2015年8月アーカイブ

バリエーションに富む、今回の散歩の第一のパートである「仲持ち道」の道に続き、東平から上部鉄道跡まで上り、一度魔戸の滝に下り、再び尾根に折り返し「犬返し」から立川の龍河神社のメモ。
上部鉄道から魔戸の滝までの繋ぎのルート確認が弟の今回の散歩の眼目。 600mほどは藪漕ぎとなる、とのことであったが、結果は思いがけず整地された作業道が見つかり、あっけなく「繋ぎの道」は確認できた。
そこから先は急坂を下り、豪快な魔戸の滝を眺め、折り返した「犬返し」では少々腰が引けたが、なんとかクリア。龍河神社に下る最後の詰めは、途中竹林を見た瞬間に、もう里に下りたと安心し、最後の詰めが甘く、コースを大きく逸れグズグズの道を下ることにはなったが、無事龍河神社に到着。
別子銅山の遺構や四国山地の美しい滝、いつも実家から見てはいたのだが、初めて歩いた「犬返し」など、四国の山を歩き倒している弟ならではのコース取りの妙に感謝し、散歩を終える。


本日のルート:

Ⅰ仲持ち道パート;遠登志(おとし)=落トシ ~東平・第三広場  約2時間10分
○車デポ>遠登志橋>遠登志からの登山道と合流>坑水路会所跡>坑水路会所跡>索道施設跡>坑水路会所跡>軽い土砂崩れ箇所>支尾根に索道鉄塔基部跡>>鉄管>切り通しにお地蔵さん>中の橋(ペルトン橋)>東平遠望>滝が見える>;辷坂地区(すべり坂)社宅跡地>第三広場

Ⅱ上部鉄道パート;第三広場>一本松停車場跡>上部鉄道>石ヶ山丈(いしがさんじょう) 約1時間30分
○第三広場>一本松社宅跡>一本松停車場跡>橋台に木橋>第二岩井谷>第一岩井谷>紫石>東平が見える>切り通し>地獄谷>索道施設>石ヶ山丈停車場跡

Ⅲ 魔戸の滝パートへの繋ぎ道探索 石ヶ山丈分岐~魔戸の滝・造林小屋分岐~魔戸の滝~滝登山口 約1時間
○石ヶ山丈分岐>沢に橋台>道が切れる>下段に林道が見える>下段林道を石ヶ山丈方面へと戻る>石ヶ山丈分岐直下に戻る>魔戸の滝登山道合流点へ向かう>魔戸の滝登山道合流点>魔戸の滝上部分岐標識

Ⅳ 魔戸の滝パート;魔戸の滝上部分岐~西種子川・魔戸の滝登山口 約 40分
○魔戸の滝上部分岐標識>大岩展望所>魔戸の滝に急坂を下る>魔戸の滝に到着>魔戸の滝登山口

Ⅴ 犬返しパート;魔戸の滝登山口~鉄塔尾根~犬返し~龍河神社分岐~龍河神社 約2時間30分
○魔戸の滝登山口>種子川林道を下る>林道石ヶ山丈線分岐>四国電力鉄塔保線路への分岐>種子川林道崩壊地の上部>犬返し>「種子川林道」の分岐標識>龍河神社分岐>保線路分岐>林道へ着く>龍河神社のデポ地点に



□Ⅱ 上部鉄道パート;第三広場>一本松停車場跡>上部鉄道>石ヶ山丈(いしがさんじょう) 約1時間30分

この上部鉄道跡パートは、以前端出場発電所導水路を辿った折り、その復路を石ヶ山丈から一本松停車場跡まで歩いたことがある。今回は、そのコースを逆に進むことになる。

一本松社宅跡:9時48分(標高871m)
第三広場から「一本松停車場跡」の木標に従い道を上る。10分程度登ると住友共同電力の「「高萩西線46」鉄塔。標高は820mほど。
そこから更に10分強登り標高870m辺りに、「一本松社宅」の案内がある。かつてこの地 には別子銅山の「一本松社宅」があった。戸数185。飯場と人事詰所、クラブ、派出所が各1、その他3つの職員貸屋と2箇所の浴場があった、とのことである(「えひめの記憶」)。

一本松停車場跡;10時1分(標高960m)
社宅跡から10分弱のぼると平坦地。「銅山峯へ 石ヶ山丈をへて種子川へ 東平へ」との三方向の案内がある標識」のあるここが上部鉄道の西端の角石原駅と東端の石ヶ山丈駅の中間にあった「一本松停車場跡」である。一帯は平坦に整地されていた。結構広い。引き込み線もあったようだ。

上部鉄道
「えひめの記憶」に拠れば、明治22年(1889)に欧米を視察した広瀬宰平は、製鉄と鉱山鉄道の必要性を痛感し、石ヶ山丈-角石原問5532mに山岳鉱山鉄道建設を構想し、明治25年(1892)年5月に着工、翌26年(1893)年12月に竣工した。標高1100mの角石原から835mの石ヶ山丈を繋ぐ、日本最初の山岳軽便鉄道は急崖な山腹での工事に困難を極めたと、言う。
この上部鉄道であるが、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺南の日浦の間、3880mが直結し、嶺南の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれるに到り、その役目を終える。上部鉄道が活躍したのは18年間ということである。

橋台に木橋;10時6分(標高952m)
一本松停車場跡から東へと、石ヶ山丈へと向かう。小さな沢に橋台が設けられ木の橋跡が残る。沢を迂回し先に進むと保線小屋や給水タンクが残る。






第二岩井谷;10時12分(標高945m)
次の沢には橋台の上に鉄板の仮橋が架けられていた。案内には「第二岩井谷」とある。上部鉄道の橋は鉄橋ではなく木製であったようだ。






第一岩井谷;10時14分(標高944m)
第二岩井谷の先にも橋跡が現れる。木橋は朽ちており、沢を迂回する。谷は「第一岩井谷」との案内がある。橋台は煉瓦造りだが、上に架かる橋は木であった。






紫石;10時28分(標高907m)
東平をみやりn第一岩井谷から20分弱進むと、線路脇に大きな岩が鎮座している。紫岩と呼ばれる。雨に濡れると紫が際立つ、とか。それはともあれ、この辺りは、端出場発電所水路跡散歩で出合った「山ずれ」の上部箇所。紫岩手前辺りで線路跡の道にギャップがある。上部鉄道の上を通る「牛車道」も山ズレ状態にあるようだ。

橋跡:10時31分(標高898m)
紫石の先に2箇所、上部鉄道の橋跡が残る。手前の橋は朽ちた木が残っており、迂回する。その先の橋跡には木製の橋が架けられていた。






東平が見える;10時36分(標高889m)
紫石から5分ほどで谷側が開け東平が遠望できる地2点に。ポールに赤い旗が巻かれているが、これは東平からこの地点確認しやすくするためなのだろう。弟が捻れた旗を直していた。





切り通し;10時50分(標高856m)
東平を遠望できる地点を過ぎると、再び谷側も木々覆われ見通しが悪くなる。10分程度進むと、切り通しに。切り通しも2箇所あり、上部鉄道の写真でよく目にする箇所は2番目の箇所。岩壁手前の岩盤を切り通した箇所から貨車を繋いだ蒸気機関社が映る。貨車には人が乗っている。
上部鉄道の機関車2両、客車1両、貨車15両はドイツのクラウス製。開通当時は運転手もドイツ人であった、とのこと。蒸気機関車2両が交替で貨車4,5両繋ぎ1日6往復。片道42分、平均時速およそ8キロで走った、と。
切り通し部の写真ではフラットな路線のように見えるが、最大斜度が18分の一、133回ものカーブのある断崖絶壁を走ったわけで、結構スリルのある山岳鉄道ではあったようだ。
当時は岩場だけの緑のひとつもない、禿山の切り通しではあったが、現在は線路跡にも木々が立ち並び、緑豊かな一帯となっている。
禿山の植林
禿山と言えば、明治22年(1893)頃より、別子銅山は銅山用の木材伐採と製錬所から排出される亜硫酸ガスで山は荒れ果て、一面の禿山となってしまっていた。
明治27年(1894)、初代総理事廣瀬宰平が引退した後、別子銅山の煙害問題に取り組んだのが、のちの第二代総理事である伊庭貞剛。煙害問題解決のため、製錬所を新居浜沖約20kmにある四阪島(宮窪町)へ移すなど対策を講じる(後年、この四阪島も周桑郡に大きな煙害を齎すのだが)とともに、荒廃した山を再生させる植林事業を開始。それまで年間6万本程度であった植林本数を100万本までへと拡大し、現在の美しい緑の山の礎を築いた。

地獄谷;10時56分(標高836m)
切り通しから8分程度で地獄谷。谷に橋台が残る。急峻な谷に石が敷かれ、地盤を固めているように見える。







索道施設;11時 1分(標高839m)
地獄谷よりほどなく、石ヶ山丈駅のすぐ傍に深い溝をもった遺構がある。索道施設跡である。上部鉄道により角石原より運ばれた粗銅は石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した「下部鉄道」により市内へと運ばれた。
ところで、石ヶ山丈の索道基地は明治24年(1891)に完成している。上部鉄道の建設が開始されたのは翌明治25年(1892)と言うから、上部鉄道開通までは明治13年(1880)に開通した第一通洞の銅山峰北嶺の角石原から石ヶ山丈までは牛車道で粗銅が運ばれ、ここから延長1,585メートルの索道で端出場まで下ろされたのであろう。
なお、明治24年(1891)に完成した索道は「複式高架索道」とのこと。明治30年(1897)には単式高架索道となっている。単式(高架)索道は、端出場火力発電所の電力を使った「電力」で動く索道とのこと。ということは、「複式」とは「上りと下り」の索道の動力モーメントで動かしたものかと思う。

石ヶ山丈停車場跡;11 時4分(標高946m)
索道施設の傍にある「石ヶ山丈駅」跡に着く。杉の木に「石ヶ山丈停車場」の案内があり、その脇には石組みのプラットフォームらしきものが残る。石ヶ山丈停車場跡は上部鉄道の東端の駅であった。
「中持ちさん」・「牛車道」と石ヶ山丈
既にメモしたように元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された別子銅山は、初期は銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回した(第一次泉屋道)。その理由は、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。
その後、元禄15年(1702))、住友の幕閣への交渉が功奏したのか、西条藩が別子村>銅山峯>角石原>「石ヶ山丈」>立川 >角野>泉川>新居浜に出る銅の運搬道を許可した(第二次泉屋道)。仲持ちさんの背に担がれての運搬である。
明治に入り、明治13年(1880) には延長22kmの牛車道が完成。銅山嶺南嶺の別子山村>銅山越>銅山峰北嶺の角石原>「石ヶ山丈」>立川中宿>新居浜市内が結ばれた。
この牛車道も明治19年(1882)に銅山峰の南嶺の旧別子より北嶺の角石原まで貫通した長さ1010mの「第一通洞」の完成により、銅山峰を越えることなく角石原から結ばれる。通洞内は牛引鉱車で運搬されたとのことである。

牛車道も一度歩いて見たいのだが、傾斜を緩くするため曲がりくねった道となっており、立川からの登りには5時間ほどかかる、と言う。端出場にある銅山観光施設「マイントピア別子」から東平にシャトルバスが出ているということであるので、東平から逆に下ってみようかとも思っている。

Ⅲ 魔戸の滝パート;繋ぎ道探索 石ヶ山丈分岐~魔戸の滝・造林小屋分岐~魔戸の滝~滝登山口 約1時間

今回の弟のメーンテーマ。石ヶ山丈から魔戸の滝上部登山道への繋ぎを藪漕ぎで進んだようだが、先般ゲストを案内するに際し、山行で疲れたパーティを藪漕ぎで不確かなルートを魔戸の滝へと案内することを断念した、と言う。それが誠に、申し訳なかったようで、再びパーティを安心してガイドできるように、ルートを確定しておきたいとの思いであろう。

石ヶ山丈分岐;11時15分((標高827m))
石ヶ山丈から魔戸の滝に向かう。「左 魔戸の滝 右 一本松」の分岐標識を東へ進む。まるで上部鉄道の続きの様な広い道が続く。
石ヶ山丈分岐
弟のメモに拠れば、「登山道の交差点としてキーポイントとなる石ヶ山丈(いしがさんじょう)分岐はこの辺りのバリエーションルート十字路として重要な場所である。
1)西側へは今歩いて来た上部鉄道が一本松停車場跡~兜岩登山道分岐~角石原(銅山峰ヒュッテ)を経て銅山峰へと続く。
2)東側には今から歩く魔戸の滝・西種子川造林小屋ルートの分岐へ至る。 3)南へ石ヶ山丈尾根道を経由して兜岩~西赤石山へ至る。
4)北へ下りると旧端出場発電所貯水池(沈砂池)を経由して立川山尾根の犬返し~生子(しょうじ)山・煙突山へ至る」とある。

沢に橋台;11時19分(標高826m)
5分ほど歩くと、沢にあたり、沢の両側は石組みとなっている。その上に2本の木を渡しているが、そんなところ通れるわけもなく、沢を迂回。







道が切れる;11時30分(標高809m)
沢から10分ほどで突然道が無くなる。地図で見るとその地点から魔戸の滝登山道まで距離にして600m程。以前この地を辿った弟によれば、ここから魔戸の滝登山道までは、斜面を等高線に沿って真っ直ぐ進むと、のことである。弟にとっては、いままでは私のお付き合い。ここからが本番。この道の切れる辺りから魔戸の滝登山道までのルートを確定すべく、藪漕ぎを「宣言」する。




下段に林道が見える;11時26分(標高806m

ちょっとした藪を少しすすむと、弟が下に林道らしき道が見える、と言う。取り敢えず斜面を下ると結構広い林道が東西に整備されている。道がどこから進んでくるのかと、確認に石ヶ山丈方向へ引き返す。

下段林道を石ヶ山丈方面へと戻る;11時36分(標高810m)
少し引き返すとテープがあり、左上に踏み跡がある。林道は西に進んでいるのだが、このテープの示す場所の確認に上にむかうと、先ほどの道が切れる箇所に出た。







石ヶ山丈分岐直下に戻る;11時37分(標高810m)
次いで、下段の西に向かう林道がどこと繋がるのか確認に向かう。少し藪とはなってはいるが、それでもしっかりとした林道を進むと、先程出合った小さい沢の下を通る。下からは沢に整備された石垣や二本の木橋も見える。
更に先に進むと、石ヶ山丈分岐から旧端出場発電所沈砂池へ少し下った岩のある所に突き当たる。石ヶ山丈分岐の下側,大岩を巻いて「沈砂池」に至る箇所から東に進む林道があったわけだ。林道の切れるあたりが少し荒れているので、幾度となくこの箇所を歩いている弟も、ここから林道が続くとは思っていなかったようである。

魔戸の滝登山道合流点へ向かう;11時40分

石ヶ山丈直下の林道が切れるところから、今来た道を戻る。上段の道が切れる箇所から先も、東に向かって下段林道が続く。
下段の林道は上段から来る林道と合わさり更に先に進む。道は作業林道として現役で使われているようであり、植林されて間もない幼木杉や作業の痕跡が目立つ。







魔戸の滝登山道合流点;11時50分(標高789m)
道が切れた箇所から下段林道を10分ほど歩くと「魔戸の滝登山道」に繋がった。要は、石ヶ山丈分岐から一段尾根を下がった場所から東へ延びた林道(少し荒れ気味ではあるが)からスタートすれば一直線で魔戸の滝上部登山道に合流する、と言うことである。魔戸の滝登山道合流点への繋ぎ道のルート確定が最大の眼目であった弟は、予想外の展開ではあるが、初期の目的が達成できたわけである。



魔戸の滝上部分岐標識;11時54分(標高780m)
魔戸の滝登山道合流点からは更に上に登山道は延びるが、我々は魔戸の滝へと尾根を下る。トラバース気味に尾根を下り、左手に植林作業場を見遣りながら進むと魔戸の滝上部分岐標識が立つ地点に到着。ここから下には魔戸の滝へ又、斜面に沿っては西種子川造林小屋跡への下側道が延びているとのことだが、魔戸の滝の標識以外は錆びて読めない。





Ⅳ 魔戸の滝パート;魔戸の滝上部分岐~西種子川・魔戸の滝登山口 約 40分

大岩展望所;12時00分(標高749m)
魔戸の滝に向かって下る。最初は岩尾根を少しだけトラバースしながら下る。尾根に平たい大岩がある。この岩が魔戸の滝尾根道ルート確認ポイントのひとつ、とのこと。ほどなく尾根から突きだした大岩に出合う。弟は大岩の尖端近くまで這っていったが、高所恐怖症の我が身は、見守るだけにする。昔より木々が生い茂り、眺めが悪くなっていた、とのこと。




魔戸の滝に急坂を下る;
大岩から先は踏み跡に従って進む。ここはテープも随所に現れる。先に進むと尾根を少し外れて左側斜面へとルートが変わる。結構急な斜面もある。この尾根道はガイドの弟がいるから心配はないものの、ひとりで辿るのは少々腰が引ける。
魔戸の滝尾根道ルート確認ポイントでもある「根上がり樹」前を通過し、最後はなだらかな笹の斜面を右に廻り込むと魔戸の滝が見えてくる。




魔戸の滝に到着;12時22分(標高599m)
圧倒的な水量で、スケールの大きな美しい滝である。滝は三段になっており上から上樽・中樽・下樽と呼ばれて下樽の落差は40m。新居浜の三大名滝の一つで他には大生院・渦井川の「銚子の滝」と国領川の「清滝」がある。 魔戸の滝には西種子川に沿って辿ろうとしたことがある、が、途中の道が崩壊し通行止めとなっており、滝まで進めなかった。今年の夏は沢を遡上し魔戸の滝まで辿ろうと思っていたのだが、山を下ってのアプローチで、子供の頃、父親と一緒に歩いた魔戸の滝にやっと出合えた。緑に覆われた巨大な岩盤から流れ落ちる滝を十分堪能し、滝を後にする。

魔戸の滝
魔戸の滝、とは少々怖ろしそうではあるが、元は「窓の滝」と称されていたようだ。「窓」のようにくり抜かれた峠から、この淵が遠望でき、故にその地を「窓」、そこから見えるこの滝を「窓の滝」と呼ばれていたが、いつしか「窓」が「魔戸」に変わった、と。
この文字の転化に関わりあるのかどうか不詳だが、この滝には龍王伝説が伝わる。如何なる時にも水が涸れることなく、地元の民の水源であった龍王の棲むこの滝壺(淵)であるが、大干魃に際し雨乞いを願い、若い娘を人身御供として龍王に献上することになった。と、空は一転かき曇り大雨が降り、民はその娘に感謝の気持ちを表すべく龍王様を祀るすぐ傍に、「百合姫大明神」という祠を建て、その霊を慰めた、と。よくある話ではあるが、龍王さまには「窓」より「魔戸」がよく似合う。

魔戸の滝登山口;12時32分(標高557m)
西種子川にそって10分ほど下ると林道から分岐する魔戸の滝登山口に出る。橋の名前は「樽ワ淵橋」とある。水の絶えることのない魔戸の滝の滝壺に、渇水時には村人は一斗樽を背負って龍王様にお水を頂いて帰ったことから、誰言うともなしにこの滝壷を「樽淵」と呼ぶようになり、滝も「樽(たる)」とも「樽淵」とも称された。
とはいうものの、天城河津七滝(ななたる)を挙げるまでもなく、滝のことを「たる」と呼ぶのはよくあることで、一斗樽と関連つけなくてもいいようにも思うのだが。


Ⅴ 犬返しパート;魔戸の滝登山口~鉄塔尾根~犬返し~龍河神社分岐~龍河神社 約2時間30分

種子川林道を下る;12時33分
魔戸の滝登山口から種子川林道を下る。林道は少し下ったところで崩壊し、通行止めとはなっているのだが、登山者のものであろう車が停まっている。週末は工事もお休みで、車の通行も可能なのだろう。






林道石ヶ山丈線分岐;12時41分(標高518m)
種子川林道から林道石ヶ山丈線に入る。林道石ヶ山丈線は石ヶ山丈の貯水池跡まで続く。目指す立川山の犬返しピークも遠くに見える。






四国電力鉄塔保線路への分岐;(標高595m)
曲がりくねった道を15分ほど進むと、四国電力鉄塔保線路と兼用した林道を分ける。ここから石ヶ山丈の貯水池跡へと上に向かう林道石ヶ山丈線は、等高線に抗うことなく東西に異常なほど大きくスイングしている。どうも、昔の「牛車道」を活用しているようである。
鉄塔尾根へは右の道を進むことになる。この尾根道も平行して牛車道が通っているようだ。この尾根に近づくとチェーンが張られていた。危険通行禁止、ということではあろう。

種子川林道崩壊地の上部;13時05分(標高559m)
種子川林道崩壊地の上部の尾根に出る。四電の鉄塔は崩壊部のすぐ近く。危うく崩壊を免れた、という状況である。崩壊部は大規模な補強工事が行われている。一面がコンクリートらしきもので塗り固められ、その上にシートを被せ崩壊を防止しているようだが、この急斜面に崩壊防止工事が耐えうるものだろうか。
鉄塔からちょっと荒れ気味の尾根に進むがすぐに快適な道となる。弟は三等三角点「種子川山」を確認に寄り道(13時12分)。すヤマツツジが数本鮮やかに咲いていた。

犬返し;13時21分(標高523m)
15分ほど進むと犬返しに。とっかかりである岩壁を這い上がる。前方に犬返しのピークが見える。岩場を西側からトラバース。足元に切れ込んだ崖にへっぴり腰の我が姿を見て、弟は笑いを堪える。
コルを巻き犬返しのピークに出る。犬が怖じけて引き返したのか、愛犬をこの難所で引き帰えさせたのか、どちらかは定かではないが、ともあれ、犬の気持ちはよく分かる。
この犬返しピークは実家のある新居浜市角野地区からも、その切り落とされたような特徴のある地形故に、名前と山容は見知っていたのだが、実際に歩いたのはこれがはじめて。言い得て妙なる地名である。ピークから新浜側の展望は無いが、逆の石ヶ山丈~串ヶ峰の南側が開けて良く見える。

「種子川林道」の分岐標識;13時35分(標高521m)
犬返しを乗り越え平坦な尾根を15分ほど進むと「種子川林道」の分岐標識が右手の木に取り付けられている。種子川林道のヘヤピンカーブにある「犬返し」標識の場所へ下がるのだろう、と弟の言。






龍河神社分岐;13時40分(標高498m)
もう四電西条線20番鉄塔を過ぎると等高線500mが北に突きだした先端部手前に「龍河神社」分岐の案内。尾根筋を直進すればエントツ山こと、生子山(しょうじやま)に繋がるようだ。
車をデポした龍河神社へは分岐を左に折れる。植林地帯を20分ほどジグザグに下ると竹藪の中に出る。竹藪=里、との刷り込みがあり、里は間近との思いから、どうしたところで直ぐに里に出るだろうと高を括っていたのだが、これがミステイク。メモの段階でチェックすると、竹藪から立川集落の林道まで標高差で200mもあった。
予想に反して竹藪からすんなりと里には下りることができなかった。踏み跡がほとんどわからない。枯れた笹の葉は滑りやすい。

保線路分岐;14時3分(標高316m)
ほぼ成り行きで左手へ進むと明確な道に出た。送電線鉄塔も建つ。そこから先に下ると左に四電保線路、右に住友共電保線路の分岐に出る。 ここを四電保線路へと左に向かえば龍河神社の真上に出たはすではあるが、このときは右の共電保線路に下ってしまった。







林道へ着く;14時21分 
竹林を抜けて道が進む。さてそろそろ里、と思えども、道は消え、足元が掘れ込んだ荒れた道が続く。いい加減に勘弁してほしいと思った頃、やっと立川集落の林道に出た。この道は昔の牛車道とのことである。




龍河神社のデポ地点に;14時35分(標高124m)
少し北に下がり過ぎた地点から、道の下の立川集落を眺めながら林道を南に進む。ほどなく林道、というか牛車道は、龍河参道の参道を横切る。牛車道から拝殿に上りお参りし、参拝道を下りてデポした車に帰る。
龍河神社
「リュウカワ」神社と読むようだ。
新居浜市誌に拠れば、 「龍河神社 角野立川 龍古別命、高おかみの神、外数柱の神を祀る。御諸別君武国凝別命の子孫に当たる龍古別命がこの地立川に入り、既に大和時代において鉱山の開発に努力されたと伝えられている。
当社は文化年間及び天保年間に火災に罹り、現在の社殿は天保9年に再建されたものである」とある。
龍古別命は、太古の時代、この地を治めていた武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)の子孫で、国領川上流地域、今日の新居浜市角野近辺を治めていた。別子の地名の由来も、「別の子が治める地={別子}との説もあるようだ、 「高おかみ(神)」は、龍神さまで国領川の水源を司る神とも伝えられる。「山の尾根筋の神」との説もあるが、尾根筋=川の水源、と考えれば同じかも。 集落の立川は、もとは龍古別命からだろうか「龍古」と呼ばれていたが、川に竜が住んでいるとの伝説から「竜河」更に立川となった、と言われる。


龍河神社したにでデポした車に乗り、上り口の落登志渓谷入り口に向かい、もう一台の車をピックアップし一路実家へと。それにしてもバリエーション豊かな山行であった。四国の山を歩き倒している弟のルーティングに感謝。
月例帰省のある日、弟から仲持ち道を歩こうとのお誘い。仲持ち道とは四国山中の別子銅山において採鉱され精錬された粗銅を背負い、銅吹所(精錬所)のある大阪に送るべく新居浜の湊まで運んだ道。江戸の頃から、牛車道(明治13年(1880))や索道施設が整う明治の中頃(明治24年)まで続いた、と言う。前々から仲持ちさんの歩いた道を辿りたい、と言ってたことを受けての、有り難いお誘いである。

ルートは弟にお任せ。そのルートは、仲持ち道を組み込むも、それ以外に日本最初の山岳鉱山鉄道跡、巨大な魔戸の滝を辿り、仕上げは犬返しの岩場とバリエーション豊かなもの。山中を下る仲持ち道が国領川の谷筋に下りきった遠登志(おとし)からスタートし、明治の頃、山中に3000人とも5000人とも言う人々が住んだ一大鉱山集落のあった東平まで。これが仲持ち道パート。 次いで、東平から少し標高を上げ、四国山中の標高1000m辺りの山腹を走った別子銅山・上部鉄道跡を6キロほど進む。これが日本最初の山岳高山鉄道である別子銅山・上部鉄道パート。このルートはいつだったか、端出場発電所送水路散歩の復路で歩いている。
上部鉄道の終点、銅山の粗銅、後には鉱石を端出場に下ろした索道基地があった石ヶ山丈からは、魔戸の滝へ下る尾根筋への「繋ぎ道」を辿り、尾根を魔戸の滝に下る。これが魔戸の滝パート。 魔戸の滝からも、おとなしく谷筋を下ることなく、一度尾根(立川尾根)に登り返し、犬も怖がり引き返した、という「犬返し」を経て立川集落の龍河神社に下る。これが「犬返し」パート。

四国の山を歩き倒している弟ならではのルートではあるが、弟のメーンテーマは石ヶ山丈から魔戸の滝へ下る尾根筋への「繋ぎ道」を確認することのようで、その他は私にために見繕ってくれたもの。弟のメーンテーマである繋ぎの部分600mほどは藪が激しく、確たるルートが身体に刷り込まれていないようで、これを機会に確定したい、との思いのようであった。


本日のルート:
Ⅰ仲持ち道パート;遠登志(おとし)=落トシ ~東平・第三広場  約2時間10分
○車デポ>遠登志橋>遠登志からの登山道と合流>坑水路会所跡>坑水路会所跡>索道施設跡>坑水路会所跡>軽い土砂崩れ箇所>支尾根に索道鉄塔基部跡>>鉄管>切り通しにお地蔵さん>中の橋(ペルトン橋)>東平遠望>滝が見える>;辷坂地区(すべり坂)社宅跡地>第三広場

Ⅱ上部鉄道パート;第三広場>一本松停車場跡>上部鉄道>石ヶ山丈(いしがさんじょう) 約1時間30分
○第三広場>一本松社宅跡>一本松停車場跡>橋台に木橋>第二岩井谷>第一岩井谷>紫石>東平が見える>切り通し>地獄谷>索道施設>石ヶ山丈停車場跡

Ⅲ 魔戸の滝パートへの繋ぎ道探索;石ヶ山丈分岐~魔戸の滝・造林小屋分岐~魔戸の滝~滝登山口 約1時間
○石ヶ山丈分岐>沢に橋台>道が切れる>下段に林道が見える>下段林道を石ヶ山丈方面へと戻る>石ヶ山丈分岐直下に戻る>魔戸の滝登山道合流点へ向かう>魔戸の滝登山道合流点>魔戸の滝上部分岐標識

Ⅳ 魔戸の滝パート;魔戸の滝上部分岐~西種子川・魔戸の滝登山口 約 40分
○魔戸の滝上部分岐標識>大岩展望所>魔戸の滝に急坂を下る>魔戸の滝に到着>魔戸の滝登山口

Ⅴ 犬返しパート;魔戸の滝登山口~鉄塔尾根~犬返し~龍河神社分岐~龍河神社 約2時間
○魔戸の滝登山口>種子川林道を下る>林道石ヶ山丈線分岐>四国電力鉄塔保線路への分岐>種子川林道崩壊地の上部>犬返し>「種子川林道」の分岐標識>龍河神社分岐>保線路分岐>林道へ着く>龍河神社のデポ地点に

Ⅰ;仲持ち道パート;遠登志(おとし)=落トシ ~東平・第三広場  約2時間10分


車デポ;7時15分(標高234m)
登山地点と下山地点にデポするため車2台で実家を出発。国領川の谷筋を、デポ地点の立川集落にある龍河神社に向かう。一台を下山地である立川の龍河(たつかわ)神社下にデポ。先に進み、もう一台を出発地点である鹿森ダム上の遠登志(おとし)渓谷遊歩道入口に停める。

仲持ち像
遠登志(おとし)渓谷遊歩道入口に「仲持ち像」が建つ。仲持ち道の山間部のはじまりである。案内には「「仲持ち」とは、別子銅山の山中で製錬された「あらどう」を運び出し、また、帰りには山中での生活に欠かすことができない「日用品」や「食料」などを、男子でおよそ45キロ、女子でおよそ30キロを背に一歩一歩山道を踏みしめ運搬していた人たちです」とある。
仲持ち道
元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された"やけ"(銅鉱床の露頭)からはじまった別子銅山であるが、鉱石は江戸から明治にかけては「仲持さん」と呼ばれる人たちの背によって運ばれた。その道は時期によってふたつに分かれる。
第一次泉屋道を「中持ちさん」が土居の天満へと運ぶ
第一期、住友の屋号「泉屋」をとった「第一次泉屋道(元禄4年[1691]から元禄15年(1702)」は、銅山川に沿って保土野(旧別子山村)を経て小箱峠、出合峠を越え浦山(四国中央市土居)までの23キロを仲道さんが運ぶ。浦山からは牛馬によって12キロ、浦山川に沿って土居(現四国中央市)に下り、土居海岸の天満浦まで進む。天満浦からは船で大阪にある住友の銅吹所(精錬所)へと運んでいた。
このルートは峠越え36キロにおよぶ長丁場であった。銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回したのは、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。

第二次泉屋道を「中持ちさん」が新居浜の口屋へと運ぶ
第二期の搬出ルートは、銅山峰を越え角石原に出て、馬の背を経て石ヶ山丈へ。そこから国領川谷筋の立川に下り、角野、泉川を経て、新居浜市内西町の口屋へと向かうもの。
第二次泉屋道(元禄15年(1702)から明治13年(1880)まで)と呼ばれるこの道は、別子から立川までの12キロを中持ちさん、そこから新居浜浦までの6キロは牛馬で運ばれた。距離は16キロに短縮されることになった。住友は当初よりこのルートを望み、銅山峰を越えた北嶺の立川銅山を領する西条藩と折衝、また住友より幕閣への懇願の効により実現したものである。
なお、第二次泉屋道に関しては、元禄13年(1700)、西条藩は、新道設置を許可し、銅山峰から雲ヶ原を右に折れ、上兜の横手から西赤石に出て、種子川山を通過して国領川に下り、国領川の東岸に沿って新須賀浦に下りたとするとか、元禄15年(1702)の銅山越えのルートは、別子-雲ケ原-石ケ山丈-立川山村渡瀬を経て新居浜浦に出たもので、銅山越-角石原-馬の背―東平―立川を経て新居浜に出るルートは、寛延2年(1749)に立川銅山が別子銅山に併合された移行との記述もある(「えひめの記憶」)。

遠登志橋;7時45分(標高228m)
遊歩道を進み小女郎川に架かる遠登志橋を渡る。遠登志は、元々「落トシと呼ばれた。川の水が滝となって落ち込んでいた地形を現したもの。遠登志橋の近くに、地名由来の滝があるとのことだが、どこだろう?
現在は鹿森ダムのダム湖に埋もれその面影はないが、誠に千仞の谷の趣きのあった遠登志渓谷の姿が子供のころの記憶として残る。
遠登志橋
遠登志橋(落し橋)は、明治38年(1905)に架設された鉄製アーチ橋(長さ48.25m)。もともとは坑水を通すための水路を設けると同時に人の往来や物資を運搬するために架設されたもの。ドイツ人技師の設計によると言う。
平成5年、アーチ部分を補修・保存し、更に、ワイヤーロープ吊り橋(長さ50m・幅2m)を架け加重に絶えうるように補強された。平成17年(2005)には、明治38年(1905)に架設のアーチ橋が、登録有形文化財に指定されている。
鹿森ダム
新居浜の工業用水、灌漑用水などを供給する目的で昭和37年(1962)4月に完成。高さ58m、長さ108m、総貯水量約160万トンの県営ダム。
小女郎川
昔、この谷に夕方になると美しい娘に化けるため、小女郎狸と呼ばれる狸がいた、という伝説が名前の由来だろうか。この小女郎狸、その神通力故に一宮の神主に見込まれ社の眷属にもなった、とのことだが、悪戯が過ぎ。。。、と言った話が残る。

遠登志からの登山道と合流;7時53分(標高291m)
橋を渡ると荒れた遊歩道の石段を上がる。ほどなく県道脇からの登山道と合流する。そこから先も急な上りが続く。
この仲道道は、仲持道の機能が無くなった後も、「東平街道」とも呼ばれ、最盛時4000名もの別子銅山関係者が住んだとも言われる嶺北の鉱山集落、最近ではその遺構を以て「東洋のマチュピチュ」などとPRしている東平(とおなる)の鉱山集落の人々の生活道路としても機能していた。
昭和43年(1968)の東平事業所撤退、昭和48年(1973)別子銅山の閉山というから、40数年前までは山と市内を繋ぐ唯一の道として使われていたわけである。

坑水路会所跡;8時20分(標高453m)
仲持ち道から左に分岐する送電線鉄塔巡視路の標識を見遣りながら、石垣や石段などのある道を進むと、道脇に煉瓦造りの水路施設がある。これって、端出場発電所水路散歩の時にメモした坑水路跡ではないだろうか。
坑水路のことを知ったのは先回、端出場発電所水路跡を辿ったときのこと。東平の第三通洞脇に立派な煉瓦組みの水路施設があり、何だろうとチェック。その煉瓦の施設が坑水路に関係するものかどうか定かではないが、ともあれ、坑水路とは、明治の頃、環境汚染対策として、採鉱に伴う廃水を山中の東平から新居浜市内まで流すべく整備された廃水路である。
木樋そして、流路変更点など重要な箇所は煉瓦造り(坑水路会所)とした坑水路のルートは、東平からの山中は東平とから山裾を結ぶ道に沿って進み、山を下った水路は、端出場から先、下部(鉱山)鉄道の線路に沿って進んだ、とのことであり、いつかその水路跡の一端にでも触れてみたいと思っていたのだが、思いも拠らずこの地で出合った。
坑水路会所
坑水路とは住友家二代目総理事である伊庭貞剛翁が明治38年(1905)、坑内排水を国領川水系に流れ込むのを防ぐべく、東平の第三通洞の出口から、新居浜市内惣開の海岸まで通した廃水路。鉱石内の銅や鉄などが水に溶け出し強い酸性の水となるわけで、その環境汚染を防止するため16キロにも及ぶ坑水路を造った、という。別子銅山の煙害被害など公害対策に尽力した翁ならではの対策ではあろう。
第三通洞からは木樋で通し、途中流路変更箇所には坑水路会所(流路変更の継目の施設)を設け、東平から端出場までは山道に沿って、端出場から惣開までは下部鉄道沿いに進んだ。端出場に第四通洞が通った大正12年(1923)以降は、坑内排水は第四通洞にまとめられ、 そこから坑水路が下ったとのことである。
実家の直ぐ裏手の山沿いに下部鉄道が通っており、その線路跡の脇に今も坑水路が続く。実家の裏手の下部鉄道脇には「山根収銅所」、通称「沈殿所」があるが、そこでも坑内廃水より銅の成分を抜く作業が現在も行われている。

余談ではあるが、実家のすぐ上を走る線路脇の水路が坑水路と知ったのは、先回の散歩のメモをした時である。子供の頃は、水路は現在のようにコンクリートで完全に蓋をされてもおらす、諸処に開いていた。悪ガキどもであった我ら三兄弟は、蓋の切れている箇所から坑水路に入り込み、流れに身を任せて遊んでいた記憶が蘇る。汚染水の水も相当飲んだことではあろうかと思う。

坑水路会所跡;8時20分(標高470m)
石垣の組まれた道を経て先に進むと、道の山際に水路跡があり、その先の角には誠に立派な坑水路会所跡が残る。先ほどの水路施設が坑水路会所跡かどうかは定かではないが、この重厚な煉瓦造りの遺構は坑水路会所跡に間違いないだろう。
急斜面を流れ落ちる箇所も煉瓦造り、その下の坑水路会所も大きく堅牢な造りになっている。会所はこの内部に水を貯め、変更した流路方向へと水を吐き出す。その水路が会所手前で見た水路跡であろうか(会所から谷筋へと水路は無かったように思うのだが)。因みに、坑水路のほとんどは木樋を使っていたとのことではある。

索道施設跡;8時26分(標高482m)
坑水路会所の直ぐ先、左手下に煉瓦の廃墟が見える。東平から端出場までの索道を方向転換する為の中継所とのことである。
別子銅山の索道施設
日本最初の山岳鉱山鉄道である上部鉄道の終点、石ヶ山丈駅のすぐ傍に深い溝をもった遺構がある。索道施設跡である。上部鉄道により角石原より運ばれた粗銅は石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した「下部鉄道」により市内へと運ばれた。 石ヶ山丈の索道基地は明治24年(1891)に完成している。
上部鉄道の建設が開始されたのは翌明治25年(1892)であるから、上部鉄道開通までは明治13年(1880)に開通した第一通洞の銅山峰北嶺・角石原から石ヶ山丈までは牛車道で粗銅が運ばれ、ここから延長1,585メートルの索道で端出場まで下ろされたのであろう。
なお、明治24年(1891)に完成した索道は「複式高架索道」とのこと。明治30年(1897)には単式高架索道となっている。単式(高架)索道は、端出場火力発電所の電力を使った「電力」で動く索道とのこと。ということは、「複式」とは「上りと下り」の索道の動力モーメントで動かしたものではあろう。 当初、角石原から端出場に下ろした索道であるが、明治35年(1902)に銅山峰を掘り抜き嶺南の採鉱地と東平を繋いだ「第三通洞」の完成により、明治38年(1905)からは東平に索道基地がつくられ、下部鉄道の黒石原駅(端出場のひとつ市内よりの駅)に下ろされた。
東平索道基地
索道とは、採鉱された鉱石を搬器(バケット)と呼ばれる専用のカゴに入れ、山間の空中に張り巡らされたラインを伝って運搬するロープウェイのような施設です。こうした索道の拠点となっていた索道基地では、索道の操作や点検を行いました。東平索道基地では貯鉱庫から運び出された鉱石を搬器にのせ麓の端出場へ運んだり、逆に端出場から食料や日用品、坑内で使用される木材が引き上げられるなど、昭和43年の閉坑までの間、東平における物資輸送に欠かせない施設として広く利用されていました。
索道の長さは全長3,575メートル、搬器のスピードは時速約2.5メートル、一日の鉱石の搬出量は900トンもありました。索道にはモーターなどの動力がついておらず、搬器内の鉱石の重みを利用して動かしていました。点検の際には給油士と呼ばれる作業員が搬器の上に乗って索道のロープを支える鉄塔へ赴き、高いところでは地上30メートルにもなる鉄塔の上で滑車の給油などの点検作業を行っていました。現在でも、レンガ造りの索道基地の跡地を見学することができます(「マイントピア別子公式HP」より)

坑水路会所跡;8時29分(標高496m)
索道施設を見遣り、道を進むと道脇の木の根元に埋もれたような煉瓦造りの水路施設らしきものがある。坑水路会所跡のように思えるのだが、先ほどの堅牢な造りの坑水路会所跡との比高差は10m余り。先ほどの坑水路会所跡には上から急な斜面を水路が下っていた。その斜面を下る水路とどこかで繋がっているのだろうか。その内に確認に歩いてみようと思う。




軽い土砂崩れ箇所;8時40分(標高567m)
道を進むと沢の土砂が道を覆う。沢部分は石組みに補強され、水抜き口あるのだが、そのうちに崩壊しても不思議ではない沢の相ではあった。で、その沢を越え、西に突き出た支尾根の手前、土砂崩れ予防のために組まれたのであろう石垣の手前にも煉瓦造りの水路施設がある。会所跡なのか、石組みの水抜き施設なのか不明ではあるが、なんとなく気になる。これも、もう一度訪れ、じっくり見てみようかと思う。



支尾根に索道鉄塔基部跡;8時44分(標高554m)
「左 登山口 右 銅山峰」の標識の立つ箇所から中持ち道を離れ、小女郎川の谷筋にグンと突き出した細尾根に向かって弟が進む。何事があるわけでもなかろう、とは思いながら後を追うと。索道の支持鉄塔基部の様なものが2基残っていた。とり敢えず、行ってはみるものである。









鉄管;8時48分(標高572m)
仲持ち道に戻り、先に進むと道路を細い鉄管が横切る。何なんだろう?道を少し進んだところに数段の石垣があった。辺りは少し平坦になっており、防災のため、と言うより人が住んでいたような風情である。それに関連した排水鉄管だろうか?気にはなるのだが、チェックの手掛かりは、ない。





切り通しにお地蔵さん;8時54分(標高605m)
しばらく切り通しの箇所には、岩壁にお地蔵さんが祀られていた。左手は深い沢に滝が落ち込んでいる。小女郎川の沢遡上はどうおyhう?などと弟に尋ねたことがあるのだが、冗談でしょう、とのこと。ハーケンを打ち、10m近い懸垂下降を繰り返す、上級者でも難儀する沢のようだ。この沢相を見ただけで結構納得。






中の橋(ペルトン橋);9時3分(標高648m)
その先で沢に架かる鉄橋を渡る。鉄橋を渡らず小女郎川の左岸そのまま進むと東平へ出る。この橋は「中の橋」と呼ぶ。メモの段階でわかったのだが、この橋は別名「ペルトン橋」と呼ばれ、橋を渡った北東にペルトン水車施設跡の石垣が残っていたようである。
このペルトン水車の事は先回の端出場発電所水路散歩の折りはじめて知り、その跡地にいつか訪ねたいと思っていたのだが、知らず通り過ぎていた。場所はほぼ把握したので、再訪「MUST」である。
東平ペルトン水車
Wikipediaによれば「ペルトン水車は、水流の衝撃を利用した衝動水車、タービンの一種である」とある。通常は水の落差を利用しタービンを回し発電するわけであるが、明治28年(1895)に設置されたこの「東平ペルトン水車」の主たる目的は、圧縮空気をつくり、その圧縮空気を活用し削岩機を動かすこと。その削岩機は第三通洞の開削に使った。削岩機を使うことにより、それまで手掘りであった隧道開削のスピードが6倍になった、と言う。別子採鉱課で石油発動機によって電灯が灯されたのが明治34年(1901)のこと。 東平ペルトン水車は電気が別子銅山に最初の電燈が灯る6年も前に稼働したことになる。
取水口は第三通洞近く、「柳谷川・寛永谷」の合流点辺りで取水し、木樋で等高線750mに沿って、おおよそ500mの距離を1mから2m程度下る緩やかな、ほとんど平坦地といってもいいほどの横水路を進み、住友共同電力の「高藪西線」48 番鉄塔辺り(橋の東、750m等高線が西に突き出た尾根尖端)にあった「会所(水槽)」から鉄管で100m下の「東平ペルトン水車」に落としていた。

ところで、この「東平ペルトン水車」の導水路は、端出場発電所導水路が貫通するまでの間、端出場発電所の発電運転のテスト用の水としても使われたようである。明治27年(1894)から35年(1902)にかけて「東平ペルトン水車」の圧縮空気を使った削岩機は第三通洞開削に使われたわけだが、銅山峰南嶺の日浦からの通洞が繋がり、水が流れはじめたのは明治44年(1911)の2月のこと。端出場発電所の試験運転がはじまったのは明治43年(1910)の12月というから、3ヶ月ほど「東平ペルトン水車」導水路の水を端出場発電所まで延ばし試験運転に使ったのだろうか?それとも端出場発電所が正式稼働するのが明治45年(1912)というから、もう少し長い期間この「東平ペルトン水車」の導水路の水をつかったのだろうか?詳しいことはわからない。
それはともあれ、実際、第三通洞から少し上った柳谷川には堰が築かれ、端出場発電所(東平ペルトン水車系)への取水口が残るとのことである。

東平遠望;9時9分(標高673m)
ペルトン橋を渡ると深く切れ込んでいた沢が道傍に近づく。沢を見遣りながら進むとガレ場、そして竹藪なども現れる。右手には、沢の向こうに東平の貯蔵庫や石垣が眼に入る。
東平
元々は銅山峰の南嶺において採掘・精錬を行っていた別子銅山であるが、明治32年(1899)8月、台風による山津波で大被害を被ったことを契機に別子村での精錬を中止し精錬設備を新居浜市内の惣開にまとめることになる。
明治35年(1902)には、銅山峰の嶺北の東平より開削し東延斜坑と結ばれた「第三通洞(標高765m)」、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺南の日浦の間、3880mが直結し、嶺南の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれることになる。そして、東平からは、明治38年(1905)に架設された索道によって、明治26年(1893)開通の下部鉄道の黒石駅(端出場のひとつ市内よりの駅;現在草むしたプラットフォームだけが残る)に下ろし、そこから惣開へと送られた。
この鉱石搬出ルートの変化にともない東平の重要性が高まり、大正5年(1916)には、標高750mほどの東平に東延から採鉱本部が移され、採鉱課・土木課・運搬課などの事業所のほか、学校・郵便局・病院・接待館・劇場などが並ぶ山麓の町となった。その人口は4000とも5,000人とも言われる。 別子銅山は昭和48年(1973)に閉山。東平はその産業遺構を以て「東洋のマチュピチ」として観光資源として活用されている。

滝が見える;9時20分(標高712m)
小女郎川に注ぐ沢に架かる木橋を渡り先に進むと、木々の間から対岸に結構大きな滝が見える。場所は喜三谷を埋め立てたのであろう平坦地の先、車道が終わり、道が大きく回りこみ小女郎川と山地に挟まれた渓流散策路となる地点の真下辺り。谷まで比高差が100mほどもあるため、幾度となくその散策路を歩いたが、滝に気付くことはなかった。




辷坂地区(すべり坂)社宅跡地;9時23分(標高748m)
先に進むと煉瓦造りの水路施設らしきものがある。そしてその先には幾段にも組まれた石垣が残る。東平には東平(上・下)、辷坂(すべりざか)、喜三谷(きぞうだに)、第三の各集落(社宅)、西側の呉木(くれぎ)(上・中・下)、尾端(おばな)の集落(社宅)があったとのことだが、場所からすれば、この辺りは辷坂集落跡ではあろう。辷坂の住宅地には、かつては郵便局や浴場・旅館などもあった、とのことである。で。先ほどの煉瓦造りの水路施設、それが坑水路会所なのか、社宅の水路施設なのか、どちらだろう。
東平の銅山集落
「えひめの記憶」によれば、「昭和三四年における鉱山集落は総戸数七四四戸であった。このうち東平地区の四三〇戸は昭和四三年に(別子銅山閉山四三年三月)、端出場地区の打除、鹿森は四五年にすべて撤去され、跡地には住友林業によってヒノキの植林が施されている。
明治三五年(一九〇二)に第三通洞が完成し、東平に選鉱場が設置され、さらに大正五年(一九一六)に旧別子銅山が廃止されて、採鉱本部が東平に移されると(昭和五年まで、後端出場へ移転)、銅山峰嶺北斜面に多くの鉱山集落が形成されるようになった。それらの中には、第三坑道入口付近に建設された一本松一八五戸、柳谷六七戸、唐谷一五戸(元別子銅山記念館加重館長)のように、昭和四年ころに撤去されたものもあり、鉱山集落の戸数にも建設当時とはかなりの変動があるが、いずれも明治三八年から四四年ころに多くの社宅が建設されていった。それらは、山の斜面に石垣を積んで階段状に建てられた長屋形式の社宅群であり、各戸の平均建坪は五坪から一四坪、ほとんどが二間から三間、タタミ数六枚から一三・五枚程度の住居であった」とある。

第三広場;9時30分(標高750m)
石垣の組まれた箇所を過ぎると、踏み跡がはっきりしなくなる。直ぐ先に第三広場が見えており、力ずくで直進し広場に這い上がる。広場の左手、石組みの段上には第三変電所跡の建物が残る。「第三」は地名であり、第一、第二変電所があるわけではない。
第三変電所
第三広場の採鉱本部跡のあった埋め立て広場の東、二段の石垣上に煉瓦造りの建物が見える。第三変電所である。案内によれば、「第三変電所は、第三通洞がある集落に明治37年(1904)9月に建設されました。そして、東平坑閉坑になる少し前の昭和40年(1965)まで、61年間使用されていました。
第三というのは三番目というのではなく、第三という地名からついたものです。 赤煉瓦造りの建物は、現在も外観をとどめながら残されています。 また、東平で当時のままの建物が残されているのは、この第三変電所と採鉱本部(現在はマイン工房として利用されています)だけですが、内部までそのままで残されているのはここだけです(後略)」とある。

この第三変電所は「落シ水力発電所」から送電されてきた電力を変圧し、第三通洞内を走行する坑内電車の動力源や、社宅の電気としても使用されていた。 建物内部は宿直室や炊事場はそのままの姿が残っている。
「落シ水力発電所」は明治37年(1904)完成の別子銅山で初の水力発電所。90kwの発電能力があった。端出場水力発電所ができるまでは、東平への送電の要であった。場所は鹿森ダム脇の遠登志橋近くの山の中腹にあった、と言う。

ここで、第一のパートである「仲持ち道」散歩は終了。途中思いもかけず、坑水路跡に出合ったり、知らずペルトン水車遺構前を通り過ぎたりと、常の如く、成り行き任かせ故のイベントも多くあった。この道なら迷うこともなさそうである。幾つかの疑問点をクリアにすべく、再び歩き直してみようと思う。
予想とおりとは言いながら、「羽村・山口」軽便鉄道の廃線歩きは、あっけなく終了した。後は、少々物足りなさが残るであろう廃線歩きを「埋め合わせる」企画ツアーと言ったもの。
堰堤から山口貯水池や狭山丘陵に集まる芝増上寺の石灯籠の「謎」、トトロの森の自然、そして最後は都下唯一の国宝建造物であるお寺さまで最後を締めることにする。


本日のルート:立川駅>横田バス堤>野山北公園自転車道>1号隧道(横田トンネル)>2号隧道(赤堀トンネル)>3号隧道(御岳トンネル)>4号隧道(赤坂トンネル)>5号隧道>藪漕ぎ>谷津仙元神社>湧水箇所>多摩湖周遊道路>フェンスが周遊道路から離れる>周遊道路に戻る>県道55号線・所沢武蔵村山立川線>玉湖神社>6号隧道>西向釈迦堂>山口貯水池堰堤>狭山不動尊>西武遊園地駅>八国山緑地>将軍塚>正福寺>東村山駅

玉湖神社
「羽村・山口」軽便鉄道の最後の隧道(6号隧道)をフェンス越しに見遣り、あっけなく終わった廃線歩きから気分を切り替え、狭山湖周辺のハイキングのガイドとして先に進む。





西向釈迦堂
道脇の少し小高いところに西向釈迦堂。丘陵下にある金乗院・山口観音の一堂宇である。釈迦堂の境内には歌碑が建つとのことだが見逃した。ダム管理事務所の所長を務め、一帯を桜の名所とした方の詠んだ句碑とのこと。「浮寝して 湖(うみ)の心を 鴨はしる」と刻まれる、と。
山口観音は一度訪れたことがある。新田義貞が鎌倉攻めのときに戦勝祈願をしたとも伝えられる古いお寺さま。ダムができる前からこの地にあったのだろうが、現在はマニ車があったり、中国風東屋、ビルマ風パゴダなどが建ち、いまひとつしっくりしないので今回はパスしダム堰堤に向かう。

山口貯水池堰堤
桜の植樹をひとりではじめ、一帯を桜の名所とした所長が勤務したであろうダム管理事務所前を通り山口貯水池堰堤に。西は広大な貯水池、東は柳瀬川が開析した谷筋の眺めが美しい。
狭山丘陵ははるか昔、多摩川が造り上げた扇状地、それは青梅を扇の要に拡がる武蔵野台地も含んだ巨大な扇状地であるが、そこにぽつんと残る丘陵地である。
狭山とは、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意とも言う。この語義の通り、かつては柳瀬川が浸食した狭い谷あいの水を溜め、農業用水や上水へと活用していたこの狭山丘陵の浸食谷を、昭和9年(1934)に堰止めつくりあげたのが狭山湖(山口貯水池)である。
羽村取水堰と小作取水堰より導水され狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られることになる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。

狭山不動尊
堰堤を離れ、次は狭山不動尊に向かう。このお不動さんに訪れたのはこれで三度目である。最初は全国から集めた著名な建造物や幾多の徳川家ゆかりの石灯籠・宝塔が並ぶ、といったそれなりの印象で通り過ぎたのだが、いつだったか辿った清瀬散歩で気になった出合いを深掘りすると、狭山不動にからむおもしろい歴史が登場し、そのエビデンスを確認しに再訪。そして今回は三回目。そのストーリーをパーティの皆さんに「共有」すべくご案内することにした。

経緯はこういうことである;清瀬を散歩しているとき、それほど大きなお寺さまでもないのだが、その境内に誠に立派な一対の宝塔が並び、それは徳川将軍家の正室の墓碑であった。また、境内には15基の立派な石灯籠もある。徳川将軍家の法名や正室、側室の法名が記されている、とのことである。
はてさて、何故に清瀬のこの地に徳川将軍家ゆかりの宝塔(墓碑)や石灯籠があるのだろうと気になったのでチェックすると、なかなか面白い歴史が現れてきた。
ことのはじめは昭和20年(1945)の東京大空襲。徳川将軍家の霊廟(墓所)がある増上寺の大半が灰燼に帰した。廃墟となった霊廟跡は昭和33年(1958)に西武鉄道に売却され、東京プリンスホテルや東京プリンスホテルパークタワーとなる。そして廃墟に散在していた将軍家ゆかりの宝塔や石灯籠は、西武鉄道の手により狭山の不動寺に集められる。
一部は狭山不動寺に再建されるも大半は野ざらし。その敷地も西武球場とするにあたり、宝塔や石灯籠の引き受け手を求めたようである。清瀬のお寺様で見た、宝塔や石灯籠はその時に狭山不動寺から移したものであった。
桜井門
堰堤から狭山不動に向かう。丘陵下の正面から入ることなく、堰堤に続く道から直接お不動さんの境内に入る。奈良県十津川の桜井寺の山門を移築した桜井門から境内に入る。灯籠群脇、道の両側に石灯籠が並ぶ。




青銅製唐金灯籠群
中を先に進むと灯籠群に四方を囲まれ、港区麻布より移築された井上馨邸の羅漢堂が佇む。その裏手の囲いの中にはおびただしい数の青銅製唐金灯籠群。増上寺の各将軍霊廟に諸侯がこぞって奉納したものであろう。その数に少々圧倒される。



石灯籠群
参道を下り本堂に。もとは東本願寺から移築した堂宇があったとのことであるが、不審火にて焼け落ち、現在は鉄筋の建物となっている。その本堂を取り囲むように幾多の石灯籠が並ぶ。銘を見るに、増上寺とある。全国の諸侯より徳川将軍家、そしてその正室や側室に献上され、霊廟や参道に立ち並んだものである。

第一多宝塔
本堂右脇をすすむと第一多宝塔。大阪府高槻市畠山神社から移築したもの。その脇には桂昌院を供養する銅製の宝塔。桂昌院とは七代将軍家継の生母である。





丁子門
 本堂の裏手にも無造作に石灯籠や常滑焼甕棺が並ぶ。将軍の正室や側室のもと、と言う。また、本堂裏の低地には丁子門。二代将軍秀忠の正室崇源院お江与の方の霊牌所にあったもの。本堂左手脇には滋賀県彦根市の清涼寺より移した弁天堂がある。
本堂脇、左手の参道を上ると第二多宝塔。兵庫県東條町天神の椅鹿寺から移築。室町時代中期建立のものである。その右手には大黒堂。柿本人麿呂のゆかりの地、奈良県極楽寺に建立された人麿呂の歌塚堂を移築したもの。


総門
本堂下に総門が建つ。長州藩主毛利家の江戸屋敷にあったものを移した。この門は華美でなく、素朴でしかも力強い。いかにも武家屋敷といった、印象に残る門である。誠に、誠に、いい。この門に限らず、この不動院には徳川将軍家ゆかりの遺稿だけでなく、全国各地の由緒ある建物も文化財保存の目的でこの寺に移されている。



御成門
正門に下る途中に御成門が迎える。これも台徳院霊廟にあったもの。飛天の彫刻があることから飛天門とも呼ばれる。都営三田線御成門駅の駅名の由来にもなっている門である。勅額門も御成門も共に重要文化財に指定されている。







勅額門
石段を下りるとエントランスには勅額門。芝増上寺にあった台徳院こと、二代将軍秀忠の霊廟にあった門である。東京大空襲で残った数少ない徳川家ゆかりの建物のひとつ。勅額門とは天皇直筆の将軍諡号(法名)の額を掲げた門のことである。門の脇には御神木。この銀杏の大木は太田道灌が築いた江戸城址にあったもの、と言う。




西武遊園地駅
次の目的地は「隣のトトロ」の舞台モデル地のひとつと言われる「八国山緑地」。ひとりであれば、多摩湖(村山貯水池)をふたつに分ける村山上貯水池辺りから村山下貯水池の北を村山下貯水池堰堤まで歩くのだが、パーティの皆さんはそれほど歩きたい訳でもなさそうであり、狭山不動の近くにある西武球場駅から西武レオライナーに乗り西武遊園地まで進むことにする。西武園線西武園駅で下車。多摩湖堰堤にちょっと立ち寄る。



八国山緑地
多摩湖堰堤にちょっと立ち寄った後、いかにも西武園への入口といったエントランスの脇に沿って道を進み、八国山緑地の入口に。芝生の丘のむこうに森が見える。案内版によれば八国山の散歩道は何通りかあるが、今回は尾根道ルートを選ぶ。
丘陵を登り尾根道を進む。いつだったか、以前この八国山を訪れたとき、雨上がりでむせかえるような木の香りに圧倒されたことを想い出した。森の香り・フィトンチッドではあった、

トトロの森
この森のことを「トトロの森3号地」と呼ぶ。トトロの森は5号地まであり、八国山の対面、柳瀬川に開析された谷、といっても、現在は宅地で埋め尽くされてはいるのだが、その対岸の丘陵、狭山丘陵の東の端の鳩峰公園に隣接して「トトロの森2号地」。村山下貯水池の堰堤防の手前、清照寺方面に右折した堀口天満神社あたりから入る森が「トトロの森1号地」。狭山湖の北側に「トトロの森4号地と5号地」。1号地から5号地までは幾度かの狭山散歩の下りに辿った。 と、メモしながら確認のためにトトロの森をチェックすると、現在では29号地まで増えていた。直近で狭山丘陵を訪れた以降も、ナショナルトラストにより集まった基金で自然保護地区を増やしていったのであろう。

ナショナルトラスト
はじめて「トトロの森」を歩いた時は、「隣のトトロ」の舞台となったモデル地故に「トトロの森」と称された、といった程度に考えていた。が、実際は狭山丘陵の自然を守る基金集めのキーワードとして、宮崎駿監督の承諾を得た上で「トトロの森」を冠したナショナルトラスト事業のことであった。

ナショナル・トラストとは、市民や企業から寄付を募り、自然や歴史的建造物などを買い取り保全され、後世に残そうとす運動のこと。明治28年(1895)に英国ではじまった。この狭山丘陵ではいくつもの市民団体により「トトロのふるさと基金」として誕生。平成3年(1991)に「トトロの森1号地」を取得、以後も活動を拡げ1998年に財団法人トトロのふるさと財団となって活動を続けている。その結果が29もの取得地となっているのだろう。
宮崎駿監督
これも、いつだったか、清瀬を散歩しているとき、西武池袋線・秋津駅の近くに秋津神社があった、その神社の端から柳瀬川方向を見下ろすと豊かな林が目に入る。林に向かって小径を下ると湧水とおぼしき池、そして美しい雑木林が拡がっていた。林の中を彷徨うと「淵の森」とある。柳瀬川の両岸に拡がるこの森は、市民が自然環境を守るため活動を行っている、とのことである。 会長はジブリの宮崎駿さん。秋津三郎とのペンネームをもつ宮崎さんは、このあたりに住んでいる(いた)のだろう。柳瀬川を遡り、狭山丘陵の現在では「トトロの森」と名付けられた森のあたりを散策し、トトロの構想を練った、とも聞く。

将軍塚
尾根道を進み将軍塚に。将軍塚のあたりが八国山の東の端。八国山の名前の由来によれば、「駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望められる」わけだが、木が生い茂り遠望とはほど遠い。
将軍塚とは新田義貞が鎌倉幕府軍に相対して布陣し、源氏の白旗を建てたことが名前の由来。この地域で新田の軍勢と鎌倉幕府軍が闘った。府中の分倍河原で新田軍が鎌倉幕府軍を破った分倍河原の合戦に至る前哨戦であったのだろう。戦いの軌跡をまとめておく。



新田義貞
元弘三年(1333)、新田義貞は鎌倉幕府を倒すべく上州で挙兵。5月10日、入間川北岸に到達。鎌倉幕府軍は新田軍を迎え撃つべく鎌倉街道を北進。5月 11日に両軍、小手指原(埼玉県所沢市)で会戦。勝敗はつかず、新田軍は入間川へ、鎌倉軍は久米川(埼玉県東村山市)へ後退。
翌5月12日新田軍は久米川の鎌倉幕府軍を攻める。鎌倉幕府軍、府中の分倍河原に後退。5月15日、新田軍、府中に攻め込むが、援軍で補強された幕府軍の反撃を受け堀兼(埼玉県狭山市)に後退。
新田軍は陣を立て直し翌日5月16日、再度分倍河原を攻撃。鎌倉軍総崩れ。新田軍、鎌倉まで攻め上り5月22日、北条高時を攻め滅ぼす。鎌倉時代が幕を閉じるまで、旗挙げから僅か14日間の出来事であった。
いつだったか東村山から小手指まで歩いたことがある。その折りに、久米川古戦場跡、小手指原の古戦場跡を辿ったのだが、小手指原の古戦場跡はそれなりの風情を伝えていたが、久米川古戦場跡は普通の公園といったものであった記憶が残る。

正福寺
将軍塚から次の目的地である正福寺に向かう。八国山の尾根道から成り行きで丘陵を南に下り、新山手病院、東京白十字病院脇を抜ける。「隣のトトロ」の七国山病院のモデルとなった病院とか。
地蔵堂
道なりに進み都下唯一の国宝建造物の残る正福寺に。境内には鎌倉の円覚寺舎利院とともの禅宗様式の代表美を伝える堂宇が建つ。それが都下唯一の国宝建造物である地蔵堂である。上層屋根は入母屋造の?葺き(こけらぶき)で、下層屋根は板葺とのこと。元は茅葺(かやぶき)屋根だった、と。
いつだったかこのお寺様を訪れたときは、地蔵堂を囲む垣根は造り直されて間もないようで、お堂の渋さとシンクロしてはいなかったのだが、今回は風雪に耐え、堂宇と少しは調和するようになっていた。地蔵堂の前に案内。

正福寺千体小地蔵尊像
「東村山市指定有形民俗文化財 正福寺千体小地蔵尊像
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和47年3月31日指定第11号
正福寺地蔵堂は千体地蔵堂と呼ばれるとおり、堂内には、多くの小地蔵尊が奉納されています。一木造り、丸彫りの立像で、高さが10-30cm位のものが大部分です。何か祈願する人は、この像を一体借りて家に持ち帰り、願いが成就すればもう一体添えて奉納したといわれます。
指定されている小地蔵尊は約900体です。背面に文字のあるものは、約270体で、年号のわかるものは24体です。正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は現在の東村山、所沢、国分寺、東大和、武蔵村山、立川、国立m小金井の各市にまで及んでいます。なお地蔵堂内には1970年代に奉納された未指定の小地蔵尊像約500体も安置されています。平成5年(1993)3月 東村山市教育委員会」
正福寺千体地蔵堂本尊
「東村山市指定有形文化財 正福寺千体地蔵堂本尊
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和48年3月31日 指定第12号 地蔵堂の本尊は、木像の地蔵菩薩立像で堂内内陣の須弥壇に安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠をもつ延命地蔵菩薩で、像の高さ127cm、台座部分の高さ88cm、光背の高さ175cm、錫杖の長さ137cm。
寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが、昭和48年の修理の際に発見された墨書銘によって、文化8年(1811)に江戸神田須田町万屋市兵衛の弟子善兵衛の作であることがわかりました。 平成5年(1993)3月 東村山市教育委員会」
地蔵尊建立時期
「寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが」とあるのは、本尊の延命地蔵菩薩は古代、長谷寺の観音像を像流した仏師であるとか、中世、北条時宗がこの地での鷹狩りの折り、疫病にかかり、夢枕に出た地蔵菩薩に救われたことを感謝して飛騨の匠をして七堂伽藍を造営したといった縁起があるが、その時に地蔵尊を造立した、と伝えられてきたのだろう。なおまた、地蔵堂の建立時期も昭和33年からの解体工事の際に見つかった資料により、室町時代の1407年の建立と推定されるようになった。
千体地蔵信仰
千体地蔵信仰は、平安の中頃からひろまった末世思想の影響のもと、京都を中心に本尊に合わせて千体の小さな地蔵菩薩立像が並べられる幾多のお堂が現れる。功徳を「数」で現そうとして信仰形態。2000年に焼失した大原の寂光院、栂尾高山寺や蓮華王院三十三間堂にその形を残す。
しかしながら、この正福寺の千体地蔵は、上記信仰と少しニュアンスが異なる。案内にあるように、菩薩の功徳を数の多さで現した信仰とはことなり、願いを叶えた衆生の感謝の気持ちが集まった結果の千体、ということであろう。

貞和の板碑
貞和の板碑(じょうわのいたび)東村山市指定有形民俗文化財(昭和44年3月1日指定) この板碑は、都内最大の板碑と言われ、高さ285cm(地上部分247cm)、幅は中央部分で55cmもあります。
貞和5(1349)年のものです。碑面は、釈迦種子に月輪、蓮座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五年己丑卯月八日、帰源逆修」とあり、西暦1349年のものです。
この板碑はかつて、前川の橋として使われ、経文橋、または念仏橋と呼ばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和2年5月、橋の改修のため板碑を撤去したところ、赤痢が発生したのでこれを板碑のたたりとし、同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺境内に移建したとのことです。昭和38年には、板碑の保存堂を設けたそうです。

東村山駅
所定の散歩ルートを終え、最寄りの駅である西武線・東村山駅に。この駅は西武国分寺線と西武新宿線が合わさる。駅の東口に大小ふたつの石碑が建つ。共に東村山停車場関連の石碑である。
東村山停車場の碑
脇の案内に拠ると「東村山停車場の碑  東村山は北多摩地域でも早い時期に鉄道が開通した所です。明治二十二年(1889)に甲武鉄道(現中央線)の新宿と立川間が開通すると、やがてその国分寺と埼玉県の川越を結ぶ川越鉄道が計画されました。そして明治二十七年(1894)に国分寺と東村山間の工事が完成しましたが柳瀬川の鉄橋工事が難行したので、やむなく現在の東村山駅北方に仮設の駅(久米川仮停車場)を置き、国分寺‐久米川仮停車場間で営業を開始しました。翌明治二十八年(1895)鉄橋も完成し国分寺‐川越間が開通するのに伴い、仮設の駅は廃止されることとなりました。しかし、東村山の人々は鉄道の駅の有無は地域の発展に大きく影響すると考え。約二百五十人もの寄付と土地の提供により、同年八月六日にようやく東村山停車場の設置にこぎつけました。
時の人々の考えたとおり鉄道は地域の発展に欠かせないものとなり、その後の東村山の発展の基礎となりました。東村山停車場の碑は、こうした当時の人々の努力を後世に残すため、明治三十年(1897)に建てられたものです。 東村山市教育委員会」とある。
鉄道開通100周年記念碑
小さな石碑は「鉄道開通100周年記念碑」。石には「明治27年(1894年)国分寺 久米川間に川越鉄道が開通して今年(平成6年)で100周年を迎えました。 往時の東村山駅は現在より所沢寄りにあり、久米川停車場と呼ばれておりました。
私共は満100年の節目にあたり 歴史を振り返り、まちのさらなる発展と、これからのまちづくりを考える機会とするため、駅周辺の有志が集まり 写真展 お祭り広場 そして臨時列車「銀河鉄道」の運行など多くの記念事業を実施いたしました。
この事業を記念し未来の市民に継承するため碑をここに建立します。
平成6年9月吉日  鉄道開通100周年記念事業実行委員会」と刻まれていた。
川越鉄道と東村山駅
川越鉄道は、明治22年(1889)に新宿と八王子間に開通した甲武鉄道の支線として国分寺から、当時の物流の拠点であった川越へと結ばれた。川越は江戸の頃から新河岸川の舟運を利用し、川越近郊だけでなく、遠く信州・甲州からの荷を大江戸に送る物流幹線の拠点であった。
この舟運業で潤っていたためでもあろうか、「川越」を冠する川越鉄道ではあるが、その発起人には川越の商人の名は独りとしていない。舟運との競業を危惧したため、とも言われる。
同じく、立派な石碑の建つ東村山にも発起人はいないようだ。それでも駅ができたのは、上でメモした柳瀬川架橋の反対運動がきっかけ。柳瀬川架橋の長さが十分でなく、増水時に洪水を引き起こす原因になると激しい反対運動が起こり、橋梁の設計変更となったため工事が大幅に遅れることになった。そのため柳瀬川手前に暫定駅・久米川仮停車場を設け川越鉄を暫定開業した。
その後、橋梁が完成し、久米川仮停車場は廃止されることになるが、住民は停車場の設置を川越鉄道に陳情し、工事資金と用地を提供することにより、東村山停車場が開業することになった、とのことである。

 ●東村山軽便鉄道
鉄道と言えば、東村山停車場の碑の右手に高層ビルがある。この地は村山貯水池建設のところでメモした東村山軽便鉄道の始点。大正9(1920)年に敷設された。
村山貯水池建設の砂利・資材は、中央線国分寺駅を経由し、川越鉄道で東村山駅まで運ばれ、駅前にあった材料置き場に集められた。軌道の違い故に、材料置き場で東山軽便鉄道に積み替えられた建設資材は南に少し下り、鷹の道(清戸街道)を右に折れ、村山貯水池の北を進み、現在の多摩自転車で右に折れ、武蔵大和駅へと北西に進む。ルートはそこでふたつに別れ、ひとつは村山下貯水池堰堤下に清美橋を渡って進む。もうひとつは宮鍋隧道を抜け貯水池内に入っていたようである。

本日の散歩はこれで終了。羽村・山口軽便鉄道の廃線歩きは、予想通り、あっけなく終了となったが、散歩の最後で、思いもかけず村山貯水池建設資材を運搬した東村山軽便鉄道始点辺りにも出合い、それなりに収まりのいいエンディングともなった。少し涼しくなったとき、今回パスした羽村から横田トンネルまでの羽村・山口軽便鉄道(羽村・村山軽便鉄道でもあり、羽村・村山送水路渠跡でもある)を歩いて見ようと思う。

いつだったか、奥多摩の水根貨物線跡を退任前の会社の仲間と辿ったとき、「廃線」歩きにフックが掛かったのか、どこか近場の廃線を歩きたい、との話になった。
結構な難題である。最初に行った廃線歩きが、廃線歩きの「切り札」といった水根貨物線跡を歩いたわけで、それ以上の「廃線」が都内近郊にあるわけもない。あれこれ考えた結果、軽便鉄道「羽村・山口」線跡に残る隧道を「廃線」歩きのコアとし、それだけでは到底物足らないであろうから、狭山湖、そして「隣のトトロ」のモデルともなった、トトロの森を歩き、最後は都下唯一の国宝建造物である東村山の正福寺で締める、といった「廃線+自然+文化」の合わせ技で難題を切り抜けることにした。
狭山湖多摩湖トトロの森正福寺といった狭山丘陵やその周辺は幾度となく辿っているのだが、狭山丘陵を掘り抜き、通称「狭山湖」、正式には「山口貯水池」建設の土砂や資材を運んだ軽便鉄道「羽村・山口」線跡の隧道には行ったことがなく、一度は行って見たいと思っていたのも、このルートを選んだ主因でもある。
軽便鉄道「羽村・山口」線跡の狭山丘陵を穿つ隧道は6箇所、そのうち4箇所は「自転車道」として整備され通り抜けできるが、残りの二つは閉鎖されており、通り抜けできないようである。今回の散歩の私の興味関心は、この軽便鉄道「羽村・山口」線跡の隧道歩きだけであり、後のルートは同行者へのカスタマー・サティスファクション(顧客満足度)のためのもの。閉鎖隧道が、ひょっとして通り抜けれ得る?との想いも抱きつつ、待ち合わせ場所のJR立川駅に向かった。


本日のルート:立川駅>横田バス堤>野山北公園自転車道>1号隧道(横田トンネル)>2号隧道(赤堀トンネル)>3号隧道(御岳トンネル)>4号隧道(赤坂トンネル)>5号隧道>藪漕ぎ>谷津仙元神社>湧水箇所>多摩湖周遊道路>フェンスが周遊道路から離れる>周遊道路に戻る>県道55号線・所沢武蔵村山立川線>玉湖神社>6号隧道>西向釈迦堂>山口貯水池堰堤>狭山不動尊>西武遊園地駅>八国山緑地>将軍塚>正福寺>東村山駅

立川駅
立川駅で下車し、北口より立川バスで最寄りのバス停である「横田」に向かう。軽便鉄道「羽村・山口」線は多摩川の羽村から現在の米軍横田基地敷地を横切り「横田」バス堤付近へと繋がっていた。
自分ひとりであれば、羽村から歩いたではあろうが、現在ではこれといった遺構もない住宅地を同行者に9キロ弱歩いてもらう訳にもいかず、軽便鉄道が狭山丘陵に接近し、隧道が始まる地である「横田」バス停をスタート地点とした訳である。

横田バス堤
30分弱で横田バス堤に到着。バス停は青梅街道に沿ってある。バス停少し西に戻ると、青梅街道を斜めに横切る道がある。現在は「野山北公園自転車道」となっているが、そこが軽便鉄道「羽村・山口線」の跡地を利用したサイクリングロードである。

野山北公園自転車道
野山北公園自転車道は、現在、羽村で取水され、地下導管によって多摩湖(村山貯水池)に送られる羽村・村山線の送水ルート上を走る。自転車道は米軍横田基地の東から青梅街道を越え、都立野山北・六道山公園の東端辺り、狭山丘陵に開削された6つの隧道のうち、4つ目まで続く。
野山北・六道山公園は、いつだったか3度に分けて狭山湖周辺を散歩したときに出合った。六地蔵を越え、宮戸入谷戸の里山の景観を楽しみながら、箱根ヶ崎を経て狭山湖を一周したことが想い出される。

1号隧道(横田トンネル)
野山北公園自転車道を進み、都道55号とクロスする先にトンネルが見える。それが最初の隧道である1号隧道(横田トンネル)。夕刻にはシャッターが閉じられるようだ。
少し水漏れもする隧道の長さはおおよそ150mほど。照明設備も整ったトンネルを抜けると住宅地が目に入る。地形図で見ると、隧道は130m等高線が南に舌状に突き出た西から入り東へ出ている。出たところは谷戸状になっており、そこに宅地が建っているようだ。

2号隧道(赤堀トンネル)
宅地の間の道を先に進むと、ほどなく二番目の2号隧道(赤堀トンネル)が見える。少々水漏れがする90m強の隧道を抜けると宅地になっている。
2号隧道も1号隧道と同じく、130m等高線が南に舌状に突き出た西から入り東へ出ており、ここも同じく谷戸状となっており、そこに宅地が建っている。

3号隧道(御岳トンネル)
2号隧道を抜けるとほどなく3号隧道に。入口付近は狭山丘陵の森が茂る。このまま丘陵地帯に入るのかと思い、120mほどの隧道を抜けると、なるほどフェンスに仕切られた舗装道の左右は木々が茂る。
そのまま森林に、と葉思えども、緩やかにカーブする道を進むと、車道にあたり、周辺に宅地が見える。隧道には車道にあたる箇所で直角に曲がり進むことになる。

4号隧道(赤坂トンネル)
100mほどの隧道を抜けるとその先に車止めがあり、自転車道はここで終わる。車止めの先で道は左右、そして直進と3方向に分かれる。5号隧道は、道を直進することになる。ここから先は丘陵地の緑に包まれる。




5号隧道
舗装も切れ、左右を草木に覆われた道を進むと5号隧道が現れる。隧道は完全に閉鎖されている。この先は東京都水道局の管理下となっている。ひょっとして、立ち入り可能?などと思ってはいたのだが、ここで行き止まり。内部は泥濘となっており、入れたとしても靴はグズグズとなるだろう。軽便鉄道「羽村・山口」線の廃線歩きは、あっけなく終了した。

軽便鉄道「羽村・山口線」敷設までの経緯
ところで、いままでの廃線を軽便鉄道「羽村・山口線」とメモした。確かに横田トンネルから先は軽便鉄道「羽村・山口線」ではあるのだが、この軽便鉄道「羽村・山口線」の敷設ルートはふたつのレイヤーが関係している。ひとつは村山貯水池建設(多摩湖)にともなう水路渠建設の土砂・資材を運んだ軽便鉄道「羽村・村山線」であり、もうひとつは、その軽便鉄道「羽村・村山線」の路線を活用し、山口貯水池(狭山湖)建設に必要な箇所まで路線を延長し土砂や資材を運んだ軽便鉄道「羽村・山口線」である。ダム建設とそれにともなう二つの軽便鉄道を簡単にまとめておく。

村山貯水池建設と軽便鉄道「羽村・村山線」
明治の御一新により都となった東京は水問題に直面する。ひとつは人口増大に伴う水不足、そしてもうひとつは水質汚染である。折しも明治19年(1886)コレラが大流行。玉川上水を水源とし、市内(明治22年(1889)には現在の23区が東京市となった)に張り巡らされた木樋の腐朽や下水流入による水質汚染を防ぐべく、明治23年(1899)には現在の新宿西都心に淀橋浄水場の建設が計画され、明治31年(1898)、鉄管による近代的水道建設が竣工する。
この計画により水質汚染問題は改善されるも、急増する人口の水需要に対応できず、明治45年(1912)には玉川上水の他に水源を求め、検討の結果、村山貯水池の建設が決定され、大正2年から8年(1913~1919)の継続事業として施行され、大正13年(1924)に村山上貯水池が完成。昭和2年(1927)には村山下貯水地地が完成。昭和4年(1929)には、村山貯水池の水を水道水として東京市民に送る境浄水場施設補強、和田堀浄水場、境浄水場間の送水管整備などが完成した。
因みに、何故に村山貯水池を上と下のふたつに分けて建設したのか気になった。粘土を核に盛り土する当時の建設技術では、二つ合わせた巨大な貯水池の水圧に耐えうる堰堤建設が困難だったからかな?などと思いながらあれこれチェックすると、その要因は丘陵地の高低差を調整する必要があったため、とのようである。

羽村・村山線(導水渠)」の建設
村山貯水池に送る原水は羽村で取水し村山貯水池に導水する。「羽村・村山線(導水渠)」と呼ばれるこの導水路は全長8.6キロ。3つの隧道と二つの暗渠で工事現場と結ばれる。路線は羽村取水堰から第三水門まで開渠(300m)>4.4キロの隧道(青梅線・八高線・横田基地・グリーンタウン)>第一暗渠(2.4キロ)が横田の空堀川まで(現在の野山北公園自転車道路、横田トンネル手前まで)>第二隧道(647m)>第二暗渠(73m)>第三隧道(564m)と進み村山上浄水池引入導水路に接続する。
軽便鉄道「葉村・村山線」
この導水渠工事に必要な資材運搬のため建設されたのが軽便鉄道「葉村・村山線」である。大正8年(1919)起工、9年(1920)完成のこの軽便鉄道は大雑把に言えば、羽村から横田トンネル手前までがその路線であるが、正確には小作で砂利を採取>多摩川を横断橋で渡る>1キロの専用線>青梅線で福生駅まで>東京市専用軌道で「東京市材料置場」へ運ばれた、ということではあるので、軽便鉄道「葉村・村山線」の起点は福生の「東京市材料置場」とされる。
そのルートは「東京市材料置場」>第一隧道の羽ヶ下斜坑(現在の羽村市水木公園・駐車場)>その先は葉村・村山線(導水渠)に沿って第一暗渠の終わる横田トンネル手前まで続いていた。
丘陵手前で終点となる軽便鉄道「羽村・村山線」は、その先の村山上浄水池引入導水路まで続く第二隧道(647m)>第二暗渠(73m)>第三隧道(564m)> 村山上浄水池引入導水路の建設に必要な砂利・資材は、馬などを利用し運んでいた、と言う。
軽便鉄道「葉村・村山線」は、軽便鉄道とは言うものの、写真で見る限りではトラックが線路軌道に乗った木製のトロッコ数台を曳いている。そのどう見てもトラックのような形の駆動車を機関車と呼んでいたようである。
なお、この軽便鉄道「葉村・村山線」は導水路渠の敷設資材運搬のために建設されたもので、村山貯水池本体の砂利・資材の運搬は(砂利)>青梅鉄道>中央線>川越鉄道(現、西武鉄道)>(砂利・資材)>東村山で東村山軽便鉄道(東京市軽便鉄道)のルートで貯水池堰堤へと運ばれたとのことである。

山口貯水池建設と軽便鉄道「羽村・山口線」
昭和4年(1929)に完成した村山貯水池であるが、その建設中には既に人口増大に伴う水不足が予見され、大正14年(1936)には対策が検討され、結果、村山貯水池の北側に隣接する、三方を丘陵に囲まれた袋地の口元の上山口に堰堤を築く山口貯水池建設が計画される。
建設は昭和2年(1927)から昭和8年(1933)の継続事業とされ、昭和3年(1928)着工、昭和4年(1929)堰堤敷掘削、盛土工事は昭和5年(1930)に着工し堰堤工事は昭和7年(1932)に竣工し通水、昭和9年(1934)貯水池工事が完了する。
山口貯水池の原水は村山貯水池の導水渠「羽村・山口」線の終端の開渠部分(引入導水路)に引入口を設け、山口貯水池の堰堤付近まで延長し導水した。全長10.4キロ。村山貯水池の導水渠「羽村・山口」線と共用したためだろうか、多摩川の水量豊富な時期に導水・貯水することにした、とのことである。昭和5年(1930)7月着工、昭和7年(1932)に竣工。なお、現在は昭和55年(1980)に完成した小作取水堰(羽村取水堰の2キロ上流)より多摩川の道を取り入れ、地下導水管で山口貯水池まで水を送っている。
軽便鉄道「羽村・山口」線
で、やっと今回歩く軽便鉄道「羽村・山口」線のまとめ。この軽便鉄道「羽村・山口」線と前述の軽便鉄道「羽村・村山」線の最大の相違点は、「羽村・村山」線が村山貯水池への導水渠の工事に関係した砂利・資材の運搬であったのと事なり、「羽村・山口」線は山口湖建設に必要なすべての砂利・資材の運搬に使用されたということである。
ルートは羽村取水堰から横田までの8.7キロは羽村・村山線導水渠上に軌道を敷設、その先、横田より山口貯水池堰堤南端までの3.9キロは羽村・村山線(導水渠)沿いに進み、村山上貯水池を抜け、山口貯水池堰堤まで続いた。工事は昭和3年(1928))起工、昭和4年(1929)中頃完成した。
村山貯水池の本体工事の砂利・資材は前述の通り、幾つもの路線、いくつもの民間業者を経て村山から東村山軽便鉄道で工事現場に運ばれたが、効率が悪かったようで、敷設工事は東京市の直轄事業としたとのことである。

軽便鉄道「羽村・山口線」のルート
砂利採取場>砂利運搬路>砂利運搬桟橋>インクライン>川崎詰替所>石畑交換所(横田基地内)>岸交換所>残堀砕石場>(山王森公園あたりで引き込み線から本線に)桃ノ木交換所>横田交換所(村山市第一中学校北)>横田車庫(横田児童公園)>(材料運搬軌道)>交換所>車庫

その後の東京の水道事業
この村山貯水池、山口貯水池の建設を「第一次水道拡張事業」と称するが、この事業が完成する前より、水不足が予見され、「第二次水道拡張事業」が計画される。目玉は奥多摩の小河内ダムと東村山浄水場の建設。昭和11年(1936)着工するも、戦時で中断。昭和23年(1948)再開し昭和32年(1957)の竣工式。昭和35年(1960)には東村山浄水場への通水が開始された。
続いて、「第三次水道拡張計画」。昭和15年(1940)、利根川を水源とする第三次水道拡張計画答申されるも、戦争のため延期され、昭和39年(1964)起工。同年、荒川の水が東村山浄水場に導水、昭和40年(1965)、利根川と荒川を結ぶ武蔵水路も完成した。
この武蔵水路の完成により、利根川・荒川の水と多摩川の水を相互に利用できるようになった。現在、東村山浄水場と朝霞浄水場の間には、原水連絡管が設置され、利根川・荒川の水と多摩川の水を「やり取り」できるようにもなっている。東京の水のネットワークは時代と共に拡大しているわけである。

藪漕ぎ
5号隧道前で行き止まり。左右は木々に覆われている。道を戻るのも「うざったい」。地図を見ると、隧道上には多摩湖周遊道路が通っており、その手前、右手の丘陵を登った辺りに谷津仙元神社が見える。特段の道はないけれど、藪漕ぎし谷津仙元神社を目安に丘陵を登れば多摩湖周遊道路に行けそうに思う。
ということで、適当な所から成り行きで藪漕ぎ開始。パーティの皆さんは、木々を踏みしだき、道なき道を力任せで進む藪漕ぎは初体験。ちょっと戸惑ったようだが、谷津仙元神社までそれほど距離もなく、木を掴みながら何とか上ってきた。

谷津仙元神社
谷津仙元神社は誠にささやかな社であった。社殿は文化3年(1806)の再建、と言う。社の石段下に案内。案内には、「谷津仙元神社富士講 武蔵村山市指定無形民族文化財 指定十八号 平成13年12月10日指定
谷津仙元神社は、富士講を信仰行事とする都内でも数少ない団体です。武蔵村山の谷津地区に富士講を伝えたのは星行で、谷津の農民の山行星命(俗名藤七)が直接教えを受けました。谷津富士講が興ったのは、寛政から文化期であったようです。社の裏の小高い富士塚は、登山できない人達がここに登り富士山を遥拝しました。谷津富士講の主な行事は、1月1日の「初読み」、5月5日の「本祭り」、冬至の日の「星祭り」があります」とあった。
社裏の小高い塚は富士塚であった。富士塚の上には「浅間神社」の小祠があるようで、浅間>仙元と変わったのだろう。同じようなケースが、いつだったか、東日原から秩父に抜けた峠にあった。峠の名は仙元峠。そこには「浅間神社」の小祠が祀られ、富士に行けない村人がそこから富士を遙拝した、という。また、その峠の「仙元」の意味は「水の源」とあった。「谷津」も丘陵に挟まれた地で、その最奥部には崖下から湧水が涌くことが普通である。「谷津」との関連で浅間が仙元へと転化したのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

富士講
散歩の折々で富士塚に出会う。散歩をはじめて最初に出合ったのが、狭山散歩での「荒幡富士」と称される富士塚であった。また、葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。
富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」といった言葉もあるようだ。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

湧水箇所
谷津仙元神社を離れて多摩湖周回道路へと向かう。その出合い箇所にふたつの石柱が建ち、その前に涸れてはいるが湧水箇所が目に入る。石柱には「金命水」、「銀命水」と刻まれる。







多摩湖周遊道路
多摩湖周遊道路に出る。両側は高いフェンスで囲まれており、5号隧道の出口方面へと入り込める箇所は見あたらない。残念ながら5号隧道出口確認は諦め、 道に沿って整備されたサイクリングロードを見遣りながら先に進む。






フェンスが周遊道路から離れる
しばらく進むと多摩湖を囲む、というか東京都水道局の管理地域を囲むフェンスが周遊道路から離れ、右に向かう。フェンスに沿って道があるかどうか不明だが、大きく弧を描く周遊道路と合わさっており、うまくいけばショートカットになる。後から地図で見ると、このフェンス沿いの道が東京都と埼玉県の境となっていた。





周遊道路に戻る
フェンスに沿って進むと周遊道路に出合った。出合ったのはいいのだが、結構高い石垣に阻まれる。フェンス横の石垣に木が立て掛けられている。誰かが、この石垣を登るため置いたものだろう。取り敢えず木に取り付いてみるが、微妙に石垣上端へと取り付きが足りず、さて、と思っていると、その隙に木登りなど勘弁と思ったパーティ諸氏が石垣下を進み、周遊道路に簡単に登れる箇所を見付け、さっさと周遊道路に登っていった。私も後を追う。



県道55号線・所沢武蔵村山立川線
周遊道路を進む。この道も東京都と埼玉県の境を画する。しばらく進むと周遊道路は県道55号線・所沢武蔵村山立川線と併走する。これから山口貯水池(狭山湖)堰堤まで、山口貯水池と村山貯水池を隔てる丘陵地の尾根道を進むことになる。

途中、水道局管理地に入るゲートと、導水管が村山上貯水池に注ぐ辺りに続く巡視路といった道が見える。中に入りたい、歩きたいとは思えども致し方なし。
勝楽寺
道を境に、東京都側の地名は「多摩湖」、一方、埼玉県側は「勝楽寺」とある。山口貯水池の引入水路、引出水路の用地は埼玉県の山口、宮寺、元狭山、吾妻、東京都西多摩郡の石畑、北多摩郡の村山、東村山の7ヶ村がその対象となったとのことだが、貯水池中心部は山口村。勝楽寺は上山口とともに山口村の大字の地名であった。
湖底に沈む前は狭山丘陵の谷奥の山口村は所沢から青梅、八王子へと抜ける道筋で、村民は農業や所沢絣・飛白(かすり)の生産に従事していた、とのことである。

玉湖神社
東京都水道局の管理ゲートを過ぎ、村山上貯水池と山口貯水池を隔てる丘陵が最も狭まった辺りに玉湖神社。「たまのうみ」と詠むようだ。コンクリート造りの社は昭和9年(1934)竣工したもの。東京都水道局の職員が、貯水池には水神様が必要でしょう、ということで昭和10年(1935)に府中の大国魂神社の宮司により遷宮式が執り行われた、と言う。




6号隧道
玉湖神社を少し村山貯水池に向かって下る。5号隧道を抜けた軽便鉄道「羽村・山口線」の路線が、玉湖神社の少し南を進み6号隧道に続く、と言う。 成り行きに下ると、如何にも路線敷地跡といった風情を残す道筋がある。5号隧道方面は直ぐ閉鎖され行き止まり、と言う。山口貯水池へと向かう6号隧道方面に進むが、こちらも直ぐにフェンスで行く手を遮られる。県道55号を潜る線路跡の先に6号隧道が見えるが、ここで行き止まり。
5号隧道から先は線路跡に沿っては進めないだろうとは思っていたので、予定通りといえばそれまでだが、少し残念ではある。

予想通りとはいいながら、廃線歩きはあっけなく終えた。今回のメモはここまで。残りのフォローアップ、というか「顧客満足度向上」のルートメモは次回に廻す。
土佐北街道散歩の2回目。先回の四国中央市の新宮から法皇山脈を越えて瀬戸内に面した川之江に至る横峰越えに続き、今回は土佐の大豊から予土国境の笹ヶ峰を越え新宮まで歩く。
土佐北街道は、土佐藩参勤交代の道として、享保3年(1718)の頃、古代の官道である南海道跡を基本に整備された道である。土佐藩の参勤交代はそれ以前、東土佐街道、通称野根山街道経由で阿波から海路を利用したようであるが、そのルートは海任せ・天候任せ。順調に進めば20日ほどで江戸に着いたというが、潮待ちなどにより50日ほどかかることもあった、と言う。
江戸到着予定日の遅参は「一大事」であり、遅参により改易の沙汰もあり得るといったものであり、遅参の怖れある場合は逐次幕府に報告をしなければならない。そんな面倒なことをやってられない、と思ったのか、海路の安定した瀬戸内の湊への道が拓かれた、とのことである。
ルートを想うに、先回の横峰越えは法皇山脈北麓の平山集落バス停付近に車をデポし、新宮からバスで平山まで戻れたが、今回は土佐から伊予を跨ぐルートであり、バスの便もあるように思えない。また、ピストン往復は少々厳しそう。ということで、今回は弟と一緒。車二台で進み、上り口と下り口に車をデポし、足の心配なく笹ヶ峰を越えようということに。
弟は愛媛の石鎚あたりから愛媛と高知の県境尾根を進み、吉野川を越え香川と徳島の県境尾根を剣岳に向かうため、水場探しに途中の山稜を訪ねており、今回の笹ヶ峰辺りも歩いているとのこと。先回の横峰越えの単独行とは異なり、ベテランガイド付きの優雅な峠越えとなった。
■古代の官道・南海道
古代の官道は、当初讃岐から伊予国府へのルートと、阿波から海路で土佐国府に向かうルートであったようだが、後に土佐へのルートは伊予から向かうようになり、12の駅が設けられた。しかしそのルートは大廻りであるとして(とは言うもののこのルート自体がはっきりしない;伊予の国府(現在の今治辺り)から南予>高知の幡田郡に向かった、とも)、今回辿る四国山地を越えるルートに変更され、土佐国に吾橋(高知県長岡郡本山町)と丹治川(長岡郡大豊町立川上名)の2駅が設定され、伊予の大岡(四国中央市妻鳥町松木)と山背(四国中央市新宮村馬立の堂成)の駅を結んだ。土佐藩参勤交代の道はこの古代の官道・南海道を基本にし、伊予では最短距離の道筋を新たに整備した、とのことである。


本日のルート;総野橋>県道5号崩壊>笹ヶ峰隧道(トンネル)>土佐北街道(笹ヶ峰入口)>(下り)>土佐北街道分岐点>番所跡>石の敷かれた街道>木橋>出会橋>史跡 駕籠立て>出会橋まで藪漕ぎ>(上り)出会橋から木番所に打ち返し>土佐北街道(笹ヶ峰入口)>笹ヶ峰峠>杖立地蔵>七曲がり>水無峠>笠取峠>徒武>樫のやすば>腹包丁>沢に沿って下る>里が見えてくる>下り付き(おりつき)>総野橋

総野橋
実家のある新居浜を出て、高速の松山道に入り、川之江ジャンクションで高知道に乗り換え、法皇トンネル(上り3120m;下り3123m)を抜け、銅山川に架かる橋を渡り直ぐに大影トンネル(上り1312m;下り1289m)に入る。トンネルから出ると馬立川に架かる橋を渡り、また直ぐに黒田トンネル(上り1865m;下り1483m)に入り、トンネルを抜け再び馬立川を渡り直し新宮インターで下車。
今でこそ建設技術力で力任せに山塊を穿ち直線に進むが、往昔は山塊の峠を越え、または山塊部避け川に沿って迂回し道が進んでいたのだろう。それはともあれ、インターを下り、県道5号を南に進み、新瀬川が馬立川に合流する辺りで新瀬川に架かる橋を渡り、馬立川に沿って進み総野橋で停車。
ここが今回の笹ヶ峰越えの下り口である。橋脇のスペースに車をデポし、弟の車に乗り換え5号線を走り、上り口である高知県長岡郡大豊町の出会橋へと向かう。

県道5号崩壊;8時45分(標高829m)
デポ地点から車で葛籠折れの県道5号を上る。ほどなく「数キロ先(何キロか忘れてしまった)通行止め」の案内。少々予定が狂う。取り敢えず、どこまで進めるか、行けるところまで行ってみようと。
結構道を進むと土砂崩れで通行止め。この復旧には「今年一杯通行止め」といった工事案内があったように思う。さて、どうする。少し考える。県道峠にある笹ヶ峰トンネルまで800mほど。トンネルからデポ予定・登山口の出会橋まで6キロ弱。元に戻ってピストンは論外として、笹ヶ峰トンネルから直接笹ヶ峰の峠に上り、そこから車をデポした総野橋に戻るか、2キロ強ほど県道を歩き、県道を離れ出会橋からの登山道を2キロ弱ほどピストンするか、との選択肢。結局、県道を進み、登山道を出会橋まで下り、ピストンで出会橋から笹ヶ峰へ上り返すことにした。

笹ヶ峰隧道(トンネル):8時39分(標高843m)
少し歩き愛媛と高知の県境を画する笹ヶ峰峠(1027m)の直下を抜ける笹ヶ峰トンネルに。距離は500m弱だろうか。通行止めで車が通る心配もないので、ライトを点けてトンネルを抜ける。







土佐北街道(笹ヶ峰入口);9時2分(標高802m)
トンネルを抜けると高知県長岡郡大豊町。土佐の山並みを眺めながら2キロ強県道を下ると道の左手に「土佐北街道」の案内。笹ヶ峰隧道からおおよそ15分弱で、道の左手に土佐北街道(笹ヶ峰入口)の案内が見えてきた。脇には「笹ヶ峰登山口 標高800m 笹ヶ峰山頂まで30分程  愛媛県境となる山頂付近は参勤交代時の土佐藩最後の休憩所であった(立川御殿保存会)」といった案内がある。ここは再び戻ることにして、先に進むとすぐ左手に道案内が現れる。

土佐北街道分岐点;9時3分(標高801m)
下りの分岐点には「木番所跡 標高約770m ここから約50m下 藩政期土佐藩最後の番所であり、木材の盗材や抜荷などの監視にあたった。これより下方新茶屋までの急坂な山道を土地の人は「そろばん坂」と詠んでいる(立川御殿保存会)」とあった。

土佐北街道を出合橋に下る




番所跡
分岐点から50mほど下ると右の右手に平坦な地がある。ただ、地形図で見ると道の左手には等高線から平場が見てとれる。どちらが番所跡だろう。特に案内はない。少し荒れた道を下る。道は尾根道を巻いて下る。
石の敷かれた街道;9時9分(標高705m)
土佐北街道分岐点から5分強下り標高700m辺りから、道は等高線をほぼ垂直に下るようになり、敷かれた石が見えてくる。急坂と言うほどの険路ではないが、石を敷かなければ雨などが降ると泥濘で荷物を運ぶ牛馬が難儀するのだろう。が、石はスリップして危なくて仕方がない。雨の箱根越えの石畳でスリップに難儀したことを想い出す。
進むにつれ大雑把に敷かれていた石が結構きちんと敷かれている箇所も多くなる。案内にあった「新茶屋」は案内もないため、どこか不詳であるが、標高750mから650m辺りまで等高線をおおよそ垂直に下るので、このあたりまでが「そろばん坂」なのだろうか。

木橋;9時23分(標高576m)
標高650mから600mまでは等高線に沿い、600mから550mまでは等高線を垂直に下ると、小さい沢にかかる木橋がある。木橋を渡ると道の右手に沢が見えてくる。地図には載っていない小沢である。先に進み小さな切り通しを抜けると道の左手から下る立川川の支流の谷筋に出る。


出会橋;9時時34分(標高480m)
川に架かる木橋を渡る。「出会橋」である。橋を渡ったところに、「土佐北街道(出会橋) 標高約470m 木番所跡の県道まで1.4キロ 標高差約315m 所要時間約1時間 急峻」とあった。当初の予定では車でここまで進み、橋脇にデポする予定の地である。



史跡 駕籠立て;9時42分(標高469m)
出会橋を渡った県道の山側に「右土佐北街道」の案内。弟が、少し道を下ったところにも土佐北街道の案内があり、そこからこの地に続いているのだろう、と。折角であるので、その地点から進むことにする。
県道を数分すすむと「左 土佐北街道(古代官道調査保存)」の案内と、「史跡 駕籠立て 参勤交代の折り、笹ヶ峰を越すため駕籠を休め隊形を建て直したところといわれている(この上50m)立川御殿保存会」とあった。


出会橋まで藪漕ぎ;10時10分(標高480m)
「土佐北街道」の案内に従い県道から山道に入る。成り行きで進むと平坦な地に出る。今は一面雑草で覆われたこの地がかつての「駕籠立て」の地だろうか。史跡と県道脇に案内があるわりには、現場に何の案内もない。また、平坦な地から先の道筋、踏み跡が見つからない。
成り行きで進むが、左手に切り込んだ沢筋がある。沢を越えられるあたりまで切れ込んだ沢を上り、細まった沢の箇所を渡る。その先もそれらしき道筋は見えない。すべて成り行きで、藪漕ぎをしながら進むとまた、ちょっとした平場に出る。
そこからも成り行きで進むと、県道5号に出る。が、その箇所は出会橋の対面にあった「土佐北街道」の案内の手前。
道を繋ぐべく、案内の箇所から逆に進むと、草に覆われた切り通しがあり、その先で平場に出た。平場から草に隠れた切り通しを見落とし、切り通しの左手を進んだようである。
しかし、この道をもう一度行け、と言われても、無理だろう。「駕籠立て」と出会橋の2箇所に「土佐北街道」の道案内があるわりには、途中がまったく道案内らしきものが、ない。左手に県道5号が、見えつ隠れつであるので気分的には楽ではあるが、ここを通る皆さんも難儀しているのではないだろうか。

出会橋から木番所に打ち返し;10時58分(標高782m)
出会橋から県道5号の「土佐北街道分岐点」の案内があった木番所まで戻る。下りは30分弱で下りてきたが、上りは45分ほどかかった。急峻というほどの上りという感は受けなかった。





土佐北街道(笹ヶ峰入口);10時59分(標高802m)
県道5号の土佐北街道分岐点から土佐北街道(笹ヶ峰入口)に。往きに案内板で見たように、山頂までおおよそ30分。上るにつれて明るいブナの林が広がり、誠に気持ちのいい山道となる。





笹ヶ峰峠;11時29分(標高1015m)
県境標
案内とほぼ同じ、30分程度で土佐と伊予の県境に到着。峠には木の県境標が建ち、「是ヨリ南高知県」「是ヨリ北愛媛県」と書かれる。傍には「笹ヶ峰山頂 標高1015m 参勤交代の土佐領最後の休憩所となる。従者の身分により、上段から順次下段まで、その場が定められていた。明治以降はわらじや餅などを売る茶店が出されていた」との案内があった。
案内には笹ヶ峰山頂とあったが、実際の山頂は左手の小高い丘である。山頂の笹ヶ峰の標識には1016mとあった。四国には笹ヶ峰が幾つかある。ブナ林に笹が茂る山が多くあるから、と言う。
因みに、境界標のことを「傍示杭」と称する。笹ヶ峰峠の愛媛と高知の県境尾根を東に進むと「三傍示山(標高1158m)」がある。この山は愛媛・高知・徳島三県の堺を画する山名である。

歌碑
県境標の脇に土佐の九代藩主・山内豊雍(とよちか)候の詠んだ歌碑が建ち「朝風の音するミねの小笹ハら 聲打ちませて鶯ぞなく」と刻まれる。安永三年弥生八日の参勤交代の時の歌と言う。
弥生は3月のこと。『予土の峠をゆく;妻鳥和教著』に拠れば、土佐藩の参勤交代は3月5日に城を出立が多かったとのこと。高知のお城から笹ヶ峰までは15里。立川(たじかわ)本陣泊は出立3日目。立川出立が七つ時(午前四時)。道幅は籠が通れる一間幅(1.8m)あったと言われる。
峠の前で大休止。そこには階段状の成る地が造られ、2000人からなる先発隊、本隊、後続隊のうち本隊の1000人ほどが同一行動をとった、と(『予土の峠をゆく』)。
土佐の九代藩主・山内豊雍候には、昨年歩いた「土佐北街道 横峰越え」で豊雍侯の歌碑に出合った。日付も同じ安永三年(1774)三月八日である。同じ参勤交代の時に詠まれた歌であろう。土佐藩中興の名君として世に聞え、和歌も能くした豊雍(とよちか)侯は。時に24歳の若さであった。
因みに、今まで案内に「立川御殿保存会」との名称がしばしば登場したが、それは立川本陣となった土佐藩の番所書院のこと。立川御殿とも称され国の重要文化財に指定されている。道路通行止めがなければ、出会橋から南に進みこの御殿を訪れる予定ではあったが、予想外の展開で今回は訪ねることはできなかった。

杖立地蔵;11時57分(標高997m)
笹ヶ峰峠で笹ヶ峰山頂にちょっと立ち寄ったりと、20分ほど大休止。11時50分頃、峠より下りはじめる。尾根道を10分弱進むとお地蔵様が道端に建つ。四国では歩き遍路をしているためだろうか、峠路と言えばお地蔵様と連想されるのだが、そういえば、この土佐北街道笹ヶ峰越えでは、はじめてのお地蔵様である。
手を合わせ、傍の案内を読むと「笹ヶ峰より400mのところにある。今から130余年前、栄谷の内田種治氏の寄進によって建立された。かつては道を狭しと長く高く積まれた杖も今は朽ち果て、その面影もない。しかし、道行く人々が道中お世話になりましたと、感謝の念を杖立に現した素朴さに心打たれる」とあった。
いまひとつ説明内容がわからないため、チェックすると、前述『予土の峠をゆく』に拠れば、台座の正面に「奉造立尊像者 為道中安全 為諸人快楽 」、右には「安政五年 願主 栄谷(さかしだに)種治」左に「世話人馬立村 栄谷清助 忠吉 讃州 仁尾九兵衛」と刻まれる、と。
また、造立の主旨は同書少々の推測も交えながらも、行き倒れの人の供養に下付集落の村人栄谷(内田氏の祖)が仁尾の商人にファイナンスを頼み、大師像を建立。が、明治の廃物希釈で仏様の首が切り取られる災難に。戦後、大師像を造り直すも、造り直したお顔がお大師さまではなく、お地蔵様。胴体がお大師さまではあるが、お顔がお地蔵様であれば大師像とは言えない、ということで「杖立地蔵」と命名した、とのことである。
仁尾商人
造立の由来はなんとなくわかったが、それよりお金を工面した「讃州 仁尾九兵衛」にフックが掛かった。土佐街道は参勤交代の道とともに、お茶の道・塩の道とも称される。参勤交代の路として整備された往還が人と物の往来を賑やかなものとしたのだろう。そして、その商いで利を得たのが讃岐の仁尾の商人である。

「えひめの記憶」に拠れば、「江戸時代の土佐街道は、土佐藩の参勤交代路として大きな役割を果たしてきた。それとともに、山と海との物流が盛んに行われてきた道でもある。土佐の山分(やまぶん)(嶺北地域)の茶が大量に人の背や馬によって、笹ヶ峰を越え法皇山脈の横峰を越えて、伊予の川之江、讃岐の仁尾に送られている。
土佐の茶で有名なものが碁石茶である。碁石茶は発酵茶であり、その販路は瀬戸内海沿岸や島方であった。碁石茶は塩分を含んだ島方の水に合うためとか、島方で常用される「茶ガユ」の原料に用いるためとかいわれている。(中略)『大豊町史』によると、「碁石茶は土佐の嶺北山間の村々で生産され、特に東本山村(大杉村)・西豊永村で多く生産された。明治14年(1881年)に編集された本山郷下分17か村(旧大杉村)の村誌によると、その生産数量は3,580貫(13,425kg)余に上り、そのほとんどを愛媛県川之江方面に出荷している。」とある。
『仁尾町史』によれば、「最初土州侯より茶売買の特権を得た仁尾商人は12軒であったが、その後茶業繁栄の結果、幕末には18軒が茶商売を行っていた」。また「(中略)これらの商人は、購入した茶を土州山分より北山通り立川口番所を通り、山越をして伊予川之江、さらに和田浜へ運び、それより船にて仁尾へ送り、丸亀を始め瀬戸内沿岸の有名な都市に取引所や売店を設けて、仁尾茶として販売し大いに繁栄発展した。」と記述されている。このように藩政期には、仁尾商人と土佐(嶺北地方)との結びつきは強かった。
(中略)
土佐の山分から馬立を中継して、伊予川之江、讃岐仁尾の港に碁石茶が運ばれ、一方海から山へは塩が運ばれた。それを物語る史料として、次の切手が残っている。磯谷村の孫七ら8名の者の道中切手である。それによれば「右ハ此もの共予州馬立迄茶丸持越塩荷取二参上申候間其元にて御改之上御通し被下度奉存候已上磯谷村名本小左衛門図(印)卯八月十六日〔注:享保20年(1735年)〕本山与右衛門殿川井甚之烝殿」とある。
また享保19年・20年の道中切手和田村分だけでも、道中切手の行先は馬立、川之江、仁尾であり、送り荷は茶丸であり帰り荷は塩であった。
碁石茶の取り引きで活躍した仁尾商人が、明治維新で壊滅的打撃を受け、名声高かった仁尾茶が全讃岐より姿を消した。(中略)「土佐藩では幕末の財政危機で大量に藩札を発行した。取り引きもすべて藩札であった。明治維新で土佐藩の藩札の暴落で、仁尾商人が持っていた藩札は紙くず同然になってしまった」 とある(「えひめの記憶」より)。杖立地蔵の金主でもある仁尾九兵衛もこのような仁尾の商人のひとりではあろう。

七曲がり;12時13分(標高926m)
杖立地蔵から15分弱進むと「七曲がり」の案内。「笹ヶ峰に近く、登る者、下る者にとって難所のひとつ。急斜面の七曲がりに太政官道時代の伝馬をひく者、皆足もとに力の入ったことだろう。はるか北方に法皇山脈塩塚高原が展望できる」とある。
等高線をチェックすると1015mの笹ヶ峰峠から尾根路を下る街道は、標高970mから915mにかけて、尾根を右に左に折れて進み標高915m辺りから再び尾根筋を進む事になる。この間を七曲がりと称するのだろう。曲がりが多いのはここの標高970mから915mにかけて等高線が密になっており、曲がりくねって進まなければ牛馬が進めなかったのだろう、か。
太政官道と参勤交代の道
ところで、説明に太政官道時代の伝馬をひく者、とある。この参勤交代の道は古代官道に沿うものだと言われるが、古代の官道は遙か昔に廃道となっており、立川番所から笹ヶ峰(北山)越えの道は、ほとんど新設の道であったという。
既にメモしたように、当初海路をとった土佐藩参勤交代の道を、陸路をとり穏やかな瀬戸の海に出る検討が行われ、藩主の命を受けた郡奉行岡田又兵衛は、享保2年(1717年)2月立川から笹ヶ峰を越え、馬立村木地屋、市仲、さらに横峰を越え、川之江に、さらに讃岐の仁尾までのルートを調査した。
開削には、土佐の村々から7,000人の人夫が動員された。農民たちの血と汗によって作られた街道である。この道は6代藩主山内豊隆から16代山内豊範まで、文久3年(1863年)までの146年間利用された。翌年から蒸気船海路となり、以後この街道は民間の生活の道として利用されてきた(「えひめの記憶」)、とのことである。

水無峠;12時22分(標高893m)
七曲がりを下り終え。平坦な尾根道を10分ほど進むと水無峠に。案内には「古代からの交通路、水無峠 水の湧出が無く、他から水を運んで茶店を開いたと言う。旅人達は此処で疲れを休めたり憩いを楽しむ等、茶屋の番茶に感謝もしたであろう。
此の地は清水産業株式会社の所有であるが、ご厚意によって水無峠の由緒ある天然杉を残して下さったことを感謝する」とある。
尾根の稜線、平坦部に水があるとも思えないが、面白い峠名である。チェックすると、各地に同じ名前の峠も散見する。この峠の直ぐ東で等高線が深く切れ込んでいる。そこが沢筋であれば、対比として面白いとは思うのだが、ともあれ単なる妄想である。
それはそうとして、峠である以上は、東西への往来か、東西からの往来があったのだろう。地図をチェックすると尾根の東は馬立川の谷筋・馬立村、西側は新瀬川水系の谷筋の新瀬川村。水無峠の少し北から新瀬川の谷筋へのルートが延びる。少なくとも新瀬川村の人々が尾根を土佐に向かうか、東の谷筋へ下っていったのだろうかと思う。
水無峠から案内にあった天然杉であろう杉林のある平坦な稜線を進み、左に新瀬川に向かって下る道を分け、標高830mあたりから780mまで等高線をほぼ垂直に下ると、再び平坦部となり、そこに「笠取峠」の案内があった。

笠取峠;12時41分(標高782m)
笠取峠の案内は稜線の平坦部ではなく、稜線の巻き道脇に無造作に置かれていた。案内には、「この峠に来ると笠を取って一息いれたい。歩きながらそんなゆとりの出てくるのは昔も今も変わらない。下り付けと笹ヶ峰との中間地点にあたる。
西側に通じる道は木地師の里木地屋への道、東側への道が犬の墓道(立川陣屋と新瀬川の脇本陣への犬の飛脚の墓)」との説明。
地形図を見ると、巻き道の上に平坦地が見える。そこが本来の峠ではあろうか。そこにはそれはともあれ、この峠からは、先ほどの水無峠で妄想した通り、東西の谷筋への道があるようだ。
西は木地師の里木地屋とあるが、どこかは特定できない。馬立村木地屋という地名は上でメモしたように、参勤交代の道を拓くべく郡奉行岡田又兵衛が「笹ヶ峰を越え、馬立村木地屋、市仲。。。」とあるので、馬立川の谷筋のどこかにあるのだろう。
新瀬川の脇本陣とは新瀬川土居の少年自然の家近くの山腹にあるとのこと。立川本陣と新瀬川の脇本陣の間を犬の飛脚が聯絡に使われた?よくわからない。

木地師の里
木地屋は特定できなかったが、『予土の峠をゆく』の記述を大雑把にまとめると「新宮には多くの木地師がいた。大木を切り、轆轤で細工し、直径10cmの木製の数珠を造り、川之江の問屋に卸す。そこから修験者が近畿の商家を廻り、先祖の供養を霊場のある四国で毎日行うというお題目で数珠を売り、数珠に商家の屋号と先祖供養の銘を掘り、永代供養料を受け取る。利益は修験者と木地師そして問屋で三等分した」とのことである。

徒武;12時53分(標高843m)
笠取峠の鞍部を越えると等高線800mから840mに向かって緩やかに上る。等高線840mに沿って進む。右手の台地上は三等三角点・徒武(860.52m)。等高線840mに沿って三角点のある台地を進む途中に「徒武」の案内。「とぶ」と詠む。 案内には「古代からの生活道、また参勤交代の道でもあった。土佐街道の地名である。徒武は武士が徒歩で通行したということか。付近に腹包丁、樫の休場、笠取峠の地名もあり、昔の往来通行の様子が偲ばれる。現在地の標高は約850mである」とあった。


樫のやすば;13時01分(標高782m)

等高線840mから稜線に沿って790mに向かって緩やかに下ると「樫のやすば」の案内。「腹包丁の登りつめた休み場が樫の休み場。段々に作られた休場が今に跡を止めているが、路に変更の跡がある。この付近の広葉樹は重要である。昔は此処に茶店もあった」とある。
地形図を見るに、「樫のやすば」の少し手前までは、1箇所ほど等高線に沿って進む箇所があるが、基本等高線を垂直にルートが進む。今回は逆でその坂を下りればいいのだが、逆に上りは、この平場での一休みは格別のものがあったのだろう。樫のやすばのあたりは一面石が敷かれている。

腹包丁;13時20分(標高558m)
「樫のやすば」から少しゆるやかな坂を下るが、等高線750mから先はルートは等高線を垂直に貫く。等高線560m、570m辺りに「腹包丁」の案内。案内には「笹ヶ峰越えの一番の険しい難所。武士が山を下りるとき、刀のこじりがつかえるので刀を腹のほうにまわして坂を下りたという由来による地名。
水戸の浪士青山鉄齋が「腹包丁の??は天下の??所 一歩誤れば千仞の谷」と詩われた所。大正年間この付近にも茶店があった」とある。
歩いた感じでは、それほど険路とも思えなかったが、等高線を切り抜くルートをみると、それなりの険路ではあったのだろう。

沢に沿って下る;13時31分(標高440m)
「腹包丁」の案内から先も等高線をほぼ垂直に下る。道を等高線420m辺りまで下ると右手に沢が見えてくる。結構荒れた沢で倒木が散乱していた。等高線350m辺りまで沢に沿って下る。





里が見えてくる;13時37分(標高380m)
標高330m辺りでは道は一面苔に覆われ結構美しい。苔の道を少し下ると民家が見えてきた。








山内豊重(容堂)侯歌碑
集落に入る手前にふたつの石碑。ひとつは土佐15代藩主・山内豊重(容堂)侯の歌碑。嘉永6年(1853)年5月15日、参勤交代の帰途、新宮の馬立本陣で休憩の後、険路・腹包丁を登り終えると雨が。その折りのことを詠んだ歌が刻まれる。
「雨来タリテ筧水(けんすい)ニ声ヲ生ズ
山道何ゾ匍匐(はらばう)ノ名ニ違(たが)ハン
ノヘ窮メント欲スレバ猶ノヘ
徐ニ飽履 白雲ノ行ク

匍匐山中ヲ過ギ 雨有リテ此詩
時ニ癸丑(きちゅう)五月十五日也 直養」

「ノヘ」は「への」ではない。これで一語の漢字である。「へつふつ」と読み、「(船などが)で揺れる様」を意味する。筧水(けんすい)は「懸樋の水」?飽履の意味は分からない。が、ぼんやりとはしているが、全体の意味はなんとなくわかる。
また、歌碑の横の石碑は文化庁が「歴史の道百選」として平成8年(1996)年に選定したことを記念し、新宮地域の「ふるさとに学ぶ会」が建てたものである。

下り付き(おりつき);13時47分(標高296m)
集落に入ると、民家脇に「下り付」と記された木の案内。文字も掠れているがなんとか判読でき、「この道は南海道太政官道であり、江戸時代には参勤交代路、江戸末期、明治大正時代には、紙の原料として、楮、三椏が運ばれ また、金毘羅講、仙龍寺奥之院講の講人なども行き交った古代からの交通路。人々は、笹ヶ峰を越え、腹包丁の急坂をやっと下り付き、此処で安堵した土佐候は此処で列を作り、本陣に向ったという」と書かれていた。

本陣とは「道の駅 霧の森」にある馬立本陣跡。仙龍寺奥之院は新宮から新宮ダム方向に銅山川を進んだところにある陸十五番札所三角寺奥の院のことである。楮、三椏についてははっきりしない。「えひめの記憶」に拠れば「土佐の楮、三椏は伊予に運ばれたがそれは大洲方面のようであり、この土佐北街道にかんして言えば、今治藩は安政七年(1778)馬立村(今治藩領)に紙楮の運上を仰せつけている。
その後天保から安政(一八五四~五九)・文久(一八六一~六三)・元治(一八六四)の幕末のころには、金砂村や新宮村の銅山川流域では、盛んに楮や三椏の栽培が行われ、自生のものと合わせて、年間四〇〇〇~五〇〇〇貫のものが、隣の三島や川之江地方に出荷されるようになった。そして交通の要路の上分には商店が発達し、楮・三椏を扱う商人が誕生した」とある。

総野橋;13時53分(標高271m)
集落を進み、車をデポした総野橋まで下り本日の散歩を終える。道路崩壊といった予想外の展開もあり、少々段取りは狂ったが、これで土佐北街道の横峰越えと笹ヶ峰越えを終えた。きっかけは銅山川疏水の資料探しに四国中央市の観光協会に行ったとき、偶々置いてあった「龍馬も歩いた 土佐北街道」のパンフレットである。横峰越えは単独行。それも写真の撮影ミスで二度ピストン散歩となった。今回も通行止め。土佐北街道散歩はなかなか予定通りに進まない、一筆書き人生を信条とする我が身には少々「迂遠」な散歩とはなった。
猛暑の週末、暑さを避け沢に入る。場所は大岳沢。都下の名峰・大岳山の南麓から下る沢である。この沢は前々から初心者用の沢ガイドの候補地として一度チェックしてみたいと思っていた。
入渓地点はバス停から林道を40分程度歩かなければならないのだが、入渓地点直ぐにある「大滝」は別格として、難しそうな滝もなく、沢に沿って馬頭刈尾根への登山道が続いておりエスケープも簡単そう。唯一のややこしそうなことは、入渓地点付近で幾つかの沢が合流しており、本流から迷いそう、といったことくらいである。
で、結果は予想通り。入渓早々に枝沢に迷い込み、途中で引き返す。滝は難しいものは何もなく、苔むした美しい渓谷で一日沢登り、というか水遊びを楽しんだ。
同行者は現在、非常勤勤務の常勤役員(?)をしている某社のOさん。昨年倉沢に案内して以来、二度目の沢登りである。



本日のルート;武蔵五日市駅>大岳鍾乳洞入口バス停>林道終点>入渓>大滝>登山道の記橋とクロス>苔むした美しい渓相>沢が二股に分かれる>道標>登山道を下山し林道へ





大岳鍾乳洞入口バス停:10時6分(358m)
あれこれチェックすると、遡行時間は2時間もあれば十分とのことであるので、出発時間も少し遅め。武蔵五日市駅9時35分発上養沢行のバスに乗る。停留所は大岳鍾乳洞入口バス停で下りる。







林道を終点まで歩く:11時(標高567m)
バス停の道を隔てた先にある養沢神社に手を合わせ、大岳沢に沿って林道を進む。途中にはキャンプ場、大岳鍾乳洞などがあり、多くの家族連れが車で来ている。林道を歩くことおおよそ40分、林道が切れる。そこから先は馬頭刈尾根へ登る登山道となっており、入渓地点も此の辺りからである。数台の駐車スペースもあった。
最初地図を見た時は、大岳鍾乳洞入口バス停から大岳沢が続いているので、沢相次第では途中から入渓しようとも思ったのだが、それといった沢相でもなく、キャンプ場で水遊びを楽しむ家族の前を大層な格好で「登場」し、少々恥ずかしい想いをした裏高尾の小下沢二の舞にならず、林道最後まで歩いてよかった、と。

入渓;11時21分(標569m)
林道終点から先は、広い道は消え登山道となる。終点部分から先に進むと直ぐに木橋がある。入渓準備を木橋手前で行う。同行のOさんはヘルメットに沢靴を用意してきた。昨年の沢初体験ではマリンシューズでの登場であったが、さすがにつるつる滑る思いは勘弁と、沢靴を用意した、と言う。







入渓早々枝沢に迷い込む
木橋を渡った所から入渓。穏やかな沢相の中を進むと、ほどなく二股に。事前に地図で確認すると、本流右手から結構大きな沢が合わさっていたので、左手に入る。
小さな滝もなく、渓流といった沢を進むが、地図で確認した左から合わさる沢がいつまでたっても登場しない。それでも、もう少し、と先に進むと沢沿いの道を家族連れが下りてきた。大滝を見物に行ったのだろうと「この先に大きな滝はありましたか?」と聞くが、「大きいといえば大きい、といった滝はあった」との返事。「大滝」といった印象ではないのだが、もう少し進むと、10m弱の滑気味の滝があった。家族が見た滝はこれだろう。どうも大滝に進んでるように思えないようだ。

撤退;11時41分(605m)

ということで、地図を確認。今回は線専用GPS 端末でがなく、iphoneの無料アプリであるYAMAP(アプリ内課金はあるようだ)のテスト使用。前もって目的の山を選択すればその周辺の山地図がダウンロードできる。今回は「大岳山」のピンをクリックし無量地図をダウンロード。こうしておけば電波の通じないところでも地図の閲覧と現在地が表示される。山地図には登山道のルートが表示され、登山・下山の標準時稀庵も記入されている。
で、YAMAPで現在地を確認。大滝のある大岳沢本流から逸れ、枝沢にはいっていた。撤退決定。幸い沢に沿って下る踏み跡があったので、沢を下ることなく二股の箇所に戻る。そこには「(左)大岳鍾乳洞 上養沢2.9km (右)大瀧0.1km 馬頭刈尾根1.7km」の標識があった。本流は左ではなく右に進まなければいけなかった。

大滝に向かう;11時47分(標高583m)
思うに、木橋を渡り入渓して直ぐ、右手から合流する沢を見逃したのだろう。とはいいながら、合流する沢が合ったようにも思えなかったのだが。ちょっと狐につままれたようではあった。
気を取り直し、大岳沢の沢登りスタート。標識に拠れば大滝までは100m。小滝の先に木橋を見ながら水線の中を進むと大滝が登場した。








大滝;11時55分(標高613m)
大滝は迫力ある。滝壺手前でも飛翔する霧状の水が心地よい。ぱっと見た目でも30m以上ありそうな一枚岩の大きな滝である。滝壺に足を踏み入れ、マイナスイオンを堪能するOさん。
で、この滝はとてもではないが上れそうにない。左岸を登山道が巻く、とのことであるので、滝壺辺りから少し這い上がって登山道を探すが、見つからない。即撤退し、滝手前にある木橋を渡り、登山道を進み滝を巻くことにする。 道は滝から離れて大きく巻いていた。滝壺から這い上がらず正解であった。ぐるりと高巻きする登山道を上り切ると木の桟道があり、そこが滝上。滝の落ち口を見に沢に入り、怖々滝上からの眺めを楽しむ。

登山道の木橋
滝上の開けた渓流から沢登りスタート。単独の小滝や数段に分かれた小滝など、水線を簡単に上れる滝が続く。少し倒木で沢が荒れた先に木橋が見える。木橋に向かって水線を進み、木橋を越える。エスケープに備えて、登山道が沢のどちら側に進むのか要注意。登山道はしっかりとした踏み跡はあるものの、細い道である。木橋は2度沢をクロスした。

苔むした美しい渓相
木橋の先も程よい小滝が続く。ちょっとトイ状っぽいの滝では、必要もないのにステミング(蟹の横ばい状態で上り下りする)の真似ごとを楽しむ。 その先には苔むした大岩の美しい渓相。大岩の両側から下る水線を登る。沢靴を揃えたOさんも、靴のグリップ力に満足気である。


大岩の先にも数段に分かれた岩を下る滝が美しい。水線中央を進んでも岩が滑ることもなく、誠に楽しむ沢を楽しめる。

二股に分かれる;13時10分7(標高745m)
数段に分かれた滝を越え先に進むと、沢がふたつに分かれる。どちらが本流かわからない。左手に入るとほどなく沢が細くなる。藪漕ぎし右手の沢に戻る。登山道もあり、こちらが本流のようではあるがはっきりしない。









木標;13時33分
登山道に木の道標があり、「(左)馬頭刈尾根1.0km 馬頭刈山4.9km (右)大瀧0.6km 大岳鍾乳洞1.8km」とあった。この登山道に沿って沢があるのかと登山道を上るが、沢から結構離れてゆく。 遡行資料など見ると、この上部にも一つ登山道の木標がある(「(右)大瀧0 大岳鍾乳洞 (左)大馬頭刈尾根馬頭刈山 大岳山)ようであり、そこを目安に遡行終了する方も多いようである。




下山
時間も知らず1時半に近い。2時56分のバスに乗り遅れると、4時36分までバスはない。林道からバス停まで40分、現在地から林道まで20分程度だろうか。着替えなどを考え、ここで撤収とする。 入渓点での枝沢に迷い込んだためか、遡行案内にある一応の最終地点である登山道が大岳沢に合わさる地点には到達しなかったが、美しい渓谷美を堪能でき結構満足し、登山道を林道まで戻り、本日の沢登りを終えル。

大岳沢の所感

1.初心者にお勧めの沢 
はじめて沢遊びにはお勧めの沢である。苔むした沢相も美しく、ないより難しい滝は何も無い。水線のど真ん中を登って、シャワークライムを危険無く楽しめる。ロープもスリングもなにも必要ない。

初心者向けの沢では裏高尾の小下沢や秋川筋の月夜見川、そして小坂志川下流域などが想い浮かぶが、小下沢は沢上りというより水遊び、月夜見沢も小下沢ほどではないが、それでも基本沢登り、というほどでなない。それに比べてこの沢は渓流美や巨大な岩から流れ落ちる滝、それも難しい滝はなにもないのが、いい。それなりに沢登りの雰囲気も楽しめる。

2.沢に沿って登山道があるのも安心
沢に沿って馬頭刈尾根への登山道があるので、適当なところで切り上げることができる。沢と登山道との比高差もあまりないのもエスケープには重要である。先日、大雨の後水根沢に入ったのだが、水勢に押され、滝を直登できず、とは言え、ゴルジュの岩壁を進むこともできず、結局撤退決定。が、沢から登山道までの比高差は90mほどもあり、エスケープとは言いながら、急な崖を這い上がるのに難儀したが、この沢はそんな心配はない。


3.入渓点は大滝を越えた先がいいかと思う
今回、はじめから結構気にしていたにもかかわらず、入渓点で右から合わさる沢を見落とし、結果、想定した合流沢がひとつ抜け落ち、次に合流する枝沢で本流を逆に進み枝沢に入り込んだ。
結論から言えば、入渓点は大滝を越えた先からでもいいかと思う。入渓点から100mもすれば大滝に阻まれ、それまで面白い滝が有るわけでもないので、登山道を進み大瀧を見物し、その先から入渓すればいい。注意していたのに、それでも枝沢に入ったわけであるので、お気楽に進んでいると枝沢に迷い込む可能性は大きい、かと思う。

といったことが、大岳沢の所感である。林道を40分ほど歩くのだけが「我慢」してもらえば、はじめて沢に入る人にはお勧めである。いままで、はじめての人は倉沢に決めていたのだが、選択肢がひとつ増えた。

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