2015年2月アーカイブ

二ヶ領用水散歩のほんのついでにと、戯れに訪れた大丸用水ではあるが、その規模は予想外に大きく、大丸用水の二つに分かれれる幹線水路のひとつである「菅掘」を三度に分けてを歩くこととなった。
四度目の今回は、「菅掘」と共に大丸用水の幹線水路の残りのひとつである「大堀」を辿ることにする。「大堀」は南武線・南多摩駅北の「分量樋」で「菅掘」と分かれ、南武線の南、都道9号の南を進み、南武線・矢野口駅南を下り、京王・稲田堤駅の西、穴沢天神社の東辺りで三沢川に合流する。清水川とも称される、おおよそ5キロ強の用水路である。


本日のルート;南武線・南多摩駅北の分量樋>都道9号を越えると開渠となる>宿掘分岐>稲城第四保育園>五反田掘が分かれる>稲城第三小学校辺りで暗渠に>青渭神社>五反田掘が合流>久保堀が合流>都道9号に接近し開渠となって姿を現す>都道9号バイパスを越える>稲城第一小学校南へ開渠で下る>中掘が分かれる>柳田掘合流点>都道19号を越える>豊堀が合流>川崎市立菅中学校の敷地を潜る>京王線の高架を潜る>三沢川に注ぐ

南武線・南多摩駅北の分量樋
大丸用水堰で多摩川から取水された水は「うち掘」を流れ、南武線・南多摩駅北の分量樋で「菅掘」と「大掘」に分かれる。右手に分かれた「大掘」は南武線高架工事の跡地の駅前に細い水路となってその姿を残すが、すぐに工事跡地の地中に潜り、都道9号・大丸交差点方面へ下る。




都道9号を越えると開渠となる
都道9号の大丸交差点辺りで水路を探すと、交差点の少し西に水路が顔を出している。交差点を渡り、水路に沿って進む。結構雰囲気のいい用水の景観を呈する。








宿掘分岐
先に進むと、道が二つに分かれる辺りで一瞬暗渠となるが、道の左手に水路が見える。今までのきっちりした用水掘とは異なり、二手にわかれる左手の水路は宅地工事の影響の残る、雑とした雰囲気で民家の前を進む。一方、右に分かれる水路は上を鉄板で覆われ民家に間に入ってゆく。本流は右手に分かれた水路。左手に分かれた水路は「宿掘」である。

◎宿掘;「菅掘」と別れた「大堀」が都道9号の南に越えてほどなく「大堀」から分流した後、東流し南武線を越え、「菅掘」から分流した「新堀」と南武線の北で合流する。


稲城第四保育園
「宿掘」との分流点では宅地工事の影響か、結構「雑」な姿であった「大掘」は民家の間を「しっかり」とした用水の姿に戻って南東に進み、稲城第四保育園の南をぐるりと廻って結構大きな車道に出る






五反田掘が分かれる
車道脇の歩行者道路に沿って流れる水路はほどなく直角に曲がる。直角に曲がる地点の水路にゴミの流入を防ぐ柵のついた「取水口」が見える。この取水口の先は「五反田掘」のようである。

◎五反田掘;「宿掘」分流点を先に進み、開渠部分が直角に曲がる地点で分流し、そのまま東流し、都道9号まで接近したところで流路を南東に変え、「久保掘」が「大堀」に合流する少し手前で「大堀」に合流する。


稲城第三小学校辺りで暗渠に
「五反田掘」分流点で直角に曲がった「大掘」はその先の車道で再び直角に曲がり、道に沿って開渠で進むが、先の稲城第三小学校辺りで暗渠となる。









青渭神社
稲城第三小学校を越えると青渭神社が水路の北に佇む。周囲を宅地に囲まれ、社殿も昭和49年(1974)造営のコンクリートの建物ではあるのだが、境内の醸し出す雰囲気は古い趣を残す。
鳥居脇の案内には「昔はこの付近に大きな青い沼があり、その神霊を祀ったことが起源とされる。そのために別に青沼大明神とも称される。祭神は出雲系の青渭神で農耕や生活に霊験あらたかな神である。本殿は昭和49年に改築されたものである。
毎年10月1日の祭礼には、市指定文化財の獅子舞が奉納される。この獅子舞の起源を明らかにするものはないが、大正4年より23年間中断していたのを、昭和12年に復活して現在にいたる。舞の形は、大獅子、女獅子、求獅子の三頭の獅子と天狗によるもので、はやし方は笛吹、貝吹、歌方によって構成される。(稲城市掲示より)」とあった。
また、拝殿脇の由緒には「当社創建の年代は詳らかでないが、光仁年中の創立との伝承がある。延喜式神名帳所載の多摩八座の一社で古社である。祭神は青渭神猿田彦命天鈿女命を祀る。昔は大沼明神又は青沼大明神と称した。大祭には青渭獅子舞奉納の神事がある。現社殿は昭和四十九年の造営であるが本殿は往昔のままで数百年を経ている。明治六年郷社に列せらる」とあった。
由緒には、延喜式神名帳所載の多摩八座の一社とある。延喜式の「武蔵國多磨郡 青渭神社」の論社には、この社の他、深大寺の北、青梅市沢井にも青渭神社がある。実際、『新編武蔵風土記稿』の東長沼村・青沼社の件(くだり)には、「村の西に在。猿田彦命を祀れり。青沼大明神と号す。相傳ふ此邊に大なる沼ありて、その沼より神体出現せり。故に昔は大沼明神とかきしと。されどこの説もかたりつたへのみなれば、いかがはあらん。「神名帳」にのせたる青渭神社は、もしくは当社ならんかとおもはるれど、郡内上澤井村(現青梅市)にも青渭神社と称する社あり。かの社傳もたしかならざれば、いささかここにも記しおくのみ、今はおしなべて水田となれり。小社にて三間半に四間半の覆屋あり。前に鳥居をたつ。村内の鎮守なり。神主福嶋左内」とあり、沢井村の青渭神社も論社として記載されている。


五反田掘が合流
暗渠を先に進むと梨畑の脇から水路が合流する。水は流れてはいないが、この「溝」は先ほど分かれた「五反田掘」であり、この地で「大掘」に戻る。








久保掘が合流
「五反田掘」が合流した地点の直ぐ先、南北に走る道路が「大掘」の道筋と交差する地点に北から水路が合わさる。「久保掘」がこれである。道の南には「切方掘」が進むと言うが、暗渠のため、流路は不明である。
◎久保掘;南武線・稲城長沼駅の南を進んできた「新掘」が、南武線・稲城長沼駅の東で高架を潜る手前で「新堀」から分かれ南に下り「大掘」に合わさる。既にメモしたが、「新掘」からの分流点は駅前再開発なのか、宅地化工事のため分流点は確認できなかった。
◎切方掘;「久保掘」が「大堀」に合流する地点で分流し、三沢川に向かって南流し、三沢川の少し北を川に沿って進み、穴沢天神の少し東で三沢川に合流する。




都道9号に接近し開渠となって姿を現す
「久保掘」が合わさる地点から都道9号に向かって進み、道が緩やかに弧を描く辺りの民家に近づくと、突然大きな水音が聞こえ、開渠となる。この音は、水路脇に住んでいる方には結構きついのでは、などといらぬお節介を抱くほどの勢いであった。





都道9号バイパスを越える
開渠となった水路は民家の間を縫って進む。水路に沿っては簡単に勧めない。行きつ戻りつを繰り返しながら先に進むと、都道9号バイパス手前で水路はコンクリートの蓋で覆われ、都道9号バイパスをコンクリートの箱形樋で渡る。






稲城第一小学校南へ開渠で下る
都道9号を越えた水路は開渠となり、南へ流れを変えて都道19号を越え、時に水路脇を辿れるとは言うものの、基本民家の間を縫って稲城第一小学校南へとくだってゆく。







中掘が分かれる
小学校を越えると水路に水門が現れる。水門手前に取水口らしきものが見えるが、これは「中掘」への分流点であろう。
◎中掘;稲城第一小学校の東で「大堀」から分流し、「切方掘」の北を併走し、稲城第七小学校の南で「切方掘」に合流する。





柳田掘合流点
「中掘」合流点から開渠を辿り、水路がクランク状に曲がる地点で「柳田掘」が合わさる。水路沿いに道はなく、クランク状「大掘」の流れに注ぐ水流が見えるが、そこが合流点のように思える。
◎柳田掘;「久保掘」分流点の北、南武線の踏切を渡った先で「新堀」から分流し、南東に向かい南武線を越え、川崎街道・東長沼陸橋交差点を経て稲城第一小学校北を下り「大堀(清水川)」に合流する

都道19号を越える
柳田掘の合流点から先、水路は地中に姿を消し、都道19号・鶴川街道に向かって進む。途中、「下新田掘」、「大和掘」が「大掘」に合わさるようだが、合流する水路も本流も地中に潜るため、合流点は確認できない。都道19号に接近した水路は開渠となって進む。

◎下新田掘;「新掘」が稲城大橋から南下する都道9号バイパスとクロスした先で分流し、南東に下り、「柳田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する、とのこと。 ◎大和掘;「新掘」が「菅掘」に合流する少し手前で「新堀」から分流し、南東に下り、「下新田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する、とのこと。


豊堀が合流
都道19号を越えた水路は開渠で先に進む。基本、水路に沿って道があるのだが、しばらくすると宅地から耕地となり「この先行き止まり」といった案内。なんとかなるか、と先に進むと、笹薮に前を遮られ先に進むのが難しそうになる。
が、その笹薮の先には水路が見えている。「豊堀」であろうから、なんとか合流点を確認しようと、文字通り竹藪漕ぎ。結構丈夫な竹を折り敷き、なんとか藪を抜け「豊堀」の水路に。
細い水路を跨ぎ、「豊堀」が「大堀」に注ぐ箇所の写真を撮り、さてこれから先はどうしようと、少々悩む。再び反発力の大きい竹を折り敷き元の道に戻るか、「豊堀」の左手の畑を抜けて道にでるか、H鋼で補強された「大堀」のコンクリート護岸壁の上を進むかの三択。結局先に進めるかどうかの保証はないのだが、H鋼で補強された「大堀」に沿って進むことにした。幸運に成り行きで進むとっ水路は道路に辺り、道に復帰できた。

◎豊掘;南武線・矢野口駅の西、都道9号から南下し、すぐ南を流れる「大堀」に合流する短い水路


川崎市立菅中学校の敷地を潜る
水路は川崎市立菅中学校の校庭に開渠で進む。校庭を抜けると開渠なるが、再び学校の東を敷地に沿って暗渠となって進み、学校敷地南端で左に折れ学校の敷地に沿って進み、中ほどで流路を南に変え開渠となる。






京王線の高架を潜る
開渠となった水路は都市型の水路となり民家の間を南に下る。水路に沿って進むことはできないが、時に水路に延びる道があれば中に入り込み水路を確認しながら先に進むと前方に京王相模原線の高架が見えてくる。










三沢川に注ぐ
京王線を越えた水路は民家の間を南へ進む。水路に沿って進むことはできないため、水路に沿った道を進むが、水路を渡る小橋があると橋まで進み水路を確認。先に水門施設が見えてくる。成り行きで進み成り行きで右に折れると水門脇に出る。
「大堀」はここで三沢川に注ぎ、「大堀」散歩はここで終了。後は三沢川に沿って成り行きで京王線・稲田堤駅に向かい、一路家路へと。

長かった大丸用水散歩もこれで一応終了。これでやっと本来メモする予定であった「二ヶ領用水散歩」に移ることができるようになった。
先回の散歩で、南武線・南多摩駅北の分量樋で「大堀」と分かれる大丸用水の幹線水路のひとつ、「菅掘」からの分流用水路である「新堀」と「中野島用水堀」、そして、準幹線水路とも言える、このふたつの用水堀から更に分流、または用水堀に合流する支流を辿った。 今回は、「菅掘」から分かれる、もうひとつの準幹線水路といった「押立用水堀」を辿ることにする。
「押立用水掘」は分量樋の少し東で「菅掘」から分流し、多摩川堤に向かって進み、都道9号バイパスを渡り、流路を南東に変え、南武線・矢野口駅の北辺りで多摩川に注ぐ。




本日のルート;南武線・南多摩駅>押立用水堀の分流点>末新田堀交差>「いちょう並木通り」手前で分流>「いちょう並木通り」を越え自然護岸で水路が並走>並走した「新田掘支流」が南東に分かれる>多度神社>多摩川堤に沿って東流>向田堀が分流>川間堀が分流>開渠>本田堀が分流>梨花幼稚園>都道9号バイパス>バイパスを越えて東流>枝流が分かれた先は自然の水路となる>押立堀公園>押立緑道>稲城第四中学校を越えると開渠に>押立堀用水排水機場>多摩川に注ぐ


南武線・南多摩駅
最寄り駅の南武線・南多摩駅で下車。南多摩駅は東京都稲城市にある。この地は鎌倉の頃、稲毛一族の本拠地であり、にもかかわらず、「稲毛」ではなく「稲城」としたのは?チェックしたが、由来は不明。明治22年(1889)、東長沼・矢野口・大丸・百村・坂浜・平尾の六ヶ村が町村制の施行に際し合併し「稲城村」となった。合併に際し「稲毛村」を上申するも神奈川県の許可が得られなかった、とか。その理由は不明。 また、「稲城」が候補として挙がった経緯は、矢野口・東長沼・大丸の地に砦(小沢城・長沼城・大丸城)があったこと、そして、この地が稲の産地であったことを勘案しての案とも伝わるが、詳細は不明である。

押立用水堀の分流点
駅北の分量樋を見遣り、「菅堀」に沿って「吉田新田堀」の交差水路橋、「下新田堀」の分流点まで東流し、「下新田堀」の分流点から南東に流れを変えた水路を少し下ると「押立用水堀」との分流点となる。
◎吉田新田掘;大丸堰で取水され分量樋で「菅掘」と「大堀」に分流されるまでを「うち掘」と称されるが、「吉田新田掘」はこの「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)からの分流か定かではないが、「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。

末新田堀交差
柳の木広場を右手に見遣りながら、豊かな水量の用水脇の道を辿ると「末新田堀」がコンクリートの箱型樋で「押立用水堀」を立体交差する。
◎末新田掘:南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。


「いちょう並木通り」手前で分流

「末新田堀」との交差を越えた水路は「いちょう並木通りに向かう。通りの手前で水路は大きくふたつに分かれる。







「いちょう並木通り」を越え自然護岸で水路が並走
通りを越えると、ここでも分流樋が見える。水路も三つの流れとなっている。「いちょう並木通り」手前に分流箇所があったので、そこが「新田堀一派」かとも思ったのだが、「いちょう並木通り」を越えた先の分流樋から右に分かれるのが「新田堀一派」のように思えるので、「いちょう並木通り」手前で左手に分かれた水路は、三つの流れの左手の流れかもしれない。
民家の間を流れる水路に沿って少々強引に道を進む。と、すぐ先で風情は一変。誠に美しい自然護岸の流路が現れる。水路は三つの自然な流れとなって並走する。大丸用水散歩を通して、最も美しい箇所であった。

並走した「新田掘支流」が南東に分かれる
少々足元の覚束ない自然護岸を進むと、その先で結構大きな道が水路を遮る。柵を乗り越え道に出る。並走した「新田堀一派」はこの道を南に下るが、本流はそのまま多摩川の堤に向かって進む。
「押立用水堀」はこの先、畑地を通り、水路に沿って歩くことはできない。水路には末流からの水路だろうか、コンクリート箱型樋が畑地と畑地を結んでいる。
◎新田掘支流;「押立用水掘」が「いちょう並木」を越えた先で分流し、しばし「押立用水掘」と併走した後、多摩川堤で流路を南東に変え、稲城市第四図書館南で「菅掘」に合流する

多度神社
多摩川堤に沿って通る道に迂回し先に進む。道の下に水路を見遣りながらすすむと神社が見える。多度神社である。下を流れる用水と相まって、なかなかいい風情である。
この多度神社、主祭神は多度大神と言う。多度の大神と言えば伊勢の豪族が多度山を神体山として祀った桑名の多度大社が知られるが、この社は天明四年(1784年)に多摩川の堤防を守ることを願い、その桑名の多度大神を勧請したものと伝わる。
○多度大神
因みに、多度大神と言えば、神仏習合のはしりの社として知られる。仏教が伝来し、次第にその教えが普及するにつれ、奈良時代には日本の神々も仏教に帰依する、といった流れができてくる。「神の身を受けているゆえに苦悩は深い。よって仏法に帰依して神道から逃れたい」ということである。「八世紀後半から九世紀前半にかけて、全国各地で地域の大神として人々の信仰を集めていた神々が、次々に神であることを苦しさを訴え、その苦境から脱出するために、神の身を離れ(神身離脱)、仏教に帰依することを求めるようになってきた(『神仏習合』義江彰夫著)」とのことだが、常盤国鹿島大神、若狭国若狭彦大神とともに、伊勢国多度大神もこの託宣を奉じた神として知られる。

多摩川堤に沿って東流
水路は多摩川堤の道路下を東に進む。堤の北の河川敷は「稲城北緑地」となっている。ちょっと風情あるメガネ橋を越え、堤に最接近した水路は流れを南東へと変える。





向田堀が分流
南東に流路を変えた水路が東流し始めてほどなく「向田堀」が分かれる。誠にささやかな、自然の流れとなって南東へと梨畑の中を下る。
◎向田掘;多摩川堤手前を進む「押立用水掘」が、多摩川堤の稲城北緑地公園を越えた辺りで分流し、南東に下り、都道9号バイパスを越えた先で「中野島用水掘」に合流する。





川間堀が分流
「向田堀」が分かれたすぐ東、水路が比較的大きな道と合流する手前で「川間堀」が分かれる。自然な水路で分かれる「向田堀」とはことなり、こちらはコンクリートの小さい溝となって分流する。道路を南に越えた水路は自然水路として梨畑の中を下ってゆく。
◎川間掘;「向田掘」が「押立用水掘」から分流するすこし先で分流し、「向田掘」にほぼ平行に南東に下り、都道9号バイパス越え、「向田掘」が「中野島用水堀」に注ぐ少し東で同じく「中野島用水掘」に合流する。

開渠
「川間堀」分流点から先、水路は暗渠となって東に進むが、道が北に向かって大きく曲がる地点で水路は開渠となって右に折れる。








本田堀が分流
開渠となって進む「押立用水堀」は次の曲がり角で北に流れを変える。正面に開渠の水路が都道9号バイパス方面へと東流するが、それは「本田堀」。本流は暗渠となり北に向かう。 ◎本田掘;「川間掘」の分流点を東に進んだ「押立用水掘」が都道9号手バイパス手前で梨花幼稚園方向へ直角に流を変える辺りで分流し、そのまま東に進み都道9号バイパスを越え、南東へ下り稲城第四小学校手前で「中野島用水掘」に合流する。




梨花幼稚園
暗渠で北に向かった「押立用水堀」は梨花幼稚園の東で開渠となり、少し先で右に折れて都道号バイパスへと向かう。右に折れた水路は自然水路となって梨畑脇を進む。





都道9号バイパス
バイパスを渡った先の「押立用水堀」は自然な流れとなって梨畑の中を進む。このまま先に進もうとも思ったのだが、「押立用水堀」が都道9号バイパスを渡る少し南で先ほど分かれた「本田堀」、「向田堀」、「川間堀」が都道9号バイパスを渡る。如何なる風情かちょっと立ち寄り。




○本田堀
バイパス手前は自然の流れ、バイパスを越えると護岸工事された水路として開渠となるが、その先は暗渠となっている。









○川間堀
バイパス手前はコンクリート製の溝として、バイパスを越えると同じく水路溝として民家の間を縫い溝が「中野島用水堀」に繋がる。







○向田堀
バイパス手前はささやかな溝で交差点脇まで進み、バイパスを越える同じく溝となって進み、最後は自然な流れで「中野島用水堀」に注ぐ。







バイパスを越えて東流
バイパスを越えた「押立用水堀」は開渠で東に進む。道路側は改修されているが、梨園のある北側は自然のままの堤となっている。先を進むと耕地は切れ住宅地となり、改修工事が施された水路が東へと進む。




枝流が分かれた先は自然の水路となる
南北に通る道を越えると、水路はふたつに分かれる。右手は枝流のようである。左手の本流を進むと、水路は自然の流れとなる。結構趣のある一帯である。






押立堀公園
自然な流れを先に進むと結構大きな道に接近し、道の南を進む。と、ほどなく前方に火の見櫓が見える。辺りは「押立堀公園」として整備されている。
火の見櫓の脇には案内があり、「大正八年押立地区の大火(島守神社含む十一戸の家屋焼失)を踏まえ防災のシンボルとして、大正十三年月、財政豊かならざる折、前年の島守神社再建に続き、四十二世帯一丸となって目を見張るような火の見櫓を当時の東京府北多摩郡多摩村押立六百三五番地押立掘用水上に完成させた。
二、昭和の国策により、昭和六年の満州事変、日中戦争、第二次世界大戦と続き、国の鉄材不足に伴い、昭和十八年五月供出撤去となった。木製の櫓約十米の高さを備え約八米程度の所に半鐘をつるし(半鐘は供出せず)代用とした。
三、押立地区の稲城村編入半年後の昭和二十五年二月、東京都所有の鉄骨が旧村役場付近に放置してあるものを、当時村会議員の清水九一氏が払い下げ手続きを行い、村民の協力により元の場所に再完成させた。
四、平成十年五月、市民やすらぎの押立堀公園内に移築し、現在に至る。(川崎 栄一記 平成十七年十月吉日 稲城市押立自治会)」と、」火の見櫓の変遷とこの地に建つまでの経緯が説明されていた。

この説明の中に「市民やすらぎの押立堀公園」とあるが、これがこの公園の正式名ということであろう。その名称はともあれ、この公園は施設の企画・設計から施工まで全て地域の住民が行った、稲城唯一の市民手作り公園として知られる。
その背景は稲城大橋有料道路の建設。この道路の建設により、地域が分断されることになった。ために、道路建設に先立ち、市と押立地区の樹民がまちづくりのガイドラインを策定。その中に稲城市内を網の目のように流れる農業用水路の一部である「押立用水堀」を親水公園化することもうたわれていた。しかし、財政難といった事情もあり企画が停滞。そこに地域住民から提案されたのが「住民参加型公園整備」のアイデア。結果、行政の補助金を核にこの親水公園が実現した。平成10年(1998)の開園後は、「かんきょう委員会」が住民によって組織され、公園の維持管理をはじめ地域の環境美化に取り組んでいる、とのことである。

押立緑道
押立堀公園の先、押立緑道を開渠で進んだ水路はほどなく暗渠となり、稲城第四中学校前の道を南東に下る。通りの南には「中野島用水掘」が通り、「中野島用水掘」から支流が分かれ南武線・矢野口駅の北を進む辺りでもある。



稲城第四中学校を越えると開渠に
暗渠として下る水路は稲城第四中学を越えた辺りで左手に折れ開渠となって姿を現す。水水路に沿って進むことはできないため、迂回し一筋先の角を左におれると水路は暗渠となる。





押立堀用水排水機場で多摩川に注ぐ
暗渠となった水路は南武線・矢野口駅の北を進み県道19号を渡ったところで開渠となって姿を現す。水路脇には押立堀用水排水機場。ここで「押立堀用水堀」の水は多摩川に注ぐことになる。訪問した時は、排水門の先の多摩川河川敷は水路に沿って工事が行われていた。

これで本日の散歩は終わる。「菅堀」本流、その循環線水路である、「新堀」、「中野島用水堀」、「押立用水堀」とカバーし、大丸用水散歩も残すのは南武線・南多摩駅北の分量樋で「菅堀」から分かれる、大丸用水のもうひとつの幹線水路である「大堀」だけとなった。
1回目の大丸用水散歩では、南武線・南多摩駅北の取水口(頭首工)から「菅堀」を京王線・稲田堤の南まで下った。水路を辿りながら、その水路からの分流、また水路への合流夥しく、結果メモの序として大丸用水の概要をまとめることになったのだが、それはそれとして、今回から二回に分けて「菅掘」から分流する主な用水路を辿ることにする。 今回は「菅掘」の準幹線用水路である「新掘」と「中野島用水」散歩を基本に据え、途中、出来る限り枝線、と言うか二次幹線水路もカバーしようと思う。「菅掘」の準幹線用水路にはもうひとる「押立用水」があるのだが、段取り上、この用水散歩は直に廻すことにして、再び最寄の駅である南武線・南多摩駅に向かう。



本日のルート;
Ⅰ(吉田新田堀)>分流点付近>菅掘を水路橋で越える>押立用水堀の分流点に接近>宅地の中で水路が拡がる>再び田圃の中に>大丸自治会館近くで「菅掘」に合流。

Ⅱ (末新田堀)>分流点>押立用水堀と立体交差>菅掘に沿って下る>大丸自治会館付近で流路を直角に変える>雁追橋跡で「菅掘」に注ぐ

Ⅲ (新堀)>分流点>「宿堀」合流・「玉川前小堀」が「新堀」を渡る>南武線の下を潜る>新堀緑道>久保堀分流点>柳田堀が分流>石橋供養塔>都道9号バイパス先で「下新田堀」が分流>「大和堀」が分流>「新堀」が「菅堀」に合流

Ⅳ (中野島用水堀)>;喧嘩口>都道9号バイバスを渡ると自然護岸に>向田堀が合流>川間掘が合流>本田堀が合流>「中堀」が合流>「中野島堀」から支流が分かれる>南武線の高架手前で暗渠に>南武線・矢野口駅の南を暗渠で進む>白山神社脇に「中野島用水堀」の支流が現れる>馬頭観世音塔>多摩川堤に沿って東流する>京王線の高架下を進む>稲田公園を暗渠で進む>菅堀が合流する>三沢川に注ぐ。



Ⅰ 吉田新田堀を辿る

「菅堀」散歩で最初に気になった水路は、分量樋から「菅堀」を下るとすぐに出合ったささやかな水路橋。これは「吉田新田堀」が「菅堀」を立体交差する箇所であった。で、今回の散歩の最初は、「吉田新田堀」。まずは用水分流点を確認すべく、南武線・南多摩駅に下りる。
◎吉田新田掘
吉田新田掘;大丸堰で取水され分量樋で「菅掘」と「大堀」に分流されるまでを「うち掘」と称されるが、吉田新田掘はこの「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)からの分流用水。流路は「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。

分流点付近
駅を降り、南多摩駅近くで「菅掘」と立体交差した「吉田新田掘」の始点に向かう。上に挙げたように、始点は大丸堰で取水した多摩川の水が、南多摩駅北の「分量樋」で分かれる迄の用水路を指す「うち掘」からとも、南多摩駅の東を多摩川に向かって下る「谷戸川」とも言う。
なにか水路の痕跡をと駅の北を辿るも、駅前は先回の散歩でもメモした「JR南武線立体交差事業(高架切替え)」の工事なのか、谷戸川も地下に潜り、「いちょう並木」の北で姿を現す。結局始点は確認できなかった。
で、なにか分流点付近に痕跡がないかと「いちょう並木」を進むと、斜めに入る道があり、そこに格子の水路フタがあり、その先を折れるとささやかではあるが水路が現れた。「吉田新田掘」の水路である。

菅掘を水路橋で越える
「いちょう並木」を南に越え、ここにも姿を現すささやかな水路を辿ると、「菅掘」に沿った北側の道に出る。水路は少し「菅掘」に沿って進み、先回の「菅掘」散歩で出合った水路橋で「菅掘」を越える。







押立用水堀の分流点に接近
「菅掘」を南に越えた「吉田新田掘」は、宅地開発された地域を下水溝といった風情で進むが、「押立用水堀」が「菅掘」から分流する辺りまで接近すると、水路は一転して田圃の中へと進む。今でも田圃を潤す用水として機能しているのだろう。







宅地の中で水路が拡がる
田圃の畦道を誠にささやかな水路に沿って進むと、再び宅地開発された地域となり人工護岸工事された流れに戻る。水路幅も広くなり、水量も増えている。宅地の雨水なども集められているのだろうか。






再び田圃の中に
とはいうものの、広くなった水路も知らずささやかな溝といったものとなり、車道とクロスする辺りでは水も知らず消え去る。車道を渡ると水路は大きく北に流れを変え田圃の中を進む。田圃の畦道を水路に沿って進む。







大丸自治会館近くで「菅掘」に合流
田圃の畦道を進むと大丸自治会館手前の公園に。公園には石碑があり、南多摩処理場建設に伴う環境整備事業として、大丸自治会館や多目的公園、大丸親水公園の整備が進められた、といったことが刻まれていた。
それはともあれ、公園に達した水路は地下に潜り、先回の散歩でメモしたように、公園東の「めがね橋」の脇から「菅掘」に合流する。また、一部は大丸自治会館南の立派な掘から「菅掘」に合流する。


Ⅱ 末新田堀を辿る

これで「吉田新田掘」散歩を終える。この直ぐ先に「新掘」が分流するのだが、ついでのことなので、「押立用水」が「菅掘」から分かれる少し上流で「菅掘」から分かれ、この大丸自治会館あたりへと接近する「末新田掘」を始点から終点までカバーしようと、ちょっと道を巻き戻す。
◎末新田掘
南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。

分流点
「末新田掘」は「菅掘」から分流する最初の用水である。分量樋で「大堀」と分かれ、東流する「菅堀」が南東へと流れを変える辺りで分流し、そのまま東流する。分流点付近は民家の間を細い溝で抜ける。







押立用水堀と立体交差
水を保った溝の風情で「いちょう並木」の南を東流する水路は南に流れを変え、民家の間を下り、「押立用水堀」をコンクリートの箱樋で渡る。








菅掘に沿って下る
「押立用水堀」を越えた水路は「菅掘」に接近。このあたりからは地中に潜り姿は見えないが、流れは「菅掘」の東を大丸自治会館手前の公園、丁度「吉田新田掘」が「菅掘」に合流する地点まで下る。







大丸自治会館付近で流路を直角に変える
大丸自治会館手前の公園、「吉田新田掘」が「菅掘」に合流する「めがね橋」のあたりで、流路を直角に変え、「めがね橋」から東に向かう道の下を東に向かう。







雁追橋跡で「菅掘」に注ぐ
東流した「末新田掘」は雁追橋跡辺りで「菅掘」に注ぐ。雁追橋跡の碑がある「菅掘」の対面に水管が見えるが、それが「末新田掘」の終点だろうか。

これで「末新田掘」散歩は終了。雁追橋まで戻り、今度は準幹線水路である「新掘」散歩へと向かう。「新掘」は自分勝手に準幹線と位置づけたように、分流・合流がいくつも続くことになる。






Ⅲ 新堀を辿る
■新堀;準一次幹線水路 稲城市大丸地区自治会館の少し下流で「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進む。駅の少し東で流路を北東に向け、南武線を越えた都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、「菅掘」との合流点で、「菅掘」は終え、そこから先を「新堀」としている。

分流点
大丸自治会館を少し南に下り、「菅堀」が弧を描いて曲がる辺りで、水路は大きく二つに分かれる。左に進むのが「菅堀」、右に分かれ南東へと下るのが「新堀」である。





「宿堀」合流・「玉川前小堀」が「新堀」を渡る
公園脇の美しい水路を進むと東西に通る車道に出る。車道手前に溝が見えるが、その溝は「宿堀」が「新堀」に注ぐ地点とのこと。また、その溝脇を白いパイプが「新堀」を渡るが、そのパイプは「玉川前小堀」と言う。




◎宿掘;「菅掘」と別れた「大堀」が都道9号の南に越えてほどなく「大堀」から分流し、東流し南武線を越え、「菅掘」から分流した「新堀」と南武線の北で合流する。

◎玉川前小掘:「宿掘」が「新掘」と合流する地点で、「宿掘」の水をパイプで「新堀」を渡し、東に流れ、南武線・稲城長沼駅の北東で「菅掘」に合流する。

南武線の下を潜る
「宿堀」合流・「玉川前小堀」が「新堀」を渡る車道を越え先に進むと、前方に南武線の高架が見えてくる。道なりに進むと高架工事以前の線路跡だろうか、いまだ線路が残り先に進むのを阻まれる。




新堀緑道
鉄路に阻まれた地点から「宿堀」が「新堀」に合流し「玉川前小堀」が「新堀」を渡る車道まで戻り東へと道を進む。地下には「玉川前小堀」が通っているのだろう。南武線・稲城長沼駅の西側の道を駅に向かって折れ、南武線を越えるとすぐに「新堀」が開渠となって姿を現す。少々レトロな雰囲気の店の裏手を進むと、結構美しい水路となるが、それも束の間、駅前再開発なのか宅地開発なのか、真っ最中の工事にために水路はわからなくなってしまう。



久保堀分流点
駅前の工事現場を越え、高架となった南武線を再び北に渡る手前で「新堀」から「久保堀」が分かれるとのことだが、高架工事の影響か、宅地開発の影響か、そもそもの「新堀」の 水路がさっぱりと消えさっており、結果として「久保堀」の分流点も確認できなかった。 ◎久保掘;南武線・稲城長沼駅南の踏切辺りで「新掘」から分流し、南下し大堀(清水川)に合流する




柳田堀が分流
これで「新堀」もわからなくなるか、などと南武線を北に越えると、すぐ右手に水路が改修されていない自然な流れとなって東に流れる。この水路は「柳田堀」である。水も結構勢いよく流れている。ということは、「柳田堀」を分けた「新堀」も稲城長沼駅前の工事現場の地中を流れてきたのだろうか。
◎柳田掘;「久保掘」分流点の北、南武線の踏切を渡った先で「新堀」から分流し、南東に向かい南武線を越え、川崎街道・東長沼陸橋交差点を経て稲城第一小学校北を下り「大堀(清水川)」に合流する。

石橋供養塔
「柳田堀」を越え、如何にも地下を水路が走る、といった風情の道を進むと、道脇に石塔群。「青沼大明神」などの石仏群に中央には「石橋供養塔」が建つ。水路筋であることを確認。







都道9号バイパス先で「下新田堀」が分流
その先も如何にも水路を覆うといったコンクリートの蓋を目安に先に進むと稲城大橋から下る都道9号バイパスに当たる。バイパスを渡った辺りから「下新田堀」が南に分かれるとのことだが、バイパスを渡ったところからコンクリートの水路蓋といったものが南に続いていたのが「下新田堀」だろうか。
◎下新田掘;「新掘」が稲城大橋から南下する都道9号バイパスとクロスした先で分流し、南東に下り、柳田掘と大堀との合流点の少し東で大掘に合流する。


「大和堀」が分流
バイパスを越え開渠となった水路はほどなく、細い水路で右手に分かれる。どうもその細流が「大和堀」のようである。気を付けて歩かなければ、見落としそうな水路ではあった。 ◎大和掘;「新掘」が「菅掘」に合流する少し手前で「新堀」から分流し、南東に下り、「下新田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する。





「新堀」が「菅堀」に合流
「大和堀」との分流から、右手に梨畑、その向こうに南武線の高架を見遣りながら、道を東に少し進んだ箇所で「新堀」は「菅堀」に合流する。はじめての大丸用水散歩で知らず「菅堀」を辿ったとき、あまりに勢いよく水が吐き出るため思わず写真を撮った箇所でもあった。
◎落掘
なお、「新堀」はここで「菅堀」に落ちるが、「新堀」の一部はそのまま道を進み、北に大きく弧を描く「菅堀」が、再び南武線に当たる箇所で「菅堀」に当たる、とのことだが、高架工事に伴うものか、すべて暗渠で、落口は不明である。


Ⅳ 中野島用水堀を辿る

「菅堀」散歩で出合った分流点・合流点を辿って「新堀」が「菅堀」に注ぐ地点まで下った。一次幹線水路である「菅堀」から分流する、準一次幹線水路としては、この「菅堀」の他「押立用水掘」と「中野島用水掘」がある。まだ時間もあるので、どちらかを辿ろうと思うのだが、「押立用水掘」はほとんど南武線・南多摩駅近くまで戻らなければならない。 一方、「中野島用水掘」は少し道を戻り、都道9号バイバスを北に進めば分流点の「喧嘩口」がある。ということで、本日の残り時間は「中野島用水掘」を下ることにする。
□中野島用水掘
都道9号手前の「喧嘩口」で「菅掘」から分流し東流。南武線・矢野口駅手前で南武線を南に越え、駅の少し東で流れを北東に変え、再び南武線を北に越え多摩川堤方向に進む。多摩川堤の菅少年野球場辺りで南東に流れを変えるも、京王相模原線手前で再び北東に向かい、京王相模原線を越えた柳田公園辺りで南東へと流れを変え「菅堀」を合わせ、南武線まで下り、そこから南武線に沿って少し進み三沢川に合流する。
現在は、水路はこの三沢川で断ち切られるが、この三沢川は昭和18年(1493))に暴れ川である旧三沢川(旧三沢川は新たに開削された川筋を越え、丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)の改修に際し、新たに開削された川筋であり、国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると「中野島用水掘」の水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。

喧嘩口
都道9号バイバスまで戻り、喧嘩口に。「菅堀」はここで二つに分かれ、右手は「菅堀」の本流、左手は「中堀」となるが、喧嘩口の分流点脇から「中野島用水掘」は「中堀」から北に分かれる。
◎中掘;稲城大橋からの都道9号バイパス手前の喧嘩口で「菅掘」から分流し、暗渠で東に進み稲城第四小学校の少し東で「中野島用水掘」に合流する。合流点の先からは「中野島用水掘」の支流が東に進む。




都道9号バイバスを渡ると自然護岸に
都道9号バイバスの地下を走る下り線の上を、コンクリートの箱樋で渡ると水路は自然護岸の流れとなって現れる。水路に沿って道はないので、水路北を東に通る車道を歩きながらポイントで脇道に入り水路を確認することになる。






向田堀が合流
都道9号バイバスを越えてほどなく、北から水路が合わさる。「押立用水掘」から分かれた「向田堀」である。
◎向田掘;多摩川堤手前を進む「押立用水掘」が、多摩川堤の稲城北緑地公園を越えた辺りで分流し、南東に下り、都道9号バイパスを越えた先で「中野島用水掘」に合流する。





川間掘が合流
向田堀が合流する少し東でこれも「押立用水掘」から分かれた「川間掘」が合流する。 ◎川間掘;「向田掘」が分流するすこし先で「押立用水掘」から分流し、「向田掘」にほぼ平行に南東に下り、都道9号バイパスを越え、「向田掘」が「中野島用水掘」に注ぐ少し東で「中野島用水掘」に合流する





本田堀が合流
しばらく道を進み稲城第四小学校脇で「本田堀」は「中野島用水堀」に注ぐ。
◎本田掘;「川間掘」の分流点を東に進んだ「押立用水掘」が都道9号バイパス手前で梨花幼稚園方向へ直角に流を変える辺りで分流し、そのまま東に進み都道9号バイパスを越え、南東へ下り稲城第四小学校手前で「中野島用水掘」に合流する。




「中堀」が合流
稲城第四小学校南の開渠を進んだ「中野島用水堀」は、小学校の少し東で「中堀」が合流する。といっても、小さな橋の下の水管がその合流点のようにみえる。







「中野島堀」から支流が分かれる
「中堀」が「中野島用水堀」に注ぐすぐ先で「中野島用水堀」から支流と言うか枝流が左手に分かれる、という。が、それらしき分流点が見つからない。辺りは宅地開発され、道路なども新しく整備された「ピッカピカ」の町並みになっている。「中野島用水堀」周辺も整備されており、緑地手前に小さな取水口が見えるが、それが「中野島用水堀」からの支流の始点だろうか。昔の写真では結構大きな分水樋といった風情ではあるが、今はその面影は残っていなかった。



南武線の高架手前で暗渠に
誠に「美しく」整備された水路に沿って先に進むと南武線の高架にあたり、開渠はそこで切れる








南武線・矢野口駅の南を暗渠で進む
南武線を南に越えた水路は駅の南を暗渠で進み、先回の「菅堀」散歩で出合った、南武線・矢野口駅の南、都道9号に面した交番裏、「菅堀」が一瞬開渠となる辺りにある石仏群のところから南東に折れる道を少し先に進んだ辺りに進んでくる。駅前を進んできた水路はこの道で北に折れ、すぐ先で開渠となって姿を現す。






○弁天通り
ところで、この道は「弁天道」と呼ばれる。都道9号の南には「弁天通り商店街」もある。何故「弁天通り」?チェックすると、京王読よみうりランド駅西の道を丘陵に向かって少し上った先に「威光寺」があり、そこに弁天様を祀る弁天窟がある。この弁天窟への参拝道ということが「弁天通り」の由来である。
いつだったか、この弁天窟を訪れたことがある。その時のメモ;この洞窟、もとは横穴墓。明治に入って石仏を祀るために拡張したもの。中にはいると、二匹大蛇の彫り物や、23体の石仏が祀ってある。十五童子の石仏は、もとは穴澤天神の弁天社に安置されていたものという。
洞窟内は明かりな ど、なにもなし。拝観料300円を払って、蝋燭と蝋燭立てのセットを渡され明かりをとる。洞窟は全長65メートル・広さ660平方メートル。横浜市栄区の「田谷の洞窟」には規模で少々劣るものの、それでも関東屈指の胎内巡りの洞窟ではありましょう。
なお、先回の「菅掘」散歩の「地蔵菩薩」でメモしたように、この弁天通りは、「矢野口の渡船場」に続く渡船場道への道でもあり、川崎街道が交差するこの場所は、古くから交通の要所として栄えた。この場所から東は川崎、西は八王子、南は大山、北は多摩川を渡り江戸方面へと続いていた。
●矢野口の渡船場
矢野口の渡船場、「矢野口の渡し」は大正7年に矢野口と上石原共同で、現在の多摩川原橋の上流400mのところに新設された。それまでは「上菅の渡し」があったようだが、大正初年、矢野口村は「上菅の渡し」から撤退したとのことである(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」)。

白山神社脇に「中野島用水堀」の支流が現れる
道を北に進むと左手にささやかな社。白山神社であるが、その裏手に水路が見える。この水路は先ほど、「中堀」合流点辺りで「中野島用水掘」から分かれた支流・枝流である。 この水路を少し巻き戻るに、矢野口駅東から北に上る道辺りで暗渠となり、その先の分流点まで戻ったがすべて暗渠となっていた。






馬頭観世音塔
白山神社を離れ、ゆるやかなカーブを多摩川方面へと向かうと三叉路があり、そこに幾多の石塔が立ち並んでいた。最も大きな石塔には像が刻まれる。馬頭観世音塔である。 脇にある案内によると、「地蔵菩薩とならんで庶民の信仰を集めたのが観世音菩薩であるが、江戸時代後半期から明治・大正にかけて各地に馬頭観世音の石塔が造立されるようになったのは、農村において馬の果たす役割がたいへん増大したことと深い関係があると思われる。
この馬頭観世音塔は、多摩川のもとの渡船場近くにあり、文化十三年(1816)に造立され、市内に現存する最古のものである。「馬頭観世音」と文字だけを彫るのが一般的であるから、この石塔のように馬頭観世音を浮彫にしたのは数少ない貴重な作例である。
台石には願主谷埜口邑(矢野口村)をはじめ造塔に協力した相当に広範囲な十九の村名が記されている。この渡船場の重要性をよく示しているといえよう(稲城市教育委員会)」。

多摩川堤に沿って東流する
三差路を右に折れた水路は開渠で多摩川堤下の民家の間を東に進む。水路に沿って遊歩道も整備されている。









京王線の高架下を進む
しばらく東流した水路は流路を南東に変える。流路を変えた先からは遊歩道の趣は消え、H鋼で補強した水路が続くことになる。京王線の高架手前までは水路に沿って道を進むことができる。







稲田公園を暗渠で進む
京王線を越えた水路は多摩川堤に接近し、そこから流路を南東へと変え稲田公園へと向かう。開渠であった水路は公園内を暗渠で進む。







菅堀が合流する
公園を抜けると再び開渠となり、H鋼で補強された都市型水路として南に下り、ほどなく右手から「菅堀」が合流する。これより下流を「菅堀」と称する記述と、下流を「中野島堀」と称する記述がある。







三沢川に注ぐ
「菅堀」が合わさった「中野島堀」は南東へと下り、南武線に沿って東に向きを変え、三沢川に注ぐ。


既に何度かメモしたように、この三沢川は、昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川(旧三沢川は新たに開削された川筋を越え、丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)の改修に際し、新たに開削された川筋であり、国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると「中野島用水」の水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いているのだが、今回の散歩はここでお終いとし、京王線・稲田堤駅まで戻り、一路家路へと。
大丸用水散歩のはじめは「菅掘」。「二ヶ領せせらぎ館(二ヶ領宿河原堰脇にある)」で買い求めた小冊子(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)、「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水」にある「大丸用水堰から菅掘を下る」のコースを頼りに「菅掘」を下ったのだが、途中で幾度も分流、そして合流を繰り返し、「二ヶ領用水」のほんの一支流だろう、などとお気楽にはじめた散歩であるが、雰囲気からして単なる一支流とは思えなくなった。
あれこれチェックすると、大丸用水は9つの幹線水路、200もの支流からなる総延長70キロとも称される巨大な用水路網であり、「菅掘」はその巨大な用水網の幹線ではあるが、そのほんの一部であることもわかった。
このメモには、分流・合流点について、その名称を記しているが、散歩の時点では単に分流点、合流点といったことしかわからず、名称はメモの段階でチェックして分かったものではあるのだが、メモには既知の如く各ポイントの名称を用いて説明する。

□「菅掘」のルートは以下の通り
大丸取水堰で「分量樋」で別れた「菅掘」は南武線の北を蛇行を繰り返しながら南武線・稲城長沼駅の北を進み、都道9号バイパスを渡る。その先、南武線・矢野口の手前で南武線の南に移り、京王線・稲田堤駅手前で再び南武線を北に移り、京王線・稲田堤駅、南武線・稲田堤駅の北を進み、菅稲田堤地区辺りで流路を南に向け、南武線に沿って三沢川に合流する。
現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年((1493))に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。おおよそ8キロ弱といったところか。


本日のルート;南武線・南多摩駅>うち堀>南武線>武蔵野南線>三沢川分水路>南多摩水再生センター>大丸用水堰(多摩川取水口)>南武線と交差>分量樋;大堀(大丸用水)と別れる>吉田新田掘と交差>末新田掘分岐>押立掘分岐>吉田新田掘合流>新掘分岐>雁追橋・末新田掘が合流>葎草橋碑>喧嘩口(中野島掘と中掘分岐)>都道9号バイパスを越える>多摩川堤へ>津島神社>新掘合流>馬頭観音>南武線を潜る>都道9号>地蔵菩薩>暗渠>開渠>南武線を潜る>京王線の高架下を潜る>中野島用水堀に合流>三沢川に合流

南武線・南多摩駅
多摩川からの取水口である「大丸堰」の最寄りの駅である南武線・南多摩駅に向かう。京王線・稲田堤で南武線に乗り換える。南武線のはじまりは多摩川砂利の運搬、その後は青梅や五日市の石灰を京浜工業地帯に運ぶ貨物主体の路線であった、と言う。
稲田堤駅、矢野口駅、稲城長沼駅と進み南多摩駅に。駅前は工事跡が残る。駅前再開発とも思えずチェックすると、「JR南武線立体交差事業(高架切替え)」とあり、「東京都が事業主体となり稲城市とJR東日本が連携して、稲田堤駅から府中本町駅間約4.3キロメートルについて道路と鉄道との連続立体交差化を行い、あわせて築造される高架橋に沿って側道を整備するもの稲田堤駅から府中本町駅間約4.3キロメートルについて道路と鉄道との連続立体交差化を行い、あわせて築造される高架橋に沿って側道を整備するもの」との説明があった。
この工事の第2施工工事区間が稲城長沼駅東側から南多摩駅西側までであり、平成23年(2011)12月には下り線(立川方面)、平成25年(2013)12月には、上り線(川崎方面)の高架橋への切換えを実施し、事業区間内の全線高架化が完了したとのことであるので、工事完了直後の名残といったものではあろうか。そういえば、稲田堤から先の各駅は立派で当然のことながら高架線を走っていた。
それはともあれ、南武線・南多摩駅を訪れたのは数年ぶり。いつだったか、南多摩駅の南の丘陵にある大丸(おおまる)城址から稲城の丘陵を辿って以来である。そのとき、南多摩駅の南、丘陵裾にある大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)にお参りしたのだが、地名の大丸(オオマル)は大麻止(オオマト)の訛りではないかとも言われている。

うち掘
駅前の都道9号交差点を東に進むと、左手に水路が見える。大丸取水堰から幹線水路に分流されるまでの水路で、「うち掘」とも称されるようである。幅2,3mほどの水路が民家脇を流れる。

南武線の堤に沿って進む
先に進むと正面に南武線の堤が見えてくる。水路も結構幅が広くなる。堤に沿って多摩川堤へと向かうと、右手に工場があり行き止まり?と一瞬不安に感じるも、堤下に先に抜ける通路があり一安心。

武蔵野南線(貨物線)
多摩川堤近くまで進むと南武線に平行して武蔵野南線(貨物線)が走る。この路線は武蔵野線の一部。武蔵野線は、横浜市鶴見駅から千葉県西船橋駅までが路線区間であるが、もともと山手貨物線の代替のための「東京外環貨物線」(貨物専用線)として計画されたものでもあり、定期での旅客営業を行っているのは府中本町から西船橋方面だけ。府中本町から鶴見駅までは土・休日の臨時列車以外は貨物専用線となっており、武蔵野貨物線、武蔵野南線と呼ばれているようである。
多摩川を渡ってきた武蔵野貨物線は、この地まで地上に姿を見せるが、この地点より地下に潜り、川崎市宮前区の梶ヶ谷操車場辺りで一瞬地上に姿を現し、そこから再び地下に潜り武蔵小杉駅付近で東海道線と併走し新川崎駅辺りで姿を現し鶴見駅へと向かう。 武蔵野線の構想は戦前に企画されたものだが、戦後になって企画が再燃したのは、昭和42年(1967)の新宿駅での山手貨物線・列車転覆炎上事件。その列車が米軍の燃料輸送列車であったため、そんな危険な貨物が都心部を走るのは好ましくない、ということで都心を遠く離れたこの郊外に路線計画が再登場したと言う。都市伝説か?武蔵野貨物線辺りで水路は地中に潜る。

三沢川分水路
堤の道を進むと左手にコンクリートの構造物があり「三沢川分水路」と銘が刻まれている。多摩川口には排水施設があるが、排水はされていなかった。三沢川分水路って?チェックすると建設の経緯に興味深い話が登場してきた。
三沢川分水路は稲城中央公園の下にトンネルを通し、三沢川の水を多摩川に落とすためのものである。開削の背景は三沢川左岸の若葉台、向陽台という多摩ニュータウン開発に伴う雨水処理の問題。里山を開発することにより雨量の地中への浸透力が弱まり、そのままでは、だだでさえ「暴れ川」と称された三沢川に洪水発生の危険増大が予測された。
洪水対策として三沢川の河川改修が必要となるが、三沢川の下流は神奈川県川崎市であり、多摩ニュータウンのある東京都の開発にともなう問題を他の自治体に負担してもらうことはできないわけで、神奈川県に「迷惑をかけないように」バイパス分水路を穿ち三沢川の洪水対策を講じたとのことである。物事にはそれなりの理由はあるものだ。

南多摩水再生センター
三沢川分水路の直ぐ先から大量に水が多摩川に排水されている。左手にある「南多摩水再生センター」からの水だろう。「南多摩水再生センター」は多摩ニュータウン建設と歩調を合わせて建設されたもの。多摩市、稲城市の大部分、八王子や日野市の一部の下水を著利する。この再生センターも含め、多摩川中流域にある「水再生センター」より多摩川に放流されるその水量は多摩川の水の半分程にもなる、と言う。多摩川水源の「ひとつ」か。
多摩川に限らず、湧水や地下水が涸れたり水脈が深くなり水源を失った東京の川の水源には、高度処理された下水の水が大活躍である。LEDイリュミネーションが話題となった渋谷川の水源は西落合の再生センターの下水である。また、パン工場や飲料水の工場から排出される高度処理された水が水源となっている川もあった。この話題は話が尽きそう、もないので、このあたりで止めておく。

大丸用水堰
水再生センターを越えると一瞬姿を現した水路は大丸用水の取水口(頭首工)に続く。取水口の施設は立ち入り禁止となっている。取水口が如何なる風情かその姿を見るため多摩川に下りる。堰の手前は半円錐型のコンクリート構造物が一面に敷き詰められており、ちょっと跳び撥ねながら川の中央部にある直線の水路のコンクリートの背の上を慎重に進む。これって魚道だろうとは思う。
大丸用水堰に立って取水口を見る。この堰も、もともとは竹籠を積み上げ堰としていたようだが、昭和34年(1959)に現在の鉄筋コンクリート堰となったようである。

分量樋
南武線・南多摩駅前まで戻る。駅の西側・都道9号交差点手前で地下に潜った水路は駅の東の交差点手前で姿を現す。水路にはコンクリートの「橋」が渡され中央には流れを分けるコンクリートの「樋」がある。大丸用水堰で取水された多摩川の水はここで二つの基幹水路に別れる。
右手は「大堀」、左手が今から下る「菅掘」である。交差点部分を地下に潜った「菅掘」は交差点先に姿を現している。

□大堀
「分量樋」で別れた「大堀」は南武線の南、都道9号の南を進み、南武線・矢野口駅南を下り、京王・稲田堤駅の西、穴沢天神社の東辺りで三沢川に合流する。清水川とも称される。おおよそ5キロ強の水路。

吉田新田掘水路橋と交差
開渠となった「菅掘」を先に進む。遊歩道のような水路脇の道を進むと、ささやかな「水路橋」が「菅掘」を斜めに横切る。「吉田新田掘」が「菅掘」を立体交差しているわけである。今はコンクリートだが、その昔は木か石の樋で渡っていたのだろうか。
◎吉田新田掘;「吉田新田掘」は、大丸取水堰で取水された多摩川の水が分量樋で「菅掘」と「大堀」に分かれる前の「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)から分流し、「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。

末新田掘の分流点
水路が右に折れる地点、中央に一本の木が立つところで「菅掘」から一流が分かれる。直線に進む小さな流れが「末新田掘」である。「菅掘」は右に折れる。
◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。



押立用水掘の分流点
先に進むと「菅掘」に渡した橋の中央で水路は左右に分かれる。どちらも結構大きな水路であるが、左に分かれるのが「押立用水掘」。幹線水路の「菅掘」の準幹線水路といった用水路である。「菅掘」は右側を下ってゆく。
□押立用水掘:準一次幹線水路
分流点から、多摩川堤に向かって進み、稲城大橋から下る都道9号バイパスを渡り、流路を南東に変え、南武線・矢野口駅の北辺りで多摩川に注ぐ。


吉田新田掘が合流
ゆるやかに東流した「菅掘」が大きく向きを変え南東に下ると稲城市大丸自治会館手前の公園脇に「めがね橋」といった風情の橋があり、その手前左手に水管が見える。これが先ほど「菅掘」とクロスした「吉田新田掘」の合流点とのこと。水は流れていない。 また、大丸自治会館の南に立派な掘があり、そこからも水が「菅掘」に合流する。これも「吉田新田掘」からの合流する地点でもあった。

新掘の分流点
「吉田新田掘」が「菅掘」に合流した少し先、南下する流れが弧を描いてカーブする地点で水路が大きくふたつに分かれる。本流は左、右に分かれる水路は準幹線用水路である「新堀」である。

□新堀;準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線の北に進み、都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、「菅掘」との合流点で、「菅掘」は終わり、そこから先を「新堀」としている。

雁追橋跡で末新田掘が合流
ぐるりと弧を廻り込み先に進むと右手に水路が分かれる。末流なのか名称は不明である。更に進と水路脇に「雁追(がんおい)」橋の石碑。石碑脇にある案内を簡単にまとめると、「江戸時代、この近くに美しく気立ての優しい女性が済んでいた。御殿女中を務めていたこの女性に言い寄る男達数知れず、といった案配であったが女性は誰も相手にすることなく、ために、当時多摩川に集う多くの雁に例え、「雁のように多くの男達が集まるが、すげなく追い返されてしまう」と噂した。女性は長くこの地に住むことになったが、ついには「雁追婆さん」と呼ばれるようになった」とか。橋の名前の由来である。
なお、この雁追橋の辺りに「末新田掘」が合流する。「菅掘」に向かう「末新田掘」に水路は見えず、はっきりしないが、雁追橋跡の対面に「菅掘」に注ぐ水管が見えるが、それが「末新田掘」が「菅掘」に合流する地点だろうか。
◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。

蛇行を繰り返し「喧嘩口」へ
雁追橋跡・末新田掘との合流点から先、「菅掘」は北に向かって開渠で弧を描きながら南多摩駅前から東に延びる道を越え、その先で再び道を南に越える。道を越えた水路は民家の間を、幅を狭め南東に下る。
改修のされていない自然な流れが少し続くも、少し大きな道に当たると「人工」そのものの暗渠となるが、すぐに開渠となり又々弧を描いて北東に切れ上がる。道の途中には梨園があり、末流が耕地に向かっている。現在も「菅掘」が現役でいる証しであろうか。 喧嘩口に近づくと、水路は人工的な水路改修がなされず自然のままの趣きで流れる。結構、いい。
○稲城の梨
稲城のブランド梨「稲城」は明治26年(1893)、川崎の大師河原で生まれた「赤梨」をもとに誕生した「長十郎」を品種改良を重ねてできたもの。昭和2年(1927)の小田急線開通にあわせ、「梨もぎとり観光」などで梨の栽培も盛り上がり、昭和11年(1936)頃、最盛期を迎えた(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」より)。

葎草橋碑
北東に進む「菅掘」が、南多摩駅前から東に延びる車道手前で向きを東に変えるあたりに葎草橋がかかり、その脇に石碑が建つ。案内によれば、「この碑は、天保9年(1838年)に長沼、押立両村の協力で木橋を石橋にかけ替えたことを記念して建てられたもの。石碑の造立年代についての正確な年代は不明であるが、天保9年以降の幕末に建てられたものとのこと。側面には、「渠田川や多摩の葎の橋はしら、動ぬ御代の石と成蘭」という歌が刻まれている。穏やかな世を願う村民の気持ちをしめしたものであろう。また、江戸や八王子など八方面への道程が記されている。この橋のある道は、北に行くと多摩川の渡船場に通じ、当時の幹線道路のひとつであった(稲城市教育委員会)」とあった。
渡船場は「押立の渡し」であり、石碑は石橋記念碑であるとともに、道標の役割もはたしていたようである。因みに「葎」とは雑草のこと。

喧嘩口
葎草橋を抜けるとほどなく、「菅掘」は稲城大橋を渡り南に下る都道9号バイパス手前で二流に分かれる。「菅掘」は右手、左手は「中掘」である。また、「中掘」は分流点から直ぐに左手に「中野島用水掘」を分ける。
「喧嘩口」の由来は、往昔、三流に分水する水を求める諍いから。上流の村と下流の村の間で生命線でもある水をめぐり、宝暦2年(1752)には長沼村と菅村、明和8年(1771)にはや野口村と菅村・中野島村、明和9年(1772)には矢野口村と菅村との水争いの記録が残る(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」より)。

都道9号バイパスを越える
喧嘩口で分かれた「菅掘」はほどなく都道9号バイパスを渡る。どのように渡るのか、地下を通る道をチェックすると、空気抜き部分をコンクリート製の箱樋で抜けていた。このバイパスは稲城大橋から下る道が地下を走り、橋に向かう道が地上を走る。






津島神社
都道9号バイパスを抜けた「菅掘」は民家の間を河川改修のない姿で進み、ほどなく石組みの流路を抜けると、往昔の用水の趣を感じる姿で津島神社脇を流れる。結構、絵になる景観ではある。
この津島神社は尾張津島神社の分祠。創立年代は不詳。祭神は素戔嗚尊。尾張津島神社は中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」と称し、牛頭天王を祭神としていたためか、この社も江戸時代末期には(牛頭)天王社と称していたとのことだが、明治期の神仏分離令に際し八坂神社と改称。その後に本社の津島神社改称に伴い、現在の津島神社という呼称になったと言う。

新掘が合流
津島神社から少しの間は河川改修のない自然な用水の姿で緩やかに南東に進み、南武線手前の道に出る。南武線に沿って少し先に進むと、道路の左手から勢いよく水が「菅掘」に注ぐ。ここが「新掘」が「菅掘」に合流する地点である、
□新堀;準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線を越え都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、この地で「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、菅掘との合流点で、「菅掘」は終え、そこから先を「新堀」としている。

馬頭観音
「菅掘」は「新堀」との合流点から北に弧を描き進むが、用水脇に道もないので、南武線に沿って少し東に進むと道脇に小祠が建ち馬頭観音が祀られる。周囲にも幾つか石碑が建つが、祠左手の石碑には「東 河崎道」と刻まれていた。道標ではあろう。






南武線と交差
北に弧を描いた水路は南武線の高架下を潜る。この高架も南多摩駅でメモした「JR南武線立体交差事業(高架切替え)」の賜ではあろう。南武線を越えた水路は都市型の開渠として都道9号に当たる。

都道9号
都道9号に当たった「菅掘」は暗渠となって南武線・矢野口駅の南を進み、都道9号と都道19号が交差する矢野口交差点を越えたところに交番があり、そこで一瞬開渠となる。

地蔵菩薩
開渠となった箇所に小祠があり地蔵菩薩が祀られる。案内によれば、「矢野口の渡船場から続く渡船場道と川崎街道が交差するこの場所は、古くから交通の要所として栄えて来ました。この場所から東は川崎、西は八王子、南は大山、北は多摩川を渡り江戸方面へと続いていました。
この場所の地蔵菩薩は村人の幸を守るために正徳三年(一七一三)に建立し祀られたもので、台石には遠く生田や柿生の人の名前も刻まれていて広い範囲の人々からも信仰されたことが分かります。


この地蔵菩薩は昭和三年に川崎街道の拡幅工事により道路の南側から現在地に移されましたが、稲城市指定保存樹木である銀杏の木も地蔵菩薩と共に移植されました。その時に大きな枝は切り詰めましたので樹高はありませんが、幹は年輪を感じ、また直径五~十五糎位(センチメートル)、長さが二十~五十糎位(センチメートル)の気根が十数本下がり素晴らしいものでした。また、移植の際に、経典供養として法華経を記した平たい丸い小さな石が役約百瓸位(キログラム)発見され、現在元通り埋められています(平成六年 敬愛会)」とあった。
矢野口の渡船場、「矢野口の渡し」は大正7年に矢野口と上石原共同で、現在の多摩川原橋の上流400mのところに新設された。それまでは「上菅の渡し」があったようだが、大正初年、矢野口村は「上菅の渡し」から撤退したとのことである(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」)。

開渠となって都道9号から北東に向かう
都道9号に沿ってしばし進み、京王線・稲田堤駅の手前、菅4丁目辺りで開渠となり、民家の間へと北東に向かって進む。








南武線を潜る
住宅地の間を開渠で少し進むと「菅掘」は、「芝間土地改良碑」辺りでは、如何にも水路といった痕跡を残しながら地中を進む。その痕跡を辿りながら進むと再び開渠となり、水路は南武線を潜る。







京王線の高架下を潜る
南武線を越えた「菅掘」は民家の間を縫って開渠で進む。H鋼で補強された水路を辿ると水路は京王線の下を抜ける。








中野島用水堀に合流
京王線を越えた水路はH鋼で補強された姿で民家の間を抜け、また道路に沿って進み、結構大きなH鋼で補強された水路に合流する。この水路は「中野島用水堀」である。







三沢川に注ぐ
「中野島用水堀」はこの先、南武線に沿って進み三沢川に落ちる。「中野島用水堀」と「菅掘」の合流点から下流の「中野島用水」を「菅掘」と称するともあるようだ。
先回のメモでも触れたように、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路であり、旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する。つまり、江戸の頃はこの川はなく、国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると「中野島用水堀」の水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続く。

因みに、上に「中野島用水堀はこの先、南武線に沿って進み」とメモしたが、これは昭和初期に南武線が敷かれたときに南東へと下っていた水路を線路沿いに変更したものであり、往昔は、南武線を南東に下り、「二ヶ領用水」の中の島橋へと向かっていたとのことである。
本日の「菅堀」散歩はここで終了。京王線・稲田堤駅に向かい、一路家路へと。
大丸(おおまる)用水を歩くことにした。きっかけは、一冊の小冊子。もう数年前にもなるのだが、京王線・稲田堤辺りで取水し多摩川西岸域を潤す「二ヶ領用水」を歩いたのだが、なんとなくメモをする気にならず、そのままにしておいた。その「二ヶ領用水」を歩き直し、気分も新たにメモを、と用水散歩の途中で出合った「二ヶ領せせらぎ館(二ヶ領宿河原堰脇にある)」で買い求めた小冊子(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)。その一部に「大丸用水」の案内があった。
小冊子には「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水」とあり、当初は、「大丸用水」って「二ヶ領用水」の支流かと思い、ついでのことながら、といった程度で取水堰のある南武線・南多摩駅まで進み、小冊子にある「大丸用水堰から菅掘を下る」のコースを歩き始めた。
が、歩き初めてみるとこの大丸用水って分流、合流が夥しく、用水の規模も結構大きい。あれこれ調べると、本流・支流を合わせた総延長は70キロにも及ぶとのこと。幹線水路は9本、支流の数も200ほどになると言う。どうも「二ヶ領用水」とは別系統の用水路網のようである。
かくの如く、誠にお気楽に歩き始めた大丸用水・菅掘散歩ではあるのだが、メモをしようにも巨大用水網でもあり、分流・合流夥しく全体を整理しなければ、なにがなにやらさっぱりわからない。ということで、「菅堀」散歩メモに先立ち、大丸用水についてあれこれチェックし、用水路の概要・流路をまとめることにした。
で、概要をまとめ、さすがに200にも及ぶという支流の全部をカバーしようとは思わないが、幹線だけでも歩いてみようと用水路をチェックし、結局4回に渡った散歩となった。

さて、メモをはじめようと思うのだが、大丸用水の概要図でもなければメモが煩雑になりそうであり、大丸用水散歩の第一回は大丸用水の概要・概略図のまとめとする。

大丸用水開削の経緯
大丸用水の開削の時期は、新田開発による年貢増収を目的とした幕府の治水政策の一環として「二ヶ領用水」の工事が行われた江戸時代初期とされるが、詳しい資料は残っていないようだ。 慶長16年(1611)に完成した、元禄3年(1690)に築造された、慶長9年(1604)に取水が始まった、など諸説ある。大丸用水と接するその下流域を潤す「二ヶ領用水」は、「六郷用水」の開削もおこなった用水奉行である小泉次大夫(こいずみじだゆう)の普請との記録が残ることと比して好対照である。
散歩の折々に用水を辿ることが多いのだが、足柄の山北用水には比較的資料が残ってはいたが、箱根・芦ノ湖の箱根用水や湯河原の荻窪用水など、町民主導の用水に関する詳しい資料は残っていないことが多い。中には故無き罪で罪を問われたり、獄死といったケースもあった。この大丸用水も町人主導の普請であったのだろうか。
それはともあれ、大丸用水の流域概要は、現在の南武線・南多摩駅の少し上流に堰(昔は現在地より下流であった、とか)をつくりで多摩川から取水し、東京都稲城市[昔の武蔵国多摩郡(大丸村、長沼村、矢野口村、中野島村)]と神奈川県川崎市の上部[昔の武蔵国橘樹郡(菅村、上菅生村、五反田村、登戸村)]を潤す。
用水は流域各村により組織された「大丸用水九ヶ村組合」により管理され、享保12年(1727)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修されており、八代将軍吉宗の時代には新田検地が実施されている。現在の流域一帯は宅地化が進み、暗渠となった箇所も多いが、今でも諸処に残る梨園や田圃に水を届けているとのことである。


大丸用水の水路

一次幹線水路
多摩川の取水口からの水路が別れる「一次幹線」は南武線・南多摩駅近くの「分量樋」で「菅掘」と「大堀」のふたつに別れる。

① 「菅掘」
「分量樋」で別れた「菅掘」は南武線の北を蛇行を繰り返しながら南武線・稲城長沼駅の北を進み、都道9号バイパスを渡り南武線・矢野口の手前で南武線の南に移り、京王線・稲田堤駅手前で再び南武線を北に移り、京王線・稲田堤駅の北を進み、菅稲田堤地区辺りで流路を南に向け、南武線に沿って三沢川に合流する。 現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。おおよそ8キロ弱といったところか。

② 大堀
「分量樋」で別れた「大堀」は南武線の南、都道9号の南を進み、南武線・矢野口駅南を下り、京王・稲田堤駅の西、穴沢天神社の東辺りで三沢川に合流する。清水川とも称される。おおよそ5キロ強だろう。





①「菅掘」からの分流

①‐Ⅰ 押立用水掘:「菅掘」から分流する準一次幹線水路
分量樋の少し東で「菅掘」から分流し、多摩川堤に向かって進み、都道9号バイパスを渡り、流路を南東に変え、南武線・矢野口駅の北辺りで多摩川に注ぐ。

△「押立用水掘」からの分流;二次幹線水路

◎新田掘派流;「押立用水掘」が「いちょう並木」を越えた先で分流し、しばし「押立用水掘」と併走した後、多摩川堤で流路を南東に変え、稲城市第四図書館南で「菅掘」に合流する。

◎向田掘;多摩川堤手前を進む「押立用水掘」が、多摩川堤の稲城北緑地公園を越えた辺りで分流し、南東に下り、都道9号バイパスを越えた先で「中野島用水掘」に合流する 

◎川間掘;「向田掘」が分流するすこし先で分流し、「向田掘」にほぼ平行に南東に下り、都道9号バイパスを越え、「向田掘」の少し東で「中野島用水掘」に合流する。

◎本田掘;「川間掘」の分流点を東に進んだ「押立用水掘」が都道9号バイパス手前で梨花幼稚園方向へ直角に流を変える辺りで分流し、そのまま東に進み都道9号バイパスを越え、南東へ下り稲城第四小学校手前で「中野島用水掘」に合流する。


① -Ⅱ 新堀;「菅掘」から分流する準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線を越え都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、菅掘との合流点で、菅掘は終え、そこから先を「新堀」としている。






△「新掘」からの分流;二次幹線水路

◎久保掘;南武線・稲城長沼駅南の踏切辺りで「新掘」から分流し、南下し「大堀(清水川)」に合流する。

◎柳田掘;「久保掘」分流点の北、南武線の踏切を渡った先で「新堀」から分流し、南東に向かい南武線を越え、川崎街道・東長沼陸橋交差点を経て稲城第一小学校北を下り「大堀(清水川)」に合流する。

◎下新田掘;「新掘」が稲城大橋から南下する都道9号バイパスとクロスした先で分流し、南東に下り、「柳田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する。 ◎大和掘;「新掘」が「菅掘」に合流する少し手前で「新堀」から分流し、南東に下り、「下新田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する。

◎落掘;「新堀」が「菅掘」に合流する地点から、「菅掘」に沿って東流し、「菅掘」が南武線とクロスする辺りで「菅掘に」合わさる。

① -Ⅲ 中野島用水掘;「菅掘」から分流する準一次幹線水路
都道9号バイパス手前の「喧嘩口」で「菅掘」から分流し、東流。南武線・矢野口駅手前で南武線を南に越え、駅の少し東で流れを北東に変え、南武線を再び北に越え多摩川堤方向に進む。多摩川堤の菅少年野球場辺りで南東に流れを変えるも、京王相模原線手前で再び北東に向かい、京王相模原線を越えた柳田公園辺りで南東へと流れを変え南武線まで下り、そこから南武線に沿って少しすすみ三沢川に合流する。
なお、、「菅掘」に「新堀」が合流した下流の水路は「菅掘」とも、「新掘」とも呼ばれる。その水路が「中野島用水掘」に合流した先、往昔の「二ヶ領用水」を越えた末までの菅掘(新掘)下流部を「中野島用水」とも称するようではある。

△「中野島用水」からの分流;二次幹線水路

◎中野島用水の支流;南武線・矢野口駅の少し西、「中掘」が「中野島用水掘」に合流する地点で「中野島用水掘」から分流し、南武線・矢野口駅の北を進み、駅の東北にある白山神社付近で「中野島用水掘」の本流に合流する。








○一次幹線水路「菅掘」からの直接分流;二次幹線水路(準一次幹線水路を経ないで直接分流)

◎吉田新田掘;「菅掘」というより、実際は大丸堰で取水され分量樋で「菅掘」と「大堀」に分流されるまでの水路を称する「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)からの分流とも言われる。それはともあれ、「吉田新田掘」は「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。

◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。

◎中掘;稲城大橋からの都道9号バイパス手前の喧嘩口で「菅掘」から分流し、しばし東に進み稲城第四小学校の少し東で「中野島用水掘」に合流する。合流点の先からは「中野島用水掘」の支流が東に進む。

◎豊掘;南武線・矢野口駅の西、都道9号から南下し、すぐ南を流れる「大堀」に合流する短い水路。

■②「大堀」からの分流

○一次幹線水路「大掘」からの直接分流;二次幹線水路(準一次幹線水路を経ないで直接分流)

◎宿掘;「菅掘」と別れた「大堀」が都道9号の南に越えてほどなく「大堀」から分流し、東流し南武線を越え、「菅掘」から分流した「新堀」と南武線の北で合流する。

◎玉川前小掘:「宿掘」が「新掘」と合流する地点で、「宿掘」の水をパイプで「新堀」を渡し、東に流れ、南武線・稲城長沼駅の北東で「菅掘」に合流する。

◎五反田掘;「宿掘」分流点を先に進み、開渠部分が直角に曲がる地点で分流し、そのまま東流し、都道9号まで接近したところで流路を南東に変え、「久保掘」が「大堀」に合流する少し手前で「大堀」に合流する。

◎久保掘;南武線・稲城長沼駅の南を進んできた「新掘」が、南武線・稲城長沼駅の東で高架を潜る手前で「新堀」から分かれ南に下って、この地で「大掘」に合わさる。既にメモしたが、「新掘」からの分流点は駅前再開発なのか、宅地化工事のため分流点は確認できなかった。

◎切方掘;「久保掘」が「大堀」に合流する地点で分流し、三沢川に向かって南流し、三沢川の少し北を川に沿って進み、穴沢天神の少し東で三沢川に合流する。 ◎中掘;稲城第一小学校の東で「大堀」から分流し、「切方掘」の北を併走し、稲城第七小学校の南で「切方掘」に合流する。

○大丸用水地域の地名
ところで、水路をメモしながら、大丸用水に登場する地名が気になった。中野島や押立、長沼といった如何にも多摩川の流路跡に由来する地名、そして、それと上新田とか下新田、末新田といった新田開発に由来する地名がそれである。
□多摩川の流路跡に由来する地名
「中野島」は、護岸工事もない昔、「あばれ川」との異名をもつ多摩川が洪水の度に幾流にも分かれ、流路定まらぬ川筋に取り残された「島(自然微高地)」ではあろうし、「押立」も多摩川の急流に「押し立てられる」ようにつくられた「自然微高地」のように思う。また、「長沼」は流路の変遷によって取り残された湿地を表す地名だろう。
国土地理院の「2万5千分の1」の地図や「今昔マップ1896-1906」をチェックすると、南多摩駅付近の大丸地区には「河原方」、東長沼地区には「柳嶋」、押立地区には「稲荷島」、矢野口地区には「中島」、稲田駅付近には「下嶋」といった地名が記載されている。 小字名までチェックすると、大丸地区には上河原、川敷、砂場、河原方、閑古島、下川原、東長沼地域には玉川前、柳島、池ノ東(西、南、北)、河原方、池淵、押立地区には稲荷島、矢野口地区には上中島、下河原、下中島といった多摩川の流露の名残を残す地名が数多く残る。

□新田開発に由来する地名
こうした多摩川の流路変遷に由来する地名の中に点在するのが「新田」の名を冠する地名である。国土地理院の「2万5千分の1」の地図や「今昔マップ1896-1906」をチェックすると東長沼地区に上新田、中新田、矢野口地区には下新田が残る。小字を見ると大丸地区に当新田、田島新田、東長沼地区には上新田、中新田といった地名が残る。 新田開発は洪水跡の氾濫原を開発したのではあろうし、その開発の時期は江戸時代中期(1692-1779)とされる。当然のこととして、新田開発の前提として、暴れ川である治水事業が必要ではあろう、ということで、多摩川中流域の治水事業をチェックすると、代官の川崎平右衛門や田中丘隅が登場してきた。
玉川上水や武蔵野新田開発に貢献した川崎平右衛門は享保年間(1716~1735)の頃、新田世話役となり、玉川中下流の村の水防を強化し新田を開発。後には普請奉行として押立の堤防改修工事、中流部左岸の両岸20余里に及ぶ公領、私領の堤防や樋門の改修工事をおこなっている(「多摩学研究」より)。
田中丘隅は小泉次大夫が新用水奉行として普請の「二ヶ領用水」の改修、下流右岸の小杉の瀬替え、下流の連続堤の築堤などで知られるが、享保12年(1727)、川除御普請御用として大丸用水の全面改修をおこなった、とのこと。この時期は川崎平右衛門が新田世話役となり、玉川中下流の村の水防を強化し新田を開発おこなっていた頃と重なる。新田開発と並行して治水事業もおこなわれ、それに伴い新田へと水を注ぐ用水網の改修が実施されたのだろう。

□用水の痕跡示す地名
以上、多摩川の流路の痕跡由来の地名、新田開発由来の地名をメモしたが、この地域には「用水」の痕跡を示す地名も残る。東長沼地区には水門下、新川端(開削された菅堀用水端)、押立地区には、上関、中関、下関といった小字があったようである。正保~慶安年間(1644~1651)に用水の引水堰を3か所設置したと記録が残ることから、この上関、中関、下関は上堰、中堰、下堰のことのようである。
この堰設置の時期は、前述の川崎平右衛門や田中丘隅による治水事業・新田開発・用水路改修の時期より結構早い時期である。用水開削の前提としての新田開発、それを洪水から守る大規模な治水普請は享保年間(1716~1735)であるにしても、氾濫原を利用した水田開発、そこに水を通す用水路はそれ以前から行われていたということではあろう。

長々と地名についてメモした理由は、上に大丸用水開削の経緯として、「大丸用水の開削の時期は、は新田開発による年貢増収を目的とした幕府の治水政策の一環として「二ヶ領用水」の工事が行われた江戸時代初期とされるが、詳しい資料は残っていないようだ。 慶長16年(1611)に完成した、元禄3年(1690)に築造された、慶長9年(1604)に取水が始まった、など諸説ある。(中略)用水は流域各村により組織された「大丸用水九ヶ村組合」により管理され、享保12年(1727)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修されており」とメモしたが、大丸用水網もすべてが開幕初期に開削されたわけではなく、氾濫原の状態、新田開発や堤防普請といった治水事業の進展とともに整備されていったように思える。
大丸用水の中でも丘陵に近い「大堀」の流路には小字に松木田があった。「松木田」は「真土田=本当の土。川によって流されてきた土砂からなる沖積地ではなく、洪積地」に由来するものであろうから、洪水被害が少ないと思える「大堀」などは開幕初期に開削されたようにも思うが、それ以外の用水路は、上堰、中堰、下堰などの設置が正保~慶安年間(1644~1651)にあるように、多摩川の氾濫原を活用した新田開発と並行し徐々にはじまり、本格的には川崎平右衛門が新田開発・治水事業を行い、田中丘隅が大丸用水網を全面的に改修した享保年間(1716~1735)以降に巨大な用水路網ができあがっていったのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。


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