奈良 山の辺の道散歩 そのⅤ:天理市の石神神宮から桜井市の三輪山裾・大神神社まで
長かった山の辺の道散歩も、やっと最後の目的地である三輪山・大神神社にやっと辿りついた。やっと辿りついた、という意味合いは、散歩それ自体は14キロ程度で、どうということもないのだが、その道に次々と現れるヤマト王権にかかわるあれこれに、古代史に特に思い入れもないにもかかわらず、疑問に感じたこと、わららないことを自分なりに納得できるまでチェックしてみようと思った結果の難路であった、ということではある。
その結果、山の辺の道が、「山の辺」を通る理由、そこにヤマト王権の古墳群が造営された理由、古墳の周濠の意味合いなど、そして今までややこしい人名故にパスしていた記紀の神話の神様など、散歩をはじめる前には想像もしていなかったあれこれが登場し、少々メモは大変であったが、なかなか面白い散歩となった。
で、今回は三輪山の裾をぐるりと廻り、最終目的地である大神(おおみわ)神社に向かうことにする。
本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社
桧原神社
県道50号を少し上り、道標に従い右に折れる。長かった散歩もやっと三輪山の山裾に辿りついた。道を進むと檜原神社に。神奈備の三輪山を祀る境内奥には拝殿はなく、神宮旧内宮外玉垣の東御門の古材を使った「三つ鳥居」が建つようだが、散歩当日はシートに覆われ、その姿を前にお参りすることはできなかった。
境内にあった案内には「大神神社の摂社 桧原神社 御祭神 天照大神若御魂神(あまてらすおおかみのわかみたま) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉册尊(いざなみのみこと)
第十代崇神天皇の御代、それまで皇居で祀られていた「天照大御神」を皇女豊鍬入姫に託し、ここ桧原の地(倭笠縫邑)に遷しお祀りしたのがはじまりです。 その後、大神様は第十一代垂仁天皇二十五年に永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり、これが伊勢の神宮(内宮)の創始と言われる」とある。
同じく、境内には「(元伊勢)桧原神社と豊鍬入姫の御由緒」の案内があり、「大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」(向かって左の建物)は、崇神天皇の皇女、豊鍬入姫をお祀りしています。
第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿」でお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑」に「磯城神籬」を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。
桧原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。 萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西に続く桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。
また「茅原」は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅原」の地とされています。更に西方の箸中には、豊鍬入姫の御陵とされる「ホケノ山古墳(内行花文鏡出土・社蔵)」があります」とあった。
左にある社殿は大神神社末社 豊鍬入姫宮。案内には「大神神社末社 豊鍬入姫宮 御祭神 豊鍬入姫命 御祭神は第十代崇神天皇の皇女であります。皇女は「天照大御神」をこの「倭笠縫邑」にお遷しし、初代の御杖代(斎王)として奉仕されたその威徳を尊び奉り、昭和十一年十一月五日に創祀されたものであります。
斎王とは天皇にかわって大神様にお仕えになる方で、その伝統は脈々と受け継がれ、現代に於いても皇室関係の方がご奉仕されています」とあった。
●祟神天皇のエピソード
この社は、3回目のメモで訪れた大和(おおやまと)神社での、祟神天皇の謎の行動に登場する社のひとつであった。重複にはなるが、松岡正剛さんのWEBに掲載される「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)」にあった記事をもとにまとめると、こういうことである:「第10代・崇神天皇(ミマキイリヒコ;)は、都を大和の磯城(しき;桜井市など近隣一帯)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、国が収まらなかった。 その理由は「其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」とあるように、それまで宮中で、天照大神アマテラスと日本大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の二神を一緒くたにして、祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこで崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)を斎王とし、天照大神(アマテラス)を大和の笠縫に祀り、また同じく崇神天皇の皇女である淳名城入姫(ヌナキイリヒメ)に日本大国魂神(オオクニタマ)を祀らせた。大和の笠縫に祀った地がこの桧原神社の地である。
エピソードは続き、地主神を祀るだけでは不都合であったようで、結局は三輪の大物主を祀ることによって事なきを得る。
何故に皇租神を追い出してまで、大物主を祀ることになったのか、祟神天皇の行動に対する妄想は既にメモしている、というかはっきりとした説明もできてはいないのここでは省略する。
●伊勢への経緯
祟神天皇と大物主の関係などについての疑問とは別に、上の案内の「永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり」という説明が気になった。皇租神の行き場所がなかなか決まらないって、どういうこと? チェックすると、娘が通った学校の校長先生から頂いた『飛鳥の風;生江義男(桐朋教育研究所)』に以下の記事があった。
「たとえば、直木孝次郎氏は、伊勢神宮は、もと、日の神を祭る伊勢の地方神で、皇室の東国発展にともない雄略朝頃から皇室との関係を有するにいたったが、それが皇室の神となったのは、壬申の乱に天武天皇がその援助を受けて勝利した後である。
また、渡会(伊勢神宮の地域)は、もと太陽信仰の聖地で、渡会氏が太陽神を祭っていたが、天皇勢力の東方計略が積極的に進められた雄略朝のときに、ここに天皇の神が祭られることになり、従来の渡会氏の神はその御餞都神に変じ、外宮のトヨウケヒメとなった」とあった。
神話においても物部氏の租先神である饒速日命に「遠慮」しているように、初期、奈良盆地の先住豪族との連合王権といったヤマト王権は、次第に力をつけ武力でもって先住豪族を支配し、東国へとその威を進めるまでは、祖神神もヤマトの地に安住の宮居を置けなかった、ということだろうか。先住の神々の居るヤマトから離れ新天地を伊勢に構えたということであろうか。ともあれ、伊勢に宮を構えたのは、直木孝次郎氏は雄略天皇の頃とする。
●二上山の案内
境内端に「二上山」の案内があり、「正面のラクダのコブのような形をしたトロイデ式火山が二上山です。 右側の雄岳の山上には大津皇子のお墓があります。大津皇子は天武天皇の 皇子でしたが、あまりにもすぐれておられたので謀反の罪を着せられ二十四歳 で死を賜りました皇子の死を悼んで、お姉さまの大伯(おおく)皇女がうたった 「現身(うつせみ)の人なる吾(われ)や明日よりは二上山を弟背(いもせ)と吾 見む」という有名な歌が万葉集にのこっています」とあった。
当日は曇りであったが、かすかに浮かび上がる二上山を認めた。
前川佐美雄歌碑
境内を離れると、社の前に歌碑がある。「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思え」と刻まれる。前川佐美雄という有名な歌人の歌と言う。文字通りに解釈すれば「春になり霞がこくなり何も見えなくなる。それが大和の地」といった意味に取れるのだが、この歌は、「春霞みの激しい大和の風土を踏まえ、何もみえないからこそ逆に浮かび上がる大和の歴史の重みが見えてくる」といった意味をもつとの解説が多かった。情感乏しきわが身も、なんだか気になる歌である。ちなみに、この歌は万葉歌碑のラインアップではない。
歌碑の傍に「桧原神社 山辺の道キーワード 元伊勢」の案内があり、「この神社は元伊勢の称があるように、豊鍬入姫宮が笠縫邑に祀った天照大神の社がこのあたりにあったと考えられています。
この神社からと、ここより少し西に行った井寺池から見る景観は、日本を代表する景観百景にも選ばれ、毎年「二上山に沈む夕日を見るハイキング」が行われています」とある。天気がよければ井寺池に行き、日本を代表する景観百景を、とも思うのだが、如何せん曇りでは仕方なく、先を急ぐことにする。
高市皇子歌碑
緑の木々の間の小径を進むと山からの清水が流れ落ちる、小さな滝、僧都之滝とも呼ばれるようだが、その傍に歌碑がある。「山吹きの立ちしげみたる山清水酌みに行かめど道の知らなく」と刻まれる。
天武天皇の皇子である高市皇子の歌と言う。十市皇女の葬ってある山吹の咲く地に清水を汲みに行くのか、十市皇女の(霊)が清水を汲みに来るから、そこに行くのか、いくつか解釈があるようではあるが、それよりも、十市皇女って、てっきり高市皇子の妃かと思ったのだが、どうも違うようだ。
夫婦であったとの説もあるが、異母姉で弘文天皇の妃との説もある。その十市皇女が急死したとき、情熱的挽歌を詠んだといったエピソードもWikipediaに解説されていた。
玄賓庵
高市皇子歌碑の先からはじまる塀にそって道をぐるりとまわると玄賓(げんぴ)庵の山門入口に。「三輪山 奥の院 玄賓庵密寺」とある。真言宗醍醐寺派の寺。境内には本堂と庫裏がある。傍にあった案内には「ここは玄賓僧都が隠棲していた庵で、ここは重要文化財の木造不動明王坐像が伝わっています。謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたものです。玄賓は弘仁九年(818年)になくなりました」とある。
謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたもの、とのこと。案内はあまりにそっけないのでチェックすると、玄賓庵とは、「桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓(げんぴん;注;ママ)僧都の庵と伝えられる。世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台として知られる。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移されたとあった。
玄賓は高徳の僧都。玄賓庵は謡曲『三輪』に「秋寒き窓の内、秋寒き窓の内、軒の松風うち時雨れ、木の葉かき敷く庭の面、門は葎や閉ぢつらん。下樋の水音も、苔に聞こえて静かなる、この山住みぞ淋しき」と描かれるようだ。現在は明るい雰囲気のお寺さまではあるが、かつては三輪山の檜原谷にあったようであるので、昔隠棲の風情のある庵ではあったのだろう。
また重要文化財の不動明王は幕末まで、大神神社の神宮寺・大御輪寺に本尊として安置されていたものであるが、神仏分離令に際し、大御輪寺が神社となったため、この寺にこちらに移されたと言う。
●謡曲『三輪山』
三輪山の麓に庵を結び隠棲する玄賓のもとへ常に参詣に訪れる女人がある日玄賓の衣を乞う。玄賓は衣を与え女の素性を尋ねる。女は「我が庵は三輪の山本恋しくは訪い来ませ杉立てる門」の古歌をひき、杉立てる門が目印だと住みかを教えて消える。玄賓が歌の女の言葉を頼りに、三輪明神の近くまで訪ね行くと、杉の木に玄賓が与えた衣がかかっており、その裾に一首の歌があり。それを読んでいると、女姿の三輪明神が現れる。
三輪明神は天の岩戸の前での神楽の再現、伊勢と三輪の神が一体分神であり、それが二つに身を分けて出現なさったと物語り、夜明けと共に消え行く、といったあらすじのようである。
「伊勢と三輪の神が一体分神」の意味するところも深堀したいのだが、いままでのメモの流れで、おおよその見当がつくので、それで、良し、としておく。
神武天皇歌碑
小径を進み溜池端にでると、弁天社、そしてその先に貴船神社がある。弁天社の立て看板が、あまりに大仰であったので、パスしたのだが、その先に貴船神社があり、共に「水」に関係するので、気になり弁天社に少し戻る。が、なんとなく、イメージした古社といったものでもなかった。
道を進むと、左手の少し小高いところに歌碑が建つ。「葦原の しけしき小屋(おや)に 菅畳み いやさや敷きて わが二人寝し」と刻まれるこの歌碑は神武天皇の歌とのこと。」桜井市の万葉歌碑の案内には「葦のいっぱい生えた原の粗末な小屋で、管で編んだ敷物をすがすがしく幾枚も敷いて、私たち二人は寝たことだったね」の意味とあった。
揮毫者の北岡壽逸氏は大正・昭和期の経済学者で国学院大学名誉教授。
伊須気余理比売の歌碑
道を進むと、途中に大額田女王の歌碑があった(と思うのだが)のだが、句は先に出合ったものと同じであった(ように思う)ため、なんとなくパスし、先に進むと万葉歌碑が道脇に。「狭井川よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす」と刻まれる。桜井市の万葉歌碑の案内では「狭井川の方からずっと雨雲が立ち渡り、畝傍山では木の葉がざわめいている。今に大風が吹こうとしている」の意味。
この歌の作者は伊須気余理比売、と言う。伊須気余理比売って誰?1Wikipediaには。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記す神武天皇の妃とあった。夫婦ふたり並んでの歌碑である。
ところで、この伊須気余理比は出雲の国津神である大国主命の幸魂・和魂とされる三和大物主の娘とされている。「タタラ」は古代の製鉄法である「たたら吹き」を暗示し、出雲族出自の出とされる。神武天皇=祟神天皇とされることも多いので、祟神天皇に出雲系の妃がいるかな?とチェックしたのだが、それらしき人物は見つからなかった。
狭井川
歌碑からほどなく狭井川、細い流れの脇に木標が建ち「狭井川 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす」とかかれていたのでわかったが、普通なら通り過ぎるほどの小川である。
歌に詠まれる狭井川は、三輪山から流れ出るささやかなる小川であった。神体山から流れ出る聖なる川ゆえか、この川は古事記にも登場する。「その河を佐韋河(さいかわ)という由(ゆえ)は、その河の辺に山由理草(やまゆりそう)多(さわ)にありき。故(か)れその山由理の名を取りて佐韋河と名付けき。山由理の本(もと)の名は佐韋と言ひき」とある。
神武天皇が后の伊須気余理比売を訪ねてこの地に来た際に、佐韋が咲いていたので、「佐韋川」と名付けたといった記事もあった。
狭井神社
道を進み、池に沿って左に折れ鳥居を潜り「狭井神社」に向かう。途中、石碑があり「清明」と刻まれる。よこに詳しい案内があり、三島由紀夫の揮毫であり、作家と三輪山信仰と大神神社の神事とを、本格的に、作品の主題との深い関わりにおいて書いてあるのは、三島由紀夫の『豊饒の海』第二巻「奔馬」(昭和四十四年二月)である。
●三島由紀夫・「清明」の碑
三島氏は、古神道研究のため、昭和四十一年六月率川神社の三枝祭に参列。ついで親友のコロンビヤ大学教授ドナルド・キーン氏と八月二十二日再度来社、社務所に三泊参籠した。二十三日、三輪山の裾山の辺の道を散策。二十四日、念願の三輪山頂上へ登拝。この日、お山を下りた後、拝殿で神職の雅楽講習終了報告祭に参列。感銘を受けた氏は、直ちに色紙に「清明」「雲靉靆」と認めた。後日、左の感懐が寄せられた。
大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります。
又、お山へ登るお許しも得まして、頂上の太古からの磐座をおろがみ、そのすぐ上は青空でありますから、神の御座の裳裾に触れるやうな感がありました。東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ寄ることは、一種の畏れなしには出来ぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、 洵にはかり知れぬ神のお恵みであったと思ひます。
山の辺の道、杉の舞、雅楽もそれぞれ忘れがたく、又、御神職が、日夜、清らかに真摯に神に仕へておいでになる御生活を目のあたりにしまして、感銘洵に深きものがございました。
ここに、三島由紀夫と三輪の大神様との御神縁を鑑み、作家三島由紀夫揮毫の「清明」記念碑を篤信家によって奉納建立する。平成十六年八月吉日 大神神社社務所」とあった。
●拝殿
拝殿にお参り。案内には「狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわあらたまじんじゃ)
主祭神 大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
配祠神 大物主神
媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
当神社は、第十一代垂仁天皇の御世(約二千年前)に創祠せられ、ご本社大神神社で大物主神「和魂(にぎみたま)」をお祀りしているのに対して、「荒魂(あらみたま)」をお祀りしています。「荒魂」とは進取的で活動的なおはたらきの神霊で、災時などに顕著なおはたらきをされます。特に心身に関係する篤い祈りに霊験あらたかな御神威をくだされ、多くの人々から病気平癒の神様として崇められています。
今「くすり祭り」と知られる鎮花祭は、西暦八三四年施行の「令義解」に『春花飛散する時に在りて、疫神分散して癘を行ふ。その鎮遏の為必ず此の祭あり。故に鎮花といふ也。』と記され、万民の無病息災を祈る重要な国家の祭として定められております。予って、別名、華鎮社・しづめの宮と称されています。 又、御社名の「狭井」とは、神聖な井戸・泉・水源を意味し、そこに湧き出る霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています。 御例祭 4月10日 鎮花祭 4月18日 」とあった。
大物主の荒魂である大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)は当社に、和魂は大神(おおみわ)神社に祀られるということはわかったのだが、今まで大国主の荒魂は出雲に祀り、大国主の和魂である大物主を三輪山の地に祀ったとメモしてきたのだが、この三輪の地にも大国主の荒魂を祀る社があった。創建年度がはっきりしないため(社伝には垂仁天皇の頃とある)、いつの頃からどのような事情で大国主の荒魂も祀る必要があったのかわからない。それとも単に、神のもつふたつの「魂」を一体として祀ることで、より「完全」にお祀りできる、といったことなのだろうか。伏兵の登場に、少々困惑。
●薬井戸
拝殿の横を進むと「薬井戸(くすりいど)」がある。ご神水が湧き出る。案内にあった「霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています」とある湧水である。あれこれの社の由来はあるが、根拠はないのだが、この湧水がこの社のはじまりのような気がする。神奈備の山から湧き出る水、神体山とは山=豊かな水への信仰でもあろうから、大物主のあれこれは記紀編纂時の後付けの理屈のように思えてきた。
●三輪山に登る参道
社境内の右手に、左右の丸木に注連縄が結ばれた縄鳥居がある。「しめ柱」と呼ばれ鳥居の原型といわれるもののようである。そこは三輪山に登る参道の入口ともなっている。狭井神社で許可を得れば三輪山に登れるようである。神奈備の山を歩いてみたいとは思えど、今回はその余裕もなく、次回のお楽しみとする。
磐座神社
大神神社への道を進むと、道から少し山側に入ったところに鳥居も社殿もない社がある。案内には「磐座神社」とあった。案内には「大神神社摂社 磐座神社 御祭神 少彦名神 御例祭 十月十一日(御由緒) 御祭神の少彦名神は大物主大神と共に国土を開拓し、人間生活の基礎を築かれると共に、医薬治療の方法を定められた薬の神様として信仰されています。
三輪山の麓には辺津磐座と呼ばれる、神様が鎮まる岩が点在し、この神社もその一つです。社殿がなく、磐座を神座とする形が原始の神道の姿を伝えています」とあった。磐座そのものが祭祀の対象ではあったのだろうし、祭神の少彦名神も後世の後付けの神様ではあろうと思う。
大神(おおみわ)神社
長かった山の辺の道散歩も、やっと今回の散歩の終点である大神神社に辿りついた。参道を進み、狭井神社と同じ「しめ柱」の「鳥居」を潜り、拝殿にお参り。
●拝殿
大神神社のHP をもとに、簡単にまとめると、「拝殿は鎌倉時代に創建された伝わるが、現在の拝殿は寛文4年(1664)徳川四代将軍家綱公によって再建されたもの。白木造りの質実剛健な切妻造で、正面には唐破風の大きな向拝がつき、檜皮葺の屋根となっている。この拝殿は江戸時代の豪壮な社殿建築として、三ツ鳥居と共に国の重要文化財に指定されている」とある。
◆三ツ鳥居
同じく同社HPの記事をまとめると、「石神神宮と同じく、大神神社拝殿の奥は聖なる場所「禁足地」があり、その禁足地と拝殿の間に結界として三ツ鳥居と瑞垣が設けられている。三ツ鳥居の起源は不詳で、古文書にも「古来一社の神秘なり」と記され、本殿にかわるものとして神聖視されてきている。この鳥居は明神型の鳥居を横一列に三つ組み合わせた独特の形式で「三輪鳥居」とも呼ばれています。中央の鳥居には御扉があり、三輪山を本殿とすれば、三ツ鳥居は本殿の御扉の役割を果たしていると言える」とあった。
●祭神は大物主大神
祭神は大物主大神。これまで何度となく、エピソードをメモしてきたように、祟神天皇の御世、疫病や災害がつづいたとき、それまで宮中に天祖神と地主神を共に祭祀していたことがその因であろうかと、天祖神と地主神を宮から出し、それでも治まらず、結局は崇神天皇の大叔母の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)の憑依・神託により、三輪氏の租であり大物主神の子とされる太田田根子が大物主神を三輪山に祀ることで天下は治まった、と。
で、大物主って誰?については、第三回散歩で訪れた大和(おおやまと)神社御旅所のところで妄想を逞しくしてメモした。そのメモを一部端折って再掲する。
「(前略)しかし、何とも解せないのは、崇神天皇が侵攻する前の豪族が祀っていた地主神(日本大国魂神)と崇神天皇の祖先神・天照大神(天照大神は持統天皇をモデルに創られたものと言うから、祟神の頃はいなかっただろうが、ともあれ大王家の祖先神)を宮から追い出し、大物主を祀る、といったこと。 大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔とされる。どちらにしてもヤマト王権の系譜ではない。ヤマト王権と別系統の神を祀らなければ国が治まらない、って?
◆大物主って誰?
それ以上にわからないのが大物主。大物主って誰?ということになるのだが、大物主=出雲の大国主の和魂(にきみたま;大国主は荒魂)とか、大物主=饒速日命(『古代日本正史;原田常治』)などあれこれ諸説あり、古代史の書籍を数冊スキミング&スキャンングした程度の我が身にはよくわからない。 ◆大物主=大国主
一般的にはどのように定義されているかWikipediaでチェック。そこには「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、「日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神」とあり、続けて「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀った」とある。
◆大物主=大国主神は「国譲り」の条件?
この説明では大物主=大国主神といった印象を受ける。では何故に出雲の神がヤマトに祀られるのだろう?との疑問。古代史に門外漢ではあるが、上の説明にある「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズを前後のコンテキストをもとに妄想を続けると、力を付けたヤマト大王家は出雲に侵攻し、神話では「国譲り」というストーリーでその地を支配下におさめたわけだが、その条件としてヤマト大王家は「大国主を祀り続けること」を約束した、と考え方がひとつ。
◆大物主祭祀は、出雲系先住支配豪族とヤマト王権の連盟合意の条件?
そして、もうひとつは、ヤマト王権がヤマト降臨(侵攻)以前に、すでに降臨(侵攻)し、先住部族を支配下に置いていた豪族がおり、その豪族が祀っていたのが「大物主」であり、ヤマト王権に協力する条件として「大物主」の威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた。
これまで何回かメモしたように、当初のヤマト王権は、武力で先住豪族を支配する力の無かったようであり、それ故、先住侵攻・支配豪族この条件に合意した、という考えもあるかと思う。「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズはヤマト王権の面子もあるので、パートナーとなった豪族の希望を受け入れた、といった表現となっているのだろうか。
で、後者の考えを更に妄想を膨らますに、ヤマト王権以前にこの地に侵攻・支配した豪族は出雲系の部族であり、出雲の神を祭っていたと考えられる。上のメモで大物主=饒速日命とした原田常治氏は「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」と言う。とすれば、関東の散歩で出合う物部氏はどうも出雲系っぽい、と思っていたことは、それほど間違っていなかったのかとも思う。実際、物部氏の租は吉備からヤマトに侵攻してきた出雲系部族といった説も聞いたことがある。
あれこれ妄想を重ね、自分なりの結論はヤマト王権の侵攻以前にこの地に侵攻・支配していた先住支配豪族は出雲系豪族であり、ヤマト王権への協力の条件として、豪族の租先神である大物主を祀り続けることを、その盟約の条件とした。そして、その先住支配豪族は、どうやら物部氏に繋がる部族ではないか、ということである。
◆祟神天皇の頃、大物主が登場するのは国史編纂時の「後付け」?
大物主には、何となくヤマト朝廷が出雲を制圧し、「国譲り」のエピソードを下敷きにしたストーリーを感じる。
と同時に、大物主=物部氏の祖・饒速日命(ニギハヤヒ)と言った自分の妄想も同様に、国史編纂時期に大王家に対しても力を保持していた物部氏故の「後付け」といった気がしてきた。その因は、ヤマト王権において物部氏がその軍事力をもって大活躍したのは雄略天皇の頃であり、ヤマト王権初期の頃はそれほど活躍していたとは思えないからである。
◆大物主って、神奈備山としての三輪山そのもの?
以上の妄想で、神話に登場する三輪山に祀られたとする大物主は、自分なりの勝手な解釈ではあるが、それなりに納得できるストーリーとなった。しかし、この解釈は神話としてのレベル。この祟神天皇の御世に、大物主が登場することには違和感がある。どう考えても、それは国史編纂時の「後付け」ではないかと思う。
そもそも、第10代祟神天皇の頃のヤマト王権は、同じ奈良盆地の西の葛城山麓に覇を唱える葛城王朝との対立で、どちらが勝つか負けるかわからない、といった状況であり、出雲侵攻などあり得ない。それは第21代雄略朝以降の話であり、祟神天皇の頃に、出雲の国譲りの話などあり得ない。
同様に、物部氏が物部という部民制を元に「物部」氏として登場しその軍事力をもって活躍するのも、雄略天皇以降の話であり、祟神天皇の頃に出雲系の神・大物主が登場することはあり得ないと思う。
それではこの祟神天皇の話に登場する大物主は?上で、大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔のよう、とメモした。大物主祀ったとあるが、祀ったの大三輪氏の名の通り、神奈備山としての三輪山ではないだろうか。それを後世、国史編纂の際に神奈備山の三輪山を大物主に差し替えたのかとも妄想する。差し替えた理由は、ヤマト朝廷と出雲の関係、また、ヤマト大王家と物部氏の関係と言った、政治的思惑ではあったのではなかろうか。単なる妄想。根拠なし」。
以上のメモのように、大物主を祀ったとするのは記紀編纂時の「後付け」であり、祟神天皇のコンテキストに登場する大物主って、先住豪族の祀る神奈備山である三輪山、水分神として豊かな水を育む神体山そのものではなかったのだろかと妄想を締めくくった。
◆「巳の神杉」は大物主>三輪山=神奈備山=水分神
その時は、これといったエビデンスがあったわけではないのだが、大神神社の境内にそのエビデンスと考えられる案内があった。「巳の神杉」がそれである。 「巳の神杉」の由来に、「ご祭神の大物主大神が蛇神に姿を変えられた伝承が『日本書紀』などに記され、蛇は大神の化身として信仰されています。この神杉の洞から白い巳(み)さん(親しみを込めて蛇をそう呼びます)が出入することから「巳の神杉」の名がつけられました。
近世の名所図会には拝殿前に巳の神杉と思われる杉の大木が描かれており、現在の神杉は樹齢400年余のものと思われます。
巨樹の前に卵や神酒がお供えされているのは巳さんの好物を参拝者が持参して拝まれるからです」とある。
説明にある『日本書紀』の伝承と言うのは、祟神天皇の大物主を祀るべし、との神託を行った倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)のその後の話。倭迹迹日百襲姫は、その後大物主に嫁いだ。が、大物主は昼には現れず、夜に忍んでくるだけ。倭迹迹日百襲姫は姿を見たいと願うと、大物主は、「翌朝に櫛箱を見よ」、と。そこには蛇がいた。驚いた倭迹迹日百襲姫は自死し、巨大な箸墓に祀られる(箸墓は纏向古墳の中にある、と言う)、大物主は御諸山(みもろやま;「神が守る」山=三輪山)に帰って行った、という話である。
このエピソードからわかるのは、大物主は蛇体であった、といこと。蛇は水神であり、水を涵養する山、つまりは水分神であった、ということだろう。
また、このエピソードからは、倭迹迹日百襲姫と大物主の婚姻がうまくいかなかったとことを暗示する。つまりは、ヤマト王権と先住豪族の関係で、ヤマト王権の支配が完全でない、といった印象を受ける。かといって、この先住豪族が誰を指すのか、記紀編纂の政治的思惑、時空をまぜこぜにしたお話から考えても詮無いことかとも思う。
結論として、祟神天皇当時の初期大和王権は、奈良盆地の先住諸豪族との微妙な力関係で成り立っており、軍事力で諸豪族を支配したのは雄略天皇の頃、と言うから、その初期の不安定は大和王権の姿を暗示している、ということであろうか。
最後にWikipediaにある大神神社の解説を載せておく:神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。旧来は大神大物主神社と呼ばれた。 三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として造営された拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、4~5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で焼かれたことが判明した(注;大物主神の子とされる太田田根子は堺市に住んでいたと伝わるが、それと関係あるのだろうか?最後の疑問)。
大神神社を離れ、JR 桜井線・三輪駅に向かい散歩を終える。
今回の散歩は、歩く道はそれほどでもなかったが、メモの道筋は結構厳しかった。妄想ばかりで多くの学者が喧々諤々のヤマト王権にまつわる古代史の謎をメモしてきた。門外漢がこんな領域は触らない方がいいか、さらっと流そうかとも思ったのだが、湧いた疑問は解決すべしと結構長いメモとなった。
メモは大変ではあったが、ヤマトについて知るいい機会、土地勘を得るいい機会となった。恥ずかしながら山の辺の道から少しだけ外れたところに箸墓古墳があることともはじめて知った。もっとも古墳や古代史にそれほどフックはかからないにため、古墳めぐりもさることながら、途中で手に入れた地図に載る、奈良盆地の中、あるいは外へと通る伊勢街道、多武峯街道、磐余の道などを歩いてみたくなった。
そしてなりより辿ってみたいのは、奈良盆地に14ほど点在する水分の神を祭る山口と名の付く社である。これも私のお気に入りの本のひとつである『日本の景観;樋口忠彦(ちくま学術文庫)』に「水分神社」型景観という記事があるのだが、そこの文章はこのヤマトの地を歩くまであまり理解できなかった。が、実際に歩いて、なんとなくリアリティが出てきた。近いうちに奈良盆地の水分の神を祭るを辿り、その景観を実感してみたいと思ったのが、今回の散歩の最大の成果かとも思う。
長かった山の辺の道散歩も、やっと最後の目的地である三輪山・大神神社にやっと辿りついた。やっと辿りついた、という意味合いは、散歩それ自体は14キロ程度で、どうということもないのだが、その道に次々と現れるヤマト王権にかかわるあれこれに、古代史に特に思い入れもないにもかかわらず、疑問に感じたこと、わららないことを自分なりに納得できるまでチェックしてみようと思った結果の難路であった、ということではある。
その結果、山の辺の道が、「山の辺」を通る理由、そこにヤマト王権の古墳群が造営された理由、古墳の周濠の意味合いなど、そして今までややこしい人名故にパスしていた記紀の神話の神様など、散歩をはじめる前には想像もしていなかったあれこれが登場し、少々メモは大変であったが、なかなか面白い散歩となった。
で、今回は三輪山の裾をぐるりと廻り、最終目的地である大神(おおみわ)神社に向かうことにする。
本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社
桧原神社
県道50号を少し上り、道標に従い右に折れる。長かった散歩もやっと三輪山の山裾に辿りついた。道を進むと檜原神社に。神奈備の三輪山を祀る境内奥には拝殿はなく、神宮旧内宮外玉垣の東御門の古材を使った「三つ鳥居」が建つようだが、散歩当日はシートに覆われ、その姿を前にお参りすることはできなかった。
境内にあった案内には「大神神社の摂社 桧原神社 御祭神 天照大神若御魂神(あまてらすおおかみのわかみたま) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉册尊(いざなみのみこと)
第十代崇神天皇の御代、それまで皇居で祀られていた「天照大御神」を皇女豊鍬入姫に託し、ここ桧原の地(倭笠縫邑)に遷しお祀りしたのがはじまりです。 その後、大神様は第十一代垂仁天皇二十五年に永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり、これが伊勢の神宮(内宮)の創始と言われる」とある。
同じく、境内には「(元伊勢)桧原神社と豊鍬入姫の御由緒」の案内があり、「大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」(向かって左の建物)は、崇神天皇の皇女、豊鍬入姫をお祀りしています。
第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿」でお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑」に「磯城神籬」を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。
桧原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。 萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西に続く桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。
また「茅原」は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅原」の地とされています。更に西方の箸中には、豊鍬入姫の御陵とされる「ホケノ山古墳(内行花文鏡出土・社蔵)」があります」とあった。
左にある社殿は大神神社末社 豊鍬入姫宮。案内には「大神神社末社 豊鍬入姫宮 御祭神 豊鍬入姫命 御祭神は第十代崇神天皇の皇女であります。皇女は「天照大御神」をこの「倭笠縫邑」にお遷しし、初代の御杖代(斎王)として奉仕されたその威徳を尊び奉り、昭和十一年十一月五日に創祀されたものであります。
斎王とは天皇にかわって大神様にお仕えになる方で、その伝統は脈々と受け継がれ、現代に於いても皇室関係の方がご奉仕されています」とあった。
●祟神天皇のエピソード
この社は、3回目のメモで訪れた大和(おおやまと)神社での、祟神天皇の謎の行動に登場する社のひとつであった。重複にはなるが、松岡正剛さんのWEBに掲載される「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)」にあった記事をもとにまとめると、こういうことである:「第10代・崇神天皇(ミマキイリヒコ;)は、都を大和の磯城(しき;桜井市など近隣一帯)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、国が収まらなかった。 その理由は「其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」とあるように、それまで宮中で、天照大神アマテラスと日本大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の二神を一緒くたにして、祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこで崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)を斎王とし、天照大神(アマテラス)を大和の笠縫に祀り、また同じく崇神天皇の皇女である淳名城入姫(ヌナキイリヒメ)に日本大国魂神(オオクニタマ)を祀らせた。大和の笠縫に祀った地がこの桧原神社の地である。
エピソードは続き、地主神を祀るだけでは不都合であったようで、結局は三輪の大物主を祀ることによって事なきを得る。
何故に皇租神を追い出してまで、大物主を祀ることになったのか、祟神天皇の行動に対する妄想は既にメモしている、というかはっきりとした説明もできてはいないのここでは省略する。
●伊勢への経緯
祟神天皇と大物主の関係などについての疑問とは別に、上の案内の「永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり」という説明が気になった。皇租神の行き場所がなかなか決まらないって、どういうこと? チェックすると、娘が通った学校の校長先生から頂いた『飛鳥の風;生江義男(桐朋教育研究所)』に以下の記事があった。
「たとえば、直木孝次郎氏は、伊勢神宮は、もと、日の神を祭る伊勢の地方神で、皇室の東国発展にともない雄略朝頃から皇室との関係を有するにいたったが、それが皇室の神となったのは、壬申の乱に天武天皇がその援助を受けて勝利した後である。
また、渡会(伊勢神宮の地域)は、もと太陽信仰の聖地で、渡会氏が太陽神を祭っていたが、天皇勢力の東方計略が積極的に進められた雄略朝のときに、ここに天皇の神が祭られることになり、従来の渡会氏の神はその御餞都神に変じ、外宮のトヨウケヒメとなった」とあった。
神話においても物部氏の租先神である饒速日命に「遠慮」しているように、初期、奈良盆地の先住豪族との連合王権といったヤマト王権は、次第に力をつけ武力でもって先住豪族を支配し、東国へとその威を進めるまでは、祖神神もヤマトの地に安住の宮居を置けなかった、ということだろうか。先住の神々の居るヤマトから離れ新天地を伊勢に構えたということであろうか。ともあれ、伊勢に宮を構えたのは、直木孝次郎氏は雄略天皇の頃とする。
●二上山の案内
境内端に「二上山」の案内があり、「正面のラクダのコブのような形をしたトロイデ式火山が二上山です。 右側の雄岳の山上には大津皇子のお墓があります。大津皇子は天武天皇の 皇子でしたが、あまりにもすぐれておられたので謀反の罪を着せられ二十四歳 で死を賜りました皇子の死を悼んで、お姉さまの大伯(おおく)皇女がうたった 「現身(うつせみ)の人なる吾(われ)や明日よりは二上山を弟背(いもせ)と吾 見む」という有名な歌が万葉集にのこっています」とあった。
当日は曇りであったが、かすかに浮かび上がる二上山を認めた。
前川佐美雄歌碑
境内を離れると、社の前に歌碑がある。「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思え」と刻まれる。前川佐美雄という有名な歌人の歌と言う。文字通りに解釈すれば「春になり霞がこくなり何も見えなくなる。それが大和の地」といった意味に取れるのだが、この歌は、「春霞みの激しい大和の風土を踏まえ、何もみえないからこそ逆に浮かび上がる大和の歴史の重みが見えてくる」といった意味をもつとの解説が多かった。情感乏しきわが身も、なんだか気になる歌である。ちなみに、この歌は万葉歌碑のラインアップではない。
歌碑の傍に「桧原神社 山辺の道キーワード 元伊勢」の案内があり、「この神社は元伊勢の称があるように、豊鍬入姫宮が笠縫邑に祀った天照大神の社がこのあたりにあったと考えられています。
この神社からと、ここより少し西に行った井寺池から見る景観は、日本を代表する景観百景にも選ばれ、毎年「二上山に沈む夕日を見るハイキング」が行われています」とある。天気がよければ井寺池に行き、日本を代表する景観百景を、とも思うのだが、如何せん曇りでは仕方なく、先を急ぐことにする。
高市皇子歌碑
緑の木々の間の小径を進むと山からの清水が流れ落ちる、小さな滝、僧都之滝とも呼ばれるようだが、その傍に歌碑がある。「山吹きの立ちしげみたる山清水酌みに行かめど道の知らなく」と刻まれる。
天武天皇の皇子である高市皇子の歌と言う。十市皇女の葬ってある山吹の咲く地に清水を汲みに行くのか、十市皇女の(霊)が清水を汲みに来るから、そこに行くのか、いくつか解釈があるようではあるが、それよりも、十市皇女って、てっきり高市皇子の妃かと思ったのだが、どうも違うようだ。
夫婦であったとの説もあるが、異母姉で弘文天皇の妃との説もある。その十市皇女が急死したとき、情熱的挽歌を詠んだといったエピソードもWikipediaに解説されていた。
玄賓庵
高市皇子歌碑の先からはじまる塀にそって道をぐるりとまわると玄賓(げんぴ)庵の山門入口に。「三輪山 奥の院 玄賓庵密寺」とある。真言宗醍醐寺派の寺。境内には本堂と庫裏がある。傍にあった案内には「ここは玄賓僧都が隠棲していた庵で、ここは重要文化財の木造不動明王坐像が伝わっています。謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたものです。玄賓は弘仁九年(818年)になくなりました」とある。
謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたもの、とのこと。案内はあまりにそっけないのでチェックすると、玄賓庵とは、「桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓(げんぴん;注;ママ)僧都の庵と伝えられる。世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台として知られる。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移されたとあった。
玄賓は高徳の僧都。玄賓庵は謡曲『三輪』に「秋寒き窓の内、秋寒き窓の内、軒の松風うち時雨れ、木の葉かき敷く庭の面、門は葎や閉ぢつらん。下樋の水音も、苔に聞こえて静かなる、この山住みぞ淋しき」と描かれるようだ。現在は明るい雰囲気のお寺さまではあるが、かつては三輪山の檜原谷にあったようであるので、昔隠棲の風情のある庵ではあったのだろう。
また重要文化財の不動明王は幕末まで、大神神社の神宮寺・大御輪寺に本尊として安置されていたものであるが、神仏分離令に際し、大御輪寺が神社となったため、この寺にこちらに移されたと言う。
●謡曲『三輪山』
三輪山の麓に庵を結び隠棲する玄賓のもとへ常に参詣に訪れる女人がある日玄賓の衣を乞う。玄賓は衣を与え女の素性を尋ねる。女は「我が庵は三輪の山本恋しくは訪い来ませ杉立てる門」の古歌をひき、杉立てる門が目印だと住みかを教えて消える。玄賓が歌の女の言葉を頼りに、三輪明神の近くまで訪ね行くと、杉の木に玄賓が与えた衣がかかっており、その裾に一首の歌があり。それを読んでいると、女姿の三輪明神が現れる。
三輪明神は天の岩戸の前での神楽の再現、伊勢と三輪の神が一体分神であり、それが二つに身を分けて出現なさったと物語り、夜明けと共に消え行く、といったあらすじのようである。
「伊勢と三輪の神が一体分神」の意味するところも深堀したいのだが、いままでのメモの流れで、おおよその見当がつくので、それで、良し、としておく。
神武天皇歌碑
小径を進み溜池端にでると、弁天社、そしてその先に貴船神社がある。弁天社の立て看板が、あまりに大仰であったので、パスしたのだが、その先に貴船神社があり、共に「水」に関係するので、気になり弁天社に少し戻る。が、なんとなく、イメージした古社といったものでもなかった。
道を進むと、左手の少し小高いところに歌碑が建つ。「葦原の しけしき小屋(おや)に 菅畳み いやさや敷きて わが二人寝し」と刻まれるこの歌碑は神武天皇の歌とのこと。」桜井市の万葉歌碑の案内には「葦のいっぱい生えた原の粗末な小屋で、管で編んだ敷物をすがすがしく幾枚も敷いて、私たち二人は寝たことだったね」の意味とあった。
揮毫者の北岡壽逸氏は大正・昭和期の経済学者で国学院大学名誉教授。
伊須気余理比売の歌碑
道を進むと、途中に大額田女王の歌碑があった(と思うのだが)のだが、句は先に出合ったものと同じであった(ように思う)ため、なんとなくパスし、先に進むと万葉歌碑が道脇に。「狭井川よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす」と刻まれる。桜井市の万葉歌碑の案内では「狭井川の方からずっと雨雲が立ち渡り、畝傍山では木の葉がざわめいている。今に大風が吹こうとしている」の意味。
この歌の作者は伊須気余理比売、と言う。伊須気余理比売って誰?1Wikipediaには。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記す神武天皇の妃とあった。夫婦ふたり並んでの歌碑である。
ところで、この伊須気余理比は出雲の国津神である大国主命の幸魂・和魂とされる三和大物主の娘とされている。「タタラ」は古代の製鉄法である「たたら吹き」を暗示し、出雲族出自の出とされる。神武天皇=祟神天皇とされることも多いので、祟神天皇に出雲系の妃がいるかな?とチェックしたのだが、それらしき人物は見つからなかった。
狭井川
歌碑からほどなく狭井川、細い流れの脇に木標が建ち「狭井川 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす」とかかれていたのでわかったが、普通なら通り過ぎるほどの小川である。
歌に詠まれる狭井川は、三輪山から流れ出るささやかなる小川であった。神体山から流れ出る聖なる川ゆえか、この川は古事記にも登場する。「その河を佐韋河(さいかわ)という由(ゆえ)は、その河の辺に山由理草(やまゆりそう)多(さわ)にありき。故(か)れその山由理の名を取りて佐韋河と名付けき。山由理の本(もと)の名は佐韋と言ひき」とある。
神武天皇が后の伊須気余理比売を訪ねてこの地に来た際に、佐韋が咲いていたので、「佐韋川」と名付けたといった記事もあった。
狭井神社
道を進み、池に沿って左に折れ鳥居を潜り「狭井神社」に向かう。途中、石碑があり「清明」と刻まれる。よこに詳しい案内があり、三島由紀夫の揮毫であり、作家と三輪山信仰と大神神社の神事とを、本格的に、作品の主題との深い関わりにおいて書いてあるのは、三島由紀夫の『豊饒の海』第二巻「奔馬」(昭和四十四年二月)である。
●三島由紀夫・「清明」の碑
三島氏は、古神道研究のため、昭和四十一年六月率川神社の三枝祭に参列。ついで親友のコロンビヤ大学教授ドナルド・キーン氏と八月二十二日再度来社、社務所に三泊参籠した。二十三日、三輪山の裾山の辺の道を散策。二十四日、念願の三輪山頂上へ登拝。この日、お山を下りた後、拝殿で神職の雅楽講習終了報告祭に参列。感銘を受けた氏は、直ちに色紙に「清明」「雲靉靆」と認めた。後日、左の感懐が寄せられた。
大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります。
又、お山へ登るお許しも得まして、頂上の太古からの磐座をおろがみ、そのすぐ上は青空でありますから、神の御座の裳裾に触れるやうな感がありました。東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ寄ることは、一種の畏れなしには出来ぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、 洵にはかり知れぬ神のお恵みであったと思ひます。
山の辺の道、杉の舞、雅楽もそれぞれ忘れがたく、又、御神職が、日夜、清らかに真摯に神に仕へておいでになる御生活を目のあたりにしまして、感銘洵に深きものがございました。
ここに、三島由紀夫と三輪の大神様との御神縁を鑑み、作家三島由紀夫揮毫の「清明」記念碑を篤信家によって奉納建立する。平成十六年八月吉日 大神神社社務所」とあった。
●拝殿
拝殿にお参り。案内には「狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわあらたまじんじゃ)
主祭神 大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
配祠神 大物主神
媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
当神社は、第十一代垂仁天皇の御世(約二千年前)に創祠せられ、ご本社大神神社で大物主神「和魂(にぎみたま)」をお祀りしているのに対して、「荒魂(あらみたま)」をお祀りしています。「荒魂」とは進取的で活動的なおはたらきの神霊で、災時などに顕著なおはたらきをされます。特に心身に関係する篤い祈りに霊験あらたかな御神威をくだされ、多くの人々から病気平癒の神様として崇められています。
今「くすり祭り」と知られる鎮花祭は、西暦八三四年施行の「令義解」に『春花飛散する時に在りて、疫神分散して癘を行ふ。その鎮遏の為必ず此の祭あり。故に鎮花といふ也。』と記され、万民の無病息災を祈る重要な国家の祭として定められております。予って、別名、華鎮社・しづめの宮と称されています。 又、御社名の「狭井」とは、神聖な井戸・泉・水源を意味し、そこに湧き出る霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています。 御例祭 4月10日 鎮花祭 4月18日 」とあった。
大物主の荒魂である大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)は当社に、和魂は大神(おおみわ)神社に祀られるということはわかったのだが、今まで大国主の荒魂は出雲に祀り、大国主の和魂である大物主を三輪山の地に祀ったとメモしてきたのだが、この三輪の地にも大国主の荒魂を祀る社があった。創建年度がはっきりしないため(社伝には垂仁天皇の頃とある)、いつの頃からどのような事情で大国主の荒魂も祀る必要があったのかわからない。それとも単に、神のもつふたつの「魂」を一体として祀ることで、より「完全」にお祀りできる、といったことなのだろうか。伏兵の登場に、少々困惑。
●薬井戸
拝殿の横を進むと「薬井戸(くすりいど)」がある。ご神水が湧き出る。案内にあった「霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています」とある湧水である。あれこれの社の由来はあるが、根拠はないのだが、この湧水がこの社のはじまりのような気がする。神奈備の山から湧き出る水、神体山とは山=豊かな水への信仰でもあろうから、大物主のあれこれは記紀編纂時の後付けの理屈のように思えてきた。
●三輪山に登る参道
社境内の右手に、左右の丸木に注連縄が結ばれた縄鳥居がある。「しめ柱」と呼ばれ鳥居の原型といわれるもののようである。そこは三輪山に登る参道の入口ともなっている。狭井神社で許可を得れば三輪山に登れるようである。神奈備の山を歩いてみたいとは思えど、今回はその余裕もなく、次回のお楽しみとする。
磐座神社
大神神社への道を進むと、道から少し山側に入ったところに鳥居も社殿もない社がある。案内には「磐座神社」とあった。案内には「大神神社摂社 磐座神社 御祭神 少彦名神 御例祭 十月十一日(御由緒) 御祭神の少彦名神は大物主大神と共に国土を開拓し、人間生活の基礎を築かれると共に、医薬治療の方法を定められた薬の神様として信仰されています。
三輪山の麓には辺津磐座と呼ばれる、神様が鎮まる岩が点在し、この神社もその一つです。社殿がなく、磐座を神座とする形が原始の神道の姿を伝えています」とあった。磐座そのものが祭祀の対象ではあったのだろうし、祭神の少彦名神も後世の後付けの神様ではあろうと思う。
大神(おおみわ)神社
長かった山の辺の道散歩も、やっと今回の散歩の終点である大神神社に辿りついた。参道を進み、狭井神社と同じ「しめ柱」の「鳥居」を潜り、拝殿にお参り。
●拝殿
大神神社のHP をもとに、簡単にまとめると、「拝殿は鎌倉時代に創建された伝わるが、現在の拝殿は寛文4年(1664)徳川四代将軍家綱公によって再建されたもの。白木造りの質実剛健な切妻造で、正面には唐破風の大きな向拝がつき、檜皮葺の屋根となっている。この拝殿は江戸時代の豪壮な社殿建築として、三ツ鳥居と共に国の重要文化財に指定されている」とある。
◆三ツ鳥居
同じく同社HPの記事をまとめると、「石神神宮と同じく、大神神社拝殿の奥は聖なる場所「禁足地」があり、その禁足地と拝殿の間に結界として三ツ鳥居と瑞垣が設けられている。三ツ鳥居の起源は不詳で、古文書にも「古来一社の神秘なり」と記され、本殿にかわるものとして神聖視されてきている。この鳥居は明神型の鳥居を横一列に三つ組み合わせた独特の形式で「三輪鳥居」とも呼ばれています。中央の鳥居には御扉があり、三輪山を本殿とすれば、三ツ鳥居は本殿の御扉の役割を果たしていると言える」とあった。
●祭神は大物主大神
祭神は大物主大神。これまで何度となく、エピソードをメモしてきたように、祟神天皇の御世、疫病や災害がつづいたとき、それまで宮中に天祖神と地主神を共に祭祀していたことがその因であろうかと、天祖神と地主神を宮から出し、それでも治まらず、結局は崇神天皇の大叔母の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)の憑依・神託により、三輪氏の租であり大物主神の子とされる太田田根子が大物主神を三輪山に祀ることで天下は治まった、と。
で、大物主って誰?については、第三回散歩で訪れた大和(おおやまと)神社御旅所のところで妄想を逞しくしてメモした。そのメモを一部端折って再掲する。
「(前略)しかし、何とも解せないのは、崇神天皇が侵攻する前の豪族が祀っていた地主神(日本大国魂神)と崇神天皇の祖先神・天照大神(天照大神は持統天皇をモデルに創られたものと言うから、祟神の頃はいなかっただろうが、ともあれ大王家の祖先神)を宮から追い出し、大物主を祀る、といったこと。 大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔とされる。どちらにしてもヤマト王権の系譜ではない。ヤマト王権と別系統の神を祀らなければ国が治まらない、って?
◆大物主って誰?
それ以上にわからないのが大物主。大物主って誰?ということになるのだが、大物主=出雲の大国主の和魂(にきみたま;大国主は荒魂)とか、大物主=饒速日命(『古代日本正史;原田常治』)などあれこれ諸説あり、古代史の書籍を数冊スキミング&スキャンングした程度の我が身にはよくわからない。 ◆大物主=大国主
一般的にはどのように定義されているかWikipediaでチェック。そこには「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、「日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神」とあり、続けて「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀った」とある。
◆大物主=大国主神は「国譲り」の条件?
この説明では大物主=大国主神といった印象を受ける。では何故に出雲の神がヤマトに祀られるのだろう?との疑問。古代史に門外漢ではあるが、上の説明にある「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズを前後のコンテキストをもとに妄想を続けると、力を付けたヤマト大王家は出雲に侵攻し、神話では「国譲り」というストーリーでその地を支配下におさめたわけだが、その条件としてヤマト大王家は「大国主を祀り続けること」を約束した、と考え方がひとつ。
◆大物主祭祀は、出雲系先住支配豪族とヤマト王権の連盟合意の条件?
そして、もうひとつは、ヤマト王権がヤマト降臨(侵攻)以前に、すでに降臨(侵攻)し、先住部族を支配下に置いていた豪族がおり、その豪族が祀っていたのが「大物主」であり、ヤマト王権に協力する条件として「大物主」の威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた。
これまで何回かメモしたように、当初のヤマト王権は、武力で先住豪族を支配する力の無かったようであり、それ故、先住侵攻・支配豪族この条件に合意した、という考えもあるかと思う。「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズはヤマト王権の面子もあるので、パートナーとなった豪族の希望を受け入れた、といった表現となっているのだろうか。
で、後者の考えを更に妄想を膨らますに、ヤマト王権以前にこの地に侵攻・支配した豪族は出雲系の部族であり、出雲の神を祭っていたと考えられる。上のメモで大物主=饒速日命とした原田常治氏は「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」と言う。とすれば、関東の散歩で出合う物部氏はどうも出雲系っぽい、と思っていたことは、それほど間違っていなかったのかとも思う。実際、物部氏の租は吉備からヤマトに侵攻してきた出雲系部族といった説も聞いたことがある。
あれこれ妄想を重ね、自分なりの結論はヤマト王権の侵攻以前にこの地に侵攻・支配していた先住支配豪族は出雲系豪族であり、ヤマト王権への協力の条件として、豪族の租先神である大物主を祀り続けることを、その盟約の条件とした。そして、その先住支配豪族は、どうやら物部氏に繋がる部族ではないか、ということである。
◆祟神天皇の頃、大物主が登場するのは国史編纂時の「後付け」?
大物主には、何となくヤマト朝廷が出雲を制圧し、「国譲り」のエピソードを下敷きにしたストーリーを感じる。
と同時に、大物主=物部氏の祖・饒速日命(ニギハヤヒ)と言った自分の妄想も同様に、国史編纂時期に大王家に対しても力を保持していた物部氏故の「後付け」といった気がしてきた。その因は、ヤマト王権において物部氏がその軍事力をもって大活躍したのは雄略天皇の頃であり、ヤマト王権初期の頃はそれほど活躍していたとは思えないからである。
◆大物主って、神奈備山としての三輪山そのもの?
以上の妄想で、神話に登場する三輪山に祀られたとする大物主は、自分なりの勝手な解釈ではあるが、それなりに納得できるストーリーとなった。しかし、この解釈は神話としてのレベル。この祟神天皇の御世に、大物主が登場することには違和感がある。どう考えても、それは国史編纂時の「後付け」ではないかと思う。
そもそも、第10代祟神天皇の頃のヤマト王権は、同じ奈良盆地の西の葛城山麓に覇を唱える葛城王朝との対立で、どちらが勝つか負けるかわからない、といった状況であり、出雲侵攻などあり得ない。それは第21代雄略朝以降の話であり、祟神天皇の頃に、出雲の国譲りの話などあり得ない。
同様に、物部氏が物部という部民制を元に「物部」氏として登場しその軍事力をもって活躍するのも、雄略天皇以降の話であり、祟神天皇の頃に出雲系の神・大物主が登場することはあり得ないと思う。
それではこの祟神天皇の話に登場する大物主は?上で、大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔のよう、とメモした。大物主祀ったとあるが、祀ったの大三輪氏の名の通り、神奈備山としての三輪山ではないだろうか。それを後世、国史編纂の際に神奈備山の三輪山を大物主に差し替えたのかとも妄想する。差し替えた理由は、ヤマト朝廷と出雲の関係、また、ヤマト大王家と物部氏の関係と言った、政治的思惑ではあったのではなかろうか。単なる妄想。根拠なし」。
以上のメモのように、大物主を祀ったとするのは記紀編纂時の「後付け」であり、祟神天皇のコンテキストに登場する大物主って、先住豪族の祀る神奈備山である三輪山、水分神として豊かな水を育む神体山そのものではなかったのだろかと妄想を締めくくった。
◆「巳の神杉」は大物主>三輪山=神奈備山=水分神
その時は、これといったエビデンスがあったわけではないのだが、大神神社の境内にそのエビデンスと考えられる案内があった。「巳の神杉」がそれである。 「巳の神杉」の由来に、「ご祭神の大物主大神が蛇神に姿を変えられた伝承が『日本書紀』などに記され、蛇は大神の化身として信仰されています。この神杉の洞から白い巳(み)さん(親しみを込めて蛇をそう呼びます)が出入することから「巳の神杉」の名がつけられました。
近世の名所図会には拝殿前に巳の神杉と思われる杉の大木が描かれており、現在の神杉は樹齢400年余のものと思われます。
巨樹の前に卵や神酒がお供えされているのは巳さんの好物を参拝者が持参して拝まれるからです」とある。
説明にある『日本書紀』の伝承と言うのは、祟神天皇の大物主を祀るべし、との神託を行った倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)のその後の話。倭迹迹日百襲姫は、その後大物主に嫁いだ。が、大物主は昼には現れず、夜に忍んでくるだけ。倭迹迹日百襲姫は姿を見たいと願うと、大物主は、「翌朝に櫛箱を見よ」、と。そこには蛇がいた。驚いた倭迹迹日百襲姫は自死し、巨大な箸墓に祀られる(箸墓は纏向古墳の中にある、と言う)、大物主は御諸山(みもろやま;「神が守る」山=三輪山)に帰って行った、という話である。
このエピソードからわかるのは、大物主は蛇体であった、といこと。蛇は水神であり、水を涵養する山、つまりは水分神であった、ということだろう。
また、このエピソードからは、倭迹迹日百襲姫と大物主の婚姻がうまくいかなかったとことを暗示する。つまりは、ヤマト王権と先住豪族の関係で、ヤマト王権の支配が完全でない、といった印象を受ける。かといって、この先住豪族が誰を指すのか、記紀編纂の政治的思惑、時空をまぜこぜにしたお話から考えても詮無いことかとも思う。
結論として、祟神天皇当時の初期大和王権は、奈良盆地の先住諸豪族との微妙な力関係で成り立っており、軍事力で諸豪族を支配したのは雄略天皇の頃、と言うから、その初期の不安定は大和王権の姿を暗示している、ということであろうか。
最後にWikipediaにある大神神社の解説を載せておく:神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。旧来は大神大物主神社と呼ばれた。 三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として造営された拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、4~5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で焼かれたことが判明した(注;大物主神の子とされる太田田根子は堺市に住んでいたと伝わるが、それと関係あるのだろうか?最後の疑問)。
大神神社を離れ、JR 桜井線・三輪駅に向かい散歩を終える。
今回の散歩は、歩く道はそれほどでもなかったが、メモの道筋は結構厳しかった。妄想ばかりで多くの学者が喧々諤々のヤマト王権にまつわる古代史の謎をメモしてきた。門外漢がこんな領域は触らない方がいいか、さらっと流そうかとも思ったのだが、湧いた疑問は解決すべしと結構長いメモとなった。
メモは大変ではあったが、ヤマトについて知るいい機会、土地勘を得るいい機会となった。恥ずかしながら山の辺の道から少しだけ外れたところに箸墓古墳があることともはじめて知った。もっとも古墳や古代史にそれほどフックはかからないにため、古墳めぐりもさることながら、途中で手に入れた地図に載る、奈良盆地の中、あるいは外へと通る伊勢街道、多武峯街道、磐余の道などを歩いてみたくなった。
そしてなりより辿ってみたいのは、奈良盆地に14ほど点在する水分の神を祭る山口と名の付く社である。これも私のお気に入りの本のひとつである『日本の景観;樋口忠彦(ちくま学術文庫)』に「水分神社」型景観という記事があるのだが、そこの文章はこのヤマトの地を歩くまであまり理解できなかった。が、実際に歩いて、なんとなくリアリティが出てきた。近いうちに奈良盆地の水分の神を祭るを辿り、その景観を実感してみたいと思ったのが、今回の散歩の最大の成果かとも思う。