2013年8月アーカイブ


四国山地一の谷沢遡上;寒風山と笹ヶ峰の谷を下る桑瀬川支流の一の谷を遡る 夏休みのとある週末、還暦を越えた兄弟3人揃っての沢のぼり。山行、沢遡上の経験豊富な弟ふたりとは異なり、古道歩きの成り行きで峠越えのために山に上り、酷暑の町歩きを避けるための沢遡上といった、「何ちゃって」山行人・沢上リストの私ではあるので、ほどほどの沢を、ということで愛媛の面河渓谷でも、ということになっていた。が、結局は愛媛県西条市から寒風山トンネルを抜け、高知県いの市の寒風山と笹ヶ峰の間の谷を下る吉野川水系桑瀬川の支谷 である一の谷となった。

一の谷に決まった経緯は、弟の山仲間が予定日前日に弟のHPの掲示板にレポした一の谷沢上りのレポート見て、結構面白そうな沢とフックがかかった、から。面河渓谷のピチピチ・チャプチャップ・ランランランから一転、滝あり淵あり、どうみても藪漕ぎ必至の大滝の高巻きなど、結構それなりの沢上りとなった。この沢は四国在住の弟も初めてのようではあるが、何せほとんど毎週山に入っている猛者ではあるので、藪漕ぎで道に迷ってもそれなりに林道へと「土地勘」で連れて行ってくれるだろうと、安心して兄弟3人一路一の谷屁と向かった。



本日のルート;寒風山トンネル>寒風山隧道に上る旧道>林道・寒風山大座礼西線林道に入る>一の谷橋付近に一台デポ>寒風山トンネル出口付近まで旧道を戻る>「一の谷やかた」近くに一台駐車>「一の谷やかた」脇に一台駐車>入渓>広い川原>深い淵と滝>軽い薮漕ぎで沢に復帰>浅瀬を進む>次第に岩場>V字谷>這い上がると両岸にせり出した岩場>岩場の端の小滝を越える>幅が広くなる>小滝と浅瀬>大きな滝で滝の左岸を高巻き>一度尾根に上る=西の山稜が広がる>急斜面を沢に復帰>倒木の多い岩場>岩場>滑床>大岩>淵と左端に滝=シャワークライム>左右が岩場の浅瀬>浅瀬と小滝>倒木を乗り越え>大岩ゴロゴロ>浅瀬と小滝>大岩>2m滝>大きな滝>滝の右岸を高巻き=岩場まで上り>急斜面を薮漕ぎで沢に復帰>広い浅瀬>大岩の両側に数段ある小滝>大岩の左右から数段ある滝=シャワークライム>浅瀬と岩場の繰り返し>滑床>岩場>淵と小滝>淵と左端に小滝=シャワークライム>淵と小滝>淵と小滝>高い滝>巨大な滝>滝の左岸を高巻き>巨大な岩盤が延々と続きや藪漕ぎ>岩盤が切れる辺りで尾根道へ>林道を確認しトラバースで藪漕ぎし尾根道に>林道

寒風山トンネル
実家の新居浜市から国道11号を西に西条市へと2台の車で向かう。一台は長崎の弟の車、一台は高松の弟の車。到着地点まで2台で走り、一台を到着地点近くに置き、あとの一台で出発地点まで戻る。着替えやトレッキングシューズを到着地点にデポした車に置けるので沢上りの荷物が減り結構楽になる。
国道11号を加茂川に架かる加茂川橋交差点を南に折れ国道194号を進む。いくつかの短いトンネルを抜け14キロほど進むと寒風山トンネル。全長5432m。トンネル内に愛媛県西条市と高知県いの市の境があるこのトンネルは昭和53年(1978)の工事着手から平成11年(1999)の一般供用の開始まで、21年の歳月をかけて建設したもの。
この寒風山トンネルが出来る前にも、愛媛の西条から高知の「いの」に通じる道はあった。とはいうものの、愛媛と高知の両県の境界部分、標高1120mの山塊を945mにわたって穿った寒風山隧道(昭和39年(1964)年に開通)に通じる道は、愛媛・高知両県とも急な斜面の険路であり、また隧道自体も狭いものであったので、とても気楽に県境を越えるといったものではなかった。実際、この隧道ルートを通って高知に抜けたことは一度もなかった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

一の谷橋
寒風山トンネルを快適に通り抜ける。一直線で思わずスピードが出てしまうのか、トンネル内の退避スペースには白バイが違反者を待ち構えていた。寒風山トンネルを出るとすぐ折り返して「寒風山隧道」に通じる旧道を上る。ヘアピンカーブの連続を寒風山隧道のすぐ近くまで上ると右に折れる林道がある。この「林道・寒風山大座礼西線」に入る。ダートの路面に四駆は苦労しないが、二駆はパンクを注意しながら注意深く進み「一の谷」に架かる「一の谷橋」近くに駐車。デポ用の車に着替え等を車に納め、あと一台の車で入渓地点である旧道入口部近くの「一の谷やかた」脇の駐車場に戻る。

入渓
「一の谷やかた」と看板のある店脇の駐車場で入渓準備。駐車場脇から沢にはいると広い岩の滑床。さあ出発、といった時に、なんでもない岩場でスリップ&大転倒。足首を捻る。少々痛みが残るが、ここで引き返したら洒落にならないので、痛みの足をカバーしながら歩き始める。

淵と3m級の滝
ほどなく穏やかな深い淵と3m級の滝。美しい。しかし淵と滝に遮られ川筋を先に進めそうにない。スタート早々に滝の右岸を高巻き。川筋に沿って道があるわけでもなく早速に藪漕ぎの洗礼となるがすぐに沢に復帰。





大岩に挟まれた浅瀬
大岩に挟まれた浅瀬を進む。浅瀬の足元は細石が川床に埋まる。足元が細石に適度に埋まり、誠に気持ちがいい。

V字の岩場
先にV字の岩場。左右の岩を手で押さえ体を支え足掛かりを探す。また、片方は腕、もう一方は脚で支えるといった姿勢でV字の岩場の端に進む。

両岸に迫り出した岩場
V字の岩場の端をよじ上ると、その先にも両岸に迫り出した岩場。岩場の端に小滝がある。

大滝
両岸に狭い谷筋に高い岩場といったゴルジュが現れる。その先に大きな滝が現れる。ここは乗り越えることは難しそう。しばし滝のシャワーを楽しみ高巻きのポイントを探し、左岸を高巻きすることにする。




高巻き①_午前10時20分
滝の左岸を高巻き。崖にルートを探し、トップを高松の弟が這い上がり、ロープで確保し崖上に。滝の高巻きへのルートを探し大きく迂回すると、一旦尾根道に出る。一の谷の東の谷筋を隔てて四国山地の山稜が一望のもと。そこから谷に向けて、滝を越える地点に向かって急な斜面を下る。



沢に復帰
無事沢に復帰。大岩と倒木がゴロゴロ。大岩の間の浅瀬を進む。岩の滑床を越し、岩場の小滝を這い上り進むと滝と淵に出合う。

3m級の滝と淵
淵の右岸の浅瀬を歩き、滝を這い上る。這い上った先の大岩の滑滝の中を歩いて進むと再び滝と淵が現れる。

5m級の数段の滝と淵
淵の左端に数段ある滝が下る。右岸の岩場を進み、滝の中央をシャワークライム。弟二人は滝のど真ん中を果敢に攻めるが、私はほどほどのシャワーを浴びるだけで十分。
広い浅瀬と小滝
左右が岩場の浅瀬を進むと、広い浅瀬と小滝に出合う。この浅瀬も細石が足元で心地よい。

倒木
小滝を上り先に進み岩の左右に別れる小滝を上ると、その先は倒木がゴロゴロ。倒木を乗り越えたり、潜ったり、普段使わない筋肉が活躍する。大岩に挟まれた浅瀬を進むと広い浅瀬と小滝に出合う。

3m級滝
浅瀬の小滝を上り、滑床、大岩に挟まれた浅瀬を進み岩場を下る小滝を這い上がり、3m級の滝をクリアすると大滝が現れる。

大滝
10mほどはあるだろうか。滝壺に入りシャワーを浴びる弟ふたり。私は写真班で十分。大滝の前でちょっと休憩。休憩の後で高巻きのルートを探す。

大滝左岸を高巻き②_午前11時39分
左岸の岩場にルートを見つけ這い上がる。ガレ場に注意しながら大きく高巻きし急斜面を薮漕ぎで下り大滝をクリア。大岩と浅瀬の滝上に出る。

3m級の滑滝
浅瀬を進み、大岩がゴロゴロの岩場を進み、浅瀬の先に大岩の上を幾流にも別れた3m級の滑滝が現れる。


2段5m級の滝
大岩の岩場を進むと淵と大岩の左右から2段5m級の滝が岩を滑める。シャワークライムで滝を上る。









滑床


滝を上ると岩場と浅瀬の繰り返し。ほどなく小規模ではあるが滑床に。岩を這って流れる水が心地よい。

淵と滝
先に進むと淵があり、その先に小滝。

淵と滝
その先にも淵があり、淵の左端に3m級の滑滝。

2m級の滝
岩場を進むと淵がありその先に滝。淵の中央部に2m級の滝。滝をクリアし先に進む。












大滝
両岸が迫る岩場を進み2m級の滝を上ると少し傾斜のある10m級の大滝。トップの長崎の弟が這い上がるが、その先に途方もなく大きな滝がある、とのレポート。残りの二人は10m級滝手前から高巻きするルートを探す。








高巻き③_13時
滝の左岸の岩場にルートを見つけ、上からトップがロープを下す。途中の崖端ではスリップ・滑落を注意し、念のためロープをハーネスに固定し崖上に這い上がる。高松の弟がルートを探しがてら巨大な滝まで下りるが、私はのんびり崖場で休憩。

藪漕ぎ・林道へ_午後14時11分
滝を高巻きすべく藪漕ぎで上へと這い上がる。が、そこには巨大な岩盤が行く手を遮る。岩盤の切れ目を求めて岩盤裾を進む。いくら進んでもなかなか岩盤が切れない。誠に巨大な岩壁である。
分ほど岩壁に沿って進み、岩壁の高みが徐々に低くなり、尾根筋に。この辺りの山を歩き倒している高松の弟が尾根筋から林道を確認。再び藪漕ぎで沢筋方向へと進み、抵当な所で尾根筋に這い上がり林道に出る。

弟のHPにレポした方はこの滝の右岸を高巻し、藪漕ぎの結果、登山道に出たようであり、そこから林道へと、戻ったとのこと。そのレポでオンコースは左岸高巻ではないか、とあったが左岸の高巻はできない。右岸を高巻きし、適当なところから藪漕ぎしながら沢に下るしかないようである。

デポ地点到着_午後14時45分
巨大な岩盤のためもあって、一の谷の沢筋から相当東に引っ張られていたようだ。林道・寒風山大座礼西をデポ地点へと。林道を進むと谷筋があった。一の谷の支谷だろう、か。一の谷橋を渡りデポ地点の車に到着し、本日の一の谷沢遡上を終える。
昭和の森公園を分水界とする三つの川を辿る そのⅡ;鹿島川を印旛沼に下る 先回の散歩では当初の予定である鹿島川を印旛沼へとの散歩が、村田川の谷戸に入り込みその景観の美しさもあってそのまま歩を進め、東京湾に注ぐ流れに沿って市川まで辿った。単なる自然豊かな地と思っていた村田川流域には、はるか古い昔からの歴史があり多くの興味深い発見があった。もう少々村田川流域の「深堀り」を、とは思いながらも、今回は当初予定の鹿島川を辿る。
成り行きで源流に、といった先回の反省及び学習から、今回は鹿島川の水路最上端と言われる土気駅の少し東北にある調整池から散歩をはじめる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

その調整池から如何にも水路跡といった地形を辿り「昭和の森」にあるという本来の源流点を確認し、その源流点から鹿島川の流路を下ることにする。鹿島川が印旛沼に注ぐ佐倉まではとても1回ではいけそうもない。地図を見て、ほどほどの距離で電鉄の駅があるところは千葉都市モノレールの千城台。おおよそ20キロほどあるだろうか。今回はどのような谷津田の景観が広がり、新たな発見があるのか楽しみである。



本日のルート;JR土気駅>鹿島川の水路最上流点の調整池>本寿寺>あすみが丘東 房谷(ぼうやつ)公園>「ホキ美術館」>昭和の森>小食土廃寺>鹿島川の源流部>鹿島川の水路最上流点の調整池>上大和田町;宝蔵院・熊野神社>下大和田町;鹿殿神社>千葉東金道路>千葉市若葉区;東金街道>正八幡宮>宮古橋>古泉町;子安神社・六社神社>御霊神社>御成道;平川>第六天神社

JR外房線・土気駅_午前11時30分
先回とおなじくJR外房線・土気駅で下車。今回は駅の少し北東にある調整池に向かうため北側に下りる。先回歩いた駅の南は再開発されニュータウンである「あすみが丘」が広がるが。駅北は昔ながらの町並である。地名も千葉市緑区土気町。現在は一部を除きほぼ町域は外房線の北に限られるが、元の土気町は誠に広いものであった。
WIKIPEDIAによれば、明治22年(1889)の町村制施行にともない土気町、大稚村、大木戸村、小山村、越智村、高津戸村、上大和田村、下大和田村、小食土村、板倉村の一部が合併し、山辺郡土気本郷町が発足。結構広い。明治30年(1897)には山辺郡と武射郡が統合し山武郡が発足し山武郡土気本郷町。昭和14年(1939)には山武郡土気町。昭和44年(1959)に千葉市に編入され緑区土気町となる。但し、先回の散歩で、旧土気本郷町を構成していた村はそれぞれ緑区の町として分かれているようだし、土気地域の一部が「あすみが丘東」となり、現在の町域となっているのだろう。土気という地名の由来は先回の散歩にメモしたのでここでは省略。

鹿島川の水路最上流点の調整池_午前11時35分
土気駅の北側から駅前を通る大網街道を東に向かい、鹿島川の水路最上流点の調整池に。村田川の源流部を鹿島川のそれと間違えた先回の反省を踏まえ、水路最上流部から地形をチェックしながら源流部を捉えようとの思いである。
駅前を通る大網街道は近世、佐倉藩の外湊として発展した現在の千葉市の中心から外房を結んだ歴史ある道筋。道を東に進み、丘陵へと上る道の手前を少し北に入ったところに調整池を確認。後は、地形を見ながら周囲より低いところをひたすら昭和の森まで辿ることになる。

外房線の踏切_11時39分
外房線の踏切を越える。踏切の東には昭和の森へと続く丘陵が続く。現在の外総線は電化され、何事もないように大網まで走るが、明治29年(1896)1月に蘇我と大網間が開通した頃は、土気と大網間のこの丘陵の急峻な地形をトンネルや橋の建設をできるだけ少なくするような地形を選び、現在の路線と比較しカーブが多く、短いけれども急勾配のトンネルからなる路線となっていた。現在の路線とは75%異なっているとのことである。
土気と大網間は1000m進んで25m上るという急勾配の難所であり、当時の蒸気機関車の馬力では濡れた線路ではスリップし立ち往生することもあったようである。当然のことながら煤煙もすさまじく、そのためもあってか、その間にあった旧土気トンネルは昭和29年(1954)からは切り通しとして開削工事がなされたようである。その切り通しは現在埋め直されている、とか。次回の昭和の森分水界散歩では太平洋へと注ぐ川筋を下る予定であるが、その際にでも旧路線の路線跡を「かすって」みたいと思う。

本寿寺_11時43分
踏切から道を上るとその南に再び調整池。鹿島川の源流への想定水路上でもあるので、この調整池からも、先ほどの大網街道北の調整池にも養水されているのだろう、か。調整池の東に林があり、そこに本寿寺がある。ちょっと立ち寄り。
竹林の丘を上ると結構な本堂。縁起によると酒井氏が土気城を築城した時、千葉市内浜野町にある本行寺の日泰上人を招き城の裏鬼門に建立。酒井氏は戦国時代に東金を拠点に上総北部を支配した地方領主。小田原の後北条に抗するも敗れ、小田原北条が滅亡した後は徳川の旗本として仕えた。
このお寺さまは東上総七里法華の根本道場として、酒井氏の領内の寺院を日蓮宗に改宗させる宗教政策の中心寺院のひとつであった、とか。七里法華とは、酒井定隆が海難から救ってくれた日泰上人と約束したもので、一国一城の主となった折には、領地内をすべて日蓮宗の寺院とするといったもの。海難から救われた、っていう話は「半僧坊」をはじめ枚挙に暇ないので、縁起のパターンのひとつではあろう。境内には日泰上人や酒井氏5代の供養塔、七里法華根本道場の碑などがある。
境内を西に進み調整池脇の竹林・藪に入る。湧水跡か調整池への踏み分け道でもあろうかと藪漕ぎをするが、どうも南には進めないようなので引き返し、元の調整池の西を上る道に戻る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

あすみが丘東 房谷(ぼうやつ)公園_午前11時56分
調整池の西の坂を上ると調整池の南に整地されていない広場。広場の西には「あすみが丘東」のニュータウンが迫ってくる。広場を抜け水路跡を探すと、道路を隔てた南に少し蛇行する緑が見える。道路を渡ると「あすみが丘東 房谷(ぼうやつ)公園」。蛇行の具合からして、如何にも水路跡の風情である。公園の南端には小さい土管が見える。水を通すものかとチェックすると、狸の通る「けもの道」とあった。

「ホキ美術館」
房谷公園の周囲は「あすみが丘東」ニュータウンの宅地で埋まる。房谷公園を越えた辺りからはさすがに地形を読んで水路を辿ることは難しそうになってきた。こうなれば、とりあえず「昭和の森」の最上部まで進み、そこから逆に房谷公園まで地形を読みながら下ることに方針転換。 房谷公園の南の宅地を進み、ホキ美術館脇を通り昭和の森の入口に。
「ホキ美術館」は、その名前だけから判断し、何故かわ知しらねど前衛芸術っぽい美術館と思いパスしたのだが、メモする段になってチェックすると、ホキは保木氏と言う実業家がつくった写実絵画専門美術館であった。作品を見るに写真以上に精密な絵画に結構惹かれる。次回の外房への水路を辿る散歩の際には、必ず足を止めようと思う。

昭和の森_午後12時5分
ホキ美術館脇の道を進むと昭和の森公園の緑が見えてくる。成り行きで進むと、昭和の森出入り口があり、大きな駐車場も見えてきた。先回進んだ昭和の森は公園全体の西端部分の谷戸・森林地帯であり、メーンの公園部分はこちらのほうであった。
昭和の森のHPの案内によると:昭和の森は、市の中心部から東南に約18km、緑区土気地区に位置する面積105.8ha、南北2.3km、東西0.8km の市内最大、県内でも有数の規模を誇る千葉市の総合公園。公園の西側は、標高60mから90mの下総台地に連なり、東側は九十九里平野と下総台地を分ける高低差約50mの崖地(海蝕崖)に接する。展望台(海抜101m)からは、九十九里平野と太平洋の水平線が一望。
公園の一部が県立九十九里自然公園に指定され、良好な自然環境が残されているため、四季を通じて草花や樹木、野鳥や昆虫など多くの種類の植物や生き物が見られ、平成元年には、わが国を代表する公園の一つとして「日本の都市公園100選」に選定された、とあった。

小食土廃寺_午後12時12分
芝生の広がる公園を進む。最高地点から北に向かう窪みを探して芝生と林の境目辺りを辿ると「小食土廃寺」の案内があった。「やさしど」と読む。「小食土」の由来は先回の散歩メモに任すとして、案内をまとめると、天平13年(741)に聖武天皇が国ごとに国分寺・国分尼寺建立の詔を発すると、各地の豪族は競って寺院を建てた。昭和の森公園内にも「小食土廃寺」という寺の跡が見つかった。8世紀後半のものであり、東西15m、南北12mの御堂の土台や倉庫跡が見つかっている。また、出土した瓦は市原にある上総国分寺跡のものと同じで、この地域が国分寺と密接な関係があったことが推定される、とあった。
先回の村田川散歩も含めわかったことだが、千葉市に編入される以前の広域土気町(あすみが丘、あすみが丘東を含めた昔の土気村、大椎村など)は、内陸部であるにもかかわらず古墳時代から栄えていたようだ。古墳群が存在し、大化の改新後には「総の国」から上総国山辺郡となったこの辺りには、この小食土廃寺だけでなく、聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔が出るより先に大椎廃寺(あすみが丘7丁目)が建立されている、とのこと。また、この昭和の森には、この小食土廃寺以外に8世紀の古代神社跡をもつ荻生道遺蹟も発掘されているようである。平安末期になると、先回の散歩でメモしたように大椎城が築かれ、平忠常は大椎城を拠点として、上総・安房・下総を制圧。子孫は後に千葉氏として栄えることになる。単なる気まぐれで訪れた土気地域であるが、上総の「中核地帯」と言ってもいいような地域であった。

鹿島川の源流部_午後12時15分
鹿島川の源流部を探すに、それらしき谷戸といった源流部は見つからない。公園に整備するときに本来の谷戸部分などを整地してしまったのだろう、か。現在、昭和の森公園には芝生のところどころに雨水を集める「集水枡」が埋められているようである。
仕方なく、芝生の広がる公園最上部から北へ向かう窪みを求め、その窪みに沿って下ると、その窪みは公園北の林を迂回しその北側に回り込み、その窪地の公園内の終点部はかすかな湿地となっていた。窪みの終点の先には道路を隔てて「ホキ美術館」があった。これで不明であった房谷公園から昭和の森までの水路跡がぼんやりと見えてきた。
ぬかるみの公園内窪地最終地からガードレールを乗り越え、ホキ美術館の東の道を北へと進み、ほとんど凸凹の痕跡など残らないニュータウンの中を成り行きで進み房谷公園に。そこからは、先ほど上ってきた道を下り、大網街道北にある調整池に戻る。これからが水路として続く鹿島川散歩のはじまりとなる。

再び鹿島川の水路最上流点の調整池_午後12時35分

源流点からの水路を確認しながら出発地点の調整池にやっと戻ってきた。周囲は金網で囲まれ近づくことはできない。案内によれば、「土気調整池;集水面積180ha 私設面積2ha 総貯水面積68,000? (雨水貯水量56,000? 農業用貯水量12,000?;管理者 千葉市下水道局管理部 下水道維持課)、とあった。鹿島川の最上流点は「下水道」扱いということ、か。
調整池の西側の道を下り、調整池からの鹿島川の出口をチェックしようと思うのだが、池の北側は水草の類いのブッシュで覆われている。中に入り込み水路まで進もうとしたのだが、あまりのブッシュに諦め、元の道に戻り農道を回り込み田圃の畦道を調整池まで戻る。調整池からの水の出口を確認し、水路下りをはじめる。

水路が合流_午後13時5分
金網に挟まれた細流からはじまる鹿島川は左右を丘陵に囲まれた美しい谷津田の中を下る。田圃脇の細い灌漑用水といった趣であり、川といった風情にはほど遠い。谷津田には農家は一軒も見当たらない。ほどなく、右手の丘陵脇から金網に囲まれた水路が鹿島川に合流する。鹿島川を囲む丘陵崖下には幾多の湧水がある。という。この水路も湧水の導水であろうか。それとも、丘陵上にあるゴルフ場に池が見えるが、そこに溜まる水の調整のための水路であろう、か。Google Mapで見るに、ゴルフ場の調整池の排出口らしき位置とぴったり水路が重なっているので、ゴルフ場の調整池からの流れのように思える。

宝蔵寺_午後13時23分
田圃の畦道といった鹿島川の堤を下り「石井フラワーファーム」のビニールハウスをやり過ごし、未だ田圃の畦道といった鹿島川の土手を覆う草をかき分けながら先に進む。このあたりまでくると農家が見えてくる。上大和田地区の集落。古くは下大和田地区と会わせて旗本久保勝正の領地。勝正は織田信雄、秀吉に仕えた後、秀忠(後の2代将軍)に仕え、大番の組頭を勤め上総国山辺郡のこの地に領地を賜わり、関ヶ原や大坂夏の陣にも参陣した。寛永7年(1630)勝正の代のとき、領地のうち200石を弟勝次に分与し上大和田村として分村した。上・下大和田村は幕末まで久保氏の支配が続いた。
丘陵地にお寺さま。古い三門の残るこの寺さまの本堂は明治の学制発布の折り、大和小学校が仮設された。明治6年(1873)のことである。先回の散歩の折りにも出合った善徳寺や長興寺、そして常円寺など、お寺様が小学校として機能したケースが多い。

熊野神社_午後13時35分
宝蔵寺から少し北に熊野神社。この地の産土神ではあるが、鳥居や拝殿などは平成11年(1999)新築されたもの。狛犬までも平成11年のもの。この年に全面的な改築がなされたのだろう。奥の本殿は昔の名残を残す。全国3000社とも称される熊野神社であるが、235社の福島に次いで千葉県には189社と全国で二番目に多い熊野神社が佇む。因に本家本元の和歌山は40、出雲(島根)は31社と以外に少ない。以外に多いのは熊本158、岩手176、宮城133、愛知125、静岡102社など。如何なるプロセスでこのような普及となっているのかちょっと好奇心が刺激される。

鹿殿神社_午後13時51分
丘陵裾の道を進み県道131号と交差。鹿島川はその西で萩ノ原天満宮のある千葉市緑区高津戸の谷戸から下大和田の谷戸を下る小川と合流する。谷戸からの湧水や根垂れ水を集めてくだるのだろう、か。合流点にも興味を覚えるのだが、県道を北に少し進んだところに鹿殿神社がある。あまり聞いた事のない社の名前に惹かれて神社に向かう。
雰囲気のあるお宮さま。鳥居は天明6年(1786)に奉納されたもの。中央に継ぎ目が残る。参道は新しく平成16年に改修されたもの。狛犬はのっぺりとしている。風雪がもたらした故か、本来の姿かは不明。鹿と思えば鹿とも思える。拝殿にお参り。拝殿前の石灯籠には鹿が彫られていた。
由緒によれば、「御祭神武甕槌命 創立は百二代御花園天皇の御字寛政四年紀元二千百二十四年。百四代御柏原天皇の文亀三年(注;1503年)には古領主酒井定隆が参籠し、代々の武運を祈る。百十三代東山天皇の元禄年間に社殿を再興 住民が御神徳を仰ぎ、以来産土神として鎮際、今日に至る」とあった(注;「寛政」は「寛正」の表記ミスだろうか。御花園天皇の時代は「寛正」と思うのだが。寛正4年は西暦1463年。)。
武甕槌命(たけみかずちのみこと)は、日本神話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて出雲(いずも)国に下り、大国主命(おおくにぬしのみこと)を説いて国土を奉還させたことで知られる。鹿島神宮や春日神社で祀られている神様。鹿を社の名にしている所以、か。
○水準点
鳥居の右脇には水準点。散歩の折々に神社で出合う。先日草加を散歩したとき、谷塚駅近くの富士浅間神社にある慶応元年の銘の手水舎には高低測几号(水準点)の銘が刻まれていた。 案内によれば、「内務省地理寮が明治9年(1876)8月から一年間、イギリスから招聘した測量技師の指導のもと、東京塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在、瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社、下浅間神社の脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。当時、測量の水準点を新たに設置することはせず、主に既存の石造物を利用していました。市域でも二箇所が確認されています。この水準点が刻まれた時の標高は、三・九五三メートルです。測量の基準となったのは霊巌島(現在の東京都中央区新川)で、そこの平均潮位を零メートルとしました。その後、明治17年(1884)に、測量部門はドイツ仕込みの陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われることはありませんでした。以後、手洗石も明治40年代(1907~1912)と昭和7年(1932)に移動し、記号にも剥落が見られますが、この几号は、測量史上の貴重な資料であるといえます(草加市教育委員会)」とあった。また、同じく草加宿の北端にあった神明社にも同様の高低測几号があった。


千葉東金道路_午後14時17分
県道を離れ再び鹿島川に戻る。未だ農業用水路といった風情の川筋である。谷津田の広がる谷津(戸)の景観を楽しみながら進むと先に高い橋桁が見えてきた。千葉東金道路である。東金道路は京葉道路の千葉東ICから分岐し東金市に至る。
鹿島川とクロスする千葉東金道路の橋桁下はブッシュ状態。少し進むが足元が覚束なく撤退。東金道路が丘陵と接するところまで迂回し丘陵裾の道を進み、成り行きで道を進み鹿島川に架かる殿川橋交差点に。
殿川橋より再び鹿島川の土手を進む。殿川橋の先で千葉市緑区から若葉区に入る。心持ち川幅が広くなったようにも思える。が、未だ小川に変わりはない。谷津田も川の右岸は緑のみだが、左岸の県道126号筋には人家が見えてきた。道なき土手を進むと中野町と和泉町の境目あたりで東金街道と合流。道脇は自動車整備工場なのか運送会社といった会社があり、川筋から東金街道には力任せで押し上がる。

○東金街道_午後14時50分
東金街道は千葉市中央区本町1丁目の広小路交差点から東金市台方の東金病院前に至国道126号・128号の千葉県道路愛称名。その昔の東金街道は、江戸と木更津を結ぶ街道(上総道、木更津道、房総街道な度と称される)から分岐し松ヶ丘、鎌取、野田(現在の誉田)、土気を経由し大網に至る土気往還からの分岐道。土気往還を現在の松ヶ丘バス停で北に分岐し仁戸名、川戸を進み、千葉東金道路の大宮ICの少し西の坊谷津を経て佐和、川井地区を進む。そして野呂地からは中野、山田台をへて東金に向かった。千葉市街から弧を描くように野呂地区に向かう現在の東金街道とは異なり、京葉道路松ヶ丘ICあたりから大雑把医に言って一直線で野呂地区を結び、野呂から先は現在の東金街道辺りを進んだのではないだろうか。
土気往還とともに東金街道は、外房・九十九里海岸地方の物資流通路の役割を果たしていたが、特に九十九里海岸地方の海産物を、千葉を経由して江戸に運搬するための重要な陸送路であった。この東金街道は明治以降現在の東金街道が整備されてからはその重要性は失われ、付近の住民の生活道路となっている。

富田揚水機場_15時21分
若葉区中野町と若葉区古泉町を区切るように流れる鹿島川に沿って北に進む。川は未だ小川の域を出ることはない。土手、というか田圃の畦道も草が茂り、藪漕ぎならぬ草小漕ぎで進む。川の脇に鎌田揚水機場などを見やりながら北に向かうと川筋が西にその向きを変えるあたりに富田揚水機場。この辺りから川筋が少し大きくなる。地図をみると、川の東にゴルフ場のある大きな丘陵がある。その南には中野の谷戸も見える。この一帯からの湧水や根垂れ水を集めた水路なのだろうか。その水路が富田揚水機場手前で合流している。

富古橋_午後15時51分
左右を挟む丘陵に沿って西に流路を向けた鹿島川の南北の丘陵に社が地図に見える。ちょっと立寄り。まずは川筋を離れ北の丘陵にある正八幡宮に向かう。結構長い参道を上り拝殿にお参りし、次は逆の南の丘陵にある子安神社、第六神社に向かう。鹿島川には富古橋が架かる。富田町と古泉町を結ぶ故の命名だろうか。
橋を渡り古泉町の集落を歩く。立派な構えの農家を見やりながら道から少し入り込んだ、農家の一部といった緑の中に子安神社、そこから少し南に六社神社があった。通常、六社神社は六柱の神を祭神とすることによるが、律令制の総社の中には六所神社と称し、その国の一宮から六宮の祭神を勧請したものがある。国司が赴任の折り、領国の一宮から六宮まで御参りする手間を省くため、国府近くに建てられた、とか。

御霊神社_午後16時28分
富古橋に戻り地図を見ると左手に御霊神社と県道66号脇に第六天神社がある。ちょっと寄り道。富古橋を再び渡り集落を越えるとその先に緑の丘陵が見える。御霊神社はその丘陵にある。丘陵に囲まれた谷津田をぬけ御霊神社に。赤い鳥居の参道を上る。巨木に囲まれた社はトタン屋根のようなささやかな社にお参り。
御霊神社って、散歩の折々に出合うが、その祭神はさまざま。御霊・怨霊を鎮めるための創建がその本義であろうが、5柱の神々(五霊)を祀るもの、祖先神を「御霊」として祀る者などさまざまである。

鹿島川の支流・平川_午後16時35分
御霊神社の西に広がる谷津田に下りる。この谷津田の中を水路が通る。源流をチェックすると外房線・土気駅の北西あたりまで水路が続いている。そこから左右を丘陵に挟まれ、この地まで、途中千葉東金道路の野呂パーキングアリアの西辺りの谷戸からの水を東金道路の手前で集め、谷津田を下ってくる。水路は少し北に進み鹿島川に合流している。
先日の村田川もそうだが、いくつもの谷戸からいくつもの水路が合流しひとつの川となって下る。遥かの昔、この台地が浸食されて出来た丘陵が複雑に、かつ、重層的に重なり合いながら続いており、その幾多の谷戸から生まれる湧水や根垂れ水が上総の川の水源ではあったのだろう。
支流の流れる谷津田を成り行きで進み大六天手前の道に。道を西に進み支流を跨ぐ。橋に「平川」「中田橋」とあった。この川筋は平川であった。

御成街道_午後16時41分
道を大六天へと進むと道脇に「御成街道」、と。御成街道(東金御成街道)とは、徳川家康の「鷹狩り」のために、佐倉城主土井勝利に命じ、船橋と東金の間に造られたおよそ37キロの道のこと。両総台地の分水界を、坂道はS字としたほかは、ほぼ一直線に、約37㎞にわたって東西に延びている。
ルートをチェックすると、船橋駅の少し南東の船橋御殿>大神宮、県道8号中野木をへて成田街道入口交差点>ここから県道69号を一直線で進み京成線を越え、実籾交差点>国道16号とのクロスまで一直線に南東に進む>国道16号から東は県道66号を六方町の六方五叉路>六方五叉路から県道66号を離れそのまま一直線に進み県道64号マで進む>県道64号佐倉街道を少し南に下り、鎌池交差点で佐倉街道を離れ、総武本戦を越え、国道51号若松交差点まで南東に一直線に下り、千城台駅北東の御成台1丁目交差点>そのまま直線でお茶屋御殿跡>第六天>袖ヶ浦カントリークラブ北端>県道289号に当たる>東千葉カントリークラブ辺りで国道409号>南東に下り東金御殿のある東金駅付近に。確かにほぼ一直線のルートである。
この街道には、沿道の村々の農民たちが石高に応じて駆り出され「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」、「船橋大神宮と東金台方新田で狼煙を上げて直線を定めた」などという伝承があり、別名「一夜街道」、または「提灯街道」、「権現道」などとも呼ばれているが、実際は慶長18年(1613)12月12日(表記旧暦;新暦で1614年1月21日)から翌年の1月7日(表記旧暦;新暦で西暦1614年2月15日)にかけて造られたものである。
また、道路とともに、将軍が休息・宿泊する船橋御殿(現船橋東照宮)、御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、東金御殿(現千葉県立東金高等学校)もつくられた。
家康が慶長19年1月に初めて東金・九十九里方面を訪れて以来、秀忠や家光もこの街道を利用した。その後寛永7年(1630年)を最後に東金方面での鷹狩は行われなくなり、寛文11年(1671年)頃には3つの御殿も取り壊しになった。(東金御殿、御茶屋御殿ともに移築と伝わる建物が現存)。
御成街道は明治維新後各所で分断されたが、東金市田間から山武市小松までは千葉県道124号緑海東金線として現存しているほか随所に街道の一部が残り、また、八街市内の一部は市指定の史跡となっている(WiKIPEDIA)。

大六天神社_午後16時46分
御成街道を進むと富田入口交差点。交差点脇にバス停があり、「千城台」行きのバスがある。時刻表を見ると10分ほどで到着する。当初はもう少し北の川崎十字路辺りまで進み、そこから千城台の駅まで歩こうと劣っていたのだが、このような有り難い誘惑には抗する理由もなく、予定変更。ヒットエンドランで交差点脇にある第六天神社にお参りしバスで千城台に戻ることに。
大六天神社(第六天神社との表記が多い;以下第六天)とは、第六天の魔王を祭る社。第六天魔王と言えば、信長の信仰篤き社。こまかいことはさておき、その魔王のもつ破壊的部分が気に入り、常識や既存の価値観を破壊する己の姿をもって、第六天魔王と称した、と。中部・関東に多く、西日本にほとんどみかけないのは、その強力な法力を怖れた秀吉が廃社に追い込んだ、とか。
それはともあれ、神仏混淆の続く江戸の頃までは第六天神社においては、仏教の「第六天魔王」が祭られていた。それが、明治の廃仏毀釈の際、仏教色の強い第六の天魔を避け、祭神を神道系の神々に書き換えたり、第六+天神、を分解し、本来関係のない、天神様を前面に出したりもしているようである。

タウンライナー千城台駅
大六天神社を駆け足でお参りし、バスに乗り、タウンライナー千城台駅に。途中御茶屋敷殿といったバス停の案内を聞きながら、そのうちに東金御成道散歩もいいなあ、などとの想いをはせながら、駅から一路家路へと。距離20キロ弱。時間5時間程度の散歩であった。 
昭和の森公園を分水界とする三つの川を辿る そのⅠ;村田川を東京湾に向かって下る いつだったか、佐倉の散歩を楽しんだ時、鹿島川に出合った。特に鹿島川に思い入れがあるわけではないのだが、源流点を地図でチェックすると千葉市緑区の土気地区あたりまで続いていた。土気と言われても、全くその景観が想像できない。山間の集落なのかなどと思いGoogle mapで見るに、予想に反し結構開けており規模の大きなニュータウンらしき宅地も広がる。 鹿島川の流路は丘陵地に挟まれた低地を佐倉まで流れる。源流点最寄りの駅であるJR外房線・土気駅から佐倉までは結構距離があり、1回では終わりそうにない。また、途中で切り上げようにも、適当な電鉄駅まで20キロ以上はありそうだ。どうなることやら、などと思いながらも、常の如く事前準備をすることもなく、源流点はJR外房線・土気駅傍の「昭和の森公園」であり、土気駅北東辺りから開渠となって佐倉に向かう、といった程度の情報だけで散歩に出かける。

が、今回の散歩は結局、鹿島川ではなく村田川を下ることになった。後で分かったことなのだが、「昭和の森公園」は外房、東京湾、印旛沼方面の3方向の分水界となっていた。地形図を見るに、大雑把に言って、南北に連なる丘陵と東西に連なる丘陵が、土気と大網の間の少し南でクロスし逆L字形の丘陵を形成し、更にその逆L字形の内側に丘陵が見て取れる。逆L字形の東の河川は外房に、逆L字の外側と内側の南北の丘陵に挟まれた水路は印旛沼に、そして内側を東西に連なる丘陵に挟まれた水路は東京湾へとその流れを注ぐ。
そのような複雑な地形を知らないままに、如何にも源流点といった谷頭部から谷戸を辿ったのだが、それは鹿島川ではなく市川で東京湾に注ぐ村田川であった。いくら歩いても谷戸を挟む丘陵が北へ向かう気配がないため地図で確認すると村田川を下っていることがわかったのだが、川を挟む谷戸の景観の美しさもあり、鹿島川散歩を村田川散歩に切り替えた。この川筋も途中切り上げる電鉄駅が京成千原線・ちはら台までないため、結局20キロほど歩くことになる。予定外の散歩とはなったが、誠に美しい谷戸の景観を楽しめる一日となった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



本日のルート;JR外房線・土気駅>天照神社>村田川源流部>湿性植物園>下夕田(しもんた)池>あずみが丘水辺の郷公園>大沢源流からの水路が合流>調整池からの養水?>「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」>長柄ふる里源流からの水路合流点>法行寺>天満天神宮>長興寺>大椎八幡>新大椎橋>八幡池>大木戸八幡>「土気小学校第一分校」の石碑>常円寺>天満神社>大橋>千葉外環有料道路>川崎橋>押沼神社>山王大権現>新橋>大宮神社>京成千原線・ちはら台駅

JR外房線・土気駅;午前10時55分
自宅を出てJRで外房線を進む。千葉市街を離れ、曽我、鎌取、誉田と進む。誉田(ほんだ)辺りから緑が豊かな一帯となる。土気駅で下車。鄙びた駅舎との予想に反し、駅前は再開発され、駅の南側は「あすみが丘ニュータウン」と呼ばれる新しく開発された宅地・商業私設が広がっていた。宅地開発が開始されたのは昭和57(1982)年から。それ以前は農地・森林の広がる一帯であった。ビバリー・ヒルズならぬ、チバリーヒリズと称された高級住宅地もこのニュータウンの一隅にある、と言う。「あすみが丘」の元の地名は大椎町、小食土町(やさしど)。この地名は(千葉市緑区)あすみが丘1?9丁目に、土気町、小食土町の一部が、(千葉市緑区)あすみが丘東1?5丁目となった。
「あすみが丘」は如何にもニュータウンらしき地名であるが、元の土気町、小食土町、大椎町の地名は面白い。土気の由来は諸説。土気城跡が天然要害の地故に「峠ノ庄」と呼ばれた「峠」>とけ、との説。鴇(とき)が多かったからとの説、険しい坂道=嶝嶮(とうけん)の説などなど。中世以来の由緒ある地名ではあるものの、戦国時代に酒井氏が土気城を再建したときには既にその由来は不明となっている。「土家」は音に漢字をあてたものであり、「戸気」「度解」などと表記されることもあった。土気町は現在、外房線・土気駅を含めた外房線の北側に千葉市緑区土気町として残る。
小食土(やさしど)も「矢指土」「矢指渡」などと表記されたこともあるようだ。その表記であえばそれほど悩むこともないのだが、「小食土」が「やさしど」となった経緯はさっぱりわからない。同じように表記する地名と区別するため「小食」の者は「心やさしい」から、と言うことで「小食土」」とした、との説があるがいまひとつ理解できない。
御霊神社の碑文にある、日本武尊が橘神社(本納)に弟橘媛を祀り、東国に向かう途中、当地に立寄り間食(ちょっとした食事;小食)を食べたからとの説は。漢字表記の点からは説得力はあるのだが、依然「音」の「やさしど」との関連はこの説明ではわからない。もう少し深堀してみる。「やさしい」という言葉は「やせる」から出来たとの説がある。そのことから、「立派な人を目の前に、気が引けて、身が痩せるような思いをする」というのが「やさしい」の元々の意味である、とか。日本武尊といった貴人を前に「気が引けた、身が痩せる」思いから、やさしい=身が痩せる、に「小食」という文字をあてたのだろう、か。単なる妄想。根拠はないが、自分だけは結構いい線いっているようにも思う。小食土町は現在千葉市緑区小食土町として昭和の森公園とその東に残る。大椎は後ほどメモする。

天照神社;午前11時30分
土気駅から「あすみが丘」の住宅街を「昭和の森」に向かい南に進む。地図を見ると昭和の森の南西端辺りに池が見えるので、それが源流点なのだろうかとの思い。結構歩いても森の緑は見えてこない。30分以上も歩き、千葉市立大椎中学校辺りを左に折れるとやっと昭和の森の緑が見えてきた。
と、昭和の森と宅地との境目に神社がある。ちょっと立ち寄り。天照神社とあった。2003年 頃の写真には昼なお暗きといった、鬱蒼とした森に囲まれているが、現在周囲は丸裸。宅地開発がここまで進んでいるのだろう。鳥居も平成20年(2008)に新設されたようで、誠にあっさりした境内には天保年間の水盤だけが往昔の歴史を残す。

村田川源流部;午前11時40分
天照神社を離れ、昭和の森公園の入り口を探す。道路を少し南に下ると「昭和の森キャンプ場」とか「千葉ユースホステル」の入口。入口を入ると道が上りと下りのふたつに分かれる。道を下りにとり谷筋に向かう。下るにつれて、道脇に細いながらも、如何にも湧水らしき湿地が見えてきた。この辺りが源流点で、谷筋に沿って水が集まってくるのだろうか、などと思いながら先に進むと「通行止め」のサイン。左手に小径があり谷を上ると天照神社の東に出た。
谷に沿って道があるのかと思っていたので、宅地開発の端に出てしまい少々途方に暮れる。とりあえず道に沿って東へと進むと道路から直角に谷方向に下る小径。草に覆われた小径を進むと眼下に谷頭といった景観が現れる。ここから湧水が湧き出るのか、それとも先ほどの谷筋からの湧水が集まる一帯なのか、宅地開発のために人工的に造られたものなのか不明ではあるが、ともあれ鹿島川(実際は村田川なのだが、このときは鹿島川と思い込んでいた)の源流点はこの辺りだろうと一安心。後は、この谷頭部から谷筋をひたすら下ればいい、と。

湿性植物園;午前11時55分
小径を渡り切り階段を上がると再び宅地開発地が現れる。宅地を避け、谷縁に沿って少し南に進むと、少しわかりにくいのだが、草に蔽われた一隅に右に入る道がある。この道を谷の緑の中を進み、谷底に下りると花菖蒲なのだろうか水生植物が群生する一帯が現れる。湿性植物園と称される。園といっても特段の施設があるわけではなく、美しい谷津を利用した誠に魅力的な景観。左右を丘陵・台地でU字形挟まれ、U字形の最奥部の谷頭には湧水が湧く、といった「谷津・谷戸」の定義そのままの景観を呈する。今一つ情感に乏しいわが身も、しばし佇む。

下夕田(しもんた)池;午後12時6分
湿性植物園から細い水路が先に続く。湿地の上には木橋が遊歩道として続く。この水路の水は大半が谷津田を模した体験水田を流れ「下夕田(しもんた)池」に注ぐ。一部は丘陵の東にある「小中池」にも流れるようである。小中池からの水路は外房・太平洋に注ぐ。
下夕田池は地形から見て周囲の丘陵からの湧水を集めた池ではあったのだろうが、現在は水底に石を敷き詰めているし、形が如何にも人工的。自然にできた溜まりに人の手を加えたものであろう。
「下夕田」という美しい地名の由来は地名の小食土町字下夕田、より。とは言うものの、その「下夕田」の由来の説明にはなっていない。この地の「下夕田」の由来は定かではないが、全国にある「夕田」の由来には、「水が湧き出るところ」とか、「結田」が語源で「協力して田作りをする」といった意味、また、「伊勢(神宮)の朝田、熱田(神宮)の夕田、高田(会津・伊佐須美神社)の昼田」と称される田植祭りが知られる。この地の夕田とは関係ないかとも思うが、あれこれ想うのは楽しい。

あずみが丘水辺の郷公園;午後12時19分
水は茂原へと続く車道下を通り「あずみが丘水辺の郷公園」に続く。車道を越えた辺りからしばし暗渠となるが、公園が近づくにつれ、それらしき整備された水路が現れ公園内の調整池に続く。
調整池からの水は暗渠となりしばらく進む。それはともあれ、もうそろそろ水路が北に向かないことには鹿島川が開渠となって佐倉に下る川筋に合流できない。先を見ても谷津田を挟む丘陵は重層的に重なり合いながら東に連なる。これはどうも不自然と地図を見ると、この水路の先にある川筋は村田川とあり、曲がりくねりながら市川で東京湾に注いでいた。
はてさて、ここで軌道修正し当初の予定通りに鹿島川に戻るか、と一瞬悩むも、この美しい谷津田の景観を離れるのはもったいないと、予定を変更し、鹿島川散歩をここで村田川散歩に切り替える。

大沢源流からの水路が合流;午後12時40分
道脇の小祠を見やり、北の丘陵には三峰神社、南の丘陵には日枝神社が鎮座し谷津田がぎゅっと狭まる小山町辺りで水路は細いながらも開渠としてその姿を現す。とは言うものの、道は北の丘陵の裾を通るので時々川を跨ぐ農道があるたびに確認するだけではある。
開渠となった村田川に小山町集会所辺りで南の広い谷津田からの水路が合流する。この水路は村田川の源流のひとつ。源流点は南の外房有料道路を越えた茂原市大沢地区にある真名カントリーの山裾辺りである。
○土気酒井氏
村田川の北側を続く丘陵の裾を進む。丘陵上はあずみが丘9丁目。あずみが丘9丁目には土気酒井氏の支城である小山城があった、と。酒井氏は戦国時代に東金を拠点に上総北部を支配した地方領主。小田原の後北条に抗するも敗れ、小田原北条が滅亡した後は徳川の旗本として仕えた。この城は茂原方面の備えの城であった、とか。また、この小山城辺りは縄文時代の遺跡も残る。水の豊かな谷津田の丘陵上の快適な集落でもあったのだろう。

調整池からの養水?;午後12時45分
道を進むと道脇の水路から豊かな水が流れ来る。どこから流れてきたのだろう?丘陵上に調整池らしき池が見えるのだが、そこから流れ下った水であろうか。ともあれ、村田川の水は大沢源流からの水や、この調整池からの適宜な養水により豊かな流れとなってゆく。

「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」
先に進むと県道132号にあたる。このあたりは千葉市緑区板倉町。古くは竹河原と呼ばれていたようだが、戦国期に土気城主の酒井氏が備蓄用の板倉を建てたことから板倉と称されるようになった、とか。
道脇に「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」の石碑。説明を要約すると、「水田ほ(圃)整備;板倉大椎地区は千葉市の東南、千葉市・市原市・茂原市の接する村田川の源流に位置し、緑区の三町にまたがり南北に伸びる水田地帯。農業を取り巻く厳しい環境にもかかわらず、この改良事業で安定した農業経営ができるようになった」との謝辞を刻む。思うに、谷津(戸)の広がるこの一帯の湿地を、農業に適するように土地改良・整備をおこなっていたのであろう。眼前に広がる谷津田(谷津の田圃)も自然そのままのものではなく、元々の谷津を改良し造られたものであった。

長柄ふる里源流からの水路合流点;午後12時55分
村田川の川筋を眺めるべく県道を少し南に下る。川に架かる橋の辺りに「長柄ふる里源流」からの水路が合流する。橋から下流を眺めるに、ちょっとした渓谷の姿を呈する。先ほどの土地改良区の記念碑ではないけれども、これだけの水が加われば改良前は自然そのまま、ぐじゃぐじゃの湿地帯であったのだろう。実際近年になっても大雨でこの合流点の少し下流の大椎橋が流れ、越智地区の護岸が崩れたとの記事を目にした、とのことである。
で、長柄ふる里源流であるが、長生郡長柄町にある「長柄ふる里村」辺りを源流点とし、市原市金剛地を下りこの地で村田川に合流する。但し、村田川の本流はこの「長柄ふる里源流」からの水路であるとも言われるので、今まで辿ってきた昭和の森源流が合流する、というのが正確な表現かとも思う。

法行寺;午後12時58分
村田川は「長柄ふる里源流」との合流点から流路を北に向ける。依然左右を丘陵に挟まれた谷津田が広がる。右の丘に法行寺。お寺さまと言うより地域集会所といった風情。道から寺に上る石段脇の石塔が唯一寺の趣を残す。






天満天神宮:午後1時10分
さらに北に進むと天満天神宮。法行寺は千葉市板倉町であるが、ここは千葉市大椎町。「おおじ」と読む。古くは「大志井郷(おおじい)」と称されていたが、「大椎」の由来は不詳とのこと。 赤く塗られた小祠が境内に佇む。天満宮は菅原道真を祀る神社。天満宮は天神さま、天神さんとも称されるので「重複表現」とも思うが、天神祭で知られる大阪の天満宮も「天満天神」とも「天満の天神さん」と称するわけであるから、いいとしよう、か。それにしても地図で見るに、ニュータウンの宅地が天神さんのすぐ脇まで迫ってきている。谷筋を歩いているから谷津田の美しさだけが目に入るが、一歩丘を上れば宅地開発地となってしまっているようだ。

長興寺;午後1時15分
天神様から少し北に進むと、道脇に風格のある山門。長興寺である。広い境内には鐘楼。本堂は享保年間(1716-1735)に建てられたとの記録が残る。元は真言宗の寺院でこの地の東南にあったようだが、土気城主酒井氏の命により法華宗に改宗し、その折にこの地に移った、と。
○大椎城跡
村田川は長興寺の辺りで丘陵に沿って右へと迂回しる。丘陵は「あすみが丘第八緑地」として残るが、往昔この丘陵には「大椎城」があったとのこと。大椎(おおじ)城は平安時代中期、上総・下総に覇を唱えた平忠常が築城し、その曾孫・下総権介千葉常兼が修復。この忠常は平将門の叔父であった良文の孫にあたり、平将門以降の最大の反乱とも称される長元の乱(1027~1031) を起こし、当時不当な貢税を課した受領(国司) の暴政や貴族権力に反抗した。大椎城はその本拠地であった。
この乱の後、忠常の子・常将が初めて「千葉氏」を名乗り、常長・常兼と続き、その子・常重は大治元年(1126)、 この城から千葉城 (猪鼻城・湯の花城)に移り廃城になったと考えられている(異説もある)。
大椎城を築城したと伝わる平忠常の祖父である良文は平将門の良き理解者であった。将門や良文と菅原一門の友好な関係を想うに、先ほどの天満天神宮も、そのコンテキストで考えればこの地に鎮座する意味合いも納得しやすい。
大椎城は戦国期には、土気城主酒井氏が村田川流域を押さえる支城として大規模な改修をしたと伝わる。丘陵上にこの大椎城、土気城、小山城、そして神社仏閣が並ぶこの辺り一帯は平安の昔より、上総の中核の地であったのだろう。因みに、「あすみが丘第八緑地」の北には「チバリー・ヒルズ」がその趣を残す。



大椎八幡;午後1時30分
丘陵裾を北に向かう村田川を離れ、谷津田を通り抜け村田川を挟む逆側の丘陵に佇む大椎八幡に向かう。折から地域の方の清掃奉仕の邪魔をしないようお参り。社殿も新しくなっていたが、由来によれば、千葉氏が大椎城を本拠とするに際し、鶴岡八幡より勧請したとのことである。頼朝の挙兵に与力した千葉氏であればこの流れは大いに納得。




新大椎橋;午後1時34分
大椎八幡を離れ先に進む。右手を流れる村田川傍に近づくと川を跨ぐ橋が見える。橋桁も結構高くバイパスのような雰囲気の道である。川の傍に沿って橋を潜ろうとするも、道が切れ川脇には畑地だけ。通り抜けようにも農作業をしている方がおり躊躇。
仕方なく丘陵中腹を走るバイパスに上るルートを探すがそれらしき道はない。結局道なき崖面を力任せに上りバイパスに。川に架かる新大椎橋から下流の村田川筋を眺めるに、川の右岸には畑地となっており道はなく、左岸に道が通るだけであった。どうしたところで右岸は進むことができなかったようである。
ちなみに、この橋を通る道は宅地開発された「あすみが丘」から千葉外環有料道路の大木戸インターを結び、その先で道が切れる。宅地開発地と外環を結ぶバイパスとして造られたものだろう。バイパスにより削られたこの丘陵にも、村田川筋に連なる城郭群のひとつである立山城があった、とか。

八幡池;午後1時45分
新大椎橋の北詰めを左に折れ、道なりに村田川筋に進む。右手は宅地開発が進んだ「あすみが丘5丁目」、川傍には「大椎ポンプ場」。大椎ポンプ場は下水処理施設のようである。宅地を離れ谷津田へと下ると、右手に結構大きな池がある。村田川の水源のひとつかとも思い、川筋を離れ池に向かい、バイパスらしき高い橋桁を潜り池に。八幡池とある。谷津の一部を堰止め雨水や湧水を貯めた池のようである。元禄11年(1698)には記録に残るので歴史は古い。昭和10年頃までは「八幡堰」と呼ばれていたようである。
八幡池の由来は、近くにある大木戸八幡からだろう。この辺りは千葉市緑区大木戸町となる。大木戸の地名の由来は、この地は立山城、大椎城、土気城などへの要衝であり、立山城への木戸(城戸)であったことによる、と。秀吉による天正19年(1591)の人掃令(戸口調査)の折り、この地が木戸跡ということで大木戸との地名がついたと伝わる。この八幡池の地名も大木戸町木戸脇とのこと。その他、大門といった地名も残る、とか。

大木戸八幡;午後2時3分
池脇の階段を上ると立派なバイパスが通るが、すぐ先の農道で道が切れている。この道も大木戸とその西の越智町に開かれたニュータウンを結ぼうとしているのだろ、か。バイパスの端を止めている農道を左に進むと道脇に「大木戸八幡」の案内。
参道入口には文化12年(1815)に建てられた鳥居。参道を進み石段を上ると社殿前に御神木。人の参拝を遮るように社殿の目の前に杉の大木が聳えていた。社伝によれば、この社は大椎城の内宮であった、とも。ために、明治後期まではこの地の大木戸村ではなく、大椎村の管理下にあったようである。




「土気小学校第一分校」の石碑;午後2時15分
丘陵を先に進み、趣のある山門の残る日蓮宗の善徳寺にお参りし丘陵から低地へと下ると、道脇に「土気小学校第一分校」の石碑。改称や統合を繰り返し、仔細をメモすることはパスするが、善徳寺や先に訪れた長興寺、これから訪れる常円寺などで開校した土気地区のいくつかの小学校の本校や分校であるが、昭和44年(1969)の土気町の千葉市への合併に伴い、この地にあり廃校になった分校跡である。

常円寺;午後2時20分
丘陵に挟まれた谷津田を蛇行する村田川に沿って進む。しばらく進むと道脇に常円寺と天満神社の石塔が並んで迎える。神仏混淆の名残ではあろう。
参道を進み階段を上る。手前に誠に素朴な社とその奥にこれもトタン屋根の素朴な本堂。本堂にお参り。創建年代は不詳。もとは土気の真言宗極楽法寺(現在の善勝寺)の末寺であった、とか。場所もこの地ではなかったようだ。その後長享2年(1488)に法華宗に。昭和16年(1941)には日蓮宗となっている。本堂は享保16年(1731)に建立され、そのときこの地に移った、と。
○佐々木道誉
寺の裏手に五輪塔があるとのことだが、それは佐々木道誉ゆかりのもの。婆娑羅大名として知られ、足利尊氏の室町幕府設立の立役者として名高い道誉がこの地に名残を残すのは、出羽配流の途中、この地に留まったことによる、とか。比叡の山門に打撃を与えるべく門跡御所を焼き討ち。朝廷からの出羽国配流の命に対し幕府は拒否し、この地に留めた、と。とはいうものの、上総って道誉が守護の地。であれば、自領に一時謹慎しただけというのが正確、かも。実際、配流とは程遠い派手な行列で上総まで入り、翌年にはあっさり幕政に復帰している。

天満神社;午後2時30分
本堂にお参りし、石段を上がったところにある社に。天満神社と思っていたのだが、この社は子安神社であった。天満神社はその脇の参道というか山道を結構上ったところにあった。歴史は古く、菅原道真の御真筆の巻物が伝わる、とか。300有余年の歴史をもつ社であるが、江戸の頃には山津波で流失、再建された社も明治に焼失。現在の本殿は昭和31年(1956)に建て替えられたものである。




大橋;午後2時42分
丘陵西南端で丘陵に接近村田川に架かる大橋を見やり、丘陵裾を蛇行する村田川に沿って進む。地区は緑区越智町に入っている。越智の由来は伊予から越智氏が移住し土着したとの説などがあるも不詳。依然左右に丘陵が連なる道筋に、一瞬右手が開け水路が村田川に合わさる。地図を見ると大藪池という池があった。越智はなみずき台団地の調整池とのこと。調整池の北には湧水地があり、大釜・小釜と呼ばれる自噴湧水は2mほどの水深がある、とか。湧水と大藪池は水路で結ばれているようである。

千葉外環有料道路;午後3時5分
大藪池からの水路との合流点を越え、道脇の越智ポンプを見やり先に進むと「高本渓橋」を渡る。村田川をクロスするのは久しぶり。丘陵裾を進むと先に高い橋桁が見えてきた。千葉外環有料道路である。宅地開発で削られた台地も、この辺りではしばしその開発の波から逃れ、左右の丘陵周辺も自然が残る。外環を越えた先は一直線の谷津田。誠に美しい景観が広がる。谷津の中を突き切る農道を進むと道は丘陵へと上る。

川崎橋;午後3時52分
坂を上り森の中のヘアピンカーブといった道を進むと前方が開け、畑地の間に農家が点在する丘陵地帯を辿り、丘陵地帯を抜け車道に下りる。車道を北に向かい村田川筋に。この辺りまで来ると村田川も都市河川の趣を呈する。村田川に架かる川崎橋に。下流は川幅も広く、両岸には遊歩道を兼ねたような段丘面が整備されている。川崎橋で少し休憩し、瀬又交差点を北に新瀬又橋に。橋の辺りに瀬又川が南から合流する。



押沼神社(以下記録取れず)
遊歩道に沿って村田川を進む。長かった「ちはら台駅」もやっと近づいてきた。川に沿って進みながら地図を見ると、川から少し離れた県道130号に沿っていくつかの社がある。どういったものか不明であるが、押沼神社とか山王大権現という社名に惹かれてちょっと寄り道。川筋から離れ、成り行きで県道130号の少し南にある押沼神社に。
道から石段を上りお参り。祭神は日本武尊。社自体はささやかなものではあるが、往昔、この辺りに押沼城と呼ばれる土気城酒井氏の出城があったようである。社名は社のある市原市押沼から。既に市原市に入っていた。

山王大権現
県道130号を西に進み、道の北側に山王大権現。鳥居をくぐり、参道を進み石段の上にある社殿は一風変わった構え。鳥居の扁額は「山王大権現」であるが、鳥居奉賛碑には「番場神社」とある。番場神社はこの辺りの地名市原市番場から。
山王大権現は神仏習合を明確に示す命名。伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、山王祠の仏さまが神々という仮 の姿で現れ、衆生済度するということ。

新橋
山王大権現を離れ地図を見ると、県道130号を少し南に下ったところに永久寺というお寺さまが見える。赤く塗られた六脚門をもつ日蓮宗のこのお寺さまにお参りし、再び村田川筋へと向かう。お寺の先から村田川筋まで水田が広がる。田圃の畦道といった小径を成り行きで進み川傍に。対岸は予想と異なり豊かな自然が広がる。「まきぞの自然公園」と呼ばれ、上総国分寺の創建瓦を焼いた「川焼瓦窯跡」が残る、と言う。また、自噴水のあるホタルの里と称されるエリアもあるようだ。その先には大きなショッピングモールが見えてきた。京成千原線へとモールの先の新橋を渡る。

大宮神社
ちはら台駅に行く道の途中、行光寺が地図にある。境内も広いので、ちょっと寄り道。ちはら台駅手前の大通りを左に折れ、入り口を探す。が、どうしてもみつからず、あれこれしているうちに大宮神社の境内に入ってしまった。
社殿はニュータウン開発の近くによくある社と同じく社殿が新しくなっている。また、このニュータウン開発のときに旧石器時代の遺跡や古墳時代の古墳が神社周辺から数多く発掘されている。その数竪穴住居跡はおよそ4000、古墳も170基に及ぶと言う。その後もヤマト朝廷の勢力が村田川を遡り、古墳時代より栄えたこの地にまで及び、奈良時代にはさきほどメモした川焼瓦窯跡や押沼遺跡群における製鉄などが行われていたとのことである。

京成千原線・ちはら台駅
大宮神社を離れ行光寺の入口を探す。と、大宮神社の東の台地下に寺院の屋根が見えた。再び下の道まで戻る元気はなく、ブッシュの中を寺の屋根を目安に台地を下ると境内へと続く細路に出合い、崖を下って境内に。結構大きな本堂にお参りし、再び崖を上り返しちはら台駅に。長かった散歩を終えて一路家路へと。距離24キロ弱、時間6時間強といった散歩となった。
上総の国府が市原にあった、といったことは文言では知っているものの、いまひとつリアリティがなかったの。偶然ではあるが村田川を歩くことになり、川沿いに築かれたいくつもの城郭、千葉氏の発祥の地でもあった大椎・土気、更には古墳群や瓦窯跡、たたら製造の跡地などのことを知り、この辺りが古くより開けていたということが少し実感をもってとらえられるようになってきた。もう少し村田川流域のことを歩き、往昔のこの地の姿を想えるようにしたいと思う。

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