2013年3月アーカイブ

箱根峠から三島へと
箱根越えの二日目。今回は箱根峠から三島へと下る。歩くまでは峠から坂道を下り、その後平地を三島まで歩くと思っていた。東坂の湯本から小田原へは平地を進む、といったイメージを描いていた。が、実際は大違い。峠から一直線に三島に向かって下る、といったものであった。当初心配だった道も、道標がしっかりしており間違うことはない。箱根八里越えの後半戦を始める。



本日のルート;箱根峠>箱根西坂旧道入口>甲石坂>兜石跡>接待茶屋>永禄茶屋跡・徳川有徳公遺跡>甲石>施行平>石原坂>大枯木坂>小枯木坂>山中新田>駒形諏訪神社>カシの巨木>山中城跡>宗閑寺>山中新田>富士見平>上長坂>笹原地区>笹原の一里塚>笹原新田>長坂>こわめし坂>三つ谷新田>松雲寺>小時雨坂>臼転坂>初音ヶ原松並木>錦田一里塚>愛宕坂>東海道線>大場川>三島大社前>三島駅

元箱根
前日は強羅にある会社の保養所に宿泊。朝、登山電車で強羅から小涌谷へ。そこからは駅傍の国道にあるバス停より元箱根に向かう。途中、車窓より、湯坂道入口のバス停や曽我兄弟の墓を見やる。近くには六道地蔵もある、と言う。
湯坂道入口は鎌倉・室町期の箱根越えの古道。鷹巣山、浅間山から湯坂山を経て箱根湯本に下る。曽我兄弟のお墓は国道の直ぐ傍。そのうちに、箱根東坂の権現坂手前にあった六道地蔵への指導標から歩みをはじめ、曽我兄弟・六道地蔵をへて湯坂道を辿ってみたい、と思う。バスは元箱根に

杉並木
元箱バスを下り、元箱根交差点を西に進み元箱根港手前で国道1号線に合流。ほどなく杉並木がはじまる。東海道といえば松並木を思い浮かべるが、箱根といった高所では松は生育が悪かったのだろう。はじめから杉が植えられていたとするには杉の樹齢が少し若すぎる、とか。試行錯誤の末の杉、ということだろう、か。

吉原久保の一里塚跡
杉並木の始点近くに吉原久保の一里塚跡。江戸の日本橋から数えて24番目。塚はすでになく碑が残るのみ。名前の由来は、往時このあたりの入り江を葭原久保と呼ばれていたから。


恩賜箱根公園
杉並木が切れるところに恩賜箱根公園。芦ノ湖に突き出した半島となっている。聖武天皇の頃、この地に観音堂が建てられ、堂ヶ島と呼ばれていた。明治5年からは明治天皇の箱根離宮跡となっていたが現在は恩賜公園となっている。旧東海道は、このあたりで少し半島方面へと右に少し折れる。

箱根の関所
恩賜公園を道なりに進み箱根関所跡に。慶長19年(1614年)の『徳川実記』に「今日より東海・東山の両道に新関を置きて、無券の往還を許さず」とあるので、関所開設はこのあたりだろう、か。関所の仕事は「入り鉄砲、出女(でおんな)」の監視。武器の流入防止、人質として江戸に詰めている諸藩大名の妻女の国元への逃亡監視、である。営業時間は午前6時から午後6時までとなっている。
関所の取り調べ項目は、「関所を出入りする者は笠や頭巾をとる;乗り物で出入りする者は戸をあける;関より西に出る女性はつぶさに証文に引き合わせる;乗り物で西に出る女性は番所の女性を差し出して相改める;手負い・死人ならびに不審なるものは証文なくして通してはならない;朝廷や大名は前もって連絡あれば、そのまま通してもいい」などと示してある(『あるく 見る箱根八里』)。西に向かう女性に対しては結構厳しい項目となっている。
箱根関所跡は立派な施設がつくられており、観光客もすこぶる多い。なんとなく施設
に入る気にならず、国道へと戻り関所を迂回する。関所裏の国道は切り通しの道。昔はここに道があるわけでもなく、関所前を通るしか道はなかったのだろう。

箱根宿
箱根の関を越えると昔の箱根宿跡となる。箱根宿は箱根の関所が設けられる頃と相前後し造られた。人里離れた山中に好んで住みたい人もいるわけでもなく、小田原藩から50戸、天領三島から50戸をこの地に移住させることに。移住に際しては支度金を用意したり、年貢を免除するなど、移住へのインセンティブを用意している。
19世紀の中ごろには160戸に。住民のほどんどは、茶屋や宿屋、運送業や飛脚といった宿場関係の仕事に従事していた。当たり前といえば当たり前。本陣と脇本陣合わせて7軒。通常の宿は2,3軒が普通のようであるので、規模は大きい。とはいうものの、箱根宿に泊まる大名はあまりいなかったようである。
箱根の関を越え、溝といった流川のあたりが小田原からの移住者が住んだところ。その先の大明神川という小川のあたりが三島からの移住者の町があったところである。途中、箱根駅伝記念館などを眺めながら道なりに進み、国道と県道737号線の分岐点に。旧東海道は県道737号線へと折れる。

駒形神社
県道737号線は湖岸を深良水門、湖尻方面に進む。県道とはいうものの、この道は自動車道はすぐ終わり、あとは歩道となるようだ。深良水門と言えば、先日、深良水門から裾野市の岩波までの深良用水跡を歩いた。江戸時代、芦ノ湖の水を引くため、箱根外輪山を1キロ近く掘りぬき水を通したもの。すごいものである。
県道を少し進むと芦川に当たる。芦川の手前に駒形神社。箱根宿の鎮守さま、と言う。ということは、この芦川の集落は結構古い歴史をもつ、ということ。箱根の関とか箱
根宿ができる以前の鎌倉時代、湯坂道を通る鎌倉街道を往来する人たちの宿場であったのだろう。
境内に犬塚明神社。お犬さまを祀る。箱根宿の建設がはじまった頃、付近には狼が多く、宿場の人を悩ました。で唐犬二匹をもって狼を退治し宿場が完成。傷つきなくなった二匹の犬を「犬塚明神」としてここに祀った、と。ちなみに唐犬とは戦国時代、南蛮より日本にもたらされた大型犬の総称である。

向坂
神社を後に芦川を渡る。すぐ県道と別れ左に進む道が旧東海道。峠道へと進む。ほどなく道脇に六地蔵。道の反対側には庚申塔とか巡礼塔。そこが峠道の最初の坂、向坂の
入口である。名前の由来は箱根宿の向かい、といった意味合いだろ
う。軽くおまいりを済ませ坂を上る。
ここからはいままでの開けた景観から一変し杉並木、と言うか山道に入る。向坂の石畳は国指定の石畳となっている。向坂を進み、国道1号線の下を潜り、石畳石が大きく右にカーブするあたりが釜石坂。次いで左に大きくカーブするあたりが風越坂。大きく迂回し峠を上ってきた国道1号線に合流する手前に挟石坂。木の階段を上り終わると国道に出る。

箱根峠
国道に出ると、鬱蒼とした峠道からは一変。国道1号線、箱根新道の出入り口、箱根外輪山を北に向かう芦ノ湖スカイラインと道路が入り組み誠に目まぐるしい。歩道があるわけでもなく、怖々進み、恐る恐る道を横断し豆相国境の箱根峠に進む。標高846m。湖畔の標高は740mといったとこであるので、100mほど上ってきたことになる。

親不知子不知の石碑峠の茶店というか自販機の並ぶ脇に親不知子不知の石碑。お地蔵さまはないのだが、親知らず地蔵とも脚気地蔵とも呼ばれる。昔々、勘当した息子を探して箱根峠を上ってきた商人が脚気を患いこの地で動けなくなる。通りかかった雲助が介抱しようとするに、懐のお金に目がくらみ殺害。財布を開けると名札にわが父の名。実の父を殺めた雲助は自害した、と。

茨ヶ平
箱根峠を離れ箱根西坂旧道入口に向かう。国道沿って進み、広い駐車場を越えるあたりで国道を離れ右に折れ芦ノ湖カントリークラブの南端と言うか、東端を進む。このあたりは茨ヶ平と呼ばれる。今はハコネダケが茂る一帯ではあるが、往時は茨の原であったのだろう。

箱根西坂旧道入口
道を200mほど進むと道標。箱根西坂旧道入口である。石碑には「是より京都百里、是より江戸25里」とある。入口は見落とすことはないだろう。これから箱根越え・西坂を下ることになる。

甲石坂
道に入るとすぐに休憩所。甲石休憩所とある。足元を直し、西坂の最初の坂である甲石坂を下る。ハコネダケのトンネルの中を進む、といった雰囲気。石畳も笹の葉に覆われている。坂名の由来は兜石があった、から。
ほどなく道脇にお地蔵様。三面八臂の馬頭観音。八つ手観音とも呼ばれる。坂の途中に兜石跡の石碑。兜石そのものは、現在は道を少し下った接待茶屋のところに移されている。『東海道中膝栗毛』に弥次郎兵衛の詠んだ歌。「たがここに 脱捨おきし かぶといし かかる難所に 降参やして」。

接待茶屋
ほどなく旧街道は国道に出る。接待茶屋バス停のところを大きくカーブすると、道は再び国道から離れる。道脇に接待茶屋の説明板と道標。道標には「三島宿二里二十一町(10.3km)、箱根峠三十三町(3.6km)」と。
接待茶屋とは、峠を越える人馬のお助け所。お茶や飼い葉、薪などを無償で接待した。元々は江戸時代後期、箱根権現の別当がはじめたもの。箱根越え・東坂の畑宿手前にも接待茶屋があったが、それも箱根権現の別当、今で言う事務長さんがはじめたもの。
で、この接待茶屋も次第に財政が苦しくなり、江戸の豪商の助けを求めることにした。文政7年というから、1824年のことである。この接待(施行)も弘化2年というから、1845年頃まで続いたが、そこで再び財政難に陥り、江戸時代には再開されることなく終わった。
接待茶屋が再開されたのは明治12年。農民運動の指導者大原幽学率いる理性協会が施行を始める。理性協会が衰えた後も、鈴木さんといった個人がボランティアを続け昭和25年まで続く。まったくの無料奉仕。明治天皇が接待茶屋で休んだとき、お礼にお金を置いたがそれも受けとらなかった、とか。

山中一里塚
道を進むと山中一里塚の碑。江戸から26番目。塚はすでに無い。ちなみに、一里塚には榎木が植えられることが多い。謂れは、家康に塚の建設を命ぜられた大久保長安が、塚に植える木を何にしようかとお伺い。と、「そのほうの ええ(好きな)木に植えよ」、と言ったとか、松のかわりに「余(よ)の木にせよ」と言ったのを聞き違いえた、とか。榎の根の強さ故が、本当のところだろう。

兜石
道の逆側に兜石。もとは甲坂にあったもの。由来は、小田原征伐のとき、秀吉が兜を置いた石であったから、とか、頼朝がどうとか、と。ここに移したのは箱根宮下・富士屋ホテルの料理人、鈴木某氏。このあたりを観光開発するために移したと言う。

徳川有徳公遺跡
道の左手に大きな石碑。有徳公・徳川吉宗が将軍になるため箱根を越えるとき、この地で休憩。茶店に永楽銭を賜ったとか。鈴木某氏が観光開発の目玉とすべく、この碑を建てた。

石原坂

分岐を進むと石原坂。石荒坂とも。石畳が続く。坂の途中に明治天皇御小休・御野立所への案内。細路を進めば石碑があるようだが、道はハコネダケで覆われており、なんとなく行きそびれる。

念仏岩
坂の途中に大石と石碑。石碑は、行き倒れの旅人を山中集落の宗閑寺で供養したもの。ために、岩は念仏岩と呼ばれる。「南無阿弥陀仏 宗閑寺」とある、ようだ。

仇討ち場
七曲とも呼ばれるカーブの坂道を下る。カーブの終わるあたりが、上でメモした吉宗公ゆかりの永楽茶屋があったところ。明るく開けた茶屋跡に仇討ち話が残る。
仇討ち事件は三島で起きた。明石の殿様の行列に幼女が闖入。一時は幼女のこととて、放免といった次第に。が、その子供の親が元尾張藩士と聞いた明石の殿さんは、幼女を手打ちに。さぞや尾張嫌いであったのだろう。で、怒り心頭の父親による仇討ちの現場となったのが、この地である、と。
この話には尾ひれがつく。明石の殿さんが三島宿で見染めた遊女。しかし、その遊女にすっぽかされ、機嫌が悪かったのも手打ちの一因、と。また、その遊女は手討ちになった子供の実の姉であった、とも。話がどこまで広がるのやら。
ちなみに、その子供、助けを求めて、「言い成りになりますから、どうか助けてください」と命乞いをした。で、その幼女の冥福をいのって造られたのだ「言成地蔵尊」ということだ。三島市内に残る、とか。

大枯木坂

少し窪地となった新五郎久保を通り、大枯木坂を下ると道は民家の庭先に出る
。本来の街道は直進し、小枯木坂へと進んだようだが、道は左に折れ国道に戻る。バス停は山中農場となっているので、先ほどの民家はその農場の一部であったのだろう。

願合寺石畳
国道を渡り階段を下りる。道はここで国道の谷側に移る。再び石畳の道、このあ
たりの石畳は結構最近のもの。平成7年に三島市が整備したものである。願合寺石畳と呼ばれる。

雲助徳利碑
西坂に入って始めての杉林の中を歩く。道脇に雲助徳利碑。雲助が酒飲みの仲間のために建てたもの。案内によると、酒でしくじり国許を追放された剣道指南の元武家が、この地で雲助に。この碑は、その武芸・教養ゆえに仲間に親分として慕われるようになったそのお武家を偲んで造られた。
雲助の由来はさまざま。住所不定で雲のように漂うから、とか、街道でお客を求め蜘蛛の糸を張り巡らせたていたから、とか、あれこれ。あまり評判のよろしくない雲助にもランクがあり、最上級は長持ちかつぎ。継いで、駕籠かつぎ、そして、一人持ちの道具類かつぎ、といったランクになっていた。

山中新田
雲助徳利碑を過ぎると、ほどなく国道に合流する。このあたりは山中新田と呼ばれる。新田とはいうものの、西坂の新田は、通常の田畑開墾のため、というものではない。箱根越えの人馬への便宜を図るためつくられた「間(あい)の宿」、とか「(継)立場」といったもの。三島代官の斡旋により、三島あたりの農家の次男、三男に呼びかけ移住させた。年後の期限付き免除といったインセンティブも用意したようだ。西坂には山中新田、笹原新田、三ツ谷新田、市山新田、塚原新田と5つの新田が開かれた。

駒形諏訪神社
山中新田入り口に念仏石、無縁塚、三界万霊塔。三界万霊塔とは、欲・色・無色の三界、あらゆる生物が生死輪廻する世界のすべての霊があつまるところ。鎌倉のはじめより供養はじまった、とか。
国道を渡ると駒形諏訪神社の鳥居。山中城の北丸のあったところ。境内に庚申供養塔
そしてアカガシの巨木が残る。巨木といえば、この近く、山中城跡に「矢立ての杉」がある。戦の勝敗を占ったもの、とか、国境を見立てる、といった目的で矢を射る。いつだったか笹子峠を越えたときにも「矢立ての杉」があった。
矢ではないのだが、先日信州の塩の道を歩き、大網峠を越えたとき、「なぎ鎌」といって、鎌を神木に打ち付ける神事があった。この神社と同じく、諏訪神社の神事である。諏訪神社って、木にまつわる神事が多いのだろう、か。そういえば御柱祭も諏訪大社の神事。

山中城跡
諏訪神社から道なりに山中城跡に進む。山中城は北条氏康が小田原防衛のために築城したもの。永禄年間、と言うから、16世紀後半のことである。秀吉の小田原征伐のとき、この城は北条方の拠点として秀吉の軍勢と戦う。が、味方4,000に対し、敵方3万とも5万弱という圧倒的勢力差のため、半日で城が落ちた。この城で印象的であったのが、障子掘。棚田といった美しいつくりであった。

宗閑寺
城跡から国道に戻る。国道脇に宗閑寺。このあたりは山中城三の丸跡。北条、秀吉側両軍の戦死者をとむらうため江戸期につくられた。境内には山中城の守将であった松田康長や副将間宮康俊、秀吉側の一柳直末がまつられる。一柳直末はその討ち死にを聞き、秀吉が「関八州にもかえがたい人物。小田原攻撃はやめ」との取り乱したほどの逸材であった、とか。寺の開基は間宮康俊の妻。小田原落城後、家康に仕えた。

芝切地蔵
国道を少し下ると芝切地蔵。山中村で行き倒れになった旅人が、「なくなった後も、故郷の相模が見えるよう、芝で塚をつくり、その上に地蔵尊としてまつってほしい」と。村人は地蔵をまつり、供養した。で、接待につくったおまんじゅうが評判を呼び、多くの人が参拝に訪れ、村は大いに潤った、とか。

大高源吾の詫び証文

逸話と言えば、この地には大高源吾の詫び証文の話が残る。あらすじは箱根越え・東坂の甘酒茶屋での神崎与五郎と同じ。討ち入り前、大事の前の小事、ということで、ぐっと我慢。箱根峠を境に登場人物が変わって話が出来上がっている。三島宿にその侘び証文が残ると言うが、それによれば主人公は大高源吾である。

山中城岱崎(だいざき)出丸

国道を渡り山中城岱崎出丸に。尾根を活用した曲輪となっている。北条主力がここに籠もって秀吉軍を防ぐといった戦略でつくられた。こう見てくると、山中城って誠に大きな構え。もともとはここに北条の大軍が籠り秀吉勢に対峙する計画が、主力が小田原籠城と決まり、結果わずかな守備兵力しか残らず、ために広い城の構えが活かせず終わった,と言う。

山中新田石畳
出丸を離れ、ふたたび杉林の中を進む。道脇に箱根八里記念碑、司馬遼太郎さんの書いた北条早雲が主人公の『箱根の坂』の一文が刻まれている。

韮山辻
ほどなく国道に。このあたりは昔の韮山辻。伊豆の韮山に続く道があった。往古、このあたりも山中城の内。北条方の戦略拠点でもあった韮山城との往還を繋いでいた。その往還は、今は荒れ果て歩くことはできそうもない。道は国道を離れ、Uの字に大きく迂回する国道を一直線にショートかとする。

富士見平

道が再び国道に出るところに芭蕉の碑。風景は大きく開け、晴れた日には富士が見える。ということだが、当日はあいにくの曇り空。芭蕉がここを通った時も富士が見えなかったようで、「霧しぐれ 冨士を見ぬ日ぞ 面白き(野ざらし紀行)」などと詠んでいる、気持ちは大いにわかる。
この地は富士の名所。東海道名所図会にも 「三島より海道筋二里ばかりにあり。正面に冨士山・三保の松原、はるかに見ゆる」とある。
蜀山人こと大田南畝も『改元紀行』に、「やや行きて霧晴れわたり、四方の山々あざやかに見ゆ、富士見だいらといへる所のよしききつるに、ふじの山のみ曇りて見へぬぞ恨みなる。遠く川水も流れ行くは、黄名瀬川なるべし、南のかたに幾重ともなくつらなれる山あひより、虹のたちのぶるけしきいはんかたなし」と書いている。

上長坂
芭蕉の碑の先、道は再び国道を離れる。今度は、逆U字の基部をショートカットする。
階段をくだり石畳に。三島市が整備したとのことである。このあたりを上長坂と呼ぶ。途中明治天皇御小休所といった石碑もある。笹原地区石畳を国道に進む。

元笹原

国道に出る。しばらく国道に沿って進む。このあたりは元笹原。少し進み、道はモー
テル脇から再び国道を離れる。道はここから笹原新田まで一直線に下る。下長坂と呼ばれる。

笹原の一里塚
道を下り、民家が見える頃になると道の左手にシイの林。笹原の一里塚はその中にある。日本橋から27番目となる。塚は一基だけ残る。塚の上のシイの根元に箱根八里記念碑。「森の谺(こだま)を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うために」は詩人の大岡信の碑文。

笹原新田
笹原の一里塚を越えると道は国道に出る。街道は国道を横切り一直線に下る。急坂の両側には笹原新田の民家が並ぶ。今まで見たことのない、印象に残る景観である。
坂の途中に一柳庵。山中城の攻防戦で亡くなった豊臣方の武将一柳直末の胴塚が祀られる。首は敵に奪われることを恐れ三島市に近い長泉に祀られた、と言う。山中新田の宗閑寺の一柳氏のお墓は、ここから移された、と。
集落を過ぎても坂は続く。坂の名前は下長坂と呼ばれる。この坂は、別名、こわめし坂とも呼ばれる。こわめしの由来は、あまりの急坂のため、背中の米が汗と熱で強飯に「ゆであがるほど」であるから、と。西坂第一の急坂であるのは間違い、ない
。ハコネダケの生い茂る急坂を下ると国道に出る。

三ツ谷新田
国道に沿って三ツ谷新田の集落が続く。国道は尾根を通り、集落はその両側に連なる。この地の名前の由来は、その昔、ここに茶店が三軒あったため。当初は、三ツ屋と呼ばれていた。その後、大久保長安が家康の命により西坂に新田をつ
くったとき、三ツ屋を三ツ谷と改名した、と。

松雲寺
国道を進む。国道とは言うものの、三ツ谷新田の手前から国道はバイパスが別れている。車はそちらを走るので、集落中の国道は、比較的静かである。先に進むと松雲寺。江戸期に開山の寺。多くの大名が休息をとったところ。寺本陣と呼ばれる
。境内には明治天皇が腰掛けた石が残っていた。お寺の近くには、茶屋本陣も。言うまでもなく、本陣として使われた元茶屋跡である。

題目坂
国道を進む。集落を外れるころになると坂は急になる。ほどなく道は国道から離れる。このあたりの坂を小時雨坂と呼ぶ。坂小学校の横を通り、坂幼稚園手前を右に進むと階段となる。この坂は大時雨坂、別名題目坂と呼ばれていた。題目坂は、その昔、坂小学校のあたりに、日蓮宗のお寺があり、そこに「南無妙法蓮華経」の七文字が彫られた石、題目石があった。から。東海道名所図会には「市の山・法華坂、ここに七面祠(ほこら)・法華題目堂あり 」と記載されているように、法華堂からは一日中、お題目を唱える声が聞こえたのだろう、か。

市山新田

馬頭観音を見やりながら題目坂を上ると車道にでる。この道は元山中に続く道。元山中は鎌倉・室町の頃の箱根越えの道筋。鎌倉との往還でもあり、鎌倉街道とも呼ばれる。今回歩いた旧東海道のひとつ北の尾根筋を三島に向かって下ってゆく。そのうちに歩いてみたい。
道を左手に折れ国道に出るとそこは市ノ山新田。名前の由来は、箱根に上りはじめた一番目の山であったため、一山と。それが市山に転化した、と言う説と、市が立った山から、との説がある。

法善寺

国道に沿って歩くと右手に山神社。境内に道祖神がたたずむ。西隣に法善寺。題目坂の手前、坂小学校のあたりにあったものが、題目石とか、七面大明神、帝釈天などとともにこの地に移された。
七面堂とは日蓮宗の護神七面大明神を安置する堂。七面堂と言えば『東海道中膝栗毛』に弥次郎兵衛の狂歌がある。「 あしかがの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いふべかりける 」。足利の(武将の建てた七面堂)と、(無精の七面倒)をかけている。七面堂は足利尊氏が建てたと言われる。この七面堂は、この地に移される前の法善寺にあった七面堂であることは、言うまでもない。
先に進むと市ノ山地蔵堂。六地蔵、と言うか、性格には、六地蔵が2セットと一体の地蔵の計13地蔵が知られる。

臼転坂
地蔵堂を先に進むと、道はまた国道から離れる。石畳の道は臼転坂と呼ばれる。臼が転がったから、とか、牛が転がったことからの転化、とか、あれこれ。石畳の道はすぐに終わり、再び国道に。

塚原新田
国道を進むと普門庵。境内には観音坐像、馬頭観音などが佇む。このあたりから塚原新田がはじまる。名前の由来は、この近辺に円形古墳が多いから。塚原古墳群とも呼ばれるようだ。道脇に宗福寺。境内には三界万霊塔や六地蔵。弘法大師が富士を見に、この寺に立ち寄ったとの話が伝わる。宗福寺を過ぎると集落も終わり、ほどなく国道のバイパスと合流。

初音ヶ原松並木
現東海道に沿った石畳の遊歩道を進む。整備された松並木となっている。初音ヶ原松並木
と呼ばれる。『豆州志稿』に「官道の老松背後に列立し、遠く駿遠の峯を望む風景頗る佳なり」と。初音ヶ原の名前の由来は、頼朝が箱根権現に詣でるとき、鶯の初音を聞いたから、とか、箱根に入るはじめての峯、初峰が転化したとか、これも例によってあれこれ。本当に地名の由来って、定まるところなし。


錦田一里塚
初音ヶ原の中ほどに一里塚。日本橋から28番目。地名は、錦の郷と谷田郷を足して二で割ったという、これも地名をつくるときによくあるパターン。初音ヶ原一里塚とも。元の姿が保存された、堂々とした塚である。

箱根大根恩人碑

1キロほど続く松並木も終わり、街道が再び国道と別れで右に入る手前に箱根大根恩人碑。
箱根の西坂でとれる大根とかニンジン、牛蒡など、所謂「坂もの」と呼ばれる農産物を世に広めようとした平井源太郎氏を称えるもの。昭和5年頃、東海道線が開通し、箱根の往来が寂れた村々を救おうと、はじめたのが坂もの販売のためのキャンペーンソング作戦。で、目に付けたのがこの地に伝わる「ノーエ節」。「富士の白雪や ノーエ富士の白雪やノーエ 富士のサイサイ 白雪は朝日に溶ける・・・」の、あのノーエ節。
ノーエ節は、もとは秀吉が小田原の陣を張ったとき、その場で歌われた今様、「富士の白雪朝日でとけて とけて流れて三島へ注ぐ」がはじまりと言われる。その後、農民の田草取り歌や盆踊り歌として伝わり、幕末にはやった尻取歌をへてノーエ節が出来上がっていた。そのノーエ節を「農兵節」と歌詞をアレンジ。「箱根の山からノーエ 箱根の山からノーエ 箱根サイサイ 山から三島を見れば 鉄砲かついでノーエ 鉄砲かついでノーエ 鉄砲サイサイ かついで前へ進め・・・」と。陣羽織に菅笠姿、願人坊主さながらの姿で歌い踊りながらキャンペーンを展開した。

愛宕坂

現国道から離れ、右に別れ坂を下る。この坂は愛宕坂。名前の由来の愛宕神社から。神社は今はなく、そのあとに三島東海病院が建つ。

東海道線

愛宕坂を下ると東海道線に当たる。いやはや、はるばる来たぜ、と小声で叫ぶ。線路を越え。今井坂を下る。山田川に架かる愛宕橋を渡り道は国道に合流する。

川原ヶ谷陣屋跡
国道を進むと道脇に立派な塀構えの屋敷。川原ヶ谷陣屋跡。小田原藩の支藩荻野山中藩の役所跡である。このあたり一帯、東は塚原新田、西は三島宿にはさまれた地区(川原ヶ谷)は、元々は幕府天領として三島代官の管轄であった。が、18世紀の初め頃から幕末にかけて荻野山中藩となったり、韮山代官の支配になったり、またまた荻野山中藩と変わったりしているのだが、その際の荻野山中藩の役所跡である。陣屋の道を隔てた南には足利二代将軍足利義詮や堀越公方足利政知のお墓のある宝鏡院があるとの
ことだが、日も暮れてきた。今回はパスし先に進む。

新町橋
ほどなく国道は大場川を渡る。架かる橋は新町橋。橋を渡れば昔の新町。三島宿の東口である。箱根八里の終点。長かった箱根越えもこれでお終しまい。日も暮れた。お寺が並ぶ新町、現在の日の出町をどんどん進国道を進み、三島大社にお参りを済ませ三島駅にたどり着き、一路家路へと。 
箱根湯本から元箱根まで
箱根八里を越えようと思った。昨年から、秩父や奥武蔵、奥多摩、津久井などの古街道を歩き、いくつもの峠を越えた。で、今回はその続き。旧東海道・箱根路越え。趣のある石畳が残ると言うし、杉並木・松並木もよさげではあるが、何よりも「天下の嶮」がどれほどのものか歩いてみよう、ということに。
古来箱根越えにはいくつかのルートがあった。大きく分けて、足柄峠を越えるルートと、箱根峠を越えるルート。ふたつのルートのうち、足柄峠を越えるルートのほうが古い。奈良時代以前は小田原方面から関本を経て足柄峠を越え、その後は御坂峠から甲府方面に抜ける。東山道につながったのだろう。平安時代になると、足柄峠からは甲府に向かわず、御殿場から富士川に向かって下ってゆく。ついで、平安後期から鎌倉になると、御殿場から富士に向かわず、三島に下る。三島からは根方街道を富士川に向かった。これらのルートは箱根越え、というよりも、「天下の嶮」の箱根の山を迂回するルートである。
一方、箱根峠を越えるルートは文字通りの箱根の山を越えるもの。このルートも時代によってふたつに分かれる。ひとつは「湯坂路」。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂山、浅間山、鷹巣山への稜線を進み、元箱根から箱根峠に。峠からは尾根の稜線を三島へと下る。平安から鎌倉・室町の頃のルートである。話によれば、富士の大噴火によって足柄道が通れなくなったために開かれた、とも言う。
で、今回歩く箱根峠越えのルートが江戸になって開けた道である。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂路の山越えの道を避け、須雲川に沿って川沿いに進み、畑宿を経て元箱根に。元箱根からは箱根峠に至り、そこからは、湯坂路の一筋南の尾根道を三島へと下ってゆく。箱根八里と言うから32キロ。2日に分けて、「天下の嶮」を越えてゆく。



本日のルート;箱根湯本駅>早川>箱根町立郷土資料館>白山神社>早雲寺>湯本茶屋>猿渡石畳>観音坂>葛原坂>須雲川集落>駒形神社>鎖雲寺>須雲川自然探傷歩道>割石坂>大澤坂>畑宿>畑宿一里塚>西海子(さいかち)坂>七曲の坂>樫の木坂>猿滑り坂>笈の平>甘酒茶屋>於玉坂>白水坂>天ガ石坂>湯坂道との合流点>権現坂>芦ノ湖


箱根湯本駅

小田急に乗り一路箱根湯本へと。小田原を越え、風祭、入生田へと進む。車窓からは見えることはないのだが、線路に沿って続く山腹には荻窪用水が走っている、はず。そのうちに実物を目にしたいものである。
入生田を越えると山崎の地。幕末、佐幕派の伊庭八郎を隊長とする遊撃隊が上総上西藩主林昌之介などと共に小田原藩・官軍と戦った地(中村彰彦さんの『遊撃隊始末(文春文庫)』に詳しい)。山崎を過ぎると、ほどなく箱根湯本駅に到着。

早川
湯本駅を下り箱根町立郷土資料館に。早川を渡った対岸の段丘上、というか、早川と須雲川の合流点の南側に残る小高い台地上にある。駅の改札を出て、地下通路で国道1号線を渡り、バスターミナル辺りへ。そこからは成りゆきで進み早川に架かる橋を渡る。
早川は芦ノ湖を水源とし、湖尻水門で取水され仙石より国道138号線(別名箱根裏街道)に沿って湯本に下る。橋から下流を眺めるに、三枚橋が見える。往時、長さ40m、幅も18mあるという大きな橋であった、とか。名前の由来は板を三枚並べた幅があった、から。とはいうものの、念仏三昧の「三昧」から、との説もある。往時の早川は現在よりずっと広く、中州を繋ぐ地獄橋・極楽橋・三枚橋があった、とのこと。いつものことであるが、地名の由来はあれこれ、定まることなし。

箱根町立郷土資料館
坂を上り郷土資料館に。旧東海道・箱根越えに関するあれこれを、スキミング&スキャニング。『あるく・見る 箱根八里;田代道禰(かなしんブックス)』を買い求める。この書籍で今回の東海道・箱根越えが急に充実したものになってきた。今回のお散歩メモは、この書籍や、その後に古本屋で手に入れた『ふるさとの街道 箱根路三島道石畳を歩く;土屋寿山・稲木久男(長倉書店)』、『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』、『はこね昔がたり;勝俣孝正他(かなしんブックス)』、『おだわらの歴史;小田原市立図書館』
などを参考にメモする。

白山神社
郷土資料館から下を眺めると、段丘の南の低地を挟み、その先に山塊が連なる。郷土館を離れ、箱根町役場本庁舎脇の細路を上る。後山と言う地名が示すように、ちょっとした小山。神明宮などが佇む。軽くおまいりを済ませ、旧東海道が通る県道732号線・湯本元箱根線へと成り行きで下ってゆく。
県道の南に白山神社。白山神社って、加賀白山市にある白山比咩神社が総本社。奥宮は標高2702mの白山に鎮座する。神仏習合で天台宗との結びつきを強め、天台宗の普及につれて白山神社も全国に。現在、全国に数千社がある、という。
白山神社の東には辻村伊助の屋敷があった。伊助は小田原の素封家の出。学生最後の1年を園芸の研究とアルプス登山のため渡欧。大正2年のことである。アルプスで雪崩の被害に巻き込まれる。看護を受けたスイス人女性と結婚し帰国。スイスの気候に近いこの地に家を構えるも、関東大震災のとき、山崩れで家族共々命を失った。スイスのアルプスに登り『スウヰス日記』を書く。登山小説の白眉と言う。

早雲寺
白山神社と県道を隔てたところに早雲寺。小田原北条二代目当主・氏綱が北条早雲の菩提寺として建てたもの。秀吉の小田原攻めの時に焼失。北条家当主の墓は一時散逸。現在境内にある北条五代の墓は江戸時代に再建されたもの。
境内には飯尾宗祇や山上宗二の供養塔が残る。飯尾宗祇は室町期の連歌師。旅の途中この地でなくなる。山上宗二は堺の豪商で千利休の高弟。失言より秀吉の不興を買い、追放されこの地へと流れ北条の庇護を受ける。小田原攻めの降り、秀吉に謁見を受けるも、再びの失言。秀吉の命により命を失う。口は災いのもと、の代表的人物。ちなみに、利休が秀吉を見限ったのが、山上宗二に対するこの秀吉の残虐な仕打ちにある、と言う。後に利休も秀吉により死を賜ることになるわけであるから、その遠因はこの宗二にある、とも。

正眼寺
道端の道祖神を見やりながら旧東海道を進む。ほどなく正眼寺。建武の頃、というから14世紀の中頃、足利尊氏が北条時行と戦った箱根山での合戦(中先代の乱)の記録に「湯本の地蔵堂」という名が見える。歴史の古いお寺さまである。
境内に大きな地蔵さま。湯本の地蔵堂と呼ばれていた頃の名残だろう。それにしても、このお地蔵様、なんとなく中国っぽい雰囲気。慶應4年(1864年)消失した当時の地蔵菩薩の替わりとして、入生田の名刹・紹大寺から移された。紹大寺が黄檗宗であるとすれば、大いに納得。おおらか、愛嬌のあるお地蔵様である。
このお寺には曾我堂というお堂もあった。曾我兄弟をまつるもの。兄弟二体の地蔵像が残る。地蔵堂も曾我堂も戊辰の戦乱に遊撃隊と官軍の戦いで焼け落ちるが、曾我兄弟の二体の地蔵は難を逃れ、今に残る。
曽我兄弟といえば、日本三大仇討ち話で有名。富士の裾野の巻狩で親の仇である工藤祐経を討ち果たし、といった話はだれでも知っている、と思っていた。が、なんかの折に、その話題を出したものの、廻りの人は、だーれも知らなかった。
正眼寺は北向きの斜面に建つ。境内からは北の早川の渓谷、湯本の温泉街、そしてその北に聳える北箱根の山稜が見える。

湯本茶屋
先に進むと、道端にまたまた道祖神。二体あり、一体は稲荷型、もうひとつは双立型と呼ばれる(『あるく・見る 箱根八里;田代道禰(かなしんブックス)』)。稲荷型はお稲荷様のお堂の姿、双立型は男女ふたりが仲良く手を組む姿。
このあたりは湯本茶屋と呼ばれる。その昔、二軒のお茶屋があった、とか。街道脇に石造りの貯水槽。この貯水槽は馬の水飲み場。往時、この地は「立場」があり、馬も人も休憩したのだろう。立場とは、江戸時代に設けられた五街道の宿場を補助するところ。宿場間が遠い所とか、峠などの難所が間にあるところなどに設けられる。一里塚の案内もある。江戸から22里。とはいうものの、一里塚特有の「塚」は既に、ない。

猿渡石畳
道脇に石畳道の案内。街道を脇にそれた崖下に石畳道が続く。旧東海道の石畳道である。石畳道ができたのは、江戸の五街道制度がはじまって、しばらくたった西暦1680年頃。はじめは、ぬかるみ道を整備するため、箱根の特産の「ハコネダケ」の束を敷いた、と言う。
が、タケは毎年敷きなおす必要があり、駆り出されるこの地の農民が根を上げる。ということで、石畳道にした、と言う。とはいうものの、石畳は滑りやすく少々危険。実際、この箱根越えの日は雨模様。何度も滑り、怖い思いをした。苔むした石畳道の、ヌルヌル、ツルツルは誠に、怖い。
石畳の道を下る。石畳を歩くだけで、なんとなく、江戸の時代を歩いている、といった気持ちになる。箱根の旧東海道には9キロ弱の石畳が残されている、と言う。ここがその第一歩。道を下ると沢に。猿沢と言う。その先は上り。石畳を進み、県道に戻る。

観音坂
県道を進む。沢を跨ぐ観音橋を越えると、湯本滝通りから上る道と合流。昔、あたりは宇古堂と呼ばれ、観音堂があったのが、その名前の由来。現在、観音坂の途中に箱根観音(大慈悲山福寿院)があるが、それとは別物の、よう。案内に「海道(東海道)の西片にあり、登り2町ほど(218m)ばかりなり」と。昔は、県道下をこのあたりまで東海道が続いていたのだろう。

葛原坂
勾配が増してきた県道を進む。北の景色が開けてきたのは、県道の標高が上がってきたのだろう。標高は200mから250mの間、といったところ。湯本のあたりは標高100mから150mの間であるので、50mから100m程度上ったことになる。
このあたりは葛原坂と呼ばれる。「クズ」がたくさんとれた、から。クズとは葛餅の「クズ」である。葛原坂を過ぎると、湯本茶屋の集落を離れ、須雲川の集落に進むことになる。

須雲川集落

二の戸沢にかかる二の戸橋を越え、道祖神に迎えられ須雲川の集落に入る。須雲川の向こうの稜線は湯坂山、浅間山、そして鷹巣山へと続く湯坂道。室町期の箱根越えの道である。
建設工事の技術が発達した現在の道は、川沿いがあたりまえではあるが、往時、街道は尾根道を通るのが基本であった。現在の川沿いの道は、岩を穿ち、邪魔な山塊にはトンネルを通し、沢は橋脚でひと跨ぎ、というわけだが、昔は谷間の川沿いの道など、一雨降れば土砂崩れ、といったことで、不安定この上もない。ために比較的安定している尾根道を通った、と言う。江戸時代に開かれたこの旧東海道は須雲川に沿った道。江戸になると、土木工事の技術も発達し、谷間を通せるようになったのだろう。かなた山道、こなた谷道と新旧街道が並走する。

駒形神社
集落に駒形神社。箱根の駒ケ岳山頂にある駒形権現の分社だろう。駒形神社って、往古関東に覇を唱えた毛野氏が、関東や東北にその勢を拡大したとき、地域の秀峰を駒ケ岳とか駒形山と名づけ山頂に駒形大神を祀ったことによる、と。とはいうものの、箱根の駒形権現は、大磯の高麗(こま)山に祀られていた高麗権現を勧請した、という縁起もある。
いつだったか、息子のサッカーの試合の応援で平塚に行った折、高麗山に足を伸ばした。海岸近くにこんもり聳える小山は印象的。はるばる海を越えやってきた帰化人が上陸の目印としたって説も大いに納得したことがある。毛野氏が崇敬した赤城山の赤城神社を「カラ社(コマ社)」とも呼ぶようであるし、駒ケ岳が渡来した高麗人によって開かれたって説は、結構納得感がある。

鎖雲寺
街道脇に水の音。岩を下る、かわいい滝。霊泉の滝と呼ばれる。滝横に鎖雲寺。境内に木食観正の名号碑。木食観正って、江戸期の木食遊行僧。米類を食べず木の実だけで精進する念仏行者。
境内には勝五郎・初花の墓がある、と言う。曽我兄弟と同じく、仇討ち話の主人公。仇を追って箱根に入り、夫婦力を合わせて、また箱根権現のご加護も受け見事 本懐を遂げた、ってお話。初七って、どこかで聞いた覚えがある、と思ったら、須雲川の北面の山腹にある滝の名前。初花の滝、って勝五郎の病気快癒を祈り、毎夜初花が滝行に通ったところ、とか。

須雲川探勝歩道

鎖雲寺を先に進むと、道は須雲川を渡る。現在の橋・須雲橋は川床より結構高いところにかけられているが、江戸のころはずっと下。明治初年の写真を見ると、川面より1mといった程度の小橋である。旧東海道はこの橋を渡り、斜面を直登した、と言う。その坂の名前は「女転ばしの坂」と呼ばれた。急峻な坂道に女性が難儀したことであろう。
須雲川の手前に左に折れる道がある。須雲川探勝歩道との案内。舗装の車道に少々飽きもきたので、探勝歩道に入る。入り口に「女転し坂の碑」。元のところから移されたものだろう。須雲川の南岸を進む。杉林の中をしばし進むと、道は川に下る。岩場に架けられた架設木橋を渡り、坂を上ると舗装道路に。県道から近くにある発電所に続く道だろう。道を進むと再び県道に。

割石坂
県道を少し進むと「割石坂」の案内。曽我兄弟が富士の裾野に仇討ちに向かうとき、刀の切れ味を試さんと路傍の石を切り割った、とか。旧東海道はここで県道と別れ、山に入る。ほどなく石畳の道が始まる。「江戸時代の石畳」といった案内があった。須雲川探勝歩道
の案内を見ながら進むと、再び「江戸時代の石畳」の案内。これだけ案内する以上、江戸期の石畳を保存しているものなのだろう。
畑宿まで0.9キロといった案内、古代から江戸に至るまでの箱根越えルートの変遷の案内などを見ながら先に進む。ほどなく県道に出る。合流点手前に「接待茶屋」の案内。「江戸時代後期、箱根権現の別当如実は箱根を往還する人馬のために、湯茶や飼葉を提供していたが、資金難に。で、江戸の商人の援助で東坂ではこの地、箱根峠から三島に下る西坂には施行平に接待茶屋を設けた」と。

大澤坂

県道を少し進むと道の左に再び古道へのアプローチ。ガードレールの切れ目から谷方向に降りてゆく。下りきったあたりで沢に架かる橋を渡り先に進む。再び石畳の道に。「大澤坂」の案内。別名「座頭転ばし」と呼ばれた、とか。
いつだったか、江戸期の甲州街道を歩いていたとき、談合坂パーキングエリアあたりの古道に「座頭転ばし」と呼ばれる箇所があった。そこは急坂というより、崖上の細路といったところ。国語辞典によれば、座頭転がし、って「かつて座頭が踏みはずして墜落死したという言い伝えのある、山中の険しい坂道」とのこと。石畳の大澤坂を上る。苔むした石畳はいかにも危ない。座頭でなくても結構、転びそう。

畑宿
ほどなくして県道に戻ると、そこは畑宿。畑宿は、「宿」とは言うものの、正式な「宿」ではない。このあたりでの正式な宿場は小田原、箱根、そして三島の宿。とはいうものの、ここは名立たる「天下の嶮」。途中、人馬の継ぎ立てをしなければ難路は乗り切れないということで設けられた「立場」である。「民戸連なり宿駅の如し(新編相模国風土記原稿)」と称されるほどの賑わいであった、とか。
道脇に畑宿茗荷屋本陣跡。名主である茗荷屋の茶店で、大名諸侯も休憩したのであろう。茗荷屋と言えば、この畑宿で有名な箱根細工と大いなる関係がある、とか。
箱根細工、は「挽物」と「指物」に分かれる。挽物は、ろくろを利用してつくられるお盆とかお椀と言ったもの。指物は箱類で、表面を寄木細工とか象嵌細工で装飾される。で、全国的にろくろ師が住む山中の平地を「畑」と呼ぶところが多い、とか。この地も「畑宿」だし、名主・茗荷屋の主人の名前も代々「畑」さん、である。また、ろくろ師のすむ近くには「ミョウガ」が栽培されていたところが多い。「茗荷屋」の屋号にも「歴史」がある(『あるく・見る箱根八里』より)。ちなみに、畑宿には寄木細工をこの地ではじめた、石川仁兵衛のお墓がある。

畑宿一里塚

駒形神社などをおまいりしながら集落を進み、県道が集落の出口で大きくカーブするあたりから古道は県道と分かれ直進する。寄木細工のお店やお蕎麦屋さんの脇をすすむと畑宿一里塚。湯本茶屋の一里塚は碑だけであったが、この地の一里塚は江戸期の姿を残す。道を挟んで一対のこんもりとした塚は結構目立つ。古道はこの一里塚を境に、山道に入り込む。ここからが「天下の嶮」のはじまりである。

西海子(さいかち)坂
石畳の道を進む。途中、箱根新道を跨いだ、よう。橋が石畳仕様で作られているので、知らずに通り過ぎていた。新道を越えて石畳は続く。石畳の構造や排水についての案内を眺めながら進むと(西海子さいかち)坂。結構急な坂。「此の坂山中第一の嶮にして、壁立する如く、岩角をよじて上る。一歩を誤れば千仞の谷底に落つ(新編相模国風土記稿)」と言うほど現在は険しくはないが、それでも相当のものである。坂道を上りきると県道に出る。

七曲りの坂
しばらくは県道脇の歩道を進む。ヘアピンカーブが続く。七曲りの坂とは言われるが、実際は11曲がりあると言う。箱根新道の下をくぐり先に進む。旧東海道、県道、箱根新道と新旧の道筋が重なり合って進む。樫の木坂バス停を越えると道は再び山道へと入る。

樫の木坂
この坂も昔はもっと厳しかったようである。『東海道中膝栗毛』に「樫の木の坂を越えれば苦しくて、どんぐりほどの涙こぼれる、との記述がある(『あるく見る箱根八里』)。とはいうものの、現在は石段となっている。

猿滑り坂
道は再び県道に出る。が、その先には再び石段があり、県道から分かれる。ほどなく石段道が分岐。直進すれば見晴台バス停。元箱根は左に折れる。再び石畳の道。元箱根まで3キロの案内。小さな沢をまたぐ山根橋を渡ると道は少し平坦になる。等高線に沿ってトラバースする、って感じ。甘酒橋という小さな橋を渡り先に進むと県道への合流点手前に猿滑り坂。道脇の案内に「殊に危険 猿、といえども たやすく登りえず。よりて名とす」、と。

笈の平
県道に出る。歩道は道の反対側、山肌を県道より少し高いところを進む。ほどなく道は県道脇に下りる。階段を下りると歩道は県道に沿って続く。山側に「追込坂」の案内。「ふっこみ」坂と呼んだ、とも。その脇に石碑。「親鸞上人と笈の平」の案内。東国教化の旅を終え、箱根を越えて都に戻る親鸞聖人と、東国に残るその弟子が、悲しい別れをしたところ。とか。
笈の平の名前の由来は、親鸞上人が背負っていた笈を下ろしたことから。はいうものの、親鸞の頃は湯坂道しかないはずで、あれあれ、とは思いながらも、伝説はそういったものか、と納得しようとも思うのだけれども、実際、このあたりは「大平」とも呼ばれていたようで、オオダイラ>オイノタイラと変化した、というのが、妥当なところだろう。。

甘酒茶屋
県道の山側に道が続く。ほどなく藁葺き屋根の民家。箱根旧街道資料館。江戸時代、街道を往来した旅人の衣装や道具が残る。
資料館の横に甘酒茶屋。ドライブを楽しむ多くの人が集まる。甘酒茶屋の案内によれば、「赤穂浪士の神崎与五郎の詫び状文の伝説が残る茶屋。畑宿と箱根宿の中間にあり、甘酒を求める旅人で賑わった」と。神崎与五郎の詫び状文って、三島には同じ赤穂浪士の大高源吾の詫び状文の話が残る。いずれも、仇討ち本懐を遂げるまで、無用のトラブルは起こさじ、と、馬喰の無理難題を耐える赤穂浪士。で、見事本懐を遂げ、その噂を耳にした馬喰が己が行為を恥じ、菩提を弔うべく泉岳寺の墓守となる、って話。忠臣蔵の人気のほどが偲ばれる。

於玉坂
旧街道は甘酒茶屋の裏手を進む。道脇に「於玉坂」の石碑。三島の奉公先から逃れ箱根に。通行手形をもたないため関所破りをしたお玉が処刑されたのがこのあたり、とか。少し先の県道脇にある「お玉ケ池」は、その首を洗った池、と言う。元禄15年(1702年)のころ、本当にあった話のようだ(『あるく見る箱根八里』)。道は県道に当たる。県道を渡ると、そこからまた山道に入る。再び石畳の道となる。

白水坂
道に入ると石畳。白水坂と書かれた石碑を眺めながら坂を上る。城不見(しろみず)坂とも。小田原征伐の秀吉の軍勢が二子山に陣を張る北条勢のため先に進めず、小田原の城を見ることなく引き返したのが、その名の由来、とか(『あるく見る箱根八里』)。

天ガ石坂
ほどなく道にせり出した大石。「天ガ石坂」の石碑。天蓋石とも呼ばれるように、坂の上、天を覆う蓋のような大石、ということ、か。で、この坂を上れば、箱根・東坂越えの最高標高地点。805m。箱根湯本が標高100mほどであるので、700ほどの比高差がある。箱根湯本から延々と続いた上りもやっと終わる。

湯坂道との合流点
山側に向かって「箱根の森 展望広場」との案内がある。お玉ヶ池にも通じているよう。石畳の道が続く。と、道脇にベンチや石碑、案内板。八町平と呼ばれる平坦地。箱根権現まで八町(880mほど)と言うこと、だろう。
石碑には「箱根八里は馬でも越すが」といった有名なフレーズが刻まれる。案内板には北にそびえる「二子山」の案内。とはいうものの、木々に囲まれ見通し効かず。ほどなく十字路。右に折ると「芦の湯」方面へのハイキングコース。道脇にあった「旧東海道」の案内によれば、この地は江戸期の東海道と鎌倉期の東海道、つまりは湯坂道が合流したところ。江戸の頃は湯坂道を通ることはあまりなかったようだが、湯坂道・芦の湯方面にある曽我兄弟の墓へと寄り道した旅人も多かった、とか。

権現坂
十字路を越えると後は芦ノ湖に向かっての最後の下り。道脇に「権現坂」。箱根権現への最後のダウンヒル、ということだろう、か。八町坂とも呼ばれる。坂をくだり切ると「史跡 箱根旧街道」の石柱。道の右脇下に県道が見える。
道路を跨ぐ木橋を渡り歩道橋を下りると「ケンペル バーニーの碑」。ケンペルはドイツ人博物学者。鎖国の頃、唯一入国できるオランダ人と偽り入国。長崎のオランダ商館の総領事とともに箱根を越えた。箱根の美しさを描いた『日本誌』で知られる。バーニーはオーストラリア人貿易商。大正の頃、この近くに別荘をもつ親日家、この地の人たちとの友情を記念し、この碑を建てた。

芦ノ湖
興福院脇を下り元箱根の商店街に。元箱根のバス停を少し西に進み、芦ノ湖の湖面をタッチし、なんとなくの達成感を得る。仕上げというわけではないのだが、芦ノ湖に沿って道を東に戻り箱根神社におまいりし、本日の箱根・東坂越えはこれでおしまい。次回は箱根・西坂を下る。    
塩の道散歩の二日目は大網峠越え。姫川筋を離れ、小谷山地にとりつき、その昔、荷継ぎ場とし賑わった大網集落に。大網の集落からはひたすら大網峠へと上る。 峠からは、これまたその昔、関所のあった山口集落に向かって下っていくことになる。距離12キロ、比高差600m弱、おおよそ5時間の峠越えである。

日本海側から小谷に至る塩の道のルートはいくつかある。大きく分けて姫川の西側(西廻り道)を進む「山の坊道」と、東側(東廻り道)を進む「地蔵峠道」、そしてこの「大網道」。糸魚川の少し西、青海を発した西廻り道は、虫川(関所があった)、夏中を経て大峰峠、山の坊を越え平岩の南で姫川筋に下る。糸魚川を発した東廻りみちは、山口のあたり(大網峠手前のルートもある)で二手に分かれる。「大網道」は大網峠を越えて平岩の南で姫川を渡り、葛葉峠手前で「山の坊道」と合流し、姫川西岸を南に下る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

一方、地蔵峠道は、山口(または大網峠手前)から戸土、横川へと進み、小谷山地の中を一路南下。1000mを越える 地蔵峠、三坂峠を越え南小谷駅の北(下里瀬)のあたりで姫川を渡る。ここで「山の坊・大網峠・地蔵峠」道はひとつになり、松本へと下ってゆく。

どの道がもっとも古く開けたのかは、はっきりしない。山の坊道の虫川の関は、所謂、謙信の「義塩」エピソードの頃に設けられたという説もある。地蔵峠道は、もっと古いかもしれない。横川集落からは大和朝廷時代の須恵器や土師器室町期の鍔口といった出土品が出ている。また、そもそもが、三坂峠(みさか)は御(み)坂峠との名前が示すように、古代祭祀跡ではないかとも言われる(『北アルプス 小谷ものがたり』)。実際、この地蔵峠道は他のふたつの道より、ずっと南で姫川筋に下る。古代の道は土砂崩れなどの危険が多い川筋を避け、尾根道を通ることが多い、とすれば、この地蔵道が最も古い道筋かとも思える。

で、今回歩く大網峠道であるが、この道は地蔵道が土砂崩れで不通になったときに開かれたとも言われる。姫川に橋がかかったことが転機になったとの説もある。 1647年に、「幅32mの橋がかけられ」とのことである。ともあれ、比較的新しい道かとも思う。歴史は新しいが、大網峠道は千国街道の「大通り」と呼ばれる。安政5年、1858年の記録によれば、塩の荷が、山口の関で6628駄、虫川では313駄。魚類は山口で13070駄、虫川では780駄。物流では山の坊道を圧倒している(『』塩の国 千国街道物語)。大網峠道が「大通り」と呼ばれた所以である。

大網峠道が塩の道・千国街道の代表的道筋であったことは間違いないだろう。とはいうものの、大網峠道に物流のすべてが集中した、ということでもないようだ。千国街道の物流を差配していた糸魚川の3軒の問屋毎にどの道筋を通るかを決めていたとも言う。また、現在でも土砂崩れで時に国道が普通になる、といった地崩れ地帯。一本の道筋で物流ルートが確保されたとは到底思えない。現代でも、平成7年の姫川温泉付近の土砂崩れのため国道が不通になった時には、山の坊道のルートに近いところに林道を作り、交通路を確保したとも言われる。時に応じ、状況に応じそれぞれの道がネットワークを組み、物流機能を確保していたのではあろう。少々イントロが長くなってきた。そろそろ散歩に出かけることにしよう。(2009年9月の記事移行)



本日のルート;姫川温泉>大網>芝原の六地蔵>横川の吊り橋>牛の水飲み場>菊の花地蔵>屋敷跡>大網峠>角間池>角間池下道標>白池>根道合流点>日向茶屋>大賽の一本杉>山口関所跡>糸魚川


姫川温泉
宿泊したのは姫川温泉・朝日荘。大糸線平岩駅を降り、姫川を渡ったところに宿があった。温泉は湯量も豊富。平岩と言う地名と関係あるのか、ないのか、温泉の大浴場は大岩を取り込んだ造りとなっていた。
この姫川温泉も平成7年の豪雨で地滑りの被害にあっている。どこだったか、土砂災害のため平岩駅付近で大糸線の線路が宙づりになった写真をみたことがある。復旧には2年ほどかかった、とも。
8時23分、宿を出発。近くにコンビニがあるわけでもないので、昼食用におにぎりを用意して頂いた。感謝。宿を出るとすぐ、崖から豊かな湯滝「源泉は姫川上流3キロ。温度は55℃」との案内。大網集落に向かって車道を歩き始めると、宿屋の女将の呼ぶ声が。何事かと引き返すと、「車で大網まで送りましょうか」、と。車での送迎が却って迷惑かと、遠慮してくれていた、よう。塩の道を歩く人にはストイックに「完全徒歩」を目指す方も多いのだろう。大網峠道は姫川温泉から姫川に沿って南に少し下ったあたりから山道に入り、大網集落へと続くわけで、車道を歩き始めた我々を見て、声をかけてくれたのだろう。
車で230mほどを一気に上る。山腹から大きな2本の導水管が姫川へと下っている。電気化学工業大網発電所への導水路。取水位標高357m、放水位標高234m、というから落差120mほど。姫川の上流5キロのところで取水している、とか。
七曲りの車道を車が進む。途中、道の右側に「塩の道」の道標が見えた。大網峠道なのだろう。5分程度で大網の集落に到着。[姫川温泉発;8時23分、標高257m]

大網

車は集落の中ほどまで進み、「塩の道」スタート地点まで送って頂く。宿のご主人に感謝し、車を降りる。あたりを見渡すに、大網は数十軒といった単位の山間の集落。江戸時代はこの地に千国街道の荷継ぎ問屋があり、大いに賑わったそうである。荷の積み替えを待つ牛が1日100頭近くもいた、とも言われるこの村落も、明治にはいり姫川筋に馬車道(現在の国道筋)ができて以来、静かな山村に戻った。
大網(おあみ)の集落が歴史に登場したのは、戦国末期と言われる。武田氏の流れの一族がこの地に住み、そして大網峠越えの道を開いた、と。実際、大網集落の北の山峡を通る地蔵峠道には、上杉軍と武田軍の戦いの跡や城跡(平倉城;上杉方)なども残る。現在でも大網には武田さんと竹田(ちくた)さん、って姓の住民が多いと言うことだし、武田の一族が、って話は、なかなかもってリアリティがある。
大網の地名の由来は例によって諸説あり。奴奈川姫が建御名方の出産に際し、産所に網を張ったことによる、との説がある。峠の遥拝、「拝む」からとの説もある。また、「麻績(おうみ)」「麻編(おあみ)」といった、「麻」に由来するとの説もある。大網は戦前まで麻の産地であった、と言うし、この説も捨てがたい。ともあれ、地名って、最初に音があり、それに物識り、というか文字知りが、なんらなかの蘊蓄を加え文字表記する ことが多いわけで、諸説定まることなし、ってことになるのだろう。[大網:8時28分、標高388m]

芝原の六地蔵

大網集落の塩の道始点は集落の中ほど。民家の裏といった細路を進むと上り坂。両サイドには草が生い茂る。墓地の間の道を上ると運動場のような広場に出る。案内もないので広場をうろうろ。近くの村人に道を尋ね、広場の小さな崖下に続く塩の道に出る。
道に沿ってグリーンのネット。マレットゴルフのコースとなっている。ゲートボールとゴルフを足して二で割ったようなこのスポーツは長野で生まれたもの。18ホールよりなる。そう言えば、先ほどの広場にも、それっぽいマットもあった。
道脇に石仏群。芝原の石仏群と呼ばれる。先に進むと、今度は赤い帽子をかぶった6体のお地蔵さん。これが「芝原の六地蔵」。六地蔵は散歩の折々に出会う。お地蔵さん、って釈迦の入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの仏不在の時期、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を迷う衆生を救済する菩薩。正確には地蔵菩薩。六地蔵って、六道それぞれに相対した地蔵菩薩であろう。

横川の吊り橋

芝原の六地蔵を過ぎると、本格的に山道となる。要所要所に道標があるので迷うことはない。木々の間の道をしばらく下ると沢にでる。開けた沢にかかる木の橋を渡り、再び山道を上る。細い山道を進むと水の音。木々に覆われた沢に吊り橋が懸かる。「横川の吊り橋」である。吊り橋は沢を跨ぐ。ガイドブックやインターネットでは、断崖絶壁といった記述があったが、高所恐怖症気味のわが身でも、それほどに足元が「ゾンゾン」するってこともなかった。
姫川は雨飾山の南麓に源流を発し、西に流れ姫川温泉の北で姫川に合流する全長15キロの川。山中の横川集落からは古代や、室町期の遺物が見つかっている。また大木の産地で明治14年には京都東本願寺の大柱用の欅の大木を送り出している。横川集落は塩の道・地蔵峠道の道筋。集落の近くの長者が原では、越後を目指す武田とそれを迎え撃つ上杉が相争ったと言うし、往時は交通の要衝であったのだろう。その横川の集落も現在は地崩れで全滅し廃村となっている、とか(『北アルプス 小谷ものがたり』)。[横川の吊り橋;9時11分、標高289m]

牛の水飲み場
吊り橋を渡ると道は急な上りとなる。道は小さな沢に沿って上ってゆく。何度か小石を踏んで沢を渡る。沢の水が流れ落ちる岩場の脇も何度か横切る。山道を進む。結構きつい。何度目だったろう、小さい滝の流れ落ちる岩場をぐるりと廻り、岩場の上にでる。と、そこに「牛の水飲み場」の案内。足元の岩盤がそれっぽい。岩に穴があいているのは、牛を繋ぐためのものだろうか。
とはいうものの、こんな急峻な坂、しかも岩場を牛が上れるとは思えない。昔は人や牛の往来も多く、現在より道幅も広く、踏み固められていたわけだから、現在の荒れた山道のイメージでは判断はできないだろう。けれども、それでも、牛がこの山道を上るイメージは浮かばない。実際、この牛の水飲み場の穴は、崖下に落ちるのを防ぐ柵を立てる穴であった、という説もある。
牛がこの坂を上ったか、どうかの詮索はさておき、急峻な山道の荷運びの主役は牛ではなく人であった。歩荷と書き「ボッカ」と呼ぶ。当初、「カチ二」と呼ばれていたようだが、いつの頃からか「ボッカ」と呼ばれるようになった。
急峻な山道もさることながら、ボッカが大活躍するのは冬の時期。牛が荷を運ぶ時期は八十八夜(5月2日)から小雪(12月23日)まで、といった取り決めがあったとのことなので、それ以降はボッカが荷を運ぶことになる。急峻・狭隘な山道では道を進む優先権も決まっていた、と。北から南に進むボッカには必ず道を譲ることになっていた。根拠は何もないのだが、この南行(北塩)が幅をきかすのは、なんとなく荷受けの糸魚川の問屋の「力」って気もするのだけれど、北から南に流れる、塩とか魚類といったもののほうが、南から北に流れる麻、竹、漬わらび、タバコといったものより、有難かった、ということだろう。[牛の水のみ場;9時36分、標高463m]

菊の花地蔵
牛の水飲み場から30分弱ほど歩いただろうか、大きな杉の木の根元に佇むお地蔵さま。遭難したボッカを供養するため、と。豪雪地帯のこの地では半年近く雪に埋もれていることだろう。道から少し脇に上り、お参りを済ませ先に進む。このあ たりから道が少し広くなりブナの原生林に入っていく。[菊の花地蔵;9時59分、標高571m]

屋敷跡
菊の花地蔵から20分程度歩いたところに、いかにも人工的に開かれた場所。屋敷跡と呼ばれる。茶屋があったとも、炭焼き小屋があったとも言われる。10時21分、標高661mあたりの屋敷跡を離れ、最後の上り。沢筋なのだろうが、人牛の往来により、斜面が徐々に削られ道がU字に掘り込まれている。「ウトウ」呼ばれるようだ。U字部分の底のところを上る。結構キツイ。どのガイドにも、屋敷跡から峠がそれほどキツイ、とは書かれていなかったのだが、とんでもなかった。30分弱で、比高差170mほどを上ることになる。落ち葉に埋まった道を、疲れた足を引きずるように、大汗をかきながら這い上がると大網峠に到着。大網を出て2時間半、比高差560m上り続け、やっと大網峠についた。

大網峠
大網峠越えは、道に迷わないかどうか、少々緊張しながら歩いた。 Garminの専用GPS端末を購入したのは、この大網峠越えが心配だった、から。結果的には道に迷うようなことはなかった。秩父の釜伏峠越えのとき、日本三大名水という「日本水(やまと)」の案内に誘われ道に迷い、結構パニック状態になったことがある。今回は何もなくて、誠によかった。また、峠あたりには、ウルルと呼ばれる虻(アブ)の一種が生息し、刺されて腫れて始末が悪いとのことであり、マジに防虫ネットでも買おうとしたほどだが、これも、なんのこともなかった。
峠越えは、この大網峠を含め30ほどは越えただろう、か。山上りはそれほど興味がないのだが、街道を歩き、結果的に峠を越えることになった。甲州街道の小仏峠や笹子峠、甲州古道の時坂峠や大菩薩峠、鎌倉街道・山ノ道の妻坂峠、秩父巡礼道の釜伏峠や粥仁田峠、などなど。川に沿って道があり、邪魔な山塊があればトンネルを掘る、沢があれば橋を架けて一跨ぎといった現在の道路事情とは異なり、昔の人は、国を越えるときは峠を越えるしか道は、ない。
峠は、「たわ」に由来するとの説がある。山稜の「たわんだところ=鞍部」を越える、たわごえ>とうげ、ということ、だ。「手向け」からとの説もある。「遥拝」するところ、でもあったのだろうか。峠はもともとの漢字にはない。日本での造語である。山の上、下、を合わせたもの。言いえて妙で ある。木々に覆われ、全く見通しのきかない大網峠。上り続けた体を休め、ここからは、ひたすら下ってゆくことになる。
[大網峠;10時59分、標高834m]

角間池
大網峠から20分弱、標高差60mほど下るとブナやユキツバキの森の中に池が現れる。エメラルドグリーンといった色合いの水面。この池って、大蛇が流した涙の跡だとか。この地に伝わる伝説によれば、角間池の北東にある戸土の近くの大久保集落に池があり、そこにつがいの大蛇が棲んでいた。ある日、子供が誤って池に落ち溺れ死ぬ。村人は大蛇が飲み込んだと思い込み、夫の大蛇を殺してしまう。妻の大蛇は難を避け、野尻湖に逃れたのだけれど、そのとき悲しみのために流した涙が、角間池、白池、蛙池となった、ということだ(『北アルプス 小谷ものがたり』)。
角間(かくま)は関東・東北によくある地名。かくれる>陰地、といった語義ではないか、とか。鹿熊と表記するものも、ある。
[11時12分、標高783m]

角間池下道標
池の畔にある戸倉山への登山口を横に見ながら、次の目的地白池へと下る。ほどなく道脇に石の道標。「右松本街道大網 左中谷道横川」と書いてある、とか。文政元年というから1818年の建立。ということは、ここが大網峠を越えて姫川に下る大網峠道と、粟(安房)峠、横川、大峠、地蔵峠、大峯峠と峠伝いに進む地蔵峠道の分岐点。中谷とは南小谷の北、姫川東岸にある集落。地蔵峠道が姫川へと下る南端あたりである。中谷道って、地蔵峠道の別名だろう、か。千国街道 も、新潟県側では、根知越、仁科街道、松本街道などと呼ばれ、長野側では小谷街道、千国街道、大町街道、糸魚川街道などと呼ばれていた。
[11時18分、標高770m]

白池
角間池から下ること30分弱。標高も200m以上下ったところに白池。角間池とは異なり、景色は開けている。池の畔、少し小高いところに諏訪神社の小さな祠。往時、この神社の神事が国境紛争解決の決め手のひとつになったと言う。
江戸時代、元禄の頃、この白池あたりの領有を巡り越後領の山口村と信州領の小谷村で争いが起こる。材木や芝の切り出しを巡る諍い、とも言う。山口の住民は横川が国境線であり、この白池一帯は越後領と主張。このあたりは上杉と武田が合い争ったところ。取ったり、取られたり、ということで、国境線などはっきりするわけもない。一種の国境紛争となる。
山口の住民は、紛争解決のため幕府に訴え出る。幕府は小谷村に対し、白池のあたりが信州領であることを示す明確な証拠を提出しろ、とのお触れ。小谷村は証拠を揃え江戸に出向く。中央区馬喰町の公事宿にでも泊まったのであろう。
それはともかく、幕府からは現地視察も踏まえ裁定を行い、結局は信州領と決まったのだが、その決め手のひとつが諏訪神社の神事。信濃一ノ宮の諏訪大社御柱祭りに合わせ、7年に一度、この白池そばの神木に「なぎ鎌」を打ち込む、という神事である。信濃の神さまのテリトリーということが信濃領である、との証しである、と・池の畔の小さな祠にも歴史あり、ってことだろう(『北アルプス 小谷ものがたり』)。

国境紛争の原因が、たかが材木と言うなかれ。昔は材木や芝は重要なエネルギー源であり、建築資源。建築云々は言わずもがな、ではあるが、エネルギー源としては、たとえば武蔵野の雑木林。これは江戸の人々のエネルギー源確保のため、一面の草原を薪用の雑木林に変えていった結果の姿。利根川の舟運路開発も、物流もさることながら、燃料用の芝木を運ぶことにあった、と言う。
塩の道に関しても、木材は重要な意味をもつ。一般に「塩木」と呼ばれることもあるが、これは塩をつくるための燃料用木材の呼び名。原初は、山の住民が木材を川に流し、海岸端で拾い上げ、それで塩水を煮て自分用の塩をつくる。ついで、多めに木材を流し、海岸端の人にその木材で塩を塩をつくってもらい、材木提供との交換に塩を手に入れる。大量に塩をつくる専業業者が登場するころになると、木材を塩の製造に関係なく日用燃料の薪として売り現金を得、そのお金で塩を買うようになった、と言う。材木や芝を巡っての諍いも、昔は生活に直接かかわる重大案件であったわけだ。

諏訪神社の祠から池脇に下る。池を望む休憩所で一休み。池脇の清水、湧水なのだろうがいかにも美味しかった。ここでお昼。ホテルで握ってもらったおにぎりを食べる。美味。
食後、あたりをぶらぶら。休憩所の裏手に平地。「白池のボッカ宿跡」との案内。文政7年、というから1824年。その年の12月17日朝、戸倉山から大雪崩が発生。2軒の家が押しつぶされ、宿泊者の信州ボッカ15人中12人が即死、家人11人のうち9人も即死と言う大惨事が起きた。その後この地にボッカ宿がつくられることはなかった。平成6年に発掘調査が行われ、約170年ぶりにボッカ宿の全体像が現れた、と言うことだった。
[11時39分、標高634m]

尾根道合流点
白池を離れ次の目標「尾根道合流点」に向かう。といっても、地図に尾根道合流点といった地名があるわけではない。勝手に付けただけ。地図を見ると、白池から大久保、戸土に向かって尾根道っぽい道が北東に向かて走っており、途中大きく西に折れ、しばらく進み北に折れ、それからは一路、山口集落へと向かっている。
塩の道は、地図にはないのだが、白池から尾根道を離れ北に向かい、尾根道をショートカットするようにまっすぐ進む。一度谷に下りて、再び尾根道に上るのか、とも思ったのだが、ぐるっと回る尾根道筋も標高を下げており、結局は下りだけで済んだ。地図には載っていないルートなので、道に迷わないように、GPSに合流点のポイントを登録したりと、結構慎重に準備したのだが、それは杞憂に終わった。白池から20分弱で到着した。
[12時16分、標高563m]

日向茶屋
尾根道との合流点あたりまで来ると、風景も少し里めいてくる。道も山道ではあるものの、雑草が生い茂り、野道めいてきた。標高も530mほど。大網峠からは300mも下ったことになる。尾根道への合流点から10分強歩くと日向茶屋跡。ここは、白池にあったボッカ宿が雪崩れて壊滅した後、それに替わるものとして建てられた、と言う。
ところで、日向って日当たりのいいところ。対するものが日影。この地名は東北から関東・中部地方に多い地名。GISを使い、関東・中部地方の日向230例と日影133例の立地を解析したデータによると、日向、日影とも山沿いの地帯に分布するのは当然として、日向は標高が低く、日影は標高が高い。太陽光を少しでも多く取りたいと、日影は標高が高いのだろう。日向の斜方位は南、南東、南西。日影は北、北西、北東が多く、一部に東と南東。日向の傾斜は比較的緩やかであるが、日影は傾斜が急。日向では耕地としていることも多いので傾斜は緩やかではあろうし、日影の傾斜が急なのは、そもそもが標高が高いのだから当然ではあろう(『GISを用いた「日向」「日影」地名の立地の解析;宮崎千尋』)。GIS,GPSを使ったデータ解析は地形フリークとしては大変ありがたい。
[12時半、53m]

大賽の一本杉

20分ほどかけて、150mほど下る。道端に大きな一本の杉。塞の大神と呼ばれる。「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多い、よう。この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様問えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
[12時49分、標高389m]

山口関所跡

一本杉から30分、標高を130mほど下ると山口の集落。姫川を出たのが8時半前。おおよそ5時間で到着した。今夜の宿は糸魚川。が、糸魚川へと向かうバスは午後4時過ぎに一便あるだけ。車道脇の山口関跡を眺めたり、塩の道資料館に向かって歩いたり、雑貨屋でスナックを買ったりするにしても、時間が十分ありすぎる。どうせのことなら、JR大糸線の根知駅に向かって歩こう、とは思うものの距離は直線でも5キロ弱。また、なんとか、かろうじてもってきた天候も山口集落に入ったころから、雨がぽつぽつ。ということで、集落内、スキー場のところにある温泉で時間をつぶす。
山口は文字通り、「山への入り口」、から。地蔵峠道にしても、大網峠道にしても、この山口を通ることになる。戦国時代、上杉と武田の攻防においては戦略的要衝の地であったのだろう。ために、この地に口留番所が設けられ、街道の「出入り口」での物流を「留め」、物品に税を課す。塩一駄(塩俵2俵)に対しては、塩二升程度。そのほか穀物や魚の種類毎に細かく税金が定められていた。
藩の大きな財源を番所で徴収するって、縦横に「道」が通っている現在では想像するのは難しい。が、昔は、往来できる道など数限られており、数少ない往来のほかは人も通れぬ森や林や草地や湿地。交通の要衝の地に関や番所を置いておけば、効率的に運上金・銀を回収できたのであろう。
ちなみに、中世の頃、道路は基本的に有料道路であった。道なき道を悪戦苦闘して通るより、関所でお金を払い、道を進む。とはいうものの、淀川沿いの道だけでも380か所の関があった、と言う。それはあまりにやりすぎ、そんなことでは経済の流れが止まってしまうと通行税を廃止したのが織田・豊臣。その後徳川の時代に設けられた関所も、「入り鉄砲と出おんな」といった、政治・軍事上の監視所であった、よう。番所での運上徴収って、昔の道の姿を想像して、少しリアリティを感じることがでいる、かと・[13時18分、標高256m]

糸魚川
温泉でのんびり時を過ごし、4時過ぎのバスに乗り、今夜の宿泊地のあるJR大糸線・姫川に。夕飯はホテルで、などと考えていたのだが、事前に申し込まなければダメ、とのこと。仕方なく糸魚川市内に出向く。
適当に食事を済ませ、町をぶらぶら。偶然に塩の道の起点の案内。案内に誘われ海岸端に。打ち寄せる波を見ながら、北前船によってこの地に運ばれ、塩の道を牛や人の背で運ばれた品々に思いをはせる。千国番所の記録によれば、塩や四十物(あいもの;塩肴や乾物)、越中の木綿、越中高岡お金物、能登の輪島塗、加賀九谷の陶磁器類、九州の伊万里・唐津が塩の道を通過した、と。
「塩の道」と呼ばれるほど塩が大量に運ばれるようになったのは、瀬戸内海で作られた塩が大量に運ばれるようになってから。糸魚川近辺の塩田で作られる塩もさることながら、瀬戸内で塩の大量生産が可能になり、「売るほど」塩が生産されるようになってはじめて、商品としての塩が塩の道を大量に運ばれるようになったのだろう。
塩の道を歩く前は、塩の道って、越後の塩を信濃に運び込む道のこと、と思っていた。が、実際は、地元だけでなく瀬戸内海からの塩が運ばれるようになって本格的な「塩の道」となる。
また、塩の道を運ばれたのは塩だけではない。塩や魚類、日用品などを信州へと、また信州からは山の産物を越後へと運ばれた物流の大幹線であった。塩の道は、大名が参勤交代などに往来した街道ではなく、物流専門の幹線道路。牛の背で運ばれたであろう高原の千国越え、人の背で運ばれたであろう険路の大網峠越えを体験した2日の散歩でありました。
5月も末の週末、2泊3日で塩の道・千国街道を歩いた。千国街道って、日本海側の糸魚川から信州の松本まで続く全長120キロにも及ぶ道筋。明治にいたるまで、日本海側からは塩や魚、信州側からは麻や木綿、タバコや炭などが人や牛の背により運ばれた物流の道である。今回歩いたのは、栂池高原から南小谷へと続く「千国越え」、それとその先、大網の集落から大網峠を越え山口集落に続く「大網峠越え」。合わせて20キロ程度の行程となった。距離としては全体の六分の一、といったところだが、「千国越え」も「大網峠越え」も、どちらも塩の道・千国街道散歩の代表的コース。千国越えは姫川西岸の高原山麓をゆったり・のんびりと歩くコース。大網峠越えは、姫川東岸・艱難辛苦の「峠越え」。結構変化に富んだふたつのタイプの散歩が楽しめた。

そもそも、塩の道散歩のきっかけは、義兄からのお誘い。昨年の初冬、「塩の道を歩きませんか」、と。同じころ古本屋で、『塩の道・千国街道物語;亀井千歩子(国書刊行会)』を買い求め、読み始めていた。奇しくも、はたまたなんたる因縁、というわけでもないのだが、街道歩き大好きなわが身としては、一も二もなく話に乗った。
さてと、塩の道を歩く、といっても、どこを歩けばいいのやら皆目見当がつかない。前述の『塩の道・千国街道物語』は塩の道にまつわる歴史や民俗についての学術書といったもの。とてものこと、お散歩コースを確定するといった実用書ではない。ということで、インターネットで情報を探し、データを補強するため書籍を探した。『塩の道一人行脚;宮原一敏(文芸社)』、『古道紀行 塩の道;小山和(保育社)』などを買い求め、あれこれ検討した結果が上に述べた、「千国越え」であり、「大網峠越え」というわけである。

コースは決まった。で、「道行きの日」ということになるのだが、さすがに初雪の峠越えは少々怖い、ということで、年を越し気候もよくなる5月ということにした。出発まで半年の準備期間。いきあたりばったりのお散歩を身上としているわが身には少々「まだるっこしい」のだが、宮本常一さんの『塩の道(講談社学術文庫)』(講談社刊の『道の文化』でも同じ記事を読んだ)を読んだり、『北アルプス 小谷ものがたり;尾沢健造他(信濃路)』を読んだり、『塩の道を探る;富岡儀八(岩波新書)』を読んだり、道があまり整備されていないかも、との恐れゆえGarmin社のGPS専用端末を購入したり、熊がでるかも、との恐れゆえ3000円ほど投資し、スイスのアーミーナイフ・VICTORINOXを購入し、熊と戦うシミュレーションを繰り返し行うなど、それなりに熟成期間を楽しみ出発の日を迎えた。(2009年9月の記事を移行)



本日のルート;大糸線白馬大池駅>「千国越え」のスタート地点・松沢口>百体観音>前山>沓掛>親坂>親沢>千国番所跡>千国諏訪神社>源長寺>黒川沢>大別当小土山>三夜坂>南小谷

大糸線
5月23日(土曜日)、千国越えコースの始点のある、栂池高原スキー場へと向かう。最寄りの駅は大糸線白馬大池駅。新宿発午前7時のスーパーあずさで松本駅に。松本からは大糸線に乗り換え大町に。大町で再び大糸線に乗り換え白馬大池に向かう。
この大糸線、昭和のはじめ、大町から北に向かって建設がはじまった。で、糸魚川につながったのは昭和32年。戦時中には工事が止まるばかりではなく、敷設された線路や鉄橋までも戦地で使うために取り外されるなど、紆余曲折をへての完成であった、とか。
大糸線の完成が塩の道・千国街道の物流ルートとしての役割に与えた影響はあまり、ない。明治23年には姫川に沿って道が完成し、馬車による塩の運搬が可能となっているし、それよりなりより、明治22年には中央線が名古屋から松本まで開通し、名古屋経由で瀬戸内の塩か運搬されるようになっている。糸魚川からの塩(北塩)は既に、その歴史的割を終えていたわけ、だ。
ちなみに大糸線って、大町から糸魚川と思っていたのだが、実際は松本から糸魚川まで。これは、「松本から大町」を走っていた私鉄が戦時中の国策で国有化され「大町から糸魚川」を走っていた国鉄と一体化したため、と。

大糸線白馬大池駅
午前11時過ぎに白馬大池駅に。駅は無人駅。駅前を流れる姫川のほかにあたりに何も、ない。川の向こうに河岸段丘が迫る、のみ。有名な栂池高原スキー場へのアプローチ駅であり、土産物屋のひとつもあるだろうし、そこで食事でもなどと目論んでいたのだが、駅前の店もシャッターを閉じている。
食事は我慢するとしても、困ったのは足の便。乗り合いバスはない、ということはわかっていたのだが、駅から千国越えコースのスタート地点まではタクシーでも、などとのお気楽に考えていた。少々甘かった。ということで、スタート地点の栂池高原・松沢口へと歩くことに。距離は3キロ弱、比高差は300mといったところ、か。[大糸線白馬大池駅;11時21分、標高592m]


駅前を離れ、姫川を渡る。川に沿って国道148号線を越えて高原へと続く道へと進む。川床より河岸段丘に這い上がる、といった感じ。道は曲がりくねる。歩き始めるとすぐに、いかにもショートカットといった畦道。これはいい、と進んだ瞬間、道に蛇。蛇はご勘弁、ということで退却を、とは思うのだが、パートナーは少々強気。渋々後を追い、とっとと本道に戻る。30分ほど歩くと、道脇に「そば」の幟。古民家を改築したような趣のある建物。一時はお昼抜きを覚悟したパーティ二人、迷うことなくお店へと。
しばし休息の後、再び歩を進める。曲がりくねった車道を上る。30分も進むと峠を越える。眼前には北アルプス、そしてその山麓にスキー場が広がる。目指す栂池高原スキー場である。雄大な眺めをしばし楽しむ。
山裾に広がるスキー場のあたり、峠と北アルプスの山地の間は、お椀の形のような窪んだ地形になっている。『北アルプス 小谷ものがたり』によれば、往古、姫川はこのあたりを流れていた、と。急峻な北アルプスからの流れにより、気の遠くなるような時間をかけて形成された扇状地が、姫川の流れにより、これまた気の遠くなるような時間をかけ、やや幅広い谷がつくられる。そして、その後再び浸食をはじめ、さらに深い谷(現在の姫川)がつくられた。
現在、扇状地や広い谷の一部が川岸に沿って二、三段の河岸段丘となって分布していると言われるが、スキー場一帯の平原というか、高原は、その扇状地の名残か、はたまた、広い谷となって残る高位段丘面であろう、か。[峠;12時20分、標高807m]


「千国越え」のスタート地点・松沢口
峠より、少し窪んだ高原に向かって道を下る。ほどなく道脇に「千国街道」の標識。千国越えコースのスタート地点・松沢口である。千国街道は、この松沢口から南へと山裾を進み、姫川に沿って南に下るが、千国越えはこの地より北に向かうことになる。
千国越えの始点なっているこのあたりは親の原と呼ばれる。昔は共同の茅場であったようだが、現在はスキー場のゲレンデだろう。フラットな平地が広がる。親の原の名前の由来は、親王原から、との説がある。その昔、この地に後醍醐天皇の皇子である宗良親王が足跡を残したから、と。大町を中心にこのあたり一帯に覇を唱えた仁科氏は南朝方の武将。南朝方の総帥として伊那谷を拠点に各地を転戦した宗良親王が仁科氏を頼ってこの地に来ることは大いにあり得る。
とはいうものの、親の原には湿原を現す「ヤチ」に由来する、といった説もある。「オオヤチハラ>オオヤノハラ>オヤノハラ」ということだ。現在でも近くに湿原が残っておるとのことだし、その昔、ここを姫川が流れていたとすれは、この説も捨てがたい。はてさて。ともあれ、歩を進める。[松沢口;12時39分、標高800m]

百体観音
松沢口からゲレンデの中の一本道をしばし進む。右側に小高い山が迫るあたり、道脇に石像が並ぶ。百体観音と呼ばれている。江戸の頃、高遠の石工によってつくられた。もともとは、街道の各所に置かれていたようだが、明治期の道路改修のとき、この地に集められた、とか。現在でも80体近くの観音様の石像が残る。
百体観音というのは、百観音巡礼のための観音さま。百観音巡りの思想は平安時代には既があったようだが、百観音とは通常、西国33箇所、坂東33箇所、秩父34箇所の、合わせて百の観音霊場巡礼を指す。百観音霊場巡りの記録は1525年に登場するから、そのころまでには百観音霊場信仰はそれなりに普及していたのではあろう。
平安貴族の西国、鎌倉武家の坂東、江戸庶民の秩父と配列の妙もある。とはいうものの、庶民がおいそれと全国を巡礼するわけにもいかないわけで、その代わりにつくられたのが「うつし百観音巡礼」。庶民が「余裕」をもってきた江戸期のことだろう。この地の百体観音も東国各地に残るそのひとつ。道すがら、ちょっと手軽にその功徳を、といったところだろう、か。

その観音さまを彫った石工のこと。高遠の石工って、散歩の折々に登場する。先日、五日市・秋川筋を歩いていたとき、伊奈の町で出会った。伊奈は石工で名高い。江戸城築城のとき、石垣を組んだのは伊奈の石工と言われる。高遠の出であった、という。

で、何故に高遠が石工で名高いか気になった。調べてみると、高遠の地にはこれといった産業がなかった。ために、大量に産出される石材を使い石工、石屋が盛んになった、と。物事の発達には、それなりの理由がある、ということ、か。そう言えば、宮本常一さんの『塩の道』の中に木地つくりで名高い近江の永源寺町の記事があった。そこは、木地つくりに欠かせないいい鑿がつくれるところであり、その鏨をつくるためのいい鉄の産地であった、と言う。物事には、それを生み出すそれ相応の「理由」がある、ということ、だ。

前山
右手に続く小高い「山地」に沿って歩を進める。百体観音って、前山の百体観音と呼ばれる。ということは、この小山は前山であろう、か。地形図をみると標高873mある。山地は段丘面の端を南北に連なる。先端が盛り上がった地形は段丘面としては少々異な印象がある。ひょっとすると、これって、往古の「土砂崩れ」の名残り?山の中腹斜面が窪み、その下方に地すべりで盛り上がった地形というのが小谷の風情、とか(『北アルプス 小谷ものがたり』)。小谷は地すべり頻発の地で名高い(?)。その要因はこの地を南北に貫く大地溝帯、フォッサマグナの地質と地形に大いに関係があるよう、だ。
フォッサマグナとは日本を東西に分断する大地溝帯。実のところ、このメモを書くまで、フォッサマグナって、姫川の谷筋=線のこと、と思っていた。この谷筋が日本の地形が東西に分断するラインであると思っていた。が、実際のフォッサマグナは大地溝帯と呼ばれるように幅100キロの「面」。西端は北アルプスの山の連なり。「糸魚川・静岡構造線」と呼ばれる。東端は上信越・関東山地の連なり。こちらは西端のように鮮明ではなく、「直江津・柏」のラインなど諸説あるようだ。

フォッサマグナ東端の詮議はともあれ、西端はこの小谷のあたり。2億年のその昔、北アルプス・中央アルプスを境として、その東の大地が幅100キロにわたって陥没し海となる。北アルプスの山並みを考慮すれば、深さは数千メートルになるだろう。陥没し海底に沈んだ「溝」には北アルプスや中央アルプスの山並みから大量の土砂が流れ込み海底に厚い地層をつくった。その後、2000万年ほど前、海底が松本・諏訪方面から隆起をはじめた。この小谷のあたりも1000万年前ころ隆起をはじめ山地となった。これが姫川の東に連なる山々・小谷山地である。小谷山地に限らず、北アルプス・南アルプスと上信越・関東山地の間にある山々は、陥没した地形・フォッサマグナの上に盛り上がった山地ということ、だ。

で、この小谷山地であるが、その地質は砂岩とか泥岩からなる。海底に蓄積された土砂からできたものであり、年代も1000万年と比較的(?!)新しい。当然のことながら、地質はもろく、浸食されやすい。しかも小谷山地の地形が造山活動の圧力で曲がりくねり、急傾斜となった。小谷が地滑りの要因がフォッサマグナにその要因がる、というのはこう言うことである。物事には、それ相応の理由がある、ということ、か。実際、姫川筋では昭和36年から48年の間に20回もの大規模地滑りが記録されている。
フォッサマグナへと少々寄り道が長くなった。長くなったついでに、姫川西岸の土砂崩れについて。実際、土砂崩れは西側でも起きている。代表的なものは明治に大災害をもたらした稗田山の崩壊。大量の土砂によって姫川筋の川床が65mも盛り上がり、大きな湖ができた、と言う。北アルプスの山々は2億年の年月を経た硬い結晶片岩といった硬い土質が中心だが、白馬山の北あたりは少々地質の軟弱。しかも火山帯の断層面が走るため、土砂崩れを起こしやすい、とのことである。現在でも土砂崩れのたびに道路が寸断され交通が遮断される。昔はもっと頻繁に災害にみまわれたのであろう。千国街道も姫川筋を避け、比較的安定している尾根道、峠越えのルートがいくつもある。そのことが少々のリアリティをもって感じられてきた。塩の道散歩へと先を急ぐ。

沓掛
左手に北アルプスを眺めながら、前山(?)の山裾を1.キロ強進むと舗装された道路にあたる。沓掛の集落である。と、ほどなく道脇に牛方宿。塩や魚類を背に、街道を往来した牛とその手綱をひいた牛方のお宿。藁ぶき屋根のこの建物は19世紀初頭のもの、と言う。

牛は明治になって、姫川筋に馬車道が通るまで、千国街道における「大量輸送」の主役であった。6頭から7頭をひとつのユニットとして、背に塩俵2表をのせた牛が街道を往来した。塩の道も、松本から南の街道では輸送の主役は馬である。千国街道が馬ではなく牛が使われた理由は、その地形から。難路、険路の続くこの千国街道では「柔」で「繊細」な馬では役に立たなかったのだろう。しかも、馬に比べて牛はメンテナンスがずっと簡単、と言う。馬のように飼葉が必要というわけでもなく、路端の「道草」で十分であった、とか。
それでは、どのくらいの牛がこの街道を往来したのか。詳しい資料はわからないが、糸魚川の3つの問屋に、1日300頭の牛が集まったという記録がある(『塩の道 千国街道物語』)。トラック300台の物流スケールと考えれば、結構な規模感、かも。[沓掛;13時3分、標高772m]

親坂

牛方宿を離れ車道を少し進む。道が大きくカーブするあたりに千国街道の道標。脇に庚申塚。道はここから車道を離れ、坂を下る。親坂と言う。名前の由来は、千国越えのスタート地点であった親の原に続く坂、とのこと。そういえば牛方宿のあった沓掛って地名も、親の里と同様に、この親坂と大いに関係ありそう。沓とは牛や馬にはかせる「わらじ」といったもの。坂道にさしかかる手前で沓を履き替え、履き替えた沓を道中の安全を祈って木などに掛けた。難路・親坂の手前で、沓を掛けたところだから沓掛とよばれたわけだ。
坂を下る。石ころ道で少々足元に注意が必要。坂道の途中に「弘法の清水」、「錦石」、「牛つなぎ石」といった案内が。弘法大師が錫杖を地面に立てたところ、あら不思議、水が湧き出た、という弘法の清水って全国に数百ある。四国八十八箇所の札所だけでも8箇所ある、と言う。この清水、上段が人用で下段が牛用。佇む弘法大師像は安永3年というから、1774年の作。親坂のことを清水坂と呼ぶこともあるようだが、それって、この弘法の清水からきているのだろう。
錦岩は、天候によって石の色が変化するとか、しない、とか。牛つなぎ石は、牛の手綱を通す穴のあいた岩。散歩をしていると、牛ばかりではなく馬をつなぐ石にも折に触れて出会う。駒繋ぎ石と呼ばれている。[親坂;標高761m]

親沢
急な坂を下っていくと沢に出る。親沢と呼ばれる。沢にかかる橋の手前に石仏群。馬頭観音が佇む。牛馬へのご加護を祈ったのであろう。親沢は乗鞍岳東麓を源流とし千国で姫川に合流する。この沢には何箇所か滝がある、と言う。滝って、川や沢による谷筋の開析が、もうこれ以上進めない、というところ。滝の上流の地質が硬く削れないのだろうか。はたまた、下流の開析のスピードに上流部分がついていけず、一時的に段差ができているだけなのだろう、か。下流の姫川って、名にしおう暴れ川。1000分の13の勾配で流れる川である。とすれば、後者の可能性が強いように思うが、はてさて。
ともあれ、こういった段差って、地すべりのもと、である。事実、昭和14年にこの親沢で大規模な地すべりが起きた。とはいうものの、このときの地滑りは姫川対岸の風張山が崩れ、その土砂が親沢地区にまで押し寄せた、とのことである。[親沢;標高658m]

千国番所跡
沢を渡り県道千国北城街道に出る。舗装された道を下ると千国の集落。集落の中ほどに千国庄資料館。いくばくかのお代を払い中に。千国番所跡や塩倉があった。昔ながらの民家の風情を残す資料館の炉端に座り、千国街道のビデオを見ながら、しばし休憩。

この地の歴史は古い。はじめて開かれたのは平安の頃。平将門を征伐した藤原秀郷、と言うか、むかで退治で名高い田原(俵)藤太の子孫と称する田原千国がこの地を開拓した、と。鎌倉期には白川上皇の長女の御所である六条院の荘園・千国庄となる。地方豪族の税金逃れとして荘園を寄進したのだろう、か。実際、大町に覇を唱えた仁科氏は伊勢神宮に領地を寄進し、「仁科御厨」として税金対策を実施している。で、六条院が亡くなった後は、その菩提寺となった万寿院領に組み入れられる。その時の実際的支配者は仁科氏の支族、というから千国庄が地方豪族の税金対策って空想も案外当たっている、かも。で、千国は領地支配の役所である政所としてこの地方の中心地となった。

戦国時代には武田方により口止番所が設けられる。信濃領最北の要衝の地として、千国街道の往来に睨みをきかせることになる。江戸時代は松本藩の番所として、一日千荷駄と言うから、俵にして2000俵が行き交う。が、明治になり、姫川筋に馬車道が作られて以降は経済・流通の幹線から外れ、静かな山村として今に至る。

千国街道が、この重要拠点であった千国の地名に由来することは、言うまでも、ない。この「ちくにみち」が歴史上に登場したのは平安期。六条院領となり、領主の住まいする京の都との往来に使われたのだろう、か。実際、大町の豪族仁科氏、京に対する憧れも強く、大町を京風に仕上げたようなのだが、それはともあれ、京との往来は越の国、つまりは新潟とか北陸経由であった、と言う。千国街道を往来したことだろう。鎌倉期になると、信濃や越後は鎌倉幕府の領地となる。当然のこととして、越後と鎌倉との往来が盛んになる。政治・経済、そして軍事上の道として、千国街道はその「存在感」を強めたこと、だろう。

千国街道が「塩の道」として歴史に登場するのは永禄年間というから16世紀の中頃。全国に幾多の塩の道があるなか、この千国街道が「代表的」となったのは、上杉謙信の義塩のエピソード。今川氏との対立のため太平洋側からの塩(南塩)が止められた宿敵・武田信玄に対し、塩を送った、と。この美談、実際に「お助け塩」を送ったといった記録はないようだ。が、信濃への送塩を意図的に止めることもなかった、よう。とはいうものの、後世信州の松本藩が南塩の搬入を禁じ、北塩のみを受け入れた時期が長かったことを考えると、信濃の人が越後に恩義を感じる、何かがあったの、かも。ちなみに、「塩の道」という言葉が定着したのはそれほど昔のことではない。20~30年程度前のこと。地元の有志が千国街道の整備をはじめ、観光資源としてPRし始めた頃のこと、と言われている。[千国番所跡;13時34分、標高620m]

千国諏訪神社

千国番所跡を離れ、先に進む。千国の集落を少し進むと道はL字に曲がる。趣のある民家を眺めながら道なりに進むと小谷小学校。道の下に国道148号線が接近する。千国越えは、小学校を越えたあたり、街道案内の道標を目印に脇道に入る。少し進むと千国諏訪神社。
千国諏訪神社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。信濃国を開いたという神である。父は出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)。出雲の神であった建御名方命が国譲りを潔しとせず、出雲を追われて科野(信濃)に逃れるが、その際の経路として、越(高志)の国・新潟から、姫川を上った、と。母は姫川の由来ともなった奴奈川姫(沼河比売)である、ということでもあるので、建御名方命の姫川遡上説は、神話ではあるが、ストーリーとしては違和感が、ない。実際、姫川筋には20もの諏訪神社がある、と言う。[千国諏訪神社;14時10分、標高588m]

源長寺
諏訪神社を離れ、細路を進む。ほどなく源長寺。おおきな道祖神、庚申塔わきの石段を上る。六地蔵、筆塚、子持ち地蔵、西国33観音像などが境内に。元亀元年というから室町末期、16世紀後半の開基。開基の洞光和尚は小蓮華(2766m)に大日如来をまつったことで知られる。小蓮華山は新潟県で最高峰の山。大日如来故に、大日岳とも呼ばれる。数ヶ月前、新田次郎さんの『槍ヶ岳開山;文春文庫』を読み終えた。3180mの鋭峰を開く幡隆上人の物語。上人たちは、天に聳える高峰に清浄静寂な極楽浄土を見るのであろう、か。ちなみに、幡隆上人は飛騨の霊峰笠ケ岳(2898m)も開いている、
それはともかく、この源長寺は赤蓑騒動で知られる。凶作に苦しむ姫川筋の農民が蜂起。一時は千国番所を打ち破り南に下る勢いであったが、この寺の和尚が宥め、暴徒化することを鎮静化させた、とか。今は、なんということのない静かなお寺さまではあるが、往時、この小谷の地の中心的なお寺さまであったのだろう。

黒川沢
源長寺の前の道を進む。山に向かっている。どうも、この道ではないよう。源長寺前に戻り、古道らしき道筋を探す。パートナーが崖下に道標を見つける。千国越えで唯一、道に迷ったところであった。崖下の細路を進む。小谷中学校の裏手といったところ。沢筋まで進む。道は沢筋を右手に眺めながら、少し上流に進み簡易な木橋で沢を渡る。この沢は黒川沢と言う。[黒川沢;14時34分、標高593m]

大別当
黒川沢を渡り、大別当へと向かう。沢を上ると田圃の畦道と言った道筋となる。眼前に姫川東岸の山々・小谷山地が開ける。心持ち丸みを帯びた山容である。柔らかい地質故に浸食されたものだろう。硬い地質でできている北アルプスの急峻なゴツゴツした山容と比較すると、2億万年の風雪に耐え枯れた風情の北アルプスと、たかだか(?)1000万年ほどの、軟な風情の小谷山地、と言ったこところ、か。
道を進むと大別当の集落に。大別当って、結構ありがたそうな名前。「別当」とは、お寺を仕切る事務長さんといったものだが、政所の長官と言った使い方もあるようだ。千国には六条院の政所があったわけで、それとなにか関係ある地名だろう、か。千国越え始点の親王原しかり、また、近くの中土地区には御所平という地名もある。今は静かな山里ではあるが、往時、やんごとなき方々がこの地を往来したのだろう
路傍に石仏、庚申塚、道祖神。大別当石仏群と呼ばれる。先に進むと杉林に入る。東斜面を、少しづつ下る。30分ほどで小土山(こづちやま)集落に出る。[大別当;14時42分、標高646m]

小土山
穏やかな山麓の集落といった風情の小土地のあたりも明治32年、そして昭和46年と大規模な地滑りに見舞われている。姫川西岸から崩れた土砂は姫川を堰き止めた。行き場を失った姫川の流れは、川に沿って通る国道に押し寄せ、道の両側に連なる家々に被害をもたらした、と(『北アルプス 小谷ものがたり』)。
集落の中ほどに石仏群。庚申塔などの石仏が佇む。千国越えの道すがら、結構、庚申塔を見かけた。庚申信仰の「記念」として60年に一度石塔をたてる、とか。庚申信仰って、あれこれ説があってややこしいが、60日に一度、庚申の日、体内にいる「「三尸説(さんしせつ)」という「なにもの」かが、寝ている間にその者の悪しきことを天帝にレポートする。そのレポートの結果寿命が縮むことになるので、寝ないで夜明け待つ、という。日待ち、月待ち信仰のひとつ、と言う。信仰もさることながら、娯楽のひとつであったのだろう。[小土山;14時52分、標高594m]

三夜坂
風景の開けた小土山を先に進むと杉林に。曲がりくねった坂を下る。この坂を三夜坂と言う。
道脇の少し小高い構えの中に二十三夜塔。二十三夜待ちは月待ち信仰のひとつ。三日月待ち,十三夜待ち,十六夜待ち,十七夜待ち,十九夜夜待ち,二十二夜待ち,二十三夜待ち,二十六夜待ちなどといった月待ち信仰の中で最もポピュラーなもの。満月の後の半月である二十三夜の月が「格好」よかったの、か。皆一緒に月を待つ。庚申待ちと同じく、ささやかな娯楽ではあったのだろう。二十三夜待ちは三夜待ちとも言う。三夜坂の名前の由来だろう。

南小谷
三夜坂を下り国道148号線に出る。南小谷に到着。特急停車の町と言うには、少々静か。山間の町である。小谷の名前の由来は諸説ある。「麻垂」はそのひとつ。麻を垂らす、の意。昭和のはじめ頃までは、小谷の地は麻の名産地であった、とか。
国道の沿って少し進み、おたり名産館や小谷郷土館をひやかし、姫川筋に。両岸の緑が美しい。対岸にある南小谷駅で糸魚川駅行きの電車を待ち、本日の宿泊地である姫川温泉に向かう。本日の散歩はおおよそ4時間、11キロ。

千国越えで気になったのは石仏の多いこと。道祖神とか庚申塚といったものは散歩の折々で目にするのだが、観音さまの石像が多いのが目に付いた。信州は観音信仰が盛んであったとよく言われる。六条院領など親王の領地であったことが京との往来を盛んにし、西国33観音信仰といった観音信仰をもたらしたのか。鎌倉期、信濃は鎌倉幕府の領地。観音信仰がひとかたならぬ将軍頼朝の影響、か。はたまた、その鎌倉幕府が庇護し全国区となった善光寺さんの影響か。よくはわからないが、はっきりしていることは「牛にひかれて善光寺詣り」の牛って観音様の化身。それであれば、幾多の観音様が道端に佇むのは大いに納得。さて、明日は大網峠越え、となる。[南小谷;15時23分、標高502m]
津久井から相模湖に

ふとしたことから目にした三増合戦の記事に惹かれ、その戦いの地を二度に分けて歩いた。今回はその仕上げ。武田なのか北条なのか、どちらが勝ったのか、負けたのか今ひとつはっきりしないのだが、ともあれ、武田軍の甲斐への帰路を相模湖まで歩こうと思う。

武田軍の引き上げルートは、斐尾根から長竹三差路、三ヶ木をへて寸沢嵐(すあらし)に進み、そこで道志川を渡り相模湖へ、と伝えられている。ということで、今回の散歩のスタート地点は長竹三差路。先回辿った斐尾根から少し北にすすんだところにある。交通の便は少々よくない。先日と同じく、本厚木からバスに乗り、半原に、それから志田峠を越えて斐尾根へと進むのも芸がない。で、今回は橋本から三ヶ木行きバスに乗り、途中の太井で降り、そこから城山の南を進み、長竹三差路へ。長竹三差からは三ケ木、寸沢嵐、相模湖へと歩くことにする。(2009年9月の記事を移行)



本日のルート:太井>諏訪神社>パークセンター>巧雲寺>根小屋>串川>三増峠への道>串川橋>長竹三差路>青山神社>三ケ木>道志橋>寸沢嵐石器時代遺跡>正覚寺>鼠坂>相模湖

太井
京王線で橋本駅に。そこから三ケ木行きのバスに乗る。川尻、久保沢、城山高校前を過ぎると津久井湖。城山大橋というかダムの堰堤を通り、津久井城跡のある城山の北麓にそって湖畔を進むと太井に。太井は津久井城跡のある城山の麓、相模湖にかかる三井大
橋の近くにある。昔は太井の渡しがあり、津久井往還が相模川を越えるところであった、とか。ちなみに、ここから北に三井大橋を渡れば、峰の薬師への道がある。峰の薬師から城山湖への道もなかなかよかった。

諏訪神社
本日は太井のバス停から南に向かう。左手に津久井城のある城山を見やりながら、台地へと坂道を上る。この台地は相模川の河岸段丘。山梨から下る桂川と丹沢から流れ落ちてきた道志川の流れが合わさった大きな流れによってかたちづくられたのだろう。上りきったあたりに諏訪神社。道端にあるお地蔵さん。なかなか風情があった。境内にある樹齢800年の杉で知られる。

パークセンター
諏訪神社から南は下りとなる。尻久保川への谷筋に下る坂道の途中、道を少し東にはいったところにパークセンター。津久井城や城山についての歴史やハイキングコースなどの資料が整っている。
いつだったか津久井城跡を訪ねた折、このパークセンターに訪れたことがある。そこで見たジオラマに惹かれた。城山の南の地形、河岸段丘がいかにもおもしろい。城山の南を流れる串川の両側は、複雑で発達した河岸段丘が広がっていた。地形大好き人間としては、この先が楽しみではある。

巧雲寺
パークセンターを離れ、尻久保川へと下る。尻久保川にかかる根小屋橋の手前を東へと折れ、ゆるやかな坂を少し上ると巧雲寺。戦国時代の津久井城主内藤景定の開基。景定の子景豊の墓もある。景豊は三増合戦のときの津久井城主。三増合戦の折、城からの援軍を出すことも無く、「座視」。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、合戦後、北條氏照が上杉に送った書状に「山家人衆、自由を遣うに依り罷り成らず(勝利が)、今般信玄を打留めざる事無念千万候」、とある。「津久井衆(山家人衆)が命令に従わず勝手に行動したため、信玄を撃ちもらし、悔しくてたまらん」、といった意味。「役御免、今後永久この分たるべし」と、禄高も10分の一に減額している。よほど腹に据えかねたのだろう。景豊の言い分はなにも残されていないので、真相は不明。

根小屋

巧雲寺を離れ、尻久保川にかかる根小屋橋を渡り、再び台地へと上る。ここから当分は台地の上を歩くことになる。なんとなく高原の地、といった雰囲気。先日歩いた斐尾根あたりと雰囲気が近い。発達した河岸段丘によってつくられた地形がもたらすものであろう。
根 小屋地区をのんびり歩く。根小屋って、城山の麓につくられた、家臣団の屋敷があるところ。散歩するまで知らなかった「単語」だが、歩いてみると結構多い。秩父であれ千葉であれ、「時空散歩」には、折にふれて登場する。「城山の根の処(こ)にある屋」という、こと。「根古屋」とも書く。

串川
台地を進み、道が大きく湾曲するあたりから台地のはるか下に串川の流れが見えてくる。結構な比高差。深い谷、といった雰囲気。現在の串川の規模には少々似つかわしくないほどの発達した河岸段丘である。気になり調べてみる。
かつての串川は早戸川(現在は中津川水系の支流。宮ヶ瀬ダムに注ぐ)とつながっていた。水量も豊富。発達した河岸段丘はその時のもの、である。その後、早戸川は中津川水系に流れを変えた。河川争奪である。5万年以上の昔、地殻変動によって引き起こされた、と。ために、早戸川は串川から切り離され、現在のような小さな川になってしまったよう、だ。
大きく弧を描き串川へと下る坂道の途中に飯綱神社。津久井ではこの飯綱神社をよく見かける。津久井城跡のあ る城山にもあった。津久井湖の東、津久井高校あたりから城山湖に上る道の途中にも飯綱大権現があった。高尾山もそうである。飯綱信仰は信州の飯綱より発し た山岳信仰。戦の神としても上杉謙信を筆頭に、戦国の武将に深く信仰された。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠への道
坂を折りきると車道に交差。城山の東、相模川にかかる小倉橋から南西に、串川に沿って城山の南を走る道である。交差点を少し西に進むと、南から上ってくる道に合流。この道は、先日歩いた三増峠方面からの道。三増峠下のトンネルをとおり、一度串川に向かってくだり、再びこの道筋へとのぼってきている。
合流点から南の山稜を見る。正面方向が三増峠であろう、か。先日、峠を東に進まず、西に折れれば、この道におりることができたわけだ。道の雰囲気を感じるため、串川に向かって下る。串川にかかる中野橋まで進み、峠下のトンネルへと向かう上りの道を眺め、少々休憩し、もとの合流点へと戻る。
地図の上では三増峠と津久井城って結構離れている、と思えたのだが、実際に歩いてみると、そうでも、ない。武田軍が津久井城の動静に気を配ったわけが、なんとなく分かった、気がした。ちなみに、三増峠からの道は県道65号線。これって津久井の中野で国道413号線に合流している。つまりは、太井から歩いた道は、ほぼこの県道を進んできた、ということであった。

串川橋
合流点から串川に沿って進む道筋を長竹へと進む。西というか、南西に道を進む。道の北に春日神社。ちょっと立ち寄る。このあたりまで来ると、串川は山稜から離れてくる。離れるにしたがって串川も渓谷といった雰囲気もなくなり里をゆったりと流れる小川といった姿となる。串川の名前の由来は例によってあれこれ。櫛を川に落とした姫君の由来譚もそれなりに面白いのだが、実際は、地形から名づけられたものであろう。『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』によれば、「くし」は海岸線や河川などの屈曲部のところを指す、という。
御堂橋で串川を渡る。このあたりでは串川は少し大きな「小川」といった雰囲気。更に進み、串川橋で再び串川を渡る。道はここで国道412号線と合流。412号線、って半原から斐尾根の台地を抜け進んできた道。先日、半原へと歩いた道である。
このあたりは、三増合戦のとき、武田軍が津久井城の北條方への抑えとしていたところ。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、その場所は、山王の瀬の下、と。確かに串川橋の南に山王社がある。


長竹三差路

串川橋を離れ、道を西に。串川中学、串川小学校を過ぎると長竹三差路に当たる。三増合戦に登場する地名。津久井湖畔の中野から下る道、相模湖へと向かう道、串川沿い、または半原へと南に下る道が交差する。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、津久井城から出撃するときは、三増峠に進もうが、半原・志田峠を目指そうが、必ずこの長竹三差路を通らなければならなかった、と。と言うことは、三増峠を貫く県道65号線の道筋などなかったのであろう。ともあれ、今も昔もクロスロードであった、ということ。

青山神社
先に進む。相模湖方面と、串川に沿って宮ケ瀬方面へと分岐する手前に青山神社。諏訪社、諏訪宮、諏訪大明神と呼ばれていたが、明治6年(1873年)八坂神社(天王宮)と御岳神社(御岳宮)を合わせ、青山神社と改称された。
境内に「咢堂桜」。尾崎行雄(咢堂)が東京市長のとき、日米友好を記念し、ワシントン市に贈った桜が里帰りしたもの。尾崎行雄がこの津久井出身と言うことで、この津久井に戻ってきた桜の苗木が32本のうちの一本。尾崎行雄は憲政の父。

三ケ木

青山神社を越えると412号線は三ケ木に向かって、北西に進む。道の両側に開けた青山集落を過ぎ、道の両サイドに山容が迫るあたりから青山川が顔を出す。しばらくは青山川に沿って進む。青山交差点で道志方面へと進む国道413号線との分岐手前に八坂神社。結構な石段をのぼる。
八坂神社を越えると青山川は北西に、道は北にと泣き別れ。青山川はそのまま進んで道志川に合流する。道をしばらく進むと周囲が開け、三ケ木の集落、に到着、だ。
三ケ木は「みかげ」と読む。由来は良く分からない。中世、「日影之村」の「三加木村」として現れる。集落と書いたが、このあたりではもっとも「にぎやかな」ところだろう。橋本からのバスも結構動いている。逆の相模湖方面にもまあまあ動いているよう、だ。

道志橋
三ツ木の交差点から1キロ弱北西に進むと道志橋。道志川が津久井湖に注ぐところにある。橋の対岸は相模湖町寸沢嵐(すあらし)。信玄軍が道志川を渡ったところ言われる。一隊は三ヶ木から、落合坂を下り沼本の渡し(落合の渡し)を経て、また、他の一隊は三ヶ木新宿からみずく坂(七曲坂)を下り道志川を渡った、とある。
現在橋は川面よりはるか高いところ、高所恐怖症のひとであれば少々足がすくむ、といったところに架かっている。が、もとより、合戦当時の道は、ずっと低いところに下りていだのろう。実際、落合坂を下り切ったところは道志川と相模川の合流点であったという。湖も無いわけで、川幅も現在よりずっと狭かったのだろう、か。

寸沢嵐石器時代遺跡
道志橋を離れ、沼本地区を越え、津久井警察署の先から国道を離れ少し南に入ったところに寸沢嵐石器時代遺跡。地元の養蚕学校教諭、長谷川一郎氏が発掘し発表した。寸沢嵐は「すわらし」と読む。「スワ」は低湿地・沼沢・斜面。「アラシ」は川の斜面から材木を投げ下ろす場所、と(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)。近くに「首洗池」もある。武田軍が討ち取った首を洗ったと言われる池。その数3269、とも。またこの地ではじめて勝鬨をあげた、とも。戦場を大急ぎで離脱し、ここ、道志川を越えた台地上に着くまでひたすらに駆け抜けた、と。それって勝者の姿でもあるまいといった評価もあり、それが三増合戦の勝者を分かりにくくしている、という識者も多い、とか。

正覚寺
寸沢嵐石器時代遺跡を離れ、国道に戻る。少し西に進み阿津川にかかる阿津川橋を渡る。ここから道は阿津川に沿って進む。蛇行する川を、山口橋、正覚寺橋と渡る。道の北は相模湖林間公園。道のそば、深い緑の中に品のいいお寺様が見える。正覚寺。丁度境内
には五色椿が咲いていた。
縁起はともあれ、このお寺は柳田国男を中心とするチームによっておこなわれた日本で最初の民俗学の調査の本拠地。大正7年(1918年)のことである。チーム(郷土会)がこの地(内郷村)を選んだのは、その地形が「一方は高い嶺の石老山を境界とし
、他の三方は相模川と道志川に囲まれ、近年まで橋のない弧存状態にあり、農山村としての調査条件がそろっていた(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)」ということはもちろんである。が、同時に、長谷川一郎(寸沢嵐石器時代遺跡の発掘・発表者)さんの存在も大きい、かと。当時長谷川さんは地元の小学校の校長さん。こういった理解者があったことも実施を実現した大きなファクターであろう。長谷川さんはその後村長さんまでになった。柳田国男の句碑。「山寺やねぎとかぼちゃの十日間」

鼠坂
正覚寺を 離れ先に進む。道の北はさがみ湖ピクニックランド。しばらく歩く
と国道から分岐する道。分岐点に八幡神社。近くの民家、というか喫茶店のそばに「鼠坂関址」。メモする;「この関所は、寛永八年(1638)9月に設置された。ここは、小田原方面から甲州に通じる要塞の地で、地元民の他、往来を厳禁し、やむを得ず通過しようとする者は、必ず所定の通行手形が無ければ通れなかった。慶安四年(1651)には、由井正雪、丸橋忠弥の陰謀が発覚し、一味の逃亡を防 ぐため、郡内の村人が総動員し、鉄砲組みっと共にこの関を警固したという。この道は甲州街道の裏街道。この関も甲州街道の小仏関に対する裏関所といったものであったのだろう。ともあれ、一般庶民が往来するといったところではなかった、よう。

相模湖
鼠坂を離れ西に進む。峠を越えた辺りに関所跡。このあたりから道は下る。道の左手に湖が見えてくる。鼠坂より1.5キロほどで相模湖大橋。橋を渡り台地に上る。甲州街道を越える中央線相模湖駅に到着。三増合戦ゆかりの地を巡る津久井散歩もこれでお仕舞い、とする。

ちなみに、津久井って、もともとは三浦半島に覇をとなえた鎌倉期の武将三浦一族にはじまる。三浦一族の一武将が津久井の地(現在の横須賀市)に移り住み津久井氏を名乗った。その後、この地に移り築城。津久井城と名づけ、津久井衆と名乗った、ということだ。
武田の遊軍が進んだ志田峠、そして、北条方が陣を構えた半原の台地をぐるっと巡る

三増合戦の地を巡るお散歩の二回目。今回は志田峠を越えようと思う。相模と津久井をふさぐ志田山という小山脈の峠のひとつ。先回歩いた三増峠の西にある。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「道はよいが遠いのが本通りの志田峠、いちばん東にあり、いちばん低く、いちばん便利なのが三増峠」、とある。はてさて、どのような峠道であろう、か。
で、本日の大雑把なルーティングは、志田峠から菲尾根(にろうね)の台地に進み、そこから折り返して半原に戻る。武田の遊軍が進んだ志田峠、津久井城の押さえの軍が伏せた菲尾根の長竹ってどんなところか、また北条軍が陣を構えたとされる半原の台地、ってどのような地形であるのか、実際に歩いてみようと、の想い。(2009年9月の記事を移行)



本日のルート;三増合戦みち>三増合戦の碑>信玄の旗立松>志田峠>清正光・朝日寺>韮尾根>半原日向>半原・日向橋>郷土資料館>辻の神仏>中津川

三増合戦みち
小田急線に乗り、本厚木で下車。半原行きのバスに乗れば、志田峠への道筋の近くまで行けるのだが、来たバスは先回乗った「上三増」行。終点の手前で下りて少し歩くことになるが、それもいいかと乗り込み、「三増」で下車。
三増の交差点から「三増合戦みち」という名前のついた道が半原方面に向かって東西に走っている。交差点から300m程度歩くと道は下る。沢がある。栗沢。結構深い。三増峠の少し西あたりから下っている。

三増合戦の碑
栗沢を越え台地に戻る。北は志田の山脈が連なり、南に開かれた台地となっている。ゆったりとした里を、のんびり歩く。再び沢。深堀沢。三増峠と志田峠の中間にある駒形山、これって、信玄が大将旗をたてた山とのことだが、その駒形山の直下に源を発する沢。誠に深い沢であった、とか。現在は駒形山あたりはゴルフ場となっており、地図でみても沢筋は途中で切れていた。
深堀沢を越えて300m程度歩くと「三増合戦の碑」。このあたりが三増合戦の主戦場であったようだ。
「三増合戦のあらまし(愛川町教育委員会)」を再掲する。:永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。
とはいうものの、新田次郎氏の小説「武田信玄」によれば、北条方は三増峠の尾根道に布陣し、武田方の甲斐への帰路を防ぎ、小田原からの援軍を待ち、挟み撃ちにしようと、した。一方の武田軍がそれに向かって攻撃した、となっている。先回、三増峠を歩いた限りでは、尾根道に2万もの軍勢を布陣するのはちょっと厳しそう、とも思うのだが、とりあえず歩いたうえで考えてみよう、ということに。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


信玄の旗立松
「三増合戦の碑」のすぐ西隣に、北に進む道がある。志田峠に続く道である。「志田峠」とか「信玄旗立松」といった標識に従い道なりに進むと「東名厚木カントリー倶楽部」の入口脇に出る。「信玄旗立松」は現在、ゴルフ場の中にある。
案内標識に従い、ゴルフ場の中の道を進む。結構厳しい勾配である。駐車場を越えると、前方に小高い丘、というか山がある。更に急な山道を上ると尾根筋に。ここが信玄が本陣を構えた中峠とも、駒形山とも呼ばれたところ、である。
「信玄旗立松」の碑と松の木。元々あった松は枯れてしまったようだ。旗立松はともあれ、ここからの眺めはすばらしい。180度の大展望、といったところ。南西の山々は経ヶ岳、仏果山、高取山なのだろう、か。半原越え、といった、如何にも雰囲気のある峠道が宮ヶ瀬湖へと続いている。とのことである。
尾根道がどこまで続くのか東へと進む。が、道はすぐに切れる。この山はゴルフ場の中に、ぽつりと、取り残されている感じ。しばし休息の後、山道を降り、ゴルフ場の入口に戻る。

志田峠
ゴルフ場に沿って道を北に進む。田舎道といった雰囲気も次第に薄れ、峠道といった風情となる。道の西側には沢が続く。志田沢。足元はよくない。小石も多い。雨の後ということもあり、山肌から流れ出す水も多い。勾配はそれほどきつくはない。しばし山道を進むと志田峠に。ゴルフ場入口から2キロ弱、といったところだろう。
志田峠。標高310m 。展望はまったく、なし。峠に愛川町教育委員会の案内板;志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、
津久井町韮尾根に抜ける道である。かつては切り通し越え、志田峠越の名があった。
武田方の山県三郎兵衛の率いる遊軍がこの道を韮尾根から下志田へひそかに駆け下り、
北条方の背後に出て武田方勝利の因をつくった由緒の地。
江戸中期以降は厚木・津久井を結ぶ道として三増峠をしのぐ大街道となった。」 と。

清正光・朝日寺
峠を越えると道はよくなる。1キロほどゆったり下ると道の脇にお寺様。志田山朝日寺。200段以上もある急な石段を上る。境内に入ろうとしたのだが、犬に吠えられ、断念。トットと石段を戻る。案内によれば、13世紀末に鎌倉で開山されたものだが、昭和9年、この地に移る。本尊は清正光大菩薩。現在は「清正光」という宗教法人となっている、と。
「清く、正しく、公正に」というのが、教えなのだろう、か。

韮尾根(にらおね>にろうね)
道なりにくだると、東京農工大学農学部付属津久井農場脇に。このあたりまで来ると、ちょっとした高原といった風情の地形、となる。北東に向かって開かれている。のどかな畑地の中をしばし進む。と国道412号線・韮尾橋の手前に出る。韮尾根沢に架かる橋。住所は津久井市長竹である。
長竹と言えば、武田方の遊軍・山県勢5千に先立ち、津久井城の押さえのため進軍した小幡尾張守信貞の部隊が伏せたところ。1200名の軍勢が、中峠から韮尾根に下り、串川を渡り、山王の瀬あたりの窪地に隠れ、津久井城の北条方に備えた、と。現在の串川橋のあたりに長竹三差路と呼ぶところがある。そこは三増峠に進むにも、韮尾根・志田峠に進むにも、必ず通らなければならない交通の要衝。小幡軍が布陣したのは、その長竹三差路のあたりでは、なかろう、か。
韮尾橋から長竹三差路までは2キロ程度。串川橋や長竹三差路まで行きたしと思えども、本日の予定地である半原とは逆方向。串川、長竹三差路は次回、武田軍の相模湖方面への進軍路歩きのときのお楽しみとし、本日は412号線を南へと進むことにする。

半原日向
韮尾橋から国道412号線を1キロ弱歩くと、峠の最高点に。もっとも、現在は大きな国道が山塊を切り通しており、峠道の風情は、ない。が、この国道412号線が開通したのは1982年頃。それ以前のことはよくわからないが、少なくとも、三増合戦の頃は切り立った山容が、韮尾根と半原を隔てていたのだろう。峠を越えると、真名倉坂と呼ばれる急勾配の坂道が北へと下る。どこかの資料で見かけた覚えもあるのだが、江戸以前は志田越えより、この真名倉越えのほうがポピュラーであった、とか。これが本当のことなら、三増合戦のいくつかの疑問が消えていく。
何故、北条方が半原の台地に陣を構えたか。その理由がいまひとつ理解できなかったのだが、武田軍がこの真名倉越えをすると予測した、とすれは納得できる。半原の南の田代まで進んだ武田軍は半原の台地に構える北条軍を発見し、真名倉越えをあきらめる
。そうして、駒形山方面の台地に進路を変える。志田峠、三増峠、中峠と進む武田軍を見た北
条軍は、半原の台地を下り、武田軍を追撃。そのことは織り込み済みの武田軍は踵を返し、両軍衝突。で、志田峠を引き返した山県軍が北条軍の背後から攻撃し、武田軍が勝利をおさめる。真名倉越えが峠道として当時も機能していたのであれば、自分としては三増合戦のストーリーが美しく描けるのだが。はてさて、真実は?

半原・日向橋
半原日向から中津川の谷筋を見下ろす。半原の町は川筋と台地に広がる。国道12号線は台地の上を南に進む。北条方が半原の台地に陣を構えた、というフレーズが実感できる。台地下を流れる中津川に沿って南から進む武田軍をこの台地上から見下ろしていたのだろう、か。
半原日向交差点から中津川筋に降りる。結構な勾配の坂である。中津川に架か
る橋に進む。日向橋。南詰めのところにあるバス停で時間をチェック。結構本数もあるようなので、町の中をしばし楽しむことに。鬼子母神とあった顕妙寺、半原神社へと進む。宮沢川を越え、県道54号線から離れ、台地に上る。愛川郷土資料館が半原小学校の校庭横にある、という。結構きつい勾配の坂道を上る。途中に、「磨墨(するすみ)沢の伝説」の碑。平家物語の宇治川の先陣に登場する名馬・磨墨(するすみ)は、この沢の近くに住んでいた小島某が育てた、との伝説。とはいうものの、源頼朝に献上されこの名馬にまつわる伝説は東京都大田区を含め日本各地に残るわけで、真偽のほど定かならず。

郷土資料館
坂を上り台地上の町中にある半原小学校に。野球を楽しむ地元の方の脇を郷土資料館に。残念ながら、閉まっていた。郷土館は小学校の校舎を残した建物。半原は日本を代表する撚糸の町であるわけで、撚糸機などが展示されているとのことではある。八丁式撚糸機が知られるが、これは文化文政の頃につくられた、もの。電気もない当時のこと、動力源は中津川の水流を利用した水車。盛時、300以上の水車があった、とか。

辻の神仏
郷土館を離れる。道端に辻の神仏。案内をメモ;辻=境界は、民間信仰において、季節ごとに訪れる神々を迎え・送る場所でもあり、村に入ろうとする邪気を追い払う場所でもあった。そのため、いつしか辻は祭りの場所として、さまざまな神様を祀るようになった、と。

中津川

台地端から急な崖道を下る。野尻沢のあたりだろう、か。川筋まで下り、中津川に。この川の水、道志川の水とともに、「赤道を越えても腐らない」水であった、とか。水質がよかったのだろう。ために日本海軍などが重宝し、この地の貯水池から横須賀の海軍基地に送られ、軍艦の飲料水として使われていた、と言う。水源は中津川上流の宮ケ瀬湖に設けられた取水口。現在も、そこから横須賀水道路下の水道管を通って横須賀市逸見(へみ)にある浄水場まで送られている。距離53キロ。高低差70m。自然の高低差を利用して送水している、と。中津川を日向橋に戻り、バスに乗り一路家路へと。

一回目の三増峠、今回の志田峠、韮尾根の高原、半原台地と三増合戦の跡地は大体歩いた。次回は、ついでのことなので、合戦後の武田軍の甲斐への帰還路を相模湖あたりまで歩いてみよう、と思う。
 武田・北条が相争った三増合戦の地・三増峠を越える

何時だったか、何処だったか、古本屋で『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』を買ったのだが、その中で「三増合戦」という記事が目にとまった。津久井湖の南の三増峠の辺りで、武田軍と小田原北条軍が相争った合戦である、と。両軍合わせて5千名以上が討ち死にした、との記録もある。日本屈指の山岳戦であった、とか。
「三増合戦」って初めて知った。そもそも、散歩を始めるまで、江戸開幕以前の関東、つまりは小田原北条氏が覇を唱えた時代のことは、何にも知らなかった。お散歩をはじめ、あれこれ各地を歩くにつれ、関東各地に残る小田原北条氏の旧跡が次々にと、登場してきた。寄居の鉢形城、八王子の滝山城、八王子城、川越夜戦、国府台合戦、などなど。三増合戦もそのひとつである。
三増合戦についてあれこれ調べる。と、この地で激戦が繰り広げられたのは間違いないようだが、合戦の詳細については定説はないよう、だ。新田次郎氏の『武田信玄;文春文庫』の「三増合戦」の箇所によれば、峠で尾根道で待ち構えていたのが北条方とするが、上記書籍では、北条方が山麓の武田軍を追撃した、と。峠を背に攻守逆転している。峠信玄の本陣も、三増峠の西にある中峠という説もあれば、三増峠の東の山との言もある。よくわからない。これはう、実際に歩いて自分なりに「感触」を掴むべし、ということに。どう考えても一度では終わりそうにない。成り行きで、ということに。
(2005年9月の記事を移行)


本日のルート:小田急線・本厚木>金田>上三増>三増峠ハイキングコース>三増峠>小倉山林道>相模川>小倉橋と新小倉橋>久保沢・川尻>原宿​・二本松>橋本

小田急線・本厚木
三増への道順を調べる。小田急・本厚木駅からバスが出ている。北に進むこと40分程度。結構遠い。だいたいの散歩のルーティングは、三増峠を越え、津久井湖まで進み、そこからバスに乗り橋本に戻る、ということに。
小田急に乗り、本厚木駅に。北口に降り、線路に沿って少し東に戻り、バスセンターに向かう。バスの待ち時間にバスセンター横にあるシティセンター1階にあるパン屋に立ち寄る。奥はレストランになっている。店の名前は「マカロニ広場」。サツマイモを餡にしたくるみパンが誠に美味しかった。
厚木の名前の由来は、この地が木材の集散地であったため「あつめ木」から、といった説もある。が、例によって諸説あり。ともあれ、厚木が歴史書にはじめて登場したのは南北朝の頃。江戸の中期は、宿場、交易の場として繁盛した、と。

金田
バスに乗り、北に向かう。市街を出ると川を越える。小鮎川。すぐ再び川。中津川である。川に架かる第一鮎津橋を渡ると、妻田あたりで道は北に向かう。ちょうど、中津川と相模川の間を進むことに成る。
金田交差点で国道246号線を越えると、道は国道129号線となり、更に北に進む。下依知から中依知に。この辺りは昔の牛窪坂といったところ。三増合戦にも登場する地名である。
小田原勢の籠城策のため、攻略戦を一日で諦めた武田軍は小田原を引き上げる。どちらに進むのかが、小田原方の最大の関心事。武田方が陽動作戦として流布した鎌倉へと進むか、相模川を渡り八王子方面に進み甲斐路を目指すか、はたまた三増峠を経て甲斐に引き上げるのか、はてさて、と思案したことだろう。
で、結局のところ、平塚から岡田(現在の東名厚木インターあたり)、本厚木、妻田、そしてこの金田へと相模川の西を進んできた信玄の軍勢は、相模川を渡ること無く、牛窪坂の辺りで相模川の支流である中津川に沿って進むことになる。それを見届けた北条方の物見は、三増峠に進路をとると報告。中津川を上流に進めば、三増峠の麓へと続くことに、なるわけだ。

上三増
国道129号線を進み、山際交差点で県道65号線に折れる。この県道は、三増峠下をトンネルで貫き、津久井に至る。道は中津川に沿って進んでいる。三増に近づくにつれ、山容が迫る。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「三増は、丹沢・愛甲の山々が相模川まで押し出して、南相模と都留・津久井がつながる狭い咽首(のどくび)になっているところだから、昔も今も交通の生命線である。(中略)。その咽首の狭いところを志田山という小山脈がふさいでいて、越すにはどうしても小さいが峠を通らなければならない。東に三増峠、真ん中に中峠、西に志田峠の三カ所があった」、とある。北に見える尾根が三増峠のあたりなのだろう、か。
終点の上三増でバスを降りる。バス停は峠に上る坂道のはじまるあたり。近くには三増公園陸上競技場などもあった。バス停の近くにあった史跡マップなどをチェックし、三増峠へと進むことにする。

三増峠ハイキングコース
県道65号線を峠方面に進む。車も結構走っている。道の先に尾根が見える。標高は300m強といったところだろう。しばらく進み、三増トンネルのすぐ手間に旧峠への入り口がある。「三増峠ハイキングコース」とあった。スタート時点は簡易舗装。しばらく進むと木が埋め込まれた「階段」。上るにつれ古い峠道の趣となる。深い緑の中を進み、峠に到着。それほどきつくもない上りではあった。
三増合戦のとき、この三増峠を進んだ武田方は、馬場信房、真田昌幸、武田勝頼の率いる軍勢。新田次郎の『武田信玄』によれば、峠の尾根道で待ち構える北条方では「勝頼の首をとるべし」と待ち構えていた、とか。もっとも、先にメモしたように、陣立てには諸説あり、真偽のほど定かならず。愛川町教育委員会の「三増合戦のあらまし」を以下にまとめておく。

三増合戦のあらまし :
永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政(うじまさ)の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠

峠に到着。2万とも言われる北条の軍勢がこの尾根道で待ち構えるとは、とても思えない。愛川町教育委員会の説明のように、尾根道を下り、半原の台地で待ち構えていたのでは、などと思える。足もとから車の走る音。峠を貫く三増トンネルの中から響くのだろう。
さて、峠を西に向かうか、東に向かうか。標識が倒れておりどちらに進めばいいのかわからない。
少々悩み、結局東に向かう。これが大失敗。当初の予定である津久井の根小屋への道は、西方向。そうすれば、峠を下り、トンネルの出口あたりに進めたのだが、後の祭り。あらぬ方向へ進むことになった。

小倉山林道
東へと進む。快適な尾根道。後でわかったのだが、この道は小倉山林道。歩いておれば、麓が見えるか、とも思うのだが、山が深く、どちらが里かさっぱりわからない。なんとか里に下りたいと思うのだが、道が下る気配もない。山腹を巻き道が続く。人が歩く気配もない。心細いこと限りない。分岐で成り行きで進み、行き止まりになりそうで引き返したりしながら、小走りで林道を進む。頃は春。山桜が美しい。
結局、4キロ程度歩いたただろうか。東へと東へと引っ張られ、気がついたら、小倉山の南の山腹を進んでいた。車の音も聞こえる。ここはどこだ。川らしきものも眼下にちょっと見える。どうも相模川のようだ。やっと、下りの道。結構な勾配。どんどん下る。車の往来が激しい道筋に。道路への出口は鉄の柵。車、というかバイク、などが入れないようにしているのだろう、か。

相模川

道のむこうに相模川。このあたりは城山町小倉。三増峠から、津久井の長竹・根小屋、津久井城の南麓を串川に沿って相模川に進み橋本へ、といったルートは大幅に狂ってしまったが、小倉から串川・相模川の合流点まで2キロ強。どうせのことなら、串川・相模川の合流点まで進み、橋本まで歩くことにする。橋本まで、7キロ強、といったところ、か。
橋を渡り、大きく曲がる上りの坂を進み、新小倉橋の東詰めに。谷は如何にも深い。

小倉橋と新小倉橋

相模川を眺めながら北に進む。串川を越えると小倉橋。趣のある橋ではあるが、幅は狭い。相互通行しかできなかったようで、結果大渋滞。ために、バイパスがつくられた。小倉橋の北に聳える巨大な橋がそれ。新小倉橋、という。2004年に開通した、と。   

久保沢・川尻
台地の道を久保沢、そして川尻へと進む。途中に川尻石器時代遺跡などもある。久保沢とか川尻と行った地名は少々懐かしい。はじめて津久井城跡を歩いたとき、橋本からバスにのり、城山への登山口のある津久井湖畔に行く途中で目にしたところ。江戸時代の津久井往還の道筋でもある。
津久井往還は江戸と津久井を結ぶ道。津久井の鮎を江戸に運んだため、「鮎道」とも。もちろんのこと、鮎だけというわけではなく、木材(青梅材)、炭(川崎市麻生区黒川)、柿(川崎市麻生区王禅寺)などを運んだ。道筋は、三軒茶屋>世田谷>大蔵>狛江>登戸>生田>百合ケ丘>柿生>鶴川>小野路>小山田>橋本>久保沢>城山>津久井>三ヶ木、と続く。

原宿​・二本松
川尻から城山町原宿南へと成り行きで進む。原宿近隣公園脇を進む。この原宿の地は江戸・明治の頃には市場が開かれていた、とか。原宿から川尻を通り、小倉で相模川を渡り厚木をへて大山へと続く大山道の道筋でもあり、津久井往還、大山道のクロスする交通の要衝の地であったのだろう。
二本松地区に入るとささやかな社。二本松八幡社。なんとなく気になりお参りに。由来を見ると、もとは津久井町太井の鎮守さま。その地が城山湖の湖底に沈んだためこの地に移る。二本松の由来は、津久井往還の道筋に二本の松があったから、とか。

橋本

車の往来の激しい道を進み、日本板硝子の工場前をへて橋本の駅に。橋本の名前の由来は境川に架かる両国橋から。現在の橋本駅の少し北、元橋本のあたりが、本来の「橋本」である。橋本が開けたのは黄金の運搬がきっかけとなった、と前述、『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』は言う。

久能山東照宮にあった黄金を、家康をまつる日光東照宮に移すことになった。久能山から夷参(座間市)までは東海道を。そこから八王子へと進むわけだが、座間宿から八王子宿までは八里ある。馬は三里荷を積み進み、三里戻るのが基本。途中には御殿峠などもあるわけで、座間と八王子の間にひとつ宿を設ける必要があった。で、どうせなら峠の手前で、ということで元橋本のあたりに宿が設けられた、と。社会的は必要性からつくられた、というより、黄金運搬という政治的目的にのためにつくられた「人工的」宿場町がそのはじまりであった、とか。
少々長かった本日の散歩、ルートも当初の予定から大幅に変更になった。次回は、三増合戦の舞台となった峠のひとつ志田峠、信玄が本陣の旗をたてたとも言われる駒形山などを歩いてみようと思う。
先回の散歩で鬼怒川が小貝川に合流・乱流する地帯から、大木丘陵の鬼怒川人工開削流路の始点辺りまで辿った。今回はその人工開削地点辺りからはじめ、大木丘陵の鬼怒川開削流路を辿り、利根川への合流点へと歩く。

先回の散歩では鬼怒川の川筋近くに辿りつくのが如何にも大変であった。暴れ川故、と言うか、水量豊富な川故なのか、川筋と堤の間には調整池を兼ねたような畑地や森林があり、川筋に沿っての遊歩道といった類(たぐい)の道はない。今回は前回の轍を踏まないように、Googleの航空写真でチェックするに、川筋まで緑地、畑地、その先に葦原らしきブッシュが茂り、川筋に遊歩道といった道はない。それでも、よく見れば、ところどころに緑地が開けたようなところがあり、そのあたりから川筋に足を運べるかも、といった程度の散歩の準備を行い、守谷へと向かう。

本日のルート;関東常総線・小絹駅>鬼怒川の川筋>川の一里塚>大山新田>大日山遺跡>鬼怒川の砂州>板戸井>清瀧寺>滝下橋>清瀧香取神社>大木地区>六十六所神社>大円寺>がまんの渡し>鬼怒川と利根川の合流点>県道46号>香取神社>正安寺>成田エクスプレス守谷駅

関東常総線・小絹駅
家を離れ、成田エクスプレスで守谷駅へ。そこで関東常総線に乗り換え小絹駅で下りる。先回の散歩でメモしたように、小絹の南北は「つくばみらい市」。市域の大半が小貝川の東岸にある「つくばみらい市」はこの小絹地区、昔の北相馬郡小絹村の辺りだけが小貝川を越え、鬼怒川東岸にまで突き出ている。 駅を離れ、整備された住宅が広がる絹の台地区を鬼怒川へと向かう。絹の台もかっては小絹、筒戸の一部であり、森や林、そして畑地の広がる一帯ではあったようだが、昭和末期の常総ニュータウン開発構想の一環として区画整理事業が行われ、平成元年(1989)のニュータウンのオープンに合わせて「絹の台」として独立した地域となった。

鬼怒川の川筋
おおよそ標高15mの台地からなる絹の台地区を進み鬼怒川に近づく。川筋に進もうと思うのだが、「絹ふたば文化幼稚園」や自然雑木林の保護された敷地があり、川筋には入れない。保護林に沿って成り行きで進むと道が川に向かって下ってゆく。
道を下りきった辺りで、鬼怒川が開け、川に沿って上流に向かってちょっとした距離ではあるが道が造成中であった。造成中の泥道を越え鬼怒川の流れの傍に立ち、両岸に迫る台地を眺める。上流が15m台地、下流が20m台地と少し崖面が高くなっている。
この台地を開削した往昔の工事をしばし想い、鬼怒の流れを離れ造成中の道を逆に進むと台地に公園といった一画が見える。先ほど見た造成中の道も、この公園整備の一環であろうか。ともあれなんらかの案内でもあろうかと歩を進める。

川の一里塚
坂を上り切ったあたりに公園が整備されており、公園の一角に大きな岩が置かれ、その前に「川の一里塚」とあった。案内には「鬼怒川の源は栃木県塩谷郡栗山村鬼怒沼である。川は山峡をぬい、日光中禅寺湖に発する大谷川と合流して関東平野を南下する。流路延長176kmに及び、守谷町野木崎地先で利根川に合流する。鬼怒川は古代、毛野川、毛奴川、衣川、絹川と呼ばれたが、中世以降鬼怒川となった。
以前、鬼怒川は谷和原村寺畑において小貝川に合流していたが、小貝川がたえず氾濫し水難に悩まされたため、元和年間(1621年頃)、細代から守谷町大木に至る約6.5kmを、幕府の命をうけた関東郡代伊奈忠治が苦心の末、約10年間かけて、開削した。そのため常陸谷原領三万石は美田と化し、同時に板戸井川岸の景は、中国の赤壁も比せられる名勝の地となったのである。平成5年4月 守谷町長 會田真一」とあった。
案内には守谷町、とある。つくばみらい市の小絹で下り、成り行きで進んでいるうちに、知らず守谷市域に入っていたのだろう。「川の一里塚」の少し北が市境となっている。
案内に「細代から大木に至る6.5キロを開削」とある。先回の散歩で地形図を見て、15m台地が鬼怒川の両岸に迫る細代が開削始点かと想像したのだが、それほど間違いでもなかったようである。それはそれとして、鬼怒川の開削水路は「つくばみらい市」と守谷市の市境辺りで、細代から南に下っていた流路が大きく西に迂回する。
地形図を見るに、鬼怒川東岸の標高10m地帯のつくばみらい市小絹の南には、久保ケ丘、松前台といった標高20mから25mの台地が広がる。一方、鬼怒川西岸の常総市内守谷と守谷市西板戸の市境辺りには標高5mの谷が台地に切り込んでいる。丘陵開削に際し、より開削の容易なルートを求め西に大きく迂回したのではあろう。物事にはそれなりの「理由」がある、ということ、か。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」

大山新田
「川の一里塚」の南は20-25m台地に標高15mの低地が切り込まれている。地名も「大山新田」などと、少々古風な地名を留め、その周囲を囲む台地の松前台、久保ケ丘の整地された住宅地と一線を画した畑地や森・林、そして谷戸が残る。
なんとなく気になり大山新田をチェック;太田新田は元は相馬郡大木村の飛び地であったよう。文献に大木村之枝郷大山村、ともあるので「大山村」と呼ばれていたのだろう。大山の由来は、一面杉の巨木が生い茂り、如何にも「大山」の景を呈していたため、とか。その大山村が大山新田と名を変えたのは、この地の領主であった徳川三卿のひとつ、田安家が江戸の明暦の大火に際し、江戸復興のため、この地の木をすべて伐採・拠出し、その跡地を新田として開墾したから、とか。なお、松前台、久保ケ丘も大山新田の一部であったが、常総ニュータウン計画に際し、大山新田から分離されて地名も松前台、久保ケ丘となった。

大日山遺跡
「川の一里塚」から鬼怒川に沿って進む。ブッシュの切れ目から川床まで足を踏み入れたりしながら、しばし川筋の景観を楽しみながら進むと、道は再び川岸から離れ、台地部分へと向かう。途中「山百合の里」といった緑地帯を見やりながら進む。道は畑地と森や林の残る大山新田地区と宅地開発された松前台の境界線を進む。右手に森や林、左手に宅地開発された風景を眺めながら先に進むと、道脇に石碑があり大日山遺跡とある。
説明もなにもなく、詳しいことはわからないが、この辺りに大日山と呼ばれる霊山があり、江戸の頃は近隣よりの善男善女で賑わった、とか。大日山がどの辺りを指すのが定かではないが、川岸の深い緑の一帯を見るに、手つかずの雑木林や落葉樹の巨木が茂っているようである。石碑は天和2年(1682)に建立された石塔の跡に建っているとのことである。

鬼怒川の砂州
大日山遺跡を越えると右手に鬼怒川が開ける。枯れて折り重なった葦のブッシュを踏み越えて川筋に出ると、岸から川の真ん中まで砂州ができている。こんなチャンスはなかろうと、岸辺に繋がれていた釣り用のボードを足がかりに砂州に進む。鬼怒川のど真ん中から前後左右、360度の鬼怒の景観を眺める。下流は標高25m台地の崖面が両岸から迫り、上流左手は川岸の5m低地の先に25m台地、右手には大日山遺跡辺りの標高25m台地など、開削された台地の地形を眺め、往昔の開削工事を想う。

板戸井
砂州で少しのんびりした後、岸に戻り松前台の宅地開発地の縁を進むと畑地帯に入る。宅地が切れるあたりから地区は板戸井となる。鬼怒川の両岸に迫る台地は標高25m地帯。大木丘陵の人工開削の最南部、最後の難工事の箇所ではあったのだろう。
鬼怒川の西岸に「西板戸井」地区が見える。鬼怒川の人工開削により台地が割られ、西側に残った昔の板戸井村の一部である。江戸の頃の板戸井村は現在の板戸井地区に松前台の5丁目から7丁目、薬師台の2丁目から7丁目までも含む一帯であったよう。上でメモした大山新田の地域分離と同じく、松前台、薬師台は常総ニュータウン計画時に板戸井地区から分離された。
なお、板戸井の地名の由来は平将門が相馬地方に七つの井戸を掘って飲み水とした、との伝説に拠る、と言う。「井」はそれで理解できるが、「板戸」ってどういう由来だろう。チェックするも、不明のままである。






清瀧寺
畑地を越え、豊かな構えの農家を見やりながら進むと県道50号、その南の緑の一画に清瀧寺。文正元年(1466)の開基ともいわれるが、しばしば兵火にかかり、記録が失われ詳しいことはわからない。境内では天台座主より「大僧正」の称号を受けた有徳のお住職の顕彰碑(平成15年建立)が目についた。また、札所番号だろうか、番号のついた小振りの石仏が点在する。



滝下橋
お寺を離れ国道を進み鬼怒川に架かる橋を渡る。滝下橋とあるが、橋名は先ほどお参りした清瀧寺に由来するものだろう。赤く塗られた鉄橋にような橋は、昭和30年(1955)に架橋されたもの。それまでは大木の渡しが鬼怒川の東西を繋いでいた、とのことである。





清瀧香取神社
滝下橋を渡り清瀧香取神社に。境内には清瀧寺でみた札所番号らしき番号のついた石仏が数多く佇む。鬼怒川の水路開削によって、清瀧寺とこの清瀧香取が水路によって隔てられる以前は、神仏混淆により寺と神社が同じ境内にあったのではあろう。寺と神社が別ものとして分けられたのは明治の神仏分離令以降のことであることは言うまでも、ない。
25m台地最南端にある神社の南には一面に平地が広がる。境内には「月読神社」、「御嶽神社」の石碑も建つ。「月読神社」、「御嶽神社」は散歩の折々に出合うことも多いのだが、「青麻(あおそ)岩戸三光宮」と刻まれたちいさな石祠は初めてのもの。

○青麻(あおそ)岩戸三光宮
青麻神社。WIKIPEDIAによれば、主祭神は天照大御神・月読神・天之御中主神。常陸坊海尊を併祀する。宮城県仙台市宮城野区に総本社があり、青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社、三光神社などと呼ばれる、と。社伝によると、仁寿2年(852)、山城国から社家の祖である保積氏が宮城に下り、一族の信仰していた日月星の三光を祀ったのが社の始まり。天照大御神が日、月読神が月、天之御中主神が星(宇宙)と言ったところだろう。
月読神って、その粗暴な所業故に天照大神の怒りをかい、ために月は太陽のでない夜しか、顔をだせなくかった、という昼夜起源の話となっている神様。その二人が共に祀られるのがなんとなく楽しい。境内の「月読宮」の石碑はそのことと関係があるのだろう、か。また、「青麻」は穂積氏が麻の栽培を伝えたことに由来する、とのことである。
その穂積氏は水運に携わっていたこともあり、「青麻(あおそ)岩戸三光宮」は水運の守り神であった、とか。滝下橋ができるまでは、この地に大木の渡しがあったとメモしたが、神社の境内を離れ、鬼怒川の川筋の近くに鳥居があり、そこに「船持中」と刻まれていた。船運に従事する人達によって奉納されたものであろう。なお、青麻岩戸三光宮の主祭神には月読神も含まれている。

大木地区
清瀧香取神社を離れ、滝下橋に戻り、清瀧寺脇を抜けて鬼怒川を下流に、利根川の合流点へと向かう。台地を下り川筋に沿って進むとささやかな水神宮の祠があった。このあたりは大木地区となっている。
地図を見るに、鬼怒川の東には「大木」、西には「西大木」とか「大木流作」と言った地名が残る。東側の大木には北は谷戸が入り組み、南は標高5mの低地が広がる。一方西側の西大木とか大木流作は一面の標高5m地帯。鬼怒川開削の後に利根川と鬼怒川に挟まれた三角地に新田開拓が行われ「大木新田」と称されたが、洪水の被害が夥しく、それ故に「流作場」と称されるようになる。現在残る「大木流作」はその名残り。年貢も洪水被害を前提とし、三年に一度の収穫で十分な年貢ではあったようである。
大木地区は明治10年(1877)に大木新田が大木村に合わさり、明治22年(1889)には北相馬郡の板戸井村、大山新田、立沢村を合わせ「大井沢村」の大字、昭和30年(1955)には北相馬郡守谷町、大野村、高野村と合併し、守谷町の大字、平成14年(2002)には市制施行により守谷市の大字として現在もその地名を残している。

六十六所神社
地図を見ると、鬼怒川の東、低地の境目辺りに、六十六所神社とか大円寺がある。六所神社は散歩の折々に出合うこともあるが、六十六所神社という社ははじめて。ちょっと立ち寄ることに。
舌状台地と谷戸の入り組む台地の端、民家のすぐに傍に朱の鳥居。石段を上ると、ささやかな社があった。社にお参りし、社殿の周囲を歩くと、社殿横に、由緒の案内があり、「後小松天皇の御世、応永4年(1397)、出雲大社の大国主命の分霊を当地に勧請した、と。当時の拝殿、本殿造りの社殿は筑波以南には数少ない荘厳なる構えであったようであるが、明治18年の大木村の大火で焼失し、現在の社殿は昭和46年に再建されたもの」と。社殿裏手には東照宮の祠もあった、社の名前の由来は、大木村660番にあったから、とか、諸国巡礼の六十六部から、とかあれこれあるとのことだが、どれもいまひとつ、しっくりこない。

大円寺
六十六所神社の隣に大円寺。寺には平安末期から鎌倉初期にかけての作とされる釈迦牟尼仏が伝わるが、印象的なのは鐘楼の横の斜面にある巨木、案内によると、「天然記念物椋の木」。椋(むく)の木は栃木、茨城の中央部が北限。川沿いの水分の多いところに生育し大きく成長する」と。大木村の地名の由来となった巨木ではある。なお、大円寺や六十六所神社のある丘陵は「御霊山」とも呼ばれ、将門の七人の影武者を葬ったところとの言い伝えがあるようだ。



がまんの渡
大円寺から再び鬼怒川の堤防に戻る、この辺りも堤防と水路は大きく離れており、堤防から流路は葦のブッシュの先に微かに見える。先に進むと「利根川との合流点から2キロ」の案内。利根川の川筋は未だ見えない。
左手に広がる低地、調整池(池)を兼ねた耕作地ではあろうが、その先低地と台地をくっきりと区切る台地斜面の斜面林に見とれながら進む。堤防の傍にあるごみ処理施設や常総運動公園を見ながら先に進むと、左手の堤防下に低地にぽつんと木が残り、その脇に石碑とか案内らしきものがある。堤防を下りて案内を見ると、「がまんの渡し場の由来」とあった。
案内によると、「元和元年(1615)、家康公が鷹狩のため当地を訪れ、野木崎地区の椎名半之助家に滞在したとき、大雨のため利根川を渡るのが困難な状態となっていた。そこで、家康公は舟夫に「我慢して渡してくれ」と頼み川を渡ったので、「がまんの渡し」と呼ばれるようになった。当時鬼怒川はこの地を流れていないので、対岸は千葉県野田市水堀地区である。
鬼怒川が開削されてからは渡し場は1キロほど下流に映り、野木崎河岸と呼ばれ、明治から大正にかけて茨城県南の波止場として隆盛を極めた。
今から380年前、天下人となった家康公が武将を引連れこの地を訪れ数日滞在。そのお礼に田畑9反9畝を椎名家に与えられ、また家康公が使われた井戸跡も残っている」とあった。
案内にある「元和元年の鷹狩」と、説明の後半にある「今から380年前天下人となった」のくだりが、同じ時期のことなのだろうとは思うのだが、この時の家康の鷹狩の話しは、領内の民情視察を兼ねたものとも言われる。行程は鷹場のある越谷に行くも雨で鷹狩が叶わず、野木崎に移動、椎名家に滞在し、大雨の利根川を葛西方面へと向かったとのことである。ちなみに、「家康・水飲みの井戸」は常総運動公園の南端を東に進み地蔵堂のある辺りの少し北(守谷市野木崎1587)にあるようだが、今回は見逃した。そういえば、六十六所神社の東照宮も、野木崎と家康ゆかりのコンテキストで判断すれば、わかりやすくなった。

鬼怒川と利根川の合流点
河川敷に飛ぶモーターハンググライダ^-を先に進むと「利根川合流点です」の案内。とは言うものの、ブッシュの向こうに鬼怒川の川筋が見えるか見えないか、といった状態で利根川など全く見ることができない。これはもう、ブッシュを踏み越えて鬼怒川の川筋に出るしかない、と堤防を下り、葦のブッシュに入り込む。
枯れた葦が重なり合ったブッシュの中を、足元に注意しながら川筋へのルートを探す。トライアンドエラー繰り返しなんとか鬼怒川の川筋にでると、大木流作の三角州の突端で利根川と鬼怒川が合流していた。鬼怒川の砂州に足を踏み入れ周囲の景観をしばし眺める。例によって、「はるばる来たぜ」と小声で呟く。 砂州から川岸にk、しばらくブッシュの中を鬼怒川に沿って藪漕ぎをし、利根川の対岸に、先日歩いた「利根運河」の取水口を確認。
利根運河って、利根水運の初期ルートである利根川を関宿方面へと遡上し、そこから分岐する江戸川を経由して江戸へと進んだようだが、日数も3日ほどかかるためその日数を減らすためと、もうひとつ、関宿当たりに次第に砂がたまるようになったため開削されたように記憶している。その時はあまり気にも留めなかったのだが、利根運河の取水口のすぐ上で鬼怒川が合流している、ということは、水量の安定確保の意味でも、利根運河がこの地で開削されたのだろうか、などと少々の妄想を楽しむ。

県道46号
念願の鬼怒川と利根川の合流点も確認し、気分宜しく川筋を離れ堤防に。さて、どんなルートで駅まで進むか地図を見る。近くに電車の駅はない。どうせ歩くなら途中に神社や仏閣でもとチェックする。と、堤防から北に延びる県道46号に沿って香取神社と正安寺がある。正安寺も守谷散歩の最初に訪れた守谷中央図書館で、なんらか将門ゆかりの寺とあった、よう。ということで、駅までの帰路は県道46号に沿って戻ることに。
堤防脇の大野第二排水機場傍の水神様にお参りし、明治乳業の工場脇を北に進む県道46号に入る。道は低地の中を台地斜面林に向かって一直線に進む。道が台地に入ったあたりに香取神社があった。

香取神社
道脇から鳥居をくぐり境内に。古き趣の社殿にお参り。境内には狛犬と言うよりも、猿に似た石像が佇む。香取神社の眷属は鹿であろうし、何だろう?因みに御眷属、というか、神様のボディガードと言うか、神様の使いもバリエーション豊富。伊勢神宮はニワトリ。天岩戸の長鳴鳥より。お稲荷様は狐。「稲成=いなり」より、稲の成長を蝕む害虫を食べてくれるのがキツネ、だから。八幡様はハト。船の舳先にとまった金鳩より。春日大社はシカ。鹿島神宮から神鹿にのって遷座したから。北野天満宮はウシ。菅原道真の牛車?熊野はカラス。神武東征の際三本足の大烏が先導した、から。日枝神社はサル。比叡に生息するサルから。松尾大社はカメ。近くにある亀尾山から。といった按配。それぞれに御眷属としての「登用」に意味はあるわけだが、その決定要因はさまざま。いかにも面白い。
それにしても茨城に入ったら香取神社が如何にも多い。先の散歩でもメモしたが、鈴木理生さんの『幻の江戸百年』によれば、香取の社は上総の国、川筋で言えば古利根川(元荒川)の東に400社ほど分布しており、一方西側には氷川の社が230社ほど鎮座する。そして、香取と氷川の「祭祀圏」に挟まれた越谷の元荒川一帯には久伊豆神社が祀られている、と。「祭祀圏」がきっちりと分かれている。結構長い間散歩しているが、このルールをはずしていたのは赤羽に香取の社が一社あっただけである。往昔、川筋に沿って森を開き、谷の湿地を水田としていったそれぞれの部族が心のよりどころとして祀ったものではあろう。

正安寺
香取神社を離れ、県道46号を少し北に進み、成り行きで小道に入り正安寺に。構えはそれほど大きくないが落ち着いたお寺さまである。案内によれば、「創立は今から700年前の西暦1300年頃。安政3年(1856)に火災で焼失するも、安政5年に再建。本尊の阿弥陀如来は行基作との伝えあり、と。合祀されている寅薬師如来は静岡の峯の薬師の分身。元は野木崎辺田前(へたまえ)にあった医王寺に祀られていたが、明治に廃寺となり、ここに移された。
寅薬師の眷属である十二新将の真達羅(しんだつら)大将(寅童子)の化身が徳川家康であると言い伝えられており、徳川家の安全祈願を行ったことから「寅薬師」の名が起こったといわれている。 慶安2年(1648)には三代将軍家光から40石2斗あまりの御朱印地を賜っている」とある。
寅薬師如来の霊験は、特に眼病に効くとされるほか、薬師如来故か、あらゆる病気に霊験あらたか、ということで第2次世界大戦以前は埼玉県・群馬県、千葉県銚子地方の沿岸から水運を利用して多くの参拝に訪れた、とか。特に眼病には「瑠璃水」という目薬を施薬することを許可されていたとほどである(当然のこと、現在は、薬事法により許可されてはいない)。

成田エクスプレス守谷駅
正安寺を離れ、成田エクスプレス守谷駅に向かう。正安寺から県道46号に戻り、を東に進めば常磐道を越え、大柏交差点あたりで、つくばエクスプレスに交差し、線路高架に沿って進めば守谷の駅につけそうである。道を成り行きですすんでいると、県道46号の南に太子堂があったので、ちょっと寄り道。特に何の案内もない、お堂ではあった。
再び県道46号に戻り、常磐道を越え大柏交差点に向かう。と、道脇に「大柏橋」バス停の案内。橋という以上川があったのだろうか。地形図でチェックすると、台地に細い谷筋が切れ込んでいる。谷を流れる水路でもあったのだろう、と妄想する間もなく、丁度到着したコミュニティバスに飛び乗り守谷の駅に。後は一路家路へと。
将門ゆかりの地と小貝川・鬼怒川分流工事跡を訪ねようとはじめた守谷散歩もこれで3度目。過去2回の散歩で将門ゆかりの地を巡り、今回は小貝川・鬼怒川分流工事の跡を訪ねることにする。
現在小貝川と鬼怒川は常磐自動車道・谷和原インターの北、つくばみらい市寺畑の辺りで、直線距離1キロを隔てるほどに急接近するも、鬼怒川は大木丘陵を南に下り守谷市野木崎で利根川に合わさり、小貝川は大木丘陵手前で南東に進み、茨城県取手市、北相馬郡利根町と千葉県我孫子市の境で利根川へ合流している。
現在は別の流れとなっているこのふたつの川であるが、かつて鬼怒川は大木丘陵の手前、寺畑の辺りで小貝川に乱流・合流し、両川が合わさり暴れ川となり、下流一帯を氾濫原と化していた。この暴れ川による洪水被害を防ぎ、合わせて合流点より下流一帯の氾濫原に新田開発すべく鬼怒川と小貝川の分流、そして鬼怒川の新水路の開削が行われることになる。鬼怒川の新水路はそれまで南流を阻んでいた大木丘陵を人工的に開削し、鬼怒の流れを南に落とし利根川と繋いだわけである。

鬼怒川の開削水路は利根川合流点まで7キロ以上。丘陵部だけでも5キロほどもある。大工事である。このような大工事をした目的は上にメモしたこの地域の洪水対策、新田開発だけでなく、利根川東遷事業の一環として、利根川から江戸への船運の開発、そして、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海を陸化して新田開発を行うといった壮大な構想のもとに行われた、とも言われる。



(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」

利根川の東遷事業
現在銚子へと注ぐ利根川の流路は江戸時代に行われた利根川の東遷事業によって造られたものである。それ以前の利根川筋は栗橋より下流は現在の大落古利根川、中川の流路を南に下り、途中で昔の荒川筋(現在の綾瀬川。荒川は西遷事業により西の入間川筋に移された)と合流し江戸湾へと注いでいた。
利根川の東遷事業とは、江戸湾に注いでいた利根川の流路を東へと変え、銚子へと流す河川改修事業のこと。大雑把に言えば、南へと下る流路を締め切り、その替わりに、東へと下り銚子方面へと注ぐ川筋に繋ぐという工事である。そして東流する流れとして元の利根川と繋がれたのが常陸川の川筋である。

上で大木丘陵を開削し鬼怒川を利根川に繋いだ、とメモした。が、正確には常陸川と言うべきではあろう。鬼怒川と小貝川の分流工事、大木丘陵の開削は、利根川を常陸川に繋ぐ水路開削の以前、つまりは利根川の東遷事業以前に工事が実施されており、大木丘陵の開削工事が行われた当時は常陸川と呼ばれていた。常陸川が利根川と呼ばれるようになったのは利根川と常陸川が結ばれた後のことである。
その常陸川であるが、その呼称も近世になってからの名称である。将門の時代には上流部は広川(河)とも呼ばれ、現在の利根川・江戸川分流付近を北端に、途中長大な藺沼(いぬま)を経て毛野川(鬼怒川)を合わせ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼を合わせた広大な内海である香取の海に注いでいた。
広川は川とは言うものの、狭長な谷地田の流末に発達する大山沼・釈迦沼・長井戸沼などの沼沢の水を集めて流れる小河川であり,その流れは現在の菅生沼・田中・稲戸井遊水池付近にあった藺沼という浅い沼沢地に注ぐわけであり、川と言うより沼沢地の連なり、と言った方が正確かもしれない。

○船運路の開発
その常陸川・広川に大木丘陵を開削して鬼怒川の流れを通した。丘陵を切り開くという難工事をおこなったのは、その結果として常陸川・広川への合流点を 開削工事の前に比べて30キロも上流に押し上げ、常陸川に豊かな水量を注ぎ、それまでは細流であり、小舟がやっと通れるといった常陸川の上流部の水量を増やした。小貝川と鬼怒川の分流工事・鬼怒川の新水路開削が完成した後、南流を締め切った利根川の流れと、水量の豊かになった常陸川を繋ぐ水路を新たに開削し、利根川の流れを江戸ではなく銚子方面にむけた。その結果、銚子と江戸が利根川を介し結ばれ、「内川廻し」と称される船運網が出来上がった。

○新田開発
また、また、新田開発も、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海が利根川の東遷事業によって、上流から運ばれた土砂の堆積が進み、多くは低湿地の沖積平野と化し、その地に本格的な新田開発がはじまることになる。潮来市(茨城県)や旧佐原市(現香取市、千葉県)が陸地化されたのは江戸時代になってからと言われるが、それは東遷事業により銚子へと下った利根川の流れを堤防で固定化し、周辺の低湿地の水を抜き干拓・陸化していった苦難の新田開発の賜とのことである。

ことほど左様に、利根川の東遷事業の一環としても重要な位置づけをもつ、小貝川と鬼怒川の分流事業の跡を辿ろうと、小貝川と鬼怒川の合流・乱流地帯と鬼怒川の新水路開削地点を求めて守谷へと向かった。



本日のルート;関東常総線・水海道駅>関東常総線・小絹駅>谷原大橋>伊奈橋>寺畑>鬼怒川の堤>玉台橋>香取神社>関東常総・小絹駅 

関東常総線・水海道駅
家を離れ、成田エクスプレスで先に進みながらiphoneで小貝川と鬼怒川の合流点についての情報を探す。ちゃんと家で調べておればいいものを、いつもの通り基本は事前準備をきちんとしない成り行き任せ故のことである。社内でチェックするに、旧谷和原村(現つくばみらい市)寺畑、とか杉下辺りで合流とあるが、正確な合流点の記述が見つからない。関東常総線・小絹駅で下りて、成り行きで進もうとも思うのだが、なんとなくすっきりしないので、水海道まで上り、図書館でチェックすることに。

水海道駅(みつかいどう)で下り、県道357号を少し守谷方面に戻ると常総市立図書館に。水海道市は平成18年(2006)、近隣の町を編入・合併し現在は常総市となっていた。それはともあれ、水海道の図書館まで進んだのは守谷の中央図書館には既に訪れていた、ということもあるが、「水海道」という、如何にも川の流れを連想させる地名故に、小貝・鬼怒川に関する情報が多いのだろうと勝手に思った次第。実際の水海道の地名の由来は、平安時代の坂上田村麻呂がこの地で馬に水を飲ませた(水飼戸;ミツカヘト)故事に拠るとのことで、河川とは関係なかった。
それ故、ということもないだろうが、常総市立図書館は郷土資料に関する整備されたコーナーのある素敵な図書館ではあったが、残念ながら小貝川と鬼怒川の合流点に関する資料は見つからなかった。河岸工事を行い河川の流路が定まっている現在の河川とは異なり、洪水のたびに流路が変わっていた往昔の流路の合流点を特定するのは困難ではあろう、とひとり納得し、当初下車予定の関東常総線小絹駅に戻ることに。

関東常総線・小絹駅
ささやかなる小絹駅で下車。妙なる響きをもつこの小絹という地名も、元は新宿(にいじゅく)と呼ばれていたとのことだが、明治22年(1889),北相馬郡の村が合併し北相馬郡小絹村となった。小絹の由来は、小貝川と鬼怒川の間にあるので、両川の名前を一字ずつ取って小絹、とした。妙なる地名と思っていたのだが、実際は、足して二で割るといった新たに地名を造る際によくあるパターンではあった。
ところで、この小絹は「つくばみらい市」となっている。つくばみらい市は基本的に小貝川の東側であるのだが、この小絹地区の南北の部分だけ小貝川を越え、鬼怒川東岸までその市域が突き出ている。地名をよく見ると、杉下、筒戸、平沼、寺畑、細代と明治22年(1889)に北相馬郡小絹村となった地域である。つくばみらい市は旧伊奈町、旧谷和原村など旧筑波郡からなっており、この小絹川を越えて鬼怒川東岸までのびた地域だけが北相馬郡。住民はつくばみらい市ではなく旧北相馬郡地域である守谷市への合併を望んだ、といった話も故なきことではない、かと。

谷原大橋
小絹駅を下りる。駅前は商店街といったものもなく、のんびりした佇まい。それでも駅の西側は家屋があるが、線路を東に渡ると葦(?)が茂る一帯とか畑地が広がる。とりあえず成り行きで小貝川方面へと向かい小貝川の川筋に。川面を眺めながら少し北に進むと谷原大橋に出る。現在の橋は二代目。昭和38年(1963)に架けられた先代の橋が歩道もなく、老朽化したこともあり平成16年(2003)新たに建設された。
谷原? 谷和原?どっちだ?チェックする。谷原大橋の東に鬼長、川崎地区があるが、これらば元は鬼長村、川崎村であったが、明治22年(1889)に北相馬郡長崎村(これも両村の一字ずつを取ったもの)となるも、昭和13年(1938)に鹿島村(現在の加藤、上小目、下小目、成瀬、宮戸、西丸山、東楢戸、西楢戸、古川)と合併し「谷原村」となる。橋名はその「谷原」からきたものだろうか。ちなみに「谷和原村」となるのは昭和30年(1955)。筑波郡谷原村、十和村、福岡村が北相馬郡小絹村と合併してからである。谷原村に加わった十和村の「和」を足した、ということではあろう、か。地名をあれこれ考えるのは誠にややこしいが、しかし、実に面白い。

伊奈橋
小貝川の堤防を北に進む。谷原大橋辺りでは平地であった地形が、先に進むにつれて堤の左手に平地の向こうに小高い丘陵地が見えてくる。地名も西ノ台とその地形を現している。地形図でチェックすると川沿いの標高10m地域と、台地の15mから20m地帯に分かれている。
台地部分が切れ、平地に変わる境目を求め先に進む。おおよそ伊奈橋の辺り寺畑地区まで進むと、なんとなく台地から平地にたどり着いたといった感がある。伊奈橋の少し南西に池があり、四ケ字入排水機場を介して小貝川と繋がるっているが、そのあたりが小貝川と鬼怒川の合流地点跡とも言われる。もとより、水路定まらぬかつての流路が一か所で合流していたとも思えない。
地形図によると元の水海道市域は標高15mから20mとなっており、この水街道と寺畑を北端とする台地に挟まれた平地一帯に、洪水の度に流路を変える鬼怒川の幾筋もの流路が小貝川に乱流・合流していたのであろう。単なる想像。根拠なし。

○伊奈忠治
ところで、伊奈橋。由来は伊奈町から。伊奈町ができたのは昭和29年(1954)のことで、そんなに古い歴史があるわけではないのだが、伊奈といえば小貝川と鬼怒川の分流工事を指揮し、小貝川の東、旧伊奈町を含む現在のつくばみらい市一帯の氾濫原を谷原三万石とも称される新田開発に貢献した関東郡代伊奈忠治に由来するのは言うまでもないだろう。
伊奈忠治の指揮のものと、鬼怒川と小貝川の完全分離と新河道掘削による鬼怒川の常陸川(後の利根川)への付け替え工事により、従来、鬼怒・小貝両川の氾濫源であった谷原領、大生領(常総市辺り)一帯は両川合流の水勢から解き放たれ、水量の安定した一帯の新田開発が可能となった。因みに「谷原」とは葦などが茂る湿地の意味である。
その小貝川には、伊奈氏によって、福岡堰、岡堰、豊田堰が設けられる。関東流とも溜井方式とも称される伊奈氏の治水・利水工法によって造られたこれらの堰はその規模もあり、関東の三大堰とも称されるが、その堰の力もあってか新田の開発が進み、「谷原領三万石」「相馬領二万石」などと呼ばれる新田地が誕生した、とのことである。
それにしても、散歩の折々、関東郡代伊奈氏の事蹟によく出合う。玉川上水、利根川の東遷事業、新綾瀬川開削、荒川西遷事業、八丁堤・見沼溜井、宝永の富士に大噴火にともなう足柄一帯の復興工事、酒匂川の改修など枚挙に暇がない。武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)に拝領した伊奈氏の赤山陣屋を辿った散歩が懐かしい。

○溜井方式・関東流
伊奈氏の治水法である溜井方式・関東流とは自然河川や湖沼を活用した灌漑様式であり、自然に逆らわないといった手法である。伊奈流の新田開発の典型例としては、葛西用水がある。流路から切り離された古利根川筋を用排水路として復活させる。上流の排水を下流の用水に使う「溜井」という循環システムは関東流(備前流)のモデルである。また、洪水処理も霞堤とか乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想でおこなっている。こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴と言える。しかし、それゆえに問題も。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。

こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。見沼代用水に代表される伊沢為永の紀州流は自然をコントロールしようとする手法。堤防を築き、用水を組み上げる。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。
為永は乗越提や霞提を取り払う。それまで蛇行河川を堤防などで固定し、直線化する。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることに。また、見沼代用水のケースのように、溜井を干拓し、用水を通すことにより新たな水田を増やしていく。用水と排水の分離方式を採用し、見沼代用水と葛西用水をつなぎ、巨大な水のネットワークを形成している。こうした水路はまた、舟運としても利用された。
とはいえ、伊奈氏の業績・評価が揺るぐことはないだろう。大水のたびに乱流する利根川と荒川を、三代六十年におよぶ大工事で現在の流路に瀬替。氾濫地帯だった広大な土地が開拓可能になった。1598年(慶長三年)に約六十六万石だった武蔵国の総石高は、百年ほどたった元禄年間には約百十六万石に増えた、と言う。民衆の信頼も厚く、ききんや一揆の解決に尽力。その姿は上でメモした『怒る富士』に詳しい。最後には、ねたみもあったのか、幕閣の反発も生み、1792年(寛政四年)、お家騒動を理由に取りつぶされた、と。とはいえ、伊奈忠次からはじまる歴代伊奈氏は誠に素敵な一族であります。

寺畑
確たるものではないが、小貝川と鬼怒川の乱流・合流点らしき一帯に足を踏み入れ、所定の目的は達成。堤を離れ、かつては小貝川と鬼怒川が合流していたであろう寺畑地区の平地を彷徨うことに。
堤を下りるとささやかな祠。薬師堂とあった。寺畑って、寺院の所有する畑のことだろうが、まさか、この小さな祠の所有地とも思えない。寺畑をチェックすると、この地は下総佐倉藩大給松平氏と下総関宿藩板倉氏の相給地であった、とか。どちらかの地の寺院ゆかりの地であったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。



寺畑地区をあてどもなくさまよい、鬼怒川の堤方向へと向かう。成り行きで進んでいるうちに、知らず標高10m地帯の平地から標高15mの台地へと入っていった。
ところで、「寺」。我々はこの漢字を音読みの「じ」とともに、訓読みで「てら」とも読む。現在「寺」は仏教のお寺様と同一視するが、この「寺(てら)」という漢字は仏教伝来以前より日本に伝わっており、その語義は「廷也」。邸とは役所のこと。仏教がインドから中国に伝わったころ、僧侶は役所を拠点として活動を始めたようで、そのうちに僧が定住するところとなり、邸也が仏寺の意味を持つようになった、とか。「じ」とも「てら」とも読むのは核の如き歴史を踏まえたものであろう、か。

鬼怒川の堤
台地を進み、関東常総線を越え、県道294号を渡り、鬼怒川の堤に向かう。先回の小貝川散歩のときも、堤と川筋が離れ、その間に畑地や林があった。洪水時に水を貯めるバッファー地帯なではあったのかとも思うのだが、鬼怒川のそれはもっと幅が大きい。堤から川筋などなにも見えない。
堤に沿って北にも緑の森が見える。地形図を見るに、標高10mの台地の先端部が北に細代辺りまで突き出している。台地と平地の境まで行ってみようと堤を北に向かって進む。と、途中に堤から川筋が見えそうな箇所がある。ここなら川筋まで進めるかと、堤を離れ川筋へと向かう。が、残念ながら葦のブッシュに阻まれ、川筋に進むことはできなかった。

川筋に足を踏み入れるのを諦め、耕地なのか遊休地なのか定かではない堤下の地を抜けて堤に戻る。と、堤下の耕地・遊休地の真ん中を一直線に通る細路があり、いかにもウォーキングをしているといった人たちがそこを歩いている。ひょっとすれば川筋への道があるのかと、再び堤を下り道を進む。
少々の期待を持って先に進むも、結局この道も川筋にでることはなく、標高15mから20mの台地部分に出てしまった。道の終点部にはベスト電器やファッション量販店、企業の物流センターなどが集まっていた。この辺りからも川筋に入れる道はなく、結局道なりに玉台橋に出る。

玉台橋
玉台橋からやっと鬼怒川の流れを目にする。玉台橋の由来について、「内守谷町玉台と鬼怒川の間に架かるのが玉台橋。この一帯を玉台と呼ぶのは、菅生城主・菅生越前守の妻であるお玉の方、から。戦に破れてこの地までたどり着き、力尽きたという伝説からきた、とのことである。菅生城はこの玉台橋から西の菅生沼辺りにある。
玉台橋からの眺めは川の両岸に台地が迫り、なかなか美しい。橋にあった案内によると、「玉台橋から鬼怒川を望むと、江戸の人の手でつくられた壮観な谷小絹が広がります。利根川とは独立した河川であった鬼怒川を天慶年間に西に移し、小貝川を東に付け替えて二つに分けました。
さらにその後、鬼怒川の支流であった小貝川を切り離し、利根川につなぎました。そのとき開削されたのが小絹です」、とあった。

橋から、先ほどブッシュで苦戦した川岸を見るに、崖に緑の木々が茂り、とてもではないが人が歩けそうなところではなかった。はやく藪漕ぎを諦めたのは正解ではあった、よう。
川の岸を見るに、川の東側は15mの台地が北にずっと続く。一方西側は橋の辺りは15mの台地ではあるが、その先には標高10mの低地が広がり、そしてその先には15mの台地が見える。地形図を見るに、東岸の細代と西岸の樋ノ口あたりで台地が両岸から鬼怒川に迫る。この両岸に台地が迫る辺りが人工開削の始点ではあろう、と妄想する。

香取神社
橋から眺めると川の西側には川傍に堤がありそう。できれば平地から台地部分、玉台橋の辺りを眺めてみようと橋を渡り、鬼怒川の西岸に進む。玉台橋西交差点から未知なりに川筋への道を進む。川岸の小さな森を抜けると玉台排水機場があるが、そのあたりから一瞬、鬼怒川の西岸は低地となるも、その先には緑の台地部分があり、台地と平地の境はまだ先のようである。





堤から離れ川筋まで下りてみるも、今一つ平地から見た台地、といった景観が描けない。先に進み森の香取の社にお参り。茨城に来るとさすがに香取の社が目につく。鈴木理生さんの『幻の江戸百年』によれば、香取の社は上総の国、川筋で言えば古利根川(元荒川)の東に400社ほど分布しており、一方西側には氷川の社が230社ほど鎮座する。そして、香取と氷川の「祭祀圏」に挟まれた越谷の元荒川一帯には久伊豆神社が祀られている、と。「祭祀圏」がきっちりと分かれている。結構長い間散歩しているが、このルールをはずしていたのは赤羽に香取の社が一社あっただけである。往昔、川筋に沿って森を開き、谷の湿地を水田としていったそれぞれの部族が心のよりどころとして祀ったものではあろう。
香取の社を越えると平地が前面に広がるも、その先にも耳鳥の台地がある。東岸の細代と西岸の樋ノ口あたりの台地開削地点辺りではあろう。

関東常総・小絹駅
先に進もうと思えども、そろそろ日暮、時間切れ。道を折り返し玉台橋まで戻り、最寄の駅である関東常総・小絹駅にむかい、一路家路へと。

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