2015年7月アーカイブ

粟井坂からはじめた散歩であるが、気になること、知らないことが数多く、距離の割にはメモが結構多くなった。如何に自分の故郷のことを知らないか、今回も思い知らされることになった。
で、先回のメモは北条と言えば、の鹿島で終了。今回は、鹿島から先、元々の散歩のきっかけともなった「鴻之坂(こうのさか)越え」のメモを始める。


本日のルート
Ⅰ;松山を経由し粟井坂に向かう>53番札所・円明寺>西山通周五右衛門堂>大谷口バス停>海岸の切り通し>粟井坂大師堂>小川四国八十八ヶ所>河野通清供養塔>古戦場跡>粟乃井>徳衛門道標>蓮福寺の道標>常楽院>里程標>徳衛門道標>龍宮神社>三穂神社>高浜虚子の句碑>赤地蔵>弥エ門地蔵堂>夜烏地蔵>自然石の道標>鹿島

Ⅱ;クランク状の道>三穂神社>お地蔵様>道標>杖大師>倉敷紡績北条工場跡>立岩川>下難波地区に>「鴻之坂(こうのさか)越え」>道標と地蔵堂>茂兵衛道標>鴻之坂線>鎌大師>エヒメアヤメ自生南限地>一茶の道>イヨスミレ 市指定史跡>峠に茂兵衛道標>分岐点に茂兵衛運道標>旧道を下る>阿弥陀堂と里程標>地蔵堂

クランク状の道
鹿島港から鹿島駅前交差点に戻る。鹿島駅前交差点は「辻の交差点」とも称される。北条辻地区は江戸時代から明治・大正にかけて、風早地方の商業・交通の中心地として賑(にぎ)わっていた、と言う。
北条のメーンストリートといった商店街を進むと、伊予銀行がある角を直角に曲がり、道はすぐさま直角に曲がる。クランク状の道であるが、城下町でもないのにクランクにした理由って何だろう。
チェックすると、元は辻町筋の道はここで明星川に突き当たり、左岸を西に進み、クランク地点で橋を渡った。車の往来が増えたためかどうか、その理由は定かでないが、このクランク状の道は明星川に架け渡した台によって成されたもの(「えひめの記憶」)であった。

花へんろの里の石碑
クランクの道角の花壇の後ろに3基の石碑が建つ。ひとつが「花へんろの里」、裏には「左へんろみち 金毘羅へ三十二里」と刻まれる。この石碑は、元は「金比羅道標」。場所もかつての辻町通りが明星川に突き当たる地点にあった。その後、商店街の道路工事の際に掘り返され放置されていたのだが、NHKドラマの「花へんろ」が契機となり、その「価値」が見直され、現在の地に建て直すことにした。
が、その際問題になるのは金比羅道標の方向が逆を示すことになる。川筋に沿って「左」を示した方向が、クランク地点に置くと「右」を指すことになる。ということで元の裏面に「花へんろの里」と刻み、その面を表面とし、金比羅道標は裏側に向けた(「えひめの記憶」)。歴史ある金比羅道標がテレビドラマの造語である「花へんろ」に「道を譲った」ということか。
現在その道標の刻字を見るのは難しい。水門の左右から写真のズームアップで確認するしか術はない。

里程標
「花へんろの里」の石碑の左手に「松山札辻より四里」の里程石が建つ。この里停標も金比羅道標と同じく、辻町筋が明星川に突き当たる角地にあったものが、金比羅道標と同じプロセスでこの場所に移された。

徳右衛門道標
小型で下部が折損しているこの徳右衛門道標も、元は明星川を渡った本町筋を少し進んだ三穂神社の道の反対側にあったようだが、交通の邪魔になる、ということで、この地に移された、とのこと。
なお、赤地蔵の手前、民家の敷地内にあり見ることのできなかった道標は。この地より少し浜側の道脇にあったが、道路工事の際に折損され、放置されていたものを移したようである(「えひめの記憶」)。


三穂神社
明星川を渡ると北条地区に入る。バス停に「北条本町」とあるように、通常本町と呼ばれていたようだ。道の右側に三穂神社。境内と言えるほどの境内ではないが、そこには常夜灯が建っていた。

案内「三穂社御由緒;祭神 事代主神 菅原道真公 事代主神は大国主神の御子にして出雲で父神を輔けて国政を与って種々の産業をお起し、特に農漁業、商業を始め教えられ出雲地方発展のために尽くされた神で鹿島神社の御祭神の武甕槌神(タケミカズチノカミ)、経津主神(フツヌシノカミ)が天照皇大神の命で国土を天孫瓊々杵尊(ミミギノミコト)にお伝え申すように言った時、父神に勧めてその命を奉じせしめたのであります。
菅原道真公は博識多才、詩藻豊富にして宇多、醍醐の両朝に仕え右大臣に進んだが、藤原時平に謗されて九州太宰府に流されたのでありますが、後世その徳を慕いて天満天神として京都北野に祭られた神で勧学神として崇敬されて居ります。
以上に神を祭られてある三穂社は、往古百姓町にあったのを寛政年間、今の地に御移し、明治九年に村社に列せられ、産土神となったのであります」とあった。
由緒はともあれ、先ほど訪れた柳原の三穂神社も太宰府天満宮の分社があった。三穂神社と菅原道真が何か関係しているのだろうか?由緒だけではなんのことかさっぱりわからない。

チェックすると、岡山県と鳥取県の県境に三穂神社があり、祭神は事代主と道真14代菅原満佐とのこと。満佐は別名三穂太郎と称し、三穂太郎は美作を領有した鎌倉後期の当主とのことであった。出雲の美保神社の祭神は事代主。想像を逞しくすれば、元は美保神社であったものが、三穂氏の名に引っ張られ「三穂」に代わったとも考えられる。
で、この地との関係だが、上で、近世初期、伊予は松山藩と大洲藩による二分領有メモした。この大洲藩の加藤家は米子からの転封である。風早郡も松山藩と大洲藩に二分され、この辺りの辻村は大洲藩領である。大洲藩の転封とともに、三穂神社も「持参」したのだろうか。全くの妄想であり、なんの根拠もないが、自分なりに結構納得。

お地蔵様
三穂神社の交差点を左折する。クランク状の地に建つ徳右衛門道標は、この角にあったものが移されたようだ。道を進むとお地蔵様が見えてくる。享保15年(1730)と刻まれる。







道標
お地蔵様の手前に右折する道があり、その角の電柱脇に短い道標が建つ。その道筋を進むと「杖大師」がある。また、杖大師への道は三穂神社から県道179号を少し進み、道の左手から斜めに入る道筋に道標があり、そこを進んでもいたようだ。






杖大師
賑やかに朱の幟が建ち並ぶお堂が杖大師。案内には、「青面山 養護院(杖大師) 杖大師の称号について 文政八年(一八二五)八月二十五日風早郡北条の亀次郎なる者の門前に遍路修行僧が立ち、托鉢を乞う、妻は喜んで寸志を喜捨する、僧は喜び、この縁で、この家に宿泊すること七度に及んだといわれています。
翌、文政九年正月早々に、亀次郎の枕元に遍路僧が立ち、ありがたい佛の教え(訓)と共に、杖、念珠、わらぞうり等五つを賜る夢をみました。この話を聞いた京都東山の智積院明星法印は、四国巡拝の際、亀次郎宅を訪ね、この話をつぶさに聞き、この夢に現れた僧こそ、遍路大師(弘法大師)であることを確信し、紺地金襴の袋に杖を納め、箱に入れ「仏の慈愛」の杖として、養護院に奉納しました。「この杖を拝み、願い事をすれば、お杖は悲しみの心を発揮し願いをかなえて下さる」との願いから「お杖大師」の称号がうまれました。合唱」とあった。
真言宗醍醐派の寺、と言う。戦国時代の永禄年間(1558~1570)、廻玄法印により中西村(現在の中西外地区)に修験道場として開かれた、と言う。その後二度ほど場所を移し、現在の地に移転したのは大正9年(1920)のことである。四国八十八箇所番外札所、花へんろ第四番札所、風早四国第四十九番札所、となっている。
花へんろ札所
早坂暁氏の「花へんろ」がきっかけでつくられた、花と大師を組み合わせた札所。一番から四番まであり、一番札所・鎌大師、二番札所・粟井坂大師堂、三番札所・高縄寺、四番札所・杖大師。

倉敷紡績北条工場跡
杖大師を出た遍路道は長い塀に沿って進む。地図には倉敷紡績北条工場とあるが、操業している雰囲気はない。チェックすると平成25年(2013)に閉鎖された、とのこと。昭和13年(1938)に操業を開始し、最盛期は2000名からの人が働いていた工場跡地を衛星写真で見ると、敷地内になんだか奇妙な点が大量に並んでいる。どうも太陽光発電の施設のようである。

立岩川
塀に沿って進み、少し迂回し立岩川に架かる立岩橋を渡り下難波地区に入る。 北条は最終的には松山藩領となるも、初期は松山藩と大洲藩の二分領有であったとメモしたが、境はこの立岩川。北条村は松山藩、辻村は大洲藩で、その境界となったのは立岩川とされるが、当時の立岩川は難波橋から南流し、現在の明星川を河口としたとされており、現在の地形を元にすれば、辻村と北条村の境は明星川と比定される、とする(「えひめの記憶)。明星川とは道がクランクになり、「花へんろの里」の石碑が建っていた場所である。

道路と踏切を横切る
県道179号は下難波交差点で北条市街を迂回したバイパス・国道196号に合わさる。遍路道は国道の一筋浜側を進み、ほどなくバイパスとJRの線路 が最接近した箇所で、道路と踏切を横切り山道へと向かう。「鴻之坂(こうのさか)越え」の開始である。

「鴻之坂(こうのさか)越え」
「鴻之坂(こうのさか)越え」は下難波地区の石風呂から、腰折山の西の鞍部を抜け、今治市と境を接する松山市(旧北条市)浅海本谷地区に下る道である。この道は昭和15年(1940)に北条市下難波(しもなんば)石風呂から浅海まで、海岸沿いの道が開けるまでは人馬ともに往来していた「幹線道」であったわけだ。

道標と地蔵堂
踏切を越えるとすぐに石風呂集会所の建物がある。その向かいに小祠と道標がある。小祠は地蔵堂。道標は自然石で造られていた。







茂兵衛道標
北東に50mほど進むと小川があり、そこで道は二つに分かれる。分岐点に茂兵衛道標。「左 新道」と刻まれる。「左 新道」とは明治44年(1911)に開かれた県道。山の中腹の少し高い所を曲がりくねっている道進み、峠付近で「鴻之坂(こうのさか)越え」の旧道と合流する。

鴻之坂線
道を右に折れ小川に沿って進む。途中、2車線のえらく立派な道が峠に向かって登っている。この道は鴻之坂線と呼ばれている。地図で見ると峠で道は終わる。台風などの暴風雨での海岸線を走る国道196号の迂回路として将来は浅海と繋がるのではあろう。

鎌大師
鴻之坂線を越えて左折すると大師堂が見える。大師堂にお参り。案内には「鎌大師境内 弘法大師が行脚の途次、この地に悪疫が流行しているのを哀れんで、村人に鎌で刻んだ大師像をあたえたところ、無事平癒したので、その大師像を本尊として、この地に堂を建て、「鎌大師」と呼んで深く信仰されて来たと言い伝えられる。
昭和48年、境内にある芭蕉塚、十八人塚、大師松とあわせて文化財に指定されたが、大師松は平成6年、松喰虫の被害により枯死した。 芭蕉塚は表に「芭蕉翁」、裏に「寛政五葵丑歳中秋十九日藤花塚築之 松山の白兎、二要、扇??、風早の兎文、壺茗、圃方、杜由、可興、梅長、恕由」と刻まれている。
十八人塚は、南北朝の戦乱に敗れた赤橋重時主従をいたんで、鎌倉末期に立てられた墓所と言い伝えられている。(松山市教育委員会)」とあった。

十八人塚
案内に従い、境内を巡る。まずは大師堂の右手にある十八人塚。石室の奥に祀られていた。赤橋重時は北条高時の一族。南北朝動乱期に北朝側として恵良城を本拠に宮軍の土居勢と戦うも敗れ、当地に逃れ立烏帽子城にて宮軍勢と対抗。戦いに利あらず、最後は打ち首とも自決とも伝えられる。
烏帽子城
西条市の面木山(おものきやま)の山頂あった城。「おものき」とはこの地で「ブナ」のことを指す。

芭蕉塚
「芭蕉塚(藤花塚)鎌大師境内にある芭蕉塚で、表に「芭蕉翁」とだけ刻印。句は詠まれていない。藤花塚とも呼ばれている。寛政五年建立」と案内にあった。

吉井勇の歌碑
「腰折の小燕子花(こかきつばた)はいちらしや いとしき人のなさけにも似て」
「吉井勇;腰折山は伊予節にも歌われる「コカキツバタ」が春先に薄紫の花を咲かせることでも有名。正式名称は「エヒメアヤメ」。国の天然記念物に指定されている。俳句の里 (松山市教育委員会)」と案内にあった。吉井勇は大正・昭和にかけての歌人。


大師松
かつては境内に「大師松」と呼ばれる樹高25m、根回り6m、目通り5mの大きな黒松があった。県指定の天然記念物、日本の名松百選の一つにもなり、お遍路や旅人の目印でもあった松は平成6年、松くい虫のため枯れてしまった(「えひめの記憶」)。

道標
「御自作弘法大師」「延命寺江五里二十丁」などと刻む自然石の道標。もとは50mほど西の旧道鴻之坂沿いにあったという(「えひめの記憶」)。

境内を離れ「鴻之坂(こうのさか)越え」の道に
鎌大師の境内を離れ、「鴻之坂(こうのさか)越え」の道に出ると、道脇に「エヒメアヤメ自生南限地」の石碑や「一茶の道」の道案内。

エヒメアヤメ自生南限地
石碑横の案内には「エヒメアヤメ自生南限地 所在地 北条市下難波腰折山 指定 大正14年10月8日(国指定天然記念物)
こかきつばたの名でこのように歌われた腰折山のかれんな花は「こかきつばた」とは別種の牧野博士が命名したエヒメアヤメである。
エヒメアヤメは、アヤメ科の植物であって、根茎はやや偏平で細くやせ形、葉は線形で薄く、葉長は10cm~15cmが普通である。
陽春4月上旬を開花期とし、数cmの高さの花軸に普通1花を、時に2~3花を咲かせる。花色はうすい紫色で外花蓋には黄白色のはん点を持っている。
元来大陸北部に分布する植物で、我国では中国、九州、四国の瀬戸内海に沿う各地に生育し、古書に「たれゆえそう」と名づけられたと記録されている。
腰折山はその南限地として世に知られ、古くからこの花こまつわる哀れを民話とともに、「こかきつばた」の名で親しまれてきたのである」とあった

一茶の道
「エヒメアヤメ自生南限地」の案内のすぐ右に「一茶の道」の案内。 「俳人小林一茶がこの風早の地を訪れたのは、寛政7年(1795)旧1月13日のことでした。「寛政七年紀行」により、その様子を知ることが出来ます。寛政7年、観音寺の専念寺(五梅法師)で新年を迎え正月8日に寺を出て松山へと向ったのです。
「松山の十六日桜を見るために」と記されていますが、本来の目的は師茶来(俳号。月下庵茶来又は竹宛とも称した。文淇禅師という高僧)や、当時既に全国的に知られていた竹阿の遺弟である松山の俳人栗田樗堂に会うことであったと言われます。
その茶来が住職をつとめていたのが風早上難波村の西明寺(現最明寺)です。 そのときのことを、次のように記しています。
十三日 槌□(樋口)村などいへる所を過て七里となん、風早難波村、茶来を尋ね訪ひ侍りけるに、巳に十五年迹に死き(と)や。
後住西明寺に宿り乞に不許。
前路三百里、只かれをちからに来つるなれば、たよるべきよすがもなく、野もせ庭もせをたどりて朧くふめば水也まよひ道、百歩ほどにして五井を尋当て、やすやすと宿りて
 月朧よき門探り当たるぞ
十四日 十丁程、八反地村、兎文に泊る
 門前や何万石の遠がすミ
哥仙満巻して
十五日、松山、二畳庵に到る 一茶の来遊170周年を記念して、昭和39年1月、ゆかりの地に句碑を建立し、また鴻の坂から門田邸にいたる一茶がたどったであろう道を、「一茶の道」として、道標などの設置をしました。  風早一茶の会」とあった、」

イヨスミレ 市指定史跡
またイヨスミレの案内も。「イヨスミレ 市指定史跡 所在地北条市下難波腰折山 指定 昭和57年8月11日松山市の梅村甚太郎氏が明治31年4月17日発見、牧野富太郎氏がイヨスミレと命名し発表したものである。
ところが、山の樹木繁茂とともにその姿を消し、幻の花と言われてきた。 しかし、昭和56年山火事にあい、焼け跡から翌年再びこのイヨスミレを湯山勇氏夫婦が再発見されたのである。
イヨスミレは中国東北地区から朝鮮半島にわたる北方大陸産のフィリゲンジスミレに最も近遠の植物である。
前川先生の言をかりれば、日本のゲンジスミレは二つの系統がある。一つは長野県に産する満洲など大陸系のものと、もう一つは朝鮮半島系のものがあり、イヨスミレは朝鮮半島系と言われる。
満洲、朝鮮を南下して氷河時代に日本に分布していたゲンジスミレのうち腰折山に生き残ったイヨスミレ、同じくエヒメアヤメと人家近いこの山に二つも残留植物の存在していることは興味深いことである」とあった。

峠に茂兵衛道標
鎌大師を出て小集落を抜け、北へ腰折山を仰ぎながら坂道を登る。これが鴻之坂越えの旧道である。一帯は案内にあったエヒメアヤメの自生南限地帯であろうが、時期外れ。道を急ぐ。
700mほど登った鴻之坂の峠近くに、先ほど分かれた「新道(明治44年;1911)に開かれた)」との合流点がある。社会福祉施設北条育成園の手前である。道角の畑の中に茂兵衛道標が建つ。







分岐点に茂兵衛運道標
峠を越えるとカーブの続く下り坂となり、600mほどで道は分かれる。その分岐点には茂兵衛道標。刻まれた文字は「圓明寺」が「延明寺」になっているようである。
道標脇には素朴な手書きにの案内。「遍路案内の石碑(原)これは遍路道案内の石碑です。この鴻之坂の分岐点の目印としてあります。ここを下ると味栗の阿弥陀堂があり、お遍路さんに疲れをとってもらおうと、昔はお接待の場所に使われていました。
さらに原のおじっさんの場所は、原の番所跡があり、行き来する人が手形を示す関所だったそうです。そして小竹の方に行くと風早番外札所のひとつである小竹のお地蔵様のお堂があります。そこにも同じ石碑があります。これはお遍路さんを200回以上した九州の佐賀県の方が自費で建立しました。前後の札所の案内や方向を示しています。ひっそり建っている石碑にも人の思いがこめられています。
小竹からは菊間に抜ける窓坂峠があり、その入り口には郡境碑もあります」とあった。

旧道を下る
分岐点から弧を描いて坂を下る「新道」と分かれ、一直線に集落へと向かう旧道の「河野坂」を下る。浅海の里はゆったりして、いい。400mほど下ると池の辺りで「新道」と合流し集落へ入る。







阿弥陀堂と里程標
味栗の集落を北進すると、お地蔵様と一段高いところに阿弥陀堂がある。その直ぐ先には里程標も残る。またここにも少し先に三穂神社が建つ。
案内には「六地蔵 五里 六地蔵様、お化粧地蔵は、お遍路さんや旅人の交通の無事を願っているものです。年に1回8月には、お地蔵様に地域の人がお化粧をしています。お化粧をしているお地蔵様は珍しいそうです。
五里塚は四国八十八か所めぐりをするお遍路さんの目印として作られたそうです。現在のものは最近作りかえられたものです。出発地点は松山市西掘端です。浅海には、もうひとつ郡境碑が小竹の山の方にあります」とあった。



地蔵堂
集落の中の道を800mほど進みJR踏切を越え、国道を斜めに横切って浅海原の町中へ入る。国道と旧街道に挟まれた三角地帯にお堂が建つ。地蔵堂であるが、そこは、かつての松山藩の浅海原の原番所跡。原番所は村方番所で簡易な見張り所であった、という。
境内にあった手書きの案内には「「おじのっさん」と番所跡 このお堂は以前は別の場所にありました。昔から「おじのっさん」と呼ばれて地域の人たちに親しまれていました。
しかし、道をつくるため現在の場所に移すと、地域でよくないことが次々と起こりました。これを地域の人はおじのっさんのいかりだと言うようになり、お坊さんに拝んでもらったり、これまで以上にお世話をするようにしました。その結果、災いは起こらなくなったそうです。今は原地区をあげて信仰の気運と地蔵堂を守ろうという心に支えられて平和な日々が続いています。
また、近くには大きな松の木がありました。5~7人が手をつないだぐらいの立派なものでしたが、かれてしまったため、今はその2代目が植えられています。 また、ここには昔、関所があり、旅人などのきびしいとりしまりをしていたそうです」とあった。
徳右衛門道標
境内には菊間町遍照院への案内をした徳右衛門道標が建っていた。
常夜灯
また、境内には文化4年(1807)銘の常夜灯もあった。

JR予讃線・浅海駅
当初の予定では、鴻之坂を越え旧風早郡と旧野間郡の境である窓峠まで歩こうと思っていたのだが、夕刻近くになってしまった。窓峠から菊間への散歩は次回のお楽しみとし、本日の散歩はこれで終了。
JR予讃線・浅海駅に向かい、車をデポした最寄り駅のJR予讃線・光洋台駅まで戻り、車で一路実家へと。
月例の田舎帰省。お袋との話相手の合間にどこか歩こう、と。市立図書館を訪れあれこれ本を探すと、旧北条市(現在松山市)の東、市街を離れた下難波地区から腰折山の鞍部を抜け、今治市との境を接する浅海(あさなみ)地区に抜ける「鴻之坂の峠越へ」の道がある、と言う。昔の「歩き遍路」の道のようでもある。
これはいいかも、と思うのだが、如何せん距離が4~5キロ程度で余りに短すぎる。で、その前後をルートに加えようと「えひめの記憶(愛媛県生涯教育センター)」の遍路道をチェックすると、松山の堀江から旧北条の小川の間に粟井坂があり、そこは旧和気郡と旧風早(かざはや)郡との郡境とのこと。鴻之坂の先にある窓峠は旧風早郡と旧野間郡の境でもあり、散歩の区切りとしてもよさそうである。
さらにこの区間の遍路道筋には茂兵衛道標徳衛門道標など多くの遍路道標が残る、とのこと。また、ふたつの坂の間の北条は昔NHKのテレビドラマにあった「花へんろの里」と言う。もとより「花へんろ」は脚本家であり、北条出身の早坂暁氏の造語であり、今の北条市街にドラマにあった風情が残るとも思われないが、坂、と言うか小さな峠に囲まれた「花へんろの里」を歩くって、結構「収まりがいい」し、距離も12~13キロ程度で丁度いい。

ルートを想うに、遍路道に沿って予讃線が走っている。出発点寄りの駅近くの適当な場所に車をデポし、終着点近くの駅から列車で引き返し車をピックアップできる。ということで、車を出発点の松山の堀江から旧北条の小川の間の粟井坂最寄りの駅である、予讃線・光洋台駅近くで、どこか適当な所を探し車をデポし、花へんろの里を道標を目安に進み、鴻之坂を越えた後、最寄りの駅である予讃線・浅海(あさなみ)駅で列車に乗り、光洋台まで引き返すことにする。


本日のルート
Ⅰ;松山を経由し粟井坂に向かう>53番札所・円明寺>西山通周五右衛門堂>大谷口バス停>海岸の切り通し>粟井坂大師堂>小川四国八十八ヶ所>河野通清供養塔>古戦場跡>粟乃井>徳衛門道標>蓮福寺の道標>常楽院>里程標>徳衛門道標>龍宮神社>三穂神社>高浜虚子の句碑>赤地蔵>弥エ門地蔵堂>夜烏地蔵>自然石の道標>鹿島

Ⅱ;クランク状の道>三穂神社>お地蔵様>道標>杖大師>倉敷紡績北条工場跡>立岩川>下難波地区に>「鴻之坂(こうのさか)越え」>道標と地蔵堂>茂兵衛道標>鴻之坂線>鎌大師>エヒメアヤメ自生南限地>一茶の道>イヨスミレ 市指定史跡>峠に茂兵衛道標>分岐点に茂兵衛運道標>旧道を下る>阿弥陀堂と里程標>地蔵堂

松山を経由し粟井坂に向かう
実家の新居浜から松山に向かい、松山市街から国道196号を進み、途中でバイパス道となった国道196号と分かれ、旧国道196、現在の県道347号乗り換える。 県道を走っていると53番札所・円明寺の案内。予定には無かったのだが、道筋でもあるのでちょっと立ち寄り。

53番札所・円明寺
八脚門造りの仁王門をくぐり、境内に。左手に大師堂。参道を進むと鐘楼門となっている中門があり、正面に本堂。本堂右上の鴨居には左甚五郎の作という5cmほどの龍の彫り物があったようだが、見逃した。
本堂にお参り。案内に拠れば、「四国八十八か所の五十三番札所である。須賀山正智院と号し、本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、天平年間(729~749年)、僧行基の創建で、聖武天皇の祈願所であったという。
この寺は元は、ここから西方の和気西山の海岸にあり海岸山圓明密寺と言われていた。五重塔もあり、立派な本堂など豪壮な七堂伽藍をそなえた寺院であったというが、いくたびかの戦禍により一山のほとんどを焼失し、寛永10(1633)年、須賀重久が現在の地に再建したので須賀山円明寺といわれるようになった。寛永13年(1636)には仁和寺の直末に加えられ、正智院と号するようになったと伝えられている。
観音堂に安置されている十一面観音像は、慶長5(1600)年、河野家再興をはかった遺臣たちが、戦死者の菩提を弔うために奉納したといわれている」とあった。
●切支丹灯ろう
本堂左手の塀際に切支丹灯ろう。「十字架形の灯ろう」。高差40cm 合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ、隠れキリシタンの信仰に使われたと説もある」との案内があった。











円明寺八脚門
「円明寺は、真言宗智山派、四国八十八か所53番札所である。寺伝によれば、天平年間(729年~749年)に、僧行基によって近くの勝岡の地に七堂伽藍が創建されたという。その後兵火により荒廃し、寛永10年(1633年)にこの地に居住していた須賀専斎重久によって現在地に再興されたという。
八脚門の建物は、三間一戸、一重、入母屋造、一軒疎垂木(ひとのきまばらだるき)本瓦葺である。基礎は切り石を据え、柱は円柱で柱頭にのみ粽(ちまき)を付け、頭貫・台輪を通してその上に組物で軒を支え、柱間の中備には間斗束(正面のみ蓑束)を置く。室町時代の作とみられ、頭貫先端の木鼻の彫刻文様や組物の造りには古式が見られるが、その後再興時に改修の手が加えられ、創建時とは変容したことが推定される」との案内があった。

この札所から次の札所である54番札所・延命寺(今治市)まではおよそ35キロの長丁場。今日のその間のほんの一部を歩くことになる。

西山通周五右衛門堂
円明寺からの遍路道筋には幾多の道標があるようだが、道筋に案内があったため円明寺に立ち寄っただけであり、少々準備不足。道標を辿りたい、との気持ちを抑えて出発点の粟井坂へと向かう。
県道347号を海岸に沿って進むと、海に迫る丘陵を国道196号・松山北条バイパスが二カ所トンネルで抜ける。最初のトンネルの入り口辺りの県道347号山側の道脇に小さなお堂と石碑が見える。ちょっと立ち寄り。

案内には「1630年(江戸時代前期)、和気郡の堀江地方では、作物がじゅうぶん実らず、農民は、大変苦しい生活をしていた。心配した西山五右衛門通周は、農民にかわって、何度も年貢米の免除を役所に願い出たが許されなかった。
そこで、通周は、農民の命を守るために、もみ米をこぎ取らせ、藁を田に集めて焼き、「不作で米が取れないから、稲を焼いてしまいました。」と言って、裁きを待った。役人は、通周を堀江東海岸の波打ち際で磔の刑にした。村人は、お堂を建てて通周をとむらった。このお堂を「五右衛門堂」と呼んでいる」とあった。
西山五右衛門通周は、かつて河野氏の家臣であり花見山城主(松山市堀江町)の第六代城主であったが、この事件の頃は庄屋となっていたようだ。

大谷口バス停
西山通周五右衛門堂を離れ、二番目のトンネル(粟井坂トンネル)のある丘陵との間の平地に大谷口バス停がある。
「えひめの記憶」に拠れば、堀江から県道347号を進んだ昔の遍路道は、このバス堤から右に折れ、JR 線路を越え、左折して線路沿いに北上し山道に入ったとのこと。粟井坂越えの道と呼ばれたこの道は現在は300mほどで行き止まりとなっているが、粟井坂越えの道はこの粟井坂トンネルの近くから山に上り、上り下りしながら海岸寄りに峠を越えて旧北条市側に降りていたようである。道筋はおおよそ現在のJRのトンネル上がそれ、と言う。
旧街道としてあるいは遍路道としての機能を失ってから久しく、荒廃してその姿を今日たどることはできない。ただ、坂の頂上には、反対側の北条市方面からは登ることができる」、とのことである。

海岸の切り通し
大谷口バス堤を越えると、丘陵部が海に迫った箇所が切り通しになっている。明治13年(1880)に海岸に切通しの新道が開かれたと記録にあるが、その箇所だろう。それまでは、先程の大谷口からの道を進んで松山市堀江から旧北条市小川、旧名で言えば旧和気郡と旧風早(かざはや)郡に入っていたわけだが、この切り通しの道が付けられることによって、上でメモした粟井坂越えの道は消滅した。
切り通しを越えると、松山市掘江から松山市小川(旧北条市小川)に入る。その境目小川側、道路右手にお堂が見える。粟井坂大師堂であり、本日の出発点。車を切り通し部分の展望所駐車場にデポし本日の散歩を開始する。

粟井坂大師堂
切り通しをこえた道の右手にお堂や石碑の建つ一画が現れる。粟井坂大師堂である。
大師堂はもと茶堂として坂の上の関所跡から少し下がった平地にあったようだが、文化6年(1809)に大師堂となり、明治10年(1877)ころに現在地に移されたという。「稚児大師」として案内されていたこともある。また、「小川大師堂」ともある。本堂には地蔵菩薩が祭られる。
木造地蔵菩薩座像
「木造「地蔵菩薩座像」1躯(松山市指定有形文化財) 昭和41年4月10日指定  この地蔵菩薩座像は、室町時代の應永2年(1395)に造られ、寛文9年(1669)修復されたことが像の体内に明記されている(「愛媛県金石史)。 寄木造りの仏高56センチメートル、台座25センチメートル、輪光の後背をつけ、玉眼で左手に宝珠、右手に宝瓶を持ち、結跏趺坐の姿をとっている。
北条地区にはこの粟井大師のような庵や仏堂が多く、生活と密着した敬神崇仏の心が培れている(松山市教育委員会)」と案内にある。

境内には、粟井坂開通の記念碑や句碑などのほか、「こんぴら大門より三十四里」の金毘羅道標など数多くの石碑が建つ。

粟井坂新道碑
境内に、高さ2.5m、幅1.5m、厚さ30cm板型自然石で作られた「粟井坂新道碑」が建つ。案内には「昔、風早郡と和気郡の境にある粟井坂は、交通の難所であった。大森盛壽(1829~1903 小川村里長 郡副長)は人馬の通行を便利にするため岩山を切り開き道路の建設を思い立ち上司に相談したが、受け入れられなかった。そこで、そこで貯金の策を設けて数年かかって金額が増えたので、念願の新道工事を当時の郡長長屋忠明を通して県令(知事)岩村高俊に願い出たところ県税八百九十余円の補助で盛壽の意志に賛同した。
明治十三年(1880)四月六日に着工し、工事人は延べ五千七十余人 工費二千七十余円を費やし七月二十七日遂に完成した。
瀬戸内海の風光明媚な海岸に完成した道は、山を越える坂道が無くなり車や人の通行が大変便利になった。この恩恵を受ける私たちは大森盛壽の功績を顕彰し感謝の気持ちを後世に語り継ぎたい(小川部落)」とあった。

大師内の句碑
境内には子規や漱石などの詠んだ幾つかの歌碑が建つ。
□子規と漱石の歌碑
子規と漱石の句がひとつの句碑に刻まれる
しほひがた隣の国へつづきけり  正岡子規
釣鐘のうなる許に野分かな    夏目漱石
案内には「子規の句は「寒山落木」に所有のもの。この地の対岸である広島で詠まれれたものであるが、松山と風早の郡境に相応しい句として選ばれたものであろう。
漱石の句は明治39年(1906)10月、松根東洋城宛の手紙に書いた作品として「漱石全集第23巻(岩波書店版)に所収されている。いずれの句も自筆。(松山市教育委員会 俳句の里 松山)」とある。
何故にふたり一緒に?チェックすると、愛媛の大教育者である森円月翁が子規と漱石に依頼し詠まれた句。子規没後、子規の詠んだ句と合わせ双幅(左右一対に仕立てられた書画の掛軸)にすべく、漱石に依頼し快諾された掛軸を、翁没後、松山市末広町にある正宗寺(子規堂)に保存されていた。その双幅を昭和51年(1976)の子規・漱石生誕110年を記念し此の地に歌碑を建てた。書体を厳密に模写し刻んでいる、と言う。

子規の句碑
「涼(すず)しさや馬も海向く淡井坂」  正岡子規 2基
案内には「JR予讃線粟井坂トンネルの上に残る細い道が昔の旧道で、この山越えの道が「粟井坂」と呼ばれる本来の場所であった。
粟井坂大師堂には、村上壷天子書の「涼(すず)しさや馬も海向く粟井坂」が建てられていたが、『寒山落木』に所収されている原句が「淡井坂」となっていることから、これに忠実にするため、昭和52年1月に、改めてこの句碑が建立され、古い句碑は大師堂の右奥に移された 俳句の里 (松山松山市教育委員会)」とあった。
元の句碑は昭和33年(1958)小川部落建立したものである。「粟井坂」と「淡井坂」。子規の思い違いか、それとも何か理由があるのだろうか。門外漢には不明である。

大森春恕の句碑
「淋(さび)しさや鴫(しぎ)さえ逃(に)げてうらの秋」大森春恕 18世紀中頃から末期にかけて風早郡の庄屋であった人物。池の築造などに貢献し、安永3年(1774)に一代限りの苗字帯刀を許される。昭和34年(1959)に此の地に建立。

金比羅道標
境内には金比羅道標も建つ。20cmほどの四角の石碑で高さ50cmほど。花崗岩には正面に「こんぴら大門より三十四里」と刻まれた文字かかろうじて読める。施主風早郡新屋又次郎・世話人野間郡紺原町□□、と刻まれているとのことである。









小川四国八十八ヶ所
大師堂横の坂道を河野通信供養塔に向かう。登り口の崖面にお地蔵様。小川村全体にあったお地蔵さまをこの地に移したもの、と言う。崖面のお地蔵様は八十八番。坂道に沿って道端に幾多のお地蔵様が佇む。小川四国八十八ヶ所 後で登場する風早四国八十八ヶ所と同じものであろうかと思う。

河野通清供養塔
お地蔵様に掌を合わせながら、「へんろみち」と刻んだ自然石の道標などを見遣りながら坂を上り切った辺りは平坦地となり、石柱が立っている。この道標は、小公園の中に設けられたミニ霊場の道標と思われる。道の左手に塀が見える塀の中のお堂には河野通清供養塔が祀られる。塀越しに見る瀬戸の斎灘は美しい。




河野通清
案内には「河野通清(生年不詳~1181年)は、高縄山に居城を構えた河野氏の祖で、源平合戦において源義経軍の雄として奮闘を称された通信の父である。 『東鑑』によれば、平氏に反旗を翻すものの、阿波の田口成良、備後の奴可(ぬか)入道西寂に山の神古戦場で敗れ、討死したと言われる。
通信は壇ノ浦海戦などで軍功をたて、鎌倉幕府成立ののち、御家人となるが、「承久の変」に敗れ、高縄山城は陥落、奥州平泉に配流された。
百回忌にあたる弘安2(1279)年、通清の曾孫にあたる一遍上人(1239~1289)がこの地で供養を営み、万霊塔を建てたと伝えられている。現在の供養塔は江戸時代中期以降の造立といわれ、「南無阿弥陀仏」の六文字が刻まれている(松山市教育委員会)」とあった。
高縄城
高縄山(標高986m)にあった山城。道前・道後を画する、このような高い山に城?チェックすると、「日本城郭大系16巻」には「この山を居城とするにはどう考えても不向きで、当山麓の台地に居館を置き、その東端に位置する雄甲(260m)・雌甲(192m)及び、北東に屹立する高穴(292m)の諸域が「高縄城」と総称されたものであった」とある。この説明に納得。
承久の変と河野氏
義経の亡き後、頼朝の旗下で活躍した通信(第23代当主)は鎌倉幕府成立後、実質的な伊予国守護となるも、頼朝亡き後、承久3年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対し倒幕の兵を挙げた際、北条氏を良しとしない河野氏のほとんどが宮側に与し、結果は敗退。
通信は平泉に配流され、一族の多くは討ち死や斬首。ひとり幕府側に与した一族(通久;第24代)が阿波に所領を得た他は、河野氏の所領は通俊(通久の兄弟)が僅かに桑村郡得能を領することを許されたに留まり(得能氏の祖)、ここに河野氏の権勢は完全に衰微することとなる。
その後、幕府派遣の地頭では河野氏の影響力の強い伊予を治め難く、阿波から久米郡石井郷に戻るも、河野氏の命脈をかろうじて維持するといった呈であった。
その状況が大きく変わったのが「元寇」。通有(通久の孫;第26代当主)の武功により河野氏は再び伊予での勢力を取り戻すことになる。南北朝騒乱の時代には宗家・通盛(第27代当主)は足利尊氏(北朝)に、得能・土居といった一族は南朝側に与し、一族相争うも、結果足利氏が勝利し、通盛は伊予の守護職となるまでに勢力を拡大。居城も松山市の湯築城に移された。室町期には一族の内紛もあり、結局戦国大名として名を馳せるまでには至らなかった。

郡境碑
供養塔の堂宇のある塀の中には、風化した寛保元年(1741)建立の郡境碑が建つ。 旧和気郡と旧風早(かざはや)郡の境を画した標識である。昭和46年(1971)建立の郡境碑も傍にあった。
和気も風早も惹かれる地名である。和気は景行天皇の皇子である十勝別王(ときわけのおう)の子孫が伊予別君(いよのわけきみ)が定住した地。「別」とは地方豪族の称号であったよう。この「別(わけ)」が和気の由来、とか。
風早は海辺で風が強い地形から、などとおもっていたのだが、北条の國津比古命神社の縁起に、この地の国造として、物部阿佐利風速が就いた、とある。惹かれた郡名は共に古代の豪族に由来するもののようである。



関所跡・道標
藩政時代には、この峠の手前に関所があったようで、関所跡と刻まれた石碑がある。結構新しい。また遍路道標もあり、こちらは享和3年(1803)の古いものである。

自然石碑
境内にある自然石には「この道を小林一茶も 学信も 中江藤樹も 蔵沢も おへんろさんも その他みんなの人が通った道ぞなもし」と刻まれる、と言う。 一茶は寛政七年(1795)伊予路を辿る。学信は越智郡出身の僧、中江藤樹は大洲藩の家臣であった祖父が、大洲領風早郡の代官として赴任した際に、10歳から13歳まで此の地で過ごした。近世初期、伊予は松山藩と大洲藩による二分領有であり、風早郡も二分されていた。
蔵沢は吉田蔵沢。松山藩士として風早郡・野間郡の代官を務める。南画家としても知られるようだ。

山の神古戦場跡
同じ道を戻るのも何だかなあ、と供養道の南に見える舗装道路を下る。この道筋にも幾多の石仏が佇む。しばらく下ると古戦場の案内。
「松山市指定文化財(史跡)指定 昭和41年4月10日 治承3年(1179)源頼朝より河野通清に依頼状があり(現在高野山金剛三昧院に保存)、これを快諾した通清は四面平家の勢力の中で敢然として頼朝に呼応したが、備後の奴可入道西寂が兵船3000をもって高縄城に侵攻、注進により道後館より一族16騎、兵120人をもって帰城途中、敵の伏兵と遭遇、大いに戦うも利あらず、治承4年1月15日山中の大松のもとで割腹し、家来の者その首級を持ち大栗へ落ちのびたと伝えられる。大松は昭和40年枯死した」殿案内があった。
古戦場跡付近にも幾多の歌碑が残る。全部トレースすると、なかなかメモを先に進めないので、省略する。

粟乃井
古戦場跡から里に下りるも、大師堂からどんどん離れてゆく。ちゃんとチェックすれば予讃線を潜る道があったようだが、とりあえず供養塔まで戻り、上った道を大師堂まで引き返す。
次の目標は「粟乃井」。「えひめの記憶」には「国道を挟んで向かいに屋根つきの井戸がある。ふつふつと泡が出るところから「粟乃井」と名づけられ、地名の由来となったという」とある。
大師堂から見渡しても対面にそれらしきものは見えない。対面に石垣を組んだえらく豪華な料亭がある。この工事の折りにでも壊されたのか、とも想いながら道を横切り、石垣の切れる辺りを少し海岸方面に入ると井戸があった。そこが「粟乃井」であった。

案内には「この井戸の水は古来泡粒のような水が、ブツブツといづむところから「粟之井」と呼び、粟井郷(後の粟井村)の地名の起こりとなり、また一名大師水とも伝えられ、難所粟井坂の登り下りの道行く人々の渇きを癒して大変親しまれたものです。碑の和歌は学信和尚が松山の大林寺を去って粟井坂に来たときに詠んだものです」とあった。
学信和尚とは、さきほど河野通清供養塔の自然石に刻まれていたお坊さんである。昔は、崖下にあったようだが周囲を埋め立てたため井戸の型にして後世に残したもの、とのこと。
釈学信の句
井戸の脇、右手に句碑。「すめる世に またも阿(あ)わ井の水ならば たち返り来てかげうつさまじ」と刻まれる。
学信
「学信」 享保7年(1722)の生まれの浄土真宗僧侶。越智郡立花村鳥生(現今治市鳥生)に生を受け、修行を重ね菩薩戒・八斎戒を受ける。松山八代藩主松平定静の帰依により菩提寺の大林寺住職に就任するも、罪に問われた人物の赦免運動が失敗するや、大林寺を去った、という。この折りに詠まれた句であろうか?

村上壷天子(こてんし)の句碑
井戸の脇、左手に大きな歌碑、「粟の井やそこ夏の海よりの風」と刻まれる。「村上壷天子」 は明治20年(1887)越智郡吉海町生まれの俳人。日本画・書もよくする。

徳衛門道標
大師堂から先の遍路道は、県道347号、また粟井川を渡ると県道179号に沿って進むことになる。県道347号を1キロ強ほど歩くと、和田のバス停留所近く、国道左手の住宅の角に道標がある。徳衛門道標である。「是より延命寺迄七里七丁」と刻まれる。

蓮福寺の道標
道を400mほど進み、粟井川の手前に蓮福寺。外側北西角に太字、深彫りの道標が建つ。「粟井坂高野山へ十三町」と刻まれる。粟井坂高野山とは先ほど訪れた粟井大師堂のこと。道標の方向が逆になっているのは、この道標が元は川を渡った道の反対側にあったため。道路整備に際してこの地に写された(「えひめの記憶」)。





常楽院
道を進むと右手道路脇に常楽院。門の右に「修験道別格寺」、左に「新熊野山常楽寺」とある。明治6年(1873)天台宗に属すも、昭和21年(1946)に独立し、昭和31年(1956)宗教法人修験道常楽院となった。「修験道別格寺」ってどういった位置づけのものかわからない。





里程標
粟井川を渡り500m弱進み、郵便局の対面に長屋門のある旧家の先、久保地区から鹿峰地区に入った境に理髪店があり、その角に下部が破損した里程標が残る。「松山札辻より三里」と刻まれる。

徳衛門道標
理髪店から道を隔てた反対側の民家の道脇に「徳衛門道標」。「菊間の遍照院への道標とのこと。遍照院は札所ではないが、遍路道筋にあり、遍路が札打ちした寺とのこと(「えひめの記憶」)。
JR 粟井駅前交差点で鹿峰地区から苞木地区に変わるが、ほどなく高山川の手前で河野中須賀地区となる。県道179号に沿って続く遍路道は中須賀地区の中頃で県道から一筋浜側を通り、浜の所有権を確保するように少々歪な区割りで浜にその地区を伸ばす片山、府中地区を越え柳原地区に入り、柳原バス堤近くで旧道は県道と合流する。

三穂神社
遍路道とは関係ないのだが、柳原港に「龍宮神社」が地図にある。いかなる由来の社かちょっと立ち寄り。柳原港に向かう途中に三穂神社。寛政年間(1789年~1801年)に勧請されたといわれるこの神社は大国主命(おおくにぬしのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)とともに蛭子(えびす)神が祭られている。地元ではこの氏神様をオエベッサンと呼ぶ。「エベッサン」、エビス信仰は漁業信仰として全国に見受けられる。
また、境内には太宰府天満宮のお守りの案内。境内に太宰府天満宮の分社がある、とのことである。
「柳原」の地名は古く、『二名集』の柳原村に始まることが境内の地名誕生之碑に刻まれていた。観応4年(1350年)、今から645年前のことである。

柳原港
柳原港は嘉永元年(1847)に築造されたもの。地乗り航路の潮待ち港として重要であった、とある(「えひめの記憶」)。
弘下元年(1844)に三津船入枡形築港の記録と共に記録に残るので、結構重要な湊であったのかも知れない。






龍宮神社
龍宮神社はまことにささやかな社。水の神、漁業の神である龍神を祀る。龍神は沖を向く」とのことである(「えひめの記憶)。
地乗り航路
1日2回の干満、6時間毎に潮流が逆転する瀬戸内では逆流を避け、また潮に乗るため潮待ちの湊を必要とした。航路は陸地に沿い、また島々を繋いで進むことになる。これを地乗り航路と称するようだ。通常は塩の流れの速い山陽沿岸を指す。
これに対する言葉は「沖乗り航路」。17世紀後半となり、帆走力の向上により、潮流の穏やかな沖合を逆流であっても帆走が可能となった、とのことである。

高浜虚子の句碑
河野川を渡ると橋の北詰に大師堂(風早四国八十八ヶ所四十七番)があり、その境内に高浜虚子の句碑と虚子の胸像が建ち、その横の松には「虚子の松」と書かれる。

虚子の句
「この松の下にたたずめば露のわれ」
句碑の正面には「この松の下にたたずめば露のわれ」と刻まれる。「ホトトギズ 大正六年十二月号に発表した句で、兄の法事のため帰省したとき、懐かしい西の下を詠んだもの。この句碑は虚子の句碑第一号」と案内にあった。8歳までこの柳原で過ごした虚子が、幼い時遊んだこの大師堂を訪ね、遍路松の下で詠んだ句とのことである。句碑は昭和3年(1028)に建てられた。なお、初代の遍路松は枯れ、現在ものはその横に新たに植えられたもの、と言う。






「道の辺の阿波のへんろの墓あはれ」
また句碑の側面には「道の辺の阿波のへんろの墓あはれ」と刻まれる。「昭和十年四月十五日、虚子は四国遍路の途上で病没した遍路の墓があるこの西ノ下大師堂を訪れ、鹿島に遊んだ 俳句の里松山(松山市教育委員会)」と案内にあった。大師堂の右、道路際に「阿波のへんろ之墓」と刻まれた墓石が古い石仏と並んで建つ。この墓石を詠んだのかとも想ったのだが、この墓石は後世の作とのこと(「えひめの記憶」)。境内の東には大きな石仏と「備中□阿智□本屋□女墓 文政十一年子七月六日」と刻まれた墓石が残っていた(お墓の写真は撮らないことにしている)。

「ここにまた住まばやと想う春の暮れ」
句碑とは別に、「高浜虚子胸像」の基壇に刻まれている句。案内には「昭和15年、父の五十年忌のために松山に帰省、旧居跡を訪ねたときの感慨を詠んだもので、句は「高浜虚子胸像」の基壇に刻まれている。
句の後に、「旧居の跡を訪ねて 七十六歳虚子」とある。胸像は、昭和62年3月に建立。なお、西の下(にしのげ)大師堂の北にある近くの空き地に「虚子先生生家池内邸址」の碑が建てられている 俳句の里松山(松山市教育委員会)」とあった。

赤地蔵

柳原地区から北条辻地区に入る。新開バス堤の対面の民家敷地内に道標があるとのことだが、外からはその姿を捉えることはできず、先に150mほど進み赤地蔵に。近年は赤く塗られた大師座像も合祀(ごうし)するところから「赤大師」とも呼ばれているようである。
案内「赤大師(赤地蔵さま)藩政時代に北条市上辻の庵(津地医王山薬師堂の煉瓦に河野家の定紋・隅折敷縮波三)に祀られてあった地蔵尊をどのようないきさつからか、松並木街道(現在の国道196号線)に移し祀るようになった。 里人は朝な夕なにお参りし、諸々の異を祈念、願のかなったお礼に"ベンガラ"でお地蔵さんを赤く化粧することがいつの間か習わしとなった。
こうしたことから地蔵尊を「赤大師」「赤地蔵」と呼び、供花は水々しく、線香の香りと煙は四六時中絶えることがない。
その当時の松並木街道は、赤大師(赤地蔵)の境内前で"二タ又道"になり、二タ又道の所で八郎川が淵のようになっていた。道不案内の旅人やお遍路さんが、月明かり道の光を頼りにお地蔵さんの前まで来て、右にしようか、左にしようかと迷いながらうかうかと行くうちに、ドンブッリコと淵にはまり込んで、底の泥沼に足を取られて、明くる朝に溺死体で発見された人は数知れない。 しかし、里人の温かい信仰は、溺死した人、行き倒れの人たちを(大正13年当時このあたりには家はない)この荒れ地に死体を手厚く埋葬し、無縁墓を建て、今なおこの供養は続けられている(平成26年 赤大師保存会)」とあった。

中司茂兵衛道標
お堂の背後に、小型の中司茂兵衛88度目の道標がある。「えひめの記憶」には「昭和62年(1987)、当地から東へ約500m、北条市辻の隅田川沿いの道と北条北中学校に通じる農道との交差地点にある水路に架けた石橋として発見され、現在地に移されたという。文面で「國」の文字を欠くこと、村名を「椋之村」と刻むことや刻字の表現様式、石材の質などから考えると、当地方でみられる他の茂兵衛道標とは異質のもののようにも見える。(中略)この道標は(中略)、旧街道を通る遍路道とは別の、今まで報告されてない遍路道が存在し、その道筋にこの道標が建てられていたのではないかと推察している」とある。

別の遍路道
その遍路道とは、北条市府中の西の下公園にある弥衛(エ)門地蔵堂から北へ進み、同市辻の黒岩を経て上辻の常夜灯前を過ぎて、辻北の地蔵堂(聖カタリナ女子大学の西側にあって、夜烏地蔵といわれる)を右に見て北進し、立岩川に至る。川を渡って(現在は大師橋がある)、下難波の田んぼ道を北上し、下池の西脇を通って山際の後述する鎌大師に至るという道であるという(「えへめの記憶)。
ついでのことではあるので、弥衛(エ)門地蔵堂を訪ねる。その後の「辻の黒岩を経て上辻の常夜灯前」はどこかわからなかったが、夜烏地蔵には辿りつけた。
弥エ門地蔵堂
境内に「弥エ門の墓」の案内。「和田弥エ門は切支丹です。当時の徳川幕府の禁教令により迫害を受け、この地が殉教の地となりました。
風早地方の切支丹の歴史上重要な史跡です。又、柳原には他に和田市兵衛、来島徳右衛門の墓が現存しています」とあった。
札所五三番・円明寺にも「切支丹灯ろう」があったが、柳原から府中地区にかけて「弥エ門の墓」の間には、田圃の曲がり角に14基ほどの切支丹の石地蔵が建つとのことである。
夜烏地蔵
聖カタリナ短大の脇、1車線の道を進むと「風早四国番外十番よからず地蔵」と刻まれた石碑とともに、風雪に耐えた趣のお堂が建っていた。
松山藩と大洲藩の二分領有であった風早郡一帯は寛永12年(1635)、松山藩領となったが、「えひめの記憶」に拠れば、「その前後に北条には「よがらす」と称される宿場が形成され、この付近を中心に市がたつようになった。
「よがらす」が宿場として知られるようになったのは一六五〇年ころからのことであるとされている。夏の牛市及び歳末の大市の二回が定期的に開かれ、風早一円の農家から買い物にやってくる人々でにぎわった。この大市は、明治末年まで開催されており、その中心地は明星川付近であった」とある。夜烏地蔵との関連は不詳ではあるが、この地蔵堂からの宿場名だろうか。なんとなく関連あるのでは、とは想うのだがエビデンス、なし。

自然石の道標
元の道に戻り、北条辻地区に南北と西を囲まれた土手内地区の鹿島バス停脇に自然石の道標。最初は石垣かと想ったほど、風景に馴染んでいた。その前に建つ鹿島を案内する道標がなければ、探すのに難儀したかと想う。

鹿島
鹿島バス停を少し進むと、土手内地区から再び北条辻地区に戻る。北条駅前交差点を左に折れると北条港とその沖に鹿島。北条といえば鹿島でしょう、ということで、鹿島を眺めるために北条港へちょっと立ち寄り。
北条港
港に常夜灯が建つ。北条港は松山藩の13の湊のひとつ。先ほど訪れた柳原港と同じく、地乗り航路の潮待ち港として重要であった、と言う。「えひめの記憶」に拠れば、「北条港は古くは大津地あるいは津地港(辻港)などと称されていたが、商業活動が活発になるに伴い、明星川と長沢川の両河口にはさまれた沼地を浚渫して港を築造し、その土砂で「新地」の埋め立てを行なっている。元禄期(17世紀後半)には御城米を運ぶ船牛かおり、城米船も入港した。近国のほか越後・豊後・肥後・和泉の回船が入港し、米麦や薪炭等を上方へ運んでいる。 文政~天保年間(注;19世紀前半)及び弘化~嘉永年間(注;19世紀中頃)にそれぞれ改修工事を行なった。天保三年ごろは船三〇艘があり、波止も修築した。このような結果、出入船舶も増加し、『伊予国風早郡地誌』によれば「一〇〇〇~五〇〇石船七隻保有」とあり、明治一一年(一八七八)には一一〇〇隻の船舶が入港している。同年の辻村保有の船は五〇石以上三隻、五〇石未満八隻、漁船二七隻であり、商業活動の活発化に伴い船舶利用も増大していった。 同様に風早郡北条・柳原・安居島の三港も地乗り航路の潮待ち港として重要であった。北条港は元禄期(17世紀後半)には御城米を運ぶ船牛かおり、城米船も入港した。近国のほか越後・豊後・肥後・和泉の回船が入港し、米麦や薪炭等を上方へ運んでいる」と記される。
北条
ところで、「北条」って、如何なる由来の地名だろう。10世紀頃には「北条」との記録が残る、と言う。河野氏の一派との説もあり、此の地に住み「北条氏」を名乗ったとされる。これでは「北条」という地名の由来がわからない。
チェックすると、古代の条里制にまつわる用語に「北条」「中条」「南条」といったものが見つかった。実際、北条地区には条里制が敷かれていたとの記録もあるようだ。 条里制では三六町歩を一里、一里が東西に36個並んだ者を一条と呼ぶ。「北条」「中条」「南条」はその条と条の南北の位置関係を示す用語のようである。根拠はないが、古代条理制が北条の由来かと妄想する。

鹿島
鹿の棲む島として知られる鹿島は、その歴史は古く神功皇后が三韓征伐の途中にこの島に立ち寄り、神々に戦勝を祈願したという神話が残る。またこの島は、天智2年(663)の白村江の戦いで敗れた大和朝廷軍が、唐・新羅の侵攻に備え築城した対馬・筑紫・瀬戸内海の城のうち、瀬戸内海に築いた3つの城のうちのひとつ(鹿渡島)がこの鹿島だとも言われる。
山頂には中世の城址が残る。築城者は不明だが、一説では、河野水軍の拠点とも。建武年間(1334~1336)には、河野通盛が道後の湯築城へ本拠地を移すに当たり、海からの敵の侵入を防ぐ目的で城砦を築いたようだ。その後河野氏の一族が城主を務めるも、秀吉の四国攻めでは、河野氏から離反していた来島通総が豊臣方の先鋒として武功をたて、戦後、風早1万4千石を領有するとともに、鹿島城主に任ぜられた。
来島勢は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは豊臣方に与したため、来島氏は豊後の森に転封(後に久留島氏と改名)され、鹿島城は廃城となった。 距離の割にメモが多くなってしまった。鹿島から先は次回に廻す。
6月末のとある日曜、朝起きると快晴。その1週間前の週末、沢ガールのガイドで秋川筋の大岳沢に入る予定であったが、雨で中止。その時の沢入りの準備ができていたので、どこかの沢に行こうと想う。どこに行こうか、ちょっと考え、水根沢に行くことにした。
水根沢には未だ一度も行ったことがない。奥多摩の沢登り、といえは「水根沢」と言うことで、いつも人で溢れているといったイメージがあり、初心者集団を引連れて「渋滞」を起こすのが申し訳ないと、いうのが最大の理由であった。 今回は急に思い立ったわけで単独行。ひとりであれば、沢を楽しみに来ている皆さんに迷惑をかけそうな滝や岩場は高巻きすればいい、沢は初級レベルと言われているが、キツそうであれば沢にそって続く水根沢林道に這い上がればいい、また、単独行の場合、基本、怖がりの我が身は、通常であれば常に携帯する山地図をインストールしたGPS端末も持たず、遡行図のコピーだけ。林道といえば、倉沢海沢など、沢に沿う広い道が刷り込まれており、すぐに見つかるだろうと思い込んでいたわけである。少々お気楽な水根沢行きであった。

沢には予想に反し、誰も居ない。これはラッキー! 迷惑をかけることもないので、のんびりと試行錯誤を繰り返し遡行していたのだが、途中で如何にも経験豊富な風情の方に後ろから声を掛けられた。岩に這い上がろうとする姿を見て、心配になったのか、一緒に行きましょうとの申し出である。
有り難い申し出ではあるが、誠に申し訳ないので一度ならずお断りしたのだが、結局ご一緒することに。よほど心配にみえたのだろう。CSトイ状の滝から先はその方のリードで半円の滝まで進み、そこで遡行終了し、ふたりで林道に向かうことにした。
これで、本日の沢上りは終わり、と思ったのだが、林道が見つからない、踏み跡はいくつかあるのだが、すぐ行き止まり。結構上下し林道を探したのだが、わからず、結局沢を入渓点まで戻りましょう、ということになった。水根沢の林道は、林道と言うより鷹ノ巣山への登山道と言ったものであったようだ。
 二段12mのナメ状の大滝辺りでは岩場を下る懸垂下降のロープが10mでは足りず、結構苦労したが、岩場では腹這いになり、ズルズルと足懸りを探しながらクリアするなど、はじめての本格的「沢下り」も楽しめた。


本日のルート;水根沢キャンプ場>入渓点>(最初のゴルジュ)>2mの小滝>CS3m滝>橋>二条CS滝>(二番目のゴルジュ帯)>2m滝>CS3m滝>小滝>4m滑滝>4m滑滝>CSトイ状の滝>2段12m滝>滑滝>山葵田>三番目のゴルジュ帯>6mトイ状半円の滝>遡上終了>林道が見つからない>(沢を下る)>2段12m滝>CSトイ状滝>小滝>水根バス停

水根沢キャンプ場
突然決めた沢入でもあり、家を出る時間も遅く、奥多摩駅に着いたのは11時前。偶々、10時50分だか55分だったか忘れたが、丹波行きのバスがあり、奥多摩湖バス停のひとつ手前の「水根」停留所で下車。
沢に沿って入渓点である、水根沢キャンプ場へと向かう。水根キャンプ場とはいうものの、道脇にそえらしき建物はあるものの、如何にもキャンプ場といった場所もなく、沢に沿った広場といった場所があったが、それが水根キャンプ場なのだろう。
ただ、そこは民家の私有地といった風で、入り口に車止めといったものがあり、民家の前を通るのも申し訳なく、道を先に進む。と、道端でお喋りを楽しんでいた集落の方が、沢に入るのは、この道を先に行けばいい、と教えてくれた。







入渓点:11時52分
しばらく進むと舗装が切れ、山道に入る。これが水根沢登山道だろうか(注;後日、登山道とは別の道と判明)。ほどなく、道下に沢が見え、少々傾斜が急ではあるが、そこから沢に下りることにした。

 道で入渓準備。極力高巻きで水に浸からないようにしようと思うが、「水の水根沢」であるので、時に、胸くらいまで水に浸かることを覚悟し、山用の防水雨合羽を上から着込み、沢に入る。入渓点は穏やかな沢相である。

◎最初のゴルジュ
2mの小滝;11時56分
左岸に取り付き、岩場に手懸かり・足懸かりを見付けながら、水際を進み(沢の用語では「へつり」)滝横の岩に這い上がる。








CS3m滝;11時58分
その先には5mほどの淵あり、如何にもゴルジュといった風情。淵の先にはCS3mの滝。淵を進むが、深さはそれほどない。かつてはもっと深い淵であったようだが、砂で埋まってしまったようだ。
滝横の岩場まで進み、そのまま岩を這い上がる。水中から平坦な撮り付き岩場まで微妙な段差があり、そえなりに難儀ではあったが、滝自体はそれほど難しい滝ではなかった。
因みに、CSとは「チョックストーン(chockstone)=岩の割れ目にがっちり挟まった岩」を意味する。



橋;12時2分
その先に橋が架かる。どこに向かうのだろう。









二条CS滝;12時7分
橋を越えると、川の中央に大岩が座り、水流が両側から勢いよく流れ落ちる。二条CS滝である。水に濡れるのを避け、左岸を高巻きしようと思ったのだが、結構難く、撤退。仕方なく滝を二つに分ける岩に取り付く。
腰の深さの淵を進み、下の岩は簡単に登れたのだが、上の岩場に這い上がるに、手掛かり、足掛かりがない。撤退しようにも、下りるに下りられず、岩の右手の水流に足懸りをと思えども、昨日の雨の影響か水の流れが強くホールドする自信がない。
なんとか上の岩に這い上がろうと悪戦苦闘。水濡れを防ぐために着た雨具がつるつる滑り、岩場に張り付くもずり落ちる。結構苦労したがなんとか這い上がれた。多くの人は岩の右手の水流を上るようである。

二番目のゴルジュ帯

最初の2m滝;12時31分
左岸を滝の少し手前から「へつる」。が、行くも、戻るもできなく、淵にドボン、と思った時、岩場左上に残置スリングが見えた。スリングを掴み、岩場をクリア(注;後日残置スリングは2箇所にあるのがわかった)。










CS3m滝;12時35分
淵に入るのを避け、「へつり」をしながら左岸岩場を登り高巻しようとしたのだが、途中でこれも進むも退くもできなくなった。ずり落ちるのを避けるため、両手両足で滑る岩場をホールドし、なんとか下まで戻る。
そこからは水に胸辺りまで浸かり、滝の下まで進みるのを腰まで水に浸り右岸を上る。

声を掛けてもらう
滝上に上り下流を見るとひとりの男性が目に入った。そして、御一緒しませんか、との申し出。高巻でグズグズしている姿などを見るにみかね声をかけてくれたのだろう。沢はほどほど、ロッククライミングとかケービング(洞窟探検)を楽しんでいる方であった。
有難い申し出ではあるが、申し訳なく丁重にお断りするも、結局ご一緒することに。よほど心配してくれたのだろう。

小滝;12時51分
ご一緒に進み小滝右岸を上り、ゴルジュ帯を抜ける。













深い釜をもつ4m滑滝
ここが一番キツかったように思う。岩場に手懸り・足懸りが見つからず、這いずり廻り、少々無様な恰好でなんとかクリアした。疲れ果て写真を撮るのも忘れてしまった。

CSトイ状の滝;13時14分
その先にトイ状の滝。雨水を集め下に流す樋(トイ)のように、狭い岩場を勢いよく水が流れ落ちる。ご一緒した方は、滝壺下まで進み、流れに抗いながらもステミング(両手両足で両側の岩場をホールドし滝を登る。蟹の横這い、といった格好である)でトイを突破するとのこと。
一方私は、少々疲れ気味。ステミングで体を支える気合が足りない。ステミングをしないとすれば、右岸の急な崖を這い上がり、10mの垂直な崖を下りることになる。迷うことなく右岸に崖に取り付く。
崖を這い上がり、先端部にくると10mの垂直の崖。崖の先端には残置スリングと、そこから下にロープが垂れる。が、ロープは水面まで届いていない。「画龍点晴を欠く」と言った残置ロープである。
それではと、ロープを取り出し6ミリの10mロープを結び、スリングに通し、フリクション(摩擦)を保ち、かつロープの回収を容易にすべく6ミリ二本のロープを8環に通し、懸垂下降で10mの垂直な崖を下りる。ロープも10mでギリギリではあったが、無事崖を下りた。崖下でステミングで上ってきた男性と合流し先に進む。

2段12m滝;13時17分
CSトイ状の滝の先には2段12m滝。右岸を這い上がる。水に浸かり、たっぷりと水を吸い込んだリュックやロープの重みが結構きつい。後でもメモするが、林道の踏み跡が見つからず、沢を下るとき、最も苦労した箇所である。









滑滝;13時26分
2段12m滝の先に小滝とカーブした滑状の滝が続く。難しい滝でもなく、滑状の滝の風情は結構美しい。











山葵田;13時33分
その先、右岸に小屋が見える。付近は山葵田とのことである。ここで休憩をとる方が多いようだが、そのまま先に進む。









三番目のゴルジュ帯

山葵田の先は、両岸にが岩に挟まれた、ちょっとしたゴルジュ帯(?)となる。小さな滝が二つあった。最初の滝はどうということはなかったのだが、2番目の滝は、見た目は簡単ではあったが、手懸かり・足懸かりがなく、体力も大分消耗した我が身は、なんとか這い上がる、といった為体(ていたらく)ではあった。






6mトイ状半円の滝;14時
このゴルジュ帯を抜けると、小滝がありその先に水根沢で最も名高い半円の滝が見えてくる。ステミング(蟹の横ばいといった案配)で登っていくのが本道ではあろうが、その体力はない。ご一緒した方はステミングで進むも、私は右岸を高巻き。高巻きは誠に簡単であった。








遡上終了;14時5分
ご一緒の方は、数回この沢に来ており、これから上はそれほど面白い箇所もないので、ここで切り上げましょうとの提案。誠に有り難いお話。成り行きで林道へと向かう。







林道が見つからない:14時23分
林道は直ぐに見つかるとのことであったが、なかなか見つからない。踏み跡はいくつかあったのだが、途中で消える。成り行きで彷徨っていると、左右に沢を分ける尾根道に入る。左手の沢は何だ?益々混乱。
ご一緒してくれた方も、記憶を頼りに林道を探すが、見つからない。で、結局、沢を下りましょう、ということになった。
家に帰り地形図を見ると、沢を分けた尾根と思ったのは、水根沢にグンと突き出した尾根であり、単に水根沢が突き出した尾根の岩壁をぐるりと回っているだけであった。場所は最終地点である半円トイ状の少し下流といった箇所であった。この尾根筋のため少々混乱したが、もう少し高いところまで登れば林道に出合っていのかとも思う。水根沢のレポに林道探しに苦労した、といったものは皆無である。皆さんは何の苦労もなく林道に登れているのだろうか。

沢を下る

2段12m滝;14時58分
水根沢に突きだした尾根筋に沿って踏み跡があるので、とりあえずその道を進む。が、ほどなく踏み跡が切れる。跡は成り行きで沢に沿って下ると、2段12m滝の上に出た。岩場を下るのは滑って危なそう。ロープを出して下降。安全な箇所まで下りるには15mほどの長さがあったほうがよさそうであった。








CSトイ状滝;15時
高巻きをエスケープし懸垂下降で降りた箇所は、下りはステミング(蟹の横ばいといった案配)で下りるしか術はない。トイ状の滝をステミングで下り、適当な所で淵にドボン。










小滝;15時24分
登りはどうということもなかったCSの小滝も下りは難しい。腹這いになり、手懸かりをホールドしながら、ゆっくりズリ落ちる要領で足懸かりを探しながらクリアする岩場が2箇所ほどあった。

入渓点に:15時45分
水に濡れるのを避けるため、極力高巻で、といった「計画」も下りのトイ状の滝での滝壺にドボンのため、結局全身ずぶ濡れになりながらも、なんとか入渓点まで戻る。そこはスタート時点では遠慮した民家前を通るアプローチ地点ではあった。

水根バス停;16時10分
沢から出ると、四駆で駅まで送ってくれる、と言う。さすがに、そこまでは甘えることはできず、御礼を申し上げデポ地点で別れる。林道脇で着替えを済ませ 水根バス堤に。16時23分のバスに乗り、16時57分のホリデー快速おくたまで一路家路へと。

今回の沢は反省点ばかり。単独行でありながら、地図もGPSも持たず遡行図だけて沢に入り、撤退や復路の林道は沢に沿って直ぐに見つかると高を括っていた。偶々この方が親切にご一緒して頂いたから良かったものの、独りだったら、倉沢とか海沢の林道と言った大きな「林道」を探して山中を彷徨っていたかとも思う。よくよく考えれば、入渓地点での林道を考えれば、そんな大きな林道ではない、ということはわかるはずではあったのだが。。。

結構沢をこなし、ちょっと半端な余裕をもちはじめていたのだろう。初心に戻るべし、との思いをかみしめた水根沢遡行となった。

後日談(2回目)
 
7月の中旬、酷暑の都心を離れて元会社の仲間と水根沢に入った。当日はピーカン。これは水を存分に楽しめるだろうと入渓点に。
が、前回と同じ個所で着替えをしている時に沢から聞こえる水の音が半端ではない。轟轟たる水音である。快晴ではあるが、この水音を聞き、防水雨具を上から着込み入渓点に。 思った以上に強烈な水勢である。

第一のゴルジュ帯
2m小滝
最初のゴルジュ帯の2mの小滝は、「へつり」で進む。強烈な水勢を見遣りながら第一関門はクリア











CS3mの滝
がその先のCS3mの滝は、先回は滝下まで進み、楽々滝を登ったのだが、今回はとてもではないが直登などできそうもない。迷うことなく大きく高巻き。






第二のゴルジュ帯
2m滝
再び沢に入り第二のゴルジュ帯の2m滝に。水量も多く、先回と様変わり。水量が多いこともあり、左岸が丁度いい感じにへつりがしやすくなっている。手掛かりを探り、水中に足がかりを探りながら滝の手前まで、水線の中に足がかりを見つけ、クリアする。






CS3m
このCS3m滝は水量は多いものの、どういうわけか水勢が激しくなく、先回と同様に右岸を這い上がる








4m滑滝
その先、先回辿った小滝だったか4m滑滝だったか。それもわからないほど水が滝を覆う。異常なほど水勢が激しく、水線を進もうにも跳ね返される沢ガール。幾度かトライするも断念。で、高巻しようと崖に張り付き、足場の悪い崖を上り切るも、その先のルートが読めない。このまま進むのは危険、ということで撤退決定。





登山道に這い上がる
登山道に這い上がるにも、この地点から這い上がるのはキツイ。少し下り、CS3m滝辺りから崖を這い上がる。登山道まで比高差は90mほどあるだろうか。あまりに急登に、シダクラ沢以来の四足歩行でなんとか這い上がる沢ガール。悪戦苦闘し登山道に。






登山道
先回見つけることのできなかった登山道ではあるが、結構しっかりした踏み跡のある道ではあった。
それにしても、強烈な水勢であった。数日前まで何日か降り続いた雨の影響が、これほどまで残っているとは想像もできなかった。しかし、誠に面白い沢登りの一日であった。











水根沢再々訪(3回目)

8月末日、先回の途中撤退のリベンジにとの沢ガールのご下命により、水根沢に。パーティは退任前の会社の沢ガールと沢ボーイと私の3名。先回同様、民家前を通る入渓点を避け、道を進み「むかし道休憩所」を越え、舗装も切れる民家脇の小径の入渓地点上に。
入渓点上の登山道と思っていた道は、先回の途中撤退で這い上がった登山道の下り口とは異なっており、沢遡上の途中で出合った橋に続く道のようではあった。
それはともあれ、入渓点上の道で入渓準備をしながら耳を澄まして聞く沢の水音は轟々と響いていた先回とは異なり、静かな響き。一安心し入渓点に下りる。


入渓
先回の大水の後の沢入りは、入渓早々に左岸の「へつり」でしか進めなかった箇所も、今回は水線上をのんびり進む。

CS3m滝
先回はその水勢激しく高巻きしたCS3m滝は右岸を進み岩場に這い上がる。最初に水根沢にひとりで訪れたときはそれほど難しいと思わなかったのだが、岩場に這い上がるには水中からは微妙な段差。男ふたりは何とか這い上がるが、腕力のない沢ガールは悪戦苦闘。
長時間水に浸かり体力消耗を避けるため、結局ロープを出し、ハーネスのカラビナに固定し、引き上げることにした。岩場には残置スリングが吊り下がっていたが、位置が高く水中からの手掛かりとはなり得なかった。

CS2条の滝
先回は水量が多く、結果左岸をへつりで進むことができたCS2条の滝(多分CS2条の滝だと思うのだが、ゴルジュ帯の2m滝だったかもしれない。なにせ水勢激しく、滝が水に埋もれどちらだったか確認できない)は、今回は中央岩場に取り付き、岩の右手から流れ下ちる水線の岩に足を踏み出しホールドし上るのが常道のようだが、一歩踏み出す「勇気」を躊躇する沢ガールのため、ここもハーネスのカラビナにロープを固定し引き上げる。

2番目のゴルジュ帯
2m滝
最初に一人で訪れたときは左岸をへつり、残置スリングに助けられたとメモしたが、今回も左岸をへつると2箇所に残置スリングが残っていた。もっとも、 残置スリングを手掛かりに進むが、その先は滑りやすい岩場であり、釜がそれほど深くもなかったため、他の二人は左岸に沿って水中を進み岩を這い上がって進んだ。





CS3m滝
その先のCS3m滝は最初に訪れたときも、先回の大水の時も、不思議に水がそれほど多くなく、右岸に沿って進み岩場を這い上がって進むことができた。今回も同じく右岸を這い上がる。







釜のある4mナメ滝
最初に訪れた時も難儀し、2回目には強烈な水勢のため途中撤退を決めた、釜のある4mナメ滝(当日は圧倒的な水量のため撤退箇所は特定できず、帰宅しログを確認し釜のあるナメ滝と推察したわけではあるが)に到着。釜を泳ぎナメの岩場の水中に足がかりを探し、なんとか這い上がる。今回もやはりここが少し難儀する箇所となった。
沢ガールには、ハーネスのカラビナにロープを固定し、水中を引っ張り、最短時間でナメ岩下に取り付き、ナメの岩場を這い上がる。


CSトイ状の滝
深い釜を泳ぎ、ステミング(蟹の横這い状態)で上るトイ状10mほどの滝に到着。釜も深く、水に濡れ体が冷えた我々3人は釜を泳ぐ気は毛頭ない。最初と同様、10mほどの垂直の崖を懸垂下降で下りようと右岸の崖を這い上がる。 先回懸垂下降で下りた崖の先端の岩に掛けられたスリングは残るが、そこから吊るされていたロープは切れて崖端に放置されていた。
先回は岩に掛けられた残置スリングにロープを通し、懸垂下降で垂直の岩場を下りたのだが、よくよく見ると残置スリングが心もとない。またスリングを支える突き出た岩場も、なんとなく「ひ弱」な感じ。スリングもそれを支える岩も、見れば見るほど少々怖くなり、結局懸垂下降は危険と判断。釜を泳ぐ気持にはならないため、今回はここで左岸高巻きすることに決定し、水線に戻る.。

登山道に這い上がる
左岸を見遣り、這い上がる箇所を探し岩場に取り付き、高巻き開始。極力左手に進もうと思うのだが、傾斜がきつく、滑り始めると釜に向かって一直線に落ちて行きそうな急斜面のため、トラバースするのは少々危険と、結局一直線に崖を這い上がることに。
また、最初の水根沢遡上で登山道が見つからず、沢を入渓点まで戻るため、支尾根の左手を成り行きで下ると2段12mのナメ滝上に出たのだが、その時の印象ではトラバースできるような斜面ではなく、結局2段12mのナメ滝へと下りざるを得なかったわけで、トイ状の大滝を高巻きしても、とても沢に復帰できるような斜面でなかったことが頭に残っていたのも、登山道へと一直線に這い上がることにした理由でもある。

急登に難儀する沢ガールにはハーネスのカラビナにロープを結び、斜面の立木を支点に安全を確保しながら崖を這い上がる。結局は高巻き、というより登山道までエスケープした、といったほうがいいだろう。30分ほどかけて登山道に這い上がった。

登山道を支尾根に
当初のゴールである半円の滝へと登山道を進む。最初に水根沢を訪れたとき見つけられなかった、半円の滝から支尾根に上った先にある登山道を「繋ぐ」ことも目的のひとつではある。
登山道を進むと、左手に支尾根が見える。道脇の過ぎに白のペンキが塗られていた箇所から支尾根に下りる道がある。支尾根への斜面を下り、平坦な支尾根上の踏み跡を進み、沢に下りる箇所を探す。
支尾根を進むと尾根筋を切り開いた箇所があり、そこから支尾根の右手を沢に下りる。これで半円の滝で終了した後の、登山道への道が繋がった。最初の沢入りで、登山道が見つからず沢を入渓点まで戻ったときは、この尾根の左手を成り行きで下り、トイ状滝の上にああttる2段12mの上に出たわけである。

半円の滝
沢に下り、少し沢を下流に戻り半円の滝に。トイ状の大滝は高巻きと言うか、登山道にエスケープしたが、本日のゴールに到着。沢ガールも先回の途中撤退のリベンジ達成と、トイ状の滝脇の岩場を滑り台に釜に流れ落ちたり、半円の滝をステミング(蟹の横這い)で登ったりと、しばし水遊びを楽しみ、本日の水根沢の沢上りを終える。

むかし道休憩所
先回の大水の後の水根沢を訪れ、途中撤退し登山道を下ってきたとき、登山道を舗装された道に下りきったところから少し先に進み。左手の沢側に入ったところに「むかし道休憩所」があった。まことに立派な施設でお手洗いもあるし、着替えもできる。今回も、休憩所までは沢スタイルで下り、ここでゆったりと着替えすることができた。水根沢の着替えはこの休憩所を使わせてもらうのがいいかと思い、メモをする。

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