2014年11月アーカイブ

いつだったか、元の会社の監査役の御伴で青梅街道を奥多摩から柳沢峠を越えて山梨県の塩山まで歩いたことがある。時に旧道への出入りはあるにしても、大雑把に言って国道411号に沿って歩くわけだが、途中、泉水谷が丹波川に注ぐ三重河原の辺り(丹波山村の中心部からおおよそ6キロほど)から明治に建設された青梅街道が残るという。三重河原から国道411号に架かる藤尾橋までのおおよそ4キロほどとのこと。通称、「黒川通り」と称する。
道を急ぐ御老公に、トラックに煽られ歩く国道から離れ「黒川通り」を歩いてみませんか、と提案し、三重河原から30分ほど歩き、黒川谷に残る黒川橋跡まで進んだのだが、道はそこで崩壊し先がわからなくなった。
なんの下調べもしていなかったので、どちらに進めばいいのかもわからず、また、その日の宿泊地である大菩薩峠への登山口でもある裂石までは結構距離も残っているため日暮れの心配もあり、その時は「黒川通り」を歩くのを断念し、元の三重河原まで戻り国道411号を進むことにした。
その後も「黒川通り」のことが気になり、あれこれ調べると、丹波山村の中心からおおよそ4キロの「羽根戸トンネル」を越えた「船越橋」辺りから「黒川通り」が残るとのこと。そこから三重河原まで2キロほど、三重河原から藤尾橋まで4キロほどで合計6キロ程度。船越橋から三重河原までは道が数箇所崩壊しているようではある。ちょっと危険な感じも抱きながらも先回途中撤退したリターンマッチに数年を経て向かうことにした。
船越橋までのアプローチを調べるに、奥多摩駅から丹波山村の中心まではバスがあるのだが、その先は塩山市の裂石まではバス路線は全くない。自然を楽しむ散歩に排ガスを吐き出す車はないだろう、といった依怙地のポリシーもあり散歩は基本公共交通機関を使うべし、とはしているのだが、日帰りでの行程では車を使うしか術はない。
で、車で「空気」を運んでももったいということで、仲間に声を掛け4名のパーティで出かける。うち一人は山歩きがはじめて。崩壊箇所が少々心配ではあるので、念のためロープを用意し廃道散歩に出かける。



本日のルート;国道411号・船越橋へ>船越橋>廃道散歩スタート>9時32分>第Ⅰ崩壊箇所;9時35分(標高722m)>美しい岩壁の道;午前10時15分(標高735m)>第Ⅱ崩壊箇所;10時18分(標高735m)>第Ⅲ崩壊箇所;10時29分(標高752m)>第Ⅳ崩壊箇所;10時40分(標高782m)>第Ⅴ崩壊箇所:10時50分(標高782m)>美しい石組;10時52分(標高782m)>第Ⅵ崩壊箇所;11時2分(標高790m)>石垣と荒れた道;11時16分(標高744m)>第Ⅶ崩壊箇所;11時26分(標高794m)>第Ⅷ崩壊箇所;11時38分(標高808m)>第Ⅸ崩壊箇所;11時41分(標高788m)>林班界標;12時3分(標高768m)>泉水谷渡河;12時27分>三条新橋広場;12時50分(標高767m)>三条橋>;船越橋

国道411号・船越橋へ船越橋
アプローチを調べるに、東京からは中央高速を上野原インターで下り、県道33号から県道18号を進み「鶴峠」を越えて国道139号との重複区間を小菅村に。そこから再び県道18号を進み丹波山村に至り、国道411号を船越橋へのルートがよさそう。Google Street Viewでルートをチェックしても、道も山道といったものでもなくこのルートでと考える。
が、パーティの一人が青梅駅辺りでのピックアップが便利ということで、結局このルートは諦め、中央道から高尾で圏央道に入り青梅インターで下り、そこから一般道を青梅駅に。ここから延々と国道411号を走り丹波山村に。丹波山村役場入口交差点から4キロほど走り、羽根戸トンネルを抜けたところで丹波川に架かる船越橋を越えたところの駐車スペースに車をデポする。 実のところ、車をどこにデポしようかと悩んでいたのだが、Google Street Viewで船越橋辺りをチェックすると、橋の西詰めに車が数台駐車できるスペースが整備されていた。Google Street Viewって、誠に有難いサービスである。

船越橋
ところで、この船越橋が最初に架けられたのは明治11年(1878)。車をデポした駐車スペースの辺りから対岸に橋を渡していたようである。その後、大正9年(1920)には吊り橋に架けかえられるも、戦前・戦後の小河内ダム建設にともない実施された道路の付け替え工事の一環として、昭和30年(1955)に三重河原まで延長された車道は川の北岸を通したため橋は廃止される。
そして平成となり、車道の二車線化、さらにはトンネルを掘らず断崖に沿って進む「昭和」の道筋にトンネルを穿ち新たなルート、バイパス工事が実施され、 羽根戸トンネルが開通。そのトンネルを抜けたこの箇所に架けられたのが現在の船越トンネルである。
で、今回辿る廃道、明治に建設され新青梅街道とも「黒川通り」とも呼ばれた道であるが、山梨から丹波山村まで通じていたこの「黒川通り」のうち、昭和の車道建設の際に、大半は従来の「黒川通り」を改修して建設されたのだが、この船越橋から藤尾橋までの間は丹波川南岸の急峻な谷を高巻く明治のルートを避け、対岸の谷沿いに新道を通したため今に「残った」ものである。

○「新青梅街道・黒川通り」
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』をもとに、「新青梅街道・黒川通り」をまとめておく;
明治6年(1873)、藤村紫郎が山梨県令に。県内の殖産を計るためは道路整備が重要と考え「甲州街道」「駿州往還(甲府から静岡;国道52号)」「駿信往還(韮崎から鰍沢;)などを整備する。黒川通りもその一環である。
この黒川通りが「新青梅街道」とも呼ばれた理由は、従来の氷川から小菅村、または丹波山村から大菩薩嶺を通って山梨と結ばれていた「青梅街道(中世の甲州街道)」に変えて、新たに柳沢峠を越える道を開いたことによる。構想は塩山から柳沢峠を越し、一之瀬、高橋に至り、丹波山から小河内、氷川、青梅へと通じる大道を開き、山梨と首都圏を結ぼうという壮大なもの。
翌7年(1874)、道路開通告示。街道道筋提示、工事は8年(1875)から開始。財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ、と。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めるも、5年ののちに開通。明治13年(1880)、落合で竣工式が行われ、明治20年(1887)には丹波山村で開通式が行われた山梨から丹波山村までは道が開かれ馬車が走れるようになった。しかし神奈川県(明治の頃、奥多摩は小河内村を除き韮山県をへて神奈川県に属した)も東京都も、この大道建設には積極的ではなかったようで、丹波山村から先に奥多摩に向かっての馬車が通れるような「大道」が拓かれるとこはなく、街道は丹波山村で止まった。丹波山から青梅までの10里近い険阻な道を開くのは大変なことであったのだろう。
その後、藤村の甲府と首都圏を結ぶ大道構想が浮上したのは、昭和10年(1934)代に入り小河内ダム計画が進んだことによる。ダム建設にともなう従来の道路の付け替え工事を上流の柳沢峠まで伸ばすことになり、工事費はダム建設の補償として東京府の予算で実行される。
昭和20年(1945)までに氷川から船越橋までが完成。戦中は工事中断するも、戦後昭和23年(1948)、ダム工事再開とともに昭和30年(1955)には三重河原まで開通、34年(1959)には藤尾まで開通した。このときの道筋にはトンネルはひとつもなかった、と言う。
新たに建設された新青梅街道のルートのうち、明治に開かれた黒川道のうち、「ふなこし(船越橋)」から三条河原をへて藤尾に至る丹波川右岸の道は計画から外された。これが今回辿る廃道区間である。丹波川や柳沢川の深い谷を高巻きする川右岸の高地斜面を避け、丹波山川・柳沢川 左岸の崖面に沿って道を通した。建設技術の進歩がそれを可能にしていたのだろう。
ついでのことだが、柳沢峠からの道を開く建議は青梅の小沢安右衛門との説もある。貧困から身を起こし、一代で巨商、仙台から長崎までを商圏に活躍。しかし慶応2年(1866)瀬戸内で1万2千両の荷を失い。青梅に戻り豆腐業に。明治元年(1868)、「甲斐国黒川通り新道切開願」を江川太郎左衛門に提出するも、明治の混乱期で停滞。明治8年(1874)、になって山梨県令藤村四郎から新道切開の命。9年着工。11年(1878)の完工。丹波山村奥秋から柳沢峠まで3里半。柳沢峠から甲府まで4里半。23カ所に橋を架けその総工費13万円。小川は380円を寄付した、と言う。

■新青梅街道
ここで、「新青梅街道」という言葉を使ったが、現在の国道411号が「青梅街道」、と称されるため、また、歴史上よく使われる江戸に青梅(成木村)の石灰を運ぶために造られた青梅街道(成木街道)などがあり、ちょっと混乱しそう。 ここで言う「(新)青梅街道」とは青梅・奥多摩方面から進んできた道といったものであろう。明治20年(1887)の黒川通りが開かれるまでは江戸・青梅・奥多摩方面から甲州に抜ける道(青梅街道;中世の甲州街道)は丹波山村より先の渓谷を遡上する街道はなく、江戸から甲斐に向かうには中世の甲州街道と同じ道筋を進んだようであり、その道筋(青梅街道;中世の甲州街道)は、小菅村から「牛の寝通り」の尾根道を辿り大菩薩嶺に進むか、小菅川の源流部を遡上し尾根道上がりに大菩薩嶺を経て甲斐に出る、または、この丹波山村からマリコ沢を遡上し尾根道を大菩薩嶺を越えて甲斐に向かったとのことである。 この「青梅街道」、大菩薩峠越えのルートではなく、柳沢峠を越えて甲斐に向かうルート「黒川道」が開かれたため、それを称して「新青梅街道」としたのではあろう。



廃道散歩スタート;9時32分
車のデポ地点の対面に短いガードレールがあり、その先に階段がある。そこが廃道への入口。30段程度の階段を上ると平坦な道が拓かれている。馬車であればすれ違いができるほどの広さである。道は少々荒れてはいるが歩くに支障はない。







第Ⅰ崩壊箇所;9時35分(標高722m)

が、その道を数十メートルほど進むと道が崩壊している。崩壊の幅も30mから40mといったものだろうか。斜面はそれほど急でなないが、ガレ場(砕石が)となっており、足元がガラガラ崩れてゆく。谷との比高差も40mほどであり、また、急峻な崖というわけでもないので足元を滑らせても谷に一直線に落ちるといった恐怖はないが、それなりに危険な箇所となっている。
パーティのうち2名はガレ場をなんとか進み終えたが、まったくの初心者には少々荷が重いだろうと、少し高巻きし斜面に生える木立にロープを巻き、渡り終える。普通に通れば数分でクリアできただろうが、高巻きやロープを使ったため渡り終えるために20分程度かかった(崩壊箇所クリア時刻;9時55分)。

美しい岩壁の道;午前10時15分(標高735m)
ロープ整理などをし終え、10時頃第Ⅰ崩壊箇所から先に向かう。しばらく平坦な道が続く。途中ちょっと道が消えるといった箇所はあるが、ガレ場でもなく普通に通り抜けることができる。
道を進むと前面に岩壁を開削した箇所が現れる。美しい景観である。場所は対岸の国道411号・丹波山トンネルの出口(入口)に向かって突き出した箇所。ここでも川からの比高差は40mほどではある。







第Ⅱ崩壊箇所;10時18分(標高735m)
岩壁を開削した箇所を廻り込むと直ぐに第二の崩壊箇所が現れた。崩壊した距離は短いのだが、道筋より上部も急勾配、しかも崖下は急角度で落ちており結構危険。
岩場に沿って高巻きし、岩に手掛かりを見付けながら渡り終える。崩壊道歩きがはじめての人「デビュタント」には、念のためここも岩場の上の立木にロープをかけ渡ってもらう。第Ⅰ崩壊箇所のガレ場のほうがずっと気持ちが楽ではあった(崩壊箇所クリア時刻;10時27分)。



第Ⅲ崩壊箇所;10時29分(標高752m)
二番目の崩壊箇所を渡り終え、ほっとしたのも束の間、第三の崩壊箇所が現れる。距離は数メートルではあるが、道が完全に消え去っている。ここも注意して渡り、立木にロープを廻し、ロープを頼りになんとか渡り終える。それにしても、こんなひどい崩壊道とは思っていなかった。誠に厳しい(崩壊箇所クリア時刻;10時35分)。





第Ⅳ崩壊箇所;10時40分(標高782m)
三番目の崩壊箇所を越え、切り込んだ沢を廻り切る辺りで、また道が完全に消えている。幅も20mほどはありそうだが、ガレ場でもなく、足元も結構しっかりしているので、山側に体重をかけ斜面の立木を掴みながら渡り終える。ここではロープは出さなかった(崩壊箇所クリア時刻;10時43分)。









第Ⅴ崩壊箇所:10時50分(標高782m)
第四の崩壊箇所から10分程度進むと五番目の崩壊箇所。それほど厳しくはないが、念のためロープを出して進む。









美しい石組;10時52分(標高782m)
先に進むと、しっかりと組まれた石垣が残る。明治に組まれたものが今に残る。 廃道歩きは、この景観のイメージではあったのだが、今のところ崩壊した道のクリア補助で精一杯といったところである。
川に少し突き出た石組みの道を回り込むと道は荒れ倒木、ガレ場となる。ガレ場はそれほど厳しくもないが、今までの5箇所の崩壊箇所で結構気分的に疲れている「廃道デビュタント」のためにロープを出す。



第Ⅵ崩壊箇所;11時2分(標高790m)
道を進むとまたまた前面に巨大な崩壊箇所が現れる。幅は20m強。歩を進めると足元の砕石が崩れ落ちるガレ場となっている。アプローチを探すに、ガレ場の中間点に立木がある。足場を固めながら立木まで進み、そこにロープを廻し、ガレ場で足を滑らせてもロープを放さなければ滑落はしないようにして全員がガレ場をクリア(崩壊箇所クリア時刻;11時15分)。



石垣と荒れた道;11時16分(標高744m)
崩壊箇所の先は少々荒れた道としっかい組まれた石垣。石垣の上まで土砂崩れが押し寄せており、ここもそのうちに崩壊箇所となるのだろうか。







第Ⅶ崩壊箇所;11時26分(標高794m)
今回の廃道崩壊箇所で最も危険だった箇所。幅は10mほどなのだが、崖下が切れ込み、滑落したら結構谷下まで落ちていきそう。慎重に、一歩ずつ足場を造りながら渡り終え立木にロープを廻し、ロープを掴んで崩壊箇所を渡ってもらうことにしたのだが、「廃道デビュタント」が途中で足を滑らし、ロープを掴んだまま崖の斜面に体を委ねた状態に。
あたりまでだが、ロープを離さないように、と指示。幸い「廃道デビュタント」は落ち着いた態度であり、ロープを握りしめ、ゆっくり体を起こし崩壊箇所を渡り切った(崩壊箇所クリア時刻;11時35分)。



第Ⅷ崩壊箇所;11時38分(標高808m)
危険な崩壊箇所から数分で石垣の上が土砂崩れ状態。岩場に沿って高巻きしクリア。








第Ⅸ崩壊箇所;11時41分(標高788m)
崩壊箇所をクリアすると一休みする間もなく巨大な崩壊箇所が現れる。上から下まで白い砕石のガレ場。幅は広いのだが、谷への斜面の傾斜がそれほど急ではないので、足場を踏み固めて道をつくり。そこをゆっくりと渡ってもらう。結果的にここが前半最後の崩壊箇所であった(11時50分)。






林班界標;12時3分(標高768m)
最後の崩壊箇所を越えると道は平坦になり、右手すぐ下に丹波川も見えてくる。紅葉も色づきはじめた景観を楽しみながら先に進むと「林班界標丹波山分区54 水道水源林 東京都水道局」の標識が立つ。
「林班界標」とは森林管理のための境界区分を示すもの。おおよそ50ヘクタール内となるように尾根筋、沢筋を元に区切りをしているようである。「54の右手には55なのか、53なのか、といった数字はないが、右手は丹波川であるため数字はないのだろう。山に入っていけば「54|55」などといった林班界標はあるのだろう。
それはそれとして、この地は山梨県ではあるが「林班界標」には「水道水源林 東京都水道局」とある。その理由は多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため困難な交渉の結果、東京都が山梨県より水道水源林として譲り受けたことによる。

○東京都水道水源林
東京都水道水源林とは、多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため東京都水道局が管理している多摩川上流の森林のこと。その範囲は東京都の奥多摩町、山梨県下の丹波山村、小菅村、甲州市までカバーしている。各市町村に占める水源林の占める割合を地図で見ると、大雑把ではあるが、奥多摩町は北半分、埼玉県との境となる長沢背稜までが水源林、小菅村は村域の西半分と小河内村との境を接する南域の一部、丹波山村は青梅街道の南北の村域を除いたおおよそ7割、甲州市は、東は丹波山村との境、北は埼玉県境の尾根道、西は笠取山から柳沢峠へと続く尾根道に囲まれた一帯が東京都の水源林となっている。

■東京都水道水源林の歴史
東京都の面積の10%に相当するまでの水源林となるまでは長い歴史があるようだ。江戸時代の奥多摩の山々には多くの幕府直轄の「お止め山」があった。その数、34箇所、2000町歩(2000ヘクタール)にもなった、とか。森林は厳しく管理され、村民には火災防止の義務などを課せされる代わりとして、入会権が認められ茅や薪といったに日常資材の採取、また「サス畑(焼畑)」も認められ(収穫の一部は上納)、定期的に人の手が入り山が荒れることはなかったようだ。

その状況は明治の御維新で一変。「お止め山」は維新後に皇室の御料林や県有林となる。それにともない、村の入会権は認められなくなり、薪も手に入らなくなった村は一部国から山林を買い取り村有林とする必要にも迫られた。幕府の厳しい管理下からはずれ、また、入会地として日常的に人の手が入っていた山林に人が入らなくなるにつれ、山林の荒廃が進む。明治維新から明治30年(1897)にかけての状況である。
東京府の水源地である多摩川最上流部の荒廃に危惧を覚えた東京府知事千家氏は明治34年(1901)、本多静六氏を水源林に派遣。川の汚濁、山津波、盗伐、濫伐、放火の状況を把握。笠取山も丹波山、小菅も日原も森林は荒廃し、禿げ山だらけとなっていた。その対策として、宮内省と交渉し丹波山、小菅両村御料林の譲渡を受け、同時に日原川流域の民有地を保安林に編入。これで日原、丹波山、小菅の核心部は東京府の水源林として確保した。
しかし状況は深刻で植林もできない状態。まずは治山からはじめる必要があったようである。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、泉水谷を遡上した山中に学校尾根、学校向尾根といった尾根があるが、それは明治末に50組の炭焼きが岐阜から入植。泉水谷小屋はその子弟の学校跡。尾根の名前はその名残りである。
炭焼きが入った理由は荒廃した森林を涵養しようにもその予算がなく木炭の売却益を植林費用に充てようとの目算。当初は粗悪天然林を伐採し売却益を人工植林の費用に充てるべく裂石から丸川峠の索道を曳くなどの手当てをするも買い手がなく断念。
それではと、木炭として売却するために炭焼きが入植したわけだが、水害で大黒茂谷の平坦地に移るも結局は炭焼き事業も断念。地元の人でさえ炭焼きに泉水谷にも大黒茂谷にも入っていない、そんな過酷なところでの炭焼きであったようである。
それはともあれ、明治41年(1908)には東京市民の水源管理は東京市が管理すべきと当時の東京市長尾崎行雄は自ら現地調査し東京市による水源地経営案を作成し、明治43年(1910)市議会で決議を受け東京府より水源林の譲渡を受ける。明治45年(1912)には最後の懸案事項である山梨県との交渉も解決。多摩川源流である水干のある笠取山南面は山梨県林として下賜されており、その地域を買収すべく困難な交渉のすえ譲渡を受けることができた。
その後も水源林買収が進む。大正年間には奥多摩町の公私有林、昭和8年(1933)には日原川上流の私有林、戦後の昭和25年(1950)に奥多摩町古里の私有林、ダム完成後には湖岸の私有林などを買収し現在に至る。

泉水谷渡河;12時27分
「林班界標」を越えて道なりに進む。しばらく進むと沢筋が右手に見え、堰堤などがある。カシミール3Dのマップカッターで切り取りGarminに入れた2万5千分の一の地図でチェックすると、泉水谷が丹波川に合流する辺りから結構離れて南に来ている。成り行きで行けば三条河原へと進むのかと思っていたのだが、三条河原への渡河地点を探さなければならないようである。
道を戻り泉水谷が左手に見える辺りまで戻り、渡河地点を探す。と、川に簡易木橋が見える。道を下り川床に置かれた木橋を進むと川の途中で橋が切れている。仕方なく少し上流に進み浅瀬を渡り泉水谷左岸に。
護岸工事がなされた泉水谷左岸を歩き、川の途中で切れた木橋辺りまで戻る。木橋があるということは、その辺りに林道へ上る道があるだろう、との思いである。
予想に違わず林道へと上る石段があった。それと、石段脇にロープに繋がれた鉄板がころがっている。これって、途中で切れた木橋の先の部分に渡しておいたものだろう。台風か何かの折り、引き揚げられそのままになっていたのだろうか。いらぬお節介とは思いながらも、鉄板を川に落とし木橋から鉄板を渡り泉水谷左岸に渡れるようにしておいた。
実のところ、後からわかったのだが、泉水谷に架かっていた橋の石組みの橋台跡が残る、とのこと。橋は「三条橋」とも「小室橋」とも称されたようである。旧道後半部の林道へと繋ぎを考えれば木橋より少し下流にあったのだろうが見逃した。ちょっと残念(渡河終了;12時35分)。

泉水谷林道;12時48分(標高755m)
石段を上り、泉水谷林道に上る。この林道は泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経て青梅街道・国道411号に出る。この林道の全ルートは「泉水横手山林道」と呼ばれている。
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、この泉水谷林道は「日本深山」と言う民間企業によって開かれたとある。安井誠一郎戸都知事の頃である。本来この地域は東京都の水源涵養林であり伐採はできないはずではあるのだが、高度成長時代の時勢もあってか伐採が許可された、とか。当初は国道411号の「御祭集落」の先に北から多摩川に注ぐ後山川を遡った「後山林道」を開き伐採を開始したがうまくいかず、この泉水谷に移り伐採をおこなった。日本深山の活動は昭和28年(1953)から昭和34、35年(1959,1960)まで続いたとのことである。

三条新橋広場;12時50分(標高767m)
泉水谷林道を少し下り、車の進入を禁ずるゲートを越えると広場になっている。「三条新橋広場」と呼ばれるようである。「三条新橋広場」には車を停めるスペースもある。その駐車場の対面に「黒川通り」の後半部の道が見えている。 「黒川通り」の前半部はここで終了。本来の予定では、ここから後半部の4キロ程度を進む予定ではいたのだが、「廃道デビュタント」の心身ともの疲労が激しく、今回はここで廃道歩きを終え、残りは次回とすることに。

三条橋
車をデポした船越橋まで戻る。三条新橋広場を少し進むと三条橋が架かる。橋からの眺めは美しい。この辺りを「三重河原」と称するが、それは小室川が合流した泉水谷が丹波川に合わさることによる。

船越橋
国道411号を進み、「丹波山トンネル(竣工平成12年(2000))」を抜け、大常木橋を渡りデポ地点の船越橋西詰めに戻る。色つきはじめた丹波川や山肌の紅葉、結構怖い思いをしながら辿ったであろう、丹波川南岸の山肌を眺めながらデポ地点へ戻り、車で一路家路へと。

それにしても予想以上の崩壊道であった。山歩きのベテランのガイドが一緒でなければ、この廃道歩きはお勧めできない。万が一の安全の為にもロープ必須。10mロープ2本を、回収を容易にするため繋ぎ合わせ、木に廻したため10mの距離でのロープ確保となったが、10mではきちんとした支点確保ができないところもあり、身体を張っての確保といった危険な状況もあった(「デビュタント」が滑ったとき)。重いので敬遠していたが、30mのロープ一本買う時期かもしれない
伊予 別子銅山遺構散歩のメモも結局3回となってしまった。メモを書きはじめて、端出場発電所導水路のこと、上部鉄道のこと、また、そもそも別子銅山について、近所に居ながらあまりに何も知らず、メモの前提となるあれこれの整理、発電所導水路のあまりの難路・険路ゆえにメモが長くなってしまった。 2回のメモでメモの前提および往路の端出場発電所導水路跡を書き終え、第三回の導水路の終点である沈砂池から復路である「上部鉄道」跡を辿り、出発点の東平までをメモする。



本日のルート;(山根精錬所>端出場;端出場発電所跡・水圧鉄管支持台>東平;)
(往路;端出場発電所導水路跡)東平・第三発電所跡スタート>水路遺構>住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔>第一導水隧道出口>第一鉄橋>第二鉄橋>第二導水隧道>第三鉄橋>第三導水隧道>第一暗渠>第二暗渠>山ズレ>第四鉄橋>大岩と第三暗渠>第五鉄橋>第四>渠>第五暗渠>木の導水路跡>第四導水隧道>トタン小屋>第六鉄橋>第五導水隧道>第七鉄橋・第八鉄橋>第六導水隧道>第六暗渠>第七暗渠>第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道>第九鉄橋>第九導水隧道>排水門と第九暗渠>第十暗渠>第十一暗渠>第十二暗渠>第十三暗渠>沈砂池>水圧鉄管支持台
(復路;上部鉄道)
沈砂池>水圧鉄管支持台>石垣>魔戸の滝への分岐?石ヶ山丈停車場跡>索道施設>地獄谷>切り通し>東平が見える>紫石>第一岩井谷>第二岩井谷>一本松停車場跡>東平



沈砂池;13時5分
端出場発電所への導水路の終点。ここで水に混ざった砂を分け、水圧鉄管で落差約600mの水圧で端出場発電所のペルトン水車を回し、生産力買増大により必要となった別子銅山の電力需要に応えたことは既にメモで延べた。 沈砂池を囲む煉瓦造りの縁上をぐるりと廻り、下の水圧鉄管の支持台などを幾つか目に留めて、東平へと戻ることにする。復路は「上部鉄道跡」を一本松停車場跡まで戻り、そこから東平へと下る。




石垣跡;13時25分
水圧鉄管支持台より沈砂池の傍に戻り、山道を上部鉄道跡へと上り始める。杉の木に括られた「まとの滝上部 停車場」の標識(13時12分)に従って上に進む。
50mほど上ると立派な石垣が残る。この石垣は何の遺構だろう。沈砂池からは大分はなれている。往昔この辺りを上ったであろう「仲持ち」さんの施設なのだろうか、「牛車道」関連の施設があったのだろうか、それとも10mほど上にあった上部鉄道の施設なのだろうか?
あれこれチェックすると、上部鉄道石ヶ山丈の地盤を安定させるため、3段に渡る石垣を築いた、といった記事を目にした。位置からして上部鉄道関連の遺構のように思える。
石垣の前に「銅山峰ヒュッテ 停車場跡」の標識がある。銅山峰ヒュッテは上部鉄道の西端・角石原駅の辺り、停車場跡は同じく上部鉄道の東端・「石ヶ山丈駅」のことである。

魔戸の滝への分岐;13時30分
標識から10mほど上ると人の手が入った平坦地に出る。東に下れば種子川の魔戸の滝に下る山道、西は上部鉄道の「石ヶ山丈駅」である。この辺りは上部鉄道が開通する以前、別子銅山から粗銅を運び、銅山村へ日用品を運んだ「仲持さん」の泉屋道であり、牛車道として往還の拠点ではあったのだろう。

○「中持ちさん」・「牛車道」と石ヶ山丈
銅山遺構散歩の「そのⅠ」でメモしたように元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された別子銅山は、初期は銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回した(第一次泉屋道)。その理由は、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。
その後、元禄15年(1702))、住友の幕閣への交渉が功奏したのか、西条藩が別子村>銅山峯>角石原>「石ヶ山丈」>立川 >角野>泉川>新居浜に出る銅の運搬道を許可した(第二次泉屋道)。仲持ちさんの背に担がれての運搬である。
明治に入り、明治13年(1880) には延長22kmの牛車道が完成。銅山嶺南嶺の別子山村>銅山越>銅山峰北嶺の角石原>「石ヶ山丈」>立川中宿>新居浜市内が結ばれた。
この牛車道も明治19年(1882)に銅山峰の南嶺の旧別子より北嶺の角石原まで貫通した長さ1010mの「第一通洞」の完成により、銅山峰を越えることなく「角石原から結ばれる。通洞内は牛引鉱車で運搬されたとのことである。

石ヶ山丈停車場跡;13時33分
山側に組まれた石垣をみやりながら平坦な道を進むと「石ヶ山丈駅」跡に着く。杉の木に「石ヶ山丈停車場」の案内があり、その脇には石組みのプラットフォームらしきものが残る。
石ヶ山丈停車場跡は上部鉄道の東端の駅。「えひめの記憶」に拠れば、明治22年(1889)に欧米を視察した広瀬宰平は、製鉄と鉱山鉄道の必要性を痛感し、石ヶ山丈-角石原問5532mに山岳鉱山鉄道建設を構想し、明治25年(1892)年5月に着工し、翌26年(1893)年12月に竣工した。標高1100mの角石原から835mの石ヶ山丈間の日本最初の山岳軽便鉄道は急崖な山腹での工事に困難を極めたと、言う。
この上部鉄道であるが、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺南の日浦の間、3880mが直結し、嶺南の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれるに到り、その役目を終える。上部鉄道が活躍したのは18年間ということである。

索道施設;13時34分
石ヶ山丈駅のすぐ傍に深い溝をもった遺構がある。索道施設跡である。上部鉄道により角石原より運ばれた粗銅は石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した「下部鉄道」により市内へと運ばれた。
ところで、石ヶ山丈の索道基地は明治24年(1891)に完成している。上部鉄道の建設が開始されたのは翌明治25年(1892)と言うから、上部鉄道開通までは明治13年(1880)に開通した第一通洞の銅山峰北嶺の角石原から石ヶ山丈までは牛車道で粗銅が運ばれ、ここから延長1,585メートルの索道で端出場まで下ろされたのであろう。
なお、明治24年(1891)に完成した索道は「複式高架索道」とのこと。明治30年(1897)には単式高架索道となっている。単式(高架)索道は、端出場火力発電所の電力を使った「電力」で動く索道とのこと。ということは、「複式」とは「上りと下り」の索道の動力モーメントで動かしたものではあろう。

地獄谷;13時38分
索道施設からほどなく谷に橋台が残る。急峻な谷に石が敷かれ、地盤を固めているように見える。橋台跡など、本来なら結構感動するものだろうが、なにせ、往路での導水路の強烈な橋跡を見たわが身には、あまり「刺さる」ことはなかった。






切り通し;13時46分
地獄谷から8分程度で切り通し。上部鉄道の写真でよく目にする箇所である。岩壁手前の岩盤を切り通した箇所から貨車を繋いだ蒸気機関社が映る。貨車には人が乗っている。
上部鉄道の機関車2両、客車1両、貨車15両はドイツのクラウス製。開通当時は運転手もドイツ人であった、とのこと。蒸気機関車2両が交替で貨車4,5両繋ぎ1日6往復。片道42分、平均時速およそ8キロで走った、とのこと。 切り通し部の写真ではフラットな路線のように見えるが、最大斜度が18分の一、133回ものカーブのある断崖絶壁を走ったわけで、結構スリルのある山岳鉄道ではあったようだ。
当時は岩場だけの緑のひとつもない、禿山の切り通しではあったが、現在は線路跡にも木々が立ち並び、緑豊かな一帯となっている。

東平が見える;13時56分
切り通しを越え10分程度歩くと谷側が開けたところに出る。切り通しから先は。谷側には木々が茂り、昔のような禿山の断崖絶壁を歩く怖さは緩和されているが、その分見通しがわるかったのだが、ここでやっと東平が見えた。ポールに赤い旗が巻かれているが、これは東平からこの地点確認しやすくするためなのだろうか。よくわからない。

禿山と言えば、明治22年(1893)頃より、別子銅山は銅山用の木材伐採と製錬所から排出される亜硫酸ガスで山は荒れ果て、一面の禿山となってしまっていた。
明治27年(1894)、初代総理事廣瀬宰平が引退した後、別子銅山の煙害問題に取り組んだのが、のちの第二代総理事である伊庭貞剛。煙害問題解決のため、製錬所を新居浜沖約20kmにある四阪島(宮窪町)へ移すなど対策を講じる(後年、この四阪島も周桑郡に大きな煙害を齎すのだが)とともに、荒廃した山を再生させる植林事業を開始。それまで年間6万本程度であった植林本数を100万本までへと拡大し、現在の美しい緑の山の礎を築いた。

紫石;14時1分
東平を眺め5分程度進むと、線路脇に大きな岩が鎮座している。紫岩と呼ばれる。雨に濡れると紫が際立つ、とか。それはともあれ、この辺りは、往路で出合った「山ずれ」の上部箇所。紫岩手前辺りで線路跡の道にギャップがある。上部鉄道上を通る「牛車道」も山ズレ状態にあるようだ。




第一岩井谷;14時19分
紫石から20分弱で朽ちた木が残る橋跡に着く。谷は「第一岩井谷」との案内があった。橋台は煉瓦造りだが、上に架かる橋は木。木橋であったのだろうか。







第二岩井谷;14時22分
第一岩井谷から数分で第二岩井谷。ここは橋台の上に鉄板の仮橋が架けられている。上部鉄道の三つの谷を渡る橋を見てきたのだが、橋は鉄橋ではなく木製であったようだ。








一本松停車場跡;14時34分_標高960m
給水タンクや保線小屋の案内を見遣り、小さな沢に架かる橋台、橋台に渡されている木橋などを越えて10分強進むと「銅山峯へ 石ヶ山丈をへて種子川へ 東平へ」との三方向の案内がある標識」のあるところに出る。ここが上部鉄道の角石原駅と石ヶ山丈駅の中間にあった「一本松停車場跡」である。一帯は平坦に整地されていた。結構広い。引き込み線もあったようだ。
上部鉄道はここから角石原へと向かうが、本日のメーンイベントは端出場発電所導水路散歩であり、上部鉄道散歩の残りは次の機会として東平へ戻る道を下ることにする。



東平に下る:15時2分、
14時40分、一本松停車場跡の平坦地を離れ、「東平」への道標に従い尾根を下る。6分程度下り、標高870m辺りに木に「一本松社宅」の案内。かつてこの地 には別子銅山の「一本松社宅」があった。戸数185。飯場と人事詰所、クラブ、派出所が各1、その他3つの職員貸屋と2箇所の浴場があった、とのことである(「えひめの記憶」)。
社宅跡から10分程度(14時50分)、標高820m辺りに住友共同電力の送電線鉄塔。そのすぐ下に上の方向を「高萩西線46 」と示した住友共同電力の標識があったので、その鉄塔は「高萩西線46」ではあったのだろう。
鉄塔から10分程度下り東平のスタート地点に15時2分到着。長かった端出場発電所導水路および、上部鉄道散歩を終える。

伊予 別子銅山遺構散歩の端出場発電所導水路・上部鉄道跡を辿るメモは、メモする段になり、別子銅山のことをあまりに知らず、端出場発電所導水路や上部鉄道の別子銅山での「位置づけ」を自分なりに整理するだけで「力尽きた」。 2回目のメモは東平から端出場発電所導水路を往き、上部鉄道を戻るメモをするつもりであったのだが、今回も往路の端出場発電所導水路歩きのメモで「力尽きた」。
導水路は7 キロほどであり、2時間強で歩き終えるかとも思ったのだが、8時半に出発し沈砂池到着が12時半と4時間ほどもかかった。険路・難路、崩壊鉄橋、山ずれによる導水路の山腹下への「ずれ」、また途中で落とした携帯バッテリーを拾いに戻るなどのトラブルで30分以上ロスしたため、実質は3時間半弱といったところではあろう。それにしても強烈な散歩となった。
復路の「上部鉄道跡」は結局3回目のメモに廻すことになったが、いくつか崩落鉄橋があるも、導水路の「めちゃくちゃ」な散歩を体験した我が身には、なんということもない「平坦地」をのんびり戻る、といった風情とはなった。


本日のルート;(山根精錬所>端出場;端出場発電所跡・水圧鉄管支持台>東平;)
(往路;端出場発電所導水路跡)東平・第三発電所跡スタート>水路遺構>住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔>第一導水隧道出口>第一鉄橋>第二鉄橋>第二導水隧道>第三鉄橋>第三導水隧道>第一暗渠>第二暗渠>山ズレ>第四鉄橋>大岩と第三暗渠>第五鉄橋>第四>渠>第五暗渠>木の導水路跡>第四導水隧道>トタン小屋>第六鉄橋>第五導水隧道>第七鉄橋・第八鉄橋>第六導水隧道>第六暗渠>第七暗渠>第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道>第九鉄橋>第九導水隧道>排水門と第九暗渠>第十暗渠>第十一暗渠>第十二暗渠>第十三暗渠>沈砂池>水圧鉄管支持台
(復路;上部鉄道)
沈砂池>水圧鉄管支持台>石垣>魔戸の滝への分岐?石ヶ山丈停車場跡>索道施設>地獄谷>切り通し>東平が見える>紫石>第一岩井谷>第二岩井谷>一本松停車場跡>東平

第三発電所跡スタート;8時26分
端出場発電所の導水路散歩は「第三発電所跡」の右手から始まる。出発点にはいくつもの道標が立つ。「一本松停車場跡」、「登山口;鹿森ダム 銅山峰」、「辻坂経由遠登志 角石原経由銅山峰」など。導水路へのアプローチは「登山口;鹿森ダム」への道を取る。道標には「端出場発電所導水路」といったディープな散歩の案内などあるはずもない。
道を進み「木樋」なのか、橋なのかはっきりしないが、梯子状に岩にぶら下がった崩れた木の「残骸」を見遣りながら道を辿る。と、その先に四角い煉瓦造りの遺構が道脇に残る。水路施設のようであるが、はっきりしない。

水路遺構;8時36分
端出場発電所導水路は、この辺りは山中を隧道で抜けているので、端出場発電所導水路の「余水吐」か?などと思いあれこれチェックする。と、「東平ペルトン水車」が登場してきた。どうも、今、歩いている道は「東平ペルトン水車」の導水路跡のように思える。であれば、ペルトン水車導水路関連の施設かもしれない。
「東平ペルトン水車」の導水路は第三通洞脇の「柳谷川・寛永谷」の合流点辺りで取水し、木樋で等高線750mに沿って進み、住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔辺りまで続き、そこから100mほど下、辷坂地区(すべり坂?何と読むのだろう)にあった発電所に水を落している、とのこと。端出場発電所導水路跡には、その送電線鉄塔を経由して進むことになるわけであるから、「東平ペルトン水車」導水路関連施設って推論は、結構いい線いってるかも。 この水路施設らしき遺構の別の可能性としては、第三通洞の所でメモした、銅や鉄が溶け込んだ坑内排水を国領川水系に流れ込むのを防ぐために造った、坑水路の流路変更点に設けられた「坑水路会所」も捨てがたい。形は写真で見た「坑水路会所」とそっくりではある。

住友共同電力の「高藪西線」48 番鉄塔;8時52分
崩落した木樋跡なのか橋跡(8時38分)なのか定かではないが、何らかの遺構を左手に見遣りながら進むと、山側にしっかりした石垣なども組まれている。石垣部分を越えると岩壁を削ったような道となる。沢に架かる鉄板を渡した「橋」を渡ると水平・平坦に切り開かれた道となる。
ほどなく住友共同電力「高藪西線」の鉄杭があり「左が47鉄塔、右が49鉄塔」とあり、その先に住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔が建っている。

○東平ペルトン水車
Wikipediaによれば「ペルトン水車は、水流の衝撃を利用した衝動水車、タービンの一種である」とある。通常は水の落差を利用しタービンを回し発電するわけであるが、明治28年(1895)に設置されたこの「東平ペルトン水車」の主たる目的は、圧縮空気をつくり、その圧縮空気を活用し削岩機を動かすこと。その削岩機は第三通洞の開削に使った。削岩機を使うことにより、それまで手掘りであった隧道開削のスピードが6倍になった、と言う。別子採鉱課で石油発動機によって電灯が灯されたのが明治34年(1901)のこと。 東平ペルトン水車は電気が別子銅山に最初の電燈が灯る6年も前に稼働したことになる。

取水口は前述の如く、「柳谷川・寛永谷」の合流点辺りで取水し、木樋で等高線750mに沿って、おおよそ500mの距離を1mから2m程度下る緩やかな、ほとんど平坦地といってもいいほどの横水路を進み、この鉄塔辺りにあった「会所(水槽)」から鉄管で100m下の「東平ペルトン水車」に落としていた。
ところで、この「東平ペルトン水車」の導水路は、今回の散歩のテーマである端出場発電所導水路が貫通するまでの間、端出場発電所の発電運転のテスト用の水としても使われたようである。明治27年(1894)から35年(1902)にかけて「東平ペルトン水車」の圧縮空気を使った削岩機は第三通洞開削に使われたわけだが、銅山峰南嶺の日浦からの通洞が繋がり、水が流れはじめたのは明治44年(1911)の2月のこと。端出場発電所の試験運転がはじまったのは明治43年(1910)の12月というから、3ヶ月ほど「東平ペルトン水車」導水路の水を端出場発電所まで延ばし試験運転に使ったのだろうか?それとも端出場発電所が正式稼働するのが明治45年(1912)というから、もう少し長い期間この「東平ペルトン水車」の導水路の水をつかったのだろうか?詳しいことはわからない。
それはともあれ、実際、第三通洞から少し上った柳谷川には堰が築かれ、端出場発電所(東平ペルトン水車系)への取水口が残るとのことである。とすれば、道端にあった水路施設跡は端出場発電所(東平ペルトン水車系)への導水路の一部かもしれない。単なる妄想。根拠なし。

第一導水隧道出口;9時5分
突き出た山塊の先端部にある送電線鉄塔を越え等高線はスタート地点から10mほど下り740m辺りを山塊に沿ってぐるりと廻る。鉄塔先は藪となっており、少々不安ではあったが、藪はすぐに抜け山肌に沿って踏み分け道を進むと、突き出た山塊に沢が切り込んだ辺りに四角い水路遺構が現れる。廻り込むと隧道出口となっている。第一導水隧道(仮に名付ける)出口である。
隧道出口で導水路は直角に曲がる。隧道出口の正面は「排水路」となっており、配水操作をしたのであろう鉄のハンドルが残る。第三通洞からこの出口まではおおよそ600mほどであろうか。

第一鉄橋;9時8分_ 標高740m
隧道出口を直角に曲がった導水路はすぐ沢を渡る鉄橋となる。鉄橋の枠は鉄製ではあるが、底は木製の箱形の水路となっている。結構朽ち果てており、鉄脇に腕を伸ばし、それを支えに慎重に橋を渡る。







○日浦から導水路第一隧道出口までの端出場発電所導水路

銅山峰南嶺を流れる銅山川の水を日浦で取水した導水路は、日浦通洞・第三通洞内に設けられた水路を流れ、東平の第三通道入口手前で柳谷川を抜け、山塊を開削した隧道を北に進む。そして、送電線鉄塔へと下る尾根筋辺りで流路を少し東に向きを変え、この出口へと続く。
第三通洞は明治27年(1894)に起工され明治35年(1902)に東延斜坑まで開削完了、日浦通洞は明治14年(1881)東延斜坑底から日浦谷に向けて開削をはじめ開通したのは明治44年(1911)。これで日浦谷と東平が繋がった。 では、端出場発電所導水路の建設はいつからはじまったのだろう?そもそもの最終目的である「端出場発電所」建設計画は明治43年(1910)に認可され、工事は同45年(1912)5月に竣工、7月から本格的に稼働することになった、ということであるから、計画が認可された明治43年(1910)から建設が始まり、テスト期間は前述の「東平ペルトン水車」導水路を延長・活用しながら、明治45年(1912)7月の正式稼働までの間に建設が完成したのではあろう。「東平ペルトン水車」の削岩機も大活躍、ということ、かと。

第二鉄橋;9時16 分
第一鉄橋を渡り、岩壁を切り開いた導水路を進む。導水路の中を進むのが安全ではあるが、導水路縁上を少々おっかなびっくりで歩く。この辺りには下から見れば煉瓦造りのアーチ橋となっている箇所もあるようだが、見逃した。 第一導水隧道出口から10分程度歩くと朽ちた木の橋が見えてきた。近くに寄ると底は鉄で両サイドが木でできている。沢もそれほど切り込んではいないので、橋脇を抜ける。その先には隧道入口が見える。



第二導水隧道;9時17分
導水路二つ目の隧道はせり出した岩盤を穿ち、740mの等高線がわずかに山側に切り込んだ辺りへ向かい一直線に進む。迂回路は740mの等高線に沿ってせり出した岩場の谷側を進むことになる。







第三鉄橋:9時24分

第二導水隧道を出るとすぐに第三鉄橋が続く。僅かに切り込んだ沢に2mもない鉄骨だけが残る。橋を渡り終えた辺りには巨大な岩が崩落し、導水路を塞いでいた。その先は往昔の姿を保つ導水路がしばらく続く。カーブする導水路の辺りでは、導水路下に組まれたしっかりとした石垣が良く見える。また、このあたりにもアーチの形をした煉瓦造りの橋が導水路下に組まれているようだが、見逃した。




第三導水隧道;9時30分
導水路はアーチ形に組まれた煉瓦が美しい隧道へと入り込む。三番目の隧道である。隧道入口手前には迂回路となる石段が整備されていた。この隧道は短く少し出っ張った尾根を迂回すると、往昔の原型を保つ隧道出口に出る。




第一暗渠;9時34分
第三導水隧道からはしばらく美しい導水路をのんびりと進む。導水路の縁上を歩くのも大分慣れてきた。と、等高線が山側に少し入り込んだ辺りが岩と言うか土砂が崩れガレ場となっている。ガレ場の下は3m程度の暗渠となっているようだが、土砂に覆われた導水路を進むだけ。





第二暗渠;9時36分
第一暗渠から50mほどで第二暗渠。2mもないほどの小さいもの。沢が切れ込んでいるようにも見えないのだが、土砂崩れか、上からの土砂を含んだ山を下る水から導水路を防いでいるのだろう。







山ズレ;9時40分
第二暗渠から岩壁に沿って、前進を塞ぐ蔦を折り敷きながら、ぐるりと尾根を廻り切ったあたりで突然導水路は消え、一面の土砂。さらにその先には導水路自体が谷方向に落ち込んでいる。山側だけ残し谷側だけ崩れたもの、崩壊したもの、原型を保ったまま「ズレ」た導水路も見える。最下部でおおよそ10mほどズレ落ちているようだ。



第四鉄橋;9時45分

山ズレ箇所の先、等高線が少し山側に切り込んだところに鉄骨だけの橋が残る。長さは2m強といったもの。沢も深くなく、橋脇を通り導水路に復帰する。







大岩と第三暗渠;9時49分
少し張り出した尾根を等高線に沿って導水路をぐるりと廻ると、導水路の谷側に巨大な岩が見える。その大岩の手前には三番目の暗渠(第三暗渠)の入口が見える。その先は土砂崩れで出口ははっきりしない。沢はそれほど深く切れ込んではいないのだが、大岩ゴロゴロの沢である。








第五鉄橋;9時50分
大岩を回り込むと、崩壊し、ほとんど原型をとどめていないグシャグシャの鉄骨が残る。五番目の鉄橋ではある。それにしても強烈な壊れ具合である。










第四暗渠;9時52分
先に進むと谷側が崩れ、山側のみに煉瓦が残る遺構がある。5mほど先にこれも壊れた煉瓦造りの出口が残る。どうも崩壊した暗渠跡のようである。









第五暗渠;9時57分?標高730m
余水吐らしき施設を足元に見遣りながら進むと、沢が切り込んだ手前に五番目の暗渠がある。暗渠は切り込んだ沢をU字に曲がり出口に向かうが、途中、谷に向かって排水路らしき遺構が残る。なんだろう?よくわからない。沢の辺りではスタート地点から20ほど下った730m等高線となっている。








木の導水路跡;10時3分
五番目の暗渠を越えると、崩壊した木の導水路跡があった。煉瓦とコンクリートで固められた導水路の部分だけ木製である。なんでだろう?導水路は突き出した尾根筋に向かって等高線に沿って横水路を進む。






第四導水隧道;10時6分
先で導水路が石で埋まる箇所がある。その先には尾根筋を迂回せず直進する四番目の隧道がある。

トタン小屋;10時7分
隧道入口から尾根筋先端部を迂回する。入口付近から谷側に迂回路があり、尾根筋の先端部に壊れた「トタン小屋」跡があった。小屋は原型を留めず完全に崩壊していた。





第六鉄橋;10時11分
突き出した尾根筋を等高線に沿ってぐるりと迂回し、沢が切り込んだところに隧道出口があり、出口は第六鉄橋に繋がる。第六鉄橋は大岩が崩れてきたのか、グシャグシャに曲がっている。完全に崩壊した鉄橋である。

沢にかろうじて引っかかる鉄橋の先には再び山地を穿つ五番目の隧道入口が見える。弟は昔、この鉄橋を渡ったとのことだが、今回は沢を少し高巻し、蔦などを頼りに沢を渡り、10時38分第五導水隧道入口側に下りる。迂回に20分ほどかかった。



第五導水隧道;10時42分


隧道入口からの迂回路は今までの等高線に沿った迂回ではなく、先に突き出す尾根筋に向かって一度登り、そこから山側に切り込んだ沢に向かって下ることになる。40mから50mほどの上り下り、といったところ。
アプローチの出だしは石組のしっかりした道をのぼることからはじまる。尾根筋の先端部に上り切ったあたりの岩場からは東平が良く見える。
先端部を回り込み第七・第八鉄橋のある沢に向かって進んでいた11時頃、落し物に気が付き探しに第六鉄橋辺りまで探しに戻る。結局見つからず戻ったのだが、弟が途中の急斜面にそれらしき形跡を認め慎重に降りて探し出してくれていた。この探し物に30分程度かかってしまった。




第七鉄橋・第八鉄橋;11時37分
第七鉄橋・第八鉄橋に11時37分到着。落し物がなければ11時過ぎには到着したものと思う。岩に張り付き沢筋に下ると骨組みたけの鉄橋がある。鉄橋は間に短いコンクリートの導水路を挟み二つに分かれている。どちらも鉄骨だけが沢に架かるだけである。






第六導水隧道;11時38分
第八鉄橋は六番目の隧道口に繋がれている。この隧道の迂回路も等高線を突き出した尾根筋に向かって40mほど上り下りし出口に至る。隧道出口で導水路はほぼ直角に曲がり先に進むことになる。出口辺りは等高線は720mラインになっている。








第六暗渠:11時52分
美しい導水路を進むと短い暗渠。山から下り落ちる水を導水路に入らないように造られたものだろう。短いけれど煉瓦を組んだしっかりした暗渠となっている。







第七暗渠;11時53分
しっかりした導水路を、少し山側に切り込んだ沢に向かう手前に先ほどの第六暗渠よりは少し長い暗渠となっている。これも煉瓦造りのしっかりした暗渠が残っている。

第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道;11時54分
第七暗渠の先、尾根筋が少しだけ突き出している方向に進む導水路の先に隧道口が見える。七番目の隧道である。10mほどの短い隧道である。
隧道を抜けるとすぐに第八暗渠があり、その暗渠から10mほどで第八導水隧道となる。第八導水隧道は導水路から直角に開削されていた。
この頃になると、隧道や暗渠にお腹が一杯になり、疲れもあって写真を撮り忘れた。写真は第七導水隧道である。迂回路は谷側にあった。



第九鉄橋;12時
導水路第八隧道を出るとすぐに排水門があり、その先に「木箱」の形が残る九番目の鉄橋がある。導水路で結構崩れてはいるが原型が想像できる木橋ははじめてである。木箱は幾多の木々が落ち込んであり前進を阻むが、背を屈めて橋を渡る。橋は隧道の入口に繋がる。





第九導水隧道;12時2分
隧道の迂回路は谷側にあり、突き出した尾根筋に向け10mほど上る。突きだした尾根筋を越える辺りで踏み込まれた道に当たる(12時10分)。この道は牛車道である。突き出した尾根筋から山側に切り込んだ沢に向かって牛車道を進み20mほど上ると、道の左下に水路が見える(12時13分)。第九導水隧道を抜けた導水路であろうから、成り行きで導水路まで下る。

○牛車道
牛車道は、開坑以来、「中持さん」という人手に任せていた粗銅や日用品の運搬を牛に変更するために建設されたもの。明治9年(1876)に開削開始するも、翌年の西南の役の影響などで一旦中止。その後明治11年(1878)、住友家初代総理事である広瀬宰平翁の尽力により再開。明治13年(1881)に銅山峰から石ヶ山丈を経て立川までの牛車道が完成した。
この牛車道は明治19年(1882)に銅山峰の南嶺の旧別子より北嶺の角石原まで貫通した長さ1010mの「第一通洞」の完成により、銅山峰を越えることなく「角石原から結ばれ、さらには、さらには明治26年(1893)には第一通洞の北嶺出口の角石原から石ヶ山丈までの5キロほどをむすぶ日本最初の山岳鉱山鉄道が敷設される。石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した下部鉄道により市内へと運ばれることとなり、牛車道は運搬の主役の座を降りる。

排水門と第九暗渠;12時18分
牛車道から導水路に下り、先に進むと山側に少し入り込んだ箇所(沢)に煉瓦造りの原型を保つ九番目の暗渠がある。暗渠手前にはちょっと崩れた排水門も残る。








第十暗渠;12時19分
横水路を辿るとアーチ型コンクリートの暗渠がある。コンクリートのアーチ上に煉瓦はない。








第十一暗渠:12時21分
次に現れた暗渠はアーチ型コンクリートの上が石組みで覆われていた。美しい造形物である。








第十二暗渠;12時22分
第六導水隧道辺りから等高線720mに沿って延々と続く横水路を進むと十二番目の暗渠。ここは煉瓦で組まれている暗渠上は土砂崩れの土に覆われていた。







第十三暗渠;12時24分
笹で覆われた13番目の暗渠を越え導水路を進むと沈砂池の水門が見えてくる。

■端出場発電所が建設された経緯
ここまで歩いてきて、このような険路・難路、岩壁を穿ってまで発電所用の導水路を切り開いた端出場発電所の建設の理由を再度メモしておく。
建設の最大の理由は銅山の発展に伴い、輸送設備のための電気、削岩機の導入や電灯設備などのため発電設備の開発が必要になったため。明治30年(1897)の端出場(打除)火力を皮切りに、明治35年(1902)には端出場工場内に本格的な発電所として「端出場火力(当初90kW) 」が完成し、端出場工場、新居浜製錬所及び惣開社宅に電灯がともされ、動力の一部が電化された。
その後、明治37年(1904)、「落シ(おとし)水力(当初90kW))、明治38年(1905)には「新居浜火力(当初360kW)」と、次々と発電能力の拡大を図っていたが、明治末期には事業の発展とともに、採鉱用動力だけでも4,000kwに達する需要があり、年々増加する電気の需要に追いつけないような状況となった。
この状況を踏まえ、当時のわが国では先端をいく約600 m の比高差をもつ高水圧の端出場3000kw水力発電所の建設が計画された。これが「端出場発電所」建設の理由である。
また、端出場に移った主因は、江戸時代、標高1300mの銅山峰南嶺より掘り進んだ銅山の採鉱箇所が次第に下部へと進み、採鉱本部が標高1100m辺りの東延地区、標高750mの東平地区へと移動し、大正4年(1915)には第四通洞が標高175m辺りの端出場に通じたことにある。

沈砂池;12時25

長かった導水路もやっと沈砂池に到着。7キロほどを実質3時時間半ほどで歩き終えた。沈砂池の水門はふたつある。砂を落とし水圧鉄管に落とす沈砂池への水門と、もうひとつは余水吐の水門とも言われる。
沈砂池を囲む煉瓦の上を歩き沈砂池の出口に。鉄格子のごみ除去フィルターが残る。導水路はここまで。ここからは端出場発電所に向けて、およそ600mの落差を水圧鉄管が下る。

水圧鉄管支持台;12時31分
沈砂池から谷側に下り、水圧鉄管の支持台を確認に行く。端出場発電所近くの 水圧鉄管で見た水圧鉄管だけの支持台、丸い鉄管を通す穴と四角の作業人の通路と言われる支持台を確認し、長かった端出場発電所導路散歩を終える。後は上部鉄道に沿って東平へと戻るだけである。
これで往路の端出場発電所導水路散歩は終了。往路の「上部鉄道」は三回目のメモにまわすことにする。

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