2014年3月アーカイブ

八菅修験の行者道散歩はスタート地点の八菅神社、往昔の誇り高き修験の一山組織であった八菅山光勝寺の、文字通り「一山」を彷徨い、そのメモが多くなったため、先回のメモでは行者道まで辿りつけなかった。
今回は八菅山を離れ。第二の行所から第五の行所である塩川の谷までをメモする。八菅神社から塩川の谷までは中津川に沿って、のんびり、ゆったりの散歩ではあったが、塩川の谷に入り込み、瀧行の行われた瀧を探すには少々難儀した。塩川の谷では塩川の滝の他にもあると言う、胎蔵界の瀧、金剛界の瀧といった曼荼羅の世界を想起させる瀧を求めて雪の残る沢を彷徨うことになった。



本日のルート;八菅神社>幡の坂>第二行所・幣山>第三行所・屋形山>金比羅神社>馬坂>愛宕神社>日月神社>琴平神社>第四行所・平山・多和宿>勝楽寺>第五行所・滝本・平本宿(塩川の谷)

八菅修験の行者道
八菅の行者道をメモするに際し、先回のメモで山林での修行者か山岳修行と結びつき、密教・道教などがないまぜとなった修験道が成立するまでのことはちょっとわかったのだが、よくよく考えてみると、丹沢の行者道を辿った「峰入り」がいつの頃からはじまり、いつの頃その終焉を迎えたのか、よくわかってはいなかった。先回のメモとの重複にもなるが、八菅修験の経緯をまとめながら丹沢山塊への「峰入り」の開始、そして終焉の次期についてチェックする。

八菅修験のまとめ
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、八菅(はすげ)修験とは、 中津川を見下ろす八菅山に鎮座する現在の八菅神社(愛甲郡愛川町八菅山141-3)を拠点に山岳修行を行った修験集団のこと。八菅神社とのは明治の神仏分離令・修験道廃止令以降の名称。それ以前は山伏集団で構成された一山組織「八菅山光勝寺」として七所権現(熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現;室町時代後期)を鎮守としていた。
山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があったと伝わる。 山林に籠り修行する山林修行者を「山伏」,「修験者」と呼び始めたのは平安時代。鎌倉から室町にかけて、修験者の行法は次第に体系化され、教団組織が成立。そのうちで最も有力な熊野修験を中央で統括する熊野三山検校職を受け継いだのが園城寺(三井寺)の流れをくむ聖護院であった。その聖護院を棟梁として成立したのが本山派である。
八菅山と聖護院が結びついたのは戦国時代。江戸時代には、聖護院宮門跡の大峰・葛城入峰に際しては、八菅の山伏が峰中(ぶちゅう)の大事な役を果たすなど、八菅修験は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた。
自前の修行エリアと入峰儀礼を持たない他の山伏と異なり、この地では綿々と峰入修行が行われていた、と言う。とはいうものの、「江戸時代の一般の山伏の生活は、中世以前の山林修行者とは異なり村落や町内にある鎮守の別当や堂守として生活しながら、地鎮祭やお祓い、各種祈祷など地域ニーズに応えていた」と述べている(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。

江戸時代の修験道
この記述から江戸時代とそれ以前では、為政者と修験者の関係が大きく変わっていることが忖度できる。八菅修験ではないが、大山寺修験は徳川幕府の政治的圧力を受け、一山組織が事実上壊滅したとのことである。『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によると、天正18年(1590)、家康が江戸に入府し、相模の有力寺社に寄進するもそこには大山の名前ななく、大山に寄進されたのは慶長13年(1608)になってのことである。
その理由は家康とその意向を受けた別当(一山の領主的僧侶)と大衆(だいしゅう;一山の大半を占める宗教者達)との対立であった。大衆の多くが修験者・山伏であり、山岳修験を禁じ、「お山」」を下りることを求める為政者と対立したわけではあろうが、所詮幕府の力に抗すべくもなく、お山を下りることになる。
天保年間に記された『新編相模国風土記稿』には「師職166軒、多く坂本村に住す。蓑毛村にも住居せり。皆山中に住せし修験なりしが、慶長10年、命に依りて下山し、師職となれり」と伝える。師職とは御師・先達のこと。こうして山を下りた山伏は山麓の「御師」に転身して門前町を形成、江戸時代の「大山参り」の流行を支えたと言われている(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)

丹沢の峰入りの開始時期
江戸になり大山修験では山伏がおこなっていた峰入りの行法は途絶え、修行の道であった行者道も途絶えたと言われる峰入りであるが、はたしていつの頃から「峰入り」はじまったのだろう。
あれこれチェックすると、山林修行者が個人で行っていた抖?(とそう)が集団で行う「峰入」儀礼に発展したのは院政期、大峰・熊野で成立したと考えられる。おおよそ11世紀頃とのことである。
で、この地、大山・八菅山での「峰入」がいつの頃はじまったのか、その時期ははっきりしない。はっきりとはしないが、抖?(とそう)ルートが「上人登峰。斗藪三十五日也」とあり、その行所も記載されている『大山縁起』の成立期が中世前期とのことであり、それから考えるに丹沢での峰入りが開始されたのは中世前期を下ることはない、ということではある。

春の峰入り
この八菅修験の道は春と秋の峰入りがあったようだが、秋のルートの記録は残っていないようである。以下、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』をもとに。春の峰入りについてメモする。
春の峰入は旧暦2月にはじまることになる。修験は神社脇の経塚付近にあった禅定宿から始まる。身を清め、諸堂舎の本尊を巡る行道など前行(ぜんぎょう)が何日も続き、峰入は2月21日に始まる。最初の3週間は八菅山内堂舎に籠り、勤行、作法の伝授、真言・経典の暗唱、断食などの修行が堂内で繰り返された。 3月18日、山岳抖?(とそう)に入る。そして第30行所大山寺不動堂(現在の阿夫利神社下社)に勢ぞろいしたのは3月25日であった。ということは、修験35日のうち八菅山で27日を過ごし、峰入りは行者道を1週間程度をかけて辿ることになる。

修験の最大の眼目は"不動"になる、有体に言えば「自然になること」と言う。白山修験は白山権現で始まり、その終わりも大山の白山不動で終わり、そして生まれ変わるということのようである。

春の峰入りの行者道
で、八菅修験の行者道であるが、行所は30ヵ所。この八菅山を出立し中津川沿いに丘陵を進み、中津川が大きく湾曲(たわむ)平山・多和宿を経て、丹沢修験の東口とも称される修験の聖地「塩川の谷」での滝行を行い身を浄め、八菅山光勝寺の奥の院とも称され、空海が華厳経を納めたとの伝説も残る経ヶ岳を経て尾根道を進み「仏生寺(煤ヶ谷舟沢)」で小鮎川に下り、白山権現の山(12の行所・腰宿)に進む。
八菅修験で重視される白山権現の山(12の行所・腰宿)での行を終え、小鮎川を「煤ヶ谷村」の里を北に戻り、上でメモした不動沢での滝行の後、寺家谷戸より尾根を上り、辺室山から物見峠、三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道への峰入りを行う。
唐沢峠からは峰から離れ、弁天御髪尾根を不動尻へと下り、七沢の集落(大沢)まで尾根を下り、里を大沢川に沿って遡上し、24番目の行所である「大釜弁財天」を越えて更に沢筋を遡上し、再び弁天御髪尾根へと上り、すりばち状の平地のある27番行所である空鉢嶽・尾高宿に。そこからは尾根道を進み、梅ノ木尾根分岐を越え、再び三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道に這い上がり、尾根道に沿って大山、そして大山不動に到り全行程53キロの行を終える。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

八菅修験の峰入の行所
1.八菅山>2.幣山>3.屋形山(現在は採石場となり消滅)>4.平山・多和宿>5.滝本・平本宿(塩川の谷)>6.宝珠嶽>7.山ノ神>8.経石嶽(経ヶ岳)>9.華厳嶽>10.寺宿(高取山)>11.仏生谷>12.腰宿>13.不動岩屋・児留園宿>14.五大尊嶽>15.児ヶ墓(辺室山)>16.金剛童子嶽>17.釈迦嶽>18。阿弥陀嶽(三峯北峰)>19.妙法嶽(三峯)>20.大日嶽(三峯南峰)>21.不動嶽>22.聖天嶽>23.涅槃嶽>24.金色嶽(大釜弁財天)>25.十一面嶽>26.千手嶽>27.空鉢嶽・尾高宿>28.明星嶽>29.大山>30.大山不動

と、峰入りのことをまとめてきたが、上でメモしたように江戸時代に為政者による政治的圧力によりその下山を余儀なくされたわけであり、「蟻の熊野詣で」といったように、修験者が盛んに峰入りをおこなったわけではない。文政年間以降の記録では入峰者数は多い年で24人しかいない。
上で「江戸時代,八菅山は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた」と引用した。しかしそれも、入峰者の数、多いとき24人といった程度では、山から下山させた「山伏・修験者」を教団傘下に組み入れ管理するといった宗教政策の一環として本山派聖護院門跡の統制下に置いたといったことではないか、とも妄想する。
明治に入ると、明治の神仏分離令と修験道廃止令の結果、明治4年(1871)の11人を最後に峰入りは途絶えることになる。多くの山伏が還俗(僧尼が俗人になる)を余儀なくされるが、神官に転じた人も多かった、とのことである。




幡の坂
八菅神社を離れて、第二の行所である「幣山」へと向かう。ルートを想うに、八菅山を彷徨ったときに出合った、「幡の坂」経由で進む事にした。実のところ、幡の坂の少し八菅神社側にある「石碑」に刻まれた文字がどうしても読めず気になっており、もう一度じっくり見ればわかるかも、といった想いで、このルートを選択した。
道を進み、石碑に到着。ためつすがめつ眺めては見たものの、一部欠けている石碑の文字を読み解くことはできなかった。 ちょっと残念ではあるが、石碑を離れ「幡の坂」の道標を見遣り、沢筋に下り、鹿なのか猿なのか、ともあれ獣が里の作物を荒らすのを防ぐ防御柵に沿って里に下りる。

かわせみ大橋
道は崖に張り付くように通っていいる。先回の散歩で八菅橋へと下る大橋がそうだったように、大掛かりな桟道といった道であり、特段川を渡っているわけではないようだ。この道・幣山下平線ができたのは2011年4月。それまでは中津川の右岸の道は整備されていなかったように聞く。今はゆったりのんびりの道ではあるが、往昔の行者は道なき道を辿っていたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。



第二行所・幣山(愛川町角田)
里に下り、丘陵裾に沿って野道を進む。成り行きで山裾の道から車道に出てしばらく歩く。八菅神社から2キロほどのところ、幣山(へいやま)地区の田園風景を抜けた東端の道脇に鳥居が見えてきた。
鳥居脇に案内。「?天岩屋(タテンイワヤ)は八菅修験の峰入修業における第2番目の行所。この岩屋はかつて山伏以外の者の立ち入りを禁じていた聖地で、中津川に臨む断崖の頂にはたいへい岩と称する巨岩があり、毎年3月7日に此処で山伏が秘水をもって灌頂したという。岩屋に鎮座する石神社は大宝3年(703)役小角によるものと伝えている。また、幣山の名は峰入りのときに五色の幣(ヌサ)を納めた故事に由来している』とある。

『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』には、「この聖地は荼枳尼天と倶利伽羅明王を祀る「幣山ダキニ天岩屋」と記載されている。?天岩屋(タテンイワヤ)=「ダキニ天岩屋」ということだろうか。
石段を上り、石神社にお参り。石神社の社殿の左手に岩場が見える。そこが幣山ではあろう。神社の脇には「是より登山禁止」と刻まれた文久年間に造られた石碑が建つ。これより先の岩場は、平安末から鎌倉時代の経塚が発見されたように、古代から祭祀を行う聖地であった、と言う。
説明を追加
聖地がどのようなところか岩場に向かう。左手は中津川の崖。高所恐怖症の我が身には結構辛い。岩場に続く踏み分け道はあるのだが、右手の崖を想えば、とてもそころ歩く度胸はない。左手の木の根元にしがみ付き、極力断崖絶壁を見ないようにして、へっぴり腰で岩場に這い上がる。 岩場に這い上がると、ちょっとした平場になっている。説明では「そそり立つ巨岩」とあったが、そんな岩はどこにもなかった。落石したのではあろう幣山は「山」とはいうものの、山ではなく、ちょっと大きな岩塊といったものであった。
祠も何もない岩場でしばし過ごし、さて引き返す、ということだが、往きはの上りだが、帰りは下り。これが結構怖い。木の根元から手を話さないように、恐々と元に戻る。距離、というほどの長さでもないのだが、緊張の時を過ごした。

丸山耕地整理竣工記念碑
幣山を離れ車道を進む。中津川に突出した山塊の手前の川側道脇に丸山治水碑。中津川から水を引き込み幣山地区の中津川堤防の内側に耕地が続いていたが、それは丸山治水碑のところに見えた取水口から取り入れられた水の恵みであろう、か。





海底地区
かわせみ大橋の「架かる」幣山下平線は中津川に架かる角田大橋からの道との合流点が終点。道は中津川に突出した辺りで山塊を回り込み海底地区に入る。海底は「おそこ」と読む。「おそこ」の意味はよくわからない。「かわうその棲むところ」といった記事をみたことはあるが確証はない。海底地区はかつて、楮を原料とする伝統的手漉きで障子神用の和紙製造で栄えたとのことである。




金毘羅神社
海底橋を渡り、車道を離れ、成り行きで愛宕神社へと向かう。耕地を鹿や猿から守る防護柵に沿って山裾を進むと「金毘羅神社」と記された鳥居があり、石段を上ると小祠があった。

馬坂
鳥居の近くに「馬坂」の道標。どんな坂か少し上り、なんとなく雰囲気を感じて元に戻る。馬頭観音なども祀られており、馬を使って和紙などを運んだのではあろう。
馬坂を先に進むと「打越峠」を経て荻野川筋の谷に到る。厚木市上荻野の丸山地区である。往昔。厚木市上荻野の打越から、海底を経て、中津川を渡り、関場坂から田代、上原に至り、そこから志田峠を越え、津久井の鼠坂の関所を過ぎて吉野宿へと通じる道があったという。はっきりとはわからないが、馬坂は小田原から甲州への通路であるこの道は「甲州みち」と称された道の一部ではないだろうか。
因みに、「打越」って「直取引」の意味もあるようだ。海底と萩野の間でそれっぽい取引が行われていたのだろか。また、連歌・連句で前々句のことを意味することより、次の宿に泊らず、その先の宿まで行く、といった意味もあり、よくわからない。

愛宕神社
金毘羅社から山裾を左手に進むと赤い小さな橋の向こうに愛宕神社。「新編相模国風土記稿」によれば、八菅修験巡峰の第三番の行所になっており、もとは屋形山東側の山頂に鎮座していたが山砂利採集のためこの地に移された、とのこと。社の裏手は砂利採取の現場となり、山の姿は消えていた。
愛宕神社って、火伏せ・防火にある社として知られるが、山城」・丹後の国境の愛宕山に鎮座する本社は、修験道の祖とされる役小角と、白山の開祖として知られる泰澄によって創建されたとの縁起が伝わるように、神仏習合の頃は、修験の道場として愛宕権現を祀る信仰を霊山であったようだ(Wikipedia)。八菅修験第三の行所であったとの説明も頷ける。

日月神社
里に下って行くと日月神社がある。月読神社に最初であった時も、こんな神社があるんだ、と驚いたが、結構多く出合った。それと同じく日月神社も初めて出合った社であるが、これも結構各地にあるようだ。
それはともあれ、祭神は大日霎尊(オオヒルメノミコト)と月読尊(ツキヨミノミコト)。「新編相模国風土記稿」には「小名海底ノ鎮守ナリ 石ニ顆ヲ神体トス 永禄ニ年(1559)ノ棟札アリ」とある。境内入口には安永6年(1777)の庚申塔、安政3年(1856)の廿三夜塔、寛政12年(1800)の百番供養塔、馬頭観音などが並んでいます。
祭神は大日霎尊(オオヒルメノミコト)とは天照大神ともその幼名とも。と月読尊(ツキヨミノミコト)は天照大神の弟神との説もあるが諸説ある。ツクヨミは太陽を象徴するアマテラスと対になり、月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もあり。門外漢はこの辺りでメモを止めるのが妥当か。とも。

第三行所「屋形山」
海底(おぞこ)地区と平山地区の間の丘陵中にあったが、愛宕神社でメモした通り、採石場となり「屋形山」自体が消滅してしまった。愛宕神社の裏、道路脇、それに後日中津川対岸の台地上から眺めたことがあるが、山容は残っていなかった。



第四行所「平山・多和宿」(愛川町田代)
広大な採石場を左手に見やりながら、車道を道なりにすすみ道脇にささやかな祠に祀られる「琴平神社」を越えると中津川の左岸を進み平山大橋を渡ってきた県道54号に当たる。そこは平山地区である。
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、正確な場所は不明だが、全国の修験霊山に共通する「多和宿」という宿名から、平山地区が「タワ」、つまり、中津川沿の丘陵と経ケたけを含む山塊の間にある、鞍部の宿として認識されていた」とある。この多和宿という名称をチェックすると、実際、吉野大峯奥駈道、日光。白山など修験の霊地にその名が残る。

「タワ」は「撓む=他から力を加えられて弓なりに曲がる」という意味。山では鞍部ということで、先日の大山三峰の行者道を掠ったとき、山の鞍部というか、平場に行所・宿があったが、この地は『丹沢の行者道を歩く』での説明もさることながら、ここの地形そのものが「撓んで」いる。平山地区の北で大きく蛇行した中津川の流路そのものが「撓み」そのもののように思える。平山地区の対岸の田代地区は蛇行する中津川によって流されてきた土砂が堆積した中洲のようにも思える。実際、田代地区の真ん中にぽつんと残る独立丘陵は撓む中津川の流路の変更により取り残された丘陵(還流丘陵「)と言われる。

琴平神社

琴平神社から真っ直ぐ進むと国道412号が走る。平塚より相川・半原を経て相模原にむかう国道412号をくぐると趣のある重厚な山門が見えてくる。


田代の半像坊
国道手前の案内には、「ここ勝楽寺は、遠州奥山方廣寺(静岡県引佐郡)より勧請した半僧坊大権現が祭られているところから、『田代半僧坊』と呼ばれています。毎年4月17日に行われる春の例大祭は、この付近では見られない賑やかな祭りです。かつてこの日は、中津川で勇壮な奉納旗競馬、大道芸、相撲大会などの催しがありました。また、近郷近在の若い花嫁が、挙式当日の晴れ姿で参拝する習わしがあり、『美女まつり』ともいわれました。環境庁・神奈川」とあった。
山門の阿吽の仁王さまを見やりながら、本堂や十六羅漢像が祀られる堂宇、鐘楼、そして半僧坊大権現。境内に再び案内。「名刹勝楽寺 山号 満珠山 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏
  草創は古く、弘法大師が法華経を書き写した霊場と伝えられています。もとは真言宗に属し、「法華林」の名があり、背後の山を「法華峯」と呼んだ。初めは永宝寺と称した。後に常楽寺から勝楽寺に変わった。天文年間(1532-1554)に能庵宗為大和尚が開山し曹洞宗となる。開基は内藤三郎兵衛秀行でお墓もある。 歴代の住職には名僧が多く、越後良寛の師、国仙禅師などあった。寛政5年(1793)に焼失し、後再建され現在の姿になった。
建物のうち山門は名匠右仲、左仲、左文治の三兄弟の工によるもので、楼上に十六羅漢の像がある。寺内には遠州奥山方広寺からの勧請した半僧坊大権現があって、4月17日の春まつりには、近郷近在の新花嫁が、参拝して「花嫁まつり」ともいわれ、植木祭りとともに賑わう」とあった。

ここ勝楽寺は、堂々とした禅寺にもかかわらず、「遠州奥山方廣寺(静岡県引佐郡)より勧請した半僧坊大権現が祭られているところから、『田代半僧坊』と呼ばれている」とある。半僧坊って一体全体、どれほど有難い「存在」なのであろう。
最初に半僧坊と出合ったのは鎌倉の建長寺。そのときのメモ:建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現、大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。
方広寺の開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と称された」と。
奥山の半僧坊が有難いお寺さまであることはわかった。が、それでもなんとなく、しっくりこない。あれこれチェックすると、半僧坊への信仰が広まった時期は明治10年以降とのこと。建長寺も勧請は明治23年(1890)、埼玉の名刹平林寺も勧請は明治27年。方広寺の鎮守に過ぎなかった半僧坊は、明治10年代に入ってから、急速にその信仰が拡大し、静岡や愛知の寺院にいくつか勧請された他、名古屋・長野・鎌倉・横浜などに別院が置かれた、と。
で、明治10年代とは明治政府の政策によって、修験道系の宗教が抑圧された時代。その時期に半僧坊が急速に発展したのは修験道と関係があるように思える。カラス天狗といった姿は役行者というか修験道を想起させるし、実際奥山方広寺を訪れた時、境内に役行者の像もあった。政府の修験道禁止にやんわりと抵抗したお寺さまの知恵であろうか。単なる妄想。根拠なし。


国道412号
半僧坊を離れ国道412号を北に進む。上にもメモしたが、平塚より相川・半原を経て津久井湖南岸を相模原に向かう国道である。もっとも平塚から厚木までは他の国道と併用であるので、実際は厚木の市立病院前交差点から国道412の名が地図に載る。
この国道412号は半原の北の台地へと登り切ると、志田峠の北に広がる台地・韮尾根を通る。いつだったか、武田氏と後北条氏が戦った三増合戦の跡を志田峠を越え、また武田軍の甲州への退却路を辿ったとき、志田峠の北に広がる台地・韮尾根を通る国道412号を歩きながら、その発達した河岸段丘に比べ、誠にささやかな流れである串川とのアンバランスが誠に気になったことがある。
 チェックすると、現在は中津川水系となっている早戸川は往昔串川と繋がり、その豊かな水量故に発達した河岸段丘ができたわけだが、その後、といっても、気の遠くなるような昔ではあろうが、河川争奪の結果中津川筋にその流路を変えたため、串川は現在のささやかな流れとなり、発達した河岸段丘が残ったということである。 また、韮尾根の台地から半原へとバイパス道として整備された国道412号を下ったこともある。このバイパスが完成する前は、さぞかし難路・険路であったのだろう。そんなバイパスとして台地に張り付くように整備された国道412号を塩川の谷へと進む。


第五行所「塩川の谷」
国道412号を田代半僧坊から15分程度進むと、国道の右側にフィッシングフィールド中津川。中津川の中洲を利用した釣り場であろう。釣り場の北に塩川の谷からの流れが中津川に合わさっている。
国道から釣り場に下るアプローチの坂を下り、コンクリートで護岸工事が施された塩川を渡り、料理旅館手前を塩川左岸に沿って谷筋へと向かう。国道412号下をくぐり、民家を越えると橋がある。橋の右手、廃屋の裏手から沢が流れ込む。

塩川の滝
塩川の滝は橋を渡り塩川の右岸の遊歩道を進むことになる。先に進むと塩川の滝の案内があった。「塩川滝のいわれ 塩川滝は、八菅修験の第五番の行所であり、同修験は、熊野修験の系列に属していたことがあったので、滝修行は熊野の行事に準じていたことが察せられる。これによると滝そのものに神性を認め、滝本体が神体であり、本尊であり本地物であった。
この社の祭神は大日?貴神(おおひるめのみこと)、となっているが、系列を同じゅうする熊野那智の滝における滝神社は、祭神を大己貴尊(大国主命)とし、本地物に千手観音を祀っており、神仏習合の姿を整えていた。そして「滝籠り」による厳重な修行が行われていた 愛川町商工観光課」とあった。
大日?貴神(おおひるめのみこと)とは天照大神であるのはわかるのだが、熊野那智の滝における、大己貴尊>千手観音にあたるものが説明されておらず、なんとなく言葉足らずの説明。
チェックすると、奈良時代、良弁上人が清瀧大権現を祀ったとの伝えがあった。半原地区に、開山が良弁上人、本尊作者を願行とする「今大山不動院清瀧寺」という古義真言宗お寺が明治2年(1869)まであったようであり、大山と同じ開基縁起をもつ由緒あるお寺のようであるので、塩川の滝は我流解釈ではあるが、大日?貴神>清瀧大権現のラインアップとしておこう。実際滝そばの石碑には「塩川大神 青龍権現 飛龍権現」とあった。
案内から左手の谷に入り、便利ではあろうが少々趣に欠ける赤い歩道橋を進あむと塩川の滝が現れた。幅4m.落差30mの滝は水量も多く如何にも瀧行の行所という大きな瀧であった。

『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、この塩川の谷には江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。また、塩川の滝以外に瀧が存在するようである。地元の伝承にも金剛瀧と胎蔵瀧が伝わる。『今大山縁起』と『大山縁起』にもそれを示す表現が残るようであるので、ふたつの縁起を見比べながら、チェックする。

『今大山縁起』と『大山縁起』
『今大山縁起』
「東者有塩竈之滝(東には塩竈之滝がある)、七丈有余而(七丈有余)、是名金剛滝(この名は金剛滝)、常対胎蔵界之滝(これに対して胎蔵界之滝がある)、西者有明王嶽(西には明王嶽(仏果山)、望法華方等之異石、花巌般若之岑直顕(法華方(経ヶ岳)などの異石(経石)をみて花巌般若之岑(経ヶ岳から華厳山)が直ぐに現れる。
彼滝下安飛滝権現之鎮座(滝下には飛滝権現が鎮座)又有高岩、岩下有仙窟(高岩があり岩の下に仙窟がある)別真之所、鈴音響干朝夕(別真之所で朝夕鈴音が響く)其外霊石燦然而、表五仏之尊容(それ以外には霊石が燦然とし、五仏之尊容を表す)」。

『大山縁起』
次有瀧。名両部瀧。阻山北有瀧。瀧高七丈餘。是爲金剛界瀧。時々放圓光。對胎蔵瀧有高岩。下有仙窟。列眞之所都也。有振鈴之聲。今聞。有岩窟。亦有霊石。表五佛形。或華厳般若峰。或法華方等異岩。(次に瀧がある。両部瀧との名。山を阻んで北に瀧がある。瀧の高さは七丈餘。時々圓光を放つ。これに対し胎蔵瀧と高岩がある。下には仙窟がある。列眞之所都である。振鈴之聲がある。今も聞こえる。岩窟がある。また霊石もある。五佛の形を表す。あるいは華厳般若峰(経ヶ岳から華厳山)、法華方(経ヶ岳)などの異岩(経石)がある。)

『今大山縁起』には塩川の滝(塩竈之滝)が金剛滝と呼ばれ、そのほかに胎蔵界之滝があり、金剛滝の滝下には飛滝権現が鎮座し、高岩があり岩の下に仙窟がある、とする。
一方『大山縁起』では「両部瀧(金剛滝と胎蔵滝)があり、山を阻んで北に高さは七丈餘の滝(これが金剛滝?)がある。これに対し胎蔵瀧と高岩がある。胎蔵瀧下には仙窟がある、とする。
塩川の滝と金剛界之滝、胎蔵界之滝が入り繰りとなっており、微妙に滝の名や場所が異なってはいるが、塩川の滝以外にも滝の存在を示していることは間違いない。また、洞窟・仙窟の存在も示している。

仙窟
大山修験の行所である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、とのことである。
弁天様って七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、それなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。上で大山寺の良弁は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたとメモした。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、この江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に重ね合わせ、その地に修験の地としての有難味を加え、塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

江の島とつながる仙窟があるとも思われないので、それはそれとして、塩川の滝以外の滝を探すことにする。

金剛瀧と胎蔵瀧
実のところ、この両部瀧探しは2回になってしまった。第一回目は塩川の滝へと左に折れる辺りを直進すると小高いところに塩川神社があり、その先に大きな堰堤が聳える。その沢に入り込めばなんとか成るかと思ったのだが、猪だか鹿だか、ともあれ猟師と猟犬が塩川の瀧の上流部に接近しており、ビビりの小生としてはとても散弾に当たるのも、猟犬に噛まれるのもかなわんと、上流の沢に入り滝を探すことを諦めた。
日も空けずリターンマッチ。『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』には「金剛滝」(蜀江滝、高さ約30m)は大椚沢上流 愛川町半原塩川添948番地と950番地の間、「胎蔵界滝」(飛龍滝・地蔵滝、高さ約30m)は小松沢の上流 愛川町半原塩川添947番地と948番地の間はあるのだが、大椚沢がどこだか小松沢がどこだかわかるわけもない。
可能性としては塩川の谷に入り、民家の切れる辺りに右側から塩川に流れ込む沢と、堰堤のある沢。このふたつの沢を彷徨えば、なんとかなるか、とは思ったのだが、チェックしていると愛川図書館に「あいかわの地名 半原地区」という小冊子があり、そこにふたつの滝の場所が詳しく書かれているといった記事を目にし、2回目の瀧探しの途中で図書館に立ち寄り小冊子を閉架棚から取り出してもらい、その場所を確認する。
その小冊子には詳しい沢の場所に関する記載もあり、それによると、小松沢は民家が切れるあたりで右から流れ込む沢。上流で二手にわかれ、右手が両玄沢、左手が小松沢であった。また、大椚沢は堰堤のある沢であった。 また滝の場所は、「地蔵滝(飛龍滝、胎蔵界滝);小松川の上流、扨首子との小字境に近いあたり、小字塩川添947番地と948番地の間にある。高さは35メートルほどで、落ちたとこから飛龍沢となり大椚沢に合している」、「蜀江滝(金剛瀧);大椚沢の上流、扨首子との小字境に近いあたり、小字塩川添948番地と950番地との間にある。滝より下を蜀江滝とも呼び、塩川に合する」とあった。
この記述によれば、小松沢上流の胎蔵界滝は大椚沢に合しているようだ。沢の地図では二つの沢は合流していないのだが、上流の支流が大椚沢へと流れ込んでいるのであろうか。

金剛滝

ということで、アプローチは堰堤を越え大椚沢から滝探しを始めることに。堰堤前にある塩川神社にお参りし、巨大な堰堤に接近。高巻きが必要かとおもったのだが、堰堤保守の便宜のためか堰堤左手にステップがついており、苦労せず堰堤上に。
堰堤から上流を眺めると沢は一面の雪。堰堤の左隅から沢に下り、ずぶずぶの雪に足を取られながら進むと正面に大岩壁が見えてきた。冬場で水量は乏しいが『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』に掲載されている写真から判断すると、金剛滝のようである。水量は乏しいとは言うものの、一枚岩の岩壁から流れ落ちる30m滝はそれはそれで、いい。
滝の左手に岩場があり、上って先に進めるかチェックするが、その先の絶壁はザイルやハーネスといった装備がなければ、とてもではないが恐ろしくて勧めそうもない。
岩場から下り、しばし滝を眺めた後、もうひとつの胎蔵瀧を探す。岩壁の右手のほうに濡れた岩場があり、その先の岩壁からかすかに水が落ちている。瀧の説明では共に小字境に近い辺りであり、住所も小字塩川添947番地と948番地の間、小字塩川添948番地と950番地との間ということだからお隣といった場所のように思えるのだが、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』に掲載された滝の姿とは何となく異なるように思える。装備準備でもしておけば先に進むのだが、今回はパス。
その代案として、塩川の谷の入口近くにあった小松沢を遡上することした。が、結構上るも滝を見付けることもできず、日没も近くなってきたので引き返す。雪も溶けた気候のいい頃、再び胎蔵瀧を探すことをお楽しみとして残しておくことにする。

『大山縁起』にある両部瀧のうち、金剛界瀧はみつけた、胎蔵瀧は、確証はないものの、それらしき滝を目にした。『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、この意味することは、大山修験も塩川の谷を行所としていた、ということである。実際、江戸初期には大山から清瀧寺に移った僧もあるとの記録ある。「丹沢山地で峰入を行っていた山伏たちにとって、多くの滝をもつ塩川の谷は、大山が修行エリアの東南の出入り口とすれば、塩川の谷は北東の出入り口として、また金剛界マンダラと胎蔵界マンダラを繋ぐ特別な場所であった(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)」と説く。 下に大山修験の行所をメモし、今回の発菅修験の行者道、第一の行所から第五の行所までのメモを終える。大山三峯の行者道を辿ったその影響か、メモが長くなってしまった。

大山修験の行者道
大山寺不動堂(阿不利神社下社)、二重の瀧での修行の跡>大山山頂より峰入り>大山北尾根を進み>金色仙窟(北尾根から唐沢川上流の何処か)での行を行い>大山北尾根に一度戻った後、藤熊川の谷(札掛)に下る>そこから再び大山表尾根に上り>行者ヶ岳(1209)>木の又大日(1396m)>塔の岳>日高(1461m)>鬼ヶ岳(十羅刹塚)>蛭ヶ岳(烏瑟嶽)と進む>蛭ヶ岳からは①北の尾根筋を姫次に進むか、または②北東に下り早戸川の雷平に下り、どちらにしても雷平で合流し>早戸川を下り>①鳥屋または②宮が瀬に向かう>そこから仏果山に登り>塩川の谷で滝修行を行い(ここからは華厳山までは八菅修験の行者道と小名氏>経石(経ヶ岳)>華厳山>煤ヶ谷に下り①辺室山(644)大峰三山から大山に向かう山道か②里の道を辿り>大山に戻る(『丹沢の修験道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

先日、大山三峰の尾根道に上り、ほんの一部ではあるが大山修験、日向修験、そして八菅修験の行者道を辿った。大山修験は大山寺、日向修験は日向薬師、八菅修験は八菅山光勝寺を拠点として山岳修行を行った修験集団のこと。このうち、大山寺と日向薬師には散歩に出かけたことがあるのだが、八菅修験の拠点、往昔の八菅山光勝寺、明治の神仏分離令以降は八菅神社となった八菅修験の拠点には行きそびれていた。
八菅山はその昔、役行者(役の小角)が山岳修行を行い、薬師・地蔵・不動の像を彫り、その像を投げたところ、薬師は日向薬師に、地蔵は蓑毛の大日堂、不動が大山寺に落ちたといった縁起が残る。修験道といえば役の小角、といった「修験縁起の定石」が定着したのは、鎌倉から室町の頃と言うから、この縁起は縁起として思うべしと、八菅山のことは気になりながらも、それほどの「お山」とも思っていなかった。
が、先回の散歩のメモをする段になって、八菅山ってはじまりは相模国分寺の僧侶の山岳修験の拠点でもあったようで、勢威盛んな頃は、50余の院・坊を擁する結構な規模の「お山」であることがわかった。
ということで、大山三峰の行者道散歩から日もおかず八菅山を訪れることに。ルートは八菅山にある八菅神社からはじめ、八菅修験の道を中津川に沿って辿り5番目の行所である塩川の谷までとした。塩川の谷はこの行所での瀧行で身を浄め、八菅山光勝寺の奥の院とも称され、空海が華厳経を納めたとの伝説も残る経ヶ岳へと峰入りを行った行所と言う。
塩川の谷には塩川の瀧の他、胎蔵界の瀧、金剛界の瀧といった曼荼羅の世界を想起させる瀧があるとのことである。瀧の詳しい場所ははっきりしないが、とりあえず谷に入り彷徨ってみればなんとかなるかと、いつも通りの事前準備無しの行き当たりばったりの散歩に出かけることにした。




本日のルート;小田急線・本厚木駅>一本松バス停>中津大橋>八菅橋>八菅神社の鳥居>梵鐘>おみ坂>左眼橋>護摩堂>右眼池>八菅神社覆殿>八菅山経塚群>白山堂跡>梵天塚>教城坊塚>展望台>登尾入口の道標>幡の坂>旧光勝寺の総門跡>海老名季貞墓

小田急線・本厚木駅
八菅神社への最寄りのバス停に向かうべく、小田急線・本厚木駅に。バスセンターより「愛川町役場行き」か「上三増行き」に乗り一本松バス停に向かう。

毛利の庄
古代、この厚木の辺りは相模国愛甲郡と呼ばれた。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も「森の庄」と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し、毛利の冠者を称したことにより「毛利の庄」と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に参陣。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子

中津大橋
「八菅神社」の大きな看板を目安に西に向かう車道を中津川へと向かう。先に進むにつれ、中津川の対岸に聳える丘陵が見えてくる。
中津小学校を越えた辺りから真っ直ぐ進んで来た道は、川に向かって大きくカーブしながら下ってゆく。急な段丘崖を下るこの道は「中津大橋」と呼ばれる。橋とは言いながら、川を渡るわけではなく、急勾配の崖に架けられた「桟道」の大規模版、といったもの。崖面を土木技術の力技で下る道と言うか橋である。 下り口の誠に急なカーブの先は、崖面に沿って下っていくわけだが、それでも2車線の道の制限速度20キロ、橋の勾配が17%ということであるから,段丘崖が如何に急峻であるのかが自ずと知られる。

八菅橋
崖面に沿って下るにつれ、中津川の流れと川向うの山並みが見えてくる。下り切ったところに中津川に架かる八菅橋がある。八菅橋を渡れば目指す八菅山は目の前なのだが、橋を渡りながら、その昔、八菅山に向かう人たちはどこを渡河したのだろうと、ちょっと気になった。今は上流に宮ヶ瀬湖(宮ケ瀬ダムは2000年完成)ができ水量はそれほど多くはないが、その昔中津川は丹沢山塊の豊かな木材を流すなどを含め船運が盛んであった、ということであるから、それなりに豊かな流れではあったのだろう。

丹沢の御林
木材の供給地と言えば、丹沢山塊は江戸の頃は幕府の直轄地として林奉行がおかれ、藤熊川流域の札掛あたりを中心に御林(幕府の御用林)があったと言うし、それより昔、元亨三年(1323年)には北条得宗家の大規模な仏事に伴って行う堂舎建築事業に使用する木材の供給地としていた記録が残る。中世の早い段階から、丹沢山地が木材の供給源であったということであろう。

才戸の渡し
渡河地点をチェックすると、中津川の渡しは、この地の南3キロ弱のところ、現在の才戸橋の辺りに、「才戸の渡し」があった、とのこと。「才戸の渡し」は北は武蔵国八王子から南は大住郡矢名村(現秦野市)を つなぐ矢名街道で, この道には, 相模川を渡る「上依知の渡し」とここの二ヶ所に 渡しがあり, 江戸時代には,大山参詣道 として大変なにぎわいをみせたとのことである。 「才戸」の由来が気になる。はっきりとはしないのだが、「サイト」は「サイトバライ」に拠る、との説もある。サイトは、「斎灯」と書く。「サイトバライ」こと、左義長(とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼)は、小正月に行われる火祭りの行事のことを意味する、とか。どんと焼き、さいと焼が行われていた場所であったのだろう、か。

中津川
渡河地点とともに、台地を深く開析した中津川が気になる。中津川は丹沢山地のヤビツ峠(標高761m)付近を源流とし、藤熊川として4キロほど北上、そこから3キロほど北に向けて下り本谷川と合流する辺りまでは布川と呼ばれ、南からの唐沢川と合流する辺りから中津川と呼ばれ、北からの早戸川を合わせ宮ヶ瀬湖を経て山中を蛇行しながら方向を南に変えてこの地に下る。

中津川の河川争奪
話は少しそれるが、中津川といえば河川争奪のことを思いだす。いつだったか、津久井湖辺りを散歩していたとき、津久井湖の南を流れる串川の発達した河岸段丘が、串川のささやかな流れに比べて、あまりにアンバランスであるので気になりチェックすると、かつての串川は早戸川(現在は中津川水系の支流。宮ヶ瀬ダムに注ぐ)とつながり、水量も豊富であった、とのこと。発達した河岸段丘はその時のものであった。
その後、早戸川は中津川水系に流れを変えた。河川争奪である。5万年以上の昔、地殻変動によって引き起こされた、と。ために、早戸川は串川から切り離され、現在のような小さな川になってしまった、とのことであった。


八菅神社
八菅橋を渡り緩やかな山道を少し上ると八菅神社の鳥居が現れる。大鳥居をくぐり八菅神社の境内に。境内入口に八菅神社の案内。「八菅山 標高225m 八菅山は古名を蛇形山といった。むかし、日本武尊が坂本(現在の中津坂本地区)からこの山を眺められ、山容が竜に似ていることから名づけられた。そしてこの山中には蛇形の各部分にあたる池の名が今も残る。
大宝3年、修験道の開祖、役の小角(役の行者)が日本武尊の神跡をたづね国常立尊(くにのとこたちのかみ)ほか六神を祀り修法を行った。そのとき八丈八手の玉幡が山中に降臨し、神座の菅の菰から八本の根が生えだしたという。そこで山の名を八菅山と呼ぶようになった。これが八菅神社の始まりであると伝えられている。
この八菅山を前にした丹沢山塊一帯は山岳信仰の霊地として修験者(山伏)たちの修行道場として盛んであった。この連なる山々には幣山、法華峯、経ヶ岳、華厳山、法論堂、など今も残る名は巡峯の要所であったことを教えてくれる」とある。

「八菅山修験場跡要図」
鳥居脇に「八菅山修験場跡要図」がある。口池跡、鼻池、左眼池といった、八菅神社の案内にあった蛇形の各部分にあたる池の名が描かれている。「八菅山修験場跡要図」は現在の堂宇や塚を描いているようで、院坊五十余をもふくめた修験の一大霊場の案内ではないが、それでも山上に白山堂跡とか梵天塚、教城坊塚といった堂や塚の案内があり、往昔の規模の大きさの一端が垣間見える。

八菅神社の梵鐘
鳥居のところにあった説明だけでは、八菅修験の拠点として全国にその名を知られた八菅修験の概要はわからないのだが、境内を少し進むと梵鐘があり、そこにある説明で八菅神社と八菅修験の関係が説明されていた。

「八菅神社は、もと八菅山七社権現といい、別当寺光勝寺のほか院坊五十余をもふくめた修験の一大霊場として古くから続いていました。明治の初め、神仏分離の際、光勝寺は廃され、院坊の修験は帰農し、権現は八菅神社となりました。
この梵鐘は元和4年(1618)徳川二代将軍秀忠の武運長久を祈願して光勝寺に献じられたもののようです。銘文によると、古い地名である「上毛利庄」のほか、鋳工者に下荻野の「木村太郎左衛門重次」上川入の「小嶋元重」の名もみえます。地元における梵鐘のうち最古の故もあって、太平洋戦争のときにとも共出をまぬかれ、現在北相に残った数少ない貴重な梵鐘となっています」と。

八菅修験
今までの案内を補足し、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』をもとに、八菅神社と八菅修験のことをまとめておく。八菅(はすげ)修験とは、 中津川を見下ろす八菅山に鎮座する現在の八菅神社(愛甲郡愛川町八菅山141-3)を拠点に山岳修行を行った修験集団のこと。八菅神社とのは明治の神仏分離令・修験道廃止令以降の名称。それ以前は山伏集団で構成された一山組織「八菅山光勝寺」として七所権現(熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現;室町時代後期)を鎮守としていた。明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地であり、山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があったと伝わる。

上でメモしたように、修験道の縁起に役行者が登場する「修験道の定石」が登場するのは、鎌倉から室町にかけて、修験者の行法が次第に体系化され、教団組織が成立して以降のことであるので、縁起は縁起として想うべし、ということではあろうが、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』では、この八菅山光勝寺は相模国分寺の僧侶が山岳修行の拠点とした大山寺への丹沢山塊東端の前線基地として設けられたと延べる。
同書で説くように、大山寺の寺伝によれば、初代住職は華厳宗の創始者であり東大寺の初代別当である良弁、三代目の住職である真言宗の開祖空海は東大寺の別当を務めている。東大寺は、聖武天皇の命により全国に設けられた国分寺の元締め、といったものであり、この説の納得感は高い。
何故に丹沢東端に山岳修行のメッカが誕生したのか疑問であったのだが、この説であれ筋は通っているように思える。和銅2年(709)には東大寺勧進僧の僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたとの話も伝わる。

おみ坂
梵鐘に神仏習合の名残を見やりながら先に進むと「おみ坂」。急な階段が一直線に上っている。向かって左手に緩やかな「女坂」があるので、「男坂」といった位置づけではろうが、「おみ」って「御神」と表記することころがある。この地の「おみ坂」は如何なる所以か不詳であるが、御神坂とは、「神」の坂であり、古代において祭祀が執り行われたところを示すとの説もあるようだ。 おみ坂の途中の左手に小祠がありちょっと窪みになっている。「鼻池」ではあるが、水はない。

八菅神社の社叢林
石段を上りながら周囲を見やる。境内の緑は深い。境内入口にあった「八菅神社の社叢林」の案内によると、「神奈川県指定天然記念物(平成3年指定)八菅神社の社叢林;中津川に面した八菅山の集落に続く丘陵の海抜100~170mの南側斜面から東側斜面にかけて八菅神社の森と称されるスダジイ林が発達している。一部にスギやヒノキが植栽されているが、200段を超す階段の参道周囲は、樹高15m以上のスダジイ林が自然植生として生育する。
高木層は、台地上でアカシデ、ヤマモミジ、ハリギリを混え、スダジイが優占する森を形成している。亜高木層以下は、ヒサカキ、サカキ、アラカシ、ツルグミ、クロガネモチ、アオキ、ビナンカズラ、ベニシダ、イタチシ  ダ、などヤブツバキクラスの常緑の自然植生の構成種が多く生育する。
八菅山の森は、相模平野に沿って海岸から比較的内陸まで生育するスダジイ林(ヤブコウジースダジイ群集)が25000平方メートル以上もまとまって存在生育しており極めて貴重な樹林である。神奈川県教育委員会 愛川町教育委員会」とあった。

左眼池
おみ坂を上っていくと、山道が石段とクロスする。この道は現在八菅山全体を公園として整備された展望台へと続く道であるが、案内に「左眼池」とある。本殿にお参りする前に、ちょっと立ち寄り。道を右手に進むとささやかな池と祠があった。

護摩堂
元の石段に戻る。すぐ先は広場のようになっている。「八菅山修験場跡要図」によると、「拝殿跡・灌頂堂跡・祖師堂跡・御水屋」と案内されているあたりではあるが、現在は左手に護摩堂だけが目に入る。
護摩堂への道標には「不動へ」と言った案内がされていた。現在でも、八菅神社例大祭の日、この広場で山伏による火渡り護摩修法が行われるようであり、火渡り護摩修法の際、心を静めて集中し、身体から智慧の火を生じその火によって煩悩を焼き尽くすといった状態、「火生三昧(かしょうざんまい)」とは密教では不動明王とひとつになった状態のことであり、それをもって護摩堂への案内に「不動」とあるのだろう、か。

右眼池
石段を下り、展望台への道を左眼池と逆方向に少し下る。と、注連縄が飾られた窪みがあり、右眼池とあった。「八菅山修験場跡要図」には描かれていなかったが、これで両目が揃った。この左眼池あたりから女坂の表示。道なりに下ると、おみ坂の石段のところに出る。そういえば、おみ坂の左脇に「車道・女坂」の案内があった。

八菅神社覆殿
石段を上ると八菅神社覆殿。本殿は覆殿一棟の中に鎮座するようである。お参りをすませ案内を読む。案内によると;「八菅神社(八菅山七社権現)  祭神;国常立尊(くにとこたちのみこと)  金山毘古命(かなやまひこのみこと)  大己貴命(おおなむちのみこと)  日本武尊(やまとたけるのみこと) 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 誉田別命(ほんだわけのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)。
八菅神社の祭神は、日本武尊と役の小角(役の行者)によって七神が祀られた。 これを総称して八菅七社権現といった。そして信仰の対象は日本固有の神と仏菩薩とは一体であるという思想にもとづいてまつられた社でこの八菅の霊地を護持する人たちを修験(法院)といい山内の院や坊に拠っていた。
源頼朝の大日堂寄進、足利尊氏による社頭の再建、足利持氏の再興で一山の伽藍が整ったが、永正2年本社、諸堂が兵火で失った。その後天文10年再建、天正19年には徳川家康より社額を給せられた。
やがて明治維新の神仏分離令により仏教関係すべてが禁じられ神のみを祀った八菅神社として発足、修験の人たちはみなこの地に帰農した」とある。

案内では祭神は明治の神仏分離令以降の影響か「神」がラインナップされているが、神仏混淆の頃七社権現が祀られていたわけで、それは上でもメモしたように、熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現(室町時代後期)。覆殿の中央の証誠殿(熊野権現)を中心に、左右に各三社、左方は玉函殿(箱根権現)、金峯殿(蔵王権現)、誉田殿(八幡大菩薩)、右方は妙高殿(山王権現)、妙理殿(白山権現)、走湯殿(伊豆権現)が配置されていたようだ。
で、案内にある祭神と権現さまを比定すると、国常立尊=証誠殿(熊野権現)=本地仏;阿弥陀如来、金山毘古命=金峰殿(蔵王権現) =弥勒菩薩、 大己貴命=妙高殿(山王権現)=薬師如来、日本武尊(天忍穂耳尊の説も)=走湯殿(伊豆権現=十一面観音、伊邪那岐命=玉函殿(箱根権現)=阿弥陀如来、 誉田別命=誉田殿(八幡大菩薩)=阿弥陀如来、伊邪那美命=妙理殿(白山権現)=十一面観音、となる。

長床衆
しかし、この覆殿だが横に異様に長い。一棟の中に七つの社殿が鎮座するわけだからそれはそれで説明できるのだが、一見したときはこれは熊野本宮にあった横長の礼殿を拠点にした熊野の中核的山伏集団である「長床衆」の影響かと思ってもみた。
気になってあれこれチェックすると、「長床」とは本来、山岳修行の人たちが滞在する拝殿や礼殿のことを指し、本殿前に立つ横長の棟のことであったようだ。熊野の中核的山伏集団を「長床衆」と称するようになったのは、礼殿に長期に滞在し修行を積むことにより、結果的に熊野修験の中核的存在となっていった、ということであろう。

八菅と熊野
覆殿の横長が「長床衆」と直接関係はなさそうではあるが、それでも八菅修験は、覆殿中央に熊野権現が鎮座することからもわかるように、熊野修験との関係が深い。
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、「江戸時代,八菅山は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた。山林に籠り修行する山林修行者を「山伏」,「修験者」と呼び始めたのは平安時代。彼らは霊山に参詣する信者を導く「先達」にもなった。
鎌倉から室町にかけて、修験者の行法は次第に体系化され、教団組織が成立。そのうちで最も有力な熊野修験を中央で統括する熊野三山検校職を受け継いだのが園城寺(三井寺)の流れをくむ聖護院であった。聖護院を棟梁として成立したのが本山派である。
八菅山と聖護院が結びついたのは戦国時代。江戸時代には、聖護院宮門跡の大峰・葛城入峰に際し、八菅の山伏が峰中(ぶちゅう)の大事な役を果たしていた」とのことである。

八菅山経塚群
覆殿の周囲を見るに、右手に八菅山経塚群の案内がある。「経塚とは経典を埋納したところで、10世紀末ごろ、末法思想を背景に作善業のひとつとして発生したといわれる。のち、経典の書写とも結びつき、やがて、死者の冥福を祈るという追善的な性格をもつようになった。
八菅山の経塚群は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけてのものと伝わる。昭和47年(1972)、神奈川県教育委員会による調査の際、京塚17基を確認したが、多くは盗掘されていた。なお、そのおり納経容器の壺15を出土、うち、和鏡を伴うもの6、そのひとつから木造合子型念持仏(愛染明王-鎌倉初期)が発見された(愛川町教育委員会)」とある。作善とは「善根をおこなうこと」である。

白山堂跡
経塚を見終え、「八菅山修験場跡要図」にあった白山堂跡を目指し、お山に登ることに。八菅修験は白山権現ではじまり大山の白山不動で終える、などと書いてあった記事を思い出し、八菅修験で重視される白山堂が如何なるものかとの好奇心からでの行動ではある。
覆殿左手に展望台へと向かう道があり、フィールドアスレチックの遊具が並ぶ広場を越えてしばらく進むと道脇に「白山堂跡」の案内があった。
案内は「ここから20メートルほど奥にあった祠の跡をいう。 白山権現は、八菅神社の祭神七柱のひとつであるが、 なにかのわけがあって、とくに、ここにも祀られていたのであろう(愛川町)」と。
修験の始めは白山権現で始まり、日向薬師の近く、12の行場・腰宿でも白山権現にて行を行い、大山の白山不動で終わるといった白山権現の位置づけってその程度ものも、といった素っ気ない説明である。

八菅と白山
よくわからないが、八菅と白山、と言うか、八菅=熊野と白山の関係をチェックしてみる。その前提として山岳信仰とか、山岳宗教とか、修験道とか、用語の使い方がややこしくなってきた。その整理をしながら八菅=熊野と白山の関係を妄想することにする。
古代神奈備山って用語が使われる。神が宿る美しい山ということである。往古、人々は美しい山そのものを信仰の対象とした。北陸地方の霊峰「白山」も、その雄大な姿故、古代より人々の信仰を集めた。「山岳信仰」の時期である。その時期は平安時代に至るまで続く。南都の仏教では、山で仏教修行をする習慣はなかった。山に籠もり修行をした役小角などは「異端者」であったわけだ。伊豆に流されたということは、こういった時代背景もあったのだろう。
「山岳信仰」ではなく、所謂、「山岳仏教」が始まったのは平安時代。天台宗と真言宗が山に籠もって仏教修行をすることを奨励しはじめてから。深山幽谷、山岳でこそ禅定の境地に入ることができる、密教故の呪術的秘法体得ができる、とした。「修験道」はこの天台宗や真言宗といった山岳仏教を核に、原初よりの山岳信仰、道教、そして陰陽道などを融合し独特の宗教体系として育っていく。

山岳信仰で始まった白山信仰も九世紀(平安中期)ごろになると、素朴な自然崇拝から修験者の山岳修行や神仏習合思想に彩られた霊場へと変質をとげるようになる。加賀・越前・美濃の三方から、山頂に至る登山道(禅定道)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)が次第に整えられていった。それらは天長9年(832)になって加賀馬場(現在白山比咩神社)、越前馬場(現在平泉寺白山神社)、美濃馬場(現在長滝寺白山神社)が開かれ、山麓における登山道筋の拠点と里宮=遥拝施設が整い始める。
久安3年(1147)、加賀の白山本宮(白山比咩神社)=白山寺は「山門別院」(延暦寺末寺)となる。以後加賀馬場は天台系寺社としての再編を図り、やや遅れて越前(平泉寺)、美濃(長滝寺)も延暦寺の末寺化をとげることになり、ここに、三方馬場の寺社勢力天台宗教団の一翼に組み込まれ「白山天台」が成立することになった。白山神社の発展には山岳宗教・修験道といったファクターが不可欠とアライアンスを組んだということだろう。
で、何故、八菅と白山、と言うか、八菅=熊野と白山、八菅山の白山権現からはじまり大山寺の白山不動で終わると言われるほど白山が重視されたか、ということだが、ここから以降は全くの妄想であり何の根拠もないのだが、南北朝時代の南朝の敗北と関係があるのではないだろう、か。北朝方の高師直が吉野山を攻め、南朝の勢威の衰えが決定的になったとき、吉野熊野への入峰が途絶え、その間に熊野修験に次ぐ勢力をもっていた白山修験が熊野修験に取って代わって日本全国にその影響力を拡げて行った、とのことである。こういった経緯が白山信仰が八菅において重視されたことであろうとひとり妄想。

梵天塚
白山堂跡から道を進む。て「みずとみどりの青空博物館」とか、 「やすらぎの広場」といった案内もあるが 今回は特に理由はないのだが「展望台の広場」を目指して進むと道脇に「八菅山修験場跡要図」に記載のあった「梵天塚」があった。
案内によると、「八菅山修験組織のひとつである覚養院に属する塚であった。 修験道で祈祷に用いる梵天(幣束)をたてたことにちなむ名であろう。 築造のころは不明である(愛川町)」と。



教城坊塚
展望台に向かって更に進むと展望台手前に「教城坊塚」。案内によると、「八菅山修験組織のひとつである教城坊(後に教城院となる)に属する塚であった。 築造のころは不明であるが、修験道特有の祭祀遺跡である(愛川町)」と。 「八菅山修験場跡要図」にあった白山堂跡、梵天塚、教城坊塚は成り行きで進ん幸運にも辿れたが、どれも説明が素っ気なく、ありきたりの案内ではあった。ちょっと残念。

展望台
教城坊塚の近くにある展望台に上り、相模原や厚木方面の眺望を楽しみ、ちょっと休憩。展望台で地元に方に、この辺りから里に下りる道があるかどうか尋ねると、道を少し進めば道標があるので、そこを目印に右に折れると里へと下る、とのこと。どこに下りるかはっきりしないが、「一筆書き」を散歩の信条(?)とする我が身としては、同じ道を引き返すのもウザったいので、教えて頂いた山道を下ることにする。


登尾入口の道標

道なりに進むと左手に中津川ゴルフ場、その向こうに丹沢の山塊が聳える。雪の大山も垣間見える。しばらく歩くと道の右側に「登尾入口 八菅山・尾山 里山を守る会」の道標。
尾根道を成り行きで下る。途中左右に分かれる分岐があり、根拠はないのだが、最初は右手に、2度目は左へと道を取ると、沢の北側に下りた。「八菅山修験場跡要図」にあった「北谷」の辺りであろうか。
下り口一帯は鹿なのか猿なのかを防ぐため電流が流れると、メモのある柵が続く。沢に下り切ったところには柵の出口があり、出口の留め具を開け外にでる。そこには「登尾の尾根」の道標があった。

幡の坂
「登尾の尾根」の道標のすぐ下には里の耕地も見えるのだが、道を逆に取り、八菅神社方向へと沢道を柵に沿って上る。上り切った竹林のあたりに「幡の坂」の道標があった。説明もなにもないが、これも「八菅山修験場跡要図」に「幡」と描かれているところかとチェックする。
八菅神社の案内のところで、八菅山の名前の縁起として、大宝3年(703)、役の小角(役の行者)が八菅山で修法を行ったとき、八丈八手の玉幡(高御座や御帳台の棟の下にかける装飾)が山中に降臨し、神座の菅の菰から八本の根が生えだしたとメモした。『新編相模風土記稿』八菅山の項には、「山中に堂庭幡、幡之坂、以上二所、往昔幡降臨の地と云」とある幡之坂がこの地ではあろう。 因みに玉幡降臨についてはいくつかのバリエーション縁起がある。『新編相模風土記稿』には、「その昔、中將姫が織り上げたという大きくて立派な幡が、津久井の方から飛んできて、八菅の北の坂(幡の坂)へ落ち、更に舞い上がってこの家(雲台院...字宮村の中央部。地名は、幡)の庭に落ちてきた。行者た ちが総出で祈りあげると、幡はまた天空へ舞い上がり、鶴巻の落幡に落ちた。土地の人々はあまりにも立派な幡なので、相談の結果、日向薬師へ寄進に及んだ」といった話が伝わる。
日向薬師、薬師堂の什宝(じゅうほう)の項の中に、「幡一流 縁起曰、神亀二年幡天よりして降る云々、」とあり、同じく曼荼羅の項には、「糸を以て、名號(めいごう)及梵寺(ぼんじ)を多く縫たり、中將姫自から縫ふ所と云」と書かれている、とのことである。

旧光勝寺の総門跡
道なりに進むと緩やかな下り坂となり、八菅橋脇まで続く。道脇に「旧光勝寺の総門跡」の案内。「ここは八菅山七所権現(現八菅神社)の別当寺・八菅山光勝寺の総門のあったところ。当時光勝寺は本山派修験に属し、京都聖護院の直末寺としてあった。寺の諸事は山内50余の院坊が司って七社権現を護持した。総門は八菅山絵図に拠ると、冠門木型式をとっていたようで、いま石造りの基礎及び柱の部分を残している(愛川町教育委員会)」とあった。



海老名季貞墓
総門まで戻り、「八菅山修験場跡要図」に記載されていた「見所」で見落としがないかチェック。八菅山光勝寺跡、海老名季貞墓などが目に入る。八菅山光勝寺跡を探すも、民家があるだけで特にそれらしき遺構は見つからなかった。次いで、「海老名季貞墓」を探す。ちょっとわかりにくいが、鳥居へと進む道の途中から細路が分岐しており、そこを少しくだると海老名季貞墓があった。 案内によると「海老名季貞の墓 新編相模国風土記稿の八菅村の中に「海老名源三季貞墓」とあるのがこの仏塔である。海老名源三季貞(または源八季定)は鎌倉初期の武将で、現、海老名市河原口に在した豪族海老名党の頭領であった。源氏旗揚げの(1180年)とき、季貞は平家の被官人として大庭影親の軍に加わり、石橋山の合戦で頼朝を攻めた。のち、頼朝再起のときは、源氏の家人となり忠誠をつくした。
一族の八管山に対する信仰は厚く、季貞は頼朝の命により、代官として社殿、末社の再建と大日堂の建立を行い、法灯を保護した 相川町教育委員会」とあった。

海老名氏
海老名一族は平安時代末から室町時代まで、海老名や厚木で活躍した一族。海老名季貞は海老名氏・荻野氏・本間氏・国府氏の祖となる人物であり、12世紀の相模川中流域~中津川流域における有力武将であった。開発した土地は一族の内紛で都での威勢を失い、関東に下向し源家に寄進され、源家との主従関係が結ばれていた。それが頼朝の旗揚げに際し平氏方に参陣したのは、平治の乱(1160)において関東での源氏の棟梁である源義朝の敗死したため、関東での勢を失った源氏にかわり平氏に仕えていたためであろう。
この海老名季貞は応永26年(1491)の『八菅山光勝寺再興勧進帳』の中で、大日尊像を安置した人物として登場する。八本の菅の縁起も神社の案内にあった役行者ではなく行基となっているが、それはそれとして、興味深いのはこの勧進帳そのこと自体。隆盛を誇った一山組織八菅山光勝寺が15世紀には崩壊の危機に瀕し、その再興のために勧進、平たく言えば、資金集めをしている。

聖護院門跡・道興と八菅
先回の大山三峰修験の道のメモでも触れたことだが、散歩の折々で出合い、東国廻国紀行文『廻国雑記』で知られる聖護院門跡・道興が東国の熊野系修験(熊野先達)の拠点を訪れたとき、江戸時、本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた八菅山光勝寺をパスしていることが気になっていた。
文明18年(1486)には丹沢山麓を訪れ、大山寺、日向霊山寺、熊野堂(厚木市旭町)は廻っているのだが八菅山はパスしているのである。その理由がよくわからなかったのだが、勧進帳を出さなければならない状況であったとすればパスしても、それほど違和感なく思える。それとも、本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られたのは江戸時代になってからであり、室町の頃はそれほど聖護院と密な関係ではなかったのだろうか。

海老名氏と経塚
ついでのことであるので海老名氏と八菅神社覆殿の右手にあった経塚との関係について、『丹沢の行者道を歩く(白山書房)』の著者である城川隆夫さんが説明している記事がWEBに掲載されていた。
簡単にメモすると、12世紀の頃、相模川中流域~中津川流域における有力武将であった海老名氏は、開発した土地を関東に下向した源家に寄進され、源家との主従関係が結ばれていたわけだが、「神奈川県内最大の八菅山経塚群が造立されていたのも、ちょうど同じ頃の12世紀頃です。海老名氏をはじめとするこのエリアの開発領主と源家の人々が中心になって八菅山に経塚造立を行っていたと考えられないでしょうか。その宗教行為を請け負っていた宗教者が八菅修験の原初的な姿ではないかということです。それは熊野の宗教者たちと熊野・大峰の経塚群の関係と似ています。八菅は毛利庄にとっての熊野本宮であったのでしょう。八菅山の七社権現社は「証誠殿」(熊野権現)を中心に構成されているのです(城川隆夫)」とする。

八菅神社から塩川の谷の行所までの散歩のメモのつもりが、八菅山であれこれと想いを巡らせ、イントロが長くなってしまった。行所散歩のメモは次回に渡すことにする。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク