2017年1月アーカイブ

難路・険路の馬道(炭の道)を悪戦苦闘し、なんとか小足谷川の谷筋に到着した。途中道を間違い40分ほどロスしたが、それでも4時間ほど歩いただろうか。聞いた話とは異なり、結構酷な道ではあったが、江戸の元禄の頃より明治の30年頃まで、別子銅山の中心として小足谷川に沿って開けた旧別子村の焼鉱・溶鉱に不可欠な薪炭を運ぶ道を実感できた。
往路は馬車道を大永山に向けて辿ることにしたのだが、この馬車道も数は少ないものの難所があり、谷筋の断崖箇所など危険度は馬道より高いルートではあった。
日も暮れ始め、どうなることやらと思い始めた頃、突然地図に記載のない林道に出合い、ギリギリセーフ。復路は3時間半ほどの散歩となった。




本日のルート;銅山峰登山道・目出度町分岐>トラス橋>ダイヤモンド水>高橋精錬所跡>劇場跡>徒河>石組で補強された平坦道に>木橋>朝日谷集落跡>広い平坦地・銅山川筋に出る>お地蔵さま>ロープ付の木橋>平坦地・下七番谷迂回地点>断崖>木橋>下七番谷を越える・最大危険個所>鉄塔巡視路標識>巡視路橋>巡視路橋標識と橋>鉄塔巡視路標識>藪道に>山側が開ける>植林帯に>林道に>県道47号に>車デポ地に戻る

小足谷川筋
銅山峰南嶺のこの谷筋は、元禄4年(1691)の開坑から大正4年(1915)に銅山の現地本部機能が東平に移るまで、別子銅山の中心として栄えた地である。開坑は元禄4年(1691)であるが、坑場整地のための森林伐採や人夫の小屋、金場(選鉱場)、勘場(事務所)、焼鉱の窯場、溶鉱のための床屋などの建設もさることながら、資材や食料、産銅の運搬路の開削に難儀したことだろう。 当時銅山峰北嶺は西条藩の立川銅山であり、天領の銅山峰北嶺からの往還はできない。ために開削道は「小足谷から弟地・筏津・保土野と銅山川を下り、海技一、二五六メートルの小箱越で法皇山脈を越え、勘場成から中ノ川・浦山を経て船着場の天満(現、宇摩郡土居町)に至る一三里余の山道で、岩石を削り谷を埋め、橋を掛ける難工事であった」、と言う(「えひめの記憶」)。

復路[馬車道)ルート
ところで、「旧別子」と言葉では子供の頃からよく聞くのだが、旧別子の別子銅山の概要についてはあまり知らない。いい機会でもあるので、以下「えひめの記憶」をもとに整理しておく;
「旧別子の藩政期の銅製錬;別子銅山は元禄四年(一六九一)に泉屋(住友)によって開かれた銅山で、はじめは嶺南の別子山村で稼行していたが、寛延二年(一七四九)嶺北の立川銅山を併合し、銅山峰一帯及び山麓地域で、採鉱や銅製錬が行われてきた。銅山川上流の足谷川に沿う谷あいは、元は無住の地域であったが、銅山の開坑により突如としてにぎやかな生産活動の場が出現した。

最初に開かれた坑道を歓喜坑といい、嶺北との境界をなす銅山越(標高一二九一m)から南へ少し下ったところ(同一二二〇m)である。選鉱場はこの歓喜坑前におかれ、歓喜坑付近が別子銅山の最初の本舗であった。また下財(鉱夫)小屋・砕女(鉱石を砕く女工)小屋・金場(選鉱場)・勘場(会計事務所)・御番所(山役人出張所)・銅蔵・米蔵・炭蔵などが建てられた。また製錬部門である窯場や床屋からは硫煙が立ちのぼり、険しい山道を越えて産銅を運ぶ仲持衆が往来した。
藩政期の別子銅山では、別子の山元で粗銅をとりだし、それを大阪に送って鰻谷の住友本家にある吹所で真吹して精銅を得ていた。精銅はさらに小吹により貿易用棹銅に加工され、また地売銅も作った。住友の業祖とされる蘇我理右衛門は、慶長年間(一五九六~一六一五)に開発した南蛮絞りの技術により、それまで日本では不可能であった銅と金・銀との分離に成功したことで知られる。

別子で行われた粗銅生産は三工程の作業からなり、それらは木方と吹方に大別された。木方は焼鉱を行う職種、吹方は製銅を行う職種で、いずれも後には製錬課とよばれた部門である。
工程の概要は、まず鉱夫が掘った鉱石を負夫が坑道から運び出すと、金場で品位八%程度以上の富鉱を選出し、これを約三cm角に砕く。これを焼窯に入れ、薪と砕鉱石を交互に敷き並べて三〇日~六〇日間蒸し焼きにする。これが木方の作業で、鉱石一三三〇㎏と薪五三〇kgから焼鉱一〇〇〇㎏が得られた。
こうして得た焼鉱を硅砂と混ぜて吹床(溶鉱炉)に入れ、木炭の火熱で溶解して銅分と不純物を分離する。溶鉱炉の中で不純物の鉄分は硅酸と化合して硅酸鉄となって浮き、炉の上部から流出する(鍰;という;私注「カラミ」と読む)。また銅分の硫化銅は炉床のくぼみにたまり、水で冷却すると皮状に固まるので鈹(私注;「カワ」と読む)とよばれた。鈹は銅分が三五~四○%で、吹大工が火箸で一枚ずつはぎとり、あとには床尻銅が残った。
鈹は再度硅砂と混ぜて真吹炉に入れ、木炭の火熱で不純物の鉄分や硫黄分を除くと、銅分九七%の粗銅が得られる。あとの二工程が吹方の作業で、焼鉱四〇〇〇㎏と木炭一〇〇〇㎏から鈹一〇〇〇㎏がとれ、また鈹二八五○kgと木炭二〇〇〇㎏から粗銅が一〇〇〇㎏得られた。このような製錬法を和式製錬といい、明治時代に洋式製錬法が導入されるまで続いた。
和式製錬では多量の薪炭を消費するため、それらの確保が銅山の経営上不可欠であった。このため幕府は、元禄一六年(一七〇三)に宇摩郡津根山村の一柳家五〇〇〇石を播州に転封して天領とし、別子銅山用薪炭材の給供地とした。しかし、製銅作業では粗銅一トンを得るのに約三トン(一五〇俵)もの木炭を消費したため、明治時代になると製炭の場は別子から二〇~三〇㎞も離れたところで行われた。西条市の笹ヶ峰登山道沿いにある宿は、こうした別子銅山用木炭の集散地であった。

明治期の旧別子
嶺南の足谷川一帯は別子銅山の発祥地で、鉱山集落はまず歓喜坑のある前山付近に成立した。明治時代中期には、山方・木方・風呂屋谷・永久橋・目出度町・見花谷・両見谷・裏門(炭方)・東延・高橋・小足谷などの部落があり、小足谷一帯は最も後にできた部落である。この地域を今は旧別子とよび、各部落は山腹の斜面を削り石垣を組んで、軒を接するように建っていた。 目出度町は旧別子の中心街で本舗ともよばれ、別子銅山支配人・役頭・舗方などが勤める重任局が、明治二五年(一八九二)までおかれた。旧別子地区の人口は、享保一〇年(一七二五)に三五一四人、明治二一年(一八八八)には四三八九人であったが、その後全盛期には一万三四〇〇人に達し、県内有数の大きな町であった。目出度町には別子山村役場・郵便局・接待館・駐在所・住友病院などがおかれ、養老亭や一心楼などの料理屋や料亭、小泉商店(伊予屋)・奥定商店(えびす屋)・雑貨屋・うどん屋などの商店が建ち並んで盛況をきわめた。
目出度町の対岸が木方で、尾根筋に焼鉱場、谷側の上手に木方部落、下手に溶鉱炉があった。焼鉱場の上の丘には元禄四年の開坑時に勧請した大山積神社が鎮座していたが、明治二五年(一八九二)目出度町に遷った。神社のあった丘を縁起(延喜)の端とよび、ここから旧別子の遺跡が見わたせるところから、現在はパノラマ展望台とよばれている。
木方製錬所から少し谷沿いに下ったところが高橋で、明治一二年(一八七九)に鈹をとる荒吹炉二基と、粗銅をとる真吹炉一基を建設した。この製錬所は、従来の吹子に代わって送風機を備えており、別子山中で初の本格的な洋式製錬所であった。また、吹床を洋式製錬では溶鉱炉というところから、高橋部落はヨーコロ部落とよばれた。なお、新居浜の惣開では訛ってヨーコロとなり、惣開に通う人をヨーコロ行きさんとよんだという。高橋の洋式製錬所は、明治三二年(一八九九)八月の大水害で溶鉱炉が倒壊し、事務所・作業所・倉庫なども流失して操業不能となったため閉鎖された(「えひめの記憶」)」とある。

嶺南の旧別子から嶺北の東平へ
これで旧別子の概要はわかった。次に別子銅山の中心が銅山峰南嶺の旧別子山村から、北嶺の東平に移る過程を整理する。馬道が不要となる時期を確認したいためである。

第一通洞(標高1110m)と「牛車道」で新居浜の口屋へと運ぶ;東延時代
開鉱わずか7年目の元禄11年(1698)には年間1521トンという藩政時代の最大の生産高(国内生産の28%を占める)に到った別子銅山は、財政不足の幕府の政策により決済を銀にかわって銅とした、長崎での交易の30%を占めるなど、幕政に大きく貢献するも、「深町深舗」と言う言葉で表されるように、坑道が深くなり採算が悪化。
幕末から明治にかけて閉山をも検討したと云われるが、住友は広瀬宰平翁などの努力により明治2年(1869)粗銅から精銅をつくる吹所を大阪から立川山村に移し輸送の無駄を省くなど合理化を進め、事業継続を決定。
明治7年(1874)、フランスより鉱山技師・ルイ・ラロックを招聘し鉱山近代化の目論見書を作成。論見書に従い鉱脈の傾斜に沿った526mもの大斜坑・東延斜坑(明治28)の開削、明治13年(1880)、別子山村と立川村、金子村惣開(現新居浜市)に精錬所を建設。そして明治15年(1886)には標高1110mの銅山峰の北嶺の角石原から嶺南の東延斜坑下の「代々坑」に抜ける燧道の開削着工し、明治19年(1882)に貫通。これが長さ1010mの「第一通洞」である。この通洞の貫通により銅山越(標高1300m)をすることなく鉱石・物資の輸送が可能になった。
第一通洞は、明治8年(1875)に着工し、明治13年(1880)に完成した新居浜の口屋と別子山村を結ぶ「牛車道」と角石原で結ばれ、さらには明治26年(1893)には第一通洞の銅山峰北嶺・角石原から石ヶ山丈までの5キロほどを繋ぐ日本最初の山岳鉱山鉄道(上部鉄道)が敷設され、鉱石の新居浜の口屋への輸送ルートが大きく改善される。

明治初期から開始された鉱山近代化により、別子銅山は窮地から脱し産銅量も明治30年(1897)には3065トンまで増え、第一通洞の南嶺口から高橋地区にかけの東延地区には運輸課、採鉱課、会計課、調度課などの採鉱本部や選鉱場や多くの焼く鉱路炉(高橋精錬所)などが並んだ。明治28年(1895)には別子山村の人口は12000人に達したとのことである。この時代のことを別子銅山の「東延時代」と称する。

第三通洞と索道そして下部鉄道により惣開へ;東平時代
明治32年(1899)8月、台風による山津波で大被害を被ったことを契機に別子村での精錬を中止し精錬設備を新居浜市内の惣開にまとめ、また明治35年(1902)に銅山峰の嶺北の東平より開削し東延斜坑と結ばれた「第三通洞(標高765m)」、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺北の日浦の間、3880mが直結し、嶺北の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれ、東平からは、明治38年(1905)に架設された索道によって、明治26年(1893)開通の下部鉄道の黒石駅(端出場のひとつ市内よりの駅;現在草むしたプラットフォームだけが残る)に下ろし、そこから惣開へと送られた。
この鉱石搬出ルートの変化にともない東平の重要性が高まり、大正5年(1916)には、標高750mほどの東平に東延から採鉱本部が移され、採鉱課・土木課・運搬課などの事業所のほか、学校・郵便局・病院・接待館・劇場などが並ぶ山麓の町となった。その人口は4000とも5,000人とも言われる。

かくして別子銅山の中心は銅山峰南嶺の旧別子山村から、北嶺の東平に移った、ということで旧別子の整理メモを終え、復路のスタート地点があるという、別子銅山の劇場跡に向けて小足谷を下ることにする。

銅山峰登山道・目出度町分岐;13時21分(標高1,069m)
「木方・目出度町」分岐のある橋から少し下ると銅山の遺構案内。当時の写真と共にあった説明文に拠ると;
「木方吹所と裏門;足谷川に面して右の山側に建ち並ぶのは木方吹所(製錬所)である。この時点では高橋製錬所よりもこちらの方が産銅量は勝っていた。明治13年から生産が始った最初の湿式製錬所(沈澱銅)の施設であろう。巨大な両面石積の向こうは木炭倉庫で、その真上にも石積が天に突き出ている。当時の和式製錬では1トンの銅を作るのに4トンもの木炭を使っていた。木炭は食糧に次ぐ貴重な物で、従って銅蔵や木炭倉庫の建ち並ぶ鉱山の心臓部の入口は石垣や柵で厳重に囲まれていた。因みにこの辺りを裏門と呼んでいた」とあった。
木方集落
多くの焼鉱炉や建屋・住宅がびっしりと建っていたという。明治25年(1892)には目出度町から移った重任局(事務所)や勘場(会計)が建ち、小足谷川のは対岸と結ぶ多くの橋や暗渠があった、とのこと。
目出度集落
銅山の商店街といった場所で、今日のデパートにあたる伊予屋を始め料亭一心楼、鰻頭の奥定商店等々軒を連ね、更に郵便局や小学校まであり、銅山本部の下町的存在であった、と。

トラス橋;13時27分(標高1,057m)
数分道を下ると橋があり、銅山遺構の案内が;
「トラス橋の焼鉱窯群;この辺りの地名はトラスバシという。 正面にせり出している熔岩の様なものは製錬をして銅を採った残りの酸化鉄である。これをカラミ(鍰)という。
カラミがあるということは、ここにも製錬所があったという何よりの証である。 無数の焼窯が建ち並び、その前は溶鉱炉があった。このように別子銅山では古いものが新しいものへと、しばしば入れ替わっていた。
焼鉱の工程は、焼窯という石囲いの中に多量の薪と生の鉱石を交互に積み重ねて燃やすと1ヶ月ぐらいで硫黄が燃えて発散し、後に銅と鉄からなる焼鉱が残る。
続いてこれを荒吹炉に入れて、更に次の間吹炉に入れて淘汰すると、銅の含有率が90%ほどの粗銅となる。岩山の上に焼鉱用の薪が高く積まれていた」とあった。

ダイヤモンド水;13時35分(標高1,019m)
更に数分下り、ベンチや休憩所、お手洗い(冬期は利用不可)のある広場に着く。そこに勢いよく噴出する水がある。ダイヤモンド水と称される。案内には; 「高橋熔鉱炉とダイヤモンド水;古くはこの辺りの地名はタカバシであったが、明治12年(1879)頃この対岸に洋式の熔鉱炉が建設されてからはヨウコウロと呼ばれるようになった。
ところが戦後(昭和20年代)、別子鉱床の他にもう一層ある釜鍋鉱床というのを探し当てるためにボーリング探査を始め、ここでも昭和26年に掘削を行った。
予定深度まであと僅かの82mほどの所で水脈に当たり多量の水が噴出し、ジャミングという事故が起きてロッドの先端部分がネジ切れ、掘削不能となった。 ダイヤモンドを散りばめた先端部が今も孔底に残っているので、誰言うともなくダイヤモンド水と呼ばれるようになった。
明治10~20年代にかけて対岸の絶壁の上に焼窯という鉱石を焼く所があって、硫黄を取り去った後の鉱石は箱状の桶でこのレベルまで落とし、熔鉱炉に入れて粗銅を採っていた。最盛期にはこの辺り一帯に製鉱課の施設や木炭倉庫がひしめいていた」とあった。

高橋精錬所跡;13時42分(標高985m)
道を数分下ると対岸に立派な石垣が見える。下段石垣には「住友病院跡」と記された案内もあり、その対岸の石垣から崩れた暗渠も残っていた。
道脇の遺構案内に拠れば:
「高橋製錬所と沈澱工場;対岸の高い石垣は高橋製錬所跡である。この石垣は更に300m上流まで統いているが、この対岸には明治20年代になって建設された洋式熔鉱炉(左)と沈澱工場(正面)があった。
明治28年から政府は環境問題に規制を設け、製錬の際に出る鉱滓を直接川に流さないことにした。そこで製錬所前には暗渠を築いて流水を伏流させ、その上に鉱滓を捨てていたので、一時前の谷は鉱滓堆積広場になっていた。
それが、明治32年(1899)の風水害で堆積広場は流され、暗渠も大半が潰れて元の谷川に戻った。ここに残る暗渠は当時の様子をかすかに伝えている。
正面には沈澱工場といって、銅の品質が低い鉱石を砕いて粉末にし、水を使って処理する湿式収銅所があったが、明治32年の水害以降その設備が小足谷に移ってからは、目出度町の近くにあった住友病院が一時期移転していた。
※鉱滓:鉱石を精錬する際に生ずる不用物」とあった。

劇場跡;13時52分(標高953m)
深山幽谷、夏は沢登にいいところだなあ、などと思いながら先に下るとフラットな場所となり、その先は道に沿って石垣が組まれる。坂となっているためか石垣南端は結構な高さとなり、そこに登る石段も30段ほどもある。
道脇の案内には;「土木課(劇場)と山林課;別子銅山の近代化が軌道に乗りだすと、採鉱・製錬の生産部門と平行して、それを支える部門も増強されていった。
つまり、製炭と土木部門が大きなウエイトを占めるようになり、明治10年頃にはこの辺りの用地が造成され明治14年(1881)には、ここを起点とする車道が中七番まで開通し、夥しい坑木や建築資材・木炭等が牛馬車によって運び込まれた。
明治22年(1889)山林係が山林課に昇格し、左の石垣群が山林課、右の広い造成地が土木課になった。
土木課では明治22年に棟行20間、桁行10間、下屋を入れて延べ350坪もある巨大な倉庫を建てた。明治23年5月の別子銅山200年祭には、ここを劇場として解放し、上方から歌舞伎の名優を招いて盛大に祝った。以来、ここが毎年5月の山神祭には劇場として使われ、山内唯一の娯楽場となっていた」とある。

ここに記されている「車道」が往路の「馬車道」のことであろう。明治14年(1881)には中七番まで通じたとある。場所は劇場より少し上、小足谷川の対岸から進むとのことである。


復路[馬車道)


徒河;14時2分(標高956m)
小足谷川右岸に踏み跡を探し、それらしき場所を見つけ河原に下りる。橋はない。雨の翌日ということもあり、水嵩も増している。徒河できそうな場所を探し、河原の岩を投げ込み、飛び石をつくり川を渡る。
渡河地点は馬車道らしき踏み跡より少し上流。沢登りの高巻ではないが、斜面を上に向かって巻き気味に進み、安定した地点を川筋傍の踏み跡に下りる。

石組で補強された平坦道に;14時8分(標高950m)
少し進むと道は石組で補強された比較的広い道となる。道には電柱らしき柱も倒れている。馬車道沿いの集落に電気を送っていたのだろうか。






木橋が3つ続く;14時12分(標高950m)
広く安定していた道に木を渡した橋が現れる。木は朽ちており迂回。その先にも同じく2本の木を渡した橋(14時15分)がある。沢に下りて迂回。更にその先にも朽ちた木橋(14時16分)。地図を見ると等高線が山側に少し切り込んでいた。



木橋;14時27分(標高952m)

広い道が消えた樹林の中の山道を、川に向かって突き出した支尾根突端部に沿って進むと木橋が現れる。ここは山側を難なくクリア。その先には広い道が見える。






朝日谷集落跡:14時28分(標高955m)

広くなった道を進み、支尾根突端部を迂回すると前方に立派な石組みが見える。支尾根突端部を迂回した先では広い道が消え、台形状に切れ込んだ谷を道なりに迂回すると、石組みの馬車道下にも幾段もの石垣が谷に向かって続いている。 その時は、なにか集落でもあったのだろうか、などと話しながら進んだのだが、メモの段階で『山村文化』などを参考にチェックすると、そこは朝日谷集落跡であった。
朝日谷集落
明治5年(1872)前後より集落が形成された、と言う。元禄に開かれた別子銅山は小足谷川の上流部から集落が形成され、この朝日集落は最後にできた小足谷集落の一部とのこと。
小足谷川を挟んだ左岸の上前地区には職員が住み、左岸川沿いから右岸にかけての下前地区(朝日谷集落)には山林・土木関係の請負人や人夫、商人など30戸の家があったと言う。この石垣の上に棟割長屋が並んでいたのだろう。 この集落は別子銅山の機能が銅山峰南嶺の別子山村から北嶺の東平に移った大正5年頃(1916)から人が減り大正10年頃(1921)には集落はなくなったとのことである。
ちなみに先ほど見た電柱は、この朝日集落と関わりあるものだろか?

広い平坦地・銅山川筋に出る;14時38分(標高956m)
朝日集落跡の谷を抜け、少し荒れた広い道、石組みのしっかりした広い道(14時32分)、道の上下が石組みで補強された広い道を、おおよそ等高線950m等高線に沿った水平道を進む。道が小足谷川の谷筋から銅山川筋に出る辺りに小さな木橋(14時35分)があり、その先は広い平坦地となる。

お地蔵さま;14時41分(標高960m)
木々の間から左手に別子ダムの湖面をみやりながら、安定した道を進むと岩肌にお地蔵様が祀られる。「三界」とは読める。とすれば「三界万霊」と刻まれているのだろう。欲・色・無色界に彷徨うあらゆる霊を供養するお地蔵さまではあろう。
別子ダム
Wikipediaに拠れば、「高さ71メートルの重力式コンクリートダムで、工業用水・発電を目的とする、住友共同電力の多目的ダムである。
水、発電を主な目的とし、1965年(昭和40年)に竣工。ダム事業者は、住友グループの住友共同電力。ダムに貯えた水は同社の水力発電所・東平(とうなる)発電所に送水され、最大2万キロワットの電力を発生したのち、鹿森ダムに放流される」とある。
地図をチェックするとダム堰堤の少し上流から銅山峰を越え、一直線に国領川を堰止めた鹿森ダムの上流に点線が延び、足谷川(国領川の上流の呼称)とあたる箇所に発電所のマークがある。そこが東平発電所だろう。
また、点線は東平付近、唐谷川・柳谷川・寛永谷川方面からも延び、別子ダムからの線に合わさる。唐谷川・柳谷川・寛永谷川にも取水口があるとのことであり、その水も合して東平発電所に落としているのだろう。
因みに東平発電所の水圧鉄管は全国第二位の高低差と言う。端出場発電所の後を受け、別子銅山に電力を供給する目的ではあったようだが、別子銅山の閉山は昭和48年(1973)であるから、銅山とのかかわりは短期間であったことになる。端出場発電所導水路跡の崩壊路を辿ったことが懐かしい。
ついでのことではあるが、子供の頃この川筋にあった石組みの七番ダムに父と一緒に来たことがある。昭和4年(1929)に建設されたこのダムは、別子ダムのため水没したとのことである。

ロープ付の木橋;14時48分(標高965m)
石組で補強された道、左手に崖が迫る細路、右手に岩壁のある比較的広い道など、安定した道を進むと大きな沢が現れ、ロープが張られた木橋が架る。木橋はしっかりしており、ロープをしっかり握り橋を渡る。




その先の沢にも木橋(14時50分)が架かる。この橋もしっかりしており、足元に注意しながら橋を渡る。







平坦地・下七番谷迂回地点;14時57分(標高950m)
10分弱歩くと広い平坦地に出る。ここから深く切れ込む下七番谷を迂回するわけだが、これが結構厳しいルートであった。







断崖;15時7分(標高966m)
谷迂回のスタート地点は比較的楽な道ではあったが、10分ほど進むと岩壁に沿った細路となる。左手は比高差80mほどの断崖。高所恐怖症の我が身は道に這える草木を握りしめ先に進む。時に左手が開け迂回先の対岸が見えるのだが、先は長い。



木橋;15時13分(標高965m)
その先で小沢を渡るが、岩場と崖の間の道が狭まり足元が危うい。谷の最奥部に近づくと一瞬、比較的広い安定した道となるが、その先に木橋が架かる。木は朽ちており、沢を迂回。ここも結構厳しかったのだが、最大の難所がその先の下七番谷を渡る箇所に待っていた。


下七番谷を越える・最大危険個所;15時19分(標高970m)
谷最奥部、谷の左岸から右岸に渡る箇所に木橋が架る。木は朽ちており、谷を流れる水量も多く、岩場も滑りやすそう。結局、右側の岩壁に這える木立を見つけ、道の少し上段に上がり木橋の上流部を「高巻」。岩場の木を握り足元を確保しながら進むわけだが、結構緊張した。


鉄塔巡視路標識;5時20分(標高970m)
今回の散歩での最大の危険個所を渡り終えると、その先に住友共同電力の鉄塔巡視路標識がある。「高萩西線 31 32」とあり、地図を見ると送電線は最大危険個所の真上を進んでいる。鉄塔巡視路があり、ということは道も安定するだろうと期待。もう危険個所は結構。


巡視路橋1;15時22分(標高948m)
石組で補強された安定した道を進むと沢に橋が架かる。鉄塔巡視路として整備されており、橋も鉄のしっかりしたものであり、安心して沢を渡る。
その先にも木橋中央に鉄板を渡した巡視路橋がある。安心して進む。



巡視路橋標識2と橋3;15時27分(標高944m)
その直ぐ先にある鉄塔巡視路標識2(「高萩西線31 32」)を見遣りながら(15時25分)進むと、岩場を勢いよく水が落ちる沢がある。鉄塔巡視路故か、この沢も鉄の橋が架かり、安心して先に進む。




鉄塔巡視路標識3;15時29分(標高953m)
橋を渡ると右手の山が伐採され大きく開かれていた。その先、下七番谷が別子ダム向かって開ける辺りに鉄塔巡視路標識があった。「高萩西線 31 32」と共に別子ダム方向に「30」と記される。地図を見ると、この辺りから県道47号に向かって線が記される。鉄塔巡視路のようだ。

日も暮れ始め、先の展開が分からないため、ここで県道に下りる、という選択肢もあったのだが、パーティリーダーである弟はそのまま進むことを選択。4時半頃になって、どうしようもなければ県道に下りるとのことである。


藪道に;15時30分(標高949m)
そのすぐ先で道は藪となる。先ほど鉄塔巡視路から外れたわけで、仕方なし。藪を抜け、木立が遮る道を進む。
ザレた箇所を越えると植林地帯(15時34分)に入る。暗くて足元が危うい。道は倒木で塞がれる(15時41分)



山側が開ける;15時42分(標高956m)
その先で山側が崖崩れといった状態で山肌が露わとなり、右手山側が大きく開ける。








植林帯に;15時45分(標高948m)
明るくなった道も一瞬で終り再び暗い植林地帯に入る。暗く、そろそろライトを出そうかと思いながら進むと藪に入る。この先、車デポ地まで結構距離がある。さてどうしたものか、と思った時、道は突然林道に当たる。




林道に;15時53分(標高960m)
馬車道から林道に出る。地図に林道は記されていないので、思いがけないご褒美といった心境である。思わず笑みがこぼれる。







県道47号に;16時16分(標高874m)
林道を道なりに20分ほど進むと県道47号に出た。馬車道は?馬車道は林道に合流した後、二つ目の支尾根を廻りこんだ辺り(16時頃)で右に分岐し、中七番に向かって支尾根突端部・沢筋を迂回しながら中七番に向かって進むようである。
分岐点を見落としたが、わかったとしても、馬車道を進むことはできなかったように思う。県道を歩いても車デポ地まで30分ほどかかったわけで、曲がりくねった山道であれば1時間ほどかかるだろうから、日も暮れ危険だったかと思う。結果オーライ。歩き残した馬車道は後日カバーの予定

車デポ地に戻る:16時41分(標高986m)
県道を気持ちも楽に30分ほど歩き車デポ地の大永山トンネル南口に。これで本日の馬道・馬車道周回散歩を終える。繰り返して云うが、往路・復路共に平坦な水平路とは程遠い、難路・険路であった。

今回の馬道・馬車道散歩で、旧別子の土地勘がついた。幾度か銅山峰への登山道を上ってはいるのだが、旧別子の基礎的なことも知らず遺構を見遣り通り過ぎていた。いくつかある馬道といった燃料の道だけでなく、旧別子に残る、であろう鉱山経営のロジスティックス(補給)の道、例えて言うならば、生活に欠かせない水の道などを歩いてみようと思う。

暮れも押し迫った頃、弟から別子銅山の馬道(炭の道)を歩こうとのお誘い。馬道は江戸の頃から明治にかけて、粗銅精錬の焼鉱・溶鉱に欠かせない炭を運んだ道と言う。西条の笹ヶ峰北嶺から尾根筋を進み、大永山辺りから尾根をはずれ、水平道として旧別子の小足谷川筋に設けた粗銅精錬のための焼鉱・溶鉱所に薪炭を運んだ、とのこと。
馬道と馬車道(Google Earthで作成)
弟は笹ヶ峰から大永山辺りまでの馬道は歩き終えているようなのだが、それ以東は未だ歩いていないとのこと。既にその道を歩き終えた山仲間からの情報によると、平坦な水平路とのことで誠にお気楽に出かけたのだが、実際はとんでもない難路・険路ではあった。
また、復路は明治の頃開削された馬車道を小足谷川から車デポ地である大永山トンネル南口に向けて歩く、と。馬車道と言う言葉の響きから、これも平坦な道をイメージしていたのだが、難所・険路の数は馬道に比べて少ないものの、その危険度は馬車道が勝る、結構怖い道であった。よくよく考えれば、馬道は百年も前に廃道となったものであり(馬車道がいつ頃まで使われたか不明)、道が崩壊していても何も不思議ではなかった。

それはともあれ、廃道といえば、いつだったか明治の頃開削された青梅街道を歩いたことがあるのだが、東京では奥多摩の山奥、山梨近くまで行かなければ出合えない。そんな結構しびれる廃道歩きが、実家から1時間弱のところで少々怖くはあるが楽しめた。旧別子にはいくつもの馬道コースがある、という。来年のお楽しみがまたひとつ増えた。



本日のルート;大永山トンネル南口>小滝>尾根筋>馬道分岐>広い道に出る>最初の沢>2番目の沢>沢>広い道が現れる>沢と朽ちた木橋>沢>沢>登山道に合流>沢と朽ちた木橋>沢と朽ちた木橋>沢>平坦地>沢と木橋>鉄塔巡視路分岐点>間違い道を戻る>鉄塔巡視路を下る>右手に大きな滝が見える>銅山峰登山道に出る・目出度町分岐

大永山トンネル南口・車デポ地:7時43分(標高986m)
午前7時、かつて別子銅山の鉱山社宅・新田社宅のあった山根グランドに集合。国領川上流の別子ラインに沿って県道47号・新居浜別子山線を進む。鹿森ダムの上流で小女郎川を分け足谷川と名を変えた川筋を走る。川は支流を分け、西鈴尾谷川となった川筋に中鈴尾谷川が合わさる手前辺りから、山肌をヘアピンカーブでグングン上ってゆく。
昔走った頃に比べて気持ち道が広くなったように思うのは気のせい?などと考えている間にトンネルに入る。大永山トンネルだ。総延長1159.0 m、幅6.5 m、高さ4.5 m、平成2年(1990)11月開通。もっと昔からあったように思ったのだが結構最近のことであった。このトンネルの開通によって、陸の孤島であった銅山川筋の別子山村が愛媛の東予、西に下って徳島・高知と結ばれることになった。

長いトンネルを抜け銅山川の谷筋に出る。笹ヶ峰山麓の「宿」から尾根筋を進む「馬の道(炭の道)への取り付口は、この大永山トンネルの南口から。トンネルを出たすぐの広いスペースに車をデポし尾根筋へと向かう。

小滝;7時58分(標高1.003m)
銅山川上流部、中七番川に沿って進む。等高線にほぼ平行に平坦な植林の中を10分強進むと、中七番川のナメ滝脇に出る。 沢に沿って等高線を斜めに、緩やかな傾斜の道を10分強歩き沢右岸に渡る(8時16分)。その先も等高線を斜めに緩やかな山道を20分ほど進むと尾根筋に出る。



尾根筋・馬道合流8時35分(標高1,185m)
登山道と尾根道はT字に合わさる。その尾根道は西条方面から続く馬道でもある。馬道は「炭の道」とも呼ばれる。銅山嶺南麓の別子銅山の粗銅精錬(当初山元でつくられた粗銅は大阪の吹屋に送られ銅とした)に必要な炭を運ぶ道である。当時、粗銅1トンを作るには鉱石?トン、薪6トンと木炭4.8トンを要したという。

「遠町」
元禄3年(1690)、旧別子山村の足谷山に銅の大鉱脈を見つけ、翌元禄4年より開坑された別子銅山は、江戸中期(17世紀中頃から18世紀中頃まで)には「遠町深舗」と称される鉱山固有の現象のうち、特に「遠町」と呼ばれる状況に直面する。「遠町」とは周辺の森林が伐採され尽くし、焼鉱・溶鉱に必要な薪炭が不足することを意味する(「深舗」は坑道が深くなること)。
旺盛な焼鉱(窯場)・溶鉱(床屋)のため、開坑の地、旧別子村の森林が薪炭の確保のため伐採され、またその焼鉱の過程で発生する煙害(流煙;亜流酸ガス岳による森枯れにより、「遠町」の状況に直面し、新たに薪や炭の供給地が必要となった。

加茂川最奥部からの炭の道
西条から旧別子までの馬道(Google Earthで作成)
供給地はいくつもあったろうが、その一つが西条の加茂川最奥部の集落。中之池、黒代、川来須、笹ヶ峰周辺で焼かれた炭を、天ヶ峠を越え、笹ヶ峰北麓の「宿」の集積所に集める。そこからチチ山北麓を巻き、西山越から大阪屋敷越を経てこの地に至り、複数の道を辿り奥窯谷(目出度町分岐先の小足谷川の谷筋だろう)から高橋精錬所(この精錬所は明治にできたもの)辺りにあった溶鉱炉、というか焼鉱のための窯場・溶鉱のための吹床屋に運ばれたようである。
宿
炭の集積所であった「宿」には馬方人足の長屋が建ち並んだとのこと。二百名もの人足が八十頭もの馬を使い、一日一往復の行程で炭を銅山に運び、帰りは銅山子購買所で味噌・醤油を持ち帰った(「親子三代笹ヶ峰物語」)とのこと。 ◆炭の道の終焉
江戸中期よりはじまった馬道(炭の道)も明治30年代にはチチ山北麓が大崩壊し道が寸断され、明治38年(1905)には焼鉱・精錬所が瀬戸内の四阪島に移るに及び、馬道(炭の道)はその役割を終えた。

大阪屋敷越
馬道のルートに登場した大阪屋敷越は、地図をみると登山道と尾根筋合流点のすぐ西にある。当初、馬道途中の中継地かと思ったのだが、チェックすると、この地名は別子銅山ではなく、立川銅山に関りのある地名であった。
大阪屋とは大阪屋久左衛門という立川銅山の経営者の屋号。別子銅山開坑の数十年前に綱繰山西麓に開坑し、その小屋がけを大永山トンネル北の稜線にした、とのこと。その場所が大阪屋敷越辺りのようである。
別子銅山開坑の頃は、尾根の稜線の北は西条藩、南は天領であり、立川銅山は西条藩内にあった。その後、宝永元年(1704)立川銅山のある立川村は幕領になり、立川銅山も宝暦12年(1762)別子銅山に吸収合併された。
なお、大阪屋は拠点を東北に移し、明治まで鉱山を経営し、大商人として活躍したようである。

馬道分岐;8時49(標高1,198m)
登山道とのT字合流点から尾根筋を5分程度進むと「銅山越え 笹ヶ峰」と書かれた木標が立つ。ここが馬道分岐とのこと。
ひとつは道なりに進み尾根筋の少し南や北を巻き気味に、金鍋越を経て綱繰山(標高1466m)に向かい、西山(標高1428m)手前から銅山嶺北嶺を小足谷川筋に向かって下ってゆく。
もうひとつのルートは今回我々が辿る道。標識の右手の藪に入り、おおよそ等高線1200mから1250m辺りを「水平」に進み、最後に小足谷川筋に下る。小足谷川の谷筋の上流部は奥窯谷と呼ばれるようだし、明治に造られたものではあるが高橋精錬所などがあるので、一帯に焼鉱(窯場)・溶鉱(吹床屋)があったのだろう。

広い道に出る:8時55分(標高1,197m)
木標から数分はしっかり踏み込まれた道ではあるが、藪となっている。藪が切れると道が切れ、ザレ場(8時53分)となる。馬道は平坦な水平道との話であり、イメージでは別子銅山上部鉄道跡の道を思い描いていたのだが、ちょっと話が違うようだ。
が、ほどなく平坦な広い道に出る。雪が残る広い道は5分以上続き、これが続くのか、とは思ったのだが、残念ながら再び道が切れる(9時4分)。

最初の沢;9時15分(標高1,194m)
切れた道を自然林の中、斜面を進む。10分弱進むと、沢というか岩場から水の落ちる箇所に出る。昨日の雨の影響だろうか。尾根筋とは比高差100mほどあるのだが、岩場の上は開けて見えた。









2番目の沢;9時27分(標高1,207m)
支尾根を岩場に沿って迂回し進む。10分ほど難路を進み、沢を越える。先ほどの沢というか、岩場よりは「沢」っぽい。







沢と朽ちた木橋;9時46分(標高1,190m)
倒木で塞がれた道を進み、支尾根を廻り込み進む。笹に覆われた箇所、豪快に根元から抉れた樹木などバリエーション豊かな難路を20分ほど進むと、比較的広い道に出る。
広い道のその先に木橋があった。木は朽ちており、沢に下りて木橋を迂回。橋の両端はしっかりと石が組まれていた。

広い道が現れる;10時2分(標高1,194m)


木橋を迂回した先はザレの度合いが酷くなってくる。時に右手が谷に切れ込んだ箇所もあり、気が抜けない。平坦な水平路とは程遠い難路である。10分強歩き、支尾根を廻り込むあたりでしっかりとした広い道に出る。




沢と朽ちた木橋;10時9分(標高1,201m)
5分ほどしっかりした道を進む。
先に木橋がある。2本の木を渡しているが、朽ちており、沢に下りて迂回することになる。








沢;10時14分(標高1,208m)
5分ほど進むと沢。これも、前日の雨水が岩場を落ちている、といったものではある。沢の先は難路と平坦路が交互に登場。ザレた斜面あり、岩壁下の道あり、しかりした平坦路あり、岩場と急斜面のザレ道コンビネーションありと、バリエーション豊かではあるが、楽にはさせてくれない。


沢;10時34分(標高1,247m)
20分ほど難路・平たん路混在の道を進むと木橋の架かる沢に出る。二本の木を渡した橋はこれも朽ちており、沢を迂回。







登山道に合流;10時39分(標高1,240m)
沢筋から5分ほどで登山道に合流。登山道は左手に進むが、右手の支尾根があり、そちらに馬道があるかどうか確認する。支尾根突端に出るも、それらしき道もなく、合流点に戻り、左手の登山道を進むことにする(10時54分)。



沢と朽ちた木橋;11時2分(標高1,263m)
ここからは等高線1250mに沿って、少し南を進むことになる。比較的平坦な道を5分強進むと二本の木を渡した木橋があった。ここも木は朽ちており、沢に下りて迂回。





沢と朽ちた木橋;11時15分(標高1,225m)
沢を迂回した先は結構厳しい道となるが、数分で結構平坦な道(11時6分)となる。平坦な道は10分弱続いただろうか。その先の平坦な道に木橋が架かる。いままでのパターンでは、沢に近づくと道が崩壊していたのだが、ここは道が残り、そこに橋が架かる。二本渡された木橋は、朽ちており沢に下りて迂回する、

沢;11時22分(標高1,241m)
厳しい斜面のザレ道を5分ほど進むと再び二本の木を渡した橋がある。なお、定かな場所は不明だが、この辺りに中七番から上ってくる「炭の道」が合流していたようである。





平坦地;11時32分(標高1,202m)
そこから10分ほど厳しい斜面のザレ道を、木々につかまりながらクリアすると、広い平坦な箇所に出る。地形図で見ると1200mと1210m等高線の間隔が結構広くなっている。馬も一息つけるようなスペースである。




沢と木橋;11時44分(標高1,191m)
平坦地から5分ほどおだやかな道を進むと、三本の木を渡した木橋がある。ここは結構しっかりした木橋のようだが、安全のためここも沢を迂回する。






鉄塔巡視路分岐点;11時57分(標高1,185m)
その先もしっかりした広い道が続く。石組で補強された箇所もある。10分強歩くと送電線鉄塔標識が見えてきた。住友共同電力の標識で、「34号 35号 と記されていた。高萩西線送電線の鉄塔であろう。
何時だったか端出場発電所導水路跡を歩いたとき、「住友共同電力高萩西線48番鉄塔」があったので、北に向かうほど鉄塔番号が増えるようである。
ここで道が複数現れる。上側にしっかり踏み込まれた道、その下に鉄塔巡視路といった道がある。どちらを進むか少々迷う。結局上の道を進んだのだが、オンコースは鉄塔巡視路道であった。

間違い道を戻る;12時47分
上段の道はしっかり踏み込まれている。幅も広く安定しているのだが、道は1200m等高線に沿って少し上り気味に進んでゆく。大雑把なルートとしては小足谷川の谷筋に向かって下っていくはずではあるのだが、これでは谷筋と同じ比高差を保ったままである。
小雪も舞ってきた12時20分頃、弟が先の支尾根辺りを偵察に行き、無難に谷筋に下りルートは無いと判断し撤退を決める。来た道を20分ほどかけて元の鉄塔巡視路分岐点まで戻る。鉄塔巡視路分岐点で少し休み、13時前に鉄塔巡視路を下る。

鉄塔巡視路を下る;12時50分(標高1,185m)
石組みで補強された道を数分下る。小雪舞い散る道脇には鉄塔巡視路標識が3つ現れる(12時51分、12時58分、13時2分)。3番目の巡視路標識には「35 36」と記されていた。





右手に大きな滝が見える;13時16分(標高1,086m)
等高線に沿って、または斜めに緩やかに10分強、比高差100mほど下ると右手樹林の間に比高差のある巨大な滝が見えてくる。小足谷川も指呼の間となった。






銅山峰登山道に出る・目出度町分岐;13時21分(標高1,069m)
と、坂の下に建屋らしきものが見える。確認のため下るとそこは用水施設跡といったものであった。それよりなにより、そこまで下りてはじめて、弟達は、そこが見知った銅山峰登山道であることがわかったようであった。
小足谷川筋に出ると橋が架かる。小足谷川を渡ると「木方・東延」ルートでの銅山越えの登山道、川の右岸をそのまま左に上ると「大山積神社・目出度町」ルートでの銅山越えの道。右手にも橋が架かっているが、この沢が奥窯谷かもしれない。ともあれ、この谷筋が元禄4年(1691)、泉屋(住友)によって開かれた別子銅山発祥の地である。
江戸から明治・大正初期まで別子銅山の採掘・選鉱・焼鉱・溶鉱がこの谷筋の各所で行われ、それ故にいくつものルートを通り、焼鉱・溶鉱に必要な薪炭がこの谷に向かって運ばれてきたわけである。

今回そのうちのひとつのルートを辿ってきたのだが、話に聞いていた平坦な水平路とは程遠い難路の馬道(炭の道)であった。明治30年(1897)頃には燃料も炭からコークスに変わり、明治32年(1899)に新居浜市内の惣開に移るに及び馬道(炭の道)もその役割を終えたわけで、廃道となって100年以上経過しているとすれば、当然といえば当然のことではあった。
今回のメモはこれでお終い。復路のメモは次回に廻す。

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