2017年5月アーカイブ

偶々地図に見かけた流路跡、それも足立・葛飾区境を流れたと思われる古隅田川の流路に惹かれ散歩には出かけたものの、最下流部である隅田川との合流点辺りは、明治から大正にかけて開削された荒川放水路に流路は断たれており、迂回を余儀なくされた。
結構ウザったいな、などと思いながら歩いたのだが、水戸街道と出合ったり、単に刑務所とだけとしか知らなかった、小菅の東京拘置所のもつ幾層かの歴史のレイヤーに触れたりと、多くの発見があった。 それはいいのだが、本来の目的である足立・葛飾区境を辿る古隅田川筋のスタート地点と目した東京拘置所西側水路跡にたどり着くまで結構時間がかかり、また、あれこれと気になることも多くメモは東京拘置所西側到着地点で終えた。 今回は、この東京拘置所西側地点からスタートし、先は足立・葛飾区境を「一筆書き」で中川までの古隅田川をメモする。



本日のルート;
小菅万葉公園>水路跡を東京拘置所北側に>五反野親水緑道>新古川橋>足立区裏門堰排水場>大六天排水場>古隅田川緑道>鵜森橋>陸前橋>「小菅の風太郎」の案内>古隅田川緑道の案内>古川橋>白鷺公園>綾瀬駅>東綾瀬親水公園>水路跡は駅の高架下を通路で進む>自転車置き場>北野橋>袋橋>富士見橋>境田橋>開渠>親水公園風遊歩道>随喜稲荷>綾瀬二丁目ふれあい公園>常磐線手前・境四橋で暗渠となる>区境は常磐線の南の道>古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内>北三谷三号橋・軍用金伝説の案内>北三谷橋・蒲原村宿駅伝説>葛西用水・曳舟川水路跡>田光り観音>隅田子育地蔵尊>玄恵井の碑>The Resident Tokyo East敷地内を進む>中川に

小菅万葉公園
東京拘置所の西側、古隅田川の流路跡が親水公園として整備されている。公園の中には四阿(あずまや)、小菅御殿や小菅銭座跡の案内。先回の散歩でもメモしたものだがここにも記しておく。

小菅銭座跡
「小菅御殿跡南側(現在の小菅小学校)には安政6年(1859)から慶応3年(1867)にかけて幕府の銭貨を鋳造した小菅銭座が置かれていました。文久3年(1863)の調べでは鋳造高70万7250貫文に達し、小菅で鋳造された銭は遠く、京都・大阪にも回送されました。
昔あった掘割は埋められてしまい姿を止めていませんが、今でも「銭座橋」と刻んだ石柱が残っている。銭を鋳造する鉄材は、この橋付近で荷揚げされ、裏門から銭座へ運び込まれた言うことです」。

小菅小学校とは先回の散歩で訪れた「小菅西小学校」のことだろう。また解説にある銭座橋は見落とした。「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、小菅監獄を囲むように堀があり、そこから小菅西小学校に北東端あたりに水路が延びている。Google Street Viewで銭座橋跡も確認できた。「ぜんざ」橋と読むようだ。

小菅御殿跡
「小菅には江戸の初め関東郡代伊奈忠治の1万8千坪余りにもぼる広大な下屋敷がありました。元文元年(1736)八代将軍、吉宗の命により、その屋敷内に御殿が造営され、葛西方面の鷹狩りの際の休憩所として利用されました。御殿の廃止後は小菅籾蔵が置かれ、明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となっています。
更に小菅籾蔵には小菅煉瓦製造所が建てられ、現在の東京拘置所の前身である小菅監獄に受け継がれていきます」。

「古隅田川(足立・葛飾区)総合案内」
また公園には「古隅田川(足立・葛飾区)総合案内」」があり、「古隅田川はかって利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河でありましたが、中川の灌漑事業等により水量を失い、やせていったものと考えられています。近代に至っては、雑排水路として利用されてきました。
現在は下水道の整備によって、排水路としての使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されています。
また、古隅田川は古来、下総国と武蔵国の境界であるとともに、人と人との出会いの場でもありました。
そこで、古隅田川に水と緑の景観を再生するため、「出会いの川 古隅田川」をテーマに失われた生物を呼び戻し、潤いのある人と人との交流と安らぎの場を創出したものです。
◆位置
当施設は中川から綾瀬川、そして荒川を結ぶ範囲の足立区と葛飾区の区境にほぼ重なっており、古隅田川は中川と綾瀬川を結び、裏門堰は荒川と綾瀬川を結んでいます。
また、古隅田川に隣接して5つの公園があり、「河添公園」「下河原公園」「は足立区、「袋橋公園」「白鷺公園」「小菅万葉公園」は葛飾区に位置しています。
◆延長
古隅田川 約5,450m、裏門堰 約1,100m」」といった説明とともに、この地から中川までの流路沿いに設けられた案内碑の位置も記されていた。どのような案内が登場するのかお楽しみではある。
◆万葉公園
ところで、ここがどうして「万葉公園」?チェックすると、万葉集巻14の東歌[3564]にある「古須気呂乃 宇良布久可是能  安騰須酒香 可奈之家児呂乎  於毛比須吾左牟(古須気(こすけ)ろの浦吹く風のあどすすか愛(かな)しけ子ろを思ひ過(す)ごさむ)にちなむとの記事が散見される。「小菅の浦に風が吹き通り過ぎるけれど、どうしたものだろう、あの愛しい娘への思いを通り過ぎる(忘れる)ことができようか(否、できない)」という歌であり、防人が別れの悲しみを詠ったものとされる。この古須気(こすけ)が小菅の地に比定され、万葉公園と名付けられたものとのこと。但し、この古須気(こすけ)が単に植物の菅との解説もある。ともあれ、万葉集の東歌よりの命名ではあろう。

水路跡を東京拘置所北側に
水路に沿って続くウッドデッキを北に向かう。塀というか柵の向こうに官舎が並ぶ。地図でチェックすると11の官舎が見えた。800名ほどの職員が働くと言う。拘置所北西端で水路は東に向かう。

五反野親水緑道
水路に沿って少し東に向かうと、北から如何にも親水公園といった道が合流する。現在の地図には東武スカイツリーライン線・五反野駅の少し南まで水路跡が見えるが、「国土地理院地図(1896‐1909)」には水路跡は見えない。田圃の悪水落しといったものだったのだろうか。昭和40年頃、「どぶ川」と呼ばれていた水路に蓋をしたようだ。いつの頃親水公園として整備されたか不詳。
下山国鉄総裁追憶碑
綾瀬川の水を使い造られたという親水公園を少し歩く。と、親水公園が常磐線の高架を潜る手前に「下山国鉄総裁追憶碑」。昭和24年(1949)、当時の国鉄総裁下山定則氏が謎の失踪を行い、翌日轢断死として発見された、所謂下山事件の発生現場(実際はここから150mほど東のようだが、常磐線改良工事、千代田線敷設工事にともないこの地に)。
下山事件は自殺・他殺(謀略説も含め)など議論があるも迷宮入り事件となっている。

新古川橋
五反野親水緑道から戻り、水路に架かる新古川橋を渡り拘置所の柵に沿って進む。少し東に進むと「一茶と小菅」という案内があった。
一茶と小菅
江戸時代の俳人小林一茶は足立や葛飾あたりの風物を詠んだ秀句を残しています。その中から小菅に由緒の深い句をとり出して紹介します。 (小菅籾倉)
遠水鶏(とおくいな) 小菅の御門 しまりけり
閉まろうとする小菅籾倉の御門を叩いているような水鶏の声が遠くから聞こえてくる。静かな夏の小菅の夕刻です。
(合歓の花)
古舟も そよそよ合歓の もようかな
一茶の深川紀行に「小菅川に入る。左右合歓の花盛りなり」とあり、続いて右の句が記されています。小菅川とは綾瀬川下流の別称です。歌川広重の江戸名所百景にも描かれ、江戸名所花暦にも、次のように紹介されています:
「合歓の木」綾瀬川・・・花又村(今の足立区花畑)の川筋、小菅御殿の辺り、いにしえはおほかりしが、いまはここかしこにあり。
現在の東京拘置所付近の綾瀬川辺りが合歓木の名所であったようです。綾瀬川の合歓木は江戸の人々にも花名所として知られていたようです。
初夏に小枝の先にうすい紅色の長い糸のような可憐な花をつけます。この花を訪ねて、風雅を愛する人々が訪れたことでしょう。
(葛西ばやし)
けいこ笛 田はことごとく 青みたり
今年も豊年、秋祭りももうすぐだ。葛西ばやしは葛飾地方に古くから伝わる郷土芸能のひとつです。かつて小菅に下屋敷のあった関東郡代・伊奈半十郎忠辰は、天下泰平、五穀豊穣、さらには一家の和合と非行防止、余暇善導を目的として、おおいに葛西ばやしを奨励しました。毎年各町村では葛西ばやし代表推薦会を催し、選ばれたものを代官自ら神田明神の将軍上覧祭りに参加を推薦したので、一層流行し、農業の余暇にお囃子を習う若者が続出したといわれます。
(蚊)
かつしかの 宿の藪蚊は かつえべし
蚊もまた葛飾の名物だったようです」とあった。

一茶はいつだったか歩いた足立区竹の塚の炎天寺で出合った。千住に住む句友を訪ねてこの辺りを往来したのであろう。有名な「やせ蛙負けるな一茶是にあり」との句を残す。因みに、最後の蚊の句の意味は、「葛飾の蚊は人間も飢えてるから蚊も困るだろ」の意味のようだ。

足立区裏門堰排水場
拘置所柵に沿って進むと、道はクランク状に曲がり、水路から離れる。道筋は足立区と葛飾区の境となっている。道を進み綾瀬川に出る。古隅田川の水路が綾瀬川に合わさる箇所を確認に少し北に戻る。そこには足立区裏門排水場があった。拘置所を囲む水路も「裏門堰親水公園」と呼ばれるようである。

大六天排水場
古隅田川の川筋は裏門堰排水場で流路を変え、南に向かう。その水路は、開削された綾瀬川に「呑み込まれ」ている。その綾瀬川に沿って南に下り、先ほど前を掠った大六天排水場に。
先ほどの裏門堰排水場もそうだが、通常排水機場と書くことが多いのだが、排水機場とは水門で堰止められて行き場の失った水路の水を排水する施設。大六天から続く古隅田川に溜まる水を綾瀬川にでも排水しているのだろうか。
大六天
第六天とも記すが、第六天とは仏教の世界観で言う6つのランクでは最下位である「欲界」、その欲界も6つに分かれるが、その中では最高ランクの「他化自在界」の魔王。望むことはすべて叶えられ、それを衆生にあまねく施し得る摩王である。
衆生の望みを叶えてくれる、「いい神」がランキングとして低いのは、衆生の望みを叶える=欲望を満たす、ということから、欲望から自由になることを最高の幸せとする仏教の世界観では評価は低い、ということだろう。因みに信長は自らを「第六天魔王」と称したようだ。
名前の由来は? チェックすると、裏門堰排水場の綾瀬川を越えたところに綾瀬神社がある。その摂社に「第六天」があるようだが、そことの関係だろうか?よくわからない。

古隅田川緑道
古隅田川緑道の少し北の通路を入ると水路にあたる。水量も結構あり、脇に木橋が整備され、親水公園として整備されている。古隅田川道と呼ばれるようである。

鵜森橋
緑道を歩き始めて初めて出合う車道との交差箇所に「鵜森橋」が架かる。車道部分と木が敷かれた人道橋を分かれて造られていた。

陸前橋
東に進んだ水路(下流から上流に向かうため、何となく「進む」って違和感あるのだが)が北に向かうところに2車線の車道。そこに陸前橋が架かる。先回のメモの水戸橋のところで水戸・佐倉道が通るとメモしたが、ここもその道筋だろう。
陸前橋としたのは、明治になって水戸街道を含めた宮城にまで通じる街道を「陸前浜街道」と命名した故。新政府としては幕府親藩の水戸藩の痕跡を残す「水戸」の名は使いたくなかったのだろう。

「小菅の風太郎」の案内
車道を少し北に進み、緑道に架かる木橋の手前に「小菅の風太郎」の案内: 「江戸時代、ここには水戸佐倉道という街道が通っていました。さる藩の大名行列が、この辺りで突然一陣の風が吹かれ街道沿いに植えられたもろこしが殿様の乗る馬に絡んだために、殿様が落馬してしまいました。
殿様はもろこしに八つ当たりする次第。畑の持ち主の源蔵は許しを請いましたが聞き入れられず、哀れ手打ちとなってしまいました。
何年か後、あの殿様一行が同じ場所でまた突風に吹かれました。すると、どこからともなく「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という怨めしげな声が聞こえ、一行は怯えて逃げ出したそうです。その後も風が吹くと「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という声がどこからとなく聞こえたそうです」とあった。何を言いたいのだろう?

古隅田川緑道の案内
橋を渡ったところに「古隅田川緑道」の案内。水路は北に向かい左に折れているが、「国土地理院地図(1896‐1909)」にはそこに水路は描かれていない。足立・葛飾区境からも外れている。曲がったところが白鷺公園とあるので、公園整備の際に排水用に造られたのだろうか。水路東端は一度綾瀬駅へと上った水路が再び南に下りてきた箇所でもある。

古川橋
少し北に古川橋。コンクリート橋の橋桁に鉄パイプの柵が備わる。何んの為?子供の転落防止?

白鷺公園
北に進み水路が東に曲がる角に白鷺公園。水路は東に曲がって水を溜めるが、古隅田川の流路は足立・葛飾区境に沿って北に進む。
水路を北に渡った角にステンレスに刻まれた「古隅田川と東京低地」の案内;
 ●古隅田川と東京低地
「古隅田川と東京低地: 東京低地は、関東諸地域の河川が集まり東京湾に注ぐ全国的にも屈指の河川集中地帯です。これらの河川によって上流から土砂の堆積作用が促され、海だったところを埋めていきます。
特に利根川は東京低地の形成に重要な役割を果しています。利根川が現在のように鬼怒川と合流し、その後千葉県銚子で太平洋に注ぐようになったのは、江戸時代初期に行われた改修のためです。
利根川は古くは足立・葛飾両区の間を流れる古隅田川、江戸川、中川が、その支流となり東京湾へ注いでいました。足立区と葛飾区が直線的ではなくて、なぜくねくねと曲がりくねっているのかと疑問をもたれる方も多いと思います。   実は古隅田川の流路が区境となっているからです。足立区と葛飾区の境は、歴史的に見ると古くは武蔵・下総国の境であり、それが現在まで受け継がれているのです。
古隅田川は足立区千住付近で入間川(私注;現在の隅田川)と合流し、現在の隅田川沿岸地域でデルタ状に分流しており、この付近に寺島・牛島などの島の付く地名が多いのは、その名残です。
現在のように古隅田川の川幅が狭くなってしまったのは、上流での流路の変化や利根川の改修工事によって次第に水量が減ってしまったせいです。今では、古代において古隅田川が国境をなした大河であったことをしのぶことはできませんが、安政江戸地震(1855年)が襲った際、亀有など古隅田川沿岸地域では液状化によって家屋、堰に被害が出たという記録が残っています。その原因は古隅田川が埋まってできた比較的新しい土地が形成されているためだそうです。   地震災害は困ったものですが、見方を変えれば古隅田川が大河であったことを裏つけているのです」とあった。

説明に「江戸川、中川がその支流となり」とあるが、中川は古利根川の東遷事業によって流路が変わった、旧流路跡利用して開削した人工の水路、江戸川も古利根川の流路変更に伴う水量調節のため上流部を人工的に開削し利根川と繋げた水路であり、「現在の江戸川、中川の流れる川筋」というのが正確かもしれない。
蓮昌寺板絵類
その傍には「蓮昌寺板絵類」の案内。「蓮昌寺には区指定文化財の木版彩色図(絵馬)が保存されています。記されている年代から、文久2年(1862)~昭和14年(1939)までの間に寄進されたことがわかります。
描かれている絵は、宗教関係の図が多く、そのほか、収穫図、能楽翁の図などがあり、蓮昌寺を中心とする信仰の形態を示す資料として重要です。 蓮昌寺は、正安2年(1300)創建と伝えられています」と。

蓮昌寺は公園から南に下ったところにある日蓮宗のお寺さま。元は道昌寺と称されたが、三代将軍家光が鷹狩の折、堂前池の蓮を愛で、蓮昌寺となった、とあった。

綾瀬駅
公園西端から綾瀬駅へと伸びる道路が足立・葛飾区境。公園から離れると水路の痕跡は全くない。綾瀬駅の高架を潜り、国土地理院地図(1896‐1909)」に記載される、北に弧を描いて進む水路跡を辿とうとするが、ビル群に阻まれトレースできず。
足立・葛飾区境
足立・葛飾区境は水路跡から離れ、駅の南側を東に進み、駅の北で弧を描いた水路が再び駅を南に下る地点で繋がり、そこから再び水路跡が区境となる。 それはいいとして、この区境が綾瀬駅の南側となった経緯など知りたいものだが、よくわからない。わかっているのは、元の綾瀬駅は現在より西、綾瀬一丁目37番にあったようだ。現在の位置に移ったのは昭和43年(1968)のこと、と言う。

東綾瀬親水公園
成り行きで歩いていると綾瀬駅の北口に繋がる広く細長い広場にあたる。水路跡のノイズを感じる広場に「東綾瀬公園」の案内があった;
「足立区は、かつて東京の米倉と言われるほど農業が盛んで、いたるところに水路が流れていました。ここ綾瀬地区一帯は稲作地域であり、都立東綾瀬公園のあたりには、上流から多くの水路が流れ込んでいました。
平成元年度、都立武道館の建設に合わせて、東綾瀬公園を大規模に改良することになり、東京都と足立区で協力してこれらの水路を親水公園として再生することになりました。
この水路は花畑川から流れる中居堀から分かれ、下流の八か村落し堀に合流します」とある。
あれこれチェックすると、花畑川から下った中居堀は東綾瀬公園の北にある「しょうぶ沼公園」を抜け、「中居堀せせらぎ公園」としてクランク状に東綾瀬公園と繋がり、そこで二手に分かれる。
東に分かれた水路は「東綾瀬温水プール」のある緑地を経て南に下り「八か村落とし親水緑道」に合流。西に分かれた水路は「東綾瀬せせらぎ水路」を経て東京武道館、そしてこの広い遊歩道に繋がる。その南は概略図ではっきりしないが、白鷺公園から東に延びる水路に繋がっているようだ。

先ほど、白鷺公園で、何故に旧隅田川筋でもないところに水路を通したのか、多分排水用であろう、とメモしたが、古隅田川筋を活用した東綾瀬公園の西側水路の排水を流しているように思える。
八ヶ村落堀・中居堀
八ヶ村落堀は江戸の頃、葛西用水から分水し綾瀬川に水を落とした長い灌漑用水路。中居堀は国土地理院地図(1896‐1909)」に花畑村から久右衛門新田、長左衛門新田へと田圃の中を下る水路が見えるがそれが中居堀だろうか。

水路跡は駅の高架下を通路で進む
ビルに消えた古隅田川の流路跡を追っかけると、線路高架にあたる。迂回するかと思ったのだが、そこには通路があり水路跡に沿って線路の南側に出る。

自転車置き場
南口に出た水路跡は、上述の如く再び足立・葛飾区境となる。駅南から水路跡はカーブで進むが、そこは自転車置き場となっている。当日自転車置き場は工事中であり、そこに残る橋跡は確認できなかった。
ちょっと気になったこと。自転車置き場は葛飾区。利用する駅は足立区。足立区民の生活基盤整備を葛飾区が担う?

北野橋
S字にカーブした自転車置き場の工事も消え、西から斜めに下る道と交差する箇所に「北野橋」の跡。少し東に綾瀬北野神社がある。

袋橋
次の通りとの交差箇所には「袋橋」。通りの西側に「袋橋公園」がある。自転車置き場はまだ続く。綾瀬駅の周囲には公園が多く整備されている。
先ほど東綾瀬公園を通ったとき、「北三谷土地区画整理組合之碑」があり、「昭和三十四年当時は二十数戸の農家と三十数戸の住家が点在する一集落で大部分は一望の農耕地で細い道が数條あるに過ぎなかった。時あたかも都心の膨張と住宅難の為、不健全無計画な不良住宅街となることを防ぐべく土地区画整理組合を設立し、健全な市街地を造成し公共の福祉の増進に寄与する 昭和四十一年」といったことが石碑に刻まれていたが、この区画整理事業は昭和34年(1959)~昭和44年(1969)に実施されている。この間に多くの公園も整備されたのだろうか。
北三谷土地区画整理組合
石碑には「当組合は旧北三谷町蒲原町普賢寺町の各一部を包含した約六十一万五千平方米の地域、とある。「国土地理院地図(1896‐1909)」には現在の東綾瀬公園辺りに北三谷、その北に蒲原、現在の綾瀬駅の南東に普賢寺の地名が載る。

富士見橋
次いでの通りとのクロス箇所には「富士見橋」。川の名は「古隅田川」ではなく、「元隅田川」となっていた。駅からいくつか橋が続いたが、「国土地理院1944-1954」までの地図には周囲は一面の田圃であり、道は見えない。「国土地理院1965-1968」には道が通る。上記区画整理事業は昭和34年(1959)~昭和44年(1969)されたとのことであるので、橋もその間に架橋されたのだろうか。

境田橋
その先は「境田橋」。自転車置き場はここで切れる。その先には三角に組まれたガードレールがあり、自転車置き場の左右に分かれた道はひとつに合わさり、住宅街を南に下る。

開渠
住宅の間の不自然に広い道を南に進むと堀にあたる。白鷺公園から東に延びた堀の東端となっている。
何故に旧隅田川筋でもないところに水路を通したのか、多分排水用であろう、とメモしたが、水路跡に残る橋跡を見るにつけ、古隅田川筋を暗渠として活用した東綾瀬公園の西側水路の排水を流している、との妄想に「確信」が出て来る。
これも綾瀬駅南の自転車置き場と同じであるが、足立区の区画整理事業で発生した排水処理を葛飾区が?駅も含めて、両区の間でなんらかの調整・取り決めでもあるのだろうか。ちょっと気になる。

親水公園風遊歩道
堀はここで切れるが、水路跡は親水公園風の遊歩道となって東に進み、都道314号にあたる。
都道314号
都道の案内に「川の手通り」とある。何故に?Wikipediaには「東京都道314号言問大谷田線(とうきょうとどう314ごう ことといおおやたせん)は、東京都台東区と足立区を結ぶ特例主要地方道。隅田川や荒川を横断し、浅草と綾瀬周辺を繋いでいる。
2013年に発足した「東京都通称道路名検討委員会」により、当初は「堀切通り」との通称が検討されたが、台東区側が「橋場通り以外の名称設定には強く反対する」と難色を示した事から、台東区域を通称の設定区間から除き、起点を白鬚橋西交差点に変更した上で「川の手通り」と名付けられた」とあった。あれこれ事情があるものだ。

随喜稲荷
都道を越えた水路筋に舗装道路に囲まれ、少々窮屈そうな小さな社が見える。「随喜稲荷」とあった。「随喜」とは仏教用語では「他人のなす善を見て、これに従い、喜びの心を生じること」を指すと言う。日本大百科全書には、「『法華経(ほけきょう)』では、この経を聞いて随喜し、教えを伝える功徳(くどく)を力説し、『大智度論(だいちどろん)』では、善を行った本人より、それを随喜した者のほうの功徳がまさっていると説いている。天台宗では滅罪の修行として懺悔(さんげ)する五悔(げ)の一つに数える」とある。
ささやかな境内には「富士」の姿が描かれた比較的新しそうな石碑があった。富士講と関係あるのだろうか。

綾瀬二丁目ふれあい公園
弧を描き北東に進む親水公園風の水路を辿ると、左手に綾瀬二丁目ふれあい公園がある辺りに四阿がありふたつ案内があった
出会いの川・古隅田川
石碑に刻まれた「古利根川流末関係図」とともに解説文:
「古隅田川流域は16世紀まで坂東太郎利根川の流末の一つで、広大な河川敷であったと考えられている。利根川が江戸に氾濫を及ぼすために、江戸時代初期から改修され、その本流を江戸川へ移し、さらに現在の流路に付け替えられて、鹿島灘へ注ぐようになった。
のち河道(古利根川)が中川として新宿(にいじゅく)地点から南流すると、それまで西流して隅田川へ注いでいた河道は干上がり、河底部が大きく蛇行して残ったが、これが古隅田川である。
かくして広大な川原は17世紀半ば頃までには、次々と新田が開かれ、新しい村々が誕生した。古隅田川がまだ大河であった頃は、武蔵国と下総国の国境で、そのため足立区側(淵江領)は武蔵一ノ宮の氷川神社を勧請して氏神とし、葛飾区側(葛西領)は下総一ノ宮の香取神社を氏神として祭り、その形態は今日まで及んでいる。
古隅田川南岸部に当たる亀有・小菅地区は利根川の運んだ土砂で自然堤防ができ、この砂州に中世期から村々が形成されていた。これらの古い村々からの文化が淵江領の新田へ寺院進出に伴って伝わっている。
淵江領の村々も、水戸街道に交通を依存していたから古隅田川に橋を架け葛西領に足を運んだ。古隅田川は、もと国境だったとはいえ、沿岸住民にとっては切っても切れない出会いの関係で結ばれていたのである」とあった。

この解説から、中川は乱流した古利根川の水路跡を利用して開いた人口の川であること、祭祀圏が古利根川を境にくっきり分かれていたことがわかる。ついでのことながら、鈴木理生さんの『幻の江戸百年(ちくまライブラリー)』には、この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布するとあり、久伊豆神社の由来、何故に二大祭祀圏の間に、など「謎」が多い社であることを思い出した。
また、「古利根川流末関係図」には、普賢寺村が綾瀬駅の上に記載されていた(「国土地理院地図(1896‐1909)」には綾瀬駅の南東にも普賢寺(村)と記されていた)。

上千葉遺蹟と普賢寺
「この遺蹟の発見は古く、寛永3年(1850)畑から壺とその中から古銭約1万5千枚が発掘されました。古銭は開元通宝・皇宋通宝・元豊通宝など中国からの輸入されたもので、壺は愛知県常滑で焼かれた13~14世紀の製品です。古銭出土地点周辺には「城口(錠口?)」「ギョウブ(刑部?)」「クラノ内」などの字名があることから付近に城館跡が存在していた可能性が高い地域です。
また、付近には治承4年(1180)の開基といわれる古城の跡に建立されたとする普賢寺が在ります。都史跡跡に指定されている鎌倉時代末期頃の宝篋印塔三基があり、葛西氏ゆかりのものと伝えられています。ここには、古隅田川を巡る歴史年表も印されている」とある。

普賢寺は南東の堀切三丁目に見える。また上千葉遺跡は中道公園の東側一帯(西亀有1丁目付近)のようだ。お寺さまの縁起より寺領が寄進された、とあり、その寺領が綾瀬駅周辺に分かれてあったということだろう。

常磐線手前・境四橋で暗渠となる

旭橋、境三橋と親水路風の水路を進む。河添公園手前に南新橋。住宅街を進んだ水路はここから道が狭くなり常磐線手前の道路と交差する箇所で暗渠となる。





境四橋の疑似親柱を境に暗渠となった水路は、常磐線を潜り、東京都立聾学校に沿って弧を描いて進む。
宿添橋、西隅田橋と暗渠は続き常磐線高架手前に隅田橋の疑似親柱が立つ。

西隅田橋の先にある下河原公園に、既に何度か目にした「古隅田川を巡る歴史」の案内があったが、ここでは割愛(重複するので「割愛」。と書いたのだが、省略するのに「愛」が必要?気になってチェックすると、元は「愛を断ち切る」という仏教用語。大切なものを思い切って省く、というのが本義のようである)。

区境は常磐線の南の道
足立・葛飾区境は常磐線を潜り、線路に沿って東に通る道となっている。とりあえず、区境を歩いたのだが、特に水路跡らしき痕跡は何もみつからなかった。道を進み都道463号と交差する地点で再び常磐線高架を北に潜り、都道463号の東から北に上る水路路跡に戻る。

古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内
緑に囲まれたささやかな水路を一筋北に進むと東隅田橋傍に「古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内」があった。万葉公園にあったものと同じであり記載は省略するが、プレートに刻まれた水路跡を見ると、常磐線の高架南が足立・葛飾の区境とはなっているが、水路は常磐線高架の北を通っていた。

北三谷三号橋・軍用金伝説の案内
水も切れた水路跡を郷乃二之橋、郷乃一之橋と北へと進み、水路跡がその流路を東に向ける辺り,北三谷三号橋傍に
「軍用金伝説」案内のプレートがある。
「古代から古隅田川は、武蔵国と下総国との国境をなすほどの大河でした。船の行き来も盛んで、人やものを運ぶ大切な交通手段でもありました。
この辺りは大きく曲がっているところから大曲と呼ばれ舟の舵の舵取りの難しいところとされていました。慶長18年(1613)2月の暴風の時に、この難所で1隻の船が沈没してしまいました。いつのまにか「沈没した船に軍用金が積んであった」という噂が広まり、明治に至るまで、軍用金探しが行われたそうです。しかし、発見されることなく近年の区画整理などのため、今ではその正確な場所もわからなくなってしまったそうです」と。

北三谷橋・蒲原村宿駅伝説
東に進む水路跡を法蔵寺橋、北稲荷橋と進むと、流路は北東に向かって上り北三谷二号橋、北三谷一号橋、北三谷橋へと進む。北三谷橋の先にある大きな通りは葛西用水の南端部曳舟川跡の道路である。
その通り手前に「蒲原村宿駅伝説」の案内;
「寛政6年(1794)出版の「四神地名録」に、「この土地の人のいい伝えに、古隅田川の北に添った蒲原村は、むかしの駅で今でも宿という地名が残っている。在原の業平が東下りした時「名にしおばいざこととはん都鳥我思ふ人は有りやなしや」と詠んだのは、この辺りではないか。今、隅田川と称している地は240~50年前は海だったから川があるはずがないという」とある。
その他の地誌にも、蒲原が古い駅路の宿だったかどうかを記しているものが多い。このため、治承4年(1180)源氏の再起を賭けて伊豆の挙兵、敗れて安房国に逃れた頼朝が再び鎌倉をめざして下総国から武蔵国に入った時、蒲原村に宿陣したという説が地元に根強く伝わっている」とある。

「今、隅田川と称している地は240~50年前は海だったから川があるはずがない」とは、墨田区の言問橋が在原業平の詠んだ上述の歌に由来するとの説を暗に否定しているのだろう。実際、言問橋にしても、業平橋にしても在原業平由来との説は定説とはなっていない。
ついでのことながら東武野田線・豊春駅近くに、現在は逆川となって残る古隅田川があるが、そこには業平橋とか、上記都鳥伝説が残っていたことを想いだした。

葛西用水・曳舟川水路跡
「北三谷橋・蒲原村宿駅伝説 」の東を南北に通る道路は葛西用水・曳舟川の水路筋である。いつだったかこの水路筋を歩いたことがある。利根川から取水し京成押上駅付近で北十間川に落ちる用水の歴史的経緯、その流路をまとめておく。
◆葛西用水
利根川東遷事業は新田開発をもその目的のひとつとしていた。東遷、また荒川の西遷事業により源頭部を失った旧利根川の廃路跡の湿地を新田開発とするわけである。他の多くの用水路と同じく、葛西用水もそのひとつである。
現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではなく、新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したものである。
葛西用水は慶長年間(1596~1610年)の亀有溜井、瓦曽根溜井の築造をもってその始まりとする。亀有溜井は綾瀬川の水を溜め葛西領の用水源となった。葛西から遠く離れた地で取水されるこの用水が葛西用水と呼ばれた所以であろう。 また、元荒川を堰止め瓦曽根溜井(越谷市)が造られ、そこから用水が引かれた。
寛永6(1629)年には、荒川の西遷が完了。しかし、その結果、元荒川、 綾瀬川の水量が激減し、瓦曽根溜井、亀有溜井が枯渇することになる。その対応として、庄内領中島(現幸手市西宿)で江戸川から取水し中島用水を開削し、大落古利根川に落とし、さらにその下流に松伏溜井を造り、その水を開削した逆川をへて瓦曽根溜井に送った、と(注;中島用水の記録が見つからず、流路ははっきりしないが、上記江戸川取水口から春日部市八丁目まで開削され大落古利根川に落とした、とのこと)。寛永8年(1631)には水不足に苦しむ亀有溜井へと水を通すべく葛西井堀(東京葛西用水)が開削し、瓦曽根溜井と亀有溜井が繋がった。
承応3(1654)年、利根川東遷が完了。万治3(1660)年、大落古利根川の上流域に、幸手領用水が開削される。利根川の本川俣村(現・羽生市)に圦樋を築き、用水路を開削し、川口村(現・加須市)に川口溜井を設け、その下流に琵琶溜井を築造。幸手領用水の余水を大落古利根川に落とし、下流の松伏溜井に水を送る。ここに、利根川から亀有溜井までの用水路はつながり、葛西用水の原型が出来上がった。
宝永元(1704)年、洪水により中島用水が埋没。このため享保4(1707)年には、幸手領用水を強化し、水源を江戸川に求める中島用水から松伏溜井への導水は廃止され、利根川の上川俣(現・羽生市)に切り替えた。ここに上川俣圦樋から亀有溜井 に至る葛西用水が成立することになる。
享保14(1729)年には亀有溜井を廃止し、小合溜井(葛飾区の水元公園辺り)が築造された。これにより、従来の松伏溜井から逆川、瓦曽根溜井を経由して葛西堀井(東京葛西用水;西葛西用水)を下る系統に加え、松伏溜井から二郷半領本田用水(東葛西用水)、小合溜井を経て東葛西領上下之割用水へと至る系統が加わることになる。また、宝暦4(1754)年に 上川俣の取水地点が廃止され、本川俣からの取水に宝暦4(1754)年に 上川俣の取水地点が廃止され、本川俣からの取水に戻った。
現在の流路;昔とそれほど大きくは異なっていないと思うのだが、その流路は武蔵大橋傍、行田市下中条で利根川の水をとり、埼玉用水路として利根川右岸を進み、かつての取水口である本川俣より南東に下り、東北自動車道加須ICの少し東、加須市南篠崎で会の川と合流(合流するが別水路で進み、会の川は中川に伏越で落ちる)。
南東に下る葛西用水は久喜市吉羽で大落古利根川に合流。そこから大落古利根川の川筋跡を下り、越谷市大吉の松伏溜井で大落古利根川を離れ、人工的に開削した逆川を抜け元荒川筋に水を落とし、越谷市西方の瓦曽根溜井で元荒川を離れ、葛西堀井(東京葛西用水)を亀有まで南下し、舟曳通りを流れた舟曳川筋を下り、京成押上駅付近で北十間川に合流する。
また、松伏溜井から二郷半領(吉川市・三郷市)として中川の東を小合溜井(水元公園あたり)まで下る流れもある。小合溜井からは「上下之割用水」として南西に下り、葛飾区新宿辺りで「小岩用水」を分ける。本流はそこから南に下り、曲金(現在の高砂辺り)で東井堀用水を分け、本流は更に南に下り現在の細田橋のあたりで西井堀用水と仲井堀用水を分ける。西井堀用水はそこから南東に一直線に下り、逆井の渡しの辺りで中川に合流する。これがおおよその流路であろう。

田光り観音
亀有駅の西に下る葛西用水・曳舟川筋の道路を越えると、水路跡は狭い民家の間を進む。水路跡の道はカラーの敷石風に造られている。2ブロックほど進みカラー舗装も切れた水路跡の道に「田光観音」の案内。
プレートには、「田光観音は足立区中川三丁目西光院にあり、自然木の中央に、約1mの長さで浮彫りにされた聖観音像で12年に1回牛年に大法要が営まれている。
今から約百数十年前、長右衛門新田5丁目耕地(現大谷田三丁目)で、作男が馬を使って耕作していると、馬がある場所まで来て必ず止まってしまう。不思議に思ってそのところを掘り返すと、中から大きな自然木がでて来た。その時は、気もとめず畦道によけて家に帰った。
それから毎晩、作男の夢枕に観音様が立ち、その姿が自然木に似ていることから、田に行ってこれを洗ってみると、夢の観音様と同じであった。驚いてその旨を主人に告げ西光院に安置したと言う。この木像は足立区登録有形民俗文化財である」とあった。

隅田子育地蔵尊の案内
環七を越えた水路跡は、民家の間の誠に狭い道筋を進むことになる。カラー舗装の道を数ブロック進むと「隅田子育地蔵尊」の案内。
「元禄年間、17世紀から18世紀に移ると、村々もうようやく豊になったとみえ、地蔵尊などの石造仏が村内各所に建てられるようになった。特に、村の境や追分には、悪疫の侵入防除、悪例退散などを目的に界地蔵が道祖神代わりに建てられた。
中川三丁目1の古隅田川岸にまつられた三体の地蔵尊は、足立・葛飾の村境であり、旧大谷田村道の追分三角地帯に建てられた典型的な界地蔵である。中央の大きな地蔵は「元禄元戌(1688)11月」の紀年が読み取れ、今日まで毎年8月24日に地域の子供を集めて子育地蔵祭りが催されている」とある。

水路跡の道は区境に沿って南に向かうが、子育地蔵尊の祠は、その水路筋の一筋東の通りに建つ(中川3-1)

玄恵井の碑
水路跡の道は、東京電力亀有変電所(中川3丁目)手前の民家の間を一直線に南に下る。常磐線の高架を潜り、更に細くなった道を進むと前が開け、Arioと書かれた大きなショッピングセンターが建つ。
その手前の広場に「玄恵井の碑」の案内。
「昔、亀有方面の井戸は水質が悪く「砂こし」をしなくては飲むことができないので村人は困っていました。このことを憂いた幕府鳥見役人水谷又助は、山崎玄恵という老人の助力を得、鳥見屋敷内に井戸を掘りました。幸いにも清水が井戸を満たしたので、村人はたいそう喜び、玄恵に感謝したそうです。 この碑は文化?年(1813)に、この清水が湧き出た日を記念して村人たちによって香取神社に建てられたもので、碑文は江戸時代の書史学者屋代弘賢によるものです」とある。

香取神社は広場のすぐ西側にある。案内の箇所には碑文は見当たらないが、香取神社境内に建つようである。

The Resident Tokyo East敷地内を進む
ショッピングセンターArioの脇を南に下った区境・水路跡は、ほどなく流路を南東に変えThe Resident Tokyo Eastと呼ばれるマンション群を南北に分けて進む。敷地を抜けられるかどうか不安であったが、ママ進み敷地を出る

中川に
水路跡はそのまま南東に進み、ほどなく中川の堤にあたる。取水口跡などないものかと分流点辺りを彷徨うが、折あしく分流点辺りは工事中で、それらしき痕跡を見つけることはできなかった。
小菅から辿った古隅田川水路跡散歩もこれでお終い。利根川から下る旧利根川流路跡散歩は現時点でやっと久喜辺りまで進んだばかり。まだ先は長い。この地に繋がるのはいつのことだろう。
先日来、旧利根川流路を辿ろうとしている。手始めに、利根川東遷事業のはじまりともなった会の川・川俣締切跡を下ったのだが、そのきっかけとなったのがこの古隅田川散歩である。

国土地理院今昔マップ首都1896-1906
とある週末、これといって歩きたいところが思い浮かばない。で、地図を眺めていると気になる箇所が目についた。足立区と葛飾区の区境が不自然に入り組んでいるのだ。いつだったか日暮里から三ノ輪そして隅田川に架かる白鬚橋まで、音無川跡を歩いたことがあるのだが、その川筋跡は荒川区と台東区の境となっていた。
とすれば、この足立区と葛飾区の区境の不自然、というか、川筋をもとにすれば自然と言うべきではあろうが、ともあれ、両区境も川筋では?とチェックすると、それは古隅田川の流路跡であった。
「流路跡」というフレーズには故なく惹かれる我が身である。それではと古隅田川跡を辿ったわけだが、散歩の途中での案内で、古隅田川は旧利根川流路であることを知った。正確に言えば、知ったというか、忘れていたのである。

古隅田川に出合ったのはこれが最初ではない。これもいつだったか春日部市の東武伊勢崎線・豊春駅近くで出合ったことがある。現在春日部市南平野辺りから北東に進み、春日部市梅田辺りで大落古利根川に合流する古隅田川は、旧利根川の流路であり、現在は逆川として北東に進むこの古隅田川の流れは、かつては逆方向、つまりは、梅田で大落古利根川から別れ、現在の流れと逆方向、南西に下って元荒川に注いでいた。
その流れは、下りて中川筋との合流を経て、常磐線・亀有の南東辺りから足立区・葛飾区の境を進み、隅田川に注いていた、といったことをメモしていたのだが、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 国土地理院 今昔マップ 首都1917-24(荒川放水路工事中時期)
この古隅田川の流れは、旧利根川が江戸に下る南端部であった。で、古隅田川散歩をしながら、どうせのことなら旧利根川の流路を北から下り、古隅田川と「繋げよう」と前述会の川・川俣締切跡から下りはじめたのだが、なにせ遠い。会の川筋を歩いただけで、現在「小休止」中。
これでは古隅田川に届くまでに結構時間がかかりそう。どうもそれまで古隅田川散歩の記憶を保ち切れそうもない、といった齢故の記憶力の事情もあり、旧利根川流路散歩の途中ではあるが、とりあえず古隅田川散歩のメモを挟み込むことにした。

●古隅田川の隅田川合流地点は?
足立区・葛飾区の境を画する古隅田川の流路を辿る前に、古隅田川が隅田川に合流する辺りを歩こうと、あれこれチェックする。水神社とも称される隅田川神社の北辺りで隅田川に合流した、といった記事が多い。国土地理院地図(1896‐1909)にも「水神社」の表示があり、その北で水路が隅田川から切れ込んでいる。
とはいうものの、その切れ込み箇所に繋がる明確な水路跡はなにもない。古隅田川跡らしき水路はすべて、かつての綾瀬川に注ぎ、そこで途切れているように見える。
現在の綾瀬川は葛飾区堀切4丁目にある小谷野神社あたりから、人工的に開削された荒川放水路に沿って南東へと下っているが、荒川放水路(明治44年(1911)着工、大正13年(1924)完成)が開削される以前の綾瀬川は、真っすぐ南下し、現在京成・堀切駅脇で、荒川放水路と隅田川を繋ぐ「旧綾瀬川第二運河」の通る水路筋を下り墨田川に合流している。
国土地理院地図(1896‐1909)の地図には、明治20年(1877)創業の鐘ヶ淵紡績が記されている。工場は現在の墨堤通りの東西に分かれて建ち、「思い込み」で見れば工場の間の通りを辿れば、水神社の水路切れ込み箇所に届くのだが、それが水路跡との確証はない。

古隅田川散歩のルートを想うに、水神様から歩きはじめてもいいのだが、隅田川神社や木母寺辺りは以前歩いたこともあり、結局古隅田川流路を辿る散歩は「国土地理院地図(1896‐1909)」に水路跡が記された、旧綾瀬川に古隅田川の水路が合わさる近く、東武スカイツリーライン線・堀切駅北の堀切橋辺りを古い隅田川の最下流点とし、そこから流路跡を遡ることにする。



本日のルート;
堀切橋へ
千代田線・北千住駅>柳原寺前の通りを荒川放水路堤防に>東武スカイツリーライン線と交差>京成本線と交差>千住汐入大橋>墨堤通り>綾瀬橋>東武スカイツリーライナー線・堀切駅>堀切橋
正覚寺に
瀬川>小谷野神社>正覚寺
■東京拘置所西側向かう
小菅神社>第六天排水機場>水戸橋>八幡社>小菅西小学校>東京拘置所>差入店>拘置所柵に沿って案内板が立つ>小菅稲荷神社>東京拘置所前交差点>古隅田川の水路


■堀切橋へ■
千代田線・北千住駅
地図で東武スカイツリーライン線・堀切駅辺りへと続く水路跡を想う。駅の東、柳原2丁目の柳原寺前に、如何にも水路後といった、弧を描いて進む通りがある。これが古隅田川跡であろうと、成り行きで柳原寺に向かう。

「国土地理院地図(1896‐1909)」に見る古隅田川
メモの段階で古隅田川跡をチェックする:かつての綾瀬川に注ぐ古隅田川の流路を「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、常磐線・亀有駅の南東から足立区・葛飾区の境を「小菅監獄」まで進んできた流れは、小菅監獄の西側を南下し、後に荒川放水路として開削される川筋の中央部まで進む。そこから現在の首都高速環状線のルートに沿って、というか、おなじルートを小菅ジャンクション手前まで東に蛇行し、ジャンクション手前で弧を描いて西に向かい、柳原2丁目に進む。その川筋は、如何にも水路跡といったカーブを描く柳原寺前の通りのようである。
地図には後に開削される荒川放水路のど真ん中を下るもの、柳原寺前の通りの一筋東を、南西に向かって下るものなどいくつもの水路跡が見られるが、なんとなく柳原寺前の通りが古隅田川跡だろうと思い込む。

柳原寺前の通りを荒川放水路堤防に
如何にも水路跡といった風情で弧を描く、柳原寺前の通りを荒川放水路に向かう。堤防に立ち、宅地の中を進む水路跡の通りや荒川放水路の対岸の荒川小菅緑地公園を眺める。
iphoneにブックマークしている「今昔マップ」の「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、古隅田川は弧を描いて堤防に達した後、荒川小菅緑地公園まで東に向かい、小菅水再生センター辺りで半円を描きながら正覚寺へと向かい、首都高速小菅ジャンクション手前で流路を変え、高速道路のルートに沿って折り返し、再び荒川放水路の真ん中まで戻り、そこから小菅監獄の西塀に沿って北に向かっている。

東武スカイツリーライン線と交差
堤防から通りに戻り、東武スカイツリーライン線・堀切駅へと向かう。弧を描く道を進むと京成スカイツリーライン線と交差。アンダーパスが異常に低い。桁下高さ1.7mとある。
東武スカイツリーラインとはかつての東武伊勢崎線。東京スカイツリーの開業に伴い、スカイツリーラインと改称されたようだ。それはそれでいいのだが、「国土地理院地図(1896‐1909)」には東武線と記載されている。東武伊勢崎線の開業が明治32年(1899)と言うから、「国土地理院地図(1896‐1909)」とはいいながら、この地図は明治32年(1899)以降ということになる。

京成本線とクロス
東武線を越えると今度は京成線のアンダーパスを潜る。京成線の手前に小祠があり、その脇に橋の親柱を飾る擬宝珠が置かれている。「国土地理院地図(1896‐1909)」には京成本線は描かれていない。京成電鉄の第一期開業区間である押上・柴又間の開業は明治45年(1912)であるから当然であるが、「国土地理院地図(1896‐1909)」を見ると千住町から東に向かった道が、この辺りで柳原に向かって北に上るが、その曲がり角で道が水路と交差している。この擬宝珠は、そこに架かっていた橋のものだろうか。
なお、水路は緩い南向きの弧を描いて東に進み、小菅水再生センター辺りで古隅田川から分岐し南に下る水路と堀切橋辺りで合わさり、少し下って旧綾瀬川に合流しているように見える。
堀切
堀切の地名の由来は、葛西一族の館を囲む濠からとのこと。とはいえ、館跡も濠跡も見つかってはいないようだ。

千住汐入大橋
京成線・堀切駅に向かう途中、ちょっと寄り道して隅田川を見に南に下り千住汐入大橋に。護岸整備された対岸の汐入公園の向こうに東京スカイツリーが屹立している。
汐入
いつだったか南千住から汐入地区を歩いたことがある。そのときの「汐入」のメモ;戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜に隅田川(当時は、入間川)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側は千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。 江戸以前、南千住の一帯は、入間川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。汐入と称される所以である。

墨堤通り
千住汐入大橋から隅田川左岸を進み、隅田川と荒川放水路を繋ぐ旧綾瀬川第二運河手前、マンションとタクシー会社(東京交通自動車〈株〉)を都道461号に抜ける。マンション敷地で通り抜けできないかと思ったのだが、そこは地図には「墨堤通り」表記されていた。
墨堤通り
墨田区吾妻橋から足立区千住桜木まで、隅田川に沿って走る。吾妻橋東詰めから隅田川の堤を通り、向島5丁目辺りで都道461号(二本並行して走る)を京成線・関屋に。京成関屋から隅田川の流路と並行に進み、荒川に架かる西新井橋手前の千住桜木町に至る。
墨堤通りという以上、往昔は隅田川(荒川とも入間川とも)の土手を通る道筋ではあったのだろう。向島5丁目で二本走る都道461号の内側の道筋、そしてこのマンション脇を進む道筋は川に面している。更には京成線・関屋から先の道筋は、いつだったか歩いた掃部堤の道筋のようだ。
掃部堤
掃部堤」は隅田川、と言うか、昔の荒川・入間川の堤防。名前の由来は、この堤を築いた石出掃部介(かもんのすけ)、より。
石部掃部介は小田原北条の遺臣。江戸時代にこの地に移り、新田を開発。場所は、元の隅田川・荒川の堤であった熊谷堤(旧区役所通りにあたる:掃部堤の内側を斜めに通る)と掃部堤に囲まれた一帯。掃部堤もその新田・掃部新田を水害から防ぐため築かれたものであろう。
往時は高さ4mもあったと言われる掃部堤であるが、削平され現在は墨堤通りとなっている。
墨堤の桜
墨堤といえば桜が有名である。墨堤の桜は四代将軍家斉が常陸国・桜川の桜を移植したのがはじまり。その後八代将軍吉宗が100本の桜を植える。当時は桜並木の桜を愛でるというより、屋敷に咲く桜木を愛でるのが普通であり、当時としては画期的なことであったようだ。
場所は水神社のあたり。現在のように三囲神社あたりまで桜並木ができたのは明治の初期、1880年代になってからのこと。明治も中頃となると、桜並木も荒れていたようだが、大倉財閥の当主・大倉喜八郎などの尽力により、現在に至る、と。明治の頃まではヤマザクラ、現在はソメイヨシノが大半を占める、とか。

綾瀬橋
旧綾瀬川第二運河に架かる綾瀬橋を渡る。散歩の当日は何故に「綾瀬橋」?などと思いながら首都高速6号向島線の高架に覆われた橋を渡ったのだが、前述の如く荒川放水路が開削される以前の旧綾瀬川が隅田川に注ぐ水路であるとメモの段階でわかり、納得。

東武スカイツリーライナー線・堀切駅
綾瀬橋を渡り運河左岸を荒川放水路方面に向かう。荒川放水路と運河を遮る隅田水門手前の跨線橋を渡り運河右岸に戻り、東武スカイツリーライナー線を跨ぐ人道橋を渡り堀切駅に。

堀切橋
堀切駅のすぐ前の堤防を北に進み、荒川放水路に架かる堀切橋を渡る。「国土地理院地図(1896‐1909)」を見ると、古隅田川が旧綾瀬川の水路に合流している。地図でトレースできる古隅田川の最下流部。やっと想定した散歩始点にたどり着いた。
次の目的地は荒川放水路を渡った先にある正覚寺。「国土地理院地図(1896‐1909)」にある古綾瀬川の川筋にお寺のマークがある。


■正覚寺に■

綾瀬川
橋を渡り、荒川放水路に沿って下る綾瀬川に架かる橋を渡る。この水路は荒川放水路開削に伴い、下流部を切られた旧綾瀬川を荒川放水路に沿って新たに開削した水路ではあろう。ただ、その水路は「国土地理院地図(1896‐1909)」に古綾瀬川と記される水路と重なる。古綾瀬川?ちょっと混乱。
いつだったか草加を歩いたとき、古綾瀬川を歩き、そのとき、「中・下流域では流路定まることなし、といった古綾瀬川ではあるが、それでもその流路としては、一筋は足立区花畑あたりから東に向かい松戸の近くで江戸川に注ぎ、もうひとすじは水元公園あたりから中川筋(といっても中川筋開削以前の古利根川)に下っていた。その流路を江戸の頃、東武スカイツリーライン線・新田駅の少し北、蒲生大橋あたりから小菅まで直線化工事を行った」とメモした。
「国土地理院地図(1896‐1909)」には直線化工事を行い隅田川に注ぐ本流水路を「綾瀬川」、隅田川合流点手前で本流から分岐し、下って中川に合わさる水路を、何故かは知らねど、「古綾瀬川」としている。何故だろう?疑問は解けず。

小谷野神社
綾瀬川に沿って水戸橋の西にある正覚寺へと向かう。北に向かうと綾瀬川堤防下を通る道路わきに小谷野神社がある。境内にあった由来を刻む石碑に拠れば、元は当地、小谷野村にあった稲荷社。元禄10年(1697)には既に存していたことが記録に残る。地名が堀切となるに伴い、小谷野の旧名を残さんと昭和45年(1970)に小谷野神社と改称された。
境内入口に祀られる三峯、水天宮は元々綾瀬川が隅田川に合わさる箇所にあったもの。荒川放水路開削に伴い、三峰社は現堀切橋際に、水天宮は隅田川水門際に移され、後さらにこの地に遷座した。
葛飾区のHPに拠れば、小谷野は奥州平泉の豪族小谷野氏の出身地故といわれるが、定かではない。小谷野氏の出自云々はともあれ、この地からは室町時代の板碑が所在しており、古くから人が住んでいたようである。

正覚寺
綾瀬川を覆う中央環状線の高架を見遣りながら、高速が南北に分かれる小菅ジャンクションで新水戸橋を渡り綾瀬川右岸に向かう。東京拘置所西側を南に下ってきた古隅田川が現在荒川放水路となっている水路の真ん中で東に折れ、中央環状線に沿って綾瀬川の水路辺手前まで進んだ後、南西に弧を描きこのお寺様の辺りを通り、そこから先は直線に進み、先ほど辿った荒川放水路右岸・柳原の土手に向かう。
「国土地理院地図(1896‐1909)」に拠れば、弧を描く水路のほとんどが現在の小菅水再生センターの敷地内を進むが、再生センター東の正覚寺は古隅田川水路傍に表示されている。水路跡が残るとも思えないが、とりあえずお寺様を訪ねる。
境内に入る。落ち着いた趣のお寺さまである。結構造作が新しいのは、高速道路と水再生センター工事に際し、本堂・客殿・庫裡等一切新築され、ためではあろう。
境内にあったいくつかの案内を大雑把にメモ:
正覚寺と日本最初の公立学校
「正覚寺と日本最初の公立学校」には、「真言宗正覚寺は常照山阿弥陀院と号す。本尊阿弥陀如来像は慈覚大師作と言う。開山は開山和尚安心の没年が文禄元年(1592)であるから、室町末期と推察される。
境内には「とげぬき地蔵」という古い石地蔵が安置される。水戸街道の北側にあったものを、大正4年、荒川放水路開削にともない移された。「とげぬき」は「罪(とが)抜き」から。小菅監獄から出所時、この地蔵に願をかけると「罪」を抜くことができたため、いつしか「とがにき」から「とげぬき」になった、と。
このお地蔵さまには「きられ地蔵」の伝説も伝わる。元禄の頃、この地蔵の付近に美女が現れ旅人を悩ますとの噂。参勤交代でこの地を通る水戸光圀が地蔵の首を一刀のもと切り離す。首はそれ以降行方不明となり、正覚寺で首を据え付ける。後に寺の近くで首が掘り出されたため、正覚寺で箱におさめ供養している。「首切り」の話はともあれ、地蔵堂の水舎に元禄年年間の銘があり、光圀とのなんらかの関連がなきにしもあらず」、との説明に続き、「もうひとつの珍しい史実」として、以下の説明が続く。
「明治2年、この地に小菅県庁が置かれる。県庁では政府の出した府県学校取調局の令に基づき、正覚寺本堂内に「小菅仮学校」という、わが国最初の公立の学校を設ける。当初は県庁役人を対象としたが、希望者には管内の一般町村民の入学も許す。但し、民間の入学者は稀であった。
この学校は隣の千住宿の慈眼寺にも分校を設けたが、明治4年の廃藩置県で県庁とともに廃校となり、明治6年の学制発布で青砥学校(区立亀有小学校)や勝鹿学校(区立新宿小学校)が設立され、生徒の大半はそちらに移る」と。
「聴聞規則」
更にこの公立学校の「聴聞規則」が続く;
「「聴聞規則」は本邦初等教育史上貴重な資料であるが、内容は旧態依然とした封建制そのものであったことがうかがい知れる。
当県仮学校当分小菅村正覚寺ニ相定候事
一 六ノ日 定休 四月十九日 会議ニ付昼後休
二 七ノ日 未ノ刻ヨリ小学講釈
諸役人出席下民といえども聴を許す但朝索読質問勝手次第
三 八ノ日 未ノ刻ヨリ牧民志告心鏡
庁内之諸役人必ズ出席すべし其他有志輩聴聞勝手たるべし但し朝前同断
四 旧ノ日 未ノ刻ヨリ孟子輪議
庁内之諸役人壮年之ものは必ズ出席すべし老幼の輩は勝手次第たるべし但し朝前同断
五 十ノ日 未ノ刻ヨリ千住四丁目慈眼寺小学講話
御用村用当二而小菅表へ出合候村人小前ども必ず出席すべし
若し怠り候もの来れは郷宿向き取調之上、正覚寺二止宿いたさせ教諭を加う其他四方之民人老若とも出席聴聞することを欲す
知事判事之内取締として時々出席すべし其他諸氏聴聞勝手たるべし但し朝前同断
明治二年 小菅県」とあった。

下民とか小前(江戸時代の小農民をいい,「前」は身分とか分限の意。一般に耕地や宅地を所持し年貢を負担する本百姓をすべて小前,小前百姓といった。また村役人級の大高持 (大前) に対して,一般の百姓あるいは水呑百姓のような零細な困窮農民をさすこともある(「ブリタニカ国際大百科事典」)などの表現や講義内容を指しての封建的とののとだろうか。
尚、「朝前同断」は、「朝は前と同じだ」との意味だろうか。ということは、その前に記されている、朝索読質問勝手次第を指すの、かと。

同じく境内にあった「史跡 県立小菅学校の跡」には「学制発布以前の公立学校として、都下教育史上貴重な遺跡」とある。学制発布は明治5年(1872)であるので、その3年前に設立されたということである。
小菅正覚寺念仏結衆地蔵像
「この地蔵像は念仏結衆を願う兵左衛門と同行衆によって建立されたものです。光背の向かって右には「寛文元天(1661)。。。」、左には「念仏結衆本願兵左衛門同行廿一人」と刻まれ、供養を行う集団を「念仏結衆」と記しています。
17世紀中頃以降は、「同行集団」とあらわすことが多くなるのですが、この地蔵像には「結衆」と「同行」が併記されています」とあった。

結衆と同行はほぼ同義で用いられ、地蔵(庚申)像などに「同行卅七人敬白」などと刻まれることもある。これは37名の結衆が地蔵(庚申)供養のため造立と読み替えるわけだが、このお地蔵さまには結衆と同行が併記されている、ということだろう。


■東京拘置所西側向かう■

水路跡も水再生センターの敷地の中となるので、この辺りの散歩は終わりと、次の目的地、古隅田川の流路である東京拘置所の西側に向かう。お寺さまから新水戸橋に戻りその一筋北の水戸橋に向かう。

小菅神社
水戸橋に向かう途中、道の左手に社がある。新水戸橋交差点から一段低い通路を抜けて進むと小菅神社に。明治2年()、小菅県が出来た際、県庁内(現東京拘置所)に県下356町村の守護として伊勢の皇大神宮を勧請するも、明治5年に小菅県所管の葛飾72ヶ村などが東京府に移管するに際し小菅村の田中稲荷社に移す。明治42年小菅神社と改称し、田中稲荷は摂社となる。境内には田中稲荷社が祀られていた。

第六天排水機場
小菅神社を北に向かうと右手に第六天排水機場が見える。その裏手に目的の古隅田川の水路が足立・葛飾区境に沿って続くのだが、とりあえずは先ほど訪れた柳原堤防から先に続く水路跡が、荒川放水路で寸断された箇所である東京拘置所西側から古隅田川を「遡上」すべく、右手の水路は後のお楽しみとする。

水戸橋
第六天排水機場のすぐ北、水戸橋を渡った西詰めに「水戸橋跡地」の案内がある。
水戸佐倉道
「前方に延びる道は、東海道など五街道に附属する水戸佐倉道です。この街道は日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉に向かう佐倉街道と分かれました。
これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。享保10年(1725)八代将軍吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉市松戸)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉街道を通行した記録が残されています」とある。

日光道中千住宿で分かれ、水戸まで29里、おおよそ122km、19の宿場で繋ぐ 流路定まらぬ低湿地であった江戸近郊の低地を抜ける水戸佐倉道は、河川改修や新田開発で江戸の近郊農村として野菜などの食料供給地となり、その物資の往来だけでなく、生活も豊かになった江戸の庶民の行楽地への往来としても使われるようになる。成田山、国府台帝釈天木下川薬師半田稲荷へとこの橋を渡って向かったのだろう。

橋名:みとはしの由来
「地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光圀)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。 その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした狸でした。 子狸が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。 その事実を知った光圀は、後の世まで平穏となるようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。 また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄10年(1697)の銘があります」。正覚寺云々は前述のとおり。
水戸橋・橋台の石組・綾瀬川
「ここに組まれた石組みは、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。
水戸橋が本格的な橋として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛政年間(1624-1644)と考えられています。
水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館)に、寛永年間に匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで掘替えた記録があります」、と。

蛇行する綾瀬川の直線化工事は、代官伊奈氏により足立郡内匠新田(足立区南花畑)から葛飾郡小菅(小菅)に、流量を調節すべく新たに水路を開削した。 その後、五街道制定にともない、寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まる。これに合わせ、天和3年(1683年)に蒲生大橋(東武伊勢佐木線新田駅の北東)辺りから九十九曲がりと称され、千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った。直線化工事とは、この蒲生大橋から古綾瀬川との合流点辺りまでの一直線になった綾瀬川の区間のことであるが、上記解説は、伊奈氏による開削工事を指すのだろう。

八幡社
水戸橋から綾瀬川にそって北に向かうと二基の石灯籠と石造りの小祠がある。地図にある鳥居のマークが不釣り合いなほどのささやかな社である。 脇にあった案内:
「八幡社とタブの木の大樹について 小菅の水戸橋付近、綾瀬川沿いに「八幡社」と大きなタブの木がありました。昭和30年代に造られた「小菅音頭」の歌詞の中にも「月もおぼろの八幡社」と歌われています。この社と大きなタブの木は、綾瀬課川のふちにあって舟の往来や行き交う人々を見守ってきました。 由緒などは不明ですが、『水戸佐倉道分間延絵図』に記載されている古い社で、棟札により元禄十三年(1700)第五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保によって、小菅御殿内の鎮守として再興されました。第八代将軍吉宗の時代(1740年頃)の小菅御殿古図には「八マン」と記載され、鳥居の図が示されています。
このあたりは「八幡山」と呼ばれ、小菅一丁目では一番の高台でした。綾瀬川・古隅田川に囲まれた小菅付近は昔からたびたび洪水に見舞われてきましたが、昭和以降の大洪水にも水に浸かることはなかったと言われています。小菅一丁目に大きな被害をもたらした昭和三十四年の伊勢湾台風の際にも八幡社に多くの人々が避難したと伝えられています。
大切に守ってきたこの社は、今般水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されることになりました。平成二十二年」とあった。

解説とともにあった往昔の写真には、綾瀬川を上る船と鬱蒼とした鎮守の森が見える。まだ護岸工事が実施されていない。綾瀬川の改修・護岸工事は大正9年(1920)から昭和5年(1930)にかけて行われたといった記録もあるので、それ以前の風景だろうか。
このときは解説にある小菅御殿が現在の東京拘置所の辺りにあったなど、知る由もなかった。事前準備なしの散歩は何が出てくるかわからず、後の祭りも多いが、それ以上に偶々の出合いが多く、この基本方針(単に面倒だ、というだけとも言えるが)はやめられない。

小菅西小学校
八幡の小祠の南の道を西に向かうと小菅西小学校にあたる。正門脇の敷地内に案内があり、「小菅銭座跡」とある;
「小菅銭座跡 葛飾区小菅一丁目25番1号小菅西小学校
小菅銭座は安政6年(1859)、江戸金座の直轄で、幕府の財政窮乏と銅相場急騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は、江戸時代初期には伊奈氏下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷を辿った場所の一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
万延元年(1860)には前例のない鐚銭といわれる粗悪鉄銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1867)にその役割を終えました。
今その頃の様子を示すものはほとんど残っていませんが、昭和25年(1950)までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には、銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の資料として今に伝えています。
上に小菅御殿は現東京拘置所辺りとメモしたが、この小学校あたりまで敷地であったようだ。

東京拘置所
道なりに北に進むと東京拘置所にあたる。モダンな造りの建物である。チェックするとWikipediaに、「1997年改築工事が開始、1999年には「小菅刑務所・管理棟」が日本の近代建築?選に選定、2003年中央管理棟・南収容棟、2006年北収容棟が完成」とある。
なるほど、近代建築20選に選ばれるような建物か、と思ったのだが、選定された建物は敷地内に残る戦前の建物とのことであった。衛星写真で見ると、中央の管理棟にヘリポートがあり。そこを中心に、南北にV字の収容棟が延びており、その西側にそれっぽい建物が見えた。
拘置所と刑務所
ところで、上に東京拘置所と記したが、ここにくるまで小菅刑務所と思っていた。明治12年(1879)小菅に東京集治監が設置され、明治36年(1903)小菅監獄と改称、大正11年(1922)小菅刑務所となったが、その小菅刑務所は栃木の黒羽刑務所に移ったようだ。
その経緯は、巣鴨にあった東京拘置所が、昭和20年(1945)、連合軍総司令部(GHQに接収され、所謂巣鴨プリズンとして戦争犯罪人の収容所となる。そのため、東京拘置所が小菅刑務所に一時的に同居。平和条約締結(1952年)にともない、巣鴨プリズンは日本に移管。巣鴨に東京拘置所が復する。
その後首都圏整備計画の一環として昭和46年(1971)、東京拘置所が巣鴨から小菅刑務所の地に移り、それにともない小菅刑務所は栃木に移った、と。小菅は、受刑者を収容する刑務所の機能から、未決囚を収容する拘置所にその機能を変えた、というのが正確かもしれない。因みに、巣鴨の東京拘置所跡地はサンシャイン60の辺りである。
拘置所に懲役受刑者?
Wikipediaで東京拘置所の収容者の項目を見ていると、収容定員3,000名、未決拘禁者(刑事被告人)、死刑確定者(死刑囚)、懲役受刑者(本所執行受刑者及び他刑務所への移送待ちの一時執行受刑者)を収容する、とある。未決拘禁者1,281(女性75)、懲役受刑者は696名(女性43)といった記事もみかけた。
未決拘禁者はいいとして、また、刑務所への移送待ちの受刑者もいいとして、拘置所に受刑者?チェックすると、本所執行受刑者とは懲役受刑者ではあるが、刑務所に送られることなく、この拘置所に留まり簡易作業を行う受刑者のことのようだ。「刑務所」より「拘置所」のほうが、イメージがいい(?)。刑務官に「分類」された刑の軽い人達なのだろう。

差入店
面会者出入口の道路を隔てた向かいに「池田屋 差入店」とある。当日はシャッターの閉まったお隣と二軒が指定差入点とのことである。普段見ることのない用語ではある。

拘置所柵に沿って案内板が立つ
柵に沿って古隅田川の流路のある東京拘置所の西側に向かうと、柵の前にふたつの案内板があった。
東京拘置所と煉瓦工場
明治維新後に籾倉施設が利用され「小菅県庁舎・小菅仮牢」となり、廃県後は払い下げられ、民営によるわが国初の洋式煉瓦製造所が設立されました。
明治五年二月二十六日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火した火災により、銀座・築地は焼け野原と化します。政府の対応は速く、三十日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定されます。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道の終点に、西欧に負けない都市を造りあげようという意図もありました。 明治五年十二月、東京府はその製造を川崎八右衛門にまかせることを決定、川崎はウオートルスに協力を依頼し小菅に新式のホフマン窯を次々と設置し生産高を増していきます。
明治十一年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と命名(明治十二年四月東京集治監)、西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され、煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化を担っていきました。東京集治監で養成された優秀な煉瓦技能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚人煉瓦の最初でもありました。
小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞ケ関の女王であるレンガ建築の旧法務省本館、旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡等に使われ近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献してきたのです」
小菅御殿と江戸町会所の籾倉
東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(一六二四年~一六四三年)徳川家光が時の関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川の畔には鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(一七九二)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗の命により遊猟時の御善(私注:膳?)所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
寛政六年(一七九四)に取り壊された小菅御殿の広大な敷地の一部に。天保三年(一八三二)十二月江戸町会所の籾倉が建てられました。その目的は大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運の便がよかったこと、もちろん官有地であったことも条件の一つであったろうといわれています。
小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました」と。

なんの予備知識もなく、とりあえず古隅田川の流路へと向かうために偶々出合った東京拘置所であるが、関郡代の下屋敷、将軍家の小菅御殿、江戸町会所の籾倉、文明開化の象徴ともいえる「煉瓦」工場と、いくもの歴史のレイヤーが見えてきた。行き当たりばったりの散歩の妙である。

小菅稲荷神社
ふたつの案内板のある道を隔てた対面に赤い鳥居の小さな稲荷の社がある。 案内には「小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」」とある:
「小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、昭和に入り現在の地に移されたと伝えられます。稲荷神社の使い「狐」が御神体の両脇を固めています。狐が穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の使いになったのは、一般には宇迦之御魂神の別名が「御饌津神」(みけつかみ)であったことから、ミケツの「ケツ」が狐の古名「ケツ」に想起され、誤っ「三狐神」と書かれたためと言われています。
そして狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害虫を食べて小狐を養う)が、古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、狐が田の先触れ、五穀豊穣、稲の豊作を知らせる神の「お使い」として人々に定まっていきます。日本各地に「神の使い」狐の伝説が残されています。
小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。本殿の裏、こじんまりした庭の石山の根元には二つの穴があります。小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出できるよう空井戸を利用した抜け道があったと言います。
この抜け道を明治時代に入り不用なものとして埋めふさいでしまったところ、御殿跡地の政府の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に一匹の城狐が現れ、「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に棲んでいた狐一族の長老であるが、この程我らの住居を埋められ大変難渋しておる。速やかに穴を元に戻すように」と言い残して消えました。
そこで、速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています」とあった。

社にお参りを済ませ、本殿裏の狐の穴をみようとしたのだが、本殿は頑丈に施錠されており、入ることはできなかった。道端から見た、本殿裏の竹の下にあるのだろうか。

東京拘置所前交差点
道を西に進み首都高速中央環状線と合わさる交差点に。交差点南には「保釈金 お立替えいたします」といった「非日常的」な看板。北には東京拘置所入口。知らず写真を撮っていたら守衛さんに制止された。撮影禁止のようだ。
旧小菅御殿石灯籠
拘置所入口左手、敷地内に案内板が立っている。「旧小菅御殿石灯籠」とあり、案内板左手に石灯籠が見る。案内には:
「旧小菅御殿石燈籠 所在地;小菅1丁目35番地
現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩や鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後元文元年(1736)7月に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。 寛政4年(1792)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、敷地は幕府所有地の小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれました。
旧小菅御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠を置き宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われますが、削られて由緒は明確ではありまえん。旧御殿内にあったとされるこの石燈籠は、昭和59年(1984)に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました 葛飾区教育委員会」とあった。

脇には「石灯籠について」とする、東京拘置所による手書きの案内もあり、同様の解説が記されていたが、小菅御殿は奥州諸侯の送迎にも供されたこと、九代家重公御世継時代の養生所等にも使われたこと、明治12年の小菅監獄の敷地が7万坪に及ぶものであったこと、石灯籠は江戸初期の作、といったことが付け加えられていた。

古隅田川の水路
東京拘置所の西側、堤防手前の道路と拘置所の柵に囲まれて親水公園といった風情の水路がみえる。古隅田川の水路筋を利用した公園である。荒川放水路開削により流路断ち切られ、ために、一筆書きに進むことのできなかった古隅田川の流路であるが、ここから先、中川からの分岐点までは、足立区と葛飾区の境をひたすら進むことになる。
流路断ち切られたが故に、彼方此方へと大廻りし、ために、なんの知識もなかった小菅の地の歴史について、結果的には多くのことを知り得たのだが、メモが多くなってしまった。
今回のメモはここで終え、次回は足立・葛飾区境を「一筆書き」に進み中川までをメモすることにする。


先回、久万の町にある四十四番札所・大宝寺と四十五番札所・岩屋寺を繋ぐ遍路道のひとつ、「逆打ち・打ち戻しなし」のルートを、越ノ峠を越え有枝川、槇ノ谷の谷筋を辿り八丁の坂(茶屋跡)へと上り、数年前歩いた岩屋寺への尾根道と合流。遍路道のひとつを繋いだ。
返す刀で八丁の坂(茶屋跡)から山裾の車デポ地に戻り、次の目的地である千本峠越えに。四十四番から四十五番へと「巡打ち」した後、同じルートを「打ち戻る」途中から山地に入り、久万の町に再び戻ることなく、松山へと下る三坂峠方面に向かうルートである。当日は千本峠を越えて高野の集落に出たところで時間切れとなった。

今回の散歩は、千本峠越えの後半部と六部堂越を目す。千本峠後半は、先回の最終地点である高野の里からはじめ、ゆったりとした山里の道を辿り、槻ノ沢集落を経て国道33号まで下り、千本峠越えの遍路道を繋ぐ。国道33号に下りた地点で、思いがけず仰西渠に出合い、水路好きのわが身には、よきご褒美ともなった。

次いで六部堂越に向かう。「えひめの記憶」に久万から三坂峠に向かう遍路道のひとつであったと記されていたこと、そしてなにより、六十六部回国僧・遊行僧由来の「六部」という言葉に響きに惹かれて、誠にお気楽に向かったのだが、これが結構な難行。
「えひめの記憶」には、「『四國遍路だより』に「(六部堂越の道は)山頂(さんちゃう)の景色(けしき)は重巒雄大(ちゃうらんゆうだい)ですが、さして近(ちか)いこともありませず淋(さび)しい道(みち)です。大方(おほかた)は千本峠越(ぼんとうげご)えして松山街道(まつやまかいどう)に出(で)ます」とあるように、お遍路さんも絶えて久しくこのルートを辿っていないようで、現在は遍路道の案内も、ない。
河之内の集落から峠近くまで続く林道も、峠直前の沢部で切れ、後は藪漕ぎでなんとか六部越(峠)に這い上がることになった。結構な急斜面の沢筋のトラバースでもあり、躊躇しばしの末の決断ではあった。

峠から国道33号方面への下りは、国道>六部堂越>皿ヶ峰へと上る登山者のログも多く、まあいいか、とパスし、替わりになんとか六部堂越までの「スムーズなルートを繋げようと。
しかし、六部堂越は復路も楽をさせてくれなかった。峠から地図に破線で描かれる踏み分け道を下るが、それもすぐに消え、往路の林道に滑り降りる始末。誰の役に立つとも思えないが、こうとなれば虚仮の一念で、六部堂越までの「藪漕ぎ無し」ルートを見付けようと、林道と踏み分け道の組み合わせでなんとか峠と繋げた。
それにしても、道を覆い絶えることのない茨、道を塞ぐ倒木、茨と倒木の「通せんぼコラボレーション」に悩ませられた六部堂越であった。

これで、数回にわたってメモした、久万に入るいくつかの峠越えの遍路道、また久万から出て松山へと下る三坂峠に続くいくつかの遍路道も歩き終え、ルート完成。
ルートは繋いだものの、歩き疲れたお遍路さんが、古の遍路道ではないものの、体に優しい国道を歩かず、あえて峠越えの遍路道を歩くとも思えない。実際、峠越えでお遍路さんに会うこともなく、国道33号で見かけたお遍路さんに声をかけて乗車をお誘いする帰途となった。



本日のルート;
■千本峠越え■
(後半部)
高野集落の遍路道分岐:8時2分>槻ノ沢の2基の道標;8時11分>大除城の案内;8時16分>手印の道標:8時17分>馬頭観音と道標;8時25分>道標を土径に:8時29分>採石場;8時36分>久万川;8時42分>仰西渠:8時43分

■六部堂越■
(往路)
林道に車をデポ;9時55分(標高745m)>登山道分岐;10時16分(標高890m)>六部堂越えの林道分岐点;(標高940m)>峠直前で林道が消える;10時43分(標高1,000m)>六部堂越;11時27分(標高1,010m)
(復路)
登山道も消える;11時41分(標高1,000m)>林道からの踏み分け道も消える;11時時54分(標高980m)>往路の林道に滑り降りる;12時6分(標高940m)>峠との道を繋ぐ;12時15分(標高980m)>車デポ地に戻る;13時2分(標高745m)

■千本峠越え■
(後半部)

高野集落の遍路道分岐:8時2分
先回、危険個所ってどの程度のものか確認のため、通行止めの木標から先に進んだのだが、既に復旧工事は終わっているのか、落石可能性を避ける安全確保のためだけの通行止めであったのか、その因は不明だが、結局知らず高野の集落に出てしまった。そして集落から車道を下り土径に分かれる遍路道を確認し散歩を終えた。
本日の散歩はその分岐点から。国道33号を久万の町に。そこから県道12号に乗り換え、峠御堂トンネル手前、「高野展望台」の案内が立つ分岐を左に折れ高野集落に。遍路土径分岐近くのスペースに車をデポし散歩をスタート。

槻ノ沢の2基の道標;8時11分
しばし畑地脇を進んだ後、杉林に入る。杉林を抜けると槻之沢(けやきのさわ)の集落に出る。一面の霧の中、棚田がうっすら見える。千本峠を越える手前の棚田は人の手が入っておらず、草茫々で荒れ果てていたが、この集落の棚田は水が満々と張られ、杉林を出たところに立つ2基の道標に美しい霧の借景を与えていた。

大除城の案内;8時16分
土径を下ると道脇に「大除城の跡」の案内。「大除城は、天文年間(1532-1554年)に、道後湯築城主の河野氏が、土佐の長曽我部一族の侵入を防ぐためにこの前方の山頂に築いたものです。以降、城主の大野氏は3代にわたり繁栄しましたが、天正13年(1585年)に秀吉の命を受けた小早川隆景軍に河野氏が降伏し、大除城を明け渡したのです」とある。
次第に晴れてきた霧の先に、周囲からちょっと抜け出た山が見える。標高694.2mピークの山が大除城山だろう。

手印の道標:8時17分
大除城の案内の直ぐ先に手印だけの道標が立つ。特に道の分岐もないのだが、先ほどの大除城の案内の直ぐ傍でもあり、昔は大除城山方面、というか槻ノ沢集落への分岐道でもあったのだろうか。







馬頭観音と道標;8時25分
土径を下り車道に出たところに木標があり、その傍にささやかな馬頭観音と並んで道標が立つ。
「えひめの記憶」には「遍路道が車道と合流した地点に馬頭観音が祀られており、その横に道標がある。ここで遍路道は二つに分かれる。一つは、ここで右折して大除城址の左側の山麓を回って久万川に向かって緩やかに下っていく道であるが、この道の大半は消えている。もう一つは道標からそのまま直進する道である」とある。
上の手印道標のところで、大除城山・槻ノ沢集落方面への土径分岐でもあったのでは?などとメモしたが、昔にこの車道があったわけもないだろうから、強ち間違いでもなさそう、かと。

道標を土径に:8時29分
車道を少し下ると、道の右手に道標があり、遍路道は右に折れ土径を下ることになる。「えひめの記憶」には「道の右端に道標あり、順路・逆路に加えて、菅生山・久万町道を指示している。ここから左折すれば大宝寺参道の中之橋に至る脇道となる」とある。
左手の耕地に向かう道は見えるが、特段道筋といったものわからないが、国土地理院2万5千分の一地図を見ると車道をもう少し下った辺りから、久万の町を結ぶ線が見える。道路改修で昔の道筋が消えたのだろうか。よくわからない。 ともあれ、道を右に折れ農家の作業小屋など、のどかな土道を進む。右手には砕石場と岩肌がむき出しになった山が近づく。大除城山ではあろう。

採石場;8時36分
4月中旬ではあるが、いまだ残る桜を眺めながら土径を進むと砕石場ゲート辺りで車道に合流する。「えひめの記憶」には「採石場のある山の裾(すそ)近くで道の一部が消えている。その消えた道の先に残る五反地で、大除城址の山麓から下ってきた道と合流して50mほど進むと道端に道標がある。久万川左岸にあったものを、川の改修工事の際に移設したと地元の人は言う」とある。
当日は、遍路道と車道が合流した辺りを探したのだが、道標は見つからなかった。先ほど馬頭観音の車道にでたところで、「ここで右折して大除城址の左側の山麓を回って久万川に向かって緩やかに下っていく道であるが、この道の大半は消えている(「えひめの記憶」)」とあったが、ひょっとする道標はその山麓を廻る道筋にあるのかもしれない。地図には大除城山の山麓をぐるりと廻る道筋がみえる(Google Street Viewでは確認できなかった)。

久万川;8時42分
車道を下り久万川に出る。橋の北詰めに大除城の案内。さきほど棚田で見た案内より詳しく説明されている。「大除城 大除城址は中世の山城である。標高694m、麓からの比高は約150m、南北に流れる久万川が裾野をめぐり、土佐街道(現国道33号)が膝下を通る要害の地にある。
遺構は、中予地方を代表する城に相応しく、大規模で堅牢である。三方の険しい地形にそびえ立ち、北方のみが尾根によって背後の山と続いている。本丸跡と推定される最頂部の郭(郭Ⅰ)は、長辺約30m、短辺約18mの方形をなし、周囲は石垣によって固められている。郭Ⅰから南西方向に数mずつの段差を隔てて郭Ⅱ、郭Ⅲに続くが、これら郭の側*面にも石積の跡を確認することができる。
郭Ⅱの下の郭Ⅳには東側に小規模な空間があり、虎口であったと考えられる。 郭Ⅰから南東方向には三角形の腰郭(郭Ⅴ)が設けられ、その下に郭Ⅶがある。 郭Ⅶの北側石積から北東斜面に上り、石垣が続いている。郭Ⅰから北方に降って背後に続く尾根道の鞍部には堀切が設けられて守りを固めている。 「予陽河野家譜」には、土佐一条氏の侵入を防ぐために河野氏が築城し、喜多郡宇津城(私注;小田村、現在の内子町)主大野安芸守直家に守らせたと記されてある。築城年代は明らかではないが、文亀元年(1501)前後であるとも推定されている。寛正五年(1464)に久万山入道というものが築城したという庄屋記録があることから、小規模な砦の跡へ築城したとも考えられる。
天文年間には直家の子利家が河野氏にそむいて小手ヶ滝城、大熊城(ともに川内町)の戒能氏を攻め、永禄年間には土佐一条氏が久万山に侵入したのを、利家の子直昌が防いだという(予陽河野家譜)。
直昌は武勇にすぐれ、土佐長曾我部氏に対抗する山の手の旗頭として河野氏の重鎮であった。その幕下は48騎、41箇城といわれ、大除城を中心に、三重の円陣を描き予土国境に向かって展開していた」とあった。
大野氏
大野氏は旧小田町、現在の内子町といった土佐国境地帯に勢力を持つ「山方衆」の有力武将であり、守護である河野氏からも半ば独立したスタンスを示していた。一族には河野氏と敵対する宇都宮氏や長曽我部氏と結ぶものあり、また、河野氏の勢威が盛んで、権益が侵されないときは臣従するも、河野氏が弱体すすると上述の如く、山を下り河野氏に叛乱をおこすこともあった、とか。 その中で、直昌は河野氏の宿将として、土佐一条氏、毛利氏、三好氏、伊予宇、宮氏、長宗我部氏などの侵攻をたびたび撃退し、衰退した河野氏を支えたとのことである。

仰西渠:8時43分
久万川に架かる橋を渡ると「仰西渠」の案内。「手づくりの水路"仰西渠" 仰西渠は、元禄年間(1688‐1703)に、山之内彦左衛門(後に仰西という)が私財を投じて完成させた注目すべき水路で、青の洞門(大分県本耶馬渓)にも匹敵するといわれております。
この水路のおかげで、農業用水の確保に苦しんでいた農民が、どんなに助かっか言うまでもありません。
長さ57m・幅2.2m・深さ1.5mのこの水路は、現在も当時の姿のまま、利用されています。昭和25年10月10日県の史跡に指定されています」とある。

案内脇に水路が流れており、岩を掘り抜いた隧道も見える。水路に沿って取水口まで辿り、自然の岩を活用した余水吐けなどを見た後国道33号に出ると、記念地とともに詳しい案内があった:
「江戸時代に山之内彦左衛門(後の仰西)が、水田に水を引くことができず困っていた農民を救うために私財を投じて作った農業用水路で、長さ57mで幅2.3m、深さ1.5mあり、下流25haの水田を潤した。固い岩盤をノミと槌だけで切り開いており、県指定史跡となっている。現在も当時のままの姿で田畑を潤しており、潤いと安らぎをもたらすものとして地元の方々に親しまれている。 ここを流れる用水路が造られた江戸時代は、米は年(税)として武士におさめる大切なものでした。人々は、とても重い税のために、なんとかして水田を広げて、コメのとれ高を増やそうと努力しました。
入野地区のような、やや高いところへ水を引くには、久万川のずっと上流のこの地から用水路を引くしかありません。
最初、人びとは、川の上流に堰を造り、固い岩山のところは筧(かけひ)をつかって水を引こうとしたようですが、筧は台風や大雨、強風などでこわされたり、流されたりすることが多かったようです。修理する費用や時間もなく、水がなければ稲が育たなくなってしまいます。人びとの暮らしは大変苦しいものだったようです。
人びとの苦しい生活を見かねた山之内仰西は、用水路を造り、入野地区まで水を引こうと考えて、かたい岩山を切り開く工事にとりかかりました。
はじめは、仰西や石工だけで行っていましたが、「石粉一升、米一升」のアイデアにより村人の協力がえられました。そのうちに米をめあてにしていた人も、心から水を求めて仕事に取り組むようになり、ついに用水路は完成しました。この後は、コメの取れ高も安定し、暮らしはずっとよくなったそうです。

その後、人びとは、この用水路を「仰西渠」と呼ぶようになりました。「仰西渠」は山之内仰西や地域の地人々の「郷土を思いやる心」がひとつになって、造ることができた用水路です」。

散歩をはじめていくつの手堀りの用水に出合っただろう。箱根の深良用水荻窪用水、足柄の山北用水、愛媛でも丹原の劈巌透水路や志川堀抜隧道など枚挙に暇ない。水を求める先人の努力は散歩をはじめるまで、全く知らなかったことである。
また、農民、商人普請の用水開削の記録は残らず、あまつさえ罪を問われるケースが目についた。お上としては農民・商人のその功を認めたくなかったのだろうか。

これで千本峠越えを国道、かつての旧土佐街道まで繋いだ。来た道を車デポ地まで折り返し、次の目的地である六部堂越に向かう。


■六部堂越■

(往路)
林道に車をデポ;9時55分(標高745m)
車デポ地の高野の集落から県道12号に折り返し、峠御堂トンネルを抜け、河合の集落で県道209号に乗り換える。有枝川の開いた谷筋を北に進み河之内の集落県道を左折し、集落の中の道を進む。
地図には林道らしき道筋が、六部当堂越の近くまで記載されている。ピストン行の関係上、車を寄せられるところまで進もうと、いくつか蛇行を繰り返すが、ペアピンカーブを越えたとここで舗装が切れる。スペースに車をデポし、六部堂越スタート。

登山道(?)分岐;10時16分(標高890m)
周囲も開け、左手に沢を見ながらの散歩である。林道を20分ほど進むと右手に踏み分け跡がある。実のところ、往路ではこの踏み分け跡を見落とし、知らず林道を先に進んでいた。
後述するあれこれの顛末があり、復路に登山道を上り峠に辿りつくルートはないものかと地図を注意深くチェックし、この箇所から峠に繋がる破線を確認。登山道かとも思い入ってみるが、直ぐに沢に出合い、その先に踏み分け跡は見当たらなかった。沢を渡り、どこかにルートがないものかと探したのだが、完全に消え去っていた。


六部堂越えの林道分岐点;(標高940m)
登山道分岐点(消え去っていた)を過ぎると林道が荒れてくる。茨が道を覆い腕や体に刺さり難儀する。登山道分岐から940m等高線に沿って少しすすむが、その後は緩やかではあるが等高線に垂直に林道を進む。結構林道分岐もあり、GPSでもなければ不安になるだろう。
林道も荒れてくる。茨だけでなく倒木も相まって結構大変。標高930m辺りでは、もう滅茶苦茶。その先標高940m辺りで右に林道が分かれる。これも後の話ではあるが、この直進する林道が復路峠との道を繋いだ林道である。地図に記載された林道が消える、ちょっと先といった辺りであった。

峠直前で林道が消える;10時43分(標高1,000m)
地図に林道表示はなくなるが、それでも分岐の先に林道が続く。荒れている分岐林道を進むことなく、「より少なく悪い」条件の林道を左折し、北東に突き出る尾根筋(標高980m)の突端部に。そこでも林道が分岐するが、なりゆきで尾根筋を進む林道を標高1,000mまで上ると、林道は等高線1,000m辺りを進む水平道となる。
激しい茨に遮られながら林道を進み、この分なら峠(六部堂越)まで林道が続く?などと期待しながら進むが、道は峠直前でスパッと消える。峠までは数十メートルもないだろう。

六部堂越;11時27分(標高1,010m)
切れた道の先は緩やかではあるが等高線がこれ込んだ沢筋となっている。六部堂越はその谷筋を上りきったところにあるようだ。道が切れた箇所から水平にトラバースしていけば峠に着くように見えるのだが、峠までの沢筋は倒木と藪で難儀しそう。
しばし逡巡。足元の悪い沢を藪漕ぎトラバースするか、林道から尾根筋に這い上がり峠に向かうか、結構悩む。で、結局尾根道を選択し、取りつき口を探し尾根に向かって這い上がってはみたのだが、尾根筋に踏み分け道もなく、藪も激しく一旦林道に戻る。
一度は撤退と林道を下り始めたのだが、ここで諦めるべからずと思い直し、結局林道の切れた箇所から沢の斜面に取りつき、GPSの峠位置情報を頼りに力任せで峠手前の尾根筋に這いあがる。
尾根をちょっと下ると左手に下から上る道が見えた。国道33号から六部堂越に上る登山道だろう。その道に下りると右手に踏み分け道があり、「六部堂 皿ヶ嶺」の木標が立っていた。

本来なら峠から国道33号まで道を下るのだが、その道は木標にあるように皿ヶ嶺の登山ルートとなっており、多くのルート図もあるようなので、ここから折り返す。国道に下りるにかかるであろう時間を使い、往路で難儀したルートではない、六部堂越に続く「スムーズ」なルートを繋ごうとの想いであった。

(復路)
踏み分け道も消える;11時41分(標高1,000m)
六部堂越から下る踏み分け道を探す。地図に描かれる破線に沿って踏み分け道がある。これはラッキー、これで道を繋げることができる、と思ったのも束の間、踏み分け道が切れ、その先も進めそうもない。






林道からの踏み分け道も消える;11時時54分(標高980m)
さてどうしたものか。と、下に林道が見える。踏み分け道と林道の間は数メートル離れでいるが、林道に滑り降りる。
そこから林道を進むが、地図の破線部からどんどん離れてゆく。道を破線部に戻ると、そこから右手にかすかな踏み分け道が下りている。これで安心。と思ったのだが、その道も消えてしまう。またまたどうしたものか、と悩む。

往路の林道に滑り降りる;12時6分(標高940m)
GPSの地図には往路上った林道ログが40mほど下に見える。が、急斜面を滑り下りる必要がある。先ほど出合った林道に戻れば往路の林道に繋がるように思うのだが、地図には記載されておらず、あらぬ方向に連れて行かれるかもしれない。
ちょっと悩んだ末、往路の林道へと沢筋の急斜面を滑り降りることにした。足元に気をつけながら、倒木を乗り越えなんとか林道に復帰。下りた箇所は上述「六部堂越えの林道分岐点」の直ぐ傍であった。

峠との道を繋ぐ;12時15分(標高980m)
林道に復帰したのだが、目標とした六部堂越まで「スムーズ」に上るルートが繋がっていない。上で、「六部堂越えの林道分岐点」とメモしたが、この時点では六部堂越に繋がっているかどうかわかるはずもないのだが、それはともあれ、この分岐林道を辿れば、先ほど峠からの踏み分け道の行き止まり地点で出合った林道に繋がっているのではと道を上る。
これまた激しい茨と倒木。勘弁してくれ、と思いながら、それ以上に誰の役にも立つわけもないのに、とも思いながら進むと、踏み分け道から林道に下り、そこから下に続く踏み分け道の箇所に到着。林道と踏み分け道の組み合わせではあるが、「スムーズ」に六部堂峠ルートが繋がった。

車デポ地に戻る;13時2分(標高745m)
これで本日の散歩は終了。前述の如く、登山道を辿っての「スムーズ」なルートはないものかと、辿りはしたものの道は消えており、地図にある破線を辿っての峠に辿るルートはないものと「納得し」、車デポ地に戻り家路へと急ぐ。
これで久万の札所に入る二つの峠ルート、久万の札所の「逆打ち・打ち戻しなし」ルート、久万から松山の札所に下る御坂峠へと抜けるふたつの峠道をカバー。次回の遍路道はさて、どこにしようか。
先日内子から久万の第四十四番札所・大宝寺と第四十五番札所・岩屋寺を結ぶ遍路道、下坂場峠・鶸田峠越えのルートと真弓峠・農祖峠越えのふたつのルートを辿った。
下坂場峠・鶸田峠越えは基本的に第四十四番札所に向かうことになるが、真弓峠・農祖峠越えは久万の町手前で第四十四番札所・大宝寺と第四十五番札所・岩屋寺に向かう道に分かれる。第四十四番札所・大宝寺に向かう遍路道は巡打ちで第四十五番札所・岩屋寺に辿り、そこから10キロ弱を大宝寺方面へと「打ち戻り」、久万を離れ第四十六番札所・浄瑠璃寺のある松山へと三坂峠を下る。
一方、真弓峠・農祖峠を越えて四十五番札所・岩屋寺に向かう遍路道は、巡礼の順序が四十五番から四十四番と「逆打ち」ではあるが、同じ道を「打ち戻る」ことの少ない遍路道である。
先回真弓峠・農祖峠を越えた時、計画ではそのまま「打ち戻し」のない遍路道を辿って越の峠を越え、四十五番札所・岩屋寺へ向かう尾根筋の八丁の坂(茶屋跡)まで道を繋ごうとしたのだが時間切れとなった。

今回の散歩はその続き。先回の最終地である久万高原町上野尻から久万川を渡り「越の峠(こしのとう)」を越えて菅生の谷に下り、有枝川の谷筋から槇谷川の谷筋を上り、槇谷の集落から山道に入り水峠から八丁の坂へと上り道を繋ぐ。 道を繋ぐ、の意味合いは、数年前、第四十四番札所・大宝寺から第四十五番札所・岩屋寺へと辿ったとき、八丁の坂(茶屋跡)から岩屋寺に続く尾根道を既に辿っているため、岩屋寺への「打ち戻しなし」のルートを繋ぐことができた、ということである。
今回も、常の如く車での単独行であり、水峠・八丁の坂からピストンで戻り、車をデポした槇谷の集落に下りたのが12時頃。当日の計画では、下山の時間次第ではあるが、久万の札所から三坂峠へと向かう遍路道である千本峠も越えることにしていた。全部は無理にしても峠までは、なんとか行けそうだ。

「えひめの記憶」に拠れば、千本峠越えは、第四十五番札所・岩屋寺から第四十四番札所・大宝寺へと「打ち戻る」途中、有枝川に西からの流れが合流する「河合」の集落から県道を少し峠御堂(とおのみどう)方面に戻る。そこから山に入り、高野、槻(けやき)之沢集落を経て国道33号へと下る、とのこと。 途中遍路道は落石で崩れているとあり、迂回し車道と繋ぎピストンで車デポ地に戻ったのだが、崩壊の状況だけでも見ておこうと遍路道を進むと、道は復旧されているようで、知らず高野の集落に着いてしまった。その先、車道から土径に折れる遍路道を確認しデポ地に戻った。
そこで時刻は3時半。家に戻る時間を考えると、高野から土径に入る遍路道を辿り国道33号を繋ぐ時間はない。残りは次回のお楽しみ、ついでのことでもあるので、その時には久万から三坂峠へと向かう遍路道のひとつ六部堂越えも組み合わせてみようと思う。



本日のルート;
「逆打ち・打ち戻しなし」の遍路道を八丁坂(茶屋跡)と繋ぐ
久万川>宮の前の道標>土佐街道を進む>越ノ峠>県道153号と209号分岐点>遍路道の案内>有枝川の左岸を下る>槇谷川右岸を上る>槇谷のお地蔵さまと道案内>槇谷の道標
●尾根に上る
遍路道に入る;10時51分>山道に入る:10時56分(標高592m)>植林帯を抜ける;11時13分(標高700m)>水峠;11時19分(標高756m)>八丁坂(茶店跡);11時27分(722m)>車デポ地に折り返し;12時

千本峠越え
(前半部)
千本峠入口;13時11分(標高560m)>林道と分かれ遍路道に;13時18分(標高589m)>千本高原分岐;13時20分(標高596m)>棚田跡の道標;13時33分(標高702m)>三叉路に道標とお地蔵さま;13時37分(標高722m)>千本峠;13時40分(標高737m)>道標;?時45分(標高722m)>通行止めの木標;13時51分(標高654m)>車道に;13時55分(標高596m)>通行止め木標から高野に向かう;14時5分(標高654m)>高野集落の道標;14時13分(標高725m)>高野休憩所;14時15分(標高737m)>県道12号に戻る;15時25分



■「逆打ち・打ち戻しなし」の遍路道を八丁坂(茶屋跡)と繋ぐ■

農祖峠から四十四番札所への「逆打ち」遍路

久万川

先回真弓峠・農祖峠から久万の町に入った最終地、久万川手前の道標のあった民家を見遣りながら久万川を越える。「えひめの記憶」には「橋台だけが川に残る」とあるが、道標から先、旧街道(土佐街道)が久万川を渡ったであろう箇所を見るが、それらしき遺構を見つけることはできなかった。
久万あれこれ
久万川は仁淀川水系の川。三坂峠を分水界として山地からの水を集め南に下り、落合で二名川と合わさり東に流れを変え、久万高原町上黒岩で面河川に合流し仁淀川となって下ってゆく。
久万高原町は平成16年(2004)、上浮穴郡久万町、面河村、美川村、柳谷村が合併してできた町。面積は県内市町村で最大である。久万の地名は、名物「おくま饅頭」にその名を残す「おくま」婆さん、三坂峠を越えてきた旅の僧・弘法大師をお饅頭でもてなした「おくま」婆さんに由来する、とも言われる。 お話としては面白いが、実際のところは、この久万高原町、仁淀川上流域一帯が室町の頃より、「久万」と呼ばれていたことに由来するのが妥当なところだろう。
「くま」とは、紀州の熊野と同じく、「山と山に挟まれた奥深いところ、隈」の意、であろうか。そうであるとすれば、『紀伊続風土記』によると、「熊野は隈にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱なるを以て名づく」、つまり、鬱蒼たる森林に覆い隠されているためという。あるいは、死者の霊がこもる場所とも解釈される。
また、五来重氏によれば;死者の霊魂が山ふかくかくれこもれるところはすべて「くまの」とよぶにふさわしい。出雲で神々の死を「八十くまでに隠りましぬ」と表現した「くまで」、「くまど」または「くまじ」は死者の霊魂の隠るところで、冥土の古語である。これは万葉にしばしば死者の隠るところとしてうたわれる「隠国」とおなじで熊野は「隠野」であったろう。熊野は「死者の国」である、とする。
現在は道路が走り、人の往来も容易になってはいるが、往昔の久万は、山川幽深樹木蓊鬱な一帯ではあったのだろう、とは思うが、どうしたとことで素人の妄想解釈ではある。

宮の前の道標
川を越えた先の旧街道は寸断されているとのこと(「えひめの記憶)。成り行きで進み「えひめの記憶」に宮の前集落の外れにあると言う道標を探す。と、集落端に県道153号から左に入る土径があり、その分岐点に石垣と同化したような道標が立っていた。

土佐街道を進む

県道にスペースを見付け車をデポし土径を進む。遍路道の案内はない。土径はすぐに旧県道や県林業研究センターと繋ぐ舗装道で切れるが、その舗装路の先、一直線に峠に向かう新設されたバイパス県道脇に、草の繁った道筋が見える。そこに入ると「土佐街道」との木標があった。
左上に蛇行して進む旧県道、右に一直線に進む改修された広い県道を見遣りながら進むと、土径はほどなく改修されたバイパス県道に「吸収」され消え去る。後は峠まで改修された広い県道を進む、のみ。

越ノ峠
新設工事で法面補強がされ、「越ノ峠(こしのとお)」から感じる趣からは程遠い、さっぱりした峠に到着。車デポ地から70mほど高度を上げたことになる。「えひめの記憶」には、「(遍路道は)峠近くで蛇行してきた県道(私注;旧県道)と合流するが、その手前50mほどの所で、美川村に向かうもうほとんど消滅に近い旧街道と分岐する。その分岐点に道標が立つ」、というが、バイパス道路で開削され道も消え、道標も移されたのだろうか、結構周囲を彷徨ったのだがその痕跡、道標はみつからなかった。
土佐街道
道標を探すため峠から南へ延びる林道にも入った。メモの段階でチェックするとその道筋は往昔の土佐街道に重なる。久万の町から越ノ峠に上った土佐街道は南に山稜を150mほど上げ、標高700mの「はじかみ峠」に進み、そこから東に有枝川に下り、そこからに西に2キロ上り「色の峠(標高650m)」に達する。色の峠から東に程野の谷に下り、谷筋を南東に下り面河川に面する七鳥に進む。 熊野神社脇の木橋で面河川を渡り対岸の高山、蓑川の谷筋、そして稜線を辿り標高1100m猿楽岩を経て予土国境を越え雑誌山の北の稜線を水ヶ峠へと向かい仁淀川に注ぐ土居川の土居の集落、または土居川が仁淀川に合流する大崎の集落へと下りて行ったようである(「えひめの記憶」)。
本筋からは全く関係ないのだが、街道を地図で辿るのは誠に楽しい。往昔人々が往還したであろう姿を想う。かつての往還は崩壊の危険の多い川筋を避け尾根筋を進むのが基本。往還道が川筋を通れるようになるのは、土木工事の技術が発達する近世以降を待つことになるようだ。

県道153号と209号分岐点
峠から改修前の旧県道をデポ地まで戻り車をピックアップし車で越ノ峠を越え、かつての中野村(現在は久万高原町菅生)に向かって下る。「えひめの記憶」には、「すぐに再び県道を右にそれ、下りの野道を100m余り行くと道標が立つ」とあるが、見つけることはできなかった。
少々の心残りを感じながら道を下ると北へと前述河合の地へと向かう県道153号と209号が分岐する箇所に。未だ谷底まで下りきっていないこの地に、谷を背にしていくつかの顕彰碑が建つ。バス停に「中野村」の名が地図にある。昔の村名の名残を残しているのだろうか。

遍路道の案内
「県道209号 美川松山線45番岩屋寺 日の出橋経由槇谷歩きルート」の案内に従い分岐を右に折れるとすぐに「遍路道」の案内。久万川からここまで何もなかったのが、唐突に現れた。
地図から見るに、すぐに県道に当たるとは思うのだが、とりあえず車をデポし土径の遍路道を下る。直線に下る坂の道はすぐに県道にあたり、傍にお地蔵さまが佇んでいた。
民家の中を抜ける県道に遍路道の案内は見当たらない。デポ地に戻り車をピックアップし大きくカーブする県道を進み、遍路道との合流点を見遣り有枝川の谷筋に下り切る。

有枝川の左岸を下る
有枝川に架かる橋を渡り、県道は有枝川の左岸を1キロほど下り、道の右手に祀られる道祖神やお地蔵さまにお参りし先に進むと、槇谷川に架かる日の出橋に出合う。
「えひめの記憶」には、日の出橋の手前山側に道標があるとあったが、見つからない。日の出橋辺りは大規模な河川改修工事が行われており、その影響でどこかに移されたのだろうか。
それはともあれ、日の出橋の橋桁はなかなか趣のあるものであった。道標を探して彷徨った故のお土産である。
有枝川
有枝川は皿ヶ嶺の山麓より流れ出し南に下り、上述の河合を抜けこの地に至り、更に南下して、河合で久万川に合流する。その少し東は久万川が面河川に合流し仁淀川と名前を変える箇所である。皿ヶ嶺への谷筋は次回予定の六部堂越えの道筋でもあった。

槇谷川右岸を上る
橋脇にある「遍路道」の案内に従い、日の出橋北詰を左折し槇谷川の谷筋に入る。杉林の中、一車線の道を進み槇谷の集落に向かう。



槇谷のお地蔵さまと道案内
集落手前、道の左手にコンクリート被覆されたお地蔵さまと道案内がある。道案内は槇谷林道改築記念碑に刻まれ、大宝寺から中之村、岩屋寺の距離が刻まれる。林道完成は昭和48年と刻まれるが、距離は「丁(私注;約109m)」で表されていた。何となく面白い。

槇谷の道標
集落に入り道の右手、今は使われてはいない建物の前に自然石の道標がある。「えひめの記憶」にある槇谷公会堂前の道標がこれだろう。


□尾根に上る□
遍路道に入る;10時51分
公会堂の先、道の左手にある古き趣の曾鵞(そが)神社にお参りし、舗装された道を進むと最初のカーブ左手に遍路道の案内。車を神社まで戻しスペースにデポし、ここから八丁坂への遍路道を上ることにする。

舗装道を離れ沢に沿って土径を進む。しっかりとした石垣の組まれた廃屋跡を見遣り、一度舗装道に出るが、遍路道はそのまま一直線に進み道脇に石仏が佇む先で舗装道に出る。舗装道はここで行き止まり。ここからは八丁坂への山道に入ることになる。

山道に入る:10時56分(標高592m)
山道に入る手前に案内があり、水峠(みずのとう)まで710m、水場〈905m〉、八丁坂(茶店跡)1,180mとある。
石垣の組まれた数件の廃屋横の道を進み、木々に覆われた沢に沿って進む。道の要所に遍路道の案内があり迷うことはない。

植林帯を抜ける;11時13分(標高700m)
上り始めて20分ほど、沢から離れ標高700m辺りになると植林地帯を抜け、周囲が開ける。木々も自然林となり明るい道を上る。



水峠;11時19分(標高756m)
更に5分ほど歩き標高を50mほど上げると平坦な場所にでる。道脇に石仏が佇む。標識はないが、ここが水峠(みずのとう)だろう。地形図を見ると南東に平坦地が突き出ており、そこから尾根筋が落ちていた。

八丁坂(茶店跡);11時27分(722m)
水峠からは750m等高線に沿って北に向かう。途中ささやかに水の流れる沢があったが、そこが「水場」だろう。岩屋寺への尾根筋を右手前方に見ながら、最後の少し緩やかな坂を下った先に、大きな石碑や石仏そして道標が立つ。 石碑には「遍照金剛」と刻まれ、手印のついたしっかりした道標、そして3基の舟形丁石が立つ。丁石には「廿二丁」「従是岩屋迄十九丁」「いわやへ十九丁と刻まれる(「えひめの記憶」)。ここが八丁坂である。
「八丁坂の茶店跡」
「45番岩屋寺1.9km 44番大宝寺7.0km」と書かれた木標の脇に案内; 「八丁坂の茶店跡 ここは野尻から中野村を経て槇ノ谷から上がる「打ちもどり」なしのコースとの出合い場所です。槇ノ谷は、昔、七鳥村の組内30戸程の人たちが、この道こそ本来のコースでることを示そうとの意気込みをもって、延享5年(1748)に建てた「遍照金剛」と彫った大石碑が建っている」とある。
案内文ママのものであるが、いまひとつ文意がはっきりしない。「打ちもどり」なしのコースとの出合い場所までの遍路道は、今回辿った道であり、その通りであるが、それ以下がわからない。ぱっと読むと「遍照金剛」と彫った大石碑が槇ノ谷に立っているのかと思うのだが、「えひめの記憶」に拠ると、この地に立つ3mほどの大きな石碑がそれである、とのこと。「槇ノ谷」を「槇ノ谷からのコース」とすれば文意は通じそうかと思う。
八丁坂
八丁坂は北の谷筋にある八丁坂の入口からこの地に上る急登のことである。距離は700mであるから距離 を示す8丁(1丁;109m)なのか、胸突き八丁なのか、どちらだろう。
無財七施 遍路五施
石仏でも石碑でもないのだが、槇ノ谷からの遍路道が八丁坂から上ってきた道と合わさるところに立つ木標に書かれている「無財七施 遍路五施」のフレーズが気になった。
「無財七施」はいつだったか足立の炎天寺で知り結構気に入ったフレーズ。お賽銭といった、形あるお布施もいいが、言葉や心など形のないもの、無財のもので施せば施すほど心が豊かになるということだが、その無財の七施(雑宝蔵経)とは
1.眼施:やさしい まなざし いつも澄んだ清らかな眼で人を見よう
2.和顔悦色施:にっこりと笑顔 ほほえみのある顔こそ最高
3.言辞施:親切なひとこと 人を傷つける言葉 いわなくてもいい言葉をつかっていないか
4.身施:きちんとしたおじき みなりをきれいにする
5.心施:あたたかいまごころ 真心をこめる
6.牀坐(しょうざ)施:ここちよい憩いの場 いま自分が坐っている場所をきれいにする
7.房舎施:ここちよいもてなし 家の周辺をきれいにする
ということだが、「へんろ五施」として;身施・和顔施・言施・眼施・心施と木標に書かれてある。遍路行で心すべきことということだろう。

岩屋寺への尾根道
遍路道はここから杉の木立の中、馬の背を越え尾根道を辿る。「岩屋寺まで1.9キロ」といったところである。アップダウンを繰り返し、時に南に開ける場所から山並みを眺め、道脇の木の根っこや路傍に佇む石仏を見やりながら進む。標高のピークは750m程度であるので、快適な尾根歩きではある。峠の茶屋跡からおおよそ30分で750mピークに到着。ここからは岩屋寺のある標高580m地点に向かって下ることになる。

車デポ地に戻る;12時
八丁坂(茶屋跡)から先、岩屋寺に向かう尾根道は一度歩いているので、「打ち戻しなし」の遍路道を繋ぐ散歩は八丁の坂(茶屋跡)でお終い。来た道を下り返し車デポ地に戻る。時刻は?時頃であった。上り下りそれぞれ30分程度といったものであった。


■千本峠越え■
(前半部)
千本峠越え(全行程)

四十五番・岩屋寺から四十四番札所・大宝寺へと「逆打ち」とはなるが、「巡打ち」による「打ち戻し」のない遍路道を繋ぎ、次は「打ち戻し」の遍路道を久万の町まで戻ることなく、三坂峠への道を繋ぐ千本峠越えに向かう。 四国八十八カ所霊場の普及に貢献した真念にしてもそうだが、多くの遍路は久万の町まで打ち戻っている。どの程度のお遍路が千本峠を抜けたかよくわからないが、とりあえず道を繋いでおこうと思う。

千本峠入口;13時11分(標高560m)
槇ノ谷から来た道を戻り、国道33号を少し北に戻り県道12号に乗り換え札所四十四番・大宝寺傍の峠御堂トンネルを抜け、右手に有枝川の刻んだ谷を見下しながら坂を下り河合の集落に。
かつては?軒もの遍路宿があり一晩に300人もの遍路が泊まったという集落に千本峠への案内などないものかと彷徨うが、特に何もない。仕方なく、地図に記載された、千本峠への登山道らしき「実線」が県道と繋がる箇所に向かうと「遍路道」の案内があった。一安心。木標には「高野 1.7km」とあり、千本峠を越えた先の集落である高野までそれほどの距離はない。これも一安心。道脇の広いスペースにデポし、千本峠越えに入る。

林道と分かれ遍路道に;13時18分(標高589m)
植林の中、わりと広い林道といった道を進む。右手には惣津谷の流れが見える。杉木立の中を?分弱進むと右手に遍路道の案内があり、右に分かれる土径に入る。「河合 0.6km 高野 1.3km」の木標を見遣り先に進むと、道は狭くなった惣津谷の沢を渡る。



千本高原分岐;13時20分(標高596m)
惣津谷を右岸から左岸に渡ったところに「高野 1.2km 千本高原キャンプ場 0.5km」の木標があり、その傍に「開拓の地 千本高原 千本高原は今から千数百年前に開拓され、畑野川開拓の第一歩をしるした所です。今では夏大根やりんごなど高原特有の作物が栽培され、またハイキング・キャンプ場として大いに利用されています」との案内板があった。
右に向かえば千本高原、遍路道は惣津谷の左岸を進む。谷は狭くなるが水量は結構多く、滑状の小滝なども見える。

棚田跡の道標;13時33分(標高702m)
7分ほど歩き「高野 1㎞ 河合 0.9km」の木標が立つ辺りから空が開け、前方に棚田跡が見えてくる。手入れはされておらず雑草に覆われている。道脇の「四国の道」の石標などを見遣りながら土径を上ると、棚田跡が切れる辺りの三叉路に木標が立つ。「高野 0.9km 河合 1km 千本高原キャンプ場 0.8km」と書かかれたその木標の立つ三叉路山側に遍路道標があった。周囲に同化し、注意しなければ見逃しそうだ。

三叉路に道標とお地蔵さま;13時37分(標高722m)
周囲の開けた棚田跡を過ぎると、道は木立に覆われた緩やかな尾根筋をトラバース気味に進むことになる。5分ほど歩くと「高野 0.5km 河合 1.4km」の木標があり、2基の道標が立つ。「えひめの記憶」には「峠近くの三叉路に2基の道標が立つ」とあるが、遍路道からの分岐道はほぼ消え去って道はほとんどわからない。
最初記事を読み地図を見たとき、上述「棚田跡の道標」のある箇所が尾根道と上り道の三叉路となっており、そこが「えひめの記憶」にある「三叉路」と思っており、現場で少々混乱してしまった。
ともあれ、この木標のあるところが件の「三叉路」である。「えひめの記憶」を遍路歩きの友としているわが身ではあるが、実際長い遍路道を歩き疲れ果てている方が、険しい旧遍路道を好んで歩いたり、古き道標を気にする余裕などないとも思うが、一応念のため。

千本峠;13時40分(標高737m)
三叉路の道標から数分、傾斜のある道をちょっと上ると狭い鞍部があり、小さな木に「千本峠」と書かれていた。風雪に耐えた一体のお地蔵さまが佇んでいた。岩本素白さんの言う「如何に神とはいえ淋しかろう」ではないが、「如何に仏といえ淋しかろう」と、ちょっと思った。

道標;?時45分(標高722m)
千本峠を越え、前夜の雨のため足場の悪い道を下る。落石注意もうなずける巨石ゴロゴロの箇所を足早に通りすぎると「四国の道」の木標が立つ。その傍の木の根っこに半分壊れた自然石の道標があった。
実のところ、「えひめの記憶」には「峠を下るとすぐ左に道標が」とあり注意して探したつもりではあるが、見つけることができず、ピストンでの戻りの時に何気なく木の根元を見て出合うことができた。ピストン行の賜物である。
地図を見ると、この「四国の道」の木標辺りから右に折れ、700m等高線に沿って高野の集落へと向かう道もあるのだが、遍路道は尾根筋を南に下る。

通行止めの木標;13時51分(標高654m)
遍路道は等高線650m辺りで尾根筋から逸れ、右に曲がり等高線に沿って進むことになる。木標の指示の通りに進めば道に迷う事はない。
四国の道の木標から5分ほど進んだところに「高野 0.5km河合 2km」の木標があるが、そこには「高野方面 通行止め 迂回」の案内がある。迂回路はV字になって高野に向かう。「えひめの記憶」には「遍路道はこの指示どおり進んで高野の集落へ通じていたが、この道は凝灰岩の崩落により潰(つぶ)れ、現在はやや下を迂回してから高野に上がっていく」ともあるため、迂回路がどの程度の距離なのか記載していないが、とりあえず迂回路へと下る。

車道に;13時55分(標高596m)
地図には実線表示のある迂回路を5分ほど、高度を50mほど下げたところで舗装された道に出合う。高野への迂回路の案内はない。木標にV字のルートと記されていたので、右に折れて道を上るのだろうとは思いながら、車道と繋いだのでこの地から車デポ地に下り返すことにする。この箇所まで車を寄せ、遍路道を探そうとの想い。

通行止め木標から高野に向かう;14時5分(標高654m)
舗装された道からピストンで折り返し、通行止めの木標のところに戻る。で、木標をよくよく見ると、通行止めに使われたようなロープが外され木標脇に無雑作に置かれている。
ひょっとすれば通行できる?出来ないにしても、通行止めの因という崩落個所が如何なるものか確認してみようと高野への道に入る。
入った瞬間に倒木が道を防ぐ。大木であり人為的に通行止めのサインに使われたとも思えない。偶然の重なりであろうと思い込んで先に進む。これといった崩壊、崩落箇所はなく、ごくありふれた山道である。一箇所だけ道の真ん中に岩が落ちている箇所があったが、大岩というほどでもない。
岩の崩落個所は何処?など思いながら道を辿ると、前方が開け右手に民家が見えてきた。どうも岩の崩落による道の崩壊は復旧しているようであった。

高野集落の道標;14時13分(標高725m)
民家に向けて野道を上ると木標が立ち、その先はコンクリート補強の崖面に阻まれ道は左右に分かれる。「仰西バス停 2km 高野休憩所 0.1km」とある。
「えひめの記憶」には「T字型交差路に浄瑠璃寺までの里程を示した道標がある。道路崩壊前は千本峠からの道筋にあったものを移設したという」とある。ここがT字路だろう。とすれば道標は?よくみれば木標傍に自然石と見まがう石柱があり、それが道標であった。

高野休憩所;14時15分(標高737m)
遍路道は木標を左に折れるが、とりあえず高野休憩所に向かう。四阿や天満宮の小祠のある休憩所から久万の街並み、聳える山塊を眺め少し休憩。

土径の遍路道分岐;14時24分(標高718m)
休憩の後、T字路の木標に戻り左に折れて進むと車道に出る。「えひめの記憶」 に、「(T字路を)左折して高野道路を少し行き右折して田んぼの畦(あぜ)道、杉林の山道を下って槻之沢(けやきのさわ)に向かう」とある、その「右折」箇所を探す。
道脇の祠に座るお地蔵さまに一礼しながら、車道から分かれる遍路道は?ピストンで戻る関係上、あまり遠くまで下ったところであってほしくないと願いながら道を下ると、道脇に土径に折れる遍路道の案内が見えた。一安心。T字路からは5分もかからなかった。

県道12号に戻る;15時25分
ここから先へ槻之沢に下りることは時間的に無理そう。とりあえず、道を繋ぐ目安箇所を確認し、来た道をおおよそ1時間かけて車デポ地に戻る。

時間は午後3時半。本日の散歩はこれでお終い。高野の土径分岐点から槻之沢の集落を経て国道33号と繋ぐ散歩は次回とする。
加古川の谷中分水界を辿る旅の二日目。先回に続き、堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』にある加古川の谷中分水界を辿る。今回は同書にある「日本海と瀬戸内海の水争い:由良川による加古川の争奪」の地である鼓峠と栗柄峠、そして「真っ平でファジーな分水界:源流で水のつながる加古川と武庫川」の舞台であるJR宝塚線・篠山口駅辺りを訪れる。
栗柄峠と鼓峠は共に由良川水系による加古川水系の河川争奪の地ではあるが、鼓峠にはその結果としての「片峠」を見ることができると言う。片峠自体は、先日訪れた土佐・窪川盆地を囲む幾多の片峠に限らず、中山道の碓井峠、東海道の鈴鹿峠、愛媛の三坂峠など、それほど珍しいものではない。また河川争奪も都内でも王子付近の石神井川、世田谷等々力渓谷の谷沢川、そして相模湖の南を流れる串川など、これも結構見かける。
だが、河川争奪による片峠といった「合わせ技」の地を訪れるのはこれがはじめてであり、文字面(づら)だけでないリアリティを感じることができ誠に面白かった。
また、篠山口の「真っ平でファジーな分水界」では、今回の旅の起点となる篠山口へと向かう際、つかず離れずその流れを見せていた武庫川がその主人公であった。前回のメモで記載の如く下流域では渓谷を刻む武庫川が、篠山口近くになると「知らず」消え去っており、その源流付近は真っ平な谷底平野で加古川水系の水路と繋がっている。通常の河川発達のプロセスからすれば「普通」ではない。
結論から言えば、両水系を繋ぐ水路は人工的に掘削されたものではあるが、それでも、真っ平な谷底平野で両水系が「超接近」するその因は、遥かはるか昔、加古川による武庫川の河川争奪にあった。旅の初日に見た、石生の日本一低い中央分水界形成のその因が、由良川流路の南流から北流への「逆転」にあったと合わせ、思いもかけず川の歴史での大きなドラマの一端に触れることができたように思う。丹波篠山、結構遠いよな、などと少々腰が重たかったのだが、行ってよかった。
以下、メモはじめるが、見出しのコピーは前述書籍の記事コピーを使わせて頂いた。地名は平成の大合併以前のものであり、現在の地名は本文にメモする。



(2日目) 本日のルート;
日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠
篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう>「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
 ■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)
鼓峠>由良川水系・友淵川の谷筋>鼓峠を越えて上る友淵川>谷中・中央分水界>宮田川を下る
栗柄峠;河川争奪
倶利伽羅不動尊の案内>杉ヶ谷川>倶利伽羅不動に>栗柄峠の谷中分水界

真っ平でファジーな分水界
JR宝塚線篠山口駅>北の堰(第一水門)>田松川>南の堰(第二水門)


■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■

由良川による加古川の争奪(兵庫県多紀郡西紀町・氷上郡春日町)

篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう
篠山口のホテルを出発し鼓峠と栗柄峠のある篠山市栗柄に向かう。篠山口から15キロ弱、車でおおよそ20分ほどの距離である。折悪しく当日は朝から雨。足元は悪いが、分水界散歩であり、晴れの日より水の流れはわかりやすいか、と。 カーナビの誘導で、国道176号を北に進み、篠山川に栗柄峠から下る宮田川が合わさる篠山市明野で県道97号に乗り換える。
2車線の広い県道を宮田川に沿って北東に上り、篠山市栗柄に。『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には多紀郡西紀町とあるが、平成の大合併で篠山町、今田町、丹南町と合併し篠山市栗柄となったこの地に栗柄峠と鼓峠が隣り合って並ぶ。

篠山市栗柄・「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
道脇に大きな「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内が立つ。「河川争奪の見える不思議な水分(みくまり)の里 栗柄は三方を山で抱かれた山間盆地の狭い平地で水田が開けていますが、この付近は、たいへん珍しい谷中分水界の地形を形成しています。
右側の県道(丹南三和線)を2kmほど進むと、鼓(つづみ)峠の頂上に至ります。この鼓峠も日本海と瀬戸内海への分水界で、鼓峠から瀬戸内海側に流れた水は宮田川(右側の河川)となり、篠山川、加古川を経て瀬戸内海に注ぎます。 正面から流れる「杉ヶ谷川」は、この辺りで宮田川と合流するのがごく自然な形と思われますが、前方観音堂横で突如西へ折れ倶利伽羅不動の滝で4m近く落下し、滝の尻川、竹田川、由良川を経て日本海へ注ぐ不思議な谷中分水の地形となっています。
約2万年前、河川争奪によって形成されたと言われるこのふたつの川(私注;宮田川と杉ヶ谷川)が、谷中の平地内で百数拾米まで相寄り、しばらくは同じ方向に流れながら、突如方向を転じる地形は実に珍しく、しかも、二つの川が見渡せる位置で、中央分水界の形状が目のあたりに観察できる希少な地であります。一つの地区に二つもの分水界があるというのも、またきわめて珍しいことです」とあった。

さて、ふたつの分水界のどちらからはじめよう。なんとなく「杉ヶ谷川」と「宮田川」の栗柄峠・谷中分水界は解説にもあるように、結構わかりやすそう。一方、河川争奪による片峠となっている鼓峠、そしてその谷中分水界ってどんなものか、今一つ想像できない。「?」を早く解決しようと、先ずは鼓峠へと向かう。

■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)■
鼓峠


左手は栗柄峠で谷中分水界となった中央分水界(日本海と太平洋へと水を分ける)が、再び山稜の分水界となり鼓峠の鞍部へと落ちる山地。右手は水田など。水田の南には晴れていれば多紀連山の西ヶ嶽や三嶽が連なるのだろうが、生憎の雨。山霧にかすみ、その姿はみえなかった。
車はほどなく鼓峠に。この鞍部が由良川水系と加古川水系の分水界となる。栗柄峠の谷中分水界から再び山稜に登った中央分水界がこの峠に落ち、10mほどだろうかその鞍部を谷中分水界となして南の山稜へと上ってゆく。
鼓峠から先の中央分水界
Google Earthで作成
鼓峠からの先の中央分水界となる山稜を、由良川水系と加古川水系に注意しながらチェックする;分水界は鼓峠から南東の小金ヶ嶽に上り、稜線を北東に進み藤坂峠に。藤坂峠の東西で由良川水系と加古川水系・藤坂川が接近している。ほとんど繋がりかけている。藤坂峠から先は、板坂峠、雨石山へと続いているようである。
水系を頼りに中央分水界を辿ることに嵌ってしまいそうだが、本筋からあまりに離れてしまうため、この辺りで思考停止とする。

由良川水系・友淵川の谷筋


鼓峠までは緩やかな坂・平坦な県道であったが、峠を越えるとしばらくはちょっと急、その先ではドーンと落ちる。ドーンと落ちるとは言っても、県道は等高線に沿って100mほど高度を下げると緩やかな勾配で流れる由良川水系・友淵川支流の谷底に至るが、県道から見る対岸は多紀連山への連なりもあり、谷の深さが一層増し屏風のように屹立して見える。典型的な片峠となっている。
県道を下り、ヘアピンカーブを曲がり切ったところにある四阿(あずまや)近くに車を停める。そこから下流は友淵川支流が緩やかに谷底を流れる。一方その上流は友淵川が谷を刻みはじめる境目。下流の開けた谷と真逆の、木々に覆われた狭く深い谷を水路が上る。谷筋を少しだけ上り、谷を刻む雰囲気だけを感じ車に戻る。
中央分水界の峠を越えても篠山市
当日は気にならなかったのだが、メモの段階で鼓峠を越えても行政区は篠山市であることが気になった。通常、峠を境に行政区が変わるのが普通だろうと、その経緯をチェック。
この地は前述書籍の記事にあるように、元は兵庫県多紀郡西紀町。それが平成の大合併で篠山市となった。西紀町は、もと南河内村、北河内村、草山村が合併した西紀村がその母体。鼓峠を越えた一帯は草山村であったようだ。
それはそれでいいのだが、峠の向こうの草山村は福知山のほうがなにかと便利そう。何故に峠を越えた村々と合併し、かつまた福知山市ではなく、篠山市となったのだろう?幕政期の篠山藩の領地を見ると、草山村が含まれていた。その故だろうか。

鼓峠を越えて上る友淵川への流れ
峠近くに車を停め、谷を刻み峠に近づく友淵川支流の流れをチェック。深い谷を刻み県道からしばらく見えなかった友淵川支流は、峠近くで県道に接近し道脇を自然な溝となって峠を越えて上に続く。当日は雨であり、水の流れが日本海側へと流れるのをはっきり確認できた。
友淵川支流へ続く自然に刻まれた溝は、そのまま鼓峠を越え、耕地と山地の境、畦端を細い溝となって上へと続き、鼓峠へと南から落ちる山地の谷からの流れと繋がる。

水田の中、1メートルを隔てた谷中分水界
一方、ゆるやかな傾斜となる右手の耕地の畦道に沿った水路、というか溝を流れる水は、瀬戸内へと注ぐ宮田川に向かって下る。耕地の中、ほんの1メートルを隔てて日本海と瀬戸内に流れる水がニアミスしている。耕地の畦が中央分水界ということになる。

友淵川水系による宮田川上流部の河川争奪と片峠の形成
鼓峠へと落ちる南側山地の谷筋の水が友淵川支流の谷へと流れ、宮田川流域とニアミスする姿を眺めながら、この南側山地の谷筋も本来は宮田川へと流れていたのでは? そのほうが自然だよな、などと妄想する。
堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には、「鼓峠という片峠も、おそらく友淵川支流による宮田川上流部の奪取によって生じたものであろう。宮田川の源流は、昔は鼓峠の北東部にあったが、争奪後鼓峠の西側に引っ越してきたのだ。ただ、この場合は多分一度にすっ飛んできたのではなく、宮田川の源流部が頭のほうからじわじわと友淵川支流にかじり取られるのにつれて、徐々に今の場所まで後退してきたのであろうと思われる」とある。

遥かはるかの昔、今眼前に見る鼓峠へと落ちる谷筋の、更に大きく水量も多い谷筋が宮田川へと下っていたのだろうが、深い谷を刻んできた友淵川水系によってその上流部の谷を奪取された、ということだろう。
峠近くに流れ落ち、宮田川上流域とニアミスしながらも、友淵川支流へと下るささやかな谷筋の流れと書籍の記事を重ね合わせ、なんとなく同書の河川争奪・片峠形成の記事がわかったように思う。

光秀と鼓峠
鼓峠は織田信長の下知のもと、奥丹波攻め主将であった明智光秀が危機に瀕した峠とも言う。猛将赤井(荻野)直正のこもる黒井城(JR福知山線黒井駅北)の攻略戦に敗れた光秀の軍勢を、草山城(鼓峠を下った本郷)主・細見氏、八百里(篠山市北東の八百里山)城主・畑氏がこの峠で待ち伏せ光秀軍を敗走させた、と言う。
時期は天正6年(1578)との記述があるが、黒井攻めは二度あり、第一次攻略戦は天正3年(1575)、第二次攻略戦は天正5年から7年(1577‐1579)とされ、第一次攻略戦は光秀が敗れ、第二次攻略戦で黒井城を落としたという。天正6年と光秀敗走と繋がらないのだが、とりあえず「ママ」にしておく。

宮田川を下る
鼓峠近くでは源流部を失い、耕地の畦の雨水を集めた宮田川上流部も田圃を少し下ると沢からの水を集め川の姿を呈す。鼓峠の地名の由来は、山地に囲まれたこの地が、真ん中がくびれた鼓形で、その両側に川(>皮)がある「鼓田」に由来すると言われるが、両側に川があるところは、この沢が合流するあたりではあるのだが、くびれた鼓は想像できなかった。ともあれ、宮田川は県道97号を北に横切り左右の沢からの水を集め栗柄峠の南へと下る。

■栗柄峠;河川争奪■
倶利伽羅不動尊の案内

「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内地点に戻り、駐車する場所を探す。なかなか適当なところが見つからなかったのだが、行き来しているとき、案内板の箇所のある県道97号から分かれ、栗柄峠へと向かう県道69号から右に入り観音堂に向かう道脇に「倶利伽羅不動尊」の案内があった:
「郡内で一番高い高所に営まれた栗柄集落。竹田川に水を分かつ谷中分水界の起点となる峠に落差4メートル余りの滝があり、この滝壺に石造りの不動明王が祀られています。古くは三嶽修験の行場として栄えたと伝えられます。
この場所に立つと、激しく落ちる滝と憤怒の形相で静立する不動明王が、訪れる人々の心の内まで見透かし、隔世と安堵といった一種独特の雰囲気に誘ってくれます」とある。
三嶽
郡内とあるのは、この案内が篠山市に合併以前に制作されたと言うことだろう。三嶽?御嶽?地図を見ると、南の多紀連山に三嶽があり、その頂上付近に鳥居が記されている。この三嶽が山岳修験の場であり、お山に向かう身を清める水垢離の場所であったのだろうか。不詳である。それはともあれ、栗柄峠は、この倶利伽羅不動尊に由来する。

杉ヶ谷川
結局車は案内板にもあった、観音堂の境内にデポし、由良川水系・滝の尻川による加古川水系・杉ヶ谷川の河川争奪の地を辿る。
観音堂の少し西に柵に囲まれた杉ヶ谷川が北から下る。コンクリート護岸された川の上流にはダムが見える。栗柄ダムと呼ばれるこのダムの目的にはFNWとある。F:洪水調節・農地防災、N:不特定用水・河川維持用水、W:上水道用水であるから、多目的ダムということだろうか。
堤高26.7メートル、総貯水量383立法メートル。それほど規模が大きいわけではないが、ダムを造れるぐらいであるから杉ヶ谷川はそれなりの水量があった、ということだろう。

倶利伽羅不動に
観音堂から倶利伽羅不動参道を少し西に歩くと、杉ヶ谷川の手前が柵でブロックされている。猪でも出るだろうか。ともあれ、厳重な柵の閂を外し、さらに元に戻したうえで参道を先に進む。
河川争奪の地
参道に沿って流れる杉ヶ谷川は支尾根先端部でその流れを西に変える。もとは南へと下り加古川水系・宮田川に合わさっていた杉ヶ谷川が、倶利伽羅不動尊のある谷を刻んできた滝の尻川によって河川争奪され西へと下ることになったということが実感できる。
参道下を流れる水路の傾斜は緩やか。コンクリート護岸も無く、自然な姿でゆったり西に下る。
倶利伽羅不動の滝
ほどなく倶利伽羅不動尊に。落差4mという滝が見える。滝壷のお不動様にお参り。滝もさることながら、その下流も谷が深く刻まれている。滝のある固い岩盤に阻まれ、それより上流には谷を刻めなかったとはいえ、ゆるやかな宮田川の勾配と比較すれば、こちらの谷筋への流勢に抗し得なかった杉ヶ谷川の「事情」も現地に来て、はじめてわかったように思う。
片峠
栗柄峠も滝の尻川の谷底との比高差は70mほど。峠付近に谷筋を囲む山地がそれほど高くなく、鼓峠ほどの「屏風」感はないが、峠を隔てた栗柄の平坦な地を思うにつけ、ここも片峠と言ってもいいのではないだろうか。

栗柄峠の谷中分水界
倶利伽羅不動から戻り、流域を確認。おおよそ県道97号の北は杉ヶ谷川から滝の尻川といった由良川水系、県道から南は加古川水系宮田川に耕地畦からの水が流れ込んでいた。
宮田川と杉ヶ谷川という異なる水系、それも日本海と瀬戸内へと分かれる分水界を挟み、その間の距離は100メートル強、ではあるが、そのインパクトは、先ほど規模は違えども鼓峠で見た、その距離1メートル弱でニアミスする、沢から日本海へと流れる水、そして耕地の畦を瀬戸内へと下る雨水の印象に勝ることはなかった。


■真っ平でファジーな分水界■
源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)


篠山口
鼓峠・栗柄峠を離れ「真っ平でファジーな分水界」の舞台である、JR宝塚線篠山口駅に戻る。地図で確認すると、「源流で水のつながる加古川と武庫川」の水路は、JR宝塚線篠山口駅のすぐ東に見える。成り行きで車をデポし、フラットな谷底平野にある日本海と瀬戸内を分ける中央分水界、しかもそれが区切れることなく一本に繋がる水路を辿る。

北の堰(第一水門)
国道176号大沢交差点を東に折れ、JR篠山口駅の北で福知山線(福知山線の篠山口駅までは「宝塚線」が愛称となっている)の踏切を渡り五差路を南東に進み丹南弁天交差点に。交差点から北東に進む県道299号に橋が架かり、その下をコンクリート護岸の水路が流れる。水は北へと流れ加古川水系・篠山川に注ぐ。(安田川と呼ばれるといった記事を目にした)。
水路に沿って南に進むがほどなく民家で行く手を遮られる。なりゆきで迂回し県道299号篠山口駅東交差点で水路へと向かい、橋を少し篠山川方向へと戻ると水門(堰)がある。堰を区切りに、ささやかではあるが北に流れる水と、堰に止められ淀む水に分けられる。

田松川
水路は南にも堰があり、南北どちらにも動いていない。地図にはこの水路を「田松川」と記す。明治7年(1874)篠山川と武庫川を繋ぐため人工的に開削されたもの。高瀬船を使って舟運を構想した当時の豊岡県役人田中光義氏と松島潜氏の頭文字をとったもの。舟運は数年で廃止されたが、用水路として整備されているようだ。

谷中分水界を掘り割り、人工的に開削された水路のため、加古川水系と武庫川水系を分ける分水界は曖昧とはなっているが、この水路のどこかだろう。とはいうものの、この辺りの等高線は標高200メートルと一面同じであり、どちらに「転ぶか」は人工的な何か次第ということだろうか(水路に分水界を示す木標が立つといった記事もあったが木標は見逃した)。

南の堰(第二水門)
左右に水田の広がる水路に沿って進み、田松川が篠山盆地に入る狭隘部の少し南に堰があった。その堰から、水は南へと下り武庫川となる。



武庫川源流
現在武庫川の起点は、この堰より少し南に下った宝塚線南矢代駅辺りで田松川に西から注ぐ真南条川の合流点とされる。源流は真南条川が谷底平野を遡り、真南条上で右へと山地に入った愛宕山の山麓であるようだ。
ところで、地図を見ていると、真南条川が谷底平野を遡った上流部と、篠山川へと下る水路が鍋塚池を境にニアミスしている。と言うか、鍋塚池で両水系が繋がっているようにも見える。この地武庫川と篠山川水系が繋がる谷中分水界となっているように見える。

●「真っ平でファジーな分水界」形成のプロセス●
真っ平でファジーな分水界を歩き、それではこのような地形がどのようにして造られたのかちょっと気になりチェック。その因は、これも遥かはるか昔、武庫川と加古川で起きた河川争奪にあるようだ。
「武庫川のふしぎな地形と地質;加藤茂弘」にあった野村亮太郎氏の説に拠ると、その川幅に比してアンバランスに広い谷底平野を形成することから、かつての武庫川は水量も多く、浸食力も強かったとし、そのことから篠山盆地一帯は武庫川上流の広い谷と繋がっていたと言う。そのプロセスは以下の通り;

◆約3万年前まで、古武庫川は幅広い河谷を砂礫で埋めながら、篠山盆地から当野付近の狭窄部を抜けて、丹波山地・三田盆地へと抜けていた
◆約3万年前頃、当野付近の山地小流域から武庫川に向けて大量の土砂が供給され、麓屑面や扇状地が造られる。古武庫川は堰止められ、当野付近から篠山盆地にかけて湖や湿地(古篠山湖)が造られた。その後、湖や湿地は埋め立てられていく
◆一方、約3万年前に、篠山盆地西の山間部を源流としていた古篠山川は、その後も山地を掘り込み、篠山盆地を流れる古武庫川との分水界を低下させた。 (私注;この篠山川は現在の篠山川の中・下流域、篠山盆地の西の山地、現在の川代渓谷辺りを源流点とし西に流れ加古川に注いでいたようだ)。
◆堰止めによる古武庫川上流部の川床高度の上昇もあり、古武庫川と古篠山川の分水界の差がなくなり、約1万年前、古篠山川は古宮田川を争奪し、次いで武庫川の上流部も争奪した。
(私注;この場合の武庫川上流部とは篠山盆地に注ぐ現在の篠山川をも含むものである。ここで先ほど栗柄峠で出合った宮田川が登場した。遥か昔、武庫川水系であった古宮田川は上流域であった杉ヶ谷川を由良川水系に争奪され、下流域では加古川水系に争奪されたということ、か)。
◆古武庫川を争奪した古篠山川は水量をまし、浸食力を強め、それまでの盆地床を掘り下げて両岸に現在の川代渓谷に見られるような河岸段丘を形成し、加古川へと注いだ。

そして、上流部を奪取された武庫川は水源を失い、埋め立てられた湖・湿地の真っ平な谷底平野に取り残されることになる。こうして真っ平な谷底平野の中に加古川水系と武庫川水系のファジーな分水界が形成され、しかも、舟運のため両水系を繋ぐ水路が開削された結果、武庫川水系と加古川水系がひとつに繋がった、ということだろう。

Wikipediaの武庫川の説明にも「最終氷河期までの武庫川は篠山川の下流であった。これは川代渓谷の標高が176mであることと篠山盆地の堆積物を除いた基盤の丹波層群の基盤の標高が160mであることから判明している。最終氷河期までの篠山川は傾斜の緩やかなことから排水が悪く、当野付近の基盤岩が武庫川に堆積し、さらに流れを堰き止めた。川代渓谷の誕生とともに排水は改善し、盆地に堆積されていた堆積土の侵食が始まる。武庫川の水は篠山川に奪われた結果、分水嶺は盆地南部に移動する。篠山川の流れは速くなり、盆地を侵食していった」との同様の説明があった。

源流部を失い、この辺りでは小川となった武庫川であるが、周辺の谷筋からの水を集め往路で眺めた武庫川渓谷の姿を呈し瀬戸内へと下っている。
相野川
地図を眺めていると、武庫川が三田盆地に出る手前、宝塚線藍本駅辺りで強烈に蛇行しているが、その蛇行起点辺りから宝塚線に沿って如何にもかつての川筋といった地形が見える。そこには相野川が流れるが、どうも元の川筋はこの相野川のようだ。
さらに地図を睨むと、相野川の源流域付近で西に流れる東条川と谷中分水界を成しているように見える。更に言えば、武庫川はこの東条川へと流れていても違和感がない。チェックすると、30万年以上前、武庫川は東条川を下り加古川に合わさっていた、との記事も目にした。本日の本筋とは関係ないが、地図を睨んでいると先ほどの真南条川といい、この相野川といい、好奇心を擽り妄想をたくましくする。

これで一泊二日の加古川に見る谷中分水界の散歩を終える。結構好奇心を擽るトピック満載の散歩であった。

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