2017年6月アーカイブ

偶々歩いた足立・葛飾区境の古隅田川(そのⅠそのⅡ)が、東遷事業により現在は銚子に下る利根川の旧流路であったことがきっかけ手始めた旧利根川筋散歩も、その主流のひとつである会の川筋を3回(その①その②その③)に分けて歩いてから、ちょっと日が経ってしまった。
いくらなんでも、もうそろそろと、会の川筋とともに旧利根川の主流をなしていた浅間川筋を歩くことにした。思うに、利根川東遷事業に伴う浅間川の締め切り箇所が駅から遠く離れており、スタート地点に行くまで結構時間がかかるのが、腰を重くした利流でもあるが、今回改めて最寄り駅の栗橋から利根川に架かる埼玉大橋の少し上流にある浅間川締め切り口までの地図を見ると、縦横に用水路・排水路が走っている。
利根川東遷事業の目的のひとつが、源頭部を失い廃川となった旧利根川の川筋を活用した新田開発であったことを思い起こし、それでは、浅間川の締め切り口までは、新田開発に供したであろう用水路・排水路を見遣りながら進むべしと、モチベーションを上げ、浅間川締め切り口に向かった。 用水・排水路を辿り加須市外野の現利根川堤防傍にある浅間川締め切り口に向かうには結構時間がかかったのだが、結果的には辿った用水・排水路が、浅間川筋であったことなど、それなりのリターンを得て浅間川跡を辿る散歩を終えた。



本日の散歩;
浅間川締切跡に向かう
栗橋駅>旗井排水路>稲荷木落>沼尻排水路>元和川用水路>十王堀排水路>県道84号・開平橋>十王堀排水路と元和川用水が接近>新元和川用水が十王堀排水路を伏越で交差する>三尺用水路が十王堀排水路を伏越で交差>十王堀排水路に乗り換え>県道60号線・十王堀排水路起点付近>元和川用水・東川用水分水堰>川辺領用水路を西に>新元和川用水路分水堰>佐波分水堰;島中領用水路と川辺領用水路を分ける>古利根用水・道かん橋>古利根分水>古利根用水竣工記念碑>川圦神社
浅間川跡を下る
旧利根川堰堤跡の碑>佐波分水堰を南に島中領幹線用水路を下る>加須・大利根工業団地>上悪土用水機場>県道84号・新利根二丁目交差点>杓子木揚水機場>阿佐間揚水機場>琴寄揚水機場>島中領幹線用水と高柳分水路が分かれる>島中領幹線用水路が十王堀排水路を伏越で渡る>十王橋を渡り十王堀排水路を下る>善定寺池>島中領幹線用水が稲荷木落を伏越で渡る>栗橋駅


■浅間川締切跡に向かう■

栗橋駅
栗橋駅に最初の下りたのは何年前のことだろう。利根川東遷事業に興味をもち、その手はじめにと、その名前に惹かれた権現堂川跡に向かうため、この駅に降り立った。
その時は駅の東側に下りたのだが、今回は駅の西側。車のパーキングが全面に広がる。その間を成り行きで西に進むと平成の大合併(平成22年;2010年)で久喜市となった旧栗橋町を越え加須市域に入る。

旗井排水路

市境を越えるとほどなく開渠の水路が道に沿って続く。メモの段階であれこれチェックすると加須市の「管理水路図」が見つかり、その図によると「旗井排水路」のようである。
水路は栗橋駅のほうに暗渠で進んでいるのかと思ったのだが、始点は開渠地点から北に延びる道を進み、東武日光線と交差する手前で東に曲がり、旗井神社へと向かう道筋がその排水路跡のようだ。そこから南へ暗渠で下り、この地から栗橋と逆の東へと向かう。開渠は見えない。

東川用水路
旗井排水路には結構水量が多い。何故? と、旗井排水路が開く少し西に、北から下る開渠が見える。加須市の「管理水路図」をもとに水路跡を辿ると、どうも東川用水路のようである。
東川用水路は後程分流始点に出合うことになるが、ちょっと先走ってメモすると、利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水葛西用水、後述する稲子用水と古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部分である古利根用水の分流。旧利根川、即ちこの場合、浅間川と言い換えてもいいのだが、古利根用水を佐波分水堰で左岸へと分けた川辺領用水路の一派として、利根川に沿って東に流れ、旗井の北で流路を南に変えてこの地に下る。

稲荷木落
開渠の水路に沿って進むと、道の左手に水路が見えてくる。地図でチェックすると稲荷木落とある。先ほど出合った旗井排水路、東川用水の水路はこの稲荷木落に合わさる。ちょっと目には稲荷木落の分水のように見えるが、理屈からすれば稲荷木落に余水を落としているのだろう。
水路に沿って西に進むと最初の橋。橋に名前はついていない。古い趣の橋の脇には新しい人道橋が併設されていた。右岸には「野菊の小径」と書かれた遊歩道が整備されている。
そのすぐ西に、北から水路が合わさるが、加須市の「管理水路図」には「開二九排水路」とある。
水路に沿って進むと新しい橋が架かる。「いりやはし」「稲荷木落」とある。この橋からそのまま、真っすぐ進めば浅間川締切跡への最短距離ではあるが、南に流れるいくつかの水路が気になり、橋を左折し南に下る。
稲荷木落
「とうかきおおとし」「いなりぎおとし」などと書かれている。起点もはっきりしない。当初、「いりやはし」から西に続く水路がそれと思っていたのだが、稲荷木落の管理起点は、この橋の先、北から下る水路と合わさる地点に架かる三尺橋とも言われる。
三尺橋から西は三尺用水路とのことである。また、北から合わさる水路には東西に走る香林寺落排水路と交差する箇所までは新堀排水路、その北の利根川堤辺りまで続く水路は「導水渠」と書かれており、東武日光線の北では上述東川用水路と交差している。
ともあれ三尺橋を管理起点にした稲荷木落は、旧大利根町(現加須市)からはじまり加須市、久喜市(絵旧栗橋町、旧鷲宮町)を下り久喜市島川と新井の間で中川に合流する。
稲荷木落の歴史は古く、19世紀中頃、河辺領(旧n根町:現在の加須市)の農業用悪水(排水)落として開削された。流路は旧渡良瀬川(近世以前)の廃川跡を活用した、とのこと。
当初悪水は後述する十王排水路を経て、現在の県道125号に架かる古門樋橋辺りで島川(現在の中川)に落とされていたが、昭和10年(1935)頃の中川の改修(旧.島川、権現堂川、庄内古川)に併せて、島中領(現.栗橋町周辺)の排水も流せるようにと、県営事業による大規模な改修工事がおこなわれ、落口が元の落し口の下流である現在の地に変わったのだろうか。
また、平成に入り、三尺排水路、後述する沼尻排水路と合わせ大規模な河川改修が行われたようである。久喜市松永の辺りは旧浅間川の堤防が残る、と言う。浅間川の自然堤防に盛土し築堤したとのことだが、その自然堤防は往昔の鎌倉古道とも言われる。

香林寺落排水路
加須市の「管理水路図」によると、起点は後程訪れる古利根川・浅間川締め切り口付近、現在の埼玉用水の川辺領用水箇所が、これも後述する元和川用水路と東川用水路と分岐する少し南辺りが起点らしく、東に進み南に折れる。南に折れた箇所が上述「開二九排水路」と書かれている。

沼尻排水路
「いりやはし」を南に折れ道を進むと自然堤防の趣を残す水路と交差。加須市の「管理水路図」に拠れば「沼尻排水路」のようである。「管理水路図」に拠れば、三尺用水路が元和川用水路と交差する地点の南西あたりを起点とし、東に流れ西瓜橋上流の稲荷木落に悪水を落とす。


元和川用水路
更に南に下ると元和川用水路にあたる。用水路とあり、悪水落の排水路とは少し趣を異にし、38号分水工といった用水設備が見える。加須市の「管理水路図」に拠れば、埼玉用水の下流部となる古利根用水(古利根川・浅間川の廃川あとの悪水落を灌漑用水路と改良工事をしたもの)が、古利根川浅間川締め切り跡近くの佐波分水堰で、南に下る島中領幹線用水路と分かれ、東に流れる川辺領用水が元和川用水と東川用水に分かれる分水堰を起点とし、弧を描いて加須市を下り、この地を経て西瓜橋の下流で稲荷木落に余水を吐きだす。

十王堀排水路
元和川用水を辿ってもいいかな、とも思いながらも県道84号の南にも水路が見える。とりあえずそこまで下る。道に架かる十王橋の左右に流れるその水路は、自然の趣を色濃く残している。加須市の「管理水路図」には、この交差地点の下流は十王堀排水路、上流は「自然排水路」と記されている。
大正初期の川辺領耕地整理の際に開削されたと言われる「自然排水路」の起点は前述、香林落排水路の起点近く、川辺領用水路が東川用水路と元和川用水路に分かれる分水点の南東付近のようだ。下流の大王堀排水路はおよそ、2.5kmほど下り中川に合流する。善定寺池より下流は旧浅間川の川筋とのことである。
この十王堀排水路は、古利根悪水路として使われ、大正初期の頃までは川辺領、羽生領、また稲荷木落でメモしたように、島中領(旧栗橋町)の悪水落にも使われていたようだ。
古利根悪水路の一部は現在も残るとのことだが、加須市の「管理水路図」にある古利根排水路がそれに相当するのではないだろうか。古利根排水路は善定寺池の少し下流で十王堀排水路に余水を吐く。

県道84号・開平橋
特に理由はなかったのだが、十王堀排水路の上流部である「自然排水路」を上流に辿ることにする。自然排水路に沿って進み、右手にある若宮八幡にお参りし更に先に進む。
次第に踏み跡消え、ブッシュを掻き分け乍ら進むことになる。県道84号に向かって直角に曲がるあたりは右手で枝を掴みながら、自然の堤から排水路に落ちないように注意しながら進まなければならなくなった。
やっとのことで県道84号手前の陸橋脇に道に這い上がる。排水路に架かる橋は「開平橋」、そして拝水路(悪水落)は「十王堀」とあった。

自然排水路(十王堀排水路)と元和川用水が接近
県道84号を越えると、排水路に沿って道が現れる。北下新井辺りまで進むと、右手に先ほど出合った元和川用水が接近する。分水工のある如何にも人工用水路といった元和川用水と、大正期の開削がそのまま残るような自然排水路(十王堀排水路)が並走することになる。

新元和川用水が自然排水路(十王堀排水路)を伏越で交差する
北下新井から北平野のあたりまで延々と自然排水路(十王堀排水路)と元和川用水が並走する。両水路を交互に見遣りながら主に自然排水路(十王堀排水路)を進むと、左手から水路が接近し、伏越で用水を越える。伏越した先の水路には新元和川用水と記されていた。
新元和川用水
佐波分水堰で島中領用水と分かれた川辺領用水から、埼玉大橋近くで分流し、この地で自然排水路(十王堀排水路)を越えたあと元和用水に合流する。

三尺用水路が自然排水路(十王堀排水路)を伏越で交差
新元和用水の伏越を過ぎ、再び並走する元和川用水と自然排水路(十王堀排水路)を交互に見遣りながら自然排水路(十王堀排水路)を細間辺りまで進むと水路幅が少し狭まった先に西から水路が迫り、伏越で交差する。加須市の「管理水路図」によれば、三尺用水路のようである。
前述の稲荷木落のところでメモしたように、この三尺用水路は稲荷木落の三尺橋より上流を指す。現在の埼玉用水の下流部である古利根用水が佐波分水堰で島川領用水路と川辺領用水路に分かれた後、川辺領用水路から分水した新元和用水から養水しているようである。

元和川用水路に乗り換え
三尺用水路との交差地点手前辺りから元和川用水路と次第に離れていった自然排水路(十王堀排水路)を成り行きで進み、砂原の辺りで再び両水路が接近する手前辺りで自然排水路(十王堀排水路)を離れ元和川用水路に移る。自然排水路(十王堀排水路)に沿って道が無くなったこともさることながら、元和川用水路は川辺領用水路からの分流であり、元和川用水路に沿って進み川辺領用水路との分流箇所を確認しようとの思惑ではある。

県道60号線・自然排水路(十王堀排水路)起点付近
舗装道路に沿って再び並走する自然排水路(十王堀排水路)を見遣りながら元和川用水路に沿って北に進む。道が県道60号と交差する箇所に加須警察署原道駐在所があるが、その少し西が自然排水路(十王堀排水路)の起点のようである。元和川用水路に馬頭観音の石仏が佇む。

元和川用水・東川用水分水堰
元和川用水を更に北に進むと、左手前方に水路が見えてくる。ほどなく分水堰に達し、そこには東川用水・元和川用水分水堰とあった。
用水路・排水路が入り組み、少々ややこしいため、上述の東川用水路を再掲しておく
東川用水路
利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水、葛西用水、稲子用水、古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部分である古利根用水の分流。旧利根川、即ちこの場合、浅間川と言い換えてもいいのだが、旧利根川用水を佐波分水堰で右岸に島中領用水路、左岸へ川辺領用水路に分け、さらにこの地で元和川用水を右岸に、左岸に東川用水路を分け、利根川に沿って東に流れ、旗井の北で流路を南に変えてこの地に下る。

川辺領用水路を西に
元和川用水路と東川用水路に水を分けた上流の用水路は川辺領用水路と呼ばれる。正確に言えば、元和川用水路も東川用水路も川辺領用水路の支流という事になる。
利根川の堤防に沿って西福寺、八坂神社を見遣りながら西に向かう。埼玉大橋の辺りは水路廻りの工事が行われていた。

新元和川用水路分水堰
埼玉大橋へのアプローチ高架を潜ると川辺領用水路に分水堰があり、水路が高架に沿って南に下る。加須市の「管理水路図」によれば、新元和川用水路とのことである。新元和川用水路には先ほど十王堀排水路を伏越で渡る姿に出合った。

佐波分水堰;島中領用水路と川辺領用水路を分ける
川辺領用水路を更に西に進む。天満宮・鷲宮を越えると佐波(ざわ)分水堰にあたる。前述の如く埼玉用水路として統合された古利根用水路がこの分水堰で島中領用水路と川辺領用水路に分かれる。右岸を南へと下る島中領用水路が今回の散歩の目的である旧利根川の主流のひとつの旧浅間川の流路とほぼ一致するようである。

川辺領、島中領、羽生領などと「領」がつく用水が目につく。当初は戦国期の北条氏が在地領主のために設けた支配地の名称であったようだが、江戸期に入ると「水利および堤防によって利害を等しくする一団の区域」を指すようになったようである(「利根川治水の成立過程とその特徴;宮村忠」)。
利根川東遷事業の主たる目的のひとつが、源頭部を締め切られ廃川となった旧利根川流域の新田開発であり、用水路・悪水落開削、水害防止のための築堤工事など、水利共同体としての意識が高まったゆえの名称かと思える。
大雑把に言って川辺領は旧大利根町(現加須市)、島中領は旧栗橋町(現久喜市)、羽生領は羽生市・加須市に相当する。

古利根用水・道かん橋
佐波分水堰から先に進むと水路に橋がかかる。「道かん橋」「古利根用水」とある。「道かん橋」は太田道灌との関連ではあろうが、道灌と古利根川との関わりは?後ほどそれらしき由来はわかるのだが、この時点では不明であった。 道かん橋の少し北に今回の散歩の主目的である旧利根川・浅間川筋である「旧利根川堰堤跡」の碑があるようだが、とりあえず用水路廻りを先にカバーし、浅間川跡を辿る起点とすべく、お楽しみにとっておく。

古利根分水堰
道かん橋を越え用水路を進むと古利根分水堰に出合う。この分水堰で古利根用水から豊野用水を南に分ける。前述の東川用水路の説明で、古利根用水とは「利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水、葛西用水、稲子用水、古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部であり、旧利根川、即ちこの場合、旧浅間川筋とメモした。
歴史的経緯を踏まえて、もう少し詳しく整理すると、埼玉県の資料に「古利根用水の概要」として、「この地域は昭和初期まで洪水の常習地帯であったが、昭和3年の権現堂川の締切及び大正5年~昭和 4年に行われた中川の改修により、この地域の排水は大幅に改善されることとなった。
用水としては 昭和30年以前には三つの用水源(上流部の稲子用水区域、中流部の川辺領用水区域、下流部の島中領用水区域)に分けられていたが、取水樋管の位置や構造が悪く、また導水路の荒廃により取水困難を 来していたため、県営かんがい排水事業古利根地区の実施(S30~42)により利根川本川に各樋管を統合、新たに古利根樋管を設け、島中領用水を幹線水路として各用水へ分水を行った。
その後、利根導水路建設事業(S38~44)により利根大堰、埼玉用水路が完成し、古利根用水も利根大堰から埼玉用水路を経て導水されることになり、古利根樋管は廃止されることとなった。近年では農地の潰廃等により、利根中央農業用水再編対策事業の実施(H4~15)にて都市用水への転用を図り現在に至る」とある。
この説明によると、古利根用水はふたつのフェーズに分けて理解する方がよさそうである。第一フェーズとは、昭和30年(1955)以前にあった三つの用水源(上流部の稲子用水区域、中流部の川辺領用水区域、下流部の島中領用水区域)の取水樋管を古利根樋管に一本化し、島中領用水を幹線水路として各用水へ分水するように改良工事をおこなった時期。
昭和30年(1955)から42年(1967)にかけておこなわれた県営かんがい排水事業の実施により、各樋管を合口して、利根川に新たに古利根頭首工と古利根樋管を設け、島中領用水を幹線水路として豊野用水へは大越分水路と豊野分水路、川辺領用水へは佐波分水路によって分水がなされた。これが古利根用水路である。同時に島中領の主要排水路である大堀排水路の改修もなされた。これが第一フェーズの利根用水である。
ついで第二フェーズ。第一フェーズの水路体系が完成して、昭和34年(1959)には取水を開始したが、古利根頭首工の位置と構造、利根川の主たる流れの変化などが原因で取水困難な状態となる。
その対策・代替案として活用したのが、昭和38年(1963)から44年(1969)に実施された利根導水路建設事業。この事業による埼玉用水の開削および利根大堰の完成により、古利根用水は利根大堰へ合口され、埼玉用水路を経て導水されることになった。元圦である利根大堰から、島中領用水まで25Kmほど水を導水し、これにともない、古利根頭首工と古利根樋管はわずか数年で廃止、撤去されることになった。
現在古利根用水という呼称は三用水路の総称であるにしても、この古利根分水堰から上流は埼玉用水、佐波分水堰から下流は島中領幹線用水、川辺領用水と称されるわけで、実際的には、この分水堰から佐波分水堰までのわずかな区間をもって「古利根用水」と称されるように思える。

豊野用水路
豊野用水路はこの分水堰(上述の大越分水路?)で古利根用水から分かれ南に下り、島中領幹線用水と平行に進み加須市樋遣川地区を潤し、県道84号と県道346号が交差する少し南東で島中領幹線用水路から離れ、南東に下り久喜市生出から豊野台を経て稲荷木落に余水を吐いているようである。
稲子用水
なお、この豊野用水であるが、前述の稲子用水とほぼ同じと考えてもいいように思える。稲子用水に関する資料がなかなか見つからないいため、推測ではあるが、稲子用水は利根用水の上流部であるという記述、稲子用水は羽生領用水のひとつである北方用水へ水を供給する加用水として羽生市稲子に圦樋(取水樋管)を設けて利根川から養水したとの記述、その北方用水は現在埼玉用水と名を変え東に流れ古い古利根用水と繋がっている、といったことからの推測ではある。
資料によっては一行だけで豊野用水=稲子用水とするものもあり、確たる資料はないものの、この地よりはるか東の加須市稲子で取水され利根川に沿って現在の埼玉用水の流路を下り、現在の豊野用水路の水路を流れていたのが稲子用水路かと思える。

古利根用水竣工記念碑
古利根用水と道を隔てた加須未来館敷地に「古利根用水竣工記念碑」が建つ。裏面には昭和26年(1951)期成同盟の結成、竣工昭和28年(1953)、工事完成43年(1969)とある。上記メモの古利根用水の第一、第二フェーズを合せた古利根用水改良工事の竣工記念のようである。

川圦神社
竣工記念碑の少し北東に川圦神社が地図に見える。取水元圦でもあるのだろうかとちょっと足をのばす。境内に「伝承 川圦さま」の木標があり、「ある年、大越に大雨が降り続きついに利根川の堤が決壊してしまい、村人の必死の復旧作業も大雨のためなかなか進みませんでした。
困った村人たちは、水が引くのを待って泊まっていた巡礼の母娘に頼んで人柱になってもらうと雨はぴたりとやみ、水かさを(ママ)減って無事に工事を完了することができました。
その後、巡礼の母娘の霊をなぐさめるため神社を建立しました。その神社が川圦神社で、地元の人たちは川圦さまと呼んでいます」とあった。

頼まれた、と言われても好んで人柱になるとも思えないのだが、それはそれとして、川圦の由来は取水元圦とは関係ないものであった。


旧浅間筋・現島中領幹線用水を下る

加須市作成「管理水路図」
目的地までのついでのことと歩いた用水・排水路歩きではあったが、それぞれの用水・排水路が「空間レイヤー」としての各用水・排水路の繋がりは上述の通りであるが、また「時間レイヤー」もチェックすると、昭和2年(1927)の東川用水と元和川用水開削、昭和10年(1935)の新元和川、昭和22年(1947)のキャサリン台風の被害に伴う三尺堀北側用水・南側用水、香林寺北側用の開削、そして昭和28年(1953)の古利根川の改修工事=古利根用水路の建設など現在フラットな水田が、歴史のレイヤーで重層的に重なり、それなりの時空散歩も楽しむことができた。
で、やっと今回の目的である旧利根川・浅間川筋を下る散歩をはじめる。手始めは、お楽しみに残しておいた、旧利根川・浅間川締切付近と思われる「旧利根川堰堤跡の碑」に向かう。

旧利根川堰堤跡の碑
川圦神社から戻り、加須未来館辺りで堤防から現在の利根川を眺め、堤防を下りて「旧利根川堰堤跡の碑」を探す。碑は駐車場の隅にひっそりと建っていた。 傍にあった案内には「利根川は羽生市川俣で締め切られあと、東にながれ大越地域外野と大利根地域佐波の境で南下し、現在の古利根川(旧浅間川)筋を南に流れていた。
元和七(一六二一)年に関東郡代伊奈忠治は、佐波から栗橋までの約八キロメートルを七間(約一二,六メートル)の幅で北川辺村を大きく蛇行していた河川の両端を直線で結び、新たな河川として新川通りを開削した。
天保九(一八三一)年に浅間川を締め切ったことにより古い河道は水田となった。このときの堰堤跡が約六十メートルにわたって残っている」とある。

説明とともに掲載されていた図によると、この石碑の東側がその堰堤跡のようであるが、想像力不足の我が身には、よくわからない。それよりも、図に石碑脇を南に下る川筋を浅間川(現古利根川)と記されており、本日の目的である浅間川跡を辿る散歩の始点であることを確認し、これから川筋を下ることとする。
旧利根川堰堤跡の碑文
ついでのことでもあるので、碑文を読んでみた。漢字カナ文字で書かれている内容を大雑把にまとめると、「利根川は往古八百八筋と称する乱流であり、本流不明といった川であったが、長禄2年、大田道灌がこれを治め江戸湾に注いだ。これが変遷の第一次。次いで文禄3年忍城主松平忠吉が家臣小笠原某をして南流する本川を川俣村で締切り、東流する流れを新利根川と称し、更に外野と佐波の間を南流させ川口において旧流に合流させる。これを二次の変遷とする。 元和7(1621)、徳川幕府は伊奈某をして赤堀川水路を開削し、これを新川通りと称し、その水勢を削ぐ。これを第三次の変遷とする。
既に寛永から承応年間にかけて数回の大改修を行い、文化6年幕府は金沢某をもって新川通りの川幅の大拡張をしたので、この流路が利根本流となっていった。
このため南流する川筋は不用となり大越村外野、原道村佐波の間の流路は天保3年(1838)その水源を締め切られることになった。これを第四次の変遷と称し、川筋は故道となり水路の跡を留めるだけのものとなった。
この数次の変遷に従事した大越・外野村・佐波住民の難苦や労力は決して忘れてはならないものであり、村議会全会一致をもって大越村村長が埼玉県庁に申請し記念碑が建立された。昭和3年(1928)3月」といったものであった。

特段目新しい内容はないが、大田道灌の江戸築城に際して古利根川に改修を加えた(私注;資料では確認できず)とあり、さきほど出合った「道かん橋」の由来はこのことに関連し、時期からすれば古利根用水改良工事以前、大正5年(1916)~昭和 4年(1929)に行われた中川の改修にともなう浅間川改修工事の時期のようである。

佐波分水堰を南に島中領幹線用水路を下る
「旧利根川堰堤跡の碑」を離れ古利根用水路に。流路を南に向けた先で先ほど出合った佐波分水堰に。古利根用水路はここで左岸を東に向かう川辺領用水路と右岸を南に下る島中領幹線用水路となる。前述の如く古利根用水路は上記ふたつの用水路を含むものの、呼称としてはこの分水堰で終わりとなるようだ。
●島中領幹線用水路
島中領幹線用水路とは、昭和30年(1955)から42年(1967)にかけておこなわれた県営かんがい排水事業、昭和38年(1963)から44年(1969)に実施された利根導水路建設事業により整備された、埼玉用水下流部の古利根用水路の幹線水路とし島中領(久喜市栗橋町と幸手市の一部)に供給される農業用水路である。

この用水路筋は利根川東遷事業の一環として元和7年(1621)に締め切られた古利根川(旧浅間川)の廃川跡。廃川跡では新田開発が行われ、上述かんがい事業が実施された頃は浅間川の旧流路跡を改修した農業用排水路となり、古利根悪水路と称され、昭和20年頃(1845)までは羽生領と向川辺領(久喜市大利根の一部)の悪水落としての機能を担っていたようである。
島中領幹線用水は、この古利根悪水路筋を改修したもののようだが、かつての悪水落加須市の「管理水路図」にあるように、加須市下荒井から加須市琴寄にかけて古利根排水路として残り、稲荷木落に落ちているようだ。

加須・大利根工業団地
田園風景の中にある佐波分水堰を越えるとほどなく用水路は加須大利根工業団地の中を下ることになる。用水路はフェンスに囲まれる。
県道46号と用水が交差する上樋遣川交差点の左手の大利根西部公園の東、鷲神社の北に弁天池が残るが、その辺りが古利根川・浅間川の左岸、一方上樋遣川交差点南東の八坂神社が右岸であった、という。往昔は大河ではあったのだろう。

上悪土用水機場
道路の右、左と流路を変える用水路を下ると、道路右手に水路施設らしき建物が見える。メモの段階でチェックすると「上悪土用水機場」とのこと。「悪土」ってどうも旧浅間川跡・古利根悪水路を指す用語のようである。工業団地を取り巻く耕地に水を供給しているのだろう。

県道84号・新利根二丁目交差点
工業団地の中を南流する島中領幹線用水路は県道84号・新利根二丁目交差点のある利根北公園辺りでその流れを南東へと変える。島中領幹線用水が古利根悪水路跡・旧浅間川筋を進むのはこの辺りまで。
加須市の「管理水路図」に古利根排水路が島中領幹線用水の北の、北平野・北新荒井の境界辺りから阿佐間、間口を経て十王排水路に落ちている。確たる資料はないのだが、この流路が新利根二丁目交差点辺りで島中領幹線用水と分かれた旧浅間川跡・古利根悪水路かもしれない。

杓子木揚水機場
県道84号との交差を越え、未だ工業団地が続く道の右側に黄色にペイントされた水路施設らしき建物が見える。地名から推測し「杓子木排水機場」ではないかと思う。



阿佐間揚水機場
工業団地も切れ、フェンスはあるものの、その高さも低くなり、周囲も田園風景に変わる辺りの道路右手に水路施設が見えた。阿佐間揚水機場であろう。


琴寄揚水機場
県道364号を越え先に進むと、道の北からささやかな水路が伏越で島中領幹線揚水を越える。上述の古利根排水路のようである。古利根排水路が伏越で越えた東側に水路施設がある。施設名のプレートがあり琴寄揚水機場とあった。

島中領幹線用水と高柳分水路が分かれる
琴寄揚水機場の直ぐ東に分水工があり島中領幹線用水から右手に高柳分水路が分かれる。高柳分水路はこの地から南東に下り、途中古利根排水路と交差し、十王堀排水路を伏越で越え、高柳地区に水を送る。この高柳分水路も古利根悪水路と同じく旧浅間川筋とされる。

島中領幹線用水路が十王堀排水路を伏越で渡る
分水堰で暗渠となって東に向かい、道路を渡って開渠となって現れる島中領幹線用水と、開渠で南東に向かい暗渠となって道路を渡り、開渠となって道路の東に現れる高柳分水路の形態を考慮したのか、不自然に広く、不自然な形をした交差点を越え、島中領幹線用水を進む。
高柳分水路が旧浅間川筋であるのが当日わかっていれば、そちらを進んだことだろうが、当日は島中領幹線用水が旧浅間川筋といった曖昧な情報で歩いため、島中領幹線水路に沿って進むと十王堀排水路に当たり、そこには伏越の水路施設があった。

十王橋を渡り十王堀排水路を下る
十王堀排水路を渡る島中領幹線用水の伏越箇所から少し上流に十王橋がある。午前中に自然排水路(十王堀排水路Iを旧利根川の主流のひとつである浅間川の締切部に向かって進んでいった箇所である。
橋を渡り、午前とは逆方向、旧利根川の下流部と言われる十王堀排水路を下ることにする。今朝も見た悪水落ではあるが、人工護岸の跡が見えない、自然な堤を下って行く。

善定寺池
十王堀排水路を下り、浅間川の堤防が決壊したときにできた落堀と言われる善定寺池に向かう。途中、これも自然な姿を留めるささやかな水路が十王堀に沿って南に下る。
地図で確認すると、十王堀排水路と並行して下った水路は、古利根排水路が十王堀の右岸と合わさる箇所の左岸から東に向かっている。旧利根川・浅間川は高柳で旧利根川の一派である旧渡良瀬川と合わさっていたとのことでもあるので、この水路は旧利根川・浅間川の一筋かもしれない。
それはともあれ、十王堀排水路を下り善定寺を左手に見た先の橋を渡り、お寺様の境内をぐるりと廻りこみ善定寺池に。葦の茂る池の周辺は如何にも自然の風情を残していた。

島中領幹線用水が稲荷木落を伏越で渡る
日も暮れてきた。本来であれば、高柳分水の末端を追っかけ浅間川筋の最下流部まで進むことになるのだが、本日はここで終了。最寄の駅である栗橋駅に戻る。
駅に急ぐ途中、十王堀排水路を伏越で渡った島中領幹線用水が東に進み。稲荷木落を伏越で渡る姿を稲荷木橋で見遣る。
島中領幹線用水の終点部
稲荷木落を伏越で渡った島中領幹線用水は、途中暗渠となって東に一直線で進み東北本線を越え国道125号の高架下で樋堀用水に合わさった箇所が終点とされる。

栗橋駅
島中領幹線用水は東へと更に下るが、稲荷木橋を渡った後は、成り行きで栗橋駅に戻り、本日の散歩を終了する。

四国霊場四十三番札所・明石寺から久万高原町にある四十四番札所・大宝寺までの80キロ以上ある遍路道。その西半分を歩き、以前歩いた東半分の遍路道と繋ぐ散歩の2回目。初回は四国霊場四十三番札所・明石寺から鳥坂峠を越えて大洲まで歩いた。
2回目は大洲から既に歩き終えた東半分、四十四番札所・大宝寺への峠越えの始点とした内子の石浦へと向かった。が、出だしの大洲で同名の永徳寺違など二度ほど道間違いで時間をロスし、最終地点の石浦と繋ぐ数キロの水戸森峠越え手前で時間切れとなってしまった。
1回目で見逃した鳥坂峠を下った林道(大正9年(1920)の県道)の道標の確認、またメモに際してわかった大洲の子安大師堂の道標と合わせ、次回もう一度訪ねることになるだろう、か。



本日のルート;予讃線・内子駅>大洲・柚木尾坂の道標>大洲神社>旧志保町の遍路道>おおず赤煉瓦館>肱川橋>大洲市内を抜け国道56号に>永徳寺間違い>霊場十夜ヶ橋脇の道標>霊場十夜ヶ橋 永徳寺の徳右衛門道標>新谷(にいや)古町の三差路>新谷に>新谷の徳右衛門道標>高柳橋>金毘羅橋>矢落橋>遍路休憩所>二軒茶屋の大師堂>黒内坊の徳右衛門道標>土径を駄馬池へ>思案堂の道標>郷之谷橋>栄橋から本町通りを進む>八日市・護国地区>清栄橋>常夜灯と道標>福岡大師堂の道標>麓橋>五城橋>水戸森峠取り付口

予讃線・内子駅
今回は大洲からの散歩開始。終点近くの内子の駅に車をデポし列車で大洲に向かうことにした。内子の駅前にロータリーがあり、駅のスタッフの方に確認すると駐車は問題なし、とのこと。有り難い。

大洲・柚木尾坂の道標
列車で大洲に向かい、駅を下りて前回の終点である大洲の町への入り口、柚木尾坂の道標地点に歩を進め2日目の散歩を開始する。






大洲神社
遍路道は道標から直進し大洲神社の参道前に出る。拝殿は長い石段を上り、肱川に突き出た尾根筋の突端にある。大洲神社は恵比寿・大黒を祭神とする商売繁盛の神。鎌倉時代の元弘元年(1331)宇都宮氏が大洲城を築いたとき、下野国の二荒神社より勧請され太郎宮として祀られる。その後も戸田・藤堂・脇坂・加藤と続いた藩主の庇護を受けた社とのことである。




旧志保町の遍路道
大洲神社の参道前を突き切って北に向かう遍路道は旧志保町(現在大洲市大洲)の古い町並みに入る。「えひめの記憶」には、「ここから遍路道は、大洲神社の参道前を通って志保町と呼ばれる町並みに入るが、その通りは古い家並みが残り、昔の繁栄ぶりを今に伝えている。
遍路道は、志保町の通りから中町三丁目の通りかまたは本町三丁目の通りかで左折するか、あるいは肱川の左岸の堤を進み、旧油屋旅館(現在、旅館にしかわ)の前に出る」とある。
中町も本町も志保町と同じく大洲市大洲となっており、また旧油屋旅館(現在、旅館にしかわ)も場所が変わり、現在はこの地にはなかった。
この志保町、中町などの家並みは江戸の頃、17世紀中頃の家並みとほとんど変わっていないようである。肱川と並行して東西に、丘陵部に向かって垂直に南北の通りが交わる。
江戸の終わりの頃の町屋の戸数は400戸弱。商家が軒を並べていたようだ。遍路道として、大洲神社参道前を南から北へと歩いた志保町(塩屋町)は、藤堂高虎が、塩売買のため城下町のうち最初に建設させた町とのことであり、木蝋屋、生糸製造元、問屋、料理屋、みやげ物屋などが道路沿いに軒を並べた、と。

おおず赤煉瓦館
街並みに張られた遍路シールの案内に従い、旧志保町から左に折れる遍路道を進み、おおず赤煉瓦館に。「えひめの記憶」には「旅館(私注;油屋旅館)の向かいには、煉瓦(れんが)造りの旧大洲商業銀行(現在、おおず赤煉瓦館)があり、その横に「河原大師堂」がある。地元の人の話では、この大師堂は、昔は肱川(ひじかわ)の河原にあったが、幾度か場所を変えて現在の場所に移されたもので、川の安全に関係を持つものであるという。
前から営業していた油屋は、増水のために幾日も足止めをくった人も宿泊して大変にぎわっていたとも伝えられている」とある。
おおず赤煉瓦館の北に、まことにささやかな祠とも言うべき「河原大師堂」があった。
肱川の渡し
「えひめの記憶」には「『四国邊路道指南』に(大ず城下、諸事調物よき所なり。町はずれに大川有、舟わたし。」と記されている肱川渡しは、明治以後、城下(しろした)渡し、桝形渡し、油屋下渡し、柚木下渡しの公認の四渡しがあった。 それぞれの渡しには、一隻の船と一人の船頭がいて、大洲町と中村側、大洲町と柚木村(菅田(すげた)方面の人の通路)を往来する人々を渡していた。
船が向こう岸で客待ちしている時は、こちらへ客を運んで来るまで川べりで待たねばならなかったので、急ぐ人の中には裸になって浅瀬を渡る者もいたという。
その後、肱川に橋をかける夢の実現を願う人々の中には、明治6年(1873)になると、油屋下渡しに13隻の川舟を杭でつないで横に並べ、洪水になると容易に取り外しのできるように板を並べた簡単な浮き橋を考案した。この橋は遠望すると形が亀の首をさしのべたように見えるところから一般に浮亀橋と言い、肱川橋が開通するまでの間、交通上の重要な役割を果たしていた。
しかし、大正2年(1913)に肱川橋が完成すると、遍路はこの新しい橋を渡るようになった。そのため中町三丁目から中町二丁目を通って国道56号に合流する中町一丁目の入ロに、大正4年建立の「すがわさんへ十三里 へんろ道」と刻んだ道標があったとされるが、現在は行方不明になっている」とある。

肱川橋
肱川に架かるその肱川橋を渡る。左手に大洲城が見える。私の子供の頃に大洲に城は建っていなかったのだが、数年前大洲に遊びに行ったとき天守が建っていたのを見て驚いたことがある。
城は明治維新に本丸の天守・櫓の一部を残し破却され、その天守も明治21年(1888)に老朽化により解体されたが、平成16年(2004)に復元されたようだ。天守は資料を基に当時の姿を正確に復元したとのことである。

「えひめの記憶」に拠れば、「大洲は藩政時代には加藤氏6万石の城下町として栄えていた。文化2年(1805)に土佐朝倉村の兼太郎が記した『四国中道筋日記』によると、「いろいろ売物有、宿屋・はたご(旅籠)・きちん(木賃宿)、三つニて多し」とある。
また、明治40年(1907)に遍路した小林雨峯は、『四國順禮』の中で、「此町(このまち)、肱川(ひぢかは)に臨(のぞ)みて、小繁華(せうはんくわ)の土地(とち)なり。(中略)雨合羽(あまがっぱ)の名所(めいしょ)ときヽて、鹽屋町(しほやまち)に求(もと)む。(中略)上等旅館(じゃうとうりょくわん)に泊(とま)らんとして、二三軒尋(げんたず)ね合(あは)せしも悉(ことごと)く拒絶(きよぜつ)され、合羽屋(かっぱや)の紹介(せうかい)にて、すぐ前(まへ)の北岡屋(きたおかや)と云(い)う宿屋(やどや)に陣取(じんど)る」と記している。遍路はここ大洲で諸物資を調達したり、宿泊していた模様である」とある。
大洲城
肱川を眼下に望む大洲城は、鎌倉時代末期、元弘元年(1331年)に守護として国入りした宇都宮豊房によって築城され、8代豊綱まで約200年間宇都宮氏が代々この城を継いだが、天正13年(1585)の秀吉の四国征伐で、小早川隆景により城は落ちた。
その後、小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と領主がかわり、この時期に近世城郭としての大洲城の基礎が固められとのことだが、特に築城家として名高い藤堂高虎等によって大規模に修築がなされた、と。
大坂の陣後は、加藤貞泰が大洲6万石に封ぜられて入城し、明治の廃藩まで加藤氏13代の治めるところとなり、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄した。戦国の頃には大津とも呼ばれていたこの地を大洲としたのは大洲藩2代目藩主・加藤泰興の頃と言う。

大洲市内を抜け国道56号に
肱川を渡ると大洲市中村になる。「えひめの意億」には「油屋の対岸には船着き場があり、上陸地点には「渡場」という地名が残っている。遍路道はこの「渡場」から弁財天の横を進み、すぐに国道と交差するが、国道を横断すると殿町(とのまち)、常盤町(ときわまち)の町並みを通って県道大洲長浜線(24号)を直進し、やがて古い町並の残る若宮に入る。そののち若宮を抜けると、国道に合流」 とある。

渡場、殿町は現在中村地区に含まれるが、常盤町は古い街並みに沿った一画だけがその名を留める。常盤町を進み、県道43号進み、喜多小学校手前で肱川を渡る県道を離れ若宮地区をそのまま進み県道56号に合流する。
国道に合流する手前を少し肱川の堤へと向かうと子安観音があり、そこには茂兵衛道標があったようであり、ということは、そこが遍路道ということだろう。

永徳寺間違い
ここから国道56号を進めば、大洲市徳森に入り、十夜ヶ橋(とよがはし)に至るのだが、ここで大きな間違いをしてしまった。十夜ヶ橋と検索すると「十夜ヶ橋 永徳寺」とあり、永徳寺を検索し「大洲市徳森1296」にある永徳寺に向かった。
すぐ傍に「都谷川(とやかわ)」も流れており、ここに架かる橋下にてお大師さんが一夜を過ごしたものと思い込み、国道を逸れて永徳寺に向かったのだが、それっぽいものはなにもなく、検索をし直す。
と、国道56号の「十夜ヶ橋交差点」の東、都谷川に架かる橋に「霊場十夜ヶ橋」を確認。気を取り直し都谷川の堤に沿って霊場十夜ヶ橋に向かった。こんな初歩的な間違いをする方はいないとは思うが、ご注意あれ。念のため、

霊場十夜ヶ橋脇の道標
都谷川に沿って北に進み、国道56号と交差する橋の手前に道標が立つ。「へんろ道 すごう)山 十二里」「左 長濱道」と読める。道標から橋の下に。横たわるお大師さんに御布団をかけてある。
「えひめの記憶」には、「『四国遍礼名所図会』には、当時の十夜ヶ橋の面影を伝えている絵図が掲載されており、「十夜の橋大師此辺にて宿御借り給ひし時、此村の者邪見ニて宿かさず。大師此橋の下二て休足遊ばしし時、甚だ御苦身被遊一夜が十夜に思し召れ給ひし故にかく云、大師堂橋の側にあり」と弘法大師にまつわる伝承を紹介している。



十夜ヶ橋の由来については、一般的には、弘法大師にとって一夜の野宿が十夜にも思うほどであったということから起こったと伝えられているが、十夜ヶ橋は実は都谷橋(とやはし)であったのが、弘法大師の伝説と結びついて十夜ヶ橋の文字を当てるようになったという説もある」とあった。

霊場十夜ヶ橋 永徳寺の徳右衛門道標
都谷橋の西詰めに永徳寺がある。境内の国道脇に徳右衛門道標。「是〆菅生山迄拾弐里」と読める。境内にあった「弘法大師御野宿所十夜ヶ橋」に拠ると、「今を去ること一千二百有余年の昔、弘法大師が四国御巡錫中、この辺りにさしかかった時、日が暮れ、泊まるところもなく空腹のまま小川に架かる土橋の下で一晩野宿をされた。その晩大師は「生きることに悩んでいる人々を済いたい」「悟り(即身成仏)へと導きたい」という衆生済度のもの思いに耽られた。それはわずか一夜であったが十夜のように長く感じられ『ゆきなやむ 浮世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋とおもほゆ』と詠まれた。
これから十夜ヶ橋(とよがはし)と名がついたと伝えられ、弘法大師の霊跡として今に至る。またお遍路さんが橋の上を通る時には杖をつかないという風習は人々を想うお大師さまに失礼にならないようにとの思いから起こったものである」とある。

「えひめの記憶」にあった説明と少々ギャップがあるが、それはいいとして、それでは歌は一体誰が詠ったものだろう。チェックすると、これはこのお寺様のご詠歌とのこと。

「えひめの記憶」に拠れば、『東海道中膝栗毛』で名高い十返舎一九は、「四国遍路旅案内」に於いて、「この御詠歌といふものは、何人の作意なるや、風製至て拙なく手爾於葉は一向に調はず、仮名の違ひ自他の誤謬多く、誠に俗中の俗にして、論ずるに足ざるものなり、されども遍路道中記に、御詠歌と称して記しあれば、詣人各々霊前に、これを唱へ来りしものゆゑ、此双紙にも其儘を著したれども、実に心ある人は、此の御詠歌によりて、只惜信心を失ふことあるべく、嘆かはしき事なるをや、と辛辣な御詠歌批評を記しているのは、遍路の普及による信仰の卑俗化への厳しい批判をこめたものとして、当を得ている」とある。弘法大師空海の作ではないようだ。

大師堂にお参りし先を急ぐ。「えひめの記憶」に拠れば、「十夜ヶ橋から内子に至る主な遍路道は大洲街道(以下、旧街道と記す)であった。しかし、明治37年(1904)に国道(以下、旧国道と記す)が開設されると、次第に遍路は旧国道を通るようになった」とあるが、大洲街道(旧街道)の道を進むことにする。

新谷(にいや)古町の三差路
「えひめの記憶」には「旧街道を通る遍路道はここ(私注:十夜ヶ橋)から左折して都谷川沿いに北進し、肱川の支流矢落川に出て、その川沿いに東に向かって進んでいた。この道はJR予讃線と矢落川の間あたりを曲がりくねって東に向かっていたらしいが、河川改修や圃(ほ)場整備などで今はほとんどが消滅している。ただ、新谷(にいや)古町の三差路の周辺にかけて旧街道の一部がわずかに残り、三差路には、中江藤樹(1608~48)の頌徳(しょうとく)碑、常夜灯や道標がある」とする。

今ひとつ道筋ははっきりしないが、とりあえず成り行きで進み新谷古町の三差路を目指す。橋の東詰め、都谷川の右岸に木標が見える。案内に従い、橋を渡ると直ぐに左に折れ、松山道の高架傍にある木標(矢落橋4.3km)を右に折れる。
東に進んだ道はほどなく矢落橋を示す木標箇所で左に折れ、予讃線の高架を潜り肱川支流の矢落川の土手手前に出る。T字路に矢落橋を示す木標があり、左折とあるが、多分左折し矢落川の堤防に沿って東に進むのであろうと、木標の指示とは逆方向、右に折れる。
成り行きで進むと松山道高架の南側に出て、高架に沿って東に進むと道は左右に分かれる。「えひめの記憶」にあるように、JR予讃線と矢落川の間を進んではいるのだが、これも記述にあるように「曲がりくねった道」など何処にも見当たらない。
どちらに曲がればいいものやら?畑仕事をしていた方に、新谷古町三差路の目安となる中江藤樹の頌徳碑の場所を尋ねると、運よくその方の自宅前とのこと。「道を左に曲がり、松山道に沿って東に進むと、フットサルの練習場がある。その南側の道を進むと旧国道にあたる。そこを少し先に進み、理髪店の角を右に折れ、道なりに進むと中江藤樹の頌徳碑のある三差路に出る」と御親切に地図を書いて頂いた。
地図の通りに進むと三叉路に中江藤樹頌徳碑と常夜灯、その下に道標が建っていた。地元の方の案内がなければ到底この三差路には到底行きつけなかっただろう。
中江藤樹(1608~1648)
儒学者。日本陽明学の始祖。近江国高島郡小川村(現、滋賀県)出身。通称は与右衛門(よえもん)。9歳の頃伊予国に来て、成長して大洲藩家臣となり、独学で朱子学を学んだ。27歳のとき、郷里に住む母への孝養と自身の持病とを理由に、藩士辞職を願い出るが許可されず、脱藩して近江に帰り、酒の小売業で生計を立てながら学問に専念した。
藤樹は朱子学の教える礼法を厳格に守ろうとしたが、やがて形式的な礼法の実践に疑問を抱くようになり、道徳的な形式よりも精神の方が重要であるとして、「時・処・位」の具体的な条件に応じ、その状況に適切な正しい行動をとること、またその状況に応じた正しい行動の在り方を自主的に判断する能力を持つことにこそ学問の目標があるとする、自由な道徳思想を唱えた。
これは、朱子学の道徳思想を日本社会に適応させようとした藤樹独自の思想である。後に『陽明全集』を手に入れてから「知行合一」を基とする陽明学を研究するようになり、我が国の陽明学の始祖となった。自宅に藤の木があったことから門人に「藤樹先生」と呼ばれた(「えひめの記憶」より)。
大洲とのかかわりは、9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住したことによる(「Wikipedia」)。

稲田橋を渡り新谷に
今回の散歩で最後まで場所が特定できていなかった新谷古町三差路の道標をクリアし、旧国道に出て矢落川に架かる稲田橋を渡り新谷の集落に。「えひめの記憶」に拠れば「矢落川の川岸から木製の旧稲田橋(現稲田橋の100mほど上流)を渡って新谷の町に入っていたが、この道も消滅している。
新谷の町は昔から遍路道の要所の一つであった。真念は『四国逞路道指南』に、「にゐやの町、調物よし、はたご屋も有。」と記し、松浦武四郎も『四国遍路道中雑誌』で、「新屋町商戸、茶店有。止宿する二よろし。)」と紹介している。現在、県指定の文化財となっている陣屋遺構(現麟鳳閣)や武家屋敷跡があり、商家などのたたずまいに昔の面影が偲(しの)ばれる」とある。

新谷の徳右衛門道標
新谷の街を抜け、道を挟んで北に運動場、南に校舎と運動場をもつ帝京第五高校の敷地を少し超えた辺りに、お地蔵さまや常夜灯と並んで二基の道標がある。 大きな道標が徳右衛門道標である。「これより菅生山へ十里」と刻まれる。

「えひめの記憶」には「道は新谷の町を過ぎる辺りから帝京第五高等学校の敷地を斜めに横切り、矢落川に架かる高柳橋に至る。『四国遍礼名所図会』には「高柳橋町はなれ土橋(ばし)也、」とあり、かつては小さな土橋が架かっていたが、現在は歩行者用の小さな鉄の橋が架かっている。
この高柳橋の辺りは遍路の休息する場所でもあったという。その橋のたもとには、武田徳右衛門道標と道標の2基があった(現在は2基とも帝京第五高等学校前に移設されている)」とある。

高柳橋
この橋のたもとにあった二基の道標が先ほど見たものだろう。この道標も成り行きでみつかったが、案内にある「帝京第五高校の敷地を斜めに横切る」との記述が地図と合わず結構悩んだ。昔は校舎の南にあるグランド辺りを道が通っていたのだろか。斜めに突き進んだ箇所に昔の遍路道の面影を残す細路とその先に高柳橋があった。




金毘羅橋
高柳橋から土手を進む。ほどなく旧国道と合わさる地点に金毘羅橋が架かる。地図を見ると、川の南、内子線喜多山駅の南に突き出た尾根筋の上に金毘羅の社があった。







矢落橋
金毘羅橋から旧国道筋に戻り、先に進むと矢落橋。いくつかの地点での木標で案内のあった橋である。で、ここで遍路道は橋を渡るとの遍路道案内を見逃し、そのまま矢落川に沿ってしばらく進んでしまった。途中でなんとなく現在地を確認すると、あらぬ方向に向かっている。折り返し矢落橋に戻る。

遍路休憩所
矢落橋を渡り、国道56号と合流する手前に遍路案内所。お願いすればお風呂のご接待も受けることができる旨の案内があった。休憩所で少し休み、国道56号を東へと進む。


二軒茶屋の大師堂
トラックの風圧に怖い思いをしながら国道56号を進むと二軒茶茶屋の集落。国道56号から右へと集落を抜ける道がある。旧国道であろうと右に折れると、集落が切れた辺りに「弘法大師尊」の額のかかるお堂があった。大師堂であろう。

黒内坊の徳右衛門道標
二軒茶屋の旧国道から元の国道56号に出て、先に進む。しばら歩くと国道は数回川を橋で渡る。「えひめの記憶」には、「新谷で一宿した澄禅は『四国遍路日記』に、「此川ヲ十一度渡テ内ノ子ト云所ノ町二至。」と記すが、蛇行して流れる矢落川を五十崎町の黒内坊(くろちぼう)に向かって何度も渡っていた様子がうかがえる。現在はこの辺りの道も河川改修などで消滅している」とある。昔の街道の様子が少し感じられる。
道を進むと黒内坊の集落に入る手前に左に入る細路があり、その角に徳右衛門道標が立つ。「是〆菅生山迄九里 左へんろちかみち」「内之子六日市大師講中」と刻まれる。「左へんろちかみち」には追加彫りされた痕跡(こんせき)がある(「えひめの記憶」)、とのことである。

土径を駄馬池へ
三差路から左の道に入り先に進み小川に架かる橋を渡る。この小川は矢落橋の辺りで矢落川に合流し、国道56号に沿って二軒茶屋、黒内坊と並走してきた川の上流域である。橋には遍路道の案内。橋を渡ると土径となる。
土径は田圃や畑地が谷奥に切れ込むちょっとした谷戸の雰囲気も感じる。緩やかな坂道をなんとなく「水気」を感じながら歩き、池を越えると簡易舗装の道に出る。
遍路道案内に従い泉ヶ峠への車道と合わさる辺りから、内子運動公園、そして駄馬池に向かっての下りとなる。
「旧街道からの眺め ここから東に広がる家々は、内子の集落発祥の地「廿日市」の町並みでこの場所は大洲からその集落に向かう旧街道の入口でした。右手には遊行上人を祀った願成寺があり、真下に見える駄馬池のかたわらには弘法大師にゆかりのある思案の堂が、その歴史を今に伝えています(後略)」を見遣りながら下ると、駄馬池の東端には二基の地蔵さんが内子の町を背に立つ。横には駄馬池災害復旧の石碑も建っていた。

思案堂の道標
駄馬池の北東端に思案堂が建つ。弘法大師が泊まるかどうか思案したと伝わるお堂の前に「右 へんろ道」「昭和十年八月」と刻まれた道標がある。金比羅道標、秩父・西国札所などへの巡礼供養塔を見遣りながら、車道の脇にある遍路道案内に従い細路を下る。目の前に内子の駅が見える。





郷之谷橋
内子駅北の高架を潜り、二十日の街並みを遍路道案内のシールに従い斜めに横切ると小川に架かる郷之橋に出る。「えひめの記憶」では遍路道は橋を渡り中町通りを直進するとあるが、遍路道シールは小川の右岸を下るようになっている。

栄橋から本町通りを進む
とりあえず遍路シールに従い一筋下り本町通りに架かる栄橋を左折する。この川を境に廿日市から六日市の街並みに入る(現在は内子町内子)。何度か訪れている内子座などを見遣りながら、古き趣の街並みを進む。下芳賀邸を越すとその先で道は左に曲がり、「国選定重要伝統的建造物群保存地区」である八日市・護国地区に入る。

八日市・護国地区
八日市・護国地区に入ると街並みの地図とともに「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の案内。
「国選定・重要伝統的建造物群保存地区
内子町八日市護国伝統的建造物群保存地区
選定年月日 昭和57年4月17日
面積 約3.5ヘクタール
内子は、江戸時代の中期から、在郷町として栄えた町である。かつての市街地は、願成寺を中心にした廿日市村、現在の商店街を核にした六日市村、八日市村、小田川の対岸の知清村の4つから成り立っていた。
肱川支流に点在する集落で生産される和紙は、六日市、八日市の商家を経て阪神へ出荷され、大洲藩の財政の一端を担っていた。江戸時代の末期から明治時代には、ハゼの実から搾出した木蝋を良質の晒蝋に精製し、広く海外にまで輸出するなど、大きい地場産業として多いに繁栄したところである。
八日市・護国の伝統的な町並みは、かつてこんぴら参詣や四国へんろの旅人が往き交ったところで、蝋商芳我家を中心に、二階建て、平入り、瓦葺きの主屋が600mにわたって連続する。伝統的な建物の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたもので、白あるいは黄色味を帯びた漆喰の大壁造りである。正面はしとみ戸や格子の構えで、袖壁をつけ、往時の姿をよくとどめている。

内子町は、これらの伝統的な町並みを後世に伝えるため、積極的に保存事業に取り組んでいる。 昭和58 年3 月 愛媛県内子町」とあった。
国の重要文化財となっている大村邸や本芳我(はが)邸・上芳我邸などを見遣り古き街並みを進むと小川に架かる橋にあたる。この内子の町は、旧街道の要衝の地また物資の集散地としても賑(にぎ)わい、遍路にとっても、「此所ハ店もよし」と記されているように、山道に入る前の要所の地であった(「えひめの記憶」)。


清栄橋

清栄川に架かる橋を渡ると、護国地区(現在は内子町城廻)に入る。道は直ぐY字に分岐する。






常夜灯と道標
Y字形の分岐点に文政8年(1825)建立の常夜灯と道標がある。道標には「こんぴら道 へんろ道」と刻まれる。遍路道はこの分岐を右に曲がるが、左手の道にある高昌寺にちょっと立ち寄り。




高昌寺
創建は室町の頃とされる古刹。本堂から中雀門まで回廊など、風格のあるお寺さまであった。もとは内子町松尾(現在の内子町城廻)に浄久寺として創建したのが始まりとのことだが、その後曽根城主、曽根氏の帰依深く、天文2年(1533年)現在地に移築、曽根家の菩提寺となり、弘治2年(1556年)に曽根高昌逝去の折に高昌寺と改称されたとのことである。
250年の歴史をもつ「ねはんはつり」で知られ、そのためか、平成10年(1998)に長さ20m,高さ3m,重さ約200トンといわれる巨大な涅槃仏が造られた。
曽根(曽祢)氏
室町期にこの地に居を構えた国人領主。曽根城は中山川と麓川に囲まれた舌状尾根筋の突端にある。現在清栄川を境に、その北は内子町城廻となるが、この地姪は曽根城所以のものだろう。
戦国時代には境目地帯として乱世を切り抜けるも、秀吉の四国征伐の折に小早川勢により廃城となり、曽根氏は毛利を頼り、江戸期には萩藩の家臣となった、とのことである。



福岡大師堂の道標
Y字形の分岐を右に進むと右手が開ける。中山川、その向こうの水戸森峠辺りを走る松山道の見える辺り、道の右手に福岡大師堂があった。
大師堂の下の道脇に道標がある。「へんろ道」らしき文字が刻まれているように見えるのだが、「えひめの記憶」には「福岡大師堂があり、かつてはそこに元禄11年(1698)建立の道標(内子町歴史民俗資料館に保管)があった」とある。はてさて。
道標から道が二手に分かれる。左は「旧松山大洲街道」とある。今回の遍路道散歩のため、大洲・内子辺りを往復するとき、松山と内子・大洲を結ぶ旧街道が結構気になっていた。そのうちに辿りたいものである。
旧松山大洲街道
分岐点にあった案内には。旧松山大洲街道はこの地を進み、麓川と中山川にはさまれ、南に突き出た舌状尾根筋の首根っこあたりで麓川を渡り千部峠に進むとある。その先は大雑把に国道56号の道筋を中山に向かい、榎峠、犬寄峠を経て伊予大平、向井原、郡中、松山へと通じていたようである。

麓橋
とまれ、今回は、右手に道をとり、道なりに坂道を下り、成り行きで先に進むと麓川に架かる麓橋に出た。麓橋を渡り国道56号にあたる左手の尾根筋突端が、曽根城跡とのことであった。


五城橋
左手に曽根城址のある尾根筋突端を見遣りながら、切通しのような道を真すぐ抜けると国56号に出る。その先に「四国のみち」の木標のあるガードレールが「欄干」の五城橋を渡る。


水戸森峠取り付口
橋を渡り松尾集会所の前に「遍路道案内板」があり、水戸森峠を経て石浦に出るルートが描かれていた。往きたしと思えど、ここで時間切れ。後数キロを次回に残し、実家に戻る。

あと数キロの峠越えを残し、四十四番札所・大宝寺へと辿った東半分の遍路道と繋ぐことができなかった。来月の月例帰省のお愉しみとする。
四国霊場四十三番札所・明石寺から久万高原町にある四十四番札所・大宝寺までは80キロ以上の距離がある。先般、その西半分の遍路道を内子からはじめ下坂場峠・鶸田峠を越え、また四十五番岩屋寺に進み逆打ちで四十四番に進む真弓峠・農祖峠を越えて久万の街へと辿った。
そのときは、単に峠越えに惹かれただけで結果的に遍路道を辿ることになったのだが、どうせのことなら東半分、四十三番札所から内子まで歩き、遍路道を繋げようと思った。距離はおおよそ40キロ強だろうか。2回に分ければ歩けそうである。
初回は明石寺のある卯之町から大洲まで、2回目は大洲から内子まで。幸い、卯之町、大洲、内子には予讃線の駅がある。初回は大洲の駅前に車をデポし列車で卯之町に移動し、卯之町から大洲まで戻る。途中、河野氏に援軍を送った毛利勢の逸話の残る鳥坂(とさか)峠を越えて、なんとか大洲までたどり着いた。 2回目は内子駅近くに車をデポし大洲に向かい、内子まで戻り、さらに内子の市街を抜けて水戸森峠を越え、先回東半分の遍路道歩きの始点である石浦まで進むつもりであったのだが、途中二度ほど道を間違ったロスが響き、結局水戸森峠の取り付口で時間切れとなってしまった。
数キロ残すことになったのは少々残念ではあるが、次回のお楽しみとする。それにしても、車デポ地に往復するピストン不要の行程は、やはり、いい。



本日のルート;予讃線・大洲駅>予讃線・卯之町駅>高野長英ゆかりの家>明石寺への遍路道>切通を越えて明石寺に>第四十三番札所・明石寺>宇和先哲記念館脇の境界石>中町(なかんちょう)>開明学校跡>境界石>多賀神社>松葉城跡>満慶寺の徳右衛門道標>下松葉交差点の道標>下池の道標>田苗真土の道標>大江の茂兵衛道標>「飛鳥城跡(笹城)」の案内>東多田の道標>信里の常夜灯>信里庵の徳右衛門道標>境界石>ヘンロ小屋>国道から離れ遍路道に>久保の道標>鳥坂番所跡;13時8分>林道と交差;13時20分>鳥坂(とさか)峠;13時30分>日天月天社と道標;13時49分>林道に出る;13時59分>林道(大正9年の県道)へ出る;14時5分>林道(大正9年の県道)を進む>遍路案内が現れる:14時21分>林道から分岐しショートカット;14時36分>札掛大師堂;14時43分>お接待所跡>国道56号を北只に下る>金山橋;15時23分>柚木尾坂の道標>大洲駅に

予讃線・大洲駅
田舎の新居浜を出て大洲に。駅のロータリーにも駐車場があるが、駅のスタッフの方に大洲から内子まで列車を利用し、歩いて戻ってくるのだが駐車は可能かと尋ねると、本来往復切符でのみ有効な「駅レンタカー」用の駐車場使用を許可してくださった。感謝。

予讃線・卯之町駅
列車は八幡浜を経由し、卯之町に。駅前からスタート地点の四十三番札所・明石寺に向かう。

高野長英の隠家
成り行きで明石寺に向かう途中に高野長英が潜伏した家がある。小振りな家である。案内には;
「高野長英先生 蛮社の獄で入獄。卯之町にも潜伏
高野長英は文化元年(1804)五月五日、陸奥国水沢(岩手県水沢市)に生まれる。幼名は悦三郎。叔父高野玄斎の養子となり、高野の姓となる。杉田玄白や吉田長淑に入門した後、鳴滝塾でシーボルトに学ぶ。
田原藩家老・渡辺華山や岸和田藩医・小関三英らと尚歯会を結成。飢餓対策や西洋事情の研究などに奔走する。天保八年、浦賀沖にきた米国モリソン号を幕府が砲撃。長英は『夢物語』を、渡辺華山は『慎機論』を書き、幕府の怒りに触れ、長英は永牢の刑になり入獄する(蛮社の獄)。入獄、六年目、獄舎が火災になり一時釈放されるが、そのまま逃亡。諸国の数多い門人や学者、また宇和島や薩摩藩主などに守られ、信越、東北、江戸、上方、宇和島、鹿児島などを巡り、六年間潜行する。
宇和島藩内には嘉永元年四月二日に入り、宇和島横新町の宇和島藩家老・桜田佐渡の別荘に身を隠した。その間に『砲家必読』(全十一巻)などを訳している。翌年一月、追っ手から逃れるため宇和島城下を去り、卯之町に住む学友・ニ宮敬作の自宅裏の離れ二階などに潜む(現在地)。
四月には鹿児島に向かったが安んずることができず、再び宇和島を経由し、六月三日卯之町に到着。十日間余滞在する。八月には江戸を経由し、下総に潜伏。翌年の嘉永三年再び江戸に帰り、青山百人町に居を構え、医業を営む。十月三十日、捕吏七人に襲われ、自刃する」とあった。
二宮敬作
蘭学者。宇和郡磯崎浦(現八幡浜市保内町)出身。号は如山。長崎へ赴き、通詞吉雄権之助や美馬順三に師事し、やがてシー ボルトの門人となる。後に、シーボルト事件 に連座し、江戸構長崎払(江戸立入禁止、 長崎退去)となる。帰郷後、主に宇和郡卯之町(現西予市宇和町)で開業医として活躍し、シーボルトの娘イネの養育もした。宇和島藩主伊達宗城に重用されたほか、高野長英や村田蔵六(大村益次郎)とも交流があった

明石寺への遍路道
道を成り行きで進むと宇和先哲記念館があり、その前の道に右手「歯長峠 8.9km」と書かれた「四国のみち」の木標がある。歯長峠は四十二番札所・仏木寺から四十三番札所への遍路道途中の峠。明石寺の案内は無いが、木標に従い右手の山方向へ向かう。
右手に愛媛県歴史文化博物館、左手に県立宇和特別支援学校を見遣りながら道を進むと舗装が切れ、明石寺への山道に入る。

切通を越えて明石寺に
山道の途中に、木の根っこに佇む小体な仏さまや無縁塚を見遣りながら切通しを越え、明石寺に。山道の登り口から切通まで8分、お寺様まで10分強。気持のいい散策路といった風情の道であった。




第四十三番札所・明石寺
山道から出てすぐのところに神仏混淆の名残を残す社、その先に手水場がある。手水場で浄め石段を上り山門(仁王門)を潜る。右手に地蔵堂があり、数段の石段を上ったところに本堂、右手に鐘楼と大師堂が建つ。鐘楼堂は江戸末期とされるが、他の堂宇は明治から大正のものと,言う。
Wikipediaに拠れば、創建年は不詳。天平6年(734年)に行者が熊野より十二社権現を勧請し修験道の中心道場としたとされる。弘仁13年(822年)には荒廃した堂宇を空海(弘法大師)が再興したとも伝わる。
建久5年(1194年)に、源頼朝が池禅尼の菩提を弔うため阿弥陀如来を安置、経塚を築き堂宇の修繕をした。その後も武士からの信仰が篤く、室町時代は西園寺氏(卯之町に居を構えた西園寺氏の一流)の祈願所、寛文12年(1672年)には宇和島藩主伊達宗利が堂宇を建立した。
寺にあった案内には、「本来の名称は「あげいしじ」だが、現在は「めいせきじ」と呼ばれています。土地の古老たちは、この寺を親しみを込め「あげいしさん」または「あげしさん」と呼んでいます。
この「あげいし」という名はその昔、若くて美しい女神が願をかけ、深夜に大石を山に運ぶうち、夜明に驚き消え去ったという話を詠った御詠歌「軽くあげ石」からついたと伝えられています。
8月の縁日には、西日本の各地から多くの人々が集まり、終日賑わいを見せています」、とあった。
御詠歌は「聞くならく 千手の誓ひ 不思議には 大盤石も 軽くあげ石」。千手とは渡来仏とも伝わる千手観音菩薩。文脈から察するに、若くて美しい女神の化身ということだろうか。
道標
お参りを済ませ久万の札所との遍路道、80キロを繋ぐ旅を始める。山道を上りお寺様に下りた口にあった道標に刻まれた「右 へんろ道」を見遣り、来た道を卯之町へと下る。






宇和先哲記念館脇の境界石
「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター;以下「えひめの記憶」)」には、先哲記念館付近に境界石がある、とのこと。通りを探したのだが見つからず、幸先がこれでは、と思い始めた頃、ひょっとして、と記念館北の脇道に入ると、民家の前に境界石が見えた。
「従是西驛内 卯之町」「天保14年 癸卯」と刻まれる。「西驛内」って?地名かと思ったのだが。「駅=宿(卯之町)」の西の境という事だろう。

中町(なかんちょう)
先哲記念館付近に立派が門構えの屋敷がある。庄屋である鳥居某の屋敷故に鳥居門と呼ばれるようだ。武家屋敷と見まごうその構えは、身分不相応と咎めを受けた、とか。入り母屋造りの中二階、白漆喰塗りの酒屋からはじまる、古き屋並みの残る中町通りを進む。

「えひめの記憶」に拠れば、「中町通りは、宇和島藩政時代になって形成され、道の両側には多くの商家が立ち並び、旅籠(はたご)もあって卯之町の中心街をなしていた。『四国遍礼名所図会』でも「鵜の町よき町なり(中略)此所にて支度」と記述しているように、ここで遍路は、物資を調達したり、宿泊したりしたものと思われる。
中町の町並みは、江戸時代や明治時代の建物が数多く現存している。かつてここを訪れた司馬遼太郎は、『街道をゆく』の中で、「百年、二百年といった町家が文字どおり櫛比(しっぴ)して、二百メートルほどの道路の両側にならんでいる。こういう町並は日本にないのではないか。(中略)拙作の『花神』に二宮敬作が出てくる。シーボルトの娘イネも出てくる。『おイネさんが蘭学を学ぶために卯之町の二宮敬作のもとにやってくるのは安政元年ですから、おイネさんが見た卯之町仲之町といまのこの町並とはさほど変わらないのではないでしょうか。』」と記述している」とある。
◆四国遍礼名所図会
五巻からなる遍路絵日記。寛政十二年(1800 )三月二十日から五月三日までの、七十三日間( 四月閏)の九皋主人の遍路記を翌享和元年(1801 )に書写した河内屋武兵衛蔵が残っている。
卯之町の歴史
何故に、卯之町が栄えたのかちょっと気になりチェック。江戸時代、卯之町は宇和島藩最大の在郷町として、また、宇和島と大洲を結ぶ宇和島街道の宿場町として栄えたというが、その歴史は更に古く、宇和郡を治めた西園寺氏まで遡る。天文18年(1549)、卯之町の2キロほど北の松葉城から、現在の卯之町の宇和運動公園北の黒瀬城に館を移し、山麓をその城下町(松葉町)とした。
西園寺氏は秀吉の四国征伐でその軍門に下り、慶長20年(1615)には伊達氏が10万石の領主として宇和島に入る。伊達氏は松葉町の盛んなるを見て驚いたというが、慶安4年(1651)松葉町を現在の卯之町の地に移し、名も「卯之町」と改め、宿場町、在郷町として農村経済の中核となり明治に至るまでその繁栄が続いた、と。
在郷町
在郷町(ざいごうまち)とは?チェックすると、中世から近世にかけて、農村部などで商品生産の発展に伴って自然発生した町や集落のこと。商工業者のほかに農民が多く在住しているのが特徴。都市と農村の機能を併せ持つ当時の「地方都市」といった性格の町のようである。寛政元年(1789)戸数140軒・住民508人、天保9年(1838)戸数149軒・住民615人との記録があるようだ。
「国選定・重要伝統的建造物群保存地区・西予市宇和町卯之町伝統的建造物群保存地区」の案内
街中に立つ案内には、「西予市宇和町卯之町は、江戸時代を通じて宇和島藩下の在郷町として栄えた。地場産業である良質の檜材や、宇和盆地でつくられた良米等が集まり、5軒の造り酒屋が店を構え、商家が立ち並んだ。また宇和島・大洲を結ぶ街道の拠点として物資が集散したり、白装束のお遍路さんが往来して宿場をにぎわせた。
この区域には、近世(江戸時代)の面影を伝える町家が軒を並べ、併せて寺(江戸期)・学校・教会等、明治・大正・昭和初期の歴史的建造物により、伝統的な町並みが形成されている。町並みの特徴は妻入りと平入りが混在していることである。
妻入りの町家は四国地方にあまり例がなく、また格子や蔀、床几、大戸などに加え、卯建、袖壁、一階軒下の持送り、二階の手摺り、飾り瓦等の意匠も特徴的である。保存地区は中町、新地、横町、大念寺、下町に分けられ、江戸時代の地割や、各時代の建造物で独自の景観を醸し出している」
卯之町の由来
江戸の頃、慶安4年(1651年)にいくつもの大きな火災があり、町を大念寺(現在の光教寺;開明学校の近く)山麓に移す際、火災を恐れた当時の人々が水に因んだ鵜を町の名前にし「鵜の町」とし、それが「卯之町」に変わった、と。上の卯之町の歴史で慶安4年に「卯之町」に移したとメモしたが、正確には「鵜の町」としたようだ。
「鵜の町」「卯之町」となった因は不詳。卯の日野菜や果物 雑貨などを売る市を立てていたからなど、常の如く諸説あるようだが定まることなし、ではある。

開明学校跡
仲町の通りから左に少し入った先に、四国最古の小学校である開明学校がある。前身は明治2年(1869)に左氏珠山の門下生や町民の有志により建てられた私塾・申義堂。明治5年(1872)、申義堂を校舎として開明学校が開校。明治15年(1882年)に現存する校舎が竣工した。
旧開明学校校舎は、木造2階建、桟瓦葺きで、窓枠をアーチ状につくるなど、わずかに洋風の意匠を取り入れた擬洋風建築である。地元の大工によって建築された擬洋風建築であり、建築史上、教育史上に価値が高いとして評価され、1997年5月に国の重要文化財に指定された。
ここには何度も訪れているので今回はパス。

宇和町小学校手前の境界石
西予市宇和町小学校の少し手前、道の左手に境界石が建つ。「從是東驛内 卯之町」と刻まれる。先鉄記念館脇にあった「従是西驛内 卯之町」と刻まれた境界石と対をなし、駅宿としての卯之町の境を示していたのだろう。




多賀神社
先に進みT字路の箇所右手に多賀神社。ささやかな社である。「えひめの記憶」にはこの辺りに道標があるとのことで、結構探したのだが見つからなかった。 道標には「右面に「大洲へ五り半 松山へ十九り」、左面に「山田薬師 八幡浜」とあるとのことで、後程訪れる下松葉の分岐点が整備されるまでは、ここが宇和島街道と笠置街道(八幡浜旧道)の分岐点、とあった、と。
笠置峠
地図で確認すると、多賀神社の少し北、春日神社の辺りから予讃線、県道25号が左に折れ、宇和町岩木の笠置峠で共にトンネルで抜けて北西の八幡浜へと続いていた。その道筋が笠置街道ではあろう。

松葉城跡
卯之町から下松葉の道に入る。しばらく歩くと道の右手に「松葉城跡」の案内。 「嘉禎二年(1236)宇和地方は西園寺公経の荘園となり、西園寺氏が松葉城の前身である岩瀬城に入城したのは、公良の時の永和二年(1376)であったといわれている。のち一九代実充が黒瀬城に居城を移す天文年間ごろまで、約一七〇年間西園寺氏の居城として栄えたが、本城を主とする攻防の歴史は今一つ不明である。
松葉城は標高四〇九.九米、宇和町下松葉裏山にあって、典型的な山城で、平にされた山頂は三段に分かれ、面積約四〇アール余りで、土塁、井戸のほか当時の遺物も多い。山頂は、きつ立した岩をめぐらし、万兵を防ぐに足る要害の地といえる。
かつては周辺の老松が古城跡に風情を添えていた。古書に「祝儀の宴あり、松の葉嵐につれ来り盃にとまる(中略)一千年色盃深し、目出度奇瑞なりとて松葉城と改められる由」とある。城では、たびたび能の会を催すなど、優雅な貴族出身たる城主の一面をのぞかせている。城跡からは、青磁等が多量に出土していて、都の香り高い文化がうかがえる」とあった。松葉城跡まで1キロとの案内があり、寄ってみたいとは思えどの心境で先を進む。
西園寺氏
前述の如く、卯之町の礎を築いた。いつだったか、河野氏ゆかりの地を辿った時、はじめて西園寺氏と愛媛の関わりを知り、ちょっと驚いたことを思い出した。
その西園寺氏であるが、伊予の関りは鎌倉期に遡る。鎌倉幕府が開かれ守護・地頭の制度ができた頃、当時の当主西園寺公経は伊予の地頭補任を欲し、源平合戦期に源氏に与し多くの軍功をたて、鎌倉幕府開幕時の守護・地頭の制度により、鎌倉御家人として宇和の地の地頭に補任され橘氏からほとんど横領といった形で宇和郡の地頭職となっている。当時は、地頭補任は言いながら、伊予に下向したわけではなく代官を派遣し領地を経営したようである。
その後鎌倉幕府が滅亡し建武の新制がはじまると、幕府の後ろ盾を失った西園寺氏は退勢に陥る。伊予の西園寺家の祖となった西園寺公俊が伊予に下ったのは、そのような時代背景がもたらしたもののようである。
伊予西園寺氏は宇和盆地の直臣を核にしながらも、中央とのつながりをもち、その「権威」をもって宇和郡の国侍を外様衆として組み込んだ、云わば、山間部に割拠する国侍の盟主的存在であったとする(「えひめの記憶」)

満慶寺の徳右衛門道標
左手に走る国道56号と平行に道を進むと満慶寺。道脇の参道入口に「四国のみち」の石碑と並び立っていた。
西予市
Wikipediaに拠れば、愛媛県の南予地方に位置する西予市は2004年に東宇和郡4町(宇和町・野村町・城川町・明浜町)と西宇和郡1町(三瓶町)の5町が新設合併して誕生した。旧5町のうち旧宇和町は江戸時代より宇和島藩の宿場町として栄え、その中心部(卯之町)に残る歴史的景観は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。旧宇和町は現在でも西予市の中心として機能しており、卯之町には駅や松山自動車道西予宇和インターチェンジがあるなど、比較的交通の利便性が高い。
海から山まで東西に長い市域をもっている。西は宇和海に接し、東部は四国カルストを擁する山地で高知県と境を接している」とあり、続けて、「愛媛県は東予・中予・南予の3地域に分けられるが、「南予=宇和島」のイメージが強く、そのため、八幡浜市・大洲市・喜多郡・西宇和郡・旧東宇和郡(西予市成立で消滅)は、全体の地域を指す言葉として「西伊予」が発案したのだが、この一地域のみが「西予」と称することに他地区からは抵抗があったようだ」といった記述があった。
そういえば、愛媛に生まれた者としても、南予=宇和島、八幡浜、東宇和郡、西宇和郡、といったイメージを持っていた(大洲、喜多郡は「中予」と)。宇和島と一線を画したいといった気持があったのだ、とはじめて知った。
徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。

下松葉交差点の道標
旧道が国道56号に合わさる下松葉交差点の手前に、西園寺氏の氏神であった春日神社。社に手を合わせ、そのすぐ傍、旧道が国道56号に合わさるところに道標が立つ。「遍ろ道 八幡浜新道」「左 八幡浜旧道 津布里」[明治四十年建立]と読める。
遍路道は案内に従い現在の国道筋を北に向かうことになる。
八幡浜新道・八幡浜旧道
道標に刻まれる八幡浜旧道はここで左折し、県道25号・予讃線の道筋を通り笠置峠を越えて八幡浜に向かっていた。八幡浜新道は明治31年(1898)頃には開削された鳥越峠越えの道。現在の国道56号を北に進んだ瀬戸・東多田の集落から左折し鳥越峠を越えていた。
八幡浜旧道は新道ができるまで宇和と八幡浜を結ぶ唯一の往還であり、「彼ノ峻坂ナル笠置峠ヲ越ヘサル可カラサルヲ以テ、荷車等ハ殆ント皆無ニシテ貨物ハ漸ク人肩牛馬ニヨリテ運搬セルニ過キサリキ(えひめの記憶)」と記されるような険しい道であったようだが、それでも八幡浜と卯之町間に鉄道が開通する昭和20年(1945)頃まで使われていたとのことである。
なお、道標にある「津布里」は西予市三瓶町津布里。現在の県道30号筋を三瓶トンネル、三瓶隧道辺りで山越えし谷道川の谷筋を津布里に向かったのだろうか。道筋を想像するだけで、結構幸せな気分になれる。

下池の道標
交差点から国道56号をちょっと進み、右手に下池の堤が見えるとすぐに道標が立つ。手印とともに「スガワ寺へ」と刻まれる。久万の四十四番札所・菅生山 大宝寺のことである。
遍路道は国道を離れ、明治30年(1897)頃から開かれた県道(現在は町道;以下旧道)を下松葉、上松葉と進む。
下坂戸では自動車教習場の辺りで旧道を右にそれ少しの間一筋山手の道に入り、茶畑を見遣りながら進みほどなく旧道に合わさり、坂戸の集落を抜ける。

田苗真土の道標
旧道は加茂交差点で国道56号を横断し、郵便局と宇和町農協低温農業倉庫の間の道を進むと右手に宗合神社。あまり聞きなれない社。チェックすると、明治26年、下総の義民・佐倉宗吾郎の分霊を勧請した祠があったとのことだが、明治41年(1908)から42年(1909)にかけて付近の加茂・真土・田苗・杢所の集落が合併するに際し、地域の20の社の祭神を合祀したため、社の名前も宗吾郎と統合からそれぞれ一文字を取って宗合神社とした、と。
道を進み、旧道が国道に合わさる少し手前、民家軒下に道標があり、「スガワ寺 十九里十丁」と刻まれていた。

大江の茂兵衛道標
国道56号をしばらく進み、肱川が国道に最接近する辺りから国道を離れ旧道を大江の集落に入る。集落を進む道が国道に合流する手前で三叉路となるところに茂兵衛道標が立つ。明治31年(1898)建立の道標には手印方向に「菅生山」、そして「左 八幡浜」と刻まれる。下松葉交差点の道標にあった、鳥越峠を越える「八幡浜新道」の道筋を示しているものと思える。

中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。
で、件(くだん)の道標であるが、中務茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)道標のひとつ。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。

「飛鳥城跡(笹城)」の案内
大江の茂兵衛道標から少し国道を進み、瀬戸の集落に入る旧道へと右に入る。分岐点には「鳥坂峠 5㎞」の木標が立つ。しばらく進み瀬戸集会所の手前に「飛鳥城跡(笹城)瀬戸」の案内。「飛鳥城は、標高280m八ヶ森から派出した、尾根の端に位置している。
山頂は平に削られ、周囲から敵の侵入し難く加工された平場、つまり郭が三段になり、三の丸、二の丸、本丸が西から東へ順に延びる。東西80m、南北90mの城跡、数カ所の段や堀切がある。
この地の城は西園寺氏の出城であったといわれている。麓にはこの城を中心とする戦いで城代;上甲光康とともに戦死した西園寺家嫡男の公高卿の墓と記念碑がある」とあった。
公高卿の墓と記念碑は国道56号筋にある、とのこと。そう言えば、国道からこの旧道が分かれる手前、骨董品点を越えた先の道路脇にブロックで囲われた、それらしき場所を見かけた。
宇都宮氏
「えひめの記憶」に拠れば、「出自については諸説あるが、下野宇都宮郷を本貫とする地方豪族であったことは間違いない。源平争乱記に軍功は記録として見られないが、鎌倉幕府開幕後、有力御家人として重きをなし、守護・地頭の制度施行時に伊予の守護であった佐々木氏の後、13世紀前半頃に伊予の守護職となる。後鳥羽上皇の討幕挙兵である承久の乱における軍功故とも云われる。鎌倉幕府滅亡までその職にあった、と。
伊予に移ったのは14世紀の前半。伊予宇都宮氏は大洲を拠点に戦国時代まで続き、天正13年(1585)土佐の長曾我部氏によって滅ぼされることになる」とある。

東多田の道標
道路整備によりこの地に集められたのであろう幾多の石仏と一体の地蔵が佇む瀬戸集会所を越え、東多田の町に入る。町並みは古き趣を残して落ち着いた雰囲気だ。
なんとなく単なる農村集落だけではないのでは?チェックすると、中世にこの地・宇和盆地の北端は多田宇都宮氏という領主が治め、西園寺氏とは一定の距離を持ち、この地を治めていたとのこと。館は東多田交差点の西、独立丘陵に下木城であった、とか。

東多田の集落を進むと三叉路があり、そこに道標が立つ。手印の面には「へんろ道 菅生山 明石寺」への里程が示され、「左 八幡浜へ三り」「南北 大洲 宇和町」の案内とともに「きん高公七丁」の案内もある、と言う。「えひめの記憶」には「弱冠19歳で戦死した。地元では、彼の死を悼み、命日にはおこもりをして供養したり、頼みごとをすると願いをよく聞いてもらえるとお参りする人もいたという、そのために、東多田の道標は、墓所のある場所を案内している」とあった。
番所跡
「えひめの記憶」には道標は番所跡手前に番所があった、という。現在は普通の民家となっているが、「道は東多田の町並みに入る。ここは、宇和町では卯之町に次いで栄えた町であり、現在も昔をしのぶ古い家々が残るが、かつては大洲藩との藩境にも当たり、宇和島藩の番所が置かれていた。
『四国遍礼名所図会』にも「東唯村、庵、番所切手を改む」とある。この番所は、通行人の取り調べが厳しいことで知られ、一般から侍番所として恐れられていたという」とある。

信里の常夜灯
東多田の集落を離れ、国道に合流した遍路道はしばらくして国道を離れ旧道に入る。道を進み小川に架かる橋の先に常夜灯。「えひめの記憶」に拠れば、「遍路道が東多田(私注;東多田には見当たらなかった。東多田は信里の誤り?)に入ると、正面に「金毘羅宮江四十八り」、右面に「安政二年」と刻まれた上部が破損紛失した常夜灯が立っている。
常夜灯は、宇和町ではこれ以外には存在せず、この常夜灯は、宇和島街道全域の現在残る最遠の金毘羅里程道標として貴重な存在になっている。なお、この常夜灯は、「安政二年」の刻字から、旧道沿いに最初からあったかどうかは疑問である」とある。

信里庵の徳右衛門道標
常夜灯を過ぎ信里の集落に入ると、道の左手に信里庵と呼ばれるお堂があり、そのお堂を囲む道路沿いの生垣に徳右衛門道標が立つ。正面には「是ヨリ菅生山十八里」と刻まれているようだ。



境界石
旧道を進み国道に合わさる箇所に境界石が建つ。「従是南宇和島領」と刻まれる。「えひめの記憶」に拠れば、「この領界石は元は東多田番所跡に建てられていたが、昭和53年(1978)の調査時点では、東多田の岩崎八幡神社の境内に在ると記録されており、その後、平成元年に現在の位置に移されたという。また、大洲領内を示す「従是北大洲領」と書かれた領界石も、かつては鳥坂番所の下に建てられていたが、現在は国道の鳥坂燧道(ずいどう)手前100mの地点から右折する旧道沿いの山際に移されている」とあった。

ヘンロ小屋
境界石から国道56号を進む。しばらく進むと道の左手に「ヘンロ小屋」。「お遍路さん休憩所 第四十九号 ヘンロ小屋ひじかわ源流の里」とある。
「ヘンロ小屋」にはじめて出合ったのは下坂場峠・鶸田峠を越えて久万に向かう途中。四国四県をカバーするプロジェクトで、平成28年(2016)4月現在55のヘンロ小屋が整備されている。地元の信用金庫や篤志家、企業の寄付でできているとのことである。寝袋の宿泊とはなるだろうが、お遍路さんには大きな助けとなるかと思う。実際、現在宿を提供しているフランス人の歩き遍路は、ヘンロ小屋に寝泊まりしながら旅を続けている。

国道から離れ遍路道に
ヘンロ小屋の直ぐ先に左に折れる道がある。
その分岐点に
「鳥坂峠 」を示す木標とともに、「この先鳥坂トンネル(1117m)トンネル内歩道狭し
⇒ここから峠道(へんろ道)5.5km 約60分 
⇒56号(トンネル利用)2.1km 約」25分」とある。
はじめから鳥坂峠越えと決めている我が身は迷うことはないのだが、歩き疲れたお遍路さんは判断に悩むところ。実際、峠越えで出合ったご婦人も迷った末、トンネルを抜ける危険を避けて峠に廻ったとのことだった。
峠越えも結論を先に言えば、肝心な箇所に道案内がなく、数回道の取り方に迷うことになった。GPSをもっている者は心配ないが、そうでない方がほとんどだろうから、道案内の整備があれば、とは思う。

久保の道標
国道を左に折れ、遍路案内に従い道を進むと、曲がり角、山側に道標がある。 道標の上にある休憩所が目安になるだろう。道標のある曲がり角で道は二手に分かれるが、峠への道は急坂となる左手山側の道。ここも下の道を進み引き返してくるお遍路さんを見かけた。

鳥坂番所跡;13時8分
左手山側の坂を上るとすぐに鳥坂番所跡がある。瓦葺のしっかりした建物が残るが、元は茅葺であったようだ。茅葺から瓦葺へとはなったが、改修された箇所は少なく当時の面影は残している(「えひめの記憶」)、と。 案内には「鳥坂番所は藩政時代、人物・物資の不当流出を防ぐため、宇和島街道の要衝であったこの地に、大洲藩によって建設されました。玄関、座敷、襖、欄間の一部は当時のもので、旧態をうかがうことができます。
当時番所を通行するためには、身分証明書とか往来手形といったものの提示が求められた上に、厳しい取締りを受けましたが、四国八十八ヶ所巡礼などの巡礼者については、比較的楽に番所を通行できたそうです」とあった。


大洲藩? 案内横にも「西予市指定文化財 大洲藩鳥坂口留番所跡」とある。普通行政区の境は尾根が普通だが、この地まで大洲藩の領地が出張っている? チェックすると、「えひめの記憶」に「鳥坂峠の南麓に位置するこの鳥坂番所は、面白いことに宇和島藩ではなく大洲藩によって設置された関所である。
元は鳥坂峠に存在したというが、天保年間(1830~1844年)に現在地に移されたという。ちなみに宇和島藩側の番所は南の東多田に置かれていたとのことで、つまり宇和島藩と大洲藩の藩境は鳥坂峠ではなく鳥坂と東多田の間であったことになる。事実、この鳥坂集落と正信集落の一帯は、昭和33年(1958年)に宇和町に編入されるまで大洲市に属していた。
大洲と宇和はたびたび国境紛争があったとのことで、自領地への侵入を阻む峠を麓の集落から丸ごと抑えることは、防衛上極めて重要だったに違いない」との説明があった。

林道と交差;13時20分
標高270mの鳥坂番所跡から峠への上りをはじめる。上りといっても、峠の標高は470mほどであるので、峠越えといったほどのものでもない。


「えひめの記憶」には、「遍路道は旧街道でもあり、卯之町から大洲に至る主要な往還であった。『四国逞路道指南』には「とさか村、こヽにうわ島と大ず領とのさかひ。過て戸坂ざか二里有、八町ほどのぼり、それよりくだる」とある。 ただ、この往還も「峠には、大正9年(1920年)に松山―宇和島間の県道が開通し、昭和28年(1953年)、それが国道56号に昇格し、松山と南予を結ぶ幹線道路として盛んに利用された。
しかし昭和45年(1970年)峠の下に鳥坂トンネルが完成し、現在の国道56号ができると、利用者のほとんどはこの新国道を通るようになった。旧国道は、現在林道となり、また峠ごえの旧道は人通りがほとんどなくなり雑草が生い茂っている状態である(「えひめの記憶」)」とする。
大正9年(1920)の県道
大正9年の県道(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター)」
説明と共あった旧県道の地図をチェックすると、現在の国道56号・正信バス停の先から右に折れる県道237号を進み、途中宇和町久保の飛び地辺りから県道を離れ北に向かい、鳥坂峠の西を国道56号に沿って進む林道がその道筋のように思える。
「人通りがほとんどなくなり雑草が生い茂っている」遍路道はほどなく杉林に入る。「えひめの記憶」によれば、峠の南北、道の両側には松並木が続いていたようだが、戦時中の供出や戦後のマツクイムシの被害により、今はその面影は留めない。
遍路道の案内に従い道なりに進むと、舗装された林道にあたる。北裏地区に繋がるようだ。遍路道は道越えた先から斜めに上るのだが、よくみれば遍路案内はあるのだが、ちょっと分かりにくい。

鳥坂(とさか)峠;13時30分
舗装された林道先の土径を進み、竹藪を越える辺りから右手が開け、宇和の盆地が見える。鳥坂番所脇から上りはじめて20分強で鳥坂峠に着いた。 扁平に削られた峠には「明石寺12.5km 日天社0.6km」の木標が立つが、鳥坂峠の案内は見当たらなかった。「天下泰平国土安全 普賢延命地蔵」と刻まれた地蔵と、その左の小さな舟形地蔵が峠の趣を残すのみ。
鳥坂峠の合戦
鳥坂峠は一度訪れてみたいと思っていた。いつだったか村上水軍や河野氏ゆかりの地を辿ったとき、この地で河野氏と土佐一条氏の合戦があり、河野氏の先陣・来島村上氏に援軍を送った毛利家の重臣小早川氏の、「来島の恩返し」故の出兵というフレーズに惹かれたためである。
「来島の恩返し」とは、毛利氏と陶氏の宮島での合戦の折、来島村上を核とする村上水軍が毛利に与し、毛利氏の勝利に多大な貢献をした、その恩をこの戦で返す、ということである。
合戦の経緯
戦国時代、伊予の東予・中予はかろうじてその支配下に置いていた河野氏であるが、南予には中央の朝廷と直接繋がりをもち、小規模ながらも戦国大名的性格をもつ喜多郡の宇都宮氏、宇和郡の西園寺氏の支配下にあった。その両氏は鳥坂峠辺りで境を接する領土を巡り紛争を繰り返していた。
そんな折、永禄9年(1566)、土佐一条氏が豊後の大友氏の支援を受けて、伊予に侵攻。宇和の西園寺氏攻略をすべく北進を開始した。その状況に宇都宮氏は土佐の一条氏に与し、伊予の河野氏と抗する構えをみせる。
この動きに対し河野氏は南予に軍を進める。その先陣を務めたのが河野氏重臣・来島通康と平岡房実である。永禄10年(1567)の秋ごろ、河野勢は鳥坂峠の西麓に鳥坂城を築く。これに対し、一条氏側は鳥坂峠東方の高島山に陣を布く。河野勢は毛利の援軍を要請するも豊後の大友氏の後方攪乱により、即時の出兵かなわず、戦線は膠着状態のまま永禄11年(1568)を迎える。
永禄11年(1568)2月、一条軍の総攻撃により、戦国期の南予における最大の合戦が喜多郡と宇和郡の境界付近の多田・鳥坂峰で行われた。これが鳥坂峠の合戦である。
河野勢は、小早川隆景を大将として派遣された三備・芸・防・長の大軍とともに迎え撃ち、西園寺氏は、宇和衆・三間衆とともに、多(現宇和町)に布陣し、一条軍を背後から包囲した。
幡多郡および高岡郡の津野氏(定勝)の軍勢から編成されていた一条軍は鳥坂峰(現宇和町鳥坂峠)に誘動され、取り詰められた土佐勢は河野軍の切り崩しを図るも大敗。大津・八幡両城に楯籠って抵抗していた宇都宮豊綱も毛利の大軍に包囲され、ついに降伏。同年五月までに隆景は、勝利を収めて帰国した。

と、メモはしたのだが、資料によっては、永禄11年(1568)春、毛利の主力部隊が上陸し、一条氏側の拠点となっていた大洲城をするも、再び大友氏の後方攪乱で毛利本隊は四国を離れることになり、鳥坂峠の合戦に、特段毛利勢が与力したわけでもなく、徐々に毛利氏側(河野氏)が優勢となり、毛利勢の本隊が伊予に入ってからは、戦況は一挙に変わり、地蔵ヶ嶽城(大洲城)を陥れたのを皮切りに、上須戒・下須戒・登議城山など一条・西園寺・宇都宮諸勢の諸城は次々と陥落、宇都宮豊綱は遂に開城・降伏することになる、といった記事もあり、よくわからない。また、この場合、永禄11年(1568)までに西園寺氏が一条氏に屈している、ともあった。

日天月天社と道標;13時49分
峠で少し休憩し杉林の道を下る。ほどなく土径を抜け、作業道といった趣の道に出る。作業道から左に折れる道などがあり、どれが遍路道か分からない。遍路案内は全くない。オンコースは、ママ進めばいいのだが、一度下に向かう作業道に下り、引き返した。このあたりに遍路道の案内があればいいかと思う。 ともあれ、作業道を進み北に突き出た尾根筋の突端にくると祠が見えた。日天月天社である。峠から15分といったところだろう。
祠は自然石で囲われたささやかなもの。案内には、「日天月天社 昔々世の中で一番尊いものは、昼はさんさんと光を注いでくれる「お日様」夜はほのかな明かりを与えてくれる「お月様」。この二つだと考えられていました。
この社はこの尊いものを神として祭っているといわれ、「日天月天様」と呼ばれています。御神体はこの山から切り出されたと思われる半円形をした岩で、梵語(古代インド文字)が刻まれています」とある。
祠の前には拝殿なのか、遍路小屋なのか木造の建物があり、その手間の道脇に板状の石で囲われたお地蔵様が佇む。その台座は道標となっており、「是よりアゲイシサン三里 スガワサン十七里」と刻まれているとのことである。

林道に出る;13時59分
日天月天社から作業道を少し進むと舗装された道に出る。地図で見ると鳥坂隧道の上辺りである。地図を見ると大正9年(1920)の県道筋(現在の県道237号)と峠の西の県道235号を繋ぐ道のようにも見える。
林道を右に折れ100mほど進むと左に折れる道がある。遍路道案内があったかどうか忘れてしまったが、ともあれ左に折れると舗装された道に出た。現在は林道となっている大正9年(1920)の県道のようである。
なお、この辺りには「鳥坂バス停」への木標はあるのだが、遍路道の案内が見当たらなかった。要所にはシールだけでもいいので、道案内があればと思う。

林道(大正9年の県道)へ出る;14時5分
林道を進む。「えひめの記憶」には「やがて旧街道である遍路道は大洲市三本松に入り、現在の市道に出合う。その地点には、かつて接待所もあったというが、道の右側には道標がある」とのこと。当日は「市道」って何処?林道、市道、旧県道の関係が不明でとなんだか少々混乱し、結局道標を見つけることができなかった。
メモの段階であれこれチェックすると、旧街道が市道(現在林道の大正9年(1920)の旧県道)に出て少しくだった道の右手に道標があったようだ。とりあえず、推定した場所だけプロットしておく。
「えひめの記憶」には、「これらの道標群は、おそらく市道開設時に付近から集められたものと考えられるが、そのうちのひときわ目立つ道標は、武田徳右衛門が願主となっている。その横の二つの舟形地蔵道標は「是より十丁常せったい所」と読み取れ、おそらく野佐来(やさらい)の札掛大師堂か「お接待場」あたりを案内しているものと思われる」とあった。

林道(大正9年の県道)を進む
林道(大正9年の県道)を進む。「えひめの記憶」には「この道標群から、旧街道と合致する市道を野佐来の札掛(ふだかけ)に向かって150mほど下ると、遍路道の方向と下稲積道への道を示す道標が立っている」とあるが、その道標も見つけられず、当日はオンコースの道を進んでいるのかどうか結構悩む。2本も見逃すってちょっと考えられないので、「市道」がどこかに通っているのだろうか、とはいえそれっぽい道などありゃしない、と混乱した。
一応推定場所はプロットしておいたが、それは「えひめの記憶」に「旧街道は、この辺り(道標)から尾根道を通って札掛に達していたが、現在は草木に覆われて通行不能になっている。そのため峠越えをした遍路は、国道56号と旧街道の間を並行に通る市道を歩き、やがて札掛大師堂の少し手前から旧街道に入って札掛大師堂(仏陀懸(ふだかけ)寺)をめざす」との記事より、尾根道に入る取り付き口に道標(推定)としてプロットした。

遍路案内が現れる:14時21分
林道(大正9年の県道)に出ておおよそ15分、道の右手の杉の木に「歩き遍路」の案内が現れた。途中2箇所にあるとされる道標でも持見つけておれば、この林道が遍路道ってわかっただろうが、それもなく、あらぬ林道を歩いているのでは、などと思い続けていたので、この遍路道案内を見て一安心。
本来の遍路道は、林道右手の尾根筋ではあろうが、藪で歩けそうにないとのことであるので、遍路道を辿っていることを確信し道を下る。

林道から分岐しショートカット;14時36分
左手が開け、遠くに大洲に向かう松山道の高架を見遣りながら進むと、林道から左手に分岐する遍路道案内がある。ローマ字表記あり、これでもか、というくらいの遍路道案内である。このうちひとつでも、道を間違いそうな箇所にあれば、と切に思う。
実際峠道で追い越したご婦人のため、自分が迷った箇所には、折れた木を集め進行方向を示す矢印としたり、土に矢印を書いたりしたほどの「悩み所」がいくつかあった。

札掛大師堂;14時43分
案内に従い土径を進み、大きく廻る林道(旧県道)を2度クロスし、一直線に下る。前面が開け、国道56号を見下ろし先に進むと、荒れ果てた建物前に出た。それが札掛大師堂とは思ってもみなかったのだが、門の左手に「佛陀懸寺」、右手に「四国霊場 札掛」とあるのを見て札掛大師堂とわかった。
大師立像はあるものの、本堂は滅茶苦茶。歩を進める気にもならなかった。 「ひめの記憶」には、「掛大師堂は、『四国遍礼名所図会』に(峠より左二伊づし観音山見ゆる。豊後日向路はるかに見ゆる。十丁程下り大師加持水左の方五間下り有リ、庵常接待有り大師安置、爰二て支度、加持水庵のわきニ有リ。」とある。ここに記された「伊づし観音山」とは、出石寺のある山を指しており、札掛大師堂を参詣した遍路の中には、ここから大洲市黒木、同平野町の平地を経由して出石寺を訪れる者もいたようである。
この大師堂は、弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の折に、仏像を松の枝に懸(か)けて祀り、悪病退散・五穀成就を祈祷(きとう)してご利益にあずかり開いたものと伝えられている。現在、境内には、「弘法大師札掛の松」と称されていた大きな松の木の切り株が残っており、かつては常設の接待所もあった」とあるが、足の踏み場もないほどの荒れ具合に、早々に引き上げた。

お接待所跡
札掛大師堂から坂を下り、林道(大正9年の県道)とクロス。「FUDAKAKE TENPLE」とローマ字の刻まれた石標脇をショートカットで道を下り、林道とあたるとすぐ道は国道56号に合流する。
国道56号を少し下ると、左手に製材所、右手のラーメン屋手前のドライブインの一角にはかつて「お接待所」と呼ばれ、峠越えしたお遍路さんが休息をとった、とのこと。ラーメン屋手前の屋根だけの堂宇には「国道開通の際に道筋にあった大師像や千手観音像などの石仏が集められ祀られている(「えひめの記憶」)」とのことである。

国道56号を北只に下る
お接待所のあった先には、現在国道を挟んで大洲ゴルフ倶楽部のコースが広がる。「えひめの記憶」には、「こののち旧街道である遍路道は、ゴルフ場で現在は消滅している。かつての道はゴルフ場の中を通り、いったんは子持坂のバス停付近に出る。この辺り一帯は、地域の人から「遍路供養」とも呼ばれており、国道開設以前には行き倒れた遍路の墓が多くあったという。

その後、道は再びゴルフ場に入るが、ゴルフ場を出るとやがて石畳(いしだたみ)の道となって北只(きたただ)に入る。現在、ここは高速道路の予定地となって工事が進められている。なお、「お接待場」から子持坂を経て北只に至る遍路道には、改修前の国道を通る道もあった」とあり、遍路道は消滅しているようだ。説明にあるゴルフ場を進む推定遍路道を大雑把に記しておく。

ゴルフ場を横切るわけにもいかず、仕方なく長い下りの国道をトラックの風圧を受けながら、おおよそ2キロ強、30分ほど下ることになった。

金山橋;15時23分
北只に入ると国道56号を離れ、嵩富川(たかとみがわ)に架かる金山橋を渡る。国道56号、松山道を左手に眺めながら、嵩富川の右岸を進む。松山道の高架を潜り嵩富橋に。


柚木尾坂の道標
遍路道の案内はそのまま先に続いているのだが、「えひめの記憶」には「嵩富橋に至る。そこから橋を渡って左折し、土地区画整理事業で埋め立てられた市の瀬地区を過ぎると、歴史を感じさせる家並みに入り、大洲市柚木(ゆのき)尾坂に菅生山への里程を示す道標が立っている」とあるので、橋を渡り柚木の小高い独立丘陵を迂回し、肱川へと突き出た尾根筋の切り通しといった雰囲気の道脇右手に道標が立っていた。尾根筋突端には大洲神社が鎮座する。

大洲駅に
ここで時間切れ。成り行きで道を進み肱川を渡り大洲駅に。駅前にデポした車をピックアップし帰途につく。次回は城下町大洲の入り口から内子に向かうことになる。

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