2016年4月アーカイブ

JR西荻窪駅地近くの窪地からはじまる松庵川を善福寺川との合流点まで辿り、その後、荻窪地区を流れていた善福寺川の旧流路・揚堀を辿り、最後に高野ヶ谷戸の水路源流部の荻窪駅へと歩いた散歩の後半部のメモをはじめる。 先回のメモでは西荻窪駅近くの松庵川、といっても下水路であったようだが、その水路跡・暗渠を西荻窪から南東に下り、荻窪の善福寺川との合流点までカバーした。当日はその後も成田東・成田西から荻窪に入った善福寺川の旧流路・揚堀を善福寺の取水口辺りまで辿った後、その旧流路・揚堀に荻窪駅方面から注ぐ高野ヶ谷戸の支流を歩いたのだが、先回のメモは松庵川で終えることにした。
今回はその散歩の続き、善福寺川の荻窪地区河川改修以前、現在の善福寺川の流路北に広がる田端田圃(西田田圃とも)と台地の境を流れていた善福寺川の旧流路・揚堀、そしてその旧流路・揚堀に注ぐ高野ヶ谷戸からの支流のメモをはじめる。


本日のルート;
 ■荻窪を流れた旧流路跡・揚堀を辿る
 神通橋>天保新堀用水と旧流路・揚堀が合わさる地点>天保新堀用水と善福寺川の旧流路・揚堀跡分岐点>田端神社の鎮座する台地の崖下を進む>西田保育園脇を進む>旧荻窪団地>北から高野ヶ谷戸からの水路跡>松渓橋への道との交差する箇所に車止め>荻外荘>松見橋への道と交差>善福寺川と合わさる
高野ケ谷戸をたどる
高野ヶ谷戸西側支線との分岐点
高野ケ谷戸西側支流(仮称)を辿る
コンクリート蓋の暗渠が現れる>水路跡が消える>コンクリート蓋の暗渠が北に進む
高野ケ谷戸中央支線(仮称)を辿る
民家の間の細路を進む>公園の池手前の道に出る>北に水路跡が続く>駐車場からさらに北に>中央図書館北の車道に水路跡が現れる>青梅街道・天沼陸橋付近
高野ケ谷戸東側支線(仮称)を辿る
大田黒公園北側の道を進む>車止めのある細路>源流点付近


荻窪を流れた旧流路跡・揚堀を辿る

神通橋
松庵川が善福寺川に合流する2箇所のうち、下流の合流点からメモをはじめる。合流点から少し下流に架かる神通橋を渡り、善福寺川の旧流路・揚堀と天保新堀用水の分岐点に向かう。「杉並 善福寺川筋の窪地・水路跡散歩 Ⅱ」で、成田東・西を進んで来た善福寺川の旧流路・揚堀から、思わず天保新堀用水に乗り換えた地点である。
神通橋
先回のメモを再掲;『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通は、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。

天保新堀用水と旧流路・揚堀が合わさる地点

神通橋を渡り、成田西4丁目と荻窪1丁目の境の道を進む。道の右手は矢倉台の台地先端部、善福寺川緑地公園となっている。成田東・成田西と進んできた旧流路・揚堀はこの台地を迂回し、善福寺川緑地公園に沿って台地崖線下を進み、台地先端部を廻り込む。
台地先端部を回り込んだ辺りは、成田西4丁目の共立女子学園研修センター杉並寮の辺りから、台地を穿ち胎内堀で進んできた天保新堀用水が、台地から姿を現した辺りではあろうが、その痕跡は見当たらない。
天保新堀用水のこの水路はカワウソだか洪水だか、その詳細は不明だが、土手が決壊し、結果別ルートが開削されることになったわけで、この天保新堀用水ルートが機能したのは2ケ月程とのこと。



とはいうものの、苦労して開削した取水口や水路が活用されなくなったわけではないだろう。旧流路を活用し、田用水路・揚堀として田畑を潤したものと思う。
実際、昭和22年(1947)の航空写真には、大谷戸橋下流(神通橋のふたつ上流に架かる)の取水口から現在の公園を南に下る水路が見える。また、揚堀もその水路に合流している。天保新堀用水として開削された水路は昭和の頃まで揚堀の一部として田畑を潤していたようである。しかし現在、その痕跡は何も、ない。
ともあれ、先回と同じく巨大なマンホールのある道を進み、先回の散歩で思わず天保新堀用水へと乗り換えた分岐点に。

天保・新堀用水 桃園川の窪地・水路跡の散歩の折のメモを再掲:
天保新堀用水の水源は青梅街道の南を流れる善福寺川である。天沼の弁天池を水源とする桃園川は水量が乏しく、千川上水・六ヶ村分水からの養水で水量を補っていた。しかしこの養水では天沼村・阿佐ヶ谷村は辛うじて潤うものの、更に下流の馬橋・高円寺・中野村には十分な水が届かず、その解決策として、水源を水量豊かな善福寺川に求めることにした。
取水口は現在の大谷戸橋付近。そこから善福寺川に沿って矢倉台を迂回し、途中胎内堀り(素掘り)で進み、現在の都立杉並高校の北にある須賀神社辺りの弁天池(明治に作成された「関東平野迅速測図」にも大きな池が記されている)に貯め、そこから先は、再び青梅街道の走る台地の下4mから5mに、高さ1.3m、幅1.6mの地下トンネルを穿ち(胎内堀り、と称する)、青梅街道の北、桃園川に下る窪地に水を落とすことにした。この窪地には用水開削以前から新堀用水と呼ばれる自然の水路が流れていたようである。
天保11年(1840)9月に貫通した天保新堀用水であるが、その2カ月後には善福寺川に沿って迂回していた田端・矢倉台付近の土手が崩壊。その原因は「カワウソ」であった、とか。実際は大雨による土手の決壊ではないだろうか。 それはともあれ、この対応策として川筋迂回は止め、大谷戸橋付近から弁天池にほぼ直線に進む水路を計画。途中の矢倉台は、550mを胎内堀りで抜く工事を再開。天保12年(1841)のことである。
胎内堀りは馬橋村の水盛大工である川崎銀蔵が五百分の一という極めて緩やかな勾配を掘り進め、新堀の窪地と繋げた。この用水の完成により、馬橋・高円寺・中野の村は、大正の頃までその地の田圃の半分ほどをこの用水で潤した、という。
善福寺川緑地
『杉並の川と橋』に拠れば、「善福寺川緑地および和田堀公園地内の橋」の項に「昭和39年に都市計画公園として事業化された両地域には、作場橋(農工作用の橋)の他、古道に架けられていた橋を除いて、一般通路用として橋は架けられていなかった。
善福寺川緑地公内の最西端に架けられている神通橋と最東端の大成橋との間には上流から、なかよし橋、西園橋、西田橋、せきれい橋、児童橋、相生橋、成田上橋、成田下橋、成園橋がある。昭和43年の「杉並区橋梁名称図」には相生橋以外その名が出てこない。相生橋は(中略)、昭和14年の「陸測図」には橋名の表記はないが、橋記号は表示されている。これは、昭和7年、田端田圃の中に杉並高等小学校が開校された時、通学用の新道が尾崎の丘方面に開通したので、善福寺川に架橋されたものと思う」とある。

この記事を読むだけで、昔一面の田圃であった善福寺川流域が宅地化が進み、人々の往来のための架橋、憩いの公園の整備といった流域の変遷を想像し得る。 なお、この橋一覧に屋倉橋、天王橋、尾崎橋の名がないが、この3つは古道に架かっていた橋ということだろうか。

旧流路・揚堀は荻窪地区に向かう
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
先回の散歩で思わず天保新堀用水へと乗り換えた地点から、左手に天保新堀用水流路跡である天神橋公園を見遣りながら揚堀跡を先に進む。天神橋は台地上にある天神さまとも称された田端神社に由来するものだろう。
今から進む水路跡は、幾筋もの流れが交じり合って下った往昔の善福寺川の流路のひとつであろうかと思う。田端田圃(西田田圃)の中を蛇行しながら幾筋も流れていた善福寺川の河川改修は、昭和10年(1935)頃からはじまり、河川の一本化が完成したのは昭和45年(1970)と言う。「今昔マップ首都 1944-54」では幾筋かに分かれている善福寺川の流路が、「今昔マップ首都 1965-68」ではほぼ一本化されているのはこういった河川改修工事の結果であろう。
この辺は、昭和38年(1963)には松渓橋下(神通橋の3つ上流に架かる)まで、昭和39年(1964)から45年(1970)にかけて松渓橋上流の工事が行われたという。ということは、この辺りが善福寺川河川改修の仕上げの箇所であった、という事だろう。
善福寺川の河川改修
先回のメモを再掲;『杉並の川と橋』によれば、昭和10年(1935)頃に善福寺川流出口から鉄道橋下まで、昭和13年(1938)頃に中野境から駒が坂橋(注;環七の東)下流500m付近まで、その後戦争で中断した後、昭和21年(1946ぎ手はに工事再開し、堀之内本村橋下流まで、昭和25年(1950)には済美橋下まで、昭和26年(1951)には大松橋上流まで(注;現在の和田堀公園の東辺り)工事が行われ、昭和38年(1963)には松渓橋下まで、昭和39年(1964)から45年(1970)にかけて松渓橋上流の工事が行われ、河川が次第に一本化され、これによって田用水路などが暗渠化されていった。
旧流路・揚堀
メモで「旧流路・揚堀」と表記しているのは、揚堀はある程度河川改修をおこなった後、田を潤す用水として設けられた水路であろうが、古い地図を見ると、その水路は旧流路と被ることも多い。「経済合理性」の観点からも、揚堀・田用水は、新たに開削しなくても、幾筋にも分かれていた旧流路の「どれか」を活用したものであろうと推測し得る。また、旧流路がいつの頃から揚堀として整備されたか不明である。旧流路=揚堀、ではあろうが、揚堀として整備された日時が不明であるため、「便宜的」に「旧流路・揚堀」と併記表記している。

田端神社の鎮座する台地の崖下を進む
分岐点から先は、しばらく田端神社の鎮座する矢倉台の台地崖下に沿って進む。 『杉並の川と橋』に拠れば、「この台地一帯は「矢倉」または「屋倉」と言われ、『新編武蔵風土記稿』には「伝云鎌倉時代より陣屋櫓のありしを、・・・或は云成宗が柵迹なりと、・・・此辺りに鎌倉街道の迹ありと云う、但し此処より長新田道というあり、西五日市檜原街道なり」とあって、小田原北条氏の家臣大橋知行(成宗)の館跡とも言われている」とある。古くから開けた地のようである。
田端神社
田端村の鎮守。社伝によれば、応永年間(1394年-1429年)、足利持氏と上杉禅秀が戦ったとき、品川右京の家臣・良影がこの地に定住し、北野天神を勧請したことにはじまる。往時は北野神社とも、社の場所が「田の端」にあったため、田端天神とも呼ばれ、土地の産土神に。田端という地名は神社の名前に由来する。境内は古墳であった、と。なお、品川右京も良影も何者か不詳。
長新田道
上の矢倉台のメモで、長新田道との記述があった。チェックすると、これは西荻窪、大宮前新田辺りの五日市街道の呼称であった。五日市街道は場所によって、伊奈道、砂川道、青梅街道脇道、小金井道、長新田(ながしんでん)道、五日市道などと呼ばれていた。
伊奈道
五日市街道と呼ばれるようになったのは近世末期から近代になってから。それ以前は「伊奈道」と呼ばれていた。秋川に架かる山田大橋の辺りの地名は伊奈と呼ばれるが、ここでは伊奈石が採れた。平安末期には信州伊那谷の高遠から石工が集まっていた、と言う。で、江戸城築城に際し、この伊奈の石材を江戸に運ぶために整備された道が「伊奈道」である。
伊奈道が五日市街道となったのは、伊奈に替わって五日市に焦点が移った、ため。木材の集積の中心として五日市が伊奈にとって替わった。ために、道筋も五日市まで延ばされ、名称も五日市街道になった、という(『五日市市の古道と地名;五日市市郷土館』)。鎌倉街道山の道を高尾から秩父まで歩いた途中で伊奈の地を歩いた頃が少し懐かしい。

鎌倉街道
甲州街道が首都高速4号線と重なる京王線・上北沢駅入口交差点近くに「鎌倉橋」交差点がある。ここは小田急線・祖師谷駅北の千歳通り十字路から右に折れ、芦花公園、この鎌倉橋交差点、大宮神社、中野の鍋谷横丁をへて板橋へと向かう鎌倉街道中ツ道の道筋(「東ルート」と仮に呼ぶ)である。
また、杉並を通る鎌倉街道には、千歳通り十字路から北に南荻窪の天祖神明宮、四面道へと向かうルートもある(「北ルート」と仮に呼ぶ)。
このふたつのルートが所謂鎌倉街道と称される道であるが、そもそも、鎌倉街道は、「いざ鎌倉へ」のため新たに開削された道ではなく、旧来からあった道を繋ぎ鎌倉への道路網を造り上げたものとも言われる。上記ふたつのルートが関幹線とすれば、幹線を繋ぐ幾多の支線がある。田端神社脇の「鎌倉街道」も、そういった支線のひとつではないだろうか。
具体的な資料がないので想像ではあるが、「東ルート」、「北ルート」というふたつの幹線を繋ぐとすれば、「東ルート」からは大宮八幡から左に分かれ砦のあった田端神社の台地に向かい、「北ルート」からは五日市街道、人見街道あたりから田端神社方面へと向かい、二つの幹線を繋いだのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

西田保育園脇を進む
水路跡脇に西田保育園がある。地名に西田がないのは、先回のメモの東田中学校の由来と同じ。成田は成宗と田畑の合成地名というが、時系列でより正確に言えば、田端は成宗を左右から囲んでおり、成宗の東側の田端を東田、西側を西田とした。
その後、成宗1丁目と東田1丁目・2丁目の一部が合わさり成田東となった。同様に、成宗2丁目と1丁目、西田町2丁目の一部を合わせてできたのが成田西である。昭和44年(1969)の新住居表示にともなう施行であった。

旧荻窪団地で荻窪地区に入る
西田保育園の少し先で成田西4丁目から荻窪3丁目に入る。成田から荻窪に入ると、水路跡であろう道の南にUR都市機構(前身は「日本住宅公団」)の「シャレール荻窪」の建物が並ぶ。この宅地は元の荻窪団地跡にできたものである。 『杉並の川と橋』に拠れば、「西田町の田端田圃(当時は西田田圃とも言われていた)が住宅公団建設用地に姿を変えた。(昭和)三十三年には二十七棟の五階建て団地が建設され、三十四年には「荻窪団地」と名付けられた入居が始まった。(中略)団地ができる前の西田町の人口(昭和二十五年)は851人であったのが昭和三十七年には3099人になり。四十年には3336人となった。これは荻窪団地だけの人口増ではなく、付近の雑木林や畑地に社宅や都営団地等が建設された結果である」とある。
再開発される前、この辺りを歩いたことがあるのだが、現在では古い住宅が消え去り、様変わりしていた。なお、「シャレール」とはUR都市機構の統一ブランド名らしく、各地に「シャレール」を冠した宅地がある。シャレールとは「洒落る」を捩ったもの?フランス語で、chaleureux、真心のこもった、との意味もある。

北から高野ヶ谷戸からの水路跡
旧荻窪団地跡の再開発された宅地を見遣りながら、旧荻窪団地東北端、「大谷戸かえで公園」の東端辺りで、水路跡は車道を離れ民家の間に入る。車止めも何もなく、水路跡?と思いながら歩いていると、道の北側に車止めが見える。高野ヶ谷戸からの流れが旧流路・揚堀に注ぐ箇所ではあろう。ちょっと安心。高野ヶ谷戸は荻窪を進むこの旧流路・揚堀を辿った後に歩くことにして、とりあえず先に進む。



松渓橋への道との交差する箇所に車止め
どうといったことのない車道を進むと、坂を下る車道と交差する先が少し狭くなり車止めがある。安心。この坂を下る車道は松渓橋に続く。
松渓
松渓の由来は先回もメモしたように、『松渓中学校の元校長のコメントとして「学校から眺めるこの風景が中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似ているので校名を松渓と名付けた」とあった。松渓の出処は校長先生にあった(『杉並の川と橋』より)。
学校は柳窪を形成する標高45mラインから数段下がった等高線上、善福寺川に突き出た台地上にある。往昔は一面に松林が茂り、台地下を流れる善福寺川と相まって「松渓」の景観を呈していたのであろう。

荻外荘
車道先に整備された遊歩道を進むと道の左手に公園が見えてくる。1万坪もあったと言う近衛文麿公の邸宅である「荻外(てきがい)荘」跡地の一部を整備して造られた区立公園である。
『杉並の川と橋』に拠れば、荻外荘は「大正天皇の侍医であった入沢達吉博士(東京帝大教授)が宮内省を退官する時、この地約二万坪を購入(一説には功績によって宮内省から贈られたものという)して家を建てたと言われている。近衛公が第一次内閣総理大臣(注;第一次近衛内閣のことだろう)に任命された時、入沢博士から半分を譲り受けた。(中略)「荻外荘」の名は、当時上荻窪の関根あたりに住んでいた有馬頼寧公の命名であると言われている」とある。

Wikipediaなどを参考にもう少し荻外荘についてまとめると、松渓の由来でもメモしたように、この地は中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似るという。南面の台地から一面の田圃、その中を流れる善福寺川、対岸の高台の松林の向こうには富士山を見渡せるこの景勝の地に惚れ込んだ近衛公は入沢博士に願い、昭和12年(1937)にこの地1万坪を購入した。本邸は目白にあるのだが、この別邸に住み始めてからは、本邸に戻ることはなかった、と言う。
近衛公はこの別邸を政治の場としても活用し、第二次世界大戦前夜の重要な国策の決定がこの荻外荘なされた。と言う。連合艦隊司令長官・山本五十六が対米決戦の見通しに関する質問に対し「初め半年や1年は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ」と答えたのもこの荻外荘でのことと言われる。
戦後は一時期吉田茂が近衛家から借りて私邸代わりとしていた時期もある、と言う。昭和35年(1960)には邸宅のおよそ半分の建物が巣鴨にある天理教の敷地内に移築され寮宿舎となっている(非公開)。平成25年(2013)、地元住民の要望を受け杉並区が荻外荘を買い取ることになり、平成27年(2015)年3月、敷地の一部が荻外荘公園として公開された。

松見橋への道と交差
荻外荘公園を過ぎ、台地から松見橋に下る車道と交差する箇所に車止めがあり、その先は公園として整備されている。
松見
松見の由来は、前回メモしたように、景観・地形から。松渓の由来にあるように、台地に松林の茂る景観を表したものである。





善福寺川と合流
松見橋への道を超え、荻窪第二児童遊園として整備されている水路跡を少し進むと水路跡は善福寺川にあたる。水路跡が善福寺川と合わさる箇所に水管口が見える。往昔の揚堀の取水口辺りではあるが、田圃などなにもない現在、揚堀が機能しているとも思えないため取水口とも思えない。雨水の排出口だろうか。




高野ケ谷戸をたどる

荻窪を流れる善福寺川の旧流路・揚堀跡を歩き終え、途中目にした、高野ケ谷戸からの水路合流点に戻る。地形図をチェックすると合流点辺りから北の台地に切れ込んだ窪地は、上部で二つにわかれ、ひとつは大田黒公園に沿って荻窪駅方面へと東北へ、もう一方は杉並区中央図書館辺りへと西東へと向かって等高線が延びている。

高野ヶ谷戸東側支線(仮称)との分岐点
車止めのある合流点から水路跡をイメージしたような美しくカラーリングされた道を進む。ほどなく東西に走る一車線の車道にあたる。カラーリングされた道は車止めの先、北に進むのだが、交差する車道の右手、一筋東を北に上る道に通路を分ける小さいコンクリートの標識が断続して続いているのが見える。水路や埋設鉄管を示す標識であることが多いので、ちょっと気になり寄り道をする。

高野ケ谷戸東側支線(仮称)を辿る

コンクリート蓋の暗渠が現れる
断続して続くコンクリートの標識に沿って進むと、道にはマンホールが顔を出す。水路跡なのか下水網なのかはっきりしないので、もう少し先に進むと車止めがあり、道も狭くなる。そして、その先、東西に通る道と交差する先には車止めが見え、道はコンクリート蓋の暗渠となって北に向かう。水路跡であった。

水路跡が民家で塞がれる
その先で水路跡は民家に遮られ消えてしまう。地図を見ると、民家の立ち並ぶ北に、如何にも水路跡といった道が続いている。宅地の右に通る道を迂回し水路跡の道筋に向かう。
コンクリート蓋の暗渠が北に進む
迂回し、水路跡の道筋に回り込む。回り込んだ民家の間の道にはマンホールが見えるが、民家の間の道といった趣で水路跡といったものではない。 何かしら痕跡はないものかと、少し北に進むとコンクリート蓋に覆われた暗渠が登場するが、通行禁止となっている。暗渠を進めば中央図書館脇の池の辺りに繋がりそう、ということを確認し、分岐点へと戻る。

高野ケ谷戸中央支線(仮称)を辿る
分岐点に戻り、再びカラーリングされた道を進むと大田黒公園北側を荻窪駅方面に向かう道に出る。左に折れれば、地形図で確認した高野ケ谷戸の上部で北東に等高線が切れ込む窪地である。左に進もうか、などと思っていると、少し右手の民家の間に土嚢が見え、その先は如何にも水路跡と思しき道が北に続く。とりあえず民家の間の道を辿ってみる。

民家の間の細路を進む
コンクリート蓋の暗渠を進み、左に折れると道はいよいよ狭くなる。先に進み直角に右に折れるところには網戸が置いてあり道を塞ぐ。少し動かし、元の位置に戻し先に進む。道の右手は年代物の高い石垣が組まれており、往昔の水路跡の趣が感じられる。その先、草生した石垣の辺りを過ぎると宅地開発された辺りに入り、道の両側も少し新しいコンクリート塀で囲われることになる。

公園の池手前の道に出る
水路跡を進むと鉄柵で行く手が阻まれる。鉄柵の先は車道となっている。鉄柵も低かったので、申し訳ないとは思いながら柵を越えて車道に出る。車道の右手の北には中央図書館脇の公園の池がある。そこまで続いているのだろうかと、 水路跡を探す。



北に水路跡が続く
と、車道北の民家の間に水路跡が見える。道は厳重に鉄柵で遮られており、歩くことはできない。地図を見ると、水路跡が北に延びる先に駐車場がある。そこに右から迂回し、駐車場まで進んできた水路跡を確認することにする。



駐車場からさらに北に
駐車場東南端の民家脇から駐車場に水路跡が現れる。予想では杉並区中央図書館左の「読書の森公園」に見える池に繋がると思っていたのだが、予想に反し、水路跡は真っ直ぐに北に向かう。
水路跡は誠に細く、また「読書の森公園」公園は柵で囲まれているため水路跡に沿って進むことはできない。仕方なく、道を迂回し水路跡が北の車道にあたる箇所に向かう。



中央図書館北の車道に水路跡が現れる
駐車場から一筋北の道に。その道はJR荻窪駅から杉並区中央図書館に向かう幾度も通った道であった。その道の公園東端から細い暗渠が道まで続き、道の北、民家の間を、これも誠に細いコンクリート蓋の暗渠となって更に北に向かう。 ここまで来ると、窪地から離れてしまう。思うに、桃園川の窪地散歩の折にメモしたように、桃園川を養水した千川上水の六ヶ村分水から水を取り入れたのかとも思えてきた。
千川上水・六ヶ村分水
千川上水・六ヶ村分水は、練馬区関町で本流から分かれ、青梅街道に沿って台地上を下り、上井草・下井草・下荻窪・天沼・阿佐ヶ谷の六つの村に水を送る用水路。乏しい水量の桃園川への養水の役割を担った。

青梅街道・天沼陸橋付近・中央支線・取水口(?)
ついでのことであもるので、千川上水・六ヶ村分水が通った青梅街道まで進み、何か水路跡の痕跡でもないものかと確認に向かう。
道を少し東に戻り、青梅街道の天沼陸橋脇の道に出る。天沼陸橋交差点を少し西に進み、北に進んだ水路跡を探してビルの間の駐車場などの入り込むが、駐車場の南はそれらしき雰囲気なのだが、遮蔽物があり水路の確認はできなかった。
それはそれで少々残念ではあったが、高野ヶ谷戸から揚堀に注ぐ水は窪地からの水だけでなく、確証はないものの、千川上水・六ヶ村分水からの養水も含まれいたようだ、という可能性を感じただけで少々満足。

高野ケ谷戸西側支線(仮称)を辿る

大田黒公園北側の道を進む
青梅街道から高野ケ谷戸中央支線(仮称)と分かれた太田黒公園北の分岐点に戻る。地形図によれば、窪地は太田黒公園北の道に沿って北東に延びている。仮に高野ケ谷戸東側支線と名付けることにして公園北の道を進む。
大田黒公園
明治26年(1893)生まれ。裕福な環境で育ち、大正から昭和に渡って音楽評論家・批評家として活躍。音楽にあまり興味のない私でもその名を知る吉田秀和氏をして「大正リベラリズムが生んだひとつの典型。今でもあの人が私の唯一の先輩」と評されるほどの人物である。大田黒公園はその邸宅跡を整備し昭和56年(1981)に開園した区立公園である。

車止めのある細路
天沼陸橋南交差点から下る道と交差する先に、車止めある細路が直進する。地形図でも確認した高野ヶ谷戸の東北端はその先である。人ひとり通れるかどうか、といった細路を進むと車道にあたる。






源流点付近
車道の先には、更に狭くなった水路跡らしき道が民家の間に見える。細路を進むと道は右に曲がり、車道にあたる。地形図によれば、この辺りが高野ヶ谷戸の北東端と一致する。





分流
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
上でメモした「更に狭くなった水路跡らしき道」が見える車道で水路は分岐するといった記事もあった。等高線44mで引いた高野ヶ谷戸は上記源流点辺りが塔北端となるのだが、そのさらに一段高い等高線45mラインで見ると、荻窪駅手前まで扇形に大きく広がっている。
高野ヶ谷戸は地形図で見る限り標高44mラインで形成される窪地と思うのだが、標高45mラインで囲まれた一帯からの水も集め、高野ヶ谷戸の水路に合していたのだろうか。または、先ほどの中央支線と同様、千川上水・六ヶ村分水からの「養水路」であったのだろうか。不明である。
車道分岐点から道なりに左に進み、車道を右に折れ荻窪駅方面に向かう。これといった水路跡の痕跡は見つからなかった。荻窪駅から善福寺川に架かる忍川橋を越え環八・桃井二小交差点に向かう車道と交差する地点まで歩き、今回の散歩を終えることにする。

杉並の窪地・水路跡散歩もこれで終わりか、と思ったのだが、チェックすると善福寺川の南の成田西地区に旧水路跡・揚堀がある。また、善福寺川を上った中央線の北、西荻窪に窪地、上荻にも水路跡が地図に見える。ついでのことでもあるので、杉並区の窪地・水路跡をほぼカバーすべく、次回も地味に杉並の窪地、旧流路を歩くことにする。
先回の散歩は善福寺川筋の窪地散歩と共に、メモの過程で気になってきた善福寺川の旧流路、その流路を活用した(と思われる)揚堀を辿ることになった。堀ノ内の揚堀を進み、窪地に残る松ノ木支流、成田東支流を辿った後、成田東の善福寺川旧流路・揚堀を進み、更に成田東・成田西の善福寺川旧流路・揚堀を進んだのだが、途中で合流してきた桃園川の養水路である天保新堀用水の取水口が気になり、旧流路・揚堀が荻窪に入った辺りで天保新堀用水の水路跡に乗り換えた。

今回は歩き残した、荻窪を進む旧流路・揚堀散歩とするのだが、天保新堀用水の水路に乗り換えた地点まで、そのためだけに歩くのは少々ウザったい。なにかいいルートの組み合わせがないかと地図を眺めていると、西荻窪駅付近から下る松庵川水路跡の善福寺川合流点が、成田東・西を進んできた揚堀と天保新堀用水の分岐点のすぐ近くにある。
ということで、今回の散歩は松庵川水路跡からはじめ、先回歩き残した成田東・西から荻窪に入った善福寺川の旧流路・揚堀を歩き、更に荻窪を流れた揚堀・旧流路に合わさる高野ヶ谷戸からの支流を辿ることにした。


本日のルート:JR西荻窪駅>松庵川源流点付近>本田東公園>上流部の水路跡を探す>松庵川の水路跡が現れる>車道に出る>水路跡は消える>水路跡が現れる>高井戸第四小学校>宮前3丁目で水路跡が消える>神明道路わきに水路跡が現れる>民家の間を細路となって南に下る>車道の先にも水路跡が続く>通行禁止の看板>水路跡が消える>慈光寺境内に水路跡>慈光駐車場で水路跡が消える>不可解な地形>神明通りへ>民家敷地に水路跡>環八とクロス>柳窪公園>水路跡が現れる>旧環八に沿って民家の間を北に>コンクリート蓋の暗渠が現れる>暗渠はふたつに分かれる>善福寺川との合流箇所①>分岐点から下流への暗渠を辿る>水路跡が消える>松渓橋から西田端橋へ>善福寺川との合流点②

JR西荻窪駅
松庵川の源流点の最寄り駅である西荻窪駅に向かう。大正11年(1922)開業の駅である。当時の井荻村の村長である内田秀五郎が私財を擲ち、誘致活動を行った、とのこと。氏は井荻土地区画整理事業で知られるが、西荻窪駅だけでなく、西武新宿線(当時の西武村山線)の上井草・井荻・下井草各駅の開設、電灯の敷設置(大正10年;1921)、井荻水道の完成(昭和7年;1932)など、地域住民の住環境整備に尽力した。
いつだったか、善福寺池を訪れ池畔にある浄水所取水井近くで氏の銅像を見たことがある。そのときは、それほどの人物といったことも知らず、軽く眺め通り過ぎてしまっただけであった。



井荻土地地区区画事業
井荻村(現在の井草、下井草、上井草、清水、今川、桃井、善福寺、荻窪(一部)、上荻、西荻北、西荻南(一部)、南荻窪にほぼ相当する)一帯の整然とした区画され、落ち着いた街並みは、大正14年(1925)から昭和10年(1935)にかけて実施された区画整理事業の賜物である。井荻村に隣接した高円寺や野方の入り組んだ街並みと比べて、その差は歴然としている。
事業策定のきっかけは大正12年(1923)の関東大震災。壊滅した都心を離れ東京西郊に宅地を求める状況に、無秩序な宅地開発を防止すべく区画整理事業を立案した。
工区は全8工区:中央沿いのA地区(1,2,7,8)と西武沿線のB地区3,4,5,6区からなり、それまで整備された道もなく雨が降れば往来にも苦労した一帯は、碁盤目状に道が整備され、現在の閑静な住宅街の礎が築かれた。

松庵川源流点付近
松庵川の源流点に向かって西荻窪駅から西に向かう。源流点は吉祥女子校辺りの「松庵窪」と言う。カシミール3Dで作成した数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図で事前に確認すると、善福寺川から切れ込んだ窪地は蛇行しながら西荻窪駅辺りまで切れ上がり、西荻窪駅の西で中央線の南北を囲み、松庵3丁目と吉祥寺南町5丁目の境辺りで中央線の北、現在の吉祥寺東町4丁目を囲むように形成されている(注;数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図と同様の地形図がWEB(「Tokyo Terrain 東京地形図」)公開されており、kmlファイルをダウンロードすれば地形陰影段彩がマッピングされたGoogle Earthで閲覧できる)。

源流点はこの吉祥寺東町4丁目辺りであろうとチェックすると、松庵川は自然河川ではなかったようであり、源流点という言葉も適切かどうか、といた「川」であった。『杉並の川と橋』によれば、松庵川はこの窪地・松庵窪に集まる吉祥寺方面からの下水・悪水と、甲武鉄道敷設工事にともなう工事用土採掘後の湧水を処理する水路とのことである。水路は大正後期に開削されたようだが、昭和初期には宅地開発の影響ですでに下水路となっていた、と言う。
それはそれでいいのだが、それにしては松庵川筋の窪地は結構大きく長い。ちょっと昔は下水・悪水処理の水路ではあったのだろうが、標高点は井之頭池や善福寺池、妙法寺池、石神井川の水源地といった、東京の川の源流となった湧水点と同じ標高50m辺りである。はるか昔には豊かな湧水が湧きし今に残る窪地を形成したのであろうか。
松庵
松庵とは趣のある地名である。由来をチェックすると、江戸の頃、荻野松庵が拓いた松庵新田に拠る、とのことであった。
男窪・女窪
上に、「甲武鉄道敷設工事にともなう工事用土採掘後の湧水を処理する水路」とメモしたが、この鉄道敷設用土砂採取跡は中央線の北に女窪、南に男窪があり、男窪からの流れが松庵川の本流水路といった記述が『杉並の川と橋:杉並区立郷土博物館』ある。しかしながら。地図が少々大雑把であり、また、同書の男窪の位置が地形図の松庵窪と大きくはずれているので、参考にするのは止めにした。

本田東公園
自然河川ではない以上、源流点探しは無意味と止めにし、吉祥寺女子校辺りを彷徨い、窪地らしき雰囲気を感じることにする。何となく窪地といった感じもするのだが、いまひとつはっきりとした「窪地」の実感はない。
水路に関する何らかの痕跡はないものかと辺りを見回しながら歩いていると、吉祥寺東町4丁目と西荻北3丁目の境、中央線と接するところに公園があった。今までの街歩きからの経験で、公園は元行政の敷地跡のことも多い。ちょっと気になりチェックすると、この公園には昔、下水処理のポンプ場があった、とのこと。大正末期より宅地開発された吉祥寺地区から松庵窪に流れ込む下水を処理する施設であった、と言う。
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
吉祥寺の南、玉川上水が走る尾根道が神田川と善福寺川の分水界である。ために、吉祥寺近辺からの生活廃水は自然とこの松庵窪に集まることになる。しかし、松庵川下水路の規模では西荻窪近辺の下水処理で手一杯であり、しかも行政区の異なる吉祥寺の下水を、松庵川>善福寺川に流すのも筋違いと、この地に下水処理場を設け、神田川に送水していたと言う(『杉並の川と橋』)。 下水処理場は昭和27年(1952)に建設が開始され、完成したのは昭和35年(1960)。その後昭和44年(1969)に下水処理網として善福寺幹線が完成したため、昭和45年(1970)には下水ポンプ場が休止になり、その跡地は「下水ポンプ場公園」となった。現在は合流式下水改善施設(大雨時に一時的に下水を貯める施設)を兼ねた本田東公園となっている。
なお、本田東の由来は、この辺りの昔の小字に「本田北」とか「本田南」といった地名があったようであるので、地名故のものだろう。

上流部の水路跡を探す
数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図で見ると、窪地は本田東公園から中央線の南北を囲み、西荻窪駅近くまで東西に延び、駅手前から中央線の南を南東に向かって続く。西荻窪駅の南側を上る坂があるが、そこが窪地と台地の境ではあろう。
その中央線沿いの緩やかな坂を上り切った辺りと、その手前に南に下る二筋の坂道に古い趣の橋の欄干が残る。坂道の両側は民家が立ち並び水路跡の痕跡を見つけることはできないが、松庵窪から下った水路は、この坂道の下あたりを進んだのだろうか。

松庵川の水路跡が現れる
道を西荻窪駅方向に向かい、中央線高架下を通る道路から、少し東を南に進む坂を下り水路跡を探す。と、橋の欄干といった石柱が残る坂を下りきったところに、東に延びる、如何にも水路跡といった細路が見えた。
それはそれで嬉しいのだが、それでは坂にあった橋の欄干は何だったんだろう?橋の欄干下に水路があったとすれば、今出合った水路と繋がるのは欄干下で直角に曲がらなければならない。少々無理がある。
水路跡と暗渠化工事された下水路が同じルートとも限らないし、橋の欄干自体が元々の場所なのか、道路工事に際し移されたものなのかもはっきりしないわけで、疑問は抱きながらも、とりあえず、坂下で見つけた水路跡を松庵窪からの水路跡と「思い込み」、先に進むことにする。

車道に出る
狭い水路跡を進む。水路跡にはマンホールも埋められてあり、それらしき雰囲気の道となっている。直角に曲がる箇所があったが、自然河川であれば不自然ではあるが、下水路であれば、それほどの違和感はない。宅地化された民家の敷地を避けて下水路がつくられたのだろう。直角に2度ほど曲がり、車道にでる。

水路跡は消える
車道に出ると水路跡は消える。地形図を見ると窪地は南へと延びている。とりあえず道なりに南に進む。『杉並の川と橋』に下水は高井戸第四小学校前を進んだとあるので、その道筋まで水路跡は無いものかと、区画整理された道を「カクカク」と直角に折れて進む。





民家の間に細い水路跡が現れる
「カクカク」と車道を直角に折れ、西荻窪駅前からの車道の二筋東の通り、西荻窪2丁目17と16の間を南に下り西荻首2丁目11との境まで進む。 そこから東西に延びる道を西に進めば高井戸第四小学校にあたる。と、その道筋に、車道と分ける鉄柵が並ぶ。何か地中に埋まっている予感。
その鉄柵の始点に向かって東に少し進むと、西荻窪2丁目17-2辺りの民家の間に金網が張られてあり、民家の間に如何にも水路跡といった細路が北に延びている。人ひとりも通れないほどの狭い道筋である。ここで再び水路跡が登場してきた。

高井戸第四小学校
水路跡を確認し、高井戸第四小学校方向へと道を進むと、水路跡と車道の仕切り柵が道の北から南に移る箇所からコンクリート蓋の暗渠が登場する。 暗渠は高井戸第四小学校前を進む。『杉並の川と橋』には「昭和12年高井戸第四小学校建設が決められた時、「大宮前下水の汚水停滞、汚染甚だしく保健衛生上からも改修しておかないと、万一の洪水によって新設の学校が被害を受けるという事があってはいかないので、至急改修してほしい」旨の陳情が出されている」とある。
暗渠がこの改修と関係あるのかどうか不明ではあるが、松庵川が下水路であったことはこれではっきりわかる。また、松庵川は「大宮前下水」とも呼ばれていたようである。この場合の大宮は宮前3丁目にある春日神社のことだろう。

金太郎の車止め
高井戸第四小学校のある西荻南1丁目を進み、天照院あたりで宮前3丁目に入る。道の南側にあった車道との区切り柵が北に移った先で水路跡は北に折れる。入口には「金太郎の車止め」があり、そこを少し進むとすぐに右にコンクリート蓋の暗渠が続く。金太郎の車止めは、杉並区では水路跡・暗渠を示す行政の標識である。

宮前3丁目で水路跡が消える
暗渠を辿ると車道に出て水路は消える。水路跡の消えた先には新築のマンション(関根マンション)があり、水路跡のラインに沿って通り抜けができるため、何か痕跡でもないものかと進むが、何もなく、一筋先の車道に出る。 消えた水路跡のその先を想うに、『杉並の川と橋』には、誠に大雑把ではあるが、水路跡は「新田街道」へと向かっている。とりあえず成り行きで新田街道、現在の「神明通り」へと北にに向かう。

神明道路わきに水路跡が現れる
宮前通3丁目と南荻窪2丁目の境を下る神明通りを進み、杉並宮前3郵便局を越えると、道脇の山手ハリスト正教会の辺りからコンクリート蓋の暗渠が現れる。一安心。
新田街道
現在の神明通り。新田街道とも北街道とも呼ばれたようだ。由来はこのあたりの地名であった「大宮前新田村」より。その大宮前新田の由来は、江戸の頃、17世紀の中頃、関村(現在の練馬区関)名主であった井口八郎衛門が、幕府用達の茅狩場であったこの辺り一帯を、五日市街道に沿って開墾をはじめ新田を開発した。その完成を記念して建立したのが五日市街道沿いにある春日神社である。
神明通り
新田街道が神明通りとなった由来は?南荻窪2丁目には神明天祖神社とか神明中学に「神明」が残るのだが、地名に神明は見当たらない。チェックすると、神明町は昭和9年(1934)に成立し、昭和44年(1969)に廃止された町名であった。成立前は杉並区上荻窪町、廃止後は南荻窪2町目・4丁目になった、とある。天祖神明神社に由来する神明町故の命名だろうか。
南街道
新田街道・神明通りは北街道とも呼ばれた、とのこと。であれば南街道もあるだろう、ということでチェック。京王井の頭線・久我山駅の北から、三鷹台の立教女学院の裏手に向けて通る道の事を指すらしい。北の松庵・宮前と南の久我山町の境を区切る。
思うに、北街道と南街道は昔の松庵村(松庵1丁目から3丁目)、大宮前新田村(宮前および西荻南1丁目および2丁目)、そして中高井戸村(松庵1丁目から3丁目)の南北の境界を区切る道のように見える。

民家の間を細路となって南に下る
コンクリート蓋暗渠を歩くと、ほどなく如何にも水路跡といった細路が民家に挟まれ南に下る。コンクリート蓋の敷き詰められた水路跡を南に進み、道なりに直角に曲がると車道に出る。





車道の先にも水路跡が続く
車道で水路跡が途切れるか、と一瞬不安がよぎる。が、車道の向かいの駐車場の北端を水路跡らしき道筋が進む。道に沿って進むと、駐車場東端で水路跡は直角に曲がり、駐車場から南も民家の間を細路となって下ってゆく。コンクリート蓋で覆われた暗渠となっている。


通行止めの看板
コンクリート蓋の暗渠は車道を一筋越えて更に南に進む。と、突然板の遮蔽物が道を塞ぐ。遮蔽板の先は車道となっている。ここまで下って突然の通行止め?あれこれ板を触ってみると、なんとか動かすことができ、先に進めた。板の表面には「通行を禁ず 宮前三丁目防災会」と書いてあった。
一筋北の車道とクロスする水路跡にでも「通行止め」の案内でもあれば歩かなかったであろうが(?)、出口にあっても、ちょっとなあ、と自分に『納得』させる。

行き止まり
「通行禁止」の案内のあった車道から南にも水路跡は続く。特に何も通行禁止の案内もないので先に進むが、道はすぐに行き止まりとなる。 この先の水路は?『杉並の川と橋』には「高井戸第四小学校の正面前を流れて(暗渠にした後、そよ風通りと命名)慈光寺裏の湿地の悪水や柳窪の悪水を集め、後の荻窪公園となった所の水も集めて善福寺川に流していた」とある。とりあえず、慈光寺を目指す。
悪水
田畑で使用した後の不要となった水や生活排水などを指す。

慈光寺境内に水路跡
水路が消えた地点の一筋東の車道を下る。なにか水路跡の痕跡はないものか、湿地があったとある慈光寺裏手に進める道はないものかと注意しながら進むが、水路跡痕跡も慈光寺に入る道もない。結局、都道7号・五日市街道に出て慈光寺に入る。
本堂にお参りし、水路跡を求めて境内を彷徨うと、コンクリート蓋の水路跡が残っていた。境内を横切るその水路跡を東に進むと、宮前中学校手前の慈光寺の駐車場に出た。水路跡は駐車場手前で消える。
慈光寺
案内には「井口山慈宏寺は日蓮宗です。寛文十三年(一六七三)に創建、開山は南大泉妙福寺の慈宏院日賢上人、開基は大宮前新田開墾の名主井口杢右衛門、檀家は新田開発に力をそそいだ人々が主体となりました。
当山安置の「荒布の祖師」について、江戸名所図会にはつぎのように書かれています。
弘長元年(一二六一)日蓮上人が伊豆の伊東に流される時、日朗上人は「是非おともに」と願いましたが許されず、鎌倉に留まり日蓮聖人の無事を日夜懇願しました。ある日、浜に荒布を巻きつけた流木を見つめて持ち帰り、日蓮聖人の影像を二体彫り上げました。
一体は座像で、目黒区の法華寺に安置され、後に堀之内妙法寺に移されました。もう一体は旅姿の立像で、当山の「荒布の祖師」です。
創建当時の伽藍は明治十一年に焼失、現在の堂宇は昭和四十七年に建立されました。釈迦如来などの仏像と「荒布の祖師」は昔のままです。
なお、当寺には明治八年高井戸学校の前身である郊西学校がおかれました。平成十一年三月 杉並区教育委員会」とあった。

慈光駐車場で水路跡が消える
消えた水路跡のその先だが、『杉並の川と橋』の略図に拠れば、水路跡はこの後、五日市街道の少し北を平行に進み、再び新田街道(現在の「神明通り」)に向かって北上している。
この記事の行間を埋めると、「五日市街道の少し北を平行に進み」と言うのは、慈光寺境内を東西に進む水路ラインではあろう。また水路は元の大宮体育館裏(2016年2月現在)は更地になっている)を進んだとも言われるが、そのラインは慈光寺境内の水路跡ラインの延長線上にあるので、消えた水路は慈光寺駐車場から宮前中学と元の大宮体育館の間を東に進んだのだろう。

不可解な地形
宮前中学と元の大宮体育館の間を進む道は無いので、五日市街道まで下り、春日神社脇を東に曲がり、一筋先の道を宮前中学の辺りまで進む。そこには大善公園があるのだが、中学校の敷地と結構な段差となっている。この高い段差は五日市街道に向かって続いている。これでは元の大宮体育館と宮前中学の間を進んできた水路は進みようがない。台地南端の五日市街道まで迂回したのだろうか。ちょっと困惑。




「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
自宅に帰り地形図を見ても、台地は宮前中学の校庭の北から、学校敷地・元大宮体育館跡東端を囲むように五日市街道まで続いている。この台地の東には、北に向かって窪地が続くのだが、台地の東西の窪地がうまく繋がっていないように見える。台地を五日市街道辺りまで迂回して窪地が繋がっているようにも見えない。
どう解釈していいものか?不明である。最もシンプルで乱暴な「解法」は、台地を堀割って水路が進んでいたが、不要となって埋め戻された、または、窪地の連続を分ける台地は人工的なもの、といったもの。
学校の北と東を囲む台地が直線となって形成されており、如何にも人工的、と言えなくもない。水路が宮前中学の東の台地に当たる箇所にある「大善公園」は開発業者によって区に提供された、もの、と言う。実際大善公園北には宅地開発された民家が整然と建つ。大善公園を境に、なんとなく雰囲気が異なる。宅地開発の時、公園辺りに東西に通じていた窪地が埋められたのだろうか。どちらの解釈にしても単なる妄想。根拠なし。

春日神社
案内には「大宮前  春日神社 この神社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡大宮前新田の条に春日神社とあって、「除地・二段五畝六歩・小名本村にあり、神体は木の坐像長五寸許・太神宮八幡を相殿とす。木の坐像各長五寸許、覆屋一間半四方、内に小祠を置、当村の鎮守にして、例祭は十月廿二日に修す、慈宏寺持」とあるように旧大宮前新田の鎮守で、大宮前開村の万治年間(一六五八?一六六〇)に、農民井口八郎右衛門の勧請によって創建されたと伝えられています。
祭神は、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売命の四柱です。
本社は、明治五年十一月に村社となり、拝殿は明治十年、本殿は明治二十一年の建築です。
境内末社に第六天神社、御嶽神社・稲荷神社があります。境内の石燈籠二基は文久二年(一六八二)十月の造立です。石造りの大神鹿一双は明治二十七年四月に、小鹿一双は明治三十三年四月に、それぞれ氏子の奉納といわれています。 社殿前の「大宮前鎮守」の石碑は、この地域の地名変更に伴って"大宮前"の地名を保存する意図で造立されたと言われています。
本社では、元下高井戸八幡神社宮司斎藤近大夫の指導によると伝えられる"早間の大宮前ばやし"が、今も郷土芸能として例祭日に奉納されます。杉並区教育委員会」とある。

神明通りへ
慈光寺から宮前中学南端辺りを東に進んだ後、北に流路を変える松庵川の水路跡に関する地形上の疑問は残したまま、五日市街道近くの台地の東から神明通りへの流路を探す。
松庵川の窪地を東西に分ける台地の東端は、地形図によれば少し窪地が深いようであり、それならば、少し東に離れた辺りを北に折れたであろう水路跡を探すと大善公園の北東に「宮前けやき緑地」がある。水路跡が公園となっているのはよくあること。
成り行きで公園に向かうと、公園内の道は水路跡をイメージするように蛇行している。なんでもかんでも、というか、水路跡らしきものはすべて水路と関連づけて見てしまうため、如何なものかとは思うのだが、松庵川はこの公園辺りを北に向かったといった記事もあったので、一応水路跡と「思い込む」。

民家敷地に水路跡
「宮前けやき緑地」から民家の間を進む水路跡は痕跡がない。『杉並の川と橋』の略図に拠れば、水路跡は神明通りの少し手前で左に折れる。「宮前けやき緑地」の一筋東を神明通りに上る車道に水路跡がないかとチェックするが、見つからない。
神明通りまで進み、道を東に進み一筋先の車道を南に下り、神明通り少し手前で東に向かったとされる水路跡を探す。と、神明通りから少し南に下った民家の敷地の中にコンクリート蓋の暗渠が残っていた。粘り勝ち、とひとり悦に入る。


環八・神明通り交差点とクロス
民家の敷地内に一瞬姿を現した松庵川の暗渠は、その先姿を消す。南に下る道筋をチェックするも痕跡は何もなかった。『杉並の川と橋』に拠れば、水路跡は神明通りに沿って環八とクロスする。南荻窪1丁目と宮前2丁目の境を走る神明通りにそって環八へ。

神明通りはどこから始まり、どこまで続く
  ところで、この神明通りって、どこからどこまで続くのだろう。ちょっと気になりチェック。結構長く、千川上水・吉祥寺橋(練馬区立野町・関町南4丁目と武蔵野市北町三丁目の境)から南東に一直線に下り、西荻窪駅を経て下、環八通り・環八神明通り交差点へ。その先も南西に下り五日市街道を越え高千穂大学前を通り方南通り・永福図書館前まで続く。
杉並区和泉の自宅から環八への抜け道に使う道が神明通りであった。前述の「新田街道」の呼称は、大宮新田のあった西荻窪窪駅から環八あたりまでのものであろうか。なお、吉祥寺橋以西は、鈴木街道や深大寺道に繋がってゆく。結構古い道かとも思える。
環八
現在交通の大動脈となっている環八であるが、この幹線道路は昭和2年(1927)の構想から全面開通まで、80年近くかかっている。戦前も、戦後も昭和40年(1965)代までは、それほど交通需要がなく、計画は遅々として進むことはなかった。
昭和21年(1946)に建設計画が決定されるも、渋滞の激しい瀬田交差点(世田谷区)を挟むわずかな区間の既存の道路が拡幅された程度で、実際に本格的に着工されたのはそれから10年後の1956年(昭和31年)。しかし本格着工後も実際の施工は遅々として進まなかったようである。
その状況が一変したのは、昭和40年(1965)の第三京浜の開通、昭和43年(1968)の東明高速開通、昭和46年(1971)の東京川越3道路(後の関越自動車道路)昭和51年(1976)の中央自動車道の開通などの東京から放射状に地方に向かう幹線道路の開始。幹線道路は完成したものの、その始点を結ぶ環状道路がなく、その始点を結ぶ環八の建設が急がれた。
しかしながら、地価の高騰や過密化した宅地化のため用地取得が捗らず、全開通まで構想から80年、戦後の正式決定からも60年近くという、長期の期間を必要とした。最後まで残った、練馬区の井荻トンネルから目白通り、練馬の川越街道から板橋の環八高速下交差点までの区間が開通したのは平成18年(2006)5月28日、とか。
深大寺道
深大寺道とは、関東管領上杉氏が整備した軍道、と言う。本拠地の川越城と、小田原北条勢への備えに築いた深大寺城と結んでいる。清瀬を歩いた時に出合った「滝の城」は、その中継の出城、とも。深大寺道は滝の城からほぼ南に下り、武蔵境通り、三鷹通りをへて深大寺に至る。また、この道は「ふじ大山道」との説もあるようだ。

鈴木街道
武蔵野大学前にある庚申塚の脇に沿って西に進む道は鈴木街道とも呼ばれる。鈴木新田と上谷保新田を結ぶもの。鈴木新田は八代将軍吉宗の頃、武蔵野台地に開かれた新田のひとつ。小金井から小平にかけ、武州多摩郡貫井村(現小金井市)の名主、鈴木利左衛門により開発された。阿波洲神社の北側の道を進み小金井公園の北抜ける。その先の小金井街道との交差点のあたりに鈴木町という町名が残る。鈴木新田って、このあたりだろう、か。

柳窪公園
環八・神明通り交差点を越えると、神明通りは南の高井戸東4丁目と荻窪1丁目の境を進む。ほどなく道脇に「柳窪公園」がある。『杉並の川と橋』に「柳窪の悪水も集め」とあるので、ちょっと公園に立ち寄り。が、公園は一段高いところにあり、これといって窪地といった風情はない。





柳窪
帰宅し地形図でチェックすると、窪地は標高45mラインとなって、五日市街道の柳窪交差点の東、五日市街道を南に越えた辺りが南端の袋状の窪地となっていた。また、この標高45mラインは北に向かい西田小学の北、松渓公園を北端とし、善福寺川の流れに平行に南へと続いている。
松渓公園
縄文中期の住居跡3基が発掘され、「西田町大ヶ谷戸遺跡」と呼ばれたが、保存のため地下に埋められ、昭和51年(1976)に松渓公園となっている。「松湲(しょうかん)遺跡公園」との記述もある。「渓」も「湲」も、「水がゆっくりめぐる」と言った意味である。

水路跡が現れる
柳窪公園前を東に進み、旧環八・高井戸東4丁目交差点を境に高井戸東4丁目から荻窪1丁目に入る。交差点を越えると直ぐ、民家の間を水路跡と思しき細路が北に入る。
旧環八
この辺りの旧環八が、どこからどこを指すのか詳しい記事は見当たらないが、今昔マップなどを参考にチェックすると、現在の環八と人見街道とのクロス地点の少し下から環八を右に入り、弧を描きながら井の頭通り、五日市街道柳窪交差点を越え、川南交差点で環八に合わさる区間を指すと思われる。
この区間を今昔マップでチェックすると、この道筋は「今昔マップ1927-1937」ではじめて登場する。この時期のルートは人見街道下で現在の環八ルートに合わさるが、その南、甲州街道より南に道はない。「今昔マップ1965-1968」もルートに変わりなく、「今昔マップ1975-1978」となって、現在の環八ルートが地図上に現れる。この頃から従来の道筋が旧環八と呼ばれるようになったのだろう。

旧環八に沿って民家の間を北に
マンホールが異常に多く感じる水路跡を北に進む。道は旧環八の少し東の筋を、旧環八に沿って上る。荻窪1-19と荻窪1-35・1-36の境となる車道を越えた辺りから、西に弧を描く旧環七から逆方向、東に向かって弧を描いて水路跡は進み、荻窪1-16と1-17の北端辺りで狭い民家の間の道から出る。

中道寺
ここから少し北、春日橋の南に中道寺がある。開創は天正10年(1582)、本尊日蓮上人像は通称「黒目の祖師」といわれる。山門は欅作りの二階建。二階には梵鐘が吊ってある。

コンクリート蓋の暗渠が現れる
少し周囲が開けた道をほんの少し進むと、荻窪1-13辺りで水路跡は再び民家の間の狭い道に入る。コンクリート蓋の暗渠となって進む水路跡は松渓中学の一筋東を南北に走る車道に出た後、再びコンクリート暗渠となって進み、松渓中学東端の北で流路を北に向ける。


松渓
松渓の由来は何だろう?特に地名も無いようだ。し、あれこれ調べても不明である。唯一、それっぽいものとすれば、上にメモした縄文中期の住居跡を発掘・保存している「松渓遺跡公園」があるのだが、「西田町大ヶ谷戸遺跡」と呼ばれたこの遺跡が「松渓遺跡公園」となったのは昭和51年(1976)とのこと。ちょっと新しすぎる。
念のため地図にあった松渓中学校の沿革をチェックすると、昭和24年(1949)には同名の中学校となっている。松渓中学に由来がありそうだ。と、『杉並の川と橋』を見ていると、同校の元校長のコメントとして「学校から眺めるこの風景が中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似ているので校名を松渓と名付けた」とあった。松渓の出処は校長先生にあった。
学校は柳窪を形成する標高45mラインから数段下がった等高線上、善福寺川に突き出た台地上にある。往昔は一面に松林が茂り、台地下を流れる善福寺川と相まって「松渓」の景観を呈していたのであろう。

暗渠はふたつに分かれる
コンクリート蓋の暗渠を北に進むと、暗渠は二手に分かれる。コンクリート蓋の暗渠は直進する。『杉並の川と橋』には「柳窪の水を集め、後の荻窪公園となった所の水も集めて善福寺川に落ちしていた」とある。排水口の少し東には荻窪公園がある。とりあえず直進して荻窪公園方向の暗渠を進む。どうもこちらの水路跡が「本流」のようではある。
荻窪公園
『杉並の川と橋』には、「杉並の区立公園第一号(昭和十二年)となった「荻窪公園」は(中略)その多くを占めていた池沼を埋め、盛り土・地ならしをして公園にした」とある。松案川は下水路とは言いながら、処々の池沼からの水を集めた自然の流れも合せたと言うことであろう。
分離された松庵川
これは散歩のメモの段階でわかったことではあるが、『杉並の川と橋』には、松庵川の水路が神明通りから慈光寺方面へと南に下る辺りから、北に水路が延び、善福寺川と繋がっている。これは洪水対策として上流部からの下水をこの中流域で分離し善福寺川に流したとのこと。この時点で松庵川の上流部と下流部は分離され、下流部は柳窪からの水を流すのが主眼となったようである。松庵川とは言いながら、全区間がつながっていたのは数十年程度と言う。

善福寺川との合流箇所①
水路跡を辿ると善福寺川に出る。暗渠が善福寺川に当たる箇所には排水口があった。松見橋の少し下流であった。
因みに、台地を下りたところに松渓橋があり、そのひとつ上流にあるのがこの松見橋であるが、この「松見」も松渓と同じく、地形・景観に由来する名とされる。


分岐点から下流への暗渠を辿る
松庵川が善福寺川に合流する箇所から暗渠分岐点(荻窪2-5)に戻る。右に折れる水路跡は普通のコンクリート道である。民家と社宅の塀の間を少し進むと道が開ける。荻窪2丁目3とある。






水路跡が民家敷地に潜る
車止めのある道を進み、民家が切れ、左手に善福寺川が見える辺りで水路跡が消える。ここで水路は終わり?地図をチェックすると、少し下流の松渓橋を少し南に下った辺りから、如何にも水路跡らしきゆるやかなカーブの道が続く。とりあえず行ってみる。

松渓橋から西田端橋へ
川筋を松渓橋まで進み、橋の南詰を少し南に下り、善福寺川に沿ってゆるやかにカーブする道筋を進む。川の向こうは先回の散歩で歩いた天保新堀用水の取水口のあった大谷戸橋がある。民家の間を進み西田端橋から東に進む車道に出る

暗渠が崖方向から合わさる
車道を越えて先に進むと、右手からコンクリート蓋の暗渠が合流する。何だろう?ちょっと気になり暗渠を進むと窪地に都営アパートが建ち、その先は崖となり、台地上には西田小学校が建っている。西田小学校は柳窪から続く標高45mライン上にある。「今昔マップ首都1927-1939」には窪地辺りは「大ヶ谷戸」と記載されてある。「大ヶ谷戸」の水を集めた暗渠ではなかろうか。




善福寺川との合流点②
その先で道は左に折れ善福寺川に当たるが、その道筋はコンクリート蓋の暗渠となっていた。善福寺川との合流点には排水口もあり、辿った水路跡・暗渠は大ヶ谷戸の水も集め善福寺川に合わさったのではないだろうか。場所は西田端橋と神通橋の中間辺りである。


神通橋
『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通tpは、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。

・ これでJR西荻窪駅から辿った松庵川跡散歩を終える。当日はこの後、先回の散歩で途中、天保新堀用水に乗り換えた成田東・成田西を進んだ旧流路・揚堀が、その先、荻窪地区に入り善福寺川に合わさる辺りまで歩き、またその旧流路・揚堀に荻窪駅辺りから注ぐ高野ヶ谷戸の水路跡を歩いたのだが、松庵川のメモが思いのほか長くなった。このメモは次回に廻す。

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