2016年9月アーカイブ

坂本龍馬脱藩の道のうち、予土国境山越えの道を辿る散歩も、残すは石上峠を少し下った新田(にいだ)集落から、龍馬が舟にのり長浜に向かった小田川筋の亀の甲までを残すのみになった。
当初の予定では、山越えの道を里に繋げてお終い、と思っていたのだが、新田集落を衛星写真でチェックすると、未だ山間の集落。里に繋いだ、とは言い難い。これでは画竜天晴を欠く、ということで今回、日帰りで残り区間を歩くことにした。
今回は、山間の集落とはいいながら、ほとんど里に近づいているわけで、それほど木標の見落とし、道間違いなどないだろうと、家を出る時間も遅く、誠にお気楽に出向いたのだが、事はそれほど簡単ではなかった。

事の発端は新田集落から土径に入り、快適に進んでいたのだが、木標の無い土径の分岐での道の取り間違いにより、舗装道に出てしまい、車デポ地に戻り、そこから車で白岩集落を越え、弦巻集落で少し土径はあったものの、あっと言う間に、小田川筋・亀の甲集落に近づいてしまった。
そんなはずはない。『坂本龍馬脱藩の道を探る;村上恒夫(新人物往来社)』には、「石上峠から白岩までは、旧街道はほぼ昔のままで残っている」とあるし、「龍馬がここを通ったら、必ず白岩の大清水で休んだはずである」といった記述にある、白岩集落を素通りしている。ということで、白岩集落辺りを進むであろう土径を探し、行きつ戻りつ、ドタバタ行となってしまった。

今回の散歩を、時系列でメモしても「坂本龍馬脱藩の道」のルート案内は混乱するだけであろう。ために、今回のメモはドタバタの結果一応繋げた「坂本龍馬脱藩の道」をまず整理し、その後で、行きつ戻りつ、終いには藪漕ぎまでして繋げた、脱藩の道探しを時系列でメモする。 時系列のメモは、自分用忘備録といったものであるが、脱藩の道のルートの補助説明として番号をつけておく。坂本龍馬脱藩の道のトレースに参考になればと思う。


本日のルート;
新田集落から白岩集落・弦巻集落を経て、小田川筋・亀の甲集落へ
①新田集落に車デポ:11時4分>②石上峠近くの舗装道脇木標から土道に;11時28分>③新田集落の木標から土径に;11時42分>④木標;11時55分>⑤木標の無い分岐;12時>(道間違い)>⑥分岐を右折し舗装道に出る;12時5分
⑦新田集落のデポ地に戻る(ピストン;歩き);12時24分 >⑧新田集落からの土径から舗装道に出た箇所に戻る>(ピストン戻り:車)>新田集落>(車移動)>⑨弦巻の木標から土径に;12時40分>⑩亀の甲近くの舗装道に出る;12時59分>(白岩集落に戻る)
⑪土径木標を探して右往左往>⑫白岩集落に車をデポし脱藩の道の取り付口を探す;13時47分>⑬道脇のガードレール下に木標を発見>⑭脱藩の道らしき土径発見;13時57分>⑮木標;14時>⑯木標にない分岐を間違い林道に入る;14時3分>⑰藪漕ぎ開始;14時28分>⑱新田集落から白岩集落への脱藩の道を繋ぐ;14時51分
⑲分岐木標;14時58分>⑳林道間違い箇所:15時17分>脱藩の道を白岩集落・舗装路に戻る;15時22分>㉒舗装路から土径に;15時24分>㉓白岩の大清水;15時26分>㉔弦巻近くの舗装道に出る;15時35分>㉕白岩のデポ地に引き返す(歩き);15時45分>㉖亀の甲近くにデポ・車移動;15時58分>㉗亀の甲の木標;16時>㉘亀の甲;16時2分


坂本龍馬脱藩の道;石上峠から新田・白岩・弦巻集落を経て小田川筋亀の甲まで

以下、当日の行動ルートを整理し、龍馬脱藩の道を示す。囲み数字は当日の行動ルートに付けた番号。参考になればと付記した。
●石上峠
●木標を斜めに土道に入る
●ほどなく舗装された林道に出る
●土径が舗装林道に出たところに木標(②)
●舗装林道を離れ右手斜めに土径に入る
●石仏群を見遣りながら進むと新田集落の木標箇所(③)に出る
●新田集落の木標を右手斜めに土径に入り、白岩集落に進む。途中、「坂本龍馬脱藩の道」の木標(④)から5分ほど進んだところにある、木標のない分岐点(⑤)は注意し、右に曲がることなく直進する。
その先の上下に分岐する箇所は木標(⑲)に従い上段に入る。脱藩の道は舗装道の進む250m等高線に沿って、50m高い標高300m辺りを進むと脱藩の道の木標がり、そこから10分ほどで林道にあたる(⑯⑳)
●そのT字路を右に折れ白岩集落に。途中に「坂本龍馬脱藩の道」の木標がある(⑮)
●白岩集落の民家の納屋横に出た脱藩の道は、舗装路に合流。そこから100mほど戻りのガードパイプを土径に入る(⑬㉒)と脱藩の道の木標
●土径を進むと白岩の大清水に出る(㉓)
●舗装道の少し上を進む土径を進むと弦巻集落で舗装道に出る(㉔)
●舗装道を少し進むとヘアピンカーブのところに木標があり、土径に入る(⑨)
●お堂の横の木標に従い土径を下ると舗装道に出る(⑩)
●舗装道を少し進みヘアピンカーブの突端に木標(㉖)
●木標から舗装された径を下ると亀の甲集落(㉗)
●県道を渡ると小田川の亀の甲の舟着場跡に到着(㉘)


新田集落から白岩集落・弦巻集落を経て、小田川筋・亀の甲集落へ(実際の行動ルート)

新田集落に車デポ:11時4分・標高350m
愛媛県の東予にある新居浜から松山道に乗り、中予から南予へと進み内子・五十崎インターで下り、小田川筋を県道32号、228号と進み、ナビに導かれ新田集落に。
車を道脇にデポし、先回の散歩で確認した新田集落にある「坂本龍馬脱藩の道」の木票を見遣りながら舗装された林道を上り、先回の散歩の往路で見逃し、復路で見つけた、石上峠から斜めに下る土道が舗装道に合わさる箇所にある、「坂本龍馬脱藩の道」の木標に向かう


石上峠近くの舗装道脇木標から土径に;11時28分・標高470m
石上峠への舗装された林道を歩くこと20分、石上峠から下る土径との合流点に。道脇に木標立つ木標から左に土径が下っている。
土径に入ってすぐは雑草で覆われた道も、木々に蔽われた土径となり、里に近づいたのか竹林を抜けると幾多の石仏が佇む。石仏にお参りし先に進むと、新田集落の「坂本龍馬脱藩の道」の木標がある場所に出た(11時42分;標高355m)。 舗装道脇の木標からおおよそ15分弱であった。

新田集落の木標から土径に;11時42分・標高355m
「坂本龍馬脱藩の道 新田」と書かれた木標は、まことにわかりにくい。ちょっと見には、舗装林道を石上峠へと戻る舗装林道方向と見える。実際は、木標から右の土径に入る。木標辺りは雑草が茂り、道筋は見えないが、草を掻き分けて進めばいい。



木標;11時55分・標高300m
ほどなく雑草も切れた土径を10分ほど歩くと「坂本龍馬脱藩の道」と書かれた木標がある。オンコースであることが確認でき一安心。

木標の無い分岐;12時・標高290m
しかし、ここから先が要注意。木標から5分ほど歩いたところで道が分岐する。標識もなく、右の道をとる。
これが、「行きつ戻りつ」の1日となった端緒。この道を直進というか、左に進めば、舗装道路に沿って白岩、更には弦巻まで進めたのだが、それがわかったのは、後ほど、白岩から逆に戻り、道を繋げた後のことであり、その時は知る由もなし。

分岐を右折し舗装道に出る;12時5分・標高260m
標識のない分岐を、右の道をとると、5分ほどで舗装道に出た。その時は、新田ん集落の車デポ地からそれほど離れてもいないので、ピストン距離も比較的短く、ラッキーと思っていたのだが。。。

新田集落のデポ地に戻る(ピストン;歩き);12時24分
舗装路に出たため、車をデポした新田集落に戻る。舗装道を20分ほど歩き、車に乗り、次の木標を探しながら舗装道を下ることにする。



新田集落からの土径から舗装道に出た箇所に戻る(ピストン:車)
新田集落から車で分岐点に戻る。ここから先、舗装道脇に木標を求めながら先に進むことにする。次の土径の木標はすぐ現れるだろうと思いながら車を進める。







弦巻の木標から土径に;12時40分・標高160m
車を進め、木標に注意しながら進むも、白岩集落辺りを過ぎても道脇に木標は見つからず、更にその先の弦巻の集落にある173mピークに突き当たるヘアピンカーブのところでやっと木標を見つけ、道脇に車をデポし土径に入る。






茶堂と木標
耕地の上に延びる細い一本道を進み、173mピークを巻くと茶堂があり、脇の「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い、竹林の中を等高線に対し「くの字」を書くように下りる





亀の甲近くの舗装道に出る;12時59分・標高85m
弦巻の木標から土径を15分ほど歩くと舗装道に出る。目の前には小田川が見える。龍馬が舟に乗り長浜に向かったという、川傍の集落・亀の甲のすぐ傍である。







土径木標を探して右往左往
これはもう、どう考えてもおかしい。車で走る途中、木標を見落としたのだろう。上にメモしたように、『坂本龍馬脱藩の道を探る』には「石上峠から白岩までは、旧街道はほぼ昔のままで残っている」とあるし、「龍馬がここを通ったら、必ず白岩の大清水で休んだはずである」といった記述があるが、その白岩集落を素通りしている。
とりあえず、車で白岩集落まで戻り、土道への取り付き口を探すべし、と車で向かう。弦巻集落越え、白岩集落の道脇にあるだろう、木標を求め、ゆるゆると車を進めるが、それらしき木標は見当たらない。数回往復したのだが、結果は同じである。

白岩集落に車をデポし脱藩の道の取り付口を探す;13時47分・標高230m 
が、地図をチェックするとい、白岩集落には、行きつ戻りつした舗装道から、ひとつ山側の民家に向かう分岐道がある。その道筋に入り、車を停めて木標を探す

道脇のガードレール下に木標を発見;13時50分・標高230m
と、道のガードレールが切れたところに、下に下るガードパイプがあり、その道筋に木標があり、「坂本龍馬脱藩の道」とある。 ということは、このガードパイプに続く土径が集落の山側にあるだろうと、民家脇から山側に入り込む。







脱藩の道らしき土径発見;13時57分・標高240m
民家倉庫裏の藪を右往左往していると、ひょこりと土径が現れた。道の方向からすれば、ガードパイプの木標方向と違和感はない。ひょっとすれば、これが脱藩の道かも、と山方向へと道をとる。






木標;14時・標高250m

道を数分進むと「坂本龍馬脱藩の道」と書かれた木標が現れた。『坂本龍馬脱藩の道を探る』にあった、「石上峠から白岩まで残る旧街道」はこの道だろう。道を戻れば石上峠から新田集落に下り、白岩に向かう土径と繋がるだろうと道を先に進む。上述⑤の木標のない分岐点まで辿った道と繋がれば、との想いである。





木標のない分岐を間違い林道に入る;14時3分・標高260m
歩くこと数分、その時はそれほど意識もしなかったのだが、分岐があり比較的道幅の大きい右手の道を進む。後で分かったことであるが、坂本龍馬脱藩の道は左手というか、直進しなければいけなかった。
石上峠方面から下るときには、この分岐点に木標は不要であろうが、木標がないため、あらぬ方向に進むことになってしまった。




藪漕ぎ開始;14時28分・標高420m
道はどんどん高度を上げる。どこかと途中で左に折れる道があるに違いないと、その時は思い込み先に進んだのだが、それらしき道は現れない。道はどんどん舗装道から離れてゆく。木標のない分岐点(⑮)の道を意識していたならば、そこまで戻って道を進んだのだろうが、その時は分岐先に道があるとも思えず、適当なところで藪漕ぎして、舗装道に出てしまった土径(⑤)に下りて行こうと決める。
藪漕ぎ地点は沢を渡る可能性を避けるため、北に突き出た尾根を回り込んだ辺りで下ろうと、結局分岐点から25分ほど歩き、標高420m辺りから力任せに山を下る。

新田集落から白岩集落への脱藩の道を繋ぐ;14時51分・標高290m
倒(こ)けつ転(まろ)びつ、GPS だけを頼りに標高を90mほど下げる。雨も降ってきて、衣服は泥まみれ。途中作業道らしき道があればそこを進み、適当なところでGPS に表示される、地点⑤へのトラックログに向かって藪漕ぎをすること20分強。なんとなく踏み込まれた土径に出る。
GPSでチェックすると、地点⑤に近づいている。道を石上峠方面に進むと「坂本龍馬脱藩の道」の木標があった。繋がった。余りの嬉しさのあまり、木標の写真を撮ることも忘れてしまった。

分岐木標;14時58分・標高200m
繋がった坂本龍馬脱藩の道を白岩集落に向かう。途中、木標のない分岐(⑤)がある。お昼頃、この道を歩いたときはそこを右に折れ、5分ほどで舗装道に出てしまった。
その時は、舗装道に沿って進めば土径に入る木標があるだろうと先に進んだのだが、あっと言う間に弦巻まで出てしまったのは前述の通りである。 今回は、右に折れることなく直進し、数分進むと、道は上下に分かれる。はてさて、上下どちら?上の道に「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、道を上にとり、等高線300mの辺りを進む。舗装道は等高線250m辺りを進んでおり、舗装同に沿って50mほど上を進むことになる。

分岐点から5分ほど進むと、「坂本龍馬脱藩の道」の木標識があり(15時5分)、オンコースを確認し、安心して先に進む。








林道間違い箇所:15時17分・標高260m
木標からさらに10分ほど進むと、T字で道にあたる。この分岐点が、道とは思わず、林道に向かった分岐点(⑮)であった。ここで分岐に気付いていれば、藪漕ぎもせず道を繋ぐこともできただろうが、後の祭りである







21;脱藩の道を白岩集落・舗装路に戻る;15時22分・標高240m
土径を白岩集落へと向かう。「坂本龍馬脱藩の道」の木標(⑭)を見遣りながら分岐点から5分ほど進むと民家の納屋裏に出る。
民家脇で道は切れる。右に曲がれば民家の庭を通ることになる。左に曲がり、石仏が祀られる祠の前の道を下ると、舗装された道に出る。この舗装道は、白岩での土径を求めて右往左往した舗装道から分岐し、車をデポした道(⑫)。この道から白岩集落の脱藩の土径を求めて山に入っていった。

舗装路から土径に;15時24分・標高230m
舗装されたスロープ状の道を舗装道に合流し、先ほど見つけた木標のあるガードパイプの箇所(⑬)に100mほど下る。
ガードレールの切れた箇所からガードパイプに沿って土径に入ると、「坂本龍馬脱藩の道」の木標が立つ。



白岩の大清水;15時26分・標高230m
木標から数分歩くと「白岩の大清水」に到着。四阿(あずまや)の横の豊かな湧水で、体を冷やす。小雨の中での藪漕ぎの汗と泥を洗い流しリフレッシュ。因みに、白岩の大清水の手前で右に折れると、白岩の土径を求めて右往左往した舗装道に出る。そこには「白岩の大清水」の木標があったが、見逃していた。

弦巻近くの舗装道に出る;15時35分・標高270m
白岩の大清水から、土径を進む。ほぼ250m等高線に沿って緩やかに下る舗装道に沿って、その少し上を進むことになる。雰囲気のある土径を10分ほど進むと土径は弦巻の集落で舗装道にでる。舗装道路のすぐ先は、弦巻の集落にあった脱藩の道の木標がある、ヘアピンカーブとなる。


白岩のデポ地に引き返す(歩き);15時45分・標高230m
これで、新田集落からの土径の分岐を間違い、すぐに舗装道に出たため、すっぽりと抜けていた、新田集落から白岩集落、白岩の大清水をへて弦巻に出る、「坂本龍馬脱藩の道」が繋がった。
土径から車をデポした白岩集落まで歩きで戻り、そこから車で亀の甲へと下る。

亀の甲近くにデポ・車移動;15時58分・標高70m
車で進み、弦巻の木標からの土径が舗装道に出たすぐ先のヘアピンカーブを曲がり、さらにその先でもう一度ヘアピンカーブを曲がる箇所に「坂本龍馬脱藩の道」の木標が立つ。
ヘアピンカーブを曲がった少し先にあった舗装道のスペースに車を停め、小田川の川筋を見遣りながら亀の甲の木標に向かう。

亀の甲の木標;16時・標高75m
木標のある箇所から、竜馬が舟に乗った、であろう小田川の船着場といった雰囲気の広場が見える。舗装された急坂を下ると小川に架かる小橋に「坂本龍馬脱藩の道 亀の甲」の木標がある。







亀の甲;16時2分・標高50m
集落を抜け、県道32号を渡ると広場があり、そこに「坂本龍馬脱藩の道 宿間村(亀の甲)」の案内があり、「文久二年(1862年)3月24日。同志沢村惣之と土佐を脱藩した坂本龍馬は、26日、大野ヶ原は韮ヶ峠の国境を越え泉ヶ峠に宿泊した。27日(新暦では4月25日)朝、泉ヶ峠を立ち、耳取峠、石上峠、白岩、弦巻を経て、宿間村に着いた。
かつてここ宿間村の亀の甲は川舟による交通の要所として栄えていた。ここで道案内の那須俊平と別れ、龍馬と沢村惣之丞は川舟に乗って、小田川、肱川を下り、大洲、長浜を経て、長州は下関を目指した
龍馬の歩いた旧街道は、まさに新しい時代の黎明を告げる、新生日本の維新の道であった。 平成2年 五十崎町教育委員会」との解説が記されていた。

これで1泊2日を2回、日帰り1回の計5日かけて歩いた、坂本龍馬脱藩の道のうち、予土国境越えから小田川筋までを歩き終えた。単独行、車での移動のため、車デポ地へのピストンが必要であったため、通常の倍日数がかかってしまった。
とりたてて龍馬フリークと言うわけでもないのだが、脱藩の道という響き、峠越えというキーワードに惹かれてはいたのだが、何せ段取りのいいルーティングが思い描けず延び延びになっていた。が、今回、「えいや」と車移動でピストンと思いきり実行。なんとかなるものである。坂本龍馬脱藩の道の他にも、同じように段取りのいいルーティングができず、「保留」にしている歩き遍路も、車移動でピストン、と思いきれば、どこなと行けそうに思える。今回の散歩で得た最大の「ご褒美」は、そのことかと思う。
それはそれとして、横通集落と日除集落で2箇所ほど土径に入る木標を見逃し、その部分は不完全であるが、それも距離はそれほど長くない。今回歩いた当初、特に高知県内の坂本龍馬脱藩の道の木標はしっかりしており、地図は不要であると思っていた。が、愛媛に入ると、肝心な分岐に木標がなかったり、木標の方向指示が分かりにくかったと、道に迷うことも多かった。実際に歩いたトラックログで作成した坂本龍馬脱藩の道のルート地図を活用して頂き、道間違いが少しでも少なくなれば幸いである。
一泊二日の旅、二回目の二日目。初日は河辺川の谷筋・神納集落からキビシ川の谷筋・三杯谷集落を経て尾根に上り日除集落から水ヶ峠まで進んだ。計画時には、三杯谷から日除、水ヶ峠の箇所のルーティングが全く思い描けず、どうなることかと思っていたのだが、まったく歩くことなく車であっという間に着いてしまった。脱藩の道の土径を見逃し・見間違えた故の車行であったのは先回メモしたとおり。
予定では当日水ヶ峠から泉ヶ峠まで進む予定であったのだが、突然の豪雨のため中止。そのため、二日目の本日は、当初描いた泉ヶ峠から出発の予定が狂い、水ヶ峠から泉ヶ峠までの往復8キロ弱の歩きが加わることになった。
更に間が悪いことに、道間違いの歩きが加わる。石上峠から里に下る道の木標を見誤り、尾根道を先に進んでしまい、往復1時間、おおよそ4キロ弱が余分に加わり、結局合計で24キロ近く歩くことに。
水ヶ峠から泉ヶ峠間のピストンは、まだ元気であり、どうということはなかったのだが、泉ヶ峠から耳取峠・石上峠・新田集落へは下り一辺倒。行きはよいよい帰りはこわい、ではないけれど、新田集落から石上峠、耳取峠を泉ヶ峠へと戻る、上り一辺倒のピストン復路6キロは結構厳しいものになった。
6キロで比高差300mを上るわけだから、普通であれば、緩やかな上り程度ではあるが、酷暑の中を既に18キロ歩いた身体には結構きつく、数回に渡って歩いた坂本龍馬脱藩の道の中で、最も苦しい一日となってしまった。
因みに、この間の坂本龍馬脱藩の道は、水ヶ峠から新田集落までは、おおよそ10キロ程度ではある。



本日のルート;
PartⅠ(往路;脱藩の道);水ヶ峠から泉ヶ峠まで水ヶ峠から石崎峠の南を巻き、大森山の北を進み泉ヶ峠に
水ヶ峠;7時16分>土径に入る;7時21分>舗装道に出る;7時32分>土径に入る;7時47分>分岐(標識なし);8時10分>美しい景観:8時15分>泉ヶ峠;8時24分>県道310号切通し;8時31分

PartⅠ(ピストン往復);泉ヶ峠から水ヶ峠のデポ地に戻り、車で再び泉ヶ峠まで
泉ヶ峠出発;8時32分>(歩き)>水ヶ峠のデポ地到着;9時57分
水ヶ峠出発;10時>(車)>泉ヶ峠到着;10時21分

PartⅡ(往路;脱藩の道);泉ヶ峠から尾根道を進み、耳取峠をへて石上峠から新田集落に下る
泉ヶ峠出発;10時22分>耳取峠;10時38分>石上峠;11時2分>●道を間違い京ヶ森往復●>石上峠に戻り脱藩の道に復帰;11時52分>石上峠から土径を下る;11時58分>舗装道に出る;12時2分>新田(にいだ)集落・脱藩の道の土道確認;12時23分

PartⅡ(ピストン復路);新田集落から石上峠、耳取峠をへて泉ヶ峠の車デポ地に戻る
新田集落を出発し、舗装道を上り石上峠に到着;12時52分>耳取峠;13時24分>泉ヶ峠到着;13時58分(標高650m)



龍馬脱藩の道(水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落)

龍馬脱藩の道(水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落)
龍馬脱藩の道(水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落)標高図



PartⅠ(往路;脱藩の道);水ヶ峠から泉ヶ峠まで水ヶ峠から石崎峠の南を巻き、
大森山の北を進み泉ヶ峠に■

4キロ・1時間10分

水ヶ峠;7時16分(標高653m)
大洲の宿を出て国道197号、県道32号、228号と乗り換え、御禊川(みそぎ)に沿って進む。御禊川の谷地が切れる最奥部まで進み、大瀬南集落辺りで県道324号に乗り換え、細い山道を走り水ヶ峠に到着。
水ヶ峠では、少し日除集落側に寄った箇所に広いスペースがあり、車をデポする。




土径に入る;7時21分(標高649m)
身支度を終え、水ヶ峠から「泉ヶ峠 3.7キロ」「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い、舗装道を泉ヶ峠方面に向けて進む。数分歩くと「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装道から土径に入る。





舗装道に出る;7時32分(標高660m)
緩やかな尾根道を歩く。左手下には分かれた舗装道が見える。のんびりと10分ほど歩くと土径は舗装道に出る。舗装道は一瞬、尾根道を進む。舗装されていなければ、痩せ尾根道といったものだろう。道はその先で大森山を巻いて進み、土径出口から15分ほど舗装道を歩くと、再び土径に入る。

土径に入る;7時47分(標高697m)
土径に入った脱藩の道は尾根道を進むことになる。おおよそ等高線に沿って緩やかに下る舗装道は尾根道から離れてゆく。大森山に近づくと(8時3分;標高715m)少し傾斜があるが、それほど険しいといった道ではない。
大森山を過ぎると「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い、道は南に向きを変え、少し下る。

分岐(標識なし);8時10分(標高682m)
前面が開けた雑草の中を進むとT字路にあたる。T字路には標識がない。右手には道の左右に農家の作業場が見える。民家に入るわけにはいかないと、左に折れるが、地図を確認すると実線ルートが泉ヶ峠から離れてゆく。
民家の中を通るのか?などと心配しながら作業場に近づくと、ご夫妻がトマトの選別をなさっていた。この道は脱藩の道ですか?と尋ねると、オンコースと。道は作業場の間を抜けて進んでいた。奥さんからトマトを頂いた。感謝。

美しい景観:8時15分(おn標高682m)
作業場から少し進むと、進行方向左手にキビシ川の谷筋の集落、その向こうに雲を抱いた山々が見える。昨日の雨上がりのためか、谷間に湧く雲と集落、そして山々。なかなか、いい。





泉ヶ峠;8時24分(標高648m)
作業場から15分ほど歩くと、突然平坦地に出る。覚に「泉ヶ峠ニ至ル 龍馬俊平ト供ニ泊マレリ」とある、龍馬が梼原を出てはじめて泊まった泉ヶ峠である。 平坦地には龍馬のポスターを貼った建物があり、山小屋か茶店と思い近づくが、現在は休業中とあった。
小屋の廻りには石碑、祠、建物の礎石らしき石組み、往昔の泉ヶ峠の賑わいを示す旅館、餅屋、鍛冶屋、馬つなぎ場、馬の鉄入れ作業場、相撲場などを描いた木の案内板などがある。
『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、泉ヶ峠は道路が整備される以前、山越えが往来の基本であった時代、「河辺・肱川と五十崎を結ぶ往来の中心地としてにぎやかであり」「新谷の琴平祭や五十崎の牛市などの紋日には数百人の往来があったそうである。平日でも材木、三ツ椏(私注;みつまた;和紙の原料)、蚕のまゆなどを運ぶ牛馬が四十頭あまり、魚・肉・酒などの日用品を売る商人など、四、五十人の往来があり」と記されていた。
見落としたが、同書には、祠の近くに井戸跡があった、とある。泉ヶ峠の名前の由来ともなっていたが、現在の県道310号の前身となる道を開くに際し、峠の尾根の切り通し工事に伴い水路が絶たれた、とのことである。

県道310号切通し手前に木標;8時31分(標高650m)
泉ヶ峠を離れ、舗装道に下りる。舗装道理脇には「坂本龍馬脱藩の道」の案内があった。
「泉ヶ峠 文久2年(1862年)春、土佐の郷士坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや、決然として土佐を脱藩した。 3月24日、同志沢村惣之丞と高知を発った龍馬は、25日梼原の那須俊平、信吾 父子の家に泊まり、翌26日(新暦では4月24日)大野ヶ原は韮ヶ峠の国境を越えた。その夜ここ泉ヶ峠に着き、沢村惣之丞、そして道案内の那須俊平とともに一夜の宿をとった。
かつてこの峠には、旅館などがあり、土佐街道の交通の要所としてにぎわっていた。脱藩後の最初の夜、龍馬はこの峠でどんな夢を見たであろう。
平成19年3月 河辺坂本龍馬脱藩の道保存会 河辺観光推進協議会 内子町教育委員会」。
脱藩の道・取り付き口確認
舗装道に下り、泉ヶ峠から先の脱藩の道の取り付き口を探す。と、県道の尾根切通し手前に「坂本龍馬脱藩の道」の木標がある。木標の先は土径となり、尾根に向かっている。ここが取り付き口であろうと、確認を終え、水ヶ峠へと戻る








PartⅠ(ピストン往復);泉ヶ峠から水ヶ峠のデポ地に戻り、車で再び泉ヶ峠まで■

泉ヶ峠から水ヶ峠のピストンは、何も考えず舗装道を戻ることにした。これが結構大変。標高を650mから550mまで下げ、それから標高700mまで上げるわけで、こんなことなら脱藩の道を戻ればよかった、などと思うも後の祭り。累計比高差150mほどを上り下りすることとなった。

泉ヶ峠出発;8時32分
泉ヶ峠を8時32分に出て、県道310号を南に下り、北に突き出た尾根筋を廻り込んだ後は、等高線にそって北に向かって半円を描く道筋を進み、三久保集落の上で県道から分かれ、大森山の南を進み尾根筋に近づき、道なりに進み水ヶ峠に戻る。

水ヶ峠のデポ地到着;9時57分
水ヶ峠のデポ地到着は9時57分になっていた。舗装道歩きピストンは5キロ・1時間半であった。

水ヶ峠から泉ヶ峠に(車);10時出発・10時21分到着
そこから往路、というか、泉峠への引き返し。10時に水ヶ峠を出発し、歩きピストンで確認した同じ舗装道を走り、県道310号を経て泉ヶ峠に10時21分に到着。5キロを21分で移動した。



PartⅡ(往路;脱藩の道);泉ヶ峠から尾根道を進み、
耳取峠をへて石上峠から新田集落に下る■

10キロ・2時間


泉ヶ峠から石上峠を経て新田集落までは、順調に進めば6キロほど。が、前述の如く石上峠で脱藩の道の木標の指示を見誤り、あらぬ方向へと尾根道を進み続け、往復で4キロの無駄足とはなった。が、尾根道は基本緩やかな下り。往路は快適な歩みではあった。

泉ヶ峠出発;10時22分(標高650m)
県道310号・峠の切通し手前に立つ「坂本龍馬脱藩の道」の木標から急な土径を尾根に上る。679mピークは南を巻くも、基本尾根を進む。等高線の間隔も広く、緩やかな下りであり、ピッチが上がる。




耳取峠;10時38分(標高608m)
泉ヶ峠から15分ほど歩き、標高を40mほど下げると左手が開け、前方に平坦地が見える。「坂本龍馬脱藩の道 耳取峠」の木標が立つ。平坦地の端にコンクリートの休憩所らしきものがあり、奥に石仏が祀られる。昔の茶堂を模したものかもしれない。
耳取峠は、風が強く耳が取れてしまいそう、とか、この地に侵攻した土佐の長曽我部の軍勢が敵の耳を切り取り塚に祀ったとか、諸説あるようだ。

石上峠;11時2分(標高503m)
耳取峠の先も、基本尾根道であるが、ピーク部分は北や南を巻きながら進む。610mピークを巻いた先で左手が開け折り重なる山並みが目に入る。その先で分岐(10時52分:標高565m)となるが、「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、左手を進む。
道は林道の趣が強く、脱藩の道?と心配になるが、その先にも「坂本龍馬脱藩の道」がありオンコースであることを確認し、先に進むと石上峠に到着する。耳取峠から20分で標高を100mほど下げたことになる。
峠は四差路となっており、北の御禊川の谷筋から上ってくる道は舗装されている。峠には木材が積まれ、トラック積み込みのためなのかフォークリフトも置いてあった。往昔、肱川筋は、日本三大木材山地であったと言う。現在でも林業が盛んなのだろうか。
広い林道、積み上げられた木材、そしてフォークリフトと、今ひとつ、峠の風情に欠るが、峠の四差路を越えた道の左手にささやかな祠に石仏が祀られる。藩政時代の茶堂跡のようである。

木標見間違い
祠の道の反対側に「坂本龍馬脱藩の道 石上峠」とある。方向は道を直進とある(とその時は思っていた)。林業用に整備された広い林道を尾根道に沿って先に進む。後からわかったことではあるが、直進は間違い道であった。WEBでチェックすると、ここで道を間違う方がいたが、オンコースは木標から林道を斜めに土径を下ることになる。

道を間違う
オンコースの土径がわかったのは、後のこと。その時は林道を進み、大迫山を巻き(11時17分;標高530m)、京の森まで進んだ(11時31分;標高521m)。と、道は行き止まりとなる。地形図を見ると、そこから先は尾根筋を下ることになる。
事前にチェックした龍馬脱藩の道の経由集落である、白岩、福岡、下宿間は京の森から真北にある。どこかに脱藩の道の木標がないか、道はないかと探すが、それらしきアプローチは見つからない。仕方なく、歩いた道すがら、木標がないかと探しながら道を歩くと石上峠に戻ってしまった。

石上峠に戻り脱藩の道に復帰;11時52分(標高503m)
石上峠に戻り、さてどうしたものかと「坂本龍馬脱藩の道 石上峠」の木標を見ると、木標から斜めに草に蔽われた土径がある。木標の示す方向は林道を斜めに下りる、この土径であった。それにしても、少しわかりにくい。






石上峠から土径を下る;11時58分
木標から斜めに、草に蔽われた土径に入る。ほどなく草はなくなり、中央の窪んだ滑りやすい下りとなる。足元に気を付け道を下ると、舗装道が見えた。石上峠の木標からほんの数分の土径であった。







舗装道に出る;12時2分(標高466m)
舗装された道を木標を下ってゆく。特に木標は見つからず、結局舗装された道を20分ほど歩くと前方が開け、新田の集落に出る。








龍馬脱藩の道見逃し
舗装道に出ると直ぐ、「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装道から直ぐ土径に入っていた。往路、舗装道に下りた時は全く気付かず、復路で木標に気が付いた。疲れて、見れども見えず、であったのだろうか。
なお、後日わかったことではあるが、この木標から続く土径は、下に記す新田集落の木標の箇所に続いていた。





新田(にいだ)集落・脱藩の道の土道確認;12時23分(標高355m)
舗装道が山から新田の集落に入る箇所に、「坂本龍馬脱藩の道 新田」の木標がある。方向は今下ってきた舗装道を示している。そんな馬鹿な?と、木標から右斜めに草に蔽われた道筋がある。これが新田集落から先に続く土径であろう。
これで、山越えから里への「坂本龍馬脱藩の道」は繋がった、とその時は心で万歳三唱した。実際は上で先回、今回のメモで記したように、5か所ほど土径へのアプローチを見逃しており、繋がってなどいないのだが、その時は知る由もなし。
また、里に繋がった、とは思ったのだが、衛星写真でチェックすると新田集落は未だ山間部の集落である。少々気落ちするも、残りは、日を改めて歩いて見ようと、泉ヶ峠の車デポ地に戻ることにする。

■PartⅡ(ピストン復路);新田集落から石上峠、
耳取峠をへて泉ヶ峠の車デポ地に戻る■

6キロ・1時間半強

新田集落から車デポ地の泉ヶ峠に戻る。標高350m新田集落から650mの泉ヶ峠まで比高差300m、上り一辺倒のルートである。距離は6キロ程度だが、本日は道間違いもあり、歩きだけで既に18キロ歩いている。戻り6キロは誠に厳しいものになった。

新田集落を出発し、舗装道を上り石上峠に到着(12時52分;標高503m)
途中土径から舗装道路に出た対面に、往路で見逃した「坂本龍馬脱藩の道」の木標をみつけたのも、この石上峠への戻りの途中である。結構気落ちした。






耳取峠;13時24分(標高608m)
石上峠から耳取峠まで、比高差100mの上りは誠に厳しい。3本用意したペットボトルの水の残量を気にしながら、40分ほどかけて耳取峠に到着(13時24分;標高608m)。
石仏が祀られる、茶堂を模したコンクリートの四阿に、身も世も無く倒れ込む。散歩で休憩することは、ほとんどなく、倒れ込むといったことははじめてのこと。10分ほど大の字になって休みをとる。

泉ヶ峠到着;13時58分(標高650m)
大休止の後、へとへとの体で比高差50mを上り、泉ヶ峠に到着(13時58分:標高650m)。新田集落から6キロを1時間半で戻ってきた。ふらふらとはいいながら、結構なスピードで戻ったようだ。





泉ヶ峠の車デポ地に向かい、県道310号を下り、実家に戻る。坂本龍馬脱藩の道も、舟で長浜に向かったという肱川の支流小田川の亀の甲集落までを残すのみ。当初脱藩の道を計画した時は、山越えし里に出れば終わりとしよう、と思っており、新田とか白岩の集落まで繋げは十分かと思っていだのだが、衛星写真でチェックすると、小田川筋の亀の甲あたりまで山地が続いている。これはもう、小田川に当たるまで進むべし、と心に決める。

先月一泊二日をかけ、初日は本モ谷川筋の茶屋谷から松ケ峠を越え四万川筋・高階野集落に下り韮ヶ峠に。二日目は韮ヶ峠から舟戸川筋・色納集落に下り、そこから榎ヶ峠に上り河辺川の谷筋・神納集落まで歩いた。茶屋谷から予土国境を越え、尾根を下りきったところから小田川・肱川を舟で長浜へと向かう龍馬脱藩の道の山間部を、ほぼ半分ほど進んだことになる。

龍馬脱藩の道l茶屋谷から小田川筋・亀の甲(まで(Google Earthで作成)
今月も残された脱藩の道・後半部を一泊二日の予定で歩くことにする。ルートは先回の最終地点、河辺川筋・神納集落の横通集落への分岐から山を上り、横通集落から封事ヶ峠を越えてキビシ川筋・三杯谷集落まで下る。そこから山腹にある日除集落を経て水ヶ峠に進み尾根筋を泉ヶ峠までとした。
今回も前回同様単独行で車移動のため、デポ地までのピストンが必要。先回は谷筋から峠を越えて次の谷筋、といった、どちらかと言えば単純なピストンであったが、今回は水ヶ峠から先は尾根筋を進むことになる。尾根筋での車のデポ地はどこがいいのか見当がつかない。誠にもって行きあたりばったり、よくいえば、臨機応変の対応で進むしかない、との想いではあった。



本日のルート
■PART Ⅰ(往路;脱藩の道):河辺川筋神納・横通・封事ヶ峠・キビシ川筋三杯谷
神納集落の封事ヶ峠・横通り方面分岐:8時51分>横通・車デポ地;9時14分>封事ヶ峠(ほうじがとう):9時32分>舗装道に出る:9時42分>土径に入る;9時49分>神社:9時57分>舗装農道に出る;10時11分>キビシ川・河辺川筋を結ぶ舗装道に出る;10時11分>キビシ川筋・川上集落に10時22分

■PART Ⅰ(ピストン往復):キビシ川筋・河辺川筋(歩きと車)
キビシ川筋>三杯谷の集落;11時13分>舗装道から封事ヶ峠への土径に入る;11時36分>横通・車デポ地;12時>河辺川筋・神納集落に戻る;12時12分>◆河辺川筋から三杯谷に戻る(車)◆>林道高森線が分岐;12時34分>キビシ川に架かる橋;12時44分

■PartⅡ(往路・脱藩の道):キビシ川筋川上集落・日除集落・水ヶ峠
キビシ川に架かる橋を渡り南に向かう;12時44分>三杯谷の滝;12時46 分>日除集落;13時29分>水ヶ峠;13時37分


龍馬脱藩の道;河辺川筋・神納集落から水ヶ峠まで
龍馬脱藩の道;河辺川筋・神納集落から封事ヶ峠・三杯谷・日除をへて水ヶ峠まで
龍馬脱藩の道;河辺川筋・神納集落から水ヶ峠まで標高図

河辺川筋・神納に
実家の新居浜を午前6時過ぎに出て、松山道に乗り内子・五十崎インターで下り、県道32号、国道197号と進み、鹿野川湖の手前で県道55号に乗り換え、先回の散歩の最終地点、河辺川筋の神納集落にある横通集落・封事ヶ峠への分岐点に向かう。途中県道55号が通子止めとなっており、結構長い区間、山腹の道を迂回することになり、神納集落の「横通」分岐に到着したのは9時前となっていた。


PART Ⅰ(往路;脱藩の道):河辺川筋・神納から横通を経て封事ヶ峠に上り、
キビシ川筋・三杯谷に下る

横通からおよそ3㎞・1時間

神納集落の封事ヶ峠・横通り方面分岐:8時51分(標高392m)
分岐点から横通集落への道は舗装されている。先回、舟戸川筋に車をデポし榎ヶ峠に向かったのだが、峠近くまで道が舗装されており、車で進むことができた。
今回は同じ轍は踏まじと、車で進める所まで山を走ることにした。分岐点では広い道も沢に沿って上るにつれ、狭くなる。沢を右岸から左岸に移る直前に「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装道の進行方向を示している。この道で間違いなしと左岸に移り、ヘアピンカーブを曲がり、右に分岐する舗装道を見遣りながら進むと、左手が開け横通集落に。

龍馬脱藩の道見逃し;そのⅠ
Google street Viewで作成
沢を越えたすぐところ、進行方向左手の法面(補強工事された崖)に「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、進行方向の逆に向かって斜めに上るコンクリートのリード道があったようだが、見逃した(Google Steet Viewで確認済)。
結構気をつけて走ったつもりではあったが、沢を渡る直前の木標で「舗装道」がオンコースと思い込んだのだろう。後の祭りとはいいながら、残念。

横通・車デポ地;9時14分(標高598m)
横通集落の道脇に「横通り 坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、その先は土径となっている。木標手前の急坂のスペースに車をデポし、身支度を整える。マムシ対策に沢登りで使う渓流スパッツ、蜂除けにはハッカ油とエタノール、精製水を百均の化粧水スプレーに入れ、気休め対策も万端。目の悪い蜂には白い上着がいいと、白のYシャツに虫よけ網のついた帽子。遠目には不審な歩き遍路といった格好で本日の散歩を開始する。

封事ヶ峠(ほうじがとう):9時32分(標高735m)
尾根筋に垂直に、20分ほどかけて標高を50mほど上げると少し平坦な箇所に出る。平坦地を南北に走る林道高森線を木標に従いクロスすると、「封事ヶ峠」の木標。「三杯谷まで2.1km」とある。
切通し状となった道が先に向かうが、峠といった風情はなにも、ない。脱藩の道の木標の逆側に「高森城跡」の案内が立っていた。

高森城跡
封事ヶ峠の南に標高820mの高森山があるが、高森城についての情報は検索でヒットしなかた。

舗装道に出る:9時42分(標高699m)
封事ヶ峠から10分ほどかけて尾根筋を50mほど等高線を下げると舗装された道に出る。地図で確認すると、この道はキビシ川筋へと向かっている。

これは、いい。この地に来るまでは、横通集落にデポした車を山越えしたキビシ川の谷筋に移すには、河辺川を県道55号に沿って相当の距離を下り、キビシ川が河辺川に合流する「出合」集落で県道56号に乗り換え、キビシ川を上るといった大回りをすることになるかと思っていた。
が、ここで出合ったキビシ川の谷筋からの道は舗装されているわけで、とすれば、同じ行政区域である以上、峠を越えて河辺川筋へと進む道も舗装されている可能性大である。何処かで誰かに確認する必要はあろうが、ショートカットの可能性に少々嬉しくなる。

土径に入る;9時49分(標高656m)
復路のことはそれとして、舗装された道を10分弱下ると、木標があり、「坂本龍馬脱藩の道」は舗装道から離れ、土径に入る。等高線の間隔は割と広く、ほどほど緩やかな道を下ると、山中に神社が見えてきた。




神社:9時57分(標高611m)
神社にお参り。少し荒れており、社名も読むことができなかった。『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、天神社とあり、昔は奉納相撲なども行われていたようである。
社までは西に向かって下っていた脱藩の道は、ここで大きく方向を変え、神社からは北に突き出た尾根筋に沿って下ることになる。

舗装農道に出る;10時11分(標高512m)
道を下ると前方が開け、里が見えてくる。段々畑の上に見える民家は「三杯谷」の集落だろう。神社から10分ほどで舗装された農道に下りる。







キビシ川・河辺川筋を結ぶ舗装道に出る;10時11分(標高512m)
舗装された農道を進み、キビシ川の支流の沢に架かる橋を渡り、道なりに進むと舗装され大きな道に出る。地図で確認すると途中で出合った、キビシ川から三杯谷を経て横通から河辺川筋を結ぶ道であった。合流点には「坂本龍馬脱藩の道」の木標が建っていた。


キビシ川筋・川上集落に10時22分(標高498m)
道に沿って進むと、すぐ先に同じく「坂本龍馬脱藩の道」の木標が立つ。この舗装道がオンコースと思い先に進み、キビシ川に架かる橋に到着。T字路となる橋の先に、脱藩の道の木標がない。次の集落は「日除」であり、方向からすれば左折だろうと思うのだが、結構迷う。
また、三杯谷の滝の案内もどこにも見当たらない。一体全体、どうすればいいのだろう、などと思いながら、とりあえず車のデポ地まで引返すことにする。

龍馬脱藩の道見逃し;そのⅡ
見逃し、というか、見誤りというのが正確だが、合流点からすぐ先にあった「坂本龍馬脱藩の道」の木標は、舗装道を進むのではなく、舗装道から逸れて土径に下りる標識であった。
直進と思い込んだ自分も悪いのだが、ちょっとわかりにくい。この土径を進めば三杯谷の滝に続いていたようである。キビシ川を渡った先に脱藩道の木標がないのは、当然ではあった。





PART Ⅰ(ピストン往復):キビシ川筋・河辺川筋・キビシ川筋■

おおよそ7㎞・歩き1時間半と車30分

キビシ川筋・川上集落から車デポ地に向かう;10時39分(504m)
結局、キビシ川筋から次の目的地である日除集落への取り付き口、もっといえば、その進むべき方向さえもわからず、また、三杯谷の滝の標識もみつけることができないまま、車のデポ地に戻ることにする。キビシ川筋まで戻り、車で走り回って、どこかで木標など見つけよう、との心持ちではあった。

三杯谷の集落;11時13分(標高600m)
先ほど下ってきた舗装された道を舗装農道との合流点を越え、30分ほど歩くと三杯谷の集落に入る。標高も600m辺りで、集落から見下ろす谷筋の景観は誠に美しい。





舗装道から封事ヶ峠への土径に入る;11時36分(標高699m)
舗装された道を30分ほど歩くと、往路で封事ヶ峠から舗装道に出た箇所に着く。そこから先の道を地図でチェックすると、結構大廻りしている。車のデポ地はこの地から土径に入れば、封事ヶ峠を経て一直線である。
本来であれば、舗装道をそのまま進み、横通からの舗装道の分岐点を確認すべきであろうが、あまりに距離差があるため、土径に入る。
車で走れば「三杯谷方面」といった道案内があるだろうと思い込む、ことに。なければ地元の方に尋ねようといった心持である。

横通・車デポ地;12時(598m)
土径に入り、封事ヶ峠(11時41分)を越え横通の車デポ地に戻る。時刻は12時。およそ1時間半で戻ってきた。

河辺川筋・神納集落に戻る;12時12分(標高407m)
横通の車デポ地から、三杯谷への分岐点の道路標識を探しながら、道を下る。途中1カ所、農家脇に分岐道があったが狭く、道路標識もないため、そのまま下ると、結局河辺川筋の神納集落まで戻ってきた。


さて、どうする。神納集落から北へと向かう道を走る車が目につく。地図を見ると、河辺川の最奥部、笹峠辺りから横通に続く実線がある。そこまで行って戻ってくるのだろうか?
あれこれ悩んでいると、ほとんど人通りのない集落に郵便局の配達の方が近づいてきた。思わず呼び止め、キビシ川筋への道を尋ねる。道は、下りの途中で確認した農家脇の分岐を右に入ればいい、とのこと。舗装もされているようで一安心。




◆河辺川筋・神納から三杯谷に戻る(車)◆

三杯谷への分岐(12時25分;標高536m)
キビシ川筋に繋がる山越えの舗装道も確認し、河辺川筋・神納を出発(12時20分)。横通集落に向けて車を走らせ、沢を右岸から左岸に移り、見逃した土径への木標のあるヘアピンカーブを曲がり、渡った沢筋へと突き出た尾根の突端部分に一軒農家があり、そこから右に折れる道に入る。





小田町への分岐道標(12時29分;標高610m)
道なりに進むと「川上 小田町」への分岐道路標識があり、川上方面に左に折れる。先回の散歩で出合った笄岩の説明に「小田筋迎郷の際」とあり、距離は結構離れてはいるが、往昔の往還は今とは異なり、峠越えが普通であれば、「小田筋迎郷の際」に河辺川筋に廻ることもありか?と妄想した。が、現在でもこの谷筋から小田町に向かう道があるとすれば、あながち妄想だけでもないかとも思い始めた。



林道高森線が分岐;12時34分(標高720m)
いくつもの尾根筋の突端部を迂回しながらクネクネ道を進むと、「林道高森線」の案内のある箇所に。林道は舗装されていない。脇には「坂本龍馬脱藩の道 左」の木標がある。この林道は横通から封事ヶ峠に歩く途中、峠手前を南北に横切っていた道。

実のところ、三杯谷からピストンで横通に戻る途中、思わずこの林道を左に進み、途中気がつき、封事ヶ峠から林道を直線にクロスする「脱藩の道」の土径に戻った。歩き遍路の逆打ちではないけれど、三杯谷から横通へと、脱藩の道を逆に歩く場合はちょっと注意が必要。



キビシ川に架かる橋;12時44分

高森林道への分岐を右に進み、舗装された道を進み、封事ヶ峠の土径との合流箇所に。ここから先は、三杯谷から歩いて来た舗装道。「勝手知ったる」道を三杯谷の集落を経て、キビシ川に架かる橋に到着。








4■PartⅡ(往路・脱藩の道):キビシ川筋・川上集落から日除集落を経て水ヶ峠に■

4,5キロ・おおよそ30分弱(車;間違い道、三杯谷の滝散策を除く)

当初の予定では三杯谷集落辺りまで車を運び、そこから日除集落へ上る土径を探し、車をデポ。日除集落を経て水ヶ峠に、との思惑であった。が、車移動のため木標の見逃し、方向の見間違いなどのため、気が付いたら車で水ヶ峠に到着していた。
当日は、車だけで移動できてラッキー、と思っていたのだが、後になって、そんなことはあるだろうか?と、気になりチェックすると、日除集落への取り付き土径の見逃し、日除集落内の土径の見逃しなどがあることがわかった。 既に、横通や三杯谷の滝への木標見逃し、見間違いをメモしたが、それもこのチェックの過程で見つかったものである。結構気を付けていたつもりだが、後の祭りとなった。残念。

キビシ川に架かる橋を渡り南に向かう;12時44分
往路でキビシ川に架かる橋まで歩いてきたが、ここから先の道は確認できていない。車をキビシ川の上流に向かって右岸・左岸を少し走るも、それらしき木標もない。地図に記載の「三杯谷の滝」の案内もない。
無いのは当然で、既にメモしたように三杯谷に下る「坂本龍馬脱藩の道」の木標を見逃していたわけで、オンコースを進んでいれば、三杯谷の滝に進んではいたものと思う。

三杯谷の滝;12時46 分(標高492m)
とはいえ、当日は、どうしたものか、ちょっと不親切では?などと、その時は当惑しながら、とりあえず、日除集落方面である、橋から県道245号を南方向に車を進める。と、道脇に見慣れた「坂本龍馬脱藩の道」の大きな案内板がある。やっと脱藩の道への手掛かり地が見つかった。
案内の横には竜王神の石碑。肱川筋に残る竜王信仰の社でもあるのかと、車を停める。社にお参りでも、と石段を下りると、その先にも鉄製網状の階段が下に続く。下りるにつれた谷筋からの水音が爆流の如く聞こえてくる。そして滝が見えてきた。

ステップを下り切ると谷を跨ぐ屋根付き橋があり、その前に巨大な瀧が見える。この時は、これが三杯谷の滝とは思わなかった。屋根付き橋を渡った先に、岩窟の中に佇む竜王さまがあり、竜王の滝とでも称するのかと思っていたわけだ。

この滝が「三杯谷の滝」とわかったのは、後日、「●龍馬脱藩の道見逃し;そのⅡ」の木標から竜馬脱藩の土径が、この滝へと続いているよう、ということがわかってから。キビシ川の橋を渡ったT字路に脱藩の道の標識がない、と当惑したが、ないのが当然。途中の木標の指示を見間違えた、己が責任ではあった。

沢を越えると脱藩の道木標;13時29分(標高608m)
竜王さまにお参りし、車に戻り先に進む。この県道245号がオンコースであろうと、道を進む。ほどなく「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、間違いなしと車を走らす。日除集落への木標がないものかと、注意しながらキビシ川に沿って下るも、なにもない。
地図で確認すると、日除集落から大きく離れてしまっている。とりあえず引き返すことに(13時7分)。道を戻ると、左方向の山に上る道の分岐がある(13時22分;標高450m)。キビシ川の支流との合流点近くのその分岐点から道を左に折れ、標高を50mほど上げ、支流を渡る辺りに「坂本龍馬脱藩の道」の木標があった。

日除集落・脱藩の道木標;13時29分(標高608m)
木標も確認しオンコース間違いなしと日除集落を進むと「日除 水ヶ峠まで1.5km」「坂本龍馬脱藩の道」の木標があった。その時は、なんとか日除集落に、それも車で進めラッキーと思っていた。
上でメモしたように、木標の方向見間違い、見落としがわかったのは、後々少々冷静になり、舗装道だけで進めるって、脱藩の道としてはちょっと不自然とチェックした後のことである。

龍馬脱藩の道見逃し;そのⅢ
Google Street Viewで作成
竜王さまから県道245号を少し下ったところに、「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、当日は県道245号を直進と思っていたのだが、この木標から法面に斜めに上るのが正解のようであった。
歩いていないため、ルートは不明であるが、日除集落に向かう道の途中、沢を渡ったところに「坂本龍馬脱の道」を見たとメモしたが、この木標がある以上、その手前で土径が舗装道に繋がっているように思える。



龍馬脱藩の道見逃し;そのⅣ
Google Street Viewで作成
沢を渡ったところにある「脱藩の道」の木標から、ヘアピンを廻り切ったところに、進行方向逆に斜めに上る「坂本龍馬脱藩の道」の木標があったようだ(Google Street Viewで確認済)。
ここからのルートは地図で見る限り、舗装道とクロスしながら、「日除 水ヶ峠まで1.5km」の龍馬脱藩の道の木標へと進むのだろう。車移動は、注意している、とはいいながら見落としが多い。後の祭り。



水ヶ峠(みずがとう);13時37分(標高653m)
日除の木標から水ヶ峠へと向かう。日除集落を通った道はほどなく県道342号と合流。右折し県道を上ると「水ヶ峠」に到着。「水ヶ峠 泉ヶ峠まで3.7km」「坂本龍馬脱藩の道」は左の木標があった。三杯谷から、あっという間に水ヶ峠に到着した。

当初の予定ではここに車をデポし、3.7キロ先の泉ヶ峠を折り返しの予定であったが、突然の豪雨。酷暑の予報でもあったため、簡易雨具しか用意しておらず、本日はここで終了とする。

水ヶ峠から泉ヶ峠へと、尾根近くに実線で描かれるルートが車で走れることを確認
宿をとった大洲に戻るに、県道342号を御禊川筋へと下れば簡単そうではあるが、泉ヶ峠からのピストンでの車移動で、尾根筋に沿って実線で描かれる道筋が果たして車で通れるものが、事前チェックのため、泉ヶ峠経由で戻ることにした。
少々おっかなびっくりではあるが、水ヶ峠から尾根に沿って泉ヶ峠方面に続く舗装道を進む。途中、舗装道から土径に入る「坂本龍馬脱藩の道」の木標、土径から舗装道に出る脱藩の道の木標を見遣り、石城峠の南を巻き、再び土径に入る脱藩の道を確認し、大森山を南に巻いて県道310号と合流。右に折れて泉ヶ峠に到着(14時21分;標高642m)。
地図にあった尾根筋近くに描かれる実線ルートが車移動できるのか不明であり、この道を車移動できなければ、水ヶ峠から一度里に下り、大きく迂回し県道310号を泉ヶ峠に上るしかないと思っていたのだが、車移動も問題ない。その上、尾根道を進む脱藩の道の概要もなんとなくわかった。 思いがけない脱藩の道事前情報を手に入れ、県道310号を道なりに下り、大洲へと向かう。

それにしても、今回は木標の見落とし、見間違いが多かった。車での移動時とはいいながら、少々残念。距離がそれほど長くない区間であったことが、せめてものイクスキューズではある。

龍馬脱藩の道を歩く、とはいながら、詳しい地図もない・バスもない・宿もない、といった四国山地の真ん中を辿るわけで、であればピストンで進むしかないだろうと、「えいや」で始めた龍馬脱藩の道の初日は、四万川支流の本モ谷川筋の茶屋谷からはじめ、松ヶ峠を越えて四万川筋・高階野集落に下り、韮ヶ峠まで、おおよそ8キロの山道を2時間半で歩いた。

龍馬脱藩の道;予土国境山越えルート(Google Earthで作成)
で、車のデポ地まで戻るに、同じルートのピストンではなく、一説には龍馬脱藩の道とも記される四万川筋に沿って県道を15キロ弱、おおよそ4時間弱で車のデポ地に戻った。心配していた道標もしっかり整備されており、往路はどうということはなかったが、復路はさすがに疲れた。
梼原のホテルに戻り、ゆっくり休んだ後、『坂本龍馬脱藩の道を探る;村上恒夫(新人物往来社)』を開く。いままでいくら読んでも頭に入らなかった説明が、現地の風景とともに「スッ」と頭に入るようになってきた。
本に記載の脱藩の道の地名と地図を照合しながら2日目のルートを想う。ルートは、梼原の町から韮ヶ峠まで車で走り、韮ヶ峠峠に車をデポ。峠から予土県境を越え、愛媛県西予市野村町の舟戸川の谷筋に下る。そこから韮ヶ峠に折り返し、車を舟戸川の谷筋まで運び適当な場所に車をデポし、榎ヶ峠に上る。 榎ヶ峠から山腹をトラバース気味に下り、大洲市河辺町の河辺川谷筋まで進み、谷筋から車のデポ地に戻り、本日の散歩終了とする。

谷筋から車のデポ地に戻る道は、脱藩の道を戻るのが最短ではあろうけれど、車で山越えするため、道の状況確認をすべく林道を戻ることにする。昨日の車デポ地までの復路は県道を延々と歩いたのだが、今回のデポ地戻りは林道とはいいながら、すべて上り。初回同様、結構きつい復路になろうと覚悟すべし、の心持ちであった。


本日のルート
梼原
一字一石の塔>三嶋神社御幸橋>維新の門群像

Part Ⅰ(往路;脱藩の道);韮ヶ峠から舟戸川の谷筋に下る
韮ヶ峠から舟戸川谷筋の大和集落の県道36号まで下る;1キロ強・30分 韮ヶ峠;7時8分>脱藩関所跡;7時10分>土径を等高線に垂直に谷に下る>わらじが駄馬;7時21分>馬頭観音;7時24分

Part Ⅰ(ピストン復路);韮ヶ峠の車デポ地に戻る
県道36号を韮ヶ峠に戻る>羅漢穴;8時7分>県道合流点>韮ヶ峠;9時4分

Part Ⅱ(移動・接続;脱藩の道);韮ヶ峠から舟戸川筋・大木戸の榎ヶ峠上り口まで
韮ヶ峠>(車移動・接続)>脱藩の道・県道合流点>(脱藩の道)>大和の茶堂;9時21分>小屋の札の辻>少し戻り土径に>男水;9時50分>大木戸バス停・車デポ地点;9時59分

Part Ⅲ(往路;脱藩の道);舟戸川筋・大木戸から榎ヶ峠を越え河辺川の谷筋に
デポ地出発;10時5分>榎集落が;10時30分>林道から土径に>土径を榎ヶ峠に>榎ヶ峠;10時58分>峠傍に舗装された林道>林道の案内板脇に土径>城の森;11時11分>笄岩;11時16分>お堂;11時21分>林道に出る;11時23分>夜明けの碑;11時45分>茶堂;11時52分>河辺川;12時3分>御幸橋;12時6分>封事ヶ峠への分岐点

Part Ⅲ(ピストン復路);河辺川谷筋・神納集落から舟戸川谷筋の車デポ地に戻る
デポ地への林道分岐;12時30分>舗装が切れる>脱藩の道分岐に戻る;14時8分>デポ地に戻る;14時39分(標高460m)



梼原
昨日は早朝から車を走らせ、気が急き梼原の町を見る余裕もなかったのだが、今回は梼原泊まり。少し早起きし、昨日観光案内所で頂いたパンフレットにあった、「三嶋神社の御幸橋」と「維新の門群像」を車で廻ることにした、



一字一石の塔
朝霧に包まれた山間の町梼原から、三嶋神社のある国道440号を進む。国道440号は地芳峠を穿つ地芳トンネルを抜け愛媛県上浮穴郡久万高原町を経て松山に通じる。
町を離れ2車線の国道を走ると、道の左手に祠がある。車を停めると「一字一石の塔」の案内。「この付近一帯は、かつては断崖で樹木に囲まれた中に往還があり、難所と怪奇な場所で、人馬の事故が多く、恐れられていた。
吉祥寺の密巌和尚はこの不安をなくするため、大乗経を一石に一字ずつ写経して埋め、通行安泰を祈り地蔵菩薩像を安置した。天保9年(1838)のことである。昭和60年(1985)国道改修により、この地に移転された」とあった。 今でこそ車でサッと通れるわけだが、往昔の道無き険路を想う。想い浮かべる険路のイメージは奥多摩・数馬の切通しである。

三嶋神社御幸橋
「一字一石の塔」で地図をチェックすると、三嶋神社は少し行き過ぎている。少し戻ると梼原川に架かる屋根付き橋が見える。橋は三嶋神社の参道となっている。屋根付き橋をはじめて見たのは、伊予の金比羅街道を歩いたときだが、規模が断然大きい。橋の案内は特に見当たらなかった。橋を渡り三嶋神社にお参り。
◆「梼原町指定文化財・三嶋神社 
津野山郷の開祖・津野経高(つのつねたか)は、梼の木が多いこの地を梼原と名づけ、延喜19年(919年)竹の薮より移り、居城を築き梼原宮首に伊豆(静岡県)より三嶋神社を観請した。といわれている。
また、藤原純友の乱のとき、伊予(愛媛県)河野氏に協力して純友征伐に向かい、伊予三三嶋大明神に詣で、純友の乱平定後に帰国したとき、伊予三嶋大明神も勧請して祀ったと伝えられている。慶応4年(1868年)3月、三嶋大明神を三嶋神社と改称、明治40年(1907年)、明治44年(1911年)に梼原地区無格社21社が合祀された。現在の本殿は、享和3年(1803年)、拝殿は明治23年(1890年)に再建されている。拝殿の彫刻物は山口県の大工・中本喜作の作である。
境内には津野家代々を祀る「津野神社」、朝鮮松(ハリモミ)、桂月大町芳衛書の「鎮座千年碑」、木で作られた「神馬」もある、
梼原町指定文化財・ハリモミ
樹齢約400年、樹高約30メートル、周囲約3.7メートルで、通称「朝鮮松」ともいわれる。豊臣秀吉が諸国大名に朝鮮出兵を命じ、文禄元年(1592年)津野親忠と中平左京之亮光義は、長宗我部軍に加わって従軍し、帰還のときに持ち帰って植えたものと伝えられている。
大町桂月
いつだったか、東京・目白に大町桂月旧居跡を尋ねたことがある。詩人・随筆家・評論家として知られるが、終世酒と旅を愛し多くの紀行文を残す。大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。
与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。
が、桂月の紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いいが、同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

梼原の由来
梼の木が多いために、梼原はわかる。が、そもそも「檮(梼)」は「ゆす」とは読めない。音読みは「トウ」、訓読みは「おろ、きりかぶ」である。それを「ゆす」と読むようになったのは、梼の木に寄生する虫が固い殻となって、その穴を吹くと「ヒョウ」と鳴る。そこから「ひょんの木」と呼ばれる「イスノキ」が正式名である。で、イスノキ>椅の木、と。「椅」が「檮」となったのは、「昔風の便筆として書いたもの、とする(『坂本龍馬脱藩の道を探る』)

維新の門群像
国道440号を梼原の町に戻り、先回、本モ谷川筋に向かった川西路方面への道を取り、梼原川を渡る。川を渡ると直ぐ、南に折れ坂道を上ると出雲神社の脇に維新の門の群像があった。高台から見下ろす梼原の町、町を囲む山塊、まさしく山間、谷間の町である。

龍馬脱藩の道;韮ヶ峠から河辺川筋・神納集落まで
志士の群像は西に向かって右手に吉村虎太郎、前田繁馬、那須信吾、中平龍之介。中央には掛橋和泉。左手に坂本龍馬、澤村惣之丞、那須俊平の像が建つ。 維新の門群像の碑文には「幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平、信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回転の偉業を夢見て脱藩した。
この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之介が国境を越え維新動乱の渦中に身を投じた。また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に8人の志士は壮絶な死を遂げていた。いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を駆け抜けた男たちの決意が偲ばれる。


ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。
近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の数多くの有志の熱き思いが、この群像を建立した。
平成7年11月11日建立   撰文 梼原町維新の門群像建立委員会」とあった。

龍馬脱藩の道;韮ヶ峠から河辺川筋・神納集落までの標高図
平成7年というからそれほど古いものではない。傍にあった「維新の門群像建立趣旨」には製作者は濱田浩造氏とある。吉村虎太郎像(津野町)、ジョン万群像(土佐清水市)、岩崎弥太郎(安芸市)など銅像を数多く作り上げた銅像作家である。

また、案内には群像として建立された8名の志士の略歴が記載されていた。特に龍馬フリークと言うわけでなく、「脱藩の道」という響きに惹かれたわが身には、頭の整理に大いに助かる。

坂本龍馬:さかもとりょうま(1835~1867)
高知の郷士坂本八平(坂本直足)、妻幸の次男として産まれる。実名は直陰(なおかげ)、直柔(なおなり)、変名は才谷屋(さいたにや)梅太郎。江戸の千葉定吉の門に入り、北辰一刀流を修めた。武市端山(武市半平太)と交わり勤王党に血盟加入、文久2年春、同志澤村惣之丞とともに脱藩、勝海舟らに啓発される。薩長同盟の締結、大政奉還の推進など、維新の指導者として活躍したが、慶応3年11月15日、盟友中岡慎太郎とともに、京都近江屋で討たれた。

澤村惣之丞:さわむらそうのじょう(1843~1868)
高知潮江村地下浪人の家に生まれる。文久2年春、坂本龍馬とともに土佐藩脱藩、勝海舟の神戸海軍塾に学び、亀山社中に加わって、坂本龍馬の片腕として活躍した。慶応4年1月、幕府軍の敗退を知って長崎奉行は退廃した。その奉行所を占領して市中の治安維持に当たっているとき薩摩藩士を誤殺、「この大事な時に薩摩と土佐の間に溝を生じてはならない」と、従容として自決した。

那須俊平:なすしゅんぺい(1807~1864)

梼原村に産まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、特に槍術に長じ、「土佐一の槍の達人」と称された。文久2年4月、養子の信吾は藩佐幕派に吉田東洋を切って脱藩した。俊平も元治元年脱藩。長州の忠勇隊に入った同年、58歳の身で禁門の変に参加し、奮戦の末戦死した。

那須信吾:なすしんご(1829~1863)
佐川村浜田宅左衛門、妻悦の二男として産まれる。梼原村郷士那須俊平の養子となり、その娘為代と結婚した。文久2年3月、坂本龍馬、澤村惣之丞を韮ヶ峠まで案内し、4月には土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、その足で土佐藩を脱藩し京都に潜伏した。翌3月、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが幕軍に阻まれ破滅、鷲家口(奈良県)で戦死した

吉村虎太郎:よしむらとらたろう(1837~1863)
芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として産まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政6年梼原村番人大庄屋として赴任した。武市端山らと勤王党を結成、文久2年に土佐藩を脱藩して京に上がった。一時捕らわれて牢舎に呷吟する身となったが、出所後再び京に上がり、天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。しかし、八・一八の政変で孤立無縁となり、鷲家谷(奈良県)にて幕軍に阻まれ天誅組は崩壊、虎太郎も壮絶な死を遂げた。

中平龍之介:なかひらりゅうのすけ(1842~1864)
梼原村地下浪人中平佐平、妻登根の長男として産まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。文久3年土佐藩脱藩、長州の忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い自決した。

掛橋和泉:かけはしいずみ(1835~1862)
梼原村那須常吉、妻歌の二男として生まれ、同村神職掛橋家に養子として入った。すぐ隣の庄屋吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を重ねた。文久2年、同志が相次いで土佐藩を脱藩。家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。これが養母の知るところとなり、この詰責を受け、同志に累の及ぶことを恐れ、自決した。

前田繁馬:まえだしげま(1835~1863)
松原村庄屋前田広作、妻きくえの長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、文久3年一族の前田要蔵に従って上京。吉村虎太郎、那須信吾らと交わって勤王の志を固めた。吉村虎太郎の挙兵に加わり、天誅組に入って大和に進撃したが、政変によって隊は崩壊、初瀬(奈良県)で戦死した。



Part Ⅰ(往路;脱藩の道);韮ヶ峠から舟戸川の谷筋に下る

韮ヶ峠から舟戸川谷筋の大和集落の県道36号まで下る;1キロ強・30分

韮ヶ峠;7時8分(標高958m)
駆け足で梼原の町を廻り、急ぎ足で韮ヶ峠に向かう。維新の門群像の立つ高台から下り、昨日と同じく川西路地区を川西路地区から真西に向かい、大越峠を維新トンネルで抜け県道2号に。
県道2号を進み、六丁の集落を越え、文丸で県道379号に乗り換える。県道379号韮ヶ峠文丸線は昨日延々と歩き、道路事情はわかっているので安心して車を進め、7時過ぎに韮ヶ峠に到着。峠の広場にデポし本日の「龍馬脱藩の道」散歩を始める。

木標から土径に
予土国境(高知・愛媛県境)を越え、昨日確認した伊予側の「坂本龍馬脱藩の道」に向かう。道は県道から左に分かれる。県道はそのまま北に進み愛媛県道36号と繋がるが、県道から脇にそれた「坂本龍馬脱藩の道」の案内のある道も、北に下り県道36号に繋がっている。

県道から分かれたその脇道を少し進むと「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装された道から土径に入る。

脱藩関所跡;7時10分(標高932m)
土径に入るとすぐに、「脱藩関所跡」の案内。手書きで、「まだ明けやらぬこの峠は、雲海から浮かび上った島のように見えた「おはようさんです。どうか通していただきたい。」あまり大きな店のようではないが老舗の番頭らしい身なりの一人が通行手形をさし出し腰をかがめ軽く頭を下げた。早起きして夜の明けぬ間に伊予のどこかに行くのであろう。
「その方達はどこへ参るのか」役人の一人が差又のついた棒を片手に手形を取ってたしかめた。手形と顔を交互に見つめて「ふんふん」とうなずき通ってよいと促がした。他の旅人数人も同じように手形を見ながら通るよう役人は命じた。その中には商人をはじめ職人、旅芸人等の一行数人であった。朝早く関を越すためにこの時刻は通行人が多くなるだろう。一行の中に武士らしい者はいなかった。
龍馬が脱藩したとの報は土佐藩より国境に附する四国中の藩に早飛脚(今の郵便)でふれ(厳戒令)が出されたのは言うまでもない。京を目指す龍馬を見つけ次第討ち取れの命はこの関所でも例外ではなかった。
しかし土佐の宮野々の関を逃がれ同志の力を借りて脱藩の道を進む龍馬はこの関で捕まるわけにはゆかない。この数人の中に龍馬が居たかどうかは定かでないが、もし居たとしたらどんな姿であったろうか真相はようとして解明出来ない。(こんな場面があったかも)
時に文久2年(1862年)3月26日、龍馬がこの関を逃がれたとされる未明の時刻であった。以後、龍馬らしい人物を見た者はいない。33年と云う短い生涯を閉じたのであるが、何とはかない人だったのか。いたるところに立ちふさがる難関を通りぬける男を支えたものは、もちろん同志の力と天の声をきき、一命を賭けた信念と炎のような身体であった。正に火の玉そのものであったにちがいない。
ここの関所を逃がれ龍馬は維新の道をまっしぐらに進むことになるのだが、今は石組だけが残る史跡です。この石の上に立ち住時を偲ぶ時、袴のすそがちぎれた龍馬が今の時代に何を語りかけてくるのか皆さんもとくと聞いてやってください」とあった。

ふりむき坂」の案内(7時12分(標高924m)
脱藩関跡から数分、道を下ると道脇に「ふりむき坂」の案内(7時12分;標高924m)がある。案内の下に「身を変じ逃れた関を振り返る」と書かれた句がある。







土径を等高線に垂直に谷に下る:(標高887m)
その先で、土径と分かれた舗装道に出る。「坂本龍馬脱藩の道」は舗装道をクロスし、そのまま土径にはいるが、また直ぐに舗装道とクロスし、土径となる。 クロスした舗装道は等高線に抗うことなく進み、先で県道36号に合わさるが、土径は等高線に垂直に尾根筋を谷へと下る。


わらじが駄馬;7時21分(標高869m)
舗装道から土径に入った辺りは等高線の間隔も広く平坦地となっているが、そこに「わらじが駄馬」の木標。案内は特にないが、ここにも「わらじ替え道の遠きに出る吐息」と書かれた句があった。句は龍馬に事よせているが、「わらじが駄馬」という以上、駄馬とわらじの「関係」は?
わらじと駄馬
日本在来種の馬は蹄が固く、蹄鉄が普及したのは明治以降と言う。それ以前は、馬専用の草鞋(わらじ)を履いていたわけで、駄馬は主に荷を運ぶ馬であるから、この先の急坂に備えて草鞋を履き替え、足元を整え、急坂を上り切りすり減った草鞋を履き替える場であったのだろうか。地形図で見える平坦地故の妄想ではある。

馬頭観音;7時24分(標高863m)
さらに、「わらじが駄馬」のすぐ下に馬頭観音を祀る小さな石祠がある。急坂を上り下りする馬の安全を願って祀られたものだろう。祠とは言うものの、石を立てかけて観音様を雨風から守っているような素朴な「祠」ではあった。






県道36号に出る;7時44分(標高671m)
馬頭観音から先は、等高線に垂直に急坂を下る。標高750m辺りまで下ると、等高線の間隔も広くなり、少し緩やかな坂となる。道のポイントには「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、道に迷うことなない。
馬頭観音から20分、標高を200mほど下げた辺りで県道36号に出る。この辺りが『坂本龍馬脱藩の道を探る』にあった「小屋」地区ではあろうと思う。

注;以降、往路に続き、(ピストン復路)のメモが続くが、この部分は「龍馬脱藩の道」には関係のない、自分の散歩メモ。脱藩ルートだけをトレースなさるかたは、「往路」のみを参考にしてください。


Part Ⅰ(ピストン復路);韮ヶ峠の車デポ地に戻る

舟戸川の谷筋・大和集落から県道36号を韮ヶ峠まで;4キロ強・1時間強

県道36号を韮ヶ峠に戻る;7時46分(標高671m)
県道36号に出て、先に進むか車デポ地に戻るか少々悩む。地形図から読み取る地形からして、龍馬脱藩の道は県道からそれほど逸れることはないだろう、逸れるとしたら、適当な処に車をデポしそこをピストンすればいいか、などと考え、韮ヶ峠のデポ地にここから引き返すことにする。少しでも歩く距離を縮めたい思いではある。

羅漢穴;8時7分(標高698m)
尾根筋を垂直に下った往路・龍馬脱藩の道と異なり、県道は等高線に沿って緩やかに標高を揚げ、尾根の突端を迂回するため西へ東へと、大きくスイングしながら上ってゆく。
途中、羅漢穴の木標に誘われ、寄り道し羅漢穴の入口まで歩いたのだが、羅漢穴はそこからまだ谷筋に下りるようであり、中止し県道に戻る。

県道合流点;8時49分(標高848m)
東西に延々とスイングする県道に飽き、山道を這い上がりショートカットしようかとも思いながらも、車が走れる道かどうか確認するのが第一義と思い聞かせ、県道を進み、引き返し地点からおおよそ40分ほどで、四国カルスト方面と韮ヶ峠方面との分岐点に到着。

韮ヶ峠;9時4分(標高958m)
分岐点から先は、韮ヶ峠の県道36号(接続線?)から脇にそれた舗装道。往路で脱藩の道を歩いたときにクロスした道である。分岐点から先に進むと「ふりむき坂」下で脱藩の道とクロスした舗装道に戻る(8時53分;標高912m) そこから10分弱歩き、韮ヶ峠に到着。蛇行する県道を4キロ強、おおよそ1時間強でデポ地に戻る。



Part Ⅱ(往路:車移動・接続と龍馬脱藩の道);韮ヶ峠から舟戸川筋の榎ヶ峠上り口まで

韮ヶ峠から県道36号を車で下り、
舟戸川の谷筋・大木戸バス停脇に車デポ


韮ヶ峠から下り、県道に出た脱藩の道に繋げる
韮ヶ峠から県道36号を車で下り、往路に脱藩の道から県道36号に出た地点に。これで脱藩の道に接続した。ここからが、坂本龍馬脱藩の道の続きとなる。

 大和の茶堂;9時21分(標高622m)
土径が県道に出る場所を越え先に下ると、県道脇に3方吹き抜けの赤く塗られた建物がある。茅葺屋根ではないが、これも茶堂ではあろうか。

小屋の札の辻;9時23分(標高602M )
茶堂から少し下ると県道36号から分岐する舗装道がある。『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、韮ヶ峠から小屋村に折れ、榎ヶ峠に向かったとあるが、その小屋村に伊予街道の拠点・小屋の札の辻があった、とある。その四ツ辻からは小屋日浦の小屋庄屋前に向かう伊予街道の表街道、小屋の色納から榎ヶ峠に向かう伊予街道の裏街道、そして昭和・伊予の地を経て高知に向かう道が分岐する、と説明される。
表街道の小屋庄屋は地図では確認できないが、同書にはこの辺りから真西に記される。表街道は三ヶ峠を越えて大洲に向かうと言う。三ヶ峠は舟戸川を都集落の下流で北に越えたところにある。道も都集落の西、舟戸川筋の港の森神社へと続いている。とすれば、小屋庄屋は都集落の南辺りということだろうか。 また、高知へと向かうとされる「昭和」は地図に確認できないが、「伊予の地」は分岐から南西に記されている。
分岐は四つ辻ではなく、3方向にしか分岐していない。この分岐が小屋の札の辻との確証はないが、裏街道である色納に分かれる箇所からしで、この分岐が小屋の札ノ辻ではなかろうか。
因みに、小屋であるが、『坂本龍馬脱藩の道を探る』には「この小屋ほど、多くの行政区画の変更があったところも珍しい。藩政時代には上浮穴郡小屋村で、大洲藩領であったが、明治時代に同郡浮穴村大字小屋となる。昭和18年には東宇和郡惣川村大字小屋となり、さらに昭和20年、同郡野村町大字小屋となり、そして現在は、野村町大字小松という」とある。
小屋集落と宮本常一
小屋という地名は宮本常一さんの『忘れられた日本人』の「土佐源氏」という項で目にしたことがあった。生涯歩いた距離は16万キロにもおよぶという民俗学者である。その宮本さんが昭和16年、伊予の内子から河辺村、そして惣川村の小屋を経て雪を掻き分け韮ヶ峠を越え、昨日訪れた茶屋谷に下り、その地で出合った老人の虚実織り交ぜた話をまとめたものが「土佐源氏」である。
龍馬脱藩の道を辿りながら、偶然とはいえ、宮本常一さんが足跡を残した地を歩けたことが結構嬉しい。ピストンが大変とはいうものの、宮本常一さんの苦労を想えば、なんということも、なし。

少し戻り土径に;(標高672m)
分岐点から榎ヶ峠に向かう色納集落へと車で下る。舟戸川の沿った集落で見かけた方に、榎ヶ峠の取り付き口を訪ねると、先に下り大木戸バス停から右に向かう、とのこと。
で、あれこれお話ししていると、龍馬脱藩の道が県道の上に、少しだけ残る、とのこと。車を船戸川沿いの少し広い場所に停め、県道を引き返す。 舟戸川に注ぐ支流に沿って進み、少し舟戸川筋から離れた辺りに倉庫のような建物があり、その脇に「龍馬脱藩の道」の木標があった。車で下るとき見逃したようだ。
土径に入り、木標に従い進む。右手の谷筋が開け、いまから進むであろう榎ヶ峠方面が一望できる。山肌に立つ農家の脇を抜け、土径を下ると、意図せず車を停めた場所に出た。

男水;9時50分(標高511m)
舟戸川に沿って大木戸バス停に向かう途中、県道右手に「男水」の案内。人造の岩から水が噴水の如く吹きあがっている。案内によれば、「名水 男水 龍馬が飲んだと言い伝えられる白滝の水
文久二年(1862年)三月二十四日、土佐の郷士・坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや決然として、土佐脱藩を決意した。(龍馬誌より)
二十五日、高知県梼原村に泊まり、二十六日未明雲悔に浮び上る韮ヶ峠に立ち脱藩の第一歩を踏み出したのである。人通りの少ない時刻にここまで駆け降りこの清水でのどの渇きをうるおした。その時ふと脳裏によぎるものは、捨てた家族ふる里の事等、万感の思いが去来し胸中はいかばかりであったろう。
大志を前に、さまざまな思いを断ちきり、りん然と立つ龍馬の姿がそこにあった。再び韮ヶ峠へと維新の道はつづくのである。正に男の中の男、風雲児、快男子と呼ぶにふさわしい人物であった。
目的は変われども、この意気、度胸、信念を受け継ぎたい。以来、百二十年経た今でもこの水を男水と呼び地域内外で親しまれている。 この水の水源は向こう山の谷間にあり、四国山脈、カルスト高原から発した水を集め、石灰岩の地下洞穴と思われるところを通り、突然に噴出している男性的な清水である。現場立ち入りは、困難なためここまで引水したものである。 惣川自治振興会 惣川公民館」とあった。
横に並ぶ案山子風の人形に、少々の違和感を抱きながらも、冷たい水で顔を洗い渇きを潤す。気分爽快。

大木戸バス停・車デポ地点;9時59分(標高460m)
川沿いを少し進むと県道右手にバス停がある。地図にはバス停など表示されていないよなあ、と思いながらバス停案内を見ると、「西予市生活交通バス」とあり、不定期運行とか予約といった記載があった。コミュニティバスのようであった。
バス停の辺りは県道の幅は広くなっており、県道脇にデポとも思ったのだが、右折し榎ヶ峠に向かう道筋に舟戸川に架かる橋があり、その手前が少し広くなっていたので、そこに車をデポし、榎ヶ峠から河辺川の谷筋に向かう龍馬脱藩の道を歩くことにする。

Part Ⅲ(往路;脱藩の道);舟戸川筋・色納集落から榎ヶ峠を越え河辺川筋・神納集落に

舟戸川の谷筋・大木戸バス停近くに車をデポし、榎ヶ峠に上り、
尾根筋を等高線に垂直に河辺川谷筋・神納集落へと龍馬脱藩の道を下る
6キロ強・1時間半強

デポ地出発;10時5分(標高460m)
車のデポ地から榎ヶ峠に向かう。沢に沿って進む道は舗装されており、車も走れそう。が、いつ道が切れるか不明であり、むしろ、早く土径に入ってほしいと願いながらすすむが、一向に舗装道が切れる気配なし。この道でいいのか少々心配になってくる。






榎集落が;10時30分(標高650m)
沢の右岸を上る道を、左岸に渡り、また右岸に渡り返した先に集落が見てきた。デポ地からおおよそ30分かかっている。
脇で農作業をしている方に、榎ヶ峠はこの道でいいでしょうか?と尋ねると、帰ってきた言葉が、「この先のドミチを進めばいい。藪になっているからわかりにくいぞ」と。道はオンコース。
どみち
既にメモした「ドミチ」云々は、ここではじめて聞いたこと。「ドミチ」という響きが気に入り、今回のメモで多用することになった。


林道から土径に;10時42分(標高732m)
集落の先で道が左右に分岐する。分岐点(12時35分)には「坂本龍馬脱藩の道 右」の木標がある。道は舗装されていたが、分岐点から歩くこと10分弱、舗装道が切れ土径となった。
デポ地からおおよそ40分。舗装された道を歩いてきたが、車はこの土径になるあたりまで入れることができる。後の祭りではある。

榎ヶ峠;10時58分(標高795m)
土径から等高線に抗うことなく、山腹をトラバース気味に、緩やかに標高をあげてゆく。土径に入ってすぐは雑草、そして教えてもらった通りの藪。藪を抜けると杉の林となり、緩やかな道を進むと韮ヶ峠に着く。
土径を10分ほど歩き、標高を50m上げたところに榎ヶ峠。「榎ヶ峠 横通りまで4.1km」「坂本龍馬脱藩の道 河辺保存会」とある。行政区域が大洲市河辺町に移る。
峠に「坂本竜馬の通りし道」と刻まれた石碑がある。よく見ると「俳優 武田鉄矢」とあった。

峠傍に舗装された林道;(標高757m)
鞍部となっている榎ヶ峠から等高線を20mほど下ると、舗装された道に出る。地図には実線が引かれている道筋である。衛星写真で見る限り、河辺川の谷筋に繋がるこの林道は舗装されているように見える。舗装は河辺町域を越えた榎ヶ峠の東の西予市小松町域は、舗装はされていないように見える。山道を示す実線も破線となっている。




林道の案内板脇に土径;(標高748m)
その道を更に標高10mほど下げると「坂本龍馬脱藩の道」の大きな案内がある。 その案内にはそこに榎ヶ峠から先のポイントまでの距離と時間が、それと河辺町の脱藩の道の説明があった。
距離と所要時間は「榎ヶ峠>(約4キロ;徒歩1時間)<横通り>(約1キロ;徒歩30分)<封事ヶ峠>(約2キロ;徒歩1時間)<三杯谷:休憩所・お手洗い>(約2キロ;徒歩1時間)<日除>(約2キロ;徒歩30分)<水ヶ峠>(約4キロ;徒歩1時間<泉ヶ峠>・・・>大洲へ」、と。大枠での行程がわかり結構助かる。

また、「河辺の町を1日で駆け抜けた」との説明には「坂本龍馬は澤村惣之丞とともに、文久2年(1862)3月24日高知を出奔し梼原に到着。その夜梼原の那須俊平、信吾父子の道案内により伊予(愛媛)に脱藩しました。信吾は引き返したが、俊平は同行し大洲市(旧河辺村)を経て泉ヶ峠に宿泊。27日、内子町(旧五十崎町)に着きました。俊平はここで引き返し、龍馬と惣之丞は長浜町へ。28日船で2日を要して山口県へ到着しました」とあった。
その横に「飛翔の像 新しい日本に向かって脱藩の道を突き進む坂本龍馬はと澤村惣之丞、那須俊平の姿を描いている」との説明と3名の銅像の写真があった。平成10年、愛媛県大洲市河辺にある坂本龍馬脱藩之日記念館の近くに建てられた銅像、とのこと。同じく案内にあった「夜明けの碑」は後程メモする。 案内脇に「龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装された林道から土径に入る。

城の森;11時11分(標高677m)



等高線の間隔が比較的広く、それほどきびしくない尾根筋の道を垂直に70mほど下ると「城の森」の案内があり、「城の森(山の神城)のこと 天正三年(1575年)土佐一国を平定した長宗我部元親は翌四年四国併呑を企て、その軍団は南予一帯に進入を開始した。
その一軍団は予土国境の韮ヶ峠を越えて小屋村に進入し、一挙に笠形城を攻略、奪取した。同城生き残りの城士は、その枝城であるこの城の森城(地元・国木部落では山の神城と呼んでいる)に轉進(てんしん)・防戦を策したが、急迫して来た軍団を防ぎきれず各個逃散したものの逃げきること叶わず全員国木部落の諸所で殺戮された。
部落の者がその冥福を祈り討死した場所に建立した石塚が昭和初期には十数基あったが現在残っているにはたったの三基である。いまも国木部落では毎年二回念仏行事でその霊を供養している。
また、その時越えた小屋・国木境の峠に榎峠と名付けたのは軍団であると伝えられている。なお、軍団の規律はいたって、きびしく地元民に対しての略奪・暴行等は全然なかったとのことである 河辺村坂本龍馬脱藩の道保存会」との解説があった。
チェックするも笠形城は検索にヒットしなかった。本筋から離れるため深追いせず。

笄岩;11時16分(標高622m)
城の森(山の神城)から先の尾根筋を下る道も、等高線の間隔が比較的広くそれほど厳しくない。その尾根筋を5分ほど下ると大岩があり「笄岩」の案内。「?(こうがい)岩 嘉永二年(一八四九年)四月、大洲十一代藩主、加藤泰幹、小田筋迎郷の際、同月三日神納天神社に宿陣、翌四日小屋村視察に向はれる途次ここに駕籠を止め休息された。その時同行の姫君がこの岩に上ってあそばれているうち、岩の裂目に?(こうがい。昔、髪をかきあげるための理髪具で、のち髪飾としても使われた。)を落とされ、どうしても取ることが出来なかったのでそのままにして行かれた。
それからこの岩を地元ではこうがいいわと呼ぶようになったとのことである。 河辺村坂本龍馬脱藩の道保存会」
小田筋
岩の裂け目に笄を落とすと、なるほど取り上げるのは難儀かと思う。それはいい、として、小田筋迎郷の際と有るが、小田筋は大洲藩が分けた行政区域とのこと。その地域は小田川の流域が自然と思うし、農民一揆の時小田筋からの本隊は村前(むささき;小田川筋)、北表(小田川筋の南。御禊川筋)、五十崎と進んだと、あるので(「えひめいkの記憶」)、小田筋って小田川流域の村とは思うのだが、それにしては、結構遠すぎる。それでもこの辺りも小田筋の行政区域だったのだろうか。
門外漢でよくわからないが、今と違って谷奥部から尾根を越え、峠越えが往来の主流であった「昔」の視点から考えると、峠(笹峠)を隔てた隣村とも言える、かも。

お堂;11時21分(標高593m)
笄岩から5分ほど下ると四方吹き抜けのお堂がある。一個所だけ吹き抜けの上部の棚に石仏が祀られる。茶堂なのだろうか?地図にはお寺さまのマークがあるので、お堂なのかもしれない。







林道に出る;11時23分(標高)
お堂から少し下ると舗装された林道に出る。地図を見ると榎ヶ峠下で出合った舗装された林道がここに繋がっているように見える。右手に河辺の谷筋が開けてくる。





林道から土径に;11時26分(標高)
林道を少し進むと、「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、右に土径を下る。途中も脱藩の道の木標に従い左に折れると、先ほど離れた林道に出る。周りには民家が建つ。国木の集落だろう。
ここでちょっと注意が必要。左方向に「龍馬炭窯」といった案内があるが、龍馬脱藩の道は右に向かう。私はこの案内に惑わされ、左に林道を進み、先ほど林道から土径に下りた場所へと一周してしまった。 同じ土径を下るとき、道脇に「蕎麦は実に昔龍馬の踏みし径 佳曜子」と刻まれた石碑があった。佳曜子は不詳。
国木
国木の由来ってなんだろう?チェックすると、この地の国木の由来は不明だが、新井白石の『東雅』に「クヌギとは猶 国木(くにぎ)というが如し」といった記事があった。椚(くぬぎ)の木が多かったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

夜明けの碑;11時45分(標高534m)
等高線に沿って進む林道を少し下ると大きな石碑がある。「夜明けの碑 村上恒夫」と刻まれる。村上恒夫さんは、龍馬脱藩の道を歩くきっかけとなった『坂本龍馬脱藩の道を探る』の著者。長年の研究成果を我々が享受させてもらっている。
今回の散歩に先立って、詳しい地図はないとはいいながら、ポイントとなる地名を同書よりピックアップし、GPSツールにマークして散歩を始めた。感謝。 その石碑の横に、これも石に刻まれた解説。「近代日本の夜明けに高遠な志をいだいて奔走しながら凶刃に倒れた坂本龍馬が土佐藩を脱藩した折に通った道が古文書「関雄之助口供之事」によれば「小屋村ヨリ榎ヶ峠ー横通りー封事ヶ峠ー三杯谷ー日除ー水ヶ峠ヲ経テ泉ヶ峠二至ル龍馬俊平ト共二泊レリ」とここ河辺村に約十五キロメートルあるこの道を私たちは文化的遺産として大切に保存することを誓い幕末風雲の中をおびただしい夢を残して懸命に駆け抜けた男坂本龍馬の偉業をしのびここに記念碑を建立する 平成元年十一月十五日 河辺村長」とあった。

茶堂;11時52分(標高524m)
「夜明の碑」のすぐ先に「坂本龍馬脱藩の道 河辺保存会」の木標があり、道は林道を離れ左へと土径を下る。木標に従い道を進むと茅葺の茶堂が見える。三方吹き抜け、奥に石仏が祀られる。
谷筋を見下ろす場所にあり、眺めもいい。少し休憩。「龍馬さまも 草鞋を脱ぎし御堂かな 佳曜子」と刻まれた句碑もあった。

河辺川;12時3分(標高418m)
茶堂で少し休憩し、周りの開けた山肌を進み、20mほど標高を下げると沢筋に出る。杉林の沢筋を進むと河辺川に合流。河辺川に沿って少し進むと社が見えてきた。天神社である。





御幸橋;12時6分(標高409m)
安永2年(1773年)創建とされる天神社にお参りし河辺川を渡る。そこには屋根付きの橋が架かっており、「愛媛県指定有形民族文化財 本橋は、明治19年(1886)天神社の参道を横切って流れる河辺川に架けられた屋根付き橋である。県内における屋根付き橋のほとんどは、肱川水系の山間部に集中しているため、この地方の地域的特徴が覗える。
その中でも本橋は、氏子総代石浦庄吉によって架けられたと伝えられるもので、現存する屋根付き橋の中で最も古い橋である。
規模は桁行8.3m、梁間3.4間で、屋根は切妻造りの杉皮葺となっており、桁に杉材、柱・欄干・踏板にケヤキ材が使用され、釘はひとつも使用されていない。 また、聖域的な神社と世俗的な場所を結ぶ本橋は、擬宝珠を取り付けた欄干に「御幸乃橋」と銘が刻まれていることから、地元の人々の信仰心を表す民族的にも貴重な橋である 指定日 昭和45年3月27日 愛媛県教育委員会」とあった。
河辺地区には8つの屋根付き橋があると言う。この橋は明治19年の洪水で天神社に架かる橋が流された折に架けられたようである。で、そもそも何故に屋根を付ける? Wikipediaには、「橋の構造材の劣化速度を遅くする目的で覆いをかけたものや雨風を防ぐため、景観のためなどさまざまな理由から橋が覆いで囲まれている橋。世界的に広く存在し、あるいは「幌付き橋」、「廊下橋」、「鞘橋」、「有蓋橋」ともいう」とあった。

横通・封事ヶ峠への分岐点;12時16分(標高392m)
天神社のある天神の集落から神納の集落を河辺川に沿って進む。郵便局があったので、バスの便はないものかと尋ねるが、定期バスはないとのこと。次回はこの谷筋から進むため、バスの便があればここまでバスで来て、一気に峠・尾根を越え大洲の平地に、との思惑は潰えた。予想どおりではあったが、次回もピストンに決定。
郵便局から少し下ると谷筋から右手に折れ、山に向かう舗装道路がある。「坂本龍馬脱藩の道」の木標もあり、封事ヶ峠への分岐点を確認。ここから車デポ地に戻ることにする。
神納
神納の由来は何だろう?天神集落に天神さまがあるわけで、社に何かを寄進した故だろうか?只、千葉に同じく神納という地名があり、社に寄進との説ともに、焼畑の地を「かの」「かんの」といい,神納,狩野,鹿野,賀野,簡野,神野と書くこともあり,これに由来するとの説もあるようだ。どちらにしても、この地の神納の由来は不明。
そういえば、舟戸川筋、榎ヶ峠に上る手前の集落は「色納」とあった。「いろの」と読むのだろうが、由来は?チェックしても何もヒットしない。「いろ」には「血のつながり」といった意味があるとの記事があったが、これと関連づけるのは穿ち過ぎ、かと。ともあれ、由来不明である。



Part Ⅲ(ピストン復路);河辺川の谷筋から舟戸川谷筋の車デポ地に戻る

河辺川の谷筋から山越えの林道を上り、
舟戸川谷筋の車デポ地に戻る
7.5km: おおよそ2時間

デポ地への林道分岐;12時30分(標高396m)
下りてきた龍馬脱藩の道を戻るか、地図にある、封ヶ峠への分岐点のすぐ傍から山越えの林道を戻るか少し悩む。次回のスタートはこの谷筋ではあるが、車は河辺川沿いの道を上って来ればいいわけで、舟戸川から山越えの必要はない。 林道の上り口まで距離があれば、迷うことなく脱藩の道を逆に戻るのだが、林道入り口は目の前に見えている。
結局、林道を戻ることにした。因は、脱藩の道の木標は土佐から伊予(東から西)に向かって進むのを前提に建てられており、逆に進むのはGPSのトラックログをチェックしながら進まなければならない。蜂やマムシに注意しながら山道を戻るより、少々距離は長くはなりそうだが、後は自宅に戻るだけ。のんびりとデポ地に戻るのがいいか、と思った次第。
河辺川の右岸から左岸に渡った傍にある林道に入る。舗装されており、等高線を緩やかに上るので、それほどきびしくもない。


舗装が切れる;13時42分(標高719m)
等高線と極力「喧嘩」することなく、道は左右にスイングしながら進むことになる。だらだらと1時間強道を進むと尾根筋に。ここで大洲市河辺町から西予市野村町に移る。行政区域が変わり舗装が切れる。




脱藩の道分岐に戻る;14時8分(標高654m)
尾根筋から緩やかな道を下る。時に右手が開け四国山地の眺めも楽しめる。とはいいながら、既に6キロほど林道とはいいながら山越えの道を歩いている。少々疲れてきた。20分ほど歩くと、往路で林道と坂本龍馬脱藩の道に分かれた地点に到着。
道はここまで舗装されている。わかっておればこの地まで車を上げることができたわけで、後の祭りとは言いながら、少々辛い。




デポ地に戻る;14時39分(標高460m)
脱藩の道分岐から「どみち」の言葉を教えてもらった榎の集落を抜け、おおよそ2キロの道を下る。デポ地に車を見たときは、誠に嬉しかった。結構疲れた。

自宅へ
自宅へとナビを入れると、内子の松山道経由となる。土佐から伊予にそれなりに進んだということか。車のデポ地より県道36号を舟戸川に沿ってくだり、国道197号を大洲・内子方面に向かい、松山道・五十崎インターに入り一路実家へと。

坂本龍馬脱藩の道を歩くことにした。先輩諸氏から揶揄される常の如く、所謂「いいとこ取り」のルートである。トラックの排気ガスを吸い込みながらの車道歩きはかなわんと、土佐の高知から伊予の大洲への龍馬脱藩の道のうち、高知から梼原までの23里は避け、本格的な峠越えのはじまる土佐の梼原から伊予の大洲までの十三里を抜けることにした。十三里の内でも、勿論、山間部の山越え区間のみ、正確には梼原の西、本モ谷(おも)川筋・茶屋谷から、龍馬が舟で長浜に向かった小田川筋・亀の甲まで、である。

龍馬脱藩の道;予土国境山越えルート(Google Earthで作成)
龍馬脱藩の道を歩こうと思ったのは数年前になるだろうか。偶々古本屋で『坂本龍馬脱藩の道を探る;村上恒夫(新人物往来社)』を買い求め、そのうちに歩きたいと思っていた。思い始めて実行するまで結構時間がかかってしまった。その因は、予土国境の脱藩の道は山間の地をいくつもの峠を越えて行くのだが、詳しいルート図が見つからない、峠越えの始点・終点の谷筋にバス路線が見つからない、適当な場所に宿が見つからない、といった状況のため、ルーティングのイメージが固まらないためではあった。

ルート地図・バス路線・宿が見つからない
『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、峠越えの途中、通過した地名は記載さとれているが、詳しいルート図はない。実際に歩いている人はいるだろからと、Webを検索しても詳しいルート図はみつからなかった。
また、梼原から大洲までの山間部は『坂本龍馬脱藩の道を探る』にあるポイントを直線で結ぶだけでも30キロ近くあるわけで、曲がりくねった山道を考えれば実際の距離はその1.5倍には軽くなるだろう。当然、散歩も数回に分けることになるのだが、その間にある舟戸川、河辺川、キビシ川の谷筋を走るバス路線も見当たらない(唯一舟戸川の谷筋にバス停マークをみつけたが、現在「廃止」とあった)、宿も梼原の他、途中河辺川の谷筋の「ふるさとの宿」といったところぐらいしか見当たらない(ちゃんと調べればあるのかもしれないが)。これでは段取りのいいルート設定は望むべくもない。

ピストンを繰り返し脱藩の道を辿ることに
かくのごとくの因により、「行きたしと思えども」の状況であったのだが、今回、「えいや」で予土国境の道を歩くことにした。段取りのいいルーティングはできないわけだから、残された手段は予土の国境・笹ヶ峰越えのように、二台の車で移動し、始点と終点に車をデポして進むか、単独での「ピストン」しかない。間が悪いことに、パートナーとして頼みにした弟は吉野の奥駆けの単独行に向かうと言う。結局単独での「ピストン」で進むことにした。
「ピストン」とは、「往復する」ということ。谷筋を車の進めるところまで進み、そこに車をデポし、峠を越へて次の谷筋まで進む。その後、車のデポ地まで折り返し、峠越えした先の谷筋まで車を進める。このプロセスを繰り返すわけである。
予土国境山越えの龍馬脱藩の道には、前半部に上にメモした3つの谷筋がある。ピストンでデポ地に戻った後、車で通れる尾根越えの林道があるかどうかわからない。山越えができなければ川筋を下り、迂回して次の谷筋に進まなければならない。成り行き任せである。
それでも前半部は谷筋からの山を越えて次の谷筋へという、簡単と言えば簡単なピストンであり、まだわかりやすいのだが、後半部は尾根道を大洲へと進むことになる。これはもう、行ってみなければ、どうなるのか想像もつかない。「えいや」で、とメモしたのはこういた事情である。

準備は『坂本龍馬脱藩の道を探る』に記載の地名をGPS ツールにマークするだけの、基本成り行き任せ

基本「えいや」であるが、一応最低限の準備はした。その準備とはGPSツールの地図への、目安となる地名・集落・峠名のマーキングである。『坂本龍馬脱藩の道を探る』に記載の梼原から大洲までの竜馬脱藩の道の地名・集落・峠名を無料の地図ソフト「カシミール3D」の地図にマークし、「デジカメプラグインで地図を切り出し、GPS 専用端末ガーミンGPSMap62SJに入れ、同時に、無料ソフトGMap Tools(前もって地図の必要箇所をダウンロードしておけば電波の通じないところでも地図・現在地が表示される)にも同様に龍馬が辿ったとされる地名・集落・峠名をマークした。
GMap Toolsにもマークしたのは、視認性で専用端末より格段に使い勝手がいい、というためである。広域・詳細が指先ひとつで自在に表示できるのは、専用GPS端末の狭い画面のそれと比べ、圧倒的に便利である。
このGPSツールの地図と地点のマークさえあれば、道案内があればそれでよし、なければGPSツールの地図とマークされた地名・集落名を頼りに、地図に記載されている山道・林道を進もう、といった算段である。

梼原の観光案内所が頼り
それでも、道案内はあるのだろうか? 道案内が無い場合、そもそも谷筋から脱藩の道の峠越えの登り口・取り付き口はわかるのだろうか?などなど肝心なこともはっきりしないのだが、梼原の観光案内所に行けば、ひょっとすれ詳細な脱藩ルート地図があるかも知れない、道案内の有無も確認できるかもしれないと、梼原の観光案内所に一縷の希望を託し、ともあれ梼原に向かう。

なお、竜馬脱藩のあれこれはWebに結構多く紹介されている。折に触れメモするかもしれないが、竜馬脱藩の経緯などの詳細は他のサイトにお任せし、今回のメモは、どこにも見当たらなかった予土国境の脱藩ルートの詳細地図を作成するのをその主眼としようと思う。


本日のルート;
梼原に向かう>梼原の町;9時10分
茶屋谷の峠越え取り付き口に向かう;9時39分>川西路の茶堂;9時44分> 県道2号と合流>宮野々関門址;9時51分>宮野々廻り舞台>六丁>竜王宮(海津見神社);10時18分

坂本龍馬脱藩の道;予土国境山越えの道

◎茶屋谷から松ヶ峠を越え、四万川筋・高階野集落に下り、韮ヶ峠に上る(往路)
茶屋谷の「坂本龍馬脱藩の道」案内:10時21分>茶屋谷の茶堂;10時31分>土径(どみち)に入る;10時36分>松ヶ峠番所;10時51分>アオザレ;11時14分>ナラ山・3.3㎞標識;>林道を下り土径に入る>下井桑集落への林道と交差し再び土径に;11時50分>高階野(こうかいの)集落・四万川を渡る;12時8分>韮ヶ峠の分岐;12時11分>土径に入る:12時14分>韮ヶ峠手前の林道に出る;12時44分>韮ヶ峠;12時47分

◎韮ヶ峠から県道を車デポ地の茶屋谷に戻る(ピストン:復路)
韮ヶ峠出発;13時>高階野の集落・分岐に戻る;14時1分>?の道路標識;14時20分>下井桑の集落;14時24分>井桑渓谷;14時39分>坪野田の集落;14時52分>県道2号に;15時16分>西宮神社;15時30分>六丁の茶堂;15時51分>六丁の集落;16時>神職・長谷部家跡;16時27分>道番庄屋屋敷跡;16時30分>龍王宮;16時45分>梼原に:17時過ぎ

■梼原に向かう
前日梼原までのカーナビを設定するとおおよそ3時間半ほどかかるとある。ルートは田舎の新居浜から国道11号を西条市に向かい、加茂川西詰めで国道194号に乗り換え、寒風山トンネルを抜け高知に入り、いの町で国道439号、高岡郡津野町で国道197号に乗り換え梼原に入るようだ。
所要時間は3時間半ほど。梼原に9時頃着くために田舎を6時前に出る。9時には観光案内所が開いているだろう、との思いではある。
田舎から梼原に近づくまでは、ひたすらナビの云う通り走る。国道とはいいながら、1車線の箇所もあったかと思うのだが、急ぐあまり途中のことはあまり覚えていない。
太郎川公園
国道197号を進み、野越トンネルで梼原町に町域に入る。野越トンネルに続く神根越トンネル、風早トンネルを抜け、太郎川公園まで来て、未だ9時前ということで少し気持ちに余裕が出る。
公園には「維新の碑」と刻まれた大きな石碑があった。また公園内の案内に、野越トンネルの東側から旧道・竜馬脱藩の道が右に分岐し、トンネル上を蛇行しながら進む、とある。
少し車で引き返し、千枚田や中平善之助打ち首の地などを掠りながら、1車線の道をなりゆきで進み太郎川公園に戻る。旧道・龍馬脱藩の道は国道197号に沿って南北を進むようだが、今回は予土国境の山越えが控えている。旧道歩きはやめにして国道に戻り梼原の町に向かう。
中平善之進
津野山郷(梼原町、高岡郡東津野村(現在津野町))の庄屋。宝暦5年(1755)、藩の圧政に抗した農民一揆(密告により失敗に終わる)の責を負い、宝暦7年(1757)風早峠において斬首。

梼原の町に到着;9時10分
化粧坂トンネルを抜けると出口に「右 梼原高校」の案内。右折し、道なりに坂道を下ると大きな広場・駐車場があり、幸運なことにその前に「梼原町歴史民俗資料館」があった。
時刻は9時過ぎ。既に開館していたので館内に入る。入場券は200円。

梼原歴史民俗資料館
脱藩の道;茶屋谷から韮ヶ峠
展示資料よりなにより、まずは龍馬脱藩の道の情報集め。受付の方に、脱藩ルートの詳細地図はありますか?山越の道案内の標識はありますか?峠越えの谷筋の取り付き口の目安は?など質問。

予土国境までのルート図入手
大洲までの脱藩ルートの詳細地図はないものの、高知県と愛媛県の県境・韮ヶ峠までの龍馬脱藩の道の地図が載る、観光案内パンフレット「雲の上の町 ユスハラ」という大判のパンフレットを頂いた。結構しっかりした案内地図であり、マークした地名・集落を結ぶ龍馬脱藩の道が、予土国境までではあるものの、はじめてイメージできるようになった。愛媛県に入ってかの詳しい地図は行政区が異なり、当然ながら手にはいらなかった。

道案内は整備されている、山越えの取り付き口もわかりやすそう
また、道案内については、「坂本龍馬脱藩の道」という木標が整備されており、藪っぽい箇所もあるが木標に従えば問題ないとのこと。
最初の峠への取り付き口は、四万川の支流である本モ谷(おもたに)川を遡った茶屋谷の竜王宮(海津見神社)の近く、茶屋谷の茶堂(注:後述)が目安とのこと。これで道案内と山越えの取り付き口に関する不安は消え、一安心。

ピストン行動の時間を考慮し、急遽宿の手配をお願いする
脱藩の道;茶屋谷から韮ヶ峠標高図
韮ヶ峠までの所要時間は3時間ほどかかるでしょう、と。ということは、ピストンで行動するため往復で7時間弱。梼原から茶屋谷の峠取り付き口まで30分かかるとして、ピストンでの戻り時間は4時過ぎから5時ということになる。 夜に3時間以上かけて実家に戻り、また明日同じ距離を戻ってくるのは少々苦しい。
受付の方に宿を取りたいので観光案内所は?と聞くと、観光案内所も兼ねているので、ということで日帰りはやめ、宿を手配して頂くことにした。親切に応対して頂き誠にありがたかった。
本来であれば館内の展示も見たいのだが、なにせ気が急く。歴史民俗資料館の方には申し訳ないが、館内資料をみることなく、すぐに峠越えの取り付き口に向かいますと伝えると、それでは入館料は不要ですと返金してくれた。申し訳なし。


■茶屋谷の峠越え取り付き口に向かう;9時40分

茶屋谷の竜王宮までナビ設定。ルートは梼原の町から梼原川を越え川西路地区から真西に向かい、大越峠を越えて四万川筋で県道2号に合流。そこから四万川筋を北に進み、六丁集落で四万川の支流・本モ谷(おもだに)川筋を北に進み竜王宮に至る。このルートは梼原からの竜馬脱藩の道筋でもあった。道は大越峠を越えるが、その標高は520mほど。梼原町の標高は420mほどであるから、「峠越え」というほどでもない。大越峠を歩くのはパスする。

川西路の茶堂;9時44分
梼原川を渡り川西路地区を進むとほどなく、道の右手に茅葺・三方吹き抜けの堂がある。気になり車を停めると「茶堂」とあった。
案内には「梼原町指定文化財 茶堂(川西路) 
藩政時代からあり、現在町内には13棟残されている。建物は2間(約3.6m)に1間半(約2m)位の建物で、木造平屋建て、カヤブキ屋根、板敷の素朴な形式である。
木造、石像を安置して諸仏を祀り、津野氏の霊を慰め、行路の人々に茶菓の接待を地区民が輪番で行い、信仰と心情と社交の場としてうるわしい役割を果たしてきた。現在も行っているところもある」
津野氏
案内に「津野氏の霊を祀り」とある。気になりチェック。来歴は諸説あるも、『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、津野氏は伊予の河野氏の意をくみ、延喜13年(913)この僻遠未開の地に入り、以来700年、伊予の文化を取り入れ、「津野山文化」と呼ばれる独特の文化を津野山郷(高岡郡梼原町、高岡郡東津野村(現在津野町))に開花させた。(中略)この秘境の文化も、戦国の嵐にはさからえず、津野氏末代の親忠(長曾我部元親の三男。津野氏の養子となる)の非業の死で家は断絶した」とある。非業の死とは、詳細は省くが、父の元親に幽閉され、弟の盛親により殺害されたことを指すのだろう。

県道2号と合流
車を進めると大越峠。左手に旧道・竜馬脱藩の道に入る道があるが、現在は維新トンネルが抜ける車道を進むと四万川の谷筋に出る。ここで県道2号に合わさる。

宮野々関門址;9時51分
県道への合流点広野集落から蛇行する川筋を北に向かい宮野々地区に。と、橋脇に「左 九十九曲峠 右宮野々関門址」の案内。ちょっと立ち寄り。道を右に入り集落を抜ける旧道を少し戻ると民家の前に大きな石碑と案内があった。 石碑は田中光顕の書で「宮野々関門址」と刻まれる。
その奥には「この番所は、寛永六年(1626年)設置され、宝暦年間より、明治初期まで片岡氏が世襲の番所役人を勤め、通行者を検問した。今も片岡氏の居宅で、その構えは旧観をしのばせている。街道は、前の川(四万川川)を渡り、稜線をつたい県境に至る。土佐勤皇の志士脱藩で人に知られるようになり、碑は梼原村が建立した」とあった。

九十九曲峠
橋にあった「九十九曲峠」は、天誅組で知られる、吉村虎太郎などの「脱藩の道」で知られる。九十九曲峠から伊予の土居(城川町)に出て、黒瀬川・肱川筋を下り大洲へと向かう。因みに、『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、竜馬脱藩は虎太郎脱藩から20日ほど後のこと。虎太郎脱藩を見落とした番役人に対し叱責があったはずであり、厳しい取り締まりの中の龍馬脱出行であったろう、と記す。
田中光顕 
土佐藩士。那須信吾は叔父にあたる。武市半平太の尊王攘夷思想に傾倒。元治元年(1864年)に脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。幕末の動乱期を経て、明治政府の要職を歴任。収賄疑惑の避難を浴びて政界引退後は、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力した。

宮野々廻り舞台
宮野々関門址からほどなく、車道の左手に茅葺の民家が見える。車を停めると、「津野山舞台(宮野々廻り舞台)」とあり、
「高知県指定保護民俗文化財 津野山舞台(宮野々廻り舞台)
幕末から庶民の娯楽の殿堂として農村歌舞伎などの地芝居が行われてきたもので、梼原の廻り舞台は、鍋蓋式廻り舞台であって、すべて社寺境内を利用して、一戸建てとして4棟残っている。昭和37年(1962)には高知県の保護民俗文化財の指定を受けている」と記載されていた。
『坂本龍馬脱藩の道を探る』には「舞台の中心部の床が、円形に廻るようになっていて、床の下で人の力で動かしたものであることが知れる。また、観客は、その前の広場で、露天で見物したものと思われる」とあった。

六丁集落
結構多くの民家が建つ六丁の集落で県道2号から県道304号に乗り替え、四万川の支流・本モ谷川筋を北に向かう。

三嶋神社;10時9分
富永の集落から下組の集落に。そこに社が見える。目的の竜王宮と思ったのだが、三嶋神社とあった。案内には「梼原町指定文化財・三嶋神社 永禄の戦国争乱に、伊予の大軍が国境を侵して来た時、伊予三島大明神に祈願し、勝利を得た時に勧請したもので、土佐七社の内の一社と伝えられている。永禄12年(1569)宮の成川沿いに建立したが、寛文6年(1666)洪水のため社地が流失して、現在地に奉遷した。明治41年(1908)十月、無格社四社を合祀した。拝殿の彫刻は、内子町の大工篠崎豊城作といわれている」とあった。
永禄の戦国争乱に、侵攻してきたのは誰だろう?土佐の勝利を伊予三島大明神に祈願?など気になることが多いのだが、本筋からはずれそうで、深堀りはさける。

竜王宮(海津見神社);10時18分(標高541m)
三嶋神社から10分ほどで茶屋谷に(「茶や谷」とも表記される)。本モ谷川に架かる橋を渡り竜王宮に到着。社の駐車場にデポ。『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、「(伊予の)城川町から九十九曲峠を越した時にも、山の中に何カ所か龍王神社の道案内(中略)確認していないが、九十九曲峠の少し北の大茅峠には、かつて龍王神社の鳥居が建っていたともいわれ(中略)それほど愛媛県にも知られた有名な神社であった」とある。境内に漁船が奉納され、海の神として信仰を集めたとのことだが、何故山中に?
龍王信仰
『肱川 人と暮らし 横山昭市(愛媛県文化振興財団)』には肱川沿いに龍王伝説は「かなり多く」分布するとある。舟戸川最上流域の大野ヶ原の姫ヶ淵(小松ヶ淵)の竜王神社にも竜神様が祀られる。この社の御神体は茶屋谷の竜王神社行き来する蟄竜(土に潜む竜)とされる。
同書には、竜は蛇と同一視される、とある。蛇(龍王)は川と山、山と山を自由に動き回る。山に祀られても不思議ではない。河川改修が行われる以前の肱川は深い淵の多い「異界」の趣を呈する川ではあったのだろう。鹿野川ダムができるまでは幹線流路82キロ弱に支流311が注ぐ川故に、洪水多発の暴れ川であった、という。山間の地を大蛇の如くうねり流れる肱川を龍王さまにみたて、龍王様に安寧を願うこともあっただろうし、山間部では肱川龍王信仰によく見られる雨乞いの神として祀られた、とも記す。
そして奉納される舟であるが、往昔の運搬の主体であった舟運に関係あるのかもしれない。『肱川 人と暮ら』には、肱川筋には往昔40ほどの河港があり。肱川に注ぐ支流との合流点には河港があったとあった。この記事からの妄想ではある。
盛んであった舟運も、日本三大林業地帯として知られた肱川の筏流しとともに、大正13年に大洲から鹿野川間に県道が開かれて以来、次第に廃れていった、とのことである。


坂本龍馬脱藩の道;予土国境山越えの道スタート

茶屋谷から松ヶ峠を越え四万川の谷筋に下り、高階野集落から韮ヶ峠に上る
おおよそ8キロ・2時間半(往路)◎

茶屋谷の「坂本龍馬脱藩の道」案内:10時21分(標高530m)
車のデポ地から橋に引き返す。と、橋の手前に「坂本龍馬脱藩の道」のルートを書いた案内板がある。地図を見ながら、何気なくその裏をみると「維新の道 坂本龍馬脱藩の道(茶や谷)」とあり、龍馬脱藩の道の概要が説明されていた。
脱藩の道を歩く、とはいいながら、「脱藩の道」というキーワードに惹かれ、『坂本龍馬脱藩の道を探る』も、道筋の集落名をチェックするだけで、その内容をあまり読み込んでいない我が身にはありがたい。誠にわかりやすくまとめてくれていた。

◆「維新の道 坂本龍馬脱藩の道(茶や谷) 幕末の英雄・坂本龍馬は、同士澤村惣之丞とともに、文久2年(1862年)3月24日に高知を出奔し、翌25日に梼原に到着。
その夜、梼原の勤皇の志士である那須俊平、那須信吾父子の家に泊まり、翌26日未明に俊平・信吾父子の道案内により、宮野々の関を抜け、四万川は茶や谷の松ケ峠番所を抜けて、与土県境峠・韮ヶ峠を越え、伊予の国(愛媛県)に脱藩した。
信吾は韮ヶ峠より引き返したが、俊平は同行し,小屋村(野村町)水ヶ峠(河辺村)を経て泉ヶ峠(五十崎町)に宿泊。27日宿間村に着いた。
俊平はここから引き返し、龍馬、惣之丞は船便にて長浜町へ、その夜冨屋金兵衛宅に泊まり、28日船で2日を要して三田尻(山口県)へ到着した」とあった。

茶屋谷の茶堂;10時31分(標高559m)
茶屋谷の集落を抜け、田畑の中の道を10分ほど進むと再び民家が建つ。そこで道が左右に分岐するが、その分岐点に「茶屋谷の茶堂」が建つ。いい風情である。茶堂の案内は、既に見た川西路の茶堂と同じ。




土径(どみち)に入る;10時36分(標高584m)
「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い左折。舗装された道を5分ほど上ると道の山側の土径(どみち)に入る。韮ヶ峠までおよそ8キロ、途中標高900mピークまで上り、一度標高700mの谷筋まで下ったあと、標高958mの韮ヶ峠に上り返すことになる。累積の上りは700mといったところだろう。
◆どみち
因みに、ここで「土径;どみち」と言う言葉を使った。これは今回のルートを歩き、道を尋ねた地元の人から返ってきた言葉。"「どみち」になるぞ"、などと。言う、言葉の響きがいいので、使うことにした。土道、土経、土径といった表記がある。「土径」が気に入り以下この表記で通す。

林道を掠り標高を上げる;標高640m
草に蔽われた土径を進む。マムシ除けにと棒切れで草を薙ぎ、煩いハチを除けながら蛇行する林道を横切り、標高が低い故か、竹林の中を進み、右手に現れた林道を掠り(標高640m)ながら、標高を上げてゆく。等高線にほぼ垂直に上るわけで結構厳しい。標高を上げ、木も杉の樹林帯になった先に松ヶ峠番所跡があった。

松ヶ峠番所;10時51分(標高724m)
案内には、 「維新の道 坂本龍馬脱藩の道(松ヶ峠番所跡) この番所は、土予の交通の北の要所で、幕末の英雄 坂本龍馬は同志沢村惣之丞とともに、文久2年(1862)3月24日高知を出奔し25日梼原に到着、その夜梼原の勤王の志士 那須俊平・信吾父子の家に泊まり、翌26日未明、俊平・信吾父子の道案内により宮野々の関を抜け、四万川は茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて予土県境峠・韮ヶ峠を越えて伊予の国(愛媛県)に脱藩した。
その際、「坂本龍馬まかり通る」と名のり、堂々とこの番所をぬけたという地元の口伝が残されている。また新谷藩(現在の愛媛県大洲市)藩士で、後に岩倉具視の懐刀といわれ、宮内省に勤め大正天皇の御養育係となり、明治憲法の起草者としても名が知られる香渡晋も土佐への藩用にて通った番所である」とあった。

事前に龍馬が辿った地点を、『坂本龍馬脱藩の道を探る』を元にチェックするとき、最後までわからなかったのがこの松ヶ峠。結構簡単に到着し、少し拍子抜けの感がある。地形図を見ると、南北から迫る山稜の鞍部となっており、本モ谷筋の茶や谷から、ひと山越えた四万川筋の神の山の集落へと、土径を上るときに見かけた林道が峠脇を越えていた。

新谷藩
新谷藩一万石。大洲藩5万石の支藩。『坂本龍馬脱藩の道を探る』に拠れば、明治天皇の東京遷都に際し、大洲藩はその先駆け、新谷藩は行列の後衛を勤めている。藩主自らが勤皇の姿勢を明らかにするといった、他藩とひときわ違った勤皇藩としての功績故の晴れ姿である。
鳥羽伏見の戦いを前に、長州藩兵を京に進めるに際し、兵庫表警護を命ぜられていた大洲藩は、打出浜(芦屋)に上陸した長州藩兵を迎え、あまつさえ食料・弾薬を用意した。
幕府方の攻撃で全滅覚悟であった長州兵は無傷で上陸し、結果鳥羽伏見の戦いでの勝ち戦となった。西郷隆盛をして「大洲藩なかりせば、鳥羽伏見の戦いはどうなったか。。。」と語ったという。かくの如きの勤皇藩であった。
土佐の脱藩浪士が峠越えのルートは異なるも、大洲藩の領地へと向かったのは、藩を挙げての勤皇の地としての安心感があったのでは、と同書に解説する。
香渡晋
これも、『坂本龍馬脱藩の道を探る』に拠れば、大洲藩が京都警護の内勅を受けた時、新谷藩は大洲藩の支藩という理由で内勅不要との決定に異議を唱え、香渡晋らが三条実美に嘆願書を提出し、結果、内勅を得て藩主は天皇に拝謁した、とのこと。また、江戸で学んだ香渡晋が奸物であるとして誅殺せんとした岩倉具視を訪ね、逆にその思想に感化され弟子となった、とあった。

アオザレ;11時14分(標高903m)
松ヶ峠下の舗装された林道に下る。舗装された道は松ヶ峠の辺りで実線表示となり、舗装は切れ、脱藩の道は、舗装の切れた山道(実線表示道)に入る。北の山稜の等高線を斜めに少しずつ標高をあげてゆく。スギの樹林帯、草地、沢を越え、おおよそ2キロ弱で標高を200m弱ほど上げたところに「アオザレ 4.7キロ」の木標が建つ。
この辺りをアオザレと呼ぶのだろうか、4.7キロは韮ヶ峠までの距離だろうか?唐突で少々わかりにくい。
iphoneのツール・「距離測」でチェックすると、韮ヶ峠までのおおよその距離と合っていた。それはともあれ、この辺りが山越えの最高地点だ。


「アオザレ」の木標からほんの少しの間だけ平坦な道になる。地形図を見ると、茶屋谷をずっと奥まで進んだ本モ谷(おもだに)の集落あたりからジグザグの林道が延び、このアオザレの木標の少し北を通り、高階野の集落のある四万川谷筋に下っている。
その林道から分岐した道筋がこの平坦な道筋だろう。道の周囲は開かれ、今から向かう予土国境らしき山地が遠望できる。
その平坦な広い道もすぐ行き止まりとなり、「脱藩の道」の右へと折れる。ここからは四万川の谷筋、高階野の集落に向け、トラバース気味に下ってゆくことになる。
アオザレ
「土佐のアオジャレ」とも。青崩と表記するとの記事もあった。青みを帯びた脆くて崩れやすい蛇紋岩の地質を指すようだ。そういえば、アオザレの前後に土砂崩れの箇所が3カ所ほどあった。

林道と分かれる;11時21分(標高850m)
比較的広い道を、等高線を斜めに緩やかに10mほど下ると、右へと折れる木標があり、そこからは林道を下ることになる。地図に実線で描かれた林道をトラバース気味に30mほど下ると実線の林道は左に折れるが(11時21分)、脱藩の道は北に向かって、等高線をほぼ斜めに進む。山地図には破線で描かれたルートである。

ナラ山・3.3㎞標識;11時38分(標高798m)
土砂崩れの箇所を越え(11時23分)、小さな沢(11時31分)を過ぎると樹林が切れ、周囲が少し明るくなる。「脱藩の道」はそこで、破線ルートを直角に折れ、等高線を20mほど下ると突然周りに田圃が広がる。ちょっとした棚田の風情である。まだ里に下りたわけでもないのに、これは一体何?地形図を見ると当然のことながら、等高線の間隔が広く開いた平坦地となっていた。
石組みのしっかりした田圃の間を抜けると舗装された林道に出る。そこに木標があり、「ナラ山・3.3㎞」とあった。「ナラ山」の名は随所の案内図にあり、てっきり「山」と思っていたのだが、どうも集落の名であったようだ。




あれこれチェックすると「ナラ山集落」は昭和の初めには廃村となったようだ。水田も放棄されたとあるが、現在は立派に手入れがなされている。舗装された林道のおかげで田圃は復活したのだろうか。






林道を下り土径に入る;11時48分(標高816m)
舗装された林道を下ると右から林道が合わさる(11時41分)。この右から来る林道がアオザレのところでメモした本モ谷集落から高階野の集落に繋がる林道のようだ。「ナラ山」の木標のところで出合った林道は少し南で切れていた。 さらに道を下ると「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、林道から左に入る(11時48分(標高))。






下井桑集落への林道と交差し再び土径に;11時50分(標高816m)
林道に沿って土径を少し進むと林道に交差。この林道は上記林道から左に折れ、同じ四万川筋ではあるが、高階野の集落の下流にある下井桑の集落に下っていた。





高階野(こうかいの)集落・四万川を渡る;12時8分(標高719m)
下井草への林道に一瞬出た「龍馬脱藩の道」は、再び高階野に下る林道壁面を右に見ながらの土径となり、等高線に沿って緩やかに下る林道から次第に離れ、等高線を斜めに進む。標高も低くなり、周囲が竹藪に覆われる辺りで等高線を垂直に下り林道に出る(12時5分)。


林道を横切り、そのまま先に進むと辺りは開け田圃の向こうに民家が見える。高階野の里に下りてきた。田圃脇を進むと細い川筋がある。四万川の上流ではあろう。





韮ヶ峠の分岐;12時11分(標高726m)
川を渡ると県道379号に出る。「坂本龍馬脱藩の道」の木標は右を指す。少し進むと高い石垣の前に韮ヶ峠までの「坂本龍馬脱藩の道」の概略図がある。木標は石垣手前の道を左に、と指す。




土径に入る:12時14分(標高745m)
簡易舗装の道を少し進むと、再び土径に入る。等高線に抗わず、蛇行を繰り返し進む県道379と異なり、道は等高線を垂直に上る。
竹藪からはじまり、杉林の中を上ると、標高850m辺りで道は平坦になり(12時28分)、杉の林も少し明るくなる。すぐ上をジグザグで上ってきた県道379号が走る。

作業道から土径に入る;12時33分(標高850m)
少しの間平坦な道を進むと、「坂本龍馬脱藩の道」は平坦な道から右に折れ(12時33分)、等高線に垂直に進むことになる。地形図を見ると平坦な道は県道から分かれた作業道らしき実線と重なっていた。




韮ヶ峠手前の県道に出る;12時44分
標高900m辺りまで上ると杉林が荒れている(12時39分)が、すぐに落ち着き道に沿って左手に小さな沢筋が見える(12時41分)。その先、林道に上る手前に大きな水管が設置されていた。沢に流れる水の大元がここ。峠の辺りを走る県道整備の折、水処理として整備されたのだろうか。ともあれ、その脇から県道379号に出る。

韮ヶ峠;12時47分(標高958m)
県道379を少し進むと四阿(あずまや)が見える。休憩所かと近づくと格好のいいお手洗だった。
峠は寂しき風情との予想と異なり大きな車道が走る。その脇に広場があり、そこには「韮ヶ峠」、「坂本龍馬脱藩の地」、「脱藩の道」の案内図やその説明(注;「茶屋谷の説明と同じであり省略する)、歌碑、そして「覚 関雄之助 口供之事」のなどがあった。

歌碑 
歌が詠まれた歌碑がある。「坂本龍馬脱藩百五十年記念歌 又あふと 思う心を しるべにて 道なき世にも 出づる旅かな」と刻まれる。全国の龍馬ファンの賛同によりできたもので、歌は龍馬が文久元年(1864)6月1日、京の伏見から江戸に向かう際、お龍と別れの杯を交わし詠んだ歌とのことである。





覚 関雄之助 口供之事
三月二六日 四満川ヨリ韮ヶ峠ニ至ル  信吾コレヨリ引返ス
小屋村ヨリ榎ヶ峠-横通リ-封事ヶ峠-三杯谷-日除 -水ヶ峠ヲ経テ 泉ヶ峠ニ至ル
龍馬俊平ト共ニ泊レリ   二七日ゝ北表村ヨリ宿間村ニ至ル
俊平コレヨリ引返ス 宿間村ヨリ金兵衛邸ニ至ルマデ 大洲城下ヲ経渉スルコト七里半
金兵衛邸ヨリ招賢閣三田尻[注;招賢閣の三文字は×印で訂正] マデ二日ヲ要セリ
明治六年一一月一五日 自宅ニテ誌ス 高松小埜」

龍馬脱藩の道散歩に先立ち、GPSツールに地名を入力したのが、『坂本龍馬脱藩の道を探る』に掲載されていた、この覚書の地名である。「脱藩の道」の道案内がなくても、これだけで脱藩の道を歩こうと思ったわけで、「なんとなかなる」も極まれり、ではある。 因みに関雄之助は沢村惣之丞のこと。高松小埜は龍馬の義兄順蔵の号。金兵衛は長浜の豪商・冨屋金兵衛。代々紺屋を営む豪商で、下関の豪商・白石正一郎と同じく勤王派志士達を援助していた人物である。 地名は散歩を続けながら折に触れて補足していくことにする。

伊予への下り口確認 
少し休憩し、韮ヶ峠での最後の仕上げは、伊予に下る道筋の確認。高知は「脱藩の道」の案内はしっかりしていたが、行政区が異なれば、さてどうだろうと、峠を愛媛県側に進む。県道脇を左に入る道に「龍馬脱藩の道」の案内があった。これで一安心。ちゃんとした道案内が続くことを祈る。 県道から分かれる愛媛県側の道脇にいくつか龍馬脱藩に関する案内があった





「風雲児 坂本龍馬 脱藩 維新の道 第一歩の地 韮ヶ峠」 
ここに書かれているのは、韮ヶ峠にあった「覚 関雄之助 口供之事」の手書きでの案内であり省略するが,その横に覚書の解説があった。






覚書の解説
「文久2年(1862)3月24日、土佐郷士、坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し自らの使命を自覚するや、決然として土佐を脱藩した。 24日、同士沢村惣之丞と、梼原村の那須俊平信吾父子の家に泊まり、翌26日那須父子の道案内で宮野々関を破り、韮ヶ峠を越えて伊予国へ出た。 途中、泉ヶ峠、長浜村に泊まり28日船出して29日三田尻に着き4月1日、目的地の下関白石正一郎方に着いた。 これはその道中の記録である。 日本の夜明け維新の道へようこそ 日本人の心に生き続ける英雄、坂本龍馬は、この韮ヶ峠に立ち国の夜明けをしかと見て維新の道を駆け抜けていきました。 どうかこの脱藩の道を探ねられる皆さん龍馬の大志をしっかりと受けとめ、現代にこそ龍馬以上の希望を抱いて世の中にはばたいて下さい。 足元に気を付けてご無事に 惣川自治振興会 惣川公民館」

案内を読み韮ヶ峠の広場に戻る途中、県境に「我ら再び生きて 故国土州の土を踏まず 坂本龍馬 沢村惣之丞」と刻まれた石碑があり、県境に龍馬たち四名の足型をつくっていた。これって必要?










韮ヶ峠から四万川筋を下り六丁をへて車のデポ地に戻る
15キロ・おおよそ4時間(ピストン・復路)  

ともあれ、これで茶屋谷から韮ヶ峠まで歩き終えた。デポ地に戻る時間を考えると、これ以上進まないほうがよさそうだ。復路は『坂本龍馬脱藩の道を探る』に、六丁から韮ヶ峠への「坂本龍馬脱藩ルート」であろうと記載されていた、四万川沿いを歩くことにする。同書では、監視厳しき松ヶ峠番所のある茶屋谷ルートは危険であり、四万川沿いを進んだのでは、とする。

現在は県道が整備されているが、当時は道なき険路ではあったかと思う。往時の険路・悪路を想像しながら歩くのもいいかも、と。また、明日車で韮ヶ峠まで進み、そこにデポし先に進むことになるので、四万川筋の県道の状況などもチェックできるかとの思いもある。
後の祭りではあるが、距離も調べずお気楽に歩いたこのルート、距離も15キロほどあっただろうか。結局4時間近く歩くことになった。 

韮ヶ峠出発;13時 
車のデポ地に向け出発。県道379号を下る。明日車を韮ヶ峠まで動かすことを考えて県道の状況を確認のため、とはいうものの、Google Street Viewでチェックし、既に車で走るのはおおよそ問題なさそう、というのはわかっており、基本「一筆書き」、同じ道を歩くのは勘弁、ついでに前述の如く「龍馬脱藩の道」との説もある道筋も歩ける、といったところが本音ではある。
県道は韮ヶ峠から南西に突き出た尾根筋の山腹を標高850m辺りまでは、ほぼ南に、脱藩の道に平行に下る。標高850m辺りで尾根筋の突端を廻りこんだ後は、「脱藩の道」から大きく外れ、等高線に抗うことなく東へ向かい、四万川の支流の切り込んだ谷筋に沿ってU字に走り、四万川の本流らしき谷筋に当たると、その川筋に沿って弧を描いて下って行く。「脱藩の道」に比べて結構大廻りすることになる。 

高階野の集落・分岐に戻る;14時1分(標高726m) 

韮ヶ峠からおおよそ1時間で高階野の集落の「脱藩の道」分岐点に着く。上りより10分ほど長くかかった。「こうかいの」と読むようだ。 高階とは高丘起伏の地形を指すことが多い。集落の戸数は県道からざっと見た限りでは10件ほどであった。位置からすれば、予土国境の最奥部の集落のひとつのように思える。






?の道路標識;14時20分(標高)
四万川の渓流を見遣りながら進むと、道脇に「韮ヶ峠文丸線」とある。県道379号の通称のようだ。文丸とは379号が南に進み県道2号に合流するあたりの地名である。
支流に架かる橋を渡り、その先の四万川を渡る橋の手前(14時20分)に「韮ヶ峠 四国カルスト」の道案内と、「下井桑、上井桑、松山・野村・高階野の方向を記した道案内があるのだが、どう見てもどちらの表示がおかしい。
 「韮ヶ峠・四国カルスト」が南に下るようになっている。今、北の韮ヶ峠から来たわけで、また韮ヶ峠の先から「四国カルスト」への公園横断道路が走っているようだから、真逆である。「下井桑」などの道案内に至っては。天地逆にしようが、左右逆にしようが、裏表逆にしようが、まったく集落との方向とは合わない。表記された地名を歩いてきたからわかるけれど、はじめての方は戸惑うこと必至、かと。 
四国カルスト 
愛媛県と高知県との県境にある標高が約1,400m、東西に約25kmに広がるカルスト台地。カルストとは、石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地が雨水、地表水、土壌水、地下水などによって侵食(主として溶食)されてできた地形(鍾乳洞などの地下地形を含む)。浸食作用で地表に露出した石灰岩が点在している。四国カルストは山口県の秋吉台、福岡県の平尾台)とともに日本三大カルストのひとつ(Wikipediaより)。 

下井桑の集落;14時24分(標高649m) 
わかりにくい道路標識の先で四万川を渡ると数分で下井桑の集落に入る。道に沿って10軒ほどの民家が建つ。その集落の南端近くに井高公会堂と書かれた建物があり、その横にお堂と「井高のあゆみ」と刻まれた石碑がある。



大師像と茶堂
石碑に刻まれた内容をまとめると、「明治21年、旧井桑組と高階野組が合併し、頭文字をもって「井高」と称し現在に至る。
 当時、「滝山」の断崖絶壁が土佐からの開発を閉ざしていた。この僻地を脱すべく、道路開設に努め、大正末期に馬道が開設、昭和9年には道路開設に着手し、21年に下井桑まで、14年には高階野、15年に中井桑まで開通した。
下井桑への道路開設と同時につくった産物集荷場が現在の井高公会堂。電気は21年下井桑、22年上井桑、23年に高階野で点灯。29年には下井桑に簡易水道施設、34年には電話開通といった生活インフラが整備されていった。
また、開発の壁となっていた「滝山」を道路整備とともに「もみじ街道」とし、人々の集うこの地に大師像を建立した 平成16年 井高部落有志 大師像建立委員会」といったことが刻まれていた。

石碑横に石像があったが、新しいもののようであったので写真は撮っていないが、碑文からすれば平成16年に建立されたものだろう。また、大師像の南に「茶堂」の案内。内容は既述の説明と同じであり省略するが、公会堂横のお堂が「井高の茶堂」であった。

滝山
『坂本龍馬脱藩の道を探る』に、龍馬脱藩の道がこの四万川沿いとの記事があり、道なき険路であったろうと記したが、この石碑で馬道ができたのが大正末期というから、龍馬がこの道筋を進んだとすれば、石碑にある「滝山」の断崖絶壁を難儀しながら韮ヶ峠に向かったのではあろう。
滝山がどこを指すのか不明であるが、地形図で見ると下井桑集落の南、支流が四万川に合流する南北に岩壁の記号が連なっている。その辺りを指すのかもしれない。 

井桑渓谷;14時39分(標高600m)
井高の公会堂を先に進むと、四万川右岸の道脇やその上の山肌に10軒ほどの集落が見える。これも下井桑の集落だろう。道を進むと、龍馬脱藩の道を松ヶ峠から高階野に下る途中、「アオザレ」、「ナラ山」辺りで出合った林道の下井桑に下る道と合流する。出合地点は舗装されていた。
その先は地形図に岩壁の記号が続く一帯となる。石垣、土砂崩れ防止壁の先は、特に土砂崩れ防止の壁面工事はされていないが、岩壁が屹立する。ここを掘り割り、川筋に道を通すのは大変ではあったと思う。
岩壁地帯を過ぎ、支流が四万川に合流する地点に案内があり、「紅葉の里 これより上流は井桑渓谷と呼ばれています。自然を守り紅葉街道の推進地域です」とあった。通りすぎた岩壁地帯が「滝山」では、との地形図からの想像は、あながち間違いでもなかったように思える。

坪野田の集落;14時52分(標高570m) 
支流合流点の少し開かれた箇所を越えると、再び岩壁が迫る道筋となる。石垣、土砂崩れ防止壁など、上流部より防災工事が施されている。逆にいえば、支流合流点より上流部は、それだけ堅い岩盤地帯であったのかもしれない。勝手な妄想ではある。
岩壁地帯を抜けるとその先に坪野田の集落が道に沿って続く。20軒弱程度の民間が南北に長く続いていた。




県道2号に;15時16分(標高524m)
坪野田の集落から20分強歩き、やっと県道2号に合流。峠から歩いてきた県道379・韮ヶ峠文丸線はここで終る。県道2号との交差する辺りが文丸と呼ばれる。
 ●県道2号
梼原の東で国道197号と分かれ、四万川水系に沿って本モ谷川、四万川本流、と北西に弧を描き進み、県道379の合流点を北端に、ここからは文丸川筋に沿って南西に弧を描き、半円を成したあと大芽峠から南西に下り、愛媛県西予市城川町で国道197号と再び合流する。

西宮神社;15時30分(標高509m) 
県道2号を15分ほど歩くと四万川の対岸に社が見える。橋を渡ると「西の宮神社」とある。川を借景にした、いい雰囲気の社である。
案内には「延宝5年(1677)勧請と伝えられている。昔から六丁・坂本川両部落の産土神で、宝皇大明神と称していた。宝物に大鹿の角一対がある。
明治元年(1866)西の宮神社と改められた。大正5年(1916)文丸の白王権現、坪野田の白王権現、天神宮を合祀し、四部落の産土神とした。 昭和15年(1940)に、紀元二千六百年記念事業として境内の拡張、本殿、直会殿の増改築が行なわれた。
祭神 事代主命(蛭子命) 祭礼 十月十四日 行事 祭礼 津野山神楽」とある。

宝皇大明神は不詳。その昔兵庫県西宮の「えびすさん」で知られる西宮神社より勧請されたといった記事もあるが、祭神の「蛭子(えびす)」繋がりは感じるものの、詳しいことはわからない。
白王権現は愛媛県西予市宇和町にある四国八十八札所の四十三番・赤石寺の奥の院に祀られる。千手観音菩薩が置いていった大石を祀る白王権現の祠がある、と。
今回の出発点竜王宮でもメモしたが、この辺りは土佐とは言いながら、文化圏・経済圏としては伊予との繋がりのほうが強かったとのことが改めて実感する。それはともあれ、白王と大岩、千手観音の関係など気になるが、本筋から離れるので、思考停止。

 六丁の茶堂;15時51分(標高501m) 
県道2号を四万川に沿って歩くこと20分、道脇に六丁の茶堂がある。茅葺、3方吹き抜け、奥に幾多の石仏が祀られる。 








六丁の集落;16時(標高483m)
茶堂から10分、本モ谷川が四万川に注ぐ地点ある六丁の集落に。韮ヶ峠から3時間かかった。後はひたすら本モ谷川に沿って県道304号北に進むのみ。残すは3キロ弱だろうか。ついでのことではあるので、「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い道を進むことにする。 

神職・長谷部家跡;16時27分 
六丁から県道304号を進み、左岸から右岸に橋を渡ると、その先で県道は右岸を進むが、「脱藩の道」の案内は橋を渡り左岸を指す。しばし左岸の道を進み、先に訪れた三嶋神社の南、東川と思うのだが、本モ谷川に支流が流れ込み、小振りな扇状地状となった南端辺りに架かる橋のところで「坂本龍馬脱藩の道」の木標が右岸を指す。
右岸に渡り、左岸にある三嶋神社に渡る橋の手前に学校のような校庭と昔懐かしい造りの講堂のある敷地がある。学校の統廃合が進み、この校舎は使われていないようだ。地図には、近くに「小学校前」というバス停が残る。
その校庭の道沿いに案内があり、「神職・長谷部家跡(吉田神道)とあり、「神職・長谷部家跡(吉田神道) 長谷部家初代は安藝の国佐伯郡都岐山嶋大明神の祝部であったが故あって弘治元年四万川に落ち来たりて住し、直ちに神職に取り立てられた。
元禄六年(1693) に五代目が京に上り、吉田神道裁許状を授かる。津野山郷で吉田官位を受け、国名を名乗ることを許された神職は、この五代目長谷部出雲守義敦が最初である。
爾来吉田神職は(中略)土佐六郷の祭祀に(中略)参列し褒詞を受く(中略)代々郷中の至福祈願を奉じた神楽古面は当家に九面有り」といった内容の説明があった。
吉田神道
室町時代、京の吉田家に始まる神道の一派。反本地垂迹説を唱える。朝廷・幕府に支持を受け、本来神道は皇室が主家であり白川家がもっていた神職の任免権、地方の神社への神位、神職の位階授与の権限を与えられ、ほぼ全国の神社・神職をその勢力下に置く。
 江戸期に入ると幕府の令により神社本所として全国の神社・神職をその支配下に置く。明治に入り神仏分離令により吉田神道と対立する本地垂迹説は完全に衰退するも、明治政府が神祇官を設置するに至り吉田神道も衰退する。

道番庄屋屋敷跡;16時30分 
三嶋神社を越え少し進むと道脇に案内がある。

「道番庄屋・屋敷跡・広瀬家(川向い) 
広瀬家初代は、戦国時代津野氏に仕え、西口の押えとして天神森城の重鎮であり、慶長六年山内入国と同時に庄屋となる系譜は今日に至る

上段本畑・萩野公領跡地・味元家所有 
四万川村戸長役場跡・吉村虎太郎行政遺跡・石の金庫発見の地・金庫は町資料館に展示す。明治十年四万川萩野小学校新築開校す、その校舎は現在茶ヤ谷へ移す。

二階・建造物・倉庫・佐竹家 
上・下参百五拾石分の年貢、統制産物、梶、茶、葛等の集荷所兼藩公認の酒造所であった」と三つの案内がまとめられていた。

天神森城 
近辺には天神森城は検索でヒットしない。伊予の久万高原町には天神森城があるが遠すぎる。内子に龍王城があり、その枝城である北之城に広瀬氏の名が見えるが、天神森城との関連は不明。

吉村虎太郎行政遺跡・石の金庫 
津野山郷芳生野(現、高岡郡津野町)の庄屋の子として生まれる。安政6年梼原村番人大庄屋として赴任するも、武市瑞山らと土佐勤王党を結成、文久2年脱藩して京に上がった。龍馬脱藩の20日前、という。
京で頼みとする島津公に討幕の意思なく、土佐に送り返され入牢するも、那須信吾らによる、参政吉田東洋の暗殺により、武市瑞山率いる土佐勤王党が勢を増し出所。
再び京に上がり、尊王攘夷の志士と天誅組を組織し大和に兵を挙げる。しかし、八・一八の政変(文久3年8月18日(1863年9月30日)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放したクーデター事件)で孤立。主将中山忠光卿、総裁吉村虎太郎以下、大和の義兵千余名を加えて転戦するも、幕軍に阻まれ天誅組は崩壊、虎太郎も壮絶な戦死を遂げる。

「石の金庫」とは梼原の庄屋として在任中、村民に非常の場合に備えて貯蓄を勧め、そのお金を保管するために作った石の金庫。公平を期すため村の長老と二人で鍵を開けるようにしていた、と言う。現在は高知城に保管されている、と。 

竜王宮;16時45分(標高541m) 
往路、車で走る時は気が付かなかった案内を読み終え、歩くこと15分、やっと車のデポ地である龍王宮前の駐車場に到着。疲れ重い足取りとはいえ、韮ヶ峠から4時間弱かかった。往路2時間半、復路4時間弱、計6時間弱の散歩となった

梼原に;17時過ぎ 
これで本日の散歩は終了。宿のある梼原の街に戻ると5時を過ぎていた。韮ヶ峠で先に進むことなく、引き返してよかったと心底思った。宿は観光案内所で紹介して頂いた「雲の上のホテル別館 マルシェ・ユスハラ」。清潔で洒落た、いいホテルであった。



秋留台地の湧水散歩も、秋川筋、多摩川筋と辿り、先回の散歩でやっと平井川筋へと辿りついた。あきる野市が作成した『報告書』にある湧水リストで残すは4箇所。平井川筋と秋留台地の段丘面から少し離れるが、草花丘陵の湧水点となっている。
ルートを思うに、五日市線・東秋留駅から平井川筋を遡り、最後の目標を草花丘陵の崖線が多摩川に落ちる折立(おったて)坂の湧水とし、湧出点を確認した後、多摩川を跨ぐ羽村大橋を渡り青梅線・羽村駅に向かうことにする。


本日のルート;五日市線・東秋留駅>五日市街道>松海道の一本榎>平沢八幡>平澤617番地湧水>高瀬橋>平高橋>平井川右岸を進む>平沢滝の下湧水>南小宮橋>草花公園湧水>羽村大橋西詰>折立坂湧水>羽村大橋を渡る>玉川上水>牛坂通り>旧鎌倉街道>青梅線・羽村駅


五日市線・東秋留駅
あきる野市の報告書より
最初の目的地、あきる野市の『報告書』にある「平沢617番地」湧水の最寄駅である五日市線・東秋留駅で下車。「東」と対になる「西秋留駅」は秋川市成立時に「秋川駅」となり、その後あきる野市となった後も「秋川駅」として続く。東秋留駅は大正14年(1925)の五日市鉄道(拝島・武蔵五日市間)開業時の駅名のまま今に続く。

五日市鉄道
五日市鉄道は、明治22年(889年)甲武鉄道が立川駅-八王子駅間で開業、明治27年(1894)に青梅鉄道が開業した時勢、五日市の実業家が中心となり構想され、大正10年(1921)に認可される。
ルートは青梅鉄道拝島駅を起点に、五日市、そして増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至るもの。勝峰山までの路線を申請しているということは、当初より石灰の運搬をその事業主体にしていたと推察される。
大正10年(1921)に認可は受けたものの、事業予算が当初の目論見と大きく違い、事業は難航。大正12年(1923)に工事が開始されるも、同年に起きた関東大震災の影響もあり、地元事業家だけでは事業存続が不可能となる。
そこに登場するのが財閥系の浅野セメント。川崎工場のセメント原料は青梅鉄道沿線の石灰を使っていたが、採掘権を買収した青梅線沿いの雷電山や日向和田も思ったほどの埋蔵量がなく、埋蔵量の豊富な五日市の勝峰山に目をつける。 大正11年(1922)には既に五日市鉄道の大株主となっていた浅野セメントであるが、石灰採掘権の権利を持つまでは資金不足の五日市鉄道を援助することなく、地元実業家より勝峰山の石灰採掘権を入手するに及び全面的に五日市鉄道の経営に乗り出し、大正14年(1925)5月にに拝島・武蔵五日市、同年9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。
五日市鉄道最大の眼目である勝峰山の石灰採掘事業は、大正15年(1926)から開始され、昭和2年(1927)には浅野セメント川崎工場への輸送が開始される。そのルートは五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれていた。
立川から南に進む南武鉄道の大株主でもある浅野セメントは、この輸送ルートをショートカットすべく、拝島と立川の南武鉄道を繋ぐルートの延長を計画。昭和4年(1929)に工事に着手し、昭和5年(1930)には、拝島駅-立川駅間、青梅電気鉄道の路線と多摩川の間に路線を開き、南武鉄道と結んだ。
当初貨物主体で始まった五日市鉄道も、次第に旅客輸送も増えてはきたが、日華事変の勃発にともない、五日市鉄道は南武鉄道と合併、さらには戦時体制の強化のため南武鉄道は青梅電気鉄道共々国有化され、昭和19年(1944)には国有鉄道五日市線となる。
その際、青梅電気鉄道の立川・拝島区間は軍事施設を結ぶため複線化が続行されるも、五日市鉄道の立川・拝島区間は「不要」として休止されることになった。

五日市街道
増渕和夫さんの論文より
五日市線・東秋留駅で下車し、道なりに北に向かうとほどなく都道7号・五日市街道にあたる。現在五日市街道と呼ばれるその道筋は、近世以前にはその表示がなく、「伊奈みち」とある。伊奈は秋川筋、武蔵五日市の手前,現在のあきるの市にあり、古くより石工の里として知られる。その近くで採れる良質の砂岩を求め信州伊那谷高遠付近の石切(石工)が平安末期頃より住み着き、石臼、井戸桁、墓石、石仏をつくった、とのことである。
「伊奈みち」が何時の頃から呼ばれはじめたのか、詳しくは知らない。が、その名がメジャーになったきっかけは、徳川家康の江戸開幕ではあろう。城の普請、城下町の建設に伊奈の石工も動員され、江戸と伊奈の往来が頻繁となり、その道筋がいつしか「伊奈みち」と呼ばれるようになった。
「伊奈みち」が江戸と深いかかわりがあるのと同じく、「伊奈みち」が「五日市道」と現在の五日市街道に繋がる名となったのは、これも江戸の町と関連がある。
江戸の城下町普請も一段落し、百万都市ともなった江戸の町が必要とするのは、城下町をつくる「石」から、そこに住む人々の生活の基礎となる燃料に取って替わる。国木田独歩の『武蔵野』に描かれる美しい雑木林も、江戸のエネルギー源・燃料供給のため、一面の草原であった江戸近郊に木が植えられ人工的に造られたものである。利根川の船運を利用し関東平野の薪が江戸に送られた。そして、この秋川谷からは木炭が江戸に送られることになる。
その秋川谷の木炭集積所は、元々は伊奈であったが、檜原や養沢谷からの立地上の利点から、五日市村が次第に力を延ばし、かつての「伊奈みち」を使い、江戸に木炭を運ぶようになった。そしてその往来の名称も「伊奈」から「五日市道」と変わったようである。

松海道の一本榎
道なりに目的地である「平沢617番地」湧水の目安となる平沢八幡へと歩いていると、道脇に大きな榎が立つ。「松海道」の一本榎と称される。あきる野市の保存樹木に指定されるこの巨木は、古墳の上の立つ、と言う。
古墳は、東と西は舗装道路で削られ、北は畑で削られ、コンクリートで囲まれた姿で残る。
松海道
「段丘図」には、松海道の辺りが窪地と表示される。この窪地は既述の如く、横吹面・野辺面形成期(1万年から1万2千年前)に平井川系の水流が秋留原面にオーバーフローした氾濫流路跡とされ(角田、増淵)る。氾濫流の本流は東本宿から蛙沢に向かって南東の窪地であり、この北東に残る窪地は古秋秋川筋と記されていた。
鎌倉街道
地質についての門外漢であり、上記記述の深堀はできないが、この松海道の一本榎の道筋は、かつての鎌倉街道と言う。もとより、鎌倉街道は新たに開削された道というわけでもなく、既存の道筋を鎌倉へと繋げていった道の「総称」であり、幹線のほかその幹線をつなぐ支線が数多くある。この「鎌倉街道」もそのひとつ。
鎌倉街道の三大幹線である、「上ッ道」「中ツ道」「下ツ道」、それと秩父道とも称される「山ツ道」。四回に分けて歩いた「山ツ道」は五日市線・増戸駅を南北に貫く。
で、この一本榎を通る「鎌倉道」は、羽村の川崎から羽村大橋下流付近にあった「川崎の渡し」で多摩川を渡り、草花の折立(折立八雲神社)から草花丘陵の裾野(慈勝寺)を多摩川に沿って進み、現在の平高橋あたりで平井川を渡り、この平沢の一本榎に出る。その先は、二宮、野辺を経て、雨間の西光寺脇を通り、雨間の渡しで秋川を渡り高月から日野、八王子方面へと向かったようである。
ついでのことながら、秋留台地を通る鎌倉街道の道筋はもうひとつ、青梅から草花丘陵を越えて進む道もあったようである。道筋は青梅から草花丘陵の満地峠を越え菅生に下り、平井川を越えて瀬戸岡から雨間に下り、西光寺脇で上記ルートと合わさり、南に下ったとのことである。

平沢八幡
一本榎から北に進むと平沢八幡がある。鎌倉街道沿いにあるこの社は旧平沢村の鎮守。大梅院(現在は無い。跡地は平沢会館;平沢八幡の南)持ちから先日訪れた広済寺持ちとなったが、明治の神仏分離で寺から離れた。 戦国の頃、滝山城主となった北条氏照は城の戌亥の方角に二宮神社・小宮神社と共篤く敬ったとのことである。




平澤617番地湧水
平澤八幡の辺りから坂が意識できるようになる。湧水に関する情報は『報告書;あきる野市』にある「平沢617 秋留原面下・傾斜地」だけが頼りである。とりあえず坂を下ると、平井川手前にある比高差数メートルと言った崖地が川筋に沿って続く。崖手前には民家があるが、その裏手、崖下に水路があり、その水路を辿ると崖上の民家の池に続いていた。
民家敷地内に見える池はポンプアップしているように思える。「段丘図」と照合すると、この崖面は小川面と屋代面を画する崖のようにも思える。『報告書』にある「秋留原面下 傾斜地」ということは、小川面にあるのだろうから、この池のことなのだろうか。
他に何か痕跡は無いものかと彷徨うと、池のある民家の道路を挟んだ西側に小さな祠が立ち、下に水路が見え、その先に小さいながら湧水池といった雰囲気の水場があった。また、池のある民家の少し南、平澤八幡の真東の辺りに、湧水湿地といった趣の空き地もあった。が、結局、どれが平澤617番地湧水か確認はできなかった。

平高橋に
次の目的地、「平沢滝の下湧水」に向かう。「平沢滝の下」で検索しても、何もヒットしない。『報告書』にマークされる箇所を見るに、平澤八幡の西、平井川が南に突き出た氾濫原突端を迂回する辺りにあるようだ。
平澤八幡から成り行きで西に向かい、建設中の高瀬橋の南詰に出る。成り行きで進み、平井川に下りれる箇所を探すのだが、結構な崖で下りる道がない。更に西の新開橋まで進んで折り返すか、平澤八幡を下った先に架かる平高橋まで戻るか、ちょっと考え、結局平高橋まで戻りながら、川筋への下り口を探すことにした。下り道がなくても、地図には平高橋南詰から平井川に沿って道が記載されており、なければ平高橋から折り返せがいいか、といった心持である。 戻りの道で、川筋に下る道はないものかと、結構注意しながら歩いたのだ、平高橋まで、川筋に下りる道はなかった。

これは、メモの段階でわかったことではあるのだが、「平沢滝の下」湧水辺りは「オオタカ」の棲息地保護など、環境保護運動が進められているようであり、結構大規模な「高瀬橋」の建設も、環境保護との兼ね合わが検討されているような記事もあった。そんなところは手つかずのままがいいのだろうし、崖上から平井川筋への道が造られていないのは、そういった因に拠るのだろうと妄想する。

平井川右岸を進む
平高橋の南詰から平井川筋に入り西に向かう。いつだったか平井川筋を歩いたことがある。その時のメモを再掲:平井川は日の出山山頂(標高902.3m)直下の不動入りを源流部とし、いくつもの沢からの支流を集めて南東に流下。日の出町落合で葉山草花丘陵の裾に出た後、支流を合わせながら草花丘陵南岸裾に沿って東流し多摩川に合流する。
いつだったか、御岳山から日の出山を経てつるつる温泉へと歩いたことがある。急坂を下りて里に出たところにあったのが、今になって思えば平井川の上流部であった。ぶらぶらと平井川の上流部を五日市に向かって歩いた道筋に肝要の里があった。「かんよう」の里、って面妖(めんよう)な、と思いチェック。「かんにゅう」と読むようだ。御岳権現の入り口があったので「神入」からきた、とか、四方を山で囲まれたところに「貫入」した集落であるという地形から、とかあれこれ(『奥多摩風土記;大館勇吉(有峰書店新社)』)。
将門伝説の残る勝峯山のあたりに岩井という地名もあった。将門の政庁があった茨城の岩井と同じ。故に将門伝説に少々の信憑性が、とはいうものの読みは「がんせい」、とか。有難さも中位、か。

平沢滝の下湧水
平高橋辺りでは開けていた平井川右岸も、高瀬橋に近づくにつれて崖が迫ってくる。また、高瀬橋の下辺りからは崖側道脇に自然の水路が現れ、水路先と崖地の間も湿地となってくる。高瀬橋の下を潜った先に「秋留台地」の地下水の案内。
「秋留台地には二宮神社や八雲神社の池を始めとし、至るところに湧水があり、それを元に古くから水田や集落が発達してきました。ここは国分寺や日野、東村山などと並ぶ、地下水の宝庫なのです。でも、台地なのになぜこんなに地下水が豊かなのか不思議です。この謎を解く鍵がこの崖にあります。
この崖の地層は湧水のあるところを境に、上のゴロゴロした礫の層と、下の硬い礫交じりの粘土層に分かれます。上の礫層は2万年ほど前の氷河時代に堆積したもので、よく水を通します。しかし下の粘土層は100万年ほど前に浅い海に堆積したもので、がっちりと固まっているために、水は通しません。
秋留台地の中央部を占める一番高い段丘面は、礫層が8mほどもあるために、もっぱら畑に使われてきました。しかし、二宮神社の池があるところのように、一段下がった段丘面では、礫層が薄いために地下1mほどのところに、もう地下水が現れます。これが豊かな水の原因になっているのです。
この崖ではかつて地層をよく見ることができました。しかし崖が防災工事によって固められることになったため。私たちは東京都と話し合って、地層の一部が観察できるよう、保存してもらうことにしました。それがこの案内板の横にある地層です。湧水を見て秋留台地の歴史に思いをはせてください。 東京学芸大学教授 小泉武栄」の解説と共に、秋留台地の段丘・段丘崖、地層、湧水などがイラストで説明されていた。

「平沢滝の下」とは言うものの、滝があるわけでもなく、地名が「滝の下」といったエビデンスも見つからず、この地が「平沢滝の下」湧水なのかどうかわからないが、ともあれ、『報告書』にあった地図の位置の辺りではあるし、「秋留原面下 崖地、(水量)大」にも齟齬がないので、ここを「平沢滝の下」の湧水と思い込む。

南小宮橋
次の目的地は、原小宮地区にある草花公園の湧水。平井川の右岸を進み、新開橋、北から平井川に注ぐ氷沢川を見遣り南小宮橋に。橋の手前に石段があり、そこを上って公園に入るのかと思ったのだが、行き止まり。元に戻り橋下を潜るとそのまま草花公園に入って行けた。


草花公園湧水
公園についたものの、手掛かりは?地図を見ると、池があり、そこに水路が続いているので、とりあえずそこからはじめて見る。
池に沿って歩き、池に繋がる水路に。結構な水量である。緩やかに蛇行する水路を進むと、公園内の舗装道路に水路は遮られるが、水路は道路下に続いているようで、コンクリート造り水路壁下部から水が流れ出している。 道路の反対側に向かうと、石造りの水路が顔を出し、公園周辺道路で水路は終わる。水路終端部の石の間から水が流れ出している。ここが草花公園湧水ではあろう。
水路終点の南、公園周辺道路を隔てた先に崖地が見える。草花公園湧水とその崖面とをつなぐ水路などないものかと崖地手前を彷徨うが、それらしき痕跡は見つけられなかった。
草花
既述「郷土あれこれ」に拠ると、「草は草花が咲く地>開墾地。草が生えそして枯れ。それを肥料として土地を肥やしは耕作地としていく。花は鼻>出っ張り=突端部。草花は「開墾地の端」との意味という。地名はすべからず「音」を基本とすべし。文字に惑わされるべからず。


羽村大橋西詰
これで『報告書』に記載された秋留台地の湧水調査地点は一応終了。後は同『報告書』にあった草花丘陵の折立坂の湧水を残すのみ。草花公園を離れ都道165号を東に向かい、氷沢橋交差点で都道250号に乗り換え、軽い峠越え。



道を少し上ると、道脇に案内。「智進小学校跡地と橋場遺跡」とある。簡単にまとめると、「氷沢川を見下すこの地に、現在の多西小学校の前身である智進小学校が明治30年(1897)に建てられた。また、この近辺からは都道の新設や大型店舗の建設に伴う発掘調査により、縄文時代や古墳時代、奈良・平安時代の竪穴式住居跡などが多数発見されており、土地の小字をとって橋場遺跡と呼ばれる」、とあった。
峠にあった大澄山登山口の標識を見遣り、多摩川を見下しながら江里坂を下り、羽村大橋西詰めに。羽村大橋西詰めに薬師堂が立つ。

折立坂湧水
羽村大橋西詰に着いたのはいいのだが、どこが折立坂が見当がつかない。上で都道250号を羽村大橋西詰に下る坂を江里坂とメモしたが、それは後日わかったこと。既述『報告書』に記された箇所を参考に、都道250号と多摩川の間を走る都道29号を画する江里坂下の崖線下を探したりもしたが、湧水らしき箇所は見当たらない。とすれば、湧水箇所は都道29号と多摩川の氾濫原を画する崖線下ではないかと、都道29号から河川敷に下ることにした。
都道を少し南に下ると崖線を斜めに氾濫原に下りていく坂道がある。メモの段階でこの坂が折立坂であるのがわかったのだが、当日は知らず坂を下りる。氾濫原に下りる、とは言うものの、坂と氾濫原の間には縦長に家が立ち並ぶ。崖線に注意しながら坂を下るも、それといった湧出点は見当たらなかった。

坂を下り切り、崖線に沿って羽村大橋西詰めへと向かう。民家も切れた氾濫原の畑地を崖線に沿って進むと、足元がぬかるんできた。水の溜まった自然の水路も崖線の藪下に続く。湧出点は藪の先にあり、そこまで踏み込む気にもならず、これが折立坂の湧水の一部と自分に思い聞かせ、羽村大橋の下辺りから崖上に上る道を見つけ、羽村大橋西詰に戻る。
折立坂
「折立」は「降・落」+「断」>崖が連なるの意味。で、この折立坂は、既に一本榎でメモした通り、鎌倉道の道筋。羽村の川崎から羽村大橋下流付近にあった「川崎の渡し」で多摩川を渡り、この草花の折立(折立八雲神社)から草花丘陵の裾野(慈勝寺)を多摩川に沿って進み、現在の平高橋あたりで平井川を渡り、この平沢の一本榎に出たようである。今は道路が整備されているが、かつては折立の崖地を難儀しながら進んだのであろうか。



羽村大橋を渡る
これで『報告書』にあった秋留台地の調査箇所として記載された湧水はすべて廻り終えた。最寄の駅である青梅線・羽村駅へと羽村大橋を渡る。橋の少し上流には玉川上水の羽村取水堰がある。




玉川上水
橋を渡り都道29号・羽村大橋東詰交差点手前で玉川上水を渡る。相当昔の話になるが、玉川上水を羽村取水堰から四谷大木戸まで7回に分けて歩いたことが懐かしい(玉川上水散歩Ⅰ玉川上水散歩Ⅱ玉川上水散歩Ⅲ玉川上水散歩Ⅳ玉川上水散歩Ⅴ玉川上水散歩Ⅵ玉川上水散歩Ⅶ)





牛坂通り
羽村大橋東詰交差点で都道29号・奥多摩街道を越え、成り行きで青梅線・羽村駅に向かう途中、都道29号バイパス・新奥多摩街道手前の道脇に「牛坂通り」の案内があり、「五ノ神の都史跡「まいまいず井戸」が、江戸時代中期に改修された時、多摩川の石などを運んだ牛車が、この道を通ったといわれています」とあった。牛坂は、都道29号バイパス・新奥多摩街道を越えた先にある。
五ノ神社・まいまいずの井戸
五ノ神社は創建、推古九年、と言うから西暦601年という古き社。羽村駅東口傍にある。『新編武蔵風土記稿』によると、熊野社と呼ばれていた、とか。この辺りの集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社が祀られており、ためにこの辺りの地名を五ノ神と呼ぶ。地域の鎮守さま、ということで五ノ神社、となったのであろう、か。熊野五社権現を祀っていたのが社名の由来、との説もある。
いつだったか、玉川上水散歩の折、「まいまいずの井戸」を訪れたことがある。「まいまいずの井戸」は神社境内にある。すり鉢状の窪地となっており、螺旋状に通路が下る。すり鉢の底に井戸らしきものが見える。すり鉢の直径は16m、深さ4mもある、とか。何故に、井戸を掘るのに、これほどまでの大規模な造作が、とチェックする。井戸が掘られたのは鎌倉の頃。その頃は、井戸掘りの技術も発達しておらず、富士の火山灰からなるローム層、その下に砂礫層といった脆い地層からなる武蔵野台地では、筒状に井戸を掘り下げることが危険であったので、このような工法になった、とか。狭山にある「堀兼の井」を訪ねたことがある。歌枕にも登場する堀兼の「まいまいずの井」よりも、こちらのほうが、しっかり昔の形を残しているようだ。

旧鎌倉街道
牛坂通りを進み、都道29号バイパス・新奥多摩街道に出る。左に折れて、羽村駅からの道への都道29号バイパス・新奥多摩街道交差点に。玉川上水散歩の折り、交差点の多摩川サイドに「鎌倉街道」の案内があったのを思い出し、ちょっと立ち寄り。
「旧鎌倉街道」とあり、「この道は、八百年の昔を語る古道で旧鎌倉街道のひとつと言われています。現座地から北方へ約3キロ、青梅市新町の六道の辻から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切って、遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立をへて滝山方面に向かっています。入間市金子付近では竹付街道ともいわれ、玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材を運搬した道であることを物語っています(後略)」とあった。
この鎌倉街道のいくつかのポイントを実際に辿った後で説明文を読むと、周辺の風景も浮かび上がり、結構リアリティを感じる。

青梅線・羽村駅
これで3回に渡った秋留台地の湧水散歩もお終い。藍染川と八雲神社からの細川、そして舞知川の繋がりなど、少しはっきりしないところもあるので、そのうちに訪ねてみようと思いながら、一路家路へと。

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