2013年10月アーカイブ

暑かった夏の締めくくりの沢遡上をしましょう、との沢ガールの御下命。さてどこに行こうかとあれこれ考える。越沢からはじまり、倉沢本谷、海沢とガイドし、沢登りにも少し慣れてきたし、装備もリュックサックからはじまり、沢シューズ、ヘルメット、中にはハーネスまで揃える人も登場してきた。
それではと、奥多摩の沢遡上としては代表的な水根沢かシダクラ沢のどちらか、と少々迷う。水根沢は沢に沿って林道がありエスケープというか復路が楽なのだが、水に濡れそう。一方のシダクラ沢は水には濡れることはなさそうだが、復路の林道がないので、源頭部まで詰めた後は急登を尾根に這い上がり、そこから登山道を奥多摩湖まで下らなければならないようである。で、あれこれ考えた末、シダクラ沢に決めた。水に濡れることを避けるのもさることながら、水根沢は結構人が多そうであり、我ら素人集団が通行の妨げとなることを躊躇したためである。
シダクラ沢は沢自体はそれほど難しくはなさそうではあるが、源頭部を詰めた後の尾根への這い上がりの急登が難儀なよう。その尾根への急登がどの程度のものか、途中撤退の場合の沢脇の山道がどのようなものかチェックするため、事前踏査をパートナーのTさんと実施。さすがに尾根への急登は厳しかった。また、沢脇の山道はグズグズしてはいそうだが、予想より下りやすそう。で、Tさんとも相談し、基本方針を以下の如く決める。

メンバーはTさんと私以外に4名。二人の事前踏査より時間がかかりそうであるから、午後1時時点での到着地点で前進か引き返すか決める。引き返すには数カ所の滝は懸垂下降が必要。ハーネスを準備できない人はスリングで簡易ハーネスをつくり懸垂下降をおこなうため、できれば120,80のスリングとカラビナ、ヘルメットの用意をと連絡。ヘルメットを安くあげるには、ワークマンであれば2500円程度であるよ、などとの要らぬお節介を焼きながら当日を迎える。
Tさんと私は遡上に時間がかかり、途中での引き上げを心の中で願う。なにせ、事前踏査を行ったのは1週間前。あの急登を再び、と考えると少々辛い。



本日のルート;奥多摩駅>惣岳(そうがく)バス停>奥多摩むかし道>しだくら橋>入渓>4m滝>4m滑滝>4m二条の滝>2段6mの滝>4mの滑滝>大岩>4m滝>二俣>4m滝>美しい苔の岩場>奥の二俣>小尾根への取り付き>小尾根を登る>最後の詰め>大ブナ尾根の登山道に到着>サス沢山>奥多摩湖


奥多摩駅:
午前7時に立川駅に集合。沢ガール一人が体調すぐれず参加できずパーティは5名。天候は曇り。7時15分奥多摩行の予定が7時5分発の青梅行に間に合う、ということで予定変更。結果的には青梅からの奥多摩行きは7時15分立川初に乗ることになるので同じことではあった。奥多摩着8時29分。6分程度の待ち合わせで奥多摩湖・鴨沢方面行きのバスに乗り、最寄りのバス停・惣岳(そうがく)に。

奥多摩むかし道
バス停の少し手前から川筋に下る石段。民家の間を抜け、奥多摩むかし道を先に進む。奥多摩むかし道とは奥多摩駅前から奥多摩湖までの10キロほどを結ぶ旧青梅街道筋。道の右手に鳥居が見える。惣岳の不動尊。案内によると、「明治年代、水根の奥平大乗法印と信仰心の厚い惣岳の奥平庄助によって成田不動尊を勧請した」とあった。
道の左手は深い惣岳渓谷。「太古以来の大洪水と、近くは寛保2年(1742)、明治40年(1907)の奥多摩一帯を襲った未曾有の大洪水によって、多摩川南岸しだくら谷より押し出した多数の巨岩怪石が累々として惣岳の荒と呼ばれ渓谷美をなしている」と案内にある。 数年前、奥多摩むかし道を辿ったのだが、未だメモをしていないのを思い出した。最近少し気になっている、奥多摩駅から奥多摩湖を結んだダム工事用の水根貨物線の廃線跡を辿り、折り返しを奥多摩むかし道を再び歩いていようかとも思う。

しだくら橋
奥多摩むかし道としてハイキングを楽しむ人も多いのだろう、道脇にはお手洗いも整備されている。先に進み多摩川に架かる吊り橋を渡る。吊り橋の名は「しだくら橋」。橋の手前に案内;「惣岳の荒」といわれて。多くの巨岩が渓谷美を見せている。巨岩から巨岩をつなぐように直径約20センチ程の杉丸太を4、5本を藤蔓(ふじつる)で結び架橋していた。現在は吊り橋となっている、とあった。
5人までしか同時に渡らないようにとの注意に従い、二手に分かれて橋を渡る。渓谷美が美しい。







入渓点;9時24分_標高385m
シダクラ沢の入渓点は吊り橋の南詰。橋を渡りきったところで入渓準備。沢ガールの皆さんはヘルメットやハーネスなど結構立派なものを揃えてきている。ワークマンで買ったヘルメットは我が身のみ。ハーネスの無いメンバーには120のスリングを上体に、80のスリングを八の字に足に通し、カラビナで上下を結び簡易ハーネスをつけ準備万端。南詰脇から急坂を下り入渓点に。





4m滝:9時32分_標高394m
入渓点付近は倒木が行く手を遮り、少々荒れている。最初に現れる4m滝は右の岩場を巻く。












4m滑滝;9時40分_標高428m
先に進むと4m程度の滑滝。二条になっているような滝を左手の岩場を滑らないように慎重に進む。

4m二条の滝:9時52分_標高442m
3mクラスの小さ滝を越えると滑(ナメ)となり、その先に取水口が現れる。取水口を越えると水流が二条に分かれる滝が現れる。滑りやすい滝の左手を慎重に越えると3mクラスの小滝がふたつ続く。一つ目は岩を上るが、二つ目は小さい釜の先にある滑状の滝。ともに特に苦労なく進み、倒木が沢を跨ぐ岩場あたりで小休止。時刻は10時12分。

2段6mの滝;10時29分_標高514m
その先にはシダクラ沢で最大の滝。それほど厳しい滝ではないのだが、トレーニングも兼ねて簡易ハーネスとザイルを結び、滝上の木立とザイルを固定しビレイ確保。沢ガールは自分の力で滝を上る。ヘルメットを被るだけでワンランクアップした技量に思える。


4mの滑滝;10時54分_標高525m
2段6mの先の4mクラスの滑滝)を越えると左手から涸沢が合流。途中撤退のことも考えながら沢の左右を見やりながら進む。切り立ったV字の谷とはなっていないので、撤退の下山も沢を歩かなくてもなんとかなりそうに思える。






大岩;11時17分_標高593m
涸沢の先に少しハングになった小滝を越えると右手に大岩が見える。








4m滝;11時53分
右手に大岩を眺めながら4m滝を二つ越える。沢ガールの皆さんには、ここも念のためとトレーニングを兼ねて簡易ハーネスとザイルを結び、ビレイ確保の上自力で滝を上ってもらう。










二俣;12時8分_標高735m
二つの滝を越え、次第にV字谷の様相を呈する大岩がゴーロを進むと沢が左右に分かれる「二俣」に到着。1週間前の事前踏査と同じく右の沢に入る。ここでおおよそ12時。予想以上のスピード。メンバーが一人少なくなった分スピードアップしているし、それほど難しい滝や高巻きがないためだろう。この辺りで13時頃であれば、沢の左右の山道を入渓点まで撤退の予定であったのだが、先に進むことにする。予想に反し、奥の二俣の先の急登を上ることになってしまった。致し方なし。



4m滝;12時18分_標高752m
二俣からの岩場を少し進むと結構な滝が現れる。ここも簡易ハーネスとザイルを結びビレイ確保しながら滝を登る。この滝を越えると水流が減ってくる。






美しい苔の岩場;12時29分_標高804m
4m滝の先は誠に美しい苔が覆う岩場となる。苔といえば信州から秩父に抜ける秩父往還・十文字峠越えのときの十文字峠近辺に美しい苔が想い起こされる。十文字小屋には苔調査に来ていた先生方も泊まっていた。



奥の二俣;12時35分_標高825m
奥の二股到着が午後1時半。沢を二つに分ける大岩の手前で大休止。食事を摂りながら右の沢を直登するか、先日踏査した左の沢の先の小尾根にするか少々悩むも、大変さを確認している事前踏査ルートに進むことを決める。私たちの後から来たパーティは右の沢を直登していった。



小尾根への取り付き:12時40分
奥の二股の岩場したから小尾根に向かって取りつき開始。水は無いものの、グズグズの沢を斜め上に向かってトラバース。あまりの急登に文字通り、手足を使った四足歩行で這い上がる沢ガール。グズグズに足をとられ、おまけに急登。身動きできないと這いつくばったままでフリーズ状態。先を登るTさんにザイルを渡し、木に固定し20mのザイルを下ろし、それを掴みなんとか小尾根に取り付く。




小尾根を登る:13時_標高852m
小尾根に取り付くも、グズグズはないものの、依然として急登に変わりない。時に木にザイルを結び、お助けザイルで尾根を登る。たまに緩やかな傾斜があるも、基本は急登。今までの沢登りのように、帰りは沢脇の林道、といった「なんちゃって沢上り」ではなく、沢を源頭部まで詰め、そこから尾根に這い上がり、そして尾根を下るといった、所謂オーソドックスな沢登りは沢ガールの皆さんはこれが初体験。今までと勝手が違うと泣きが入るも、何とか小尾根を進む。先に進むしか術はなし。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)





最後の詰め;13時59分_標高1091m
小尾根に這い上がりはじめてからほぼ1時間20分、尾根道を1時間ほど悪戦苦闘しながら進むと空か開けてくる。大ブナ尾根がやっと視界に入ってきた。岩場の脇から最後の詰めを終え、大ブナ尾根に転げ込む沢ガール。



大ブナ尾根の登山道に到着;14時5分_標高1127m
大ブナ尾根の登山道に到着。皆の顔も心持ち晴れやか。着替えは行わず、沢シューズをトレッキングシューズに履き替えるだけにして登山道を下る。

サス沢山;14時49分_標高940m
登山道を30分ほど下るとサス沢山。この辺りから奥多摩湖が一望のもと。事前踏査の時は天気が悪く奥多摩湖は見えなかったが、今回は美しい姿を現した。沢ガールもピースサインの余裕もでる。





奥多摩湖;15時37分_標高504m

奥多摩湖の展望を楽しんだ後は、ひたすら山道を下る。途中、お助けロープが張られている急坂を下り、尾根の登山道に這い上がった地点バスからおおよそ1時間半。奥多摩湖に到着。バスを待ち奥多摩駅に向かい、一路家路へと。
 昭和の森を分水界とする散歩も第三回。東京湾に注ぐ村田川、内陸の印旛沼に注ぐ鹿島川の谷戸の景観を楽しみ、今回は外房の太平洋に注ぐ小中川流域を辿ることにする。 ルートを想うに、この2回の散歩を通じ、昭和の森公園のある丘陵を境にその東は太平洋の九十九里浜に続く低地となっていること、またその丘陵にはその昔、現在の外房線とは異なるルートを走る鉄路があり、急峻な丘陵をトンネルで穿ち、切り通しを開削し土気と大網を結んだとのこと。そしてその急峻なる丘陵にはこの地に覇を唱えた酒井氏の居城である土気城があった、といったことを知った。
で、今回の散歩は昭和の森公園の東裾にある小中池を主水源とする小中川を下流へと辿る、というよりも、昭和の森公園のある丘陵とその東の低地のギャップを感じるルートをその眼目としようと思う。25パーミルと言うから、1000mで25m上る千葉県下最急勾配の鉄路の廃線跡を逆から下り、また急峻なる丘陵故に難攻不落と称された土気城跡などを訪れ、丘陵と平地のギャップを幾らかなりとも感じ、丘陵から低地に下りた後に小中川の源流点へと戻ることにした。
現在では廃線となった鉄路にはトンネルや切り通しがあったようだが、現在は埋め戻されているとのこと。どこまで廃線跡を辿れるがはっきりしないが、常の如く成り行き任せを基本に始点である外房線土気駅へと向かった。



本日のルート;外房線・土気駅>西谷寺>土気トンネル>切り通しの跨線橋跡>善勝寺>埋め戻された切り通し跡の台地>>貴船城跡>道祖神と「土気城跡」の案内>クラン坂>外房線跨線橋>旧鉄路跡>南玉不動の滝>南玉不動尊(清岸寺)>外房線高架橋>水資源機構房総導水管理所>御霊大神>素掘りの隧道>小中川>小中池>昭和の森公園展望台>辰ヶ台遺跡>鹿島川源流域の取水口>ホキ美術館>外房線・土気駅

外房線・土気駅;午前10時55分_標高85m
通いなれた外房線・土気駅を北口に下り、大網街道を東に進む。ここからは、現在の土気駅から急峻な丘陵を越え大網駅を結んだ旧鉄路の廃線跡を探しながら辿ることになる。 ○房総鉄道
土気から大網へと丘陵を越える鉄路は、明治29年(1896)に開業された蘇我・大網間を結ぶ房総鉄道の開業まで遡る。明治21年(1888)には蘇我>東金間・大網>茂原間に房総馬車鉄道が計画されたが開業までには至らなかったようである。
その房総鉄道の中で土気・大網間は房総丘陵が九十九里浜の低地へと一気に落ち込む急峻な地形。1000mで25m上る急勾配を抜けるため、大網から最も近い丘陵の尾根筋に取りつき、小刻みに山際を廻り込みながら、現在の外房線・土気トンネルの少し南を善勝寺山門の北側へと上り、そこからは大網街道の下まで353mのトンネルを掘削し、土気へと抜けていたようである。
現在の外房線は881mのトンネルを穿ち、高架橋を走り抜けるが、当時の技術力ではトンネルや鉄橋の建設を極力避け、できるだけ緩やかな勾配とするにはこのルートしかなかった、とか。なお、房総鉄道は明治40年(1907)には国有化され「房総線」と改称。開業当時にあった千葉駅や大網駅のスイッチバック配線もなくなり、また全線電化され「外房線(千葉駅と安房鴨川駅間)」と改称されたのは昭和47年(1972)のことである。
因みに、大網駅のスイッチバックの説明に、急峻な地形を乗り越えるため、との説明が多いのだが、何と無く違和感を感じる。急峻な地形の途中にスイッチバックがあるのならこの説明も納得できるのだが、そういった路線でもなさそうであり、単に当初の路線は東金(大網・東金間開業は明治33年;1900)に向けてのものであったが、一の宮等の南房総への路線を通すために(大網・一宮間開業が明治30年;1897)、大網駅にスイッチバックの配線を設けたのではないだろう、か。

西谷寺;午前11時29分_標高88m
大網街道を土気市民センター交差点に。道を右に折れ、外房線に架かる陸橋に立ち寄り。旧鉄路はこの陸橋辺りから現在の外房線・土気トンネル入口手前の陸橋のある辺りまでは外房線と大網街道の間を通り、そこからは外房線の南に回り込み、善勝寺の山門方面へと向かったようである。
何らかの痕跡が残るとも思えないが、とりあえず、極力路線跡を辿ってみようと思う。土気市民センター交差点南の外房線陸橋辺りからは鉄路跡らしき道はないのだが、そこから東に少し大網街道を進み右に折れると、外房線と大網街道の間に道が通るが、その道も先日、鹿島川を辿る折に越えた土気踏切への道の辺りで途切れる。土気踏切の辺りで東に広がる資材置き場に鉄路跡を想い、大網街道に戻り土気トンネル上を通る道へと進む。
途中、大網街道の北に西谷寺の案内。ちょっと立ち寄り。元は真言宗の寺であったとのことだが、寛正年間(1457‐66)に土気城主・酒井定隆による上総七里法華の令により法華に改宗。現在は日蓮宗の寺として開山以来四百有余年の法灯を伝える。七里法華とは、酒井定隆が海難から救ってくれた日泰上人と約束したもので、一国一城の主となった折には、領地内をすべて日蓮宗の寺院とするといったものである。

土気トンネル;午前11時31分_標高78m
西谷寺を離れ、大網街道を右に折れ土気トンネル上に。現在の土気トンネルは全長881m。明治29年(1896)、千葉市街と外房を結ぶべく開業した房総鉄道が幾多の変遷を経て、全線電化され外房線(千葉駅と安房鴨川駅間)と改称された昭和47年(1972)にこのトンネルも開通されたようである。
土気トンネルはここから北東へと向かうが、旧鉄路は外房線の南に回り込んでいた。大網街道の南を東に進み、調整池らしき池の辺りで大網街道とクロスする道筋は、如何にも鉄路跡のように見える。

切り通しの跨線橋跡;午前11時42分_標高76m
大網街道をクロスし、東へと善勝寺への山門へと緩やかな道を進む。道の北側が旧鉄路跡。切り通しがあった、とのこと。山門手前の北側には跨線橋跡が残る。現在は埋め戻されその深さ20mとも言われたV字の深い切り通しの名残はなにも、ない。
房総鉄道が開業された当初はトンネルが開削されていたが、大網方面から25パーミル(1キロを25m上る)というその急勾配を登り切った丘陵頂上に353mものトンネルがある、というのは煙モクモクの最たるもの。その煤煙を軽減する目的で昭和26年(1951)から2年かけてトンネル上部の覆土を撤去する工事を行い、一部トンネル部分を残して大部分を深さ20mもの切り通しとした。切り通しで出た残土は土気小学校裏の谷を埋め校庭造成に使われた、と言う。
その切り通しも旧鉄路が廃線となるにおよび跨線橋跡の西は昭和55年(1980)頃には埋め戻され、その東は平成12年(2000)頃までは切り通しが残っていたようだが、宅地造成で出た残土置き場として埋め戻され、現在深いV字の切り通しの面影はどこにも見当たらない(当時の切り通しの写真はこのサイトをご覧ください)。


善勝寺;午前11時47分_標高90m
善勝寺の山門に入る。参道を進み右に曲がると本堂があった。このお寺さまも、元は真言宗であったが、酒井氏の「上総七里法華」の令により法華宗に改宗。当時の名前は「善生寺」であったが、酒井氏が天正18年(1590)の秀吉による小田原の北条征伐に際し小田原北条氏に与し自領を失った後は、家康により寺領50石を受け、寺の名前も「善勝寺」と改められた。現在も七里法華屈指の名刹として、京都の総本山妙満寺の輪番十ケ寺となっている。
境内には土気城最後の城主である酒井氏の子や孫の墓塔が祀られる。この寺は善勝寺砦とも称されたように、土気城郭の一部でもあったようで、境内には土塁跡が残る。寺は丘陵東端の尾根にあり、大網・東金の低地を睥睨する要衝の地でもあったのだろう。

埋め戻された切り通し跡の台地;午前12時5分_標高78m
善勝寺をお参りした後、切り通しの東口、というか、旧土気トンネルの東口辺りから東の鉄路跡の景観が如何なるものか、残土置き場となった切り通しの埋め戻しの場所に入り込む。残土の上には雑草が茂り、藪漕ぎと言うか、草漕ぎをしながら残土埋め立て東端に。そこから先は深い谷となり、先に進むのは難しそう。地図には東に向かう細路が見えるのでそれらしき道筋を藪漕ぎしたのだが、先日の沢登りで出合ったマムシを思い出し、途中で撤退し、切り通し・旧トンネル東端と思しき辺りから急勾配の鉄路を想い、且つ大網方面の眺望を楽しむことに。房総丘陵と九十九里浜への境目との言葉のとおり、眼下に大網白里や九十九里平野の景観が広がっていた。
先回の散歩で土気の地名の由来をメモした。土気の由来は諸説あるも、土気城跡が天然要害の地故に「峠ノ庄」と呼ばれた「峠」>とけ、との説、険しい坂道=嶝嶮(とうけん)の説などの説があったが、先回の散歩まではこれらの説を実感できなかったのだが、この場に到りて大いに納得。

貴船城跡;午後12時24分_標高90m
善勝寺から土気城跡へと向かう。切り通しを埋め戻した跨線橋跡を「渡り」、北に向かい、T字路を右に折れ、道なりに進むと竹藪に覆われた道の両側に空堀と右の小高い堤に小祠がある。石段を登りお参り。祠脇にある石碑の案内によると、「貴船城 聖武天皇の神亀元年(724)、蝦夷の侵入に備えて、陸奥の国(宮城県)に多賀城を築き、蝦夷の軍事拠点として土気に金城又は貴船城と呼ばれる砦を築いたと伝えられる。 鎌倉時代に入り千葉氏の一族相馬胤綱の次子土気太郎が土気の荘の地頭に任ぜられ居住したと言う。 戦国時代畠山重康の居城となるが、下総中野城にいた酒井定(貞)隆の勢力に押されこの地を撤退する。長享2年(1488)定隆は土気古城跡を修築し土気城を再興する」とあった。
小高い堤は戦国時代に酒井氏が土気城を修築したときに整備された馬出し曲輪(大手入口)の土塁跡のようであった。空堀の深さは6m、幅8mほどのよう。曲輪内側の空堀は埋められてしまったようである。

道祖神と「土気城跡」の案内;午後12時29分_標高90m
貴船神社を少し進むと道祖神とその脇に「土気城跡」の案内;土気城は平安時代の鎮守府将軍であった大野東人が東北地方の蝦夷に対抗する軍事拠点のひとつとして築いたものと伝えられる。その後、長享2年(1488)、中野城主(下総中野城;千葉市若葉区中野)であった酒井定隆がこの城を修復して入城し、以降、5代・約100年に亘って酒井氏の居城として上総の地に君臨した。
城は鹿島川や村田川の水源となっている標高90mを越える台地上に、その急峻な地形を利用して築かれ、難攻不落の名城として知られていたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の房総攻めの際に敗れ、廃城となった。本丸、二の丸などの中核になる部分は現在日本航空研修センター(注;現在は「ひまわりの郷」と称する高齢者専用賃貸住宅となっている)の敷地となっており、部分的な改修はあるものの全体の保存状態は良好で戦国時代の形態を良く残している」とあった。
○酒井氏
酒井氏の出自については定かではなく、遠江とも美濃とも上州新田氏の流れとも言われている。酒井定隆は古河公方足利成氏に仕えた後に安房の里見義実や小弓城の原氏を頼り中野城主となったという。
酒井氏は五代百年に亘り土気城主として君臨したが天文7(1538)年の第一次国府台合戦には小弓公方側として参戦し、小弓公方足利義明の討ち死にによって北条氏に降った。永禄7(1564)年の第二次国府台合戦では北条氏から里見氏に寝返り、敗走する里見勢を稲毛海岸で護ったが、酒井胤治の代、永禄10年(1567)北条氏に降伏した。
天正18年(1590)の小田原征伐に際し、酒井康治は小田原城へ参陣。小田原城の開城とともに土気城も降伏し浅野長政に接収された後に廃城となった。
案内脇に城の構えが記されており、この案内の前に広がる一帯が三の丸、その先に大きな空堀があり、二筋の空堀の先には二の丸と本丸となっている。

土気城跡;午後12時31分_標高91m
先に進み、二重の空堀と土塁で食い違いで形成されている虎口のようなところを通り、ひまわりの郷敷地にお邪魔。空堀にそって盛られた土塁は規模が大きく登るのにちょっと苦労した。







クラン坂;午後12時28分_標高90m
敷地内をあまり彷徨うのも気が引け、二の丸と本丸の間を抜ける道をすすむと、のんびりした風景は一変。薄暗い切り通しの道となる。「クラン坂」と称されるこの切り通しは規模が大きく迫力がある。クラン坂の切り通しには鎌倉でよく目にした「ヤグラ」も残る、とか。
ヤグラとは横穴式のお墓のこと。「岩蔵」がその由来と言う。「クラン坂」の由来も「ヤグラの坂」であろう、か。「昼でもなお暗い」との由来もあるようだが、それはそれとして、この地は酒井勢と後北条勢が激闘を繰り広げた場所でもあり、足早に去る。

外房線跨線橋;午後12時53分_標高47m
クラン坂を下ると外房線の跨線橋に出る。跨線橋のすぐ西に土気トンネルの出口が見える。旧房総線はこの地の少し南を山肌を善勝寺脇の切り通しへと向かった、と言う。なんらかの痕跡でもないものかと辺りを注意しながら進む。

旧鉄路跡;午後12時57分_標高35m
跨線橋から少し南に下ると、フェンスで囲まれた藪が一瞬切れて枕木のようなものがフェンスに替り道脇に縦に立ち並ぶ。どうもこの地が廃線跡のようである。道の東は藪が酷く入れないが、西側は比較的容易に入ることができた。なにか痕跡でもと思いながら少し進むと切り通しが現れた。鉄路と関係あるような気もするのだが、切り通しの先の藪が激しく先に進むことはあきらめた。ともあれ、善勝寺脇の切り通しから、鉄路は谷に下りることなく山肌を此の地まで進んできたのだろう。
旧鉄路はこの地から東は西の谷池の辺りで現在の外房線の路線に戻るが、そこまでのルートを推測するに、地形図を見るとこの地から西の谷の外房線北の池に向かって40m級の丘陵が続いている。鉄路はこの丘陵を進み外房線の路線に戻っていたのではなかろう、か。旧鉄路はその外房線との合流点から先は外房線と同様のルートを丘陵の山肌を大網に向かて下って行ったようである。

南玉不動の滝;午後13時15分_標高26m
道なりに南玉不動の滝に向かう。場所は池田地区の南玉池の北。道なりに南に進み、途中で南玉池へと右に折れて進むと丘陵と平地の境に豊かな水量の滝があった。案内によると;「土気古城再興伝来記」の南玉不動尊略縁起によれば、「嵯峨天皇の御代、弘仁3年(812年)夏の初め、山の中腹の滝の付近から怪しい放光があったので、里人は善勝寺(千葉市土気町)から住職を招請して不動尊を安置し、清岸坊と称した」と記されている。
この滝は、山の中腹の湧水で、俗に地下数千尺といわれ、清岸寺境内まで導管で導かれ、銅製の滝の口から落下して、南玉貯水池の水源となっている、とあった。




南玉不動尊(清岸寺):午後13時26分_標高46m
で、案内にある清岸寺とは滝の上に立つ堂宇。南玉不動尊と称される。滝の脇の細路を辿ると朱に塗られた堂宇があった。そこにあった「南玉不動尊縁起由来」を簡単にまとめると、滝の由来と同じく怪しい放光を止めんと不動尊を安置し、その堂宇を「不動山清岸坊」と名付けた。また、この堂宇は真言宗であり、土気城主酒井氏の「七里法華」の令に従わなかったが、日泰上人が堂参し、妙法の法の九の字を切ると、不動尊の火炎が九字の相を背負う姿となったため、九字不動尊とも称された。さらに、頼朝が伊豆で敗れ、安房上総に逃れ再起を期した折、この堂宇に参詣し戦勝を祈願。その際、滝に箙(えびら;矢を入れ腰や肩にかける容器)に納めた故をもって、御箙の滝とも呼ばれた、といったことが記されていた。
「南玉の滝の由来」も記されており、そこには上記説明以外に、日泰上人の唱えた功徳により、病気快癒・開運多く、上総の信仰の中心であった。と。
また、先ほど通ってきた「南玉溜池」の説明もあり、土気城主の酒井氏の家老であった横佐内孫大夫が、酒井氏が滅びるに及び南富田に百姓として土着。土地の人を従えて土手を築き水を引き溜池をつくった。当時は池田四分に南玉六部の配分であったが、相対立の結果現在は五分五分となっている、といったことが記されていた。

で、旧鉄路はこの不動尊の北の山肌を通っていたようである。なんらかの痕跡とも思い、堂宇から少し崖道を登ったが、これも藪が激しく即引き返す。先日沢で出遭ったマムシがどうも頭に残っているようである。

外房線高架橋;午後14時6分_標高18m
南玉不動尊で休憩をとっているとき、土気トンネルを抜けた後に続く外房線の高架橋を見落としていることを思い出し、少々気が重いのだが引き返すことに。もと来た道を土気トンネル跨線橋近くまで戻り、東に向かって丘陵地を下る。丘陵部を下りきった辺りで北を見ると谷戸を渡る高架橋が目に入る。
土気トンネルを抜けた外房線は少し丘陵部分を進んだ後、谷戸を高架橋で跨ぎ、旧房総線の鉄路と合流する丘陵部分と繋ぐ。現在の技術力で丘陵間を力任せに押し渡っているわけである。




谷戸に立ち高架橋の逆側、南を見ると丘陵部が続く。旧鉄路は一度谷に下りたら大変と、この丘陵部を進み、外房線高架橋東端の丘陵部へと向かったのだろう。何か痕跡でもないものかと、丘陵部にちょっと入り込むが、ここも藪が厳しく撤退した。


水資源機構房総導水管理所;午後14時30分_標高15m
再びもと来た道を南へ辿る。低地を丘陵地を越えてきた大網街道へと向かう途中、道脇に(独)水資源機構房総導水管理所の施設があった。何をするところなのか、好奇心からチェックすると、この施設は、千葉市の臨海工業地帯の工業用水、東金・茂原など九十九里浜の低地帯の水道水の需要の増大を受け、利根川の水を取水し、南房総の大喜多までもの100キロを導水する房総導水路を管理するもの。構想は、既存の「両総用水」施設を共用して水を取り入れ、新しく作られる導水幹線水路で導水。その水を東金ダム、長柄ダムに貯留調整することで、毎秒8.4立方メートルを上記の地域の工業用水や水道用水として供給する事業となっている、と。

○房総導水路
千葉県香取市佐原の両総用水第一揚水機場で利根川から取水し栗山川源流に流し込み、栗山川の部分を両総用水と共用して、下流の横芝光町於幾にある横芝揚水機場でポンプアップし、房総丘陵に沿っておおむね地下水路を通して大多喜町まで送水している。横芝揚水機場の近くに坂田調整池があり、途中に東金ダムと長柄ダムがある。昭和46年横芝・長柄ダム間の導水路建設着工を皮切りに、工事が開始され平成9年南房総導水路(長柄ダム・大多喜間)の完成で一応の事業が完成した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

○両総用水
かつての九十九里浜には幾多の湖沼群、ラグーンが点在していたが、明治以降の工業化により湖沼群は消滅。大河のない南部地方は農業用水が慢性的に不足の状況となる。一方で利根川の東遷事業により利根川に統合された上部河川の水により、佐原一帯は水害の被害に見舞われるようになっていた。このような状況を打破すべく、昭和18年(1843)工事に着手。戦時下の中断を経て昭和40年(1965)竣工。
概要は、千葉県香取市佐原の第1揚水機場で利根川から取水し、香取市伊地山で栗山川に流し込み、栗山川下流の山武郡横芝光町寺方の第2揚水機場で再度取水し、東金市や茂原市などの九十九里平野南部まで農業用水を供給する。全取水量14.47m3/s、用水を供給している受益面積は約20,000ヘクタールになる。

御霊大神;午後14時38分_標高25m
先に進むと丘陵を越えてきた大網街道にあたる。大網街道の下をトンネルで抜け、道なりに少し進むと道の右側に緑の森と鳥居が見える。そこが御霊大神の社である。 祭神は景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたける)。境内の案内によると、東国遠征の折、当地で休息。その時に村人が間食(ちょっとした食事;小食)を献上したと伝わる。その故事故に、この地を小食土(やさしど)と称す、と。
昭和の森分水界散歩の一回目に目もしたのだが、間食(ちょっとした食事;小食)を食べたからこの地を小食土との故事は、漢字表記の点からは説得力はあるのだが、「音」の「やさしど」との関連はこの説明ではわからない。もう少し深堀してみると、「やさしい」という言葉は「やせる」から出来たとの説がある。そのことから、「立派な人を目の前に、気が引けて、身が痩せるような思いをする」というのが「やさしい」の元々の意味である、とか。日本武尊といった貴人を前に「気が引けた、身が痩せる」思いから、やさしい=身が痩せる、に「小食」という文字をあてたのだろう、か。単なる妄想。根拠はないが、自分だけは結構いい線いっているようにも思う。
また、この地を吾妻山と称するのもこの故事故のこと。日本武尊が妃の弟橘媛を偲んで詠んだ、「吾妻(あづま)はや」に由来することは言うまでもない。
案内にはそのほか、「寛政10年(1798)に建造。明治2年に現在の名に改められる。境内に二社。一社を天満神社。一社を子安神社。境内には神楽殿。かつては神楽の奉納あるも現在はとだえている」といったことが刻まれていた。説明の通り、神楽殿は崩れかけ、といった様ではあった。

素掘りの隧道;午後14時48分_標高28m
南玉不動尊から小中川の源流点である小中池に向かう。道なりに南に進むと如何にも手掘りといった隧道(素掘りの隧道)が現れた。その時は素掘りの隧道と言うだけで、その偶然の出合いを有難く思い、トンネルを抜けたのだが、メモをする段になって、どうもその隧道には貝の化石が露出していた、といった記事を目にした。縄文時代の所謂、縄文海進期には上総丘陵地まで海が迫っていたのだろう。
それと、これもメモする段なってわかったことであるが、この房総半島と越後妻有地域は多くの素掘りで知られるとのことである。どちらの地域も泥岩や凝灰岩などの柔らかい地層がそれを可能とした、と。茂原市押日地区には数百mの範囲内に7つもの素掘り隧道がある(押日素掘り隧道群)、という。房総全体でどのくらいの数の素掘り隧道があるのだろう。興味深い。
素掘りの隧道の目的は、当たり前のことではあるが、耕作地に向かうため農機具や牛馬、収穫物の運搬に急な丘陵を越えるのが難儀なため隧道を掘ったと言う。この素掘りは江戸末期からはじまり、昭和40年頃まで続いた、とか。また、この往来の便以外の素掘り隧道のもくてきとしては、山間部の蛇行する川筋に隧道を通すことによって川筋を変え、元の流路を新田として開拓するといった目的もあったようである。この素掘りの隧道の手前に河川が流れるが、それほど蛇行もしておらず、新田開発ではなく、丘陵の先へのショートカットが目的のように思える。

小中川;午後14時55分_標高21m
隧道を抜け谷戸に入り、少し進むと小中川に出合った。緑の雑草の中を一筋の細い水路が直線に続く。よく見ると、南北の舌状台地の先に水路の前進を阻む丘陵が見える。地形図を見ると、南の丘陵が直角に北に折れ、水路もその地形に沿って北に進路を変えている。この小中川は南白亀(なばき)川水系の支流。大網駅辺りまで北東にのぼり、そこから南東へと下り大網白里市と茂原市の境を流れ南白亀川と合流する。
佐倉市で偶然目にした鹿島川の源流点を辿ろうとはじまった今回の散歩。昭和の森が東京湾、内陸の昔の内海の名残の印旛沼、そして外房の分水界ということも知らず、最初の散歩は鹿島川散歩のつもりが村田川の谷戸に入ってしまい、2回目に鹿島川を辿り、今回は房総の丘陵地と九十九里浜に続く境目である昭和の森の丘陵と低地のギャップを感じながら、やっと小中川に到着した。途中、いくつかの水路にも出合った。これらの水路は小中川の支流としてい、水を合わせ、南白亀川へと注いでいるのだろう。

小中池;午後15時55分_29m
小中川の水路のすぐ東に高い堤が見える。小中池である。堤手前の公園で遊ぶ家族を目にしながら、堤に登り東を見ると、小中川を囲む丘陵、前面で直進を阻む丘陵などが一望できる。地形図を見るに、外房線・大網駅辺りまでは丘陵に挟まれた谷戸を自然の地形に逆らうことなく進んでいるように見える。
堤に小中池の案内;このダムは大網白里町(旧大網町、瑞穂村、山辺村、増穂村、福岡村)茂原市(旧本納町、豊岡村)千葉市(土気町)に関わる水田715haの用水補給を目的とした、農業専用ダム。昭和8年8月山武郡小中川排水改良事業として、当時県議会の承認を得て着工され、途中第二次世界大戦の勃発による悪条件の中で、昭和22年2月迄、14年の歳月と15万人の労力、湖底に沈んだ田畑山林は12haにもおよび完成、とあった。

○小中川源流点
小中池から次のルートを想う。選択肢は二つ。小中池北端から丘陵への遊歩道を辿り昭和の森の展望台に行くか、第一回の散歩のとき知った、下夕田(しもんだ)池から小中池へと続く水路を逆に辿るか。で、結局は展望台からの大網・東金方面の景観をとり、遊歩道を昭和の森に上ったのだが、メモをする段になって、小中川の源流点はこの小中池の西南端から水路があるようで、そこには7mほどの滝もあることがわかった。
更に、その上流、通常であれば村田川へと注ぐ水路が河川争奪の結果、源流域の奪い合いが行われ、結局は小中川として太平洋へと流れることになっているようである。昭和の森の分水界としては村田川を経て東京湾に流れるべき水路が小中川筋へと下り、太平洋へと注ぐことになるという、昭和の森の分水界の基本の例外ケースがあった。
こんなことなら小中川源流域の源流域ルートにすればよかった、とは思えども例によって後の祭りである。近い将来、素掘りの隧道散歩の折にでも、小中川源流域を辿ってみたいと思う。もっとも、この源流域、ゴルフ場にから染み出た毒性の高い農薬・除草剤谷戸に捨てられた産業廃棄物、建設廃土で結構汚れでいるようではある。

昭和の森公園展望台;午後15時15分_標高93m
遊歩道を上るとほどなく昭和の森公園に。遊歩道の上り口の少し南に展望台。眼下に小中池、丘陵に挟まれた低地を流れる小中川、その向こうに大網白里市街、九十九里平野が一望のもと。そのはるか彼方には太平洋の水平線も見える、とか。昭和の森公園から九十九里の眺望が散歩3回目にして実現した。もっとも、そのために、小中川源流域の滝や河川争奪の地形を楽しむことはできなかったのは、少々残念ではあった。

辰ヶ台遺跡;午後15時20分_標高91m
展望台の公園施設案内に、公園内には第一回の散歩で訪れた小食土遺蹟の他、辰ヶ台遺跡があるという。場所も展望台のすぐ近く。道なりに進むと遊歩道脇に遺蹟の案内があった。案内によると、遥かかなたに太平洋を望む標高98mの場所にあるこの遺跡は、縄文時代前期(今から約6千年前)および古墳時代から奈良時代にかけての集落跡です。
1986年公園整備の際に行った調査では、縄文をつけた深鉢(ふかばち)形の土器や、黒曜石(こくようせき)・チャートからできた鏃(やじり)のほか、木の実などをたたいたり、すりつぶしたりするのに使った丸い小石などの生活用具といっしょに、長方形の竪穴(たてあな)住居跡が数軒ほど発掘されました。
遺跡の南端で見つかった住居跡は、長辺が9.8m、短辺が4.9m、床面積は約40㎡もあり、当時の一般住居が15~20㎡なのと比べると、かなり大きな住居といえましょう。土間には炉が3か所あり、ムラの集会施設ではなかったかと考えられます」とあった。
縄文海進期には台地下まで海が迫っていたのだろうし、台地上の安全な場所に居を構え、縄文人は海の幸を手にいれていたのだろう。実際、九十九里浜は貝塚の他、栗山川流域を中心に80例にも及ぶ丸木舟が出土されている(日本全国の出土例の40%)ことからも、その状況が推測される。

鹿島川源流域の取水栓;午後15時25分_標高94m
辰ヶ台遺跡から2回目の散歩で辿った鹿島川の源流であったであろう、昭和の森公園のなだらかなスロープを取水栓を探しながら下る。公園として整地される前のこの森はどんな姿で、鹿島川の源流はどのように流れていたのだろう。今は芝生に取水口が残るのみ。 それでも、鹿島川の流路と思しきスロープを進み、公園とあすみが丘東の境目の湿った場所まで進み、先回の鹿島川流路散歩のときに見逃したホキ美術館に。

ホキ美術館;午後15時40分_標高89m
ホキ美術館は日本初の写実絵画専門美術館。写真と見まごうのどの絵画に、あまり情感豊かではない我が身もでも、どのくらいの時間をかけて書き上げたのと、それだけで有難く思う。自然を描いた絵画、人物を描いた絵画など、結構満足して時間を過ごした。

外房線・土気駅;午後16時31分_標高85m
ホキ美術館で少し時間を過ごした後は、先回の鹿島川散歩のルートに沿って土気踏切まで下り、土気駅に到着。本日の散歩を終える。ほぼ18キロ、5時間半の散歩であった。
六郷用水散歩も最終回。今回は北堀ルートを巡ろうと思う。仕上げは馬込にある大田区の郷土美術館。六郷用水の資料もあるだろう。実際に歩いた道筋を思い浮かべながら六郷用水のまとめでもしてみよう、と思う。で、北堀ルートへのアプローチはどこから、と地図を眺める。東急・池上線に御嶽山(おんたけさん)駅が。名前に惹かれ、御嶽山からスタートすることにした。(日曜日, 1月 22, 2006のブログを修正)




本日のルート;
東急池上線・御岳駅>御岳神社>中原街道・環八交差>桜坂>さくら坂信号>田園調布高校>蜜蔵院>大田区図書館>台地を歩き観蔵院の裏・女塚>白山神社前交差点>白山神社>分岐地点>東急池上線・千鳥町駅>第二京浜と交差>本門寺前>養源寺橋>浄国寺橋>環七交差・春日橋>南馬込・大田区郷土博物館

東急池上線・御嶽山駅
東急池上線・御嶽山駅に。山があるわけではない。駅近くに御嶽神社がある。木曽の御嶽山ならぬ、嶺の御嶽山(おんたけさん)と呼ばれる。峰(嶺)村の代官・ 伊那半十郎忠治が17世紀中頃、木曽の御嶽山の神さまを分祀したのがはじまり、とか。伊那半十郎忠治、って確か玉川上水の指揮官では?関東郡代として何代も続く名前だけに、当の本人かどうか判別は難しいが時代から言えば、同じ人のよう。で、御嶽神社、木曽の御嶽で修行を積んだ修験者・一山が1831年に現在の本殿をつくる。江戸時代には山岳信仰がさかんとなり、富士や木曽の御岳などへの集団登山が流行った。
境内には御嶽塚跡が。散歩の折々、例えば狭山湖畔などで見かけた富士塚の御嶽バージョン、か。実際に山にお参りできない人のために、人造で塚というか山をつくり、その塚に登れば本物の木曽御岳にのぼったと同じご利益がある、ということで神社は大変な賑わいだったよう。

桜坂
御嶽神社を離れ、次はどこへ、と少々考える。そういえば、この近くにあの桜坂、福山雅治の『桜坂』で一躍脚光を浴びた坂がある。その坂は旧中原街道にあり、沼部の大坂と呼ばれていた、はず。であれば、中原街道から沼部の駅方面に下る坂であろう、とあたりをつけ進むことに。
環 八を交差。中原街道方面に向って環八から一筋中の道を、なりゆきで進む。左方向をチェックしながら、昔ながら、っぽい道筋を探す。左手の道筋はどれも下り坂。どれも皆桜坂に思える。ゆるゆる進む。中原街道と環八の交差する田園調布警察前交差点から南西にまっすぐ進み、沼部の駅に下る道筋がある。現在の中原街道は丸子橋方面へと西方向へ進んでいるが、昔は橋があったわけでもなし、この道が旧中原街道であろう、と左折。
いかにも、といった桜並木が見えてきた。桜の季節ならまだしも、今は真冬、何があるわけでもない。切り通しの坂道は結構な勾配。さぞや工事は大変だったろう、と思ったのだが、この切り通しができたのは大正12年。道路拡張の際に、切り通しを掘り進めた、と。中原街道最大の難所・沼部の大坂の急勾配もゆるやかになった。
桜坂と名づけられたのは昭和5年。御大典を記念して地元民が桜の苗50本を植えたのが始まり。御大典とは天皇の即位儀礼の3点セット;「践祚(せんそ);前天皇のなくなった後直ちに即位すること」、「即位式;国の内外に宣言すること」、「大嘗祭(だいじょうさい);新米を神と共食すること」のうち、即位式と大嘗祭をセットにした国家的大イベント。

旧中原街道

坂の中ほどに赤い橋。切り通しの両端をつないでいる。昭和38年につくられた「桜橋」。橋から桜、というよりも沼部方面に下る坂の勾配をゆっくり眺める。旧中原街道の案内があった;「中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以来存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中原街道の旧道の様子を残しているのは、区内ではこの付近だけである(大田区教育委員会)」

新幹線と交差
で、桜坂を離れはてさて次はどちらへ、と少々悩む。真っ直ぐ下れば先回歩いた六郷用水・東光寺脇。同じ道筋を歩くのも芸がない。それ以上に今回はできるだけ台地上を歩き、地形のうねりを少々感じるべし、ということで桜橋を左に折れ、住宅街に入る。道なりに進み稲荷坂から新幹線を跨ぐ橋を渡る。散歩と全然関係ないことだが、新幹線はもっともっと南を通っていると思った。また、多摩川を渡ると不自然なほど南にカーブしている。何でだろう?時間ができたら、その理由でもチェックしてみよう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


白山神社

散歩に戻る。田園調布高校脇を通り、坂道を下りきらないように進む。西嶺町の台地をゆっくりと下り、先回訪ねた観蔵院の裏手・女堀跡に出る。女堀跡からは水路跡を離れ、再び台地に向って少々登り、少々アップダウンを感じながら道なりに進み環八に出る。道の向こうに白山神社。御嶽神社から始めたわけで、白山を素通りするのもなんだかな、ということでおまいり。至極あっさりした神社。白山神社とはいうものの、もともとは女体権現社と呼ばれていた、とか。女体権現、ってまた大胆な名前、とは思ったが、よくよく考えれば、日光には男体山もあるわけだし、逆もあり、とは思う。
日光といえば、日光山縁起にこんな話が。都の殿上人・ 有宇中将が下野に下り土地の長者の娘・朝日の君と恋におちる。しばらくの月日がたち、都に残した母が心配で単身都に向う。途中で病死。朝日の君も後を追い旅に出てなくなる。閻魔大王が二人を蘇生させ、子をもうける。男児・馬頭御前。有宇中将は日光の男体権現、朝日の君は女体権現となる、と。山岳信仰の拠点日光でもあり、男体山には男体権現、女峰山には女体権現が宿ったとか。女体が何ゆえ白山となったのか定かではない。が、白山にしたことろで、山岳信仰のメッカであるわけで、山岳信仰繋がりゆえの、ってことにしておこう。少々立ち止まりすぎた。先を急ぐ。

北堀・南堀の分岐点

白山神社前の環八脇に立ち光明寺方面を眺める。ゆったりと下る環八に沿って南北引分と呼ばれた北堀・南堀の分岐点(千鳥3-8-2)まで歩く。藤森稲荷交差点から東に進む。北堀は環七まで池上通りとほぼ並行に進むことになる。昔、池上道とか平間(川崎中原区平間)街道とか相州鎌倉道とか呼ばれた古の東海道の道筋だ。

東急池上線・千鳥町駅

千鳥町駅を越えてすぐ遊歩道。いかにも水路跡の道筋。東急池上線の千鳥町駅の少し北で線路と交差。少し進むと遊歩道が始まる。千鳥いこい公園脇を進み千鳥1丁目あたりで第二京浜と交差。第二京浜を過ぎ、池上署の脇より遊歩道が続く。池上3丁目あたりだった ろうか、遊歩道はなくなる。が、水路跡らしき道筋、ところどころ六郷物語のマンホール、っぽい案内もある。

川・養源寺橋
本門寺前を越えたあたりで遊歩道はなくなる。呑川の養源寺橋近くに。六郷用水物語の案内が;「六郷用水北堀は南北引き分けから東進してくると呑川に突き当たります。そこで呑川を横断させ、新井宿(現在の中央一帯)方面に流すため、「八寸」という堰が設けられました。この堰で分流された流れは、北上して旧池上道の山下橋(現存しない)をくぐり、養源寺橋の上流で呑川に一旦合流しました。。。」。案内図にしばしば登場する用水のランドマーク浄国寺橋脇を通り、池上通りに沿って東進。一筋北に走るのは古の平間街道、というか池上道だろうか。なんとなく昔の街道跡といった雰囲気が感じられる。

環七と交差
水 路跡の道は普通の道路となる。水路跡は判然としないが、ところどころに六郷物語のマークがあるのでなんとなく安心。春日橋交差点で環七と交差。道を渡り交差点脇から続く、いかにも水路跡の雰囲気の道を進む。が東海道線に当たる。地図で見る限り、線路を渡った地点から南に水路跡のような道筋がある。水路は京急・大森海岸近く、岩井神社(鈴森八幡)あたりで東京湾に流れ込んだとか。もちろん支流・分流はいくらでもあるわけで、あくまでも幹線ルート、ということではある。が、北堀散歩はここまでとする。日も暮れ始めた。一路大田区郷土博物館に。

大田区郷土博物館

環七・春日橋交差点から北に向う。環七の一筋西の道を上る。結構複雑な地形をしている。臼田坂を登る。このあたり、谷地の環七部分を台地で囲んでいる、といった地形。次の機会は地形図をもって、台地と谷を上り下りしてみようと思う。
で、郷土博物館。予想通り3階に六郷用水の資料・情報が。床一面に張り込まれた地図一面に水路跡が書き込まれている。詳しい水路情報を書き込んだコピー、六郷用水ポイントガイドなど資料も結構そろっていた。これって歩いた後だからよかった気がする。歩く前であれば少々情報量が多すぎてハンドルするのが大変だったかもしれない。やはり今後も今まで通りのスタイル、とりあえず進み、あれこれ気になったことは後から調べる、というスタイルで散歩を楽しむ、べし。

散歩を終わって感じたことだが、大田区って結構おもしい地形であった。多摩川沿いの下町低地といったイメージしかなかったのだが、凸凹、地形のうねりを十分に感じられるところであった。台地部と低地部のアップダウンが楽しかった。日が暮れて十分意歩けなかったが馬込のあたりも面白そうな地形だ。大田区の台地部は多摩川に沿った国分寺崖線、山王から池上への南北崖線、久が原台地、荏原台地などがある。これらの崖線部は台地と谷筋が複雑に入り組み地形のうねりが実感できる面白い地形。当然のこととして坂も多く、大田全体で名前のついた坂だけでも50以上ある、とか。そのうちに、何か別の切り口で大田区散歩を楽し みたい。

六郷用水散歩も3回目。先回の続き、南堀跡を巡ることに。六郷用水が多摩川に注いでいたあたりも確認。南堀散歩を締めくくる。(木曜日, 1月 19, 2006のブログを修正)



本日のコース;京浜東北線の蒲田駅下車>西蒲田公園>金剛院>大田区区民センター>志茂田中学>JR交差>新宿小学校・「六郷用水新宿ミニパーク」>蒲田署>多摩川土手>六郷ポンプ所>六郷水門>六郷橋>六郷神社>雑色駅>蒲田駅 

京浜東北線?・蒲田駅

京浜東北線の蒲田駅下車。西蒲田8丁目の西蒲田公園に再び。水路跡を確認。光明寺方面から環八にそって下ってきた水路は東急多摩川線と環八が交差するあたりで環八から離れ、新蒲田2丁目の金剛院脇から南東に下っている。最初のランドマークは金剛院。
線路に沿って進み環八と交差。少し下ったところに金剛院。金剛院脇に六郷用水物語の案内。南西に大田区の区民センターに下る道が水路跡。区民センターまで進む。なにか用水に関する情報がないものかとセンター内に。特に何も無し。
センターの南は、蒲田電車区。操車場だろう。用水跡の地図によれば電車区の敷地内で西・・東・南の3方向に分岐している。蛸の手、と呼ばれていた、とか。操車場を迂回し志茂田中、志茂田小の脇をとおり京浜東北線を渡る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


六郷用水新宿ミニパーク
東方向への水路のランドマークは、蒲田電車区の線路を隔ててすぐ南にある蒲田高等学校・新宿小学校。蒲田西公園の案内図によれば、そのあたりに「六郷用水新宿ミニパーク」がある。名前からすれば何らかの新たな情報があるか、とも思い歩を進める。
蒲田高等学校と新宿小学校の間に本当に言葉どおりの「ミニ」パークがあった。東方向・糀谷方面への水路跡情報があった。
環八を越え、糀谷村の南・萩中村の北を通り浜竹用水・南前堀で東京湾に下る、と。大雑把にいえば北前堀(緑地)方面に続く水路と、南前堀(緑地)方面に続く水路があったよう。これが東方向に進む水路。東方向への水路跡巡りはまたの機会、ということにして今回は南方向への水路跡を辿り、下流から逆に西方向への水路を登ることにした。ランドマークは、蒲田署、正覚寺、そして本羽田1丁目公園。

多摩川堤

蒲田署のある第一京浜に進む。道を隔てたデニーズ脇にいかにも水路跡らしき道筋。歩いていると六郷物語の案内が。道路にシンボルマークが描かれており、大体 の方向の指示もある。助かる。まったくの民家の軒先を進む。途中、どこで間違ったか正覚寺、そして本羽田1丁目公園は見逃した。が、あえて戻ることもないかと、先に進み多摩川堤に登ることにする。ガマなのかどうなのか名前は知らないけれども、川中の洲の植生が豊か。湿地の保護が進んでいるのだろう。いい雰囲気になっている。

六郷水門
土手を進む。六郷ポンプ所。ポンプ所、って大雨のときに下水管が雨水で飽和状態になり配水機能がなくなるのを防ぐためのもの。下水に充満する雨水を汲み上げ川に放水する。ポンプ所のすぐ隣に六郷水門。メモする段階で分かったのだけれど、これって六
郷用水の排水口。狛江からの水の流れの最終地点、ということになる。偶然ではあったけど、六郷用水が多摩川に流れ込む地点に至った。至極ラッキー。
水門が造られた理由は六郷用水の歴史的役割の変化による。用水は元々灌漑のためつくられた。が、昭和に入り六郷地区の宅地化による生活廃水の増加とか、田畑の減少による用水路の水量増大。灌漑用の水を必要としなくなるのだから水量が増えるのは当然か。で、大雨時に多摩川に排水しきれず浸水地域が拡大。また、多摩川の水位上昇による川の水の逆流もある。こういった被害を防ぐため配水口を拡げ、適宜多摩川と六郷用水を遮断するために水門が設けられた、ということ。また、先ほどのポンプ所は、水門からの自然排水だけでは処理できなくなったためつくられた、と。

六郷橋
河川敷に多摩川六郷橋緑地。六郷橋の袂に。「六郷渡れば川崎の万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」という、お江戸日本橋の歌詞フレーズが浮かぶ。よね饅頭を復活させた饅頭屋が鶴見にある、という。散歩の帰りに鶴見駅まで行ってみた。定休日。その後、自宅から自転車で20キロ、お饅頭を買いに出かけた。またまたお休み。日曜日が休み、などと考えてもみなかったのだけれども。またまたその後、自転車で鶴見まで。三度目の正直でよ
ね饅頭をゲットした。ちなみに、お江戸日本橋の歌詞を知っている人は、周囲にほとんどいなかった。少々愕然。
「お江戸日本橋」;
お江戸日本橋 七つ立ち
初のぼり
行列そろえて
アレワイサノサ
コチャ 高輪(たかなわ)
夜あけて 提灯(ちょうちん)けす
コチャエ コチャエ

六郷(ろくごう)わたれば 川崎の
万年屋(まんねんや)つるとかめとの
米饅頭(よねまんじゅう)
コチャ 神奈川
急いで 保土ヶ谷(ほどがや)へ
コチャエ コチャエ

六郷神社
第一京浜に沿って六郷神社に。六郷地区の総鎮守である八幡宮。源氏とのつながり強く、というか八幡って源氏の守り神なので当然なのだが、源頼義・義家親子がこの地の大杉に白旗を掲げ岩清水八幡に戦勝祈願。前九年の役に勝利。お礼に神社創建。頼朝も奥州遠
征の折、戦勝祈願。お礼に社殿寄進。また、徳川家康は神領として朱印状を発行する。六郷神社が八幡宮の巴紋とともに徳川の葵紋をともに使う所以。徳川家の遠祖は八幡太郎義家、って、言ってるわけだから当然か。
六郷神社を出る。水路跡を上流に向って逆に歩く。第一京浜に沿って進む。雑色駅手前で第一京浜をこえる。第一京浜と並んで進む雑色商店街の道路を進む。しばし進み北に折れ、蒲田電車区南の分岐点に到着。本日の散歩終了

先回の散歩の最終地点、東急田園都市線・多摩川の駅から散歩を始める。一路南に下り、途中分岐する用水を南堀跡に沿って進み、多摩川の矢口の渡しのあたりまで進む。(水曜日, 1月 18, 2006のブログを修正)


本日のルート;東急田園都市線・多摩川駅>中原街道交差>東光院>新幹線交差>蜜蔵院>観蔵院裏・女堀跡>護摩堂の洗い場>増明寺>鵜の木八幡>環八・藤森稲荷交差点>光明寺>玉川の堤>新田神社

東急田園都市線・多摩川
浅間神社前に。水路が切れており、この先どうしたものやら、とは思いながら、とりあえず東急多摩川線を渡り、線路沿いの道を進む。中原街道と交差。多摩川に丸子橋が。狛江の和泉から続いた次太夫堀というか丸子川という呼び名はここまでとしよう。この先は本格的に六郷用水巡り。とはいいながら、水路は見つかるのだろうか、と少々不安であった。中原街道下のトンネル。昭和初期につくられた大田区内最初のトンネル。トンネルをくぐるとすぐ水路跡があった。大安心。 六郷用水物語という案内図も。案内図にある水路跡の地図は消えかかり、少々見えづらい。が、なんとか大枠での道筋をメモする;
1. 六郷用水は東急多摩川線に沿って下り、観蔵院脇を抜け環八近くの光明寺近くに進む(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

2. ここで北堀と南堀に分岐
3. 北堀は平間街道・池上通りに沿って東にすすみ、池上本門寺から環七方面に至る。で、環七を越えたあたりから東京湾に流れ込んでいる
4. 南堀は環八に沿って下り、東急多摩川線と交差。そこから環八を離れ、金剛院の脇を志茂田中学あたりに向って進みJR京浜東北線と交差
5. JR京浜東北線を越えたあたりで3方向に分岐
6. 新宿小学校のあたりから西に進み環八を越え、糀谷から東京湾に至る水路
7. 新宿小学校のあたりから南に進み萩中の正覚寺から本羽田1丁目児童公園に至る水路
8. JR京浜東北線を越え、南西方向に進み、京急・雑色駅から六郷神社、そして東に進み本羽田1丁目公園の水路と繋がる。
といった水路が、大雑把ではあるが確認できた(水路の概要図をアップ)。もとより、用水路である以上、この幹線をもとに水路は静脈・動脈・毛細血管の如く網の目の如く拡がるのではあろう。が大体のランドマークがわかった。歩を進める。

新幹線と交差
水路に沿った遊歩道を進む。東光院。真言宗。聖観世音菩薩は北条政子の念持仏とか。これって、浅間神社の由来書にあった、政子の聖観世音菩薩と同じもの?六郷用水・遊歩道休憩所がある。東光院を越えると水路は切れる。なんとなく水路跡だろう、といった名残りを求めながら進むことにする。新幹線と交差。蜜蔵院。真言宗智山派。大田区最古の庚申塔がある、とか。道の左手は結構な台地。坂の途中にある大田区図書館には昔来たことがある。

女堀(おなぼり)跡
道なりに進む。観蔵院裏の台地に沿って急勾配の坂道が左手に登る。さて右に下るか、左に上るか。なんとなくのぼりの坂道がそれっぽい。ということで進む。坂 を登りきったあたりに六郷用水物語の案内。女堀(おなぼり)跡の説明。このあたり、岩盤も固く用水開削時の難所のひとつ。工事の景気つけに女性を交えて開削を進めた、というのが女堀の由来。今は埋め立てられ、一見すると普通の坂道。が、昔はこの坂道は切り通しの水路が通っていた。

護摩堂の洗い場跡
坂道を下るたあたりに護摩堂の洗い場跡。もともとは水田の灌漑用の水として機能した六郷用水だが、時代が下り大正時代になると出荷野菜の洗い場に。あたりの水田が宅地となってしまい、灌漑する必要がなくなった、ということか。左手に小高い丘、右側にはいかにも重厚な民家。鵜の木交差点近くで環八と交差。道向こうに、水路跡らしき道筋が。環八を渡る。水路跡の西・東にある増明寺と鵜の木八幡に寄り道。どちらも台地上。


より大きな地図で 六郷用水流路 を表示

北堀と南堀の分岐点
あてどなく台地を歩き水路跡に戻る。環八・藤森稲荷交差点に。このあたりが北堀と南堀の分岐点。下丸子への分水口跡の案内があった。これは分流。昔は石組み 
のトンネルがあり、環八の西側の下丸子1丁目方面に水を送っていた、と。道の向こうに光明寺。このお寺って、昔環八の南下を阻止していたあのお寺。結構長い間行政と争っていたような気がする。

矢口の渡し
さてと、北堀を東に進むか、南堀を南下するか少々考える。が、南下することにす る。日も傾いてきた。どこまで進めることやら。矢口の渡しの「今」の風景を見ようと、多摩川堤に進む。道なりに歩く。多摩川清掃工場脇から堤に登
り、多摩川の土手を第二京浜道路まで進む。味も素っ気もない風景を想像して
いたのだが、結構いい。のどか。豊かな自然が戻りつつあるよう。

新田神社
堤を離れ武蔵新田駅方面に。こ新田神社に向かう。立派な神 社。鎌倉幕府を倒した新田義貞の子・新田義興を祀る。南北朝時代、南朝・後醍醐天皇の武将として活躍。矢口の渡しにて足利基氏と畠山国清により謀殺される。その後、実行犯の江戸氏や畠山氏に祟り。また矢口の渡しに怪しい火が現れ住民を悩ます。で、たたりを恐れた住民が新田大
明神としてお祀りした。境内にはご神木の欅。謀殺に加担した畠山一族ゆかりの
者が近づくと雨を降らし、唸り声をあげるという狛犬。円墳も。
平賀源内がこの円墳に生える竹を使い「矢守」をつくる。これが正月名物「破魔矢」のおこり。「破魔矢」を日本で最初に売り始めたのはこの新田神社、とか。本日
の散歩は終了。

丸子川;先回の散歩で谷戸川を下り、丸子川に合流した。丸子川は次太夫堀とも六郷用水とも呼ばれる。徳川家康江戸入府早々、六郷領・35カ村というから、今の大田区の低地域の新田開発・米の増産を計画。が、当時の六郷領の水利は千束の池水溜と池上西谷水溜池に頼るだけ、という状況。ために、土木技術のエキスパート小泉次太夫を登用し用水を開削。これを六郷用水と言う。
いつだったか散歩の折、六郷用水の取水口に行ったことがある。 狛江市和泉。狛江から六郷というから東京湾まで続いている。これは行くしかないでしょう、というとこで、丸子川を下り、六郷用水を歩くことにした。とはいうものの、いまさら用水があるわけでもないし、用水「跡」を巡る・探す散歩となるのだろう。(火曜日, 1月 17, 2006のブログを修正)



本日のルート;東急田園都市線・二子玉川下車>法徳寺>上野毛自然公園>第三京浜交差>稲荷坂>覚厳寺>善養寺>六所神社>谷沢川と交差>等々力渓谷>等々力不動>八幡神社、照善寺>多摩川台公園>東急東横線交差>浅間神社>東急東横線・多摩川駅

東急田園都市線・二子玉川駅
東急田園都市線・二子玉川下車。線路に沿って少し西に戻り丸子川に。崖線下、心地よい川筋の道。坂道が魅力的。ちょっと登ってみよう、と進む。なりゆきで法徳寺に。浄土宗のお寺。由緒書に「境内にある筆塚の碑は、明治初期、寺子屋の師、大塚貞三郎のために近在の瀬田、用賀、岡本などの門弟一同がたてた記念碑である」、と。大塚貞三郎は幕末、このお寺に寺子屋・芝光塾をつくり、近辺の農村子女教育につとめる。門弟は300人を数えたという。

上野毛自然公園と稲荷坂
坂を下り、歩を進める。川筋の家々にmy bridge。雰囲気がいかにもいい。東急大井町線と交差。少し進むと野趣豊かな公園、そして急峻な坂道。上野毛自然公園と稲荷坂。いつも通る環八の風景のどのあたりだろう、と、公園に入る。国分寺崖線の斜面林を生かした自然公園。鉄製の階段を台地上に。百本近い桜。世田谷百景のひとつ、とか。
覚厳寺。真言宗智山派、京都東山の総本山智積院の末寺。おまいりを住ませ環八に出る。上野毛駅前だった。ということは、稲荷坂は上野毛通り。ちなみに、「野毛」って、崖地を意味するということをどこかで読んだことがある。ともあれ、急な坂道の途中に稲荷神社。お参り。ふたたび川筋に戻る。

第三京浜と交差
第三京浜と交差。川筋と台地の標高差20m程度だろうか。魅力的な崖。少し進むと善養寺。真言宗智山派・総本山智積院の末寺。境内にカヤの大木。都の天然記念物。寺の近くに住んでいた娘が多摩川で川遊び。沢蟹の親子が「今夜,川が氾濫し、流されてしまします。高台に逃がしてください」、と。逃がしてあげる。 その夜、多摩川が氾濫。翌日沢蟹の親子がお礼にカヤの実をもってきた。娘はその実を善養寺の境内に植える。それがこのカヤの大木になった、とか。
善養寺の北隣に六所神社。このあたりの総鎮守。境内に水神様。多摩川の安全と豊漁の神様。
川筋に戻り進む。玉堤通りと交差。しばらく進むと谷沢川と交差。等々力渓谷からの水が多摩川に流れ込む川筋だ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

谷沢川・等々力渓谷

先日等々力渓谷を散歩した。が、改めて渓谷を逆方向から歩いてみよう、ということで丸子川を離れ谷沢川・等々力渓谷に寄り道。不動の滝に。滝もさることながら、滝の両脇の崖面からの湧き出る水も魅力的。これほど勢いよく崖の岩の切れ目から湧き出る水はまことに「いい」。「とどろき」の名前の由来は、滝の音の「とどろき」から。
脇の坂を登り等々力不動尊にお参り。正面の石段の向こうに雑木林。石段を下りる。雑木林の中を進み弁天堂明王台に。弁天様をおまつりしている。その先に等々力児童遊園。右手は崖。等々力渓谷崖上を歩く。見晴らしはそれほど良くないが、渓谷を上から眺めることができた。歩きながら、改めて等々力渓谷の成り立ちについて整理しようと思った。
等々力渓谷;現在、谷沢川は用賀付近を源流点として等々力渓谷を経て多摩川に流れ込む。しかし、一説によれば、往古、谷沢川は九品仏川の上流域であり、尾山台、自由が丘、緑ヶ丘を経て呑川に合流していた、と。根拠のひとつは、谷沢川が形成してきた谷底低地。等々力渓谷で流路を急激に南に切り込んでも、谷沢川が形成したと思われる谷底低地は東に広がり、九品仏川が形成した谷底低地にスムーズにつながっている。では何故谷沢川の川筋が変わったか、ということだが、それは河川争奪によるとの説がある。河川争奪とは、ある川が別の川の流れを取り込んでしまう、ということ。このケースで言えば、元々は等々力渓谷の湧水点を源流としていた谷沢川が、谷頭侵
蝕により次第に源流点を北に延ばす。用賀付近を源流点として流れる九品仏川の流路に到達。九品仏川の水が谷沢川に切り替わる。以降、切り離された先が九品仏川と呼ばれる。流れだけでなく、名前も取り上げたってことか。

多摩川台公園
丸子川に戻り歩を進める。多摩川と逆方向に湾曲する川筋に沿って、武蔵工業大学の前を進み、尾山台1丁目を過ぎ田園調布1丁目に入る。川沿いに八幡神社、照善寺。ちょっとおまいりし、先に進む。
丸子川が多摩川に接近。左手に台地が迫る。多摩堤通と合流地点で川筋を離れ台地に登る。多摩川台公園。多摩川台古墳群と呼ばれる多数の古墳が尾根道に続いている。1号から8号までは円墳。古墳展示室の南にある亀甲山古墳は前方後円墳。全長100m。5世紀後半につくられたよう。規模から見て、国造(クニノミヤツコ)クラスの墳墓と言われている。
多摩川と台地に挟まれた多摩堤通りの脇を水路は進む。第三京浜入口近くの野毛大塚古墳。等々力渓谷の御岳山古墳。そしてこの多摩川台古墳群。直ぐ近くに蓬莱山古墳もある、という。

多摩堤通り
台地からの多摩川の眺めは素晴らしい。台地から眺めると多摩川が直ぐ下に見える。丸子川が多摩川に流れ込んだのであろうか。少々不安になる。事前に地図を見たときは、確かにこのあたりで流路が消えていた。合流点を探さねば、と台地を下る。丸子川はあった。多摩川と台地に挟まれた多摩堤通りの脇を水路が続く。 水路跡と多摩川の水位差は5mくらいだろう。狛江あたりから水を取り込まなければ六郷の村々に水を通すことができない、ということは十分納得。六郷用水プロジェクトの最初の2年間は測量期間。夜に提灯の明かりで高さを測りながら測量を進めた、とか。

浅間神社
東急東横線と交差するあたりで暗渠となる。線路の高架下を過ぎると左手に神社。浅間神社。今から800年前の創建、と伝えられる。房総より馬を進め、北区王子の滝野川・松崎に上 陸した源頼朝を追ってこの地にやってきた妻政子。足の痛みのためこの地に逗留し傷の治療。徒然に、台地の亀甲山古墳に出向き富士を臨み、富士吉田の浅間神社に向かい頼朝の武運長久を祈る。富士吉田の浅間神社は政子の守り本尊。その際身につけていた「正観世音増」をこの地に建てる。地元の人々はこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び尊崇。これが多摩川浅間神社の由来、とか。
境内の見晴台からの多摩川の眺めはまことに素晴らしい。神社の台地を下り正面入口に戻る。川筋はここまで。はてさて、流れはどちらに?とはいうものの、日が暮れてきた。これ以降は次回の散歩といたしましょう、ということで東急多摩川線に沿って歩き、東急東横線の多摩川駅に歩き、本日の散歩は終了。
昨年9月4日の仙川散歩で偶然谷戸川に出合った。仙川が野川に合流する手前、野川と逆方向に伸びる細長い水路。これは一体何だろう。と、何気なく水路を辿った。六郷用水というか丸子川。岡本民家園とか岡本静嘉堂緑地といった落ち着いた景観に惹かれる歩を進める。岡本静嘉堂緑地の端で丸子川に合流する川がある。それが谷戸川だった。川筋を源流に向って北上した。砧公園手前で東名高速に潜り込む。丁度日没。ということで、今回改めて源流・水源から下ることにした。(月曜日, 1月 16, 2006のブログを修正)



本日のルート;小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅>笠森公園>荒玉水道道路>中央卸売市場・世田谷市場>砧公園>仙川>岡本の台地>静嘉堂文庫美術館>小阪家の別邸>谷戸川


小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅
地図をチェック。小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅近くに僅かな水路が見て取れる。とりあえず祖師ヶ谷大蔵に行き、後は成り行きという、いつものスタイルで散歩を始める。駅前の道案内をチェック。山野小学校脇から水路が続いている。駅前の城山通りを環八方面に歩く。学校脇に水路を見つける。一安心。

笠森公園
ふと通りの北を見ると公園がある。いかにも水路跡といった雰囲気。暗渠のようだが、とりあえず先を辿る。北東に進みすぐに西方向にターン。荒玉水道道路と交差。右手に笠森公園。かさもり=瘡守;ほうそう(皮膚病)の守り神、から。公園に谷戸川の説明があった。このあたりの湧水点から谷戸川が下っていった、と。案内板には北東に一直線に延びる荒玉水道道路と、それに沿って点線が描かれている。メモをまとめる段階で、その点線が源流点への案内であることがわかった。笠森公園から荒玉水道道路に沿って進み環八と交差。桜ヶ丘5丁目、船橋2丁目と進み再び環八を越え千歳台3丁目・成城警察のあたり、そこが源流点、のようである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


荒玉水道道路
荒玉水道道路。前々から気になっていた。自宅のある杉並和泉の近く、井の頭線の永福町と西永福の間から一直線で多摩川まで延びている。一体何だ?ということで調べてみた。荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。
杉並・和泉の我が家はこの上水のお世話になっている、よう。思い込みというか、思い違いがあった。てっきり北の和泉方面から砧方面に送水されている、と思っていた。理由は単に北のほうが標高が高い、ということから。砧というか多摩川に水を送って何をしようとするのか、やはり下水管なのかな、などと勝手に思い込んでいた。上水道は水圧で送水。高低は関係ない。ちなみに下水道は勾配を利用して流す、とか。

中央卸売市場・世田谷市場

山野小学校脇に戻り水路脇を歩きはじめる。水路脇、とはいいながら道は川の脇にあったり、なかったり。砧4丁目あたりで荒玉水道と交差。一瞬水路途切れる。が、すぐ開渠に。大蔵1丁目で直角ターン。暗渠に。進行方向左手・小高い丘に奇妙に派手な建物。中央卸売市場・世田谷市場だった。なんという名前か忘れたが近くの神社などに足を延ばし再び川筋に。川筋は砧公園に流れ込む。


砧公園
公園内では一時地下を走る。しばらくして川筋が現れる。水量が増えている。湧水を取り込んでいる。自然の湧水とは思えない。多分人工の湧水だろう。吊橋もある。渓谷風のつくりだ。砧公園って、世田谷美術館あたりまでしか知らなかった。こんなにのんびりした緑地が広がっているとは想像もできなかった。いい公園だ。




東名高速下に潜る
川筋に沿って進み、東名高速下にもぐり込む。迂回が必要。東名高速に沿って進み、公園を出る。目の前に区立総合運動場。 案内板を見る。陸上競技場とかテニス場の先に林というか森、そして親水公園。運動場の外周に沿って歩き総合運動場の西端に。崖道。結構な高低差。台地の下に川。仙川だ。ということは、この崖は国分寺崖線、そして崖下の親水公園って、先般の仙川散歩の時に出会った親水公園。仙川散歩のとき、親水公園上の崖の向こうに何があるのか、どうなっているのか、砧公園をそのうち歩いてみたい、と思っていた、将にその場を偶然歩いていた。行き当たりばったりの散歩の妙味か。

岡本の台地
崖道を上ったり下りたり、自然豊かな崖道を堪能し総合運動公園入口に戻る。公園橋を渡り東名高速を越え岡本に。台地の尾根道。谷に下り川筋を、とは思ったが、台地からの眺め、特に仙川方面に下る急峻な坂道からの眺め、その魅力から離れがたく、台地上の尾根道を歩く。
尾根道とはいっても廻りは高級住宅地。西に広がる眺めは素晴らしい。夕暮れ時にまた訪れたいものである。

静嘉堂文庫美術館
夕焼け、独り占めの世界を岡本3丁目を進む。前方に緑。岡本民家園とか岡本静嘉堂のある緑地、というか森。静嘉堂文庫美術館裏手に当たる。静嘉堂文庫美術館は三菱財閥・岩崎家蒐集の古美術・古典籍の美術館。野趣豊かな坂道。途中に名前は忘れたが神社も。ここでも崖道のアップダウンを堪能し谷戸川が流れる大蔵通りに下りる。静嘉堂文庫美術館は残念ながら休館日。後日に楽しみを残す。

小阪家の別邸

大蔵通りが丸子川と交差する手前瀬田4丁目、左手に急峻な坂道とフェンスに囲まれた林。地形のうねりを肌で感じることが最大の興味・関心であるわが身としては、とりあえず登るしかないでしょう、ということで坂を登る。瀬田四丁目緑地との案内。民家風の建物。庭というか林を一回りして建物内に。小坂邸跡との案内。外務大臣など多くの政治家を輩出し たあの小阪家の別邸とか。邸内の展示物を見ていると、この近辺には政治家、財界人、そして政商っぽい人たちの別邸が数多くあった、よう。

谷戸川
邸内に上がり込み、少々休憩し大蔵通りに下り、谷戸川が丸子川に合流する地点を確認し谷戸川散歩は終了。後は一路、丸子川に沿った道、川沿いの家はすべて丸子川・六郷用水に架けたmy bridgeをもつ、そんな素敵なる家並みを下り246号線で右折。東急田園都市線・二子玉川駅に到着し本日の予定は終了。

谷戸川の「谷戸」の語義の整理;丘陵地が浸食されてできた谷間の低湿地・小川の源流域を示す環境のこと。こういった環境のことを谷戸とか谷津と呼ぶ。辞書で「やと」を引く。「やと」=「谷」>「やつ(谷)」を見ろ、と。「やつ」を見ると、「低湿地のこと。関東地方の地名に多い。やち、やと、とも言う」と。まとめると、「やと」、も、「やつ」も「谷」の一字で表し、「谷戸」「谷津」という漢字では表現しない。また、関東ローカルな地名であるよう。で、茨城、千葉は「谷津」が使われ、神奈川は「谷戸」を使う。東京は混在、ということだ。鎌倉では、亀ケ谷(やつ)と「谷」だけでの表示もあった、けど。実のところ、関係浅からぬ係累の名前に「谷津」がついている。なるほど、出身は茨城県でありました。納
得。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク