2015年10月アーカイブ

先回の二ヶ領用水散歩2回目は、宿河原取水堰から宿河原線を二ヶ領本川との合流点まで下り、二ヶ領本川を平瀬川まで下った。途中、多摩川の旧堤防、霞堤、横土手など、多摩川右岸を護る堤防が登場するのだが、一部その痕跡は残るにせよ、その全体像に関する資料も見つけられず、多摩川の霞堤の絵姿、横土手の位置づけなど、いまひとつわからないままではあったが、それは「宿題」とし、ともあれ平瀬川までメモした。
今回は、平瀬川を渡り、二ヶ領用水と言えば、と言うほど有名な久地の円筒分水を訪ね、円筒分水から分かれる幾筋かの用水路のうち、本流でもある川崎堀を下り、大師堀と町田堀に分かれる鹿島田まで辿ることにする。


本日のルート:平瀬川>平瀬川トンネル>久地の円筒分水>久地神社>雨乞い弁天>久地不動尊>濱田橋>溝口神社>大石橋>新雁追(がんおい)橋>中原堰>南田堰>平成橋>二子坂戸緑道>石橋供養塔>第三京浜>関神社>井田堰>八つ目土と水道水源地>木月堰>薬師橋から白田橋>中原街道・神地橋>今井堰>渋川分岐点>中丸子堰>上平間堰>苅宿堰>鹿島田堰>御幸橋跨線橋>鹿島田橋>川崎堀踏切>大師堀・町田堀分岐点




平瀬川
往昔、多摩川の水を二カ所の堰で取入れ久地で合流した二ヶ領用水の水を、川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀の四つの堀に分けた久地分量樋跡を越えると、二ヶ領本川は平瀬川に遮られ地表から消える。用水は平瀬川の下を潜り、サイフォンで対岸に吹き上がる。
先回の散歩でメモしたが、二ヶ領本川、そして宿河原堰で取水した用水は、その80%をこの平瀬川に放流するとのことである。どの程度か不明ではあるが、僅かな梨畑や水田を潤すにしても、基本は稲田取水所で工業用水として多摩川表流水を1日20万立方メートル(東京ドーム約50個分)取水し、内径1.5mの導水管(第5導水管)で生田浄水場まで原水を送るのが、現在の二ヶ領本川の主たる機能となっているのだろう。
旧平瀬川
この平瀬川は昭和15年(1940)に開削された人工の河川である。それ以前の河道は此の地より上流の南武線の南、上之橋から溝の口駅の東へと、総合高津中央病院の裏を通り、二ヶ領用水・川崎堀にかかる平成橋の通り、すこし南に残る橋(欄干が残るだけ)手前で二ヶ領用水・川崎堀の旧流路に合流していたようである。

平瀬川トンネル
平瀬川の上流部にトンネルが2つ見える。ひとつは昭和15年(1940)できたもの。平瀬川は、昭和15年(1940)以前は、上流で大雨が降ると、毎年にように中流域は氾濫した。
平瀬川トンネルは、この豪雨による氾濫を防ぐため昭和15年(1940)から20年(1945)にかけて津田山を堀抜き、平瀬川の水をショートカットで多摩川に流すトンネルとして掘削された。円筒分水が生まれる契機ともなったのが、この平瀬川トンネル掘削・平瀬川改修工事である。
昭和20年(1940)にトンネルが完成。毎秒30立法メートルの流下能力があったトンネルであるが、昭和30年(1955)代から、平瀬川上流域の宅地化が進み、アスファルトで覆われ、保水力の低下した上流域では毎年のように氾濫が繰り返されるようになった。
その対策としてトンネルがもう一本掘られることになり、昭和42年から45年(1967‐1970)に工事が行われ毎秒80立法メートル、1時間に50㎜までの雨量に耐えられる構造の第二トンネルが完成した。
左手の少し小さいトンネルが昭和20年(1945)に完成したトンネルである。現在ふたつのトンネル合わせて時間雨量50mm、流下能力110立法メートルであるが、上流域での洪水予防のため、時間雨量90mm、流下能力230立法メートルに対応すべく、昭和20年(1945)のトンネル拡大改修計画がなされているとのことである。
津田山
因みに、トンネルが穿つ津田山であるが、かつては七面山と呼ばれていた。それが津田山となったのは、この丘陵地を宅地再開発した玉川電気鉄道社長の津田興二氏の名前に拠る。



久地の円筒分水
平瀬川を渡り、平瀬川脇にある久地の円筒分水に。文字通り、「円筒」形をしている。円は二重になっており、中央に直径8mの円形壁、その外周に直径16mの越流壁、越流壁の外側は堀となっている。
施設にあった「円筒分水」の案内に拠れば、「中野島と宿河原の多摩川から取り入れられたニヶ領用水は久地で合流し、「久地分量樋」へ導かれていた。 「久地分量樋」は、川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に水を分ける施設。それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋(水門)が使われていたが、水量をめぐる争いが絶えず、より正確な分水が望まれていた。
この円筒分水がつくられたのは昭和16年。サイフォンの原理を応用して新平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を調節するしくみになっている。農業用水の施設としては、当時の科学技術の粋を集めた大変すぐれたものだった。」とあり。
また「国登録有形文化財 二ヶ領用水久地円筒分水」には、「この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。
内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財となっています」とあった。

中央にある直径8mの円筒は、サイフォンの原理で中央の円筒から噴き上がり、波立つ水面の乱れを抑える整水壁の役割。その外側の直径16mの円筒壁は、ここで分水する四つの堀、それぞれの灌漑面積に合わせた比率の長さ(川崎堀38.471m、根方堀7.415m、六ヶ村堀2.702m、久地堀1.675m、)で仕切られ、越流壁の外側の各堀に、流量が変化しても、各堀に一定の比率で分水されるようになっている、とのことである。
平賀栄治の顕彰碑
円筒分水傍に平賀栄治の顕彰碑が建ち、そこには「二ヶ領用水400年・久地円筒分水70年記念 平賀栄治 顕彰碑 この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治(ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水されたニケ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉の用に用水を吹きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省低湿林野管理局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた」とあった。

円筒分水傍には「二ヶ領用水久地分量樋」の説明もあり、既にメモしたことと重複するので文章をママ掲載するのは省略するが、二ヶ領用水の概要と田中丘隅の改修、そして久地分量樋の明治43年(1910)撮影の写真が掲載されており、昭和16年(1941)、平賀栄治の設計建設により、水害防止の貯めの新しい平瀬川の開削と二ヶ領用水の伏せ越し、久地円筒分水を完成。これによって二ヶ領用水久地分量樋は久地大圦樋とともに、その役割を終えた、といったと説明があった。
また、「二ヶ領用水知絵図」の案内もあり、平成四年作成作成されたこの地図には、過去・現在・未来の視点から用水の姿が描かれ、用水が最も広く張りめぐらされた江戸時代後期―明治初期の姿と都市化が進んだ現在の姿を対比して図示していた。
川崎堀
国道409号・府中街道の南を武蔵小杉へと流れ、東海道新幹線を越えた南で国道409号・府中街道と南武線を北に越え、南武線・鹿島田駅の北で大師堀と町田堀に分かれる分岐点まで続く。
根方堀
川崎堀の南を下り、四つの支線に分かれ大雑把に言って、高津区の西南部を潤す
六ヶ村堀
国道409号・府中街道と川崎堀筋の間を第三京浜の手前まで下る
久地・(溝口)二子堀
幾つかの支線に分かれ、円筒分水から東に向かい久地を潤し、また、国道409号に沿って南東に下り溝口を潤す。

久地神社
久地円筒分水からは、用水本流であろう川崎堀を下ろうと思うのだが、地図をチェックすると、円筒分水の近くに久地神社、そして久地不動尊がある。ちょっと立ち寄り。
円筒分水から平瀬川を渡り直し、丘陵裾の道を進むと久地神社がある。鳥居を潜り拝殿にお参り。境内の案内には「神社の創立年代は定かではないが、風土記には「赤城社、村の南の丘にあり、此所の鎮守なり、社二間に一間半、東南向、前に石段あり木の鳥居たてり、村内浄元寺持」と記載されています。
江戸時代、神仏習合の時代には、赤城社と称され、現在本社とする溝口神社と兄弟神と伝えられていたことから、武を司る毘沙門天・財を司る弁財天をお祀りしていたと云われております。
明治初年、神仏分離により神体は、近隣寺院に合祀され、祭神を天照大神と改め、社名を久地神社と改称致しました。現社殿は、昭和四十一年十月に再建されたものである」とあった。

元、赤城社とあるが、溝口神社も元は赤城大明神を祀る赤城社であったということで、溝口神社が当社の本社であった、ということは納得。境内に「牛頭天王」と刻まれた石碑がある。明治20年(1887)に幕府の命で梅の栽培をはじめた梅屋敷の川辺森右衛門、同良右衛門親子が建立奉納したものとのことだが、赤城信仰と牛頭天王・祇園=素戔嗚信仰の関係は不明。ひょっとすれば、明治に合祀され久地神社となった社のひとつに天王社でもあったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

雨乞い弁天
社から平瀬川へ戻り、丘陵に続く坂道を登り久地不動尊に向かう。道の右手に池と小祠が見える。この池は日照りが続いても水が絶えることがなく、「雨乞い弁天」と称されていた、とのこと。
この弁天さまは、元禄年間(1688~1703)にかつて上杉氏に仕えていた女性が尼となり久地に永住したと伝えられ、弁天堂は弁財天とその比丘尼を祀った御堂とも言われる。
弁天堂、弁財天がなに故この地に?チェックすると、現在の久地神社、そしてその本社である溝口神社の祭神は天照大神ではあるが、それは明治の神仏分離の際、お伊勢を勧請した故のことであり、赤城社と呼ばれていた当時、毘沙門天と弁財天を祀っていた、といった記事を目にした。で、明治の神仏分離政策で赤城社のご神体が浄元寺に預けられたが、比丘尼を祀った弁天社は篤い信仰に支えられ今に姿を留めている、とのことである。尚、この比丘尼の音が転化したものが「久地」の地名の由来との説もある。
最初はこの弁天様は久地不動尊の一部かとも思ったのだが、どうも久地神社ゆかりの祠であったようである。

久地不動尊
坂道を上りきったところに久地不動尊。本堂脇に倶利伽羅剣と不動明王。倶利伽羅剣は不動明王が右手に持つ剣で、不動明王の象徴とされ、貪瞋痴(貪欲、怒りの心、真理に対する無知の心)の三毒を破る智恵の利剣である。倶利伽羅剣と不動明王は一体のものとみなされ、つまり、二体の不動明王が佇む、ということになる。
元は浅草の吉原にあったが、不動明王様は吉原遊郭の喧騒に耐え切れず、もっと静かな場所に移せ、とのお告げ。それもあって、この地に移すことにしたのだが、その直前に関東大震災が起こり、堂宇全焼。お不動さまは古井戸に飛び込み難を逃れた、と。

濱田橋
開渠となった川崎堀を下る。用水に沿った道を進み、国道246号・厚木街道の陸橋を渡ると、ほどなく濱田橋。溝口で生まれた、第一回の人間国宝認定者である陶芸家の濱田庄司氏を記念したもの。元は無名の丸太一本橋であったようだ。
濱田橋の命名は平成4(1992)年のことかと思う。これといった資料はないのだが、橋脇にあった濱田橋と濱田庄司氏の案内碑にある説明の最後に、濱田先生を称え濱田橋と命名した、とあり、その後に平成四年六月吉日とあったため。
濱田庄司
案内にあった説明を簡単にまとめる;明治27年(1894)溝口で生まれ、本名象二。高津小学校に学び、東京工業大学(注;東京高等工業学校窯業科)卒業。英国人陶芸家バーナード・リーチと共に陶芸にめざめ、栃木県益子で作陶に入り、益子焼を芸術にまで高める。
柳(注;宗悦)・河合(注;寛次郎)らと民藝運動を興し、沖縄文化等に注目する。
日本民芸館二代目館長(注;初代柳宗悦)。昭和30年(1955)第一回人間国宝、昭和43年(1968)文化勲章受章。七面山麓宗隆寺に眠る。
バーナードリーチや柳宗悦氏といった民藝運動については、いつだったか手賀沼散歩で出合ったことを思いだす。

濱田橋に陶板で「春去春来」という言葉が残されているが、春は益子で作陶に精進し、冬になると沖縄へ行っていたことに由来する、とか。「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」には、濱田氏が幼少の頃、この橋の辺りで泳ぎ、溺れそうになったというエピソードをもって、橋改修の時、濱田橋と命名したとする。


宗隆寺
宗隆寺にちょっと寄り道。山門前に石橋供養塔。現在は暗渠となるが、宗隆寺 の脇から山門前にかけて二ヶ領用水の「根方堀」が流れ、大山街道の栄橋交差点方面へと流れていたようである。
本殿にお参り。元は天台宗本立寺と号したが、住職と地頭が見た霊夢により日蓮宗に改宗し、池上本門寺の末となる、との話が残る(異説もある)。境内には「世を旅に 代かく小田の ゆきもどり」と刻まれる芭蕉の句碑が建つ。文政12年(1829)玉川老人亭宝水(溝口の灰吹薬局2代目二兵衛により建立された、とのこと。



七面山
濱田庄司氏の記念碑の案内にあったように、境内の東に七面山と称する丘陵南端部が見える。先ほど訪れた久地神社、久地不動尊のあった丘陵の舌状突端部ではあるが、途中国道246号により、切り裂かれ切通しとなっている。七面山と称する所以は、日蓮宗において重要な七面大明神(七面天女)からではあろう。
お寺の裏手の丘陵は宗隆寺古墳群が残るという。境内から成り行きで丘陵・七面山に登る。高さが1mから2mといった古墳が、どれなのかいまひとつ判然としないが、「日露戦争記念碑」と刻まれた石碑、その横にも石碑が建つ。乃木大将記号の「日露戦争記念碑」が残ると言うが、石碑がそれであろうか。裏山には「日清戦争記念碑」、また日露戦争で戦死した軍人の招魂碑が残るとのことであるので、そのどちらかであろうか。

溝口神社
宗隆寺のすぐ東に溝口神社。先ほど訪れた久地神社の本社ということもあり、足をのばし、社殿にお参り。境内にあった案内に拠れば、「神社の創立年代は定かではありませんが、神社保存の棟札よれば、宝永5年(1709年)武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造営を僧・修禅院日清が修行したと記されております。江戸時代は神仏習合に よりまして、溝口村の鎮守・赤城大明神と称されておりました。
明治維新後、神仏分離の法により、溝口村(片町・上宿・中宿・下宿・六軒町・六番組)の総鎮守として祀るべく新たに伊勢神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称、更に明治6年(1873年)幣帛共進村社に指定されました。(以下略)」とあった。
溝口神社と簡易水道
境内に「川崎の歴史ガイド 溝口神社と簡易水道」があり、「赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守。この辺りは飲み水に不自由した。親井戸から水を引いた時代、ようやく完成させた簡易水道の時代、参道脇の水神社や水道組合碑が当時の苦労を物語る」とある。
「川崎の歴史ガイド」のパネル脇には水神様の小祠と、その裏に石の水道組合碑が建つ。昭和10年(1935)に建てられた石碑には、昭和4年(1929)から6年(1931)にかけての水道組合の軌跡を刻む。大石橋(濱田橋の少し下流)からJR溝口駅のすぐ東にある片町交差点(角に庚申塔がある)辺りは水に恵まれず、地元民の力によって親井戸を掘り竹や木の管を通し、樋を埋めた子井戸まで水を通したようである。

大石橋
濱田橋に戻り、用水を下り西浦橋を越えると大石橋。この大石橋が架かる道筋は、大山街道・矢倉沢往還である。橋の両脇にはコンクリートの模擬常夜灯が街道の趣を伝える。
現在はコンクリートの橋ではあるが、江戸の頃は、文字通り大きな石橋で、長さ6間(約11m)幅8尺(約2.4m)とある。が、ちょっと疑問。そんなに大きな一枚岩があるのだろうか?チェックすると、「大山街道 ふるさと館」の資料に、「この大石橋の由来は、川の真ん中に橋脚を立てて「枕石」 をのせ、その上に長さ七尺、幅一尺五寸くらいの「渡り石」を並べて架けてあったことから、大石橋と呼ばれるようになった」とあった。納得。
溝口水騒動
大石橋の由来はともあれ、この橋の北東に、溝口水騒動のきっかけをつくり、打ち壊しにあった溝口村の名主である問屋・丸屋の鈴木七右衛門の屋敷があった。二ヶ領用水を巡る幾多の水争いの中で最大の事件として知られる。
騒動の経緯をまとめる;文政4年(1821)、旱魃による水不足に苦しむ二ヶ領用水下流・川崎領の19の村は、役人に訴え、その結果、7月4日の夕刻から7日の夕刻にかけて、久地分量樋で川崎堀以外の用水口を一時止め、川崎領への通水が約束されることとなる。が、当日になっても水は流れてこない。その因は、溝口村名主である鈴木七右衛門と久地村の農民が自分たちの村への水を確保すべく、分量樋の水役人を追い払い、川崎堀を堰止めたためであった。
川崎領の村民は役人に訴えるも解決されないため、7月5日会合が行われ、丸屋・鈴木家の打ち壊しが決議された。翌6日、府中街道を北上。その数、一万四千余人となった、という。そして溝口村の村民と衝突。鈴木家と隣家2軒を打ち壊す事態となる。
この騒動の結果、川崎領の名主・村民にお叱りや罰金が科され、溝口村名主の鈴木七右衛門は所払いの厳罰、農民には罰金、そして騒動を取り締まることのできなかた役人も処分を受けた。

先ほど溝口神社で、溝口村の水不足の歴史を知ったばかりでもあり、堰を止めた溝口・久地にもよっぽどの窮状に見舞われていたのだろうかと、妄想する。

雁追(がんおい)橋
曙橋を下り、田園都市線を越えると、新雁追橋がある。橋脇に「川崎の歴史ガイド 雁追橋」のパネルがあり、「溝口付近は、江戸時代、将軍家の御鷹場として、野鳥が保護されていた。農産物を荒らす鳥を追い払う農民の苦労が橋の名となって残る。雁追橋は、もとは平瀬川にかかっていた」とある。

中原堰
平瀬川トンネルのメモのところで「旧平瀬川の流路は平瀬川トンネルの南、南武線の更に南にある、上之橋から溝の口駅の東へと、総合高津中央病院の裏(南側)を通り、二ヶ領用水・川崎堀にかかる平成橋の通り、すこし南に残る橋(弁慶橋だろう。といっても欄干が残るだけ)手前で二ヶ領用水・川崎堀の旧流路に合流していたようである」とメモした。総合高津中央病院はこの新雁追橋のすぐ南にある。ちょっと立ち寄り。
総合高津中央病裏の流路跡は現在自転車置き場となっているが、そこに「中原堰」の案内がある。案内には「ここに中原堰を保存。この関はかつてこの地を流れていた平瀬川に設けられた農業用施設。せき止められた水は用水路で導かれ、中原の田畑を潤していた。江戸時代から使われていたものだが、1915(大正4年)年に中原村の人々の手によりコンクリート製に改修されて堅固なものになった。堰の壁には建設に尽力した四ヶ村(上小田中、新城、下小田中、神地)の責任者・中原村村長・石工の名が記された銘板が埋め込まれている。(中略)。高津にある堰だが、中原の人によって造られ、中原の土地に水を引くものであり「中原堰」と名付けられた」とあった。

四ヶ村(上小田中、新城、下小田中、神地)は南武線・武蔵新城駅、武蔵中原駅の南北に跨る一帯(神地は武蔵中原駅の北)。二ヶ領用水の根方堀がこの辺りを流れているのだが、それだけでは不足で旧平瀬川からも水を求めたのだろか。

南田堰
中原堰に立ち寄ったついでに、その少し東にある南田堰に向かう。溝口駅前商店街の通りのど真ん中に「南田堰跡」があった。「川崎の歴史ガイド 南田堰」のパネルには、「円筒分水からわかれた支流の中で最も山側の「根方十三ヶ村堀」がここを流れていた。この近くにあった南田堰をめぐり、明治末期に溝口と久本側の大きな水騒動が起こった」とある。
根方十三ヶ村堀
円筒分水で分かれた「根方十三ヶ村堀」はこの南田堰で東部、中央部、西部と幾筋もの支流に分かれ各地区を潤す。南田の堰を巡る水騒動は、この堰で分岐する際の分水量を巡り、各地域が相争ったのであろう。

平成橋
用水を下り平成橋に。既にメモしたように、この橋の少し南で旧平瀬川と旧川崎堀が合流する。現在は河川改修し直線化している川崎堀であるが、改修前の流路は円筒分水から下流、蛇行を繰り返し下る。ついでのことであるので、合流点の確認に、平成橋から南に向かう。





平成橋から少し東に道を入るとほどなく道の両側に橋の欄干が残り、その下流に如何にも流路跡といった暗渠が続く。この流路は旧川崎堀と思われる。旧平瀬川はこの橋跡の少し上流で旧川崎堀に合わさったようである。
橋跡の西には梨畑が広がるが、Google Mapの衛星写真を見ると、総合高津中央病院の南から、如何にも流路跡といった道筋、そして緑の帯がこの梨畑の南に続いている。この梨畑の南西端辺りがふたつの旧流路の合流点かと思う。残念ながら梨畑から石の高欄の橋跡だけが残るところへと歩くことはできなかった。

二子坂戸緑道
平成橋に戻り、二子新生橋を越え二子塚橋に。二子塚橋の南に「二子坂戸緑道」がある。この緑道は昭和16年(1941)河川改修が行われ、流路が直線化する以前の旧川崎堀の流路である。二子と坂戸、河をその境とする二つの地域の境を流れた旧川崎堀を暗渠化した後を、公園などを含んだ緑道としている。用水北側の二子は「ふたつの塚(古墳)」、用水南側の坂戸は、元は「坂土」で、二子の渡しへと「下った地」に由来するとの説がある。
因みに、二ヶ領用水改良工事は昭和11年(1936‐1844)から19年にかけて行われた。

石橋供養塔
蛇行する二子坂戸緑道を抜けると用水に架かる境橋の脇に出る。緑道が道に当たるところに石塔があり「川崎の歴史ガイド 石橋供養塔」のパネルが建つ。説明には「この緑道がかつて二ヶ領用水の本流だった。寛政五年ここに架けられた石橋は二子方面と結ぶ大切な橋で、当時の供養塔が残っている。昭和16年、用水は今の流路につけ変えられた」とあった。
この橋は坂戸橋(供養塔脇に「橋戸橋」と刻まれた石碑が建つ)と呼ばれ、坂戸村から二子方面に渡る唯一の橋。寛政5年(1793)に木橋から石橋に架け替えられた時に石橋供養塔が建てられた。供養塔には「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」の題目が刻まれているが、それは村民の信仰する日蓮宗と真言宗に「配慮」したもの、とか。


第三京浜
境橋で、旧川崎堀の流路である二子坂戸緑道から、河川改修された現在の川崎堀に戻る。地域も二子を離れ北見方に入る。旧路はそのまま北見方と坂戸の境界線を下っているようである。
北見方の由来は、鎌倉幕府の有力御家人である江戸氏の後裔であり、世田谷区喜多見に居を構えた喜多見氏に拠るとも、文字通りどこかの親村の「北の方角」に開発した新田集落とか諸説あるようだ。
単調な用水沿いの道を進むと第三京浜の高架が見えてくる。第三京浜を潜ると。宮内地区に入る。川崎堀の南に小田中地区があるが、宮内と小田中の境を旧川崎堀が流れていたように思える。
旧川崎堀
旧川崎堀の流路痕跡が残るものかと第三京浜の高架下を彷徨う。確たるものはないのだが、旧川崎堀の流路辺りの高架下に水路渠があり、下流に延び、第三京浜を越えた先に暗渠が続く。
第三京浜を越えると小田中に関神社がある。「堰」に関係あるのかと思い、ちょっと立ち寄り。途中大弁財天の小祠があったりして、如何にも水路跡らしき道筋が関神社の方に下っていた。




関神社
関神社にお参り。新編武蔵風土記稿に拠れば、「(上小田中村)関明神社 村の北の方にて小名大ヶ谷戸にあり。其所の鎮守なり。近江国逢坂にたてる関明神のうつしなり。社南向2間に1間の覆屋あり。小社前に鳥居あり。例祭は9月17日宝蔵寺の持なり」とある。
「近江逢坂にたてる関神社のうつしなり」とは、この地を開墾した原氏(武田家の家臣原美濃守の後裔)の信仰した関蝉丸神社を此の地に分霊したこと。「大ヶ谷戸」とは元は「大茅野」と呼ばれた原野を開いた原氏が「大ヶ谷戸」と呼んだことにはじまる。現在も大谷戸小学校などの名にその歴史を残す。

井田堰
「旧川崎堀」と社の南に流れる「根方十三ヶ村堀」に囲まれた関神社を離れ、現在の川崎堀に戻る。「竹橋」の傍に取水口らしきものが見える。井井田堀がここで川崎堀から分かれる取水口のように思う。
井田堀
此の地で川崎堀から分かれた井田堀は南下し中原街道をクロスし、下小田中から井田に向かって下る。堰はかつて蛇籠で造られ、用水幅も7mほどもあった、とか。

八つ目土と水道水源地
井田堰取水口のある竹橋からひとつ先の「大ヶ谷戸橋」の手前に「歴史ガイド八つ目土と水道水源地」のパネルがあり、「八回目の土手という意味もあるという。ここは多摩川の旧堤防で、それほど度々決壊した所でもある。今の河川敷には、大正八年開設された市内最初の水道水源地、宮内貯水場があった」との説明があった。
明治時代の「東京今昔マップ 首都」を見ると、多摩川の堤は北見方、下野毛の南端部,川崎堀の少し北に沿って下り、井田堀そしてこの案内パネルのある辺りから宮内地区の境を多摩川に向かって大きく弧を描いて東に突出し、宮内と等々力の境に沿って今度は弧を描いて西に凹み、小杉陣屋地区との境を再び大きく弧を描いて東に突き出している。八つ目土にしても、井田堰にしても堤のすぐ傍のように見える。度々決壊した箇所との説明も古い地図と合わせてみれば納得できる。
また、宮内貯水場も堤外地に見える。説明には宮内貯水場は大正8年(1919)に開設とあるが、この多摩川の表流水を取水した宮内貯水池から導水した戸手浄水場(幸区役所傍)が完成したのは大正10年(1921)とのこと。これが川崎の近代水道のはじまりと言う。
戸手浄水場
その戸手浄水場も、昭和13年(1938)には菅さく井群から取り入れた多摩川の伏流水を水源とする生田浄水場、そして昭和29年(1954)には相模湖下流の沼本取水口で取り入れた相模川水系の水を水源とする長沢浄水場の整備などにともない、昭和43年(1954)、その役割を終える。

木月堰
「八つ目土と水道水源地」の案内パネルのあった「大ヶ谷戸橋」を南に下り、最初に架かる橋(宮戸橋のようだ)の脇に「木月堰」がある。ここから木月堀が分岐する。
木月堀
当地で川崎堀から分かれた木月堀は、川崎堀と井田堀に囲まれ南東に流れ、中原街道を越えて下小田中から木月へと下る。
木月堀分岐点から富士通の工場の東、川崎堀にかかる「上家内橋」の辺りまでは井田堀、木月堀、川崎堀が接近し並走して南東へと下る。

薬師橋から白田橋
宮内と上小田中地区の境を画する用水を下る。薬師橋の北には春日神社と常楽寺。いつだったか小杉を辿り、用水普請の差配をした小泉次太夫の陣屋を辿ったとき、春日神社の辺りから等々力緑地辺りを彷徨った。常楽寺は奈良時代、聖武天皇の祈願所として行基が開基との縁起が伝わる。薬師橋は薬師堂の遺構故の命名だろうか。
用水を更に下ると白田橋。橋の北に高元寺、南に泉沢寺の甍を見遣る。高元寺は川崎最古の寺子屋が開かれた寺、泉沢寺は世田谷領主・吉良氏の菩提寺。元は烏山(世田谷)にあったものが、火災で焼け落ちこの地に移った。

中原街道・神地
白田橋の辺りで、用水の北は小杉御殿町、南は今井上町に変わる。小杉御殿は家康の駿府往来の際の宿舎、鷹狩の休憩などのため二代将軍が建てたもの。とはいうものの、その心は開幕時、新領国の安定・整備のために設けられたものであり、藩幕体制が磐石なものとなってくると、その存在意義が薄くなり、同時に主街道が東海道に移ったこともあり、17世紀の中旬頃にはその役割を終え廃止された、とか。
用水が中原街道と交差するところに神地橋。橋脇に「歴史ガイド 二ヶ領用水と神地橋」のパネルがあり、「稲毛領・川崎領を潤した二ヶ領用水の本流は、ここ神地(こうじ)橋で中原街道と交わる。用水の恵みを受け、この辺りでとれた質の良い米は特に「稲毛米」と呼ばれ、江戸の人々に喜ばれた」とあった。 神地は地名に残る「耕地」に由来するとの説もある。実際、「今昔マップ 首都 1965-68」には宮内から南は、西下耕地、南耕地、下耕地、新田耕地、中耕地、中原街道を挟んで北は家附耕地、南は道下耕地などの地名が記載されている。往昔は泉沢寺の門前市が栄えた神地宿といった名もあった神地ではあるが、現在は地名として残ってはいない。
旧中原街道
旧中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。はじまりはよくわかっていないが、すでに近世以来存在し、家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。
江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中原街道;中世以来の主要道。平塚の中原と江戸を結ぶ。東海道の脇往還でもあった。はじまりはよくわかっていない。が、本格的に整備されたのは小田原北条の頃から。家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、この街道を利用した、と。
中原には将軍家の御殿(別荘)があったようである。上に「中世以来」とあるが、Wikipediaによれば、小田原北条氏の時代に本格的な整備が行われたようで、狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたとされる。 中原街道の経路は、江戸城桜田門(後に虎の門)から国道1号桜田通り、東京都道・神奈川県道2号、神奈川県道45号を通り平塚に向かう。また「中原街道」という名称も、江戸期に徳川幕府が行った慶長9年(1604)の整備以降であり、それ以前は相州街道あるいは小杉道とも呼ばれていたようである。

今井堰
神地橋のすぐ下流で今井堀の堰がある、という。行きつ戻りつ、取水口を探したのだが見つからなかった。後からチェックすると、取水口は取り払われているようである。







今井堀
この地で川崎堀と分かれた今井堀は今井神社の前を通り、南に下る。川崎堀に沿って今井上町緑道があり、いかにも水路跡らしき風情の道があったが今井堀跡だろうか。また、今井神社の鳥居の前には水路に架かる石橋が残る。さらに南に下って、南武線の高架手前の交差点の名は「今井堀踏切」とあった。南武線が高架になる前、今井堀が南武線とクロスしていたのだろう。さらに、南武線の高架橋にも「今井堀架道橋」とあった。水路は南に下り、渋川近くまで延びる。悪水落としの渋川に合わさっていたのだろうか。不明である。

今井神社

鎌倉初期、坂東八平氏の一、秩父次郎重忠の一族である小宮筑後守入道道康の霊を祀るため創建されたと伝わる。小宮筑後守入道道康についての資料は見つからなかったが、館は今井西町付近にあったようで、江戸時代にはその子孫は村の庄屋を務めた、と。元は山王社と呼ばれていたが、明治に日枝神社となり、さらに明治43年、旧今井村にあった弁天社、稲荷社を合祀し、村名をとり今井神社となった。



渋川分岐点
南武線の高架を潜ると水門が見える。渋川との分岐点である。水門脇に「川崎歴史ガイド 渋川と水車」のパネルがあり、「明治中頃まで、このあたりでは用水を利用したいくつかの水車が回り、精米が行われていた。他に麦を使った製粉も行われ、木月村や井田村、今井村の冬の副業である素麺業に使われた」とあった。
渋川
この水門で分かれた渋川は、今井、木月と下り、東急東横線の元住吉駅の東傍を越え、西加瀬で東海道新幹線の高架を潜り矢上川に合流する2.4キロほどの水路。現在は川底に内径10.4mもの雨水貯留管が埋められ、都市型雨水対策の水路の趣が強いが、元は水田を灌漑した水を排水する「悪水堀・落とし堀」ではあった。
渋川分岐傍にある大乗院には久地円筒分水の建設をはじめとした二ヶ領用水の改築、平瀬川改修に尽力した平賀栄治が眠る。

中丸子堰
渋川分岐から少し下流、現在の総合自治会館手前辺りに堰があったとのことだが、現在、取水口はみあたらない。ところで、この辺りは小杉であるのに、何故に中丸子?どうも、この地の東にある中丸子村の飛び地がここにあり、ここから中丸子へと水を引いていたようである。
中丸子堀
この地で川崎堀と分かれた中丸子堀は、自治会館から府中街道を南東に下り、東横線ガードを潜り、綱島街道市ノ坪交差点あたりから中丸子村にはいっていたようである。川崎市作成の用水マップには、中丸子堀から分かれた中丸子市の坪悪水、また、中丸子堰辺りから、中丸子村と逆の西の田中へと下る田中堀などが描かれている。

上平間堰
東急東横線の高架を潜った先に「仲よし橋」がある。かつてこの辺りには上平間堰の取水口があったようだ。現在は痕跡もないが、川床に杭を打ち込み、草で間を詰めた、所謂、「草堰」または「乱杭堰」と呼ばれるものであったようだ。
上平間堀
この地で分岐した水路は、府中街道に沿って、少し南を南東に下り、府中街道が東海道新幹線を潜り、横須賀線跨いで西側に移るとともに線路の西側に移り、一時、府中街道の北を流れた後、府中街道に沿って平間配水所辺りへとくだっていたようだ。かつては幅が11mもの水路で市ノ坪川とも称された、ともあるが、明治以降の地図をみてもそれらしき水路は見つけることができなかった。

苅宿堰
中原平和公園の中を流下する用水路に沿って進む。戦前、この地には戦闘機の計器などを製造する軍需工場・東京航空計器があった。ために、昭和20年(1945)4月14日の川崎大空襲に際しては、最初に火の手が上がった地とも言われる。 戦後跡地は駐留軍に接収され、米軍印刷局があり、ベトナム戦争時の謀略ビラや偽札の印刷が行われたと言う。昭和50年(1975)、返還され、跡地を平和公園と住吉高校としたようである。
公園内には旧流路の道筋も残ると言うが、現在の川崎堀は公園整地に際し、直線化されている。その用水路に沿って下り、公園を離れ住吉中学の東、東名高速高架手前に架かる昭和橋脇に取水口がある。現在の苅宿堰かとも思えるが、往昔の苅宿堰は、もっと上流、平和公園のある辺りにあったようである。
苅宿堀
川崎市作成の用水マップに拠れば、平和公園辺りで川崎堀から別れた苅宿堀は、川崎堀の少し東を南下し、住吉中学西脇を下り、東海道新幹線を越え苅宿小学校辺りまで下る。また、住吉中学の南で分岐する流れもあり、南東に向かい新幹線を越え、御幸橋跨線橋手前に流路を変え県道111号の東を県道に沿って下り、南加瀬で矢上川に合流する。

鹿島田堰
新幹線の高架を潜り、苅宿一号橋を越えた先にある無名の橋の辺りに鹿島田橋があったようである。痕跡はなにもないのだが、その分岐点らしき辺りに、苅宿一号橋とこの橋を繋ぐ、唐突に、妙に広い道がある。なんだろう?
鹿島田堀
今ひとつはっきりとはしないのだが、川崎市が作成した用水マップに拠ると、南東に向かい、横須賀線の東に移り、川崎堀の東を川崎堀に沿って下り、府中街道が川崎用水と合わさるあたりで流路を変えて南に向かう。そこから南武線に沿ってしばらく進んだ後、再度流路を変えて南西に向かい鶴見川手前の小倉へと進む。

御幸橋跨線橋
鹿島堀は横須賀線によって行く手を遮られる。横須賀線を跨ぐ御幸橋跨線橋を渡り線路の東側に移動。この跨線橋、横須賀線を跨ぐにしては線路の数が多すぎる。チェックすると、この橋の少し南にはかつて東洋一の規模の新鶴見操車場があり、京浜地区を発着するすべての貨車を「捌いていた」。操車場は昭和59年(1984)に信号所の機能は残し、貨物操車場としての機能は停止した。 横須賀線はこの貨物線を活用したものであり、多くの線路はこの横須賀線・湘南新宿線、そして貨物線の線路ではあろう。

鹿島田橋
跨線橋を渡り、川崎堀脇に下りる。平間駅入口交差点から東に向かう道に架かる大鹿橋、擬宝珠のデザインが施された朱印橋、府中街道とクロスするところには古い石橋の高欄が橋に平行に残る鹿島田橋に。鹿島田橋から先に進む川崎堀は南武線に遮られる。
朱印橋って、ちょっと気になる。チェックすると、少し東にある浄蓮寺に水戸光圀公の御朱印が届いたときに、この橋を通ったことに由来する、とか。


川崎堀踏切
府中街道に戻り、先に進むと南武線を渡る踏切があり、その名も川崎堀踏切と言う。ここにも古い水路に架かったであろう石橋の高欄が踏切を渡った東詰めに残されている。







大師堀・町田堀分岐点
川崎堀踏切から川崎堀が南武線を潜り東側に出る箇所に向かう。成り行きで線路沿って北に戻り用水出口に。金網のフェンスに囲まれたコンクリート造りの水路から出てくる用水を確認し、用水を少し戻り鳥居形造形物が特徴的な水路施設に。川崎堀はここで終了。ここからは右に町田堀、左に大師堀と二つに分かれ下流へと下ることになる。
「榎戸から溝の口の方へ流れて行っている用水の岸は、ちょっと風情に富んでいる。第一、水量の多いのが気持ちが好い。榎戸の橋のところにある大堰からして既に見事である。四、五年前、暑い日に通った時には、この用水の岸は深樹と竹藪とに蔽われて、その中を用水が凄まじい音をたてて流れて行くというさまで、おりおり水に臨んで、夢見るような合歓(ねむ)の花が咲いているなど、そぞろに私達の心を惹いた。しかし、それから二、三年して行った時には、その岸の樹も伐られたりすかされたりして、風景が大分浅露になっていた。しかし、まだ捨てることの出来ないある特色を持っていた。それに、相模丘陵のすぐ近く迫っているのも好かった」。

田山花袋の『東京近郊 一日の行楽』の一節である。先回の散歩メモは上河原取水堰からはじめ、田山花袋の描く榎戸堰を経て宿河原取水堰からの用水(宿河原線)の合流点までカバーした。花袋の描く用水風景は大正初期の頃であり、コンクリートで護岸工事され、周囲に宅地が立ち並ぶ現在の二ヶ領用水本川に、当時の面影を偲ぶ縁(よすが)は望むべくもないのだが、ともあれ二ヶ領用水にあるふたつの取水口の上流の取水口からはじめ、下流に設けられた宿河原堰取水口からの用水合流点である落合までをメモした。
今回はその宿河原堰からはじめ、落合まで下り、合流点から二ヶ領本川を辿り、久地の円筒分水手前の平瀬川までをメモすることにする。



本日のルート:小田急線・登戸駅>宿河原堰堤>二ヶ領せせらぎ館>船島(ふねしま)稲荷社>JR南武線>北村橋>八幡下圦樋>多摩川旧堤防(「宿河原の霞堤」)>八幡堰>宿河原八幡宮>川崎市緑化センター>五ヶ村堀と八幡下の堰>宿之島橋>宿之島稲荷>中宿地蔵菩薩>徒然草の碑>前川堀が宿河原線に注ぐ>久地の合流点>鷹匠橋>堰前橋>久地の横土手>供養塔>久地分量樋跡>平瀬川>多摩川の旧堤防(「久地の霞堤」)

小田急線・登戸駅
宿河原堰堤の最寄駅である小田急線・登戸駅で下車。いつだったか、この登戸駅で下車し、多摩丘陵へと進んだことがある。登戸の「戸」は場所といった意味。多摩川の低湿地から多摩丘陵に登る場所であったのだろう。田山花袋は前述の『東京近郊 1日の行楽』で、「登戸河岸から見た多摩の上流の翠微、これがまた捨て難い。瀬の多い脈のように流れた川、その先に複雑した丘陵、またその先に奥深く多摩の山群が美しくかがやいていた」と描く。
登戸は、江戸から津久井に通じる津久井往還、また幾多ある大山道のひとつが通る道筋であり、津久井の絹や黒川の炭、禅寺丸柿を運ぶ商人、大山詣で賑わったことだろう。

登戸の渡し
此の地には多摩川を渡る渡し場のひとつである登戸の渡しがあった。江戸の頃は小田急線の鉄橋の辺り、明治にはやや上流に移り、明治の終わりの頃は、世田谷通りが通る水道橋辺りに渡し場があったようである。
登戸の渡は多摩川を狛江に渡り、現在の砧浄水場辺りまで東に進み、そこから北に上り慶元寺辺りに。そこからは大雑把に言って、「品川道」を南に下る道、三軒茶屋から往昔、武蔵国の郡衙のあった現在の皇居西の丸あたりに向かうふたつに分かれていたようである。狛江道、品川道を辿った狛江散歩が懐かしい。

宿河原堰堤
登戸駅から成り行きで多摩川堤に進み、宿河原堰堤に向かう。多摩川堤を進むも、宿河原取水口で行き止まり。少し下流を回り込み車道脇の船島人道橋を渡り、「二ヶ領せせらぎ館」を見遣りながら、とりあえず堰堤に向かう。
3つの魚道を持ち、固定部が洪水時の水をうまく流せるようにした、起伏式5門、引上式1門の可動式の堰からなる現在の宿河原堰堤が完成したのは平成11年(1999)のこと。
江戸の頃、竹で編んだ籠に砂利を詰めた蛇籠を並べて取水した堰が、上河原堰と同様に大正期の社会状況の変化に伴い、取水堰の改築が必要となった。多摩川の水位低下、そして灌漑用水だけでなく工業用水といった水需要の増大が発生し、安定的な取水量の確保が必要となったためである。
上河原堰は昭和16年(1941)に工事着工し、昭和20年(1945)に完成したが、宿河原堰の改築・コンクリート化工事は戦後になってから。完成は昭和24年(1949)のこと。工事責任者は上河原堰と同じく平賀栄治である。
ここにおいて一時的な蛇籠堰から恒久的なコンクリート堰となり、安定的な取水が可能となるが、このコンクリート堰は固定堰であったため、後に大災害を引き起こすこととなる。
昭和49年(1974)のこと、台風で狛江市猪方の多摩川堤防が決壊、家屋19軒が流失した。その要因は宿河原堰の固定堰に流れが遮られ、水位を増した多摩川の激流によって堤防が決壊したわけである。山田太一さんの原作・脚本になるテレビドラマ『岸辺のアルバム』での、崩壊した堤とともに民家が濁流に飲み込まれるシーンが、ジャニスイアンの主題歌とともに思い起こされる。
それはともあれ、その状況を踏まえ平成5年(1993)、宿河原堰の改築方法の検討を開始し、その結果完成したのが、現在の宿河原堰堤である。


二ヶ領用水・宿河原堰の完成時期
ところで、江戸の頃、宿河原堰が完成したのは、上河原堰の完成した慶長16年(1611)に遅れること18年、寛永6年(1629)、関東郡代である伊奈忠治の手代である筧助兵衛の手になるものとされてきた。が、近年になり、慶長16年(1611)に小泉次太夫により最初に完成した二ヶ領用水の堰は、宿河原堰であるとか、完成は寛永6年(1629)であるが、普請者は田中丘隅であるとか、あれこれの説がでているようである。
どうしたところで、二ヶ領用水の資料は抹殺されたと言うか、残ってないわけであり、確とした説はないようだが、何となく気になるのは、上河原堰からの二ヶ領本川を「新川」とも称する、ということ。新川という以上、古川があったのだろうし、その古川のほうが古く開削されたとは想像できる。新川と呼ばれた時期がいつの頃か不明のため、何とも言えないが、二ヶ領用水開削期に呼ばれていたのであれば、宿河原が先、との説も少しは説得力を持つとは思える。

二ヶ領せせらぎ館
宿河原堰を離れ「二ヶ領せせらぎ館」に。多摩川や二ヶ領用水の歴史、堰の説明、多摩川の自然に関する資料を展示するこの施設ができたのは平成11年(1999)のこと。可動堰として改築された現在の宿河原堰の管理棟の一部を使って誕生した。
管理運営は「NPO法人 多摩川エコミュージアム」が行っており、今年(平成27年;2015)訪れた時、同NPOが制作した二ヶ領用水に関する資料である、「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」を数点買い求め、手懸りの無かった二ヶ領用水散歩に「取りつく島」が出来、散歩が結構豊かなものとなった。


島(ふねしま)稲荷社
「二ヶ領せせらぎ館」の少し南、多摩川堤の河道側、河川敷といった場所に船島稲荷社がある。細長く延びる参道の左手は多摩川である。明神形式の鳥居を潜り、二の鳥居の先に御嶽神社の小祠が祀られる。その先にある社殿はコンクリート造りであり、社殿の扉には草鞋がくくりつけられていた。
社殿脇にある「船島稲荷社のゆかり」と刻まれた石碑には「多摩川の川辺に古くは中の島、現在は舟島と言うふるさとがある此の地を開拓した我らの先祖は信仰の氏神として稲荷社を祀った。治水興農の守護神として爾来幾百年しばしば暴風雨水害に見舞はれ度々境内を移したりした。昭和十二年境内は決壊し樹齢数百年に及ぶ神木は流れ、社殿は水浸しとなるも常に霊験加護を信じ神徳に浴さんとする氏子の信仰心を結集し複興して今日にいたったのである」とあり、続いて、本殿を近代風に改築した旨が昭和54年の日付とともに刻まれていた。コンクリートの本殿は昭和54年(1979)に建て替えられたようである。
本殿の扉に草鞋が括り付けられているのは、馬の脚の無事なるを祈り、藁沓を奉納したのがはじまり、とも言われる。馬が日常生活からいなくなった今日では、足の怪我などに御利益があるとする。草鞋を持ちかえれば早く治り、そのお礼に新しい草鞋を奉納するようである。

それにしても、何故に暴れ川のすぐ傍に社を祭ったのだろう?ちょっと考える。と、多摩川の河道が現在のものとなったのは天正18年(1590)の洪水以降、という先回散歩のメモを思い出した。すでにメモしたように往昔の多摩川は、その流路定まること知らず、といったものであったにせよ、現在より多摩丘陵に近いところを南に下っていた、とのこと。所謂(いわゆる)、「多摩川の南流時代」の主たる川筋は上河原堰から下る現在のニケ領本川のルートとも言われる。 この社の創建は不詳ではあるが、中の島とも舟島(明治の地図には船嶋とある)とも称された氾濫原に浮かぶ自然堤防、微高地にあったにせよ、敢えて暴れ川の河原・河川敷に祀ることもないだろうから、創建時期は天正18年(1590)以前、ということではあろうか。
社には天保13年(1842)再建との古文書が残るとのこと。多摩川の川筋から少し離れた微高地にあった社も、多摩川の河道の変化により、予期せず川傍となってしまい、石碑にあったように、氏子が再建を繰り返してきた、ということではあろう。

JR南武線
船島橋手前にある取水ゲート(樋門)を見遣り、橋を越えて用水に沿って進む。用水の両岸は護岸工事がなされ、水辺を歩ける親水公園といった趣となっている。また、用水の両岸は、昭和34年(1959)頃から地元民により大々的に植樹され、現在450本以上の桜並木となっている。
新船島橋を越え先に進むと、南武線と交差。低いガードを、少し背を屈め、線路下を抜ける。




北村橋・前川堀並走
用水に沿って進むと、交通量の多い橋と交差する。その「北村橋」の手前、右岸から用水が接近し、コンクリートで仕切られた水路として二ヶ領用水・宿河原線と並走する。
この並走する用水は「前川堀」とのこと。二ヶ領用水・宿河原線と開渠で並走した前川堀は、ほどなく木やコンクリートで蓋をされ、遊歩道として南に下り、東名高速高架下辺りで宿河原線の用水に水を吐き出すことになる。
前川堀分岐

川崎市の制作した用水マップに拠れば、二ヶ領本川に五反田川が合流する地点辺りから東に前川堀(中田堀とも)が分岐する。水路は小田急線・向ヶ岡遊園前の南、登戸地区と宿河原2丁目地区の境を東に向かい、宿河原小学校の二筋手前の道を、S字を描いて進み紺屋堀に合流。合流した水は宿河原堰で取水した宿河原線と並走し、東名高速高架下付近で宿河原線の用水に注ぐ。

八幡下圦樋
南武線・宿河原駅前から続く商店街の道筋が用水を渡る宿河原橋、次いで仲之橋を越えてくだると八幡下橋。橋の傍、というか橋上の一隅に、コンクリートのモニュメントがある。モニュメントは交差する樋の形をしており、「八幡下圦樋 明治四十三年四月竣工」とあり、脇にその案内がある。
案内には「八幡下圦樋」とは、この二ヶ領用水の水を堰止め調整したものである。当時の工事請負人関山五郎右衛門という人により明治四十三年四月に完成した。
その昔(年号不詳)、現在の宿河原二丁目二十四番地(宿河原幼稚園付近)を起点に東は高津区宇奈根まで多摩川の旧堤防が築かれていたが、洪水により下流の水害を防ぐために、ここに圦樋を造り、その上流三十米の八幡堀より多摩川に放流して水を調整したものである。
最近この圦樋が逆に堰となり、洪水に度に近隣の住宅に水害を起こすことにより取り壊されたのである。昭和六十三年十一月 吉日」とあった。
NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」には「古文書によれば、元禄15年(1702)にはじめて八幡下圦樋ができた。その後幾度も改修、移動があり明治43年(1910)大改修があり、コンクリートとなり、同時にこの年、下流の久地大圦樋、久地分量樋の改修もなされた」とあった。

多摩川旧堤防(「宿河原の霞堤」)
石碑の案内には「現在の宿河原二丁目二十四番地(宿河原幼稚園付近)を起点に東は高津区宇奈根まで多摩川の旧堤防が築かれていた」とあり、衛星写真には「多摩川の旧流路」が描かれていた。大雑把に言って、旧流路は八幡下堰辺りまでは二ヶ領本川とほぼ同じであるが、八幡下堰辺りからは二ヶ領本川を離れ、南武線を下辺として北に大きく半円を描き、その先は多摩川に向かって北東に向かっている。
NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」にある旧多摩川堤防の説明によれば、「現在のこのあたりの堤防は昭和7年頃から造られ始めたもので、それまでは近世以来の旧堤防(明治14年の地図にあり)が使われていた。その堤防は霞提で、ずっとつながったものではなく、稲田地区では3ヶ所あり、この宿河原あたりでは、常照寺近くからはじまり、堰(注;地区名)をとおり、宇奈根の多摩沿線道路まで続いていたよう。
現在、とくに新明国上教本部の裏手、南武線を渡りさらに北に行ったところには旧堤が高く盛られた形で残り、道になって東名高速下まで続き、旧堤の面影を残している。この宿河原の旧堤防の北側はかつて堤外地で、畑や桃、梨畑であった」と説明されていた。
石碑の案内にあった宿河原幼稚園は北村橋を南に下った宿河原交差点の東側、常照寺の少し東にある。Google Mapの衛星写真を見ると、南武線の北に如何にも堤跡といった緑に囲まれた道筋が見える。 二ヶ領本川の仲之橋辺りから堤防跡を辿ると、南武線・宿河原第一踏切の先から南武線・不動第二踏切の間で北に大きく弧を描き、そこからは明確に堤防と分かる「高みが宅地を分断し、北東へと向かい川崎市多摩区と高津区の境あたりまで続いていた。メモの都合上、この堤防を一応「宿河原の霞堤」と呼ぶことにする。
霞提
霞堤は伊奈流・関東流の特徴とされる治水工法。乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった、自然と折り合いをつけた「自然に優しい工法」。しかし、それゆえに問題もあった。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。
こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。為永は乗越提や霞提を取り払い、蛇行河川を堤防などで固定し、直線化した。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることになったようである。井沢弥惣兵衛為永の普請工事としては、見沼代用水が知られる。

八幡堰
八幡下圦樋の案内に「圦樋(注;水門)を造り、その上流三十米の八幡堀より多摩川に放流して水を調整した」とある。この水路は八幡堀と呼ばれる。圦樋の上流三十米にある、とのこと。少し用水を戻ると、用水左岸に宿河原仲町町会の防災プレハブ倉庫がある。八幡堀はかつて、この辺りから分岐し、八幡下圦樋で調整された水を多摩川に戻していたようである。
八幡堀
此の地で宿河原線から分岐した八幡堀は、南武線の下を潜り、北東に流れ、向の岡興業高校の先で多摩川に注ぐ。上で多摩川の旧堤防のメモをしたが、明治の地図を見ると、その南を堤防に沿って下っていたように見える。
堰の長池
明治の地図を見ていると、現在の新明国上教本部の北から向の岡興業高校近くまで、池、と言うか沼地といったものが描かれている。現在の東名高速辺りを中心に東西に細長くのびたこの池は、昔の多摩川の流路跡であったようで、「堰の長池」と呼ばれたとのこと。八幡堀はこの池に注ぎ多摩川へと下ったようである。
この池も現在の多摩川の堤防が築かれる昭和7年(1932)頃から、池の西半分は新明国上教(大正期にできた宗教団体)によって埋め立てられ宿坊や水田となり、池の東、堰地区も戦後埋め立てられ梨畑、そして現在では大半が宅地となっている(「NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」)。

宿河原八幡宮
八幡堀と言うからには、八幡さまが近くあるのだろうとチェック。宿河原橋の少し南に宿河原八幡宮がある。用水を仲之橋、宿河原橋へと戻り、宿河原八幡宮へ。
社にお参り。こじんまりとした宿河原村の鎮守さまである。元は多摩川北岸にあったとのことであるが、安政9年(1826)に多摩川の川瀬が北に移り、社は悉く流出。常照寺観音堂のあったこの地に移った、とのことである。
宿河原
宿とは集落の意味。河原にあった集落が村名の由来。武蔵風土記稿には「此処昔開墾の頃の村落なるにや、もとより多摩川の河原なれば宿河原を以(注;もって)村名とするならん」とあり、続けて「駒井(注;現在の東京都狛江市駒井)は地の続きし所なれば」と記されている。戦国期の小田原衆所領役帳には、「駒井宿河原」との記録があり、現在は多摩川の対岸となっている駒井地区と宿河原は、往昔一体であったことがうかがえる。安政9年(1826)の多摩川の流路の変更により、駒井と宿河原は泣き別れとなってしまったのであろう。
常照寺
真言宗豊山派のお寺さま。創建年度は不詳だが、15世紀末か16世紀初頭との説がある。結構古い歴史のあるお寺さまである。地図を見ると、お寺さまの南に開渠が見える。五ヶ村堀の用水路かと思う。五ヶ村堀はここから暗渠となり八幡様辺りを下り、下にメモする八幡下圦樋記念碑の残る八幡下橋の少し下流で、コンクリート架け樋となって二ヶ領用水を渡る。

川崎市緑化センター
八幡さまから用水に戻る。八幡下橋を越えて先に進むと、用水左岸に川崎市の緑化センターがある。HPの資料に拠ると、「神奈川県農業試験場東部園芸指導地が昭和11年(1936年)に開設されました。その後、この施設は昭和24年(1949年)に川崎市に移管され、川崎市園芸技術普及農場として、ナシやモモなどの果樹栽培技術の普及、家畜伝染病の予防、農業用機械の技術講習場として活用されたほか、土壌診断や野菜及び花卉に関する試験栽培の実施など、多種の業務により市内の農業技術の向上を担ってまいりました。
フルーツパーク(現川崎市農業技術支援センター)に果樹栽培試験に関する業務を移管後、昭和54年(1979年)に都市緑化の推進のために設定された川崎市緑化センター条例に基づき、「緑の相談所」の機能を持つ川崎市緑化センターとなりました」とあった。
四季折々には夥しい数の花が咲く園内では展示会、育成講習会なども開催されているとのことである。

五ヶ村堀と八幡下の堰
緑化センターを見遣りながら先に進むと。「川崎の歴史ガイド」のパネルがあり、「五ヶ村堀と八幡下の堰」とあった。
案内には、「五ヶ村堀はこの地点で本用水と立体交差をし、堰方面の田畑を潤す。近くにある八幡下の堰は、白秋の多摩川音頭で有名な「堰の長池」から多摩川に通じ、排水路の役割を果たした」とある。
案内に「近くにある八幡下の堰」以下の記述は、八幡下圦樋で堰止められた用水を堰の長池から多摩川に通じた排水路、とあるから上でメモした八幡堀のことだろう。
また、用水を掛渡しの樋でクロスするのは五ヶ村堀である。
五ヶ村堀のルート
小田急線・向ヶ岡遊園駅の少し東、小田急線の高架が二ヶ領本川を跨ぐ下にある取水口で取水された用水は、しばらく二ヶ領本川に沿って暗渠で流れた後、開渠の状態で宿河原に丁目を東から西に直線で進み、宿河原6丁目で宿河原堰から取水された宿河原線を樋で越え、南武線手前で流路を変え、線路に沿って南東に下り、東名高速を越えた先で北東に流れを変え、南武線を渡り多摩川に注ぐ。

白秋の多摩川音頭
白秋の多摩川音頭って何?チェックすると、先回の散歩でメモした庚申塔を建立した丸山教のHPに多摩川音頭と白秋のことが記されていた。その記事に拠ると、多摩川音頭は、丸山教の教主が稲田村の青年団のために、白秋に依頼したもの。白秋は登戸の丸山教に度々訪れるも、酒宴に興じ、なかなか完成しなかったようだ。 で、しびれを切らした青年団は白秋を車に乗せ、菅の土手から中の島、登戸、枡形山、宿河原、堰など多摩川沿いの各地を回り、風景だけでなく言い伝え、行事を見て回り昭和3年(1928)、31節からなる郷土の民謡として生まれた、とのことである。
どういったものかチェックする。Youyubeに多摩川音頭がアップされていた。一部聞き取れないところもあったが、歌詞をメモする。

  囃せ 囃せや 多摩川音頭
  (ちりへうと ちりへうと ちりへうと へう へう)
  笠は鮎鷹 笠は鮎鷹 手はさらり 
  月の砧は昔のことよ いまは鮎鷹 ちりへうと へう へう(「月の砧は」の囃子は以下の節の後
  に合いの手で入る)
  菅の薬師は 雌獅子に牡獅子 わしもおまへも わしもおまへも 胸太鼓
  恋は(?) 百草は絡む  わしとおまえの わしとおまえの中の島
  多摩の登戸 六兵衛様よ 藤は六尺 藤は六尺 いま盛り 
   花は咲いたよ河原の桃が (?)
  堰の長池 でて見りゃ長い おまへ待つ夜は おまへ待つ夜は まだ長い
  稲田よいとこ 稲穂は垂れる 梨は明るむ 梨は明らむ 日は晴れる
  今朝も晴れたよ 秩父が晴れた 多摩の河原の 多摩の河原の風上に(?)

菅の薬師とは文治3年(1187)にこの地方の領主であった稲毛三郎重成が建立した薬師堂(多摩区菅北浦4-16-2)であり、境内で行われる獅子舞は菅の獅子舞として知られる。登戸の六兵衛さまとは、丸山教の教祖。境内には美しい藤棚があるようだ。堰の長池は既にメモした。
踊りは鮎鷹(コアジサシ)が小魚を捕る姿をイメージしたものであり、囃子の「ちりへうと ちりへうと」は 鮎鷹)の鳴き声をまねたものとのこと

なお、Youtubeの動画には31節からなる音頭はすべて含まれてないようで、
  わたしゃ鮎鷹 多摩川そだち 水の瀬の瀬を 水の瀬の瀬を 見てはやる
  酒は枡のみ 枡形山よ 山の横あな 山の横あな ほらばかり
  さらす調布(てづくり) さらさら流れ なぜかあのこが なぜかあの子が かう可愛い
といったフレーズもあるようだ。
また、先回のメモで稲田堤のところで記した
  咲いた咲いたよ 稲田のさくら 時は世ざかり 時は世ざかり 花ざかり
なども含まれているようだ。

枡形山は稲毛三郎の城がある丘陵。長者穴。山の横あなは、黄金を埋めたという伝説ののこるほら穴であり、ほら=法螺話をかけるいるようだ。
何度も聞いているうちに、多摩川音頭か頭の中をグルグル永久循環しはじめた。

宿之島橋
八幡下橋に戻り、用水を下り宿之島(しゅくのしま)橋に。橋の袂に地蔵の祠が佇む。三体の地蔵様は阿弥陀三尊であり、本尊と左右の脇侍仏よりなり、宿河原で最も大きな祠とのことで、上宿地蔵と称されるようだ。
御嶽神社代参大札
地蔵の祠には「武蔵国 御嶽神社代参祈祷神璽 講中安全」と書かれた、御嶽神社の御札が立てられている。
そう言えば、船島神社にも御嶽社の小祠があった。大田区には木曾の御嶽に関わりのある御嶽神社もあるようだが、こちらは「武蔵国」ともあり、青梅の御嶽神社の講中であろう。

狛江の御嶽講
この地の記録ではないが、往昔、宿河原と一体であったと上に記した狛江の駒井には現在でも御嶽講が残るとも聞く。
御嶽講は農業の神である作神様、盗難除けの神として信仰され、かつては狛江のどの村にも御嶽の講があったようだ。現在の代参は車で行き、お参りし、そのお札は各戸に配られるほか、「御嶽神社祈祷神璽 講中安全」と書かれた辻札と呼ばれる代参大札の2枚のうち一枚が杉の葉と一緒に細竹に挟み北向き地蔵のところに建てられる、とある。パターンとしては、この地のものと同じである。現在もこの地に御嶽講が残ってはいるのだろうか。

宿之島稲荷
高橋、中村橋、稲荷橋と進む。稲荷橋の右岸に宿之島稲荷、宿之島と下綱(現在は長尾)の守り神。明治8年(1875)の建立とのこと。
歳神御神体
境内左手に小祠があり石の御神体が祀られる。「当地、歳神御神体の由来」とある。
説明は長く、私の頭では少々論旨不明のところもあるため、正確か否かは別にして、自分なりにまとめると;家々では、お正月に稲・田の神である歳神さまをお迎えする。小正月になると再び山(天上)に戻る歳神様をお送りするため、竹・藁で小屋をつくり、中に火の神御神体の石を祭り込み、若い衆が一晩か二晩飲食を楽しんだ後、竹・藁の小屋を焼く、お焚き上げ行事を行う。
歳神さまはお焚き上げの煙とともに天上に戻り、お焚き上げで焼いた餅などを食べると無病息災などの御利益がある、と言う。
このお焚き上げ行事を「どんど焼き」と称する地方も多いが、サイト(バライ)とも呼ばれる。サイトは斎灯と書くようだが、これは村の道祖神のお祭りと結びついたため、とも言われる。道祖神は「塞(さい・さえ)の神」とも呼ばれており、サイトとは、塞神=道祖神を祀った場所がその由来のようである。 因みに、どんど焼きをサイト、サイトバライと称するのは長野、山梨、静岡、新潟などに多いようであるが、相模でもサイトバライと呼ぶこともあるようだ。先日、八菅修験の散歩で才戸橋に出合った。根拠はないが、この橋の由来も「サイト(バライ)」からだろうか。

中宿地蔵菩薩
稲荷橋から用水左岸を下ると東名高速の高架に近づく。道脇に二体の地蔵を祀る小祠がある。仲宿地蔵菩薩。造立は宝暦9年(1759)。宿河原最古の地蔵尊とのことである。

徒然草の碑
東名高速の高架手前に石碑があり、「徒然草 第百十五段 吉田兼好」と刻まれる。:本文には、「河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり」とある。
意味は訳すまでもないが、石碑には刻まれていないが徒然草の第百十五段には、続けて「ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまゝに書き付け侍るなり」と続く。
この宿河原、この以外に大阪の茨木の宿河原にも徒然草の碑があるようだ。門外漢であり、どちらかはわからないが、「東国で殺されたと聞いたので訪ねてきた」と言うことから、この地との説も故なきわけではなさそうではある。

前川堀が宿河原線に注ぐ
前川橋の辺りからコンクリート壁で水路は隔てられ、二ヶ領用水・宿河原線と並走してきた前川堀の水は、東名高速の高架下でひっそりと宿河原線(用水)に注ぐ。







二ヶ領本川と宿河原からの用水合流点・落合
東名高速の高架下、そして南武線を跨ぐ道路下を潜り、先に進むと先回歩いた二ヶ領本川に宿河原堰からの用水が合流する箇所・落合に出る。ここからは二ヶ領本川を下ることになる。





久地の合流点
二ヶ領本川を少し下ると、南武線に当たる。手前に人道橋があり、脇に「川崎の歴史ガイド 久地の合流点」の案内パネルがあり、「ここで合流した用水は久地の円筒分水を経て稲毛・川崎領の田畑を潤した。現在の許容取水量は、1日あたり中野島から約46万トン、宿河原から約35万トン、合計80万トンである」とあった。
既にメモしたように、この許容取水量も現在では久地円筒分水手前の平瀬川でその80%を多摩川に戻すようである。久地の円筒分水は次回の散歩でメモする。



鷹匠橋
南武線の人道橋を渡り府中街道に出る。道の左手にある南武線・久地駅を見遣りながら進むと、久地駅前交差点に鷹匠橋が架かる、橋の中央に「川崎の歴史ガイド 鷹匠橋」とあり、「江戸時代、川崎にも将軍家の御鷹場があり、この近くに鷹匠を泊める名主の家があったが。そこには常に御鷹部屋という特別の部屋が設けられ、鷹や鷹匠は大変手厚くもてなされた」と案内があった。
久地駅
久地駅は昭和2年(1927)に「久地梅林停留場」として開業。付近には江戸時代から梅の栽培が盛んで、数百株の梅の名所として知られており、梅林を観光名所と目した命名である。昭和8年(1933)には北原白秋も久地梅林を訪れ「君がため未明(まだき)に起きて梅の花見に来たりけりまさやけき花」など十首を詠んでいる。
とは言うものの、田山花袋は『東京近郊 1日の行楽』で、「久地の梅は、依然たる田舎の梅林だ。ヤヤ世離れたという意味では面白いが、それほど大騒ぎするようなところでもない。梅もそんない多くない」と描く。

この梅林も戦前の平瀬川の開削(次回散歩でメモする)、戦時中の食糧増産のため(梅が伐採され畑地になった、ということだろう)ほとんどが伐採され、また、戦後の工場進出や宅地化の進展のため往時の面影は少なくなり、梅園幼稚園とか久地梅林公園(平成14年;2002年開園)といった地名に往昔の名残を留める(久地梅林公園に上記白秋の歌碑が建つ)。
久地の由来
久地の地名の由来は例によって諸説ある。NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」には、溝の口に入り口であるところから、「くち」が「くじ」に転化、多摩川の幾度もの流路変更により、河岸が抉られた=くじられた(注;急な崖のことを「クジ」と言う)、久地地区の南の丘陵は現在津田山と呼ばれているが、元々、比丘尼山と呼ばれており、久地は比丘尼に因む(注;比丘尼を祀った弁天堂が小名の久地にあった、ということか)、または音が転化した、といった記述があった。比丘尼云々の話は今一つよくわからない。

堰前橋
鷹匠橋から用水に沿って先に進み、人道橋を越えると堰前橋。「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠ると、この辺りに久地の悪水吐けがあった、とのこと。カシミール3Dのプラグイン「タイルマップ一覧」の「今昔マップ 首都1896‐1909」でチェックすると、堰前橋の少し手前辺りから蛇行しながら北東へと流れ多摩川の河原に続く水路が見える。これが田畑を灌漑した余水を流す悪水路かと思う。

久地の横土手
堰前橋のひとつ下流の久地橋の左岸手前に「川崎の歴史ガイド 久地の横土手」がある。「多摩川に対して直角につくられた横土手。江戸時代、洪水時の水勢を弱める目的でつくられた。この土手を挟んで利害対立が激しく、工事は約三百メートル進んだところで中断した」と説明がある。
なるほど、用水に直角に広い道がある。土手と言うほどの堤はない。以前は両側に比べて一段高い土手があったようだが、現在は宅地開発で平坦に整地されている。
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、「元禄の頃(1700頃)、久地の大圦樋や分量樋(注;後述する)を護り、二千町歩の水田を多摩川の氾濫による水没から防ぐため、関東郡代伊奈半十郎は、久地の横土手の強化を決意。伊奈氏の甲州流治水のひとつ、霞土手とは河流に対して横方向に堤防を築いて氾濫した洪水を上流の低地に滞水させて水勢を弱め、川下の堤防の決壊を防ぐ手法。
横土手が作られたのは幕府直轄地であったが、その中に宇奈根村の飛地だけが井伊家の私領であったことが工事中にわかり、後の工事中断の一要因にもなった(井伊家の承諾なしに伊奈半十郎が工事を行った)。この横土手は当時としてはかなり大規模工事(下部の幅約30m、上部の幅約7m、長さ約240m)で、完成することなく半分ほどで中断されたが、作られた分の跡が今日まで伝えられているのは、この工事の陰には幾つかの悲話が残されているからであろうか」とある。

供養塔
「川崎の歴史ガイド 久地の横土手」の傍に小祠がある。水神様とも言われるが、横土手築造にかかわる伝説である「浄庵安正」の供養塔なのかも知れない。「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」を読んでもはっきりしない。
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、浄庵安正の伝説とは、横土手の完成により水没する宇奈根、堰、宿河原の村民のために、工事役人を斬り殺した浄安安正の恩義に報うため、供養の塚を造ったとの言い伝え。村民の度重なる工事中止の懇請にもかかわらず、工事は強行され、横土手によって守られることになる村民との間で、諍いが起きるも役人は工事を強行。
堰村の名主屋敷に寄宿していた浄庵安正は、今こそ恩返しの時と、工事役人を斬り殺し、多摩川対岸にある支配違いの伊井領の役所に出頭。横土手の工事が進む宇奈根は井伊領の飛び地であり、その井伊家に無断で工事を進めていた工事役人は事が公になることを怖れ、事件をなかったことに始末し、工事も取りやめることなった、とのこと。
浄庵安正の恩義に報うため築いた「塚」は、この小祠の道を隔てた南、現在ガーデンマンションが建つ辺りであったが、その建設に伴い、平成17年(2005)に、この地に小公園がつくられ供養塔が移されたようである」といった説明があるのだが、この小祠が供養のために築かれた「供養塚」から移された「供養塔」なのかどうか、はっきりしない、ということである。

久地分量樋跡
用水に沿って下ると、用水右岸に丘陵の緑が繁る辺りの道脇に石碑があり「久地分量樋跡」とあり、「久地分量樋は、多摩川から二カ所で取入れられ、久地で合流した二ヶ領用水の水を、四つの幅に分け、堀ごとの水量比率を保つための施設で、江戸時代中期に田中丘隅(休愚)によって作られました。そして昭和16年(1941)年、久地円筒分水の完成により、役割を終えました」との説明があった。
「四つの幅に分けられた、各堀」とは川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀(各堀は次回メモ)。分量樋では各灌漑面積に比例した幅の樋(水門)によって水量比を保とうとしたが、この方法では用水中央部では流水量が多く、端は流水量が少ないといった事情もあり、正確に分水することが難しく、水の配分を巡り水騒動が起こることになったようである。
田山花袋の『東京近郊 1日の行楽』には「この用水は久地の梅のある少し手前で、大堰をつくって、溝の口の方へ流れて行っているが、その堰のあたりも、丘陵が迫って来ていて感じが好い。夏行った時には、其処で村の子供達が銅のような肌をして、河童のように潜ったり飛び込んだりしていた」と描く。
田中丘隅(休愚)
平沢村(現在のあきるの市で名主の子として生まれ、川崎宿の本陣を務める田中兵庫の養子となった丘隅(休愚)は、名主、問屋も兼ね、関東郡代伊奈忠逵(ただみち)と交渉し六郷川の渡しの権利により得、その利益で宿の繁栄に貢献。 50歳で江戸に出て荻生徂徠などに学び、その後農政・民生の意見をまとめた『民間省要』が大岡忠相の眼にとまり、八代将軍吉宗の御前にて農政・水利の意見を述べ、結果、川除普請奉行に命ぜられ荒川、多摩川、酒匂川の改修にあわせて、享保9年(1724)二ヶ領用水改修の命を受けた。丘隅は宿河原取水口の改修、開削以来百年を越えた総延長32キロに及ぶ用水の大浚い、そしてこの分量樋を造り、古くなった二ヶ領用水を蘇らせた。

久地大圦樋
また、分量樋の手前には、分量樋を洪水などの被害から護るための久地大圦樋(幹線水路の水量調節用の水門や、比較的大きい水門を圦碑)、そして、圦樋の手前には吐口があり、余剰水を多摩川に水路で流した。木製の大圦樋は明治43年(1910)1月に壊れたため、同年12月、コンクリート製に改築された。

平瀬川
先に進むと用水先に水門が見え、その先は平瀬川。久地の円筒分水は、川を越えた先にある。円筒分水からのメモは次回にまわし、今回の散歩は、久地大圦樋の辺りから現在の平瀬川の東に残る多摩川の旧堤防を締めとする。



多摩川の旧堤防(「久地の霞堤」)
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、久地大圦樋の辺りから多摩川に向かって北東に霞堤が残る、と言う。Google1 Mapの衛星写真にも明らかに堤防跡らしき緑の帯が続く。 平瀬川を渡るとほどなく、これも明確に堤とわかる「高み」が宅地のど真ん中を多摩川へと続いていた。この堤がいつ頃築造されたか不明であるが、途中には堤外排水施設(堤の北はかつての堤外、河川敷)や河口からの里程を示す標識らしきものが残り、つい最近まで多摩川の堤防であったような風情を呈していた。メモの都合上、この堤を「久地の霞堤」とする。
久地の横土手と霞堤
この「久地の霞堤」と「宿河原の霞堤」を歩いてみて、これらの多摩川の旧堤防と横土手の関係がよくわからなくなってきた。霞堤と言う以上、川筋に沿って、不連続ではあるが、上流側の堤防が下流側の堤防より河川側に入り込みながら平行して堤があったのだろうが、「宿河原の霞堤」とそれに不連続で続くであろう多摩川の霞堤に関する記述は、「久地の宿河原」しか見当たらない。 もし、この間に堤がなかったとすれば霞堤間は1キロ弱もある。河道に沿って微高地・自然堤防があったのか、蛇籠によって枡形が造られ多摩川の激流を防いだのか、はたまた、自然に任せた遊水地であったのか不明であるが、これほどの「開口部」である以上、どうしたところで洪水時には一帯は氾濫原となったかと思う。
その氾濫原に下流部を防ぐ横土手を造るからと言って、確かに堤の上流部の水位はあがるだろうが、所詮は横土手がなくても氾濫原であることには変わりない。また、すぐ下流に分水樋から延びる霞提があれば、あえて横土手を造る理由もわからない。

自分なりに納得できる「理屈」は、用水開削時には「久地の霞堤」は横土手築造時にはなく、横土手築造を断念した故の築造であろう、ということ。伊井家領との諍いを避け、横土手を断念した後、幕府直轄領に霞堤を築くことにしたのかとも妄想する。
「久地の霞堤」が無ければ、一帯が氾濫原であろうが、横土手築堤により、共に氾濫原という「痛み分け」のバランスが崩れ、堤の上流部だけが被害を受け、下流部だけが被害を免れるといったことが納得できず、堤の上流部と下流部の村民の諍となったのだろうか。
ひとつ気になることがある。横土手を巡る諍いは伊井家の領地が絡んでいるわけだが、先日読んだ『江戸村方騒動顛末記;高橋敏(ちくま新書)』には、井伊家領の宇奈根村の百姓が幕閣を相手に名主・村役人の不正と井伊家(彦根藩)の不備を訴える越訴をおこなっている事実が書かれていた。訴状を書き上げる力のある百姓がいた、ということである。
横土手も井伊家領宇奈根が絡む諍いである。同書に言う「ものいう百姓」が多数育っていたことが騒動の一因であろうか。久地の分量樋から多摩川に続く「久地の霞堤」は、「ものいう百姓」のいる井伊家領宇奈根村を避け、天領に築堤したのであろう。が、どうしたところで、氾濫原に堤防ができれば、その上流域の村民は洪水被害が増大するわけ、それにもかかわらず、これといった諍いの言い伝えは残っていない。はてさて。

今回のメモはここまで。次回は、平瀬川のあれこれ、円筒分水、また、かつては久地分量樋から分かれた川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀などのことなどからメモを再開しようと思う。

ニケ領用水は折に触れて歩いてはいる。が、散歩のメモは一度もしていない。何となくその気にならなかったり、その気にはなったのだが、他にフックが掛る散歩が急浮上したりして、タイミングを逃し今に至っている。

二ヶ領用水を最初に歩いたのは平成20年(2008)。もう7年も前になるだろうか。平成18年(2006)に六郷用水を辿ったとき、その用水奉行である小泉次太夫が、六郷用水と同時期に手掛けた治水事業として二ヶ領用水があることを知り、川崎市多摩区にある稲田堤駅の少し南の上河原取水堰から溝の口辺りまで歩いた。円筒分水には少し心を動かされたが、それでも何となくメモをする気にはなれなかった。
今年(平成27年;2015年)に入り、春の桜の頃、再び二ヶ領用水を訪ねた。今度は、ニケ領用水の二つの取水口のひとつである宿河原取水口から南に下った。そのとき、たまたま宿河原堰の近くにあった「ニケ領せせらぎ館」を訪れ、ニケ領用水に関する資料を手に入れた。
その資料をもとに、二ヶ領用水の概要をチェックし、平成20年(2008)に歩いたコースは、上河原堰から取水口から久地の円筒分水までは「二ヶ領本川」であり、久地の円筒分水から溝の口までは「川崎堀」と呼ばれる二ヶ領用水の堀であることを知った。
当日は川崎堀が大師堀と町田堀に分かれる鹿島田まで下ったのだが、後日鹿島田から二つに分かれる大師堀と町田堀、そして悪水落としである渋川、そのほか成り行きでいつくかの支線を辿った。

さて、メモをはじめようと資料を見る。と、ニケ領用水の上部に大丸用水がある。ニケ領用水に注ぐ支流かと、ちょっと寄り道程度に大丸用水に取り付いたのだが、これが結構な規模の用水であり、結局数回に渡り歩くことになってしまった。
その大丸用水散歩のメモはなんとか書き終えたのだが、時期は春を越え夏となり、夏は沢三昧でしょうと、水根沢逆川といった沢登りのメモにフックがかかり、二ヶ領用水のメモは、またまた据え置きとなってしまった。

夏も終え、この秋こそはニケ領用水散歩のメモを終えるべし、と資料を再びチェック。あれこれ調べていると、ニケ領用水の本流や支流をまとめた川崎市作成の地図があることがわかり、溝の口にある「地名資料館」を訪ねた(川崎市の市立図書館にもあるとのこと)。
地図をコピーし、その水路図をカシミール3Dに書き写す。元の地図は小さく、はっきりしたルートは特定できないのだが、カシミール3Dのプラグインである「タイルマップ」の関東平野迅速測図や「明治の今昔マッ」プを参考に水路トラックを引いた。そしてそのトラックデータをフリーソフトの「轍」でKMLファイルに変換し、Google Mapにインポートした(カシミール3Dでも直接KML ファイルを書き出すことができることはその後知った)。
もとよりそのルートの大半は暗渠であり、中には完全に埋められているものもあり、現在の地図では確認できないし、明治の地図にも記載されていないルートもあるので、推定図の域を出てはいない。

それはともあれ、この作業をしながら、なんとなくニケ領用水のメモを今まで躊躇っていた要因がわかったような気がする。自分の性格からして、まずは全体像を大雑把にでも把握できないことには、メモができない、というか、その気になれなかった、ということではあろう。
二ヶ領用水の水路全体の概要はわかった。今まで辿ったルートが全体のどういった位置づけの水路か、ということもなんとなくわかってきた。Google Mapにプロットしたニケ領用水の全体を頭に入れながら、今まで歩いたルートを、実際に歩いたログに拘らず整理しメモをはじめ、未だ歩いていないが何となく気になるルートを今後辿ろうと思う。その過程で、現在は大雑把ではあるGoogle Mapのニケ領用水概要図をより正確なものにしていければとも思っている。


本日のルート:京王稲田堤駅>大丸用水・菅堀>二ヶ領上河原堰堤>二ヶ領用水・上河原取水口>稲田取水所>二ヶ領用水と新三沢川の立体交差>ふだっこ橋>布田堰>中野島堰>沖川原橋>古い道標>一本圦堰>紺屋(こうや)前の堰>台和橋>「登戸付近の紙すき」の案内>新川橋>小泉橋>榎戸堰>榎戸の庚申塔>小田急線と交差>現在の五ケ村堀取水口>五反田川が合流>前川堀分岐>五ケ村堀緑地>新開橋>向ヶ岡遊園跡>長尾橋>長尾の天然氷>宿河原堰からの宿河原線と合流



ニケ領用水
散歩に先立ち、二ヶ領用水の概要をまとめておく。ニケ領用水の流路図は上にメモした通り、川崎市の作成した水路マップを参考にGoogle Mapにプロットした。既にメモした通り、元図は小さく、かつコピーでもあり、正確な場所の特定は少々困難でもあり、明治の地図などを手掛かりに線引きした推定図にすぎない。大雑把な全体の位置関係、その規模感などを把握するためのものである。

で、二ヶ領用水の概略であるが、名前の由来は徳川幕府直轄の天領である稲毛領と川崎領を流れたことによる。全長32キロ(支線まで含まれているかどうか不明)、現在の神奈川県川崎市多摩区から川崎市幸区をカバーする。 用水工事に着手したのは慶長2年(1597)。正確には多摩川の両岸の測量がこの年に開始された、と言う。この両岸という意味合いは、六郷用水と二ヶ領用水のこと。用水開削は慶長4年(1599)。1月には六郷用水、用水は6月から開削が開始されたようだ。
用水工事の用水奉行は小泉次太夫。次太夫が家康より六郷領、稲毛領、川崎領の治水事業普請を下命されたのは天正18年(1590)。用水工事の測量が開始される7年も前のことである。
この年は秀吉の小田原攻めの真っ最中。その陣中にて秀吉より三河・遠州・駿河・甲斐・信濃の150万石から、関東6国・240万石へ移封が家康に伝えられた時である。家康は新封地の状況を把握し、多摩川両岸の開発が焦眉の急として、今川・武田そして徳川へと仕え治水に実績のある家系の次太夫にこの任務をアサインしたのであろう。
交通の要衝である小杉に陣屋を構えた次太夫は多摩川の両岸を調査。当時の多摩川は天正17年(1589)、18年(1590)と大洪水が続いた直後であり、それまで現在の流路より多摩丘陵に近い箇所を流れていた多摩川は、現在の流れにその流れを変えた。大洪水前の多摩川を「多摩川南流時代」、以降を「多摩川北流時代」とも称される。
天正17年(1589)の大洪水では、溝の口あたりから下流域が北東側にその流れを変えた。翌18年(1590)の大氾濫は上流の矢野口・菅あたりから溝の口あたりまでが大きく北に変えた。ほぼ現在の流路である。



その氾濫原を天正18年(1590)時点で52歳であり、戦傷のため不自由な足を引き摺り次太夫は7年にわたって多摩川の両岸を調査。工事の基本方針を決める。その概要は、稲毛領は上流部の菅村(現在の稲田堤辺り)の標高28m?30m、下平間付近が標高4m?5mほどで傾斜は問題なく、天正18年(1590)の洪水跡を用水幹線として活用し、流路中程の久地辺りで分水し下流を潤す。取水地は堰村(現在東名高速が走る辺り。堰の地名が残る)より上流ならどこでもよさそう、と。
川崎領は沖積デルタ地帯の平坦地が広がり、鹿島田辺りで幹線を二つに分け(大師堀と町田堀)、さらにその二つの堀から分水し、川崎の下流域を潤すといったものである(六郷用水は省略)。

次太夫の調査を踏まえ、慶長元年(1596)、家康臨席のもと幕閣より用水工事が正式に承認され、前述の如く慶長2年(1597)より測量が開始され、慶長4年(1599)より工事が開始されることになる。工事が完成したのは慶長16年(1611)、測量開始から14年後のことである。因みに工事は当時稲毛領・川崎領、そして六郷領ともに一村7軒程度であった状況を考慮し、役務負担を減らすため、六郷領水と二ヶ領用水の工事を3ケ月交代で行った、とのことである。

この用水開削により、「此の地(注:川崎領)数里の間水脈通ぜず、溝血梗塞し、毎歳旱、田に勺水無く、野に青草無し、居民産を失ひ、戸口従って減ず」と称された稲毛・川崎領、世田谷六郷領に灌漑用水、生活用水が供給されるようになり、江戸中期には用水の受益面積は約2000町歩、その石高は26,000石まで達したという。一町はほぼ1ヘクタール。よく比較に出る東京ドームと比較すれば、4.7ヘクタール(役4.7町歩)の東京ドーム400個強というところだろうか。

時代は移り、明治42年(1909)には灌漑・生活受益面積がおよそ2800町歩まで達したニケ領用水であるが、その後都市化、工業化の進展によりその受益面積は減少を続け、昭和16年(1941)には約1600町歩、昭和33年(1959)には546町歩、そして平成4年(1992)には26町歩となり、灌漑・生活の基盤としての役割を終え、現在は幹線部を河川として残す他はおおよそ暗渠または埋め潰されている。

現状の姿を大雑把にまとめると、上河原取水堰で多摩川から取水されたニケ領本川は取水口ちかくの稲田取水所から生田浄水場に送られ、工業用水として使用されている。余水はニケ領本川を下るも、久地の円筒分水手前の平瀬川に80%の水を落とす。
サイフォンで円筒分水に導水された余水20%の用水は開渠となって川崎堀を下り鹿島田の平間配水所に至る。この配水所は、昭和14年(1940)に造られた日本初の工業用水のための公営浄水場であった。が、臨海工場地帯の工業用水の需要減少に伴い、現在はその機能は停止し長沢浄水場と生田浄水場から送水管で送られる工業用水の配水をしているだけであり、ここまで流れていた用水も現在では活用されることなく暗渠をとおり多摩川に流される、とのことである。つまるところ、現在の二ヶ領用水は、一部が工業用水、また僅かに灌漑用水に活用はされているが、大半は多摩川に戻されている、と言うところだろう。

いつものことながら、全体のまとめが少し長くなってしまった。以上のまとめを頭に入れながら散歩のメモを始めることにする。


京王稲田堤駅
二ヶ領用水の取水口である二ヶ領上河原堰堤の最寄り駅京王稲田堤に向かう。駅名の由来は、明治31年(1898)、多摩川堤の完成と日露戦争の勝利を記念し稲田村大字菅の堤にソメイヨシノを植え、桜の名所となったことが契機。北原白秋作詞の『多摩川音頭』には「咲いた咲いたよ 稲田のさくら 時は世ざかり 時は世ざかり 花ざかり」と詠まれる。
 斯くして「稲田堤」の名が広まり、昭和2年(1927)に南武線稲田堤停留場(現在の南武線稲田堤駅)が開業することにより、通り名として定着した。昔の大字を冠した「菅稲田堤」という地名は残るが、稲田堤という名は正式な地名として見当たらない。
稲田堤駅のある稲田村は江戸の頃、稲毛米という良質の米で名高く、将軍家や皇室に献上されていた、と言う。「稲田村で質のいい稲田米」。これって出来すぎの地名と産物の関係。そもそもが、流路定まることのない多摩川の氾濫原であり、稲毛領にはニケ領用水ができるまで一村に7軒程度の農家しかなかった、と上にメモした。
チェックすると稲田村ができたのは明治22年(1889)。江戸の頃の登戸村、菅村、宿河原村、堰村の4ケ村が合併してできたとのこと。そして、この稲田堤駅の辺りは菅村のようだ。慶長9年(1604)に大丸用水、慶長16年(1611)に開削されるまでは、菅村の地名の文字が示すように、多摩川の洪水の氾濫原に「菅(すげ)」が生い茂る寒村ではあったのだろう。

大丸用水・菅堀
京王線稲田堤で下り、多摩川堤にある二ヶ領用水上川原堰に向かう。道なりに進み南武線稲田堤駅先の踏切を左に折れ多摩川の堤に進む。途中の道脇に水路が見える。これは先回歩いた大丸用水の菅堀(新堀とも称される)の開水路である。菅堀は少し南東に下り三沢川に合流する。
現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。

二ヶ領上河原堰堤
菅稲田堤地区を歩き多摩川の堤に出る。サイクリングロードも整備されている堤の少し下流に堰堤が見える。二ヶ領上河原堰堤である。3門の洪水吐ゲートが目に入る。このコンクリート堰堤の原型が完成したのは昭和20年(1945)。昭和41年(1966)の台風によりダムの一部が破損したため、昭和46年(1971)に現在の堰堤が完成した。
堰堤は、川崎側に魚道と3門の巻き上げ式洪水吐ゲート、調布側には魚道のついた固定堤、そして洪水吐ケートと固定堰の間には流量調整ゲートが設けられている。

この二ヶ領上河原堰堤は二ヶ領用水開削時の取水口である「中野島取水口」と比定される。完成は慶長16年(1611)とされる(異説もある)。この地が取水口となった理由も不明であるが、上にメモした多摩川南流時代の多摩川の河道跡を活用したものとされる。中野島の名が示すように、流路定まらぬ氾濫原に残った島、と言うか微高地(中野島)を用水堤防とするのは理に掛っている。

蛇籠からコンクリート堰堤に
それはともあれ、取水口には竹で編んだ蛇籠に石を入れ、流れを堰止めて取水していたとのことである。そしてこの蛇籠堰は稲毛・川崎領を潤す取水堰として補修されながら明治まで続くが、大正期に至り、社会状況の変化にともなう河川環境の変化のため取水堰の変化が必要となる。その要因は水位の低下と、水需要の増大である。また、二ヶ領用水の目的も水田灌漑用水から工業用水へのシフトもその要因ではあろう。
大正12年(1923)の関東大震災後の東京の復興のための建設資材としての砂利採取、そして人口の増大・東京都市化の進展に対応するため玉川上水・羽村堰からの取水増大のために多摩川の河床の低下、川崎の京浜工業地帯への工業用水の需要増大、さらには小河内ダム建設に伴う多摩川の流量減少、これらの二ヶ領用水を取り巻く環境の変化に対応し、安定した水量を確保するため従来の蛇籠を改めコンクリート堰を基本とする建設計画が策定される。
その計画には多摩川の伏流水を活用する六郷用水、狛江浄水場、砧下・砧上浄水場、玉川浄水場への地下流路を止めないよう、「浮き堰堤(堰堤基礎部分を不透性地盤ではなくその上の砂礫層に打ち込む)」構造を用い、昭和16年(1941)に工事着工し、昭和20年(1945)に完成した。責任者は久地の円筒分水を建設した平賀栄治である。
平賀栄治
明治25年(1892)、現在の山梨県甲府生れ。東京農業大土木工学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て昭和15年(1940)に神奈川県多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、久地円筒分水の建設などに携わった。

二ヶ領用水・上河原取水口
二ヶ領上河原堰堤手前に二ヶ領上河原取水口があり取水口脇に案内がある。案内には、「中野島取入れ口 二ヶ領用水の建設は、徳川家康の命を受けた代官小泉次太夫によって始められ、慶長16年(1611)の完成まで実に14年の歳月を要する難工事であった。全長32キロメートル。県内最古の用水でもある。 この取り入口は二ヶ領用水ができた時の最初のもので、当時ここからの取水だけで稲毛領と川崎領の水田を潤した。用水流域の水田開発に伴って、水量を補うため、この下流部に宿河原取入れ口が開設されたのは約二十年後の寛永6(1629)年である」とあった。
上にメモしたが、同時に開削された六郷用水の工事記録は残るが、二ヶ領用水に関する工事記録は残されていない。案内には宿河原取入れ口が上河原(中野島)取入れ口の20年後とあるが、宿河原取入れ口の工事が先との説もあるようで、詳細は不明である。
散歩の折々、用水歩きをすることも多いのだが、箱根用水荻窪用水山北用水など普請の責任者が商人・庄屋などお武家でない場合は記録が残らないものも多い。中には箱根用水のように、故なく罪を咎められ入獄といったケースもある。有名な玉川上水を普請した玉川兄弟も後に、罪を咎められている。が、二ヶ領用水は幕府直轄事業である。その記録が残らないのは、如何なる事情があったのだろう。結構気になる。

二ヶ領用水上河原取水樋門
取水口から堤下の車道に架かる布田橋を越え、先に進むと小橋に水門が現れる。二ヶ領用水上河原取水樋門と呼ばれるこの水門は二ヶ領用水の水量調整を行う。実際的な用水取水口と言えるだろう。多摩川の取水口から久地の円筒分水地点までの二ヶ領用水は「二ヶ領本川」と称されるようである。





稲田取水所
その二ヶ領本川を先に進むと水門がある。用水脇にある稲田取水所の制水扉門である。この取水所は、川崎市の工業用水のおよそ半分を占める水源である多摩川表流水を1日20万立方メートル取水し、内径1.5mの導水管(第5導水管)で生田浄水場まで原水を送る施設である。
生田浄水場は、稲田取水所から導水した多摩川表流水と「菅さく井群」から導水した地下水を浄水処理する施設ではあるが、平成28年(2016)には水道事業の浄水機能を停止し、工業用水専用の浄水場となったようだ。
因みに20万立方メートルを先ほど同様東京ドームとの比較でチェックすると、1万立方メートルでおおよそ東京ドーム2.5個分であるから、20万立方メートル=東京ドーム約50個分の水を導水することになろうか。

菅さく井群
ところで、「生田浄水場へは菅さく井から導水した地下水を浄水処理する」とある。その量1日5万立法メートル、と言う。その「さく井群」がどこにあるのかチェックするが特定できない。ひとつ気になるのは、多摩川の堤を上河原堰堤に向かう途中、「稲田水源地」と記された施設脇に「接合井及び取水埋管」と書かれたコンクリート施設があった。取水埋管とは伏流水を汲み上げる水管。接合井は水管の接合部にあり、水圧の調節機能などをもつ、と言う。多摩川の伏流水=地下水ではあろう。とすれば、この「接合井及び取水埋管」も菅さく井群のひとつであったか、とも妄想する。最も、この水源地は昭和13年(1938)から昭和51年(1976)までは運転していたが、現在は使われていないとのことである。
それはともあれ、既にメモしたように、この稲田取水所で工業用水用に取り入れられた二ヶ領用水の余水は下流の平瀬川でその80%を落とす。また、平瀬川をサイフォンで潜り久地の円筒分水から下流へと流れる用水も、かつては工業用水の浄水場であった平間浄水場で活用されていたが、現在はその機能を停止し、長沢浄水場と生田浄水場から送られる工業用水の配水所・平間配水所となっており、用水を活用することなく暗渠で多摩川に戻す。つまるところ、稲毛・川崎領の水田を潤した二ヶ領用水であるが、現在ではわずかの水田・果樹園の灌漑用水との機能を残すも、主としてこの稲田取水所でその水を工業用水として活用する役割へとその姿を変えているように思える。

二ヶ領用水と新三沢川の立体交差
二ヶ領本川を先に進むと三沢川と交差する地点で地中に潜る。用水は三沢川を越えたところで再び顔を出す。用水は三沢川の下を導管か地下水路で通り、サイフォンの原理で再び現すわけだ。
もっとも、この三沢川、正確には、新たに開削されたこの新三沢川が開削された当初は、三沢川の方が二ヶ領用水の下を通っていたとのこと。が、その仕組みでは大雨時の三沢川への放水量に制限があったためだろうか、現在の姿に改修されたと言う。河道と用水の立体交差の上下が逆になるケースは散歩の折々に出合う。立川の玉川上水と残堀川もそうであった。

三沢川
この三沢川は、昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川(旧三沢川は新たに開削された川筋を越え、丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)の改修に際し、新たに開削された川筋であり、二ヶ領用水が開削された当時にこの河道はない。





ふだっこ橋
再び地表に顔を出した用水を先に進むと小橋があり、「ふだっこ橋」とある。この道筋はかつての筏道とのこと。筏道とは狛江散歩でも出合ったが、近世、特に幕末から明治にかけ、多摩川の上流の奥多摩や青梅といった杣の地で伐り出したら丸太を河口の六郷辺りまで運んだ筏師が、木場の材木商に引き渡し、大金を懐に家路へと向かった道筋。その筏師は当時の花形職業であったようだ。



布田堰
「ふだっこ橋」の少し先、用水の左岸に水門が見える。堰の前には川床に杭が打たれ、粗くではあるが水を留めている。このように杭を打ち石・木・草などで粗く築いた堰のことを草堰と呼ぶ(「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」)。
川崎市の作成した用水マップによると、この堰から取水された水は「中野島新田堀」とのこと。取水口から開渠が二ヶ領用水に沿って進みJR南部線を潜る。



中野島堰
南武線で行く手を阻まれ、用水右岸に戻りJR南部線を越えると、ほどなく布田堰と同じ風情の草堰が左岸に見える。川崎市の用水マップによれば「中野島堰」とある。そしてこの取水口から続く支線は「登戸川原堀」と呼ばれる。






中野島新田堀と登戸川原堀が交差
水路の様子をチェックすべく、少し下流の「中の島橋」を渡り用水左岸に移る。道を南武線まで戻ると、南武線を潜った「中野島新田堀」の開渠は暗渠となりニケ領本川に沿って下り、「中野島堰」から取水された「登戸川原堀」と交差し、少し下流で二手に分かれる。


左手に分かれた本線、と言っても細流ではあるが、民家の間に入っていく。そのまま南に下る流れは「中の島橋」へと下ってきた大丸用水の菅堀(新堀)に合わさり中野島地域へと向かう。中の島橋から南東に、いかにも流路跡らしき道筋が見えるが、それが菅堀(新堀)の跡ではないだろうか。暗渠もなく完全に埋め潰されているようもみえるので想像の域を脱しない。大正の中頃までは大丸用水の菅堀は懸樋で二ヶ領用水を越えていたようである(「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」)。
一方、「中野島新田堀」の下を潜った「登戸川原堀」は結構大きな暗渠として北東に進みJR 南武線の下を潜る。

中野島新田堀と登戸川原堀
JR南武線を潜った登戸川原堀は布田地区を南武線に沿って進みJR南武線・中野島駅の北を大きく弧を描いて進み、南武線の北を中野島地区から登戸新町地区に入り、南武線・小田急線登戸駅北で多摩川に注ぐ。
一方の中野新田堀は分岐点から民家に間を抜けJR南武線を潜りおおよそ布田地区と中野島地区の境あたりのJR線路脇で登戸川原堀に合流する。川崎市作成の用水マップを参考にGoogle Mapに「二ヶ領用水概要図」を作成した。大よその流路図ではあるが、参考にして頂ければと思う。

沖川原橋
田村橋、北星橋と進み一風変わった風情の沖川原橋で右岸から水路が合流する。この水路は旧三沢川である。ところで何故に「沖川原橋」と呼ぶのだろう。橋傍の標石には「みさわかわばし(昭和10年竣工)」刻まれているとも言う。周辺の地名にも「沖川原」といった地名はない。
語源から言えば、「沖」って「水の中」と言った意味もあり、氾濫原であった往昔の姿を伝えるにはいいネーミングとも思うのだが、どのよう経緯で「沖川原」が登場したのか不明である。

橋本橋・古い道標
旧三沢川と二ヶ領用水の合流点の左岸には中野島中学校がある。この辺りまで菅馬場地区と中野島地区の境を流れた用水は、これよりしばらくは中野島地区と生田地区の境を下ることになる。
新川橋を越え橋本橋に。車両が行き交う橋の北詰に古い道標が建つ。「正面 當字ヲ経テ調布村方面」、矢印とともに「土淵ヲ経テ高石柿生村方面」「登戸ヲ経テ榎戸高津方面」と記され。そして「御大典記念 昭和3年・・:・」と刻まれている。
御大典
昭和3年(1928)の御大典とは昭和天皇の即位の儀式のこと。明治42年(1909)の「旧皇室典範」の定めにより、即位の儀式はに前天皇の喪が明けて執り行われることになったため、この年になっている。因みに大正天皇の即位の儀は大正4年(1915)とのことである。
土淵
地名にある土淵とは往昔のこの辺りの地名。明治の地図には記載されている。また、生田浄水場近くの府中街道には「土渕」交差点の名前が残る。

一本圦堰
橋本橋から先は河川敷にも遊歩道が整備され親水公園といった趣があるが、その道を辿ると、一本圦橋の手前の用水中にふたつのマンホールの蓋のようなものが見える。何だか気になりチェックすると、ここはかつて「一本圦堰」と呼ばれる草堰があった箇所であった。
一本圦堰の名前の由来は、昭和25年(1950)頃、草堰からコンクリート堰となり、その取水口の扉が大きな一枚の板であったことによる((「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」))。
現在では取水堰は見当たらないが、用水中のマンホールの蓋のような管よりポンプアップで取水されているとのこと。用水脇にある薄茶色小施設がポンプ場であろうか。ここで取水された水は一本圦堰となる。
一本圦堀
川崎市作成の用水マップによれば、この地で取水された一本圦堀は、中野島地区と登戸地区の境を北東に登り、大丸用水の菅堀を併せ、南武線手前で流れを南東に変え、南武線の沿って下り、世田谷通りの先で再び南武線を越えて「登戸新田堀」に合流する。

暗渠や埋め潰された用水が多い中、この一本圦堰は現在で多くの部分が開渠として残る。宅地開発された隙間に梨畑とか耕地が残るが、現在でも灌漑用水として機能しているのであろうか。そう言えば、元々は六郷橋下流の大師河原が発祥の地である梨の長十郎は、その生産地を登戸・中野島一帯に移したとのことでもあるので、一本圦堰は梨の生産に一役買っているのかだろうか。

紺屋(こうや)前の堰
一本圦堰跡から緑の木々の遊歩道を少し進むと、台和橋の手前の用水左岸に「川崎歴史ガイド 紺屋前の堰」の案内がある。かつてこの近くに藍染屋があったのがその名の由来。水は新田堀、高田堀、鮒堀、水車堀などに分かれ、登戸一帯を支えた。今は上流の一本圦の堰が使われている、との説明があった。






用水脇の案内の下を通る道脇に石碑があり、その脇に小さく古い石柱があり、「紺屋前堰水門柱」と刻まれる。石碑には「紺屋前堰記念碑」とあり、「此の碑は紺屋前の堰と言う徳川の初期の頃、登戸一帯の農作物其の他人間生活を支えて来た取水口である。
昭和38年土地改良により水利統合の為休止し又今回二ヶ領用水改良工事につき堰を取拂う事になり我ら遠き先祖とともに歩んできた堰に感謝の意を表し、茲に登戸の紺屋前堰跡として之を建立する 昭和四十九年五月 吉日 発起人一同」と刻まれていた。
紺屋前堀
「川崎歴史ガイド 紺屋前の堰」の案内には、「水は新田堀、高田堀、鮒堀、水車堀などに分かれ、登戸一帯を支えた」とある。が、川崎市作成の用水マップには紺屋堀としてひとつの流れが描かれているだけである。往昔、この支流から幾多の細流にわかれていたのではあろう。実際、カシミール3Dのプラグインの「タイルマップ一覧」にある明治の頃の「今昔マップ」を見るに、支流から細流らしきものが見て取れるが、どれが上記の分流か、特定する手懸りはない。
川崎市作成の紺屋前堀のルートは、台和橋手前から南東に下り、世田谷通り登戸交差点手前辺りで流路を変え、南西に向かって大きく弧を描き小田急向ヶ丘遊園駅を越え、南武線手前で再び流路を変え、南東に真っ直ぐ下り「前川堀(注;後からメモする)」に合流。合流した流れは、これもこの先メモすることになる二ヶ領用水・宿河原取水口からの流れ(宿河原線)に合わさるようだ。

台和橋
紺屋前堀跡の直ぐ先に台和橋。小泉次太夫のレリーフが橋にデザインされている。この地で山下川が合流する。
山下川は、多摩区菅馬場地先に源を発し、多摩丘陵の北縁にあたる丘陵地に沿って東に向かって流下し、途中で北東に流路を変え、この地で二ヶ領用水に合流する2キロ弱の河川である。川の周辺は日本住宅公団(現在は都市再生機構)により谷を削り大規模な宅地開発がなされている。源流点の先にある菅北浦調整池は、洪水対策の施設ではあろう。

「登戸付近の紙すき」の案内
台和橋を越え、宅地の中を流れる用水に沿って進むと、次の橋、と言っても特に名前は記されてはいないのだが、その橋脇に「川崎歴史ガイド 登戸付近の紙漉き」の案内。「豊富な地下水を利用した登戸付近の紙すき業は大正時代に最も盛んだった。日暮里あたりから屑紙を仕入れ、これを原料として作られた桜紙は浅草方面の需要に向けられたという」と案内にある。
この説明、何となく隔靴掻痒の感。チェックすると、桜紙は明治末から大正の頃、東京の護国寺近く、音羽にあった紙問屋・竹内商店に納められた再生紙のうち、薄く柔らかな上等のちり紙。高級品として花柳界、もっと言えば遊里でのちり紙として重宝されたのだろう。浅草方面と、ぼかしているのは遊里で重宝した理由が少々口に出すのは憚られる、ということだろうか。

新川橋
「川崎歴史ガイド 登戸付近の紙すき」案内のある橋の先は世田谷通りに架かる新川橋となる。車の往来激しい橋脇に導管が通る。直径1.8mのこの導水管は長沢浄水場からの水管。
いつだったか長沢浄水場を訪れたことがある。その時のメモに補足して掲載する;長沢浄水場には東京都と川崎市のふたつの浄水場が併設されている。ここの水源は相模川水系の相模湖や津久井湖。そこから導水トンネルで導かれる。その距離は32キロに及ぶ、という。東京都は世田谷、目黒、太田区の一部の住民約50万名給水。その量1日につき20万立法メートル。
一方、川崎市上下水道局の長沢浄水場からは鷺沼配水池に送られ、高津・宮前区の一部、そして中原・幸区の水道水となる。その量は一日当たり14万立方メートル。市内総給水量の約25%にあたる。
また、工業用水は送水管を通して平間配水所や浜町に送られ、そこから、配水本管で市内に配水さえる。その量は1日235,000立法メートル(生田浄水場の多摩川の表流水と地下水を併せた25万立法メートルより少し少ない)。この送水ルートから勘案すると、新川橋の送水管は東京都水道局のものだろう。

小泉橋
新川橋の直ぐ先に小泉橋。橋の西詰めに「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水と小泉橋」の案内がある。「稲毛領・川崎領を潤した二ヶ領用水は、ここ小泉橋で津久井道と交わる。架橋は江戸後期の豪商小泉利左衛門、改修は四代後の弥左衛門。橋の裏に二つの時代を示す天保、明治の文字が残る」とある。
「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」によれば、登戸道に架かるこの橋は、元々は榎戸橋と呼ばれ、登戸村や上菅生村など、往還として重要なこの橋を利用する村々によって、およそ5年毎に改架されていたようである。
その橋名が小泉橋となったのは、天保15年(1844)、土地の豪商小泉利左衛門が石橋を普請したことによる(利左衛門は登戸に33の石橋を普請したと言われる)。橋はその後弘化4年(1847)、明治24年(1891)に修理され、明治34年(1901)に弥左衛門により近代的な橋に改修されたが、これらはすべて小泉家の手になるもので、天保の石橋が再利用されていた。しかし、平成3年(1991)の河川改修で撤収された、とのこと。現在の橋の裏に案内にあるような天保、明治の文字が残るわけではないようだ。
改修と言えば、最初に二ヶ領用水を歩いた7年ほど前に撮った小泉橋の写真と見比べると、明らかに現在の橋は変わっている。あれこれチェックすると、道幅を12mに拡大工事が平成23年(2011)に着工し、平成25年(2013)に完成したようである。
旧津久井道(登戸道)
旧津久井道とは、三軒茶屋を基点に登戸に向かい、そこから西に生田、万福寺、柿生、鶴川と進み、さらに鶴見川の上流に沿って、相模原市の橋本から津久井地方へと通じる道。三軒茶屋から東は大山街道と繋がり赤坂御門まで続いていた。
この道は官制の街道ではなく、津久井・愛甲地方で生産された絹などの近隣の産物を運ぶ道であり、また商人や登戸に多く住んでいた左官・大工・下駄職人などの職人が行き来する道でもあった。小泉橋の辺りは、丘陵地への出入り口でもあり、交通の要衝として栄え、橋の付近には明治の頃、ふたつの銀行、乗合馬車の出発点もあったとのことである。

榎戸堰
かつて小泉橋の直ぐ下流に榎戸堰があった。「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」に拠れば、「この堰から五ヶ村堀、中田堀(注;川崎市作成の用水マップでは「前川堀」とある)が分かれ、生田方面には上菅生用水に水を送った。 榎戸堰は大正末に水門がコンクリート化されたが、取水口は3門あり、ために「三本圦り」とも称された(三つの流れは二ヶ領本川、五ヶ村堀、中田(前川)堀)。この堰も平成3年(1991)に造り替えられた時、榎戸堰はなくなった(五ヶ村堀は位置を変え現存)。
そう言えば、今回の散歩で7年前の小泉橋が様変わりしていたと上にメモしたが、7年前の散歩の時、小泉橋の直ぐ下流にあった榎戸堰の案内も見当たらなかった。当時の案内を掲載しておく;「ここには五ヶ村堀、中田堀、逆さ堀の三つの取り入れ口がある。五ヶ村堀は登戸、宿河原、長尾、堰、久地付近を灌漑。逆さ堀は、本流の水位が低くなると逆に流れ込んでくるのでついた名前」とあった。逆さ堀についての資料は見当たらない。




榎戸の庚申塔
小泉橋から右岸を少し下ると道脇に大きな庚申塔。脇に庚申塔の由来の説明があり、庚申信仰の説明と、この庚申塔は丸山教が建立したものとの説明があった。
丸山教
Wikipediaに拠れば、丸山教の前身は明治6年(1873)稲田村の農民伊藤六郎兵衛が興した丸山講。食行身禄以来の富士講の影響を引き継ぎ、世直しや反近代化の思想が強かったが、明治政府による大弾圧後は報徳社運動に沿った勤勉・倹約を中心とした。昭和21年(1946)、宗教法人丸山教として現在に至る。
で、その庚申塔だが、説明に拠ると「三峰形の富士が描かれ左右に日月、その下に「庚申塔」と彫られ、上座の台石には三猿が刻まれ、その下の台座に丸山講の講紋である「丸に山」と富士登山の登山口を表す「北口」という文字が書かれています。なお、富士講の一講社である丸山講が庚申塔を建立したのは、富士山の御縁年に因んでいると思われます。孝安天皇九十二年庚申の年、「雲霧が晴れ、一夜にして富士山が現れた」という言い伝えから、庚申の年を御縁年と呼び、この年に一度富士山に登れば六十回登ったのと同じ御利益があると信じられるようになりました。富士信仰もこのように庚申と深く結びついていることから、登戸の地にも庚申塔が建立され、また、三猿も彫られているのでしょう」とあった。
上の説明で「登戸の地にも庚申塔が建立され」とあるが、「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」によれば、これは「登戸のこの地に明治3年(注;丸山講が出来たのは明治6年とあるので、明治3年は??)、庚申塔が建てられたのは、この地が富士登拝する時の習合場所であったため。この庚申塔に参拝し出発した」とあった。
また三猿云々に関しては、説明に「庚申の本尊の青面金剛の従者は猿、であり、また庚申の「申」が「さる」であり猿に例えられることによる」とあった。
富士講
富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。

食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」と称されるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。散歩の折々で富士塚に出会う。散歩をはじめて最初に出合ったのが、狭山散歩での「荒幡富士」と称される富士塚であった。また、葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。
庚申信仰
庚申信仰って、あれこれ説があってややこしいが、60日に一度、庚申の日、体内にいる「「三尸説(さんしせつ)」という「なにもの」かが、寝ている間にその者の悪しきことを天帝にレポートする。そのレポートの結果寿命が縮むことになるので、寝ないで夜明け待つ、という。日待ち、月待ち信仰のひとつ、と言う。信仰もさることながら、娯楽のひとつであったのだろう。
上の説明で庚申の年に一度富士登拝をすれば60回登拝したと同じ御利益がある、といった「六十」はこの60日に一度との関連だろうか。単なる妄想。根拠なし。

小田急線と交差
用水右岸を進むが、小田急線を跨ぐ府中街道が用水上に被さり、用水路も高いコンクリートの壁で見えにくになった先に小田急線を跨ぐ歩道橋。歩道橋を下りると南橋がある。







現在の五ケ村堀取水口
「南橋」から用水上流を見ると、護岸工事されたコンクリート壁面に長方形の取水口があり、その前は防塵の浮輪で囲まれている。取水口の上には機械施設があるが、ポンプアップの施設のようである。この取水口は現在の五ヶ村堰の取水口。ポンプアップされた水は短い暗渠を抜けた後、開渠となって二ヶ領本川に沿って下る。




五ヶ村堀のルート
しばらく二ヶ領本川に沿って流れた五ヶ村堀は開渠の状態で宿河原に丁目を東から西に直線で進み、宿河原6丁目で宿河原堰から取水された宿河原堀を樋で越え、南武線手前で流路を変え、線路に沿って南東に下り、東名高速を越えた先で北東に流れを変え、南武線を渡り多摩川に注ぐ。五ヶ村って、どの村だろう?あれこれチェックするも、不詳。

五反田川が合流
現在の五ケ村堀取水口からほどなく、五反田川が合わさる。川崎市の資料によれば、五反田川は、麻生区細山地内を源とし、細山調整池を経て小田急線に沿って蛇行しながら流下し、東生田地内で二ヶ領本川に合流する流路延長4.8km、流域面積8.0km2の都市河川。
この川は、洪水時には、下流まで約20分で流下する高低差の著しい河川であり、五反田川の下流部及び二ヶ領本川との合流部では、急激な水位上昇により、度重なる水害を繰り返してきた。そのため河道の改修が必要とされるが、五反田川下流の二ヶ領本川は、高度に都市化された地域を貫流しており、河道拡幅や掘削による河道改修が困難な状況となっている。
五反田川放水路
その対策として計画されているのが五反田川放水路。五反田川の洪水を直接多摩川に放流する地下トンネルの建設である。 五反田川放水路は、洪水時には五反田川の洪水全量(150m3/s)を延長2,025mの地下トンネルに流入させ、直接多摩川へ放流させる。五反田川と多摩川の水位差を利用して洪水を流下させる自然流下圧力管方式のこの地下河川事業完成時期は平成32年(2020)の予定とのことである。

前川堀分岐
川崎市の制作した用水マップに拠れば、二ヶ領本川に五反田川が合流する地点辺りから東に前川堀(中田堀?)が分岐している。水路は小田急線・向ヶ岡遊園前の南、登戸地区と宿河原2丁目地区の境を東に向かい、宿河原小学校の二筋手前の道を、S字を描いて進み紺屋堀に合流。合流した水は宿河原堰で取水した堀に注いでいたようである。
明治の地図を見ると、水路に沿って中田、富士塚、橋本といった地名が見える。中田堀の呼称でいいかと思うのだけれども、前川堀は何を由来に呼称されているのだろう。その根拠は不明である。

五ケ村堀緑地
用水本川に沿って進むと五ヶ村堀緑地の木標がある。五ケ村堀は緑地下を暗渠で流れているようではあるが、公園にも水路が設けられている。どこからかポンプアップし、親水公園といった雰囲気としているのだろうか。なお、この緑地は、今は閉園している向ヶ岡遊園へのモノレール跡地、とのことである。





新開橋
五ヶ村緑地を進み本村橋で府中街道に出る。少し南に進み、龍安寺交差点から南に下る道が二ヶ領本川にクロスする地点に新開橋がある。橋を渡った府中街道の東側あたりに「川崎の歴史ガイド 川崎の地酒」がある、と言う。あちこち彷徨ったのだが結局見つけることはできなかった。後日チェックすると、川崎市多摩区長尾2-5-10辺りにあった川崎酒造が酒つくりを止めるにともない、歴史ガイドパネルも撤去されていたようである。
それはともあれ、「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水」に拠れば、川崎で地酒がつくりはじめられたのは天保年間(1830-1844)。当時は濁酒(どぶろく)であったが、大正10年(1921)頃から清酒の需要が増大した、と言う。長野で収穫された酒専用米と地下30mを流れる多摩川の伏流水で造られていた醸造所も、今はないようである。

向ヶ岡遊園跡
府中街道に沿って流れる本川を進む。左手丘陵上には、昭和2年(1927)に開園し、平成14年(2002)まで営業を続けた向ヶ岡遊園があった。今は社会人となった子供を連れて遊んだ頃が懐かしい。現在は丘陵下の道路脇に藤子・F・不二雄ミュージアムが開いている。平成23年(2011)に開館したとのことである。

長尾橋
藤子・F・不二雄ミュージアを越え、長尾橋の手前に五連口の水門が見える。用水の余剰水を、地下導管を通し多摩川に直接流している、と。五反田川や生田緑地から二ヶ領本川に流れ込み、増水した用水の水量を調整し、宿河原堰堤の多摩川下流に流しているようだ。





長尾の天然氷
府中街道に沿って流れる本川を進む。長尾バス停前に架かる名も無き橋の左岸に、「川崎歴史ガイド」のパネルがあり、「陽のあたらない山裾に溜め池をつくり、二ヶ領用水を利用した天然氷がつくられていた。氷倉に夏まで貯蔵し、東京方面に出荷したもので、大正初期まで続いた」とあった。
「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水」によれば、明治20年(1887)頃から、山かげには水田のような水溜がいくつも並んでいた、と言う。夏になると馬車で神田・龍閑町や八丁堀、芝・明舟町などの販売所へ、後には玉川電車を使って渋谷の天然氷販売所などに卸された。長尾の天然氷は、信州・諏訪湖、北海道五稜郭の氷にひけをとらない質のよい氷として重宝され、機会氷が出回るようになる大正10年(1921)頃まで続いた、とある。
天然氷
「主のこころと夏くる氷 解けるととけぬで苦労する」。明治13年(1880)ごろの「開化都都逸(どどいつ)」の一節だが、この天然氷は五稜郭の「函館氷」とのこと。Wikipediaに拠れば、世界で初めて天然氷の採氷、蔵氷、販売事業を起こしたのは、米国人フレデリック・テューダー(英語版)で、文化2年(1805年)とある。この天然氷がアメリカ合衆国ボストンから世界中に輸出され、日本では横浜港に陸揚げされた。輸入品であり高価で、しかも融解率が高いために、国内でも天然氷の製造が始まり、中川嘉兵衛の製氷会社が、函館・五稜郭で採取した氷が横浜まで輸送・販売され、明治5年(1872年)以降は輸入氷を凌駕していった、とのことである。

宿河原堰からの宿河原線と合流
単調な府中街道を本川に沿って下り、東名高速を潜るとほどなく二ヶ領用水のふたつの取水堰のひとつ、宿河原堰の取水口から取り入れられた用水(宿河原線)と合流。今回のメモは切りのいいここでお終い。次回は宿河原取水堰からはじめ、本川合流点下流をメモすることにする。


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