2016年8月アーカイブ

増渕和夫さんの論文より
秋留台地散歩の2回目。山田、引田、代継、牛沼と秋留台地の南側、秋川に面する段丘を歩いた。とはいうものの、比高差のある崖面のほか、それぞれの段丘面は知らず通り過ぎていた。それはともあれ、今回も前回に引き続き、秋川筋の段丘を辿り、その後で多摩川に面した段丘に廻り込み、段丘崖から湧出する湧水を探し、時間次第ではあるが平井川筋まで歩こうと思う。


ところで、秋留台地の湧水の仕組みであるが、基本は水を通しにくい秋留台地の基盤層・五日市砂礫層(上総層)の上の段丘礫層に溜まり、段丘の崖から湧出するわけだが、角田さんの論文を見ると、秋留台地の下には地下水谷が走り、低水時と豊水時ではその流れに違いがある、と言う。
で、この地下水谷は秋留原面形成より古く、古秋川筋とも言われる。その谷筋は、「伊奈丘陵内を流れる横沢が秋川に合流する付近から始まり,伊奈一武蔵増戸駅を経て西秋留駅(注;現在は秋川駅)の北方を通り,平沢に至っている。地下水谷の深さは武蔵増戸駅で4m 前後,武蔵引田駅付近で4?6m ,西秋留駅(注;現在は秋川駅)付近では3?6mとなっている」、とのこと。


角田清美さんの論文より
更に、「地下水谷の南側には,伊奈から東秋留へのびる地下水の尾根が形成されており、低水時には、地下水の尾根より南側では,地下水は南あるいは南東方向へ流下している。ここには小規模な段丘が数多く分布し,基盤(五日市砂礫層)の上位の段丘礫層の層厚が2 ?4m と比較的薄いため,地表の段丘地形に対応して各所に地下水瀑布線が形成されている。平井川に沿っては,地下水瀑布線は全く見られない。以上のことから,低水時における秋留台地の不圧地下水の涵養は,主として平沢より上流の平井川によって行われていると考えられる」、とする。
一方豊水時には、「低水時の地下水面等高線図とは大きく異なり,台地のほぼ中央を東西にのびる地下水谷は認められない。地下水量は著しく増加し,台地のほぼ中央を伊奈丘陵から東端の二宮まで地下水の尾根がのびており,地下水面は地下水の尾根から北東および南東方向へ傾斜している。台地の西端の伊奈においても,地下水谷の存在は認められず,地下水面は北西から南東方向へ傾斜している。
秋留台地の南側,秋川に面する側の横吹面より下位の段丘においては, 低水時の際と同様, 段丘地形と段丘礫層の厚さに対応して数本の地下水瀑布線が形成されている。地下水面が下位の段丘面より相対的に高いところでは,各所で地下水が湧出している。秋留台地の北側,平井川に面する側においては,段丘崖に沿ってほぼ全面にわたって地下水瀑布線が形成されている」とする。

門外漢であり、いまひとつ理解はできていないのだが、とりあえず、秋留台の地下水流は低水時と豊水時とはその流路が異なり、その因は秋留原面形成以前の古秋川筋とされる地下水谷とその尾根に拠る、ということのようだ。 上記論文には,「低水時における秋留台地の不圧地下水の涵養は,主として平沢より上流の平井川によって行われていると考えられる」、とあるが、これは秋留台の大半を占める地下水位谷の北の秋留原面のことをさすのだろうか。低水時には平井川水系の地下水は地下水谷の尾根を越えられないだろうから、低水時における地下水谷尾根の南を流れる地下水の涵養は、平井川ではなく、伊奈丘陵の横沢あたりからの地下水ということだろうか。

門外漢の妄想はこのくらいにして、今回のルートであるが、雨間から野辺、小川と進み、小川地区から秋川筋を離れ多摩川筋を二宮地区、更には平井川筋の平沢地区へと向かうことにする。



本日のルート;雨間湧水(雨間地区)>小川湧水(小川地区)>小川湧水群(小川地区)>八雲神社境内湧水(野辺地区)>梨の木坂(平沢地区)>広済寺境内(平沢地区)>二宮神社のお池(二宮地区)
あきる野市の報告書より


五日市線・秋川駅
今回は雨間地区にある雨間湧水から始める。最寄りの駅である五日市線・秋川で下車し、南の秋川筋に下る。途中、都道5号・五日市街道の手前に油平地区。既述、あきる野市教育お委員会の「郷土あれこれ」には、その地名の由来を、油をとるための作物(荏胡麻)などを栽培した平坦な畑地から、とする。このン場合の「油」は明かりとりのためのものである。
同ニューズレターには、油菜は江戸時代の中頃に関西で作られ、急速に全国に広まった。また、障子に使う和紙が安価に手に入るようになり、日本の生活が「明るくなった」、と。そうだよな。

雨間湧水:あきる野市雨間698番地
都道5号・五日市街道の油平交差点を東に折れ、目安となる「カメラのキタムラ」に向かう。雨間湧水はカメラのキタムラの手前、五日市街道の南の石垣下から流れだしていた。崖面をしっかりと石垣で補強した底部に管があり、そこから豊かな水が流れ出していた。
管の先はコンクリートで固められた水場となっており、その先も暗渠となって下る。暗渠に沿って少し下ると、東秋留橋に通じる車道の石垣に行く手を遮られる。石垣をよじ登り道の東を見ると茂った草に覆われた水路が続いていた。地図を見ると途切れてはいるが秋川に繋がる水路が見える。 あきる野市作成の『報告書』によれば、雨間湧水は野辺面下にあるとのこと。湧出する崖下は小川面であるが、野辺面になんらか水路跡でもないものかと彷徨うが、これといった水路の痕跡を見つけることはできなかった。
蛙沢
角田さんの論文には「蛙沢は西秋留駅の南東の長者久保にある池に源を発し,途中,段丘崖下の数ケ所からの湧水を集め,約1.3km 流れて秋川に合流する」とある。西秋留駅は現在は秋川駅、また長者久保は秋川駅の西を南北に下る都道411号、秋川駅近くの油平北バス停の東辺り、とのこと。池も五日市街道から北の水路跡も確認していないが、雨間湧出点以下の水路からして、この流れが蛙沢のように思える。
雨間
「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」に拠れば、この「雨間」は全国唯一の地名とのこと。雨は高いところ(=天;あま、ということだろうか)。間は場所。雨間は「高いところ」の意。秋川近くの蛙沢沿いに雨武生(あめむす)神社がある。雨間は「高いところ」故に、田をつくるのに水に困るためこの社を祀った、と。

八雲神社の手前に水路
県道7号を東へ向かうと、ほどなく県道176号が分岐。睦橋通り(多摩川に架かる)と称されるようになる県道7号を進み、県道の北にある八雲神社の手前の道を北に、野辺地区に入ると道の東に突然水路が現れる。地図を見ると。その一筋東の道にも水路が見える。地図では切り離されていた水路は暗渠で結ばれていた。

藍染川
その時は地図に見える八雲神社の池からの流れかと思っていたのだが、帰宅後チェックすると、角田さんの論文に「藍染川は、東秋留の南西の東秋留小学校の裏にある比高約1.5m の横吹面の段丘崖下に源を発し,約1.8km 流れて多摩川に合流する」とあり、また、「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」には小川の地名由来の項に「武蔵名所図会:普門寺境内より流れ出づる藍染川が、これを小川といった」といった記事もあった(普門寺は五日市線・東秋留駅の南にある。境内を囲むように四分の一円の弧を描く水路が地図に見えるが、流路の方向は不明)。
散歩で水路を見かけたときは、八雲神社からの流れと思い込み、流れの方向をあまり意識せず、流れの向かう方向を思い出せないのでなんとも言えないのだが、ひょっとすると、この水路は上記説明から、東秋留小学校の崖下、また普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない。
とはいうものの、八雲神社の周辺には水の涸れた水路が数条通っており、どれが藍染川の流れなのか、はっきりしない。それはともあれ、藍染川は八雲神社の湧水を源流とする「細川」と前田小学校付近で合流し舞知川(もうちかわ)となって秋川に注ぐ。
野辺
「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」に拠れば、由来は文字どおり、「野の辺り」。野は原(平で畑となるところ)と異なりやや起伏があり山が交るところ。山は平でも木が生えているところは山と呼ぶとのことである。

八雲神社境内の湧水;あきる野市野辺316番地
八雲神社境内に入ると大きな池があり、澄み切った水が豊かな湧出を想わせる。境内は平坦地となっており、『報告書』に「野辺面下・平地」とあるように、崖地から湧出しているわけでもない。野辺面下はこの辺りでは小川面である。が、段丘図を見ると、この辺りは野辺面からそう遠く離れた場所でもない。第一回の散歩のメモでの野辺面の説明にあったように、「東秋留駅の東から南にのびる段丘崖は比高1.5m?2mを示すが,段丘崖の各所から地下水が湧出している」とあるので、比高差があまりなくわかりにくいが、野辺面段丘崖からの湧出水のひとつとも妄想する。
崖線からの湧出であれば、池を囲む石組みの間から湧き出る箇所はないものかと湧出箇所を探すも、見つけることはできなかった。池の中央部分が一段深くなっており、そこから湧出するといった記事も見かけたが、それらしき湧出は確認できなかった。ただ、池から流れ出す水路の水は豊富であり、湧出量が大きいことは想像できる。
池から流れ出す水路は境内で左右に分かれていた。上で藍染川の事をメモしたが、それは帰宅後にわかったこと。散歩の折は、右に流れる水路が、八雲神社手前で見つけた水路であり、左に折れる水路が「細川」と称され前田小学校付近で合流し舞知川となるようである。

なお、社殿裏手には水が流れていない水路が通っている。境内には繋がっていないようだが、なんだろう?藍染川と八雲神社の湧水、八雲神社近くの水流の方向、同じく普門寺脇の水路の方向、こういったあれこれがさっぱり整理できない。近いうちにこれらの水路を全部追っかけてみる必要があるかと思う。
八雲神社
社の入口にあった案内によると
「長禄年中(一四五七-六〇)の創立であって、京都(祇園)牛頭天王を勧請し、野辺新開院が別当として、毎年六月十五日を祭日としていた。明治維新の大改革で神仏併合が禁じられ八雲神社と改称、明治六年十二月村社に列格、以後、例祭日を七月二十五日とする」
八雲神社の五輪塔(群)
湧水池から流れ出す水路脇に八雲神社の五輪塔(群)の案内; 「あきる野市指定有形文化財(建造物) 五輪塔一基のほか、五輪塔の一部である火輪一点、水輪二点が残されています。全て市内から産出される伊奈石で作られ、最下部ぼ地輪には正面中央に種子(仏や菩薩をあらわした梵字)、左に 「応永七年十月九日」(応永七年=1400年)、右に 「浄林禅門」(供養者名)の文字が刻まれています。
この配置は室町時代の伊奈石製の五輪塔に多い形式ですが、本資料はその古い例です。形態はこの時代の様式をよく示していて、室町時代最初頭における伊奈石製五輪塔の基準的な資料として貴重です あきる野市教育委員会」

細川
境内を出ると八雲神社湧水池から流れ出した「細川」が南に下る。ただ、境内を出た箇所から東に進む水路が見える。前述の前田小学校へと向かっている。これが藍染川の流れなのだろうか。前田小学校のあたりで舞知川となって秋川に下るようだ。但し、何回も述べたように、藍染川・細川・舞知川の繋がりは全くの未確認。





後日談
上記メモの如く、藍染川と八雲川、さらには普門寺川からの流れと藍染川の繋がりなど、気にな
ったことを整理に後日再訪。わかったことを整理すると;

藍染川が細川と合わさり南に下る
上記、八雲神社手前で現れた水路は、東秋留小学校の崖下辺りからはじまる藍染川のようだ。その水路は上記メモの如く、一筋東の通りで暗渠となるも直ぐに開渠となって八雲神社の南端を東に進み、八雲神社湧水から流れ出た「細川」と合わさり、五日市街道に向かって南に下る。


また、八雲神社手前で現れた水路・藍染川が暗渠となって南に弧を描く箇所から一直線に東に向かう水路は、八雲神社湧水からの水が左右に分かれる箇所に繋がっている。

細川・藍染川分流が東に分流する箇所
舞知川
ここで八雲神社湧水からの水路と合わさり「細川」となった水路は境内を出ると南に下り、前述の藍染川の水路と合わさり南に下るが、その少し手前で東に向かう分水点があり、その水路は前田小学校へと向かい、舞知川となって進む。

普門寺裏水路
細川・藍染川分流と合わさり舞知川に
で、普門寺からの水路と藍染川、細川、舞知川との関係だが、普門寺裏の水路(開渠)は五日市線・東秋留駅の東にある都道168号を越え、暗渠となって南に下り、前田小学校の辺りで八雲神社の境内を出た後、東へと進んだ水路と合わさり、舞知川となって進んでいた。

既述メモでの疑問点を整理すると
●「普門寺は五日市線・東秋留駅の南にある。境内を囲むように四分の一円の弧を描く水路が地図に見えるが、流路の方向は不明」

流路は西から東に。普門寺裏の水路は、水が枯れており流れは見えないが、東側が一段水路底が高くなっており、西から東へ向かうものと思い、都道168号の先の道を進むと上でメモの如く舞知川とつながった。 

●「散歩で水路を見かけたときは、八雲神社からの流れと思い込み、流れの方向をあまり意識せず、流れの向かう方向を思い出せないのでなんとも言えないのだが、ひょっとすると、この水路は
上記説明から、東秋留小学校の崖下、また普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない」

方向は東から西。「東秋留小学校の崖下」からかどうかは、トレースしていないが「多分そうだろう」。
また「普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない」は誤り。上上述の如く普門寺からの水路は東から南に進み前田小学校のあたりで藍染川から、というか「細川」+「藍染川の分流」の水路と合わさる。

●山田神社の「社殿裏手には水が流れていない水路が通っている。境内には繋がっていないようだが、なんだろう?」

社殿裏手の水路らしきものは、単なる叢。藍染川からの分水は境内南端を進み、湧水池からの水路とT字に合流し細川となって境内を出る。

◆普門寺からの水路脇に湧水池が
普門寺裏の水路が都道168号に阻まれるのだが、その東に如何にも水路跡らしきノイズを感じる道があり、そこを辿ったおかげで、普門寺からの水路と細川・藍染川・舞知川がつながったのだが、その暗渠となった道を進んでいると、暗渠下から強い水流の音がする。 普門寺裏ではほとんど水がなかったのに?道の東側に如何にも湧水池といった窪地が見える。
その先、塀の中を覗くと、これは巨大な湧水池が見える。また、その先にも湧水池が。 ということで、疑問整理の散歩で、思いがけず3箇所の湧水池がみつかった。小川湧水群ではないけれど、東秋留湧水群とでも勝手に名前をつけておこうか。  






屋敷林
道なりに進み都道7号・睦橋通りに。屋敷林と言うか、巨大な樹木を敷地内に持つ民家を見遣りながら小川地区に入り小川交差点に。交差点北西の角に熊野神社が建つ。


小川
小川の名は奈良時代の記録に残る。延長5年(927)制定の『延喜式』には勅使牧(天皇家直属の馬牧)としてこの地の小川牧が記録される。小川牧からの貢馬数は10疋。牧で飼育される馬の数は貢馬の二十倍とされる。ということは小川牧の馬の総数は200疋。牧の管理は牧長と記録係の牧帳、それと馬100疋につき二人の牧子であるから、200疋では四人の牧子の総勢6名の運営体制ということであろうか(Wikipediaを参照)。
で、小川の地名の由来は、藍染川のことろでメモしたが、「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」の小川の地名由来の項に「武蔵名所図会:普門寺境内より流れ出づる藍染川が、これを小川といった」とあるので、「小川」の流れるところ、と言ったところだろう。

小川交差点湧水;あきる野市小川820番地
『報告書』に湧水点は交差点南西とある。都道166号を南に少し進むと宝清寺へと東に入る道があり、その角(宝清寺と刻まれた大きな石標の裏)にポッカリ穴のあいたような、水車跡の残る石組みの水路がある。錆びた水車の横の石垣から管が出ており、当日水は出ていなかったが、そこが湧出点であろうか。 『報告書』には小川面下とある。段丘図を見ると、この辺りの小川面下は氾濫原とあった。



宝清寺
参道を進み宝清寺にちょっと立ち寄り。本堂にお参り。境内に小祠があり、「たわしでこすって祈願成就」のコピーとともに「浄行菩薩縁起」の案内がある。簡単にまとめると、浄行菩薩とは妙法蓮華経に登場し衆生を救う菩薩のこと。お地蔵様の中でも最上位の菩薩で、お地蔵様を自分に見立て、患部をたわしでこすると御利益がある、とのこと。絵馬に願いを書きたわしでこするようだが、今回は「撫で仏」で御利益をお願いした。
御利益はともあれ、境内の南端から東秋川橋の向こうに見える加住丘陵の北端、 秋川に突き出た箇所にある高月城を辿った記憶が蘇る。

◆宝清寺の歴史
お寺さまのHPに拠れば、「宝清寺(ほうせいじ)は、西多摩では唯一の日蓮宗身延山久遠寺の末寺で、開山は法清院日億上人、開基は青木勘左衛門(武田勝頼の縁者)
甲州武田勝頼公滅亡後、その青木勘左衛門は、八王子城落城後、関東に入国した徳川家康に見出されてこのあきる野市小川の地を賜った。勘左衛門は、戦国時代に滅んだ武士達の霊を弔うために出家し、元和年間(1615~1624)故郷甲斐国雨利郷(甘里)にあった東照山教林寺をこの地に移し東照山法清寺と号し創立した。
最初は、東照山と号していたが、宝永年間(1704~1711)九世圓妙院日亮上人の代に、東照山とは徳川家に対して畏れ多い山号だとして、領主水谷信濃守より身延山に申し出て、寺禄等を寄進して祈願処としたことにより水谷山宝清寺と改められたといわれる」とあった。

小川湧水群;あきる野市小川837番地辺り
小川交差点に戻り、睦橋通りを東に進む。地図を見ると、あきる野市小川郵便局を過ぎた辺り、通りの北側に池が五カ所記載される。そこが湧水池ではと推測し道を進むと、民家の敷地に池があり、池から水が流れ出している。その横の家の敷地には結構大きな池がある。また、その隣の民家敷地にも、小振りながら如何にも湧水池といった趣の池が続く。ここが小川湧水群ではないだろうか。
『報告書』には、「小川面下・傾斜地」とある。角田さんの段丘図ではこの辺りの小川下は南郷面とされる。







法林寺
小川湧水群からの水はどちらに向かうのだろうと、睦橋通りの南を彷徨う。何ら痕跡は見当たらなかったが、法林寺というお寺さまがあったので、ちょっと立ち寄り。本堂脇に石造りの水場があり、少量だが竹筒から水が流れ落ちる。また、水場の対面に手押しのポンプがあり、ポンプを押すと結構な勢いで水が流れ出す。

寺伝によれば、開山の僧が二宮神社の龍に功徳を施し、そのお礼に絶えざる水が湧出するようになった、とのことだが、近くの小川湧水群を見るにつけ、小川の崖線からの湧水なのでは、とも妄想する。
境内の南端、河岸段丘の崖線上から、下の氾濫原、そして秋川、その川向うの高月城を北端とする加住丘陵の眺めを楽しみながら、少し休憩。このロケーションに身を置くにつけ、この臨済宗南禅寺派のお寺様は、かつては戦乱期の武将の館跡との説明も納得できる。秋川を自然の要害とし、対岸の高月城、その南に控える滝山城と一体となった大石氏、またその女婿である北条氏照との関連を示唆する記事もあった。確たる文書はないようだが、土塁跡は残るようである。

舞知(もうち)川
次の目的地は梨の木坂の湧水。秋川筋を離れ、北の平井川筋へと向かうことになる。法林寺から小川交差点まで戻り、小川熊野神社にお参りし都道166号を北に進む。
小川地区と二宮地区の境に舞知川が流れる。東秋留の南西の東秋留小学校の裏・横吹面の段丘崖下から、またまた、普門寺境内よりの湧水を集めた藍染川と八雲神社の湧水から流れ出す「細川」が前田小学校辺りで合流し舞知川となって秋川に下る、とのことである。

平沢
二宮地区を進み、二宮本宿交差点で都道166号から多摩川方面に向かう都道7号に乗り換える。多摩川の対岸に福生方面を見遣りながら弧を描く坂を下ると平沢交差点。平沢東と平沢地区の境となっている。「地名あれこれ(あきる野市教育委員会)」には平沢の由来を「平井川沿いの浅い平らな谷地のこと」とする。

梨の木坂湧水;あきる野市平沢859‐1辺り
●東京都水道局平沢増圧ポンプ場の裏手の崖面から湧出
平沢交差点で都道7号を離れ、一筋東の坂を上る。東京都水道局平沢増圧ポンプ場の裏手に崖がある。その崖からパイプが出ており、そこから水が落ち、ポリタンクに溜まった後、下の水路に落ちていた。『報告書』には「小川面下・崖地」とある。段丘図で見ると、小川面下は氾濫原となっている。

民家脇から湧水
東京都水道局平沢増圧ポンプ場裏の崖面に向かう坂道の途中に西に向かう道がある。次の目的地の広済寺への道筋であるが、その曲がり角の民家脇に、鯉が泳ぐ細長い水路が見える。水路の先には管があり豊かな水が流れ落ちている。 これって湧水?ためつすがめつ水路を眺めていると、その家の御主人が現れ、かつてこの辺りに湧水池があったのだが、それが埋め立てられるとき、管を引いて水を流すようにしたと話して頂いた。道の下に水路跡が続くが、昔は下は一面の田圃で、その灌漑に使われていたとのことであった。
ざくざく婆の湧水跡
梨の木坂湧水のメモをしている時、梨の木坂に「ざくざく婆」の湧水跡があることを知った。Google Street Viewで梨の木坂をチェックすると、増圧ポンプ場裏の崖線の道を隔てた石垣下に湧水らしきものが見える。そこが「ざくざく婆」の湧水跡だろう。
ざくざく婆の由来はお婆さんが小豆を洗う「ざくざく」という音が聞こえていたから、と。
因みに梨の木沢は「ところてん坂」とも呼ばれるようだ。由来は二宮での芝居見物に向かう人に、この湧水を使ったおいしい「ところてん」が評判になった、故と。

湧水湿地
坂道を広済寺に向かって上って行くと、道の北側に如何にも湧水湿地といった場所がある。湿地の中に入っていくと、一面から「浸みだす」湧水を見ることができた。今回の湧水散歩ではじめての、自然な湧水湿地であった。滾々と湧き出す湧水もいいのだが、こういった「じわり」系の湧水湿地も結構、いい。勝手ながら、このままの状態で保存されることを望む。

広済寺境内湧水;あきる野市平沢732番地
湧水湿地の先に広済寺。明るく品のいいお寺さまである。境内に石組みで窪みとなった水路がある。そこが広済寺境内湧水ではあろう。水路上の竹筒から水鉢に豊かな水が落ちていた。
『報告書』には「小川面下・傾斜地」とある。小川面と氾濫原の境の崖というほどではないが、傾斜地から湧出しているのだろう。

田中丘隅回向墓
次の目的地へとお寺様を出ようとすると、「田中丘隅回向墓」と書いた矢印がある。田中丘隅は大丸用水散歩や二ヶ領用水散歩で出合った民政家である。矢印に従い先に進むと石碑が建つ。脇にあった案内には「田中丘隅回向墓 東京都指定有形文化財(歴史資料)平成10年3月13日指定
田中丘隅(休愚)は江戸時代を代表する民政家の一人で、自らの経験をもとに近世を通じて最もすぐれた経世の書といわれる 「民間省要」 を著述している。 その著書は八代将軍吉宗に献上され、享保改革に少なからぬ影響を与えたといわれている。
丘隅は、自著が将軍吉宗の上覧に達したことを契機に、江戸幕府の地方役人に抜擢され、荒川・多摩川・酒匂川の治水エ事、さらに大丸用水、六郷用水・ニヶ領用水の普請工事などに手腕を振るい、そして、のちには代官(支配勘定格)に任ぜられ、武蔵国などの幕領支配にもあたっていた。
彼は旧多摩郡平沢村(現・あきる野市平沢)出身で、享保14年(1729)12月22日に死去しているが、回向墓は彼の死後間もない時期に、兄の祖道が願主となり一族縁者の助成によって建立されたものと考えられる。
建立時やその後の状況についてはまったく不明である。材質は伊奈石。台座は白河石。回向墓の高さは台座を含め約166・7センチメートル。 彼の生家の菩提寺である広済寺境内に建つ回向墓は、丘隅の事績を簡潔にまとめた銘文が刻まれており、民政家田中丘隅の活躍を偲ぶことができる貴重な歴史資料である」とあった。

広済寺
お寺様のHPに拠れば、
「臨済宗建長寺派 本尊釈迦牟尼如来 開山椿山仙禅師 開基平澤院来山正本大居士
開創安土桃山時代天正15年(1587)
廣済寺を建立された開基は、平沢村名主八郎左衛門の先祖とされています。 創建当時の境内には三間四方の阿弥陀堂がありました。
文政3年(1820)の大火で山門を残しすべて焼失したものの、天保7年(1836)すぐに再建されました。
昭和24年(1949)羅災により再び本堂、庫裏を焼失。その後、平成6年(1994)檀信徒が力を合わせ旧姿に復しました。以来、この地域の信心・信仰の道場として今日に至っております」とあった。

玉泉寺
広済寺を離れ、本日最後の目的地である二宮神社の湧水に向かう。都道168号と都道7号がT字に合わさる二宮神社交差点に向け成り行きで歩いていると、これまた品のいいお寺様があった。天台宗・玉泉寺とある。ちょっと立ち寄り。仁王様が佇む赤い仁王門を潜り境内に入り、落ち着いた雰囲気の本堂にお参り。境内には醤油樽の中に安置された恵比寿さま、観音さまなどがあった。地元の早川醤油の樽を使ったもののよう。
そういえば、仁王さんも常のごとくの剣の替りに、赤子を抱き鳩が頭上にといったもの。酒樽にしろ仁王様にしろ、家光から寺領20石の御朱印状を賜り、信州善光寺の別院として秋川流域の浄土信仰の中心であったという伝統だけに囚われない洒脱さが心地よい。
本堂には明治の頃、成田山より遷座された不動明王が安置され、ために当寺は秋川不動尊とも称されるようである。



二宮神社のお池; 東京都あきる野市二宮2252
二宮神社交差点から都道168号を南に下るとほどなく道の東側に大きな池がある。この地には一度訪れたことがある。その時は湧水が目的ではなく、武蔵六宮のひとつ、道の西側にある二宮神社が目的であったのだが、大きく清冽な湧水池に結構嬉しくなった。
湧水池は誠に大きい。水は枯れることがないと言う。池の底から湧出しているとのことだが、大きな池からなんとなく「不自然」に、細長く都道方向に延びる箇所がある。また、都道から池に水路が続き、都道脇の石組みの中に造られた管からも水が流れ出しているように見える。
『報告書』には「秋留原面下・崖地」とある。道の西側、二宮神社は崖上に鎮座する。秋留原面と小川面を画する二宮神社の崖地の「何処から」か湧出しているのではあろうが、湧出点ははっきりとは確認できなかった。
湧水池は日本武尊(やまとたけるのみこと)が国常立尊(くにたちのみこと)を祀ったところ水が湧き出た、と伝わる。国常立尊は水の神さまである。公園となっている湧水池からは水路となって水が東に流れている。特に水路に名はないようだ。

二宮神
神社の案内;創立年代不詳。小川大明神とか二宮大明神と呼ばれていた。小川大明神の由来は、古来この地が小川郷と呼ばれていたため。二宮大明神の由来は、武蔵総社六所宮の第二神座であった、ため。二宮神社となったのは明治になって、から。
この神社には、藤原秀郷にまつわる由来がある。秀郷は天慶の乱に際し、戦勝祈願のためこの神社におまいりした、と。故郷にある山王二十一社のうち二宮を尊崇していたため、である。天慶の乱とは平将門の乱のこと。
またこの神社は、源頼朝、北条氏政といった武将からも篤い信仰を寄せられていた。滝山城主となった北条氏照も、ここを祈願所としている。
武蔵一の宮である小野神社の周囲には小野牧があった。この二宮のある小川郷にも小川牧がある。因果関係は定かではないが、馬の飼育・管理と中央政府の結びつきってなんらかインパクトのある関係だったのではなかろうか。実際小野牧に栄転した小野氏も、それ以前は秩父での牧の経営で実績をあげての異動であったように思える。
藤原秀郷と二宮のかかわりは、母が近江の山王権現に祈願して授かった子、であったため。山王二十一社とは、 上七社・中七社・下七社の総称。そのなかでも特に重要な位置を占める上七社は大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮である。秀郷は二宮にお願いして生まれたのであろう、か。
武蔵六社
武蔵六宮とは一宮・小野神社、二宮は小川・小河神社(現二宮神社、東京都あきる野市)、三宮は氷川神社(のち一宮。さいたま市)、四宮は秩父神社(埼玉県秩父市)、五宮は金鑽神社(埼玉県神川町)、六宮は杉山神社(横浜市)である。
大石氏
二宮神社の地は大石氏の館があったところ、と。『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』によれば、貞和年間(1345年)鎌倉幕府の命により、木曽義仲の七代の孫・大石信重が築いた、とか。信濃国佐久郡、大石郷から移ってきた、とも。正平11年(1356年)には入間・多摩郡のうち、13郷を領している。
大石氏はこの二宮神社の南に館を構えた。正平11年(1356年)から至徳元年(1384年)の間の28年間である。その後、陣場山麓上恩方案下に山城を築く。甲斐の武田信玄に対して西の備えとしたわけだ。この恩方城に至徳元年(1384年)から長禄2年(1458年)までの74年間居を構え、鎌倉公方持氏の滅亡、足利成氏と長尾影春の戦いなど、戦乱の巷を乗り切った。
二宮考古館
二宮神社にお参りし、その傍にある「二宮考古館」に久しぶりに立ち寄る。二宮神社周辺の遺跡や、市内で発掘された土器、石器などが展示されている。先回訪れた時に考古館で購入した『五日市町の古道と地名』は、その後の秋川筋の散歩で誠に役にたった。先人の研究に深謝。

これで秋留台地段丘の湧水散歩も平井川筋を残すのみ。お楽しみは次回に廻し五日市線・東秋留駅に向かい、一路家路へと。
先日、石工の里・伊奈を辿り秋留台地を歩いたとき、秋留台地が8面9段からなる段丘によって形成されることを知った。段丘であれば各段丘面を画する段丘崖があるだろうし、その崖下には湧水があるのでは?
帰宅後チェックすると湧水点が記載された資料が見つかった。「Ⅲ あきるの市の地質・地形」とタイトルにあるそのpdf資料は、URLに「city.akiruno.tokyo」とある。あきる野市の調査報告書(以下『報告書』)の一部かと思う。 その『報告書』の「湧水と段丘」に記載されている「秋留台地の湧水」に拠ると;
「◇秋留台地の概要 
西端の伊奈丘陵南麓から東端の二宮神社まで、東西約 7.5km、南北約 2.5km である。 西端標高 186m、東端標高 138m、勾配 6.4/1,000 である

秋留台地の地質構成
表土 約30cmの火山性黒土や氾濫性土壌
立川ローム層 0.5~2m 約3万年前からの富士山起源の火山灰
段丘礫層  約8m 関東山地からの堆積層
上総層(大荷田層・加住層) 60~150cm 100~300万年前の河成~海成層

秋留台地の段丘構成 
 段丘は 8 段 9 面あり、上位から
1.秋留原面 2.新井面 3.横吹面 4.野辺面 5.小川面 6.寺坂面 7.牛沼面 8.南郷面 9.屋城面 と区分されている
湧水のしくみ
秋留台地には年間約 1,500mm の降水量があり、そのうち約半分は地下に浸透する。浸透した水は、水を通しやすい表土、関東ローム層、段丘礫層を通過し、五日市砂礫層(上総層)に達する。上総層は礫層の間に砂屑やシルト層を多く含んでいるため、水を通しにくい地層である。このために透過してきた水は上総層の上に溜まり、台地の6.4/1,000の傾斜に沿って流れ下り、段丘の崖から流れだしてくる。
秋留台地の湧水の源は、台地西側の山地であり、ここから流れでた水は地下水として東に流れ、平沢地区、二宮地区、野辺地区、小川地区などで湧出している。

「あきる野市の報告書」より
秋留台地の一層目の帯水層は秋川や平井川で運ばれた砂利層であり、その下にある上総層は、その間に詰まった粘土が不帯水層をつくり、その上に帯水する。何層にもなった帯水層の最上部の層の地下水が湧水となって地表に流れ出すと考えられている」との概説の後、以下18の湧水点がその所在地区・標高・段丘面・流量などともに記載されていた(調査日時省略)。



また、同報告書には記載のなかった各段丘に関する説明、その概要図は「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」といった論文がWebで見つかったので、素人ながらそれを参考に湧水散歩のメモをはじめることにする。


今回のルート;山田八幡神社裏(山田地区)>瑞雲寺(山田地区>秋川フィッシングセンター(山田地区)>引田橋>真照寺(引田地区)>真城寺(上代継地区)>白滝神社境内(上代継地区)>秋川神明社から50m東の崖下(牛沼地区)>石器時代住居跡群崖下(牛沼地区)


五日市線・武蔵増戸(ますこ)駅
湧水散歩は、上述『報告書』にあった番号の1番から順に18番まで辿ることにして、最初は山田地区の山田八幡神社に向かう。最寄駅は五日市線増戸駅。 増戸は地名にはない。チェックすると、いつだったかあきる野市の二宮考古館で買い求めた『五日市の古道と地名;並木米一』には、「この辺りの網代、山田、伊奈、横沢、館谷、三内という六つの地域は中世から近世、明治まで独立村として続いたのだが、明治22年(1889)の町村制施行時に館谷を除いた五ヶ村が合併し、将来の戸数増加を願い「増戸村」となる。昭和30年(1955)の改革で五日市町と合併し、「増戸」の地名は消滅した」とあった。駅名はその名残だろう。


都道185号を南に秋川方面へ
武蔵増戸駅を下り、直ぐ西を南北に通る都道186号を南に下る。この道筋はかつての「鎌倉街道山ノ道」。高尾から4回にわけて(鎌倉街道山ノ道そのⅠ:高尾から秋川筋に、鎌倉街道山ノ道そのⅡ:秋川筋から青梅筋に鎌倉街道山ノ道そのⅢ:青梅筋から名栗筋に、鎌倉街道山ノ道そのⅣ:妻坂峠を越えて秩父路に)秩父まで歩いたことを思いだす。

山田八幡神社;あきる野市山田477番地
南北を走る都道185号・通称「山田通り」は、東西を走る都道7号、かつて伊奈の石工たちが江戸の町普請に往来しした伊奈道と交差。その「山田交差点」から先も「山田通り」と称されるが、道は都道61号となって秋川を山田大橋で渡り、加住丘陵を網代トンネルで抜ける。
山田八幡神社は都道61号・山田通りを少し南に進み、山田大橋が秋川を跨ぐ左岸段丘崖下にある。山田大橋手前から左に入る脇道を下り、巨大な橋の桁下を潜ると正面に瑞雲寺、その左手に山田八幡神社の鳥居が見える。

山田八幡湧水
鳥居手前には如何にも湧水湿地といった趣の水草が繁る。水の流れはないのだが、その水路に沿って境内に入る。社の左手に水汲み場があり、そこにパイプがあるのだが水は流れていない。とりあえずそのパイプに崖地の湧水を集めてはいるのだろうと社裏手の崖地を探すが、これといって崖地からの湧出箇所は見当たらなかった。上述『報告書』には水量は「小」とあった、とはいうものの、最初のポイントで湧水点が見つからないのは、ちょっと残念。
山田八幡神社
鎮座地 東京都あきる野市山田477番地
御祭神 応神天皇
御由緒 文和年間(1352‐)足利尊氏公家人景山大炊介貞兼の建立で瑞雲寺が奉任していた。明治2年神仏分離令により神職の奉任となる。
明治6年社殿再建 昭和60年社殿再建





瑞雲寺;あきる野市山田496番地
山田八幡の湧出箇所を探し、崖面を彷徨っていると、神社左手の瑞雲寺の裏手崖下に池が見える。ひょっとして、この池は湧水からの池では?と崖地をお寺さま側に移る。
瑞雲寺湧水
と、池の脇に竹筒があり、それを辿ると崖地に大きな管が埋め込まれていた。山田神社と同じく水は流れていなかったのだが、この管が崖地からの湧出箇所ではないだろうか。





瑞雲寺 
所在地:あきる野市山田496番地
境内にあった案内
「足利尊氏坐像 あきる野市指定有形文化財(彫刻)
臨済宗建長寺派に属する瑞雲寺は、南北朝時代に開かれたと考えられています。開基(創立者)は尊氏の子である基氏の母(あるいは伯母)という寺伝がありますが、この像はこの伝承と符合しています。また、南朝、北朝にわかれての全国的な戦乱の時代に、当地方は北朝系地侍の地盤であったことを示しています。
制作年代は江戸時代と考えられ、尊氏像はあまり類例を見ないことから希少価値があります。なお、昭和40年代に修復が行なわれ、彩色が施されています」
瑞雲寺板碑 あきる野市指定有形文化財(歴史資料)
「板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて、追善や供養などの目的で作られた石製塔婆の一種です。この板碑は蓮華台の上に、草書体で「南無阿弥陀仏」と「阿弥陀仏」の称号(明号)が大きく彫られ、その下方中央に「門阿」(供養者名)、右に「建武二年乙亥(一三三五)、左に「七月廿一日」の文字が刻まれています。
秩父産の緑泥片岩が使用され、市内では大型に属し、保存状態も良好です。 (全長122センチ、幅32.6センチ、厚さ2.8センチ)」

多摩川流域の臨済宗建長寺派
鎌倉時代、宋から栄西によってもたらされた禅宗の一派。蘭渓道隆など中国から来朝した名僧によって鎌倉・室町期に公家・武家の庇護を受け隆盛。
建長5年(1253)、鎌倉幕府5代執権北条時頼が鎌倉に蘭渓道隆を招き建長寺を建立するに及び臨済宗は発展。中でも建長寺は鎌倉五山第一として幕府の庇護を受けると、その末寺は鎌倉末期から相模・武蔵を中心に関東に広がり、南北朝以降は関東臨済宗の中心となる。
特に多摩川流域に顕著。戸倉の光厳寺(建武元年1334)、芝崎村の普済寺(文和4年;1355)、小和田村の広徳寺(応安6年;1373)が創建され、その末が多摩に広がる。


その他、鎌倉五山第三の寿福寺を拠点とする寿福寺派(明治以降建長寺派に)の普門寺(あきるの市)も南北朝期に再興され末を広げる。
更に南禅寺派の広園寺(八王子)松の法林寺も康応元年頃(1389)発展

山田の地名の由来
「山」は所謂高く聳える「山」を指すだけではない。平坦地であってもそこき木々が生えているところを「山」と称することも多い。「山田」の由来は平坦地に木々が茂る辺りに開いた水田地帯、といった説もある。
また、『新編武蔵風土記稿』には、「山田村ハ其地名ノ起リヲ尋ルニ村内瑞雲寺ノ開基瑞雲尼ハシメ勢州山田慶光院ニ住シテソレヨリ當所ニ移住アリシユヘカノ勢州ノ地名ヲコヽニウツシテ山田ト號スト云」といった説もあるようだ。勢州とは伊勢のこと。

山田八幡と瑞雲寺の湧水と段丘
上述したあきる野市の『報告書』には山田八幡神社の湧水は「牛沼面下」の「崖地」にあると記される。瑞雲寺も状況からみて同じと考えてもいいかと思う。で、「牛沼面下の崖地」ということは、「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文にあった秋留台地の段丘図を見るに、牛沼面の下は、秋川の「氾濫原」となっている。
ということは、山田神社や寺瑞雲寺は崖面直下ではあるものの、氾濫原に建てたということ?秋川の川床の標高は144mといったところだから、比高差は5,6m。護岸工事もない室町期、洪水の心配はなかったのだろうか?、何故に氾濫原に寺社を建てたのか結構気になる。

奇妙な分布を示す新井面と横吹面
増渕和夫さんの論文より
で、山田八幡や瑞雲寺の位置する段丘面を確認するため「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文にあった秋留台地の段丘図を凝視していると、気になることが現れた。
五日市線・武蔵増戸駅から山田八幡・瑞雲寺に下るまでに、知らず秋留台を形成する最上位面の秋留原面、新井面、横吹面、小川面、寺坂面を歩いて来たようである。
それはそれでいいのだが、各段丘面を見ていると、新井面、横吹面、野辺面、特に新井面、横吹面が通常河岸段丘で見られるように連続した階段状にならず、新井面は武蔵増戸駅の南東側および西秋留駅の東側に狭い面積で分布し、また横吹面も武蔵増戸駅の南西側や東秋留駅の南西側などに分布しているだけである。そして、「切り離された」新井面や横吹面の間には秋留原面が「割り込んでいる」ように見える。
平井川水系の氾濫による秋留原面のオーバーフローがその要因?
これってどういうことだろう?と、好奇心にまかせあれこれチェックすると、上述「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文に、「横吹・野辺面形成期(約12000から10000年前)に平井川系の水流が秋留原面にオーバーフロー」し、「秋留原面上に分布する浅い谷や凹地はその氾濫流路跡」とあった。
「オーバーフロー」ってどういうことは詳しいことは分からないが、素人なりの妄想によれば、上位面の秋留原面の地層が氾濫流によって下位の段丘面を埋めてしまった、ということだろうか。段丘図にある東本宿から五日市線・武蔵引田、秋川駅を経て蛙沢へ南東に延びる氾濫流路跡の窪地と下位段丘面に「割り込む」秋留原面のラインが見事に一致している。また、野辺面の下位段丘である小川面が、通常の段丘に見られる階段状の段丘の姿を残しているのも、オーバーフローの時期が横吹・野辺面形成期であり、小川面の形成以前のことからして、素人なりに納得できる。

秋留台の段丘
以下、「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」をもとに秋留台の段丘の概要をまとめておく;

秋留原面
秋留原面は秋留台地の主要部を占め,標高は西端の伊奈丘陵の南麓で約186m,東端の東秋留駅近くで138m。基盤は五日市砂礫層。その上に立川礫層=段丘礫層、そして最上段にローム層が堆積する。
段丘中央部は基盤まで地表から20mを越える箇所もあるが、段丘周辺部では基盤の位置は相的に高く、段丘東端部では地表から2mほどのところもある。

新井面
新井面は秋留原面より4?6m 低く, 武蔵増戸駅の南東側および西秋留駅の東側に,狭い面積で分布している。段丘礫層は2,3mほどと推定される。

横吹面
横吹面は武蔵増戸駅の南西側や東秋留駅の南西側などに分布し, 平面形は釛錘形をしている。新井面との比高は2-4m。東秋留駅の南西部においては,比高約1.5m の段丘崖下において大雨後には湧水が見られ,藍染川の水源地となっている。このことから段丘礫層の層厚は2?3m 程度で,その下位には秋留台地の基盤となっている上総層群(五目市砂礫層)があると考えられる。

野辺面
野辺面は伊奈から引田にかけて, 西秋留駅前付近および東秋留駅前付近に分布している。上位や下位の段丘面との比高は1?3mとなっている。
段丘礫層は東秋留駅の東端で約4m,東秋留駅の西にある東秋留小学校でも約4mとなっている。東秋留駅の東から南にのびる段丘崖は比高1.5 ?2mを示すが,段丘崖の各所から地下水が湧出している。引田では下位の小川面とは1?2.5m の緩傾斜の段丘崖で境されるが,大雨の際には段丘崖から地下水が湧出するところから, 段丘礫層は2 ?4mの層厚と推定される。

小川面
小川面は関東ローム層におおわれない段丘としては発達が最も良く,伊奈から代継にかけて,あるいは牛沼から小川・二宮にかけて広く分布している。
段丘礫層の層厚は6m前後のところもあるが、おおむね3?5mではあるが、層厚が1.5?4mの幅をもつ箇所もあり場所によって異なる。
段丘崖では段丘礫層との不整合面から不圧地下水が湧出している。
粘土層は段丘礫層とは層相が著しく異なるところから, 段丘礫層を堆積させた多摩川・秋川によって運搬されたのではなく,横吹面および野辺面の段丘崖下に水源をもつ舞知川,あるいは秋留原面の段丘崖下に水源をもつ千人清水によって運搬され, 堆積したものと考えられる。粘土層の基底部からは先土器時代終末あるいは縄文時代初頭のものと思われる尖頭器をはじめとする遺物が多数出土している。また粘土層内からは縄文時代以降の遺跡・遺物も出土している。

寺坂・牛沼・南郷面
寺坂面は武蔵増戸駅の南に狭い面積で分布し,秋川の現河床からの比高は23?25m ,上位の小川面との比高は約1.5rnである。
牛沼面は牛沼をはじめとして数ヶ所に狭い面積で分布している。秋川の現河床からの比高は伊奈付近で18?20m ,牛沼16?18m ,秋川と多摩川の合流点付近で10?14m となっている。南郷面は上位の段丘面の縁に点在して分布して秋川の現河床からの比高は10m前後。これらの段丘はいずれも五日市砂礫層とその上に堆積する層厚2?4mの段丘礫層からなる。

屋城面
屋城面は秋川・平井川および多摩川によって形成された河岸段丘のうち最下位の段上面で,氾濫面との比高は0.5?3mである。秋川の現河床からの比高は4?6m,平井川の現河床からの比高は3m前後を示すが,多摩川の現河床からの比高は7?10mとなっている。
多摩川の現河床からの比高が高いのは,多摩川の河川敷における砂利採取の影響によるもので,第2次大戦後その影響は特に大きく現れたようである。段丘面はに示されているように,いくぶん起伏があるが,これは河床面だった時代の礫堤あるいは礫州がそのまま残っているものと考えられる。段丘礫層の層厚は2?3mである。


秋川フィッシングセンター北の崖下に湧水路
次の目的地は、前述『報告書』の湧水番号2.にあった「元山田釣堀敷地内隣接崖」。地図で確認すると護岸工事された秋川と段丘図の牛沼面の間に広がる氾濫原に「秋川フィッシングセンター」がある。そこが「元山田釣堀」ではないだろうか。
瑞雲寺から道なりに進むと、護岸工事された秋川脇に出る。その道を進むと「秋川フィッシングセンター」があった。そこから北を見ると結構比高差のある崖地が見える。崖下の手前は民家の敷地や畑地があり、道はない。仕方なく畑地の畦道を進み崖下に。そこには水路があった。如何にも崖地からの湧水を集めたような自然な水路である。

水路は源流点近くまで崖下を東に進めるのだが、水路が切れる「源流点」らしき辺りは民家の敷地となっており、それ以上は進めない。崖地側から進もうとも思ったのだが、藪がひどく迂回は諦めた。とりあえず、崖下から湧出したであろう結構豊かな水の流れを確認し湧水点2番目をクリアしたとみなす。なお、この水路は西南に進み秋川に注いでいた。
崖面は牛沼面氾濫原を画する崖ではあろう。また、角田さんの論文には「伊奈丘陵内に源を発し,台地上を南東方向に流れる溝ッ堀という川があり、堀が丘陵から台地上に出たところには小規模な扇状地を形成している。普段は尻無川のようになっているが, 豪雨の際には氾濫することもある。約2.2krn流下して秋川に合流している」との記事があったが、上流・中流は水路跡がわからないが、下流部は崖下の湧水の流れと同じように思える。

牛沼面崖が秋川に突き出す箇所を進み引田橋に
秋川に沿って進む。前方はブッシュが激しく進めるかどうかよくわからない。が、とりあえず左手に崖面を見遣りながら護岸堤に沿って進むと通行止めの案内。ここまで来て戻るのも何だかなあ、行き止まりとなれば川床に下りればいいか、などと思いながら先に進む。
段丘図を見れば、牛沼面下の崖が秋川へとせり出している箇所である。氾濫原にあった道もなくなり、牛沼面の崖が直接秋川に接する箇所は、護岸堤のコンクリートの上を慎重に進み、ほどなく引田橋に出た。秋川右岸の秋川丘陵には 六枚屏風岩が見えた。

六枚屏風岩
「六枚屏風岩は、大規模の土柱が並列する特異な崖の地形として天然記念物に指定されたものである。奥多摩山地の麓に南北に広がる丘陵をつくる礫層(加住礫層)が、秋川の洪水時の激流によって急な崖をつくり、更に浸食されて、後退していく過程で、ほぼ等間隔に高さ10メートル以上の六つの土柱が形成され、それが六枚折り屏風に見立てられ六枚屏風の俗称が与えられた。この土柱は六枚屏風として、文政四年(1821)の『武蔵名勝図会』に描かれている。このうち、現在、第四柱が消失している。六枚屏風岩の崖では、数百年以上前から土柱が成長、崩壊を繰り返したと推定され、自然環境の移り変わりを知るうえで貴重な文化財である。東京都教育委員会」

真照寺湧水;あきる野市引田863番地
成り行きで進む。地域は引田に入る。あきる野市発行の「郷土あれこれ」に地名の由来があり、それによれば、「曳き;ヒキ>ヒクイ=低いの意味。秋川沿いの低地に集落が開け、そこに低田を開いて生活していたのだろう」と記されていた。
引田地区を進む。帰宅後段丘図をチェックすると。牛沼面と屋代面の境を進んで行ったようである。ほどなく趣のある木塀に囲まれた真照寺に。
境内に入り湧水点を探す。本堂の右手に薬師堂があり、その前に池がある。この池に繋がる湧水の手掛かりはないものかと辺りを彷徨うが、これといった痕跡はなかった。市の報告書には流量は極少とあった。
また、市の『報告書』には「小川面下・傾斜地」とある。段丘図でチェックすると、このお寺様の辺りは小川面と屋代面の境のようでもある。
真照寺
真言宗豊山派のお寺さま。寛平3(891)年、僧義寛上人によって創建されたと伝えられている。本尊は不動明王である。享禄4(1531)年に現在の地に遷された。都指定有形文化財の薬師堂と、市指定有形文化財の山門がある。朱印寺領7石。



真照寺山門
真照寺山門 あきる野市指定有形文化財(建造物)
薬師堂(東京都指定文化財)に伴う門として、元禄元年(1688)に建立されました。
構造は、本柱の前後に二本ずつ計4本の控え柱をもつことから四脚門と呼ばれ、和洋を基本としています。当初より彩色が施されていたようで、部材の保存もよく、江戸時代中期初めの特徴をよくとどめています。
また棟札により建立年代、寄進者、住職、大工名もわかり、歴史資料として貴重です」

薬師堂
「真照寺薬師堂 東京都指定有形文化財(建造物)
木造で屋根は宝形造、桁行3間、梁間3間の建物で、間口・奥行ともに約4.42m(19.5㎡)です。外回り切目縁付き、軒回り柱上部に舟肘木があり、建築年代は室町時代と考えられています。
寺には廷文元年(1356)、関東管領足利基氏建立の棟礼写しがあります。『新編武蔵風土記稿』には寛平3年(891)造立の柱を用いて、廷文元年に再建したと見え、すでに江戸中期頃には柱に虫穴などがあって古色を呈していたと記されています。
昭和44年解体修理を行い、屋根はもとの茅葺を銅板葺に改めました。真照寺は引田山金蓮院と号する真言宗豊山派の寺院で、寛平3年に義寛上人によって開山されたと伝えられています。なお、宮川吉国寄進の厨子も附として指定されています」

殿沢
左手に大宮神社の社を見遣りながら進むと氾濫原に拓かれたような畑地が広がる。と、足元を見ると水流のない水路が東へと続く。畑地を道なりに進むと、南に曲がり秋川に向かう水路と交差する。チェックすると、殿沢と呼ばれるようだ。上述角田さんの論文に「殿沢は秋川市引田の小川面の段丘崖下にある海老沢沼に源を発する。さらに,途中,段丘崖下の各所から湧出する地下水を合わせ, 約1.8km 流れて秋川に合流している」とあった。海老沢沼がどこか不明だが、真照寺の北西の牛沼面と接する小川面崖下辺りであろうと思う。

真城寺湧水;あきる野市上代継344番地
殿沢を越え上代継地区に入る。代継は余次、世継とも表記される。四ツ木榾(ほだ)から。家の囲炉裏の四隅から樫などの堅い榾木をくべて赤々と燃やすことに由来するとある(前述「郷土あれこれ」より)。
ほどなく真城寺。湧水点を探し境内を彷徨うと幾つかの池があり、池に樋から水が注がれている。樋に沿って裏の崖地に入ると、小石の間から浸みだす湧水箇所が見つかった。市の『報告書に』は「小川面下・崖地 」とある。段丘図から推測するに、小川面と屋代面を画する崖地ではあろう。今回の湧水散歩ではじめて目にした、ささやかではあるが湧出点である。

真城寺
臨済宗建長寺派。観応2(1351)年、足利基氏が開基となり、大光禅師復庵宗己を請じて開山としている。その後、天正7(1579)年に八王子城主北条氏照が再興したと伝えられている。本尊は延命地蔵菩薩。市指定天然記念物のシダレザクラがある。御朱印寺領7石2斗。


沢に入る
新城寺の境内西に結構水が流れる水路がある。地図を見ると、真城寺の北から下っている。沢の源流が如何なものかちょっと寄り道。水路は石をコンクリートで固めた両岸とコンクリートの底部から成る。水路底部に下り北に向かうとすぐに護岸工事部は切れ、藪に覆われた沢となる。
沢の中程に湧出点もあったのだが、更に上流からの伏流水かとも思い、藪漕ぎで更に上流に進む。水はほとんど見あたらない。と、沢は崖地で阻まれる。崖上には民家が見える。都道7号のすぐ南といった箇所である。この崖地は秋留原面と小川面を画するものと思う。

御滝堀
沢を戻り、水路に沿って進もうと思うのだが、水路は民家の中を通っており、仕方なく南を大きく迂回し次の目的地である白滝神社境内湧水に向かう。道を東に進み白滝神社に向かって北に折れると水路にあたる。この水路は先程の沢からの水と、白滝神社境内湧水からの水を合わせて下っている。
角田さんの論文には御滝堀とあり、「御滝堀は秋川市下代継の白滝恵泉に源を発する。白滝恵泉は小川面の段丘崖に位置し,層厚約3,5m の段丘礫層の基底付近から地下水が湧出している。常に湧水量は多く, 約1.7km 流れて秋川に合流する」と記載されていた。

白滝神社境内湧水;あきる野市上代継331番地
滝からの流れであろう水路を辿り白滝神社に。社に上る石段横に沢があり、石組みの堰堤から豊かな水が数条の滝となって落ちる。今回の湧水散歩ではじめて目にした、豊かな湧水である。
堰堤の先の沢に入り湧出箇所を確認したいのだが、水神様脇に竹で作られた進入禁止の柵。普通なら先に進むのだが、神様の「霊地」に入り込むのは何だかなあ、と今回は遠慮する。報告書によれば「秋留原面下・崖地」とあるので、秋留原面と小川面を画する崖地から滾々と水が湧き出ているのだろう。


白滝神社
鳥居を潜り正面石段を上ると社がある。その昔には「白滝の社」と称されたようだ(「**神社」と呼ぶようになったのは明治以降のこと)。社脇には八雲神社の小祠も祀られていた。社の上は五日市街道・都道7号が走る。
鎮座の年代は不詳。この地の郷士・代継縫之介が自宅の鬼門除けとして、不動堂を建立。この地は日本武尊のゆかりの地とされ、村民に篤く崇敬されていた地とされる。
『新編新日本風土記』には「村の中程にあり わずかなる堂にて 上屋二間(約三,六メートル)四方 南向きなり 不動は木の立像長一尺二寸最古色に見ゆ されど作詳らかならず前に石段三十四段あり境内に入りて左の方に滝あり 槻(欅の一種)の大木一本あり 囲八十九尺許り 其の外雑樹蓊鬱として繁茂し 年経たるさまの境内なり 村内東海寺の持」と記載される。

秋川神明社湧水;あきる野市牛沼88番地
秋川神明社は白滝神社の南東、圏央道秋川インター傍にある。地図には秋川神社となっているのだが、秋川神明社であろうと圏央道の高架を潜り、その東の国道41号を南に下り、圏央道あきる野インターへの出入り口手前にある秋川神社に。
『報告書』に神明社から50m東、牛沼面下の崖とある。それらしきところを彷徨うが、湧出点らしき箇所は見当たらない。段丘図で見ると、牛沼面と南郷面の境とは思うのだが、秋川神社の南は圏央道あきる野インターへの出入り口で車道に立ち入ることができない。
『報告書』の湧水調査日は2011年6月、あきる野インターのサービス開始が2005年であるので、調査日は、インターの工事以降と考えられる。インターのアプローチ下に隠れているのか、それとも社の東50mほどのところに2、3mほどの比高差の崖があるのだが、その辺りなのだろうか。崖下を彷徨うも、湧出点らしき箇所は確認はできなかった。

秋川神社
もと日吉山王大権現と称していたが、同村神明神社と合祀して秋川神明社と改めた。永禄年代末(1569)一面の唐銅円鏡を鋳造し(洪水時に秋川を流れてきたとも、真照寺の山王権現の神体が流れてきたとも)ご神体としたと言われる。 また、境内にある大杉は市の天然記念物である。
牛沼
青梅線の牛浜に限らず牛がつく地名は全国に散見されるが、「牛」は必ずしも動物の牛と限ることはないようである。前述「郷土あれこれ」には、「牛はウシ>ウス>薄い色>浅い色>浅い沼」といった説明があった。地名の由来は諸説あることが多く、何が正しいか不明だが、少なくとも漢字ではなく、「音」からの解釈が必要かと思う。はじめに「音」があり、それに物知りが「漢字」をあてるわけであり、まずは「音」からの解釈が必要とは思うので、上記説明にはそれなりに納得。

石器時代住居跡群崖下湧水;秋留の市牛沼265‐2番地
秋川神社の北東に石器時代住居跡群崖下湧水があるとのこと。成り行きで進むとフェンスに囲まれた一角があり、そこに「国指定 西秋留石器時代住居跡」の案内があった。住居跡の南は崖。崖下で草刈りをしているご婦人に遠慮しながら石垣下を回り込むと、史跡西端の石垣の奥から水が流れ出していた。そこが湧水であろう。『報告書』に、「牛沼面下・崖地」とある。段丘図を見るに、牛沼面と氾濫原の境を画する崖面であろうと思う。

「国指定 西秋留石器時代住居跡 指定日昭和8年4月13日
昭和七年、後藤守一氏を中心として、東京府(現東京都)によって調査が行われ縄文時代後期の敷石住居跡5軒や石棺墓2基、石組の炉一基などが発見された。 当時、敷石住居跡が単独で出土した例はあったが、このように狭い範囲にまとまったものはほとんど無く、昭和8年国の史跡に指定された。
また、これらの遺構の他、縄文時代後期の土器や石皿、凹石、石棒、打製石斧、石錘などの石器も多数出土している。
調査当時、発見された住居の床面と周囲とが同じ面と認められたため、竪穴式住居ではなかったと判断され、それ以降の敷石住宅が平地住宅であるとする説の有力な根拠とされるなど、学史的にも貴重な遺跡である あきる野市教育「委員会」

今回はここで時間切れ。最寄りの五日市線・秋川駅に戻り、一路自宅へ.。

沢遡上;倉沢再訪

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この夏の最初の沢入りは、退任前の会社の仲間と倉沢本谷に。沢仲間のTさん、2012年以来、沢にハマった沢ガール2名、そして沢デビューのSさん。はじめて沢を経験する人がいる場合は、ほぼ倉沢と決めているし、既に何度も遡行しているのだが、なにせ早朝から出掛けることが「かなわん」と、いつものんびり出掛けるため、最終地点の魚留橋まで行ったことがなく、そろそろ最終地点をクリアしないと洒落にならんとの思いもあり、倉沢本谷に向かうことにした。
早く出掛け、早く戻るが基本のTさんの段取りで、8時30分発東日原行のバスに乗り倉沢橋で下車、9時過ぎには入渓谷。戻りは2時56分、倉沢橋発であるから、林道を戻る時間を考慮して2時前に遡行終了との計画。4時間強の遡行時間であればなんとか最終地点まで行けるだろうと倉沢に向かう。

以下、倉沢本谷遡行のメモをするが、今までバスの時間との関係上、常に引き返し地点となっていた「美しい釜をもった3m滝」までは2012年9月22日に行ったときのメモを一部手直ししながら再掲し、「美しい釜をもった3m滝」より先を最後に付記する。


2012年9月22日;最初の倉沢7本谷沢遡行


2012年9月22日、会社の仲間と倉沢の沢上りを計画した。いつだったか、倉沢谷に沿った林道を進み、魚留橋から棒杭尾根を這い上がり三ツドッケへと山行を楽しんだことがある。そのとき、倉沢谷脇の林道を歩きながら、そのうちにこの美しい沢を遡上してみたいと思っていた。
今年の夏、7月に会社の仲間と古里・寸庭橋辺りの多摩川なk合流点から越沢バットレスキャンプ場(現在は休業中)まで越沢の沢遡上を楽しんだ。その時、沢ガール、沢ボーイデビューをした会社の仲間が、思いのほか沢登りにフックがかかり、再びの沢登り企画と相成った。そしてその沢候補としたのが件(くだん)の倉沢である。今回のパーティは越沢で沢ガールデビューしたうら若き女性2人と沢上りの経験豊かな中年(?)男性、そして、なんちゃって沢ボーイである還暦をはるかに過ぎた私の4人パーティ。

当日はあいにくの曇り。前日の雨の影響もあり、それまで続いた猛暑と言うか、残暑とは打って変わった涼しい朝。男性陣ふたりは、水の冷たさに恐れを成し、はやくも及び腰。沢登りを止めて、高尾山から日の出山を経てつるつる温泉でのんびりと、とか、鳩ノ巣から海沢渓谷で滝を見ようか、などとそれらしき代替案を出すも、沢ガールの無言ではあるが、強烈なる「沢へ」との目力に負け、結局は倉沢谷に。もっとも、ロープやハーネス、そして沢シューズ、着替えといった沢登りグッズで一杯のリュックを背負っての山行も大変だ、というのは男性陣二人の共通した思い、でもあった。

本日のルート;奥多摩駅>倉沢停留所>入渓>八幡沢合流>鳴瀬沢合流>釜をもった美しい3mの滝で終了>倉沢停留所>

倉沢橋停留所
倉沢橋奥多摩駅から東日原行きのバスに乗り、倉沢で降車。そこは倉沢谷が日原川に合わさるところ。谷は深く切れ込み、谷に架かる倉沢橋は橋下の高さが61m。東京都内にある1200強の橋のうちで一番高い橋、と言う。





倉沢谷に下りる
倉沢谷に沿った林道に入る。少し進むと駐車スペースがあり2台車が止まっていた。先に進み、林道脇にある標識の少し先辺りで倉沢へと下るルートを探す。切り通しの先、ガードレールが切れている辺りに、沢へと下れそうなルートがある。林道から沢までの比高差は50mほどあるだろうか、かすかに下に倉沢の流れが見えている。

ガードレール直下は足元が危うそう。念のため、ガードレールにスリングを架けて、慎重に林道から急斜面に降りる。急斜面でもあり、杉にロープをかけて安全に、とも思ったのだが、なんとか倉沢谷まで下りることができた。




入渓
2012年はハイキング姿の沢ガールも
入渓準備。沢ガールには念のため、スリングをふたつ合わせカラビナで固定した簡易ハーネスをつくり装着。10時少し前に入渓する。








2段5mの滝は高巻き
2014年8月にはヘルメット。ハーネス。
渓流シューズに
入渓点は広々としていたが、その先に深そうな釜があり2m滝左岸を高巻き。その先は沢に入るも、すぐにすぐさま2段5mほどの滝となり、再び左岸を小滝もまとめて高巻き。足元が危ういこともあり、安全のため一応ロープを張ってクリア。降りたところは小さな沢が合流し沢が急角度で曲がっていた。



「ゴーロ」を進む
2012年9月22日
2015年7月17日
その先にある釜はスリングでサポートしながら右岸をへつり、やや大きめの岩がゴロゴロする「ゴーロ」を水に打たれながら進む。枝沢が注ぐ先にある2m滝は釜があり右から巻く。






大岩の間の滝を上る
2916年には「釣り上げ」る必要もなく
2012年はほとんどスリングで
「釣り上げて」いたのだが
先に進むと大岩の間に滝がある箇所があり、水を浴びながら岩を右から巻く。前日の雨故か、急流に耐えられず、足元を掬われ転びつ・まろびつの沢ガールではある。












S字状の岩場を抜けると釜と3m滝

左岸から注ぐふたつの枝沢を越えた先のS字状の岩場にはふたつの小滝と釜。ここは沢筋を直進する。S字状の岩場を抜けると先に釜と3m滝があり、少々厳しそう。時刻も知らずお昼となっており、休憩を兼ねて昼食をとる。いつもの散歩ではメモが結構長くなるのだが、沢のメモは、至極短い割りには時間は結構たっている。2時間近くかかっただろう、か。











鳴瀬橋
2014年8月31日
休憩を終え、3mの滝は左岸の岩場は安全のためロープを使い、岩を這い上がる。岩場をクリアすると八幡沢が右岸から入るが、その先には2mの滝。右から巻いて進むと前方に大きな橋がみえてきた。鳴瀬沢にかかる鳴瀬橋である。







崖を下りる
2012年は簡易ハーネス・プールジックで
2016年にはハーネス・8環で懸垂下降で

鳴瀬橋の先で倉沢は右に曲がる。曲がるとすぐに釜があり、右岸をへつり、岩によじ登る。岩の降り場の足場は悪く、残置スリングと簡易ハーネスをカラビナで結び、慎重に降りる。












巨岩
2014年8月31日
降りると今度は2m滝。左岸の岩場をロープでサポートしながら這い上がる。這い上がった先には巨大な岩が現れる。














釜をもった美しい3mの滝
大岩の先の滑滝を、水を浴びながら進む。その先は左岸の岩場を、ロープを使って這い上がる。と、その前には釜をもった美しい3mの滝が現れる。釜は結構深そうである。









ここで時刻は2時前。倉沢バス停発2時50分頃のバスの便を逃すと、4時過ぎまで便はない。本日の沢遡上はここでお終いとする。沢用の上下で完全武装の中年の沢ボーイは名残にと釜を泳ぎ、滝に取り付き、残置スリングを支えに滝上に這い上がり、滝を滑り落ちて本日の締めとした。私は、眺めるだけで十分。

林道に上る
急斜面を林道に這い上がり、人目を少々気にしながら着替えを済ませ、30分弱歩き倉沢バス停でバスに乗り、一路、家路へと。

















●倉沢本谷の所見

倉沢谷に沿って林道が通るので安心
倉沢遡上は、誠に楽しかった。倉沢谷は日原川に注ぐ一支流であり、合流点は深い谷を形成している。倉沢谷に沿って林道が通っており、いざという時にエスケープできるのは心強いし、通常の沢遡上では源流まで進むと、後は尾根を這い上がり、別の尾根を下ることになるが、倉沢谷は、帰路は林道を戻ればいいわけで、誠に気が楽である。

入渓地点は深い谷に下って進むが、上流に進むにつれて林道との比高差が減る

倉沢橋近くの入渓地点は深い谷に下って進む事になるが、上流に進むにつれて、倉沢谷と平行して通る林道との差がなくなってくる。今回は時間切れで辿れなかったが、魚留橋のあたりでは、倉沢谷と林道との比高差はほとんどなくなる。このことも初心者中心の我々沢登りパーティには心強い。

多くの小滝と釜で初心者でも十分楽しめた
沢自体も、それほど大きな滝はなく、多くの小滝と釜が現れ、また滝を直登しなくても左右の岩場を巻いて勧めるので、初心者でも楽しく沢上りが楽しめた。




次回は魚留橋を越え、その先の長尾谷とか塩地谷まで遡上したい
今回は当初目標としていた倉沢鍾乳洞の先にある魚留橋まで辿ることはできなかった。来夏は今回の到達点からはじめ、魚留橋を越え、その先の長尾谷とか塩地谷まで遡上してみようと思う。







●2016年7月17日

釜をもった美しい3mの滝から魚留橋へ



2016年に初めて倉沢に入って以来、毎年一度、多い時には二度ほど倉沢に入渓していたのだが、すべて上記「美しい釜をもった3m滝で時間切れとなっていた。今回、早く行動したこともあり、3m滝から魚留橋手前の倉沢鍾乳洞跡の橋跡まで進んだ。


釜をもった美しい3mの滝を左岸高巻き
釜前でお昼休憩し、行動開始。Tさんは一度遊び半分に釜を泳ぎ、3m滝を這いあがったのだが、今回は高巻きとする。右岸林道に上がるのは何だかなあ、ということで左岸で高巻きできる地点を探すと、釜付近は絶壁で登れそうにないが、少し下流に戻ったところから這い上がれそうなルートを見つけ、崖を高巻きし水線に戻る。




4m滑状の滝
水線に戻ると4mの滑状の滝。その先にも小滝が続く。









大岩
その先に大岩。大岩2m滝は左手の滑状の小滝を進む。その先は大岩の間に小滝が見える。リードするTさんは迷わず大岩を潜る。段差はそれほどないが結構なシャワークライム。水を浴びながらもメンバー一同楽しそう。








45m滝左岸を巻く
美しい渓相の滑状の小滝の先に5mほどの滝。ここは左岸を巻く。









4mほどの滑滝が続く
滝を巻いた先には5mほどの滑状の滝が2本続く。1本目は滝の左端を上り、2本目は結構な水勢の中、シャワークライムが楽しめる。









5m滝
その先には5m滝。ここは左岸を巻く。









石垣状堰堤
石垣状の堰堤は下部に開いた流水口を通り抜ける









倉沢鍾乳洞跡の橋跡
石垣状堰堤の先は、砂が堆積した為だろうか、一瞬平坦地となり、そろそろ終わりか、と期待するが、林道との比高差は結構ある。案の定、その先は岩場となるが、ほどなく橋の石組み土台跡。今は閉鎖されているが、倉沢鍾乳洞への橋跡であった。
時刻は2時前。着替えや林道をバス停に戻る時間を考えたらそろそろ終了の時間。その先に魚留め橋が、とは思えども、ここで終了。倉沢鍾乳洞の橋に続いていた石段を上り林道脇で着替えし倉沢橋バス停に戻る。

今回はじめて「美しい釜をもつ3m滝」の先に進んだのだが、これがバリエーション豊富で結構面白いルートだった。
当日は曇りで泳ぐ、という雰囲気ではなかったが、猛暑に泳ぎ中心で倉沢に入ろうと思う。

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