2014年1月アーカイブ

銅山川疏水散歩 そのⅤ: 疏水東部部幹線を隧道分水工から川之江へ 銅山川疏水散歩も東西分水工から西に向かう西部幹線は歩き終えた。水路橋や分水口を探して藪漕ぎをしたりと大変ではあったが、宝探しのようで結構楽しくもあった。
で、今回は東西分水工から東に向かう東部幹線を辿る。ついでのことではあるので、メモの段階でわかった法皇山脈を貫いた隧道の出口まで辿り、そこから水路を探しながら歩くことにする。



本日のルート;戸川公園;疏水記念公園>疏水記念碑>減勢水槽>疏水分流点(分水工)>最初の疏水施設>二番目の疏水施設>三番目の疏水施設>四番目の疏水施設>疏水は開渠に>水圧鉄管を跨ぐ>東西分水工>東西分水工から東に水路>馬瀬谷川脇の疏水施設>赤井川水路橋>淵ヶ本池>鰻谷川水路橋>北岡山第二分水口>北岡山第一分水口>黒波瀬分水口>黒波瀬池>横山分水口>>西山口分水口>サイフォン>東山口分水口>桜木分水口>松山自動車道>水路施設>五社神社

戸川公園;疏水記念公園
もう何度目になるだろう。通いなれた「戸川公園:疏水記念公園」に。公園駐車場に車をデポし、法皇山脈を穿ち銅山川の水を宇摩地方にもたらした隧道出口に向かう。場所は上柏の馬瀬谷上、標高293m辺り。戸川公園近くの銅山川発電所へと下る2本の水圧鉄管が大きな一本線となり、その先で短い線と長い線が併設されているところが、隧道が法皇山脈を抜けたところ、とのこと(愛媛県四国中央市農林水産課 疏水担当の紀井正明氏にお教え頂いた)。Google Mapの地図を頼りに隧道出口へと向かう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

疏水記念碑
四国霊場札所66番・三角寺へと続く道を上る。途中、三角寺への道筋から分かれ、くねくねと曲がる山道を辿ると「法皇の恵水」と刻まれた銅山川疏水組合の完工記念石碑があった。
記念碑を越え、切り込む宇戸瀬川の沢筋を大きく南に迂回するとその先に切り開かれた場所が現れた。疏水施設のある広場に到着。当初、道から減勢水槽のある辺りが果たして簡単に見つかるかと危惧していたのだが、杞憂に終わった。

減勢水槽
広場の中央に四角の大きな構造物。ここは疏水を一時貯水する「減勢水槽」。その横ある施設は水利管理の建物。流量やバルブの開度、通水時間などをコントロールするコンピューターが設置されているとのこと(前述の紀井氏より)。 減勢水槽には山腹から下る一本の鉄管が繋がる。その向こうに大きな2本の水圧鉄管が見える。2本の水圧鉄管は発電用水、減勢水槽に繋がる鉄管が銅山川疏水の農業用水のためのものである。




疏水分流点(分水工)
減勢水槽から山腹を見上げ、銅山川の水が隧道から出て3本の鉄管となって下る地点に上ろうと辺りを見回す。と、農業用鉄管に沿って階段がある。階段を上り切ったところで水槽らしき構造物の上に這い上がる。ブッシュが激しく少々難儀したが疏水分流点に立ち、故なき達成感を抱く。堂々として下る鉄管、その向こうに広がる里の景観が美しい。






最初の疏水施設
階段を下り減勢水槽まで戻る。この後はできるだけ疏水水路に沿って下ることに。Google Mapの航空写真でチェックすると、減勢水槽のある広場あたりから下の森に、うっすらと一筋の切れ目が見て取れる。特に根拠は無いのだが、疏水水路の監視路か作業道ではなかろうかと、森の切れ目を探す。
切れ目は簡単に見つかり、整備された道を進むと如何にも疏水施設らしき構造物が現れた。減勢水槽からの水路はこの道の下を通っているのだろう。



二番目の疏水施設
疏水施設から先に進む。ゆっくりとカーブする道を下ってゆくと2番目の施設。コンクリート造りの構造物にはメーター類などもなくシンプル。道はこの施設から左に折れ、急な階段となって下に向かう。
地図を見ると階段下の方向には沢が切れ込んでいる。疏水水路はここで方向を変え、沢筋の上部に向かて下って行くのだろう。





三番目の疏水施設
階段を下り切り。先に見える堰堤の上に回り込み沢を渡る。沢はそれほど水量も無く、踏み石を見つけ、靴を濡らすこともなく沢の左岸に渡る。
沢を渡り、沢に沿って少し進むと3番目の疏水施設があった。この施設も2番目の施設と同じくコン造りクリート造りのシンプルな施設ではあった.。





四番目の疏水施設
沢を進み開けた広場に到着。そこにはこれまでの施設とは段違いに巨大な構造物があった。施設からは暗渠が先に続いている。
当初、減勢水槽から水路を辿り、沢を渡りこの施設の辺りまでたどり着くのは結構難儀なルートだろうと思っていたのだが、予想外に楽に下りることができた。





疏水は開渠に
4番目の施設から続く暗渠の先は、ほどなく一瞬ではあるが開渠となる。金網のフェンスに囲まれた水路の先には開閉ゲートがあり、開渠はそこで途切れ再び暗渠となる。この辺りからの里の景観も美しい。



水圧鉄管を跨ぐ
開閉ゲートから再び暗渠となった水路は緩やかに坂を下り、発電用の2本の水圧鉄管とクロス。水路は上が人道橋となったコンクリート水路橋となって水圧鉄管を跨ぎ水圧鉄管の西側に渡る。
先日の散歩の時、この水路橋を見てはいたのだが、水圧鉄管を渡る跨道橋とは思ったものの、まさか疏水の水路橋とは想像できなかった。

東西分水工
水路橋から少し下ると水圧鉄管脇に水路施設。ここが東西分水工。ここを境に銅山川疏水は、西には西部幹線が土居方面へ15キロほど、東には東部幹線が川之江方面に5キロほど流れることになる。本日は、ここから東へと東部幹線を辿る。







東西分水工から東に水路
東西分水工から東を見ると水路が見える。これが東部幹線の始点部分だろう。前回この地に来たときは、この地が東西分水工ということもわかっていなかったので、見れども見えず、の態であったのだろう。
水路を辿るべく先ほど跨いだ水路橋を渡り、水圧鉄管の東側に移り、簡易な鉄の柵に囲まれた水路を進む。が、水路は民家の脇の石垣手前で暗渠となり地中に潜って行った。

馬瀬谷川脇の疏水施設
地中に潜った水路の先を想う。石垣の東には馬瀬谷課川がある。川の傍には何らかの水路施設があるだろうと、石垣の行き止まりから水圧鉄管まで戻り、水路が進むであろう馬瀬谷川筋に進む。あちこち探すと、馬瀬谷川に架かる橋の東に、敷石で覆われた疏水施設らしきものがあった。位置的には疏水と関係ありそうとは思うのだが、確証はない。


赤井川水路橋
馬瀬谷川の東には赤井川があり、そこには赤井川水路橋が架かるとのこと。Google Mapをチェックすると、馬瀬谷川の疏水施設らしき構造物から直線を伸ばした先に水路橋らしきものが見える。
馬瀬谷川の疏水構造物らしきものがある辺りから一筋下の道を右に折れ、少し坂を上り直すと、お屋敷の手前の石垣に沿って開渠が見えた。
北側に金網を張った開渠を進むと水路橋。赤井川水路橋である。水路橋を渡ろうにも、結構水が溜まっており、中を歩くことはできそうもない。橋の欄干(?)は川床までの高さにビビり、とても牛若丸の真似をすることもできない。また、川床に下りようにも、護岸工事がなされ、手ががり、足がかりが見つからず、また適当な蔓もないため、この場から川床に下りることは諦める。
が、道を下り戸川公園の北端にある水神様の辺りに来ると、川床に簡単に降りれそう。護岸工事で何故か飛び出した石を随処に埋め込んであり、そこを足がかりに川床に。水量も多くなく、落ち葉の山を選んで川を上り、橋の下から水路橋を眺める。苔むした水路橋を勝手に想い、あれこれ苦労してここまで来たのだが、橋は新しかった。ちょっと残念。

淵ヶ本池
赤井川の東詰で隧道に潜った疏水は、丘陵を潜り、丘陵東にある淵ヶ本池の北堤下で開渠となって姿を現す。その開渠を目指して、戸川公園から北に下り松山自動車道に沿って丘陵を迂回し、松山自動車道の跨道橋から南に上る道を進むと淵ヶ本谷池。池の堤下に開渠が見えた。
疏水の水路は確認できたのだが、淵ヶ本分水口の標識は見つからなかった。淵ヶ本池の堤の西端の開渠辺りが分水口なのだろうか。不明である。開渠は池の東端で再び地中に潜る。


鰻谷川水路橋
地中に潜った疏水の先をGooglhe Mapの航空写真でチェック。岡を隔てた東に水路が続く。水路は先に進み川を渡り結構大きな黒波瀬池の北に向かっている。
淵ヶ本池の東端から道を下り、松山自動車により切り取られた丘陵部を東に続く道を進み、丘陵部を迂回し川筋を目安に進むと水路橋。鰻谷川水路橋である。古き趣を感じる。

北岡山第二分水口
橋の東西には水路が続く。水路を西に、淵ヶ本池の東端で地中に潜った開渠部まで進む。水路を進み、水路にクロスする道を越えて少し進むと水路から北に分岐する箇所があり、その脇の草の中に「北岡山第二分水口」の標識があった。

北岡山第一分水口
北岡山第二分水口から更に西に進む。段差となった石垣の民家との境となる部分を進むと石の蓋があり、そこに「北岡山第一分水口」の標識があった。水路はその先で地中へと潜る。




黒波瀬分水口
疏水を鰻谷川水路橋まで戻り、黒波瀬池の北を回り込む水路に向かう。水路が黒波瀬池の西を通る道の脇に「黒波瀬分水口」の標識。分水口の先に水路が続く。








黒波瀬池
池の北を進む疏水開渠をしばし進む。池に沿って緩やかに曲がる水路の景観はなかなか美しい。しばし進むと暗渠となる。道筋も竹などのブッシュとなるが、それもすぐに開けて開渠となり、池の東を進み、池の東で突起のように東に突き出る池の手前で水路は地中に潜る。







横山分水口
池の東の道を進み、その道から右へと折れる道に進む。先を進み、南から来る道が合わさり三叉路となるところに鉄板の蓋があり、そこに「横山分水口」の標識があった。水路はこの道筋の下を進んでいるようである。
三叉路の先は民家があり、その先には川筋がある。地中を進む水路は川筋で何らかの手ががりがないものかと、道を進む。

西山口分水口
川筋の東の道を手掛かりを求めて探していると、地元の人が声をかけてくれ、疏水の流路を教えてくれた。この道筋から東に向かう道筋が流路であり、東に向かう分岐の少し北に分水口があり、そこから西に川に向かって戻れば鉄板に覆われた水路がある、と。
分水口らしき構造物は見つけることはできなかったが、資料によれば西山口分水口、ではあろう。

サイフォン
分水口あたりから、教えに従い畑地の脇を進もうと坂を上りはじめると、畑地を横切ったら、と。言葉に甘え畑地を横切り少し西に戻ると民家脇を鉄板で覆われた水路が現れ、その先には川筋を潜るサイフォンらしき構造物があった。細いながらも沢の対岸の民家の脇にもサイフォンのペアらしき構造物も見えた。

東山口分水口
元の道に戻り、東へと民家の間を進む道筋に入る。その道筋の下を水路が進んでいるとのことである。道を進み門前にいくつか石塔を飾る大きな民家脇を進み、更に東に進むと石垣で進路は止まる。石垣の下には東に向かう水路が見える。地中から現れた銅山川疏水の水路であろう。
石垣を南に迂回し水路の場所に。水が勢いよく流れている。疏水の水ではないだろうし、何だろうと地図をチェックすると、水路上流に西金川送水ポンプ場がある。そこから下る水だろう、か。
で、資料にある分水口は標識がないためはっきりしないが、勢いよく水が流れ込む金網に囲まれた水槽の東に、鉄板で覆われた構造物がある。それが東山口分水口であろう、か。




桜木分水口
「東山口分水口」らしき辺りから、鉄板に覆われた水路が桜木池の北の堤下を緩やかなカーブを描きながら進む。これが疏水流路ではあろうと先に進む。
少し進み、松山自動車道の手前に、鉄板に覆われた構造物。これまたはっきりしないが、桜木分水口のよう。

松山自動車道
疏水水路はもう一つの水路の上段を開渠となって松山自動車道を潜る。自動車道を越えると疏水水路も、それと並行して自動車道を潜った水路も地中へと潜る。
地中に潜った水路には、すぐ先に如何にも分水口といった構造物があるのだが、資料はなくよくわからない。



水路施設
松山自動車道の北にある池の東を、道と段差のある石垣の中を疏水は進んでいるようである。道を進み水路脇の道が車道とクロスするところに大きな水路施設。疏水の水路と思しき鉄板で覆われたコンクリートの先にあるので、疏水関連施設かとも思うが、資料がないのではっきりしない。上部が開かれた四角い大きな水槽といった構造物ではある。






五社神社
水路は開渠となって先に進むが、ほどなく地中に潜り姿を消す。水路が進んでいるかと思う土手脇の道を進むと五社神社。五つの神を合祀した神社が多いようだが、この社は説明もなくはっきりしない。
ともあれ、この辺りまで来るともう水路の手掛かりもなく、日も暮れてきた。五社神社にお参りし、それを区切りに本日の散歩を終え。車をデポしたところまで戻り、一路家路へと。
これで数回に渡って辿った銅山川疏水の西部幹線と東部幹線をほぼ歩き終えたように思う。次の四国の水路歩きは、吉野川総合開発の一環としてつくられた香川用水か、とも思うのだが、如何せん距離が長すぎる。春になって銅山峰の山腹を流れた別子銅山の用水でも歩こうか、とも想う。銅山川疏水散歩 そのⅤ: 疏水東部部幹線を隧道分水工から川之江へ
今回の散歩は、二度の散歩で歩き残した疏水西部幹線を、新長谷寺から始め、西端の長田分水口まで。四国中央市の寒川町から土居町まで歩くことになる。ルート及びポイントとなる水路橋や分水口は、四国中央市の疏水担当である紀井氏より情報を頂いているので迷うこともないだろうと、お気楽に実家のある新居浜市から車で出発。
車を寒川町の新長谷寺にデポ。疏水を西端まで歩き終えた後、歩いて車を取りに戻るのは少々うざったいとは思うが、バスの便があるわけもなく、距離は5キロ程度であれば「許容範囲内」と自らに言い聞かせ散歩にでかける。



本日の本日のルート;新長谷寺>妙見神社>沢に>西谷川分水口>西谷川を渡る>西谷川サイフォン>スクリーン>東谷分水口>中井出分水口>豊岡川水路橋>豊岡川分水口>耳神分水口>鎌谷川水路橋>鎌谷川分水口>中山分水口>岡銅分水口>隅田川水路橋>長田分水口

新長谷寺
これで3度目の新長谷寺。行基創建と伝わるこのお寺さま、大和の名刹である長谷寺と重なる。寒川の地名の由来でメモしたように、その昔、大和の長谷寺に納める観音さまの試作仏を、行基菩薩が浪速の浜から流すと、その観音さまがこの地の浜に流れ着いた。ために、長谷寺の前を流れる神川の名前をとり神川とし、その神川が寒川と記されるようになったとの話がある。
もっとも、暴れ川を鎮める神の名をとり「寒川」とするとの説もあるようだが、それはともあれ、観音様の縁起で捉えれば、新長谷寺は大和の長谷寺との関連で造営されたと考えても不自然ではないように思える。縁起に違わず堂々とした構えのお寺さまの駐車場に車をデポし散歩に出かける。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

妙見神社
新長谷寺が佇む豊岡山の山裾の道を、長谷川水路橋で地下に潜った疏水出口のある西谷川へと向かう。松山自動車道の南を進む山道がはじめてカーブするあたりに妙見神社。
妙見信仰といえば、秩父平氏から千葉氏へと続く一党がすぐに頭に浮かぶのだが、それは関東を中心に散歩しているためではあろう。この信仰は山口に覇を唱えた大内氏も敬い西日本にも妙見の寺社も多いようである。
それよりなりより、真言宗では妙見菩薩を重視しているようであり、大和の長谷寺の本尊である十一面観音の本地は妙見菩薩ということであるから、この社も新長谷寺と関係する社ではないだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

沢に入渓
山裾の道を進む。険阻な四国山地から瀬戸内に注ぐ急流によって形成された発達した扇状地故か、山裾と海との距離が数キロであるのだが、その比高差は大きい。松山自動車道の下に広がる里を見下ろしながら先に進むと西谷川に注ぐ沢に当たる。
隧道から出た疏水はこの沢に出るのだろと、沢に降りる場所を探す。道を先に進むが沢との比高差が大きくなっていくばかりであり、しかも、この道を進んでも里に戻れそうにない。ちゃんと地図を確認して進めばよかったのだが今更新長谷寺に戻り、里からアプローチするのも面倒なので、道が沢とクロスする辺りから力任せで沢に入る。
藪漕ぎをしながら沢に降り、先に進むと数メートルの高さのある岩場。手ががり、足ががりを探りながら慎重に岩場を下り、沢を進む。しばらく進むと沢の周囲も開かれて一安心。

西谷川分水口
沢を彷徨い、分水口への手ががりを探す。と、細い水路が右手の山肌から下っているのが目に入る。何の根拠もないのだが、水路に沿って上っていく。と、石の構造物が目に入る。「西谷川分水口」との標識もあり、なんとか分水口をゲット。頂いた資料には近くにサイフォン施設もあるようなのだが、わからなかった。

西谷川サイフォン
分水口から地下を進む水路の先をGoogle mapでチェックすると、西谷川を越えたあたりで開渠となっている。開渠に向かうには一度里に下りて大きく迂回すれば開渠近くまで道が見えるのだが、それも面倒。ということで、分水口から開渠辺りに向けて一直線で進むことにする。
沢の西には西谷川が流れる。水量の少ない場所を探し、川床の石を踏み川の西岸に移る。川床から少々比高差のある川岸に木々をつかみながら這い上がる。で、分水口から河を渡る(潜る)であろう辺りまで川岸を進むが、これが猛烈な藪。藪漕ぎが嫌になるあたりに突然石の構造物。そこから西へと水路が続いていた。この構造物は西谷川を潜り抜けた疏水サイフォンの西出口であろう。



西谷川サイフォンからの開渠
開渠を進むが、ほどなく水路は地下に潜る。Google Mapで先をチェックすると、ちょっと西に開渠が見える。暗渠となった水路の道筋は石垣を乗り越えた先にあるのだが、これまた猛烈な藪漕ぎ。休耕地が荒れ果てたようにも見える一帯を何とか農道に出るが、暗渠は先まで続いている。開渠の近くまで道を辿ると結構な大回りとなるので、畑地の畦道を西へと農道まで進む。

民家脇から開渠が続く
農道まで一度出て、農道が水路とクロスする場所まで下る。水路は農道の左右に続く。道の東側を見ると、民家脇に西谷川の西で地下に潜った水路の出口が見える。その家の方が庭に出ている間、農道でちょっと休憩。家に入るのを見届け、民家の住人に遠慮しながら水路を辿り開口部をチェック。



松山自動車道手前の水路スクリーン
丸い水管からなる水路出口を確認し、農道まで戻り、そこから段々になった耕地の境を緩やかにカーブしながら続く水路に沿って進む。水路は松山自動車道手前でスクリーン柵から地中に潜る。

高野跨道橋
水路はここから松山自動車道の北に移るが、松山自動車道を跨ぐ高野跨道橋脇を水路橋となって進む。松山自動車道、通称「松山道」は現在愛媛県の東予の四国中央市から南予の宇和島までつながっているが、昭和60年(1985)、三島川之江ICと土居IC間が四国最初の高速道路として開通した。



東谷分水口
松山自動車道を渡り切ると。高速道路北に沿って水路が続く。その高野跨道橋の北詰に「東谷分水口」の標識と鉄板で覆われた構造物。眼下に広がる里と瀬戸の海が美しい。
里と言えば、現在は四国中央市と称されるこの一帯、我々の世代では宇摩郡といった地名がなじむ。「宇摩」は「馬」に拠るとの説がある。金生川などで砂金採取をおこなっていた帰化人が百済から馬を此の地にもたらし、その「巨体」故に土人へのインパクトが大きく、地名を「馬」とのこと。古墳代後記にはこの辺りは「馬評(うまのこおり)」と称されていたようである。
馬評が宇摩(宇麻)となったのは、大宝元年(701)の大宝律令による、行政単位が評から郡になったこと、それと延長5年(972)、「凡そ諸国の郷里の名は二字として、必ず嘉名でとれ」との詔により「馬」を「宇摩(麻)」とし、宇摩(麻)郡となったのだろう。
因みにその「宇摩」はどこから、ということだが、それは不詳。「宇摩」の二文字を使う神が、宇摩志(可美)葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)と宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の2神に拠るとの説もあるが、定説にはなっていないようである。

中井出分水口

水路はほどなく地中に潜るが、すぐに開渠となり西に向かう。水路脇に「中井出分水口」の標識があった。

サイフォン
中井出分水口の西は、これも瀬戸の海を借景に、しばし開渠が続き、暗渠の鉄板を境に再び地中に潜り、またまた水路が現れそして消える。頂いた資料にはその地中に潜った水路が再び開渠となって現れる手前にサイフォン施設がある、と言う。特に川はないのだが、ここのサイフォンは左右のサイフォン施設間を通る道の下を潜っている、ということだろうか。
サイフォン先で現れた水路は、スクリーンのある辺りで再び地中に潜り、豊岡川手前で姿を現すことになる。

豊岡川水路橋
道に沿って進み、豊岡川へと下る坂に。坂を下り豊岡川に架かる橋から上流を見ると水路橋が見える。Google Mapで見ると、水路橋手前から水路が見える。坂道を上り直し水路橋へと続く水路を探すと、坂脇の藪の中に水路が見える。水路へ入り込むため、坂の途中から藪に入り、これまた猛烈な藪を漕ぎながら水路に下り、農閑期で水の流れない疏水水路の中を進み豊岡川水路橋を渡る。



豊岡川分水口
豊岡川水路橋を渡り切れば、松山自動車道の高架桁。桁脇で水路は再び地中に入る。Google Mapでは水路は表示されないのだが、この辺りに、豊岡川分水口があるとのことで、畑地の中を目を凝らしてみると、僅かな幅の水路ではあるが、雑草の中を水路が見える。その水路を辿ると「豊岡川分水口」の標識があった。

水路橋
水路は豊岡川分水口の先で地中に入る。松山道に沿って進むとコンクリートで護岸改修された川筋がある。コンクリートの護岸を上に向かうと水路橋。地中から現れ、水路橋を渡ると再び地中に入っていった。
水路橋から先は耕地の畦道を水路筋らしき辺りを進むと再び水路が現れ、カーブを描きながら耕地の段差の間を進みまたまたスクリーン柵で地中に入る。



耳神分水口
スクリーンで地中に入った水路は、前を遮る小丘を潜り先に進み鎌谷川の支流を越える。頂いた資料ではサイフォンがあるとのことだが、あちこち彷徨ったが見つけることができなかった。
資料にはサイフォンの先に「耳神分水口」。松山自動車道に沿って進み、道脇の耳神様を目安に右に折れると、耳神様のすぐ上に「耳神分水口」の標識があった。
ところで、耳神様って何の神様だろう。文字通り考えれば「耳の神様」ではあろうが、それにしては耳以外の体の部位を冠する神様を聞いたことがない。 あれこれチェックしていると、神武天皇の妃に手研耳命や研耳命、御子に神八井耳命(かむやいみみのみこと) とか、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇)といった耳を持つ神がいる。また、天照大神の御子とも比定される天忍穂耳神といった神もいる。この耳神場合の耳(ミミ)の解釈は、「実を一杯つけて頭を垂れる稲穂の姿」とか。
「稲穂説」の他にも「神に付ける接頭辞」とか、「御子」のことを意味するとか諸説あるようだ。この場合、地域の指導者を名前をつけず、一括に尊称として祀ったのが「耳神」といったこのことである。どれが正しいのかわからないが、「稲穂」>豊かな実りを願う、といった祠がなんとなく、いい。

鎌谷川水路橋
耳神分水口からの水路に沿って松山自動車道を潜り鎌谷川脇に。松山自動車道脇の車道のすぐ下に水路が見える。鎌谷川水路橋である。民家のすぐ上に架かる鎌谷水路橋を渡る。この水路橋には水が溜まっており、義経のごとく橋の欄干(?)を渡ることになった。川床までそれほど高さはないのだが、ちょっと怖い。






鎌谷スクリーン
鎌谷川水路橋を渡った疏水はほどなく地中に入る。そこには「鎌谷スクリーン」の標識があった。資料にあった、鎌谷川分水口は見つけることができなかった。

中山分水口
鎌谷川筋から離れ、次のポイントである中山分水口に向かう。鎌谷川の西には丘陵が松山自動車道の北へと張り出しており、丘陵の中を辿ることになるので、少々ポイント探しが難しそう。
鎌谷川筋から松山自動車道沿いの坂を上り、前もって入手した地図に記載の中山分水口へと向かう。が、入手した地図に記載された辺りにはそれらしき構造物は見つからない。
付近をあれこれ彷徨うも、何となく標高から見ても、地図に記載されている辺りは釜谷川水路橋より高く、自然流水の観点からも、用水が低いところから高いところに進むのは不自然と、地図記載の場所を諦め、道に沿って下ると、道が森に入ってすぐカーブする辺りの沢のような藪の中に人工的な構造物が目に入る。標識もなにもないのだが、造りからみて、如何にも分水口。ここが「中山分水口」だろう。
やっと見つけた安心感から、あまり地図も見ず成り行きで道を下っていたのだが、思いついて確認のためGoogle Mapを見ると、この道を進んでも次の目的地であるポイントには里に下って大きく迂回することになる。で、道を折り返し松山自動車道脇の道に戻る。

山の神公園
次の目的地をGoogle Mapを見ていると、雪が激しく降ってきた。雪が激しく舞う。この地は強風の「やまじ風」で知られており、まさか山道凍結はないだろうが、念のためここから一度新長谷寺まで戻り、デポした車に乗ってこの地まで車を持ってくることに。
四国中央市の土居町辺りに「やまじ風公園」と呼ばれる公園があるが、この地は「やまじ風」と称される南よりの強風が吹く。日本三大局地風(山形県の「清川だし」、岡山県の「広戸だし」とともに)のひとつとも言われる。原因は低気圧が日本海を通過する際、四国山地に南から吹き付けた風が、石鎚山系と剣山系の鞍部となっている法皇山脈に収束し、その北側の急斜面を一気に葺き降りることにより発生するようだ(Wikipediaより)
5キロほど歩いて戻り、再び車でこの地に。で、地図で確認すると、次のポイントの手前に「山の神公園」がある。公園であれば駐車場もあるだろうと、車一台がぎりぎりの山道を対向車が来ないことを祈り、とりあえず観福寺脇の公園駐車場にデポ。
公園から北へと下る歩道脇には石仏や石碑が並ぶ。日暮も近く、道を下って確認することはできなかったが、石鎚神社と刻まれた石碑があるようだ。

岡銅分水口
次のポイントのある岡銅分水口へと、山の神公園から西に下る車道を進む。道を下り、もうひとつの道が合流した辺りに沢が現れた。事前に手に入れた地図にはその沢の中に岡銅分水口と隅田水路橋が見て取れる。
沢に降りる場所を探して先に進むが、沢との比高差が広がるばかり。結局、ふたつの道が合わさり沢とクロスする辺りが一番アプローチしやすそう、ということでクロスポイント辺りから沢に入る。
結構厳しい竹藪。竹藪の藪漕ぎをしながら先に進み、藪が落ちついた辺りの右手の崖面の方向に構造物が目に入る。それが岡銅分水口であった。

隅田川水路橋
水路橋は分水口から沢を渡るはずだが、それらしき水路橋が見当たらない。が、目を凝らして探すと、沢を跨ぐ雑草が目に入る。ハッキリとした橋の形にはなっていないが、どうみてもこれが沢を渡る疏水の水路橋である隅田川水路橋であろう。

サイフォン
本日の最終目的地は大地川手前にある「長田分水口」。隅田川水路橋と長田分水口の手前に、大地川に注ぐ支流があり、疏水はそこをサイフォンで潜るとのこと。隅田川水路橋のある沢から道に這い上がり、道なりに西に進み水路を跨ぐ橋に。橋の上か下か定かではないが、とりあえず上に向かう。と、民家の敷地といった一隅に鉄の作業橋といったものが架けられ、バルブも付いた、如何にもサイフォンといった構造物があった。

長田分水口
サイフォンのある場所から次の長田分水口に道を辿るには、一度結構坂を下り、再び大地川の東を上ることになる。小雪も乱舞している。日も暮れてきた。急ぎ足で道を進み、長田分水口に。今までみた分水口とは異なり、結構大きな構造物。どこからの水なのか勢いよく構造物から流れ出していた。冬は農閑期で銅山川疏水は流れていないので、銅山川疏水の水ではないとは思う。
銅山川疏水西部幹線もこれで一応終了。山の神公園にデポした車を取りに戻り、一路実家の新居浜に。次回は銅山川疏水東部幹線を辿ろうかと思う。
冬のとある日、旧友のS氏より丹沢・大山三峰の修験の道を歩きませんか、とのお誘い。S氏は奥多摩から秩父に抜ける仙元峠越えや、信州から秩父に抜ける十文字峠越えを共にした山仲間。で、今回の山行の発案者はそのS氏の山行・沢遡上の御師匠さんでもあり、私も奥多摩のコツ谷遡上本仁田山からゴンザス尾根への山行などをご一緒させて頂いたS師匠とのこと。峠歩きの成り行きで山を登るといった我が身には少々荷が重いのだが、「修験の道」というフレーズに惹かれご一緒することに。
丹沢の修験の道に興味を持ったのは、大山日向薬師を散歩したときのこと。この丹沢の峰々を辿る大山修験、日向修験、八菅修験の行者道があることを知り、行者道のすべては無理にしても、その一部だけでも辿ってみたいと思っていた。今回のルートには八菅修験や大山修験が大山三峰の尾根を辿る行者道、日向修験や八菅修験が尾根を登る弁天御髪(べんてんおぐし)尾根が含まれている。行者道全体からみれば、ほんの触りだけではあるが、それでも先達の足跡を辿れる想いを楽しみに当日を迎えた。



本日のコース;小田急線・本厚木駅>煤ヶ谷バス停>寺家谷戸>不動沢分岐>宝尾根取り付き>512m標高点>777m標高点>大山三峰南峰>不動尻分岐>唐沢峠>弁天御髪尾根分岐>778標高点>梅ノ木尾根分岐>見晴台>すりばち広場>見晴台A>見晴台B>弁天見晴>上弁天>中弁天>下弁天>見晴広場>林道に出る>林道から離れ大釜弁天に下る>大釜大弁才天尊>大沢>広沢寺温泉入口バス停

小田急線・本厚木駅
本日の散歩スタート地点は清川村の「煤ヶ谷バス停」。バスは小田急線・本厚木駅から出る。小田急には厚木駅と本厚木駅がある。あれこれ経緯があるのだが、それはそれとして厚木駅は厚木市ではなくお隣の海老名市にある。本厚木は本家の厚木といった矜持の駅名であろう、か。

煤ヶ谷バス停;午前7時30分_標高136m
バスは午前6時55分発の神奈川中央交通・「宮ヶ瀬行」。市街を離れ、いつだったか、白山巡礼道を日向薬師まで辿った飯山・白山の山塊に遮られ大きく迂回する小鮎川を越え、清川村の煤ヶ谷バス停で下車。時刻は午前7時30分。 「煤ヶ谷(すすがや)」って、惹かれる地名。炭焼きの煤かとも思ったのだが、「ススタケ・スズダケ」と呼ばれる竹に由来する、と。スズダケといえば、旧東海道箱根西坂でのスズタケのトンネルを思い出すのだが、それはそれとして、治承年間(12世紀後半)、この地に館を構える毛利太郎景行の館の周囲をこの竹で囲み垣根としていた、と。『我がすゞがき小屋よ』と呼んでいたとの記録もあるこの館(御所垣戸の館)は、小鮎川が白山を大きく迂回する北西の「御門」の辺り。御門の由来は文字通り「御門」から。『清川村地名抄』によれば、毛利太郎景行が御所垣戸の館から鎌倉への往還のとき、この六ツ名坂を利用しそこに門(御門)を設けたから、と言う。

 ■毛利の庄

古代、この厚木の辺りは相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。 主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫。

寺家谷戸;午前7時33分_標高150m
煤ヶ谷バス停から谷太郎川に沿って歩を進める。集落の名は「寺家谷戸」とある。寺家とは入峰修行を監督する役職名に因むと伝わる(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。実際、この少し先の不動沢での滝行(八菅修験第13行場)で身を浄めた八菅修験の行者は寺家谷戸より辺室山から物見峠、三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道への峰入りを行う。

不動沢分岐;午前7時38分_標高163m
寺家谷戸からほどなく、不動沢分岐。右に沢を上ると八菅修験第13行場である、「不動岩屋 児留園地宿」がある、と言う。一の滝(不動の滝)と二の滝があり、滝行を行い、上でメモしたように翌日には寺家谷戸から尾根道の峰入りとなる。不動の滝は10mほどの滝のよう。夏には沢遡上でも、とも想う。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
note;赤い線が今回のルート。黄色が八菅修験の道。紫が日向修験の道。三峰から大山までの黄色のルートは大山修験の帰路のひとつ。

八菅修験の行者道
八菅(はすげ)修験とは、 中津川を見下ろす八菅山に鎮座する現在の八菅神社(愛甲郡愛川町八菅山141-3)を拠点に山岳修行を行った修験集団のこと。八菅神社とのは明治の神仏分離令・修験道廃止令以降の名称。それ以前は山伏集団で構成された一山組織「八菅山光勝寺」として七所権現(熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現;室町時代後期)を鎮守としていた。明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地であり、山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があったと伝わる。
八菅山縁起によると日本武尊が東征のおり、八菅山の姿が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。また、八菅の地名の由来は、大宝3年(703)修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、「池中に八本の菅が生えたこと」に拠る。和銅2年(709)には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたとも。因みに、役の小角は行基と同時期の実在の人物のようではあるが、修験道といえば役の小角、といった「修験縁起の定石」として定着したのは、鎌倉から室町の頃と言う。
で、八菅修験の行者道であるが、行場は30ヵ所。この八菅山を出立し中津川沿いに丘陵を進み、中津川が大きく湾曲(たわむ)平山・多和宿を経て、丹沢修験の東口とも称される修験の聖地「塩川の谷」での滝行を行い身を浄め、八菅山光勝寺の奥の院とも称され、空海が華厳経を納めたとの伝説も残る経ヶ岳を経て尾根道を進み「仏生寺(煤ヶ谷舟沢)」で小鮎川に下り、白山権現の山(12の行場・腰宿)に進む。
八菅修験で重視される白山権現の山(12の行場・腰宿)での行を終え、小鮎川を「煤ヶ谷村」の里を北に戻り、上でメモした不動沢での滝行の後、寺家谷戸より尾根を上り、辺室山から物見峠、三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道への峰入りを行う。
唐沢峠からは峰から離れ、弁天御髪尾根を不動尻へと下り、七沢の集落(大沢)まで尾根を下り、里を大沢川に沿って遡上し、24番目の行場である「大釜弁財天」を越えて更に沢筋を遡上し、再び弁天御髪尾根へと上り、すりばち状の平地のある27番行場である空鉢嶽・尾高宿に。そこからは尾根道を進み、梅ノ木尾根分岐を越え、再び三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道に這い上がり、尾根道に沿って大山、そして大山不動に到り全行程53キロの行を終える。
なお、この八菅修験の道は春と秋の峰入りがあったようだが、秋のルートは残っていないよう。上のルートは春の峰入り、2月21日の八菅三内での修行からはじまり、峰入りを3月18日に開始し大山不動には3月25日に到着したとのこと。最後の峰入りは明治4年(1871)。修験道廃止令故のことである(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より、以下、丹沢修験の行者道に関する記事は同書を参考にさせて頂きました)。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

○八菅修験・春の行者道
1.八菅山>2.幣山>3.屋形山(現在は採石場となり消滅)>4.平山・多和宿>5.滝本・平本宿(塩川の谷)>6.宝珠嶽>7.山ノ神>8.経石嶽(経ヶ岳)>9.華厳嶽>10.寺宿(高取山)>11.仏生谷>12.腰宿>13.不動岩屋・児留園宿>14.五大尊嶽>15.児ヶ墓(辺室山)>16.金剛童子嶽>17.釈迦嶽>18。阿弥陀嶽(三峯北峰)>19.妙法嶽(三峯)>20.大日嶽(三峯南峰)>21.不動嶽>22.聖天嶽>23.涅槃嶽>24.金色嶽(大釜弁財天)>25.十一面嶽>26.千手嶽>27.空鉢嶽・尾高宿>28.明星嶽>29.大山>30.大山不動

宝尾根取り付き;午前8時5分_標高196m
不動沢分岐から30分程度進むと、道の右の木々の間に「清川宝の山」と刻まれた石標がある。ここが宝尾根への取り付き部分。特に道標があるわけではないので、ちょっとわかりにくい。
S師匠のリードで尾根に向かう。次のポイントである標高点512m地点まで直線1キロを300mほど登ることになる。時に標高線が密になるところもあるが、好い頃合いで標高線の間隔が広がる尾根筋であり、それほどキツクはない。


512m標高点;9時15分

進行方向右手には、手前の尾根の向こうに八菅修験の行者道の尾根とその向こうに辺室山、左手には清川村と厚木市の境界を成す境界尾根、そして境界尾根が谷太郎川の谷筋に落ちたその先に鐘ヶ嶽。鐘ヶ嶽は丹沢で最も古い行者道と言う。宝尾根への取り付きからおおよそ1時間で512m標高点に。




○鐘ヶ嶽 
鐘ヶ嶽(561m)には明治の頃に整備された丁石が残る。1丁から28丁の丁石を辿ると山頂近くに浅間神社が祀られる、とか。江戸の頃庶民の間で流行った浅間信仰の社である。また17丁辺りにはその昔、権威の象徴とも言える瓦で屋根を葺いた平安期の古代山岳寺院である「鐘ヶ嶽廃寺」跡がある、とも。謎の寺院ではあるが、海老名にあった相模国分寺の僧侶の山岳修験の場である大山を中心とした丹沢の山地修行の拠点として創建された、とも(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。そのうち辿ってみたい山であり社である。

777m標高点;10時15分
植林地帯も切れてきた512標高点の平場を越え、次の目標777標高点に向かう。おおよそ1キロ強を250mほど登ることになる。上るにつれて展望がよくなる。進行方向左手の鐘ヶ嶽を上から見下ろし、その向こうには相模の平地や江ノ島、そして666mの辺りからは新宿副都心のビルの向こうに東京スカイタワーも目に入る。777m地点に近づくと残雪も残る。512mからおおよそ1時間で777m標高点に。




大山三峰南峰:午前11時5分_標高900m
標高777m地点から尾根道を進み大山三峰への尾根道とクロスところにある大山三峰南峰まで直線距離1キロ弱を130mほど登る。尾根道は今までの道筋と一変し、痩せ尾根、露岩が露わな尾根道となる。高所恐怖症の我が身には少々キツイ。極力切り立った尾根の左右から目を逸らし、露岩に生える木の根っこに縋りつきながら恐々なんとか南峰に。45分程度の痩せ尾根歩きであった。南峰は大日嶽とも称される八菅修験20番の行場でもある。




不動尻分岐:午前11時15分_標高845m
当初の予定では大山の北峰(八菅修験18番行場・阿弥陀嶽)、主峰(八菅修験19番行場・妙法嶽)までピストンも検討していたようだが、時間的に無理ということで、大山南峰からは大山へと続く唐沢峠への尾根筋を進む。
大山南峰から唐沢峠へと続く尾根道は先ほどメモした寺家谷戸から峰入りした八菅修験の行者道。寺家谷戸から辺室山、物見峠を経て大山三峰を越え唐沢峠に向かい、唐沢峠からは不動の坂を下り不動尻から七沢集落の大沢に下る。 10分ほどで不動尻分岐。八菅修験の22番行場である聖天嶽(不動尻)へのショートカットルートのよう。ここのベンチで小休止。



唐沢峠;午後12時15分_標高807m
尾根道を唐沢峠へと向かう。この尾根道は大山三峰南峰への痩せ尾根、露岩の尾根とは異なりそれほど怖そうな箇所は少ない。1時間ほど尾根を歩き唐沢峠に。八菅修験の行者道は不動嶽と呼ばれる21番の行場である唐沢峠(不動嶽)で、峰を離れて不動の坂を経て、不動尻から七沢集落の大沢に下り、そこから再び峰入りを行い、弁天御髪尾根の分岐点へと上ってくることになる。峠から大山三峰の三峰がくっきり見える。



弁天御髪尾根分岐;午後12時55分_標高882m
唐沢峠を越え次のポイントである弁天御髪尾根分岐まで尾根道を進む。後ろを見れば大山三峰、前方左手には雪に微かに覆われた大山(1252m)の山容が目に入る。
ところで、唐沢峠で八菅修験の道と分かれたこの尾根道は大山修験の行者道でもある。大山修験のあれこれは、いつだったか訪れた散歩のメモに預けるとして、この尾根道は、大山修験の行者が峰入りを行い、35日(大山初代住職・良弁上人のケース)の行を行い、煤ヶ谷から大山に戻る里道と山道ルートのうちの山道ルートと比定される。煤ヶ谷からを経て辺室山、物見峠、大山三峰、唐沢峠を経て大山に戻ったようである。

大山修験の行者道
相模の里を見下ろし、丹沢山塊東端の独立峰とし、その雄大な山容を示す大山(標高1251m)。別名「あふり(雨降)山」とも称される大山は、命の源である水をもたらす「神の山」として崇められ、古代より山林修行者の霊山であった。 古代の山林修行者はこの山から南に流れる三つの川、東の日向川、中央の大山川、南の春岳沢(金目川)を遡り、この霊山で修行を行った、と言う。その山林修行者の拠点が山岳寺院と発展していったのが日向川を遡った日向薬師(にかつて霊山寺の一宇)、大山川の大山寺、春岳沢(金目川)の蓑毛に残る大日堂であろう(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。
これら山岳寺院の中で最大のものが大山寺。寺伝によれば、初代住職は華厳宗の創始者であり東大寺の初代別当である良弁、三代目の住職は真言宗の開祖空海、9世紀末地震で崩壊した大山寺を再興したのが、天台宗の安然(円仁の弟子で最澄の同族)といった宗教界指導者の豪華ラインナップ。
が、真言宗の東密、天台宗の台密の密教修験はわかるとして、華厳の良弁はどういった関係?チェックすると、東大寺は聖武天皇の命により全国に設けられた国分寺の元締め、といったもの。空海も東大寺の別当もしており、大山は海老名にあったと言われる国分寺の僧侶の山岳修行の拠点としての位置づけであるとの説があるようだ。
ちょっと話が離れるが、この国分寺の僧侶の山岳修行の拠点との説の中に、八菅山光勝は大山と国分寺を結ぶ山岳修験の東端の拠点として設けられたとの説明もあった。実のところ、何故に丹沢東端の地に山岳修験の拠点があるのか疑問であったのだが、この説明で少し納得。
それはともあれ、大山寺の修験者の行者道は以下の通り(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

○大山修験の道
大山寺不動堂(阿不利神社下社)、二重の瀧での修行の跡>大山山頂より峰入り>大山北尾根を進み>金色仙窟(北尾根から唐沢川上流の何処か)での行を行い>大山北尾根に一度戻った後、藤熊川の谷(札掛)に下る>そこから再び大山表尾根に上り>行者ヶ岳(1209)>木の又大日(1396m)>塔の岳>日高(1461m)>鬼ヶ岳(十羅刹塚)>蛭ヶ岳(烏瑟嶽)と進む>蛭ヶ岳からは①北の尾根筋を姫次に進むか、または②北東に下り早戸川の雷平に下り、どちらにしても雷平で合流し>早戸川を下り>①鳥屋または②宮が瀬に向かう>そこから仏果山に登り>塩川の谷で滝修行を行い(ここからは華厳山までは八菅修験の行者道と小名氏>経石(経ヶ岳)>華厳山>煤ヶ谷に下り①辺室山(644)大峰三山から大山に向かう山道か②里の道を辿り>大山に戻る(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。

丹沢山岳修験の中心であった大山であるが、江戸時代には徳川幕府の命により。山岳修験者は下山し里に下りることになる。慶長10年(1605)のことである。 修験者は小田原北条氏とむすびつき、僧兵といった性格ももっていたので、そのことに家康が危惧の念を抱いた、との説もある。この命により修験者は蓑毛の地などに住まいすることに。で、これらの修験者・僧・神職が御師となり、庶民の間に大山信仰を広め大山参拝にグループを組織した。それを「講」という。江戸時代には幕府の庇護もあり、大山講が関東一円につくられる。最盛期の宝暦年間(1751年から64年)には、年間20万人にも達した、とか。

尾根道を40分ほど歩き弁天御髪尾根の分岐に。弁天御髪尾根方面は通行を妨げるような綱が張られている。分岐点には道標があり、大山まで1.8キロとある。大山修験の行者道はこの尾根を大山に進むが、我々はこの分岐から弁天御髪尾根へと下るが、この弁天御髪尾根分岐は八菅修験の28番目の行場・明星嶽である。
先ほど通り過ぎた八菅修験の21番の行場である不動嶽こと唐沢峠から七沢の集落に下った八菅修験の行者道は大沢川を遡上し再び峰入りし、この弁天御髪尾根の行場を辿りこの弁天御髪尾根分岐(八菅修験の28番目の行場・明星嶽)に上り、そこから大山へと向かうことは既にメモした通り。

778標高点;午後1時20分
弁天御髪尾根を下る。次のポイントは標高778地点。直線距離で500mほどを100mほど下る。急な岩場をもあるためだろうか、778標高点まで1時間ほどかかった。
幾度もメモしたようにこの尾根道は、尾根を下った弁天見晴までは八菅修験の道であるが、同時に日向修験の行者道でもある。






日向修験の行者道

日向薬師は上でメモしたように、大山を水源とする三つの川の東端、日向川を遡上したところにある。古代の山林行者の拠点ではあったのだろうが、密教修行の山岳寺院として10世紀頃に開かれたようだ。寺伝には行基の開基とのことであるが、そのエビデンスは不詳(そのコンテキストで考えれば、大山の良弁開基も伝承ではある。良弁が相模の出身であり、東大寺住職>国分寺>大山での国分寺の僧の修行との連想で創作されたものかもしれない。単なる妄想。根拠なし)。
現在は日向薬師で知られるが、江戸の頃までは、日向川を遡った坊中より奥は山林修行者、山伏、禅僧、木喰僧などが混在する山岳修験の聖地であり、薬師堂(日向薬師)、社(白髭神社)を核に多くの堂社から構成された一山組織・霊山寺と称された(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。 ここでも八菅山光勝寺と同じく七社権現が祀られたが、そのラインアップは、熊野・箱根・蔵王・石尊(大山)・山王・白山・伊豆権現。八菅の八幡が石尊(大山)と入れ替わっている。入れ替わっているというか、全体の流れから言えば八菅の「八幡」が少々違和感を抱くが、それは15世紀頃衰退した八菅山光勝寺の庇護者としての源家ゆかりの武家への配慮であろうか。
このことは単なる妄想で根拠はないのだが、ひとつだけシックリしたことがある。それは、15世紀に山伏の本家・聖護院門跡である道興(この人物には散歩の折々に出合う)が大山寺や日向霊山寺を訪ねているのに、本山派聖護院門跡直末の八菅山光勝寺を素通りしているのが結構気になっていた。が、当時八菅山光勝寺が「八菅山光勝寺再興勧進帳」を出すまでに零落していたのであれば納得できた、ということである。日向薬師のあれこれは散歩のメモをご覧いだだくことにして、行者道を下にメモする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


 ○日向修験の行者道
日向薬師>二の宿・湯尾権現(場所不明)>大沢川の谷筋に下り>(ここから大山までは八菅修験の行者道と同じ)>弁天見晴(標高597m)へと峰入り>弁天尾根の地蔵観音の峰(「見晴広場A(674m)から「すりばち広場」の尾根筋)>山の神(場所不詳;八菅修験も札を納めたとある)>弁天尾根分岐に>大山>(奥駆の行場)>藤熊川の谷筋へ下る>丹沢問答口(門戸口)>(丹沢表尾根)>鳥ヶ尾(三の塔;1205m)>向こうの峰(鳥尾山;1136m)>塔の岳遙拝所>塔の岳(尊仏山;1491m)>行者ヶ岳(1209m)>>龍ヶ馬場(1504m)>丹沢山(弥陀ヶ原:1567m)>神前の平地(不動の峰;16143m)>峰から離れ早戸大滝での滝行>峰に戻り蛭ヶ岳(釈迦ヶ嶽;1673m)>姫次>尾根を下り青根村の里に>青野原村>宮が瀬・鳥屋村>煤ヶ谷村>七沢村>日向村(『丹沢の修験道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。

梅ノ木尾根分岐;午後1時33分_標高711m
778m標高点から10分程度で梅ノ木尾根分岐に。ささやかな道標がふたつ。北に「大山<大沢分岐>鐘岳」、南には「梅の木尾根」と。大沢分岐とは、八菅修験の22番行場聖天嶽こと、不動尻へと下り大沢に向かうのだろう、か。梅ノ木尾根は薬師尾根とも、日向尾根とも称される。尾根を進めば日向山(標高404m)に到り、途中弁天の森分岐から弁天岩分岐までは日向修験の行者道。弁天の森分岐からは尾根を下り「弁天の森キャンプ場」、往昔の日向修験25番の行場十一面嶽に、弁天岩分岐を南に下ると日向薬師に出る。


見晴台;午後1時47分_標高651m
梅ノ木尾根分岐から強烈な崖をトラロープに縋り10分強で見晴台に。休憩所があり、その屋根から管が休憩所のテーブルの中に続いている。S師匠の説明によれば、雨水を溜め防火水槽となっているとのこと。ここでちょっと休憩。眺望豊かな見晴台といった風ではないが、大沢川の谷筋と、これから下る弁天御髪尾根が目に入る。

すりばち広場;2時15分_午後 標高622m
見晴台で休憩し、少し下ると「すりばち広場」。八菅修験の27番の行場であり、宿でもあった空鉢嶽・尾高宿である。日向修験の行場でもある。文字通り「すり鉢」の鞍部となったこの地は、大山寺や日向霊山寺、八菅光勝寺といった山岳寺院が開かれ僧都が山岳での密教始業を行う以前からの山林修行者の行場・宿でもあった、とか。地蔵尊が祀られていたため地蔵平とも称されるようである(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。
右の谷側には鹿除けの柵。柵越しに先ほどの見張台よりしっかりと大沢川の谷筋や弁天御髪尾根と思しき尾根筋が見える。その先には相模の里も見えてきた。道標にキャンプ場とあるが、この谷筋を下り大沢川の沢にある「弁天の森キャンプ場」に続いているのだろう。南西に目を移すと大山山頂の電波塔もはっきり見て取れる。

見晴台A;午後12時43分_標高658m
すりばち広場から30分ほど尾根を進むと見晴台A。木の根元の辺りに、ほとんど消えかけた文字で書かれた木製の標識があった。左右の稜線が開けてくる。






見晴台B・鐘ヶ嶽分岐:午後2時52分_標高645m


見晴台Aから10分ほど、痩せ尾根を進むと見晴台B。やっと前面が見晴らせるロケーションとなるが、木々が邪魔し展望はそれほどよくなかった。ここから鐘ヶ嶽への分岐がある。谷太郎川の谷筋に下り、鐘ヶ岳に向かうのだろう。ここの標識は茶色の土管(鉢植えの鉢程度の大きさ)に挟まれた木にペンキで書かれている。よくはわからないが、こういった見晴らし台とかキャンプ場は神奈川県の自然公園として整備されたのだろうが、それにしては手作り感が強い。だれかアウトドア活動に燃えた担当者が推進した事業が、担当者の配置換えとともにその熱が消え去ったのだろうか。単なる妄想、根拠なし。

弁天見晴 :午後3時2分_標高597m
見晴台Bから急坂をロープ頼りに10分ほど下ると、やっと前面一杯に展望が広がる見晴らし台となる、相模の里が一望のもとである。道標に「ひょうたん広場(弁天の森キャンプ場・広沢寺)とあるが、この道が八菅や日向修験の行者道だろう。右へと沢に向かって八菅修験26番行場・千手嶽をへて谷に降り切った弁天尾森キャンプ場の辺りが八菅修験25番行場・十一面嶽。この八菅行者道は既にメモした通り、同時に日向修験の行者道でもある。
S師匠の元々の計画では、この弁天見晴から行者道の逆側、左手の尾根筋を辿って大沢集落へ下ることにあったようだが、なんとなく呟いた、上弁天、中弁天、下弁天、そして大釜弁財天って面白い地名、というフレーズに応えてくれたようで、計画を変更しここから尾根筋を上弁天、中弁天、下弁天と真っ直ぐ下り、一直線に大釜弁財天(八菅24行場・金色嶽)へと向かうことに。

中弁天:午後3時28分_標高536m
またまた強烈な下りを進み、鹿除け柵を越える脚立を乗り越え先に進む。後からわかったのだが、この脚立のところが上弁天であったよう。弁天見晴らしから30分弱で中弁天に。
上弁天とか中弁天などとのフレーズから何らか祠でもあるのかと期待したのがだが、それらしきものはない。最近になってハイキングコースの目印に付けられた地名なのだろうか、それとも、直線下にある大釜弁財天が雨乞いの祠であったとのことであるので、なんらか雨乞いの神事が行われたところなのだろか、などとあれこれ妄想だけは広がる。





下弁天:午後3時44分_標高515m
中弁天からは坂は少し緩くなる。10分強進み下弁天に。ここからの眺めは素晴らしい。奥多摩の山もいいのだが、如何せん里を見下ろす「広がり感」がない。それに比べ今回歩いた丹沢の尾根道は、相模の里を見下ろすことができ気持ちいい。標識はここも茶色の土管。土管にはP515と書いてある。





見晴広場;午後3時49分_452m
下弁天から急坂を下り終えると見晴広場。今までとは異なり立派な道標がある。標識に「キャンプ場」とあるのは弁天の森キャンプ場であろう。何度かメモしたように、弁天尾森キャンプ場の辺りが八菅修験25番行場・十一面嶽。

林道に出る:午後4時6分_午後標高346 m
鹿柵に沿って尾根を進むと、傾いてはいるが、鹿柵に門扉がある。そこから弁天の森キャンプ場へと下れるのだろう。先に進むとヒノキの植林体に。薄暗い植林体を抜けると茅の繁る一帯に。踏み跡もはっきりしないため、力任せに一直線に下り林道に。







林道から離れ大釜弁天に下る:午後4時10分_標高343 m
林道を少し進み、道がカーブするあたりで林道を離れ、柵に沿って藪漕ぎをしながら大釜大弁才天尊にこれまた一直線に下ることに。下りきったところには大沢川が流れるが、踏み石で反対側に渡れるとS師匠。結構きつい坂を大沢川まで下り、鹿柵を越える脚立を利用し大沢川筋に。適当な踏み石を見つけ、水に濡れることもなく対岸に。

大釜大弁才天尊:午後4時33分_標高250m
八菅修験の行者道でもあった大沢川沿いの道を下ると大釜大弁才天尊。八菅修験24番の行場・金色嶽(大釜弁財天)である。滝の横の大岩の中に弁財天が祀られていた。この弁天さま古くから雨乞いの滝として里人の進行を集めていたとのことである(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。 ところで、弁天様って七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。
八菅修験、大山修験の行場である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、とのことである。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、それなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。上で大山寺の良弁は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたとメモした。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、この江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に重ね合わせ、その地に修験の地としての有難味を加え、塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

大沢:午後4時50分_標高250m
大釜弁天を離れ大沢集落へと向かう。日も暮れてきた。愛宕神社の辺りでは日も落ち、日向薬師散歩の時に訪れた「七沢城址(七沢リハビリテーション病院)」の案内をライトで照らして眺め広沢寺バス停に。

広沢寺温泉入口バス停;午後5時15分_標高96m
五語5時15分バス停に到着。午後5時21分発のバスに乗り、午後5時50分に本厚木駅到着し一路家路へと。出発午前7時半。バス停着午後5時15分。結構歩いた。

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