2013年9月アーカイブ

後北条氏の防御ライン:鶴川の沢山城址から中山の榎下城址に

先日来、数回に渡って多摩丘陵の南端、というか東南端を歩いた。きっかけは川崎市麻生区にある新百合丘という小田急線の駅。なんとなく、この名前に惹かれ、「戯れに」はじめた多摩丘陵南部の散歩であった。が、これが思いのほか魅力的な散歩となった。丘陵や開析谷といった地形の面白さ、古墳から中世城址といった歴史的史跡、里山そして尾根道といった心地よい散歩道などにフックがかかり、結局、幾度か足を運ぶことになった。
この散歩でカバーしたところは、川崎市の宮前区・多摩区・中原区、そして横浜市の青葉区・都築区といった地域である。勢いに任せて多摩丘陵の南端を越え、下末吉台地・鶴見にまで足を運ぶことになった。で、気がつけば、あと「ひと山」、というか「ひと丘」を越えれば多摩丘陵の西端、である。ついでのこと、というわけでもないのだが、どうせのことなら、多摩丘陵の西部一帯を歩き、多摩丘陵を西に越えようと思う。丘の向こうは相模原台地。境川という、文字通り武蔵の国境を流れる川を越えれば相模の国、である。
多摩丘陵西部の地形図をつくりチェックする。奈良川とか恩田川によって開かれた谷地が見て取れる。そこには、かならずや美しい里山・谷戸が残っているのであろう。はてさて、どこからはじめるか。取り付く島として、『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を眺める。と、小田急線・鶴川駅近くに沢山城跡がある。駅近くには鶴見川が流れる。南に下って、横浜線・中山駅近くに榎下城がある。その間は奈良川、そして恩田川で繋がる。更に恩田川下れば鶴見川に合流。少し下った新横浜駅近くには有名な小机城跡もある。いすれも小田原北条氏の出城である。ということでコース決定。鶴見川水系に並ぶ北条氏の城跡を訪ねることにした。


本日のルート;小田急線・鶴川駅>鶴見川交差>(岡上地区)>(三輪町)>高蔵寺>**古墳群>沢谷戸自然公園>熊野神社>沢山城址>三輪中央公園前交差点>鶴川緑山交差点>三輪さくら通り交差点>子どもの国西口交差点>(奈良町)>住吉神社前交差点>な奈良川交差>徳恩寺>子ノ辺神社>鍛冶谷公園(遊水地)>(あかね台)>東急車輛工場>恩田駅>中恩田橋交差点>田奈小交差点>恩田川・浅山橋交差点>(長津田2丁目)>長津田駅>国道246号線・下長津田交差点>いぶき野中央交差点>東名高速交差>環状4号・十日市場交差点>三保団地入口>榎下城址・奮城寺>JR横浜線交差>円光寺>恩田川>杉山神社>横浜商科大学キャンパス入口>東名高速交差>梅が丘交差点>藤が丘小下交差点>田園都市線・藤が丘駅

小田急線鶴川駅

鶴川駅で下車。駅前は予想に反して、のんびりとした雰囲気。とはいうものの、一日の乗降客は7万人程度いるようで、小田急線の駅の中でも、十位台。結構大きな駅である。で、いつものことながら、鶴川の由来が気になった。チェックする。明治の頃に付近の8つの村(大蔵、広袴、真光寺、能ケ谷、三輪、金井、野津田、小野路)が集まり旧鶴川村ができた、とある。が、もとの村には鶴川という村は、ない。はてさて、地図を見る。鶴川駅近くを鶴見川が流れている。ということで、鶴川は鶴見川の短縮形、とか。ちなみに
、鶴(つる)って、「水流(つる)」=水路、から。鶴見は、つる+み(廻)=水路のあるところ、ということ。ついでのことながら、鶴川駅のある町田市能ケ谷であるが、これは紀州の「尚ケ谷」から神蔵・夏目・鈴木・森氏がこの地に移りすんだ、から。「尚ケ谷」が、後に「直ケ谷」、そして「能ケ谷」となった、ということ、らしい。

鶴見川
駅の南口に出る。駅前は未だ再開発されておらず、素朴なる趣き。鶴川は鶴見川により開かれた谷地である。四方は丘陵によって囲まれている。駅を南に少し下ると鶴見川。町田市北部、多摩市に境を接する緑豊かな小山田地区に源をもち、真光寺川、麻生川、真福寺川、黒須田川、大場川、恩田川、鳥山川、早渕川、矢上川の水を集め、鶴見で東京湾に注ぐ。それぞれの川 については、じっくり歩いたり、ちょっとかすったりと、その濃淡はあれど、川沿いの風景が少々記憶に残る。水源の湧水の池もなかなかよかった。ともあれ、睦橋を渡り、南に進む。南前方に丘陵が見える。目指す沢山城跡は、その丘の上。

岡上神社
丘に上り、岡上地区に。地形通りの地名。岡の上を鶴川街道が走る。岡上駐在所前交差点を少し南に歩き、岡上神社に立ち寄る。剣神社、諏訪神社、日枝山王神社、宝殿稲荷社、開戸(開土)稲荷社の五社を集め、岡上神社とした。明治42年のことである。 まことに岡の上にある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


 
高蔵寺
岡上駐在所前交差点に戻り 東に進む。沢山城跡、といっても地図に載っているわけでもない。目印は高蔵寺。鶴川街道より一筋東の台地に進む。わりと大きい道路道に出る。道が丘を下る手前あたりに高蔵寺があった。

三輪の里
沢山城跡を求め、お寺の脇を高みに向かって東に進む。案内もなにもない。沢山城は荻野さんという個人の所有物、という。個人の好意で保存して頂いているわけで、案内などないのは、当たり前といえば当たり前。道を進むと荻野さんの表札。道の南にみえ
る緑の高地が城跡なのだろう。ちなみに、このあたりの地名・三輪の由来であるが、元応年間(14世紀初頭)大和国城上郡三輪の里より、斎藤・矢部・荻野氏がこの地に移り住んだことによる。沢山城跡を護ってくれている荻野さんは、その子孫なのだろう。
白坂横穴古墳群
道を進む。が、北に入る道は見当たらない。成行きで進む。道は下りとなる。崖面 に古墳跡。多摩丘陵でよく見た横穴古墳。白坂横穴古墳群、と。案内;「この土地は、むかし沢山城(後北条時代における重要な出城の一つ)のあったところで、白坂は「城坂」の意であるともいわれます。この白坂には古くから横穴古墳が十基ちかく開口しており、未開口のものを含めると十数基になります。昭和三十四年にそのうちの二基を発掘しましたが、内部には五センチから十センチぐらいの川原石が敷きつめられており、数体の遺骨、須恵器などが発見され、これらの横穴は七世紀ごろにつくられたものと推定されました。この地域は多摩丘陵のなかでも横穴群の集中しているところですが、白坂横穴群は最も充実しているものの一つであると考えられます」、と。

沢谷戸自然公園

道を進む。どんどん下ってゆく。谷は深い。峠道を下る、といった趣き。とりあえず先に進む。どこが城跡への道筋がさっぱりわからない。結局谷地まで下りてしまった。谷地は「沢谷戸自然公園」として整備されている。昔は鶴見川河畔に繋がる谷戸ではあったのだろうが、現在は古の面影は何も無い。調整池として使われているような運動場、というか多目的広場が目に入る。小さい池にかかる木造の散策路を進む。北の台地上が城跡なのだろうが、上りの道はなし。西端まで進む。昔は谷戸の最奥部だったのだろう。現在では台地に上る階段が整備されている。とりあえず台地に上る。

沢山城址
台地上は結構大きな車道。先ほど歩いた高蔵寺前を通る道筋である。道を北に戻ると熊野神社。少し先に東に入る細路がある。とりあえず入って見る。先に進むと畑地に当たる。畦道といった風情の踏み分け道を進むと杉林の中に。更に進むと神社の祠
。七面社。このあたりが城跡、櫓があったところと言われる。『新編武蔵風土記稿』;三輪村、「七面堂」の項:「今その地を見るにそこばくの平地あり、東より南へ廻りては険阻にして、
西北の方は塀平地続きたり、そこには掘りあととおぼしき所見ゆ、且此辺城山などと云う名あれば、かたがた古塁のあとなるべし」、と。七面社のあたりをぶらぶら歩く。空堀に囲まれた郭っぽい雰囲気が残る。
この沢山城は戦国盛期(16世紀中頃)、後北条氏により築城ないしは改修されたもののようだが、詳しいことは分かっていない。北条氏照印判状には、「馬を悉く三輪城(沢山城)に集めて、筑前(大石筑前守)の部下の指示に従い、御城米を小田原古城に輸送するよう」とある。氏照は八王子城の城主なのだから、この城が八王子城の支配下にあり、小机城・榎下城などとフォーメーションを組んだ後北条氏の防御ラインであったのではあろう。実際、東南小机城からの道は沢山城北端の白坂(城坂)に続いていた、とのことである。
城跡への道筋がわからず、結局台地を一巡したわけだが、なるほど結構攻め難い立地のように思える。台地の北側下は鶴見川が西から東へと流れており、往古は低湿地であったの、だろう。鶴見川は外堀の役割を果たしていたものでもあろう。城の両側には細長い支谷が食い込んでいる。特に東側の谷は城の南、現在の沢谷戸自然公園のところまで入り込んでおり、台地上との比高差40mもある。台地全体が城域であったのだろう
し、要害の地にある、城であったのだろう。ちなみに城址への道は、道路側からのアプローチだけでなく、高蔵寺側の道からのものもあった。荻野さん宅の西側から進むが、案内はないので、見過ごした。

椙山神社
お を離れ台地東端に。鶴見川の低地を見ながら坂をくだる。途中に結構大きな社。椙山神社。神社のある山、というか岡が、奈良の三輪山に似ているため勧請された、との説もある。創建877年のことである。椙山神社って、19世紀のはじめ頃、武相に70余社ほどあった、とか。鶴見川、帷子川、大岡川水系で、多摩川の西の地域だけ、とはいうものの、現在の旭区にはなにもない、といった誠にローカルな神様。杉山神社が歴史に
登場するのは平安の頃、9世紀中頃。『続日本後記』に「武蔵国都筑郡の枌(杉)山神社が霊
験あるをもって官弊に預かった」、とか、「これまで位の無かった武蔵国の枌(杉)山名神が従五位下を授かった」とある。また10世紀の始めの『延喜式』に、都筑郡唯一の式内社とある、当時最も有力な神社であったのだろう。が、本社はどこ?御祭神は誰、といったことはなにもわかっていない。ちなみにほとんどが杉山で、椙山と表記するのはこの社、だけ。

西谷戸
椙山神社を離れ、台地下の低地を歩く。谷戸の風景が美しい。谷地を隔てて南に立つ丘陵地をまっすぐ進めば「寺家ふるさと村」に出る。のどかな里山の風情が思い出される。そのまま真っすぐ進みたい、といった気持ちを押さえ、鶴川街道方面に。途中に広慶寺。車道から続く参道の両側に羅漢さまが並ぶ。その先、台地に上る坂の手前に西谷戸横穴墓群。古墳時代後期の古墳。坂を上り切ると一転し、新興住宅街。瀟洒な住宅地が開発されている。

こどもの国

鶴見川グリーンセンターに沿って進むと、道は「こどもの国」の北端に当たる。突き当りを西に折れ、三輪さくら通り公園をぐるっと迂回し南に折れる。「こどもの国」の敷地に沿って進む。あまり人も通ることが少ないのか、少々ごみっぽい。「こどもの国」の外周道路としては、少々興ざめである。道を下ると鶴川街道・こどもの国西側交差点に合流する。
こどもの国、って昔は子供を連れて幾度か来た。少々懐かしい。東京都町田市と横浜市青葉区が境を接するこの丘陵地は戦前・戦中には弾薬庫があった。田奈弾薬庫。正式には「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊」という。薬莢に火薬を装填した弾丸を製造・保管していた、と。散歩の都度、陸軍の施設跡に出会うことが多い。大体は公共機関・施設となっている。逆に言えば、病院・大学などが密集しているところは大体陸軍施設・ 
用地跡と考えてもいいかもしれない。典型的な場所は、世田谷の三軒茶屋の南一帯、北区の赤羽台、松戸の駅前台地上、といったところが思い浮かぶ。ともあれ、軍事施設が現在では公共施設・こどもの国となった、ということだ。

奈良町
鶴川街道を南に下る。このあたりの住所は横浜市青葉区奈良町。由来はよくわからないが、鶴川の三輪町が、大和の国・三輪の里から移り住んだ人たちが、この地の景観が三輪山に似ている、ということに由来する。とすれば、この奈良町も、大和の奈良に由来するのか。はたまたは、『吾妻鏡』にこのあたりの御家人として登場する奈良氏に由来するのか、はてさて、どちらでありましょう。道に沿って流れる川は奈良川。TBS緑山スタジオ裏手、玉川学園裏手あたりを源とする鶴見川の支流。水源のひとつでもある、本山池(奈良池)といった源流域には「土橋谷戸」「西谷戸」といった緑地が残る、という。いつだたか奈良川の源流域を歩いたことがある。それなりの風景ではありました。

住吉神社

道を進む。「こどもの国線・こどもの国駅」を越えると住吉神社前交差点。住吉神社は交差点東、多摩丘陵南端の上にある。標高はおよそ60m。豊かな緑に惹かれて台地をのぼる。神社は、徳川三代将軍家光の時代に、領主・石丸石見守が大阪の住吉神社から勧請したもの。石丸石見守は大阪の東町奉行を歴任。名奉行であった、げな。
住吉神社は全国に2000余りある、という。住吉三神は「底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神。で、「筒」とは星のこと。航海の守り神。ちなみに、読みは、古くは「墨江・住吉」と書いて「すみのえ」と読んだ、と(『神社の由来がわかる小事典;三橋健(PHP新書)』)

中恩田橋交差点

交差点を越え南に進む。恩田地区に「子の辺神社」。名前に惹かれてちょっと寄ることに。奈良川を徳恩寺あたりで西に折れ、台地の際を少し進むと、台地の中ほどに小さい祠。由来などは書いていない。神社でUターン。台地南に鍛冶谷公園。調整池といった雰囲気。このあたりは昔、谷戸であったのだろう。東に進み、こどもの国線・恩田駅に。駅の南には東急の車両工場。付近に橋はない。もと来たところに戻り、奈良川を渡る。南に下ると成瀬街道・中恩田橋交差点。成瀬街道って町田市の本町田から川崎市川崎区南町まで走る県道・140号線。この地の西の台地が成瀬台。その地名に由来するのだろう。ちなみに、成瀬の名前は、町田あたりを治めた横山党の武将・鳴瀬某に由来するとか、恩田川の流れの音=鳴る瀬>成瀬となったとか、例によってあれこれ。

恩田川

この交差点で鶴川街道を離れ、奈良川に沿って南に下る。樋の口橋を過ぎ、日影橋のところで恩田川に合流する。恩田川の源流を地図でチェック。町田市本町田の今井谷戸交差点付近のようだ。いつだったか、鎌倉古道を辿り、町田の七国山とか薬師池公園などを歩いたとき、今井谷戸交差点付近に足を運んだことがある。そのときは東に進み、台地に上り、鶴川街道から玉川学園へと進んだわけだが、南に鎌倉街道を進むと恩田川の源流点あたりに出会えた、ということだろう。恩田とは日陰の田圃という意味であるようだ。

長津田駅
鶴見川と恩田川の合流点から南の台地に上る。恩田川段丘崖。どうも長津田駅って、台地上にあるようだ。長津田3丁目、4丁目と進み長津田駅に。田園都市線・JR横浜線、こどもの国線が集まる。昔より、矢倉沢往還=大山街道、と横浜道が交差する交通の要衝。大山街道の宿場町でもあり、道脇に大山街道の常夜灯が残る。長津田はまた、横浜開港後は、八王子で集められた上州・信州・甲州の絹を輸送する中継地として発展。JR横浜線も、もともとは生糸を横浜に運ぶため明治41年につくられた、とか。ちなみに、長津田の地名の由来は、長い谷津田が続く地形から来た、とされる。谷津田とは谷津にある田=湿原。長津田を通る大山街道に沿って延々と湿原=田が続いていたのであろう。


十日市場

長津田駅を北口から南口に抜ける。JR横浜線に沿って成行きで進む。下長津田交差点で国道246号線・厚木街道を渡る。横浜線に沿って大きな道ができている。いぶき野中央交差点を越え、東名高速下をくぐり、十日市場交差点で環状4号線と交差。十日市場って名前は古そうだが、道の周辺は宅地開発され、宝袋交差点あたりで、横浜線と最接近。台地下の眺めが美しい。恩田川が開いた谷と、そこにひろがる水田、そしてその向こうに見える台地の高まり。なかなかの眺めである。

榎下城跡

新治小入口交差点を越え、恩田川の支流を跨ぎ、三保団地入口交差点に。交差点を西に折れ、道の南にある台地に向かう。榎下城跡は、この台地の上・舊城寺の敷地内。田圃だったか、畑だったか、いづれにしても農地の中の道を進み台地を上ると境内に着く。山門のあたりが虎口。本堂裏手の少し小高くなっているあたりに主郭があった、とか。
この城は室町初期、上杉憲清によってつくられた。その子憲直は鎌倉公方・足利持氏に仕える。で、永享の乱の勃発。室町幕府と鎌倉公方の軋轢。鎌倉公方・持氏と管領・上杉憲実の対立、である。持氏敗れる。榎下城主・上杉憲直は持氏と運命を共にする。その後この城は山内上杉家の所領となった、とか。その後、廃城となるも、戦国時代となり、小田原北条氏が小机城、沢山城とともに江戸城の太田道潅への押さえとして修築。現在の遺
構はその当時のものである。城は、それほど高い台地でもない。南から北へとゆるやかに下る台地の端である。要害性には欠けるが、荏田城をへて府中に至る鎌倉道中の渡河地点を押える役割を果たしたのではないか、といわれている。

田園都市線・藤が丘駅
城跡を離れる。予定ではここから恩田川を5キロ弱下り、小机城へ、と考えていた。が、日が暮れてきた。小机城自体は一度歩いたこともある、ということで予定変更。最寄りの駅に戻ることに。恩田川の向こうに見える台地の上に田園都市線・藤が丘駅がある。先ほど眺めた美しい風景の方向である。即ルート決定。

台地を下り、鶴川街道・恩田川支流との交差点まで戻る。横浜線のガード下をくぐるとすぐに円光寺。畑の中の道を進む。恩田川に交差。橋を渡り、再び畑の中を進み台地下の車道に。道を北にとり極楽寺、杉山神社前を少し進むと横浜商大みどりキャンパスへの入口。台地の上り道を進み、大学脇の道を進むと東名高速にあたる。丁度港北パーキングエリアのところ。台地を一度下り、東名高速のガード下をくぐり、再び台地に向かって上る。梅ヶ丘交差点、藤が丘小交差点を越え、しばらく進むと田園都市線・藤が丘駅に到着。本日の予定はこれで終了。
散歩の後から気がついたのだが、今日歩いた道筋って、昔の鎌倉街道。鎌倉街道中ツ道と上ツ道をつなぐ。中ツ道の通る中山と上ツ道の道筋である鶴川方面を結んでいるわけだ。鶴川に城があった理由も、ちょっとわかった。「いざ鎌倉」の早馬がこの道筋を駆け巡ったのであろう。
龍穏寺に行く事にした。太田道灌ゆかりの寺である。越生の奥、龍ガ谷の中央にあり、市街からは結構離れている。市街とのピストン往復では、いかにも味気ない。地図でチェックする。と、龍穏寺の北の梅本集落から林道が奥武蔵高原の尾根道まで通じている。これは、いい。どうせのことならと、この尾根道、通称奥武蔵グリーンラインに進むことにした。
幾つもの峠が連なるこの尾根道はその昔、越生と吾野、秩父を結ぶ幹線道路であった。
信仰のため、商業活動のため、日々の生活のため、そして時には山中の寺で開帳される「賭博」のための往還でもあったのだろう。奥武蔵グリーンラインから先は、しばし尾根道を南に辿り、高山不動を経て吾野に下ることにする。高山不動は龍穏寺の奥の院。偶然とはいいながら、散歩のはじめと終わりが龍穏寺からみ、とは、これもなにかの因縁、か。



本日のルート:東武東上線越生駅>上大満>越辺川>竜ガ谷集落>下馬門>龍穏寺>龍穏寺の熊野神社>山神社>瀧不動_男瀧と女瀧>林道梅本本線>林道梅本支線>行き止まり>障子岩名水>大平尾根合流>野末張見晴し台>グリーンロード>飯盛峠>グリーンロード>関八州見晴し台>高山不動>三輪神社>高山不動の 参道と志田林道の合流点>高山不動参道口>瀬尾>下長沢>国道299付近>高麗川>西武秩父線吾野駅


東武東上線越生駅
池袋から東武東上線に乗り、坂戸で東武越生線に乗り換え越生の駅に。越生は今回がはじめてではない。何時だったか、道灌ゆかりの「山吹の里」を訪ねてこの地に足を運んだ。龍穏寺のことを知ったのも、その時である。
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」で知られる「山吹の里」は散歩の折々にそこかしこで出会うので、それはそれでいいとして、名刹・龍穏寺がなにゆえ、この越生にあるのか気になっていた。なにせ、奥武蔵の山の中である。チェックする。と、越生はその昔、このあたりの中心地であった、よう。鉄道が通る現在では中心は飯能であり、秩父に移っているわけだが、それが鉄道もなかった昔からの中心地であったかどうかは、別の話である。「現在軸」からの思い込みには注意が必要、か。

麦原バス停
越生駅より黒川行きのバスに乗る。山裾に沿って市街地を北に向かい、山稜が切れたあたりを西に折れる。山稜が切れたところを越辺川が流れる。越辺川によって開かれた山稜の間の低地を西に進む。津久根地区と呼ばれる。
津久根を西に向かい、越生梅林あたりからは南西に向かう。越辺川によって開析された谷筋である。川に沿って進むと麦原バス停。ここは、小杉、アジサイ公園、麦原を経て飯盛峠に向かう昔の秩父越生道の入口。吾野の谷や秩父から、背に炭を背負い峠を越え、食料や衣料と交換するために物々交換の中心地である越生にやって来たのだろう。

上大満バス停
麦原バス停を過ぎ、大満地区を1.5キロほど進み上大満バス停で下車。越生の駅から30分ほどかかっただろう、か。バス停の脇を流れるのは越辺川の支流・龍ガ谷川。龍穏寺はこの龍ガ谷川を2キロ弱上ったところにある。
大満とはいかにも奇妙な地名。気になってチェックした。すると、その地名は龍ガ谷にまつわるある伝説に由来する、と。
昔々、この龍ガ谷一帯は大きな湖であった。底には龍が棲んでいたとのことだが、それはそれとして、ある日大雨で堤が決壊し、一面が水浸しとなった。大満とは、その「水が溢れた地」のこと。ちなみに、バスで通り過ぎた津久根は、もともとは「築根」。決壊した水を防ぐべく堤防を築いたところ。そういえば、津久根の地は、越辺川が山間から平地に流れ出す喉元。ここに堰をつくれば、確かに洪水が防げそうではある。
そうそう、湖に棲んでいた龍の話。名栗の龍泉寺から越生の龍穏寺にお手伝いに来ていた小坊主さんを背に乗せて名栗と越生を往復していた、とか。龍泉寺の和尚さんの看病のためである。で、洪水で棲むところをなくした龍は名栗の有馬の谷に逃れ、そこに棲むことになった、とか。直線距離でも10キロ以上はなれている名栗と越生ではあるが、このふたつの地域は一衣帯水であったということ、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

龍穏寺
上大満バス停から龍ガ谷川に沿って歩く。半時間弱で龍穏寺の入口。如意輪観音様が迎えてくれる。龍穏寺は役の行者の創始とされる。縁起は縁起として、開山は14世紀末とも15世紀初め、とも。足利義教だか、足利義政だか、ともあれ足利氏が尊氏以下の足利氏の冥福を祈るため、関東官領上杉持朝に命じて開いた。その後、兵火に焼失。15世紀の後半に太田道灌、道真が再建した。
16世紀末には豊臣秀吉より御朱印100石。17世紀初頭には徳川家康より総寧寺(千葉県・市川市)、大中寺(栃木県・大平町)とともに関三刹とも呼ばれる大寺院に。全国の曹洞宗寺院のうち、23ヶ国の寺院、その僧侶など二万人を統括していた、とか。

参道を進むと堂々とした門。無相門。彫刻は榛名の名工岸亦八の手による。先に進むと江戸城の石。江戸城外濠に架かる神田橋の橋台として使われていたものである。本堂にお参りし、続いて太田道灌銅像に。案内をメモ;「太田道灌公墓;永享4年(1432)龍穏寺寺領(父・居城居城居城居城居城太田道真の)に生る幼名鶴千代丸後雲崗舜徳襌師(龍穏五世)について出家道灌と号す「瑞巖主人公」の公案を受け大悟徹底す長禄元年(1457)江戸城(皇居)を築き川越城・岩槻城・鉢形城を修築し野戦に長じ関東雄将たり。しかるに惜むべし文明18年(1486)神奈川県伊勢原市にて謀殺される。法名香月院殿春苑道灌大居士分骨して当山に葬る、と。少々きらびやかな経堂の外壁を彩る彫り物を眺め、境内脇にある熊野神社にお参りし、お寺を離れる。

梅本林道
少し進むと食事処・山猫軒。築130年という旧家を改築したもの。散歩をしていると、時々山の中、と言ってもいいようなところに洒落た食事処がある。高尾から津久井の城山湖に向かって歩いていた時も、案内川に沿って甲州街道を進み、峰の薬師参道を峠道に入った山中にも同じような雰囲気の食事処があった「うかい竹亭」。山中ではないけれど、仙川に沿って武蔵小金井をぶらぶらしていると懐石料理で名高い尼寺・三光院に出会った。食通にはうれしいお店ではあろうが、食にあまり興味のないわが身には、有難さも中位といったところ、である。
歩を進め、道が分岐するあたりの道脇にこじんまりとした社、というか祠。山神宮八幡神社とあった。ここから左に分岐する道は、高山街道へ続く道のようである。高山道は四寸道とも呼ばれる、越生から高山不動への参拝道。起点は大満の越辺川と龍ガ谷川の合流点より少し黒山に向かって進んだ下ケ谷の下ケ谷橋の袂。そこから下ケ谷薬師を経て、越辺川と龍ガ谷川に挟まれた尾根道上を薪山>駒ヶ岳>峰山、関場ガ原(関八州見晴台)と上り高山不動を目指す。
この梅本の分岐は龍穏寺から尾根道に直接進むショートカットのルートだろう、か。高山不動は龍穏寺の奥の院とも言われているので、昔は参拝人でにぎわったのだろうが、現在高山道は廃道寸前となっている、とか。ちなみに、高山道の別名四寸道の由来は、幅が四寸の露岩のやせ尾根を行くから、と。

旧秩父道への分岐
少し進み梅本集落の入口付近の道端に滝不動。ブロックの祠の中に、年代を経たお不動様。滝不動と呼ばれるように、男滝と女滝があるのだが、どちらもいかにもつつましやかな滝である。
滝不動を越えると、梅本林道の標識。ここから飯盛山の大平尾根へと上る林道がはじまる。林道を尾根に向かってゆったり上る。龍穏寺から2キロ強歩いたところで、梅本林支線が分岐。草むらに旧秩父街道との案内。秩父越生街道って、龍穏寺へのバスの途中、小杉、麦原から太平尾根に上っていた道筋。この道は龍穏寺方面からこの秩父越生街道に通じる道だったのだろう、か。
支道入口は通行止めとはなっていたのだが、これって車がダメだが、歩きは大丈夫だろうと、無理矢理解釈。とりあえず、どんな道筋か本線を離れ支道にはいる。ぐるりと曲がったゆったりとした坂道を上ると障子岩。断層としては専門家にはありがたい岩のようだが、門外漢には岩よりも、そこから流れ出す障子岩名水がありがたい。一口飲んで先に進む。が、ほどなく道は行き止まり。進めるかどうかブッシュの中に分け入るも、どうにも進めそうも無い。諦める。林道によって道筋が代わり、廃道となったのだろう。仕方なく本道に戻る。整備はされている。

野末張(のずはり)見晴台
尾 根に向かってジリジリと上ってゆく。旧秩父道への分岐から1キロ弱歩き、ほとんど180度ターンをするカーブのあたりで道の周囲は開ける。ほぼ尾根筋に来たのだろう。ヘアピンカーブのところに東のほうから林道に合流する尾根道があった。チェックすると、アジサイ公園方面との案内。ということは、ここらあたりが大平尾根。ということは、合流してきたこの尾根道は小杉、麦原方面から上ってきた秩父越生道なのだろう。少し尾根道を歩き、なんとなくの秩父越生道の雰囲気を楽しみ、元に戻る。
180度の折り返しの「中州」のところに展望台。野末張見晴台と呼ばれる。いやはや、素晴らしい展望。思いがけないプレゼントといった感じ。山並みのどこがどこだかわからないながらも、見晴らしを楽しむ。後でチェックすると、北は赤城山とか日光連山、南は新宿の高層ビルまでもカバーしていたようだ。


奥武蔵グリーンライン

尾根道を2キロほど進むと奥武蔵高原道路、通称奥武蔵グリーンラインに合流。案内に右に折れると飯盛峠、左は関八州見張台、どちらも1キロ程度。先を急ぐのだが、飯盛峠って、どんなものかピストン往復を。

飯盛峠
奥武蔵グリーンラインを飯盛峠に向かう。奥武蔵グリーンラインって、外秩父の尾根を走る林道。この尾根道には大野峠、七曲り、刈場坂峠、ブナ峠、飯盛峠、アラザク峠、傘杉峠、顔振峠といくつもの峠が連続する。このようにいくつもの峠が開かれた理由は、高麗川の谷筋に沿った吾野の村々、また、芦ケ久保といった秩父の集落から越生に通じる道が必要であった、から。今でこそ西武線が通り飯能や秩父にすぐに行ける吾野の町ではある
が、その昔は、生活物資を求めてこの地域の中心地である越生に向かうしかなかったようだ。
谷筋の村々からは炭を背負い、峠をこえて越生に向かい、そこで食料や衣料と交換した。また、芦ケ久保の集落からは、距離的には秩父が近いわけだが、お米など秩父までの運賃が高く、であれば、ということで秩父に比べて安いお米が手に入る越生に向かって、峠を越えた、と言う。(『ものがたり奥武蔵:神山弘(岳書房)』より)。今となってはどうということのない峠だが、昔は人々が足しげく往還したのだろう。少々の感慨。
尾根道を進むとほどなく飯盛峠。標高810m。ヒットエンドランでもあり、道端にある飯盛峠の標識にタッチし、梅本林道との合流点に戻り、そのまま尾根道を関八州見晴台に向かう。


関八州見晴台
梅本林道との合流点から1キロほど尾根道を進むと関八州見晴台。越生と飯能の境目。標高770m。安房、上野、下野、相模、武蔵、上総、下総、常陸の関東八カ国が一望のもと、ということが地名の由来。
見晴台には奥武蔵グリーンロードから少々の高台に上ることになる。高台には高山不動の奥の院。つつましやかな祠といった風情であった。本尊の五代尊不動明王は関東鎮護のため東京に向けられている、とか。しばしの休息の後、本日最後の目的地である高山不動に向かう。

高山不動
杉林の中を下る。はじめは舗装もされているが、途中からそれも切れ山道をどんどん下る。奥武蔵グリーンラインにつかず離れずといった道筋。ほどなく高山不動の本堂脇に到着。素朴であるが堂々とした本堂である。創建の時期は7世紀とも言われるが、正確な時期は明らかでない。少なくとも平安時代末期には坂東八平氏・秩父重遠がこの地に居住し、高山氏を名乗ったわけで、古い歴史をもつことは間違いない。
本堂にお参り。石段の下にはひとつふたつ建物が見えるにしても、成田不動、高幡不動とともに関東三大不動のひとつとも言われる割には、ちょっと寂しい。七堂伽藍が林立、とまではいかなくても、もう少々堂宇が並ぶか、とも想像していたのだが、まったくもってさっぱりしたもの。往時は3
6坊を誇った堂宇も現在は3坊を残すのみ。明治の廃仏毀釈の洗礼を経たためであろう、か。江戸の頃は、参拝客で賑わい、賭博で賑わったお不動さまも、今は静かな風情である。
106段の石段を下ると、ひときわ大きい樹木。子育ての大イチョウと呼ばれる。成り行きで下り、庫裏前を進み道に出るとすぐにつつましやかな三輪神社。ちょっとお参りをし、吾野駅に向かう。
そうそう、高山不動は賭博が盛んであった、とメモした。神社仏閣と賭博はここだけの話でもない。足立区花畑の鷲神社もそうであった。酉の市で知られるこの神社も賭博で賑わった。で、賭博が禁止されると、人の動きがピタリと止まった、とか。信仰だけでなく、なんらかの現世利益、楽しみが必要ということ、か。当たり前と言えば当たり前。

西武秩父線吾野駅

三輪神社を経て上長沢地区の山道をどんどん下り、途中志田林道の合流箇所などを見やりながら高山不動参道入口に。お不動さんから3キロ強といったところ。さらに下り、瀬尾のあたりまで来ると民家も多くなる。瀬尾の集落は高山不動尊の参道として賑わった。道筋には材木店も見える。下長沢地区の山腹に点在する
民家を見やりながら渓流に沿って進み、国道299号線に合流。ここまでくれば吾野駅はすぐそこ、だ。

国道299号線の南には高麗川が流れる。高麗川は刈場坂峠付近に源を発し、飯能、日高、毛呂山と下り、坂戸で越辺川に合流する。名前の由来は、高麗郡より。716年、駿河など7カ国に住んでいた高句麗からの帰化人1799名を武蔵国に集め設置したもの。日高市にある高麗の里の巾着田を歩いたことがなつかしい。
川に沿って吾野の駅に向かい、本日の予定終了。ちなみに、吾野の駅って、西武秩父線の始点,、というか、1969年に正丸トンネルができるまでは西武線の終点であった。で、トンネルができて、秩父とつながったため、西武線終点であった吾野が秩父線の始点となった、ということだろう。西武鉄道のほとんどの電車が、始点・吾野ではなく飯能で折り返しているのは、歴史的経緯としての始点とは関係のない、なにか別の「合理的」理由によるのだろう。それにしても、それにしても、高麗川の谷筋と秩父が電車で繋がったのは、それほど昔のことではなかったわけである。
正丸峠を越えようと思った。名前が結構前から気になり、そのうちに歩こうとも考えていた峠である。飯能から高麗川の谷筋を進み秩父に入るには正丸トンネルを抜ける。正丸峠はこのトンネルからは少し離れた尾根筋あるのだが、秩父観音霊場巡りなどで頻繁に正丸トンネルを通っているうちに、おなじ名前の正丸峠が脳裏に刷り込まれていたのだろう。
ルートをチェックすると、西武秩父線・正丸駅近くから旧正丸峠への道がある。峠からは正丸トンネルの秩父口に下りる道もあるようだ。峠の上り下りは5キロ程度。それほどの距離ではない。秩父側の国道に下りてから、芦ケ久保駅までが4キロ弱と少々長く、大型トラックの風圧に怖い思いをしながら国道脇を歩くのは少々憂鬱ではある。バスの便でもあればそれに乗るのもいいか、といった成り行きに任せる事に。
秩父の峠で最初に覚えた峠が正丸峠。が、あれこれしているうちに、釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父や奥武蔵の峠を結構越えてしまった。遅れてやって来た主人公に会いに行く、といった気持ちではある。



本日のルート;西武秩父線正丸駅>国道299号線>坂元集落>八坂神社>峠道>正丸峠への車道と交差>旧道を旧正丸峠に>旧正丸峠>治山ダム>追分>横瀬川>山伏峠からの県道53号線に合流>国道299号線>西秩父線芦ケ久保駅


西武秩父線正丸駅

正丸駅に下る。駅前が結構広い。気になりチェック。どうもバスの発着所であった、よう。現在では西武線はトンネルで秩父と結ばれているが、西武秩父線の正丸トンネルが開通したのは1969年。武甲山の石灰の運搬と沿線の観光開発を目的に秩父と吾野間が電車で結ばれた。
西武秩父線が開通する前は、西武池袋線の終点である吾野と秩父駅は正丸峠を越えるバス路線が走っていた。また、トンネルが開通し、それまで西武池袋線の終点であった吾野駅と秩父駅が結ばれるようになってからも、秩父駅と正丸駅の間には峠越えのバス路線が走っていた時期があった、ようだ。国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年であり、それまでのある時期、バスが峠道を上り下りしていたわけで、「広場」はその時期のバスターミナルの名残であろう、か。
西武線秩父線の正丸トンネルの開通が1696年、国道299号線の正丸トンネルの開通が1982年。秩父と飯能、ひいては首都圏と繋がったのはそれほど昔のことでは、ない。秩父って、つい最近まで、結構「遠い」ところであったわけ、だ。

坂元集落
正丸駅を離れ国道299号線に出る。国道を700mほど歩くと坂元集落に入る道が分かれる。道脇に「旧正丸峠、正丸峠、刈場坂峠」への道標。国道を離れるとすぐに高麗川を渡り坂元の集落に。高麗川の源流は刈場坂峠(かばさか)の近く。飯能、入間、毛呂山を流れ坂戸市で越辺川に合流する。
正丸トンネル手前で国道から右に分かれ正丸峠へと上る道がある。道はほどなくふたつにわかれ、左に大きくカーブする道が旧国道、そのまま直進する道が刈場坂峠への道。高麗川はその直進する道に沿って刈場坂峠へと続く。源流の碑もあるということであり、そのうちに歩いてみたい。
集落にはいると道脇につつましやかな祠。八坂神社とあった。お参りをすまし、5分も歩くと道は次第に山道となる。舗装も切れた杉林の道脇には石仏が佇んでいた。

沢沿いの道を上る

沢沿いの道を上る。ここからは丸太橋や仮設橋で沢を渡ることになる。ささやかな沢である。沢の右岸を上る。第一の仮設橋で左岸に移る。鉄パイプのつくりは少々味気なし。ほどなく道脇に大岩。この巨岩脇を抜けると第二の橋に。丸木でつくられた橋を渡り右岸に戻る。道なのか沢なのかといった道筋のすぐそばを歩くことも。
三番目の橋は再び仮設橋。ここで左岸に渡る。第四の橋は越流状態。木橋の上は土砂に埋もれ、そこを水が流れる。右岸に移り第五の仮設橋で左岸に。ここからは北に延びる沢筋を上ることになる。谷筋を過ぎると急斜面。一気に上る、のみ。(この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、275号)」

旧国道に合流
上り切ったところで車道に合流。正丸トンネル手前から正丸峠を越え、県道53号線に合流する昔の国道である。県道53号線は名栗谷の名郷から山伏峠を越えて正丸トンネルの秩父側口の近くに下る道。現在の国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年というから昭和57年。ほんのつい最近まで、飯能方面から秩父に車で入るには、このクネクネした山道を上っていたわけだ。
旧国道の合流点から100mほど上ると再び山道に入る。目印は反射鏡。道の左下に旧国道を見ながら大きくカーブする山道を旧正丸峠に向かって進む。最後の橋は桟道。桟道って、岩場や崖など歩きにくいところに足場を組んだ、もの。桟道を越え鬱蒼とした杉林の中を進むと旧正丸峠に。

旧正丸峠

標高670m。県道の正丸峠が開通されて以来、旧正丸峠と呼ばれるようになった。坂元集落から2キロ程度。正丸駅からでも4キロ程、といったところ。ここまでは飯能市。稜線を越えると秩父に入る。
峠は狭い切り通しとなっている。稜線を左に進むと1.3キロで正丸峠、右に上ると虚空蔵山まで1.8キロ、刈場坂峠までは3.3キロ。直進し、峠を秩父に下ると初花、芦ケ久保に達する。伊豆ガ岳から正丸峠を経て北に延びる稜線を「正丸尾根」と呼ぶ。伊豆ガ岳>正丸峠>ガンゼ山>旧正丸峠>虚空蔵峠>大野峠>丸山へと続く。この横瀬の丸山を大丸山と呼び、旧正丸峠横のガンゼ山(川越山)を小丸山と呼ばれていた、と。正丸峠の名前の由来は、この小丸>しょうまる>正丸、となったとの説もある。正丸という親孝行な少年が、母親を背負ってこの峠を越えたのが、名前の由来との説よりは、なんとなく、納得感がある(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
もっとも、この峠は昔から正丸峠と呼ばれていた訳ではない。二子峠と呼ばれていた、。昔は現在国道299号線が走っている芦ケ久保川沿いには道は無く、秩父から高麗川筋に出るには、二子山の南肩を越え、処花に下り、それから虚空蔵峠を越えて坂元に出ていた。二子峠と呼ばれたのは、このためである。正丸三角点であるカンゼ山(川越山)の東肩の按部であるこの旧正丸峠を越えるようになったのは、その後のことであると言う(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
正丸峠が秩父と奥武蔵をつなぐ主要往還道と思い込んでもいた時期がある。秩父観音霊場を廻るため幾度となく秩父を往復したとき、飯能から高麗川の谷筋(秩父凹地帯)を進み正丸トンネルを抜けて秩父に入る。正丸峠はこのトンネルからは少し離れたところにあるのだが、今日の主要往還である正丸トンネルを頻繁に通っているうちに、おなじ名前の正丸峠も「主要」峠であろう、と刷り込まれていたのだろう。
その後、正丸峠を越える前に釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父と奥武蔵の峠を越え、あれこれ歩いているうちに、秩父と奥武蔵を結ぶ峠は数多くあり、正丸峠はそれら峠のひとつに過ぎない、といったことがわかってきた。そして、それよりなにより、当時の往還のメーンルートは越生と秩父・高麗川筋であり、秩父から高麗川筋って、それほど人の往来があったわけでもなかったようだ。『ものがたり奥武蔵;岳書房』によれば、秩父と飯能を結ぶこの正丸峠は普段は旅商人などが通るほかは人影もない寂しい道、獣道のようであった、とか。唯一この峠が賑わうのは年に一度の三峰神社のお祭りのときだけ。そのときだけは飯能、高麗、吾野の人々がこの峠を越え、終日賑わった、とある。「現在軸」だけからのあれこれの判断は慎重に、ということであろう。

峠からの下り
芦ケ久保に向かい峠を下る。飯能側の杉林と異なり、明るい雑木林の中を歩くのだが、道筋が少し分かりにくい。踏み跡を探しながら下る。涸れ沢の谷筋に出る。道と谷が土砂で埋もれたのだろうか、道筋が誠に分かりにくい。ただ、杉林と違い雑木林の木もまばらであり見通しがつけやすいので、それほど道に迷う不安は少ない。
涸れ沢を過ぎると沢の脇の細路を下る。カタクリの群生地脇を進むと広場のようなところにでる。ベンチなどもあり、川筋には治山ダム。谷筋の浸食を止め森林の維持・造成を図るもの。この広場も治山ダムにより沢筋が固定され、土砂が溜まり緑地が広がったものだろう、か。門外漢のため、単なる所感ではある。

追分
林道を進むと道は舗装されている。しばらく歩くと追分に。大カエデのそばに石仏。
追分で山伏峠に行く道と分かれる。松枝あたりで県道53号線に合流しているようだ。

県道53号線

石仏にお参りし、横瀬川の流れを見やりながら初花(処花)あたりで山伏峠か
らの県道53号線に合流。

国道299号線
初花から500mほど歩くと国道299号線の正丸トンネル秩父口に到着。正丸峠越えはこれで完了。上り下り、それぞれ1時間程度、といったところではあった。初花(処花)って美しい名前。由来はよくわからない。ただ、初花、って新年に一番最初に咲く花、季節毎に最初に咲く花のこと、とか。それから転じて、若い女性やいつまでも新鮮なパートナーのことを指すとも言う。この集落の名前の由来は、はてさて。

西武線秩父線芦ケ久保駅


国道を芦ケ久保駅に向かう。4キロ強といったところ、か。道の脇には横瀬川。その南には二子山。こんな話がある。昔、二子山にはダイダラボッチが棲んでいた。山や川、池をつくる大男。その神様が秩父に山をつくるためにやってきたのだが、この芦ケ久保の窪地で足をとられて運んできた土をこぼした、と。この足を取られた窪地が「足窪」。それが転化して「芦ケ久保」。で、こぼした土でできたのが二子山であった、と。そういえば、我が家の近くにある杉並区の代田橋も、この大男ダイダラボッチの足跡が由来、とか。
日も暮れてきた。国道を歩き、成り行きでバス停でバスに乗り、西武秩父まで進み本日の予定終了。
天目山が武田家終焉の地である、ということは知っていた。が、天目山がどこにあるのか、つい最近まで知らなかった。それがわかったのは数ヶ月前。笹子峠を越えたときのことである。雪の峠を越え、甲斐大和・駒飼の里まで下ってきたとき、山腹に「武田家終焉の地、甲斐大和」と書かれた特大看板が眼に入った。あれ?ひょっとして天目山って、このあたり?チェックする。天目山って、甲斐大和駅から日川渓谷を大菩薩方面に7キロほど上ったところにあった。こんな近いところに、天目山が!
天目山。山とはいうものの、「山」でもないようで、しいていえば峠の名前。甲州市大和町田野にある。場所はJR甲斐大和駅方面から甲州街道を東に進み、笹子峠を貫通する新笹子峠の手前を日川に沿って大菩薩方面へ北東に進んだところにある。もともとは木賊(とくさ)山と呼ばれていたが、峠近くにつくられた棲雲寺の山号が天目山と称されたので、峠も天目山と呼ばれるようになった、とか。
道も車道が走っておりアクセスは容易。日川渓谷に沿って遊歩道もある、ようだ。歴史も自然もまとめて楽しめそう。ならば、行かずばなるまい、と言うことで、笹子峠越えから日を置かず、甲斐大和、へと。




本日のルート;甲斐大和駅>日川渓谷>四郎作古戦場碑>鳥居畑古戦場跡>景徳院>竜門峡入口>土屋惣蔵片手切跡の碑>大蔵沢>天目山栖雲寺>竜門峡遊歩道>甲斐大和駅

甲斐大和駅
中央線で甲斐大和駅に。地名は甲州市大和町初鹿野。平成17年11月1日に塩山市・勝沼町・大和村が合併して甲州市となった。駅のホームは切通しの底。駅舎は切通しに架けた橋の上。駅を離れ国道20号線・甲州街道に出る。
国道を1キロほど進むと景徳院入り口。道はここから国道20号を離れ、県道218号線に。県道は日川(にっかわ)渓谷に沿って上日川峠へと続く。国道との分岐点の標高は660m程度。ゆるやかな坂道を上っていく。
道の左手を見やると、分岐点で離れた国道20号線が新笹子隧道(トンネル)に吸い込まれてゆく。新笹子トンネルが完成したのは昭和32年。33年には有料トンネルとして開通した。このトンネルができるまで、東京方面から山梨へは標高1096mの笹子峠を越えていた。県道があったわけだが、とてものこと幹線道路とは言えない峠道。ために、東京と山梨を結ぶ幹線道路は河口湖方面から御坂峠を越える国道8号線であった、よう。

日川渓谷
道は日川に近づく。日川は大菩薩から南に伸びるふたつの尾根筋に挟まれた渓谷。ひとつは、大菩薩嶺(2057m)―大菩薩峠―小金沢山(2014m)―牛奥ノ雁ガ腹摺山(1985m)―黒岳(1988m)―湯ノ沢峠―大蔵丸(1781m)―米背負峠―大谷ヶ丸(1643m)―大鹿峠―笹子雁ガ腹摺山(1357m)―笹子峠(1096m)とのびる尾根筋。もうひとつは、大菩薩嶺から上日川峠(1590m)―砥山(1607m)―下日川峠―源次郎岳(1477m)―宮宕山(1309m)とのびる尾根筋。つまりは、日川渓谷を上っていけば、大菩薩峠に進む、ということ。
この地を歩くまで、天目山と大菩薩峠はまったく結びつかなかった。それがむすびついたのは、どこだったか、日川沿いの道筋でバス停の案内を見たとき。行き先に「上日川峠」とある。上日川峠、って大菩薩峠に上るロッジ長兵衛があるところ。大菩薩を越えれば奥多摩である。勝頼が何ゆえ、天目山などという山峡の地に進むのかよくわからなかた。武田家ゆかりの地で自刃するため天目山を目指した、との説もあるが、いまひとつ納得できなかった。だが、峠を越え奥多摩・秩父へと脱出するため、天目山から大菩薩峠を目指した、と思えば結構納得。真偽のほどは知らないけれども、自分なりに一件落着、と思い込む。

四郎作(つくり)古戦場碑
国道分岐点から1キロ程度進む。日川に沿った道の脇に石碑がある。立ち寄ると、四郎作(つくり)古戦場碑。武田家の忠臣・小宮山友晴を顕彰するもの。主家存亡の危機に臨み、蟄居の命を破り勝頼のもとに馳せ参じた忠臣。跡部勝資・長坂光堅、秋山摂津守といった武田勝頼の側近、また、穴山梅雪・木曽義昌といった武田御親類衆と相容れず、讒言などもあり勝頼より疎んじられ蟄居させられていた、と。織田方に寝返った穴山梅雪や木曽義昌、一戦も交えず逃亡した武田信廉や武田信豊といった武田御親類衆の動向を見るにつけ、勝頼は己の不明を恥じた、と言う。幕末の儒学者・藤田東湖は、友晴のことを「天晴な男、武士の鑑、国史の精華」と称えている。
四郎作は織田方を迎え撃つための柵といったもの、か。織田方滝川一益の軍勢は数千。対する四郎作を守る小宮山友晴等の武田軍は数名であった。と言う。友晴は奮戦するも衆寡敵せず討死を遂げた。

鳥居畑古戦場
四郎作(つくり)古戦場碑のすぐ先、日川に架かる橋を渡ると道脇に鳥居畑古戦場の碑。天正15年(1582)3月11日、この地で武田家最後の戦いが始まった。とはいうものの、武田方は総勢50数名、そのうち16名は姫や御付の女性であり、戦闘勢力は40名強といったものであったらしい。
古戦場跡は現在、広い車道が通っている。が、昔は渓谷沿いの細路ではあったろうし、いくら軍勢が多くとも一時に大軍勢が攻め込めるわけもなく、少人数でもそれなりに防御はできるだろう。とは言うものの、ものには限度がある。戦いになるとも思えない。この地のすぐそばに勝頼自刃の地があるわけで、主家の最後をまっとうするための時間をつくる、戦いであっただけ、か、とも思える。
それにしても、武田方の人の減り方。これまた、ものには限度がある。天下の武田軍が 50名弱とは。ちょっと推移を振り返る。木曽義昌の謀反を鎮圧すべく諏訪に向かったときの軍勢は1万五千名とも言う。途中で引き返し、新府城に入城。軍議の末、大月の小山田氏の居城・岩殿城への撤退決定。3月3日、新府城を打ち棄て撤退するときには700名に。武田信虎の弟・勝沼友信の娘である理慶尼が庵を構える勝沼の大善寺に一泊し、岩殿城に向かうべく笹子峠に。このときには200名。小山田氏の裏切り。笹子越えは諦め、3月10日、天目山を目指し日川 渓谷に入る。
で、3月11日、日川渓谷田野の地にある鳥居畑の戦いのときには50名弱となっていた。なんだか、なあ。
武田家武将の勝頼離反の理由は良く知らない。長篠の合戦で譜代の重臣を多数失った。ために、重鎮・纏め役がいなくなったのだろう、か。徳川勢の高天神城攻撃に際し、援軍送らず。勝頼頼むに足らず、と威信大いに失墜。これを契機に一門や重臣の造反がはじまった、とも。防御拠点として縄張りを始めた韮崎の新府城築城の是非、また金銭負担に穴山梅雪など家臣の間に不協和音が高まっていた、ことも一因、だろう、か。また、近習・側近の重用も家臣間での諍いの火種でもあった、などなど遠因は想像できるのだが、それにしても、ものには限度がある。なんだか、なあ。

景徳院
鳥居畑古戦場を離れ先に進む。ほどなく景徳院。国道20号線から1.5キロ程度。ここは武田勝頼自刃の地。四郎柵でメモした小宮山友春の弟で僧侶となっていた拈橋が、勝頼と一門をとむらう。で、天正16年(1588年)、家康がこの地に田野寺、現在の景徳院を建立。拈橋をその住持とした。
山門は安永8年(1779年)建立。本堂前に旗堅松。武田家累代の重宝「御旗」を松の根元に立て、勝頼の嫡子「楯無の鎧」を着させて、「かんこうの礼(元服の儀式)」を執り行ったという伝説がある。甲将殿には勝頼、夫人、信勝の影像を祀る。甲将殿の裏に勝頼、夫人、信勝の墓。没200年を期し、安永4年(1775年)に建てられた。
甲将殿前に3名の生害石。自害したと言われる平らな大きい石が残る。勝頼37歳、嫡男信勝16歳、夫人19歳。勝頼の辞世の句;「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れて行衛(ゆくゑ)の西の山の端」。信勝は鳥居畑で武運つたなく討ち死に。夫人は小田原北条の出。小田原に戻れとの勝頼の言にも関わらず、勝頼と運命を共にした。
境内には首洗い池が残る、と言う。勝頼の首を洗った池、と。なんとなく行く気になれず、パス。境内を出て、道路に面した駐車場に。駐車場の奥、日川の崖上に姫ケ淵の案内。勝頼の正室・北条夫人の侍女16人が身を投げた淵である、と。

竜門峡入口
寺を離れ天目山栖雲寺を目指す。おおよそ4キロ強といた行程。1キロほど進むと道脇に大和村福祉センター。温泉施設があり、一般の人も歓迎との案内。そこを越えると橋があり、竜門峡入口の案内。橋を渡ると日川渓谷に沿った遊歩道がある。竜門峡散歩は帰り道のお楽しみとして車道を先に進む。

土屋惣蔵片手切跡の碑
ほどなく道脇に土屋惣蔵片手切跡の碑。千人切りの碑、とも。碑の脇に大正時代の写真。いまでこそ、立派な車道ではあるが、大正の頃を狭い崖路。往時は人ひとり通れるかどうか、といった崖路である。この地で武田の家臣・土屋惣蔵は川上から攻めよせる織田軍に対し、片手で藤蔓につかまりながら奮戦。その流された血により川は三日三晩、朱に染まった。「鮮血流れて止まず河水赤きこと三日」との記述が残る。ために川を「三日血川(みっかち)」と呼ぶようになった。後 に、三日(みっか)川となり、現在は「日川(にっかわ・ひかわ)」となった、とか。

大蔵沢
土屋惣蔵片手切跡の碑から道脇のお蕎麦屋などを見やりながら500m弱も進むと大蔵沢。どうもこのあたりで織田方が勝頼主従の行く手を阻んだらしい。一説には、武田を裏切った小山田一党が、勝手知ったるこの地へと織田軍を先導した、とも。
武田を裏切った小山田信茂は、笹子峠や大鹿峠など大菩薩から大月方面へと通じる主な峠を抑え勝頼の進路を阻む。ために、勝頼主従は、田野から日川渓谷を遡り武田家ゆかりの天目山栖雲寺(せいうんじ)に入る。そこから大菩薩峠を越えて多摩秩父方面へ。その後は真田一門を頼って上州に抜けようとした、とも言われる。
いっぽうの織田軍は、小山田軍の先導のもと天目山方面へ進出。大月・小菅方面から湯ノ沢峠や米背負峠(湯ノ沢峠と大谷ケ丸)などの峠を越えて日川の支流・大蔵沢一帯へと進出。天目山へ向かう勝頼一行の逃避行を阻んだ、と。また、勝沼深沢口から栖雲寺を経て大蔵沢方面に進出していたとの説もある。
僅か数十人の落ち武者一向に対し、少々大仰な気もするのだが、ともあれ行く手を阻まれた勝頼一行は日川を戻る。が、川下から攻め上ってきた織田方の滝川一益の軍勢により挟み撃ち。で、鳥居畑で最後の合戦となる。

天目山栖雲寺
大蔵沢を越え、ほどなく橋を渡ると日川渓谷レジャーセンター。バーべキュー、釣堀、キャンピング、バンガローなどアウトオアを楽しむ家族の姿を見やる。先に進むとヘアピンカーブの急坂。上りきったところが天目山トンネル。トンネルを抜けると「やまとふれあいやすらぎセンター」という温泉施設がある。その先に沢。焼山沢。沢を上ると湯の沢峠に進む。沢にかかる橋を渡りしばらく歩くと木賊(とくさ)の集落に。景徳院からおよそ4キロ。天目山栖雲寺はこの集落にある。
天目山栖雲寺。武田氏の招聘により業海本浄が開く。寺号の天目山は、業海本浄が修行した中国の杭州天目山に地形が似ていたから。庫裏は文禄元年(1592年)建立。解体修理が終わり、新しくなっている。
境 内には武田信満の墓と伝えられる宝篋印塔がある。応永23年(1416)上杉氏憲(禅秀)の乱に甲斐守武田信満(禅秀の舅))は氏憲に与し都留郡で戦う。が、武運つたなく、応永24 年(1417年)2月6日天目山にて自害した。宝篋印塔は高さ1m。周囲に家臣の塔が囲んでいる。
このとき、武田は一度滅んだと言われる。ということは、この天目山、勝頼も含めると二度滅んだとも。それと、いろんなところで、勝頼が天目山を目指したのは、先祖の武田信満が自害した、ここ天目山を死地と定めて登ってきた、と書かれている。が、先にメモしたように、どうもそういう気はしない。根拠はないのだけど、この日川をずっと上って行けば大菩薩峠に出るわけで、大菩薩峠から小菅へと歩いたわが身とすれば、なんとなく、天目山への遡行は脱出行であったように思える。なんとなく、である。
庫裏の右手裏山は巨大な花崗岩の庭園。2ヘクタールある、とか。確かになかなか迫力のある巨石が山腹に見える。磨崖仏もある、とか。禅僧が修行したとのことである。
天目山はこの栖雲寺の寺号から、とメモした。それはそうなのだが、栖雲寺の近くに木賊山とか大天嶽とか、大天狗山と呼ばれたりする山がある。その山も天目山 と呼ばれるようだ。寺が先か、山が先か、普通に考えれば寺が先なのだろから、やはり天目山ってお寺、から、と思い込む。

竜門峡遊歩道
寺を離れ県道に戻る。道を上り、そのまま上日川峠まで進みたいとは思うのだが、距離をチェックすると13キロほどもある。即中止。予定通り、竜門峡へと下ることに。このあたり、天目地区から田野地区にかけての日川渓谷を竜門峡と呼ぶ。看板でチェックした、「竜門峡遊歩道天目地区入口」を探す。天目山栖雲寺を少し戻ったあたりの道脇に案内がある。
急な下りを一気に下りる。栖雲寺のあたりの標高が1030mほど。川沿いは960mであるので、比高差70m程度。渓谷沿いに遊歩道、と言うより、山道と言ったほうがいい、かも。あたりは花崗岩の巨石がゴロゴロ。栖雲寺の巨石も、このあたりの巨石群を見れば、あって当たり前、といった雰囲気。
渓谷に蜘蛛淵。花崗岩の谷に多い、巨石で埋められた淵といったもの。道を進むと「木賊の石割けやき」。転げ落ちてきた花崗閃緑岩が二つに割れ、その間からけやきが伸びている。その先にで「平戸の石門」をくぐる。これも転げ落ちてきた巨大礫であろう。
休憩舎のあたりで日川を対岸に渡り、ゆるやかな傾斜となった遊歩道を進む。秋の紅葉はさぞ美しいであろうな、などと思いながら進むと、今度は竹林が現れる。 天鼓林、炭焼窯跡、そして東電取水口などを経て竜門峡入口に戻る。2キロ強。標高810m程度であるので、比高差200mほど下ってきた。あとは上ってきた同じ道を甲斐大和駅まで戻り、本日の散歩終了。    

足柄峠越え

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古代の箱根越えの古道を歩く

先日、江戸時代の旧東海道・箱根八里を湯本から三島まで歩いた。鎌倉・室町には箱根越えの道として湯坂路がある。このふたつは箱根峠を越える道である。
石畳の道を歩きながら箱根路の案内板などを読んだ。と、古代には箱根路を越えるルートは別にあった。最古のルートは日本武尊も帰路に越えたと言う碓氷峠道。 御殿場より乙女峠を越え仙石原から宮城野の碓氷峠を上り、明神ヶ岳を越えて足柄平野に下る道と言う。次いで、奈良・平安の頃の足柄道。御殿場から足柄峠を越え坂本(関本)に下る道である。
碓氷道は、いつだったか明神ヶ岳を歩いたこともあり、なんとなく、歩いたつもりになっていた。で、今回、足柄峠越えの道を歩くことにした。古代箱根越えの魅力もさることながら、足柄=金太郎、といった足柄峠のもつ語感に惹かれてのことである。

古代、足柄峠を多くの人が歩いたのだろう。「足柄の八重山越えていましなば誰をか、君と見つつ偲はむ」。万葉集に歌われる足柄はこの歌のほかにも10以上ある。東国から防人として西国に赴く農民は、この峠を越えていったことだろう。
更科日記には「ふもとのほどだに、そらのけしき はかばかしくも見えず。えもいはず しげりわたりて いと おそろしげなり」、とある。足柄峠を越えて駿河に出たときにも「まいて山のなかの おそろしげなる事 いはむかたなし」と書いている。よっぽど怖い山であったのだろう、か。駿河の国司が足柄の坂本(関本)を拠点に跋扈する党類をして「坂東暴戻(ぼうれい)の類(たぐい)、地を得て往反し 隣国、奸猾の徒(ともがら)、境を占めて栖集(せいしゅう)する」と、表現しているほどだから、結構治安も悪かったのだろう。はてさて、どういった風景が現れてくるのか、ともあれ散歩に出かける。



本日のルート;関本>矢倉沢バス停>家康の陣場跡>定山城跡>地蔵堂>見晴台>柄峠一里塚>足柄の関>足柄城址>六地蔵>赤坂古道>銚子ヶ淵>戦ヶ入り>竹之下


関本
自宅を離れ、小田急に乗り小田原に。そこで箱根登山鉄道大雄山線で終点の大雄山駅に向かう。車窓からは箱根外輪山の雄大な姿。最高峰は明神ヶ岳だろう。稜線が左右に広がる。先日金時山方面から明神ヶ岳に向かって歩いたが、思いのほかきつい尾根道であった。山容を見て、結構納得。
大雄山駅で下車。大雄山の駅名は名刹大雄山最乗寺・道了尊、から。駅の地名は足柄市関本である。古代の足柄道の宿駅・坂本、と言われる。足柄道は横走駅(御殿場との説もあり)から足柄峠を越え、坂本駅に下り、ついで小総駅(おぶさ;国府津)、箕輪(伊勢原)、そして武蔵へと続く。坂本駅は駅馬22足、伝馬25足を備え、交通の要衝として栄えた。江戸時代は東海道の裏街道としての矢倉沢往還の宿場として栄えた。

矢倉沢バス停
大雄山駅の関山バス停から地蔵堂行きのバスに乗る。10分ほどで矢倉沢バス停に。バス停の近くに矢倉沢関所跡がある、と言う。といっても、案内もなにも、ない。とりあえずバス道を離れ旧道っぽい道に入る。ちょっと探す。道脇に小さな祠。その後ろに道祖神。わら屋根で保護されている。そこから狩川の方へ少し戻るように集落の道に入っていく。民家の前に関所跡の説明。それ以外とりたてて何があるわけでも、ない。
矢倉沢関とは、東海道の脇往還・矢倉沢往還に設けられた関。日本武尊が東征する時、このルートを通った、との伝説があるように、このルートは古くから人や物が行き交う道。ために、天正18年(1590)徳川家康が関東に入国するに際し、箱根の関所の脇関所のひとつとしてこの地に関所を設けた。
こういった裏というか脇関所はこの矢倉沢のほか、根府川(小田原)、仙石原、河村(山北町)、谷蛾(山北町)にも設けられえている。矢倉沢往還はこの関所の名前から。寛文年間(17世紀後半)に人夫・馬を取り替える継立村が置かれ、東海道の脇往還のひとつとなった。
この関所跡は「矢倉沢表関所跡(末光家)」とのこと。車道を北へ内川を渡り左折して200m程度歩いた地点に「矢倉沢裏関所跡(石村家)」の案内板と碑がある、と言う。裏関所・脇関所の中にも「表」と「裏」がある、と言うのも、なんとなく面白い。関所は明治2年まで続いた。

矢倉沢往還のルート;江戸城の「赤坂御門」を起点にして多摩川を二子で渡り、荏田・長津田、国分(相模国分寺跡)を経て相模川を厚木で渡り、大山阿夫利神社の登り口の伊勢原に行く。さらに西に善波峠を経て秦野、松田、関本、矢倉沢の関所に行く。その後足柄峠を越え、御殿場で南に行き、沼津で東海道と合流。大山参詣道や富士参詣、そして東海道の脇往還として賑わった。江戸から直接大山に繋がっているため、大山道とも呼ばれる。
現在は、ほぼこの往還に沿って国道246号が通っている。

家康の陣場跡
さきほど見た道祖神の脇を少し上ると「足柄古道」の標識。右に折れに上っていくと先ほどのバス通りに突き当たる。道の向こう側に街道らしき細路が続く。振り返ると狩川方面の眺めもなかなか、いい。 旧道を進むと、まもなく再度バス通りに合流。先に進むと道脇に「家康の陣場跡」の標識。天正18年(1560)秀吉の小田原攻めの際に家康が陣を敷いたところ。ということは、家康も箱根峠ではなく足柄峠を越えてきた、ということ、か。

定山城跡
家康の陣場跡を、500mほどで左に旧道が分かれる。そばにバス停があり、その名も「足柄古道入口」。脇に石仏も佇む。 本格的な古道、などと思う間もなくに車道脇の歩道のような道に出る。歩道を進むと「定山城跡」の説明。大森信濃守氏頼の城跡である。城山(じょうやま)が定山(じょうやま)となった、とか。
大森信濃守氏頼は大田道灌と同じく扇谷上杉の家臣。知勇兼備の名将として知られる。道灌が主家により謀殺された後、主家上杉定正を諌めた「大森教訓状」が名高い。小田原に築いた城は。さしもの北条早雲も、氏頼在世中は手出しができなかった、と。
城跡があるとも思えないような案内でもあり、なにより大森氏頼のことをまったく知らなかったので城跡へと辿ることはパスしたのだが、こんな素敵な武将の足柄古道を抑える山白に行ってみたかった。後の祭り。

足柄山の金太郎
先に進むと「ひじ松」の説明板。頼朝が月を見るのに邪魔になると伐った松ノ木があるらしい。これまた、道があるようにも見えないのでパスし車道の脇道を進む。先に石段。コンクリートの急な坂道で下り、路傍に佇む石仏を見かけると大きな車道に合流。狩川の谷から尾根を越え内川の谷に続く道。
車道を右へ戻るように下る。内川に架かる橋を渡り右折。左に進めば「夕日の滝」に進む。ほどなく金太郎の生家や「かぶと石」。足柄山の金太郎ゆかりの地である。
この地は金太郎の母親の故郷。都に上り宮中勤務の坂田蔵人と結婚し金太郎懐妊。この地で金太郎を産むが、坂田蔵人がなくなったためこの地に残り金太郎を育てことに。
伝説によれば、熊と相撲をとりながら、金太郎は主と仰ぎ得る武将を待つ。天延4年(976年)、源頼光が足柄峠に差し掛かる。頼光の父は鎮守府将軍源満仲。清和源氏の三代目、といった貴種である。源頼光の家来と力比べ。その力量が認められ家来となる。名前を坂田金時と改名。渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに頼光四天王のひとりとなる。頼光主従による丹波の国、大江山(京都府福知山市)に棲む酒呑童子(しゅてんどうじ)、いわゆる、大江山の鬼退治が有名。とはいうものの、酒呑童子を知っているのは団塊の世代以上かもしれない。『酒呑童子;平凡社選書』を読み直してみよう、か。

地蔵堂
矢倉岳が美しい。坂を下るとほどなく地蔵堂の横に出る。バス停やお休みどころもあり、結構な人で賑わっている。 地蔵堂には、南北朝時代から室町時代にかけて作られたとされる寄木造の地蔵菩薩が祀られている。地蔵菩薩が安置されている厨子とともに県重要文化財。
地蔵堂を左に曲がりゆるやかな坂を進む。道脇に「万葉うどん」の店。ネットで「足柄古道」と入力すると、やたらに登場するお店。SEO 対策、ネットマーケティングとしては万全なのだろう。が、足柄古道の情報を知りたいわが身とすれば少々...、の思いもあり。

見晴台
道は山の斜面を進む。道の下にはバイパスが走る。ほどなく旧道はバイパスと合流。大きくカーブするバイパスを上っていくと古道入口の標識。山道を進むとバイパスに合流。峠までにバイパスを横切ることが数回あるが、これが最初。二度三度とバイパスを横切り先に進むと「見晴台」に出る。東屋とバス停がある。見晴台とはいうものの、見晴らしがそれほどいいわけでもない。

足柄峠一里塚
車道に沿って石畳が少しある。少し進み、車道を横切り石畳の道に入る。割と整備された石畳道を進み車道と合流。先に峠が見えてくる。地蔵堂からおよそ1時間程度で上ってきた。
道脇に「足柄峠一里塚」の案内。一里塚は慶長九年(1604年)江戸幕府が日本橋を起点として一里(約四キロ)毎に塚を盛り上げ 榎(えのき)の木を植えたもので 道中の里程と旅人達が駕籠かきや馬方と運賃をきめる手段とした。

足柄の関
一里塚のすぐ先は足柄の関跡。「古代の足柄の関」は、昌泰2年(899年)、足柄坂に出没する強盗団を取り締まるために設置。 上にメモした駿河国司の苦情にあるように、治安は悪かったようだ。通行には、相模国の国司の発行する過書(関所手形)が必要であった、と言う。 当時関が設けられた場所は定かではない。
「源平盛衰記」に治承四年(1180年)のこととして、土屋宗遠(むねとう)が甲斐に越える時「見レハ峠ニ仮屋打テ、(中略)夜半ノ事ナレハ、関守睡テ驚カス」とあり、源平の動乱の時代に、足柄峠に臨時の関が設けられ、鎌倉時代初期にも、その残骸が残っていた、のだろう。現在残る関、というか柵は昭和60年、黒澤明監督の「乱」の撮影で使われた城門のセットを足柄関伝承地に移築したものである、と。

足柄城址
関所跡から足柄城址へと続く遊歩道に入る。道の下に聖天様が見える。あれあれ、残念ながら今回はパス。尾根道を先に進み切通しの上に架かる橋を渡る。橋の名 は「あずまはや橋」。ヤマトタケルが東征よりの帰途、身代わりとなって東京湾に身を投げた妻を想っての有名な台詞・「我が妻よ」。とはいうものの、この「あずまはや」、散歩の折々に登場する。先日も秦野の弘法山の尾根道を歩いているときも出会った。
橋の下が現在の峠。標高759m。昔の峠はこの尾根道を通り足柄城址へと抜けていたようだ。橋を渡り足柄城址公園に。この地は古代からの交通の要衝。奈良時代、都を出、東海道を坂東へ向かう旅人は、この足柄峠を越えていた。中世になると、この交通の要衝の地に大森信濃守氏頼が足柄城を築く。大森信濃守氏頼は峠道の途中、定山城で出会った武将。その後小田原北条により小田原本城の出城として築城されるも、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの後廃城となる。
足柄城址本丸の一角に小さな池。玉手ケ池と呼ばれる。この池は底知らずの池、又は雨乞い池と云われ、常時水をたたえ、池に雨乞いをすれば必ず雨が降った、とか。井戸の跡との説もある。池の名前は、足柄峠の守護神、足柄明神姫、玉手姫からつけられたもの。芝生の上でしばし休憩。富士山の眺めが誠に素晴らしい。御殿場市外を眼下に見下ろし、なにひとつさえぎるもののない雄大な山容である。

六地蔵
足柄峠を離れ、足柄駅へと下る。車道を進むとほどなく六地蔵。釈迦入滅後、弥勒菩薩が現れるまで仏不在の時期が続くとされるが、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)を彷徨う、迷える衆生を救済する六人の菩薩さま、である。
その先にもお地蔵さま。先のお地蔵様は「上の六地蔵」。このお地蔵様は「下の六地蔵」と呼ばれる。六地蔵とは言うものの八体ほどあった、よう。江戸本所の人たちが建てたもの、と。ちなみに上の六地蔵は相模の国、足柄平野の人たちが建てた、とか。
お参りをすませ、歩を進める。旧道への入り口あたりには芭蕉の句碑もある。先日、箱根西坂を三島まで歩いたときにも途中の富士見坂に芭蕉の句碑があった。ヤマトタケルではないけれど、有名人は「忙しい」。実際。この碑は、地元の俳人が芭蕉の『芭蕉翁行状記』よりピックアップしたもの;「目にかかる ときやこととさら 五月富士」。おもいがけなく目にした富士に感激、もの。

赤坂古道
旧道に折れる。赤坂古道と呼ばれる。土が赤かった、から。足柄駅まで60分との案内。5分ほどで車道に出る。道を横切り再び古道に入る。石畳もある。古代の道には石畳はないだろうし、はてさて、いつ頃造られたのだろう。
石畳が切れ、草の道を歩き、またまた石畳を進むと車道に出る。出口のところに石仏。安永三年というから、1774年、今から230年以上前のもののようである。
車道合流点のあたりに「水飲沢」の標識。昔の水場の跡だという。どれくらい古いものかわからないが、更級日記に「水はその山に三所ぞ流れたる」(足柄越えの条)とある。そのひとつであろう、か。

銚子ヶ淵
沢、というか地蔵堂川に沿って車道をしばらく進む。少し開けたところに「湧水花園」といった公園。東海道400年祭りを記念して湧水地帯を公園とした、と。先に進むと右に入る砂利道。この道を進むと道脇に古滝と呼ばれるちいさな滝がある。かつては修行の場でもあった、よう。
道を進み再び沢に戻ると「銚子ヶ淵」。地蔵堂川がちょっとした滝状のようになっている。銚子ヶ淵と呼ばれるのは、滝というか、水の落ち口が滝壺・淵のようになっているから、だろう。
銚子ヶ淵の由来。案内板によると、結婚式の時に嫁がおならをしてしまい、みんなに嘲笑され、銚子を抱いてこの淵に身を投げる。その後娘の履いたわらじが浮いてくる。地蔵を建て供養したところ浮いてこなくなった、とか。その地蔵は、今は、ない。

戦ヶ入り
金太郎と源頼光が対面した、と伝えられる「頼光対面の滝」の案内を見やり先に進むと道脇に「戦ヶ入り」の案内。足利尊氏軍と新田義貞軍の合戦の地。世に言う、「箱根竹之下合戦」の地である。
建武2年(1335年)8月、足利尊氏は「中先代の乱」を鎮圧するため、鎌倉へ下向。中先代の乱とは、北条高時の遺児が起こした反乱。先代の北条と、その後の鎌倉幕府の支配者である足利氏の間にあって、一時的にでも鎌倉を占拠したため、「中先代」と呼ばれる。
擾乱鎮圧。が、尊氏は鎌倉に留まる。朝廷の帰京命令に従わず、鎌倉で独断で施策実施。朝廷は新田義貞を尊氏追討大将軍、尊良親王を上将軍として軍勢を発する。奥州の北畠顕家は背後から鎌倉を攻めることに。
足利方の防御ラインは岡崎の矢矧川。この防御ラインを破られ、鷺坂(磐田市匂坂)、手越河原(安倍川)でも破れ、足利直義の率いる足利軍は箱根水飲峠まで退く。この水飲峠は山中新田の山中城の岱崎出丸跡あたりとも、元山中のあたり、とも。
尊氏、鎌倉より出陣。新田軍が足柄路、箱根路に軍勢を分けて進軍することを想定し、尊氏自らは足柄峠に向かい迎撃態勢を整える。新田義貞は足利直義の守る箱根水飲峠に向かう。弟の脇屋義助が尊氏の守る足柄峠の攻撃に。この足柄峠の西麓で行われた足利尊氏軍と脇屋義助の合戦を竹之下の合戦と呼ぶ。詳細はよくわかっていない。が、結果的には尊氏軍が完勝。新田軍は京都に退却。一方の尊氏は勢いそのままに京都に進撃を果たす。こんな狭いところで本当に合戦が行われたのだろう、か。なんとなく?

竹之下
ほどなく馬蹄石の案内。馬の蹄の跡のような窪みが残る岩がある、とか。建久4年(1193年)、富士の巻き狩りに向かう源頼朝がこの地に駒を止めた。里人は岩の窪みを頼朝の馬蹄の跡とした。
橋を渡って左岸に変わると神社。真新しい神社。嶽ノ下神社とある。手水場の奉納書きに平成十九年九月とあるので、まだ半年ほどしか経っていないのだろう。拝殿の前からは、かたちの良い富士山が正面に見える。
地蔵堂川を再び渡ると竹之下の集落に。ここは矢倉沢往還の宿があったところ。足柄峠から西に下るルート・西坂ルートは今回歩いたルート以外にいくつもあるのだが、どのルートもすべて竹之下集落に下る。駿河や甲斐を結ぶ交通の要衝の地であったのだろう。

足柄西坂
足柄西坂のルートチェック。今回歩いたコースは「直路ヶ尾ルート」と「地蔵堂川林道ルート」。芭蕉の句碑あたりから地蔵堂川に出るあたりまでが直路ヶ尾ルート。その先の竹之下集落までが地蔵堂川林道ルート。地蔵堂川林道ルートは地蔵堂の東を進むが、西を進むルートもある。竹之一里塚も地蔵堂西岸ルート上にあるので、これが昔の矢倉沢往還でないか、とも。
足柄峠から地蔵堂川源流に沿って下り直路ヶ尾ルートに合流するのが「地蔵堂川源流ルート」。芭蕉の句碑から尾根道を進み、途中から尾根を下り地蔵堂川林道ルートに合流するのが「虎御石ルート」。尾根道を北に進み直接竹之下に下りるのが「大曲ルート」、「向方ルート」と呼ばれる。
どのルートが古代の足柄道西坂かよくわからない。が、少なくとも本日歩いた地蔵堂川林道ルートは古代のルートではないよう、だ。建設技術の発達していない古代において、土砂崩れの危険の多い沢沿いに街道をつくることはあまりないようだし、そもそも大正時代の地図にはこのルートは載っていない、とか。とはいうものの、あれこれ史跡、これも本当のところは「後付け史跡」のような気もするのだが、ともあれ、いくつかの史跡を見やりながら足柄西坂を下ったことで大いに満足。踏切を渡り足柄駅に到着。本日のお散歩を終了する。   
少し前のことになるのだが、春に田舎の愛媛県新居浜市に戻った時、例によって弟と四国八十八ヵ所を歩こうということになった。で、地元の山や沢を登り倒している弟が選んだのが札所61番・香園寺から「逆打ち」で札所60番・横峰寺へと比高差600mほど尾根道を登り、復路は西の谷筋を湯浪へと下り、湯浪から往路を辿った尾根筋へと続く尾根に這い上がり、札所61番・香園寺に戻ろうといったもの。国道11号の大頭から湯浪をへて60番札所・横峰寺に辿る道は「お山道」とも称され、今治市にある59番札所・国分寺から60番札所・横峰寺への「順打ち」遍路道であるわけで、今回のルートは「ダブル逆打ち歩き遍路」となった。
しかし、往路での湯浪から尾根道へとの計画は尾根への取り付き道が見つからず、結局は松山自動車道が走る里まで戻ることになってしまい、しかも、松山自動車道の脇も予想に反し途中で道が切れ、結局結構な藪漕ぎをしながら出発地点までもどることになった。
結構面白い札所巡礼ではあったのだが、今に至るまで散歩のメモをしないでいた。理由は特にないのだが、霊場散歩が実家とそれほど離れてなく、それだけのことで「有難味」が薄れていたのかとも思う。そろそろメモを残さなければと、夏に実家に戻ったおりにメモにとりかかった。



本日のルート;61番札所・香園寺>大谷池>香園寺奥の院>駐車地点>尾根道>尾根分岐>林道交差>本谷林道交差>綱付山からの尾根道と合流>平野林道との合流点>60番札所・横峯寺>西の遥拝所>古坊地蔵堂>滝>巡礼道入口>御来迎所>尾根道へのアプローチ地点>尾崎八幡神社>太子堂>高森神社>露出地層(?)>松山自動車道>藪漕ぎ>大谷池>車デポ地点

札所61番・香園寺;午前8時半_標高46m
実家のある新居浜から国道11号を西に進み、JR伊予小松駅の先で今治方面へと向かう国道196号を別けたすぐ先の西条市小松町南川交差点を左に折れると栴檀山香園寺。境内には本堂と大師堂を兼ねた近代的大聖堂が構えるが、このお寺さまは聖徳太子の開基という四国霊場屈指の古刹である。
縁起によると、用明天皇の病気平癒を祈願し、その皇子である聖徳太子が建立したと伝わる。この時、太子の前に金衣白髪の老翁が平石、本尊の大日如来を安置した、とも。真偽のほどは、それはそれとして、道後温泉への太子湯行など瀬戸内海の両岸に太子足跡の事例が多い。どこかの本で瀬戸内の両岸随処に領地と持っていたとの記事を読んだ覚えがある。兵庫には太子町といった地名も残る。尾道にも太子開基と伝わる寺がある。尾道といえば瀬戸内の海運の要衝地。各地の領地をもとに海運の支配をもしていたのだろう、か。単なる妄想。根拠無し。
香園寺には天平年間(668?749)には行基菩薩、大同年間(806?10)には弘法大師が順錫。弘法大師にまつわる縁起には、弘法大師が寺の麓で難産に苦しむひとりの女性を見かけ、祈祷をすると男の子を安産。大師は、唐から持ち帰った大日如来を本尊の胸の中に納め、栴檀の香を焚いて護摩修法をおこない、「安産、子育て、身代わり、女人成仏」の4誓願と祈祷の秘法を寺に伝え霊場に定められた、と。
以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが、長曽我部元親の「天正の兵火」ですべて焼失し、寺運は衰退の一途を辿る。何カ月か前、阿波の忌部氏ゆかりの神社を尋ねたことがあるが、そこでも四国統一を図る長曽我部勢に焼き落とされた寺社の多いことを知ったが、田舎の新居浜など愛媛に長曽我部勢により焼失した寺社は多い。
「天正の兵火」で焼失し、衰退の一途を辿った 寺運が復興したのは明治になってから。明治36年(1903)住職となった山岡瑞園師は大正のはじめ「子安講」を創始し、四誓願をスローガンに、日本国内はもとより、朝鮮、台湾、満州、関東州、青島、そしてアメリカまで行脚し昭和23年(1948)に亡くなるまでに20万名の講員を成した、とも言う。こうした山岡瑞園師の献身により、荒廃した寺は現在「子安の大師さん」として親しまれている。
このためもあってか、本尊は大日如来ではあるが、信仰は脇仏の子安大師に集まっているようである。実際、私もこどもを連れて帰省の折り、両親からまず一番に連れてこられたのがこの「子安のお大師さん」であった。

大谷池;午前8時45分_標高52m
香園寺を離れ車で進むと大きな池。大谷池と呼ばれる。案内よると;明治30年(1897)以降、農業立国推進の中、この小松大谷池築造計画が持ち上がった。しかし堤防決壊による洪水を怖れる周囲農民の理解を得るのは難しく反対運動が起き、結局地域農民の理解を得て小松町耕地整理組合が成立したのは大正3年(1914)のことである。
増築工事は人力による土木工事で、堤防の搗き固めには亀の子を使用。亀の子に8人から10人(婦人労力)が必要で、毎日20個の亀の子を使用し、毎日200名もの人が働き、事業開始から3年の歳月をかけて大正6年(1017)に完成した、とあった。

香園寺奥の院;午前8時53分_標高86m
大谷池からおおよそ1キロ進むと香園寺奥の院。昭和8年(1933)、香園寺住職・山岡瑞円和尚が創建。本尊は不動明王で、両脇に「金伽羅(コンガラ)」「制多迦(セイタカ)」二童子を従えた銅像を5mほどの滝の上の岩に造設し、滝に打たれる修行の場になっている。滝は白滝と呼ばれ、御不動様は白滝不動とも称される。

駐車地点;午前8時55分_標高115m
奥の院から車を進め、横峰寺への道標がある辺りに停車。これから横峰寺へと直線距離7キロ、比高差600mほどの山道を上ることになる。道標には「下城方面」との案内もある。
○下城
下城ってなんだろう、と好奇心にかられてチェックすると、築城年代は定かではないが南北朝の時代に岡氏によって築かれた「幻城」と呼ばれる山城の砦のひとつのよう。砦は下城と上城からなり南北に尾根続き2キロに渡る山城である。上城は綱付山の西方1キロ程、標高488.3mの山頂に築かれ、下城は直線距離で1.1キロ、比高差250m下の所に築かれている。
この砦は河野一族の支配下にあり、南北朝の頃、一族の信家が岡の庄を領し岡氏を称するようになる。その後信家の七代の孫である通昌が田滝村に住み幻城代となった。
因みに、岡の庄がどこにあるのか承知しないが、越智郡の生名島に「岡庄」と呼ばれる集落がある。この島は河野水軍の支配下にあった島であるので、この辺りだろう、か。田滝村は丹原町(現在は西条市に合併)の田滝地区だろう。道前平野の南西、高輪山の裾にある。

興国3年(1342)後村上天皇は新田義貞の弟脇屋義助を伊予に派遣したが、義助は伊予国府にて病死した。この機に乗じて北朝方の四国総大将細川頼春は伊予へ侵攻し、川之江城などを落として新居郡(新居浜市も昔は新居郡)に侵攻、大保木天河寺に陣を構えて幻城に攻め寄せた。このとき、上城には大将岡若丸、下城には岡弾正が詰めていた。
下城の城主岡弾正は城兵600余騎を率い討って出て合戦となり、敵将の香西出雲守と戦って相討ちとなって討死した。上城の大将の岡若丸は細川方の二陣の将矢野肥前守と切り結んで討ち取ったが、城に入って自刃して果てた。このとき玉砕した将兵600余人の霊を祀る五輪の塚が下城ふもとにあり、千人塚と呼ばれている、と。
天文年間(1532年~1555年)になると剣山城(大谷池の南西)城主黒川肥前守元春が幻の古砦を改修して出城としていたが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の後に廃城となった。

○大保木天河寺
興味を抱きちょっと深堀りすると自分の知らなかった地元の歴史が現れてくる。上にメモした下城などもそうであるが、その中に「大保木天河寺に陣を構え」と簡単にメモしこの天河寺も興味深い。現在西条市から鴨川に沿って石鎚山ロープウエイに行く途中、大保木地区に極楽寺というお寺様がある。室町期末に焼失したという天河寺の法灯を伝えるお寺さまである。
天河寺があった場所などをチェックしていると、弟のホームページに天河寺のメモがあった。そのメモや極楽寺のHPを参考にまとめると、「修験道の祖である役の行者神変大菩薩が、伊予國石鎚山に白鳳八年(675年)入山し、龍王山に籠もられ、密言浄土の実現を祈りつつ、厳しい修行を続けられたと云う。金色燦然(さんぜん)と輝く御来迎を拝され「阿弥陀院三尊」を感得、その姿を永遠に留めるべく、龍王山に堂宇を建て、日々一礼三刀をもって霊木を彫り刻み阿弥陀三尊(本尊の阿弥陀如来、両脇立の観世音菩薩、勢至菩薩)と、三体の権現さま(本尊の阿弥陀如来を石鎚蔵王大権現、両脇立を「龍王吼蔵王大権現」「無畏宝吼蔵王大権現」)を祀った。これが天河寺であり、役の行者の修行の聖地であった。
この、石鎚山の根本道場であった天河寺が、室町時代末期には焼失するに至ったのであるが、その時、蔵王権現御分霊を瓶ヶ森に祀り、天河寺より山を拝し、且つ、修業のため登るようになるも、天長5年(828)、今の石鎚山頂に遷座して今日に至る。そして天河寺が焼失の折、「阿弥陀院三尊」を奉持し、龍王山を下り、大保木の地に天河寺を仰ぎ見られる場所を探し建立したのが極楽寺である」、と。
どうも、石鎚山や瓶が森が開山される前は、龍王山が修験道場であったようだ。また瓶ヶ森が石鎚権現の霊山の時代には、天河寺が常住としての役割を果たしていたものと思われる。石鎚信仰と言えば前神寺、横峰寺と思っていたのだが、それは天河寺が焼失し、石鎚山に蔵王権現が祀られるようになって以降のことのようである。なお、龍王山や天河寺の場所は弟のホームページに掲載されている。それにしても、自分の足元のことを知らないなあ、と少々反省。



尾根道;午前9時21分_標高305m
駐車したところから沢に沿って山道に入る。標高200mまでは沢筋を進み、その先は尾根に向かって直線距離で500mほどを100m上ることになる。道脇には横峰寺までの距離を示すものであろう「丁石」があり「丁」数が刻まれているのだろうが、よく読めない。道を登り切ったところに「道標」があり、「下城方面 横峰方面」の案内があった。

尾根分岐;午前9時41分_標高403m
右手が開けた尾根道を進む。尾根道にはふたつほど「丁石」があったが、丁数は読めなかった。尾根道を20分、100mほど高度を上げたところに休憩所があるが、そこには東からの尾根が合流する。予定では、帰路は湯浪の辺りから続くこの尾根道に這い上がり、この分岐点に出るつもりではある。



林道交差;午前9時50分_標高405m
尾根の合流点を南へと横峰寺への尾根道を進むと、10分ほどで山を切り開いた林道が現れる。地形図でチェックすると、現在辿っている香園寺から南に続く尾根筋と東にある綱付山を隔てる小松川(?)の谷筋を通る本谷林道(?)から分かれた支沢に沿って東に向かい、この地で尾根をクロスして湯浪方面に進む林道だろう、か。地形図を見ると、このクロスポイントが小松川の谷筋と西の妙之谷の谷筋を隔てる最も「薄い」尾根となっている。



本谷林道交差;午前10時17分_標高464
尾根道を20分ほど進むと林道がクロスする。はっきりした名前はわからないのだが、小松川の谷を登ってきた本谷林道ではないだろうか。クロスポイントの右に下る道脇に「三穂」と神社らしきマークが杉の木にペンキで書かれていた。何のマークだろう。






綱付山からの尾根道と合流;午前10時26分_標高457m
綱付山からの尾根道と合流点あたりに「香園寺道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺へ一里二十丁」と刻まれた石標がある。その先にも「舟形地蔵丁石」が見える。

平野林道との合流点;午前11時15分_標高656m
綱付山から2キロほどの尾根道を進む。道脇に舟形地蔵丁石がいくつか目につくが、唯一読めたのは「21丁」と刻まれた舟形地蔵丁石ではあった。これらの舟形地蔵丁石「は「新屋敷村地蔵講中」の刻字があり、ふもとの旧新屋敷村(小松町新屋敷)の人々が建てたものとのことである。
雑木林を進み、最後に20段ほどの階段を登ると、西条市大保木平野から伸びてきた平野林道と合流する。

60番札所・横峰寺;午前11時43分_標高740m
舗装された林道を進み横峰寺に。神社風の権現造りの本堂と、境内にある大師堂にお参り。本堂から大師堂の横の山一面に「石楠花(しゃくなげ)」が植えられている。
境内にあった案内によると;たて横に峰や山辺に寺たてて あまねく人を救うものかな」と、御詠歌に詠われるこの寺は、標高750m、八十八か所のうち第三番目の高さにあり、四国遍路における三番目の「関所」。
修験道の開祖、役小角の開基といわれ、弘法大師が石楠木に刻んだ大日如来が本尊として安置されている。ここから600mほど登ったところに、弘法大師が厄除けの星供養をしたと言われる「星が森」があり、石鎚山の西の遥拝所となっている。
関所;悪いことをした人、邪心をもっている人は、お大師さんのおとがめを受けて、これから先には進めないと言われている。 四つの関所;19番札所・橋池山立江寺、27番札所・竹林山神峰寺、60番札所・石鉄山横峰寺、66番札所・雲辺寺山雲辺寺」、とあった。

http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2010/01/post-123.html 役小角 

西の遥拝所;午前11時59分_標高815m
本堂を離れ西の遥拝所に。天気がよければ鉄の鳥居より石鎚山を一望とのことであるが、当日は天気が悪く残念ながら石鎚山を拝むことは叶わなかった。 石で囲われた祠にお参りし、脇の石碑を読むと、「白雉2年(651)役小角この地より石鎚山を遥拝し蔵王権現を感得せらる。弘法大師四国巡錫の砌り四十二歳厄除けのため星祭を修し給う因ってこの地を星森と名づく。寛保2年建立の鉄の鳥居があるので「かねの鳥居」と云う」、とあった。



この石碑の縁起によれば、役小角がこの地より石鎚山を遥拝し蔵王権現を感得せらる、とされる。ところが、先にメモした大保木天河寺の縁起によれば、役小角は龍王山に籠もり、石鎚山を遥拝し厳しい修行を続け石鎚蔵王大権現を祀る堂宇として天河寺を建てた、とあった。天河寺が役の行者の修行の聖地であり、蔵王権現の分霊も瓶が森に祀られ、前神寺やこの横峰寺が石鎚信仰の中心となっていったのは天河寺が焼失した室町末期、石鎚山に蔵王権現が祀られるようになって以降のこと、とも言う。
横峰寺の縁起にはその他にも、行基菩薩も巡錫し大日如来を刻み、その胸に役小角作の蔵王権現を納めた、と言ったものもある。縁起は所詮縁起と思い込むことだろう、か。
因みに、横峰寺は、廃仏毀釈の嵐に巻き込まれ。明治4年(1871)に石鎚神社西遥拝所横峰社となって廃寺となった。60番札所は、小松町新宮にある清楽寺に移されたが、明治10年(1877)に横峰寺の再建願いが出され、翌年愛媛県令から再興を認められ、明治13年(1880)に「大峰寺」という名称で復活。その後明治18年(1885)にはの清楽寺との和解によって清楽寺は前札所となり、再び60番札所に戻り、明治41年(1908)、ようやく横峰寺の旧称に復帰することになった。この間、遍路は59番国分寺より清楽寺を経て香園寺へと巡拝していたのだろう。

○石鎚への参道
西の遥拝所から南に「モエ坂」が加茂川に向かって下る。加茂川が左右の谷から合流する河口地区に三碧橋が架かるが、その昔石鎚山への参道は横峰寺からこの河口(こうぐち)地区に下り山麓の成就社に上っていった。ルートはふたつ。ひとつは今宮王子道、もうひとつは黒川道。今宮王子道は河口から尾根へと進む。尾根道の途中に今宮といった地名が残る。昔の集落の名残だろう。
一方黒川道は行者堂などが地図に残る黒川谷を辿り、尾根へと上っていくようだ。どちらも成就社まで6キロ前後、3時間程度の行程、といったところ。今宮王子道にはその名の通り王子社が佇む。石鎚頂上まで三十六の王子社の祠がある、とのこと。数年前、熊野古道を歩いたことがある。そこには九十九王子があった。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。
王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」、と。石鎚の王子社の由来もまた、同様のものであったのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

古坊地蔵堂;午後12時29分_標高632m
西の遥拝所から仁王門に戻り、遍路道を湯浪へと下る。「湯浪 3.3km」とあるから仁王門のある辺りの標高735mから湯浪の標高185m地点へと、3.3キロを550m ほどを一気に下ることになる。今回は逆打ちであるので下りではあるが、今治市にある59番国分寺から順に札所を打てば、大頭から湯浪を経ての上りとなるわけで、四国札所の難所のひとつと称されるのも納得できる。





遍路道を下ると道端に舟形地蔵丁石が佇む。愛媛県学習センターの資料によると、「湯浪地区では昔から、横峰寺への登り道の舟形地蔵丁石のほとんどは、「寿し駒」によって建てられたと語り伝えられてきたという。「寿し駒」本名日野駒吉(1873~1951) は、「西條人物列伝」(『西條史談』)によると、周桑郡玉之江(東予市)に生まれ、西條吉原(西条市吉原東)ですし屋を営むかたわら大師信仰に生涯をかけたことで知られる人物である。先達として本四国50回・小豆島島四国100回・石鎚登山100回という行者信仰の旅を重ねるとともに、大師蓮華講(れんげこう)を組織したといわれる。西条市の六十四番前神寺境内には、大正5年(1916)、日野駒吉が蓮華講員に呼びかけ、寺に寄進した弘法大師修行の石像が立っている。その右には、大正15年(1926)に建立された五輪塔の日野駒吉頌徳碑(しょうとくひ)が立っている」、とある。
仁王門から20分弱。杉並木の中を下り、小さな沢を越えると古いお堂がある。「南無観世音菩薩」の赤い幟が建つ道内には特に何も祀られてはいないようだが、本尊は横峰寺の大師堂に祀られる、とか。堂の周囲には六地蔵や石仏が佇む。

滝;午後12時 51分_標高412m
雑木が倒れ荒れた沢に沿って下る。下るほどに大岩が沢に転がる。地蔵堂から1キロほどを200mほど下ると小滝が現れる。3mほどの高さがありそうだ。

巡礼道入口;午後13時17分_標高276m
滝から1キロ程、「湯浪1.0km 横峰寺1,9km」といった道標をみやりながら歩き遍路の山道を下ると舗装された県道147号(県道石鎚丹原線)に出る。ここが今治市にある59番札所・国分寺から西条市小松町大頭、湯浪を経て横峰寺に上る歩き遍路の上り口である。




○四国のみち
ここまで61番札所・香園寺から60番札所・横峰寺をへて12キロほどの歩き遍路道を辿ったが、現在このルートの随処に「四国のみち」との標識があった。WIKIPEDIAによれば「四国のみち」とは、四国全域にある歴史・文化指向の国土交通省ルート(1300㎞)と、長距離自然歩道構想に基づく自然指向の環境省ルート「四国自然歩道」(約1600km)からなる遊歩道。起点は徳島市鳴門町、終点は徳島県板野郡板野町となっている。全部で11の区間から成り、この香園寺・横峰寺ルートは10番の「瀬戸の海、燧灘を感じながら、点在する霊場をめぐる東予から中讃へのみち(愛媛県今治市と西条市(旧東予市)の境から、香川県善通寺市までの約160km)」のハイライトのひとつ。あとひとつのハイライトは香川県と徳島県にまたがる札所66番・雲辺寺への山道である。


御来迎所;午後13時31分_標高189m

県道147号(県道石鎚丹原線)を妙之谷に沿って下る。前方には東西に伸びる尾根が見えるが、首尾よくいけばその尾根道を辿り香園寺からの山道にあった分岐点に進めることになるのだが、などとあれこれ考えながら20分ほど歩くと道脇のコンクリートの擁壁に「御来迎所 文化十四年」と刻まれた石碑、「横峰寺御来光出現」と刻まれた石碑、そして祠の中に地蔵様が祀られている。
祠のお地蔵さまは「三十丁の地蔵丁石(大師坐像とも)」、「横峰寺御来光出現」には「弘法大師曰く神仏は死んでも無きものではない 生きて此世で救けるものなり 教えに従うところには自由自在に現われて救けるものなり 昭和48年9月12日 出現の時刻10時30分より40分まで」と刻まれ、その横には高知市の58才の女性と56才の男性の名前と住所、そして「同行2人拝す」と刻まれていた。妙ノ谷川の滝(現在は堰堤になっている、と)辺りで、日の光を受けたお大師さまの姿が見えた、と伝わる。

尾根道へのアプローチ地点;午後13時48分_標高204m
御来迎所から湯浪(ゆうなみ)の集落に。ここから東西に延びる尾根に這い上がり、香園寺からの巡礼道の途中にあった尾根の分岐点に進もうとの計画。妙之谷川の支流を越え、山麓の農家の辺りから尾根への道を探すが、それらしき踏み分け道が見つからない。藪漕ぎ専門の弟はミカン畑を這い上がり、道を探すが見つからない。弟ひとりであれば藪漕ぎをして尾根に這い上がったのだろうが、腰が引けている私を見て尾根への藪漕ぎを断念したようである。 後から地図を見て確認すると、この尾根は単純に東西に伸びているわけではなく、途中に山塊に切れ込む沢があり、一旦北に進み、しばらくして東西に延びる尾根に乗り換えるようであった。
予定にしていた尾根道ルートを諦め、遠回りではあるが、妙之谷川に沿って高速道路の松山自動道辺りまで下り、そこから松山自動車道に沿って車のデポ地点である大谷池へと進むことにする。

尾崎八幡神社;午後13時58分_標高172m
県道に戻り妙之川の本流と支流が合流する辺りに尾崎八幡。参道鳥居の先に古き趣の拝殿、本殿。「おざき」の由来は「突き出した台地の先端=小さな崎」を指すことが多い。妙之川の本流が支流と合流する突起部分にある故の命名だろうか。それとも、杉並区の尾崎地区の地名に由来によれば、源頼義が奥州征伐の折、白旗のような瑞雲が現れ大宮神宮を勧請することになったが、その頭を白旗地区、尾の部分を尾崎とした、と言う。この地の尾崎も同様に「頭」に相当する地区があるのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

太子堂;午後14時32分_標高84m
尾崎八幡神社から3キロ弱進むと道脇に大師像と祠。太子堂と称される。地名は「馬返」とある。馬返の由来は不詳だが、日本全国にある馬返の由来は、険路で馬を下りたところ、女人禁制・牛馬禁制の地の境の地名といったものが多い。この地の馬返由来を考えて見るに、昔の遍路道は現在の県道と異なり、大郷(おおご)地区で左に大きくカーブする辺りで分岐し、県道の50mほど上の杉林の中を進んでいたようである。険路であったのだろう。

高森神社;午後14時45分_標高51m
大師堂から1キロほど「山ノ神」地区などと言う興味深い地名がある。農村では春になると「山ノ神」が山から降りて「田ノ神」となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。地名の「山ノ神」とは、稲の生育を守っていた「田ノ神」が収穫を終え帰ってゆく場を示すことも多い。この地の田ノ神の由来は如何なるものであろう。因みに山ノ神は一般的に女神であるとされ、これが妻のことを「山ノ神」と称する所以ではあろう。
田ノ神地区を進むと道脇に、誠にささやかな社がある。パイプもどきの鳥居と小祠。小祠の前には車のホイールが無造作におかれていた。その脇には愛媛出身の政治家・村上誠一郎氏(大蔵政務次官当時)寄贈らしき石碑が建つ。幸福の栞といった内容のもので高森神社の縁起とは関係ないものであった。
縁起などは全くわからないが、相模にある高森神社は加茂族の祖である高彦根命を祀っているわけで、西条市には加茂族の本拠地がその名も加茂川の東にあり、加茂神社も鎮座する。この高森神社も加茂族に関わる祠であるのだろうか。因みに、三河の松平家は賀茂神社の社家である加茂氏の末裔という説があり、徳川の三つ葉葵は加茂氏の二葉葵が源との説もあるようだ、

露出地層?;午後15 時5分_標高35m
妙之川に沿って下る。川の所々で目にするこの川の川床、護岸工事をしないで自然のままに残している崖面の岩の形状に惹かれる。鋸状の川床の岩盤、柱条になった崖面の岩肌などである。西条市は中央構造線が地区西武を縦貫しており、中央構造線に沿った地域では丹原の中山川の衝上断層のように、古代期からの地質が露出されているところがあると言うが、護岸工事を逃れ露出されたままの地質は、なにか意図的に残された断層のサンプルなのだろうか。地質学的に門外漢の私には詳細はわからないのが少し残念である。


松山自動車道;午後15時7分_標高35m
露出地層(?)のすぐ先に松山自動車道(高速道路)が走る。ここからはショートカットをと、松山自動車道に沿って大谷池まで進むことにした。真っ直ぐ進み、国道11号大頭(おおと)交差点へと進めば妙雲寺とか石土神社といった寺社が四国札所ゆかりの寺社があったのだが後の祭り。別の機会のお楽しみとする。
○お山道 大頭から湯浪、横峰寺を経由して石鎚山に登る道は「お山道」として親しまれた。大大頭とその東の妙口(ようぐち)地区は藩政時代より讃岐街道の宿場町としえ賑わったようである。
その石鎚への西の登山口であるお山道に沿ってあるこの地には石土神社と妙雲寺があり、神仏混淆で蔵王権現を祀ってきた。妙雲寺は札所60番横峰寺の前札所・石鎚登山者の礼拝所として賑わった。

藪漕ぎ;午後15時37分_標高99m
松山自動車道に沿った脇道を東に進む。松山自動車道が瀬戸内海を跨ぐ「しまなみ海道」へと進む「今治小松自動車道」と分岐する「いよ小松ジャンクション」辺りで東に向かう道がなくなる。
ジャンクション手前で自動車道を跨ぎ国道11号まで続く道はあるのだが、それでは結構大回りとなるので、自動車道に沿って道なき道を藪漕ぎして進むことに。畑地の辺りでアプローチ地点を探し、成り行きで藪を進み、自動車道脇まで引っ張られながら藪漕ぎすること約30分、午後16時7分に大谷池脇の道に下りることができた。

車デポ地点;午後16時41分_標高115m
車のデポ地点に向けて道を進むと道脇に「道前道後農業水利事業」の案内;雨量の少ない道前道後平野に農業用水を安定的に確保するため、昭和に入り恒久的な用水対策が実施され、昭和32年(1957)から10年かけて面河ダムや道前道後の両平野に水を送る施設を農林省が建設。現在では、古くなった施設の改修と、新たな水需要に対応するため、東温市に佐古ダム、西条市丹原町に志河(しこ)川ダムを造りより安定した農業がおこなえるようになっている。 虹の用水;面河ダムから道前道後平野に届けられる水はいくつもの山並みを越えてやってくる水の連なりが、まるで虹のようであるので、「虹の用水」と呼ばれている。面河渓谷の水をひくにあたっては高知県の協力がなければ完成できなかったため、「感謝の用水」とも。
大谷池;大谷池の1キロ上流に面河ダムより送水している農業用水が地下のパイプをとおして導かれる(通称;右岸幹線用水路)またすぐ傍らに分水工と呼ばれる建物(通称;道前右岸10号分水工)があり、ここのバルブを開き、すぐ下流にある水路を通り大谷池に農業用水を送る、とあった。

地図を見ると、面河ダムに貯留された水は、四国山地の山塊を隧道(トンネル)で抜き、中山川の逆調整池まで流下。逆調整池で道前平野側と道後平野側に分水され、道前平野側では逆調整池で中山川に放水され、流下した水を中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で道前右岸幹線水路と、道前左岸幹線水路に分水。道前左岸分水は南下するが、道前右岸幹線水路はこの大谷池を経て加茂川辺りまで続いている。
また、中山川水系志河川に建設された志河川ダム(平成16年度に本体工事に着手し、平成22年度に完成)に貯留された水は、中山川を横断する水管橋を通り、上述した両岸分水口に放出され、右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水している、ようである。

大谷池の西岸を進み、車で乗り入れた東岸の道と合流、香園寺の奥の院へ。車のデポ地点まで車を取りに行ってくれる弟を奥の院で待ち、全行程;24キロ。8時間の歩き遍路を終える。 

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