2012年12月アーカイブ

紅葉の頃、会社の仲間と秩父路へ、との話になった。さて、どこに行こうか、と少々考える。メンバーは沢ガールデビューした「怖いもの知らず」のうら若き女性が中心。ちょっと手応えがあり、かつまた紅葉も楽しめるところ、ということで秩父の西奥の小鹿野にある32番札所法性寺奥の院を訪れることにした。法性寺には二度訪れたことはある。が、二度とも奥の院はパス。時間が無かった、ということもさることさることながら、岩場をよじ登っての大日如来参拝、巨大なスラブの背を辿っての岩船観音参拝は、高所恐怖症の我が身には少々荷が重く、見ないふりをしていたわけである。
ルートを定めるに、法性寺奥の院への直球勝負では面白くない。自分ひとりで散歩するぶんには、だらだら、成り行きで歩けばそれで十分満足ではあるのだが、同行者を率いる以上、おのずと「起承転結」のルートとなってしかるべし、とプランを練る。






で、あれこれ考え決めたルートが、西武秩父からバスで小鹿野まで行き、そこから峠越えの巡礼道を法性寺に。法性寺の奥の院で少々盛り上がり、仕上げは長瀞での紅葉見物といったもの。これであれば、起=峠越えの巡礼道>承=落ち着いた法性寺>転=一転、奥の院の怖い岩場>結=結びは、長瀞の美しい紅葉見物、と構成としてはそれなりのものとなった、かと。同行者にもそれなりの気持ちの揺れも与えられることを期待しつつ、晩秋の11月18日、一路秩父へと向かった。




本日のルート;西武池袋;7時半・秩父5号>西武秩父8時58分>西武秩父駅;西武バス・小鹿野車庫・栗尾行初;9時15分>小鹿野役場着;9時51分>徒歩;大日峠経由32番法性寺(1時間)>到着おおよそ11時>法性寺奥の院(おおよそ1時間)>松井田バス停まで4キロ歩く;おおよそ1時間>松井田バス停発14時51分>秩父駅着15時1分>長瀞>西武秩父>西武池袋

西武秩父駅
西武池袋7時半・秩父5号に乗り西武秩父に8時58分着。駅前のバス停で「小鹿野車庫・栗尾」を待つ。当初の予定では駅前の観光案内所で資料など手に入れようと思っていたのだが、開館時間前で利用できなかった。

蒔田川筋
西武秩父発9時15分の「小鹿野車庫・栗尾」行き西武バスに乗り、小鹿野町役場に向かう。国道299号を進み荒川に架かる秩父橋を渡り、蒔田で赤坂峠、といっても標高200mといった長尾根丘陵の北端部といったところだが、その峠を越え長尾根丘陵の西側、荒川の支流である蒔田川の谷筋に入る。長尾根丘陵は50万年前に荒川が流れていた段丘面である。蒔田川の谷筋が荒川のそれに比べてそれほど深くないのは、蒔田川の上流部が荒川や赤平川の浸食により切断されたため、と言う。上流部分が切断されたため水流が少なくなり浸食が進まなかったのだろう。とは言うものの、はるかなる大昔の話ではある。

赤平川筋
蒔田川の谷筋、というか、浅い蒔田川を囲む水田地帯をしばらく進むと道は再び丘陵の峠に上る。丘陵名は不詳だが、その丘陵の南端の千束峠を越え荒川の支流・赤平川を渡る。赤平川は国道299号を北西に進み上州に抜ける志賀坂峠の南に聳える諏訪山に源を発し、秩父の皆野で荒川に合流する。

小鹿野_9時51分;標高248m
谷筋を進み小鹿野用水と交差するあたりで国道299号を離れ、小鹿野の町に入り、9時51分小鹿野役場で下車。小鹿野はこれで3度目。すべて秩父観音札所巡礼がらみである。最初は小鹿野の町を越え、栗尾バス停で降り、4キロほど歩き秩父観音31番札所・観音院を訪れたとき。その時、この小鹿野役場まで戻り、今回巡礼道を辿る32番札所・法性寺までタクシーを利用した。時間無きが故ではある。二度目は札所の写真を撮るだけのために車で秩父を巡ったとき此の地に訪れた。
三度目の小鹿野。小鹿野は埼玉県最西端、群馬県と接する秩父郡最奥の町である。もっとも、それは「現在」の東京を中心として結ばれた道路交通網を基にした物流の視点でのこと。かつて、物流は峠を越えての人馬が担っていた時代の視点で見ると、小鹿野の物流におけるポジショニングが大きく変わって見える。上州と境を接した秩父の最奥部の町小鹿野は、上州そして更には上州を介して信濃と結ぶ物流の拠点となって現れる。
往昔の小鹿野の経済圏は、現在の国道299号を進み志賀坂峠を越えた上州中山郷(群馬県上野村)までも含まれていた、と。当時、山間の集落、謂わば「陸の孤島」であった中山郷の産物は峠を隔てて接する小鹿野に集まっていたようだ。また、その上州の中山郷は十石峠(かつて米のとれない上州地方西部の山間部に、信州佐久平から一日十石の米を運び込んでいたことが地名の由来)を越えて信濃とつながっていた。この往還は江戸と信州を結ぶ上州道とも呼ばれ、明治・大正の頃は絹織物を運ぶ重要な道として栄えていたようである。

かくして。小鹿野は古くから開けていた。その歴史は古く、平安時代に編纂された『倭名類聚抄』には既に「巨香郷(こかのごう)」として記録されている。小鹿野の地名は、古代神話で日本武尊がこの地を「小鹿の野原」と呼んだことに由来する、とか。「日本武尊を小鹿が案内した原」といった意味である。小鹿野には広大な野原があるわけでなないので、「原」はこの場合、「渡来人の住む地域(秦>幡羅>ハラ>原)ではないか、との説もある。真偽のほどは定かではないが、実際小鹿野には古墳が残る、とも。

古代から中世にかけては秩父武士団が台頭。戦乱の世には信州・上州・秩父往還筋故に、甲信越勢力の関東侵攻のための拠点とされ、この地の争奪合戦が繰り広げられたようでもある。小鹿野の町並みを更に奥に進んだ三山地区の要害山は永禄12年(1569)には武田と後北条の戦いの際の後北条方の物見跡、とも。耕地面積が少なく林業と養蚕業で生計を立てていた小鹿野地域は、江戸時代に入ると江戸と信州を結ぶ上州道・中山道裏街道における秩父路最後の宿場町として賑わいを見せた。また、その街道故に上州山間部をも経済圏に入れた西秩父の経済の中心として栄え、山間の僻地にもかかわらず六斎市が立つなど、市場町として、秩父市内=大宮郷とは異なった独自性を保った町として発展したようである。
小鹿野は江戸の頃は幕府直轄地であり、明和2年(1765)、八代将軍徳川吉宗の時代に代官の出役所として発足したのが始まりと言われる本陣跡もあるようだ。秩父市内=大宮郷は確か忍藩領であったと思うが、そのあたりの統治携帯の違いも、独自性の一因、かも。

宮沢賢治の歌碑
小鹿野役場バス停脇には休憩所があり、小鹿野近辺の地図や観光パンフレットなどが置かれている。休憩所の前には「宮沢賢治の歌碑」。「山狭の 町の土蔵のうすうすと 夕もやに暮れ われらもだせり」と刻む。賢治が地質調査で秩父を訪れた折に詠んだもの。
賢治は小さいころから鉱物・植物・昆虫などに興味を持っていたが、特に鉱物が好きで「石コ賢さん」とも呼ばれていた、とのこと。秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層に恵まれ、我国の近代地質学発祥の地である秩父を訪れたのは盛岡高等農林学校2年生、二十歳の時。大正5年(1916)9月1日から7日まで長瀞の「岩畳」に代表される岩石段丘や「ようばけ」と呼ばれる赤平川の露出崖面(よう=夕日、ばけ=はけ>崖のこと。夕日に照らされた崖といった意味だろう)、そしてこの小鹿野から三峰山に登り、玄武岩質の露出した凝灰岩の調査をおこない、三峰から影森の石灰洞などを調査し秩父大宮に戻り、盛岡に帰っている。
賢治はこの地質調査の旅の間に20ほどの歌を詠んだ。いつだったか長瀞を訪れたとき、「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ」と刻まれた歌碑があったが、これは岩畳の対岸にある虎の毛の模様を思わせる「虎石」を読んだもの。また、赤平川の「ようばけ」では「さはやかに半月かゝる薄明の秩父の狭のかへりみちかな」と詠む。

赤平川に架かる金園橋
バス停を離れ、大日峠への道が分岐する郵便局まで町を戻る。確かに郵便局の対面に、まことにささやかな「巡礼道の札」があった。気をつけていなければ見落としてしまいそうである。
道を右折し民家の間の小道を進むと庚申塚があり、そこを左折し先に進むと欅の巨木が道脇に聳える。道はこの古木の辺りから緩やかに右に曲がり下ってゆくと赤平川に架かる橋に出る。橋の名は「金園橋」。橋脇に注ぐ沢の名前が小判沢。小判>黄金>金の園との縁起故の命名とか。

小判沢集落
橋を渡ると樹林の中に入る。坂を上ると集落がある。小判沢と呼ばれる。誠に有難い地名である。地名の由来は不詳。金山でもあったのだろうか、ミヤマグルマのような小判を連想させる草花が咲くのだろうか、はたまた、養蚕が盛んな秩父では米粉団子で「繭玉飾り」をつくり神棚にお供えする風習があるようだが、その団子が繭のかたちや、小判などの縁起のいい飾りにするとのこと。そんな風習に由来する沢名前であろうか、などと如何なる根拠とても無い妄想を楽しむ。


そんな小判沢集落の入り口の小祠に「こんせい宮」が佇む。金精様とは男性のシンボルを祀る。奥日光と片品村を繋ぐ金精峠が有名だが、散歩の折々で金精様にはよく出会う。いつだったか、奥多摩の川井駅の先、百軒茶屋キャンプ場から「棒ノ折」への急登手前に金精様が祀られていたことを思い出す。金精様に限らず、石をご神体とした社によく出合う。人々の原初的な信仰は巨石・奇岩より起こったとも言われる。古代の遺跡からは石棒が発掘されるとも聞く。石には神が宿り、それが豊饒=子孫繁栄の願いと相まってハンディな「金精さま」へと形を変えて伝わってきたのだろう、か。

巡礼道_10時25分;標高260m
集落を抜けたあたりに児童公園がある。そこから左に下る巡礼道の指導標があり、「大日峠を経て32番へ2.4km」、とある。
細い山道を下って行くと、沢に出る。これが小判沢ではあろう。小判のように光輝くこともなく、少々薄暗い杉林の中を流れる沢にかかる小橋を渡り、沢に沿って樹林の中を進む。丸木を並べた橋を渡ったり、沢の小石を踏んで渡るなど、沢をしばらく進むと道は沢から離れ峠へと向かう。



道は鬱蒼とした杉林。明るいといった雰囲気ではないが、巡礼道っぽくて、それなりの雰囲気がある。道脇には遍路道の札がかかっているので道を間違うことも、ない。

秩父の地層
小判沢では沢に沿って地層が露出している箇所も見受けられる、とか。門外漢にはよくわからないが、上で鉱物に強い興味をもった宮沢賢治が地質調査に訪れた、とメモしたように、秩父は秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層で知られるようである。
周囲を山にかこまれた秩父盆地は、盆地の中に舌状丘陵が複雑に並び、荒川や赤平川は深く刻まれた谷筋を構成する。地形フリークには誠に魅力的な地形である。
その複雑な地形を秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層の観点で整理するに、秩父中・古生層とは秩父を含む日本列島は海の底にあった時期。海底には土砂が堆積し分厚い地層が形成された。今から3億年前のことである。この時期は地球の歴史の中で、古生代から中生代と称されるため、この地層を秩父中古生層と呼ぶ。中古生層は日本全国に分布するが「秩父」中古生層と「秩父」という形容詞が付くのは、秩父ではこの地層が表面に露出し、また、この地層が最初に発見されたのが秩父であった、ため。

2億年前の中生代の末頃になると、依然海底にあった日本列島は、海底火山による造山運動がはじまる。日本列島は隆起と沈降を繰り返し、時には、高地の一部が海上に顔を出しはじめた、とか。奥秩父の高山はこのころ海上に頭を擡げたの、かも。
6000万年前に始まる新生代に入ると、日本列島が次第にその形を現してくる。1700万年前には日本列島が大陸から分離され、秩父は陸と海の境となったようである。奥秩父の山々が海岸線を形作り、秩父盆地が湾となっていた、とか。その後、海進期・後退期が繰り返され、その過程で陸地の浸食が進み、現在のような複雑な地形となっていったのであろう。
海岸線を形成していた奥秩父山系と湾となっていた秩父盆地の境目には大きな断層があり、この断層面には、秩父中古生層から現在までの地層が観察できるようである。秩父にくれば、日本列島の歴史がわかる、とか。宮沢賢治が秩父を訪れた所以である。

大日峠_10時54分;標高394m

しばらくすすむと、杉林が明るくなり尾根に近づいたことがわかる。沢を離れておおよそ30分弱。標高390mほどの大日峠に到着。沢の標高が250mほどであるので、140mほど上ったことになる。峠の見晴らしはよくない。
赤い幟の立つ峠には二体の石像が佇む。一体には傘、というか上屋があるが、野ざらしの像のほうが古そうでもある。また、像は仏像と言うより、神像といった風情でもある。像はそれほど古そうではない。秩父札所を200回以上も辿った東京在住の個人篤志家の建立、とも言う。
像の傍らには大正8年(1919)に建てられた石の道標。正面の右を示す手の形は「小鹿野道;次ノ大字ハ小鹿野町大字下小鹿野ニシテ懸道マデ約二十町」「左を示す手の形は「札所三十二番柿ノ久保」、右側面には「從是東南秩父郡長若村」と刻まれる。

柿の久保集落_11時5分;標高296m
峠で少し休憩し、里に向かって下ると六十六部供養塔。六十六部供養とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部(六部とも)と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。
六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた。この供養塔がこのような六部僧の供養のためのものか、巡礼を終えた六部尊の記念のためにつくられたものか、場所から考えれば前者のようにも思えるのだが、不詳である。
六十六部供養塔を見やりながら15分ほど下ると樹林から抜け出し民家が現れる。柿の久保集落である。民家の横を抜けると車道にでると、角にはお地蔵様が佇み、「32番まで0.5km」の指導標。道脇の諏訪神社に一礼し100mほど進むと32番札所・法性寺に到着した。

32番札所法性寺_11時13分;標高276m
11時13分、法性寺に到着。道脇の仁王門の前の広場には小鹿野町営バスの停留所や休憩所を兼ねたお手洗いがある。町営バス12時7分法性寺発の小鹿野町営バスに乗れば、松井田バス停下車;12時14分、そこで西武バス松井田バス発;12時41分に乗るのがベストプラクティスではあるが、奥の院まで辿れば結構時間が厳しそう。成り行きで対応することにして、とりあえず法性寺の仁王門をくぐる。

結構迫力のある仁王様に一礼し、79段有るという急な階段を上ると納経所。納経所の隣が本堂。本堂には薬師如来が祀られる、と。本堂の前に舟をこぐ観音像を描いた額。ために、この寺は、「お船観音」とも呼ばれる。奥の院のある山上の岩場が大きな船の舳先の形をしている、と。ために、岩船山と。またここに建つ観音様を、岩船観音と呼ぶ。本堂前の奥の院遙拝所から、尾根に佇む観音様がかすかに見える。









観音堂
本堂の先の小高い箇所には観音堂。頃は晩秋。紅葉が美しい。途中の毘沙門堂にお詣りし、本堂から更に上に、100mほど石段というか、岩を削った山道をのぼったところにある。享保4年(1719)につくられた三間四方、宝形造りに回廊をめぐらせた木造懸崖造りの観音堂は結構な構え。縁起では行基菩薩が観音像を彫っておさめた、と。また寺伝には、弘法大師も登場する。 『大般若経』六百巻を書写し納めたとか。
扁額には「補陀巌」と見える。補陀巌とは、聞思修とも称されるが、仏の教えを聞き、その法を理解し、教えを実践修行しりに至る三段階の修行の教えを意味する。正面には船に乗ったお舟観世音の額が飾られているが、そこきは三十二番般若寺とあった。
観音堂に縁起絵も飾られる。「豊島権守の娘 或る時犀が渕に飛入りし一人の美女を舟に乗せ助けしは天冠の上に笠をかぶりし御本尊なり」とある。 悪魚に魅入られ身を投げた豊島権守の娘を助けたのが岩船山の観音さまであった。ということ。この縁起絵と同様の『観音霊験記』を広重が描いている。

観音堂の背後には大きな岩窟。太古秩父まで海が広がっていた頃にできた浸食のあとだと言われる。岩窟には幾多の石仏、石塔、祠の中にも仏が佇む。昭和6年(1931)に法性寺で発見された「長享二年秩父観音札所番付」によればこの岩窟が長享二年当時、般若岩殿と呼ばれた秩父第十五番札所と記され、また現在34の札所がある秩父札所は実正山・定林寺(現在、第17番札所)から日沢山・水潜寺(同34番札所)までの33ヶ所が札所として記載されている。33札所までしかない、ということは、諸説あるも室町時代の天文年間(1532-1555)に、現在の34の札所となる以前の、初期の秩父札所の資料、ということだろう。

般若岩殿と呼ばれた法性寺が秩父第十五番札所であったように、札所の番号も長享番付と現在の番付とは、現在の二十番以外はみな番付が異なる。一番は現在の十七番定林寺、二番が現在の十五番少林寺、三番が現在の十四番今宮坊、三三番が現在の三四番水潜寺、現在一番の四萬部寺は二四番で、順序が大きく異なっている。
順路が変わった要因は、秩父往還のメーンルートの変遷に負うところが大きいようだ。室町時代の秩父往還は名栗→山伏峠→芦ヶ久保→横瀬→大宮郷→皆野→児玉→鬼石が中心となっており、秩父観音巡礼はこの道か、吾野通りと称される、飯能→正丸峠→芦ヶ久保→横瀬→大宮郷がメーンルートであり、札所番付もその往還に沿ったものとなっている。
巡礼の最も盛んになった江戸時代になると、熊谷通りと川越通りの往還がメーンルートとなったようで、札所1番もこのふたつの往還が交差する栃谷の四萬部寺を一番として、二番真福寺を追加し、山田→横瀬→大宮郷→寺尾→別所→久那→影森→荒川→小鹿野→吉田と巡拝し、三四番を結願寺とした。秩父札所は秩父にしっかりとした檀家組織をもたず、もっぱら江戸の市民を頼りとした。秩父札所の水源は江戸の百万市民であり、その人々がやっとの思いで秩父に入り、最初に出会うお寺さまを、どうせのことなら一番札所とするほうがお客様のご接待、現在で言うところのマーケティング戦略としては効果的であった、ということだろう。
ご詠歌;ねがわくわ はんにゃの舟にのりをえん いかなる罪も浮かぶとぞき

法性寺奥の院
観音堂で寺の紅葉を眺めるも、心ここにあらず。少々怖い奥の院を想う。奥の院には、世に言われる、岩場・鎖場を辿っての大日如来、そして巨大なスラブ(岩の塊)の背を辿っての岩舟観音さまが待ち構える。高所恐怖症の我が身には少々荷が重い。
いつだったか、四国の石鎚山頂上の天狗岩進むも足が竦み「撤退」したこと、先日の四国の歩き遍路でも、岩屋寺の岩壁を掘り抜いた祠に架かけられた、ほとんど垂直の梯子の「上り下り」、特に下りの時の怖さなどを思い起こす。とは言うものの、「怖いもの知らず」のメンバーの「先達」としては、先頭に立ち範を示すに如かず。
観音堂から少し下ったところに巨石が二つ重なって、その間に隙間があるのだが、そこが奥の院への入口。巨石をくぐって山に向かう。

竜虎岩 胎内観音

行く手右側に岩壁が見えてくる、その下に着くと「竜虎岩 胎内観音」の案内。見上げると岩窟があり、そこから鎖が下がっている。一枚岩の岩盤には足がかりが刻まれており、鎖にすがり、足場を確保しながら岩窟に。岩窟には壊れかけた小祠が祀られていた。

小祠にお参りし、再び鎖にすがり元の道まで下る。「怖いもの知らず」の山ガールも少々勝手が違うようで、少々難儀していた姿が微笑ましい。






岩窟の石仏群
更に山道を進む。巨石の脇を通りすぎると急な上りとなる。岩盤に階段が刻まれており、鎖の手すりにすがって上ると岩窟があり、そこには幾多の石仏が横一線に並んでいる。いい表情の仏様である。







大日如来_11時55分;標高392m
岩窟脇に道標があり、「左 岩船観音 右 大日如来」とある。岩船方面へと進むとスラブ(巨大な岩塊)があり、断崖絶壁となっている。素晴らしい眺望。今時の感嘆詞である「やばい!」の言葉が山ガールの口から飛び交う。
スラブ上でしばし眺めを楽しんだ後、大日如来へと向かう。右手が絶壁となった狭い山道を、怖さのあまり左手の崖に生える草木を握りしめ進む。これだけでも結構怖いのだが、その先には岩峰が屹立する。大日如来はその岩峰の上に安置されている。宝暦2(1752)年、西村和泉守作とのことである。
垂直にも思いえる岩壁に下がる鎖に縋り上り終えると、次には絶壁の岩場が待っていた。右手の断崖を極力見ないようにして岩峰上に。岩峰上は二畳ほどのスペースの小さな岩窟となっており、その中に大日如来が佇む。宝暦2年(1752)、西村和泉守作とのこと。岩窟の周囲には鉄の手すりがあるのが心強い。私は早々に狭い岩窟の奥に縮こまるのだが、後から岩場を上る山ガールたちは、あろうことか、鎖から手を離し、手を振りその感激を示す。誠に以て、私にはあり得ない所行である。
メンバー全員が峰上の岩場に着く。大日如来を囲むその岩場は4,5人が肩を寄せ合って立つのが精一杯。高所恐怖症には縁遠い山ガールは鉄の手すりから手を話して眺望を楽しんでいる。動画を撮る余裕のある者もいる。見上げたものである。私は、鉄の手すりにつかまり、かつまた、狭い岩窟の奥に控えるのが精一杯。眺望は素晴らしいが足が竦む。



お船観音_12時13分;標高356m
眺望を謳歌するメンバーを尻目に、早々に下山準備。再び今度は極力左手の絶壁を見ないようにして、鎖に縋り岩場をへっぴり腰で降り、元のスラブの辺りまで戻る。
次の目標はこのスラブの先に佇むお船観音。予想ではスラブは一枚岩でできた「痩せ尾根の馬の背」といったものであったが、実際は断崖の逆側に岩場が緩やかな傾斜で広がっており、それほど怖いものではなかった。



スラブの先端に佇む観音様からの眺めも素晴らしかった。法性寺に二度も訪れながら、一度として辿らなかった奥の院は少々足は竦むも、それに十分に見合うところではあった。





法性寺を離れる_12時41分
岩船観音で時刻をチェックするに、既に12時。もうこれは12時14分発の小鹿野町営バスには到底間に合わない。後は成り行きで段取りを組むことにして奥の院から下山し、仁王門前まで下りる。時刻は12時36分。
昼食をとり、さて、ここで14時48分発の町営バスを待つか、国道299号までの4キロ程度を歩き、松井田バス停発;14時51分のバスに乗るか。少々悩むも、バスを1時間ほど待つよりも、歩くに如かず、ということで徒歩で松井田バス停に向かう。出発は12時41分。少し急ぎ足で歩いて、なんとか間に合う、といった段取りではある。

長若交差点_13時18分
法性寺のある谷筋を流れる「般若川」に沿って進む。ほどなく右手から「釜ノ沢」が合わさるがその手前に嬲谷集落。「なぶりや」と詠む。「からかったり苦しめたりしてもてあそぶこと」の意味。凄い地名ではある。
般若川と釜ノ沢合流した川筋が長い年月をかけて開析したであろう平坦な野を進み、長若交差点に。長留とか般若といった地名はあるのだが、長若って?チェックすると、明治22年(1889) 町村制施行により、長留村,般若村が合併して秩父郡長若村が成立した。昭和30年(1955)に小鹿野町と合併し、その村名は消えたが、交差点名はその名残ではあろう。
長若交差点では県道209号と県道43号が交差する。ふたつの県道は一時同じ道筋を南に走り、蕨平交差点で二手に別れ、43号は南西に向かい、秩父鉄道白久手前で国道140号と合流。一方の209号は南東に向かい、長尾根丘陵の南端を経て荒川を渡り、秩父鉄道影森近くで国道140号と合流する。

長留川
交差点を越え、県道43号を北西に進むと長留川(ながる川)。「長留・永留」は「長く留まる状態」を示す。「長留」は「母の胎内に16年留り、ヤマト姫を待つて8万年も宮に留まり、世に208万年間留まったといわれる「猿田彦」を現す詞とも言うが、まさか、猿田彦まで遡るとも思えず、一説には「水辺の上手の道」のことを示す、といった地形を現す表現に由来するの、かとも。単なる妄想。根拠なし。
その長留川の上流をチェックすると、馬場とか屋敷平とか、旗居、番戸原といった、いかにも武将の館があったような地名が残る。実際上記二つの県道が分岐する蕨平の辺りには長留館と称される中世の館跡がある、とか。地図をチェックするに、蕨平の辺りは、長留川の川筋を遡り雁坂道に至る道筋と、秩父・大宮への道筋の分岐点。往還を扼する拠点ではあったのだろう。

茅株稲荷神社
長留川を渡り茅株、長留地区を進む。道脇に茅株稲荷神社。茅株地区由来の社だろう、か。往昔は茅葺屋根のための茅、そしてその株は大切なものであったのだろう。茅株を掘り、そして移植する職人も多くいたのだろうか。これまた単なる妄想。根拠なし。





松井田バス停
道を進むと道脇に宮本の湯。農家屋敷と囲炉裏の湯。時刻は14時40分を過ぎている。バスを誘導する職員さんに松井田バス停を確認。道なりに進めば5分程度でバス停に着くとのこと。なんとか14時51分のバス間に合いそうである。急ぎ足でバス停に到着。数分待ってバスに乗り、西武秩父駅に向かう。




西武秩父から長瀞
西武秩父から長瀞までは秩父鉄道を利用し、長瀞の紅葉を楽しみ本日の散歩を終える。毎度のことながら、長瀞で田舎で子供の頃、おばーさんにつくってもらった「柴餅」、柴とは言いながら、サルトリイバラの葉で包んだお饅頭によく似た。秩父の田舎饅頭をお土産に一路家路へと。





■観音霊場について

○観音霊場巡礼をはじめたのは徳道上人
観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と言われる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れ、曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。黄泉がえった上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印とは、人というものはズルすること、なきにしもあらず、ということで、本当に三十三箇所を廻ったかどうかチェックするために用意されたもの。スタンプラリーの原型、か。

○観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇
今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。その後、河内石川寺の仏眼上人の案内で中山寺の宝印を掘り出し、播磨・書写山の性空上人を先達として、中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡った。これが契機となり観音巡礼が再興されることになるわけだ。
この花山法皇、熊野散歩の時に出合って以来、散歩の折々に顔を出す。鎌倉・岩船観音でも出会った。東国巡行の折、この寺を訪れ坂東三十三箇所観音の二番の霊場とした、と。花山法皇って、何ゆえ全国を飛び廻るのか、少々気になっていたのだが、観音信仰のエバンジェリストであるとすれば、当然のこととして大いに納得。鎌倉・岩船観音をはじめ坂東札所10ケ所に花山法皇ゆかりの縁起もある。が、もちろん実際に来たかどうかは別問題。事実、東国に下ったという記録はないようだ。坂東札所に有り難味を出す演出であろう。
それはともかく、花山法皇の再興により、霊場巡りは、貴族層に広まった熊野参詣と相まって盛んになる。さらに時代を下って鎌倉時代には武家、江戸時代には庶民層にまで広がっていった。ちなみに、播磨の国・書写山円教寺は西の比叡山と称される古刹。天台宗って熊野散歩でメモしたように、熊野信仰・観音信仰に大きな影響をもっている。中山寺は真言宗中山寺派大本山。聖徳太子創建と伝えられる、わが国最初の観音霊場。石川寺って、よくわからない。現在はもうないのだろうか?ともあれ、縁起の中には観音信仰に影響力のある人・寺を配置し、ありがたさをいかにもうまく演出してある。


○観音霊場巡礼の最初の記録は1090年
縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後三井寺の覚忠が那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。園城寺も三井寺も密教というか、熊野信仰というか、観音信仰に深く関係するお寺。熊野散歩のときメモしたとおり。で、「三十三ケ所」と世ばれていた霊場が「西国三十三ケ所」と呼ばれるようになったのは、後に坂東三十三霊場、秩父巡礼がはじまり、それと区別するため。

○坂東三十三霊場
鎌倉時代にな り、平氏追討で西国に向かった関東の武士団は、京都の朝廷を中心とした観音霊場巡礼を眼にし、朝廷・貴族なにするものぞ、我等が生国にも観音霊場を、と坂東8ケ国に霊場をひらく。これが坂東三十三霊場。が、この巡礼道は鎌倉が基点であり、かつまた江戸が姿もなかった頃でもあり、その順路は江戸からの便宜はほとんど考慮されていなかった。ために江戸期にはあまり盛況ではなかった、ようだ。

○秩父観音霊場の縁起
で、やっと秩父観音霊場についてのメモ:秩父巡礼がはじまったのは室町になってから。縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめた長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなど、観音さまと縁の深いキャスティングをおこなっている。秩父観音霊場巡礼のありがたさを演出しようとしたのだろう。で、この 伝説は、500年以上も秩父の庶民の間に語り継がれた、とのことである。

○はじまりは「秩父ローカル
とはいうものの、縁起というか伝説は、所詮縁起であり伝説。実際のところは、修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず。

○秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから
この秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから。江戸近郊から秩父に至る道中には関所がなく、また総延長90キロ、4泊5日の行程で比較的容易に廻ることが出来たのも大きな理由。江戸の商人の経済力も大いに秩父札所の支えとなった。秩父巡礼は江戸でもつ、とも言われたほど。そのためもあってからか、江戸からの往還の変更により、巡礼の札番号も変わっている。秩父札所も単に江戸からのお客さまを「待つ」だけでなく、江戸に打って出て、出開帳をおこなっている。「秩父へおいでませ」キャンペーンといったところだ。
秩父札所の宗派については、上でメモしたように江戸期までは修験者が中心だった。その後は禅宗寺院が札所を支配するようになった。宗派の内訳は曹洞宗20、臨済宗南禅寺派8、臨済宗建長寺派3、真言宗豊山派3で、禅宗の多さが目立つ。

○秩父が33ではなく、34観音札所になったのは?
秩父が34観音になった時期については、諸説ある。16世紀後半には観音霊場巡礼が全国的になり、西国・坂東・秩父観音霊場をまとめて巡礼するようになってきた。で、平安時代に既に京都に広まっていた「百観音信仰」の影響もあり、全国まとめて「百観音」とするため、どこかが三十三から三十四とする必要がでてきた。霊場としては秩父霊場が歴史も浅かった、ということもあり、秩父がその役を受け持つことに。ために、大棚観音こと、現在の第2番札所真福寺を加え、三十四ヶ所と改められた、とか。もっとも、大棚観音が割り込んできたので、その打開策として「百観音」を敢えて提唱した、とか諸説あり真偽の程は不明。 ともあれ、諸説あるも、34の札所が成立したのは室町時代の天文年間(1532-1555)と言われる。
「三十三」って観音信仰にとっては大きな意味がある数字。観音さまが、衆生の願いに応えるべく、三十三の姿に化身(三十三見応現)とされるから,である。その重要な三十三を三十四に変えるって、結構大変なことだったと思うのだが、それ以上に「百観音」のもつ意味のほうがおおきかったのであろうか。なんとなく釈然としないのだが、門外漢としてはこれ以上の詮索・妄想もできないので、このあたりで観音霊場巡礼のまとめを終える。

「とある居酒屋で梓山村に帰りがけの爺さんと一緒になり、共にこの渓谷のつめの部落梓山村に入つた。そして明日はこの爺さんに案内を頼んで十文字峠を越ゆることになつた。(中略)
十文字峠は信州武州に跨がる山で、此処より越えて武蔵荒川の上流に出るまで上下七里の道のりだといふ。その間、村はもとより、一軒の人家すら無いといふ。暫らく渓に沿うて歩いた。もう此処等になると千曲川も小さな渓となつて流れてゐるのである。やがて、渓ばたを離れて路はやゝ嶮しく、前後左右の見通しのきかない様な針葉樹林の中に入つてしまつた。木は多く樅と見た。今日はいちにち斯うした森の中を歩くのだと爺さんは言つた。(中略)
いかにも深い森であつた。そして曲のない森でもあつた。素人眼には唯だ一二種類と見ゆる樹木が限界もなく押し続いてゐるのみであるのだ。不思議と、鳥も啼かなかつた。一二度、駒鳥らしいものを聞いたが、季節が違つてゐた。たゞ散り積つてゐるこまかな落葉をさつくり/\と踏んでゆく気持は悪くなかつた。それが五六里の間続くのである。





幸ひに登りつくすと路は峰の尾根に出た。そして殆んど全部尾根づたひにのみ歩くのであつた。ために遠望が利いた。ことに峠を越え、武州地に入つてからの方がよかつた。我等の歩いてゐる尾根の右側の遠い麓には荒川が流れてゐ、同じく左側の峡間の底には末は荒川に落つる中津川が流れてゐた。いや、ゐる筈であつた。山々の勾配がすべて嶮しく、且つ尾根と尾根との交はりが非常に複雑で、なか/\其処の川の姿を見る事は出来なかつた。

やがて夕日の頃となると次第にこの山の眺めが生きて来た。尾根の左右に幾つともなく切れ落ちてゐる山襞、沢、渓間の間にほのかに靄が湧いて来た。何処からとなく湧いて来たこの靄は不思議と四辺の山々を、山々に立ちこんでゐる老樹の森を生かした。
また、夕日は遠望をも生かした。遠い山の峰から峰へ積つてゐる雪を輝かした。浅間山の煙だらうとおもはるゝものをもかすかに空に浮かし出した。其他、甲州地、秩父地、上州地、信州地は無論のこと、香かに越後境だらうと眺めらるゝもろ/\の峰から峰へ、寒い、かすかな光を投げて、云ふ様なき荘厳味を醸し出して呉れたのである。(中略)
日暮れて、ぞく/\と寒さの募る夕闇に漸く峠の麓村栃本といふへ降り着いた。此処は秩父の谷の一番つめの部落であるさうだ。其処では秩父四百竃の草分と呼ばれてゐる旧家に頼んで一宿さして貰うた。
栃本の真下をば荒川の上流が流れてゐた。殆んど真角に切れ落ちた断崖の下を流れてゐるのである。向う岸もまた同じい断崖でかえたつた山となつて居る。その向う岸の山畑に大根が作られてゐた。栃本の者が断崖を降り、渓を越えまた向う地の断崖を這ひ登つてその大根畑まで行きつくには半日かかるのださうだ。帰りにはまた半日かゝる。ために此処の人たちは畑に小屋を作つて置き、一晩泊つて、漸く前後まる一日の為事をして帰つて来るのだといふ。栃本の何十軒かの家そのものすら既に断崖の中途に引つ懸つてゐる様な村であつた」。

若山牧水の『木枯紀行』の一節である。牧水が十文字峠を越え秩父の栃本へと辿ったのは大正12年(1923)11月10日のこと、と言う。牧水は旅を愛し、旅にあって各所で歌を詠んだ歌人と称される。実際散歩を始めると各地で牧水に会う。上越国境の三国峠でも出会った。旧中山道の和田峠越えの時にも茂田井の宿で出会った。書物に称される人物像にリアリティが積みあがる。それはそれとして、おおよそ90年後の同じ頃、我々も牧水と同じく、梓山から十文字峠を越えて秩父の栃本に向かう。


本日のルート:十文字小屋;午前6時半出発>股の沢分岐;午前7時;標高1980m>四里観音避難小屋;午前7時52分;標高1809m>東に展望が開けたところ;午前8時42分;標高1740m>林道合流点;午前8時51分;標高1752m>三里観音;午前9時17分;標高1661m>鍾乳洞入口;午前9時46分;標高1761m>岩ドヤ;午前9時58分;標高1767m>二里観音;午前11時;標高1736m>白泰山標識;12時;標高1700m>一里観音;13時;標高1377m>栃本広場分岐;13時12分;標高1301m>車道合流;13時26分;標高1146m>十二天;13時52分;標高1010m>両面神社l13時56分;標高971m>下山口;14時6分;標高878m>栃本関所跡;14時20分;標高775m>川又バス停;14時45分;標高670m

十文字小屋;午前6時半出発_標高1971m
早朝に食事を済ませ、小屋を出発。すぐに「甲武信ケ岳」「白泰山 栃本 股ノ沢 川又」の道標。「白泰山 栃本 股ノ沢 川又」方向に道をとり、先に進む。道の両側の苔が美しい。「ぶくぶくする苔深い樹間を草履もて軽くふむ気持ち」と田部重治(明治後期のイギリス文学者。北アルプスや奥秩父を中心とする日本各地の山に足跡を残す)が描く奥秩父の原生林を進む。どこかで、「十文字小屋から進む500mほどの一帯が奥秩父の原生林の中でも、最も美しいところ」といった記事を読んだことを思い出した。奥秩父の「深林(木暮理太郎の造語。明治後期の先駆的登山家)」は誠に美しい。



山道は甲武信ケ岳から北に伸びる尾根筋にある大山(標高2,220m)の山麓を東に向かって巻いて進む。一面の苔の中を20mから20mほどの比高差を30分ほど進み股の沢分岐に到着。

股の沢分岐;午前7時;標高1980m
分岐点にある「股の沢 川又」方面という標識に、沢上りフリークとしてフックが掛かりる。今回は沢を川又へと辿るわけではなく、白泰山を経る稜線を栃本・川又へと進むのであるが、木暮理太郎、田部重治などの描く奥秩父の魅力は、沢の織りなす渓谷美も重要なファクターとなっているように思える。

「秩父の奥山に一たび足を踏み入れた人は、誰でも秩父の特色は深林と渓谷にあることを心付かない者はないであろう。それほど秩父ではこの二者が密接な関係を有している。深林あるが為に渓谷はいよいよ美しく、渓谷に由りて深林はますますその奥深さを増してゆくので、二者いずれか一を欠いても、秩父の特色は失われなければならぬ(木暮理太郎『山の思い出』)」。

「秩父の山の美は深林と渓谷とのそれである。信越の山々の超越的な、高邁な姿は、秩父の山の深林の幽暗と渓流の迂曲と共に私を引きつけた。私は秩父の山において一種神秘的なまた一方伝説的なものを感ずると共に、また、宇宙存在以来その間にこもって離れない山の魂という風なものに触れたような感じがした(田部重治『新編山と渓谷』)」。

「秩父の栃本から七里の間うねうね続く十文字峠の栂の林の美はいわずとしても、荒川や中津川の渓谷の新緑の勇姿は、ここを通る旅客の心に深く印象せずには置かない。幾十となく分岐せる荒川の渓谷を、峠の上から眺めると、見渡すかぎり、約五千尺から上は針葉樹を以て濃い藍色に、それから下は闊葉樹の新緑を以て埋もれて、宛ら自然はありあまる緑を如何に処理すればよいか迷えるかのように、萌黄の焔が燃え立とうとしている色合いは、喩えることの出来ないものである(田部重治著『新編山と渓谷:新緑の印象より』)。

今回は股の沢ルートはパスするも、深林と渓谷の織り成す奥秩父の魅力を求め、近い将来、股の沢ルートを辿るべく沢筋をチェックする。:分岐点から股の沢を下り、入川筋に入ると赤沢出合から川又の近くまで森林軌道跡(入川森林軌道跡)が残る、と言う。また、赤沢出合いから赤沢を遡上し、今から進む赤沢山の三里観音下あたりまでも森林軌道跡(赤沢上部軌道跡)が続く、とも。この森林軌道は東京大学農学部付属秩父演習林中にあり、林道は東大が敷設するも軌道の運営は民間の会社に委託されていたよう。大正12年(1923)に入川森林軌道が着工、昭和4年(1929)には川又から竹の沢まで敷設、また昭和11年(1936)には赤沢出合いまで延伸され、昭和26年(1951)には赤沢上部軌道敷設が完成した。
この森林軌道の敷設にともない、江戸時代は「御林山」と呼ばれ徹底した山林保護政策によって護られていた奥秩父の深森は、昭和に入ると、民有林・国有林・東大演習林を問わず伐採が進むことになる。伐採は特に戦後復興期の1960年代までが激しかったようであり、1970年ころにほぼ伐り尽くし、奥秩父の森林伐採は終息することになる。
伐採のあとは、一部にカラマツなどが植林された区域もあるようだが、多くは伐られたまま放置され、奥秩父の深い森ははげ山と化した、とか。白樺の林がキャベツ畑に変わった梓山の戦場ヶ原のように、木暮・田部が愛した奥秩父の深い森が現在どのようになっているのか、入川の渓谷を辿ってみたい。自然の「治癒力」に期待すること大である。



四里観音避難小屋;午前7時32分;標高1809m
股の沢分岐を白泰山方面へと道をとる。四里観音は股の沢分岐から先に進んだところにあるようだが、見落としてしまった。道を進むとほどなく南面が開ける。雨上がりの朝霧に雁坂嶺から破風山、そして甲武信ヶ岳へと続く山稜が浮かび上がる。山稜の南は甲斐の国。甲武信ヶ岳は「甲斐」と「武蔵」、そして「信濃」を分ける故の山名ではあろう。
30分ほど歩くと四里観音避難小屋に到着。小屋はきちんと整頓されており、薪も用意されている。お手洗いもあるし、近くには水場もある。水場は登山道から少し外れるようではある。こんなきれいな山小屋なら、夏などは小屋を起点に行程を組むこともできそうである。で。維持管理は誰が?チェックすると、埼玉県秩父環境管理事務所が担当している、と。改めて感謝。
避難小屋で少し休憩をとる。因みに昨夜泊まった十文字小屋も、むかしはこの避難小屋のあるところにあったようだが、甲武信ヶ岳登山者の増加などに適すべく現在の地に移った、とか。

林道合流点;午前8時51分;標高1752m
尾根道を辿り、標高1860mの大山を南に巻いて進むと、午前8時42分;標高1740m地点で東に展望が開ける辺りに出ると、北からの林道合流点に到着する。林道は奥秩父林道。中津川の谷筋を秩父から信濃の梓山へと抜ける中津川林道から分かれ、中津川の源流である大河俣沢の左岸高くを進み、この地に至る。現在では廃道と化している箇所も多い、とか。

この林道合流地点は南と北の両方が開ける踊り場、変則的切り通し、といったところ。南面の眼下は大赤沢谷の全景、入川の谷筋を隔てて見えるのは雁坂嶺や破風山の山稜、北面は朝霧なのか雲なのかの向こうには大山沢を隔てて三国山などが聳えるのではあろう。眺めの良いところである。

大島亮吉は「「秩父の美しい特色は、その深林と渓川にあるということがすでにいわれていることは前にも言った。それはたしかにそうである。わたくしにもそのことは微かながら感じられる。けれどわたしはここでは、わたくし自らの気まぐれな、ひとつのかたよった好尚から、この山脈に於いてそれらのものとともに、またもっとほかのものにもふかい好愛をかんじている。それはなにかといえば、この山脈のいたるところに、るいるいとつけられてある、古い、善い、もの深さにとんだ、しずかな山路、林道、廃道、旧道、村道、里道、県道、国道と、それらのあいだにあって、わたしらに一夜のやどりの詩情をそそる、かずかずの簡素な山小屋、炭焼小屋、伐木小屋などである(『秩父の山村と山路と山小屋と(抄))」と描く。単なる山道だけというわけでなく、避難小屋があったり、林道が合流したりと、人の踏み跡と接するだけでなんとなく心嬉しい。

三里観音;午前9時17分;標高1661m
中津川水系と入川水系を分けるいくつかの痩せ尾根を辿り、コメツガ、シラビソの森を見やりながら進む。林道分岐から30分ほどで三里観音。この辺りには、武州、信州からの荷物の交換、交易の場があった、とのこと。
散歩で峠を越える往還を辿るとき、山中の交易の場に出会う。中世の中山道である大菩薩峠越えの時には大菩薩嶺の辺りに荷渡場があった。中山道の和田峠越えの時にも、峠を下諏訪へと少し下ったところに荷渡し場を兼ねた石小屋跡があった。『甲斐国誌』に大菩薩嶺の荷渡場について以下の説明がある。「小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅、ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ」、と。信用取引が行われていた、とか。この三里観音が同様の信用取引が行われていたかどうかは不詳ではある。

岩ドヤ;午前9時58分;標高1767m
三里観音を越え、赤沢山の北面を巻いて進むと「鍾乳洞入口」の道標があった(午前9時46分;標高1761m)。ちょっと覗いてみたいと思うのだけど、如何せん方向が示されていない。赤沢山の下に、小さいけれど,真っ白くてきれいな鍾乳洞があるとのことだが、パス。
このあたりの道は少し厄介。赤沢山の巻道は人の踏みあとが減ったためであろうか、痩せて険しい。崖道を少々怖い思いでトラバースすることになるし、巨岩が屹立する岩ドヤ付近ではアップダウンを繰り返す。木立を透かして見える山稜は両神山への連なりのようである。
険しい山道を辿りながら、秩父困民党のことを想う。秩父で官憲に破れ、敗走なのか再起への道なのか、ともあれ、秩父困民党は栃本からこの険路を辿り十文字峠を越えて信濃へと向かった。秩父を歩くと市内の秩父札所(5番札所語歌堂15番札所少林寺、23番札所音楽寺)や神社、そしてで秩父困民党=秩父事件に出合った。以下簡単に秩父困民党・秩父事件の概要をまとめておく。




秩父困民党・秩父事件
秩父事件とは明治17年(1884)10月31日から11月9日にかけて秩父の農民が決起した武装蜂起事件。当時の自由民権運動の影響もある、と言う。当時の秩父の産業の中心は生糸の生産であったが、ヨーロッパの大不況の影響で、フランス・リヨンの生糸相場が大暴落。それを引き金に、日本国内生糸価格は大暴落。生糸の売上を担保に借金をしていた秩父の養蚕農家に大打撃を与える。日本政府のデフレ政策、増税も重なり秩父の農民は困窮。窮状につけ込んだ銀行や高利貸しが農民の生活を更に悲惨なものにしていった。




こうした状況の中、明治17年(1884)11月1日、借金返済の長期猶予と税金の軽減を求める農民の一斉蜂起が起きる。秩父吉田町の椋神社には1万名が集結したとも伝わる。これに対し政府は武力弾圧で事態の鎮圧を図る。それに伴い農民も「懇請」から「武装闘争」に転換。決起を訴える部隊が上州に派遣され、また信州・佐久の北相木を中心に援軍が峠を越えて秩父に集結。しかし武力劣る農民軍は政府の警察隊・憲兵隊、鎮台兵に鎮圧され、困民党に中核部隊は11月4日に解体。残された一部急進派は信州・北相木の菊池貫平を新総裁に、十石峠を越えて佐久に向けて千曲川沿いに転戦。その動きに呼応すべく、秩父出身者を中心とする部隊は栃本から十文字峠を経て梓山と進むも、八ヶ岳山麓で鎮台兵と交戦。佐久の主力と合流する前に殲滅される。また、佐久の主力部隊も11月9日に東馬流集落で壊滅。事件は終結した。

事件後の処罰は苛烈を極め、死刑12,処罰者3,812名に上った、と言う。私は本件については不詳であるが、秩父困民党=秩父事件は、自由民権期の農民蜂起であり、「自由民権運動史上、最高の闘争形態」と評する書もある。

二里観音;午前11時;標高1736m
尾根道を1時間弱進んだろうか、二里観音避難小屋に到着。外側は丸太造り。内部はブロックつくりで土間と板敷からなり、薪やストーブが整備されている。この小屋も四里観音避難小屋と同じく秩父環境管理事務所の所管である。WCや水場はないようである。
道標に「のぞき岩」の案内がある。南面が開けた岩場である「のぞき岩」から奥秩父の北面の山稜が一望のもと。西に目をやれば赤沢山の両耳峰とその遥か彼方に甲武信ヶ岳への山稜が続く。東は雁坂嶺から雁坂峠方面。眼下の入川谷の紅葉が美しい。

田部重治は「白妙岩の眺め、荒川本流と大洞谷との紛糾せる渓谷の雄大さが昔に変わることなく、轟轟たる響きは遙か紅葉の渓谷をとどろかせている(『山と渓谷;信州峠より十文字峠へ』)」、と描く。白妙岩とはのぞき岩のこと、とか。

同じく田部は『峠と高原;十文字峠』で、「栃本から二里ほどにある「のぞき岩」から遠望すると、残雪で眞白い北アルプスが遙かの天涯に怒涛の如く聳え、浅間山や八ヶ岳が思はぬ手近いところに現はれ、両神山は異様な姿をもって眞近に立っている。
道の左の荒川の源流の山々のカツ葉樹の緑は燃えるように鮮やかに、平地の四月の如き若々しさをもって中腹の黒々とした針葉樹と対し、その間を幾多の白霧を吹く流れは滝の如き急下降をなして白布をかけたように見え、遠雷のように轟いている。
峠の右に中津川の渓谷は一面の緑に蔽われて、流れのさまも見えない。峠の幽林は幽林へとつづき、ときどき大木が倒れて行手をふさぎ、それを辛うじて鋸で切り開いた道が通じている。耳を傾けると、静かな風は笛の音のように幽林を通い、かなたに伐木丁々の響きが聞こえるので。こうした無人の境にもどこかに人間のはいっていることがわかる」と描く。



白泰山標識;12時;標高1700m
しばし二里避難小屋で休憩し、先に進む。10分ほどで白泰山と北の大滑沢をぐるりと囲む尾根筋の分岐を白泰山方向へと進む。白泰山の北面を巻き、20分ほどで白泰山へと上る標識に到着。時間も体力も乏しくなってきており、白泰山の頂上への上りはパス。急な上りの先の頂上は樹林に覆われ展望が乏しいとのことである。「白泰山」の山名の由来は「山の表面が白く見える台地状の山」、とある。

「その時の記憶がなぜこんなに深く脳裡にに刻まれているのか、それは自分ながらわからない。と友は言う。ある秋の半ば、それは十文字峠を梓山へとこえた時のことだった。ちょうど山々は美々しい錦繍の季節の衣装をつけていた。白泰山のところまで栃本からのぼって来た時、私は峠路で幼な児を背におぶった四十あまりの土地の人らしい男が、なにか紙をもってうろうろしているのに行き会った。彼は私らを見て、ほっとしたように安堵の面持を浮かべて、すぐさまこれから秩父大宮までの道程をたずねた。その顔には深い憂愁と不安の色が、ただよっているのがすぐにみとめられた。
私らは道程のことを話してやった。きけば、その人は金峰の下、川端下の村のものでその幼児が熱病にかかったので一刻を急いでいま医者のところへかけるというのだった。川端下からよい医者のいるところへゆくのには、千曲川沿いに佐久の岩村田へ出るよりも、この十文字をこして秩父大宮へゆく方が時間にして早いと教わって来たのだそうだ。けれど、その人はまだ一度もこの峠をこしたことがないので、村の人から半紙に絵図をかいて貰ってやって来たのだった。
背中の病児は熱にうなされてたえず低い呻きをあげていた。まさに峠は紅葉のま盛りの時だった。父親は真紅に色づいた楓の小枝を一本折とって、それを片手でたえず背中の児の眼の前に振り翳してあやしながら、挨拶をのこして足早に折り曲がりの多い峠道を降って行った。その姿はすぐに路にかくれてしまったけれどもその秋の曇り日の山路の水のようにしんかんとした静けさのなかに、次第に薄れてゆくあの病児の低い呻きの声のみはしばらくのあいだ私らの耳にのこった。小略
こんな小さなことながら私にとっても、それは十文字峠とは離れがたい印象としてまだ残っているのである」。
大島亮吉著『山ー随想ー峠、十文字峠より』の一節である。秩父・信州往還が秩父と信濃の集落の人々の生活の一部として存在していた往時が偲ばれる。

一里観音;13時;標高1377m
「緑の色濃い葉陰に白雲低迷する幽林(『峠と高原、秩父を思う;田部重治』)」の中、「樹間奥深い彼方に叫ぶ怪鳥の声、幽林がまばらになって、思はぬ前面に屹立する峯頭(『峠と高原、秩父を思う;田部重治』)」を見やりながら、尾根をひたすら進む。樹木も明るい広葉樹になってきた。標高も1,600mから1,500m辺りになると紅葉が再び現れる。北面には樹木の隙間から両神山、南面は矢竹沢、入川の谷筋を隔て雁坂峠から北東へと川又へとのびる尾根筋ではあろう。白泰山への標識から尾根道を歩くことおおよそ1時間で一里観音に。梓山から栃本から梓山までの六里六丁、江戸時代の享保年間におよそ26キロに渡り、ほぼ一里ごとに建てられたと伝わる里程観音もこの観音様でお別れ。後はひたすら栃本の集落へ下るのみ。




林道合流;13時26分;標高1146m
一里観音から10分ほどで「栃本広場分岐」の標識。時刻は13時12分(標高1301m)。栃本集落の北の山麓、標高1,000mの所にカタクリの群生地、展望台遊歩道、自由広場、民芸広場等がある。駐車場があるようで、十文字小屋でご一緒したご夫妻も、栃本広場に車を置き、ハイキングコースを経て秩父・信州往還から十文字小屋に上ってきたとのことである。







標識を見やり、高度を下げてゆく。さらに10分ほど150mほど標高を下げると林道に合流。舗装もされている。地図をチェックすると、合流点より西はほどなく途切れるが、東は栃本広場や栃本集落と連絡し、秩父湖の二瀬ダムのあたりまで続いている。


両面神社l13時56分;標高971m
往還道は林道を進むことなく、すぐ再び林へと入る。十二天(標高1,206m)の山腹を尾根筋と平行に南に下っていく。このあたりは杉林が多くなってきた。道を進むこと30分。道脇に十二天の標識が倒れている(13時52分;標高1010m)。道上にささやかな祠が見えるが、それが十二天の祠であろう、か。この辺りが十二天の尾根道との合流点のようであり、そこからさらに数分で両面神社に着く。
「そのうちに炭焼小屋が見えて来る。焼畑の煙が立ち登っている。植林が見える。両面神社に来れば栃本の村が下に見えて荒川の流れは白く岩を噛んでいる。五月の山村は養蚕に忙しく、美わしい野調を唄いながら桑の葉を摘む少女の瞳は、若葉のように色がふかい」と田部重治は描く。
両面神社にお参り。狛犬ならぬ狛狼が社を護る。この社は三峰神社の姉妹宮とのことである。三峰の社といえば、その眷属は山犬(狼)であるので、納得。また、この社は十二天とも称される。十二天とは、八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に、天地の二天と日月の二天を加えて十二天とする、十二の方位を護る密教の守る十二の守護天。古来より、山道の登り口には山仕事や山越え・峠越えの安全を祈願する山口神社が祀られたが、この両面神社も十文字峠を越える旅人を護るべく祀られたものだろう。

栃本集落;14時6分;標高878m
両顔神社でお参りし、10分ほど下ると集落の道にでる。白泰山の東麓の山腹に貼り付けられたような集落である。樹林の間から雲海に浮かぶ山は荒川の東に聳える和名倉山だろう(標高2,032m)。白石山とも称される。和名倉山は元は原生林の美しい山であったようだが、徹底的な森林伐採の典型の山とされる。白石山の由来は、「白い岩盤」から。また、和名倉山の由来は不詳だが、全国にある「わな」の語源は「輪奈=罠」との説がある。罠に嵌ったような曲がりくねった道無き道の続く原生林であったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

集落の中を進むと愛宕地蔵尊。この辺りは牛蒡平と呼ばれるようである。この辺りから、雁坂峠へと向かう秩父往還との合流点、というか、分岐点あたりまでは芝桜が有名で、「芝桜街道」と呼ばれている、とか。

栃本関所跡;14時20分;標高775m
先に進み、雁坂峠へと向かう秩父往還との合流点近くに栃本関所跡。残念ながら屋敷は閉まっていた。
案内をメモ;「国指定史跡栃本関跡(昭和45年11月12日指定);江戸幕府は関東への入り鉄砲と関東からの出女を取り締まるため、主要な街道に関所を設けた。栃本関は中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は信州路と甲州路の分岐点になっている。その始まりは甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所をおいて山中氏を任じたと伝えられるが、徳川氏の関東入国以後は、天領となり関東郡代伊奈忠次が慶長十九年(1614年)大村氏を藩士に任じたという。
以後大村氏は幕末まで藩士の職を代々務めた。しかし藩士一名のみでは警備が手薄であったため、寛永二十年(1643年)秩父側の旧大滝村麻生と甲州側の三富村川浦とに加番所を敷設して、警護を厳重にした。したがってその後、関を通行の者で秩父側から行くものは、まず麻生加番所で手形を示し印鑑を受けて、栃本関に差し出すことに定められた。関所の役宅は、文政元年(1818年)と文政六年(1823年)の二度にわたって焼失し、現在の母屋は幕末に建てられたもので、その後、二階を建て増しするなど、改造されたが、玄関や上段の間、外部木柵などには関所の面影をよく留めている(平成十年十一月埼玉県教育委員会)」、と。

秩父から甲斐へ出るには秩父往還を辿り雁坂峠に、信濃へ出るにはこの栃本で秩父往還から分かれ十文字峠を越えた(秩父から信濃に出るには中津川の谷筋を進み三国峠を越える道もある)。雁坂峠道は、戦国時代には武田信玄が、奥秩父の金属資源を採掘するのに頻繁に行き交った歴史を持つ。『新編武蔵風土記稿』の古大滝村の項に、「土産には山に金・銀・銅・或いは磁石・緑青・寒水石・燧石等を生ずる」とある。
江戸時代になると、甲斐善光寺や身延山への参詣、逆に甲斐から三峰参詣といった信仰の道、また生活物資を甲斐で売買するための物流の道として人々が往来した、とのこと。それは信州往還であった十文字越えと同じである。雁坂峠道は中山道と甲州街道のバイパス、十文字峠道は中山道の裏街道にあたる往還であり、その往還監視のため、この地にこの栃本関所と麻生の加番所(関所の事務を補佐し通行手形に押印する)が設けられたのであろう。

秩父往還・雁坂峠への道;日本の道百選
栃本関所跡より川又バス停へと急ぐ。川又バス発が13時51分。あまり時間がない。これを逃すと2時間近く待たなければならない。急ぎ足で栃本の集落を進む。栃本の集落は南斜面にしがみつくように点在している。斜面に耕地が開かれ、国道は眼下、遙か下に走る。
「♪ハアー私ゃ大滝だよ 粟稗そだち 米のなる木はまだ知らぬ (コラショイ) ハアー 来たら寄っとくれよ 両面神社の麓 寄れば茶も出す 酒も出す (コラショ)♪」。


栃本の民謡である。この栃本集落など、険しい山岳地帯にある秩父の大滝村や中津川、三峰といった村々には水田は無く、畑も大半が「サス」と称される焼畑であった、とか。山を焼き、養分が有る間、耕作に努め、養分が無くなると再び森に戻し地力の回復を図るといったもの。この山の中腹の畑もかつては焼畑農業がおこなわれていたのであろう、か。農作物は粟・ヒエ・大豆・そば・たばこ・インゲン豆などであった、とか。上の民謡に歌われる通りの耕地の乏しい山村の生活が偲ばれる。

集落の東、荒川を隔てた先には和名倉山(別名白石山。標高2,036m)が聳える。日本の道100選にも選ばれた、この栃本集落の秩父往還の道筋は、十文字峠越えと関係なく、前々から辿りたいと思っていた峠道である。十文字峠越えのゴールで、この美しい道筋が歩けたのは誠に嬉しい旅のエピローグとなった。

千軒地蔵尊
道を進み、集落のはずれの道脇に倒れた「千軒地蔵尊」の標識と、小高い崖上にささやかな祠がある。入川支流の金山沢・股ノ沢・真ノ沢など、荒川源流域では甲斐の武田信玄の手によって金の採掘が盛んに行われた。文政年間(19世紀初め)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、金の採掘坑口跡が83ヶ所あり、かつて股ノ沢には「千軒屋敷」と称されるほどににぎわっていたと記されている。千軒地蔵尊は武田家滅亡に伴い、股の千軒屋敷から移された、と伝わる。



西武バス川又バス停;14時45分;標高670m
急ぎ足で川又に向かう。川又は入川と荒川の合流点故の地名である。栃本の集落からの道筋の下に国道が見える。自由乗降区間のバスを止めるべく、国道に下りる道筋を探すもひとつとして見つからない。仕方なく、更に歩みを早め千軒地蔵から10数分下ると川又バス停。発車時刻は15時51分。かろうじて間に合った。
バス停にあるお手洗い、沢水を曳いたホースから勢いよく出る水で汚れた足回りを洗い流し、バスに乗り秩父鉄道三峰口駅に。ちなみに、栃本関所前からのコミュニティバスは、この西武バスに連絡しており、慌てて歩かなくてもバスに乗ればよかった。とはいえ、コミュニティバスに乗れば道脇の千軒地蔵尊に出合うこともなかったわけで、慌ただしいエピローグの道行ではあったが、それはそれでよかった、かと。

「この古い、むかしは中仙道の裏道として峠をこす旅人のゆきかいもはげしかった峠路。その古びたもののみのもつ雅韻を帯びた、影ふかい峠路。その七里にわたる里程から、その峠の高さから、その古さから、そのうつくしいふたつの山村のあいだをつなぐことからみて、十文字峠はこの山脈のうちで、どうしてもわたくしから はなれがたいものである。
五月にそこをこえれば、渓々のどこからも若葉の層がむらむらと、それをゆする青い山風のかおりもほのかに、人の匂いもない、森閑とした深山の峠路を飾る、わびしくも、きよい石楠花と花躑躅の花の祭りを見ては、山を越える旅者の胸もその花の精神に染められてしまうだろう」。
大島亮吉『登高者;秩父の山村と山路と山小屋と』の一節である。十文字峠越えはその歴史、その自然、ともに誠に楽しい散歩であった。
 

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