2015年12月アーカイブ

奈良 山の辺の道散歩 そのⅤ:天理市の石神神宮から桜井市の三輪山裾・大神神社まで
長かった山の辺の道散歩も、やっと最後の目的地である三輪山・大神神社にやっと辿りついた。やっと辿りついた、という意味合いは、散歩それ自体は14キロ程度で、どうということもないのだが、その道に次々と現れるヤマト王権にかかわるあれこれに、古代史に特に思い入れもないにもかかわらず、疑問に感じたこと、わららないことを自分なりに納得できるまでチェックしてみようと思った結果の難路であった、ということではある。
その結果、山の辺の道が、「山の辺」を通る理由、そこにヤマト王権の古墳群が造営された理由、古墳の周濠の意味合いなど、そして今までややこしい人名故にパスしていた記紀の神話の神様など、散歩をはじめる前には想像もしていなかったあれこれが登場し、少々メモは大変であったが、なかなか面白い散歩となった。
で、今回は三輪山の裾をぐるりと廻り、最終目的地である大神(おおみわ)神社に向かうことにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

桧原神社
県道50号を少し上り、道標に従い右に折れる。長かった散歩もやっと三輪山の山裾に辿りついた。道を進むと檜原神社に。神奈備の三輪山を祀る境内奥には拝殿はなく、神宮旧内宮外玉垣の東御門の古材を使った「三つ鳥居」が建つようだが、散歩当日はシートに覆われ、その姿を前にお参りすることはできなかった。

境内にあった案内には「大神神社の摂社 桧原神社 御祭神 天照大神若御魂神(あまてらすおおかみのわかみたま) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉册尊(いざなみのみこと)
第十代崇神天皇の御代、それまで皇居で祀られていた「天照大御神」を皇女豊鍬入姫に託し、ここ桧原の地(倭笠縫邑)に遷しお祀りしたのがはじまりです。 その後、大神様は第十一代垂仁天皇二十五年に永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり、これが伊勢の神宮(内宮)の創始と言われる」とある。

同じく、境内には「(元伊勢)桧原神社と豊鍬入姫の御由緒」の案内があり、「大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」(向かって左の建物)は、崇神天皇の皇女、豊鍬入姫をお祀りしています。
第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿」でお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑」に「磯城神籬」を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。
桧原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。 萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西に続く桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。
また「茅原」は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅原」の地とされています。更に西方の箸中には、豊鍬入姫の御陵とされる「ホケノ山古墳(内行花文鏡出土・社蔵)」があります」とあった。

左にある社殿は大神神社末社 豊鍬入姫宮。案内には「大神神社末社 豊鍬入姫宮 御祭神  豊鍬入姫命 御祭神は第十代崇神天皇の皇女であります。皇女は「天照大御神」をこの「倭笠縫邑」にお遷しし、初代の御杖代(斎王)として奉仕されたその威徳を尊び奉り、昭和十一年十一月五日に創祀されたものであります。
斎王とは天皇にかわって大神様にお仕えになる方で、その伝統は脈々と受け継がれ、現代に於いても皇室関係の方がご奉仕されています」とあった。

●祟神天皇のエピソード
この社は、3回目のメモで訪れた大和(おおやまと)神社での、祟神天皇の謎の行動に登場する社のひとつであった。重複にはなるが、松岡正剛さんのWEBに掲載される「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)」にあった記事をもとにまとめると、こういうことである:「第10代・崇神天皇(ミマキイリヒコ;)は、都を大和の磯城(しき;桜井市など近隣一帯)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、国が収まらなかった。 その理由は「其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」とあるように、それまで宮中で、天照大神アマテラスと日本大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の二神を一緒くたにして、祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこで崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)を斎王とし、天照大神(アマテラス)を大和の笠縫に祀り、また同じく崇神天皇の皇女である淳名城入姫(ヌナキイリヒメ)に日本大国魂神(オオクニタマ)を祀らせた。大和の笠縫に祀った地がこの桧原神社の地である。
エピソードは続き、地主神を祀るだけでは不都合であったようで、結局は三輪の大物主を祀ることによって事なきを得る。
何故に皇租神を追い出してまで、大物主を祀ることになったのか、祟神天皇の行動に対する妄想は既にメモしている、というかはっきりとした説明もできてはいないのここでは省略する。

●伊勢への経緯
祟神天皇と大物主の関係などについての疑問とは別に、上の案内の「永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり」という説明が気になった。皇租神の行き場所がなかなか決まらないって、どういうこと? チェックすると、娘が通った学校の校長先生から頂いた『飛鳥の風;生江義男(桐朋教育研究所)』に以下の記事があった。
「たとえば、直木孝次郎氏は、伊勢神宮は、もと、日の神を祭る伊勢の地方神で、皇室の東国発展にともない雄略朝頃から皇室との関係を有するにいたったが、それが皇室の神となったのは、壬申の乱に天武天皇がその援助を受けて勝利した後である。
また、渡会(伊勢神宮の地域)は、もと太陽信仰の聖地で、渡会氏が太陽神を祭っていたが、天皇勢力の東方計略が積極的に進められた雄略朝のときに、ここに天皇の神が祭られることになり、従来の渡会氏の神はその御餞都神に変じ、外宮のトヨウケヒメとなった」とあった。
神話においても物部氏の租先神である饒速日命に「遠慮」しているように、初期、奈良盆地の先住豪族との連合王権といったヤマト王権は、次第に力をつけ武力でもって先住豪族を支配し、東国へとその威を進めるまでは、祖神神もヤマトの地に安住の宮居を置けなかった、ということだろうか。先住の神々の居るヤマトから離れ新天地を伊勢に構えたということであろうか。ともあれ、伊勢に宮を構えたのは、直木孝次郎氏は雄略天皇の頃とする。

●二上山の案内
境内端に「二上山」の案内があり、「正面のラクダのコブのような形をしたトロイデ式火山が二上山です。 右側の雄岳の山上には大津皇子のお墓があります。大津皇子は天武天皇の 皇子でしたが、あまりにもすぐれておられたので謀反の罪を着せられ二十四歳 で死を賜りました皇子の死を悼んで、お姉さまの大伯(おおく)皇女がうたった 「現身(うつせみ)の人なる吾(われ)や明日よりは二上山を弟背(いもせ)と吾 見む」という有名な歌が万葉集にのこっています」とあった。
当日は曇りであったが、かすかに浮かび上がる二上山を認めた。

前川佐美雄歌碑
境内を離れると、社の前に歌碑がある。「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思え」と刻まれる。前川佐美雄という有名な歌人の歌と言う。文字通りに解釈すれば「春になり霞がこくなり何も見えなくなる。それが大和の地」といった意味に取れるのだが、この歌は、「春霞みの激しい大和の風土を踏まえ、何もみえないからこそ逆に浮かび上がる大和の歴史の重みが見えてくる」といった意味をもつとの解説が多かった。情感乏しきわが身も、なんだか気になる歌である。ちなみに、この歌は万葉歌碑のラインアップではない。



歌碑の傍に「桧原神社 山辺の道キーワード 元伊勢」の案内があり、「この神社は元伊勢の称があるように、豊鍬入姫宮が笠縫邑に祀った天照大神の社がこのあたりにあったと考えられています。
この神社からと、ここより少し西に行った井寺池から見る景観は、日本を代表する景観百景にも選ばれ、毎年「二上山に沈む夕日を見るハイキング」が行われています」とある。天気がよければ井寺池に行き、日本を代表する景観百景を、とも思うのだが、如何せん曇りでは仕方なく、先を急ぐことにする。

高市皇子歌碑
緑の木々の間の小径を進むと山からの清水が流れ落ちる、小さな滝、僧都之滝とも呼ばれるようだが、その傍に歌碑がある。「山吹きの立ちしげみたる山清水酌みに行かめど道の知らなく」と刻まれる。
天武天皇の皇子である高市皇子の歌と言う。十市皇女の葬ってある山吹の咲く地に清水を汲みに行くのか、十市皇女の(霊)が清水を汲みに来るから、そこに行くのか、いくつか解釈があるようではあるが、それよりも、十市皇女って、てっきり高市皇子の妃かと思ったのだが、どうも違うようだ。
夫婦であったとの説もあるが、異母姉で弘文天皇の妃との説もある。その十市皇女が急死したとき、情熱的挽歌を詠んだといったエピソードもWikipediaに解説されていた。

玄賓庵
高市皇子歌碑の先からはじまる塀にそって道をぐるりとまわると玄賓(げんぴ)庵の山門入口に。「三輪山 奥の院 玄賓庵密寺」とある。真言宗醍醐寺派の寺。境内には本堂と庫裏がある。傍にあった案内には「ここは玄賓僧都が隠棲していた庵で、ここは重要文化財の木造不動明王坐像が伝わっています。謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたものです。玄賓は弘仁九年(818年)になくなりました」とある。
謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたもの、とのこと。案内はあまりにそっけないのでチェックすると、玄賓庵とは、「桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓(げんぴん;注;ママ)僧都の庵と伝えられる。世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台として知られる。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移されたとあった。
玄賓は高徳の僧都。玄賓庵は謡曲『三輪』に「秋寒き窓の内、秋寒き窓の内、軒の松風うち時雨れ、木の葉かき敷く庭の面、門は葎や閉ぢつらん。下樋の水音も、苔に聞こえて静かなる、この山住みぞ淋しき」と描かれるようだ。現在は明るい雰囲気のお寺さまではあるが、かつては三輪山の檜原谷にあったようであるので、昔隠棲の風情のある庵ではあったのだろう。
また重要文化財の不動明王は幕末まで、大神神社の神宮寺・大御輪寺に本尊として安置されていたものであるが、神仏分離令に際し、大御輪寺が神社となったため、この寺にこちらに移されたと言う。
●謡曲『三輪山』
三輪山の麓に庵を結び隠棲する玄賓のもとへ常に参詣に訪れる女人がある日玄賓の衣を乞う。玄賓は衣を与え女の素性を尋ねる。女は「我が庵は三輪の山本恋しくは訪い来ませ杉立てる門」の古歌をひき、杉立てる門が目印だと住みかを教えて消える。玄賓が歌の女の言葉を頼りに、三輪明神の近くまで訪ね行くと、杉の木に玄賓が与えた衣がかかっており、その裾に一首の歌があり。それを読んでいると、女姿の三輪明神が現れる。
三輪明神は天の岩戸の前での神楽の再現、伊勢と三輪の神が一体分神であり、それが二つに身を分けて出現なさったと物語り、夜明けと共に消え行く、といったあらすじのようである。
「伊勢と三輪の神が一体分神」の意味するところも深堀したいのだが、いままでのメモの流れで、おおよその見当がつくので、それで、良し、としておく。

神武天皇歌碑
小径を進み溜池端にでると、弁天社、そしてその先に貴船神社がある。弁天社の立て看板が、あまりに大仰であったので、パスしたのだが、その先に貴船神社があり、共に「水」に関係するので、気になり弁天社に少し戻る。が、なんとなく、イメージした古社といったものでもなかった。
道を進むと、左手の少し小高いところに歌碑が建つ。「葦原の しけしき小屋(おや)に 菅畳み いやさや敷きて わが二人寝し」と刻まれるこの歌碑は神武天皇の歌とのこと。」桜井市の万葉歌碑の案内には「葦のいっぱい生えた原の粗末な小屋で、管で編んだ敷物をすがすがしく幾枚も敷いて、私たち二人は寝たことだったね」の意味とあった。
揮毫者の北岡壽逸氏は大正・昭和期の経済学者で国学院大学名誉教授。

伊須気余理比売の歌碑
道を進むと、途中に大額田女王の歌碑があった(と思うのだが)のだが、句は先に出合ったものと同じであった(ように思う)ため、なんとなくパスし、先に進むと万葉歌碑が道脇に。「狭井川よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす」と刻まれる。桜井市の万葉歌碑の案内では「狭井川の方からずっと雨雲が立ち渡り、畝傍山では木の葉がざわめいている。今に大風が吹こうとしている」の意味。
この歌の作者は伊須気余理比売、と言う。伊須気余理比売って誰?1Wikipediaには。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記す神武天皇の妃とあった。夫婦ふたり並んでの歌碑である。
ところで、この伊須気余理比は出雲の国津神である大国主命の幸魂・和魂とされる三和大物主の娘とされている。「タタラ」は古代の製鉄法である「たたら吹き」を暗示し、出雲族出自の出とされる。神武天皇=祟神天皇とされることも多いので、祟神天皇に出雲系の妃がいるかな?とチェックしたのだが、それらしき人物は見つからなかった。

狭井川
歌碑からほどなく狭井川、細い流れの脇に木標が建ち「狭井川 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす」とかかれていたのでわかったが、普通なら通り過ぎるほどの小川である。
歌に詠まれる狭井川は、三輪山から流れ出るささやかなる小川であった。神体山から流れ出る聖なる川ゆえか、この川は古事記にも登場する。「その河を佐韋河(さいかわ)という由(ゆえ)は、その河の辺に山由理草(やまゆりそう)多(さわ)にありき。故(か)れその山由理の名を取りて佐韋河と名付けき。山由理の本(もと)の名は佐韋と言ひき」とある。
神武天皇が后の伊須気余理比売を訪ねてこの地に来た際に、佐韋が咲いていたので、「佐韋川」と名付けたといった記事もあった。

狭井神社
道を進み、池に沿って左に折れ鳥居を潜り「狭井神社」に向かう。途中、石碑があり「清明」と刻まれる。よこに詳しい案内があり、三島由紀夫の揮毫であり、作家と三輪山信仰と大神神社の神事とを、本格的に、作品の主題との深い関わりにおいて書いてあるのは、三島由紀夫の『豊饒の海』第二巻「奔馬」(昭和四十四年二月)である。
●三島由紀夫・「清明」の碑
三島氏は、古神道研究のため、昭和四十一年六月率川神社の三枝祭に参列。ついで親友のコロンビヤ大学教授ドナルド・キーン氏と八月二十二日再度来社、社務所に三泊参籠した。二十三日、三輪山の裾山の辺の道を散策。二十四日、念願の三輪山頂上へ登拝。この日、お山を下りた後、拝殿で神職の雅楽講習終了報告祭に参列。感銘を受けた氏は、直ちに色紙に「清明」「雲靉靆」と認めた。後日、左の感懐が寄せられた。
大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります。
又、お山へ登るお許しも得まして、頂上の太古からの磐座をおろがみ、そのすぐ上は青空でありますから、神の御座の裳裾に触れるやうな感がありました。東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ寄ることは、一種の畏れなしには出来ぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、 洵にはかり知れぬ神のお恵みであったと思ひます。
山の辺の道、杉の舞、雅楽もそれぞれ忘れがたく、又、御神職が、日夜、清らかに真摯に神に仕へておいでになる御生活を目のあたりにしまして、感銘洵に深きものがございました。
ここに、三島由紀夫と三輪の大神様との御神縁を鑑み、作家三島由紀夫揮毫の「清明」記念碑を篤信家によって奉納建立する。平成十六年八月吉日     大神神社社務所」とあった。

●拝殿
拝殿にお参り。案内には「狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわあらたまじんじゃ)
主祭神   大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
配祠神   大物主神
      媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
      勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
      事代主神(ことしろぬしのかみ)
当神社は、第十一代垂仁天皇の御世(約二千年前)に創祠せられ、ご本社大神神社で大物主神「和魂(にぎみたま)」をお祀りしているのに対して、「荒魂(あらみたま)」をお祀りしています。「荒魂」とは進取的で活動的なおはたらきの神霊で、災時などに顕著なおはたらきをされます。特に心身に関係する篤い祈りに霊験あらたかな御神威をくだされ、多くの人々から病気平癒の神様として崇められています。
今「くすり祭り」と知られる鎮花祭は、西暦八三四年施行の「令義解」に『春花飛散する時に在りて、疫神分散して癘を行ふ。その鎮遏の為必ず此の祭あり。故に鎮花といふ也。』と記され、万民の無病息災を祈る重要な国家の祭として定められております。予って、別名、華鎮社・しづめの宮と称されています。 又、御社名の「狭井」とは、神聖な井戸・泉・水源を意味し、そこに湧き出る霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています。 御例祭  4月10日  鎮花祭  4月18日 」とあった。

大物主の荒魂である大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)は当社に、和魂は大神(おおみわ)神社に祀られるということはわかったのだが、今まで大国主の荒魂は出雲に祀り、大国主の和魂である大物主を三輪山の地に祀ったとメモしてきたのだが、この三輪の地にも大国主の荒魂を祀る社があった。創建年度がはっきりしないため(社伝には垂仁天皇の頃とある)、いつの頃からどのような事情で大国主の荒魂も祀る必要があったのかわからない。それとも単に、神のもつふたつの「魂」を一体として祀ることで、より「完全」にお祀りできる、といったことなのだろうか。伏兵の登場に、少々困惑。

●薬井戸
拝殿の横を進むと「薬井戸(くすりいど)」がある。ご神水が湧き出る。案内にあった「霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています」とある湧水である。あれこれの社の由来はあるが、根拠はないのだが、この湧水がこの社のはじまりのような気がする。神奈備の山から湧き出る水、神体山とは山=豊かな水への信仰でもあろうから、大物主のあれこれは記紀編纂時の後付けの理屈のように思えてきた。



●三輪山に登る参道
社境内の右手に、左右の丸木に注連縄が結ばれた縄鳥居がある。「しめ柱」と呼ばれ鳥居の原型といわれるもののようである。そこは三輪山に登る参道の入口ともなっている。狭井神社で許可を得れば三輪山に登れるようである。神奈備の山を歩いてみたいとは思えど、今回はその余裕もなく、次回のお楽しみとする。





磐座神社
大神神社への道を進むと、道から少し山側に入ったところに鳥居も社殿もない社がある。案内には「磐座神社」とあった。案内には「大神神社摂社 磐座神社 御祭神  少彦名神 御例祭  十月十一日(御由緒) 御祭神の少彦名神は大物主大神と共に国土を開拓し、人間生活の基礎を築かれると共に、医薬治療の方法を定められた薬の神様として信仰されています。
三輪山の麓には辺津磐座と呼ばれる、神様が鎮まる岩が点在し、この神社もその一つです。社殿がなく、磐座を神座とする形が原始の神道の姿を伝えています」とあった。磐座そのものが祭祀の対象ではあったのだろうし、祭神の少彦名神も後世の後付けの神様ではあろうと思う。

大神(おおみわ)神社
長かった山の辺の道散歩も、やっと今回の散歩の終点である大神神社に辿りついた。参道を進み、狭井神社と同じ「しめ柱」の「鳥居」を潜り、拝殿にお参り。

●拝殿
大神神社のHP をもとに、簡単にまとめると、「拝殿は鎌倉時代に創建された伝わるが、現在の拝殿は寛文4年(1664)徳川四代将軍家綱公によって再建されたもの。白木造りの質実剛健な切妻造で、正面には唐破風の大きな向拝がつき、檜皮葺の屋根となっている。この拝殿は江戸時代の豪壮な社殿建築として、三ツ鳥居と共に国の重要文化財に指定されている」とある。
◆三ツ鳥居
同じく同社HPの記事をまとめると、「石神神宮と同じく、大神神社拝殿の奥は聖なる場所「禁足地」があり、その禁足地と拝殿の間に結界として三ツ鳥居と瑞垣が設けられている。三ツ鳥居の起源は不詳で、古文書にも「古来一社の神秘なり」と記され、本殿にかわるものとして神聖視されてきている。この鳥居は明神型の鳥居を横一列に三つ組み合わせた独特の形式で「三輪鳥居」とも呼ばれています。中央の鳥居には御扉があり、三輪山を本殿とすれば、三ツ鳥居は本殿の御扉の役割を果たしていると言える」とあった。
●祭神は大物主大神
祭神は大物主大神。これまで何度となく、エピソードをメモしてきたように、祟神天皇の御世、疫病や災害がつづいたとき、それまで宮中に天祖神と地主神を共に祭祀していたことがその因であろうかと、天祖神と地主神を宮から出し、それでも治まらず、結局は崇神天皇の大叔母の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)の憑依・神託により、三輪氏の租であり大物主神の子とされる太田田根子が大物主神を三輪山に祀ることで天下は治まった、と。
で、大物主って誰?については、第三回散歩で訪れた大和(おおやまと)神社御旅所のところで妄想を逞しくしてメモした。そのメモを一部端折って再掲する。
「(前略)しかし、何とも解せないのは、崇神天皇が侵攻する前の豪族が祀っていた地主神(日本大国魂神)と崇神天皇の祖先神・天照大神(天照大神は持統天皇をモデルに創られたものと言うから、祟神の頃はいなかっただろうが、ともあれ大王家の祖先神)を宮から追い出し、大物主を祀る、といったこと。 大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔とされる。どちらにしてもヤマト王権の系譜ではない。ヤマト王権と別系統の神を祀らなければ国が治まらない、って?
◆大物主って誰?
それ以上にわからないのが大物主。大物主って誰?ということになるのだが、大物主=出雲の大国主の和魂(にきみたま;大国主は荒魂)とか、大物主=饒速日命(『古代日本正史;原田常治』)などあれこれ諸説あり、古代史の書籍を数冊スキミング&スキャンングした程度の我が身にはよくわからない。 ◆大物主=大国主
一般的にはどのように定義されているかWikipediaでチェック。そこには「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、「日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神」とあり、続けて「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀った」とある。

◆大物主=大国主神は「国譲り」の条件?
この説明では大物主=大国主神といった印象を受ける。では何故に出雲の神がヤマトに祀られるのだろう?との疑問。古代史に門外漢ではあるが、上の説明にある「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズを前後のコンテキストをもとに妄想を続けると、力を付けたヤマト大王家は出雲に侵攻し、神話では「国譲り」というストーリーでその地を支配下におさめたわけだが、その条件としてヤマト大王家は「大国主を祀り続けること」を約束した、と考え方がひとつ。

◆大物主祭祀は、出雲系先住支配豪族とヤマト王権の連盟合意の条件? 
そして、もうひとつは、ヤマト王権がヤマト降臨(侵攻)以前に、すでに降臨(侵攻)し、先住部族を支配下に置いていた豪族がおり、その豪族が祀っていたのが「大物主」であり、ヤマト王権に協力する条件として「大物主」の威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた。
これまで何回かメモしたように、当初のヤマト王権は、武力で先住豪族を支配する力の無かったようであり、それ故、先住侵攻・支配豪族この条件に合意した、という考えもあるかと思う。「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズはヤマト王権の面子もあるので、パートナーとなった豪族の希望を受け入れた、といった表現となっているのだろうか。
で、後者の考えを更に妄想を膨らますに、ヤマト王権以前にこの地に侵攻・支配した豪族は出雲系の部族であり、出雲の神を祭っていたと考えられる。上のメモで大物主=饒速日命とした原田常治氏は「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」と言う。とすれば、関東の散歩で出合う物部氏はどうも出雲系っぽい、と思っていたことは、それほど間違っていなかったのかとも思う。実際、物部氏の租は吉備からヤマトに侵攻してきた出雲系部族といった説も聞いたことがある。

あれこれ妄想を重ね、自分なりの結論はヤマト王権の侵攻以前にこの地に侵攻・支配していた先住支配豪族は出雲系豪族であり、ヤマト王権への協力の条件として、豪族の租先神である大物主を祀り続けることを、その盟約の条件とした。そして、その先住支配豪族は、どうやら物部氏に繋がる部族ではないか、ということである。

◆祟神天皇の頃、大物主が登場するのは国史編纂時の「後付け」?
大物主には、何となくヤマト朝廷が出雲を制圧し、「国譲り」のエピソードを下敷きにしたストーリーを感じる。
と同時に、大物主=物部氏の祖・饒速日命(ニギハヤヒ)と言った自分の妄想も同様に、国史編纂時期に大王家に対しても力を保持していた物部氏故の「後付け」といった気がしてきた。その因は、ヤマト王権において物部氏がその軍事力をもって大活躍したのは雄略天皇の頃であり、ヤマト王権初期の頃はそれほど活躍していたとは思えないからである。

◆大物主って、神奈備山としての三輪山そのもの?
以上の妄想で、神話に登場する三輪山に祀られたとする大物主は、自分なりの勝手な解釈ではあるが、それなりに納得できるストーリーとなった。しかし、この解釈は神話としてのレベル。この祟神天皇の御世に、大物主が登場することには違和感がある。どう考えても、それは国史編纂時の「後付け」ではないかと思う。
そもそも、第10代祟神天皇の頃のヤマト王権は、同じ奈良盆地の西の葛城山麓に覇を唱える葛城王朝との対立で、どちらが勝つか負けるかわからない、といった状況であり、出雲侵攻などあり得ない。それは第21代雄略朝以降の話であり、祟神天皇の頃に、出雲の国譲りの話などあり得ない。
同様に、物部氏が物部という部民制を元に「物部」氏として登場しその軍事力をもって活躍するのも、雄略天皇以降の話であり、祟神天皇の頃に出雲系の神・大物主が登場することはあり得ないと思う。

それではこの祟神天皇の話に登場する大物主は?上で、大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔のよう、とメモした。大物主祀ったとあるが、祀ったの大三輪氏の名の通り、神奈備山としての三輪山ではないだろうか。それを後世、国史編纂の際に神奈備山の三輪山を大物主に差し替えたのかとも妄想する。差し替えた理由は、ヤマト朝廷と出雲の関係、また、ヤマト大王家と物部氏の関係と言った、政治的思惑ではあったのではなかろうか。単なる妄想。根拠なし」。

以上のメモのように、大物主を祀ったとするのは記紀編纂時の「後付け」であり、祟神天皇のコンテキストに登場する大物主って、先住豪族の祀る神奈備山である三輪山、水分神として豊かな水を育む神体山そのものではなかったのだろかと妄想を締めくくった。

◆「巳の神杉」は大物主>三輪山=神奈備山=水分神
その時は、これといったエビデンスがあったわけではないのだが、大神神社の境内にそのエビデンスと考えられる案内があった。「巳の神杉」がそれである。 「巳の神杉」の由来に、「ご祭神の大物主大神が蛇神に姿を変えられた伝承が『日本書紀』などに記され、蛇は大神の化身として信仰されています。この神杉の洞から白い巳(み)さん(親しみを込めて蛇をそう呼びます)が出入することから「巳の神杉」の名がつけられました。
近世の名所図会には拝殿前に巳の神杉と思われる杉の大木が描かれており、現在の神杉は樹齢400年余のものと思われます。
巨樹の前に卵や神酒がお供えされているのは巳さんの好物を参拝者が持参して拝まれるからです」とある。

説明にある『日本書紀』の伝承と言うのは、祟神天皇の大物主を祀るべし、との神託を行った倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)のその後の話。倭迹迹日百襲姫は、その後大物主に嫁いだ。が、大物主は昼には現れず、夜に忍んでくるだけ。倭迹迹日百襲姫は姿を見たいと願うと、大物主は、「翌朝に櫛箱を見よ」、と。そこには蛇がいた。驚いた倭迹迹日百襲姫は自死し、巨大な箸墓に祀られる(箸墓は纏向古墳の中にある、と言う)、大物主は御諸山(みもろやま;「神が守る」山=三輪山)に帰って行った、という話である。
このエピソードからわかるのは、大物主は蛇体であった、といこと。蛇は水神であり、水を涵養する山、つまりは水分神であった、ということだろう。

また、このエピソードからは、倭迹迹日百襲姫と大物主の婚姻がうまくいかなかったとことを暗示する。つまりは、ヤマト王権と先住豪族の関係で、ヤマト王権の支配が完全でない、といった印象を受ける。かといって、この先住豪族が誰を指すのか、記紀編纂の政治的思惑、時空をまぜこぜにしたお話から考えても詮無いことかとも思う。
結論として、祟神天皇当時の初期大和王権は、奈良盆地の先住諸豪族との微妙な力関係で成り立っており、軍事力で諸豪族を支配したのは雄略天皇の頃、と言うから、その初期の不安定は大和王権の姿を暗示している、ということであろうか。

最後にWikipediaにある大神神社の解説を載せておく:神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。旧来は大神大物主神社と呼ばれた。 三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として造営された拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、4~5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で焼かれたことが判明した(注;大物主神の子とされる太田田根子は堺市に住んでいたと伝わるが、それと関係あるのだろうか?最後の疑問)。

大神神社を離れ、JR 桜井線・三輪駅に向かい散歩を終える。

今回の散歩は、歩く道はそれほどでもなかったが、メモの道筋は結構厳しかった。妄想ばかりで多くの学者が喧々諤々のヤマト王権にまつわる古代史の謎をメモしてきた。門外漢がこんな領域は触らない方がいいか、さらっと流そうかとも思ったのだが、湧いた疑問は解決すべしと結構長いメモとなった。
メモは大変ではあったが、ヤマトについて知るいい機会、土地勘を得るいい機会となった。恥ずかしながら山の辺の道から少しだけ外れたところに箸墓古墳があることともはじめて知った。もっとも古墳や古代史にそれほどフックはかからないにため、古墳めぐりもさることながら、途中で手に入れた地図に載る、奈良盆地の中、あるいは外へと通る伊勢街道、多武峯街道、磐余の道などを歩いてみたくなった。
そしてなりより辿ってみたいのは、奈良盆地に14ほど点在する水分の神を祭る山口と名の付く社である。これも私のお気に入りの本のひとつである『日本の景観;樋口忠彦(ちくま学術文庫)』に「水分神社」型景観という記事があるのだが、そこの文章はこのヤマトの地を歩くまであまり理解できなかった。が、実際に歩いて、なんとなくリアリティが出てきた。近いうちに奈良盆地の水分の神を祭るを辿り、その景観を実感してみたいと思ったのが、今回の散歩の最大の成果かとも思う。



先回に散歩では「大和古墳群」の中を進む山の辺の道を辿った。大和古墳群は 古墳出現期から前期にかけての大型古墳群である。『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』には、「古代の日本人は、何かに取憑かれたように古墳の造営に狂奔した時期があったその時期はおよそ3世紀末から7世紀初頭までの三百数十年間である」とする。
そして、Wikipedia では「3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている」とあり、続けて、「3世紀の後半には奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が現れ」、その「前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている」と言う。先回の散歩で見てきた前方後円墳はヤマト王権の全国支配のシンボルでもあったわけである。
今回は、その大和古墳群の中でも、ヤマト王権の天皇陵と比定される陵墓からはじめ、神奈備の山である三輪山の手前までを辿り、感じたことをメモすることにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)
長岳寺から山の辺の道に戻り、少し進むと道の前方に堤と、その向こうに、如何にも古墳、それも巨大は古墳が姿を見せる。道なりに進むと堤の手前に案内がある。「歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)」と書かれた案内には、「景行天皇陵や祟神天皇陵をはじめとする柳本古墳群や、青垣の山に続く道である山の辺の道は、訪れる人を神話や古代のロマンに誘います。これらの歴史的文化資産は、後世の国民に継承すべき大切なものです。この貴重な財産を守るため、古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)が昭和41年に制定されました。この法律により、歴史的風土を保存するのに必要な土地を「歴史的風土保存区域」として指定し、その中で特に重要な地域を「歴史的風土特別保存地区」として指定しています。
ここは、「天理市・橿原市及び桜井市歴史的風土保存区域(2,712ha)の中の「祟神・景行天皇陵特別保存地区(52.5ha)」となっています。「祟神・景行天皇陵特別保存地区」は、両天皇陵と山の辺の道等と一体となる自然的環境を保存するため、指定されました。奈良県では天理市(2地区)以外に、奈良市(6地区)、桜井市(1地区)、橿原市(4地区)、斑鳩町(1地区)、明日香村(5地区)で、特別保存地区が指定されています」とあった。
これから、いままでも何度となくメモしたヤマト王権のはじまりの頃の大王の古墳地区に足を踏み入れることになる。

行燈山古墳(古墳時代前期);崇神天皇陵
堤に沿って道を進むと、古墳を囲む周濠がはっきりと見える。山の辺の道すがら、いくつもの古墳に出合ったが、古墳の周囲を取り巻く周威濠がこれほどきれいに残っている古墳ははじめてである。
道傍にある案内には「行燈山古墳(古墳時代前期)」とあり、「行燈山古墳は天理市柳本町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「崇神天皇陵」として宮内庁により管理され、アンド山古墳・南アンド古墳を含む周辺の古墳4基が陪塚に指定されています。
墳丘は全長242メートル、後円部径158メートル、前方部幅100メートルを測り、前方部を北西に向けています。柳本古墳群では渋谷向山古墳(景行天皇陵)に次ぐ大きさです。

墳丘は後円部、前方部ともに3段築成です。周濠は3ケ所の渡り堤によって区切られ、前方部側は高い外堤によって囲まれていますが、現在の状況は江戸時代末に柳本藩がおこなった修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものになっています。
周濠の護岸工事に先立つ宮内庁書陵部の調査では、円筒埴輪、土器が出土しました。また、江戸時代末の修陵の際に、後円部周濠の南東くびれ部から銅板が出土したと伝えられます。
残されている拓本によると、片面には内行花文鏡に似た文様が、もう一方の面には田の字形の文様が表現されています。
行燈山古墳の築造時期については、埴輪の特徴や銅板の存在から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、渋谷向山古墳(景行天皇陵)とともに重要な古墳です。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とあった。

この古墳は祟神天皇陵であった。散歩をはじめるまでは、祟神天皇陵がヤマト王権の租(応神天皇との説もあるが)といったことも知らず、メモをしながらはじめてわかったことでもあり、散歩の当日はヤマト王権の歴史とはまったく別のことにフックがかかった。それは周濠への疑問である。

●周濠
仁徳天皇陵などで見るように、天皇陵って周囲を濠で囲まれている。何となく神聖な場所への「立ち入り禁止」、進入を防ぐためのものだろうと思っていたのだが、ひょっとして元は「灌漑用」の水濠として使われていたのでは?との疑問である。
そのきっかけとなったのは、2回目の散歩の時にメモした『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」の中にある「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説である。 頭の整理のために再掲すると、「弥生時代から古墳時代(ほぼ西紀3世紀末から7世紀前半頃)にけて、各地で小地域ごとの部族国家が統合し始める。やがて前方後円墳に代表されるような階級支配が進むのである。その大きな経済的基盤となったのは溜池築造を中心とした乾田開発の拡大だと考えられる」とし続けて、「谷間や小川に小さな堰堤を築いて溜池とし、そこから水のかからない土地に、緩傾斜を利用して水を導き、水稲耕作が可能な乾田を開発する。この溜池灌漑の適地は、年間降水量が比較的少なく、夏期高温地帯で緩傾斜地形の山の辺であったという」と述べる。
更に、「奈良盆地の大和川に流れ込む支流は、その分水界の狭き故、流量の乏しい小河川であち、、この流量の乏しい小河川であったことが奈良盆地において小河川灌漑を発展させた要因とする。
即ち、溜池灌漑で富を蓄積した部族の支配者たちは、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、「用水の乗りやすい緩斜面の小規模な谷底低地や扇状地などに水田開発」を拡げて行った。そして、河川から用水を直接取水するには高度な技術が必要であるが、奈良盆地は水量の乏しい小河川であったが故に、それが容易であった、と説く。実際、古墳時代の豪族の支配地は、小河川に沿った、段丘から扇状地そして平地に至る山の辺にある。

◆古墳の周濠は灌漑用に使われていた
こういったを想い起すに、古墳の周濠が単に神聖な場所を護る、といったものではないだろう、と思ったわけである。水が乏しく、灌漑によって豊穣の地を造り、富を蓄えていった大王家が、貴重な水を実用に使わないわけがないだろうと思い、それをサポートする記事をチェックすると、結構それに関連した記事が見つかった。

外池昇氏の「村落の陵墓古墳と周濠」には、白石太一郎氏の「古墳の周濠」という論文を引用し、その論文の末尾で古墳築造期の周濠の性格について、「水稲耕作を基盤とする初期ヤマト政権の中枢を構成していた、大和。河内の首長たちの灌漑王的性格を象徴するものであり、それは又、農耕祭祀の司祭でもあった首長が豊な水を保証するための呪的な機能をもつもの」としている、とする。 また、図書館で偶々見つけた『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』の「祟神陵としての行燈山古墳」の箇所には、若き日の論文とのコメントをつけつつも、「(この古墳を見たとき)能力からいって堂々たる大貯水に相当する」という印象を受け、大古墳の濠は墳丘をきわだたせるだけでなく、灌漑の役割、つまり農耕的な機能もあわせ有している、と書いてあった。

◆周濠は造営当初からあったわけでもなさそうだ
何となくフックがかかった、周濠と灌漑用水の関連はそれほど間違った推論でもなかったようだ。で、それ以上に、ちょっと興味深い記述が外池昇氏の「村落の陵墓古墳と周濠」にあった。
それは、先ほどの白石太一郎氏の論文に続け、外池昇氏のコメントとして、「古墳の周囲を水をたたえた周濠が取り巻くという古墳の構造は、本来的に墳丘部、外提部の水際の部分を自ら破壊するという、矛盾した構造をもっている」、と述べ、「そうしてみると、今日古墳の周濠部に水がたくわえられているのは、古墳がその築造期の形態をそのまま伝えているためというよりは、むしろ地形等の自然条件や築造期以降のそのときどきの古墳の周辺に生活する人々の必要によって、周濠部に意図的に水がたくわえられてきたことによるのではないか」との推論が成り立つのでは、と述べる。端的に言えば、周濠がはじめからあったと思い込むべからず、ということだ。そうだよな。結構納得。

◆柳本藩がおこなった修陵事業
この事業についての記事が、これも偶然『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』の「祟神陵としての行燈山古墳」に記されていた。簡単にまとめると、天皇陵墓の荒廃を嘆いた下野の蒲生君平は。近畿の天皇陵古墳を調査し1803年に『山陵志』を著す。それがきかっけで山陵復旧の機運が生じ、下野・宇都宮藩が修陵の名乗りを上げる。文久の修陵と称されるこの事業は文久3年(1863)の神武陵からはじまり、行燈山古墳(当時は景行天皇陵とされていた)は元治元年(1864)、そして渋谷向山古墳(当時は祟神天皇陵とされていた)の修陵工事が行われた。
この宇都宮藩による行燈山古墳修陵の話を聞いた柳本藩は、農業用用水不足に長年困っており、この工事を水不足解消の絶好の機会と捉え、工事に協力し、 嶋池と呼ばれた前方部正面の濠を大拡張し貯水量を増やそうとした。
思惑は大きく異なるが、宇都宮藩も地元の農民の協力なくして工事はできないため妥協し工事は進められた。
結果、幕府・宇都宮藩の目する山陵を荘厳にするという目的も達し、一方の柳本藩も水不足解消ができたわけである。そして同書では「このようなことは他の天皇陵古墳でもおこなわれていて、とくに濠の現形を原形と即断してはいけない」と記す。
◆柳本藩
織田信長の弟で、茶人として有名な織田有楽斎の所領であった大和の領地のうち、1万石を分与された織田有楽斎の子が立藩したもので、陣屋を天理市柳本の黒塚古墳の辺りに構えたとのことである。

櫛山古墳
行燈山古墳の後円部の周濠部の外提を隔て、その山側に櫛山古墳がある。このふたつの古墳は、尾根筋を堀切って、ふたつにわけているように思える。いままで見てきた古墳も、一から土を積み上げたというより、支尾根を掘り切って築造したような印象が強かったのだが、このふたつの古墳は、疑いなく士尾根の稜線を断ち切ったものであろう。
道端にあった案内(位置的には行燈山古墳の案内より先にあり、どちらが櫛山古墳か少し混乱したが)には、「天理市柳本町に所在する櫛山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長155メートルの大形古墳で、柳本古墳群を構成する。墳形は、東西に主軸をもつ前方後円形を基調とするが、前方部とは反対側の後円部先端にも前方部に匹敵する大形の祭壇を伴うため、双方中円墳と呼ばれている。
昭和23・24年に行われた発掘調査では、この大形祭壇上から排水施設を伴う白礫を敷き詰めた遺構や白礫層の下部に赤色顔料を含む砂層を施した土坑などが検出されている。遺物も鍬形石・車輪石・石釧などの腕輪形製品や、高坏形土師器の破片が白礫層の上部から出土し、古墳の墓前祭祀に関係する遺構が見つかっている。
中円部の頂上に築かれた竪穴式石室は、すでに攪乱を受けていたが、全長7.1メートル、幅1.4メートルの南北に主軸をもつ埋葬施設で、扁平な石材を用いて石室の側壁を築いている。石室床面の中央には、石棺を据えたと思われる方形の落ち込みがあり、長持形石棺の一部が出土している。
調査では、石棺を据えてから石室の側壁を築いたものと考えている。同様な石室の構造をもつ古墳として、御所市宮山古墳の南石室がある。
櫛山古墳の西側には全長260メートルの巨大前方後円墳、行燈山古墳(崇神天皇陵)がある。そうした巨大古墳に隣接して櫛山古墳が造営されていること、石棺を用いた石室の存在、大形祭壇に白礫を敷き詰めた墓前祭祀跡など特別な印象を秘める櫛山古墳の様子は、この被葬者が行燈山古墳と関係する有力な人物であったことを想像させてくれる。天理市教育委員会」とあった。

案内に「墳形は、東西に主軸をもつ前方後円形を基調とするが、前方部とは反対側の後円部先端にも前方部に匹敵する大形の祭壇を伴うため、双方中円墳と呼ばれている」とあるように、一目で古墳と判別するのはむずかしかった。案相に写真があり、濠の対面がそれとわかった、という有様であった。

作者不詳の歌碑
櫛山古墳からほどなく、道傍に歌碑。「玉かぎる 夕さり来れば 猟人の 弓月が嶽に 霞たなびく 作者不詳」と刻まれる。「玉がほのかに輝くような夕方になると、狩人の弓ならぬ、弓月が嶽に霞がたなびくことよ」の意味。







武田無涯子歌碑
山田の集落に行く手前に歌碑。「二古陵に一人の衛士やほととぎす」と刻まれる。 二古陵とは祟神天皇陵と景行天皇陵とのこと。意味は「ふたつの一人の守衛が守っている。ほととぎすが啼く静かな光景である」と。とはいうものの、ふたつの天皇陵は結構離れているし、守衛は作者の投影のような気もするのだが。因みに無涯子とは桜井市生まれの明治の俳人とのこと。





大和の集落の案内
その歌碑の横に「大和の集落 青垣山に囲まれた大和の田園風景は整然とした美しいたたずまいを見せています。
集落は奈良時代の条里制にもとづいては位置されてきました。この山の辺の道沿いの集落も条里制に対応しています。こうした集落の配置と、大和棟の農家によって特色ある農村風景がつくられています」とあった。




●条里制と集落
「山の辺の道沿いの集落も条里制に対応しています」と言われても、何の事がさっぱりわからない。条里制と集落の関係についてチェック。
条里制とは、「古代から中世にかけて行われた土地区画制度。1町(約109m)の四角を基本単位である「坪」とし、それを縦横6X6並べたもの、つまりは縦横648m四方を「里」とした。一里は36坪ということである。そして、「里」の横列を「条」、縦列を「里」として、各区画単位を「1条1里」、「3条3里」となどとし、「地番」管理をしたわけである。
で、それと集落の関係であるが、おおよそ1里に50戸を集落の単位とした、と言う。日本最古の計画的集落ということだろう。ただ、条里制によって整然と規則正しく区分されるのは田地であって、集落は塊形、長方形、方形などさまざまである、とのこと。
◆一定の自然空間に、おおよそ同じ規模の集落の塊が見える景観
奈良盆地をGoogleの衛星写真でみると、条里制の姿ははっきりとわかる。が、歩いていても、それほどわかるわけでもないのだが、この案内がある以前から山の辺の道に沿って集落が、ほどよい間隔を持って現れると感じていた。一定の広さ毎に、一定の数の集落が、ほどよい「リズム感」で登場していた。ある一定の自然空間に、おおよそ同じ規模の集落の塊が見える景観が、説明にあった「特色ある農村風景」ということかとも感じる。

渋谷向山古墳
山田の集落、渋谷の集落を越えて先に進むと前方に巨大な山陵が見えてくる。周濠に囲まれたこの古墳は「渋谷向山古墳」と呼ばれる。案内に拠れば、「渋谷向山古墳(古墳時代前期) 渋谷向山古墳は天理市渋谷町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「景行天皇陵」として宮内庁により管理され、上の山古墳を含む古墳3基が陪塚に指定されています。墳丘は全長約300メートル、後円部径約168メートル、前方部幅約170メートルを測り、前方部を西に向けています。古墳時代前期に築造されたものとしては国内最大の古墳です。
墳丘の形状については諸説ありますが、後円部4段築成、前方部3段築成とする見方が有力です。また周濠は後円部6ケ所、前方部4ケ所の渡り堤によって区切られていますが、現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものです。
これまでの宮内庁書陵部の調査等により、普通円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪が確認されています。このほか、関西大学所蔵の伝渋谷出土石枕が本古墳出土とされたこともありますが、詳しいことは分かっていません。また、渋谷村出土との伝承がある三角縁神獣鏡の存在も知られています。
渋谷向山古墳の築造時期については、埴輪の特徴から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、先に築造された行燈山古墳(崇神天皇陵)とともに重要な古墳です。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とある。

案内にあった「現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもの」との説明は、祟神天皇陵のところでメモした、下野・宇都宮藩と柳本藩による修陵工事のこと。現形を原形とみなすべからず、ということである。
また、かつては景行天皇陵と祟神天皇陵が逆に比定されていたようだが、景行天皇陵のことは『古事記』には「御陵は山辺の道の上にあり」、『日本書紀』「大和の国の山辺の道の上の陵に葬りまつる」とあり、祟神天皇陵は『古事記』には「御陵は山辺の道の勾(まがり)の岡の上にあり」、『日本書紀』には、「山辺の道の上の陵に葬りまつる」とある。これで陵を比定するのは難しいだろうかと思う。
●景行天皇
巨大な陵墓であるが、景行天皇って、日本武尊の父と言うこと以外、あまり存在感がない。チェックすると、実在を疑うといった説もあるようだ。祟神天皇から始まるヤマト大王家は仲哀天皇でその系譜が絶えるとされるが、その間、祟神>垂仁>景行>成務>仲哀と続く天皇の内、景行天皇の他、成務、仲哀天皇もまたその実在を疑問視する説もある、とか。
天皇陵でも、ヤマト大王家のはじまりの地とされる、この辺りにあるかとチェックすると、陵墓と比定されている陵墓も垂仁は奈良市、景行はこの地、成務は奈良市、仲哀は藤井寺とバラバラであった。これ以上の深堀は力の及ぶ限りではないにで、ここでストップとする。

天理市から桜井市穴師に入る
道を進むと天理市から桜井市に入る。地域名は「穴師」と呼ぶ。穴師の地名由来は、採鉱に従事した鋳金に優れた穴師部からとか、丹入(水銀)との関連を説く人、否、「あなせ」と読むとか、「あらし」とよんで風神との関連を説くとか、常の地名の由来の如く諸説定まることなし。
穴師は旧称「巻向村」と呼ばれ、ヤマト王権の頃には垂仁天皇の巻向球城宮、景行天皇の巻向日代宮が置かれていたとの説もあるようだ。

額田女王歌碑
道標脇に歌碑がある。「額田女王歌碑」である。「額田女王歌 うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈  い離かるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見離けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
反歌 三輪山を  しかも隠すか  雲だにも  心あらなむ  隠さふべしや 中河与一書」と刻まれる。

「三輪山を、奈良の山間に隠れてしまうまで、道の曲がり角ごとに、繰り返し眺めて行きたいのだが、無情にも雲が隠していいものだろうか」と言った長歌に続け、反歌で、「三輪山を雲が隠してしまう。せめて雲だけでも思いやりの心を持って三輪山を隠さないでほしい」と詠う。
●近江遷都
この歌は、天智6年(667)、都を奈良の明日香から近江へと移すときの歌。朝鮮半島の「白村江の戦い」で百済に与し新羅・唐と戦い、結果、敗れた朝廷は新羅・唐の侵攻を怖れ都を近江へと移す。その遷都を悲しみ、魂の拠り所でもあった三輪山との別れ、明日香との別れを刻む最後の時の心を詠んでいるのだろう。
揮毫は中河与一。香川県生まれの小説家・歌人である。横光利一、川端康成と共に、新感覚派として活躍した(Wikipedia)。
●額田女王
大海人皇子(天武天皇)の妃。歌の才、その美貌故に大海人皇子の兄の天智天皇の寵愛を受けたとの話の小説なども多いが確証はないようである。
◆黒須紀一郎
因みに、いつだったか黒須紀一郎さんの『役小角』、『覇王不比等』を読んだことがある。そこには、中国大陸、朝鮮半島、日本列島を巻き込んだダイナミックな、「一衣帯水」そのものの国際情勢が描かれていた。百済系の天智、新羅系の天武、多武峰から睨みをきかす中国から勢力など、誠に面白く読み終えた。当時の朝廷の会話は朝鮮半島の言語ではなかったのだろうか、と思ったほどであった。

柿本人麻呂歌碑
穴師地区の田地の中を進む、道から離れ山の方向に上れば、相撲神社とか穴師坐兵主神社神社、里に下れば「珠城山古墳群」と言った、少し気になるところもあるのだが、それを言い出したら、JR桜井線・巻向駅の少し南に話題の「箸墓古墳」もあるわけで(これも散歩しながらこの地にあるのをはじめて知ったのだが)、時間も押してきた関係もあり、少々気になりながらも、山の辺の道を突き進むことにした。
田地の先にある穴師の集落の先、県道50号の少し手前に歌碑がある。「柿本人麻呂歌碑」の歌碑である。
「ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き 実篤」と刻まれる。「万葉集」巻七:柿本人麻呂歌集の歌とのこと。「漆黒の闇夜、巻向川の川の音が激しい。川の上流はもう嵐かもしれない」と言った意味だろう。
 ●巻向川
古くは、穴師川、痛足川とも表記。読みは共に「あなし」ではある。三輪山の西に境を接する巻向山を源流点とし、巻向山、三輪山の北の谷を県道50号に沿って下り、穴師地区で山麓を出た後、箸墓古墳付近で南西に向きを変え大和川に合わさる。

柿本人麻呂歌碑
県道50号に出ると前方に三輪山が見えてくる。県道50号を三輪山方向へ向かって進むと、巻向川が県道に右手から接近する辺りに歌碑がある。「巻向の 山辺響みて 行く水の 水沫のごとし 世の人われは」と刻まれる。揮毫名は読めなかったが、フランス文学者の市原豊太氏とのことである。
「巻向の山辺を、水が勢いよく流れゆくが、人の世は川の流れに一瞬出来ては消える泡のようにはかないものだ」と言った意味のようだ。

先ほど出合った歌麻呂の「衾道を引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」では龍王山に葬った妻を想ったのか、龍王山に行けば亡き妻に会えると思ったのか、どちらにしても、亡き妻を思い出して悲しむ歌であった。 この歌碑にある人の世のむなしさも、亡き妻に関係あるものかチェック。
どうも、妻は穴師川が流れる山峡の村里に住んでいたようだ。都での勤めを終え、妻問婚の当時、穴師川の瀬音を聞きながら妻の元に通ったからこその、人の世のあわれを穴師川の瀬音と流れの泡で引き立てているのだろうか。素人の解釈、あてにならず。
●万葉歌碑
ところで、山の辺の道に沿って建てられる歌碑が結構多い。特に歌を詠んだ箇所でもなく、碑も新しく、古くから残る碑ではないようだ。何時、誰が、如何なる理由で建てたのか気になりチェック。
広報『わかざくら平成10年8月15日号』というから桜井市の広報誌だろうとはおもうのだが、そこに万葉歌碑の経緯らしき記事があった。その記事によると、きっかけは山の辺の道を多くの人が歩き始めた、昭和43年頃、市の観光協会・商工観光課の方が、道を辿る小中学生のために万葉集を12首ほど選ぶことからはじまった。当初は丸太材に墨書であったが、後に石にすることになった。 その後、歌の数を増やし130首を選び、そのうえ揮毫者を選び依頼。揮毫者の一人であった川端康成氏の発案で万葉だけでなく記紀からも選ぶことになったようだ。万葉歌碑は五十数首建てられている、とのことである。
桜井市はある程度わかったのだが、天理市の山の辺の道傍にあった歌碑・句碑はチェックしたが、その経緯はわからなかった。
因みに、上の広報誌には、川端康成氏の選んだ日本武尊の歌「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 大和しうるはし」を書く前に亡くなられたため、ノーベル賞の授賞式の原稿から文字を選びだし、揮毫として刻んだといったエピソードが載っていた。

三輪山の麓手前で今回のメモはお終い。次回は三輪山の裾を辿り、最後の目的地である大神神社までの散歩をメモする。

2回目の散歩のメモは、石神神宮を離れ「山の辺の道」を歩いた。道は大和高原の山裾、おおよそ標高100mから150mの間を辿ることになる。奈良盆地は標高おおよそ60m程度であるので、山の辺の道を歩きはじめた頃は、はるか昔は湖であったとも言われる奈良盆地の湿地を避け、山裾に道を開いたのだろうと思っていた。
もちろん、それも一因ではあろうが、途中出合った環濠集落が契機となり、昔読んだ書籍『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』にある「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説を思い出し再読。奈良盆地の部族の経済的基盤となった谷底低地や扇状地での水田開発は、奈良盆地に注ぐ河川の、その特徴である「小河川」故に水勢の制御を容易にし、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、そこから緩傾斜を利用し、水のかからない土地に水を導くことによって可能となった、といったことを思い起こした。山の辺の斜面、小河川が奈良盆地の部族、ひいてはヤマト王権の経済的基盤であった、ということである。
今回の散歩は、そのヤマト王権の残した「大和古墳群」の案内からメモを開始することにする。


本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

「大和古墳群」の案内
竹之内環濠集落から先に進むと、道脇に「大和古墳群」の案内があった。「大和古墳群 古墳時代前期  奈良盆地東南部の東山山麓沿いには、古墳出現期から前期にかけての大型古墳が多数存在します。
こうした造墓地帯の最北部に位置し、天理市萱生町(かよう)、中山町一帯の丘陵上から成願寺町付近の緩やかな斜面上点在する古墳群を指して、かつて萱生古墳群とも呼ばれていた一群が大和古墳群(おおやまとこふんぐん)です。 当古墳では、その立地条件の違いから丘陵上の前方後円墳のみで形成される中山支群と、扇状地の緩やかな斜面上に点在する前方後円墳、前方後方墳、円墳などの萱生支群に区分することができます。
中山支群では、埴輪の起源となる吉備地方の特殊器台片が発見され出現期の古墳と考えられる中山大塚古墳や、特殊器台形埴輪が樹立し当古墳群の中で最大規模の前方後円墳となる西殿塚古墳、それに墳丘裾に特異な埴輪配列をもつ東殿塚古墳などがあり、同じ尾根筋上での累世的な造立が考えられています。 また、萱生支群では最古級の大型前方後方墳と考えられるノムギ古墳をはじめ、中山支群で出現した初期埴輪と同系統の埴輪をもつ波多子塚古墳(はたご)、大型内行花文鏡の副葬例を見た下池山古墳など、盆地東南部の前期古墳群のなかでも、この支群にのみ前方後方墳築造の系譜が認められています。
以上のように、大和古墳群では各支群の群形成に異なる特色が認められる 天理市教育委員会」とあった。

案内にはこの解説と共に、航空写真、そして古墳の位置を示した地図がついていた。名前のついた古墳だけで21基ほどある。夥しい数である。
散歩の最初にメモしたことだが、この山の辺に道を歩くまで、奈良盆地にこれほど多くの古墳があるとは思ってもみなかった。否、正直に言えば、飛鳥の石舞台とか、高松塚、そして箸墓古墳くらいは知っていたが、奈良に巨大な古墳があるとは思ってもみなかった。箸墓古墳が話題になった時も、巨大古墳としてのイメージをもつことはまるでなかった。
また、奈良と言えば大和朝廷=飛鳥>藤原京>平城京、といった短絡的な理解だけで、奈良盆地の山の辺に大和朝廷成立以前の豪族が割拠し、また大和朝廷につながる大和王権の豪族が、奈良盆地の、今回歩く山の辺の道からはじまったことなど知る由もなかった。
大和王権(朝廷)と大和朝廷を使い分けているのを知ったのも、このメモをはじめてからである。昔の日本史では、4世紀から7世紀の大和の王権も「大和朝廷」と習ったように思うのだが、現在では「大和王権(ヤマト政権)」と表記されることが多いようである。
その理由は、国名としての「大和」の表記が8世紀の養老律令施行後であること、また初期の大和王権の中心は大和国全域ではなく、奈良盆地東南部の東山山麓沿いでしかなかったこと、そして、初期の大和王権は大王家を中心とする政治連合であり、後年のように武力をもって各地の豪族支配し、百官を従える「朝廷」の実態を示していなかった、ということのようである。 ともあれ、これから先、大和王権の大王が降臨(侵攻)し、溜池灌漑と小河川灌漑によって豊かな水田を開発し、力を蓄え築いた幾多の古墳に沿った「山の辺」の道に入ることになる。

波多子塚古墳

道を進み、萱生の集落に入る手前、道の西、丘陵の少し下に小高い塚が見える。如何にも古墳といった趣である。道端に案内があり「波多子塚古墳」とあった。 案内には、「波多子塚古墳(古墳時代前期) 波多子塚古墳は萱生町集落西方の斜面に位置し、西向きに延びる低く長い丘陵上に立地する前方後円墳です。
現状の墳丘規模は全長140メートル、後方部東西幅50メートル、前方部幅14メートル、前方部長90メートルを測ります。前方部の形態が細長いことがこの古墳の大きな特徴であるとされることもありますが、墳丘が畑や果樹園等として開墾されていることから、築造当時の本来の墳丘形状からは大幅に改変されているものと考えられます。とくに、後方部は葺石石材を転用した石垣により段状に改変されています。また、墳頂部外縁の石垣には板状の石材が多く使われていることから、埋葬施設が竪穴式石室であったことがうかがえます。
平成10(1998)年に天理市教育委員会が後方部北側でおこなった発掘調査では、墳丘裾の葺石と周濠の存在が明らかとなり、外堤上では板石積みの小石室も見つかりました。また、周濠からは多くの埴輪片が出土し、波多子塚古墳の築造時期を知る手がかりが得られました。出土した埴輪には朝顔形埴輪、鰭付埴輪、特殊器台形埴輪などがあり、西殿塚古墳や東殿塚古墳でおこなった発掘調査により出土した初期埴輪とともに、大和古墳群における埴輪の成立と波及を考える好材料となりました。古墳の築造時期については、出土した埴輪の年代から、おおむね4世紀前葉と考えられます。平成22(2010)年3月  天理市教育委員会」とあった。

説明にあるように、畑や果樹園として崩されており、畑の中にぽっかりと浮く塚といった印象で、それほど大規模な古墳のようには見えなくなっていた。

柿本人麻呂の歌碑
波多子塚古墳の案内から少し先に進むと、歌碑が建つ。「あしひきの 山川の瀬の 響るなべに 弓月が嶽に 雲立ち渡る 柿本朝臣人麿」と刻まれる。
「万葉集」巻七:一〇八八番」の歌。「響る」は「なる」と読む。「山川の瀬音が響き流れるとともに、弓月が嶽には雲がわき立っている」の意味。あまり情感豊かとはいえない私ではあるが、この歌のどこがいいのかよくわからない。

どこがいいのか気になりチェックすると、この歌は「雲を詠む」という二首で一組となったもの。その対の歌は「痛足川(あなしがは) 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に  雲居(くもゐ)立てるらし」であり、川の波と山の雲が対になり、その川の波と山の雲の盛んな姿を歌い、豊穣なるを前祝いした歌と考えられる、といった記事があった。そういう意味合いであれば、なんとなく納得。 因みに、歌碑はどういった経緯で建てられたのかチェック。「天理市に文学碑を建てる会」により平成15年(2003)11月24日に設置された、山の辺の道文学碑第6号基との記事があった。「天理市に文学碑を建てる会」も山の辺の道文学碑に関する詳細は不詳。

西山塚古墳
萱生の集落に入る手前、道に沿って南に濠に囲まれた如何にも古墳らしき緑の高まりが見える。それが西山塚古墳である。道沿いにあった案内には「西山塚古墳(古墳時代後期) 西山塚古墳は萱生町集落西端の緩斜面に位置する、古墳時代後期前葉の前方後円墳です。前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけです。墳丘は前方部二段、後円部三段になるものと思われ、現状では全長114メートル、後円部径65メートル、後円部の高さ13メートル、前方部幅70メートル、前方部の高さ8メートルの規模を持ちます。
大和古墳群の中では唯一、前方部を北側に向けているのが特徴です。古墳の周囲を囲む幅12~20メートルの溜池は周濠の痕跡と考えられ、後円部南西側の溜池の外側には幅10メートル、高さ2メートルほどの外堤が残っています。
発掘調査は行われておらず、副葬品や埋葬施設は不明ですが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されています。明治20(1887)年ごろに墳頂部が開墾された際、石棺や勾玉、管玉、鈴、土器、人造石が出土したとの記述が『山辺郡誌』に見られますが、現在その所在は明らかになっていません。
なお、この古墳の南東に所在する西殿塚古墳が「手白香皇女衾田陵」に治定されていますが、西殿塚古墳が3世紀後半ごろの築造と考えられるのに対し、手白香皇女は6世紀後半ごろの人物であり、西山塚古墳が手白香皇女の真陵ではないかとする考え方があります。 平成22(2010)年3月  天理市教育委員」とある。

「前方部を北側に向けている」とあるから、集落の入り口部分の藪は前方部と言うことだろう。で、この西山塚古墳の主と比定される「手白香皇女(たしから)」って誰?チェックすると第26代継体天皇の皇后であり、第29代欽明天皇の母とのこと。
●継体天皇
古代史にあまりフックのかからない私でも継体天王のことは、少しは知っている。大和王権(大和朝廷とこのメモまでは思っていたのだが)の大王家(25代武烈天皇)の後継者がいなくなり、大連である大伴氏、物部氏などが後継者を探し越(越前?)の国から呼び寄せ、河内にて即位するも、大和に入るまで20年の時を必要とした、ということと、天皇家は万世一系とはするものの、継体以前には断続があり、現在に続く天皇家の祖とする、といったものである。これが継体天皇に関する知識であり、それほど間違ってはいないかと思う。

ここからはチェックした内容だが、大和に入る前に複数の妃そして子もいたようだが、大和に入り、第21代雄略天皇の孫娘で、第24代仁賢天皇の皇女であり、第25代武烈天皇の妹(姉との説もある)である手白香皇女を妃とする。ヤマト大王家(ヤマト王権は雄略天皇の頃から、それまでの「王」から「大王」という称号に格上げされていると記録にある)と系譜ではない継体天皇の、大王家の系譜に対する融和政策であり、正当性を示す政治的施策とも思える。

◆継体天皇陵は大阪府茨木市。その妃の陵墓が何故ここに?
で、その妃の古墳がこの地にある、と。それでは継体天皇陵は?チェックすると大阪府茨城市の三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)が継体天皇陵と比定されている。結構な泣き別れ?Wikipediaには「継体天皇が、ヤマトの王統につながる手白香皇女の墓をヤマト王権の始祖たちの墓が並ぶ大和古墳群や柳本古墳群のなかに営むことによってみずからの王権の連続性・正統性を主張したものではないかと推測し(後略)」とあった。この記事は継体天皇が出自不明の王ではなく、大和王権の系譜を継ぐものとしてのエビデンスとして挙げている説明でもあるので、そのまま鵜呑みにすることもできないが、なんとなく納得感もある。

萱生環濠集落
道に沿って西山塚古墳の周濠が続く。道が周濠を横切る古墳裾に何軒かの民家が建つ。これが萱生(かよう)環濠集落ではあろうが、竹之内環濠集落のように多くの集落を囲むといったものではなく、Googleの衛星写真で見る限り、ほとんどが古墳である。古墳は耕地として数段に開墾されているように見える。昔はもっと多くの人の住む集落でもあったのだろうか。




大神宮常夜灯
集落を抜け、行く手の左手、山稜が開ける道の分岐点に大きな常夜灯が建つ。正面には「太神宮」と刻まれる。太神宮ということは「伊勢神宮」のことだろう。山の辺の道の終点である三輪山の南西麓から、初瀬川の谷を進む伊勢街道がある。お伊勢参りの道標であろうか。嘉永元戊申年(1848年)に建ったもの、と。
大神宮常夜灯の脇にはささやかな道祖神とともに、猿田彦大神と刻まれた石碑があった。Wikipediaには「天孫降臨の際、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内したということから道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている」とあった。
●道祖神
塞の神・道祖神と言えば、いつだったか信州と越後を繋ぐ塩の道を歩いたときに出合った大杉を思い出す。その道端に大きな一本の杉は塞の大神と呼ばれていた。「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多い、よう。
この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置き、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様問えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。 ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。

五社神社
道を進み中山の集落の中に入ると五社神社が建つ。ささやかな社である。元は「五社の森」と呼ばれる広い森に鎮座していたとのことだが、明治時代に中山の歯定神社に合祀され、社地は開墾されて畑地となるも、昭和26年(1951)、この地に戻り社が造られた、と言う。
五社神社ってどのような神を祀るのかチェックすると、この社は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比咩大神。これらは春日神社の四柱。五社なのに四柱? チェックすると、全国の五社神社に特に決まった神のライアンアップは見当たらない。春日四柱との関連でいえば、浜松の五社神社が元は大玉命(ふとだまのみこと)を祀っていたが、それに春日四祭神を加え五社神社としたとあったが、これもあまり関係なさそう。結局四と五の差分はわからずじまいである。

手白香皇女衾田陵
五社神社から衾田陵の案内に従い、柿の木を見遣りながら小径を進むと手白香皇女衾田陵に。天皇陵によく見る、宮内庁管轄を示すような鳥居と石柱で正面がガードされている。
傍にあった案内には「西殿塚古墳・東殿塚古墳は大和古墳群のなかでも最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれています。これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳など前方後円墳が連なるように立地し、大和古墳群中山支群と呼ばれています。 西殿塚古墳 西殿塚古墳は全長230m。後円部径145mm前方部幅130mを測ります。墳丘は東側で三段、西側四段の段築により形成されており、後円部及び前方部の墳頂に方形壇が存在します。
現在、墳丘部分については「手白香皇女衾田陵」として宮内庁により管理されています。平成元年(1989)には宮内庁書陵部により墳丘の調査が実施され、墳丘の各所から特殊器台形土器や特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪などの遺物が採集されています。
また、平成5年(1993)~平成7年(1995)には天理市教育員会により墳丘周辺の範囲確認調査がおこなわれ、墳丘東部くびれ部と前方部東裾において墳丘斜面の基底石と掘割(周濠相当の落ち込み)が存在することが確認されました。この調査の際にも、有段口縁が特徴の特殊円筒埴輪など多量の初期埴輪が出土されました。
東殿塚古墳 東殿塚古墳は全長139m、後円部径65m、前方部幅49mを測り、周囲には古墳の外周を区画する長方形の地割が残っています。後円部頂には多数の板石が散乱していることから、埋葬施設は竪穴式石室であると推定されています。
平成9(1997)に天理市教育員会が前方部西側で実施した発掘調査では、墳丘上段部の基底石列や墳丘下段裾の葺石、掘割(周濠相当の落ち込み)と外堤を検出するなど、多くの大きな知見が得られました。とくに、墳丘裾と外提の間の掘割内で見つかった祭祀施設では、初期埴輪と二重口縁壺や甕(かめ)、高坏(たかつき)など布留式土器(ふる)、さらに近江系や山陰系など外来系土器との共存が確認され、初期埴輪の年代的位置づけと古墳の築造時期を考える上で非常に重要な資料が得られました。
埴輪配列を構成した初期の円筒埴輪には、朝顔形埴輪・鰭付円筒(ひれつき)・特殊器台形埴輪などがあります。その中でも鰭付円筒埴輪の1点には船をモチーフとして描かれた線刻絵画があり、当時の葬送観念を反映するものと考えられる重要な発見として知られています。
築造時期  西殿塚古墳・東殿塚古墳の築造時期については、これまで発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、次に朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。しかし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、埴輪の出現から成立期(3世紀後半)に連続的に築造されたものと考えられます 天理市教育委員会」とあった。

巨大な「山容」を留める西殿塚古墳は、先ほどの西山塚古墳の案内には「手白香皇女衾田陵」との案内があったが、西山塚古墳でメモしたように、西山塚古墳が「手白香皇女衾田陵」との議論もあるようだ。どちらにしても、門外漢には??
●東殿塚古墳
それより、案内にある東殿塚古墳。西殿塚古墳のすぐ東に平行に並ぶとのことだが、ちょっとした高まりのある茂みはあるのだが、東殿それらしき「高み」は見えない。チェックすると古墳の墳丘は開墾され、ほとんどが果樹園となっており、古墳らしき姿は留めていないようであった。案内を読む限りでは結構な古墳をイメージするのだが、「今は姿を留めない」とでも書いてもらえば、それなりの感慨も抱いだだろうが。。。

燈籠山古墳
手白香皇女衾田陵から山の辺の道に戻り、小高い塚がある。その東側には墓地。が広がるが、そこに「燈籠山古墳」の案内。「燈籠山古墳は天理市中山町に所在する全長110mの前方後円墳で、大和古墳群を構成する大型古墳のひとつである。前方部は念仏寺の墓地として利用されている。墳丘上には埴輪が散布し、埴輪の特徴から古墳時代前期、4世紀前半の古墳と思われる」とあった。

説明にあるように、前方部は完全に墓地となってしまっている。墳丘を眺め、山の辺の道に戻り、墓地を迂回し念仏寺への道を進む。と、また「燈籠山古墳」の説明があった。さきほどより詳しい案内であるので、再掲しておく。 「燈籠山古墳(古墳時代前期) 燈籠山古墳は、東殿塚古墳・西殿塚古墳・中山大塚古墳などと同じ丘陵に位置する前方後円墳です。
この丘陵上に位置する古墳は前方部を南に向けますが、燈籠山古墳だけは西に向けています。
古墳の規模は、現状では全長110メートル、後円部径55メートル、後円部高さ6.4メートル、前方部幅41メートル、前方部高さ6.3メートルを測ります。墳丘は大きく改変されていますが、前方部・後円部とも3段に築かれていた可能性があります。墳丘の北・南・東の三方に平坦面があり、東側は墓域を区画するために丘陵を切断した痕跡、南側と北側は墳丘に盛る土を取った痕跡と考えられています。
発掘調査は行われておらず、埋葬施設は不明ですが、後円部では竪穴式石室の部材と見られる板石が多く採集され、石材鑑定の結果、大阪府柏原市や遠くは徳島県で産出する石材であることがわかりました。また、墳丘各所で円筒埴輪や朝顔形埴輪の破片が採集され、埴輪列が墳丘を囲んでいたと考えられています。
その他の出土品には、埴製枕、埴質棺、石釧、勾玉・管玉など装身具が知られています。特に埴製枕は長辺36.8㎝、短辺29.4㎝、厚さ8.0㎝の長方形で全面に朱が塗られており、中央を頭の形にくぼませて周囲に鋸歯文や幾何学文などを線刻したものです。
これらの特徴から、古墳の築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前葉)と考えられます。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とあった。

中山大塚古墳
念仏寺を越えると前方に古墳と思しき独立丘陵が見える。中山大塚古墳である。 道傍にあった案内には「中山大塚古墳 (築造時期 古墳時代初頭) 中山大塚古墳は、萱生町と中山町の一帯に展開する大和(おおやまと)古墳群の南側に位置する前方後円墳です。標高約90メートルの尾根上に前方部を南西に向けて築かれており、前方部付近には大和神社のお旅所がおかれたために削平を受けています。古墳の規模は、全長132メートル、後円部径約73メートル、後円部の高さ約11メートルを測ります。
1985年以降、1994年までの学術調査の結果、墳丘表面が葺石で覆われ、後円部に2段、前方部に1段の段築による築成であることが知られています。
また、外部施設として西側くびれ部に作られた三角形の張り出し部と後円部北側の張り出し部があり、いずれも古墳への通路的な施設と考えられています。 埋葬施設は、後円部墳頂の中央に墳丘主軸に沿って築かれた竪穴式石室が見つかっており、長さ7.5メートル、天井までの高さ約2メートルの規模をもちます。なお、石室の南北両小口は隅に丸みをもつように石材が積まれています。石室の石材は大阪府羽曳野市と太子町の間に位置する春日山で採取された輝石安山岩が使用されています。
出土遺物では、銅鏡2点、鉄器36点などが石室内より見つかりましたが盗掘が石室内全体におよんでいたため細片化したものがほとんどでした。銅鏡は二仙四禽鏡で、鉄器には鉄槍、鉄鏃などがあります。
ほかに、墳頂部からは土器のほか、特殊壷形埴輪、二重口縁壷系の埴輪、特殊円筒埴輪、特殊器台形土器、特殊壷形土器などが出土しており、埋葬主体部を囲うように樹立していたものと考えられています。
これまでの発掘調査の成果から、当古墳の墳丘は戦国時代の山城として再利用されていたために若干改変され、現状の墳丘形状が築造当初のものではないこともわかっています。しかしながら、石室や墳丘構造、あるいは埴輪などに認められるそれぞれの初源的な要素から、当古墳が前方後円墳の築かれ始めたころの古墳であると判断されています。 1999年8月天理市教育委員会(2008年3月改訂)」とあった。

大和神社の御旅所
中山大塚古墳の案内にもあったように、古墳の前方部の大和(おおやまと)神社の御旅所がある。朱に塗られたささやかな祠が祀られる。御旅所坐神社(おたびしょにいますじんじゃ)、とのことである。
「大和神社(おおやまとじんじゃ)御旅所の由来」の案内には「中山大塚古墳(百三十㍍)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)の塚。約二千年前煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(五穀豊穣)、主神日本大国魂神(大地主神)、須治比賣大神(天照大神)
大和神社の春の大祭、橘花神幸のちゃんちゃん祭りに天皇(亦は特使)が参列。 千四百年前に始まる。その以前、橘花祭りは、今から約二千年前始まるとある。 橘渡御は、はじめ大和神社の瑞籬、水砂道(みささぎの道=日本最古の道)から、笠縫を通り、中山邑、岸田邑を経て市場の休み所御神輿石、長岡岬大市坐、 皇女渟名城入姫神社、御祓い休憩、柳本新地の手前左に曲がり、中山都・古道、斎主御前の住い道を通り、長山日暮上道より、御旅所、霊薬井戸で清める。 石段を登り、赤鳥居こぐり、清霊舞を執り行う。

一日目は、斎持御前、塚上に屋形を建て、夜に宮司祭。
二日目は、石段を下がり、中山邑から長岡邑川を渡り、高槻、天照大神祭り。
三日目は、水垣で倭大国魂大神、采女の橘の舞、千戈の舞、長岡の道を下り市場へ向かう」とある。
●大和神社
御旅所(おたびしょ)とは、「神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所(Wikipedia)」。大和神社の春の大祭、橘花神幸のちゃんちゃん祭の御旅所である。
大和神社は山麓を下ったJR桜井線・長柄駅の少し南にあり、日本大国魂大神(倭大国魂神)が祀られる(祭神は三柱ではあるが、倭大国魂神以外は諸説あるので省略)。説明はその大和神社のお祭りの巡行ルートは詳細に説明されている。

それはそれでいいのだが、「中山大塚古墳(百三十㍍)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)の塚。約二千年前煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(おおとしのおおかみ;五穀豊穣)、主神日本大国魂神(やまとおおくにたまのおおかみ:大地主神;おおどこぬし)、須治比賣大神(すじひめ;天照大神)」って何を伝えようとするのか皆目わからない?

●天の神・天照大神と地主神・倭大国魂
また、境内には「畏れし神の勢い 大和の地主神・日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)」といったタイトルで以下のような説明があった。「これより先、天の神・天照大神と地主神・倭大国魂を皇居の内に祀った。しかし、天皇はニ神の神威の強さを畏れ、共に住むには不安があった。
そこで天照大神は豊鋤入姫命に託して大和の笠縫邑に祀り堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造った。また、日本大国魂神を渟名城入姫に祀らせた。いま、天照大神は伊勢神宮内に、日本大国魂神は大和神社に鎮座さる。
四月一日は、大和神社よりここ御旅所(大和稚宮神社;おおやまとわかみや)まで神輿渡御が行われます。「祭りはじめは、ちゃんちゃん祭り 祭り納めはおん祭り」大和の里謡に歌われる大和の代表的な祭りです。「チャンチャン」と鉦鼓の音が大和に春を告げます」とある。

●大歳大神って誰?
この案内で、大和神社御旅所の由来冒頭部の意味するところが、少しわかってきたが、それでも、御旅所の由来にあった「大歳大神」がどう関係するのか説明がない。そもそも大歳大神って誰?チェックすると、大歳大神とは「大物主;おおものぬし」のことのようである。それを踏まえ、もう少し深堀すると、大和神社の説明は『日本書紀』の祟神記に描かれるエピソードをベースにしたものであった。




●大歳大神(大物主)と日本大国魂神(大地主神)、そして須治比賣大神(天照大神)の関係
松岡正剛さんのWEBに掲載される「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)」をもとにまとめると、こういうことである:第10代・崇神天皇(ミマキイリヒコ;天皇と呼ばれたのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇ないしは持統天皇の時代からであるが、便宜的に「天皇」と書く)は、都を大和の磯城(しき;桜井市など近隣一帯)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、国が収まらなかった。
その理由は「其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」とあるように、それまで宮中で、天照大神アマテラスと日本大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の二神を一緒くたにして、祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこで崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)を斎王とし、天照大神(アマテラス)を大和の笠縫に祀り、また同じく崇神天皇の皇女である淳名城入姫(ヌナキイリヒメ)に日本大国魂神(オオクニタマ)を祀らせた。
しかし、渟名城入姫は髪の毛が抜け落ち、痩せて病気になり、祀ることが出来なくなった。そこで崇神天皇は神浅茅原に御幸し卜占する。その時、崇神天皇 の大叔母である倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)が激しく神懸かりトランス状態になり、倭迹迹日百襲姫命の口を借りた神託は、「三輪の大神オオモノヌシを敬って祀りなさい」というもの。その意外な展開に崇神はまだ納得がいかない。すると大物主(オオモノヌシ)は「わが子の太田田根子を祭主として祀れ」と言ってきた。
いったい大物主とか太田田根子とは何者なのか。けれども崇神は従った。茅渟県陶邑(大阪府堺市)にいた太田田根子を捜し出し、大物主大神を三輪に祀った結果、ようやく国は治まった。

◆皇祖神・地主神を宮から追い出し大物主を祀る?
このエピソードで御旅所にあった登場人物全員をカバーした物語の全容はわかった。しかし、何とも解せないのは、崇神天皇が侵攻する前の豪族が祀っていた地主神(日本大国魂神)と崇神天皇の祖先神・天照大神(天照大神は持統天皇をモデルに創られたものと言うから、祟神の頃はいなかっただろうが、ともあれ大王家の祖先神)を宮から追い出し、大物主を祀る、といったこと。
大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔とされる。どちらにしてもヤマト王権の系譜ではない。ヤマト王権と別系統の神を祀らなければ国が治まらない、って?
もっとも、宮から追い出した皇祖神も、いかなる理由か不詳(注;私は)だが、結局は伊勢に「出し」ているわけで、明治になって樫原神宮に祀られるまでは王権のあるヤマトの地に祀られてはいないようであり、ヤマトの地にそれほど「未練は」なかったのだろうか?門外漢にはよくわからない。

◆大物主って誰?
それ以上にわからないのが大物主。大物主って誰?ということになるのだが、大物主=出雲の大国主の和魂(にきみたま;大国主は荒魂)とか、大物主=饒速日命(『古代日本正史;原田常治』)などあれこれ諸説あり、古代史の書籍を数冊スキミング&スキャンングした程度の我が身にはよくわからない。

◆大物主=大国主
一般的にはどのように定義されているかWikipediaでチェック。そこには「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、「日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。
別名 三輪明神」とあり、続けて「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。
大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀った」とある。

◆大物主=大国主神は「国譲り」の条件? 
この説明では大物主=大国主神といった印象を受ける。では何故に出雲の神がヤマトに祀れれるのだろう?との疑問。古代史に門外漢ではあるが、上の説明にある「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズを、ヤマト大王家と出雲の神話をもとに妄想を続けると、力を付けたヤマト大王家は出雲に侵攻し、神話では「国譲り」というストーリーでその地を支配下におさめたわけだが、その条件としてヤマト大王家は「大国主を祀り続けること」を約束した、と考え方がひとつの解釈。

◆大物主祭祀は、出雲系先住支配豪族とヤマト王権の連盟合意の条件?
そして、もうひとつは、ヤマト王権がヤマト降臨(侵攻)以前に、すでに降臨(侵攻)し、先住部族を支配下に置いていた豪族がおり、その豪族が祀っていたのが「大物主」であり、ヤマト王権に協力する条件として「大物主」の威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた、という解釈。
これまで何回かメモしたように、当初のヤマト王権は、武力で先住豪族を支配する力の無かったようであり、それ故、先住侵攻・支配豪族この条件に合意した、という考えもあるかと思う。「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズはヤマト王権の面子もあるので、パートナーとなった豪族の希望を受け入れた、といった表現となっているのだろうか。
で、後者の考えを更に妄想を膨らますに、ヤマト王権以前にこの地に侵攻・支配した豪族は出雲系の部族であり、出雲の神を祭っていたと考えられる。上のメモで大物主=饒速日命とした原田常治氏は「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」と言う。とすれば、関東の散歩で出合う物部氏はどうも出雲系っぽい、と思っていたことは、それほど間違っていなかったのかとも思う。実際、物部氏の租は吉備からヤマトに侵攻してきた出雲系部族といった説も聞いたことがある。

あれこれ妄想を重ね、自分なりの結論はヤマト王権の侵攻以前にこの地に侵攻・支配していた先住支配豪族は出雲系豪族であり、ヤマト王権への協力の条件として、豪族の租先神である大物主を祀り続けることを、その盟約の条件とした。そして、その先住支配豪族は、どうやら物部氏に繋がる部族ではないか、ということである。

◆神話は「歴史?」からの「後付け」?
以上の妄想で、神話に登場する三輪山に祀られたとする大物主は、自分なりの勝手な解釈ではあるが、自分だけにではあるが、それなりに納得できるストーリーとなった。しかし、この解釈は神話としてのレベル。この祟神天皇の御世に、大物主が登場することには違和感を抱く。どう考えても、それは国史編纂時の「後付け」ではないかと思う。
そもそも、第10代祟神天皇の頃のヤマト王権は、同じ奈良盆地の西の葛城山麓に覇を唱える葛城王朝との対立で、どちらが勝つか負けるかわからない、といった状況であり、出雲侵攻などあり得ない。それは第21代雄略朝以降の話であり、祟神天皇の頃に、出雲の国譲りの話などあり得ない。
同様に、物部氏が物部という部民制を元に「物部」氏として登場しその軍事力をもって活躍するのも、雄略天皇以降の話であり、祟神天皇の頃に出雲系の神・大物主が登場することはあり得ないと思う。「後付け」と感じる所以である。

◆大物主って、神奈備山としての三輪山そのもの?
それではこの祟神天皇の話に登場する大物主は?上で、大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔のよう、とメモした。大物主祀ったとあるが、祀ったの大三輪氏の名の通り、神奈備山としての三輪山ではないだろうか。それを後世、国史編纂の際に神奈備山の三輪山を大物主に差し替えたのかとも妄想する。差し替えた理由は、ヤマト朝廷と出雲の関係、また、ヤマト大王家と物部氏の関係と言った、政治的思惑ではあったのではなかろうか。単なる妄想。根拠なし。

●歯定(はじょう)神社
大和神社御旅所の境内、一段高くなったところに春日造の小祠がかつての「歯定大権現」。歯の神様とか「葉状」>農業・特に葉物野菜の種蒔きに際して、当社に豊作を祈願した神、といった説明もあるが、なんとなく出来過ぎ感があり、しっくりこない。どこかは特定できなかったが、小字に「歯上(定)堂」というところがあるようで、旧地はその地にあったものが、明治初年にこの地に移された、といった記事があったが、地名故の社名といったほうが、少し納得感がある。


柿本人麻呂歌碑
山の辺の道を進むと、道脇に歌碑がある。「衾道乎 引手 乃山尓妹乎置而  山徑徃者 生跡毛無 孝書」と刻まれる。「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」と読むようだ。
歌碑の横に意味を説明してあり、「引き手の山(龍王山)に妻の屍を葬つておいて 山路を帰ってくると悲しくて生きた心地もしない」とあった。
なんとなく気になりチェックすると、この歌は、柿本朝臣人麻呂、妻みまかりし後、泣血哀慟して作る歌二首、とある長歌の反歌の一つであった。もうひとつの歌は、「去年見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年離かる」 と「去年妻と一緒の見た秋の月は今同じだが、一緒にこの月を眺めた妻は、亡くなり遠ざかって行く」と言った意味だろう。
で、長歌とは「5・7・5」音の句を繰り返し、最後は「7・7」音で終える。その反歌とは、長歌の終わりに添えるうたのことで、長歌の意を反復・補足または要約するもの。1首ないし数首からなる。
それでは、この二首の長歌はどのようなものか「うつせみと  思ひし時に  取り持ちて  我が二人見し。。。」と続く長歌をチェックしてみた。長歌など読んだこともないのだが、これがなかなかいい。亡き妻への思い、残された子供と昼も夜もなく、寂しく、そして嘆き、恋しく思っても会う手だてもないので、羽易の山に恋しい妻はいると人の言うままに、難路を辿り来たが、うれしいことは無かった。この世で会えると思っていた妻は、ほのかにさえも見えないから、と詠っていた。
この流れで半歌を詠むと、少しリアリティが増すようだ。因みに、この長歌の意からすれば、山に葬った帰りのさみしさ、というより、さみしさゆえに、この山に入れば妻に会えるかも、といったニュアンスをかんじるのだが。。。素人の感想ではある。尚、「孝書」とは万葉集の碩学である犬養孝博士とのことである。
●犬養孝
万葉学者。万葉集研究に生涯をささげ、万葉故地の保存にも尽力。日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立。犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶとのこと(Wikipedia)

長岳寺
人麻呂の歌碑から先に進み、集落をひとつ越えたあたりで、中山地区から柳本地区に入る。最初の集落の中、山の辺の道から少し山麓へと向かったところに長岳寺がある。
拝観料を惜しんだわけではないが、先を急ぐのあまり、大門を潜った先で、お参りし寺を離れる。
高野山真言宗のこのお寺さまのWEBに拠れば、「平安初期(天長元年824年)淳和天皇の勅願により弘法大師が創建された古刹である。盛時には僧兵三百、宿坊四十八、境内94,000坪の壮大な寺院であった。 千古の歴史の中で栄枯盛衰を経たが、今なお多くの文化財を残し、国指定重要文化財としては仏像5体、建造物4棟を有する」と。
弘法大師が大和神社(おおやまと)の神宮寺として創建したとも伝わる。

歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)
長岳寺から山の辺の道に戻り、少し進むと道の前方に堤と、その向こうに、如何にも古墳、それも巨大は古墳が姿を見せる。道なりに進むと堤の手前に案内がある。「歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)」とある。
今回のメモはここで御しまい。次回、この案内にある、ヤマト王権の始まり頃の王の陵墓地帯のメモからはじめることにする.。
第一回の散歩のメモは石上神宮でのあれこれで力尽きた。饒速日命とか物部氏についての書籍は結構出版されている。喧々諤々のテーマのようだ。今まで黒須紀一郎さんの『役小角』、『覇王不比等』などでその名を知った程度の知識で、饒速日命や物部氏とヤマト王権についてメモすることもできず、図書館で数冊本を借りてきてスキミング&スキャンング。
単なる妄想には過ぎないが、自分なりに疑問に感じたことを、考える好い機会とはなった。 実際、関東を歩いていると、物部氏の痕跡に出合うことが多い。このメモを書くまでは、物部=出雲族、といった程度に単純化してメモしてきたのだが、未だにはっきりとはしないが、それなりに物部氏のこともわかってきたように思う。
さて、石上神宮からやっと解き放たれ、山の辺の道を辿ることにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

高蘭子歌碑
摂社拝殿の前を参道から右に折れる道に「山の辺の道」の案内がある。杉の林を進むと歌碑があり、「みじかかるひと世と思へ布留宮の神杉のほのそらに遊べる 蘭子」と刻まれる。作者の高蘭子は「山の辺短歌会」を主宰されている天理市在住の歌人とのこと。





阿波野青畝歌碑
続いて現れた歌碑には左右に二首の歌が刻まれる。右の句は「石上古杉暗きおぼろかな」と詠める。この歌碑は阿波野青畝が詠んだものであり、左手の歌は奥さまの句とのこと。「よろこびを(?)互いにに語り天高し」のように読めるのだが、はっきりしない。阿波野青畝は大正・昭和にかけて活躍した俳人とのことである。

僧正遍照歌碑
歌碑が続く。「僧正遍照」の歌碑である。「さとはあれて ひとはふりにしやどなれや 庭もまがきも秋ののらなる 僧正遍照」と刻まれる。「里は荒れて人はふりにし宿なれや庭も籬も秋の野良なる」。「里は荒れ果て、住んでいる人も年老いてしまった家であるから、庭も垣根も秋の野良のようです」と言った意味のようだ。
「古今和歌集」巻第四、秋歌上の最後に載る和歌である。「仁和のみかど、みこにおはしましける時、布留の滝御覧ぜむとておはしましける道に、遍照が母の家にやどりたまへりける時に、庭を秋の野につくりて、おほむものがたりのついでによみてたてまつりける」との題詞がある。僧正遍照は桓武天皇の孫にあたる高貴の出であり、野良のような荒れた家に住むわけもなく、ちょっとしたジョークを言っているのだろうか。
題詞にある「布留の滝」とは布留川の上流にある滝で、「桃尾の滝」とも称され、石上神宮の本宮があったとも伝わる。密教の修験の行場でもあったようである。

白山神社
左手に池を見遣りながら進むと、石上神宮の社叢から出る。前方に龍王山からの支尾根であろう丘陵に挟まれた杣之内町の集落が見える。ちょっとした谷戸状の里の民家を抜け、丘陵部の緩やかな坂を上り切ったところに白山神社が鎮座する。
神仏混淆の頃は白山権現と称され、境内にはお寺様があり、十一面観音が祀られていたとのこと。祭神は菊理媛神(きくりひめのみこと;くくりひめのみこと、とも)。菊理媛神も謎の神である。『日本書紀』に一瞬だけ登場する。 黄泉の国で、伊奘諾尊(いざなぎ)は変わり果てた伊弉冉尊(いざなみのみこと)を見て逃げ出す。が、追いつかれた伊奘諾尊と相争うとき、伊弉冉尊の言葉を取継ぎ、「何か」を言った菊理媛神の言葉がきかけとなり、ふたりは仲直りし、伊奘諾尊は黄泉の国から帰って行った、とのこと。だが、何を行ったのかは書かれていない。
そして、これもその経緯は不明だが、菊理媛は加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。白山神社に祀られる所以である。
●峯塚古墳
それはともあれ、この丘陵は古墳地帯とも言われる。『大和・飛鳥考古学散歩:伊達宗泰(学生社)』にあった地図をみると、この辺り一帯には、物部氏が5世紀から6世紀にかけて築造した「西山古墳」や「塚穴山古墳」など、杣之内古墳群が点在するが、この丘陵の南西の裾辺りに、そのうちのひとつ「峯塚古墳」がある。
チェックすると。全長11mの横穴式石室を残す円墳とのこと。築造時期は7世紀というから、物部氏の一族である石上氏による最後の古墳とも言われるようだ。当日は、こんな古墳の存在を知る由もなく、神社にお参りし、先に進んだ。常のごとくの「後の祭り」である。

大日十天不動明王の石標
白山神社を越え、左に開けた彼方の山々を眺めながら、ゆるやかに下ると国道26号の下を潜る。道はその先から、ゆるやかな上りとなり、ほどなく道が分かれる。その分岐点に「左 大日十天不動明王」と刻まれた道標がある。
名前に惹かれ、寄り道を、とは思うのだが、ひたすら距離を稼ぐK元監査役の御威光(ご意向)に遠慮する、と言うか、実際は、お不動さままでの距離が示されていなかったため、道なりに右へと山の辺の道を進むことにした。
●大日十天不動明王
十天神とは仏教において六道の一つである天部に住み仏教を護る神の内、八方(東西南北と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に天地を護る二天を加えたもので、密教では四天王とともに重視される、と(Wikipedia)。 方位といった自然を神格化したこれらの神様は、自然と調和して災難を払うことになる。東(帝釈天)、西(水天)、南(焔魔天)、北(毘沙門天)、東北(伊舎那天)、西北(風天)、西南(羅刹天)、天(梵天)、地(地天)が十天であり、全方位からの災難に耐えうる守護神と言うところだろうか(残りの二天は日(日天)と月(月天))。
因みに大日十天不動明王は、この分岐から最明川を結構上ったところにあるようで、密教修験の行場がある、との記事があった。

芭蕉歌碑
道を進むと山の辺の道は溜池に沿って左に折れるが、その溜池の堤に芭蕉の句碑が建つ。
その手前に案内があり、「芭蕉句碑 うち山やとざましらずの花ざかり  宗房 この句は、松尾芭蕉(一六四四~一六九四)が江戸へ下る以前、まだ出生地の伊賀上野に住んで、「宗房」と号していた頃の作品である。いつの頃にこの地を訪れて作られたか、それは明らかではないが、寛文十年(一六七〇)六月頃刊行の『大和順礼』(岡村正辰編)に収められているところから、この年以前、すなわち二十三、四歳の頃までに詠んだものであろう。
[句意]
今、内山永久寺に参拝してみると、見事なまでに満開の桜で埋め尽くされている。土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもないのである」とあった。

内山永久寺跡
溜池を回り込んだ辺りに芭蕉の句にあった「内山永久寺」跡の案内があった。「永久寺跡 永久年間(1113~7)に建立された寺で鳥羽天皇の受戒の師であった亮恵上人の開基と伝えられています。
本尊は阿弥陀如来で石上神宮の神宮寺として盛時には大伽藍を誇っていたと伝えられています。その後寺勢がおとろえ、明治の廃仏毀釈で廃寺となって、いまではわずかに池を残すだけで歴史のきびしい流れを感じさせられます」とあり、また、その傍にも「廃物稀釈の嵐にのみ込まれた幻の大寺 鳥羽天皇の勅願で創建され、東大寺、興福寺、法隆寺に継ぐ(注;ママ)寺領を有し、その規模と伽藍の壮麗さから西の日光と称された。
しかし、明治の神仏分離令・廃仏毀釈により壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく破壊と略奪の対象となり、仏像・仏画・経典などは国内外に散逸した。いま各地に残る難を逃れた宝物とこの地に残る本堂池のみが、かつての大寺に栄華を伝える」とある。

案内にあった盛時の永久寺を描く画を見るに、まさに七堂伽藍が林立する大寺である。開基は興福寺の二大塔頭のひとつ大乗院(摂関家や将軍家の子弟が門主となる門跡寺。もうひとつの一乗院は天皇家の子弟を門主とする門跡寺)の僧であった関係上、大乗院の末寺として整備され、神仏混淆の流行と共に石上神宮の別当としての役割も担い、室町時代には大伽藍を有する寺院となったと言う。
案内には「西の日光」とある。当然江戸の頃の形容だろうが、江戸時代直前の頃には56の坊・院が並び、江戸の頃には、浄土式回遊庭園の周囲に、本堂、観音堂、八角多宝塔、大日堂、方丈、鎮守社などのほか、多くの院家、子院が建ち並んでいた(Wikipedia)とのことである。
また、案内には「法隆寺に継ぐ寺領」とあったが、法隆寺は1000石、永久寺は秀吉が971石の朱印地を与え、江戸時代にもこの寺領が維持された(Wikipedia)とあった。
●菅御所跡
しかし辺りは一面の野原で、なにもない。なにか遺構でもないものがと、あたりを歩くと道端の林の中に石碑があり「菅御所跡」と刻まれる。チェックすると、延元元年・建武3年(1336年)には後醍醐天皇が京から吉野に落ち延びる時、一時ここに身を隠したと伝えられる御所跡とのことである。
◆馬魚(ワタカ)伝説
「菅御所」と後醍醐天皇をチェックしていると、目の前にある池に棲む魚と後醍醐天皇の伝説が現れた。いろいろバリエーションはあるが、後醍醐天皇の逃避行の折り、共にした馬が馬魚(ワタカ)なる、といったもの。危難をさけるべく切り落とした馬の首を池に落とすと馬の如く草を食む魚となったとか、力尽き息絶えた馬が池の魚に乗り移り、馬の顔をし、草を食むようになったとかあれこれ。
それはそれとして、この馬魚(ワタカ)は大正3年(1914)に石上神宮の鏡池に移されたと言う。そういえば、石上神宮で山の辺に道へと右に折れる時、池がありそれが鏡池であった。馬魚(ワタカ)の案内もちらっと見たのだが、通り過ぎた。常の如くの後の祭りではある。
因みに馬魚(ワタカ)は、琵琶湖と淀川に棲む日本特産の魚であり、いつの頃か誰かが淀川付近のワタカをこの本堂池へ放ったのが繁殖したとされる。馬魚が草を食べることから、草を食べる>馬>後醍醐天皇と馬+永久寺の本堂池=馬魚(ワタカ)伝説が生まれたのだろう。

●廃物稀釈
それにしても徹底的な破壊である。散歩をしながら明治の廃物稀釈によるお寺さまの跡に出合うことはあるが、このような大寺がこれほどまで徹底的に破壊されるって、なんらかの「因」があるのでは?
チェックすると、このお寺さまは修験道の一派である当山派の一寺として重要な役割を担っていたようである。中世、当山派修験は興福寺金堂衆を中心とする興福寺末寺で構成する寺院の山伏で組織され、中世後期には内山修験(上乗院)は当山派修験の中で重きをなしていた、と言う。
明治政府は修験道に対し、徹底的な弾圧を行っており、そのことが大きな要因のようにも思える。

その他、寺組織が上乗院をトップとした上意下達の組織であったことが、「廃仏毀釈」の指令が徹底した、また、地域住民との接点を全く持たない「貴族」の寺院であったこともその要因と言われる。地域に密着しておれば、せめて神社だけでも残るはずであろうから。

それと、この徹底的破壊で思い起こすのは、いつだったか歩いた阿讃山脈の箸蔵寺。このお寺さまが神仏分離令にもかかわらず、神仏混淆を今に残す風情にフックがかかり、チェックすると、この寺は真言宗御室派であり、本山は門跡寺の仁和寺。明治維新時の門跡である小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王は戊辰戦争で旧幕府軍を討伐する官軍の総大将となった。新政府軍の総大将が真言宗御室派のトップであったことが、箸蔵寺が神仏分離を免れた理由のようであった。これも歴史の「IF」にはなるが、江戸の頃永久寺が興福寺の支配下から離れず、真言宗寺院とならなかったら、石上神宮で見た摂社出雲建雄神社拝殿のような幾多の国宝が今に残ったかとも。思っても詮無いことではあるが。

十市 遠忠歌碑
内山永久寺から先、緩やかな坂を上る。雰囲気のある風情の道を進むと道端に歌碑。「布留法樂卅首中月前鴈 月待て 嶺こへけりと 聞ままに あはれよふかき はつかりの聲 十市遠忠」とある。
Wikipediaに拠れば、室町から戦国時代にかけての武将。龍王山に城を構え大和国西北部だけでなく、伊賀にまでその領地を拡げた。武勇に優れ、歌道(三条西実隆に師事)や書道にも通じ、文武両道の武将として十市氏の最盛期を築いた、とあった。

白山神社
石畳の山の辺の道を進むと道沿いに社がある。白山神社である。祭神は白山比咩命、素戔鳴命。素戔鳴命は末社に祀られていたものとのこと。この社、元は「園原社」と称されたようである。本殿裏に「奥の院跡」の石碑があるとのことだが、そこが園原社の祀られていた場所だろうか。
白山権現と称されるようになったのがいつの頃か定かではないが、天明7年(1787)と刻まれた石灯籠があるようで、18世紀には白山権現となっていたのだろう。尚、「神社」という名称は、この社に限らず、すべて明治になってからのことである。

天理観光農園
白山神社から道を進むと、風情ある峠道から一転、民家の間を進む舗装された道となる。と、道の左手の平場に「園原中央標」と刻まれた石柱が建つ。チェックするも、不詳。
しっかりとした造りの農家を見遣りながら、緩やかな道を下るとほどなく天理観光農園が左手に建つ。地図にある「峠の茶屋」とはカフェもあるこの建物のことだろうか。ここではミカン狩りとかバーベキュウなどがたのしめるようである。

夜都伎神社へ
道を下り、「道路開道(通)碑」が建つT字路を、「夜都伎神社 竹ノ内環濠集落」の標識に従い左に折れる。奈良盆地が一望のもと。広い道路を下り、左手に建つ「夜都伎神社」の標識を目安に道を左手に折れる。
道の下方向に小高い独立丘陵が見える。散歩当日は知らなかったのだが、この独立丘陵は先ほどメモした「杣之内古墳群」の南端となる東乗鞍古墳とのことであった。
●東乗鞍古墳 
西に前方部を向けた全長72mの前方後円墳。横穴式石室の石棺が遺存している。また、その下方には南に前方部を向けた全長102mの西乗鞍古墳が盆地を見下ろす。

夜都伎神社
小径を進み夜都伎神社に。小振りながら鳥居から社叢へのアプローチは、左手に耕地を見遣りながらの素朴な感じがいい。檜皮葺の本殿にお参り。檜皮は新しく、最近葺き替えたもののように思える。
鳥居脇にあった案内には「天理市乙木町の北方集落やや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し、俗に春日神社といい、春日の四神を祀る。社は古墳跡に建つと言う。
乙木には、もと夜都伎神社と春日神社との二社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換して、春日神社一社にし、社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。当社は昔から奈良春日神社に縁故深く、明治維新までは、蓮の御供えと称する神饌を献供し春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。
現在の本殿は明治39年(1906)改築したもので、春日造檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色七種の華麗な同形の四社殿が末神の琴平神社と並列して美観を呈する。拝殿は藁葺で、この地方では珍しい神社建築である。
鳥居は嘉永元年(1848)四月、奈良の春日若宮から下げられたものという」とあった。
●乙木
「夜都伎」は「やつき」とも「やとぎ」とも読まれる。この社のある「乙木(おとぎ)」からの音の転化とも言われる。その「乙木」も、緩やかな峠といった「小峠(おとうげ>ことげ)」からの音の転化とのこと。地名の由来はバリエーション豊かで面白い。
Wikipedia1には「乙木村は、古くは興福寺大乗院及び春日大社領の乙木荘で、そのため春日大神を当地に勧請したものとみられる。約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳があり、当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われている」とあった。

竹之内環濠集落
道は古き風情を残す乙木村の集落を抜ける。しっかりとした造りの家並みの間の小径を抜け、耕地の中を進むと左手に竹之内の集落が見えてくる。
集落の入り口、西の端に濠が見える。「環濠」とすれば、かつては集落を囲んでいたのかとは思うが、現在は埋め戻されたのか、集落の西端部分だけに濠が残っているようである。
集落入り口にあった案内には「竹之内環濠集落 奈良盆地には、集落の周囲に濠をめぐらしたものが非常に多い。
大和は、室町時代になると戦国期の動乱による影響を強く受け、自衛手段として防御する方法から、集落の周囲に濠を区画していたものと思われる。
そうした環濠も現在では、戦乱の防御から灌漑用に転用されたものが姿を留めている。
天理市では、竹之内町のほかに備前町、南六条町、庵治町の溝幡で環濠の痕跡をよく留めている。一般的に環濠集落は低地部で発達した集落の形態であるが、竹之内町のように標高百メートルの山麓に立地するものは、県下でも数少ない。 現在、竹之内町では、集落の入り口付近まで残っていた環濠が埋め戻され公園になっており、集落の西側で南北に区画する濠の一部が今でも残っている」とあった。
また、休憩所の傍にも同様の案内が写真付きであった。案内には「竹之内町は建武3(1336)年の記録(春日神社文書)にも現れる歴史の古い集落です。中世に築かれたと考えられる濠が集落の西側に現在も残っており、「竹之内環濠集落」として知られています。
奈良盆地には集落の周囲に濠をめぐらす「環濠集落」が多くみられます。一般に環濠集落は室町時代以降に出現したもので、戦国の動乱の中、外敵から集落を守るための防御施設として築かれたものと考えられています。現在も環濠の姿を留めている集落では、濠が用・排水に利用されている例が多いことから、もともとこうした濠は防御施設としての機能のほかに水利施設としての性格も兼ね備えていたとする見方もあります。
天理市には竹之内町のほかに、備前町、南六条町、庵治町溝幡が比較的よく姿を留める環濠集落として知られているほか、かつて環濠を有していた可能性がある集落も多数存在しています。多くの環濠集落は盆地内の低地に営まれていますが、竹之内町は標高100m前後の見晴らしのよい斜面上にあり、環濠集落としては奈良盆地内でも最も高いところにあります。
竹之内町では集落西側の入口付近に最近まで残っていた環濠が埋め戻されて公園となっていますが、その北側には今も環濠が残り、往時の佇まいを偲ぶことができます。 平成24年10月 天理市教育委員会」とあった。
ほぼ同じ内容ではあるが、ひとつフックが掛かった箇所がある。「もともとこうした濠は防御施設としての機能のほかに水利施設としての性格も兼ね備えていたとする見方もあります」という箇所である。防御もさることながら水利施設としての役割が重視されている。

●溜池灌漑と小河川灌漑
この箇所にフックが掛かったのは、先回のメモでも述べた私のお気に入りの書籍、『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」の中の「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説との関連性。
そこでは、「弥生時代から古墳時代(ほぼ西紀3世紀末から7世紀前半頃)にかけて、各地で小地域ごとの部族国家が統合し始める。やがて前方後円墳に代表されるような階級支配が進むのである。その大きな経済的基盤となったのは溜池築造を中心とした乾田開発の拡大だと考えられる」とし、続けて、「谷間や小川に小さな堰堤を築いて溜池とし、そこから水のかからない土地に、緩傾斜を利用して水を導き、水稲耕作が可能な乾田を開発する。この溜池灌漑の適地は、年間降水量が比較的少なく、夏期高温地帯で緩傾斜地形の山の辺であったという」と述べる。地図で確認しても、山の辺の道の通る大和高原に幾多の溜池が見える。
先回の水分神社のメモで、奈良盆地の大和川に流れ込む支流は、その分水界の狭き故、流量の乏しい小河川であると述べた。同書では、この流量の乏しい小河川であったことが奈良盆地において小河川灌漑を発展させた要因とする。 即ち、溜池灌漑で富を蓄積した部族の支配者たちは、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、「用水の乗りやすい緩斜面の小規模な谷底低地や扇状地などに水田開発」を拡げて行った。そして、河川から用水を直接取水するには高度な技術が必要であるが、奈良盆地は水量の乏しい小河川であったが故に、それが容易であった、と説く。
実際、古墳時代の豪族の支配地は、小河川に沿った、段丘から扇状地そして平地に至る山の辺にある。同書にある豪族の支配地と山の辺の川を併せてみると、奈良盆地の東では、和邇氏(奈良)の支配地は佐保川と布留川に挟まれた山の辺、物部氏(天理・桜井)は布留川と初瀬川に挟まれた山の辺。奈良盆地の南の青垣は、初瀬川と寺川の間に山の辺に阿部氏、寺川と米川の間に大伴氏、蘇我川と飛鳥川の間に蘇我氏、蘇我川と葛城川の間に巨勢氏。西の葛城山系の水を支配した葛城氏、生駒山系の竜田川を支配した平群氏となる。
そして、それぞれの山の辺の地には水分神社でメモしたように、山口神社が鎮座し、山の口から、勢いよく水を下し落とされる神、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神として祀られている。
環濠集落の「濠は水利施設としての性格」という記述から妄想が拡がった。実際、山の辺の道を歩きながら、何故にこのような山の辺に道が通るのか?古墳が現れるのか?散歩の当日は、遙なる昔、奈良盆地は湖であったようで、二上山の噴火で山塊に切れ目ができ、水が奈良盆地から「大和川」として流れだし、湖は消えたと言う。が、現在はその面影はないが、地勢図を見ると奈良盆地は、強湿地、半湿地、半乾半湿がほとんどである。それ故、湿地を避けて山の辺に道を通したのか、とも思ったのだが、前述の書籍を読み、この山の辺であるからこそ王権の基盤となる地であり、それゆえに道を通したようにも思えてきた。

◆水分神社(みくまり)
『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の水分神社の解説;先回の散歩でもメモしたが、大雑把にまとめると、奈良盆地に流れる幾多の小河川はすべて大和川に合わさり、ひとつの流れとなって奈良盆地を出て河内平野に流れ出る。その大和川に注ぐ支流は流量が乏しく、年間を通じての供給量も不安定であった。その要因は、瀬戸内式気候もさることながら、「青山四周(よもめぐ)れり」と形容される、奈良盆地を囲む山稜は奈良盆地側の分水界が狭く、保水能力が乏しいことにある。
そのためか、大和の川(大和川、木津川、紀の川)の上流には、水を豊かに分かち与えてくれる水分神社が祀られている。これらの神社は『延喜式』の祝詞に奏上されるほど重視された社であった、と言う。 その水分神社と称する社の中で、大和川水系の水分神社は葛城川上流の葛城水分神社のみであるが、奈良盆地を囲む山麓地帯にある山口神社と呼ばれる社が14社ほどあり、その山口神社も水分神社とされる。山口に座す神は、勢いよく水を下し落とされる神であり、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神故の命名であるとする。

「古事記・日本書記・万葉集」の案内
道を進み、竹之内集落と萱生集落の境辺りに山の辺の道のルートや写真とともに「古事記・日本書記・万葉集」の案内があった。
案内には「大和王権の創始者たちは奈良盆地の東南部に宮殿を構え国家建設を進めた。丸邇坂(わにさか)①では王権軍が反乱軍を制圧するため北進する途中、戦勝の祈願をした(崇神/すじん記・紀)。王たちは死後、いまも残る巨大な墓に葬られた⑪⑫(崇神/すじん記・紀、成務/せいむ紀)。
国を守る神々も登場する。宮殿に祀られていた日本大国魂大神(やまとおおくにみたまのおおかみ)と天照大神(あまてらすおおかみ)が強力すぎる威力のために、別の地に写し祀(まつ)られた⑧⑬(崇神紀)。最古の神社のひとつで神剣を主神とする石上神宮(いそのかみじんぐう)⑤には皇子が千本の剣を奉納している(垂仁/すいにん記・紀)。当社は有力者たちが武器や宝を奉納する特異な神社だったと考えられる。
  貴族の悲哀の物語も記されている。豪族・物部(もののべ)氏の娘の影媛は恋人・平群鮪(へぐりのしび)の死を知り、この道を布留(ふる)⑥を通り平城山(ならやま)まで駆けたという(武烈/ぶれつ即位前記)。
●古事記
712年に編纂された日本最古の歴史書。稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた神代から推古天皇までの歴史や神話、歌謡をもとに太安万侶(おおのやすまろ)が編集した。崇神(すじん)天皇の陵墓「山邊道勾岡上陵(やまのへのまがりのおかのへのみささぎ)」として山の辺の道は記される。
●日本書記
720年に国家事業として編纂された日本最初の正史(せいし)。神代から持統天皇までの歴史で、朝廷や寺院または朝鮮や中国に伝わる様々な資料がもとになっている。崇神天皇の「山邊道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)」として山の辺の道は記される。
●万葉集
歌聖といわれる宮廷歌人・柿本人麻呂は、布留では秘めた恋心の歌をよんだ。「未通女等が 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき吾は」。また龍王山に葬った妻への思いを歌った。「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」。和邇下神社付近には彼の遺髪を葬った歌塚がある。いにしえの人々は、神が宿るという森や恋人が住まう里を愛し、布留や弓月ケ岳、穴師、巻向、桧原、三輪山などの地を歌に織り込んだ。「石上 布留の高橋 高々に 妹がまつらむ 夜そ更けにける」には、高く背伸びをして恋人を待つ女性の姿が描かれた(歌碑は天理駅前)。彼らのことだまは、山の辺の道に苔むしてただずむ歌碑に刻まれ、いまも息づかいを伝えている。
◆万葉集
8世紀奈良時代に編纂された日本最初の歌集。約4500首は貴族や兵士、民衆など多彩な人々の歌で構成されている。登場する奈良県内の地名はのべ約900におよび、山の辺の道沿いには多くの万葉歌碑が建つ。後世に歌聖といわれ神格化された飛鳥時代を代表する宮廷歌人・柿本人麻呂は、天理市北部の櫟本(いちのもと)付近の出身といわれている」とあった。

散歩の途中で登場した既に登場したもの、これから登場するであろうもの、そして古事記・日本書記・万葉集について頭を整理するにはいい案内であった。なお本文中の①といった番号は地図の番号を示すものであるが、ママ掲載した。

「大和古墳群」の案内
更に先に進むと、道脇に「大和古墳群」の案内があった。今回のメモはここまで。次回は、山の辺の道を辿るまで、思いもよらなかったヤマト王権の古墳群をメモすることにする。

前職での監査役K氏から奈良・山の辺の道を歩きませんか、とのお誘い。奈良といえば、「山の辺の道」とか「竹内街道」は以前から名前だけは知っており、そのうち歩いてみたいと思っていた街道であり、即答で諾、と。
段取りはすべてK氏にお任せ。宿の手配から歩くルートまですべてK元監査役にお世話になった。それではと、道すがらの名所・旧跡などについて事前に調べれば少しはお役に立つかとも思うのだが、如何せん、実際に歩くまでは、よほどの険路・難所以外は事前に調べる気にならない「性分」である。それゆえ後の祭りもおおいのだが、今回も常のスタイル。実際に歩いて、何らかの「フック」がかかれば、それから調べよう、といったものであり、ルートも前泊の奈良のホテルでK元監査役から地図をもらい、はじめてわかった、といった為体(ていたらく)であった。
「山の辺の道」って「青山四周(よもめぐ)る」奈良を囲む、東の「畳なづく青垣」である大和高原の裾を、奈良から桜井まで進む道であることも奈良のホテルでの打ち合わせではじめてわかったこと。その山の辺の道を、今回の散歩では、天理市の石上神宮(いそのかみ)から桜井市の三輪山の山裾にある大神(おおみわ)神社まで歩くという。距離はおおよそ12キロから14キロ程度だろうか。
その時は山の辺の道の始まりの社、そして終点の社、また、途中に、これでもかというほど登場する、ヤマト王権のはじまりの頃の大王の古墳といった「古代史の謎」のど真ん中を歩くことなど夢にも思わず、山麓の小径をのんびり、ゆったり歩くといった想いではあった。
で、山の辺の道を歩いた後、さて散歩のメモを、と思うのだが、古代史にそれほどフックがかからない我が身には、少々荷が重い。始まりの石上神宮(いそのかみ)は「謎の物部氏」ゆかりの社であり、終わりの三輪山・大神神社(おおみわ)は、これまた謎多き「大物主・大国主」を祀る社、その途中に、思いもよらずの巨大古墳群が現れる。
高松塚古墳とか箸墓古墳くらいは知っていたのだが、奈良の大和高原の裾にこれほど多くの古墳があることを初めて知り、奈良の古代史といえば、飛鳥(明日香)宮>藤原京>平城京といった程度のお気楽な古代史の知識を一から整理しなければならなくなった。山の辺の道って、大和朝廷に繋がる古代ヤマト王権の地を辿る道であったわけである。
ことほど左様に、神話や歴史のレイヤーが幾重にも積み重なる古代史の迷路を解きほぐして、自分なりに納得できる散歩のメモが書けるとも思えない。気持ちは、今回の散歩メモはパスしたいのだが、「歩く・見る・書く」を基本としているわけで、それはならじと、気持ちを入れ替えて、お題が「謎からはじまり謎の地を辿り謎で終る」散歩であるので、あまり知らないヤマトの古代史をちょっとだけ覗いて。頭の整理をするにはいい機会かと、メモをはじめることにした。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

近鉄奈良駅
前泊のホテルのある近鉄奈良駅近くのホテルでK元監査役と待ち合わせ。K元監査役は東海道、中山道、奥州街道などを歩き倒した猛者であるが、私は東海道の鈴鹿峠越え、中山道の碓井峠越え和田峠越えなどをご一緒した。 トラックの排ガスを吸いこみながら国道を歩いたK元監査役には、常に「いいとこ取り」と言われるが、それでも峠を一人で歩くのは心細げで、それなりにお役に立ってはいるようである。
それはともあれ、ホテルで地図を広げ翌日のルートの説明を受ける。K元監査役も、その日のうちに東京に戻る必要があり、私も散歩を終えて、そのまま田舎の愛媛に戻る関係上、奈良からはじまり桜井まで続く山の辺道のうち、途中の天理市の石上神宮から桜井市の三輪山裾・大神(おおみわ)神社までとすることになった。
また、出発時間は余裕をもたすため、少し早めのJR奈良駅発7時31分、天理駅着7時47分。そして終了時間は3時をデッドラインとし、途中であってもその時間で切り上げることを基本とした。その時点では翌日待ち構える「謎」の数々など思いもよらず、お気楽に就寝した。

JR天理駅
予定通り7時47分にJR桜井線・天理駅に到着。K元監査役の希望もあり、駅から出発点の石上神宮まではタクシーを利用する。
タクシーの窓からは天理教の巨大な施設が続く。市の名前が私的団体に由来するのは、トヨタの豊田市と、この天理市のふたつだけ、とのことである。 で、何故にこの地に天理教が?天理教の教祖が江戸末期、この地、大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市三島町)の庄屋の妻であったとのことであった。
タクシーは石上神宮前バス停の少し先、県道51号・布留交差点で下りる。緩やかな上り坂道の先に、緑の大和高原の支尾根が突き出ている。石上神宮の森ではあろう。

石上神宮
その緩やかな坂道を布留川を渡り、5分ほど進むと「石上神宮」と書かれた石柱と石灯籠がある。ここが参道入口。参道を進むと鳥居があり、その傍に歌碑があり、「柿本朝臣人麻呂 未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者」と刻まれる。



●柿本人麻呂の歌碑
「未通女等(おとめら)が 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みずかき)の 久しき時ゆ 思ひきわれは」と詠むようだ。昭和43年(1968)に建立された万葉歌碑であり、石材は後ほど訪れる内山永久寺跡の敷石が活用されたようである。 意味は「おとめ達が愛しき思いで袖を振る、布留山の社の瑞垣が神代の昔から続くように、長い年月私はあなたを恋い続けている」と言ったところだろうか。 「未通女等(おとめら)が 袖」までは地名「布留」を起こすための「序詞」であり、「振る>布留」と掛けて、石上神宮の鎮座する「布留山」を起こし、布留山の瑞垣に繋げている。また、「未通女等が 袖布留山の 瑞垣の」までのフレーズもまた、「久し」を引き出す序詞となっており、要は、「袖振る」で恋愛感情を想起させながら、「(神代の昔から続く)布留山の瑞垣」のように誠に長い年月、あなたを想い続けている。ということだろう。

◆布留山
で、ここで幾つかフックがかかる。まずは石上神社の鎮座する山が「布留山」と呼ばれたということ。大和高原の龍王山の西の麓、標高266mの山であり、山中には岩石からなる磐座(いわくら)がある、とのこと。神代の昔、山自体を神体とする神奈備山であったのだろう。
◆瑞垣
また、神代の昔からあったとされる「瑞垣」とは?チェックすると、石神神宮の拝殿の後方に、石上神宮の中で最も神聖な霊域とされている「禁足地」があり、その禁足地の周りを囲んでいる石垣根が「瑞垣」とのこと。神体山の祭祀をおこなった霊域とのことである。

●神杉
大鳥居を越えた参道脇に注連縄の張られた巨大な杉がある。幹囲り4m強、樹齢は400年前後、高さは40m弱にもなる、と言う。社の御神木である。人麻呂も社に茂る神杉を、「石上 布留の神杉 神さびし 恋をも我は 更にするかも」と詠む。「石上神宮の神杉のような神々しい恋をさせてほしい」といった意味かとも。
また、万葉集には作者不詳ではあるが、「石上 布留の神杉 神びにし 我れやさらさら 恋にあひにける」といった歌もある。「久しく恋とは無縁の生活(神びにし)を送っていた年を取った自分が、また恋に出会ってしまった」との解釈もあるようだ。歌の意味はともあれ、石上神宮の神杉が神奈備山ならではの「神々しい・恐れ多い」といったイメージをもつものだったのだろう。


●鶏
歌碑のチェックや神杉のチェックで、石上神宮のことが少しわかってきた。もとより、当日はそんなこと知るよしもなく、歌碑や杉の老木の写真を撮っただけではある。
参道を進む。と、参道を闊歩する長い鶏が目につく。石上神社の眷属だろうか。 眷属と言えば、お稲荷さんは狐、天神さんは牛、春日大社は鹿、日吉神社は猿、熊野大社は烏、三峰神社は狼、といった程度は知っていたのだが、チェックすると伊勢神宮も天の岩戸の長鳴鳥に由来する鶏が眷属とのこと。が、石上神社に鶏が闊歩しはじめたのはそんなに古いことでもないようで、「眷属」とまではなっていないような記事が多かった。

楼門
参道脇の手水舎で身を浄め、参道左手に建つ楼門より石上神宮の社に入る。鎌倉末期、後醍醐天皇の御世である文保2年(1318)の建立。重要文化財に指定されている。入母屋造・檜皮葺の美しい建物である、当初は鐘楼門であったようだが、明治の神仏分離令により鐘は取り外された
●入母屋
Wikipediaに拠れば、入母屋造とは、屋根が「上部においては切妻造(長辺側から見て前後2方向に勾配をもつ)、下部においては寄棟造(前後左右四方向へ勾配をもつ)となる構造をもつ」建物のこと。また、続いて、「日本においては古来より切妻屋根は寄棟屋根より尊ばれ、その組み合わせである入母屋造はもっとも格式が高い形式として重んじられた」とあった。

拝殿
楼門を入ると正面に拝殿が建つ。入母屋造 檜皮葺の美しい建物である。母屋(建物)の周囲には庇(ひさし)を巡らし、正面中央には向拝(江戸時代に増築)がついている。
建造は平安末期、白河天皇が五所の建物を移したとの言い伝えがあるも、建築様式からして鎌倉時代初期とされる。拝殿建築としては最も古い時期のものとされ、国宝に指定されている。

●拝殿が神奈備山・布留山に向かっていない?
拝殿にお参りしながら、ちょっと疑問。拝殿が神奈備山である布留山に向かっていない。これってなんだろう?この疑問は参道を進み、参道の正面ではなく、楼門を潜るため左に折れたときから感じていたことでもある。
何か拝殿の由緒に関する案内でもないものかと、あちこち見るも、それらしきものは見つからなかった。当日は、疑問のままにしておいたのだが、メモをする段階であれこれチェックすると、いくつか「妄想」のヒントになる事柄が見えてきた。
◆禁足地
既に人麻呂の歌碑のところで、「拝殿の後方に、石上神宮の中で最も神聖な霊域とされている「禁足地」があり、その禁足地の周りを囲んでいる石垣根が「瑞垣」と」とメモした。「布留社」とも称する。
現在は拝殿の後ろに本殿が建つが、それは明治7年(1874)に行われた禁足地の発掘調査により出土した、「布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)」などの神宝を祀るために、大正2年(1913年)に建てられたものとのことである。
◆布都御魂剣
で、その「布都御魂剣」であるが、石上神宮はその「布都御魂剣」に宿る「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」をその祭神とする。そして、その「布都御魂剣」は『日本書記』に、物部氏の租とされる神話上の神・饒速日命(ニギハヤヒ)と神武天皇の戦いの中に登場し、途中は省くが、結果的には饒速日命(ニギハヤヒ)の子である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)が神剣・「布都御魂剣」を授かり、ヤマト王権(このメモをするまで「大和朝廷」と思っていたのだが、初期の頃は「ヤマト王権」、「ヤマト大王家」と称するようだ)の宮中にて奉祀することになる。
その後、祟神朝の頃(3世紀から4世紀にかけての時期)、伊香色雄命(イカガシコオノミコト)が、山辺郡の石上邑に建布都大神(たけふつのおおかみ;『日本書記』には経津主神(ふつぬし)、『古事記』では建御雷之男神とされる)を遷し、石上大神を創建。神剣・「布都御魂剣」は物部氏の氏神としたこの社に祀られることになった(『大和の豪族と渡来人;吉川弘文館(加藤謙吉)』)、と言う。

◆神奈備山信仰から戦の神への信仰に?
それでは、何故に神体山に向かうことなく、拝殿が建つのか、ということだが、これからは単なる妄想;元は神体山の祭祀の場として布留山に向き、物部氏(の先祖達)、そして物部氏の天孫(侵攻)以前にこの地を開いた人々も、神奈備山を祀っていたのではなかろうか。参道も現在の大きな参道ルートとは異なり、布留川を渡り社へと続いていたようだ(『大和・飛鳥考古学散歩;伊達宗泰(学生社)』)。
が、上でメモしたように、祟神朝の頃、「布都御魂剣」が石上大神と号した物部氏の氏神に「布都御魂大神」として祀られて以降、神奈備の布留山を祀るより、ヤマト王権の戦の死命を制する神宝である「布都御魂剣」の神を祀る方に重点が移り、鎌倉期に拝殿が造られた時には、神奈備山に頓着することなく、現在のような配置となったのではなかろうか、と。

◆物部氏の氏神・石上神宮は武器庫でもあった
実際、ヤマト王権にて武具の製造や管理を担うことになった物部氏に祭祀されたこの社は、ヤマト王権の武器庫ともされていたようだ。平安初期に武器を京都に移すに際し、武器の数が膨大で、運搬の人員に15万7千余人を要したと『日本書紀』にある(実際は中止となったようだ)。
また、物部氏は単に武器の管理を担うだけでなく、初期のヤマト王権・祟神天皇の先兵としてその軍事をもって王権確立に貢献し、後世、雄略天皇の時期に大王直属の軍事力を組織し、軍事力で奈良盆地に割拠する豪族を支配し、更には奈良の外へと王権の拡大に寄与したようである。

妄想をまとめるとすれば、ヤマト王権・王朝の拡大につれ、豊な山とそこから流れ出す水といった、神奈備の山への自然信仰より、動乱に勝利する武器・戦いの神へと、祭祀の主体が映った結果が神奈備山の布留山に拝殿が対していない要因かも。単なる妄想。根拠なし。

●物部氏と饒速日命(ニギハヤヒ)
「布都御魂剣」をチェックしながら、物部氏とその物部の祖にあたる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が結構気になった。『日本書紀』に「及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣」とある。 「饒速日命が天磐船(あめのいはふね)に乗(の)り、太虚(おほぞら)を翔行し、是(こ)の郷(くに)を睨(おほ)りて降(あまくだ)りたまふに及至(いた)りて、故(かれ)、因りて目(なづ)けて、「 虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国(くに) 」と曰(い)ふ」といった意味である。

◆饒速日命は神武天皇より先にヤマトに降臨(侵攻)
このフレーズの前提は、「東に美しき地(くに)あり 青山四周(よもめぐ)れり」と奈良盆地がミヤコにふさわしいとは思うのだが、このフレーズにあるように、その地には既に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨し、日本(ヤマト)と名付けている、と「神武天皇」が教えられている、ということ。 この場合のヤマトとは広義の奈良盆地を指すのではなく、北は布留川から南は初瀬川に挟まれた大和高原の南東部裾野を指すようではあるが、それはともあれ、ポイントは神武天皇のヤマト降臨(侵攻)より先に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨(侵攻)しているということである。

◆軍事力に勝る饒速日命は何故に、神武天皇に恭順したのだろう? 
そして、それ以上に、なんとも解せないのは、先住の饒速日命勢は軍事的には神武勢を圧倒しているように思えるのだが、神武天皇に禅譲というか恭順していることである。その理由は?わからない。さっぱりわからない。

わからないが、唯一自分なりに納得できる解釈は、饒速日命は神武天皇にとって,軍事力では倒すことの出来ない存在、連盟・同盟関係を結ぶことによって神武天皇がヤマトに「入れる」存在であったことを、この神話が暗示しているのではないだろうか。要するに、天孫族って、降臨(侵攻)当初は、武力でもって先住豪族を支配できる力を持っていなかった、ということだろう。

◆大王家の祭祀を物部氏が担う?何故?
神話では続けて、饒速日命(ニギハヤヒ)の子である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)が神剣・「布都御魂剣」を授かり、宮中にて奉祀することになる、とする。神剣=軍事力を暗示しながらも、ヤマト王権の祭祀を担うといった重要な位置を担うことになる。
この神話を「歴史?」に置き換えると、神武天皇=祟神天皇と比定されることが多い。ということは、饒速日命>宇摩志麻治命=物部氏が祟神天皇に協力し、初期のヤマト王権においては、その軍事力を背景に王家の祭祀権までも委ねられている、ということだろう。
実際、天皇の即位儀礼に物部氏の儀式がその中核となっている、と言う。宮中で旧暦11月におこなわれてきた鎮魂祭(たましずめのまつり)で「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えて、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と呪詞を加える儀式があると言うが、これは「物部の呪術」と同じフレーズとのことである。

◆国史に天皇家の正当性を減じる物部氏の租のエピソードを何故入れる? 
それはそれとして、『古事記』、『日本書紀』は8世紀前半、律令体制を核にして中央集権国家をつくりあげようとする持統天皇・藤原不比等による国史である。そこに神話時代では、天孫族の降臨という天皇家の正当性を減ずるような、饒速日命のもうひとつの天孫降臨のエピソードを入れる理由、武力平定とは縁遠い神武勢の非力さ、また歴史時代(?)では神宝である神剣の祭祀を委ね、天皇の即位儀式さえ差配する物部氏のエピソードをこれほどまで盛り込む理由は何なのだろう?

◆天皇家も無視できなかった物部氏の軍事力?
初期のヤマト王権から大和朝廷に至るまで、王権・朝廷を支えた物部氏の軍事力は国史編纂の8世紀になっても無視することができなかったのだろうか? 初期のヤマト王権がヤマトに降臨(侵攻)した頃、奈良盆地には天理から桜井にかけてのヤマトの本貫地を支配する物部氏の他、北の奈良には和邇(わに)氏、南西の柏原には大伴・蘇我氏・羽田・巨勢氏、葛城山麓には葛城氏、北西の平群谷には平群氏といった豪族が割拠していたようだ。
その豪族達は、あるいはヤマト王権に平定され、また、あるいはヤマト王権の内紛に敗者側の大王につくことによりその勢を失う。初期のヤマト王権において大王と両頭政権と称あされる葛城氏も含め、奈良盆地の豪族は雄略天皇の時期(5世紀中頃?)にほとんどが滅亡する。
その大乱の中、雄略天皇を軍事面で支えたのが物部氏と大伴氏。しかし大伴氏も継体天皇の頃(6世紀前半?)には力を失い、結局豪族の中で国史編纂の頃まで有力な勢を持ち「生き残った」のが物部氏だけ、のようである。

◆国史編纂の頃まで「生き残った」物部氏
ヤマト王権の軍事面を担い、各地に兵を動かし平定するなど、強力な軍事力を保持した物部氏が8世紀になっても未だその威を示したとする以下のエピソードがある;「ますらをの鞆(とも)の音(ね)すなり もののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」という歌があるが、これは元明天皇が藤原京から平城京に遷都する和銅3年(710)、旧都に置き去りにされた物部氏(石上朝臣麻呂)の鳴らす弓の弦、楯を立てる音(軍事的デモンストレーション)に元明天皇が怯えているとの意味とも言う。この時期になっても物部氏の軍事力を王権が無視できなかった、と言う。

以上、饒速日命と神武、物部氏と祟神天皇のアナロジーで妄想を進めてきた。妄想をまとめると、初期のヤマト王権の時代から、国史編纂の頃まで生き残った唯一の氏族であり、国史編纂の頃でも無視し得ない「力」を持っていた物部氏故の、神話における物部氏先祖である饒速日命の天孫族の一支流といった扱いのように思える。唯、余りの特別待遇に、少々のイクスキューズが必要と感じたのか、祟神天王の妃は饒速日命の後裔といった系譜を創り上げているのが、如何にも作為的で面白い。

◆「饒速日命・物部氏」のエピソードは奈良の先住豪族を一括りにしたもの? 
と、ここまで饒速日命と神武、物部氏と祟神天皇についてあれこれ妄想をしてきたのだが、物部氏が有力な軍事勢力としてヤマト王権に貢献したのは雄略天皇の頃、と言う。とすれば、以上の饒速日命・物部氏のエピソードって、ひょっとしたら、天孫族が大和に降臨(侵攻)し、ヤマト王権から大和朝廷へと発展する過程において同盟・連合し、そして消えて行った奈良の先住豪族を「物部氏」に一括にまとめ、神話として創り上げているようにも思えてきた。
ヤマト王権は、当初先住豪族との連盟・協調によりはじまり、武力でもって豪族を支配できるようになったのは雄略天皇の頃から、と言うから、神武の饒速日命とのエピソードも、そう考えれば、なんとなくわかるような気にたってきた。素人の妄想。根拠なし。

◆歴史のIF
そして最後に。国史が編纂された8世紀頃から、物部氏もその勢を失い始める。6世紀後半に、蘇我氏との抗争に敗れ物部守屋が戦死し、物部氏は没落するも、その後を継いだのが、この石上神宮の辺りを本拠とした物部の一族が石上氏として桓武天皇の頃まで朝廷に影響力を残すも9世紀前半には政権中央から姿を消すことになる。ということは、国史編纂がもう少し遅ければ、神話に物部氏にまつわるエソードが書かれることはなかったのだろうか?

◆物部という名の疑問
あれこれと古代史に不案内の素人の妄想をメモした。ところで、いままで「物部」と簡単に書いて来たのだが、『大和の豪族と渡来人;加藤謙吉(吉川弘文館)』に拠れば、物部とは部制の名称。「物部」と称する部制が記録上に現れるのは継体天皇の頃というから、5世紀の中頃以降のことである。3世紀から4世紀ともと想定される祟神朝の頃には未だ「物部」という部制はなかったかとも思うのだが、「物部氏」はその頃どのように呼ばれていたのだろう? 大伴氏も伴造(とものみやつこ)の長を意味する大伴と称される前は来目氏と称したとも聞く。物部氏も場所から考えて「大三輪」、「倭」とでも称していたのだろうか。古代史の門外漢の素朴な疑問とする。

摂社
散歩当日は、石上神宮に関する由緒なども見つからず、10分も経たず拝殿を離れたのだが、常の如く、メモの段になってあれこれと気になることが登場し、頭の整理に結構時間がかかった。
とっとと先に向かおうと拝殿を出ると参道を隔てて石段があり、そこを登ると摂社である天神社、七座社、出雲建雄神社、猿田彦神社が祀られる。ここでまたもや、「足止め」となってしまった。
●天神社と七座社
石段を上ったところに天神社と七座社。案内には「摂社 天神社【てんじんしゃ】(西面)御祭神; 高皇産霊神【たかみむすびのかみ】 神皇産霊神【かみむすびのかみ】
七座社【ななざしゃ】(北面) 
御祭神;生産霊神【いくむすびのかみ】 足産霊神【たるむすびのかみ】 魂留産霊神【たまつめむすびのかみ】 大宮能売神【おおみやのめのかみ】 御膳都神【みけつかみ】 辞代主神【ことしろぬしのかみ】 大直日神【おおなおびのかみ】
由緒 右二社ハ生命守護ノ大神等ニ坐ス古来当宮鎮魂祭関係深キヲ以テ上古ヨリ鎮座シ給フ所ナリ」とあった。
二社で鎮魂祭を司る、と。チェックすると、天皇家には天皇の健康を護る鎮魂八神が祀られ、その神々がこの二社に祀られた大直日神【おおなおびのかみ】以外の神とのこと。更に、この八神に、七座社に祀られた、禍(わざわい)や穢(けがれ)を改め直す大直日神を加えた9神により、宮中にて新嘗祭前日に鎮魂の祭祀が行われるようである。

●天照がいない?
ところで、天皇家と言えば=天照、と思い浮かべる天照大神がこのラインアップに登場しない。チェックすると、「古代に天照大神が宮中に祀られたことはなく、『日本書紀』の記す伝承では天照大神は崇神天皇(第10代)の時に宮廷外に出されたとしている(現在の伊勢神宮)。通説では、実際に天照大神が朝廷の最高神に位置づけられるのは7世紀後半以降であり、それ以前の最高神は高皇産霊尊(高御産日神)であったとされる。このことから、7世紀末頃に高皇産霊尊は宮中に、天照大神は伊勢に住み分けたとする説もある」とWikipediaにあった。
へえ、そうなんだ、との想い。天神さまとは、後世の菅原道真でないことは言うまでもない。

出雲建雄神社
七座社の横に出雲建雄神社。案内には「摂社 出雲建雄神社【いずもたけお】 式内社 御祭神 出雲建雄神【いずもたけおのかみ】
由緒;出雲建雄神ハ草薙ノ剣ノ御霊ニ坐ス今ヲ去ルコト千三百余年前天武天皇朱鳥元年布留川上日ノ谷ニ瑞雲立チ上ル中神剣光ヲ放チテ現レ「今此地ニ天降リ諸ノ氏人ヲ守ラムト」宣リ給ヒ即チニ鎮座シ給フ」とある。

ささやかな社であるが、延喜式にも記載のある式内社と言うから、誠に古い歴史をもつ社である。また、祭神は神剣・草薙ノ剣に宿す出雲建雄神とのこと。草薙ノ剣って、素戔嗚が十拳剣を振るって八岐大蛇を退治した時、八岐大蛇の尾から取り出した剣と伝わる。
その剣は天照に献上され、その後、第12代景行天皇の子である日本武尊が東征に際し、この草薙ノ剣を渡されるも、尾張で娶った妻に預けたまま伊吹山でむなしくなる。そして妻が祀ったところが愛知の熱田神宮のはじまりとされる。
この案内に拠れば、天武天皇の御世、-朱鳥元年(686年))の時代、この地に神剣が下ったとされる。Wikipediaに拠ると、皇室の三種の神器とされるこの草薙ノ剣は、「熱田神宮に祀られていたが、天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された。天武天皇の時代、天武天皇が病に倒れると、占いにより神剣の祟りだという事で再び熱田神宮へ戻された」とあった。
Wikipediaでは天武天皇の時代に神剣の祟りと熱田神宮に戻したとあり、この社の案内では天武天皇の御世、この地に神剣が下ったとある。ちょっと矛盾しているように思えるのだが?
それでは、出雲建雄神を祀る社に関する、何かの手がかりが無いものかと、ここ以外の出雲建雄神を祀る社をチェックすると、三輪山の南を流れる初瀬川を遡った奈良市藺生町にある葛神社と、さらに奥に入った奈良市都祁(つげ)白石の雄神神社の祭神が出雲建雄神となっており、全国にはこの二社と石上神社の摂社以外に出雲建雄神を祀る社はないようだ。

出雲建雄神は水神様?
葛神社は、元は出雲建雄神社と称されていたようで、初瀬川の水源地に近いこの地の水の神として祀られているようである。一方、都祁(つげ)白石の雄神神社は「三輪さんの奥の院」と称される山を神体とした自然信仰の形態を残す社。雄神神社が鎮座する辺りは水湧庄とも呼び、近くに都祁水分神社(みくまり。注;都祁水分神社は奈良盆地に流れ込む大和川水系ではなく、木津川水系ではあるが)もある。どうも二社ともその性格は、水分の神(「神名の通り、水の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる(Wikipedia)」)。
で、この石上神社の出雲建雄神社であるが、エピソードに布留川の上流の日ノ谷に現れている。これも単なる妄想ではあるが、布留川の水の神、神体山から流れ出る命の源、田畑を潤す灌漑用水として水を祀る「水分の神」といったもののように思える。
神話には日本武尊にだまし討ちにあった出雲建という人物が登場するので、その人物ゆかりの社かとも思ったのだが、あまり関係はないようだ。なお、江戸時代には素戔嗚命が八岐大蛇を退治した「布都御魂剣」を祀るのが石上神宮で、その八岐大蛇の尾から取り出したのが草薙ノ剣。その草薙ノ剣に宿る神が出雲建雄神ということで、この社が石上神宮の「若宮」とされていた、ようである。



●水分神社(みくまり)
私のお気に入りの本の一冊に『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』という本がある。その中に「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」という章があり、そこに水分神社の解説がある。
大雑把にまとめると、奈良盆地に流れる幾多の小河川はすべて大和川に合わさり、ひとつの流れとなって奈良盆地を出て河内平野に流れ出る。その大和川に注ぐ支流は流量が乏しく、年間を通じての供給量も不安定であった。その要因は、瀬戸内式気候もさることながら、「青山四周(よもめぐ)れり」と形容される、奈良盆地を囲む山稜は奈良盆地側の分水界が狭く、保水能力が乏しいことにある。
そのためか、大和の川(大和川、木津川、紀の川)の上流には、水を豊かに分かち与えてくれる水分神社が祀られている。これらの神社は『延喜式』の祝詞に奏上されるほど重視された社であった、と言う。
その水分神社と称する社の中で、大和川水系の水分神社は葛城川上流の葛城水分神社のみであるが、奈良盆地を囲む山麓地帯にある山口神社と呼ばれる社が14社ほどあり、その山口神社も水分神社とされる。山口に座す神は、勢いよく水を下し落とされる神であり、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神故の命名であるとする。

大和盆地に割拠した古代豪族も水分神社のある場所を拠点としている。当然のことだろう。古代自然信仰として神奈備山を祀ったとされるが、山とは水を生み出す源であり、神奈備山を祀るということは、山の神であり、同時に水の神である神体山を祀るということではないだろうか。流量が少なく、それも季節によって流量が不安定な土地柄故に、水分神が奈良盆地では重要視されたように思える。

出雲建雄神社拝殿
出雲建雄神社の西、神奈備の布留山に向かって拝殿遥拝するように、誠にエレガントな拝殿が建つ。拝殿は建物が二つに分かれており、その中を通り抜けられるようになっている。割拝殿という建築様式とのこと。他ではあまり見られない珍しい様式国宝に指定されている建築で、とのことだが、元来は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守の住吉社の拝殿であったとのこと。内山永久寺は後ほど訪れることになるが、鳥羽(とば)天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院であったが、神仏分離令により明治9年に廃絶。鎮守社の住吉社はだけは残っていたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、荒廃したまま残されていた拝殿を大正3年に現在地に移築したとのことである。

当日はさらっと通り過ぎた石上神宮であるが、メモの段階であれこれ疑問が現れ、結構メモが長くなった。で、ある程度は自分なりに納得した、とは言うものの、そのソースは上に引用した3冊の書籍と、松岡正剛さんのWEB「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)のスキミング・スキャニングから得ただけのものである。 喧々諤々の議論がある古代史、古代史に興味のある方にとっては笑止千万のメモかとも思うが、所詮は山の辺の道を散歩したついでの戯言。単なる好奇心からのメモと御承知ください。

山の辺の散歩のメモではあるが、スタート地点の石上神宮のメモで力尽きた。次回は石上神宮のから離れ、山の辺の道を辿るメモとする。

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