2014年10月アーカイブ

定例の月次実家帰省の折り、弟に別子銅山の遺構をどこか歩こうか、と話す。四国の山を歩き倒している弟からは、江戸の頃より、人(仲持ちさん)の背に乗せ銅山の粗銅を四国山地の銅山峰を越え湊へと運んだ道(泉屋道)、明治期その泉屋道の険路を改修し牛が荷物を運べるようにした「牛車道」、牛に代わり四国山地の標高1000mあたりを5キロ強に渡り拓いた日本最初の山岳鉱山鉄道(上部鉄道)、銅山峰の南嶺の別子村に住み採鉱に従事する坑夫や職員に水を届ける「上部鉄管道」や「下部鉄管道」、そして銅山の発展に伴う電力需要のため、これも四国山地標高750m辺りに4キロほどの導水路を拓き、比高差560mの端出場発電所に水圧鉄管を通した「端出場発電所導水路」など、別子銅山の足元に住みながらも、まったく知らなかった遺構ラインアップが次々と飛び出した。
どれも魅力的ではあるのだが、「疏水・用水・導水」萌えの我が身としては、まずは「端出場発電所導水路」に行こう、と言うことに。その時は、先に待ち構えている、「険路・難路・悪路」、というか、導水路が崩落、橋が崩壊といった、結構「しびれる」ルートであることを知る術もなく、いつものようにお気楽に導水路のアプローチ始点である、「東陽のマチュピチュ」こと「東平」に車で向かった。



本日のルート;(山根精錬所>端出場;端出場発電所跡・水圧鉄管支持台>東平;)
(往路;端出場発電所導水路跡)東平・第三発電所跡スタート>水路遺構>住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔>第一導水隧道出口>第一鉄橋>第二鉄橋>第二導水隧道>第三鉄橋>第三導水隧道>第一暗渠>第二暗渠>山ズレ>第四鉄橋>大岩と第三暗渠>第五鉄橋>第四>渠>第五暗渠>木の導水路跡>第四導水隧道>トタン小屋>第六鉄橋>第五導水隧道>第七鉄橋・第八鉄橋>第六導水隧道>第六暗渠>第七暗渠>第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道>第九鉄橋>第九導水隧道>排水門と第九暗渠>第十暗渠>第十一暗渠>第十二暗渠>第十三暗渠>沈砂池>水圧鉄管支持台
(復路;上部鉄道)
沈砂池>水圧鉄管支持台>石垣>魔戸の滝への分岐?石ヶ山丈停車場跡>索道施設>地獄谷>切り通し>東平が見える>紫石>第一岩井谷>第二岩井谷>一本松停車場跡>東平

山根精錬所跡
実家を出て、国領川に架かる新田橋を越え、かつては別子銅山現場で働く坑内作業従事者の社宅であった川口新田社宅跡(戸数570戸)である山根運動公園を南に進む。道の左手には生子山(「通称エントツ山」)山頂に煙突が残る。この煙突は「山根精錬所施設跡」。山根運動公園あたりに建設された精錬所の煙を山頂まで煙管を通し、この煙突から煙を排出していた。
明治21年(1888)完成のこの施設は、銅を精錬するだけでなく、精錬の過程で硫酸を生成し、残り滓から銑鉄を製造していたとのことであるが、位置づけは実験的施設であったよう。亜硫酸ガスでの農作物への煙害などもあり、明治28(1895)には閉鎖された。

端出場
「えんとつ山」を見遣りながら、愛媛県道47号・新居浜別子山線を国領川に沿って10分程度進むと観光施設「マインとピア別子」がある。観光坑道、鉱山鉄道などの観光施設の他、「第四通洞」、「端出場貯鉱庫」などの銅山遺構が残る。
足谷川(国領川上流部の呼称)左岸に拡がる「マインとピア別子」辺りの広い平坦地は人工のもの。後述する坑道(第四通洞)の開削での排石をもって造成されたものである。子供の頃、この地にあった巨大な工場群、それは砕石場であり、選鉱所であったのだろうが、その当時の記憶が蘇る。

○端出場貯鉱庫跡
「マイントピア別子」の駐車場脇に聳え立つ高さ約15m、幅約35mの巨大なコンクリート製の建造物。大正8年(1918)に端出場に完成した選鉱場のための銅鉱石の貯蔵施設。 第四通洞から運び出された鉱石をここに貯蔵し、隣接した場所にあった破砕場に送られ、砕かれた後、選鉱場へ送られていた。

○第四通洞
マイントピアの足谷川を隔てた対岸に坑口がある。足谷川には坑口へと続く鉄橋が架かる。案内によると、「明治時代に入ると採掘技術が進み、鉱体に似合う効率の良い設備の大型化が必要となった。 明治43年(1910)に約4,600米の第四通洞を掘り始め、又明治44年(1911)には第三通洞の奥から大立坑約600米を掘り、第四通洞と連絡する工事が始まった。
この工事は大正4年(1915)の秋に貫通して中部地域の開発や採鉱がしやすくなり、鉱石や資材、坑内作業従事者の出入などが容易になった。又坑内の空気流通や坑内水の排出経路も改められて文字通り別子銅山発展の大動脈となった。 昭和10年(1935)から、別子山村の余慶・筏津地区の鉱石は探鉱通洞・第四通洞を経てこの坑口から運び出されるようになった。 又昭和35年(1960)採掘が海面下深部になったこともあって第四通洞のそばから約4,500米の大斜坑を掘り始め昭和44年(1969)からは深部(-960米)の鉱石をスチールコンベアベルトによって連続して運び出された。 第4通洞・探鉱通洞・大斜鉱は別子銅山の両輪として昭和48年(1973)の閉山までその役割を果たした。
この坑口は約60年にわたって毎日約1,000人の入・出坑を見守り続けてきた。 ほかの坑口もみな同じだが、坑口を通る者は皆ここに祀ってある守護神大山祇神に頭を下げ御加護を祈った」とある。
案内には別子銅山の坑道の概要と、第四通洞に出入りする鉱夫と鉱石を積んだトローリー坑内電車の写真があった。坑口に立つと、第四通洞と探鉱通洞を合わせると10キロほどになる地下を吹き抜ける冷風が心地よい。

この地・端出場は、江戸時代からの長い歴史をもつ別子銅山において、昭和5年(1930)から銅山が閉山となる昭和48年(1973)まで銅山採鉱本部があり、銅山現場運営の本部であった場所である。
端出場の標高は156mほど。それまでは四国山地の標高750mあたりの東平にあった採鉱本部がこの端出場に移った主因は、江戸時代、標高1300mの銅山峰南嶺より掘り進んだ銅山の採鉱箇所が次第に下部へと進み、鉱石の搬出口である前述の第四通洞が大正4年(1915)に端出場に通じたことにある。
別子銅山の歴史を見ると、鉱石の搬出ルートの変遷に伴い採鉱本部が移転している。今回歩く「端出場発電所導水路」が何故に山地を穿ち、岩壁を削り水を通したのか、そして発電所を端出場に設けた背景にも関係あるようではあるため、簡単に整理しておく。

○端出場が銅山・採鉱本部になるまでの経緯

元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された"やけ"(銅鉱床の露頭)からはじまった別子銅山であるが、鉱石は江戸から明治にかけては「仲持さん」と呼ばれる人たちの背によって運ばれた。その道は時期によってふたつに分かれる。

■第一次泉屋道を「中持さん」が土居の天満へと運ぶ
第一期、住友の屋号「泉屋」をとった「第一次泉屋道(元禄4年[1691]から元禄15年(1702)」は、銅山川に沿って保土野を経て小箱峠、出合峠を越え浦山までの23キロを仲道さんが運ぶ。浦山からは牛馬によって12キロ、浦山川に沿って土居(現四国中央市)に下り、土居海岸の天満浦まで進む。天満浦からは船で大阪にある住友の銅吹所(精錬所)へと運んでいた。
このルートは峠越え36キロにおよぶ長丁場であった。銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回したのは、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。

■第二次泉屋道を「中持さん」が新居浜の口屋へと運ぶ

第二期の搬出ルートは、銅山峰を越え角石原に出て、馬の背を経て石ヶ山丈へ。そこから立川に下り、角野、泉川を経て、新居浜市内西町の口屋へと向かうもの。
第二次泉屋道(元禄15年(1702)から明治13年(1880)まで)と呼ばれるこの道は、別子から立川までの12キロを中持さん、そこから新居浜浦までの6キロは牛馬で運ばれた。距離は16キロに短縮されることになった。住友は当初よりこのルートを望み、銅山峰を越えた北嶺の立川銅山を領する西条藩と折衝、また住友より幕閣への懇願の効により実現したものである。
なお、第二次泉屋道に関しては、元禄13年(1700)、西条藩は、新道設置を許可し、銅山峯から雲ヶ原を右に折れ、上兜の横手から西赤石に出て、種子川山を通過して国領川に下り、国領川の東岸に沿って新須賀浦に下りたとするとか、元禄15年(1702)の銅山越えのルートは、別子-雲ケ原-石ケ山丈-立川山村渡瀬を経て新居浜浦に出たもので、銅山越-角石原-馬の背―東平―立川を経て新居浜に出るルートは、寛延2年(1749)に立川銅山が別子銅山に併合された移行との記述もある(「えひめの記憶」)。

第一通洞(標高1110m)と「牛車道」で新居浜の口屋へと運ぶ;東延時代

開鉱わずか7年目の元禄11年(1698)には年間1521トンという藩政時代の最大の生産高(国内生産の28%を占める)に到った別子銅山は、財政不足の幕府の政策により決済を銀にかわって銅とした、長崎での交易の30%を占めるなど、幕政に大きく貢献するも、「深町深舗」と言う言葉で表されるように、坑道が深くなり採算が悪化。幕末から明治にかけて閉山をも検討したと言う。
しかし、住友は広瀬宰平翁などの努力により明治2年(1869)粗銅から精銅をつくる吹所を大阪から立川山村に移し輸送の無駄を省くなど合理化を進め、事業継続を決定。
明治7年(1874)、フランスより鉱山技師・ルイ・ラロックを招聘し鉱山近代化の目論見書を作成。論見書に従い鉱脈の傾斜に沿った526mもの大斜坑・東延斜坑(明治28)の開削、明治13年(1880)、別子山村と立川村、金子村惣開(現新居浜市)に精錬所を建設。そして明治15年(1886)には標高1110mの銅山峰の北嶺の角石原から嶺南の東延斜坑下の「代々坑」に抜ける燧道の開削着工し、明治19年(1882)に貫通。これが長さ1010mの「第一通洞」である。この通洞の貫通により銅山越(標高1300m)をすることなく鉱石・物資の輸送が可能になった。
第一通洞は、明治8年(1875)に着工し、明治13年(1880)に完成した新居浜の口屋と別子山村を結ぶ「牛車道」と角石原で結ばれ、さらには明治26年(1893)には第一通洞の銅山峰北嶺・角石原から石ヶ山丈までの5キロほどを繋ぐ日本最初の山岳鉱山鉄道(上部鉄道)が敷設され、鉱石の新居浜の口屋への輸送ルートが大きく改善された。
明治初期から開始された鉱山近代化により、別子銅山は窮地から脱し産銅量も明治30年(1897)には3065トンまで増え、第一通洞の南嶺口から高橋地区にかけの東延地区には運輸課、採鉱課、会計課、調度課などの採鉱本部や選鉱場や多くの焼く鉱路炉(高橋精錬所)などが並んだ。明治28年(1895)には別子山村の人口は12000人に達したとのことである。この時代のことを別子銅山の「東延時代」と称する。

■第三通洞と索道そして下部鉄道により惣開へ;東平時代
明治32年(1899)8月、台風による山津波で大被害を被ったことを契機に別子村での精錬を中止し精錬設備を新居浜市内の惣開にまとめ、また明治35年(1902)に銅山峰の嶺北の東平より開削し東延斜坑と結ばれた「第三通洞(標高765m)」、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺北の日浦の間、3880mが直結し、嶺北の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれ、東平からは、明治38年(1905)に架設された索道によって、明治26年(1893)開通の下部鉄道の黒石駅(端出場のひとつ市内よりの駅;現在草むしたプラットフォームだけが残る)に下ろし、そこから惣開へと送られた。
この鉱石搬出ルートの変化にともない東平の重要性が高まり、大正5年(1916)には、標高750mほどの東平に東延から採鉱本部が移され、採鉱課・土木課・運搬課などの事業所のほか、学校・郵便局・病院・接待館・劇場などが並ぶ山麓の町となった。その人口は4000とも5,000人とも言われる。



■第四通洞から下部鉄道で惣開へ;端出場時代
前述の「第四通洞」の案内にもあったように、赤石山系、標高1300mの銅山峰の南嶺直下より掘り進められた銅山は、第一通洞では標高1100m、第三通洞では標高750mへと次第に下部に掘り進められ、更に東平より下部に採鉱現場が下るにつれ、明治43年(1910)より海抜156mの端出場坑口から掘り勧められた水平坑が、大正4年(1915)に第三通洞からの立坑「大立坑」と繋がり、第四通洞が貫通。端出場からは明治26年(1893)開通の下部鉄道によって惣開まで運ばれた。
その後、第四通洞と大立坑部より筏津坑の下部に向けて、延長約5100mの「探鉱通洞」が昭和10年(1935)から開削され、昭和17年(1942)に貫通。第四通洞と探鉱通洞が繋がったことにより、全長約10000mの大通洞となり、銅山峰南嶺・銅山川辺りの筏津坑の鉱石も端出場に搬出され、銅山で採掘された鉱石はすべて端出場に集中させることになる。
昭和2年(1927)には端出場手選鉱所が建設され、東平にあった東平収銅所、東平選鉱場が廃止され、昭和5年(1930)には採鉱本部が端出場に移され、この地が別子銅山の銅山現場運営の中心地となった。

端出場発電所
現在観光施設「マイントピア別子」となっている端出場の銅山工場群跡の対岸に赤煉瓦の建物が見える。これが端出場発電所であり、今回歩く導水路の水をもって発電した施設である。
建築面積528平方メートルの煉瓦造。煉瓦積みは長手の段と小口の段を一段おきに積む「イギリス積み」。屋根は鉄板葺で、採鉱・煙貫の越屋根二ヶ所を設ける。建物の平側は上に二連のアーチ窓、下には大きく欠円アーチ窓を設ける。壁面が所々黒く塗られているのは、戦時の空襲を避けるためとのこと。また、建物脇に水車が見えるが、これは発電所と特に関係なく市内高柳にあった製氷会社のものを移した、と。意図不明。
明治45年(1912)完成のこの発電所の最大出力は3000kw。落差597.18mの水圧鉄管で山麓の「沈砂池」から水を落とし、ドイツジーメンス製の発電機とドイツ・フォイト社製の水車で発電した、と言う。
因みに、ここでは「水を落とす」と説明したが、水を勢いよく落差600mを落としているわけではなく、正確には「水圧鉄管」と呼ばれるように、鉄管内部は水は一杯になっており、最下部でその水圧によって水車を回し発電するようである。

それはともあれ、端出場発電所の建設は別子銅山の発展史と大きく関係している。以下、その経緯をまとめておく。

○端出場発電所建設までの経緯
銅山の発展に伴い、輸送設備のための電気、削岩機の導入や電灯設備などのため発電設備の開発が必要になった別子銅山は、明治30年(1897)の端出場(打除)火力を皮切りに、明治35年(1902)には端出場工場内に本格的な発電所として「端出場火力(当初90kW) 」が完成し、端出場工場、新居浜製錬所及び惣開社宅に電灯がともされ、動力の一部が電化された。
その後、明治37年(1904)、「落シ(おとし)水力(当初90kW))、明治38年(1905)には「新居浜火力(当初360kW)」と、次々と発電能力の拡大を図っていたが、明治末期には事業の発展とともに、採鉱用動力だけでも4,000kwに達する需要があり、年々増加する電気の需要に追いつけないような状況となった。
この状況を踏まえ、当時のわが国では先端をいく約600 m の比高差をもつ高水圧の端出場3000kw水力発電所の建設が計画された。これが「端出場発電所」である。
この計画は明治43年(1910)に認可され、工事は同45年(1912)5月に竣工、7月から本格的に稼働することになる。この端出場発電所の完成により住友の新居浜における電気供給の基盤が確立され、電力供給不足の悩みは、ひとまず解消するに至った。
「えひめの記憶」に拠れば、「住友は電力事情のこのような好転によって、懸案の肥料製造の実現化を進め、大正二年、新居浜に肥料製造工場(住友化学工業株式会社の前身)が創設された。また同年から、新居浜町・金子村・角野村・中萩村(ともに現新居浜市)及び別子山村に所在する同社の事務所、社宅、その他の建物に電灯がつけられた。さらに大正四年には、開削された大堅抗に昇降機捲揚機が施設され、第四通洞の開通に伴う抗内電車線の延長とともに、別子銅山採鉱の大動脈が完成した」とある。
大正12年(1923)には、四阪島製錬所に電気を供給するため、発電機と、水車各1台を増設して、出力4,500kwに増強し、新居浜と瀬戸内海に浮かぶ四阪島製錬所まで約20キロの海底ケーブルを施設し送電が開始された、と言う。

水圧鉄管支持台跡
端出場発電所跡の県道47号を隔てた山側にある石段を上り一枚の鉄板を渡した沢を渡ると、山腹へと一直線に石のステップが続く。急な斜面の石のステップを少し上ると四角いコンクリート構造物の中に水圧鉄管跡の丸い穴のある「水圧鉄管支持台跡」が見える。
支持台には水圧鉄管の穴のほか、四角の穴のあいたものもある。「通路」とも言われるが、わざわざコンクリートに穴を開けてまで通路を造る理由が分からない。なんだろう?
それはともあれ、この水圧鉄管は比高差600mの山腹、石ヶ山丈にある導水路の水を溜める「沈砂池」まで続く。その「沈砂池」が本日の導水路散歩の目的地ではある。弟はこの水圧鉄管を藪漕ぎしながら沈砂池まで上り切ったとのことである。


東平への分岐
水圧鉄管跡から戻り、県道47号を進み、すばらしい渓谷美が今でも記憶に残る「遠登志渓谷」に建設した「鹿森ダム」を越え、左手から合流する足谷川の谷筋に架かる橋を渡り、小女郎川とも呼ばれる足谷川に沿って進み、西鈴尾谷川(山地図には「西鈴尾谷川」とあるが、分岐点の橋には「足谷川」とあった)の手前で「東平」への道標から県道を離れ山麓の東平へと向かう。 広く快適だった県道から一転、対向車が来ないことを祈りながらの一車線のクネクネ道を進み、ピークにある「宿泊施設・銅山の里自然の家(昔の東平小学校・中学校の辺り)」から急な下りを進み、「接待館跡」などの案内を見やりながら坂を下りきったところにある広い駐車場に到着する。

東平
東平の広い駐車場にデポ。東平は「とおなる」と読むが、昔は「当の鳴」と呼び、後に「東平」と呼ぶようになった。拓かれて平坦になった土地を「鳴」とか「平」と書くとのこと。
それはともあれ、東平は近年「東洋のマチュピチュ」とのブランドで観光地としてPRしている。本家マチュピチュのあるペルー大使を招待し、秋祭りに出す新居浜名物・太鼓台を特別に組み上げご披露するなどして「マチュピチュ」使用を続けている、といった話も聞くが、「東洋のマチュピチュ」はちょっと言い過ぎ、かとも。
とはいえ、天空の城こと兵庫県朝来市の「竹田城」も「東洋のマチュピチュ」と称しているようであり、竹田城を訪れたことがある我が身には、どちらもちょっと?「マチュピチュ」は誰にでも、「わかりやすい」のは理解できるが、歴史・産業遺産であり、歴史・文化遺産であるだけで十分の価値がどちらにもあるように思う。

駐車場から眺める新居浜市街は美しい。駐車場下には貯蔵庫跡、索道基地跡、坂を繋ぐインクラインなどが残る。この貯蔵庫跡、索道基地跡が「マチュピチュ」を想起させる、ということだろう。
駐車場は昔の坑内電車の発着場や機械修理工場跡地を整地したもの。駐車場の上にある「マイン工房」の建物は昔の保安本部の建物跡である。また、駐車場の東端にある「東平歴史資料館」裏手にトンネルが残るが、これは東平と「第三通洞」を繋いでいた線路のトンネル(小マンブ:間符(まぷ;坑道の意味)で、中には採鉱のために使用していた当時の機械やそれらを積んだ鉄道車両が展示されている。
新居浜市観光課のHPには東平を「マイントピア別子東平(とうなる)ゾーンは、市内の中心部から車で約45分、標高約750mの山中の「東平」と呼ばれる地域にあります。
東平は、大正5年から昭和5年までの間、別子銅山の採鉱本部が置かれた所で、地中深くから掘り出された銅の鉱石を坑内電車で東平まで運搬し、そこで選鉱した後、貯鉱庫に貯め、索道を利用して、現在のマイントピア別子(端出場ゾーン)のある端出場へと輸送していた中継所となっていたところです。 最盛期には、社員・家族を含めて約5,000人が周辺の社宅で共同生活する鉱山町でもあり、病院や小学校、郵便局、生協、プール、娯楽場、接待館などの施設も整備され、一時期の別子銅山の中心地として賑わっていました。 当時の施設の多くは取り壊され、植林によって自然に還っていますが、貯鉱庫、索道基地、変電所、第三通洞、保安本部などの鉱山関連施設の一部が風化の痕跡を残しつつ現存し、中でも重厚な花崗岩造りの索道基地跡の石積みは、東平の産業遺産観光の目玉となっています」とある。

「マイントピア別子公式HP」の記事や施設案内をもとに上記案内を補足すると、社宅は東平地区には9つあり、これらの社宅は第三通洞の開通により東平に別子銅山の拠点が移行し始めた明治35年(1902)から徐々に建設が始まり、明治38年(1905)から明治39年(1906)にかけて完成した。その中の東平社宅は職員用、それ以外は坑夫の社宅であった。
坂の途中に案内のあった「接待館」は明治42年(1909)開設。「東平荘」ともよばれ、現在の貨幣価値で1.2億円を費やしたとのこと。病院は「接待館」から駐車場に下る坂道の途中で左に入ったところにあり、正式名称・住友別子病院東平分院と呼ばれ明治38年(1905)開設。明治42年(1909)には内科・外科の診療も行われ、優秀な医師のため、銅山関係以外の患者が新居浜や今治方面からも訪れた、と言う。
「宿泊施設・銅山の里自然の家」辺りにあった東平小学校は、明治39年(1906)に私立住友東平尋常高等小学校として設立。この東平小学校は、明治6年(1873)、別子銅山における最初の小学校である旧別子地区の足谷小学校の流れを汲むもの。日本で学制が公布されたのが明治5年(1872)でることを考えると、学業を如何に重視したことがわかる。昭和43年(1968)の閉校まで、2,574名の子を育んだ。東平中学校は小学校の横。昭和21年(1946)に戦後の学制改革により設立され、閉校までの22年間に600名の卒業生を送り出した。

■今に残る東平の銅山遺構
東平の多くの施設のうち、現在も残る遺構を「マイントピア別子公式HP」の記事をそのまま掲載させて頂く。

○貯蔵庫
貯鉱庫は銅山から運ばれてきた銅鉱石を麓に運ぶために一時的に保管するための倉庫です。貯鉱庫は上段の上貯鉱庫と下段の下貯鉱庫の二つから構成されていました。第三通洞から電車にのせて運ばれてきた銅鉱石は一旦、上貯鉱庫に保管され、上貯鉱庫と下貯鉱庫の間の選鉱場において、銅の含有率の度合いによって鉱石と岩石とに手作業で選別されました。
貯鉱庫は、愛媛県と広島県の間のしまなみ地方で産出された花崗岩を使って建造されており、その重厚さから東平の代表的な産業遺産の一つとして知られています。その外観や周辺の景色はペルーにある旧インカ帝国の世界遺産「マチュピチュ」にもたとえられ、東平が「東洋のマチュピチュ」と称される所以のひとつとなっています(「マイントピア別子公式HP」)

○東平索道基地
索道とは、採鉱された鉱石を搬器(バケット)と呼ばれる専用のカゴに入れ、山間の空中に張り巡らされたラインを伝って運搬するロープウェイのような施設です。こうした索道の拠点となっていた索道基地では、索道の操作や点検を行いました。東平索道基地では貯鉱庫から運び出された鉱石を搬器にのせ麓の端出場へ運んだり、逆に端出場から食料や日用品、坑内で使用される木材が引き上げられるなど、昭和43年の閉坑までの間、東平における物資輸送に欠かせない施設として広く利用されていました。
索道の長さは全長3,575メートル、搬器のスピードは時速約2.5メートル、一日の鉱石の搬出量は900トンもありました。索道にはモーターなどの動力がついておらず、搬器内の鉱石の重みを利用して動かしていました。点検の際には給油士と呼ばれる作業員が搬器の上に乗って索道のロープを支える鉄塔へ赴き、高いところでは地上30メートルにもなる鉄塔の上で滑車の給油などの点検作業を行っていました。現在でも、レンガ造りの索道基地の跡地を見学することができます(「マイントピア別子公式HP」より)

○インクライン
インクラインとは傾斜面にレールを敷いてトロッコを走らせるケーブルカーの一種で、高低差の激しい東平の生活にはなくてはならない運搬施設でした。 大正5年(1916)頃に設置され、端出場から索道を使って送られてきた生活物資を生協や社宅に荷揚げするために利用される一方で、第三通洞を利用して別子山地区から運ばれた木材を降ろすためにも利用されており、生活面だけでなく銅山の作業面でも重要な施設でした。原則として人が乗ることは禁止されており、生協などに直接人の手で荷物を運ばなければならないときだけ乗ることが許されていたそうです。
荷物を載せる台車が左右のレールに1台ずつ設置され、それぞれがワイヤーで結ばれ、電気によるモーターの力でロープを巻き上げ、片方が上がればもう片方が下がるという仕組みでした。現在は220段の長大な階段に生まれ変わっており、階段の両脇にはあじさいやドウダンツジなどが植えられ、季節ごとに多彩な表情を見せ、訪れる人々を楽しませてくれます(「マイントピア別子公式HP」より)。

○保安本部跡
駐車場脇の石垣上に見える建物。「明治35年(1902)頃に第三通洞の開鑿(かいさく)や電車用の変電所として設置された。その後、林業課の事務所になりその隣が電話交換所となった。明治38年(1905)頃から消防部門や警備部門を担当した保安本部として使用するようになった。
時代とともに建物の一部は、坑内作業者の入出勤を確認する就労調所として使用された。昭和26年(1951)頃からはキャップランプの充電場として使用された。その後、端出場調査課の東平分室として昭和32年(1957)頃まで使用された。第三変電所の建物とともに、東平地区ではめずらしいレンガ造りの建物である。現在、銅板レリーフが体験できる「マイン工房」として活用している

 ○小マンプ
東平歴史資料館の裏手に隧道が残る。「小マンプ」である、「マイントピア別子公式HP」に拠れば、「「小マンプ」とは一つは東平の集落近くに位置したトンネルで、その長さが短いことから「小」マンプと呼ばれました。マンプという名前は、坑道を意味する昔の言葉「間符(まぷ)」から転じてついた名前とされています。小マンプは今も当時の姿のまま残っており、自由に入って見学することができます。さらに、採鉱のために使用していた当時の機械やそれらを積んだ鉄道車両が展示されています。車両は住友金属鉱山㈱別子事業所から新居浜市に寄贈されたもので、坑内から運び出される銅鉱石を運搬するための車両である「三角鉱車」や、鉱石などをすくい取って鉱車に積み込むブルドーザーのような機械「600Bローダー」、鉱車や人のけん引をするための車両「2t蓄電車」など様々な種類の機械や車両が展示されています。別子銅山の人々が行っていた当時の採鉱作業を学ぶことができる価値のある展示物です、とある。

○大マンプ
東平歴史資料館から先に進むと「東平臨時駐車場」。西赤石山などに登る登山客は、この駐車場に車をデポするようだ。駐車場の南に沢筋が見える。地図には「喜三谷(きそうだに)」とある。喜三谷の豊かな水は駐車場下を暗渠となって通り、小女郎川(国領川水系)に注ぐ。
駐車場のある平坦地の東端に封鎖されたトンネルが見える。「大マンプ」である。「マイントピア別子公式HP」に拠れば、「「大マンプ」とは、かつて東平と第三通洞の間を行き来していた鉄道車両の線路上にあった鉄道用のトンネルです。トンネルは二つあり、一つは東平の集落近くに位置しトンネルの長さが短いことから「小」マンプと呼ばれ、もう一つのトンネルは、喜三谷から第三通洞にかけての「大」マンプでした。現在は、大マンプは閉鎖されており、内部を見学することはできません。これら大小二つのマンプでは、かつて「かご電車」と呼ばれた人を乗せるための電車が運行していました。鳥籠のような形をしていたことからそのような名前で呼ばれていましたが、サイズも縦が約2.2メートルで、横幅が約0.8メートル、定員は8名までという小ささであり、鳥籠と形容されるのにふさわしい電車でした。
かご電車が運行し始めるまでは、別子山地区に行くために険しい銅山を越えなければなりませんでしたが、かご電車ができてからは往来が容易となり、普段の通勤から通学、買い物まで、広く生活に欠かせない交通手段として人々に利用されていました。現在、かご電車は小マンプ内に展示されています」とあった。

第三社宅
喜三谷を埋め立てたのであろう平坦地を進むと、車道は終わり渓流散策炉となる。平坦地を先に進むとわずかの間舗装された上りの道となるが、その脇に用水路が流れる。地図で確認すると水路は先で小女郎川に注ぐ。単なる「余水吐」だろうか。
舗装が切れる辺りで道は大きく回りこみ小女郎川と山地に挟まれた渓流散策路となる。道脇の水路遺構らしきものや古い石組みを見遣りながら進むと、数段の石垣があり、そこには「第三社宅跡」の案内があった。案内を簡単にメモすると、「第三社宅跡 第三社宅の名前の由来は、第三通洞の第三(三番目に掘った通洞)からです。第三社宅は、大正10年11月9日現在で、9戸の社宅がありました。その後、昭和42年(1967)に18戸あった社宅をすべて撤去しました(後略)」とあった。

東平採鉱本部跡
足谷川の支流「小女郎川」に沿って続く「渓谷遊歩道」をしばらく進むと広い平坦地に出る。広場東側の山肌には閉鎖された「大マンプ」出口もある。 広場には「東平採鉱本部跡」の案内。案内には、「採鉱の中心は、第三通洞の八番坑道準と九番坑道準に移行しつつあったので、第四通洞、大立坑の完成を機会に、大正5年(1916)、採鉱本部を山頂に近い旧別子の東延(とうえん)から中腹の東平(第三地区)に移した。
採鉱本部の建物は第三通洞前に暗渠(あんきょ)を築き、その上に二階建てで建築された。採鉱本部前には柵がめぐらされ、その内には、火薬庫、機械修理工場、木工場も設けられた。
採鉱本部は、昭和3年(1928)に、選鉱場、調度課販売所、病院、土木課、山林課、運輸課、娯楽場、接待館などの中枢機能が集積していた東平地区に移転した。そして、採鉱本部の建物は東平倶楽部になった。採鉱本部は、昭和5年(1930)に東平から端出場に移された」とあった。
「第三通洞前に暗渠(あんきょ)を築き」とは、東から西に流れる唐谷川を合わせ東から西に流れ下る「柳谷川」が、南から北に流れる「寛永谷」に合流する地点から先を埋め立て、その下を水を小女郎川に吐き出す隧道を造った、ということだろう。寛永谷側から合流点から暗渠に流れ込む隧道入口部が見える。

第三通洞
柳谷川が寛永谷へと合流する地点近くに鉄橋が架かり、その先に閉鎖された坑口が見える。これが第三通洞である。「天空の町 東平HP(新居浜市)」に拠ると、「第三通洞」は明治27年(1894)に起工され、8年の歳月を経て完成した主要運搬坑道です。今も残る第三通洞の扉には西洋文化が取り入れられ、別子銅山の近代化がいかに早かったかを伺い知ることができます。第三通洞の長さは1,795メートルで、のちに連結した日浦通洞と合わせると全長は3,915メートルにもなり、別子銅山の北と南とを繋ぐ大動脈でした。


明治38年(1905)には第三通洞に電車が導入され物資の運搬能力が高まり、長年の採掘で坑内にたまった水の排出や通気面の改善にも貢献しました。その結果、別子銅山全体の産出量は飛躍的に向上し、東平には採鉱本部などの主要な施設が設置され、採鉱の中心地となりました。昭和13年(1938)からは「かご電車」が運転を開始し、東平と別子山地区を結ぶ唯一の交通手段として人々の暮らしも支えました。第三通洞はその後、昭和48年に廃止され、66年間の歴史に幕を下ろしました。現在は、第三通洞の入口が当時の石垣のまま残っています。第三通洞・日浦通洞を通れば、かご電車を利用すると銅山峰北嶺の東平から南嶺の日浦まで僅か30分で到着する」とあった。

坑水路会所
第三通洞から鉄橋に戻るとき、橋の南詰に煉瓦造りの水路遺構が目についた。なんだろう?あれこれチェックすると、住友家二代目総理事である伊庭貞剛翁が明治38年(1905)、坑内排水を国領川水系に流れ込むのを防ぐべく、第三通洞の出口から、新居浜市内惣開の海岸まで坑水路を造ったとの記事を目にした。鉱石内の銅や鉄などが水に溶け出し強い酸性の水となるわけで、そのために環境汚染を防止するため16キロにも及ぶ坑水路を造った、という。別子銅山の煙害被害など公害対策に尽力した翁ならではの対策ではあろう。
第三通洞からは木樋で通し、途中流路変更箇所には坑水路会所(流路変更の継目の施設)を設け、東平から端出場までは山道に沿って、端出場から惣開までは下部鉄道沿いに進んだという。この水路施設は坑水路会所だろうか?
実家の直ぐ裏手の山沿いに下部鉄道が通っており、その線路跡の脇に今も水路が続く。端出場に第四通洞が通った後は、坑内排水は第四通洞にまとめられ、 そこから坑水路が下ったとのことである。実家の裏手の下部鉄道脇には「山根収銅所」、通称「沈殿所」があるが、そこでも坑内排水より銅の成分を抜く作業が現在も行われている。

第三変電所
採鉱本部跡のあった埋め立て広場の東、二段の石垣上に煉瓦造りの建物が見える。第三変電所である。案内によれば、「第三変電所は、第三通洞がある集落に明治37年(1904)9月に建設されました。そして、東平坑閉坑になる少し前の昭和40年(1965)まで、61年間使用されていました。
第三というのは三番目というのではなく、第三という地名からついたものです。 赤煉瓦造りの建物は、現在も外観をとどめながら残されています。
また、東平で当時のままの建物が残されているのは、この第三変電所と採鉱本部(現在はマイン工房として利用されています)だけですが、内部までそのままで残されているのはここだけです(後略)」とある。

この第三変電所は「落シ水力発電所」から送電されてきた電力を変圧し、第三通洞内を走行する坑内電車の動力源や、社宅の電気としても使用されていた、。 建物内部は宿直室や炊事場はそのままの姿が残っている。
「落シ水力発電所」は明治37年(1904)完成の別子銅山で初の水力発電所。90kWの発電能力があった。今から歩く導水路の水をもとに動いた端出場水力発電所ができるまでは、東平への送電の要であった。場所は鹿森ダム脇の遠登志橋近くの山の中腹にあった、と言う。

端出場発電所導水路散歩のメモをはじめたのだが、そもそもの、別子銅山について何も知らないことがわかり、頭の整理に時間がかかった。銅山施設の端出場などは帰省の折の散歩コースといった自宅の目と鼻の先にあり、子供の頃までは操業しており、小・中学校には銅山関係者の子供も同級生として共に学んでいたわけだが、まったくもってゼロから整理しないことには、山地を穿ち水を通してまで前端出場発電所を動かす「理由」がよくわからず、結局は別子銅山の歴史の概略をまとめることになってしまった。
別子銅山遺構散歩の第一回はここまでとし、当初の散歩である端出場発電所導水路散歩のメモ次回からとする。
先日伊予の歩き遍路で久万高原北端の「三坂峠」から下り46番札所・浄瑠璃寺、47番札所・八坂寺を辿ったとき、フェイスブック(FB)に「三坂峠に月見草は咲いていますか」、とのコメントをN女子から頂いた。太宰治の有名なフレーズである、「富士には月見草がよく似合う」の洒落ではある。井伏鱒二に呼ばれ、御坂峠近くの天下茶屋に3ヶ月ほど滞在したときのことを書いた『富嶽百景』に載る。
で、「月見草のよく似合う」御坂峠に行きますか? とのFBコメント返しに、即答で「行きたい」と。散歩の時の四方山話でわかったことではあるが、N女子は大学院で太宰の研究をしていたとのこと。このことが今回の散歩のきっかけではある。
実のところ、前々からこの地を歩きたいとは思っていた。それは太宰でも天下茶屋でもなく、往昔、奈良・平安の頃、都と相模・武蔵を結んだ官道である御坂路に立ち塞がる旧御坂峠を越えたいと思っていたからである。
しかし、御坂峠は余りに遠く、二の足を踏んでいたのだが、FBのやりとりがあった少し前、奥多摩山行の帰りに「ホリデー快速富士山」に出合ったばかりであった。この列車を利用すれば新宿から河口湖まで乗り換え無しで行けそうである。ということで、「月見草のよく似合う」御坂峠行き計画は即実行に。 ルートを想うに、太宰の天下茶屋を見たいN女子と、単に旧御坂峠を越えたいだけの我が身の希望を叶えるルートとして、天下茶屋を始点に御坂峠に登り、尾根道を縦走し旧御坂峠から山梨県笛吹市の藤野木へと下りるコースを想う。歩きは3時間程度であり、それほど大変でもなさそうではある。
スケジュールについて、ちょっと心配なのは河口湖から天下茶屋までバスの連絡と、山梨側に下りた笛吹市のバスの連絡。チェックすると、午前8時14分新宿発の「ホリデー快速富士山(9月28日までの土曜・休日運転)」に乗れば、河口湖駅着10時26分、バスは河口湖駅を10時35分に出るという、これ以上ないような「繋ぎ」。また、山梨側も下山予定の3時台からは、1時間に1本ほど山梨駅に向かうバスがある。これであればバスの心配はなく、成り行きでなんとかなるだろうと天下茶屋・旧御坂峠への散歩に向かう。メンバーはN女子、その同僚のT氏、そして私と娘の4人である。



本日のルート;富士急・河口湖駅>天下茶屋;11時3分?標高1247m>登山スタート:11時45?標高1290m>御坂峠:12時8分?標高1450m>御坂山;12時44分?標高1594m>御坂城址東端部;13時15分>旧御坂峠;13時26分?標高1517m>峠道・文化の案内:13時59分?標高1481m>子持ち石;14時2分標高1463m>馬頭観世音:14時39分?標高1284m>行者平;14時43分?標高1264m>沢を渡る;15時01分?標高1181m>峠道・文化の森入口の標識;15時14分標高1081m>藤野木バス停;15時35分?標高933m

富士急・河口湖駅

新宿を定刻の午前8時14分に出発した「ホリデー快速富士山」は6両(?)編成。うち1両だけが指定席車輌。連休で込むかと指定券を買ったのだが、自由席が十分に空いていたので、自由席を対面にして河口湖に向かう。娘も太宰治に興味を持っているらしく、N女子も研究成果を存分に披露しながら2時間程度の列車の旅を終え定刻通り富士急・河口湖駅に。

天下茶屋;11時3分
10時35分河口湖駅を主発したバスは河口湖畔の国道137号を進み11時に「三つ峠入口」バス停に。我々以外の人たちはこのバス停で下りる。国道137号はここから御坂山地を穿つ「新御坂トンネル」を通り山梨県笛吹市に抜けるが、天下茶屋はこのバス停から県道708号に入り、くねくねした山道を上り11時3分に「天下茶屋」に到着する。
「天下茶屋」は営業していた。1階は食事処。2階は太宰治文学記念館」となっており、N女子と娘は速攻で2階に。情緒のかけらもない我が身は下で「木の実煎餅」などを見繕うが、どうも記念館は無料のようであり、それではと2階に上る。
2階には太宰が逗留した部屋が昔の姿に戻され公開されていた。

富士山と河口湖を一望できる6畳間には。当時使用した「机」や「火鉢」などが置かれ、床柱は、初代の天下茶屋のものをそのまま使用しているとのこと。「富獄百景」「斜陽」「人間失格」などの初版本、「太宰治」「斜陽館」などの写真パネルが展示されている。
天下茶屋ができたのは昭和9年(1934)の秋。木造二階建て、八畳が三間の小さな茶屋。昭和6年(1931)に御坂隧道(延長396m)を含む現在の県道708号の開通を受けてのことである。
正面に富士を臨むその景観から富士見茶屋、天下一茶屋などと呼ばれていたが、徳富蘇峰が新聞に「天下茶屋」と紹介したことがきっかけで、「天下茶屋」との名称が定着した。
天下茶屋には多くの文人が訪れたとのことだが、中でも井伏鱒二、太宰治の滞在は特に知られる。太宰治が天下茶屋に逗留するきっかけは前述の如く井伏鱒二(創業から太宰が逗留する前までの先代とのやりとりを作品「大空の鷲」に残している)。
太宰は昭和13年(1938)9月に、およそ三カ月の天下茶屋の滞在し、小説「富獄百景」を残す。その後、昭和23年(11948)に太宰治が入水自殺したのを受け、昭和28年(1953)に井伏鱒二が発起人となり太宰治文学碑を建立。 昭和42年(1967)、新御坂トンネル開通により、天下茶屋は約10年の間休業。昭和53年(1978)に営業再開した(「天下茶屋」のHPを参考にメモ)。

富士と月見草
茶屋を出て道路脇で「月見草」ってどれ?と教えを請う。道路脇の草むらに咲く黄色の花びらの草がそれである、と。散歩に先立ち、間髪置かず送られてくる太宰の資料に、少々戸惑いながら、もっとも、大学院での研究テーマが太宰であれば当然と言えば当然ではあったのだが、それはともあれ、送られてきた『富嶽百景』には、太宰はこの天下茶屋から眺める富士を、「風呂屋のペンキ画だ、芝居の書割りだ」、ということで、それほど有り難がっていない。 論文か散文しか読まず、情感のかけらもない我が身としては「富士には月見草がよく似合う」って、その表現の通り「秀麗なる富士に可憐な月見草がよく似合う」と言うことだろうと想っていたのだが、どうもちょっと違うよう。 「富士には月見草がよく似合う」って、どういうこと、とN女子に山を登りながら問う。「不変・不動なるもと(富士)」と「遷ろうもと(月見草)」の云々との説明。N女子の息があがっていたのか、こちらが「不変と遷ろう」というキーワードだけで分かったつもりになったのか、後半部の説明は聞き漏らした。

このメモをする段になり少し気になりあれこれチェックすると、『富嶽百景』に、郵便を受け取りに河口湖町に下った帰りのバスで隣り合わせになった老婆が、他の観光客の歓声もしらぬげに、富士には一瞥も与えない。その様子に太宰は共鳴するわけだが、その老婆は「おや、月見草」といって路傍の1箇所を指さす。「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。「富士には月見草がよく似合う」」と描かれる。
「遷ろうもの(月見草)」ではあっても、「不変なるもの(富士)」に伍して厳然と咲くその姿をして「富士には月見草がよく似合う」と表現したのではあろう。か。太宰の心象風景とダブらせるのは考えすぎ?N女史のご高説拝聴すべし、か。

御坂隧道
天下茶屋の横に御坂山地を穿つ御坂隧道が見える。案内銘板には「富嶽百景で知られ、太宰治も歩いたであろうこの峠は、旧・国道8号線(現県道河口湖御殿場線)で、昭和5年10月着工、翌11年就労人員延べ36万人余りを動員し竣工しました。双方の入り口から出口は見えず、暗闇の中、土工達は、景気よく唄いながら、セメントを練ったそうです。全長396メートル、幅員6メートル、高さ4メートルに及ぶこの御坂隧道は、この度文化財の指定を受けました」とあった。

隧道建設の経緯
案内にあるように現在は県道河口湖御殿場線(県道708号)となっている道筋ではあるが、この道筋が県道に至る経緯は誠に面白い。昭和6年(1931)、この御坂隧道(延長396m)を穿ち、翌、昭和7年(1932)には旧・国道8号が開通した。これにより、富士吉田と甲府を結ぶバス路線も開通し、御坂山地と大菩薩嶺によって画された山梨県東部地域である「郡内地域」と西部のである「国中」地域の連絡が容易となった。
ここに至るまでの顛末はそんなに簡単ではなかったようだ。旧・国道8号は元々は大月、笹子、勝沼、甲府を結ぶ旧甲州街道筋であったが、昭和2年(1926)に県会は旧国道8号を、「大月から吉田へ通じ御坂峠を越え、黒駒、甲府に結ぶ」ルートに変更する予算案を知事が計上した。笹子峠に隧道を通す工事より、御坂峠に隧道を通すほうが工事が容易ではあったのだろう。
しかし、事はすんなり進むことはなかった。当時は政友会内閣であり、知事も政友会、県議会も政友会が多数を占めていたので予算案は楽勝で可決と思いきや、甲州街道沿いの議員の猛反発に合い頓挫。1年間着工を延期といった調整案で一旦は落ち着いた。政友会内閣への事前調整も十分に行われていなかったようである。
で、1年後予算執行の時になる。が、当時は不況が深刻化し、国も県も財政難で工事着工ができない。また、総選挙の結果、政友党から民政党に政権が移り緊縮財政のため旧・国道8号工事も延期となる。
しかし、旧・国道8号の意義を認めた当時の知事が昭和5年(1930)に「失業対策事業」として予算案を県会に提出。これに対して今度は、県会の多数を占める政友会議員は反対。その理由は知事が民政党である、というだけのこと。もともと8号線改修議案を提出したのは「政友会」知事であった、という「面子」だけが反対の理由であった、と言う。
すったもんだのプロセスはあったが、結局「失業者就労には県民を優先する」と「面子」を保つ条件付きで改修工事案は可決。工事に取り掛かり、昭和6年(1931)御坂隧道(延長396m)が貫通し、翌、昭和7年(1932)には旧・国道8号が開通した。
こうして誕生した旧・国道8号であるが、昭和27年(1952)、新道路法制定にされ、旧・国道8号が国道20号に変更されるに伴い、国道20号の道筋が笹子峠を越えるルートに変更された。昭和13年(1936)には笹子峠に笹子隧道も貫通していた。このとき、御坂峠越えの道は国道137号となった。
その後、昭和40年(1965)、県営の有料道路として着工し、2年後に完成、平成6年(1994)には無料となった「新御坂トンネル」を抜ける道筋が国道137号となり、結果、この御坂峠を抜ける道は県道708号となった。

太宰治文学碑
登山スタート。登山道のスタート地点に「富士には、月見草がよく似合ふ」と刻まれた文学碑がある。昭和28年(1953)、井伏鱒二氏などの尽力により造られた。大きな安山岩に刻まれた文字は、太宰のペン字を大きく拡大して刻まれているとのことである。
太宰は昭和10年(1935)に書いた『逆行』で第一回芥川賞候補になるも、その年に自殺未遂、昭和12年(1937)にも自殺を想う。また薬物中毒にかかり、荒廃した日々を送っていた。
天下茶菓に訪れたのは、このような破滅的生活から抜け出し新たな人生をはじめる思いを新たにする旅でもあったよう。天下茶屋に滞在中に甲府に住む女性と婚約し、翌年結婚。精神的に安定しすぐれた作品を世に出すも、昭和23年(1948)玉川上水での入水自殺で人生を終えた。この文学碑はその死を悼んで建てたものである。

登山スタート:11時45分?標高1290m
登山スタート。太宰治文学碑の脇に「旧御坂峠まで70分」との木標がある。 その先に木で整備された登山道。針葉樹と異なり広葉樹林は明るくて、いい。広葉樹と言えば、ブナとかミズナラくらいしか名前を知らないし、どれがどの木かもわからないまま、直線距離で800mほどを200m弱を上ることになる。ちょっと急な九十九折れの道を上り、木で整備された階段がなくなった斜面をトラバースすると尾根道に到着。20分程度で尾根道に到着した。

御坂峠:12時8分?標高1450m
便宜的に「御坂峠」と書いたが、ここが峠であったわけではないだろう。「御坂峠」と表記した木標もないし、甲斐へと下る道も見当たらない。思うに、今から辿る「旧御坂峠」が甲斐と駿河を繋いだ官道のあった峠であり、そこが本来の「御坂峠」であり、昭和初期、国道8号を開き御坂山塊を穿った御坂隧道ができたとき、その隧道の抜ける峠道故に、こちらを「御坂峠」とし、本来の「御坂峠」を「旧御坂峠」として区別したのだろう。「御坂峠」に立つ木標にある「旧御坂峠」の矢印に従い、尾根を西へと御坂山へと向かう。

御坂山;12時44分?標高1594m
御坂峠から直ぐ先は一旦鞍部におりるが、すぐに1472ピークに向かっての上りとなり、あとは御坂峠に向かって、ちょっとしたアップダウンを繰り返しながらも、御坂峠から直線距離800mを120mほど上ることになる。広葉樹林の気持ちのいい山道である。
御坂峠から30分程度で御坂山に到着。ここで小休止。情感乏しき我が身と異なり、T氏と娘は道端の草花の写真を撮りながらの、ゆったりとした山行である。





見晴らしポイント_13時5分_標高1530m
御坂山を後に鞍部に下り1591mピークを越え、ちょっとした岩場を過ぎると北が大きく開ける。残念ながら富士は雲海に隠れている。時刻は13時5分。見晴らしポイントのすぐ下の鞍部には送電線の鉄塔が立つ。鉄塔からは送電線が三つ峠から河口湖町方面へと続く稜線に向かって延びる。
鞍部を少し上ると木標があり、「天龍南線右92 左93」と書いてあった。鉄塔巡視路の木標である。木標からすれば、先ほど立っていた鉄塔はNO93鉄塔ということだろう。
メモの段階でチェックすると、天龍南線とは、山梨県釜無白根変電所(南アルプス市上今諏訪)から静岡県東富士変電所(静岡県小山町)までをおよそ170基の鉄塔で結ばれている。建設は昭和5年(1930)に大同電力によってなされた。大同電力は大正から昭和初期に存在した電力会社。昭和39年(1964)には国策会社日本発送電に事業を移管し解散。戦後電力再編に際し、大同発電の建設した発電所は関西・中部・北陸電力に引き継がれることになる。

新御坂隧道
送電線鉄塔を少し西に進んだ足の下、御坂山地の標高1000m地点辺りを新御坂隧道が通る。昭和40年(1965)4月着工の全長2,778mの隧道は「水との戦い」であった、とか。着工以来8月頃までは工事は順調に推移し、翌昭和41年(1966)10月には予定通り完成とも思われていた。しかし、隧道が800mほど掘り進められた頃より湧水が出始め、10月に入り1000mほど掘り進んだ地点で断層破砕帯に突き当たる。
Wikipediaによれば、断層破砕帯とは、「トンネル工事で大量出水事故の原因となる地質構造。断層は岩盤が割れてずれ動くものであるから、断層面周辺の岩盤は大きな力で破砕され、岩石の破片の間に隙間の多い状態となっている。これが断層破砕帯で、砕かれた岩石破片の隙間に大量の水を含み、また地下水の通り道となっている。掘削中のトンネルがこの場所に当たると大量の水が噴出して工事を著しく妨げる。破砕帯の幅は断層によって異なり、数十mに達する場合もある」とある。
この断層破砕帯に突き当たったことにより毎分5000リットルの出水、11月には6000リットルにも達し、工事の進捗が危ぶまれた。調査・検討の結果、断層破砕帯の辺りに幅100mに渡り、本道の下70m地帯に水抜き隧道を堀り工事を推進。水抜き隧道が完成した昭和41年(1966)5月にはおおよそ毎分1万リットル弱、1455mを掘り進んだ地点では毎分1万3千リットルもの湧水を水抜き隧道で処理しながら工事を進め昭和42年(1967)開通の運びとなった(「県営御坂有料道路建設事務所資料」より)。

御坂城址;13時15分?標高1546m
送電線鉄塔のある鞍より旧御坂峠に向かって道を上ると、なんとなく「人の手が加わった」ような地形に出合う。下部は空堀りのようにも見えるし、上部は土塁の掻き上げがおこなわれたようにも見える。
この辺り、旧御坂峠を中心に南北にそれぞれ長さ数百メートル、幅100m強に渡って御坂城が築かれていた、といったことをどこかの資料で読んでいたので、そう思い込んだだけかも分からないが、そこからピークに上り切ったところに開ける平坦地の東の斜面も、西の斜面も如何にも人工的な段差となっており、西側斜面は二重になっているようにも見えた。
御坂城の築城年代は不明だが、甲斐の武田氏によって築かれたとされる。城とは言っても、交通の要衝である御坂峠に構えた砦や狼煙台といったものではあろう。
天正10年(1582)3月、武田氏が織田勢により滅亡するも、その織田信長が天正10年(1582)6月本能寺において討ち死にすると、切り取り次第となった甲斐の地には徳川と小田原北条氏が攻め入る。そして、この御坂城は笹子峠から御坂山地の稜線より以東の「郡内」地帯を制圧した北条氏が、以西の「国中」地帯を制圧した徳川氏に備える出城となったようである。
しかし徳川と小田原北条氏は徳川が甲信両国、北条が上野国を治めることで兵火は収まり、北条氏直が家康の娘を迎えることで和議が成立し、北条勢は同年11月には帰陣することになる。和睦により甲斐を領した徳川は御坂城を廃城とする。徳川勢の備えで急ぎ普請工事された御坂城は5ヶ月ほどでその役割を終えることになる。

緩やかな上りとなる平坦部を越えると、道は旧御坂峠に向かっての下りとなる。道の両側には「人の手が加わった」ような堀が平行に下る。平坦部にあった横堀が竪堀となってそのまま峠まで下っているようにも見える。下ること5分強で旧御坂峠に到着する。峠手前の平坦部も西の斜面の堀切部が回りこみ堀切状になっていた。

旧御坂峠;13時26分?標高1517m
旧御坂峠は平坦地となっており、閉鎖された茶屋が残る。天下茶屋のスタート地点からおおよそ1時間45分程度で到着した。峠の南北は木々で遮られ見晴らしはよくない。
「みさか」を冠した峠は多い。今回の散歩のきっかけとなった愛媛の歩き遍路で辿った三坂峠、また、いつだったか信越国境・塩の道を辿ったときは、地蔵峠ルートには三坂峠があった。
御坂、三坂、神坂、見坂、美坂、深坂などと表記は様々であるが、もとは「神(かみ)の坂=みさか」とされ、古代において祭司が執り行われたところ、と言う。
「峠」は「たむけ=手向け」との説もあり、道中の安全を祈って手向け=神に供えて、いたのだろうが、これは日本で独自に造られた国字(漢字)であり、往昔、「み坂」を以て、峠を意味していたようである。

御坂路
御坂峠は、古代、奈良・平安の頃、都から甲斐国の国府を経て、相模から武蔵へと向かう菅道であり、鎌倉時代には鎌倉街道とも称された「御坂路」の「国中」と「郡内」を分ける峠である。
律令制時代、平安中期に編纂された『延喜式』には「甲斐国駅馬 水市、河口、加吉各5疋」とある。甲斐国にはこの峠を挟んで3駅が設けられた、ということである。各駅に馬5疋、ということは、当時、大路は20疋、中路は10疋、小路は5疋と規定されており、御坂路は小路という位置づけではあったのだろう。
甲斐国の国府は御坂町国衙と比定されるが、御坂路の経路や駅の所在は不詳である。古代の経路がはっきりしない理由には延暦19年(800)、貞観6年(864)、承平7年(937)に大噴火した富士山の影響も大きいのだろう。それはともあれ、駅については、水市は一宮一之蔵との説、黒駒の説がある。河口駅は河口湖畔の河口湖町河口のようだ。加吉駅は籠坂の北、山中湖岸の山中湖村山中にあったとされる。籠坂は、もとは加古坂と称し、延喜式の加吉は加古の誤り、との説もある。
河口湖からの経路は、三ッ峠の麓を西桂に出たと言う。現在の道路表示にある「御坂みち」とは大きく異なり、桂川の川幅が最も狭い箇所を求め遡ったようである。
桂川を渡ると明見地区を通り鳥居地峠に進み、そこからは内野へ下り、またまた山を越えて、山中湖畔南の加吉(古)に出たと言う。
御坂路は、中世に入って、鎌倉への道として政治・軍事上の要路となり鎌倉往還と呼ばれるも、江戸に入り甲州街道が江戸と甲州の幹線路となり、鎌倉往還としての重要性は薄れることになるが、相模・駿河・伊豆を結ぶ商品流通のを担う。加吉(古)駅から先は東海道の横走駅(御殿場)に到り、足柄峠を越えて、矢倉沢道を相模へと向かったようである。

旧御坂峠からの下り;13時51分
旧御坂峠でちょっと遅い昼食を摂り、休憩をとった後、御坂路を下ることにする。峠の南側にも御坂峠の遺構が残るようであるが、藤野木バス停まではおおよそ1時間半。15時58分藤野木バス停発のバス乗るにはちょっと時間に余裕はなさそうであり、遺構巡りはやめにした。
ここから先は行者平辺りまでは道がしっかりしているようだが、その先が沢の防砂工事の影響でなんとなくはっきりしない。ともあれ、13時51分、道標に従い御坂道を下りはじめる。道の右手が土塁の掻き上げのように感じるのは、御坂城があったとの先入観故であろうか。

峠道・文化の案内:13時59分?標高1481m
結構道幅も広くしっかり踏み固められた道を10分程度進む。この峠道は幕末に塩山の上萩原から樋口一葉の父と母が夜中に逃避行に上った道。御坂峠を越え籠坂峠から御殿場、そして横浜を経て江戸に落ち着いた、と聞く。
ほどなく道脇に「峠道・文化の案内」。峠道の森を中心に、史跡や名所が記載されていた。下りの道筋は、行者平の先で「小川沢川」を渡り、小川沢川が合わさる金川左岸を藤野木まで下っているようである。

子持ち石;14時2分標高1463m
「峠道・文化の案内」から数分。倒れた標識。「子持ち石」とある。辺りを見るに、それらしき「大岩」は見えない。どれが「子持ち石」かと周囲を見回すと、小石が積み上げられような塚がある。どうもそれが「子持ち石」のよう。塚の脇に消えかけた手書きの案内があり、安産を祈って小石を積み上げた、とあった。
「子持ち石」とは本来、「石の中に小粒の石の入っているもの。特に,?石(はつたいいし)のこと」を指す。大雑把に言って礫岩(れきがん)の俗称とも。御坂山地の地層の上部層に堆積する凝灰角礫岩などのサンプルには、なるほど石の中に小粒の石が入っていた。
よく踏み込まれたジグザグの道を更に20分程度下ると「(下方向 )藤野木 (上方向)御坂峠」の標識がある。この辺りの標高は1300m弱。木々も杉などの針葉樹が多くなってきたように思う。

馬頭観世音:14時39分?標高1284m
木標からさらに10分程度下ると大きな石碑が佇む。道側から裏に回ると「馬頭観世音」と刻まれていた。往来の運送を担っていた馬を護り、往還を旅する人々の安全を祈念したものではあろう。

行者平;14時43分?標高1264m
馬頭観世音の石碑から5分弱下ると、「行者平」の標識が立っている。辺りは杉林に囲まれた平坦地となっている。左手は開け沢筋とその向こうの尾根筋が目に入る。
沢側の岩の上に二体の石仏が佇む。岩の脇に消えかけた木標があり、「役行者が修行云々」との説明があった。



沢を渡る;15時01分?標高1181m
行者平の左に沢が見えるのだが、どこで沢を渡るのか不明である。とりあえず、成り行きで進み、沢を渡る箇所を探すことにする。ほどなく「御坂峠(50分)藤野木(50分)」の標識。藤野木バス停発が15時58分であるので、なんとか間に合いそうではある。

先に進むと左手が大きく開き、いくつもの堰堤が沢に造られている。土砂を堰止める堰堤ではあろう。沢に沿ってロープでガイドされた道を進む。途中倒木で道が塞がれているところは少々難儀したが沢脇に出る。
沢の右岸にも草で覆われた踏み分け道はみえるのだが、バスの時刻の関係で安全ルートを選び、沢を渡り林道に入る。

峠道・文化の森入口の標識;15時14分標高1081m
林道に沿って道を下る。沢を渡って15分ほどで「峠道・文化の森入口」の標識。入口がどこだかはっきりしていないが、峠道にあった同じ案内によれば、今歩いてきた林道がその入口ではあろう。
標識の傍に「小川沢土砂崩壊防止総合治山事業地」の案内。「この地区は、富士川の支流、金川の上流に位置し、標高1050~1790m地形は複雑にして急峻、地質は新第三紀御坂層群で脆弱であり山腹及び渓岸崩壊地が随所に発生し渓流内は、流下した不安定土砂礫で極度に荒廃しているので土砂礫発生源を直接抑えるため山腹の復旧、治山ダム群の設置と、土砂流等の流下を緩和させるための土砂等拡散防止林造成及び防災機能の強化を目ざす森林の造成等を、昭和62年より63年までの3年間に総合的、集中的に実行し、国道137号線及び国道沿の人家、下流一帯の果樹園等を直接保全するものである(山梨県甲府駿務事務所)」とあった。沢筋に幾つも築かれた堰堤もその一環の事業ではあろう。

「天然記念物 藤野木のオオバボダイジュ」の案内;;15時27分?標高987m
林道を先に進む。乱暴に切り開いた林道ではなく、結構落ち着いた気持ちのいい道である。15時半頃、「天然記念物 藤野木のオオバボダイジュ」の案内。「オオバボダイジュは北海道、東北地方、北関東地方、北陸地方、北信地方、飛騨地方の温帯に属し、温度のある肥大な土壌において最もよく生育し、生長はやや早い。
オオバボダイジュ(シナノキ科)は落葉高木で、通常10mから15m、胸高直径0.4mから0.5mであるが、大きいものは樹高25m、胸鷹1mに達する。葉は互生し葉柄は淡褐色を密生し葉身は左右小斉の円心系で、先はするどく尖り、縁には三角形の鋸葉がある葉の上面は深緑色、下面には淡褐色の星状毛が密生する。
花は夏に開花し長い柄をもった散房状の集散花序を腋生し、花序の柄のほとんど基部から包葉が出て、下半に沿着している。花は小さく淡黄色で香気がある。 オオバボダイジュは北海道、東北地方、中部日本の日本海側に分布されるものとされているため、本町で発見されたことによって、その分布が北関東から分かれて富士山方向に支脈があることが証明されたことになり、また御坂山地のオオバボダイジュは日本における分布の南限に当たるものとして、植物分布上きわめて貴重な存在である(笛吹市教育委員会)」とあった。

藤野木(とうのきう)バス停;15時35分?標高933m
オオバボダイジュから5分ほど歩くと民家が見え、道なりにすすむと国道137号に。藤野木バス停は峠から下ってきた道が国道に当たる脇にあった。バス程横には焼きトウモロコシの売店があり、到着の15時35分頃から58分等到着を待つ。定時より少し遅れてきた甲府行きバスのJR石和温泉駅で下車。ラッキーなことにホリデー快速山梨が3分の連絡で到着とある。大急ぎで切符を購入し一路家路へと向かう。




二年前になるだろうか、久万高原町にある四国霊場44番札所大宝寺から45番岩屋寺まで歩いたことがある。その時、45番岩屋寺の次の札所46番をチェックすると松山市内にあり、30キロ近くの長丁場とのこと。そしてその46番浄瑠璃寺へと辿る遍路道は三坂峠を下るとのこと。
「峠萌え」としては三坂峠を下る「あるき遍路」に惹かれ、そのうちにと考えていたのだが、知らず数年が経ってしまった。で、今回思い立ってプラニング。ポイントはどこに車をデポするか、ということ。三坂峠までは松山からバスに乗り、三坂峠で下車し、そこから「あるき遍路」をスタートするわけだが、峠を下り、歩き終えた場所近くにバスがあり、そのバス路線がスタート地点に繋がるか、または近いところが望ましい。
適当な車のデポ地点を決めるべく上り・下りのバス路線を探す。そして見付けたバス停が「森松バス停」。ここからJR四国バスが「三坂峠バス停」に上り、峠を下った遍路道の道筋からは「伊予鉄バス」がこの「森松バスターミナル」に繋がる。幸運にも。出発地と到着地が同じバス停であった。車のデポは森松バス停辺りに決定。成り行きで神社の駐車場にでも置かせてもらおうと、実家の新居浜から一路松山へと向かう。



本日のルート;森松バス停>国道33号>三坂峠バス停>三坂峠>見晴らし処>鍋割坂>久万街道の案内>一ノ王子社跡>洗(あらい)の観音様>久谷の里に出る>旧遍路宿坂本屋>桜集落の常夜灯>桜橋>網掛け石>榎集落の馬頭観音>「一遍上人修行の地」の案内>(一遍上人窪寺閑室跡)>(一遍上人窪寺年仏堂と歌碑)>四里・里程標>伊予鉄・丹波バス停>子規歌碑と「一遍上人窪寺御修行之旧蹟」>圓福寺>出口橋>久谷支所出口出張所の道標>大黒座>国道33号分岐点の道標と常夜灯>札所46番浄瑠璃寺;13時29分_標高87m>浄瑠璃町の金比羅常夜灯>生目神社>札所47番・八坂寺>愛媛最古の道標>道標>文殊院>「左八塚道」の石標>八塚古墳>県生涯学習センター前>森松バス停


森松バス停;10時14分
松山自動車道を松山ICで下り、国道33号を高知方面に向かい、森松交差点で県道194号に乗り換え「JR四国バス・森松バス停」に。バス停を確認し近くに車をデポするところを探す。あれこれ動くも、結局は予定通り、近くの神社に少々お賽銭を増やし車を置かせて頂く。
神社からバス停に戻る。JR四国バス・森松バス停の横には大きな待合所のある伊予鉄・森松バス停があった。帰りはここに戻ることになるのだろう。定刻午前10時14分にJR四国バス「落出行き」に乗り三坂峠バス停に向かう。

国道33号
バスは県道194号を進み、重信川を渡り県営総合運動公園辺りで国道33号に合流する。砥部焼で名高い砥部町を越え、急カーブの道を上る。あろうことか全長142mの塩ヶ森トンネルを抜けた道は360度回転し先に進む。その先で国道33号の最大の難所・三坂峠をトンネルと高架橋で回避すべく平成24年(2012)に開通した「三坂道路」と分かれ、バスは国道33号を上り、三坂隧道を抜け三坂峠バス停に到着する。途中眼下に道後平野が美しく拡がる。

国道33号の歴史
現在でも曲がりくねった難路である国道33号ではあるが、この道筋が整備されるまでは、後に下る三坂峠越えの険路が伊予と土佐を結ぶ往還であった。明治14年(1881年)、上浮穴郡長に赴任した桧垣伸氏は、上浮穴の発展は道路の整備にあると四国新道(三坂新道)建設に尽力し明治25年(1892)、松山と高知を結ぶ「四国新道」が開通した。この道の開削により、それ以前、馬の背に荷駄を乗せて運んだ峠越えが、馬車での運搬が可能になったと言う。
その後、大正9年(1920)には県道松山―高知線として認定され、昭和27年(1952)には国道33号に昇格した。昭和初期には運搬主体が馬車からトラックに代わり、昭和9年(1934)には省営バス(国鉄、JRバスの前身)が松山と久万を結んだとのことである。
しかしながら、この国道は明治時代の運搬の主力である「荷馬車規格」であり、自動車道としては狭く、特に三坂峠付近の天狗鼻の険路は安全な交通の障害ともなっていた。そのため、昭和34年(1959)から国道の大改修が始まり、昭和42年(1967)には幅員も6mから6.5m、全線舗装の道に改修された。
この改修時、それ以前のルートも変更されている。当初のルートは大体は現在の国道33号と同じではあるが、360度回転の塩ヶ森トンネル付近は、塩ヶ森トンネル開通以前のルートは、トンネル北側に道があり、そこから大友山の西麓を現在の砥部町総合公園の東側を通って砥部町の宮内へ出ていた、という。また、上述の三坂隧道が開削され、現在も残る三坂隧道の付近、ヘアピンカーブから国道33号に沿って続き三坂隧道辺りで突起する天狗鼻を通るルートは変更され、新しいルートが開かれ、天狗鼻部分は開削され現在の三坂隧道を抜けるルートとなった、と言う。
斯くして改修された国道33号であるが、依然峠付近の急カーブの連続や冬の積雪、また240mm以上の雨が降れば通行止め、といった状況であり、それを解決する事業として三坂峠を回避する計画が昭和60年(1985)にはじまり、平成8年に事業化決定、着工平成11年(1999)、三坂第一トンネル(延長3,097m)と三坂第二トンネル(延長1,300m)の2本のトンネルと9本の橋梁によって、三坂峠を回避する自動車専用道路である「三坂道路」が開通した。構想から実現まで30年を有した事業であった(「えひめの記憶」より)。
四国新道
上に、「上浮穴郡長に赴任した桧垣伸氏は、上浮穴の発展は道路の整備にあると四国新道(三坂新道)建設に尽力し」とメモした。正確には、四国新道の御坂峠道周辺の建設に尽力した、と言うことではある。
四国新道とは、香川出身の政治家である大久保諶之丞の構想によるものである。明治17年(1884)に「四国新道構想」を発表。そのルートは当初、丸亀、多度津から琴平、阿波池田、経て高知へ至る計画であったが、後で高知から佐川、須崎へ至る路線、更にそこから松山に至る計画も追加された。総延長は約280km。 1886年(明治19年)に起工。起工から8年後の1894年(明治27年)に四国新道は完成した(「Wikipedia)より)。

三坂峠バス停;10時47分_標高705m
森松バス停よりおおよそ33分、「標高720m三坂峠」と書かれた案内のある切り通しを越えると三坂峠バス停に着く。バスを下りると、バス停横の広場に大きな石碑が建つ。散歩の折りは、「桧垣翁碑」とあり、如何なる人物かとい石碑を詠もうとするも、風雪に摩耗した文字が読めなかったのだが、メモする段になり、先述の如く四国新道の建設に尽力した桧垣伸翁の顕彰碑であることがわかった。
旧三坂峠へのアプローチは、バス停から左に入る小径に「46番浄瑠璃寺 8.5km」とあり直ぐわかった。簡易舗装の道を森に向かって進む。

三坂峠;10時55分_標高715m
森の小径を進むと、三坂峠から札所46番浄瑠璃寺、47番八坂寺の先辺りまでの今回の「あるき遍路」のルート案内がある。あまり情報を前もって調べない散歩を旨とする我が身には、誠にありがたい。
先に進むと、道脇に「四国八十八カ所へんろの旅」の案内。「四国八十八カ所へんろの旅;四国八十八カ所へんろの旅は、阿波の発心の道場(1-23)に始まり、土佐の修行の道場(23―39番)を経て、伊予の菩提の道場(40-65番)に入り、讃岐の涅槃の道場(66-88番)を巡って結願となります、全行程約1440km、なだらかなみちもあれば、険しいみちもあり、あかたもわたしたちの人生に似ているようです」とあった。
先日テレビの番組で、「阿波で悟りの心を思い立ち、土佐の海岸線に沿った長丁場で修行の心を鍛え、伊予の山懐を辿る遍路みちで煩悩を解き悟りの心を養う」と言った解説がされていた。

ほどなく三坂峠の案内。「標高720メートル 久万高原町 伊予と土佐を結ぶ土佐街道にある急峻な峠です。江戸初期に久万の商人山之内仰西によって拓かれました。明治27年に三坂新道(国道33号)ができるまで、この道が松山と久万を結ぶ主要道でした。峠からは松山市内が一望でき、茶屋もあり、久万山馬子や四国遍路をはしめ多くの旅人が行き交ったことが絵図からわかります」とあった。
札所45番岩屋寺からこの三坂峠までの遍路道は、44番大宝寺の方向に少し逆戻りし、有枝川の谷筋の河合から千本峠を越え、高野の集落を抜け久万高原町西明神に出る。そこからは国道33号の道筋を三坂峠まで進むおおよそ10キロ程度の行程であった、とのことである。

峠は切り通しとなっており、切り通しの上にはお地蔵様が佇むとのこと(「えひめの記憶」)。常光寺(松山市恵原町)の僧が文政9年(1826)、四国・西国霊場巡拝記念に造立したものと言うが見逃した。
で、人馬や遍路や往還したこの三坂峠、藩政時代には要害の地として幕末動乱期には砲台を据え付け、備えを固めた、と。ということは、松山の城を棄てこの地まで後退し敵に備えようとした、ということだろうか。ちょっと弱気?

久万の商人山之内仰西
三坂峠を拓いたとの案内のあった山之内彦左衛門翁(仰西は仏門に入ってからのもの)であるが、久万高原町に今も残る「仰西渠」でも知られる。久万川との川床の格差が10mもあり、豊かな久万川の水を耕地に引くことができず困っていた村人のため、私財を投げ打ち、農業用水路を開削した。岩盤を穿ち幅1.2メートル、深さ1.5メートル、途中約12メートルの隧道を通し全長さ57メートルの水路を3ヶ年の歳月をかけてつくった、と。

「えひめの記憶」に、岩を掘るときに出来る石粉1升と米1升を交換するという約束で多くの人夫を雇ったという契約があったという記述があったが、なかなか面白い。とはいうものの、岩山は安山岩という固い岩で、半日で1升の石粉が出来かねるという大変苦しい工事だった、と言う。時期は明確でないが、江戸時代の明暦年間(1655~1658年)から寛文年間(1661~73年)ころともいわれている(「えひめの記憶」より)。場所は久万高原町の槇ノ川が久万川に合流する少し上流とのこと。そのうち訪れてみたい。

見晴らし処;11時2分
三坂峠の案内のあった辺りは杉林で覆われ見晴らしはよくないのだが、切り通しを過ぎ杉林の中の道を少し下ると右手の視界が開け松山や瀬戸の海と島々が一望のもと。「えひめの記憶」によれば、この景観を、「真念は『四国邊路道指南』で、「此峠より眺望すれバ、ちとせことぶく松山の城堂々とし、ねがひ八三津の浜浩々乎たり。碧浪渺洋、中にによ川と伊与の小富士駿河の山の(ご)とし。ごヽ島、しま山、山島、かすかずの出船つり船、やれやれ扠先たばこ一ぷく」と描写している。また、野沢象水も『予陽塵芥集』で、「此往来の道に御坂峠と云あり 登々たる山路の絶頂にて 遠見の眺望限なし3)」と述べており、多くの旅人もここからの眺望を楽しみ、長旅の労苦をいやしていた様子がうかがえる」と描く。

真念
「えひめの記憶」をもとに真念についてまとめておく。「四国遍路が一般庶民の間に広まったのは江戸時代になってからといわれる。その功労者の一人に真念がいる。その真念の出自や活動については、「ほとんど皆目といってよいほど明らかでない。
真念の著作(『四国邊路道指南(みちしるべ)』・『四国?礼功徳記(へんろくどくき)』)や、真念たちが資料を提供して寂本が著した『四国礼霊場記』の叙(序文)や跋(ばつ)(後書き)に拠れば、『霊場記』の叙に、著者寂本は、「茲に真念といふ者有り。抖?の桑門也。四国遍路すること、十数回」と讃え、また『功徳記』の践辞でも木峰中宜なる人物が、「真念はもとより頭陀の身なり。麻の衣やうやく肩をかくして余長なく、一鉢しばしば空しく、たゝ大師につかへ奉らんとふかく誓ひ、遍礼(へんろ)せる事二十余度に及べり」と記している。
あるいはまた『功徳記』の下巻で「某もとより人により人にはむ、抖?の身」とみずから書くように、真念は頭陀行を専らとする僧であり、なかでも弘法大師に帰依するところきわめて深く、四国八十八ヶ所の大師の霊跡を十数回ないしは二十数回も回るほどの篤信の遊行僧だった。あるいは高野山の学僧寂本や奥の院護摩堂の本樹軒洪卓らとのつながりから推して高野聖の一人だったと解してもよいだろう」とある。

野沢象水
野沢象水(一七六一~一八二四)は名を弘通、通称を才次郎といい、藩の軍事師範となった。はじめ堀河学を、晩年に宮原竜山について朱子学を研究した。彼の本領は兵学にあり、剣術・槍術・弓術・兵法に精通して、その名を知られた(「えひめの記憶」)。

鍋割坂;11時5分_標高666m
見晴らしのいい箇所を越えると往昔の石畳らしき面影を残す急な下りとなるが、この坂を鍋割坂と呼ぶ。かつて行商の金物屋が商売用の鍋(なべ)を石畳に落として割ったことが、坂名の由来。そのいわれを記しか石碑が立っている。そこには、「仰西翁偉績」と刻まれる。仰西翁とは前述の山之内仰西翁のことである。

久万街道の案内;11時7分
木々に覆われた堀割状の道を進むと「久万街道」の案内。大きく曲がった道は石垣が残る。案内には「この道は、明治25年、旧国道(33号)が開通するまで、上浮穴郡、高知を結ぶ重要な街道で、生活に欠かせない道であり、多くの旅人が歩んだみちでもあります。そして45番岩屋寺、46番浄瑠璃寺を打ち終えた遍路たちが、次の札所へと向かったみちでもあるのです。
また、むかしは高知への最大の難所であり、三坂馬子唄にも「むごいもんぞや久万山馬子はヨー、三坂夜出て夜戻るヨー、ハイハイ」と歌われ、その往復には一昼夜もかかったそうです」とある。

一ノ王子社跡:11時29分_標高424m
道を下り細い沢筋を越え20分弱を下ると四阿(あずまや)の休憩所がありそこに「一ノ王子跡」の案内があった。案内には、「この休憩所には、かつて一ノ王子があったといわれています。王子とは熊野信仰に由来する三十三または九十九カ所の小さな社です。(一から順番に参詣していきます)。中世から近世にかけて石鎚信仰に熊野信仰が結びつき、ここから石鎚山頂までの道に王子が続いていたと言われています。(現在は道は消滅、王子は所在不明です)。現在は石鎚登山道西条側にのみ二十三王子が残っています(三坂峠遍路道トレッキングコース)」とある。

いつだったか、石鎚山に上ったことがある。その道の途中に河口(こうぐち)というところがあった。往昔の石鎚参道は、現在のロープウエイ乗り場に向かう道筋ではなく、この河口(こうぐち)から山麓の成就社に向かっていたようである。ルートはふたつ。どちらも成就社まで6キロ前後、3時間程度の行程、といったところであるが、ルートのひとつは黒川道。行者堂などが地図に残る黒川谷を辿り、尾根へと上っていくようだ。そしてもうひとつは今宮王子道、今宮王子道は河口から尾根へと進む。尾根道の途中に今宮といった地名が残る。昔の集落の名残だろう。
今宮王子道にはその名の通り王子社が佇む。石鎚頂上まで三十六の王子社の祠がある、とのこと。数年前、熊野古道を歩いたことがある。そこには九十九王子があった。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。
王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」、と。石鎚の王子社の由来もまた、同様のものであったのだろう。

洗(あらい)の観音様;11時38分_
一ノ王子社跡を過ぎると「伊予路のへんろ道」の案内。「伊予路のへんろ道 伊予路の春は、「おへんろ」さんの、鈴の音で始まります。800年あまりの伝統をもつ四国へんろは、わたしたちの身近な所に、すぐれた史跡やそぼくな民俗、風習を今も残しています。この「へんろ道」もそのひとつです。40-65番の26か寺を結ぶ伊予路のへんろ道は、約337kmもあります」と案内にあった。
案内板からほどなく山道は終わり、簡易舗装の道になる。空は開け、集落へと道を進む。道脇に石仏が佇む。旅の途中に倒れた遍路を供養する。元治2年(1865)のものと言う。
さらに下るとこれも道脇に小さな祠。メモの段階でチェックすると、「洗(あらい)の観音様とのこと。洗の観音様の由来はわからない。わからないが、洗の観音様は全国にあるようだ。東京では巣鴨の「刺抜き地蔵」も「洗い観音」と言われる。聖観世音菩薩に水をかけ、自分の身体の悪いところを洗うと治るといった信仰からくる、と言う。
因みに、逆に「不洗観音」様もあるようだ。この観音様に安産祈願すれば三日三晩水を使わなくても身体が清潔に保たれ、かわいい子に育つ、とか。民間信仰のバリエーションの豊富さは誠に興味深い。

久谷の里に出る;11時40分
洗の観音様を越えると民家のある里に出る。窪野町桜の集落である。木標には「46番 浄瑠璃寺 5.9km三坂峠2.6km」とある。左手に棚田を見ながら進むと、久谷地区の案内。久谷町はこの窪野町の西側にあるが、「久谷」地域は町の行政域を超えた、この辺り全般を指すのだろう。
案内には「久谷 久谷地域には、遍路文化が色濃く残っています。四国霊場四十六番浄瑠璃寺、四十七番八坂寺をはじめ、遍路発生の伝承が残る文殊院や八塚もあります。へんろ路沿いには多くの道標や遍路墓、石仏、常夜灯なども残されています。
また、時宗始祖の一遍上人が修行した窪野地区、中世城郭の遺構荏原城・新張城跡などもあります。文化と歴史、自然あふれた、久谷地区を歩いてみましょう(三坂峠遍路道トレッキングコース)」と久谷町域を超えた案内があった。 久谷とは「長い(久)谷筋」と言った意味と言う。

旧遍路宿坂本屋;11時48分_標高302m
久谷の案内のすぐ先に古き家屋。旧遍路宿坂本屋とある。案内には「明治末期から大正初期に建てられた遍路宿。土佐街道の難所「三坂峠」の麓にあり、昭和初期まで休息・宿泊の場として賑わいをみせていたそうです。平成16年春、多くの方々の協力で修復されました。
囲炉裏やかまどもあり、閑かな風景にとけこんで、癒しの空間を創りだしています。昔、正岡子規はここを旅して区を残しています。「旅人のうた のぼりゆく 若葉かな」。この句の「うた」はご詠歌あるいは三坂馬子唄であったでは。。。(NPO地域共生研究所NORA 坂本屋運営委員会)」とあった。 お店は閉まっていた。
「えひめの記憶」には、三坂峠から浄瑠璃寺に向かう遍路道のほぼ中間にあり、険しい山道を上り下りする遍路が一息入れる場所であった窪野町桜のことが記載されていた。
記事によると;『四国邊路道指南』には、「くだり坂半過、桜休場の茶屋)」と記されているように、ここにはいくつかの茶屋や宿屋があった。現在、終戦直後まで茶屋と宿屋を兼営していたという2軒の大きな建物が残っている。

天明5年(1785)に円光寺(松山市)の住職名月は岩屋寺参詣(けい)の途次、ここからの眺めを、「櫻花息場」と題して「断崖三十戸、秋老白雲栖、後傍千重険、前臨百仭谿、鹿鳴紅葉際、猿叫翠岩西、驟雨瑶林外、還聞貸馬嘶5」と詠じている」とあった。
昭和初期には1日300人もの遍路がこの地を往来した、ともあった。『四国邊路道指南』とは上述の真念が著した往昔の遍路ガイドブックといったものである。

桜集落の常夜灯;11時50分
桜の集落を少し進むと常夜灯が見える。そして、その傍らに「遍路墓」」と書かれた木標があり、その後ろに石柱が立つ。天保13年(1842)に建てられた自然石の遍路墓である。
「えひめの記憶」に拠れば、「この桜集落には、力尽きて倒れた遍路に関する史料が残っている。旧窪野村が所有していた文書(写真2-2-3)には、享保8年(1723)に窪野村まで来た備後国(広島県)の安兵衛という70歳くらいの病気の遍路が、次の久谷村へ送り届けられようとしている記述があり、「遍路送り」の様子をうかがい知ることができる。
この安兵衛は結局窪野村で死亡しているが、その史料には、遍路の所持品は往来手形のほか、杖1本・菅笠一つ・荷台一つ・木櫛二つ・木綿袋二つ・紙袋二つ・渋紙一つ・めご一つ・天目一つ・小刀1本などと、銭を15文持ち、単物(ひとえ)を着て木綿帯を締めていたとあり、当時の遍路装束を推測することができる」とあった。
先ほど「洗の観音」の祠の先にあったお遍路さんの石仏も、遍路旅の途中で倒れた人ではあろう。また集右の溜(ため)池の堤の草むらにも遍路墓と思われる5基の無縁墓があるとのことである(「えひめの記憶」)。

桜橋;12時4分
常夜灯の先の坂を下ると道筋は県道207号となる。。遍路道は県道207号に沿って付かず離れず進む。県道を離れるところには木標があり、道を迷うことはない。最初の分岐は「浄瑠璃寺5.1km 三坂峠3.4km」の木標を旧道に入る。再び県道と合流するところに「三坂3.6km 46番浄瑠璃寺4.9km」の木標。 県道を進み御坂川に架かる「桜橋」を渡る。川名は三坂川ではなく「御坂川」となっていた。

三坂と御坂
ところで三坂峠、であるが、この地に限らず「みさか」を冠した峠は多い。太宰治の「富士には月見草がよく似合う」で知られる甲斐・駿河国境には御坂峠がある。昨年、信越国境・塩の道を辿ったとき、地蔵峠ルートには三坂峠があった。
御坂、三坂、神坂、見坂、美坂、深坂などと表記は様々であるが、もとは「神(かみ)の坂=みさか」とされ、古代において祭司が執り行われたところ、と言う。古代東山道の濃信国境の「神坂峠」が「科野坂・信濃坂」と呼ばれたように、古代は「峠」を使わず通常「さか(坂)」が使われていた。さ=滑りやすい、か=場所、の意味である。
古代に「峠」が使われなかったのは、その言葉がなかったため。「峠」という国字(日本で独自に作られた漢字)が登場した次期は、室町時代とも鎌倉時代とも、平安時代末期とも言われ、正確にはわかっていない。「たむけ=手向け」をその語源とし、道中の安全を祈って手向け=神を拝む、の意をもつ「峠」ではあるが、「山の上、下」とは言い得て妙である。

桜橋を渡った遍路道は少し県道を進み、鍋釜橋で県道から離れる。県道207号は御坂川の右岸を進むが遍路道は鍋釜橋の脇にある「三坂峠4.5km 46浄瑠璃寺4.0km」の木標を目安に小径に入る。「へんろ道」と表記されている、それらしき趣の道ではある。「三坂峠4.8km 46浄瑠璃寺3.7km」ですこし大きな農道に戻り、先にを進む。


網掛け石;12時18分_標高173m
道を進むとお堂が見えてくる。昭和6年(1931)に建てられた大師堂である。大師堂では遍路宿に泊まれない遍路が雨露を凌ぎ、自炊をしていたとのことである。またこの辺り、榎集落の共有地の草むらの中には、天保9年(1838)、嘉永6年(1853)など江戸時代の遍路墓と並んで、昭和33年(1958)の新しい遍路墓もある(「えひめの記憶」)とのこと。

大師堂の道を隔てた前には大きな石が横たわる。網掛け石と呼ばれる。案内によれば、「弘法大師の網掛け石;昔。弘法大師が大きな石を網に入れてオウク(担い棒)で担っていたところ、オウクが折れて山に飛んで行きました。落ちた所をオオクボ(松山市久谷町大久保)というようになりました。
また、石の一つは下の川に落ち、もうひとつはこの石であるといわれています。この石は、表面に無数の編み目がついていることから「網掛け石」といわれています」とあった。
この弘法大師の伝説、大岩は三坂峠にあり旅人・遍路の往来を阻害していたとの説明もある。それもあってか、遍路は岩の割れ目に納札を挟み込んだり、賽銭をあげて通過する習わしもあった(「えひめの記憶」)、とか。
また、この網掛け石のそばには、「ぢやうるり寺へ三十三丁」と刻まれた浄瑠璃寺を案内する道標と網掛け石と自然石の石碑が建つ。自然石の碑文は摩耗しても読めないが「弘法だいしあみかけい志、かたに(片荷)ハ川にあり、明治四十四年四月建之 日向国南那河郡中吋高橋満吉 仝村目井津神恵曽平」と刻まれている、と言う。

榎集落の馬頭観音;12時26分
「三坂峠5.2km 46番浄瑠璃寺3.3km」と書かれた木標をみやりながら進むと道の一段高いところに右手に小祠と石碑がある。祠の名も記されていないし、石碑も摩耗し文字も読めない。手水舎に「○に金」が刻まれる。金比羅さんか? わからない。
道を進むと道の右手に馬頭観音が佇む。弘化3年(1846)に造られたものと言う。往昔の荷駄を運ぶ主要な足として使われた馬を祀るものであろう。



「一遍上人修行の地」の案内;12時38分_標高135m
馬頭観音から200mほどで御坂川の支流に架かる榎橋を渡り県道207号に合流する。県道から山麓方面へと向かう道隅に「窪寺遺跡」と刻まれた石碑と「一遍上人修行の地」の案内。
「一遍上人修行の地 。時宗の開祖、一遍上人は延応元年(1239)二月十五日、伊予道後の地宝蔵寺に伊予の豪族河野道広の二男として生まれる。十三歳で、九州太宰府に渡り名僧聖達の元で仏堂を学び二十五歳のとき父の病死で伊予に戻る。
一遍三十三歳の春長野の善光寺で浄土教の「二河白道図」を模写し、その年の秋、当地窪野に閑地を構え東壁に「二河白道図」をかかげ、祈り続け二年の修行を重ねたのち、根本教理を確立します。
一遍は根本教理を検証するため、、岩屋寺を皮切りに、全国を「捨て聖」の旅に出る。「南無阿弥陀仏」を唱え人々に念仏札を配りました。一遍の気高さに親しむと共に「念仏踊り」に歓喜躍動しました。これが盆踊りの原型と言われている。一遍は五十一歳で神戸、観音寺で入寂されました(松山市坂本公民館事業推進委員会)」とあった。

修行の地に行ってみたいとは思うのだが、旧跡の地までの距離が書かれていない。まだ歩き遍路の最初のお寺さまにも辿りつけていない状態であり、今回は見合わせた。
以下は後日修行の地を車で訪れたときのメモ;

一遍上人窪寺閑室跡
「窪寺遺跡」の石碑があったところから上り4キロ弱だろうか、「一遍上人窪寺閑室跡」に着いた。閑室は開けた田園地帯と山地の境にあった。深山幽谷の地といった風情ではない。昔は如何なる風情であったのだろう。閑室前には彼岸花が美しく咲いていた。
「一遍窪寺遺跡」と刻まれた石碑と「一遍上人窪寺閑室跡」の碑があり、「一遍上人窪寺閑室跡」の碑文には「文永8年(1271)秋、33歳の一遍上人はこの窪寺というところに閑室を構え、善光寺で模写して持ち帰った「二河白道図」を本尊として掲げ、万事を投げ捨てて念仏を唱えつづけた。そして、三年間、勤行するうちに、「十一不二頌(じゅういちふにじゅ)」という法門に達した。 その趣意は、昔、法蔵菩薩は、衆生と共に往生しようという願がかなって阿弥陀仏になった。だから、衆生が念仏すれば。仏と共に生きながら往生することができる、というものであった。
この窪寺は一遍上人成道の地として極めて重要な場所である」とあった。
○「十一不二」
「十一不二」とは大雑把に言えば、念仏を「一」回唱えるのも、「十」」劫(十劫とはインドの時間で最大のもの。はてしなく永遠に続く時間、といったもの)の間念仏を唱えるのも「不二=同じ」といったものだろう。

一遍上人窪寺年仏堂と歌碑
閑室に向かう途中、窪野町本組公民館手前で左に入る道を進み、溜池手前で道が切れるところに一遍上人窪寺年仏堂と歌碑。一遍上人窪寺年仏堂は民家の庭端に建つ。歌碑はその右側、溜池の堤下といったことろにあり、その脇に「一遍上人和歌」の案内があった。

一遍上人和歌
「身を数(す)つる す徒累(すつる)心を寿轉(すて)つ連半(れば) 於裳日(おもひ)なき世耳(み)すみ曽(そ)めの袖
弘安3(1280)年の秋、白河の関を越えて奥州に入った一遍上人は、江刺(えさし)の郡(こおり)に祖父河野通信の墓を訪ね、その菩提を弔っています。 世を捨て、身を捨て、心を捨てた一遍上人が、その墨染の姿を祖父の墓前に見せて、祖父の浄土往生を祈るということであります。「一子出家すれば九族天に生まれる」と申します。一遍上人をはじめ従う僧尼の念仏によって通信も昔の迷いの夢を捨てて極楽へ往生したであろうと思います(一遍上人窪寺念仏堂 歌碑建立管理委員会)」。

和歌を詠みやすくメモしておく。「身を捨つる 捨つる心を 捨てつれば 思ひなき世み すみそめの袖」。「捨聖」とも呼ばれ、身を捨て 心を捨て 世を捨てた一遍上人が祖父の墓前で浄土往生を祈る姿を詠んだものだろうか。

四里・里程標;12時36分
「窪寺遺跡」から県道を進む。すぐ御坂川があり窪野橋がかかるが、その手前の藪の中に「松山札の辻より四里」と書かれた里程標があった。結構新しそうである。で、その横に古い石碑が建っていた。メモする段階でチェックすると「三里・里停標」の上半分と言う。
三里の里程標を新しく建てる際、建てるスペースがないということで、下半分がない古い三里・里程標を捨てたとのことだが、それを地元の方が大切に保管していたとのこと。本来の里程標は榎橋の辺りにあったようだが、橋材に使われているうち破損m流失したとのことである。

伊予鉄・丹波バス停;12時38分
御坂川に架かる窪野橋を渡り丹波集落に入る。橋を渡ったところに伊予鉄・丹波バス停がある。松山方面から三坂峠を上るハイキング時のバスの終点である。往昔、五軒の茶屋があり遍路や三坂往還を通る人で賑わっていたとのことであるが、今は広いバス停スペースとなっている。



子規歌碑と「一遍上人窪寺御修行之旧蹟」;12時40分

バス停の対面の石垣上に石碑が見える。石段を上ると「子規の歌碑」と「一遍上人窪寺御修行之旧蹟」の石碑があった。

子規の歌碑
子規の歌碑には和歌と漢詩。案内によれば
「子規歌碑 旅人の歌登りゆく若葉かな
三坂即時
草履単衣竹杖班 孤村七月聴綿蛮
青々稲長恵原里 淡々雲懸三坂山

子規句稿「寒山落木」明治25年に「三坂」と題した句と、「漢詩稿」明治十四年「三坂即事」の漢詩。
昔の土佐街道の難所、三坂峠の風物詩。明治十四年七月と二十三年八月、子規は二度久万山に遊んだが、重信川を渡り、恵原を経て三坂峠への旧道を登った。現在も往時を偲ぶ石畳が残っている。昭和二十七年に青年団が建てた。 (俳句の里松山 松山市教育委員会)」とあった。

和歌の碑文は俳人で知られる柳原極堂の書。子規22歳の時、札所45番・岩屋寺を訪れた折の句。三坂峠への上りは既に完成していた四国新道(三坂新道)を通り、帰路は三坂峠から旧道を下った、とか。「若葉の中、お遍路さんの鈴の音を響かせ、ご詠歌を歌いながら峠道を辿る」姿を詠んだもの。
漢詩の七言絶句の概訳は「草履にありきたりな格好で杖突きながら並んで進み、村の七月は小鳥の声が聞こえる。青々と稲が育つ恵原の里、三坂の山には淡く雲が懸かっている」といったところだろう。
それはそれとして、この漢詩を発表したのは上でメモしたように明治14年(1881)とのこと。友人と三坂峠を越えて札所45番・岩屋寺を訪ねた折の作という。で、子規が生まれたのは慶応3年(1867)。ということは、子規13歳の作。あれあれ。

「一遍上人窪寺御修行之旧蹟」

一遍上人修行の地と読めるが、上でメモした「閑室跡」など、修行の窪寺の場所については諸説あるようだ。碑文は景浦浦稚桃(大正から昭和にかけて実績を残した郷土史家)。

文政の石碑;12時53分
丹波バス停を離れ県道を進むと、宮方バス停のところに常夜灯。中台は平に削られ、火袋もまん丸。手掘りとは思えない。それほど古いものではないだろう。その先で県道は二手に分かれバイパスとなるが、その二手に分かれる手前の曲がり角の辺りに路傍の石塔がある。側面には「文政二年」と刻まれているが、正面は摩耗し文字が読めない。石塔の前にはお水が供えられていた。

バイパスとの分岐点の旧道に向け「三坂峠6.9km 46番浄瑠璃寺1.6km」の木標。旧道、といっても県道207号ではあるが、道を進むと「圓福寺」の案内 真言宗豊山派。開基不詳。本尊の延命地蔵菩薩は弘法大師の作との伝えが残るようだ。女遍路の墓が無縁仏の墓石群の中に1基立つ、と言う。

出口橋の道標;13時9分
古き趣の関屋の集落を進むと御坂川に架かる出口(いでぐち)橋に。県道は川を渡ることなく御坂川の右岸を進みバイパスと合流するが、遍路道は端を渡り「県道194号久谷森松停車場線」に入る。
出口橋の東詰に半分埋もれたような石標があった。明治40年(1907)に立てられたもの、と。「えひめの記憶」には「昭和33年(1958)の出口橋改修の際に下半分が折れて上部だけが残っている道標」とあった。
また同じく「えひめの記憶」には「 伊藤義一の『埋もれた土佐道』によると、昭和の初めころまでこの出口橋あたりに、三坂峠を下って来た旅人のため客馬車が1台待っていて、汽車の出る森松駅までを日に何回か往復していたようで、明治36年(1903)測図の地形図を見ると、出口橋から森松にかけての道は整備されており、荷馬車の行き交う当時の様子をうかがうことができる」との記事があった。
上で県道194号久谷森松停車場線の「森松停車場」って何?と思っていたのだが疑問解決。また、橋を渡れば松山市窪野町を離れ「松山市久谷町」に入る。

久谷支所出口出張所の道標;13時10分
橋を渡る都直ぐに松山市役所久谷支所出口出張所。窪野地区や久谷地区の見所などを描いた大きな案配図がある。成り行き任せの散歩を旨とする我が身には誠にありがたい。その案内図の右手、道脇の駐車場の上の柵のところに自然石が唐突に立つ。道路拡張の際にここに移された、と。天保2年(1831)のものと言う。

大黒座;13時15分
遍路道を進むと道の左手に「大黒座」の幟。元は酒造業を営んだ黒田家が酒造業を廃業後、芝居小屋とした。その後映画館となったが映画館も昭和38年には閉鎖されたが、建物は維持・保存されていると言う。

国道33号分岐点の道標と常夜灯;13時25分
大黒座を越えると浄瑠璃町に入る。10分ほど歩くと国道33号へと向かう農道との分岐点。分岐点に「三坂峠8.2km 46番浄瑠璃寺0.3km」の木標とその横に常夜灯。天保9年(1838)に造られたもの。
常夜灯の道の反対側、ガードレールの脇に自然石の道標がある。文政2年(1819)のものであり、浄瑠璃寺を案内しているとのことである。往昔の遍路道は、この地点を国道33号方面へ左折し、浄瑠璃寺へと向かう小径を辿ったようである。
国道33号への農道をチェックすると、360度回転の「塩ヶ森トンネル」のところに通じる。塩ヶ森トンネルが開削される以前の桧垣伸氏が建設に尽力した四国新道(三坂新道)の道筋かとも思ったのだが、改修以前の三坂道は大友山の東を進むこの農道ではなく、大友山の西側を砥部町総合公園の東側を通って砥部町の宮内へ出る道であったようだ。

浄瑠璃寺;13時29分_標高87m
浄瑠璃寺に到着。このお寺さまは松山市内に八つある札所の遍路・打ち始めの霊場。参道入口の浄瑠璃寺と刻まれた石碑の手前には「永き日や衛門三郎浄るり寺」と刻まれた正岡子規の句碑が立つ。参道の前の小川の橋脇に手印の道標が見える。次の札所である八坂寺を指しているようだ。

衛門三郎
「永き日や衛門三郎浄るり寺」って、どういう意味?また衛門三郎とは? 「えひめの記憶」を参考にまとめると、衛門三郎は四国遍路の元祖とされる。元祖たる所以は、性悪にして極悪非道であった衛門三郎が弘法大師の霊験に接し発心し、弘法大師を求めて四国遍路の旅を二十一度も辿る、といった発心譚 が、元々は、特に弘法大師との関わりはなく邊路を辿り霊場訪ねると言った四国遍路が、中世期に「弘法大師を求めて=大師と共に(同行二人)」と言った弘法大師信仰を核に整備されてゆく四国遍路のモチーフにぴったりあてはまった故ではあろう。

衛門三郎の発心譚
伊予国荏原荘(現在の松山市恵原(えばら)町)に住む長者であった衛門三郎。性悪にして、ある日現れた托鉢の乞食僧の八日に渡る再三の喜捨の求めに応じず、あろうことか托鉢の鉢を叩き割る。八つに割れた鉢。その翌日から八日の間に八人の子供がむなしくなる。
子どもをなくしてはじめて己れの性、悪なるを知り、乞食僧こそ弘法大師と想い、己が罪を謝すべく僧のあとを追い四国路を辿る。故郷を捨てて四国路を巡ること二十一度目、阿波国は焼山寺の麓までたどりついたとき、衛門三郎はついに倒れる、と、今わの際に乞食僧・弘法大師が姿を見せる。大師は三郎の罪を許し、伊予の国主河野家の子として生まれかわりたいとの最後の願いを聞き届ける。
三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に「右衛門三郎」と記した小石を握らせた。その後、河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、そこには「右衛門三郎」の文字が記されていた、と。この話は松山市にある石手寺の名前の由来(安養寺から石手寺に変更)ともなり、その石は寺宝となっている、とのことである(「えひめの記憶」を参考にメモ)。
○「永き日や衛門三郎浄るり寺」
で、この衛門三郎の発心譚を踏まえ「長き日や」って、どういう意味だろう? 発心しこれから遍路をはじめ菩提に至る長い道のりなのだろうか。

四国遍路の経緯
四国に生まれ、遍路とかお大師さまは身近な存在ではある。折に触れて札所を訪れたことも結構多い。とはいうものの、そのすべては車でちょっと立ち寄る、といったもの。
で、改めて遍路について考えるに、遍路のことはあまりよくわかっていない。散歩のメモをはじめ、八十八の霊場は弘法大師が開いた真言宗だけではない、ということがはじめてわかった。真言宗の他、天台宗が4寺、臨斎宗が2寺、曹洞宗が1寺、時宗が1寺もある。その他にも浄土宗、法相宗、国分寺は華厳宗、また神仏習合のお寺もある、と言う。四国八十八の霊場=弘法大師空海=真言宗、と思い込んでいただけに、新鮮な驚きであった。それではと、四国八十八の霊場、また遍路についてちょっと整理してみようと思う。

四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
とはいうものの、四国遍路が辿る四国八十八カ所霊場は霊地信仰であって熊野信仰といった特定の信仰で統一されたものではないようだ。自然信仰、道教の影響を受けた土俗信仰、仏教の影響による観音信仰、地蔵信仰などさまざまな信仰が重なり合いながら四国の各地に霊場が形成されていった。 それが、四国各地の霊場に宗派に関係なく大師堂が建てられ、遍路は大師堂にお参りする大師信仰が大きく浮上してきたのは室町の頃、と言われる。そこには遊行の僧である高野聖の影響が大きいとのことである。「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故ではないだろうか。単なる妄想。根拠無し。

ところで、この霊地巡礼が八十八箇所となった起源ははっきりしない。平安末期、遊行の聖の霊地巡礼からはじまった四国の霊地巡礼であるが、数ある四国の山間や海辺の霊地は長く流動的ではあったが、それがほぼ固定化されたのは室町時代末期と言われる。高知県土佐郡本川村にある地蔵堂の鰐口には「文明3年(1471)に「村所八十八ヶ所」が存在した事が書かれている。ということはこの時以前に四国霊場八十八ヶ所が成立していた、ということだろう。遍照一尊化も室町末期のことであり、四国遍路の成立が室町末期と言われる所以である。
現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。

遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。

縁起
境内に入ると正面に本堂。本堂前の老木・樹齢1000年のイブキビャクシンは松山市の天然記念物に指定されている。その横に大師堂。大師堂では修験の僧が経を挙げていた。
境内にあった案内に拠ると、「四国八十八か所の四十六番札所である。寺名は医王山浄瑠璃寺。本尊は薬師如来である。寺伝によると、和銅元(708)年、行基が開山、自ら白檀の木で本尊をつくったという。
室町時代末期、荏原城主平岡通倚(みちより)が病に苦しみ、この寺の本尊に祈願し、まもなく全快したため、土地を寄進して堂宇を建立し、深く帰依したと伝えられる。その後正徳5(1715)年、山火事で建物、本尊すべてが焼失したという。
江戸時代中期、この村の庄屋井口家から仏門に入り、この寺の住職となった尭音(ぎょうおん・1732~1820)が寺を再興したと伝えられている。尭音は、久万からの遍路道が、毎年のように出水時に流され、人々が難儀していることを知り、七十六歳で托鉢僧となった。
各地を回り喜捨を集めた尭音は、岩屋寺あたりから順に川に橋をかけ、最後に立花橋をかけた。今も、丹波橋、出口橋など、尭音がかけた八本の橋の名の幾つかが伝えられている」とあった。
荏原城主平岡通倚
案内にある、荏原城主平岡通倚は、室町時代後期の伊予の豪族河野氏の重臣。四国統一を目指す長曽我部氏への抑えを担った、平岡通倚は天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐では道後の湯築城に籠もるも、河野氏は降伏し荏原城も廃城となった。荏原城は浄瑠璃寺の北におおよそ1.5キロ、県営運動公園の東、県道194号傍の平野に立つ平城である。

仏足石
境内を彷徨う。仏足石に足を置いてはみたものの、仏足石って、古代インドには偶像崇拝がなかったため、仏足石とか菩提樹で釈迦やブッダを象徴したものと言う。足を置いたりしたら不敬にあたるのではないかとも思い始めた。

九横封じ石
石の横に立つ木標には「7薬師如来は九横(九つの災難)を救う 一、不治の病の患る 二、暴力非行に会う 三、淫酒に耽れる 四、火熱傷をおう 五、水難にあう 六、獣蛇に咬まれる 七、崖から転落する 八、毒呪に中る 九、渇き飢える」とあった。

説法石
「おかけください、説法石 おしゃかさまが説法され修行されたインドの霊鷲山(りょうじゃせん)の石が埋め込んであります。」と。

網掛け石
境内に「網掛け石」があった。上に述べた「網掛け石」のところで、「石の一つは下の川に落ちた」とメモしたが、この石はその川に落ちた石と言われる。

経塚
境内には経塚もあった。経塚とは仏教経典を土中に埋納した塚のこと。もとは、末法の世に仏教経典が失われることを危惧し、弥勒菩薩が現れるまで保存するため、ということではじまったようだが、次第に個人的祈願成就(極楽往生、現世利益)と変わっていった、と言う。また、道標がふたつほどあるとのことだが見逃した。

浄瑠璃町の金比羅常夜灯;13時45分?標高84m
浄瑠璃寺の北側を成り行きで進み、次の目的地である札所47番八坂寺に向かう。 「47番八坂寺0.8キロ」の木標に従い田圃の中の農道を進むと常夜灯があった。自然石の常夜灯の正面には「「奉、石/金/八、八坂組」と刻まれている。石鎚、金比羅、八坂寺、ということであろうか。

生目神社;14時5分_標高179m
常夜灯の角を左に折れ少し八坂寺に向かうと、道脇に「生目神社」と刻まれた大きな石と「生目神社」の道案内。ちょっと距離はありそうだが、「生目」という言葉に魅かれて寄り道する。
結構キツイ坂道を登り、生目神社の案内から20分ほどで大友山(標高407m)の中腹にある社に着く。古き鳥居を潜り、拝殿、社殿にお参り。
案内に拠ると。「生目神社の由緒・沿革 主祭神;素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫(くしなだひめ) 配神;景清分霊
境内神社;大山積神社(大山積命)阿波島神社


社伝によると、嘉承元年(1106)疫病鎮護のため小倉小太夫が素戔嗚尊(すさのおのみこと、奇稲田姫(くしなだひめ)」を勧請し素鵞神社として祭祀し、永禄12年(1569)から牛頭天皇宮と呼ばれ、明治になって再度素鵞神社に戻り、明治42年関谷の地から現在の生目山に移転され生目神社と名付けられということです。
鎌倉時代の平家の侍大将の平景清(たいらのかげきよ)は 屋島の合戦に破れ宮崎に逃れました。しかし源氏の繁栄を見るのが口惜しく、ついに自分の目をくりぬいて岩に打ち付け盲目となりました。岩にくっついた眼はいつまでもぎらぎら光っていたが、そのうちに岩に眼の跡が残り人々は怖れ拝みました。ところが不思議なことに、眼を患っていた人の眼病が治ったのです。これより後、生目神社として祀りました。
このことを聞いた当地の庄屋さんは、日向(宮崎県)からご神体(景清の短刀といわれている)を勧請(神様をお迎えすること)して当地に祀ったのが、生目神社のはじまりということです」とあった。

いつだったか秩父の札所を巡り札所26番円融寺を訪れたとき、寺宝として守られる鳥山石燕作の「景清牢破りの絵馬」に出合った。県指定文化財の牢破りの絵馬は、近松門左衛門の浄瑠璃、『出世景清』を題材にしたものであろう、か。
その時は、「景清って、平景清とも藤原景清、とも。俵藤太こと藤原秀郷の子孫。平家方の武将。その勇猛さゆえに悪七兵衛景清と呼ばれる。屋島の合戦でその勇猛ぶりを示すも、壇ノ浦の合戦で破れ、捕らえられ、獄中で断食し果てた。が、景清牢破りの段ではないけれど、どういうわけか、全国に景清を巡る伝説が残り、ために、浄瑠璃や歌舞伎でもおなじみの人物となっている。または、浄瑠璃や歌舞伎で有名になったために全国に伝説が広まったのかもしれない。いずれにしても、景清の何が民衆の琴線に触れたのであろう」とメモした。
が、この縁起に拠れば、景清は獄死することなく、宮崎に逃れた、と言う。その勇を惜しんだ頼朝により死罪を免じ宮崎に僧として追放したとの言い伝えもある。浄瑠璃や歌舞伎に取り上げられたバリエーションのひとつであろう、か。 それはともあれ、その宮崎の地で、すべての迷いの元は眼にあると、その眼をくり抜くとった勇者の生き様が民衆の心を捉え、勇者の眼故に眼病に霊験あるといった民間信仰が各地に広まっていったのだろう。単なる妄想。根拠なし。

お遍路さん
生目神社から八坂寺への分岐点まで戻り、道を進む。道脇に「お遍路さん」の案内。「四国霊場八十八カ所を巡礼することまたは巡礼する人を「遍路」といいます。お遍路さんは図のような格好をして巡礼していましたが、今は服装にこだわることはあまりないそうです。しかし行程は長く、険しい山道もあるので足固めはしっかりしておきましょう」とあり、「頭;菅笠、首;輪袈裟と納経箱、衣服;白衣、手;金剛杖、手;手甲、念珠、 足;脚絆、地下足袋又はわらじ」姿のお遍路さんのイラストがあった。

札所47番・八坂寺;14時24分_標高90m
白い塗塀の美しい民家の立つ道筋の先に八坂寺。山門前の左手に「手印の道標」、右手にも「三十五丁」と刻まれた道標が立つ。

宝篋印塔
境内に入り、参道を進むと「宝篋印塔」。案内には「宝篋印塔 過去現在未来にわたる諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔を宝篋印塔と言い、五輪塔とともに普遍的なものである。
宝篋印塔は平安末期から造立され、基礎(基台)・塔身・笠・相輪からなり、方柱の部分が宝である陀羅尼経を納める塔身である。本塔は190センチメートルで、石質は花崗岩である。笠の四隅の隅飾突起は直立ぎみであり、造立年銘を欠くが、像容、製作技法などが鎌倉様式であるので、鎌倉時代後期末と推定している」とあった。

句碑
参道を進むと左手に鐘楼。鐘楼の参道逆側には「お遍路の誰もが持てる不仕合わせ」と刻まれた句碑がある。案内によると、明治32年(1899)に松山に生まれ高野山金剛峯寺第406世座主となった高僧の詠んだ句。高浜虚子と知己を得、師事。子供がむなしくなり、四国巡礼の旅に出たとき、「遍路の思いにはそれそれの想いと影があることを想いよんだもの」とあった。俳号森白像。

縁起
参道を進むと正面に本堂が建つ。境内には左手に大師堂。大師堂と本堂の間には閻魔堂。その左には不動明王増。本堂右手には権現堂、その裏手に十二社権現が建つ。
お寺様の案内には、「四国八十八か所の四十七番札所である。熊野山妙見院と号し、真言宗醍醐寺の寺院である。寺伝によると、600年代に修験道の開祖役行者小角が開山、大宝元(701)年に文武天皇の勅願所として小千(越智)伊予守玉興が七堂伽藍を建てたという。
中世には、紀伊国(和歌山県)から熊野十二所権現を勧請され、熊野山八王寺と呼ばれるようになった。七堂伽藍をはじめ十二の宿坊、四十八の末寺を持つ大寺院で、修験道の根本道場として栄え、隆盛を極めたという。
戦国時代に陛下のため堂宇が灰燼に帰し、後に再興して今の地に移ったと伝えられる。この寺は修験道場のため、住職は代々八坂家の世襲であり、百数十代になるという。
本尊は阿弥陀如来坐像(愛媛県指定有形文化財)で鎌倉時代の恵心僧都源信の作と伝えられる(松山市教育委員会)」とあった。

八坂寺の寺名は、大友山に八箇所の坂を切り開いて修験の伽藍を創建し、かつ、ますます栄える「いやさか(八坂)」に由来する、とのことである。
山門に菊の御紋章があったのは、勅願寺であったためであろうか。また、弘法大師は寺の創建から百余年後の弘仁6年(815)、この寺を訪れ修法し荒廃した寺を再興して霊場と定めたと。

徳右衛門丁石
ところで、山門横に「三十五丁」と刻まれた道標は「徳右衛門丁石」として知られる。浄瑠璃寺のところで、境内にふたつの道標がある、とメモしたが、そのひとつは徳右衛門道標ということであったのだが、見逃したこともあり、徳右衛門道標とメモせず、単に道標としたのだが、ここで実際に目にし、徳右衛門丁石って何?と気になりチェックする。

徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。
因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。

愛媛最古の道標;14時33分
八坂寺の山門を出ると、道標にすぐ左に折れる。水路に沿って小径を進み、えばら池(土用部池とも)に至る。池端にある「お遍路の里 えばらMAP」で今から訪ねる恵原町の概要を確認。
池の東側から北側の道に回り込みしばらく進み、右手へと分岐する道のある堤防下に「48番西林寺4.1km」と古い自然石。この石は愛媛で最古、四国で2番目に古い道標とのことである。「貞享二年三月吉日」と刻まれた文字と広げた掌。その下に「右 へんろ道」とある。なお、四国最古といわれる道標は、室戸市に「貞享二年二月吉日」建立のものであるという。

道標;14時40分
道標に従い、池堤下の道から分かれ、左手に素戔嗚神社を見やりながら田圃の中を進み、県道194号と合流するところ、立派な生垣と瓦のついた白い塗塀に囲まれた民家の脇に手印のついた道標。手印の下には「ぎゃく へんろ道」とはっきりと刻まれている。

文殊院;14時43分
道標から北に進む文殊院がある。番外札所ではあるが、いくつかの名所案内に四国遍路の始祖伝説である衛門三郎の物語で知られる寺ということであるので、ちょっと立ち寄り。境内地は彼の屋敷跡であると伝えられる。
案内に拠ると、「当院は、弘法大師が衛門三郎の子供の供養と共に、悪因縁切の御修法をなさった四国唯一の、有り難いお寺であります。本堂には大師が刻まれたご自身のお姿と延命子育地蔵尊をお祀り、四国遍路元祖、河野衛門三郎の物語が記された、寛正時代の巻物も保存しております。
その昔は徳盛寺と呼ばれていましたが、弘法大師が文殊菩薩様に導かれて逗留された後、文殊院と改められました。
昭和41年松山市久谷町植樹祭の際、天皇皇后両陛下行幸にあたり、故八木繁一博物館館長により、当院を四国八十八ヶ所発祥の地であると言上なさいました。当院の文殊菩薩さまは、お大師さまをお導きなさった知恵の文殊さま(後略)」とあった。

上でメモした「えひめの記憶」では衛門三郎発心譚では、唯一の願いは「河野氏」として生まれかわることとあったが、ここでは河野衛門三郎と記されていた。四国遍路を「四国八十八ヵ所霊場」と組み上げていった真念は、『四国?礼功徳記』の中でも、「予州浮穴郡右衛門三郎事、四国にていひ伝えかくれなし。貪欲無道にて、遍礼の僧はちをこひしに、たヽかんとしける杖鉢にあたり、鉢を八つにうちわりしが、八人の子八日に頓死せり。是より驚きくやミ発心し、遍礼二十一反して、阿州焼山寺の麓にて死けり。其時大師御あひ、その願をきこしめし、石に其名を書にぎらしめ給ひければ、郡主河野氏の子にむまれ、かのにがりし石、そのまヽ手の内にありて、右衛門三郎なる事をしれり(「えひめの記憶」)」と記しているように、右衛門三郎は河野との姓はなく、所詮右衛門三郎であるのだが、この案内に「河野衛門三郎」とあるのは、伊予の豪族である河野氏の出自を聖ならしめるポリティックスが、効きすぎた結果であろう、か。

「左八塚道」の石標;14時50分
文殊院から一筋先の四つ角に手印のついた道標。直進方向は「へんろ道 左八塚道」と刻まれる。大正2年(1913)に建てられたもの、とか。八塚道は八つの古墳群があるとのこと。左に折れて「八ッ塚」に向かう。
ちなみに、この道をそのまま直進すれば、道の直ぐ東に上でメモした平城の荏原城があったのだが、見逃した。

八塚古墳;14時52m_標高53m
道を進むと、道脇に塚があり塚の上には木が茂る。塚の前には「文殊院八塚群集古墳」と刻まれた石塔と案内。「ここから西方の松山平野の南丘陵部には、土壇原(どんだばら)、西野、大下田南、釈迦面山等の古墳群が数多くあり、八ツ塚はそれらに続く平野部に位置する八基の群集古墳である。
文殊院所有の、これらの墳丘の形は、後世の開発によって変形しているが、一号・三号・五号・八号墳が円墳、二号・四号・七号墳が方墳である。円墳は直径約七メートルから十四メートル、方墳は一辺十メートルをやや超える程度で、墳丘高はいずれも約一.五メートルから三.五メートルの規模である。石室は未調査だが横穴式石室、時代は古墳時代終末、農業祭祀の歳時墳と考えられている。
この八ツ塚は、四国遍路の元祖といわれる衛門三郎の八人の子供を祀ったとの伝説も残っており、塚には小祠が置かれ、石地蔵が祀られている。古墳と伝説の関係が、いつごろから語り伝えられるようになったのかは、不明である」とあった。

その他の塚は何処に?辺りを見廻すと、塚から北に進むる水路沿いの道に木々の繁ったこんもりした塚らしきものが見える。とりあえず北に道を進み、これが古墳?などとちょっと不安になりながらも、先に進むと田圃の中に小さいけれども、如何にも古墳といった塚が幾つか続く。田圃の緑と、そこに浮かび上がる塚の緑とそこに茂る木の緑は誠に美しい。
田圃に沿って古墳を見遣りながら進み、北端にある古墳へと道を回り込み、古墳。というかちっちゃな塚に登り景観を楽しむ。

県生涯学習センター前:15時17分_標高56m
八ッ塚を見終え、本日の散歩は終了。出発点の「森松バス停」まで戻ろうと、成り行きで道を進み、県営総合運動公園まで進み、「運動公園東口交差点」を北に折れ重信川方面へと向かうと、教育センター前交差点の北に「県生涯学習センター」があり、そこに森松行のバス停があった。

森松バス停;15時39分
「県生涯学習センター」は、このメモでも頻繁に引用させていただいている「えほめの記憶」をまとめているところでもある。その努力に感謝し、せっかくのことでもあるので、予定を変更し、ここでバスをちょっと待ち、森松バス停にまでバスに乗る。
森松バス停からは、車を停めている神社に向かい、車にのって実家のある新居浜に向かい、本日の散歩を終える。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク