2015年4月アーカイブ

特に資料もなく、GPS 端末にインストールした国土地理院の6000分の一の地図と、そのトラックデータをフリーソフトの「轍」を介してKMLファイルに変換し、Google Mapのマイマップにインポートした航空写真を頼りにはじめた香川用水散歩。実際にチェックポイントに行ってはじめてわかった隧道名では、順序通りの隧道名となっていないところもあり、「第2」があれば「第1」があってしかるべし、出口があれば入口、入口があれば出口があってしかるべし、とあれこれ彷徨い、結構時間がかかり、全行程の半分も行かず1回目の散歩を終えた。
そこから、日も置かず2回目の香川用水西部幹線水路散歩に出かける。最初の目的地は札所六十七番・大興寺。香川用水と関係はないのだが、今回のスタート地点へのアプローチ始点として、車のナビに入れるのが容易ということと、ついでのことでもあるので札所も訪れようと思ったわけである。



本日のルート(香川用水西部幹線のルート;赤の軌跡);
○第1回(緑の軌跡)
香川用水記念公園>東西分水工>(地下隧道でエリエールゴルフ場を抜ける)>入樋開水路・分水工>(隧道に)>菖蒲2号隧道出口>(開渠)>菖蒲3号隧道入口>(隧道)>地下水路で河内地区の平地に>河内川分水工・放水工>地下水路で山裾の丘陵を進む>河内2号隧道出口>(開渠)>河内3号隧道入口>地下隧道で谷戸に出る>(暗渠)>竹谷分水工>丘陵裾を隧道で進む>山池隧道出口>(暗渠)>サイフォン>一の谷開水路>一の谷開水路チェック工>(暗渠)>寺上第一開水路(川を跨ぐ)>小松隧道入口>小松隧道出口>寺上第2開水路>酔覚1号隧道入口>酔覚1号隧道出口>酔覚開水路>酔覚2号隧道入口>
○第二回(青の軌跡)
小原分水工>開渠に>小原池局>小原開水路>原隧道入口>城谷開水路で開渠に>柞田川右岸チェック工>城谷隧道入口>ふたつの丘陵・ひとつの谷筋を越え長い隧道を南西に下る>水路橋で姿を現す>紀伊大池分水工>紀伊大池チェック工>紀伊大池開水路>(丘陵地下を南西に進む)>瀬戸1号隧道出口>(水路橋)>瀬戸2号隧道入口>(隧道に)>萩原1号開水路>(隧道)>萩原第1隧道出口>萩原第2開水路>大谷池分水工>萩原第3隧道入口>(隧道)>萩原第3開水路>暗渠に>日の出橋水路管>井関池揚水機場>和田支線分水工>井関チェック工>井関放水工>(和田支線分水工から地下送水管)>袂池分水工手前の水路に用水送水管が現れる>袂池分水工>板橋分水工>(地下送水管)>苗代池分水工>川を送水鉄管が渡る>姥ヶ池からの送水管が下る>姥ヶ懐池(姥ヶ池局・姥ヶ池分水工・姥ヶ池吐水槽)

六十七番札所・大興寺
ナビのガイドに従い、四国遍路六十七番札所・大興寺に。六十七番札所である雲辺寺からおおよそ12キロのところにある。堂々とした仁王門の金剛力士像は運慶作とも伝わる。
縁起によれば、天平14年(742)、熊野山所権現鎮護のため、東大寺末寺として、現在地より少し北に建立され、その後、延暦11年(792)に弘法大師が巡錫。弘仁13年(823)には、嵯峨天皇の勅により再興されたと伝わる。(弘仁13年(823)に、嵯峨天皇の勅命により、弘法大師が熊野山所権現鎮護のために開創建したとの説明もある)。
後にこの寺は真言、天台の二宗によって管理され、真言が二十四坊、天台は十二坊あり、本堂の左右に真言、天台の大師堂があったとのこと。現在は真言宗のお寺さまであるが、境内に天台大師堂や、天台様式の不動明王が本尊脇侍として残るのは、往昔のこの真言・天台二宗が兼学した名残とか。
堂々とした伽藍を誇った大興寺も土佐の長曽我部元親の四国制覇の折り、本堂を残し、堂宇は悉く灰燼に帰した。現存の建物は慶長年間に再建されたものである。

小原分水工>(小原開水路)
本日の最初のチェックポイントに向かう。先回最後のポイントである「酔覚2号隧道入口」から丘陵の囲まれた谷戸状の地形を潜り、丘陵を越えた先の池の西に見える開渠部である。
隧道出口には名前はない。その手前に小原分水工があり、開渠部は「小原開水路」と書かれていた。開渠部はおおよそ30m強といったところだろうか。

小原池局>原隧道
水路を挟んで分水工の逆(北)に「小原池局」といった名称の建物が建つ。先回の散歩の「一の谷チェック工」のところでメモしたが、香川用水の農業用水区間は、その分水量やチェック工で測定した水位情報を子局から親局に電波で送り、集中管理しているとのこと。この「小原池局」と呼ばれる建物が「子局」に相当するものだろう。
あれこれチェックすると、この小原池局では、一の谷川、小原池(小原分水工の東にある池だろうか)、この地から更に西にある柞田川、岩鍋池の各分水流量、また一の谷川、柞田川チェック工の水位、そして岩鍋池幹線流量,小原池,岩鍋池水位情報を親局のある香川用水記念公園の管理棟に送っているとのこと。
ただ、親局は情報を集中管理はするものの、操作は自動制御ではなく、親局からの指令で人がパトロールして管理しているようである。

原隧道出口>城谷開水路
原隧道から丘陵に潜った水路は小さな谷戸といった風情の里に出る。原隧道入口から南に農道を進み、ほどなく丘陵越えの道に入ると、里で開水路とクロスした。
出口をチェックに向かうと「原隧道」と書かれていた。原隧道の出口である。開渠部は「城谷開水路」とあった。






城谷開水路>柞田川右岸チェック工・柞田川右岸分水工
水路を進むと「柞田川右岸チェック工」、があった。「いすた」と読むのだろか。 柞田川は、上でメモしたように、このチェック工からはるか西を流れている川である。






城谷隧道
城谷開水路は「城谷隧道」で地中に潜る。水路は南西に3キロ弱進む。途中、岩鍋池のある栗井川が開析した谷筋を通っているため、水路が通る岩鍋池の南端辺りに向かい分水工を求めて彷徨ったが、番犬に吠えられただけで、水路施設を見つけることはできなかった。岩鍋池の谷筋の道は雲辺寺から大興寺への遍路道の道筋でもある。
菩提山の西端となる岩鍋池の谷筋の西側も深い丘陵。航空写真でも開渠のような箇所も見当たらない。丘陵西の川に注目して水路橋など無いものかとチェックすると、川に架かる送水管らしきものと開渠が水路ライン上にある。丘陵を北に大きく迂回し送水管を目指す。
○岩鍋池

岩鍋池は、雲辺寺山の谷筋からの水が流れ込む溜池。築造は室町時代後半の大永 7 年(1527 年)と伝えられる。築造当時の堤防は、現在の位置 より少し上流であったようだが、江戸時代初期の寛永 7 年(1630 年)に西嶋八兵 衛により現在の地に増改築された。

紀伊大池分水工・大池局
丘陵に挟まれた谷筋を「大池」の東脇を進み、谷奥に入ると農道左手に川に架かる送水管が見える。農道脇に車を停め、川筋に進むと人道橋が送水管の上にあり、橋の東に水路施設らしきものが見える。近づくと「紀伊大池分水工」とあった。
また、分水工脇に「大池局」と書かれた建物。先ほど出合った「小原池局」と同じく、分水量、水位情報を親局に送り、用水を集中管理し効率的運用を目指す施設のようだ。この大池局は「大池川分水量、大池水位、大池チェック工の水位情報」を親局に送るようである。と言うことは、この川は「大池川」なのだろうか。
○大池
柞田川の支流である大池川の上流にあるこの溜池は、別名を「紀伊大池」とも称される。築造は、寛文 2 年(1662 年)の頃。この溜池により、周辺の開墾が進み、天明年間(1781~1788 年)には大規模な池の嵩上げ工事が行われた。 明治時代には堤防の決壊で田畑に大きな被害を受け、その後も何回も改修工事を繰り返しながら現在に至る、とのこと。

送水管が川を渡る>紀伊大池チェック工
人道橋を渡り、南北に通る農道に西から丘陵に向けて10m強が開渠となっている。開水路を進むと紀伊大池チェック工があった。ここで測定された水位情報が「大池局」から親局に送られるのだろう。水路は、チェック工の先で丘陵に潜るが、防塵柵があるだけで、隧道に名前は無かった。


瀬戸1号隧道出口>(開水路)>瀬戸2号隧道入口
丘陵に潜った水路は「大谷池」の南端に向けて南西に進む。直線で1キロもないだろう。谷筋をひとつ越え丘陵を西に出ると大谷池の南端に開水路が見える。 そこを目印に、と思いながらも、他に水路施設などないものかと、水路ラインを注意深く見ていると、丘陵の森の中に水路らしきものが見える。国土地理院の6000分の一の地図で確認すると大谷池の南東端あたりである。
山中なのか谷なのかはっきりしないまま、とりあえず農道を南に進み丘陵越えの道で一度谷筋に下り、そこから西の丘陵を南に迂回し、萩原寺脇から大谷池の南端を進み、開水路を見遣りながら、山中なのか谷筋なのは不明な水路施設近くまで丘陵の坂を上る。
車を停めて水路施設らしき辺りを見るに、南が大きく開けた谷筋になっていた。目的は不明だが大規模な造成工事が行われている。深い山中ではないが、目的地は険しい崖下の谷筋にある。急な崖を注意しながら谷筋に下ると、大谷池の東端が細長く南に延びる谷筋に水路橋といった風情で用水が姿を現していた。 谷筋から水路橋に這い上がり、東の出口は「瀬戸1号隧道」、西の入口に「瀬戸2号隧道」の名前を確認し、再び急な崖を這い上がり車に戻る。
○大谷池
大谷池の起源は古く、文明二年(1470 年)の頃、築かれたと伝わる。その後、江戸時代から大正にかけて5度に及ぶ改修・嵩上げ工事が行われている。
終戦直後の昭和21年(1946)、副堤防が決壊し大きな被害をもたらすも、住民の努力で復旧工事を行うなどの過程を経て、その後県営事業として堤防・洪水吐などを強化し、現在に至る。




萩原1号開水路
瀬戸隧道を繋ぐ水路橋から車に戻り、大谷池の南端を走る開水路脇に車を停めて、先ずは「瀬戸2号隧道」から抜け出た水路箇所に。場所は田圃の中を斜めに通っており、畦道を進み開渠に。丘陵出口には隧道の名前は無く、水路に「萩原1号開水路」と書かれていた。


萩原第1隧道出口>萩原第2開水路
「萩原1号開水路」から一瞬地中に潜り、大谷池の南端を走る開渠部に。隧道出口には「萩原第1隧道」とある。水路には「萩原第2開水路」と書かれていた。開渠は大谷池に沿って丘陵部に向かう。




大谷池分水工>萩原第2隧道入口
「萩原第2開水路」が丘陵に潜る手前に「大谷池分水工」。その先で開水路は丘陵に潜り、そこには「萩原第2隧道」とある。香川用水はこの辺りから西へと進むのだが、地形図を見るにこれから先には丘陵部を潜ることは無く、平地を終点の「姥ヶ懐池」へと進むようだ。
用水ルートをチェックするに、田圃や梨畑といった耕地を進むよう。ここからは車をどこかにデポし、用水ルート上を辿ろうと思う。
幸い、「萩原第3隧道入口」近くには「萩原寺」がある。そのお寺さまの駐車場にデポし、「姥ヶ懐池」へとピストンすることに。
○萩原寺
真言宗大覚寺派別格本山。堂々とした山門(仁王門)が迎える。室町期の管領、細川勝元の奉納と伝わる。境内には本堂、客殿など堂宇が建つ。菊の御紋章をつけた茅葺の客殿が印象的。
本尊は地蔵菩薩。平安初期の大同2年(807)、弘法大師が千手観音と地蔵菩薩を彫り、札所六十六番の雲辺寺には千手観音、当寺には地蔵菩薩を安置したと伝わる。
往昔は大寺であり、明応2年(1492年)の記録によれば、讃岐、伊予、阿波に280余寺の末寺を従える大寺であった、とのことである。 このお寺さまは「萩寺」として有名で、数百株の萩は県の自然記念物となっている。

萩原第3開水路
お寺さまを拝観し、大谷池の西側の道を「萩原第2開水路」方面に戻り、途中で西に折れる道に乗り換え、大きな駐車場といったスペースの南西端から上を道路が通る陸橋下を潜り、丘陵から姿を現す用水出口に向かう。
民家脇を成り行きで進むと、開水路に出合った。水路出口には隧道名は書かれておらず、丘陵と平地の堺を緩やかなカーブで進む水路には「萩原第3開水路」と書かれていた。開水路はほどなく暗渠となる。

日の出橋水路管
道なりに進むと送水管が川を跨ぐ。水路管横に架かる橋は「日の出橋」。「日の出橋水管橋」とも呼ばれるようだ。
それはともあれ、橋の上流に見える岩壁の間から流れ下りる水流の眺めが印象的。自然のままなのか、人工的に削られたものか不明だが、斜めに削られた天然の岩場の間を水が流れ落ちてくる。その岩場の上には水門らしきものが見え、水はそこから流れ出ているようである。



○井関池の「洪水吐け
これって一体なに?チェックすると「井関池」の「洪水吐け」のようである。池の起伏堰を越えた洪水吐水が水路に導かれ、その水が少ない場合は直進し水門先のトンネルに進み、吐水が多い場合は水門から岩場へと落とすようである。丁度時期が良かったのか、水門から岩盤を斜めに大量の水が流れ落ちていた。 直進しトンネルに進んだ水がどこに進むのか不明だが、どこかで丘陵を下り灌漑用水に使われるのではあろう。
なお、地図では井関池の「洪水吐け」から下流は柞田川、池の上流は「落合前田川」となっていた。
○ 井関池
現在は豊かな耕地が広がる観音寺市大野原町は、この池が築かれる前は不毛の地であった、と言う。寛永15年(1638)、讃岐一国を領していた生駒家の郡奉行。西嶋八兵衛が築造を開始するも、藩のお家騒動で藩の取り潰し。その影響で一時頓挫するも、その後、近江の豪商である平田与一左衛門が私財による銭持ち普請により正保元年(1644)に完成した。工事は難航を極めたとのことである。その後決壊を繰り返すも、改修を続け10年後には現在の井関池の原型が形造られた、と。

井関池揚水機場
橋を渡ると「井関揚水機場」があった。とは言いながら、どこから揚水するのだろう。普通に考えれば「柞田川」だろうとは思うのだが、高い場所にある「井関池」から落とした「柞田川」の水を揚水しなくても、「井関池」から直接落とせばいいかと思うのだが、それができない事情があるのだろうか。よくわからない。それとも、井関池の水を揚水しているのだろうか?




和田支線分水工
「井関池揚水機場」から暗渠となった道を進むと「和田支線分水工」がある。西部幹線水路の終点である「姥ヶ懐池」に向かう香川用水は、「和田支線」を進むとある。目には見えないがここで幹線水路が分岐するということだろう。






井関チェック工・井関分水工
地図上の用水路のラインは「和田分水工」の先に続いているので、道なりに進むと「井関チェック工」があった。また、その先には「井関分水工」がある。チェック工があるのなら周辺に用水の水位、分水量情報を親局に送る子局があるのだろうとはおもうのだが、見つけることはできなかった。
メモの段階であれこれチェックすると「井関池局」があるという。そこでは、和田支線流量,井関池,大谷池分水量,井関チェック水位,井関池,大谷池水位情報などを親局に送るとのこと。場所の特定はできなかった。

井関放水工
井関分水工のすぐ先の「井関放水工」があり、そこから進路を北西に大方向転換し開渠となって進む。先ほど「和田支線分水工」に出合ったが、用水路ラインからみれば、この地で香川用水は開渠とは別水路となっている。「井関分水工」辺りから地下送水管を一直線で北西に向かっているのだろうか。

県道8号に
香川西部幹線水路から分かれ、開渠となって進む灌漑用水路に沿って成り行きで進む。民家の間を進む水路を見遣りながら進むと県道8号に当たる。
県道8号から見返す大山神社と民家の間を流れる水路はなかなか美しい。 灌漑用水路は下流へと進むが、地下を進む用水幹線水路は、灌漑用水が暗渠となる地、県道8号から北西・北東の二手に道が分かれる辺りで西に折れる。

袂池からの水路に用水送水管が現れる
西に折れた水路ラインは民家の集まる道路脇を離れると田圃の中を突っ切る。特に水路施設らしきものも見当たらないが、極力水路ラインから離れないように田圃の畦道を進む。
田圃を貫いて来た水路ラインは、ほどなく千歳池の北西端辺りで二車線の道に当たり、その道に沿って進むと溜池から下る水路に送水鉄管が現れる。香川用水の送水管ではあろうか?
○千歳池
古くは千年池と称された。築造は延宝 3 年(1675 年)。井関池の補助池としてつくられた。その後、付近の池をまとめ、現在では井関池に次ぐ大きな溜池となっている。昭和 16 年(1941 年)に千歳池に併合された青葉池は寛永 6 年(1629 年)に西嶋八兵衛により築造され たもの。井関池より古い溜池であった、とか。

袂池分水工
水路に架かる送水鉄管が香川用水の鉄管かどうかはっきりしなかったのだが、その送水鉄管のすぐ先に袂池分水工があった。先ほどの送水鉄管は香川用水の送水鉄管が袂池から下る水路を越えるため、一瞬姿を現したものであった。
○袂池
袂池も西嶋八兵衛の手になるもの。貞享元年(1684)の築造。弘法大師がつくったと伝わる満濃池など香川県には14,000ほどの溜池があるとのことだが、その大部分が江戸時代に築造されたものと言う。この袂池もそのひとつである。

板橋分水工
袂池の北を西に向かって進む道路が、ゆるやかに南西カーブする辺りで水路ラインは二車線の車道から離れ、再び田圃の中を進む。地中を進み姿を現すことはない。
田圃を進んだ水路が農道にあたるところに「板橋分水工」があった。香川用水のオンコースを進んでいるようである。分水工の北には板橋池がある。
因みに、新設香川用水の流路もあるようで、そのルートは「井関放水工」から進む開渠の途中、二車線の車道が県道8号にT字に合わさる辺りから車道に沿って袂池の東にある千歳池の北をカーブし、旧水路が車道から分かれる先に進み、「板橋分水工」近くで北に折れ、「板橋分水工」の辺りで旧水路に合わさるようである。

道路に香川用水の案内
水路ラインは南西に緩やかにカーブする農道に沿って西に向かう。しばらく進むと川がある。送水管などが姿を現さないかと目を凝らすが、それらしき施設を見つけることができなかった。
川を迂回し、二車線の車道の一筋北の農道を西に進むと、水路ラインがその農道とクロスする箇所に「香川用水」の案内があった。案内といっても、水路管埋設の注意案内。「香川用水幹線水路が道路下に埋設されているため、工事の際には注意すること」、とあった。少なくとも香川用水水路のオンコースであることは確認できた。

苗代池分水工
用水路ラインは「野々池」の南を西に進む農道の少し南を西に向かい、「野々池」の西にある「鴨池」の築堤をグルリと回り込み、「鴨池」の西側にある「苗代池」の北東端に進む。その地点に「苗代池分水工」があった。
上で、新設香川用水の流路をメモしたが、「板橋分水工」からは「旧」水路と同じ水路ラインを進んだ新設香川用水は、道路に香川用水埋設注意の案内のあったあたりから南に折れ、二車線の道路を進み、「鴨池」と「苗代池」の間を抜けた道が農道とクロスする辺りで「旧」水路と同じラインとなる。

川を送水鉄管が渡る
水路は分水工から一直線に進み「吉田川」を渡る。そこには送水管が姿を現していた。川を渡った送水管は畑を抜け、丘陵脇に進む。
丘陵脇、川に合わさる水路の丘陵側に案内がある。香川用水の案内かと思い、畑の畔道から水路を越えて案内看板の所に向かうと。そこには院内貝塚の案内があった。




○院内貝塚
案内;豊浜町指定史跡 院内貝塚(国祐寺所有) この付近から貝殻や縄文土器が発掘された。当時は、姥ヶ懐池の谷から清流が流れて院内付近の海に注ぎ、近くの山には鹿や猪が生息したと思われる。このことからこのあたり一帯は、約数千年に渡って縄文人の生活の場であったものと推定される(豊浜町教育委員会)。




姥ヶ池からの送水管が下る
水路手前には送水管が下る。2本の送水管が見える。どちらか一本が築堤上の姥ヶ懐池に上る香川用水の送水管で、もう一本は「姥ヶ懐池」から耕地水路に送水する水管のようにも思える。
送水管に沿って這い上がれそうもないので、農道をグルッと廻り「姥ヶ懐池」の堤防に。


姥ヶ懐池
けっこう長かったがやっと香川用水西部幹線水路の最終地点である「姥ヶ懐池」に着いた。「姥ヶ懐池」は安土桃山時代の天正年間には既に利用されていた溜池と言う。広い讃岐平野が愛媛と接する辺り、海にせり出す大谷山から東に延びる台山山系の谷を塞いで造られた、とか。昭和になって改修工事が行われ現在に至る。
また、印象的な名前の由来は、その台山にあった獅子ヶ鼻城が、土佐の長曽我部元親の四国制覇の折に落城。幼き姫を懐に抱き入水した伝説に拠る。

堤防を緑の深い丘陵部へと進むと、堤防上に「姥ヶ懐池分水工」、「姥ヶ懐局」、そこから少し高いところに「姥ヶ懐池吐水槽」と書かれた水路施設があった。
○姥ヶ懐池分水工
農業用水路である香川用水西部幹線水路は、数多く点在する溜池を用水の調整池として活用している。「姥ヶ懐池」まで水路を辿る過程で、溜池脇に分水工があったのはそのためである。
溜池が灌漑用水源の調整池として重要な役割を果たすエビデンスのひとつとして、農業用水専用水路の流量は田植えなどが終わった後に最大流量が流れるとのこと。田植えの時期は灌漑調整池としての溜池からの水が主であり、揚水は、その時期が終わった後に溜池に水を送り補充する、といったことである。


○姥ヶ懐局
「姥ヶ懐池分水工」は説明するまでもないが、「姥ヶ懐局」は姥ヶ懐池、野々池分水流量、姥ヶ懐池の水位情報を親局に送る施設のようだ。







○姥ヶ懐池吐水槽
「姥ヶ懐池吐水槽」って、よくわからないが、香川用水西部幹線水路の最終地点に「姥ヶ懐池吐水槽」とあるので、香川用水西部幹線水路の水が「姥ヶ懐池」に流し込む施設かとも思う。


水路施設を見終え、道に戻るべく築堤を南端に戻ると、先ほど上った道の先にちょっとした広場があり、そこに香川用水の案内があった。
「香川用水のあらまし 香川用水は、高知県に建設された「早明浦ダム」によって、たくわえられた吉野川の水を、徳島県の「池田ダム」を通じて、香川県に導水するものです。
香川用水によって、毎年、香川県に2億4,700万トンの水が、導水される計画になっています。この水は、農業用水・上水道用水・工業用水として、香川県産業の発展、県民生活の向上のために大変役立っている大切なものです」とある。
また、吹き出しには、「姥ヶ懐池」付近の用水の概要が「香川県に導水された香川用水は、東西分水工(三豊市財田町)から西部幹線、和田支線(延長12.6km)を経由して、この姥ヶ懐池に入ります。
姥ヶ懐池に貯められた香川用水は、水田だけでなく、箕浦地区や周辺の果樹園にも使用されています。さらに、姥ヶ懐池は香川用水西部地域の末端にあるため、香川用水の調整池としての役目を果たすなど、香川用水にとって大変重要なため池です」と説明されていた。
○梨百年記念碑
以上の説明はそれほど目新しいことはないのだが、その説明の下に姥ヶ懐池から西に続く水路図が目にとまった。そこには、姥ヶ懐池>箕浦分水>国営箕浦畑かん>長尾池分水>県営箕浦畑かん>箕池、と水路が続く。 先ほどの送水管2本のうちのどちらかが、この図にある水路送水管だったのだろうか。それはともあれ、土地改良区が整備したこの支線水路により、豊浜町和田の梨やレタス、ブロッコリー栽培などの灌漑用水として活用されている。そういえば、吉田川を渡る水路管の東、梨畑が広がる一隅に「梨百年記念碑」があった。この地の豊南梨は明治42年(1909)栽培がはじまった、とか。

これで一応香川用水西部水路幹線を終点まで辿り終えた。途中隧道の番号が連番になっていなかったり、隧道入口はあるが出口が見つからなかったり、その逆があったりと、しっくりとしないことも多い。何度かメモしたが、一度疑問点をまとめて、用水担当者にお聞きしに行こうかとも思う。

それはともあれ、歩いてみてわかったのだが「香川用水って、用水路単独ではなく、14,000もあると言う「溜池」や河川と連動し、香川を潤している」との説明を実感。
溜池は単独に「溜池」としてある以上に、香川用水から分水され、調整池として機能している。上でもメモしたが、香川用水の流量の最大は、田植えの終わった7月にピークになる。6月の田植えの水は溜池からの水で灌漑し、田植えの終わった頃に、溜池に水を送るため用水分量が多くなる、と言う。
また、香川用水は県下の水系を貫き、県全体で179箇所あると言う香川用水の分水工で、必要に応じ、水系間で水の融通をしているようである。

香川は瀬戸内気候故に年間降水量が少ない上に、大河がない。川はあるが、地形が急傾斜のため、川に保水力はなく、昔から「讃岐には河原はあっても河はない」と言われるように表流水のない川である。ために、河川利水が困難であり、溜池が発達したわけであろうが、その溜池を調整池として組み込み、讃岐の地を潤しているのが香川用水であった。
 散歩をはじめる時は、香川用水と溜池が連携していることなど何も知らなかったのだが、散歩を終えて香川用水記念館に溜池の展示が多いことが、なんとなく理解できた。次の帰省時は香川用水東部幹線水路の高瀬支線を辿ろうかと思う。
香川用水を歩くことにした。銅山川疏水を辿ったとき、吉野川総合開発の一環として池田ダムから阿讃山脈におよそ8キロのトンネルを通し、香川の地を潤した巨大な多目的用水である香川用水を知り、そのうちに、などと思っていたのだが、直接のきっかけは、先日金比羅さんの奥の院である箸蔵街道散歩へのスタート地点である土讃線・財田駅に向かう途中、「香川用水記念公園」の道案内を見たことにある。
阿讃トンネルを抜けたその水路は香川県三豊市の香川用水記念公園にある東西分水工より、幹線水路は東西に分かれ、東部幹線水路は高松方面へと70キロ、西部幹線は観音寺市豊浜町まで13キロ程度、そのほか東部幹線水路から分かれ三豊市高瀬町まで続く高瀬支線がある、と言う。
吉野川総合開発の一環として建設された香川用水は、昭和43年(1968年)から昭和56年(1981年)にかけて作られた用水路である。古き趣はないだろうとは思うが、とりあえずは如何なる風情の用水路であるのか、まずは手始めとして東西分水工より地元の「愛媛」方面へと向かう西部幹線水路を辿ってみようと想う。
で、あれこれ調べるのだが、水路や隧道などの詳しい資料は見つからない。唯一手掛かりとして国土地理院の6000分の一の地図には香川用水の水路が描かれていた。その国土地理院の6000分の一地図をカシミール2D(フリーソフト)で開き、地図の水路軌跡上にトラックラインを描く。次に、カシミール3Dのプラグインであるマップカッターで用水路のトラックルートを描いた地図を書き出し、専用GPS端末であるGarmin GPSMAP 62SJにインポート。これで地図上の水路跡は辿れることになった。
とはいいながら、国土地理院の6000分の一地図に記される香川用水水路軌跡上には隧道や開渠もそれらしき印はあるのだが、はっきりしない。そのため、カシミール3Dからトラックデータを書き出し、フリーソフトの「轍」でKMLファイルに変換し、Google Mapのマイマップにインポート。航空写真モードで水路を辿り、水路が山に入る地点、平地に出る地点、開渠などのチェックポイントをマイマップにピンアップし、専用GPS端末内の地図と併用して水路を辿ることにした。
今回の散歩は、水路を辿る、とは言いながらも、地中に潜った水路の山容が如何なる風情か不明である。航空写真でみる限りではゴルフ場があったり、結構深く、しかも隧道が結構長い箇所もあるようで、西部幹線水路自体は直線距離では13キロ程度ではあろうが、迂回すると結構時間がかかりそうである。 ということで、基本方針は車で進み、山地部分では状況を見ながら車で走ったり、車を降りて歩いたり、また、水路が里に下った辺りでは、どこかに車をデポし、ピストン散歩とし、まずは水路情報があることを祈って「香川用水記念公園」のある香川県三豊市に向かった。




本日のルート(香川用水西部幹線のルート);
○第1回
香川用水記念公園>東西分水工>(地下隧道でエリエールゴルフ場を抜ける)>入樋開水路・分水工>(隧道に)>菖蒲2号隧道出口>(開渠)>菖蒲3号隧道入口>(隧道)>地下水路で河内地区の平地に>河内川分水工・放水工>地下水路で山裾の丘陵を進む>河内2号隧道出口>(開渠)>河内3号隧道入口>地下隧道で谷戸に出る>(暗渠)>竹谷分水工>丘陵裾を隧道で進む>山池隧道出口>(暗渠)>サイフォン>一の谷開水路>一の谷開水路チェック工>(暗渠)>寺上第一開水路(川を跨ぐ)>小松隧道入口>小松隧道出口>寺上第2開水路>酔覚1号隧道入口>酔覚1号隧道出口>酔覚開水路>酔覚2号隧道入口>
○第二回
小原分水工>開渠に>小原池局>小原開水路>原隧道入口>城谷開水路で開渠に>柞田川右岸チェック工>城谷隧道入口>ふたつの丘陵・ひとつの谷筋を越え長い隧道を南西に下る>水路橋で姿を現す>紀伊大池分水工>紀伊大池チェック工>紀伊大池開水路>(丘陵地下を南西に進む)>瀬戸1号隧道出口>(水路橋)>瀬戸2号隧道入口>(隧道に)>萩原1号開水路>(隧道)>萩原第1隧道出口>萩原第2開水路>大谷池分水工>萩原第3隧道入口>(隧道)>萩原第3開水路>暗渠に>日の出橋水路管>井関池揚水機場>和田支線分水工>井関チェック工>井関放水工>(和田支線分水工から地下送水管)>袂池分水工手前の水路に用水送水管が現れる>袂池分水工>板橋分水工>(地下送水管)>苗代池分水工>川を送水鉄管が渡る>姥ヶ池からの送水管が下る>姥ヶ懐池(姥ヶ池局・姥ヶ池分水工・姥ヶ池吐水槽)

香川用水記念公園に
実家の新居浜を車で出発。国道11号を四国中央市から瀬戸内海の海岸線を進み、香川県観音寺市豊浜町姫浜で国道377号に乗り換え、香川県三豊市山本町財田に。そこで県道5号へと南に折れ、財田中小学校を越えたあたりで県道を離れ、ふたつの丘陵の間の谷筋を南に下り「香川用水記念公園」に到着。


香川用水記念公園
駐車場に車を停め記念館に入る。香川の溜池に関する資料展示は多いのだが、肝心の香川用水の水路、その施設に関する展示は見当たらない。香川用水に関する資料か地図でもないものかと探すが、その類の資料も詳しいものは見つけることができなかった。水路歩きは事前に準備した専用GPS端末に入れた水路軌跡と、Googple Mapのマイマップに作成したチェックポイントだけを頼りにするしかないようだ。



○香川用水
香川用水は、昭和43年(1968年)から昭和56年(1981年)に、香川県を東西に全延長106kmに渡って建設された、農業用水・水道用水・工業用水といった多目的用途の用水路である。
水源は阿讃山脈を越えた徳島の吉野川であり、吉野川総合開発のもと建設された池田ダムから取水し、阿讃山脈を8キロに渡って貫いた導水トンネルによって、この香川用水記念公園のある地まで導いている。

香川用水の水源を吉野川からの分水でまかなう、といった構想は明治の頃、箸蔵街道の時に知った大久保諶之丞によってその原型は提唱されていたようであるが、銅山川疏水散歩の時にメモしたように、徳島県とその他の四国三県(愛媛・高知・香川)の利害が対立し事は容易に進まなかった。
対立の要点は、大雑把に言って、吉野川の分水によりメリットを得る四国3県(高知・香川・愛媛)と、唯でさえ季節による水量の変動が激しい吉野川が、分水によって渇水期の水量が更に減少するといったデメリットが加速する徳島県との鬩ぎあいにある。
「分水問題とは分水嶺の遥か彼方に水を持って行こうとするものである。分水は愛媛の農民を助けることかもしれないが、分水のせいで徳島の農民が水不足にあえぐことは認められない。また、愛媛側が水を違法に得ようとした場合、下流の徳島側は絶対的に不利である。一度吉野川を離れた水は二度と戻らない」。これは銅山川分水に反対する徳島県議の発言であるが(『銅山川疏水史;合田正良』)、この発言が対立の要点ではあろう。
徳島とその他の四国三県の鬩ぎ合いの経緯は吉野川総合開発のメモをご覧いただくことにして、その各県の利害を調整し計画されたのが吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水、徳島には安定亭な水の供給を図るもの。
高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムの建設に引き続き新宮ダム、更には冨郷ダムを建設し法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。
そして、池田町には池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注ぐ。
そして香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、そこから讃岐平野に分水。この水で香川を潤す(「藍より青く吉野川」)。

東西分水工
香川用水記念館の周囲は公園として整備されているが、記念館の少し南に貯水施設が見える。案内によると、その水路施設は沈砂池。沈砂池の南に川(長野川)に架かる「長野水路橋」があり、阿讃トンネルを抜けた吉野川の水を香川に導く導水トンネルと繋がる。
沈砂池の北端には分水工があり、ここで「東部幹線水路」と「西部幹線水路」に分かれる。東部幹線水路は「香川用水 長野第2開水路」として開渠で下るが、西部幹線水路は地中に潜り水路を見ることはできない。
○香川用水のあらまし
分水工傍にあった案内には「高知県の早明浦ダムに貯えられた香川用水は、徳島県の池田ダムに入ります。さらに阿讃山脈を貫く延長8kmの導水トンネルを通って香川県にはじめて出てくるのが、この東西分水工です。この間、約70kmの旅をした香川用水はここから98kmの幹線水路で、東は東かがわ市引田町、西は観音寺市豊浜町までの県内すみずみまで配水され農業、水道、工業の用水として県民生活に役立っています」とあった。

西部幹線水路散歩スタート
西部幹線水路散歩スタート、とは言いながら東西分水工から分かれた西部幹線水路は地下を潜るようで、地表に姿を見せない。東西分水工にあった「西部幹線水路」の案内には、黒谷川をサイフォンで潜り、そのまま「黒谷トンネル」で丘陵を抜けるように描かれている。
地図でチェックすると東西分水工脇を流れる長野川が香川用水記念公園の下で合流するのが黒谷川なのだろう。なんらかの痕跡でもないものかと辺りを彷徨うが、特に何も見当たらなかった。水路は黒谷川の下をサイフォンで渡り、エリエールゴルフ場がある丘陵を「黒谷トンネル」で進むのだろうか。

入樋開水路・分水工
ゴルフ場を横切るわけにはいかないので、丘陵を迂回し次のポイントである入樋川によって開析された谷筋に向かうことになるのだが、丘陵北の平地部を大回りするか、黒谷川によって開析された谷筋を南に切り上り丘陵の尾根を越えて入樋川の谷筋に入るかちょっと悩む。
地図をチェックすると南の尾根越えも道が続いている。どのような道なのか少々不安ではあるが、「チャレンジ精神」、とはいうものの、対向車に出合わないように祈りながら進むと、無事に尾根を越えることができた。そこからは入樋川の谷筋を下り、入樋地区の里に出る。左右を丘陵で挟まれた谷戸といった風情である。
車で下ると、道の右手に開渠が見える。車を停めて畑の中に突然現れる開渠を確認に向かう。コンクリートで囲まれた水路には「入樋開水路」とあり、開渠の中ほどには「入樋分水工」とあった。道の逆方向、西へと水路が進むが、ほどなく開渠は地中に潜る。
○分水工
香川用水の分水工は共用区間(工業用水、上水用用水、農業用水)と農業専用用水区間に配地されるが、その性格によって管理体制が異なるようだ。 管理体制の基本は、用水の効率的活用の観点から流量情報などを集中管理されているようだが、共有区間は水資源公団が管理主体。琴平にある公団監理事務所が全体の流量を監視し、東西分水工は自動制御で、その他の分水工は管理事務所からの指示で人の手によって操作される。
また、農業用水専用水区間の管理は香川用水土地改良区が担当。香川用水記念会館に親局を設け、子局から流量などの情報を電波で送信、大麻山中継局を経由し把握。流量制御は分水工に設けられたふたつのゲートのうち、期別に定められた分水量を、第1ゲートは管理者側(香川用水土地改良区)が、第2ゲートは受益者側が操作するとのこと。基本人の手で操作されるようである。

丘陵上の開渠部に
次のポイントは入樋開水路が地下に潜った丘陵の中央部に見える開渠部。国土地理院の6000分の一地図にもそれらしき印が見えるので、Google Mapの航空写真で探し、丘陵上の産業廃棄物処理場らしき施設の裏手(西側)の森の中に見つけピンを立てた箇所。
道は丘陵上の産業廃棄物場らしきところまで続いている。とりあえず行けるところまで車を走らせ、成り行きで車をデポし、その先は歩いて開渠部に向かうことに。
丘陵を上り、柵で囲まれた産業廃棄物場らしき施設に沿って進むとほどなく道は切れる。柵に沿って成り行きで進み、踏み分け道らしき細路を下る。航空写真ではわからなかったが、施設裏手は谷になっていた。
道を下ると水路とクロス。水路の先に廃屋が見えるので、そのまま進み、廃屋から先に道を探すが、その先は藪が酷く、とても進めそうもない。

菖蒲2号隧道出口>(開渠)>菖蒲3号隧道入口
藪から撤退し、水路(小川)に沿って開渠部に向かうことにする。このアプローチも結構厳しく、藪を進むも、あまりに厳しい箇所は、護岸工事されたコンクリートの川床に下りて水路の中を進む。GPSにインストールした地図の香川用水の水路に近づいた辺りで川を上ると、東西に進む水路施設が見えた。
隧道出口をチェックに向かう。そこには「菖蒲2号隧道」と書かれていた。20mほどの開水路を逆に向かうと、そこには「菖蒲3号隧道」と書かれている。菖蒲3号隧道はここから再び山中に消える。

菖蒲2号隧道入口、菖蒲1号隧道を探す
ここで、少々混乱。ここが「菖蒲2号隧道」出口であれば、「菖蒲2号隧道」入口があるだろうし、そもそもが「菖蒲1号隧道」もあるはずであろう。
ということで。「菖蒲2号隧道」出口からGPSにインストールした地図の水路跡に沿って東に戻ることに。
菖蒲2号隧道出口の東は藪に覆われた崖となっている。力任せに這い上がると、その先は産業廃棄物場用に整地された台地との間に谷筋が見える。その谷筋に「菖蒲2号隧道入口」がないものかと、泥濘の崖を滑り下りる。靴やズボンは泥だらけ。
なんとか谷筋に下り、水路跡を探すが、隧道入口はどこにも見当たらなかった。僅かに地図の水路筋にコンクリートの水路蓋といったものがあるだけであった。
谷筋には池が残り、近くには鶏魂碑が残る。産業廃棄物処理施設ができる前には、鶏舎でもあったのだろうか。

車のデポ地に戻る
「菖蒲2号隧道」入口も見つからず、「菖蒲1号隧道」も手掛かりがない。Googleで検索すると「菖蒲1号隧道」の工事入札といった記事もあり、住所も三豊市財田町財田中とある。
エリエールゴルフ場の地下のトンネルは黒谷トンネルと香川用水記念公園の案内にあったので、入樋開水路から地下に潜る隧道が「菖蒲1号隧道」と妄想はできるのだが、その出口も「菖蒲2号隧道」入口も見当たらない。 ということは、産業廃棄物場用に丘陵上に台地を造成する際に、「菖蒲1号隧道」出口も「菖蒲1号隧道」入口も地下に埋められてしまったのだろうか。あれこれ妄想は膨らむだけである。ちょっと残念な結果となってしまった。
で、谷筋の池などを眺めながら産業廃棄物場用施設の柵に沿って北側に回り込み、柵に沿って谷筋に下る小川を上り切ると産業廃棄物場用施設に入れた。が、私有地を歩くのは遠慮し、柵が道路と最接近した辺りにある崖を這い上がり、猛烈な竹林の竹を踏み敷き柵外の道に下り、車のデポ地に戻る。

隧道は河内地区の平地に地下水路で出る
次のチェックポイントである、隧道が平地に出る箇所に向かう。河内川が開析した平地である。車道は山側には見当たらない。瀬戸内側には、産業廃棄物場用施設の丘陵から坂を下り切った少し北に丘陵越えの道が見える。広い道であることを祈りながら左へと丘陵越えの道に入ると、誠に快適な山越えの車道となっていた。
丘陵を下り、山本町河内地区に入り、GPSにインストールした地図の水路ライン上の農道に車を停め、隧道が平地に出る箇所に向かう。そこには隧道はなく、コンクリートの水路施設らしきものがあった。

河内川分水工・放水工
この水路施設が香川用水?地図から見れば香川用水の水路上であるので、間違いはないのだろうが、何の案内もないため、少々不安な状態で車に戻る。と、そこから西に続く農道には「農道下には香川用水幹線水路が埋設されている」とあり一安心。一直線に西に向かう、その農道を車で走り、用水路が再び丘陵地に潜る手前に「河内川分水工・放水工」があった。

河内川サイフォン
「河内川分水工」の直ぐ西には河内川が流れている。水路橋はない。そう言えば、香川用水記念公園には河内川をサイフォンで潜っていた。川の西側に何らかのサフィン施設らしきものがあるのだろうか。
と、あれこれ考えていると、近くの農家の方がお見えになり、分水工を少し北に進んだところから丘陵越えの道に入ると「水路施設」があり、その先を右に折れて丘陵を下ると開水路があると教えて頂いた。
香川用水はこの辺りから菩提山(標高312m)の山裾や支尾根(丘陵)を進むことになる、丘陵越えの道を少し進むと道脇に水路施設があった。これがサイフォンの施設かどうか不明であるが、香川用水の水路施設であるのは間違いない。 そこから車で山道に入ると先ほどの農家の方がトラックで追っかけて来て、開水路への道はもっと手前を右に折れるように、と。道を教えてくれるため、わざわざ追っかけてくれたようだ。深謝。

河内2号隧道出口>(開渠)>河内3号隧道入口
地元に方に教えて頂いた丘陵越えの道を進み、丘陵を下ったところは谷戸と言った景観を呈する。耕地の中の農道を進みと、開渠となった用水路とクロス。用水路は谷戸の東から隧道を出て、西の丘陵に再び潜って行く。
農道に車を停め東の隧道出口に向かう。「河内第2隧道」とあった。開渠部を用水路に沿って西に向かうと、地中に潜る隧道には「河内3号隧道」とあった。

先ほどの菖蒲2号隧道と同じく、それでは「河内1号隧道」は?手掛かりはない。先ほど河内川をサイフォンで潜った地下水路を「河内1号隧道」とでも言うのだろうか。
どうも菖蒲隧道にしても、この河内隧道にしても、順番通りに隧道が「登場」してくれないので、今一つ収まりが悪い。そのうちに香川用水記念館にでも行って、不明隧道をまとめて教えて貰うしか術はない。

竹谷開水路・竹谷分水工
次のチェックポイントは、同じ丘陵地の少し西にある開水路。Google Mapの航空写真で水路のラインをチェックして見つけた開水路。ほんのわずかな「切れ目」といった水路である。
「河内開水路」のあった谷戸から車で北に向かうと、建設中らしい丘陵越えの道に出る。完成すれば丘陵を東西に抜けるようになるのだろう。道は未だ建設中らしく、途中で道は切れるが、その手前から丘陵越えの細道をGPSにインストールした地図のポイントに向かう。
鶏舎らしき施設に沿って道を進むと、道が大きく南に曲がる地点の少し奥に、水路施設が見える。近づくと、「竹谷開水路」とあり、数メートルほどの開渠が地中に潜る手前に「竹谷分水工」があった。

山池隧道出口
次のチェックポイントも、Google Mapの航空写真で見つけたもの。今まで概ね東から西に進んで来た香川用水が、「竹谷分水工」の先で北西に流離を変え、少し進み溜池の東を越えた辺りで南西に流れを変えるポイントとなっている。北に伸びる菩提山末端の支尾根(丘陵)を進むようである。
丘陵を下り、川によって開析された風情の里の道を進み、GPSにインストールした地図に示すポイントに進む。そこには「山池隧道」と書かれた隧道出口があり、ほんのわずかな開水路が地表に現れていた。
「山池隧道」出口は溜池の北東端。「山池隧道」出口であるからには、ひょっとして「山池隧道」入口が見つからないものかと、溜池の北を進むが、藪が酷くとても進めない。
仕方なく、溜池の南の耕地との境を進み、用水路ラインに近づく道を進む。ほどなく産業廃棄物処理施設といった建物が見え、その辺りが少し谷状、と言うか窪地になっている。
隧道入口はないものかと探すが、それらしき物は見つからない。が、窪地の崖に沿って水路がある。香川用水の水路ではないようだが、とりあえず先に進むと「竹谷開水路・竹谷分水工」に出た。結局、「山池隧道」入口は見つけられなかった。「竹谷開水路」が丘陵に潜る地下水路が「山池隧道」なのだろうか。どうも香川用水は銅山川疏水の時のように、隧道入口と出口がペアとなって明示されていないケースが多いようだ。

山池隧道に戻り、地下に潜った水路ラインを西に向かって農道を歩く。農道脇には花栽培のビニールハウス(もっと立派なのだが何と呼ぶのかわからない)が続く。道は丘陵で阻まれ、その手前には川が流れているようだ。

一の谷開水路・一の谷分水工
次のチェックポイントは開析谷西の丘陵に見える開水路。Google Mapの航空写真で見ると、丘陵は細長く、それも山地から切り離され、平地に取り残されたような丘陵から南へと延びている。現在川筋は丘陵の東を流れるが、流路の変化などにより取り残された丘陵であろうか。その丘陵には「札所六十七番・大興寺」が佇む。
「山池隧道」出口の手前にデポした車に戻り、少し南に下り溜池脇を進み、丘陵南端部が切れる辺りを走る道を進み、民家が集まる丘陵上にある開水路に。10m強といった開水路であった。
開水路が始まる東端に向かう。「一の谷開水路」と書かれており、東端手前には「一の谷分水工」、そしてその手前には「一の谷チェック工」と書かれた、初めてみる水路施設があった。

一の谷開水路チェック工
「チェック工」って?はっきりとは理解できないが、分水の水位を一定に保つための設備のようだ。水位の監視のため、チェック工の上流部に水位計を設置し水位の異常を検知するようである。おおよそ1.5キロに一カ所設置されている、とか。
とはいうものの、これもメモの段階でわかったこと。どれが水位計なのかなど、その水位情報はどのようにして管理されているのかなど、肝心なことは全くわからない。 肝心なことはわからないが、香川用水の農業用水専用区間の管理は、香川用水記念会館に親局を設け、分水工での分水量やチェック工で測定した水位情報などを子局から電波で大麻山中継局を経由し把握しているとのこと。付近に子局らしきものはなかった。

サイフォン
「一の谷開水路」の東端、開渠となるその東にも暗渠が続く。何があるのか先に進むと民家脇でコンクリートが途切れ、数メートル落ち込んでいる。地図にはその先に川(一の谷川だろう)が見える。香川用水記念公園に「一の谷サイフォン」との案内図があったが、山池隧道で一瞬姿を現した香川用水は、サイフォンで川筋を越え、このコンクリート構造物のところに上がってきているのだろうか。
香川用水は自然流路と言う。高いところから低いところに流れるのは自然ではあろうが、基本始点と終点に高度差があれば、途中はその基本(高きから低き)が逆転しても問題ないとされる。それはすべて鉄管であれば問題ないだろうが、途中開渠がある香川用水でも可能なのだろうか。専門家でもないので良くわからない。
○白谷サイフォン
サイフォンと言えば、香川用水の案内には、「河内サイフォン」と、この「一の谷サイフォン」の間には、「白谷サイフォン」の案内があった。それってどこだろう。はっきりはしないが、「竹谷開水路」の少し東に川筋がある。そこを潜っているのだろうか。資料をチェックしても何もヒットしないため確証はない。これも、まとめて質問に行くべし、か。

寺上第一開水路・小松隧道入口
次のポイントは、一の谷開水路の西の小高い丘陵の先に航空写真で見つけた開水路。民家の集まる「一の谷開水路」地区から南に農道を進み、西に折れると道は丘陵先の開水路とクロスする。
農道脇に車を停め、開水路が丘陵から出る箇所に向かうと「小松隧道」とあった。ここは出口であろうから、入口を探して東に向かう。丘陵を上り切ると、谷状の場所に川を跨ぐ水路が見える。
丘陵、といっても小高い丘といったものであるが、そこから川筋に下りる。川を跨ぐ水路橋には「寺上第一開水路」とあり、丘陵に潜る箇所には「小松隧道」の名が刻まれていた。

小松隧道出口>寺内分水工>(寺上第2開水路)
「小松隧道」入口から元の「小松隧道」出口に戻り、そこから南に緩やかかカーブを描いて進む開水路を進む。直ぐ寺内分水工がある。開水路には「寺上第2開水路」とあった。





酔覚1号隧道入口
溜池に沿って開水路を進む。池の南端辺りで水路は地中に潜る。隧道入口には「酔覚1号隧道」とあった。誠に面白い名前。由来などないものかとチェックするも、資料は見当たらなかった。





酔覚1号隧道出口>酔覚開水路
入口から南西に少し進み、丘陵が谷戸といった里に数mほどの開渠が航空写真に見える。そこが出口だろうと農道を西に進み、溜池を越えた辺りで南に折れると、溜池の南端に開渠があった。隧道出口には「酔覚1号隧道」と刻まれる。開渠は「酔覚開水路」とあり、その先で水路は地中に潜る。

酔覚2号隧道入口
隧道入口には「酔覚2号隧道入口」とある。隧道は結構先まで続いている。本日はここで時間切れ。隧道の潜った丘陵に上り、その先の谷戸と言った景観を眺め、まだまだ先が長いなあ、などと想いながら、一路家路へと。
定例の田舎帰省の途中、ほんの「気まぐれ」で立ち寄った琵琶湖第1疏水散歩。当日の、誠にのんびりとした、お気楽な散歩とは異なり、メモの段階で、次から次にと「わからないこと」が登場し、メモが長くなってしまった。
先回のメモは大津の取水口から第1トンネルの西口(藤尾側)で力尽きた。今回は第1トンネルの西口(藤尾側)から山科の盆地を経て京の蹴上までのメモをする。
冬枯れ、また時期の問題であろうか水量も多くなく、水路に沿って続く桜並木を目にするにつけ、桜咲く頃はさぞ美しいだろうと、何故にこの時期に、とは思いながらも、当日歩くまではこんなに桜並木があるといったことも知らなかったわけで、いつもながらの行き当たりばったり、「後の祭り」満載の散歩となった。


本日のルート;JR大津駅>琵琶湖第1疏水取水口>三保ケ崎水位観測所・三保ヶ崎量水標>琵琶湖第1疏水揚水機場>大津閘門と制水門>「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内>琵琶湖疏水案内>第1疏水第1トンネル東口>三井寺南別所・両願寺の石碑>旧神出>長等神社>小関越えの道標>等正寺の測量標石>小関峠>分岐点>第1竪坑へと道を下る>第1竪坑>国道161号・西大津バイパス>第2竪坑>第1疏水第1トンネル西口(藤尾側)>緊急遮ゲート>藤尾橋>測水橋>洛東用水取水口>柳山橋(第2号橋)>四ノ宮舟溜り>諸羽トンネル>東山緑地公園>第2疏水トンネル試作物>諸羽舟溜り>諸羽トンネル東口>安朱橋(第4号橋)>安祥寺川水路橋>安祥寺橋(第6号橋)>妙応寺橋(第7号橋)>天智天皇陵>第8号橋・第9号橋>山ノ上橋(第10号橋>第1疏水第2トンネル東口>第1疏水第2トンネル西口>日ノ岡取水場・日ノ岡舟溜り跡>第11号橋>第1疏水第3トンネル東口>「本邦最初鉄筋混凝土橋」碑>藪漕ぎ撤退>大名号碑>日ノ岡宝塔様縁起>日ノ岡峠>九条山浄水場>日向大神宮参道に合流>第1疏水第3トンネル西口>九条浄水場ポンプ室>琵琶湖第2疏水合流点>蹴上舟溜り跡>合流トンネル入口>疏水第4トンネル>インクライン・運輸船>山ノ内浄水場導水管>合流トンネル出口>洗堰>蹴上発電所水圧鉄管>第4トンネルからの水路>南禅寺トンネル>南禅寺水路閣>蹴上・ねじりマンポ

緊急遮ゲート
水路に沿って先に進むとほどなく水路を跨ぐ構造物がある。平成11年(1999)設置の緊急遮断ゲートとのこと。 大地震で堤防が決壊するおそれがあると自動的に流れを止めることになる。これは歩いた後にわかったことだが、第1トンネルを抜け山科盆地に入った疏水は町を見下ろす山麓の端を進む。こんな場所が水路が決壊すれば町は浸水することになるだろう。




藤尾橋
次いで現れるのは藤尾橋。一見すれば新しい橋と見えたが、橋の土台部分が煉瓦と石組みでできている。橋は鉄筋コンクリートであるが建造当時の土台のままのようである。チェックすると疏水工事が進む明治20年(1888)9月に建設されたとのこと。疏水の第1号橋で、疏水最古の橋であった。大正10年(1921)、昭和46年(1971)に改修が行われ現在の鉄筋コンクリートになっている。 なお、疏水に架かる16の橋のうち、1号から11号までは番号がついている。藤尾橋はその1号橋である。番号橋は第1疏水開通時に架けられたのかとも思ったのだが、どうもそうではなさそうで、明治の30年代の後半に番号付けがなされた、とも言う。

測水橋
藤尾橋を過ぎると滋賀県から京都に入る。京都に入った最初の橋は測水橋。明治の末期、第2疏水工事の際に造られたのこと。「疏水の水位、流量を量る橋」といった記事があったが、これではその対象が第1疏水か第2疏水かわからない。
あれこれチェックすると、第1疏水と第2疏水の水位、流量を測る目的で造られたもので、橋の北に第2疏水からの水の開渠部(54mほど)を設けたとのこと。橋は第1疏水と開渠部を跨いで架けられていたようである。現在その開渠部は残っていない。
また、この橋を三角橋と称する。橋の建設様式かとも思ったのだが、橋の左右から5m6段の石段があり、その形が三角になっている故の通称であろう。道から石段を設けることによって、橋の高さを上げ、舟が通りやすいようにした、とも言う。とは言うものの、現在は右側のステップはなく、片側だけの「三角形」とはなっている。
橋のあれこれをわかったようにメモしているが、これは散歩のメモの段で分かったこと。散歩のときは橋の歴史など知るよしもなく、単に「橋」があるなあ、といったお気楽さではあったのは言うまでもない。

洛東用水取水口
測水橋を越えると水路左手に分水口らしき水路施設が見える。チェックすると洛東用水の藤尾分水口であった。洛東用水は多目的用途を目した琵琶湖用水の目的のひとつである灌漑用水として、この地で分水され山科盆地の四ノ宮・音羽地区を潤した。
取水口で分水された洛東用水路は、南の四ノ宮川、東海道をサイフォンで潜り抜けているのだろう。水の一部は四ノ宮川に放流されているようだ。なお、疏水からの灌漑用水は山科地区に洛東用水を含め3本の幹線用水路があるとのことである。

柳山橋(第2号橋)
取水口の先に現れた橋は柳山橋。この橋も疏水建設同時、明治22年(1889)の9月に県建設された。当時は十禅寺橋と称されたようである。現在の鉄筋コンクリートは昭和43年に改修されたもの、とのこと。

四ノ宮舟溜り
柳山橋(第2号橋)の先にトンネルが見え、その前の水路が大きく広がっている。特に案内もなく、歩いていた時は調整池かとも思っていたのだが、メモの段階でチェックすると「四ノ宮舟溜り」であった。
琵琶湖疏水には、大津から蹴上までに3か所の舟溜りがあったとのことだが、ここは大津から最初の舟溜りであった。琵琶湖疏水は多目的疏水であり、先ほどの洛東用水取水口は灌漑用であったが、舟溜りは舟運のための施設。 上にもメモしたように、「東や北から京都へ物資搬入するには人馬で山を越えねばならず、そのコストは物価高となって京都にはね返る。琵琶湖から京都へ水を引く利はまず運送にあり」とされた舟運であるが、電力など動力のない時代、京から大津に上るには舟を曳く船頭、というか曳夫の休憩所が必要であった。
舟溜りは、この曳夫の休憩所、また物資や乗客の上げ下ろしの場所として使われた。散歩で出合った江戸と川越を結ぶ新河岸川の河岸を想起させる。完成は明治21年(1888)。

諸羽トンネル
「四ノ宮舟溜り」の先のトンネルは諸羽トンネル。このトンネルには今までのトンネルの出入口にあった「扁額でたどる琵琶湖疏水案内」もない。そもそも「扁額」も見あたらない。そのときは「?」と思いながらも歩を進めたのだが、メモの段階でチェックすると、このトンネルは明治の疏水開通時ではなく昭和45年(1970)に掘削されたものであった。全長520mである。
諸羽トンネル建設の主因は山科駅を始点とするJR湖西線工事計画。山科の山裾を通す湖西線の路線と、その崖上を通る疏水路が接近することとなり、トンネルを掘り山裾を迂回していた水路を直線で通すことにしたようだ。
湖西線工事の計画は昭和39年(1964)に策定され、昭和41年(1966)には山科~西大津間の工事着手、昭和49年(1974)には 湖西線(山科~近江塩津)の全線開業が開通した。諸羽トンネルの完成が昭和45年(1970)というのはこういった事情である。

東山緑地公園
トンネルに入った水路から離れ公園に整備された旧疏水水路跡を進む。この公園の整備は昭和46年(1971)頃から工事に着手し、昭和49年(1974)に東側に四ノ宮地区の整備を終え、西側の日ノ岡までの工事が完了したのは昭和53年(1978)とのことである。公園内の水路跡を歩くに、足元の崖下を通る湖西線を見るにつけ、山裾を流れる水路を変更しトンネルを直線に抜いた理由が納得できる。
道脇に「東山緑地公園ジョギングコース」の案内。この地を始点に疏水第2トンネル東口をゴールとするコースが記されていた。その案内に疏水の案内もあり、その中に「疏水はトンネルなど至ところに煉瓦が使用されているが、その当時、日本国内には疏水工事の需要を満たす生産力がなかったため、御陵に煉瓦工場が建設された。現在の市営地下鉄「御陵」駅2番出口付近に碑が建立されている」といった記述があった。ちょっと気になりチェック。
○煉瓦直営工場
疏水工事に際し、トンネルの壁面や水路底を強固にするため煉瓦を採用することになったが、そのために必要な数は1400万個必要と見積もられた。が、当時の日本国内での煉瓦製造は東京の小菅、大阪の堺が中心で、その年間生産量は200万~300万個程度しかなかった。そのため、疏水工事に際しては、直営煉瓦工場を宇治群御陵村(今の山科原西町付近)に建設。4.4haの敷地に登り窯を築き堺から技術者を招いて指導を受け、明治19年(1886)7月から製造を開始、明治22年(1889)10月に閉鎖する迄に1370万個の煉瓦を焼き上げたとのことである。
実際疏水工事に必要とされた煉瓦総数は1100万個で足り、余ったものは他所に販売したとのことだが、明治21年(1888)に工事仕様が変更になり、予定になかったトンネルの側壁などに煉瓦が必要となり、一時的に不足をきたし、全国各地の煉瓦工場からかき集め急場を凌いだとも伝わる。

第2疏水トンネル試作物
山裾を迂回する旧水路跡を進むと、道の右手にアーチ形のコンクリート構造物が見える。近寄ると案内があり、第2疏水トンネル試作物とあった。案内には「第1疏水は1890(明治23年)に完成したが、明治30年代に入ると、電力需要等への対応や、地下水に頼っていた飲料水の不足が問題となり、第1疏水の北側に第2疏水が1912(明治45年)に造られた。
第2疏水は主として水道水源に用いるため、水が濁るのを防止する目的で、埋立てトンネルとした。
このアーチ状の構造物は疏水の建設や維持管理に作業員が建設義技術を取得するため、第2疏水の埋立てトンネル上部の複製を製作したものといわれる。 第2疏水は地上からほとんど見えないが、蹴上の第1疏水合流点で見ることができる」とあった。
○琵琶湖第2疏水
第2疏水の取水口はこのメモの最初に記したように、大津第1疏水取水口の北隣にある。第2疏水のトンネルは、小関・柳山・安祥寺・黒岩・日ノ岡の5ヶ所。トンネル間はコンクリート造りの水路を造り、上で案内にあったアーチ型鉄筋コンクリートで覆い、水路完成後埋戻している(埋立水路)ため、地上に姿を現すのは蹴上での第1水路との合流部となる。
ルートは大雑把に言って、小関トンネルは琵琶湖第1疏水の第1トンネルとおおよそ27mの間隔を保ち平行に等長山を抜け、その後は山裾を迂回する第1疏水と異なり、山を直線に穿ち蹴上へと進む。
全長7400mとなる第2疏水の工事着工は明治41(1908)年10月、明治45年(1912)3月に完成した。工事着工は第1疏水寛政の18年後ということもあり、掘削に関する環境も大幅に改善されていたとのこと。
第1疏水時代は高くて使えなかったセメントが使える時代となっており、煉瓦ではなく鉄筋コンクリートが使えた、明治24年(1891年)には蹴上発電所が運転開始しており、照明も電燈、排水にも電動ポンプが活躍した、また、第1疏水と平行に(平行に2mほど下との記事もある)進むため、第1疏水から横坑を掘って連結し、作業人員の出入り、材料運搬、土砂の排出、湧水の吐出しなど、工事の安全、作業効率のアップ、工事難易度が大幅に低下したとのことである。その箇所は第1疏水第1トンネルと小関トンネル間に11か所、その他後述する第1疏水第3トンネルと日ノ岡トンネルで1箇所の横坑が掘られたとのことである。藤尾橋の辺りにはその横坑のひとつの施設跡が残ると言うが見逃した。
○琵琶湖第2疏水連絡トンネル
琵琶湖第2疏水連絡トンネルも取水口は第2疏水と同じ場所。取水口から直ちに20mの竪穴に流れ込み、山科盆地で第2疏水に合流する。
主たる目的は渇水期の対策。水位が琵琶湖水位ゼロより1.5m低下しても安定して取水できるようになった、とか(注;個人的には今一つ納得感がないのだが、現段階で見つかったデータをメモした)。

諸羽舟溜り

左手に山科の街を見下ろしながら緑道を進む。公園の真ん中を進む道が旧水路跡とのことである。南に張り出した山稜を回り込み、北に向かうあたりで広い公園となる。
南端の崖上には休憩所もあり、散歩の当日は見晴らし所かとも思ったのだが、メモの段になって、その公園(山科疏水公園)辺りには、諸羽トンネルが開削される以前の旧水路にあった諸羽舟溜りがあった、とのこと。
何故に崖上に舟溜りなどとちょっと気になる。堤防決壊など危険この上ない。実際昭和5年(1930)には、この先に出合う天智天皇陵の西側で疏水堤防が決壊し、山科地区が冠水している。また、そもそも四ノ宮舟溜りとそれほど離れてもいない。そんなところに舟溜りを造ったのは如何なる理由か?
危険云々は、地形図をみると結構広い平坦地となっているのでなんとなく安全そう。であれこれチェックすると、四ノ宮舟溜りは少し狭く、それ故に物資の上げ下ろしはあるにしても、主に人の乗り降りの場として使われ、諸羽舟溜りは物資の上げ下ろしと船頭の休憩所となっていた、との説明があった。完成は明治21年(1888)。
なお、山科疏水公園の辺りには旧水路に架かっていた第三号橋跡があるとのことだが、見逃した。

諸羽トンネル東口


諸羽神社を崖下に見遣りながら先に進むと諸羽トンネル東口に出合う。出口前は広い「新諸羽舟溜り」となっている。舟溜り?諸羽トンネルが出来たのは昭和45年(1970)。その頃はトラックも貨物列車もあるわけで、それまで疏水で舟運が機能していたのだろうか?
チェックすると、明治35年(1902)、貨物用 14,647艘・旅客用 21,025艘と、賑わった疏水船運も、人の運搬は大正4年(1915)の京阪電車の京都と大津開通、JRも大正10年(1921)に東山トンネルを抜き山科に駅を開設するととともに激減、貨物運搬も昭和35年(1960)に疏水と京都市内の水路を繋ぐ蹴上インクライン(後述)の電気設備が撤去されており、機能は完全に停止したようだが、実質的には昭和26年(1951)には貨物運搬の舟運は終わったという。ということは、調整池といったものとして造られたのだろうか。よくわからない。

安朱橋(第4号橋)
「諸派舟溜り」から今度は北へと弧を描く山裾の水路を進むと安朱橋(第4号橋)。道すがらの案内によると、北にある毘沙門堂への道筋とのことだが、今回は急ぎ旅。寄り道の誘惑を断ち切り先に進む。橋の建設は第2号橋と同じく明治22年(1889)9月。当時は毘沙門堂と呼ばれたようだ。昭和3年(1928)、平成12年(2000)改修が行われ現在の姿となる。



安祥寺川水路橋
明治中期の建造とも言われる第5号橋を越えると水路は川を跨ぐ。川は安祥寺川。安祥寺川水路橋とでも称するのだろうか。水路橋の土台は煉瓦造り。アーチ型の美しい橋である。年代は不詳だが、明治の建造物だろうか。




安祥寺橋(第6号橋)
昭和29年(1954)、北にある洛東高校への通学路として造られた洛東橋を過ぎると、北へ弧を描いていた水路は、今度はS字を描いて南東へと進む。S字の支点辺りに安祥寺橋(第6号橋)。 この橋も、元は明治22年(1889)、疏水建設当初に造られた古い橋である。
すぐ北に安祥寺があるが、ひたすら水路を進むことのみに専念し、寄り道の誘惑はカット。安祥寺橋の先、水路は少し拡がるが、そこには安祥寺舟溜りがあったようだ。

妙応寺橋(第7号橋)
安祥寺舟溜りの先、南にU字形に突き出た山裾を進み、地図を見るに、南に妙応寺があるなあ、などと思いながら妙応寺橋(第7号橋)を越えると、疏水南に天智天皇陵が拡がる。妙応寺橋も明治22年(1889)9月に造られた歴史のある橋ではある。この橋も三角橋の形を保っている。





天智天皇陵
水路脇に石だったかコンクリートだったか、ともあれ天智天皇陵に沿って侵入を防ぐ柵が並ぶ。疏水を歩くまで、この地に天智天皇陵があるなど全く知らなかった。
○天智天皇
天智天皇と言えば、中大兄皇子=大化の改新、として知られるが、天智天皇即位の後、百済救援軍を派遣するも白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、唐・新羅連合軍の侵攻に備え西日本各地に土塁・城・見張り台など防衛施設を築くとともに、西暦667年、京を離れ近江大津の宮に遷都している。
で、大津の宮で謎の死をとげている。山科の郷に遠乗りに出かけ、行方不明となった。ここまでは知っていたのだが、この陵は、行方不明となり沓が見つかったところであった、とか。
疏水には関係ないが、百済系の天智天皇、新羅系の天武天皇など、『覇王不比等』だったか、『役小角』だったか、どちらか忘れたが黒須紀一郎さんの、日本・中国・朝鮮半島が一体となった当時のダイナミックな国際関係が誠に面白かった。

第8号橋・第9号橋
天智天皇陵に沿って進み明治中期の建造とされる8号橋、疏水北にある本圀寺を結ぶ本圀寺正嫡橋(昭和58年建造)、大正13年(1924)建造との三角橋である大岩橋(第9号橋)を越えるとトンネルと、その手前にアーチ型の橋が見えてくる。山ノ上橋(第10号橋)である。





山ノ上橋(第10号橋)
明治22年(1899)9月建造のこの橋は、もとは封山橋と称されていた、と言う。また、地名から黒岩橋とも、その形から太鼓橋とも称されたようだが、この橋は日本最初のアーチ型鉄筋コンクリート橋とのこと。後述する、日本最初の鉄筋コンクリート橋である第11号橋の建設データをもとに翌明治37年(1904)に改修された、と言う。
○琵琶湖第1疏水開通当時の橋
第1疏水は明治18年(1885)、青年技師田邊朔郎の指導のもとに着工、同23(1890)年に開通。ということは、疏水開通時点で疏水に架かっていた橋は、データで確認できるかぎりでは1号,2号,4号,6号,7号,10号橋、ということになる・

第1疏水第2トンネル東口
例のごとく「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内。歩きはじめたときは、なにも知らなかった琵琶湖疏水について、この案内で基本的な知識を得、また多くの問題意識をもつに至った有り難い案内であった。
この扁額案内には「仁似山悦智為水歓歡(じんはやまをもってよろこびちはみずをもってなるをよろこぶ)井上 馨 筆 仁者は動かない山によろこび、知者は流れゆく水によろこぶ」とあり、疏水の案内は重複をさけて簡単にまとめると「疏水工事は、外国人技術者の力を借りず、日本人だけの手で行われた一大プロジェクトであった。費用は当時のお金で60万円が見込まれていたが、念入りの工事を求める明治政府の意向で、当初の2倍以上となる125万円の予算(京都府の予算の2倍以上)が組まれた。
第2トンネルの付近、現在の山科区原西町(地下鉄東西線御陵駅付近)には、疏水に使う煉瓦の工場が作られ、約1,400万個もの煉瓦が作られた」とある。 125万って現在の貨幣価値でいくらくらいだろう。正確なことは不明だが明治の1円は現在の2万円の価値とするデータがあった。それを元にすると250億円ということになるが、これでもちょっと少ないようにも思う。井上薫のフレーズは論語から。煉瓦のあれこれは既にメモしたので省略。

第1疏水第2トンネル西口
トンネル南の山裾を迂回し第1疏水第2トンネル西口に。第2トンネルは124mと東口から西口が見えるほど。東口にあった「扁額でたどる琵琶湖疏水」には「隨山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる)西郷従道 筆 山にそって行くと水源にたどりつく。

第1トンネルの説明とほぼ同じ。扁額のフレーズは唐の劉長郷が山中に棲む隠者を尋ねる詩、「過雨看松色 随山到水源」に拠る、との記事があった。



日ノ岡取水場・日ノ岡舟溜り跡
日ノ岡取水池橋を越えると右手に日ノ岡取水場。この地で琵琶湖疏水から取水し、およそ4キロの導水トンネルを自然流化で下り、新山科浄水場に導水する。なお、この敷地は湖水建設当初の日ノ岡舟溜り跡とのことであった。
因みに「日ノ岡」とは、南北と西の三方が山に囲まれ、東が開けるこの地は、日の出とともに「日が当たる岡」といった説もあるようだ。



第11号橋
日ノ岡取水場を過ぎると前方にトンネル入口が見えるが、その手前に橋があり、その傍に「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内。「過雨看松色(かうしょうしょくをみる) 松方正義 筆 時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる」とある。
松方正義のフレーズは第2号トンネル西口にあった西郷従道のと同じ詩からの引用。
疏水の案内には、「眼前の第3トンネル付近には、明治36年(1903)7月、日本初の鉄筋コンクリート橋といわれる第11号橋が試造された。この橋の鉄筋は専用の材料がなかったため、疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されている。鉄筋コンクリートの技術は、のちに第2疏水の土木工事などに生かされた。
橋の東には、かつて日ノ岡船溜が広がり、疏水を行き交う船が泊まっていた。現在は埋め立てられ、新山科浄水場の取水池として利用されている」とある。

案内傍の橋を渡る。日本最初の鉄筋コンクリート橋も廻りは鉄柵で囲われており、少々窮屈そうではあるが、「日本初」というだけで、なんとなく有り難みを感じる。
なお、日本最初の鉄筋コンクリート橋は神戸の若狭橋といった記事もどこかで見付け、気になってチェックしたが、若狭橋が存在したエビデンスはなく、明治39年(1906)9月に神戸で建設された長狭橋の誤記ではないか、との記事があった。

第1疏水第3トンネル東口
トンネル入口に近づき、煉瓦造りの造形美を眺め、扁額も先ほどの案内を頼りに読み終える。トンネルはここから日ノ岡山を3キロ進み1m下るといった緩やかな勾配で850m地中を進む。
このトンネル、疏水工事計画当初はトンネルを山科から南禅寺山下隧道を経て若王子に抜くといった計画であったようだが、それは第1トンネル並みの難工事が予想されたため、南寄りの日岡山下のこのトンネルルートに変更されたようだ。
因みに、先にメモしたように、琵琶湖第2疏水工事に際しては、この第3トンネルからも1箇所の横穴を掘り、既にメモしたように第3トンネルと変更して進む「日ノ岡トンネル」計画路と繋ぎ、そこを拠点に左右に掘削し、作業員の出入り、材料の運搬、土砂の運び出し、湧き水の排除などに利用したとのことである。この辺りにも横坑跡が残るとの記事もあったが、見逃した。

「本邦最初鉄筋混凝土橋」碑
橋を渡ると石碑があり「本邦最初鉄筋混凝土橋」と刻まれる。混凝土=コンクリートのこと、である。裏面には「明治36年7月竣工、米蘭式鉄筋混凝土橋桁、工学博士田邊朔郎書之」と刻まれる。米蘭式とは「メラン式」というコンクリート工法の一種で、田邊朔郎氏が日本に紹介したとのこと。門外漢はこれ以上のコメントするに能わず。

藪漕ぎ撤退
碑を見た後、この先どう進もうとちょっと悩む。第11号橋の「扁額云々」の案内には、直進すれば南禅寺とあったのだが、その道は「私有地につき立ち入り禁止」となっている。車道を迂回するのもなんだかなあと、トンネル脇から山に這い上がり、先日歩いた南禅寺からの尾根道、京都一周トレイルのコースに進み水路出口に下ることに。
急な尾根筋を這い上がり、木々を踏み敷き藪漕ぎを開始してしばらくすると、下から大きな声が聞こえる。「山を下りなさい」と、言ってるようだ。事情はわからないが、取り敢えず、上った急斜面を下ると、声の主が。曰く、この山は南禅寺辺りまで、その方の私有地であり、キノコ採りの輩に荒らされるので侵入禁止としている、と。
知らぬとは言え、私有地に入り込んだことを謝り、仕方なく車道を迂回し第3トンネル西口のある蹴上に向かうことにする。

大名号碑
成り行きで進むと府道143号の日ノ岡交差点の東に出た。緩やかな坂道を上ると、道端に緑地があり、そこに大きな石碑がある。木食正禅養阿上人(1687~1763)は、江戸中期の木食上人のひとりである。巨大な石碑には「南無阿弥陀佛」と刻まれている。
脇にあった案内には「木食とは、草根木皮の生食のみで生きる難行中の難行を言う。当時の京都には、11ヶ所の無常所(6墓5三昧)があり、いずれも刑場に近いので、僧俗一般に敬遠され勝ちであった。しかし、上人は、敢えて寒夜を選んで念仏回向に回り、享保2(1717)年7月、永代供養のため、各所に名号碑を建立した。中でも粟田口、京都最大の刑場なので、一丈三尺(約4メートル)の特大にしたと旧記にある。
現在、下半分が補修されているが、更に復元すれば「南無阿弥陀仏木食正禅養 粟田口寒念佛墓廻り回向(享保三丁酉七月十五日 となるべきであろう。 もと九条山周辺にあったが、明治の排仏思想のおり、人為的に切断されて道路の溝蓋などに流用されたのである。その時の痛ましい痕跡は、今も石肌に判然と遺っている(陵ヶ岡自治会)」とある。
粟田口の刑場ってよく聞いてはいたのだが、この地にあったことは知らなかった。刑場はこの車道を少し上った「九条山バス停」の左の崖上辺りのようだ。 で、案内にあった「5三昧」って?チェックすると「火葬場」のことを指すようだ。また、案内に名号碑は4mとあるが、それほどの高さはないようだ。チェックすると、現在の高さは2.8m。明治時代の廃仏毀釈に遭い遺棄されたが、昭和8年(1933)には国道改修工事(現在は府道143号)の際に折れた上半部のみが出土し、現在地に据え置かれていたものを、昭和40年(1965)に下半部を修補・復元し再建された、とのことである。

日ノ岡宝塔様縁起
同じ緑地の中、大名号碑の先に僧形の像と石碑が建つ。案内には「日ノ岡宝塔様縁起」とあり、「桓武天皇奈良より京都へ遷都以来明治に亘る千有余年の間極刑場(粟田口処刑)が現在の九条山附近にありました。
この刑場で処刑されてはかなく消えた罪人の数は約一万五千人余にのぼったといわれ千人に一基ずつの供養塔が十五基各仏教諸宗の手で建てられたと伝えられています。
明治の初めこの刑場が廃止されたのち廃仏毀釈の難にあい、供養塔は取り壊され石垣や道路などいろいろな工事に転用されてその断片が処々に残っていました。
昭和十四年法華倶楽部小島愛之助翁(法華倶楽部創設者)が処刑者の霊の冥福を祈るために石の玄題塔断片を基石としてここに供養塔を建立し毎年春秋の二季に亡霊供養の法要を行い立正平和と交通安全も併せて祈っています」とあった。
石碑には、「立正安国/南妙法蓮華経/天晴地明」の題目が髭文字で刻まれている、とのこと。日蓮宗ではこのような石碑を宝塔と称するようだ。ということは僧形の主は日蓮上人ということだろうか。

日ノ岡峠
車の往来の多い道脇の歩道を進む。緩やかな上り道。昔は結構な難所であったようだ。メモの段階でわかったのだが、先ほどの「大名号碑」のあった緑地には「京津國道改良工事(昭和8年竣工)」の記念碑があり、その改良工事を報じる当時に新聞には「その昔の難所も今は夢の夢」とある。山科と大津を間の逢坂山と共に、京都と山科の間を遮るこの日ノ岡峠越えの道も、その時に緩やかな傾斜の道としたのだろう。
日ノ岡交差点辺りで府道143号と分かれた旧東海道が左手より合流した道の先、九条山バス停を越えた崖上辺りが「粟田口刑場」であったようだが、散歩当日は知る由もなく、疏水が地下を進むであろう道の右手へと入る道を探しながら進む。
バス停を越え、車道橋が道を跨ぐ辺りがピークのようで、道はそこから京に向かって下ってゆく。ピークには日ノ岡峠の標識はなかった。
地図を見るとこの車道橋辺りから右手に水路出口へと向かう道がある。成り行きで右手に入る道を進む

九条山浄水場
ゆったりと上りの道を進むと、道の左手に水路施設が見える。地図には「九条浄水場」とある。結構古いのだが、現在でも動いているのだろうかと京都市水道局のページをチェックするが、浄水場リストには載っていない。
あれこれチェックすると、この施設は明治45年(1912)、御所に防火用水を供給するために建設された御所水道の貯水池であり、大日山貯水池と呼ばれていたとのこと。
戦後、京都市の人工増加に対応し駐留軍の指示で御所水道の貯水池を改造し「九条浄水場」とし創業したが老朽化に伴い浄水機能は昭和62年(1987)に停止、また、御所水道の機能も平成8年(1998)年には停止したとのことである。
何故にこんな高所に?チェックすると、水圧を確保すべく御所の紫宸殿と41mの落差をもって鉄管で導水した。また、用水は第3トンネル西口のポンプ室から揚水し、30m上の貯水池に揚げたとのことである。
御所水道の鉄管がどこを進んだのか気になるのだが、次の機会のお楽しみとして、ここはこれ以上の思考停止。

日向大神宮参道に合流
浄水場を過ぎ、道なりに高度を下げて進むと「日向大神宮」への参道に合わさる。この道はしばらく前大学時代の友人と歩いた道。蹴上から日向大神宮を経て大文字山の火床から京の街を眺め、銀閣寺へと下っていった。このコースは伏見稲荷からはじまり、東山・比叡山を経て大原・鞍馬に。更に西賀茂から高尾・清滝を経て嵐山に至る京都一周トレイルの一部でもあった。
そういえば、このときの散歩のメモを書いていないなあ、などと思いながらその時上った道を逆に下る。


第1疏水第3トンネル西口
道を下ると左手に水路が見えてくる。下りきった辺りで水路奥を見るとトンネルが見える。第1疏水第3トンネル西口である。日ノ岡山を850mの距離を、3キロで1m下るといった傾斜で進んできたわけだ。
例によって「扁額でたどる琵琶湖疏水」には、「美哉山河(うるわしきかなさんが) 三条實美 筆 なんと美しい山河であろう」とある。フレーズは『史記・呉記列伝』よりの引用。疏水の案内は今まで記載したもの以上のものは書いていないので省略する。

九条浄水場ポンプ室
第1疏水第3トンネル西口の出口脇に美しい煉瓦造りの建物が見える。散歩の時は、特に案内もないので、第1疏水関連施設かと思っていたのだが、先ほど出合った九条浄水場が御所水道の貯水池(大日山貯水池)であった頃、疏水の水をポンプアップする揚水施設であった。
御所水道とは言え、余りに凝った造形。何か理由は?チェックすると当時皇太子殿下であった大正天皇が琵琶湖から琵琶湖疏水を京都へ下る計画があり、この地でお迎えすることになり、明治45年(1912)、京都帝室博物館(現在の京都国立博物館)を設計した片山東熊や山本直三郎氏が設計担当した。結局、この年は明治天皇が崩御し、計画は流れたとのことである。

琵琶湖第2疏水合流点
九条浄水場ポンプ室の手前にトンネルと洗堰のような構造物が見える。メモの段階でチェックすると、そのトンネルは琵琶湖第2疏水日ノ岡トンネルの出口。琵琶湖第2疏水が第1疏水に合わさるところであった。




蹴上舟溜り跡
第2疏水が第1疏水に合わさる辺りの水路は、疏水建設当時、蹴上舟溜りであったようだ。その後、九条浄水場ポンプ室手前に蹴上・山之内浄水場の取水池が造られたため、当初からは大きく縮小され、舟溜りの面影は遺らない。
疏水の説明で、「ここで合流した琵琶湖疏水の水は浄水用と発電用に分けられる」といった記事をよく見る。しかし、メモの過程で冬場には第1疏水は、保守管理だったか何だったか、ともあれ「停止」する」とある。
では、蹴上・山之内浄水場の取水池に水はどのようにして送るの?第2疏水と取水池の間には第1疏水があるわけで、サイフォンで第2疏水から取水池に送るのだろうか?チェックすると、そもそもの山之内浄水場は平成25年(2013)には廃止されたようである。ということは説明にある、「浄水用に分けられる」機能は無くなったということだろうか。

合流トンネル入口
第1疏水と第2疏水の水が合流した「溜り」に架かる大神宮橋の南はインクライン。すぐ南で水は消える。疏水はどこに流れるの?橋の北詰めに水門ゲートがある。水は赤いゲートの下に流れる。ここが合流トンネル入口だろうか。
とは言うものの、上でメモしたように、冬場は第1疏水の水は止まる、と言う。それでは第2疏水の水は?
第2疏水が日ノ岡トンネルから出る辺り、第1疏水との合流箇所辺りをGoogle Mapの航空写真で見ると、出口右手にトンネル入口らしき呑口が見える。その後、蹴上げ辺りのジオラマの画像をどこかで見付けたのだが、そこには第2疏水の吐口の右手にしっかりと「呑口」が見えた。第2疏水の水はこのトンネルを通り、先に進むのであろう。
ということは、この赤いゲートは第2疏水が出来るまでの舟溜りから先に進むトンネルの入口であったのか、とも思う。また、上でメモしたように、第2疏水から直接先に進むトンネルが出来た後は、このゲートからの水も地中のどこかで合流し出口に進むのだろうとは思う。が、単なる妄想。根拠なし。

インクライン・運輸船
大神宮橋を渡り先に進むと、水の切れた辺りに線路と台車に乗った舟がある。案内には「この木造船は、明治23年に竣工した琵琶湖疏水で使用されていた運輸船を復元したもの。当時は、船ごとインクライン(傾斜鉄道)の台車に載せて、この坂を昇降していた」とあった。
○インクライン
傍にあったインクラインの案内によれば、「インクライン運転の仕組み;このインクラインは、第3トンネルを掘削した土砂を埋め立てて作られました。この蹴上船溜(ダム)から南禅寺船溜までの延長は約582mです。落差が約36mあるため、この間はどうしても陸送になりました。インクラインはレールを四本敷設した複線の傾斜鉄道です。両船溜に到着した船が、旅客や貨物をのせ替えることなく運行できるよう考えられたのがこのインクラインです。
建設当初は、水車動力でドラム(巻上機)を回転して、ワイヤーロープを巻き上げて台車を上下させる設計でしたが、蹴上水力発電所の完成により電力使用に設計変更されました。
ドラムは、最初は蹴上船溜の上にありましたが、後に南禅寺船溜北側の建物に移転し改造されました。台車を上下させる仕組みは、(中略)直径3.6mのドラムを35馬力(25kw)の直流電動機で回転させて、直径約3cmのワイヤーロープを巻き上げて運転していました。蹴上船溜の水中部には、直径3.2mの水中滑車(展示品)を水中に設置していました。また、レールは当初イギリスから輸入され、軌道中心には直径約60cmの縄受車を約9m間隔に設置し、ワイヤーロープが地面にすれるのを防ぎ、円滑に巻き取れるようにしてありました。ちょうどケーブルカー(鋼索鉄道)のような仕組みで、2段変速できるようになっていて、片道の所要時間としては10~15分かかりました。 琵琶湖疏水記念館にインクラインの模型(1/50)を展示しています(平成15年3月1日 京都市水道局)」とあった。

○蹴上
蹴上げって、いつだったか京都のスタンフォードセンターを訪れるまで、我流解釈で全くの思い違いをしていた。明治時代に完成した琵琶湖疎水には用水と発電と水運といったいくつかの機能があり、水運では、琵琶湖と鴨川を結んだことは知っていたので、この岡崎付近は琵琶湖へのルートとの勾配が急すぎるため、船を台車に乗せて、線路を移動させたという。その船を動かす梃子の姿を勝手にイメージして、それを「蹴上げ」と呼ぶのだろうと思っていた。
実のところ、蹴上げは船とか台車とかは関係ない。源義経にその由来があった。義経、当時の遮那王が奥州に下る際、この地で美濃の侍一行とすれ違う。武者の馬が泥水を蹴り上げ遮那王の衣服を汚す。激怒した遮那王は武者と従者の9人を斬り殺したという。これが蹴上という地名の由来伝説。『山城名勝志』巻第13(『新修京都叢書』第14)に、次のように書かれている。○蹴上水{在粟田口神明山東南麓土人云関原與市重治被討所}異本義經記云安元三年初秋ノ比美濃國ノ住人關原與市重治ト云者在京シタリ私用ノ事有テ江州ニ赴タリ山階ノ辺邊ニテ御曹司ニ行逢重治ハ馬上ナリ折節雨ノ後ニテ蹄蹟ニ水ノ有シヲ蹴掛奉ル義經 其無禮ヲ尤テ及闘諍重治終ニ討レ家人ハ迯去ヌ、と。
思い違いをもうひとつ。船を台車に乗せて、線路を移動させ急勾配の水位差を吸収する方法をインクラインという。インクライン=incline(傾斜)の意味の英語である。これも、インク=友禅染めから来ている愛称と勝手に思い込んでいた。

山ノ内浄水場導水管
インクラインの坂を見遣りながら成り行きで進むと、大きな導水管があった。案内に拠れば、[この管は、ダクタイル鋳鉄管といい、水道管の殆どにこの管種を使用しています。強度があり、耐久性があるのが特徴です。これは直管といい、直線区間に使用し、直径1.65m、長さ4m、重さ約トンあります。この他に曲がった区間や分岐する所には、異形管という管材料を組み合わせながら、継手用のゴム輪、押輪、ボルト・ナットを用いて接続します。
第2疎水から取水した原水は、水中のゴミや藻類などを取水池の自動除塵機で取り除いた後、この管と同じものを使って、インクラインから仁王門通、冷泉通、鴨川横断、御池通を通り約8km先の右京区にある山ノ内浄水場まで導水しています。
この管で1日26万4千立方メートル(縦64m×横64m×長さ64mの立方体相当)の原水を送る能力があり、山ノ内浄水場に着くと薬品ぎょう集沈でん、急速砂ろ過、塩素消毒をした後、西京区・右京区・中京区・南区に設定した区域内に給水しています。
京都市には、このほか蹴上、松ヶ崎、新山科の3浄水場がありますが、いずれもこのような導水管や導水トンネルで疎水の水を送り続けて、市民の皆さんが安心してご使用していただけるようにお応えしています(平成15年3月1日 京都市水道局)]とあった。
説明に「第2疎水から取水した原水は」とあるが、上でメモしたように、第2疎水と取水池の間には第1疏水があるわけで、とすればサイフォンといったもので送ったのではあろうが、そもそもの浄水場が平成25年(2013)に廃止されている。

合流トンネル出口
先に進むと右手に水路が現れる。水路右手奥に「合流トンネルの出口洞門」があり、田邊朔郎が揮毫した扁額「藉水利資人工」があったようだが、成り行きで進んだため見逃した。事前準備無しの、後の祭りパターンである。インクラインにあった「史跡 琵琶湖疏水」の案内には合流トンネルは長さ87mとあった。




洗堰
合流した疏水水路を先に進むと洗堰に出合う。洗堰から流れ落ちる水は蹴上発電所の2本の水圧鉄管のひとつに送られる、との説明があった。洗堰先には下に下る2本の水圧鉄管が見える。





蹴上発電所水圧鉄管
洗堰の先に除塵機らしき装置があり、その先に2本の水圧鉄管が下る。蹴上発電所に疏水の水を送る水圧鉄管である。蹴上発電所は当初の計画であった水車動力が京都には適しないと、変更になり計画されたもの。明治24年(1891年)6月に発電機2台で運転を開始した。
当初は電力需要もそれほどなく、自ら需要環境をつくるため計画されたのが電気鉄道とのことは既にメモした通り。明治28年(1895年)には、塩小路(現在の京都駅)~伏見駅へ走る日本初の市街電気鉄道(京都市電)が開通した、と言う。蹴上発電所は、開業から100年以上を経た今でも現役で、京都の街へ電気を送り続けている、と言う。

これで本日の琵琶湖疏水散歩、正確には琵琶湖第2疏水散歩は終了。ついでのことと、また、冬枯れ、と言うか、メンテナンスのため(?)に水気の少なかった疏水散歩の締めに、いつだったか訪れたことのある、琵琶湖疏水が流れる南禅寺水路閣に向かうことにする。

疏水分線の水路
水圧鉄管を越えると、北に延びる結構広い水路が「溜る」。「溜り」の突き当たり手前の右手から水路が合わさる。何だろう?あれこれチェックすると明治20年(1887)に第4トンネル(136m)が蹴上舟溜あたりから貫通したという。後にメモするが、「史跡 琵琶湖疏水」の案内に水路図があり、そこには合流トンネル内部で分岐し右に折れる第4トンネルが描かれていた。
その水路?とも思ったのだが、この第4トンネルは琵琶湖第2疏水完成跡には使用されなくなった、という。吐口も確認できていない。どうも、第4トンネルとは関係ないようだ。
航空写真でチェックすると、蹴上発電所水圧鉄管上の「溜まり」より続き、南禅寺水路閣への水路と繋がれていた。発電用の水を落とした後の、南禅寺から哲学の道へと続く「疏水分線」への水路のスタート地点ではあろうか。
○第4トンネルと合流トンネル
第4トンネルって説明が案内にあるのだが、これって第1疏水工事が完成した頃に造られたもののよう。建設当時の写真には蹴上の舟溜りの脇、現在の合流トンネルのある位置に開削されているように思える。
上でメモしたように、第4トンネルは琵琶湖第2疏水完成後には使用されなくなった、とのことでもあるので、第4トンネルの呑口=合流トンネル呑口かとも妄想する。「史跡 琵琶湖疏水」の案内には合流トンネル内部で分岐し、ひとつは合流トンネル吐口へ、第4トンネルは右手へと分岐しているが、第4トンネルの吐口第4トンネルがはっきりしない。現在も使われているかどうか不明もある。

南禅寺トンネル方面

で、この「溜り」の先は左手には水門があるが、正面の山に呑み込まれる呑口らしきものもある。散歩の時は、何だろう?と思っていたのだが、「史跡 琵琶湖疏水」には、この箇所あたりから 全長1000mの南禅寺トンネルが描かれていた。南禅寺トンネルの呑口かと思ったのだが、南禅寺トンネルの呑口は確認されていない、といった記事があるので、これは南禅寺トンネルの呑口ではないのだろう。
では南禅寺トンネルの呑口は?あれこれチェックしたがはっきりとした記事が見つからなかった。その内に京都に行ったときにでも、琵琶湖疏水の記念館でも訪ねてみようと思う。

南禅寺水路閣
「溜り」の左手に水門があり、そこから勢いよく水が流れる。南禅寺水路閣を経て哲学道の水路を流れる水路は「疏水分線」だろう。
突然増える観光脚客に混じり水路に沿って進み、南禅寺水路閣を見終え、南禅寺をスルーして地下鉄東西線の蹴上駅に。南禅寺水路閣はあまりに有名でありメモは省略する。


蹴上・ねじりマンポ
成り行きで蹴上駅に向かう。途中、何気なくインクラインの下を潜る通路を抜けたのだが、駅方向に出たところの上に扁額があった。
メモの段階でチェックするとそこは「ねじりマンボ」と呼ばれるところであり、扁額は南禅寺側は「陽気発所」、蹴上駅側は「雄觀奇想(ゆうかんきそう)」。
北垣国道筆で、陽気発処とは、『朱子語類』からの引用で 「陽気発処、金石亦透、精神一到、何事不成」 、即ち「陽気(内に秘めたやる気)が発動すれば、金や石も突き通してしまう。 精神を集中し事を為せば、何事でも成し遂げることができる」との意。
「雄観奇想」の出典はわからなかったが、「素晴らしい眺めと優れた考え」との意。簿琵琶湖疏水完成の姿をイメージしたフレーズとも言われる。 で、「ねじりマンボ」。「マンボ」は鉱山などのトンネルに使う「まぶ=間府」ではあろうが、「ねじりマンボ」という工法はトンネルと線路が直角に交わっていない場合に、斜めの線路(この場合は傾斜のあるインクライン)と直交わするように煉瓦を積んでゆく工法で、トンネル内部から見た煉瓦は捻れたように見えるため「ねじりマンボ」と称されるとのこと。散歩の時にはそんなことは何も知らず、お気楽に通り抜け、蹴上駅に向かい、京都駅に戻り、一路田舎へと。
誠に、誠にお気楽に歩いた琵琶湖疏水ではあったが、メモの段になりあれこれ気になることが多くあり、結果的に当日の、のんびり歩いただけとはほど遠い、結構長いメモとなった。 最後に、「インクライン」にあった、琵琶湖疏水の案内を記入し、メモを終えことにする。


○史跡 琵琶湖疏水
 「史跡 琵琶湖疏水  1869(明治2)年に東京へ都が移り、産業も人口も急激に衰退していく京都にあって,第3代京都府知事の北垣国道は、京都に隣接し水量が豊かな琵琶湖に着目して、疏水を開削することによって琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力、灌漑、防火などに利用することによって京都の産業振興を図ろうとしました。この疏水工事の御用掛に選ばれたのが、1883(明治16)年に工部省工部大学校を卒業したばかりの田邊朔郎でした。1881年(明治14)に本格的に検討に入り、1885年(明治18)に着工、1890(明治23)年に竣工しました。 琵琶湖疏水の建設工事は最も難関が予想された第1隧道(トンネル)から取りかかることになり、施工方法についてもトンネルの両側からの掘削の他、日本で最初の試みとしてトンネルの途中に竪坑(深さ47m)を掘削する方式も採用しています。 このインクライン(傾斜鉄道)は日本で初めての試みで、これによって船を南禅寺の平地へ下ろすことが可能となり、舟溜から鴨川までは鴨東運河で結んでいます。 1891(明治24)年には米国コロラド州アスペンの水力発電所を参考にした日本最初の水力発電所が蹴上に完成し、同年11月に送電を開始しています。インクラインの運転動力もこの電力を利用しています。 水力発電は新しい産業の振興に絶大な能力を発揮し、京都市発展の一大原動力となりました。 疏水工事は、1885(明治18)年6月に着工して以来、数々の困難を乗り越えて1890(明治23)年3月に大津から鴨川落合までが完成し、それより以南は1892(明治25)年11月に着工して、1894(明治27)年9月に完成しました。琵琶湖第1疎水の建設に携わった人員は、のべ400万人でした。 琵琶湖疏水は、当時の日本の大規模な工事がすべて外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって、日本人のみによって行われた最初の近代的な大土木事業であり、明治期における日本の土木技術水準の到達点を示す近代遺産として、1996(平成8)年6月に、このインクラインをはじめ12箇所が国の史跡に指定されています。 この疏水の水は、現在においても水道用水の他、発電、防火、工業など多目的に利用されており、京都市民の生活を支える重要な役割を担っています」。

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