江戸の頃、一般民衆の生活にも少し余裕が出てくると行楽も兼ねての寺社へのお参りが盛んに行われるようになる。讃岐の金比羅参りもそのひとつ。阿波からの参詣者は讃岐の金比羅大権現とゆかりが深く、金比羅さんの奥の院とも称された箸蔵寺を併せて参詣することが多く、結果、箸蔵寺より阿波と讃岐を隔てる阿讃山脈の尾根を越えて讃岐の琴平にある金比羅大権現へと辿った。また、先回メモした、讃岐財田駅の「旧はしくらみち」の案内にもあったように、その逆に琴平の金比羅さんにお参りし、その後この箸蔵寺まで足をのばした、とも。この道が箸蔵道である。
先回、JR土讃線・箸蔵駅より歩きはじめたのだが、箸蔵寺があまりに大きく、あれこれと気になることも多く、結果メモは箸蔵寺に上り終えたところまでとなった。
今回は箸蔵寺より始まる箸蔵街道を歩き、讃岐へと下る散歩の記録をメモする。道自体は林道となっているところが多くで、それほど趣のある道、というわけではなかったが、それでも、阿波と讃岐を隔てる山脈を歩いて越える、ということ自体が嬉しく、6時間ほどの山道を車をデポした土讃線・讃岐財田駅へと向かった。
本日のルート;林道の車止め;11時19分>23丁石;11時45分>尾根筋の鞍部;11時48分>一升水;11時56分>増川笑楽亭分岐;12時33分>馬徐集落の廃墟;12時41分>馬除三角点;12時51分>道標;13時5分>43番鉄塔案内;13時7分>鉄塔;13時14分>増川三角点:13時23分>猪鼻峠への木標;13時25分>「四国のみち」木標;13時29分>いぼ地蔵;13時24分>木標・雲辺寺道標;13時37分>二軒茶屋;13時41分>49丁石;13時53分>57丁石;14時9分>61丁石;14時17分>峠の石地蔵狸;14時28分>二軒茶屋三角点;14時33分>薬師さん;14時39分>68丁石;14時43分>展望所;14時58分>轟の滝三角点;15時14分>「四国のみち」へ復帰;15時27分>「四国のみち」木標;15時34分>林道と交差;15時38分>下山;15時52分>百丁石付近の木標;15時57分>箸蔵寺百丁石;16時>讃岐財田駅;16時8分
林道の車止め;11時19分(標高556m)
「八十八ヵ所御砂踏」を離れて「はしくら街道」に歩を進める。北東に切れ込んだ550m等高線の辺りを緩やかに上り・下りながらトラバース気味に進み、南西に突き出した尾根筋の突端部に林道の車止め。これから先は軽トラックが通れる程度の林道が開かれている。山中の遍路道といった風情ではない。
23丁石;11時45分(標高666m)
尾根筋突端部を回り込み、左手が開けた林道を進む。おおよそ等高線550mから650mへと山腹をトラバースして北に進むこと30分。「手印」と「箸蔵寺」とはっきり刻まれた23丁石が建つ。
尾根筋の鞍部;11時48分(標高685m)
23丁石を越えてほどなく、西に向けて突き出た尾根筋の鞍部に出る。鞍部の先は平坦部になっており、回り込むと尾根道に出る。そこに「一升水」の案内。今歩いて来た尾根の西側と逆、東側にも道があり、一升水はその道をトラバース気味に少し戻ることになる。
一升水;11時56分(標高693m)
戻ること10分弱で扁額に「龍王神」と刻まれた鳥居と、「箸蔵寺21丁」の丁石。鳥居脇にささやかな「一枡水 40m」の道標。中に進むと、一升水は枯れていた。 鳥居脇にあった案内によると、「弘法大師の開かれた泉といわれている。この泉は、むかし、讃岐との往来の多かったころ、かりこ牛、商人、旅人、お遍路さんたちの飲み水として利用され、また、日照りが続くと村あげて雨乞い祭りがおこなわれ、讃岐からも迎い水をもらいに来たといわれている(三好町教育委員会)」、とあった。この一升水は先回散歩の野口雨情の歌碑でメモした場所ではあろう。
○かりこ牛
で、この案内にあった「かりこ牛」って?チェックする。「借耕牛」と書く。文字通り、牛を借りて、耕す、ということである。借り手は讃岐、貸し手は阿波の山村の農民。山間地で水田をつくることが困難であるが、牧草に事欠かない阿波の山間地の農民が育てた牛を、稲作が盛んであるが、飼料不足で十分な牛を確保できない讃岐の農民が、田植えの時期の6月と麦を蒔く11月の農繁期に牛を借りて農作業をおこなった、と言う
この習慣は江戸の中頃の文化年間(19世紀初頭)よりはじまったとのこと。その数、年に2回で8000頭を越えた、とも。阿波の美馬、三好地区を中心に、阿讃山脈のいくつもの峠を越えて讃岐に向かった。この箸蔵街道の辺りも、東の猪の鼻峠や西の東山峠を越えて1500頭以上の牛が往来した。
借耕牛の対価は1ヶ月で米一石が相場であった、とか。対価の米を背中に乗せて阿波に戻ったとのこと。で、弟の話によれば、牛は痩せて戻った、と。讃岐の農民があまり餌を与えなかったためであり、讃岐の人が方言で言うところの「しわい(ケチ)」性格を表しているのだと。個人の感想なのかおおよそ正しいのか不明ではある。
○21丁石
鳥居脇に21丁石があったが、先ほど23丁石を見ながら歩いて来た。理屈から言えば、箸蔵街道は23丁石から一升水のある21丁石に進むことになるのだが? 林道建設の時に、丁石を適当に置いた結果なのか、それとも昔の箸蔵街道は丁石通り、23丁石からこの一升水に出て、そこから尾根道を進み、尾根の南端辺りから尾根筋を箸蔵寺へと下ったのだろうか。実際、山地図には一升水から尾根道を進み、林道の車止め辺りに下るルートは載っていた。はてさて。
増川笑楽耕への分岐;12時33分(標高633m)
一升水を離れ尾根道を北に進む。左右を木々に覆われた尾根を進むと、道は尾根から少し東側を進み、右手に阿讃山脈の山並みが見えてくる。おおよそ30分強進むと「増川笑楽耕 4.5km」分岐の案内。
増川笑楽耕とは、愉快な名前。何だろうとチェックすると、廃校となった小学校の校舎を活用した農山村体験施設であった。施設は尾根の東の増川谷川の谷筋にある増川集落の旧増川小学校跡地である。笑楽耕は楽しく・笑顔で耕す(農耕体験)という趣旨に由来のネーミングであった。
馬徐集落の廃屋;12時41分(標高631m)
増川笑楽耕の分岐から10分弱で道筋に数件の廃屋が現れた。馬除集落の跡である。阿波の民話には、昔、橋蔵街道には馬が多くの荷を積んで往来していたのだが、馬の背に荷を括り付けているため、細い尾根道では交差できず、平坦なこの集落ですれ違うようにしたのが地名の由来、とか。
とは言うものの、GPSも無い昔、どこですれ違うかわかるはずもないだろう。なんとなく、馬を休める地といった集落では、とも思える。地形図を見ると廃屋から北に尾根が平坦に広がっている。
四等三角点・馬除;12時51分(676.4m)
ここで、弟から近くに三角点があるので寄って行きたい、と。何が有難いのかよくわからないが、いいよ、ということで馬除集落から引き返し気味に尾根筋を登り三角点に向かう。木々を踏み敷きながらの「藪漕ぎ」である。10分程度を25mほど上り三角点を確認。
地図には676.4mとあるだけではあるが、後日弟のHPには「馬除 四等三角点」と記載している。どうして調べたの、と尋ねると国土地理院の「基準点等閲覧サービス」で確認しているとのことであった。で、何故に三角点をゲットするのかとの問いには、なんとなく、との答えではあった。
○三角点
緯度・経度の基準となる標石。一等から四等までの4種類あり。一等三角点は45キロ間隔。標石の一辺18cm角。全国に972点ある。二等三角点は8キロ間隔。標石の一辺15cm角。全国に点5,056点ある。三等三角点は4キロ間隔。標石の一辺15cm角。全国点32,699点ある。四等三角点は2キロ間隔。標石の一辺12cm角。全国に点64,557点ある。
猪ノ鼻峠への分岐道標;13時5分(標高646m)
馬除集落跡から10分弱歩くと「<はしくら いのはな>」の木標。山地図を見ると、ここから四方向に山道が続く。650m等高線に沿って東側を回り込み猪ノ鼻峠に向かう道、尾根道を進む道、650m等高線に沿って西側を回り込み最後には尾根道に合流する道、そして増川谷川筋へと下る道である。
尾根道を進むか、等高線650mに沿って西側に回り込み山腹の道を進むか、ということであるが、弟の希望もあり三角点や鉄塔のある尾根道を直進することにした。
鉄塔;13時14分(標高684m)
分岐道標から尾根道を進むと、ほどなく白い金属板に「No.43」の案内。送電線鉄塔への道標である。猪ノ鼻峠への分岐道標から10分程度で鉄塔下に。
この鉄塔がどの送電線網かとチェックする。東に辿ると四国電力讃岐変電所(香川県綾歌郡綾歌町)が終点であるのははっきりわかるのだが、西側がどこがスタート地点かはっきりしない。
あれこれ記事を見ていると、愛媛県の伊方発電所から香川県の讃岐発電所まで、瀬戸内側を東西185キロを結ぶ50万ボルトの基幹送電線が目にとまった。川内、東予、讃岐の3変電所と四国中央(東幹線・中幹線・西幹線)から構成されているとのこと。なんとなくこの基幹送電線網の鉄塔かとも思える、根拠はない。
三等三角点・増川:13時23分(標高718.4m)
平坦な箇所を通る尾根道を東へと10分ほど進むと尾根は南と北に分かれる。その分岐点辺りに三等三角点・増川がある。この三角点は国土地理院のデータによると三等三角点とのこと。
猪ノ鼻峠への木標;13時25分(標高703m)
増川三角点から数分で「猪ノ鼻峠4.5㎞ 二軒茶屋0.7km」の木標に。三角点のある分岐から南に分ける尾根道を進むと猪ノ鼻峠に出る。
現在の猪ノ鼻峠は、昭和4年(1929)、先ほど通ったJR土讃線の猪ノ鼻トンネルが開通、峠道も戦後一般国道32号として、国直轄による改築工事が昭和37年(1962)から開始され、昭和42年(1967)に猪ノ鼻トンネル(延長827メートル)、込野トンネル(延長354メートル)など7つのトンネルが建設され、讃岐と阿波の往来は容易となっている。
が、明治の頃までは阿波と讃岐の往還は「猪ノ鼻峠」を越える道、それも「うさぎ道」と呼ばれるほどの獣道(阿波別街道)しかなかった。
○大久保諶之丞
その獣道は明治27年(1894)、財田の大地主である大久保諶之丞の、讃岐、ひいては四国の発展のためには人々が容易に往来できる道をつくることが不可欠との想いから、人力車や荷馬車が通る道が開かれた。四国四県をつなぐ四国新道の阿波・讃岐新道がこれである。
上にメモした昭和37年(1962)から開始された国道拐取工事も、この阿波・讃岐新道をベースとしたもの、と言う。大久保諶之丞は、この四国新道のほか、香川用水の提唱、讃岐鉄道の開設、瀬戸大橋の構想などに尽力し、四国新道は明治27年(1894)に、吉野川導水による香川用水は昭和50年(1975)に、そして瀬戸大橋は昭和63年(1988)に完成し、四国の発展に大いに貢献することになる。 百年先を見通すことができるスケールの大きな人物だった大久保諶之丞であるが、事業に私財を擲ち、大地主もほとんど無一文となった、と言う。
○四国新道
現在の香川から徳島を経て高知を結ぶ国道32号と高知から愛媛を結ぶ国道33号のベースとなった道。明治17年(1884)、大久保諶之丞が四国新道期成同盟を結成。ルートは丸亀と多度津を基点として金蔵寺で合流、琴平町を経て猪鼻峠、阿波へと続く南北の路線であった。
その時を同じくして、高知県では愛媛県へ通ずる一大道路の開削を計画。愛媛でも、高知県の計画を受け「予土横断道路」の開削を計画し、高知から松山への東西の路線が追加されて四国新道の計画が推進されることになる。「讃岐国那珂郡丸亀港ト同国多度郡多度津港ヨリ起リ、那珂郡金蔵寺ニ於テ両源線連結シ、夫ヨリ同郡琴平ヲ経、三野郡財田上ノ村ヨリ徳島県ヲ経高知県ニ達スルモノト、高知ヨリ起リ伊予国上浮穴郡久万町駅ヲ経テ同国松山ニ達ス」。これが四国新道のルートである。
明治19年(1886)、四国新道開削工事着工。明治23年(1890)、四国新道のうち、讃岐~阿波新道が完成。明治27年(1894)に四国新道が完成した。 なお、香川と高知を結ぶ国道32号の猪ノ鼻峠の箇所は現在大規模改修が実施されており、この猪ノ鼻道路が完成すれば4,2キロの新猪ノ鼻トンネルが猪ノ鼻峠下を貫くことになる(平成20年(2008)が着工したとのことだが、完成時期は結構探したのだが明記されているページをみつけることができなかった)。
「四国のみち」の木標;13時29分(標高781m)
猪ノ鼻峠への木標から5分ほど歩くと「四国のみち」の木標。Wikipediaに拠れば、「四国のみち(しこくのみち)は、四国全域おnおkにある歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、長距離自然歩道構想に基づく自然指向の環境省ルート「四国自然歩道」(約1,600km)からなる遊歩道である」とあるが、このルートは環境省ルートのひとつで「箸蔵街道をたどるみち」と呼ばれるコース。ルートは「国道32号猪ノ鼻峠>旧猪ノ鼻峠>二軒茶屋>JR讃岐財田駅」の11キロからなる。
いぼ地蔵;13時35分(標高747m)
「四国のみち」の木標から尾根道を少し東に下った辺りを進む、右手が開ける道は落ち葉で覆われ、誠に気持ちのいい道となっている。そんな道を少し進むと木標があり、「二軒茶菓 国道猪ノ鼻」とともに「いぼ地蔵30m」の案内。 道脇の案内には「昔、このあたりは、かしの木の峰と呼ばれていたことから、かしの木地蔵の名前がついていました。ところが、この地蔵さんにおまいりするといぼが治るという噂がたって、いつの頃からか、いぼ地蔵と呼ばれるようになったといういい伝えが残っています。
ただ、そもそもは二軒茶屋の氏神であり、山の神でもあった神祠であろうと思われます」とあった。
木標から右手に30mほど入ったところに天照などが刻まれた自然石の脇に小祠があり、小さな石が祀られていた。これが「いぼ地蔵さま」であろうか。
木標・雲辺寺道標;13時37分(標高631m)
「いぼ地蔵」の少しに木標識があり、その標識には「いぼ地蔵 二軒茶屋」とともに「箸蔵寺」の案内があり、道は尾根筋の東を先に続いている。思うに、この道は猪ノ鼻峠の分岐木標のところで、「650m等高線に沿って西側を回り込み最後には尾根道に合流する道」とメモしたルートであろう。
また木標の下部にはささやかな「雲辺寺」の木標。方向は「猪ノ鼻峠」方向を指しているので、先回の散歩でメモした、阿讃縦走路を進む雲辺寺遍路道であろうか。大雑把なルートはこ猪鼻峠への分岐から猪鼻峠に向かい、四国の道を中蓮寺峰に向かい、更六地蔵越を経て尾根道を雲辺寺へと向かうようである。
二軒茶屋;13時41分(標高627m)
箸蔵寺・雲辺寺木標から数分で数件の民家が見えてきた。二軒茶屋跡である。中の一軒は数年前まで人が住んでいたような佇まいではあった。
案内に拠ると、「昔、ここには二軒の宿があり、宿泊と茶の接待をしていたところから「二軒茶屋」という名がついたといわれています。一説によると宿の名前は大黒屋と福島屋であったそうですが、7、80年前にはもう既にもうこの二軒の旅館はなかったといいますから、それ以前のかなり昔のことだと思われます。 当地出身の服部国高(65才)の話によると、服部さんがものこころついた頃(中略)、くさぶきの大きな家があり、そこでは、旅人に茶の接待をし、宿泊もできたそうです。
昭和3年トンネルが完成し、鉄道が通じるまで、ここを通る人が多く、特に春と秋の「はしくら市」のときなど、かなりのにぎわいをみせていたようです(昭和61年 香川県)」とあった。
49丁石;13時53分(標高628m)
二軒茶菓で少し休憩。民家の先の竹林の脇に「四十九丁」と刻まれた丁石があった。
この辺で右手から大きな音が聞こえる。地図をチェックすると、国道32号の猪ノ鼻トンネルの北に、巨大な砕石場といった場所が見える。音は岩を砕く音ではあったのだろう。
57丁石;14時9分(標高706m)
49丁石から10分強、竹林脇を進み、馬の背を辿り、自然なのか人手が入ったものか、掘割状になった気持ちにいい道を進むと「五十七丁」と刻まれた丁石に出合う。
61丁石;14時17分(標高717m)
57丁石から10分弱歩くと道脇に「六十一丁」と刻まれた「61丁石」が建つ。
峠の石地蔵狸;14時28分(標高767m)
尾根道を歩くこと10分。「峠の石地蔵狸」の案内。「むかしむかしの話じゃ。讃岐に住む作造という者が阿波の国にある親戚の家に行ってごちそうになり、つい話がはずみ帰りがおそくなってしもた。
峠にさしかかった時、うしろの方からさっきわかれてきた親戚の者が「おーい、おーい、待ってくれ」と追いかけてきたのじゃ。「じつは、わかれたあとでおもいだしたのじゃが、おまはんひとフロあびてゆっくり帰ってくれ」とせっかく山道を追ってきてくれたので作造はこころよくひきかえしたそうな。そしてフロに入っておると、親戚の者が、しんせつに背中を流してくれたそうな。 そこで次に親戚の者がフロに入ったので背中を流してやったのじゃが、いつまでたってももうよいと言わんのじゃ。ゴシゴシ、ゴシゴシ。いくらすっても返事がない。フウフウいいながら一生懸命に背中をすっておると、うしろで「これこれおまはん何しとんじゃ」と声がするのでふりかえってみると、夜はすっかり明けて東の空はほのぼのとしらんでおった。
声をかけたのは山仕事にでかける炭やきだったのじゃ。なんと作造は、峠にある石の地蔵さんの背中を一生懸命手ぬぐいでこすっておったのじゃ。これは峠に住むしょうわる狸のしわざだといううわさが広まってから、峠を通る人もいなくなってしもたそうな(昭和61年 香川県)」とあった。
65丁石
峠の石地蔵狸の直ぐ近くに木標があり、そこに「石仏30m」の案内。お地蔵様は舟形の石に僧形がはっきり刻まれたささやかな石仏であった。この仏さまが峠の石地蔵さまであろう。木標の脇には「六十五丁」と刻まれた丁石が建っていた。
四等三角点・二軒茶屋;14時33分(標高789.9m)
65丁石のある木標の辺りで山道は分岐する。東に向かうルートは東山峠へと続く。東山峠も阿波と讃岐を結ぶ往還のひとつである。
それはともあれ、箸蔵街道は北へと向かう道筋ではあるが、東へのルートをとる。弟が少し東にある三角点をゲットするためである。数分進むと「四等三角点・二軒茶屋」があった。標高789.9mである。
薬師さん;14時39分(標高758m)
四等三角点・二軒茶屋から尾根筋を箸蔵街道へ下る山道を地図にあるのだが、65丁石当たりの分岐点から尾根を巻いて進む道筋に「薬師さん」がある。といことで、三角点から分岐点まで戻り、分岐点を北に進むと、すぐに道脇に「薬師さん」の案内。
案内には、「岩の上約3mのところに、薬師如来が祀ってあります。正面に薬師如来が浮き彫りされており、「薬師 天保15年 辰二月吉日」と刻まれていることから、江戸時代のものであることは推測されますが、その由来、伝承等については、はっきりしたことはわかっていません。
むかしからこの付近は交通の難所であったため、阿讃の峠を越える旅の安全を祈願して祀られたものであることが想像されます(平成13年 香川県)」とあった。
歩いていたときはわからなかったのだが、通り過ぎた道脇の天狗様のような形をした岩の上に仏さまが佇んでいた。
68丁石;14時43分(標高716m)
「薬師さま」から尾根道を進むこと5分弱、「六十八丁」と刻まれた丁石があった。
展望所;14時58分(標高574m)
68丁石辺りはしばらく平坦な道ではあるが、ほどなく道は尾根道というより、尾根筋を等高線に垂直に急激に下ってゆく。15分程度下ると「展望休けい所 30m」の木標。展望所からは讃岐の平野が見下ろせる。
四等三角点・轟の滝;15時14分(標高568.6m)
展望所からは「展望休けい所 30m」の木標まで戻らず、藪漕ぎをして「箸蔵街道・四国のみち」に直接下りる。下りたところからしばらくは等高線550mに囲まれた平坦地を進む。15分ほど進んだところに小丘といった「高み」があり、その頂点に三角点があるとのこと。20m弱上ると「四等三角点・轟の滝」があった。弟は「三角点萌え」の山仲間が残した印を見つけ、小躍りしていた。
「四国のみち」へ復帰;15時27分(標高513m)
「四等三角点・轟の滝」からは「箸蔵街道・四国のみち」からの上り口に戻らず、尾根筋を藪漕ぎで50mほど下る。結構な藪漕ぎであったが、10分強で「四国のみち・箸蔵街道」へ復帰。
成り行きで下ったわけだが、その先は深い谷筋となっており、丁度沢が深く切れ込む手前に出たのはラッキーではあった。でなければ、谷を這い上ることになっただろう。
「四国のみち」の木標;15時34分(標高397m)
「四国のみち」への復帰点から10分弱、等高線を斜め、そして垂直に100mほどくだると木標があり、「讃岐財田駅2.5km」の案内。最終地点までもう一息の距離となった。
林道・琴南財田線と交差;15時38分(標高370m)
道を進み、木々の間から讃岐の里の民家や耕地が見ながら、「四国のみち」の木標を見遣りながら5分ほどくだると大きな林道と交差する。山地図には林道の記載はないのだが、Google Mapの航空写真で見ると、国道32号方面からこの尾根筋を越え、東の谷筋の手前で切れていた。
如何なる林道か?チェックすると「林道 琴南財田線」とあった。香川県環境森林部みどり整備課のHPに拠ると、国道438号のまんのう町中通を起点とし、旧満濃町、旧仲南町を経て国道32号の三豊市財田町財田上を終点とする総延長37.5㎞(幅3mから5m)の森林管理道。大雑把に言って、半分程度完成、残りは工事中と計画中。この交差から東の航空写真が切れている辺りは工事中とのことであった。
この森林管理道周辺には7000haほどの森林があるが、人工林の比率が55%と高い上、これらの森林は土器川、金倉川、財田川上流にあり、水源涵養林、土砂防止のための保安林として森林管理が必要とのことである。
また、香川県南西部には観音寺大野原から三豊市財田町を結ぶ五郷財田線、高松市塩江町からまんのう町を結ぶ塩江琴南線があるが、この琴南財田線は完成すれば、それら二つの林道を結び、三大林道のひとつとなる。
四等三角点・讃岐財田;15時47分(標高305.3m)
結構大きな林道であったので、もうほとんど里に下りたと思ったのだが、林道をクロスした先は再び山道に入り、なかなか里に出ない。その道の途中、林道とのクロス部から10分ほど下ったところに四等三角点・讃岐財田があった。当日は見落としたのだが、後日弟は、この三角点だけゲットするため再訪したとのこと。敬意を表し写真を載せる。
下山口;15時52分(標高243m)
林道をクロスした先の山道を30分ほど歩き尾根筋を150mほど下ると下山口に。下山口には箸蔵街道の案内があった。いままで散々メモしてきたので、今更とは思うが、まとめの意味も込めてメモする。
「箸蔵街道 箸蔵寺(徳島県池田町)はこんぴらさんの奥の院とも呼ばれ、こんぴらさんに参拝した人は箸蔵寺にもお参りしたものです。箸蔵街道はこうした参詣人のための街道として栄えた道で、阿波街道の猪の鼻越えと共に、当時の重要な交通路でした。 毎日、二、三十人ずつの人が列をなしてこの街道をつぎつぎと行き来したそうです。また、農繁期前後に借耕牛が鈴をならして通ったといいます。
二軒茶屋と呼ばれたところには茶店が二軒あり、ほかに民家が二、三軒あったそうです。今では、茶店も姿を消し、たった一軒残った民家で最近まで炭焼きの老夫婦がひっそりと山暮らしの日々をおくっていました。
そのほか、明治末まで、荒子のふもとに、「さいはん」という大男が住んでいました。さいはんは毎日馬の背に米六斗(90キログラム)を積み、自分は三斗を負って阿波通いをしたという話もあります。
ここから2.4キロほど上ったところには眺望のすばらしい休けい所があり、また、二軒茶屋から箸蔵寺の方に向かって約2キロほど行けば馬除という山あいの集落もあります(昭和61年 香川県)」とあった。
箸蔵寺百丁石;16時(標高200m)
下山口辺りには木標があり、「讃岐財田駅 0.9km」の案内。後は駅までの間にある「箸蔵寺百丁石」をゲットするだけ。「百丁石」への案内はないのだが、道を5分ほど進むと「讃岐財田駅 0.8㎞」の木標があり、その先に「箸蔵寺百丁」と刻まれた丁石が建っていた。
案内には、「明治8年(1875)から同10年(1877)にかけて大久保諶之丞が太鼓木から石仏の中腹に六尺(1.8メートル)の新道をつくりました。この街道は新街道とか太鼓木道ともいわれています。ここ荒戸には今も「箸蔵寺百丁」の道標が残っており、馬子唄や鈴の音がこだました往時の様子が偲ばれます。
これは、旅人に箸蔵寺までの里程を示してくれた丁石で、大きくて立派なものです。1丁は109メートルであることから、この百丁石から箸蔵寺まで11キロほどあると、この丁石は教えてくれます。
道中には、まだ丁石が残っているところがありますので、ぜひ探してみてください(平成13年 香川県)」とあった。
讃岐財田駅;16時8分(標高153m)
箸蔵寺百丁石を越えると里に出る。田圃や溜池を見遣りながら「箸蔵寺百丁石」から10分弱で土讃線・財田駅に。駅の南に続いた道は線路で遮られる。周囲を見渡しても踏切らしきものが見当たらない。結局は線路を横切り、駅前にデポした車に戻り、箸蔵街道散歩を終える。
先回、JR土讃線・箸蔵駅より歩きはじめたのだが、箸蔵寺があまりに大きく、あれこれと気になることも多く、結果メモは箸蔵寺に上り終えたところまでとなった。
今回は箸蔵寺より始まる箸蔵街道を歩き、讃岐へと下る散歩の記録をメモする。道自体は林道となっているところが多くで、それほど趣のある道、というわけではなかったが、それでも、阿波と讃岐を隔てる山脈を歩いて越える、ということ自体が嬉しく、6時間ほどの山道を車をデポした土讃線・讃岐財田駅へと向かった。
本日のルート;林道の車止め;11時19分>23丁石;11時45分>尾根筋の鞍部;11時48分>一升水;11時56分>増川笑楽亭分岐;12時33分>馬徐集落の廃墟;12時41分>馬除三角点;12時51分>道標;13時5分>43番鉄塔案内;13時7分>鉄塔;13時14分>増川三角点:13時23分>猪鼻峠への木標;13時25分>「四国のみち」木標;13時29分>いぼ地蔵;13時24分>木標・雲辺寺道標;13時37分>二軒茶屋;13時41分>49丁石;13時53分>57丁石;14時9分>61丁石;14時17分>峠の石地蔵狸;14時28分>二軒茶屋三角点;14時33分>薬師さん;14時39分>68丁石;14時43分>展望所;14時58分>轟の滝三角点;15時14分>「四国のみち」へ復帰;15時27分>「四国のみち」木標;15時34分>林道と交差;15時38分>下山;15時52分>百丁石付近の木標;15時57分>箸蔵寺百丁石;16時>讃岐財田駅;16時8分
林道の車止め;11時19分(標高556m)
「八十八ヵ所御砂踏」を離れて「はしくら街道」に歩を進める。北東に切れ込んだ550m等高線の辺りを緩やかに上り・下りながらトラバース気味に進み、南西に突き出した尾根筋の突端部に林道の車止め。これから先は軽トラックが通れる程度の林道が開かれている。山中の遍路道といった風情ではない。
23丁石;11時45分(標高666m)
尾根筋突端部を回り込み、左手が開けた林道を進む。おおよそ等高線550mから650mへと山腹をトラバースして北に進むこと30分。「手印」と「箸蔵寺」とはっきり刻まれた23丁石が建つ。
尾根筋の鞍部;11時48分(標高685m)
23丁石を越えてほどなく、西に向けて突き出た尾根筋の鞍部に出る。鞍部の先は平坦部になっており、回り込むと尾根道に出る。そこに「一升水」の案内。今歩いて来た尾根の西側と逆、東側にも道があり、一升水はその道をトラバース気味に少し戻ることになる。
一升水;11時56分(標高693m)
戻ること10分弱で扁額に「龍王神」と刻まれた鳥居と、「箸蔵寺21丁」の丁石。鳥居脇にささやかな「一枡水 40m」の道標。中に進むと、一升水は枯れていた。 鳥居脇にあった案内によると、「弘法大師の開かれた泉といわれている。この泉は、むかし、讃岐との往来の多かったころ、かりこ牛、商人、旅人、お遍路さんたちの飲み水として利用され、また、日照りが続くと村あげて雨乞い祭りがおこなわれ、讃岐からも迎い水をもらいに来たといわれている(三好町教育委員会)」、とあった。この一升水は先回散歩の野口雨情の歌碑でメモした場所ではあろう。
○かりこ牛
で、この案内にあった「かりこ牛」って?チェックする。「借耕牛」と書く。文字通り、牛を借りて、耕す、ということである。借り手は讃岐、貸し手は阿波の山村の農民。山間地で水田をつくることが困難であるが、牧草に事欠かない阿波の山間地の農民が育てた牛を、稲作が盛んであるが、飼料不足で十分な牛を確保できない讃岐の農民が、田植えの時期の6月と麦を蒔く11月の農繁期に牛を借りて農作業をおこなった、と言う
この習慣は江戸の中頃の文化年間(19世紀初頭)よりはじまったとのこと。その数、年に2回で8000頭を越えた、とも。阿波の美馬、三好地区を中心に、阿讃山脈のいくつもの峠を越えて讃岐に向かった。この箸蔵街道の辺りも、東の猪の鼻峠や西の東山峠を越えて1500頭以上の牛が往来した。
借耕牛の対価は1ヶ月で米一石が相場であった、とか。対価の米を背中に乗せて阿波に戻ったとのこと。で、弟の話によれば、牛は痩せて戻った、と。讃岐の農民があまり餌を与えなかったためであり、讃岐の人が方言で言うところの「しわい(ケチ)」性格を表しているのだと。個人の感想なのかおおよそ正しいのか不明ではある。
○21丁石
鳥居脇に21丁石があったが、先ほど23丁石を見ながら歩いて来た。理屈から言えば、箸蔵街道は23丁石から一升水のある21丁石に進むことになるのだが? 林道建設の時に、丁石を適当に置いた結果なのか、それとも昔の箸蔵街道は丁石通り、23丁石からこの一升水に出て、そこから尾根道を進み、尾根の南端辺りから尾根筋を箸蔵寺へと下ったのだろうか。実際、山地図には一升水から尾根道を進み、林道の車止め辺りに下るルートは載っていた。はてさて。
増川笑楽耕への分岐;12時33分(標高633m)
一升水を離れ尾根道を北に進む。左右を木々に覆われた尾根を進むと、道は尾根から少し東側を進み、右手に阿讃山脈の山並みが見えてくる。おおよそ30分強進むと「増川笑楽耕 4.5km」分岐の案内。
増川笑楽耕とは、愉快な名前。何だろうとチェックすると、廃校となった小学校の校舎を活用した農山村体験施設であった。施設は尾根の東の増川谷川の谷筋にある増川集落の旧増川小学校跡地である。笑楽耕は楽しく・笑顔で耕す(農耕体験)という趣旨に由来のネーミングであった。
馬徐集落の廃屋;12時41分(標高631m)
増川笑楽耕の分岐から10分弱で道筋に数件の廃屋が現れた。馬除集落の跡である。阿波の民話には、昔、橋蔵街道には馬が多くの荷を積んで往来していたのだが、馬の背に荷を括り付けているため、細い尾根道では交差できず、平坦なこの集落ですれ違うようにしたのが地名の由来、とか。
とは言うものの、GPSも無い昔、どこですれ違うかわかるはずもないだろう。なんとなく、馬を休める地といった集落では、とも思える。地形図を見ると廃屋から北に尾根が平坦に広がっている。
四等三角点・馬除;12時51分(676.4m)
ここで、弟から近くに三角点があるので寄って行きたい、と。何が有難いのかよくわからないが、いいよ、ということで馬除集落から引き返し気味に尾根筋を登り三角点に向かう。木々を踏み敷きながらの「藪漕ぎ」である。10分程度を25mほど上り三角点を確認。
地図には676.4mとあるだけではあるが、後日弟のHPには「馬除 四等三角点」と記載している。どうして調べたの、と尋ねると国土地理院の「基準点等閲覧サービス」で確認しているとのことであった。で、何故に三角点をゲットするのかとの問いには、なんとなく、との答えではあった。
○三角点
緯度・経度の基準となる標石。一等から四等までの4種類あり。一等三角点は45キロ間隔。標石の一辺18cm角。全国に972点ある。二等三角点は8キロ間隔。標石の一辺15cm角。全国に点5,056点ある。三等三角点は4キロ間隔。標石の一辺15cm角。全国点32,699点ある。四等三角点は2キロ間隔。標石の一辺12cm角。全国に点64,557点ある。
猪ノ鼻峠への分岐道標;13時5分(標高646m)
馬除集落跡から10分弱歩くと「<はしくら いのはな>」の木標。山地図を見ると、ここから四方向に山道が続く。650m等高線に沿って東側を回り込み猪ノ鼻峠に向かう道、尾根道を進む道、650m等高線に沿って西側を回り込み最後には尾根道に合流する道、そして増川谷川筋へと下る道である。
尾根道を進むか、等高線650mに沿って西側に回り込み山腹の道を進むか、ということであるが、弟の希望もあり三角点や鉄塔のある尾根道を直進することにした。
鉄塔;13時14分(標高684m)
分岐道標から尾根道を進むと、ほどなく白い金属板に「No.43」の案内。送電線鉄塔への道標である。猪ノ鼻峠への分岐道標から10分程度で鉄塔下に。
この鉄塔がどの送電線網かとチェックする。東に辿ると四国電力讃岐変電所(香川県綾歌郡綾歌町)が終点であるのははっきりわかるのだが、西側がどこがスタート地点かはっきりしない。
あれこれ記事を見ていると、愛媛県の伊方発電所から香川県の讃岐発電所まで、瀬戸内側を東西185キロを結ぶ50万ボルトの基幹送電線が目にとまった。川内、東予、讃岐の3変電所と四国中央(東幹線・中幹線・西幹線)から構成されているとのこと。なんとなくこの基幹送電線網の鉄塔かとも思える、根拠はない。
三等三角点・増川:13時23分(標高718.4m)
平坦な箇所を通る尾根道を東へと10分ほど進むと尾根は南と北に分かれる。その分岐点辺りに三等三角点・増川がある。この三角点は国土地理院のデータによると三等三角点とのこと。
猪ノ鼻峠への木標;13時25分(標高703m)
増川三角点から数分で「猪ノ鼻峠4.5㎞ 二軒茶屋0.7km」の木標に。三角点のある分岐から南に分ける尾根道を進むと猪ノ鼻峠に出る。
現在の猪ノ鼻峠は、昭和4年(1929)、先ほど通ったJR土讃線の猪ノ鼻トンネルが開通、峠道も戦後一般国道32号として、国直轄による改築工事が昭和37年(1962)から開始され、昭和42年(1967)に猪ノ鼻トンネル(延長827メートル)、込野トンネル(延長354メートル)など7つのトンネルが建設され、讃岐と阿波の往来は容易となっている。
が、明治の頃までは阿波と讃岐の往還は「猪ノ鼻峠」を越える道、それも「うさぎ道」と呼ばれるほどの獣道(阿波別街道)しかなかった。
○大久保諶之丞
その獣道は明治27年(1894)、財田の大地主である大久保諶之丞の、讃岐、ひいては四国の発展のためには人々が容易に往来できる道をつくることが不可欠との想いから、人力車や荷馬車が通る道が開かれた。四国四県をつなぐ四国新道の阿波・讃岐新道がこれである。
上にメモした昭和37年(1962)から開始された国道拐取工事も、この阿波・讃岐新道をベースとしたもの、と言う。大久保諶之丞は、この四国新道のほか、香川用水の提唱、讃岐鉄道の開設、瀬戸大橋の構想などに尽力し、四国新道は明治27年(1894)に、吉野川導水による香川用水は昭和50年(1975)に、そして瀬戸大橋は昭和63年(1988)に完成し、四国の発展に大いに貢献することになる。 百年先を見通すことができるスケールの大きな人物だった大久保諶之丞であるが、事業に私財を擲ち、大地主もほとんど無一文となった、と言う。
○四国新道
現在の香川から徳島を経て高知を結ぶ国道32号と高知から愛媛を結ぶ国道33号のベースとなった道。明治17年(1884)、大久保諶之丞が四国新道期成同盟を結成。ルートは丸亀と多度津を基点として金蔵寺で合流、琴平町を経て猪鼻峠、阿波へと続く南北の路線であった。
その時を同じくして、高知県では愛媛県へ通ずる一大道路の開削を計画。愛媛でも、高知県の計画を受け「予土横断道路」の開削を計画し、高知から松山への東西の路線が追加されて四国新道の計画が推進されることになる。「讃岐国那珂郡丸亀港ト同国多度郡多度津港ヨリ起リ、那珂郡金蔵寺ニ於テ両源線連結シ、夫ヨリ同郡琴平ヲ経、三野郡財田上ノ村ヨリ徳島県ヲ経高知県ニ達スルモノト、高知ヨリ起リ伊予国上浮穴郡久万町駅ヲ経テ同国松山ニ達ス」。これが四国新道のルートである。
明治19年(1886)、四国新道開削工事着工。明治23年(1890)、四国新道のうち、讃岐~阿波新道が完成。明治27年(1894)に四国新道が完成した。 なお、香川と高知を結ぶ国道32号の猪ノ鼻峠の箇所は現在大規模改修が実施されており、この猪ノ鼻道路が完成すれば4,2キロの新猪ノ鼻トンネルが猪ノ鼻峠下を貫くことになる(平成20年(2008)が着工したとのことだが、完成時期は結構探したのだが明記されているページをみつけることができなかった)。
「四国のみち」の木標;13時29分(標高781m)
猪ノ鼻峠への木標から5分ほど歩くと「四国のみち」の木標。Wikipediaに拠れば、「四国のみち(しこくのみち)は、四国全域おnおkにある歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、長距離自然歩道構想に基づく自然指向の環境省ルート「四国自然歩道」(約1,600km)からなる遊歩道である」とあるが、このルートは環境省ルートのひとつで「箸蔵街道をたどるみち」と呼ばれるコース。ルートは「国道32号猪ノ鼻峠>旧猪ノ鼻峠>二軒茶屋>JR讃岐財田駅」の11キロからなる。
いぼ地蔵;13時35分(標高747m)
「四国のみち」の木標から尾根道を少し東に下った辺りを進む、右手が開ける道は落ち葉で覆われ、誠に気持ちのいい道となっている。そんな道を少し進むと木標があり、「二軒茶菓 国道猪ノ鼻」とともに「いぼ地蔵30m」の案内。 道脇の案内には「昔、このあたりは、かしの木の峰と呼ばれていたことから、かしの木地蔵の名前がついていました。ところが、この地蔵さんにおまいりするといぼが治るという噂がたって、いつの頃からか、いぼ地蔵と呼ばれるようになったといういい伝えが残っています。
ただ、そもそもは二軒茶屋の氏神であり、山の神でもあった神祠であろうと思われます」とあった。
木標から右手に30mほど入ったところに天照などが刻まれた自然石の脇に小祠があり、小さな石が祀られていた。これが「いぼ地蔵さま」であろうか。
木標・雲辺寺道標;13時37分(標高631m)
「いぼ地蔵」の少しに木標識があり、その標識には「いぼ地蔵 二軒茶屋」とともに「箸蔵寺」の案内があり、道は尾根筋の東を先に続いている。思うに、この道は猪ノ鼻峠の分岐木標のところで、「650m等高線に沿って西側を回り込み最後には尾根道に合流する道」とメモしたルートであろう。
また木標の下部にはささやかな「雲辺寺」の木標。方向は「猪ノ鼻峠」方向を指しているので、先回の散歩でメモした、阿讃縦走路を進む雲辺寺遍路道であろうか。大雑把なルートはこ猪鼻峠への分岐から猪鼻峠に向かい、四国の道を中蓮寺峰に向かい、更六地蔵越を経て尾根道を雲辺寺へと向かうようである。
二軒茶屋;13時41分(標高627m)
箸蔵寺・雲辺寺木標から数分で数件の民家が見えてきた。二軒茶屋跡である。中の一軒は数年前まで人が住んでいたような佇まいではあった。
案内に拠ると、「昔、ここには二軒の宿があり、宿泊と茶の接待をしていたところから「二軒茶屋」という名がついたといわれています。一説によると宿の名前は大黒屋と福島屋であったそうですが、7、80年前にはもう既にもうこの二軒の旅館はなかったといいますから、それ以前のかなり昔のことだと思われます。 当地出身の服部国高(65才)の話によると、服部さんがものこころついた頃(中略)、くさぶきの大きな家があり、そこでは、旅人に茶の接待をし、宿泊もできたそうです。
昭和3年トンネルが完成し、鉄道が通じるまで、ここを通る人が多く、特に春と秋の「はしくら市」のときなど、かなりのにぎわいをみせていたようです(昭和61年 香川県)」とあった。
49丁石;13時53分(標高628m)
二軒茶菓で少し休憩。民家の先の竹林の脇に「四十九丁」と刻まれた丁石があった。
この辺で右手から大きな音が聞こえる。地図をチェックすると、国道32号の猪ノ鼻トンネルの北に、巨大な砕石場といった場所が見える。音は岩を砕く音ではあったのだろう。
57丁石;14時9分(標高706m)
49丁石から10分強、竹林脇を進み、馬の背を辿り、自然なのか人手が入ったものか、掘割状になった気持ちにいい道を進むと「五十七丁」と刻まれた丁石に出合う。
61丁石;14時17分(標高717m)
57丁石から10分弱歩くと道脇に「六十一丁」と刻まれた「61丁石」が建つ。
峠の石地蔵狸;14時28分(標高767m)
尾根道を歩くこと10分。「峠の石地蔵狸」の案内。「むかしむかしの話じゃ。讃岐に住む作造という者が阿波の国にある親戚の家に行ってごちそうになり、つい話がはずみ帰りがおそくなってしもた。
峠にさしかかった時、うしろの方からさっきわかれてきた親戚の者が「おーい、おーい、待ってくれ」と追いかけてきたのじゃ。「じつは、わかれたあとでおもいだしたのじゃが、おまはんひとフロあびてゆっくり帰ってくれ」とせっかく山道を追ってきてくれたので作造はこころよくひきかえしたそうな。そしてフロに入っておると、親戚の者が、しんせつに背中を流してくれたそうな。 そこで次に親戚の者がフロに入ったので背中を流してやったのじゃが、いつまでたってももうよいと言わんのじゃ。ゴシゴシ、ゴシゴシ。いくらすっても返事がない。フウフウいいながら一生懸命に背中をすっておると、うしろで「これこれおまはん何しとんじゃ」と声がするのでふりかえってみると、夜はすっかり明けて東の空はほのぼのとしらんでおった。
声をかけたのは山仕事にでかける炭やきだったのじゃ。なんと作造は、峠にある石の地蔵さんの背中を一生懸命手ぬぐいでこすっておったのじゃ。これは峠に住むしょうわる狸のしわざだといううわさが広まってから、峠を通る人もいなくなってしもたそうな(昭和61年 香川県)」とあった。
65丁石
峠の石地蔵狸の直ぐ近くに木標があり、そこに「石仏30m」の案内。お地蔵様は舟形の石に僧形がはっきり刻まれたささやかな石仏であった。この仏さまが峠の石地蔵さまであろう。木標の脇には「六十五丁」と刻まれた丁石が建っていた。
四等三角点・二軒茶屋;14時33分(標高789.9m)
65丁石のある木標の辺りで山道は分岐する。東に向かうルートは東山峠へと続く。東山峠も阿波と讃岐を結ぶ往還のひとつである。
それはともあれ、箸蔵街道は北へと向かう道筋ではあるが、東へのルートをとる。弟が少し東にある三角点をゲットするためである。数分進むと「四等三角点・二軒茶屋」があった。標高789.9mである。
薬師さん;14時39分(標高758m)
四等三角点・二軒茶屋から尾根筋を箸蔵街道へ下る山道を地図にあるのだが、65丁石当たりの分岐点から尾根を巻いて進む道筋に「薬師さん」がある。といことで、三角点から分岐点まで戻り、分岐点を北に進むと、すぐに道脇に「薬師さん」の案内。
案内には、「岩の上約3mのところに、薬師如来が祀ってあります。正面に薬師如来が浮き彫りされており、「薬師 天保15年 辰二月吉日」と刻まれていることから、江戸時代のものであることは推測されますが、その由来、伝承等については、はっきりしたことはわかっていません。
むかしからこの付近は交通の難所であったため、阿讃の峠を越える旅の安全を祈願して祀られたものであることが想像されます(平成13年 香川県)」とあった。
歩いていたときはわからなかったのだが、通り過ぎた道脇の天狗様のような形をした岩の上に仏さまが佇んでいた。
68丁石;14時43分(標高716m)
「薬師さま」から尾根道を進むこと5分弱、「六十八丁」と刻まれた丁石があった。
展望所;14時58分(標高574m)
68丁石辺りはしばらく平坦な道ではあるが、ほどなく道は尾根道というより、尾根筋を等高線に垂直に急激に下ってゆく。15分程度下ると「展望休けい所 30m」の木標。展望所からは讃岐の平野が見下ろせる。
四等三角点・轟の滝;15時14分(標高568.6m)
展望所からは「展望休けい所 30m」の木標まで戻らず、藪漕ぎをして「箸蔵街道・四国のみち」に直接下りる。下りたところからしばらくは等高線550mに囲まれた平坦地を進む。15分ほど進んだところに小丘といった「高み」があり、その頂点に三角点があるとのこと。20m弱上ると「四等三角点・轟の滝」があった。弟は「三角点萌え」の山仲間が残した印を見つけ、小躍りしていた。
「四国のみち」へ復帰;15時27分(標高513m)
「四等三角点・轟の滝」からは「箸蔵街道・四国のみち」からの上り口に戻らず、尾根筋を藪漕ぎで50mほど下る。結構な藪漕ぎであったが、10分強で「四国のみち・箸蔵街道」へ復帰。
成り行きで下ったわけだが、その先は深い谷筋となっており、丁度沢が深く切れ込む手前に出たのはラッキーではあった。でなければ、谷を這い上ることになっただろう。
「四国のみち」の木標;15時34分(標高397m)
「四国のみち」への復帰点から10分弱、等高線を斜め、そして垂直に100mほどくだると木標があり、「讃岐財田駅2.5km」の案内。最終地点までもう一息の距離となった。
林道・琴南財田線と交差;15時38分(標高370m)
道を進み、木々の間から讃岐の里の民家や耕地が見ながら、「四国のみち」の木標を見遣りながら5分ほどくだると大きな林道と交差する。山地図には林道の記載はないのだが、Google Mapの航空写真で見ると、国道32号方面からこの尾根筋を越え、東の谷筋の手前で切れていた。
如何なる林道か?チェックすると「林道 琴南財田線」とあった。香川県環境森林部みどり整備課のHPに拠ると、国道438号のまんのう町中通を起点とし、旧満濃町、旧仲南町を経て国道32号の三豊市財田町財田上を終点とする総延長37.5㎞(幅3mから5m)の森林管理道。大雑把に言って、半分程度完成、残りは工事中と計画中。この交差から東の航空写真が切れている辺りは工事中とのことであった。
この森林管理道周辺には7000haほどの森林があるが、人工林の比率が55%と高い上、これらの森林は土器川、金倉川、財田川上流にあり、水源涵養林、土砂防止のための保安林として森林管理が必要とのことである。
また、香川県南西部には観音寺大野原から三豊市財田町を結ぶ五郷財田線、高松市塩江町からまんのう町を結ぶ塩江琴南線があるが、この琴南財田線は完成すれば、それら二つの林道を結び、三大林道のひとつとなる。
四等三角点・讃岐財田;15時47分(標高305.3m)
結構大きな林道であったので、もうほとんど里に下りたと思ったのだが、林道をクロスした先は再び山道に入り、なかなか里に出ない。その道の途中、林道とのクロス部から10分ほど下ったところに四等三角点・讃岐財田があった。当日は見落としたのだが、後日弟は、この三角点だけゲットするため再訪したとのこと。敬意を表し写真を載せる。
下山口;15時52分(標高243m)
林道をクロスした先の山道を30分ほど歩き尾根筋を150mほど下ると下山口に。下山口には箸蔵街道の案内があった。いままで散々メモしてきたので、今更とは思うが、まとめの意味も込めてメモする。
「箸蔵街道 箸蔵寺(徳島県池田町)はこんぴらさんの奥の院とも呼ばれ、こんぴらさんに参拝した人は箸蔵寺にもお参りしたものです。箸蔵街道はこうした参詣人のための街道として栄えた道で、阿波街道の猪の鼻越えと共に、当時の重要な交通路でした。 毎日、二、三十人ずつの人が列をなしてこの街道をつぎつぎと行き来したそうです。また、農繁期前後に借耕牛が鈴をならして通ったといいます。
二軒茶屋と呼ばれたところには茶店が二軒あり、ほかに民家が二、三軒あったそうです。今では、茶店も姿を消し、たった一軒残った民家で最近まで炭焼きの老夫婦がひっそりと山暮らしの日々をおくっていました。
そのほか、明治末まで、荒子のふもとに、「さいはん」という大男が住んでいました。さいはんは毎日馬の背に米六斗(90キログラム)を積み、自分は三斗を負って阿波通いをしたという話もあります。
ここから2.4キロほど上ったところには眺望のすばらしい休けい所があり、また、二軒茶屋から箸蔵寺の方に向かって約2キロほど行けば馬除という山あいの集落もあります(昭和61年 香川県)」とあった。
箸蔵寺百丁石;16時(標高200m)
下山口辺りには木標があり、「讃岐財田駅 0.9km」の案内。後は駅までの間にある「箸蔵寺百丁石」をゲットするだけ。「百丁石」への案内はないのだが、道を5分ほど進むと「讃岐財田駅 0.8㎞」の木標があり、その先に「箸蔵寺百丁」と刻まれた丁石が建っていた。
案内には、「明治8年(1875)から同10年(1877)にかけて大久保諶之丞が太鼓木から石仏の中腹に六尺(1.8メートル)の新道をつくりました。この街道は新街道とか太鼓木道ともいわれています。ここ荒戸には今も「箸蔵寺百丁」の道標が残っており、馬子唄や鈴の音がこだました往時の様子が偲ばれます。
これは、旅人に箸蔵寺までの里程を示してくれた丁石で、大きくて立派なものです。1丁は109メートルであることから、この百丁石から箸蔵寺まで11キロほどあると、この丁石は教えてくれます。
道中には、まだ丁石が残っているところがありますので、ぜひ探してみてください(平成13年 香川県)」とあった。
讃岐財田駅;16時8分(標高153m)
箸蔵寺百丁石を越えると里に出る。田圃や溜池を見遣りながら「箸蔵寺百丁石」から10分弱で土讃線・財田駅に。駅の南に続いた道は線路で遮られる。周囲を見渡しても踏切らしきものが見当たらない。結局は線路を横切り、駅前にデポした車に戻り、箸蔵街道散歩を終える。