特に資料もなく、GPS 端末にインストールした国土地理院の6000分の一の地図と、そのトラックデータをフリーソフトの「轍」を介してKMLファイルに変換し、Google Mapのマイマップにインポートした航空写真を頼りにはじめた香川用水散歩。実際にチェックポイントに行ってはじめてわかった隧道名では、順序通りの隧道名となっていないところもあり、「第2」があれば「第1」があってしかるべし、出口があれば入口、入口があれば出口があってしかるべし、とあれこれ彷徨い、結構時間がかかり、全行程の半分も行かず1回目の散歩を終えた。
そこから、日も置かず2回目の香川用水西部幹線水路散歩に出かける。最初の目的地は札所六十七番・大興寺。香川用水と関係はないのだが、今回のスタート地点へのアプローチ始点として、車のナビに入れるのが容易ということと、ついでのことでもあるので札所も訪れようと思ったわけである。
本日のルート(香川用水西部幹線のルート;赤の軌跡);
○第1回(緑の軌跡)
香川用水記念公園>東西分水工>(地下隧道でエリエールゴルフ場を抜ける)>入樋開水路・分水工>(隧道に)>菖蒲2号隧道出口>(開渠)>菖蒲3号隧道入口>(隧道)>地下水路で河内地区の平地に>河内川分水工・放水工>地下水路で山裾の丘陵を進む>河内2号隧道出口>(開渠)>河内3号隧道入口>地下隧道で谷戸に出る>(暗渠)>竹谷分水工>丘陵裾を隧道で進む>山池隧道出口>(暗渠)>サイフォン>一の谷開水路>一の谷開水路チェック工>(暗渠)>寺上第一開水路(川を跨ぐ)>小松隧道入口>小松隧道出口>寺上第2開水路>酔覚1号隧道入口>酔覚1号隧道出口>酔覚開水路>酔覚2号隧道入口>
○第二回(青の軌跡)
小原分水工>開渠に>小原池局>小原開水路>原隧道入口>城谷開水路で開渠に>柞田川右岸チェック工>城谷隧道入口>ふたつの丘陵・ひとつの谷筋を越え長い隧道を南西に下る>水路橋で姿を現す>紀伊大池分水工>紀伊大池チェック工>紀伊大池開水路>(丘陵地下を南西に進む)>瀬戸1号隧道出口>(水路橋)>瀬戸2号隧道入口>(隧道に)>萩原1号開水路>(隧道)>萩原第1隧道出口>萩原第2開水路>大谷池分水工>萩原第3隧道入口>(隧道)>萩原第3開水路>暗渠に>日の出橋水路管>井関池揚水機場>和田支線分水工>井関チェック工>井関放水工>(和田支線分水工から地下送水管)>袂池分水工手前の水路に用水送水管が現れる>袂池分水工>板橋分水工>(地下送水管)>苗代池分水工>川を送水鉄管が渡る>姥ヶ池からの送水管が下る>姥ヶ懐池(姥ヶ池局・姥ヶ池分水工・姥ヶ池吐水槽)
六十七番札所・大興寺
ナビのガイドに従い、四国遍路六十七番札所・大興寺に。六十七番札所である雲辺寺からおおよそ12キロのところにある。堂々とした仁王門の金剛力士像は運慶作とも伝わる。
縁起によれば、天平14年(742)、熊野山所権現鎮護のため、東大寺末寺として、現在地より少し北に建立され、その後、延暦11年(792)に弘法大師が巡錫。弘仁13年(823)には、嵯峨天皇の勅により再興されたと伝わる。(弘仁13年(823)に、嵯峨天皇の勅命により、弘法大師が熊野山所権現鎮護のために開創建したとの説明もある)。
後にこの寺は真言、天台の二宗によって管理され、真言が二十四坊、天台は十二坊あり、本堂の左右に真言、天台の大師堂があったとのこと。現在は真言宗のお寺さまであるが、境内に天台大師堂や、天台様式の不動明王が本尊脇侍として残るのは、往昔のこの真言・天台二宗が兼学した名残とか。
堂々とした伽藍を誇った大興寺も土佐の長曽我部元親の四国制覇の折り、本堂を残し、堂宇は悉く灰燼に帰した。現存の建物は慶長年間に再建されたものである。
小原分水工>(小原開水路)
本日の最初のチェックポイントに向かう。先回最後のポイントである「酔覚2号隧道入口」から丘陵の囲まれた谷戸状の地形を潜り、丘陵を越えた先の池の西に見える開渠部である。
隧道出口には名前はない。その手前に小原分水工があり、開渠部は「小原開水路」と書かれていた。開渠部はおおよそ30m強といったところだろうか。
小原池局>原隧道
水路を挟んで分水工の逆(北)に「小原池局」といった名称の建物が建つ。先回の散歩の「一の谷チェック工」のところでメモしたが、香川用水の農業用水区間は、その分水量やチェック工で測定した水位情報を子局から親局に電波で送り、集中管理しているとのこと。この「小原池局」と呼ばれる建物が「子局」に相当するものだろう。
あれこれチェックすると、この小原池局では、一の谷川、小原池(小原分水工の東にある池だろうか)、この地から更に西にある柞田川、岩鍋池の各分水流量、また一の谷川、柞田川チェック工の水位、そして岩鍋池幹線流量,小原池,岩鍋池水位情報を親局のある香川用水記念公園の管理棟に送っているとのこと。
ただ、親局は情報を集中管理はするものの、操作は自動制御ではなく、親局からの指令で人がパトロールして管理しているようである。
原隧道出口>城谷開水路
原隧道から丘陵に潜った水路は小さな谷戸といった風情の里に出る。原隧道入口から南に農道を進み、ほどなく丘陵越えの道に入ると、里で開水路とクロスした。
出口をチェックに向かうと「原隧道」と書かれていた。原隧道の出口である。開渠部は「城谷開水路」とあった。
城谷開水路>柞田川右岸チェック工・柞田川右岸分水工
水路を進むと「柞田川右岸チェック工」、があった。「いすた」と読むのだろか。 柞田川は、上でメモしたように、このチェック工からはるか西を流れている川である。
城谷隧道
城谷開水路は「城谷隧道」で地中に潜る。水路は南西に3キロ弱進む。途中、岩鍋池のある栗井川が開析した谷筋を通っているため、水路が通る岩鍋池の南端辺りに向かい分水工を求めて彷徨ったが、番犬に吠えられただけで、水路施設を見つけることはできなかった。岩鍋池の谷筋の道は雲辺寺から大興寺への遍路道の道筋でもある。
菩提山の西端となる岩鍋池の谷筋の西側も深い丘陵。航空写真でも開渠のような箇所も見当たらない。丘陵西の川に注目して水路橋など無いものかとチェックすると、川に架かる送水管らしきものと開渠が水路ライン上にある。丘陵を北に大きく迂回し送水管を目指す。
○岩鍋池
岩鍋池は、雲辺寺山の谷筋からの水が流れ込む溜池。築造は室町時代後半の大永 7 年(1527 年)と伝えられる。築造当時の堤防は、現在の位置 より少し上流であったようだが、江戸時代初期の寛永 7 年(1630 年)に西嶋八兵 衛により現在の地に増改築された。
紀伊大池分水工・大池局
丘陵に挟まれた谷筋を「大池」の東脇を進み、谷奥に入ると農道左手に川に架かる送水管が見える。農道脇に車を停め、川筋に進むと人道橋が送水管の上にあり、橋の東に水路施設らしきものが見える。近づくと「紀伊大池分水工」とあった。
また、分水工脇に「大池局」と書かれた建物。先ほど出合った「小原池局」と同じく、分水量、水位情報を親局に送り、用水を集中管理し効率的運用を目指す施設のようだ。この大池局は「大池川分水量、大池水位、大池チェック工の水位情報」を親局に送るようである。と言うことは、この川は「大池川」なのだろうか。
○大池
柞田川の支流である大池川の上流にあるこの溜池は、別名を「紀伊大池」とも称される。築造は、寛文 2 年(1662 年)の頃。この溜池により、周辺の開墾が進み、天明年間(1781~1788 年)には大規模な池の嵩上げ工事が行われた。 明治時代には堤防の決壊で田畑に大きな被害を受け、その後も何回も改修工事を繰り返しながら現在に至る、とのこと。
送水管が川を渡る>紀伊大池チェック工
人道橋を渡り、南北に通る農道に西から丘陵に向けて10m強が開渠となっている。開水路を進むと紀伊大池チェック工があった。ここで測定された水位情報が「大池局」から親局に送られるのだろう。水路は、チェック工の先で丘陵に潜るが、防塵柵があるだけで、隧道に名前は無かった。
瀬戸1号隧道出口>(開水路)>瀬戸2号隧道入口
丘陵に潜った水路は「大谷池」の南端に向けて南西に進む。直線で1キロもないだろう。谷筋をひとつ越え丘陵を西に出ると大谷池の南端に開水路が見える。 そこを目印に、と思いながらも、他に水路施設などないものかと、水路ラインを注意深く見ていると、丘陵の森の中に水路らしきものが見える。国土地理院の6000分の一の地図で確認すると大谷池の南東端あたりである。
山中なのか谷なのかはっきりしないまま、とりあえず農道を南に進み丘陵越えの道で一度谷筋に下り、そこから西の丘陵を南に迂回し、萩原寺脇から大谷池の南端を進み、開水路を見遣りながら、山中なのか谷筋なのは不明な水路施設近くまで丘陵の坂を上る。
車を停めて水路施設らしき辺りを見るに、南が大きく開けた谷筋になっていた。目的は不明だが大規模な造成工事が行われている。深い山中ではないが、目的地は険しい崖下の谷筋にある。急な崖を注意しながら谷筋に下ると、大谷池の東端が細長く南に延びる谷筋に水路橋といった風情で用水が姿を現していた。 谷筋から水路橋に這い上がり、東の出口は「瀬戸1号隧道」、西の入口に「瀬戸2号隧道」の名前を確認し、再び急な崖を這い上がり車に戻る。
○大谷池
大谷池の起源は古く、文明二年(1470 年)の頃、築かれたと伝わる。その後、江戸時代から大正にかけて5度に及ぶ改修・嵩上げ工事が行われている。
終戦直後の昭和21年(1946)、副堤防が決壊し大きな被害をもたらすも、住民の努力で復旧工事を行うなどの過程を経て、その後県営事業として堤防・洪水吐などを強化し、現在に至る。
萩原1号開水路
瀬戸隧道を繋ぐ水路橋から車に戻り、大谷池の南端を走る開水路脇に車を停めて、先ずは「瀬戸2号隧道」から抜け出た水路箇所に。場所は田圃の中を斜めに通っており、畦道を進み開渠に。丘陵出口には隧道の名前は無く、水路に「萩原1号開水路」と書かれていた。
萩原第1隧道出口>萩原第2開水路
「萩原1号開水路」から一瞬地中に潜り、大谷池の南端を走る開渠部に。隧道出口には「萩原第1隧道」とある。水路には「萩原第2開水路」と書かれていた。開渠は大谷池に沿って丘陵部に向かう。
大谷池分水工>萩原第2隧道入口
「萩原第2開水路」が丘陵に潜る手前に「大谷池分水工」。その先で開水路は丘陵に潜り、そこには「萩原第2隧道」とある。香川用水はこの辺りから西へと進むのだが、地形図を見るにこれから先には丘陵部を潜ることは無く、平地を終点の「姥ヶ懐池」へと進むようだ。
用水ルートをチェックするに、田圃や梨畑といった耕地を進むよう。ここからは車をどこかにデポし、用水ルート上を辿ろうと思う。
幸い、「萩原第3隧道入口」近くには「萩原寺」がある。そのお寺さまの駐車場にデポし、「姥ヶ懐池」へとピストンすることに。
○萩原寺
真言宗大覚寺派別格本山。堂々とした山門(仁王門)が迎える。室町期の管領、細川勝元の奉納と伝わる。境内には本堂、客殿など堂宇が建つ。菊の御紋章をつけた茅葺の客殿が印象的。
本尊は地蔵菩薩。平安初期の大同2年(807)、弘法大師が千手観音と地蔵菩薩を彫り、札所六十六番の雲辺寺には千手観音、当寺には地蔵菩薩を安置したと伝わる。
往昔は大寺であり、明応2年(1492年)の記録によれば、讃岐、伊予、阿波に280余寺の末寺を従える大寺であった、とのことである。 このお寺さまは「萩寺」として有名で、数百株の萩は県の自然記念物となっている。
萩原第3開水路
お寺さまを拝観し、大谷池の西側の道を「萩原第2開水路」方面に戻り、途中で西に折れる道に乗り換え、大きな駐車場といったスペースの南西端から上を道路が通る陸橋下を潜り、丘陵から姿を現す用水出口に向かう。
民家脇を成り行きで進むと、開水路に出合った。水路出口には隧道名は書かれておらず、丘陵と平地の堺を緩やかなカーブで進む水路には「萩原第3開水路」と書かれていた。開水路はほどなく暗渠となる。
日の出橋水路管
道なりに進むと送水管が川を跨ぐ。水路管横に架かる橋は「日の出橋」。「日の出橋水管橋」とも呼ばれるようだ。
それはともあれ、橋の上流に見える岩壁の間から流れ下りる水流の眺めが印象的。自然のままなのか、人工的に削られたものか不明だが、斜めに削られた天然の岩場の間を水が流れ落ちてくる。その岩場の上には水門らしきものが見え、水はそこから流れ出ているようである。
○井関池の「洪水吐け
これって一体なに?チェックすると「井関池」の「洪水吐け」のようである。池の起伏堰を越えた洪水吐水が水路に導かれ、その水が少ない場合は直進し水門先のトンネルに進み、吐水が多い場合は水門から岩場へと落とすようである。丁度時期が良かったのか、水門から岩盤を斜めに大量の水が流れ落ちていた。 直進しトンネルに進んだ水がどこに進むのか不明だが、どこかで丘陵を下り灌漑用水に使われるのではあろう。
なお、地図では井関池の「洪水吐け」から下流は柞田川、池の上流は「落合前田川」となっていた。
○ 井関池
現在は豊かな耕地が広がる観音寺市大野原町は、この池が築かれる前は不毛の地であった、と言う。寛永15年(1638)、讃岐一国を領していた生駒家の郡奉行。西嶋八兵衛が築造を開始するも、藩のお家騒動で藩の取り潰し。その影響で一時頓挫するも、その後、近江の豪商である平田与一左衛門が私財による銭持ち普請により正保元年(1644)に完成した。工事は難航を極めたとのことである。その後決壊を繰り返すも、改修を続け10年後には現在の井関池の原型が形造られた、と。
井関池揚水機場
橋を渡ると「井関揚水機場」があった。とは言いながら、どこから揚水するのだろう。普通に考えれば「柞田川」だろうとは思うのだが、高い場所にある「井関池」から落とした「柞田川」の水を揚水しなくても、「井関池」から直接落とせばいいかと思うのだが、それができない事情があるのだろうか。よくわからない。それとも、井関池の水を揚水しているのだろうか?
和田支線分水工
「井関池揚水機場」から暗渠となった道を進むと「和田支線分水工」がある。西部幹線水路の終点である「姥ヶ懐池」に向かう香川用水は、「和田支線」を進むとある。目には見えないがここで幹線水路が分岐するということだろう。
井関チェック工・井関分水工
地図上の用水路のラインは「和田分水工」の先に続いているので、道なりに進むと「井関チェック工」があった。また、その先には「井関分水工」がある。チェック工があるのなら周辺に用水の水位、分水量情報を親局に送る子局があるのだろうとはおもうのだが、見つけることはできなかった。
メモの段階であれこれチェックすると「井関池局」があるという。そこでは、和田支線流量,井関池,大谷池分水量,井関チェック水位,井関池,大谷池水位情報などを親局に送るとのこと。場所の特定はできなかった。
井関放水工
井関分水工のすぐ先の「井関放水工」があり、そこから進路を北西に大方向転換し開渠となって進む。先ほど「和田支線分水工」に出合ったが、用水路ラインからみれば、この地で香川用水は開渠とは別水路となっている。「井関分水工」辺りから地下送水管を一直線で北西に向かっているのだろうか。
県道8号に
香川西部幹線水路から分かれ、開渠となって進む灌漑用水路に沿って成り行きで進む。民家の間を進む水路を見遣りながら進むと県道8号に当たる。
県道8号から見返す大山神社と民家の間を流れる水路はなかなか美しい。 灌漑用水路は下流へと進むが、地下を進む用水幹線水路は、灌漑用水が暗渠となる地、県道8号から北西・北東の二手に道が分かれる辺りで西に折れる。
袂池からの水路に用水送水管が現れる
西に折れた水路ラインは民家の集まる道路脇を離れると田圃の中を突っ切る。特に水路施設らしきものも見当たらないが、極力水路ラインから離れないように田圃の畦道を進む。
田圃を貫いて来た水路ラインは、ほどなく千歳池の北西端辺りで二車線の道に当たり、その道に沿って進むと溜池から下る水路に送水鉄管が現れる。香川用水の送水管ではあろうか?
○千歳池
古くは千年池と称された。築造は延宝 3 年(1675 年)。井関池の補助池としてつくられた。その後、付近の池をまとめ、現在では井関池に次ぐ大きな溜池となっている。昭和 16 年(1941 年)に千歳池に併合された青葉池は寛永 6 年(1629 年)に西嶋八兵衛により築造され たもの。井関池より古い溜池であった、とか。
袂池分水工
水路に架かる送水鉄管が香川用水の鉄管かどうかはっきりしなかったのだが、その送水鉄管のすぐ先に袂池分水工があった。先ほどの送水鉄管は香川用水の送水鉄管が袂池から下る水路を越えるため、一瞬姿を現したものであった。
○袂池
袂池も西嶋八兵衛の手になるもの。貞享元年(1684)の築造。弘法大師がつくったと伝わる満濃池など香川県には14,000ほどの溜池があるとのことだが、その大部分が江戸時代に築造されたものと言う。この袂池もそのひとつである。
板橋分水工
袂池の北を西に向かって進む道路が、ゆるやかに南西カーブする辺りで水路ラインは二車線の車道から離れ、再び田圃の中を進む。地中を進み姿を現すことはない。
田圃を進んだ水路が農道にあたるところに「板橋分水工」があった。香川用水のオンコースを進んでいるようである。分水工の北には板橋池がある。
因みに、新設香川用水の流路もあるようで、そのルートは「井関放水工」から進む開渠の途中、二車線の車道が県道8号にT字に合わさる辺りから車道に沿って袂池の東にある千歳池の北をカーブし、旧水路が車道から分かれる先に進み、「板橋分水工」近くで北に折れ、「板橋分水工」の辺りで旧水路に合わさるようである。
道路に香川用水の案内
水路ラインは南西に緩やかにカーブする農道に沿って西に向かう。しばらく進むと川がある。送水管などが姿を現さないかと目を凝らすが、それらしき施設を見つけることができなかった。
川を迂回し、二車線の車道の一筋北の農道を西に進むと、水路ラインがその農道とクロスする箇所に「香川用水」の案内があった。案内といっても、水路管埋設の注意案内。「香川用水幹線水路が道路下に埋設されているため、工事の際には注意すること」、とあった。少なくとも香川用水水路のオンコースであることは確認できた。
苗代池分水工
用水路ラインは「野々池」の南を西に進む農道の少し南を西に向かい、「野々池」の西にある「鴨池」の築堤をグルリと回り込み、「鴨池」の西側にある「苗代池」の北東端に進む。その地点に「苗代池分水工」があった。
上で、新設香川用水の流路をメモしたが、「板橋分水工」からは「旧」水路と同じ水路ラインを進んだ新設香川用水は、道路に香川用水埋設注意の案内のあったあたりから南に折れ、二車線の道路を進み、「鴨池」と「苗代池」の間を抜けた道が農道とクロスする辺りで「旧」水路と同じラインとなる。
川を送水鉄管が渡る
水路は分水工から一直線に進み「吉田川」を渡る。そこには送水管が姿を現していた。川を渡った送水管は畑を抜け、丘陵脇に進む。
丘陵脇、川に合わさる水路の丘陵側に案内がある。香川用水の案内かと思い、畑の畔道から水路を越えて案内看板の所に向かうと。そこには院内貝塚の案内があった。
○院内貝塚
案内;豊浜町指定史跡 院内貝塚(国祐寺所有) この付近から貝殻や縄文土器が発掘された。当時は、姥ヶ懐池の谷から清流が流れて院内付近の海に注ぎ、近くの山には鹿や猪が生息したと思われる。このことからこのあたり一帯は、約数千年に渡って縄文人の生活の場であったものと推定される(豊浜町教育委員会)。
姥ヶ池からの送水管が下る
水路手前には送水管が下る。2本の送水管が見える。どちらか一本が築堤上の姥ヶ懐池に上る香川用水の送水管で、もう一本は「姥ヶ懐池」から耕地水路に送水する水管のようにも思える。
送水管に沿って這い上がれそうもないので、農道をグルッと廻り「姥ヶ懐池」の堤防に。
姥ヶ懐池
けっこう長かったがやっと香川用水西部幹線水路の最終地点である「姥ヶ懐池」に着いた。「姥ヶ懐池」は安土桃山時代の天正年間には既に利用されていた溜池と言う。広い讃岐平野が愛媛と接する辺り、海にせり出す大谷山から東に延びる台山山系の谷を塞いで造られた、とか。昭和になって改修工事が行われ現在に至る。
また、印象的な名前の由来は、その台山にあった獅子ヶ鼻城が、土佐の長曽我部元親の四国制覇の折に落城。幼き姫を懐に抱き入水した伝説に拠る。
堤防を緑の深い丘陵部へと進むと、堤防上に「姥ヶ懐池分水工」、「姥ヶ懐局」、そこから少し高いところに「姥ヶ懐池吐水槽」と書かれた水路施設があった。
○姥ヶ懐池分水工
農業用水路である香川用水西部幹線水路は、数多く点在する溜池を用水の調整池として活用している。「姥ヶ懐池」まで水路を辿る過程で、溜池脇に分水工があったのはそのためである。
溜池が灌漑用水源の調整池として重要な役割を果たすエビデンスのひとつとして、農業用水専用水路の流量は田植えなどが終わった後に最大流量が流れるとのこと。田植えの時期は灌漑調整池としての溜池からの水が主であり、揚水は、その時期が終わった後に溜池に水を送り補充する、といったことである。
○姥ヶ懐局
「姥ヶ懐池分水工」は説明するまでもないが、「姥ヶ懐局」は姥ヶ懐池、野々池分水流量、姥ヶ懐池の水位情報を親局に送る施設のようだ。
○姥ヶ懐池吐水槽
「姥ヶ懐池吐水槽」って、よくわからないが、香川用水西部幹線水路の最終地点に「姥ヶ懐池吐水槽」とあるので、香川用水西部幹線水路の水が「姥ヶ懐池」に流し込む施設かとも思う。
水路施設を見終え、道に戻るべく築堤を南端に戻ると、先ほど上った道の先にちょっとした広場があり、そこに香川用水の案内があった。
「香川用水のあらまし 香川用水は、高知県に建設された「早明浦ダム」によって、たくわえられた吉野川の水を、徳島県の「池田ダム」を通じて、香川県に導水するものです。
香川用水によって、毎年、香川県に2億4,700万トンの水が、導水される計画になっています。この水は、農業用水・上水道用水・工業用水として、香川県産業の発展、県民生活の向上のために大変役立っている大切なものです」とある。
また、吹き出しには、「姥ヶ懐池」付近の用水の概要が「香川県に導水された香川用水は、東西分水工(三豊市財田町)から西部幹線、和田支線(延長12.6km)を経由して、この姥ヶ懐池に入ります。
姥ヶ懐池に貯められた香川用水は、水田だけでなく、箕浦地区や周辺の果樹園にも使用されています。さらに、姥ヶ懐池は香川用水西部地域の末端にあるため、香川用水の調整池としての役目を果たすなど、香川用水にとって大変重要なため池です」と説明されていた。
○梨百年記念碑
以上の説明はそれほど目新しいことはないのだが、その説明の下に姥ヶ懐池から西に続く水路図が目にとまった。そこには、姥ヶ懐池>箕浦分水>国営箕浦畑かん>長尾池分水>県営箕浦畑かん>箕池、と水路が続く。 先ほどの送水管2本のうちのどちらかが、この図にある水路送水管だったのだろうか。それはともあれ、土地改良区が整備したこの支線水路により、豊浜町和田の梨やレタス、ブロッコリー栽培などの灌漑用水として活用されている。そういえば、吉田川を渡る水路管の東、梨畑が広がる一隅に「梨百年記念碑」があった。この地の豊南梨は明治42年(1909)栽培がはじまった、とか。
これで一応香川用水西部水路幹線を終点まで辿り終えた。途中隧道の番号が連番になっていなかったり、隧道入口はあるが出口が見つからなかったり、その逆があったりと、しっくりとしないことも多い。何度かメモしたが、一度疑問点をまとめて、用水担当者にお聞きしに行こうかとも思う。
それはともあれ、歩いてみてわかったのだが「香川用水って、用水路単独ではなく、14,000もあると言う「溜池」や河川と連動し、香川を潤している」との説明を実感。
溜池は単独に「溜池」としてある以上に、香川用水から分水され、調整池として機能している。上でもメモしたが、香川用水の流量の最大は、田植えの終わった7月にピークになる。6月の田植えの水は溜池からの水で灌漑し、田植えの終わった頃に、溜池に水を送るため用水分量が多くなる、と言う。
また、香川用水は県下の水系を貫き、県全体で179箇所あると言う香川用水の分水工で、必要に応じ、水系間で水の融通をしているようである。
香川は瀬戸内気候故に年間降水量が少ない上に、大河がない。川はあるが、地形が急傾斜のため、川に保水力はなく、昔から「讃岐には河原はあっても河はない」と言われるように表流水のない川である。ために、河川利水が困難であり、溜池が発達したわけであろうが、その溜池を調整池として組み込み、讃岐の地を潤しているのが香川用水であった。
散歩をはじめる時は、香川用水と溜池が連携していることなど何も知らなかったのだが、散歩を終えて香川用水記念館に溜池の展示が多いことが、なんとなく理解できた。次の帰省時は香川用水東部幹線水路の高瀬支線を辿ろうかと思う。
そこから、日も置かず2回目の香川用水西部幹線水路散歩に出かける。最初の目的地は札所六十七番・大興寺。香川用水と関係はないのだが、今回のスタート地点へのアプローチ始点として、車のナビに入れるのが容易ということと、ついでのことでもあるので札所も訪れようと思ったわけである。
本日のルート(香川用水西部幹線のルート;赤の軌跡);
○第1回(緑の軌跡)
香川用水記念公園>東西分水工>(地下隧道でエリエールゴルフ場を抜ける)>入樋開水路・分水工>(隧道に)>菖蒲2号隧道出口>(開渠)>菖蒲3号隧道入口>(隧道)>地下水路で河内地区の平地に>河内川分水工・放水工>地下水路で山裾の丘陵を進む>河内2号隧道出口>(開渠)>河内3号隧道入口>地下隧道で谷戸に出る>(暗渠)>竹谷分水工>丘陵裾を隧道で進む>山池隧道出口>(暗渠)>サイフォン>一の谷開水路>一の谷開水路チェック工>(暗渠)>寺上第一開水路(川を跨ぐ)>小松隧道入口>小松隧道出口>寺上第2開水路>酔覚1号隧道入口>酔覚1号隧道出口>酔覚開水路>酔覚2号隧道入口>
○第二回(青の軌跡)
小原分水工>開渠に>小原池局>小原開水路>原隧道入口>城谷開水路で開渠に>柞田川右岸チェック工>城谷隧道入口>ふたつの丘陵・ひとつの谷筋を越え長い隧道を南西に下る>水路橋で姿を現す>紀伊大池分水工>紀伊大池チェック工>紀伊大池開水路>(丘陵地下を南西に進む)>瀬戸1号隧道出口>(水路橋)>瀬戸2号隧道入口>(隧道に)>萩原1号開水路>(隧道)>萩原第1隧道出口>萩原第2開水路>大谷池分水工>萩原第3隧道入口>(隧道)>萩原第3開水路>暗渠に>日の出橋水路管>井関池揚水機場>和田支線分水工>井関チェック工>井関放水工>(和田支線分水工から地下送水管)>袂池分水工手前の水路に用水送水管が現れる>袂池分水工>板橋分水工>(地下送水管)>苗代池分水工>川を送水鉄管が渡る>姥ヶ池からの送水管が下る>姥ヶ懐池(姥ヶ池局・姥ヶ池分水工・姥ヶ池吐水槽)
六十七番札所・大興寺
ナビのガイドに従い、四国遍路六十七番札所・大興寺に。六十七番札所である雲辺寺からおおよそ12キロのところにある。堂々とした仁王門の金剛力士像は運慶作とも伝わる。
縁起によれば、天平14年(742)、熊野山所権現鎮護のため、東大寺末寺として、現在地より少し北に建立され、その後、延暦11年(792)に弘法大師が巡錫。弘仁13年(823)には、嵯峨天皇の勅により再興されたと伝わる。(弘仁13年(823)に、嵯峨天皇の勅命により、弘法大師が熊野山所権現鎮護のために開創建したとの説明もある)。
後にこの寺は真言、天台の二宗によって管理され、真言が二十四坊、天台は十二坊あり、本堂の左右に真言、天台の大師堂があったとのこと。現在は真言宗のお寺さまであるが、境内に天台大師堂や、天台様式の不動明王が本尊脇侍として残るのは、往昔のこの真言・天台二宗が兼学した名残とか。
堂々とした伽藍を誇った大興寺も土佐の長曽我部元親の四国制覇の折り、本堂を残し、堂宇は悉く灰燼に帰した。現存の建物は慶長年間に再建されたものである。
小原分水工>(小原開水路)
本日の最初のチェックポイントに向かう。先回最後のポイントである「酔覚2号隧道入口」から丘陵の囲まれた谷戸状の地形を潜り、丘陵を越えた先の池の西に見える開渠部である。
隧道出口には名前はない。その手前に小原分水工があり、開渠部は「小原開水路」と書かれていた。開渠部はおおよそ30m強といったところだろうか。
小原池局>原隧道
水路を挟んで分水工の逆(北)に「小原池局」といった名称の建物が建つ。先回の散歩の「一の谷チェック工」のところでメモしたが、香川用水の農業用水区間は、その分水量やチェック工で測定した水位情報を子局から親局に電波で送り、集中管理しているとのこと。この「小原池局」と呼ばれる建物が「子局」に相当するものだろう。
あれこれチェックすると、この小原池局では、一の谷川、小原池(小原分水工の東にある池だろうか)、この地から更に西にある柞田川、岩鍋池の各分水流量、また一の谷川、柞田川チェック工の水位、そして岩鍋池幹線流量,小原池,岩鍋池水位情報を親局のある香川用水記念公園の管理棟に送っているとのこと。
ただ、親局は情報を集中管理はするものの、操作は自動制御ではなく、親局からの指令で人がパトロールして管理しているようである。
原隧道出口>城谷開水路
原隧道から丘陵に潜った水路は小さな谷戸といった風情の里に出る。原隧道入口から南に農道を進み、ほどなく丘陵越えの道に入ると、里で開水路とクロスした。
出口をチェックに向かうと「原隧道」と書かれていた。原隧道の出口である。開渠部は「城谷開水路」とあった。
城谷開水路>柞田川右岸チェック工・柞田川右岸分水工
水路を進むと「柞田川右岸チェック工」、があった。「いすた」と読むのだろか。 柞田川は、上でメモしたように、このチェック工からはるか西を流れている川である。
城谷隧道
城谷開水路は「城谷隧道」で地中に潜る。水路は南西に3キロ弱進む。途中、岩鍋池のある栗井川が開析した谷筋を通っているため、水路が通る岩鍋池の南端辺りに向かい分水工を求めて彷徨ったが、番犬に吠えられただけで、水路施設を見つけることはできなかった。岩鍋池の谷筋の道は雲辺寺から大興寺への遍路道の道筋でもある。
菩提山の西端となる岩鍋池の谷筋の西側も深い丘陵。航空写真でも開渠のような箇所も見当たらない。丘陵西の川に注目して水路橋など無いものかとチェックすると、川に架かる送水管らしきものと開渠が水路ライン上にある。丘陵を北に大きく迂回し送水管を目指す。
○岩鍋池
岩鍋池は、雲辺寺山の谷筋からの水が流れ込む溜池。築造は室町時代後半の大永 7 年(1527 年)と伝えられる。築造当時の堤防は、現在の位置 より少し上流であったようだが、江戸時代初期の寛永 7 年(1630 年)に西嶋八兵 衛により現在の地に増改築された。
紀伊大池分水工・大池局
丘陵に挟まれた谷筋を「大池」の東脇を進み、谷奥に入ると農道左手に川に架かる送水管が見える。農道脇に車を停め、川筋に進むと人道橋が送水管の上にあり、橋の東に水路施設らしきものが見える。近づくと「紀伊大池分水工」とあった。
また、分水工脇に「大池局」と書かれた建物。先ほど出合った「小原池局」と同じく、分水量、水位情報を親局に送り、用水を集中管理し効率的運用を目指す施設のようだ。この大池局は「大池川分水量、大池水位、大池チェック工の水位情報」を親局に送るようである。と言うことは、この川は「大池川」なのだろうか。
○大池
柞田川の支流である大池川の上流にあるこの溜池は、別名を「紀伊大池」とも称される。築造は、寛文 2 年(1662 年)の頃。この溜池により、周辺の開墾が進み、天明年間(1781~1788 年)には大規模な池の嵩上げ工事が行われた。 明治時代には堤防の決壊で田畑に大きな被害を受け、その後も何回も改修工事を繰り返しながら現在に至る、とのこと。
送水管が川を渡る>紀伊大池チェック工
人道橋を渡り、南北に通る農道に西から丘陵に向けて10m強が開渠となっている。開水路を進むと紀伊大池チェック工があった。ここで測定された水位情報が「大池局」から親局に送られるのだろう。水路は、チェック工の先で丘陵に潜るが、防塵柵があるだけで、隧道に名前は無かった。
瀬戸1号隧道出口>(開水路)>瀬戸2号隧道入口
丘陵に潜った水路は「大谷池」の南端に向けて南西に進む。直線で1キロもないだろう。谷筋をひとつ越え丘陵を西に出ると大谷池の南端に開水路が見える。 そこを目印に、と思いながらも、他に水路施設などないものかと、水路ラインを注意深く見ていると、丘陵の森の中に水路らしきものが見える。国土地理院の6000分の一の地図で確認すると大谷池の南東端あたりである。
山中なのか谷なのかはっきりしないまま、とりあえず農道を南に進み丘陵越えの道で一度谷筋に下り、そこから西の丘陵を南に迂回し、萩原寺脇から大谷池の南端を進み、開水路を見遣りながら、山中なのか谷筋なのは不明な水路施設近くまで丘陵の坂を上る。
車を停めて水路施設らしき辺りを見るに、南が大きく開けた谷筋になっていた。目的は不明だが大規模な造成工事が行われている。深い山中ではないが、目的地は険しい崖下の谷筋にある。急な崖を注意しながら谷筋に下ると、大谷池の東端が細長く南に延びる谷筋に水路橋といった風情で用水が姿を現していた。 谷筋から水路橋に這い上がり、東の出口は「瀬戸1号隧道」、西の入口に「瀬戸2号隧道」の名前を確認し、再び急な崖を這い上がり車に戻る。
○大谷池
大谷池の起源は古く、文明二年(1470 年)の頃、築かれたと伝わる。その後、江戸時代から大正にかけて5度に及ぶ改修・嵩上げ工事が行われている。
終戦直後の昭和21年(1946)、副堤防が決壊し大きな被害をもたらすも、住民の努力で復旧工事を行うなどの過程を経て、その後県営事業として堤防・洪水吐などを強化し、現在に至る。
萩原1号開水路
瀬戸隧道を繋ぐ水路橋から車に戻り、大谷池の南端を走る開水路脇に車を停めて、先ずは「瀬戸2号隧道」から抜け出た水路箇所に。場所は田圃の中を斜めに通っており、畦道を進み開渠に。丘陵出口には隧道の名前は無く、水路に「萩原1号開水路」と書かれていた。
萩原第1隧道出口>萩原第2開水路
「萩原1号開水路」から一瞬地中に潜り、大谷池の南端を走る開渠部に。隧道出口には「萩原第1隧道」とある。水路には「萩原第2開水路」と書かれていた。開渠は大谷池に沿って丘陵部に向かう。
大谷池分水工>萩原第2隧道入口
「萩原第2開水路」が丘陵に潜る手前に「大谷池分水工」。その先で開水路は丘陵に潜り、そこには「萩原第2隧道」とある。香川用水はこの辺りから西へと進むのだが、地形図を見るにこれから先には丘陵部を潜ることは無く、平地を終点の「姥ヶ懐池」へと進むようだ。
用水ルートをチェックするに、田圃や梨畑といった耕地を進むよう。ここからは車をどこかにデポし、用水ルート上を辿ろうと思う。
幸い、「萩原第3隧道入口」近くには「萩原寺」がある。そのお寺さまの駐車場にデポし、「姥ヶ懐池」へとピストンすることに。
○萩原寺
真言宗大覚寺派別格本山。堂々とした山門(仁王門)が迎える。室町期の管領、細川勝元の奉納と伝わる。境内には本堂、客殿など堂宇が建つ。菊の御紋章をつけた茅葺の客殿が印象的。
本尊は地蔵菩薩。平安初期の大同2年(807)、弘法大師が千手観音と地蔵菩薩を彫り、札所六十六番の雲辺寺には千手観音、当寺には地蔵菩薩を安置したと伝わる。
往昔は大寺であり、明応2年(1492年)の記録によれば、讃岐、伊予、阿波に280余寺の末寺を従える大寺であった、とのことである。 このお寺さまは「萩寺」として有名で、数百株の萩は県の自然記念物となっている。
萩原第3開水路
お寺さまを拝観し、大谷池の西側の道を「萩原第2開水路」方面に戻り、途中で西に折れる道に乗り換え、大きな駐車場といったスペースの南西端から上を道路が通る陸橋下を潜り、丘陵から姿を現す用水出口に向かう。
民家脇を成り行きで進むと、開水路に出合った。水路出口には隧道名は書かれておらず、丘陵と平地の堺を緩やかなカーブで進む水路には「萩原第3開水路」と書かれていた。開水路はほどなく暗渠となる。
日の出橋水路管
道なりに進むと送水管が川を跨ぐ。水路管横に架かる橋は「日の出橋」。「日の出橋水管橋」とも呼ばれるようだ。
それはともあれ、橋の上流に見える岩壁の間から流れ下りる水流の眺めが印象的。自然のままなのか、人工的に削られたものか不明だが、斜めに削られた天然の岩場の間を水が流れ落ちてくる。その岩場の上には水門らしきものが見え、水はそこから流れ出ているようである。
○井関池の「洪水吐け
これって一体なに?チェックすると「井関池」の「洪水吐け」のようである。池の起伏堰を越えた洪水吐水が水路に導かれ、その水が少ない場合は直進し水門先のトンネルに進み、吐水が多い場合は水門から岩場へと落とすようである。丁度時期が良かったのか、水門から岩盤を斜めに大量の水が流れ落ちていた。 直進しトンネルに進んだ水がどこに進むのか不明だが、どこかで丘陵を下り灌漑用水に使われるのではあろう。
なお、地図では井関池の「洪水吐け」から下流は柞田川、池の上流は「落合前田川」となっていた。
○ 井関池
現在は豊かな耕地が広がる観音寺市大野原町は、この池が築かれる前は不毛の地であった、と言う。寛永15年(1638)、讃岐一国を領していた生駒家の郡奉行。西嶋八兵衛が築造を開始するも、藩のお家騒動で藩の取り潰し。その影響で一時頓挫するも、その後、近江の豪商である平田与一左衛門が私財による銭持ち普請により正保元年(1644)に完成した。工事は難航を極めたとのことである。その後決壊を繰り返すも、改修を続け10年後には現在の井関池の原型が形造られた、と。
井関池揚水機場
橋を渡ると「井関揚水機場」があった。とは言いながら、どこから揚水するのだろう。普通に考えれば「柞田川」だろうとは思うのだが、高い場所にある「井関池」から落とした「柞田川」の水を揚水しなくても、「井関池」から直接落とせばいいかと思うのだが、それができない事情があるのだろうか。よくわからない。それとも、井関池の水を揚水しているのだろうか?
和田支線分水工
「井関池揚水機場」から暗渠となった道を進むと「和田支線分水工」がある。西部幹線水路の終点である「姥ヶ懐池」に向かう香川用水は、「和田支線」を進むとある。目には見えないがここで幹線水路が分岐するということだろう。
井関チェック工・井関分水工
地図上の用水路のラインは「和田分水工」の先に続いているので、道なりに進むと「井関チェック工」があった。また、その先には「井関分水工」がある。チェック工があるのなら周辺に用水の水位、分水量情報を親局に送る子局があるのだろうとはおもうのだが、見つけることはできなかった。
メモの段階であれこれチェックすると「井関池局」があるという。そこでは、和田支線流量,井関池,大谷池分水量,井関チェック水位,井関池,大谷池水位情報などを親局に送るとのこと。場所の特定はできなかった。
井関放水工
井関分水工のすぐ先の「井関放水工」があり、そこから進路を北西に大方向転換し開渠となって進む。先ほど「和田支線分水工」に出合ったが、用水路ラインからみれば、この地で香川用水は開渠とは別水路となっている。「井関分水工」辺りから地下送水管を一直線で北西に向かっているのだろうか。
県道8号に
香川西部幹線水路から分かれ、開渠となって進む灌漑用水路に沿って成り行きで進む。民家の間を進む水路を見遣りながら進むと県道8号に当たる。
県道8号から見返す大山神社と民家の間を流れる水路はなかなか美しい。 灌漑用水路は下流へと進むが、地下を進む用水幹線水路は、灌漑用水が暗渠となる地、県道8号から北西・北東の二手に道が分かれる辺りで西に折れる。
袂池からの水路に用水送水管が現れる
西に折れた水路ラインは民家の集まる道路脇を離れると田圃の中を突っ切る。特に水路施設らしきものも見当たらないが、極力水路ラインから離れないように田圃の畦道を進む。
田圃を貫いて来た水路ラインは、ほどなく千歳池の北西端辺りで二車線の道に当たり、その道に沿って進むと溜池から下る水路に送水鉄管が現れる。香川用水の送水管ではあろうか?
○千歳池
古くは千年池と称された。築造は延宝 3 年(1675 年)。井関池の補助池としてつくられた。その後、付近の池をまとめ、現在では井関池に次ぐ大きな溜池となっている。昭和 16 年(1941 年)に千歳池に併合された青葉池は寛永 6 年(1629 年)に西嶋八兵衛により築造され たもの。井関池より古い溜池であった、とか。
袂池分水工
水路に架かる送水鉄管が香川用水の鉄管かどうかはっきりしなかったのだが、その送水鉄管のすぐ先に袂池分水工があった。先ほどの送水鉄管は香川用水の送水鉄管が袂池から下る水路を越えるため、一瞬姿を現したものであった。
○袂池
袂池も西嶋八兵衛の手になるもの。貞享元年(1684)の築造。弘法大師がつくったと伝わる満濃池など香川県には14,000ほどの溜池があるとのことだが、その大部分が江戸時代に築造されたものと言う。この袂池もそのひとつである。
板橋分水工
袂池の北を西に向かって進む道路が、ゆるやかに南西カーブする辺りで水路ラインは二車線の車道から離れ、再び田圃の中を進む。地中を進み姿を現すことはない。
田圃を進んだ水路が農道にあたるところに「板橋分水工」があった。香川用水のオンコースを進んでいるようである。分水工の北には板橋池がある。
因みに、新設香川用水の流路もあるようで、そのルートは「井関放水工」から進む開渠の途中、二車線の車道が県道8号にT字に合わさる辺りから車道に沿って袂池の東にある千歳池の北をカーブし、旧水路が車道から分かれる先に進み、「板橋分水工」近くで北に折れ、「板橋分水工」の辺りで旧水路に合わさるようである。
道路に香川用水の案内
水路ラインは南西に緩やかにカーブする農道に沿って西に向かう。しばらく進むと川がある。送水管などが姿を現さないかと目を凝らすが、それらしき施設を見つけることができなかった。
川を迂回し、二車線の車道の一筋北の農道を西に進むと、水路ラインがその農道とクロスする箇所に「香川用水」の案内があった。案内といっても、水路管埋設の注意案内。「香川用水幹線水路が道路下に埋設されているため、工事の際には注意すること」、とあった。少なくとも香川用水水路のオンコースであることは確認できた。
苗代池分水工
用水路ラインは「野々池」の南を西に進む農道の少し南を西に向かい、「野々池」の西にある「鴨池」の築堤をグルリと回り込み、「鴨池」の西側にある「苗代池」の北東端に進む。その地点に「苗代池分水工」があった。
上で、新設香川用水の流路をメモしたが、「板橋分水工」からは「旧」水路と同じ水路ラインを進んだ新設香川用水は、道路に香川用水埋設注意の案内のあったあたりから南に折れ、二車線の道路を進み、「鴨池」と「苗代池」の間を抜けた道が農道とクロスする辺りで「旧」水路と同じラインとなる。
川を送水鉄管が渡る
水路は分水工から一直線に進み「吉田川」を渡る。そこには送水管が姿を現していた。川を渡った送水管は畑を抜け、丘陵脇に進む。
丘陵脇、川に合わさる水路の丘陵側に案内がある。香川用水の案内かと思い、畑の畔道から水路を越えて案内看板の所に向かうと。そこには院内貝塚の案内があった。
○院内貝塚
案内;豊浜町指定史跡 院内貝塚(国祐寺所有) この付近から貝殻や縄文土器が発掘された。当時は、姥ヶ懐池の谷から清流が流れて院内付近の海に注ぎ、近くの山には鹿や猪が生息したと思われる。このことからこのあたり一帯は、約数千年に渡って縄文人の生活の場であったものと推定される(豊浜町教育委員会)。
姥ヶ池からの送水管が下る
水路手前には送水管が下る。2本の送水管が見える。どちらか一本が築堤上の姥ヶ懐池に上る香川用水の送水管で、もう一本は「姥ヶ懐池」から耕地水路に送水する水管のようにも思える。
送水管に沿って這い上がれそうもないので、農道をグルッと廻り「姥ヶ懐池」の堤防に。
姥ヶ懐池
けっこう長かったがやっと香川用水西部幹線水路の最終地点である「姥ヶ懐池」に着いた。「姥ヶ懐池」は安土桃山時代の天正年間には既に利用されていた溜池と言う。広い讃岐平野が愛媛と接する辺り、海にせり出す大谷山から東に延びる台山山系の谷を塞いで造られた、とか。昭和になって改修工事が行われ現在に至る。
また、印象的な名前の由来は、その台山にあった獅子ヶ鼻城が、土佐の長曽我部元親の四国制覇の折に落城。幼き姫を懐に抱き入水した伝説に拠る。
堤防を緑の深い丘陵部へと進むと、堤防上に「姥ヶ懐池分水工」、「姥ヶ懐局」、そこから少し高いところに「姥ヶ懐池吐水槽」と書かれた水路施設があった。
○姥ヶ懐池分水工
農業用水路である香川用水西部幹線水路は、数多く点在する溜池を用水の調整池として活用している。「姥ヶ懐池」まで水路を辿る過程で、溜池脇に分水工があったのはそのためである。
溜池が灌漑用水源の調整池として重要な役割を果たすエビデンスのひとつとして、農業用水専用水路の流量は田植えなどが終わった後に最大流量が流れるとのこと。田植えの時期は灌漑調整池としての溜池からの水が主であり、揚水は、その時期が終わった後に溜池に水を送り補充する、といったことである。
○姥ヶ懐局
「姥ヶ懐池分水工」は説明するまでもないが、「姥ヶ懐局」は姥ヶ懐池、野々池分水流量、姥ヶ懐池の水位情報を親局に送る施設のようだ。
○姥ヶ懐池吐水槽
「姥ヶ懐池吐水槽」って、よくわからないが、香川用水西部幹線水路の最終地点に「姥ヶ懐池吐水槽」とあるので、香川用水西部幹線水路の水が「姥ヶ懐池」に流し込む施設かとも思う。
水路施設を見終え、道に戻るべく築堤を南端に戻ると、先ほど上った道の先にちょっとした広場があり、そこに香川用水の案内があった。
「香川用水のあらまし 香川用水は、高知県に建設された「早明浦ダム」によって、たくわえられた吉野川の水を、徳島県の「池田ダム」を通じて、香川県に導水するものです。
香川用水によって、毎年、香川県に2億4,700万トンの水が、導水される計画になっています。この水は、農業用水・上水道用水・工業用水として、香川県産業の発展、県民生活の向上のために大変役立っている大切なものです」とある。
また、吹き出しには、「姥ヶ懐池」付近の用水の概要が「香川県に導水された香川用水は、東西分水工(三豊市財田町)から西部幹線、和田支線(延長12.6km)を経由して、この姥ヶ懐池に入ります。
姥ヶ懐池に貯められた香川用水は、水田だけでなく、箕浦地区や周辺の果樹園にも使用されています。さらに、姥ヶ懐池は香川用水西部地域の末端にあるため、香川用水の調整池としての役目を果たすなど、香川用水にとって大変重要なため池です」と説明されていた。
○梨百年記念碑
以上の説明はそれほど目新しいことはないのだが、その説明の下に姥ヶ懐池から西に続く水路図が目にとまった。そこには、姥ヶ懐池>箕浦分水>国営箕浦畑かん>長尾池分水>県営箕浦畑かん>箕池、と水路が続く。 先ほどの送水管2本のうちのどちらかが、この図にある水路送水管だったのだろうか。それはともあれ、土地改良区が整備したこの支線水路により、豊浜町和田の梨やレタス、ブロッコリー栽培などの灌漑用水として活用されている。そういえば、吉田川を渡る水路管の東、梨畑が広がる一隅に「梨百年記念碑」があった。この地の豊南梨は明治42年(1909)栽培がはじまった、とか。
これで一応香川用水西部水路幹線を終点まで辿り終えた。途中隧道の番号が連番になっていなかったり、隧道入口はあるが出口が見つからなかったり、その逆があったりと、しっくりとしないことも多い。何度かメモしたが、一度疑問点をまとめて、用水担当者にお聞きしに行こうかとも思う。
それはともあれ、歩いてみてわかったのだが「香川用水って、用水路単独ではなく、14,000もあると言う「溜池」や河川と連動し、香川を潤している」との説明を実感。
溜池は単独に「溜池」としてある以上に、香川用水から分水され、調整池として機能している。上でもメモしたが、香川用水の流量の最大は、田植えの終わった7月にピークになる。6月の田植えの水は溜池からの水で灌漑し、田植えの終わった頃に、溜池に水を送るため用水分量が多くなる、と言う。
また、香川用水は県下の水系を貫き、県全体で179箇所あると言う香川用水の分水工で、必要に応じ、水系間で水の融通をしているようである。
香川は瀬戸内気候故に年間降水量が少ない上に、大河がない。川はあるが、地形が急傾斜のため、川に保水力はなく、昔から「讃岐には河原はあっても河はない」と言われるように表流水のない川である。ために、河川利水が困難であり、溜池が発達したわけであろうが、その溜池を調整池として組み込み、讃岐の地を潤しているのが香川用水であった。
散歩をはじめる時は、香川用水と溜池が連携していることなど何も知らなかったのだが、散歩を終えて香川用水記念館に溜池の展示が多いことが、なんとなく理解できた。次の帰省時は香川用水東部幹線水路の高瀬支線を辿ろうかと思う。