2013年5月アーカイブ

初回の散歩から日をおかず、二回目の八王子城址散歩に出かける。メンバーは元会社の同僚とのふたり旅。今回のルートは、八王子城の南を護る「外廓」でもあった太鼓尾根を辿り、先回の散歩で富士見台から下った尾根道を逆に上り返し、富士見台、詰の城を経て城山へと向かう。
太鼓尾根にはいくつかの堀切、そして太鼓曲輪がある、と言う。また太鼓尾根の中腹には城への登城路であった「上の道」が続く、とも。現在八王子城址へは霊園口バス停から宗閑寺をへて城山方面に広い道が開かれているが、大正の頃までは道と言えるような道もなかったようである。戦国の頃はこの太鼓尾根の東端にある「上ノ山」の麓に大手口があり、そこから太鼓尾根の北の山腹を辿る「上の道」がメーンルートであった、とか。
現在では「上の道」は藪で覆われているとのことだし、太鼓尾根のルートもはっきりしない。人によっては険路、とあったり、何ということのない「軽い」ルートなどコメントもさまざま。念のためロープとハーネスと、ちょっと大層な準備をして散歩に出かける。



本日の本日のルート;JR高尾駅>宮の前バス停>梶原八幡>御霊谷神社>太鼓尾根への取りつき口>中央高速にかかる不思議な橋>上の山>太鼓尾根の尾根道>第一堀切>片堀切>第二堀切>第三堀切>太鼓曲輪>第四堀切>第五堀切>見晴らし所>太鼓尾根分岐>荒井バス停分岐>城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)>城山川北沢への分岐(標識なし)>小下沢道分岐(悪路)>富士見台>詰の橋・大堀切>堀切>馬廻り道(下段)>高丸>中の曲輪>八王子神社>山頂曲輪>小宮曲輪>松木曲輪>見晴らし所>八合目・棚門台跡>殿の道>山王曲輪>殿の道>御主殿跡>御主殿の滝>曳橋>大手道・大手門跡>上の道>大手道・大手門跡>山下曲輪>近藤曲輪>八王子城址ガイダンス施設>宗関寺>中山勘解由屋敷跡>霊園口バス停

JR中央線高尾駅
JR中央線高尾駅で下車。駅前のバス乗り場より、最初の目的地である御霊谷の太鼓曲輪取り付き口の最寄りのバス停である「宮の前」に向かう。バスは大久保行きのほか、陣馬高原行き、室生寺団地行き、恩方車庫行き、美山行きなど、でも川原宿大橋のバス停に行くようではある。
駅前を離れ、バスは北に向かう。この道は都道46号、別名、「高尾街道」と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り「滝山街道」の戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中には「廿里(とどり)古戦場の碑」がある。小田原北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点である滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦が大きな要因、とか。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

宮の前バス停
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先にも上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、バスは高尾街道を離れ、都道61号に乗り換え三叉路を北西方向に進む。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前バス停。太鼓尾根への取り付き口に進む前に、宮の前の名前の由来でもある梶原八幡様に向かう。

梶原八幡_午前9時24分
御霊谷と逆方向の東側に道を渡り参道を八幡様に。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原か、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強い。また、鎌倉散歩のとき、朝比奈切り通しで「梶原大刀洗水」といった清水の流れを目にした。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。いずれにしても、あまりいい印象はない。 どういった人物か、ちょっとメモ;もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらしら張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。


御霊谷の谷戸
梶原八幡からバス停まで戻り、バス停脇の雑貨店の南の道を御霊谷の集落に。この御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 当時の家臣の登城道はこの御霊谷門を大手口とし、御霊谷地区の北の太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」の鞍部を経て太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城山の麓にあった御主殿へと続いていたようである。

御霊谷(ごりやつ)神社_午前9時40分
御霊谷地区に入り、太鼓尾根やその東端の「上の山」を見やり、御霊谷地区の谷戸を進む。道が中央高速をくぐる手前に御霊谷神社。まずはお参り。古き趣のこの社は、梶原景時の祖先神である坂東八平氏のひとり、鎌倉を拠点とした故に「鎌倉権五郎影政」と称された平安後期の武将を祀る。神社の裏手にはいくつかのささやかな社が祀られるが、稲荷の裏手には、「北条菱」が刻まれた石塔が建つ、とのことだが見逃した。
天正18年(1590)の八王子城の戦いの際は、この神社辺りに南本営が置かれ、鈴木彦八の指揮のもと、豊臣勢の攻撃に相対した、と。当時は谷戸の一帯は湿地であったようで、御霊谷川を堰止めて池沼とし防御ラインを構築したとのことである。

太鼓尾根への取り付き口へ_午前9時51分
御霊谷神社を折り返し、太鼓尾根の東端である「上の山」に。取り付き部の目安は「竹藪とその手前の梅ノ木」といった情報を目安に、道から分かれる取りつき口を探す。今ひとつ確信はないものの、バス停脇から入ってきた道筋と沿って流れる御霊谷川が大きく湾曲して道から離れるあたりに建つ民家の西脇から竹藪へと向かう踏み分け道を見つけ、とりあえず車道を離れ竹藪へと向かう。

中央高速に架かる橋・中宿橋‗午前10時
踏み分け道を竹藪に入る。道らしきものはなく、竹藪の中をとりあえず中央高速の車の音のするほうへと突き進む。力任せの藪漕ぎで中央高速が見えるところまで這い上がる。と、左手に中央高速に架かる人道橋が見える。この橋を渡って太鼓尾根に入る、とのことであるので、中央高速と離れないように竹藪を進み、人道橋のある、と思うあたりで再び這い上がり人道橋南詰に。
しかし、不思議な橋である。橋を渡った南には橋から続く道はなく、崖を下りて道なき竹藪の中を進むしかない。なんとなく気になりチェックすると、中央高速建設に際し、当時の建設省と八王子市そして地域住民が協議し、高速道路によって行き止まりになってしまう杣道や畦道なとの「赤道」を、この橋の建設で代替とした、とのこと。
それにしても、疑問が残るのは中宿橋と呼ばれる橋の名称。中宿は、御霊谷の東端である「上の山」と梶原八幡のある丘に挟まれたところであり、外郭部の城下町と内城部分を仕切る中宿門(中門とも)が在った地区の名前である。場所からすれば、御霊谷橋といったほうが自然と思えるのだが、昔には御霊谷川に御霊谷と称する橋があったのだろう、か(今は見当たらない)、それとも、御霊谷の谷戸から中宿に抜ける道があったのだろう、か。妄想は広がるが、このあたりで止めておく。

御霊谷門・上の山
中宿橋の辺りは中央高速によって削られた太鼓尾根の東端は「上ノ山」のあったところ。上に御霊谷門が御霊谷川の左岸にあったようだとメモした。その位置は上ノ山の丘の南麓にあったとのこと。その場所は不詳であるが、『戦国の終わりを告げた城』には「(中宿橋を)御霊谷側に下ると竹林の中に小刻みの段状地が4段あり、ここを大手口と推定した」、とある。とすれば、御霊谷門は先ほど上り下りの藪漕ぎをした竹藪辺りかもしれない。
御霊谷門からは上ノ山の鞍部を越えて太鼓尾根の北側中腹を御主殿に向かって登城道が通り、その北には中宿門から西にはか新屋敷が連なる。そして尾根の南北に重要な門を見下ろす上ノ山には見張り台があり、ふたつの門の防御する指揮所でもあったのだろう。とはいうものの、合戦では中宿門も御霊谷門も、あっと言う間に破られている。(『戦国の終わりを告げた城』)を参考に合戦の状況をまとめておく。


 ○八王子合戦
攻城軍は寄居の鉢形城を落とし東松山の松山城に駐屯していた前田利家と上杉景勝の軍勢。その数は、降伏した大道寺(松井田城主)、難波田・木呂子勢(松山城の籠城軍勢;東松山)を含め2,3万と伝わる。攻城軍は松山城を出立。関東山地山麓よりの道を南下し、旧暦6月22日の夜更け、多摩川を大神(昭島)から金扇平(八王子市平町)に渡り(注;現在八高線が多摩川を渡る辺り)、南加住丘陵、北加住丘陵を越え暁町の名綱神社辺り(注;現在の小宮公園の南)で二手に分かれる。
一隊は搦め手口攻撃隊。川口川の北岸を西に進み、甲原(注;現在工学院大学のある辺り)をへて南に向かい調井の丘(注;現在の八王子市立川口小学校んの東;昔川口氏館跡あたり)から北浅川の北岸を西に進み、川を渡って案下(恩方)の搦め手口に。
別の一隊は名綱神社から南に進み浅川を渡って大義寺(元横山町)の辻から西に進み、南浅川を渡り横川を経て月夜峰(現在協立女子学園がある辺り)の丘陵に向かう。
一方の八王子城の北条勢。籠城態勢に入ったのは天正16年(1588)の1月。天正17年(1589)の夏には、城主の北条氏照は精鋭数千を引連れ小田原城に。留守を老将である横地監物、狩野一庵、中山勘解由に託す。城内には将士の他、各郷から集められた雑兵、番匠、鍛冶、修験者、僧、そして人質としての妻子など数千。

攻撃当日の天正18年(1590 )6月23日。攻撃開始は午前2時。上杉景勝勢8000は月夜峰から出羽山砦(注;は現在の出羽山公園辺り;八王子市城山手1-4近藤出羽守が築いたとされる砦。近藤出羽守は合戦当日には山下曲輪を護る。)へと尾根伝いに進み、御霊谷門を打破って上ノ山に上がり、更に尾根伝いに太鼓曲輪へと進撃。別働隊は御霊谷の湿地を進撃し、御霊谷神社辺りにあった南本営を打ち破り、御霊谷の谷戸の更に奥の駒ケ谷戸や大谷戸方面から太鼓曲輪の奥に進み攻め入った、と。
一方、降伏した大道寺勢を前面に押し出した前田利家の軍勢15000は横山口の大城戸に攻め入り、中宿門を護る馬場対馬守を破り、午前4時頃には太鼓曲輪を破った上杉勢と合流し、八王子城の守備の要である山下曲輪に襲い掛かり守将の近藤出羽守を打ち取っている。
山下曲輪を破り城山にある金子曲輪に攻め入り、山頂の小宮曲輪で激戦となるも、内通者に率いられ、搦め手側から攻め上った上杉別働隊が背後から攻め寄せ落城となる。明け方には勝負がついていたようである(午後4時頃との説もある) 八王子合戦は秀吉の小田原征伐で唯一の「殲滅戦」とも言われる。埼玉・寄居の鉢形城の攻防戦など、その他の攻城線での穏便な、秀吉に言わせれば「緩慢な」攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田・上杉勢はこのときとばかり八王子で大殺戮戦を行った、とか。合戦の後の両軍の死者は諸説あるも、それぞれ1000名を越える、とも。いつだたか、八王子の湧水を辿っていたときに出合った相即寺には戦いで亡くなった将士を供養する地蔵堂があった。

埼玉・寄居の鉢形城攻防戦での「緩慢」なる攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田、上杉がこの時とばかり攻めかかった、とか。小田原攻めで唯一とも言われる大殺戮戦が行われた、とある。

太鼓尾根に入る
中宿橋を渡り、右にも左にも細道があるようなのだが標識がなく、なんとなく踏み分け道っぽい右側に回り込み緩やかな上りを太鼓尾根に入る。途中、御霊谷門から上ノ山の鞍部を越えて南に繋がるという「上ノ道」への道筋などないものかと注意しながら進んだのだが、それらしき踏み分け道も見つけることができなかった。安土城の6mを越える8m幅の登城路跡らしき道筋も残っているようである。そのうちに歩いてみたい。

286mピーク_10時23分
木々に覆われた緑の尾根道を進むと、竹林のトンネルが現れる。いつだったか歩いた旧東海道箱根越え・西坂を三島に下ったときの笹竹のトンネルを思い出した。270mピークの「じゅうりん寺山」を越え、ゆるやかなアップダウンを繰り返し尾根道を進む。じゅうりん寺山から北西に進んだ尾根道が南西へと向きを変える辺りの254m地点に「見張台」があったとのことだが、素人には遺構などはわからない。
尾根道南麓の木々の隙間から民家の屋根などを見やりながら10時23分に286mピークに。ここまで尾根道の踏み跡はしっかりとしており、道に迷うことはなかった。


第一堀切_10時35分;標高275m
尾根道を進み、286mピークから10分強歩くと、突然尾根道が寸断され崖っぷちに。ここが太鼓尾根の第一堀切。尾根道からの敵の侵攻を防ぐために人工的に岩盤を掘り切っている。掘り切った石は石垣などに利用されているようである。第一堀切の場所は、御主殿跡に向かう大手道東端の「進入禁止」の柵のあるところより少し東に入ったあたりである。
足元を注意しながら底に下り、左右の堀切崖面を見る。底から5m程度といったところだろうか。また、岩盤故か、倒木が多い。堀切の幅は結構広いが、これは倒木による掘り返しにより次第に幅は広く、丸くなってしまったのだろう。縄張り当時はもっと狭く、V字になっており、曳橋が架けられていた、と。

片堀切_午前10時41分;標高287m
第一堀切からほどなく「片堀切」の案内。両側を掘らず、片側だけを掘ったもの。比高差は4m程度である。この辺りから太鼓曲輪北麓下には御主殿続く大手道が見える。








第二掘切_午前10時52分:標高290m
片堀切から10分程度で第二堀切。底に下りて左右の崖を見る。東崖との比高差3m、西崖面との比高差12mほど。薬研堀と称されるようにV字に切れ込んだ雰囲気を残す。場所は御主殿に繋がる曳橋の少し手前といった辺りである。







第三堀切_午前11時7分;標高298m

第二堀切から10分強で第三堀切。太鼓尾根最大の堀切で「大堀切」とも呼ばれる。底から堀切東崖の比高差6m、西崖面の比高差15mとのことである。底が落石で埋まっているため、石を除けばもっと巨大な堀切であったのではあろう。尾根の北麓下には城主の館である御主殿がある。なお、第三堀切を過ぎたところに上杉勢が御主殿に侵攻する為に使った「連絡道」があるとのこと。連絡道は「御主殿の滝」に造られた堰の上を通り御主殿につながる、とのことである。

太鼓曲輪_午前11時13分;標高300m
第三堀切から少し進み、御霊谷の城山病院辺りから続く長尾根と交差するあたりのちょっとした平坦地に太鼓曲輪があった、とのこと。平坦地の幅は10m程度であり、それほど多くの兵士が詰めれるようにも思えないのだが、太鼓尾根全体の防御陣地を指揮する指令所でもあったのだろう、か。単なるも妄想。根拠なし。





第四堀切_午前11時18分;標高321m
太鼓曲輪から5分程度で第四堀切。位置は北沢と南沢が城山川として合わさる少し上流の南の尾根部分。底に下りて左右を見ると、今までの堀切の中では少し小振りで、東西ともに底から堀切の崖面の比高差は4m程度である。






第五堀切_午前11時25分;標高325m
更に尾根を進むとほどなく第五堀切。今までの堀切と異なり、御主殿に近い東端のほうが底からの高さが高く、その比高差は7mほど。一方西側は少し低く4m程度となっている。









これで本日のメーンイベントである太鼓尾根の太鼓曲輪と堀切を辿るコースは終了。後は先日富士見台から下ってきた「城山尾根」に上り、そこから城山へと上り返すルートを辿ることになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)















見晴らし所_午前11時43分;標高376m
第五堀切を越えると「城山尾根」の合流点に向かって上りが急になってくる。今までの尾根道の、のんびり、ゆったりとは異なり少々息が上がる。第五堀切から20分程度のところで、左手が一瞬開け、眼下の景観が楽しめる。見晴らし所という名称は便宜上名付けただけであり、正式名称ではない。





太鼓尾根分岐_午前11時47分;標高407m
見晴らしを楽しみ先に進むち、そこからほどなく太鼓尾根が城山尾根に合流する。標識には「城山入口 405m」と道標にあるが、太鼓尾根には城山へ下る標識はなかったように思う。太鼓尾根から城山(「御主殿跡」のことだろうか?少々曖昧な表現である)に下るには、尾根道を切り取った堀切部分から大手道の東端に下るのだろうが、それにしては大手道へと下る道標はなかったように思う。 太鼓尾根を下ると、今辿ってきたようにその東端は中央高速に架かる不思議な人道橋に至り、橋を渡った先には道がなく、竹藪を藪漕ぎして御霊谷の集落の道にでることになる、と思うのだが。道標の見落としであろう、か。
太鼓尾根分岐を東に下れば、先日辿った地蔵ピークをへて裏高尾の駒木野の小仏関所に出るが、今回は逆に城山尾根を西へと上り返す。太鼓尾根分岐点で少し休憩。

荒井バス停分岐_午後12時14分;標高417m

休憩の後、10分程度で裏高尾への分岐点。「荒井バス停 摺指バス停 駒木野バス停 高尾駅」の道標がある。数年前、この尾根道を裏高尾から上り、工事中の圏央道当たりから山に入り、中央高速に沿って進み尾根へと入っていったのだが、圏央道が完成した現在、ルートはどうなっているのだろう、か。

城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)_午後12時17分;標高410m
荒井バス停分岐のすぐ傍に「城山林道」から尾根に上る道の合流点がある。現在岩場の梯子が壊れており「危険 通行禁止」となっていた。

城山川北沢への分岐(標識なし)_12時37分;標高479m
城山林道の合流点当たりからは525mピークに向かって急坂を上り、ピークを越えて下りきったあたりが城山川北沢からの山道の合流点。分岐点の標識はない。当初の予定では、この合流点が見つかれば、そこから御主殿跡へと下ろうと考えていたので、相当真剣に道を探したのだが結局見つからず、富士見台から城山へと向かうことになった。後日地元の方に聞いたところでは、見つけにくいが道はある、とのことであった。

小下沢道分岐(悪路)_12時44分;標高541m
城山川北沢からの合流点辺りからは再び富士見台に向かっての上りが続く。先回は逆の下りだったので、あまり厳しいとも思わなかったのだが、結構きつい上りであった。富士見台の少し手前に小下沢への分岐の道標。悪路とある。どの程度のものか、逆に訪ねてみたくもなる。






富士見台_12時57分;標高542m
小下沢から10分強で富士見台に。今まで数回富士見台に来たが、富士山が見えたのは今回がはじめて。休憩台では数グループが食事をしているのはいつもの通り。







詰の城・大堀切_13時8分;標高463m
富士見台で富士山の眺めを少し楽しみ、休憩することもなく富士見台の直ぐ傍の「陣馬山縦走路分岐点」を右に折れ、詰の城へと向かう。分岐点には「荒井バス停2.7キロ 堂所山(6キロ)・明王峠(7.2キロ)・陣馬山(9.1キロ)」の道標がある。
10分程度、結構急な下りを進むと「詰の城」の西崖となっている「大堀切」に到着。西からの敵の侵攻を防ぐため尾根を断ち切った「大堀切」は、その名の通り、堀切底辺部と詰の城の比高差は10mほどもある巨大なもの。堀切部の幅も広く下辺10m、その幅24mにもなる、と言う。実際この大堀切に下りたって左右の岩場そしてその堀切の幅を眺め、その大きさを実感する。この規模の掘割をおこなうには20名の石切人足が200日かけてはじめて完成する規模のものであると言う(『戦国の終わりを告げた城』)。
大堀切から崖面の道を上り「詰の城」に。「大天守跡」といった石碑の残るこの地は八王子城の西の守りの要衝。尾根道には石垣が組まれと言うし、詰の城から北に横沢へと下る尾根にも石垣が組まれていたようである。また、詰の城から横沢の分岐点までの間には二本の水平道が棚沢を横切って馬冷やしまで続いていた、とのこと。これは棚沢方面からの敵に備えた帯曲とも考えられているようだ。北に下る尾根道を少し下ってみたが、石垣は残っていなかった。

馬冷やし・堀切_13時35分;標高401m
詰の城からおおよそ400m、城山が目の前に聳える姿を見ながら進むと、「詰城 富士見台 北高尾山稜 堂所山」の道標のあるところに出る。大きな堀切となっているが、これは馬廻り道を一周させるため人工的に尾根道を断ち「切り通し」としていると同時に、切り通しの東上にある「無名曲輪」の堀切として、西の尾根道からの敵の防御拠点としている。
また、この地は、馬廻り道、城山裏手の棚沢からく2本の水平道、詰の城からの尾根道、太鼓曲輪や城山川北沢と城山川南沢を分ける丘陵部からいくつかの谷頭を縫ってくる道など多くの道が合流する要衝であった。

馬廻り道(下段)
駒冷やしの堀切からは、いつも歩く山頂要害部の南側を周り井戸のある「坎井(かんせい)」から上段の馬周り道を通り松木曲輪に出るコースと異なり、堀切から山頂要害部の北側をぐるりと回る「下段馬周り道」を辿る。道標もなく、はじめての道で、ちゃんと続いているかどうか定かではないが、とりあえず先に進む。途中切り立った崖面の細路があるなど、ハイキングコースとして案内しない理由も納得。どこに出るのかも分からず進むと、「9合目・高丸」のすぐ上に出た。そこにも道標はなかった。下段馬廻り道は上段馬廻り道のおおよそ20m下を巻いているとのことである。
ここからは下に下りたいところではあるが、同行の元同僚は八王子城址ははじめて。山頂要害部を見ないことにはと、山頂の曲輪跡へと向かう(以下は「八号目・柵門台」まで基本的に、前回メモのコピー&ペースト)

高丸_13時41分;標高431m
下段馬廻り道から城山登山道に出ると、「九号目」と刻まれた石標があり、その右手に「高丸 この先危険」の案内。この案内があるところが「高丸」なのか、案内が示す方角に「高丸」がある狭い台地まで続いかははっきりしないが、崖端から下を見ると尾根筋が高丸の標識に上ってきている。思うに、高丸は先回心源院からの尾根道と城沢道(搦手)道が合流する十字路に、「正面の道は「×急坂」」とあった、その急坂を登りつめた尾根上に築かれた帯曲輪のようである。
名前の由来は、城沢道から山頂要害部が翼を広げた鷹のように見えたから、とか、城沢道が急坂になり、その高まった岩場にあるため、とも(『戦国の終わりを告げた城』)。岩が露出した急斜面に100mに渡って石垣が組まれ、敵の侵入を防いだとのことである。ともあれ、これだけ、どこにも「危険」と書かれては、場所を特定すべく尾根を下ってみようという気持ちにはなれない。

見晴らし
九号目を越えて先に進むと左手の展望が開ける。足元には、八王子城の山裾地区、その先には、城の城下町であった元八王子の丘陵を縫って裏高尾の谷へと進む中央高速が見える。はるか遠く、白いドームが丘陵に頭を出しているが、狭山丘陵の西武球場だろう、か。その右手には新宿の高層ビル群、その右に見える尖塔は東京スカイツリーだろう、か。霞の中にかすかに見える。関東平野が一望のもと、誠に美しいながめである。

休憩所
先に進むと、休憩所のような小屋があり、その脇に「本丸周辺の曲輪」の案内と、その地図がある。案内には「本丸周辺の曲輪;標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配地された要害部は、籠城のための施設と考えられている。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造になっている。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があった」とある。
先回同様に、この小屋の裏手あたりから「小宮曲輪」、そこから「本丸」へと続く道を進む。

小宮曲輪
小屋の裏手の細い道を少し上ると平坦な場所にでる。廃屋となった社跡、狛犬が佇むこの平坦地が小宮曲輪である。脇に立つ案内には「小宮曲輪;狩野一庵が守っていたといわれる曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。天正18年(1590)6月23日上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた、と。
コラム 八王子城の範囲;北条氏照は、深沢山(城山)を中心とした要害地区、その麓にある居館地区(現在、御主殿跡として整備したあたり)、城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)、居館地区の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪地区、太鼓曲輪からのびる丘陵の東端と南端の台地にある御霊谷地区、小田野城のある小田野地区(現、小田野トンネル周辺)というように、八王子城を壮大な城郭として構想していたと考えられる。しかし、八王子城は完成を見ることなく、天正18年(1590)に落城した」とある。
案内に「小宮曲輪は(中略)上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた」とあるが、これは上杉隊の藤田信吉が内通者である平井無辺を道案内に、搦め手口(裏口)から滝の沢川に沿って進み、棚沢方面から崖を這い上がり、背面より小宮曲輪を攻めた、との説(『武蔵名所図会』)ではあろう。この背面からの突如の攻撃により、正面より攻め上る前田勢を防いでいた八王子勢が崩れたとのことである。
攻撃軍の陣立ては諸説あり、大手門(表門口)が上杉勢、搦手口が前田勢、といったものや、大手門口(表門口)は前田勢であるが、上の案内にある太鼓曲輪を上杉勢主力が攻め、その支隊が搦手口から攻め上ったなど、あれこれあり定説はないようだ。

○藤田信吉
上杉隊の藤田信吉とは、もともとは関東管領上杉家の家臣。関東管領方が小田原北条に川越夜戦で敗れたため後北条の家臣に。後北条勢として上杉謙信の跡目争いである御館の乱に出兵。沼田城の城代に。が、後北条に信を置けず真田昌幸の勧めに応じて武田方に。その武田氏が滅亡するに及び関東管領となった織田方の滝川一益に反抗し、上杉景勝のもとに走る。これが、この八王子城攻防戦までの藤田信吉。その後もなかなか面白い動きをする武将である。

本丸
小宮曲輪から本丸へと続く道を進む。小宮曲輪の崖下を見るに、東端は鋭く切り立っており、這い上がるのは大変そうだが、西端辺りからであれば這い上がることもできそうだなあ、などと先回同様の妄想しながら道を進み、左手下に八王子神社を見ながら本丸へと上る。
案内に、「本丸跡:城の中で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられる。ここは横地監物吉信が守っていたと考えられる」。と。本丸とは言うものの、山頂の平坦部は150平米程度で、櫓とか見張りの砦程度しか建たないように思えるので、本丸というより、山頂曲輪とか、天守曲輪といったものである。山頂平坦地には祠と「八王子城本丸址」と刻まれた石碑が建つ。
横地監物は北条氏照不在の八王子城代として戦の指揮をするも、形勢利あらず、と再起を決し城を落ち延びるも、奥多摩にて自決した、とのことである。

中の曲輪
本丸から八王子神社の佇む平坦地に降下りる。この平坦地は山頂曲輪のある主尾根から北に延びる支尾根にある小宮曲輪と南に延びる松木曲輪に挟まれた上下2段からなる曲輪で「中の曲輪」と呼ばれている。八王子神社のある上段はおよそ600平米。石段下の下段部はおよそ500平米と山頂ではもっとも広い曲輪となっている。
上段にある八王子神社とその横に横地社と呼ばれる小さな祠が祀られる。本丸(山頂曲輪)にあった案内によると、「八王子神社と横地社;延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。この伝説に基づき、北条氏照は八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。これが「八王子」の地名の起源。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られる。もともと、東京都奥多摩町にあったが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移された」、と。
このダムとは東京の上水道水源として昭和32年に竣工した小河内ダムのこと。当時、奥多摩村熱海蛇沢に祀られていた横地社をこの地に遷したわけである。

松木曲輪
中の曲輪の南、小宮曲輪と相まって逆八の字に主尾根から突き出している支尾根上にある。岩山を削って平らにしたような平坦部は900平米。北側中の曲輪との比高差は2、3m。南側には比高差5mほどの下に腰曲輪がある。案内によれば、「松木曲輪:中山勘解由家範が守ってきたといわれる曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれる。近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。天正18年(1590)6月23日には前田利家の軍勢と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。このときの家範の勇猛さが徳川家康の耳に入り、その遺児が取立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった」、とある。
松木曲輪から南に広がる高尾山を眺めながら小休止。本来ならここから富士見台への尾根道を経て裏高尾の旧甲州街道へと向かうのだが、今回同行の元同僚は、八王子城ははじめて。やはり山麓の御主殿跡とか、戦国時代の城では珍しい石垣を案内すべしと、一旦城山を下りることにする。地図を見るに、御主殿跡の先に富士見台から裏高尾へと延びる尾根道への山道らしき案内があるので、うまくいけばその道筋を尾根に向かって上ろう、などとの算段ではあった。

八合目・棚門台跡_午後14時13分;標高362m
城山山頂の要害部をひと回りし、城山を下り八合目・棚門台跡に。「八合目」と刻まれた石標がある。八合目の石標脇には、「松竹橋方面」と書かれた木の標識脇に、「柵門台」と書かれた木標がある。道脇に「柵門跡」の案内。「山頂の本丸方面に続く尾根上に築かれた平坦部。詳しいことはわかっていない」と。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「柵門台は登城口と搦手口から来る道(敵)への関門として山腹の岩を切り取ってつくった50から60平米の舌状地。背後の高さ8mの崖の上にもほぼ平で80平米ほどの広さがあり、上から敵を迎え撃つ防御台である」と。また、「柵門台の入口と出口には柵門が設けられ、山上には出口の柵門から登り、柵門内からは金子曲輪を経て登城口へと下る道と、山王台(注;山裾にある城主の屋敷である御主殿から山頂に上る「殿の道」にある関門)に通じる道があり、五差路となっている」とあった。

山王台_午後14時20分;標高376m
通常、この八合目からは金子丸から馬蹄段を経て登山口である一の鳥居へと下るのだが、今回はこの八合目から辿れるという山王台へと向かうことにする。道案内はないのだが、柵門台の案内のあるあたりの少し北に左へ入る細路があり、これが山王台への道であれかし、と願いながら先へと進む。道は沢頭に沿って通るが、整備されていないようで、少々難儀ではあったが、10分もあるなかいうちに平坦地に出る。そこが山王台であった。
地形図を見ると、山王台は柵門台と沢を隔てた舌状台地上にあり、その広さは80平米ほど。岩を削り取ってつくったものである。「南無妙法蓮華経」と刻れた石碑は昭和8年(1933)に戦いで亡くなった将士の霊を慰めるべく建てられた。

殿の道・石垣群
山王台から御主殿との間は「殿の道」で結ばれていた、と言う。その下り口を探すと、舌状台地南に西に向かって折り返すような小道があった。それが殿の道であろうと。ジグザグの道を下る。
道の途中には何段にもなった石垣群がある。石垣群は全部で4群あり、それぞれの群には数段に分かれて石段が築かれている。崩れている箇所もあるが、結構しっかりと組まれたままの状態で残っている石垣もある。
何故に山腹にこれほどまでの石垣を築いたのか、ということだが、この沢が比較的浅く傾斜であったため、石垣を築き敵が這い上がるのを阻止するため、と言う。
思わぬ石垣群に魅せられながら下山口に。場所は御主殿跡の西北端あたりにある。道標はない。

御主殿跡
御主殿跡は東西約120m、南北45mから60m、およそ4000平米の広い敷地である。案内によると、「八王子城の中心部。城主北条氏照の居館のあったところ。「主殿」「会所」と想定される大型礎石跡や、庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では政治向き「の行事が、会所では庭園を眺めながらの宴会などが催された。(中略)会所跡には50cmから80cmの床面を再現し、敷居。間取りも表してある。(中略)遺構の確認された範囲(2900平米)には小舗石を並べ、その範囲を示してある」、とあった。
「御主殿の滝」にあった案内のコラムには「戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがあるが、八王子城から出土した遺構・遺物はそのイメージから程遠い。中国から輸入された五彩ではなやかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエを食べたり、ベネチアでつくられたレースガラス器や信楽焼の花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。これらの品々はさぞかし北条氏照の心を和ませていたのではないだろうか」と。

御主殿の滝
御主殿跡の西南端から林道に下りる道を下り「御主殿の滝」へ。滝に下りる入口には石仏とともに千羽鶴が祀られる。案内によれば、「落城の際に、御主殿にいた女性やこども、将兵たちが滝の上で自刃し、次々と身を投じたといわれる。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染sまったと言われる」、と。合掌。
昔の水勢は知る由もないが、現在は滝壺とは言い難い、ささやかな滝下となっている。滝の上には如何にも水場といった石組みが残る。

櫓門(やぐらもん)
御主殿の滝から再び御主殿跡に戻り、入口の冠木門から石段に出る。25段の石段の途中には櫓門(やぐらもん)の案内。「踊り場から礎石が発見された。東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.5m。通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門とも。礎石の傍には排水のための石組側溝も発見されている」、と。

虎口
石段を下りると道は右に折れる。ここは虎口虎口の案内には、「城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるために工夫がなされている。御主殿の虎口は、木橋を渡った位置から御主殿内部まで、高低差約9mを「コ」の字形の階段通路としているのが特徴。(中略)階段は約5mの幅。途中の2か所の踊り場とともに、全面石が敷かれているのは、八王子城独特のものである」とあった。







曳橋
虎口を左に折れる城山川を跨ぎ御主殿跡と大手道を繋ぐ木製を模した橋がある。大手道の脇にあった案内によると、「コラム曳橋;古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。橋台部のみが残っているだけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていない。現在の橋は、当時の道筋を再現するため、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて木製で架けられた」とあった。
橋脇にも「橋台石垣と曳橋」の案内があり、「当時はこの石垣のうえに簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことにより敵の侵入を防いだ」と・。

大手道_午前10時28分;標高255m
曳橋を渡り、きれいに整地された大手道を下る。右手の太鼓尾根は先ほど堀切や太鼓曲輪を辿ったところであるなあ、などと想いを巡らしながら山腹中腹の道を下る。道を下り切り、城山川方面へと道が曲がる辺りに木の柵があり、大手道はここで終える。木の柵の脇にある案内には、;「大手道 発掘調査では、当時の道は明確にできなかったが、門跡や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。 現在の道は、この地形を利用して整備したもの。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる曲輪や建物が見わたせたと思われる」、とある。
現在大手道は、この場所から御主殿跡に向かって整備されているが、既にメモした通り、往昔は、太鼓尾根の南側の御霊谷側に大手口があり、そこから太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」に上り、太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城下川に沿って続き、この地まで続いていた。
御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷。に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 この大手道は「上の道」と呼ばれ、家臣が公用路として通る道であり、基準幅8m、それより広い箇所が5か所、狭いところが3か所といった立派なものであった、とか。

○上の道
上の道の名残はないものかと木の柵を越え、小道に入る。木々の間の踏み分け道を進むも、次第に踏み分け道もなくなり、城山川の傍の藪に入り込み、今回はそこで撤退。冬になって藪が減った時にもう一度歩いてみようと思う。






山下曲輪
上の道跡といった小道を大手道の木の柵まで戻り、城山川を渡り山下曲輪に。山下曲輪は大きく二段に分かれる。南と東に土塁が築かれ、曲輪の東北隅に御主殿や山上への小道が通じ、東と南からの敵の侵攻を防ぐ山麓の最重要拠点であった。上段には観音堂が佇む。数年前八王子城訪れたときは自由にお参りできたのだが、現在は「私有地につき立ち入り禁止」となっていた。






近藤曲輪
山下曲輪から花かご沢の深いV字の谷を隔てた一帯が近藤曲輪。現在は公園となっている。空堀とか馬防柵があったとのことだが、特に案内もないようで、今回は公園にあるジオラマで本日辿った山稜を確認するに留める。もうあれこれ調べる気力も体力も少々乏しくなっているようである、


八王子城跡ガイダンス施設
近藤曲輪からすぐ傍の「八王子城跡ガイダンス施設」に。今年(2013年)の4月にできたばかりとのこと。八王子城合戦のビデオや資料を眺め、道脇の中山勘解由屋敷跡の案内を眺め、霊園口のバス停に本日の散歩を終える。
 八王子城址は幾度か訪ねている。オーソドックスに表口の宗閑寺方面からアプローチし城山や御主殿跡を歩いたり、裏高尾の荒井バス停方面から尾根に這い上がり富士見台を経て城山へと向かったり、城主北条氏照の居城を歩こうと八王子城から滝山城へと向かったこともある。
散歩のメモは八王子城から滝山城へのルートは書き残しておいたのだが、八王子城そのものについてのメモは今一つ気乗りしなかった。その最大の理由は、八王子の城山から北の恩方谷へと下る道が地図にあるのだが、どうしても見つけることができず、なんとなくピースの一片がかけているような感じがし、メモをするのはこの城の搦手口へのルートを辿った後にまとめようと思っていたわけである。
今回のルートを選ぶに、城山からの下り口が見つけられないのであれば、逆に恩方谷から城山に向かえばいいか、などと、ルートをチェック。結果、選んだルートは信玄の娘ゆかりの心源院から尾根道を城山に辿るルート。搦め手口から城山に上るには滝沢川に沿って城沢を上るのがオーソドックスではあろうが、心源院=松姫というキーワードに抗することができず、今回のコース設定となったわけである。
で、散歩を終えメモをとりはじめ、八王子城攻防戦での搦手口から攻め上った上杉勢のことなどを知るにつけ、はやり滝沢川、棚沢、横沢といった辺りを歩かなければ、などと思ったり、また、城の縄張りなどを知るにつけ、八王子城の南の外郭といった位置づけの太鼓尾根の堀切や曲輪、そしてその尾根の中腹を通ったという「登城道」なども辿りたい、と言うことで結局連続して3回の八王子城址散歩となってしまった。 今回は八王子城址散歩メモの一回目。太鼓尾根にある堀切といった、ちょっとディープな八王子城址散歩のきっかけともなった散歩もある。同行者は元会社の仲間。ルートは心源院から尾根道を上り城山山頂の八王子城遺構を訪ね、そこから山裾の館跡に下る。そこからは城山川を少し上流に進み、地図にある城山川北沢の北の山道を富士見台近くの尾根まで上り、そこから尾根道を裏高尾に向かって下ろう、といったもの。が、実際は、城山川北沢からの山道の入口が見つけられず、結局再び城山山頂まで戻り、詰の城への尾根道を辿り富士見台を経て裏高尾に下ることになった。おおよそ6時間、12キロ程度の散歩となった。心源院からの尾根道ははっきりしたルート図があるわけではないのだが、山のベテランである元同僚Tさんと一緒であるので、怖がりの小生には心強きパートナーである。



本日のルート;JR中央線高尾駅>河原宿大橋バス停>鎌倉街道山の道>心源院>秋葉神社>寺の谷戸・寺の西谷戸>285mピーク>見晴台>131nnし基準点>368mピーク>搦手道(城沢道)との合流点>八合目・棚門台>九合目・高丸>見晴らし>休憩所>小宮曲輪>本丸>八王子神社・中の曲輪>松木曲輪>中の曲輪>下山>金子曲輪>馬蹄段>二の鳥居>山下曲輪>林道>大手前広場大手道>曳き橋>御主殿跡>御主殿の滝>城山川上流端>(山頂に)>高尾・陣馬樹走路道標>坎井(かんせい>堀切>馬冷やし>詰の城>大堀切>陣馬山縦走路分岐点>富士見台>城山北沢方面分岐>荒井バス停・摺指バス停分岐>太鼓尾根分岐>地蔵ピーク>中央高速交差>駒木野・小仏関所跡>JR高尾駅

JR中央線高尾駅
JR中央線高尾駅で下車。駅前のバス乗り場より、最初の目的地である心源院の最寄りのバス停・川原宿大橋に向かう。バスは大久保行きのほか、陣馬高原行き、室生寺団地行き、恩方車庫行き、美山行きなど、でも川原宿大橋のバス停に行くようではある。
駅前を離れ、バスは北に向かう。この道は都道46号、別名、「高尾街道」と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り「滝山街道」の戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中には「廿里(とどり)古戦場の碑」がある。小田原北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点である滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦が大きな要因、とか。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

都道61号
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先にも上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、バスは高尾街道を離れ、都道61号に乗り換え三叉路を北西方向に進む。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点。宮前とか宮の前といった地名があるのは、道の東にある八幡様に由来する。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。

河原宿大橋バス停


バスは中央高速の高架をぐぐり、八王子城跡入口交差点に。ここはオーソドックスなルートで八王子城址に行くバス停である。今回はこのルートを避けて、八王子城址のある深沢山の北からのアプローチであるため先に進み、左右に霊園の広がる丘を上る。坂を下り切るとまたまた前方に上り道。この上り道をそのまま進み小田野トンネルを抜け、河原宿大橋バス停で下車。小田野トンネル上の丘陵には小田野城址が残る。
○小田野城
小田野城は八王子城主・北条氏照の家臣小野田太左衛門屋敷があり、八王子城の出城のひとつと言われる、城は天正18年(1590)の八王子城攻防戦の際、城の搦手口(城の表口である大手門に対し、「裏口」にあたる搦手門のある場所)を攻めた上杉景勝の軍勢により落城した。

鎌倉街道山の道・深沢橋
北浅川に架かる河原宿大橋を折り返し、橋の南詰より川に沿って上流に続く小道にはいり、深沢橋のある通りに出る。深沢橋のある通りはその昔の「鎌倉街道山の道」である。「鎌倉街道山の道」は高尾駅辺りからはバス道とほぼ同じルートを進むが、都道61号の左右に霊園の広がる丘を上り、道が再び上って小田野トンネルに入る手前で左に折れ、この地に至る。
深沢橋を渡った鎌倉街道は、一旦陣馬街道に出るが、そこを右に折れ「川原宿」交差点に向かい、そこからまた都道61号を北に向かう。川原宿って、いかにも宿場といった名前。陣場街道の宿場であったのか、と、チェック。が予想に反し、陣場街道という名前は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは案下道とか、佐野川往還と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。
この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人が利用したと言う。因みに「案下」とは仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。また、この辺りの地名である恩方も美しい響き。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろうか。
○鎌倉街道山の道
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。 で、この鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。鎌倉からはじめ、南町田で鎌倉街道上ツ道と別れ。相原、相原十字路、七国峠を越えて高尾に至り、高尾から北は、秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠と、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に入る。

心源院_午前7時45分;標高189m
深沢橋から少し南に戻り、大きな石の柱を目印に心源院に。山号は「深沢山」。八王子城の築かれている山の名前である。深沢はこの深沢山の山麓から流れ出す滝沢川が刻む棚沢とか横沢といった深い沢を現すように思える。深沢山の南側にそれほどに深く刻まれた沢は見られない。
城山を山の北側(裏側)から眺めた姿で形容するということは、ちょっと不自然。築城当時の八王子城大手口は後世のそれとは異なり,この滝沢川側にあったのではないだろう、か。城の北側の案下道は甲斐に通じる要衝路であるし、室町に遡る古刹も城山の北側に多い。心源院の山号からちょっと妄想を拡げてしまったが、識者の中には築城当初は山の北側にあった可能性を示唆する方もいるようだ。
とは言うものの、城山のある深沢山は慈根寺山、牛頭山とも称される。慈根寺(じごうじ)は先ほどバスで通過した、宮の前付近の元八王子の古い名である古神護寺村に由来する。延喜の頃華厳菩薩がこの地へ八王子権現を勧請しその別当寺を神護寺(神宮寺)と称したわけだが、それが村名となり、またそこのあった西明寺の山号に「音」をあてて、慈根寺山としたと言う。また、牛頭山も八王子城址へと表口から向かう途中にある宗閑寺の前身の牛頭山寺に由来する、とも。とすれば、城山の北側、深沢谷に大手口があった、というのはちょっと説明が苦しくなってくる。


根拠のない妄想はこのくらいにして心源院に入る。広い境内の奥に本堂。広い境内の割に堂宇が少ないのは、昭和20年(1845)の八王子大空襲で七堂伽藍すべてが灰燼に帰したため。現在の本堂も昭和47年(1972)に再建されたもの。お寺の東側に10mほどの高さの台地があるが、それは八王子城の土塁跡とのこと。城山北側から尾根道を八王子城へと進軍する秀吉方への防御拠点として、小田野城(心源院の少し東)、浄福寺城(心源院の少し西)とともに、心源院も砦として組み込まれていたのであろう。そのためもあってか、小田原合戦の際、豊臣勢の上杉景勝の軍勢との攻防戦の際に焼失している。更には江戸時代の河原宿の大火でも延焼しているため、古文書などは残っていないようである。

この寺はもともとはこの地に勢力を誇った武蔵国の守護代である大石定久が開いた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと北条氏照を女婿に迎えに滝山城を譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。
とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



○松姫
この心源院は武田信玄の娘である松姫ゆかりの寺である。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れた悲劇の姫として気になる存在である。7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。元亀3年(1572)武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。元亀4年(1573)信玄、没するにおよび、兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、天正10年(1582)、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
天正10年(1582)、武田勝頼は天目山で自害し武田家滅亡。この武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠は松姫を救わんと迎えの使者を派遣せんとするも、本能寺の変が勃発。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。ここで出家し信松尼となる。しかし、この心源院も八王子合戦で焼失し、天正18年(1590)、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。
松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出す。v

秋葉神社
さてと、心源院から八王子城へと延びる尾根に取りつくことにする。心源院の境内の南端に舌状に伸びる尾根・丘陵部の先端部が落ちる。丘陵裾に鳥居があるが、それは丘陵上に鎮座する秋葉神社の鳥居。
丘陵に取りつき、折れ曲がった小道を上り、竹林の中を進むと道は二手に分かれるが、その先で合流していた。S字状の参道らしき道を進むと秋葉神社の境内に到着。これといって由来書はない。お参りを済ませ、社殿の左手にある、少々錆びついた「八王子城址に至る」の道標に従い先に進むと、ささやかな祠がある。その祠の左側に細路があり尾根道に入って行く。笹竹なども茂が道はしっかりしている。

寺の谷戸・寺の西谷戸
尾根道に入り少し進み、「寺の谷戸」を隔てた短い舌状の支尾根(東尾根)との分岐点を超えると西側が開ける。寺の西谷戸を隔て、植林のためだろうか禿坊主となった長い尾根(北尾根)が北に見える。このふたつの尾根が合わさる285mピークの辺りに「向山北砦」とも、「北遠見番所」とも称される見張り台があったようである。とりあえず、この285ピークを目指して尾根道を進む。

285mピーク_午前8時9分
同行者がいるからいいようなものの、ひとりでは心細くて引き返しそうな踏み分け道を先に進む。道がふたつに分かれているところの木に青色のテープ。八王子城址は左手の踏み分け道に入るが、右に進むと285mピーク。往昔このピークの辺りにあった見張台・番所で心源院方面からの東尾根道を攻めてくる敵勢とともに、北尾根の東の谷であり、八王子城の搦手口である、滝沢川沿いの松竹口方面からの敵情を見張っていたのだろう。

見晴台_午前8時15分
285mピークから分岐点まで戻り(1分もかからない)、城址に向かって青いテープを左に入り、常緑樹の繁るゆるやかなアップダウンの続く尾根道を進む。道が心持ち傾斜するあたりで道が分岐する。ここにも木に青いテープがまかれているが、小さいテープであるので見逃してしまいそうである。
八王子城址はここを右手に進むが、左手に進むと見晴らしのいい場所がある、と。いくつかの資料に「大六天曲輪」が登場するが、この地が大六天曲輪かとも思い、ちょっと寄り道。木々が生い茂り見晴らしはそれほどよくないが、右手は奥多摩、正面は都心方面の180度景観が広がる。

131基準点_午前8時37分;標高328m
緩やかなアップダウンを繰り返し尾根道を進み、少しの上りを越えると東西に延びる尾根にあたる。木の白のテープに右方向のサインがあり、尾根を少し右に進むとちょっとした高みがあり、そこに「八王子市道路台帳1級基準No.131」と刻まれた石標が埋め込まれていた。
この基準点は緯度経度・標高などが正確に測量された三角点、水準点、電子基準点など、国が設置した基準点を補完するために地方公共団体が設置した基準点であろう。一等三角点の設置間隔は40キロ、二等三角点は25キロ、1級基準点の点間距離は1キロ、とのことである。

368mピーク_午前8時42分
131基準点を南に下り、東に流れるふたつの支尾根をやり過ごし、尾根道のピーク部分を南に進むと368mピーク。とりたてて標識はない。ここまでくればもう支尾根に迷い込む心配もなく、南に伸びる尾根道を滝沢川沿いの松竹方面からの搦手道との合流点に進むだけである。松竹口からの搦手道は、滝沢川の支流である棚沢に入り、清滝不動のあたりで棚沢の支沢である城沢に沿って八王子城へと上る道筋である。

搦手道(城沢道)との合流点_午前8時56分;標高362m
368mピークからはゆるやかな尾根道、そして下り、その下りも結構な勾配もあり慎重に進み鞍部に下りる。鞍部を越えると再びちょっとした上りとなり、そこを越え鞍部に下りると道は十字路になっている。搦手道(城沢道)との合流点である。
十字路にはいくつものささやかな道標がある。右手からの搦手道(城沢道)は 「松竹方面」,「松竹橋(バス停)」,「松竹ばしへ40分」、 左手に下る道は「八王子城跡20分」,「しろ山へ」、 正面の道は「×急坂」、今登ってきた道は「霊園方面」,「行き止まり」とあった。

八合目_午前9時;標高362m
十字路を左に下りる道を進むと小道に合流。この道は八王子大手口方面から八王子城址の山中遺構、山頂遺構、八王子神社などへと上るふたつの登山道である新道と旧道(2013年5月現在倒木のため。登山口辺りは閉鎖中)のうち、旧道の道筋である。旧道との合流点を少し進むと新道と合流。「八合目」と刻まれた石標がある。

○柵門台 
八合目の石標脇には、「松竹橋方面」と書かれた木の標識脇に、「柵門台」と書かれた木標がある。道脇に「柵門跡」の案内。「山頂の本丸方面に続く尾根上に築かれた平坦部。詳しいことはわかっていない」と。これではなんのことかわからないので、チェック。
『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「柵門台は登城口と搦手口から来る道(敵)への関門として山腹の岩を切り取ってつくった50から60平米の舌状地。背後の高さ8mの崖の上にもほぼ平で80平米ほどの広さがあり、上から敵を迎え撃つ防御台である」と。また、「柵門台の入口と出口には柵門が設けられ、山上には出口の柵門から登り、柵門内からは金子曲輪を経て登城口へと下る道と、山王台(注;山裾にある城主の屋敷である御主殿から山頂に上る「殿の道」にある関門)に通じる道があり、五差路となっている」とあった。
坂道を進み、登山道を脇に入り柵門台の崖の端へと向かう。端から柵門台下を眺め比高差を崖上から実感し、登山道へと戻る。なお、山王台への道標はない。柵門台の案内のあるあたりの少し北に左へ入る細路を進むと山王台に至る。

高丸
八合目から、山頂の遺構群へと向かう。道を進むと「九号目」と刻まれた石標があり、その右手に「高丸 この先危険」の案内。この案内があるところが「高丸」なのか、案内が示す方角に「高丸」がある狭い台地まで続いかははっきりしないが、崖端から下を見ると尾根筋が高丸の標識がている。思うに、高丸は先ほど心源院からの尾根道と城沢道(搦手)道が合流する十字路に、「正面の道は「×急坂」」とあった、その急坂を登りつめた尾根上に築かれた帯曲輪のようである。
名前の由来は、城沢道から山頂要害部が翼を広げた鷹のように見えたから、とか、城沢道が急坂になり、その高まった岩場にあるため、とも(『戦国の終わりを告げた城』)。岩が露出した急斜面に100mに渡って石垣が組まれ、敵の侵入を防いだとのことである。ともあれ、これだけ、どこにも「危険」と書かれては、場所を特定すべく尾根を下ってみようという気持ちにはなれなかった。

見晴らし
九号目を越えて先に進むと左手の展望が開ける。足元には、八王子城の山裾地区、その先には、城の城下町であった元八王子の丘陵を縫って裏高尾の谷へと進む中央高速が見える。はるか遠く、白いドームが丘陵に頭を出しているが、狭山丘陵の西武球場だろう、か。その右手には新宿の高層ビル群、その右に見える尖塔は東京スカイツリーだろう、か。霞の中にかすかに見える。関東平野が一望のもと、誠に美しいながめである。

休憩所
先に進むと、休憩所のような小屋があり、何気なく小屋に近づくと、その脇に「本丸周辺の曲輪」の案内と、その地図があった。案内には「本丸周辺の曲輪;標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配地された要害部は、籠城のための施設と考えられている。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造になっている。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があった」とあった。
地図を見ると、この小屋の裏手あたりから「小宮曲輪」、そこから「本丸」へと続く道が描かれている。今まで数度八王子城跡の山頂には来てはいるのだが、例の如く事前準備なしの、お気楽散歩であるので、小宮曲輪にも本丸にも訪れたことがなかった。今回の偶然の出合いに感謝しまずは小宮曲輪に。

小宮曲輪
小屋の裏手の細い道を少し上ると平坦な場所にでる。廃屋となった社跡、狛犬が佇むこの平坦地が小宮曲輪である。脇に立つ案内には「小宮曲輪;狩野一庵が守っていたといわれる曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。天正18年(1590)6月23日上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた、と。
コラム 八王子城の範囲;北条氏照は、深沢山(城山)を中心とした要害地区、その麓にある居館地区(現在、御主殿跡として整備したあたり)、城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)、居館地区の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪地区、太鼓曲輪からのびる丘陵の東端と南端の台地にある御霊谷地区、小田野城のある小田野地区(現、小田野トンネル周辺)というように、八王子城を壮大な城郭として構想していたと考えられる。しかし、八王子城は完成を見ることなく、天正18年(1590)に落城した」とある。

案内に「小宮曲輪は(中略)上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた」とあるが、これは上杉隊の藤田信吉が内通者である平井無辺を道案内に、搦め手口(裏口)から滝の沢川に沿って進み、棚沢方面から崖を這い上がり、背面より小宮曲輪を攻めた、との説(『武蔵名所図会』)ではあろう。この背面からの突如の攻撃により、正面より攻め上る前田勢を防いでいた八王子勢が崩れたとのことである。
攻撃軍の陣立ては諸説あり、大手門(表門口)が上杉勢、搦手口が前田勢、といったものや、大手門口(表門口)は前田勢であるが、上の案内にある太鼓曲輪を上杉勢主力が攻め、その支隊が搦手口から攻め上ったなど、あれこれあり定説はないようだ。
○藤田信吉
上杉隊の藤田信吉とは、もともとは関東管領上杉家の家臣。関東管領方が小田原北条に川越夜戦で敗れたため後北条の家臣に。後北条勢として上杉謙信の跡目争いである御館の乱に出兵。沼田城の城代に。が、後北条に信を置けず真田昌幸の勧めに応じて武田方に。その武田氏が滅亡するに及び関東管領となった織田方の滝川一益に反抗し、上杉景勝のもとに走る。これが、この八王子城攻防戦までの藤田信吉。その後もなかなか面白い動きをする武将である。

本丸_午前9時20分;標高449m
小宮曲輪から本丸へと続く道を進む。小宮曲輪の崖下を見るに、東端は鋭く切り立っており、這い上がるのは大変そうだが、西端辺りからであれば這い上がることもでいそうだなあ、などと妄想しながら道を進み、左手下に八王子神社を見ながら本丸へと上る。
案内に、「本丸跡:城の中で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられる。ここは横地監物吉信が守っていたと考えられる」。と。本丸とは言うものの、山頂の平坦部は150平米程度で、櫓とか見張りの砦程度しか建たないように思えるので、本丸というより、山頂曲輪とか、天守曲輪といったものである。山頂平坦地には祠と「八王子城本丸址」と刻まれた石碑が建つ。
横地監物は北条氏照不在の八王子城代として戦の指揮をするも、形勢利あらず、と再起を決し城を落ち延びるも、奥多摩にて自決した、とのことである。

中の曲輪
本丸から八王子神社の佇む平坦地に降下りる。この平坦地は山頂曲輪のある主尾根から北に延びる支尾根にある小宮曲輪と南に延びる松木曲輪に挟まれた上下2段からなる曲輪で「中の曲輪」と呼ばれている。八王子神社のある上段はおよそ600平米。石段下の下段部はおよそ500平米と山頂ではもっとも広い曲輪となっている。
上段にある八王子神社とその横に横地社と呼ばれる小さな祠が祀られる。本丸(山頂曲輪)にあった案内によると、「八王子神社と横地社;延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。この伝説に基づき、北条氏照は八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。これが「八王子」の地名の起源。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られる。もともと、東京都奥多摩町にあったが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移された」、と。
このダムとは東京の上水道水源として昭和32年に竣工した小河内ダムのこと。当時、奥多摩村熱海蛇沢に祀られていた横地社をこの地に遷したわけである。

松木曲輪
中の曲輪の南、小宮曲輪と相まって逆八の字に主尾根から突き出している支尾根上にある。岩山を削って平らにしたような平坦部は900平米。北側中の曲輪との比高差は2、3m。南側には比高差5mほどの下に腰曲輪がある。案内によれば、「松木曲輪:中山勘解由家範が守ってきたといわれる曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれる。近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。天正18年(1590)6月23日には前田利家の軍勢と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。このときの家範の勇猛さが徳川家康の耳に入り、その遺児が取立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった」、とある。
松木曲輪から南に広がる高尾山を眺めながら小休止。本来ならここから富士見台への尾根道を経て裏高尾の旧甲州街道へと向かうのだが、今回同行の元同僚は、八王子城ははじめて。やはり山麓の御主殿跡とか、戦国時代の城では珍しい石垣を案内すべしと、一旦城山を下りることにする。地図を見るに、御主殿跡の先に富士見台から裏高尾へと延びる尾根道への山道らしき案内があるので、うまくいけばその道筋を尾根に向かって上ろう、などとの算段ではあった。

金子丸
松木曲輪を離れ、中の曲輪に下り、先ほど上ってきた九号目、八合目までと下り、右側に梅林の見えるあたりの「金子丸」に。案内に「金子三郎右衛門家重がまもったといわれる曲輪。尾根をひな段状に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫をしている(後は略)」。ひな段状とは上下二段の平坦部に分かれ、上段はおよそ60平米程度、下段はおよそ400平米。下段の下には七段の馬蹄段を設け敵の侵入を防ぐ。この曲輪はこの馬蹄段や梅林のあるあたりの緩斜面を這い上がる敵と、登城門から柵門台へと攻め上る両面の防御を受け持ち、八王子合戦の時には激戦となった曲輪ではあろう。

馬蹄段
金子丸から、7段あるという馬蹄段を眺めるながら下る。結構しっかり残っている。馬蹄段とは馬蹄形の曲輪を階段状に並べたものであり、階段状曲輪とも呼ばれるようである。登山道は馬蹄段の北端を下る。

二の鳥居
馬蹄段を過ぎ、道端に石垣らしき遺構を眺めながら下ると「二の鳥居」。鳥居の辺りで山頂へと向かう登山道の新道と旧道(2013年5月現在閉鎖中)が分かれるが、このあたりに登城門(城戸)があった、と。登城門とは、小宮曲輪の案内にあった「城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)」に住んでいた家臣が御主殿とか山上に上るために通る門のこと。
往昔の登城門への道は、現在の一の鳥居から直線に上る参道(登山道)の南側にあり、登城門から20mほど下ったところでL字形に曲がり、城山川の支沢である花かご沢川を越えて「近藤曲輪」方面に繋がっていたようである(『戦国の終わりを告げた城』)。 なお、家臣が通用路として登城門へと向かう道は「下の道」、家臣が公用路として登城する道は「上の道」と呼ばれ別々になっていた。大雑把に言って「下の道」は城下川の北、「上の道」は城下川の南、小宮曲輪の案内に「居館地区(注;御主殿地区)の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪」のある太鼓尾根を南から越えて丘陵の中腹を御主殿地区へと向かっていたようである。

山下曲輪
一の鳥居を越えると深く切れ込んだ「花かご沢川」の橋を渡る。この「花かご沢川」の北というか東側が「近藤曲輪」、沢の南と言うか西が「山下曲輪」である。花かご沢の深いV字の谷が山下曲輪の堀の役割を果たしているようである。近藤曲輪は現在公園として整備されており、広い平坦地となっているが、かつては東京造形大学の学舎が建っていたようである。今回は近藤曲輪は眺めるだけで、山下曲輪にある管理棟で地図など資料を手に入れる。
山下曲輪は大きく二段に分かれる。南と東に土塁が築かれ、曲輪の東北隅に御主殿や山上への小道が通じ、東と南からの敵の侵攻を防ぐ山麓の最重要拠点であった。上段には観音堂が佇む。数年前八王子城訪れたときは自由にお参りできたのだが、現在は「私有地につき立ち入り禁止」となっていた。

アシダ曲輪
山下曲輪を離れ御主殿跡へと向かう。管理棟のあるところから坂を下り、城山川沿いの林道に下りる。林道の右手、山下曲輪と御主殿との間にはアシダ曲輪がある。比高差は20mほどである。「アシダ蔵」との記録があり、「足駄の形をした蔵」があった、とも。また、曲輪の西側、御主殿に近い地区は、現在残る御主殿ができる前の御主殿があった場所とも言われる。アシダ曲輪と御主殿は細い沢で隔てられ、小橋で連絡していたようである。

林道
城山川に沿って林道を進む。この林道の原型ができたのは江戸の頃といわれる。江戸時代、八王子城のある深沢山は幕府の直轄林として代官・江川太郎左衛門のもと植林が進み、この山は「江川御山」とも呼ばれていた。『多摩歴史散歩2佐藤孝太郎(有峰書店)』によると、現在城跡の東にある宗閑寺方面から一直線で結ばれえている道は大正時代に造られたものであり、それ以前は道らしきものもなく、明治の日露戦争のときになってはじめて、江川御林を伐り出す必要が生じたために道がつくられた、とのことであるので、本格的に林道として整備されたのは明治以降ではあろう・

ちょっと脱線;八王寺城があった頃は宗閑寺あたりの根小屋地区(山麓の家臣団の住居地区)から登城門へと向かう「下の道」はあったにせよ、それは通用路であり、現在の立派な車道の南、城山川にそった小道程度のものだろう。初めて八王子城を訪れたときは、城正面に続く大きな道を見て、なんと正面が無防備な城なんだろう、などとおもったのだが、当時は道もなく、川をせき止めれば泥沼地と化すような地形であり、むしろ攻めるに困難な地形だったのかとも思えてきた。実際豊臣勢も太鼓尾根といった尾根筋から攻め入ったとの話もあり、現在の地形をもって、昔を安易に妄想するなかれ、との戒めを再確認。

大手門前広場
ともあれ、昔はなかったであろう林道を少し進むと木橋に似せた橋があり、そこで城山川の右岸に渡る。前面を塞ぐのは太鼓尾根である。
橋を渡ると広い平坦地となっている。『戦国の終わりを告げた城』にあった、「大手前広場への寺院移転計画にともなうブルドーザーでの整地」、また、「民間企業が倉庫を造るためにブルドーザーを入れ約2ヘクタールを雑木ごと根こそぎ削り取り、大手門前広場と接するところでは約5mの深さに削った」とあったのがこの地だろう、か。不自然に平坦な場所が出現している、といった風情である。このケースだけでなく、林道の拡張、料亭や大学の建設で遺構が破壊されている、とのことである。

大手道_午前10時28分;標高255m
それはともあれ、平坦地から山麓中腹にある道に上る。上りきったところに、「大手道」の案内;「大手道 発掘調査では、当時の道は明確にできなかったが、門跡や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。
現在の道は、この地形を利用して整備したもの。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる曲輪や建物が見わたせたと思われる」、とある。
現在大手道は、この場所から西の御主殿跡に向かって整備されているが、往昔は、太鼓尾根の南側の御霊谷側に大手口があり、そこから太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」に上り、太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城下川に沿って続き、この地まで続いていたようである。 御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷。に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。
この大手道は既にメモしたように「上の道」と呼ばれ、家臣が公用路として通る道であり、基準幅8m、それより広い箇所が5か所、狭いところが3か所といった立派なものであった、とか。上の道が中腹を通る太鼓尾根には掘切や曲輪が残る、と言う。藪漕ぎの予感はするが、城の南の外郭として整備されていた「上の道」や曲輪や堀切の残る太鼓尾根を求め、彷徨ってみたいと思う(後日、大手道の東端に通行止めの柵があり、それを越えて大手道を少し辿ったが案の定薮に遮られ途中で撤退した)。

曳橋
大手道を進むと、城山川を跨ぎ御主殿跡を繋ぐ木製を模した橋がある。大手道の脇にあった案内によると、「コラム曳橋;古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。橋台部のみが残っているだけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていない。現在の橋は、当時の道筋を再現するため、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて木製で架けられた」とあった。
橋脇にも「橋台石垣と曳橋」の案内があり、「当時はこの石垣のうえに簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことにより敵の侵入を防いだ」と。

虎口
曳橋を渡ると正面は石垣。右に折れると虎口があり、左折して石段を上ることになる。虎口の案内には、「城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるために工夫がなされている。御主殿の虎口は、木橋を渡った位置から御主殿内部まで、高低差約9mを「コ」の字形の階段通路としているのが特徴。(中略)階段は約5mの幅。途中の2か所の踊り場とともに、全面石が敷かれているのは、八王子城独特のものである」とあった。

櫓門(やぐらもん)
25段の石段の途中には櫓門(やぐらもん)の案内。「踊り場から礎石が発見された。東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.5m。通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門とも。礎石の傍には排水のための石組側溝も発見されている」、と。

御主殿跡_午前10時40分;標高259m
石段を上り切ると左手に冠木門が建つ。門柱の礎石が発見されたため再現されたとのことである。冠木門の西に広がる平坦地が御主殿跡。東西約120m、南北45mから60m、およそ4000平米の広い敷地である。案内によると、「八王子城の中心部。城主北条氏照の居館のあったところ。「主殿」「会所」と想定される大型礎石跡や、庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では政治向き「の行事が、会所では庭園を眺めながらの宴会などが催された。(中略)会所跡には50cmから80cmの床面を再現し、敷居。間取りも表してある。(中略)遺構の確認された範囲(2900平米)には小舗石を並べ、その範囲を示してある」、とあった。
この後訪れる「御主殿の滝」にあった案内のコラムには「戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがあるが、八王子城から出土した遺構・遺物はそのイメージから程遠い。中国から輸入された五彩ではなやかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエを食べたり、ベネチアでつくられたレースガラス器や信楽焼の花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。これらの品々はさぞかし北条氏照の心を和ませていたのではないだろうか」と。
散歩をはじめてわかったことだが、関東のどこに行っても小田原北条の事蹟に出合う。広大なその領国経営は概イメージしか記憶に残らない。秀吉相手に無謀な挑戦、とはその後の歴史の結果がわかっている者だから言えることであろう。

御主殿跡でのんびりしながら、山腹の「山王曲輪」に続く「殿の道」の上り口を探す。道標はなかったが、如何にも山腹へと向かいそうな細道入口を御主殿跡の西端の辺りに確認。今回はパスするが、次回に備える。
○山王曲輪
柵門台から沢を隔てた南側にあり、沢頭につけた約100mの小道で結ばれる。柵門台よりやや高い辺りに、岩を切り取って人工的に造られたおよそ80平米の舌状台地で、沢に面した側には石垣が組まれている(『戦国の終わりを告げた城』)。

御主殿の滝
御主殿跡の西南端から林道に下りる道を下り「御主殿の滝」へ。滝に下りる入口には石仏とともに千羽鶴が祀られる。案内によれば、「落城の際に、御主殿にいた女性やこども、将兵たちが滝の上で自刃し、次々と身を投じたといわれる。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染sまったと言われる」、と。合掌。
昔の水勢は知る由もないが、現在は滝壺とは言い難い、ささやかな滝下となっている。滝の上には如何にも水場といった石組みが残っていた。

城山川上流端に_午前10時46分;標高269m
さて、これからのルートは、と地図を見る。城山川林道を突き進み、富士見台(八王子城山頂のある尾根から西に続く尾根にあるポイント。景信山や陣馬山への分岐点でもある)から裏高尾に下る尾根筋に合流するルートは途中危険のマークがあるが、御主殿の滝から少し進み、城山川がふたつに分かれるあたりから北側の沢に沿って上る登山道のマークがあった。この上り口が見つかれば、この沢道を進み富士見台近くの尾根に這い上がれるかと、それらしき入口を探すもブッシュに阻まれ撤退。諦めて八王子城山頂の「中の曲輪」まで戻り、尾根筋を富士見台へと向かうことにする。一度下りた登山道を上り返すのは少々鬱陶しいが仕方なし(後からわかたのだが、もう少し先に、尾根への上り口があるとの地元の人の話。次のお楽しみとしよう)。

高尾・陣馬樹走路道標_午前11時19分;標高429m
城山川上流部より大急ぎで林道を戻り、一の鳥居、二の鳥居をくぐり登山道に入る。下りでは気が付かなかった石垣跡などを見ながら、これも下から見る馬蹄段跡をじっくりと眺め、金子曲輪を越え、中の曲輪の先、松木曲輪の裏手にある「至る 高尾山・陣馬山」の道標まで戻る。おおよそ30分強といった時間で戻れた。道標識に従い、本丸と言うか、山頂曲輪のある城山(深沢山)の山頂部の山塊をぐるりと取り巻く道に出る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

坎井(かんせい)_標高428m_午前11時21分
道を進むとほどなく井戸がある。坎井(かんせい)と呼ばれるこの井戸は築城時に掘ったもので、深さは4m弱とのこと。昔は釣瓶井戸ではあったのだろうが、現在はポンプ式になっており、ポンプを押すと水が出た。井戸の傍には如何にもゴム製の送水パイプ(?)が備わっており、現在も自然水かどうか不詳である。
坎井(かんせい)の井戸を通る道は、その昔の「馬廻りの道」。上下2段あり、この道は上馬廻り道。松木曲輪、山頂曲輪のある要害部、小宮曲輪をぐるりと囲む。攻防戦の時の兵員の移動を容易にしたものだろう、か。

馬冷やし_午前11時27分;標高409m
坎井(かんせい)からジグザグ道を少し下り、再び城山山頂の要害部を囲む道に出る。この道は下段の馬廻り道。上馬廻り道よりおおよそ20m低い部分の山頂部を取り囲んでいる。5,6分歩くと「詰城 富士見台 北高尾山稜 堂所山」の道標のあるところに出る。大きな堀切となっているが、これは馬廻り道を一周させるため人工的に尾根道を断ち切り切り通しとしていていると同時に、切り通しの東上にある「無名曲輪」の堀切として、西の尾根道からの敵の防御拠点としている。
また、この地は、馬廻り道、城山裏手のj棚沢からく2本の水平道、詰の城からの尾根道、太鼓曲輪や城山川北沢と城山川南沢を分ける丘陵部からいくつかの谷頭を縫ってくる道など多くの道が合流する要衝であった。機会があれば、これらの道を辿ってみたい。なお、ここで切取られた石は、八王子城の石垣として利用されたようである(後日、堀切から北に続く馬周り道を一周した。高丸のすぐ傍に続いていた)。

詰の城_午前11時40分;標高479m
馬冷の堀切部から元の尾根道に少し上り返し、少々のアップダウンはあるものの、おおよそ緩やかな上りを400mほど歩くと「詰の城」に着く。「大天守跡」といった石碑の残るこの地は八王子城の西の守りの要衝。尾根道には石垣が組まれと言うし、詰の城から北に横沢へと下る尾根にも石垣が組まれていたようである。また、詰の城から横沢の分岐点までの間には二本の水平道が棚沢を横切って馬冷やしまで続いていた、とのこと。これは棚沢方面からの敵に備えた帯曲とも考えられているようだ。北に下る尾根道を少し下ってみたが、石垣は残っていなかった。
それはともあれ詰の城の最大の防御の縄張りは、西の尾根を断ち切った「大堀切」。堀切底辺部と詰の城の比高差は10mほどもある。堀切部の幅も広く下辺10m、その幅24mにもなる、と言う。実際この大堀切に下りたって左右の岩場そしてその堀切の幅を眺め、その大きさを実感する。この規模の掘割をおこなうには20名の石切人足が200日かけてはじめて完成する規模のものであると言う(『戦国の終わりを告げた城』)。

陣馬山縦走路分岐点_午前11時55分;標高540m
詰の城から少々きつい上りを15分程度進み、詰の城から西に伸びる尾根道が堂所山を経て陣馬山に向かう尾根道との分岐に到着。分岐点には「荒井バス停2.7キロ 堂所山(6キロ)・明王峠(7.2キロ)・陣馬山(9.1キロ)」とある。荒井バス停は裏高尾の旧甲州街道にある。分岐を左に「荒井バス停」方面に

富士見台_午後12時_標高552m
分岐を折れるとほどなく富士見台。富士の山は見えなかった。ここには休憩台があり数グループが休憩を兼ねた食事中。我々も小休止。
城山北沢方面分岐_12時18分;標高479m
富士見台で少し休憩し、下り道を10分程度進むと、当初計画した城山北沢から富士見台の尾根道に向かう山道との分岐点にあたる。道標を探したのだが見当たらなかった。後ほど地元に聞いたところ、見つけ難いが下りる道はある、とのこと。今回は上り口がみつからず断念したが、次回を期す。

荒井バス停・摺指バス停分岐_12時35分;標高404m
城山北沢分岐から少し下り、そのあと一度525mピークに上り、その後は標高404mにむかって20分弱下ると荒井バス停との分岐点。「荒井バス停 摺指バス停 駒木野バス停 高尾駅」の道標がある。数年前、裏高尾の荒井バス停から富士見台を経て八王子城址へと辿ったことがある。バス停から中央高速下をくぐり、中央高速に沿って進み、工事中の圏央道を見ながら成り行きで尾根へとはいっていったのだが、それがこの道であろう(GPSでのトラックデータをとっていなかったので散歩のメモはつくってい)。
当初の計画ではここから荒井バス停に下る予定ではあったのだが、時間も十分にあるので、ここから裏高尾に出るのをやめ、駒木野に下る尾根道に乗り換えて先に進むことにした。
なお、この分岐少し手前に。城山林道を突き進み尾根道に合流する山道があるのだが、現在岩場の梯子が壊れており「危険 通行禁止」となっていた。

太鼓尾根分岐_12時43分;標高400m

荒井バス停との分岐から10分弱で太鼓尾根との分岐点に至る。標識では「城山入口 405m」といた案内であったが、後日、太鼓尾根を辿った記憶では、太鼓尾根から城山へ下る標識はなかったように思う。太鼓尾根から城山、これも正確には「御主殿跡」とかに下るには、尾根道を切り取った堀切部分から、力任せに下るほかないように思うのだが、道標を見落としたのだろうか。ともあれ、太鼓尾根を下った東端は中央高速に架かる不思議な人道橋に至る。橋を渡った先には道がなく、竹藪を藪漕ぎして御霊谷の集落の道にでることになる。



地蔵ピーク_午後1時3分;標高360m
「駒木野バス停 高尾駅」方面へと向かう。ゆるやかなアップダウンを繰り返し20分強進むと地蔵ピーク。2体の地蔵が佇んでいた。

中央高速交差_標高221m_13時22分
地蔵ピークから20分程度、ひたすら下ると中高高速をくぐる。中央高速を越えると民家が見えてきた。やっと裏高尾に到着である。

小仏関所跡_標高195m_13時30
旧甲州街道の駒木野にある小仏関跡に到着。小仏関はともとは小仏峠にあったものがこの地、駒木野宿に移された、とか。小仏関の石碑の前に、手形石とか手付石といったものがあった。旅人が手形を差し出したり、手をつき頭を下げて通行の許しを待つ石であった、と。 因みに、小仏関所跡のある駒木野の由来ははっきりしない。青梅筋の軍畑の近くにある駒木野は、馬を絹でまとって将軍様に献上した、からと言う。「こまきぬ」>『こまぎぬ」ということ、か。駒木野宿は戸数70戸ほどの小さな宿。関所に付属した簡易宿で、なんらか馬に関係はしたあれこれがあったのだろう。関所跡前にあるバス停でバスを待ち、おおよそ12キロ、6時間の散歩を終え一路家路へと。

杉並散歩も杉並の西端・南端あたりを残すのみとなった。今回杉並のことを少し調べると、「今川観泉寺」って結構由緒ありそう。以前善福寺川を巡ったときには源流点・善福寺池まで歩いた。妙正寺川を巡ったときには源流点・妙正寺まで歩いた。が、川筋をひたすら歩く、といった按配で周囲の神社・仏閣への寄り道はほとんどしていない。ということで、今回は今川・観泉寺を第一ターゲットに、善福寺池から妙正寺池のあたりの時空散歩からはじめ、あとは成り行きで歩こう、と思う。



本日のルート;
JR西荻窪駅>荻窪八幡神社>観泉寺薬師堂(薬王院)>観泉寺>(今川地区)>青梅街道>井草八幡宮>善福寺公園(市杵島神社・遅い井の滝)>善福寺>青梅街道>切り通し公園>井草遺跡>(井草川)>三谷公園・上井草3丁目・上井草2丁目>西部新宿線交差>井草5丁目>井草4丁目>西武新宿線交差>上井草1丁目>環状8号線>井荻駅前>下井草4丁目>妙正寺池>妙正寺>四面堂>荻窪白山神社>光明院>神明天祖神社>南荻窪中央公園>中道寺>松湲遺跡公園>天桂寺


JR西荻窪駅
Jr西荻窪駅下車。商店街を北進む。善福寺川にかかる関根橋を越え、東に折れ道なりに進む。 

荻窪八幡神社
 青梅街道・荻窪警察署交差点の南に「荻窪八幡神社」。旧上荻村の鎮守さま。寛平年間(889-898年)創祀と伝えられる。永承6年(1051年)、鎮守府将軍・源頼義が奥州東征のとき、この地に宿陣・戦捷を祈願。康平5年(1062年)凱旋するにあたって社を修繕・祝祭を行った、と。文明9年(1477年)、大田道灌が石神井城を攻略するに あたり軍神祭をとり行う。社前に「槙樹」1株を植栽。「道灌槙」である、と。どこにあるのだろか。丁度、ウォークラリーの参加者の大集団。多勢に無勢ですぐにお宮を退散する。

観泉寺薬師堂
青梅街道を渡ると信号東に観泉寺薬師堂(薬王院)。観泉寺の境外仏堂。本尊は薬師如来像。秘仏ゆえに公開されない、と。門も閉じられていた。元禄年間(1688~1703)に創設。この地の領主である名門・今川氏の祈祷所となる。1747年頃には観泉寺の末寺。明治期に合併して境外仏堂(薬師堂)と。また、一説には、もと寺分(現・杉並区善福寺1丁目)にあった古寺・玉光山薬王院万福寺、とも言われている。

旧中島飛行機製作所跡

北に進む。西手に大きな公園。これって、昔日産プリンスの荻窪工場があったところ。我が愛車「Nissan Skyline GT-R」誕生のところ、か?現在は更地となり公園、に。
で、この地は旧中島飛行機製作所跡。大正14年にエンジン研究工場として建設。太平洋戦争中の世界の名機・ゼロ戦のエンジンもここで開発された。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



今川観泉寺

道なりに北に進むと山門に突き当たる。今川観泉寺。この地の領主・今川氏ゆかりの菩提寺。「慶長2年(1597年)、中野成願寺の和尚が下井草2-25に観音寺を創立。正保2年(1645年)に領主となった今川範英(直房)が現在地に移し観泉寺と。慶安2年(1649年)に将軍家光公より、寺領十石の朱印状が下付された。山門を入ると正面に立派な本堂。手入れの行き届いた庭。いい雰囲気のお寺さま。

この今川氏は駿河の名族。今川義元が織田信長に討たれてから衰退していたところ、名門好きの家康に旗本として召抱えられ、正保二年(1645)範英の代に杉並区今川付近に知行地を与えられた。家光の命により、朝廷におもむき家康の御霊に「東照大権現」の称号を授与されるに、多大の功績があった、ため。5ケ村の加増を受けた、とか。
石高は2500石。一万石以下ではあったが、名族故に、大名の格式を得て領内の青梅街道沿いに陣屋を構えた。が、この陣屋も長くは続かず、宝永四年(1707)に領内の開拓が一段落したとのことで陣屋を破却して耕地に払い下げられた。大名の格式は財政負担が重く、少ない石高では陣屋を維持できなかった、というのも理由のひとつ。

四面道交差点から2つ目の交差点に「八丁」というところがあるが、それは陣屋の敷地が八町あり、その跡地付近であった、から。陣屋がなくなってからは、観泉寺の境内で年貢の取立や裁判なども行われていた。つまりはこのお寺は代官所としての役割も兼ねていたよう。今川地区。地名の由来は「今川氏」にあるのはいうまでもない。

井草八幡宮
今川3丁目・4丁目を道なりにすすみ青梅街道に交差。道を隔てて鬱蒼とした鎮守の森。「井草八幡宮」。往古、「遅ノ井八幡」と呼ばれた、旧上下井草村の鎮守様。この地には縄文時代から人々が生活していた、と。すぐ隣の善福寺池の豊富な湧水がポイントか。
境内地及び周辺地域からも縄文時代 (約四千年前)の住居址が発見され、また多くの土器や石器が発掘されて、 「井草新町遺跡」と呼ばれている。南に善福寺川の清流を望む高台にあり、中世初頭まで宿駅として、また交通の要衝として栄えた。

神社としての体裁がととのったのは平安末期。はじめは春日社をおまつりしていた。文治5年(1189年)、源頼朝が奥州征伐の途次、戦勝を祈願して松樹を手植す。以来、八幡さまを主祭神と。
文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏攻略の折り、当社に戦勝を祈願したとの言い伝えもある。江戸時代になると三代将軍家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営せしめ、慶安3年(1649年)に朱印領六石を寄進。また歴代将軍何れも朱印地を寄進し江戸末期の 萬延元年に及んでいる。 今川家の氏神さまでもあった。

善福寺池
井草八幡を離れ、台地道を善福寺公園・池に下る。善福寺川の水源。古来より武蔵野台地からの湧水地として知られる。ここに限らず、東京の湧水点は標高50m程度のところから湧き出ている。石神井の池しかり、井の頭の駅しかり、である。

池の西南部に弁天様(市杵島神社)をまつった小島。そのそばには「遅野井の滝」。源頼朝が奥州討伐からの帰途、この地に滞在。折からの旱魃で将士、渇きに苦しむ。頼朝、弁財天に祈り、7箇所地を穿つ。将士、渇きのあまり、「水の出ること遅し」とて、「遅ノ井」と。島の弁天さまは江ノ島弁才天をこの地にもってきた、もの。現在の「遅野井の滝」は千川上水から導水した人工の滝。昭和5年に町営水道の深井戸が近くで掘られて以来、泉は枯れた、と。

善福寺
善福寺公園の周囲を歩き、青梅街道へと向かう。途中に善福寺。もとは今川観泉寺の境外仏寺で、福寿庵と呼ばれていた。善福寺となったのは昭和になってから。ということは、中世のころ、この地にあった善福寺ではないわけで、では本物の善福寺は?麻布善福寺を歩いていたとき、その寺勢がこの地まで及んでいた、とメモしたが、果たして??よくわからない。

井草遺跡

青梅街道を越え、上井草4丁目に進む。都立杉並工業高校脇のゆるやかな坂を登ると、坂の途中に「井草遺跡」の碑。メモ;上井草4丁目13を中心に広がる縄文時代草創期(約9000年前)の遺跡。
草創期の頃は、河川流域の湧水周辺のゆるやかな斜面に小規模な集落を形成する例が多く見られる。この遺跡もそのひとつで、井草川の西側斜面に位置しています。うむ?井草川?ということはこのあたりに井草川跡が。ちょっとしらべてみよう、と。

切り通し公園

地図をチェック。青梅街道にほど近い、「切り通し公園」あたりから、いかにも流路のような道筋が。道に沿って三谷公園、道潅橋公園、上瀬戸公園など、いくつもの公園が続いている。川筋を利用した緑道であろう。ということで、「切り通し公園」に。
結構な勾配のある公園。谷頭あたりから昔、湧水が湧き出ていたのであろう、といった雰囲気。公園下から、緑道を進み道潅橋公園に。太田道潅に由来のあるのだろう、とは思う。実際この公園の南、早稲田通りの今川3丁目交差点のあたりは「陣幕」と呼ばれていたらしい。道潅が豊島氏の居城・石神井城を攻めるに際し、この地に陣を敷いた、とか。

西武新宿線井荻駅

歩を進め、上井草8丁目を過ぎ上井草2丁目。四宮森公園を過ぎると西武新宿線に当たる。道はここで切れる。迂回し西武新宿線の北に回り、さきほどの行き止まりのあたりまで戻る。再び緑道が続く。矢頭公園を越えると再び西武新宿線に交差。南に下ることになる。

線路を渡り柿木北公園を過ぎると環八。環八を越えると西武新宿線井荻駅に。井荻駅前に「科学と自然の散歩道」の案内図。井草川遊歩道をノーベル賞受賞科学者・小柴先生の受賞記念事業としてつくられたもの。小柴先生の日常の散歩コースであったらしい。井草川遊歩道・妙正寺川・妙正寺公園・科学館をつないだ散歩道になっている。

妙正寺公園

下井草5丁目・4丁目を下り、早稲田通りを過ぎると妙正寺公園にあたる。井草川はこの妙正寺池に流れ、この池の湧水を合わせ妙正川となって下ることになる。妙正寺池は昭和30年頃までは湧水が溢れていた、とか。

妙正寺
公園から南に少し進むと妙正寺。いつだったか、妙正寺川を巡ったとき、訪れた。慶安2年(1649年)、家光が鷹狩の途中この地に立ち寄り、寺領5石と葵の幔幕を寄進した、と。どこにいっても鷹狩、って話があるので、どこまでほんとうなのか、と思っていたのだが、杉並・中野の鷹場の話を知った今となっては、少々のリアリティを感じる次第。

四面道
清水の町並みを南に進み、青梅街道と環八が交差する「四面道」の交差点。この交差点は天沼・下井草・上井草・下井草の4カ村の境。そこに秋葉神社があり、その角柱の常夜灯・灯篭(四面塔・四面灯籠)が四カ村・四方面を照らしていたので、「四面燈」と呼ばれていた。で、「四面塔」「四面燈」。が、、いつしか灯籠も無くなり、「塔」が「道」に。現在秋葉神社と常夜灯は荻窪八幡に移されている。

荻窪白山神社
環八を南に下ると荻窪白山神社。JR荻窪駅から駅前商店街を進むと、参道入口に。結構長い参道。下荻窪村の鎮守。文明年間(1469-1487年)、地頭・中田加賀守が加賀の白山(しらやま)比め神社から分霊。歯痛の神様として知られていた。

光明院
環八がJRと交差するあたりに光明院。門は閉められている、というか脇の門があいているので、お邪魔する。なかなか寺域が広い。荻窪の観音様。伝承「和銅元年(708年)、観音さまの仏像を背負って諸国行脚していた行者が、この地に来たとき、突然観音様が重くなり、動くこと叶わず、といった状態に。この地に留まりたい、という観音様の意思であろう、と、この地にとどまり、付近の萩を刈り、草堂をつくり観音様をおまつりした」と。これが寺のはじまり。
また、草堂はその後荻堂と呼ばれ、荻窪の地名のはじまりとなった、と。さすがに和銅年間ということはないにしても、南北朝の頃の創建ではないかと言われる。

神明天祖神社

光明院脇の道、JRとの間に続く細い道を進む。すぐ、JRをくぐる地下道。JRを南に出る。善福寺川を渡り、南荻窪2丁目を道成りに進む。神明天祖神社。結構広い境内。天祖神社って、こじんまりしたものが多かったようでもあり、予想外。
創建は天正19年(1591年)、下総国、香取郡水刀谷の城主・水刀谷影賢の孫正近が社殿修復。正近は姓を井川と改め、紀州家に仕官。神社の東に馬場をつくったので、そのあたりを桜の馬場とよばれていた。

南荻窪中央公園

神社を出て、南荻窪を進む。南荻窪中央公園。与謝野鉄幹・晶子邸のあったところを公園とした、と。関東大震災を契機に、この地に移る。当時、このあたりは一面の野原。『木漏れ日の街で』の中で、当時の風景が。描かれている;「我が家は高台にあるので、駅までの道のりの半分はだらだら坂を下る。(中略)坂を下りきる手前に小さな木の橋が架かっている。下を流れているのは善福寺川である。水は空が映るほど澄みきっていて、水底の小石の数まで数えられそうだ。(中略)坂を下りきった角には変電所がある。子供の頃、このあたりは見渡すかぎりの野っ原で、変電所の建物だけが場違いなほど堂々とそびえ立っていた。今は民家が点在しているものの、それでもこの界隈は草が生い茂ってもの寂しい。変電所から駅まではゆるい上り坂になる。坂の途中に青バスの車庫があって、上りきったところが荻窪駅である」、と。

中道寺
再び環八に戻り、善福寺川・春日橋の南に中道寺。開創は天正10年(1582)、本尊日蓮上人像は通称「黒目の祖師」といわれ山門は欅作りの二階建。二階には梵鐘が吊ってある。

松湲遺跡公園
中道寺から、すこし南に「松湲遺跡公園」。縄文中期の住居跡3基発掘される。保存のため地下に埋められている。近くには川南遺跡もある。
日が暮れてきた。が、杉並散歩の締めくくりとして、今回はなんとしても、天桂寺には行っておきたかった。理由は、杉並の名前の由来をつくった、岡部氏の菩提寺である、ということ。また、ここでも「中野成願寺」、ってキーワードが現れるから、である。場所は地下鉄の南阿佐ヶ谷の少し南。直線距離で2キロ弱だろう、か。
中道寺に戻り、善福寺川を渡り、荻窪2丁目、4丁目を足早に進む。荻窪2丁目43番には荻外荘(てきがいそう)。近衛文麿邸。この名は西園寺公望が命名したもので、昭和12年6月に第一次近衛内閣を組閣以後、服毒自殺した20年12月16日まで住んだところで、16年10月の対米和戦会議、20年2月の戦争終結方針など、わが国の歴史を左右した重大会議が行われた、と。
3丁目には太田黒公園。音楽評論家の太田黒元雄氏の邸宅を整備した公園。そのうち、このあたりも歩いてみよう。

天桂寺

さてさて、あたりは真っ暗。携帯のGPS情報だけがたより。成田東5丁目、成田東4丁目をなりゆきで歩き天桂寺に。
寛永10年(1633年)田端・成宗の領主岡部田忠正が中野成願寺の鉄叟和尚を招いて開く。忠正は薩摩守忠度を討ち取った岡部六弥太田忠澄の末裔。杉並の地名は忠正が青梅街道に植えた杉から、ということでもあるし、杉並でしばしば現れる「中野成願寺の」って、フレーズのお寺を真っ暗ではあるが雰囲気だけ感じ、杉並散歩をしめくくる。




なんとなく思いついた、というか書き忘れたメモを残す。
1.奈良時代は武蔵国多下郡
2.平安時代は多摩郡海田郷
3.宝徳3年(1451年)5月 25日付の「上杉家文書」には、和田、堀之内、泉(今の和泉)の3つの村が武蔵国中野郷に所属していると記されている。 
4.貞治元年(1362年)12月17日付の「武蔵国願文」では大宮八幡宮も中野郷にあったことを示唆する箇所がある
5.永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」では高井堂(今の高井戸)、永福寺(今の永福町)の2つの村が中野郷に所属していたと推測できる箇所がある
6.つまりは、平安時代までには、和田、阿佐谷、和泉、堀之内、永福寺、高井戸村は成立していた事。
7.鎌倉時代の杉並
大宮八幡宮、井草八幡宮の周辺には集落があった、だろう、と。井草、今川、清水地域の集落は市のためのもの、とも。が、それ以外は見渡す野原。

後深草院二条(中院雅忠の女)の日記文学である「とわずがたり」の巻四の描写;浅草の観音様へお参りするときの様子をメモしたもの;「八月(はづき)の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさにこそ、今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵の国へ帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばると分けゆくに、萩・女郎花(をみなへし)・荻(をぎ)・芒(すすき)よりほかは、またまじるものもな く、これが高さは、馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや分けゆけども、尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿(しゆく)などもあ れ、はるばる一とほりは、来(こ)し方(かた)行く末野原なり。」。このようにほとんどが萩、女郎花、荻、芒、萱などの名前が出てくるだけの野原が広がっていたのだろう。
8.江戸時代には、20村
9.阿佐ヶ谷、天沼、下荻窪、堀之内の4つの村は麹町山王日枝神社の領地
10.上井草、下井草の2つの村は旗本今川氏の領地
11.和田村の全部と和泉、永福寺村の大部分は旗本内田氏の領地
12.残りの11の村は幕府直轄の天領。 
13.五代将軍徳川綱吉の時代には、中野から天沼にかけての約29万坪に 「お犬様」の犬小屋が作られ、約10万頭の犬が養われていました。
14.19世紀前半で、推定7,763人。明治5年の人口は、9,563名
先回の散歩では、黒目川合流点で行き止まり。気持ちの張りも失せ、当初の計画であった和光市・新倉河岸行きを、あきらめた。もっとも、散歩続行を諦め、朝霞台の駅に向かう頃は日もとっぷり暮れ、とてものこと、あれ以上進むことはできなかった、とも思う。
予定未完となった距離はごくわずか。黒目川合流点から終点・新倉河岸までは3キロ弱、といったところ。電車に乗ってわざわざ行く距離としては、少々物足りない。はてさて。で、如何なる思考回路のなせる業か、自転車で行ってみよう、と「発心」した。
片道30キロ弱。行って行けない、ことはない。川崎市鶴見まで自転車で、饅頭を買いに行った、こともある。その時も片道30キロ程度。お江戸日本橋の歌にでてくる、「六郷渡れば川崎の、萬年屋 鶴と亀とのよね饅頭」と歌われる、そのお饅頭を買い求めるためである。が、祝日というのに、お店は休み。暗い多摩川の堤防を、心の中で泣きながら、帰ってきた。その、苦行再び、となることは、日を見るよりも明らかだったのだが。。。(水曜日, 1月 31,2007のブログを修正)



本日のルート;杉並区・和泉>方南通り・大宮八幡>青梅街道・阿佐ヶ谷> 早稲田通り・本天沼2丁目>西武新宿線・下井草>新青梅街道>千川通り・環八>旧早稲田通り>石神井公園駅>西武池袋線・石神井公園駅>目白通り・三軒寺>笹目通り・土支田交差点>笹目通り>和光陸橋・川越街道>白子・吹上観音>妙典寺>金泉倉新河岸川>外環道交差>越戸川>(朝霞市)>台・黒目川合流点>田島・花の木>岡・城山公園>朝霞市博物館>浜崎3丁目・武蔵野線交差>朝霞浄水場>宮戸・宮戸橋>柳瀬川合流・志木市役所>いろは橋>中宗岡・志木市郷土資料館>逆コースを家路に

自転車で成増・白子を目指す
大体のルーティングは、ともかくひたすら北に向かい、まずは成増・白子を目 指す。最初のランドマークは、先日の白子宿散歩のとき行きそびれた吹上観音。素白先生こと、岩本素白氏の「白子の宿」に、それらしき観音さまの記述があり、行かずば成るまい、と思っていたところ。その後は、新河岸川に沿って、黒目川との合流点を目指す。そして、ついで、といっては何だが、朝霞市岡にある朝霞市博物館と、志木市中宗岡にある志木市郷土資料館を訪ねることに、する。
杉並区和泉の自宅を午前10時過ぎに出発。ひたすら北に進む。最初のランドマークは土支田。光が丘団地の西、笹目通りと交差するあたり。土支田は土師田、つまりは、土師(はじ)器をつくる人達が住んでいたところである、と。白子川流域には土師(はじ)器を焼いていた遺跡が多いとか。どのようなところがちょっと見ておきたかった。
杉並区・和泉を出発。方南通り・大宮八幡を北に青梅街道・阿佐ヶ谷に。成行きに北に進み早稲田通り・本天沼2丁目を経て西武新宿線・下井草、新青梅街道を越え、千川通り・環八に交差。環八を越え旧早稲田通りから石神井公園を経て西武池袋線・石神井公園駅に。成り行きで北に進み目白通り・三軒寺をへて、土支田地区を進み最初のランドマーク笹目通り・土支田交差点あたりに。当然のこと、「土師器」をつくっていた場所、といった趣きがあるわけもない。笹目通りを更に北に進み、和光陸橋で川越街道を越え、最初の目的地、吹上観音に着く。
おおよそ2時間程度、ひたすらに自転車のペダルをこぐ。カシミール3Dでつくった地形図でもわかるように、結構なアップダウン。特に最終地点、川越街道を越え、白子川に向かって下る道筋は急勾配。武蔵野台地の端、洪積台地から沖積低地に下る坂道である。

吹上観音
坂道を下り終えたあたりに吹上観音交差点。台地上の寺域の下を東に進み、吹上観音に。正式には東明禅寺。臨済宗の古刹である。東明寺の創立は室町期。観音堂は、天平年間(729~49)に、行基菩薩が東北巡行のおり、ここに立ち寄って観音様の像を刻んだ、とか。江戸時代から、秩父観音霊場などにもひけをとらない観音霊場として盛んに信仰された、と。
どこだったか、古本屋でみつけた江戸時代の散歩エッセー、『江戸近郊ウォーク(原題;江戸近郊道しるべ;村尾嘉陵);小学館)』にも「吹上観音道くさ」という記述があった。今からおよそ200年前、暇をみては江戸近郊を歩いて廻ることを唯一の楽しみにしていた、という清水徳川家老臣・村尾嘉陵の日帰り散歩のエッセーである。
が、「吹上観音道くさ」もさることながら、この観音様が気になっていたのは、岩本素白さんの散歩エッセー『素白先生の散歩』にある、「白子の宿 独り行く(2)」での白子の観音堂のくだり。いかにも吹上観音と思える観音堂の記述に惹かれていら。
『素白先生の散歩』での「白子の宿 独り行く(2)」;「この丘陵一帯の景色は面白い。はじめてこの観音堂に登った時には、丁度前の青田に白鷺の一群が降りたところであった。田圃を隔ててこの北の丘と相対している南の丘陵を眺める景色は更に面白い。その南の丘陵というものは実に複雑な高低起伏を持っているところで、上赤塚から下赤塚に連なり、仔細に歩いて見ると、地図や案内図に無い浅い谷間、狭い坂道、まるで隠れ里にでも行くような細い村道、木曽路でも歩くような眺めの所があり、山里めいた家々も残っている」。この描写に惹かれ、この観音さまに着てみたいと想っていた。当時ほど見晴らしはよくない、にしても、台地からの眺めはなかなかのものでありました。
本堂裏手の小高い場所に並ぶ百庚申、134基の庚申塚の間をゆったり歩き、吹上観音を離れ、妙典寺に向かう。

妙典寺
妙典寺行きのきっかけは、吹上観音の入口にあった和光市の名所案内。「子安の池」がある寺として紹介されていた。名前に惹かれ、行かずばなるまい、と。で、笹目通りに戻り、少し川越街道方面に進み、北に入ると妙典寺。
「子安の池」は本堂裏手にある湧水池。鎌倉期、佐渡に向かう途中の日蓮上人が、新倉の領主であった墨田氏の妻の安産祈願をおこない、無事男子を出産。その霊力ゆえに、この湧水池を「子安の池」と呼ぶようになった、とか。

午王山(ごぼうやま)遺跡
妙典寺を離れ、道なりに進み「午王山(ごぼうやま)遺跡」に。これも、妙典寺と同じく、吹上観音前の和光市名所案内に紹介されていた。新羅からの渡来人が都から移り来て、居住したところ、とか。畠というか、住宅街というか、ともあれ平地に取り残されたような20m程度の台地。弥生から室町にかけての各時代の遺跡が発掘されている。かつての、新座(にいくら)郡志木郷の中心地、郡役所があったところではなかったか、という説もある。新羅王が居を構えたといった伝説も残る。
志木(しき)は新羅(しらぎ)が転化したものでる、ということは何度かメモした。シラギを志楽・志羅木・志楽木などと音写し、それが転じて志木になった、とか。この志木郷があったのが、和光市白子・新倉あたりではなかろうか、というわけだ。白子も新倉も、シラコはシラギの訛りであるとされるし、新倉(にいくら)はかつての新座(にいくら)の音を残している。ちなみに和光のお隣に志木市がある。が、この志木市は明治になってできた名前。舘村と引又町が合併して志木宿としたことがはじまりであり、歴史上の志木郷とは関係がない。
新座(にいくら)郡のメモ;武蔵国には新座(にいくら)郡を含めて21の郡があった。郡の厳密な設置年代は不明だが、およそのところ、天武天皇(在位673-686)のころではなかろうか、と推測されている。ここ新座郡は、はじめ新羅(しらぎ)郡として、758年に置かれた、と。 帰化した新羅(しらぎ)僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の閑地に移住させ、新羅(しらぎ)郡としたわけだ。これがのちに名を改められて、新座(にいくら)郡となった。「午王山(ごぼうやま)遺跡」のある台地の裾に金泉禅寺。臨済宗建長寺派。入口から山門まで100mもあるような結構な構えのお寺である。

新河岸川
金泉禅寺を離れ、新河岸川に向かう。和光高校の東を北に進むと和光市清掃センターと特養老人歩ホーム和光苑。和光苑の西のちょっとした公園を抜けると新河岸川。ここからが、本来の新河岸川散歩のクロージングのはじまり。

新倉河岸
川 に沿って上流に向かって進む。逆風がきつい。新河岸川の北の堤防の向こうは荒川が流れている。荒川河川敷公園の川向こう、「彩湖」が荒川に合流するあたりに「新倉河岸」があった、よう。明治43年の大洪水被害への対策として大正期に荒川下流、新河岸川の河川改修工事が行われたため、往古の川筋は変わってしまっている。彩湖は荒川下流部の洪水予防と荒川が水不足の時に首都圏に水道用水を供給するためにつくられた貯水池・遊水地。
新倉河岸。新座郡上新倉村(現和光市)にあった。成立の年代ははっきりしない。新河岸川が荒川に注ぐ河岸場であり、曳き船の開始点でもあった、とか。荷船の上流に向かって曳くわけだが、その曳き子「のっつけ」が泊まる船宿「のっつけ宿」に駄賃稼ぎの「のっつけ」が集まっていた、と。
油槽所と川筋の間の「踏み分け道」を少し進む。が、水路が合流し行き止まり。少しもどり、下水処理施設・新河岸川水循環センター脇を進むと外環道と交差。生コン工場などがある、ひどく殺風景なところ。ダンプカーを気にしながら北に折れ、再び新河岸川堤防に。いよいよの、「踏み分け道」。なんとなく嫌な予感におびえながら、逆風に抗ってペダルをこぐ。さすがに少々きつい。で、案の定、行き止まり。越戸川が合流する。

井口河岸(江口河岸)・越戸川

新河岸川と越戸川の合流点にあったのが井口河岸(江口河岸)。河川改修によりふたつの川の合流点が変わっているので、実際の場所は不明。成立の年代も不明。周囲は砂利や廃材などの置き場、下水処理場など、これといった情緒なし。越戸川は本町3丁目の和光市市立図書館ちかくの池(広沢の池)から湧水から発し、和光市と朝霞市の境を下る5キロ弱の一級河川。

黒目川

越戸川との合流点から引き返し、新河岸川水循環センターに沿って南に下り、東和橋で越戸川をわたる。朝霞九小前を通り、しばらく行くと東橋。黒目川と交差する。先回、行き止まりとなった黒目川と新河岸川の合流点あたりを眺める。

台河岸
で、合流点の少々下流にあったのが、「台河岸」。新座郡台村(現朝霞市)。別名「大河岸」とも。ここは東橋の少し上流にある笹橋近くにあった根岸河岸への荷の積み替えをおこなった河岸。根岸河岸へ通じる黒目川が浅いため、ここで小船に荷を移し変えた、とか。根岸河岸(黒目河岸)は笹橋より少し下流の黒目川右岸、現在の積水化学の運動場のあたりにあった、のではなかろうか。新座郡根岸村(現朝霞市)。成立の時期は不詳。が、宝暦(1750年から)当時すでに盛んに利用されていた、とか。根岸河岸へは、田無、保谷あたりから「河岸街道」と呼ばれる道が通じていた。

はてさて、先回の散歩断念のところまでやってきた。自転車で、3時間弱かかった。が、なんとなく、襷がつながった。少々の達成感あり。後は、朝霞市岡の朝霞博物館と、志木市中宗岡の志木市郷土資料館を訪れ、その後、一路自宅に向かって南に下る。帰り道の辛さは、語るも涙、となってしまいそう。本当にきつかった、とだけのコメントに留める
新河岸川散歩のメモもこれで終わりとする。メモしながら気がついたことは、新河岸川って、武蔵野台地の「崖線」に沿って下っている、ということ。カシミール3Dで地形図をつくって、あらためて気づかされた。

散歩するまでは川越市は平地のど真ん中、と思っていた。が、武蔵野台地の東北端にあり、周囲を荒川・入間川・不老川といった川に、囲まれている。川を越えなければ辿りつけない、とか、川で豊か(肥)になった土質、といった地名の由来も大いに納得できる。
新河岸川舟運についてきづいたこと;はじまりは川越藩御用ではあったが、次第に商人の手に移っていった。舟運が盛んになるにつれてあれこれトラブルも起きたようだ。ひとつには舟問屋と川越商人とのトラブル。舟問屋・運送業者と商人のトラブルであり、説明するまでもないだろう。もうひとつは、舟運と川越街道・江戸街道の旅籠・運送業者との争い。これは舟運業者と陸運業者のお客の取り合い。江戸街道の旅籠・運送業者があれこれ新河岸舟運にクレームを入れている。が、安全・便利でしかも安い舟運に利があったようだ。
舟には、並舟・早舟・急舟・飛切といったタイプがあったようだが、人を乗せるのは早舟。1日1回、夕方に新河岸を船出し、翌朝8時頃千住に到着。お昼には終点の浅草・花川戸に着いた、という。こんなに便利なら、舟を利用するだろう。ちなみに、並舟は不定期の貨物舟。河岸を巡りながらすすむので、7日から、20日もかかることもあった、とか。急舟は急ぎの荷物舟。2,3日での運行。飛切舟は今日下って明日戻る、といった超特急便。鮮魚の運搬に使われた、と。
新河岸川の終焉;江戸期をとおして、物流の幹線として機能した新河岸川舟運も明治になって、かげりがでてくる。鉄道輸送の開始がそのはじまり。明治23年には川越鉄道敷設運動が開始される。が、発起人には川越の商人は誰も入っていない。新河岸川舟運による利益を手放すことへの恐れが、あったのであろう。結局、明治28年川越・国分寺間の鉄道開通。翌29年には川越・大宮間に乗合馬車、39年には電車開通。明治17年に開設していた上野から高崎間の鉄道路線、明治22年に開通していた甲武鉄道開通(八王子>新宿)、と、いったように、鉄道による物流ネットワークが生まれる。大正3年には川越・池袋間に東武線が開通。これにより舟運から鉄道輸送の本格シフトがはじまることになる。
新河岸川舟運終焉の決定的要因は、新河岸川そのものの変化。明治43年の大洪水被害対策のため、九十九曲がりといった川筋をまっすぐにし排水をよくする河川改修工事。大正7年荒川の下流、大正9年には新河岸川の改修工事がスタート。通舟が難しくなる。大正12年に関東大震災。舟を失った東京湾沿岸の舟運業者の求めに応じ、新河岸川の舟主はほと
んどの舟を手放す。新河岸川舟運に見切りをつけていたのだろう。で、昭和6年には改修工事のため全流域にわたり通舟不可能となり、300年近く続いた新河岸川舟運が終わりを告げた。

先回は「新河岸」跡で日が暮れた、今回は「新河岸」跡からはじめ、和光まで下ろう、と思う。(日曜日, 1月 28, 2007のブログを修正)



本日のルート;新河岸駅>(牛子河岸)>(寺尾河岸)>白山神社>福岡河岸>大杉神社>56号・川崎橋>蓮光寺>古市場河岸>富士見川越有料道路>ふじみ野市運動公園>福岡高校>新伊佐島橋>砂川堀>南畑橋>富士見川越有料道路>富士見川合流>富士見サイクリングコース>254号・川越街道交差・岡坂橋>袋橋>志木市役所>柳瀬川合流>いろは河岸>引又河岸>宮戸橋>宮戸河岸>朝霞浄水場>朝霞第五中>武蔵野線>内間木>田島>田島公園>黒目川合流>東武東上線・朝霞台駅

東武東上線・新河岸川駅
東武東上線・新河岸川駅で下車。舟問屋・伊勢安のお屋敷に向かって進む。どっしりとした構えの屋敷に往時を偲び、川傍の日枝神社に。少々の高みから川筋を眺める。川筋から、この台地上の問屋まで運びあげるのは、少々難儀なことではなかったか、などと勝手な想像を巡らし、旭橋に。

牛子河岸

旭橋の対岸は牛子地区。「牛子河岸」があったところ。寛文4年(1664)に川越城主松平伊豆守輝綱によって開設。輝綱は信綱の子。旭橋南詰めを下ると寺尾地区。ここが新河岸川舟運のはじまりとなった「寺尾河岸」がつくられたところ。きっかけは寛永15年(1638年)の川越大火。焼失した川越の町や喜多院、東照宮再建のため建築資材を、川越・仙波に運ぶことになった。家康をまつる東照宮が燃え落ちたわけでもあるので、川越藩主・堀田正盛や天海僧正など江戸からの復旧資材を心待ちにしたこと、であろう。
当時の川越への舟運は荒川の平方河岸が使われていた。が、時期は春。渇水の時期。舟で運ぶことができない。で、外川・荒川の内を流れる「内川」に着目し、この地に河岸場を設けることにした。これが「寺尾河岸」。「寺尾河岸」をつくるに際し、荒川へ合流するまでに三箇所ほどあった古い土橋を板橋に架け替えるなどして、舟が通れるように整備した、と。ちなみにこの三箇所は川越市の古市場、富士見市の難畑(南畑)、志木市引又であった、という。板橋に反りをつけて舟が通りやすいようにしたわけだ。が、この「寺尾河岸」は所詮急場しのぎが目的。建築資材の搬入などが一段落すると、引き払われることになる。本格的に新河岸川の舟運がはじまるのは、先にメモした「新河岸」がつくられてから、である。

九十川
今は何の面影もとどめない寺尾地区を下る。川筋が蛇行するあたりに北から川筋が合流。この川は九十川。伊佐沼から下ってくる。江戸時代は九十川からの川筋が内川の本流。これより北の新河岸川の川筋って、川越台地の細流・遊女川、台地崖下から湧き出る湧水、不老川などの流れがあつまって、川筋をつくっていたのだろう。
遊女川、って少々艶かしい。が、由来は「およね」さん。姑による嫁苛めのため川に身を投げる。それを悲しんだ夫も同様に身を投げ、およねさんのもと、に。以来地元の人はこの川を「およね川」と。が、いつの間にか「夜奈川」とか「遊女川」と書くようになった、とか。

古市場河岸
川崎橋を越え、蛇行した流れに沿ってしばし南に下ると養老橋と交差。このあたりの東岸にあったのが「古市場河岸」。川越市古市場地区にある。橋のあたりが荷揚げ場であった、とか。成立時期は詳しくはわからない。が、寛延元年(1748年)以前にはできていた、よう。ここの河岸は舟問屋・橋本屋が、家業の醤油の出荷だけに使っていた、と。

福岡河岸
養老橋を渡った対岸にあったのが「福岡河岸」。入間郡福岡村、現在のふじみ野市。河岸場の成立は、天保8年(1837)に編まれた、『福岡名所図会』によれば、「古へは比地藪なりしが、享保の頃、当村民、冨田紋右衛門といふ者此処二住、始めて此河岸を始めけるより紋右衛門河岸と称しけるが、後に福岡河岸と云ふ。船多くありて、山方三ヶ嶋、勝楽寺其外飯能辺より薪炭其外木材等、並に諸荷物附出して此河岸より江戸へ積送り、入船出船日々には賑はしくぞなりにける」とある。享保というから、1716年頃には開かれていたのだろう。
福岡河岸には、3軒の船問屋があった。『武藏國郡村誌』福岡村の頃には、 「荷船廿九艘百石積四艘九十石積二十五艘」とあり、舟運が盛んであった様子が偲ばれる。現在も、このあたりは福岡河岸記念館など、屋敷や土蔵が残されている。

百目木(どめき)河岸
福 岡河岸跡から少し下り、川の西側に大日本印刷の工場があるあたりの対岸に蓮光寺。ここは川越市。立派な構えの総門をもつ曹洞宗の古刹である。しばしゆったりとした時を過ごす。蓮光寺を離れ、少し歩くと「川越富士見有料道路」と交差。このあたり、ふじみ野市中福岡に「百目木(どめき)河岸」があった。成立は明治期に入ってから。
「川越富士見有料道路」を越えると川筋はふたつに分かれる。一方は新河岸川放水路。東に進み「びん沼自然公園」、びん沼川をへて荒川に合流する。一方、新河岸川は南東に下る。

川筋を下ると、橋の手前に大杉神社。茨城県稲敷市に本社が鎮座。嵐にあった船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰されていた。関東・東北地方に分布する。名前の由来は、大杉を神体としていた、から。大杉の巨木が航海の目印となっていたの、かも。

伊佐島河岸
川筋を進む。遠くに富士山が見える。ふじみ見野市と呼ばれる所以である。カシミールDで、このあたりから眺めた富士の姿をつくってみた。まさか富士が見えるとは思っていなかったので、少々うれしい。川筋西側に富士見野市運動公園、東側に福岡高校。先に進み「新伊佐島橋」と交差。この橋の北詰にあったのが「伊佐島河岸」。入間郡勝瀬村伊佐島にあったため、「勝瀬河岸」とも呼ばれた。天保10年(1839)以前に成立したものと、考えられている。河岸場は宅地と竹林になっていて、その一角に水神祠が今も祀られている。

砂川堀
少し下ると「砂川堀」が合流する。狭山湖の北、埼玉県所沢市の早稲田大学所沢キャンパスの演習林を水源とする都市下水路。上流部は狭山丘陵北側の湿地であり自然河川。途中、調節池があったり、地下の導水管へ入ったり、人工的なせせらぎ水路を設けたり、暗渠になったり、あれこれ姿を変えながら、新河岸川に流れ込む。砂川堀と新河岸川の合流点には蛇島遊水地(西・東池)がある。

上南畑河岸
川筋の富士見サイクリングコースを下ると南畑橋。このあたりは上南畑地区。昔の入間郡上南畑村(現富士見市)。「上南畑河岸」のあったところ。上南畑河岸は、蛇木(はびき)河岸、とも呼ばれていた。

鶴馬本河岸
しばらく歩くと再び、「富士見川越有料道路」と交差。このあたりにあったのが「鶴馬本河岸」。入間郡鶴馬村(現富士見市)。成立は天明元年(1781)とされる。

富士見江川
道路を越えると「富士見江川」が合流。三芳町藤久保あたりからはじまる荒川水系の準用河川。準用河川って、市町村長の管轄。ちなみに一級河川は建設大臣。二級河川は都道府県知事の管轄。で、このあたりのあったのが「鶉(うずら)河岸」。入間郡鶴馬村鶉町(現富士見市)、現在の市立本郷中学校の東側あたり、と言われている。成立は、天明 元年の頃、と。

山下河岸
更に進み水染橋に。このあたりに「山下河岸」があった。水染橋の下流右岸、入間郡水子町(現富士見市)。河岸場の成立は、延享3年(1746)以前、と。河岸場のあったあたりは、竹やぶに変わっている。歩を進め、川越街道・岡坂橋と交差。岡坂橋の先、袋橋のあたりに旧新河岸川跡が残っている。このあたり、入間郡水子町(現富士見市)にあったのが「前河岸」。成立年代は、元禄11年(1698)、とも言われている。河岸場は新河岸川が蛇行した屈折部の先端にあり、現在の川筋とはかなり離れている。周辺には旧流路が残っているが、河岸場のあったところは埋め立てられ、宅地と道路になっている、とか。

柳瀬川と合流
袋橋を過ぎ、いろは橋を越えると柳瀬川と合流。ふたつの川がつくる三角州の突端部分から志木市となる。この突端部分に志木市役所があった。柳瀬川は所沢市の狭山湖を源流とし、ほぼ都県境を東北方向へ流れ、この地で新河岸川に合流する。

引又河岸
柳瀬川にかかる栄橋を経由し新河岸川に戻る。「引又河岸」があったのはこのあたり。新座郡志木宿。引又河岸は、明治7年(1874)引又町が志木宿と改名され志木河岸と呼ばれる。寛永年間(1624―1643)頃開業、と。新河岸川はかつて、現在の志木市役所周辺で大きく蛇行していて、柳瀬川との合流点は河岸場の上流にあった、とか。

宗岡河岸
この付近にはもう一箇所河岸があった。「宗岡河岸」が、それ。現在の「いろは橋」の上流、新河岸川左岸。入間郡宗岡村(現志木市)。「宗岡河岸」の成立は元禄期後半から享保期、と言うから、17世紀後半。「宗岡河岸」のあったところは、河川改修後に埋めたてられ、住宅地となっている。

いろは樋(とい)

栄橋を渡り、黒目川の堤防にそって新河岸川の合流点まで進む。途中に「いろは樋(とい)」の案内。昔、この地に、野火止用水宗岡地区に送る樋(かけひ)が架かっていた。新河岸川の北、上・下宗岡村を知行していた旗本岡部忠直の家臣・白井武左衛門は、灌漑水の乏しかった宗岡地区に、新河岸川に落ちていた野火止用水を送水しようと試みる。寛文2年(1662)、舟の運航を妨げないようにと、水面からの高さ約4mに、長さ約260mの木樋を設ける。 掛樋(かけひ)は48個の樋でつながれていたため、「いろは樋」と呼ばれた。

宮戸河岸
先に進むと宮戸橋。この橋の近くに「宮戸河岸」があった。新座郡宮戸村(現朝霞市)。成立は安永期(1773年)よりも古い、といわれる。現在、河岸場のあったところは埋め建てられ、全くその跡を留めていない。

朝霞浄水場
川脇に「朝霞浄水場」。埼玉県朝霞市にあるが、東京都水道局の施設。東日本最大。また、大阪府枚方市・村野浄水場に次ぎ、日本第二の処理能力をもつ。利根川・荒川の水を、荒川の秋ヶ瀬取水堰から取水。ここから杉並区上井草、および文京区本郷給水所に送水している。村山浄水場のとことでメモしたが、利根川・荒川の水と多摩川の水を相互に利用できるように東村山浄水場と朝霞浄水場の間には、原水連絡管を設置。利根川・荒川の水と多摩川の水を「やり取り」できるようにしている。ちなみに利根川と荒川との間は武蔵水路と呼ばれる連絡水路で結ばれている。

浜崎河岸(お台場河岸)

武蔵野線を越えると新盛橋。この橋の上流にあったのが「浜崎河岸(お台場河岸)」。新座郡浜崎村(現朝霞市)。成立時期は不明。この河岸場は、荷出しはなく、 田畑の肥料類を降ろすだけ。品川の台場の倉庫から肥料を運んだので、お台場河岸と呼ばれた。




黒目川と合流
新盛橋を越え、先に進む。日が落ちてきた。外環道の「ハープ橋」が遠くに見えてきた。外環道を越えれば和光。なんとか日が暮れる前に、和光へと、の思い。
川筋を進む。黒目川と合流。あれ?道がない。黒目川を合流点の突端部から上流に。が、道がない。愕然。戻るしかない。気力が失せる。完全に日も暮れた。残念ながら本日はここまで。最後の気力を振り絞り、新堀橋まで戻る。既に歩く気力もなく、丁度走ってきたタクシーに乗り、最寄りの駅へ、と。東武東上線・朝霞台に戻り、一路家路に。和光までの残り少々は次回のお楽しみ、とする。

1月の連休を利用して新河岸川を歩いた。以前荒川区を散歩したとき、岩淵水門のあたりで新河岸川に出合った。江戸と川越をつなぐ舟運路であった、とか。川筋散歩フリークとしては大いに気になる川ではあった。が、如何せん、川越は遠い。川筋も結構距離がある。
川越から岩淵水門まで34キロ弱ほどあるだろう。歩きたし、と思えども、少々腰が引けていた。
今年に入り白子から平林寺まで歩いた。昨年末にも野火止用水を歩いた。そのいずれも、知恵伊豆こと、川越藩主・松平伊豆守信綱ゆかりの地。新河岸川もこの信綱が整備し舟運を発展させた川、である。知恵伊豆つながり、というわけでもないのだが、この機を逃すべからず、と一気呵成に新河岸川散歩に進むことにした(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 
(2009年8月の記事を移行)



本 日のルート;川越駅>埼玉医科大行バス(連雀町>松江町>大手町>市役所前>裁判所前>川越氷川神社>川越街道・氷川前>51号>伊佐沼入口)>伊佐沼>九十川>小仙波>川越街道・小仙交差点>新河岸川>(仙波河岸)>大仙波>16号交差>川越線交差>不老川合流>(扇河岸)>(上新河岸)>(下新河岸)>日枝神社>

新河岸川のメモ
新河岸川のこと、そして新河岸川の舟運のメモ;江戸の頃、新河岸川は川越・伊佐沼に源を発し、武蔵野台地の東端に沿って志木、朝霞を下り、和光市新倉のあたりで荒川に合流していた。現在の新河岸川は狭山から流れる赤間川とつながり、和光市から都内に入り、板橋区を流れ、荒川区の岩淵水門で隅田川に合流する。
新河岸川の舟運のはじまりは、寛永15年(1638年)。川越大火による街の復興のため、特に家康をまつる仙波・東照宮再興のためであろうが、当時の川越藩主・堀田正盛や天海僧正が中心になって建築資材の荷揚げ場をつくったこと、による。この河岸の名前は寺尾河岸。川越市街から4キロほど下ったところにある。当時「内川」と呼ばれたこの川筋は、現在とは異なり、伊佐沼からこの寺尾方面に下っていた。
この寺尾河岸は、あくまでも街の復興のためのもの。舟運による物流整備のために計画されたものではなかった。で、街の復旧の目処がたつと、お役御免となる。半年ほどしか使われなかった、とも言われている。
新河岸川の舟運を本格的にはじめたのは川越藩主となった松平信綱。川越と江戸を結ぶ舟運を整備するため寺尾河岸の少し上流に河岸を開いた。その河岸は「新河 岸」と呼ばれた。名前の由来は、寺尾河岸に対して新しい河岸、という意味。内川と呼ばれた川筋もこれを契機に「新河岸川」と呼ばれるようになる。
新河岸舟運は、もともとは、川越藩の公用として開かれた。が、新河岸の近くに扇河岸が開かれる頃から、川越藩にかわり、商人が中心となって新しい河岸建設、舟運をつかった商業活動がはじまる。川越近郊だけでなく、遠く信州・甲州からの荷の物流幹線として機能した。
明治になると、鉄道による影響などにより舟運にかげりが見え、昭和6年に新河岸舟運の終焉を迎える。河川改修により通船不可能になった、ため。この間300年近くこの新河岸川は物流の幹線として地域発展に大きな役割を果たした、と。(土曜日, 1月 27, 2007のブログを修正)

東武東上線
さて、本日の散歩の一応のルーティング。新河岸川の源流点である伊佐沼からはじめ和光市・新倉あたりまで下ることに。新河岸川は現在でも、ゆるやかな蛇行を繰り返しながら流れている。が、往時は九十九曲がり、といわれるほど蛇行を繰り返していた、とか。もともと曲がりくねった川ではあったようだが、舟運の便宜を図るため、信綱がより一層の「曲がり」を加えた、わけだ。水位を高め、水流をゆるやかにするため、である。もっとも、現在の川筋は明治に洪水対策のため河川改修工事が行われ、極力直線で流れるようになっている。そのため距離も当時より10キロ程度短縮されている。ということは、本日の散歩は20キロ程度の散歩となりそう、である。
東武東上線で川越駅に。この街には一度来た事がある。小江戸、などと呼ばれ江戸の雰囲気を今に留める街並みを楽しむため、などと言いたいところだが、きっかけは映画「ウォーターボーイ」。川越高校の水泳部がモデルと言われている。どんな高校か、と、足を運んだ次第。さすがに構内に入るわけにもいかず、高校の南隣にある小高い丘に登り雰囲気を楽しんだ。この丘は川越城・富士見櫓跡、であった。御岳神社、浅間神社も祀られていた。で、ついでに、といては何だが、駄菓子横丁、蔵造りの町並み、川越城の本丸御殿、天海僧正ゆかりの喜多院、その南にある家康を祀る仙波東照宮なども訪れた。
川越には蓮馨寺、三芳野神社、氷川神社、それから川越市の西・入間川を越えたところにある河越氏の館跡・常楽寺など、訪れたいところは数多い。三芳野神社のあたりって、大田道潅なのか、その父の大田道真なのか、どちらが築いたのか不明だが、川越城のあったところ。わらべ歌「とおりゃんせ」の舞台でもある。「とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ」といった路地もゆっくり歩いてみたい。が、とてもではないが、今回は時間がない。ということで、川越巡りは次のお楽しみとして、今回は、とっとと伊佐沼に向かうことにする。

伊佐沼
駅から伊佐沼に歩こう、とは思ってはいた。が、なにせ川越についたのが午後2時頃。毎度のことながら、時間がない。駅前からバスを利用する。埼玉医大行きのバスで伊佐沼入口下車。畠というか水田のど真ん中に降ろされる。どうも、別ルートで伊佐沼の近くに行くバスがあった、よう。ともあれ、コンパスで方角を調べ、バス停から南に下る。
用水路が南北に続いている。地図でチェックすると、入間川から分水し、伊佐沼に流れ込んでいる。あたり一帯の灌漑用水として使われているのだろう。用水路に沿って下る。昔はこのあたり一面、沼沢地。弥生時代から水田が開かれ「美田地帯」になったためであろうか、伊佐沼から川越の市内北側にかけての一帯は、三芳野と呼ばれていた。意味は「すぐれた良い土地」ということ。
遮るものの何も無い水田地帯を1キロ弱歩き伊佐沼に。結構大きい沼。南北1.3キロ。東西300mといった、ところ。関東では印旛沼につぐ沼。昔はもっと大きく、南北2キロ弱、東西330m余りもあった、とか。第二次大戦時、食料増産のため北半分が干拓された。沼の案内板によれば、この沼が新河岸川の源流。この沼から九十川(くじゅう)という細流、と いうか泥川が水田を蛇行しながら流れ、寺尾地区で往時「内川」と呼ばれていた新河岸川に合流していた。
この沼がどのようにしてできたのかは不明ではある。が、入間川の流路が変更になり、取り残されたのではないか、と言われている。名前の由来も諸説。村人の名前から、とか、漁(いさり)する沼>漁り沼、が転化した、とか。往時、このあたりは雁の渡ってくる名所でもあった。川越城が別名「初雁城」と呼ばれる所以である。ちなみに、「ウォーターボーイ」のモデルとなった川越高校の徽章は「三羽の雁」である、と。

九十川
沼に沿って下る。桜並木が続く。西隣にある「伊佐沼公園 冒険の森」が切れるあたりから九十川が流れ出す。流れに沿って進むと16号線と交差。これって、あの横浜とか八王子を走る国道?チェックすると、その通り。国道16号は横浜を始点に、東京を環状にとおり埼玉から千葉の富津まで続く。
交差地点でどちらに進むか少々迷う。九十川筋に沿って4キロ程度南に歩き寺尾地区・寺尾河岸跡あたりまで下るか、はたまた16号に沿って川越市街方向に向かい、新河岸川・仙波河岸あたりに進むか、はてさて。地図をチェック。 新河岸は寺尾河岸より結構上流にある。九十川を下れば、上流に戻らなければならない。どうせのことなら、上流から下流に進もう。
ということで16号に沿って歩き、仙波地区に進むことに。小仙波交差点で川越街道を越えると「新河岸川」。これからが新河岸川散歩の始まり、となる。





小仙波
小仙波の歩道橋を渡り新河岸川脇に立つ。川筋は北から続いている。このあたりの川筋は正確には「赤間川」、と呼ぶべき、か。源流点は狭山市笹井と入間市鍵山に境を接する入間川の笹井堰。この堰より入間川の水を取り入れ、しばらくは入間川に沿って、その後は国道16号線に沿って北東に進み、舌状台地上にある川越の街をぐるっと廻り、この地・小仙波に続いている。
赤間川は昔は伊佐沼に流れ込んでいた。昭和9年になって、赤間川の瀬替え工事をおこない、新河岸川とつなげられた。1キロほど下ったところに新河岸川最上流箇所の河岸・「仙波河岸」がある。そのあたりまで掘り進み、繋いだのであろう。

仙波
川筋に沿って「仙波」地区を進む。川沿いの武蔵野台地のうえに、いくつもの貝塚がある。縄文時代の頃は、このあたりまで海が入りこんでいた、ということ。いわゆる「古東京湾」と呼ばれるもの、である。仙波の地名の由来ともなった、仙芳仙人の伝説の中にも、一面の海であったこの地を陸地にした、といった話が残る。仙(芳)+海原(波)=仙波、ということ、か。古墳時代から平安時代にかけてかなりの規模の集落があった、というし、台地上にある長徳寺は仙波氏の館があった、とも言うし、この仙波の地は、川越でも古くから開けたところの、ようだ。
ちなみに、仙波氏とは東村山から多摩丘陵一帯に勢力をふるっていた村山党の一党。平安末期に、頼朝の父・義朝の関与する保元の乱に、仙波党の仙波七郎が参陣との記述があるが、川越の歴史に登場することは、あまりない。

仙波河岸史跡公園
16号線と交差。仙波町と富士見町の境目あたりに、「仙波河岸史跡公園」がある。川筋から木の橋、というか、ちょっとした木の遊歩道を進み、仙波河岸跡に。いかにも荷揚げ場といった雰囲気の舟着場跡が残されている。この河岸は新河岸川で最も新しく、明治12年から13年頃つくられたもの。新河岸川で最も上流部にあった河岸、でもある。公園内には「仙波の滝」の碑。昭和の中ごろまで、台地上にある愛宕神社の崖下から流れ出る豊かな湧水が滝となって流れ落ちてい た、と。愛宕神社って、防火・火伏せの神様。京都の愛宕山に鎮座する愛宕神社は全国に900ほどある、とか。

不老川(としとらずかわ)
新河岸川に戻る。対岸に「新河岸川上流水循環センター」。すこし下ったところで、「不老川(としとらずかわ)」が合流する。不老川の水源は、都下西多摩郡瑞穂町にある狭山池からの伏水流とされる。入間市、狭山市をへて新河岸川に合流。全長17キロ。霞川、残堀川、野川などとともに往古の多摩川の名残である川、と。
で、この川、1983年の頃、日本一汚染された川、などと、あまりありがたくないタグ付け、を。生活排水が「水源」ともなった時期もある。現在は、浄化も進み、平成10年からは、新河岸川上流水循環センターで処理した下水をポンプで12キロほど上流に圧送。不老川放流幹線を通し、一日39000立方メートルの水を還流している。
都内では、呑川しかり、目黒川しかり、落合の「落合水再生センター」で高度処理された下水を還流するのは見慣れた光景ではあった。埼玉のこの地でも、急速な都市化の中で同じ状況が生まれた、ということか。

扇河岸
不老川との合流点あたりにあったのが「扇河岸」。天和3年(1683年)につくられた。川越五河岸のひとつ。扇河岸の名前の由来は、扇形の河岸屋敷があったから、とか。開設のきっかけは天和2年(1682年)、火事で焼け落ちた江戸の松平家・江戸屋敷復興のため。建築資材を運ぶためにこの地に河岸がつくられることになったわけだ。
が、この河岸の歴史的意義は、河岸建設が川越藩ではなく、商人の手によってつくられた、こと。内川につくられた寺尾河岸にしても、新河岸にしても川越藩の公用が主眼。一方、この扇河岸は、川越の大商人など17名が加わり資金を出し合ってつくられた。この地は、台地のはたで湧水があり、その丸池の周囲に河岸場をつくるには大量の土盛りが必要となる。ということは、多くの資金が必要。ために、商人の力が必要となった、ということだろう。
初めの頃は川越藩の公用として、藩の援助を受けてはじまった新河岸川舟運ではあるが、この扇河岸以降、次第に藩の手を離れて川越の商人を中心として運営されるようになってきた。要するに、この頃には、この新河岸川をつかっての江戸と川越の舟運が大きな利益を生むようになっていたのであろう。この河岸は明治に仙波河岸が開設されるとともに、衰えていった、と。

新河岸
扇河岸から少し下り旭橋のあたりが「新河岸」のあったところ。正保4年(1647年)、川越藩主・松平信綱によって開かれたもの。川越発展のためには、川越と江戸をつなぐ舟運路の整備が必要と考えたのであろう。ここから1キロほど下流の寺尾には、寛永15年の川越大火による町の復興のため既に「寺尾河岸」つくられていた。半年ほどで使われなくなってはいたが、、河岸を開くに際し、下流の河川整備は済んでいた。江戸から建築資材を運ぶための舟が通りやすいよう、橋の改修、具体的には、土橋を板橋に変えるなどの河川整備が行われていたわけだ。

で、信綱はこの地に注目し、新しく河岸を開き、「新河岸」と名付けた。「寺尾河岸」に対して新しく開いた河岸、といった意味である。「内川」と呼ばれていた流れも、この河岸の成立の後は、「新河岸川」と呼ばれるようになった。
「新河岸」と呼ばれていた河岸場は、元禄6年(1693)年の頃には旭橋を隔てて北が「上新河岸」、南が「下新河岸」と分かれていたようだ。ともに川越五河岸のひとつ。旭橋のそばに如何にも由緒ありげな商家。舟問屋伊勢安のお屋敷。現在は米穀業をおこなっているように見えた。実際に問屋跡など目にすると、リアリティが大きくなってきた。
伊佐沼から下った新河岸川散歩も、新河岸で日没となった。本日はここまで。東武線・新河岸駅まで歩き、残りは明日に、ということで家路を急ぐ。

(牛子河岸)>(寺尾河岸)>白山神社>福岡河岸>大杉神社>56号・川崎橋>蓮光寺>古市場河岸>富士見川越有料道路>ふじみ野市運動公園>福岡高校>新伊佐島橋>砂川堀>南畑橋>富士見川越有料道路>富士見川合流>富士見サイクリングコース>254号・川越街道交 差・岡坂橋>袋橋>志木市役所>柳瀬川合流>いろは河岸>引又河岸>宮戸橋>宮戸河岸>朝霞浄水場>朝霞第五中>武蔵野線>内間木>田島>田島公園>黒目 川合流>
黒目(根岸)河岸>
-----
ほぼ立川崖線に沿って進む。先日、国立を歩いた時、このあたりには立川崖線とか青柳崖線が続いている、と。青柳崖線は先回、「くにたち郷土文化館」から谷保天神までの散歩を楽しんだとき、その崖下に沿って歩き、なんとなく雰囲気を感じた。で、今回はもうひとつの崖線・立川崖線を肌で感じよう、と思ったわけだ。
立川崖線といっても、はてさて、どこから続いているのかよくわからない。昔、立川の南、奥多摩街道を走っているとき、その南の多摩川の低地とは結構比高差があるなあ、などと思っていた。たぶんそれが崖線の流れあろう。
で、どこからスタートするか、ふと考える。地図を見る。西立川に歴史民俗資料館。奥多摩街道とも近い。そこにいけば何らか手がかりもあるか、と。とりあえず資料館にむかうことにする。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
(2009年8月の記事を移行)



本日のルート;JR青梅線・西立川>立川市歴史民俗資料館>首都大東京昭島キャンパス>郷地町交差点>奥多摩街道>歴史民俗資料館>奥多摩道路>東京都農事試験場>富士見町3丁目・富士見通りと交差>滝口橋・残掘川>残堀川筋>JR普中央線交差>普済寺>奥多摩街道>諏訪神社>多摩モノレール・柴崎体育館駅>立川公園・立川市民体育館>根川緑道>新奥多摩街道・根川橋>国道20号線・甲州街道>野球場・陸上競技場>至誠学園>甲州街道>矢川緑地公園>矢川>国立六小>甲州街道>滝野川学園>おんだし>ママ下湧水公園>石田街道>矢川(府中用水)・くにたち郷土文化舘下>ヤクルト中央研究所北>城山公園>谷保天満宮>立川崖線樹木林下>国道20号線・国立IC>上坂橋>日新町・NEC>市川緑道(中川用水・新田川)>鎌倉街道>中央道>新田川緑道・分梅橋>分倍河原合戦碑>中央道交差>京王線・分倍河原駅

青梅線・西立川駅
青梅線・西立川で下車。駅の北は昭和記念公園。むかしの米軍の基地跡。そのまた昔は陸軍の飛行場があった、とか。駅を南に進む。途中、首都大学東京昭島キャンパス。昔の都立短大ではなかろうか。仕事で来たことがあるような、ないような。

奥多摩道路

その脇を通り、しばらく進むと奥多摩道路。EZナビに従い細路を進む。お寺の塀。常楽院。その先は崖下。ガイドでは、「ここ」だとのたまうのだが、それらしき建物はなし。ナビを切り、奥多摩街道に戻ったり、またまたお寺方面に戻ったりと、あたりをうろうろ。
どうも崖下ではなかろうか、と降り口を探す。家庭菜園といった趣の畑地の脇に細い下り道。成算はないのだが、とりあえず下に。車道に出る。少し西に進むと、歴史民俗資料館があった。崖の下。この崖は立川崖線であるのだが、その崖に包み込まれるように建っていた。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

歴史民俗資料館
展示室で立川の歴史・自然などのお勉強。ロビーにあったビデオも楽しんだ。記憶に残ったこととしては、このあたりは「立川氏」の勢力下にあった、こと。古社・諏訪神社が鎮座する。それと、立川って、陸軍の飛行隊、そしてその飛行場とともに発展してきた、といったこと。陸軍飛行第五連隊が駐屯し、大正11年から終戦まで、「空の都 立川」の代名詞でもあった。
で、例によっていくつか資料購入。
買い求めた「歴史と文化の散歩道」をもとに、本日のルートを考える。基本的には立川崖線に沿って分倍河原方面に向かう。これは基本。が、途中、立川氏舘跡に。そこからしばらく崖線を離れ、諏訪神社に。それから再び崖線に戻る。多摩川傍の「日野の渡し」に。しばらく崖線に沿って進み、日野に下る甲州街道を越えたところで、再び崖線を離れ清流・矢川の源流点である矢川緑地保存地域に。そこからしばらく矢川にそって下る。いくつかの湧水点を楽しみ、先回歩いた青柳崖線近くを進み保谷天神に。そこで、ふたたび立川崖線に戻り、後は府中に向かって崖下を歩く、といった段取りとする。

奥多摩街道

さてと、出発。資料館を離れ、崖下を少し進む。如何にも湧水、といった池を見やりながら、坂道をのぼり奥多摩街道に戻る。崖上の道を東に向かう。東京都農事試験場前を進み、富士見3丁目交差点で富士見通りと交差。奥多摩街道は車の通りが多い。トラックの風圧に結構怖い思いをしながら滝口橋で残堀川を渡る。

残堀川
残堀川って、いつだったか玉川上水を歩いていたとき出会った。西部拝島線の武蔵砂川駅の近く。記憶では交差する用水上を「立体交差」していたように思う。
残堀川は、瑞穂町箱根ヶ崎の狭山池から流れ出し、立川市柴崎町の立日橋付近で多摩川に注ぎこむ。狭山池助水とも呼ばれるように、残堀川はもともと玉川上水に水を注いでいたのだが、明治になって残堀川が汚れてきた。ために、玉川用水と切り離すべく、工事をおこない、玉川用水が残堀川の下を潜らせた、と。

残堀川脇を進む

奥多摩道路から残堀川筋に下る道を探す。しばらく進むと下りの道筋。残堀川脇に出る。西を見ると、さきほどの滝口橋から南に下った残堀川が、その下で直角に曲がっている。人工の川筋ならではの流路。
川に沿って東に進む。JR中央線と交差。地図ではJR中央線を越えるとすぐに立川氏の館跡である普済寺なのだけれど、石垣が続くだけで、上にのぼる道がない。結構東に持っていかれた。

普済寺
根川緑道がはじまるあたりから、川筋からのぼる道をみつけ、そこからお寺に向かって西に戻る。根川緑道は清流の続く美しい道筋。とはいうものの、湧水は高度処理された下水である。
普済寺。中世に武蔵七党と呼ばれた西党の一族、立川氏の館跡。平安初期に立川二郎宗恒が地頭としてこの地に来た。それ以前の立川は、20戸程度の寒村に過ぎなかった、と。その後小田原北条に仕えるも、秀吉の小田原攻めのとき、八王子城の落城とともに滅んだ。
境内には国宝六面石幢。場所を探していると、丁度通りかかった和尚さんに道を案内して頂く。感謝。厳重にガードされたお堂の中に格納されていた。崖上から多摩川を見下ろし次の目的地、諏訪神社に向かう。

諏訪神社

諏訪神社。弘仁2年(811)に信州の諏訪大社から勧進された立川最古の神社。「お諏訪さん」として親しまれている。本殿は新しい。平成6年に火災に遭い新しく再建された、と。

多摩モノレール・柴崎体育館駅
神社を離れ、次の目的地・多摩の渡しの跡に向かう。住宅街を進み、多摩モノレール・柴崎体育館駅に。このあたりで再び立川崖線に戻る。

旧甲州街道の道筋
立川公園と市民体育館の間を進む。体育館の東に旧甲州街道の道筋。ちょっと旧甲州街道の道筋をチェック。国立方面から西に真っ直ぐ進んできた道筋は、日野橋交差点あたりで北に向かって円を描くように湾曲し、ここ柴崎体育館あたりに続いているよう。

根川緑道旧甲州街道の道筋を南に下り、根川緑道を越え、新奥多摩街道をわたる。新奥多摩街道、って西に向かって進んできた甲州街道が日野橋に向かって南にくだる交差点を、そのまま西に進む道筋。

日野の渡し碑
新奥多摩街道を越え、下水処理場に沿って南に進むと「日野の渡し碑」。「日野の渡し」は、現在の「立日橋」のあたり、立川の柴崎と日野を結んでいた渡し。大正時代に日野橋ができるまで、高遠藩・高島藩・飯田藩といった三大名家、甲府勤番、そして庶民がこの渡しを利用していた、と。ちなみに渡し賃は、馬と人は別途徴収。僧侶、武家は無料であった、という。

甲州街道
下水処理場の南を、ぐるっと廻る。日野橋に下る甲州街道に。甲州街道を越えると野球場・陸上競技場。根川緑道は落ち着いたいい雰囲気。

根川貝殻坂橋

陸上競技場を過ぎると、「根川貝殻坂橋」に。吊橋を模したスタイル。案内によれば、「貝殻坂橋」の名前の由来は、「万願寺の渡し」にある、と。この万願寺の渡し、って先ほど見た、日野の渡しが出来る前に遣われていた多摩川の渡し。甲州街道を進んできた旅人は、国立市青柳で段丘を下り、国立市石田から多摩川を渡り日野市の万願寺に渡っていた。その段丘を下る坂道に多くの貝殻が
出てきた、と。ために、貝殻坂と呼ばれた。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

矢川緑地公園
次の目的地は矢川緑地公園。橋を渡り、崖線を上る。このあたりは国立との市境。甲州街道まで進み、至誠学園のあたりで甲州街道を北にわたる。立川と国立の境を道なりに北にすすむと矢川緑地公園。緑地公園のある羽衣町は立川市となっている。緑地の西を台地にのぼる道筋から矢川緑地を眺める。湿地帯が美しい。台地下にもどり、緑地入口から木道のかけられた湿地に入る。水が湧き出る、というだけで、それだけで結構うれしい。この景色を楽しめただけで本日の散歩は大いに満足。

矢川に沿って甲州街道に
湿地を進み、湧水の水を集め清流として下る矢川に沿って歩く。ひたすら川筋に沿って進む。水草の生い茂る川面が美しい。国立六小前には、児童が育てる「ほたる」の飼育湿地もあった。
甲州街道手前には五智如来。先に進み甲州街道を再び越え、さらに川筋に沿って進む。

矢川は滝野川学園の敷地に
川は滝野川学園の敷地に入っていく。立ち入り禁止、かとおもったのだが、川脇にかすかな踏み分け道。先に進めそう。ほとんど敷地といった川筋を進む。森に囲まれたまことにいい雰囲気。

「おんだし」

学園敷地の森を抜ける。前方に中央高速が見える。水田のあぜ道といった道筋を進むと川はT字に合流。西から流れていた府中用水であろう。ということは、ここは「おんだし」。押し出し、と表記されるようであるので、「矢川の水が府中用水に勢いよく流れ込んださまを表したものであろう、か。
「おんだし」部分の川幅は結構広い。さすがにT字交差の用水を飛び越えることはできない。仕方なく、森のほうに引き返す。
矢川の流れの横にもうひとつ水路。森の手前から西のほうに伸びている。これって、「ママ下湧水」からの流であろう。ということで、矢川から「ママ下湧水」の水路にルート変更。



ママ下湧水
なんとか流れを飛び越え、流路にそって遡る。しばらくすすむと「ママ下湧水」。「ママ」って、「ハケ」とか「ハッケ」とも呼ばれる崖線のこと。崖下から、水が湧き出ている。結構な量。これほど勢いよく湧き出る水はあまりみたことがない。感激。感慨をもって崖線を眺め、また崖線を上ったり下りたり、しばし幸福な時を過ごす。

府中用水「ママ下湧水」を離れ、府中用水に沿って進む。先ほど歩いた矢川との合流T字路・「おんだし」に。水草の美しい流れ、矢川の名前の由来ともなった「矢のように速い流れ」そのものの水量。勢いのある澄んだ流れは心地よい。少し進むと先回「くにたち郷土文化館」に行く時通った道と交差。すこし北のほうに崖地が見える。青柳崖線。先日は、あの崖下の細流・せせらぎの小道、を辿ったなあ、などと思いにふける。
府中用水の流れにそって進む。ヤクルト中央研究所の手前で流れは南に。最後まで流れの行く末を見届けたいのだが、それよりなにより本日の散歩の目的は立川崖線を歩くこと。谷保天神のところで立川崖線が青柳崖線と合流する、ということであるので、北に歩をとる。

青柳崖線下を谷保天神に
ヤクルト中央研究所のフェンスに沿って青柳崖線下に向かう。細流・せせらぎの小道にかかる木橋を眺め先に進む。城山公園から谷保天神へと、勝手知ったる道筋を進む。谷保天神では先回見逃した「常盤の清水」に訪れ、しばし休憩。「ママ下湧水」ほどの勢いはない
ものの、「湧水」というだけで有難く思う。

上坂橋から日新町に

谷保天神を離れ、立川崖線に沿って進む。樹木林が生い茂る。崖下の道を進む。細流は府中用水、かと。国道20号線・国立ICとの道路。道路手前の崖線上には「下谷保遺跡」。螺旋階段を上り、国立ICへの道を越え、再び螺旋階段を下る。
崖線に沿って進む。崖線上には谷保東方横穴墓とか谷保東方遺跡。上坂橋を過ぎると日新町。NECの工場がある。このあたりから府中用水水は「市川緑道」と名前が変わっている。

市川緑道

市川緑道を進むと、今度はいつのまにか新田川の緑道となっていた。府中用水って市川とは新田川などと、場所によって呼び名が異なっているよう、だ。

鎌倉街道

しばらく進むと鎌倉街道。ここで、分倍河原の駅に向かおうか、などとも思ったのだが、なんとなく、昨
年だったか、多摩から分倍河原に向ってあるいた
ときに出会った、分倍河原合戦の碑を見ておきたくなった。新田川緑道脇にあったように思う。

分倍河原合戦の碑

街道を越え中央道の下をくぐり緑道を進むと分梅橋。分倍河原合戦の碑があった。分倍河原の合戦。新田義貞と北条軍の戦闘。緒戦新田軍不利。その際、武蔵の国分寺など焼失。が、翌日、陣容を立て直し、北条軍を破り鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼすことになる。

京王線・分倍河原


道を北に進み、ロータリーっぽい交差点。御猟場道と分梅通の交差点。分倍=分梅の由来が書いてある。「新田義貞が梅を兜につけて進軍したという逸話に由来する『分梅町』から取られた」、と。
とはいうものの分梅町って名前は近世になってから、とのことではあるし、なんとなくしっくりこない。また、「多摩川の氾濫により収穫が少ないので、口分田を倍に給した所であったため『分倍(陪)』や『分配』と呼ばれていた」との説もある。が、これといった定説はないようである。脇道を進み京王線・分倍河原の駅に到着。本日の予定終了とする。   

京王線の駅で何げなくポスターを見ていた。府中郷土の森博物館で宮本常一さんの展示がある、と。民俗学者。とはいうものの、ひたすらに日本各地を歩き回った、といった断片的なことしか知らない。いい機会でもあるので宮本常一さんの業績・人生の一端にでも触れるべし、ということで、府中散歩にでかけることに。

地図を眺めていると、郷土の森博物館から6キロ程度西の国立に、城山公園とか「くにたち郷土文化舘」のマーク。距離も丁度いい。郷土館のあとは、府中から国立に歩くことにした。
(2009年9月の記事を移行)



本日のルート;京王線・分倍河原駅>南武線に沿って東に>かえで通り>税務署前>本町西・中央高速と交差>新田側緑道>郷土の森博物館>多摩川堤通り・府中多摩川かぜの道>県道18号線・関戸橋北(鎌倉街道)>京王線交差>府中四谷橋>石田大橋>100m程度で北に>泉地区>中央高速交差>南養寺南・くにたち郷土文化舘>青柳河岸段丘ハケの道>谷保地区・城山公園>浄水公園>厳島神社・谷保天満宮>国道20号線・甲州街道>南武線・谷保駅

京王線分倍河原駅

京王線に乗り分倍河原に。いつだったか、この駅の北にある高安寺に訪れたことがある。平安時代に俵藤太こと藤原秀郷が開いた見性寺がはじまり。俵藤太って、子供の頃「むかで退治」の物語を読んだことがある。また、先般の平将門散歩のときにメモしたように、将門を討伐した武将でもあった。
この見性寺、義経・弁慶主従も足を止めている。頼朝の怒りを解くべく、赦免祈願の大般若経を写した「弁慶硯の井」跡が残る。南北朝期には新田義貞が本陣を構える。戦乱の巷炎上し荒廃。室町期にはいり、足利尊氏が高安護国寺として開基。関東管領上杉憲実討伐のため鎌倉公方・足利持氏がここに陣を構えている。永享の乱のことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
また、足利成氏のこもるこの寺に攻め込んだ上杉軍を成氏が破っている。享徳の乱における「分倍河原の合戦」のことである。その後も鎌倉街道の要衝の地ゆえに、上杉・後北条軍の拠点として戦乱の舞台となる。で、度々の戦乱で荒廃し、江戸期に復興され現在に至る。

駅を下り、南武線に沿って東に100mほど進む。けやき通りを南に折れる。けやき、って府中市の市の木だったか、と。ちなみに市の花は梅。南に進む。税務署前交差点を越え、本町西で中央高速と交差。

新田川緑道

先に進むと新田川緑道に。分倍河原って、新田義貞と北条軍が争った分倍河原の合戦の地。新田川の名前の由来は新田義貞からきているものであろう、と思っていた。が、どうもそうではないらしい。読みも「しんでんがわ」。江戸時代の新田開墾に由来する、とか。

郷土の森博物館

新田川緑道に沿って、東南にくだる。緑の中に「郷土の森博物館」はある。入口で入場料200円を払って館内に。単に郷土館があるだけではなく、昔の民家などの復元建築物や水遊びの場所といった施設もある。

宮本常一さん

展示ホールに。「宮本常一生誕100年記念事業;宮本常一の足跡」という特別展示が行われていた。入口で宮本常一氏の足跡をたどった30分のビデオ放映。大雑把にまとめる;広島県の瀬戸内に浮かぶ周防大島の生まれ。教師になるべく、大阪の高等師範学校に。徴兵で大阪の8連隊に入営。
8連隊といえば、子供の頃父親に「大阪の8連隊はあまり強くなく、また負けたか8連隊」といったせりふが言われていたと、聞いたことがある。事実かどうか定かではない。ともあれ、この8連隊に入隊しているとき同期の人から民俗学のことを教わった、と。
除隊後、小学校の教員。このとき田舎の周防大島のことを書いた原稿が民俗学者・柳田國男の目にとまる。同好の士を紹介され研鑽に励む。渋沢敬三氏の突然の来訪。敬三氏は渋沢栄一の孫として、第一銀行の役員といった実業界での要職とともに、民俗学者としても活躍。宮本氏は渋沢敬三氏の援助もあり、大阪から東京に上京。敬三氏の邸内のアチック(屋根裏部屋)・ミュウジアム、後の「常民文化研究所」の研究員となる。

宮本常一は旅する民俗学者として有名。生涯に歩いた距離は16万キロにもおよぶという。全国各地を旅し、フィールドワークを行い、地元の古老から聞き書きをし、貴重な記録をまとめあげる。著作物も刊行し、実績もあげる。が、第二次世界大戦。渋沢邸も焼け、大阪の自宅も焼失。膨大な量のノートが消え去ったと。戦後は民俗学者というだけでなく、農林振興・離島振興に尽力。また、佐渡の鬼太鼓座とか周防の猿まわしといった芸能の復活にも尽力した。

後半生は武蔵野美術大学の教授、日本観光文化研究所(近畿日本ツーリスト)の所長として後身の育成に努める。ちなみに、研究所発行の月刊誌『あるくみるきく』のサンプルにおおいに惹かれる。どこかで実物を手に入れたい。
で、宮本氏と府中との関係は、昭和36年からなくなるまでの20年、自宅を府中に置いたこと。また、郷土の森博物館の建設計画にも参与した、と。著作物には『忘れられた日本人』など多数。未来社から『宮本常一著作集』が現在まで50巻刊行。すべてをカバーすると100巻にもなるという。

素敵なる人物でありました。歴史学者・網野善彦さんも『忘れられた日本人』についての評論を書いている。30分の紹介ビデオでも網野さんからの宮本常一さんに対するオマージュといったコメントもなされていた。
網野さんは『無縁・苦界・楽;平凡社』以来のファン。網野さんが大いに「良し」とする人物であれば本物に違いない。更に惹かれる。ちなみに網野さんは宗教学者の中澤新一さんの叔父さんにあたる。その交流は『ぼくのおじさん;集英社』に詳しい。

特別展示を眺め、関連図書を購入。買い求めた『忘れられた日本人を旅する;宮本常一の軌跡;木村哲也(河出書房新社)』を、帰りの電車で読んでいると、その本文に司馬遼太郎さんの宮本常一さんに対するコメントがあった;「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河をこの人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います」、と。折に触れ著作物を読んでみたい。手始めに『忘れられた日本人』『塩の道』あたりを購入しよう。

多摩川堤「府中多摩川かぜの道」

2階の常設展示会場を眺め、博物館を離れ多摩川堤に。次の目的地である国立の城山(じょうやま)公園には、この堤防上の遊歩道・「府中多摩川かぜの道」を辿ることにする。距離はおよそ6キロ強、といったところ。
実のところ、先日の秩父の山歩きで膝を少々痛めていた。今週はアップダウンのある地域への散歩は控えるべし。ということで、この平坦な遊歩道は丁度いい。唯一の「怖さ」はサイクリング車。高性能の自転車なのだろうが、すごいスピードで走ってくる。それも半端な数ではない。「歩行者優先。自転車スピード注意」と路面に表示してはあるが、あまり効き目なし。こんな気持ちのいいサイクリングロード。飛ばす気持ちはよくわかる。

川の南に多摩の丘陵

川の南に聳える多摩の丘陵を意識しながら堤を進む。博物館の対岸の丘陵は多摩市・連光寺あたり。明治天皇行御幸の地とか小野小町の碑がある、と。乞田川が多摩川に合流している。後方、東方向に見える鉄道橋は武蔵野貨物線と南武線。先日南武線の南多摩駅で下り、城山公園をへて向陽台に向かったことを思い出した。城山は大丸城があった、というが、城主などはわかっていない。城山公園から西に続く広大な丘陵は米軍多摩レクリエーションセンターであろう。フェンスに沿って山道を城跡のある山頂までのぼっていったことが懐かしい。

関戸橋

1キロ程度西に進むと関戸橋。関戸橋の南は乞田川によって分けられた谷地。乞田川(こったかわ)は多摩市唐木田が源流。唐木田駅近くの鶴牧西公園あたりまでは水路を確認できるが、それより上流は暗渠となっている。
乞田川によって開析されたこの道筋は多摩センターに続く。鎌倉街道上道と言われている。関戸5丁目と6丁目の熊野神社のところに霞ヶ関という関所があった。新田義貞と北条軍が戦った古戦場跡でもある。世に言う関戸合戦である。

関戸の小野神社に想いを馳せる

多摩川堤を少し西に進むと京王線と交差。対岸は関戸地区。関戸の渡しのあったところ。鎌倉街道の関戸と中河原を結んでいた。昭和12年の関戸橋の開通まで村の経営で運営されていた、と。
その少し東は一ノ宮。小野神社が鎮座する。古来、武蔵一の宮と称される古社。とはいうものの、先日歩いた埼玉・大宮の氷川神社も武蔵一の宮。大宮のほうが格段に規模も大きい。この小野神社はそれなりに大きいとはいうものの、氷川神社に比すべくもない。
どちらが「本家」という「元祖」一の宮かと、いろいろ説明されている。武蔵国成立時、それまでの中心地であった大宮を牽制すべく府中に国府を置き、国府に近い小野神社を一の宮とした、といった説もある。氷川神社に代表される出雲系氏族を押える大和朝廷の宗教政策、とも考えられるが、これは私の勝手な解釈。こ れといった定説は聞いていない。
もっとも、一ノ宮って、公的な資格といたものではなく、いわば、言ったもの勝ち、といったもののようだ。なにがしか、周囲が納得できる、「なにか」があれば、それで「一ノ宮」たり得た、とか。
小野神社の祭神は秩父国造と大いに関係がある。これは小野氏が秩父牧の牧司であったため。武蔵守に任官してこの地に来るときに秩父神社の祭神をこの地にもたらしたのではないか、と。ともあれ秩父と府中を結ぶつよいきずながあった、よう。大国魂神社も含めそのうちにちゃんと調べてみたい。

府中・四谷橋
更に西に1キロ程度進むと「府中・四谷橋」。国立・府中インターで下り、多摩センターのベネッセさんに行くときに通る道。その東は百草園。
いつだったか高幡不動から分倍河原に向かって歩いたとき、程久保川に沿って進んだ道筋。淺川も合流しており、川筋も広くこころもち、野趣豊かな風情である。ほどなく「石田大橋」。府中・四谷橋から2キロ程度の距離だった。

程久保川は日野市程久保の湧水を源流とし、多摩動物公園とか高幡不動の前を通り多摩川に合流する4キロ程度の川。古い名前が「谷戸川」。名前の通り、河岸段丘を穿って里山に谷戸とか谷津とよばれる谷地を形成していた、と。淺川は陣場山あたりを源流とする全長30キロ強の河川である。流路の長さに比して川床が高かったよう。ために氾濫を頻発する暴れ川であった、とか。川床が高かったことが、「浅川」と関係あるのかも?

国道20号線・日野バイパス

国道20号線・日野バイパスの通る「石田大橋」を越え、100mほど進み北に折れる。先日、娘の陸上競技会の応援で甲府に。帰路中央高速が渋滞し、甲州街道をのんびりと戻ってきたのだが、八王子の先、日野バイパスに出た。昔は、甲州街道を豊田・日野、そして多摩川をわたり、といった大騒動であったが、このバイパスだと、一挙に国立インター近くに。便利になりました。

くにたち郷土文化舘

しばらく進み、中央高速下をくぐると行く手に森の緑。これは南養寺の森。くにたち郷土文化舘はこの森の南端にある。森の端にそって東に進む。入口脇には近辺のハイキングコースをまとめた資料など用意されていた。助かる。
常設展示は半地下。デザイナーマンションならぬ、デザイナー郷土館といった特徴ある建物。常設展示場でビデオ放映を眺め、国立のあれこれを頭に入れる。
印象に残ったのは、このあたりの地形。武蔵野段丘、立川段丘、青柳段丘といった河岸段丘が並ぶ。河岸段丘とは階段状の地形のこと。河川の中流域や下流域に沿って形成される。当たり前か。階段状という意味合いは、平坦地である段丘面と崖の部分である段丘崖が形成されている、ということ。段丘崖の下には湧水が多いのは、国分寺崖線散歩で見たとおり。

地形について
地形についてちょっとおさらい。武蔵野段丘面の崖の部分が国分寺崖線。崖に沿って野川が流れる。この野川が流れる平地が立川段丘面。その崖の部分が立川崖線。その崖下を流れるのが矢川。そこは青柳段丘面。「くにたち郷土文化舘」はこの青柳段丘面の端。青柳段丘崖の近くにある。下には湧水が流れる、川というほどではないようだ。で、そこから多摩川にかけて沖積面が広がっている。
ということで、文化舘を離れ、崖線下の湧水に沿って先に進むことにする。この細流は矢川の支流のような気がする。矢川の源流はすこし北、南武線・西国立駅近くの矢川緑地あたりの湧水を集め、国立市外を流れ府中用水に合流。およそ1.5キロ程度の川である。

崖線下の湧水路に沿って城山公園に

崖線下の湧水路に沿って進む。崖線のことは「ハケ」と呼ばれる。中野の落合のあたりでは「バッケ」と呼ばれていた。また、このあたりでは「ママ」とも呼ばれるようである。本来であれば多摩川への沖積低地がひろがるはず、ではあるが、南は中央高速に遮られ、いまひとつ見通しはよくない。

城山公園
崖面を意識しながら進む。湧水路の上には木道が整備されている。細流である。ハケ下の道をしばらく進む。ヤクルト中央研究所の裏手を通る。細い道筋を進むと城山公園。
鬱蒼とした森が残されている。ここは城山と呼ばれる中世の館跡。青柳段丘崖を利用してつくられた室町初期の城跡。城主は三田貞盛とも菅原道真の子孫である津戸三郎ともいわれるが、定説はない。しばし森を歩き、次の目的地谷保天満宮に向かう。

城山公園を離れると、すこし景色が広がる。田畑が目につく。南に浄水公園がある、とのことだが、どれがその公園なのかよくわからない。東前方に広がる緑が谷保天満宮の鎮守の森だろう。

谷保天満宮

あたりをつけて進むと天神様の境内に。厳島神社。本殿裏手にある。弁天さまをおまつりした祠の周りは池。西側の「常盤の清水」からの湧水が境内に流れ込んでいる。天神さまのあたりは立川段丘と青柳段丘が交るあたり、とか。崖下からの遊水がこの「常盤の清水」となって湧きだしているのであろう。この清水は境内の中だけでなく、外にも流れだしている。周囲の水田の灌漑用水源としても使われたのであろう、か。

谷保天満宮は菅原道真をまつる。1000年の歴史をもち、関東最古の天神さまである。亀戸天神、湯島天神とともに関東三大天神様とも。このあたりの地名は「やほ」というが、この天神さまは「やぼ天満宮」と読む。通称「やぼてん」さまとも。「野暮天」の語源でもある。
由来は、道真が太宰府に配流になったとき、その三男道武もまた、この谷保の地に流された。わずか8歳のとき。そののち道真が亡くなったのを知り、それを悲しみ父の像を彫った、とか。が、その像があまりにあかぬけない、洒落ていない。ということで、「やぼてん>野暮天」となった、と言う。10歳の子供が彫ったわけで、あかぬけない、とは少々腑に落ちない。

また、別の説もある。この天神様のご神体を江戸の目白不動尊で出開帳することがあった。が、そのときは10月・神無月。八百万の神々が出雲に行く季節。そんなときに、江戸に出向くといった無粋なことを、と、揶揄した歌がある。「神ならば出雲の国に行くべきに 目白で開帳谷保の天神」、と。この歌に由来する、という人もいるようだが、定説はないよう。

あれあれ、鳥居が本殿より上にある??

本殿におまいり。もともとは多摩川の中州にあった。菅原道武が自ら彫った「野暮な」像を天神島にまつっていたようだが、後世、道武の子孫・津戸為盛がこの地に写した。あれあれ、鳥居が本殿より上にある。石段をのぼり、表大門に向かう。出たところは甲州街道。なんとなくしっくりこない。
チェックした。ことは簡単。昔の甲州街道は本殿より南にあった、ということ。新道ができたとき参拝の便宜をはかり現在の甲州街道沿いに表大門を設けたのであろう。

谷保の由来
メ モし忘れたのだが、谷保の由来。これは、文字通り「谷を保つ=谷を大切に守る」といった意味。段丘上にできた小さな谷地、谷上をなした湿地帯にその豊かな環境ゆえに人々が住み着いた。その環境の「有難さゆえ」にその環境を守るって地名にしたのだろう、か。別の説もある。谷地には違いないのだが、谷が八つあった。その八つの谷を守る、という意味で「八ツ保」、それが転化して「八保>谷保」との説である。はてさて。

南武線・谷保駅
今日の予定はここまで。甲州街道を越え、南武線・谷保駅まで歩き、分倍河原まで戻り、一路家路へと急ぐ。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク