2013年4月アーカイブ

田舎の愛媛に帰省した折に、敬愛するS先生に教えて頂いた徳島の忌部神社を辿ることにした。忌部神社を祀る古代有力氏族である忌部氏について、特段の興味・関心があるわけではないのだが、偶然ではあるが最近の散歩で忌部氏ゆかりの地を訪れていたこともあり、また、それ以上に、S先生の興味・関心があるトピックであれば、なんらかの新しい驚きに出遭えるだろうとの期待をもって忌部神社を訪れることにしたわけである。

で、最近の散歩で訪れた忌部氏ゆかりの地は出雲と下総。出雲のゆかりの地は玉造温泉で出会った玉作湯神社。昨年の神在月、全国津々浦々の神々を迎える神在祭に訪れた旅の道すがら、家族の希望で立ち寄ったもの。その神社は出雲玉作氏の祖である櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)ゆかりの神社であり、その櫛明玉命とは、忌部氏の祖である天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に随従した五柱(五部の神)のひとりである。
「玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事した」と伝わる。攻玉技術をもって勾玉などの調製にあたっていた出雲の玉作部の人々は出雲の忌部の一族であった。
次いで、下総の忌部氏ゆかりの地は下総そのもの。つい最近、守谷や取手など下総相馬の地に、将門の旧跡を辿ったわけだが、その下総の地の名前の由来について『古語拾遺』には、「天富命、さらに沃壌を求め、阿波の斎部(いつきべ)を分かち。東国に率い行き、麻穀を播殖す。好麻の生ずるところ、故にこれを総国という。穀木(かじき;ゆうのき)の生ずるところ、故にこれを結城郡という。故語に麻を総というなり、今の上総下総の二国これなり」と言う。『古語拾遺』は忌部氏の後裔である斎部広成が著したものであり、斎部とは忌部と同義、天富命とは天太玉命の孫と伝わる。

で、S先生にお教えいただいた阿波の忌部氏であるが、出雲の櫛明玉命と同じく、忌部氏の祖である天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」をその祖とする。天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始したと伝わる。で、何故に、穀木(かじ)麻を植えることが製紙・製麻・紡織の諸業を創始であるのか?チェックすると、麻や穀(楮)は、木綿(もめん)が日本に伝わる以前の糸・布・紙の原料。そこからつくられた原料のことを「木綿(ゆう)」と呼ばれ、布を織り、神事の幣帛や紙垂などに使われたようである。
この「天日鷲命」、天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の岩戸開きに大きな功績を挙げた、と伝説に言う。天日鷲命の神名も天照大御神が岩戸から出てきて世に光が戻ったとき、寿ぐ琴に鷲が止まったことに由来する、とも。

斯くの如き、当時の民の世界においてもその生活基盤技術の創始者であり、また神々の世界にあっても赫々たる実績を挙げた神故か、阿波の忌部氏の祖神である天日鷲命は、天太玉命の率いる五柱のうちの第一の随神に挙げられる。そしてまた、その「第一に挙げられる神」の子孫故のことであろうか、阿波の麻殖(植)郡(おえ)郡に拠点を置く忌部氏については、単に地方の有力氏族というだけでなく、古代世界におけるその位置づけについて、諸説あるようだ。
通説では、忌部氏の本宮は奈良県樫原町忌部町にある天太玉神社(あめのふとたま)とされ、そこから各地方へ忌部氏が下って行ったとされる。それに対し、中央・地方の忌部は阿波忌部がその母体となっており、阿波忌部の全国進出とあわせて技術と文化の伝播をもたらした。つまりはヤマト王権も阿波忌部がその成立を支えた。こうした阿波忌部の起点となるのは麻植郡であるとするから、いうなれば麻植郡は日本そのものの発祥の地である、といったものである。
阿波忌部氏が大和から下った一派なのか、林博章氏がその著『日本の建国と阿波忌部』で主張するように、阿波忌部氏がヤマトを支え日本をつくりあげた氏族なのか私のような門外漢にはわからないし、また、つい最近読んだ梅原猛氏がその著である『葬られた王朝』において、数十年前、同氏が著した『神々の流竄』と真逆の論を展開していたわけだが、その論拠は、前著書の大前提を覆すような決定的証拠(発掘・発見)などがその後発見・発掘されたことによる、と。阿波忌部氏に関しても、そのうちにどちらかの論拠を決定づけるエビデンスが出てくるのではと、少々クールなスタンスで阿波忌部を想いながらの散歩とする。

斯くの如き論争はさておき、古代日本で重要な役割を果たした阿波忌部氏が祀る社が如何なるものかと社を巡るルートをつくろうと。が、徳島のどこにあるのかも見当もつかない。あれこれ検索で調べると、徳島市内と吉野川市、そして美馬郡つるぎ町にそれらしき社が見つかった。名称は忌部神社であったり、種穂神社であったり、御所(五所)神社であったりと、結構場所の特定に手間がかかったが、ピックアップしたこれらの社の内、徳島市内の社は除外することにした。その理由は、明治になり、忌部神社の本家本元(延喜式内社)を巡る争いが激しく、その妥協の産物として造られた社が徳島市内の社である、ということから。ということで、今回の阿波の忌部神社は吉野川市にある忌部神社(山川町忌部山)と種穂神社山川町川田忌部山)の2社と美馬郡つるぎ町の忌部(御所)神社の合計3社を辿ることにした。
これら3社、明治に本家本元(延喜式内社)を争った社と言うだけでなく、江戸の頃にも結構激しい本家本元争いを展開している。その主因は由緒正しきと言った正当性だけでなく、その正当性故に明治は国家から「補助金」を、江戸は藩から「社地」を得られるといった経済的メリットもありそうである。神職にはあるまじき、とは言いながら、下手なドラマより面白い、と言ったら少々不敬にあたるか、とも感じるが、それほどドラマティックな争いを起こしている。
通常、成り行き任せで事前準備無しの散歩を基本とするのだが、今回は辿るべき神社を特定するために、事前にあれこれ調べた結果、散歩の前に上にメモしたような正蹟論争など、ある程度の情報を得ることになり、結果、イントロが少々長くなってしまった。ともあれ、そろそろ忌部神社散歩のメモをはじめる。



本日のルート;
■徳島線・山瀬駅>山崎忌部神社>聖天寺>黒岩遺跡>立石>忌部山古墳>青樹杜の立石>玖奴師神社>岩戸神社
■種穂山>種穂忌部神社>のぞき岩
■つるぎ町貞光>吉良堂>東福寺>貞光忌部神社(御所神社)

吉野川
当初、列車とバスを乗り継いで、などとお気楽に考えていたのだが、事前準備により、列車とバスを乗り継いで1日で3社をカバーすることなど、とてものこと無理とわかり、レンタカーを借りて愛媛県新居浜市から徳島県吉野川市に向かう。
松山自動車道を西に向かい、川之江ジャンクションで高知自動車道に乗り替え、ほどなく川之江東ジャンクションで徳島自動車道に入る。その先はトンネルを3つほど抜け、徳島道は吉野川を渡る。

吉野川は四国山地西部の石鎚山系にある瓶ヶ森(標高1896m)にその源を発し、御荷鉾(みかぶ)構造線の「溝」に沿って東流し、高知県長岡郡大豊町でその流路を北に向ける。そこから四国山地の「溝」を北流し、三好市山城町で吉野川水系銅山川を合わせ、昔の三好郡池田町、現在の三好市池田町に至り、その地で再び流路を東に向け、中央地溝帯に沿って徳島市に向かって東流し紀伊水道に注ぐ。本州の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並び称され、四国三郎とも呼ばれる幹線流路194キロにも及ぶ堂々たる大河である。

その大河故のことではあろうが、吉野川水系の水を巡る四国四県の水争いには江戸時代からの長い歴史がある。香川、愛媛、高知県は吉野川からの分水を求めるわけだが、吉野川によって洪水の被害を受けるのは徳島だけであり、また、ただでさえ季節によって流量の変化が激しく、水量の安定確保が困難な吉野川からの分水を徳島は容易に認められない、ということである。
この各県の利害を調整し計画されたのが吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水を図るもの。高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムや新宮ダムから法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。
そして、池田町には池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、そこから讃岐平野に分水。徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注いでいる。総延長70キロにもおよぶこの用水は、第二の吉野川とも呼ばれているようである。 早明浦ダムはテレビのニュースで四国の水不足のバロメーターとして、つまりは「四国の水瓶」として報道される。池田ダムは、かつて徳島道もないときには吉野川を渡った後、国道は吉野川の南岸を進み池田の町を抜けていたのだが、その途中に池田ダムがあった。当時は、そのダムは吉野川の洪水対策の水量調整の役割でも、と思っていたのだが、早明浦ダムも含め、もっとスケールの大きな計画の「装置」の一つであったわけだ。ついでのことながら、池田の地名の由来は現在は大半が埋め立てられ総合体育館が建っているところに古池という大きな池があった、ためとのこと。

徳島線・山瀬駅
徳島道は池田ダムを見ることもなく池田の町並の南をトンネルで抜け、町の東端で吉野川の南岸に出る。徳島道は井川町の辺りで吉野川北岸に移り、脇町インターチェンジで高速を下りる。高速を下り、国道193号を南に下り、吉野川を渡り、吉野川を渡り切ったところで国道192号に乗り換え、吉野川南岸を進み、最初の目的地である山川忌部神社の最寄りの駅・徳島線山瀬駅に。駅に行けば神社までの案内でもあろうかと駅に行ったわけだが、無人の駅には何の案内もなく、少々途方に暮れる。と、カーナビを見ると忌部神社が載っている。迷うことなく地点をマークし、ナビに従うことに、とはいうものの、耕地の農道と思しき道を車が通れるものか、ハラハラものである。

山崎忌部神社
山川町忌部、山川町岩戸といった如何にも「忌部氏」ゆかりの地といった地名の耕地の農道を進み山裾に。道は山へと続くようなので、こわごわではあるが車を進めるとあっという間に忌部神社に着いてしまった。
道脇に車を停め、車道から神社に向かうのだが、古代有力氏族である忌部氏ゆかりの神社、とか、文治元年(1185)屋島の戦いに際して源義経や那須与一が戦勝祈願に太刀や弓矢を奉納したとか、文治3年(1187)源頼朝が田畑1000町を寄進した、と言った古式ゆかしき趣は全くない。第一印象は、これが忌部神社?といったものであった。社殿もそれほど古いものでもない。記録をチェックすると昭和43年(1968)に鉄筋造りの社となった、とか。もっとも、参道は山裾より石段を上るわけであり、そのアプローチであれば、少々印象は変わった、かとも。
社殿脇の案内によると、「当社の祭神は天日鷲命・神言筥女命・天太玉命・神比理能売命・津作具命・長白羽命・由布州主命・衣織比女命である、往時には黒岩と呼ばれる所にあったが応永12年(1396)秋の地震で社地が崩れ、現地に祀られるようになったと言われる。忌部神社については延喜神名帳にも記載されており明治4年(1871)には国幣中社として列せられているが其の正跡については神社間に論争もあるが忌部神社正跡考の研究資料、かく方面からの考察によってみても忌部神社の正跡は山崎の地であることは先ず正しいと考えられる。大正・昭和大嘗祭にはこの境内に識殿を建て、荒妙を織って貢進した事績や裏山一体の忌部山には古墳を始め数多くの歴史的事績を蔵している」とある。
忌部神社の正蹟論争は、どの社もその正当性を唱えるだろうから、本日の3社を巡った後にメモすることにして、ここで気になった「荒妙(あらたえ)」の貢進のことをチェックする。 「荒妙(あらたえ)」とは「麁服(布)」とも表記され、天皇が即位後初めて行う大嘗祭(だいじょうさい;おおにえのまつり;稲の初穂を祖神に供える儀式)に供される布・織物であるが、延長5年(927)の『延喜式』には阿波忌部が麁服や山野の産物を貢進したとの記録があるものの、その後連綿と続いたというわけではないようである。『郷土史と近代日本;由谷裕哉・時枝務編著(角川学術出版)』)の「神・天皇・地域;阿波忌部をめぐる歴史認識の展開(長谷川賢二)」によると、麁服の貢進の儀式は南北朝以降は確認できていないし、元文3年(1738)の記録には「昔の大嘗供進の麁服は必ず阿波国の忌部の織りたるを用う」とあるように、既に故実として伝えられている、と言う。
「神社の案内に大正・昭和大嘗祭には」と、さらりと流しているが、荒妙の貢進はその頃の政治的活動の賜物であり。境内に織殿を建て往昔の儀式を復活させ、忌部の地を当時の天皇中心の皇国史観をベースに地域アイデンティティの確立を図ったとの、上記書籍の説明は結構納得感が高かった。

因みにこの社が「山崎」との冠がつく由来は、昔はこの地は麻植(殖)郡山崎村と呼ばれていた、ため。そして、天日鷲命が、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始されたが故の「麻植(殖)郡」と言う由緒ある地名も、平成16年(2004)に付近の3町1村が合併し吉野川市となった。現在の通称山崎忌部神社の住所は吉野川市山川町忌部山14、ということになる。

聖天寺
忌部神社から山を上ったところに忌部古墳群がある、と言う。阿波忌部氏との関連は未だ証明されてはいないようだが、ここまで来たからにはと、ちょっと寄り道。車道から離れ道標に従って山道を進むと、森の中にお寺さまが現れる。忌部古墳群はお寺さまの脇から更に600mほど山道を進むことになるが、古池や石仏といったちょっと怖そうな雰囲気の漂うお寺様に立ち寄ることに。
境内には歓喜天を祀る社が残る。



寺の由来によると、聖天寺は金峯山寺四国別院。金峰山寺修験本宗四国別院源正山聖天寺と称し、本尊は観世音菩薩と大聖歓喜天の二體。開基は不詳ではあるが、文治元年(1185年)源頼朝公阿波國に田畑寄進ありし時、源の一字を賜りたると伝わる、と。天正年中、長曾我部氏の戦火に遭い焼失するも、宝暦三年(1753年)復興。文政元年(1818年)の頃、京都嵯峨の名刹真言宗大覚寺の別院となる。太平洋戦争後終戦後、一時無住となる為、堂の内外荒廃その極に達したが、昭和27年(1957)7月本宗に転派して今日に及んでいる」、と。

黒岩遺跡
歓喜天への石段脇にある山道を上るとほどなく黒岩遺跡の案内。忌部神社の元宮のあった処と伝わる。黒岩と称される大岩や黒岩の祠が祀られる。









その黒岩遺跡より10mほど進んだ処に真立石。案内には「真立石とは、黒岩の旧社地にあり、高さ一丈(約3m)、回り8尺(約2m)ほどの巨石。上古神社の鳥居は、2個の立石を立てたものであった、と言われ、旧忌部神社の鳥居であったと思われる。平成12年(2000)2月埋もれていた片方を掘り起こし、一対の真立石として復旧された。真偽については、今後の調査研究に待たれる」と。



忌部山古墳群
山道を進むと道脇に忌部山古墳群。印象としては、ちょっと盛り上がった塚といった ものである。聖天さんのところにあった案内によると、海抜240mの一尾根を占拠した高地にされている古墳群は6世紀ころのもの。いずれも横穴式石室をもつ古墳で、1号墳のみ小竪穴式石室があわせてもつ、と。もとは5基あったが、4基は全壊している。この古墳の特徴は玄室を隅丸(奥壁部分は奥壁と側壁の角の結合部が丸くなっている)の形に築き、天井石は持ち送り(ドーム状)となり、玄室の閉塞施設を丁寧に構築している、ことにあり、それを「忌部山型石室」と呼ぶ。昭和51年(1976)の発掘により金環、銀環、須恵器などが発掘されている」と。
1号墳を見るに、直径10mほど。石室天井部も開口している。玄室は幅1.5m弱、高さ1.5mほど、玄室長2.5mほどだろう、か。あまり古墳内部を見るのも憚られるので、早々に切り上げ、元の山道を忌部神社まで戻る。

青樹杜の立石
忌部神社まで戻り、近くに忌部神社ゆかりの遺構でもないものかとチェックすると、神社の近くの林の中に「青樹杜(あおきのもり)の立石」がある、と言う。「天日鷲命(あめのひわしのみこと)の神殿跡」とも伝えられている、とか。場所は忌部谷沿いの林の中。谷と言えば、神社に車で上りはじめてすぐ、車道が左に大きく迂回する辺りの右側に谷筋らしきものを見かけた。ということで、車で車道を下り、谷筋脇の空き地に車を停める。
忌部谷、とはいっても、幅2m弱の谷。両岸はコンクリートで護岸工事されており、とりあえず谷の西側の護岸工事のコンクリートの背の上を上流に上ってゆく。が、いくら進んでもそれらしき場所に当たらない。では、ということで、谷を飛び越え逆側に移る。衰えた体力を顧みず力任せに飛び越えたのだが、ぎりぎりセーフ。もう少しで2mほどの谷筋に落ちるところであった。
逆側に移り、目をこらして少し下ると、谷筋から少し離れた高台にそれらしき風情の場所をみつけ、そこに柵に守られた、高さ約1.5mの「立石」が祀られていた。上で掲げた『日本の建国と阿波忌部』の著者である林博章氏によると、忌部氏の鎮魂や祭事に纏わる「メンヒル」であり、忌部の遺跡を代表する貴重な文化遺産とのことである。

「玖奴師(くぬし)神社」
立石の周りを少し彷徨うと、少し奥に進んだところに小祠が祀られる場所があった。ある小祠の脇には「玖奴師(くぬし)神社」と刻まれた石碑がある。「玖奴師(くぬし)神社」は「岩戸神社(岩戸地区)」「建美神社[王子社](岩戸)」「天村雲神社(流地区)」「淤騰山神社(祗園地区)」「白山比売神社(忌部山地区)」「若宮神社(忌部山地区)」とともに、忌部神社の七摂社のひとつ。古来にはお正月15日の未明から全村あげて巡礼をするならわしがあったようではあるが、「忌部神社正積蹟考」にも、「当社は何時の世よりか、社殿も荒廃してしまい、社地もおぼろげとなり、村人でも知る人は稀で、今は路傍に石を積み、その上に僅かばかりかの小祠を建てるのみであり、路行く人は、誰も問う由もない有様で誠に恐れ多いことである」と。まさしくその通りのブッシュの中にひっそりと佇んでいた
「大国主命」を祭神とし、「山王権現(山王権現)」とも称される「玖奴師(くぬし)神社」の小祠の先にも三つの小祠があったが、社の名はわからなかった。立石様まで戻り、忌部川東岸を下ると、整備された道が道路まで続いていた。

岩戸神社

青樹杜の立石を離れ、岩戸地区にある岩戸神社に向かう。上にメモしたように、阿波忌部氏の祖である「天日鷲命」は、天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の岩戸開きに大きな功績を挙げた、と伝わるし、また、天日鷲命の神名も天照大御神が岩戸から出てきて世に光が戻ったとき、寿ぐ琴に鷲が止まったことに由来する、とも言われるわけで、それほどに忌部氏とのかかわりの深い「岩戸」を関する岩戸神社が如何なるものかと思った次第。
カーナビの指示に従い農道を岩戸神社に。山裾から少し離れた低地にささやかな鎮守の森に囲まれて岩戸神社があった。この社は忌部神社の上でメモした7摂社のひとつ。祭神は「天太玉命」とその子「天岩門別命」。
「天太玉命」は、天の岩戸にこもった天照大御神を外へ連れ出す方法を考えたオモイカネの手法が正しいかどうか、中臣氏(のちの藤原氏)の祖のアメノコヤネの命とともに占ったと伝わる。この忌部氏と中臣氏は交代で、天皇家の祭祀を司る役目をしていたが、天皇家の祭祀を司る役目が次第に中臣氏に移り、ために忌部氏は中央を離れ地方へ下った、との説もある。林博章氏がその著『日本の建国と阿波忌部』で主張するように、阿波忌部氏がヤマトを支え日本をつくりあげたと真逆の説ではある。真偽のほどは門外漢が評するに能わず。ともあれ、社殿にお参りし、神社の由来、旧社名などないものかとチェックするも特に何も、なし。境内には忌部神社摂社のひとつ「建美(けび)神社」も祀られる。
岩戸神社の南側には奇妙な形をした巨石が東西に並ぶ。案内には、「岩戸の甌穴」とある。説明によると、「吉野川はもと、湯立付近から川田川に合流し、山崎の山側を経て、川島城山の下へと流れていました。その頃岩戸付近は川底の緑泥岩が渦巻く流れの中の砂で削られたのが甌穴である。
ここの一番大きな石を神籠石と尊び、その上の甌穴の水は干ばつしても枯れないので霊水といい、この水を飲んで病気を治した」とあった。土御門上皇もこの地に来られたとき、この霊水で病を治したとも伝えられている。また、この神水を穢したときは風雨が起きると天日鷲宮縁起にも記されて、と。

巨石の西端にある神籠石は「麻笥岩(おごけ)」とも称され、忌部の大神である「天太玉命」が降臨し、麻を晒した御神体(岩座)と伝わる。伝説によれば、忌部族が麻を植え織物をつくるため石をえぐって石臼のような穴をつくり、これでついて糸にし、池(御神池とも麻晒池とも)で晒して岩上に干した「岩戸磐座遺跡」とも称されるようである。

種穂山
岩戸神社を離れ国道192号を次の目的地である種穂忌部神社に向かう。国道を山瀬駅の少し西に進むと、国道の南の山川町祇園地区に「淤騰山神社(おどやま)」神社とか、阿波山川駅の西の山川町村雲には「天村雲神社」など、記紀に登場する社名の神社もあるのだが、レンタカー返却の期間といった無粋な制約もあり、今回はパスして、一目散に種穂忌部神社へと。
とはういものの、種穂忌部神社の場所は、Google Mapには表示されず、あれこれチェックした結果、川田駅の南1キロほどの種穂山にある、というだけの情報。駅に行けども、案内もなく、結局近くの雑貨屋さんで昼のパンなどを調達しながら場所を尋ねると、駅前の通りが国道と合流する手前で南に曲がり、ホテルフレンドのところを左に曲がり、最初の交差を水路に沿って南に進めば種穂神社への山道へと続く、とのこと。
教えに従い山裾まで車を進める。が、そこから先は一車線の急坂で大きくカーブしている。こんな細路の旧坂を車で進む度胸もなく、結局急坂手前にあった廃屋のスペースに車を突っ込んで、そこから先は歩いて行くことにした。
急坂を上りはじめるとすぐに道は開け、結構快適な車道となってはいたのだが、種穂忌部神社は標高380mの種穂山に鎮座するとのことであるので、のんびりと歩いて上るのも、いいか、とも。
上りはじめるとぐるぐると道は曲がりくねり、結構時間がかかる。上るにつれて吉野川市山川町や吉野川、そしてその対岸の阿波市阿波町が眼下に広がってくる。「日智子王神社」へ、といった案内もあるが、どのような神さまなのだろうか、不詳である。
美しい眺めを楽しみながら先に進むと本殿までといった辺りに車止めがあり、車道はここまで。車止めの手前に木の杖がたくさん置いてあり、なんとなく手に取って進んだのだが、これが結構きつい坂道で木の杖が置いてあった理由が後になってわかった。

種穂忌部神社
結構きつい思いしながらやっと種穂忌部神社に到着。鉄筋建ての山崎忌部神社と異なり、それなりの趣はある。社殿脇の案内には「祭神は天日鷲命、天太玉命、栲機千々姫命、津咋命、長白羽命が祀られる。享保3年(1743)の「神社帳」には、種穂神社は、もと多那穂大権現と称したが、多那穂忌部神社、種穂忌部神社と改めたと記されている。これは、この神社が忌部族と深い関係があるからで、ここを忌部本宮と定めている。また。「川田村名跡史」にも、ここを本来の忌部神社としている。
昔は、川田、川田山、拝村(穴吹町)、成戸村(穴吹町)および阿波町岩津村、林村も氏子区域で崇敬者も多く、宝暦年間(1751-1763)には旧暦9月28日の例祭日には大祓の神事や神楽、相撲が始められ長い間続いた。
境内からの眺めはすばらしくでて、眼下に山川町の全景が見え遠く阿波、吉野川市をはじめ、岩津の淵から海へと連なる吉野川の流れがパノラマのように見え、遠くは淡路島方面まで望め、種穂山は歴史的事跡とともに絶景の地である」とあった。
忌部本宮か否かは3社を巡った後でメモしようとは思うのだが、説明にあるように眼下の眺めは本当に素晴らしい。中央地溝帯を流れてきた吉野川はこの種穂山の辺りで、種穂山から北に伸びた斜面にぶつかり岩津の淵をつくる。この岩津の淵の辺りは吉野川の最狭窄部となっており、この狭窄部で絞られた吉野川はこの岩津の地を扇の要とし、その下流部は扇の形におおきく広がる。数段に分かれた河岸段丘、吉野川に注ぐ支流が造った扇状地と雄大な景観を呈する。

○物知社
神社の周囲を彷徨う。案内にあった相撲の土俵跡なのだろうか、といった広場近くに「物知社」という祠があった。思兼命、手力雄命、高皇産霊命が祀られる。この神様は「天の岩戸神話」で、天の岩戸を開けた神様、とのこと。間接的ではあるが、忌部氏とのつながりを感じる。

○のぞき岩
神社脇から案内に従い少し下るとのぞき岩がある。十二、十一、と刻まれた「丁石」が続き、「十丁」のところに「のぞき岩」。高所恐怖症の身ではあるが、この岩場からの眺めは、誠に素晴らしい。また、神話の世界に詳しい人には、この「のぞき岩」から、別の風景が見えるようである。曰く、延喜式内社の「倭大国敷神社」、これはヤマトの産土神と言った意味だろう。また、全国で唯一の「土の神」の「波爾移麻比禰(ハニヤマヒメ)神社」、同じく全国で唯一の「水の神」の「 弥都波能賣神社(ミツハノメ)神社」が眼下に広がる。逆に言えば、これら神話を暗示するような神社からはこの種穂山が特別な存在に見えたのかもしれない。
こんな伝説がある:「天日鷲命は、麻と神の原料である梶と五穀の種を携えて、どこに蒔くべきかと、天の鳥船に乗って候補地を探していたら、種穂山が見つかった。天日鷲命の本名はアメノヒワシカケル矢の命と称されるように、天日鷲命は弓矢の名手で、占いの矢を高越山の上から(または高天原から)放ったら種穂山に刺さった。
種穂山の北、北に吉野川を望む小高い丘である鼓岳に天の鳥船をとめたので、そこの地を「舟戸」という。天日鷲命は、麻と神の原料である梶と五穀の種を種穂山から全国の民に分け与え、麻、梶、五穀を栽培させ、そこから種を再びとり、選りすぐりの優秀な種を種穂山に献上させた」と伝えられる。種穂山の周辺では、麻の生産が盛んで、麻掛・麻延・麻畑などの産業地名が残っているし、種穂山の土は徳島名産の藍の栽培に適した土壌でもある、と言う。

貞光
種穂山を下り、貞光の忌部神社に向かう。カーナビにも表示されており、安心。国道192号を東に美馬市穴吹を越え、貞光で国道428号に乗り換え南に向かう。貞光の町は隣家との屋根を仕切る防火壁である「うだつ」で知られるので、どんな町並みかと県道を離れ貞道市街を走る。江戸の頃、葉タバコの産地で知られ阿波藩屈指の商業の町、また藩の山間部支配のための貞光代官所が置かれた貞光の町でちょっと車を停め、「うだつ」を眺め、ヒット&ランで旧庄屋屋敷などを訪れ先に進む。因みに「うだつがあがらない」とは、「うだつ」を飾るほどの財力を持てない=ぱっとしない、ということである。

東福寺
町の北端部では一車線となっている貞光町を、逆からの車の来ないことを祈りながら県道に合流。そこから貞光川に沿って6キロほど南下し、端山(はばやま)の辺りで東福寺を目安に県道を離れ右に貞光折れ貞光川を渡る。ほどなく東福寺。なんとなく由緒ありげな感があり、神社への道を離れちょっと寄り道。急坂を上ると立派な山門が迎えてくれた。
仁王さまを見やりながら境内に。本堂は東大寺を模して造られた裳階(もこし)造り、と言う。本堂右手は庫裏(住宅)と一緒になっているため素人目には、今一つ「国登録有形文化財」」の匠の意匠はわからないが、堂々たる本堂であることは感じ取れた。
このお寺様は真言宗御室派総本山仁和寺の末。新四国曼荼羅霊場70番札所。新四国曼荼羅霊場とは平成元年(1989)に四国の寺と神社が集まり、神仏の力を集めて曼荼羅の世界を作り上げるべく始められたものである。
本尊は不動明王。寺の縁起によると、神亀元(724)年 忌部大祭主玉渕宿祢が忌部神社の法楽として、法福寺を建立、さらに、東寺、西寺を建て、後東寺を東福寺と改め、忌部別当とした。また、弘法大師が巡錫の時、南山に宝剣が下るのを見て、不動明王を刻み本尊として、弘仁3(812)年に開創したとも伝う。 天正10年(1582)長曽我部元親氏の兵火に罹り、慶長2(1597)年に中興。文化2年(1805)年焼失、同年吉良より現地に移転、天保4(1833)年再建し,現在に至る」、と。
法楽って?チェックすると、「神仏を喜ばせる行為,すなわち読経(どきよう),奏楽,献歌などを法楽と呼ぶようになった」とあった。また、地図を見ると更に山奥に進んだところに西福寺がみえるが、それが西寺のことであろう、か?

吉良堂
東福寺を離れ1・6キロほど山道を上る。カーナビに従って忌部神社として連れて行かれたところには、誠に風情のあるお堂があった。大きな屋根に吹き抜けの四足の堂宇が印象的。このお堂は「端四国88箇所霊場」の30番札所。「端四国88箇所」とはつるぎ町に点在するミニ四国霊場。お大師さんなど3像が祀られるお堂の前には古い立石が建つ。古代の祭祀遺跡とも言われる。風格のあるお堂であった。





貞光忌部神社
さて、貞光忌部は?近くで農作業をされている方に道順を案内頂き、吉良堂より少し上ったあたりにある貞光忌部神社に到着。駐車場脇の斜面には「吉良のエドヒガン」と呼ばれる桜が立っていた。樹齢約430年、幹回り4.5m。樹冠はおおよそ20mほどもある。見事な大樹である。








神社にお参り。鳥居は木で作られている。その扁額には「忌部奥社」と書かれていた。創建は不明。祭神は当然のこととして天日鷲命。社殿、本殿、境内も清潔に整備されており、気持ちがいい。社殿・本殿も新しく造り直されている。明治の正蹟論争で、一時正蹟と認定されたこの地の社が、明治18年(1995)徳島市内の二軒町に社地が移され、その摂社となったわけだが、その徳島市への遷宮百年を記念し、旧跡より200mの現地に遷宮し新築した、とのことである。





神社のある辺りは標高350mほどあり、神社から貞光川が切り開いた谷間の眺めもなかなか、いい。神社のすぐ下はゆるやかな傾斜地で広い畑地も多く、その景観も美しい。この台地全体を五所平(御所平)と呼ぶようで、神社の名を五所神社とか御所神社などとも称されるようである。



■江戸の頃の正蹟騒動
さて、忌部氏ゆかりの3社を巡った。で、イントロで明治の頃、忌部神社の正蹟を巡る論争があり、そして、この忌部の正蹟を巡る論争は明治に急に起きたわけでもなく、江戸の頃から、数百年に及ぶ正蹟争奪戦といった歴史があり、その正蹟論争は下手なドラマより格段にドラマティックな展開を見せているとメモした。「ぐーたら気延日記(重箱の隅)」に詳しく説明されてあるその展開はあまりに面白いので、そのサイトの記事を基に、少し詳しく以下まとめてみる:


ことの発端は江戸の頃、享保の末頃(1735)のことである。山崎忌部神社の神主・村雲勝太夫(社常)は阿波藩に山崎忌部神社が正蹟であることを認めてもらうよう動き始める。山崎忌部神社は当時でも式内社として知られていたようではあるが、長曽我部による破壊などにより由緒の所在が不明となったため、と言う。
同じ頃、当時の川田村多那保神社神主・早雲民部も多那保神社が式内社忌部神社であると主張し、この争いは6年にも及んだとのこと。阿波潘は、双方の訴えを放置する。その理由は、藩が正式に正蹟と認めれば社地を与えなければならず、そうすれば年貢が減るため、とのことである。
多那保神社の神主の早雲民部は藩の家老とのコネクションも強く、そのためもあり、状況不利とみた山崎忌部神社の神主村雲勝太夫(社常)は、全国の神社を管轄・支配していた吉田家に直接談判に及ぶべく、密かに京に上る。が、その動きを察知した多那保神社の神主早雲民部は村雲勝太夫の企てを阻止すべく、山崎忌部神社の神主の「密かなる」上京を関所破りと藩に上訴。ために山崎忌部神社の神主は帰国を命ぜられた上、神職を剥奪され海部郡に追放処分となる。

山崎村人は神主村・雲勝太夫の子に後を継がそうと上申するも、潘は幼い(当時6歳)が故、ということで訴えを無視し、15歳になるまで、多那保神社神主早雲民部に山崎忌部神社摂社の神職を命じる。
その8年後のこと、寛延2年(1749)、海部の配所を抜け出し子供に会いに当地を訪れた村雲勝太夫は、山崎忌部神社に立ち寄ったところを早雲一派に見つけられ、暴行を受けそれがもとで亡くなってしまう。その翌年、村雲勝太夫の子竹次郎が15歳となり、約束に従い村人は神職相続を願い出るも潘は無視。

その頃、この山崎と種穂の論争の他、また新たな火種が生まれる。場所は貞光村。その地の忌部神社の神主村雲左近が、神宝をもとに正蹟は貞光の忌部神社であると主張しはじめる。藩はこれに対して、密かに信仰してもよいが正式には公認しないと裁定するも、貞光忌部神社は本宮をつくり、鳥居に空海の額を掲げるなどの積極展開。近郷はもとより遠国までその評判が広まったため、藩は神主と子を逮捕・入獄の上阿淡両国を父子共に追放。忌部正統の証拠となるべき品々を没収する。

山崎忌部神社の竹次郎。成人しても潘より山崎忌部神社の神主相続の沙汰はなし。藩の許しを得て京に上ることになる。そのためこの地域で神事を行えるのは多那保神社神・早雲民部だけとなり、当初は村人の誰一人受け入れようとしなかった早雲民部ではあるが、次第に村人も早雲民部受け入れざるを得なくなる。
で、早雲民部は、元の川田村多那保「権現」の社を京都白川家の許しを得て「種穂忌部神社」と改め、自らも早雲より中川と氏を改めた。 同時に、山崎忌部神社に残っていた神鏡を種穂忌部神社に持ち帰り、仮にと置いてあった御霊代をも種穂忌部神社の神殿に納め、山崎忌部神社に火をつけ焼いてしまうという暴挙に出る。
山崎村の氏子たちは怒り早雲民部改め中川民部の神職剥奪と竹次郎(山崎忌部神社の神主・村雲勝太夫の子)の復職を願い出るが、藩は無視。中川民部が神事を行うたびに、奇妙な事が起こるため、神の祟りと村民氏子一同藩に訴えるも、藩の沙汰は無し。村人の再度の追願に、藩は、中川民部には身を慎むべし、との訓告を与えるも、中川民部の神主の職はそのままであったため村民は納得するはずもなし。神職が中川民部から息子の中川式部に変わるも、怪事は度々起こり、山崎村民は毎年出訴を続けるが、藩は取り合わず、結局村民は寛政7年(1795)箱訴(藩主への直訴)に及ぶ。その結果、箱訴を行った惣代六名が投獄され、獄中で死者も出ることになる。
寛政13 年(1801)になると、郡奉行が惣代と面談し、中川式部を神主と認めれば山崎村忌部神社を造営し朝廷へも奏上する旨の調停案を出す。惣代らは当然納得するわけもなかったが、その後、郡奉行より中川式部廃職の申し付けがあり、忌部公事は一応の解決を見る。
その後、文政9年(1826)二宮佐渡が山崎村の神主として迎えられた。二宮佐渡は竹次郎(後に麻生織之進む)の子の養子となっていた人物であり、村雲勝太夫と竹次郎、山崎村民の願いは三代目という形で叶えられたことになる。

■明治の正蹟騒動
で、明治の正蹟騒動。そのきっかけは、明治4年(1815)、明治政府が全国の神社の社格制度を定めることを決定したため。阿波では式内社である忌部神社 が、神祇官所管の国幣中社とされたわけであるが、上で江戸期の顛末をメモしたとおり、はっきりと式内忌部神社が確定していない。その根本は中世以降、忌部氏の存在がそれほど顕著ではなかった、とともに、土佐の長宗我部氏の四国制覇の戦いの兵火などにより神社などが破壊つくされ、所在が不明となっていたためでもあろう。それでも政府の方針もあり、忌部神社の比定が急務となり、その「座」を巡って、再び国を巻き込んでの大騒動となる。
当初、候補としては川田種穂神社・宮島村(川島町)八幡宮・西麻植村中内明神・上浦村斎明神・牛島村大宮等が挙げられていたが、阿波藩より国の官吏となっていた小杉榲邨(こすぎすぎむら)は明治7年(1874)、その建言書において、正当性を立証する古文書などを根拠に山崎忌部神社が妥当であるとした。
これに対し貞光の忌部神社が異議を唱える。明治10年(1877)貞光村は内務大臣に願書を提出し、貞光は旧麻植郡の一部であり、そこに忌部社を祭祀していたが、長曽我部の兵乱に焼かれ、また江戸の頃の騒動でメモしたように、藩により神宝などを破棄され、また明治の調査からは外されていた、として再調査を願い出た。この動きには種穂忌部神社から讃岐の田村神社の神職に異動した田村氏があれこれ動いていた、とか。
明治10年(1877)西端山村民代表は上京して内務省に陳情したが、係官小杉榲邨は了承することはなかったが、明治13年(1880)、状況は大きく動く。貞光村代表同席のもと、小杉榲邨は再度東京裁判所に呼び出され、判事より「木屋平村三木貞太郎が自首書を県に提出して、当裁判所に回送されている」旨、言い渡される。木屋平村三木貞太郎は山崎忌部神社の正当性の最大の根拠であった古文書の所有者であり、その古文書が贋造であり、そして、忌部正蹟は貞光村であると先祖から言い伝えられている、と自首したということであった。 同年再調査。高知県に対し麻植郡・美馬郡境界につき照会を行い、明治12年(1970)、高知県の答申をもとに内務省地理課は、忌部郷は、美馬郡半田村より東の穴吹村に至る間を比定し、山崎村鎮座の忌部神社を否定した。
明治13年(1880)四月内務省の担当官が徳島県へ調査に来て、調査の結果、美馬郡西端山吉良名が地形上大社の古跡と思われると発表した。明治14年(1881)忌部神社は貞光村西端山吉良名の五所平神社に決定され、御霊代は式部寮から五所に鎮座された。
しかしこの動きに対し、山崎村が異議を申し立て、数度にわたる追願を繰り返す。こうして、比定地論争が白熱し上申書の提出合戦の呈をなしてきたことから、政府も忌部神社の正蹟争いを避けるため、明治18年(1885)11月25日太政大臣三条実美名で徳島市富田浦(現、徳島市二軒屋町二丁目)に社地を選定し、明治25年(1892)遷座鎮祭し、社地論争に終止符を打った。

忌部神社の正蹟がどこかはわからない。忌部氏が阿波から中央へと向かったのが、中央から地方へと下ったのかもわからない。わからないが、今回の散歩で忌部神社以外にも神話時代を想起させるような古き社が多くある。また忌部古墳群だけでなく、前方後円墳の草分けでと称される鳴門の萩原古墳群にある「ホノケ山古墳」など古墳も多い(『古代日本 謎の四世紀;上垣外憲一(学生社)』)。 これから田舎に定期的にすることが多くなるが、今回の散歩で愛媛だけでなく、徳島にも興味・関心を抱くフックがかかった。
10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、将門は京でのよき理解者である太政大臣・関白である藤原忠平から付託された相馬の御厨の下司として下総に戻る。相馬の御厨は取手の北西、関東常磐線・稲戸井駅近く米ノ井・高井戸辺りにあり、将門は館を取手の東、守谷に構えた、と。(ここで言う相馬の御厨とは千葉氏が元治元年(1124)その任を受けた正式な「相馬御厨」とは異なるが、便宜上「相馬の御厨」で以下メモする)。
そもそも、この地は将門一門・遠祖のゆかりの地。平将門の祖である桓武天皇の第四子葛原親王は9世紀の中頃、常陸の大守に。遥任であり任地に赴くことはなかったが、その孫の高望王は上総介となり東下。朝敵を平らげる、ことより「平」姓を賜る。高望王は任地である上総の四周を固めるべく、長子の国香は下総国境の菊間(鎮守府将軍)、二男の良兼は上総の東北隅の横芝、三男の良将は下総の佐倉に、四男良繇(よししげ)は上総東南隅の天羽に館を構える。 将門は三男の良将の子である。良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘と結ばれたが、犬養家は「防人部領士(さきもりことりつかい)」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものである。トレーニングセンターは関東常総線・新取手駅の南にある寺田の辺り。その館は先回の散歩で訪れた戸頭神社辺り、といった説のほか、本日歩く取手市本郷の東漸寺の辺りにあった、との説もある。
本郷地区に西には、「駒場」の地名も残る。戦士に必要な馬術を訓練した地の名残ではあろう。犬養氏の領地は将門が下司となった相馬の御厨の東隣り。利根川以北の相馬郡の東は犬養家の所領、西は御厨といったところである。将門が京より戻った頃、父・良将の旧領は、大半が叔父の国香や良兼らによって蚕食されていた、と言う。父の旧領を回復することもさることながら、伯父達の攻勢の中、私君・藤原忠平から付託された相馬の御厨の下司職を忠実に勤め、荒地・湿地を開墾し勢力を拡大するにも、傍に犬養氏が拠点を構えるのは、さぞかし心強かったことではあろう。

本日の散歩は、若き日々の将門が力を養った相馬の御厨や母の実家である犬養家の所領地であった一帯を辿ることになる。将門と言えば、その本拠は豊田郡鎌輪(下妻市)であり、猿島郡岩井(板東市)との印象が強いが、それは伯父達との争いに端を発する天慶の乱の展開により、本拠を移したことによる(天慶の乱のあれこれのメモはこちら)。成り行き任せで始めた下総相馬の将門ゆかりの地を巡る散歩も、守谷での散歩を含め5回にもおよぶと、散歩の前におおよそのテーマが見えるようになってきた。



本日のルート:関東常総線・稲戸井駅>神明遺跡>神明神社>慈光院>香取八坂神社>高源寺>東光寺>高井城址>妙見八幡宮>妙音寺>小貝川の堤防>水神宮>延命寺>岡神社・大日山古墳>仏島山古墳>白姫山>桔梗田>大山城址>とげぬき地蔵>東漸寺>春日神社>西取手駅

関東常総線・稲戸井戸駅
ささやかなる稻戸井駅で下車。米ノ井が、米が井戸から湧き出た、との伝説のように、稻戸井も稲が湧き出た伝説でもあるのかと思ったのだが、この地名は村の合併伝説でよくあるパターンでできたもの。明治22年(1889),戸頭村が米ノ井村、野々井村、稻村と合併した時に,それぞれの村の一字を採ってつくった地名であった。

神明遺跡
駅を下り、神明神社に向かうと神社手前の畑の脇に木標が立つ。案内を読むと神明遺跡、と。縄文後期の土器が発掘されたようだが、現在遺構は残らない。この辺りは小貝川から入り込んだ大きな谷津の奥にある、標高23mの台地。小貝川の水を避けながら、その水を利用できるロケーションに縄文の人々が生活をしていたのだろう、か。









神明神社
畑地の畔道とおぼしき小路を辿り鎮守の森に佇む神明神社に。この神社は長治元年(1104)、将門の後裔である相馬文国が伊勢神宮より勧請した、と。米ノ井神明神社と同じく、この地に神明神社があるということは、この辺り一帯が御厨の地であった、ということのエビデンスのひとつではあろうが、それよりなにより気になったのは、相馬分国って誰?
下総平氏の後裔である千葉氏の流れを汲む相馬氏にはそれらしき名前が見当たらない。チェックすると、相馬文国って、将門の子である平将国の子とのこと。将門敗死の時、幼少の将国は常陸国信太郡に落ち延びた、とか。信太の地は常陸国、現在の茨城県稲敷郡阿見町、美浦町の全域と土浦、稲敷。牛久市の一部である。将国は陰陽師の安部清明である、との説もある。
相馬文国はその将国の子供。江戸時代初期につくられた下総相馬氏の「相馬当家系図」には、「将門の子将国が信太郡に逃れて信太氏を名のり、その後、将国の子文国(信太小太郎)が流浪するものの、その子孫は相馬郡にもどり、相馬氏を名のった」とされる。
文国の流浪譚は中世の「幸若舞」のひとつである『信夫』のストーリーをとったもの、とも言われる。『信太』は、将門の孫である文国と姉千手姫の貴種流離譚。文国が姉千手姫の嫁いだ小山行重(将門を討った藤原秀郷の子孫とされる)から所領を奪われ、その後は人買い商人に売られ、塩汲みに従事させられるなど諸国を流浪しながらも、その貴種である素性が認められ小山行重を攻め滅ぼし、相馬郡で家系栄える、といったもの。どうみても、山椒大夫と将門伝説が合体して造られたものではあろう。
相馬分国については、将門敗死の後、その子孫は流刑に処せられたが、文国のときに赦されて常陸国に住み、さらに下総国相馬郡に帰った、との説もある。この神明神社を勧請したとされる相馬文国は、かくのごとき「歴史」を踏まえてこの地に名を残しているのであろう。

慈光院
神明神社を離れるとほどなく慈光院。境内、と言っても、これといった「境」があるわけでもなく、地域の集会所が本堂脇にある、といった素朴な風情のお寺さま。その「境内」には石碑、石塔が結構多く並ぶ。参道の右手には文政2年(1829)の「廻国塔」と昭和や平成に建てられた聖観音像、坂東33観音巡拝記念碑、秩父34観音霊場巡拝記念碑、西国33観音霊場巡拝記念碑が建つ。 さらにその先には、参道の右側には石塔が並んでいる。六地蔵とその中央に馬頭観音像(造立年不明)、右端には寛政8年(1796)の光明真言百万遍供養塔が並ぶ。
境内左手の木の根元にはささやかな祠。中には貞享4年(1687)作の大日如来浮彫の十六夜塔が祀られる。本堂には阿弥陀如来が祀られる、とか。

香取八坂神社
慈光院を離れ、道を進むとT字路。右に折れ道脇に大きな敷地の(株)東京鉄骨橋梁取手工場を見やりながら進み、県道261号と合流し、県道が南に折れる辺りで県道を離れ道を北に進むと、取手市下高井の台地端に香取八坂神社がある。
鳥居手前にいくつかの石塔が並ぶ。庚申塔とか石尊大権現といった、よく見る石塔の中に、「尾鑿山大権現」と読める石塔があった。チェックすると、栃木県鹿沼市のある賀蘇山神社の鎮座する山の名前。尾鑿山(おざくさん)と読む。千年の歴史を秘めた賀蘇山神社は古くから尾鑿山」と呼び親しまれてきた、とか。


木々に覆われた参道を進む。天満宮や三峰神社、琴平神社などの小祠が佇む。ささやかな拝殿にお参り。現在は香取八坂神社と呼ばれるが、明治の迅速測図には「香取祠」と記されている、と。因みに、迅速測図とは明治初期から中期にかけて作成された地図。明治政府は各地の反乱の鎮圧に際し、地図が無いことが作戦計画の障害となるため、短期間でつくられた簡易地図である。
ところで、神社は、香取八坂神社のある台地の傍、低地を隔てた東隣にある高井城の城主・相馬小次郎の氏神だといわれている。相馬小次郎は将門からはじまり、多数いるのだが、この場合の相馬小次郎とは、長治年間(1194-1106)、常陸国信太郡から移り住み相馬姓を名乗った信太小次郎重国のことではあろう。重国は上でメモした相馬文国から数えて2代後、文国の孫、ということであろう。




(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


高源寺
香取八坂神社からすぐ東に「高源寺」がある。この寺は、承平元年(931)将門が釈迦如来の霊験によって建立したと伝えられる。開基は応安元年(1368)、相馬七左衛門胤継とその後裔がこの地を治め、鎌倉の建長寺より住職を招いたとの名刹ではある。慶安2年(1694年)には徳川三代将軍家光より三石二斗の朱印地を賜っている。
相馬胤継とは、相馬師常を祖とする下総相馬家の3代頃の人物。下総相馬家とは、上でメモしたように、将門の流れをくみ、常陸国信太郡から移り住み相馬姓を名乗った信太小次郎重国の2代後の師国に子がなかったため、平良文の流れをくむ下総千葉氏より師常が養子となってできたもの。平将門とその伯父であり、将門のよき理解者であった平良文の流れが合わさったブランドである。
境内には「地蔵けやき」がある。樹齢1600年と言われる巨大な欅の根元から数メートルほど幹の中が失われ、空洞となっており、そこにお地蔵さまが佇む。開口部の脇にも穴が開いており、昔はお地蔵様に安産のお参りをし、穴を通り抜ければ安産間違いなし、ということではあったが、現在は樹木保護のため、木の周囲は立ち入りが禁止され気の通り抜けはできなくなっている。

○広瀬誠一郎
高源寺には、この下高井の地に生まれ、利根運河実現に生涯をかけた広瀬誠一郎が眠る。いつだったか利根運河を辿ったことがある。流山辺りで利根川と江戸川を直接結ぶために開削した人工の運河であるが、周辺に谷戸の景観が残る、誠に美しい運河であった。
利根運河は明治21年(1888)に起工式をおこない、2年の歳月をかけて完成した総延長8キロの運河ではある。利根川の東遷事業により、利根川と江戸川が関宿辺りで結ばれ、内川廻りと称されれる船運路が完成したわけだが、江戸末期には関宿当たりに砂州ができ、船運が困難となる。
結局、先回の散歩でメモした利根川の「七里の渡し」の辺りにある「布施河岸」荷を下し、陸路を江戸川筋まで運ぶことになるのだが、それを改善すべく企画されたのが「利根運河」。明治14年(1881)、当時茨城県議会議員(翌年北相馬郡長)であった広瀬誠一郎は茨城県令であった人見寧に利根運河の開削を提言。明治16年(1883)には内務省もオランダ人技師ムルデルに調査・計画書の立案を依頼するなど動きもあったが、財政上の理由もあり明治20年(1887)には政府事業を断念。明治19年(1886)に相馬郡長の職を辞し、利根運河に全精力を注ぐ予定であった広瀬氏は明治21年(1888)には株式を公募し民間の事業として工事を開始することになる。運河完成とともに、最盛時は年間3700余隻、1日平均100余隻の船が往来した運河も大正時代になると鉄道輸送などにその役割を譲りゆくことになった。

下高井薬師堂
高源寺から集落を少し南に進むと、火の見櫓の脇に下高井の薬師堂があった。境内と言った構えはないが、本堂脇にはささやかな太子堂、光音堂といった祠が建つ。光音堂は新四国相馬霊場を開いた光音禅師を祀る。薬師堂は新四国相馬霊場50番。愛媛県の繁多寺の移し寺、とのこと。
堂宇に祀られる薬師如来は文明11年(1479)の作、と言う。境内の庚申塔、廻国塔、日本廻国塔などを見やりながら次の目的地である高井城址へと向かう。




高井城址
道を成り行きで進むと、道標があり、道を左に折れる。道なりに進むと台地を下り、左右を台地で囲まれた谷戸の低地に。一帯は高井城址公園として整備されている。
かつての湿地の面影を残す公園の左手の台地が高井城址。成り行きで比高差10mほどの台地へと上る。台地上への途中には広場らしきものがある。昔の枡形なのか、腰曲輪といった名残であろう、か。






台地上の主郭部分はわりと広い広場となっており、周囲には土塁も残されていた。虎口あたりにある案内によると、小貝川の氾濫原に面した台地に立つこの城は、取手市内で最も大きいもの。築城の時期は不詳ではあるが、戦国時代後期の築城とされる。既にメモしたように、長治元年(1104)に将門の後裔・信太小次郎重国が、常陸信太郡からきてこの城を築き相馬家を称した、と。なお、重国の子の胤国、その子の師国に子が無きが故に、下総千葉氏より養子として相馬家を継いだ師常が下総相馬家の祖となった。流浪を重ねた将門の後裔が下総平家直系の千葉氏と結びつき、「下総相馬家」というブランド家系をなした、ことは上でメモしたとおり。


ところで、「高井城」という名称であるが、下総相馬家が当初、館をどこに設けたかは定かではない。定かではないが、鎌倉初期にはその主城を守谷城に移したようではある。で、高井城は下総相馬家の一族が守谷城の支城として詰めていたようではあるが、天正年間(1573から1592)の頃には高井の姓を名乗るようになっていた、と言う。永禄9年(1567)の「北条氏政書状写」には、高井氏が相馬氏の支配下に置かれてた、と記載されている、とか。
秀吉の小田原後北条征伐に際しては、高井氏は下総相馬家の一員として小田原後北条方に与し、相馬氏は滅亡し、高井城も廃城となった。その後の高井一族は、最後の高井城主の子は小田原藩大久保家に仕え相馬氏を称したり、家康の旗本として取り立てられたりしているようである。

妙見八幡宮
小貝川の氾濫原のあった台地下に下り、高井城の風情などを低地から眺め、再び台地に戻り高井城址脇の道を通り妙見八幡に。航空地図を見るに、主郭の広場のすぐ東といった場所ではある。
構えは素朴。相馬家の氏神、といったことではあったので、もっと大きなものかとは思っていたのだが、鳥居とささやかな社殿が建つのみではあった。境内には石祠や石塔、石仏群が多く建つ。秋葉大権現、水神宮、道祖神、雷神社、如意輪観音、三峰大権現、二十三夜塔、といったものである。地域内にあったものを合祀したものか、道路工事などの際にこの地に寄せ集められたものであろう、か。

○妙見信仰
妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。 妙見信仰は経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を唱える。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、妙見信仰がカバーする領域は多種多様。お札の原型とされる護符も民間への普及には役立った、とか。 かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていった。上でメモしたように、下総相馬氏は鎌倉時代、平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が守谷に館を構え「相馬氏」を称したものであり、氏神として祀ったものであろう。

妙音寺
妙見八幡宮で休憩しながら地図を見るに、すぐ近くに新四国相馬霊場第52番妙音寺がある。ちょっと立ち寄りと、妙見八幡宮横の道を入るにお寺らしき建物は見当たらず、わずかに小高いところにふたつの小祠があった。太子堂と光音堂とある。光音堂とは新四国相馬霊場を開いた観覚光音禅師を祀るお堂。

○新四国相馬霊場
新四国相馬霊場とは宝暦年間(1751~1764)に江戸の伊勢屋に奉公し、取手に店をもった伊勢屋源六(光音禅師)が長禅寺にて出家し、四国八十八カ所霊場の砂を持ち帰り、近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたのが始まり。利根川の流れに沿って、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所あり、合わせて88ヶ所の札所、このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。江戸時代近在の農民や江戸町民が巡拝し賑わったという。光音禅師は取手市の長禅寺観音堂修築と取手宿の発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結び余生を送った有徳の人である。

小貝川の堤防
大師堂、光音堂にお参りし、次の目的である小貝川の堤防へと鬱蒼とした木々の間の小道を進み台地を下る。台地を下ったところを流れる小貝川排水路を越え、堤防への道を探すに、眼前には畑地が広がるが、それらしき道筋は見当たらない。仕方なく、畑地の畦道を探し畑地を横切り小貝川の堤防に取りつく。 小貝川は栃木県那須烏山市の子貝ケ池にその源を発し、市貝、益子、真岡、常総、つくば、つくばみらい、守谷、取手、竜ケ崎、利根のといった市町村を経て利根川に注ぐ。








堤防から遠くに見える印象的な山容は筑波山であろう、か。また、右手を見ると、南東へと下ってきた小貝川が北東へと流路を変えるその先に、小貝川の流れを堰止める岡堰も見える。小貝川が大きく流路を変え、水勢を抑えた「溜まり」のその先を選んで堰をつくったように思える。








岡堰
岡堰は江戸の頃、寛永7年(1630)に関東郡代である伊奈半十郎忠治によって新田開発を目的としてつくられた。堰をつくるに先立ち、伊奈半十郎忠治は現在のつくばみらい市寺畑のあたりで小貝川に乱流・合流していた鬼怒川を分離すべく大木丘陵を開削。鬼怒の流れを利根川(当時は常陸川)に落とし、水量の安定した小貝川の治水工事と並行し堰を設け、堰から引かれた用水によって小貝川の東、旧伊奈町を含む現在のつくばみらい市一帯の氾濫原を「谷原三万石」「相馬領二万石」とも称される新田となした。小貝川には岡堰の他、福岡堰、豊田堰があり、関東の三大堰とも称された。







現在の岡堰は明治19年(1886)に新式の水門をもつ堰となるも、洪水で流され明治31年から32年(1898-1899)にかけて大修理が行われ,また昭和になって水門や洗堰がつくられるなどの経緯をへて平成8年(1996)に完成したものである。因みに、平成の堰造成工事で結構伐採されたようではあるが、明治15年(1882)には高源寺で出合った当時の相馬郡長であった広瀬誠一郎によって桜の苗木が堤防沿いに植樹し桜の名所となっていたようである。





水神岬
堤防を進むと、小貝川の流路がU字型に変わる辺りに水神岬という100mほどの突堤があった。案内によれば、「溜まり部分」の中洲などと相まって、水流を分散させ堤防を護る役割を果たしている、と。岬の先端には水神宮が祀られていた。
「岡堰用水組合では水神宮のお祭りとともに、上州榛名神社に代参を立てたことが江戸時代の記録に残る。山岳信仰の通有性はあるにしても、特に榛名山を選んだのは山を水源と仰ぐ心であろう。水は二万石の命である」と案内にあった。それにしても何故榛名山?榛名山系の第二の高さをもつ山の名が相馬山と呼ばれるが、この山と相馬、将門に関するなにかの因縁でもあるのだろう、か。不詳である。

延命寺
小貝川の堤防を離れ、再び台地に戻る。小貝排水路を跨ぐ橋を渡り、成り行きで道を進むと公園脇に延命寺があった。山門はなく、広い境内入口にはお寺さまが住む家なのだろうか、今風の2階屋があり、なんとなく遠慮しながら境内に入る。
境内を住むと正面に本堂があり、地蔵菩薩が祀られる、と。境内右手には大師堂や水子子育地蔵菩薩像が安置される。寺宝も多く釈迦涅槃絵、三仏画、十三仏画、二十八仏画が昭和53年に取手市指定有形文化財に指定されているとのことである。古き趣は残らないが、落ち着いたお寺さまではある。
このお寺さまにも将門ゆかりの縁起が残る。12世紀の初めころ、紀州根来の高僧の夢枕に将門が信仰していた地蔵尊が現れ、東国に下り、我(地蔵尊)を祀り、将門ゆかりの者や衆生を済度すべし、と。その日から10年後がたったある日、再び地蔵尊が現れ同じお告げを。僧は決心し東国に下り、地蔵尊の場所を探しに将門ゆかりのこの地を訪れる。
その夜のこと、台地の麓に光が見えたため、その地を辿ると、草木が生い茂った島に塚がある。土人の言うに、「この地に将門の霊廟があった」、とのこと。それではと、その地を探すと目指す地蔵菩薩があった。根来の上人はその場所を「仏島山(ぶっとうさん)」と名付け、一寺を建立し「親王山延命寺」と名付けた。延命寺はその後台地下より現在の地に移った、と。

将門ゆかりの話といえば、延命寺の境内には、将門の愛馬を弔った「駒形さま」がある、と。少々遠慮しながら正面入ってすぐ左の老木の根元にささやかな石祠があった。それが駒形さまではあろう。また、本堂右手の小高い場所に三峰権現などの石祠と並んで元禄年間作の「将門大権現」の石祠もある、と言う。また、「七人武者塚」といわれている七基の石塔があるとのことだが、民家風の境内故、あれこれ彷徨うことを遠慮したため、将門大権現は見逃した。

○青麻神社
少し脱線。将門大権現の石祠のあるところに「青麻神社」の石塔もある、と言う。『将門地誌;赤城宗徳(毎日新聞社)』に以下のような記載があった:「東大寺にある養老5年(722)の戸籍に、「下総国倉麻郡億布(おふ)の郷」とある。倉は蒼の転化したものであり,「億布(おふ)」は「乙子」の地名でメモしたように、多くの麻布が産出された所の意味、と言う。つまりは、「下総国倉麻郡億布(おふ)の郷」とは、「青い麻が一望千里に植えられ、麻がたくさん取れる郷」のことである、と。
それはそれとして、「青麻」>「蒼麻」の読みは「そうま」ではあろう。当時はカナ文字が主体で漢字が思いつきであてられていたようである。元は「青い麻」の意味をもつ「そうま」という音に、下総の草原を駆ける馬を想起し、「相馬」の文字があてられたのではないだろう、か。なお、相馬の文字が最初に記されるのは『万葉集』、と言う。

岡不知
延命寺を離れ、県道251を渡り、台地を成り行きで岡神社へと向かう。畑地の脇の農道、竹林、林など本当に岡神社へ辿れるものかと、少々不安になりながらも進む。その昔、この辺りは「岡不知(しらず)」と呼ばれていた、と言う。いつだったか市川を散歩したとき、「八幡不知(やわたしらず)の森」に出合った。現在はささやかな竹林に過ぎないが、往昔「藪不知(やぶしらず)」ともよばれ、藪が深く祟りがあり、一度は入れば二度と出られない、といった森であった、とか。この「岡不知」の森も昔は深い森ではあったのだろう。
また、これは偶然の一致ではあろうが、市川の「八幡不知森」には、天慶の乱の時、将門の仇敵平貞盛にまつわる伝説が残り、この地に入るものには必ず祟りがあるとの言い伝えがあった、とか。この「岡不知」の森も将門ゆかりの「何か」を護るため、人の出入りを禁じる「岡不知」の言い伝えが残ったのであろう、か。とはいうものの、市川の八幡不知森は、その地が「入会地」であったため。祟りの伝説をつくって人の出入りを禁じた、というのが実際の話であった、とも。因みに、取手の地名である藤代は岡不知の「不知」からの説もある。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


岡神社・大日古墳
岡不知の森を進むと台地の端辺りの小高い塚の上に岡神社があった。 石段を上り神社にお参り。熊野権現、八幡、鹿島、天神、稲荷の各社を合祀する。神社の建つ塚の周囲には多数の石塔、石碑、祠、灯篭などが並ぶ。
神社脇にある案内によると、この神社の建つ塚は古墳との説がある、と。「この古墳は岡台地の先端に造営された古墳で、高さ約二・八メートル、底径十八メートルの美しい古墳である。この古墳は未発掘の古墳で副葬品等は不明である。かつてこの付近から各種玉類・鉄鏃等が発見されたが、築造年代は古墳時代後期でないかといわれている。中・近世になって大日信仰が盛んになると、この墳丘に種々の石碑や石造仏の類が建てられたので、大日山の名はそれによってつけられたものであろう。現在この墳丘上に岡神社が創建されている」と案内にあった。地元ではこの古墳は将門の墓とも伝えられている。
塚の脇は広場となっているが、そこには将門の愛妾桔梗の前が住む「朝日御殿」があり、毎朝、日の出を拝み、将門の武運を祈った、と。朝日遥拝の話はともあれ、この岡神社のある辺りは台地の東端。縄文時代は台地の下は一面の香取の海。将門の時代も、守谷から台地上を進んだ「郷州街道」も、この地から先は舟便となる。香取の海は、龍ヶ崎や江戸崎、印旛や成田などの対岸にある台地で囲まれた灘であり、対岸からの敵襲に備える軍事上の要衝ではあったのだろう。桔梗の前の朝日御殿はともかく、将門の軍事拠点となる館か取手はあったのではないだろう、か。

仏島山古墳
岡神社を離れ、延命寺の縁起にも登場した島仏山古墳に向かう。岡神社から急な石段を下り、台地の縁に沿って台地の北側に戻り、岡集落の中を進むと民家の脇に、塚と言うのも少々憚られるような一角があり、そこが島仏山古墳とのこと。古墳自体は明治28年(1895)、岡堰の築堤と道路工事に際に古墳が発掘された、とか。
案内をまとめると、「美しい円墳で墳丘も高かったと言われるが、過去二回に亘って古墳の土砂を採取し、その形状は不詳。が、周囲の状況等から判断すると、径約三十メートルの円墳と推定される。また、遺物の出土状況から判断してこの墳丘は埴輪円筒をめぐらし、その上を美しい埴輪で飾った古墳であった、よう。
古墳の築造年代は、六世紀のもの。なお、明治二十八年学校敷地造成のため、土砂を採取した際に、石かく・骨片・刀剣・曲玉・鉄鏃・埴輪・埴輪円筒等出土したが、この多くは現在の国立博物館に納入された。また、昭和八年岡堰改良工事のため土砂を採取した時に出土した埴輪(四)、円筒埴輪(七)等も国立博物館に納入。本古墳に仏島山の名称がつけられたのは、古墳の周囲には堀をめぐらし一大島状をなしていたが、その後、中世になって墳丘上に仏像や石塔等が建立されたため」と言う。古墳は以前はもっと大きく、高さもあったようだが、学校用地の造成、岡堰の築堤などに際して土砂が採取され、現在の姿見となった。古墳の頂きの祠は将門神社、とも。

白姫山
仏島山古墳から表郷用水に沿って少し北西に進むと白姫山がある、と言う。表郷用水は岡堰から引かれた用水ではある。名前に惹かれて白姫山の辺りまで進むと荒れ果てた薬師堂と「岡台地と平将門」の説明板があった。「この岡台地は一望千里と言われる平坦な水田地帯の広がる町にあって、唯一の台地で古い歴史を秘めたところで もある。特に承平の乱(935~940)を起した平将門にまつわる史蹟が散在し伝説が語継がれてきた。 『将門にまつわる史蹟』として大日山古墳、朝日御殿跡、延命寺、仏烏山古墳が存在する」、と。白姫山の由来である「白姫祠」も見当たらなかった。ここに桔梗の前が住み、墓もあったと伝えられている、とのこと。

桔梗田
白姫山を離れ岡の台地に沿って岡神社の下を抜け、台地南側に出る。低地を隔てて大山の台地が見える。低地は岡台地と大山台地に挟まれた谷戸の趣き。低地の中ほどに相野谷川が流れる。門敗死の報を受け、愛妾桔梗前(正妻の「君の御前(常陸国真壁郡大国玉の豪族・平真樹の娘)が誅された後、正妻になったとも言われる桔梗前が身を投げた桔梗沼は相野谷川の傍にある、という。
川に沿って上流へと進む。川の周囲は北岸には一部湿地の名残を残すも、南岸はほぼ耕地となっている。左右に注意をしながら進むも、相野谷川が「たかいの里汚水中継ポンプ場」辺りで地中に入ってしまう。再び下流に戻り進むと、川の北側、湿地の名残の葦の生い茂る一画に「桔梗田」の案内があった。
案内によると、「伝 桔梗姫入水の地 岡台地の現大日山古墳のあるところは、山高く樹木うっそうと茂り、前方の眺望よく要がいの地でした。平将門はこの地に城館を構え、最近まで堀や土塁の一部が残っていたといわれています。城館の隣に愛妾桔梗姫の御殿があったといわれ、周辺の人は旭御殿と呼んでいます。
当時、将門の最後を知った桔梗姫は、今やこれまでと、この城下の沼に入水して果てたと言われています。今は埋められて水田となっていますが、村人はこれを桔梗田と呼び、祟りがあると伝えられたため、村の共同管理地として受け継がれてきました(取手市教育「委員会)」、と。将門は、天慶三年(939)二月十四日、將門は茨城県猿島町幸嶋において敗死。桔梗が身を投げたこの沼はのちに田となり「桔梗田」と呼ばれたが、ここを耕作する農家の娘は嫁に行けないことが続き、現在は集落の共有地になった、とのことである。

大山城址
相野谷川を渡り、大山城址のある大山台地に向かう。台地に取りつき、上り口を探す。二度ほど直登を試み台地に取りつくも、藪や竹林に遮られ、結局は道なりに台地縁をなぞり、小道を上る。
道を上り切ると、大きな車道が開かれている。この大山の台地の南の、かつては谷戸であったと思われる一帯には宅地開発がなされており、その住宅地へと通す車道を建設したのではあろう。
で、大山城址であるが、台地上をしばし彷徨うも、それらしき場所はみあたりそうもなく、城址探しはやめとする。因みに、大山城址は中近世き築かれた城跡であり、二重の土塁と空堀によって後背の台地と隔離され、空堀の深さは2メートルほどあった、とか。現在その大半が個人の敷地であり、また宅地造成によって掘削されてしまっているようであった。
この城は、高井城の支城と考えられ、将門の臣・大炊豊後守の拠ったところ。豊後守は勇者として知られ、将門敗死と共に弟・丹後守と逃れて柴崎(現我孫子市)に土着した、と言われている。

とげぬき地蔵
宅地開発された新取手地区の大きな住宅街を次の目的地である駒場地区に向かって進む。この新しい新取手地区も昭和40年頃までは「「寺田字後山(うろやま)」や「寺田字大山」と字名が付いていた地域。のどかな一帯ではあったのだろう。
住宅街を抜け、関東常総線・新取手駅を越え、県道294号線を東へと進む。ほどなく、県道が関東常総線から離れ、南東へと下るあたりで左に分岐する小道萱がある。次の目的地である取手市本郷の東漸寺に向かうには、関東常総線を北に越えなければならないので、とりあえず県道から分かれ小道に入る。
ゆるやかな道を少し進むと千羽鶴に覆われた祠があり、とげぬき地蔵とあった。江戸の頃,正徳年間(1704~1715) に建てられたもの、と言う。もともとは茅葺の祠であったようだが、参詣者の失火により焼失し、戦後に現在の堂宇を再建した、とのこと。現在は大きな住宅街の広がる新取手一帯であるが、昔は近郊に農家70数戸しかなく、そのうちでも12軒で地蔵堂を護ってきた、と。
とげぬき地蔵には、その昔、棘抜き名人のお婆さんがこの地にいたのだが、亡くなるに際し、今後はお地蔵様が棘を抜いてくれる、と。で地蔵堂を建てると棘だけで苦労も抜いてくれると評判になり近郷から参詣に訪れるようになった、といった縁起が残る。また、江戸の頃、出雲からこの地に住むようになった医師が有徳の人であり、その人を供養すべく地蔵堂を立てたのが、とげぬき地蔵尊のはじまり、との話も残るようである。

駒場地区
とげぬき地蔵から成り行きで関東常総線を北に抜け、成り行きで進み県道130号に出る。地名は駒場と呼ばれる。往昔、この辺り一帯は、将門の母である犬養春枝の所領地。犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものであり、武人に必要な馬に由来する地名ではあろう。その馬術トレーニングの名残が下総相馬家から分かれた福島相馬家に伝わる「相馬野馬追い」とも言われる。

県道327号
県道130号を少し南に下り、関東常総線・寺原駅手前を県道327号に沿って左に折れる。東漸寺までのルートを探すべく地図を見るに、県道327号は寺原あたりで切れている。チェックすると、この県道327号は「茨城県道327号寺原停車場線」と呼ばれ、起点が寺原駅。終点が駒場1丁目の県道130号常総取手線との交差点。距離わずか176号の県道である。因みに「寺原駅」の寺原とは 明治22年(1889)に北相馬郡寺田村と桑原村が合併するに際し、両村の1字を取ってつくった合成地名。市町村合併の際によくあるパターンである。

東漸寺
県道327号が切れるあたりの二差路を左に取り、ゆるやかなさかを下りおえたあたりの左手にある神明宮を見やり、車道を一筋北にはいった坂を少し上ると東漸寺があった。
茅葺の誠に美しい仁王門をくぐり境内に。先に進むと、これも誠に趣のある観音堂があった。案内によると、「市指定文化財 観音堂・仁王門;この堂宇は、寛文七年(一六六七)に創建されたもので、屋根は寄棟造りで向拝をつけ、木鼻(「木の端」)の型式は室町時代末期から江戸時代初期の雰囲気を止めている. 仁王門は、元禄三年(一六九〇)吉田村の清左衛門と称する篤信家の寄進によるものと伝えられ、単層八脚門となっており、市内唯一の建造物である。
観音堂には、聖僧行基の作と伝えられる観世音菩薩像が安置されており、家運隆昌、除災招福、特に馬の息災には霊験著しい尊像として古くから敬信を集めている。陰暦七月十日の縁日は俗に万燈といわれ、近郷近在の信者が境内をうずめ稀にみる賑わいを呈したものである。
昔乗馬のままお堂の前を通ると、落馬すると言われた為お堂と道路の中間に銀杏を植樹して見えないようにしたという。今に残る「目隠し銀杏」がそれである(取手市教育委員会)」、と。
このお寺さまは、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹。僧侶の学校である檀林となった東漸寺は、広大な境内に多くの堂宇が建ち並んだ、とか。大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展。明治初頭には、明治天皇によって勅願所となっている。
現在は仁王門と観音堂の他にはこれといって堂宇が見当たらないが、このふたつの建物だけでも疲れた体を癒すに十分な構えではあった。将門とのこのお寺さまの傍に犬養春枝の館があったとも伝えられ、将門がそこで生まれた、とも。また、観音堂の観音様は犬養氏か後世の下総相馬氏によって寄進されたものでは、とも伝わる。

春日神社
その犬養氏の館であるが、東漸寺の少し東、JA寺島支所の手前にある春日神社の辺りであったとの説がある。訪ねるに、誠にささやかな祠ではあった。因みに、犬養氏の館は先回の散歩で訪れた戸頭神社のあたりである、との説もあり、よくわからない。どちらであっても私個人としては一向に構わないわけで、とりあえず守谷から取手に点在する、将門ゆかりの地を訪ねたことに十分に満足し、散歩を終える。
因みに、地形図を見ると、東漸寺や春日神社のある辺りは香取の海を臨む台地端にある。改めて守谷から取手まで辿った将門の旧跡を地形図でみると、訪ね歩いた地域は、北は香取の海、南は常陸川、というか湖沼地帯に挟まれた台地上に続いていた。思わず知らず、東南端を取手宿とする下総の台地を辿ったようであった。 
 数年前のこと、旧水戸街道を取手宿からはじめ、藤代宿をかすめ藤代宿へと辿った。そのときは、若柴宿の静かな佇まい、そしてその集落の先にある「牛めの坂」の「森に迷い込んだような錯覚に」といった写真のキャプションに惹かれての散歩ではあったのだが、その散歩で思いがけなく将門ゆかりの旧跡に出合った。「将門」というキーワードにフックがかかり、あれこれチェックすると、守谷市から取手市にかけて、昔の下総相馬の地に将門ゆかりの旧跡が数多く残っている。それでは、ということではじめた将門ゆかりの旧跡を辿る散歩も守谷市域を終え、取手市域へと向かうことに。

 守谷市域では将門の旧跡だけでなく、小貝川と鬼怒川の分離、大木台地を掘り割っての鬼怒川の新水路を辿るといった水路フリークには避けて通れない散歩なども加わり、結局4回に渡っての散歩となった。守谷市の中央図書館でチェックした取手市域に残る将門の旧跡を見るに、旧水戸街道散歩で歩いた市域東部を除き、守谷市と境を接する西部と中央部の2回程度でおおよそカバーできそうである。
ということで、取手散歩の第一回は守谷市域からはじめ取手の西部地域に残る将門の旧跡を、北の小貝川から南の利根川まで、台地と低地の入り組む地形の変化も楽しみながら歩くことにする。



本日のルート;成田エクスプレス・守谷駅>和田の出口>守谷市みずき野>取手市市之台>姫宮神社>香取神社>郷州小学校>取手市戸頭地区>永蔵寺>戸頭神社>利根川堤防>七里の渡し>米ノ井の神明宮>龍禅寺>桔梗塚>関東常総線・稲戸井駅 

成田エクスプレス・守谷駅
散歩のスタート地点は守谷からはじめる。はじめて守谷城跡を辿った頃から数カ月がたっており、守谷本城のあった平台山といった台地、その台地を囲む低地の景観の記憶が薄れてきており、ついでのことなら、守谷本城辺りの景観を見やりながら取手市域に進もうと思ったわけである。
駅を下り通いなれた道を進み台地に上り、左手に守谷本城のある台地や、その先の小貝川沿いに続く台地の景観を楽しみながら歩く。川沿いの台地は低地に分断されている。小貝川の水流により削られたものか、水流により堆積された台地なのか定かではないが、赤法花、同地、そしてこれから向かう市之台といった台地が断続して続く。

守谷市みずき野

守谷本城を右手に眺めながら台地端を進む。右手は、その昔、舟寄場があったと言われる「和田の出口」。その台地の下は低地が台地に切り込み、いまだに湿地の趣を残している。湿地に生える木々などを眺めながら、奥山新田の台地に上り、再び出合った奥山新田の薬師堂にお参りし、南へと台地を下り「みずき野十字路」に。その昔、「郷州原」とよばれ、樹木生い茂る一帯であった「みずき野」の低地帯も、現在は宅地開発された住宅街となっている。
みずき野十字路を左に折れ、最初の目的地である市之代の姫宮神社に向かう。みずき野の住宅街は台地を下った低地部に広がる。調整池(地)などもあるようだが、標高で見る限り、台地と低地の境あたりまで開発され尽くしているようである。因みに、調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。

取手市市之台
みずき野の宅地が切れるあたりに奥山新田の台地端が舌状に突出している。この台地上に香取の社があるのだが、姫宮神社からの戻る時に寄ることにして、とりあえず姫宮神社に向かうことにする。
奥山新田地区の台地を下り、低地を進み小貝排水路を越え、先に見える市之代の台地へと進む。市之台の台地は取手市であり、南北を低地で囲まれた台地には集落がある。この集落だけではないのだが、守谷辺りを散歩して困るのは犬の放し飼い。放し飼いの犬に吠えられることなど都内ではないので、少々怖い思いをしながら、成り行きで集落を進み姫宮神社に。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



姫宮神社
姫宮神社は将門の娘が祀られる、といったイメージと異なり、ピカピカのお宮さま。平成22年(2010)頃再建されたようである。境内には地域の集会所や消防の火の見櫓などがあり、古式豊かな、といった風情はどこにも残っていなかった。
それでも鳥居の左手前には、文化年間(19世紀初頭)に造られた弁財天、西国秩父坂東百観音、聖徳太子像、社殿裏手には文化年間建造の愛宕大権現、享保年間(18世紀前半)の大杦(大杉)大明神の石祠など、古き歴史をもつ社の名残を残す。

○将門の娘
ところで、この社、祭神は櫛稲田姫命。ヤマタノオロチの生贄になるところをスサノオに助けられ、その妻となった女神である。それはそれとして、上でメモしたようにこの社には将門の娘が祀られる、と言う。将門の娘と言えば、数年前に将門の旧跡を辿って坂東市の岩井にある国王神社を訪れたとき、その社秘蔵の将門の木造は、将門の三女(二女とも)である「如蔵尼」が刻んだものであり、その地に庵を結び父の冥福を祈った、とあった。その如蔵尼のことであろう、か。
とは言うものの、将門と伯父の良兼の争いにより将門の正妻とその子は悉く誅されたとも伝わるし,その時に共に捕縛された愛妾はその後解放され子をなした、とのことであり、ここで言う、将門の娘が誰を指すのかも定かではなく、また、如蔵尼が実在の人物かどうかも定かではないが、関東から東北にかけて如蔵尼の伝説が伝わっているようである。

その伝説にある如蔵尼の話は、一族滅亡の際に、一時は冥途の閻魔庁まで行くも、地蔵菩薩に罪なき身故と助けられ蘇生。その後出家し如蔵尼と称しひたすらに地蔵菩薩を信仰したといったもの。
ところで、将門の娘と言えば、滝夜叉姫の話も伝わる。滝夜叉姫の話とは、将門の娘「五月姫」は、父の無念を晴らすため貴船の神より授かった妖術をもって下総国の猿島を拠点に朝廷に背く。名も「滝夜叉姫」と名を変える。朝廷は勅命により陰陽博士大宅中将光圀を下総の国に派遣し、陰陽の秘術を以って滝夜叉姫を成敗。改心した滝夜叉姫は、仏門に入って将門の菩提を弔う、といったもの。この滝夜叉姫の話は江戸時代以降に芝居などで創作されたもの、と言う。ともあれ、人気者の将門故、その娘も伝説となって今に残るのであろう。

○市之台古墳群
境内を出たところに大師堂とおぼしき古きお堂があり、その脇には墓地がある。ここは元の西蔵寺のあったところ。姫宮神社は小貝川を見下ろすところにあったが、西蔵寺が廃寺になったときにこの地に移った、と。姫宮神社の元の地には今も「古姫さま」と呼ばれる小祠がある、と言う。
ところで、この市之台の小貝川に面する縁辺部、小貝川にかかる稲豊橋の南北にかけて1号から15号までの市之台古墳群が並ぶ。もう少し事前準備をしておれば、古姫様を訪ね、結果として市之台古墳群の辺りを彷徨えたのだが、例に拠っての「後の祭り」である。
また、稲豊橋の手前の交差点辺りには「将門土偶の墓」もあったようだ。取手市教育委員会・取手市郷土文化財調査研究委員会:昭和47年3月31日発行)の資料によれば、「明治7年11月道路改修の際破甕発掘。中に身に甲冑を纏たる如き粘土の偶像あり容貌奇異なり笑ふが如く怨むが如き一騎の兵士なり古考の口碑に徴するに西暦939年天慶2年平将門叛し島広山の支城て戦い平貞盛藤原秀卿(筆者注:「郷」の誤か)等に殺さる。爾後残卒の死屍を島広墟に葬ると雖も同装たる土偶を見るものなし。其一隅を島広山の北なる(市ノ代村)字古沼の所に埋没し霊魂の冥福を祈ると云う」、と。
この辺りで土偶や甲冑などが発掘されると、平将門由来の、といったことになるようであり、なんとなく市之台古墳群からの発掘物のようにも思えるのだが、門外漢故、真偽のほど定かならず。

香取神社
市之台の台地を離れ、県道328号を再び戻り、低地から奥山新田の台地に入った辺りで右に分岐する道に入る。市域は再び守谷市に入る。立派な門構えのある農家の手前あたりから左の細路を進むと、木々に囲まれた一角に香取の社があった。誠に香取の社が多い。
神社にお参りし、神社から直接県道328号に出るルートはないものかと、神社周囲を歩きルートを探す。神社裏手の竹林に入り込み藪漕ぎをするも、眼下に見える「みずき野」の宅地開発された住宅地区との間の崖を下る道はない。神社に戻り、畑の畦道といったルートから県道を目指すも、深いブッシュで遮られる。
国木田独歩は、『武蔵野』の一節で。「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある(中略)同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武 蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に走て、終は暗澹たる雲のうちに没し てしまう」、と言う。我もかくありたいのだが、結局は日和(ひより)、来た道を県道に折り返す。

郷州小学校
みずき野の住宅街に戻り、郷州小学校の裏手の台地部、現在の小山公民館のある辺りに将門の老臣・増田監物が砦を構え「古山」と称した、と。この辺り一帯だけが宅地開発から逃れ耕地を残す。なお。郷州小学校の「郷州」は上にメモしたように現在のみずき野地区の昔の地名。宅地開発される以前の「郷州原」と呼ばれる樹林地帯の名残を名前に残す。その昔、愛宕地区から取手市上高井地区をへて岡で台地を下り、取手の低地にある山王に向かう、郷州海道と呼ばれる古道もあった、とか。

取手市戸頭地区
みずき野の宅地街を抜け、関東常総線、国道294号・乙子交差点を越え、県道47号を南に下り乙子南交差点に。「乙子」は「億布(おふ)」が由来、とか。多くの麻布が産出された所の意味、と言う(「将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞社)」)。 交差点脇にある駒形神社は守谷散歩の最初に訪ねた。その交差点の三叉路で県道を離れ、左手に進むと再び取手市の戸頭地区に入る。
宅地の中を成り行きで南東方向へ向かうと、思わず戸頭9丁目の台地端に出てしまい、眼下に広がる低地、そしてその向こうの利根川の眺めを楽しむ。戸頭公園を抜け、台地を少し下り戸頭8丁目から7丁目の宅地を進み、再び台地に上り永蔵寺へと向かう。戸頭の由来は「津頭」から。台地を下ったところに「七里の渡し」があり、その渡場=川湊=津に由来するのだろう。

永蔵寺
訪れた永蔵寺は赤いトタン屋根といったお寺さま。天慶4年(941)開山。創立時は守谷の高野にあり,往昔48ヶ寺もの門末と20石の朱印地を有した大寺院であったようだが、明治初めの廃仏毀釈令により衰退した。どうも、本堂と思った赤いトタン屋根の堂宇が薬師堂のようである。
この薬師堂は 新四国相馬霊場の札所三十四番。高知県本尾山種間寺の移し寺、と。将門の守り本尊と伝わる薬師如来(戸頭瑠璃光薬師)が祀られる。また境内には新四国相馬霊場四十五番札所もある。愛媛県の久万高原にある岩屋寺の移し寺である小祠には阿弥陀如来が祀られる。

○新四国相馬霊場
新四国相馬霊場とは利根川の流れに沿って、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所あり、合わせて88ヶ所の札所、このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。
昔、宝暦年間(1751~1764)に江戸の伊勢屋に奉公し、取手に店をもった伊勢屋源六(光音禅師)が長禅寺にて出家し、四国八十八カ所霊場の砂を持ち帰り、近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたのが始まり。江戸時代近在の農民や江戸町民が巡拝し賑わったという。光音禅師は取手市の長禅寺観音堂修築と取手宿の発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結び余生を送った有徳の人である。

戸頭神社
古い家並みの旧集落を抜けると台地端に戸頭神社があった。創建は不祥だが元は香取の社と称されていた。「北相馬郡志」に「地理志料云、戸頭者津頭也、疑古駅址、観応二年(1351年)、足利尊氏、奉戸頭郷於香取神宮云々」とある。足利尊氏が所領地であった戸頭領を、武運長久を祈り下総一宮である佐原の香取神宮に寄進し創建された、とのこと。この社はその際に分祠されたのであろう、か。単なる妄想。根拠無し。で、戸頭神社となったのは明治45年のこと。同村の鹿島(村社)、八坂、面足、阿夫利各神社を合祀し改称された。
境内には天満宮や幾多の石祠がある。中には渡河仙人権現宮と称される石祠もある、と。どの石祠が「渡河仙人さま」の祠かよくわからないが、万治2年(1659)作のこの石祠は、神社のある台地端を下ったところにある「戸頭(七里)の渡」の安全祈願のためのもの、と言う。
ところでこの戸頭神社にの辺りに将門の外祖父である犬養春枝の館があったとの説もある。犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったもの。トレーニングセンターは関東常総線・新取手駅南の寺田の一帯。小字の「駒場」に名残を残す。この地に館を構えた犬養家は、乙子の由来でメモしたように、豊かな麻の産物を京に送り金に換え内証豊な家系として防人のトレーニングの任にあたったとのことである(「将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞)」)。

利根川の堤防
台地を下り利根川の堤防に向う。この辺りの低地は、かつては藺沼と呼ばれた低湿地帯であり、道の周りに茂るのは藺=イグサなのだろうか、葦なのだろうか、よくわからないが、ともあれ堤防に上る。
七里もあるわけはないが、広大な利根の流れが眼前に広がる。堤防も現在立っている外堤防と内堤防があり、その間は調整池(地)となっている。堤防右手に新大利根橋が見えるが、七里の渡し跡の碑はその橋の辺りにあるようだ。




七里の渡し
「七里の渡し」は対岸の布施弁天で知られる布施や根所を結ぶ。「将門記」にある「大井の津」とも比される。幕末には流山から撤退した土方歳三も利根川をこの七里の渡しで渡り、戸頭-下妻-下館-白石-会津と下っていった。その七里の渡しは、享保15年(1730)に、土浦高津ー小張ー守谷ー戸頭ー布施と続く水戸街道の脇往還の完成とともに人馬の往来が多くなったようである。
また、陸路だけでなく、七里の渡しには「布施河岸」があり、江戸の中頃には船運も全盛期を迎える。利根川の東遷事業が完成し、銚子から利根川を関宿まで遡り、そこから江戸川に乗換えて江戸へと下る「内川廻り」とよばれる船運路が開かれたが、関宿辺りに砂州が堆積し船運に支障をきたすようになる。そこで、この地の布施河岸で荷を降ろし、江戸川の流山・加山河岸へと荷を運ぶことになった、とか。因みにこの陸路の物流ルートも流山での利根運河の開鑿により利根川と江戸川が直接結ばれることになり、主役の座を明け渡すこととなる。

米ノ井の神明神社
利根川の堤防を離れ、戸頭の台地に戻り次の目的地である米ノ井地区の神明神社にむかう。祭神は天照大御神。創建、由緒ともに不詳ではあるが、この辺りは伊勢神宮御料である相馬の御厨があったところ。将門は10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、相馬の御厨の下司として下総に戻ってきたわけであり、その頃には伊勢神宮から天照大御神を分霊し神明の社を祀ったものか、とも。単なる妄想。根拠無し。
神明神社は米ノ井地区の北の上高井戸にも鎮座する。利根川の北の下総相馬の西のこの辺り一帯は相馬の御厨、そしてその西は犬養家の所領地。若き日の将門の拠点ではあったのだろう。戸頭地区には、御街道、館ノ越、宮の前、御所車、白旗、新屋敷、西御門、中坪、花輪、西坪、供平(ぐべ)など京の都を偲ばせる珍しい地名が残る。若き日々を京で過ごした将門が当時を思い起こして名付けた地名、とも。

○相馬御厨
ところで、この相馬御厨であるが、正式に成立したのは大治5年(1126),千葉常重が相馬郡司に任命され相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進してからと言う。千葉氏は将門の一門である下総平家の後裔であり、という事は、将門の時代には正式な相馬御厨は存在しないことになる。
どういうことかとチェックすると、『将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞)』に、将門の父の良将の所領を伯父達に掠め取られた将門に対し、将門が京で仕えた大政治家である藤原忠平が、下総の伊勢の御厨に所領地を寄進することにより、その下司として安心して領地の開発に専念できるようにとの配慮であった、といった記事があった。将門が相馬御厨の下司云々の下りは、相馬の地にあった御厨の下司、といったことを簡略化して表現したものであろう、か。ともあれ、正式な相馬御厨は将門の取手市の米ノ井、高井戸一帯をといった御厨とは比較にならない、守谷、取手だけでなく、我孫子、柏一帯も包み込む広大ものであった、とか。

龍禅寺
道を進み米ノ井の舌状台地の端に龍禅寺。山門をくぐり本堂にお参り。寺の創建は延長2年(924)。承平7年(937)には将門が堂宇を寄進、と。慶長2年(1649)には三代将軍家光により十九石三斗の朱印状を受けている。境内には犬槇(イヌマキ)の大木が立つ。

○龍禅寺三仏堂
境内には取手市内に残る最古の建造物と言われる三仏堂がある。茅葺の重厚な美しさが誠に魅力的である。寺伝によれば、将門がここで生まれたとか、左甚五郎が一夜で作ったとの言い伝えがある。開創は不詳ではあるが、承平7年(937)に将門が修復したと「由緒書」に伝わる。三仏堂内の三仏とは本尊釈迦・弥陀・弥勒の三尊像。運慶の作とも伝わり、それぞれ過去・現在・未来の世を表す、と。
将門は父母の冥福を祈り、自らの守り本尊として三仏を崇敬したが、将門敗死の後は一時荒廃するも、源頼朝が建久3年(1251)国守千葉介常胤に命じて修理させた、と。現在の三仏堂は永禄12年(1569)に建てられたもので、茅葺の美しさとともに、正面に張り出された外陣、他の3方にも付けられたこし、といった独特な堂宇の姿が印象的。昭和51年に国指定重要文化財に指定されている。
寺に伝わる伝説によれば、将門が武運長久祈願のため、竜禅寺三仏堂に詣でたとき、堂前の井戸水が噴き上げて中から米があふれ出たと。境内に井戸は見あたらなかったが、この伝説が「米ノ井」の地名の由来、とか。もっとも、井とは堰のことで、これはかつて利根川沿いに堰を築き、水田を開拓した将門の功績を伝説として組み上げたものではあろう。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

桔梗塚
次の目的地は本日の最後の目的地である「桔梗塚」。関東常総線の稲戸井駅近くの国道294号沿い、マツダ自動車販売の脇にあるとのこと。それらしき場所に着いてもマツダの看板などどこにも、ない。トヨタのディーラーはその付近にあったので、その生垣の中を覗き込んだりして塚を探す。結局トヨタの対面にその塚はあった。マツダのディーラーは店を移ったのか、その地には無かった。
国道脇のささやかなマサキの垣根の中に、将門の愛妾・桔梗の前の墓と伝えられる碑があった。案内によると「桔梗の前は秀郷の妹であり将門の愛妾となったが、戦が始まってから、将門側についたという兄の言葉に騙されて兄に情報を提供。秀郷はこれにより勝利を得たが、このことが暴露されると後世まで非難されると考え、この場所で桔梗の前を殺害した、と。里人おおいに哀れみ、塚を築いて遺骨を納めました。ここに植えられた桔梗に花が咲かなかったので、この辺りでは「桔梗は植えない、娘がいつまでも嫁に行けなくなるから。」と伝えられている(不咲桔梗伝説)。また、桔梗の前については、将門と共に岡(旧藤代町)の朝日御殿に住み、将門の死を聞いて、桔梗田といわれた沼に入水して果てた、とも。
桔梗の前のことはよくわかっていない。「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」には香取郡佐原領内牧野郷の長者、牧野庄司の娘の小宰相、と記される。小宰相とは、素晴らしい女性との意味である。「将門記」にはその人物像を「妾はつねに貞婦の心を存し」と描く。竜禅寺に伝わる話では、桔梗の前は大須賀庄司武彦の娘で、将門との間に三人の子を設け、薙刀の名人であったと伝わる。
一方,その真逆の桔梗の前の人物像を伝える話しも多い。曰く「将門追討の将・秀郷に内通し、将門の秘密を教え、その滅亡の端緒をつくった」「桔梗は京の白拍子で、上洛中の将門に見染められとんを機縁に、秀郷の頼みで将門の妾となったが、将門の情にほだされて秀郷の命に背いたため、米ノ井の三仏堂に御詣りに行った途中、秀郷のによって殺された」といったものである。「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」では、これらの伝説は、江戸時代に芝居で興味本位につくられたもの、とする。
上で承平7年(937)、将門と伯父の良兼戦いのにより芦津江の地で妻子ともに殺された、とメモした。この「妻」とは将門の正妻である真壁郡大国玉の豪族、平真樹(またて)の娘、君の御前である。桔梗の前も一緒に捕縛されたが、桔梗の前だけが解き放されている。義兼が桔梗の前に懸想した故との説もある。義兼が桔梗の前の父親である香取郡佐原領内牧野郷の長者、牧野庄司の勢力と敵対しないための政治的配慮との説もある(「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」)。 桔梗の前については出自など、あれこれの伝説があり、門外漢には不詳であるが、記録に何も残らない正妻に比べての露出量を鑑みるに,さぞかしインンパクトをもった人物であったのだろう。

常総線・稲戸井駅
これで長かった本日の散歩も終了。関東常総線の稲戸井駅に向かい、一路家路へと。
笹子峠越え
1月の三連休の初日、思い立って笹子峠を越える事にした。折から北日本を中心に寒波襲来。雪が心配。誰に頼まれた訳でもないのだがら、酔狂に雪の中を歩くこともないのだが、何処と行って散歩するコースも思い浮かばなかったこともあり、家を出る。甲州道中の最大の難所という笹子峠、はたしていかなるものか。



本日のルート;JR笹子駅>追分>甲州道中への分岐>笹子峠自然遊歩道>矢立の杉>笹子隧道>笹子峠>甲州街道峠道分岐>清水橋>天狗橋>駒飼宿>中央高速と交差>JR甲斐大和駅

JR笹子駅
京王線で高尾駅。そこでJR中央線に乗り換えて笹子駅に。杉並の家を出てからおよそ2時間。家を出たのが午前10時過ぎであり、雪の残る駅舎を出たのは12時半前になっていた。本日のコースはほぼ15キロ強。標準時間は5時間半程度と言われる。日暮れが怖いので、ちょっと急がなければならない。
駅前 に甲州街道・国道20号線が走る。側道には雪が残り、滑ったり、足が埋まったり、と結構大変。道なりに進み、黒野田橋で笹子川を渡る。笹子川は笹子峠あたりに源流点をもち、大月あたりで桂川に合流する相模川水系の川。橋を渡ると普明禅院。門前に「黒野田の一里塚」の碑。塚はない。境内には芭蕉の句碑;「行くたびに いどころ変わる かたつむり」。

追分
道はゆるやかではあるが次第にコンスタントな上りとなる。再び笹子川を渡り、「笹子鉱泉」といった看板を眺めながら先に進むと追分の集落。昔はこの追分から小田原・沼津道に出る往還があった、とか。ウィキペディアによれば、追分のもともとの意味は、「牛を追い、分ける」から。そこから派生し街道の分岐点として使われるようになった、と。
道は次第次第に上りとなる。地形も山が両サイドから狭まり、谷戸の奥といった景観となってくる。笹子川の上流である黒野川の流れに導かれるその先が峠へのアプローチ地点となるにだろう。

甲州道中への分岐
狩屋野川が黒野川に合流するあたりで甲州街道は右に大きくカーブする。甲州道中はここで甲州街道・国道20号線と分かれ県道212号日影笹子線となる。ここまで笹子駅から2キロ強。時間は午後1時近くになっていた。
分岐点には「矢立の杉」の幟。ここから4キロ程度といった案内がある。笹子峠への案内もあるのだが、道がふた筋あり、ちょっとわかりにくい。後から分かったのだが、どちらで進んでも、少し上の新田集落で合流する。
車道をどんどん進む。道に雪が残り、スピードがあがらない。計画では標準コースの倍くらいのスピードで、2時間かかるコースを1時間で上る予定。今回は見逃したのだが、甲州道中は集落のあるあたりから分岐し進むようだ。

笹子峠自然遊歩道

新田沢を渡り、道は大きく曲がる。ほどなく笹子峠自然遊歩道の案内。甲州道中はここで車道から離れ、山道に入る。遊歩道には雪が積もっており、はてさて、どうしたものかと少々悩む。が、結局雪道を進むことに。思ったほどは積雪が増えない。一安心。足元
を気にしながら沢にかかる木の橋渡り、山道を進むと、 ちょっと開けた場所に出る。三軒茶屋跡。明治天皇が山梨行幸の折り、休憩をとったところでもある。明治13年のことである。

矢立の杉
雪の中を進む。道は勾配がつくにつれ、雪はそれほど気にならなくなる。しばし歩くと「矢立の杉」。結構大きい。樹高約28m、根回り14.8m、目通幹囲9m、とか。その昔、武田の武士がこの杉に矢を射立てて富士浅間神社を祀ったのが名前の由来。北斎や二代広重も描いているようで、街道で名高い杉であった、よう。
矢立の杉を離れ、道を上ると車道に合流。合流点あたりに、周囲の景観とそぐわない原色の派手な看板。俳優・杉良太郎プロデユースのお芝居の看板。「矢立の杉」という曲もつくっている、とか。街道の至る所に「矢立の杉」の幟がたっており、その趣旨がいまひとつ理解できなかったのだが、ひょっとすればその種明かしは杉良太郎さんにあるの、かも。

笹子隧道
車道を進むとほどなく前方にトンネルが見えてくる。古い趣のある構えである。このトンネルは笹子隧道。脇にあった案内をメモ:四方を山々に囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。その甲州街道にあって一番の難所といわれたのが笹子峠。この難所に開削された笹子隧道は、昭和11年から工事をはじめ昭和13年3月に完成。抗門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変特徴的。昭和33年、新笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨から東京への幹線道路として甲州街道の交通を支えていた。南大菩薩嶺を越える大月市笹子町追分(旧笹子村)より大和村日影(旧日影村)までの笹子峠越えは、距離10数キロメートル、幅員が狭くつづら折りカーブも大変多い難所であった。この隧道は,平成11年、登録有形文化財に指定さた。

笹子峠

笹子峠はこの笹子隧道の上であろう。どうせのことなら、峠を越えようと上りの道を探す。隧道右脇に峠への案内。雪が積もっており少々不安。が、とりあえず進む。それほど深くはない。ジグザグの急な登りを数分歩くと峠に到着。時間は2時20分頃。甲州街道の分岐点からおよそ1時間ちょっとで上ってきた。標準時間の半分程度。日暮れは未だ遠い。ちょっと安心。
峠は両側が切り立ち、切通しのようになっている。標高1、096m。比高差600m弱を上ってきたようだ、峠は山梨県大月市と甲府市の境となっており、甲斐大和駅までは駅2時間30分、右へ上ると1時間10分で雁ヶ腹摺山。左へ上ると1時間30分でカヤノキビラノ頭に至る。
峠では猟銃をもった人に会う。この人は、峠道への車道を歩いていたとき、車で追い越して行った方。話をすると、車で追い越しながら、この時間から雁ヶ腹摺山へでも上るのかと心配してくれていた、そう。甲斐大和へ進むと話すと、安心してくれた。こんな雪の日に、山に上るでもなく、ひたすら峠道を歩くなど、いやはや物好きでありますなあ、といった風であった。




さてと峠を下ることに。少し急げば甲斐大和駅までは1時間程度で歩けそう。日暮れの心配もなく大いに安心。とはいうものの、甲斐大和側は雪が深い。道はまったくわからない。右手は崖になっており、滑り落ちないように慎重に下る。足元は雪に埋もれ、こわごわ下る。先に車道が見えるので、なんとなく当たりをつけて下ってゆく。大月側と比べて積雪が多いのは、こちら側が日陰なのか、風の通り道から外れてい るのか、はてさて。ほどなく車道に。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



甲州街道峠道分岐
甲斐大和駅に向けて道を下りはじめる。ほどなくガードレールの切れたところに、甲州街道峠道の案内。甲州道中はここで県道から離れる。どういった積雪状態か、ちょっと足を踏み入れる。とてものこと、進めそうにない。諦めて県道を進むことにして、元に戻る。後からチェックしたのだが、この峠道は途中で沢を渡ったりするようで、先に進まなかったのは賢明であった、かも。

清水橋

車道を進む。沢との距離がどんどん離れてくる。ガードレールから見る崖下は結構深い。曲がりくねった道を進む。しばらく下り案内板のあるところで先ほどの峠道が合流。この合流点は清水橋と呼ばれる。この合流点まで、相当距離があった。峠道を辿ったりしたら、果たしてどうなったものやら。。。
道脇にあった案内板をメモ;徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約五十五里)を開通させる。笹子峠はほぼその中間で江戸から約27里(約百粁)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高壱1、056米、上下三里の難所であった。峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて広場には常時、馬が二十頭程繋がれていた。峠を下ると清水橋までに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、天明水等があった、と。

天狗橋
清水橋から国道まではまだ4キロほどもある。先を急ぐ。大きなカーブを二回曲がり、道の右側にある桃の木茶屋跡という標柱などを見やりながら道を進む。しばらく進み大持沢橋を渡った辺り、道の左に工場が現れる。
道の右側が大きく開けてくると、遠くに山稜が見えてくる。位置からいえば大菩薩からの峯筋でななかろう、か。山の麓には中央高速も現れる。山腹には「武田家最後の地 大和」といった看板も見える。手前には集落も。駒飼宿であろう。
大きなカーブを曲がり、坂をどんどん下ると集落の入口あたりに天狗橋。橋の手前に津島大明神の小さな祠。橋を渡ると右側から小径が合流するが、これが甲州道中。どうも桃の木茶屋のあたりから笹子沢川を渡り、その右岸を下ってくるようである。橋を渡ると駒飼宿となる。

駒飼宿
駒飼宿に入る。ここは、織田軍に敗れた武田勝頼が、韮崎の新府城を脱出し、助けを求めて岩殿山の小山田信茂を待ったところ。結局は信茂の裏切りにより、笹子峠を越えることなく、天目山に落ち延び、その地で自刃した。
ところで天目山って何処だ?どうも山ではないようだ。しいていえば峠の名前。甲州市大和町田野にある。場所はJR甲斐大和駅方面から甲州街道を東に進み、笹子峠を貫通する新笹子峠の手前を日川に沿って大菩薩方面へ北東に進んだところにある。もともとは木賊(とくさ)山と呼ばれていたが、峠近くにつくられた棲雲寺の山号が天目山と称されたので、峠も天目山と呼ばれるようになった、とか。
先ほど山腹の看板でみた、武田最後の地というのはこのことである。
駒飼宿入り口右側には、真新しく小さな芭蕉句碑;「秣負ふ 人を枝折の 夏野かな」。馬の秣(まぐさ)採りに山に入った人が、夏草で道に迷のを避けるため枝折(しおり)をつけている、といったこと。



中央高速と交差
集落を進むと脇本陣跡の標識や本陣跡、本陣跡の敷地内に明治天皇小休所などが現れる。道なりにどんどん下ってい
くと中央高速と交差。巨大な橋桁の下を進み笹子沢川に架かる橋を渡る。昔の甲州道中は集落の中にある養真寺あたりから県道と別れ、笹子沢川を越え、川の西を下り、この橋のところに下る。笹子沢川の川幅が大きくなる前に、上部で沢を渡るようにしていたのだろう。土木建築技術をもとに、自然をねじ伏せ、力任せに川を渡る現在の道筋とは違って、自然とうまくつきあった昔の道筋ではある。

JR甲斐大和駅


道を進み「大和橋西詰」で甲州街道に合流。西詰を東に折れる。ほどなく笹子沢川と日川の合流点。この川はやがて笛吹川に合流し、更に富士川となって駿河湾に注ぐ。甲州街道を東に戻り、甲斐大和駅に。駅の近くにある諏訪神社で電車の時間待ちなどをしながら本日の予定終了。午後4時過ぎとなっていた。
先回、大月の岩殿城跡散歩の折、猿橋から鳥沢まで旧甲州街道歩いた。その道筋は現在の国道20号線に沿ったもの。トラックの風圧に脅えながらの道行き。とてものこと、風情を楽しむ、といった趣はない。
国道から離れた旧街道の道筋でもあれば、相模から甲斐の国境をのんびり歩くのもいいか、とチェックする。裏高尾の小仏峠から相模湖に抜ける道、大月の先から笹子峠を越えて勝沼に抜ける道、そし上野原から鳥沢への道筋。このあたりが現在の国道から大きく離れ、山間を進む道筋となっている。であれば、この3箇所を歩こう、と。先回の散歩の続き、というわけでもないのだが、第一回は上野原から鳥沢に向かって歩くことにした。
現在の甲州街道・国道20号線は桂川(相模川)の川筋を進む。一方、旧甲州街道(甲州道中)は山間の道を進む。大雑把に言えば、中央高速に沿って山地を上り、談合坂サービスエリアの北を迂回した後、鳥沢に向かって一気に下っていくことになる。道路建設工事の技術が発達した現在では川筋に道が続くのは当たり前だが、昔はそうはいかない。雨がふれば土砂崩れなどで道がつぶれる。街道ともなれば、そんな不安定な川筋を通す訳にはいかない。ということで川筋を避け、山間を進む道となったのだろう、か。ともあれ、JR上野原に向かう。



本日のルート;JR上野原駅>上野原宿>鶴川橋>鶴川宿>中央高速・鳶ヶ崎橋>大椚一里塚>吾妻神社>長峰の史跡>野田尻宿>荻野一里塚>矢坪>座頭転がし>犬目宿>気味恋温泉>恋塚の一里塚>中野>下鳥沢

JR上野原駅
上野原一帯は桂川によって形づくられた河岸段丘がひろがる。河岸段丘って川に沿って広がる階段状の地形のこと。上野原の駅も河岸段丘の中段面にある。ホームを隔て南口は一段下。北口は一段上といった案配。駅前もわずかなバス停のスペースだけを残し、崖に面している。街中は段丘面の上。石段を上り進むことになる。上野原の由来は段丘上の原っぱにあったから、って説も大いに納得。
それにしてもこの桂川、というか相模川水系の発達した河岸段丘には散歩の道々で驚かされる。先日、津久井湖のあたりを歩いたときも、一帯の段丘の広がりに感激した。城山を隔てて津久井湖の南に流れる串川一帯の発達した河岸段丘にも魅せられた。
河岸段丘の形成は、川が流れる平地(川原)が土地の隆起などにより浸食作用が活発になり、川筋が低くなる。で、低地に新たに川原ができ、以前の川原は階段状の平地として残る事に成る、ということ。このあたり富士山による造山活動が活発で、土地の隆起も激しく、いまに残る見事な河岸段丘が形成されたのであろう、か。

上野原宿
駅から上野原の街中に進む。階段を上り、道なりに北に。途中、中央高速を跨ぐ陸橋をわたり国道20号線・甲州街道に。上野原の駅は標高200m弱。国道20号線は標高250m強といったところ。
旧甲州街道(甲州道中)は鶴川への合流点の手前までは国道20号線とほぼ同じ。国道に沿って、雰囲気のある民家もちらほら。上野原宿跡であろう。三井屋などといった、いかにも歴史を感じるような看板も目につく。上野原宿は相模から甲斐にはいった最初の宿。絹の市でにぎわった、と。東京から74キロのところである。

鶴川橋
国道を西に進む。棡原(ゆずりはら)を経て小菅や檜原に向かう県道33号線を越えるあたりから国道は鶴川の川筋に向かって下ってゆく。坂の途中、国道20号線が南に大きくカーブするあたりに鶴川歩道橋。旧甲州街道はこの歩道橋で国道と分かれ、北に進むことになる。
国道から離れるとすぐに旧甲州街道の案内図。大ざっぱな道筋を頭に入れ、先に進む。道は鶴川に向かって下る。眼下の鶴川、南に続く中央高速など、誠に美しい眺めである。大きく湾曲する車道の途中からショートカットの歩道を下り鶴川橋に。四方八方、どちらを眺めても、誠にのどかな景色の中、鶴川が流れる。
鶴川は奥多摩の小菅村あたりに源を発し、上野原市の山間を下り、桂川(相模川)に合流する。鶴川橋の少し北で仲間川が、少し南で仲山川が鶴川に合流する。地図を見ると、旧甲州街道はこの二つの川の間の尾根道を野田尻まで進んでいる。甲州街道ができるまでは、上野原から大月方面・鳥沢に抜ける道は、仲間川と仲山川(八ツ沢)の沢道、そして桂川に沿った道といった三つのルートがあった、と言う。上にもメモしたが、川沿いの道は崖崩れなどといった不安定要素も多く、また、そもそもが峻険の崖道でもあったであろうから、公道には比較的安定した尾根筋を選んだのではなかろうか。我流の解釈。真偽のほど定かならず。 ちなみに、桂川の南側に慶長古道が残る、という。慶長古道、って幕府によって整備された五街道の影に埋もれてしまったそれ以前の道筋、である。

鶴川宿

橋を渡ると鶴川宿の案内。甲州街道唯一の徒歩渡しがあった、とか。とはいうものの、冬には板橋が架けられた、という。尾根に向かって台地に上る。街並は落ち着いた雰囲気。町中に鶴川神社。長い石段を上り、牛頭天王にお参り。天王さま、ということで信仰されていたのだろうが、明治期に天王=天皇、それって畏れ多し、ということで、鶴川神社といった名前に改名したのだろう、か。これまた我流解釈。真偽のほど定かならず。
先に進むと三叉路。「鶴川野田尻線」という案内に従い左に折れ、上り坂を進む。台地の北には仲間川の低地。尾根道を歩いている事を実感する。四方の眺め、よし。本当にいい景色である。この数年いろんなところを歩いたが、大勢の仲間とハイキングするにはベストなコースのひとつ。広がり感が如何にも、いい。

中央高速・鳶ヶ崎橋
しばらく進むと中央高速に架かる鳶ヶ崎橋に。旧甲州街道はここから当分中央高速に沿って進む。というか、中央高速が旧甲州街道の道筋に沿ってつくられた、というべきだろう。道を通すにはいい条件の地形であった、ということ、か。

大椚(おおくぬぎ)一里塚
中央高速を越えちょっとした坂道を台地上に。広々とした台地上に大椚一里塚。塚はなく、江戸から19番目という案内板が残る、のみ。先に進むと大椚の集落。 歩きながら、南の地形が気になる。少し窪んだあたりが仲山川筋だろう、か。その向こうの高まりは御前山であろう、か。御前山の向こうには桂川がながれているはず、などと、あれこれ見えぬ地形を想像する。如何にも楽しい。 

吾妻神社 
ゆったりした集落を歩いてゆくと吾妻神社。境内脇に大椚観音堂がある。神も仏も皆同じ、神は仏の仮の姿、といった神仏習合の名残をとどめているのだろう。境内には大杉が屹立する。吾妻は「あずまはや(我が妻よ、もはやいないのか)」、から。日本武尊(やまとたける)が妻の弟橘姫を想い嘆いた言葉。先日足柄峠を歩いたときも日本武尊のあれこれが残されていた。足柄峠を越えて東国を平定に来た、ということらしい。

長峰の史跡

吾妻神社を越えると道は北に曲がり、中央高速に接する。しばらく中央高速に沿って進むと長峰の史跡。戦国時、このあたりに砦があった、よう。周囲を見渡せる尾根道。狼煙台としてはいいポジションである。道脇にあった説明文の概要をメモする;
長峰の史跡;長峰とは、もともとは鳶ケ崎(鶴川部落の上)から矢坪(談合坂上り線SA)に至る峰のことであった、が、戦国時代、上野原の加藤丹後守が出城といった砦をこの地に築いたため、いつしか、このあたりを長峰と呼ぶようになった。丹後守は武田信玄の家臣。甲斐の国の東口で北条に備えた。
当時、この地は交通の要衝。要害の地。また、水にも恵まれる。砦の北側は仲間川に面した崖である。南面には木の柵を立て守りを固めていた。柵の東側に「濁り池」。その西北部に「殿の井」と呼ばれる泉があった。濁り池は、100平方メートルの小池。いつも濁っていたのが名前の由来。殿の井は、枯れることのない湧水。殿が喉を潤したので、この名がついたのだろう、と。現在この史跡の真ん中を中央高速が走っている。

長峰砦の案内もあった。概要をメモ;長峰砦;やや小規模な中世の山城。この付近は戦国時代、甲斐と武蔵・相模が国境を接するところ。この砦は、当時、こういった国境地帯によく見られる「国境の城」と呼ばれるもの。周辺の城と連携をとり、国境警護の役割を担っていた。砦は、何時頃、誰によって築かれたか、といったことは不明。が、中央高速の拡張工事に際し調査した結果、郭、尾根を切断した堀切、斜面を横に走る横堀跡などが見つかった。
また、長峰と呼ばれていた尾根状地形のやや下がったあたりに、尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続敵に確認された。これは江戸期の「甲州街道(甲州道中)」に相当するものと見られる。
長峰砦跡は、歴史的全体像を把握するにはすでに多くの手がかりが失われている。が、この地には縄文時代以来の活動の跡も断片的ではあるが確認できる。ここが 古くからの交通の要衝であったということである。当然戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われうことになる。ために、交通を掌握し戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれた、と。その後、江戸時代になると、砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備された、と。

長峰砦もそうだが、このあたりには南北に砦や狼煙台が連なる。北から、大倉砦、長峰砦、四方津御前山の狼煙台、牧野砦、鶴島御前山砦、栃穴御前山砦である。大倉砦は鶴川、仲間川筋からの敵に備える。この長峰砦は尾根道筋に備え、四方津御前山の狼煙台と牧野砦は仲山川(八ツ沢)筋の敵に備え、桂川南岸の島御前山砦、栃穴御前山砦は桂川筋に備える。そしてこれら砦・狼煙台群の前面にあって上野原城が北条に備えていた、と言うことだろう。丁度遠藤周作さんの『日本紀行;「埋もれた古城」(光文社)』を読んでいたのだが、そこに群馬の箕輪城の記事があった。この城も支城群があるそうな。主城だけでなく、支城・砦・狼煙台といった防御ネットワークを頭に入れた城巡りも面白そう。

野田尻宿

中央高速脇の側道を進み、高速に架かる新栗原橋を渡り、高速の北側を少し下り加減に進む。ほどなく野田尻の集落となる。江戸から20番目の宿場。ゆったりとした、いい雰囲気の街並である。本陣跡には明治天皇御小休所址が。明治13年の山梨巡行の折のこと。それに備えて街道の拡張・整備が行われた、ってどこかで読んだことがある。
町中に大嶋神社。由来などよくわからないが、大嶋神社って、宗像三女神の次女でる湍津姫神が鎮座する宗像の大嶋からきているのだろうか。奥津島神社って書かれる神社も多い。集落の北には仲間川、南は中央高速が迫る。

荻野一里塚

集落のはずれに西光寺。9世紀はじめに開かれた歴史のあるお寺さま。あれこれとメッセージの書かれたボードが、あちこちに掛かっている。お寺の手前に「お玉ヶ井」の石碑。旅籠で働く美しい娘が恋の成就のお礼に野田尻の一角に湧水をプレゼント。この娘、実は長峰の池の竜神であった、とか。
西光寺の手前に南に進む道。すぐ先に高速の橋桁が見える。旧甲州街道はこの道ではなく、西光寺の北の三叉路から南に廻りこむように進む。直進すれば仲間川筋に出て、源流への道筋が続いているようだ。
西光寺の裏の坂道をのぼってゆく。中央高速を越えると杉林の道。これはいいや、とは思うまもなく舗装道路に。ゆるやかな上り。しばし進むと道の擁壁の上に荻野一里塚の説明。案内だけで一里塚は残っていない。

矢坪
中央道の遮音壁に沿って進み、矢坪橋で再び中央道を越えて北側に。中央高速はこのあたりで南西に大きく曲がる。直進すれば山塊に当たるわけで、山裾を縫うように下ってゆく。一方旧甲州街道は山へと直進する。なぜだろうと地形図をチェック。山の裾には多くの沢が見える。沢越えを避けるため、沢筋の影響のない山の道を進むのではなかろうか。
矢坪橋を渡るとすぐに右に上る小道が分かれる。この道は戦国期の古道とか。旧甲州街道は県道の道筋のようだが、どうせのことなら舗装道路より山辺の小道がよかろうと右に折れる。入り口に旧古戦場の案内;「長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。この矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、昔古戦場となったところ。享禄3年(1530)、北条氏縄(綱の間違い、かなあ?)の軍勢が矢坪坂に進軍、待ちかまえるは坂の上の小山田越中守軍。激しい戦いが行われたが多勢に無勢、小山田軍は敗退して富士吉田方面に逃げた」という。武田と北条のせめぎ合いが、こんなところまでに及んでいたか、と感慨新た。

座頭転がし
急な小道を上る。武甕槌(たけみかづち)神社入口の案内。少々石段が長そうなのでお参りはパス。なにせ家をでたのが少々遅く、日暮れが心配。先を急ぐと民家が。まことに大きな白犬に吠えられる。恐る恐る民家の庭先といった道を抜け、森を進む。ほどなく道が開ける。下に県道が見える。20mほどもありそう。柵があるからいいものの、なければ高所恐怖症のわが身には少々怖い、ほと。
柵が切れてフェンスになったところに「座頭転がし」。県道の工事で山肌を削りもとの地形より険しくはなっているのだろうが、それでも座頭が転んでもおかしくは、ない。先に進むとほどなく県道に合流。安達野のバス停。新田の集落に出る。



犬目宿

県道をどんどん進むと犬目宿。落ち着いたいい雰囲気の町並み。標高は510m強。桂川筋が標高280m程度であるので、330mほども高い位置。安定した街道を通すには、険峻な谷筋、入り組んだ沢筋を避け、ここまで上らなければならなかったのであろう。
義民「犬目の兵助」の生家の案内。概要をメモ;天保四年(1833)の飢饉に引き続き、天保七年(1836)にも大飢饉。餓死者続出の悲惨な状況。代官所救済を願い出ても門前払い。万策窮し、犬目村の兵助などを頭取とした一団が、米穀商へ打ち壊し。世に言う、『甲州一揆』。
このとき兵助は四十歳。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されている。一揆後、兵助は逃亡の旅に出る。秩父に向かい、巡礼姿になって 長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢へと一年余りの逃避行。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没した、と。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)  

君恋温泉

集落の外れは枡形の道。城下町などに敵の侵入を防ぐ鍵形の道がここで必要なのかどかわからないが、ともあれ、道脇の寶勝寺、白馬不動尊などを見やりながら先 
に進む。道は心もち上りとなっている。いくつかのカーブを曲がり歩を進めると君恋温泉。いい名前。名前の由来は「君越(きみごう)」から。日本武尊(やまとたける)が妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)を想いつつ、この地を進んだ、とか。日本武尊が「君越(きみごう)」から振り仰いだ山が裏にそびえる扇山(仰ぎ山)、ということだ。とはいうものの、仰ぎ見たと伝えられるところはあちこちにある。日本武尊、大人気である。このあたりが今回の標高最高点550m強あるようだ。近くには恋塚って地名もある。その恋塚に進む。


恋塚の一里塚

君恋温泉からはやっと下りとなる。少し進むと道脇にこんもりとした塚。恋塚の一里塚。日本橋から21里。一里塚って箱根八里越えのとき、はじめて見たのだが、道の両側に土を盛った塚をつくる。わかりやすいとは思うのだが、大きさ9m、高さ3mほどの塚。そこまでする必要があるのだろうか、少々疑問。とはいうものの、遠くから距離の目安がわかるのは有難い、か。

中野
道をどんどん下る。途中、馬宿地区には40mほどではあるが、石畳の道が残っていたそうだが、分岐の細路を見逃した。馬宿から山谷へと進むと開けたところから富士山が見えてくる。美しい。山谷の集落の大月CCへの入口を見やり、どんどん下る。日暮れとの勝負といった按配。10分強歩くと中野の集落。ここまで来れば一安心。

ゆったりとした風景の中をさらに下ると中央高速の巨大な橋桁。深い沢を一跨ぎ。こんな芸当のできない旧甲州街道は、自然の地形に抗うことなく、沢を避け尾根を登り、再び沢を避け尾根を下っている。今と昔の道の違いがちょっとだけ実感できた。

下鳥沢

中央高速の橋桁をくぐり、先に進むとほどなく現在の甲州街道・国道20号線に合流。久しぶりに車の騒音を聞きながら鳥沢駅に進み、本日の予定終了。上野原から17キロ程度の散歩。時間がなかったので3時間強で歩き終えた。
小仏峠を越えて相模湖に

甲州街道の昔道を辿る散歩の第二回。高尾から小仏峠を上り、相模湖まで歩くことにした。JR高尾駅から高尾山の北側、通称裏高尾を経て小仏峠に上り、そこからは相模湖に向かって山中を下ることになる。
小仏峠越えは難路であった、と言う。小仏峠には一度訪れたことがある。が、そのときは、高尾山から景信山を経て陣場山に登るため、高尾・景信の鞍部である小仏峠を通過しただけ。街道をのぼってきたわけではない。
小仏峠の手前まで歩いたこともある。景信山への直登ルートの登山口まで旧街道を歩いたわけだが、どうといったことのない舗装された道。とてものこと、険峻な峠道といった印象はなかった。はてさて、その先が難路であったのだろう、か。小仏峠への難路を少々期待しながら散歩に出かける。



本日のルート:JR高尾駅>小仏関跡>荒井バス停>小仏バス停>景信山登山口>小仏峠>JR、中央高速と接近>小仏峠への西からの登山口>旧甲州街道を底沢に下る>小原の里>中央線JR相模湖駅


JR高尾駅

JR高尾駅で下車。この駅には幾度来たことだろう。鎌倉街道山の道を、この高尾から五日市筋、それから青梅筋、次いで名栗の谷筋、そして妻坂峠を越えて秩父には進んだことが懐かしい。八王子城跡に歩くときも、この高尾の駅から歩を進めた。
高尾は高尾山薬王院に由来する。で、そもそもの「高尾」は京都の三尾(高尾、栂尾、槇尾)のひとつ、から。室町時代に入山した俊源大徳が京都の醍醐寺に入山していたためである。
駅前のロータリーで小仏峠行きのバスを待つ。終点の小仏バス停までは4キロ強。時間もないし、また、このあたりは数回歩いているので、今回はバスに乗ることにした。
バスは駅から国道20号線に出る。両界橋で南浅川を渡り、JR中央線のガードをくぐる。ほどなく西浅川交差点。バスはここで国道20号線を離れ、小仏峠への旧甲州街道(以下甲州古道)に入る。角のコンビニは裏高尾の最終コンビニ。

小仏関跡
交差点から800mほど入った駒木野バス停のところに、ちょっとした公園が見える。これって小仏関跡。もともとは小仏峠にあったものがこの地、駒木野宿に移されたもの。何時だったかここを訪れたことがある。小仏関の石碑の前に、手形石とか手付石といったものがあったように思う。旅人が手形を差し出したり、手をつき頭を下げて通行の許しを待つ石であった、かと。
駒木野の由来ははっきりしない。青梅筋の軍畑の近くにある駒木野は、馬を絹でまとって将軍様に献上した、からと言う。「こまきぬ」>『こまぎぬ」ということ、か。駒木野宿は戸数70戸ほどの小さな宿。関所に付属した簡易宿で、なんらか馬に関係はしたあれこれがあったのだろう。

荒井バス停
バスは進む。道も狭くなり、バスが道を塞ぐ、ほど。対向車待ちが必要といった道幅である。駒木野の次のバス停は荒井。荒井のバス停の近くから八王子城に上る道がある。道というか山道である。これもいつだったか、あまりきちんと調べないで、このルートを辿ったことがある。八王子城山の山裾を通る散歩道程度だろう、と思っていたのだが、これが大間違い。山稜に引っぱり上げられ、アップダウンの激しい尾根道を富士見台を経て城山まで1時間以上の山道歩きとなった。軽々に山道に入るべからず、ということ、か。

小仏バス停
荒井バス停を越え、圏央道と中央高速のジャンクションの南を進む。バスの窓から浅川国際マス釣場などを眺めながら小仏川に沿って進む。小仏川って南浅川の上流の名前。裏高尾ののどかな景色。ほどなく小仏バス停に到着。ここから歩きが始まる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

景信山登山口
バス停を少し進むと宝珠寺。道を離れ小高い崖面上のお寺にお参り。境内のカゴノキは都の天然記念物。鹿子の木と書く。樹皮がはがれて鹿の子模様になるから、とか。クスノキ科の常緑高木。昔、行基がこの寺に仏を置いた。それが小仏峠の由来、との説がある。
小仏川に沿って舗装された道を進む。次第に傾斜がきつくなってくる。小仏川が見えなくなる辺りで道は大きくS字にカーブ。中央道が小仏トンネルに入るあたりの南をかすめ、道を進む。道路は舗装されており、厳しい峠道にはほど遠い。
ほどなく景信山登山口の案内。いつだったか、ここから景信山に取り付いたことがあったのだが、ペットボトルを道の途中で落とし、水分補給ができず厳しい思いをしたことを
思い出した。
景信山の由来は、八王子城代である横地景信が八王子城攻防戦に破れ落ちのびたとき、この地で討取られたから、とか。もっとも、横地景信という人物は存在せず、横地吉信であったという説もあり、しかもこの人物は、八王子城を脱出した後、檜原城に逃れた後、小河内で自刃したという説もあり、本当のところはよくわかってはいない。

急峻な山道
しばらく進むと駐車場。結構広い。10台ほど車が駐車している。舗装道路はここでお終い。道はここから急に山道となる。山道の始点からしばらくは、それほど厳しい道筋でもない。道幅もゆったりしている。こういった調子で峠まで続くのか、急峻ってイメージではないなあ、などとお気楽に進んでいると、突然道が厳しくなる。人ひとり通れるかどうか、といった幅しかないし、ジグ
ザグの急角度。急な山道に息が上がる。これはとてものこと車というか、馬車を走らせる道など通せそうもない。山道の途中から下を見ながら、現在の甲州街道・国道20号線が小仏峠筋を避けたもの当然だろう、と実感する。
現在の甲州街道が開かれたのは明治21年。この小仏峠筋ではなく、大垂水峠を越える道筋に車、というか、馬車が通れる道筋がつくられた。一方、鉄路の開設は明治34年頃。車道とは異なり鉄路はこの小仏峠筋にトンネルを通す。大垂水ルートの頻繁なる高低差は鉄路には好ましくない、ということなのだろう。2キロ程の山塊を開削している。中央高速も然り、である。
誠に急な山道。幕末、近藤勇率いる甲陽鎮武隊が甲府防衛のため、この山道を通った、と言う。大砲を曳いていったとのことだが、さぞかし難儀なことであったろうと思う。ここを歩くまでは、どうして現在の甲州街道が小仏峠筋を通らないのか、少々疑問に思っていたのだが、そんな疑問をすっきり解消してくれるほどの急坂であった。
あれこれ思いながら、歩を進める。山道を上り切ったところに、やっと小仏峠が現れた。地形図でチェックすると、山道にはいったところから峠まで200mで高度が80mほどあがっている。最大斜度が30度ほどのところもあった。結構な「崖道」であった。

小仏峠
高 尾山と景信山の按部である小仏峠は広場となっている。地形図でチェックすると、景信山から高尾山につづく山塊のもっとも幅の狭い部分となっている。この峠道が開かれたのは大月城主・小山田信繁による滝
山城急襲のとき。上州碓井峠方面からの武田軍主力に呼応し、この小仏筋から攻め込む。滝山城を守る北条軍は、この道筋から軍勢が攻め込むなど想像もしていなかった、と言う。それほど人を寄せ付けない急峻な山塊であったのだろう。先日の大月散歩のときの案内によれば、小山田信繁は岩殿城山の修験者の先導のもと、道なき道を切り開いた、と言う。岩殿山の修験者を庇護していたもの、むべなる、かな。
峠に関が設けられたのは室町末期。小山田軍の急襲により廿里の合戦(高尾駅の北)で北条方が破れる。ために、北条氏照は裏高尾筋への備えを固めるため主城を滝山城から八王子城へ移す。そして、小仏峠に八王子城の前線基地としての砦を築く。当時は富士関役所と呼ばれていた、とか。これが小仏の関のはじまり。北条氏の対武田防御最前線で
もあったのだろう。
北条が秀吉に破れ、秀吉の命により家康が関東を治めるようになると、家康により関が設けられる。家康は武田の遺臣を召し抱え八王子千人同心を組織。八王子、そしてこの関の防衛の任を命じる。その後、関
は駒木野の地に移されることになる。こんな山奥ではあれこれ不便であったのだろう。
峠の広場を歩く。北端にいくつかのお地蔵様。その横には登山ルートマップ。景信山にはその脇から上ってゆく。いつだったかこのルートで景信山に上ったことがある。峠に上る途中にあった景信山への「直登ルート」に比べて少し楽だった。南端は高尾山の小仏城山への登山道。手前に明治天皇が山梨巡行のとき、この峠を通ったことを記念する石碑。そして南西端に旧甲州街道の案内。ここから相模湖に向かって下ることになる。


JR、中央高速と接近
杉木立の中をどんどん下る。はじめのころは比較的傾斜も緩く歩きやすい。500mで100m下る程度。その後少し傾斜が急になる。500mで200m下る。下っているからいいものの、下から上ってくるには少々骨が折れるだろう。道は尾根筋を下っている。
尾根道の北に沢筋。その下をJR中央線のトンネルが走っている。中央高速の小仏トンネルはその北の山塊を穿って走る。
送電鉄塔などを見やり、峠から1キロ程度下ると、車の音が聞こえてくる。中央高速を走る車の音だろう。ほどなく、木々の間から中央高速が見えてくる。山道を抜け、小仏峠の登山口の案内のある里に出ると、前方にJR中央線、中央高速が現れる。トンネルから出た鉄道も高速も、ここからは西に迫る山塊を避け、沢筋を相模湖方面に向かって下る。

小仏峠への西からの登山口
登山口の案内のところから道は舗装道路となる。山道を下りたところで、舗装道路を南に行けばいいのか、北に行けばいいのかわからない。結局南へと歩いたのだが、甲州古道はこの道を北に進み、中央高速を越え、美女谷温泉方面へとのぼり、それから再び中央高速を越え、中央高速と並走するJR中央線との間を相模湖に向かって下るようであった。後の祭り。
美女谷温泉は陣場山からの下りで幾度か目にしていた。気になる名前ではある。名前の由来は美女伝説、から。この地は小栗判官に登場する絶世の美女・照手姫出生の地、であった、とか。
小栗判官の話は熊野散歩のときにr出合った。その照手姫が、この地に生まれたとのことであるが、例に寄って諸説あり、真偽のほど定かならず。それよりなりより、この話自体が伝説に過ぎない、とも。ともあれ、照手姫のお話のさわりをちょっとメモする。
相模・武蔵両国の守護代の館に姫が生まれる。照?手と名付けられた姫は美しく成長し、その美しさは、世間の評判。この噂を耳にしたのが常陸の国司、小栗判官。この地に赴き、強引に婿入りする。が、これに怒った照手姫の親により小栗判官は毒殺される。で、あれこれあって、照手姫は美濃の国の遊女宿で下働きに。また、小栗判官が閻魔大王の恩赦で地獄からよみがえる。物言わぬ餓鬼阿弥の醜い姿で遊女宿の前に現れる。熊野本宮の峰の湯に入れば元の体に戻ると言われ、?人の情けを受けながら熊野を目指す旅の途中であった。照手姫は夫とも知らず、小栗判官の乗った車を引いて近江まで進むが、宿との約束もあり、遊女宿に引き返す。小栗判官は熊野に着き,峰の湯温泉につかって元の小栗判?官に戻り、照手姫と再会。幸せに暮らしたとさ。

旧甲州街道を底沢に下る

中央高速の高架橋、そしてJR中央線に沿って南に下る。高速の高架橋が美しい。高速は山裾を縫って走る。ちょっとし沢など高い橋桁でひと跨ぎ。技術力のパワーを実感する。昔道は自然に抗わず、尾根を進み、沢に沿って下る。山塊の間の沢筋の道を数百メートル進むと、国道20号線と合流。この沢を流れる川筋は底沢川とも美女谷川、とも。

小原の里

国道を少し西に歩いたところに底沢バス停。バス停を見やり先に進む。少し進んだところに「小原の里」。この地、小原宿の案内所。気さくな職員の応接のもと、しばし休憩。一時のおしゃべりを楽しみ、近くにある小原宿の本陣を訪ねる。この本陣は神奈川に残る唯一のもの、とか。
本陣利用は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩のみ。それぞれ小さな藩である。江戸幕府の防御ラインが主として甲州街道に重点を置いており、ためにこの街道は大いに軍事街道の性格が強いように思えるのだが、そういったことも参勤交代の数が少ない事と関係があるのだろう、か。甲府城しかり、八王子千人同心しかり、また江戸においても四谷といった甲州街道筋には大番組(戦闘集団)を配置している。ちなみに大番組が住んでいたところ
が番町、である。素人解釈のため、真偽のほど定かならず。また、甲府城は危急の際の将軍家の退避城であった、とか。

中央線JR相模湖駅
そうそう、それと甲州街道を利用した公的往来としては、宇治のお茶を将軍に献上する「お茶壺道中」もあった、なあ
。宇治のお茶とは関係ないのだろが、このあたりの地名には京都ゆかりの地名が多い、なあ。相模川はこのあたりでは桂川と呼ばれるし、小原は京都の「大原」。そして、少し西にある与瀬も京都の「八瀬」からとの説もある。はたして、その由来は、などとあれこれ想像をふくらましながら一路JR相模湖駅に向かい、本日の予定終了。京都との関係、その真偽のほどはそのうちに調べてみよう。
先日中世の甲州街道を歩いた。山梨の塩山から大菩薩峠を越え、奥多摩の小菅村に抜ける峠道である。で、中央線に乗り塩山に向かう途中、JR大月駅前に聳える岩山に目が止まった。「ひょっとしてあの岩山って岩殿山?」同行の仲間に訪ねた。然り、と。いやはや、偶然に岩殿山に出合った。この岩山には岩殿城跡がある。

関東を歩いていると、折に触れて北条氏の事跡が登場する。岩殿城もそのひとつ。小山田氏の居城である。小山田氏のことをはじめて知ったのは昭島の滝山城散歩の時。碓井峠方面より侵攻した本隊に呼応し、小仏峠の山道を切り開き北条方を奇襲し勝利を収めた。北条方はまさか険路・小仏峠方面から武田の軍勢が侵攻するとは夢にも思っていなかった、と。世に言う廿里合戦である。大菩薩行から数週間を経た晩秋のとある休日、岩殿城を訪れた。



散歩のルート:JR大月駅>桂川>岩殿山城址入口>ふれあい館>揚城戸門>岩殿山頂>七社権現洞窟>葛野川>甲州街道>大月市郷土資料館>柱状節理>猿橋>JR鳥沢

大月駅
JR中央線の各駅停車でのんびり大月に。中央高速ではしばしば目にする地名ではあるが、JRでははじめて。つつましやかなる駅舎である。駅のホームから岩殿山が見える。いかにも魅力的な山容。
駅前もゆったり。観光案内を探すが、見当たらない。とはいうものの、目的の地は眼前に聳えているわけであり、地図もなくてもなんとか行けそう。ということで、のんびりした商店街を進む。
この大月の地には平安時代、武蔵七党横山氏の分流古郡氏が居を構えた、と。その古郡氏が和田義盛の乱により滅亡した後、武田領となり、小山田氏が治めることに。
江戸時代は甲州街道の第20番の宿場町。江戸から93.7キロのところにあった。地名の由来は大槻(ケヤキ)が群生していた、から。その後、美しい月も見える、という地勢故に、いつしか大槻が大月になった。とか。

桂川

駅前の路地を東に進む。このあたりの地名は御太刀(みたち)。やんごとなき方の太刀のあれこれに由来するのだろうか。が、詳細不明。駅のホームの東端の少し先で線路を越え、道なりに岩殿山方向へ進む。大月市民会館交差点を過ぎると高月橋。桂川に架かる。
桂川は相模川の上流部の名称。水源は富士山麓の山中湖。名前の由来は京都の桂川から、といった説もあるが不明。大月から少し下った猿橋のあたりに桂川に合流する川があるのだが、その名前が葛野川。葛=かずら>かつら、との説も。桂って「つる」のことでもあるので納得。
高月橋は、大槻が大月となるきっかけとなった、高く照らす大きなお月さんがよく見えた場所、から、と勝手に解釈。

岩殿山城址入口
橋を渡り山裾を上る県道139号線を進む。道が少しカーブするあたりに岩殿山城址入口の案内。整地された坂道を上ると鳥居があり、そこに岩殿山の由来を述べた案内。概要をメモする;岩殿山は9世紀末、天台宗岩殿山円通寺として開創。10世紀には堂宇並ぶ門前町を形成。13世紀には天台系聖護院末の修験道の中心として栄える。
16世紀には武田、小山田両氏の支配下。岩殿城が築かれ相模、武蔵に備える。1582年、武田・小山田氏の滅亡により、徳川の支配を経て17世紀に廃城となる。
円通寺も明治期に神仏分離政策により廃寺。現在は東麓に三重塔跡、常楽院、大坊跡、また山頂には空堀、本城、亀ケ池といった遺構が残る。

ふれあい館
鳥居を過ぎ、階段を上る。彼方に富士、眼下の河岸段丘には大月の街が広がる。先に進むと丸山公園。お城の形をした建物・ふれあい館がある。1階は映像ホール、2階は展示室。2階の展示室には小山田氏の説明や大月の紹介ビデオが容易されていた。
小山田氏:桓武平氏の流れをくむ秩父党の出。町田の小山田の地に居をかまえ、小山田氏を名乗る。鎌倉期、頼朝を助け秩父党の重鎮たるも、畠山重忠謀殺の変に巻き込まれ一族のほとんどが滅する。で、かろうじて難を逃れた一派が甲斐の国・都留の地に居を構える。戦国期には武田氏、穴山氏と並ぶ勢力として甲斐の国に分立。後に武田氏に帰属するも、一定の独立性を保っていた、とか。
小山田氏で有名な武将は小山田信茂。信玄のもと、幾多の合戦において猛将の誉れを受ける。上でメモした廿里合戦もこの岩殿城から出撃する。険阻なる小仏峠から高尾へ進出。高尾駅北の台地あたりで北条の軍勢を破った。北条方が戦略上の拠点を昭島の滝山城から八王子城に移したのも、この小山田信茂の進出がきかっけ。小仏峠方面からの武田勢に備えるためである。ちなみに小仏峠越えの先達をつとめたのは岩殿円通寺の修験者であった、とか。
猛将信茂が評判を落としたのが武田勝頼への裏切り。織田信忠を総大将とする織田の軍勢により戦いに破れ、この岩殿城に落ち延びようとする武田勝頼に反旗を翻す。逃げ場を失った勝頼は天目山で自害。武田家が滅亡する。
織田軍の甲斐平定後、信長への伺候のため信忠に拝謁。が、勝頼への不忠を咎められ処刑される。とはいえ、小山田氏は単なる武田の家臣ではなく、一定の独立性を保っていたため、武田の家臣ではないわけで、家臣故の不忠という非難はあたらない、という説もある。

大月案内のビデオを見ながら少々休憩。受付でもらった資料を眺める。見所やコースが紹介されている。JR猿橋駅近くに名勝猿橋がある。大月市の郷土資料館も。そして岩殿山からJR猿橋方面への下りもある。であれば、ということで山頂からは猿橋方面に下ることに方針決定。富士を眺めながら腰を上げる。

揚城戸門
階段を上る。眼下に広がる眺めに感激。歩いては下を眺め、富士を眺め、また歩く。山側を見やると切り立った岩壁が聳える。修験道の修行場としての岩殿山というフレーズに、大いに納得。とはいうものの、高度をあげるにつれ谷側の崖が気になってくる。普通の人にはどうということのない石段なのだろうが、高所恐怖症の気味がある我が身としては少々怖い。何となくへっぴり腰の上りとなる。なんとか早く山頂に着きたいものだ、との思いだけで目を細め、谷川から目をそらし先に進む。
しばらくすすむと巨大な自然石が道の両側に迫る。揚城戸門。自然石が城門として利用されている。先に番所跡。揚城戸を守る番兵の詰所跡である。
さらに進むと尾根筋の先端に案内板。岩殿山西端に大露頭部のあったところ、とか。現在は風化・浸食が進み崩落の危険があるため破砕撤去されたが、もとは西の物見台跡とも、修験場とも言われていた、と。ここまでくると北の山容が目に入る。大菩薩へ峰筋であろう。まことに素晴らしい眺めである。

岩殿山頂
大菩薩行を思い出しながら先に進む。山頂はすぐ。上り口から30分弱といったところ、か。岩殿山の標高は634m。上り口は標高340m程度であるので、比高差300mほど。上る前は650m弱の山っって結構大変かと思っていたのだが、それほどでもなかった。
山頂は平地となっている。東屋や乃木将軍碑も。相変わらず富士は美しい。北も南も一望のもと。逆行であり携帯デジカメでは思うような写真が撮れないのが残念である。眼下に中央高速が大月の河岸段丘をうねっている。桂川って結構深い渓谷である。
岩殿城の案内をメモ;岩殿城は難攻不落の城。南方の桂川下流には相模、武蔵。西側の桂川上流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山並みを一望におさめ、烽火台網の拠点であった。城跡には本丸、二の丸、三の丸、倉屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸のほか、空堀、井水、帯曲輪、烽火台、ば馬場跡がある。また、断崖下の七所権現、新宮などの大洞窟が兵舎や物見台として用いられている、と。
平地の先に最高点。本丸はそこにある。猿橋方面への下り道を確認しながら、馬場跡、武器や日用品を納めていた倉屋敷跡を越え山頂に。本丸跡。とはいうものの、現在はNTTの電波施設に占有されており、これといった趣なし。

馬場跡付近に井戸があったようだが、残念ながら見逃してしまった。こんな山頂に水が湧くってちょっと不思議、である。この井戸にまつわる行基上人の縁起もあ
 る。修験者がこの山を修験道場としたのも、小山田氏が城をこの岩山に築いたのも、この湧水の賜物であることは言うまでもない。
見てもいないのにあれこれと考えるのはなんだかなあ、とは思いながらも、岩山に水が湧く、その理由が気になる。どこかの岩山で同様の井戸があるという記事を読んだ覚えがある。岩山から地下水路に向かって井戸を掘り抜いた、とのことである。が、この岩山は少々高すぎる。数百メートルも岩盤をくり抜けるとも思えない。思うに、勝手な想像ではあるが、この岩山の湧水って、最高点のある岩盤域と東屋のあった平らな頂上部の岩盤域の境目から湧き出たた水ではなかろう、か。降った雨が山頂に滲み込む。が、下は岩盤。行き場を失った水が岩盤域の境目にそって進み、この井戸あたりで湧き出ているのでは、と。これといった根拠なし。
電波塔の防護柵に沿って山頂を東端に。東端を少し下ったところに空堀跡が残る。落ち葉で滑りやすい坂を少し下り空堀跡に。猿橋方面への下りはあるのだが、なんとなく足下がおぼつかない。怖がりの我が身としては、一も二もなく引き返す。本丸跡を下り、先ほど確認した猿橋への下り口に。断崖などのない、おだやかな道であることを祈るのみ。

七社権現洞窟
道を下る。崖側に柵もあり、また木立が眼下を防いでくれるので、崖への怖さはない。そうとなれは足取りも軽く下る。しばらく進むと「七社権現洞窟2分」の案内。分岐道を洞窟に。倒木が道を防ぐ細路を上ると洞窟に七社権現。少し奥まったところに祠が見える。散歩の折々に登場する聖護院道興(しょうごいんどうこう)が「岩殿の明神と申して霊社ましましける。参詣し侍りて、歌よみて奉りけり」などとして、『あひ難きこ此のいわはどののかみや知る世々にく朽ちせぬ契り有りとは』と詠んだのはこの権現様。
で、七所権現って、伊豆権現・箱根権現・日光権現・白山権現・熊野権現・蔵王権現・山王権現の七社。ありがたや、七カ所の権現様を一堂に祀る。ここをお参りすれば七カ所の権現様からの功徳を受ける、ということ、か。熊野の三所権現がプロトタイプであろうが、この地の先達が伊豆・箱根の権現様の先達も兼ねるようになり五所権現、さらに各地の現様もカバーするようになり七所権現となったのであろう、か。で、現在七体の仏様は岩殿山の東府麓にある真蔵寺におさめられている。

葛野川
七社権現洞窟から元の下り道に戻る。少し下ると舗装道路が見えてきた。岩殿山散歩もこれで終わり。下りも30分弱、というとことか。道路に降りる。すぐ近くに古びた堂宇。傍に円通寺三重塔跡。これといって何があるわけでない。取り急ぎ、次の目的地である猿橋に向かうべく、甲州街道まで進む。
道なりに賑岡(にぎおか)地区を進む。
ゆったり、のんびり歩を進めると前方に中央高速の橋桁が見えてくる。道が橋桁とクロスするあたりに川筋が。葛野川である。この川の上流域をチェックすると葛野川ダム、それとその近くに松姫峠がある。
松姫峠って、先日の大菩薩から奥多摩の小菅村に抜けるときに歩いた牛ノ寝尾根の東端にある峠。
峠の名前の由来は武田信玄の娘・松姫から。武田家滅亡に際し、この峠道を武州・八王子へと落ち延びた、とも。ちなみに、松姫が庇い、共に落ち延びた香具姫って、岩殿城主小山田信茂の娘。八王子に無事に逃れ、松姫によって育てられた。奇しき因縁。奇しき因縁といえば、もうひとつ。武田家を滅ぼした織田方の総大将である織田信忠と松姫は婚約者であった。

甲州街道

中央高速との交差地点から南に下り、桂川を渡ると甲州街道。JR猿橋駅前の交差点を東に向かう。次の目的地は猿橋。日本三奇橋として名高い猿橋を訪ねることに。車の往来の激しい道路脇のささやかなる歩道を進む。いつものことながら、トラックの風圧が少々怖い。1キロ強歩くと、大月市郷土資料館の案内。ちょっと立ち寄ることに。甲州街道を北に折れ、町中にs入る。台地を側に向かて少しくだったところに郷土館があった。

大月市郷土資料館
郷土館の1階は企画展。2階は常設展示。2階に上り大月の歴史をざっと眺める。甲州街道の道筋の説明が目に入る。小仏峠から相模湖への道筋は知っていたのだが、それから先の道筋は知らなかった。展示地図を見ると、現在の甲州街道と離れた道筋は小仏峠から相模湖の道筋以外に、上野原から猿橋のひとつ東の駅・鳥沢まで、それと笹子峠を越える道筋である。大いに惹かれる。近々これらの道筋を歩こう、との思い強し。

柱状節理
郷土資料館を離れ、猿橋に向かう。資料館のすぐ隣に猿橋公園。猿橋への道案内に従い公園内を進む。公園南の崖は富士山が噴火したときの溶岩流が桂川に沿って流れた末端部。溶岩が急速に冷却されたできた柱状節理の形状がはっきりわかる。

猿橋
溶岩の崖に沿って進み、東端から階段を崖上にのぼると猿橋。渓谷に木の橋が架かる。渓谷の幅は30mほど。高さも30mほど。橋桁をかけることができないので、両岸からせり出した四層の支柱によって橋を支えている。
この橋、一見すると木橋のようではあるが、現在の橋はH鋼を木材で覆ったもの。1984年に18世紀中頃の橋の姿を復元した。橋の形も往古は吊り橋であった、との説もあるが、18世紀中頃には現在のような形の橋になっていた、と言う。
橋の歴史は古い。奈良時代、7世紀初頭の推古天皇の頃、百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る、という伝説があるほど、だ。また、室町期、15世紀の中頃には、岩殿山でも触れた聖護院門跡道興がこの地を訪れ、『廻国雑記』に「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり」と述べている。
戦国期は武田方の防御拠点であったろうし、江戸期には甲州街道の往来も多く、広重は「甲陽猿橋之図」を描き、十返舎一九、荻生徂徠なども猿橋を描いている。

橋からの眺めをしばし楽しみ、次いで、橋の下へと続く階段を下る。橋の下の岩場から猿橋を眺める。渓谷美はなかなかのもの。橋の下、川面との中空に架かる橋状のものは水路橋。上流の駒橋発電所で利用した水を下流の発電所で再活用するために通している。昔の写真を見ると、水路の上を機関車が走っている。もともとは、この地を中央線が走っていたのだが、1968年の複線化工事に際し、現在の南回りルートに変わり、鉄路は消えた。

JR鳥沢駅


橋の袂の店で、「山梨と言えば、ほうとう、でしょう」と名物を食す。しばし休憩の後、本日最後の目的地であるJR鳥沢へ向かう。2キロ強、といった道のりである。鳥沢までの道筋は、途中、道脇に先ほどの水路橋からの流路などの少々のアクセントはあるものの、ひたすら車の往来の多い甲州街道を進むだけ。鳥沢に近づくと、昔の宿場町の雰囲気を残す家並もちらほら、と。大月駅から10キロ弱を歩き、JR鳥沢駅に到着。本日の散歩を終える。
古甲州道散歩の第二回は浅間尾根を歩くことに。南・北浅川が合流する檜原本宿付近を東端とし、奥多摩周遊道路の風張峠へと東西に延びる15キロ程度の尾根道。標高は概ね900m前後の山稜からなり、比較的穏やかな尾根道となっている。

この尾根道は中世の頃の甲州街道。風張峠から小河内に下りた道は、小菅村、または丹波村から牛尾根に上り、大菩薩を越えて甲斐の塩山に抜けたと言う。江戸期に入り、小仏峠を越え相模川沿いに上野原の台地を通り、笹子峠を抜けて甲斐に進む甲州街道ができてから後も、この浅間尾根は甲州裏街道などと呼ばれ、人々の往還に利用された。


散歩の途中、払沢の滝近くにあった、浅間尾根道の案内をメモする;奥多摩の主稜線から風張峠で離れ、東西にゆるやかな上下を繰り返すのが浅間尾根。浅間という名称は富士山の見えるところにけられており、この尾根からも、時々富士山が遠望できる。この尾根に付けられた道は、以前は南・北秋川沿いに住む人々が本宿・五日市に通うた大切な生活道路でした。また、甲州中道と呼ばれ江戸と甲州を結ぶ要路になっていたこともあります。昭和のはじめ頃までは檜原の主産物である木炭を積んだ牛馬が帰りには日用品を積んでこの峠を通っていました」、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 



甲斐と武蔵を結ぶだけでなく、浅間尾根を挟んで南北に分かれる秋川の谷筋に住む人々にとって、川筋に馬の通れる道もなかった昔は、この尾根を越えるしかすべはなかったのかもしれない。昔といっても、大正末期の頃まで、尾根道を使った炭の運搬の記録もあり、浅間尾根が主要往還であったのは、そんなに昔のことでは、ない。小河内といた青梅筋の人達も、この尾根を利用したという。
古甲州道散歩の第一回は、秋川丘陵から秋川南岸を辿り五日市の戸倉まで進んだ。本来なら第二回は戸倉から、ということになるのだが、戸倉の戸倉城と檜原本宿の檜原城は既に訪ねたことがある。戸倉と檜原本宿の間の川沿いの車道には歩道などもなく、車に怖い思いをするのは、ご勘弁ということもあり、実際は、歩きではなくはバスに乗ったのだが、それはそれとして、既に足を踏み入れた戸倉から檜原本宿の部分はカットすることにした。

第二回は檜原本宿を始点にと当初考えていた。ルートを検討するに、浅間尾根を先に進んだ数馬方面にはバスの便があまり、ない。終末の午後など数時間に一本といった状態である。数馬方面まで尾根を進み、里に下りてもバスがなく、そこから歩くって想像もしたくない。
ということで、今回は、檜原本宿からずっと先までバスに乗り、その名も、浅間尾根登山口というバス停でおり、そこから檜原本宿に引き返すことにする。もっとも、どうせのことなら、尾根の高い方から低い方に歩くことに魅力を感じたのは否めない。ともあれ、散歩に出かける。おおよそ8キロの道のりである。



本日のルート;浅間尾根登山口バス停>入間白岩林道と交差>数馬分岐>猿石>藤倉分岐>人里峠>浅間嶺>小岩分岐>瀬戸沢の一軒家>峠の茶屋>時坂峠>払沢の滝>

浅間尾根登山口バス停
浅間尾根登山口でバスを降り尾根道へのアプローチを探す。バス停から少し戻ったところに、南秋川を越える橋への分岐がある。分岐点にある道案内で大雑把なルートを確認し、先に進む。橋からの眺め楽しみ南秋川を渡る。民家の間を進み浅間坂に。道は上りとなる。次第に勾配がきつくなる。初っ端から急坂の洗礼を受ける。南秋川の谷筋を見やりながら先に進む。誠にキツイ上り。
入間白岩林道と交差
浅間坂を越えると舗装も終わり登山道に。ジグザクの上りを幾つか繰り返すと舗装された林道に当たる。この林道は入間白岩林道。地図をチェックすると浅間尾根登山口から入間沢西の支尾根をのぼり、浅間尾根道の藤原峠下をかすめ、尾根を越える。林道その先でふたつに分かれ、ひとつはヘリポートへと進み、もうひとつは白岩沢を下り、北秋川筋の藤倉に続く。
壊れかけの「浅間尾根登山道」の案内に従い、再び登山道に入る。杉林の中を進む。途中「熊に注意」の案内。ひとりでは少々心細い。実際、この翌週、有名なアルピニストがこのあたりの尾根道で出会い頭にクマと遭遇。大怪我をした、ってニュースが流れた。尾根道はひとりではなく誰かと一緒に歩きたいのだが、かといって、どうということのない尾根道歩きにお付き合い頂ける酔狂な人も少ないわけで、結局は怖い思いをしながらの単独行となる。

数馬分岐
大汗をかきながら尾根道に到着。数馬分岐となっている。バス停からの標準時間は1時間となっているが、少し早足であるけば30分もかからないようだ。分岐点を左に折れる道筋は、藤原峠、御林山を経て奥多摩周遊道路に続く浅間尾根の道筋。尾根道の途中には数馬温泉センターへの下山道がある。また、浅間尾根を奥多摩周遊道路まで進み、その先を都民の森へ向かったり、奥多摩周遊道路の風張峠を越えて奥多摩湖へ下るルートがある。これらは今回のルートとは逆方向。次回の古甲州道散歩のお楽しみとしておく。

猿石

数馬分岐から人里峠へと向かう。分岐点を右に折れ浅間尾根に。鬱蒼とした杉林。熊が怖い。道脇に佇む石仏に手を合わせ先に進むと、少し開ける。尾根の北側の山稜の結構高いところまで民家が見える。何故、あのような高いところに、と疑問に思っていた。先日古本屋で見つけた『檜原村紀聞;瓜宇卓造(東書選書)』を読んで疑問氷解。日当りを考えれば、高ければ高い程、日照時間が長くなる。歩く事さえ厭わなければ、日当りのいい南向き斜面の高所にすむのが理にかなっている、とか。納得。
馬の背のような尾根道を進むと猿石。「猿の手形がついた大きな石 手形は探せばわかるよ」と案内あるが、探してもわからなかった。同じく案内には「昔ここは檜原村本宿と数馬を結ぶ重要産業道路」とあった。

藤倉分岐
ときに狭く、少し崩れたような道筋を進むと藤倉分岐。北秋川渓谷の藤倉バス停への下山道。標準時間1時間程度。状態のあまりよくない道を進むと道脇に「浅間 石宮」の案内。誠に、誠につつましやかな祠が佇む。馬の背の尾根を進み、崩れた道を補修した桟道を歩く。崖に張り付くようにつくられた木の道であり、崖下を思うに少し怖い 。注意して桟道を進むと人里峠に。

人里峠
標高850m。数馬分岐からの標準時間は1時間とあるが、実際は30分程度だろう、か。人里への下山道があり、標準時間40分程度で人里のバス停に着く、とのことだ。
峠には小さな地蔵塔。享保というから18世紀初めころのものと言う。人里の読みは「ヘンボリ」。モンゴルの言葉に由来する、との説がある。往古、武蔵に移り住んだ帰化人の中で、檜原まで上ってきた一団があった、とか。で、「フン」は蒙古語で「人」を、「ボル」は新羅の言葉で「里」を意味し、「フンボル」」が転化して「ヘンボリ」になった、と言う。重箱読み、当て字もここに極まれり、ということで、いまひとつしっくりしないが、そういう説がある、ということにしておこう。
人里と言えば、先日古本屋で見つけた、『武蔵野風土記;朝日新聞社編(朝日新聞社)』(昭和44年刊)で檜原の五所神社という記事を読んだ。祭礼のシシ舞はよく目にするが、平安時代に建てられた神社の本尊は五大明王。蔵王権現、不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉と五つの明王が揃うのは京都の教王護国寺など全国にも数カ所しかない、と言う。何故この山里に、ということだが、武蔵国分寺にあった五大明王がここに移されたのでは、という説もある。南北朝の戦乱期、国分寺が焼かれた時、何者かの手により、人里の部落に避難したのでは、ということだ。その真偽は別にしても、この集落は以外に古くから中央と交流をもっていたのだろう、と。神社に本尊、というのは神仏習合から。木の根元に佇む、如何にも年月を重ねた風情の石仏にお参りし、浅間嶺に向かう、

浅間嶺
尾根道を進む。このあたりの道は木々は杉ではなく落葉樹。木々の間から陽光も漏れてきて、いかにも、いい。
人里峠から10分程度で道は浅間嶺頂上と浅間嶺広場の二方向に分かれる。浅間嶺頂上に向かうことに。10分程度で頂上らしきところに着くが、いまひとつ頂上といった風景感がない。木々に囲まれ、見晴らしはよくない。これではどうしようもない、ということで、広場方面へと下りてゆく。途中につつましやかな浅間神社の祠。
浅間神社って富士山が御神体。祭神は木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)。浅間嶺は昔、富士峰とも呼ばれていた。富士山も眺める事ができるのであろう、か。祭神の木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は大山祇神(オオヤマズミ)の娘。天孫降臨族の瓊杵命(ニニギノミコト)と一夜を共にし、子を宿す。が、瓊杵命が、誠に我が子かと、少々の疑念。木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は身の潔白を証明するため、燃える炎の中で出産。浅間神社=富士山の祭神が木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)であるというのは、こういうストーリーからだろう。
浅間神社を離れ、成り行きでブッシュを進むと開けたところに出る。さきほど分岐した浅間嶺広場。浅間嶺の休憩所となっている。広い平坦地にあり東屋やベンチなどがある。休憩所の広場からは北は三頭山、御前山、大岳山などの馬頭刈尾根が見える。
少し休憩し、先に進む。広場の近くに展望台があったのだが、頂上、広場、展望台と浅間嶺にまつわるターミノロジーが入り乱れ、なにがなにやら、と相成り、パスしてしまった。展望台からは北の馬頭刈尾根だけでなく、南の笹尾根の稜線も見えるとのことである。浅間嶺からは上川乗バス停への下山道がある。2.9キロ、標準時間1時間となっている。

小岩分岐
浅間嶺を離れ尾根道を進む。細い道が交差。そこに道標。小岩への分岐。『浅間嶺0.4km 展望台0.7km 小岩バス 停2.3km』とある。標準時間はほぼ1時間で北秋川渓谷に下りてゆく。
道標を越えると道は大きくカーブ。尾根道は緩やかなアップダウンを繰り返す。快適な尾根道。比較的平坦な尾根道。落葉樹が多く見晴らしもよくなる。浅間尾根でもっとも人気のあるところ、と言う。木々はそれほど密でもなく、木漏れ日の中の凹面の道。ちょっと街道の雰囲気、も。


瀬戸沢の一軒家

大岳山などを左手に見ながら進むと、道は鬱蒼とした樹林に入る。真ん中がえぐれた凹字形の道となる。道は次第に谷筋への下りとなる、勾配のきつい、石が転がる沢沿いの急坂を下る。沢を木橋で渡り先に進むと杉林の中に民家の屋根が見えてくる。
大きな入母屋作りの屋根の民家。「代官休憩所跡 おそば御用達 峠の茶屋チェーン みちこ」とある。かぶと造りの家。瀬戸沢の一軒家、とも地図に書いてあった。民家の前には水車がある。蕎麦が食べれるようだが、当日は閉まっていた。
『み ちこ』と言う、少々景観に似つかわしくない名前はともかく、この瀬戸沢の一軒家は昔は、瀬戸沢の馬宿と呼ばれていた。かつてはここで馬の荷を積み替えていた。檜原本宿にある口留番所では檜原産以外の人や荷物は通さなかったため、小菅や小河内産の薪や炭は、この地で檜原の馬に積み替え、檜原の村人によって運ばれた、と言う。昔の名残だろうか、店の前に「駒繋ぎ」の碑が残る。明治になると口留番所は廃止。馬宿はのその 役割を失うことになる。
代官休憩 所跡の「代官」って、檜原本宿にある口留番所の役人のことだろう。地元の名主が八王子代官(十八代官とも呼ばれる)のひとりから代々委任されていた、と言う。先日檜原本宿辺りを歩いていた時、本宿バス停脇に、堂々としたお屋敷があったのだが、その吉野家がこの名主であった。ちなみに口留番所とは、江戸幕府が交通の要衝を管理するために、主に関東と中部地方に設けた「関所」みたいなもの。関所は20カ所であったが、口留番所は33カ所あった。出入口を押さえ る、という意味で「口留番所」とされた。
ついでに、「かぶと造り」。数馬あたりによく見かける、屋根が兜によく似た入母屋造りの民家。3階または4階建ての高層建築で、1階は居間、2階以上は蚕室などとして使われていた。この様式は甲州の都留地方がオリジナル。江戸の頃、数馬にもたらされた。言わんとすることは、南秋川筋って、甲州の経済圏に組み込まれていた、ということ。南秋川沿いは断崖絶壁で馬の通る道も無く、浅間尾根に上ろうにも、北岸ならまだしも、南岸から南秋川を渡る橋もなく、結局は南の笹尾根を越えて上野原方面に出るのが普通であったのだろう。谷筋に車道が走る現在の交通路から往古の流通経済圏を判断するなかれ、と言うこと、か。

峠の茶屋

「みちこ」を越えると、その先に「払沢の滝」の道案内。この分岐を下れば沢沿いに払沢の滝にショートカットできるのだろうが、古甲州道を辿る我が身としては時坂峠を越えねば、ということで先に進む。
沢 の雰囲気の場所をかすめ、樹林の多い薄暗い道を上ると道脇に小さな祠。大山祇神社であった。浅間神社の祭神・コノハナサクヤヒメの父親におまいり。すぐ横にある休憩所が峠の茶屋。江戸時代貞享3年(1688年)創業。と言う。これまたあいにく閉まっていた。冬にこの地を歩く酔狂な人などいない、ということだろう。峠の茶屋の前には北谷の眺めが広がる。東西に走る北秋川の谷、その向こうに三頭山、御前山、鋸山、大岳山といった奥多摩山系が連なる。

時坂峠

峠の茶屋のあたりからは舗装道路となる。平坦な尾根の車道を400mほど進むと時坂峠。
「トッサカ」と読む。標高530m。「トッサカ」の由来は、浅間尾根への「トッツキ(取っ付き)」の坂との説がある。また、時坂の「時」は、鬨(トキ)の坂、との説も。勝鬨の鬨、である。『檜原村紀聞;瓜宇卓造(東書選書)』に、時坂の住人は檜原城の番人であった、と言う地元の人のコメントを載せていた。檜原城は時坂峠から瀬戸沢の谷を隔てた南の山稜にある。城から裏道が時坂峠に通じていたとの説もあるようだが、瀬戸沢って、背戸=裏口、という説もあるくらいであるから、檜原城のある山稜から尾背戸の沢を迂回し、根道をぐるりと時坂峠に至る山道があっても、それほど違和感は、ない。
いつだったか、檜原城跡に上ったことがある。麓の吉祥寺から、その裏山に張り付いた。結構な急坂を上り、山頂に。どうみても砦、と言うか、狼煙台といった
程度。東に戸倉城の山が見える。秋川筋からの武田方の進軍の兆候あれば、この檜原城、戸倉城、秋川丘陵の根小屋城、高月城と狼煙を連絡し滝山城に伝えたのであろう。
檜原城は足利持氏が平山氏に命じ、南一揆を率いこの地に城を築かせた。代々、この地で甲州境の守りの任にあたるが、秀吉の小田原攻めの時、北条方として戦った平山氏は、八王子城から落ち延びてきた城代横地監物を匿うも、多勢に無勢ということで討ち死とか、小河内に落ち延びた、とか。
道標近くに小さな祠と2体
の小さな地蔵塔。ちょっとおまいりし、峠を下ることに。山道に入る。急な坂。ほどなく舗装された林道に。ここからは杉の木立の中の細い急坂を下りたり、開けた山腹の踏み分け道を下りたり、山道と林道歩きを繰り返す。民家の軒先をかすめたりもする。里の風景が、如何にもいい。眼下に見えるのは檜原本 宿のあたりではあろう。車道を先に進むと浅間橋。北秋川の支流セド沢に架かる。ここまで時坂峠から2キロ弱浅間嶺から5キロ強歩いてこたことになる。

払沢の滝

袂を折れて払沢の滝に向かう。払沢橋を越え、土産物屋を眺めながら5分も進むと沢が近く。ほどなく滝壺に。結構多くの観光客が来ていた。滝は26.4mの高さがある。も
っとも、滝壺からは見えないが、4段に分かれており、全部合わすと60mほどになると、言う。浅間尾根の端、もうこれ以上、水により開析できない固い岩盤に当たった、という箇所だろう。もとは、沸沢。沸騰するように流れ落ちたから、と言う。また、ホッス、僧侶の仏具、とも、法師がなまった、との説もあるが、例によって定説、なし。
『武蔵野風土記』によると、滝は昔から本宿部落の雨乞いの場であった、とか。日照りが続くと、太鼓を打ち鳴らし、「大岳山の黒雲 これへかかる夕立 ざんざんと降って来な」と口を揃えて歌った、と言う。大岳山は標高1237m。雨はここからやってくると人々は信じていた。大正5年か6年に一度雨乞いをし、それが最後であった、と(『武蔵野風土記;朝日新聞社編(朝日新聞社)』)。

「払沢の滝入口」バス停
滝を離れ、大きな車道に進み西東京バスの「払沢の滝入口」バス停に。五日市駅へのバスに乗り、本日のお散歩終了。次回は、数馬分岐から尾根道を藤原峠、奥多摩周遊道路、風張峠へと進み、そこから青梅の谷の小河内へと歩こうと思う。
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秋川丘陵・秋川筋を五日市・戸倉まで
中里介山の小説に『大菩薩峠』がある。主人公の机竜之介が大菩薩峠で人を殺める。このシーンがずっと気にかかっていた。何故、1,900mもある峠に浪人がぶらぶらする必要があるのか、まったくわからなかった。この大菩薩峠が中世の甲州街道、今で言う主要国道筋であると知ったのは、つい最近のこと。武蔵と甲斐を結ぶ幹線道路であるとすれば、浪人や商人が往還してもなんら不思議では、ない。
現在の甲州街道は国道20号線。高尾から大垂水峠を越え、山梨に進む。江戸時代の甲州街道は高尾から小仏峠を越え相模湖付近の小原に下り、上野原から談合坂方面の山裾を通り鳥沢に下り、大月の西で笹子峠を越えて甲斐に至る。
今回辿る中世の甲州街道、別名、古甲州道は、府中からはじまり日野に進み、日野からは谷地川に沿って南北加住丘陵の間の滝山街道を石川、宮下と北上し、戸吹 で秋川丘陵の尾根道に入る。尾根道を辿った後は網代で秋川筋に下り、五日市の戸倉から檜原街道を西進。檜原からは浅間尾根を辿り青梅筋の小河内に下り、小菅を経て大菩薩を越え塩山に抜ける。
古甲州道を辿っての大菩薩行きを何回かに分けて歩く事にする。第一回は秋川丘陵の東端からはじめ、尾根道を進み、秋川筋の南側を五日市・戸倉まで歩くルート。おおよそ16キロとなった。



本日のルート:JR武蔵五日市線東秋留駅>東秋留橋で秋川を渡河>七曲り峠を越えて戸吹町>古甲州道の道筋滝山街道>上戸吹で秋川丘陵下の里道を経て尾根筋>尾根道を辿って御前石峠で旧鎌倉街道山ノ道に合流>網代から秋川南岸の谷筋の道>高尾、留原、小和田>佳月橋で北岸に>小中野で檜原街道に出る>JR武蔵五日市駅に出る


JR武蔵五日市線の東秋留駅
さて、散歩をどこからはじめようか、と少々考える。府中から日野ははじめからパス。車の騒音激しい国道歩きは御免蒙りたい。日野から先の滝山街道は、滝山城への散歩で既に歩いているし、これとても通行量の多い車道筋である。
車の騒音に煩わされないスタート地点を探す。秋川丘陵に入る手前の戸吹あたりがよさそう。が、交通の便がよろしくない。最寄りの駅はJR武蔵五日市線の東秋留駅だが、結構歩かなければならない。致し方なし、ということで中央線、青梅線と乗継ぎ拝島で武蔵五日市線に乗り東秋留駅に。

地蔵院
駅を降り、ひたすら秋川を目指す。南に向かって成り行きで進む。秋川
に近づくと川筋に向かって坂を下る。崖に沿った道は河岸段丘のハケの道。左手には加住丘 陵、右手には今から目指す秋川丘陵が見える。と、坂の下にお寺さま。用水路に沿って進むと門前に。門前にたたずむ3体の石仏にお参りし先に進む。

東秋留橋
ほ どなく秋川に架かる東秋留橋の袂に。秋川はその源を三頭山に発し、福生と昭島の境目あたりで多摩川に合流する。多摩川水系で最大の支流でもある。橋の北詰 に西光寺。境内に観音様があり、ために寺横にある坂は観音坂と呼ばれる。この西光寺のあたりには昔、渡しがあった。鎌倉街道のメーンルートは、この西の秋 川丘陵の中を通るが、ここにはその支道や間道が通っていたのだろう。

七曲り峠
人道橋も併設した東秋留橋を渡り秋川の南岸に。目の前には加住丘陵が横
たわる。スタート地点の戸吹に行くには、この丘陵の七曲峠を越えることになる。峠道を上る。昔は七つのカーブがあったのだろうが、現在はふたつ。大きな道路道となっており、古道の面影は、ない。
時に後ろを振り返り、秋川やその後ろに控える秋留野の台地の景色を楽しみながら、峠を越える。下りは一直線。ほどなく滝山街道との交差点・戸吹町に出る。滝山街道は古甲州道。大菩薩へと向かう古甲州道散歩のスタート、である。

谷地川
滝 山街道を進む。車の通行が多く、時に怖い思いも。滝山街道のすぐ西側には谷地川が流れる。秋川南岸の秋川丘陵・川口丘陵の流れを集めた谷地川は、上戸吹から滝山街道にそって南東に流れ、日野に入ると日野台地の北かすめて東に流れを変え、JR中央線の鉄橋のすぐ上流で多摩川に合流する。北を北加住丘陵、南を南加住丘陵に挟まれた回廊のような低地を進む古甲州道は、谷地川沿いに開かれていったのだろう。
いつだったか滝山街道沿いの滝山城跡に上ったことがある。この城もそうだが、あと五日市・戸倉の戸倉城、檜原の檜原城など、何故に、こんなところに城を築く必要があるのだろう、と考えたことがある。ほとんどが小田原北条氏が甲斐の武田に備えたもの。今回古甲州街道のルートを見て、それぞれの城は、この古甲州街道の道筋にあることがわかり、大いに納得。散歩を続けると、あれこれが繋がって、わかってくる。

桂福寺
滝山街道を北上すると道の右手に朱色の鐘楼山門。美しい門に惹かれて足を止めると、そこは桂福寺という禅寺。17世紀の始め、寛永の頃に開かれたお寺。このお寺は
新撰組の隊長である近藤勇が体得した天然理心流発祥の地。創始者近藤長裕は上州館林藩の出。浪人となりこの戸吹の地で道場を開く。二代目近藤三助、三代目近藤周介と続き、江戸に道場を開いた周介の後を継ぎ四代目となったのが近藤勇である。寄り道したおかげで、思いがけない史跡に出会った。とりあえず足を運ぶ、ってスタンスを再確認。

分岐点「上戸吹西」
滝川街道を進むにつれ、次第に秋川丘陵が近づいてくる。バス停「上戸吹」を過ぎると「上戸吹西」。滝山街道はここで大きくカーブし秋川丘陵を越えてゆく。古甲州道はこの分岐点で滝川街道と離れ、谷地川にそって秋川丘陵の南麓を進むことになる。

根小屋城址
分岐道へ入ると静かな集落。上流部に近づき、細流となった谷地川に沿って里を進む。
ほどなく、「根小屋城跡(二条城跡)この先800m」といった道標。道を右に折れ、秋川丘陵の尾根道に向かう。竹の葉で覆われた山道を上り尾根道に。そこにぽつんと祠が残る。そこが根小屋城址。
城址と言われても、何があるわけでもない。近くに空堀の遺構が残るというが、門外漢のわが身には、いまひとつよくわからない。よくわからないが、戦国の昔、この地に砦はあったのは事実のよう。滝山城を手にいれた北条氏は、秋川筋からの武田に備え、この砦を監視場とした、と言う。とはいうものの、永禄12年(1560年)、小仏峠からの武田軍の急襲以来、北条氏は加住丘陵の滝山城を捨て、裏高尾に八王子城を築く。ために、秋川筋の戦略的重要性も減り、この砦は不要となり捨て置かれてしまった。なお、この城というか砦は二条城とも新城(ニイジョウ)とも呼ばれる。サマーランド近くにある二条山の因るのだろ う。

「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」


秋川丘陵の尾根道
根小屋城址から先、古甲州道は秋川丘陵の尾根道を走る。山道を進み、少し下った先に
T字路があり、ここで古甲州道は秋川丘陵の幹線尾根に当たる。道標があり、「網代弁天5.0km、武蔵増戸4.8km、二条城0.3km、秋川駅4.2km」といった表示。右に折れ網代弁天方面に進む。網代は「漁場」と言った意味。
T字路からは道幅はやや広くなる。が、周囲に雑草が茂る。少し進むと、道脇にふたつの石仏。石仏の後ろの石段を上るとささやかな祠。十一面観音が祀ってある。先に進み、深い谷筋脇の尾根道を過ぎると道は上り。上りきったところは木が払われ明るく開けた広場となる。再び道標「網代弁天4.3km、上戸吹バス停2.1km、二条城1.0km」と。
この広場から先は起伏もそれほどなく、ゆったりした尾根道。笹の茂る道は心地よい。しばらく進むと左手にゴルフコース。八王子ゴルフ場。ゴルフ場のフェンスにそって、ふたつほどささやかな広場をやり過ごして進むと霊園に近づく。上川霊園である。菊田一夫さんが眠る。ラジオドラマ「君の名は」で有名な脚本家である。とはいっても、「君の名は」を知っているのは、我々団塊の世代くらいまで、だろう、か。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」といった番組冒頭のナレーションとか、「君の名はと たすねし人あり その人の 名も知らず 今日砂山に ただひとり来て 浜昼顔に きいてみる」という歌など、きっちり覚えているのだけど。。。

鎌倉古道と合流
緩やかな坂を下ると尾根道は左右に開ける。鞍部になっているこのあたりは駒繋峠とか御前石峠と呼ばれる。道標には「右手は二条城2.8km、秋川駅6.7km、左手は網代弁天山2.5km、武蔵増戸2.3km」と。
この峠に南から向かってくる道は鎌倉街道山ノ道、通称秩父道と呼ばれる。秩父方面と鎌倉を結ぶ主要往還である。尾根道を進んできた旧甲州道はこの峠で秩父道と合流し、秋川に下るまでしばしの間、同じ道筋を進む。
鎌倉街道、って「いざ鎌倉」、と一旦鎌倉で事が起こった時に馳せ参じる道のこと。もっとも、こういった軍事面だけでなく、経済の流れにも欠かせない道筋であった、よう。また、鎌倉街道といっても、とりたてて新しく道を作った、というより、それまでにあった道筋を整備し、鎌倉との往還を容易にしたもの、と。ために鎌倉街道は間道や支道までを含めると数多くあるのだが、主要なものは秩父道と呼ばれるこの鎌倉街道山ノ道、上ノ道、中ノ道、下ノ道といったもの。鎌倉街道のあれこれは、先日高尾から秩父まで歩いた散歩のメモをしたので、ここでは省略。

駒繋石(御前石)
鞍部を離れ、秋川筋に向かう。道はカーブしながら少し上りとなる。道脇の草むらに駒繋石(御前石)。鎌倉武士の鑑と目される畠山重忠が秩父から鎌倉への途中、馬を繋いだとされる石。三角錐の石には馬を繋いだとされる穴が残る。小さい穴であり、これが本当に駒繋の石なのか、何度も見直したほど、ではあった。言い伝えによると、駒を繋ぐ適当な石がなかったので、重忠が指を押し当ててあけた穴、ということであり、それであれば、それなりの穴であろう、と納得。駒繋峠(御前石)峠は、この石に由来すること
は、言うまでもない。
畠山重忠は文武に秀でた鎌倉武士。秩父や奥武蔵、そして青梅などに重忠ゆかりの地は数多い。妻との別れを惜しんだ妻坂峠、待ち構える女性を避けて山道を歩き、持っていた杖が折れたことが名前の由来となった棒の折山、遊女との恋の道行がその名の由来となった恋ヶ窪などなど、数え上げればきりがない。北条の謀略により二俣川で討たれた、悲劇の主人公であったことも一因ではあろうが、武蔵で最も人気のあった武将のひとりであったようだ。

網代トンネル出口
道を進む。道の北側はフェンスが張られている。そのむこうは木々が伐採され、開けてい る。そこは廃棄物処理場。しばらく道を下ると道の左脇はゴルフ場となる。東京五日市カントリークラブ。先に進むと道の両側にグリーンが広がる。そこまで下ると前方に秋川の北岸の丘陵地帯が見えてくる。草花丘陵だろう、か。さらに下り網代トンネル出
口あたりに出る。



山田大橋南詰め
トンネルから出た車道の先は山田大橋。橋まで進み、秋川の流れを楽しむ。駒繋ぎ峠から重なってきた秩父道と旧甲州道は秋川のほとり、山田大橋南詰めで再び別れる。秩父道はここから秋川を渡り馬引沢峠、または梅ガ谷峠を越えて青梅の軍畑に進み、そこから榎峠、小沢峠を越えて名栗の谷に入り、妻坂峠を越えて秩父に向かう。旧甲州道は秋川を越えることなく、秋川の南岸を五日市の戸倉へと進むことになる。

弁天橋
山田大橋南詰め手前から坂を下り、坂道が山田大橋の下に入り込む手前で、民家前の路地を左に折れる。路地に入ると杉林の中を進む小道となる。しばらく進むと弁天橋。秋川の支流に架かる。この橋からの眺めもなかなか、いい。
弁天橋を渡ると橋の袂に禅昌寺。先に進むと車道に合流。道端にお地蔵様が2体。その後ろの丘にお稲荷さんの祠があった。この合流点を左に折れれば網代温泉へと続くのだが、旧甲州道はそのまま直進。旅館「網代」脇の坂を下るとT字路にぶつかる。網代橋から上ってきたこの道を左に折れ、高尾、留原へと向かう。

網代城址
山裾の道を進む。ほどなく秋川が近づく。美しい秋川渓谷を眺めながら先に進むと、やがて民家が現れる。先に進むとT字路。右に行けば高尾橋。旧甲州道はここを左に折れる。
坂道を上って行く。坂の途中に高尾公園には梅林が見える。道の反対側には大光寺。大光寺を越えると坂は終わり。その左手に高尾神社。社殿はちょっと奥まった所にある。足早にちょっとお参り。
このあたりまで来ると民家も少なくなる。ほどなくT字路に。道標があり、「網代城址、弁天山」と。網代城址って、もとは南一揆のこもった砦、とか。南一揆って、15世紀の中頃、地侍を中心にまとまった農山村民の自衛集団。が、この南一揆も16世紀の中頃となると、滝山城の北条氏によって潰され、ここにあった砦も甲斐の武田に備える滝山城の支城となった。それが網代城である。南一揆の頭領としては小宮氏、貴志氏、高尾氏、青木氏などがいる。

留原

T字路帯横には天王橋と言う橋。やがて道の両サイドに畑が広がる。ほどなく小峰峠から下り降りてきた秋川街道と交差する。「留原」(トトハラ)交差点。秋川街道を北進すると秋川橋で秋川を渡りJR武蔵五日市の駅に至る。
旧甲州道は交差点を横切り更に真っ直ぐ進む。樹木で覆われた山裾の長い下り坂となる。HOYAの工場の裏手をかすめ、小和田グランド脇を先に進むと秋川沿いの道となる。
留原は中世には「戸津原」、近世は「渡津原」と書かれている。「トツハラ」>「トッパラ」>「突つ原」、ということで、「突き出した原」。地形的にはよくなじむ説である。また、「トドハラ」と濁ると、「トド」は「イタドリ」。イタドリの採れた原っぱ、という説もあるが、定説はない(『五日市町の古道と地名;五日市町郷土感』)。
ちなみに、愛媛では「たしっぽ」、関西では「すかんぽ」などと呼ばれる茎に酸味のある山菜。子どものころ、よく山に採りにいったものだ。先日、津久井の丘陵地を歩いていた時、道ばたにタシッポを見つけ、子どもへのお土産に持って帰ったのだが、子どもたちは嫌々、一口歯を入れただけて、それっきり見向きもしなかった。

小和田橋
前方上流方向に堰。その先に小和田橋が見える。対岸に阿伎留神社がある。いつだったか阿伎留神社を訪ねたことがある。歴史は古く、延喜式には武蔵多摩郡八座の筆頭。武将の信仰も篤く、藤原秀郷は将門討伐の祈願に訪れたと言うし、頼朝、尊氏、後北条氏、家康などからの寄進を受けている。秋川沿いの古木に囲まれた境内は、いい雰囲気であった。小和田橋の手前から川沿いの小道を進み、橋の袂からは南に折れ、小和田の里を進む。小和田(オワダ)の「和田(ワタ)」は「川岸や海岸の湾曲した地形を表す、と。地形的には、その通り。また、「オワダ」には小さな集落との意味もある、と言う(『五日市町の古道と地名;五日市町郷土感』)。はてさて、地名の由来に定説なし、がまた増えた。

広徳寺
畑の広がる道を歩く。左手になだらかな丘陵が見える。日向峰と呼ばれるようだ
。ゆったりとした坂を上ってゆくと、丘陵へ小径が分岐。広徳寺への参道である。参道入口には庚申塔など石仏・石塔が並ぶ。
丘陵を上ると境内に。開基は南北朝期というから14世紀の末、この地の長者の妻による。戦国期は北条氏の庇護を受けた。とか。本堂、山門、ともに堂々とした構え。特に山門は、如何にも「渋い」。如何にも、いい。道から離れ、丘に上るのには少々躊躇いもあったのだが、やはり、とりあえず行ってみる、って精神を改めて確認。

佳月橋
広徳寺を離れ、道に戻る。先に進み民家の中を歩くと分岐点。「佳月橋」の道案内。古甲州道は、佳月橋へと続く。急な坂を下り、ちいさな沢を渡り、分岐点を右に折れると佳月橋に。旧甲州道はここで秋川南岸から北岸に渡ることになる。橋の上からは秋川上流に戸倉城山が見える。戸倉城山には一度上ったことがあり、その特徴的な山容を覚えていた。留原あたりから遠くに見え始めてはいたのだが、ここまで来ると、くっきり、はっきり迫ってくる。
戸倉城は15世紀頃、南一揆の頭領のひとり、小宮氏により築かれたとする。戦国期には大石氏が居城であった滝山城を離れこの戸倉城に隠居した、とか。元は関東管領上杉方の重臣であった大石氏ではあるが、川越夜戦での勝利などで力をつけた小田原北条氏の圧力に抗しきれず、北条氏照を娘婿に迎え滝山城を譲り、自身はこの地に移った。とはいうものの、一筋縄ではいかない大石氏故に、諸説あれこれあり、大石氏のその後の動向についての定説はない。
この戸倉城、上りは結構怖かった。麓の光厳寺から上っていくのだが、南の盆堀川の崖上を進む尾根道にビビリ、山頂寸前の岩場に溜息をついた。山頂はほとんど狼煙台程度の
広さ。東の眺め眼下一望。西はここからは今ひとつよくなかったが、南北秋川の号合流点にある檜原城からこの戸倉城山はよく見えた。檜原城、秋川渓谷入口にあるこの戸倉城、秋川丘陵にある根小屋城、秋川と多摩川の合流点にある高月城、そして滝山丘陵にある滝山城へと続く「煙通信」の砦、と言うか、狼煙台であったのだろう。

檜原街道

佳月橋を渡り秋川沿いの道を進む。渓谷の雰囲気が増す道を進むと川沿いの道は行き止まり。ここからは道を右に折れ、民家の軒先をすり抜け急坂を上ると檜原街道に。そこはほとんど、檜原街道と本郷通りの分岐点である小中野の交差点。角には料亭黒茶屋。落語家、三遊亭歌笑さんの生家、とか。
古甲州道はここを本郷通りに折れ、沢戸橋を渡り、すぐ先で右に折れ、戸倉城山下の道(本郷通り)を通って再び檜原街道に戻り、檜原本宿へと向かう。が、今回の散歩はこれでおしまい。ぶらぶらと、途中五日市郷土館に立ち寄ったりしながら武蔵五日市駅に向かい、一路家路へと。
名栗の谷から秩父路に

高尾から秩父へと辿る鎌倉街道山ノ道の散歩も最終回。名栗から妻坂峠を越えて秩父の横瀬に入る。妻坂峠は鎌倉武士の鑑、畠山重忠が秩父から鎌倉に向かう時,愛妻と別れを惜しんだ峠。畠山氏は坂東八平氏のひとつである秩父氏の一族。父親も秩父庄司というから、荘園の管理者といったところ。重忠の時代には館は秩父にはなかったと思うのだが、秩父に大いに縁のある武人である。源平合戦での大活躍、そして北条氏の謀略による二俣川での憤死。悲劇の主人公として秩父・奥武蔵の人々に語り継がれてきたのだろう、か。重忠の峠越えの真偽はともかくも、多くの人が秩父との往還に使った峠道が、如何なる風景が広がるのかちょっと楽しみ。



本日のルート:西武線飯能駅>名郷>山中林道>入間川起点>横倉林道分岐>妻坂峠>二子林道>武甲山の表林道>生川の延命水>西武線横瀬駅

西武線飯能駅
家を出て、西武線飯能駅で下車。名郷・湯の沢行きのバスに乗る。湯の沢は山伏峠の手前。秩父道の妻坂峠越えは名郷バス停で降りることになる。飯能を離れ県道70号線を進む。途中、下赤工、原市場、赤沢の町を見やりながら名栗の谷筋を進む。名栗渓谷を越え、下名栗のあたりになると道は小沢峠方面より北上してきた県道53号線に合流。その先は県道53号線として山伏峠を越えて秩父に通じる。
いつだったか、名栗湖から飯能に向かって歩いたことがある。いくら歩いても名栗の谷筋から抜け出せず、10キロほど歩いて結局日没時間切れ。その場所が原市場のあたりであった。子の権現詣でが華やかなりしその昔、飯能を出発した人々は、この名栗川の原市場まで進み、そこからは中藤川沿いに子の権現に上った、という。そのうちに、このルートで子の権現へと歩いてみようと思う。

名郷
小沢、市場、浅海道、名栗湖へのバス停である河又名栗入口を越え名郷で下車。飯能から1時間ほどかかった。バス停近くにつつましやかな弁財天の祠。バス停横には材木屋さん。さすが、西川材として栄えた地域である。
名郷はこの地域の商業の中心地であった。山伏峠方面の湯の沢集落、妻坂峠方面の山中集落、鳥首峠方面の白石集落の人達は、毎日薪を背負ってこの名郷に下り、そこで必要な日用品と交換し、再び集落に戻るのを日課とした、と(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。現在はただ静かな集落となっている。
ところで、西川材って、名栗の材木のこと。名栗川を流し、西から江戸に運ばれたために、西川材と呼ばれた。材木問屋のある千住まで10日ほとかかった、と言う。名栗はその材木故に、天領であった。年貢などはなく、幕府の要請に応じて木材を提供すればよかった、とか。ために名栗は豊かであった。名栗がばくち、賭博が盛んであったことは、豊かな村であった証でもあろう、か。
ところで、名栗の由来が気になる。いまひとつ、これだという由来がわからない。木工技術に名栗という技法がある。木材(主に栗)の輪郭面を六角形や四角形などに加工するこの技法は数寄屋建築に欠かせない技法、とか。歴史は古く、縄文・弥生の頃から使われている、と言う。
この名栗の技法は、もともとは山から伐採した木を出すとき、腐りやすい白太の部分をはつり取ったのが始まり、とも言われる。この名栗の地は西川材と呼ばれるように木材で名高い地域でもあるので、名栗の由来はひょっとすれば、この木材加工の言葉にあるの、かも。素人解釈であり、真偽の程定かならず。
名郷でバスを降りず、そのまま先に進めばバスの終点である湯の沢に進む。そしてその先は山伏峠を越えて松枝、初花を経て国道299号線・正丸トンネルの秩父側に至る。湯の沢の名前が気になる。温泉が湧くという話も聞かない。子の権現近くに湯ノ花というところがあるが、それは猪の鼻から転化したものという(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。湯の沢も、猪沢からの転化であろう、か。山伏峠の名前の由来は、「ヤマフセ」という山の形から、との説がある。山伏(修験者)にまつわるあれこれの話もあるが、釜伏峠などもあるわけで、どうも地形に由来する説のほうが納得感が高い。
ついでに名郷の由来。これも名栗同様、よくわからない。あれこれチェックすると、長尾峠のことを名郷峠と呼ぶところもある。ながお>なごう、と転化したのであろう、か。これまた素人の田舎解釈であり、真偽の程、定かならず。

山中林道

名郷バス停で県道53号線と別れ、県道73号線を進む。渓流に沿って歩いていくと大鳩園キャンプ場。川傍にバンガローが点在するキャンプ場を越えると道は分岐。県道73号線は白岩集落から鳥首峠に向かって進む。秩父道は県道73号線から別れ妻坂峠に向かう山中林道(山中入)に入る。川筋もふたつの道筋に沿って続く,と言うか、道筋はふたつの川筋・沢に沿って開かれた、というべき、か。
鳥首峠は昔の浦山村に進む峠道。秩父観音霊場巡の橋立堂に向かう時、ちょっとかすった浦山ダムのあたりに出てくるのだろう。ちなみに、鳥首山の由来は、峠付近の山稜線の姿が鳥の形に似ており、その峠のたるみが首にあたる、との地形から(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。語感からは少々、オドロオドロしいが、実際は山容から来た名前であった、よう。

「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





入間川起点
山中林道(山中入)を進む。この夏に熊が出たらしく、注意書きなどもあり、少々緊張。舗装された道を1.2キロ程進むと焼岩林道が分岐。沢に沿って進み、道が大きくカーブするあたりに「1級河川入間川起点」の石碑。とはいうものの、すぐ上には砂防ダムだろうか、コンクリートの堰もあるし、なりより、まだまだ川筋は先に続いている。
それまで知らなかったのだが、起点と源流はどうも違うようだ。源流は言葉そのもので、水の源。起点は管理起点とも呼ばれるように、行政管理上の河川の始まりのよう。そういえば、川って幾多の沢筋の水を集めて出来る訳で、源流などは考えようによってはいくつもあるわけだろうから、ある程度の源流地域で、えいや、と起点を造る必要がある、ということだろう。

横倉林道分岐
先に進むと横倉林道が分岐。大持山登山口とかウノタワ登山口に続く。山中林道入口から1.9キロほどのところである。ウノタワは鳥首峠と大持山の中間点にある。ここの窪地はかつて沼があった、とか。その沼には神の化身の鵜が棲んでいた。が、猟師がその鵜を矢で撃ち殺してしまう。沼は鵜もろとも消えてしまった、と。ウノタは鵜の田、から
急勾配の峠道
横倉林道の分岐を越え、渓流を見やりながら進む。勾配もきつくなり、沢の手前で林道や終点。舗装もなくなり、ここからは山道の峠越えとなる。小さな赤い橋を通って沢を渡り、杉林の中に入る。結構な急勾配。沢に沿って進む。古い石垣らしきものもあり、少々の古道の雰囲気を感じる。とはいうものの、石が転がり足元はよくない。
沢から道が離れるあたりから、上りは結構厳しくなる。峠手前のジグザグ道では勾配が40度もあろう、か。峠道を結構歩いたが、息のあがり具合というか、汗の出具合というか、顔の上気加減というか、雨上がりの湿気が多い日とは言いながら、尋常ではなかった。


妻坂峠
峠でしばし休憩。お地蔵様が鎮座する。延享4年というから1747年からこの峠に住まいする。峠からは名栗方面の見晴らしはよくない。秩父方面は展望がよく、晴れた日は武甲山や横瀬の町が一望のもと、ということだが、今回は雨上がりの靄の中。
1572年には上杉謙信がこの峠を越えたという。畠山重忠もこの峠を越えた、と。峠の名前も重忠に由来する。重忠が秩父から鎌倉に出仕すろとき、この峠で別れを惜しんだから、と言う。とはいうものの、重忠の館は男衾郡畠山郷(深谷市畠山)であったり、菅谷館(武蔵嵐山)である、と言う。秩父に館があったというわけでもないのだが、秩父一族の代表的武人・文人としての重忠に登場してもらわなければ洒落にならない、ということだろう。事実、
奥武蔵や秩父には重忠の伝説が多い。山伏峠には重忠が桐割ったという切石の話が残る。有馬の奥、棒の折山もその名前の由来は、重忠が持つ杖が折れたから、とも。散歩をはじめて、武蔵の各地に残る幾多の伝説から、重忠の人気のほどが改めて実感できる。
妻坂って語感は心地よい。重忠の話もいかにも心地よい。が、もともとは「都麻坂」と表記されていた、とも言う。「都麻」って、「辺境の地」といった意味があると、どこかで見たことがある。味気はないが、このあたりが地名の由来としては納得感が強い。


二子林道
峠を下る。急な斜面。丸木橋などもあり、足元が危うい。下るにつれて道筋が少々わかりにくくなる。道なのか沢なのか区別のつかない道筋をとりあえず下ってゆく。この沢は生川(うぶかわ)の源流といったところだろう。沢に沿って下り二子林道に出る。登山道は林道を突き切って進む。
生川も畠山重忠に由来する。文字通り、産湯につかった川であった、とか。
武甲山の表参道
二度ほど林道と交差し石仏のあるところに出るとそこは武甲山の表参道。御嶽神社一の鳥居の裏手には車が駐車している。武甲山にのぼっていったのだろう。峠からは2キロ弱か。30分程で下りる。ここからは歩きやすい舗装道となる。
武甲山を最初に秩父で見たときは、結構インパクトがあった。甲冑そのものの、堂々とした山容であった。また、石灰を採るために削り取られた白い山肌も、これまたインパクトがあった。武甲山の名前の由来は例に寄ってあれこれ。日本武尊が甲冑を祀った、との説。このあたりを領する武人が武光氏であり、「たけみつ」を音読みで「ぶこう」としたとの説。「向う山(むこう)」が転化して「ぶこう」となったとの説。この中では「向う山(むこう)」が納得感が高い。神戸の「六甲(ろっこう)山」も、もともとは「向う山」から来ており、昔は武甲山とも表記されていたと言う(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。

生川の延命水
舗装道路を進むと道ばたに湧き水。生川の延命水と呼ばれる。小さな祠を挟んで2カ所から導管から注ぎ出る。涌き口は斜面の上なのだろう。ペットボトルに補充し生川沿いの林道を進む。
湧水は心地よい言葉である。散歩では湧水というキーワードだけで、無条件でそこに足が向かう。秩父でも寄居からの秩父往還を歩いて釜伏峠を越えるとき、「日本(やまと)水」という湧水の案内が登場。尾根道を下り水場に到着。渇きを癒し、さて下山。が、尾根道下りで道に迷い、転びつつ・まろびつつ、不安と戦いながらブッシュ道と格闘したことがある。この延命水は道端にあったことを大いに感謝。

西武秩父線横瀬駅
いくつかの石灰工場を見ながらひたすら歩き、横瀬の駅を目指す。谷筋が切れるあたりから、ぼちぼち民家が現れる。横瀬の町である。表参道から5キロほど歩いたように思う。単調な道筋を結構な距離歩いた。
横瀬の町は昔、根古屋と呼ばれた。根古屋って、山城の下にある城下町、というか家臣の館のあるところの意味で使われることが多い。はてさて、このあたりのど 
こにお城があったのか、チェックする。秩父観音霊場8番札所西善寺の近くの御嶽神社に「城谷沢の井」といった井戸があるが、いかにもこのあたりといった地名。どのあたりかはっきりは知らないけれど、この根古屋集落裏の尾根筋に城があった、よう。二子山には物見台があったと言うし、正丸峠筋からの敵襲に備えていたのだろう、か。

いつだったか、秩父観音霊場巡りで、西善寺にも訪れた。コミネカエデの古木が見事であった。御岳神社も訪れた。ここは武甲山頂にある御岳神社の里宮。山に上ることのできないひとの信心の場であった。城谷沢の井は、その豊富な水量と水質の良さを活用し、絹の染色に使いはじめ、秩父絹発祥の地とされる。
はてさて、寄り道が過ぎた。見慣れた三菱マテリアルの工場などを見ながら西武線に沿って西に向かい、横瀬の駅に到着し、本日の予定を終了する。また、高尾からはじめ、4回に分けて辿った鎌倉街道山ノ道、秩父道散歩もこれで予定終了とする。
高尾から秋川、そして青梅へと歩いてきた秩父道散歩も3回目。今回は青梅筋から峠を3つ越え、名栗川の谷筋に向かう。距離にしておおよそ12キロ程度だろうか。名栗まで行けば、後は妻坂峠か正丸峠を越えれば、そこは秩父。そう考えれば、秩父って、結構近い。



本日のルート:JR青梅線・軍畑>鎧塚>榎峠>佐藤塚>松ノ木トンネル>小沢峠>庚申の水>河又名栗湖入口>竜泉寺>名栗湖

JR青梅線・軍畑駅
軍畑駅で下車。広々としていた多摩川の谷筋も軍畑あたりまで進むと、ぎゅっと狭まってくる。そういえば、御岳渓谷は、この辺りからはじまるのではなかろう、か。駅は川面より相当高いところにあり、眺めも、いい。
青梅の地は鎌倉、室町の頃、杣保(そまほ)と呼ばれていた。「そま」とは「山の方」といった意味。その杣保を支配していたのが三田氏。小田原北条氏が勢力を伸ばすにつれ、大方の武将は北条傘下となったが、この三田氏は北条と対立。この地で合戦をおこなったのが、軍畑という地名の由来、とか。

鎧塚
無人の駅舎の坂を南に下り、T字路を青梅街道方面と逆方向にすすむ。民家のそばにこんもりと樹々に覆われた塚がある。鎧塚と呼ばれるこの塚は、辛垣城を守る三田氏と、その攻略をはかる小田原後北条の武士の鎧や亡骸を埋めたところと言う。2メートルもないようだが、狭くて急な石段を怖々上ると、こじんまりとした祠が祀られている。
祠に手を合わせ、石段を慎重に下り、先に進むと青梅線の鉄橋の下。平溝川のつくる深い谷を越えるこの鉄橋は、結構迫力がある。山陰本線・余部鉄橋の少々小型版、といったところか。ちなみに、余部鉄橋は現在工事中である、とか。
坂を下ると道は平溝川に沿って北に進む。これが秩父道である。地図で見たときは、峠に進む道であり、はたしてどういった道なのか少々心配ではあった。が、実際は車の走る舗装道。ちょっと安心。

榎峠
道脇の庚申塚などを眺めながら、ゆるやかな上りを進む。地蔵堂やお不動さんも道端に現れる。古道の名残であろう、か。しばらく進むと平溝橋。平溝川はここで左に分かれる。この川筋にそった道は高水山への上り口となっている。
このあたりを歩いていると高水三山という看板をよく見かける。高水山、岩茸石山、惣岳山の三山。700m程度の山の連なりで、1日で歩ける手頃なハイキングコース、と言う。そのうちに歩いてみよう。
分岐点をやり過ごし、そのまま坂を進む。道はカーブを繰り返す。途中に「青梅丘陵ハイキングコース」への入口も現れる。先日、JR青梅駅から尾根道を通り辛垣城まで辿ったのだが、この道筋が青梅丘陵ハイキングコース、であった。この時は辛垣城から二俣尾に下ったが、ハイキングコースはその先の雷電山を経て、この入口まで続いているようだ。先に進むとほどなく榎峠に到着。標高330m。車道でもあり、これといった古道の趣は、ない。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



佐藤塚

峠を越え、カーブの道を下る。しばらく歩くと沢筋が近づく。この沢は北小曽木川の源のひとつ。右へ左へと曲がる坂を下りていくと分岐道。高水山への登山口となっているようだ。少し入ったところにある大泉院にちょっとお参りし、先に進むと佐藤塚橋。道はここで左右に分かれる。右は青梅方面。秩父道は左に折れる。秩父道はこの辺りは「松の木通り」とも呼ばれている。
分岐点のところに大きな杉。その傍に佐藤塚がある。案内によれば、ここは佐藤助十郎という北条家家臣の屋敷跡。佐藤助十郎は秀吉の八王子城落城のとき、城を脱出し、このあたりに落ち延び、その後、石灰を焼きだすことを始めた。江戸初期にはじまるこの地方での石灰産業史を語る上で欠かせない人物、とか。石灰は武家屋敷などの白壁につかう漆喰の原材料。家康が江戸に幕府を開いた時、お城や武家屋敷の白壁に無くてはならないものであった。

松ノ木トンネル
松ノ木通りを進む。道に沿って北小曽木川の支流が流れる。ほどなく前方に松ノ木トンネル。このトンネルができたのは1979年。それ以前はトンネルの上にある松ノ木峠へと上る道があったのだろうが、現在は道は荒れて道筋がよくわからない。ということで、今回は、峠上りをあきらめトンネルを抜ける。
トンネルを抜けるとT字路。成木川に架かる新大指橋を渡ると成木街道に出る。成木街道はこの辺りの成木村で焼いた石灰を江戸の町に運ぶためにつくられた道筋。大久保長安の指揮のもとでつくられた。大雑把に言って、青梅街道の全身といった街道である。

小沢峠
成木川に沿って進む。松ノ木通りは道の両側に山塊が迫り、少し寂しい道筋ではあったが、この成木街道は広がり感もあり、明るい道筋である。清流を眺めながら進むとY字の分岐点。左に進む道が秩父道。秩父道は途中で右に折れるが、真っすぐ進むと黒山や棒ノ峰へと続く。右の道は小沢トンネルに続く道である。
秩父道はほどなく右に折れ、小沢トンネルへの道に合流する。道の先にトンネルが見えてくる。トンネルの手前に上成木橋。秩父道は、この橋の手前を右に入り、小沢峠へと上ってゆく。小沢峠を越えればそこは埼玉。
小沢峠への山道を上る。最初はブッシュ。ほどなく杉木立の山道となる。坂をのぼると峠に到着。一休みの後、峠を下る。下りはいまひとつ整地されておらず、ちょっと歩きにくい。道も荒れており、この峠を下る人はあまりいないのではないか、とも感じる。ともあれ、山道をどんどん下ると小沢トンネルの出口脇に出る。トンネル脇には小沢峠への案内もあった。

名栗川
ト ンネルの先は下り坂。名栗の谷に向かって下ってゆく。道脇には「ようこそ
名栗路へ」といった案内も現れ、やっと名栗に入った、と実感。道脇の民家を見ながらしばらく進み、途中左に分かれる新道をやり過ごし、名栗川(入間川)に架かる海運橋を渡るとT字路にあたる。右に行けば飯能。秩父道はここを左に折れ、名栗川に沿って進むことになる。
名栗川は下流に下ると入間川と呼ばれる。入間川は川越辺りで荒川に合流する。否、合流するというのは正確は表現ではないかもしれない。この合流点から下の荒川の川筋はもともとは入間川の川筋。現在の元荒川の流路を流れていた荒川の流れを熊谷のあたりで瀬替えをし、入間川の川筋と繋げた。世に言う、荒川の西遷事業である。


庚申の水

道を西に進む。谷筋は開けており、山塊による圧迫感もなく伸びやかな印象。道脇の茶畑、名栗川で釣りをする人、バーベキュー場など、ほどよく開けた山里の風景が続く。バス停「峯」のあたりに「庚申地下水」。名水なのだろうか、多くの人がポリバケツに水を詰めている。
左右の山々の樹々に目をやる。名栗は木材の産地である。江戸では西川材と呼ばれていた。文字通り、名栗川(入間川)を流し、西から江戸に材木が運ばれてくるから、だ。材木の産地であるが故に、この名栗の地幕府の天領であった。幕府の要請に応じて材木を供給するだけでよく、年貢米や御用金の義務もなかった。名栗は豊かな村であったようである。そして、豊かであるが故に、名栗は、「ばくち」で名高いところともなった。昭和7年頃でも、名栗の郷で賭博の前科者でないものはほとんどいなかった、という(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。こんなことを思いながら歩くと、風景もちょっと違ったものに見えてくる。

河又名栗湖入口
先に進み、名栗橋のあたりで道は新道と合流。合流点近くの趣のある郵便局を見やりながら進むと、ほどなく「河又名栗湖入口」に到着。秩父道は、ここから道なりに先に進むが、今回の秩父道散歩はここでおしまい。ここからは秩父道を離れ名栗湖に向かうことに 
する。数年前、棒の折れ山に上った時、名栗湖畔に車を止めて山に登ったのだが、その時、湖畔の休憩所で田舎饅頭を見つけた。この饅頭は子どもの頃、なくなった祖母がつくってくれた饅頭の味によく似ていた。で、それ以来、「田舎饅頭」を食べるのが、散歩の楽しみともなった。
田舎饅頭は秩父ではよく見かけた。利根川を越えた古河でも食べた。越谷の久伊豆神社の境内でも近在のおばあさんの手作り田舎饅頭を見つけた。奥多摩の御嶽山のケーブル山頂駅にもあった。そんな田舎饅頭行脚のきっかけとなった場所に再訪し、久しぶりに原点の味を楽しもうと思った次第。ちなみに、愛媛ではこの田舎饅頭を「柴餅」と呼んでいた。

竜泉寺(龍泉寺)
名栗川にかかる有馬橋を渡り、坂道を名栗湖に向かって進む道の途中に竜泉寺。15世紀後半に開かれたこのお寺には、竜にまつわる伝説が残る。『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』の記事をまとめる;竜泉寺の小坊主が手伝いに出かけた越生の竜(龍)穏寺
 で、竜泉寺住職が病気であることを知る。戻りたしと思えども名栗はあまりに遠しと嘆く。それを知った越生付近の湖に棲む竜が小坊主を背に乗せて運んだ、とか。また、こんな話もある。越生に棲む雄竜と名栗の有馬の谷に棲む雌竜が高山不動の上を通りデートを繰り返す。それを、不愉快に思った高山のお不動さまが雄竜の尾っぽを切り落とした、と。
この竜泉寺(龍泉寺)は雨乞い寺としても知られていた。それも昭和の頃まで続いていたようだ。お願いするのは有馬の谷の大淵に棲む竜神さま。この竜神さまは、もともと越生の湖に棲んでいたのだが、大雨で湖が決壊し、水が干上がったため、この地に移ってきた、とか。当初、竜泉寺(龍泉寺)に池に棲んでおったのだが、村人が肥桶を洗ったため、それはかなわんと、有馬谷の大淵に移っていった、とも。
いつだったか、越生の竜穏寺から飯盛峠を越え、高山不動まで歩いたことがある。竜の伝説を読みながら、越生や竜穏寺、高山不動などといった、伝説ゆかりの地の風景
を思い出す。散歩を続けると、あれこれと物事が繋がってくるものである。

名栗湖
竜泉寺の向かいには「さわらびの湯」。先回の棒の折れ山登山の時、下山後ひと風呂浴びたところ。土産物屋に田舎饅頭を発見。早速買い求め、懐かしい味を楽しみながら湖に向かう。次第に勾配を増す坂をのぼりきると名栗湖有馬ダム。名栗湖有馬ダムは昭和61年完成。有馬山を源にする有間川を堰止めてできた。
ダム脇の道を進み土産物屋で田舎饅頭を探すが見つからず。少々残念ではあったが、さわらびの湯で買い求めることはでき
たので、よしとする。しばし湖からの景色を楽しみ、先ほどのさわらびの湯まで戻り、バスに乗り飯能へと向かい本日の予定は終了。

鎌倉街道山ノ道、別名秩父道散歩の第二回。第一回の高尾から秋川までの散歩に続き、今回は秋川筋からふたつの峠を越えて青梅筋に進む。途中峠をふたつ越え、最後は多摩川に沿って軍畑まで、およそ13キロ程度といった散歩を楽しむことにする。



本日のルート;JR武蔵増戸駅>平井本宿>平井川・西平井橋>平井川・玉の内橋>玉の内川・車地蔵橋>二つ塚峠>馬引沢峠>吉野街道・明治橋>梅ヶ谷峠入口>山谷橋・町谷橋>吉野梅郷・梅観通り>即清寺>草思堂通り>吉川英治記念館.JR軍畑駅

JR五日市線武蔵増戸駅
中央線で立川を経由しJR五日市線武蔵増戸駅に。まことにつつましい駅舎。駅を出て西に向かい車道に出る。JR五日市線の踏み切りを渡り、最初の交差点が森ノ下交差点。秩父道はここから車道を離れ、左斜めに続く小径となる。民家と畑に挟まれた、どうということのない道ではある。古道といった趣があるわけで な、ない。道なりに進むと先ほどの車道に合流。先に進むと、ほどなく「平井本宿」の案内が。

平井川
平井本宿は文字通り、昔、宿場町であったところ。とはいうものの、道路脇の街並にとりたてて昔の名残といったものは感じられない。平井本宿の信号を越えた辺りから、道は左にカーブし下りとなる。平井川の川筋へと下ってゆくわけだ。坂を下り切ったところが西平井交差点。西平井橋がかかる。
平井川は日の出町と青梅の境にある日の出山に源を発し、日の出町、あきるの市を東流し、あきる野市と福生市の境で多摩川に合流する。そういえば先日御岳山から日の出山を経てつるつる温泉に下ったことがある。つるつる温泉でひと風呂浴びた後バスで武蔵五日市駅まで戻ったが、その道筋に沿って流れていたのが平井川であった。
この平井川筋って、なんとなく気になる。川に沿って神社やお寺が点在する。この西平井交差点から少し西にいったところにある新井薬師は鎌倉期のもの。その横の山麓にある白山神社も結構な規模。本殿までは相当の山道を上らなければならなかった。また、この交差点から少し東にある東光院の妙見宮。これも、本殿のある丘陵上まで長い階段を上らなければならない。
秩父平氏の祖平良文が中興の祖とされるこの妙見様には畠山重忠にまつわる話も残る。北条の謀略により二俣川にて討ち死にした重忠は、その道の途中、この平井の地で突然の光の洗礼。それは、二俣川行きを留めようとする平井の妙見様のサインであった、とか。また、東光院より少し東の尾崎観音様は頼朝ゆかりの寺とも言う。ともあれ、そのうちにこの平井川筋の時空散歩もまとめておこう。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



地蔵堂
西平井交差点から平井川に沿って北に進む。ほどなく玉の内橋。このあたりで平井川に玉の内川が合流する。秩父道はこの玉の内川に沿って北に進むことになる。玉の内橋を渡り、北に向かい消防の火の見櫓などを見やりながら川に沿って北に上る。沿道左には「これより花菖蒲の里」といった案内もある。ゆったりとした穏やかな田舎の風景が続く。
「花菖蒲園」らしきものを左手に見ながら進むと地蔵堂のある辻に出る。このあたりが玉の内集落。秩父道は本来、この辻を直進し馬引沢峠に直登した、と言う。しかし現在この道は辻を少し進んだところにある秋川街道下のトンネル入口で行き止まりになっている。秋川街道の西に広がる砂利砕石工場や廃棄物処理場所などの工事のため道が切れてしまったのだろう。

二つ塚峠
地蔵堂の辻を右に折れ二ツ 塚川に沿った迂回路を進む。静かな山道を進むとその先に砕石工場。またその先は木立の中を上り道。ほどなく道は秋川街道に出る。合流点あたりに二つ塚峠への上り口がある。
上 り口は雑草が生い茂りちょっと見つけにくい。また、ブッシュ道嫌いの我が身としては少々躊躇する。が、このブッシュはすぐ終わり、木々の中を進む道となる。道の左側は廃棄物処理場のフェンス。下に処分場が開ける。ガレ場の道を上るとそこは二つ塚峠。標高358m。峠には塚らしきもの。二つ塚の由来となるものだろう。塚のあたりに案内;不治の病の母が生きながら山に埋められる事を願う。それを悲しんだ親思いの娘は、母とともに生きて埋められる事を村人に願う。村人は母娘を偲び塚を供養した、と。

馬引沢峠
二つ塚峠から馬引沢峠に向かう。尾根道はしっかりしている。ほどよいアップダウンを繰り返す尾根道を進むとほどなく峠に。標高340m。南はフェンスが張られ、少々味気ない。フェンスの下の処分場のため南の木々は開かれており。寂しい峠、といった雰囲気はない。
馬引沢峠の名前の由来は畠山重忠から。峠道を愛馬をいたわり馬を下りて引いていった、という故事による。そういえば、先日歩いた世田谷の駒沢って、もともとは駒引き沢、から。上馬は上馬引き沢>上馬、下馬引き沢>下馬、と。もっともこの地で馬を引くように命じたのは重忠ではなく、頼朝であった、かと。

吉野街道
峠を青梅筋に向かって下る。峠近くは一瞬簡易舗装。それもすぐに終わり、山道を馬引川に沿って下る。川といっても沢筋といったもの。北面の日当りのよくない道を下ってゆくと川側に八幡様。八幡様を過ぎ、川沿いに進むとればすぐに吉野街道・清水橋に出る。場所は畑中と和田町の境。秩父道はしばらくこの吉野街道に沿って進む。

梅ケ谷峠入口

道を少し進むと地蔵堂が。赤い帽子とエプロンをした子育て地蔵の姿はなかなか、よい。先に進み和田2丁目交差点に。和田橋への分岐となっているこの交差点の南面にこじんまりとした稲荷神社。吉野街道はここでT字路となっている。
交差点の名前は梅ヶ谷峠入口。梅ケ峠を越えて秋川筋に抜ける道である。この道も秩父道の道筋である。馬引沢峠より後にできた、とか。青梅・二俣尾の辛垣城に籠る三田氏を攻めるために滝山城主の北条氏照がこの峠を越えた。また、秀吉の小田原攻めのとき、八王子城を攻略するため上杉景勝が進んだのも梅ヶ谷峠であった、とか。
ついでに、三田氏の居城・辛垣城であるが、いつだったか、青梅から結構なアップダ
ウンの尾根筋を進みこの辛垣城まで歩いたことがある。城、といってもなにがあるわけでもない。江戸時代以降に石灰の採掘のため、遺構が相当削り取られている、とも言う。見る人が見れば土塁だの、郭だのが見て取れるのだろうが、門外漢の者には、城跡と言われなければ、ただの山、といったものではあった。

吉野梅郷
峠入口の交差点からほどなく、町谷川にかかる町谷橋に。橋を越えると梅の里。地名も梅郷と言う。先に進むと吉野川の手前の信号から左に折れる道。観梅通りと呼ばれるこ
の道は秩父道の道筋である。少しに進むと右に折れ、吉野街道にそって進むことになる。
吉野の梅郷とは言うものの、本来、吉野といえば桜である。この地も、もともとは桜の名所を目指した、と。明治の頃である。が、桜はうまく根付かず、結局はこの地に育っていた梅をもとにこの地を梅の名所とすべく大量に植樹した、と。青梅・金剛寺に伝わる平将門の梅の木の話をまつまでもなく、昔からここは梅の郷であった、よう。
道の左には「梅の公園」。いつだったか、会社の同僚と梅を愛でるために来た事がある。山の側面が梅の花で埋まる様は、とは言いたいのだが、梅見には少々早く、つぼみといった案配ではあった。
道を進むと下山八幡神社。11世紀中頃の創建と伝えられる古社。梅郷の鎮守さま。八幡様を過ぎると道はT字路にぶつかる。右に折れ吉野街道に戻る。

草思堂
街道を少し西進し、川を渡るとすぐに即清寺。9世紀末の創建。鎌倉期には頼朝の命をうけ畠山重忠が再興した、と。即清寺を越え、吉野街道からひとすじ山際にはいったところに通る草思堂通りを進む。草思堂は作家・吉川英治ゆかりの建物。第二次世界大戦末期の昭和19年から戦後の昭和28年までこの屋敷に住んでいた。『新平家物語』、『宮本武蔵』、『鳴門秘帳』などが有名。

愛宕神社
先に進むと道の左手に愛宕神社。平将門の子孫と称する三田氏の辛垣城を護る社
であった、とか。長い石段を上りお参り。ここからの見晴らしは気持ちよい。青梅の谷筋、辛垣城のある山の稜線などの眺めが楽しめる。本殿脇には奥の院へ続く山道。
いつだったか、御岳山から日の出山を経て、この愛宕神社へと下ったことがある。下りの途中に奥の院があったが、相当荒れていた。ちなみに、この山道はハイキングコースとなっているが、愛宕神社から日の出山への上りは相当厳しそう。日の出山からの下りの途中で外国人のハイカーに出会ったが、相当消耗していた。

軍畑大橋
愛宕神社を離れ吉野街道に戻り、先に進む。軍畑大橋南交差点で右折し軍畑大橋に出る。軍畑は、「いくさばた」と読む。秩父道はここの軍畑の渡しを渡ったり、水量が少ないときは丸太橋を利用した、とか。
軍畑は名前の通り、合戦が行われたところ。鎌倉時代中期の13世紀の中頃から、この奥多摩渓谷(三田谷)を支配してきた三田氏と小田原北条氏の合戦の地。三田氏の居城はJR東青梅駅の北にある勝沼城。この軍畑の北の山に北条なのか、武田なのか、何れにしても侵攻への備えのため支城として辛垣城を築く。永禄6年(1563年)、滝山城の北条氏照が梅ヶ谷峠を越え侵攻し多摩川南岸に布陣。軍畑大橋のあたりと言われる。迎え討つのは三田弾正忠綱秀。両軍激しい合戦の末、三田氏の敗北。辛垣城は落城し、三田弾正忠綱秀は岩槻城に太田氏を頼って逃れる。が、結局その地で自害し、名門三田氏は滅亡した、と。綱秀の残した「からかいの 南の山の 玉手箱 開けてくやしき 我が身なりけり」という歌はよく知られる。
橋を渡ればJR軍畑駅はすぐ近く。橋を渡ったところにある青梅街道の交差点脇から、少々きつい勾配の坂。眼下の多摩川筋などの眺めを楽しみながら坂を上りきり、無人の駅舎に到着し本日の予定終了。

高尾から秋川筋に
鎌倉街道山ノ道を高尾から秩父まで 歩くことにした。高尾からはじめ秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠を越えて秩父に入る。それぞれ15キロ程度。4回に分ければ秩父に到着する。思ったよりも秩父は近い。
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。
で、今回歩く鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。高尾から北は、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に向かう。高尾から南は、七国峠から相原十字路、相原駅へと進み、南町田で鎌倉街道上ツ道に合流し、鎌倉に向かう。
鎌倉街道山ノ道を歩こうと思ったきっかけは至極単純。鎌倉武士の鑑と呼ばれた、畠山重忠が館のある秩父からこの道を鎌倉に向かって往還した、という。妻と別れを惜しんだ妻坂峠など重忠が見た峠の風景を自分も体験しよう、と思ったわけである。さて、散歩に出かける。本日は16キロ程度だろう。



本日のルート;JR鷹尾駅>高尾街道>廿里の坂>城山大橋交差点>中央高速と交差>心源院>川原宿>モリアオガエルの道>圏央道交差>美山トンネル>山入川・美山橋>戸沢峠>秋川街道>川口川・重忠橋>駒繋石峠>山田大橋南詰め>秋川・網代橋>JR五日市線武蔵増戸駅

JR中央線高尾駅

JR中央線高尾駅で下車。駅前を進み甲州街道を渡り、そのまま北に進む。この道は高尾街道と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り滝山街道戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中に「廿里(とどり)古戦場の碑」。北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点?・滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦、ゆえ。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

梶原八幡
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先も上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、鎌倉街道は高尾街道を離れ、三叉路を北西方向に進む道筋となる。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点。宮前とか宮の前といった地名があるのは、道の東にある八幡様に由来する。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原か、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強い。また、鎌倉散歩のとき、朝比奈切り通しで「梶原大刀洗水」といった清水の流れを目にした。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。いずれにしても、あまりいい印象はない。
どういった人物か、ちょっとメモ;もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらしら張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。

八王子城山入口
神社をはなれ、道を進むと中央高速と交差。その先の三叉路は八王子城山入口交差点。城跡は三叉路を西に1キロほど進むことになる。八王子城は北条氏の戦略拠点。北条氏照が築城。小仏筋からの武田軍に備えた。この城の落城は秀吉の小田原攻めの時。関東の北条方の城は無血開城、といったものが多いのに、この城だけは徹底的に潰されている。埼玉県寄居にある鉢形城攻めでの「軟弱」な対応を秀吉から叱責された攻城軍が、この城を「皆殺し」にすることにより、忠誠の証とした。一日の攻防で落城した、という。このお城には幾度も訪れているので今回はパス。道を急ぐ。

心源院

坂を上る。左右に霊園。誠に広い。坂を下り切るとまたまた前方に上り道。この上り道をそのまま進むと小 田野トンネルを抜け、川原宿交差点で陣場街道にあたるのだが、鎌倉街道は上り手前から分岐する小径に向かう。
交差点脇に休憩所といったものがある。これが目印。そこを左に折れて進む。のどかな田舎道。高尾を出てはじめて、古道といった道になる。緑の中をゆったり進む。ゆるやかな坂を上り、そして下ると左手に見える分岐路に大きな石の柱。心源院はその奥にある。
心源院は武田信玄の娘・松姫ゆかりのお寺。もともとはこの地に勢力を誇った大石定久が開いたた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと滝山城を北条氏照に譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。とはいうものの、この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ。
で、松姫。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れてくる。悲劇の姫として気になる存在である。
7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。1572年。武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。1573年信玄、没する。兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、1582年、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
1582年、武田勝頼、天目山で自害。武田滅亡。武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠、松姫を救わんと迎えの使者を派遣。が、本能寺の変。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。ここで出家し信松尼となる。
1590年、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。
松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出しながら心源院を離れる。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



川原宿
道を少し進み北浅川に架かる深沢橋を渡ると陣場街道に出る。西に折れ川原宿交差点に。川原宿って、いかにも宿場といった名前。陣場街道の宿場であったのか、と、チェック。が予想に反し、陣場街道という名前は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは案下道とか、佐野川往還と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人がr利用したと言う。

モリアオガエルの道

川原宿の交差点をしばらく進むと道は右手に曲がる。鎌倉街道はこのカーブがはじまるあたりで左に分岐する。分岐点にはお地蔵様。道の西は小高い山。東側は民家と畑。山に沿ってS字に続く道を進むと三叉路に当たる。真ん中に塚。桜の木と庚申塔や石碑がある。
交差点を西に走る道は小津道と呼ばれていた。現在は「モリアオガエルの道」と呼ばれる。鎌倉街道は本来、この小津道を少し西に進み、それから北に折れ山に入り、美山町荻園へと進んでいた、よう。残念ながら現在はそのルートは圏央道が通り古道は消滅している。仕方なく三叉路から東に折れ、川原宿から続く一度車道に出る。

美山こ道橋・圏央道
交差点を北に進むと小津川に架かる桜木橋。前方に丘稜が迫る。丘陵手前で圏央道を渡る。橋の名前は「美山こ道橋」。鎌倉古道を跨がっているから、であろう。圏央道を渡ると美山トンネル。トンネル内の側道を少々怖い思いをしながら進み丘陵を抜けると美山橋。山入川に架かる。この美山地区は昔、「山入り」と呼ばれていた。昔の秩父道は美山橋の下流、圏央道が山入川にかかる辺りにある荻園橋のあたりから、川筋に沿って進んできたのであろう、か。

戸沢峠
川を渡り先に進むと美山小東交差点。ここを先に進むと戸沢峠に進む。ゆったりとした勾配の坂道。峠も標高250m程。峠からの坂道を下り切ったところに上川橋。川口川に架かる。戸沢峠は美山小東交差点から上川橋まで、おおよそ2キロ程度。陣場街道の谷筋と秋川街道の谷筋を結ぶ峠道。武蔵名所図会には「戸沢嶺」と記載されているので、古い歴史をもつ峠道であろう。ちなみに、峠って、日本で造られた造語。「山と上と下」を重ね合わせてた誠に巧みな造語である。峠の語源は、たるんだ地形を表す「たわむ」を越える「たわごえ」が転化したもの、とか、往還の安全を感謝した「たむけ」が転化したとか、例によって諸説あり。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

秋川街道
上川橋を渡ればそこは秋川街道。本来の秩父道は、坂道の途中から戸沢集落へと入る小径であった、よう。道筋には馬頭観音などもあり、それなりの趣があったのだろうが、今回は見逃してしまった。
秋川街道は八王子で甲州街道から別れ、秋川筋の五日市に通る道。八王子道とも川口街道とも呼ばれる。ほぼ川口川に沿って走っている。川の中流域の広い範囲に川口町があるが、それが川の名前の由来だろう、か。

重忠橋

秋川街道を西に進む。ほどなく上川霊園入口交差点。秩父道はこのT字路を北に折れる。道はすぐに川口川と交差。重忠橋がかかる。橋の近くに田守神社があるが、この神社には畠山重忠の伝説が残る。失った守り本尊がこのあたりで見つかり、ためにこの神社を祀った、と。とはいうものの、田守神社って各地に残る。田舎の愛媛県新居浜には、田守神社だけでなく土守神社も残る。どうも、重忠の「守り」本尊と、田「守」を結びつけるのはちょっと無理があるか、とは思いながらも、伝説は伝説として残せばいいのか、とも。
畠山重忠は鎌倉時代の代表的武人。もとは、桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏の一党。ために、頼朝挙兵の時は平氏方。後に頼朝方に参陣し武勲をたて、鎌倉武士の鑑として尊敬される。頼朝の死後、北条時政の謀略により二俣川で自刃して果てる。相鉄線鶴ヶ峰駅近くに自刃の地を訪ねた散歩を思い出す。

駒繋石峠・御前石峠

重忠橋を越え、秋川丘陵へと坂を上る。上川霊園前を過ぎると上川トンネル。秩父道はこのトンネルの手前の側道を峠に向かって上ることになる。上り切ったT字路が峠。この峠は駒繋峠とも御前石峠とも呼ばれる。秩父道はこの峠で秋川丘陵の尾根道を東から西に通ってきた古甲州街道と合流する。
峠を西に向かう。しばらく秩父道と古甲州街道が重なって進む。道の北側は金網のフェンス。フェンス下は大きく切り開かれており、排水処理センターとなっている。S字に曲がった道を少し上ったところに駒繋石(御前石、とも)。畠山重忠が馬を繋いだとの話が残る。道から少し入ったことろにあり、最初は見落としてしまった。また、繋いだとの穴が思いのほか小さく、何回も確認しなければならなかった。駒繋峠はこの三角錐の形をした石からきたものであることは、言うまでもない。
この駒繋峠は畠山重忠だけでなく、幾多の戦国武将が往還した。北条氏照は青梅筋・軍畑(いくさばた)の辛垣城を攻略するときこの峠を進む。秀吉の小田原攻めのときは、上杉景勝はこの峠を越えて八王子城に攻め込んだ、と言う。

山田大橋の南詰
道なりに峠道を下る。道の西にはゴルフ場が広がる。更に進み、道の東にも現れるゴルフ場を眺めながら坂を下ると車道に出る。そこは上川トンネルに続く網代トンネルの出口となっていた。この道を進むと秋川に架かる山田大橋。橋の上から秋川の美しい眺めをしばし楽しむ。秩父道はこの山田橋南詰めからS字に曲がる坂を下り、山田大橋の下あたりから秋川を渡った、と言う。S字カーブの途中にある民家の前の路地を進む。ここからはちょっとの間、旧甲州街道の道筋を進む。民家の先は緑の木立の中を進む道。少し進むと弁天橋。秋川の支流に架かる。ここからの眺めも美しい。
弁天橋を渡ると道脇に諏訪神社と禅昌寺。ちょっとお参りし、道なりに進み旅館網代のあたりに三叉路。そこを右に折れ、秋川に向かって坂を下ると網代橋。網代は木や竹で編んだ河川の漁具。このあたりは川魚の漁が盛んに行われていたのであろう。

JR五日市線武蔵増戸駅


秋川を渡り、車道に出る。山田大橋から進んできた車道を北に進むと五日市街道。五日市街道と呼ばれるようになったのは近世末期から近代になってから。それ以前は「伊奈道」と呼ばれていた。このあたりの地名は伊奈と呼ばれるが、ここでは伊奈石が採れた。平安末期には信州伊那谷の高遠から石工が集まっていた、と言う。で、江戸城築城に際し、この伊奈の石材を江戸に運ぶために整備された道が「伊奈道」である。伊奈道が五日市街道となったのは、伊奈に替わって五日市に焦点が移った、ため。木材の集積の中心として五日市が伊奈にとって替わった。ために、道筋も五日市まで延ばされ、名称も五日市街道になった、という。(『五日市市の古道と地名;五日市市郷土館』)
山田交差点を越えるとJR五日市線の武蔵増戸の駅はすぐそば。増戸って、江戸時代に石工の往来が盛んであり、それを「増」で表した、と言う説もあるが、そもそも増戸村ができたのは明治になってから。伊奈村、網代村などが合併した時に命名。とすれば、「合併した村の戸数が増す=発展する」ように、ということで命名されたようにも思える。我流解釈であり、真偽の程貞必ず。ともあれ、秩父道の第一ラウンドはこれで終了。
東松山城と吉見百穴に

会社の同僚が埼玉の小川町に遊び、ひょんなことから腰越城に上った、と。比企地方に点在する古城のことなどを、あれこれ話す。そのあたりで代表的な古城といえば松山城。前々から気になっていたお城でもある。
松山城、って散歩の折々に登場する。この城を巡って、関東管領・上杉氏、小田原後北条氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などが、争奪戦を繰り返す。要衝の地であったのだろう。それではと、同僚共々、比企の里を歩くことにした。
松山城のほか、周辺の見所をチェック。城のすぐ隣に吉見百穴がある。古墳時代後期の墳墓である。この比企地方には800基以上の古墳がある、と言う。
本日のお散歩、松山城だけでなく、いくつか古墳も併せて歩けそう。比企丘陵地帯の端から低地へと、室町時代と古墳時代を重ね合わせた時空散歩を楽しむことにする。



本日のルート:東武東上線・東松山駅>箭弓稲荷神社>国道407号線・日光脇往還>将軍塚古墳>新江川>古凍>おくま山古墳>市野川>東山道武蔵道>市野川の冠水橋>松山城跡>岩室観音堂>吉見百穴>東松山ウォーキングセンター

東武東上線・東松山駅

東武東上線に乗り、東松山に。このあたりの武将のことを「松山衆」と呼ぶ。町名も松山町、学校も松山中学とか松山高校などが残る。松山市となるのが自然なのであろう。それが、東松山となった経緯は、既に松山市があった、ため。愛媛の松山市である。自治省は同一の市名は認めなかった。郵便番号もない当時、同一市名で混乱することを避けたのであろう、か。で、愛媛の松山の東にあるので東松山、と。ちなみに、東久留米は九州の久留米市があったため、また、東大和は神奈川の大和市に対して東(京)の大和、ということで付けられた。

駅前で観光案内所を探す。見当たらない。駅前の交番で尋ねる。どうもそれっぽい施設はない、とのこと。東松山の名所巡りの地図を頂く。感謝。が、実のところ、駅を東に進んだところに「東松山ウォーキングセンター」があった。わかったのは、お散歩の最後の最後。あとの祭りではあった。

箭弓稲荷神社
駅前東口に大きな鳥居。地図を見ると西口に大きなお宮様がある。箭弓稲荷神社。この神社の参道が鉄路によって断ち切られたのか、とも思ったのだが、それは直接関係なさそう。市の観光協会がつくった、とか。駅前の再開発のため取り壊される、ようである。新駅舎も完成間近であった。

西口に廻り、箭弓稲荷神社に。創建は和銅5年(712年)。当時は小さな祠。立派なお宮様になったきっかけは11世紀前半、平安時代の中頃。案内によれば、下総の城主・平忠常が謀反を起こす。武蔵の国を乱し、川越まで押し寄せる。この動きに朝廷は源頼信をして、忠常の追討を命じる。源頼信は討伐の途中、この地・野久ケ原の野久稲荷に陣を張る。夢に箭と弓。これこそ吉兆と直ちに平忠常を攻め、これを破る。勝利を感謝し、神社を立て替え、野久稲荷を箭弓稲荷とした、とか。
以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主などの庇護を受ける。また庶民の信仰も厚く、特に享保年間はその隆盛を極め、江戸の日本橋小田原町の「箭弓稲荷江戸講中」を中心に江戸からの参拝も盛んに行われた。その数、百以上の講があったと言われる。
平忠常、ってあまり馴染みのない名前、である。チェックする。祖父は平良文。平将門の叔父。良文は将門のよき理解者であった人物。なんとなく時代背景が見え てきた。また、追討にあたった源頼信であるが、この勝利がきっかけともなり、坂東の武者が源氏を頭領として主従関係を結ぶようになった、と。八幡太郎義家は頼信の孫にあたる。

稲荷神社って、全国で3万とも4万ともあると言われる。神社の中では最も多い。「稲成り」、として農業の神さま、また、「居成り」として国替えを逃れ、領地安泰を願う武家の屋敷神として敬われたのであろう。
散歩の道々、お稲荷さんによく出合う。が、いまひとつよくわからない。鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ(桜桃書房)』によれば、イナリには神様系と仏様系がある、と言う。神様系は伏見稲荷の流れ。京都伏見区稲荷山の西麓にある。有力帰化人である秦氏の守り神。狐が眷属となっているのは、狐は害虫を食べてくれる、から。稲の稔りの「守護神」としては如何にもわかりやすい。
仏様系とは京都の東寺の流れ。東寺建設の折、秦氏が稲荷山の木材を提供したことを謝し、稲荷神を東寺の守護神とした。仏教の荼枳尼天(だきにてん)が狐に跨がっていたということも関係したのか、荼枳尼天が稲荷神と習合。真言宗の普及とともにお稲荷様も全国に広がっていった、とか。豊川稲荷がこれにあたる。
「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)


壮麗な権現つくりの本殿裏に元宮。小さな祠の前に狛犬ならぬ、駒狐(?)。口に飾物らしきものをくわえている。これって何?と、同僚の指摘。玉に跨がっている狐もいる。チェックすると、玉は宝珠、飾物は鍵であった。鍵の替わりに巻物をくわえるものもいる、とか。鍵の形状は少々壊れやすく、ために巻物にした。ちなみに、この珠と鍵、って花火の、「鍵屋!玉屋!」、の起こり。お稲荷さまを信仰する花火問屋がお稲荷様が口にくわる鍵を見て屋号を「鍵屋」に。鍵屋から分家した問屋は「玉(珠)屋」とした。

国道407号線・日光脇往還
箭弓稲荷神社を離れ、次の目的地である将軍塚古墳に向かう。南東に3キロ弱といったところ。東武東上線を交差し、国道407号線に205号線がT字にあたる若松町1丁目交差点に。交差点で205号線の一筋南に、南東に下る道を進む。このあたり下野本の地は、河岸段丘面と行った雰囲気。
少し進むと再び205号線。バイパスであろう、か。八幡神社脇を進むと再び国道407号線にあたる。地図で見る限りでは、先程、若松町1丁目交差点のところを走る国道407号線がバイパスのようである。
この国道407号線、東松山あたりまでは八王子から日光へと続く、日光脇往還の一部となっている。江戸時代、八王子の千人同心が日光勤番に赴くため歩いた道。八王子から入間までは国道16号線。入間から東松山までは国道407号線。東松山から先、行田まではは国道66号線となっている。
八王子千人同心って、元は武田家の遺臣。徳川開幕の頃は、甲州口の防衛を担当していたが、泰平の世になると、その必要もなくなり、日光東照宮を護るのが、その仕事になった、とか。

将軍塚古墳
国道407号線の先に、林というか森というか、雑木林が見える。将軍塚古墳であろうと、407号線を越え、斜めに小径を入る。将軍塚古墳があった。誠に大きい。ちょっとした丘といった風情。全長115mの前方後円墳。行田市の「さきたま古墳群」にある二子山古墳に匹敵する規模。案内をメモ;全長115m、高さは前方部で7m、後円部で12mある。学術調査は未だ行われていない。将軍塚古墳を中心に東北には柏崎・古凍古墳群、南には高坂・諏訪山古墳群。西には塚原・青島古墳群、さらに吉見丘陵西斜面には吉見百穴群が分布している。このような古墳の分布は、古墳時代既にこの地方が高度の社会的発展をとげていたものである、と。
比企地方には古墳が多い。845基もある、という。群馬よりの児玉地方の825基、大里地方の594基よりも多い。ちなみに南の入間地方は407と言う。このあたり一帯には、古墳をつくることのできる政治的・経済的な力をもつ有力者が誕生していた、ということであろう。
『埼玉県の歴史;小野文雄(山川出版者)』によれば、西日本で古墳がつくられるようになったのは4世紀に入ってから。埼玉県で古墳がつくられるようになったのは、5世紀になって、から。大和朝廷の影響がこのあたりまで及んできた、ということだろう。東松山では大谷地区にある雷電山古墳がその頃のもの。規模はそれほど大きくない。
県内に古墳が急増するのは6世紀以降。とくに6世紀の始め頃、行田市のさきたま古墳群に見られるような大型古墳が出現。全長120mの稲荷山古墳、140mの二子山古墳といったものである。この将軍塚古墳は6世紀末頃につくられたと言われる。
古墳はいづれも大小河川の流域にある台地・丘陵・自然堤防上に分布している。河川流域に発達した肥沃な耕地を押さえる立地である。広い耕地を所有しなければ、経済力をもてないし、経済力がなければ政治力ももてないわけで、当然と言えば当然のことで、ある。そういった気持ちで地形を眺めると、自ずと違った「風景」が見えてくる。
古墳に上る。後円部の頂きに「利仁神社」。藤原利仁。上野介、上総介、武蔵守を歴任し、延喜15年(915年)には鎮守府将軍となった、と言われる。「将軍塚古墳」と呼ばれる所以である。平安時代の代表的武人として多くの伝説があり、『今昔物語』にも登場している。芥川龍之介の『芋粥』はこの今昔物語のこの題材を小説にしたものである。
ここに利仁神社があるのは、古墳北側にある無量寿寺が武蔵守の時代の陣屋跡と伝えられているから、か。もっとも、この無量寿寺って、藤原利仁の子孫と称する野本氏の館があったところ。地名にも残るわけだから、結構な有力者であったのだろうが、この野本氏が先祖を祀るためにこの利仁神社をつくったとも言われる。


新江川

将軍塚古墳を離れ、次の目的地、古凍地区に向かう。西に2キロ弱といった、ところ。新江川に沿って進む。新江川の源流点は関越道・東松山インター東、国道254号線脇にある不動沼。ここから南東に3キロ強流れ、古凍地区で市野川に合流する。川の北は台地、南は低地となる。

古凍
しばらく歩き、国道254号線を越える辺りが古凍地区。古代、武蔵国比企郡の郡衙があったところと言われる。郡衙って、大和朝廷の力が全国に及んだときに設けられたお役所。国府の出先機関として郡の行政をおこなっていた。
また、時代を遡る古墳時代、このあたりは屯倉(みやけ)の地であったとも言われる。屯倉、って朝廷の直轄地。国造(くにのみやっこ)と呼ばれる地方豪族の所有する土地が朝廷のものとなったのは、「武蔵国造の乱」がきっかけ。
「武蔵国造の乱」って、武蔵国造の座を巡って笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おぎ)が争った事件。笠原直使主は鴻巣あたりを本拠とした豪族。小杵は南関東、多摩川流域を本拠としたとも言われる。が。定かではない。で、形勢不利の小杵は上毛野国(群馬)の小熊に援助を求める。それに対抗し、笠原直使主は大和朝廷に助けを求め、勝利を得る。国造となった笠原直使主は、救援へのお礼として四カ所を屯倉として朝廷に献上したとのこと。そのひとつ、横渟(よこぬ)がこのあたりとの説がある。

「武蔵国造の乱」は単に国造の地位をめぐる地方豪族同士の争い、というだけでなない。豪族同士での解決がつかず、大和朝廷の力を借りなければ争いは解決できなかった、という事件。言い換えれば、地方豪族が大和朝廷の力に屈したという事件、とも言えよう。屯倉として朝廷に献上されたと言われるこのあたりは、その象徴のように思える。ちなみに屯倉を献上した笠原直使主って、さきたま古墳群に関係あるとの説も。稲荷山古墳から発見された鉄剣に記された人物が笠原笠原直使主である、とも言われている。
古凍って名前が如何にも気になる。古郡が転化した、との説もある。福島の郡山、福岡の小郡など、「郡」が郡衙の地を示す例があるから、ということだが、はっきりしない。


おくま山古墳
国道254号線を少し東に入った所に等覚院。重要文化財の木造阿弥陀如来像があるとのことだが、拝観できるわけもない。落ち着いた境内で少しのんびりとし、お寺の北西、すぐのところにある「おくま山古墳」に。このあたりは、古凍・柏崎古墳群と呼ばれるように、十数基の古墳が点在する。おくま山古墳は、全長62m、後円部の径が41・5mの前方後円墳で、6世紀前半の築造と言われる。前方部分は削平されており、後円部に鎮座する祠の参道となっている。

市野川

古凍地区を市野川へと東に進む。道なりに進み川の傍に。川床との比高差が結構ある。この柏崎・古凍地区って、市野川に沿って舌状に延びた台地であろう。市野川の堤に下りたいのだが、道がない。崖線といった台地端を下りるわけにもいかず、堤への道を探して、台地端を北に進む。少し歩き、市野川終末処理場を越えた辺りで堤への道にあたる。
市野川の源流は寄居町。小川町、嵐山町、東松山市、吉見町、川島町を経て、北本市あたりで荒川に合流する。全長35キロ程度。堤防に上り、少々休憩。どのあたりか定かではないのだが、このあたりで昔の東山道武蔵道の遺跡が見つかった、とか。

東山道武蔵道
西吉見条里2遺跡。2002年、朝日新聞の西埼玉版に「古代の官道と橋脚跡吉見で出土 多彩な土木技術」という見出しで紹介される。道幅は10mほどもあり、東山道武蔵道ではないか、とも言われる。発見された場所が南吉見という低湿地であり、そんなところを主道が走るわけもないから、支道ではないか、との説もあり。定説は未だ、ない。

東山道武蔵道は、武蔵国の国府に通じる古代の官道。東山道は律令時代の行政区域。当時武蔵国は東海道ではなく、東山道に属していた。武蔵道のルートは下総国を通るもの、古利根川沿いの微高地を通るものなど諸説ある。埼玉を通るルートもそのひとつ。
いつだったか、国分寺で東山道武蔵道の遺構に出合ったことがある。所沢市の久米地区、柳瀬川のあたりでも、東山道武蔵道と言われる「東の上遺跡」に出合った。ともに道幅10mを越える堂々たる古代の幹線道路である。
所沢あたりから先は、これといって遺構が発見されていない。が、この西吉見遺跡が、武蔵道の遺講としても、それほど違和感は、ない。このあたりには多くの古墳もあり、また、延長線上には埼玉古墳群といった巨大古墳群もある。っまりは古墳時代から開かれたところである。大和朝廷が東国を支配する時代になったとき、古代官道が通っても十分に納得感はある。
比企丘陵の笛吹峠には鎌倉街道が毛呂山町、鳩山町から小川町に向けて走っている。この比企の地は、古墳時代、古代から鎌倉時代にかけて幹線道路が通る「開かれた地」であったのだろう。


市野川の冠水橋
堤防下の低水路に冠水橋が見える。流川橋と呼ばれる。増水時に橋桁の上を水が流れ、橋が沈む、ため。四国で四万十川では沈下橋と呼ばれていた。京都では流れ橋、とか潜没橋とも。潜水橋とも呼ばれる。
何故だかわからないのだが、冠水橋って、気持ちが和む。Dreams ComeTrue"のヒット曲『晴れたらいいね』の一節に「昔みたいに 雨が降れば 川底に 沈む橋越えて 胸まである草分けて」って箇所があるけれど、小川に架かる「昔の橋」風の冠水橋には、なんとなく子供のときの懐かしい記憶、郷愁を感じさせるものがあるの、かも。
冠水橋は埼玉では荒川水系に残る。全部で38基あると、言う。利根川水系からは姿を消したようだ。荒川水系で前々から気になっている冠水橋としては、熊谷市の久下橋がある。全長282m。車も通る。久下って、荒川の西遷事業、つまりは、元の荒川の流路を西に流路を変えるため、荒川を締め切ったところ。荒川水系から吉野川・入間川水系へと瀬替えしたところに冠水橋が架かっている。そのうちに歩いてみたい。

松山城跡
川の堤防を進む。市野川の傍に台地がせまる。「比企丘陵の東端、南を低地、西を市野川の流れに囲まれた要害の地に松山城は聳える」、というフレーズを、大いに納得。
冠水橋・流川橋を東に渡り、土手道から台地下の車道の出る。台地下を少し進むと松山城跡への上り口。標高60m程度。上り道は整備されておらず、自然のまま。土塁や空堀といった造作を眺めながら進む。切り通しの虎口らしき場所を過ぎると台地上に。それほど広くない。真ん中あたりに礎石跡。神社でもあった雰囲気。主郭があったことろ。
主郭の東に城址碑。このあたりは物見櫓があった、とか。その先は、切り立った空堀。深さ10mほどもある。空堀の先に二郭。ふたつの台地は木橋で結ばれていたようだ。
二の丸の先には春日郭、三の丸、広沢郭と続く。それぞれ深い空堀で隔てられ、それぞれ木橋が掛けられていた、と。
松山城の築城は応永年間、というから室町時代、14世紀の末頃。扇谷上杉の家老であった、上田氏の築城と伝えられている。この松山城、武蔵と上州を結ぶ戦略上の要衝であった、と言われる。とはいうものの、文字面だけでは今ひとつリアリティが乏しかった。が、実際にこの地を歩き、古墳時代から開けた一帯であった、とか、関東管領・山内上杉の本拠である上州、そして扇谷上杉の居城・川越城とは指呼の間である、とか、荒川や利根川の低地を隔てた、言わば、「川向こう」に古河の地がある、といった地理的関係が実感できると、この城が戦略上の要衝であったことが十分に納得・実感できる。

扇谷上杉氏の時代
松山城を巡る関東管領・上杉氏、小田原後北条氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などの争奪戦をまとめる;文明6年(1474年)。太田道灌が五十子(本庄市)に向かう途中、上田氏の支配する小河(小川市)に一宿したとの記録がある。山内上杉家の家宰筋の家柄でありながら、その主家に反旗を翻した長尾景春に対抗した出陣の途上のこと。道灌は扇谷上杉家の家宰。上田氏も扇谷上杉家の武将として道灌をもてなしたのであろう。
扇谷上杉家の家宰として、古河公方や、山内上杉家、さらには長尾景春を相手に武蔵の地を駆け巡った道灌であるが、主家扇谷上杉氏の謀略で暗殺される。道灌死後、扇谷上杉氏は、山内上杉氏との争いや、また両上杉家の内輪もめの間隙をぬって力をつけてきた小田原北条氏に攻められ、江戸城から川越城、さらにはこの松山城に退くことになる。上杉朝定の時である。
北条氏の時代
川越城奪回を図る朝定は、敵の敵は味方、と、それまでの戦いの相手である、山内上杉氏、そして古河公方と同盟を結び、北条氏の拠点・川越城を囲む。その数8万人、北条方の10倍とも言われる数の同盟軍ではあるが、天文15年(1546年)、川越城の籠城群の救援に赴いた北条氏康の奇襲作戦で敗北。扇谷上杉は滅亡。山内上杉は上州の本拠地に逃れる。これを川越夜戦と呼ぶ。この結果、このあたりの武将はほとんどが北条傘下に。松山城の上田氏も北条方の「松山衆」の一翼を担うことになる。比企丘陵に腰越城、青山城、小倉城、青鳥城と、上田氏の支城というか砦が連なる。

再び、上杉氏、今度は山内上杉氏の時代

永禄3年(1560年)、上州から越後に逃れていた山内上杉氏は、上杉謙信の助けを得て関東に攻め入る。北条氏は小田原での籠城策をとる。ために、松山城は落城。城主上田氏は秩父の安戸城に逃れる。謙信は松山城を岩槻城主・太田三楽斉資正にまかす。
太田三楽斉資正、って魅力的な人物。道灌の養子。道灌が扇谷上杉氏に謀殺され、山内上杉氏につくようになった大田一族ではあるが、扇谷上杉に戻ったり、北条氏についたり、といった一族の中にあって、一貫して山上上杉に属した武将。知略に優れ北条氏も一目置いていた、と。

再び、北条氏の時代

永禄5年(1562年)、謙信が越後に戻ると、今度は松山城を北条・武田連合軍が包囲。謙信の救援を待たないで城は開城。再び北条方の手に戻る。城主に上田氏が復帰する。開城の理由のひとつが水の手を断たれたこと。籠城軍は2500名余りいたようで、水の確保は生命線であろう。春日郭と三の丸の南に「池跡」、本丸の南に井戸郭といったものがあったようだが、そのあたりが北条方に押さえられたのだろう、か。

小田原の役で落城。江戸時代初期に廃城

天正18年(1590年)の小田原の役。北条方の松山城は上杉景勝・前田利家の軍勢により落城。家康の関東移封の後は、松平氏がこの地を治めるが、慶長6年(1601年)に浜松に領地替えとなって以降は、松山城は廃城となった。

岩室観音堂

本丸から北に下りる。兵糧倉跡。先に進み総郭跡の台地に。台地の端は切り立った崖となっており、下りること叶わず。麓への道を探す。 兵糧倉跡の台地から北、総郭の西端は切通し、というか巨大な竪堀となっている。かすかな湧水などを認めながら、切り通しの岩場を下る。
下り切ったところに岩室観音堂。脇の洞窟に石仏。この石仏を拝めば四国88カ所を巡るのと同じ功徳がある、とか。由来によれば、観音さまは嵯峨天皇の御代、弘法大師が彫ったもの、と。また、小田原の役の時、松山城が石田三成の家来により全焼したときも、その観音さまだけが、残った、とか。岩肌にくっついたような、岩、切通しと一体となった建物となっている。

吉見百穴

岩室観音を離れ、真ん前にある茶屋で休憩。吉見百穴を尋ねると、松山城の隣とのこと。比企丘陵の先端が松山城、その北側が吉見百穴である。近づくにつれ、丘陵の斜面に多数の横穴が現れる。埋蔵文化センターも兼ねた「園内」の入園料は「大人300円。遠目だけでも結構インパクトあったのだが、近くに寄ると横穴がリアルで迫力も増す。斜面には階段があり、台地に上ることができる。
吉見百穴、とはいうものの、実際には219ほどあると言う。明治に発見されたときは、土蜘蛛族の住居跡か、とも呼ばれたが、現在では、古墳時代後期の横穴墓であるとされる。6世紀末から7世紀末のことである。
横穴式古墳って、散歩の折々で出合った。記憶に残るものは、川崎の市ケ尾横穴古墳群。多摩丘陵の谷戸を支配した地方豪族のお墓であった。そのときは「横穴」って、斜面に穴を開けるとすれば「横」しかないでしょう、ということで、たいして気にもとめなかったのだが、どうも「横穴」って、結構な意味をもっていたようだ。
古墳の初期の頃は竪穴式構造。「竪穴」の意味合いは、「ひとりだけ」のもの。一度古墳がつくられると、再び石室に入るには古墳を壊さなければならない構造、である。古墳時代初期の造営者は大王、大豪族といった一握りの大権力者であるので、経済的に、それはそれで問題なかった。
が、時代が下るにつれ、中小豪族といった人たちも「一族」の古墳を造営するようになる。大和朝廷の力が地方にまでおよび、大豪族の影響力が衰えてきたという時代背景も影響するのかもしれない。が、中小豪族であるので、経済力もそれなり。毎回古墳を造り直すのは、かなわんなあ、と思っていたのかどうか知らないが、ちょうどそ
の頃大陸から、横穴式石室構造が伝わってきた。その最大のメリットは、「追葬」に際し毎回造り直す必要がない、ということ。
こうして比較的小規模な横穴式古墳がつくられるようになる。それが、吉見百穴のように、古墳というより、横穴式群集墓となっていくのは大和朝廷による「薄葬令」の発令と「仏教」の影響がある、と言う(「吉見町のHP」より)。埋葬を質素にしろ、ということと、死後の世界観の浸透による、個々人のお墓を、というふたつのニーズを満たすものとして、吉見百穴のような群集墓が登場したのだろう、か。ちなみに、吉見には、もう少し北に黒岩横穴古墳群といった、もっと規模の大きな群集墓があると、言う。
台地下には大きなトンネル。古墳ではなく、第二次大戦時の軍需工場跡地。荻窪の中島飛行機の部品工場をこの地につくろうと計画。米軍の空襲を
避けるためということであったが、完成前に終戦になった、とか。また、横穴には天然記念物の「ヒカリゴケ」が自生している。

東松山ウォーキングセンター

本日の予定はおおむね終了。東松山駅に向け、市野川にかかる市野川橋を渡り、国道407号線の百穴前交差点を越え、駅に向かって西に進む。新明小学校交差点前に人だかり。背中に「武蔵十里」のゼッケン。人だかりの中に「東松山ウォーキングセンター」があった。
センターはウォーキングに関する資料も豊富。「3デイマーチ」といったウォーキングのイベントも開催している。1日3万人以上、3日で10万人以上参加するウォーキングの一大イベント。また、ゼッケンの「武蔵十里」は、浦和からこのセンターまで40キロを歩く、といったイベントであった。センターの資料によれば、吉見町の東部など、古代瓦窯跡とか古墳跡とか、源範頼館跡など見所も多い。近々、再訪すべし、ということで、本日はセンターを後に、東松山駅に戻り、一路家路へと急ぐ。

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