2013年1月アーカイブ

北杜市散歩2日目。天候は曇天の昨日とは打って変わり快晴。南には甲斐駒ケ岳を中心に南アルプスの山稜、その東には冠雪の富士、北東の方角には奥秩父の山々、北を見やると八ヶ岳が聳える。誠に素晴らしい景観である。小淵沢に移宅したM氏に限らず、八ヶ岳山麓に移り住む友人・知人が多いのだが、その理由の一端を垣間見た思いである。








さて、本日は快晴の中、四方に山々を見やりながらの散歩となる。ルートは小海線の甲斐小泉駅近くに車を停め、すぐそばの「三分一湧水」からはじめ、武田信玄が信濃攻略のため開いたと言う軍用道路・棒道を辿る。棒道の途中には女取湧水から流れ、八ヶ岳山麓の村々の田畑を潤した女取用水路にも出合えそうである。
信玄の棒道は八ヶ岳山麓を縫って進み、西麓の原村から大門峠へと進み、信濃へと向かうわけだが、今回は車を停めてある甲斐小泉まで戻る必要もあり、八ヶ岳高原ラインあたりで棒道から離れ南に折れ、成り行きで甲斐小泉まで戻ることにする。








本日のルート;甲斐小泉駅>高川>三分一湧水>小荒間古戦場跡>小荒間番所跡>棒道>女取湧水の用水路>火の見跡>手作りパンの店虹>八ヶ岳高原ライン・馬術競技場入口交差点>延命の湯>甲斐小泉駅

高川
M氏宅を離れ、甲斐小泉駅近くの「三分一湧水」に向かう。甲斐小泉駅のすぐ西を流れる高川(こうかわ)脇にパーキングスペースがあり駐車。高川は八ヶ岳南麓を流れる九つの川、東から大門川、川俣川西沢・東沢、西川、甲川(油川)、鳩川(泉川・宮川)、大深沢川(高川、古杣川、女取川)、小深沢川、甲六川のひとつ。標高1300mを境にその上部は深い谷、下流は裾野を直線に下る。八ヶ岳南麓には標高500mから1000m地帯に集落と農地が広がるが、これらの河川は、標高1500mから1000m付近で地表に現れる湧水とともに八ヶ岳南麓の集落や農地を潤す。

三分一湧水
高川の東に緑の一帯が広がる。森に入る前に、森の東にある「三分一湧水館」に向かう。そこには大きな駐車場もあった。湧水館にはお土産・お休み処のほか、三分一湧水に関する資料館がある。棒道に関する小冊子(『棒道の本;北杜市郷土資料館』。以下の記事作成の参考にさせて頂いた)を買い求める。湧水館の2階は南アルプスの眺望が楽しめるとのことであるが、道すがら十分にその姿を堪能しているのでパスし、森に向かう。
駐車場脇に「三分一湧水」の案内:『三分一湧水;名前の由来は、その昔、湧水の利用をめぐり長年続いた水争いを治めるため、三方の村々に、三分の一づつ平等に分配できるように工夫したことからきています。湧水は、 利水権を持つ地区住民で組織する管理組合や地元住民によって管理され、農業用水として重要な役割を果たしています。湧水量は、1日8,500トン、水温は年間を通して摂氏10度前後を保っています』、とある。

成り行きで森に入る。「三分一湧水公園」として整備されていた。森の中を水路が流れる。水路に沿って進むと少し平坦になったところに分水の地があった。縦4m弱、横5m弱の石組、と言うか、一部コンクリートつくりの枡形の池に奥から水が流れ込み、用水路が三方に分かれている。造りをよく見ると、奥から流れ込む水は枡形の石組みの中に設置された三角形の石にあたり、撹拌され三方に分水する役を果たしているようである。三方の用水路の分水口の幅は61cmとなっている。
世に、三分一湧水は、村々の水争いを調整すべく武田信玄が造った、と伝わる。湧出口の分水枡に三角石柱を立てて、水を3等分するようにした、とのことである。が、実際に現在ある石は昭和22年(1947)に設けられたもの。また、分水施設の原型がつくられたのは、江戸時代中期に起こった水争いがきっかけだったようだ。当初は木造の施設で、水を配分する石も普通の自然石だった、とか。施設が石積みのものになったのは大正12年(1923)。昭和19年(1944)に現在見られる施設が完成、昭和22年(1947)に石が現在の三角形のものに置き換えられたとのことである。

湧水点がどのようなものか、枡形から先へと進む。水路の先には窪地があり、窪地の中から水が湧き出ている。1日の湧水量は8500トンほど、とのこと。すぐ脇を高川が流れているので、その伏流水かとも思うのだが、大泉町の大泉大湧水(標高920m),八衛門出口(標高1,000m),鳥の小池(北杜市大泉町谷戸),鳩川湧水(標高1,240m)。長坂町の女取湧水(1,160m)。小淵沢町の大滝湧水(標高820m;日本名水百選)延命水,勘左衛門湧水(八ヶ岳アウトレット内),井詰湧水(標高950m)などとともに八ヶ岳山麓湧水群と称される。とすれば、この辺りの標高が1000mと言うから、八ヶ岳山麓に降った雨水が50年から60年の歳月をかけて、不透水層が地表に現れるこの地に湧き出たのではあろう。
森の中を彷徨と顕彰碑。『三分一湧水と水元坂本家;三分一湧水は古くから下流集落の生命の源泉であり、住民はこれにより田畑を耕やし、くらしを立ててきました。三方向に等量に分水する独特の手法は、争いを避けるための先達の知恵であり、学術的にも高く評価されています。そのような歴史の中で、二十六代を数える旧小荒間村の坂本家は、累代、「水元」と敬称され、湧水の維持はもとより、村落間の和平を維持するために心を砕かれてきました。今も毎年六月一日に、同家を主座に関係集落立ち合いのもと分水行事が行われるのはその故です。平成十四年七月甲府市にお住まいの坂本家当主静子様には町の懇望に応え、三分一湧水周辺一帯の所有地をお譲り下さることになりました。ここに本湧水と水元坂本家の由来の一端を記し深く感謝の意を表します。 平成十五年三月三十一日 長坂町』とあった。
八ヶ岳南麓の北杜市高根町、大泉町、長坂町、小淵沢町は標高600mから1000mの間に谷地田が広がり山梨県内でも屈指の稲作地帯となっているが、それにはこの顕彰碑に刻まれたように、八ヶ岳山麓からの湧水や河川を管理しそれを活用する村人の努力の賜物ではあろう。「三分一湧水公園」は坂本家より寄付された地を整備したものである。

小荒間古戦場跡
三分一湧水を離れ信玄の棒道に向かう。途中、甲斐小泉駅の東に小荒間古戦場跡がある。ちょっと寄り道。古戦場跡は何ということもない、少々荒れた林の中にある。中に足を踏み入れると信玄の御座石、遠見石、刀架石、鞍掛石などと称する石が点在する。ここは信濃の村上義清の軍勢と信玄の軍勢で行われた合戦の際、信玄が本陣を敷いたところ、と伝わる。

村上義清は信濃の武将。長野県上田市と千曲市の間にある長野県埴科郡坂城町の葛尾城に生まれ、信濃東部、北部を勢力下に版図を拡げる。信玄との敵対する端緒は信玄による父武田信虎の追放劇。信濃東部攻略の盟友として共に戦った信虎を庇護し信玄と相対峙することになる。
当初は武力で信玄を圧するが、真田氏による義清の家臣の調略などにより力を失い、最後は上杉謙信を頼って越後に落ちのびることになる。信玄と謙信が戦う川中島の合戦の「遠因」のひとつが義清と信玄の抗争、とも言える。 このプロセスの中で起きた小荒間合戦であるが、時期は天文9年(1540)。天文17年(1548)の上田原の合戦(長野県上田市)、天文19年(1550)の砥石城の合戦(長野県上田市)で義清が信玄に完勝している時期であるので、義清の覇が盛んな頃である。
小荒間合戦では3500余の軍勢を率いてこの地に侵入した義清勢に対し、信玄は旗本だけを率いて出陣し勝利を収めた、とのことである。

小荒間番所跡
古戦場跡の林の中を彷徨と、踏み分け道が小海線方面へと続く。棒道の名残かとも思い、先に進み簡易踏切で小海線を渡り成り行きで道を辿るも結局車道に出る。何ということもない踏み分け道であったようだ。車道を下り、小海線のガードをくぐり高川を越え、再び小海線を越えて北に進むと道の分岐点に小荒間番所跡があった。
石垣に囲まれ石灯籠や道祖神の小祠が佇む番所跡に「小荒間口留番所」の案内。「国境で旅人や物資の移動を監視するのが口留め番所です。江戸時代甲斐の国には25か所存在していました。小荒間口留番所は天文年間(1532-55)に信州大門峠へ通じる棒道(大門嶺口)に設置されたものといわれており、江戸時代には近隣の農民が村役で警備を担当する番役に当たりました。
門(高さは3.6m) 矢来(門をはさんで左右は10m) 茅葺屋根の番所小屋(5.4m×3.1m)などからなり、明治になると民間に払い下げられ、さらに1933年(昭和8年)の小海線の開通によって移築され、消失しました」とあった。元はガードの辺りにあったようだ。

棒道
道脇にあった「棒道(大門嶺口)」によると「棒道とは、戦国時代、甲斐の武将武田信玄が北信濃(長野県長野盆地)攻略にあたって開いた軍用道路。八ヶ岳西麓をまっすぐに通じていることから、棒道(ぼうみち)と呼ばれる。 棒道には上中下の3筋あり、小荒間地区を通るこの道は「上の棒道」に当たる。逸見路の穴山(現韮崎)から分かれ若神子新町(現北杜市須玉町)、渋沢(現北杜市長坂町)、小荒間を経て、立沢(現長野県富士見町)を通り大門峠に出て、長野盆地への道と接続する。「上の棒道」が実際に侵攻につかわれたかどうかは不明である。
江戸時代末期、この地域の棒道沿いに一丁(約109m)おきに30数基の観音像が安置されたことから、現在に棒道の一部が残された」とあった。
「上の棒道」をもう少し詳しくチェックするに、甲府から進む穂坂路(別名川上口ともいう。茅ヶ岳山麓を横断し、甲府と信州佐久の川上とを最短距離で結ぶ古道。)から分かれた逸見路(別名諏訪口とも言う。甲州街道開設以前は諏訪方面に至る重要な交通路であり、しばしば軍用道路としてされた)を進み、穴山(現韮崎)で逸見路から分かれ、北に向かい若神子新町(現北杜市須玉町)、渋沢(現北杜市長坂町)、大八田(現北杜市長坂町)、白井沢(現北杜市長坂町)、谷戸村(現北杜市大泉町谷戸)を経て小荒間に続く。
「中の棒道」は大八田で「上の棒道」と分かれ、大井ケ森(現長坂町)を通り。小淵沢を経て葛窪(長野県富士見町)から立沢に向かい、「上の棒道」と合流する。「下の棒道」は逸見路から渋沢、小淵沢を通り、蔦木・田端(長野県富士見町)に抜ける(異説もあり)。
棒道がいつごろ整備されたのかは不明である。不明ではあるが、天文21年(1552)に信玄が「甲府から諏訪郡への道を造ること。そのため架橋用に木材の伐採を許可している」との文書(「高見澤文書)がある。天文21年とは有名な川中島の合戦の前年である。



信玄が諏訪一帯を制圧し、その後30年におよぶ信濃攻略を開始したのは天文11年(1542)のこと。天文11年(1542 )、現在の長野県富士見町一帯で、武田信玄と信濃4将(諏訪頼重・小笠原長時・村上義清・木曾義昌)が戦った「瀬沢の戦い」で信玄が信濃勢に初めて勝利、また同年の「大門峠の戦い」で信玄が村上義清・小笠原長時を破ったときも、そのルートはともに「大井ケ森」を通る道筋を進軍したようであり、その道筋は所謂「中の棒道」と称されるものである。
これら諏訪勢との合戦に使われた「中の棒道」は、棒道とは言うものの、この道筋は古くから諏訪方面に通じる道筋であったようであり、軍用道として新たに切り開いたものではないようである。結局のところ、諏訪一帯を制圧し、本格的に北信濃攻略に臨むに際し、諏訪盆地攻略には有効であるが、善光寺平のある北信濃に出るには遠回りとなる大井ケ森を通る道ではなく、大井ケ森より標高の高いこの小荒間を通り八ヶ岳山麓を直進する道を新たに切り開いたのではないだろう、か。とすれば、高見澤文書にある天文21年頃が、軍用道として新たに切り開かれた「棒道」が出来た時期ではないだろうか(『棒道の本;北杜市郷土資料館』)、と。

観音さま
道脇の棒道の案内に「江戸時代末期、この地域の棒道沿いに一丁(約109m)おきに30数基の観音像が安置された」とあった。そういえば、小荒間番所の辺りに千手観音(中央にふたつ、左右に20の手)、如意輪観音(6つの手、右手で頬杖をついている)、聖観音(頭に冠。天衣をまとい、蓮華の花のつぼみをもつ)さまの立像が道脇に佇んでいた。チェックすると、谷戸村大芦(現北杜市大泉町谷戸)から「上の棒道」に沿って小荒間をへて女取川近くまでが「西国三十三観音」、その先を小淵沢あたりまで「坂東三十三観音」とのこと。小荒間村と谷戸村の人々が江戸時代に建立した。当初は100体の観音を建立する計画であったようだが、西国観音は三十三番まで(7体ほど紛失)、坂東観音は十六番(5体紛失)までが建立されている(『棒道の本;北杜市郷土資料館』より)。観音を構想した、と言うことは、秩父34m観音札所34をも建立しようとしていたのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

道を辿ると「富蔵山公園」。馬頭観音や蚕玉太神碑が建つ。29番馬頭観音(頭の上に馬)、30番の千手観音を見やり、古杣川を渡りほどなく33番十一面観音(頭上に11の顔)があり「西国33観音」が終わる。棒道の脇に佇むのは千手観音、如意輪観音、聖観音、馬頭観音、十一面観音の5体の観音様とのことである。

女取湧水
棒道も次第に林の中に入り、それらしき趣を呈してくる。ほどなく庚申塔があり、道が分岐している。この道を右に折れると水道施設をへて女取湧水の源流点に進めたようだが、案内がわかりにくく見逃した。庚申塔の裏にある電柱に「発砲注意」との張り紙があり、その脇に「湧水へ」との案内があるようだが、どうみてもそれらしき案内はなかったように思える。
分岐点の先の道脇に十一面観音さまが佇むが、これは「坂東観音一番」。坂東三十三観音(実際は十六番まで)がここからはじまる。先に進むと再び十一面観音。この坂東二番観音を過ぎると石造りの用水路らしき水路が道を横切る。先に進むと沢に下りる。女取川である。ということは先ほどの用水路は女取湧水からの水路であろう。ということで、棒道を外れ女取湧水の源流点へと辿ることに。
女取川の沢筋を上流に向かう。辿るにつれて沢筋の足元が悪くなる。また、沢のエスケープルートもブッシュに遮られてきたので、沢沿いの台地上を辿るべく沢を離れ、数メートルほどの崖を上る。と。崖を上り切ったところに、台地を開削した荒削りの水路があり、女取川に沿って上流に続く。この水路は先ほど棒道で跨いだ石橋に続く水路ではあろう。水路に沿って上流へと進めば女取湧水の源流点にたどり着くだろうと先に進む。 しばらく水路に沿って進むと、水路は女取川の谷筋に合流する。合流点から先にしばらく進む。が、湧水点が見えてこない。メンバーのうちふたりは湧水・用水フリークであり、途方に暮れながらも、あちこち彷徨ことは一向に苦にならないのだが、湧水・用水に特に思い入れもないだろう他2名のメンバーを引き廻すのは申し訳ない。ということで、ここで撤収とし、用水路に沿って成り行きで下り、女取川の沢遡上をはじめた地点に戻る。
後にチェックしてわかったのだが、もう少し我慢すれば湧水点があったよう、が、例によって後の祭り。事前準備を「極力しない」を基本とする成り行き任せの散歩であるので、致し方なし。で、その後の祭りの女取湧水ではあるが。八ヶ岳南麓の標高凡そ1,200m、深い山林の中の大きな岩の下から湧く、とのこと。湧水量10,000トン/日を誇り、この水は女取川となり、流域の地を潤し、又、長坂町の飲料水としても利用されている。また、女取川と途中で分かれ、台地上を開削し流れていた用水路は、より高い標高地域を潤すために造られたものではあろう。
女取川、という、何とも面妖な名前の由来は、文字通り、女性を引き込む川、との伝説から。その昔、谷戸村に住む若者が奉公先の一人娘と相思相愛委に。が、娘に会いにいく途中で、折からの雨で増水した川でおぼれ死ぬ。その若者の母親は、娘を恨み、「川の主となり、息子の仇を討つ」と川に身を投げる。その後、川の近くを通る若い女性は淵に引き込まれるようになった、とか。なんともよくわからないロジックではある。

防火帯
沢を越え、緩やかな坂を上り台地に上る。道端には十一面観音、千手観音、聖観音などが佇む。周囲は別荘地帯だろうか、林の中に家屋が見えてくる。ほどなく北からの道が合流するが、その先は道幅が急に大きくなっている。今まで辿った棒道野小径に比べて不自然に広い。チェックすると、防火帯として樹木を伐採し道を広くしているようである。防火帯の辺りにも、千手観音、聖観音などが佇んでいた。
防火帯の辺りを辿っていると後ろから白馬に跨った2組ライダーが追い抜いていく。棒道に騎馬隊、と戦国の世を想い描く。近くに牧場や乗馬クラブや馬術競技場があるので、その関係の人たちであろう、か。 先に進み南のサントリーの工場敷地が切れるあたりで防火帯は切れ、道幅も狭くなる。更に進み北の八ヶ岳牧場に折れる道を越えたあたりに坂東16番千手観音が佇み、棒道の観音さまの立像は終わりとなる。八ヶ岳牧場へと北に続く道の先に冠雪の八ヶ岳が美しい。

火の見跡
道の南に小淵沢ゴルフ場を見やりながらすすむと道が交差し、道の交差する手前の北に「火の見跡」。信玄ゆかりのものかと思うも、説明も何もない。チェックすると、戦後植林されたこの一帯の山火事の監視所跡とのこと。火の見櫓があったようだが、老朽化され取り壊された、とか。それにしても、なんのために設置されているのが案内に主旨が不明である。






手作りパンの店虹
交差点より先にも棒道は続くが、今回は棒道散歩はここまでで終了。火の見跡より八ヶ岳高原ラインを右手に見て、小淵沢カントリークラブに沿って南に下る道を進む。ほどなく「手作りパンの店虹」。パン好きの私のために昨日M氏がわざわざこのお店のパンを用意してくれていた。おいしく頂いたパンを再び買い求め先に進む。




延命の湯
先に進むと道は八ヶ岳高原ラインと合流。更に進み、八ヶ岳高原ライン・馬術競技場入口交差点を左に折れる。交差点脇に「スパティオ小淵沢」。レストラン、宿泊施設、そして日帰り温泉「延命の湯」がある。延命の湯は地下1500mから湧き出すミネラル豊富な温泉とのことである。平成1998年オープン。延命の湯に限らず昨日の尾白の湯も古来からの湯ではなく、つい最近できたものである。古来より八ヶ岳南麓には温泉脈は確認されていなかったが、技術の進歩により、地下1000m以上でもボーリングが可能となった。こういった技術の進歩を背景に、温泉湧出の可能性を信じ幾多の温泉掘削が計画されたのだろう。延命の湯は平成7年(1998)の7月に掘削開始、12月に温泉掘削に成功した。
延命の湯のあるスパティオ小淵沢で名物の延命蕎麦頂き、一路甲斐小泉駅へと。 別荘街の道を進み、小深沢川を渡り豊平神社に。そこからは小海線に沿って更に道を進み八ヶ岳山麓より流れを発する女取川、古杣川、高川を越えて小荒間番所跡へと戻る。駐車場で車に乗りM氏宅でしばし休息し、再会を約して家路へと。
9時23分スタートし、14時11分駐車場到着。おおよそ5時間、15キロの散歩となった。それにしても、小淵沢というか北杜市って、素晴らしい山稜に囲まれ、ダイナミックな河岸段丘、開析谷、八ヶ岳山麓からの河川、湧水、そして最近のものではあろうが、幾多の温泉と魅力的な場所である。繰り返しになるが、多くの友人が「八ヶ岳山麓を」というセリフに、やっとリアリティを感じることができた今回の散歩となった。
 先日、秩父・信州往還を信州最東端の川上村からはじめ、十文字峠を越えて秩父の栃本へと辿った。その道すがら、北杜市の小淵沢に移り住んだ元同僚宅を訪ねたのだが、あれこれの話の中から、雪が降る前に北杜市にある幾多の湧水と武田信玄が信濃侵攻のために整備したと伝わる「棒道」を歩きましょう、ということになった。

話のきっかけとなったのは平成24年(2012)10月24日付けの日経新聞に掲載された「戦国武将思い 歩く古道;山梨北杜市」の記事。「雑木林の間をぬう棒道には途中、石仏が点在する」といったキャプションのついた、観音像が佇む雑木林の写真の魅力もさることながら、フックがかかったのは棒道のスタート地点辺りにある「三分一湧水」の記事。信玄が下流の三つの村に均等に流れるように三方向に水路を分ける、とあった。
湧水フリークとしては、「三分一湧水からはじめ棒道を歩きましょう」、と話を切り出したのだが、M氏によれば、この辺りには三分一湧水だけでなく大滝湧水とか女取湧水など、湧水点が多数ある。と言う。また小淵沢近辺には幾多の温泉も点在するとのこと。小淵沢と言えば、清里や八ヶ岳への通過点としてしか認識していなかったので、少々の意外感とともに、湧水フリーク、古道フリークとしては湧水・古道が享受でき、かつまた温泉にも入れる、ということで早々に小淵沢再訪を決めたわけである。
今回のメンバーは十文字峠を共に越えた同僚のT氏と幾多の古道・用水を共に歩いたS氏。スケジュールを決めるに、行程は1泊2日。初日は東京を出発し、大滝湧水を訪ねた後、清里に移住した元同僚であり山のお師匠さんであるT氏宅にお邪魔。その後、甲斐駒ケ岳山麓の尾白沢傍にある尾白の湯でゆったりしM氏宅に滞在。2日目は小海線・甲斐小泉駅近くの三分一湧水からはじめ、棒道を歩き甲斐小泉駅に戻る、といったもの。旧友との再会、山のお師匠さんへのご無沙汰の挨拶、湧水、古道、そして温泉など、ゆったりとしたスケジュールで、嬉しきことのみ多かりき、の旅となった。



初日
本日のルート;中央線小淵沢>身曾岐(みそぎ)神社>大滝湧水>川俣 川>清里>釜無川>尾白の湯

小淵沢
新宿を出て、特急あずさに乗り、2時間ほどで小淵沢に。駅に迎えに来てくれた元同僚宅で少し休憩した後に大滝湧水に向かう。途中に身曾岐(みそぎ)神社があるとことで、ちょっと立ち寄り。境内に入るに、結構な構えではあるのだが、古き社の風情とは少し異なる、曰く言い難い「違和感」を感じる。というか資金の豊かな新興宗教の施設のように思える。
如何なる由来の社であろうかと境内を彷徨と「井上神社」の石碑があった。由来書を読むと、元は東上野にあった「井上神社」を昭和61年(1986)にこの地に移し、神社名も「身曾岐(みそぎ)神社」と。
井上神社とは?チェックすると、江戸末期の宗教家である井上正鐵が伝えた古神道の奥義「みそぎ」の行法並びに徳を伝えるべく、明治12年(1879)に弟子によって建てられたもの。これだけでは今一つ神社の姿がわからなかったのだが、境内を出るときに鳥居に「北川悠仁奉納」と刻まれていた。北川悠仁さんって、歌手、というか「ゆず」の北川さんだろう。どこかで北川悠仁のご家族が宗教活動をしている、といったことを聞きかじったことがある。であれば、なんとなくすべて納得。

大滝湧水
身曾岐神社を離れ南に下り、中央高速をくぐり、道を西に折れ県道608号を少し進み、中央線を越えて大滝神社の鳥居脇に駐車。参道の先には中央線があり、神社には線路下のトンネルをくぐって向かう。
大滝神社の社は鬱蒼とした杉林の崖面に鎮座する。社殿左手にある樋から大量の水が滝となって落ちる。大滝湧水であろう。石垣上の社殿は、ほぼ南東を向き、本殿は覆屋の中に鎮座する。案内板によると「武淳別命が当地巡視のおり、清水の湧出を御覧になり、農業の本、国民の生命、肇国の基礎と賞賛し自ら祭祀し大滝神社が起こったと伝えられる」とある。祭神の武淳別命(たけぬなわけのみこと)とは、『日本書紀』にある、崇神天皇によって、北陸、東海、西道、丹波の各方面に派遣された四道将軍のうち、東海に派遣された 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)のことであろう、か。
社殿の西側には石祠が立ち並び、石祠の脇から崖面に急な石段があり、石段上には大きな磐座が鎮座している。仰ぎ見るに、磐座の辺りは如何にも荘厳な風情。石段の上り口には注連縄が低い位置に張られており、石段に足を踏み込むには少々恐れ多い雰囲気であり、一同顔を見合わせるも。結局、石段を上るのを止めにした。
で、せめて磐座に建てられた石碑の文字を読もうと思えども、どうしても読めない。それもそのはず、後からチェックするに「蠶影太神(こかげおおかみ)」と記されている、とか。「蠶」は「蚕」の旧字体。読めるわけもなかった。蠶影太神とは養蚕の神。つくば市の蠶影神社が世に知られる、と。
社殿にお参りし大滝湧水へ。その大滝湧水は崖面下の岩の間からわき出ていた。湧水点は何カ所もあり、その水を集め、太い丸太をくりぬいた樋を通し滝となって落ちる。圧倒的であり圧巻の水量である。「延命の水」とも称される大滝湧水の湧出量は、八ヶ岳南麓に幾多ある湧水の中でも最大の22,000トン/1日を誇る。木樋から滝となって落ちる下には山葵田があり、境内を少し離れた池ではニジマス、ヤマメの養殖がおこなわれているようである。釣り堀らしき施設も見受けられた。
湧水後背地の山林は滝山と称し江戸時代は御留林となっていた。水源涵養のため甲府代官が民有地を買い上げ、湧水の保全を図ったとのこと。此の地域の井戸水が濁ったとき大滝湧水を井戸水に注げば清澄な水になる、といった言い伝えの所以である。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

八ヶ岳南麓高原湧水群
この大滝湧水に限らず、八ヶ岳の山麓には幾多の湧水がある。八ヶ岳の西側を除いた東側、というか南麓だけでも56箇所、名前のついている湧水だけでも28カ所もあるとのことである。これらの湧水を総称して、八ヶ岳南麓高原湧水群と称する。
何故に八ヶ岳山麓に湧水が多いのか?チェックすると、八ヶ岳の成り立ちが火山であったことにその要因があるとのこと。今は静かな山稜である八ヶ岳であるが、はるかな昔、この山は火山であった。フォッサマグナ(中央地溝帯)の東端(西端は新発田小出構造線または柏崎千葉構造線)である糸魚川・富士川構造線上にある八ヶ岳は、西端から東端までおよそ100キロにわたって8000mほど日本列島が一挙の落ち込み中央地溝帯ができたときに火山活動をはじめた火山群のひとつ。地溝帯が落ち込んだときにできた南北の断層を通り地下のマグマが上昇し火の山となったようである。八ヶ岳のひとつである阿弥陀岳など、今から20万年ほど前は富士山より高い山容であったが、大噴火で山容が一変した、とか。
火山と湧水の関係は?火山は「火の山」、と称されるのは当然であるが、同時に「水の山」とも称され、天然の貯水池ともなっている。その最大の要因は、火山は浸透力が非常に高い、ということにある。火山の山麓上部は溶岩帯であるが、この溶岩は水をよく透す。溶岩の浸透力が高いというのはちょっと意外ではあるが、溶岩の割れ目から水を透すようである。
また、火山の山麓は表土が浅く、火山礫や火山砕屑物が地表に現れている。そのため、水が地下に浸透しやすくなっている、とか。特に、八ヶ岳の山麓は氷河期と間氷期との間に巨大な湖が形成されたようであり、八ヶ岳山麓はその時に堆積した湖成層(湖ができたときにに堆積した砂層)からなっており、その浸透力は特に高い、とのことである。
こうして地表からどんどん浸透してきた水は地下水となり溶岩の中を通って火山の中に天然の貯水池をつくる。八ヶ岳の中には西側山麓に規模の大きい滞水層、東側山麓に少し規模の小さな帯水層がある、とか。山中に浸透し帯水層に溜まった水は溶岩中や泥質層の境目から地表に湧き出すことになるわけだが、八ヶ岳南麓湧水群は標高800から1,2000mと1,500mから1,600m地帯に点在する、とのこと。標高1,600m付近の湧水は浸透後2年から7年,標高1,200m付近の湧水は20年から30年、標高1,000m付近の湧水は50年60年かけて地表に湧き出る、とのことである。大滝湧水の標高は820mであるので、60年以上八ヶ岳の山中で濾過され湧き出たものではあろう。

川俣川渓谷
大滝湧水を離れ、清里に住むT氏宅に向かう。県道11号・八ヶ岳高原ライン を清里に進む途中に巨大な渓谷が現れる。渓谷は川俣川渓谷。渓谷には全長490m、谷の深さ110m、橋脚74mの八ヶ岳高原大橋が架かる。進行方向前面には八ヶ岳が聳える。
それにしても巨大な渓谷である。フォッサマグナの西端である糸魚川・富士川構造線は、このあたりを南北に続いているわけであり、フォッサマグナの断層かとも思ったのだが、それにしては渓谷の左右の段差が感じられないので断層ではないようである。チェックすると、この渓谷は今から20万年から25万年前に活発な火山活動を繰り返した八ヶ岳の噴火によってできた溶岩台地が八ヶ岳から湧き出る清流によって浸食されて形成されたもの。川俣川溶岩流と称される噴火で埋め尽くされた台地が、気の遠くなるような時間をかけて開析され、現在のような雄大化な渓谷をつくりあげたものだろう。
川俣川渓谷には渓谷に沿って遊歩道が整備されているようであり、「吐竜の滝」と称される湧水滝もあるようだ。湧水滝と言う意味合いは、湧水が透水層の下部にある岩屑流の地層との境目から滝として吐き出される、とのことである。因みに、岩屑流とは今から20万年から25万年前に火山活動の最盛期を迎えた八ヶ岳の最高峰阿弥陀岳が磐梯山のように山体崩壊を起こして発生したもの。厚さは最大200mにも達し、甲府盆地を覆い尽くして広がり,御坂山地の麓に広がる曽根丘陵にぶつかって止まるまで50㎞以上の距離を流れ下った、とのことである。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

釜無川
清里のT氏宅でしばし時を過ごし、本日の最後の目的地である尾白の湯に向かう。尾白の湯は八ヶ岳および茅ヶ岳山麓に広がる火山性の台地部分と南アルプス山麓の沖積平野を区切る釜無川の南、旧甲州街道・台ケ原宿の近くにある。県道28号を南に下り、中央道長坂IC辺りまで戻り、その後の道順は運転手M氏任せ故に定かではないが、ともあれ、釜無川の谷筋に向かってどんどん下る。 釜無川の両岸は大きな河岸段丘が作られている。大滝神社の標高が860m、釜無川の川床の標高が630mであるので、中央線の走る台地あたりから直線で2キロ強を200mほど下ることになる。幾層もの段丘面と段丘崖によって形作られているのであろう。緩やかに下る段丘面と釜無川の谷筋、そしてその南に広がる沖積平野と更にその南に聳える南アルプスの山稜。誠に美しい。
釜無川は南アルプス北端、鋸岳に源流を発し、当初北東に向かって流れ、その後中央線信濃境駅の西で南東へと直角にその流路を変え、甲府盆地に入って笛吹川と合流する。笛吹川と合流するまでの流長61キロを釜無川と呼ぶが、河川台帳の上では富士川となっている。専門家でもないので詳しくはわからないが、源流部から北東に向かうのは釜無川断層に沿って流れ、南東に方向を変えて甲府盆地へと向かうのは糸魚川静岡構造線に沿って下っている、とか。

「釜無」の由来については「甲斐国志」をはじめ各種の説があり、下流に深潭(釜)がないので釜無川、河が温かいので釜でたく必要がない、河川のはんらんがないので釜無など。しかし巨摩地方を貫流する第一の川という意味で巨摩の兄(せ)川がなまったと見るべきであろう。明治時代から水害が続き、1959(昭和34)年の7号、伊勢湾台風では大きな被害を受けた。韮崎市南端の舟山には舟山河岸の碑があるが、明治中期まで舟運があった証拠である。 釜無川の由来は、下流に「深い淵(釜)」が無いから、とか、巨摩地方を流れる第一の河川>巨摩の兄(せ)>釜無、など諸説ある。

少々脱線するが、釜無川の川筋をチェックしていると、富士見の辺りで釜無川に合わさる支流の上流部が、宮川の支流の上流部と異常に接近している。釜無川は富士川水系、宮川は天竜川水系である。大平地区を流れる釜無川の支流の一筋北の支流と、同じく大平地区を流れる名もなき宮川支流の間は100mもないように見える。これが天下の富士川、天竜川の分水界であろうが、それにしてもささやかな分水界(平行流間分水界)である。
断線ついでに、釜無川から分水される用水路があるが、この水は宮川水系へと流れているようである。分水界を越えた水のやり取りとは、なかなか面白い。これを水中分水界と呼ぶようだが、水中分水界はここだけでなく(、釜無川の支流の立場川には山麓に「立場堰」が造られており、そこで分水された水は宮川水系へと流れている(『意外な水源・不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』)。

旧中山道台ケ原宿
釜無川の谷筋に下り、国道20号を西に向かう。国道は釜無川とその支流である尾白川に挟まれた台地を進む。道は程なく旧中山道台ケ原宿に。国道を外れ旧道に入り、古き宿場の雰囲気を楽しむ。もう日も暮れ、時間もないので、M氏の案内で北原家と金精軒に。ふたつとも古き宿場の趣を伝える。北原家は寛延3年(1750)年創業。260年の伝統をもつ造り酒屋。「七賢」との銘柄の名前の由来は、天保6年(1835)に信州高遠城主内藤駿河守より「竹林の七賢人」の欄間一対を贈られたことによる、と。金精軒は明治36年(1903)創業。「信玄餅」は金精軒の商標登録、とか。因みに「台ケ原」の由来は「此の地高く平らにして台盤の如し」との地形より。

尾白の湯
台ケ原宿を離れ、尾白川に沿って南アルプスの山麓へと向かう。尾白の由来は「甲斐の黒駒」から。甲斐駒ケ岳東麓に産する黒駒は、馬体が黒く鬣(たてがみ)と尾が白く神馬として朝廷に献上されていた、と。
ほどなく尾白の湯。平成18年(2006)創業開始の新しい温泉。「温泉の成分は日本最高級を誇るナトリウム・塩化物強塩温泉」「イン含有量が1kg当たり31,600mgで、有馬温泉に匹敵する日本一の高濃度温泉」などとある。脱衣場には『大地ロマンの湯 本温泉は、プレート運動による大変動のドラマにより生まれた、大展望と超高濃度の温泉であり、大地の神様『ガイヤ』が授けてくれた『地球の体液』と呼んで良いような最高級の温泉相である(大月短期大学の名誉教授 田中収)』ともあった。ともあれ尾白川の地底1500mから湧き出るマグマの賜物であろう。古くから有名な有馬温泉と同じ『塩化物強塩温泉』の源泉(赤湯)は露天風呂だけあとは全て水で10倍に薄めた湯を使っているのとことであった。
有難味はよくわからないが、とりあえずゆったりと温泉に浸る。それにしても小淵沢近辺には温泉が多くある。パンフレットを見ると「フォッサマグナの湯」とか「延命の湯」とか10以上もある。なんとなく、そんなに古そうではないようではある。昨今の日帰り温泉ブームの影響だろう、か。 北杜市散歩の初日はこれでおしまい。散歩することはほとんどなかったが、湧水と八ヶ岳の関係とか、釜無川の段丘面とか、地形フリークには嬉しい一日ではあった。

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