2017年3月アーカイブ

「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり;四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れる(『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』)」という記事にフックが掛かり、延々と150キロほど車を走らせ土佐に向かった今回の散歩。
当初は、支流とはいいながら土佐湾のすぐ傍に源流点があり、しかも海に落ちることなく西へ、その後北西に大きく弧を描き山間の地を、蛇行を繰り返しながら、四万十市中村で土佐湾に注ぐ、というその流路に興味を覚え土佐に向かったのだが、その過程でいくつもの片峠も目にすることができた。

散歩の当日は、それだけのことではあったのだが、メモをする段階で、現在西へと大廻りする四万十川は、はるか昔は南流し直接土佐湾へと注いていたことがわかった。知らず訪れた片峠もその流路でもあった。四万十川西流の要因は、南海トラフの跳ね返りによる海岸山脈(興津ドーム)に阻まれた故とのことであるが、その海岸山脈も知らず目にしていた。
常の如く、事前準備無しの、誠にお気楽な散歩ではあったが、いくつか「後の祭り」はあったものの、如何なる天の配材か、基本結果オーライ,予定調和で終った初日であった。
四万十川と片峠を辿る散歩の二日目。基本帰り道途中の、「行きがけの駄賃(?)」といったものではあるが、高岡郡津野町の不入山(いらずやま)の山麓、標高1200mほどのところにある、四万十川源流点を訪ねることにする。

源流点といっても、登山口から徒歩25分程度。身構えるほどのことはなかろうと、専用GPS端末に地図を入れることもなく、iphoneの無料アプリGmap Toolsに当該場所をキャッシュで読み込み、電波が通じなくても山地図で現在位置を確認できるようにして四万十川源流点のマーキングに向かう。
道の途中で坂本龍馬脱藩(脱藩という用語は明治以降。それ以前は「出奔」と言ったようだ)の道である布施ヶ坂を通るが、そこも結構な片峠のようである。 四万十川と片峠散歩の締め、としては偶々ではあるが、おさまりのいいルーティングとなった。



本日のルート;国民宿舎・土佐>国道197号・新荘川筋に>布施ヶ坂>布施ヶ坂峠;六番目の片峠>船戸で県道378号に乗り換える>県道378号から源流点登山口への分岐点>源流点登山口に>四万十川源流点に>源流点登山口に戻る


◆二日目◆

国民宿舎・土佐を出発
朝7時、太平洋から上る日の出を眺め、国民宿舎を出発。四万十川(松葉川)の源流点に向かう。距離はおおよし50キロ。1時間半ほど走ることになる。途中、布施ヶ坂を上りきったところも片峠とのこと。源流点散歩の前に窪川盆地最後の片峠を越えることになる。

国道197号・新荘川筋に・須崎市から高岡郡津野町に
県道23号を須坂まで戻り、ナビのガイドに従って県道315号を土佐湾に注ぐ御手洗川に沿って進み、田の道トンネルを抜ける。トンネル辺りが御手洗川水系と新荘川の水系の分水界となっている。
トンネルを抜け、新荘川水系・道の川に沿ってくだり、平野で国道197号に乗り換える。ここから布施ヶ峠の先で不入山の四万十川源流点に向かう県道378号に乗り換えるまで20キロほどを新荘川に沿って進むことになる。行政区域は平野から新荘川を少し遡った二又橋を境に、須崎市から高岡郡津野町に変わる。
津野
津野氏由来の地名である。Wikipediaに拠れば、高岡郡の豪族津野氏の出自は元藤原氏であり、伊予から土佐に入り高岡郡津野山を開拓し、名を津野と改めたとの説があるが信憑性は低いとし、「津野氏は最初は津野荘の地頭となり、その後山深い津野新荘の地頭も兼ねるようになったと考えられる」とする。
その津野荘は「京の賀茂御祖神社の荘園で、高岡郡吾井郷津野保(現 高知県須崎市吾井郷)にあった。本来は土佐国の賀茂御祖神社の荘園は土佐郡潮江荘であったが津波により水没、代わって津野荘が立荘された。 また、津野新荘は土讃線土佐新荘駅や新荘川にその名をとどめており、名称からして津野荘の成立後に津野新荘が成立したものと考えられる。 新荘川の流域に津野氏の山の拠点となった姫野々城がある」とある。
新荘川
新荘川の由来は、津波で水没した潮江荘に代わり新たに立荘された津野荘に拠る。

布施ヶ坂
道を進むと姫野々がある。龍馬が脱藩し、佐川から朽木峠を経て新荘川筋まで下りてきた場所だ。姫野々を越え県道377号が国道と分かれるあたりから先、「布施」と冠したいくつものトンネルを抜け布施ヶ坂トンネル手前の「道の駅・布施ヶ坂」で休憩。V字に切れ込んだ新荘川の谷筋の景観を楽しむ。段々になった茶畑にも惹かれた。
布施
お布施の代わりに坂の地所を献上した故とある(「土佐地名往来(高知新聞社)」)。 ●龍馬脱藩の道
道の駅の案内に、新荘川筋から布施ヶ坂峠に向かう古往還ルートとともに、その道筋が龍馬脱藩の道とあった。龍馬脱藩の道は、昨年、梼原の先、予土国境の峠を越えて大洲へと辿ったのだが(脱藩の道Ⅰ脱藩の道Ⅱ脱藩の道Ⅲ脱藩の道Ⅳ脱藩の道Ⅴ)、高知から梼原までは未踏である。現在の国道・県道を元に大雑把な道筋を整理しておく。
文久2年(1862)3月24日、高知の城下を夜半に出発。国道33号、土讃線に沿て伊野、日下まで。土讃線日下駅辺り国道33号から分かれ南西に県道291号、途中から県道に乗り換え佐川に。佐川から国道494号を南に下り、斗賀野トンネル辺りで国道を離れ川の内の谷を上り朽木峠(536m)に。
朽木峠から三間の川、樺の川の谷筋を経て新荘川筋の津野町姫野々に出る。そこから布施ヶ坂に続く国道197号を進み、途中から県道377号に入り、布施ヶ坂峠に上って来る。峠から先は国道197号筋を梼原に。梼原から先は、先般5回に分けて歩いたので、ここでは省略。道を辿り、朽木峠を越えてみたくなった。

⑥ 布施ヶ坂峠;六番目の片峠
九十九折れの県道377号が布施ヶ坂峠に向かう道の下を穿つ国道197号・布施ヶ坂トンネルを抜けると、平坦地。典型的な片峠となっている。地図を見ると新荘川の源流が峠すぐ近くまで迫っていた。また、峠を境に県道377号は378号に変わっていた。
トンネルを抜けると直ぐの船戸町で右に折れ県道378号に入る。奈路という地名が登場する。高知の各所で見かける地名だが、「山麓の平地」といった意味のようだ。
船戸
船戸ってなんとなく気になる。山間の地に「船戸」?舟運と関係あるのだろか?チェックすると、舟運とも道祖神・塞神様ともとれる記事があった。愛知淑徳大学の研究論叢「高知県四万十川上流域旧東津野村船戸のくらしと音楽;岩井正浩」に拠れば、「『東津野村史』では船戸の地名について次のように述べている。
土佐州郡志に「古太平と曰い後に舟戸と名づく、村の中山出舟入舟の名有り之に由って名づくるか」(原漢文)と書かれており、出船入船といかにも船運といったものだが、続けて「中越穂太郎著「津野山異談続編」地名の起り十一頁に は、「船戸不入山に山積神社がある。神社台帳によると船戸神を右山峯岩上に祭り、後、大山祇(おおやまつみのかみ)、ついで慶長年間磐土神(いわつちのかみ)を祭るとあり、これによれば不入山に船戸神を祭ったのは慶長以前のことであり、ずっと古くから船戸神は祭られてあり、この祭神が地名と変じたものと思われる」とする。
また、「船戸神とは伊弉諾尊(いざなぎのみこと) の投げ給まえる杖になりませる神が黄泉醜女(よみのしこめ)を支え留め、尊の身の安全を 図った道の神で「くなどの神」ともいえば「ふなどの神」とも言っている。いわゆる「道祖神」のことで津野山地帯では「道ろく神」ともいっている」とあった。
舟運より、船戸神・「岐神(くなと、くなどのかみ)」のほうに惹かれる。Wikipediaに拠れば、「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神であり、道祖神の原型とされる。読みをふなと、ふなど -のかみともされるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある、とする。

船戸で県道378号に乗り換える
県道378号を不入山の四万十川(松葉川)源流点に向かう。集落が切れた先は一車線の山道。舗装・整備はされており、対向車の心配以外は至極快適な道である。



県道378号から源流点登山口への分岐点
道を10分強走ると県道脇に「四万十川源流点 3km(左)」の標識と、「鶴松ヶ森登山口(右)」の標識が立つ。標識前は結構広いスペースがあり、ここにデポするかどうかちょっと悩む。この先の源流点への道がどのようなものかわからないが、「えいや」の気分で車を先に進める。

路面凍結地手前に車をデポ
車を10分程度走らしただろうか。その先の路面が凍結している。ノーマルタイヤでは進めそうもない。狭い山道にかろうじて切返しができそうなスペースを見つけ、何回も何回も切返し、車を方向展開し、崖脇のスペースに車をデポ。復路の「安心感」を確保し、林道を源流点登山口まで歩くことにする。

源流点登山口に
車を下り、凍結したコーナーを進む。結構滑る。その先は凍結もしておらず、車で進めば、とも思うが、凍結箇所で大胆にスリップ・転倒したわけで、用心に如くは無し(しくはなし)。
登山口まで1キロの標識を見遣りながら進むと、その先は全面凍結となっていた。車をデポしてよかった。数回転倒しながらも慎重に進み源流点登山口に到着。車デポ地点からおおよそ15分ほどかかった。

四万十川源流点に
「源流点まで25分」の標指脇の大岩ステップ部から沢に入る。はじめは沢脇を進むが、途中から沢の岩場に入る。所々に架かる道案内のリボンを目安にルートをとるが、所詮は岩場を直登すれば源流点に着くわけで、ルートに不安はない。
沢の景観は、「苔むした幻想的」といったものではない。沢登りで多くの美しい沢を見た目には、よくある景観のひとつ。雪が積もった雪庇を踏み抜くことに注意しながら進むと、木標が見えてきた。そこが源流点であった。
源流点からは小滝となって水が落ちる。水の流れはその先にも見えるが。それほど興をそそる景観でもないため、遡上は木標が立つ箇所で終了。木標には「渡川(四万十川)の源流点 幹線流路延長196㎞の流れここに発す」とあった。
渡川
Wikipediaに拠れば、「河川法上では昭和3年(1928)から平成6年(1994)まで「渡川」が正式名称だったが、平成6年(1994)7月25日に「四万十川」と改名された。一級河川の名称変更はこれが初めて。
江戸時代には「四万十川」と書いて「わたりがわ」と呼ばれていたこともあるという。また「四万渡川」と書かれることもあった。これが省略されて「渡川」の名称が発生したものと思われる。宝永5年(1708年)の土佐物語には「四万十川 わたりがわ」と記されているという」とある。渡川は多くの河川と同様に、大川とも本川とも呼ばれたともあり、また通称ととして四万十川とも呼ばれていたようだ。四万十川の由来は、たくさんの川を集めたとか、四万川と十川が合わさったものとか諸説ある。
それはそれでいいのだが、渡川がどうして四万十川となったかよくわからない。チェックすると、渡川が四万十川となったかについて、昭和58年(1983)放送のNHK特集「土佐四万十川 清流と魚と人と」において、「日本最後の清流四万十川」と紹介されたことが要因との記事を目にした。この放送をきっかけに、通称であった四万十川が「全国区」となり、それではと地域住民の要望もあり渡川に変わり四万十川が正式名称となった、とか。真偽のほどは不明ではある。


源流点登山口に戻る
源流点から成り行きで下ると、沢の左岸に「帰路」があり、途中までは岩場を下ることはなかった。途中、岩場を渡り沢の右岸を下り登山口に戻る。これで、本日のメーンイベントは終了。凍結した道を車デポ地まで戻る。


県道378号から国道197号へのショートカットは路面凍結で引き返し
登山口から県道378号に戻る。ここから140キロほどを走ることになる。ナビでは戻りのルートは県道378号を南に戻り国道197号に戻れ、とあるが、結構大廻り。地図を見ると、県道は北に続き、山越えをすれば国道439号と合流している。道は狭いだろうが、こんなところを走る車などいないだろうと北に向かう。
快適に尾根筋へと上っていったのだが、尾根筋手前で路面凍結。結局元に戻る。戻る途中の路面も、上るときはわからなかったのだが、結構凍っているように見えた。

義堂・絶海像
県道378号を源流点登山口への分岐点まで戻り、四万十川に沿って少し下ると道脇の小高い塚に像が立つ。ちょっと立ち寄り。四万十川の源流域を背景に二体の像が立つ。
石碑の案内に拠れば;「義堂絶海像建立之記 義堂は正中2年(1325)に、絶海は建武3年(1336)共に不入山麓に生まれました。この両僧は五山文学の双璧とうたわれています。五山文学というのは中世我が国に伝来した禅宗の僧侶たちの手になる漢詩文文学の文化でありますが、その特色は朱子学の紹介とこれを基とした政治理念の指導であります。
義堂は文で有名なばかりでなく管領足利基氏父子上杉氏さらには将軍足利義満の政治顧問として活躍し、絶海は詩文にすぐれ後年将軍義満の政治顧問として活躍しました(後略)昭和50年6月 義堂絶海銅像建設期成同盟会」とあった。 詩文はともあれ、五山の僧が政治的にも活躍した所以は、留学中(当時の明)に培った人脈とコミュニケーションに必要な漢文の素養故。莫大な利益をもたらす遣明使の正史・副史も足利義満以降は五山の僧であった、とか。

国道197号に戻る
義堂・絶海像を訪ねた後、県道378号を下り、国道194号に戻る。ここから一路瀬戸内へと戻る。

ちょっとメモ;土佐への往路・復路でいくつか気になることがあったのだが、ひとつだけ以下の個人用忘備録から取り出して、ここにメモしていく。
川川
上八川川とか枝川川に限らず、小川川、北川川、四万川川など「川川」と重なる川名が目につく。今まで結構川筋を歩いているのだが、このようなケースに出合ったことがない。この辺り特有の命名法なのだろうか。なんとなく気になりチェックすると、特に高知に限ったものではなく、5万分の一の地図で見るだけでも全国に100ほどある、という(「地名を解く6;今井欣一」)。
その記事に拠れば、この場合の「小川」とか「北川」は、川の名前ではなく、地名とのこと。地名に偶々「川」があり、そこを流れる川故の「川」の重複と見えているようだ。また、「小川」など「川」がつく地名も、もともとは「岡端・岡側」であった「端・側」に川の字をあてたものが多いとある。岡の端の崖下には「川」が流れているから、「川」をあてたのでは、と。
関係ないけど、ナイル川や、インダス川、ガンジス川も、ナイルもインダスもガンジスも川の意であり、「川川」ではある。

忘備録
以下は自分用のメモ;遠いと思い、なんとなく敬遠していた土佐ではあるが、昨年の龍馬脱藩の道散歩での梼原、そして今回の土佐湾に面する地へのドライブで土地勘もできてきた。で、土佐に来ることも多くなるとおもうのだが、今までは車のナビ言われるまま、谷筋を走り、トンネルを抜け、ひたすら走るだけ。トンネルを抜ける快適なドライブではそれもわからない。行政区域も知らず入り、知らず抜けると言ったものである。今後のこともあり、以下往路・復路を分水界・行政区域を意識しメモしておく。

往路

国道194号;寒風山を抜け、高知県吾川郡いの町吉野川水系に
Google Earthで作成
国道11号を西条市まで進み、加茂川橋西詰を左折し国道194号に入る。四国山地のど真ん中を抜いた寒風山トンネル(5432m)を抜けると高知県吾川郡いの町に入る。トンネルを抜けたすぐ左手はいつだったか弟と沢登りを楽しんだ一の谷。長又川と一の谷の合流点から下流は吉野川水系桑瀬川となる。
桑瀬川を下り出合橋で中野川川を合わせ葛原川となった川筋を少し下り本川トンネルを抜けるとダム湖に出合う。トンネルの少し北に大橋ダムがあり、吉野川はそこから北東へと下る。

仁淀川水系・枝川川に
ダム湖に沿って吉野川を遡上し、吉野川本流の最上流部のダムである長沢ダムからの水を合わせる立橋から先、吉野川に注ぐ大森川を南下し、竹の奈路で新大森トンネル、枝畝トンネルを抜けると仁淀川水系・枝川川筋に出る。新大森トンネル、枝畝トンネルの抜ける山稜が吉野川水系と仁淀川水系の分水界となっているようだ。
枝川
支流のことかとおもったのだが、「土佐地名往来(高知新聞社)」には、朝倉庄の"新しい村"。枝郷が転訛とあった。
奈路
奈路という地名も高知によく登場する。山麓の平地といった意味のようだ。

県道18号に乗り換え:いの町から高岡郡越知町に
枝川川筋を南下し、恩地で上八川川に合流し、上八川川となった川筋を南下すると柳瀬上分で仁淀川にあたる。そこから県道18号を仁淀川上流方向に向かうことになるのだが、ここで行政区域は長かった吾川郡いの町から離れ、高岡郡越知町に変わる。恩地は日陰の地とも、穏田=隠し田といった意味があるようだ。
越智
伊予の越智氏ゆかりの地か、ともおもったのだが、「土佐地名往来(高知新聞社)」では、横倉の尾根のふもと「尾方おち」転訛、とする。
上八川
「土佐地名往来(高知新聞社)」には、かみやかわ;神の酒を造った川。みわがわ(神河)とある。
川川
ところで、上八川川とか先ほど出合った枝川川に限らず、小川川、北川川、四万川川など「川川」と重なる川名が目につく。今まで結構川筋を歩いているのだが、このようなケースに出合ったことがない。この辺り特有の命名法なのだろうか。なんとなく気になりチェックすると、特に高知に限ったものではなく、5万分の一の地図で見るだけでも全国に100ほどある、という(「地名を解く6;今井欣一」)。
その記事に拠れば、この場合の「小川」とか「北川」は、川の名前ではなく、地名とのこと。地名に偶々「川」があり、そこを流れる川故の「川」の重複と見えているようだ。また、「小川」など「川」がつく地名も、もともとは「岡端・岡側」であった「端・側」に川の字をあてたものが多いとある。岡の端の崖下には「川」が流れているから、「川」をあてたのでは、と。
関係ないけど、ナイル川やガンジス川も、ナイルもガンジスも川の意であり、「川川」ではある。
吾川郡・高岡郡
吾川の由来はいの町「波川」に拠るとあった。波川と「小川」の派生である(「地名を解く6;今井欣一」)。しかし、「土佐地名往来」には「波川は古くは高岡郡波川村。かつて高岡郡にあった吾川郷が転じて波川になった」とあり、これでは堂々巡りである。
「土佐地名往来(高知新聞社)」では「仁淀川の「三輪河」その後「輪河」、「吾河」に転じた川名。吾は阿で大の義」とする。なんとなくおさまりが、いい。 また、高岡郡の由来は現在の土佐市にある四国霊場三十五番札所・清龍寺あたりの丘陵に拠る、ようだ。明治の頃は現在の土佐市も高岡郡であった。

国道33号;仁淀川水系を進み高岡郡越知町から高岡郡佐川町に
川に沿って南西に進み、蛇行する川筋をショートカットする浅尾トンネル、今成トンネルを抜けると横倉で国道33号に合流する。国道を左に折れ、仁淀川水系大桐川に架かる越知橋を渡り赤土トンネルを越える。トンネル手前で高岡郡越知町から高岡郡佐川町に変わる。

国道494号;高岡郡佐川町から須崎市に。水系は土佐湾に注ぐ桜川となる
トンネルの先で仁淀川水系・柳瀬川を渡り土讃線・佐川駅近くで国道33号から分かれ、国道494号に乗り換える。柳瀬川に注ぐ春日川を渡り、猿丸峠、斗賀野トンネルを抜け土佐湾に注ぐ桜川水系の本流に出合う。行政区は斗賀野トンネルの南で高岡郡佐川町から須崎市に変わるが、この行政区の境は桜川の途中となっており、仁淀川水系との分水界がその境とはなっていないようだ。ともあれ、桜川本流に沿って南に下り須崎市に入る。須崎の「須」は砂洲のこと。

国道56号;窪川盆地への上り口・久礼の街に
国道494号は須崎市内で終わり、引き続いて国道56号を西に向かう。新荘川水系本流の橋を渡り、角谷トンネル、焼坂トンネルを抜け、久礼川を渡り土佐久し礼に到着。ここから窪川盆地へと上ってゆくことになる。

復路

国道197号を東に向かい松葉川と梼原川の分水界をトンネルで抜ける
Google Earthで作成
四万十川源流点から県道378号を国道197号まで戻り、ナビがリードする東向きに抗い、西に進む。松葉川に注ぐ支流に沿って道を進み、トンネルを抜けると梼原川水系の力石川。トンネル辺りが松葉川水系と梼原川水系の分水界のようだ。



檮原川水系・力石川に沿って下り、北川川谷筋の国道439号に乗り換え
力石川に沿って下り、力石川が梼原川水系・北川川に合流する辺りで、国道439号に乗り換える。北川川に沿って国道439号を上る。はじめは二車線だった道も高度をあげるにつれ狭くなる。

矢筈トンネルが梼原川水系と仁淀川水系の分水界。高岡郡津野町から吾川郡仁淀川町に入る
矢筈峠の矢筈トンネルを抜けると。源流点から北上しようとした県道378号が合わさる。矢筈峠が梼原川水系と仁淀川水系の分水界。行政区域も高岡郡津野町から吾川郡仁淀町に変わる。

仁淀川水系・長者川の谷筋を下り仁淀川を渡り国道33号に
峠からは仁淀川水系・長者川に沿って谷筋を下り、大渡ダムの少し下流で仁淀川本流に合流した川筋を少し下り、仁淀川左岸に渡り国道33号に合流。

土居川筋で国道439号に乗り換え、新大峠トンネルを越え国道194号に
仁淀川に沿ってしばらく下流へと進み、土居川が合流するところで、土居川筋を進む国お道494,439号併走区間を進み、狩山川が土居川に注ぐあたりで、国道438号と分かれ国道439号に入る。
国道439号を狩山川に沿って上り、新大峠トンネル(2928m)を越える。仁淀川水系に変わりはないが、行政区域は吾川郡仁淀川町から吾川郡いの町に変わる。トンネルを抜け仁淀川水系・小川川を下り、小川川が注ぐ北川川に架かる広瀬橋を渡り国道194号に合流。往路で走った道に出た「川川」が懐かしい。
新大峠トンネル
寒風山トンネル(5432m)に次ぐ、四国第二の長さのトンネル。平成14年(20029開通。新大峠トンネルの北にヘアピンの道が続く大峠トンネルがあるが、その険路でなく新大峠トンネルのバイパスが走れてよかった。

国道194号をひたすら新居浜へと
正確には国道194号と国道439号が並走する道を北に進み、北川川に枝川川が注ぐ箇所で、国道439号と分かれた国道194号を一路北へ、実家に向かう。残すところ60キロくらいである。1時間ほどの頑張りだ。
恒例の田舎帰省の折、時間を見つけて高知の窪川盆地まで足を延ばすことにした。きっかけは、偶々図書館で見つけた『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』。そこに「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり(高知県高岡郡窪川町・中土佐町)」という記事があり、「四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れる。また、最西部の支流三間川も海からわずか三キロの地点からはじまるが、これも海も海に背を向け本流に向かい、更に南西部の支流中筋川も、海から四キロの地点からはじまるも、同じく海と反対に流れ本流に合わさる」、といった説明があり、続いて「四万十川の流域は北の山岳地帯を無視して単純化して言えば、毛布をすっぽり掛けたコタツやぐらのような形をしており、川は海に流入する一か所を除いて、やぐらの縁ぎりぎりのところからはじまりながらあやうく下に落ちずに、海に入る直前までその上面を流れ切っている」、と書く。言い得て妙な表現だ。
Google Earthで作成
地図で確認すると、東又川は西に下り途中仁井田川と合わさり、土讃線窪川駅の北で、不入山(いらずやま)の源流点から南に下ってきた四万十川(幹線流路のひとつ松葉川)と合流し、西に大きく半円を描き太平洋に注ぐ。四万十川の全長は196キロと言われるが、この合流点から先だけでも80キロ弱あるだろうか。

多くの支流のひとつとは言いながら、四万十川の源流が、太平洋から二キロのところから始まるとは、想像もしていなかった。てっきり山間部を流れ下ると思い込んでいたので少々驚きもした。

また同時に、同書には「ループ線のある片峠 家地川と羽立川の源流(高知県高岡郡窪川町・幡多郡佐賀町)」の記事もあり、家地川と羽立川が四万十川に注ぐすぐ南が四万十川水系と伊与木川(土佐湾に注ぐ)の分水界であり、そこは急峻な片峠となっているとのこと。東又川の南も同じく急傾斜の片峠となっていると同書にある。
片峠自体は、河川争奪のドラマでもない限り、それほど興をそそるものではないのだが(中山道の碓井峠、東海道の鈴鹿峠も片峠だった)、四万十川中流域の窪川盆地はこのふたつに限らず、急な傾斜を上り切った峠の先は平坦地となる片峠に「囲まれている」ようだ。それはそれで面白い地形かと思える。

同書を読み、「海に背を向けて」流れはじめる東又川・三間川・中筋川の源流点を訪ねようか、はたまた東又川と窪川盆地を「囲む」いくつもの片峠を辿ろうかと少々悩む。
で、結局支流の源流点を辿る散歩は次回にまわし後者を選んだ。「海に背を向けて流れ始める」四万十川支流の源流点を辿るに際し、まずは四万十川本流(正確には松葉川は四万十川水系の幹線源流のひとつではあるが)の源流点を見ておこうとの想い故。その源流点は窪川盆地の北、不入山山麓・標高1200mほどの山間部ではあるが、登山口まで林道が通り車で進め、そこから20分ほど歩けば源流点とのこと。一泊二日の予定を組めば、東又川、片峠を辿った帰途、源流点をカバー出来そうである。
2月とは言え源流点の標高は高く路面凍結が心配ではあるが、そこは出たとこ勝負。常の如く、成り行き任せで土佐に向かうことにした。




本日のルート;高岡郡久中土佐町久礼>七子峠:最初の片峠>仁井田川を越える;高岡郡四万十町>替坂本で県道326に乗り換える>>志和峰神社に車デポ>東又川源流域>志和の片峠;二つ目の片峠>志和川の谷に>家地川分水界の片峠;三つ目の片峠>土佐くろしお鉄道・川奥信号場>羽立川分水界の片峠;四つ目の片峠>佐賀取水堰・家地川堰堤>土佐くろしお鉄道・若井駅>興津峠;五番目の片峠>国民宿舎・土佐

高知県高岡郡中土佐町久礼
田舎の愛媛県新居浜市から目的地である東又川のある高知県高岡郡四万十町(上述書籍にある窪川町は合併し現在は四万十町)まで142キロほど。車で3時間半ほどかかるため、実家を5時半頃に出る。
瀬戸内に面する新居浜市から四国山地を3時間ほど走り、土佐湾に面する須崎市をへて高岡郡中土佐町久礼に到着。窪川盆地、というか、別名高南台地の片峠に向け国道56号を上ってゆくことになる。
久礼
久礼の町は漁港であるとともに、四万十流域の木材などを運ぶ港町であったようだ。地名の由来に建築・舟用の板材である「くれ」から、との説もある。もっとも、二本各地にある「くれ」の由来には、この板材のくれ以外に、「九嶺」の連なるとの説、崩(くれ)=崩れやすい崖地など諸説あり、例によって定まることなし。「呉」も同様の意味と言う。
高岡郡
高岡の地名は、土佐市にある四国霊場札所33番・青龍寺付近の丘陵に拠る、と。明治の頃は現在の土佐市も高岡郡であった。

① 七子峠;最初の片峠
久礼の町は標高9mほどか。そこから土佐湾に注ぐ大阪谷川の刻むV字谷に沿って6キロほど、久礼と名付けられたトンネルが抜ける「久礼坂」を上り切ると標高293mの七子峠に。峠の先は平坦な地が開ける。
土讃線も久礼の駅から窪川盆地上にある影野駅(標高252m)まで、10キロほどの間に24ほどのトンネルがある。急な斜面を等高線に極力抗わず、等高線に沿って大きく迂回しながら、突き出た支尾根をトンネルで穿ち上ってきている。ことほど左様に、峠を境に急峻な坂と平坦地となっている。典型的な「片峠」と言っていいだろう。窪川盆地には片峠を上り入るとあるが、文字で見てもわからなかったが、十分に実感できた。また、窪川盆地というより、別名の高南台地の呼称がしっくりする。
七子峠の由来は、峠から先の窪川盆地にある仁井田七郷の七郷が転化したとか、峠に七戸の茶店があったからとか、諸説あるようだ。
片峠
通常峠とは、山稜鞍部の峠を境に左右が上り・下りとなっているのだが、片峠とは峠を境に片方が急な傾斜であるが、もう一方は平坦な地となっている峠のこと。片峠って、河川争奪のドラマでもない限り、それほど珍しいものではないだろう。中山道を歩いたときの碓井峠、旧東海道を歩いたときの鈴鹿峠も今から思えば、典型的な片峠であった。
河川争奪でもあればいいのだが、それがなければ、片峠と台地や丘陵端とどこが違う?よくわからないが、誰かが「峠」と名付けたかどうかが、その「分水界」だろうか。

「峠」という文字は漢字ではなく日本でつくられた国字(和製漢字)。「山の上下」とは言い得て妙な造語である。中国では「嶺」に相当するようだ。
古来、峠のことは「坂」と称されていたと、どこかで読んだ記憶がある。坂がどのような経緯で「峠」と成ったか不詳だが、峠の由来に、かつて自然の地形が行政区域で会った頃、峠は異郷との結界であり、異郷での無事を祈る>手向け(たむけ=手を合わせ無事を祈った)たことによるとの説がある。もっとも、「たお=湾曲した地;鞍部」を「越える」から、との説もあり、諸説あり由来定まることなし、ではある。

仁井田川を越える;高岡郡四万十町

四万十川水系の分水界をなす七子峠を境に行政区域も高岡郡四万十町に変わる。平坦地を少し進む国道56号は四万十川水系の仁井田川を越える。
地区名は床鍋。地名の由来は、弘法大師が久礼坂の北、長沢の谷に独鈷を投げたことから「独鈷投げ>とこなげ>とこなべ」とか、この地の開拓者の故郷の地名といった説もあるが、床=川床のような石の多い地、なべ=なみ>並ぶ・続く、といったことから、石の多い土地といったところが妥当ではなかろうか。 実際、仁井田も「新田(にえた);新たな田=開墾地」といった意味のようであるから、ストーリーとしては落ち着きがいい。
仁井田川
仁井田川は、七子峠の北東、高知県高岡郡四万十町床鍋の山腹(標高556m)を源流とし、南へ下り、土讃線・影野駅辺りで奥呉地川を合わせながら仁井田地区に広がる平地部を流下。その後は四万十町中の越で東又川を合わせ、山間の平地を蛇行しながら流れを西に向け、四万十町根々崎で四万十川に合流する、流路延長17キロほどの一級河川。
空海と霊地
床鍋山の北東には空海が独鈷を投げたという長沢の谷がある。前述の「独鈷投げ>とこなべ」の地名由来の話は地理的には理にかなってはいる。
ところで、空海が霊地にすべく独鈷を投げたものの、霊地に必要な八峰・八谷には足らず七峰・七谷であったため、その地に寺はできなかったとの話があるが、いつだったか川崎の新百合ケ丘を歩いたとき、鶴見川と多摩川の分水界となる丘にある弘法松公園に同じような話があった。
大師がこの地に訪れ、百の谷があればお寺を建てよう、と。が、九十九の谷しかない。で、お寺のかわりに松を植えた、といったお話ではあるが、こちらは百の谷とスケールが大きい。もっとも空海が関東に足を踏み入れたという記録はない。
仁井田
往昔仁井田荘と称されたこの地は、伊予の河野氏の一族が移り住み、土地の豪族とともに土地の開拓にあたった、とも言われる。戦国時代、長曾我部元親が仁井田窪川攻めをおこない、在地勢力は戦わず降伏したとのことであるので、その頃までは伊予の河野氏の流れの一族がこの一帯に勢を張っていたのではあろう。

替坂本で県道326に乗り換える
仁井田川に沿って国道56号を進む。道の周囲は標高500mから600mほどの開析残地と思われる小さな山地と比較的広い谷底低地となっている。谷底低地は仁井田川が開析したU字谷に土砂が堆積し形成されたもののようである。河川開析のプロセスはV字谷>U字谷>準平原の順で地形が形成されるとするが、この谷底低地は開析最終プロセスの準平原状態となっているのかと思える。
土讃線・影野駅を越え、奥呉地川を合せた先の替坂本で国道56号を離れ県道326号に乗り換える。
替坂本
替坂本って、面白い地名。由来をチェックすると、この地の東、土佐湾に面したところに「上ノ加江」がある。替坂本は、その「上ノ加江への坂の本」から。 Google Street Viewでチェックすると、上ノ加江から窪川盆地に上るには急傾斜の坂道を上らなければならない。峠と言う、人為的な命名があるのかどうか不明だが、峠があれば、そこも典型的な片峠と言ってもいいだろう。
因みに、地名などの語源については、「音」が最初にあり、漢字は適宜「充てられる」といった原則を再確認した「加江>替」ではあった。

志和峰神社に車デポ
替坂本から県道326号に乗り換え小さな山地を穿つ龍石トンネルを抜けると、仁井田川水系・大井川筋に入る。仁井田川筋と同じく、小さい山地と谷底低地を進み、土居のあたりで大井川筋から離れ、小さな山地を越え弘見に出る。そこでやっと目的地である東又川を越え、小さい流れの東又川に沿って県道326号を道なりに進み、東又川の開析した低地と台地端の境をなす小さな山地の中に鎮座する志和峰神社手前のスペースに車をデポ。「海に背を向けて流れる」東又川の源流へと向かうことにする。

■「海に背を向けて流れる」四万十川支流の源流域に向かう■

田圃の中を流れる東又川を源流域に
北の志和峰から407mピークに続く山地と、南の381mピークに続く山地に囲まれた東又川を源流へと向かう。川幅は1mほどだろうか。周囲を田圃で囲まれた小川は、支流とは言え「土佐湾からたった二キロしか離れていない」「やぐらの縁ぎりぎりのところからはじまりながらあやうく下に落ちずに」流れる四万十水系の川、といったキーワードでもなければ、何が嬉しくて、また、何が悲しくて150キロも車で来たの?といった、誠にもって、どこにでもある小川といったものである。

ともあれ、東又川を右手に見遣りながら小径を進み、時に川の土手を進むと川は森に入る。森の手前までは水も流れているのだが、源流域の森に入ると水は切れる。コンクリートの溝となった「川筋」は森の中で二つに分かれる。 左手、381mピークに向かう道の側溝となった水路を先に進むが水もなく、ピーク手前の大曲地点で折り返す。ドラマチックなことは何もないが、「土佐湾からたった二キロしか離れていない」四万十川源流域に来た、とのマーキングができただけで充分ではある。25分ほどの「源流域」への散歩であった。
東又川
「土佐地名往来(高知新聞社)」には、東又(ひがしまた;新在家郷)は本在家郷の東の川又(俣)の地であった故、と。川又(俣)とは大井川と東又川が合わさる地。本在家という地名は窪川の町を少し北に遡った四万十川脇に見える。この地は本在家の東とはなっている。

溜池
帰途、左手から水が流れる用水路に出合う。前述の『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』にある溜池からの流れだろう。ちょっと寄り道。藪を掻き分け、貯水池を確認。そこから流れる水路は、途中農業用水路を堰き止め、東又川へと水を落としていた。

② 志和の片峠;二つ目の片峠
車のデポ地に戻り、分水尾根の鞍部、というか切通し箇所にある志和峰神社にお参りし、分水尾根の南に出る。そこの風景は、久礼坂・七子峠で見た景観。右手は志和川の谷に急崖となって落ちる。前述の書に「谷底との高度差は200メートルあまり、谷向こうの山地は、海抜こそ330メートル程度にすぎないが、谷底が狭く深いのと山腹が急峻なために、1000メートル級の大山脈であるかのように見えた」と描写するが、まさしく、その通り。志和峰神社を境に、平坦な田圃と急峻な崖。典型的な片峠である。

志和川の谷に
強烈なコントラストの片峠を谷から眺めてみようと、曲がりくねった県道326号を下り志和の漁港に。そこから志和川に沿って車の入れるところまで進み、分水川となった尾根筋を見上げる。
で、どうしてこのような急崖となっているか、ということだが、同書には、地殻変動で隆起し、台地となった四万十川水系から切り離され、「海に直接入っていた川の流域は海に向かってより強く傾斜するようになり、川はそのために侵食力をいちじるしく増して、傾斜部分をはげしく削り込み、四万十川流域(台地)との間に階段状の急崖をつくった」とある。台地と海岸との距離が迫っている分、より川の傾斜がきつく、強い削り込みがなされたのだろう。とはいいながら、河川の侵食力だけでこれだけの崖ができるのだろうか。リアス式海岸といった景観を見るにつけ、造山活動と言うか台地隆起時にその基本が形造られたのでは、と素人妄想。
志和
志和の地名は、全国にあり河岸段丘の崖などを意味することもあるが、ここでは「し=暗礁」の多い、「うらわ=小さい湾」とする説に説得力がある。

■ループ線のある片峠へ■

次の目的地は同書にあった「ループ線のある片峠 家地川と羽立川の源流」。高知県高岡郡四万十町と幡多郡佐賀町(現在黒潮町)の境の片峠である。家地川と羽立川が四万十川に注ぐすぐ南が四万十川水系と伊与木川(土佐湾に注ぐ)の分水界であり、そこは急峻な片峠となっているとのこと。窪川盆地を囲む片峠の旅を続ける。

志和峰から家地川源流域までのルート
車デポ地に戻り、県道326号を戻り、弘見で「上ノ加江」とむすぶ県道235号に乗り換え、興津峠から下る与津地川を渡り、藤の越(標高331m)を越え、見付川筋を下り、吉見川と合わさる辺りで国道56号に乗り換え、窪川の街を少し北に進み、国道381号に乗り換ると四万十川にあたる。
窪川の町からは蛇行する四万十川に沿って国道381号を進み、若井川を分ける強烈な蛇行箇所を越え、次いで登場する強烈な蛇行箇所で左に折れて野地橋を渡り県道329号に乗り換え家地川を源流域へと向かう。

四万十川の流路
Google Earthで作成
全長196キロという四万十川には、大小合わせると70ほどの一次支流、200以上の二次支流、支流に流れ込む300以上沢があると言われるが、その中でも幹線となるのが、高岡郡津野町の不入山から南下し窪川に下る松葉川(現在目にしている流路)、四国カルストの山地から下り四万十町田野野で本流に注ぐ梼原川、愛媛の北宇和郡の山間部にその源を発し、四万十市西土佐の江川崎で本流に注ぐ広見川の三川とのこと。その三つの幹線支流を繋ぐのが「渡川」とも呼ばれる四万十川の川筋である。
現在、海から最も遠い地点ということで源流点となっている、不入山の源流点から南下してきた四万十川は窪川の辺りでその流れを西に変え、その後北西に大きく弧を描き、山間の地を、蛇行を繰り返しながら、田野野で梼原川、江川崎で広見川を合せ四万十市中村で土佐湾に注ぐ。
で、何故に、このように海に背を向けて大きく弧を描く特異な流れとなったかについて、同書は「四万十川が山地の中を激しく蛇行していることから、この流域を含む一帯はむかし、海面に近い平坦な低地だった、と考えられる。そこを川は自由気ままに蛇行していたのである。
しかし、その後土地が隆起したため、川は侵食力を回復して、その流路を保ちながら谷を削り込んでいった。その結果、現在のような穿入蛇行(山地にはまりこんだ蛇行)の状態が出来上がった。但し、この隆起は全体的に一様に起こったのではなく、たまたま四万十川の流域の中央部が最も高くなるように起こった」とある。
田野野
上に、田野野で梼原川が四万十川(渡川)に合わさるとメモしたが、田野野の地名は、そのふたつの川に由来する。前述「土佐地名往来(高知新聞社)」には「田野野は梼原川と四万十川によって形成された段丘の開き地。棚野の転化」とする。

四万十川の東流◆

現在は上述の如く、窪川辺りで西に流れ、山地を大廻りする四万十川の流れではあるが、はるか昔には、松葉川も梼原川も広見川も、その流れは窪川盆地から、そのまま太平洋に注いでいた、と言う。梼原川や広見川は現在の流れとは逆に、「東流」していたことになる。その流れが西に向かうことになったのは、南海トラフの跳ね返りで、海岸線に山地が現れ(興津ドーム)、南下を阻まれた流れは西に向かうことになった、とか。
川の生成史では、流域は時間軸に従えば、V字谷>U字谷>準平原となるところ、四万十川では窪川盆地が準平原、その下流にV字谷やU字谷があることから、初期の流れは窪川辺りから南へ土佐湾に注いでいたであろうことは納得できる。 現在の「海に背を向けて流れる」四万十川の流れは、海岸線に出来た山地・興津ドームに南下を阻まれ、西流することになった「新しい」流れのようだ。「新しい」とは言え、はるか、はるか昔、10万前年から1万年の事ではある。


③ 家地川分水界の片峠;三つ目の片峠
四万十川水系・家地川の谷筋を進む。同書には家地川の源流点からは、森に阻まれて片峠は見えないとのこと。それでは、谷筋から仰ぎ見ようと県道329号を進み、四万十川水系の分水界を越え、土佐湾に注ぐ伊与木川の谷筋に向かう。
狭い一車線の道を、対向車が来ないことを祈りながら峠を越え、谷筋に入る。志和の谷筋ほどの強烈な崖感はないものの、北に聳える尾根筋と家地川の平坦さを思えばこれも典型的な片峠である。また、谷筋の西には、後ほど訪れる羽立川との分水界となる片峠が見える。
伊与木川
この伊与木川水系は、上述の興津ドームと呼ばれる海岸山地の形成によって南流を阻まれる以前、この地で太平洋に注いだ四万十川の川筋と言う。「四国四万十川の後期第四系,特に形成史に関して(満塩大洸・山下修司;高知大学理学部地質学教室)」の記事を以下引用する。

◆四万十川の東流から西流の経緯◆

約70万年から40万年前;若井川経由で伊与木川から土佐湾に注ぐ 
約70万年から40万年前、まだ南海トラフの跳ね返りによる海岸線の山地(興津ドーム)の影響を受ける前、古四万十川は与津地川から興津に落ちるものと若井川を経由して伊与木川から土佐湾に落ちるものがあった。
因みにその頃は、江川崎から現在の四万十川河口までには河川は存在していなかったか,あるいは,存在していても小規模のものであった、と。
私注:若井川経由の伊与木川とは、現在の谷筋の右手に延び、尾根筋あたりで今でも繋がりそうな伊与木川の別流(本流?)。

約40万年前から10万年前;興津ドームの影響を受け、若井川・羽立川経由で伊与木川から土佐湾に落ちる
興津ドーム隆起の影響を受け始めた約40万年前から10万年前には、古四万十川の西方への逆流が始まり、興津への出口を失いはじめた川は,窪川町付近における湖沼の時代を経て,若井川に加えて羽立川を排出口にした、とある(私注;羽立川か家地川のどちらかを経由して現在立っている伊与木川の谷筋を経て土佐湾に注いだということだろう)。
江川崎あたりから四万十川河口までの河川は, いまだ小規模であり,本格的なものではなかったようだ。

約10万年前から1万年前
この時期では,さらに興津ドームの隆起の影響を受け,古四万十川が西流をはじめたため、伊与木川にも水は流れなくなった。
いっぽう十和村付近(現在は四万十町;梼原川の合流点の少し下流)から江川崎,また,江川崎から現在の四万十川河口までの範囲が本格的に形成さしれ始めた.ただし,時期的には後者の方が前者より早く河川として成立していた。

約1万年前から現在
四万十川は現在みられるような流れとなった。

羽立川はこの後訪れることにするが、家地川との関連言えば、地形図で見る限り、四万十川の川筋と伊与木川へ下る片峠の比高差は20mもないように見える。ちょっとした地殻変動でも起これば、今でも四万十川の流れは伊与木川に落ちそうである。
また、若井川と伊与木川との分水界も比高差は30mもないようだ。若井川は四万十川に注ぐ支流のため、四万十川の流れが若井川近くの伊与木川に注ぐことはないかとも思うが、これもちょっとした地殻変動で伊与木川による若井川の河川争奪がおきそうと妄想できる「片峠」感である。

伊与木の由来
「イオ、イヨ」は土佐で魚を指す。「木」は場所の意であるので、魚の豊富な場所、といった説がある。

土佐くろしお鉄道・川奥信号場
伊与木川の谷筋から、次の目的地である羽立川源流域に戻る。道の左手、伊与木川の谷筋に線路が見える。線路はトンネルに入っていく。トンネルはループトンネル。半径350mであるから、全長2031mのトンネルを勾配20%で41mほど上ってゆく。
谷を上り峠に向かう途中で線路を横切るが、その右手にはループを抜け、窪川方面に向かうトンネル、左手には川奥信号場。予土線・家地駅からトンネルを抜けてきた予土線の線路と、ループトンネルを抜けてきたくろしお鉄道中村線の線路が合わさる。ここで列車の交換・退避がおこなわれるのだろう。
信号場の先にあるループトンネルは見えなかったが、前面が開けた信号場からは伊与木川の谷筋、その向こうの羽立川の尾根筋を眺めることができた。

土佐くろしお鉄道
第三セクター方式の鉄道事業者。昭和61年(1986)。工事凍結された国鉄の宿毛線・阿佐西線を引き受けるため設立されたが、後に中村線も引き受けることとなり、昭和63年(1988)には窪川・中村間が開業した。
予土線
予讃線・北宇和島駅から高知県四万十町の若井駅を結ぶ。営業区間は若井駅だが、土佐くろしお鉄道との分岐は、この川奥信号場。若井・川奥信号場間は両鉄道の重複区間となっている。営業区間は若井駅までだが、実際は高知側からは土讃線窪川駅から出発しており、窪川・若井間は土佐くろしお鉄道の料金が加算されるとのことである。
愛媛の人でありながら、今の今まで愛媛と高知が鉄道で繋がっているとは思っていなかった。江川崎と若井駅間は1970年代に開通していたようだ。

④ 羽立川分水界の片峠;四つ目の片峠
峠を越え平坦となった田圃の中を少し下る。「日の谷」辺りで県道329号を左に折れ、羽立川の流れに沿って源流域に向かう。民家が切れ、舗装路が土径となる少し先にスペースがあり、そこに車をデポし源流域へと歩く。
田圃となる平坦地を進むと流路は森に入る。先に進むと、前述の書籍にあった養魚場跡らしき場所がある。森の中を流れる羽立川は沢といった風情を呈する。岩場を進みながら、左手に聳える沢からの比高差20mから30mほどの尾根筋を見遣る。尾根筋に這いあがろうとも思ったのだが、上掲の書籍には尾根からの眺めは望めないとのことで、取りやめる。
しばらく進むが、これも同書にあった朽ちた橋には出合えない(沢に渡した二本の木が残っていたが、それが橋、とは思えないのだが)。沢は益々狭くなる。さてどうしよう。

沢を遡上しながら、ふと考える。そもそも、この沢を辿る道の先に鞍部があるのだろうか、往還道としての峠があるのだろうか?片峠とは言いながら、峠と言う以上、人々の往還でもなければ、それは単なる台地、丘陵地、山地の地形に過ぎないのでは?その形状が急峻な崖としても、それは伊与木川が開析したV字谷ではなかろうか?どう考えてもこの先に往還道があるようには思えず、ほどほどのところで折り返すことにした。

興津ドーム◆

「四万十川の流路変化と興津隆起帯の形成」より
今一つ収まりのよくない羽立川散歩であったが、メモする段階でこの地が前述の興津ドーム・海岸山地の稜線らしきことがわかった。
「四万十川の流路変化と興津隆起帯の形成(加賀美英雄、益塩大洸、野田耕一郎)」に拠れば興津ドームと呼ばれる海岸山脈は三列からなる、とする。以下引用する。
第一列目の山稜
海岸から1.5キロ以内に配列する。興津岬を中心としたところに見られ、その代表は六川山(507m)。この山稜によって松葉川の東南流れが堰止められた。
◆第二列目の山稜
第二列目は、海岸から3キロ付近に配列する、御在所の森(658m)が代表である。この山稜の南西延長は伊与木の谷に下る窪川町日の谷の峠を通って、旧佐賀町(私注;現幡多郡黒潮町)坂本の435mの山(私注;坂本の地名は見当たらない。また、425mピークはあるが435mピークは見当たらない)に連なる。この南方では地形が複雑でどの山稜をとってもおかしくないが、例えば大方町(私注;現幡多郡黒潮町)の二が森(455m)を通る山稜に繋がる。この第二列目の山稜は梼原川の南東流をせき止めたと考えられる。
第三列目の山稜
第三列目は海岸から7キロ付近に配列される。大方町(私注;現幡多郡黒潮町)の仏ケ森(687m)の山稜。北の方では中土佐町の火打ケ森(590m)に連なる山稜であり、松葉川が東流するのをせき止めた。

日の谷の峠から羽立川の尾根筋を結ぶ山稜は、興津ドームの第二列、主に梼原川が太平洋に注ぐ流れを塞ぐことになったようだ。実際に足を運んだ後ではあるので、地形がイメージでき、リアリティを感じることができた。

佐賀取水堰・家地川堰堤
車デポ地に戻り、羽立川筋を下り家地川と合わさった川筋を予土線・家地駅辺りまで下る。往路、満々と水を湛えた四万十川に堰堤らしきものが見えたため、ちょっと立ち寄り。


堰堤脇に取水口がある。Wikipediaに拠れば、発電用堰堤であり、水は黒潮町の伊与木川水系・市野々川にある佐賀発電所に地下導水管を通して送られるようだ。送水量は多く、四万十川の流れの半分、上流の水量が少ない時期は堰堤直下の川底から水が消えることもある、という。


土佐くろしお鉄道・若井駅
時刻は未だ1時頃。時間は十分にある。何処に行こうか、ちょっと考える。その時は「興津ドーム」の事など知る由もなかったのだが、如何なる天の配剤か、興津峠に行ってみようと思った。

佐賀取水堰を離れ、県道329号を四万十川左岸に沿って進み、野地橋を渡り国道381号を進む。蛇行する四万十川右岸を進むと、若井大橋の対岸に「土佐くろしお鉄道・若井駅がある。
川奥信号場脇の踏切から信号場と逆側に見えた若井トンネルを抜けてこの駅に出る。土線の高知側の営業終点・始点駅(施設上の分岐点は川奥信号場)とはいうものの、予土線はすべて窪川駅まで乗り入れるというが、田圃の中に見える無人駅の姿を見れば、結構納得。
若井川
若井駅の少し南で若井川が四万十川に注ぐ。上述の如く、興津ドームの海岸三山脈が形成される以前、また、興津ドーム隆起の影響を受け始めた約40万年前から10万年前には、古四万十川の西方への逆流が始まり、興津への出口を失いはじめた川は,窪川町付近における湖沼の時代を経て,若井川から伊与木川をその排出口として土佐湾に注いだ、という。
これはメモの段階でわかったもので、当日は知る由もなく訪れることはなかったのだが、地図を見ると、なるほど、若井川と伊与木川の分水界が峠辺りで「大接近」している。Google Street Viewで峠の南を見るに、峠手前の平坦地とコントラストをなす片峠となっている。行ってみたかった、と思えど、いつものことながらの、後の祭りである。

⑤ 興津峠;五番目の片峠
国道56号に戻り、窪川の町を経由し、県道325号を興津に向かう。この道筋は東又川から家地川・羽立川へと向かった道筋である。


予津地川を越えた先で興津へと向かう県道52号に乗り換え、興津峠に。峠までの平坦地から一転、後川が開析した急峻な谷となる。道を少し下り、興津の片峠を実感したところで、引き返す。片峠もさることながら、山と谷と海の織りなす素晴らしい眺めであった。
予津地川
当日は単に片峠をみようと辿った予津地川であるが、メモの段階で、この川筋は、約70万年から40万年前、まだ南海トラフの跳ね返りによる海岸線の山地(興津ドーム)の影響を受ける前、古四万十川が土佐湾に落ちた流れであった。地図を見ると、予津地川は興津峠のほんの手前まで延びていた。
予津地の由来
「予津地」は「四津に向かう地」のこと。四津は現在の興津(おきつ)。往昔、その地に四つの津(湊)があったためである。その「四津村」が興津になった経緯はなかなか興味深い。四津をいつの頃から輿津(よつ)と漢字をあてていたのだが、諸和23年(1948)に「輿」を「興」と改め、興津とした。その心は「おおいに興るべし=発展すべし」と言ったところ、とか。四つの津のいくつかが姿を消したとはいえ、思わず唸ってしまう。今まで多くの地名の命名を見てきたが、こんなケースは初めてだ。地名の由来は誠に面白い。

国民宿舎・土佐
これで本日の散歩は終了。宿をとった横浪半島東端の国民宿舎・土佐に向かう。これで二度目だが、露天風呂から見下ろす土佐湾の眺めが気に入り、少々遠くはあるが、車を飛ばすことにした。
県道52号を東又川を越え、仁井田川筋まで戻り、国道56号を須崎市に。そこから県道23号に乗り換え、リアス式海岸の美しい横浪半島東端にある宿に泊まり、翌日の四万十川源流点散歩に備える。

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