2014年12月アーカイブ

恒例の田舎帰省の折、土佐北街道を歩くことにした。土佐街道を知ったきっかけは、銅山川疏水の資料があるかと四国中央市役所観光交流課を訪ねたとき手に入れた、「龍馬も歩いた 土佐街道」のパンフレット。「龍馬も歩いた」はいいとして、「土佐街道」という名前にフックがかかり、そのうちに歩いて見ようと思っていた。
土佐街道は古代の官道、江戸期の土佐藩の参勤交代の道筋とのことである。パンフレットに紹介されていた土佐北街道は、四国中央市のパンフレットでもあり、案内箇所は、当該行政区域内である愛媛と高知の県境尾根でもある、標高1016mの笹ヶ峰を越える地点から、馬立川に下り、馬立川と銅山川が合流する新宮の集落から法皇山脈を越えて川之江までがカバーされていた。
四国の山を歩き倒している弟によれば、土佐街道を歩く、と言えば笹ヶ峰を越えるルートを想い起こすようではあるが、笹ヶ峰越えの上り口、下り口のどちらにも通じるバス便はない。車2台あれば、上り口と下り口に車をデポし笹ヶ峰越えができるのだが、弟との日程が合わず後日のお楽しみとし、単独行の今回はJR伊予三島駅からバスの便がある新宮から、法皇山脈を越え川之江に至る「横峰越え」を辿ることにした。
新宮までのバスの便をチェックすると、11時に伊予三島駅を出発し、11時47分に新宮に到着する瀬戸内バスの便があった。また、道筋については、1万2500分の一の地図に、法皇山脈の尾根筋から、川之江の平山集落に向けてそれらしき道筋が描かれていた。その道筋は「龍馬も歩いた 土佐街道」にある、平山集落から法皇山脈に向かう道筋と同じように見える。 これで足の便も山地図も確保。基本計画はJR三島駅に車を置き、バスで新宮に。そこから横峰越えをへて川之江の平山地区に下り、後は成り行きでJR三島駅まで歩く、といったものとする。

当日を迎える。自宅を三島駅に向けて走りながら、三島駅から下山口の平山までの距離を想う。バスの便があることだけで嬉しくなり、下山口から先のことを考えないでいた。
ふと我に返り、横峰越えをから山道を下りた平山集落からの距離をチェックすると直線距離でも7キロほどありそう。夏の日の長い時はいいのいだが、日暮れの早い冬はちょっと勘弁。
ということで、平山集落の近くにJR三島駅から新宮に行くバス停がないものかとチェックすると、平山集落にバス停があった。11時に三島駅を出たバスは平山バス停に11時30分に到着する。で、急遽計画を変更し、車のデポ地点を「平山バス停」としナビに従い平山バス停に向かった。



本日のルート:平山バス停>土佐北街道と遍路道の道標>お小屋蔵跡・島屋跡>土佐北街道を上る>茂兵衛道標>土佐街道道標・廻国供養塔>間伐展示林の林道>史跡土佐街道お茶屋跡>堀切峠からの尾根道舗装道路>金比羅宮>土佐藩主・山内豊雍候 和歌の碑>銅山川の谷筋が見える>水ヶ峰地蔵>一升水>不動堂>下山地点>銅山川橋>熊野神社>新宮バス停

平山バス停;10時50分(標高224m)
自宅を出発し、国道11号を四国中央市へ。国道11号のバイパスに入り徳島に向かう国道192号に入り、松山自動車道を潜り金生川を越えた辺りで県道5号(通称;土佐街道)に入り南へと山麓を上り平山集落にある、平山バス停に。 車のデポ地点を探すに、バス停を少し北に坂を下るとT字路に当たり、そこに「椿堂 雲辺寺」の案内。
成り行きで少し東に向かうと、休憩用四阿(あずまや)と大きな駐車場。「三角寺4キロ 奥の院仙龍寺7キロ 椿堂・常福寺3キロ 雲辺寺29キロ」とありお遍路さんの休憩所となっている。65番札所・三角寺から椿堂を経て、66番雲辺寺へと向かうのであろうか、歩き遍路さんが休憩をとっていた。対面にある工務店のご厚意で建てられたもの、という。

○65番札所三角寺
いつだったか、三角寺に車で訪れたことがある。その途中で目にした「銅山川疏水」の案内がきっかけで、数回に渡る「銅山川疏水散歩」となったわけだが、それはともあれ、三角寺は標高500mの山麓にある札所。聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基し、その後弘法大師が本尊の十一面観音、不動明王を刻み三角形の護摩壇を築き、21日間調伏の秘法を行ったと伝わる。今に残る三角の池はその遺構であり、寺名の由来でもある。また、愛媛で最後の札所である。

○三角寺奥の院 仙龍寺
三角寺の奥の院である仙龍寺は、三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越え、急峻な坂を下り銅山川の川脇ににある。高知自動車道から国道319号を銅山川に沿って5キロ弱東に向かった辺りである。Wikipediaによれば、「伝説によれば法道仙人がこの地に居を構えたことに始まるとされる。平安時代初期の弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が42歳の時にこの山を訪れた。空海はここに住んでいた法道仙人よりこの地を譲り受け、厄除と虫除五穀豊穣の護摩修行を21日間行ったとされる。修行満願成就の後に空海は自身の姿を刻んだと言われ、この本尊は「厄除大師」または「虫除大師」と呼ばれるようになった」とある。その幽玄なる立地故に「四国総奥の院」とも称される、とか。

○椿堂
別格13番札所 邦治山常福寺。案内によれば、「其の昔、大同2年(807)邦治居士(ほうじきょし)なる人この地に庵を結び、地蔵尊を祀る。弘仁6年(815)10月15日未明巡錫中の弘法大師がこの庵を訪れ、当時この地に熱病流行し住民の苦しめるのを知り、住民をこの庵に集めて手にせる杖を土にさして祈祷し、病を杖とともに土に封じて去る。後にこの杖より逆さなるも椿が芽を出し成長す。住民はこの椿大師お杖椿として信仰しこの庵を「椿堂」と呼び当地の地名ともなる」と。場所は国道192号が高知自動車道を越え2キロほど東である。

○66番札所雲辺寺
このお寺さまも、いつだったか車で訪れたことがある。寺伝によれば、桓武天皇の頃、延暦8年(789年)、善通寺の建材を求めて雲辺寺山を訪れた弘法大師が、この山を霊地と感得し、山頂近くに堂宇を建立したのがはじまりとされる。その後大同2年(807年)に秘密灌頂の修法を行い、さらに弘仁9年(818年)には、嵯峨天皇の勅願で再び訪れた弘法大師は本尊の千手観音を刻み、仏舎利と毘盧遮那法印(仏法石)を山中に納めて霊場と定めた、と。雲辺寺は四国の僧の学問道場として、学僧が集まり、四国高野と呼ばれて寺はとても栄えた、とのことである。四国霊場で最も高い標高911mの山頂にある。

土佐北街道と遍路道の道標;11時05分(標高227m)
バス停で時刻を確認すると、JR伊予三島駅を出たバスはこの「平山バス停」に11時30分に着く。余裕を見て家を出たため、時刻は11時前。バス停で30分以上もバスを待つのもなんだかなあ、と山地図を頼りに平山集落へと下りてくる土佐街道の出口の確認に向かう。
地図によれば、バス停から少し南東辺りへと土佐北街道は下りている。バス停南の石垣の坂を上り、成り行きで集落の道を東に向かうと道脇に「土佐街道」の石碑があり、「是より 南 水ケ峰 新宮村を経て高知に至る  北 川之江に至る」と刻まれている。石碑の南には民家の間を山へと上る急道がある。これが土佐北街道の平山集落への下り口ではあろう。川之江に至る道は、先が急斜面となり消えている。

○地蔵丁石
この「土佐街道」は結構新しいが、その横に二基の古き趣の道標が立つ。中央の石碑にはお地蔵様が刻まれる。「奥の院まで四十八丁」を示す地蔵丁石とのこと。

○茂兵衛道標
左に立つのは「茂兵衛道標」。中務茂兵衛の道標識には、先日80番札所である讃岐の国分寺の近くで出合った。中務茂兵衛は幕末から明治・大正にかけて遍路史に足跡を残す人物である。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。
遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)道標建てたと言われるが、この道標は明治27年、138度目の遍路行を記念して建立したものと言われる。

手印は東を示し、雲辺寺方向を示す。この手印の逆方向を案内は、ない。この手印だけでは「何処から雲辺寺へ」示す道標がわからない。ちょっと気になり、後日札所65番三角寺から歩き遍路をしたのだが、寺から道なりに進むと途中遍路道の標識もあり、その道を辿るとこの道標の地についた。
で、この道標が、この札所65番からのものか、とも想ったのだが、後ほど、メモするが、土佐北街道と一部重なる札所65番三角寺奥の院・仙龍寺からの道導にも茂兵衛道標があった。とすれば、この道標は、奥の院からの打ち返し道の道標かとも思える。とは言え、65番三角寺から雲辺寺を目指す遍路道は、三角寺から南に下り国道192号を椿堂経由で進んだり、三角寺からこの平山集落を経由して椿堂、そして雲辺寺へと向かう道などバリエーションルートがいくつかあるようである。であれば、ふたつの遍路道の交わる地点の案内と考えるのが妥当かも。単なる妄想。根拠なし。

ついでのことながら、四国遍路の道標としては、徳右衛門道標(丁石)と真念道標が知られる。

■徳右衛門道標
徳右衛門道標(丁石)には三坂峠からの歩き遍路で47番札所の八坂寺で出合った。徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。

■真念
真念のことは歩き遍路の都度まとめたメモをコピー&ペーストする;真念は江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の生まれ。空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とか。

お小屋倉跡;11時10分(227m)
土佐街道の石碑から成り行きで東に少し進むと北が開け、四国中央市が一望のもと。と、道脇に割と新しい石碑があり「お小屋倉跡」と刻まれる。「土佐の国主が参勤交代の時、休み場が此処より1400米登ったところにあり、お茶屋と呼ばれここで休息される時、倉に格納してある組立式の材料を運びあげて臨時の休息所とされた」と書かれていた。




旅籠屋 島屋跡
その石碑には「旅籠屋 島屋跡」の案内も刻まれる。「薦田の家譜で約5アール(150坪余)の土地に広壮な建物があり、街道は屋敷の東(現在の谷)を下り隅で西に曲がり石垣の下を通っていた。石垣は土佐の石工が宿賃の代わりに積んだと言われ、兼山の鼠面積(長い石を奥行き深く使い太平洋の荒波にも強い)として有名である」。
兼山とは港湾整備など土木工事の実績で名高い土佐藩家老の野中兼山のこと。手結港や津呂港などの普請で知られるが、これも太平洋の荒波に耐える鼠面積で造られたのだろうか。
で、その石垣は何処に、と周辺を下り探したのだが、特に案内もなく、それらしき石垣はあったのだが、実際は今は無い、とのことである。 なお、島屋には土佐のお殿様は泊まることはなく、川之江の本陣に滞在したとのことである。

土佐北街道を上る;分岐:11時26分(標高227m)
土佐北街道の石碑のある場所に戻る。で、北街道がどのような道なのかちょっと上る。民家の間を抜け、畑地が切れる辺りまでは整備されてはいるのだが、その先から山に入る。山道ではあるがよく踏み分けられており、道筋は結構しっかりしている。
で、そこでちょっと考える。そろそろバスが来る時刻。ではあるのだが、峠から平山集落へと下りる分岐点が見つかるかどうかといった不安があり、それならと、方針を変更し、そのまま土佐北街道を進み、新宮まで向かうことにする。当初の真逆のルートではあるが、成り行き任せが基本の散歩スタイルの真骨頂ではある。

茂兵衛道標;11時34分(標高299m)
山道を30分弱進むと道脇に遍路道標が立つ。順路を示す「手印」のある正面には「大阪北区」、左面には「願主 壱百三十一度為供養、周防国 中務茂兵衛」、右面には、はっきりとはしないが「明治二十三年十月吉辰」と刻まれる。
どうも、中務茂兵衛の遍路道標のようである。この土佐北街道は遍路道の一部でもあった。道標から土佐街道と別れ東に向かう山道があるが、遍路道ではないようではある。
○奥の院からの遍路道
先にメモしたように、65番札所三角寺から66番札所雲辺寺への遍路道は、三角寺から山麓を平山の集落へと進むルートもあるが、この道はその遍路道ではなく、65番札所三角寺から三角寺奥の院である仙龍寺に向かい、そこから66番札所雲辺寺に進む遍路道の一部となっているようである。
そのルートは三角寺を出立し、法皇山脈の地蔵峠を越え、市仲(いっちゅう)を経る険路を下り銅山川脇の奥の院に。帰途は市仲まで打ち返し、法皇山脈の堀切峠を越え平山集落に下るようだが、この掘切峠から平山集落への遍路道は土佐北街道を下ったようである。
茂兵衛道標は既にメモした通り。この道標は明治26年、131度目の遍路行を記念して建立したものであろう。

土佐街道石碑;12時時3分(標高472m)
遍路道標から30分弱山道を進むと道脇に「土佐街道」と刻まれた石碑と、仏様と「南無阿弥陀仏」、そして札所への手印が刻まれた石碑がある。正面の手印下には「此方うんへん寺道 此方於くのいん道」と刻まれた文字、左側には「土佐 阿波上山」道などと刻まれた文字が読める。そのほか、「水ヶ峰迄十三丁/南無阿弥陀仏、日本廻國供養。。。」と刻まれている。土佐街道の道標、遍路道標を兼ねた廻国供養塔かとも思える。天保二年の建立とのことである。



○廻国供養塔

廻国供養塔とは、法華経を全国66ヶ所の寺社に一部ずつ納めて歩く巡礼を達成した記念、または巡礼の途中に、病などの為に不帰の人となった行者を供養する為に立てられたもの。「六十六部」または「六部」と称される行脚僧である。

平山集落からここまで重複していた土佐街道と遍路道、正確には65番札所三角寺から奥の院を辿り、打ち返して雲辺寺に向かう遍路道とはこの地で別れる。奥の院は土佐北街道から東へと向かう。





間伐展示林の林道;12時05分(4標高85m)
廻国供養塔から先に進むと地図にない林道に出る。土佐街道は東に向かうが、地図にない林道が西へと何処に続くのか道を逆に進むと、ほどなく尾根道・堀切峠手前の「峰の地蔵尊」前に出た。林道と舗装された尾根道のクロス部分には「間伐展示林」の看板があった。この林道は展示間伐用の林道ではあるのだろう。




「峰の地蔵」にお参りし林道を戻ると、途中に左に折れる分岐があり、その道を東に向かうと廻国供養塔の分岐点に出た。先ほど出合った廻国供養塔で別れた奥の院からの遍路道は、峯の薬師で尾根道に出て、その先の堀切峠辺りから銅山川筋へ下っているのだろう。当初は「峯の薬師」から遍路道が続くのかとも思ったのだが、それに関する案内はなかった。来年、雪が溶けた頃、奥の院への道を辿ってみようと思う。







史跡土佐街道お茶屋跡;12時時30分(標高502m)
間伐林道を峰の地蔵へと寄り道し、往復で20分程度を使った後、「土佐街道・廻国供養塔」分岐点から再び間伐林道へと戻り、林道を東に5分弱進むとささやかな沢があり、木橋を越えると木と石の碑があり、木には「お茶屋跡」、石碑の正面には「史跡土佐街道お茶屋跡」、側面には「この場所に泉があり土佐藩主山内公の参勤交代中の休み場であった。延べ50余mの石垣で三方を囲み、上段に70平方メートル余りの屋敷を構えた。先触があると1400メートル下の平山のお小屋倉から組立式の材料を運び上げて休息所を建てた」、「近年上からの排水で谷ができ旧跡は分断されている。藩主の乗り物はこの地点から休息所へ進んでいったという」と刻まれた川之江市教育委員会の案内があった。ここに、土佐北街道の上り口近くにあった「お小屋蔵」から材料を運び建てた休息所ではあろう。
泉の跡は石碑のある平場から少し離れたブッシュの仲に同じく木の「お茶屋跡」の案内があり、その案内の奥には「泉跡」の石碑が立っていた。
「お茶屋跡」の案内は上記の案内とほぼ同じ。「一般に「お茶屋」と呼ばれたこの地には、泉があり、すぐそばに大きな松の木があった。そのため、古くから旅人たちの休み場となっていた。江戸時代、土佐藩主山内侯が参勤交代でここを通るとき、先触れが来ると平山のお小屋蔵から木材を出し、臨時の休み場をここにしつらえていたと伝えられている(川之江市教育委員会)」。松の木茶屋とも称される所以ではあろう。

堀切峠からの尾根道舗装道路;12時分50分(標高513m)
お茶屋跡を離れ先に進むのだが、道の踏み分けがわかりにくくなる。3方向に踏み分けらしき跡があるのだが、どれもはっきりしない。なんとなく堀割りっぽい道を選んだのだが、どうも沢であったようであり進むのに難儀した。結局力任せに立木を踏みしだき15分程度進むと堀切峠からの尾根道の舗装道路に出た。後日歩き直した時も、はっきりした道はわからなかったが、沢の右手の踏み跡らしき道を辿ると、ぴったりと分岐点に出た。どうしたところで、お茶屋跡から尾根道まで150メートル程度なので、真っ直ぐ上って行けば尾根道にでるので踏み跡がわからなくても心配はないだろう。

尾根道に這い上がったところから下山の分岐点を探しに東に進むと、ほどなく木標がある。大きく「とさかいどう ふるさとのみち」の案内に脇に、左右は「左 堀切峠0.7km  右 呉石高原4.3km」と書かれた木標、北向きに「土佐街道分岐点 お茶屋 平山を経て」と書かれた木標、そして「お茶屋の跡150m」といった木の案内が立木に取り付けられていた。これほどはっきりかかれておれば新宮方面から横峰越えを辿っても、土佐街道分岐点を見落とすことはないだろう。
○呉石高原
呉石高原、または呉石山とは法皇山系のピークのひとつ。標高800m。独立峰ではあるが、等高線を見ると平坦な形状となっており、それ故に呉石高原とも呼ばれるのだろう。遍路道は平山に降りず、そのまま呉石(くれいし)高原に向かって進み讃岐の山雲辺寺に向かう遍路道もある、と言う。

金比羅宮;12時55分(593m)
尾根道を進むと、右手山側にささやかな「金比羅宮」の案内がある。のんびり歩いていると見落としそうなものである。「金ぴらさんで知られている当社は遙拝所として建立されたらしく、昔は鳥居が建っていて旅人は道中の安全を祈った 右へ30米入る」とあるので、先に進むとおよそ10mほど入ったことろに小祠があった。その先に進んではみたのだが、それらしき祠はなかったので、その小祠が金比羅宮ではあろう。遙拝所とは言え、植林により木々で前面が遮られ、讃岐の山々を見ることはできなかった。
どうでもいいことなのだけど、山の道案内は実際の距離より短いことが多いように思う。この金比羅も実際は10mもいかないところにあった。あまり短いので更にブッシュを掻き分けて林の奥に入ったが特に何もなかった。実際より長い距離を書くのは何か理由があるのだろうか?

土佐藩主・山内豊雍候 和歌の碑:13時(標高622m)
舗装された尾根道を西に進むと大きな石碑が建つ。「うすくこく 遠近分けて 夕日影 霞む浪まの 沖の島々」と刻まれる。歌碑の脇に和歌建立の由来を刻んだ石碑があり、「北山越えの土佐街道は、土佐城下と伊予川之江を結ぶ交通の要路で、往古の太政官道であり、江戸期には主要参勤路であった。現今でも高速道路が通り、歴史は繰り返すの感が深い。
高知を発ち国見山、笹ヶ峰をはじめ多くの峰々を越え、最後の法皇山脈横峰を登り詰めると展望が開ける。眼下には川之江、夕日に映えて、北の方には瀬戸内の島々、中国筋の山並みがかすむ。振りかえれば苦しくも越してきた山々が重なって見える。
土佐藩中興の名君として世に聞え、和歌も能くした山内豊雍(とよちか)公が安永3年(1774)3月8日、江戸参勤の途次ここに立ち感慨深くこの歌を詠まれた、公時に24歳。
平成8年、文化庁より横峰越えが「歴史の道百選」に選出された事を機にこの歌碑を建立することとなった」とあった。 昔は見晴らしもよかったのだろうが、現在は植林だろう木々に遮られ瀬戸の海を見渡すことはできないが、昔は夕日に染まる美しい瀬戸の島々が見えたのだろう。

○土佐街道開削の経緯
「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター)」によれば、「土佐藩の参勤交代は、はじめ紀伊水道の海路をとっていたが、暴風波浪のためしばしば避難したり足止めされることが多く、その難を避けるため、6代藩主山内豊隆の時、北山越(笹ヶ峰)えによる陸路が検討された。
藩主の命を受けた郡奉行岡田又兵衛は、享保2年(1717年)2月立川から笹ヶ峰を越え、馬立村木地屋、市仲、さらに横峰を越え、川之江に、さらに讃岐の仁尾までのルートを調査した。
このルートは、古代官道に沿うものだといわれている。立川番所から北山越えの道は、ほとんど新設の道であったという。開削には、土佐の村々から7,000人の人夫が動員された。農民たちの血と汗によって作られた街道である。この道は6代藩主山内豊隆から16代山内豊範まで、文久3年(1863年)までの146年間利用された。翌年から蒸気船海路となり、以後この街道は民間の生活の道として利用されてきた)とある。
■古代官道
これも「えひめの記憶」を参考にまとめると、「新宮村を南北に横断する土佐街道は、土佐藩の参勤交代路として開削された道路であるが、新宮には古代の官道があったといわれる」とあり、続けて「古代、讃岐の国府(現香川県坂出市)から伊予の国府(現今治市)に通じる南海道の「伊予国駅馬」として、「大岡(川之江市;現四国中央市)、山背(新宮村)、近井(四国中央市土居)、新居(新居浜市)、周敷(西条市)、越知各五疋」とあり、伊予国内に駅を設け、各駅に五頭の馬を置くことを定めている。
それはともあれ、この駅の中で新宮村が瀬戸内に位置する他の駅に比べて四国山地の中に位置し、ちょっと違和感を覚えるが、それは「延暦15年(796年)には四国山地を越えて土佐国府(現高知県南国市)へ至る新道が開かれ、山背(やましろ)駅はそのために設けられた新駅である(日本後紀))」とのこと。
続けて、「えひめの記憶には」「土佐への道は大岡(おおおか)駅(現川之江市)から堀切峠を越えて銅山川の縦谷に下り、山背駅の跡地と推定される馬立川上流の馬立(現新宮村)から急坂を登り、笠取峠などを経て笹ヶ峰を越え、土佐の丹治川(たじがわ)駅(現大豊町)・吾椅(あがはし)駅(現本山町)・頭駅(づえき)(現土佐山田町)を経て土佐国府に達した。」とある。

銅山川の谷筋が開ける;13時10分(標高612m)
和歌の碑から南に向かう「水ヶ峯 800m」への案内に従い舗装された尾根道を離れ新宮へと下る道に入る。右手は開け木々の間から銅山川の谷筋、その向こうに四国山地の山々が重なって聳える。道も舗装されており車も通れそうな緩やかでゆったりとした道を「水ヶ峰地蔵」へと向かう。





水ヶ峰地蔵;13時20分(標高609m)
先に進むとご神木である「ケヤキ」に迎えられて「水ヶ峰地蔵」境内に。正面に地蔵堂。お堂の横に石塔。そしてその右には滝が落ちる。地蔵堂の前にある「標高589米」を示す石碑と「水ヶ峰地蔵の由来」の案内。「境内にある三体の石佛は、江戸時代の文政十年(1827)川之江村在の2名(高津有友、土肥久米之助)、阿波美馬郡の1名(氏名不詳)の寄進による。中央が本尊の地蔵菩薩、向かって右が弘法大師、左に不動明王が安置されている。本堂右手の宝篋印塔も同年、出羽国米沢城下の神尾平九郎であることから、当地方のみならず各地の信仰をあつめたようである。
歴代土佐藩主も参勤の途次、主要道(横峰越え)としてここを通行した。この地に石佛三体が安置され、岩盤より湧き出る清水が、いつの頃からともなく、多くの人々に「地蔵尊の恵みの水として、人々が守られている」と口伝されている。地下に高速道路が建設されるにともない、古代よりの恵みの清水が変わらぬようにと、昭和62年春、金佛の延命地蔵菩薩の開眼法要が行われた。以来、水は絶えることはない」、とあった。
地蔵堂にあった新聞記事には文化11年(1814)には高知城下の吉助、与助両人の手によって線香立てまで奉納されており、案内にあるように古くからこの地だけでなく、遠く山形など各地の信仰をあつめていたようだ。
○宝篋印塔
宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い(Wikipedia)。願主は前述の如く神尾平九郎義政であるが、地蔵堂の新聞にあったように、遠く山形の人がどんな理由でこの地に立てたのか、誠に気になる。

■銅山川のダムについて
水ヶ峰地蔵から木々の間にダム湖が見える。境内にある案内によると、「水ヶ峯地蔵から眼下に新宮ダムが見えます。銅山川には3つの多目的ダムがあり、日本でも珍しい三連ダムである。これらのダムの貴重な水は、川之江・三島地区へ分水され、文字通り「命の水」として大切に使われています」との説明文とともにイラストで、三連の最下流は新宮ダム(高さ42m;水の量1300万立方メートル;洪水調整・灌漑用水・工業用水・発電)、その上流10キロのところに柳瀬ダム(高さ55.5m;水の量3220万立方メートル;洪水調整・灌漑用水・水道用水・工業用水・発電)、更に上流13キロのところに富郷ダム(高さ106m;水の量5200万立方メートル;洪水調整・水道用水・工業用水・発電)が案内されていた。
説明にある「命の水」の所以、また銅山川が注ぐ吉野川の水を巡る四国四県のあれこれは、先般メモした「銅山川疏水」をご覧ください。

一升水;13時40分(標高476m)
尾根道から分岐し、水ヶ峰地蔵まで続いた舗装道路もここで切れ、水ヶ峰地蔵から先は山道となる。境内脇の石段を下り、滝の水が下る沢を渡り、時に沢が切れ込み、狭まった山道をおよそ1キロ進み、竹林が見え始めると、そこに「一升水」がある。
水ヶ峰地蔵にあった新聞記事には「その昔この地を歩いた弘法大師が持っていた杖を突き立てたところ、およそ一升あろうかという水が湧き出たとも、のどの渇きひとしおで先を急ぐ旅人たちは、一升の水を飲んだともいう。
はなやかなりし頃は、四戸の民家があってうどんや草履、酒などを売っており縁台に腰掛け一杯やる人もいた。阿波からは上山を経てこの一升水に通じる道もあったので、人馬の往来も少なくなかったらしい。今では完全に廃屋となり、さびしい場所になってしまった」とあった。廃墟はないが、当時の生活を偲ばせるものとして数メートルにも積み上げられた石垣が残る」、とのこと。
ところで、記事に「阿波からは上山をへて」とあった。土佐北街道を尾根道へと上っていたときに出合った「廻国供養塔」に「土佐 阿波 上山道」と刻まれており、突然現れた「上山」の位置づけが今ひとつはっきりしなかったのだが、銅山川の谷筋の新宮は南から銅山川に合流する馬立川に沿った土佐との往還だけでなく、銅山川が東流し注ぐ吉野川が流れる阿波からの往還の経由地であった、ということだろう。

不動堂;14時(標高317m)
一升水から1.3キロほど下り、不動坂の案内があい、その先の杉林の中不動堂が見える。札所65番三角寺との末庵との説もあるようで、堂の中には岩石をくり抜いた不動明王が祀られる、という。





下山地点;14時15分(標高281m)
不動堂から700mほどだろうか、山道が切れ舗装された道にでる。更に数百メートル下ると新宮小・中学校の手前に当たり、そこを折り返すと国道319号に出る。そこには「土佐街道」の石碑が建つ。平山口から此の地点までが「横峰越え」と称される道筋である。





銅山川橋;14時20分(標高193m)
国道脇には銅山川が流れる。かつて、この辺りに「中西 新宮渡し」の宿場があった、とのことである。
四国中央市観光協会の資料に拠れば、「大正14年(1925)に吊り橋ができるまでは舟により往来していた。銅山川橋のすぐ上に渡し跡があり、川岸の岩盤を削って造成した跡が今も残る。舟は人馬を渡せる大きなもので、川の両面に荒縄を引っ張り、船頭がそれをたぐりながら舟を渡していた。参勤交代は高知城発が旧暦3月5日が最も多い。それはその頃が最も雨の少ない時期であったから。参勤交代の時は2500名が渡るため、近くにあった渡し船9艘をあつめ舟橋を設けた」といったことが書かれてあった。
「えひめの記憶」に拠れば、「延宝8年(1680年)の土佐藩の参勤交代従者数は、総数1,413人とのことである。これら多人数の者が、先遣隊、本隊、後続隊と出発をずらして、この新宮の渡しを渡っていった。そのため参勤交代時は、臨時に川に船を並列してつなぎ、その上に板を敷きつめて、一種の船橋をつくって渡っていた。これら渡しの存在は、銅山川の水量の多さ、急な流れのため、橋のない時代の交通手段であったことを物語るものである。長い間人や馬、物資を渡していた新宮の渡しも大正14年(1925年)に渡し場の下流30mのところにつり橋が造られ、その姿を消していった)とある。舟橋云々のエビデンスである。

熊野神社
橋を渡り銅山川と馬立川が合流する手前にあるバス停に。次のバスは15時38分。バスの時刻まで1時間以上ある。「土佐街道・横峰越え」に4時間から5時間程度ほどかかるかと思っていたのだが、実際には途中「峰の地蔵」に寄り道しても3時間程度で越えて来たことになる。それはともあれ、バスまで時間があるので、旧新宮村、現在の四国中央市新宮町の中心部であろう一帯を彷徨う。

四国中央市新宮公民館の隣りに立派な構えの社がある。熊野神社である。四国中央市観光協会に資料によれば、「大同2年(807)に紀州の新宮から田邊、真鍋、三鍋氏一統によりこの地に勧請された、と言う。四国内にある熊野社のうちでも筆頭格に列せられる由緒ある社。最盛期には四国の大半の地域に勢力をもち、牛王の神符を配布していた、と。
権現造りの社の境内にある御神木の銀杏は市の天然記念物。また、近世に発見された神鏡は、貞応2年(1223)の銘。鎌倉時代の鏡として県の有形文化財となっている」といった記事があった。新宮村の名前の由来となった社である。

○四国中央市新宮町(旧宇摩郡新宮村)
ぶらぶら町を彷徨うに、新宮のことについて何も知らない。ついでのことなのでまとめることにする;Wikipediaを参考に大雑把にメモすると、新宮町は「四国のほぼ中央、愛媛県の東端に位置し、東は徳島県、南は高知県に1000メートル級の山々で接する。北は法皇山脈を境に川之江市と、西は伊予三島市の嶺南地域と接する。
人口1,700人の典型的な山村で、40以上の集落があるが、それぞれの間の距離がある。村の大部分は急傾斜の山林で、耕作地は少ない。集落は谷あい及び比較的傾斜のゆるやかな中腹に分散している。村を東西に銅山川が深い渓谷を形作りつつ貫流し、徳島県山城町に至る。銅山川には新宮村から上流には新宮ダムなどが連なる。土佐街道が村を南北に縦貫しており、歴史的遺産や言い伝えも数多く残っている」とある。
上にメモした阿波からの経由地である「上山」も、此の中心地から結構離れているが新宮の一部であるようだ。四方を山に囲まれ、東に流れる銅山川の谷筋だけが「開ける」新宮は旧街道時代、峠越えが交通の主力の時代は土佐・伊予・阿波を繋ぐ交通の要衝であったが、モータリゼーションの時代には四方の山塊に阻まれアクセスが極めて不便な地となっていた。
「えひめの記憶」によれば、「昭和42年(1967年)4月1日、新宮と大豊を結ぶ笹ヶ峰トンネルが開通し、ついで昭和55年(1980年)8月8日、村民宿願の新宮と川之江を結ぶ堀切トンネルが開通した。この堀切トンネルの開通によって、県道川之江・大豊線が昭和の土佐街道として機能するようになった。 さらに平成4年(1992年)1月30日、高知自動車道が川之江・大豊間に開通した。この自動車道の特色はトンネルが多いことである。新宮村だけでも五つのトンネルが抜けている。新宮には土佐街道の馬立本陣跡の土を走るインターチェンジが設けられ、平成の土佐街道として、高知・高松・松山・徳島の四国の県庁所在地は高速道で結ばれることになる。まさに新宮は四国のへそとして未来に大きな夢をつなぐことになった」とある。
■主要作物商品はお茶
町の主要商品作物はかつては葉たばこ、現在はお茶である。葉たばこは藩政時代より阿波よりもたらされた刻みたばこ用の阿波葉が栽培されていたが、昭和初期を最盛期に昭和40年を境にほとんど消えていった、と。
お茶は古くから「山茶」が自生していたが、戦後静岡より種を導入し、新芽の時期に黒色ネットを上からかけて育てる『かぶせ茶』という甘みの強い独自のお茶を開発し、活路を見いだしているとのことである。販路は愛媛の東予70%、松山を中心とした中予が20%とローカル中心の販路のようである。

■土佐街道は「お茶の道・塩の道」
お茶といえば、土佐街道は参勤交代の道とともに、お茶の道・塩の道とも称される。「えひめの記憶」に拠れば、「江戸時代の土佐街道は、土佐藩の参勤交代路として大きな役割を果たしてきた。それとともに、山と海との物流が盛んに行われてきた道でもある。土佐の山分(やまぶん)(嶺北地域)の茶が大量に人の背や馬によって、笹ヶ峰を越え法皇山脈の横峰を越えて、伊予の川之江、讃岐の仁尾に送られている。
土佐の茶で有名なものが碁石茶である。碁石茶は発酵茶であり、その販路は瀬戸内海沿岸や島方であった。碁石茶は塩分を含んだ島方の水に合うためとか、島方で常用される「茶ガユ」の原料に用いるためとかいわれている。(中略)『大豊町史』によると、「碁石茶は土佐の嶺北山間の村々で生産され、特に東本山村(大杉村)・西豊永村で多く生産された。明治14年(1881年)に編集された本山郷下分17か村(旧大杉村)の村誌によると、その生産数量は3,580貫(13,425kg)余に上り、そのほとんどを愛媛県川之江方面に出荷している。」とある。
『仁尾町史』によれば、「最初土州侯より茶売買の特権を得た仁尾商人は12軒であったが、その後茶業繁栄の結果、幕末には18軒が茶商売を行っていた」。また「(中略)これらの商人は、購入した茶を土州山分より北山通り立川口番所を通り、山越をして伊予川之江、さらに和田浜へ運び、それより船にて仁尾へ送り、丸亀を始め瀬戸内沿岸の有名な都市に取引所や売店を設けて、仁尾茶として販売し大いに繁栄発展した。」と記述されている。このように藩政期には、仁尾商人と土佐(嶺北地方)との結びつきは強かった。
(中略)
土佐の山分から馬立を中継して、伊予川之江、讃岐仁尾の港に碁石茶が運ばれ、一方海から山へは塩が運ばれた。それを物語る史料として、次の切手が残っている。磯谷村の孫七ら8名の者の道中切手である。それによれば「右ハ此もの共予州馬立迄茶丸持越塩荷取二参上申候間其元にて御改之上御通し被下度奉存候已上磯谷村名本小左衛門図(印)卯八月十六日〔注:享保20年(1735年)〕本山与右衛門殿川井甚之烝殿」とある。
また享保19年・20年の道中切手和田村分だけでも、道中切手の行先は馬立、川之江、仁尾であり、送り荷は茶丸であり帰り荷は塩であった。
碁石茶の取り引きで活躍した仁尾商人が、明治維新で壊滅的打撃を受け、名声高かった仁尾茶が全讃岐より姿を消した。(中略)「土佐藩では幕末の財政危機で大量に藩札を発行した。取り引きもすべて藩札であった。明治維新で土佐藩の藩札の暴落で、仁尾商人が持っていた藩札は紙くず同然になってしまった」 とある(「えひめの記憶」より)
呉石茶の山地だった土佐の霊北地区を歩いてみたくなった。雪がとけたら、土佐街道の愛媛と高知の県境である笹ヶ峰を越える、土佐街道・北山越えを辿って見ようと思う。

新宮バス停
熊野神社を離れ、馬立川が銅山川に合流する辺りを彷徨い、待ちわびた15時38分発のバスに乗り、堀切峠のトンネルを抜け平山のバス停で下車。これで本日の散歩を終えル。
因みに、雪景色の写真はデジカメの調子が悪くピンぼけばかりであったので、年末帰省の折に撮り直しで、同じコースを辿ったときのもの。新雪に鹿の足跡らしき踏み跡だけが残る土佐街道を歩くのも結構良かった。
数年前のことになるだろうか、奥多摩の「水根貨物線」跡を辿ったことがある。水根貨物線は小河内ダム建設のためのセメントや川砂、建設資材を運ぶ目的で建設された東京都水道局の専用線である。正式名称は「東京都水道局小河内線」と呼ばれ、路線距離6.7キロ。23の隧道と23の橋梁で氷川駅(現在の奥多摩駅)とダム建設サイトの水根駅を繋いだ。運行期間は昭和27年(1952)の鉄路開通から昭和32年(1957)の小河内ダム竣工までの5年間だけである。
当初の計画では建設資材の輸送は鉄道ではなく、道路および索道による運搬計画が立案されていたようだ。昭和13年(1938)に地鎮祭が執り行われ工事開始となるも、昭和18年(1943)、戦局の悪化により工事中止。戦後昭和24年(1949)に工事再開されるに際し、東京都水道局は計画の見直しを行い鉄道建設に決定したとのことである。鉄道建設の工事設計施工は国鉄に委託された。
ダム竣工後は昭和38年(1963)西武鉄道、昭和53年(1978)には奥多摩工業に譲渡され「水根貨物線」と呼ばれるようになり、一時観光用鉄道としての企画もあったようだが、現在は廃線となっている。

水根貨物線のことを知ったのは、これもいつだったか、奥多摩駅より小河内ダムまで続く昔の青梅街道を遊歩道として整備した「奥多摩むかし道」を歩いたときのこと。道の途中でいかにも線路跡といった道筋や幾つかの橋脚が目に入り、チェックするとそれが既に廃線となった水根貨物線跡であった。

で、その水根貨物線跡を数年ぶりに辿ることになったわけだが、そのきっかけは夏に沢登りをガイドしている沢ガールのひとりが、秋には廃線か廃道を歩きませんか、との「ご下命」。それではと、廃道は既にブログにメモした明治の青梅街道である「黒川通り」、廃線は「水根貨物線」を散歩の候補とした。
廃道歩き候補の「黒川通り」は事前踏査するに、既にブログにアップしたメモの通り崩壊箇所が多く、余りに危険ということで選択肢から外す。一方、廃線歩き候補の「水根貨物線」は3箇所ほど崩壊鉄橋があり、そこが危険であることが以前の「水根貨物線」歩きでわかってはいた。で、いざの場合にと迂回路を探しに事前踏査に出かけ、3箇所とも迂回路があることがわかり、それではと「水根貨物線跡」に出かけることにした。
パーティは沢ガール2名、「廃道・廃線」とのキーワードにフックが掛かり参加表明の女性、そして30代の男性と私の5名。頃は秋。紅葉見物も兼ねて奥多摩駅に向かった。

○奥多摩湖ダム建設の経緯
水根貨物線建設の背景にある奥多摩湖ダム建設について、その経緯をまとめておく;東京都の水瓶と呼ばれていたい奥多摩湖。今でこそ、東京都民の水源は利根川・荒川水系にその水量の80%を頼り、多摩川水系の比率は18%程度とはなっているが(その他相模川水系1.8%,地下水0.2%)、昭和6年(1931)、当時の東京市がその市民の水資源確保と計画したのがこの奥多摩湖ダム・小河内ダムである。昭和6年(1931)に計画が発表されてから昭和32年(1957)のダムの竣工まで、結構時間がかかっている。その間の紆余曲折をまとめておく。
当時の東京市は大正末期より東京市民の水源確保のための候補地を検討。昭和6年(1931)には昔の三田郷である原・河内・河野・留浦の4部落からなる当時の小河内村を候補に選定。ダムはこの4村に丹波村、小菅村を加える大規模なものであり、ダム建設により水没する小河内村の村民は反対を表明。が、当時の村長である小沢市平氏、は「天子さまの御用水」第一と村民を説得し、無条件で了承し、昭和7年(1932)、東京市議会はダム建設を可決した。
土地買収がはじまろうとした昭和8年(1933)、「二ヶ領用水」を巡り神奈川県と水利紛争が発生。元禄時代に起工され、神奈川県の稲毛で多摩川から取水する「二ヶ領用水」の用水組合が多摩川の水利権をもっており、その組合が反対しダム建設計画は頓挫。その上、当初ダム建設地とされていた「女ヶ湯」の地が地質上不可ということで、ダム建設地が2キロ下流の「水根沢」に変更された。 このダブルの不手際に村民は抗議。白紙還元の動きも出る。工事の頓挫で土地移転の補償費が入らない村民は困窮。小沢村長は村の荒廃を防ぐべく奔走するも状況は好転せず、昭和19年(1935)には、堪忍の限度を超えた村民が蜂起。「蓆旗竹槍は多摩の伝統 猪突猛進は世代廼衣鉢」と小沢村長を先頭に村民が東京に直談判へと向かう。官憲は氷川大橋を阻止線とし、村民は奥氷川神社に押し込められ、代表が東京へ強談判に向かう。


この強談判が功を奏したのか、のらりくらりの官僚の態度が変化し、問題が次々解決されてゆく。そして昭和11年(1936)2月26日には「二ヶ領用水組合」との和解成立。この日は期しくも二・二六事件の日。また、当時の東京都知事は「二ヶ領用水組合」問題が紛糾したときの神奈川県の横山知事であった(昭和10年(1935)、東京都知事に)。
昭和12年(1937)に買収地価公表。あまりの低い買収地価のため騒動が起こるも、当時の官主導社会故に村民は泣き寝入り。昭和13年(1938)には妥結。八ヶ岳山麓など他の地への移転者には少額ながら更生資金が用意された。
昭和13年(1938)11月に地鎮祭。しかし戦局の悪化により昭和18年(1943)工事中止。戦後の昭和24年(1949)工事再開され昭和32年(1957)ダム竣工。奥多摩湖(小河内貯水池)は東京都民と神奈川県の一部に一定の水を安定的に供給するのが大前提であるため、ダム湖はその余水を貯蔵することになる。そのため湖が水に満たされるには結構日数がかかり、奥多摩湖が全容を表したのは昭和40年(1965)のことである。
現在奥多摩湖に貯水された水は、多摩川第一発電所に落とされ、その水褥池にたまった水は大半(一部は上でメモした氷川発電所に)が多摩川に放水され、約34キロ下流にある小作取水堰と、約36キロ下流にある羽村取水堰で水道原水として取水される。取水された原水は、自然流下により村山・山口貯水池、玉川上水路などを経て、東村山・境の各浄水場へ、導水ポンプにより小作浄水場へ送られる。また、東村山浄水場から原水連絡管により朝霞・三園の各浄水場へも送ることが可能となっている。「二ヶ領用水」は灌漑用水の重要性は当時とは異なるだろうが、現在でも取水堰があり、そこから取水されている。


本日のルート;奥多摩駅>奥多摩工業>北氷川橋>女夫(めおと)橋>■第一氷川橋梁>第一氷川隧道>日原川橋梁>第二氷川隧道>第二氷川橋梁>氷川疎水隧道>第三氷川隧道>第一弁天橋梁>第二弁天橋梁>第三氷川橋梁>第四氷川隧道>第一小留浦橋梁>第一小留浦隧道>第二小留浦橋梁>第二小留浦隧道>第三小留浦橋梁>第三小留浦隧道>第四小留浦橋梁>第四小留浦隧道>第五小留浦橋梁>第五小留浦隧道>第一境橋梁>桧村隧道;短い隧道>第一境隧道>第二境橋梁>第二境隧道>第三境橋梁>第三境隧道>第四境橋梁>白髭隧道>橋詰橋梁>栃寄橋梁>白髭橋梁>梅久保隧道>梅久保橋梁>惣獄橋梁>惣獄隧道>第一板小屋隧道>第二板小屋隧道>清水疎水隧道>清水隧道>第一桃ヶ沢隧道>桃ヶ沢橋梁>第二桃ヶ沢隧道>中山隧道>第一水根橋梁>水根隧道>第二水根橋梁■>「奥多摩水と緑のふれあい館」

奥多摩駅
永福町を出て青梅線の奥多摩駅に問到着。この「駅名が奥多摩駅となったのは昭和46年(1971)のこと。昭和19年(1944)、後述する奥多摩電気鉄道が保有していた御嶽駅と奥多摩間の鉄道敷設免許が国有化され、運輸通信省青梅線として開業されたときは氷川駅と呼ばれていたようである。

奥多摩工業
奥多摩駅を下り、常のバス路線とは逆、プラットフォームに沿って北に向かう。 進むにつれて、正面の工場に近づく。小川谷や倉沢谷に向かう途中、バスの窓からよく見る要塞の如き工場がそれである。 工場は奥多摩工業の石灰砕石・選鉱処理工場。日原集落に入る手前に見える巨大な裸山・日原鉱床(実際は、鉱床の乏しくなった日原鉱床の更に奥の天祖山で石灰石を採掘し、地下隧道を通り、立石・燕石の採掘場から三又を経由し日原鉱床に運ばれている)から無人トロッコ・曳索鉄道氷川線(一本のエンドレスロープで繋がれた多くの貨車がロープに曳かれて走る)でこの氷川工場に運ばれている。軌道のほとんどか隧道内であるが、沢を渡るとき、橋梁が現れる。倉沢や日原へのバスからも頭上に無人トロッコ・曳索鉄道氷川線が見える箇所もある。
奥多摩工業株式会社は、現在は上記の如く石灰の採掘・販売をおこなっているが、前身は昭和12年(1937)設立の奥多摩電気鉄道会社。御嶽駅と氷川を結ぶ鉄道路線の施設免許をもち設立するも、路線開通前に戦時の国策により免許を国に譲渡し、工事半ばで路線は国有化された。
昭和19年(1944)、奥多摩工業に社名変更。昭和21年(1946)に石灰石の採掘・販売を開始した。鉄路建設と石灰の、一見その結びつきは?と考える。実のところ、奥多摩電気鉄道は、昭和2年(1927)、浅野セメントが買収していた日原の山林を継ぎ、10年以内に当時の鉄道路線の最終駅であった青梅鉄道の御嶽駅から氷川までの鉄道を建設し、日原の石灰石の採掘を行うために日本鋼管と鶴見造船の出資で設立されたものである。
御嶽駅は昭和4年(1929)に青梅電気鉄道により開通しており、同線と繋ぎ、さらに甲武鉄道(現在の中央本線の一部)とつなぐことによって、石灰を首都圏に運ぼうとしたのであろう。

○青梅電気鉄道
青梅電気鉄道の前身は、明治24年(1891)青梅・羽村・福生などの有力地主、深川セメント工場を政府から払い下げを受けた浅野総一郎などを発起人として設立した「青梅鉄道」。
日向和田村宮ノ平の石灰輸送を主眼とし、立川から日向和田間の軽便鉄道を申請。明治27年(1894)に立川・青梅間開通。明治29年(1896)には青梅・日向和田間が開通。大正3年(1914)には浅野セメントが二俣尾北の雷電山の石灰採掘場開業を受けて、日向和田・二俣尾間の面鏡を得、大正9年(1020)に同区間開業。
大正15年(1926)には電気運転に転換の故をもって青梅電気鉄道と改名。昭和2年(1927)には免許を受け、御嶽までの延長図り、昭和4年(1929)9月1日,二俣尾-御嶽間を開業させている。これは御嶽神社参詣客の便を図ったものであった.このころから,青梅電気鉄道は石灰石輸送とともに,観光輸送の比重の高い鉄道に変化していった、とのこと。

「女夫(めおと)橋」
道は奥多摩工業の敷地で遮られるため、奥多摩工業の手前で日原川に架かる北氷川橋を渡り、日原川の右岸に廻る。県道204号日原街道手前の道を右に折れ、先に進み「女夫橋(めおと)橋」を渡り再び左岸に。
橋から上流には日原川に架かる水根貨物線の「日原橋梁」が見える。橋詰の右には氷川国際マス釣場。前面には、いかにも線路を通すために築いたと思しき築堤が見える。

第一氷川橋梁
水根貨物線の築堤に上る道を探すため堤下にある氷川国際マス釣場の駐車場に進み、端から踏み分け道を築堤に向けて登ると「第一氷川隧道」の東口の先に出た。隧道逆方向にはフェンスで遮られたその向こうに「第一氷川橋梁」が目に入る。その昔は、氷川駅からずっと続いた線路が最初に渡った橋梁である。地形図で見ると、谷筋が深く刻まれている。谷奥には奥多摩工業の曳鉄線も沢筋に姿を現しているのではないだろう、か。



第一氷川隧道
水根貨物線の最初の隧道はフェンスで遮られおり、通り抜けはできない。上った踏み分け道を戻り氷川国際マス釣場の駐車場を抜け、右手上に見える築堤に沿って道を進む。日原川の少し手前で堤下にある石垣上のステップを進み、「日原橋梁」の手前で折り返し、「日原橋梁東詰」めの堤上に。
実のところ、道から水根貨物線の通る堤上に力任せで上れることもできるのだが、第一氷川隧道から日原橋梁までの線路跡には民家があり、民家軒先を歩くのは遠慮し、日原橋梁東詰めに這い上がったわけである。

日原川橋梁
鉄筋コンクリートの堂々としたアーチ橋である日原川橋梁を渡る。橋上には下草が茂りどこからら飛んできたのであろう種子が育った立木も生える。川床で楽しむ家族連れなどを見遣りながら橋を渡る。









第二氷川隧道東口
橋を渡り切ると崖面に「第二氷川隧道東口」がある。施工 熊谷組 昭和27年(1952)。通路は封鎖され、通ることはできない。隧道東口から先は弧を描き寿清院を越えた辺りまで地下を通る。
隧道東口から先のルートは、数年前の散歩では日原川橋梁を引き返し、「女夫橋(めおと)橋」から日原街道に戻り、日原街道入口交差点から国道411号を西に進み、奥多摩郵便局手前の信号脇にある「奥多摩むかし道」の案内板のある道を右に折れ、羽黒三田神社を右手に見ながら進み、線路跡のある水根貨物線跡に向かったわけだが、今回は事前踏査で見付けたルートを選んだ。



そのルートとは第二氷川隧道東口の右手に取り付けてある「鉄梯子」をよじ登ること。10m以上もあり、ちょっと怖いので、他にルートはないかと、隧道東口の左手にある沢を上ろうかと断崖上の踏み分け道を進んだのだが、結構危険そうであり、結局鉄梯子を利用させてもらった。
パーティの皆さんも特段鉄梯子を怖がることもなく、女性陣も平然と「上りましょう」とのことであり、慎重に梯子を握り上り切ると「日原街道」に出る。


追記;2018年12月
最近このページのアクセスが多いので状況の変化確認に訪れる。と、第二氷川隧道が通り抜けできるようになっていた。怖い鉄梯子を上らなくても先に進め、西口に出られる。


第二氷川橋梁
日原街道を国道411号・日原街道入口交差点方面に向かう。「根元神社」辺りから日原橋梁などを見遣りながら栃久保地区を進み、周慶院の門前を越え、中華料理店の「和尚」の手前から一直線に上る石段に折れる。石段を上りきったところで車道と出合い、その前に橋が見える。第二氷川橋梁である。「元巣の森の杉」の案内がある橋の東下の踏み分け道を2mほど上り橋梁上に。メモする段になって、この橋梁が水根貨物線唯一の現役遺構であることがわかった。
○「元巣の森の杉」の案内
元巣の森は、羽黒権現社(現羽黒三田神社)の旧地であることが、武蔵風土記にあります。南氷川は、むかしは「しゅく」と呼び、近所ではたんに「みなみ」と呼ばれていました。小河内谷、日原谷からの物資の集散地で賑わう宿場町でした。この杉に代表される、この森の樹々たちは、氷川の里の歴史を静かに見守っています(奥多摩町教育委員会」。

第二氷川隧道西口
橋梁、といっても車がギリギリ交差できるといった程度の車道に架かる橋から道を「第二氷川隧道西口」方面に戻る。軽トラックなども往来する道を進むと右手下には氷川の町並みが一望のもと。
先に進むとバラックの建物が見える。建物脇の隙間を縫って進むと第二氷川隧道西口に。だが、先には進めない。坑道ではキノコ栽培などがおこなわれている、とのことである。




氷川疏水隧道
第二氷川橋梁まで戻り、道なりに先に第三氷川隧道の東口が見えてくるが、その手前の沢の東側に「氷川疏水隧道」がある。線路跡からは見つめるのは難しい。
第二氷川橋梁まで戻り、線路築堤を意識しながら第三氷川隧道に向かて進むと疏水隧道が見つかる。隧道といってもトンネルになっているわけでもなく、疏水が流れているわけでもなく、幅2m弱の人道を跨いでいるだけである。



第三氷川隧道
元の道を戻り、第二氷川橋梁からの線路跡を進み「氷川疏水隧道」を見遣りながら進むと「第三氷川隧道」が見えてくる。線路も残っており、如何にも廃線歩き、といった風情となる。施工は熊谷組。昭和27年(1952)。 隧道はすこしカーブしているが出口も見えており、懐中電灯は不要である。始点からここまでの二つの隧道は通り抜けできなかったが、ここから先の隧道はすべて通り抜けできる。



奥多摩むかし道と交差
隧道を抜けると線路も消え、線路跡であろう道を道なりに進むと、右手に山肌に沿って遊歩道が続く広場に出る。その遊歩道は「奥多摩むかし道」。
水根貨物線は広場先の草叢に直線で進む。広場先から草叢の境には線路が残る。 線路も3本ある。通常3本ある線路は3線軌条と呼ばれ、軌間の異なる車輌のためのものではあるが、この路線でそんな軌間の異なる車輌が走ることもないだろうから、単に脱線防止用の線路ではないだろうか。
○奥多摩むかし道
JR奥多摩駅から奥多摩湖まで、旧青梅街道を歩く「むかし道」の散策コース。峠や橋の袂には江戸時代の信仰を伝える道祖神や馬頭観音などが往時のまま残り、昔の面影を偲ばせる。約9キロ(奥多摩町役場)。

第一弁天橋梁
草叢にはいると知らず「第一弁天橋梁」に進む。橋梁の北側には崖が続いており、沢を渡る橋梁というより桟道といったものである。橋梁は線路が残り、枕木もしっかりしており、枕木間にも板が敷かれており、それほど危険というわけではない。それでも橋梁を渡るには線路の上に足を置きバランスを取りながら慎重に渡る必要がある。最初の「崩壊橋梁」ではある。
事前踏査の段階で、怖がる人のため迂回路を探す。沢はないので、あれこれチェックすると、「奥多摩むかし道」を進めば、「第一弁天橋梁」を迂回し、後ほどメモする「第四氷川隧道東口」脇に水根貨物線跡に下りる踏み分け道があることが分かった。が、パーティの皆さんは崩壊鉄橋を怖れることもなる、喜々として渡っていった。

第二弁天橋梁
最初の「崩壊橋梁」を何事もなく渡り終えると、第二弁天橋梁。普通に歩いていれば、橋梁とは気付かないかもしれない。等高線も線路跡と平行に続いており、ここも崖地に渡した桟道といったものではあろう。渡り終えた後、橋梁西詰めから橋脚を確認して橋梁であることを確認した。





第三氷川橋梁
先に進むと左右が開ける。等高線も北に大きく切れ込んでおり、沢筋ではあろう。進行方向右手の山肌には、切れ込んだ沢を迂回する「奥多摩むかし道」が見える。前面には第四氷川隧道の東口、その隧道真上には沢を迂回してきた「奥多摩むかし道」も通っている。
「奥多摩むかし道」には休憩用の木製ベンチもあり、そこから眺める第三氷川橋梁の姿はなかなか、いい。


第四氷川隧道
下草の茂る第三氷川橋梁を渡り終え「第四氷川隧道東口」に。坑口左手には既にメモした、第一弁天橋梁を迂回し「奥多摩むかし道」から水根貨物線跡に下りることのできる踏み分け道がある。
この隧道は多摩川に突き出た舌状台地(国道411号バイパスが国道411号愛宕大橋交差点にあたり、笹平橋を渡る箇所)を直線に掘っており、200m強の距離がある。
懐中電灯の光を頼りに隧道を抜ける。漆黒の隧道を歩くだけで、なんとなく廃道歩きの雰囲気が盛り上がる。なお、隧道の間で行政区域が奥多摩町氷川から「境」に変わる。境地区は水根貨物線の終点までカバーする。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。

第一小留浦(ことずら)橋梁
隧道を抜けると線路跡は結構荒れている。谷側の風情から橋梁であろうと。渡り切ったところで橋脚を確認。第一小留浦橋梁である。
この辺り落石が多い。この水根貨物線は昭和38年(1963)、西武鉄道の所有となったと上にメモした、観光用に水根線を活用しよう企画したのかとも思うが、この落石の状態を見れば、メンテナンスや旅客の安全の観点から実現は困難ではあったのかと思う。実際水根貨物線が通っていた5年程度の間に150件弱の落石や土砂崩壊があったとのことである。

後日談;後日、水根貨物線跡にある橋梁の橋台の写真を撮りに出かけた。中山バス停で下り、第二桃ヶ沢隧から逆に奥多摩駅へと向かい、白髭隧道を抜けたところで成り行きで「奥多摩むかし道」に下り、道から見える橋梁に這い上がろうとしたのだが、後にメモする長大な第四境橋梁の写真を撮った後は、ほとんどの山肌が落石防止ネットで覆われており這い上がることができない。
道なりに「奥多摩むかし道」を進んでいると、これも後からメモする「第五小留浦橋梁」が道の上に見え、落石ネットもなき。ということで、五小留浦橋梁から沢への這い上がり・下りを第一小留浦橋梁まで繰り返した。
で、この第一小留浦橋梁は這い上がり。「奥多摩むかし道」から這い上がるとすぐに高い石垣がありちょっと苦労したが、なんとかクリアして橋台下に。アプローチ部分は沢ではあるのだが、橋台辺りは山肌と密着しており、ほとんど桟道。橋上に上るには、橋梁西詰めの崖の立木を頼りに、なんとかよじ登れた。

第一小留浦隧道
橋梁の先に隧道が見える。数30mといった短い隧道である。少し荒れてはいるが、線路は残っている。土被り部分もそれほど多くなく、隧道でなくても「切通し」でもよかったといった隧道ではある。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。






第二小留浦橋梁
隧道を抜けると橋梁が続く。この橋の箇所は等高線が少し北に切れ込んでおり、桟道ではなく少し橋梁の風情がある。橋梁の谷側には切れ込んだ沢に沿ってカーブする道が見える。「奥多摩むかし道」ではあろう。

後日談;橋台を取るため橋梁西詰めから沢に下る。急な崖ではあるが、ロープがなくても「奥多摩むかし道」に下りることができた。最後の、ささやかではあるが沢水が集まる岩の箇所は滑ららないように慎重に下りた。






第二小留浦隧道
第二小留浦隧道も40m程度といった短い隧道である。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。








第三小留浦橋梁
隧道を抜け、線路が残る快適な線路跡を進む。橋梁脇に切れ切れながら水路管が残る橋梁は第三小留浦橋梁。谷側すぐ下に「奥多摩むかし道」が蛇行しながら続く。いつだったか、「奥多摩むかし道」を歩いたことはあるのだが、その時は水根貨物線のことを知らず、道からみえたであろう橋台も気付くことはなかった。

後日談;奥多摩むかし道から這い上がる。石組みの防水・防砂の堰堤をクリアすれば、後は橋梁西詰めに楽に這い上がることができる。







第三小留浦隧道
また短い隧道が現れる。70mほどだろうか。岩壁を掘り割って進み、南に突きだした箇所は岩壁を穿ち隧道を通したのだろう。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。施工社の「鐵道建設興業」とは昭和19年(1944)設立の企業で、現在の鉄道建設株式会社である。





第四小留浦橋梁
線路が雑草に覆われた橋梁は第四小留浦橋梁。一本の水路管が橋脇に取り付けられている。

後日談;沢を下りる。結構荒れていた。石組の堰堤箇所はちょっと気をつけること以外、それほど難しい沢ではなかった。「奥多摩むかし道」からは、結構奥に見える。







第四小留浦隧道
次の隧道も70mといった短いもの。少しカーブしているが、出口は見える。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。








第五小留浦橋梁
切り通しを先に進むと線路が雑草で覆われ、しかも、どこからか飛んできた種子が育ったのだろう木立が橋梁上に立つのが第五小留浦橋梁。ここも橋脇に水路管が完全な状態で残っていた。

後日談;「奥多摩むかし道」を歩いていると、左手に迫力のある橋台が見えた。白髭隧道の東で線路跡から「奥多摩むかし道」に下りて以降、ずっと落石ネットで沢を這い上がることができなかったので、ここがはじめての橋梁へのアプローチ。沢は広くガレ場となっており、足元が崩れ不安定ではあったが、それほど難しい沢ではなかった。




第五小留浦隧道
第四氷川隧道から先の隧道は、おおよそ等高線に沿った岩壁を削ったような路線ではあったが、第五小留浦隧道は、第四氷川隧道と同じく多摩川に南に突き出た舌状台地(「小留浦地区、現在の国道411号の琴浦橋で多摩川南岸に渡り、檜村橋で多摩川北岸に渡り直す区間)を直線に貫く。他の小留浦隧道に比べて少し距離は長いが、出口の光が見える程度ではある。それでも150m以上あるように思う。鐵道建設興業 昭和27年(1952)。




第一境橋梁
隧道を抜けると第一境橋梁。橋梁脇に棕櫚(シュロ)の木が立つ。この橋梁にも水管が取り付けられていた。








桧村隧道
次に現れた隧道は桧村隧道。短い隧道で、次の第一境隧道の東口も見えている。おおよそ20m程度の長さだろう。桧村は、先ほど通り抜けた第五小留浦隧道が貫く舌状台地の辺りを檜村と称するのがその名の由来かとも。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。

鐵道工業は設立は明治40年(1907)。鹿島建設とともに丹那トンネルの工事を手掛けるなど、鐵道土木、特にトンネル工事に実績を示すも、戦後清算され今はない。
鐵道工業といえば創業者に名を連ねた菅原某の子息で二代目社長の菅原通済が知られる。人物について詳しいことを知っているわけではないのだが、この人物の名前はなんとなく覚えている。若い頃は世界を歩き、放蕩の限りを尽くし、戦後は実業家として鎌倉の宅地開発や昭和電工の疑獄、小津安二郎監督のスポンサー、美術品収集家などとして登場する。戦後に登場した所謂フィクサーのひとりではあろう。

第一境隧道
桧村隧道を出るとすぐに第一境隧道に入る。隧道はちょっと長く懐中電灯で前を確認しながら進む。ここも線路が3本ある。脱線防止のためではあろう。そういえば、第一崩壊橋梁の第一弁天は4本のレールが敷かれていた(4線軌条)。隧道はS字に少しカーブしながら進む。長さは150m弱ほどだろう。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。





第二境橋梁

第二崩壊橋梁が現れる。剥き出しの鉄骨に朽ち始めた枕木が残るだけ。沢との比高差も10mほどはあるだろう。バランスを崩し、橋梁から落ちれば大怪我などではすまない。
数年前、はじめてこの橋梁を渡ったときはなんとか橋梁を渡った。今回の廃線歩きの事前踏査の時は、この橋梁に東詰めに立ったとき、西詰めに呆然として立ちゆくす高校生のグループがいた。
「この橋渡れますか?」との問いに「渡れるよ」と応え、西詰めまで渡って行ったのだが、引率の先生を含めた高校生5名ほどのグループは、とても渡れない、と。


それではと、西詰めから沢への迂回路を探すことに。沢への急な崖はロープを張り、安全確保して沢に下りる。沢は枯れ沢で渡ることは問題ない。沢を渡り、こんどは逆に急な崖を登ることになる。これも立木にロープを張り東詰めに上ってもらった。この崩壊鉄橋も迂回路を探すつもりでの事前踏査ではあったので、高校生グループのガイドで迂回できることが確認できた。

で、今回のパーティ、てっきり崩壊鉄橋で怖がるかと思ったのだが、渡る気満々。少々予想とは反応が異なったが、万が一を考え、皆様に「自重」願い、沢へと迂回する。沢ガールの皆さんには前もってハーネスと8環を持ってくるように伝えており、崖で懸垂下降のトレーニング。初参加の女性も私のハーネスと8環を使い、結構平気で崖を下りていった。


第二境隧道
沢を迂回し線路跡に上ると第二境隧道。東口には大岩が転がっており荒れている。隧道前後の線路は3本ある。急カーブの脱線防止のためだろう、か。隧道の長さは短く、西口が見えている。25m程度だろう。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。






第三境橋梁
切り通しを抜け先に進むと三番目の崩壊鉄橋。4本のレール(4線軌条)が朽ちた枕木に置かれている。水根貨物線跡で最も危険と思う崩壊鉄橋であろうと思う。
事前踏査では悩むことなく沢への迂回ルートを探し、沢の水量は多いが、なんとか濡れないで渡れそうな箇所があり、それで良し、とする。崖の上りはルートの取り方で難易度の変わるバリエーションルートがある。





で、当日。ここでもパーティの皆様は崩壊鉄橋を渡る気満々。ここも自重願い、沢に迂回。崖は懸垂下降の練習も兼ねて、20mほどロープを張り、少々困難なルートを下りてもらう。パーティ各位、軽々と下っていった。
美しい沢で崩壊橋梁を見上げながらお昼を取り、上りは沢登りの練習も兼ね少し困難なルートを上り西詰めに。


ところで、この沢、なかなか雰囲気がいい。メモの段階でチェックすると、「小中沢」という沢であり、沢登りを楽しむ人もいるようだ。源流を詰めての尾根這い上がりでも、途中から作業道を下ることもできそう。来年の夏の沢上りの候補を見付けた気分である。

第三境隧道
沢を迂回し水根貨物線跡を進むと、荒れた入口の隧道が見えてくる。東口には壊れたバリケードが残る。木の枠に鉄条網が張り巡らされたバリケードではあるが、壊れており隧道には木枠の間から入れた。
この隧道は結構長い。多摩川に向けて東に突き出した山塊を穿ち隧道を通している。懐中電灯で前を照らして進む。5分以上歩いたわけであるから距離は400mほどはあるだろうか。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。

第四境橋梁
隧道を抜けると、全面が開け「第四境橋梁」が現れる。地形図を見ると等高線が西へと切り込んでおり、その先の東に突きだした箇所に向けて橋梁が架かっているようだ。
橋梁の左下は境の集落。西へと切り込んだ谷状地形に集落が形成されているのだろう。橋梁下に見える畑地は「山葵田」とのことではある。

橋梁からの眺めは素晴らしい。「トンネルを抜けると、そこは素晴らしい景観だった」などと呟くメンバーも。奥多摩の山々、先ほど抜けた多摩川へと南に突き出た第五小留浦隧道が通る舌状台地、国道411号・檜村橋で多摩川南岸に渡り、橋詰トンネルを抜け境橋で再び多摩川北岸に抜ける多摩川南岸箇所、そこは多摩川に向かい大きく北に突き出した箇所が一望のもとである。
で、橋梁を渡るのだが、ここも4本の線路(4線軌条)となっている。線路の敷かれた枕木は朽ちているようでもあり、ちょっとそこを歩く勇気はない。橋の右手に鉄の手すりのついた保線用の通路を歩く。足元にはスレートらしきものが敷かれているが、時に見える隙間からその幅を見た瞬間に思わず手すりを強く握りしめて先に進むことになった。橋の構造は桁橋、厚さのある板状の橋桁を支柱(橋脚)に乗せたプレートガーダー橋である。

白髭隧道
橋梁を渡りしばらくは等高線に沿って、のんびりと路線跡を辿る。倒木が線路跡を遮ることはあるも、美しい廃線跡である。先に進み、線路周辺には雑草が茂る箇所を抜け、伐採された木材が積まれた箇所を越えると白髭隧道が現れる。出口も見える50m弱の短い隧道である。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。





橋詰橋梁
白髭隧道西口を出たところに「橋詰橋梁」。桟道といった橋梁である。短い橋詰橋梁を渡る。足下は国道411号・白髭トンネルが抜けている場所あたりかと思う。







栃寄橋梁
栃寄橋梁は橋詰橋梁とは異なり、沢らしき箇所を跨いでいる。橋詰橋梁と同じく、足下は国道411号・白髭トンネルが抜けている場所あたりかと思う。







白髭橋梁

白髭橋梁。国道411号を奥多摩湖から奥多摩駅方面に向かうと、国道411号・白髭トンネルの西口に巨大な橋梁が山側にみえるのが、この白髭橋梁である。普通に歩いて居れば左手下に国道411号を見遣りながら、奥多摩の美しい景観を楽しめる散策路といったものである。


梅久保隧道
白髭橋梁を通り、次の梅久保隧道へ。尾根筋が多摩川に南に向かって少し突き出し、国道411号・梅久保トンネル(38m)が抜ける箇所の上を抜ける。少しカーブをしながらも、ほぼ直線に尾根筋の山塊を穿つ。距離は200m弱。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。

東鐵工業は昭和18年(1943)、鐵道省の要請により関東の建設業者が合同して設立された国策会社「東京鐵道株式会社」をその前身とする。現在の東鉄工業株式会社。


梅久保橋梁
隧道を越えると梅久保橋梁。結構大きな沢を渡る。









切り通し
梅久保橋梁を越えると切り通し。更にその先にも更に大きな切り通し。結構高さもあり、短い隧道との違いが今ひとつはっきりしない。予算の問題なのか、岩盤が固く崩落の危険がなかったのか、さてどちらだろう。





惣獄橋梁
その先には惣獄橋梁と続く。線路を覆う立木を折り敷き、下草の茂る線路跡を辿る。国道411号・惣獄トンネルを抜けたあたりの北に惣獄橋梁が遠くに顔を出す。





惣獄隧道
その先に惣獄隧道が現れる。国道411号・惣獄トンネル(149m)の上辺りではある。距離も出口が見える程度であるので150m強ほど、ではあろうか。数年前訪れた時は隧道西口側が砂防工事中とのことで、鉄のバリケードがあったのだが、今回は撤去されていた。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。





第一板小屋隧道
惣獄隧道を出ると大きな沢に出る。北に切れ込む急峻な沢の土砂崩れが激しいのか、数年間には工事中であったが、現在は沢筋に立派な砂防堰堤が完成していた。隧道の左右も法面吹き付け状態となっており土砂崩れ防止の工事が完成していた。
地形図を見るに、多摩川から等高線が北に鋭く切れ込んでおり、沢のすぐ下に国道411号が通っている。落石の危険のある急峻な沢にしっかりした砂防・土砂崩れ防止工事が必要だったのだろうか。等高線を見るだけで、あれこれと想像・妄想が膨らむ。この沢は国道411号・惣獄トンネルと板小屋トンネルの間の僅かな切れ目からみることができる。
線路を通した堤が消え、沢筋に盛り土した箇所を渡り第一板小屋隧道に。ここも80m程度の短い隧道である。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。

第二板小屋隧道
第一板小屋隧道を抜けると、すぐ先に第二板小屋隧道。40m強といった距離。東口脇に電柱が残っていた。水根線跡の南を進む国道411号は、南に大きく突き出た台地を穿った「板小屋トンネル」で抜けるが、その距離は115m。大雑把に言って、第一、第二板小屋隧道のふたつで国道の板小屋トンネル分をカバーしているように思える。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。




清水隧道
第二板小屋隧道を抜けると前面の築堤が完全に崩壊している。等高線が北に切れ込んだ沢(清水沢)となっており、水路部分は石組みで護岸工事されている。土石流対策の施策ではあろう。記録には「清水疏水隧道」といった水路を抜いた築堤があったとのことだが、その築堤が完全に流されてしまったのだろうか。 国道411号・板小屋トンネル手前の「体験の森」案内の掲示の西側に、護岸工事されたこの清水沢の水路が国道を潜る箇所があるが、結構急峻である。土砂崩れなのか、人工的に築堤が除かれたのか不明ではあるが、ともあれ、古い築堤が崩れ国道に影響を及ぼさない為の施策ではあろう、かと。
沢を渡り清水隧道に入る。結構長い隧道である。200m強あるだろうか。施工鹿島建設 昭和27年(1952)。



 第一桃ヶ沢隧道
落ち葉が一面に敷き詰められた線路跡を進むと第一桃ヶ沢隧道。多摩川に向かって南樹に突き出た尾根筋を一直線に貫く国道411号・桃ヶ沢トンネルの少し北を貫いている。国道の桃ヶ沢トンネルは275mある。この隧道も100m強ほどはありそうだ。施工鹿島建設 昭和27年(1952)。





桃ヶ沢橋梁
隧道を抜けると小さな橋梁がある。桃ヶ沢トンネルを出た国道411号は南に大きく半円を描き進むが、等高線を見るとトンネルを出た直後、等高線は北に切れ込んでいる。橋梁はその辺りに立っているのだろう。橋梁から国道411号は見えるのだが、国道からは落石ネットに遮られ見えずらい。





第二桃ヶ沢隧道
橋梁を渡ると第二桃ヶ沢隧道の東口がある。入口は木枠でバリケードが造られていた。この隧道は南に突き出た尾根筋の台地を一直線に面に貫いている。通常、国道はこういった場合尾根筋にトンネルを通しているのだが、ここだけは多摩川に突き出た岩壁部を迂回し先に進んでいる。その理由を知りたいとは思う。施工鹿島建設 昭和27年(1952)。




中山隧道
隧道を出ると左右が開ける。右手には民家も見える。左手下には民家もあり、中山バス停がある。第二桃ヶ沢隧道を抜け中山隧道に向かう築堤には「奥多摩むかし道」からの道案内があった。
本来の「奥多摩むかし道」はこの辺りでは、多摩川沿いに進み南端部で折り返し、北へと浅間神社に向かい中山トンネル上を越え「タキノリ沢」を渡り水根へと向かったのだが、平成17年(2005年)に土砂崩壊によりこのルートが通行不可となり、その迂回路として中山隧道を抜けて「タキノリ沢」に向かったようであるが、この案内はその当時の名残なのだろうか。

明るく開けた左右の景観を見遣りながらススキのなどの下草に覆われた線路跡を中山隧道に。水根貨物線の南を貫く国道411号・中山トンネルは391mある。この隧道も結構長い。470mといった記録もある。懐中電灯を灯し進む。時に天井から水が滴り落ちていた。

第一水根橋梁
中山隧道を出ると第一水根橋梁。左手下、直ぐ傍に国道411号が走り、その向こうに奥多摩湖の「余水吐(よすいはけ)」の堰堤が見える。なだらかなスロープは「越流堤」。ダム堰堤が溢れるときに水を流す放流設備である。
第一水根橋梁は国道411号の山側にその橋梁が姿を現すのだが、それが水根貨物線の橋梁であることは、この廃線を辿るまで全く知ることはなかった。

国道からの写真を入れる

水根隧道
先に進むとこの廃線最後の隧道、水根隧道となる。短い隧道である。40mもあるだろうか。施工 間組 昭和27年(1952)。








第二水根橋梁
隧道を出ると第二水根橋梁。国道411号を跨ぐ。線路も消え枕木は朽ちており、しっかりした箇所を選び進む。橋梁上には下草、立木と、橋梁が次第に「自然に」戻りはじめているようだ。







水根駅跡
橋梁を渡ると、しばらくは線路も残るが、それも消え、その先は雑草・立木が茂り先が見えない状態。取り敢えず、雑草・立木を折り敷き、藪漕ぎ状態で力任せで進む。ほどなく資材置き場といった広場に出る。そこが水根貨物線水根駅跡である。「水根積卸場」との記録もある。
歩き終えて一息つくと、種類は分からないが、夥しい数の小さい葉が衣類に張り付いている。落とすのに難儀した。藪漕ぎを避けるには、第一水根橋梁の辺りに国道に下りる踏み分け道があるようではある。

「奥多摩水と緑のふれあい館」
水根駅跡の資材置き場から国道に出ると直ぐ先に水根バス停があるのだが、最後の締め、ということで奥多摩湖の湖面を眺めるべく歩を進め、湖畔にある「奥多摩水と緑のふれあい館」で一休みし、バスで奥多摩駅に向かい、本日の散歩を終える。

「黒川通り」の前半部、船越橋から三重河原までの散歩は崩壊箇所が多く、かつまた廃道歩き「デビュタント」の心身の疲れもあり、当初の予定を変更し、後半部である三重河原から藤尾橋までのコースは後日を期してその日を終えた。 その日から2週間後、それほど天候も良くないようだが、廃道歩きの間だけは雨が降らないようにと思いつつリターンマッチに出かける。パートナーは前半部を歩いた仲間のうち都合のついた退任前の会社のSさんひとり。
頃は紅葉の頃。「黒川通り」後半部は、先回の青梅街道散歩の時に撤退した黒川谷の辺り以外は崩壊箇所もないようでもあり、美しい紅葉を楽しみながら、などと出かけたのだが、これまた予想に反し結構厳しい散歩となった。不要だろうとは思いながらも持参したロープが有り難く思えた一日とはなった。



本日のルート;三条新橋広場;9時20分(標高771m)>黒川谷へ>黒川橋跡:9時47分(標高887m)>第Ⅰ崩壊箇所;9時50分(標高881m)>石組の道に復帰;10時5分(標高897m)>黒川谷の尾根筋先端部を迂回;10時12分(標高930m)>倒木が道を遮る>第Ⅱ崩壊箇所;10時30分(987m)>石垣の道>東京都水源林の木標;10時59分(標高1023m)>尾根筋の回り込み部>崩壊橋台跡;11時7分(標高1046m)>第Ⅲ崩壊箇所;11時13分(標高1023m)>石垣の道>第Ⅳ崩壊箇所;11時21分(標高1011m)>石垣の道>沢;11時48分(標高1001m)>林班界境;11時53分(標高1008m)>柳沢川の支流;11時分56分(1000m)>大東橋台跡;12時1分(1023m)>藤尾橋:12時6分(標高1014m)

三条新橋広場;9時20分(標高771m)
自宅を出発し、先回と同じく中央高速から圏央道に入り青梅ICで下り、そこから国道411号・青梅街道を進み丹波山村、そして黒川通り前半部散歩で車をデポした船越橋を越え、三重河原で国道を離れ三条橋を渡り、泉水谷林道ゲート手前の三条新橋広場に車をデポする。




黒川谷へ
デポ地点から最初のポイント黒川谷に架かっていた黒川橋跡に向かう。そこまでは道は御老公との青梅街道散歩の折歩いているので、迷うことはない。実のところ、「黒川通り」後半部を三条新橋広場からスタートするとき、上下二段の道筋あり、どちらか迷いながらも、下段の道はあまりに川床に近いため林道ゲートに近い上段を進んだのだが、それが正解であったわけである。
割と幅広の上段道を進むと丹波川との比高差が大きくなるとともに、最初の頃の砂利道とは異なり落石など道が荒れてくる。ほどなく丹波川から黒川の谷筋に入ったとは思うのだけれど、谷ははるか下なのか川筋も何も見えない。

黒川橋跡:9時47分(標高887m)
落石・ガレ場などを越えて泉水谷の入口から600mほどのところで突然広場が現れる。そしてその先に二段の滝が見える。滝脇にはコンクリート製の橋台跡が残る。明治の頃開かれた道に架けられた黒川橋の名残であろう。滝と風雪を経た橋台跡の組み合わは誠に美しい。


第Ⅰ崩壊箇所;9時50分(標高881m)
橋台手前にある木橋を渡り黒川谷左岸に。ここから左に黒川谷を上れば黒川金山跡。一方、廃道となった新青梅街道・黒川道は右に進む。進むはずなのだが、右に進む道や踏み跡さえもなく、谷に沿って下る崖面は広い範囲に渡って完全に崩壊しており、谷筋には立ち入り禁止のサインがあった。ここが先回の青梅街道散歩の折、道筋がわからず撤退したところである。
「黒川通り」は、もっと上を高巻きしているのだろうか、などとあちこち目安を探すが結局見つからず、正確な地図も無いし、それほど廃道萌えでもなさそうな御老公には申し訳ないし、それよりなによりのゴールの裂石からのバスの便が気になり、先回はここで撤退したわけである。

石組の道に復帰;10時5分(標高897m)
今回はこの崩壊箇所の先にある道筋を探すことからはじめる。崩壊箇所はガレ場をトラバースするのは砕石が足元から崩れ落ち、難しそう。結局谷筋を少し下り、山肌を注意しながら崩壊先の道跡を探すことに。
沢に入りを10mほど下ると、左手上に石垣が見える。そこが崩壊先の道筋であろうと、崖を力任せによじ上る。上る先から岩が崩れ落ちるといった有様ではあるが、崩壊箇所のガレ場ほどの崩れ感はない。慎重に足場を造りながら急場を上るとしっかりした山肌に上りついた。
その上に石垣があることを確認し崖下を見ると、這い上がったところから少し下った辺りまで沢を下れば比較的傾斜の緩い崖となっている。パーティのSさんには沢を下ってもらいそこから登ってもらう。そこからは少し急ではあるが、足場がしっかりしている崖地をのぼり「黒川通り」に復帰した。

黒川谷の尾根筋先端部を迂回;10時12分(標高930m)
崩壊箇所から復帰した道は石組みの広い道を、黒川谷にそって丹波川に突き出した尾根筋の先端部まで進み、そこで大きく先端部を回り込み丹波川に沿って進むことになる。
石組みの道筋と紅葉のコンビネーションがなかなか、いい。道は900mの等高線を緩やかに上りながら進む。迂回先端部は標高930mほど。川床から150mほどの比高差はあるのだが、谷への傾斜が緩いため川筋から大分離れている。



倒木が道を遮る
黒川谷の尾根先端部を回り込むと倒木が行く手を遮るが、道は広く快適な道筋である。迂回した辺りからは等高線950m辺りをゆっくり上ってゆく。こんな道がずっと続けばいいのだが、そんなわけにはいかなかった。




第Ⅱ崩壊箇所;10時30分(987m)
尾根先端部の迂回点から10分強で二つ目の崩壊箇所が現れた。足元は結構しっかりしているので、山側に重心をかけて慎重にガレ場を渡る。それにしても、谷筋からの比高差は200mほどあり、等高線も密であるので崖の傾斜は急であり、結構怖い。






石垣の道
崩壊箇所を越えるとしっかりと石組された石垣が美しい道が続く。「大常木トンネル」の東口辺りへと突き出た尾根筋、トンネルができる前の岸壁に沿った国道が南に突き出した辺りへと下る沢筋、「大常木トンネル」西口辺りへと突き出た尾根筋など、尾根筋と沢筋を等高線1000m辺りを進む。
トンネル西口の尾根筋を回り込むと少し緩やかな上りとなり1030m辺りまで上り、丹波川に一之瀬川が北から合流する辺りに突き出た尾根筋にゆるやかにくだってゆく。



東京都水源林の木標;10時59分(標高1023m)
丹波川と一ノ瀬川が合流したあたりに突き出た尾根筋の突端に「東京都水源林の木標」が立つ。山梨県であるのに何故に東京都の水源林、とのメモは先回の散歩でメモした通り。
「東京都水源林の木標」とともに、「林班界境7|9」が立つ尾根筋突端は、「一之瀬高橋トンネル」の真上辺りであろう。「一之瀬高橋トンネル」は、丹波川と一ノ瀬川が合流していた地点を通っていた国道のバイパスとして丹波川と一ノ瀬川の合流地点に突き出ていた尾根筋を穿ち、一ノ瀬川との合流地点を通ることなく、北に大きく湾曲する丹波川を西から東へと一直線に通す。
尾根筋突端部と川床との比高差は130mほどだろうか。尾根筋を廻った辺りは特に等高線が密になっており、絶壁となっている。下を見るのは少々怖いほどである。

■一之瀬川
一之瀬高橋バイパスを通ることなく旧道を進むと北から一之瀬川が合流する地点に一之瀬橋が架かるが、そこが丹波山村と甲州市の境ともなっている。この一之瀬川の源頭部は多摩川の源流点となっており、「水干」と称される。一之瀬川林道を進み、大常木谷を越え、一之瀬川、その上流の水干沢を詰め切った笠取山を少し南に下ったところにある、とのことである。大常木谷の上流には「竜バミ谷」といった沢遡上にはフックの掛かる沢も。多摩川源流部の「水干」ともども一度訪れてみたいところである。
因みに一之瀬、二之瀬、三之瀬といった一之瀬高橋の集落はその交易は秩父が主であった、とか。一之瀬高橋の北東にある将監峠を越えて甲州からは甲斐絹、麻布、紙。秩父側からは銘仙、相生織物、油、日用雑貨が運ばれた。

■おいらん淵
上で「一之瀬川」が丹波川に合流するとメモしたが、一之瀬川の源頭部が多摩川の源流、ということは、一之瀬川が本流であり、合流するというのは適切ではないかもしれない。
それはともあれ、一之瀬川が丹波川とその名を変える一之瀬橋より上流は「柳沢川」と呼ばれる。その柳沢川が、本流である一之瀬川・丹波川に合流する辺りに「おいらん淵」がある、という。
旧道沿いであり、現在は鉄条網で完全に封鎖され訪ねることはできないのだが、この「おいらん淵」は武田家滅亡の時、黒川金山の坑道を埋め廃坑とするに際し、遊女の処置に困り、この渓上の宴台を設け、滝見の宴半ばで藤蔓を切り落し滝壺に葬ったと言う。その数55名故に、五十五人淵とも呼ばれる。
異説もある。皆殺しになることを知った女郎は、秩父の大滝を目指して逃げる途中、今回の目的地である「藤尾橋」の下でつかまって谷に放り込まれた、と。断崖絶壁、道なき渓谷で宴を催すとの伝説よりも、ちょっとリアリティを感じる話ではある。

尾根筋の回り込み部
尾根筋を廻り込んだところから道に木立が茂る。どこからか種が飛んできて道上に育ったのだろうか。道も少々荒れてはいるが、崩れた道筋に残る石垣と合わさり、なかなかいい感じの景観を呈している。道は1000mの等高線から1030m辺りまで上る。右手下は、一之瀬高橋トンネルに入るヘアピンカーブの箇所である。





崩壊橋台跡;11時7分(標高1046m)
尾根筋突端部から7分程度歩くと、前面に岩壁が見える。後で分かったのだが橋台となっていたようである。岩壁手前まで進むと、岩壁手前に沢がある。この沢を橋で越えていたのだろう。
ちょっと見には結構厳しそう。果たして岩壁を上れるものか、沢に下り、岩壁に取り付く。調度いい感じで取り付く岩の出っ張りがあり、それほど苦労することもなく岩壁をよじ上った。
岩壁上の崖面には大きなロープが岩場に固定されていた。後からチェックすると、ここには鉄の梯子があったようで、その鉄の梯子を固定していたロープであったように思う。
鉄梯子が自然の力で流されたのか、人為的に外されたものか不明ではあるが、いくつかの崩壊箇所も昔は桟道が整備されていたと言うが、そんな桟道はどこにも残っていなかった。思うに、危険な廃道を歩くことができないようにしたのかとも思う。実際歩いてみて、危なさを実感し、その措置に納得した次第である。

第Ⅲ崩壊箇所;11時13分(標高1023m)
崩壊橋跡の岩壁をクリアするとほどなく、3番目の崩壊箇所が現れる。距離は5mから10mほどではあるのだが、崖下の傾斜が急であり、結構危険な箇所であった。崩壊中央部分にある立木まで慎重に足場を固めながら進み、木にロープを廻し、ロープに握りしめ崩壊箇所をクリアした。昔はここには桟道が架かった写真を見たような記憶がある。取り外されたのだろう。幅は短いが今回の崩壊箇所で最も怖かったように思う。



石垣の道
短いながらも危険な崩壊箇所をクリアし、倒木が道を覆う箇所を越え後は、しばらく石組みの美しい道を進むことになる。等高線100mから1010mといったところ。崩れた土砂が道に積み重なった箇所を越え歩を進めると、誠に見事な石組みの道が先に見える。石垣も相当高い。この廃道でのハイライト部分かと思う。
前回の散歩で、この「黒川道」開削に際しては、「財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めた」とメモしたが、このような難路に石垣を築いたのは専門家でもなく、「財なきものは労力を提供せよ」と動員された地元の人々であった、とも言う。丹波山村で「黒川通り」の開通式が行われたのは明治20年(1887)であるから、100年以上、自然の脅威に耐えてビクともしない石組みの「技」が眼前に示されている。
木立の間から眼下に国道411号が見る。道は南に突き出した尾根筋を迂回し大きく湾曲している。柳沢川(丹波川の上流域の川筋)に突き出たこの突起部を越えれば最終地点の藤尾橋も近い。
国道を眼下に眺めたすぐ先に、石組みの道の上を崩れた土砂が覆っている。如何にも崩壊する前段階といった風情ではある。

第Ⅳ崩壊箇所;11時21分(標高1011m)
と、その先に巨大な崩壊箇所が現れた。ガレ場となっており、結構危険。アプローチを探すに、崩壊箇所の真ん中に立木がある。そこにロープを廻し、パーティを渡すことに。
足場を固めながらゆっくり、慎重に立木まで進み、そこで10mロープを2本繋ぎ、そのロープを握りしめて立木まで渡ってもらい、それから後半部を同様にロープを握りしめ慎重にわたり終える。おおよそ20mほどの幅がある崩壊箇所であった。

石垣の道
崩壊箇所を越えると、ふたたび石垣で支えられた平坦な道にでる。道には崩れた土砂が積まれた箇所もある。そのうちに崩壊箇所となるのだろうか。








沢;11時48分(標高1001m)
先に進むと沢に出る。柳沢川(丹波川の上流域の川筋)に突き出たこの突起部の西側辺りに下っているようである。清冽な水で崩壊箇所を渡るときに汚れた手、そして顔を洗い、気分爽快に。
橋跡といった遺構は見あたらなかった。どのようにしてこの沢を越したのだろう。








林班界境;11時53分(標高1008m)
沢を越えると道一面に落ち葉の絨毯といった美しい道が現れる。空も開き、右下の国道との比高差も50m強といったものになる。
道を進むと林班界境。「林班界境 荻原山分区 7|9」とあった。萩原山って、大菩薩嶺の南に甲州市上萩原萩原山という地名があるが、その辺りからこの地までもカバーしているのだろうか。よくわからない。





柳沢川の支流;11時分56分(1000m)
林班界境を越えると、またまた落ち葉の敷き詰められた平坦な道が続く。道の右下には柳沢川の支流の沢が見えてくる。美しい眺めである。沢には滝が見える。






大東橋台跡;12時1分(1023m)
滝を右手に想いながら沢に沿って道を進むと、右手に沢に架かる木橋がある。沢の渡河地点であろうと左右を見ると、右手に立派な橋台跡が見える。ここには大東橋があったとのことである。しっかりした橋台である。




藤尾橋:12時6分(標高1014m)
鉄の無骨ではあるが趣のあるこの橋が藤尾橋。ちょっと厳しかった廃道「黒川通り」散歩もこれで終了。橋上から柳沢川の美しい景観を眺め、国道411号を車のデポ地点である三条新橋広場まで戻り、一路家路へと。

「黒川通り」の前半部である船越橋から三重河原までは結構崩壊箇所が厳しそうである、とは予想していたのだが、後半部である三重河原から藤尾橋は楽勝との予想に反し、この箇所も結構厳しかった。昔は危険個所には桟道や鉄橋が架かりそれなりに安全ではあったのだろうが、そういったものはすべて撤去されていたためである。
結論として、「黒川通り」の廃道散歩は石で組まれた美しい道筋は魅力ではあるが、ちょっと危険であり、歩いた当人が言うのもなんだが、あまり散歩にはお勧めできない道であった。

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