2014年6月アーカイブ

思わぬ「やつぼ」での怪我で途中退場となった先回の「田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖を辿る散歩」のリターンマッチ。歩き残した田名塩田の塩田さくら橋から、更に南に下る段丘崖線に沿って八瀬川を辿ること、そして相模川の氾濫原跡であろう水郷田名を歩くのが今回の主眼である。 ルートを想うに、先回の散歩では大島地区から田名地区へと「田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖」に沿って走る(ように思える)県道48号を辿ったわけだが、今回は大島地区から相模川の崖線に沿って下り、水郷田名を経て、先回の最終地である「塩田さくら橋」に向かい、そこから段丘崖線下に沿って八瀬川を下ることにする。



本日のルート;橋本駅>大島地区>田名地区>山王坂>滝の渡し跡>小沢頭首工>水郷田名>烏山用水>田名八幡宮>(久所地区)>高田橋>相模原幹線水路(大堀)>坂の窟>ひの坂>望地隧道>弁天どぶ>万平穴>望地弁財天>清水下頭首工完成記念碑>南光寺>道祖神>陽原バス停>望地>徳本念仏碑>塩田さくら橋>天満宮>八瀬川>上溝バイパス>土地改良記念碑>無量光寺>相模線・原当麻駅

橋本駅
京王線で橋本駅に向かい、南口バス停で「上大島行き」のバスに乗る。上大島のバス停から大島地区の最南端、田名地区との境の「古清水」までは結構距離があるのだが、先回の散歩で撮った写真がピンぼけが多く、「やつぼ」の写真を撮りながら「古清水上組のやつぼ」まで進む。
先回は、この「古清水上組のやつぼ」から相模川の崖線を離れ、陽原段丘面を通る県道48号を下ったのだが、今回は相模川の崖線から離れず先へと進む。

山王坂
相模原市中央区大島の最南端「古清水」地区から中央区田名に入り、田名の最北端「清水」地区の相模川の崖線上を1.5キロほど下り、中央区水郷田名の 「滝」地区に入った辺りの道脇に「三王坂」の案内。「昔、この付近に山王社があったので、この名がある」と。宋祐寺の裏手辺りの小高い丘にあったようだ。
坂の頂上辺りには高差65cmほどの「徳本碑」があったようだが、何故か見逃した。相模原市の登録有形文化財に指定されている、と。で、この山王坂の徳本碑の辺り、昔は昼なお暗き、といった場所であったようで狐が多く棲んでおり、「山王坂の狐」といった昔話も残る。
○山王坂の狐
お話は、滝地区に住む農民が徳本碑の辺りで一休みし、思わず居眠り。目が覚めると相模川の中。川を越えようと歩くのだが、実は畑を右往左往しているだけ。狐に化かされてと知った農民は仕返しを。一休みするふりをして、天秤棒で狐を打擲。以降、悪戯する狐はいなくなった、と。なんとも、解釈困難なお話ではある。

滝の渡し跡
山王坂から坂をグンと下ると「滝の渡し跡」の碑。「ここには対岸の葉山島の下河原を結ぶ渡し場がありました。そのため「下河原の渡し」とも呼ばれていました」とある。
山王坂が標高83mであり、「滝の渡し跡」の標高は56m。30m弱の比高差である。崖線が弧を描くように南東に続いている。「タキ」には「断崖」を意味することもあり、この30mもの断崖・崖線に囲まれた「滝」地区の地名は言い得て妙である。弧を描く断崖・崖線に囲まれた平坦地はその昔は相模川の氾濫原ではあったのだろう。

小沢頭首工
相模川の堤を下っていると、相模川対岸に水路施設が目に止まった。その時は、とりあえず写真を撮っておこう、といった案配ではあったが、メモする段でチェックすると、相模川右岸の愛川町小沢・六倉、厚木市山際、中依知、関口へ送られる農業用水の施設であった。
写真を拡大すると、取水堰、取水用水門、崖にはブルーの階段があり、中腹には操作室らしき建物もある。こういった農業用水を用水路に引き入れる施設を総称し「頭首工」と呼ぶが、この施設は「小沢頭首工」と呼ばれている。
小沢頭首工を起点とする用水路は小沢頭首工幹線水路と呼ばれ、取水用水門で取水された水は、水門の背後にある水路隧道(小沢隧道)を抜け、相模川右岸沿いに厚木市中依知まで下る、延長約10kmの用排水路である。
で、何故に「頭首工」と称するか、ということであるが、用水路の「頭首」に設置されるから、とのこと。「工」は施設のこと。昨年愛媛の銅山川疏水を辿ったとき、「分水口」と「分水工」の違いを疏水担当者からお教えていただいた。ともあれ、とりあえず気になったものは写真に撮っておくものである。

水郷田名
堤を離れ水郷田名の街並みへと向かう。かつては相模川の氾濫原、そして後に一面の水田が拡がっていたであろう「水郷田名」も現在は住宅で埋め尽くされている。
氾濫原>水田>水郷田名、と連想は美しいのだが、「水郷田名」という名が正式な地区名となったのは、そんなに昔のことではない。古くは「鮎川」と呼ばれたとも伝わる相模川はアユ漁が盛んであり、風光明媚な景観と相まって、大正期以降、この地は東京や横浜から簡便に遊びに行ける行楽地として、「水郷田名」の名で知られるようになった。昭和10年(1935)には『鮎の水郷田名』として、横浜貿易新報社(現神奈川新聞)による、県下45佳選に選ばれてもいる。そんな通称「水郷田名」が正式な名称となったのは平成17年(2005)のこと。相模原市中央区水郷田名となった。
○久所
それ以前のこの地の地名は「久所(ぐぞ)」である。平成17年(2005)の住所表示の変更以前は相模原市田名の「字」として、「滝」「久所」、「久所河原」があった。その「久所」は「公文所」からとの説がある。公文所は後に「政所」となり大江広元が権勢を振るった鎌倉幕府の行政機関として知られるが、平安中期には既に朝廷、有力寺社の家政治機関として国衙の租税・権勢家所領の年貢を取り扱う機関として公文所は各地の国衙や荘園に置かれていたというから、その歴史は古そうである。
で、いつの頃か、この公文所から、「文」を省略して「公所」と呼ばれるようになった、とか。その「公所」が「久所」となったのは、この地が大山街道の宿場として栄え、渡し場もあったわけだが、洪水・大雨の度に旅人は足止めをくらい、「久しく宿に留まる」ことも多かったため、公>久に転化した、とのこと。ちょっと出来すぎの話のようではあるが、ここではそういうことにしておこう。

烏山用水
堤を離れ田名水郷の宅地の中に向かう。地図に田名八幡が見えたので、そこにお参りでもと歩を進めると水路に出合った。石碑に「烏山用水」と刻まれていた。「烏山」の名前の由来は下野国那須郡烏山に城を構えた烏山藩から。その烏山藩は大久保氏が藩主となった江戸期の享保13年(1728)年間以降、相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。江戸時代、高座郡田名村と呼ばれたこの地は隣接の大島村とともに烏山藩の飛び地領であったわけである。

烏山用水は、その烏山藩が幕末の安政5年(1858)、久所河原の水田を拡げるべく相模川から取水した用水路。先ほど歩いた山王坂の下辺りで取水し、相模川の段丘崖を540mに渡って穿ち集落内に出口を設け、ここから南へは掘割を開鑿して導水した。また、高田橋の少し上流の地点からは旧来の堤防につなげて新しい堤防を築いていったという。
烏山藩が用水路を造り水田開発を計った目的は悪化した藩財政立て直しのため、とのこと。凶作による飢饉が発生した天保期に本領の下野領が荒廃し、天保7年(1836)には借財が3万4千両余になるほど藩財政は悪化していた、と言う。この地、田名村の相模川低地一帯の開発は年貢増収による財政再建を企図したものであろう。
しかしながら、この烏山藩の計画は目論見通りにはいかなかったようである。用水路が完成した翌年の万延元年(1860)、洪水によって堤防が決壊し新田は濁流に流失し、用水は破損してしまった。「然ルニ万延元年洪水ノ害ヲ蒙リ平田埋没シ水路杜絶セリ」と文書に残る。決壊したのは新旧堤防のつなぎ目あたりであったという。「全く年貢増徴のみを考えて、新田の開発が広過ぎ、それを守るための堤防が水勢水圧を考慮せず(『相模原市史』)」、ということが堤防決壊の因と断じる。
この「水路杜絶」した烏山用水を蘇らせたのが、地元の篤志家「江成久兵衛」である。久兵衛は28年の年月と私財を投げ打ち築堤事業を進めた。彼の築いた堤防は「久兵衛堤防」と呼ばれたようだが、現存してはいない。 江成久兵衛の努力や、明治、大正と引き続き行われた改修により、烏山用水は「新堀」と呼ばれるようになり、長年に渡り久所や望地の水田を潤してきた。しかし、この用水路も、世の移り代わりにより水田も消え、用水としての使命も薄れ、都市化とともに生活排水により水路も汚れるに任せるようになったが、昭和63年度(1988)から水路と下水の分離工事が行われ、散策路として木道を設置し遊歩道として整備され、現在では往時の清流が蘇えり、「美しい日本のむら景観100選」にも指定されるに到った。
で、水路が何処に流れるのか地図でチェックすると、南に下った水路は県道54号手前に直角に曲がり、相模川の段丘崖に向かって進む。進んだ先で暗渠となり、大堀(後からメモする)手前で下水道に流されているようである。先回の八瀬川散歩の時も、田名郵便局方面の源流域からの水がL字の固定堰から先は下水として処理されていたことを想い起こす。

田名八幡宮
烏山用水を離れ少し東に向かい田名八幡宮に。延暦17年(798)に天地大明神を勧請して祭ったのが始まりという。この天地大明神とは先回の散歩で訪れた「塩田天地神社」ではあろう。田名八幡宮の神事である「的祭」は塩田天地社での儀式の後、田名八幡で奉納される、とか。別当寺は共に明覚寺でもあり、大杉池辺りであったようだが現在は廃寺となっている。
建久2年(1191)に「田名八幡宮」と号したこの社は、仁和元年(885)に暴風により社殿を破損、天暦2年(948)には相模川の洪水で流出、嘉禄2年(1626)には火災、貞享4年(1687)には隣村の火災で類焼するなどの被害に遭い、現在の本殿は元禄2年(1689)に再建されたものである。
○的祭
現在では家内安全などで地元の信仰を集める田名八幡宮であるが、そもそもは弓矢の神、すなわち武門の神で、それを物語るのが上にメモした「的祭(まとまち)」の神事である。境内にあった案内によると、「毎年1月6日に行われる。先ず社殿背後の天地大明神に参拝跡、境内で総丈5尺5分5寸の大的を桃の木の弓(現在は榎)で射、その年の豊凶を占う歩射の神事。
射手4名は氏子の家で両親が健在の満2才から5才までの長子で、前年不幸の無かった家に限られている。
その起源は源頼朝の時代、宝塔建立の際ともいわれて、はっきりしないが、古くからそのまま伝承されている古式ゆかしい貴重な民俗行事である(昭和36年指定 相模原市)」、とあった。
○記念石碑
相模原の保存樹木として指定されている、イチョウ、ケヤキ、エノキの残る境内には いくつかの記念石碑が建つ。そのひとつが明治・大正期の用水改修工事竣工を記念して建てられた「疏水工事記念碑」。裏面には、「高座郡田名村疎水工事ノ沿革ヲ按ズルニ安政五年領主烏山ノ城主大久保佐渡守殿相模川字山王崖ヨリ隧道三百間ヲ鑿チ水ヲ引キ以テ新田ヲ開キ耕サシメタリ」といった碑文が続く。
また、「田名八幡社殿落慶祈念碑」には「田名村は昭和16年の近隣9町村の合併により相模原町田名として新生し、これを期に古くからの田名村の村有地であった三栗山を共有財産として残すため村社田名八幡に無償贈与を決議した、 田名八幡宮の旧社殿は明治期の築造で、風格ある建物であったが老朽化が激しく、近年、新神殿造営の機運が募った。折しも、国土交通省計画の「さがみ縦貫道路」建設に三栗山の一部が国道用地として買収され、その補償金の支払いがおこなわれるに及び、新神殿造営計画が一挙に具体化した。補償金の2億5千万と篤志家の寄進により、2年1カ月という短期間で御神殿、社務所、宮司社宅の建設および境内の整備が行われた「平成の大造営」。平成21年」とあった。社殿が新しい理由がこれで納得。
なお、境内の隅には雨乞いに使われたという「ばんばあ石」とか「じんじい石」があったようだが見逃した。「ばんばあ石」を相模川の淵に沈めると不思議に雨が降るのはいいのだが、洪水となって被害がでる。残された「じんじい石」の怒りの故だろうと、「ばんばあ石」を川に沈めた後に代理の石を置くと、あら不思議、洪水はなくなった、とか。雨が降ると「ばんばあ石」はまた川から出されて境内に安置されたという、この雨乞いの行事は江戸中期から大正末期頃まで行われていた、とのことである。

高田橋

田名八幡を離れ県道63号を相模川まで進み高田橋に。対岸の中津台地に先般歩いた中津段丘面を想いやる。高田橋ができるまでは、この地には「久所の渡し」があった。相模川沿いの自然堤防上にある久所地区は、戦国時代には小田原北条氏が北関東と小田原を結ぶ街道として、また江戸時代には同じ道を利用した大山道(八王子通り)が相模川を渡る地点に成立した渡河集落とし賑わったようである。


水郷田名
高田橋を折り返し県道63号を相模川が陽原段丘面を削った段丘崖に向かう。県道を上る車道に沿って歩行者専用道があり、そこからの田名水郷を眺める。崖線と相模川に囲まれた、いかにも相模川の氾濫原の水田跡に出来た町並みであることが実感できる。

相模原幹線水路(大堀)
崖線下に水路が流れる。北から県道下をくぐり、崖線下に沿って続くこの水路は相模原幹線用水、通称「大堀」と称される。先ほどメモした山王坂辺りの旧烏山用水取水口の上流800m、田名清水にある「清水下頭首工」で相模川から取水し、隧道を通り旧烏山取水口まで下り、そこで二つの流れに分岐し、一方は隧道を抜け烏山用水(新堀)として、もう一方は滝隧道を抜け「相模川ふれあい科学館」の北で開渠となってこの地に下る。旧烏山用水の取水口は現在、排水兼流量調整用水門の機能を備えた分水施設となっているようである。

ひの坂の窟
大堀に沿って県道63号から少し下ると、段丘崖を上る坂があり、坂の上り口の石窟があり、その中に石仏が祀られている。メモをする段になって写真を拡大すると脇にお狸さまらしき像もある。なんとなく気になりチェックすると、「おたぬきさま・狸菩薩」とのこと。
この坂は「ひの坂=火の坂」と呼ばれる。その昔、といっても明治の頃のようなのだが、坂上に住む婆さまがいたが、狸が人に化けて火にあたりに来たそうな。そのうち、狸は相手は婆さまだと侮り、化けることもなく火にあたるようになった。そんな狸の態度に怒ったの婆さまは、大きなフグリをひろげたまま火にあてている狸に火を浴びせかけた。現在はつづら折れの坂道であるが、当時は一直線。狸は火だるまになって坂を転げ落ちて死んだ、という。火の坂の名前の由来である。
が、これが祟ったのか、大正になって、坂下の人が病に伏せる。行者に見てもらうとこの狸が乗り移って話はじめ、火だるまで死んだ恨みで祟っているのだ、と。そこで、この狸の霊を祀ることにしたのだとのことである。 これまた、何気なく撮った写真も、ちょっと深堀すれば、あれこれ出てくるものである。因みに、坂を上下したのだが、崖から湧水が流れだし、「火の坂」ならぬ、「水の坂」の様相ではあった。

望地隧道

大堀に沿って崖下の道を南に進む。しばらく進むと車止めがあり、その先は草むした簡易舗装の道となる。この車止めまでに2カ所ほど下水のマンホールがあった。そのどちらかが烏山用水(新堀)が「雨水下水」として終末処理場に流れるポイントではあろうが、開渠水路は見あたらず、どちらが新堀(烏山用水)の末流か判別できなかった。
車止め柵のある地点から少しすすむと水路施設がある。銘に「望地隧道」とある。隧道横には水門があるが、これは農閑期などに余水を相模川に流すものだろう。
望地隧道は長さ333.4m。もともとは素堀りの隧道であったようだが、維持管理が大変だったようで、昭和54年(1979)より隧道内面をコンクリートで補強したようである。

弁天どぶ
崖下の道を大堀の「余水吐け」の水路に沿って進むと、相模川から入り込んだ一帯 が「淵」のようになっている。小径脇に「弁天どぶ」の案内。「昔は流れの澱みや淵のようなところを「どぶ」と呼んだ」とあった。

万平穴
小径が突き出した崖を廻り込んだあたりに「万平穴」の案内。案内によれば、安政年間(1854~1859年)に中島万平が掘った隧道とのこと。折りからの飢饉に際し、相模川の水を取水し、この辺りを水田として開いたが、現在はその役割を終えている。
とはいうものの、「万平穴」がどれかよくわからない。崖面前に記念碑は建ち、その横に岩の割れ目といった「穴」があるのだが、それが「万平穴」であろう、か。それはともあれ、この辺りより南に拡がる水田は、昭和29年(1954)に現在の形に整備され相模原有数の水田地帯として残るが、この「望地水田」のはじまりは、万平穴であり、中島万平とされる。

望地弁財天
小径を進み、望地キャンプ場の事務所手前で崖を抜けた大堀に、水路施設が設けられ、幹線と支線に分ける水門があった。その先に、崖面に抱かれるような社が建つ。望地弁才天である。
案内によれば、この弁天さまは、もともとは江島神社に安置してあったものであるが、それを田名の南光寺の住職であった森恵力が養蚕鎮守として希地河原の一画に「望島殿(ぼうとうでん)」を設けて迎えたもの、と。明治の神仏分離の際、江島神社の弁財天は近隣の寺に移されて廃仏毀釈の難を免れたらしいのだが、その時の一体であるのだろう。

この相模川の中州にあった「望島殿(ぼうとうでん)」は、明治40年(1907)の洪水によって社殿は流失するも、坐像だけが難を免れ、南光寺に保管された。その後昭和29年(1954)に望地水田を整備した際に社殿を再建、遷座した、とのこと。この弁財天坐像は高さ45センチほどの寄木造り。詳細は不明であるものの江戸時代に造られたものと伝わり、昭和62年(1987)に相模原市の重要文化財に指定されている。

清水下頭首工完成記念碑
望地弁天の前に幾つかの石の記念碑が建つ。「望地河原開田記念碑」「清水滝・望地・向原上当麻隧道 農業用施設防災対策事業 完成記念碑」といった記念碑とともに「清水下頭首工完成記念碑」が。この記念碑は、相模原用水組合連合会が昭和44年(1969)に建立したもの。
烏山用水と大堀の取水口である「清水下頭首工」の記念碑が何故取水口から遠く離れたこの地に?碑文には「清水下頭首工は、もと明治44年烏山用水路延長工事の際、取水口として設置された。旧烏山用水は藩侯の命により農民粒粒辛苦の結果、久所耕地を潤すにいたった歴史的なものであった。星移り昭和22年「相模川沿岸当麻望地農地開発事業」の実施に伴い両耕地を加えて受益面積83ha余に達した。当初、望地は宗祐寺下、当麻は弁天下と別れ取水していたが、相模川の河床低下、耕地保水力の減少、相つぐ水害に農民の心労その極に達し相寄り相集い、昭和35年3月「相模原用水組合連合会」を結成し、地域内用排水路の整備、取水堰の統合を図り、現地点に水門を設けた。昭和40年9月、台風24号の被害は激甚をきわめ永年の労苦は徒労に帰するかに思われたが関係機関の配慮により、5600万円あまりの巨費をもって昭和42年3月完成したものである。
ここに沿革を記し幾多先人の功を称え関係者一同永くその喜びを共にせんとするものである」とある。清水下頭首工で取水された水が、この望地水田、当麻水田を潤す源であった故のことであろう。

○大堀の流路
望地弁天から先の大堀の流路は、相模川の段丘崖斜面林の下に沿って望地水田を下り、田名地区から田名塩田地区に入り、上当麻隧道を抜けて当麻地区で開渠として姿を現す。そして、県道52号線、508号線が交差する下当麻交差点信号付近を経て八瀬川に注ぐ。遠く田名清水の頭首工で取水した用水は、地域を潤し、八瀬川を経て再び相模川へ戻るということである。

南光寺
望地弁天から相模川の段丘崖の坂を上る。成りゆきで進むと南光寺の前に出た。結構大きなお寺さまではあるが、塀がない広場といった寺域に堂宇が建つ。塀もないので、成り行きで本堂裏手から境内に。
本堂は最近再建されたものであろうか新しい。境内に「三栗山造林成功碑」といった石碑が無造作に置かれていた。田名八幡の記念碑文にもあったように、田名八幡の新築は三栗山を相模縦貫道用地として売却したお金を充てた、とか。このお寺さまも同じストーリーであろうか。単なる妄想。根拠なし。


このお寺様は南北朝時代に創建されたとする古刹。江戸時代には、将軍家光から8石1斗の領地を安堵されている。本堂にお参りし、趣のある長屋門風の山門を潜り参道を逆に入口に向かう。建築作業員風の人も多く見かける。お寺様全体の造築をおこなっているのだろうか。参道には秋葉灯籠や徳本念仏塔、出羽三山供養塔、大山道の道標、地蔵様、二十三夜塔、念仏供養塔などの石仏が並ぶ、というか工事の邪魔にならないように足早に参道を抜けたため、すべて見逃した。

道祖神
南光寺を離れ県道48に出る。と、道脇に庚申塔や自然石が祭られている。自然石は「立石」さまのようである。で、その立石さまの傍に溶岩の丸石が横たわる。溶岩でできた道祖神とのこと。「陰石」状を示しており往昔は「陽石」と一対であったのか、とも。先回の散歩で大杉池脇の弁天社に祀られていた「陰・陽」一対の道祖神を想い起こす。

陽原バス停
県道を少し北に戻り、「陽原バス停」に。特に理由はないのだが、今回は「陽原段丘面」散歩であるわけで、それならば「陽原」という地名が残る場所に足を向けるべし、といった想い。
陽原バス停まで戻り、なんということのない県道や周囲の家並みを確認し、折り返し県道を南に望地地区へと下る。

徳本念仏碑
南光寺前、望地キャンプ場入口といったバス停を見遣り、弁天入口バス停に。 そのすぐ先、国道から分岐する道の入口に石碑がある。石碑に刻まれた書体は、幾つか出合った「徳本念仏塔」と同じ。「南無阿弥陀仏」の六字の名号の下に「徳本」と「○に十字」のマークが刻まれる。
とはいうものの、この四角い石柱は何となく新しそう。石碑の裏を見ると「文政五年 陽原望地講中建立 交通安全発願 南光?? 昭和四十七年再建」とあった。南光の後は読めなかったが、南光寺に関わるものだとは思える。文政5年(1822)に建てられた徳本念仏塔を昭和47年(1972)になって造り直したものだろう。相模にある13箇所の徳本念仏塔のリストには挙げられていないので、レプリカとしての価値といった石碑ではあろう。



○陽原と望地
既にメモしたが、「陽原」の「みなばら」とは、平坦な台地の意味であり、昔は皆原とか南原と記された。それが「陽原」となったのは南光寺の山号である「陽原山」に由来する。また、「望地」も昔は「毛地」と記され、農作物が畑に立ち実っている姿を意味する「立毛」を上から眺めるといった意味からの命名、とも(「田名の歴史)より)。相模川の氾濫原に実る作物を崖線上から望め得る地、ということだろうか。

塩田さくら橋
徳本念仏塔の石碑から県道48号を離れ、陽原段丘面を八瀬川へと向かう。県道を離れてしばらく歩くと宅地もほどほどになり、左手に田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖の斜面林が見えてくる。
斜面林を目安に先に進むと「田名地区」から「田名塩田地区」に入る。「田名」はどこかでメモしたように「棚」から。相模川の対岸の中津川から眺めると相模川の氾濫原から、その崖線上の陽原段丘面に跨る田名の集落は数段の「棚」のように見えたのだろうか。また、塩田は塩の集散地から、との説もある。 田名塩田地区を進むとほどなく「塩田さくら橋」。ここでやっと先回の散歩の終点地に辿りついた。

天満宮
左手に斜面林を眺めながら塩田の地を八瀬川に沿って進む。しばらく歩み国道129号・上溝バイパス下を潜ると「田名塩田」から「当麻」に入る。「当麻」の東端は「市場地区」。地名の由来は、後述する無量光寺の門前町であり、「市」が立ったからとのこと。
道なりに進むとほどなく「天満宮」。当麻の鎮守である。境内の案内には「祭神 菅原道真公 新編相模風土記によれば、延久五年(1073)に妙音が建てたもの。妙音は近江国三井寺の座主であったが世を逃れて当地に来たり天神を勧請し山王権現社一宇を建立した。御神体は菅原道真公の木坐像、本地十一面観音の立像、湛慶作、古は大日堂にあったものと言われている。
別当は天満山明達院、梅松寺と言い、他の一院は明王院明行寺で明達院13世のとき分かれて二院となった。両院とも不動明王を本尊としている。
元文の頃(1736-1741)、牛頭天王を相殿に祀った。道真公は太政大臣を追贈され学問の神として尊崇されている」とある。
延久五年は西暦1073年。同じ天台宗でありながら、三井寺(寺門)と叡山(山門)は抗争関係にあったようだ。武蔵坊弁慶が三井寺に暴れ込み三井寺の鐘を引きずって 山に戻ったといった話も残る頃である。そんな抗争に嫌気をさしてこの地に逃れたのであろうか。それはそれとして分からないこともないのだが、天台との関係で山王権現はわかるにしても、何故天神を勧請したのかよくわからない。
天満宮の創建縁起には別の節もあるようだ。それには、元三井寺の学僧であった愛甲郡田代の僧が念仏行者となり信州の善光寺に。そこで、如来が夢に現れ「河内国の土師(はじ)寺は菅原道真公の氏寺であり、そこに一株のもくげん樹の木がある。その実を採って来て数珠を作り、念仏を百万遍称えれば必ず往生できると」と。土師寺へ行き、もくげん樹の実を拾うと、天神さまのお告げ。「このもくげん樹の木は地中に埋め置いた写経から生じたものだ。故郷の念仏道場に種子を蒔けば私と縁をむすぶことができる」とのこと。僧は早速故郷に戻り、念仏堂のある当麻山に。この当麻山で一遍上人の意をくみ堂宇を建てた真教にこの種子を献上。真教は境内の西北隅にこの種子を蒔き、一社を建立した。それが市場の天神様であるという」といったもの。
どちらが正しいのか門外漢にはわかるはずもないのだが、どちらもそれなりに面白い話となっている。

八瀬川
天満宮から緑の中を進むと県道509号に合流。少し南に下ると再び八瀬川に出合う。結構日も暮れてきた。本日はこの辺りを終点へと、駅を探すと最寄駅は相模線・原当麻駅。途中に無量光寺があるので、そのお寺さまにお参りし本日の仕上げとすべく左に折れ、県道52号へと向かう。田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖線の斜面林は更に南へと続いている。これは、もう一度訪れ、この段丘崖が「埋没」する地点まで辿るしかないだろう。

土地改良記念碑
県道509号を折れ県道52号に向かう途中、八瀬川に亀形橋がかかる。八瀬川が県道52号を潜った先に石碑石塔が見える。石碑は昭和39年(1964)に当麻土地改良区が建立した当麻地区農地区画整理完成記念碑であった。それはいいのだが、メモする段になって、この石碑の前を望弁天で見た相模幹線水路こと、大堀が暗渠で通っていた。今回は何気なく撮った写真がフックであれこれの発見があった。
○相模幹線水路の流路
望地弁天を下った大堀は、望地水田を下り当麻隧道を圏央道手前で抜け、相模原愛川ICの北を開渠で通り、神奈川県内広域水道企業団相模原水路橋の下を抜け、その先の国道129号を潜り、県道508号と県道52号がクロスする下当麻交差点の北を通り亀形(きぎょう)橋に。ここで余水を八瀬川に流し、本流は県道52号を潜り、この石碑のある辺りへと流れてくる。
ここから先は地図でチェックすると、水路は八瀬川を離れ、当麻の水田方面へと南に向かい、途中で流路を南東へと変え、水田を潤しながら流れ相模線・下、溝駅の北方で再び八瀬川に注いでいるようである。清水下頭首工で取水された相模川の水は、おおよそ7キロの旅を終え、八瀬川を経て再び相模川に戻る。

無量光寺
県道52号を東に進む。県道から南に続く段丘崖の斜面林を辿りたい、とは思えども本日は時間切れ。名残り惜しみながら道を進むと無量光寺入口交差点。誠に大きな黒門にかつての寺威を感じる。門辺りにあった案内によると、「この寺は山号を「当麻山(たいまさん)」という。鎌倉時代、時宗の開祖である一遍上人は、「亀形峰(きぎょうほう)」と呼ばれるこの丘の上に「金光院(こんこういん)」ちいう庵を結び、修行に励んだといわれる。
その後、嘉元元年(1303)に弟子の真教により、無量光寺が開かれた。しかし、明治26年(1893)の大火により、二脚門を除く大半の建物を焼失し、現在は仮本堂となっている。なお、当寺にある一遍上人立像と古文書は市の重要文化財に、更に寺の境内は市の史跡に指定されている」とある。
○さかさナギの木・金光院
参道を進むと山門が見えてくる。その山門の右下に常緑樹の背の高い木がそびえている。この大木は「さかさナギの木」と呼ばれ、一遍上人が西国より杖にしてきた一本の椰(なぎ)の木をこの地に刺したところ、根が生え芽を出して育ったと伝わる。この「なぎの大木」のうしろが、一遍上人が庵を結んだ金光院の跡とのこと。
○山門
山門は「当麻山」の扁額を掲げた二脚門。腕木門の親柱の背面に袖をつけ、屋根をかけた高麗門と呼ばれる形式の門とのこと。間口は12尺(約3m60cm)、親柱も1.5尺ほどもある堂々たる山門は市指定有形文化財となっている。 山門をくぐって参道を進むと、右手に芭蕉句碑がある。碑面には「世にさかる 花にも念仏まうしけれ」と刻まれる。
○本堂跡
お石畳を進むと正面に一遍上人の銅像が建つ。明治26年末の大火によって焼失する前、この辺りに本堂が建っていたようである。
○仮本堂
一遍上人銅像の右手後方、旧佛殿跡地に仮本堂が建つ。内部正面には一遍上人が頭部を自作されたと伝えられる立像が安置され、御影の像として信仰を集めている。仮本堂の右後方にある御影の池に、一遍上人が自らの姿を映して木像を刻まれたという。
○鐘楼・熊野権現
境内右手に鐘楼。鐘銘には開祖一遍上人の名と共に、「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれる。鐘楼の横に2社がまつられり。1社は一遍上人ゆかりの熊野権現。本地は阿彌陀如来。村人たちから「オクマンサマ」と呼ばれていた、と。
○東権現
その右隣の祠は東権現。明治以前は寺の東方当麻坂の中腹、東澤寺にて各夜姫を養蚕の守り神として祀られていたが、東澤寺が廃寺とななったため、ここに合祀された。
○二基の五輪塔・徳本念仏塔
本堂左後方に進むと、二基の五輪塔。南北朝の頃、徳川家康の先祖である世良田左京亮有親、松平太郎左衛門尉親氏父子が、応安元年(1368)南朝方として挙兵した新田義宗に与力し戦うも利あらず、父子共々戦乱を逃れてこの寺に入る。そして、そのまま親子共々出家し、その髪をこの塚に埋めた。ために村人は「お髪塚(おはつづか)」と呼ぶようになった、と。その後、親子は有親は長阿彌、親氏は修行に勤め,父はこの寺で亡くななる。五輪の塔はそれを建立し供養したもの。息子はは西下し三河の地において松平家を起こし徳川家へと繋がったとのことである。また、徳本念仏塔も境内にあった。


無量光寺のHPの案内などをもとに、一遍上人やこのお寺さまの成り立ちについてメモする。

○一遍上人
この当麻山を開山し、時宗の開祖である一遍上人は、法然上人、親鸞聖人と並び日本の浄土教を確立されたとされる僧。延応元年(1239)、伊予の名門河野家通廣公の次男として生まれ、7歳にして仏門修行にはげみ、15歳で出家し台教(天台宗の教え)を学ぶ。18歳のとき、比叡山(延暦寺)に登り学ぶも、22歳で叡山を出、修行の旅に出る。26歳のとき、浄土門に帰し、法然上人の弟子の高僧のもと7年間修行し名を智真と改める。
建治元年(1275)、37歳のとき宇佐八幡宮にて霊夢を感じ、回国結願の大願を起こし、南無阿弥陀佛の名号の算(ふだ)を作り人々に配り諸国を遊行するになる。
建治2年(1276)、当時、もっとも阿弥陀の浄土に近い場所とされていた紀伊国熊野本宮の證誠殿において百日参籠につとめ、その満願の日、熊野権現にまみえ、この時より一遍と名乗り、《賦算(名号のお札をくばる)を続ける旅に出る。この相模の地に最初に訪れたのはこの時期であろう。
踊り念佛を始めたのは、弘安2年(1279)のこと。41歳の時、信州佐久郡ではじめた、と。空也上人に倣ったものと言われる。その後、正応2年(1289)、摂津国(兵庫)の観音堂で51年の生涯を終える。
南は九州から北は奥羽にいたるまでくまなく遊行したこの一遍上人がこの地に訪れたのは弘長元年(1261)秋。一遍上人(当時23歳)は諸国遊行の旅の途中、依知の里の薬師堂(現在の瑠璃光寺〈神奈川県厚木市上依知 当寺から相模川をはさんで西南方面にある〉)に留まり、念佛三昧。と真夜中に妙見菩薩が姿を現され、「対岸の亀形山は宿縁の山。この山で修行すれば念佛の功徳は四海に及ぶであろう」とのお告げ。
上人は相模川を渡り、亀形の丘に登ると、そこに妙見菩薩の小さな祠を見つける。上人はここに草庵(粗末な住まい)を結び金光院と名付け、修行に励まれまれるも、弘長3年(1263)、故郷の伊予(現在の愛媛県)に向け旅立たれる。その後、文永7年(1270)上人が32歳の時、また弘安4年(1281)43歳の時に、奥州遊行の帰路、当山にとどまり修行し、弘安5年(1282)の3月、上人は鎌倉方面に向け遊行の旅に発つ。
鎌倉入りは拒絶され、京の都、浪速、安芸と遊行の旅を続けることになるが、この別れのとき、名残を惜しむ弟子や信徒に乞われ、自らの姿を水鏡に映し、筆をとって絵姿を描き、自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせて等身大の木像をつくるが、これが御影の像として、現在も本尊として安置されている。
○真教上人
一遍上人が庵を結んだこの地に無量光寺を建立したのは弟子の真教上人。真教上人は一遍上人が九州地方を遊行されていた時、上人に帰依し、それより終始一遍上人と遊行をともにした。
宗祖・一遍上人が臨終の際にはそれに殉じようとするも、衆徒に乞われて宗祖の教義を継ぐ。一遍亡き後、消滅の危機に瀕した一遍上人の教えを再結成したのはこの真教と言える。嘉元元年(1303)には遊行を智得上人にゆだねて、宗祖ゆかりの地当麻に帰り、その翌年、ここに一宇(建物)を建立。無量光佛(阿弥陀如来の別名)の由来からその名を「無量光寺」と名付け時宗教団の本拠地とした。真教上人は文保3年(1319)示寂される(亡くなる)までの16年間当山にあって、衆徒の教化に努める。

当麻山は後北条氏の外護を受け、天正19年(1591)には徳川家康より30石の寺領を寄付され寺門は大いに繁栄した。その間、天文年間には北条、上杉の戦の折に伽藍が焼失し、天正年間(1573~1593)、元和年間(1615~1623)の火災、なかでも安永2年(1773)の火災においては絵詞伝8巻を始め、貴重な寺宝が多数焼失。その後再建された堂宇も明治26年には全焼し、現在、旧本堂跡は空き地となっている。

○無量光寺と遊行寺
実のところ一遍上人=時宗=藤沢の遊行寺が頭に刷り込まれており、この地に一遍上人ゆかりの時宗、正確には時宗と称したのは江戸期からのことであり、古くは浄土門当麻派と称された根本道場があるなど何も知らなかった。
歴史をチェックすると、遊行三代智得は、真教の一番弟子の一人として、弘安四年(1281)以来当麻道場にあって教学と組織固めに努めていた。が、遊行四代目を巡り確執が起こる。真教の命で京都の七条道場を拠点に賦算をしていた呑海と、三代智得の遺言として側近であった真光との争いである。結局、呑海は実兄の鎌倉武将の俣野景平を開基の檀那として、藤沢山清浄光院(現在の清浄光寺)を建立することになり、ふたつに分裂。やがて藤沢道場が優勢となった。
遊行上人を引退すると、藤沢道場に入って藤沢上人と称した。藤沢山清浄光院が遊行寺と称されるようになったのは、近世になって法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるため遊行寺(ゆぎょうじ)という通称の方が知られるようになっている。
とはいうものの、藤沢の遊行寺は一遍上人とは直接関係ないお寺さまであり、上人が足を踏み入れた修行の地、という意味では当地の無量光寺のほうが、一遍上人との繋がりが強いようである。
○時宗と時衆
上でメモしたように、時宗と称されたのは他の宗派と同じく江戸になってから。当時は時衆と称されていた、と。時衆とは「一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指す」とのことである。

当麻地区
無量光寺を離れ相模線・原当麻駅に向かう。当麻地区の昔の字に、市場の東に上宿、西に下宿といった地名が残る。当麻は厚木と八王子を結ぶ大山街道の渡場であり相模川の舟運を利用した水運で栄えた町であり、その上に無量光寺ができると、修行僧や参拝者が増え、無量光寺の門前町として栄え市が立つようになった。
市場、上宿、下宿、また市場にある鍛冶屋坂も寺専属の鍛冶屋からの地名である。小田原北条の時代には、早雲の命により、原当麻駅付近に宿場町が建設され新宿と呼ばれm戦国時代の宿場町となったようである。
因みに、この当麻の付近には伊予ゆかりの地が目立つ。相模川を隔てた「依知」は越智氏からとも言われる。宿場を仕切ったのも伊予からの人物と伝わるし、そもそも、無量光寺の西の「芹沢」にある三嶋神社は伊予三島の三島神社からの勧請とも伝わる。伊予の有力武将の係累である一遍上人に付き従った伊予の人々が住み着いたものであろうか。
因みに「当麻」の地名の由来であるが、一遍上人お気に入りの奈良の当麻寺からとの説がある。それはそれでいいとして、では「当麻」の意味は、と言うと、 古代のタギマ(当岐麻)がタイマに訛ったとのこと。古語の「たぎたぎし」とは、凹凸がある悪路。難路を意味する、とのことである。

相模線・原当麻駅
無量光寺を離れ、段丘崖を上る広い車道を進み、相模線・原当麻駅に。段丘崖上に字として原当麻という地名が2万5千分一の地図には残る。由来をチェックすると、小田原北条の時代、当麻村の実力者三人衆、どうも伊予の出身者であるようだが、それはともあれ、その三人衆が市場の問屋権をめぐって争い。その争いに負けたひとりが当麻の市場を離れ、段丘上、現在の原当麻のあたりに集落を開いた、とか。旧地の「当麻」に段丘崖上の段丘面である「原」を合わせた地名としたのだろうか。単なる妄想、根拠なし。
ともあれ、相模線・原当麻駅に向かい、本日の散歩を終える。後は、この当麻地区から段丘崖線の斜面林に沿って南に下り、田名原段丘面と陽原段丘面を画するこの段丘崖が田名原段丘面に埋没する地点である下溝辺りまで下り、その後は最初の散歩で残した鳩川分水路の更に南に下る鳩川を辿り、その流れが相模川に注ぐ地点まで歩いてみようと思う。
先回の相模原段丘面(高位)と田名原段丘面(中位)を画する崖線下を流れる姥川、道保川、そのふたつの河川を合わせて相模川に分水する鳩川散歩に続き、今回は田名原段丘面(中位)と陽原(みなはら)段丘面(低位)を画する崖線下を流れる八瀬川を辿る。大きく分けて3段階の階段状に形成される相模原台地の最下位段丘面散歩でもある。
田名の由来は諸説あるが、相模川対岸の中津川台地から眺めた地形が段々状の「棚」のようであり「棚村」と名付けられたとする説もある。また、陽原(みなばら)は、平坦な地、「皆原」に由来する、とか。どちらにしても、段丘面の地形を表す地名ではあろう。因みに「陽原」となったのは陽原山南光寺の山号からである。
今回の大雑把なルートは橋本駅からスタートし、相模原段丘面を進み、相模原段丘面と田名原段丘面を画する段丘崖下を流れる鳩川源流点に向かい、そこから田名原段丘面が相模川に接する相模川崖線の湧水(地元では「やつぼ」と呼ぶ)を探し、南下して田名原段丘面と陽原段丘面の段丘崖下を流れる八瀬川の源流点に。その後は崖線斜面林に沿って南下し、時間次第ではあるが、陽原段丘面や相模川の沖積地であろう「水郷田名」を彷徨い、再び段丘崖に戻り、地形図から予測するに陽原崖線が田名原崖線に合わさり埋没すると思われる鳩川分水路辺りまで下ろうとの思惑。
実際は途中でちょっとしたトラブルがあり、結局一度でカバーできなかったのだが、それは後々メモすることとして、まずは京王相模原線で橋本へと向かう。



本日のルート;京王線・橋本駅>橋本五叉路>川崎第二水道>鳩川源流域>相模原総合高校>上大島>県道48号>渓松園>中ノ郷のやつぼ>常磐のやつぼ>日々神社>水場のやつぼ>神澤不動尊>古清水上組のやつぼ>横浜水道みち>三角山公園>八瀬川源流>やつぼ>田名葭田(よし)公園>大杉池からの水路合流>L字の固定堰>こぶし橋>塩田さくら橋>塩田天地社>横浜水道みち>相模線・番田駅

橋本五差路
橋本駅から最初の目的地である鳩川源流点と言われる相模原市緑区大島の大島団地へと向かう。駅から成り行きで進むと立体交差のある大きな交差点。「橋本五差路」と呼ばれる。五つの道とは、今歩いて来た橋本駅方面からの道、この交差点を経て横浜から八王子方面に抜ける国道16号。この交差点から平塚へと向かう国道129号、そして城山方面へと抜ける道の5本である。
国道16号が立体交差となる前は渋滞の名所であったが、現在は改善されている、とのこと。地下道となっている歩行者用通路を抜け、津久井湖・城山方面への道に入る。

○相模原の軍都構想
道の周囲は大小の工場地帯が続く。江戸の頃、新田開発によって開かれた畑と雑木林の広がる「相模原」の状況が変わるのは昭和に入ってから。昭和11年(1936)、旧陸軍第一師団より相模原各地の村役に呼び出しがあり、陸軍士官学校、練兵場の用地買収の申し出、と言うか通達。あれこれ悶着はあるも、軍に抗すべくもなく買収に応じる。
計画は日中戦争下、1930年後半に更に進み、陸軍施設の相次いでの移転・開設が計られた。陸軍造幣工廠(在日米軍相模原補給廠)、陸軍兵器学校(麻布大学)、陸軍航空技術飛行機速度検定所(淵野辺、矢部辺り)、陸軍通信学校(相模女子大)など枚挙に暇がない。
こうして貧しい養蚕の集落地が一転して軍事都市となってゆくわけだが、県も軍事施設の進出を受け「10万人の軍都構想」のもと区画整理を行うも、幹線道路整備の段階で敗戦。戦後も区画整理事業が進み昭和25年(1950)に区画整理事業は完成した。
いつだったか、多摩丘陵を歩いているとき、相模原を眺める尾根道に「戦車道」とあった。相模原陸軍工廠で製造された戦車の走行実験が行われた道とのことであった。

川崎第二水道
道を進み「峡の原」といった、「峡(はけ)」=崖線が近づいたことを予感させる地名を越え、クヌギ、コナラなどが植林された「二本松ふれあい公園」辺りで北西に向かっていた道が西に方向を変え県道508号・二本松小学校入口交差点に。
県道508号は「谷ヶ原浄水場」方面」へと西に向かうが、国土地理院の2万5000分の一の地図を見ていると、橋本五差路から県道508号・二本松小学校を経て相模川傍の「谷ヶ原浄水場」へと向かう道は「川崎第二水道」と表記されている。この道の下には水管が埋設されているのだろう。

川崎第二水道は津久井分水地から導水管で川崎に送られる水のネットワークのひとつ。径路は、沼本取水口>津久井隧道>津久井分水池>導水路>淵野辺接合井(ここで酒匂川水系の水を合わす)>潮見台配水池(企業:西長沢浄水場;川崎市宮前区潮見台)>鷺沼配水池(川崎市宮前区土橋)>末吉配水池(横浜市鶴見区上末吉)と進む。今歩いて来た道は、津久井分水池から横浜線・淵野辺 駅に向かって南東に直線に進む導水管敷設道路の一端であった。

○川崎第一水道
因みに、川崎第一水道の経路は津久井分水池>相模隧道(横浜水道と同じ)>下九沢分水池(横浜市導水隧道)>第一導水隧道>千代ケ岡配水池塔(川崎市麻生区千代ヶ丘)>長沢浄水場(川崎市多摩区三田)。津久井分水地から相模川に沿って下り、上大島で西に方向を変え下九沢分水池を経て相模線・南橋本駅の東に進む。そこで方向を北東に変え、町田方面へと向かうが、南橋本駅の東の国道16号の辺りで川崎第二水道とクロスしている。下九沢分水池は円筒分水施設と言う。そのうち訪れてみたい。

相模原段丘面と田名原段丘面の境
鳩川源流点に向かうべく、県道508号・二本松小学校入口交差点を南に折れる。道なりに進むと下り坂となる。相模原段丘面と田名原段丘面の境の段丘崖なのだろうが、地形図の彩色では結構はっきりと色分けされているが、周囲は宅地で埋められ、崖線がよくわからなかった。崖線斜面林など望むべくもない。

鳩川源流域
坂を下り終えた打出交差点のすぐ東に鳩川の水路があった。鳩川に架かる、といっても南側にささやかな水路があるだけで、北側は暗渠となり橋の名残もない。湧水を水源とする、といった趣は全くなく、単なる少々汚れた小規模都市河川と言ったものであった。
源流点はもう少し暗渠を詰めた辺りであろうが、そこに向かう気持ちも萎え、民家の間を下る鳩川から少し離れた道を下り、道なりに進み鳩川に架かる名も波小さな橋を渡り返し、鳩川から離れ、田名原段丘面が相模川に接する辺りへと向かう。

○鳩川
Wikipediaによれば、「鳩川(はとがわ)は、神奈川県相模原市から海老名市にかけて流れる相模川水系の河川。神奈川県相模原市の大島団地付近に源を発し南東に流れる。JR東日本相模線と平行し、海老名市河原口付近で相模川に合流する。全体的に川幅は狭い。相模原市磯部には平行する相模川への分水路があり、そのため磯部以南では流量が減り、座間市入谷付近では農業用水路のように川幅が細い。下流の海老名市上郷では相模三川公園の敷地内を通過しており、遊歩道が整備されている」とある。また、江戸時代は籏川と呼ばれていたようで、鳩川となったのは明治時代に入ってからのこと。九沢辺りの孟宗竹は江戸時代、江戸城の煤払い用に献上されていた、とか。

県道48号
川を渡るとすぐ八坂神社。社にお参りし、南西へと進み相模原総合高校脇を進む。この辺りは宅地も無く、一面の平坦な耕地の西に中津川台地や丹沢の山塊が見えてきた。
高校を過ぎた先で県道48号・上大島交差点へと西に向かう結構大きな車道を進み、上大島交差点の少し南辺りの県道48号に出る。

渓松園
道を進むと「渓松園」の案内。現在相模原市の老人福祉センターとなっている建物は「横浜水道みち」の施設を転用したもの。入口に「横浜水道みち 三井用水取入所からここまで7.5km;旧大島送水井」とある。大島送水井は昭和9年(1934)に完成し、相模川崖下の大島臨時揚水ポンプ場からくみ上げた水を横浜の川井浄水場に送っていたとのことだが、その後の横浜水道拡張事業(下九沢分水池、相模原沈澱池など)などにより、昭和29年(1954)に相模湖系の取水網が完成しその使命を終えた。
老人福祉センターは当時の円筒形の送水井の建物をそのまま生かし、円形の建物の畳は丸くなっている、とか。

○横浜水道みち
詳細は先回の散歩を参考にしてもらうことにして、大雑把な径路は津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りを一直線でこの地まで進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。

■やつぼ
次の目的地は、田名原段丘面や陽原段丘面が相模川と接する段丘崖急斜面の中腹から流れ出す湧水探し。地質の観点から言えば、相模川が運んだ礫層と、小仏層・中津層や依知礫層と呼ばれている基盤岩との接合部分から湧き出ているとのこと。
この湧水を溜めた池をこの辺りでは「やつぼ」と呼ぶ。大島地区に11箇所、田名地区に7か所あったという。段丘害斜面から流れ出す湧水を飲料水や生活用水に活用するため、崖面に石組みの水場を造っている、とのことである。名前の由来は「谷津、谷地=湿地」+「壺」との説が有力であるが定説はない。 現在は水道網が整備され、やつぼの多くはその使命を終え、あるいは潰され、あるいはコンクリートで埋められているが、いくつか原型をとどめるものがある、と言う。基本個人の自宅に属するものであり、残っている「やつぼ」も、どの程度訪ね得るものかはっきりしないが、とりあえず代表的なものを北から幾つか探してみようと思う。まずは「中ノ郷のやつぼ」である。

中ノ郷のやつぼ
「中之郷のやつぼ」に向かうが、場所が特定できてはいない。とりあえず、大島地区にある県道48号・中の郷バス停辺りから成り行きで相模川の崖線に向かう。
崖線沿いに建つ民家の前の道を進んでいると、竹藪の繁る手前に「大島中ノ郷やつぼ 相模原市登録史跡」、崖の小径を進むとほどなく「中ノ郷のやつぼ」の案内があり、案内に従って左に少し下ると「やつぼ」と刻まれた石碑があり、その横に2mx5m程度の湧水池と、その上に「八大龍王」と刻まれた石塔が祀られていた。湧水池は大石や丸石で組まれ、流れ出る湧水を溜めていた。



八大竜王は水中の主である八王であり、その中でも娑羯羅(沙伽羅とも;しゃから)が雨乞いの神として全国に祀られている。弘法大師に関係深く、京の都・神泉苑で八大竜王に祈って雨を降らせたといった伝説や、弘法大師が名付けた清瀧権現もこの娑羯羅にまつわるものである。

田名原段丘面と陽原段丘面の境

「中ノ郷のやつぼ」を離れ成り行きで南に進む、ほどなく緩やかな坂が現れる。おおよそ県道48号・大島北交差点の東の相模川の段丘崖線近くである。周辺は住宅が建ち、崖線も斜面林も見えないが、田名原段丘面と陽原段丘面の境に差し掛かったのではなかろうか。
田名原面に入る(入ったと思うのだが?)。周囲は住宅が立ち並び、はっきとした崖線は見えないのだが、所々に残る緑が斜面林の名残のように思える。崖線をはっきりと確認するため、田名原崖面から湧き出た「常盤のやつぼ」を探しに向かう。

常盤のやつぼ
県道48号・大島交差点の南東の常盤地区に入る。住宅の間を彷徨っていると結構な坂道が崖を上っている。この崖線が田名原面と陽原面を画する段丘崖ではなかろうかとの予測で、崖線のどこかに「常盤のやつぼ」があるのだろうと、行きつ戻りつしていると、民家の方が親切にも場所を教えてくれた。同じように「やつぼ」を探す人もあるようで、見るに見かねて家から出てきてくれたようである。感謝。
「常盤のやつぼ」は崖下にある民家の駐車場となってコンクリートで埋め立てられていた。その駐車場の直ぐ下にある民家の生垣の中には湧水池が残っている。側溝から音を立てて水が流れているので、現在でも地中からの湧水は保たれているのだろうか。

日々神社
地図を見ていると、「常盤のやつぼ」の崖線上に「日々神社」という社が目についた。「日々」と言った名前にも惹かれ、また、崖線上の景色も見てみようと日々神社に向かう。
崖上には県道48号が通る。周囲に住宅が立ち並ぶ県道を少し進み左に折れて社へと。結構広い境内ではある。鳥居をくぐり社殿にお参り。境内の石碑に「日々神社 日之宮跡」とある。「日々神社 創立年不詳。保元2年、寛文5年、元禄元年再建。祭神、勧請年不詳。伊弉諾命、天照皇太御神を奉祀し「日之宮」と称した。明治2年、日々神社と改称し現在地に再建」と刻まれる。 歴史は古いが縁起など詳細不詳。元は「日之宮」と称し、別の場所にあったようだが、明治2年(1869)に「日々神社」と改称し、この地に移した、とのことである。

○徳本念仏塔
境内には「徳本念仏塔」が祀られる。神社にあった案内によると、「徳本は、宝暦8(1758)年に紀州に生まれ、江戸時代後期に伊豆や関東の各地に念仏を広めた僧です。徳本が近隣を訪れた際に、各村々の念仏講中(ねんぶつこうじゅう)がその特徴ある書体で書かれた名号(みょうごう;六字名号=南無阿弥陀仏)を求め、それをもとに念仏塔を建てたとされます。
側面に「文政二己卯年」(1819年)の銘があります。主体部の高さ143センチメートル、幅69センチメートル、奥行き41センチメートルです。以前は香福寺の参道沿いにありました。地域の念仏講や村の生活史を知る上で貴重な資料です」とのこと。
□徳本上人
徳本(とくほん;徳本上人)は、27歳のとき出家し、木食行を行った。各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化11年(1814年)、江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた。墓所は一行院(Wikipedia)。
境内に掲示板があり、神事や昔話、このあたりの地名である「常盤」の由来など興味深い内容が記載されている。ちょっと長くなるが気になったものをメモする。
○日々神社・雨乞いの話
八壺のひとつ・鏡の滝より「御新水」を汲み神殿に奉納し、その新水を撒きながら神殿を3回廻り、神官が「詞」をあげて終了。この神事の数日後には雨が降った、とか。
○鏡の滝
水量は多くないが、神沢不動堂近くの北方に「鏡の滝」がある。名前の由来は、日々神社の祭礼の際、神輿がこの滝を渡御する(滝降の神事)のだが、ある年の神事の際、滝から一枚の鏡が出た。円形で直径三尺五分の裏面には「鳥蝶」の模様があり、人々はこれを天照皇太神と尊敬し、日の宮に合祀し、滝を鏡の滝、土地を神沢と称するようになった。
○鏡の滝の昔話

茅ケ崎の商人、吾助は相模川を往来し、海産物を津久井で売り、そこで薪や炭を仕入れ下流で売るといった商いをしていた。ある日、商売がうまくいき、田名の宿場で博打で無一文。つい、日々神社のご神体である鏡を盗み売り払おうと企てる。首尾よく盗み出し神沢の滝壺まで来たとき体が動かなくなり、盗んだ鏡も滝壺に沈む。すると滝壺から煙が立ち上がり、神のようなものが現れた。 怖ろしくなった吾助は、悔い改め、鏡をもとの場所に戻してもらい、元の体に戻った吾助はその後、商いに努めた、と。
○淤能碁呂(おのころ)の松
源頼朝が平家に追われ伊豆に流された保元2年(1157)、10歳の時に植えたと伝わるが、昭和41年(1955)の台風で倒木したが、その跡が残されている。
○地名「常盤」の由来
淤能碁呂(おのころ)の松の別名を「常盤木」と言い、明治の頃、常盤木のように常に若々しく発展するようにと、地名を「常盤」と命名し、それが「字」として残った。


日々神社から崖線の坂を下る
地図を見ると相模川沿いに神沢不動がある。その北辺りに鏡の滝があるようだ。後から訪ねてみようと思う。
神沢不動へと向かうべく、iphoneであれこれチェックしていると、神沢不動の手前に「水場のやつぼ」があり、そこには日々神社の御神水として利用されているとのこと。
日々神社から崖線の坂を下る。比高差は数メートルといったところ。段丘崖下の道を南に下ると唐突に暗渠から沢筋が現れる。この沢もどこかの「やつぼ」、場所からすれば「常盤のやつぼ」のようにも思えるのだが、ともあれどこかの「やつぼ」を水源とするようだが、コンクリートで蓋をされ暗渠となって道の下を流れている。沢に沿って進むと「相模原市登録史跡 大島水場のやつぼ」の道標。道標に従って沢筋に下りると「やつぼ」が現れる。


水場のやつぼ

壺状の石組み湧水池には「御神水」と刻まれた石の辺りから滾々と水が湧き出てくる。その水音も気持ちいい。湧水の流れ出す石組みの崖線は、陽原段丘面と相模川川床の間の段丘崖である。
湧水池の脇には「倶利伽羅不動尊」が祀られる。風雪に耐え、摩耗も激しいように見えるが、龍が4本の手足を剣に絡ませ、なおも口に含んで睨んでいる。倶利伽羅不動尊(竜王)は竜神や水神信仰と結びつきや滝口や湧水池などに祀られる。
「水場のやつぼ」からは沢を越えて崖を上る道が整備されている。この沢は前述のとおり、やつぼを水源とする流れが浸食谷を形造っており、谷を下れば日々神社でメモした「鏡の瀧」に出合うとのことであるが、それはメモする段階でわかったこと。よくある「後の祭り」ではあった。とはいうものの、谷は結構V字切れ込みが激しく、それほど簡単に下れそうにもなかった。

神澤不動尊
沢を越え、相模川の段丘崖を上り、段丘崖上の道を進み、日々神社の案内にあった、「北方に鏡の瀧」があると言う「神澤不動尊」に向かう。道を進むとほどなく相模川の崖線を下る道があり、ヘアピンの神澤坂を下りた崖下に神澤不動尊。
「神澤不動尊 長徳禅寺」と刻まれた石碑の横に弁天池がある。水量は多くなく、池からの湧水と言うより、崖からの水路が弁天池に続いている。本堂にお参りし、境内にある「稲荷大明神」のある崖面への石段を上りお参り。「北方にある、と言う「鏡の瀧」を探して崖面を彷徨う。結構な藪漕ぎをしながら滝を探したのだが結局見つけらなかった。
既にメモしたように、鏡の瀧は「水場のやつぼ」のあった沢筋にあるようであり、見つかるはずもなし。結局諦めて境内に戻る。境内から相模川方面を眺め、ゆったりする。広い河川敷が前面に広がる。








古清水上組のやつぼ
神澤不動尊でしばし休憩。神沢坂を再び上る。下りるときには気が付かなかったのだが、ヘアピンのところに「古清水上組のやつぼ」の案内。ヘアピン部分から坂道を離れ、南に向かう道を進み、道が民家に当たり左に折れるところに「やつぼ」の案内。
陽原段丘面が相模川に接する段丘崖急斜面を少し下りると4~5m程度の壺状の丸石で組まれた湧水池があった。
ここでちょっとしたトラブル。「やつぼ」の写真を撮ろうと足元に注意せず、後ろ向きのままバックして写真を撮ろうとしたとき、足元の踏み石グラリで、見事な一回転で「やつぼ」下の水路に落下。ちょっと伸びていた爪が石垣の端に引っ掛かり、剥がれた状態で二つ折れ。先日も足元の石に躓いて、これまた見事な「五体投地」で水路にダイブし今回と同じ指を脱臼したばかりである。気をつけねば。

横浜水道みち
痛む指を気にしながら崖を戻り「清岸寺」方面へと少し戻り、清岸寺の東の道を進み県道48号に合流する。メモする段階で25000分の一の地図を見ると、県道48号に当たり、そこから南東へと一直線に続く道筋に「横浜水道みち」とある。その道を先に延ばすと、先回の散歩で出合った「横浜水道みち」の緑道に当たる。思わず知らず、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下る「横浜水道みち」の導水管上を歩いていたようである。

○「横浜水道みち」の歴史
横浜市水道局のHPの記事をもとにメモをまとめる。戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。その後、明治23年(1890)の水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することとなり、同年4月から横浜市に移管され市営として運営されるようになり、現在横浜市水道局の管轄にある。
相模川が山間を深く切り開く上流部、案内にもあった、川井接合井から野毛山浄水場までの起伏の多い丘陵などを、基本、一直線に貫く水路の建設は難航したと言う。また、近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)を現場に運ぶには、相模川を船で上流に運び上げたり、この案内にもあるように、トロッコ路を敷設し水管を運び上げたとのことである。

経路を見るに、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りから、田名原段丘面を一直線で進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。
経路や施設なども創設時と現在では状況も大分異なっているとは思う。実際、上記の相模原段丘面にある相模原沈殿地は、昭和29年(1954)の第四回拡張工事の際に竣工された横浜水道みちの施設と聞く。そのうち、一度実際に歩いて実感してみたいと思う。

県道48号
八瀬川の源流域である県道48号・上田名交差点に向かう。道を進むとほどなく「大島地区」から「田名地区」に入る。田名地区の最初の集落は「清水地区」。地形図を見ると、陽原段丘面が相模川に接する崖線上に見える。崖線下は相模川の氾濫原のようにも思える。崖線上と氾濫原の比高差は20m以上あるだろうか。
清水地区を進むと次は「堀之内地区」。もともとは相模川崖線上の「はけ(=崖線)ばた」集落と、大杉公園周辺の「ほりのうち」集落から成っていた、とのこと。
○堀之内と田名氏
堀之内とは、武蔵七党のひとつ横山党の庶流、横山広季がこの地に進出し田名を称し、館を築いたことに由来する、と。横山広季は横山党として建暦3年(1213)の和田合戦に参戦。侍所別当の和田義盛に与みするも北条氏に敗れ討死。「吾妻鏡」の中に討ち死にした武将として「たなの兵衛。たなの太郎」の名があるが、それは広季と、その子の時季とのこと、と言う。

県道はおおよそ陽原段丘面が相模川と接する崖線上を通っていると思うのだが、田名原段丘面と陽原段丘面の境の崖線ははっきり見えない。道の東側との比高差は2mもないだろう。建物も多く段丘崖を感じるような趣はない。建物の間に所々畑地も残り、右手には中津台地も見られる頃に県道48号・上田名交差点に。ここを左に折れて八瀬川の源流域に向かう。

三角山公園
上田名交差点から成り行きで進んで行くと、石碑の並ぶ公園に出た。田名中学校の対面にあり、「三角山公園」と呼ばれている、と。かつて、この公園の南西方向には深い谷があり、そこから見上げたこの公園の姿を以てして「三角山」と称した、とか。その谷って、往昔の八瀬川源流域の谷戸であろうか。公園には日清戦争・日露戦争から第二次世界大戦での戦没者の慰霊碑が建っていた。

八瀬川源流域
田名中学校と田名郵便局に挟まれた辺りから突如として水路が南に延びる。下水路のようなつくりであり、湧水からの水路の趣きは全くない。野水路(地面にしみ込まず溢れ出た雨水が流れる堀)と説明する記事もある。下水道が整備される以前に生活排水を流していたようだが、下水道が整備された現在、水はほとんど流れてはいない。

○八瀬(やせ)川
Wikipediaによれば、「八瀬川(やせがわ)は、神奈川県相模原市を流れる延長約5kmの準用河川。相模原市上田名付近に源を発し、相模原市磯部上流のJR相模線下溝駅付近の新八瀬川橋よりすぐ先で一級河川相模川に合流する。沿川の概況は、中流域にある閑静な住宅地と上・下流域にある水田や段丘斜面の樹林帯、そして段丘崖からの湧水が水路により導かれ流量も比較的豊富な自然環境が良好な中小河川であり、相模原市の都市部における住民や生物にとって貴重な水辺空間となっている。
この八瀬川は、事業実施済みの区間を含め、平成18年度策定による国の「多自然川づくり基本指針」を取り入れ、水源地域の河川として、川の持つ自浄能力や水循環機能を高め、地域に密着した河川環境の保全・再生を図る川づくりを目的として、昭和63年策定済みの整備計画の見直しによる八瀬川多自然川づくり基本計画の策定を行い、今後、多自然川づくり事業を推進する」とあった。 源流域ではこの説明にはなんの説得力もないのだが、おいおい、その川の状況も変わって来るのだろうと、川に沿って南下することにする。

半在家地区
八瀬川を進み「半在家」地区に。この辺りは平安後期には既に人が住んでいたとのことで、平時は農民、非常時には武士として戦ったことから「半分在家武士」が地名の由来とか、寺領と官領が折半された故とか例によって地名の由来は諸説あり。

やつぼ
「やむかい橋」辺りから下流は八瀬川の水も知らず増えている。この辺りまで来ると田名原段丘面と陽原段丘面を画する崖線もしっかりし、斜面林も見えてくる。水量が増えるのはどうも、崖線からの湧水がその因のようである。斜面林のガードレールに切れ目があり、成り行きで下ると大きな「やつぼ」があり、豊かな湧水が八瀬川に注がれていた。特に名前は付けられていなかった。




田名葭田(よし)公園
南下する水路が東に向かい、川の両側緑の森で囲まれる辺り、右岸は田名葭田(よし)公園と呼ばれるようだが、その公園の北に沿って別の水路が八瀬川に平行に進む。二つの水路は水面の高さも異なり、コンクリートで別水路として管理されている。ふたつ並んで流れる水路は結構美しい。





○大杉池系統の八瀬川

□大杉池
合流、と言うか平行に流れるこの水路は田名小学校の南東にある「大杉池」を水源とする水路、とのこと。合流点までは「紅葉川」との呼ばれているようである。大杉池は近くに「でいの坂(屋号から)」があるように、段丘崖下の結構大きな池であり、雨の後でもあるからだろか水量も豊富であった。
池脇には弁天社。陰石と陽石の一対が並ぶ。道祖神ではあろう。池から溢れた水は開渠として流れはじめるが、途中暗渠となっており県道48号・田名団地入口交差点辺りまで地中に隠れる。




□半在家自治会館のやつぼ
県道48号・田名団地入口交差点から再び開渠となり、半在家自治会館辺りにある「やつぼ」からの「湧水」も集め田名葭田(よし)公園に下る。建物脇の石垣下から流れ出す湧水にしばし見とれる。

L字の固定堰
田名葭田(よし)公園から平行して下ってきたふたつの八瀬川源流域からの水路のうち、田名郵便局辺りから下ってきた水路は、相模原田名団地東の名も無い橋の手前でL字の固定堰で阻まれ、開口部からゴルフ場方面へと潜る。下流で再び入流しているようではあるが、下水としての扱いとして地中を進むようである。
水路を二つに分けたのは、大杉池方面からのきれいな水と、田名郵便局方面からの所謂「野水路」、下水が整備される前は生活排水で汚れた水を分けるためのものであったようである。現在は下水道も整備され、崖線や「やつぼ」からの清流が流れているわけで、別系統に分ける必要もないのかとも思う。

で、ふと悩む。田名郵便局からの八瀬川は、源流域では野水路ではあるものの、途中、崖線からの湧水や「やつぼ」からの清流を集め水量豊かに田名葭田(よし)公園まで下るが、このL字固定堰から地中に潜り、これより下流は大杉池からの水流が八瀬川となる。と言うことは、大杉池系統の水が八瀬川の源流と言うことだろう、か。

こぶし橋

L字の固定堰で地下に入った八瀬川に替り、大杉池系統の水路に乗り替へ、下流に進む。水路がゴルフ場の南西端辺りで流路を東へと変える辺りから民家の風情から農村の景観となる。左手遠くには、段丘崖の斜面林が見えてくる。 農村の灌漑用水路といった姿を見せる八瀬川には農業用の水門も幾つか設けられている。段丘崖からの湧水も多く流入されているとのことである。
進むにつれて八瀬川が崖線に近づいていく。「こぶし橋」辺りから崖線下を流れる川と南北に連なる段丘崖の斜面林を眺め、そしてその左手に広がる平坦な耕地。田名原段丘面と陽原段丘面を画する崖線。比高差は10m以上もあるだろう。そしてその東に広がる陽原段丘面。本日の散歩の目的はこの姿を見ることでもあった。

塩田さくら橋
こぶし橋から下流は「田名塩田」地区に入る。「塩田」の由来は塩の交換所があった、との説もある。塩田地区に入り耕地に代わって宅地化が進んだ一帯を崖線斜面林の下を流れる八瀬川を見ながら先に進むと「塩田さくら橋」。当初はこの辺りから、未だ南に連なる斜面林下を流れる八瀬川を辿るか、水郷田名を彷徨う予定ではあったのだが、「やつぼ」で大転倒したときに傷が少々痛む。医者に診てもらわねばと、予定を変更し、ここから最寄の駅である相模線・番田駅に向かう。

塩田天地社
大きな車道の通る崖線坂道の途中に天地社。案内によれば、「天地社は古くは天地大明神、または天地宮と称し全国に同名の神社は兵庫県、愛知県と当社の三社のみである。
塩田に天地大明神の称名がみられるのは享保十一年(1727)の記録と安永二年(1773)の奉納塔で天地宮の名は社額に残されている。
天地大明神は延暦十七年(798)の勧請といわれ、その奉納神事が一月六日に行われる、田名八幡宮の的祭である。この的祭は塩田の天地大明神を起源とし一月五日の夜半から六日の早暁にかけ、塩田で行った儀式のあと奉納されたもので当地が発祥の地である。と古くから言い伝えられている。現在の天地社には明治末期の整理統合により山王社、御嶽社が合祀されている」とのこと。
祭神は国常立命、大山咋命、日本武尊。他の天地社も祭神を国常立命としているようである。国常立命は、天地開闢の際に出現した神であり、日本神話の根源神とされる。享保十一年(1727)の頃は堀之内の明覚寺支配とされている。境内には江戸期の庚申塔、御神燈が残る、と言う。
明覚寺は鎌倉期に開かれたお寺様であり、田名の諏訪社、水郷田名の八幡社の別当寺でもあり、明治期は隣に役場が置かれるなど田名の中心的存在でもあったようだ。場所は先述の大杉池辺りであったようだが現在は廃寺となっている。

横浜水道みち
段丘崖の車道を上り切ると国道129号・上溝バイパス・上溝バイパス交差点。交差点の脇に斜めに一直線に進んで来た道がある。先ほど「古清水上組のやつぼ」の辺りから南東に一直線に下ってきている。道は緑道として整備されているように見える。ここから先は、先回の散歩で出合った相模原沈澱池付近へと一直線に向かう。

相模線・番田駅
上溝バイパスを越え成り行きで相模線・番田駅に。この駅、昔は上溝駅と呼ばれ、上溝駅は相模横山駅と呼ばれていたようである。番田の由来は不明だが、番所の役人のための田、とする地名が全国にある。
本日の散歩はこれで終了。思わぬ怪我で「途中退場」となってしまい、塩田さくら橋から南に続く段丘崖を終点まで歩くことも、水郷田名を彷徨うこともできなかった。次回のお楽しみとする。


先日、中津川台地を散歩したとき、この中津原台地って幾つかに分けられる相模原台地の段丘面のひとつであることを知った。Wikipediaに拠れば、「相模原(相模野)台地は、多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河岸段丘である。
大きく分けて3~5段、詳細には十数段の段丘面に区分される。台地の大部分は古い順に相模原面群、中津原面、田名原面群、陽原(みなはら)面群に分けられる。(中略)台地上は相模川によって運ばれた堆積物だけでなく、富士山や箱根山などからの噴出物を中心とする火山灰層(関東ローム層)によって覆われている」とある。
相模原台地のイメージとしては相模原にしても、橋本にしても、昔軍の軍需工廠があったところであり、現在は工廠に代わって工場群が建ち並ぶ平坦な台地にといったイメージしかなく、高位段丘面(相模原面群、中津原面)、中位段丘面(田名原面群)、低位段丘面(陽原(みなはら)面群)といった数段に分かれる段丘面から成るといったことは結構新鮮な驚きであった。
で、段丘面がある、ということはそれぞれの段丘面の境には崖線があるだろう、崖線があれば湧水もあるだろう、湧水があれば、それを水源とした清流もあるだろうと、俄然相模原台地散歩にフックがかかった。実際カシミール3Dで等高線に従い色分けした彩色図をつくると、明らかに段丘面が色分けされる。そして、その色分けされた段丘面を見るに、相模原面には境川、田名原面には道保川、姥川、鳩川が流れ、陽原面には八瀬川が流れていた。
ということで、相模原台地の崖線・湧水巡りに出かけることに。最初は上位面の相模原面と中位面の田名原面を区切る崖線・湧水散歩。二回目は中位面の田名原面と低位面の陽原面の崖線・湧水散歩とし、その後はどうせのこと、「後の祭り」があるだろうから、成り行きで、そのフォローの散歩でも、といった大雑把な段取りではある。



本日のルート;京王線・橋本駅>相模線・南橋本>国道129号>日枝神社>鳩川>姥川源流点>横山丘陵緑地・姥沢地区>照手姫遺跡の碑>横丘陵緑地・日金沢上地区>せどむら坂>榎神社>鏡の泉>日金沢橋>てるて橋>県営企業団・北相送水管>公共下水道雨水吐き室>道保川源流域>道保川公園>道保川>淡水魚増殖試験場>横浜水道みち緑道>姥川・枡田橋>姥川・鳩川合流点に >大正坂下交差点>道保川から鳩川との分水界を辿る>下溝八幡宮>姥川が鳩川に合流>鳩川・道保川合流>姥川分水路が相模川に>三段の滝>相模線・下溝駅

相模線・南橋本駅
京王線橋本から相模線に乗り換え南橋本駅に。相模線は神奈川県茅ケ崎駅と相模原市の橋本駅を結ぶJR東日本の路線。もとは、大正10年(1921)、相模川の砂利運送を目的に私鉄の相模鉄道として建設されたが、戦時中、首都東京が攻撃されたときに備え、首都圏の迂回ルート路線として国有化され、国鉄の民有化を経て現在に至る。
駅から成り行きで南に下り、国道129号・上溝バイパス「下の原」交差点に。この辺りから道は下りとなる。相模原段丘面と田名原段丘面の境に差し掛かった、ということだろう。

日枝神社
バイパス脇の坂を下る。道の北に日枝神社。作ノ口地区の鎮守さま。道脇に幾つかの石碑が建つ。中には「百番観音」と刻まれた石碑もあるようだ。その石碑は日枝神社の逆側、バイパスから分かれる脇道の「観音辻」にあったものが、道路拡張にともなってこの社に移された、と言う。日枝神社のあたりの坂を観音坂と称するようだが、その由来となる観音様であろうか。
鳥居を見ると、左は「日枝神社」、右は「蚕影山神社」、拝殿前の石碑は「御嶽神社」とある。幾多の神様が同居しているのは、明治期に集落の社を合祀したものだろう。拝殿にお参り。創建不詳。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。

○大山咋命
Wikipediaに拠れば、「名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味する、と。『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑(なりかぶら;注「音をたてて飛ぶ鏑矢」)を神体とすると記されている。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、天台宗および延暦寺の守護神ともされた。(中略)太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建て、江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。大物主神は西本宮に、大山咋神は東本宮に祀られている」とある。

ところで、山王権現は日吉山王権現と称される。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開き、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。

○蚕影神社・御嶽神社
蚕影神社(こかげじんじゃ)は、茨城県つくば市神郡に総本社のある社。正式表記(旧字体)は蠶影神社。蚕影神社は神衣を織るための養蚕、製糸、機織の技術伝来の地として養蚕の神を祀っている(Wikipedia)。
境内にある小さな祠が蚕影神社だろう、か。また、御嶽神社は明治期、一時合祀されたが、悪いことが続いたため再び元の場所に戻して祀るようになった、という。下九沢に御嶽神社があるが、それがこの御嶽神社だろう。
○観音辻
観音辻には「大山道」の石標が残る、という。八王子、橋本から作ノ口、上溝を経て下当麻に進み、当麻の渡しで上依知に渡り大山へ向かった道である。「埼玉往還」、「八王子道」などとも呼ばれた。
また観音辻付近、現在の「作の口踏切」辺りにその昔「相模線・作の口駅」があったが、相模線の国有化の際に廃止されたようである。

田名原段丘面
観音坂を下り切り、後ろを振り返るに崖線の斜面林が相模原段丘面と田名原段丘面を区切り、南西へと弧を描いて連綿と続く。段丘面の比高差は30mほど。フラットと思っていた相模原台地の段丘面のギャップをはじめて実感する。

■相模原台地
田名原段丘面も、はるか昔に相模川によって形作られたものと言う。相模原面の等高線を見ると、南西に向かって地形が下っている。もともと、といっても、はるか昔の、その又昔(50万年前)、相模川は多摩川方面へと流れ東京湾に注いでいた。それが、なんらかの地殻変動により地形に変化が起こり、30万年前頃、その流路を南に変え、橋本から藤沢にかけて大きな扇状地をつくった。これが相模原台地の土台となっている。その台地には40万年前から活動をはじめた箱根火山からの大漁の火山灰・軽石が降り注ぎ台地を覆っていった。これが5万年前頃まで続いた、とか。
その相模台地に変化が起こったのは5万年前から1万年前に起きた氷期。2万年前をピークとする氷期により海面が低下し現在より100mも低くなった、とのこと。その結果傾斜が急になった相模川の流れは急流となり、台地を開析し、新たな段丘面を形成した。これが田名原段丘面であり、おおよそ3万年ほど前のこととも言われている。
現在相模原段丘面にも田名原面に相模川は流れていない。氷期がピークを越えた後、6000万年前の頃と言うから縄文時代に温暖化が進み、氷が解け海面が上昇し、相模川の谷筋に海水が入り込んだ、とか。この縄文海進期に緩やかな傾斜となった相模川が「探し当てた」流路が現在の流路なのだろう。
相模原面の境川は往昔の相模川の名残とも言われる。また田名原面には現在、鳩川、姥川、道保川が流れる。往昔は崖線より湧き出した湧水が源流だろうが、さて現在はどうだろう。実際に歩いて確かめてみる。

鳩川
段丘面を分ける崖線の下を流れる姥川の源流点が最初の目的地ではあるのだが、「作ノ口交差点」のすぐ先に鳩川が流れる。この地の北、相模原の上九沢の大島団地付近にその源を発し田名原面を下り、海老名で相模川に合流する姥川は、この作ノ口交差点辺りでは、崖線から離れ段丘面の真ん中を流れるが、地形図をチェックすると源流部辺りでは相模原段丘崖傍を下っている。田名原段丘面形成に「貢献」したであろう鳩川に「敬意」を表し、ちょっと立ち寄る。市街地をゆったり流れる鳩川を眺め、姥川源流点に向かう。

姥川源流点
上溝バイパスを「作ノ口交差点」まで戻り、その右手にある姥川源流点に向かう。成り行きで道を進むと緑の植え込みといった一隅があり、そこから暗渠が続いている。この緑の植え込みの辺りが源流点でのようである。姥川源流付近は、工業用地からの排水や雨水対策のため河川改修工事が行われたようであり、その結果として現在の姿ではあろう。現在では崖線からの湧水といった風情とはほど遠い姥川の源流点である。

横山丘陵緑地・姥沢地区

源流点からの暗渠はすぐ終わり、排水兼流量調節用のような水門からコンクリート溝の開渠となって民家の間を流れる。この水門は昔の工業用地からの排水を行っていたときの名残なのだろうか。さすがに工場排水を垂れ流しはしていないだろうが、現在でも処理された工場排水や雨水が姥川の源流点へと流されているのだろうか。
源流からの流量の名残も見えない姥川が、この水門から先には清冽とは言い難い水が流れ出ていた。現在はわからないが、平成22年(2010)の記事には「姥川では上流部で水質管理されていない排水が流れ込んでいる」とあるので、現在もその状況が続いているのかもしれない。
突如水路が現れた姥川の流路を少し辿った後、流路から離れ相模原段丘面と田名原段丘面の崖線に整備された横山丘陵緑地に向かう。案内に従って歩を進めると、かつては崖線からの豊かな湧水に浸されてだろうと思われる緑地が現れた。

○「照手姫遺跡の碑」
緑地は谷戸と言った景観を呈し、緑地入り口から湧水によって刻まれた「谷」へと崖道を下る。緑地には木道が整備されたおり、先に進むと「照手姫遺跡の碑」があった。
碑文には「この地は姥川の水源地として常に清水こんこんと湧き出づる泉であった。里俗称するところによればかっては横山将監の娘照手姫の産湯の水に使い、長じては朝な夕なにその玉の肌をみがいたともいう。照手姫は小栗判官満重との説話の主である。
往時茫々 今や市勢進展とともに工業用地の排水路となり、清泉涸れはてて僅かにその伝承のみを残すにいたった。
巷間謡わるる ほんに横山照手の前の 眉に似たよな三日月がかかり 虫も音を引くほそぼそと の風情を偲びつつ 永くその跡を伝えんとするものである」と刻まれていた。

この石碑はもともとは、先ほど訪れた姥川の源流点辺りに昭和37年(1962)頃、河川改修を記念して建立されたようであるが、平成 14 年(2002)頃、姥沢地区の横山緑地が整備された時にこの地に移された。碑文にあった、「工業用地の排水路となり、清泉涸れはてて」といった下りは、当時の源流点での工事を記念して建立されたものであり、この地のことを指すのではないようだ。

○照手姫
照手姫って、説教節で名高い『小栗判官』の悲劇のヒロイン。この緑地の地名の由来とも言われる横山党一族の館がこの崖線上にあり、照手姫は横山氏の姫とか、あれこれ説はあるが、そもそも実在の人物かどうかもはっきりしていない。実際、甲州街道の小仏峠を越えた時、美女谷温泉に照手姫出生の地との伝説が伝わっていた。

 ○小栗判官
先日、相模のサバ神社を辿る散歩の折り、西俣野で「伝承小栗塚之跡」の石碑に出合った。諸説あるなかで、照手姫と小栗判官が最初に出合った地とされる西俣野に伝わる小栗判官と照手姫の話をメモする。
「小栗判官」は遊行上人が、仏の教えを上手な語りで人々に説き教える「説教節」のひとつ。中世(室町期)にはじまった口承芸能であるが、江戸期には歌舞伎や浄瑠璃の流行で廃れ今は残っていない。森鴎外の「山椒大夫」も説教節の「さんせう大夫」をもとにしたものである。

 で、その「小栗判官」であるが、常陸国の小栗城主がモデルとはされるも、「小栗判官」自体は創作上の人物ではある。物語も各地を遊行した時宗の僧(遊行僧)により全国に普及し、縁のある各地にそれぞれ異なった伝承が残り、また浄瑠璃、歌舞伎などで脚色され、いろいろなバージョンがあるようだが、西俣野に伝わる小栗判官の物語は、各地を遊行した時宗の僧侶の総本山である藤沢市遊行寺の長生院(元は閻魔堂とも称された)に伝わる物語をベースにしたものである。

その原型は室町時代、鎌倉公方と関東管領の争いである上杉禅秀の乱により滅亡した常陸国の小栗氏の御霊を鎮める巫女の語りとして発生。戦に破れ常陸を落ち延びた小栗判官。相模国に潜伏中、相模の横山家(横山大膳。戸塚区俣野に伝説が残る)に仕える娘・絶世の美女である照手姫を見初める。しかし盗賊である横山氏の知るところとなり、家来もろとも毒殺される。照手姫も不義故に相模川に沈められるが、金沢六浦の漁師に助けられる。が、漁師の女房の嫉妬に苦しめられ、結果人買いの手に移り各地を転々とする。
閻魔大王が登場。裁定により、小栗判官を生き返らせる。そのとき閻魔大王は遊行寺の大空上人の夢枕に立ち「熊野本宮の・湯の峰の湯に入れて回復させるべし」、と。上人に箱車をつくってもらい「この車を一引きすれば千僧供養・・」とのメッセージのもと、西へと美濃へ。
その地、美濃国大垣の青墓で照手姫が下女として働いていた。餓鬼の姿を見ても小栗判官とはわからないながら、5日の閑をもらい大津まで車を曳いていく。その後は熊野詣の人に曳かれ湯の峰の湯に浸かった餓鬼は回復し元の美男子に。やがて罪も許され常陸国の領主となり、横山大膳を討ち美濃の青墓で照手姫とも再会しふたりは結ばれた、って話。

なお、下俣野には小栗判官ゆかりの地が残る。下俣野の和泉川の西には閻魔大王が安置され、名主である飯田五郎右衛門宅にあったものが移管された地獄変相十王絵図、閻魔法印、小栗判官縁起絵が残る花応院などがある。

横山丘陵緑地・姥沢地区を彷徨う
「照手姫遺跡の碑」から少し谷頭に近い崖線方向へと彷徨っていると、排水管なのか導水管なのか、ともあれ水管が残っていた。その時は、乏しくなった姥川源流域の湧水を補う相模原段丘面の雨水「養水」口だろうか。
崖線から「照手姫遺跡の碑」に戻り、緑に囲まれた木道を先に進む。嘗ては豊であっただろう湧水地も、現在ではちょっと湿った、といった程度でしかない。それでも足元の一面の緑は気持ちいい。崖線上下の比高差も20m以上はありそうだ。

○照手姫伝説伝承の地・イラストマップ
歩を進め、横山丘陵緑地が姥川に接する辺りに到ると、地面はまったく「湿気」はなくなる。姥川脇には「照手姫伝説伝承地」の案内と「てるて姫の里 ロマン探訪の小路イラストマップ」。
「照手姫伝説伝承地」には、市内に残る照手姫伝説伝承地として、この横山段丘崖を中心に、姥沢地区の他、姥沢源流域や姥沢地区に接する日金沢(ひがん)沢、横山台の榎神社、下溝の古山地区などにその伝承が残されている、とあった。古山地区はここからちょっと離れているため今回辿ることはできそうもないが、そこには伝承地は「十二塚」とか「ババヤマ」といった伝承地が残ると案内されていた。
また、「イラストマップ」には、照手姫遺跡の碑は、清水の湧き出る姥川最上流部からこの地に移されたこと、現在地から少し姥川を遡ったところに照手姫と乳母の日野金子の姿を描いた「姥沢幻想の碑」、姥川を少し下ったところには照手姫が姿を映し化粧をしたという「鏡の泉」、台地上には榎神社などが残ると紹介されていた。その案内を頼りに榎神社と鏡の泉を訪れることにする。

横山緑地・日金沢地区
先に進むと、横山丘陵緑地の姥沢地区と日金沢地区の境を示す道標。日金沢は「ひがんさわ」と読む。照手姫の乳母である日野金子由来の地名、と言う。

せどむら坂
ほどなく「せどむら橋」。橋から「せどむら坂」が崖線を上るが、橋の脇に道祖神や「せどむら坂改修記念」の石碑が並ぶ。坂の名の由来は坂下にあった村名、から。
ヘアピンカーブの坂を上る途中に横穴。入口が木の柵で守られえている。横穴古墳なのか、鎌倉に見られる「やぐら;墓穴」なのか、説明もなく不明である。

榎神社
坂を上り切り崖線を切り裂く相模線を越え、道を右に折れ線路に沿って進み、行き止まりを左に折れると榎神社があった。ささやかな境内に照手姫が祀られている。
案内には「この神社は「榎さま」として親しまれ、伝説の人物照手姫を祀っている。照手姫は武将横山将監の娘で、敵方の武将小栗判官と恋仲になる悲劇の主人公であり、相模原の昔話にも残されている。
榎神社の神木であるこの大榎は、明治18年(1885)に植えられた二代目であるが、初代の榎は照手姫がさした杖に根づいたもので、枝が下を向いた「さかさ榎」であったと伝えられている」とあった。
その初代の榎であるが、あまりにも大きくなり、付近の耕地の日当たりが悪くなり、ために明治16年(1884)頃切り倒したところ、村民に疫病が蔓延したため二代目の榎を植えたとのことである。




○姥沢の横山党

横山党とは児玉党、村山党など共に鎌倉幕府の中核となった武蔵七党のひとつ。多摩の横山庄を中心に武蔵の各地に勢力を拡げた。またその勢力は南下して愛甲氏を破り相模に橋頭堡を確保。一族が愛甲氏を名乗り、海老名氏や波多野市との姻戚関係を結ぶなど相模に勢力を拡げ各地に進出。その地名を性として相模に覇を唱える。相原、小山、矢部、田名など、現在も地名にその名残を残す。その横山党は建保元年(1213)の和田合戦で和田義盛に与し北条氏に敗れ勢力を失うことになる。
で、この照手姫伝説との関連での横山氏であるが、時代は室町で横山党は和田合戦で壊滅しているわけで、由緒ある「横山党」、というより、最初に『小栗判官』ありき、ということで、その話の中に登場する横山某がこの地に住んでいた故の後付けではないか、という説が妥当なところ、かと。

鏡の泉
榎神社を離れ、再び崖線の坂を下り姥川脇に戻る。緑の斜面林に覆われた崖線下を流れる姥川に沿って少し下ると流路脇に「鏡の泉」。崖線下の岩の間から湧水が流れ出している。姥川に湧水からの水が注ぐのは、ここがはじめて。上にメモしたように、照手姫が姿を映し化粧をしたいという話が残る。

日金沢橋
鏡の泉を少し下った川脇に「相模原市の多自然川つくり(姥川)」の案内。「姥川は、中央区上溝1丁目からはじまり田名原段丘を東に流れ南区下溝で鳩川に合流し相模川へ流れ込む延長6.5キロの河川です。
河川改修を実施する上で、自然環境等に配慮した「多自然川つくり基本方針」を踏まえ、横山丘陵地からの地下水・湧水が自然と流れ込むよう、石材等を詰めた鉄線カゴ(カかごマット)を使用し、常時水が流れる部分は捨石等により蛇行させ、瀬や淵など多様な流れを創出する整備を行っています。これらにより安定的な水循環を確保し、併せて川自身が持つ浄化作用の再生を図る事業を行っております」とあった。
川に沿って歩くと、なるほど説明にあった護岸整備が見て取れる。日金沢橋を越えた辺りでは、鉄線カゴ(カかごマット)の護岸がよくわかる。目には見えないけれど崖線からの湧水が上流部で排水に少々汚れた姥川の水を浄化しているのであろう。

てるて橋
日金沢橋を越えた辺りから姥川は崖線を離れ始める。それにつれて、川の周囲には住宅が建ち並び、自然の景観は乏しくなってくる。先に進むと大きな通りに橋が架かる。この通りは相模線・上溝駅前からの通りでもあり、人通りも多い。少し読みにくいのだが、「てるて橋」と刻まれているようだ。

姥川の源流点辺りから崖線を切り割って走ってきた相模線も上溝駅から大きく弧を描いて田名原段丘面に下りてくる。相模鉄道も南武線や東急玉川線、京王相模原線、西武多摩川線など多くの鉄道事業者と同様、その発足時の主要事業が「砂利採取」であったわけであるから、相模川に近づくのは当然ではあろう。

県営企業団・北相送水管
「てるて橋」を越え、「堰の橋」から「田中橋」へと下る間に姥川にブルーにペイントされた大きな送水管が見える。何となく気になってチェックすると、この水管は神奈川県企業庁(神奈川県が経営する地方公営企業。住民の福利厚生を目的に税金ではなく、独立採算で運営される)がおこなう水道事業網の水管。県営企業団の水道事業は相模川水系の寒川や谷ヶ原で企業庁が取水した自己水源、そして酒匂川・相模川の水を水源とする神奈川県内広域水道企業団(神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市が昭和44年に共同で設立した「特別地方公共団体」)からの受水をもとに、湘南、県央、県北及び箱根地区など12市6町を給水区域とし、神奈川県民の約31パーセントにあたる約278万人に給水している。
で、この水管はその中でも、相模ダムでの発電放流水を下流の沼本ダムで取水し、津久井隧道を経て津久井分水池(津久井湖から西に下る相模川が大きく南に流路を変える辺り)に導き、分水池で県営水道、横浜水道、川崎水道などに分水。県営水道に分水された水は、津久井分水地のお隣にある県営谷ヶ原浄水場で浄水され水道水となり、相模原、厚木、愛川町の45万人を潤している水道網の一環のよう。

○北相送水管の経路
北相送水管の大雑把な経路は谷ヶ原浄水場から、相模川に沿って大島地区に下り、渓松園辺りから県道48号を大島北交差点まで進み、交差点から左に折れ北東に向かい六地蔵に。そこから南東に「作の口交差点」方向へと下り、この地で姥川を渡る。
姥川を渡った水路は南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、途中相模原に分水しながら、下原交差点で県道52号に当たる。北相送水管は県道で右に折れて県道にそって進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到る。
何気なく撮った一枚の水管写真から、神奈川の送水ネットワークの一部が見えてきた。ちょっとしたことにでも好奇心を、って成り行きまかせの散歩の基本を改めて想い起こす。

公共下水道雨水吐き室
田中橋から川筋を離れ、築堤上を走る相模線をくぐり、久保ヶ谷戸地区に入る。左手に再び崖線の緑の斜面林を見遣りながら宅地化された一帯を成り行きで進むと水道施設らしき構造物と敷地がある。名称をチェックすると「公共下水道雨水吐き室」とあった。
雨水調整池は散歩の折々によく出合うのだが、「雨水吐き室」って言葉ははじめてなのでチェックする。下水道には下水と雨水を別々の管渠で管理する「分流式」と同一の管渠で管理する「合流式」のふたつがあり、「雨水吐き室」は「合流式」の管理方式のひとつ。
この方式では、通常下水は処理場に送られるが、大雨時などに大幅に(晴天時の下水量の3倍から5倍程度)流入したとき、大雨で希釈された下水を室内にある堰を越流させ河川に排出方式のよう。その吐き出し口だろうか、雨水吐き室の少し下流の姥川右岸に、おおきく口を開けた箇所が見える。

道保川源流点
蛇行し、一時崖線に近づいた姥川と離れ崖線方向へと進む。次の目標は少し崖線から離れた姥川に代わり、相模原面と田名原面を画する崖線下を流れる道保川への「乗り換え」のためである。
道脇の小祠にお参りし、崖線を切りさいた車道の「丸崎交差点」に出る。交差点から崖線下を通る道を進んでいると、道脇に崖線に入るアプローチが目に入った。このアプローチが道保公園に続くかどうか不明ではあるが、とりあえず小径に入り込む。小径は道保川公園へと続いていた。
道保川の源流点であろう一帯は湿地と水草に覆われて誠に美しい。湿地には木道が整備されているが、道保川の源流点を求め一帯を彷徨う。グズグズの泥湿地ではあるが、崖下から流れ出すささやかな湧水を見てはちょっと幸せな時を過ごす。
○道保川
道保川は相模原市の上溝地区の道保川公園にその源を発し、模原段丘面と田名原段丘面を画する崖線下を流れ、下溝で鳩川に合流する延長4キロ弱の河川。水源は段丘崖線からの湧水を主源とし、ポンプアップされた環境用水(地下水)。源流点から続く崖線の斜面林と合わせその豊かな環境保全への取り組みが成されている。

道保川公園
源流点一帯から崖線に沿って整備されている道保川公園を進む。進むにつれて如何にも公園といった風情となり、水草の茂る湿地の中の木道を進む。湿地は崖線に沿って南北に延びているが、湿地からは崖線の斜面林に向かって大小いくつかの沢が伸びている。
最初に現れるのが「さえずりの沢」。この沢は野鳥観察をテーマとしている。ついで「こもれびの沢」は山野草観察、「ふたご沢」は森林生態観察がそのテーマとなっており、公園南端の「水鳥の池」の周囲は「せせらぎの沢」と名付けられている。そのせせらぎと野鳥のさえずり故か、平成8年(1996)には環境庁より「残したい"日本の音風景100選"」のひとつに選定されている。
公園内を気ままに彷徨う。沢のテーマに関係なく、沢の谷頭辺りで滲み出す湧水、それが溜まった小池、いかにも「山葵田」跡といった石組みが残る。まさしく「谷戸」といった景観が残る。実際、この地が公園として整備される前は谷戸田であり、山葵が栽培されていたようである。

この豊かな湧水に恵まれる道保川源流域も、昭和55年(1980)代より湧水量の低下が顕著となり、沢が涸れるといった状況になったとのこと。原因は崖線上の湧水涵養地である相模原段丘面の宅地化。
相模原を象徴する地形のひとつである、「河岸段丘と斜面林、豊富な湧水、せせらぎを包括的に保全するための施策」が実施され、現在は湧水だけでなく補助水源として地下水を6基のポンプで揚水、また10mから20mの井戸掘削も計6本整備されている。現在、湧水とポンプ揚水量の構成比は豊水期は湧水が10倍程度、渇水期(1月下旬から)でも2,3倍はあるというから、湧水量が低下したというものの、豊かな崖下からの湧水に恵まれている。
豊かな水を湛えた水鳥の池の脇を抜け、久しぶりに湧水を源流とする川の源流域を堪能し公園を離れる。

南へと続く崖線の斜面林
公園を出ると、相模段丘面よりの七曲り坂の下り口辺りで道保川の水は一瞬地表から姿を消すが、道の対面で再び顔をだす。水路は公園での風情とは異なり、深く刻まれた谷となる。南へと連綿と続く崖線の斜面林や道保川の谷筋は野趣豊かであり、谷筋を歩くことはできそうもない。
道保川の谷筋を見下ろしながら道を進む。道保川も道から離れたり、近づいたはするものの、谷筋は整備されておらず道から見下ろすのみ。崖線から流れる沢水を合わせた先に、相模段丘面から下る車道の上中丸交差点に。

淡水魚増殖試験場
道を進み、成り行きで道保川近くを通る小径を進むと道保川と道の間に、いくつかの水槽をもつ施設がある。地図には「淡水魚増殖試験場」とあった。が、あまり活動をしている雰囲気はない。昭和40年(1965)から全国に先駆けて鮎人工種苗生産技術の開発などをおこなったようだが、平成7年(1995)に水産総合研究所内水面試験場として相模原市大島に移転した、とのことである。

横浜水道みち緑道
小径から「下原やえざくら通り」にそって少しすすむと、道の左手の住宅街の中から異様に一直線の道がクロスしてきた。ちょっと気になり周囲を注意すると、道脇に案内があり、「横浜水道みち緑道」とあった。
案内によると、「横浜水道みち トロッコの歴史;三井用水取入れ所から17.5km。この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)我が国最初の近代水道として創設されました。運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です(横浜市水道局)」とのこと。
緑道を道保川に向かう。水路橋か水路管など見えないものかと先に進むと橋がある。水路橋はない。それでは水路管など橋下を通っていないものかと橋の両岸をチェックするが柵や木々に遮られ橋下を見ることができない。で、辺りを彷徨っているとフェンスに案内があり「深度;計画川床下6.338m下 外径Φ1500mmコンクリート管 内径Φ1500mmダクタイル鋳鉄管」といった表記がある。昔は水管橋があったようだが、現在は水路管はコンクリート管と二重構造となって川床下を通っているようである。
「横浜水道みち緑道」は崖線から相模原段丘面へと上る。横浜水道みちは自然流下方式であり、下から上って、とは思うのだが、開渠でなく鉄管であれば、取水口と最終配水池の標高差があれば、途中での凸凹は問題ない、とのことである。実際取水口辺りの標高は142m、最終地の野毛山は40m程度である。もっとも、これは創設期の明治の頃であり、その後の改修工事などでポンプによる揚水なども可能になっているのかとも思うのだが、確証はとってはいない。

○横浜水道みち
戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。その後、明治23年(1890)の水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することとなり、同年4月から横浜市に移管され市営として運営されるようになり、現在横浜市水道局の管轄にある。
相模川が山間を深く切り開く上流部、案内にもあった、川井接合井から野毛山浄水場までの起伏の多い丘陵などを、基本、一直線に貫く水路の建設は難航したと言う。また、近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)を現場に運ぶには、相模川を船で上流に運び上げたり、この案内にもあるように、トロッコ路を敷設し水管を運び上げたとのことである。

経路を見るに、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りを、一直線でこの地まで進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。 経路や施設なども創設時と現在では状況も大分異なっているとは思う。実際、この地から緑道を辿った崖線の相模原段丘面にある相模原沈殿地は、昭和29年(1954)の第四回拡張工事の際に竣工された横浜水道みちの施設と聞く。そのうち、一度実際に歩いて実感してみたいと思う。

姥川・枡田橋
横浜水道みち緑道を離れ、先に進むと県道52号に当たる。この辺りが道保川と姥川が再接近しているところ。ふたつの川を分ける地形は一見する限りは平坦な市街地といったもの。道保川筋から姥川へと乗り換えるべく県道52号を西に向かうと、ほどなく姥川にかかる枡田(しょうだ)橋に出合った。坂を上った実感もなく、地形図で標高を確認すると、道保川脇が標高70m、姥川への分水界の標高は73mといったものであった。




姥川・鳩川合流点に

地図を見ると枡田川から少し下った辺りで、姥川は鳩川に合流する。合流点の雰囲気を確認すべく、姥川に沿って下る。川脇に道はないため、道なりに南に進み姥川が鳩川に合流する地点に。散歩の初めに、田名原段丘面に下りたとき、崖線から既に離れ、崖線下の流れを姥川に「任せた」鳩川が、この地でやっと合流した、といった様である。

鳩川から道保川に乗り換え大正坂下交差点に
都市河川といった趣きの鳩川を成り行きで下り、これまた成り行きで道保川へと分水界を越える。分水界といっても姥川の標高が68m、分水界が70m、そこから65mの道保川筋へと下る、といったものであり、エッジの効いた分水界越えとはほど遠い。下りきったところは大正坂下交差点。再び南に連綿と続く崖線の斜面林が見えてきた。
葛篭(つずら)折れ大正坂は地質フリークには有名な坂のようである。切り通しには関東ローム層が剥き出した露頭を観察できる階段まで整備されているようだ。地質・地層にフックがそれほどかからない小生はそのままスルー。

道保川から鳩川との分水界を辿る
美しい緑を保つ道保川を下り、道保川が鳩川に再接近するあたりで鳩川に乗り換えるべく分水界に向かう。道保川の標高は62mほどだが、比高差3mほどの分水界というか「尾根道」に上り、鳩川を眺め、再び分水界に戻る。

下溝八幡
道なりに進むと、広い境内の社が見える。鳥居をくぐって参道をすすむと、少々小振りな本殿。境内右手にはトタン葺きの神楽伝や不動堂があった。祭神は応神天皇。本殿は新築されている。平成24年(2012)不審火で焼失したようである。
境内にある案内によると、「この神社は、天文(1532~55)年間に溝郷が上溝と下溝の両村に分かれた際に、下溝村の鎮守として上溝村の亀ヶ池八幡宮から勧請されて創建された神社と伝わる。また、中世の屋敷跡と思われる「堀の内」と呼ばれる地点からみて、その裏鬼門(西南)にあたるので、ここに建立されたとの説もある。
参道の脇にある小祠には、市の重要文化財に指定されている不動明王坐像が安置されている。これは享保9年(1724)に後藤左近藤原義貴(よしたか)が製作したもので、もともとは別当大光院の本尊であった」とある。

○堀之内
堀の内の由来は、北条氏照の娘・貞心尼が家臣山中大炊助に嫁いだ館および家臣団の居住域とか。また化粧田として上溝、下溝の地が与えられたという。 中世には鳩川・姥川沿いに「溝」という地名があり、その後上と下に分かれるが、その地はおおよそ田名原段丘面であり、八王子往還(大山道)が通り、定期市が開かれ、明治には警察所や学校が置かれるなど行政・経済の中心地であったようだ。その頃、水の乏しい段丘上の相模原は文字通り一面の原野が拡がっていたようであり、相模原段丘面が開けていったのは昭和5年(1930)頃からの相模原面での軍都構想の進展による、とのこと。

道保川と鳩川の合流点
下溝八幡を離れ、道なりに進み道保川筋に戻る。下溝八幡の標高は65m、坂を下りきったところの道保川に架かる泉橋の標高は59mであるから、6m程度の比高差があった。泉橋の上流には川床に緑も多く、自然のままなのか、環境整備の故なのか定かにはわからないが、ともあれ未だ美しい川の姿を保っている。
泉橋から西に向かい鳩川に架かる大盛橋に。こちらは都市河川といった趣きである。大盛橋を下流に進むと鳩川に道保川が合流する。道保川も鳩川との合流点はコンクリートの壁がつくられている。ここでやっと田名原段丘面を流れる鳩川・姥川・道保川が一本になった。

鳩川分水路
道保川の水を集めた鳩川は流れを東に向け相模川に注ぐ。水路を相模川方面に進むと大下(おおじも)橋が架かるが、そこには「鳩川分水路」とあった。鳩川の水を相模川に「吐く」ために昭和63年(1988)に建設されたもの、と言う。大下橋の先は相模線が走り、その先の県道46の先には相模川、その向こうには丹沢の山塊が拡がる。

南下する鳩川
鳩川放水路が相模川に合流する姿を見る前に、道保川と鳩川の合流点あたりを彷徨っていると、道保川が鳩川に合流する手前から南に水路が延びる。地図で確認すると「鳩川」とあった。鳩川はこの分水路の先も南下し、海老名辺りで相模川に注ぐ、と言う。水量もこの地から南は大幅に少なくなっている。
地図で鳩川流路をチェックしていた時は、鳩川と道保川が合流し相模川に注ぐこの地が鳩川の終点であろうし、そうすれば崖線もこの辺りで切れる、ということは田名原段丘面も此の辺りで相模川の沖積地へ埋没するものと思っていたのだが、崖線の斜面林は南に連綿と続いている。田名原段丘面はこの先も南に続くようである。地形を見るに、なるほど鳩川分水路は崖線を切り通し、相模川に力技で水を抜いているようである。
鳩川分水路建設の主因は何だろう。この鳩川分水路だけであれば、都市化・宅地開発による大雨時の洪水対策などと妄想もできるのだが、この鳩川放水路のすぐ南に昭和8年(1933)に建設された鳩川の分水路、正式には「鳩川隧道分水路」があるわけで、その頃に都市化がそれほど進んでいるとも思えない。鳩川自体が暴れ川であったのだろうか。はてさて。

三段の滝
相模線の鉄路に遮られる鳩川分水路を離れ、成り行きで鉄路を迂回し。県道46号・新磯橋を渡り相模川の崖線上にある新磯橋入口交差点に。この崖線は中位の田名原段丘面と低位の陽原段丘面を画するものであろうが、大雑把に言って、この地で陽原段丘面の崖線が田名原段丘面の崖線に合わさり埋没することになるのだろう。
崖線上からは相模川の広大な河川敷、対岸の中津原段丘面、その向こうに丹沢の山塊が一望のもと。誠に雄大な景観である。
交差点脇から河川敷の整地された公園に下りる階段がある。最後の仕上げに、相模川から鳩川の分水路を眺めるため階段を下りる。公園には分水路正面に橋が架かり、そこからは「三段の滝」がよく見える。滝といっても、自然のものではなく、段丘上からの放流水勢を緩やかにするため設けられた段差によって生じる「滝」ではあるが、水量も多く、なかなか迫力があった。

相模線・下溝駅
上にメモしたように、鳩川分水路の南には昔の分水路である「鳩川隧道分水路」もあり、そこにも三段の滝がある、とのことだが、想定と異なり田名原崖線は更に南に続きここで田名原崖線散歩は、この地で終わりとはならず、更に先に進む必要もある、ということで、「鳩川隧道分水路」は次回以降のお楽しみとする。 公園から崖線上に戻り、県道46号を少し北に戻り相模線・下溝駅に向かい、一路家路へと。

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