2013年6月アーカイブ

会津若松を歩く

| コメント(0) | トラックバック(0)

飯盛山から鶴ケ城に
会津若松の大学に行く事に成った。アポイントは金曜日。どうせのことなら、ということで一泊し、会津若松を歩く。今までに何度か通り過ぎたことはあったのだが、市内見物ははじめて。飯盛山とか鶴ヶ城とか、戊辰戦争の旧跡を訪ねる事にする。
土曜の午前10時前、ホテルをチェックアウト。荷物を預け、駅の観光案内所に。地図を手に入れ、ルート検討。駅から東2キロ弱のところに飯盛山。そこから南に2キロほどのところに西軍砲陣跡のマーク。お城を見下ろす小山にあるのだろう。そして、その西、1キロ強のところに鶴ヶ城。で、それから街中の旧跡を巡り北へと駅に戻る。会津若松の市街をぐるっと一周するといったルート。15キロ弱といったところ。これなら午後3時4分発の列車に乗れそう。ウォーキンング仕様とはいうものの、足元はビジネスシューズ。ぬかるみの道などないようにと祈りながら、散歩に出かける。



本日のルート;JR磐梯西線・会津若松駅>飯盛山>白虎隊自刃の地>郡上藩凌霜隊之碑>宇賀神社>さざえ堂>厳島神社>戸ノ口堰洞窟>滝沢本陣跡>白河街道>戸ノ口堰>近藤勇の墓>会津武家屋敷>湯川・黒川>西軍砲陣跡>会津若松城>茶室麟閣>JR会津若松駅

JR磐梯西線・会津若松駅
駅から飯盛山に向かう。道は東にほぼ一直線。白虎通りと呼ばれている。歩きながら、なんともいえない、捉えどころのない「広がり感」が気になる。会津盆地という地形からくるのだろう、か。実際、グーグルマップの航空写真モードでチェックすると、猪苗代湖の西に周囲を緑に囲まれた盆地がぽっかりと広がる。北は喜多方方面まで含む大きな盆地である。
が、なんとなく感じる「広がり感」は、どうもそういったものでもない。広がり感と言うよりも、収斂感の無さ、といったほうが正確かもしれない。広い平地の中に、広い道路が真っすぐ走る。建物もそれほど高いものは無く、また、古い街並といった趣もそれほど、無い。会津戦争で市街地が壊滅したからなのだろう、か。また、敗戦後、青森の斗南藩に移封され、市街地の迅速な回復がなされなかったから、なのだろうか。勝手に想像するだけで、何の根拠があるわけではないのだが、今まであまり感じた事のなかった街のフラット感が至極気になった。

飯盛山

駅から1キロ強進み、会津大学短期大学部を過ぎる辺りになると前方に小高い山。背面もすべて山ではあるが、その山の中腹に建物らしきものも見える。こんもりとした小山。飯盛山の名前の由来は、お椀にご飯を盛ったような形から、と言う説もあるので、多分、飯盛山であろう。さらに近づくと、石段が続く。間違いなし。標高300m強の山である。
石段を上る。両側にお店。如何にも年期のはいった雰囲気。朝から何も食べていないので、何か口に入れたいのだが、ちょっとご遠慮差し上げたい店構え、ではある。
石段を上ったところは広場になっている。正面左手の奥には白虎隊の隊士のお墓。その手前には、会津藩殉難烈婦の碑。会津戦争で自刃、またはなくなった婦女子200余名をとむらうもの。山川健次郎さんなどが中心になり建てられた。山川氏は東大総長などを歴任。兄の山川大蔵(浩)ともども魅力的人物。山川大蔵(浩)は如何にも格好いい。『獅子の棲む国:秋山香乃(文芸社)』に詳しい。
お参りをすませ広場右手に。なんとなく不釣り合いなモニュメント。ローマ神殿の柱のよう。イタリア大使からの贈り物。その手前にはドイツ大使からの記念碑。どちらも戦前のもの。第二次大戦前の日独伊三国同盟の絡みではあろう。戦意高揚、というか、尚武の心の涵養には白虎隊精神が有難かったのであろう、か。ちなみに、ローマの円柱に刻まれた文字は、終戦後、占領軍によって削除されたが、現在は修復されている。


白虎隊自刃の地
広場からの見晴らしは、正面である西方向と北側は木々が邪魔し、それほどよくない。一方、南方向は開けており、会津の街並が見渡せる。開けている方向に進むと「白虎隊自刃の地」への案内。崖一面に墓石が広がる。石段を少しおりて進むと、すぐに「白虎隊自刃の地」。この地で炎上する鶴ヶ城を目にし、もはやこれまでと自刃した、と。お城の緑、そしてその中に天守閣が見える。とはいうものの、直線距離で2キロ弱。市街地の炎上・黒煙をお城の炎上と見間違えてもおかしくはない。
ところでこの自刃の地であるが、想像とは少し違っていた。世に伝わる「白虎隊自刃の図」では、松の繁る崖端が描かれており、墓など何もない。墓地の真ん中とは予想外である。墓石を見ても結構古そうではあるので、それ以前からお墓があったようにも思うのだが、明治以降に墓地となったのだろう、か。何となくしっくりしない。

郡上藩凌霜隊之碑

しばらく眼下の街並を眺め、元の広場へと戻る。途中に、飯沼貞夫氏のお墓。白虎隊ただ一人の生き残り。白虎隊のことはこの飯沼さんの証言により世に知られるようになった。更に進むと道端に「郡上藩凌霜隊之碑」。時勢に抗い新政府軍と戦った人物として上総請西藩主林忠崇、井庭八郎などが記憶に残っていたが、郡上藩と会津藩の関わりは忘れてしまっていたようだ。『遊撃隊始末;中村彰彦(文春文庫)』など読み直してみよう。
で、郡上藩凌霜隊についてチェックする。と、時代に翻弄された幕末小藩の姿が現れた。郡上藩青山家は徳川恩顧の大名。とはいうものの、官軍か佐幕か、どちらにつけばいいものやら趨勢定かならず。ために、表向きは新政府に忠誠を尽くすそぶりをしながら、江戸詰めの藩士を脱藩させ会津に派遣。それが、凌霜隊。万が一の保険のためである。が、結局は新政府の勝利。 凌霜隊は郡上藩から見捨てられた。投獄の後解き放たれた隊士は、その冷たい仕打ちに嫌気をさし、郡上に残る事はなかった、と。

宇賀神社
石段脇の「女坂」を下る。如何にも風雪に耐えてきた、といった土産物店。石段脇に並んでいた土産物屋もそうだが、この飯盛山って、それほど観光客が来ないのだろうか。なんとなく、儲かってそうに、ない。
土産物屋の前に宇賀神社。17世紀の中頃の元禄期、会津藩3代目藩主松平正容公が弁財天像と共に、五穀の神、宇賀神をも奉納。宇賀神は中世以来の民間信仰の神様。神名は日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)から。
で、宇迦之御魂神(うかのみたま)って、お稲荷さまのこと。五穀豊穣を祈るこの民間信仰が仏教の教義に組み込まれる。仏教を民間に普及する戦略でもあったのだろう。結果、仏教の神である弁財天に習合し宇賀弁財天と。飯盛山は元々は弁天山とも呼ばれていた。神仏習合の修験の地でもあったのだろう。宇賀神社がおまつりされている所以など大いに納得。

さざえ堂

土産物屋の横にさざえ堂。確かに栄螺(さざえ)のような形をしている。内部は螺旋の 階段がある,と言う。いつかテレビでも紹介されていたし、なによりもチケット売り場のおばさんの口上に急かされ少々のお金を払い木製の螺旋階段を上る。上りが、あら不思議、いつの間にか下りとなる、との宣伝文句。果たして、と先に進む。ほどなく最上部。そこには下りに導くリードがある。いつの間にか、という感じではないけれど、下りは上りとは別の螺旋階段となっていた。
このさざえ堂は、さきほどの宇賀神などとともに神仏習合のお堂であった、とか。観音様が祀られていたが、明治の廃仏毀釈で仏様を取り除いた、という。現在は、国の重要文化財とのことではあるが、建物を護るトタン板ならぬビニールの覆いが少々興ざめではある。

厳島神社

さざえ堂の下に厳島神社。厳島=水の神様、と言われるように周囲に豊かな用水が流れる。厳島神社となったのは明治から。そもそも「神社」という呼称が使われ始めたのは神仏分離令ができた明治になってから。この厳島神社もそれ以前は宗像社と呼ばれていた。祭神は宗像三女神のひとり、市杵島姫命。杵島姫命は神仏習合で弁財天に習合。先ほどの宇賀神共々、弁天様のオンパレード。ここまで弁天が集まれば、飯盛山が弁天山と呼ばれていたことに全く違和感はない。
社殿が建てられたのは14世紀後半、蘆名義盛公の頃。その後、会津藩主松平正容公が神像と土地を寄進。この地を飯森山と呼び始めたもの、その頃のようである。

戸ノ口堰洞窟

厳島神社脇を流れる水路を辿ると、岩山の崖下に掘られた洞窟から水が流れ出していた。これは戸ノ口堰(用水)。今から400年前、17世紀前半の元和年間に猪苗代湖の水を引くため用水を起工し17世紀後半の元禄期まで工事が続けられた。飯盛山の西、7キロのところにある戸ノ口から水を引き、会津若松までの通水を計画。ために戸ノ口堰と呼ばれる。猪苗代湖の水面の標高は500mほど。この会津若松の標高は180mほど。間には山地が連なる。水路は山間を縫い、沢を越え、うねりながら、延々と30キロ以上も続き飯盛山のこの洞窟に至る。
この用水は、もともとは飯盛山の山裾を通していた、が、土砂崩れなどもあり、飯盛山の山腹を150mほど穴をあけることになる。使用人夫5万5千人、3年の歳月を費やして完成。これが戸ノ口堰洞窟である。
で、この洞窟、白虎隊が戸ノ口原での合戦に破れ、お城に引き返すときに敵の追撃を逃れるために通り抜けてきた、と言う。二本松城を落とし、母成峠の会津軍防御ラインを突破し、猪苗代城を攻略し、会津の城下に向けて殺到する新政府軍。猪苗代湖から流れ出す唯一の川である日橋川、その橋に架かる十六橋を落とし防御線を確保しようとする会津軍。が、新政府軍のスピードに間に合わず、防御ラインを日橋川西岸の戸ノ口原に設ける。援軍要請するも、城下には老人と子どもだけ。ということで、白虎隊が戸ノ口原に派遣されたわけではあるが、武運つたなく、ということで、このお山に逃れてきた、ということである。

滝沢本陣跡

飯盛山を下り、飯盛山通りを少し北に滝沢交差点。あと1キロ強行けば大塚山古墳。4世紀後半の大和朝廷と関係の深い人物を祀るということで、ちょっと興味はあるのだが、なにせ時間がない。今回はパスして旧滝沢本陣に向かう。
滝沢交差点からほんの少し山側に歩くと滝沢本陣跡。茅葺き屋根の趣のある建物。家の前を西に滝沢峠に向かって続く道があるが、これが白河街道。会津と白河を結ぶ主街道。ために、参勤交代とか、領内巡視の折など、ちょっと休憩するためにこの本陣が設けられた。
会津戦争の時は戸ノ口の合戦で奮闘する兵士を激励するために藩主・松平容保がここを本陣とする。で、護衛の任にあたったのが白虎隊。戸ノ口原の合戦への援軍要請に勇躍出撃したのはこの本陣からである。

白河街道

山に向かって車道を進む。地図と見ると滝沢峠に続く古道がある。これって会津と白河を結ぶ白河街道。白虎隊もこの道を進み、滝沢峠を越え、戸ノ口原の合戦の地に出向いた、と言う。時間がないので峠まで行くことは出来ないが、古道の入口あたりまで行くことにする。
車道が大きく迂回するところを、そのまま山方向に向かって小径を進む。なんとなく成り行きで進み、小さな川に当たるところから如何にも峠道といった雰囲気の道筋がある。道脇に「旧滝沢峠(白河街道)」の案内があった。
白河街道は、もともとはこの道筋ではない。もう少し南、会津の奥座敷などと呼ばれている東山温泉のあたりから背あぶり山を経て猪苗代湖方面に抜けていた。15世紀の中頃、当時の会津領主である蘆名盛氏がひらいたもの。豊臣秀吉の会津下向の時も、また秀吉により会津藩主に命じられた蒲生氏郷が会津に入る時通ったのは、こちらの道筋。
滝沢峠の道が開かれたのは17世紀の前半。1627年に会津入府した加藤嘉明は急峻な背あぶり山を嫌い、滝沢峠の道を開き、それを白河街道とした、と言う。加藤嘉明は伊予の松山から移ってきた。愛媛出身の我が身としては、なんとなく身近に感じる。

戸ノ口堰
峠に進む上り道をしばらく眺め、歩いてみたいとは思うのだが、何せ戸ノ口原までは7キロほどあるようだし、ちょっと無理だろう、などと自問自答し、元に戻ることに。少々心残り。道の途中、先ほど交差した川、これってひょっとすると戸ノ口堰、というか戸ノ口用水の水路ではなかろう、か。この流れが飯盛山の山腹に進み、戸ノ口堰洞窟へとながれこむのであろう。入口まで歩いてみたいとは思うのだが、時間が心配でパス。これも少々心残り。次回会津に仕事で来たときに、この峠道のあたりを歩いてみよう。
ちなみに、このあたり、駅でもらった地図に「(滝沢)坂下」と書いてある。この地名をどう読むのか定かではないが、(会津)坂下という地名は「ばんげ」と読む。「バッケ」から来たらしい。「バッケ」って東京近郊での「ハケ」のこと。国分寺崖線にそって続く「ハケの道」で言うところの「崖下」である。確かにこのあたりも崖下に違い、ない。

近藤勇の墓

飯盛山通りに戻る。山裾の道を南に進む。市街より少し小高い道筋となっている。2キロ弱進むと大龍寺。門前の畑の柿の木に惹かれる。こういったのどかな風景に柿の木は、如何にも、いい。
大龍寺を越え、このあたりまで続く戸ノ口堰の流れと交差し、しばらくすると道ばたに「会津の歴史を訪ねる道」の案内。新撰組の近藤勇、会津藩家老である萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正の墓がある。と言う。ちょっと山道を迂回することに。
アプローチは200段弱の愛宕神社の石段。少し気が思いのだが、それよりなにより、愛宕神社から続く山麓の道が心配である。ビジネスシューズが汚れない程度の山道であることを祈りながら、とりあえず進む。
愛宕神社でお参りをすませ、山道を進む。それほどのぬかるみは無く、ちょっと安心。ほどなく近藤勇の墓。宇都宮から会津に逃れ、会津藩主・松平容保に拝謁し、近藤の死を知った土方歳三がこのお墓をたてた、と。近藤勇のお墓って、散歩の時々に顔を表す。板橋の駅前にもあったし、三鷹の竜源寺にも祀られていた。
山麓の道から天寧寺裏手に下りる。途中、萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正の墓の案内。萱野権兵衛は会津戦争の時に国老の主席として籠城戦を万端指揮した。降伏の際は、藩主・松平容保とともに、降伏文書に署名。戦後は、戦争責任をすべて引き受け、切腹を命じられた。まことに魅力的な人物。ちょっとお参りもしたいのだが、再び山麓に少し上っていく。 ぬかるみが気になり、今回は見送る。

会津武家屋敷
天寧寺の境内を抜け、飯盛山通りに戻る。少し進むと東山街道と交差。奴郎ケ前交差点を左に折れるとすぐに会津武家屋敷。なんとなく最近移築、建築したような。チェックすると家老西郷頼母の屋敷を中心に復元されたもの、と。
西郷頼母って藩主の京都守護職に反対し藩主の不興を買っている。また、戊辰戦争では白河口の戦線には参加するも、二本松口の母成峠が破られて以降は和議恭順のスタンスであり、徹底抗戦派に命を狙われていた、とか。ために会津を去り、榎本武揚、土方歳三と合流し函館で戦った。合気道をよくし、息子の四郎に技を伝授。「山嵐」という大技は、姿三四郎のモデルとなった、とか。
会津武家屋敷には今ひとつ気が乗らず立寄をパス。時間もなかったし、ないより入場料が850円というのは少々高い、かも。次の目的地、西軍砲陣跡に向かう。

湯川・黒川
東山街道を隔てて南西方向に小高い山が見える。多分その山の中腹に砲陣跡があるのだろう。地図でチェックすると、東山街道を少し南に進んだところから、その小山方向に進む小径がある。成り行きで行けばなんとかなるだろうと先に進む。
道脇にある鶴井筒という会津料理の店のところから東山街道を離れる。この鶴井筒、明治の創業という趣のある建築物であった。ともあれ、右に折れ、田舎道を進むと山の手前に川が流れる。この川は湯川。猪苗代湖の南西端の布引山が源流のこの川はもとは黒川と呼ばれていた。湯川は、近くの東山温泉に由来するのだろう。
会津若松は黒川(湯川)が会津盆地に流れ出し、阿賀川に合流するまでの扇状地に造られた。ために、往時この会津の地は黒川と呼ばれており、前述の蘆名氏が築いた城も黒川城と呼ばれていた。黒川が若松となったのは蒲生氏郷が移ってきてから。蒲生氏の生まれ故郷にあった「若松の杜」に由来する、と。ちなみに、会津の由来って、古事記によれば、神々が湿地帯(津)であったこの地で合流したから、とか、安曇族に由来するとか、例によって諸説あり。ちなみに、阿賀、吾妻、安積(あさか)、安達、といった地名は安曇族に由来する。
ついでのことながら、この地が会津若松市となったのは、昭和30年。それまでは若松市。明治32年に福島県で最初の市となった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

西軍砲陣跡
黒川に架かる橋を渡り、山裾の小径を進む。ほどなく、山裾から少し離れ、開けた田舎道を柿の木を眺めながら進む。道なりに進むと、再び山裾に接近。小山田公園への入口の案内。200m程度の小山である。木立の中、ゆるやかな坂道をのぼってゆく。途中、蘆名家壽山廟跡や観音堂跡といった案内がある。この山には蘆名氏の城であった小山田城がある。黒川城(会津若松城)が主城に移るまで、この地に館を構えていたのであろう、か。
少し進むと見晴らしのいい場所が現れる。そこに西軍砲陣跡。確かにお城が眼下に見渡せる。距離は1.5キロ程度。ここから砲弾を撃ち込むには、着弾地の調整も容易だし、会津方としては万事休す、であろう。
西軍砲陣跡しばしお城を眺め、下山。西軍砲陣跡から少し戻ったところに、「柴五郎の墓」の案内。会津人として最初の陸軍大将になった人物。なんとなく気にかかる軍人でもあるので、お参りのために脇道に入る。山道を足元を気にしながら少し下るとお墓があった。おまいりを済ませ墓石の中、山道を下る。成り行きで下り、恵倫寺の境内に出る。次の目的地はお城である。

会津若松城

恵倫寺を離れ、小田橋通りに出る。ちょっと北に湯川に架かる橋名から来ている。蘆名氏が最初に構えた館の名前が、小高木館とか小田垣館と呼ばれたようであるので、昔、この辺りは小田と呼ばれていたのだろう、か。
小田橋通りを越え、湯川に向かって成り行きで進む。地名は天神町。天神様でもあるのだろうと思っていると、川の近くにつつましい天神様があった。お参りを済ませ、湯川に架かる天神橋を渡ると鶴ヶ城南口。湯川というか黒川はお城を囲む外堀でもあったのだろう。
南口からお城を進む。土塁を抜け先に進むと大きな濠と立派な石垣が見えてきた。大きな構えのお城である。濠からの眺めを楽しみながら、壕と本丸を結ぶ廊下橋を渡る。石垣の間の道が直角に曲がっている。敵の進撃を防ぐためのものであろう。中世の山城では虎口と呼ばれていた、もの。
大きな石垣に沿って進む。弓矢の時代には攻めるのは大変であったろう。が、砲弾を打ち込まれては、どうにもならない。先ほど西軍砲陣を見ただけに、その思いは一層強い。
本丸には天守閣。お城は戊辰戦争で破壊され、現在の天守閣は昭和40年頃に再建されたもの。立派な天守閣ではあるが、時間もないので表から眺める、のみ。このお城、元々は蘆名氏により黒川城として造られた。その後、蒲生氏郷により本格的に普請される。天守閣もこの頃造られたようだ。大大名にふさわしい城下町も整備され、お城の名前も黒川城から鶴ケ城に。蒲生氏郷の幼名に由来する、と。蒲生氏の後は越後から上杉景勝が移る。120万石の大大名である。が、関ヶ原の合戦で西軍に与し合戦に敗れた上杉氏は30万石に減封され、山県の米沢に移る。
上杉に替わり蒲生氏が一時この地に移る。が、すぐに伊予の松山に移封され、替わりに伊予松山の藩主加藤嘉明が入封。で、加藤氏が改易された後にこの地に入ったのが名君の誉れ高い保科正之。家光の庶弟。出羽山形から移ってきた。保科から会津松平と名前は変わったが、明治維新まで藩主としてこの地を治める。戊辰戦争の時の松平容保公も保科の流れである。保科正之については『名君の碑;中村彰彦(文春文庫)』に詳しい。

茶室麟閣
本丸跡の広場をぶらぶら歩いていると趣のある建物があった。蒲生氏郷が千利休の子・少庵のために建てた茶室。千利休が秀吉の悋気に触れ、切腹を命じられたとき、氏郷が少庵をこの地に匿った、とか。戊辰戦争の後、移築されていたが、平成2年、ここに戻された。

JR会津若松駅

そろそろ列車の時間が迫ってきた。とっとと駅に向かう。本丸から北出丸を抜け、城を出る。北出丸大通りのお城近くに西郷頼母の屋敷跡。屋敷は先ほどの会津武家屋敷の地に移されているが、ここで母や妻子21名が自刃。合掌。
北出丸通りを北に進み、栄町あたりで適当に道を折れ、市役所近くを北に進み蒲生氏郷のお墓のある興徳寺に。つつましやかなお墓にお参りし、野口英世青春通りに進む。如何にも城下町の道といった直角に曲がる道を折れて野口英世青春通りを進む。野口英世が青春を過ごし、初恋の人に出合ったという場所などをさらっと眺め、西軍の戦死者をまつる西軍墓地をお参りし、駅に戻り、本日の予定終了。軽くメモするつもりが、結構長くなってしまった。歴史のある街をメモするのだから、仕方がない、か。 


先回のメモでは、倶利伽羅合戦前夜までのメモで終わった。今回は両軍が戦端をひらくあたりからメモをはじめる。(水曜日, 11月 29, 2006のブログを修正)


より大きな地図で 倶梨伽羅峠 を表示

本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


平氏の本陣は猿ケ馬場
先回のメモで、峠の隘路を押さえるべく、源氏方先遣隊・仁科党が源氏の白旗を立て、主力軍が布陣済みとの偽装した、と書いた。平氏の主力は11日朝、倶利伽羅峠に到着。が、山麓に翻る白旗を見て偽装を信じ、進軍を止め、倶利伽羅、国見、猿ケ馬場付近に陣を敷く。前線は「源氏ケ峰」より「党の橋」を経て、北の「埴生大池付近」に渡って布陣。「猿ケ馬場」の本陣跡に軍略図があった。それによると、中央に三位中将・維盛。軍議席、維盛に向かって右側に薩摩守忠度・上総判官忠綱・高橋判官長綱、向かって左側に左馬守行盛・越中権頭範高、河内判官季国が陣取る。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)  

薩摩守忠度

ちょっと脱線。薩摩守忠度って熊野散歩のときメモした。魅力的武将であった。が、倶利伽羅合戦で名がでることはないようだ。合戦の後日談として、平氏西走の途中、忠度は京都に引き返し、藤原俊成に歌を託し、「勅撰集がつくられる時には一首だけでも加えてほしい」とたのんだ逸話が残る。「さざなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな」。この歌が詠み人知らずとして、千載和歌集におさめられたのは周知のこと、か。

源氏の前線は矢立山
平氏の陣立ては上でメモした。一方、源氏の前線は「矢立山」。源平軍、数百メートルを隔てて相対陣。小競り合いはあるものの、戦端は開かない。源氏側は夜戦・夜襲の準備を整えていたわけだ。
陣立ては以下のとおり;「源氏ケ峰」方面には根井戸小弥太、巴御前の軍が対峙。「猿ケ馬場」方面には今井兼平軍。「塔の端・猿ケ馬場」の側面には義仲軍、「埴生大池」方面への迂回隊は余田次郎が。そして、樋口兼光率いる部隊は現在の北陸本線の北を大きく迂回し、竹橋に至り平家軍の背後に回りこんだ。

源氏方の夜襲により戦端が開かれる
長旅の行軍と数度の小競り合いに疲れた平氏が夜半になり少々の気の緩み。甲冑を脱ぎ、鎧袖を枕にまどろむ。午後10時を過ぎる頃、竹橋に迂回した樋口隊が太鼓、法螺貝を鳴らし「ときの声」とともに平氏の背面より夜襲。機をいつにして正面の今井軍、迂回隊の余田軍、左翼の巴・根井戸軍の一斉攻撃開始。三方、しかも背後からの攻撃を受けた平氏軍は大混乱。

義仲は数百の「火牛」により平氏を攻めたてた
このとき、義仲は数百の「火牛」により平氏を攻めたてた、という。が、真偽の程定かならず。中国の故事に同様の戦術があるので、それを「盗作」したのでは、とも。「火牛」がいなくても、三方から奇襲され、逃れる一方向は「深い谷」。折り重なって谷筋へと逃れたのであろう。で、あまりに平氏の犠牲が大きく、この谷を後世「地獄谷」と呼ぶようになった。こうして砺波山一帯は源氏が確保。平氏は「藤又越え」、というから倶利伽羅峠の南西方向の尾根を越え加賀に敗走した。以上が倶利伽羅合戦の概要である。

巴御前
ちょっと脱線。巴御前ってよく話しに聞く。木曽義仲の妻。女武者振りが有名である。巴は義仲を助けた中原兼遠の娘、とか。樋口兼光・今井兼平の妹でもある。倶利伽羅合戦では左翼に一部隊を率いて勝利に貢献。その後、義仲が源範家・義経の率いる追討軍に敗れた後は、頼朝に捕らえられ和田義盛と再婚。
頼朝亡き後、和田義盛は北条打倒の陰謀に加担したとの嫌疑。北条義時の仕掛けた謀略とも言われるが、挙兵するも敗れる。巴は出家し越中に赴いた、と伝えられている。
今回の散歩では行かなかったのだが、旧北陸道から少し南に入ったところに「巴塚」がある。ここでなくなったわけではないが、陣立てからしてこの方面から倶利伽羅峠に攻め入ったのであろう。碑文:「巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる。晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」、と。

猿ケ馬場を歩く

源平散歩に戻る。平家本陣となった「猿ケ馬場」には多くの記念物が残る。大きな石板は平氏軍議に使われたもの。石板を囲む席次は先ほどメモしたとおり。源平盛衰記に記された有名な「火牛の計」をイメージした牛の像も。この「火牛の計」、ネタ元は中国の史記に描かれた「田単の奇策」とも。もっとも田単のケースは、角に刃、尻尾に火のついた葦をくっつけて牛を追い立てた、とか。
源平供養の塔。近くに源氏太鼓保存会寄贈の「蟹谷次郎由緒之地」の碑。合戦に勝利した源氏軍は酒宴を張り、乱舞しながら太鼓を打ちならした。この「勝鬨太鼓」が源氏太鼓として伝承された、と。蟹谷次郎は源氏軍左翼根井小弥太軍の道案内をつとめた越中の在地武士。
「為盛塚」。平氏の勇将・平為盛を供養するため鎌倉時代にまつられたもの。倶利伽羅合戦に破れ敗走する平氏軍にあり、源氏に一矢を報いんと五十騎の手勢を引き連れて逆襲。樋口兼光に捕らえられあえなく討ち取られたという。
芭蕉の碑。「義仲の寝覚めの山か月かなし」。俳聖松尾芭蕉がはるばる奥の細道を弟子の曽良と共にこの地を通ったのは、元禄二年七月十五日のこと。が、この歌自体は芭蕉が敦賀に入った時に詠んだもの、とか。
「聞くならく 昔 源氏と平氏」からはじまる、砺波山を歌った木下順庵の詩も。順庵は江戸時代の館学者。藤原惺窩の門下。加賀藩の侍講をつとめ、のちに将軍綱吉に召され幕府の儒官に。人材育成につとめ、新井白石・室鳩巣といった人材を輩出した。

倶利伽羅公園
先に進むと倶利伽羅公園。この倶利伽羅峠の頂上付近には、7000本近くのの桜がある。高岡市の高木さんご夫妻が長い年月をかけて植樹したもの。「昭和の花咲爺さん」とも呼ばれる。

倶利伽羅不動

倶利伽羅不動。日本三不動の一尊と言われる倶利迦羅不動尊の本尊は、718年(養老2年)、というから今から1300年前、元正天皇の勅願によりインドの高僧・善無畏三蔵法師がこの地で国家安穏を祈願した折、不動ヶ池より黒龍が昇天する姿をそのままに刻んだ仏様をつくったのがはじまり。
前回の散歩でメモしたように、倶利伽羅不動尊って、サンスクリット語で「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」の意味。黒龍が昇天する姿が、倶利伽羅不動、そのものであったのだろう。

手向神社
お不動さんの隣に手向神社。ここはもと長楽寺跡。倶利伽羅不動明王や弘法大師がこの寺にとどまり七堂伽藍を建て布教をおこなった。が、倶利伽羅合戦の折、兵火にあい焼失。その後頼朝の寄進により再興。慶長年間(1596年から1615年)には加賀藩の祈祷所となり、堂宇の復興が続けられる。天保7年(1836年)山門・不動堂が再び焼失。再建されないまま明治維新を迎え、神仏分離により長楽寺を廃し手向神社となった。
『万葉集』に大伴池主が 大伴家持から贈られた別離の歌に答えて贈った長歌の中に、「刀奈美夜麻 多牟氣能可味个 奴佐麻都里」(となみやま たむけのかみに ぬさまつり)と手向の神が詠まれている。そのあたりも名前の由来、かも。倶利伽羅不動、手向神社を離れる。あとは、麓のJR倶利伽羅駅に向かってのんびりと下り、倶利伽羅峠散歩を終える。

倶利伽羅合戦後の源平両軍の動向
倶利伽羅合戦後の源平両軍のメモ;能登方面、源氏・源行家隊と対峙した平氏・志雄 山支隊は形勢有利であった。が、主力が倶利伽羅峠で大敗の報に接し、退却。大野・金石付近、というから現在の金沢市の北端・日本海に面する金沢港付近で敗退してきた平氏・本隊に合流し源氏軍に対峙する。
源氏軍は源行家の志雄山支隊と石川郡北広岡村、というから現在の石川軍野々市町か白山市あたりで合流し平氏軍に対する。小競り合いの末、平氏軍は破れ、安宅の関あたりまで退却。そして、加賀市篠原の地における「篠原の合戦」を迎えることになる。平家方は畠山庄司重能、小山田別当有重兄弟を正面に布陣。対するは今井兼平。辛くも今井方の勝利。次いで、平氏の将・高橋判官長綱と樋口兼光軍との戦い。戦意の乏しい高橋軍、戦うことなく撤退。平氏の将・武蔵三郎左衛門有国と仁科軍が応戦。有国おおいに武勇を発揮するも敗れる。

斉藤別当実盛

平家軍の敗色濃厚な6月1日、平家方よりただ一騎進む武者。源氏・手塚太郎光盛との一騎打ち。平家方の武者、あえなく討ち死に。この武者が斉藤別当実盛。義仲が幼少の頃、悪源太・源義平から命を救ってくれた大恩人。義仲は恩人のなきがらに、大いに泪す、と。
ちなみに、老武者と侮られることを嫌い、白髪を黒く染め合戦に臨んだ実盛の話はあまりに有名。倶利伽羅峠散歩の前日、車で訪れた「首洗池(加賀市手塚町)」は、実盛の首を洗い、黒髪が白髪に変わった池。ここには芭蕉の句碑。「むざんなや兜の下のきりぎりす」。
きりぎりす、とは直接関係ないのだが、実盛にまつわる伝承;実盛は稲の切り株に足を取られて不覚をとった。以来実盛の霊はイナゴなどの害虫となって農民を悩ました。で、西日本の虫送りの行事では実盛の霊も供養されてきた、と。もっとも、田植の後におこなわれる神事である「サナボリ」が訛った、といった説もあり真偽の程定かならず。

実盛塚(加賀市篠原)

前日には「実盛塚(加賀市篠原)」にも足を運んだ。実盛のなきがらをとむらったところ、と伝えられる。見事な老松が塚を覆う。「鏡の池(加賀市深田町)」は髪を染めるときに使った鏡を沈めた、と伝えられる。実盛が付けていた実際の兜は小松市の多太神社の宝物館に保管をされている、と。前日レンタカーで訪れたが、夕暮れ時間切れではあった。
斉藤実盛のメモ;武蔵国幡羅郡長井庄が本拠地。長井別当とも呼ばれる。義仲のメモできしたように、当時の武蔵は相模を本拠地とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の間にあり、政情不安。実盛は最初は義朝に、のちに義賢に組する。義朝の子・悪源太義平が義賢を急襲し討ち取る。実盛は義朝・義平の幕下に。が、義賢への忠義の念より、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能より預かり、信濃に逃す。この駒王丸が木曽義仲である。
その後、保元の乱、平治の乱では義朝とともに上洛。義朝が破れたあとは、武蔵に戻り、平家に仕えることになる。義朝の子・頼朝の挙兵。しかし実盛は平氏方にとどまり、富士川の合戦、北陸への北征に従軍。倶利伽羅合戦を経て、篠原の合戦で討ち死にする。
畠山重能・小山田別当有重兄弟のメモ

ついでに畠山重能・小山田別当有重兄弟のメモ:

秩父平氏の流である秩父一族。重能の代に男衾郡畠山(現在の埼玉県大里郡川本町)の地に移り、畠山と号する。 鎌倉武将の華・畠山重忠の父でもある。源義朝の長男・義平に駒王丸こと義仲の命を発つよう命ぜられるが、不憫に思い斉藤別当実盛に託し、その命を救ったたことは既に述べたとおり。
両兄弟のもつ軍事力は強力であった、とか。保元の乱(1156年)において、源義朝と平清盛の連合軍に敗れた源為義が、為義の長男である源義朝の情けにすがって降服を、と考えたとき、為義の八男・為朝が「坂東下り、畠山重能・小山田別当有重兄弟を味方に再起を図るべし」と 諌めたほど。
平治の乱(1159年)に源義朝が平氏に破れ、源氏の命脈が衰えたのちは平氏に仕え、篠原の合戦に至る。平氏敗走。都落ちの際、既に 頼朝の重臣となっていた畠山重忠の係累ということで、首を切られるところを平知盛の進言を受けた平宗盛に許され東国下行を許される。兄弟は平氏とともに西 国行きを望むが許されず、泪ながらに東国に下った、と。
この小山田氏って、多摩・横山散歩のときに歩いた小山田の里でメモしたように、源氏の御家人として活躍。が、重能のその後はよくわかっていない。

散歩の備忘録
倶利伽羅散歩の旅の前後に源平ゆかりの地も訪れた。実盛塚などいくつかの地は既にメモした。そのほか訪れたところでは、義経・弁慶の話で有名な安宅の関、安宅の関での詮議の厳しさ、その後の足手まといになることを憂い、断崖から身を投げた尼御前にまつわる尼御前岬など、メモしたいところも無いわけではない。 が義経の足跡までメモしはじめたらいつ終わるやら、との少々の恐れもあり、倶利伽羅合戦にまつわる尼御前岬の近くの「平陣野」のメモで終わりにしようと思う。

平陣野


「平陣野」は義仲軍を叩くべく北征する平維盛の大軍が陣をはったところ。加賀市黒崎町、黒崎海岸にある。海岸近くには、旧北陸道・木曽街道が通る。道幅は狭く、黒松・草木が茂る道であった。
「平陣野」近辺は松林はなく、展望が広がり、日本海が見渡せる。往古、見通しのよい砂原であった、とか。この景色を眺めながら平家軍は北に進んだのだろう。 「源平盛衰記」に、安宅の関から延々黒崎海岸に続く平氏の進軍の姿が描かれ れいる;「五月二日平家は越前国を打随へ、長畝城を立、斉明を先として加賀国へ乱入。源氏は篠原に城郭を構て有けれ共、大勢打向ければ堪ずして、佐見、白江、成合の池打過て、安宅の渡、住吉浜に引退て陣を取。平家勝に乗り、隙をあらすな者共とて攻懸たり。其勢山野に充満せり。先陣は安宅につけば、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで列たり。権亮三位中将維盛已下、宗徒の人々一万余騎、篠原の宿に引へたり」、と。倶利伽羅散歩というか、そこから拡がった倶利伽羅合戦の時空散歩はこれで終わりといたしましょう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 
晩秋の連休を利用し、倶利伽羅峠を歩くことになった。源氏だか平氏だか、どちらが主人公かは知らないが、源平争乱の時代を舞台にした恋愛シミュレーションゲームがあるそうな。そのゲームに嵌った同僚諸氏が、行きませんか、とのお誘い。源平争乱絵巻は別にして、歩くことができるなら、と二つ返事で承諾。倶利伽羅峠って、木曽義仲が平家を打ち破った合戦の地。それなりに興味はあるのだが、どこにあるのかもよくわからないまま、加賀路に飛んだ。

2泊3日 の行程では、倶利伽羅峠を歩くほか、安宅の関、斉藤実盛ゆかりの地などあれこれ源平合戦の跡、また、名刹・那谷寺などを巡る。が、そこはレンタカーでの旅でもあり、散歩というほどのこともない。メモしたい思いもあるのだが、散歩のメモという以上、少々歩かないことには洒落にならない。ということで、今回は10キロ程度の行程ではあった倶利伽羅峠越えをメモすることにする。(火曜日, 11月 28, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


倶利伽羅峠

倶利伽羅峠とは、正式には砺波山のこと。倶利伽羅はサンスクリット語。「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」を意味する、とか。峠に倶利伽羅不動寺があり、日本三大不動でもある、ということで、砺波山ではなく「倶利伽羅」が通り名となったのだろう。
こ の倶利伽羅峠、富山県小矢部市埴生より石川県津幡町倶利伽羅・竹橋に至るおよそ10キロの行程。旧北陸街道が通る。標高は70mから270m程度。メモの前にカシミール3Dで地形図をつくりチェックしてみた。越中・砺波平野と加賀を隔てる山地の、最も「薄い」、というか「細い」部分となっている。どうせの山越え・峠越えであれば、距離が短く、標高差の少ないとことを選んだ結果の往還であったのだろう。
和銅6年(713年)、この地に関が設けられる。砺波の関と言う。越の三関のひとつである。古伝に曰く;「京都を発し佐渡にいたる古代の越(高志)の道は、敦賀の愛発(あらち;荒乳山)を越える。ここから越前。次いでこの砺波山を越える。ここから先が越中。最後に名立山を越える。この地が越後。で、この峠の関を越の三関」、と。
この砺波山・倶利伽羅峠が有名になったのは、寿永2年(1183年)、木曽義仲こと源義仲が平家・平維盛(たいらのこれもり)を破ってから。天正13年(1586年)、豊臣秀吉が前田利長とともに佐々成政を破ったのも、この峠である。

JR石動駅(いするぎ)
さてさて、散歩に出発。今回のルートは富山側から石川県へと歩く。JR石動駅(いするぎ)からはじめ峠を越え、JR倶利伽羅峠駅に下りる、といったルーティング。金沢を出発し石動駅に。このあたりは昔「今石動宿」と呼ばれた北陸街道の宿場町。大名の泊まる本陣から庶民が宿をとる旅籠、木賃宿が集まり、大いに繁盛した、と。駅を降り、倶利伽羅峠への上り口のランドマーク、護国八幡宮に向かう。

護国八幡宮
もとは埴生八幡宮。奈良時代・養老年間に九州の宇佐八幡を勧請してつくられた、と伝えられる。万葉歌人としても有名な大伴家持、実は越中の国守でもあったわけだが、この神社で国家安寧・五穀豊穣を祈願したとも伝えられる。上に述べた「砺波の関」を舞台に東大寺の僧・平栄を接待して家持が詠んだ、『焼太刀を礪波の関に明日よりは守部やりそへ君をとどめむ』という歌が万葉集に載っている。「(奈良への)お帰りは早すぎます。もっとゆっくりしてください」といった意味、のよう。ちなみに、万葉集には家持の歌が473首載っているが,そのうち223首は越中で過ごした5年間に詠んだもの、とか。

大伴家持
ちょっと脱線。大伴家持って、万葉集の選者として知られる。が、万葉集のほとんどは、家持が親ともたのむ橘諸兄がまとめ終えてあり、家持が諸兄から依頼されたのは、「怨みの歌」であった、といった説もある。王家のために怨みをのんでなくなった人々、政治的犠牲者の荒魂を慰める、ために集められた、とか。悲劇の人々の歌を連ね、最後に刑死した柿本人磨呂の歌で終わらせる、といった構成。政敵・藤原氏の「悪行」を「表に出す」といった思惑もあった、とも言われるが、仏の力で鎮護国家を目指す大仏建立と相まって、言霊によって荒魂の怨霊を鎮め、王道の実現を目指すべく「恨みの歌」が集められた、とか。

木曽義仲は埴生八幡様に陣を張る
埴生八幡様に戻る。この埴生八幡が護国八幡宮となったのは、江戸慶長年間。領主・前田利長が凶作に苦しむ領民のために豊作を祈願。その効著しく、ために「護国」という名称をつけた、とか。埴生八幡が有名になったのは、源平・倶利伽羅峠の合戦において、倶利伽羅峠に布陣する平家の大軍を迎え撃つ源氏の大将・木曽義仲がこの地に陣を張り、戦勝を祈願。華々しい戦果を挙げた、ため。武田信玄、佐々成政、前田利長といった諸将が篤い信仰を寄せることになったのも、その霊験ゆえのことであろう。

佐々成政
そうそう、そういえば佐々成政も、この倶利伽羅峠で豊臣秀吉、前田利長と戦い、そして敗れている。佐々成政のメモ;織田信長に14歳で使えて以来、織田信長の親衛隊である黒母衣組(ほろ)の筆頭として活躍。上杉への押さえとして越中の国主として富山に城を構える。で、本能寺の変。信長の忠臣としては、その後の秀吉の所業を良し、とせず、信長の遺児・信雄(のぶかつ)を立て、家康を味方に秀吉と対抗。が、信雄が秀吉と和睦・講和。ために、家康も秀吉と講和。それでも成政はあきらめることなく、家康に立ち上がるよう接触・説得を図る。が、周囲は完全に包囲され、残された唯一の手段は真冬の立山越え。これが有名な「さらさら越え」。
この「さらさら越え」を描いた小説を読んだ覚えがある。確か新田次郎さんの作?ともあれ、雪の立山を越え、家康のもとにたどり着く。が、家康は動くことはなかった。天正13年(1585年)、秀吉の越中攻め。このとき、倶利伽羅峠での戦いに破れ、成政は降伏。秀吉の九州征伐に従い肥後一国を与えられるが、国人一揆の責めを負わされ切腹させられることになる。もっとも、雪の立 山越えに異論を唱える人も多い。またまた寄り道に。散歩に戻る。

倶利伽羅峠源平の郷 埴生口

護国八幡の前に「倶利伽羅峠源平の郷 埴生口」。歴史国道整備事業の一環として設立された施設。歴史上重要な街道である倶利伽羅峠の歴史・文化をまとめてある。峠の全体を俯瞰し、またいくつか資料を買い求め峠道に向かう。

旧北陸街道・ たるみ茶屋跡

道筋に医王院といったお寺。その裏手には若宮古墳。6世紀頃につくられた前方後円墳。埴輪が出土されている。
医王院を先に進み旧北陸街道に入る。整備された道を進むと「たるみ茶屋跡」。碑文には藤沢にある時宗・遊行寺総本山清浄光寺の上人とこの地の関わりが説明されていた。石動のあたりにあった、とされる蓮沼城主・遊佐氏と因縁が深かった、ため、と。「旅の空 光のどけく越路なる砺波の関に春をむかえて」といった上人さまの歌も。
ちなみに、この時宗ってこの当時、北陸の地にもっとも広まっていた宗教であった。そういえば、この倶利伽羅峠の前日に訪れた斉藤別当実盛をまつる実盛塚も、時宗・遊行上人がその亡霊を弔った、と。当時、この地の有力な宗教勢力が時宗であったとすれば、大いに納得。ちなみに浄土真宗というか、真宗というか、一向宗、というか、どの名前がいいのかよくわからないが、この宗派が北陸にその勢を拡大したのは、もう少し後のこと。もっとも時宗も浄土教の一派ではあるのだが。時宗の開祖・一遍上人は愛媛の出身。ちょっと身近に感じる。
 
峠の茶屋
先に進む。「峠の茶屋」の碑。碑文のメモ;「東海道中膝栗毛」の作者・十返舎一九がこの地を訪れ、「石動の宿を離れ倶利伽羅峠にかかる。このところ峠の茶屋いずれも広くきれいで、東海道の茶屋のようだ。いい茶屋である。たくさんの往来の客で賑わっている」、と。倶利伽羅峠にはこういった茶屋が10軒もあった、とか。
道の途中、どのあたりか忘れたが藤原顕李(あきすえ)句碑があった:堀川院御時百首の一首 「いもがいえに くものふるまひしるからん 砺波の関を けうこえくれば」。藤原顕李、って何者?

源氏方の最前線・矢立山

峠の茶屋の少し先、旧北陸道と車道が合流するあたりが矢立山。標高205m。そこに「矢立堂」。ここは倶利伽羅合戦時の源氏方の最前線。300m先の「塔の橋」あたりに進出していた平氏の矢が雨あられと降り注ぎ、林のように矢が立った、ということから名づけられた。

源氏ケ峰

「塔の橋」で北の「埴生大池」方面からの道と車道が交差し十字路となる。車道を南に下ると「源氏ケ峰」方面、西に直進すると「砂坂」。この砂坂、かつては「七曲の砂坂」と呼ばれた倶利伽羅峠の難所であった。難所・砂坂に進む、といった少々の誘惑もあったが、結局は「源氏ケ峰」方向に。理由は、その道筋が「地獄谷」に沿っているようであった、から。

地獄谷は「火牛の計」の地

地獄谷って、あの有名な「火牛の計」というか、松明を角につけた牛の大群によって平家方が追い落とされた谷、のこと。はたしてどんな谷なのか、じっくり見てみよう、といった次第。「源氏ケ峰」には展望台がある。が、木々が茂り見晴らしはよくない。「源氏ケ峰」と言うので、源氏が陣を張ったところか、と思っていたのだが、合戦時は平家方が陣を張ったところ。義仲が平氏を打ち破った後に占領したためこの名がついた、と。勝てば官軍の見本のような命名。
近くに芭蕉の句碑。「あかあかと 日は難面も あきの風」。もっともこの句は越後から越中・金沢にいたる旅の途中でえた旅情を、金沢で詠ったもののよう。

猿ケ馬場に平家の本陣が

地獄谷を眺めながら進む。砂坂からの道と合流するあたりが「猿ケ馬場」。平家の大将・平維盛の本陣があったところ、である。
平家の本陣まで歩いたところで、倶利伽羅合戦に至るまでの経緯をまとめる。それよりなにより、木曽義仲って、一体どういう人物?よく知らない。で、ちょっとチェック。

木曽義仲
祖父は源為義。源義朝は伯父。両者敵対。祖父の命で武蔵に下ったのが父・源義賢。義仲は次男坊として武蔵国の大蔵館、現在の埼玉県比企郡嵐山町で生まれる。義朝との対立の過程で父・義賢は甥・源義平に討たれる。
幼い義仲は畠山重能、斉藤実盛らの助けを得て、信濃の国・木曽谷の豪族・中原兼造の元に逃れ、その地で育つ。木曽次郎義仲と呼ばれたのは、このためである。
で、治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵。義仲は9月に挙兵。2年後の寿永元年(1182年)、信濃・千曲河畔の「横田川原の合戦」で平家の城資永(資茂との説も)氏の軍を破り、その余勢をかり、越後の国府(現在の上越市の海岸近く)に入城。諸国に兵を募る。

倶利伽羅峠での合戦
までの経緯
一方、当時の平家は重盛が早世、維盛が富士川の合戦で頼朝に破れ、清盛が病没、といった惨憺たる有様。平家の総大将・平維盛の戦略は、北陸で勢を張り京を覗う義仲を叩き、その後、鎌倉の頼朝を潰す、といったもの。で、寿永2年(1182年)全国に号令し北陸に大軍を進める。

平氏北征の報に接し義仲は平氏と雌雄を決し京に上ることに決す。先遣隊は今井兼平。寒原、黒部川を経て富山市から西に2キロの呉羽山に布陣。寒原って、親知らず・子知らずで知られる難所のあたり。「寒原の険」と呼ばれたほど。

一方の平氏。先遣隊長・平盛俊は5月、倶利伽羅峠を越えて越中に入る。小矢部川を横断し庄川右岸の般若野(富山県礪波市)に進。が、今井隊による夜襲・猛攻を受け、平氏は敗走。これが世に言う、「般若野の合戦」。結局、平家は倶利伽羅峠を越えて加賀に退却する。


本隊・義仲は越後国府を出立。海岸線を進み、5月9日六動寺国府(伏木古国府)に宿営。一方平氏の主力軍はその頃、加賀・安宅付近に到着。進軍し、安宅、美川、津幡、倶利伽羅峠に達する。また、平通盛の率いる別動隊は能登方面に進軍。高松、今浜、志雄、氷見、伏木付近に。

義仲は志雄方面に源行家を派遣。自らは主力を率い般若野に進軍。今井隊と合流。5月10日の夜、倶利伽羅に向かった平氏の主力は既に倶利伽羅峠の西の上り口・竹橋付近に到着の報を受ける。倶利伽羅峠を通せば自軍に倍する平家軍を砺波平野・平地で迎え撃つことになる。機先を制して倶利伽羅峠の隘路を押さえるべし、との軍令を出し、先遣隊・仁科党を急派。隘路口占領を図る。
仁科党は11日未明、石動の南・蓮沼の日埜宮林に到着。白旗をたなびかせ軍勢豊なりしさまを演出。同時に、源氏軍各部隊は埴生、道林寺、蓮沼、松永方面、つまりは倶利伽羅峠の東の上り口あたりまで進出。義仲の本陣は埴生に置いた。倶利伽羅峠を挟んで源平両軍が対峙する。思いのほかメモが長くなった。このあたりで一休み。次回にまわすことにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

9月のとある週末。例によって、散歩に出かけよう、とは思うのだが、これといって行き先が思い当たらない。はてさて、地図を眺める。が、決まらない。こんなときの解法の選択枝はそれほど多くない。とりあえず電車に乗り、その間に考える。これがひとつ。もうひとつは、古本屋に行く。そのくらいである。

今回は古本屋へ、ということにした。散歩をはじめて多くの古本屋に出会った。たまたま入った本屋で、探し歩いていた本を見つけたり、思わず惹かれる本に出会ったり、それはそれは、嬉しい限りである。はてさて、今回はどこに。
と、なんとなく高円寺駅前の古本屋に行こう、と思った。自宅は杉並・和泉。歩いていける距離である。で、ついでのことでもあるので、高円寺駅前商店街で見かけた桃園川跡を歩き、どこに行き着くのか、なりゆきで歩こう、ということにした。
高円寺の古本屋へは,何度も歩いている。が、メモは今まで書いていないように思う。いい機会なので、自宅まわりから高円寺まで、ついでのことなので杉並の「時空散歩」を楽しもう、と思う。



本日のルート;(神田川)和泉熊野神社>龍光寺>貴船神社>文殊院>方南通り>(善福寺川)堀ノ内熊野神社>妙法寺>高円寺>(桃園川>高円寺5丁目・大久保通り>宮園橋>中野5差路>上宮橋>もみじ山公園下>堀越学園前>谷戸小学校>宝仙寺>宮下・山手通り>田替橋>末広橋>神田川合流>北新宿>新宿)

和泉熊野神社
自宅は杉並・和泉。近くに神田川が流れる。川そばの台地に熊野神社がある。和泉熊野神社。旧和泉村の鎮守さま。創建は文永4年(1267年)、ということだ。現在の社殿は文久3年(1863年)の造営。明治4年に修復されている。境内からは縄文時代後期の土器・打石斧・石棒や,古墳時代の土師器が出土している。また,境内には,徳川家光が鷹狩りの折り、手植えした、との松の大木もある。とはいうものの、初詣、お祭りなど、折に触れてこのお宮さんに出かけているが、手植えの松などは目にしたことは未だ、ない。
この熊野神社のある台地に限らず、神田川流域の台地には縄文時代の遺跡がいくつもある。京王線・高井戸駅近くには「高井戸東遺跡」。杉並清掃工場の工事の時みつかった、とか。浜田山からの鎌倉街道が神田川と交差する鎌倉橋ちかくには「高井戸塚山遺跡」がある。杉並南部を流れるこの神田川流域に限らず、杉並北部の妙法寺川や中部を流れる善福寺川流域を合わすと、杉並区内の縄文時代の遺跡の 数は200を越える、という。水辺の台地には古くから人が住んでいた、ということ、か。

和泉の歴史は古い。宝徳3年(1451年)の「上杉家文書」には和田、堀の内とともに泉(和泉)が武蔵国中野郷に属する、との記述がある。また、永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」には高井堂(高井戸)とともに永福寺(永福町)が中野郷に属すると考えられる記述があるそうだ。つまるところ、このあたり和泉・永福は平安時代までには村、というか、ちょっとした集落が成立していた、ということ。

貴船神社
熊野神社から時空散歩が少々拡がった。先に進む。熊野神社の台地下を少し北に進んだところに貴船神社。江戸時代から和泉熊野神社の末社。創建は文永年間(1264~75)とのこと。山城国貴船神社を農作雨の神として勧請したと伝えられる。祭神は「たかおかみ神」。この神は山または川にいる雨水をつかさどる竜神。雨乞い,止雨に霊力があるとのこと。
境内に「御手洗の池」。昔は和泉が湧き出ていた。で、それが「和泉」の地名の由来、となった。神田川の改修工事や宅地化の影響で昭和40年頃に水が枯れてしまった、とか。

龍光寺
熊野神社と坂道を隔てた台地上、貴族船神社と逆方向に泉湧山医王院・龍光寺。真言宗室生寺派の寺院。本尊は薬師如来立像で平安時代末期(十二世紀後半)の造立。開創は承安2年(1172年)、と伝えられる。
山号の「泉湧」は貴船神社の泉から。院号の「医王」は、本尊の薬師如来から。寺号の「龍光」は神田川の源流・井之頭池に棲む竜が川を下り、このあたりで雷鳴をともども、光を放って昇天したことに由来する、とか。
実際のところ、除夜の鐘のとき以外、このお寺さまに出かけたことはなかった。今回寺域に入り、造作の落ち着いた雰囲気に結構惹かれた。境内裏手には四国八十八箇所巡りもある。いいお寺さまであった。

文殊院
神田川脇の遊歩道に戻り、先に進む。北に進む神田川が東に向きを変える和泉4丁目の台地のうえに文殊院。本尊の弘法大師坐像は室町末期のもの、とか。縁起によると、寺の起こりは1600年。家康が駿府に開創。1627年に浅草に移り、1696年には港区白金台に。現在地に移ったのは大正9年、とのこと。都市計画にともなうお寺の移転のモデルケース、って感じがする。
神田川はこのお寺のあるあたりから環七に交差するあたりまで、標高差のある台地下を流れることになる。環七を越えた神田川は方南通りを尾根道とし、東に突き出た舌状台地に沿って北に迂回し、台地先端部で善福寺川と合流する。

方南通り

文殊院から台地を下り、神田川を越え「方南通り」へと台地の坂を登る。方南の由来は不明。ここら一帯が和田村の南の方、であったから、という説や、幕府の鷹場である野方領の南の方、などあれこれ。

ついでのことながら、「和田」の由来。地名の由来・「東京23区辞典」によると、「和田」って一般的には和田義盛の館に関係する、ってことだが、「わだ」には「川が湾曲したところ」といった意味がある、よう。
また、区画された田を町田・角田>枡田・舛田・升田>増田というのに対して、自然のままの「丸い田」のことを、丸田・円田・輪田、という。「輪」を縁起のよい「和」に置き換え>和田、との説も。
また、古来の地名「海田(あまだ)郷」が、「わだ」に転化した、という説も。ここの和田は、はてさてどれであろう、か。

方南通りから北に台地を下る。堀ノ内1丁目。すぐに善福寺川にあたる。この善福寺川は昨年、源流から歩いた。環八より上流は川筋にさしたる遊歩道もなく、少々難儀した。源流点は杉並の北西の端。善福寺池をはじまりとし、南東に向けて流れ、途中大きく蛇行を繰り返しながら、杉並区の東端で神田川に合流する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


杉並の地形
杉並の地形についてちょいとメモ。杉並区は標高30mから50mの武蔵野台地の中にある。西から東に向かってなだらかに標高が下がる。この台地を、前出の神田川、そしてこの善福寺川が気にとおくなるような年月をかけて浸食し、複雑な地形をつくる。
カシミールでつくった地形図を見る限りでは、川筋は周囲の台地より5mから10mほど削られた開析谷となっている。つまるところ杉並の地形とは、もともとの 武蔵野台地であった「平地」と、神田川と善福寺川及びそれらに流れ込む小さな川が掘り刻んだ谷筋の低地、そして、台地と谷筋との境界にある坂と、で形成されている、ということであろう。

堀ノ内熊野神社
善福寺川にかかる堀ノ内橋を渡り北に進む。堀ノ内熊野神社。旧堀ノ内村の鎮守。創建は文永4年(1267年)。戦国時代に「北条氏綱が上杉氏を破り江戸を略するや大いに社殿を修めて祝祭を行えり(豊多摩郡神社誌)」、と。本殿は安政4年(1857年)の建築。神社の前を東西に走る道は、中世の鎌倉街道と言われる。

向山遺跡
熊野神社のすぐ近く、神田川に沿って向山遺跡。古墳時代から近世にかけての集落跡、と。神田川とおなじく善福寺川筋にも多くの遺跡がある。堀ノ内には弥生から古墳時代を
中心とする複合遺跡・済美台遺跡。堀ノ内の隣の大宮地区には弥生時代末の大宮遺跡、松ノ木地区には古墳時代の松ノ木遺跡、といったように、川筋に沿って遺跡が点在する。

杉並の遺跡
縄文とか弥生とか古墳とか、いまひとつ興味がない。あまりに「遠すぎ」、リアリティがない、ということではある。が、ちょいと杉並の遺跡をまとめておく。
縄文前期には武蔵野台地最古の局部磨製石斧(約27,000年から30,000年前)を出土した高井戸東遺跡や下高井戸塚山遺跡など、神田川流域に多くの遺跡が見られる。また、妙正寺川の水源あたりには、縄文時代早期の井草遺跡が発見されている。神田川中流域には、縄文時代早創期(約12,000年前)の遺跡も発掘されている。縄文中期には、神田川流域の上にメモした塚山遺跡、善福寺川流域では松ノ木遺跡、後期には神田川流域にいくつかの遺跡が見つかっている。弥生時代には善福寺川流域の松ノ木・済美台など、神田川流域の鎌倉橋上遺跡など。いずれも直径100mを越す環濠集落を形成していた、と。古墳時代になると善福寺川流域にある大宮台地上に円形周溝墓が発見されている。6世紀前半にこの地を治めていた権力者の墓とのこと。

妙法寺
向山遺跡を離れ、環七に沿って北にすすむと妙法寺。寛永9年(1635年)の開創。元禄5年(1692年)、目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした。む?碑文谷の法華寺、ってあの円融寺、「不受不施」で物議をかましたあの円融寺 の旧名、である。
法華寺・円融寺のおさらい;もとは天台宗のお寺としてはじまったこの寺は、弘安6年(1283)日蓮宗に改宗。「法華寺」として世田谷城主吉良氏や徳川氏の保護を受け大寺院として約400年間大いに栄えた。
が、不受不施、つまりは、他宗派からは何も受けず、何も施さず、ただ信仰を同じくする人とのみ供に生きる、ってかたくなな教義のゆえ為政者からにらまれる。秀吉しかり。また、徳川幕府から大弾圧を受ける。
結果、元禄11年に法華寺は取り潰され、円融寺、となった、と。「目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした」って、その混乱・騒乱のときに起こった出来事ではなかろうか。

で、このご本尊は厄除けに霊験あらたか、ということで江戸市民の信仰をあつめ、堀ノ内の御祖師様、として大いに繁盛した、と。堂々とした仁王門、国重要文化財指定の鉄門などが知られる。

蓮華往生
ついでのことであるが、先日、種村季弘さんの『江戸東京<奇想>徘徊記;朝日文庫』を買った。その中に、「碑文谷の蓮華往生」って記事があった。法華寺の話である。
法華寺に限らず、日蓮宗のお寺には美男僧が多く、そのアイドル僧見たさに、女性の参拝が押し寄せた、と。まあ、これはご愛嬌。参拝客が押し寄せたのは、「蓮華往生」というイベントのため、というまことしやかな話もある。

蓮華往生とは、信仰故に即身成仏を願う信者を蓮華の台にのせ、信者が周りでお題目を唱えれば、日蓮のご法力で極楽往生できるというもの。が、実際は、蓮華台の花を閉じ、周囲からわからないようにして下から槍で突き殺していた、と。悲鳴は周囲の読経や鐘・太鼓の音にかき消され、わかるはずもなく。後は火葬し家族に引き渡すので、殺人の証拠もない。逆に家族は成仏を喜び多額の喜捨をした、と。その額、百両とも二百両とも言われている。が、その悪事も露見。首謀社の坊主・日附は遠島処分となった、と。
こういったスキャンダルもあり、法華寺が取り潰された、とか、そもそもこの蓮華往生などというスキャンダルは、不受不施の教義を嫌った当局のでっち上げ、といった説もあり、その上、悪事を見つけたのは一心太助、といった説もあり、なにがなんだか、わからなくなってきた。このあたりでメモを止める。

八丈島流人帳
とはいいながら、もう少々話を続ける。本日、青山学院大学に仕事で行く途中、青山通り沿いの古本屋で『八丈島流人帳;今川徳三(毎日新聞社)』を見つけた。中に、「不受不
施僧」という記事。元禄4年、26人の不受不施僧の流人の記録。また、元禄11年には8人の不受不施僧の記録があり、その中には「碑文谷 法華寺 日附」と記されている。遠島の理由;八カ年以前、悲田派お停止の説、誓詞まで仕り候ところ、あひ背き、(中略)改派の催しに同心いたし候段、重罪につき遠島仰せつけ候」、と。あれこれ襷が繋がっていく。

寺町

妙法寺での時空散歩、結構深掘り、と相成った。先を進む。妙法寺の北、青梅街道とのあいだには寺が集まり寺町をつくっている。いずれも明治の末から大正にか けて都心から移ってきたもの。このあたりの地名、堀ノ内って、中世の武士や在地領主の館のこと
。館の周囲には堀を巡らしていたので、この名前がついたのだろう。土居、も同じ意味、と。また、梅里は梅が多くあった。というわけではなく、青梅街道に近い、というだけのこと。

青梅街道
青梅街道って、慶長11年(1605年)、大久保長安が、青梅の成木・小曾木の石灰を江戸に運ぶために整備した道。江戸城の白壁の材料につかうため、とか。 青梅というか八王子の裏手の山々で石灰を取り出すために山を切り崩した跡を目にした。実際八王子や秩父を歩いて、切り崩された山々を目にしたこともあり、 おおいに実感。

西方寺

寺町を成行きで進むと西方寺(さいほう)に。慶長10年(1605年)、家光の弟、駿河大納言忠長が創立、と。もとは新宿駅北口あたりにあったが、大正9年にここに移る。境内にはマリア観音と呼ばれる石仏・キリシタン灯籠。また、明治の政商山口(山城屋)和助の墓がある。
山県有朋の推挙で一時巨万の富を得たが、生糸の暴落で公金返還できず陸軍省内で割腹し果てた。で、忠長卿って、二代将軍秀忠の子。幼少のころ国松とよばれ、溺愛される、と。が、結局は兄の竹千代こと家光が三代将軍に。忠長は甲斐そして駿河の国を拝領。が、故なきご乱行のため、甲府での蟄居。秀忠死後は家光より高崎閉塞の命が下され、高崎城にて自害して果てる。ご乱行の真意についてはあれこれ諸説あり。

桃園川緑道
西方寺を離れ、北に進み五日市街道入口交差点に。すこし西に進み、高円寺パル商店街を北に進む。駅のすこし手前にいかにも川筋跡といった遊歩道。これが桃園川緑道。先日、この川筋跡を西に、阿佐ヶ谷方面に辿った。水源は天沼あたり。次回、この水源からもう一度阿佐ヶ谷まで下り、メモしようと思う。今回はここより下流へ歩く予定。駅前のガード下にある古本屋でのんびりした後、さてさて、緑道を歩くことにする。メモは少々長くなったので、本日はこれで終了。川筋下りのメモは後日

先日、桃園川跡を高円寺から下った。逆方向に、阿佐ヶ谷までは辿ったことがあるのだが、源流点は確認していない。ということで、今回は桃園川の源流点に向かうことに。
桃園川の水源は天沼3丁目にあった弁天沼、とか。環八と青梅街道が交差する「四面道」のすぐ近く。荻窪駅の北になる。
さて、どのコースをとるか、だが、善福寺川に沿って歩くことにした。この散歩道は何度となく歩いたことがある。善福寺川の源流まで遡ったこともある。が、川筋に沿って続く遊歩道だけ。川筋に点在する遺跡・神社は訪れていない。いい機会でもあるので、遺跡・神社を巡り、あれこれメモしてみたい。



本日のルート;
永福寺>永福稲荷>大円寺>郷土博物館>済美台遺跡>松ノ木遺跡>和田掘公園>成宗白山神社>宝昌寺>尾崎熊野神社>須賀神社>田端神社>弁天池

永福寺
自宅を出て和泉小学校脇から神田川緑道に入る。ちょっと上流に戻る。井の頭通り、京王井の頭線を越え、川筋が大きく湾曲するあたりで台地に登ると永福寺。大永二年(1522年)開山の古刹。戦国時代は北条氏家臣ゆかりの所領であった、とか。北条氏滅亡後、その家臣が帰農し当寺を菩提寺とし現在にいたる、と。 杉並最古の庚申塔がある。

永福稲荷

近くの永福稲荷は享禄三年(1530)永福寺の鎮守として創建。明治11年頃神仏分離令により現在の場所に移転、村の鎮守様に。

大円寺
稲荷神社の前の道筋を北に。高井戸から井の頭線・永福町永福町に通じている。この道筋は井の頭通りを越えると、一直線に方南通りまで続く商店街となっている。この道筋に大円寺。慶長2年赤坂に家康が開いた、と。延宝元年(1673年)、薩摩藩主島津光久の嫡子の葬儀をとりおこなって以来、薩摩藩の江戸菩提寺となる。庄内藩士による三田の薩摩藩焼き討ちで倒れた薩摩藩士や、戊辰の戦役でなくなった薩摩藩士のお墓がある。益満休之介の墓もあるとか。

益満休之介

益満休之介って魅力的な人物。王政復古の直前、西郷が江戸を騒乱状態に陥れるために送り込んだ工作グループの立役者。浪士500名を集め、江戸市内で佐幕派豪商からお金を巻き上げる「御用盗」や、放火、そして幕府屯所襲撃などやりたい放題。幕府を挑発。それに怒った江戸市中見巡組(新徴組)がおこなったのが、上にメモした三田の薩摩藩邸の焼き討ち。この焼き討ちの報に刺激を受け、会津・桑名の兵が「鳥羽・伏見」の戦端を開いた、という説もある。
ともあれ、休之介は庄内藩に捕らえられ、勝海舟のもとに幽閉。たが、官軍の江戸総攻撃を前に、無血開城をはかる勝は山岡鉄舟を駿府に送り西郷隆盛と直談判を図る。そのときに、山岡に同道したのが益満。西郷とのラインをもつが故。山岡が西郷との会談に成功したのも、この益満あればこそ、である。その後休之介は体を壊し、明治元年、28歳の若さでなくなった。歴史にIFは、とはいうものの、益満が生きていれば、はてさて明治の御世はどうなったのであろう、か。

新徴組
ついでに新徴組。新徴組って、墨田区散歩のとき、本所で屯所跡(墨田区石原4丁目)に出会った。本所三笠町の小笠原加賀守屋敷である。屯所はもう一箇所、飯田橋にもあった。田沼玄蕃頭屋敷(飯田橋1丁目)。新徴組はこの2箇所に分宿していた。
新徴組誕生のきっかけは、庄内藩士・清河八郎による浪士組結成。将軍上洛警護の名目で結成するも、清河の本心は浪士隊を尊王攘夷を主眼とする反幕勢力に転化すること。それに異を唱え清河と袂をわかって結成したのが「新撰組」。結局、幕命により清河と浪士隊は江戸に戻る。清河は驀臣・佐々木只三郎により暗殺され、幕府は残った浪士隊を「新徴組」とし庄内・酒井家にお預け。
当初は存在感もなかったようだが、文久3年(1863年)に新徴組は歴史の表舞台に登場する。江戸の治安悪化を憂えた幕府が、庄内藩を含む13藩に市中警護の命を下したからだ。が、幕府と命運をともにした庄内藩・新徴組は、戊辰戦役以降,塗炭の苦しみを味わうことになるのは、言わずもがな、のこと。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 

大宮八幡への参道

商店街で足を捕られ歩みが止まった。先を急 ぐ。商店街を北に抜けると方南通りにあたる。大宮八幡入口交差点。交差点を渡り、方南通りの一筋北に通る、大宮八幡への参道を進む。ここは昔の鎌倉街道。『武蔵名所図会』に記述がある;「大宮八幡宮の大門路は往古の鎌倉より奥州街道なり。東へ廿町余行きて、中野街道へ出て、それより追分を北に行けば板橋宿 に行く」、と。

鞍懸の松
参道を進む。道脇に鞍懸の松(和田の曲松)。『江戸名所図会』によれば、「鞍懸の松は、大宮八幡宮の馬場先の大路、民家構えの外にあり、鬱蒼として繁茂せり。根より一丈ばかりに至りて屈曲せる故、土人和田の曲り松と称し或いは鞍懸の松共呼べり。相伝う、八幡 太郎義家朝臣奥州逆徒征伐の折、この松に鞍をかけられしより、しかと言うと」。八幡太郎は至るところで顔を出す。真偽の程定かならず。また、松は二代目、と。

荒玉水道道路
少し進み大宮神社の鳥居の手前、荒玉水道道路で参道を離れ、北に折れる。杉並郷土博物館に寄り道のため。以前メモしたが、荒玉水道道路って、荒=荒川、と玉=多摩川を結ぶ上水道。大正12年の関東大震災後、東京市に隣接した町村の人口拡大にともなう上水事情を改善すべく計画。ただ、実際は多摩川と荒川が結ばれることはなく、世田谷区砧給水所から中野区の野方給水所(江古田1-3)を経て板橋区の大谷口給水所で終わっている。
砧給水所からこの杉並の妙法寺あたりまで一直線に延びている10キロほどの道筋を荒玉水道道路、と呼ぶ。砧と大谷口あたりは以前歩いた。杉並散歩の次は中野。野方給水塔をランドマークにしておこう(後日、野方給水塔を訪ねた)。

杉並郷土博物館
荒玉水道道路を少し北に。区立郷土博物館入口の信号で水道道路を離れ、郷土博物館に。江戸時代の名主屋敷・長屋門を玄関にしたこの博物館には何回も訪れている。今回は、前々から気になっていた資料を買い求めるため。『江戸のごみ 東京のごみ;杉並から見た廃棄物処理の社会史』が目的の資料。
江戸期の 永代島の埋め立てにも市中から出る塵芥を使っている。尾篭な話ではあるが、下肥の利権争い、つまりは、大名屋敷といった大量確保できるところ、しかも栄養状態のいい下肥の獲得にしのぎを削った、といった話もある。葛西船とか川越船といった下肥運搬船の話もあった。散歩のいたるところで、「ごみ」の話が顔を出す。ということで、ちょっとまとめてお勉強を、と思った次第(つい最近『江戸の夢の島;伊藤好一(吉川好文館)』を手に入れた。)。また、思いがけず「杉並区史跡散歩地図」も手に入る。散歩のルーティングには大変役に立ちそう。

この郷土博物館は元嵯峨公爵邸跡。満州皇帝愛親覚羅傳儀の弟傳傑に嫁いだ浩(ひろ)の生まれ育ったところ。終戦後、傳傑は中国政府に捕らえられる。浩は娘二人とともに帰国。「流転の王妃」浩の長女慧生(えいせい)に悲劇が。「天城心中」「天国に結ぶ恋」などと書きたてられてはいるが、実際はストーカー男に銃で殺されたのでは、と言われている。その後の浩は釈放された傳傑のもとに戻り、北京でなくなった。

済美台遺跡

郷土博物館のあるこの台地には古墳時代の済美台遺跡がある。舌状台地に沿って善福寺川が湾曲している。善福寺川は杉並区の西端善福寺池より発し、区内の中央部を蛇行し、和田1丁目で中野区内に入り神田川に合流する全長10キロ弱の川。郷土博物館のすぐ東を流れる。

和田堀公園
郷土博物館を離れ、橋を渡り松ノ木1丁目を西に進む。すぐ南に和田堀公園。あれ、和田堀って由来は?なんとなく和田+堀ノ内=和田堀、となったように思う。 調べると、そのとおり。明治には和田堀ノ内村。が、大正の町制に移るに際し、和田堀ノ内町では少々長すぎる、ということで和田堀町となった、と。

松ノ木遺跡

和田堀運動場の北、松ノ木中学との間の道を進む。台地上に松ノ木遺跡(松ノ木1-3)。古墳時代の復原住居と土師式保存竪穴がある。30戸くらいの家族が住んでいたと想定されている。
先ほどの済美台も含め、善福寺川中流域のこのあたりの台地群は、杉並の古代人の「はじまり」の地ではないかと言われる。善福寺川を隔てて南の台地上には大宮遺跡がある。大宮八幡宮の北門を出た崖の縁がその場所である。

松ノ木遺跡の案内板によれば、「昭和40年夏、ここで弥生時代末期の墓三基本発掘した。中央に墓穴を設け、周囲に溝がめぐらされていた。形が四角なので方形周溝墓と呼ばれ、墓より壷形土器五個、勾玉一個・ガラス玉十二個出土した」、と。
人々は集落を環り・区切り、区画ごとにまとまった生活集団をしていたのであろう。台地から見下ろす崖下の河川敷、和田堀運動場とか、和田堀公園であろうが、そこでは水稲耕作がおこなわれていたのだろう。川では魚を捕り、川を離れれば一面の原野。台地の奥に出かけては狩をしていたのであろう。『和名類聚抄』によれば、平安前期の武蔵野・多摩郡は10の郷からなっており、そのひとつ、「海田(あまだ)郷」に現在の杉並区が含まれる。で、この海田(あまだ)が変化し「わだ(和田)」となった、とされる。
言わんとするところは、このあたりに点在した原始期からの集落がそのまま古代に受け継がれ、古代期においても地域の中心となり、地名も「あまだ>わだ」と受け継いできたのだろう、ということ。

大宮八幡宮
寄り道のついでに大宮八幡宮のメモ。このお宮さんには幾度となく御参りに訪れている。初詣、秋祭り、子供と散歩。数限りない。あまりに身近であるので、それほど気にしていなかったのだが、散歩をはじめて各地のお宮さんにおまいりしても、これほどの雰囲気のあるお宮さんはそれほどなかった。大いに見直す。
で、メモ。『大宮八幡宮史』;「康平6年(1063年)、源頼義が奥州の豪族・安倍氏を征伐し凱旋の折り、京の石清水八幡宮の分神を勧請す。 寛治6年(1092年)に源義家が社殿を修復し、鎌倉時代には幕府より毎年奉幣使が派遣された。天正19年(1591年)に徳川氏より30石の朱印状が寄進され、幕末期には将軍・御三家が社参した」と。紀州熊野那智神社の『米良文書』に「貞治元年(1362年)に大宮住僧三人が那智神社に参拝した」という記録もある。
江戸時代の境内地は6万坪。明治維新で3万5千坪が政府に召し上げられ、現在は1万三千坪。それでも明治神宮・靖国神社に次いで都内3位の広さを誇る。

松ノ木遺跡を離れ、台地上を歩く。善福寺川の北にこんな台地があるというのは知らなかった。正確に言えば、もともと台地が平地であり、長い年月をかけ善福寺川によって開析され、川筋が谷となり、周囲より低くなった、ということではあろう。

白山神社
台 地と崖の境の道を少し進むと白山神社。旧成宗村字白旗の鎮守さま。創建の時期は不明だが、古墳時代の土器などが発見されており、大宮神社と同じ頃にできたのではないか、と言われる。地名の白幡は、またまた源氏の誰某の由来であろう、と予測。そのとおりで、源頼義が奥州征伐のおり、このあたりで空に白旗の如くたなびく雲を見て、勝利の証と慶び一社(大宮八幡)を勧請した、と。
「成宗」とは永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に「永福、沼袋、成宗の三カ村、弐拾壱貫文、島津孫四郎」との記述がある。古くからの村であった。その後、成宗村は幕府の天領となるまでは、旗本岡部忠正氏の知行地であった。
ちなみに、「杉並」の地名はこの岡部氏に由来する。江戸時代に田端・成宗両村を領していた岡部氏が、境界の目印に植えた杉の木が杉並木となり、旅人や市場に通う百姓の道中のランドマークとなった。
で、区ができるとき、どの地区にも当たり障りなく、かつまた、この地域の俗称ともなっていた、俗称となっていた「杉並〔木〕」とした、とか。ついでのことだが、この岡部忠正って薩摩守忠度を討ち取った岡部六弥太田忠澄の末裔。薩摩守忠度(ただのり)のことは熊野散歩でメモしたとおり。

尾崎橋
白 山神社を離れ、台地上の道を善福寺川と「つかず、離れず」北西に。湾曲・蛇行する善福寺川が五日市街道と交差するところに尾崎橋。橋の袂に案内板。簡単にメモ:「上流に向かって左側の台地が「尾崎」と呼ばれる。「おざき」とは「突き出した台地の先端=小さな崎」を指す。発掘された土器などから見て、8,000年前から人が住んでいた、と想定される。
源頼義が奥州征伐の折、白旗のような瑞雲が現れ大宮神宮を勧請することになったが、その頭を白旗地区、尾の部分を尾崎とした、との説もある。このあたりは風光明媚なところで、江戸には文人墨客が訪れた、とか。橋の上流に続く善福寺川緑地公園って、春の桜は素晴らしい。今年の春も会社の仲間と花見と洒落た、場所でもある。

尾崎の七曲
「馬橋村のなかばより、左に折れて山畑のかたへのほそき道をゆく」「つつらおりめいたる坂をくだりて田面の畔を(進む)。他の中に小川ありて橋を渡る。これを尾崎橋」、といった記述も案内板に記してあった。この「つつらおりめいたる」って記述、尾崎の七曲のこと。
現在の五日市街道は工事により直線にはなっているが、昔は尾崎橋あたりはカーブの続く坂道であった、とか。そうえいば、橋の西・東に、大きく曲がる道筋が残っている。またまた、そういえば、結構最近まで、このあたりの五日市街道の道筋は曲がりくねっていたように思う。なんとなく、そういった記憶が残っている。

五日市街道

五日市街道のメモ;「地下鉄新高円寺駅あたりで青梅街道を離れ、松庵1丁目を通り、武蔵野市・小金井市を経てあきるの市に達する街道。江戸時代初期は、「伊奈道」と呼ばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸に運ぶ道。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道など呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついた道であった。
明治以降、五日市街道と呼ばれる。この街道に沿った区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができる」、と。

尾崎橋を渡り、ほんの一瞬五日市街道を歩く。交通公園入口交差点。この交通公園には子供が小さい頃、何十回来たことであろうか。その子供も、すでに高校生。あっという間の、人生であります(現在は既に大学生)。

宝昌寺
気を取り直して、散歩を続ける。交通公園入口交差点前に宝昌寺。文禄3年(1594年)中野成願寺の葉山宗朔和尚によって創立。もとは真言宗。のちに曹洞宗。この「中野成願寺の」というフレーズ、杉並のお寺でよく目にする。中野長者・鈴木九朗が建てたお寺ではあり、大寺院ではあったのだろうが、有徳僧を輩出したのだろうか?そのうちに調べてみよう。

三年坂
お寺を離れ、尾崎熊野神社に向かう。成行きで杉並第二小学校の南の坂をのぼる。この坂は「三年坂」と呼ばれていた、と。「急坂で転倒して怪我をすると三年でなくなる」というのが名前の由来。往時、赤土の急坂で、滑って転んで怪我をする人が多かったので、くれぐれも気をつけるように、という意味で名付けられたのだろう。

尾崎熊野神社
台地上の道を北に進む。尾崎熊野神社。善福寺川低地を望む舌状台地鎮座する成宗村字尾崎の鎮守さま。正和元年(1312)頃の創建と、伝えられる。大宮八幡や村内の白山神社とほぼ同年代の創建でなないか、と言われている。
鎌倉時代末期、鎌倉から移住してきた武士が紀州の熊野権現をこの地に勧請。境内から縄文前期の住居跡が発見され、縄文・弥生・古墳時代の石器・土器などが多く出土した。ために、「尾崎熊野遺跡」と名づけられた。

須賀神社
台地を下り、善福寺川にかかる天王橋を渡り北に進む。須賀神社。旧成宗村字本村の鎮守さま。創建は天慶5年(942年)とも伝えられるが不詳。出雲の須賀神社にならった、とも。慶長4年(1559年)に領主・岡部氏が社殿を再興したとの伝承があるほか、詳しいことは伝わっていない。江戸時代は牛頭天王社、と呼ばれていた。
須賀神社には散歩の折々に出会う。台東区の浅草橋近くにもあった。狭山の箱根ケ崎でも出会った。この神社は島根と高知に多い。この地の須賀神社と同じく「牛頭天王社」と呼ばれていたことろが多いようだ。やまたのおろちを平らげて、「我、この地に着たりて心須賀、須賀し、」といったかどうだか、素盞嗚命(スサノオノミコト)をおまつりする。
牛頭天王って、インドで仏様のお住まいである祇園精舎の守り神。その猛々しさがスサノオのイメージとはなはだ近く、スサノオ(神)=牛頭天王(仏)と神仏習合された、と言われる。スサノオ、と言えば出雲の暴れん坊。先日の氷川神社と同様、この地を開拓した出雲族の名残であろう、か。

弁天社
須賀神社の西隣に弁天社。成宗村開村と同じころに創立。社前の石橋と掘跡は天保11年(1840年)に善福寺川の水を桃園川に引くために掘られた新堀用水路の名残り。神社の前は杉並高校。丁度学園祭。ブラスバンドの音が、いかにも青春でありましょう。

矢倉台
須賀神社を離れ、西に進む。往時、このあたりを鎌倉街道が通っていた、と。地名も「矢倉台」と言われる。中世に物見櫓があった、とか。「成宗の砦」とも呼ばれる。戦国時代に、中野左兵衛門之尉成宗が、鎌倉街道を見張るために、街道の往来が見渡せるこの高台に砦を構えた、と。成宗はこの付近の開拓者として、地名の由来ともなっている。
ちなみに、先ほど渡った「天王橋」のひとつ上流にかかる橋は「矢倉(屋倉橋)」となっている。ちなみに、ちなみに、開拓者の名前は中野左兵衛門之尉成宗ではなく、野口成宗との説も。当面はどちらでもいいか。

田端神社
さらに進むと田端神社。田端村の鎮守。社伝によれば、応永年間(1394年-1429
年)、足利持氏と上杉禅秀が戦ったとき、品川右京の家臣・良影がこの地に定住し、北野天神を勧請したことにはじまる。往時は北野神社とも、社の場所が「田の端」にあったため、田端天神とも呼ばれ、土地の産土神に。田端という地名は神社の名前に由来する。
境内は古墳であった、と。
ちなみに、このあたりの地名、成田の由来。「成」宗+「田」端>成田、との合成語。成田さんでも関係あるかと思っていたが、全く関係なし。昭和44年ごろに、もとの成宗村と田端村(西田端)一帯を成田西、成宗村と田端村飛地(東田端)を成田東と呼ぶようになった。

田端神社を離れ、本日の目的地、桃園川の源流点、天沼を目指す。成行きではあるが、まっすぐ北に進む。杉並区中央図書館前を通り青梅街道と交差。青梅街道が中央線を跨ぐ橋の東詰めで青梅街道を渡る。


天沼3丁目に桃園川の源流点・弁天池天沼1丁目に。あとは、これまた成行きで天沼3丁目23あたりの桃園川の源流点・弁天池に到着。本来はこの後、桃園川緑道を阿佐ヶ谷・高円寺方面に下るのだが、少々メモが長くなった。実際の散歩コースではないのだが、先回の高円寺から下流と本日の高円寺から上流へのメモをまとめて、次回まとめることにする。

何回かにわけて歩いた桃園川緑道散歩をまとめる。源流点というか、水源は天沼3丁目23あたりにあった弁天池、とのこと。もっとも、練馬区の関町あたりで千川上水から分かれた分水流が青梅街道に沿って進み、この弁天池に流入した、と。弁天池までは用水溝といった小さな流れで、「用水掘」とか「新堀」と呼ばれており、弁天池から下流が桃園川と呼ばれたようだ。
天沼3丁目を成行きで歩く。いかにも水路跡のような遊歩道。辿っていくと、天沼八幡神社の境内前に出る。桃園川跡に間違いなし。八幡様の参拝は後にまわし、とりあえず源流点・弁天池跡に進む。

少し西に進むと遊歩道が切れる。が、いかにも川筋跡のような道が北に続く。ちょっと辿るとお屋敷手前で道が切れる。結構な屋敷跡。屋敷「跡」というのは、更地工事をしているようであった、から。鬱蒼とした緑は未だ残っている。ここが弁天池を埋めた跡地ではなかろうか。
お屋敷の周りをぐるり一周。直ぐ西には東京衛生病院。この病院は息子と娘が生まれたところ。病院のする裏手、というか東側が源流点であった。後からわかったのだが、この弁天池跡地のお屋敷は西武の堤義明氏の荻窪御殿、と呼ばれていたところらしい。件(くだん)の事件もあり、お屋敷を売却したのだろう、か。

「天沼」という地名の由来は弁天池、から。雨でも降ると水が溢れ、一面沼沢地のようになったのであろう、か。天沼=雨沼、かもしれない。実際、この一帯の地名、井草=「葦(藺)草;水草」、であり、荻窪=荻の生える窪地、ということで湿地帯であったことは間違いないだろう。天沼の北に「本天沼」って地名がある。もとの天沼村を南北に分けるとき、北が「本天沼」と先に宣言。もともとの地名の由来にもなった地域は「天沼」に。素人目には「本天沼」のほうが本家・本元って感じがする。
『続日本紀』に武蔵国「乗潴(あまぬま)駅」って記述がある。諸説ある中でも、その場所はこの天沼あたりではないか、というのが定説になっている。「乗潴(あまぬま)駅」は、武蔵の国府のある国分寺から下総の国府のある国府台に通じる街道の「駅家」。官用の往来のため、馬などを常備していた、と。乗潴(あまぬま)駅から、武蔵にあったもうひとつの駅家・豊島(江戸城付近)を経由する官道があったのだろう。ちなみに「潴」、って「沼」の意味。



本日のルート;
天沼八幡神社(天沼2)>天沼熊野神社(天沼1)>慈恩寺(阿佐谷北3)>世尊院>阿佐ヶ谷神明宮>欅屋敷>馬橋稲荷神社>高円寺5丁目・大久保通 り>宮園橋>中野5差路>上宮橋>もみじ山公園下>堀越学園前>谷戸小学校>宝仙寺>宮下・山手通り>田替橋>末広橋>神田川合流>北新宿>新宿

天沼八幡神社

源 流点を確認し、再び桃園川緑道に戻る。少し歩くと天沼八幡神社。弁天沼跡から100m程度だろうか。天正年間(1573~92)の創建といわれる。天沼村中谷戸(なかがいと)の鎮守。弁天池はもと、この八幡様の土地。現在の社殿の建築費用をつくるため売却し、埋め立てられた、とか。弁天池の弁天様は現在境内に遷座している、と。境内末社の大鳥神社では酉の市が開かれる。

天沼熊野神社
桃園川緑道に戻り下流に向かう。天沼2丁目に「天沼熊野神社」。緑道から少し離れたところにある。旧天沼村の鎮守。明治以前には十二社権現と呼ばれた。創建年代は不明だが、社伝によると「元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの途次、ここに宿陣し、社殿を修め、戦勝を祈って2本の杉苗を献植した」と。伝承の杉は昭和10年に枯れた。今も伐り株が残っている。

中杉通り

桃園川緑道を下る。民家の間をくねくね進み、阿佐ヶ谷1丁目29
あたりで中野と杉並を結ぶ「中杉通り」に交差する。ここで緑道は一度途切れる。阿佐ヶ谷北1-1、JR中央線脇にある「けやき公園」の先から緑道が再びはじまるまでは、湾曲した、いかにも川筋跡といった道路を進む。

阿佐谷神明宮
緑道をちょっと離れる。阿佐谷神明宮と世尊院に。阿佐谷神明宮は丁度秋祭り。旧阿佐ヶ谷村の鎮守さま。『江戸名所図会』に、「景行天皇44年に、日本武尊ご東征の帰途、ここに休まれたので、のちに里人が日本武尊の武功を慕って神明社を建立。また、建久(1190-99年)のころ、横井兵部が伊勢五十鈴川から持ち帰った霊石をご神体とし、僧祇海が社を今の地に移した」、と。景行天皇44年って、西暦 4世紀ではある。が、そもそも景行天皇って、伝説上の天皇でもあるわけで、縁起は縁起としておこう、と。

世尊院

世尊院。永享元年(1429年)に阿佐ヶ谷にあった宝仙寺が中野に移った頃
、それを惜しんだ地元民が小寺として残したのがそのはじまりと、いう。宝仙寺は大宮八幡宮の別当寺であった、といわれる。阿佐ヶ谷に居を構えた江戸氏の庶流・「あさかや殿」の庇護のもと作られたのであろうか。「あさかや殿」が歴史に現れた記録は応永27年(1420年)の『米良文書』にある。熊野那智神社の御師が武蔵国の大檀那の江戸氏一門の苗字を書き上げた中に、中野殿などとともに登場する。「あさかや殿」はこのあたりを拠点に土地を拓きながら、戦乱の続く南北朝を生き抜いたのであろう。その衰退の時期はつまびらかではない。が、上にメモした、永享元年(1429年)頃、庇護した宝仙寺が中野に移ったころではないか、と言われている。庇護する威勢を失っていたのであろう。一般公開はしていない。観音堂にまつられている聖観音像は南北朝の作と言われる。ちなみに阿佐ヶ谷の地名の由来は「浅ケ谷」から。桃園川が流れる「浅い谷〔地〕」、であったということだろう。

JR中央線の阿佐ヶ谷駅
Jr中央線の阿佐ヶ谷駅に。JR中央線って、もとは甲武鉄道。明治22年、立川―新宿。立川―八王子が開通した。本来の路線計画では、甲州街道か青梅街道沿いに走る予定であった。が住民の反対に会い、田園・林野を一直線に走る現在の路線になった、とか。駅から少し東、「けやき公園」に。

馬橋公園

ちょっと寄り道。けやき公園から北に進んだ、馬橋公園のあたりに陸軍中野学校教場があった。本部は中野駅前。昭和2年に陸軍通信学校が建設されたことと関係あるのだろうか。なんせ。防諜と通信は切り離すこと叶わず、であろう。太平洋戦争末期には陸軍気象部がおかれ、戦後運輸省気象研究所になった。現在は公園となり、気象庁の職員住宅となっている。また、この馬橋公園の近く、阿佐ヶ谷北5丁目-3あたりには、縄文時代後期の遺跡・小山遺跡も発見されている。桃園川沿いの微高地でもあり、古くから人々が生活していたのであろ う。

馬橋稲荷神社
中央線を越えたあたりから、再び緑道がはじまる。少し歩くと「馬橋稲荷神社」。旧馬橋村の鎮守さま。馬橋村って、このあたりから高円寺にかけての昔の地名。地名の由来は、これまた例によってあれこれ。ひとつは、桃園川か馬で一跨ぎする程度の小さい川であった、という説。また、昔々、桃園川の湿地帯を馬の背を橋のかわりにして軍勢が押し渡ったため、といった説もある。真偽の程は定かならず。




新堀用水、というか天保用水が合流
緑道を進む。緑道脇に桃園川の流路図。結構複雑に分岐している。その川筋のひとつだろう、とは思うが、昔、このあたりには新堀用水、というか天保用水が合流していた、と。中野・馬橋・高円寺の三村に灌漑用水を供給するため善福寺川から分水したもの。桃園川の湧水が減り、天水に頼らざるを得なくなった、その対策として村相互の協力によって計画したもの。
先日散歩の須賀神社の脇で見た新堀用水跡、つまりはこのあたりにあった弁天池に善福寺川から導水し、池の湧き水とともに掘割と暗渠で青梅街道を通り、区役所脇を東北に抜け、馬橋児童遊園のあたりを通り桃園川に合流していた、と。いつか、もう一度流路図をチェックし、用水流路を確認しておこう。

長仙寺
寄り道が多く、なかなか先に進めない。高円寺南3丁目を進む。民家の間を進む。高円寺駅から南に青梅街道まで続く「駅前商店街 パル」にあたる。駅の南口に長仙寺。本堂前庭に「歯神様」と呼ばれる石仏の如意輪観音が安置している、と。享保9年(1724年)の銘。「駅前商店街 パル」を越えると緑道の北に氷川神社と高円寺。

氷川神社
氷川神社は高円寺村字原の鎮守様。天文(1532-55年)の頃の創建、と。境内に小祠・気象神社。先のメモした、陸軍気象部がきちんと気象予報ができるようにと、つくられた。

高円寺

氷川神社を東に少し進むと高円寺。創立にはちょっとしたお話がある;昔、ひとりの旅人がこの地に。父娘の住む農家に一夜の宿を求める旅のもの。飢饉ゆえ食るものも無い、と断わるも、たっての頼みに断わりきれず泊めることに。で、娘が食べ物を探しに外出した後、父親はその旅の人が大金を持っていることを知り、殺害。戻ってきた娘はそのことを悲しみ尼となり、庵をたて菩提をとむらった。弘治元年(1555)建室和尚がその庵をもとにつくったのがこの高円寺、と。
『新編武蔵風土記功稿』の「高円寺村」の箇所に「当村、古は小沢村と言えるも、大猷院殿(三代将軍徳川家光)しばしば村内高円寺にお遊びありければ、世人高円寺御成りありと言いしに、いつしか高円寺村の名起これり」と。昔は小沢村と言っていたが、将軍が鷹狩に御成りのとき、ここで休憩をとった、事実お寺には御茶屋跡もあるとかで、高円寺というお寺の名前が一人歩きし、いつしか寺名が地名までも奪取した、ということか。

寺町
氷川神社や高円寺と桃園川緑道を隔てた南側は寺町がつくられている。明治末期、この地の所有者が商売に失敗し、抵当流れで安い地価となった。お寺といえば少々広い土地が必要であろうし、ということでお寺がこの地に移ってきた、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



高円寺天祖神社と田中稲荷

緑道を進み、環七を越える。高円寺天祖神社と田中稲荷。高円寺村字通りの鎮守様。田中稲荷神社は高円寺天祖神社の境外末社。創建の由来は不明だが、桃園川沿いの田圃の中にあったので「田中稲荷」と。

鳥見橋

田中稲荷を越えるとすぐ中野区。少し進むと鳥見橋。名前の由来は、将軍家の「鷹場」を管理する鳥見役人の役宅に通じる道が通っていたため。役宅があったのは杉並区高円寺南5丁目あたりと言われている。御鷹場があったのは中野2丁目から5丁目にかけての広大な土地。
鷹場のあるところは、この地に限らず御鷹場禁制や御鷹場法度で農民は多くの制約を受けていた。で、村々を巡回し野鳥の保護を第一に、農民を監視していたのが鳥見役人。鳥見役人は若年寄支配下にあり格は高かったが、高円寺の役宅に常駐する役人は微禄の小役人。農民を苛め、賄賂をとるなど、代官所からも厄介者扱いされていた、とか。
であるからして、明治維新にはこの役宅、農民の怒りの矛先となり、すぐさま取り壊された、と。ちなみに、この「御鷹場」はもと、野犬の「御囲」場。綱吉による「生類憐みの令」による「お犬様」を保護・収容していたところ。綱吉の死後廃止され、鷹場となった。どちらにしろ、人々にとっては厄介このうえないものであっただろう。

桃園橋
宮園橋を越えると緑道は少し北に迂回。中野通りとの交差するところに桃園橋。そこは将軍吉宗が桃園に行くときの御成り橋。桃園は中野3丁目一帯にあった、と言われている。中野通りの一筋西を通る「桃園通り」を南に進み、下り坂となる分岐のあたりに「将軍のお立場(中野3丁目28)」。放鷹を眺めたり、桃園を眺めたりする絶好の場所であった、とか。

城山

中野五差路のあたりを越えると、緑道は「大久保通り」の南を、道に沿って進む。紅葉山公園が下る道筋を越え、大久保通りでいえば堀越学園前交差点のあたりに、太田道潅の砦跡、とも伝えられる「城山(中野1-31)」が。谷戸運動公園の北側に土塁跡が残る。
緑道は掘越学園の裏手を進み、実践学園傍を歩く。この南には宝仙寺。前にメモした「阿佐ヶ谷殿」が阿佐ヶ谷につくり、その勢力がうしなわれたころ、この中野に移
る。今回は緑道を急ぐ。お寺巡りは次回のお楽しみに残す。

先に進み、山手通りと交差。宮下交差点。南に下ると青梅街道の中野坂上。中央1丁目を進み田替橋を過ぎると大久保通り・末広橋で桃園川は神田川と合流。桃園川散歩を終える。後は、北新宿から西新宿を通りJR新宿駅に歩き自宅に戻る。

桃園川って、高円寺の商店街を歩いていたとき、いかにも路地裏、といったところでたまたま見つけた。なんということもない、小流であったのだろう、と思ったのだか、この流路に沿ってもあれこれ歴史があった。緑道もすぐ途切れる、と思っていたのだが、結局神田川まで引っ張られた。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、なるほど、桃園川の流れに沿って、谷地が作られている。偶然見つけた川筋を、好奇心で歩き、あれこれ時空散歩が楽しめた。どこかで見かけた桃園川の案内をメモして今回はおしまい、とする。




桃園川緑道の沿革;桃園川緑道は、元来天沼の弁天池(天沼3丁目地内)を水源として東流し末広橋(中野区)で神田川と合流する「桃園川」と呼ばれる小河川でした。桃園川の名は江戸時代初期に付近の「高円寺」境内に桃の木が多かったことから将軍より地名を「桃園」とするよう沙汰があったことに由来しています(その後桃園は中野に移されています)。
江戸時代中期には千川上水から分水したり、善福寺川から「新堀用水」を開削し、導水するなどして、「桃園川」沿いの新田開発が進められました。大正末期には関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理がおこなわれ数条に分岐していた「桃園川」も流路が整えられ、それにともない水田風景も姿を消しました」


八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。
その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。
で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。
搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。



本日のルート;JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅
集合は常の通りJR高尾駅。タイミングよく、「八王子城城跡」行きのバスがあり、これも常の如く廿里(とどり)の古戦場跡の丘陵を越え、城山川の谷筋に下る。左手に先回の散歩で辿った左手に御霊谷の谷戸や太鼓尾根を眺めながら、梶原八幡の谷戸と御霊谷の谷戸を切り裂いた中央高速をくぐり抜け、八王子城跡入口交差点を左折。終点手前の「八王子霊園南口」で下車し、最初の目的地である宗関寺に向かう。

中宿・根小屋地区
バスを下り、中宿地区を進む。この辺りは、かつては「中宿門」を隔てて城下町と区切られた内城地域。小宮曲輪の案内に「城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)」とあったが、根小屋とは「城山の根の処(こ)にある屋(敷)」という意味であり、「城山の麓につくられた家臣団の屋敷のあるところである。とすれば、この辺りが根古屋地区だろう。根小屋は「根古屋」とも表記され、千葉であり埼玉であれ、古城散歩の折々に登場する地名である。

宗関寺
道の正面に鐘楼が見えてくる。朝遊山宗関寺である。この曹洞宗の禅寺は卜山和尚(ぼくざん)の開山とされる。もとは、北条氏照が再興した牛頭山(ごずさん)寺。その寺が天正18年(1590)の八王子合戦により類焼したため、文禄元年(1592)に卜山和尚により建立。寺号を氏照の法号をもって、「宗関寺」と改めた。宗関寺の元の地は、現在の寺の西北の谷合にあり、この地に移されたのは明治25年(1892)のこと、と言う。

◯卜山和尚
『多摩歴史散歩2;有峰書店』によると、卜山和尚はその弟子3万7千余名と称される大指導者。この地に生まれ、13歳で山田の広園寺で出家、その後全国の名だたる禅寺に遊学し、天文10年(1541)に再び故郷の地を踏む。弘治2年(1556)、北条氏照の知遇を得、牛頭山寺に迎えられた。これを契機に北条一門より私淑尊敬され、正親町天皇により紫衣を賜り、また「宗関神護禅寺」の扁額を贈られるという高僧であった、とか。

○中山信治
宗関寺境内には銅造の梵鐘があった。案内には「元禄2年、氏照100回忌供養のため中山信治によって鋳造。中山信治は中山勘解由の孫。水戸藩家老三代目当主である。第二次世界戦時中、元禄年間以降の梵鐘は押すべて押収されたが、この梵鐘だけが残った」、とあった。中山勘解由は八王子合戦では山頂要害部の松木曲輪を守り、多勢に無勢で破れはしたが、その勇猛さが家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ水戸家の家老にまでなった、とか。
遺児が取り立てられ、如何なる経緯で御三家水戸家の家老になったのか少し気になりチェック。八王子城落城時、中山勘解由の遺児ふたりは武蔵七党の一族である中山氏の本拠地、現在の埼玉県飯能に落ち延びる。家康はそのふたりを見つけ出し、小姓に取り立てる。長男が照守。家康・秀忠に仕え御旗奉行まで昇進。二男が信吉。駿府城の火災のとき家康の第11子である頼房の命を救うなど、家康の小姓としてよく仕え、その人柄故に家康の信任篤く、頼房(当時5歳)が水戸家を興すとき付家老としてその任にあたる。信吉33歳の時である、
その後二代将軍秀忠のとき、水戸家は徳川御三家となり、その二代目藩主に光圀を推挙したのが信吉とのこと。信治はその信吉の第四子である。宗関寺の本堂正面の「宗関寺」の扁額の文字も梵鐘銘も水戸光圀公が重用した明の僧・心越禅師の筆となる、との所以も納得。


横地堤
宗関寺を取り巻く築堤は「横地堤」と称される。もと、この地には八王子城代・横地監物の屋敷があり、その城の防御施設として長大な土塁と堀が築かれていた。といっても、寺を囲む石垣は新しそうだし、どこかに土塁でも残っているのだろう、か。いまだ、「これが横地堤」といった堤には出合っていない。
宗関寺から先に進む。寺の角が心持ち「クランク状」になっているのは、枡形の名残とも。『多摩歴史散歩2;有峰書店』によると、宗関寺が移る前の明治24、5年頃には枡形が残っており、また、現在幅の広い車道となっている宗関寺以西の道も未だ無く、荷車も通れないほどの道があっただけ。その道が2間幅に広げられたのは大正になってから、と言う。
よくよく考えるに、横地屋敷にしても、またそれ以外の家臣の屋敷にしても、屋敷はこの車道を跨いで南北に広がる敷地ではあったろうし、先回の散歩でもメモしたように、家臣が日常使用する「下の道」は城山川の北岸に沿って通っていた、とのことであるから、屋敷の門も川沿いにあるのが自然ではあろう。川沿いの道は整備されることはあっても、現在の車道あたりに道は必要ない、かとも。
また、八王子城落城後、戦乱で焼失した「根小屋地区」の家臣団の屋敷跡はどのような状態であったか門外漢には定かではないが、城山は幕府の直轄林とされ、代官・江川太郎左衛門のもと植林が進み、「江川御山」とも呼ばれ厳重に管理されていた、と言う。伐採した木材を運び出すことはあっただろうが、明治になり日露戦争のために大量の木材を伐り出す必要が生じてはじめてこの辺りに「道」が開かれ、木材伐採が本格化した大正期に現在の車道のもとになる道が整備された、と言うことだろう。
八王子城を初めて訪れた頃、攻城軍の陣立てを見て、どうしてこんなに「快適な」城下谷の道筋を侵攻しなかったのだろう、などと思っていたのだが、当時は現在のように平地の真ん中に道、といった「風景」はなく、この辺り一帯は、城山川の南の「上ノ道」に築かれた防御台と一体となった家臣屋敷の土塁と堀に阻まれ、川沿いにしか道はなく、しかも合戦時は城山川を堰止めて沼湿地と化していたであろうから、それほど「快適な」侵攻路ではなかったか、とも。単なる妄想で根拠はないのだが、謂わんとするところは、現在の地形・地理・町の姿から、昔をあれこれ想うのは相当慎重にすべしと、改めて心に刻む。

北条氏照墓所
宗閑寺から八王寺城の方へ向かい、「北条氏照の墓」の道標を目安に道を右に折れ。小径を進むと小高い丘の上に北条氏照と家臣の墓がある。墓というより、供養塔といったものではあろうが、供養塔は氏照の百回忌追善の際に水戸藩家老の中山信治によって建てられた。上でメモしたように中山信治は中山勘解由の孫。氏照の両脇に建つ供養塔は中山勘解由と中山信治のもと、と伝わる(中山信治ではなくその父の信吉との説もある)。

○妙行和尚
供養塔のある台地からは先日歩いた心源院から城山へと続く尾根道に(368ピーク手前の344ピーク辺り)道は続くようだが、台地の右下にある竹林のあたりが旧宗関寺の敷地跡と言われる。供養塔から続く台地の上にも石仏、宝筐印塔(ほうきょういんとう)残り、なんとなく厳かな雰囲気を感じる。また、台地の左、けいが谷川が開く華厳谷戸(けいがやと)の谷奥は延喜13年(913)に妙行上人が庵を結んだ地と伝わる。台地上でお参りした宝筐印塔が妙行和尚(後の華厳菩薩妙行)のもの、とも伝わる。 この妙行和尚、八王子城の命名と、その城下町としての「八王子」という地名に深く関係する伝説をもつ高僧である。

◯妙行上人と八王子の地名起源
宗関寺に伝わる『華厳菩薩記』によれば、平安時代の延喜13年(913)、京都から妙行という学僧がこの地に訪れ、深沢山と呼ばれていたこの城山で修行。夢の中に牛頭天王(ごずてんのう)が現れ、八人の王子(将神:眷属(けんぞく)、従者。薬師如来の眷属が十二神将、釈迦如来の眷属が阿修羅を含めた八部衆、といったもの)をこの地に祭ることを託され、延喜16年(916)深沢山を天王峰に、周辺の8つの峰を八王峰とし、それぞれに祠を建て牛頭天王と八王子を祀った。これが八王子信仰の始まりである。 翌延喜17年(917)、妙行和尚の手により深沢山の麓 に寺が建立され伽藍も整備される。人々の間にも次第に八王子信仰がひろまり 、天慶(てんぎょう)2年(939)には妙行の功績が都の朱雀(すざく)天皇に認められ、「華厳菩薩(けごんぼさつ)」の称号が贈られる。それ以前は華厳院(蓮華院との説も)と称された寺名も八王子信仰ゆかりの「牛頭山神護寺(ごずさんじんごじ)」と改められた。
時代が下り、天正10年(1582)、北条氏照が居城を滝山城からこの深沢山(現在の城山)に山城を築くにあたり、その守護神、城の鎮守として、牛頭八王子権現を祭り、城を八王子城と名づけた。これが八王子という地名の由来になったとのである。

中山勘解由館跡
北条氏照の墓より車道に戻り先に進む。道脇の生垣に中にひっそりと中山勘解由館跡の石碑がった。八王子城は数回訪れているが、今回はじめて気がついた。道路南側の民家の敷地内のようであり、石碑を眺めるのみ。当然のことながら館は現在の道路を跨いだ敷地であったろうし、門は城山川の南岸に沿う「下の道」に面し、昭和30年(1955)代までは「勘解由」と呼ばれる土橋が城山川に架かっていたようである。登城のときは、橋を渡り太鼓尾根の中腹を御主殿へと向かっていたのではあろう。

八王子ガイダンス施設_午前9時28分
道を進むと近藤曲輪のあった手前当たりに「八王子城跡ガイダンス施設」がある。平成34年(2013)の4月にできたばかり、とのこと。施設内には八王子城とその時代を解説したビデオや、八王子城また城主北条氏照に関するパネル展示がされていた。また、八王子城に関する書籍の紹介や地図、そしてコンピュータグラフィックで八王子城を取り巻く山容や合戦の状況をジオラマ風に再現し、八王子城の全体像を把握するには誠に便利な施設となっている。

近藤曲輪_午前9時36分
八王子城跡ガイダンス施設を離れ駐車場の先の小高い場所が「近藤曲輪跡」。小高い場所の上は平坦地となっているが、この地にはかつて東京造形大学が建設された歴史があり、地ならしされてしまったのだろう。平坦地の中央には八王子城を取りまく山容のジオラマが展示されている。
近藤曲輪は八王子城の東端部。かつて家臣が日常の通路、物資運搬などに使用していた「下ノ道」は、中宿門から城山川の北岸を川に沿って進むが、この近藤曲輪の手前で川から離れ、近藤曲輪の下、馬防柵に沿って山裾に向かう。近藤曲輪を大きく迂回した「下ノ道」は「花かご沢」を「登城橋」で渡り登城門に向かっていた、と言う。登城橋があったのは現在の一の鳥居の先、新道と旧道が別れる辺り、とも。

◯近藤出羽守
近藤曲輪は近藤出羽守助実に由来する。近藤出羽守は北条氏照の重臣であり、氏照が大石家の女婿となったときに付き従った家臣のひとり。氏照の信任も厚く、氏照の下野攻略の後には下野国榎本城を預かる。八王子合戦に際しては榎本城を嫡子と家臣に任せ、八王子城に馳せ参じる。
合戦時には近藤曲輪、山下曲輪、アシダ曲輪を守り、前田勢や、降伏し最前線に投入された元北条方の松山衆(上田禅秀氏)や川越衆(大道寺政繁)との激戦の末に討ち死にした。
いつだったか八王子の湯殿川を散歩した降り浄泉寺に出合ったが、このお寺さまは近藤出羽守の開基とのこと。天正15年(1587)というから、北条市が秀吉勢を迎え撃つ臨戦体制をはじめた頃である。近藤出羽守の館はこの浄泉寺および御霊神社の当りにあったとのことである。


近藤曲輪から先は、八王子城の山裾の遺構、山麓遺構、山頂要害部の遺構、山頂要害部からは、尾根道を八王子城の西端の防御拠点である「詰の城」へのピストン山行となるが、以下概略のみをメモする。それぞれの詳しいメモは過去2回の、「八王子城趾散歩 そのⅠ」「八王子城趾散歩 そのⅡ」を必要に応じてご覧ください。


山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)
近藤曲輪を離れ、管理棟のある山下曲輪から林道に下り、城山川を渡り大手道に。左手に太鼓曲輪や堀切の残る太鼓尾根を眺めながら曳橋を渡り、御主殿跡に。御主殿跡から林道に下り、御主殿の滝でお参りし、林道を折り返し、管理棟へと戻る。






山麓遺構_午前10時42分(高丸)
管理棟から、山下曲輪と近藤曲輪を隔てた「花かご沢」の切れ込みを見やりながら、「一の鳥居」をくぐり登山道に。ほどなく登山道は新道と旧道に分かれるが、旧道は現在(2013年5月)倒木のため通行止めとなっていた。
ささやかな石垣の遺構、馬蹄段を見ながら金子曲輪に。金子曲輪から八号目の柵門台跡に。この地は搦手口からの道や山王台への道が合流する。九合目の「高丸」では、「下段の馬廻り道」が合流する。先に進むとほどなく東が一面に開け、見晴らしのいい場所にでる。山頂要害部まではもう少し。

山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)
眼下に広がる景観を楽しみ少し進むと「中の曲輪跡」に設けられた休憩所。休憩所の裏手から「小宮曲輪」に向かう細路に入り、小宮曲輪から尾根道を「山頂曲輪」に。そこから中の曲輪の八王子神社、その傍の横地社にお参りし、「松木曲輪」に。

尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)
「高尾・陣馬山縦走路」の道標を目安に山頂要害部の南をぐるりと廻る。ほどなく「坎井(かんせい))と呼ばれる井戸があるが、そこに続く道は「上段の馬廻り道」。「井戸」からジグザグ道を下り、山頂要害を廻り切ったところに「駒冷やし」。山頂要害部を守るため、尾根道を切り取った大きな「堀切」となっている。
「駒冷やし」から緩やかなアップダウンを繰り返し600mほど尾根道を進むと「詰の城跡」。その西にある堀切を眺め、再び山頂要害部に戻る。そこから八号目・柵門台まで下り、そこから搦手口への道へと下りてゆく。


ここからは新規ルートのメモ

八合目・柵門台_午後1時20分
柵門台から「松竹バス停」への道標に従い登山道を離れて左に折れる。正確にはこの道は登山道の旧道なのだが、現在旧道は通行止めとなっている。その旧道を少し下ると更に左に分岐する道に入る。この道が搦手口からの道筋である。この辺りは数回過去数回トライしたのだけれど、ブッシュに阻止され進めなかったように思う。その後道の整備をしたのだろうか。不思議である。

城沢分岐_午後1時25分
道筋を数分進むと、先日心源院から城山へと尾根道を辿り搦手口からの道と合流した地点に着く。そこから「松竹橋バス停」の道標に従い、左手の道に入る。道は思いのほか整備されている。この道は城沢道と呼ばれる。搦手口から柵門台へと向かう搦手口からの正式な登城道である。道の左には名前の由来でもある「城沢」と呼ばれる沢がある。城沢は滝沢川に合流する沢のひとつである棚沢の支沢である。


清龍寺の滝分岐_午後1時35分
木々に覆われた道を下ると全面が開けてくる。木々が一面伐採されている。伐採されたところを下り終えた辺りに「清龍寺の滝」の道標。予定にはなかったのだが、時間も十分余裕があるので、ちょっと寄り道。
少々ブッシュっぽい踏み分け道を進むと沢に当たり、それも二つの沢に分岐している。進行方向右手が清龍寺へ向かう「滝の沢」、左手の城沢道に近いほうが「棚沢」である。この棚沢からの道が八王子合戦の時、平井無辺の内通により秘密裡に搦手口から攻め上り、背後から小宮曲輪を攻撃した上杉勢の侵攻路との説がある。

○棚沢口からの侵攻路
『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、この棚沢道が上杉勢の侵攻路とある。城沢道は正規ルートで奇襲はできないし、清龍寺の滝のある滝の沢は城外であり、修験者が住む信仰の沢で、西側の尾根に上る道はあるが細路で、しかも小宮曲輪に遠すぎる。棚沢道は正規の城沢道に対して背後から馬廻り道に上る通用路または「隠し道」であったのだろう。この道を這い上がれば棚門台を通らず直接山頂要害部にでることができる、とある。
地形図をチェックすると、沢頭は山頂要害部のすぐそばまで続いている。棚沢を山頂に上るには、棚沢の左岸を進み横沢までは急な道であるが、その先はほぼ水平の道となる。岩を割ってつけた道を進み、棚沢の滝の上を跨ぎ水汲み谷と呼ばれる小さな沢に至ると、そこが11段ある馬蹄段の最下段。この最下段には棚沢の滝から左手の斜面をよじ上っても這い上がれるようである。 上杉勢はこのような棚沢口を這い上がり、小宮曲輪に背後から奇襲をかけ、八王子合戦の勝敗を決した、と。詰の城からの石垣跡のある尾根道を下ると、棚沢の滝の近くに下れるようである。そのうちに棚沢を山頂要害部へと這い上がるか、詰の城から下ってみたい。

清龍寺の滝_午後1時50分
棚沢との分岐から15分ほど、倒木や沢道など足場の悪い道を進むと「清龍寺の滝」。活水期で水は全く流れていない。滝下にある水量計が手持無沙汰な風である。滝は3段に分かれており、水があれば結構見栄えがする滝ではあろう。

松嶽稲荷_午後2時15分
沢道を戻り、清龍寺の滝への分岐から林道を松竹バス停へと下る。ちょっとした段状地やその昔家臣の屋敷があったとも言われる平坦地を想い、左手には先日心源院から辿った尾根道を見やりながら800mほど道を進むと杉の巨木に囲まれた朱色の社が佇む。かつては、この辺りに搦手口の城門があったとも言われる。
既にメモしたように、初期の八王子城は北側の案下谷側に大手口が構えられていたとされ、後年八王子城を大改修する時期に大手口城下谷(中宿)側に変更されたとの説があるが、城山(深沢山)の北側に広がる「案下谷」には、下恩方地区の浄福寺城とその山麓の浄福寺や、上恩方の興慶寺といった室町期創建の寺院が点在する。甲斐の武田に備えたこの案下の谷筋は、比較的古い時代から開けていたのであろう。夕焼け小焼けの里から案下道を辿った記憶が蘇る。


○城山北川防衛ライン
城山搦手口の防衛ラインは、松嶽稲荷辺りの搦手口城門一帯と心源院から城山に続く尾根道、川町の城下谷丘陵北端部、そして大沢川。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「搦手口の松嶽稲荷から西方一帯は、山裾から北へ河岸段丘面・氾濫原・案下川と続き、川は水堀、段丘崖は防塁となっている。段丘崖は4,5mあり、段丘崖下に空堀。段丘面の端には柵が築かれ内側に家臣が詰める」とある。そう言われれば、松嶽稲荷南の段状崖も「土塁」のようにも思えてくる。
心源院からの尾根道の防御ラインは、心源院の土塁、尾根道上の向山砦、松嶽稲荷の東の尾根道下には「連廓式砦跡」が残る、とも。川町の城下谷丘陵北端部には小田野城(現在の都道61号小田野トンネル上)。小田野城は八王子城主・北条氏照の家臣小野田太左衛門屋敷があり、八王子城の出城のひとつと言われる、城は天正18年(1590)の八王子城攻防戦の際、城の搦手口(城の表口である大手門に対し、「裏口」にあたる搦手門のある場所)を攻めた上杉景勝の軍勢により落城した
大沢川沿いには段状地が築かれ、遠見櫓があったような尾根上の平坦地もあり、搦手口同様に重要な拠点であった、とのことである。

松竹バス停‗午後2時36分
松嶽稲荷から成り行きで東に進むと行く手を瀧の川に阻まれる。橋はないので、松竹橋まで引き返すことになったが、搦手口の場所は滝の沢川と案下川の合流点付近とか、松竹橋付近といった説もあるので、その雰囲気を味わったことでよしとする。 松竹橋まで戻り、本日の最後の目的地である心源院へと向かうが、先日の散歩でもメモした深沢橋まで橋は無い。陣馬街道を東に戻り、かつての鎌倉街道山の道の道筋で右に折れ、深沢橋へと進む。

○陣馬街道
陣場街道という名前は古いイメージがあるが、その名称は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは「案下道」とか、「佐野川往還」と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。
この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人が利用したと言う。因みに「案下」とは仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。また、この辺りの地名である恩方も美しい響き。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろうか。

○鎌倉街道山の道
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。 で、この鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。鎌倉からはじめ、南町田で鎌倉街道上ツ道と別れ。相原、相原十字路、七国峠を越えて高尾に至り、高尾から北は、秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠と、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に入る。

心源院‗午後3時
深沢橋から少し南に戻り、大きな石の柱を目印に心源院に。山号は「深沢山」。八王子城の築かれている山の名前である。深沢はこの深沢山の山麓から流れ出す滝沢川が刻む棚沢とか横沢といった深い沢を現すように思える。深沢山の南側にそれほどに深く刻まれた沢は見られない。
それはともあれ、心源院に入る。広い境内の奥に本堂。広い境内の割に堂宇が少ないのは、昭和20年(1845)の八王子大空襲で七堂伽藍すべてが灰燼に帰したため。現在の本堂も昭和47年(1972)に再建されたもの。お寺の東側に10mほどの高さの台地があるが、それは八王子城の土塁跡とのこと。城山北側から尾根道を八王子城へと進軍する秀吉方への防御拠点として、小田野城(心源院の少し東)、浄福寺城(心源院の少し西)とともに、心源院も砦として組み込まれていたのであろう。そのためもあってか、小田原合戦の際、豊臣勢の上杉景勝の軍勢との攻防戦の際に焼失している。更には江戸時代の河原宿の大火でも延焼しているため、古文書などは残っていないようである。
この寺はもともとはこの地に勢力を誇った武蔵国の守護代である大石定久が開いた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと北条氏照を女婿に迎えに滝山城を譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。
とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ。

○松姫
この心源院は武田信玄の娘である松姫ゆかりの寺である。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れた悲劇の姫として気になる存在である。7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。元亀3年(1572)武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。元亀4年(1573)信玄、没するにおよび、兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、天正10年(1582)、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
天正10年(1582)、武田勝頼は天目山で自害し武田家滅亡。この武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠は松姫を救わんと迎えの使者を派遣せんとするも、本能寺の変が勃発。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。当時の心源院六代目住職は宗関寺でも登場した卜山禅師。卜山禅師の庇護のもと松姫は出家し信松尼となる。しかし、この心源院も八王子合戦で焼失し、天正18年(1590)、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出す。

河原宿大橋バス停
心源院で先日歩いた秋葉神社やその尾根道から眺めた「寺の谷戸」や「寺の西谷戸」の地形をじっくりと下から確認し、北秋川に沿って河原宿大橋バス停に進み、本日の散歩は終了。バスでJR高尾駅に戻り、一路家路へと。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク