2016年5月アーカイブ

ここ何回かに渡り、善福寺川筋の台地に切り込む窪地に残る水路跡や旧善福寺川の流路を辿った。そしてそこでは、折に触れて五日市街道とクロスし、またその道筋を辿ったりもした。
現在五日市街道と呼ばれるその道筋は、近世以前にはその表示がなく、「伊奈みち」とある。伊奈は秋川筋、武蔵五日市の手前,現在のあきるの市にあり、古くより石工の里として知られる。その近くで採れる良質の砂岩を求め信州伊那谷高遠付近の石切(石工)が平安末期頃より住み着き、石臼、井戸桁、墓石、石仏をつくった、とのことである。

「伊奈みち」が何時の頃から呼ばれはじめたのか、詳しくは知らない。が、その名がメジャーになったきっかけは、徳川家康の江戸開幕ではあろう。城の普請、城下町の建設に伊奈の石工も動員され、江戸と伊奈の往来が頻繁となり、その道筋がいつしか「伊奈みち」と呼ばれるようになった。
「伊奈みち」が江戸と深いかかわりがあるのと同じく、「伊奈みち」が「五日市道」と現在の五日市街道に繋がる名となったのは、これも江戸の町と関連がある。江戸の城下町普請も一段落し、百万都市ともなった江戸の町が必要とするのは、城下町をつくる「石」から、そこに住む人々の生活の基礎となる燃料に取って替わる。

国木田独歩の『武蔵野』に描かれる美しい雑木林も、江戸のエネルギー源・燃料供給のため、一面の草原であった江戸近郊に木が植えられ人工的に造られたものである。利根川の船運を利用し関東平野の薪が江戸に送られた。そして、この秋川谷からは木炭が江戸に送られることになる。
その秋川谷の木炭集積所は元々は伊奈であったが、檜原や養沢谷からの立地上の利点から、五日市村が次第に力を延ばし、かつての「伊奈みち」を使い、江戸に木炭を運ぶようになった。そしてその往来の名称も「伊奈」から「五日市道」と変わったようである。

それはともあれ、今回の散歩の目的は、信州伊那谷高遠の石工がこの伊奈に移った最大の要因である、良質の砂岩の石切場跡をこの目で見ること。いつだったか、鎌倉街道山ノ道を高尾から秩父まで歩いたとき、石工の里・伊奈を掠ったのだが、その時には気になりながらも、先を急ぎ石切場跡はパスしていた。 杉並の窪地散歩で五日市街道に出合い、それが「伊奈みち」であったことがきっかけで、頭のとこかに残っていた伊奈の石切場を想い起こし、今回の散歩となったわけである。

また、今回の散歩は無料のGPS アプリ・Geographicaのパフォーマンスチェックも兼ねる。街歩きでは設定を機内モードにするなどして、電波の通じない状態でも結構重宝しているのだが、実際に電波の通じない山間部でどの程度のパフォーマンスを出してくれるのか試してみることにする。位置情報だけでなく、キャッシュに残る地図の表示時間なども気になる。
今回訪れる石切場跡は、山間地といっても里山といったところであり、うまく機能しなく、道に迷っても、なんとかなるといったロケーションであり、はじめての使用感確認には丁度いいかと、専用のGPS端末を持たずにiphoneのGPSアプリだけで歩くことにする。


本日のルート;五日市線・引田駅>連木坂>もみじ塚>山田の天神社>能満寺>旧五日市街道の道標>鎌倉街道山ノ道と交差>鍵の手>伊奈宿新宿>伊奈宿本宿>市神様>成就院>岩走神社>秋川>五日市線を渡る>大悲願寺>横沢入りの道標>横沢入>富田ノ入分岐>富田ノ入の最奥部・尾根道の分岐点>富田ノ入最奥部>尾根道から石山の池へのルートと合流>石山の池>横沢小机林道への尾根筋(横沢西側尾根)に合流>天竺山(三内神社)>横沢・小机林道に>秋川街道に合流>五日市線・武蔵五日市駅

拝島で五日市線に
自宅を出て立川駅を経て拝島駅に。そこで五日市線に乗り換える。この五日市線(いつかいちせん)は東京都昭島市の拝島駅から東京都あきる野市の武蔵五日市駅までを結ぶJR東日本の鉄道路線(幹線)である。現在は旅客中心の路線ではあるが、はじまりは青梅線と同様、石灰の運搬がその中心であった。
歴史は明治の頃、五日市鉄道にさかのぼる。明治22年(889年)甲武鉄道が立川駅-八王子駅間で開業、明治27年(1894)に青梅鉄道が開業した時勢、五日市の実業家が中心となり構想され、大正10年(1921)に認可される。
ルートは青梅鉄道拝島駅を起点に、五日市、そして増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至るもの。勝峰山までの路線を申請しているということは、当初より石灰の運搬をその事業主体にしていたと推察される。
大正10年(1921)に認可は受けたものの、事業予算が当初の目論見と大きく違い、事業は難航。大正12年(1923)に工事が開始されるも、同年に起きた関東大震災の影響もあり、地元事業家だけでは事業存続が不可能となる。

そこに登場するのが財閥系の浅野セメント。川崎工場のセメント原料は青梅鉄道沿線の石灰を使っていたが、採掘権を買収した青梅線沿いの雷電山や日向和田も思ったほどの埋蔵量がなく、埋蔵量の豊富な五日市の勝峰山に目をつける。 大正11年(1922)には既に五日市鉄道の大株主となっていた浅野セメントであるが、石灰採掘権の権利を持つまでは資金不足の五日市鉄道を援助することなく、地元実業家より勝峰山の石灰採掘権を入手するに及び全面的に五日市鉄道の経営に乗り出し、大正14年(1925)5月にに拝島・武蔵五日市、同年9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。
五日市鉄道最大の眼目である勝峰山の石灰採掘事業は、大正15年(1926)から開始され、昭和2年(1927)には浅野セメント川崎工場への輸送が開始される。そのルートは五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれていた。
立川から南に進む南武鉄道の大株主でもある浅野セメントは、この輸送ルートをショートカットすべく、拝島と立川の南武鉄道を繋ぐルートの延長を計画。昭和4年(1929)に工事に着手し、昭和5年(1930)には、拝島駅-立川駅間、青梅電気鉄道の路線と多摩川の間に路線を開き、南武鉄道と結んだ。
当初貨物主体で始まった五日市鉄道も、次第に旅客輸送も増えてはきたが、日華事変の勃発にともない、五日市鉄道は南武鉄道と合併、さらには戦時体制の強化のため南武鉄道は青梅電気鉄道共々国有化され、昭和19年(1944)には国有鉄道五日市線となる。
その際、青梅電気鉄道の立川・拝島区間は軍事施設を結ぶため複線化が続行されるも、五日市鉄道の立川・拝島区間は「不要」として休止されることになった。
青梅線
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。
昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。

五日市線・武蔵引田駅
五日市線に乗り換え、さて、どこで下りるか考える。伊奈の最寄り駅は武蔵増戸駅ではあるが、目的地である石切場跡までの距離が短か過ぎ、歩くには少々物足らない。どうせのことなら、「伊奈みち」を少し辿ろうと、武蔵増戸駅のひとつ手前の武蔵引田駅で下りることにした。
武蔵引田駅は昭和5年(1930)、五日市鉄道・病院前停留所として開業した。駅の北に阿伎留医療センターがある。この病院と関係があるのだろうかとチェック。大正14年(1925)に伝染病院として開院。当初は赤痢や結核の治療に重点が置かれていたようだが、現在は一般疾病の治療病院となっている。

引田
「引田」は灌漑水田と関係あるとの説もあるが、「田を引く」は意を成さぬとの説もある。『五日市の古道と地名;五日市町郷土館』には、秋川の南、「網代地区の「引谷」の地名の由来として、引谷、引田は蟇(ひきがえる)の生息地に因んだ地名とし、蟇田>引田となったとの説明があった。

引田駅を下り、一面に広がる秋留台地の畑の畦道といった小径を南に下る。南には秋川丘陵が見える。いつだったかこの丘陵を歩き、古甲州街道を辿ったことが思い出される。目を西に移すと山肌が白く大きく抉られた山塊が目につく。石灰採掘をおこなう勝峰山(かっぽやま)ではあろう。

秋留台地
Wikipediaに拠れば、秋留台地は「島のような河岸段丘なので、地形は特殊。北の端は平井川、東の端は多摩川、南の端は秋川で、それぞれ川へ向かって標高が低くなっている(中略)西は関東山地なので、そこから東へ堆積し、その後に上記の3河川が浸食してできたものと推測できる」とある。
地形は特殊と言う。なにが特殊か門外漢には不明であるが、河岸段丘と湧水がその特色との記事があった:よくわからないなりにも、「あきる野市の自然 あきる野市の地質・地形」をもとにメモだけしておく。
秋留台地は西端の伊奈丘陵南麓から東端の二宮神社まで、東西約 7.5km、南北約 2.5km である。西端標高 186m、東端標高 138m、勾配 6.4/1,000 である。 河岸段丘は 8 段 9 面あり、上位から 1.秋留原面 2.新井面 3.横吹面 4.野辺面 5.小川面 6.寺坂面 7.牛沼面 8.南郷面 9.屋城面の8段9面からなる。
秋留台地には年間約 1,500mm の降水量があり、そのうち約半分は地下に浸透する。浸透した水は、水を通しやすい表土(約30cmの火山性黒土や氾濫性土壌)、立川ローム層(0.5~2m 約3万年前からの富士山起源の火山灰)、段丘礫層(約8m 関東山地からの堆積層)を通し、五日市砂礫層・上総層(60~150cm 100~300万年前の河成~海成層)に達する。上総層は砂礫の間に砂屑やシルト層を多く挟んでいるため、水を通しにくい地層である。このため浸透してきた水は上総層の上に溜まり台地の6.4/1,000の傾斜に沿って下り、段丘の崖から湧水となって流れ出す。
それぞれの段丘面の崖地、傾斜地から代表的なものだけでも18箇所ほどの湧水点がある、と言う。段丘面の湧水点を歩いてみれば、「特殊な地形」を実感できるのであろうか。とりあえず近々歩いてみようと思う。

連木坂
道なりに進むと道はふたつに分かれる。そこは坂となっており、蓮木坂(ムナギ・ムラキ)と呼ばれる。由来は不明。「ねん坂」とも呼ばれるようである。







もみじ塚
道を南にとり、五日市街道に出る。街道・原店交差点北側にフェンスで囲われた塚があり、いくつかの石碑が建つ。大きな石には「寒念仏」と刻まれた文字が読める。横に建つ石塔は庚申塔のようである。
チェックすると、この塚は「もみじ塚」と呼ばれるようだ。かつては塚の中央にもみじの大木があったのが名前の由来。「寒念仏」と刻まれた石仏は、嘉永5年(1852)建立の「寒念仏塔」。寒念仏とは、寒中30日間、鉦を叩きながら各所を巡って念仏を唱える修業のこと。その右は庚申塔。庚申塔の右にある石仏は神送り場にあった「寒念仏供養塔」とのことである。
寒念仏供養塔
引田交差点の西、引田と山田の境の街道辻に「神送り場」があった、と言う。疫病退散を祈り、祭りを執り行った場所とのことである。その場所には延命地蔵が建っていたが、新しいものようで写真を撮らなかった。

山田の天神社
道脇に「キッコーゴ醤油」との商号のある古き趣の醤油醸造所を越え、五日市街道・下山田交差点の南に天神社がある。少々寂しき佇まい。社伝に拠れば、貞治・応安(1362~75年)のころ、足利基氏の母が開き、古くは天満宮と称し、少し西にある能満寺持ち常照寺が別当であった。明治の神仏分離令の際、寺と分かれ名も天神社と改めた。とのことである。

能満寺
社を出て街道を少し西に進むと能満寺。境内に、地獄道の教主・法性地蔵、餓鬼道の教主・陀羅尼地蔵、畜生道の教主・宝陵地蔵、阿修羅道の教主・寶印地蔵、人間道の教主・鶏兜地蔵、天上道の教主の地持地蔵の六地蔵が佇むこのお寺さまは臨済宗建長寺派のお寺さま。開基は先ほどの天神社と同じく足利基氏の母とのこと。
何故にこの地に鎌倉公方足利基氏の母が寺を建てる?チェックするとあきる野市には、この能満寺の南にある瑞雲寺も基氏の母瑞雲尼の開基である。また、市内には基氏開基と伝わるお寺さまが下代継に真城寺、金松寺とふたつほどあった。
基氏とあきる野
基氏、そして基氏の母とあきる野の地の関係は?ここからはあくまでも妄想ではあるが、基氏は入間川殿とも呼ばれ、入間の地に9年も陣・入間御殿を構えたことがある。そのことが要因なのだろうか。
入間御殿は、足利尊氏が弟の直義を倒し室町幕府を開いた際、直義に与した関東管領上杉氏を追放するも、関東北部に依然勢をもつ上杉氏や新田氏に備えるための拠点である。入間とあきる野はそれほど離れてはいない。この地を通る鎌倉街道山ツ道から連絡道を通じ入間と往来は容易ではあろうと思う。
また思うに、入間御殿との関連を考えなくても、この鎌倉街道山ツ道は往昔の幹線道路である。実際、あきる野市には頼朝が檀越となり平山氏開基の大悲願寺、北条時宗開基の普門寺など有力武将ゆかりの寺院も多い。今は都心を離れた地ではあるが、江戸開幕以前は湿地・葦原を避けて通れる、この山裾を進む道が、当時のメーンルートであったのだろうから、そう考えれば、鎌倉公方ゆかりの寺社があってもそれほど不思議ではないのかとも思えてきた。
ついでのことで、またまた思うに、秋留台地の端に二宮神社がある。武蔵総社六所宮の第二神座といった由緒ある社である。この社、往古小川大明神と呼ばれていた。古代にあった四つの勅使牧のひとつ、小川牧のあった一帯でもある。古代にもこのあたり一帯は開けていたようだ。
もっと歴史を遡ると、平井川沿いにはいくつもの縄文遺跡や古墳が残る。北に羽村草花丘陵を控え、南に平井川を隔てて秋留台を望むこの地は、古くから人の住みやすい環境であったのだろう。 古代から江戸が武蔵の中心地になるまで、この辺りは往還賑やかな一帯ではあったのだろう。

旧五日市街道の道標
街道を西に進むと、秋川に架かる山田大橋を越えて北に延びる山田通りの手前から右手に入る道がある。それが旧五日市街道とのこと。山田通り手前に道標が建つ。西に向かう矢印には「五日市 檜原」、東は「八王子 拝島 福生」、北は「大久野 青梅」、南に向かう矢印は「川口村 恩方」とある。川口村ができたのは明治22年(1889)の町村制施行時であるから、明治の頃の道標だろうか。
もっとも、川口村が八王子市に編入されたのは昭和30年(1955)であるから、少なくとも昭和30年(1955)までは「川口村」が存在したわけで、もっと新しい時期かもしれない。ともあれ、刻まれた文字が赤のペンキで塗られているのは読みやすくはあるのだが、少々風情に欠ける。文化財としての価値がそれほどないということであろうか。

鎌倉街道山ノ道と交差
道標を越えると山田通りにあたる。この道筋は鎌倉街道山ノ道の道筋。高尾から秋川丘陵の駒繋石峠(御前石峠)を越え、秋川南岸の網代から秋川を渡り、山田通りから五日線・武蔵増戸駅辺りを通り、青梅谷筋、名栗谷筋を経て秩父に向かった「鎌倉街道山ノ道」散歩が想い起こされる。
武蔵増戸(ますこ)駅
山田通りを北に進むと武蔵増戸駅がある。増戸は地名にはない。チェックすると、『五日市の古道と地名』には、「この辺りの網代、山田、伊奈、横沢、館谷、三内という六つの地域は中世から近世、明治まで独立村として続いたのだが、明治22年(1889)の町村制施行時に館谷を除いた五ヶ村が合併し、将来の戸数増加を願い「増戸村」となる。昭和30年(1955)の改革で五日市町と合併し、「増戸」の地名は消滅した」とあった。

鍵の手
山田通りを越えると山田地区から離れ伊奈地区に入る。旧街道を進むと道は二手に別れ、ひとつは南に大きくカーブする。城下町や宿場の出入口に見られる『鍵の手道』と言う。宿場が残るわけでもなく、そう言われなければ、普通の道といった程度の道ではあった。

伊奈宿新宿
鍵の手道を南に下ると五日市街道にあたる。ほどなく「伊奈新宿」のバス停。1キロほどの伊奈宿は西から東へと宿が発展した、という。西が本宿(上宿)、東は新宿と呼ばれた。

伊奈宿本宿
伊奈新宿バス停の少し西に「伊奈」バス停。この辺りが本宿(上宿)と新宿の境とも言われる。バス停の街道を挟んだ北、細い道脇の土手上に「塩地蔵尊 千日堂跡」がある。
塩地蔵は全国各地にあるが、お地蔵さんを自身に見立て、患部に塩を塗り、イボを取るとか、患部を治癒するといったもの。千日念仏供養塔は千日念仏の完結記念、百番供養塔は、西国33番、坂東33番、秩父34番の計百番札所巡りの完結を記念して建立するもの。この地の供養塔の由来は不詳。

千日堂は「武蔵風土記」に「小名新宿にあり本尊阿弥陀生体にて長さ一尺余り大悲願寺持ち(中略)伊奈村は36か村寄り場、名主時代この千日堂に牢屋あり罪人入獄したるきは伊奈村中各戸にて順番に牢番をしたること確実」とある。牢獄であったということだろう。千日堂は3回あった伊奈の大火の三度目、明治8年(1875)の大火で焼失した。
場所は現在の図書館のところ、とある。増戸分室のことだろうか。であれば、すぐ西隣といったところだろう。

市神様
街道に戻り先に進むと「伊奈坂上」バス停があり、その手前、街道南側にささやかな祠がある。祠傍に案内があり「伊奈の市神様」とあった。
案内には「伊奈村は、中世から近世初期にかけて、秋川谷を代表する集落でした。伊奈村に市が開かれたのは中世の末といわれています。農具や衣類、木炭などをはじめ、この地域で生産された石(伊奈石)で作られた臼なども取引されたと考えられ、伊奈の市は大いに賑わったといわれています。
江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、この石の採掘に携わった工員たちが動員されたと考えられ、村と江戸とを結ぶ道は「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。
やがて江戸の町が整い、一大消費地として姿を現すと、木炭の需要が急に高まりました。すると木炭の生産地である養沢、戸倉などの山方の村々に近い五日市の村の市に、伊奈村の市は次第に押されるようになりました。更に、月三回の伊奈村の市の前日に五日市でも市が開かれるようになると、ますます大きな打撃を受け、伊奈村の人々は市の開催を巡ってしばしは訴えを起こしました。 この祠は伊奈村の市の守り神である「市神様」と伝えられています。地元の伊奈石で作られ、側面には寛文二年(1662))の年号が刻まれています。伊奈の移り変わりを見つめてきたこの「市神様」は地域の方々により今も大切に祀られています。平成十九年 あきる野市教育委員会」とあった。

この地で採れる良質の砂岩を求め、信州伊那高頭の谷から移り住んだ石工は、石臼、井戸桁、墓石、石仏、五輪塔、宝筐印板碑、石灯籠、供養塔、石像などを製造し伊奈は開ける。また、戸倉、乙津、養沢、檜原といった秋川筋の木炭の取引所は当初、伊奈宿にあり、伊奈の市は賑わったようだ。
その伊奈宿も、木炭の集積地としての立地上の優位性から五日市村が次第に伊奈宿の市を侵食することになる。それを巡る諍いは上記説明にある通りであるが、享保20年(1835)には「炭運上金」の徴収所「札場」が五日市下宿と設定されて以降、木炭取引の市は完全に五日市に移る。これにともない、伊奈宿までの「伊奈みち」を五日市まで伸ばし、名称も「伊奈みち」から「五日市道」と変わることになった(『五日市の古道と地名』)。

伊奈宿
ところで、宿の規模はどの程度であったのだろう?チェックすると、平安末期(室町の頃との説もある)、12人で開いた伊奈は18世紀後半世帯数200戸強、人口900人弱まで増えるが、昭和2年(1927)で世帯数200戸強、千人強であるので、江戸までは急成長するも、江戸から以降は、それほど大きくは増えてはいない。五日市に経済の中心が移ったこともその一因であろうか。

成就院
「伊奈坂上」バス停のすぐ西に「新秋川橋東」交差点があり、直進すると新秋川橋へと進むが、旧道は橋の東詰めを右手北側に折れ、坂を下ることになる。坂の入口に成就院がある。
後ほど訪れる古刹大悲願寺の末。お寺の塀の外側に自然石の大きな「寒念仏塔」が建っていた。伊奈宿はここで終わる。

岩走神社
坂道を下ると左に秋川へと下る道があり。その下り坂が旧道のようであるが、道なりの先に「岩走神社」が見えるのでちょっと立ち寄り。宮沢坂と呼ばれる坂を進むと大きな石の鳥居がある。
旧伊奈村の鎮守。平安末期(室町?)、12世紀の中頃、信州伊那谷高遠から十名余の石工がこの地に村を拓くに際し、故郷の戸隠大明神の分身を勧請したのがそのはじまり。当初は「岸三大明神」とも称したようだが、「岩山大明神」とも呼ばれた時期もあるようだ。
「岩山」は想像できるが。「岸三大明神」は不詳。祭神は戸隠大明神の手刀男の命(たちずからおのみこと)をまっていたが数年たってから推日女尊(わかひるめのみこと)、棚機姫尊(たなきひめのみこと)の三柱を祀ったとある。岸辺の三柱、故の岸三大明神の命名だろうか。単なる妄想。根拠なし。
社はその後、寛政6年(1794)に「正一位」を授けられ、以来「岩走」と改めた。「岩走」は秋川の激しい流れの滝から命名したとのこと。
本殿も、現在より奥まったところにあったようだが、昭和3年(1928)の道路改修に合わせて現在の姿になった、と。
正一位
正一位って、諸臣や神社における神階の最高位にあたる。何故にこの社が「正一位」?
チェックすると、この村を拓いた12人の一家、宮沢家が代々社の宮司となるが、その後裔である宮沢安通が天皇の書の師として京に招かれ正一位を授かったとある。
正一位を授けられた諸臣は数少ない。日本の歴史を代表するような百人強である。当然のことながら宮沢某の名は見当たらない。諸臣に授けられる位階と神に与えられるものは別物のようであった。全国各地にあるお稲荷さんが正一位であることからも、神階としての「正一位」と諸臣の「正一位」とは少々ニュアンスが異なることは容易に想像し得る。

秋川
岩走神社から少し宮沢坂を戻り、旧道に折れる。結構急な坂道である。『五日市の古道と地名』には、木炭集積所を巡る伊奈と五日市の争いの際、伊奈村から奉行所に提訴した文書に、「伊奈から五日市の道は険路であるため、五日市は市としては不適」といった例として、岩走神社前の坂を挙げている。確かに舗装もない時代、荷の運搬は難儀を極めたことだろう。
それはともあれ、旧坂を下り民家の前の道を進む。左手は秋川。集落の中程から川床に下りる道があったので秋川の川床でちょっと休憩。
秋川・秋留・阿伎留
休みながら、ふと考える。「秋川」の由来は?Googleでチェックすると、秋川は荒れ川で洪水の度、畔を切ることが多かったため「畔切川」と。これが音韻転化して「アキカワ」といった記事があった。秋留・阿伎留の由来でもある。
それなりに納得したのだが、メモの段階で『五日市の古道と地名』を読むと、参考程度ではあるとしながらも、別の解釈が説明されていた。話はこういうことである;『古事記』でのお話し。その昔、新羅の国であれこれの経緯の末、女性が光り輝く見事な玉・「赤瑠」産み落とす。そしてまた、あれこれの経緯の末、王子である天日矛(あめのひぼこ)が赤瑠を手に入れる。
と、あら不思議、赤瑠が美女に変身。王子寵愛するも、諍いの末、美女は唐津の沖の小島・姫島に逃げる。姫を追っかける王子。逃げる美女。逃げる先々の島は今も瀬戸に姫島として残る。で結局逃げついた先は難波の地。
そこに住まう新羅系帰化人はその姫・赤瑠姫を敬い、姫の住まいの近くを流れる川を「吾が君の川」>「吾君川」;アキカワ、と呼んだ、と言う。
秋留台地の小川牧の頭は新羅系、といったことに限らず、武蔵国を拓いたのは大陸からの帰化人である。この地、秋留も帰化人との関係を考えれば、事実か否かは別にして、上記解釈は誠に面白い。ちょっと気になる。
あきる野市
因みに、この地あきる野市は秋川町と五日市町が合併してできたもの。市名決定を巡っては秋留市を主張する秋川町と、阿伎留市を主張する五日町との協議の結果、「あきる野市」となった、とか。「野」がついたのは、「あきる市」だけではなんとなく収まりがよくなく、秋留台地をイメージする「野」をつけたのだろうか。

五日市線を渡る
秋川の川床から離れ、集落の中を進む「五日市道」に戻る。岩走神社から西は伊奈地区から横沢地区に入る。集落の途中から舗装された急坂を上り、岩走神社前を通る車道に出る。車道の北に石段が見える。結構長い石段を上り切ると前方に大悲願寺の山門が見える。その手前に通る五日市線の踏切を渡り大悲願寺に向かう。
横沢
横沢地区から山内地区を挟んだ五日市駅寄りの地区に館谷がある。元々は縦谷>立谷と呼ばれていたようである。で、「横」沢と「館谷=縦(立)」谷の関係だが、横と縦の関係に拠る。その横・縦の軸となるのは秋川。
秋川から見て、秋川に南北に注ぐ沢をもつ地区が横沢、東西に注ぐ三内川(大雑把には東西だが?)をもつ地区が館谷とされた、とのこと(『五日市の古道と地名』)。
縦横はあくまで相対的なもの。都内の墨田区・江東区を東西に流れる運河が堅川(たてかわ)江と呼ばれているのは、江戸城に対して縦(東西)に流れるからである。当然、南北に流れる運河は横十間川と呼ばれる。

大悲願寺
堂々たる仁王門から境内に入る。仁王門(楼門)天井には幕末の絵師による天井絵が描かれる。境内正面には観音堂。お堂は江戸に造られたが、堂内には国指定重要文化財の仏像三体が祀られている。
境内右手には書院造りの本堂、そして彫刻の施された中門(朱雀門)なども江戸期の建造である。本堂前に「伊達政宗 白萩文書」の案内があり、政宗の末弟がこの寺に修行のため在山の折り、川狩りにこの地に出向いた政宗が当寺の白萩が見事であり、それを所望したい」との書面が残るとあった。歌舞伎の「仙台萩」は当寺に由来する。
寺伝に拠ると、この古刹は建久2年(1191)、武蔵国平山を領する平山季重が頼朝の命を受け開山した。一時衰退するも、江戸になり幕府より朱印状を受け、観音堂を建立し、内陣を華麗に整えていたとのことである。




平山季重
いつだったか、多摩の平山城址散歩で出合った。源平一の谷の合戦で、熊谷直実と武勇を誇った源氏方の侍大将である。平安末期から鎌倉初期の武蔵七党のひとつ西党(日奉氏)の武将であり、平井川と秋川に挟まれた秋留台地には鎌倉の頃、武蔵七党のひとつ、西党に属する小川、二宮、小宮、平山氏といった御家人が居を構えた、と言う。そんな状況も季重開基に関係するのだろうか。
日奉氏
武蔵七党のひとつ、西党の祖。日奉氏は太陽祭祀を司る日奉部に起源を持つ氏族。6世紀の後半、大和朝廷はこの日奉部を全国に配置した。農作物のための順天を願ってのことであろう。日奉部の氏族は、この武蔵国では国衙のある府中西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたと伝わる。
西党の祖・日奉宗頼は、もとは都にあって藤原氏の一族であった、とか、それが中央の政争に敗れたとか、国司の任を得て下向したとか、あれこれと説があり定かではないが、ともあれこの武蔵国に赴き牧の別当となる。任を終えても都に戻らず、この日野の地に土着していた日奉部の氏族と縁を結び、父系・藤原氏+母系・日奉氏という一族が成立した、と。
日奉氏はこの地域を拠点とし、牧の管理で勢力を広げ、国衙(府中)の西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばした。ために多西ないし西を称するようになったというのが西党の由来である。もっとも、日奉(日祀)の音読みである「ニシ」から、とりの説もある。


横沢入りの道標
大悲願寺を離れ、門前の道を東に進み増戸保育園を越えた先の畑地の脇に古い道標がある。そこが石切場へと続く横沢入の谷戸への分岐点である。右手には五日市線が東西に走る。
分岐点に立つ古き道標には、東方面は「五日市」、西は「伊奈 平井」、北は「大久野」と刻まれていた。北方向、横沢入の谷戸を越え、大久野に向かう道が昔からあったのだろう。
なお、ここでiphoneのGPSアプリGeographicaを起動。念のため機内モードにして電波を完全にシャットアウトとして、このアプリのパフォーマンスチェックを始める。こいの地点では位置情報はほぼ問題なし。





横沢入
分岐点を左に折れ横沢入に向かう。小径を進むと眼前に美しい谷戸が開ける。谷戸へのアプローチ入口にビジターセンター、というかボランティアセンターといった建物があり、多くのボランティアの方が谷戸の保全に尽力されていた。 エントランス近くの案内には「横沢入里山保地域; 横沢入は、丘陵に囲まれた都内でも有数の谷戸です。七つの谷戸と中央湿地では、かつては稲作が行われ、里山の環境が保たれていました。しかし、近年は耕作されず、荒廃が進んでいます。
そのような状況の中、東京都は横沢入を「里山保全地域」に指定し、ボランティアの皆さんやあきる野市と共に、自然と人間が共生する身近な自然「里山」を復元し、貴重な動植物の生息生育環境を回復し、保全していくこととしました(後略)」との説明とともに、横沢入の地図があった。
その地図には中央の湿地を挟み、進行方向向かって左手手前から、草堂ノ入、富田ノ入、釜ノ沢、右手手前から下ノ川、宮田東沢、宮田西沢、最奥部に荒田ノ入が記載されており、目的の石切場跡は、富田ノ入の谷戸の北を東西に進む尾根筋に「石山の池・石切場跡」として記載されていた。
石山の池・石切場跡の近くの南北に延びる尾根筋の南端には天竺山(三内神社)が見える。また南北に延びる尾根道を北に向かうと「横沢・小机林道」に合流できそうである。
地図を見て大雑把なルート決定。富田ノ入の谷戸に入り、谷戸を最奥部まで進んで尾根に這い上がるか、途中から尾根に逃げるか、成り行きとし、天竺山の三内神社にお参りし、尾根道を北に進み、横沢入の分岐にあった道標の「大久野」の道筋ではあろう横沢・小机林道に向かうこととする。
横沢入
都下の谷戸で5つしかないAランクの谷戸として保全されることになったこの横沢入は、かつて旧五日市町が大規模宅地開発地として計画しJR東日本が土地を取得したが、住民の環境保全の努力の結果、東京都の里山保全の第一号として決定し、この美しい里山が残された。
今回は、これほどの谷戸が残っているとも思わず、時間的にも富田ノ入の先にある石切場跡を辿るのが精一杯であるが、いつか、この七つの谷戸を彷徨いたいと思う。宮田西沢にも石切場跡が残っているとも言われる。


富田ノ入分岐
中央湿地の中の小径を進むと分岐点に地図と「富田ノ入」の案内がある。 「富田ノ入」には「ここは富田ノ入と呼ばれる谷戸で、田圃が奥まで続いていました。昔は、山の上の石山の池から伊奈石を切り出して運ぶ道でした」とあり、その下に「マムシに注意」とイラスト付きの注意がある。
怖がりのわが身は、さっそく沢登り用の膝下部分をガードする「脚絆」を巻き、近くに落ちてあった適当な木を前方チェックの杖代わりとする。
いつだったか秋川筋の沢でマムシを寸でのところで踏みつけようとしたことがあり、それ以来、より一層マムシにナーバスになっている。GPSアプリ・Geographicaの位置情報もほぼ正確な位置を示している。

富田ノ入の最奥部・尾根道の分岐点
道を左手に折れ少し進むと道標があり、「富田ノ入をへて石山の池」と「尾根道をへて石山の池」との案内。中央湿地で見た地図には「富田ノ入から石山の池」への道は記載されておらず、成り行きで、谷戸最奥部から石山の池とはルーティングしたものの、結構不安であったのだが、道標にはっきりと案内があるのであれば、なんとかなるだろうと谷最奥部経由での道をとることにする。マムシだけがちょっと嫌である。



富田ノ入最奥部
分岐点から先は美しい谷戸の景観。自然観察らしき学生さんたちも見受けられるが、谷戸の最奥部に近づくにつれ、丸太が道に倒れるなど道が荒れてくる。少々不安になるあたりに「石山の池」への道案内があり、気を取り直し先に進む。
谷頭あたりからは荒れた山道を上る。所々にロープが張られており、進む道をリードしてくれる。

尾根道から石山の池へのルートと合流
ジグザグの山道をしばし進み、尾根に這い上がったあたりで前方に道標が見える。下りてきた道が「富田ノ入」、左右が「中央湿地 石山の池」となっている。この尾根道が富田ノ入の入口辺りにあった「尾根道をへて石山池へ」のルートではあろうと思う。一安心。






石山の池
尾根道ルートとの合流点から先に進むと、ほどなく道傍に案内板があり、「石山の池 ここは室町時代から江戸時代にかけて、石臼、墓石などにするため伊奈石を切り出していたところです。今も、割りとった跡(矢穴)がわかる石辺が見られます 東京都」とある。
案内板の先が大きな窪地となっており、そこが石切場跡のようである。露天堀で掘り割っていたのだろから、山塊を掘り込んだ結果、窪地状となったのだろう。最も深く掘り込まれた底には水が溜まっており、故に石山の池と名付けられたのではあろう。
道なりに進むと、ルートは一度窪地底部に下りる。その近くには山神社のささやかな祠が祀られていた。
採石地層
底部から見ても、一見した印象では、予想したほどのスケール感は無かった。思うに石切場はここだけではなかったのではなかろうか。実際、横沢入の宮田西沢にも石切場跡が残るとのことである。
帰宅後チェックすると、採石地層は横沢入の北、平井の日の出団地東から西に延び、横沢入の北尾根を通り最奥部で南に曲がり、天竺山東側で南に大きく曲がって西尾根付近を南に進み、三内で秋川を越え更に高尾山(秋川筋の高尾山で、「有名な」高尾山ではない)の西側を尾根伝いに網代方面まで伸びている、と。
横沢入の伊奈石を採掘してきた石工は、秋川を越え、高尾山そして、いつだったか古甲州道を辿り秋川丘陵を歩いたときに訪ねた網代城跡辺りまで採掘しているようであった。石山池は石切場跡としてはっきりその姿を残す場所ではあるが、石切場は想像の通り、横沢入の南北に大きく広がっていた。納得。

横沢小机林道への尾根筋(横沢西側尾根)に合流
石切場跡の窪地を離れ、天竺山に向かう。道成りに進むと道標があり、左「天竺山」、右「行き止まり」とある。横沢小机林道への尾根道(横沢小机林道)が封鎖されたのだろうか?また同じ道を戻るのもウザったいので、林道へは藪漕ぎ覚悟で「行き止まり」道を進もうか、などと思いながら「天竺山」方向に向かうと、ほどなく、左「横沢・小机林道」、右「天竺山(三内神社)」の標識がある。ここが横沢西側尾根であった。
帰宅後チェックすると、「行き止まり」箇所は、石切場跡から等高線に沿って北東に切り込んだ最奥部であり、道はそこからU字に曲がり横沢西側尾根に向かっていた。

天竺山(三内神社)
横沢西側尾根合流点から高圧線鉄塔・小峰線見遣り先に進むと、ほどなく北が開ける。谷戸に入り込んで以来の開けた景観を楽しむ。そのすぐ先が天竺山山頂。標高301m。
頂上平坦地には三内神社が祀られる。三内神社は山内地区の氏神様。天竺山へと辿った横沢西側尾根が横沢地区と三内地区の境をなしているようである。山裾にも三内神社が祀られる。この社は奥宮といったものだろう。
社伝には多くの神々が登場する。その中に住吉の神々も祀られる。表筒男命、中筒男命、底筒男命がそれである。どのような由来で住吉さんが、とも思うのだが、社伝の中に「享保改元の頃発願して(?)三年村内天竺山の頂上に宮を移す」とある。「三年村」?書き間違い?三内の由来は「山の内>三内」と伝わる。三年村ってなんだろう?

横沢・小机林道に
横沢西側尾根を辿り、ゆるやかな坂を下ると前方に結構広い道が見えてくる。横沢入の荒田ノ入、釜ノ沢の谷戸を越え、釜ノ久保を経て横沢西側尾根に上った箇所である。
沢の水音を聞きながら、林道を秋川街道に向かってゆるやかな坂となった林道を下る。


秋川街道に合流
林道はほどなく秋川街道に合流。合流点のすぐ上に「小机」バス停。「小机」は「小高い台地や平地」に由来する(『五日市の古道と地名』)。
秋川街道を武蔵五日市駅に向かって坂を下る。五日市線の高架を越えた先には「小机坂下」バス停もあった。横沢・小机林道と称する所以である。
この秋川街道はいつだったか武蔵五日市駅から北に辿ったことがある。本来の秋川街道は八王子の本郷横町で甲州街道を離れ、川口川に沿って西に進み小峰峠を越えて秋川筋の武蔵五日市に至る道、川口街道とも八王子道とも呼ばれていた。都道32号・八王子五日市線筋である。
しかし、今歩く秋川街道は都道31号・青梅あきるの線。東京都青梅市から、西多摩郡日の出町を経由してあきる野市五日市に至る道である。この道も秋川街道と呼ばれているようだ。

五日市線・武蔵五日市駅
小机坂を下り武蔵五日市駅に。この道筋は、五日市線・岩井支線が通っていたようだ。岩井支線は、今回の散歩のはじまりである五日市線の武蔵引田駅を下りたときに石灰採掘の勝峰山(かっぽやま)の山肌を眺めたが、その勝峰山の山裾まで主として石灰運搬用の支線が武蔵五日市駅から分岐していた。 貨物は武蔵五日市駅の手前にある三内信号所から分岐していたが、旅客用は武蔵五日市に一度入り、スイッチバックで支線に入っていたようである。
大正14年(1925)に武蔵五日市・岩井駅が開業。昭和46年(1971)に旅客運輸を廃止。昭和57年(1982)には貨物運輸も廃止した。そのうちに廃線跡を辿ってみたいと思う。

本日の散歩はこれでお終い。石工の里の石切場跡をみようと始めた散歩であるが、美しい谷戸に出合ったり、石灰採掘と言えば青梅線と思っていたのだが、五日市線も勝峰山の石灰運搬がそのはじまりであったりと、思いがけないこともいくつか登場した。基本成り行き任せの散歩の妙である。
前回は、散歩の前半部、成田西1丁目から成田西3丁目と荻窪1丁目の境まで、善福寺川の南に整備された善福寺川緑地と台地崖面に沿って善福寺川の旧流路・揚堀跡をメモした。

現在の善福寺川は、環八から南東に下り、南に突き出た矢倉台、北に突き出た尾崎の舌状台地を迂回し南東へとひとつの流れとして下るが、これは昭和10年(1935)からはじまった善福寺川の河川改修によってなされたもの。
既にメモしたことであるが、『杉並の川と橋』によれば、昭和10年(1935)頃に善福寺川流出口から鉄道橋下まで、昭和13年(1938)頃に中野境から駒が坂橋(環七の東)下流500m付近まで、その後戦争で中断した後、昭和21年(1946)に工事再開し、堀之内本村橋下流、昭和25年(1950)には済美橋下まで、昭和26年(1951)には大松橋上流までと現在の和田堀公園の東辺りまで工事が行われ、昭和38年(1963)にはずっと上流の荻窪の松渓橋下まで、昭和39年(1964)から45年(1970)にかけて松渓橋上流の工事が行われ、河川が次第に一本化され、これに寄って田用水路などが暗渠化されていった、とある。

前回歩いた、大宮地区の東、成田西1丁目から成田西3丁目と荻窪1丁目境までの一帯は昭和26年(1950)から昭和38年(1963)にかけて複数の流路が一本化されていったようである。「今昔マップ首都 1944-54」では幾筋かに分かれている善福寺川の流路が、「今昔マップ首都 1965-68」ではほぼ一本化されているのはこういった河川改修工事の結果であろう。

「今昔マップ首都 1896-1909」で先回歩いた辺りの旧流路をチェックすると、川筋の中央に、ほぼ現在と同じ川筋(仮に「旧本流」とする)が見え、その南を先回散歩で歩いたルートとほぼ同じ水路が通る。その流れは、成田西と荻窪の境にある神通橋の少し上流で「旧本流」から別れ、川筋と台地の崖面に沿って下り、尾崎の舌状台地先端部を回り込み和田堀公園の少し上流、成園橋辺りで「本流」と合わさるわけだ。上述の如く現在の善福寺川の南、善福寺川緑地公園と崖面との境を進んでいる。

一方、「旧本流」の北を流れる水路は、既に歩き終えた成田東・成田西を流れた揚堀、荻窪を流れた揚堀とほぼ同じルートである。そのルートは環八の少し東、春日橋の下流で「旧本流」と分かれ、かつては一面の田圃であった旧荻窪住宅の北端の台地との境を進む。そのルートは現在の善福寺川と大きく離れるが、北に大きく広がった一帯は往昔の湿地帯であり、田圃跡である。
埋め立てられ宅地が建て並び、境目がわかりにくくなっている台地とかつての湿地の境を水路は進み、矢倉台の先端を迂回した後は、同じくかつての一面の田圃であった旧阿佐ヶ谷住宅の北端へと現在の川筋から大きく北に離れ、これも宅地が立ち並び台地と湿地・田圃の境目がわかりにくくなっている台地下を流れ五日市街道に架かる尾崎橋辺りで「旧本流」に接近し、成田東の旧流路・揚堀でメモした台地崖下を和田堀公園へと下る。
なお、この北側を進む旧流路には、旧荻窪住宅(現在のシャレール荻窪)から真東に向かい旧本流に合わさり、すぐに本流から分かれて天保新堀用水路と荻窪に向かう旧流路・揚堀分岐点へと真南に下る水路が見えるが、前者の真東に向かう水路は第二期の天保新堀用水、真南に向かう水路は第一期の天保新堀用水を揚堀として活用した水路跡ではないだろうか。

なんだかイントロが長くなったが、こんな善福寺川の昔の姿がリアリティをもって感じることができたのも、窪地散歩がきっかけではじまった数回にわたる 散歩の「成果」ではあろうか。アップルの創業者スティーブ・ジョブズの有名な言葉「Connecting the Dots;未来に向かって点を繋げることはできません。過去を振り返って点を繋げられるだけです。だから、今やっていることが、将来どこかに繋がると信じて下さい・・・」が、コンテキストは全く違うにしても、妙に身近に感じる。

さて本日のルート。目的地は環八の西、西荻北1丁目の中田橋辺りから右岸を西荻窪方面に向かって切れ込む窪地。成田西を流れた旧流路・揚堀の終点と言うか始点からの散歩の続きであるため、善福寺川を結構遡ることになる。
途中なんらか窪地でも、とは思うのだが、右岸の窪地は松庵川の窪地であり、左岸は旧荻窪住宅跡、かつては田端田圃が一面に広がっていた沖積地の北に荻窪駅への台地に切れ込む高野ヶ谷戸があるのだが、共に既に歩き終えている。右岸の松庵川から上流、また左岸の荻窪の高野ヶ谷戸からの水を合わせた旧水路・揚堀が善福寺川の旧本流に合わさる春日橋から上流は川筋が狭まり、それらしき窪地は見つからない。
地形図はだめなら、今昔マップに何か水路跡らしきものは無いかとチェックする。と、「今昔マップ 首都 1944‐54」に目的地の窪地がある西荻北近くの中田橋辺りに水路らしきラインが見える。単なる道なのかもしれないが、ほぼ目的地傍でもあるのでとりあえず寄ってみようと思う。そこまでは、善福寺川に沿って続く散歩道を辿り、なにかフックが掛かるものがあれば、成り行きであちこち彷徨うことにする。


本日のルート;
成田西の旧流路・揚堀を辿る
和田堀公園>成園橋>旧流路・揚堀に入る>尾崎橋に>尾崎橋>宝昌寺>天王橋>屋倉橋>善福寺緑地公園に入る>成田西いこい緑地>成田西切通し公園>神通橋へ>善福寺川と合わさる
善福寺川を上流に
神通橋>松庵川合流点>西田端橋>大谷戸橋>松渓橋>松見橋>春日橋 >忍川下橋>忍川橋>忍川上橋>「与謝野晶子 鉄幹 ゆかりの地散策路」の碑>荻窪橋>荻窪上橋>界橋>荻野橋>東吾橋>本村橋>置田橋>神明橋
上荻の暗渠①
コンクリート蓋の暗渠>出山橋
■上荻の暗渠②
鍛冶橋>西荻北の窪地>中田橋>右岸に排水口と細路>城山橋
上荻の暗渠③
コンクリート蓋の暗渠
荻窪北の窪地と暗渠を辿る
コンクリート蓋の暗渠>切り込んだ等高線の窪地に向かう>窪地南端手前で西に折れる>窪地南端に向かう>窪地最南端を西に曲がり窪地の谷頭に>窪地最奥部
神通橋


善福寺川を上流に

前回の散歩メモの最終点、現在の善福寺川(旧流路の本流)の南側、成田西を流れた旧流路が善福寺川に合わさる地点から上流に向かう。ここから荻窪北の窪地までは善福寺川にかかる橋のあれこれをメモしながら進むことにする 少し下流には南に突き出た舌状台地、田端神社が鎮座する矢倉台を迂回した善福寺川(旧本流とほぼおなじ流路)に架かる神通橋がある。
神通橋
メモを再掲;『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通は、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。
鎌倉道
メモを再掲;甲州街道が首都高速4号線と重なる京王線上北沢駅入口交差点近くに「鎌倉橋」交差点がある。ここは小田急線祖師谷駅北の千歳通り十字路から右に折れ、芦花公園、この鎌倉橋交差点、大宮神社、中野の鍋谷横丁をへて板橋へと向かう鎌倉街道中ツ道の道筋(「東ルート」と仮に呼ぶ)である。 また、杉並を通る鎌倉街道には、千歳通り十字路から北に南荻窪の天祖神明宮、四面道へと向かうルートもある(「北ルート」と仮に呼ぶ)。 このふたつのルートが所謂鎌倉街道と称される道であるが、そもそも、鎌倉街道は、「いざ鎌倉へ」のため新たに開削された道ではなく、旧来からあった道を繋ぎ鎌倉への道路網を造り上げたものとも言われる。上記ふたつのルートが関幹線とすれば、幹線を繋ぐ幾多の支線がある。田端神社脇の「鎌倉街道」も、そういった支線のひとつではないだろうか。
具体的な資料がないので想像ではあるが、「東ルート」、「北ルート」というふたつの幹線を繋ぐとすれば、「東ルート」からは大宮八幡から左に分かれ砦のあった田端神社の台地に向かい、「北ルート」からは五日市街道、人見街道あたりから田端神社方面へと向かい、二つの幹線を繋いだのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

松庵川合流点(下流)
現在の善福寺川の南側。成田西を流れた旧流路・揚堀の取水口(?)から川に沿った遊歩道のほんの少し先に西荻窪から下った下水路である松庵川が善福寺川に合わさる2箇所のうち、下流の合流点がある。
松庵川
メモ再掲;松庵川は自然河川ではなかったようであり、源流点という言葉も適切かどうか、といた「川」であった。『杉並の川と橋』によれば、松庵川はこの窪地・松庵窪に集まる吉祥寺方面からの下水・悪水と、甲武鉄道敷設工事にともなう工事用土採掘後の湧水を処理する水路とのことである。水路は大正後期に開削されたようだが、昭和初期には宅地開発の影響ですでに下水路となっていた、と言う。
それはそれでいいのだが、それにしては松庵川筋の窪地は結構大きく長い。ちょっと昔は下水・悪水処理の水路ではあったのだろうが、標高点は井之頭池や善福寺池、妙法寺池、石神井川水源といった東京の川の源流となった湧水点と同じ標高50m辺りである。はるか昔には豊かな湧水が湧きし今に残る窪地を形成したのであろうか。

西田端橋
合流点に続く水路跡を見遣りながら先に進むと松庵川西田畑橋がある。『杉並の川と橋』に拠れば、「川南通り(旧環八)から続く道に架かるこの西田端橋と、今は暗渠となっている天保新堀用水の天神橋は、それまでの小径を新道に拡張して木造橋で架設された。昭和7年にはその写真が残る。
昭和5年には、尾崎から屋倉橋を渡ってくる現在の道は表示されていない。(中略)昭和14年には道幅3m以下の道幅が表示されている。団地の人口が増え交通量も変化してくると橋の負担も増えてきた。そのため、昭和37年に行われた善福寺川の護岸工事と併せて、木造から鉄筋コンクリート橋に改修された」とある。
天保新堀用水の「天神橋」は、田端天神とも呼ばれた田端神社崖下から善福寺川に繋がる「天神橋公園」にその名残を残す。田端神社崖下は成田東。成田西を通り、荻窪に進む旧流路・揚堀と天保新堀用水の分岐点である。 「尾崎から屋倉橋を渡ってくる現在の道・・・」は尾崎の矢倉橋を経て弧を描き旧荻窪住宅の敷地(現在の「シャレール荻窪」)南端を西田端橋に向かう道のこと。説明にある団地とは旧荻窪住宅である。旧荻窪住宅の敷地は前述の如く、かつては田圃であり、その昔は一面の湿地帯。田畑神社崖下から荻窪に入った旧流路・揚堀は、昔の湿地帯と台地の境を弧を描いて進んでいる。

大谷戸橋
西田端橋の次は大谷戸橋。西田畑橋と大谷戸橋の間に天保新堀用水の取水口、広場堰があったようである。天保新堀用水は二期に分かれ、第一期は取水口から南へ、現在の天神橋公園の道筋を矢倉台へと向かい、台地を穿ち(胎内掘)、須賀神社脇の弁天池に進んだが、第二期の天保新堀用水は取水堰から東に向かい、同じく矢倉台を穿ち弁天池に向かったとのことである。
イントロでもメモしたが、「今昔マップ首都 1896-1909」には、善福寺川北側の台地と沖積地の境を流れる旧流路には、旧荻窪住宅(現在のシャレール荻窪)で台地崖下から離れ、真東に向かい旧本流に合わさる水路と、そこからすぐに本流から分かれて天保新堀用水路と台地崖下を進む旧流路・揚堀分岐点に向かって真南に下る水路が見える。前者の真東に向かう水路は第二期の天保新堀用水、真南に向かう水路は第一期の天保新堀用水を揚堀として活用した水路跡ではないだろうか。
天保新堀用水
桃園川の窪地・水路跡の散歩の折のメモを再掲:天保新堀用水の水源は青梅街道の南を流れる善福寺川である。天沼の弁天池を水源とする桃園川は水量が乏しく、千川上水・六ヶ村分水からの養水で水量を補っていた。しかしこの養水では天沼村・阿佐ヶ谷村は辛うじて潤うものの、更に下流の馬橋・高円寺・中野村には十分な水が届かず、その解決策として、水源を水量豊かな善福寺川に求めることにした。
取水口は現在の大谷戸橋付近。そこから善福寺川に沿って矢倉台を迂回し、途中胎内堀り(素掘り)で進み、現在の都立杉並高校の北にある須賀神社辺りの弁天池(明治に作成された「関東平野迅速測図」にも大きな池が記されている)に貯め、そこから先は、再び青梅街道の走る台地の下4mから5mに、高さ1.3m、幅1.6mの地下トンネルを穿ち(胎内堀り、と称する)、青梅街道の北、桃園川に下る窪地に水を落とすことにした。この窪地には用水開削以前から新堀用水と呼ばれる自然の水路が流れていたようである。
天保11年(1840)9月に貫通した天保新堀用水であるが、その2カ月後には善福寺川に沿って迂回していた田端・矢倉台付近の土手が崩壊。その原因は「カワウソ」であった、とか。実際は大雨による土手の決壊ではないだろうか。 それはともあれ、この対応策として川筋迂回は止め、大谷戸橋付近から弁天池にほぼ直線に進む水路を計画。途中の矢倉台は、550mを胎内堀りで抜く工事を再開。天保12年(1841)のことである。
胎内堀りは馬橋村の水盛大工である川崎銀蔵が五百分の一という極めて緩やかな勾配を掘り進め、新堀の窪地と繋げた。この用水の完成により、馬橋・高円寺・中野の村は、大正の頃までその地の田圃の半分ほどをこの用水で潤した、

松渓橋
メモ再掲;「松渓」とは美しい名である、地名にそれらしきものがないため、松庵川散歩の際にチェックすると、『松渓中学校の元校長のコメントとして「学校から眺めるこの風景が中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似ているので校名を松渓と名付けた」とあった。松渓の出処は校長先生にあった(『杉並の川と橋』より)。
学校は柳窪を形成する標高45mラインから数段下がった等高線上、善福寺川に突き出た台地上にある。往昔は一面に松林が茂り、台地下を流れる善福寺川と相まって「松渓」の景観を呈していたのであろう。

松見橋
次いで荻外荘公園脇、旧近衛公宅の建っていた台地から下る坂道が善福寺に当たる箇所に架かる松見橋がある。松見の由来も松渓と同じく、一帯の景観を現したもの。松渓の由来にあるように、台地に松林の茂る景観を表したものである。






松庵川の合流点(上流)
メモ再掲:松見橋の少し下流に松庵川の二カ所の善福寺川合流点の内、上流部の合流箇所がある。善福寺川の南、善福寺川に沿って、その川筋と台地を分ける等高線43m(多分?)ラインは東は環八付近まで続くが、松見橋の南辺りで南に舌状に切れ込み、44m、そして柳窪のある45mまで窪地が大きく切れ込み、その窪地は西荻窪駅辺りまで顕著に見える。松庵川が形成した窪地である。
上で松庵川は「下水」と呼んだが、これだけはっきりした窪地がある以上、太古の昔には湧水などによる自然河川に窪地が形成されたのではないだろうか。
荻外荘
メモ再掲;『杉並の川と橋』に拠れば、荻外荘は「大正天皇の侍医であった入沢達吉博士(東京帝大教授)が宮内省を退官する時、この地約二万坪を購入(一説には功績によって宮内省から贈られたものという)して家を建てたと言われている。近衛公が第一次内閣総理大臣(注;第一次近衛内閣のことだろう)に任命された時、入沢博士から半分を譲り受けた。(中略)「荻外荘」の名は、当時上荻窪の関根あたりに住んでいた有馬頼寧公の命名であると言われている」とある。

春日橋
荻外荘があった台地を南に下る坂道に架かる松見橋の次は東西に通る道筋に架かる春日橋。五日市街道の宮前にある春日神社への道筋故の橋名ではあろう。もっとも、「今昔マップ 首都 1944‐54」にはじめて橋を通り春日神社へ続く道筋が見える。この頃に造られた橋ではあろう。
善福寺川旧流路分岐点
現在の善福寺川の北、成田東・成田西、そして荻窪の台地下に沿って流れた善福寺川の旧流路・揚堀を辿り、善福寺川に合流した箇所は春日橋の少し下流であった。逆に言えば、この地で旧本流と旧本流の北、荻窪の沖積地と台地の境を流れる旧流路・揚堀の分岐点である。をもっとも「今昔マップ 1896-1909」では旧流路は春日橋の少し上流で分岐しているようだ。因みに旧本流の南側の旧流路・揚堀は上述の如く、神通橋辺りで旧本流と分かれる。

忍川下橋・忍川橋・忍川上橋
春日橋に次いで、「忍川」を冠した橋が3つ続く。『杉並の川と橋』に拠れば、 「下荻窪の小名字であった「忍ヶ谷戸」を通る通称荻窪街道(一部は旧環八通り)に架けられている橋である。この橋も明治期に車馬が通行できる数少ない橋であった。橋は本来「しのびがわばし」と言われていたが、大正の頃、川の南に移住してきた人達が「おしかわばし」と呼ぶようになり、いつしかそれが公称として使われそうになったそうである。
「忍」の名は、関ヶ原の戦いで功績のあった甲賀忍者の頭領服部半蔵が将軍から拝領した土地であったという意味で「忍ヶ谷戸」の地名が生まれたと伝えられている。そこを流れる川が「忍び川」、その流れに架かる橋を忍川橋と呼んだ。
荻窪街道
荻窪街道の詳細は不明であるが、旧環八らしき道筋が「今昔マップ 首都 1927‐1939」に記載されている。その道筋は、甲州街道から北に進み、人見街道が現在の環八とクロスする一筋南から北東に進み、五日市街道・柳窪交差点を経て新田街道(神明通り、北街道、とも称される)の高井戸東4丁目交差点まで進む。そこから進路を北西に変え、現在の環八・川南交差点に進んだ後は現在の環八の道筋を北に進み、環八・桃二小南交差点に。
環八・桃二小南交差点からは現在の環八から別れ、現在荻窪駅から桃井二小学に向かうバス道を北東に進み、忍川橋を渡り荻窪駅の少し東で青梅街道に合わさる。
「今昔マップ 首都 1896‐1909」の道筋も、「今昔マップ 首都 1927‐1939」 の道筋と比較すると、整備され直線で道が続いているわけではなく、カクカクと曲がりながら進むが大筋ではほ同じである。
●「与謝野晶子 鉄幹 ゆかりの地散策路」の碑
忍川上橋西詰を通り過ぎる時、左手道路の脇に公園があり、石碑らしきものが見えた。ちょっと寄ってみると、「おしかわ公園」とあり、その石碑には「与謝野晶子 鉄幹 ゆかりの地散策路」とあった。案内には「「与謝野晶子は明治11年(西暦1878年)12月7日生まれ、明治から昭和にかけて活躍した歌人、作家、思想家である。大阪府堺市の老舗和菓子屋の三女としてむ誕生、女学校の頃から日本文学に親しみ、歌を詠むようになる。
明治34 年(西暦1901年)に東京に移り、歌集『みだれ髪』を刊行、浪漫派歌人としてのスタイルを確立。同年機関誌『明星』を発行する新詩社の創立者であり、歌人でもある.、与謝野鉄幹君と結婚。明治37年(西暦1904年)に「死にたまふことなかれ」を発表。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。
関東大震災後、昭和2年(西暦1927年)に晶子・鉄幹はこの地に転居、遙青書屋・采花荘と名付けられた2棟の家を構え、歌会を開いたり、各地へ旅行し歌を詠み講演をするなど、武蔵野の地を永住の居とし晩年を過ごした。
昭和10年(西暦1935年)3月26日鉄幹62歳で没後の七周忌のあと、昭和17年(西暦1942年)5月29日に64歳の生涯を閉じた。残した歌は5万首にも及ぶ。荻窪 川南共栄会 商店街」とあり、石碑には同じく環八・荻窪二丁目交差点を西に進んだところにある「荻窪中央公園」を「与謝野晶子 鉄幹住居跡」の案内も記されていた。荻窪中央公園には2013年頃訪れたことがある。

荻窪橋
忍川上橋を過ぎると環八に架かる荻窪橋にあたる。『杉並の川と橋』の説明をまとめると「荻窪橋は昭和5年の『井荻町全図』には橋の表記のみがされているが、下流の現忍川橋は川南橋と表記されている。当時は交通上、荻窪(青梅街道の荻窪追分=荻窪駅東)と高井戸(甲州街道)を結ぶ主要な道路に架けられた川南橋のほうが重視されている。
荻窪橋は、井荻土地区画整理事業の計画のよって、幅9mの環八通りができたので、昭和12年に幅11m、長さ6.2m(川幅5m)の鉄筋コンクリート橋に改修されているが、それ以前はおそらく幅3m以内の木造橋であったようである。 環八通りは、昭和55年までに高井戸から四面道まで現況に拡幅されたので、荻窪橋はさらに拡張された、とのことである。

環八通り
その環八通りであるが、『杉並の川と橋』には昭和5年(1930)の状況として、「甲州街道から現在の旧環八通りを通り、荻窪の変電所前で一度道が切れている。その北側は、中央線を過ぎてから井荻土地区画整理事業によって千川通りに達する幅9mの直線的な道路が表示されている。
甲州街道から高井戸駅までが完成したのは昭和46年。昭和55年には四面道まで、58年に新青梅街道までが完成した」とある。
「今昔マップ 首都 1927‐1939」には桃井二小辺りから北に道はなく、荻窪橋も表示されていないが、昭和5年(1930)には道も北に現在の環八・東電荻窪支社前交差点あたりまでできていたのだろう。
また、中央線を過ぎてからの道筋でああるが、「今昔マップ 首都 1927‐1939」には現在の環八・四面道交差点の少し東の青梅街道からまっすぐ北に道が伸び千川通りまで続いている。その道が井荻土地区画整理事業によって造られた道ということであろう。
井荻土地地区区画整理事業
メモ再掲:井荻村(現在の井草、下井草、上井草、清水、今川、桃井、善福寺、荻窪(一部)、上荻、西荻北、西荻南(一部)、南荻窪にほぼ相当する)一帯の整然とした区画され、落ち着いた街並みは、大正14年(1925)から昭和10年(1935)にかけて実施された区画整理事業の賜物である。井荻村に隣接した高円寺や野方の入り組んだ街並みと比べて、その差は歴然としている。
事業策定のきっかけは大正12年(1923)の関東大震災。壊滅した都心を離れ東京西郊に宅地を求める状況に、無秩序な宅地開発を防止すべく区画整理事業を立案した。
工区は全8工区:中央沿いのA地区(1,2,7,8)と西武沿線のB地区3,4,5,6区からなり、それまで整備された道もなく雨が降れば往来にも苦労した一帯は、碁盤目状に道が整備され、現在の完成な住宅街の礎が築かれた。

荻窪上橋
「おぎくぼかみ」橋と読む。『杉並の川と橋』には、昭和5年(1930)には橋の表示があるが、橋名の初出は昭和26年(1951)とある。「今昔マップ 首都 1927‐1939」では、橋の表示は確認できなかった。後述の如く丸太橋といったものだったのだろうか。

界橋
次いで界橋。「さかい」橋と読む。上荻窪村と下荻窪村の境故の橋名。上荻窪村は南は新田街道(神明道)、北は青梅街道、西は西荻窪駅の東で上井草村と境を接し、東は新田街道から界橋を通り環八・東電杉並支社交差点から北に青梅街道までが尊域。下荻窪はその東、現在の成田と接する一帯である。
この橋は「今昔マップ 首都 1927‐1939」にはっきりと描かれている。『杉並の川と橋』には、この橋は明治13年(1880)橋の表示があるが、それは車馬も通れない丸太橋であったようだ。
昭和5年(1930)に井荻町の他の10の橋とともに木造橋となったようである。因みにその10の橋は、界橋、東吾橋、本村橋、鍛冶橋、中田橋、城山橋、真中橋、社橋、丸山橋、関根橋とのことである。その内昭和5年(1930)以前からあった橋としては関根橋、社橋、中田橋、本村橋、界橋のう5つであるが、すべて橋名はなく、車馬が通れたのは関根橋と本村橋のみ。その他は丸太橋であった、とあった(『杉並の川と橋』)。

荻野橋
『杉並の川と橋』には橋表示は昭和5年(1930)前後、橋名記載初出は昭和26年(1951)とある。「今昔マップ 首都 1927‐1939」には橋は描かれていないが、「今昔マップ 首都 1944‐1954」には現在の道筋とともに橋が表示されている。上記昭和5年(1930)に造られた井荻の10の橋にもないので、昭和5年(1930)以降の「いつの時か」架橋されたのだろう。
名前の由来は、松渓や松見と同じく景観から。辺りは一面の荻の原であったのだろう。
荻窪
そう言えば、荻窪の由来って、荻の茂る窪地であろうと推測し、チェックしていなかった。確認すると予測通りではあったのだが、荻野橋から中央線を隔てた北にある光明院の縁起に、和同元年(708)旅の僧が荻を刈り草堂を結び観音像を祀ったのがその起こり、とあった。草堂はその後荻堂と呼ばれ、荻窪の地名のはじまりとなった、と。さすがに和銅年間ということはないにしても、南北朝の頃の創建ではないかと言われる。

東吾橋
次いで東吾橋。「あづま」橋と読む。上述のごとく、橋は昭和5年(1030)に造られた10の木造橋のひとつ。橋名記載初出は昭和26年(1951)とのこと(『杉並の川と橋』)。
東吾を「あづま」と読むケースは少ない。日本中の苗字としても『東吾:あづま』の数は全国で数十といったもの。由来はなんだろう?まったくそれらしき資料はないのだが、「今昔マップ 首都 1896‐1909」から「今昔マップ 首都 1927‐1936」までの地図には、この辺りが「東」と表示されている。 東吾の「東」はこの地名と関係あるのかもしれない。では「吾」は?古語で「あ」と読む。また「吾」には「守る」との意味もあるようだ。「吾」の「五」は「木を組み合わせてつくった蓋」、「口」はもともとは祝詞(神への祈りの口上)を入れる器であり、ふたつ合わさって「祈りを守る」って意味となる、とか。 東吾の読みは「あづまあ>あずま」、意味はこの地「東」を守る、ということ? なんの根拠もないが、地名と吾の意味から妄想してみた。
ふたつの排水口
東吾橋を過ぎると二つの排水口が右岸に並ぶ。『杉並の川と橋』に大雑把ではあるが、イラストがあり、それによれば、共に松庵川の水路跡とのこと。下流の排水口は松庵川の中流、水路跡が神明通りから五日市街道へと南に下る箇所近くから、逆に北に向かいこの地で善福寺川に合わさる。上流から下る下水を中流域から善福寺川に流すために造られたようだ。
上流の排水口は松庵窪から中央線と松庵川本流の中間流れ、この地に下るようである。

本村橋
中央線手前に本村橋。「ほんむら」と読む。東吾橋と同じく「今昔マップ 首都 1896‐1909」から「今昔マップ 首都 1927‐1936」までの地図を見ると、中央線の北、青梅街道に囲まれた辺りに「本村」という地名が表示されている。「本村」と言うくらいであるから古くから開かれたところだろう。名主の名との記事もあった。
橋は『杉並近世絵図』に橋名とともに描かれている。「今昔マップ 首都 1896‐1909」にも四面道に向かう道とともに善福寺川に架かる橋が、はっきりと描かれている。現在は中央線に平行した道筋に架かるが、「今昔マップ 首都 1896‐1909」には中央線をクロスするように橋が架かっているようだ。

置田橋
中央線を越えると置田橋。善福寺川に北に住む「お北」婆さんに由来し、「置田」の字をあてた(『杉並の川と橋』)にあるが、あまりに出来すぎの気がするが、同書だけでなく橋脇にあった杉並区の案内にもあり、記録として記されている以上、一応それとしておく。
また『杉並の川と橋』には、橋名自体は昭和26年(1951)の台帳に記載があるが、昭和40年(1965)代にはじめて橋が表示されているとされる。が、「今昔マップ 首都 1944‐1954」には中央線の北を平行に通る道に橋が表示されているように見える。


神明橋
次いで神明橋。中央線の南、天祖神社・神明宮への道筋故の命名だろう。 『杉並の川と橋』には、置田橋と同じく、昭和40年(1965)代初表示、昭和26年(1951)橋名表示とあるが、「今昔マップ 首都 1944‐1954」には青梅街道・八丁交差点から南荻窪の天祖神社に下る道筋とともに橋も描かれていた。
八丁
「八丁」は、いつだったか今川観泉寺でメモした今川氏ゆかりの地名。織田信長に敗れ没落した今川氏は、家康が今川義元の人質であった縁から、義元の嫡子・氏真の庇護を得て京で暮らす。氏真の嫡孫直房は朝廷との交渉役である高家として徳川幕府に仕え、井草村・鷺宮村・中村3ヶ村500石を知行地を与えられた。その知行地は青梅街道から早稲田通り辺りまで「八町」ほどあり、それが転じて「八丁」となった、と言う。

■上荻の暗渠①
さて、「今昔マップ 首都 1944‐1954」には、この神明橋のひとつ上流に架かる出山橋の先に水路跡らしきものが表示されている。水路・窪地散歩に向かう途中、ついでのことなので橋のメモなどしてきたが、本来の目的は水路跡歩き。見逃さないように橋ではなく細路に注意しながら歩くことにする。
神明橋を越え、左岸を少し進むと中央にポールが立った細路がある。なんとなく水路跡の雰囲気。「今昔マップ 首都 1944‐1954」に描かれる水路らしきラインより少し手前ではあるが、とりあえず北に向かう。

コンクリート蓋の暗渠
一筋北の車道を越えた先にも、中央にポールのが立った細路が見える。その道はコンクリート蓋で覆われた暗渠となっている。その暗渠はもう一筋北の車道で先が消えていた。その先に大きな建物があるが、その北は台地となっている。台地の水を集めていたとすれば、更に北にも下水路が続いていたのかもしれない。

出山橋
予定外の暗渠に出合い、再び宇善福寺川筋まで戻り、先に進むと出山橋。前述の置田橋などと同じく、『杉並の川と橋』には、昭和40年(1965)代にはじめて橋が表示されているが、橋名自体は昭和26年(1951)の台帳に記載がある、とのことだが「今昔マップ 首都 1944‐1954」には整地された道筋と共に橋が表示されていた。
で、出山の由来だが、江戸時代の上荻窪村の小名に「出山」がある。また、明治2年の改定小字名としても「出山」とあるので、地名に拠るものだろう、 出山が何を意味するのか不明だが、地形図を見ると橋の北に3段からなる等高線が形成する台地が見える。それが川に向かって出た山と見たのだろか。なお、杉並では林のことを山と称することが多い。

■上荻の暗渠②
出山橋を越え先に進むと、鍛冶橋手前に細路があり、コンクリート蓋の暗渠が見える。これが「今昔マップ 首都 1944‐1954」に記されていた水路跡のようである。
民家の間のコンクリート蓋の暗渠を進み、一筋北の車道を越える。その先にも暗渠は続く。右手に笹薮に蔽われた廃屋などを見遣りながら先に進む。

その先の車道の北にも更に暗渠は続く。民家の間の暗渠を進むと左手に頌栄保育園。東西に通る車道は八丁南交差点からの道。暗渠はここで消える。 地形図を見ると、暗渠は出山橋でメモした3段からなる等高線が形成する台地の東端下を進み、等高線が善福寺川に沿って東に向かう辺りで消えている。台地によって暗渠は阻まれるが、台地上の宅地からの下水なども集めたのだろうか。

鍛冶橋
暗渠跡から善福寺川筋まで戻り、鍛冶橋を越える。この橋は昭和5年(1930)に木造の橋が架けられた。また橋名が見えるのは昭和26年(1951)とされる。 橋名の由来は忍川橋でメモした伊賀者に拠る。『杉並の川と橋』には、「鍛冶橋も鵜殿次郎兵衛政長が拝領した土地を、その子政尚が伊賀者となって受け継ぎ、配下の「徒歩」を住まわせたと言われている。それが後に「徒歩」から「鍛冶」に転化したと『杉並風土記』に記されている」とあった。
忍者は徒歩で出陣したため徒衆(かちしゅう)と呼ばれたわけだから、「徒歩」はいいとしても、徒歩>鍛冶への転化は今一つしっくりしないのだが、それはそれとして、忍川橋で登場した服部半蔵は下荻窪村(現在の荻窪、南荻窪1,2,4丁目)、その配下が上荻窪村(西荻南、西荻北、上荻、南荻窪2,3,4丁目)をその知行地としたようだ。大雑把に言って、荻窪はは頭の半蔵、西荻窪はその配下である伊賀衆の知行地である。

●西荻北の窪地
「Tokyo Terrain 東京地形地図」で作成
鍛冶橋を越えた辺りで善福寺川は北に向かい、中田橋を越え城山橋で東に向かう。現在は東西に直線に進むが、「今昔マップ 首都 1896‐1909」を見るとその流れは南西に進み、城山橋を先端にした舌状の形となっている。
その舌状部から南に数段の等高線が走り、そのうちの48m(49m?)等高線が南西に切れ込んで窪地を形成している。窪地の西には更に一段高い等高線が見れれるが、そこが往昔、源頼義が奥州下向の途中、陣を張ったと伝わる城山だろう。「山」とは言っても、川筋から5mほどの比高差であるが、前述の如く杉並では木々の茂る林を「山」と称していたようである。
それはともあれ、窪地を流れた水路跡の善福寺川合流点は?等高線から見ると、下流は中田橋、上流は舌状部の上流の関根橋の間であれば、どこで合流しても不自然ではない。とりあえず、善福寺川右岸に水路跡らしきものはないか注意しながら先に進むことにする。



中田橋
鍛冶橋のひとつ上流、北に向けた流路に中田橋が架かる。『杉並の川と橋』には『杉並近世絵図』に橋が描かれている、とある。実際「今昔マップ 首都 1896‐1909」にも、しっかりした道筋が善福寺川を東西にクロスしている。前述の如く、昭和5年(1930)に木造橋となったようだが、それ以前は丸太橋とのこと。橋に名前がついたのも昭和26年(1951)、と言う。
で、中田の由来だが、現在の上荻3丁目は、明治22年(1889)の小字名として、「中田」とある。江戸時代は上荻窪村の小名である本村とのことであるので、村の中心を通る道筋ではあったのだろう。

右岸に排水口と細路
中田橋のすぐ先に善福寺川に注ぐ排水口とその排水口へと北から通る細路がある。道はコンクリート舗装されており、その先に車止めが見えるが、水路跡かどうか不明である。もう少し上流まで進んでみる。






城山橋
善福頃の写真に、一面の田圃の中を流れる善福寺川を挟んで両岸に鬱蒼とした森が並ぶ。右岸が城山、左岸が荻窪八幡の森であろう。
『杉並の川と橋』には昭和5年(1930)に橋の表示があり、昭和26年(1951)の台帳に橋名の記録があるようだが、「今昔マップ 首都 1944‐1954」まで橋も道も確認できなかった。




■上荻の暗渠③
それはともあれ、城山橋まで進んだが、これといった水路跡は見つからない。城山橋の下に大きな排水口があり、ちょっと道筋を辿ってみたのだが、それといった痕跡もなく、何となく先ほどの排水口が水路跡だろうと、中田橋まで戻ることにする。
右岸を歩き始めると善福寺川が南にカーブする地点に北から細路が合わさる。川がカーブする地点に細路?なんとなく気になり細路を北に向かう。

コンクリート蓋の暗渠
一筋北の車道の先に、更に細路が続く。その一筋北、八丁南交差点からの車道を越えた先にはコンクリート蓋の暗渠が続く。暗渠を辿ると荻窪八幡前を東西に通る道に辺り、そこで暗渠は消える。
道の北には林が残っていた。湧水池でもないかと彷徨うが、特にそれらしきものはみあたらない。林が切れる一筋東の通りの角にある六地蔵の祠にお参りし、善福寺川に戻る。



■西荻北の窪地と暗渠を辿る

中田橋脇でチェックしておいた、排水口まで戻り、北に続く細路進む。道は舗装された普通の道である。

コンクリート蓋の暗渠
城山橋から南に下る車道を越えると、その先は低い段差となり、コンクリート蓋の暗渠となる。一安心。








切り込んだ等高線の窪地に向かう
暗渠を進み、城山橋からひとつ上流の真中橋から南に下る車道を越えると、暗渠は北に直角に曲がる。自宅で地形図をチェックすると、48m(多分?)等高線が南西に切れ込む窪地の真ん中あたりを進んでいた。




窪地南端手前で西に折れる
中田橋から東西に進む車道を越え、一筋南の車道とクロスし南に進む暗渠は右に折れ、真中橋のひとつ上流に架かる社橋から南に下る車道を越えると右に折れる。地形図で確認するとそこは48m等高線の南端近く、等高線が形成する窪地が西に向かう辺りであった。



窪地南端に向かう
西に向かう暗渠は一時コンクリート蓋が消え、普通の舗装道路となる。その先には「一時通行止め」の案内。「一時」という文字を拡大解釈し、その『曖昧さ』を言い訳にして先に進むと、道は直角に折れ南に進む。
コンクリート蓋の暗渠はないものの、細路の両側は高い段差となり、水路跡の趣を強く感じる。




窪地最南端を西に曲がり窪地の谷頭に
少々寂しげな水路跡を南に進むと道は西に直角に終れる。前面は一段高いところに廃屋が残る。何かの施設跡のようにも見える。地形図で確認すると、そこは等高線48mの南幡部であり、その等高線が形成する窪地の最奥部手前でもあった。



窪地最奥部
道を西に折れると関根橋から南に下る車道に出る。暗渠はここで消える。等高線48mの最奥部は、その車道の一筋西の車道に少し南に切れ込んで終えていた。 





「Tokyo Terrain 東京地形地図」で作成
散歩の時は窪地に集まる下水を集めたものかと思っていたのだが、揚堀との説明もある。また、城山下支流との名前もあった。揚堀については、「江戸期に、水車を動かすために落差をつけようと、善福寺川から引いた水路を城山の下を北から南に一直線にトンネルを掘って流した(『杉並風土記;森泰樹』)、とか「川から引かれた水路が城山の下を通っていた/七ツ井戸と呼ばれた井戸は、城山の南側に一列に7つ並んで掘られていた」といった記事があった。
杉並区の記事にも「善福寺川も台地直下を流れており、川から引かれた水路が城山の下を通っていました。また、七ツ井戸と呼ばれた井戸は、城山の南側に一列に7ツ並んで掘られていたようで、何故か土地の人々からは近付くことも恐れられていました」と言った説明があった。

上記説明のように、揚堀であるとすれば、取水口が上流に、かつ標高がこの窪地より高くなければならない。しかし、窪地を形成する等高線は舌状台地の先端部を廻り上流部まで廻りこみ、関根橋から上流のふたつ目の橋を東端として南に切り込んでいる。そしてその南にはより標高の高い2段の等高線が見える。

言わんとすることは、舌状台地を廻りこんだ上流部は、窪地より標高が高いわけではない、と言う事。むしろ2段というから2mほど窪地最奥部より低くなっている。川筋から取水しても数段上の等高線で形成される窪地に流れることなない。仮に説明にあるように、取水した水をトンネルを掘って通したとしても、それが流れるに足る比高差を考えると、中田橋から南に窪地へと進み始めたあたりでしかなく、窪地最奥部には水は通りそうにない。はてさて。どうもはっきりしないので、自分としてはこの窪地に残る暗渠は、台地から窪地に集まる下水を流した、というあたりで「思考停止」としておこうと思う。

これで散歩は終了。道なりに進みJR西荻窪駅に向かい、松庵窪を少し彷徨い本日の散歩を終える。

偶々出合った窪地がきっかけではじめた杉並区・善福寺の川筋の窪地、そしてその窪地を流れる水路を辿る散歩は、途中で善福寺川の旧流路までをカバーすることになり、結構長い散歩となった。その杉並の善福寺川筋の窪地と水路跡、そして旧流路散歩もこれで一応お終いとする。


善福寺川の谷筋から青梅街道の台地に上る途中、偶々出合った窪地を辿ると、そこには往昔の小沢川跡であった。そのメモの過程で作成した数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図には、小沢川跡が善福寺川筋から台地に切れ込む窪地としてくっきりと表れていた。
地形陰影段彩図には、その小沢川跡の窪地だけでなく、川筋から台地に切れ上がる窪地が見える。その窪地には小沢川跡と同じく、往昔の水路跡が残っているだろうとはじめた善福寺川筋の窪地散歩も、これで何回目になるだろうか。 最初は窪地だけ、と思っていたのだが、それぞれのメモの際、ちょっと昔の善福寺川の流れをチェックすると、その流れは現在のように河川工事の結果一本化された河川ではなく、幾つもの流れが複雑に田圃の中を流れていたのが見えてきた。
で、結局窪地だけでなく、善福寺川の旧流路も歩くことになったのだが、結果的にそれは河川改修された善福寺川の旧流路を活用したであろう揚堀・田用水跡でもあり、「旧流路・揚堀」と併記した散歩ラインアップも加わることになった。 今回の散歩も、地形陰影段彩図にかすかに見える西荻窪駅の北、善福寺川から切れ込む窪地を歩く散歩とともに、窪地散歩スタート地点へ行く途中で、成田西、善福寺川の南を進む旧流路・揚堀も辿る、といった窪地と旧水路・揚堀のコンビネーションとなった。
ルートは成田西1丁目の杉並児童公園辺りから善福寺川の旧流路・揚堀を進み、成田西3丁目と荻窪1丁目の境辺りの取水口辺りまで進み、そこからは善福寺川を環八、中央線を越え上荻に残る水路跡を歩き、西荻西の窪地に残るであろう水路跡散歩で締めくくることにする。


本日のルート;
成田西の旧流路・揚堀を辿る
和田堀公園>成園橋>旧流路・揚堀に入る>尾崎橋に>尾崎橋>宝昌寺>天王橋>屋倉橋>善福寺緑地公園に入る>成田西いこい緑地>成田西切通し公園>神通橋へ>善福寺川と合わさる
善福寺川を上流に
神通橋>松庵川合流点>西田端橋>大谷戸橋>松渓橋>松見橋>春日橋 >忍川下橋>忍川橋>忍川上橋>「与謝野晶子 鉄幹 ゆかりの地散策路」の碑>荻窪橋>荻窪上橋>界橋>荻野橋>東吾橋>本村橋>置田橋>神明橋 ■上荻の暗渠①
コンクリート蓋の暗渠>出山橋
■上荻の暗渠②
鍛冶橋>西荻北の窪地>中田橋>右岸に排水口と細路>城山橋
上荻の暗渠③
コンクリート蓋の暗渠

荻窪北の窪地と暗渠を辿る
コンクリート蓋の暗渠>切り込んだ等高線の窪地に向かう>窪地南端手前で西に折れる>窪地南端に向かう>窪地最南端を西に曲がり窪地の谷頭に>窪地最奥部



成田西の旧流路・揚堀を辿る

「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
善福寺川の南側の谷筋、成田西1丁目の成園橋に向かう。先日、成田東支流から、善福寺川の北側、成田東を流れる旧流路・揚堀を辿った時、「今昔マップ 1896-1909」に現在の成園橋の少し上流で二つの川筋が合流していた。
河川改修が実施される以前、善福寺川はいくつかの流路に分かれ田圃の間を流れていたと既に(一連の「杉並の窪地・水路散歩」のどこかで)メモしたが、現在の成園橋の少し上流で合流するふたつの流路のうち、ひとつは現在の善福寺川の川筋とほほ同じ。仮に「本流」と呼んでおく。
もうひとつ、左手と言うか、南から合わさる旧流路は上流の荻窪1丁目と成田西3丁目の境辺りから、はっきりとした水路跡を示し、「本流」に沿って流れ、成園橋の少し上流で合わさる。
本流に沿って流れた川筋には現在水路は残っていない。しかし、如何にも水路跡らしき道が続いている。現在の善福寺川の南側、成田西を通る如何にも水路跡らしき道筋を辿り、善福寺川の旧流路・揚堀の痕跡でもあれば、といった気持で旧流路合流点の成園橋の少し上流に向かったわけである。

和田堀公園
杉並区和泉の自宅を出て、大宮神社の参道手前の坂を下り、善福寺川に架かる宮下橋に。そこから和田堀公園を川沿いに八幡橋、御供米橋、大成橋、白山前橋と進む。
川の南側は台地が迫り崖面となっているが、北側は広く開析されている。川筋の北側の台地には弥生末期の松ノ木遺跡が残るわけで、古代、台地南に広がるこの開析された湿地では水稲耕作が行われていたのだろう。
往昔田圃であったこの開析地は先回散歩の折にメモした善福寺川公園と同じく、昭和39年(1964)に都市計画公園として整備され和田堀公園となった。川に架かる橋も農耕作用の「作場橋」の他、昭和39年(1964)以前には何もなかったとのことである。

成園橋
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
川の北側の平坦地、南の善福寺川手前まで台地が迫る崖面を見遣りながら進む。大成橋を過ぎ、白山前橋辺りで崖面が少し南に後退し、成園橋辺りまで進むと、その崖地も南に後退し宅地も建ち平地が開ける。「今昔マップ 1896-1909」で、成園橋の上流辺りで複数の旧流路が合わさるのはこの地形故の自然の成り行きではあろう。
往昔の広く開析された川筋は、一般的に開析された谷筋の中央、そして左右の崖下を流れる三つの流れからなるパターンが多いとされるが、まさにその通りの絵柄である。中央の川筋は河川改修された後の現在の善福寺川に近く、北の崖下には先日散歩した成田東を進む旧流路・揚堀、そして南の崖下は今から辿る成田西を進む旧流路・揚堀となっているようだ。

旧流路・揚堀に入る
成園橋を過ぎると、進行方向斜めに入る道筋がある。「今昔マップ 1896-1909」で確認する限りでは、その道が旧流路と重なる。当時の本流(仮称)は、現在の善福寺川の流路とこの辺りでは、ほぼ同じであるので、この地が本流と支流からなる善福寺川が合わさる箇所であったのかと思う。
道を進み、比較的広い道を上流に進む。道にはこれといった水路跡の痕跡はないが、杉並児童交通公園の南端を善福寺川から折れてくる道には暗渠らしき道、車止めがある。根拠は無いが、河川改修に際し、旧流路とは別に田用水・揚堀が整備されたのかとも思える。

尾崎橋に
子供が幼い頃、よく利用されて頂きた杉並児童交通公園、それに続く善福寺川緑地運動場の西端を南北に通る道を進む。道は車道と歩道に分かれており、歩道部分が水路跡を示すようにペイントされている(思い込み過ぎ?)。 道を進むと尾崎橋西で五日市街道と交差する。その時は、何事もなく通り過ぎたのだが、メモの段階で『杉並の川と橋』をチェックしていると、この五日市街道とクロスする南北に揚堀に架かっていたふたつの橋の記事があった。歩いている時に、特に水路跡といった痕跡は何もなかったように思う。 痕跡は無かったのは少々残念ではあるが、今まで辿った道が、旧流路を利用したであろう揚堀であったことが確認でき、一安心。
道角橋
『杉並の川と橋』の概略図に拠れば、道角橋は五日市街道・成田西児童館前交差点の少し尾崎橋寄りのところから善福寺川に向かって右に折れる道が、いま歩いてきた道とT字路であたる箇所のようだ。
三(捻)年橋
五日市街道の北、道に沿って宝昌寺があるが、そのお寺さまと杉並第二小学校の間の坂を「三年坂」と称する。「急坂で転倒して怪我をすると三年でなくなる」というのが名前の由来、とか。それはともあれ、その坂を下り切ったところから昔の尾崎橋へと向う道と揚堀が交差する箇所に架かっていたようだ。
尾崎の七曲り
「馬橋村のなかばより、左に折れて山畑のかたへのほそき道をゆく」「つつらおりめたる坂をくだりて田面の畔を(進む)。他の中に小川ありて橋を渡る。これを尾崎橋」、といった記述もが尾崎橋の案内板に記してあったが、この「つつらおりめいたる」とは、尾崎の七曲のこと。
現在の五日市街道は工事により直線にはなっているが、昔は尾崎橋あたりはカーブの続く坂道であった、とか。往来の盛んな五日市街道が武蔵野台地から善福寺川の谷筋に下り、川を渡るわけだが、坂の勾配を緩やかにすべく道を九十九折>七曲りとして荷駄の往来をの負担を減らしたのだろう。道角橋や三年橋の架かっていた箇所は現在の五日市街道と「カクカク」と交わる。往昔の七曲りの名残のように見える。
なお、橋を越えた先、現在の五日市街道の北に弧を描いて進み、更にその先で南へ弧を描いて進む道が残るが、それが直線化される以前の旧五日市街道である。 先日、成田東・成田西を進む揚堀を辿るとき、尾崎橋の先でスタート地点を探すため土木事務所裏手の坂道で「民間信仰石塔」に出合ったが、その坂は白幡坂と称される旧五日市街道であった。

尾崎橋
五日市街道に架かる。上記「馬橋村のなかばより(中略)これを尾崎橋」との記録は享和3年(1803)の記録。戦前まで木造の橋であったようで、架橋箇所も現在より少し南に見える。鉄筋コンクリート橋となったのは昭和33年(1968)。この時川筋も改修され直線化され、現在の状況に近くなった。装飾が施された現在の橋は平成3年(1991)のことである(『杉並の川と橋』)。
尾崎の由来は「おさき」>突き出した台地の突端を意味する古称との説、上記白幡坂の由来でもある、源頼義に拠るとの説もある。源頼が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えた辺りを白幡、尾のあたりを尾崎と名付けた(大宮八幡宮縁起)」との伝説である。誠に地名の由来は諸説、定まることなし。

宝昌寺
五日市街道を渡ると宝昌寺。参道入口には石仏が建つ。案内には「白龍山宝昌寺は、曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼如来坐像です。
当寺は、文禄三年(一五九四)頃、中野成願寺五世葉山宗朔によって開創されました。曹洞宗となるまえは、真言宗の寺であったと思われ、室町期作の旧本尊大日如来像が現存しています。
江戸時代の宝昌寺は、成宗村の檀那寺として村民の信仰の拠りどころであり、また村内の熊野神社・須賀神社・白山神社の管理をする別当寺でもありました。 安政三年(一八五六)火災のため本堂を焼失、現在の本堂は大正十年に建立したものです。この火災により伝来の古記録類はほとんど失われましたが、寺内にはなお多数の板碑のほか、区内でも最古といわれる舟型地蔵尊や庚申塔などの文化財が所蔵されています。
境内に奉安する豊川稲荷社は、明治末年付近一帯が飢饉に襲われた時、人々の災難消除と五穀豊穣を祈願して、愛知県豊川閣から移し祀ったもので、その利益はいちぢるしく、大正時代から近在諸村に豊川稲荷信仰がひろまったといわれます、杉並区教育委員会」とあった。
尾崎熊野神社
善福寺川低地を望む、北に突き出した舌状台地に鎮座する成宗村字尾崎の鎮守さま。いつだったか、前述の三年坂を上り台地上を進み、大宮八幡や村内の白山神社とほぼ同年代の創建(正和元年(1312)頃とも)でなないか、とも伝わる古社を訪れたことがある。
境内から縄文前期の住居跡が発見され、縄文・弥生・古墳時代の石器・土器などが多く出土した。ために、「尾崎熊野遺跡」と名づけられた。 また、その時は見逃したのだが、この社には上記、揚堀に架かっていた「道角橋」の欄干が残るとのこと。その長さ3m戸いうから、揚堀の規模が想像できる。この欄干は河川改修・埋め立て工事の際に不明になっていたが、欄干の片側だけが善福寺川緑地で見つかった。

天王橋
尾崎橋を越え、北に突き出した舌状台地の崖下に沿って進む。「今昔マップ 1896-1909」にも、現在の善福寺川の流路とほほ同じである本流(仮称)とともに、舌状台地の崖下を進む水路跡がはっきりと描かれている。
道を進むと台地北端部には善福寺川を渡る天王橋がある。天王は「牛頭天王」のことであろうから、橋を渡った北にある須賀神社が橋名の由来、かと。素戔嗚尊を祀る須賀神社は、元は「牛頭天王社」と称されていた。明治の御代、天王=天皇を想起させるのは不敬にあたると改名。素戔嗚尊ゆかりの出雲の須賀神社としたのだろう。因みに「**神社」という呼称は明治以降のものである。

と、由来はわかったものの、由緒ありそうなこの橋は何時ごろ架けられたものだろう。河川改修工事以前の善福寺川に架かる橋は誠に少ない。先回の散歩のメモで、善福寺川緑地公園、和田堀公園一帯でも昔からに橋は作事橋と古道に架かる橋以外では相生橋だけ、といった記事があり(『杉並の川と橋』)、そのリストには屋倉橋、天王橋、尾崎橋が外されていた。思うに、この3つの橋は古道に架かっていた橋ではあったのだろう。
『杉並の川と橋』には、「通称鎌倉街道(注;鎌倉道は今よりもう少し北西を斜めに通っていたようである)にかかる橋で、尾崎の丘(翁山)を北に下ったところに架けられている。橋表示はないが、(中略)明治26年頃の大王橋は板が一枚置いてある橋であった。投渡橋は架けられていたのであろう。(中略)大正5年には橋が表示され・・・」とある。橋とはいうものの、かくの如き「橋」ではあったようである。
鎌倉街道
先回のメモを再掲;甲州街道が首都高速4号線と重なる京王線上北沢駅入口交差点近くに「鎌倉橋」交差点がある。ここは小田急線祖師谷駅北の千歳通り十字路から右に折れ、芦花公園、この鎌倉橋交差点、大宮神社、中野の鍋谷横丁をへて板橋へと向かう鎌倉街道中ツ道の道筋(「東ルート」と仮に呼ぶ)である。 また、杉並を通る鎌倉街道には、千歳通り十字路から北に南荻窪の天祖神明宮、四面道へと向かうルートもある(「北ルート」と仮に呼ぶ)。
このふたつのルートが所謂鎌倉街道と称される道であるが、そもそも、鎌倉街道は、「いざ鎌倉へ」のため新たに開削された道ではなく、旧来からあった道を繋ぎ鎌倉への道路網を造り上げたものとも言われる。上記ふたつのルートが関幹線とすれば、幹線を繋ぐ幾多の支線がある。田端神社脇の「鎌倉街道」も、そういった支線のひとつではないだろうか。
具体的な資料がないので想像ではあるが、「東ルート」、「北ルート」というふたつの幹線を繋ぐとすれば、「東ルート」からは大宮八幡から左に分かれ砦のあった田端神社の台地に向かい、「北ルート」からは五日市街道、人見街道あたりから田端神社方面へと向かい、二つの幹線を繋いだのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

素戔嗚と牛頭天王
素戔嗚が牛頭天王と同一視されるようになったのは神仏習合の賜物。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父)とセイオウボ(西王母)とされていた。ために、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。そこからさらにタイザンオウ(泰山王)(えんま)とも同体視されるに至った。
泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来。素戔嗚尊の本地仏は薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなった、との説もある。

屋倉橋
尾崎の台地先端部を廻り込み崖下の道を児童橋、屋倉橋へと進む。道脇の段差のある石段が水路跡の名残を伝える。屋倉は対岸の矢倉台より。屋倉とも表記される。先回もメモしたとおり、矢倉は本来は矢を備える倉の意味だが、物見・見張り台も矢倉>櫓と称するようになった。阿佐ヶ谷へ抜ける鎌倉道に面し、太田道灌が物見台を建てたとも伝わる。なお、この矢倉台には成宗の開発者である野口成宗の館があった、とも伝わる。
この橋も上記天王橋と同じく、昭和39年(1964)の善福寺川緑地事業以前には、古道に架かるささやかな橋ではあったのだろう。なにか情報がないものかと『杉並の川と橋』をチェックすると、屋倉橋の説明はなかったのだが、「橋の手前には善福寺川から引いた揚堀(田用水路)に権現橋が架っていた」との記事があった。旧水路跡の道筋にはそれといった橋の痕跡は見つからなかった。

善福寺緑地公園に入る
屋倉橋からの道筋は南に進むが、旧流路・揚堀跡は善福寺緑地公園に入る。水路跡はほどなく公園と宅地が建つ崖面の境を進む。公園と水路跡の間にはコンクリートの柱が立ち並び境を画する。
公園との境を進む水路跡は川筋から次第に離れてゆく。地形図を見ると屋倉橋の東辺りで等高線41m(だろう)が川筋から南に向かって離れてゆく。
善福寺川の旧流路
「今昔マップ 1896-1909」
現在は善福寺川緑地の中央を流れる善福寺川であるが、「今昔マップ 1896-1909」にはその流れは、ない。旧流路は屋倉橋の少し東で南北からの流れが合流し尾崎橋へと下っている。地図を辿ると、南から合流する流れは、現在辿っている成田西の旧流路、そして北からの流れは、これも先回の散歩で辿った成田東から成田西を流れる揚堀と重なり、また離れながら合流点に下る。旧流路を揚堀として活用したはず、といった思いで「旧流路・揚堀」と表記しているのだが、あがなち間違いでもなさそうである。

成田西いこい緑地
水路跡定番の民家への石段からのアプローチ、崖面の高い壁面、マンホール、車止めなどを見遣りながら、コンクリート柱で公園と区切られた水路跡を進む。水路跡の道も善福寺川から南を進んでいる。地形図を見ると善福寺川の谷筋に沿って続いた40m等高線(だろう)の南に41m、さらに42m等高線が台地に向かって南に広がっている。42m等高線が半円を描き南に突き出した辺りに成田いこい緑地があった。この辺りが川の南北に広がる善福寺川緑地の南側部分敷地が一番広くなっている箇所である。41m等高線と42m等高線の間の半円の箇所が緑地と見える。
因みに善福寺川緑地公園は、地下鉄丸の内線の開削で生じた土砂で湿地を埋め立て整備したとのことである。


成田西切通し公園
成田西いこい緑地の先にはコンクリート蓋の暗渠が続く。今回の揚堀散歩で初めての、如何にも水路跡といった風情である。その道を先に進むと左手が開け車道が見える。五日市街道である。
地図を見ると、水路跡と台地を区切る崖面上に「成田西切通し公園」の表示がある。特に尾根筋もないのだが、切り通しって、どういうこと?


「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
地形図をチェックすると、切り通し公園辺りで等高線42mが五日市街道を囲い、更に43mラインが五日市街道を囲い南へと切り込んでいる。
地形図を見る限りではこの1mほどの段差を開削しているのが「切り通し」と呼ばれる所以であろうかと思える。特に資料もないので、地形図だけからの妄想ではある。









神通橋へ
五日市街道に最接近した後は、宅地が崖面に迫る一帯を進む。宅地から水路跡に落ちる排水ダクト、民家への木造のアプローチ階段、5段からなる民家への石段といった水路跡の雰囲気が残る道を進む。成田西3丁目から荻窪1丁目に入る境に神通橋。



神通橋
先回のメモを再掲;『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通は、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。
「この道は鎌倉道とも言われる古道で・・・」云々は上記天王橋の箇所でメモしたので、ここでは省略。

善福寺川と合わさる
神通橋の西詰から少し橋を離れた辺りに車止めが見え、その先に道がある。民家の間の道を進むと石段となって善福寺川脇の遊歩道に下りる。ここで成田西を進んだ揚堀は善福寺川に合わさる。往昔、この地に取水口でもあったのだろか。現在は特にその痕跡はない。
「今昔マップ 1896-1909」に拠れば、現在の善福寺川の南を進んだ旧流路・揚堀は神通橋の少し上流で本流から分かれる。上で屋倉橋の東で合流した南北の流れの内、北を進む流れは矢倉台の先端部を迂回した先辺りからは現在の善福寺川の流れとほの同じルートを流れている。往昔はこの地で南北に分かれ、屋倉橋手前で合わさって尾崎橋へとくだっていったのだろう。 当日は、ここから更に善福寺川を遡り上荻の水路跡、そして西荻北の窪地に残る水路跡を辿ったのだが、そのメモは次回に廻す。

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