2013年7月アーカイブ

二度に渡って歩いた海沢遡上のメモ。初回は単独行で下流域から中流域の「天地沢出合い」の先まで。二度目は元同僚と中流域から入渓し海沢園地まで沢を歩き通し、中流域をクリアした。単独行では極力釜(淵)泳ぎを避け、高巻を繰り返し撤退の戻り道でスリップし釜にドボン。ヘルメットに当たる落石音を初めて体験した。二度目の遡行はパートナーもいるので安心して釜を泳ぐ。海沢は滝や釜(淵)の連続する、誠に面白い沢であった。



初回;奥多摩駅>海沢集落>柿平橋>東京都奥多摩魚養殖センター>城山トンネル>一付橋>アメリカ村キャンプ場>海沢トンネル>駐車スペース・入渓点>天地沢出合>木橋>林道>長い淵で撤退

二回目;白丸駅>数馬渓遊歩道>海沢集落>海沢中流域入渓点>最初の淵>釜のある小滝をへつる>ヘアピン状のゴルジュ>3mの滝>釜をもつ小滝>長い淵>井戸沢出合>海沢園地東屋>奥多摩駅

初回: 下流域から中流域まで
とある週末,天気予報は酷暑。涼を求めて沢を歩くことにした。急に思い立って、といったことでもあり、沢は海沢とした。海沢であればJR青梅線の白丸駅、または奥多摩駅から1時間強と少々アプローチは長いが、ともあれ青梅線の駅まで歩けばいいわけで、帰りのバスの時間を気にしなくてもいいのが魅力である。
海沢の渓谷は、その上流部には海沢探勝路に沿って大滝とか、ネジレの滝とか、三段の滝と言った名瀑がある。もちろんのこと、なんちゃって沢登リストの我が身には誠に敷居の高い上流部であるが、あれこれ沢のガイドブックを見るに、その中流域であれば、少々厳しそうではあるものの、何とかなりそう。ということで、初回は下見がてらの単独行。ひとり歩きの心細さ補うべく、ワークマンで買った2500円のヘルメットをリュックにぶら下げて奥多摩へと向かった。

奥多摩駅
当初の予定では青梅線の白丸駅で降り、多摩川右岸の数馬渓谷を辿り海沢へと考えていたのだが、ホリデー快速奥多摩号に乗れたため、白丸駅は素通りし奥多摩駅に。駅前のビジターセンターに寄り、「海沢ハイキングマップ」を手に入れる。手書きの簡易地図だが、ポイントはすべて載っており、誠に助かる。海沢はすぐ横に林道が通っているので道に迷うことはないだろうと、地図も持たずに来たのだが、よくよく考えれば、沢からエスケープしようとした時、地図がなければ林道が沢の右か左かもわからない。大いに反省。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



海沢集落
奥多摩駅から多摩川に架かる「昭和橋」を渡り、多摩川右岸を進む「都道184号」を進み「東長畑橋」先で「愛宕トンネル」からの道を合わせ、「綾瀬橋」を渡り国道411号の「海沢大橋交差点」に続く四差路に。 四叉路を「都道184号」に沿って右に折れ、東京電力氷川発電所の導水管を跨ぐ「神庭橋」を越えて海沢に注ぐ支流にかかる「つきどめ橋」に。「つきどめ橋」の先は都道184号を真っすぐ進む道、右手の坂を上り海沢神社や向雲寺に向かう道、海沢川へと下る道と分かれる。

柿平橋
海沢川の多摩川合流域の姿でも見ようと坂を下り海沢川に架かる「柿平橋」に。東京電力氷川発電所脇辺り、すぐ先で多摩川に注ぐ海沢川は、この辺りでは小川。周囲に人家も多く、この辺りから入渓し、ピチピチチャプチャプランランランランは、さすがに憚られる。

東京都奥多摩魚養殖センター
再び坂を都道184号まで戻り道なりに進む。道の左手に海沢川に沿って「東京都奥多摩魚養殖センター」がある。ニジマス、イワナ、やまめ、奥多摩ヤマメの種苗を生産し、河川漁協、養殖漁協に配布している、と。養殖センターの中に海沢に架かる「緑橋」も見えるのだが、敷地に入ることはできないので、先に進むと「一寸橋」の手前に山塊を穿つトンネル工事が目に入る。「城山トンネル」の工事現場とのこと。

城山トンネル

「城山トンネル」は氷川の小留浦から吉野街道の丹三郎地区(古里交差点近く)までの7,2キロ区間で計画されている「多摩川南岸道路建設計画」の一環のトンネル。小留浦から長畑間(西端の愛宕大橋から愛宕トンネル、東長畑橋まで)は2001年に開通。2004年には国道411号につながる「海沢大橋」が完成。現在、この「城山トンネル(2.4キロ)」と、城山トンネル東出口と国道411号をつなぐ連絡橋(将門橋)が建設中。丹三郎地区へとつなぐ「丹三郎トンネル」は未だ着工されていないようである。

一付橋・入渓点
城山トンネルにつけられた「まこご橋(新一付橋)」を越え、都道184号の「一付(いつけ)橋」を渡る。一付橋の西詰には「アメリカ村」へ向かう道があり、海沢(以下海沢に統一)にはこの道を進むのだが、暑い林道を歩くよりも、どうせのことなら、この辺りから海沢に入り涼しく歩くことにした。滝も釜(淵)もあるとは思えないけれども、ピチピチチャプチャプランランランの気持ちである。

○ 都道184号
都道から離れて海沢に入ったが、「一付橋」の先に続くこの都道は「東京都道184号奥多摩あきるの線」と呼ばれ、奥多摩の氷川とあきる野市菅生を結ぶ一般都道である。地図を見ると、この一付橋から山道を蛇行し奥多摩霊園の先で切れている。一方、あきる野市方面を見ると、都道184号は日の出町を先に進み勝峯山脇の岩井の里を越え、つるつる温泉手前に進む。そこで左に折れて日の出山へと向かうが、道はその先で通行止め。日の出山近くから、奥多摩町の海澤までは、現在不通となっている。計画では御岳山を経由して青梅側に抜けることになっていたようである。
いつだったか、御岳山から日の出山を経てつるつる温泉まで歩いたときのこと、御岳から日の出山に向かう尾根道に鳥居があり、関東ふれあいの道となっていた。その尾根道は御岳への参道とのことであったが、この鳥居から御岳の集落までの尾根道は都道184号線とのこと。また、御岳の集落の中には都道184号線の最高地点(標高850m)がある。「氷川道」とも「鳩ノ巣路」とも書いてあった、よう。車道はないが、道自体はずっと通じているようではある。登山状態ではあろうが、一度どんな道か御岳から先を辿ってみたいものである。

アメリカ村キャンプ場
一付橋のすぐ脇から海沢に入り入渓準備しスタート。予想通りの誠にのどかな川遊びといった案配。川の右手には民家が建ち、少々気恥ずかしい。「寺沢橋」を潜り先に進む。たまに砂防用堰堤があるが、乗り越えて進むと「アメリカ村キャンプ場」。家族で水遊びをする水辺を通り抜けるのだが、周囲との違和感は最高レベル。足早にキャンプ場を抜けるとちょっと高めの堰堤があったが、なんとか手掛かりをみつけて乗り越える。
先に進むとまた堰堤。結構高くこれは迂回するしか術(すべ)はなし。右手が林道であるので、なんとか崖を這い上がり林道に。道脇には金網が張られてあり、金網が切れるところまで進み林道に出る。

海沢トンネル
林道を進みながら成り行きで再び沢に。滝も釜(淵)もない沢をのんびり進むと橋が見えてきた。そしてその先は釜と崖そして小滝が迎える。高巻きをしようにも手掛かりが見つからない。釜を泳ぐつもりもなかったので橋の手前を少々強引に林道に上る。橋の名は「観音橋」。その先にある海沢トンネル(海沢隧道)を抜ける。隧道を抜けたところに沢に下るパイプの梯子が組まれていたので沢に下り「せみの橋」を潜り先に進む。が、ほどなく堰堤に阻まれ結局パイプ梯子のところまで戻り林道に戻る。 因みに観音橋の西詰めに「瀬見ノ観音」さまが祀られる、とか。橋の辺りには何も案内も無かったので見逃した。「観音橋」であり、「せみ橋」と称される所以である。


駐車スペース・入渓点
林道を進む。沢に下りる場所を探しながら先を進むが、適当な場所がない。「坂下橋」を過ぎた先に林道が少し広くなり数台の車を停めている場所に到着。正確には車が停めて箇所が2カ所ほどあるのだが、「崖崩れのため通行止め」の案内がある上流側の脇に「水利へ」の案内があり、そこから沢に入る。

天地沢
入渓点の川原は広々として、脇ではテントを張る家族も見られる。川原を進むと右から「天地沢」が注ぐ、とのことだがそれらしき沢筋は見えない。注意しなければ見逃しそうな細い流れが岩を下っているのだが、どうもそれが天地沢出合のようだ。水量が豊富であれば滝として見栄えがするのだろう、か。

木橋
その先に木橋が沢を跨ぐ。朽ちているような危うい橋である。この木橋を渡り「天地沢」を詰めることができるようである。木橋の先には淵。結構深そう。泳ぐのは勘弁と右岸を高巻き。途中で進めなくなり、もうひとつ上の踏み跡を巻いてクリア。先に進むと釣り師。邪魔をするのを避けて、来た高巻きを戻り、入渓地から林道に。

林道を進むと「水利へ」の案内。二度目に海沢を上ったときの記憶から、ヘアピンカーブの先、3m滝の先に下りたように思う。先に現れた深い釜をもつ小滝は右岸を高巻き。左手にコンクリートの壁が見える。その先に長い淵が現れる。ここはアプローチを探すも高巻きする踏み跡はない。本日はここで撤退。

帰路に、高巻きで戻るときスリップし淵にドボン。滑る落ちるときヘルメットに当たる石の音を聞き、ワークマンで買ったヘルメットに感謝。また、上りはなんとか進めた崖も下りはとても進めない。ロープを崖上の木に巻き、なんとかクリア。基本装備の有り難さを実感し、本日の沢歩き、というか沢遊びを終えて林道を戻り、数馬渓谷の遊歩道を経由して白丸駅に。それなりに楽しい水遊びの一日だったが、結論としては海沢の「沢遡上」は、駐車スペースからの「水利へ」から入るべし、と。




2回目;海沢中流域
初回から1週間後の3連休の中日、元同僚から沢上りのお誘い。迷う事承諾し、場所は海沢を提案。初回の下見を踏まえ、沢上りと言う以上、入渓は海沢トンネルの先、駐車スペースのある先の「水利」標識からとする。

入渓点
青梅線・白丸駅で下車し、多摩川右岸の数馬渓を経て入渓点に。おおよそ1時間強歩くことになる。駐車スペースには本日も数台の車。釣り人だろう。放魚は基本、この入渓地点より下流に放流されるようであるので、邪魔をすることはないだろが、それでも先日は入渓点の少し上流で釣り師に会ったのが気になる。入渓準備を終えスタート。

最初の淵
入渓点の広い川原からスタートし、右手に天地沢出合いの崖からの細い流れを見やりながら朽ちた木橋を越え淵に出る。本日は酷暑。泳ぐ気十分。トップで淵を泳ぐ元同僚の後を追い、淵を泳ぎ右側の岩の辺りから淵を上がる。









淵を越えるとふたたび淵。少し長めの淵ではあるが、泳ぎきれば淵から上がるのは簡単そう。トップを泳ぐ元同僚からフローティングロープを流してもらい、安心して泳ぎきる。

天地沢出会いの上流に「暗闇淵」と呼ばれる淵がある、と言、う。昼なお暗い淵、大きな岩が横たわる難儀な淵である、とのこと。今泳いだ淵のどちらかが「暗闇淵」であろう、か。また、御嶽山参拝のため身を清めた「ショウジン淵」と称される淵もあるとのこと。「観音橋」の辺りの淵がそれであろうか。根拠はないが、それっぽい風情のある淵ではあった。

釜のある小滝をへつ
次に現れる大岩は結構激しい水流が下る。流木などを支えにして大岩をクリアし進むと釜のある小滝に。この小滝は左の岩を「へつる」ことになるが、ここが結構きつかった。パートナーのスリングの支えで何とかクリアしたが、後日右の人差し指が捻挫気味となっていた。藁にも縋る気持ちで岩に指をかけて体を支えようとしていたのだろう。





ヘアピン状のゴルジュ
釜のある小滝の先は「ヘアピン状のゴルジュ」。「ゴルジュ」とはフランス語で「喉」という意味。如何にも「喉」のように狭くなっている。切り立った岩壁に挟まれた苔生した岩肌が美しい。






3mの滝
前方が開け少し開けた場所の前には3m滝とゆったりと釜。景色を楽しみながら少し休憩いていると、賑やかな声が聞こえてきた。沢登り体験ツアーのパーティのよう。10人くらいのうら若い女性がやってきた。先に行ってもらおうとしていたのだが、どうも休憩を取るようで仕方なく進むことに。
トップの同僚が釜を泳ぎ、滝の水流の右の岩場をよじ上り、後に続く私はトップが下ろすスリングに掴まり、なんとか岩場に立つ。後は水をかぶりながら滝をのぼり3m滝もクリア。先回の単独行ではこの3m滝には出会うことはなかったので、これより先から沢に入ったのだろう。

釜をもつ小滝
小滝の釜は深い。パートナーは泳ぐが私は右を高巻き。この高巻き箇所は記憶にあるので、3m滝の上に「水利へ」の沢に入る踏み跡があったのだろう。この高巻き箇所が先回引き返すとき、スリップし釜に落ちたところのようだ。


再び淵。思うに先回の単独行はここで引き返したように思う。淵を泳ぎ左手の岩にかすかに残る「足がかり」に足を置き、なんとか岩場をクリアした。

海沢園地東屋
左から堰堤を持つ小沢が入る。先に進みナメ滝辺りまで進む。進みながら、このまま進めば最終目的地の海沢園地に出るのかどうか少々不安になる。右から小滝が注ぐのだが、それが井戸沢なのかどうかもはっきりしない(後からチェックするとどうも井戸沢だったようだ)。林道も見えないので、結局は堰堤をもつ小沢まazuで戻り、崖を這い上がり、なんとか林道に出る。 林道からは一応、海沢園地の東屋を確認すべく林道を上に進み東屋に。東屋脇に海沢が続いており、さきほど折り返すことなくそのまま進むと井戸沢から水を合わせた先に堰堤があり、その先は海沢園地の東屋脇の堰堤に続いていた。 東屋で着替えを済ませ、林道をJR奥多摩駅まで歩き本日の海沢遡上を終了。海沢は初心者には少々厳しいかとも思うが、トップとヘッドに経験者がつけばなんとか遡上できる、滝と釜の続く魅力的な沢であった。

初日は多摩湖畔の国道を辿り、丹波山村の中心丹波地区で宿泊。 二日目は柳沢峠へと向うのだが、途中、青梅街道・国道411号の右岸に、明治の頃、柳沢峠から当時の陸の孤島であった丹波山村へと開削され、当時は「新青梅街道」と称された道筋が残る、と言う。現在は廃道となっており、手元に正確な地図もなく、また本日はゴールの裂石から東京に戻るため、バスに乗り遅れることのないよう、状況を見ながらの廃道へのアプローチ。首尾良くいけば廃道を辿ることができるだろうか、などとの想いを抱き散歩に出かける。

参考図書; 『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』『奥多摩風土記:大館勇吉(有峰書店新社) 』『多摩の山と水(下);高橋源一郎(八潮書房) 』『青梅街道:中西慶爾(木耳社) 』『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』『奥多摩;宮内敏雄(白水社)』



本日のルート;丹波山村丹波地区>奥秋>余慶橋>羽根戸トンネル>三条橋>「東京水道水源林」の碑>黒川谷>大常木トンネル>一之瀬高橋トンネル>藤尾橋>落合>御屋敷>湧水>林道泉水横手山線入口>大日影沢>高芝大橋>裂石

丹波山村丹波地区;午前7時20分_標高664m
山梨県北都留郡丹波山村。北都留郡は明治の頃は丹波山村、小菅村、現在の大月市、上野原市の一部を加えた地域であったが、現在は丹波山村と小菅村で構成される。現在の道路網からみればあり得ない地域の集まりではあるが、昔の道筋である峠道から見直すと、小菅村から松姫峠を超えての大月、鶴峠を超えての上野原と、往昔の文化圏が垣間見える。これらの地域が同じ地域共同体であっても違和感は何も無い。
で、丹波山村であるが、その面積は広く101?。人口600強。我が家のある杉並区は面積34?、人口55.3万であるから、杉並区の3倍の面積に1000分の一の人が住む。それも当然で、雲取山や大菩薩嶺といった険しい山々に囲まれ、全体の97%が山林であり、集落は川沿いの河岸段丘や山肌の傾斜地に限られる。 宿泊した丹波山村の中心地である丹波地区、昨日国道より見下ろした高尾、押垣外、保之瀬集落などは、深い谷を刻む丹波川に残った河岸段丘に開けた集落である。「丹波」の語源は諸説あるも、「山間の奥まったところにある平地」の説もある。深い渓谷に開けた平地の有難さをもってその地名としたのだろうか。 産業はかつて薪炭、養蚕、コンニャク景気もあったようだが今は昔。清流を利用した山葵の栽培は栽培法が難しく不安定。観光も交通の便が良くなり過ぎて日帰り客が多く昔ほど民宿に止まる人もいなくなったようだ。
林業も丹波山村の山林の70%が東京都の水源涵養林となっているため伐採は厳禁、残りの三分の一の私有林は戦中・戦後の薪炭と木材景気で伐り尽くされている、とのことである。因みに丹波山村の山林の三分の二が東京都の水源涵養林のためでもあろうか、丹波山村の下水道普及率は96%ほどで、山梨県で一番の普及率なっている、と。

○旧青梅街道
国道411号は多摩川に沿って西に向かうが、その原型ができたのは明治の頃。明治20年(1887)に丹波山村で開通式が行われている。それ以前はこの渓谷を遡上し甲斐に向かう街道は無かったようである。当時の青梅街道は中世の甲州街道と同じ道筋を進んだようであり、その道筋は、小菅村から「牛の寝通り」の尾根道を辿り大菩薩嶺に進むか、小菅川の源流部を遡上し尾根道上がりに大菩薩嶺を経て甲斐に出る、または、この丹波山村からマリコ沢を遡上し尾根道を大菩薩嶺を越えて甲斐に向かったとのこと。

奥秋
丹波地区の道を下組、中組、上組と西に進む。道祖神をみやりながら国道を進む。この国道も車が通れるようになったのは昭和35年(1960)というから、つい最近のことである。
国道を進むと奥秋(おくあき)地区。奥秋(おくあき)って、好い響きの地名。奥多摩には秋切といった地名がある。炭焼きも焼畑も秋になると仕事を切り上げることに由来する地名とのこと。奥秋も漢文の「返り点」でもあれば「秋に仕事を置く>切り上げる」のニュアンスは感じるのだが、実際はどのような由来があるのだろう。 国道の上に子の神社。大己貴命(大黒主命)を祀る。その鳥居は国道下の急坂の途中にある。国道の開削によって切り離されたのであろう。 また、奥秋地区の国道下には「おいらん堂」が残る、と言う。武田家滅亡のとき、黒川金山の秘密を守るため淵に沈めた遊女が流れ着いたのがこの奥秋の地。不憫に思った村民がお堂を建て遊女の霊を安んじた、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


余慶橋;午前7時57分_標高693m 
奥秋を越え、「余慶橋」を渡る。手前には昭和36年(1961)架けられた旧橋も残る。新しく架けられた橋は曲線箱桁の橋に架けかえられている。丹波川に沿って右岸を進むと右手から火打石谷と小常木谷が合わさった水が合流する。この辺りから丹波渓谷がはじまる。断崖絶壁が国道に沿って続く。道脇に「ナメトロ」の案内。「川幅が狭く渓流が両岸の岩肌をなめるように流れるため」とあった。

羽根戸トンネル;午前8時_標高722m
丹波川右岸を進み丹波川に架かる「新羽根戸橋」を左岸に渡るとすぐに「羽根戸トンネル」に入る。左岸を進み、「ふなこし橋」で右岸に渡り、すぐ「大常木橋」で再び左岸にと、トンネルと橋がめまぐるしく続く。もとは「新羽根戸橋」の左手にある「羽根戸橋」から丹波川左岸を通っていた国道が難路であったのか、土砂崩れが多かったのかその理由は不詳だが改修工事が実施されたのだろう。トンネルの出口がすぐに橋につながるような難所を建設技術で乗り越えている。「羽根戸トンネル」の竣工は平成14年(2002年)、新羽根戸橋の竣工は平成13年(2001年)。現在使っている、カシミール3Dに同梱されていた国土地理院の2万5000分の一の地図の道筋にはないトンネルや橋が造られていた。

三条橋;午前8時35分_標高766m
丹波川の左岸を進み「丹波山トンネル(竣工平成12年(2000))」を抜けると、崖から湧水が湧いている。水を汲みに来ていた方は定期的にここまで水を汲みに来ている、と。
丹波川渓谷の景観を見やりながら街道を進むと泉水谷が丹波川に注ぐ地点に。泉水谷と小室川の水が合わさり、更に黒川谷の水が合わさる地点でもあるため「三重河原」とも称される。黒川谷に近づいた故か、信玄屋敷とか牛金淵といった黒川金山ゆかりの地名も残る、とか。
ここからは明治に柳沢峠を越えて丹波山へと繋いだ当時の「新青梅街道」,今は人も通わぬの廃道を辿るべく、三条橋を渡り丹波川の右岸に出る。

泉水谷林道
三条橋を渡ると「泉水谷林道」のゲート。三条新橋広場と呼ばれているようである。この林道は泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経て青梅街道・国道411号に出る。この林道の全ルートは「泉水横手山林道」と呼ばれているようである。
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、この泉水谷林道は「日本深山」と言う民間企業によって開かれたとある。安井誠一郎戸都知事の頃である。本来この地域は東京都の水源涵養林であり伐採はできないはずではあるのだが、高度成長時代の時勢もあってか伐採が許可された、とか。当初は昨日の散歩でメモした「後山林道」を開き伐採を開始したがうまくいかず、この泉水谷に移り伐採をおこなった。日本深山の活動は昭和28年(1953)から昭和34、5(1959,1960)年まで続いたとのことである。

「東京水道水源林」の碑
三条新橋広場から明治の青梅街道の廃道を求めて黒川谷への道を探す。と、三条新橋広場の脇に「東京水道水源林」の碑があった。東京都水道水源林とは、多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため東京都水道局が管理している多摩川上流の森林のこと。その範囲は東京都の奥多摩町、山梨県下の丹波山村、小菅村、甲州市までカバーしている。各市町村に占める水源林の占める割合を地図で見ると、大雑把ではあるが、奥多摩町は北半分、埼玉県との境となる長沢背稜までが水源林、小菅村は村域の西半分と小河内村との境を接する南域の一部、丹波山村は青梅街道の南北の村域を除いたおおよそ7割、甲州市は東は丹波山村との境、北は埼玉県境の尾根道、西は笠取山から柳沢峠へと続く尾根道に囲まれた一帯が東京都の水源林となっている。
東京都の面積の10%に相当するまでの水源林となるまでは長い歴史があるようだ。好奇心からちょっとチェック。江戸時代の奥多摩の山々には多くの幕府直轄の「お止め山」があった。その数、34箇所、2000町歩(2000ヘクタール)にもなった、とか。森林は厳しく管理され、村民には火災防止の義務などを課せされる代わりとして、入会権が認められ茅や薪といったに日常資材の採取、また「サス畑(焼畑)」も認められ(収穫の一部は上納)、定期的に人の手が入り山が荒れることはなかったようだ。
その状況は明治の御維新で一変。「お止め山」は維新後に皇室の御料林や県有林となる。それにともない、村の入会権は認められなくなり、薪も手に入らなくなった村は一部国から山林を買い取り村有林とする必要にも迫られた。幕府の厳しい管理下からはずれ、また、入会地として日常的に人の手が入っていた山林に人が入らなくなるにつれ、山林の荒廃が進む。明治維新から明治30年(1897)にかけての状況である。
東京府の水源地である多摩川最上流部の荒廃に危惧を覚えた東京府知事千家氏は明治34年(1901)、本多静六氏を水源林に派遣。川の汚濁、山津波、盗伐、濫伐、放火の状況を把握。笠取山も丹波山、小菅も日原も森林は荒廃し、禿げ山だらけとなっていた。その対策として、宮内省と交渉し丹波山、小菅両村御料林の譲渡を受け、同時に日原川流域の民有地を保安林に編入。これで日原、丹波山、小菅の核心部は東京府の水源林として確保した。
しかし状況は深刻で植林もできない状態。まずは治山からはじめる必要があったようである。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、泉水谷を遡上した山中に学校尾根、学校向尾根といった尾根があるが、それは明治末に50組の炭焼きが岐阜から入植。泉水谷小屋はその子弟の学校跡。尾根の名前はその名残り。
炭焼きが入った理由は荒廃した森林を涵養しようにもその予算がなく、当初は粗悪天然林を伐採し売却益を人工植林の費用にと裂石から丸川峠の索道を曳くなどの手当てをするも買い手がなく断念。木炭にして売却するために炭焼きが入植。水害で大黒茂谷の平坦地に移るも結局は炭焼き事業も断念。地元の人でさえ炭焼きに泉水谷にも大黒茂谷にも入っていない、そんな過酷なところでの炭焼きであったようである。
それはともあれ、明治41年(1908)には東京市民の水源管理は東京市が管理すべきと当時の東京市長尾崎行雄は自ら現地調査し東京市による水源地経営案を作成し、明治43年(1910)市議会で決議を受け東京府より水源林の譲渡を受ける。明治45年(1912)には最後の懸案事項である山梨県との交渉も解決。多摩川源流である水干のある笠取山南面は山梨県林として下賜されており、その地域を買収すべく困難な交渉のすえ譲渡を受けることができた。
その後も水源林買収が進む。大正年間には奥多摩町の公私有林、昭和8年(1933)には日原川上流の私有林、戦後の昭和25年(1950)に奥多摩町古里の私有林、ダム完成後には湖岸の私有林などを買収し現在に至る。

黒川谷;午前9時15分_標高895m_
三条新橋広場から黒川谷方向には上下2段の道がある。下の道はあまりに川床に近いため、上段の割と広い道を選ぶ。先に進むと丹波川との比高差が大きくなるとともに、最初の頃の砂利道とは異なり落石などで道が荒れてくる。丹波川から黒川の谷筋に入ったとは思うのだけれど、谷ははるか下なのか川筋も何も見えない。本当にこの道でよかったのか、少々不安になりながらもガレ場を越えなどを越えて泉水谷の入口から600mほどのところで突然広場が現れる。そしてその先に二段の滝が見える。滝脇にはコンクリート製の橋桁が残る。明治の頃開かれた道に架けられた橋の名残であろう。

橋桁手前にある木橋を渡り黒川谷左岸に。ここから左に黒川谷を上れば黒川金山跡。一方、廃道となった新青梅街道・黒川道は右に進む。進むはずなのだが、右に進む道や踏み跡さえもない。谷に沿って下る崖面は崩れており、立ち入り禁止のサインがある。もっと上を高巻きしているのだろうか、などとあちこち目安を探すが結局見つからず、正確な地図も無いし、それほど廃道萌えでもなさそうな御老公には申し訳ないし、それよりなにより本日のゴールの裂石からのバスの便が気になり、ここで撤退することにした。
後日チェックすると、木橋を渡り切ったあたりから南の100mほど崖全体が崩落しているようであり、立ち入禁止とあった谷筋を50mほど下り、崩落したガレ場の斜面を這い上がれば道筋が見つかるとのことであった。ちょっと残念。

○黒川通り
結局は断念したが、「青梅街道・黒川通り」についてまとめておく:明治6年(1873)、藤村紫郎が山梨県令に。県内の殖産を計るためは道路整備が重要と考え「甲州街道」「駿州往還(甲府から静岡;国道52号)」「駿信往還(韮崎から鰍沢;)などを整備する。この黒川通りもその一環である。この黒川通りが新青梅街道とも呼ばれた理由は、従来の氷川から小菅村、または丹波山村から大菩薩嶺を通って山梨と結ばれていた青梅街道に変えて、新たに柳沢峠を越える道を開いたことによる。構想は塩山から柳沢峠を越し、一之瀬、高橋に至り、丹波山から小河内、氷川、青梅へと通じる大道を開き、山梨と首都圏を結ぼうというもの。
翌7年(1874)、道路開通告示。街道道筋提示、工事は8年(1875)から開始。財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ、と。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めるも、5年ののちに開通。明治13年(1880)、落合で竣工式が行われ、明治20年(1887)には丹波山村で開通式が行われた(『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』。
山梨から丹波山村までは道が開かれ馬車が走れるようになった。しかし神奈川県(明治の頃、奥多摩は小河内村を除き韮山県をへて神奈川県に属した)も東京都も、この大道建設には積極的ではなかった。丹波山から青梅までの10里近い険阻な道を開くのは大変なことであったのだろう。
その後、藤村の甲府と首都圏を結ぶ大道が浮上したのは、昭和10年(1934)代に入り小河内ダム計画が進んだことによる。ダム建設にともなう従来の道路の付け替え工事を上流の柳沢峠まで伸ばすことになり、工事費は東京府の予算で実行される。昭和20年(1945)までに氷川から船越橋までが完成。戦中は工事中断するも、戦後昭和23年(1948)、ダム工事再開とともに昭和30年(1955)には三重河原まで開通、34年(1959)には藤尾まで開通した。このときの道筋にはトンネルはひとつもなかった、と言う。思うだに結構怖い断崖絶壁を進む道ではあったのだろう。
新たに建設された青梅街道のルートのうち、明治に開かれた黒川道のうち、「ふなこし(船越橋)」から三条河原をへて藤尾に至る丹波川右岸の道は計画から外された。これが今回撤退した廃道区間である。丹波川や柳沢川の深い谷を高巻きする川右岸の高地斜面を避け、丹波山川・柳沢川 左岸の崖面に沿って道を通した。建設技術の進歩がそれを可能にしていたのだろう。因みに新青梅街道の廃道は今回アプローチした黒川谷より東の「ふなこし橋:船越橋」辺りから残っているとのことである。
ついでのことだが、柳沢峠からの道を開く建議は青梅の小沢安右衛門との説もある。貧困から身を起こし、一代で巨商、仙台から長崎までを商圏に活躍。しかし慶応2年(1866)瀬戸内で1万2千両の荷を失い。青梅に戻り豆腐業に。明治元年(1868)、「甲斐国黒川通り新道切開願」を江川太郎左衛門に提出するも、明治の混乱期で停滞。明治8年(1874)、になって山梨県令藤村四郎から新道切開の命。9年着工。11年(1878)の完工。丹波山村奥秋から柳沢峠まで3里半。柳沢峠から甲府まで4里半。23カ所に橋を架けその総工費13万円。小川は380円を寄付した、と言う。

○黒川金山跡
黒川通りの廃道を辿ることはあきらめて元の三条橋まで引き返す。ところで黒川谷を上へと遡れば、大菩薩嶺の北の鶏冠山(黒川山;標高1716m)にある黒川金山跡に続く道があるとのこと。おおよそ2時間弱の歩き、とか。
甲斐の武田家の軍資金を支えたとされる黒川金山であるが、現在残る廃坑跡辺りの一つの鉱区に集中していたわけではないようである。その範囲は広く、黒川山を取り囲んで、南は泉水谷、北と東は一之瀬川、柳沢川、西は横手山から六本木峠に囲まれた楕円の地域一帯に広がっていた、と。現在残る廃坑跡はこの黒川中で最も新しい採掘場のあったところ、とのこと。採掘場もあちこちに点在し、「黒川千軒」と称される黒川金山の集落も黒川山のあちこちに点在していた、と。
また、黒川金山ははじめからこの黒川山で採掘が開始されたわけでもないようだ。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、最初に候補地は一之瀬地区。応永元年(1394)。武田の密命で数名の家臣が金の探索のため一之瀬川を上り詰め、将監峠、牛王院山に金の鉱脈発見。しかし採掘量が少なく。次に大常木谷を探るが空振り。大常木谷に残る「屋敷の窪」「御屋敷沢」などの地名は試掘の名残、とか。
次いで大常木谷を下り、一之瀬川と柳沢川との合流点に。柳沢川の上流と高橋川一体も試掘し藤尾橋の下あたりに砂金をあげた跡がある、と言う。一方、一之瀬川と柳沢川の合流点から下流に向かった一隊は黒川谷との合流点で川床が光るの見つけ、黒川谷を遡り黒川金山を発見したとのことである。
黒川金山は享禄年間(1528?1532)から信玄の全盛期を経て、天正10年(1582)の武田家の滅亡まで、60年に渡って武田の軍資金を支える。額は24万両とも80万両とも。また、黒川金山は黄金の山とも貧鉱とも諸説ある。結果的には明治には貧鉱のため水源林として買収された。

大常木トンネル_午前10時16分_標高857m
黒川谷から三条橋に国道411号に。左手の小丘に尾崎行雄の記念碑。「尾崎行雄水源踏査記念碑」を見やり先に進む。切り立った断崖、川どこまで100mほどもあろうかと思える丹波渓谷の景観を楽しみながら国道を進むと「大常木トンネル」が現れる。トンネル左手の渓谷沿いには旧道が見えるのだが、旧道への道はトンネル入口の構造物で完全にブロックされている。
大常木トンネルはその手前のアプローチも含め「大常木バイバス」を呼ばれているが、全長490mのバイパスのうちトンネル部分が355m、それ以外のバイパス道路は旧道を改修したもの。バイパスの開通は平成23年(2011)11月。つい最近のことである。バイパスを建設は平成18年(2006)7月に発生した大規模な土砂崩れによって国道が45日間も通行止めになったことを踏まえて計画された、とのことである。
大常木トンネル内を歩き、出口から旧道を確認するに、こちらはトンネルの東口以上に完全にブロックされていた。川沿いの旧道歩きはあきらめ先に進む。

一之瀬高橋トンネル_午前10時24分_標高861m
大常木トンネルを抜けるとすぐに丹波川に架かる橋とトンネルが見える。旧道は右手の川沿いに進んでいる。こちらの旧道はフェンスで遮られるも、入口は開けることができそうだが、立ち入り禁止のサインもあり、こちらも旧道歩きを断念した。
大常木バイパスと同じ平成23年(2011)11月に開通した一之瀬高橋バイパスを進む。一之瀬高橋バイパスは全長は460m。丹波川に架かる岩岳橋と一之瀬高橋トンネル、それとトンネルを抜けるとすぐに柳沢川に架けられた橋からなる。柳沢川に架けられた橋はダブルヘアピンカーブの旧道の一個目のヘアピン部分につながり、ヘアピンは旧道にくらべひとつ減っている。
トンネルを抜けヘアピンカーブの坂を上りながら旧道方面を見る。柳沢川右岸、トンネルがしたをくぐる崖面は全体が落石ネットで覆われている。平成18年(2006)7月に発生した大規模な土砂崩れの名残ではないかと思う。対岸から川を越えて街道を岩で埋め尽くしたのであろう、か。
また、一之瀬高橋トンネルの真上山塊を見る。今回辿れなかった「新青梅街道」がトンネル真上辺りを通っているはずである。次回を期す。
○一之瀬川
一之瀬高橋バイパスを通らないで旧道を進むと北から一之瀬川が合流し、一之瀬川に架かる一之瀬橋が丹波山村と甲州市の境ともなっている。この一之瀬川の源頭部は多摩川の源流点となっている。「水干」と称される。一之瀬川林道を進み、黒川金山のところでメモした大常木谷を越え、一之瀬川、その上流の水干沢を詰め切った笠取山を少し南に下ったところにある。大常木谷の上流には「竜バミ谷」といった沢遡上にはフックの掛かる沢も。多摩川源流部の水干ともども一度訪れてみたいところである。
因みに一之瀬、二之瀬、三之瀬といった一之瀬高橋の集落はその交易は秩父が主であった、とか。将監峠を越えて甲州からは甲斐絹、麻布、紙。秩父側からは銘仙、相生織物、油、日用雑貨が運ばれた。

○おいらん淵
上で「一之瀬川」が合流するとメモしたが、一之瀬川の源頭部が多摩川の源流、ということは、一之瀬川が本流であり、合流するというのは適切ではないかもしれない。それはともあれ、一之瀬川が丹波川とその名を変える一之瀬橋より上流は柳沢川と呼ばれる。その柳沢川が、本流である一之瀬川・丹波川に合流する辺りに「おいらん淵」がある、という。
旧道沿いであり、訪ねることはできなかったのだが、この「おいらん淵」は武田家滅亡の時、坑道を埋め廃坑とするに際し、遊女の処置に困り、この渓上の宴台を設け、滝見の宴半ばで藤蔓を切り落し滝壺に葬る。55名とも、五十五人淵とも呼ばれる。
異説もある。皆殺しになることを知った女郎は、秩父の大滝を目指して逃げる途中、今の藤尾橋の下でつかまって谷に放り込まれた、と。断崖絶壁、道なき渓谷で宴を催すとの伝説よりも、ちょっとリアリティを感じる話ではある。

藤尾橋;午前11時_標高1013m
国道を進むと吊り橋が見える。おいらん云々は伝説としておくとしても、この橋は当初の計画で辿ろうとした明治の新青梅街道が柳沢川を右岸に渡る地点。橋には立ち入り禁止の標識があったのだが、いにしえの青梅街道の一端に触れるべく、吊り橋を渡り少し道を辿る。適当なところまで歩き折り返したが。結構きちんとした道がこの辺りには残っていた。今では廃道となった船越橋から、黒川谷出合いを経て、この藤尾橋までいつの日か歩いてみたい。「立ち入り禁止」は気になりつつも。

落合;午後12時10分_標高1148m
先に進むと左から高橋川が合わさる。地図で川筋を見ると高橋の地名があり、そこから一之瀬地区とは犬切峠で結ばれている。この辺りを一之瀬高橋と称する所以であろう、か。明治5年(1872)学制が発布されたとき、明治15年(1882)に分校が標高1,300mの犬切峠にあったという。高橋と一之瀬の中間である、という理由だろうか。単なる妄想。根拠なし。その分校も明治13年(1880)に新青梅街道が開かれると、落合と一之瀬に分校ができた。
高橋川が丹波川に合流する少し西に集落。丹波山村から歩き始め、はじめての集落らしき集落である。街道脇に東京都水道局の水源管理事務所があった。この落合の集落は明治に新青梅街道が開かれたときにできたもの。その交通の便の故か一之瀬や高橋から人が下ってできた集落である。
この落合辺りから先、予想では険阻なる山峡の地と想像していたのだが、雰囲気としては「高原」の趣き。覚悟していた急勾配もなく、緩やかに峠へとアプローチしていく道筋である。落合から柳沢峠まで、おおよそ5キロを330上るだけである。

御屋敷;午後12時32分_標高1223m
国道を進むと「御屋敷」との地名。柳沢刑部守の屋敷があったのがその地名の由来とのことだが、刑部は伝説の人物で実在のほど定かならず。刑部平、馬場沢、的場、刑部岩などの地名も残るが、今回越える柳沢峠も、この柳沢刑部守に由来する、とも。

湧水;午後12時43分_標高1261m
次第に細くなっていた柳沢川に沿って甲州では「大菩薩ライン」と呼ばれる青梅街道を進むと、道脇に土産店とその奥に宿があるようだ。また、土産店の手前にある「奥多摩湖源流の湧水」と書かれた看板に惹かれ、店脇の井桁風の水槽にホースから流れ出す水を飲む。柳沢川の上流から引かれただろう、か。その柳沢川はこの店の辺りから青梅街道から離れてゆく。ささやかな渓流となって流れる柳沢川を見送り先を急ぐ。

林道泉水横手山線入口;午後13時_1342m
街道の左手に「泉谷横手山林道入口」が見える。上でメモしたように、ここは泉水谷林道と繋がっているようであり、泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経てこの地で国道411号に出る。その出口、というか入口がここである。多くのライダーがこの林道を走っているようなので、ダートではあるがそれなりの道が整備されているのだろう。



大日影沢;午後13時12分_標高1390m
林道泉水横手山線入口まで来れば柳沢峠まで残り2キロ程度。もうひと頑張り。先に進むと大日影沢に架かる「大日影橋」。その先に逆にカーブする橋は「花ノ木橋」。大日影沢って、柳沢川の上流部のよう。地図では柳沢川の水路は、林道泉水横手山線入口の手前辺りで消えているのだが、橋に「柳沢川」と書かれていた。細いながらも水が流れるのを橋の上から確認できた。大日影橋も花ノ木橋も手元の2万5000分の一の地図の青梅街道の道筋から外れている。最近改修工事がなされたのであろう、か。豪快な橋である。

柳沢峠;午後13時36分_標高1472m
道の先に空が開き峠に到着。標高1472m。今まで結構多くの峠を越えたが、寂しい鞍部がほとんどであり、こんな車の往来頻繁な峠ははじめて。峠の茶屋から南に開く景観を楽しむ。天気が悪く富士山は見えなかった。
峠に石碑が建つ。明治に青梅街道を開いた県令藤村紫郎と、昭和6年(1931)小河内ダム建設の建議以降、30年に渡り道路の改修に貢献した飛田東山氏と川手良親氏の顕彰碑であった。飛田東山氏は小河内ダム建設に参画し、その景観を守るため昭和25年(1950)に秩父多摩国立公園指定に成功し、その後も国都県を動かし甲府青梅線の改修に貢献した。川手良親氏は山梨県の土木部長として、昭和12年(1937)以来都県を結ぶ青梅街道の改修に貢献した、といったものであった。

高芝大橋;午後14時15分_標高1278m
さて、後はバスに乗り遅れないように裂石に向かって下るだけ。柳沢峠から裂石までまだ10キロほども残っている。九十九折れの道をどんどん下る。と、突然巨大な橋が現れる。重川に架かる高芝大橋である。誠に巨大な橋梁である。また、その巨大なひとつの橋がS字に大きく曲がり、その橋桁の高さを含め今までに見たことも無いようなダイナミックな橋であった。橋の下には橋ができる前の青梅街道らしき道筋も見えた。

裂石;午後16時_標高901m
バスの時間も迫るため、脇目もふらずひたすら街道を下る。高芝トンネル、上萩原第一トンネル、上萩原第二トンネル、雲峰寺第一、雲峰寺第二トネルを抜け、裂石に到着。この地に泊まり翌日も甲州街道との合流点まで歩く元監査役と分かれ、バス停に。裂石にある名刹雲峰寺は数年前大菩薩から小菅に抜けたときに訪れたので今回はパス。コミュニティバスに乗りJR塩山駅に向かい、一路家路へと。本日は30キロ強、8時間半の峠越えであった。






元職場の監査役、今や悠々自適の御老公より青梅街道柳沢越えのお誘い。東海道鈴鹿峠越え碓井峠越え中山道和田峠越えの露払いの御伴をした我が身としては諾と頷くのみ。日程は1泊2日。共に奥多摩駅から「奥多摩むかし道」を奥多摩湖まで歩き終えているので、初日のスタート地点は奥多摩湖とし、そこから歩き始め丹波山村までおおよそ20キロ。2日目は丹波山村から柳沢峠を越えて山梨県甲州市(旧塩山市)の裂石までおおよそ30キロといったもの。

ルートは基本、国道411号を辿るものであり、多摩川や奥多摩の山々の景観はいいとしても、少々単調な国道歩きではあろう。が、ご一緒した理由は御老公のお誘いということもさることながら、そのほかに三つほどある。第一の理由は、中世の甲州街道を辿る散歩の穴埋めのため。今までの散歩で、五日市の檜原村(ひのはらむら)から浅間尾根を数馬の近くまで辿り、そこからスポッと飛ばし、小菅村から大菩薩峠を越えて裂石までは歩いている。で、そのスポッと抜けたところのうち、浅間尾根から風張峠を越えて小河内に下りるのはそれなりに心躍るルートではあるが、小河内から小菅村まで味気ない国道を歩くことには、今一つ気乗りしなかった。歩きたいのは小河内から小菅村であり丹波山村ではないのだが、途中までは同じルートであるので、いつの日か残りの道筋を小菅村まで歩けばいいだろう、との思いである。
もうひとつの理由は、大菩薩峠を辿った時、大菩薩嶺の結構近くに「黒川金山跡」があることを知り、そのうち訪れたいと思っていた。今回歩く青梅街道沿いに、黒川金山ゆかりの地も点在する。また、黒川金山へのアプローチ道の一つである黒川谷を「掠る」ルートであることにも惹かれた。
そして第三の理由は、これも前々から訪れてみたいと思っている多摩川の源流点である笠取山の水干(みずひ)へのアプローチも青梅街道の丹波山村から辿れるということ。水干へと辿る散歩の事前準備としてはいい機会であろう、と。
といったあれこれの想いを抱き待ち合わせの地である奥多摩線・氷川駅に向かった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

参考図書;

 多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』 『奥多摩風土記:大館勇吉(有峰書店新社) 』 『多摩の山と水(下);高橋源一郎(八潮書房) 』 『青梅街道:中西慶爾(木耳社) 』 『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』



本日のルート;奥多摩駅・氷川>水根バス停>多摩川第一発電所>小河内ダム(奥多摩湖)>原集落・熱海>鶴の湯温泉の源泉>女の湯トンネル>峰谷川との合流点>麦山浮橋>小河内神社>浄光院>深山橋>小留浦の太子堂舞台>鴨沢>お祭り>後山川林道>丹波山村の中心地

奥多摩駅・氷川
JR青梅線に乗り白丸駅を越え奥多摩駅に。往昔、川の合流するところが物資の集散地であり、そこに集落ができることが多いが、この地もその伝に漏れず、奥多摩川と日原川が合流するところ。そこに氷川の集落ができあがった。 現在ではJRは氷川トンネル、道路は多摩川に沿って数馬隧道や新氷川トンネルを通り、白丸からあっと言う間に氷川の町に到着する。が、江戸時代に「数馬の切通し」が開削されるまでは、白丸から氷川への往来は、白丸の西の渓谷を遮り山上はるか上まで続く大岩塊を乗り越えるべく、白丸からゴンザス尾根へと這い上がり、その鞍部、標高770mあたりで尾根を越え、今度は逆落としの如く氷川集落の裏山へと下る根岩越えと称される道しかなかった。 数馬の切通しが開削され川沿いの道が開かれたが、断崖の岩壁を削り取った険路であり、人ひとり通るのが精一杯。とても牛馬の往来できるような道ではなかった、と。当時の氷川の物資の往来は、白丸への青梅筋ではなく、南の小河内峠、風張峠を越え浅間尾根を辿り秋川筋の五日市、さらに南に笹尾根を越えて上野原方面との交流が主流であったようである。
それでも、数馬の切通しができたことにより、氷川と青梅筋の交流も少し容易となり、結果、数馬の切り通しのできる前後で氷川集落の家屋個数が200戸から300戸に増えた、との記録が残る。白丸から氷川に車が通れるようになったのは大正期に数馬に隧道が開削されてからである。


水根バス停;午前9時55分
奥多摩駅から奥多摩湖まではバスに乗り水根バス停に。バスは駅前の2番乗り場から出る鴨沢西、丹波、留浦、峰谷、奥多摩湖であればどれに乗っても水根バス停まで行ける。水根バス停までバスを利用する理由は、御老公も私も共に奥多摩から奥多摩湖までは「奥多摩むかし道」を辿っており、今回の散歩のスタートは奥多摩湖からとしたためである。
氷川を出たバスは日原川に架かる氷川大橋を渡り多摩川左岸を進むが、南氷川大橋で右岸に渡り登計地区を進み、弁天橋で左岸に渡り直す。そして、すぐさま笹平橋で右岸に進み、琴浦橋でまたまた左岸に渡り、檜村橋で右岸に渡るとすぐさま橋詰トンネルを抜け、境橋を左岸に渡ると白髭トンネル。ここから多摩湖までは多摩川左岸を桃ヶ沢トンネル、中山トンネルと抜けて水根バス停に向かう。
メモをすればルートは多摩川を右へ左へと忙しいが、地図をみれば極力直線になるように道をつけている感じがする。川には橋を架け、山塊部はトンネルを穿ち、建設技術で力任せに道を通しているのだろう。道は昭和初年から随時改修したもので、中でも橋詰以西は昭和13年(1038)から小河内ダム建設資材用に建設されたもののようである。橋詰トンネルの竣工は昭和26年(1951)、白髭トンネルは昭和25年(1950)、中山トンネルが昭和27年(1952)頃とのことだが戦時中一時中断されていた小河内ダムの再会が昭和24年(1949)、ダム竣工が昭和32年(1957)であるので辻褄が合う。昭和20年(1945)からは一般にも通行が開放された。
○奥多摩むかし道
川には橋を架け、山塊にはトンネルを通した道路と対照的に、「奥多摩むかし道」として残るかつての青梅街道は、多摩川の左岸だけを現在の国道を上となり下となりながら自然に逆らわず続く。 この「奥多摩むかし道」が造られたのは明治32年(1899)のこと。それまでの氷川から小河内までの険しい道筋を、この山腹を通る道へと改修された。距離も三里半から二里半に短縮され、氷川・小河内の往来が容易となり、東京と山梨を結ぶ重要な道筋となった、とか。「むかし道」はそれ以降も改修が繰り返され、大正から昭和のはじめになって、現在のような姿となった。とはいえ、アップダウンの激しい山道であることには変わりない。
数年前、「奥多摩むかし道」を歩いた時、小河内ダム建設のための鉄道路線である「水根貨物線」の廃線跡を見た。大雑把に言って「奥多摩むかし道」の北を通るこの廃線は23の橋と23のトンネルがあった、とのこと。「むかし道」の歩き直しとともに、廃線跡をたどってみたいと思う。

多摩川第一発電所
小河内ダムの堰堤直下に発電所。いつだったか青梅筋の鳩ノ巣渓谷を辿ったとき、白丸ダムと白丸発電所に出合ったが、共に東京都交通局の管轄する電気事業であった。何故に交通局と好奇心に駆られチェックしたところ、昭和7年(1932)、当時の東京市水道局は水道需要に応えるため小河内ダム建設を計画。その計画を受け、東京市電気局は軌道事業(電車)だけでなく、市が必要とする電力の供給事業を計画。
戦前のあれこれの経緯は省くとして、戦後になり都は発電事業を開始。所管は電気局が組織を変更し、新たにできた交通局が担当することになった。電気局は、戦時の電力事業の国家統制もあり、発電事業を廃止し軌道部門だけとなったため、交通局と改名していたためである。
ここでつくられた電気は交通局の送電線を経由して、おおよそ6キロ下流にある東京電力氷川発電所(平成19年に東電の100%子会社である東京発電に譲渡されているので、正確には東京発電氷川発電所と言うべきか。)に送られている、と。
また、多摩川第一発電所の水褥池にたまった水は大半が多摩川に放水されるが、一部は5.3キロの隧道水路を通り100m強の水圧鉄管を一気に下り氷川発電所に落ちる。Google MAPをみていると、水圧鉄管の伸びる山中に如何にも人工的な池が見える。これって氷川発電所の調整池だろうか。

小河内ダム(奥多摩湖)
国道411号をそのまま進めば、大麦代(おおむぎしろ)トンネル(昭和32年;1957年竣工)に入る。大麦代の地名の由来は不詳。京都などに「麦代餅(むぎてもち)」といった餅があるが、もともとは農作業の時の間食としてのお菓子。麦代餅(むぎてもち)二個分と、麦五合分が物々交換された、というので、この辺りに何か麦と代える(交換)産物でもあったのだろう、か。道を西に向かったところに麦山集落がある故の妄想。根拠は、何もなし。
国道を離れ湖畔の「奥多摩水と緑のふれあい館」のある広場へと向かう。「奥多摩水と緑のふれあい館」は以前訪れたことがあるので今回はパス。湖畔でダム湖を眺める。満々と水を湛えるダム湖とは程遠く、満水時の時には水に沈むであろう地肌が露出されており渇水気味ではあるが、このダム湖は東京都民の水瓶。
いまでこそ、東京都民の水源は利根川・荒川水系にその水量の80%を頼り、多摩川水系の比率は18%程度とはなっているが(その他相模川水系1.8%,地下水0.2%)、昭和6年(1931)、当時の東京市がその市民の水資源確保と計画したのがこの小河内ダムである。昭和6年(1931)に計画が発表されてから昭和32年(1957)のダムの竣工まで、結構時間がかかっている。その間の紆余曲折をまとめておく。
○ダム建設の経緯
当時の東京市は大正末期より東京市民の水源確保のための候補地を検討。昭和6年(1931)には昔の三田郷である原・河内・河野・留浦の4部落からなる当時の小河内村を候補に選定。ダムはこの4村に丹波村、小菅村を加える大規模なものであるが、ダム建設により水没する小河内村の村民は反対を表明。が、当時の村長である小沢市平氏、は「天子さまの御用水」第一と村民を説得し、無条件で了承し、昭和7年(1932)、東京市議会はダム建設を可決した。
土地買収がはじまろうとした昭和8年(1933)、「二ヶ領用水」を巡り神奈川県と水利紛争が発生。元禄時代に起工され、神奈川県の稲毛で多摩川から取水する「二ヶ領用水」の用水組合が多摩川の水利権をもっており、その組合が反対しダム建設計画は頓挫。その上、当初ダム建設地とされていた「女ヶ湯」の地が地質上不可ということで、ダム建設地が2キロ下流の「水根沢」に変更された。 このダブルの不手際に村民は抗議。白紙還元の動きも出る。工事の頓挫で土地移転の補償費が入らない村民は困窮。小沢村長は村の荒廃を防ぐべく奔走するも状況は好転せず、昭和10年(1935)には、堪忍の限度を超えた村民が蜂起。「蓆旗竹槍は多摩の伝統 猪突猛進は世代廼衣鉢」と小沢村長を先頭に村民が東京に直談判へと向かう。官憲は氷川大橋を阻止線とし、村民は奥氷川神社に押し込められ、代表が東京へ強談判に向かう。
この強談判が功を奏したのか、のらりくらりの官僚の態度が変化し、問題が次々解決されてゆく。そして昭和11年(1936)2月26日には「二ヶ領用水組合」との和解成立。この日は期しくも二・二六事件の日。また、当時の東京都知事は「二ヶ領用水組合」問題が紛糾したときの神奈川県の横山知事であった(昭和10年(1935)、東京都知事に)。
昭和12年(1937)に買収地価公表。あまりの低い買収地価のため騒動が起こるも、当時の官主導社会故に村民は泣き寝入り。昭和13年(1938)には妥結。八ヶ岳山麓など他の地への移転者には少額ながら更生資金が用意された。
昭和13年(1938)11月に地鎮祭。しかし戦局の悪化により昭和18年(1943)工事中止。戦後の昭和24年(1949)工事再開され昭和32年(1957)ダム竣工。奥多摩湖(小河内貯水池)は東京都民と神奈川県の一部に一定の水を安定的に供給するのが大前提であるため、ダム湖はその余水を貯蔵することになる。そのため湖が水に満たされるには結構日数がかかり、奥多摩湖が全容を表したのは昭和40年(1965)のことである。
現在奥多摩湖に貯水された水は、多摩川第一発電所に落とされ、その水褥池にたまった水は大半(一部は上でメモした氷川発電所に)が多摩川に放水され、約34キロ下流にある小作取水堰と、約36キロ下流にある羽村取水堰で水道原水として取水される。取水された原水は、自然流下により村山・山口貯水池、玉川上水路などを経て、東村山・境の各浄水場へ、導水ポンプにより小作浄水場へ送られる。また、東村山浄水場から原水連絡管により朝霞・三園の各浄水場へも送ることが可能となっている。「二ヶ領用水」は灌漑用水の重要性は当時とは異なるだろうが、現在でも取水堰があり、そこから取水されている。

原集落・熱海;10時26分
湖畔に沿って道を進むと、大麦代トンネルを出た国道411号に合流。先に進むと熱海トンネルが見えてくる。「あたみ」と読む。「熱海」はこのあたりの小字だろうか、「日当たりがよく、あったかいところ」の意味。トンネル左手に旧道らしき道があるので進むが、坂を上ってゆく。旧道というより、原集落へと続く道のようであった。原は「岩山や急傾斜地の下部のゆるやかな傾斜地」のことである。
原集落の奥まったところに「温泉神社」。今は湖底に沈んだ小河内温泉・鶴の湯(旧原村、現在の大字原の湯場)の湯壺の傍にあったものを移したもの。当時は湯屋権現、湯の権現とも、宝暦13年(1763)には熊野三社権現とも称されたようであるが、明治3年(1870)に温泉神社と改名された。
御神体は円形の懸け鏡開き。延文6年(1361)原讃岐守が勧請。境内には「懸仏碑」。表は亀田鵬斎の撰文による「武州多摩郡小河内温泉の碑」。鶴が傷を癒しているのをみて発見したという鶴の湯の縁起諏と、周辺の景色や温泉の歴史が刻まれている、と。裏は酒井抱一の「千代よばふ鶴の出温泉や夏しらず」の句。
亀田鵬斎は江戸時代の化政文化期(19世紀初頭)の儒学者で書家、跳ねるような独特の書体で知られる。酒井抱一は江戸座流の俳人。光琳風の画をよくし俳人画家として化政時代に一斉を風靡した。

○小河内温泉
シカの湯、ムシの湯、ツルの湯の三つの源泉からなる小河内温泉は、傷ついた鶴がこの湯に浸って癒った、といったその縁起もあり、江戸期、寛文年間(1661?1673)の頃より知られるようになり、青梅・氷川の青梅筋から、また、檜原村から小河内峠を越えてくる秋川筋から、そして甲州から大菩薩を越えてくる人で賑わうようになる。
また、江戸時代には江戸から亀田鵬斎、酒井抱一、十返舎一九といった文人墨客が訪ねるようになる。幕末に林鶴梁、真田謙山。明治には田山花袋、北原白秋などもこの地を訪れている。温泉の経営にあたったのは奥多摩の有力者、この地17村のうちの6村の名主を務めた原嶋一族であるので、旦那として文人墨客との交誼を重ねたのか、とも。
『写真集 多摩川は語る;三田鶴吉監修(けやき出版)』には昭和13年(1938)の小河内温泉の写真があった。多摩川の流れにそって民家が軒を連ねる。今は湖底にあるこの景観に想いをはせる。

鶴の湯温泉の源泉;午前11時5分
原集落から国道411号へと道を下り、国道に沿って進むと「室沢トンネル」。昭和33年(1958)竣工のトンネルの左手に旧道への道筋が残るが足場がよくないようであり、多摩湖にスリップは勘弁ということで、トンネルを進む。
「室沢トンネル」を抜けるとすぐに「鶴の湯トンネル」。昭和33年(1958)竣工。トンネルを抜けると道脇に「鶴の湯温泉の源泉」があった。源泉とは言いながら、湯はまったく出ていない。源泉の流れを受け止めていた石枡(?)の脇に、「無償での一般提供はできなくなった」との旨の案内があった。
「無償での一般提供はできなくなった」との案内は、それはそれとして、温泉源泉とはいいながら、周囲にそれらしき温泉施設はなにもない。ちょっと気になりチェックする;昭和32年(1957)、奥多摩湖の完成によって水没する「鶴の湯温泉」の源泉は東京都によってこの地に揚水できるよう措置が施されていた。が、源泉所有者と水没が決まった後に新たに源泉を開発した業者との間で源泉利用の話し合いがつかず、利用できないままになっていた。
平成3年(1991)には地元の強い要請もあり、地元団体が源泉の権利を取得し復活。源泉施設と配湯基地をつかい、地域の施設にタンクローリーで配湯されている、とのこと。一般への無料配湯は停止されたようだが、いくつかの施設で温泉を購入できるとのことである。タンクローリーとは少々無粋、とは言うものの、昔の小河内温泉も湯壺からお湯を汲みリヤカーで宿に運んでいたというから、同じようなもの、か。

女の湯トンネル
「鶴の湯温泉の源泉」のすぐ先に「女の湯トンネル」。昭和33年(1958)の竣工。上でメモしたように、小河内ダムは当初、この「女の湯」辺りに建設が計画されたようであるが、地質上建設困難ということで、現在の水根沢の辺りに変更された。当初の計画のままでダムが建設されれば小河内温泉は残ったかもしれない。それよりなにより、水没対象外であった原集落、河内集落の人たちの人生設計は一変、大きく変わることになったことではあろう。

峰谷川との合流点:午前11時18分
「女の湯トンネル」の先には「あずまいトンネル」。竣工昭和33年(1958)のこのトンネルの表記は少々混乱。白看板には「あずまいトンネル」、トンネルの扁額には「あづまいトンネル」、バス停は「あずまい」。はてさて。次いで「坂本トンネル」出ると峰谷川が奥多摩湖に注ぐ谷筋に出る。
峰谷川は別名「苧(を)川」とも。苧とは「カラムシ」のこと。その植物から取った繊維で麻をつくるわけだが、その「カラムシ」がこの沢に多くあった、とのことである。
峰谷川を遡ると臨済宗建長寺派の金鳳山普門寺がある。もとは河内地区にあったがダムによる水没のため、この地に移築。この寺の開基の頃の住職は結構禅林の領袖といった人物が目につく。第一世は後に建長寺37世となっているし、第二世は明の人。南禅寺、真如寺、建長寺で力を発揮、第五世も建長寺119世となっている。この僻地に何故に高僧?それに、氷川や古里の寺院が海禅寺を中心とした曹洞宗であるが、小河内の寺院は臨済宗とも言われる。
チェックすると、臨済宗の寺院は秋川筋の五日市方面に多い、と言う。武蔵五日市の光厳寺も足利尊氏の創建とも伝わる。このことからも、往昔の小河内は青梅筋ではなく、秋川筋の五日市との結びつきが強かったことも伺える。また、現在では奥多摩は東京の僻地であるが、鎌倉・室町期には現在の東京都心部など影も形もない一面の葦原である。一方、奥多摩は、と言えば、日原にある鍾乳洞は、一石山大権現とも称されるように、一帯のお山全体を大日如来の浄土とする中世以来の一大霊場であった。この日原から仙元峠を越えて秩父の浦山に抜ける信仰の道は人の往来が盛んであった、と言う。奥多摩の氷川や小河内って、このような信仰だけでなく、甲斐との攻防戦の最前線としても、現在の地政上の位置づけとは比較にならないほど重要な地であったのあろう。

麦山浮橋
峰谷川と奥多摩湖の合流点に架かる峰谷橋を渡り、青梅街道を離れ小河内神社に寄り道。峰から流れる峯谷川は、多摩川に入る前に蛇行し山を深く削り多摩川に合流していたが、ダム湖となった今もその姿を残す。峰谷川の細く深く削られた蛇行は、そのまま太くなって蛇行した湖となり、両河川に挟まれた山が湖上に岬となって突き出ている。

小河内神社にむかう途中、「麦山浮橋」の案内があった。「奥多摩湖には麦山(220m)と留浦(210m)の2ヵ所に浮橋がかかっている。ダム建設に伴い水没した対岸との通行路の代替として設置。現在はプラスティック,発泡スチロール製の浮子を使用。以前はドラム缶が浮子に使用されていた。このことから通称、ドラム缶橋と呼ばれている」と。
湖を見るに、それらしき浮橋は対岸に繋がれてはいない。その一部らしきものが、小河内神社のある半島の岸辺に無造作に浮かんでいる。ダム湖の水量が少ない時には対岸に繋がれない、とか。

小河内神社;午前11時40分
小河内神社はその岬の真ん中、小高い山頂にある。坂を上りお参り。神社は新しい。水没した全地域の神社を合祀し新しく建て直されたためではあろうが、中でも旧河内村にあった金御岳神社が中軸神であり、天照大神と安閑天皇の二柱を祀る。鎌倉期に勧請されたものであるが、寛文8年(1668)には金峰山権現、維新前は金御岳蔵王権現。明治5年(1872)に金御岳神社と称された。 因みに河内とは「川や沢の合流点」のこと。川内、河内、河合、川合、河井、川井、川相、落合、川又、川俣、川股、川真田などと表記される。また、小河内の「小(お)」は「麻」の意味と。そう言えば、最近散歩した阿波の忌部一族、麻の生産で知られるその本拠地を「麻殖(植)郡(おえぐん)」と表記していた。

浄光院;午前12時30分
小河内神社を離れ、国道411号を西に麦山地区を抜ける。オレンジ色の麦山橋を越えると「川野トンネル」が見えてくる。昭和33年(1958)竣工のこのトンネルは東京都最西端のトンネル。トンネル左手に旧道らしき道筋があるので、トンネルを迂回する。道は坂になり、上り切ったあたりに浄光院。小河内のお寺の例に漏れず、このお寺様も臨済宗。お寺の隣には川野生活館が併設される。川野に残る「説教浄瑠璃車人形」がここで上演される、とか。明治初年からはじまったもので、ロクロ車を使いひとりで人形を操るのが特徴、と。
お寺の前にある幾多の石仏、これも湖底に沈む村から移されたものではあろうが、石仏にお参りしながら迂回道を下り国道411号に戻る。今回見逃したのだが、川野トンネルの少し北に「箭弓神社」がある。この神社も小菅川と多摩川が合流する辺りにあったものを移したものだが、この神社には小菅に居を構えた武田方の武将・小菅遠江守にまつわる逸話がある。
小菅村は武田方の最前線。今は湖底に沈むが、かつて多摩川と小菅川が合流する少し東に武田と敵対する北条方の杉田重長の館があった。また、その対岸には一旦事あるときに小河内衆が立て籠もる城山もあった、と言う。小菅の小菅遠江守、こともあろうに、この敵方の本拠地・川野の地の女性に惚れてしまい、女性に会うために通うところを察知され、箭弓神社の辺りにおいて弓で射殺された、とか。付近には末期の井戸もあった、と言う。河内部落のはずれに小菅遠江守の墓もあったと伝わる。もっとも、この伝説とは異なる話もあり、真偽のほどは定かならず。

深山橋;午後12時45分
少し進むと深山橋。この橋を渡ると小菅村へと道は続く。この小菅川に沿って小菅に進む道筋は中世の甲州街道。道は府中からはじまり日野に進み、日野からは谷地川に沿って南北加住丘陵の間の滝山街道を石川、宮下と北上し、戸吹 で秋川丘陵の尾根道に入る。尾根道を辿った後は網代で秋川筋に下り、五日市の戸倉から檜原街道を西進。檜原からは浅間尾根を辿り風張峠辺りから青梅筋の小河内に下り、小菅村、または丹波村から牛尾根に上り大菩薩を越え塩山に抜ける。日野から浅間峠までと、小菅から大菩薩を越えて塩山までは歩いた。残るのは浅間尾根から小河内へと下り、小河内から小菅まで。今回の青梅街道散歩はその事前準備として、土地勘を得るといった思いもあっての歩きでもある。小菅村までが真近に見えてきた。

留浦
深山橋を左に見ながら国道411号を進むと「小留浦」とか「留浦」といった集落を通る。「トズラ」「コトズラ」と読む。「トズラ」の原語は「ツツラ」。藤蔓類植物で、筏を編む材料として使われていた。それが転じて材木、水運に関する要衝の地を指すことも

小留浦の太子堂舞台;午後12時55分
道を少し進むと道の上に太子堂。もとは多摩川の川傍にあったものをこの地に移した。間口5間、奥行き4間。元は茅葺き。今はトタン。板敷きの床上に小さな鉄車をつけた木枠を置き中央に鉄心棒。その上に二重舞台を載せる。これを中心に、陰の5、6名が押して廻すとのことである。奥多摩線・古里駅の北傍の小丹波熊野神社の楼門に舞台があり、江戸から戦前にかけて農村歌舞伎が上演されたとの
ことだが、この太子堂舞台も江戸時代後期から明治にかけて、農村歌舞伎や地芝居がさかんにおこなわれたとのことである。

鴨沢;午後13時19分
先に進むと小袖川に架かる鴨沢橋に。ライトブルーのこの橋が東京と山梨の境。橋を渡ると山梨県北都留群郡丹波山村となる。小袖川とは「帯のような細長い川」と言う意味であろう、か。それとも、小袖川を遡上した石尾根にある「七ツ石山」には平将門を祀る七つ石神社があり、将門が七つの石に化したとの伝説があり、小袖は将門の小袖を指すとの説もある。将門伝説はともあれ、鴨沢は「登り尾根」から七ツ石山に上り、小雲取山をへて東京都で最高峰の雲取山(標高2017m)への登山・下山口のひとつである。
鴨沢の地名は明治6年(1873)村社となった加茂神社から。鴨沢は数軒の開拓民からはじまり、日当りもよく地味も肥え、瀬もあり、淵もあり、小滝もあり、平坦地もあった集落であったが、今はすべて水の底である。

「お祭り」集落;午後14時10分
鴨沢橋の標高は520m。ダムサイトと同じ程度の標高だが、本日の目的地である丹波山村の中心部の上組、中組、下組地区の標高は630?650mであるから、9キロほどをゆっくりと上っていくことになる。鴨沢の集落から9キロの間に、鴨沢、所畑、保之瀬(ほうのせ)、押垣外(おしがいと)、高尾、下組、中組、上組、奥秋の大字。その下の小字には、お祭り、坂本、親川、山上、小袖、杉奈久保、高畑、落滝など、それぞれ数件の集落が続く。奥多摩駅から上組のバス停までおおよそ23キロである。
所畑を越えると「お祭り」の集落。所畑の地名の由来は不詳だが、「お祭り」という愉快な地名はダム湖に沈む前の集落の傍に呑竜さまの社があり、そのお祭りが盛んであったことから名づけられた、とか(『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』)。道を進むに高く組まれた石垣が印象的な集落であった。

後山川林道;午後14時16分
「お祭り」集落を越えると300mほどで後山川林道が北に分岐。この林道は雲取山への登・下山口のひとつである。道脇には「林道後山線起点」「青岩谷鍾乳洞」の道標。林道に沿って流れる後山川の瀬渓谷は丹波渓谷、一ノ瀬渓谷とともに紅葉の名所で知られる。弟から雲取山登山のお誘いがあるのだが、秩父の三峰神社からのルートとともに、奥多摩川からのルートもいくつもあるようだ。林道を辿り切ったあたりにある三条の湯、水無尾根を経て雲取山まで歩くのもそのひとつ。昭和40年(1965)頃には林道に車が入れるようになったようである。
後山川林道のすぐ先で後山川が丹波川に合流する。後山川に親川橋が架かる。多摩本流は親川、後山川は小川(こかわ)とも呼ばれ、橋は小川(後山川)を跨ぐが親川橋、と。橋を渡れば「丹波山村大字保之瀬」。「ホウノセ」と読む。「保」は中国から渡来した隣組制度のこと。隣接する5から10戸で構成され、租・庸・調の連帯責任を負う。日本では平安時代に取り入れられ、中世を通じて存在した所領単位のことであり、後に小集落の呼称となったとのことの、よう(『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』)。
○杣保
「保」に関して、ついでの話。奥多摩のことを「杣保」と称する。「武州杣保長渕村羽村とあれば、其辺より西は往古すべて杣保なるべし」、と。奥多摩線沿線、小河内、留浦、鴨沢までを杣保と呼ぶようである。室町に三田氏が登場して以降は三田領のことを指す。「杣」とは通常「杣山」と称され、全国に散在するが、その意味は「古代より木材・石材などの山林資源、特産資源を国衙や大社寺に供給する地」を指す(『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』)。この地も古くは杣山と呼ばれたものが、所領地の意をより強めるために「杣保」となったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
これまたついでのことながら、「奥多摩」という呼称がはじめて使われたのは昭和2年(1927)のこと、という。それまでは「多摩川入り」とか「丹波川入り」などと言ってこの地を訪ねたようである。因みに、「杣保」については、平将門(相馬小次郎)の後衛と称した三田氏故のことだろうか、「相馬」保から、との説もある。杣保を支配した永禄6年(1563)、北条氏によりと辛垣城で滅ぶ。

丹波川
多摩川は小菅川との合流部より上流は丹波川と呼ばれる。後山川の親川橋を境に、丹波山村も地域のまとまり感が異なるようである。奥多摩は北条と武田の最前線の地。甲武国境であったが、保之瀬を境に地域意識が異なるのは、三田氏が、このあたりまで勢を張った名残、かも。実際、杉奈久保になると「武田の家臣の末裔と称する人が住むとのことである。


丹波山村の中心地;午後14時41分
道は曲折を重ねて高度を増やす。落滝集落の下で右から突出する大きな山塊を回り込むと川底に押垣外や高尾といった保之瀬の集落が見える。高尾、押垣外は黒川金山から出た家が多い、とか。押垣外は「忍谷(おしがいと)」とも。丹波川が右に大きくカーブを切り、すぐに左にまわりこんで見えなくなる、ことが地名の由来とか。対岸に高尾集落を見やりながら進むと本日の宿泊地である丹波山村の中心地に到着する。

○昔の丹波山・氷川往来
本日の散歩は、国道411号を辿るだけの少々味気ない散歩ではあったが、小河内から丹波山村の中心地まで歩いたこの国道の原型は明治20年(1887)頃。この地に青梅街道が開かれ、その道に改修を加え現在の姿になったものであろう。 明治20年(1887)以前の道筋は、現在の国道筋とは異なるルートを通る。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によると、昔の道は丹波宿から現在の役場あたりで右岸に渡り、高雄、押垣外をへて左山を高巻きし、保之瀬下の手前に下る。左岸に渡り返し、落滝に上る。1時間はかかる。
落滝から刀指、トヤクボ(鳥屋窪)、高畑(丹波天平の尾根筋の東禄麓。後山川の西)と山上の部落を通り、親川集落に下る。お祭、所畑から上って杉奈久保(後山川の東)の東を通り、尾根筋を小袖に抜け、鴨沢に下り、小河内に出た。車道は8キロだが、山上の巻き道は倍の距離。高差300mのアップダウンで1日がかりであった。丹波山村は誠に僻地であった。現在過疎の山上の部落は当時の街道筋であった。
『玉川泝源日記』には「(親川)橋を渡りて、親川山の九十九折を登りて、親川の一ツ家という茅屋あり」「よじ登るほどに、左は谷川屈曲して、ほそく見下ろし、岸はさがしく聳えたり。半道ばかり登りて峠に至る」「山陰の高畑に家ありと云う」峠からくだって「朴の瀬村と云、家数二十六軒」「岨のかけ路をのぼりつ、くだりつ、行く程にまた左の方の谷の向ひ岸に家々見渡される。押垣外という。家数十四軒あり」「猶、ゆくゆく、又、谷川の向こうに高尾村、家数二十五軒。そのさき?道よりようやく丹波川をおびて丹波村の家々あまた見渡さる」と描く。
単調なる国道歩きなどとのお気楽なコメントを少々反省し、5時間弱、おおよそ20キロの初日の散歩を終える。

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