで進むと、右手に先ほど出合った元和川用水が接近する。分水工のある如何にも人工用水路といった元和川用水と、大正期の開削がそのまま残るような自然排水路(十王堀排水路)が並走することになる。
新元和川用水が自然排水路(十王堀排水路)を伏越で交差する
北下新井から北平野のあたりまで延々と自然排水路(十王堀排水路)と元和川用水が並走する。両水路を交互に見遣りながら主に自然排水路(十王堀排水路)を進むと、左手から水路が接近し、伏越で用水を越える。伏越した先の水路には新元和川用水と記されていた。
◆新元和川用水
佐波分水堰で島中領用水と分かれた川辺領用水から、埼玉大橋近くで分流し、この地で自然排水路(十王堀排水路)を越えたあと元和用水に合流する。
三尺用水路が自然排水路(十王堀排水路)を伏越で交差
新元和用水の伏越を過ぎ、再び並走する元和川用水と自然排水路(十王堀排水路)を交互に見遣りながら自然排水路(十王堀排水路)を細間辺りまで進むと水路幅が少し狭まった先に西から水路が迫り、伏越で交差する。加須市の「管理水路図」によれば、三尺用水路のようである。
前述の稲荷木落のところでメモしたように、この三尺用水路は稲荷木落の三尺橋より上流を指す。現在の埼玉用水の下流部である古利根用水が佐波分水堰で島川領用水路と川辺領用水路に分かれた後、川辺領用水路から分水した新元和用水から養水しているようである。
元和川用水路に乗り換え
三尺用水路との交差地点手前辺りから元和川用水路と次第に離れていった自然排水路(十王堀排水路)を成り行きで進み、砂原の辺りで再び両水路が接近する手前辺りで自然排水路(十王堀排水路)を離れ元和川用水路に移る。自然排水路(十王堀排水路)に沿って道が無くなったこともさることながら、元和川用水路は川辺領用水路からの分流であり、元和川用水路に沿って進み川辺領用水路との分流箇所を確認しようとの思惑ではある。
県道60号線・自然排水路(十王堀排水路)起点付近
舗装道路に沿って再び並走する自然排水路(十王堀排水路)を見遣りながら元和川用水路に沿って北に進む。道が県道60号と交差する箇所に加須警察署原道駐在所があるが、その少し西が自然排水路(十王堀排水路)の起点のようである。元和川用水路に馬頭観音の石仏が佇む。
元和川用水・東川用水分水堰
元和川用水を更に北に進むと、左手前方に水路が見えてくる。ほどなく分水堰に達し、そこには東川用水・元和川用水分水堰とあった。
用水路・排水路が入り組み、少々ややこしいため、上述の東川用水路を再掲しておく
◆東川用水路
利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水、葛西用水、稲子用水、古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部分である古利根用水の分流。旧利根川、即ちこの場合、浅間川と言い換えてもいいのだが、旧利根川用水を佐波分水堰で右岸に島中領用水路、左岸へ川辺領用水路に分け、さらにこの地で元和川用水を右岸に、左岸に東川用水路を分け、利根川に沿って東に流れ、旗井の北で流路を南に変えてこの地に下る。
川辺領用水路を西に
元和川用水路と東川用水路に水を分けた上流の用水路は川辺領用水路と呼ばれる。正確に言えば、元和川用水路も東川用水路も川辺領用水路の支流という事になる。
利根川の堤防に沿って西福寺、八坂神社を見遣りながら西に向かう。埼玉大橋の辺りは水路廻りの工事が行われていた。
新元和川用水路分水堰
埼玉大橋へのアプローチ高架を潜ると川辺領用水路に分水堰があり、水路が高架に沿って南に下る。加須市の「管理水路図」によれば、新元和川用水路とのことである。新元和川用水路には先ほど十王堀排水路を伏越で渡る姿に出合った。
佐波分水堰;島中領用水路と川辺領用水路を分ける
川辺領用水路を更に西に進む。天満宮・鷲宮を越えると佐波(ざわ)分水堰にあたる。前述の如く埼玉用水路として統合された古利根用水路がこの分水堰で島中領用水路と川辺領用水路に分かれる。右岸を南へと下る島中領用水路が今回の散歩の目的である旧利根川の主流のひとつの旧浅間川の流路とほぼ一致するようである。
●領
川辺領、島中領、羽生領などと「領」がつく用水が目につく。当初は戦国期の北条氏が在地領主のために設けた支配地の名称であったようだが、江戸期に入ると「水利および堤防によって利害を等しくする一団の区域」を指すようになったようである(「利根川治水の成立過程とその特徴;宮村忠」)。
利根川東遷事業の主たる目的のひとつが、源頭部を締め切られ廃川となった旧利根川流域の新田開発であり、用水路・悪水落開削、水害防止のための築堤工事など、水利共同体としての意識が高まったゆえの名称かと思える。
大雑把に言って川辺領は旧大利根町(現加須市)、島中領は旧栗橋町(現久喜市)、羽生領は羽生市・加須市に相当する。
古利根用水・道かん橋
佐波分水堰から先に進むと水路に橋がかかる。「道かん橋」「古利根用水」とある。「道かん橋」は太田道灌との関連ではあろうが、道灌と古利根川との関わりは?後ほどそれらしき由来はわかるのだが、この時点では不明であった。 道かん橋の少し北に今回の散歩の主目的である旧利根川・浅間川筋である「旧利根川堰堤跡」の碑があるようだが、とりあえず用水路廻りを先にカバーし、浅間川跡を辿る起点とすべく、お楽しみにとっておく。
古利根分水堰
道かん橋を越え用水路を進むと古利根分水堰に出合う。この分水堰で古利根用水から豊野用水を南に分ける。前述の東川用水路の説明で、古利根用水とは「利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水、葛西用水、稲子用水、古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部であり、旧利根川、即ちこの場合、旧浅間川筋とメモした。
歴史的経緯を踏まえて、もう少し詳しく整理すると、埼玉県の資料に「古利根用水の概要」として、「この地域は昭和初期まで洪水の常習地帯であったが、昭和3年の権現堂川の締切及び大正5年~昭和 4年に行われた中川の改修により、この地域の排水は大幅に改善されることとなった。
用水としては 昭和30年以前には三つの用水源(上流部の稲子用水区域、中流部の川辺領用水区域、下流部の島中領用水区域)に分けられていたが、取水樋管の位置や構造が悪く、また導水路の荒廃により取水困難を 来していたため、県営かんがい排水事業古利根地区の実施(S30~42)により利根川本川に各樋管を統合、新たに古利根樋管を設け、島中領用水を幹線水路として各用水へ分水を行った。
その後、利根導水路建設事業(S38~44)により利根大堰、埼玉用水路が完成し、古利根用水も利根大堰から埼玉用水路を経て導水されることになり、古利根樋管は廃止されることとなった。近年では農地の潰廃等により、利根中央農業用水再編対策事業の実施(H4~15)にて都市用水への転用を図り現在に至る」とある。
この説明によると、古利根用水はふたつのフェーズに分けて理解する方がよさそうである。第一フェーズとは、昭和30年(1955)以前にあった三つの用水源(上流部の稲子用水区域、中流部の川辺領用水区域、下流部の島中領用水区域)の取水樋管を古利根樋管に一本化し、島中領用水を幹線水路として各用水へ分水するように改良工事をおこなった時期。
昭和30年(1955)から42年(1967)にかけておこなわれた県営かんがい排水事業の実施により、各樋管を合口して、利根川に新たに古利根頭首工と古利根樋管を設け、島中領用水を幹線水路として豊野用水へは大越分水路と豊野分水路、川辺領用水へは佐波分水路によって分水がなされた。これが古利根用水路である。同時に島中領の主要排水路である大堀排水路の改修もなされた。これが第一フェーズの利根用水である。
ついで第二フェーズ。第一フェーズの水路体系が完成して、昭和34年(1959)には取水を開始したが、古利根頭首工の位置と構造、利根川の主たる流れの変化などが原因で取水困難な状態となる。
その対策・代替案として活用したのが、昭和38年(1963)から44年(1969)に実施された利根導水路建設事業。この事業による埼玉用水の開削および利根大堰の完成により、古利根用水は利根大堰へ合口され、埼玉用水路を経て導水されることになった。元圦である利根大堰から、島中領用水まで25Kmほど水を導水し、これにともない、古利根頭首工と古利根樋管はわずか数年で廃止、撤去されることになった。
現在古利根用水という呼称は三用水路の総称であるにしても、この古利根分水堰から上流は埼玉用水、佐波分水堰から下流は島中領幹線用水、川辺領用水と称されるわけで、実際的には、この分水堰から佐波分水堰までのわずかな区間をもって「古利根用水」と称されるように思える。
●豊野用水路
豊野用水路はこの分水堰(上述の大越分水路?)で古利根用水から分かれ南に下り、島中領幹線用水と平行に進み加須市樋遣川地区を潤し、県道84号と県道346号が交差する少し南東で島中領幹線用水路から離れ、南東に下り久喜市生出から豊野台を経て稲荷木落に余水を吐いているようである。
◆稲子用水
なお、この豊野用水であるが、前述の稲子用水とほぼ同じと考えてもいいように思える。稲子用水に関する資料がなかなか見つからないいため、推測ではあるが、稲子用水は利根用水の上流部であるという記述、稲子用水は羽生領用水のひとつである北方用水へ水を供給する加用水として羽生市稲子に圦樋(取水樋管)を設けて利根川から養水したとの記述、その北方用水は現在埼玉用水と名を変え東に流れ古い古利根用水と繋がっている、といったことからの推測ではある。
資料によっては一行だけで豊野用水=稲子用水とするものもあり、確たる資料はないものの、この地よりはるか東の加須市稲子で取水され利根川に沿って現在の埼玉用水の流路を下り、現在の豊野用水路の水路を流れていたのが稲子用水路かと思える。
古利根用水竣工記念碑
古利根用水と道を隔てた加須未来館敷地に「古利根用水竣工記念碑」が建つ。裏面には昭和26年(1951)期成同盟の結成、竣工昭和28年(1953)、工事完成43年(1969)とある。上記メモの古利根用水の第一、第二フェーズを合せた古利根用水改良工事の竣工記念のようである。
川圦神社
竣工記念碑の少し北東に川圦神社が地図に見える。取水元圦でもあるのだろうかとちょっと足をのばす。境内に「伝承 川圦さま」の木標があり、「ある年、大越に大雨が降り続きついに利根川の堤が決壊してしまい、村人の必死の復旧作業も大雨のためなかなか進みませんでした。
困った村人たちは、水が引くのを待って泊まっていた巡礼の母娘に頼んで人柱になってもらうと雨はぴたりとやみ、水かさを(ママ)減って無事に工事を完了することができました。
その後、巡礼の母娘の霊をなぐさめるため神社を建立しました。その神社が川圦神社で、地元の人たちは川圦さまと呼んでいます」とあった。
頼まれた、と言われても好んで人柱になるとも思えないのだが、それはそれとして、川圦の由来は取水元圦とは関係ないものであった。
目的地までのついでのことと歩いた用水・排水路歩きではあったが、それぞれの用水・排水路が「空間レイヤー」としての各用水・排水路の繋がりは上述の通りであるが、また「時間レイヤー」もチェックすると、昭和2年(1927)の東川用水と元和川用水開削、昭和10年(1935)の新元和川、昭和22年(1947)のキャサリン台風の被害に伴う三尺堀北側用水・南側用水、香林寺北側用の開削、そして昭和28年(1953)の古利根川の改修工事=古利根用水路の建設など現在フラットな水田が、歴史のレイヤーで重層的に重なり、それなりの時空散歩も楽しむことができた。
で、やっと今回の目的である旧利根川・浅間川筋を下る散歩をはじめる。手始めは、お楽しみに残しておいた、旧利根川・浅間川締切付近と思われる「旧利根川堰堤跡の碑」に向かう。
旧利根川堰堤跡の碑
川圦神社から戻り、加須未来館辺りで堤防から現在の利根川を眺め、堤防を下りて「旧利根川堰堤跡の碑」を探す。碑は駐車場の隅にひっそりと建っていた。 傍にあった案内には「利根川は羽生市川俣で締め切られあと、東にながれ大越地域外野と大利根地域佐波の境で南下し、現在の古利根川(旧浅間川)筋を南に流れていた。
元和七(一六二一)年に関東郡代伊奈忠治は、佐波から栗橋までの約八キロメートルを七間(約一二,六メートル)の幅で北川辺村を大きく蛇行していた河川の両端を直線で結び、新たな河川として新川通りを開削した。
天保九(一八三一)年に浅間川を締め切ったことにより古い河道は水田となった。このときの堰堤跡が約六十メートルにわたって残っている」とある。
説明とともに掲載されていた図によると、この石碑の東側がその堰堤跡のようであるが、想像力不足の我が身には、よくわからない。それよりも、図に石碑脇を南に下る川筋を浅間川(現古利根川)と記されており、本日の目的である浅間川跡を辿る散歩の始点であることを確認し、これから川筋を下ることとする。
●旧利根川堰堤跡の碑文
ついでのことでもあるので、碑文を読んでみた。漢字カナ文字で書かれている内容を大雑把にまとめると、「利根川は往古八百八筋と称する乱流であり、本流不明といった川であったが、長禄2年、大田道灌がこれを治め江戸湾に注いだ。これが変遷の第一次。次いで文禄3年忍城主松平忠吉が家臣小笠原某をして南流する本川を川俣村で締切り、東流する流れを新利根川と称し、更に外野と佐波の間を南流させ川口において旧流に合流させる。これを二次の変遷とする。 元和7(1621)、徳川幕府は伊奈某をして赤堀川水路を開削し、これを新川通りと称し、その水勢を削ぐ。これを第三次の変遷とする。
既に寛永から承応年間にかけて数回の大改修を行い、文化6年幕府は金沢某をもって新川通りの川幅の大拡張をしたので、この流路が利根本流となっていった。
このため南流する川筋は不用となり大越村外野、原道村佐波の間の流路は天保3年(1838)その水源を締め切られることになった。これを第四次の変遷と称し、川筋は故道となり水路の跡を留めるだけのものとなった。
この数次の変遷に従事した大越・外野村・佐波住民の難苦や労力は決して忘れてはならないものであり、村議会全会一致をもって大越村村長が埼玉県庁に申請し記念碑が建立された。昭和3年(1928)3月」といったものであった。
特段目新しい内容はないが、大田道灌の江戸築城に際して古利根川に改修を加えた(私注;資料では確認できず)とあり、さきほど出合った「道かん橋」の由来はこのことに関連し、時期からすれば古利根用水改良工事以前、大正5年(1916)~昭和 4年(1929)に行われた中川の改修にともなう浅間川改修工事の時期のようである。
佐波分水堰を南に島中領幹線用水路を下る
「旧利根川堰堤跡の碑」を離れ古利根用水路に。流路を南に向けた先で先ほど出合った佐波分水堰に。古利根用水路はここで左岸を東に向かう川辺領用水路と右岸を南に下る島中領幹線用水路となる。前述の如く古利根用水路は上記ふたつの用水路を含むものの、呼称としてはこの分水堰で終わりとなるようだ。
●島中領幹線用水路
島中領幹線用水路とは、昭和30年(1955)から42年(1967)にかけておこなわれた県営かんがい排水事業、昭和38年(1963)から44年(1969)に実施された利根導水路建設事業により整備された、埼玉用水下流部の古利根用水路の幹線水路とし島中領(久喜市栗橋町と幸手市の一部)に供給される農業用水路である。
この用水路筋は利根川東遷事業の一環として元和7年(1621)に締め切られた古利根川(旧浅間川)の廃川跡。廃川跡では新田開発が行われ、上述かんがい事業が実施された頃は浅間川の旧流路跡を改修した農業用排水路となり、古利根悪水路と称され、昭和20年頃(1845)までは羽生領と向川辺領(久喜市大利根の一部)の悪水落としての機能を担っていたようである。
島中領幹線用水は、この古利根悪水路筋を改修したもののようだが、かつての悪水落加須市の「管理水路図」にあるように、加須市下荒井から加須市琴寄にかけて古利根排水路として残り、稲荷木落に落ちているようだ。
加須・大利根工業団地
田園風景の中にある佐波分水堰を越えるとほどなく用水路は加須大利根工業団地の中を下ることになる。用水路はフェンスに囲まれる。
県道46号と用水が交差する上樋遣川交差点の左手の大利根西部公園の東、鷲神社の北に弁天池が残るが、その辺りが古利根川・浅間川の左岸、一方上樋遣川交差点南東の八坂神社が右岸であった、という。往昔は大河ではあったのだろう。
上悪土用水機場
道路の右、左と流路を変える用水路を下ると、道路右手に水路施設らしき建物が見える。メモの段階でチェックすると「上悪土用水機場」とのこと。「悪土」ってどうも旧浅間川跡・古利根悪水路を指す用語のようである。工業団地を取り巻く耕地に水を供給しているのだろう。
県道84号・新利根二丁目交差点
工業団地の中を南流する島中領幹線用水路は県道84号・新利根二丁目交差点のある利根北公園辺りでその流れを南東へと変える。島中領幹線用水が古利根悪水路跡・旧浅間川筋を進むのはこの辺りまで。
加須市の「管理水路図」に古利根排水路が島中領幹線用水の北の、北平野・北新荒井の境界辺りから阿佐間、間口を経て十王排水路に落ちている。確たる資料はないのだが、この流路が新利根二丁目交差点辺りで島中領幹線用水と分かれた旧浅間川跡・古利根悪水路かもしれない。
杓子木揚水機場
県道84号との交差を越え、未だ工業団地が続く道の右側に黄色にペイントされた水路施設らしき建物が見える。地名から推測し「杓子木排水機場」ではないかと思う。
阿佐間揚水機場
工業団地も切れ、フェンスはあるものの、その高さも低くなり、周囲も田園風景に変わる辺りの道路右手に水路施設が見えた。阿佐間揚水機場であろう。
琴寄揚水機場
県道364号を越え先に進むと、道の北からささやかな水路が伏越で島中領幹線揚水を越える。上述の古利根排水路のようである。古利根排水路が伏越で越えた東側に水路施設がある。施設名のプレートがあり琴寄揚水機場とあった。
島中領幹線用水と高柳分水路が分かれる
琴寄揚水機場の直ぐ東に分水工があり島中領幹線用水から右手に高柳分水路が分かれる。高柳分水路はこの地から南東に下り、途中古利根排水路と交差し、十王堀排水路を伏越で越え、高柳地区に水を送る。この高柳分水路も古利根悪水路と同じく旧浅間川筋とされる。
島中領幹線用水路が十王堀排水路を伏越で渡る
分水堰で暗渠となって東に向かい、道路を渡って開渠となって現れる島中領幹線用水と、開渠で南東に向かい暗渠となって道路を渡り、開渠となって道路の東に現れる高柳分水路の形態を考慮したのか、不自然に広く、不自然な形をした交差点を越え、島中領幹線用水を進む。
高柳分水路が旧浅間川筋であるのが当日わかっていれば、そちらを進んだことだろうが、当日は島中領幹線用水が旧浅間川筋といった曖昧な情報で歩いため、島中領幹線水路に沿って進むと十王堀排水路に当たり、そこには伏越の水路施設があった。
十王橋を渡り十王堀排水路を下る
十王堀排水路を渡る島中領幹線用水の伏越箇所から少し上流に十王橋がある。午前中に自然排水路(十王堀排水路Iを旧利根川の主流のひとつである浅間川の締切部に向かって進んでいった箇所である。
橋を渡り、午前とは逆方向、旧利根川の下流部と言われる十王堀排水路を下ることにする。今朝も見た悪水落ではあるが、人工護岸の跡が見えない、自然な堤を下って行く。
善定寺池
十王堀排水路を下り、浅間川の堤防が決壊したときにできた落堀と言われる善定寺池に向かう。途中、これも自然な姿を留めるささやかな水路が十王堀に沿って南に下る。
地図で確認すると、十王堀排水路と並行して下った水路は、古利根排水路が十王堀の右岸と合わさる箇所の左岸から東に向かっている。旧利根川・浅間川は高柳で旧利根川の一派である旧渡良瀬川と合わさっていたとのことでもあるので、この水路は旧利根川・浅間川の一筋かもしれない。
それはともあれ、十王堀排水路を下り善定寺を左手に見た先の橋を渡り、お寺様の境内をぐるりと廻りこみ善定寺池に。葦の茂る池の周辺は如何にも自然の風情を残していた。
島中領幹線用水が稲荷木落を伏越で渡る
日も暮れてきた。本来であれば、高柳分水の末端を追っかけ浅間川筋の最下流部まで進むことになるのだが、本日はここで終了。最寄の駅である栗橋駅に戻る。
駅に急ぐ途中、十王堀排水路を伏越で渡った島中領幹線用水が東に進み。稲荷木落を伏越で渡る姿を稲荷木橋で見遣る。
◆島中領幹線用水の終点部
稲荷木落を伏越で渡った島中領幹線用水は、途中暗渠となって東に一直線で進み東北本線を越え国道125号の高架下で樋堀用水に合わさった箇所が終点とされる。
栗橋駅
島中領幹線用水は東へと更に下るが、稲荷木橋を渡った後は、成り行きで栗橋駅に戻り、本日の散歩を終了する。
いくらなんでも、もうそろそろと、会の川筋とともに旧利根川の主流をなしていた浅間川筋を歩くことにした。思うに、利根川東遷事業に伴う浅間川の締め切り箇所が駅から遠く離れており、スタート地点に行くまで結構時間がかかるのが、腰を重くした利流でもあるが、今回改めて最寄り駅の栗橋から利根川に架かる埼玉大橋の少し上流にある浅間川締め切り口までの地図を見ると、縦横に用水路・排水路が走っている。
利根川東遷事業の目的のひとつが、源頭部を失い廃川となった旧利根川の川筋を活用した新田開発であったことを思い起こし、それでは、浅間川の締め切り口までは、新田開発に供したであろう用水路・排水路を見遣りながら進むべしと、モチベーションを上げ、浅間川締め切り口に向かった。 用水・排水路を辿り加須市外野の現利根川堤防傍にある浅間川締め切り口に向かうには結構時間がかかったのだが、結果的には辿った用水・排水路が、浅間川筋であったことなど、それなりのリターンを得て浅間川跡を辿る散歩を終えた。
本日の散歩;
■浅間川締切跡に向かう■
栗橋駅>旗井排水路>稲荷木落>沼尻排水路>元和川用水路>十王堀排水路>県道84号・開平橋>十王堀排水路と元和川用水が接近>新元和川用水が十王堀排水路を伏越で交差する>三尺用水路が十王堀排水路を伏越で交差>十王堀排水路に乗り換え>県道60号線・十王堀排水路起点付近>元和川用水・東川用水分水堰>川辺領用水路を西に>新元和川用水路分水堰>佐波分水堰;島中領用水路と川辺領用水路を分ける>古利根用水・道かん橋>古利根分水>古利根用水竣工記念碑>川圦神社
■浅間川跡を下る■
旧利根川堰堤跡の碑>佐波分水堰を南に島中領幹線用水路を下る>加須・大利根工業団地>上悪土用水機場>県道84号・新利根二丁目交差点>杓子木揚水機場>阿佐間揚水機場>琴寄揚水機場>島中領幹線用水と高柳分水路が分かれる>島中領幹線用水路が十王堀排水路を伏越で渡る>十王橋を渡り十王堀排水路を下る>善定寺池>島中領幹線用水が稲荷木落を伏越で渡る>栗橋駅
■浅間川締切跡に向かう■
栗橋駅
栗橋駅に最初の下りたのは何年前のことだろう。利根川東遷事業に興味をもち、その手はじめにと、その名前に惹かれた権現堂川跡に向かうため、この駅に降り立った。
その時は駅の東側に下りたのだが、今回は駅の西側。車のパーキングが全面に広がる。その間を成り行きで西に進むと平成の大合併(平成22年;2010年)で久喜市となった旧栗橋町を越え加須市域に入る。
旗井排水路
市境を越えるとほどなく開渠の水路が道に沿って続く。メモの段階であれこれチェックすると加須市の「管理水路図」が見つかり、その図によると「旗井排水路」のようである。
水路は栗橋駅のほうに暗渠で進んでいるのかと思ったのだが、始点は開渠地点から北に延びる道を進み、東武日光線と交差する手前で東に曲がり、旗井神社へと向かう道筋がその排水路跡のようだ。そこから南へ暗渠で下り、この地から栗橋と逆の東へと向かう。開渠は見えない。
東川用水路
旗井排水路には結構水量が多い。何故? と、旗井排水路が開く少し西に、北から下る開渠が見える。加須市の「管理水路図」をもとに水路跡を辿ると、どうも東川用水路のようである。
東川用水路は後程分流始点に出合うことになるが、ちょっと先走ってメモすると、利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水と葛西用水、後述する稲子用水と古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部分である古利根用水の分流。旧利根川、即ちこの場合、浅間川と言い換えてもいいのだが、古利根用水を佐波分水堰で左岸へと分けた川辺領用水路の一派として、利根川に沿って東に流れ、旗井の北で流路を南に変えてこの地に下る。
稲荷木落
開渠の水路に沿って進むと、道の左手に水路が見えてくる。地図でチェックすると稲荷木落とある。先ほど出合った旗井排水路、東川用水の水路はこの稲荷木落に合わさる。ちょっと目には稲荷木落の分水のように見えるが、理屈からすれば稲荷木落に余水を落としているのだろう。
水路に沿って西に進むと最初の橋。橋に名前はついていない。古い趣の橋の脇には新しい人道橋が併設されていた。右岸には「野菊の小径」と書かれた遊歩道が整備されている。
そのすぐ西に、北から水路が合わさるが、加須市の「管理水路図」には「開二九排水路」とある。
水路に沿って進むと新しい橋が架かる。「いりやはし」「稲荷木落」とある。この橋からそのまま、真っすぐ進めば浅間川締切跡への最短距離ではあるが、南に流れるいくつかの水路が気になり、橋を左折し南に下る。
●稲荷木落
「とうかきおおとし」「いなりぎおとし」などと書かれている。起点もはっきりしない。当初、「いりやはし」から西に続く水路がそれと思っていたのだが、稲荷木落の管理起点は、この橋の先、北から下る水路と合わさる地点に架かる三尺橋とも言われる。
三尺橋から西は三尺用水路とのことである。また、北から合わさる水路には東西に走る香林寺落排水路と交差する箇所までは新堀排水路、その北の利根川堤辺りまで続く水路は「導水渠」と書かれており、東武日光線の北では上述東川用水路と交差している。
ともあれ三尺橋を管理起点にした稲荷木落は、旧大利根町(現加須市)からはじまり加須市、久喜市(絵旧栗橋町、旧鷲宮町)を下り久喜市島川と新井の間で中川に合流する。
稲荷木落の歴史は古く、19世紀中頃、河辺領(旧n根町:現在の加須市)の農業用悪水(排水)落として開削された。流路は旧渡良瀬川(近世以前)の廃川跡を活用した、とのこと。
当初悪水は後述する十王排水路を経て、現在の県道125号に架かる古門樋橋辺りで島川(現在の中川)に落とされていたが、昭和10年(1935)頃の中川の改修(旧.島川、権現堂川、庄内古川)に併せて、島中領(現.栗橋町周辺)の排水も流せるようにと、県営事業による大規模な改修工事がおこなわれ、落口が元の落し口の下流である現在の地に変わったのだろうか。
また、平成に入り、三尺排水路、後述する沼尻排水路と合わせ大規模な河川改修が行われたようである。久喜市松永の辺りは旧浅間川の堤防が残る、と言う。浅間川の自然堤防に盛土し築堤したとのことだが、その自然堤防は往昔の鎌倉古道とも言われる。
◆香林寺落排水路
加須市の「管理水路図」によると、起点は後程訪れる古利根川・浅間川締め切り口付近、現在の埼玉用水の川辺領用水箇所が、これも後述する元和川用水路と東川用水路と分岐する少し南辺りが起点らしく、東に進み南に折れる。南に折れた箇所が上述「開二九排水路」と書かれている。
沼尻排水路
「いりやはし」を南に折れ道を進むと自然堤防の趣を残す水路と交差。加須市の「管理水路図」に拠れば「沼尻排水路」のようである。「管理水路図」に拠れば、三尺用水路が元和川用水路と交差する地点の南西あたりを起点とし、東に流れ西瓜橋上流の稲荷木落に悪水を落とす。
元和川用水路
更に南に下ると元和川用水路にあたる。用水路とあり、悪水落の排水路とは少し趣を異にし、38号分水工といった用水設備が見える。加須市の「管理水路図」に拠れば、埼玉用水の下流部となる古利根用水(古利根川・浅間川の廃川あとの悪水落を灌漑用水路と改良工事をしたもの)が、古利根川浅間川締め切り跡近くの佐波分水堰で、南に下る島中領幹線用水路と分かれ、東に流れる川辺領用水が元和川用水と東川用水に分かれる分水堰を起点とし、弧を描いて加須市を下り、この地を経て西瓜橋の下流で稲荷木落に余水を吐きだす。
十王堀排水路
元和川用水を辿ってもいいかな、とも思いながらも県道84号の南にも水路が見える。とりあえずそこまで下る。道に架かる十王橋の左右に流れるその水路は、自然の趣を色濃く残している。加須市の「管理水路図」には、この交差地点の下流は十王堀排水路、上流は「自然排水路」と記されている。
大正初期の川辺領耕地整理の際に開削されたと言われる「自然排水路」の起点は前述、香林落排水路の起点近く、川辺領用水路が東川用水路と元和川用水路に分かれる分水点の南東付近のようだ。下流の大王堀排水路はおよそ、2.5kmほど下り中川に合流する。善定寺池より下流は旧浅間川の川筋とのことである。
この十王堀排水路は、古利根悪水路として使われ、大正初期の頃までは川辺領、羽生領、また稲荷木落でメモしたように、島中領(旧栗橋町)の悪水落にも使われていたようだ。
古利根悪水路の一部は現在も残るとのことだが、加須市の「管理水路図」にある古利根排水路がそれに相当するのではないだろうか。古利根排水路は善定寺池の少し下流で十王堀排水路に余水を吐く。
県道84号・開平橋
特に理由はなかったのだが、十王堀排水路の上流部である「自然排水路」を上流に辿ることにする。自然排水路に沿って進み、右手にある若宮八幡にお参りし更に先に進む。
次第に踏み跡消え、ブッシュを掻き分け乍ら進むことになる。県道84号に向かって直角に曲がるあたりは右手で枝を掴みながら、自然の堤から排水路に落ちないように注意しながら進まなければならなくなった。
やっとのことで県道84号手前の陸橋脇に道に這い上がる。排水路に架かる橋は「開平橋」、そして拝水路(悪水落)は「十王堀」とあった。
自然排水路(十王堀排水路)と元和川用水が接近
県道84号を越えると、排水路に沿って道が現れる。北下新井辺りまで進むと、右手に先ほど出合った元和川用水が接近する。分水工のある如何にも人工用水路といった元和川用水と、大正期の開削がそのまま残るような自然排水路(十王堀排水路)が並走することになる。
新元和川用水が自然排水路(十王堀排水路)を伏越で交差する
北下新井から北平野のあたりまで延々と自然排水路(十王堀排水路)と元和川用水が並走する。両水路を交互に見遣りながら主に自然排水路(十王堀排水路)を進むと、左手から水路が接近し、伏越で用水を越える。伏越した先の水路には新元和川用水と記されていた。
◆新元和川用水
佐波分水堰で島中領用水と分かれた川辺領用水から、埼玉大橋近くで分流し、この地で自然排水路(十王堀排水路)を越えたあと元和用水に合流する。
三尺用水路が自然排水路(十王堀排水路)を伏越で交差
新元和用水の伏越を過ぎ、再び並走する元和川用水と自然排水路(十王堀排水路)を交互に見遣りながら自然排水路(十王堀排水路)を細間辺りまで進むと水路幅が少し狭まった先に西から水路が迫り、伏越で交差する。加須市の「管理水路図」によれば、三尺用水路のようである。
前述の稲荷木落のところでメモしたように、この三尺用水路は稲荷木落の三尺橋より上流を指す。現在の埼玉用水の下流部である古利根用水が佐波分水堰で島川領用水路と川辺領用水路に分かれた後、川辺領用水路から分水した新元和用水から養水しているようである。
元和川用水路に乗り換え
三尺用水路との交差地点手前辺りから元和川用水路と次第に離れていった自然排水路(十王堀排水路)を成り行きで進み、砂原の辺りで再び両水路が接近する手前辺りで自然排水路(十王堀排水路)を離れ元和川用水路に移る。自然排水路(十王堀排水路)に沿って道が無くなったこともさることながら、元和川用水路は川辺領用水路からの分流であり、元和川用水路に沿って進み川辺領用水路との分流箇所を確認しようとの思惑ではある。
県道60号線・自然排水路(十王堀排水路)起点付近
舗装道路に沿って再び並走する自然排水路(十王堀排水路)を見遣りながら元和川用水路に沿って北に進む。道が県道60号と交差する箇所に加須警察署原道駐在所があるが、その少し西が自然排水路(十王堀排水路)の起点のようである。元和川用水路に馬頭観音の石仏が佇む。
元和川用水・東川用水分水堰
元和川用水を更に北に進むと、左手前方に水路が見えてくる。ほどなく分水堰に達し、そこには東川用水・元和川用水分水堰とあった。
用水路・排水路が入り組み、少々ややこしいため、上述の東川用水路を再掲しておく
◆東川用水路
利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水、葛西用水、稲子用水、古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部分である古利根用水の分流。旧利根川、即ちこの場合、浅間川と言い換えてもいいのだが、旧利根川用水を佐波分水堰で右岸に島中領用水路、左岸へ川辺領用水路に分け、さらにこの地で元和川用水を右岸に、左岸に東川用水路を分け、利根川に沿って東に流れ、旗井の北で流路を南に変えてこの地に下る。
川辺領用水路を西に
元和川用水路と東川用水路に水を分けた上流の用水路は川辺領用水路と呼ばれる。正確に言えば、元和川用水路も東川用水路も川辺領用水路の支流という事になる。
利根川の堤防に沿って西福寺、八坂神社を見遣りながら西に向かう。埼玉大橋の辺りは水路廻りの工事が行われていた。
新元和川用水路分水堰
埼玉大橋へのアプローチ高架を潜ると川辺領用水路に分水堰があり、水路が高架に沿って南に下る。加須市の「管理水路図」によれば、新元和川用水路とのことである。新元和川用水路には先ほど十王堀排水路を伏越で渡る姿に出合った。
佐波分水堰;島中領用水路と川辺領用水路を分ける
川辺領用水路を更に西に進む。天満宮・鷲宮を越えると佐波(ざわ)分水堰にあたる。前述の如く埼玉用水路として統合された古利根用水路がこの分水堰で島中領用水路と川辺領用水路に分かれる。右岸を南へと下る島中領用水路が今回の散歩の目的である旧利根川の主流のひとつの旧浅間川の流路とほぼ一致するようである。
●領
川辺領、島中領、羽生領などと「領」がつく用水が目につく。当初は戦国期の北条氏が在地領主のために設けた支配地の名称であったようだが、江戸期に入ると「水利および堤防によって利害を等しくする一団の区域」を指すようになったようである(「利根川治水の成立過程とその特徴;宮村忠」)。
利根川東遷事業の主たる目的のひとつが、源頭部を締め切られ廃川となった旧利根川流域の新田開発であり、用水路・悪水落開削、水害防止のための築堤工事など、水利共同体としての意識が高まったゆえの名称かと思える。
大雑把に言って川辺領は旧大利根町(現加須市)、島中領は旧栗橋町(現久喜市)、羽生領は羽生市・加須市に相当する。
古利根用水・道かん橋
佐波分水堰から先に進むと水路に橋がかかる。「道かん橋」「古利根用水」とある。「道かん橋」は太田道灌との関連ではあろうが、道灌と古利根川との関わりは?後ほどそれらしき由来はわかるのだが、この時点では不明であった。 道かん橋の少し北に今回の散歩の主目的である旧利根川・浅間川筋である「旧利根川堰堤跡」の碑があるようだが、とりあえず用水路廻りを先にカバーし、浅間川跡を辿る起点とすべく、お楽しみにとっておく。
古利根分水堰
道かん橋を越え用水路を進むと古利根分水堰に出合う。この分水堰で古利根用水から豊野用水を南に分ける。前述の東川用水路の説明で、古利根用水とは「利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水、葛西用水、稲子用水、古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部であり、旧利根川、即ちこの場合、旧浅間川筋とメモした。
歴史的経緯を踏まえて、もう少し詳しく整理すると、埼玉県の資料に「古利根用水の概要」として、「この地域は昭和初期まで洪水の常習地帯であったが、昭和3年の権現堂川の締切及び大正5年~昭和 4年に行われた中川の改修により、この地域の排水は大幅に改善されることとなった。
用水としては 昭和30年以前には三つの用水源(上流部の稲子用水区域、中流部の川辺領用水区域、下流部の島中領用水区域)に分けられていたが、取水樋管の位置や構造が悪く、また導水路の荒廃により取水困難を 来していたため、県営かんがい排水事業古利根地区の実施(S30~42)により利根川本川に各樋管を統合、新たに古利根樋管を設け、島中領用水を幹線水路として各用水へ分水を行った。
その後、利根導水路建設事業(S38~44)により利根大堰、埼玉用水路が完成し、古利根用水も利根大堰から埼玉用水路を経て導水されることになり、古利根樋管は廃止されることとなった。近年では農地の潰廃等により、利根中央農業用水再編対策事業の実施(H4~15)にて都市用水への転用を図り現在に至る」とある。
この説明によると、古利根用水はふたつのフェーズに分けて理解する方がよさそうである。第一フェーズとは、昭和30年(1955)以前にあった三つの用水源(上流部の稲子用水区域、中流部の川辺領用水区域、下流部の島中領用水区域)の取水樋管を古利根樋管に一本化し、島中領用水を幹線水路として各用水へ分水するように改良工事をおこなった時期。
昭和30年(1955)から42年(1967)にかけておこなわれた県営かんがい排水事業の実施により、各樋管を合口して、利根川に新たに古利根頭首工と古利根樋管を設け、島中領用水を幹線水路として豊野用水へは大越分水路と豊野分水路、川辺領用水へは佐波分水路によって分水がなされた。これが古利根用水路である。同時に島中領の主要排水路である大堀排水路の改修もなされた。これが第一フェーズの利根用水である。
ついで第二フェーズ。第一フェーズの水路体系が完成して、昭和34年(1959)には取水を開始したが、古利根頭首工の位置と構造、利根川の主たる流れの変化などが原因で取水困難な状態となる。
その対策・代替案として活用したのが、昭和38年(1963)から44年(1969)に実施された利根導水路建設事業。この事業による埼玉用水の開削および利根大堰の完成により、古利根用水は利根大堰へ合口され、埼玉用水路を経て導水されることになった。元圦である利根大堰から、島中領用水まで25Kmほど水を導水し、これにともない、古利根頭首工と古利根樋管はわずか数年で廃止、撤去されることになった。
現在古利根用水という呼称は三用水路の総称であるにしても、この古利根分水堰から上流は埼玉用水、佐波分水堰から下流は島中領幹線用水、川辺領用水と称されるわけで、実際的には、この分水堰から佐波分水堰までのわずかな区間をもって「古利根用水」と称されるように思える。
●豊野用水路
豊野用水路はこの分水堰(上述の大越分水路?)で古利根用水から分かれ南に下り、島中領幹線用水と平行に進み加須市樋遣川地区を潤し、県道84号と県道346号が交差する少し南東で島中領幹線用水路から離れ、南東に下り久喜市生出から豊野台を経て稲荷木落に余水を吐いているようである。
◆稲子用水
なお、この豊野用水であるが、前述の稲子用水とほぼ同じと考えてもいいように思える。稲子用水に関する資料がなかなか見つからないいため、推測ではあるが、稲子用水は利根用水の上流部であるという記述、稲子用水は羽生領用水のひとつである北方用水へ水を供給する加用水として羽生市稲子に圦樋(取水樋管)を設けて利根川から養水したとの記述、その北方用水は現在埼玉用水と名を変え東に流れ古い古利根用水と繋がっている、といったことからの推測ではある。
資料によっては一行だけで豊野用水=稲子用水とするものもあり、確たる資料はないものの、この地よりはるか東の加須市稲子で取水され利根川に沿って現在の埼玉用水の流路を下り、現在の豊野用水路の水路を流れていたのが稲子用水路かと思える。
古利根用水竣工記念碑
古利根用水と道を隔てた加須未来館敷地に「古利根用水竣工記念碑」が建つ。裏面には昭和26年(1951)期成同盟の結成、竣工昭和28年(1953)、工事完成43年(1969)とある。上記メモの古利根用水の第一、第二フェーズを合せた古利根用水改良工事の竣工記念のようである。
川圦神社
竣工記念碑の少し北東に川圦神社が地図に見える。取水元圦でもあるのだろうかとちょっと足をのばす。境内に「伝承 川圦さま」の木標があり、「ある年、大越に大雨が降り続きついに利根川の堤が決壊してしまい、村人の必死の復旧作業も大雨のためなかなか進みませんでした。
困った村人たちは、水が引くのを待って泊まっていた巡礼の母娘に頼んで人柱になってもらうと雨はぴたりとやみ、水かさを(ママ)減って無事に工事を完了することができました。
その後、巡礼の母娘の霊をなぐさめるため神社を建立しました。その神社が川圦神社で、地元の人たちは川圦さまと呼んでいます」とあった。
頼まれた、と言われても好んで人柱になるとも思えないのだが、それはそれとして、川圦の由来は取水元圦とは関係ないものであった。
■旧浅間筋・現島中領幹線用水を下る■
加須市作成「管理水路図」 |
で、やっと今回の目的である旧利根川・浅間川筋を下る散歩をはじめる。手始めは、お楽しみに残しておいた、旧利根川・浅間川締切付近と思われる「旧利根川堰堤跡の碑」に向かう。
旧利根川堰堤跡の碑
川圦神社から戻り、加須未来館辺りで堤防から現在の利根川を眺め、堤防を下りて「旧利根川堰堤跡の碑」を探す。碑は駐車場の隅にひっそりと建っていた。 傍にあった案内には「利根川は羽生市川俣で締め切られあと、東にながれ大越地域外野と大利根地域佐波の境で南下し、現在の古利根川(旧浅間川)筋を南に流れていた。
元和七(一六二一)年に関東郡代伊奈忠治は、佐波から栗橋までの約八キロメートルを七間(約一二,六メートル)の幅で北川辺村を大きく蛇行していた河川の両端を直線で結び、新たな河川として新川通りを開削した。
天保九(一八三一)年に浅間川を締め切ったことにより古い河道は水田となった。このときの堰堤跡が約六十メートルにわたって残っている」とある。
説明とともに掲載されていた図によると、この石碑の東側がその堰堤跡のようであるが、想像力不足の我が身には、よくわからない。それよりも、図に石碑脇を南に下る川筋を浅間川(現古利根川)と記されており、本日の目的である浅間川跡を辿る散歩の始点であることを確認し、これから川筋を下ることとする。
●旧利根川堰堤跡の碑文
ついでのことでもあるので、碑文を読んでみた。漢字カナ文字で書かれている内容を大雑把にまとめると、「利根川は往古八百八筋と称する乱流であり、本流不明といった川であったが、長禄2年、大田道灌がこれを治め江戸湾に注いだ。これが変遷の第一次。次いで文禄3年忍城主松平忠吉が家臣小笠原某をして南流する本川を川俣村で締切り、東流する流れを新利根川と称し、更に外野と佐波の間を南流させ川口において旧流に合流させる。これを二次の変遷とする。 元和7(1621)、徳川幕府は伊奈某をして赤堀川水路を開削し、これを新川通りと称し、その水勢を削ぐ。これを第三次の変遷とする。
既に寛永から承応年間にかけて数回の大改修を行い、文化6年幕府は金沢某をもって新川通りの川幅の大拡張をしたので、この流路が利根本流となっていった。
このため南流する川筋は不用となり大越村外野、原道村佐波の間の流路は天保3年(1838)その水源を締め切られることになった。これを第四次の変遷と称し、川筋は故道となり水路の跡を留めるだけのものとなった。
この数次の変遷に従事した大越・外野村・佐波住民の難苦や労力は決して忘れてはならないものであり、村議会全会一致をもって大越村村長が埼玉県庁に申請し記念碑が建立された。昭和3年(1928)3月」といったものであった。
特段目新しい内容はないが、大田道灌の江戸築城に際して古利根川に改修を加えた(私注;資料では確認できず)とあり、さきほど出合った「道かん橋」の由来はこのことに関連し、時期からすれば古利根用水改良工事以前、大正5年(1916)~昭和 4年(1929)に行われた中川の改修にともなう浅間川改修工事の時期のようである。
佐波分水堰を南に島中領幹線用水路を下る
「旧利根川堰堤跡の碑」を離れ古利根用水路に。流路を南に向けた先で先ほど出合った佐波分水堰に。古利根用水路はここで左岸を東に向かう川辺領用水路と右岸を南に下る島中領幹線用水路となる。前述の如く古利根用水路は上記ふたつの用水路を含むものの、呼称としてはこの分水堰で終わりとなるようだ。
●島中領幹線用水路
島中領幹線用水路とは、昭和30年(1955)から42年(1967)にかけておこなわれた県営かんがい排水事業、昭和38年(1963)から44年(1969)に実施された利根導水路建設事業により整備された、埼玉用水下流部の古利根用水路の幹線水路とし島中領(久喜市栗橋町と幸手市の一部)に供給される農業用水路である。
この用水路筋は利根川東遷事業の一環として元和7年(1621)に締め切られた古利根川(旧浅間川)の廃川跡。廃川跡では新田開発が行われ、上述かんがい事業が実施された頃は浅間川の旧流路跡を改修した農業用排水路となり、古利根悪水路と称され、昭和20年頃(1845)までは羽生領と向川辺領(久喜市大利根の一部)の悪水落としての機能を担っていたようである。
島中領幹線用水は、この古利根悪水路筋を改修したもののようだが、かつての悪水落加須市の「管理水路図」にあるように、加須市下荒井から加須市琴寄にかけて古利根排水路として残り、稲荷木落に落ちているようだ。
加須・大利根工業団地
田園風景の中にある佐波分水堰を越えるとほどなく用水路は加須大利根工業団地の中を下ることになる。用水路はフェンスに囲まれる。
県道46号と用水が交差する上樋遣川交差点の左手の大利根西部公園の東、鷲神社の北に弁天池が残るが、その辺りが古利根川・浅間川の左岸、一方上樋遣川交差点南東の八坂神社が右岸であった、という。往昔は大河ではあったのだろう。
上悪土用水機場
道路の右、左と流路を変える用水路を下ると、道路右手に水路施設らしき建物が見える。メモの段階でチェックすると「上悪土用水機場」とのこと。「悪土」ってどうも旧浅間川跡・古利根悪水路を指す用語のようである。工業団地を取り巻く耕地に水を供給しているのだろう。
県道84号・新利根二丁目交差点
工業団地の中を南流する島中領幹線用水路は県道84号・新利根二丁目交差点のある利根北公園辺りでその流れを南東へと変える。島中領幹線用水が古利根悪水路跡・旧浅間川筋を進むのはこの辺りまで。
加須市の「管理水路図」に古利根排水路が島中領幹線用水の北の、北平野・北新荒井の境界辺りから阿佐間、間口を経て十王排水路に落ちている。確たる資料はないのだが、この流路が新利根二丁目交差点辺りで島中領幹線用水と分かれた旧浅間川跡・古利根悪水路かもしれない。
杓子木揚水機場
県道84号との交差を越え、未だ工業団地が続く道の右側に黄色にペイントされた水路施設らしき建物が見える。地名から推測し「杓子木排水機場」ではないかと思う。
阿佐間揚水機場
工業団地も切れ、フェンスはあるものの、その高さも低くなり、周囲も田園風景に変わる辺りの道路右手に水路施設が見えた。阿佐間揚水機場であろう。
琴寄揚水機場
県道364号を越え先に進むと、道の北からささやかな水路が伏越で島中領幹線揚水を越える。上述の古利根排水路のようである。古利根排水路が伏越で越えた東側に水路施設がある。施設名のプレートがあり琴寄揚水機場とあった。
島中領幹線用水と高柳分水路が分かれる
琴寄揚水機場の直ぐ東に分水工があり島中領幹線用水から右手に高柳分水路が分かれる。高柳分水路はこの地から南東に下り、途中古利根排水路と交差し、十王堀排水路を伏越で越え、高柳地区に水を送る。この高柳分水路も古利根悪水路と同じく旧浅間川筋とされる。
島中領幹線用水路が十王堀排水路を伏越で渡る
分水堰で暗渠となって東に向かい、道路を渡って開渠となって現れる島中領幹線用水と、開渠で南東に向かい暗渠となって道路を渡り、開渠となって道路の東に現れる高柳分水路の形態を考慮したのか、不自然に広く、不自然な形をした交差点を越え、島中領幹線用水を進む。
高柳分水路が旧浅間川筋であるのが当日わかっていれば、そちらを進んだことだろうが、当日は島中領幹線用水が旧浅間川筋といった曖昧な情報で歩いため、島中領幹線水路に沿って進むと十王堀排水路に当たり、そこには伏越の水路施設があった。
十王橋を渡り十王堀排水路を下る
十王堀排水路を渡る島中領幹線用水の伏越箇所から少し上流に十王橋がある。午前中に自然排水路(十王堀排水路Iを旧利根川の主流のひとつである浅間川の締切部に向かって進んでいった箇所である。
橋を渡り、午前とは逆方向、旧利根川の下流部と言われる十王堀排水路を下ることにする。今朝も見た悪水落ではあるが、人工護岸の跡が見えない、自然な堤を下って行く。
善定寺池
十王堀排水路を下り、浅間川の堤防が決壊したときにできた落堀と言われる善定寺池に向かう。途中、これも自然な姿を留めるささやかな水路が十王堀に沿って南に下る。
地図で確認すると、十王堀排水路と並行して下った水路は、古利根排水路が十王堀の右岸と合わさる箇所の左岸から東に向かっている。旧利根川・浅間川は高柳で旧利根川の一派である旧渡良瀬川と合わさっていたとのことでもあるので、この水路は旧利根川・浅間川の一筋かもしれない。
それはともあれ、十王堀排水路を下り善定寺を左手に見た先の橋を渡り、お寺様の境内をぐるりと廻りこみ善定寺池に。葦の茂る池の周辺は如何にも自然の風情を残していた。
島中領幹線用水が稲荷木落を伏越で渡る
日も暮れてきた。本来であれば、高柳分水の末端を追っかけ浅間川筋の最下流部まで進むことになるのだが、本日はここで終了。最寄の駅である栗橋駅に戻る。
駅に急ぐ途中、十王堀排水路を伏越で渡った島中領幹線用水が東に進み。稲荷木落を伏越で渡る姿を稲荷木橋で見遣る。
◆島中領幹線用水の終点部
稲荷木落を伏越で渡った島中領幹線用水は、途中暗渠となって東に一直線で進み東北本線を越え国道125号の高架下で樋堀用水に合わさった箇所が終点とされる。
栗橋駅
島中領幹線用水は東へと更に下るが、稲荷木橋を渡った後は、成り行きで栗橋駅に戻り、本日の散歩を終了する。