2017年4月アーカイブ

先日堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』を読み,毎月の田舎帰省の折り「海に背を 向けて流れる」土佐の四万十川の源流と片峠を辿った。これが結構好奇心に「刺さる」旅であり、それならと、今度は田舎への行き帰りに立ち寄れる「意外な分水水源・不思議な分水」は他にないものかと同書をチェック。
すると兵庫を流れる加古川に関係する谷中分水界、河川争奪やそれに伴う片峠などの4つの記事が目に止まった。谷中分水界には標高95mといった、日本で一番低い中央分水界もある。
これは面白そうとルーティング。記事にある4箇所は西から、加古川が市川と繋がりそうな青垣峠,日本一低い中央分水界(加古川と由良川)のある石生、加古川と武庫川の谷中分水界がある篠山口,加古川が由良川水系に河川争奪された結果誕生した片峠(鼓峠と栗柄峠)である。

地図を睨むと、起点を篠山口にとり、お昼前後からレンタカーで走れば1泊2日ですべてカバーできそうである。初日は午後に青垣峠と石生、翌日は午前中に鼓峠・栗柄峠と篠山口とし、篠山口にあるホテルとレンタカー(24時間)を予約。田舎から東京に戻る途中、起点となる篠山口に向かった。



(初日)
本日のルート;
丹波篠山口に
水がつながりかけている?
笹山口から青垣峠へ
国道176号から県道7号に>丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に>峠近くの狭い国道を進む>青垣峠
日本海と瀬戸内海に分かれる水
石生(丹波市氷上町石生)>「中央分水界と石生の水分れ」の案内板>中央分水界を水分れ公園へ>𡶌部(いそべ)神社>水分れ資料館>谷中分水界を歩く>藤の木橋>おおかみ橋>水分れ橋>石生交差点>由良川水系・黒井川の水路に向かう

(初日)

丹波篠山口に

丹波篠山口に昼前には着きたいものと、田舎の新居浜を7時過ぎに出発。新大阪駅から大阪駅に移り、JR宝塚線丹波路快速に乗り篠山口に。大阪駅発10時21分、篠山口駅着11時28分。
およそ1時間強の列車の旅。はじめて訪れる地であり、列車の進行と地図を見比べながら進む。大阪駅を出た列車は、大阪平野から伊丹台地に入り、伊丹台地と北摂山地の境を走った後、六甲・北摂山地に入り、武庫川渓谷をトンネルと鉄橋で越え三田盆地に。
三田盆地を武庫川に沿って北に抜けると丹波山地に入り、武庫川に沿って北に進むと篠山盆地に目的地である篠山口駅があった。平野から台地、そして山地、次いで盆地、その先に山地がありそして盆地と変化に富んだ地形でもあり、篠山口までの景観をメモしておく:
大阪平野と伊丹台地
大阪駅を出たJR宝塚線(福知山線の篠山口までの愛称、とか)丹波路快速は尼崎駅で北に折れ,伊丹駅、川西池田駅へと猪名川に沿って北に進む。猪名川と武庫川によって造られた伊丹台地のほぼ東端辺りだろうか。
北摂山地
川西池田駅から西に折れ、北摂山地の麓を西に宝塚駅へと向かい、そこからは伊丹台地と分かれ、武庫川の河岸段丘上にある生瀬駅を越えると長いトンネル(生瀬トンネル)に入る。
六甲・北摂山地と武庫川渓谷
トンネルを出ると西宮名塩駅。武庫川を跨ぐように感じる駅のすぐ先にも六甲山地を穿つトンネルが迫る。何故にこんな山間の地に駅が?チェックすると、西宮名塩ニュータウン開発に応じたもののようだ。元の福知山線は武庫川を縫うように走っていたが、昭和61年(1986)福知山線の複線・電化に際し従来の武庫川沿いのルートを大幅に変更し、山地を穿つ長いトンネルのルートとなり、その際に当駅が新設されたとのことである。
西宮名塩駅から長い名塩トンネルを抜けると武田尾駅。この駅も武庫川を跨いでおり、ホームは川向うの第一武田尾トンネルに続く。第一武田尾トンネルを抜けると直ぐに第二武田尾トンネル、トンネルを一瞬抜け直ぐに第一道場トンネル、第二道場トンネル、第三道場トンネルと続き道場駅に。
福知山線
明治32年(1899)、阪舞鉄道によって尼崎・福知山間が開業。明治37年(1904;日露戦争開戦年)対ロシア軍用路線として舞鶴鎮守府まで急ぎ敷設された官設の福知山・舞鶴間の路線の貸与を受け阪舞鉄道は大阪と舞鶴を結んだ。明治40年(1907)には国有化され阪舞線となり、明治45年・大正元年(1912)の山陰本線の開通を受け、尼崎・福知山間を福知山線とした。
武庫川渓谷の旧福知山線
複線・電化以前の旧福知山線は、基本屈曲する武庫川に沿って進んでいる。生瀬駅から武庫川右岸を進み、途中左岸に移り武田尾に。武田尾の先でトンネルに入り、東南に突き出た馳渡山の尾根筋を抜けると武庫川右岸に移り、道場駅手前で左岸に移る。
廃線跡は道場から武田尾は未整備。武田尾から生瀬方面は整備されて廃線歩きが可能となっているようだ。歩いてみるのも面白そうだ。
三田盆地
六甲・北摂山地のトンネルを抜け、武庫川を鉄橋で渡った鉄路も道場駅を越えると三田盆地に入る。渓谷から一転、平坦な谷底平野となる。宝塚線(福知山線)は武庫川に沿って進む。武庫川は直線化工事がなされているようだ。平坦な谷底平地の水の出口が渓谷の狭隘部となっているわけで、往時は洪水被害も多かったのだろう。
丹波山地
三田盆地を進むと広野駅辺りから丹波山地に入る。宝塚線は蛇行する武庫川から離れ相野川沿いを進み、相野駅辺りから弧を描き東に向かい藍本駅付近で武庫川に接近し、丹波山地の間を流れる武庫川に沿って北上する。宝塚からずっとつかず離れず流れていた武庫川は、知らずその姿を消していた。
篠山盆地
山地を抜けると篠山盆地に入り、目的地である篠山口駅に到着する。

加古川
これから「加古川に見る中央分水界と谷中分水界、そして河川争奪の峠を辿る」ことになるのだが、散歩に先立ち加古川についてWikipediaを参考に概要をまとめておく;
加古川(かこがわ)は、兵庫県中央部を流れる一級河川。本流(幹川)流路延長96km、篠山川など支流数も多く、兵庫県に河口を持つ河川水系の中では、本流流路延長・流域面積ともに最大である。
その流域は東播磨全域及び丹波南部だけでなく、神戸市北区、灘区の一部(六甲山系北稜)、さらには県外の大阪府能勢町天王峠周辺の地域も含む(篠山川上流域水無川上流部)。瀬戸内海の明石海峡・鳴門海峡以西に流れ込む水系としては、流域面積で高梁川、吉井川、旭川に次ぐ規模である。
現在本流(幹川)と比定されている河流の源流は、丹波市の北西の粟鹿山(標高962m)付近に発する一の瀬川である。この河流は大名草で石風呂川と合流した後、佐治川と名を変え、篠山川合流点まではこの名で呼ばれてきた。
佐治川・篠山川合流点から美嚢川が合流する三木市が中流域。その先は加古川市と高砂市の境として播磨灘に注ぐ。市川、夢前川、揖保川、千種川とともに、播磨灘に流れ込む「播磨五川」と総称される。本流の河床勾配は日本列島の河川としては緩い。

加古川水系の大きな特徴の一つは、隣接水系との谷中分水界の多さである。隣接水系のうち、武庫川水系(①田松川、篠山市当野)、由良川水系(②「石生の水分れ」、③栗柄峠および鼓峠:篠山川支流宮田川と由良川水系竹田川及び友淵川、篠山市栗柄)、市川水系(④青垣峠:双方本流源流部)とはそれぞれの本・支流で谷中分水界を形成する。
④以外の谷中分水界については、およそ一億年前を境とする長期間、大きな湖が篠山盆地に位置していたことによるところが大きい。③のように二つの異なる谷中分水界かつ本州中央分水界がわずかの距離に並ぶのは非常に珍しい。また、鼓峠の場合、一枚の小さな田圃から水が両水系に流れ出ている」とある。

今回訪ねることにした4箇所は『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』にある以下の記事である。

(初日)
■水がつながりかけている?■
市川と加古川の分水界・青垣峠(兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町)
■日本海と瀬戸内海に分かれる水■
黒井川・高谷川間の水中分水界(兵庫県氷上郡氷上町)
(二日目)
■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■ 由良川による加古川の争奪(兵庫県多紀郡西紀町・氷上郡春日町)
■真っ平でファジーな分水界■
源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)

この4箇所は前述Wikipediaの挙げる、以下の4箇所と一致する。
●(加古川水系と)市川水系(④青垣峠:双方本流源流部)●
●(加古川水系と)由良川水系(②「石生の水分れ」)●
●(加古川水系と)由良川水系(③栗柄峠および鼓峠:篠山川支流宮田川と由良川水系竹田川及び友淵川、篠山市栗柄)●
●(加古川水系と)武庫川水系(①田松川、篠山市当野)●

特に意図したわけではないのだが、奇しくも今回前述の書籍よりプラニングした4箇所は、Wikipediaに記されたこの4つの谷中分水界を辿ることとなっていた。プラニングの際は、地理不案内の土地であり、4記事の地を1泊2日でカバーするのは厳しいかとも思ったのだが、エイやで性根を決めてよかったと、メモの段階で自画自賛。

水がつながりかけている?
市川と加古川の分水界・青垣峠(兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町)

篠山口から青垣峠へ
11時28分、定刻にJR宝塚線・篠山口に到着。駅の少し南のレンタカー会社に向かう。その会社のすぐ裏手が、今回の訪問地のひとつ、「真っ平でファジーな分水界 源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)」の舞台ではあるのだが、段取り上、「知らず消えてしまった」武庫川と、これも当たり前のように「北の篠山川水系と繋がる水路」を辿る旅は最後に廻し、最初の目的地である青垣峠へ向かう。
国道176号から県道7号に
篠山口から青垣峠へのナビ設定。43キロ、おおよそ58分とある。国道176号沿いにあるレンタカーを借りた場所から、そのまま国道176号に乗り、加古川水系・篠山川を越え、篠山川の支流・大山川に沿って北に進み新鐘ヶ坂トンネルを抜ける。新鐘ヶ坂トンネルの峠の尾根筋が篠山市と丹波市の境となっている。 加古川水系・柏原川の支流の谷を下り柏原の町を越え、加古川によって開かれた平地を進み、これも後ほど訪れる「日本海と瀬戸内海に分かれる水 黒井川・高谷川間の水中分水界」の舞台である石生の加古川水系・高谷川を越えた先で県道7号に乗り換える。
丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に
加古川、そして北近畿豊岡自動車道に沿って北上し、西から東へと流れてきた加古川が、その流れを南に変える丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に乗り換え、しばらく進み、途中427号と分かれ左に折れて青垣峠へと国道429号を進む。 国道429号と427号が分かれる辺りで、青垣峠への谷筋とは別に、左に分かれる川筋が栗鹿山へと向かう。これが加古川本流の源流点のある一の瀬川だろうか。
峠近くの狭い国道を進む
国道429号を進むと里は切れ、二車線の道も一車線となり、車一台分の谷筋の道を杉林の中上る。カーブは少なく走りやすい道ではあるが、予想以上に車、特にバイクが多くゆっくり走る。「酷道」とのもっぱらの評価ではあったが、四国の険路を走りまわっている我が身には、なんということはない道であった。 次第に深くなる谷筋を見遣りながら進むと前方に「青垣峠」の看板。3月にもかかわらず雪の残る切り通しの鞍部を乗り越え、すこし下った先は平坦地。水田、そしてその先に民家も見える。先日土佐で出合った「片峠」となっていた。

青垣峠
『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:(堀淳一)東京書籍』では兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町を分ける峠となっているが、現在は平成の大合併を経て生野町側は朝来市黒川、青垣町側は丹波市青垣町大名草となっている。




●市川が北から下る
道脇に車をデポし、「つながりかけている?」加古川と市川の最接近場所を探す。峠を少し下り平坦地となったところを北から小川が流れる。この川が市川。地図を見ると少し北から下る。
その市川と「つながりかけている?」加古川源流を探す。峠から下る道の左手に水の流れる筋があり、市川の手前辺りが如何にも源流域といった風情である。

●加古川源流部は国道改修により峠で断ち切られていた
「つながりかけている?」と言えばそうでもあるのだが、如何せん青垣峠手前まで谷を刻んできた加古川の支流・石風呂川とつながってはいない。前述書籍に拠れば、石風呂川源流域の谷筋は現在の峠道の少し下を刻んでいた、とのことだが、現在の青垣峠の前後は国道の法面補強されており、昔の姿は残っていない。
雪の残る峠を行きつ戻りつ、谷筋が残っていないかと探したのだが、峠鞍部の左右は比高差30mほどの尾根筋が迫っており、峠を抜ける水路が通る余地はなかった。

市川とつながりかけた加古川(石風呂川)源流域の水は、峠の前後で完全に切り離されており、今では市川に向かって下るしか術はない。自然の力でつながりかけていた加古川と市川は、人の手によって切り離されてしまったようである。



市川
加古川はそれなりに聞く川ではあるが、市川ははじめて聞く。残念ながら、加古川とつながりかけてはいなかったが、加古川と分水界をなす水系でもあるのでちょっとチェック。 Wikipediaに拠れば、市川は「兵庫県中部、丹波国、播磨国との境界近くにある朝来市生野町(旧但馬国)の三国山(標高855m)に源を発して南流。途中神崎郡各町と姫路市を流れ、姫路市飾磨区で播磨灘に注ぐ」とある。三国山は青垣峠から南東、丹波市、朝来市、多可郡多可町の行政区が接する箇所にある。で、何気なく市川の流路を地図で見ていると、生野ダム湖を経て播但線・生野駅辺りまで下った市川の北に円山川源流が接近している。
市川・円山川が日本海と瀬戸内を繋ぐ
地図を見て驚いた。日本海へと流れる円山川と市川を隔てるものは、ささやかな生野北峠だけである。この峠を越えれば播磨国から但馬国となる。日本海と瀬戸内を繋ぐ道が、こんなに敷居の低いものであれば、古来往還道として重宝したのではとチェック。
古代瀬戸内を通る海路が確立するまでは、この市川(播磨)・円山川(但馬)ルートが、加古川(播磨)・由良川(丹後)ルートとともに重用された。日本海と瀬戸内海という逆方向に向かうこのふたつの河川を舟運として使い、繋がらない部分は舟を担いで峠を越えた、とのことである。
近世に入っても、西廻り海運の捷路として両河川を利用した舟運輸送路が計画されたようだが、わずかな距離ではあるが陸路部分がネックとなり大量輸送が実現できず、西廻り海運の捷路としての目的は達成できなかったようである。

今回の散歩での最初の「つながりかけている?」加古川と市川は残念ながら切り離されてしまった事実を確認しただけに終わったが、偶々ではあるが、市川とつながりかけている円山川、そして両河川を通しての日本海と瀬戸内を結ぶルートといった歴史を知ることができ、それなりに満足。とは言ってもの、このことはメモの段階。当日は出だしからこれ?といった心持ではあった。


日本海と瀬戸内海に分かれる水
黒井川・高谷川間の水中分水界(兵庫県氷上郡氷上町)

青垣峠を離れ、次の目的地である「日本一低い中央分水界」のある丹波市氷上町石生に戻る。中央分水界は日本列島の「背骨」として、水を日本海側と太平洋側に分ける分水界のこと。その中央分水界がこの石生では聳える山地の脊稜部ではなく、わずか標高100m前後の谷底低地にある、という。書籍の記事を読んでもいまひと実感が湧かないのだが、現地に行けばなんとかなるだろうと来た道を石生へと戻る。

石生(丹波市氷上町石生)
とりあえず石生の水分公園に向かう。青垣峠から来た道を逆に国道429号、国道427号、県道7号へと乗り換え福知山線・石生駅の西、稲継交差点に。ここまで支流・本流を集めて次第に川幅を広げる加古川に沿って国道を下ることになる。
稲継交差点で左に折れ、加古川から分かれ、国道175号を進み、石生交差点、福知山線を越え水分れ交差点に。水分れ交差点からは並木の続く小川に沿ってそのまま東に向かうと、道の北側に広い水分れ公園の駐車場(公園大駐車場)があった。車を停め「水分れ公園」に向かう。

「中央分水界と石生の水分れ」の案内板
駐車場脇に案内板があり、地図とともに「中央分水界と石生(いそう)の水分(みわか)れ ここは日本列島の背骨『中央分水界』の線上にあるところです。この看板の右側の道路の中央が「分水界」で、中央より左側(北側)の雨水は由良川を流れて日本海へ、一方右側(南側)の雨水は高谷川から加古川に注いでいます。後方に見える山のふもと「石生交差点」から前方の山すそ「水分れ公園」の奥までの1,250メートルの間は全く平地のなかで分水しており標高95.45メートルは日本一低い谷中分水界です」との解説があった。

石生交差点から、知らず「中央分水界」を走ってきたようだ。道の右の小川が瀬戸内へと下る加古川水系の高谷川であった。また、車を停めた駐車場は日本海へと注ぐ由良川水系ということになる。

中央分水界を水分れ公園へ
知らねばごくありふれたん舗装道を、これが日本で一番低い中央分水界か、などと左右を見遣りながら水分れ公園へと高谷川に沿って進む。ほどなく公園に。公園自体はなんということのない、少々人工的過ぎる親水公園といった風情。

水分れ公園の分水堰
公園脇の高谷川に如何にも人工的な水分れの水路が造られていた。高谷川の真ん中に水を北の由良川水系へと分ける水路が造られ水門ゲートもある。ゲートの先には特に川といったものはなく、畑地に沿って側溝が続く。水門ゲートからの水路はそこに繋がっているのだろうか。

𡶌部(いそべ)神社
水分れ水路を離れ、公園案内図にあった水分れ資料館に向かう。手前に𡶌部(いそべ)神社。古社の風情を残す神社にお参り。案内には; 「𡶌部(いそべ)神社 剣爾山は、三角形の美しい形をしています。こういう山を昔の人は「神奈備山(神様の山)」と言いました。山上近くにある大岩は、神様が天から下りてこられる拠り所と考えて、こういう岩を「磐座」(いわくら)と言いました。
その山の前に建てられたのが𡶌部神社です。このあたりのご先祖、部の民は、大きな岩をつかって、古墳を造ったり、たんぼを造ったり(後には条里制水田造りもした)する土木工事が得意な人たちでした。
その部の人達の祖先、奇日方命(くしひがたのみこと)をおまつりしたのが𡶌部神社のはじまりは(和銅三年、今から約一,三〇〇年前頃)です(私注;ママ記載)。後に、八幡宮を勧請(神様のおいでを願う)して、八幡さんとなりました。 なお、この八幡さんは、柏原の八幡さんより歴史が古く、昔から、この𡶌部神社のお祭をして、その次の日に神様を、柏原の八幡様にお送することになっておりました。その後、𡶌部神社には、いろいろな神様をお招きして、たくさんの神様がおまつりされて、石生の人達の守り神さまとしてお祭りされております」とあった。

水分れ資料館
社の西に水分れ資料館。入場料〈200円だったか〉を払って入館。ビデオで水分れの概要をかじった上で、解説のボードを読みジオラマを見ながら、館内を巡る。
石生の谷中分水界
「この平地の分水界(谷中分水界)は、石生奥山から流れる高谷川の右側(北側)の堤防上で、奥山から尾根を下り、山裾から西に向かい、石生宿畑まで約1,250m。そこからは行者山、城山へと山を上っていきます。最も低い所は宿畑で標高94.5mです。水分橋では標高101.04mです」との解説パネル。
谷中分水界とは尾根筋ではなく、谷底平野にある分水界のこと。奥山から尾根(𡶌部神社の前の西ヶ原の尾根)を下った石生の谷中分水界は、石生交差点のある宿畑までであるが、その先は行者山・城山へと尾根を上っていくようだ。 石生では山を下りた谷中分水界とはなっているが、この分水界は日本列島の脊稜として日本海と太平洋へと水を分ける中央分水界の一部である。
石生前後の中央分水界
石生前後の中央分水界は「多紀郡の山岳連山から西へ鏡峠・黒頭峰を経て、柏原町の清水山等の頂上をつらねて走る稜線で、それはさらに延びて石生奥山の最高点に達し。それより少し南から、急に西へ降る支稜を伝わって西ヶ原に至り平地と接する。
西ヶ原の稜線端からは奥山から流れ出る高谷川の右岸(北側)の堤防上を通って、石生新町の宿畑に至る。この西ヶ原の稜線端から宿畑までの約1250メートルの間が平地で、谷中分水界。
宿畑から再び山へ上り、石生の行者山・城山の丘陵を経て、愛宕山・五台山、さらに青垣町の穴の裏峠、烏帽子岳等の頂上をつらねる山稜を経て遠阪峠に達する(「森と水と人のふれあいの径 水分れ」より)」とある。

谷中分水界から南北への流れ
「ここより北の水は竹田川から由良川に入り、南側の水は高谷川に入るか、溝を流れて稲継で共に加古川に合流して瀬戸内に入る。(中略)現在水分橋より下流は国道175号線が最も高い所となっているけれども、高谷川堤防と国道との間の水は、暗渠によって国道の下をくぐり、北側に抜けるようになっており、前から高谷川右岸が分水界であったことを示している。現在JR福知山線と国道176号線は分水界を横切って通っている。しかし、分水界を通っている感じは何もしない。生郷村志 細見末男より」

北の水は竹田川に入る、とはいうものの、中央分水界から川は見えず、側溝の水、悪水落しの水を集めた水路が石生の中央分水界の北に見える黒井川に繋がる。この黒井川が竹田川に落ちている。
国道175号云々は、国道175号が高谷川に沿って少し北を通っているが、中央分水界より北に落ちた水は、分水界より高くなった国道は暗渠を通して北に流している、ということだろう。
南への流れは高谷川を西に下り、先ほど通った稲継の先で加古川に注ぐ。分水界であれば、分水界と垂直に下っているかと思っていたのだが、分水界は西に向かってゆるやかに傾斜している故であろう。

由良川の分水界
展示パネルには「由良川の分水界 移動説の模式図」というものがあり、「もと由良川は福知山付近から南に流れて、現在の竹田川を逆流し、石生付近を通って、加古川に注いでいたといわれています。これを古加古川といいます。ところが、由良川下流の大江町付近が低下したため排水が悪くなって湿原が生まれたとされています」という解説とともに、「由良川下流の各時期の河床縦断面の変化から見た分水界移動の模式図」というタイトルで、由良川の分水界が南有路(私注;大江町)から福知山、竹田、石生と南に移っている図があった。
何の事?さっぱり理解できずにいたのだが、その傍に「石生を含む氷上盆地(私注;柏原・青垣・春日町などの平地は山に囲まれた盆地)は丹波山地の西の端に当たります。丹波山地が隆起するとともに、その西の端は沈降しました。その沈んだところに上流や付近から流されてきた小石、砂、粘土等が積もり、長い間に埋まって平になり盆地となりました。
ところが水はけが悪いため一時(2万年ほど前)は湿原となり、湿原植物は今、地下に泥炭層となっています。この湿原の上に石生奥山から雨毎に流れ出て扇状地ができ、その上を高谷川が流れ、大水ごとに土砂があふれて自然堤防をつくり、その自然堤防がこの付近で最も高いところになったため、堤防の上が分水界になったのです」との解説があった。

谷中分水界形成のプロセス
また、上のふたつのパネルの解説をまとめたような記事が、水分れ資料館で購入した前述の小冊子「森と水と人のふれあいの径 水分れ」にあった。以下概要を引用する。
「この盆地の東側は古い地層から成る丹波山地で、遠く琵琶湖まで続く。西側の山は播但山地といい、火成岩よりなる。この平地は東西の山地が隆起するとともに、逆に沈降したところである。
沈降したところを地溝帯といい、そこに周囲の山や上流から流れてきた土砂が埋まり、さらに大雨ごとに洪水の中の泥が沈んで、長い間に厚い粘土層を堆積して地溝帯は埋まった。
今から2万年ばかり前。石生附近は氷上郡春日町から柏原町に続く平坦な湿原であった。それは、もと由良川が福知山付近から、現在の武田川を逆に流れて、石生を経て氷上町稲継付近から加古川に注入していたが、京都府大江町附近の地盤が低下して傾斜がほとんどなくなったためである。この平らな湿地に、石生奥山から雨ごとに風化した土砂を流し。それが積もって石生の扇状地をつくった。
扇状地ができると、平らな湿地はここで南北に分断されることになった。そうして、奥山から流れ出る谷川(高谷川)は、扇状地の上を流れ、大雨ごとに水と土砂があふれ、両岸に自然堤防ができた。そのためこの自然にできた堤防は、この付近の最高所となり、この上に降った雨は、北側に流れると、下流の低下によって日本海側に注ぐようになった由良川に入り、南に流れると、高谷川に入り、加古川に流入して瀬戸内海に注ぐようになったのである(丹波史第八号遺稿より抜粋)」。

ふたつの解説パネルと小冊子の記事を読み、最初は何の事か分からなかった分水界の移動と、西の端(分水界移動前の由良川源流域)の標高低下、緩やかな傾斜、湿地、分水界形成を繋ぎ合わせてみる:
もとは北から南に傾斜をもって流れていた由良川が、地殻変動により上流部の標高が、遥かなる年月をかけてではあろうが次第に低下、傾斜がなくなった由良川は石生の辺りで湿地となり、流れを失った湿地は山地からの土砂で扇状地が造られ分水界が形成された。分水界の移動は、流れを失った由良川が、北へと流れる河川により争奪されてゆくプロセスであったように思えてきた。
また、この地で分水界が形成されたのは、傾斜がほとんどなく、北へ流れる由良川に下刻・浸食して谷を刻み、更に南へと分水界を移す力がなかったためではないだろか。

こんなことを考えながら地図を見ていると、稲継辺りで高谷川ともに加古川に注ぐ柏原川は、その流路から見て、遙か昔のある時期、由良川水系であったものが加古川に争奪されたのではないかと妄想してしまった。

希少魚ミナミトミヨ
展示パネルには「希少魚ミナミトミヨ」の解説があり、本来は由良川水系のこの魚が、谷中分水界を越えて加古川水系にも生息していたとあった。由良川が南に流れていた頃に遡ったものの、分水界が石生に形成され、取り残されたもののようだ。
この魚以外にも日本海系の「ヤマメ」が加古川水系に生息していた(「森と水と人のふれあいの径 水分れ」)ことなどにより、由良川の南流があったことのエビデンスとして挙げられていた。もっとも、最近はヤマメも人の手で放流されているので、境界は無くなってはいるのだろうが。。。

氷上回廊
「加古川と由良川は、石生の水分れをはさんで坂がなく、氷上回廊と称されるほど低いので古代より南北の交通路となっていました。弥生時代の磨製石剣や銅鐸は、この二つの川に沿って出土し、石剣の道と名付けられています。
江戸時代には加古川に舟路が開かれて、頻繁に舟が行き来しました。由良川流域の福知山や丹後の物資も、青垣町穴裏峠を陸路で越し、同町東芦田から小舟で船座のある氷上町本郷へ運ぶか、または石生へ廻って本郷に達し、本郷から滝野や高砂へ下りました。こうして南北の交流がおこなわれ、物資や文化も伝わりました。
このルートは、さらに北陸から上方へ物資を運ぶ北前船の通路を短縮する計画も考えられ、大阪天満の岡村善八が丹後栗田から穴裏峠を経て本郷に至る通路の改修を試み、後には石生付近を運河とする松宮構想も生まれましたがいずれも実現しませんでした。しかし、なんと言っても低い分水界を利用して南北を結ぶ計画でした」。

青垣峠でメモしたように、古代瀬戸内を通る海路が確立するまでは、市川(播磨)・円山川(但馬)ルートとともに、この加古川(播磨)・由良川(丹後)ルートも、日本海と瀬戸内海という逆方向に向かうこのふたつの河川を舟運として使い、繋がらない部分は舟を担いで峠を越えたということであろうか。

本郷の船座
加古川は石剣の道と言われ、弥生時代から南北を結ぶ交通路であった。この川に丹波まで舟運が開かれたのは慶長4年(1604)で、河東郡滝野の阿江与助と多可郡黒田庄の西村伝入斉が滝野から本郷まで開いた。
水路は本郷から高田(黒田庄)までを本郷川といい、高田から滝野までを高田川と呼んだが、船座は本郷・滝野間を運営しはじめは西村伝入斉の経営であった。
寛永17年(1640)からは二年毎の入札により落札者が請負い、幕府(京都奉行)に運上金を納めて営業した。認められた舟は16そうで、底の浅い高瀬舟を用い、本郷では長さ8mの⒖石積が多く、積荷は川の水量の多数により加減した。通船期間は灌漑用水の不要となる秋の彼岸から、翌年の八十八夜までであった。 高瀬船には3人が乗り、船頭は舳に、中乗は櫂を持ち、ともは櫓を漕ぎ、ムシロの帆も用いた。板橋があると船から下りてこれをのけ、船を通すとまた元のように直して通った。
上りの急な所では、岸の船道から綱で引き、船頭だけが舵をとり、これを「さる引き」といった。
荷物は領主の大阪蔵詰にする年貢米が最も多く、その他米・大豆・薪炭等を下し、上りは塩・藍玉等で明治の頃からは燈油があった」。

加古川の舟運のことも、面白そうだが、本筋から離れていきそうでもあり、展示パネルの引用に留めて置く。

谷中分水界を歩く
水分れ資料館での知識をもとに、日本一低い中央分水界を水分れ公園から西の端、谷中分水界が尾根道に上る宿畑まで歩き、そこから北に流れる水路を辿ることにする。

藤の木橋
高谷川に沿って中央分水界となる道を下ると、ほどなく藤の木橋詰めに案内。 「藤の木橋物語 昔、地頭に、石負(いそう)の玉の太夫という大金持ちが住んでいました。 一人娘の玉姫は、玉のように美しく近在の若者達のあこがれの的でした。そのうちどこからともなく真っ青な直垂(ひたたれ)をつけた、りりしい水もしたたる美しい若者が玉姫のもとに通ってくるようになりました。
その若者がどこから来るのかつき止めようと腰に赤い糸をつけて 後を追っていくと藤ノ木橋を渡り遠い山里の大きな池の深みに入って行きました。古池の大蛇の化身だったのです。驚いた玉の太夫は、 の神様のお告げを受け藤ノ木橋の 「藤ノ木」にお願いしたところ、その夜のうちに藤のツルが伸びて橋を塞ぎ蛇のうろこがいっぱい落ちていました。それからは二度とその男は来なくなったということです」とあった。

おおかみ橋
更に下ると、おおかみ橋。橋詰の案内には、「昔、このあたりに狼が住んでいました。この狼をとらえて、売ったお金でこの橋をかけたから「おおかみ橋」と名付けられたと、伝えられています(丹波史より)。
しかし、上となりの「藤の木橋」は「縁切り橋」、下となりの「水分れ橋」は「身分れ橋」。だから、真ん中の「おおかん橋」「おかん橋」は、神様が守って下さる安全な「大神橋」「お神橋」だ、とも言われたと伝えられています」とあった。 藤の木橋の伝説が、何を言いたいのか今一つわからなかったのだが、「縁切り」を伝えんとしていたようだ。

水分れ橋
国道176号にT字で合わさる水分れ交差点には高谷川に水分れ橋が架かる。橋の傍に「水分れ橋と氷川回廊」の案内。水分れ資料館で氷上回廊のことはメモしたように、「(前略)山地に挟まれた南北に伸びる細長い低地帯で、両水系を繋ぐ一つの道であり『氷上回廊』と名付けられています。太古の昔から人・物・文化、さらに生き物が行き交うルートであり、交通の要衝としても栄えました」との案内があった。

石生交差点
国道175号を西に進むと、前方に丘陵が見えてくる。案内にあった宿畑で谷中分水界が終わり、山へ上り、石生の行者山・城山の丘陵を経て、愛宕山・五台山、さらに青垣町の穴の裏峠、烏帽子岳等の頂上をつらねる山稜を経て遠阪峠に達する中央分水界の尾根筋に入るところである。取り付き部分には「これより山に登る」との木標があった。

由良川水系・黒井川の水路に向かう
分水界から南北に分かれる水系のうち、南流系加古川に注ぐ水路は高谷川としてはっきり目にすることができたのだが、北流系由良川に注ぐはっきりとして川筋は分水界から直ぐには流れていない。
地図をチェックすると、国道175号が中央分水界の尾根でもある城山を穿つ城山トンネルを抜けたあたりから悪水落としといった水路が見え、その更に北、春日和田山道路の大崎横田トンネルが中央分水界の尾根筋を抜けたあたりから少し水路がはっきりし、黒井川となって北へと進む。
とりあえず、黒井川の始まり部分でも確認しようと、石生交差点から国道175号に向かう。成り行きで進むと側溝に集まった水が北へと向かう。地図には国道175号の先から水路がはじまっていたが、如何にも川筋に「発達」しそうな側溝が国道手前から始まり、国道を越えた北からはコンクリート溝ではない、自然の流れとなって畑地の中を北に流れていた。
これで初日の散歩は終了。起点とした篠山口のホテルに向かいゆったりと。
先日、長年気になっていた久万の札所への峠越え、下坂場峠と鶸田峠を歩いた。山間地故の車での単独行のため峠越えはピストン。峠を上り、そして下った後は車デポ地まで戻る必要もあり、ピストンの距離を極力短くしようと、車を寄せられるところまで乗り入れた結果、峠越えは結構あっけないものとなってしまった。峠歩きはピストンの時間を入れても2時間ほどだったろうか。
Google Earthで作成
険路の峠越えを好んで望むわけではないが、それでも少々物足りない。それではと、久万の札所に入るもうひとつの峠越えの遍路道、真弓峠・農祖峠を辿ってみようとルートをチェック。真弓峠は道もなく荒れた険路のようだが、それも一興。農祖峠はと言うと、少し距離はあるが、地形図で見る限り緩やかな上りのようだ。往復で3時間もみておけばいいだろう。
ということで、日も置かず、先回辿った内子からの遍路道が下坂場峠・鶸田峠ルートと真弓峠・農祖峠ルートへと分かれる分岐点、田渡川が小田川に合流する突合(内子町吉野川)に向かった。



本日のルート;突合>水元の丁石>水地の丁石>寺村の日切地蔵>恩地の丁石>堂山大師堂>小田の丁石>船戸の丁石>三島神社
真弓峠越え
真弓峠への遍路道>国道380号と交差>再び国道38号と交差>旧国道に>新真弓トンネル西口に>林道大平線>尾根取りつき部>真弓峠>新真弓峠東口>新真弓トンネル西口>畑峠遍路道分岐点に>三島神社車デポ地に戻る
農祖峠に
三島神社>馬之地の堂宇>父野川の地蔵堂>父二峰の道標
農祖峠越え
農祖峠入口>道標>道標>農祖峠>馬酔谷の舗装道と繋ぐ
馬酔谷と久万の町を繋ぐ
馬酔谷の里道との繋ぎ場所に
下野尻から久万の町の遍路道
水源施設(下野尻浄水場)脇に車デポ>農祖峠への道分岐点>大宝寺・岩屋寺分岐>国道33号と交差
国道33号から久万川までの遍路道
遍路道と国道33号交差地点に戻る>上野尻の道標>土佐街道三差路跡の道標


国道379号を突合に
新居浜を午前6時頃出発。国道11号を進み桜三里を越え、東温市で県道23号に乗り換え、砥部で国道33号を南に進み、国道33号が御坂峠へと上るあたりで国道379号に。
重信川水系・砥部川の谷筋を進み上尾峠を穿つ上尾隧道を抜けると肱川水系・玉谷川の谷筋となる。峠が分水界なのだろう。峠までの道は一部狭い一車線の箇所もあるが、道路拡張工事が進められており、比較的快適な道ではああった。 玉谷川をどんどん下ると落合で田渡川に合わさり、下流は田渡川となる。この田渡川合流点まで伊予郡砥部町である。分水界の南北をカバーし結構広い。平成の大合併において、玉谷川筋の広田村が砥部町に合併した故であろう。 落合からは、先回下坂場峠・鶸田峠へと進んだ道を逆に中田渡、吉野川と下り田渡川が小田川と合わさる突合に。

水元の丁石
突合で国道380号に乗り換え、小田川に沿って東へ進む。ほどなく水元(内子町寺村)の集落に向かう旧国道に入ると、集落を出た辺り、道の左に10基の石造物が並ぶ。「えひめの記憶」に拠れば、「丁数の判読のできる舟形石仏丁石が6基、「二百四十丁」から「二百四十五丁」までがある」とのこと。
何処までの丁石?久万の札所ではあろうが念のためチェック。1丁は約109m、245丁は27キロほど。おおよそ久万の札所までの距離である。
で、何所に6基もここに?道路整備に伴い、石仏が一カ所に集められるのは常のこと。この場合もそうであろうか。
なお、「えひめの記憶」にあった、集落入口左側にあるという一間四方のお堂は、見つけることができなかった。

水地の丁石
旧道を進み水地(内子町寺村)の集落に入ると道の左手に、コンクリートで被覆された4基の石造物。お地蔵さまとともに、「二百三十二丁」の舟形石仏丁石がある(「えひめの記憶)。丁数が減っているので、久万への丁石では、との想像はあたっている、かも。

寺村の日切地蔵
旧国道を走り一瞬国道に出るが、すぐまた旧国道を進み中通り地区を越えると国道と交差。遍路道であろう旧国道はそのまま国道を横切り、小田高校前の道を弧を描いて進み再び国道と交差。そのまま国道を横切り旧国道に入ると、道の左手、少し小高いところに堂宇が見える。日切地蔵が祀られる。
石段脇に草に隠れた「日切地蔵」の石碑があった。階段を上り、お参り。この辺りは「林慶(りんけ)」と呼ばれる。由来は不詳。
日切地蔵
日限地蔵とも。Wikipediaには「日限地蔵 (ひぎりじぞう)は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。 安土桃山時代、蘆名盛氏へのある夜の夢のお告げで黒川城の堀から見つかったとされる3体の地蔵菩薩像を日限地蔵として祀った西光寺(会津若松市)をきっかけとし松秀寺(東京都港区)から全国へひろがった」とある。
松秀寺縁起
日限地蔵尊の像2体あり。いづれも立像にして長1尺8寸、2体ともに徳一大師の作なり。もと陸奥国会津西光寺にありしを、紀州菩提心院殿(私注;紀州藩七代藩主徳川宗将)崇信し給ひ、3体の内2体をとめられて当寺へ寄附せられしとなり。
徳一
徳一僧都には会津の束松峠を辿ったときに出合った。鳥追観音・如法寺のHPをもとに簡単にまとめると、「平安時代初期、奈良の都から会津へ下られた法相宗の僧。会津に仏の都を実現し衆生済度をと志し、大同2年(807)、会津東方の磐梯山麓に根本寺として慧日寺を創建。次いで越後への要所野沢に会津西方浄土として鳥追観音如法寺を開創。
更に会津盆地の中央に勝常寺を、奥会津只見への要所柳津に円蔵寺を、会津北方の要所熱塩に慈眼寺(現在は示現寺)を開創。民衆の布教教化に邁進し、故に民衆は、僧徳一を東国の化主、菩薩、大師と尊称致し、尊信敬仰致した。
また、徳一は、天台宗最澄、真言宗空海という平安新都の二人のリーダーに対して、奥州会津慧日寺に住しながら、真っ向から独り法戦を挑み一歩も引かず五分に亘りあい、よく旧南都仏教法相宗の正義を守った学僧としての面目も高い。
徳一菩薩、徳一大師と、一般民衆より尊信敬仰されたことは、仏教僧の本分である衆生済度に身命を賭して、都より遥か東国の野に下り、民衆の為に御仏の慈悲を施し、仏教の法燈を点し続けた徳一の真面目であり、故に、今日でも徳一大師と尊称致し、尊敬致して止まぬ。
その後、やがて磐梯山慧日寺は、会津四郡を支配し、最盛期には寺領十八万石、子院二千八百坊、僧侶三百人、僧兵数千人を数える程に隆盛を極め繁栄致しました。この慧日寺支配による荘園政治は、武家政治が確立する鎌倉時代以前まで続き、奥州一の会津仏教文化の黄金時代を創り出した」とあった。

恩地の丁石
旧国道が国道と交差し小田の町(内子町小田)へと入る手前にコンクリート法面に二基の石造物。地区は恩地(内子町寺村)だろうか。「□□廿二丁」の舟形石仏丁石が祀られている(「えひめの記憶」)、と。

堂山大師堂
小田の町に入り、内子町役場小田支所の前の広いスペースに車をデポ。「えひめの記憶」に「小田町役場前に、道の右側上にはやや離れて堂山大師堂がある」とあり、辺りを彷徨うが、近くに見つからず。
地図でチェックし直すと役場支所から少し西、小田川が小田の町に向かって南に突き出たその西に大師堂はあった。お遍路さんの宿泊所となっているようだ。




小田の丁石
小田の町を進み、八坂神社の参道を越えると、道の右側に3基の石造物が並ぶ。「えひめの記憶」に拠れば、「八坂神社の参道口を少し過ぎると道の右側に「二百十六丁」の舟形石仏丁石、さらに進むとまた右側に「二百十一丁」の丁石がある」とされる。丁石は2箇所とあるが、何度行き来しても、この箇所にしかみつからなかった。これもこの場所に集められたのだろうか。



船戸の丁石
小田の町を抜け、県道に出る。「えひめの記憶」には「船戸にある参川(さんかわ)口のバス停前の右山側には舟形石仏などが多数並べられている。「二百十八丁」「二百十三丁」「二百九丁」「二百七丁」「二百五丁」などのほか判読できないものもある」とのこと。
が、バス停も見つからないし、多数の石仏群も見えない。かろうじて山側のゴミ捨場脇に一体の舟形石仏が佇む。ここもなんらかの事情でどこかに移されたのだろうか。



小田川を渡り国道380号を三島神社に
県道に出た箇所から50mほど進むと左手に小田川を渡る橋がある。遍路道はここを左折し北に進み、国道380号を小田の町で合わさった大平川に沿って上ることになる。
国道を道徳、泉の集落を越え三島神社(内子町大平)に。神社手前のスペースにデポし真弓峠へと向かうことにする。


真弓峠越え



真弓峠への遍路道に;午前9時22分
三島神社(内子町大平)におまいりし、遍路道の入口を探す。境内を探すが、それらしに箇所はない。とりあえず国道に出て少し上るとカーブ手前に「南無大師遍照金剛」と刻まれた石柱があり、遍路道の案内もあった。

国道380号と交差;午前9時29分
入口付近の舗装も切れ、杉林の土径を進み、突然現れる民家を見遣りながら7分ほど上ると国道に交差。右手に「大宝寺 農祖峠経由遍路道」の石柱があり、土径を上る。標高は90mほど上げる。

再び国道38号と交差;午前9時34分
5分ほどかけて標高を50mほど上げると、再び国道380号に交差。少し分かりにくいが、右へとの遍路道の案内がある。国道を右に折れ、50mほど歩くと直ぐに遍路道の案内。「左」と「国道直進」の二つのルート表示があり、「当地方山間部降雪・積雪のときは、畑峠(はたのとう)は積雪が特に多く通行困難・不能となること有り。迂回路へどうぞ」とあった。
畑峠ルート
真弓峠越えは険路のため、昭和11年(1936)旧国道に隧道が掘られるまでの遍路道は、畑峠から田渡川の谷筋にある三島神社に向けて下り、下坂場峠を越えていったようである。
また、迂回路とあるのは、国道380号に昭和63年(1988)開通した新真弓トンネル(710m)を抜けて久万へ向かうように、とのことだろう。

旧国道に;9時41分
遍路道を5分ほど、標高を50mほど上げると周囲が開け畑地となる。その先で旧国道に出る。出たところに手書きで書かれた「へんろ道ご案内」。所々消えているため概略をメモすると、「南コース伊予落合に出るにはここから(右)へ新真弓トンネルを進む。直進は旧真弓トンネルを通る。ひわた峠経由に北コースへ進むには、ここから左へ約200m進み、道を登ってください」とある。
南コースの伊予落合とは新真弓トンネルを抜け、国道380号が国道33号と合流するところ。ひわた峠経由の北コースとは畑峠から下坂場峠を経て鶸田峠へと抜ける道の事と思う。

新真弓トンネル西口に;午前9時52分
旧道に出たところで、真弓峠へと向かいたいのだが、誰も通る人がいないようで、案内はまったくない。仕方なく、地図をチェックし、真弓峠へと向かう道を探すと、新真弓トンネル西口辺りから峠近くに向けて実線・破線が描かれる。遍路道ではないだろうが、とりあえずこの実線・破線を辿り、真弓峠に上るべく旧国道を右に折れ新真弓トンネル西口に向かう。





林道を進み尾根への取り付き部に;10時16分
国道を越えた先に「林道大平線」の案内。木標には「本川 野村」方面の案内がある。地図でチェックすると「本川 野村」は大平川と小田川に挟まれた山稜部にある。
峠への手掛かりは何もないので、とりあえず林道を進み、途中成り行きで峠へのルートを探すことに。道を進むとほどなく「本川 野村」への林道から分かれ、地図に破線で示された林道に入る。
ジグザグの林道を20分ほど進むが、道は尾根筋から離れていく。尾根筋への道はなく、小さい沢を越えて尾根に向かって這い上がるしかないようだ。

真弓峠;午前10時25分
GPSにインストールした山地図の真弓峠を目安に林道から逸れる。きつい斜面をひたすら尾根に向かってトラバース気味に這いあがる。切り倒された木を支えとしながら10分ほどで尾根に這いあがり、真弓峠に到着。新真弓トンネルから標高を150m上げたことになる。峠にはお地蔵さまが祀られ石柱が立っていた。 真弓峠への道、険路とは言いながら、道さえ整備されておれば、どうということはないとは思うが、それは車で登山口まで進んだものの戯言か。数十キロを歩いて来たお遍路さんにはキツイ峠越えではあったろう。
また、真弓峠への尾根筋はなんとなくわかるものの、 GPSなどでの位置確認ができなければ、お勧めできない峠越への上りであった。
真弓
険路であるのに、峠名が真弓は女性らしい可愛い名前。チェックすると、由来はこのあたりに眉見城があり。眉見某が籠っていた故とのことであった。

峠から下り新真弓トンネル東口へ;10時44分
誰も通らないという真弓峠を酔狂にも上り終え、さて戻りは。来た道を戻るのも今一つ。適当な下りはないかと峠をチェック。東に踏み込まれた道がある。どこまで続くか保証の限りではないけれど、とりあえずトライ。
10時28分頃道を下る。右手が開けた明るい九十九折れの下り道を進むと10分ほどで沢に入る。足場の悪い沢を少し下ると前方が開けてきた。GPS でトンネルの上を横切っていることを確認し一安心。新真弓トンネル東口に下りる。15分程度で下り切った。
真弓峠越えは上りは道が消滅しているのに、下りはしっかりとした道が繋がっていた。


車デポ地に戻る

畑峠遍路道分岐点に;11時8分
ここからデポ地に戻ることになる。少々怖いが710mの新真弓トンネルを抜け西口から旧国道を戻り、遍路道分岐点に。ここで案内にあった畑峠への取り付き部への確認に向かう。
道を200mほど進むと道脇に「大宝寺 畑峠遍路道復元 平成拾八年」と刻まれた石柱があった。ここから山地図に破線・実践で示されるルートを辿り、田渡川筋の三島神社へと下り、下坂場峠へと向かうことになる。

車デポ地に戻る;11時30分
来た道を、国道と2度交差しながら三島神社に戻る。ピストンで1時間10分ほどかかった真弓峠越えであった。次は農祖峠への取り付き口へと向かうことになる。


■国道380号を農祖峠へと向かう■

三島神社で車に乗り、国道380号を東に進む。九十九折れの峠道を上り、新真弓峠を越える。トンネルを抜けると国道に沿って仁淀川水系・父之川が流れる。峠が肱川水系と仁淀川水系の分水界となっているのだろう。また行政区域も喜多郡内子町から上浮穴郡久万高原町に変わる。

馬之地の堂宇
馬之地(久万高原町父野川)の国道脇に堂宇が建つ。「えひめの記憶」にある馬之地(久万高原町)の堂宇ではあろうが、大師堂なのか地蔵堂などなのかわからなかった。
ところで、この堂宇は旧国道ではなく国道380号脇に立つ。旧国道にはそれらしき堂宇がなかったが、遍路道はこの辺りは現在の国道に沿って続いていたのだろうか。





父野川の地蔵堂
少し先の国道脇に同じく堂宇が建つ。これはどうも地蔵堂のようである。
父二峰村
このあたりはかつての父二峰村。父野川村と二名村、そして露峰村が明治の町村制実施時にそれぞれの村名から一字を取り命名された。二名は先回鶸田峠を越える時に歩いた。露峰村はこれから東、二名川が父野川に合流するあたりから東一帯の地であったようだ。



父二峰の道標
国道から旧国道に入り、北から下り父野川に合流する二名川に架かる父二峰橋(久万高原町露峰)を渡ると、橋の東詰に道標が立つ。「へんろ道 明治十四年」と刻まれた文字が読める。「大宝寺 岩屋寺」も刻まれているようだが、摩耗してわからなかった。
また、道を隔てた畑の脇に小さな道標が立つ。ここに二つも道標が立つ必要もないと思うが、「えひめの記憶」に拠ればふたつの道標の示す里程が異なり、小さな道標は農祖峠入口にあったものが移されたのでは、とする。

■農祖峠越え■


農祖峠入口;12時7分
父二峰橋を左に折れ、二名川に沿って県道42号を北に向かう。川がカーブする辺り、県道山側に「農祖峠歩きルート 44番大宝寺 6.8km」の案内がある。県道脇に適当な車デポスペースが見つからず、遍路道に少し車を乗り入れ、舗装はされていないが、広いスペースを見つけ車をデポし農祖峠へと向かう。遍路道は霧峰と二名の境を上る。

道標;12時20分
道に沿って流れる沢を見遣りながら、誠にゆるやかな坂をのんびり進む。12分程度進んだところで、「大宝寺」と刻まれた石柱の手印に従い、沢筋を更に進む。







道標;12時26分
そこから更に5分ほど進むと空が開ける。「農祖峠遍路道 大宝寺 岩屋寺」と刻まれた石柱、木にお遍路さんの印が描かれた木標の立つ間を林の中に入る。







農祖峠;12時29分
開けた空も直ぐに杉林となり、峠手前らしき、少し傾斜のある道を上り切ると農祖峠に。平坦な峠には「へんろ道 農祖峠 標高651米」と書かれた木標が立つだけの、さっぱりした峠であった。峠入口から20分強で峠に着いた。

馬酔谷の舗装道と繋ぐ;12時40分
峠から里道と繋がる地点ま「で下るのがお約束。ピストンで戻り、峠を越えた先で車の乗り入れる箇所を確認するためである。
峠から10分ほど緩やかな道を下ると馬酔谷(あせぶたに;久万高原町下野尻乙)地区の舗装道に下りる。この地点から上は舗装が切れていた。地点を登録し車デポ地へと折り返すことにする。
馬酔(あせぶ)
Wikipediaに拠れば、「馬酔木(あしび)というツツジ科の常緑低木。馬酔木の名は、「馬」が葉を食べれば毒に当たり、「酔」うが如くにふらつくようになる「木」という所から付いた名前であるとされる」とある。馬酔も馬酔木と同義ではなかろうか。

車デポ地に戻る;13時15分
来た道を折り返し車デポ地に戻る。ピストンでおおよそ1時間強の行程であった。

■馬酔谷と久万の町を繋ぐ■

馬酔谷の里道との繋ぎ場所に;13時45分
車デポ地から県道42号を下り、国道380号乗り換え、落合で国道33号に入る。久万高原町へと向かい、町に入る手前、馬酔谷(あせぶたに)の谷筋へと左折、細い道を農祖峠から舗装道と繋いだ地点まで進む。途中久万の水源施設(下野尻浄水場)の道の右手に「へんろ道」の案内があった。
とりあえず道を繋ぐため、峠から下り舗装道に出た箇所まで車で進み、途中見かけた「へんろ道」分岐箇所まで折り返す。

●下野尻から久万の町の遍路道●

水源施設(下野尻浄水場)脇に車デポ;13時48分
車を戻し、水源施設脇のスペースに車をデポ。舗装道から土径へと折れる遍路道を久万の町に向かう。水源地からの清冽な落ち水が流れる沢を見遣りながら土径を進む。



農祖峠への道分岐点;13時53分
森の中を5分ほど進むと比較的広い道に出合う。舗装はされていない。角にあった案内には、道を山方向へと進むと農祖峠まで歩いていけるとあった。



大宝寺・岩屋寺分岐;13時55分
分岐点を右に折れ下野尻配水所を見遣りながら進むと石柱があり「左大宝寺 3.4km,」「右 岩屋寺 9.5km」と刻まれる。その脇に順路の説明は「第45番札所・岩屋寺に行くには、大宝寺から岩屋寺へと進んでください」と言いたいのだろが、ちょっとわかりにくい。
右へと岩屋寺に向えば45番岩屋寺から44番大宝寺への「逆打ち」となるが、左の44番大宝寺から45番の岩屋寺の順打ちをすれば、46番札所浄瑠璃寺(松山市)への遍路道の関係上、一度44番に「打ち戻り」して先に進むことになる。 44番大宝寺から45番の岩屋寺の順打ち・打ち戻しルートは数年前歩いたので、今回は逆打ちルートを辿るべく岩屋寺方面へと右に折れる。

国道33号と交差;14時2分
分岐点から4分ほどで前が開け町が見えてくる。畑脇の土径を進み農作業の人と挨拶を交わしながら国道33号との交差点に。ここで、野道を進む遍路道を車道と繋ぐことができたので、一旦車デポ地まで折り返す。


■国道33号から久万川までの遍路道■

遍路道と国道33号交差地点に戻る;14時25分
20分程度で車デポ地に戻り、下野尻から国道33号に戻り、先ほど遍路道と繋いだ地点に戻る。交差地点の右手は久万高原消防本部。近くに駐車スペースを見つけ国道33号を越えた遍路道をトレースする。







上野尻の道標;14時28分
国道33号を越えた遍路道は、道なりに先に進む。途中までは車が入れるが、先は狭く車は進めない。その狭い土径に道標(久万高原町上野尻)が立つ。遍路道は右に折れ、旧国道(久万本通り)に出る。








土佐街道三差路跡の道標;14時33分
「えひめの記憶」には、旧国道に出た遍路道はそのまま直進し久万川の手前で左に折れ、かつての土佐街道の三叉路に向かい、そこから右に折れ土佐街道を久万川を越えて川向うに進んだ、とある。
旧国道からの遍路道も、旧土佐街道もその道筋は消えているが、かつての土佐街道三差路跡に道標が立つ、とのこと。民家軒下に小振りな道標が立っていた。

実の所、予定では、このまま土佐街道を進み久万川を渡り、宮ノ前、越(こえ)ノ峠(とう)、中野村を経て槇谷(まきたに)から、先回岩屋寺に向かった尾根の八丁坂まで進もうと思っていた。45番札所・岩屋寺から44番札所・大宝寺の逆打ち、打ち戻しなしの遍路道をトレースしようと思っていたのだが、ここで時間切れ。久万川手前までを一旦の区切りとして今回の真弓峠・農祖峠越えの散歩を終えることにする。
下坂場峠と鶸田峠を越え、遍路道を久万(上浮穴郡久万高原町)の町に下ってみようと思った。常の如く、良いとこ取りの「歩き遍路」。舗装道路は避けて、車で進めるところまで進み、そこから土径を辿り峠を越える、といったルート取りである。単独行のため、峠を越えた後は、車デポ地までピストンも、常の如くでもある。
下坂場峠と鶸田峠を越えてみたいと思ったのは数年前のことになる。久万の町にある四国霊場第四十四番札所・大宝寺や第四十五番札所・岩屋寺を辿ったとき、これら久万の札所に入るにはいくつかの峠越えの遍路道があり、そのひとつが、下坂場峠と鶸田峠の遍路道であることを知った。
早速遍路道を辿り峠越えと思ったのだが、久万の前の札所は西予市宇和町にある明石寺であり、この間の距離は80キロ弱もある。卯之町、大洲、内子の町へと北に進み、内子の町を越えた後、東から流れ込む小田川筋の谷に入り、北から小田川に流れ込む田渡川の谷筋を進んだ後、これらの峠を越えて久万の町に入る。谷筋にバスなどを利用した段取りのいいルーティングは望むべくもない。

Google Earthで作成
ルート取りをどうしたものかと、数年が経過したのだが、先日予土国境の坂本龍馬脱藩の道を歩いたとき、これもバスの便など望むべくもない山間のルートであり、結局「ピストン」で進むことにした。車で谷筋の進めるところまで進み、そこに車をデポし峠を越え、次の谷筋まで下った後、車デポ地に引き返す、所謂「ピストン」を繰り返し、目的の地に向かうわけである。
「ピストン」行では時間は倍かかるが、足の便・宿泊の心配はない。今回の峠越えもピストンでの折り返しと決めてルーティング。当初峠越えは結構長い距離を進むことになるだろうと思っていたのだが、Street Viewでチェックすると、舗装された林道が両峠近くまで続いており、峠越えのピストンはそれほど大変ではなさそう。両峠越えに2時間もみておけば充分。朝早く出れば日帰りでもふたつの峠を越えることができそうだ。

こうなれば少し欲が出てきた。田舎の新居浜の家から90キロほど車を走るわけで、2時間の峠越えだけではもったいないと、急遽、これまた常の遍路歩きと同じく、「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」を参考に遍路道標をチェックしながら進むことにした。

このルーティングを日帰りでカバーするため、スタート地点は、田舎の新居浜市からの往路2時間ほどの時間も考慮し、第四十三番札所・明石寺から北に向かった遍路道が、内子の町を越え小田川筋を東へと向かう辺り、国道56号から分かれた国道380号〈379号;内子町吉野川まで重複〉が小田川の谷筋へと進む地点とする。第四十三番札所・明石寺から久万の札所までの長い遍路道のおおよそ中間点である。
このルーティングで、数年来気になっていた峠を越え、道標もすべて確認し、夕刻暗くなる前に家には着いた。「ピストン」行でと性根を決めれば四国の山間地峠越えも、怖いものなし、かと。




本日のルート;石浦バス停>下和田の石仏>中和田の石仏>大瀬の徳右衛門道標>十郎神社>石積の徳右衛門道標>川登の大師堂>路木の大師堂>梅津の大師堂>突合の道標>へんろ小屋>吉野川大組の道標>新田神社の徳右衛門道標>中田渡大師堂>中田渡の道標>上田渡の道標>上田渡の薬師堂>落合の大師堂と道標>県道42号に>倉谷の徳右衛門道標>畦々の道標>上畦々の大師堂と徳右衛門道標
下坂場峠に
土径に>土径の道標>下坂場峠久万高原町に>葛城神社下の道標>葛城神社脇の大師堂>森田大師堂の道標>福城寺参道口の道標>鶸田峠登り口に
鶸田峠に
由良野の衛門道標>町道に交差>>だんじり岩>鶸田峠>町道と交差>地蔵尊 >久万高原町との道を繋ぐ

石浦バス停
松山自動車道を走り、内子五十崎ICで下り、国道56号を少し北に戻り、中山川と小田川が合わさる辺りで国道380号(379号)に乗り換え、蛇行する小田川を東北に向かう。七反、長野を過ぎ富浦(内子町五百木)に。石浦バス停(喜多郡内子町五百木)の対面辺りに北を示す「水戸森峠(みともりとう)」への木標がある。ここが水戸森峠を下って来た遍路道の合流点である。

内子市内からの遍路道
第四十三番札所から卯之町、鳥坂峠を越え大洲と進んだ遍路道は、十夜ヶ橋から肱川の支流・矢落川に沿って東に向かい、予讃線五十崎駅辺りの黒内坊から北、内子運動公園へと進み、廿日市、六日市、護国と内子の街中を通る。内子の街並みを外れた遍路道は国道56号井を越え、中山川を渡り、水戸森に入り、水戸森峠を下り、この地に出る。

長岡山トンネル手前から旧国道に
大きく北に蛇行する小田川に沿って走ると長岡トンネルが見える。トンネル手前から国道から離れ蛇行する川に沿って進む旧国道が通る。旧道がいつの頃建設されたものか不明だが、道筋にある真弓峠の隧道が通ったのが昭和11年(1936)であるから、それ以前だろう。その旧国道が小田川に沿って道が建設されるに従い、それまで山中を進んでいた遍路道も川沿いの旧国道を進むようになった、とのことである(「えひめの記憶」)。

「えひめの記憶」に拠れば、前述水戸森峠から小田川筋に下った遍路道は、「直進して小田川対岸の長前に渡り、小田川を再度渡った後、国道を横切り山中を抜けていたという。かつての遍路道は、このように川に面した急傾斜地では、見通しがきく安全な山の中腹や尾根道を通っていたが、国道開通とともに遍路道は次第に川沿いの道に移り、以前の遍路道は消滅して山林や草道の中に昔の面影を残すだけとなっている」とある。
下和田の石仏
旧道を走ると「えひめの記憶」に記されるように、岩肌にミニ霊場の舟形石仏や馬頭観音、地蔵などが祀られていた。舟形石仏は舟形の石に一体の仏が刻まれている。観音様が多いようだ。

和田トンネル手前から旧国道に
長岡トンネルの東口で国道に戻り、東に進むと中和田(内子町五百木)の和田トンネルが見える。その手前から川に沿って進む旧国道が見える。
中和田の石仏
旧国道を走ると、ここにも岩肌に祀られた舟形石仏やお地蔵さまが祀られている。右手にはのどかな景観の中、小田川が流れる。「えひめの記憶」には「この辺りは標高100mから200m前後の山並みが小田川の両岸を覆うように連なっており、一般に大瀬谷と呼ばれていた。古川古松軒は『四国道之記』に、「うちの子の町より逢瀬谷といふにかかる、此谷は六里半の谷道にて、谷川数度渡る事なり。左右は山のみにて淋しき道なり」と書きとめている」とあるが、前述の如く、山の中腹や尾根道を往昔と異なり、広い国道が整備された今、淋しき道と感じることはない。

大瀬
旧国道はトンネル東口で国道に合わさり、東に進むが掛木集落から左に折れて旧国道を進み大瀬の町(内子町大瀬中央)に入る。
大瀬の徳右衛門道標
町の中心地に入る手前、現国道を繋ぐ新成屋橋の北詰に休憩所らしき四阿(あずまや)があり、その脇に徳右衛門道標が立ち、「是〆菅生山迄七里」と刻まれる。「菅生山」とは久万高原町にある第四十四番札所・大宝寺の山号である。


徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。 因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。

大江健三郎氏の生家
四阿脇に大瀬の案内があり、大瀬本町(成屋)に「大江邸」と刻まれていた。作家の大江健三郎氏は内子の生まれとは知っていたが、ひょっとしてこの地?古い町並みが整備された旧国道沿いにその生家はあった。同氏の作品のモチーフとなる「四国の深い森」はこの大瀬の谷がその原風景なのだろうか。国道(バイパス)が通る現在の谷筋は,イメージとは異なり、結構明るく、のびやかではあった。

十郎神社
鵜川が小田川に合わさる河口を越え、乙成集落(内子町大瀬中央)に入ると道脇に「曾我十郎首塚登山口」の木標。「歩いて20分・車で5分」とあるので、左折し坂道を登ると「十郎神社」と書かれた赤い鳥居。車一台分の舗装された道を上り、そして下ると広場に出る。十郎谷公園と呼ばれるようだ。そこに小さな鳥居があり、奥の祠に十郎の首塚が祀られる。また、なにも説明がないのでわからなかったが、一段下に立つ小祠には五郎が祀られていたようだ。

乙成に伝わる曽我伝説
案内には「幼い時(兄5才弟3才)に父を討たれ数奇な運命を生きた曽我十郎五郎の兄弟の仇討ちは日本三大仇討ちの一つとして有名である。
領地争いのため、伯父工藤祐経に父河津三郎祐泰を殺された兄弟が満22才になった1193年富士の裾野で巻き狩りをする御陣へニ人だけで忍び込み、仇の工藤を見事に討つ事ができた。しかし、その直後多数の家来に囲まれ勇敢に戦ったものの討死した。
曾我十郎の家来だった宇和島出身の鬼王は主人の首を故郷へ持ち帰り弔ろうとしたが、瀬戸内海を渡る時、しけに会い上灘(双海町)に漂着し中山町、程内を通って乙成(此処椎ノ木駄場)まで来た。しかし追っ手が伸びまた首も痛み臭いを放し出したため持ち帰る事をあきらめ、この地へ首を埋め石を積み塚を作った。
塚石の表には「曽我十郎祐成首塚」裏には「建久四年癸丑五月二十八日於富士野御狩場殺父之敵工藤祐成経于時以公命仁田四郎忠常討つ之臣宇和島産鬼王者持帰其首埋于此」と記されている。乙成地区住民は先祖よりこの曽我十郎神社をお祀りし地域の文化遺産として守っている。
また首塚という事で首から上の病はお祈りすれば治ると伝えられ、信者も多くそのお礼に小さな鳥居が多数奉納されている。平成四年四月吉日日 乙成地区 曽我十郎神社を守る会」とあった。
いつだったか、東海道箱根越えの折、曾我兄弟の墓に出合った。曾我兄弟の墓は全国に14か所もあるというので、それはそれとしていいのだが、神社名が十郎神社と言い切り、「五郎」が登場しないのは何故だろう。上の伝承では十郎の家来の鬼王が「主人の首」を、とあるので、首塚は十郎だけであったため、であろうか。ともあれ、伝説は伝説として置くべし、か。

虎御前の涙雨・五郎十郎の涙雨
「えひめの記憶」には「五月二八日に降る雨を「虎が雨」「虎御前の涙雨」といっている。
この日、曽我十郎祐成が富士の裾野で仇討の本懐を遂げ、討死した。それを十郎の愛人である大磯の虎御前が悲しんで流した涙が雨になったのだというのである。
伊予郡中山町や北宇和郡では「虎御前の涙雨」、喜多郡長浜町や東宇和郡では「曽我兄弟の涙雨」といっており、喜多郡肱川町では「五郎十郎の涙雨」といい、この日は大なり小なりの雨が降るものと信じている。ともかくこの日は仕事を休んで雨を待望するむきがあるが、本県では、南予地域にのみある伝承である。 『大洲旧記』大瀬村の条に曽我五郎十郎首塚のことが見え、「五月二十八日には、其塚より霊出て雨ふり出し、此国中雨ふらずと言事なし。当年より十年程は雨降らずとも有」とある。五郎十郎の話がこの地に「根付いた」経緯などを知りたいものである。

石積の徳右衛門道標
国道に戻り、石積の集落(内子町大瀬東)を抜ける旧国道を走り、一度国道に出て、川登集落に向かった国道が再び旧国道に入る手前に徳右衛門道標がある「是〆菅生山迄六里」と刻まれる。








川登の大師堂
旧国道を進み川登の集落(内子町大瀬東)に入ると、道の左手に如何にも大師堂といった建物がある。遍路千人宿泊を記念して昭和5年(1930)に建て替えたという「千人宿記念大師堂」(善根宿)とのこと。大師堂は遍路の無料宿泊地であり、集落の人にとっては自らが遍路を行うと同じ功徳を受けるとされる善根宿でもあったのだろう。




路木の大師堂
旧国道を進み、南から北へと川に突き出した尾根を川が大きく迂回する路木の集落(内子町大瀬東)に大師堂と小振りの地蔵堂が立つ。楽水大師堂と称される。弘法大師が清水を飲み楽になったのが名前の由来、と。

梅津の大師堂
旧国道から国道56号に出て少し走り、梅津の集落(内子町大瀬東)へと入る。道から一段高いところに梅津の大師堂が立つ。それにしても大師堂が多い。
「えひめの記憶」には「石浦を出てほぼ12kmほどである。この間遍路道はほぼ一筋のためか、道標は徳右衛門道標2基のみである。ただ、道の左側の山肌には多くの石仏等が見られ、昔ながらの遍路道の名残をうかがわせる。
また、この間の道は谷あいの道で、明石寺から大宝寺までの長い道程では、行きなずむ遍路も多かったに違いない。そのためか、道に沿って遍路が宿泊したり、接待を受けたりしたという大師堂などの堂宇や遍路宿やその跡が目立つ。実際新谷(私注;大洲の遍路道要衝のひとつ)を過ぎると、かつては多くの遍路がこの山深い谷あいの地で宿をとっている。
古川古松軒は、この大瀬谷の地で遍路同士が虱(しらみ)狩りをして寄せ集めたところ1合(約180cc)ほどになったと当時の厳しい遍路行の一端を書きとめている。小林雨峯は、「渓流(けいりう)に沿(そ)ふて登(のぼ)り、また渓流(けいりう)に沿(そ)ふて降(くだ)る。眼(め)は飽(あ)くことを知らざれども、脚(あし)は疲(つか)れてヘトヘト」となったところで善根宿の誘いを受け、「食前佛前(しょくぜんぶつぜん)に讀經(とくきやう)し、一家(か)の衆(しう)と膳(ぜん)に就(つ)く、食後近隣(しょくごきんりん)の小児老幼(せうじろうえう)を集(あつ)めて談話(だんわ)す15)」と、大瀬谷一帯における善根宿の様子の一端を記している」とある。

突合(つきあわせ)の道標
梅津の集落の先、国道379号を越えて進むと田渡川が小田川に合流する突合(内子町吉野川)に出る。田渡川に架かる吉野川橋を渡ると三叉路となり、T字路角の民家軒先に道標が立つ。

上坂場峠・鶸田峠越と真弓峠・農祖峠越ルートの分岐点
この地が遍路道のルート分岐点。左に国道379号に沿って北上すると下坂場峠、鶸田峠を越えて久万に向かう道、右に小田川に沿って国道380号を進むと真弓峠、農祖峠を越えて久万に向かう道となる。

郡を越えた合併
突合の手前あたりはかつて喜多郡内子町と上浮穴郡小田町の境であった。現在は喜多郡内子町、五十崎町と合併し喜多郡内子町となっている。郡を越えた合併である。
郡を越えた合併の要因はいくつもあるようだが、峠フリークのわが身には、その要因のひとつに挙げられる真弓峠の存在にフックが掛る。現在は新真弓トンネルが通り、スムースな往来が可能となっているが、かつては険阻な峠により久万との交通が不便であったようだ。
新真弓トンネルの開通が昭和63年(1988)、平成の大合併による内子町への対等合併は2005年(平成17)であるから、交通の問題は解決しているわけで、平成15年(2003)の住民投票により内子町合併の流れができたようである。

へんろ小屋
旧国道を進み、国道に合流する手前に「へんろ小屋」と書かれたお遍路さんの無料休憩・宿泊所。「へんろ小屋 内子第38号」とあったので、内子にそんな多くの「へんろ小屋」があるのかとチェック。
この「へんろ小屋」は、内子市内ということでなく、四国四県にあり、平成28年(2016)4月現在で55のへんろ小屋が整備されている。地元の信用金庫や篤志家、企業の寄付でできているとのことである。寝袋の宿泊とはなるだろうが、お遍路さんには大きな助けとなるかと思う。

吉野川大組の道標
吉野川トンネルを抜けた国道379に合流し、吉野川大組(内子町吉野川)の集落を進むと、道の右に天満神社の鳥居がありその脇に道標が立つ。
大組
大組って何?「えひめの記憶 面河村」の項に「「組」あるいは「惣」は、南北朝時代(一三三六~一三九二)から始まった農村社会の自治組織である。「伯方の六軒株」とか、「草分(くさわけ)七軒」などといわれたものがその部落の起こりで、ある地域に住みついた同族が、共同生活を行っていたのであろう。やがて、他の人々が移り住み、「組」とか、「惣」という自治的な単位が、できたのであろう。
共同作業の場として「五人寄合」「惣持山」など、その名のとおり、一つのグループ又は組の所有の山畑があった。特に住居の屋根をふく「萱だば」は、組の惣持山であり、各組が所有、管理していた。
藩政時代には、庄屋・組頭・五人組などの村役人があり、明治時代になって、小組に伍長又は組長、大組に大組長又は総代があり、大組長は集落の選挙で選ばれ、大組の代表者であると同時に、自動的に村の行政的な役割を果たせられ、役揚と住民のたいせつな中間的な存在であった。
小組の中では、それぞれの関係の道路・家普請・橋梁・葬式などの共同助け合い作業、神社はもちろんのこと、学校までも、集落の共有として管理した。こうした作業は、集落全員、又は各戸回りで、出歩・内役といって、小組又は大組内の自治を円滑に行った。
こうした公共の作業以外に、個人の災害・不祥の事がらについても、そのことの大小に応じて小組又は大組は、人情味あふれる相互扶助の精神で苦難をともにしたものである。
大組長は部落の顔役、代表者であり、時には、部落の利益代表として、あるいは、役場の行政上のこまごました事から、協力・伝達者・特に税金の取立てなど、大きな仕事をつかさどった」とあった。

新田神社の徳右衛門道標
田渡川に沿って国道379号を北に進み、中田渡集落内子町中田渡)前で左岸に渡る国道379号と分かれ、左岸を進む旧国道に入ると新田神社にあたる。鳥居の脇に徳右衛門道標が立ち、「是〆菅生山迄四里」、「大洲領大瀬村太助熊吉要蔵」と刻まれる、と。
大洲領大瀬村?大瀬村は大洲領。では、この小田町一帯は?この一帯も大洲藩領であった。上に小田町が中予の上浮穴郡から郡を越えて南予の喜多郡内子町と合併したといったが、歴史的にみても大洲・内子との繋がりが強かったのも大きな要因か、とも。

中田渡の大師堂
新田神社の社殿裏手に大師堂。中田渡大師堂と称される。
新田神社
新田八幡神社は、新田義宗(よしむね)を祀る、と伝わる。南北朝の時代(1336~92年)、南朝の忠臣新田義貞(よしさだ)の三男である。上野沼田荘で戦死とのことであるが、異説もあり、再起を図り四国に逃れ、越智郡の大島や、宇和地方や、大洲、内子方面、小田川の北の方を経て、ここ中田渡に落ち延びてきた、と。
中田渡の谷間が南朝の拠点でもあった吉野に似ていることから、吉野の千本桜を懐かしみ、桜の美しい所を桜原(さくらわら)、そして、その谷間と合流して流れる川を吉野川と名前をつけたと伝わる。なんとなく、出来過ぎ?









中田渡の道標
新田神社から旧国道筋に戻り、田渡川に架かる橋を渡り少し進むと道の左、六地蔵の手前に道標(内子町中田渡)が立つ。ここに道標が立つ理由は?左に折れ「ねむりが峠」に向かう道があるためだろうか。








上田渡の道標
右岸を進む国道が、左岸へと移る手前から旧国道に入り、高市川に沿って北に進む県道42号のアンダーパスを出た角に上田渡(内子町上田渡)の道標がある。









上田渡の薬師堂
田渡川を渡り国道379号に出ると、道の左手に結構立派な堂宇が立つ。上田渡の薬師堂。遍路道脇にあったものが移されたとのこと。







落合の大師堂と道標
国道379号の左岸から右岸へと移り、しばらく走ると左に入る旧国道がある。旧国道に入るも、入口あたりが荒れており国道に引き返し、隧道を抜けたところに旧国道の合流点がある。
道脇に車をデポし橋を渡ると正面、一段高いところに落合の大師堂。その下に道標。「右へんろ 左さぬき道」と刻まれる、とか。砥部へと向かう道が「さぬき道」という事だろう。
落合は文字通り、北から下る玉谷川と田渡川(臼杵川とも)が落ち合う箇所である。この大師堂のある田渡川の右岸はかつての広田村、現在は伊予郡砥部町となっている。



県道42号に
国道に戻り田渡川を越えると右に折れる道がある。昭和3年(1928)に開通した県道42号・中山久万線。下坂場峠はこの県道に沿って、臼杵川とも呼ばれる田渡川を源流部あたりから上ることになる。行政区域は再び内子町となる。






倉谷の徳右衛門道標
県道を進み臼杵川に倉谷川が合わさる箇所に架かる橋を渡る。橋の東詰(内子町臼杵)は三叉路となっており、その角に六地蔵と共に徳右衛門道標が立つ。「是〆菅生山迄三里」と刻まれる。








三嶋神社と厄除大師
県道を浮船、大込(おおこみ)、本成(内子町臼杵)と進む。と、道脇に立派な社。三嶋神社とある。この時は立派な構え、などと思っただけなのだが、後日真弓峠を越える遍路道を辿ったとき、その険路故に真弓峠手前から畑峠へと廻り、この三嶋神社辺りに下る遍路道があったことを知った。知らずあれこれ繋がるものである。
社の少し先には道の左手に厄除大師が建っていた。

畦々(うねうね)の道標
後谷(内子町臼杵)の集落を越え上畦々(内子町臼杵)に。「あぜ」ではなく「うね」と読む。「畔;あぜ」は田、「畔;うね」は畑の境の盛土の意があるようだが、ともあれ、素敵なネーミングだ。 その上畦々で、県道から左上に分岐する道の角に、「右は車で遍路 左は歩き遍路 車は行き止まり」との案内があり、その前に道標が立つ。「四十四番近道」と刻まれている、と。

左に折れ舗装が切れる箇所まで車で進むことにする。Google Street Viewで土径になる境までチェックでき、行き止まりに車を停めるスペースがあることも確認できた。

上畦々の大師堂と徳右衛門道標
県道から離れ少し車で進むと道の左手に大師堂がある。近年建て替えられたのだろうか、新しい感じがする。その大師堂の前に徳右衛門道標がある。「徳右衛門」「菅生山」と刻まれた文字がはっきり読める。常の徳右衛門道標の高さがないのは、欠損しているとのことである。



■下坂場峠に■



土径に
先に進むと道脇にクルーザーが置かれている。傍にいた方に聞くと、海に遊びに行くこともなくなったので、ここに置きお遍路さんの休憩所にでも、とのこと。しばしお話をさせて頂き、その先杉林に覆われた細い舗装道を抜けると車数台が駐車できるスペースがあり、そこで舗装が切れる。
土径入口には「鶸田 下坂場近道」「大宝寺 7,8粁(キロ)」と刻まれた石碑が立つ。篤志家の寄進により立てられたもの。近年のものである。

土径の道標
杉林の土径を数分進むと、右手の沢に向かって下る角に道標が立つ。草に隠れ少しわかりにくい。道標には朱で「右 遍路道」と書かれているが、いたずらなのだろうか。

下坂場峠
沢に下り、沢を渡り土径を上り、林道に出る。そこから少し下った先に上り口があり、そこを上りぐるりと廻りこむと峠(標高570m)に出る。上り始めて10分程度であった。
峠といっても県道が通り、見通しも効かず、早々に来た道を戻り車デポ地に。最初の峠は直前まで車で入れたこともあり、ピストンも苦ではなかった。

■久万高原町に■

車デポ地に戻り、曲がりくねった細い県道を峠に向かう。峠近くは2車線の広い道となり、行政区域も喜多郡内子町から上浮穴郡久万高原町となる。広い県道を1キロ程下り久万高原町二名の宮成集落に入る。

葛城神社下の道標
県道42号が県道220号と合流する手前に葛城神社(久万高原町ニ名)があり、その下に大きな道標がある、と「えひめの記憶」にある。社におまいりした後、道標を探すがなかなか見つからなかったが、県道42号から神社石垣に沿って民家裏に入り込む細路があり、その入口に大きな道標があった。備前国総右ヱ門が娘の供養を兼ねて建立した道標(「えひめの記憶)」とのことである。

葛城神社脇の大師堂
神社を廻りこんだ少し小高いところに大師堂が立つ。お遍路さんの宿泊などに供したのだろうか。
葛城神社
隋神門,本殿、拝殿ともに誠に立派な構え。本殿向拝、木鼻の彫り物も凝っている。歴史も古く,由緒では天武天皇の頃,国司小千玉興が大和葛城山より役小角を迎え、饒速日命を祀っていた社に一言主命を祀った,と。
後には伊予国主河野通俊公が建久3年(1192)山城国男山八幡を勧請し国中に22社祀った際に配祀され、文明3年(1471)には京都北野天満宮より菅公を勧請した、とのことこれだけの有り難さを並べられても,違和感のない社である。

何故にこの山間の地に?は現代の視点からもの、か。久万の札所大宝寺、岩屋寺の立派な構えを想い起こすにつけ、今は山間のこの地も、かつては南予と中予、そして土佐を繋ぐ往還道であったかと妄想する。


森田大師堂の道標
大師堂前の道を進み県道220号を越え二名川に架かる葛城橋を渡り左折すると直ぐに三差路があり、その角に森田大師堂立つ。森田の集落(久万高原町ニ名)にある故の命名だろう。大師堂の正面には3基の道標がある。同じところに3つも道標があるって?
「えひめの記憶」には「以前の遍路道は、葛城橋より少し上流で右折して二名川を渡ってから大師堂の正面に至り、その裏で左折したらしいが、この道は寸断されている」とある。その道筋にあった道標をこの場所に集めたのだろか。単なる妄想。根拠なし。

福城寺参道口の道標
森田大師堂の三差路を右に折れると直ぐ左手から道が合わさり、その角に道標が立つ。手印とへんろ道と刻まれる。今まで見てきた道標とは何となく雰囲気の異なる、ふっくらした石造りの道標である。








鶸田峠に


鶸田峠登り口に
当初の予定ではこの森田大師堂の辺りに車をデポし、鶸田(ひわた)峠に向おうと思っていたのだが、地図にある町道らしき道が舗装されており、それならと、行けるところまで車を入れてみようと計画変更。8分ほど車で走ると舗装が切れ土径となり、その手前に「鶸田峠 1㎞ 大宝寺 4.7㎞」「宮成1.7㎞」の木標が立つ。
道は鶸田峠を迂回し久万の町まで続いているが、これ以上車で進めそうもない。近くのスペースに車をデポし鶸田峠に向かうことに。

由良野の徳衛門道標
町道から木標の指示に従い右に折れ土径に入る。周囲は開け、明るい道筋を100mほど進むと、道の左手、一段小高いところに道標が立つ。道脇になく草に隠れ、うっかりすると見落としてしまう。実際私も上りの時は見つけられず、ピストン復路で偶然見つけたといったものである。「菅生山ヨリ二名村此所江二里」と刻まれた文字が読める。






町道に交差
道標を過ぎたあたりに木のテーブルとイスが置かれている。休憩所なのだろう。緩やかな勾配の坂を上ると町道に当たる。「鶸田峠 0.5km」の木標に従い町道を横切り山道を進む。ここまで上り口から10分ほどであった。






だんじり岩
町道を越えて2,3分で祠が見える。その前に案内があり「だんじり岩 この十畳敷程ある大きな岩は、その昔弘法大師が四国八十八か所巡錫の時あまりの空腹と疲労のため自分の修行の足りなさに腹を立て、この岩の上で「だんじり(じだんだ)」を踏んで我慢されたそうです。その時踏んだ「だんじり」の足跡が岩に残っており.それ以来誰言うとなく、この岩を「だんじり岩」と呼ぶようになったそうです」とあった。
「えひめの記憶」に拠れば、祠は大師堂、前に立つ3基の石碑は「願ほどきの碑」、とのこと。その碑文の一つに、「寅之年之男 ヒフ病ニテ此処ノオ大師様ニオタノモシタラオカゲデナオリマシタオ願ホドキニコレオタテマス 昭和三年建之」とある。他の碑には、「胃腸病平癒」「諸願成就 胃癌」などと刻まれている」とのことである。

鶸田峠
だんじり岩から5分ほどで鶸田峠に到着。上り口から20分ほどで峠に着いた。3月中頃ではあるが、未だ雪が残っていた。
平坦な地には石碑と船形石仏が立つ。石碑には「奉納 四国四十度大願成就」などと刻まれる。「えひめの記憶」には、峠には道標があり菅生山まで33丁を示している」とあるが、この石碑が道標なのだろうか。
案内には、「鶸田峠 この峠は標高約800 mに位置し(久万町役場は約500m)古くは二名地区と久万地区を結ぶ主街道として賑わった所で、昭和30年頃まではこの場所に茶屋があり行き交う人々が一休みしたそうです。
「鶸田峠」の名は一説には弘法大師が八十八カ所開基の折、大洲からずっと雨続きでこの峠でやっと晴れ「日和(ひより)だ」と言ったのが訛って「鶸田」となったと伝えられています」とあった。

八十八カ所霊場
「えひめの記憶」に拠れば、現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。

町道と交差
峠から山道を下り、久万の町からの舗装道まで遍路道を繋げることにする。峠少しフラットな道を進むと下りとなる。それほど急ではないが雪が残り足元が危うい。慎重に8分ほど下ると町道に当たる。道は舗装されていた。 ここで引き返そうかとも思ったのだが、「えひめの記憶」には久万の町に下る山道に「奥の地蔵尊」と呼ばれるところがあり、そこに道標がある、とのこと。とりあえず、そこを最終地点とし先に進む。

地蔵尊
舗装された町道を2分ほど下り、遍路道の案内に従い道を左に沢に沿った山道に入る。2分ほど進むと沢脇、木の下に地蔵尊が佇む。道標らしきものはない。さらに3分ほど下ると2基の地蔵尊と道標らしき石標が立つが、文字もなにも摩耗している。これが「奥の地蔵尊」? 傍には「鶸田峠 1㎞ 久万高原町役場 1.8km」の木標が立つ。

久万高原町との道を繋ぐ
このお地蔵様が「奥の地蔵尊」かどうが、今一つ自信が持てず更に7分ほど下ると再び町道に出る。右手には斎場があった。結局「奥の地蔵尊」と確信をもって言えるところは分からなかったが、先ほどのお地蔵様をそれとみなし、ここで引き返すことに。上り口が11時40分、折り返し地点が12時23分。おおよそ45分強で峠を越えて里の道に繋いだ。
ここから同じ道をピストンで折り返し、13時過ぎにデポ地に戻る。

これで本日の予定は終了。峠越えも呆気なく,今ひとつ歩いた感がない。これはもう,久万の札所へのもう一つの峠越えのルート,真弓峠から農祖峠越えを歩くべし、との想いを抱き一路家路へと。

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